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M.S.B.R. vol.2
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誰も、誰も救われない。
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本作は下記作品群(順不同)、及びその他作品の二次創作です。
『少女革命ウテナ』『特攻天女』『センチメンタルグラフティ2』『みえるひと』
『PORTRAIT』『花のあすか組!』『地雷震』『ときめきメモリアル2』『アーシアン』
『あぜ道』『LOVELESS』『エアマスター』『殺戮姫』『羊のうた』『まもって守護月天!』
『オナニーマスター黒沢』『O,My Sadness』『電脳天使SS』
本作は当スレッドに投稿後、下記サイトに収録いたします。
ttp://www.geocities.jp/okkulte_puppenspiel/ms/index.htm
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■注意■
本作はリレー企画ではありません。
◆MSBR.s7632の個人作品となります。
また本作には原作設定の改変、キャラクターの再解釈・再構築及びそれに伴う口調・一人称・性格設定などの
原作非準拠、if、アフター、死亡などの一般的に好ましくないとされる二次創作要素が多数含まれております。
改善等の御指摘・御要望には一切お答え致しかねますので、予めご了承の上でお楽しみ下さい。
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降りしきる雨の中、緋の軌跡が躍る。
円を描いて宙を斬り、一文字に閃いては空を裂き、余韻のように火の粉を撒いて、その緋色は揺らめいている。
それは、刀身に炎を纏う、一本の剣だ。
神話の中に語られる、そういうものだ。
剣を振るうのは、女だった。
「―――」
女の名を、天野瑞希という。
瑞希は、戦っていた。
剣舞の型を辿るが如きその刃が追うのは、小さな影だ。
くるり、くるりと瑞希の周りを飛び回る、それはひとの頭のかたちをしていた。
中空を飛ぶ首の群れに炎の剣が閃けば、肉の焦げる臭いと共に、二、三の影が地に落ちた。
落ちた首がしかし、ぶるぶると震えながら泥に塗れた口を開こうとする。
断たれた唇の、折れ砕けた歯の向こうから覗く焼け爛れた舌が音を発するその前に、瑞希の刃が突き立てられた。
炎は見る間に残った肉を焼き尽くし、炭と化した首はようやくに動きを止める。
炭の塊が転がるすぐ傍には首を失った骸が、やはり焼けた刀傷と共に横たわっている。
折り重なるように斃れた骸の数は尋常ではない。
更に異様なのは、その骸たちの有り様だった。
首のない骸たちは、一様にその手を天へと向けて事切れている。
あるものは掌を真っ直ぐに開き、またあるものは鉤爪のように指を曲げ、傷つき汚れ、しかしそのすべてが、
灰色の空へと懸命に伸ばされているのだった。
それは日輪を待ち望む果てのない祈りのようでもあり、あるいは北風だけが吹き抜ける冬枯れの森の木々のようでもあった。
しかし降りしきる雨の中、とこしえに晴れぬ曇天の向こうには求める光の存在するかさえ定かでなく、
腐りゆく骸には氷雪に耐えた春に新芽の萌え出づることもない。
「―――」
救われぬ骸たちの森は、その枯れ枝の如き指を止まり木に見立て降りようとした舞い首ごと、一振りで焼き払われた。
四つ、五つの首が黒焦げになって泥濘へと落ちてゆき、それでも瑞希の周りを飛ぶ首は無数に残っている。
けたけたと笑いながら、あるいは恨めしげに何事かを呟きながら、歯を剥き目を見開いて飛ぶ首たちが
瑞希の喉元を、腹を足を噛み千切ろうと襲い来る。
その幾筋もの軌道が、しかし彼女を捉えることはない。
至近を掠めたそれが瑞希の身に着けたノースリーブの簡素なシャツを、足首までを覆う綿のスカートを、
瞬く間に襤褸きれへと変えたところで彼女自身の肌には傷ひとつとしてついてはいない。
段取りを踏むシテとトモの踊るように、それは完成された型である。
幕の終わりは、筋を違えることなく、近づきつつあった。
「貴方たちは結局、何をしていたの?」
降りしきる雨の粒すらが道を開けるように、女は絢爛と舞う。
舞いながら、言った。
「仲良しごっこ? 椅子取りゲーム? それともあてのないお散歩かしら」
剣が閃き炎が揺らめき、首は悲鳴もなく断ち割られて血と肉と汁とを撒き散らす。
唇を焼かれ乱杭歯を剥きだしたままの首がばしゃりと泥を撥ね、ごろごろと転がった。
「無駄で無為な時間。だから何も得られずに死んでいく。誰も救えずに死んでいく」
誰に告げるともない独り言じみた言葉の下、転がった首が、しかしぐずりと上を向く。
たっぷりと泥を含んで波打つ髪からぼたぼたと雫を落とすのは、それが再び浮き上がったからだった。
顎の半分が切り割られた姿のまま、しかし首は浮かび、飛ぶ。
見れば焦げ落ちたはずの首たちの尽くがそうして欠損を抱えたまま、瑞希の周りに蘇っている。
「あら、御免なさい。そんな風になっても、死ぬことはないのね。それとも死ねないのかしら?」
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―――お前がそう望むからだ、と。
そう聞こえたのは、聲だった。
喉もなく、あるいは歯も舌も欠け口腔を曝け出した首たちの、しかしそれは聲だ。
しとどに濡れた髪を震わせ、もはや前をすら向かぬ眼を見開いて、それは聲を放つのだった。
幽かな聲たちは重なり合い、欠けた音を補い合うように言葉を紡ぐ。
―――飽かぬ敵を。
お前が飽かぬ敵を求めたからだ。天野瑞希。
聲が、応える。
名乗った覚えもない名を呼ばれ、小さく口の端を歪めて笑った瑞希が、
「そう」
手にした剣の、首たちを薙ぎ払おうとしていた刃を、唐突に足元の泥濘へと突き立てて、
「でも、もう飽きたわ」
いっそ可憐ですらある溜息とともに、それを口にした途端。
飛びかかろうとしていた首たちが、一斉に地に落ちた。
目に見えぬ糸を切られたように泥溜まりへと沈んでいく生首たちは、もはやぴくりとも動かぬ。
それは既に、欠損した遺骸である。
物言わぬ首たちに、個々の名はない。
それは女が、それらの首に名を求めぬからである。
恨みに崩れた表情は、どれもが皆、同じ顔をしている。
それは女が、その首たちに差異を認めぬからであった。
個もなく差もなく、等しく無価値。
天野瑞希に隷属する世界は、その身勝手を容認する。
文字通り使い棄てられた遊具の如き遺骸が累々と横たわる中、ぱしゃり、ぱしゃりと音がした。
「派手にやるね。疲れやしないかい」
泥濘の中、水たまりに跳ねるのは首である。
いつからそこに転がっていたのか、気づかぬ方が不自然なほどに白い首が、口元に笑みを浮かべ声を放っていた。
周囲に積み上げられた躯たちの一様に同じ顔とは明らかに違うそれは、ころころと器用に転がると
瑞希の前で止まり、薄い色の瞳で彼女を見上げる。
「……キヨイ、だったかしら」
眉筋ひとつ動かさず見下ろして、瑞希がその名を呼んだ。
途端、首がぐにゃりとその輪郭を歪ませる。
白皙の美貌を突き破るように皮膚の下から浮き上がり、一瞬の後には本当に皮と肉とを突き破って現れたのは、
ねじくれた、山羊の角だった。
「Yes―――覚えていてくれたのかい」
名を与えられた首、人を滅ぼす山羊が、そう言って薄く嗤った。
その眼前に、瑞希が炎の剣を突き立てる。
まとわりつく雨粒を蒸発させて陽炎のように揺らめく刀身に、やはりゆらゆらと揺れる悪魔の顔が映った。
剣の柄に手を置いて、瑞希が呆れたように口を開く。
「派手も何も……あなたが言ったのよ。戦え、と」
「君のほんとうを見せてくれ、と言ったつもりだけど」
「同じことよ」
白皙の美貌が、片方の眉だけを上げて奇妙に歪んだ表情を作る。
「そうかな」
「私にとってはね」
「そうかい。……そうかもしれないね」
山羊が口の中で呟いて一呼吸、眉が下がった。
炎の剣の刀身に映る瞳は、光を吸い込むように暗い。
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「そういえば」
と、山羊の様子を気にした風もなく、返り血にまみれた襤褸の襟を摘んで、瑞希が言う。
What、と訊き返すキヨイを傲然と見下ろして、
「私の服はどこかしら」
「I don't know、知らないね。……っ、」
ため息混じりに応えたその表情が、唐突に歪んだ。
苦痛のかたちにしかめられた口元から溢れたのは、咳だった。
老婆の夜中に独り漏らすような、どこか渇いて、しかしいつまでも止まらぬ咳。
「よくないわねえ」
首だけの、気管も胸もない身体で、人の姿をした山羊が器用に咳き込むのへ言った瑞希が、
何でもないように続ける。
「貴方―――いつまで保つの?」
答えは返らない。
咳の合間、それが収まりかけてもなお、キヨイは目線を上げようとはしなかった。
絡まぬ視線を山羊の角の先端あたりに漂わせながら、瑞希が小さく息を吐く。
「いいわ。約束さえ守ってもらえるのなら、他はどうでも」
約束、と。
そう口にしながら、瑞希の指が雨だれを拭うように剣の柄を撫でる。
「HAHA……約定は、違えないさ」
人の時代を終わらせる『病気』の主が、ようやくに治まった咳の名残を声の端に残しながら、応じる。
鷹揚に、瑞希が頷いた。
「それで、服の話に戻るのだけど」
「そんなに気になるかい」
苦笑したキヨイが、今度は目線を上げて瑞希と向き合う。
「戦争には身だしなみというものがあるのよ。いいから寄越しなさい」
「……僕は君を妨げない。欲しいなら自由に持っていけばいい」
「そう。構わないのね」
「Of course. 君も知っての通り、ここはそういう場所さ。……用がそれだけなら、僕はもう行くよ」
「貴方から顔を出したのよ」
「そうだったかな。―――Bye」
別れを告げたその途端、首から色が抜け落ちた。
そこにあるのは既に、名もなく声もない、周囲に転がるのと何ら変わらぬ無念の骸である。
「……」
泥と雨とにまみれたそれを一瞥して、瑞希が泥濘から剣を引き抜くと、それを何気ない様子で横に薙いだ。
轟、と拡がる紅蓮に引きずられるように風が巻き起こった。
灼熱を孕んだ風が骸に触れれば、瞬く間に肉が焦げ、毛が焼けて骨が崩れていく。
たっぷりと含まれているはずの泥水をものともせぬ、それは送り火であった。
散々に切り刻まれた骸が、転がる無念の首たちが、眉筋ひとつ動かさぬ女の眼前、無情に焼き尽くされていく。
水気の飛んだ肉が炭となり、灰となって崩れるのを風がさらう。
渦を巻いて巻き上がった灰は、しかし奇妙なことに雨に打たれて再び地に落ちることもなく、中空を漂っている。
漂う灰が次第に密度を増し、霧のようにゆっくりとうねりながら骸の森を覆い隠していく。
「―――」
手を差し伸べたのは女、天野瑞希である。
瑞希の伸ばした指に、灰が触れる。
途端、世界が女に傅いた。
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「開きなさい」
瑞希の口にする、その言葉が絶対の命令であるように灰が、その形を変えていく。
否、そこにあるのは既に宙を漂う灰ではない。
扉である。
焔に焼かれて奇妙に白く色の抜けた灰色の、しかし確かな存在感をもって屹立する重厚な扉。
女の背の倍ほどもあるそれが指の先、軋む音を立てることもなく開いていく。
