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仏教とキリスト教

1NONAME:2008/05/10(土) 19:57:41
皆様。仏教とキリスト教は 相容れません。水と油です。

まずは  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4145/1199511793/87-93  の続きの議論です。

521NONAME:2010/05/13(木) 13:55:11
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1267878605/536-  にて、馬鹿が何か言っています。

>「信じる事が目的でない?」 意味不明ですね。
んじゃ馬鹿でも分かるように書こう。 信じる行為に価値が無い。分かったかな?w

>「仏教を信じる事なしに、どうして仏教的自己鍛錬などしようという気になるのですか?」
自己鍛錬ではない。 自己精練である。間違えるな。 それと、仏教を信じることと、仏教の目的は別次元の話だ。 国語を学べ。

仏道を歩みたければそこに信仰の要素は求められるが、仏道は信仰を目的地にしていない。

>「現実の仏教には、信仰を強要する宗派など、幾らでもある訳ですが?」
どこにある。 どうせ似非仏教だろう。間違えるなよ。馬鹿だな。

>「イエス」も「神も奇跡も説かなかった」というのが、今の聖書学の常識のようですが?
そりゃあ結構なことだな。 嘘はいけませんからね。

>話になりません」 他の箇所にも、回答する気にもなれない。
んじゃ背走していなさい。

>仏教が所詮は、「信じる」宗教であり(当たり前だが、科学以外の一切の思想は、「前提」を証明出来ない為に、当然、そうなるのだが)、
>客観的な批判を受け付けないという事を証明してしまっていますね』(笑)
前提/結果 は、釈迦の言ったとおりになっているぞ。 それは何故かと言えば、それが真理だからだろう。
オマエが病院に居るのも、因果があるからそうなっている。 その因からオマエは逃げているから、回復しない。 回復しないから
哀しい。

コチラにはそれは関係無いが、オマエにとっては、困ります。困るからと言って、誤魔化してはいけない。

522NONAME:2010/05/16(日) 17:50:45
科学的共産主義ソビエトの正しさ

迷信の基督教と仏教の間違え加減

523NONAME:2010/05/16(日) 17:51:43
宗教はアヘン

524NONAME:2010/05/22(土) 18:47:26

仏教は、輪廻転生と輪廻解脱・寂静涅槃

キリスト教は、最後の審判と新しい天地

525NONAME:2010/06/02(水) 10:54:06

仏教は外道とサゲズみ

キリスト教は異端とノノシる

526NONAME:2010/06/02(水) 23:48:18
>仏教は外道とサゲズみ

はい間違いですね。  外道というのは仏教で無い道という意味です。別に蔑んでません。

527NONAME:2010/06/03(木) 16:06:57
では外道でよいのですか?

528NONAME:2010/06/03(木) 23:45:28
外道を進みたければ進むが良い。 しかし、それは涅槃への道では無い。

532NONAME:2011/12/29(木) 00:52:11
※ 信仰宗教の否定

>『苦の除去』が輪廻から解脱することが、死後、永遠の命を得る方法であると説いているのです。
「輪廻」というのは、当時のインド支配階級・バラモンの 支配ツールです。

現世においてどのように生きるかが次の世にどのように生まれるかを決定するという考え方に従えば、現世にどのように生まれてくるかは過去世においてどのように生きたかによることになります。そうすると、人がバラモンであるかどうかは「生まれによる」ことになります。釈迦はまさにことのことを否定しました。人がバラモンであるかどうかは「生まれによるのではなく、行為による」と主張しました。(スッタニパータ 650)

http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism47.html

紀元前13世紀頃、
西から移動して来たコーカソイドのアーリア人が原住民族のドラヴィダ人を支配するためにカーストを作り出したとされる。
つまり、奴隷が、何故自分たちはこんな扱いを受ける?と疑問を持った時、前世の行いが悪かったからだと、
黙って働けば来世は少し良くなるだろうと、一生をこき使うために作り出した妄想概念。
それに釈迦は反骨を示し、
「何を馬鹿げたことを。善を成した者が善き生へと生まれ変わるのだ さらにはその、輪廻という名の迷妄からも解き放たれるだろう」
これが、釈迦の信仰(迷妄)からの解脱です。 釈迦は、「信仰を捨てよ」と説いています。

