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信じるということ

2わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/04(月) 18:36:35
まだ昭和の時代、私が男子部で活動を始めた頃(18歳くらいかな?)、先輩幹部から「無疑曰信(むぎわっしん)」について習ったことがある。
先輩幹部は「この仏法に疑問に思うことがあったら、先輩幹部に遠慮なく何でも聞きなさい。そして疑問が何もかも無くなった時、「無疑曰信」と言う信仰者として最高の信になる。」と、このように教わった。
この時、仏法に疑問(疑い)を持てとは、なんという自信、どこをとってもその正しさが証明できるという日蓮大聖人の大確信に触れた思いで驚いたことがあります。
ですがその後いつの頃からか、「無疑曰信」とは疑いなきを信と曰うと、まだここまでなら疑いが無くなった状態を言ってるから昔学んだことと変わりないと思ったが、後に続く解説では何が何でも信じきっていくことが大切なんだと言うことでした。
多分この解釈の違いは昭和52年の第一次宗門問題で起こったことだと思うが、学会流では「疑問が何もかも無くなった時」、第一次宗門問題後は宗門の「何が何でも信じきっていくことが大切」という解釈に学会も変更されたのだろうと推察する。
疑いについては、五鈍使・六根本煩悩・六随眠のひとつとして悪しきことのように説かれる場合が多いが、自宗に対して疑いを持たせない為に説かれたのではないかと甚だ疑問に思う。また仏教に限らず、他宗教においても疑うことは忌み嫌われるのが常である。

知り得たことに疑問(疑い)を持たないでいたら、文化・科学・その他諸々の人類の発展は無かったはずである。
人を救うための宗教が、いつの間にか自らの利得のために、その教義自体をも変質させてしまっているのではないか。これは加上ではなく加悪であるといえよう。

信じることは疑いの心を捨てることでもあり、疑い(疑問)の心が起こらない。
これはもう思考停止状態と言えまいか。


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