開いた扉を平然と通り抜けた瑞希の足元には、泥濘が広がっている。
灰が作り上げたのはただ扉のみである。
その先には、何一つとしてない。
しかし瑞希の歩みを進めようとする足が地に触れんとする刹那、そこには白い床があった。
背後、役割を終えた扉が音もなく崩れて灰の山に戻り、そして灰は床となって女の足元を固めていた。
カツンと、硬い音さえが響いた。
降りしきる雨の中、女が歩む先に床が生まれ、その見上げた視線を追うように、階段が形作られた。
半円を描いて中空へと伸びる階段を、瑞希が淀みのない足取りで踏みしめていく。
階段を上がった先に、廊下ができた。
支えるものもなく宙に浮く灰の空中回廊を、女は歩む。
数歩、歩みを止めた瑞希が左を向いて手を伸ばす。
隷属する灰が、その手に先んじて扉を生み出した。
先程に比べれば小ぶりな、しかし品よく彫刻を施された扉のノブを瑞希が引けば、そこには無論、部屋がある。
屋根のない灰色の寝室だった。
絨毯敷の床があり、チェアがあり、サイドボードがあり、その上に置かれた小物や写真立てまでが
灰の献身によって作られた部屋の中央には、大きなベッドが横たわっていた。
少女趣味の天蓋から垂れる灰色の布は、灰色の空から降りしきる雨風に濡れてなお微動だにしない。
その灰の世界の中心に、緋があった。
ベッドの上。
無造作に広がる、それは丈の長い服である。
緋色を白く染め抜いて、その背には紋と銘とが刻まれている。
桜花を象るその紋に、刻んだ銘を見下ろして、天野瑞希が微かに笑う。
笑んだまま手の剣を天へと放るや、自らの身を包む服だったものを、返り血を浴び破れて焦げた襤褸切れを、
躊躇なく脱ぎ捨てた。
一糸まとわぬ全裸の肌に、雨粒が降り落ちて珠を作る。
珠の衣だけが覆う傷痕ひとつない裸身の瑞希が、ベッドの上の緋色を掴むや、流れるように袖を通した。
刹那、灰が崩れた。
天蓋が、チェアが、ベッドが、床が、扉が、もとよりそんなものたちの存在するはずもなかったとでもいうように、
ただの灰へと還っていく。
雨に濡れ、流されて散る灰の中、中空から舞い降りるのは風に翻る緋色の女である。
音もなく地に降り立った天野瑞希がほとんど同時、天から弧を描いて落ちた炎の刃をその手に収める。
一振り、雨を裂くように。
「貴方に明日をあげる。償い続ける明日を。だから」
女を畏れるように勢いを減じた雨の中、瑞希の背には銘がある。
桜花の紋を従える、その銘に曰く―――夜桜会、と。
「待っていてね、廉太郎」
女は、心から幸せそうに、笑う。
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一部始終を、目にしていた者がいる。
そぼ降る雨の中、泥水のじわりとズボンに滲みるのも構わず座り込む、一人の男だった。
片膝の上に埋めるようにした顔はやつれ果て、こけた頬と浮き出た隈と、幾筋も切れて血の滲んだ半開きの唇とだけを見れば
最期を待つばかりの不治の病人とすら映る、しかし男の眼光は、ほんの僅かたりと揺らいではいなかった。
べったりと貼り付く長い前髪の下、降り続く雨粒の向こう側を真っ直ぐに見据えて、男は微動だにせぬ。
遠く視線の先には、女がいた。
濡れそぼった、女だ。
男に気づいた風もなく、泥濘を這うように身を引きずる女は、手に長く禍々しい何かを持っている。
無骨な山刀だった。
鉈を大ぶりにしたような、飾り気のないそれを女が唐突に振り上げ、振り下ろした。
跳ねるのは赤黒い飛沫だ。
ぶつぶつと何事かを呟く女の口元に、飛沫がべちゃりとへばりつく。
刻まれた死体から抉れた、肉片だった。
いつからそこに転がっているのかもわからぬ腐った骸を、女はなますに刻んでいる。
刃こぼれのひどい山刀が血脂を纏う端から雨滴に流されていく。
女の口元からも、雨に流されて肉片が落ちる。
拭う様子もなく、女はただぶつぶつと、声にならぬ声を垂れ流しながら刃を泥と骸とに叩きつけている。
気の触れているとしか見えぬ女を見据える、しかし男の目に憐憫はない。
恐怖も、侮蔑もない。
ただその女の一挙手一投足をも見逃すまいと、瞳の奥に焼き付けるように力を込めて、見つめていた。
長い、時間が経った。
やがて女が死体を刻むのに飽いたか、ふらりと立ち枯れの木々の向こうへと姿を消して、それからようやく、
男の唇が動いた。
痩せ衰えた喉の奥から漏れたのは、木枯らしのような掠れ声だ。
「―――み……ず、き」
女の名を呼んだ、男の表情が、歪む。
頬の引き攣れて断末魔を上げるような、それは笑みだった。
笑んだまま、男の身体がゆらりと傾く。
傾いて、支えられることもなく、倒れた。
汚泥の中、しかし凶相の笑みを崩さぬ男が身を捩り、仰向けに転がる。
「みずき……、みずき―――」
名を絞り出す唇に、雨が落ちて流れこむ。
「―――瑞希、瑞希、瑞希……!」
灰色の空から注ぐ冷たい雨を飲んで咳き込みながらなお笑う、その男の名を、遊佐明仁といった。
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なお、前スレッドの投稿作品について以下の変更が加わっております。
微修正
『LOVE MANIA(はつ恋)』
『追補 矢野アキラ』
『ひとのおわり(前編)』
『ひとのおわり(後編)』
『外は雨が、まだやまずに』
『discommunication』
『古いアルバムの中に ***がいっぱい』
『追補 一ノ瀬雛姫』
『SEUL CONTRE TOUS (承前)』
大修正
『なるほど、私たちは病気持ちさ。救いようがない。だけど、それがどうした?』
『(i+ )/2=』
『すべきすべて』
『世界が終わる日には、きっと』
『SEUL CONTRE TOUS』
削除
『Kali Yuga』
『ラブプラス(あいと、よけいなもの)』
『月(ユエ)』
『Lyric of Fangless』
『僕たちの毎日は愚かさと切なさと、さて何でできている?』
『終わりにできない』
『Вишневый сад (櫻の園)』
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ぼとりと落ちたその奇妙に長い腕を、獣の白く濁った眼が捉え、一瞬だけ音が消える。
次の刹那、今までにも倍する大音声で、獣の咆哮が響いた。
「ぎぎい、ぎぃぃぃんんンンン―――ヂャァァァ、ァァァァァああああああ―――ッッ!」
そこに苦痛の色はない。憤怒もない。
大地から吐き出された汚物のように転がる自らの腕へと一目散に駆け、拾い上げて髭とも髪ともつかぬ
縮れた毛ばかりが覆う頬を摺り寄せる、その咆哮にあるのはただ、悲嘆である。
「はダ、ハ、はダレ、ハダレだぃ、ぃぃィィ―――ずぅぅ、ずぅ……ぶぶっ、っとおぉォォォ」
それを言語と認識するものは、獣の周囲になかった。
人を人たらしめるそれを、醜悪の極みたるこの裸身の巨躯が操ることなどあってはならぬという、
それはその場を囲む者たちの誰もがごく自然に共有する嫌悪感だった。
向けられる嫌悪と恐怖と敵意をよそに、獣が灰色の舌を伸ばすと、千切れた腕の断面を、べろりと舐めた。
異様に長く、厚く、ぬらぬらと唾液をまとわせた灰白色の粘膜が土の汚れをこそげ取り、
傷口から顔を覗かせる筋と骨とを露わにしていく。
舐め取られた泥が、獣の口の端から生臭い息と唾液の泡と一緒に垂れて、地面を穢した。
江夜が激しく咳き込みながら身を起こしたのは、ちょうどその辺りである。
「か……げ、ふ……ッ」
戦闘機といえど逃れ得ぬ、肉体の生理的反射が江夜の目尻に涙を浮かせる。
鮮血とともに漏れ出る吐息の音は、濡れていた。
折れた肋の先が、とうとう肺を傷つけたようだった。
ごろごろと奇妙な音を立てる喉の奥に違和感を覚えながら無理やりに立ち上がろうとする
江夜の眼前、獣はしかし、彼女に目をくれることもない。
もはやそれ自体が汚物に他ならぬ唾液にてらてらと濡れ光る腕先と、それが元あった場所、
自らの肘とを、白く濁って焦点すら定かでない眼が、交互に見やる。
と、間を置かず獣の取った行動は、さしもの江夜をして瞠目せしめるものであった。
獣は、手にした腕を、それが元あった肘の先へと無造作に、無思慮に、捻り込んでいた。
繋がるわけがない。治るはずもない。折れ尖った骨と骨とが、当然のように互いの肉を食み、削る。
気にした風もなく、獣はただ、粘土細工でも弄るが如く、千切れた腕を、傷口同士を、
ぞぶぞぶと押し付け骨を肉に刺し筋を骨に絡ませて、ひどく色彩のない血液と脂肪とで大地を
取り返しのつかないほど穢しながら、
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「いいいいぃィィィ……っショおオオオぉぉおお」
獣が、哂った。
獣の腕は、否、腕であったものは肘の先に突き刺さり、その輪郭だけを元のそれに近づけながら、
しかしぶらりと力なく指先を垂らしている。
それでも、獣は哂っていた。
喪われたものが、あるべきかたちに戻ったことを喜んでいた。
その怖気の立つような醜さに、江夜の視界がぐらりと揺れる。
揺れて、足元が覚束ぬ。
獣の醜悪が毒となり傷口から染みこむように、江夜を冒していた。
膝が、腰が、身体を支えきれぬ。
崩れる、と。死に直結するその確信を覚えながら江夜が大地に体を預けようとした瞬間。
ざわりと、空気が震えた。
「……!?」
江夜が顔を上げたそこには、戦士たちが立っていた。
獣を取り囲むように半円状に居並ぶ彼らは思い思いの薄汚れた軽装に、手には石や鉄パイプやナイフや棒きれや、
およそ人ならぬ怪物に立ち向かうと思えぬ代物を握り、青黒く腫れ上がった痣を隠さず血の滴る傷も露わに、
しかし、戦うというその意志だけを纏い、立っていた。
「なん……の、つもり、だ。お前、たち……」
痙攣する横隔膜に、あるいはひっきりなしに襲う鉄の匂いを伴った吐き気に抗いながら江夜が切れぎれに問う。
彼らは、人であった。今の今まで単なる壁であり、物言う障害物に過ぎぬ、ただの無力な人であったはずのそれが、
江夜に気圧され獣に蹂躙されるがままだったはずの彼らが、しかしいま、戦士としてそこにいた。
彼らは、江夜を一顧だにせぬ。
ただ獣を、敵をその目に映し、開戦の嚆矢を待っているように、江夜には思えた。
何が起こったのか、起ころうとしているのか、考えがまとまらない。血が、足りなかった。
そんな江夜の耳に届いたのは、声だった。
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「行きや」
短い、号令。
あまりに端的な、しかし迷いのないその声が、立ち枯れの森を真っ直ぐに射貫いた。
そして、戦が始まった。
「―――――」
それは、波である。
目に見えず、耳に聞こえず、しかしいくさ場を支配する、苛烈にして無慈悲なもの。
誰もがそれを追い、取り逃がしては一敗地に塗れ、あるいはそのほんのひと欠片を手に勝利を手繰り寄せる、
そういうものを、いくさの綾という。
江夜の眼前に、その綾の具現があった。
彼らはただ、勝利という言葉の真の意味から逆算したように、走り、手にした武器を振るい、
立ち止まり踏みとどまって盾となり、灰色の獣を追い詰め陥れる陥穽として血を流し、しかし誰一人として
斃れることはなく、押し寄せ引き去る波として、そこにあった。
それはまるで意思のない群体のように見え、しかし江夜はすぐにその考えを改める。
逆であった。そこには、群れを貫くたった一つの意思があった。
それは、波の向こうに立っている。
垣間見えるその姿は、女。
否、少女である。
古風な白のセーラー服に、色の薄い波打つ髪。