「苦しみを成立させている原因を壊滅することによってひとは苦しみから解放されるという縁起の思想」の観点に立てば、なぜ、ブッダが「信仰を捨てよ」と説いたかがよりよくわかります。信仰宗教的な世界では、苦しみから解放されるために、ひとびとは苦しみの原因や条件を分析解明することなく、神頼みの祈祷や願掛けや犠牲の儀式、あるいは呪文(マントラ)や呪術や苦行や洗浴の儀式など、すべて神秘的な信仰力に依存していましたが、縁起の思想はそれら因果の筋道の見えないすべてのあやしげな方法を否定するからです。縁起思想の実践論である「八正道」に信仰や儀式や呪術が含まれていないのはまさにそのゆえです。人間苦が解決できないのは、神秘的力に対する信仰(祈祷や供犠)が足りないからではなく、苦しみの原因に対する無知(無明)ゆえである、というのがブッダの縁起思想でした。ブッダはこうしていわゆる「信仰宗教というものを否定」しました。

参考: http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_3.html

533NONAME:2011/12/29(木) 01:35:48
「日本の名僧 法華の行者 日蓮」(佐々木馨編 吉川弘文館)や「日蓮がわかる本」などによると、日蓮が法華経の中で、特に注目し、法華経を最高の経典と信じる根拠としたのが、「方便品(ほうべんぽん)第二」と「如来寿量品(にょらいじゅりょうぽん)第十六」。「方便品(第二」では、声聞(仏の音声を直接聞いた人)・縁覚(無仏の世に出て十二因縁などの法によって修行する人)も含め、すべての人々が救済され、成仏できるとい説かれている。自己の悟りのみを目指す声聞と縁覚は、法華経以前の大乗仏教のお経では、成仏できないとされてきた。

▽お題目を唱えれば成仏できる
「日蓮宗」の大きな特徴は、信仰の在り方として唱題(「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えること)を提示していることだ。唱題によって、すべての人間が成仏できるとした。「『妙法蓮華経』は、単なる経典の名前ではなく、お釈迦さまの教えが最終的に帰結した大法であり、『妙法蓮華経』の妙法五字の中にこそ、お釈迦さまの功徳のすべてが含まれています。したがって『南無妙法蓮華経』というお題目を唱え『妙法蓮華経』に帰依することによって、すべての人々の『即身成仏』が約束されるのです」(身延山久遠寺HP より http://www.kuonji.jp/10_engi/10_00201.htm

http://www.kitakama-yusui.net/tokusyu/zen-6.html

534NONAME:2011/12/29(木) 02:27:41
日本の仏教ではあたりまえとなっている先祖供養というのはどこに位置付けされるのでしょうか?

先祖供養は中国や日本の土着宗教が、外来宗教の仏教に取り込まれて生き続けている古い習慣です。仏陀の中心的な教えとはまったく関係ありません。
日本における読経もずいぶんおかしなものです。お経は仏陀の教えを述べ伝えたもので、それは、他でもなく、仏陀の教えを学ぶためのものですが、それを、日本語ではなく中国語で書かれた経典を読み、ただ有り難がるだけというのは、どう考えてもおかしなものです。中には経典(「妙法蓮華経」)のタイトルを、口で沢山唱えればよい、などという目茶苦茶な教えも日本にはあります。呪文を唱えたり、祈りを捧げて、何らかの利益を得ようとすることは仏陀によってはっきり否定されています。その教えを実践することだけが、仏教だと思います。

仏教が本来生きている生身の人間の生きる知恵としてその存在価値があるということを、ほとんどの日本人が理解していない、という点がそのもっとも由々しき問題でしょう。ただ抹香臭いもの、意味の分からない難しいお経をありがたがるものという仏教に対する観念が、そういう理解を妨げていると言えるでしょう。
仏教は死者を弔うためにあるものではありません。むしろ、仏教はそのようなことにすこぶる消極的です。そう書くと、怪訝な顔をされる方も多いと思いますが、その怪訝顔こそ皆さんが仏教を正しく理解していない確たる証拠です。 (スリランカ仏教、アルボムッレ・スマナサーラ長老、『恐れることは何もない』、泉書房、20〜21頁)

http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud088.html

536NONAME:2012/01/09(月) 05:35:38
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6

この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。これについて釈迦は、

「比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。……自分はすでに八十歳の高齢となり、自分の肉体は、あたかも古い車がガタガタとなってあちこちを草紐で縛り、やっと保たれているようなものである。だから、阿難よ、汝らは、ただみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなくして、修行せんとするものこそ、わが比丘たちの中において最高処にあるものである」