その眼差しが、手振りが、言葉のひとつひとつが、無力な壁に過ぎなかった人の群れを戦士へと変貌させていた。
遠く離れ、僅かに垣間見えるだけの江夜にすらそれを悟らせるだけの威を、少女はその身に宿していた。
少女の意思が、獣を崩す。
傲、と鳴く獣が、その醜い巨躯を削られていく。
戦いはいつしか、狩りと呼べるまでに一方的なものとなっていた。
「……ッ」
戦士たちは既に、立ち尽くす江夜をその目に敵と映すことはなかった。
ここは、少女とその手足が獣を狩るだけの場所だった。
歯噛みして、ふらつく足に力を込める。
流れる血はいまだ止まらず、頭は文字通り割れるように痛む。
整わない呼吸には鉄の匂いが満ちていた。
坂上江夜を顧みるものは、この場にいない。
この場には。
「……ヤマト」
その名を呟けば、足はまだ揺れる頭と傷だらけの胴とを支えて大地を踏みしめられた。
歩を、踏み出す。全身が重い。
獣に吹き飛ばされた戦士の一人が、目の前に落ちてきた。
すぐに立ち上がり、戦列に復帰する。
その目は、江夜を敵とも味方とも、そこにあるものとすら認識しないように、真っ直ぐにどこかを見ていた。
歩みを進める。
誰もその背を追いはしない。
それは敵であったはずの、今も江夜の敵にほかならぬ者からの、一方的な断絶だった。
歩みが、疾走に変わる。
ぐじゅり、ぐじゅりと、流れた血をたっぷりと含んだ靴と靴下とが、濡れた音をたてる。
滑る足先で地を噛んで、坂上江夜は、逃走した。
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駆け出した少女の背をちらりと見やって、楠見田かざりは正面の敵に意識を戻す。
かざりが仲間と囲むのはテナガと呼ばれる、それはかつてヒトであった灰色の獣だ。
このいつまでも晴れぬ曇天の下で、死ぬことすら叶わなかったもの。
哀れだ、とかざりは思う。
死を受け入れぬ弱さも。生きることを、闘うことを棄てた愚かさも。
灰色の亡霊はいつもそういう哀れさを背負って、かざりの前に現れる。
それが、ひどく煩わしかった。
憤りはない。憎悪もない。それらは昔、太陽に灼かれて消えてしまった。
楠見田かざりは取るに足りぬ女だ。
縮れた赤毛に幸の薄そうな一重の瞳と細い眉。
取り立てて高いわけでもない上背、広くもない肩、細身とすら見える体つき。
周囲の仲間たちが持つようなナイフや棍棒や木槍や、そういう武器すら持っていない。
手にも心にも刃を持たぬかざりは、だからただ哀れみをもって灰色の敵に対峙する。
「……」
テナガの濁った目はぎょろりぎょろりと己を囲んだ人間たちを睨んで小刻みに動き、
黄色く汚れた乱杭歯の間からは腐臭の漂う唾液とともに低い威嚇音が漏れている。
獣は既に手負いだった。
その異様に長い手足はいたるところで肉が削げ、灰色の粘液を滲ませている。
縄張りに踏み込んだ獲物を狩らんとする肉食獣の昂奮は既に鳴りを潜め、決死の抵抗と逃走の緒を探しているように、
かざりには見えた。
気を抜くな、とかざりは己に言い聞かせる。
ここからの詰めが、本当の戦いだ。
文字通りの死に物狂いは、弛緩と慢心を餌として勝ち筋を覆す。
リングの上であれ命のやり取りであれ、闘争の本質は変わらない。
仕留めるとはつまり、嬲らず殺すということだ。
「―――オニキスの受けから入って右、左、中の順。終いにせえ」
響く声は、風だった。
背に風を受けて、かざりは踏み出す。
一歩目は何気なく、テナガの気勢を削ぐように。
「……ッ」
二歩目からは、全力で。
獣の迎撃に、しかし淀みらしきものはない。
低い前傾姿勢で正面から走るかざりに、がぱりと顎が開いた。
目から鼻から灰色の血を振り撒いてなお凶悪な面相が、かざりを頭蓋ごと噛み砕かんと迫る。
見据えて、一点。狙い澄ました肘が、獣の鼻面に吸い込まれた。
幾度も折れて歪んだ鼻骨の直下、涎に塗れた牙の並ぶ、その真上。
人体の急所が一つ、人中と呼ばれる部位へのカウンター。
これ以上ないタイミングで放たれたそれは、正確に獣の上顎骨を断ち割った。
同時、圧倒的なウエイト差に、かざりの左肘が奇妙な音を立ててひしゃげた。
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「……ッッ!!」
衝撃にのけぞる両者の、次の一手へと先んじたのは灰色の獣である。
粉砕された上顎の支えを失った前歯を三、四本と宙へと舞わせながら、しかしその異様な長さを誇る腕を
振り回すようにして重心を前がかりに取り戻すと、その勢いを殺すことなく拳を固め、いまだ間合いの中にいる
かざりへと躊躇なく振り下ろした。
遠心力を乗算された一撃が、かざりを脳天から叩き潰した、かに思えた。
「――――――」
楠見田かざりは、動かない。
直上から落ちる致命打に気づかぬはずがない。
迫り来る暴力を前に足の竦んだわけでもない。
鉄槌を見据え、獣の正面で泥濘を踏みしめ、かわすでも、いなすでもなく。
楠見田かざりは、ただ、動かなかった。
轟、と風の唸るような錯覚。
巌をすら砕かんとする拳が、かざりを、直撃した。
衝撃が、音を成した。
しかしそれは、頭蓋の破砕して中身をぶち撒けるような水音ではない。
固い、固い重低音。
地響きの如き音が刹那の余韻を残して消えたその後に、灰色の獣が咆哮を上げた。
それは、既に失われたはずの驚愕という感情であったか。
「……、ッ!!」
獣の腕の、石の拳のその下に。
楠見田かざりは、健在であった。
血は流れている。割れた額から垂れ落ちて、かざりの顔面を真っ赤に染めている。
息は震えている。食い縛った歯の隙間から漏れる吐息は、かざりの受けた衝撃を物語るように濡れた音を立てている。
それでも、かざりの目には光があった。
闘争の光だ。己に敵する存在を前に、生存よりも勝利を求める者の宿す、宿痾の光だ。
獣の拳を額で止めて、ぶるり、とかざりが僅かに身震いをする。
立ち枯れの森が音を忘れたかのような一瞬。
「ようやった、オニキス」
-
静寂を破った声は、遥かに遠く背中から。
聞いたかざりが、血まみれの顔で薄く、薄く笑った。
転瞬。無数の刃が、獣を襲った。
全力の一撃を止められた、その刹那の空白こそが獣の許した決定的な隙であった。
かざりの後ろから動いた軍勢が、完璧な連携で灰色の獣を一斉に攻撃していた。
無防備な脇腹を、足を、側頭部を、ナイフが刺し、鉄パイプが打ち据え、手製の木槍が貫いた。
そのすべては獣の左側。振り下ろした腕をそちらに向けるよりも早く、今度は意識の後ろ側。
立ち尽くす獣の、右側面が打撃と刺突の雨に晒された。
咆哮を上げるいとまもない。混乱する灰色の獣が、左右のどちらに意識を向けるのかを絞れずに立つ、そこへ。
「……さよなら、テナガ」
ゆらりと揺れて、崩れるように下がるかざりの後ろ。
最後の一団が、突撃した。
ぎい、と。全身に刃と槍との刺突を受けて断末魔を上げる獣は、さながら針鼠の如く。
既に立ち上がることもできぬまま、もがき、その長い腕と足とを振り回して泥濘を僅かに這いずり、
そして最後だけは嗄れながらも確かに聞き取れる音で、きんちゃん、と呟いて、斃れ、二度と動かなくなった。
***
-
「……いやな雨」
ねぐらとしている洞穴の口から、楠見田かざりは空を見上げて呟く。
テナガの骸を打つように天からぽつりと落ちた雨だれは、すっかり本降りとなっていた。
灰色の空には変わらず厚い雲が垂れ込めて薄暗い。
「雨は嫌いか」
「……森田さん」
背後からの声に振り返れば、三十がらみの涼やかな顔が見下ろしていた。
森田馨。かざりの認識では、グループのナンバー2に位置付けられる男だった。
絶対的な長である最首が別行動を取るときにはこの男がグループの指揮を任されることが多く、
実務を取り仕切る彼にはいつも誰かしらが相談事を持ち込んでいる。
個人的な会話をする機会は、だからこれまではほとんどなかった。
「俺もここに来てそれなりに長い方だが、こんなことは初めてだ」
古株連中も覚えがないと言っていたよ」
「そう……ですか。あはは、運、悪いな」
眉尻を下げて困ったように笑うかざりを、森田は黙って見ている。
先を促すような沈黙に年長者の小狡さを感じながら、それでもかざりは口を開いた。
雨模様に溜まった鬱屈を、少しでも吐き出したい気分なのは確かだった。
「雨って、ほら、曇りより、晴れに遠い気がするじゃないですか」
「そうだな」
「晴れててほしいんですよ。ずっと。お天道様、見ていたいんです。
だから……雨が嫌いっていうか、曇りも、雪も、晴れてない全部が、ほんとは嫌いなんです」
曖昧な笑みはどこまでも色が薄い。
薄色の笑みで森田から目を逸らし、灰色の空を見上げてかざりが続ける。
-
「世の中、こんなになっちゃって……どっちを見ても、薄暗くって。……私、暗いところ、駄目なんですよ」
「……」
「じわじわって、染みてくるような気……しませんか? 暗いところ、暗いもの。そういうのって。
手とか、足とか、背中とか。見えないところから見えないままで、暗いものが私に流れてくるような、
ひとりになるとそんな夢ばっかり見てて、だから」
呟きは既に独り言じみて、しかし森田はそれをじっと聞いている。
降り続く雨の音は僅かな静寂を埋めるように洞穴に響き、
「だから、晴れててほしいなって、思うんです」
雨音を振りほどくように、かざりが声を張った。
「そうしたら、照らしてくれるって。お天道様が。あったかくて大きいものが。
私の中に染み込んでいく暗いものも照らして消して、綺麗にしてくれるって。
そう、思うんです」
「……」
「あ、ご、ごめんなさい……変な話、しちゃいましたね」
「……」
口を挟むことなく、相槌のように黙って小さく頷いていた森田が、
「それが、君がここにいる理由か」
ただ、それだけを訊いた。
切れ長の目に僅かに浮かんでいた色は、憐憫と、微かに他の何かが混じっているようにも、見えた。
-
「はい」
それは共感なのかもしれないと、かざりは思う。
理由はわからない。単にそうであればいいという、かざり自身の願望かもしれなかった。
「ここにいれば―――」
曖昧な想像は、雨音にかすれるように消えていく。
残滓のように、言葉を継いだ。
「光の中にいれば、私は……戻らなくて、すむから」
ふにゃりと笑って、言う。
途端に、後悔した。
余計なことを口走ったと、背筋が強張った。
少し気が緩みすぎたのかもしれなかった。
じくりと、手の先が痺れるような、冷えるような感覚。
降る雨に紛れて染み込んだ暗がりが、皮膚の下で嗤うような。
呼び起こされそうになる記憶を、拳を握って潰すように、耐える。
「傷は、大丈夫か」
そんなかざりの様子をどう見たのか、森田がそんな言葉をかけてくる。
「あ、はい、おかげさまで」
「手当てをしたのは俺じゃないさ」
好都合とばかりに、かざりが話題に乗った。
包帯代わりに巻きつけられたぼろ布を誇示するように腕を振るのへ、森田が苦笑する。
「あまり無理はするな」
「無理、しますよ」
-
砕けた肘と、割れた額とを気にした風もなく、かざりが笑う。
「私、レスラーですから」
告げる言葉は過去形ではなく、現在形。
見上げる空から森田へと戻された笑みのかたちの瞳には、どこか熱が篭っている。
身体の中のどこかの機関に火が入ったような、そんな熱だ。
「最首さん、戦いの時には私のこと、オニキス……って呼ぶじゃないですか」
「そうだな」
「ああいうところ、本当、狡いなって、思います。……ううん、上手いな、かな」
「……」
熱は目から下りて吐息に混じり、いまや言葉にも宿ろうとしている。
「オニキス。ラヴ・オニキス。FWWW所属。そう呼ばれるとき、私はどこにでもいる女じゃいけないんです。
身長百五十六センチぽっちの、暗くて冴えない、楠見田かざりでいちゃ駄目なんです。
もう上がるリングはなくて、ゴングもたぶん二度と鳴らなくて、だけど、それは。
それだけは私たちの、絶対に守らなきゃいけない、たったひとつのルールなんです」
熱を孕んで紡がれるとき、言葉はただの音ではなく、世界を刻む刃となる。
刃は森田の後ろ、闇を貫き岩を穿って、灰色の大気を震わせた。
「だから、受けるんです。どんな打撃だって。凶器だって。私がラヴ・オニキスでいるときだけは。
それで死んじゃうかもとか、その後で勝つとか負けるとか、そういうの、あんまり関係ないんです」
真っ直ぐに。
宣誓のように。
「だから……私は大丈夫です。でも、心配してくださるのは、素直に嬉しいです」
ありがとうございます、と下げた頭には、ぱっくりと傷が開いている。
その傷をじっと見つめていた森田が、やがて細く息をついて短く告げる。
「身体。冷やすなよ」
「はい」
-
やり取りは、それだけだった。
ゆったりとした沈黙と会釈とが、場の解散を告げていた。
踵を返し、それぞれの持ち場へと戻ろうとした二人を、
「―――お話は、終わったかな」
しかし、引き止めるものがあった。
声である。洞穴の外、雨の下からその声は響いていた。
「お前は……」
呟いた森田と声の主とを、かざりが交互に見やる。
歓迎されざる来客であると、その表情が露骨に告げていた。
「ご無沙汰しているね、森田さん。
岡山芳子が来たと、最首くんに取り次いでくれたまえよ」
そう言って佇む少女の影は、雨に濡れそぼってひどく暗い。
雨が嫌なものを連れてきたのだと、かざりは直感する。
太陽が見たいと、そう思った。
-
-
+++千葉さおり
師と呼べる人など、いるはずもない。
もしかしたら、どこかですれ違っていたのかもしれない。
下を向いていたから、気づかなかったけれど。
好きだといえる誰かを、探そうとしたこともある。
私を女として見た男は、取るに足らない傷だけを私につけて、それだけだった。
もう顔もよく思い出せない。
大切なものは家族ですと、そんな風に嘯いたのは、私の喉に張り付いたぜんまい仕掛けだ。
どこかで拾った安物で、当たり前とか普通とか、そういうものが詰まっている。
錆びついていて壊れかけで、とても便利で鬱陶しい。
-
―――下らない。何のために生きているのかしら。
答えられるくらいなら、私はもっと違う私でいられた。
腰まで浸った腥い、温い汚水に押し流されて膝をつく。
胸まで濡れて、飛沫が撥ねて目に染みた。
擦ろうとする指先も、油に塗れてぬらりと光った。
鈍い痛みに目を閉じる。
瞼の下で涙が滲む。
滲んで汚水と混ざって溶ける。
溶けた水は、私の中を巡るのだろう。
渇いた私を、七色のヘドロがふやかしていく。
―――下らない。
冷たい声。
幼い声。
純粋であろうとして、それが何かを嫌うことだと勘違いしていた頃の声。
あの頃は私はきっと今の私が大嫌いで、そうして、
「……私もあんたのこと、嫌いよ」
声に出した。
-
ぼんやりと私の中を満たしていたそれは、声に出せばあっという間に形を成した。
尖り、曲がって、見苦しい、薄灰色の斑模様の感情だ。
そうだ。今の私は空っぽで。好きも嫌いもない、無価値なもので。
だけど、私をそういうものにした何かが、私はずっと嫌いだった。
それはつまり、かつての私自身に他ならない。
水かさが増していく。今は首までが汚水に浸かっている。
視界の端で髪の先が油に浮いてゆらゆらと揺れていた。
赤と茶色の合いの子みたいな、適当に色の抜かれた傷んだ髪。
変わらずにいる、それだけが綺麗なものであるために必要な条件だと思い込んでいた昔の私が、一番嫌っていた色。
女の色だ。
髪の色を抜き。口紅をさして。化粧をして男を作り気に入られる服と靴を買いお酒を飲んで羽目をはずしたふりをして。
私が女になろうとしたのは、
「気づいたから。本当に馬鹿だったのは誰かってこと」
私がただ立ち止まっていただけだと思い知らされたのは、いつだっただろう?
それなりに親しく接していたつもりの誰もが私と同じ大学を選ばなかったとき?
離れていった彼女たちから届くメールの最後の日付が、半年以上も前だと知ったとき?
知らない名前になった彼女たちから、小さな命と共に写真に収まった葉書が届いたときだろうか?
「もっと前。もっと、もっと前。本当はわかってた」
追い立てられているつもりでいた。
私の周りは敵ばかりで、身を守るために、誇りを護るために、高潔であり続けなければならないと背筋を伸ばしていた。
決して振り返らなかったのは、一心に前だけを見ていたからではない。
怖かったからだ。確かめるのが。
私を追い立て、追い詰めるものなど、いやしないのだと。
足を止め、目を閉じて何かにしがみついている者をいちいち追いかけるほど、世の中は暇ではないことを、
私は知りたくなくて、だけど知っていて、だから、気づかないふりをした。それだけだった。
「知ってた? あなた、歳を取るの」
肌は衰え、疲れは膝や腰や肩や肘やお腹の奥に粘ついて離れなくなって、疲れた私は、目を開けた。
開けてしまった。そうして気づいた。いいや、確かめたのだ。
誰も、私を見ていないこと。
鏡を見れば、そこには確かに私の嫌うような私はいなかったけれど、同時に私が好きになれるはずだった私も、
当然ながら、いなかった。
-
「綺麗じゃない。全然綺麗じゃない。特別でも、なんでもない」
後半は、声にならなかった。
水かさはもう首を越えて、口元にまで迫っていた。
汚い水が口の中に入ってきて、ツンとする苦さに胃がひっくり返る。
流れこむ油の味に胃液の酸っぱさが混じって、それでも声にならない声で、私は続けていた。
「耳をふさいで、目を閉じて、置いて行かれてひとりになって。寂しいおばさんなの、あなた。
どこが特別で、どこが綺麗で、あなたのどこが、私のどこが、世の中の誰かより上だっていうの?」
それは、呪いだ。
今ここで思いついた言葉じゃない。
毎日、毎日、しんと静かで薄暗い、ひとりの部屋の鏡の前で、呟き続けていた言葉だ。
汚水は鼻を覆い目に入って、もう息もできない。
何も見えない瞼の裏で、じんじんと痛む暗闇の中で、それでもそこに、冷たい私が立っている。
蔑み、憐れむような目で空っぽの私を見下ろしている。
不意に。
怒りが、湧き上がった。
目の前の、勘違いした痩せぎすの、誰からもほんとうの意味では相手をされてすらいない子供が、
どうして私を馬鹿にしたように見ているんだろう?
私には何もない。たいせつなもの、得られたもの、かけがえのないものなんて、何一つも。
私は特別じゃない。世の中に誇れるような何かじゃない。世の中の誰とも違う何かになんて、なれなかった。
それでも。
それでもこんな私と、目の前の私に、それほどの違いなんて、あるだろうか?
生意気なだけの、大して頭も良くない、孤高を気取って孤独を紛らわす、痛々しい子供のどこに、
何も持たず、何も得られず、誇れるような何かでも、誰かと違う何かでもないちっぽけな中学生のどこに、
今の私を蔑めるような価値があるというのだろう?
怒りのままに、目の前に浮く細い足を掴んで、引き下ろす。
骨ばった腕を、肉付きの薄い肩を、艶めいて硬い黒髪を、力任せに掴んで、私は私を引き寄せる。
汚水の流れが強くなった。
ふわりと、足元が掬われる。
流されるのだと思った。
知ったことではなかった。
-
どちらが上で、どちらが下かもわからない。
息苦しさも、今はもうない。
汚水の激流に身を任せながら、私は生意気な子供の私の頭を掴んでいた。
本当の瞼は閉じたまま、ごうごうと耳鳴りのするような音の中、じっと、その顔を睨み返す。
冷たい目。壁を作る目。目の前のすべてを蔑み侮り、嫌う目だ。
額と額をつけるような距離で、ずっと言ってやりたかったことだけを、口にする。
「―――ねえ。どうして終わりにしなかったの?」
瞬間、私を睨めつけていた目が、憤りの色を浮かべた。
それがどうした、と思う。
子供の癇癪が通用するのは、それを甘やかしてくれる人がいるからだ。
ここにいるのは、私と私の、それだけだ。
まして私は知っている。このこまっしゃくれた子供がこういう顔をするときは、本当に怒っているわけじゃない。
これは、虚勢だ。劣勢を誤魔化すための、虚しい威嚇だ。
下らない、と。
私は子供を嘲笑う。
嫌がって身を捩るのを逃がさないよう手に力を込めて、私はねえ、と続ける。
ねえ、どうして終わりにしなかったの、あなた自身を、と。
綺麗であれたうちに。
そうであると、まだ信じ込めていたうちに。
勘違いに殉じるだけの愚かさが、あなたの中に残っていたうちに。
どうして、終わらなかったの?
そうすればこんな、一山いくらで打ち捨てられているような女に、下らないなんて思われなくて済んだのに。
背けられようとする顔を、力ずくで引き戻す。
血色の悪い頬に痣を残すくらいの強さで爪が食い込む。
私の瞼の裏の私は痛みに顔をしかめるようにぎゅっと目を閉じて、そうしてもう一度開かれたとき、
そこにあるのは敵意の一色だった。
口が動く。
本当の耳に聞こえるのはごうごうという水音だけで、だけど目を閉じた先の真っ暗な籠の中は、
しんと静まり返っている。
そこに、声が響いた。
ふざけるな、と。幼い私は、そう言った。
癇癪を起こした甲高い声じゃなかった。
威嚇のためによく使っていた、無理に低い声でもなかった。
ただ、ただ喉の奥からこみ上げてくるものが溢れるような、そんな声。
誰もいない日当たりの良い部屋の、わざと隅に置いた鏡に顔をくっつけるみたいにして、
馬鹿みたいに何度も何度も何度も恨み言を、その頃は神託だか聖なる誓いか何かだとでもいうように
胸に抱いていた、私以外の誰が聞いたって愚にもつかない繰り言でしかないそれを必死に呟いていた、
その声だった。
-
懐かしさと呆れと、それからほんのひと欠片のちくりとした何かで、僅かに力が抜けた。
その一瞬。暗がりの中の私の顔が、急に近づいてきた。
キスするような近さで、感じたのはじんとする痛みだった。
顔が、遠ざかる。暗がりの中に、ぱっと赤が散った。
遠ざかる顔は息が荒くて、口の端から何かが垂れていて、それが血だと気付いたのは
ほんの少しの間を置いてからだった。
散る赤は、やはり血だ。流れているのは、私からだ。
鼻がざっくりと裂けていた。
噛み千切られた、と理解した瞬間、手が出ていた。
幼い私が、頬を張られてよろける。
もう一発。顔を抑えたその手を掴んで引き起こす。
空いた手で、更に一発、二発。
叩いた手の痛みがお腹の底で憤りに変わって、吐き出すようにまた叩いた。
叩き疲れた私の手を振りほどいて、幼い私が後退る。
真っ赤に腫れ上がった頬を隠すようにしたその顔は、くしゃくしゃに歪んでいた。
泣いているのだとわかった。
「――――」
そうして同時に、気付いた。
顔をかばうようにしているのは、叩かれた頬を守っているんじゃない。
泣き声を漏らさないようにしているんだ、と。
腕を、袖を噛んで、こらえているのだ。私は。
声が漏れれば、知られてしまう。そして何より、自覚してしまう。
自分が今、泣いているのだと。
何よりそれが、怖かった。
じっとその顔を見つめた私の視線を拒むように、幼い私はかぶりを振る。
ぎゅっと目を閉じて、見られたということ自体を忘れたくて、何度も何度も。
固く閉ざされた目の端の雫が珠になって、飛沫として散った先には、私がいた。
ひとつの雫は頬に当たった。
ひとつの雫は唇に垂れた。
最後のひとつが、額を流れて、傷に沁みた。
じくりじくりと痛む傷が、微かに温い体液を吸って、どくり、と跳ねた。
-
瞬間、すべてが反転した。
.