と説法したとされる。これが「自帰依自灯明、法帰依法灯明」の教えである。

537NONAME:2012/01/09(月) 05:40:27
十大弟子 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A4%A7%E5%BC%9F%E5%AD%90

1.舎利弗(しゃりほつ)
パーリ語でサーリプッタ (saariputta、सारिपुत्त)。舎利子とも書く。智慧第一。
『般若心経』では仏の説法の相手として登場。

2.摩訶目犍連(まかもっけんれん)
パーリ語でマハーモッガラーナ (mahaamoggallaana、महामोग्गळान)。一般に目連と呼ばれる、神通第一。
「舎利弗とともに懐疑論者サンジャヤ・ベーラッティプッタの弟子であった」が、
ともに仏弟子となった。中国仏教では目連が餓鬼道に落ちた母を救うために行った供養が『盂蘭盆会』(うらぼんえ)の起源だとしている。

3.摩訶迦葉(まかかしょう)
パーリ語でマハーカッサパ(Mahaakassapa、महाकस्सप)。大迦葉とも呼ばれる、頭陀(ずだ) 第一。
釈迦の死後その教団を統率し、500 人の仲間とともに釈迦の教法を編集し(第一結集)、付法蔵 (教えの奥義を直伝すること) の第一祖となった。

4.須菩提(しゅぼだい)
サンスクリット語でスブーティ(Subhuuti、सुभूति)。解空第一。
空を説く大乗経典にしばしば登場する。西遊記では、なぜか孫悟空の師匠として登場している。

5.富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)
サンスクリット語でプールナマイトラーヤニープトラ(puurNamaitraayaniiputra、पूर्णमैत्रायनीपुत्र)。
略称として「富楼那」。他の弟子より説法が優れていた。説法第一。

6.摩訶迦旃延(まかかせんねん)
パーリ語でマハーカッチャーナ(mahaakaccaana、महाकच्चान)。論議第一。 辺地では5人の師しかいなくても授戒する許可を仏から得た。

7.阿那律(あなりつ)
サンスクリット語でアニルッダ(aniruddha、अनिरुद्ध)。天眼第一。
釈迦の従弟で阿難とともに出家した。仏の前で居眠りして叱責をうけ、「眠らぬ誓いをたて、視力を失ったがそのため」かえって真理を見る眼をえた。

8.優波離(うぱり)
サンスクリット語でウパーリ(upaali、उपालि)。持律第一。
もと理髪師で、階級制度を否定する釈迦により、出家した順序にしたがって、貴族出身の比丘の兄弟子とされた。
第一結集においては、彼の記憶に基づいて戒律が編纂された。

9.羅睺羅(らごら)
サンスクリット語でラーフラ(raahula、राहुल)。羅云とも書かれる。密行第一。
釈迦の息子。釈迦の帰郷に際し出家して最初の沙弥(少年僧) となる。そこから、日本では寺院の子弟のことを仏教用語で羅子(らご)と言う。

538NONAME:2012/01/09(月) 05:58:12
10.阿難(あなん)
サンスクリット語でアーナンダ(aananda、आनन्द)。多聞第一。
釈迦の従弟。阿難陀とも書く。nandaは歓喜という意味がある。出家して以来、「釈迦が死ぬまで25年間、釈迦の世話」をした。
第一結集のとき、彼の記憶に基づいて経が編纂された。120歳まで生きたという。

ブッダ (漫画)では、ダイバダッタの異父弟としているが、仏典では兄弟、または従兄弟と伝えられている(ただし仏典によって差異があり一致しない)。
また本作中では、元は名を馳せた大泥棒の殺人鬼であるが、実際はクシャトリア出身である。ブッダに会って改心した。
出家後、過去の行いの報いとして、受けた迫害に耐え切る。これはアングリマーラのエピソードをアナンダに付加したもの。
ただし、アングリマーラ自身はまた別にアヒンサーとして登場する。後にはブッダの世話役となる。ブッダが最も頼った人物。