-
傷が痛んで、視界が滲む。
私は、傷ついていた。
私は痛みを感じていた。
吐息が震え、指先が痺れた。
開いた口から何かが零れ落ちそうで、詰め込むように、腕を噛んだ。
歯と腕の間で音を立てる息は熱くて、ひうひうとひどくうるさい。
でもそれは、その音は、私の戦いの音だ。
私の剣戟、鬨の声、崩折れる私の呻き、倒れ伏す私の断末魔、私の骸の灰に変わる音。
そうしてやがて整う呼吸は、乱れず静かな吐息の音は、私の得るただひとつの勝利の凱歌だ。
ああ、そうだ。
私はずっと、ずっとこうして、泣くのをこらえていたんだった。
涙が溢れて、目は真っ赤で、周りにはすぐにそれと知れただろうけどれど、そんなことは関係なかった。
声さえ漏れなければ、私はまだ、泣いていない。
それはつまり、
「私はまだ、負けてない」
声に出せば、それが事実なのだと思えた。
それだけが確かなことなのだと、腑に落ちた。
どうしてそんなことを忘れていたのだろうと、そう思えた。
それは、繰り言だった。
馬鹿な小娘が、ひとりきりの部屋で鏡に向かって唱える何の力も持たない不平だった。
それは、そら言だった。
愚かな女が、溶けた氷ですっかり薄まった酒を呷りながら呟く誰にも届かない愚痴だった。
だけど、それは。
それは、魔法だった。
自意識過剰の痛々しい子供に世界のすべてと渡り合えるだけの力を与える呪文で、
無為に歳を重ねる独り身の女の髪を整え紅をさし背筋を伸ばして歩かせる程度の真理で、
それは、つまり、意味だった。
-
―――どうして終わりにしなかったの、ですって? 下らない。
「本当に下らない。そんなこと、わかりきってる」
―――私はまだ、負けてない。
「そう。だったら、終わるのは私じゃない」
―――あいつらよ。
.
-
あいつらって、誰だっけ。
そんなことも、忘れていた。
あいつらは、あいつらだ。
私を笑うすべてだ。
私を貶めるすべてだ。
私に終われと迫る何もかもが、私より先に終わるべきすべてだ。
目を開ける。
視界は晴れた。
閉じた瞼の裏側には、もう誰もいない。
身体にまとわりつく汚水が鬱陶しい。
振り払えば、流れは止まった。
足を下ろせば、水が引く。
カツ、と硬い音は、革靴の音だ。
私は今、どんな姿をしているだろう。
濡れそぼった、華のない哀れな中年女?
馬鹿馬鹿しい。
私はきっと、真新しい制服に身を包んでいる。
皺も染みもない、糊の効いた制服だ。
足元は磨き上げられた革靴で、くるぶし丈のソックスもおろしたてに決まっている。
歩を進めるその先に、何かが転がっていた。
朽ちたバイオリンだった。
思い切り、蹴飛ばす。
ぼおん、ぼおん、と重い音がして、薄い合板が砕け散る。
木片と弦の切れ端が飛んだ先に、光が見えた。
下水の、出口だった。
_
-
+++比賀佐保子
「私には大切な人がいる。貴女にも大切な人がいる。私たちはたったひとりの大切な人を抱えている」
三人掛けの丸テーブルの向こう側で女の人が言うのを、私はじっと聞いていた。
雨粒がぱたぱたと灰色のパラソルを叩く音に交じるような、低く静かな声だった。
「で、だからその『タイセツ』を一緒くたにしようってわけ? お姉さん、面白いね」
きゃは、と笑う彩ちゃんの言葉を表情から翻訳するなら、頭おかしいね、ということになるだろう。
ぴりりとひりつく空気を変えるように、言葉を引き継ぐ。
「私の大切な人は、」
と口にするとき、思わず頬が緩むのを感じる。
たいせつなひと。この世で最も貴い、いつも眠たげなあの眼差し。
その温かさをそっと撫でながら、私は目の前の女性に向かって言う。
こんな人さっきまでいたかしら、という疑問は脳裏をかすめてすぐに消えた。
「私の大切な人は、あなたの誰かとは、違う人よ。当たり前だけど」
「だから、撚り合わせるのよ」
「ごめんなさい、ちょっとよくわからないわ、八重さん」
そうだった、と自分でその名を口にしてから、心中で膝を叩く。
八重。そうだ。目の前の女性は、八重花桜梨と名乗ったんだった。
でも、待って。この人がここに来て、そう名乗った、あれはいつだった?
ついさっきのような気もするし、ずっとそこにいた気もする。
考えようと視線を外に向ければ、絹糸のような雨がウッドデッキに落ちていた。
糸が飛沫いて木目を濡らす。雨はパラソルを叩いてぱたぱたと音を立てる。
ぱたぱた。ぱたぱた。静かで単調な音が、あやふやな記憶を更に薄めていく。
「おんなじ人を好きになればいいってこと?」
ぼんやりと霞んでいこうとした私の思考を引き戻したのは、彩ちゃんの声だった。
甲高いそれはわざとらしい作り声で、しかし向かい合う八重さんはゆったりとした微笑みを崩さずに応える。
「半分は正解」
「どこまでの半分?」
「同じ誰かである必要なんてないわ。それこそ意味がない」
茶化すような彩ちゃんをいなして、八重さんが続ける。
彩ちゃんが頬をふくらませたのは、きっと敏感に感じ取ったからだろう。
八重さんが言葉に含ませたのは、嘲りの色。
子供に対して、つまりは相手が女として敵にならないと確信したときに滲む、本能的な臭いのようなものだ。
対する彩ちゃんが可愛らしく頬をふくらませてみせたのはポーズだろうと、その顔を見ながら思う。
子供らしいむくれ方は、明らかなフェイク。目の奥に、火が着いている。
戦いに臨む目だ。
私の最も苦手な、しかし幾度も巻き込まれ、受けて立ち、あるいはこちらから仕掛けて生き抜いてきた、
女としての縄張りを賭けた闘争の、それは嚆矢の眼差しだった。
-
***
「お姉さんって、好きな人の前でもずっとそういう話し方、するの?」
「彼以外にはあまり好まれないと自覚はしているわ」
「きゃは!」
その人は可哀想だね。ずっとそういう、つまんない話に付き合わされるんだから。
そうね。彼はわかってくれるけど。
うわ、うっざ。
と、心の中で逐一行ってしまう不毛な翻訳を、そこまでで打ち切る。
自分たちを遠巻きに見れば、きっと笑顔で談笑しているように映るだろう。
「で、ええと……八重さん、あなたが光を? 集めて、柱……だったかしら、を立てると、
私たちは同じ誰かを好きになるの?」
正直まったく理解はしていなかったし、興味もなかった。
それでも話を進めなければ益のない縄張り争いは際限なく続きそうだったから、
ただ聞いた単語を並べなおすようにして八重さんに尋ねる。
「そうね。それで私たちと私たちの大切な人は、永遠の物語になる」
「……物語?」
何が「そう」なのかはさっぱりわからなかったけれど、妙な引っ掛かりを覚えて聞き返す。
「ええ。物語。私たちの、私と私の大切な人、貴女と貴女の大切な人の、物語」
やっぱり、と思う。
その単語を口にするとき、八重さんの声はほんの微かに、揺れる。
何かが込められているのだろう。それが憂いなのか、喜びなのか、憧憬なのか諦観なのか、
私にはわからないけれど、きっと八重さんにとって譲れない何かが。
「永遠に色褪せないもの。日常に磨り減ったりしないもの。めでたしめでたしで終わる恋」
「終わっちゃダメじゃん」
「また始めるのよ。最初から。出逢いから。辛くて、楽しくて、悲しくて幸せな、毎日を」
混ぜっ返す彩ちゃんにも、八重さんは動じない。
「楽しいの? それ」
「少なくとも、そうでない何もかもよりは幸せだわ」
「でも、」
-
今度は私が口を挟んだ。
八重さんの話は抽象的でわかりづらいけれど、言いたいことはあった。
「恋は、叶ったその瞬間がいちばん幸せだという人もいるけど、私は、でも、ちょっと違うと思う」
「ふうん?」
先を促すように頷く八重さん。
「大切な人に想いが届いた、その瞬間は確かにすごく幸せよ。だけど、それからの毎日だって、
とてもとても、素敵だわ」
少なくとも私にとっては、と告げる。
「ずっと側にいて、同じものを観て、同じものを感じて、そういう日々のことを、
私は幸せと呼ぶのだと思う」
「……」
「思い出は写真の中にあったり、ゆっくりお茶を飲みながらする話の中にあったりして、
だんだん色褪せてくるかもしれない。新鮮な驚きや、胸が締め付けられるような切なさや、
悲しくて眠れないような夜は、なくなってくるかもしれない。磨り減っていくというのなら、
それはそう言えるのかもしれないわ」
八重さんは何も答えない。
彩ちゃんは口の端を上げて、どこか愉しそうに耳を傾けている。
「めでたしめでたしって終わる恋物語の、たぶんそれは向こう側だわ。
ずっと続く、続いてほしい、なんでもない毎日。それは大切で、愛おしい時間だと、私は思う。
だけど」
言葉を切って、八重さんの目を見る。
薄暗いパラソルの下で、僅かに緑がかって見える黒い瞳は、じっと私を見返している。
微笑みのかたちの、なのに温度のない、大人の瞳。
「だけど八重さん、貴女のいう物語はどこか、」
「……」
「どこかそういうものを……そう、捨ててしまえって言っているように、聞こえるわ」
「ええ」
と、八重さんは、あっさりと頷く。
微笑んだまま、目元も口元も動かさずに、見知らぬ他人に朝の挨拶でも交わすように。
「そう言っているのよ。何もない日々なんて、害悪だわ」
「うわ、キツいねお姉さん」
害悪。
彩ちゃんの言うとおり、それはひどく強い言葉だ。
八重さんがこれまで口にしてきた中でも、異彩を放っている。
-
「何もない日々、ゆったりとした時間、昨日と同じ明日。それは、毒なの。
人の血に溶けて、心を鈍らせていく。鈍った心はね、昨日だって歪めるのよ。
楽しかったことも、悲しかったことも、すべてが今日と同じく何でもないものであったみたいに。
始まりも、歩いてきた道も、ありふれたものに、どこにでもあるものに、取るに足らないものになっていく。
かけがえのない、たったひとつだったはずの物語が、朽ちていくの。
そこにいるのが私でなくてもいいものに。あの人でなくてもいいものに。
誰かが代わりになれるような、そんなものになってしまうの」
ゆらゆらと、青い炎の揺れるような言葉を吐き出しながら、八重さんはでも、静かに笑っている。
笑顔ではなく、表情に笑みを刻んだだけの顔で、言う。
「許せるはずが、ないでしょう?」
それは、だから感情の吐露ではないのだろうと思う。
きっともう、決まりきってしまったことなのだ。この人の中では。
怒って、怒って、許せないことに抗って、そんな時期はもうとうに過ぎてしまっていて。
ただ身体の奥に沈んだものが出す熱で、この人は動いている。
熱は、冷めない。たぶん、八重花桜梨という人が動かなくなる、その日まで。
「だから、八重さん、貴女は……物語を、その、『創る』の?」
「そうよ」
答えは明快だ。
「レコードみたいに、ぐるぐる回るような、物語?」
「いい例えだわ。曲の終わりに来たら、針は戻るけれど」
彩ちゃんがため息混じりに訊いたのへ、八重さんが頷く。
今の話を聞いて、彩ちゃんの中でも何かしら考えるところがあったんだろう。
頭の良すぎる子だから、どうかすると八重さんという人間に対する結論じみたものを抱いたのかもしれない。
邪推だし、口にも顔にも出す勇気もないけれど、半ば以上は同感だった。
「そのレコードの芯が『タイセツ』な彼ってわけ」
「そうなるわね」
「なら、針は?」
それは唐突な、しかし突き刺すように鋭い、問いだった。
-
「誰が、針なの?」
「……」
「お姉さんだけが針ってのは、ナシだよね。お姉さんがレコードを創るのにはアタシたちが必要で、
だけどおいしいところは独り占めってのは、ねえ?」
「怖い子ね」
「考えないほうがどうかしてると思うけど」
正直、考えもしていなかった。
そっと彩ちゃんから目を逸らそうとしたら、猫みたいな目がちらっとこっちを見て、ほんの少しだけ細められた。
お見通しだったらしい。
「針は、そうね。私じゃないわ」
「なら、お姉さんが選んだ誰か? くじ引きでもするの?」
「いいえ。私も、私と共に夢を見る誰かも、針にはなれない。
私たちは、その例えで言うなら、レコードそのものになるんだから」
「は?」
さすがの彩ちゃんも、呆気にとられたように聞き返す。
「私たちは回るだけ。彼を中心に、いつまでも、何度でも、素敵な夢を繰り返すだけ。
針は、私たちを外から観る誰かよ」
目を閉じて、八重さんが言を継いだ。
瞬間、くらりと目眩がしたように、世界が傾ぐ。
「私のときめきを。私と大切な彼の記憶を」
パラソルに落ちる雨の音が、弱くなった。
絹のような雨に煙る灰色が、八重さんの向こうに広がっている。
「私たちの切なさを。私たちと大切な彼らの記録を」
やわらかく、幽かな水音に満ちる、灰色の静寂。
その中で、八重花桜梨という人が、言葉を紡ぐ。
「いつか、誰かが観るでしょう。その物語を。
いつか、誰かが追うでしょう。私たちという物語を。
それでいい。そういうものに、私と私たちは、なるの。
夜明けのない世界で、私たちは永遠に恋の夢をみる。―――素敵でしょう?」
ゆっくりと、八重さんが目を開く。
薄暗い空の下、どこか緑がかってみえる煙った瞳が、私たちを見据えていた。
-
「……、」
何かを言い返そうとして、言葉が出ないことに気付く。
いつの間にか口の中が、からからに渇いていた。
喉が張りついて、吐く息が声にならない。
じわりと、汗が滲む。
八重さんの瞳の緑が、どうしてだろう、さっきより近いように感じる。
彼女が身を乗り出しているわけではない。
テーブルの向こうとの距離は変わらない。
なのに。緑が。煙るような色が、近くて。
頭が、くらりと、
「都合、いいね」
さっぱりとした声は、彩ちゃんだった。
途端、汗が引いた。
慌てて頭を振れば、八重さんはさっきまでと同じようにテーブルの向こうにいた。
「笑える」
言った彩ちゃんは、だけど明確な嘲りを浮かべて、八重さんの向こうの空を見ている。
その様子に、八重さんが初めて表情を変えた。苦笑だった。
「それなりに、苦労しているのよ」
そんな八重さんに、応えるものはない。
私はまだ喉がひりついていて、彩ちゃんはつんと澄ましたまま目を合わせようとしない。
「……そろそろ、終わる頃かしら」
唐突に、八重さんが立ち上がった。
もうすぐ洗濯が終わってタイマーが鳴る、とでもいうような身軽さで、すいとパラソルから出て行く。
静かに降り続く雨の下、振り返った八重さんが微かに首を傾げて、笑う。
「楽しい時間だったわ。ご縁があれば、また」
その顔を見て、ふと思う。
きっとこうやって首を傾げるのは、刻んだ笑みじゃない、彼女が普通に笑うときの、癖なんだろう、と。
真っ直ぐに笑えない八重さんは、そう言って雨の中に消えていった。
-
-
遠藤晶には、その生涯でただ一度の、最高の演奏があるという。
詳らかではない。それを耳にした数少ない人間のすべてが口を閉ざしていた。
彼らが、あるいは彼女らがそのことに触れるとき、異口同音に漏らすのは、ただひとつだけだった。
即ち、遠藤晶はもう二度と、弓を手にすることはないだろう、と。
***
-
ざあ、ざああ、と音がする。
黒の一色を詰め込んだような空間に響くそれは、波の音だ。
寄せては返し、返しては寄せる絶え間ない音。
沈み込むような黒と、高まり、静まる、単調な律動。
永遠をすら思わせるその繰り返しに、綻びが生まれた。
ぼう、と。
薄明かりが射したのである。
色味を帯びぬ、茫洋とした白の光だった。
闇をこじ開けるような光の中に、女がひとり、立っていた。
「いつまでそうしているつもり?」
柔らかな白を基調とした装いの女は、その名を八重花桜梨という。
八重の声は、足元に向かって落とされていた。
踝までを浸す水の、波の如き揺らめきの中に、影が横たわっていた。
黒の一色。
闇に沈むそれは、正しく影のような装いで波に揺られている。
控えめなレースで装飾されたブラウスに、身体の線に貼り付くような細身のスーツ。
タイトスカートから伸びる足先のヒールまでが、黒衣。
喪服であった。
豊かな亜麻色の髪だけが異彩を放つその影が、ゆっくりと目を開く。
「あんまり遅いから、寝ちゃうかと思ったわ」
「遠藤晶ともあろう人が、こんなところでうたた寝でもないでしょう」
「お客様はもう帰ったもの」
晶と呼ばれた喪服の女が、しかし起き上がろうともせずに八重を見上げて悪戯っぽい表情を形作る。
「で、八重さん。遅刻の理由は?」
「ちょっと、お茶をね。それと貴女と約束を交わした覚えはないわ、遠藤さん」
「楽しそうね、相変わらず」
「そうでもないわ」
「でしょうね。知ってる」
言ってくすくすと笑う晶を、八重は無表情に見下ろしている。
ざあ、と真っ黒な波が寄せて、晶の髪を揺らした。
亜麻色の髪の先端が、八重の足をくすぐるように撫でていく。
-
「バイオリン」
ぽつり、と。
足に絡む毛先を見つめながら、八重が呟く。
「随分と粗雑に扱われていたみたいだけれど」
「蹴飛ばされちゃったわね」
苦笑しながら、晶が返す。
その顔に怒りの色はなかった。
「あげるつもりで流したものだもの。どう使うかはあの子の自由だわ」
「そう」
波が引き、亜麻色の髪が水につれて闇を流れる。
流れた髪が、光に溶けた。
一条、どこからか射す青白い光の筋に触れたのだった。
波が、寄せる。
溶けたように見えた毛先が、闇の中に戻って、またゆらゆらと揺れた。
「そんなことより、見た? あの子、ちゃんと戻ったわ」
「……そうみたいね」
戻ったと、喪服の女が口にする。
それがこの闇の中から出口へと至ったことを指すのか、
あるいは疲れ果てた女が決意とともに少女へと還ったことを言っているのか、
八重が聞き返すことはなかった。
「あの子はちゃんと歳をとってきたのね。だから戻れた。
振り返れば何かが見えるところに、まだ立っていたんだわ」
「私や、貴女と違って?」
「一緒にしないで」
晶が片目を閉じる。
横たわった胸の上で重ねられたままの指先が、八重の言葉を撥ねつけるように動いていた。
「同じよ。そうやって、いらないものを捨ててきたのだから」
「いらないもの?」
閉じた片目を開け、もう片方の目を閉じて、晶が問う。
短い答えが返ってきた。
「たとえば、『彼』の代わりに拾ってきた、あの人」
「……」
-
いつの間にか、波は収まりつつあった。
代わりに遠くから聞こえてくるのは、微かに水面を叩く音。
雨の音だった。
「捨てて、忘れた」
「忘れた? 私が?」
「そう。貴女が望んで得られなかった未来の、代替品」
「……」
「……」
「……ふふっ」
僅かな沈黙の後に零れたのは、小さな笑い声だった。
堪えきれずに吹き出したというような、晶の失笑だった。
敵意も悪意も混じらない、朗らかとさえ言える笑い声が、狭い闇の中に反響した。
「おかしなことを言ったつもりはないのだけれど」
「おかしな冗談よ。忘れた? 捨てた? 誰が、誰を?」
水に浸りながら身を捩る晶に、飛沫が撥ねてぱしゃりぱしゃりと音を立てた。
八重の足にも飛沫は飛んで、じわりと滲んだ。
「そんなわけないじゃない」
ようやく少し笑いを収めて、晶が八重を見上げて言う。
「優しくて素敵な人よ、私の旦那様は。
忘れるわけ、ない。いらないから捨てるなんて、それこそ悪い冗談だわ」
言ってひらひらと振った晶の手が、中空で一瞬、光の帯に触れる。
きらりと、何かが光った。
銀色のリングだった。閃きは、左の薬指に宿っていた。
「だけど、貴女は戻った。ここで、誰もいないここで、あの頃の貴女に。
弓と弦と、思い出の世界に」
「それに」
詰めるような言葉には答えず、晶が指輪をひと撫でして、片目を閉じる。
「代わりなんかじゃないわ。選んだのよ、私が。二十六歳の私が、ね」
「……」
短い沈黙に、晶がもう片方の目も閉じる。
闇に横たわる喪服の女は、そうしていると永遠の眠りについているかのようだった。
命の匂いの外側で、晶がほとんど吐息だけで言葉を紡ぐ。
幽かな音が作る声は、だけど、と続けた。
「だけど、『病気』が彼を連れて行ったわ。ただ、それだけ」
-
言い終えて口を閉ざす、晶の顔には微笑のかたちが刻まれている。
しかしそこに感情の色はなかった。
石膏でできた彫像のように、ただそういうかたちをしている、それだけの顔だった。
乾いた女の、老いの染みついた笑みが、暗がりに融けるように水面を揺らしたのは、一瞬。
「ところで、あなたの『彼』は元気?」
次の瞬間には、かつての遠藤晶がよくそうしていたように、悪戯っぽく口の端を上げた表情が浮かんでいた。
「亡くなったわ」
対する八重は淡々と、それだけを応えた。
そう、と晶が頷く。
予め知っていた回答を確かめただけという風だった。
「ただ死んでいるというだけよ」
何事もないように、八重が言う。
老いもなく乾きもなく、風のない部屋に揺れる灯火のようにゆらゆらと静かな熱を帯びたまま、
白に身を包んだ女は平然と異様を口にする。
横たわる喪服の黒が、問う。
「だから、造るの? 人形を」
「いいえ、創るのよ。物語を」
喪服の裾が水面に沈んで溶けていく。
黒の溶けた水が拡がって、射し込む光の一条を捉え、波間に色を散らした。
白が揺れ、黒が揺れ、やがて水面が結んだのは、ひとつの像だった。
居並ぶ黒。俯く顔。花々で覆われた祭壇。遺影。
それは、葬儀だ。弔われるのは、少年から青年へと伸びゆく頃の、男だった。
そして棺の前には、少女が一人、立っている。
黒の中心で少女が手にするのは、一挺のバイオリンだった。
少女は目を閉じ、ただ一心に奏でていた。
祈るように。祈るように。祈るように。
-
「八重さん。あなたはもう、飛ぶことをやめてしまったの?」
水面に映る少女の顔で、左手の指輪をそっと撫でながら、喪服の女が訊く。
「……」
それをじっと見下ろして、八重花桜梨は応えない。
黒の水面が映す八重もまた、少女であった。
流れ落ちる汗と、乱れる呼吸と、荒れ狂う心拍と、そのすべてを置き去りにして、
ただ中空の一点を見つめる少女。
白球が、そこに浮かんでいた。
割れんばかりの歓声が嵐のように叩きつけるのも、少女には聞こえない。
走り、踏み切り、天高く、少女が翔ぶ。
太陽に手を伸ばすように。
ふうわりと、神話にうたわれるもののように、美しく。