11.アングリマーラ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9
ある日、師匠が王の招きにより留守だったが、師の妻がアヒンサに邪に恋慕し誘惑した。
しかしアヒンサはこれに応じず断ると、その妻は自らの衣を破り裂き、悲相を装い師の帰りを待って「アヒンサに乱暴された」と偽って訴えた。
之を聞いた師は怒り、アヒンサに(一説には術をかけたともいわれるが)、
剣を渡して「明日より100人(あるいは1000人)の人々を殺してその指を切り取って、鬘(首飾り)にすれば、お前の修行は完成する」と命じた。
彼は悩んだ末に、街に出て師の命令どおり人々を殺してその指を切り取っていった。これにより彼はアングリマーラ(指鬘)と呼ばれ恐れられた。

人々はアングリマーラを恐れ、プラセーナジット(波斯匿)王に直訴した。
また釈迦仏もこの話を托鉢から帰ってきた比丘からすでに聞いて、彼と街の人々を救わんとして出かけたという。
「アヒンサはアングリマーラと呼ばれる」ようになると、次々と人びとを殺し指を取っていき、ついにあと一人で修行が終わるところまできていた。
そこへアヒンサの母親が彼の帰りが遅いのを心配して街へ出て行ったところ、アングリマーラとなった彼にばったり出会ってしまった。
彼は母親を殺そうとするが、そこへ仏が駆けつけ彼を諭した。そして彼を祇園精舎に連れ帰り、彼はようやく仏弟子となった。
彼を征伐しようとしていたバーセナディ王は祇園精舎に立ち寄り、釈迦仏から事の次第を聞き引き戻ったという。

12.ウルヴェーラ・カッサパ  (ブッダ (漫画)
ブッダの弟子。漢訳仏典では優楼頻羅・迦葉(うるびんら・かしょう)。
元は火を使う事火外道で、1000人の弟子を持つ仙人だったが、ブッダの教えで改心。
ナディー・カッサパとガヤー・カッサパの弟2人も共に出家。カッサパ兄弟の弟子入りにより仏教団は一気に1000人を超す大教団になる。
ちなみに、マハーカッサパ(漢訳:摩訶迦葉)とは別人。
彼については、手塚があとがきで、登場させられなかったことを悔やむコメントを残している。

13.アッサジ 阿説示  (ブッダ (漫画)
シッダルタの修行時代の仲間。漢訳仏典では阿説示と表記。
熱病で生死の境をさまよった際に予知能力を持つようになり、ビンビサーラ王、自分の命日を予言。最期は、自分の体を狼に食べさせた。
死後、精霊となってアナンダを守護し、サーリプッタとモッガラーナに引き会わせる。なおアッサジの本作上の設定は仏典とはかなり異なる(後述)。

アッサジの設定は仏典ではかなり異なる。
アッサジはスッドダーナ王の要請でシッダルタの修行に同行した5人の修行者(本作上でも登場する、五比丘)の一人。
本作上ではアナンダがサーリプッタとモッガラーナを導いたという設定だが、史実に基づけばアッサジが仏教に改宗させている。
また本作ではアッサジがマガダ国のビンビサーラに、王子が成長して殺されるという予言をしたという設定になっているが、
仏典では単なる占い師とされる。

彼は威儀端正をもって称されたが、ある時、王舎城(ラージャガハ)で托鉢していたところ、
その姿や態度が理に叶っているのを見て感じとった舎利弗(シャーリー・プッタ)が、阿説示の後を追い
「あなたの師はどんな人でどんな教えを説いているか?」と問うた。アッサジは仏とその教えの一端を語ると舎利弗はすぐに仏弟子となったという。
その為舎利弗は阿説示に死ぬまで恩義を感じ、夜に寝る時も彼がいる方向には足を向けて寝る事がなかったとも伝えられている。

539NONAME:2012/01/09(月) 06:02:41
お釈迦さまのお弟子さんに、チューダパンタカという方がいました。漢訳仏典では周利槃特(しゅりはんとく)と呼ばれている方です。 この方はひじょうに物忘れがひどく、自分の正式の名前(たいへん長かったようです)すら覚えることができなかったと言います。

この時代、お釈迦さまの弟子たちは、お釈迦さまの教えを、ガ−タ−という詩のかたちにして暗記します。一日に五つも六つも詩を暗記できる者もいれば、一日に、ひとつしか暗記できない者もいるといった具合に、みなそれぞれ自分の分に応じて修行をしていたわけです。
 
お釈迦さまはチューダパンタカに「三業に悪をつくらず、諸々の有情をいためず、正念に空を観ずれば、無益の苦しみはまぬがるべし」という詩を教えられました。「悪いことを思ったり言ったりしないで、諸々の生命を損なわないで、どんなことにも執われなければ、つまらない苦しみなどどこかにいってしまうよ」という意味の詩でありますが、チューダパンタカにはこの詩がなんとしても覚えられないのです。

兄のマカーパンタカは秀才の誉れが高く進境いちじるしいものがありましたが、弟のチューダパンタカは、ただの一句すら覚えることができません。何度も繰り返し教えてもらうのですが、最初に戻ると、もう後の句を忘れてしまう、後の句を覚えると最初の句を忘れてしまう、といった調子で、いっこうに先に進みません。 そんな状態でしたから、お兄さんのマカ−パンタカはとうとう面倒を見切れなくなって、チュ−ダパンタカに、「もうおまえは還俗しろ。仏教教団にいても、おまえは悟りなど開けないだろう」と言って、教団から追い出そうとします。 しかし、チュ−ダパンタカは、どうしても教団を去り難く、ひとり祇園精舎の門の前でしょんぼりとたたずんでいました。

そこへお釈迦さまが来られて、「チューダパンタカよ、どうしたんだね」と尋ねられました。

そこで、チューダパンタカは、「兄に、おまえはもう、仏教教団にいても見込みがないから、田舎へ帰れと言われま した」 と答えると、お釈迦さまは、「チューダパンタカよ、わたしについておいで」 と、チューダパンタカを連れていき、これで「塵を払い、垢(あか)を除かん」といって掃除をしなさいとほうきを与えました。チューダパンタカはお釈迦さまに見守られ「塵を払い、垢(あか)を除かん」と念じつつ掃除を続けついに佛意を体得できたのです。お釈迦さまに呈したチューダパンタカの悟りの言葉は「除とはこれ慧を謂い、垢とはこれ結をいう」。チューダパンタカは「自己をあざむかず人をあざむかず、ただまごころ、誠実一片で煩悩の塵を払った」とその切に悟りが開けた −− と、このように伝えられています。

http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/advice/atamagawarui.htm

540NONAME:2012/01/09(月) 06:12:21
阿説示 アッサジ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%AA%AC%E7%A4%BA

釈迦が成道後に最初に説法した五比丘の一人。バラモン種と思われるが出身などは不明。
釈迦がいまだ太子で出家せんとした際、父王・浄飯王の懇請により、阿若・憍陳如(アニャ・カウンダンニャ)を上首とした五人で釈迦に随行した中の一人。釈迦は苦行林にて6年間苦行したが「これは本当の悟りを得る道ではない」と知りその場を去ったのをみて、彼らは「太子は苦行に耐えられず修行をやめた」と疑い、波羅奈(パラナシー)国の鹿野苑(ろくやおん)へ去った。後に釈迦が成道し鹿野苑へ向かい、阿説示らに初めて四諦の法などを説いた。

彼は威儀端正をもって称されたが、ある時、王舎城(ラージャガハ)で托鉢していたところ、その姿や態度が理に叶っているのを見て感じとった舎利弗(シャーリプトラ)が、阿説示の後を追い「あなたの師はどんな人でどんな教えを説いているか?」と問うた。アッサジは仏とその教えの一端[1]を語ると舎利弗はすぐに仏弟子となったという。その為舎利弗は阿説示に死ぬまで恩義を感じ、夜に寝る時も彼がいる方向には足を向けて寝る事がなかったとも伝えられている。

そのとき阿説示が舎利弗に語ったのが「縁起法頌」だとされる。『縁起法頌・・・諸法は因より生じる。それら諸法の因を如来は説いた。また、それら諸法の滅をも。大沙門はこのように説きたもう。(律蔵『大品』)』

541NONAME:2012/01/09(月) 06:31:20
阿難 アーナンダ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%80

彼は美男子ゆえに、女難を被ることが度々あったと言われるが、志操堅固にして身を護り修行を全うした。また智慧多くして諸経を持誦していたが、心を摂する点に欠け、定と慧が均等でなく、漏尽通を起くことができず、仏の入滅時には未だ有学の人で阿羅漢果を得ていなかったと言われる。

釈迦の養母・摩訶波闍波提(まか・はじゃはだい=マハー・プラジャパティー)たちが出家する際、釈迦が女人の出家をなかなか認めなかったので、阿難が釈迦仏を説得し、釈迦が女人の出家を認めるようになったことは特筆する点である。