空を舞う八重花桜梨が、水面の波に揺らいで、
「―――いいえ」
ゆらりと、像が揺れた。
「私の夢は、まだ続いている」
凛と張った声が、狭い暗がりを震わせた。
見る間に黒は闇へと還り、白はただ一条の光に戻って、そこには女が二人、残されるだけだった。
-
「夢なら、みてるわ。私も、みんなも」
「いつから見ている夢かしら」
苦笑するように眉尻を下げて言う晶に、八重の声音は斬りつけるように鋭い。
「……昨夜みた夢を忘れなければ起き上がれない朝だって、あると思わない?」
「目を覚まさなければいい。それだけのことでしょう」
「みんな、歩き出せたわ。物語を忘れても。そういうことができるのよ、女って」
「―――貴女が最後。十二人目よ」
どこか宥めるような晶の言葉を遮って、八重が告げる。
効果は覿面だった。一瞬、驚いたように八重の目を見やると、すぐに視線を逸らして、
晶はそれからしばらく、じっと暗がりの一点を見つめていた。
幾度もなにかを言いかけて口を開き、再び唇を引き結んで、それを繰り返した何度目かに、
「そう」
と、吐息を撚り合わせるように、絞り出した。
「優も、そっちに」
「ようやくね」
暗がりを見つめたままの晶の問いに、八重が即答する。
再び長い沈黙が降りた。
静謐を取り戻した水面は、黒の一色の他には何も映さない。
どこかの反射の具合か、射し込む白の光だけが時折ふわり、ふわりと明滅した。
「……いいわ。こんな私でよければ、使ってくれても」
時の止まったような静寂を破ったのは、晶の一言だった。
「どういう風の吹き回し?」
訝しげに八重が訊く。
「楽器を手放して、私を招き入れて。あれほど頑なだったのに、今更宗旨替えでもないでしょう。
それともとうとう諦めたのかしら。最後の友人までを失って」
「今日はよく喋るじゃない。珍しい」
「……」
-
小さく眉を顰めた八重に薄く笑んで、晶が続ける。
しかしそれは、八重の疑念に答えるものではなかった。
どこか独り語りじみた、遠い響きを帯びた声が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私が最後に優に会ったとき、あの子はいつもみたいに座っていたわ。
古くて、静かな、くらくらするような紙の匂いの真ん中で、そっとページをめくってた。
店に入った私に気付いたくせに、あの子はカウンターの向こうで、目線だけで会釈したの。
それっきりよ。最低の接客だわ」
細められた目には、その情景が浮かんでいるものか。
「振り子時計が鳴ったわ。ぼおん、ぼおんって、低い鐘の音が、大きな本棚の谷を揺らすの。
揺れた音は渦を巻いて、本に吸い込まれるみたいに消えていく。その中心に、優がいるわ。
いつもみたいに、ずっとそうしているみたいに、動かずに、音を立てずに、じっと本を読んでる。
ときどきページをめくる気配がして、眼鏡を掛けた優は新しい物語を追うの」
ふと言葉を区切ると、晶の視線が八重の方を向く。
見下ろす八重の、僅かに緑がかった瞳を真っ直ぐに捉えて、晶が告げる。
「ねえ、あなたが会ったのは、どこの誰なのかしらね?」
震えのない、響き。
それは八重の手を優しくとって、指を開かせ、掌の上に置かれる小さな爆弾のような、問いだった。
「……それでも、貴女は」
炸薬が手の皮を穿ち、火薬がどろりと流れだして血管に染みていくのを感じながら、
八重は晶を見下ろし、闇の中、傲然と立ち、言う。
「貴女たちは、戻ったのよ。初めての恋に」
視線は晶を射貫き、しかし彼女の向こう側、黒に閉ざされた水底の更に奥を灼くように煌めいていた。
遥か遠く、過ぎ去ったいつかを見晴かすような、それは瞳だった。
言われ、晶は、目を閉じた。
今度の静寂は、ほんの刹那。
-
「そうね」
晶が、笑った。
蕾の綻んで花の咲くように、笑った。
「本当に、そうだわ」
笑って、闇に手を伸ばす。
横たわったままの晶から逃げるように、射し込む光の帯が消えた。
暗がりの中、狭いアーチの天井も見えない。
伸ばした左手の指に閃く銀色も、もう見えない。
「最後にひとつだけ、言わせてちょうだい」
ふと、黒に閉ざされた世界に光が灯った。
ぼんやりと、今にも消えてしまいそうな光は、小さな珠だった。
ほんの小さな光の珠がいくつも、薄煙のように立ち昇っていた。
光は、晶の身体から湧き上がってくるようだった。
「……頑張ってね」
ゆらりゆらりと、溢れた光が晶を照らし、消えていく。
光の中、喪服は水面に融けるように黒く。
亜麻色の髪が光を反射してきらきらと輝き、水に拡がった。
「ええ」
静かに頷いた八重が、光の水面に跪く。
光が、一際強くなった。
立ち昇る光の珠は、いまや奔流のようだった。
噴き上がる煌きに、八重が手を差し入れる。
光の河が割れ、その向こうに黒い喪服に包まれた晶の身体が見えた。
八重の手が、晶の胸へと真っ直ぐに伸び、ずぶりと、飲み込まれる。
そこにあるのが横たわる身体ではなく、水面の映す幻想であるとでもいうように、
黒が、八重の手を受け入れていた。
光の奔流に身を預け、黒の幻想に手を差し入れて、八重花桜梨が、そして言葉を、口にした。
-
「―――世界を、革命する力を―――」
.
-
言葉が、力を喚ぶ。
力は、形になった。
形を掴むのは、八重の手だった。
その手が闇から引きずり出し、光の中に翳すのは、一振りの宝剣だった。
精緻な装飾に刻まれるのは幾輪もの白百合。
鍔に埋め込まれた大粒の翠緑玉が水面に映る黒を、そうして反りのない片刃の刀身が周囲に舞う光を
吸い上げるように集め、煌々と輝いた。
「―――」
刹那、八重が視線を落とす。
そこにはもう、誰もいない。
横たわる者も、水に拡がる黒も、波打つ亜麻色も。
白を纏う女に、逡巡はなかった。
一振り。
光が、闇を断ち割った。
壁が、天井が、太刀筋から伸びる真白い光に沿うように断ち切られ、崩れる。
崩落に水音が連鎖する。
狭い暗がりを構成していたアーチが瞬く間に失われ、雪崩れ込む膨大な瓦礫と土砂と、
その向こうに空が、覗いた。
灰色の分厚い雲に覆われた空からは泣くような雨が降り注ぐ。
そのすべてを切り裂いて、光が一直線、天へと伸びた。
空を支える柱のような、それは白光だった。
【遠藤晶 消滅】
-
-
+++北原綾
少女の目には、朝陽が映っている。
それは少女の他の誰の目にも見えぬ、虚ろな朝陽だ。
「……あのね。昔ね。キャンプに行ったんだ。お父さんとね。お母さんとね。私でね」
少女の目は、涙を湛えている。
強さによらず、決意によらず、ただ幼い感情のままに湧き上がる、それだけでしかないものだった。
「とっても、きれい、だったんだ」
少女の目は、ひどく震えている。
怯え、惑い、あちらこちらへ揺れながら何も映さず、そうしてどこにも定まらない。
「きらきらしてて。湖。……あ、あさ、朝にね。
頑張って、お、起きて、すごくすごく、寒くって」
かち、かち、かちかちかちと音がする。
へたり込んだ少女の、歯の根の鳴る音だ。
時折舌を噛みそうになりながら、それでもひどく早口に、甲高く、少女は喋り続ける。
「その、その時、思ったんだ。きらきらに包まれて、静かで、寒くて、
きっと、きっと、こんな朝に、し、死ねたら、幸せだろうなって!」
言い切ったとき、ぼろぼろと涙滴が零れた。
拭おうとして、少女の手が細い眼鏡の弦に当たる。
感情のままに振り払うと、眼鏡はかしゃりと軽い音とともに外れて、落ちた。
慌てて拾おうとした少女の手が、止まる。
-
「……っ!」
地面に落ちた黒縁眼鏡のフレームが、その黒の上からゆっくりと赤く塗り染められていく。
反射的にのけぞって、後ずさり、
「……っう、ぇ……」
こみ上げるものを、戻した。
喉の奥が、紙やすりで削られたように痛んで、また涙が滲む。
空っぽの腹から少女の乾いて荒れた唇を伝うのは、黄色くて苦い、胃液だけだった。
ぽたり、ゆるりと糸を引いて土を濡らすその粘液を目にしたとき、少女、北原綾は衝動のままに声を上げる。
「――――――ッ!!」
叫んだつもりだった。
力の限り、腹の底から、目の前のすべてを引き裂くように。
重苦しく垂れ込める灰色の雲を。
風に揺れてさわさわと耳障りな音を立てるだけの枯れ草の群れを。
墓標のように立ち並ぶ石塊を。
じわじわとひろがる、忌まわしい赤い血溜まりを。
引き裂き、薙ぎ払い、焼き尽くすような絶叫を、叩きつけたつもりだった。
「…………っ、……っ」
反吐に灼けた喉から漏れるのは、無様に掠れた声だった。
弱々しく振り下ろされた泣き言混じりの爪は、ほんの目の前の温く生臭い湯気を浅く引っ掻いて、
傷一つすら残せず、ぱきりと折れてどこかに消えた。
北原綾という少女の、それが現実に抗すべく振り絞った力の、すべてだった。
-
「どう、して……」
どうしてこうなったと、問いかける。
意味はない。
問いかければ、誰かがそれに応えれば、罪はきっと応えた誰かに移るのだと、
そんな益体もない、子供じみた甘えが綾の口から漏れ出しただけの、音だった。
そして今、問いに応える者はない。
つい今しがたまで綾と言葉を交わしていたものは、真っ赤に染まって倒れ伏している。
「や、だ……」
否定。
ゆるゆると首を振りながら、力なくただ呟かれる声に、覆せるものなどありはしなかった。
眼前の死も。生臭い湯気も。
それを齎した手の震えも。罪も。
綾の膝の上でずっしりと重さを主張する、その凶器も。
何一つ変わらず、ただじっと綾を取り囲んでいた。
静かに、どこまでも冷ややかに、責めるように。
それは視線であり、枷だった。
葬列の遺族の足取りの、重く、低く、まとわりつくような粘り気が、綾の口から染みこんで、
薄い胸の内側から、じぐり、じぐりと少女を苛んでいた。
「か……はっ……! ……う、うぅ……」
堪え切れずに息を吐き、胸を掻きむしって、うずくまる。
うずくまり、体を丸めて頭を抱え、耳を塞いで顔を埋め、自ら作った狭い闇の中に、沈む。
それは、灰色の空の下、枯れ草の海の上にぽっかりと空いた、小さな穴だ。
小虫の類の、物音に怯えて逃げ込むような、石の隙間の、暗がりだ。
目を閉じて腕で覆った、ただそれだけの、無力な逃避。
見えなければそこにはないと、聞こえなければ脅かされないと、そんなことのあるはずもない、
無様で、愚かしい選択。
それでも少女は、ただそこでしか息ができぬというように、闇に縋った。
そうして。
「――――」
少女の必死で掻き抱く、その小さな暗がりの中に、それはあった。
-
北原綾がずっと、目に入れないようにしていたもの。
ずっとその膝の上に乗せたまま、触れることもできずにいたもの。
忌まわしい凶器。
一丁の改造拳銃。
ガムテープでその銃身をぐるぐると巻いた不格好なそれが、身を丸めた綾の
膝から滑り落ちて、眼前、荒い吐息のかかるような距離に、あった。
「……、」
それは衝動だった。
闇の中、顔を上げることも身体を起こすこともないまま少女の震える手はそれを掴み、