出家後、釈迦が死ぬまで25年間常に近侍し、身の回りの世話も行っていた。そのため釈迦の弟子の中で教説を最も多く聞きよく記憶していたので「多聞第一」といわれ、第1回の経典結集には彼の参加が望まれたが、当時結集への参加資格であった阿羅漢果を未だ得ていなかったので、釈迦の後継者であった摩訶迦葉(まかかしょう)は、阿難の参加を認めなかった。そのため彼は熱誠を込めて瞑想修行を続け、あるときその疲れから寝具に倒れ込んだ拍子に忽然と悟り、ついに阿羅漢果に達したという。ときに経典結集当日の朝のことであったという。

こうして王舎城・七葉窟にて行われた第1回の経典結集に晴れて参加した阿難は、記憶に基づいて釈迦の教えを口述し、経典が編纂されたという。漢訳経典の冒頭の「如是我聞」という決り文句は、「我は仏陀からこのように聞いた」という意味であるが、この「我」とは多くがアーナンダであるとされる。

仏の入滅の前後には悲嘆慟哭したので、阿那律から制止されたといわれ、また経典の結集の際にも経典以外の戒律などは細部の点を覚えておらず、他の弟子衆や摩訶迦葉から「なぜ釈迦仏に細かい点を質問しなかったのか?」と責められたという話も伝わっている。

阿育王経巻7、阿育王伝巻4、法顕の仏国記、また玄奘の大唐西域記などによると、彼はマガダ国やヴェーサリー国の離車族(リッチャヴィ=ヴァッジ国)族の人々から厚く信頼されていたといい、彼は自分の死後に遺骨が争奪されることを憂い、ガンジス河の中洲において、マガダ国の阿闍世(アジャータサットゥ)王と離車族が相来した後に、舟中から虚空に上昇し、火光三昧に入って120歳にて没し、その遺骨をそれぞれ二分して両岸に落としたという伝説がある。

542NONAME:2012/01/09(月) 13:58:02
【真のバラモン】

◆釈尊のことば−法句経解説−(129)
(386)「静かに思い、塵垢(ちりけがれ)なく、おちついて、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人、−−かれはわれは〈バラモン〉と呼ぶ。」

◆釈尊のことば−法句経解説−(130)
(387)「太陽は昼に輝き、月は夜に照らし、武士は鎧を着てかがやき、バラモンは瞑想に専念してかがやく。・・・・・」
(388)「悪を取り除いたので〈バラモン〉(婆羅門)と呼ばれ、行いが静かにやすまっているので〈道の人〉(沙門)と呼ばれる。・・・・・」
(389)「バラモンを打つな。バラモンはかれ(=打つ人)にたいして怒りを放つな。・・・・・」

◆釈尊のことば−法句経解説−(131)
(390)「愛好するものから心を遠ざけるならば、このことはバラモンにとって少なからずすぐれたことである。・・・・・」
(391)「身にも、ことばにも、心にも、悪い事を為さず、三つのところについてつつしんでいる人、−かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ」

◆釈尊のことば−法句経解説−(132)
(393)「螺髪(らはつ)を結っているからバラモンなのではない。氏性によってバラモンなのでもない。生まれによってバラモンなのでもない。真実と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。」

◆釈尊のことば−法句経解説−(133)
(394)「愚者よ。螺髪(らはつ)を結うて何になるのだ。かもしかの皮をまとって何になるのだ。・・・・・」
(395)「糞掃衣(ふんぞうえ)をまとい、痩せて、血管があらわれ、ひとり林の中にあって瞑想する人、−かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。」

◆釈尊のことば−法句経解説−(134)
(396)「われは、(バラモン女の)胎から生まれ(バラモンの)母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは「〈きみよ〉といって呼びかける者」といわれる。・・・・・」

◆釈尊のことば−法句経解説−(135)
(397)「すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執着を超越して、とらわれることの無い人、−かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。」
(398)「紐と革帯と網とを。手綱ともども断ち切り、門を閉ざす閂(かんぬき)を滅ぼして、めざめた人、−かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。」

http://www.tvt.ne.jp/~hibikist/kokoro15.htm

(真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それゆえに、諸々の論争を超越している・・・。(906)