グリップと銃身とを取り違えて冷たい金属の表面を幾度もまさぐり、ようやくトリガーを見つけ、
綾を同志と呼んだ、凍てつくような眼差しの少女がそうしたように銃口を胸に押し付けて、
押し付けて、
「……っ」
押し付けて、
「……はっ……、はぁっ……」
押し付けて。
「ぁ、……あ、……あぁ……っ……!」
押し付けたまま、少女には何もできない。
何も、できない。
-
-
真剣に死を恐れるほど、少女は自らの生を愛してはいなかったし、真摯でもなかった。
ただ、痛みと、未知が怖かった。
だからそれは葛藤ではなく怯懦で、踏みとどまっているのではなく進めないだけで、
だが、それでも、北原綾はまだ、そこにいた。
まだそこに、いられた。
それが、彼女を救った。
あるいは、
***
-
いつしか、少女の震えは止まっていた。
安堵にも覚悟にも、諦念にも達観にもよらず、消耗が、綾の激情を弛緩させていた。
泣き疲れて眠る寸前の子供のように、綾はぼんやりとした目で手にした拳銃を眺めていた。
張り詰めていたはずの糸はいつの間にか裁ち切れて両の切り口がぶらぶらと風に揺れ、
彼女があらん限りの恐怖と絶望を込めて見つめていたはずの凶器は、ただ力を込めて握れば
それで人の命を終わらせる程度の、つまらない機械に成り下がっていた。
ひたすらに、疲れていた。
腕が重い。肩が重い。首が重い。腰が重い足が重い腹が重い腹の中が重い。
立ち上がりたくない。寝転ぶことも煩わしい。
俯いて背を丸め、目を開くことも閉じることもせず、重力に引かれるまま、
ただ深く、深く息だけをして、嫌なことや重いことや、辛いことや見たくないことや、
そういう頭の中に詰め込まれている全部を、吐く息とともに垂れ流して、
まっさらなものに、戻りたい。
それだけが北原綾に残された薄ぼんやりとした欲求で、それ以外には何もなく、
だから綾は、それだけをしようとした。
-
「――……、――……、――……」
細く、細く、息が漏れる。
規則的なその音は綾の頬骨を通じて内側から鼓膜を揺らす。
頭の中で絡まり合った冴えない灰色の糸玉が一息ごとに口の端から漏れ出して、
膝の上に溜まっていく。綾には、そんな風に感じられた。
糸は結び目を作ることもなく、くるくる、くるくると滲んで零れ落ちていく。
しかし不思議なことに、糸玉はいつまでたっても小さくなることはなかった。
くるり、くるりと玉は転がる。
ふわり、ふわりと糸が垂れゆく。
灰色の糸には、果てしがないようだった。
ぼんやりとした視界のまま、少女は己の口腔の中、転がる糸玉を舌先でゆっくりと追う。
くるくると転がる玉の一方の端は、辿ればなるほど、綾の口から漏れている。
そうしてしかし、もう一方の端はといえば頭の中から瞼の裏に張り付いてずるずると、
鼻の根元を引っ掻いて小さな傷をつけながら、どこまでも、どこまでも長く。
最後にはひりついて痛い喉の奥、少女の奥の暗い淵へと、伸びていた。
それは、胸の奥の痛痒い傷の、じくじくとした化膿から伸びていた。
それは、腹の底の女の臓器の、ひどく腫れぼったい肉の隙間から伸びていた。
伸びて、撚られて、絡まり合って、頭の隙間を埋めていた。
細く細く力なく、静かに息を吐き出してできたはずの僅かな空白が、伸びた糸に埋め尽くされて、
いつまでたっても、いつまで待っても、軽くならない。
そのことをぼんやりと感じて、綾は、泣こうとした。
時間は自分を癒やさない。
苦しみはなくならない。
体の重さは、もうずっとこのままで、それはとても辛いことのはずで、だから泣こうとして、
涙も出ないことに、気づいた。
-
どうしてだろう、と思う。
思って、考えようとして、肩が、重い。
浮かびかけた言葉は重さに負けて沈んでいって、ぼろぼろと崩れて細かな砂になっていく。
溜まった砂を、灰色の糸が掠めてさらう。
言葉にならなかったそれを、何かを考えようと試みた残滓を絡ませて、糸は伸びる。
伸びて綾の口から、ゆらゆらと、ゆらゆらとゆらゆらと垂れ落ちる。
灰色の筋は地べたに座り込んだ綾の膝にとぐろを巻いて次第にその厚みを増し、
膝を覆い腿を隠して腰までを埋め、その頃にはもう灰色はすっかり枯れ草の海を塗り替えて、
北原綾は、曇天を映した水面に浸るように、あるいは砂泥の沼に引きずり込まれるように、
その半身を喪っていく。
灰色に埋まっていく自分を、灰色に染まっていく自分を、綾はただ眺めている。
次第に色の削げ落ちていく身体は、眠れぬ夜の暗い天井のように無機質で、無意味で、遠かった。
「―――-……、」
何かを声に出そうとして、喉が痛くて、ただ乾いた息だけが漏れた。
何を言おうとしたのかも、わからなかった。
たぶん、これが最後だと、そう思いながら、何ひとつも、思い浮かばなかった。
遺したい言葉はなく、遺したい人もいなかった。
恨み言は、とうに言い尽くしていた。
礼もなく、情もなく。
少女の狭い世界は、閉じようとしていた。
だから。
「――――何、ボケっとしてんだよ、アヤ」
だからそれは、福音だった。
-
「―――!」
弾かれたように、振り向いた。
そこに、眼差しがあった。
しなやかな、獣の眼光。
口の端を上げた、皮肉げな笑み。
ほとんど白に近い色の、短い髪。
「ぁ……、ぁあ……」
鬼島陽湖が、そこにいた。
反射的に手を伸ばそうとして、
「……!」
火に触れたように、引っ込める。
陽湖の身体は、赤かった。
赤く染まって、血に濡れて、綾は思わず身を引いて、へたり込んだまま後ずさる。
ガチャリと、膝の上から何かが落ちた。
黒光りする、拳銃だった。
陽湖を血に染めた、凶器。
「う、ぁ……」
歯の根が合わない。
幾つもの衝動が重なりあって、目の前にあるひとつひとつの意味がつながらない。
「……」
全身を赤く染めた陽湖が、ずいと身を乗り出す。
顔を背けようとする綾の顎を乱暴に掴み、無理矢理に正面を向かせて目を合わせ、
犯した罪を責めるように、
「寝ぼけてんのか、アヤ?」
優しく、笑んだ。
ぞわりと粟立った背筋に汗が流れ、その冷たい感触に、綾はほんの僅か、我に返る。
顎に食い込んだ指は細く、冷たく、しかしそこには確かな感触が、あった。
-
「ぃ、いき……て」
震える喉から、声が出た。
ようやくに漏れた声は、言葉だ。
それは伝達の手段で、その先には、相手がいた。
北原綾の目が、相手を見た。
眼鏡を落としたままの視界はぼんやりとぼやけて、しかしそこには確かに、人がいた。
「ヨー……コ」
「ああ」
頷く陽湖が、綾の顎から手を離す。
細く長い指が、頬に触れ、撫でた。
そうされているだけで、綾の見ている世界に、熱と色とが戻ってくるようだった。
白い指。鮮やかなオレンジ色に塗られた爪。
透き通るような肌。ハイブリーチで微かに金色だけが残ったような髪。
琥珀色がかった瞳。そこだけが黒い、自己主張の強い眉。
身体を覆う赤。重く、暗い、赤。
「……っ!」
途端、綾の動悸が激しくなる。
赤は、血の色。まるで花の咲くように、陽湖の胸に広がっていく色。
「落ち着きなよ」
かたかたと震えだした綾を宥めるように、陽湖の手が伸びる。
まるで手入れのされていない綾の黒髪を梳くように、ゆっくりと撫でながら、
「お前に撃たれたくらいで死なないよ、あたしは」
囁き、抱き寄せる。
されるがまま、胸元近くに頭を預けた綾の目に、赤が映る。
それはしかし、鮮血の朱でも、あるいは乾きゆく血の褐色でもなく、
「コート……?」
「そう」
そこには鉄の匂いも、腥さもない。
いつの間にか鬼島陽湖の身体を覆っていたのは、一着のロングコートだった。
深いワインレッドの、膝までを隠すような薄手のコートをいつ羽織ったのか、
あるいはいつから纏っていたのか、そんな疑念が綾の脳裏に浮かぶことはなかった。
「そう……そう、なんだ……。そっか……」
ただ一念、罪が罪でなくなったという、途方もない安堵だけが綾を満たしていた。
強張っていた頬が、緩んでいく。
そんな綾を間近で覗きこむようにしながら、陽湖が笑う。
-
「ああ。だってのにお前、ベソベソ泣き喚いてみっともねえ」
「それは……こわ、怖くて……」
「見てな」
言って陽湖が手を伸ばし、何かを拾う。
綾の落とした拳銃だった。
「……っ!?」
凍りつく綾をよそに、陽湖は慣れた手つきで銃身と、そこに巻かれたテープについた
泥と砂とを落としていく。
口元の笑みはどこまでも軽く、指の動きは淀みなく、綾の思考が追いついた時にはもう、
陽湖はすっかり作業を終えていた。
「なに……を」
「大したことじゃないよ。こうするだけ」
言って、陽湖は手にした拳銃を顔の前に翳すと、冷たい鉄の銃身にそっと口づけをして、
それからほんの一瞬だけ綾を真正面から見つめ、射竦められたように固まった綾の眼前で、
銃口を白い喉元に当てるや、引き金を引いた。
「――――」
血飛沫が、咲いた。
言葉を失い、指先ひとつも動かせずに綾が見たのは、重苦しい曇天の灰色に、
真紅の大輪が舞う、そのひどく凄惨なコントラストで、直後、耳の奥の痛みに
至近に轟音が響いたことに気づいて、それから大事な何かを喪った陽湖の身体が
ゆっくりと傾ぎ、傾いで、倒れずに、止まった。
-
「大したこと、ないんだよ」
琥珀色がかった瞳が、綾を見下ろしていた。
傷は、どこにもなかった。
陽湖の口が、言葉を紡ぐ。
「ヒトはさ、もう、銃で撃ったくらいじゃ死なないんだ。
あたしたちは、そんなにヤワくできてない」
言葉の意味は、よく理解できなかった。
ただ、薄桃色の唇と白い歯が見え、その奥の赤い舌が見えて、
綺麗だと、それだけを綾は思った。
「だから、ほら」
屈んだ陽湖が、その手にまた何かを拾って、綾に見せた。
汚れた黒縁の、小さな眼鏡だった。
陽湖の指が、太いフレームをなぞって、こびりついた血と泥とを、こそげ落としていく。
目を細め、何度も優しく、丁寧に。
やがてひとつ頷くと、すっかり元の通りに戻った眼鏡を、そっと綾の方に差し出す。
「……」
綾はそっと目を閉じて、少しだけ顎を上げ、半歩だけ、陽湖に近づく。
そうしようと思った通りに、身体が動いていた。
陽湖の指が微かに頬を撫でる、そのくすぐったさにほんの僅か身じろぎをして、
弦がこめかみをさすり、ゆっくりと耳に乗せられる、その感触に、身を委ねた。
-
「――――」
目を、開ける。
陽湖の眼差しが、先ほどよりもずっと近くに、ずっと鮮やかに、そこにあった。
「お前は、悪くない」
陽湖の声が、耳の中に響く。
「お前、何ンも悪いコト、してねえんだよ。アヤ」
響いて、喉に染みていく。
肺に刺さっていた細かい棘が、どこかに溶けて消えていく。
腹の底に溜まっていた腫れぼったさは、今や心地よい熱だった。
手を引かれ、立ち上がる。
あれほど重かった身体は、いつの間にか軛から解き放たれていた。
灰色の糸束は、もうどこにもない。
「ありがと……ヨーコ」
崩れた石塊が墓標のように点在する、枯れ草の海の中。
北原綾は、ようやくに、笑った。
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