(中村元訳、『ブッダのことば スッタニパータ』、岩波文庫、197〜198頁)

http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html

バーラドヴァージャ「父母共に生まれがよく、血統の正しい者をバラモンと呼ぶ。」
それに対して、ヴァーセッタは、「人が戒律を守り、徳行を身に具えるならば、この人こそバラモンである。」と、反論します。
このようにして、この二人はお互いの持論を主張しあうのですが、なかなか結論が出ません。
そこで二人は仏陀に訊ねてみよう、と言う事になりました。
仏陀は言いました。
>われは(バラモン女の)胎から生まれ、(バラモン女の)母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。・・・・・無一物であって執着のない人、____彼をわたしくしは〈バラモン〉と呼ぶ。
すべての束縛を断ちきり、怖れることなく、執着を超越して、とらわれることのない人、____かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

『スッタニパータ』六二〇ー六二一

http://seijyaku.blog5.fc2.com/blog-entry-120.html

543NONAME:2012/03/14(水) 18:24:32
http://www.geocities.co.jp/technopolis/3138/suicide_buddhism.html

事例4:入滅直前の釈迦に料理を給仕したチュンダの自殺
上記の1〜3の事例は全て出家修行者(比丘)の自殺でしたが、在家の信者の自殺のケースを次に挙げます。これは釈迦本人から自殺の許しを得た上で釈迦の目前で自殺がなされたという注目すべき事例です。

---{
チュンダは(仏)に礼拝をしおわって、一隅に座りました。そして仏に申しあげていいます。「私は入滅したいと思います、私は入滅したいと思います(完全なニルヴァーナを得たいと思います、完全なニルヴァーナを得たいと思いま)。」
仏はこのチュンダに告げていいます。「それにふさわしい・ちょうどよい時期を知るべきである(「いまがちょうどふさわしいチャンスであるかどうか、よく考えた上で、随意に行動しなさい」の意。」
そこですぐに、チュンダは仏の前でその場で入滅しました(完全なニルヴァーナを得ました)。
---}『阿含経を読む』下、670ページ。三枝 充悳著 青土社刊

三枝氏はこの事例を
---{
現在の用語で申しますと、チュンダが自殺を計り、釈尊はそれを認め、チュンダは自殺を果たした、ということ
---}『阿含経を読む』下、663ページ。三枝 充悳著 青土社刊
だと述べています。

544NONAME:2012/03/15(木) 20:19:06
(1)ブッダの沈黙

しかし、仏教は、たとえば、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのではありませんでした。仏教の批判は、ウパニシャッド(やその他の宗教各派)の主張が依って立つ土台そのものに向けられた、もっと根本的なものだったからです。

最も古層に属する原始仏典のひとつ(スッタニパータ、4章と5章)には、ブッダの宗教観としてつぎのような洞察が残されています。

或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか? かれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。(903)
かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。(904)

もしも他人に非難されているがゆえに下劣であるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。(905)

(真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それゆえに、諸々の論争を超越している・・・。(906)

(中村元訳、『ブッダのことば スッタニパータ』、岩波文庫、197〜198頁)

ブッダが宗教に見たものはドグマへの執着であり、その愚かさです。そのために、ブッダは、ある特定の種類の(形而上学的)質問に対しては沈黙したと仏典は記しています。

http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html

545NONAME:2012/03/15(木) 20:22:40
人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか…、これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。

世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。
だからわたしは世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう……。
もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」(中略)

「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」

「師よ、そのようなことはありません。」

マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、
まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。

マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは説くと了解せよ。」
以上のことを世尊は語られた。尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。

(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集
『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473〜478頁) http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html

547NONAME:2012/05/13(日) 10:04:29
比丘たちよ、教え(法)というものは筏(いかだ)のようなものであることをなんじらに示そう。・・・
譬えば街道を歩いて行く人があって、途中で大水流を見たとしよう。
そしてこちらの岸は危険で恐ろしく、かなたの岸は安穏で恐ろしくないとしよう。
しかもこちらの岸からかなたの岸に行くのに渡舟もなく、また橋もないとしよう。
そのときその人は、草、木、枝、葉を集めて筏を組み、その筏に依って手足で努めて安全に彼方の岸に渡ったとしよう。
かれが渡り終わってかなたの岸に達したときに、次のように考えたとしよう。
すなわち
『この筏は実にわれを益することが多かった。われはこの筏に依って手足で努めてかなたの岸に渡り終えた。
さあ、わたくしはこの筏を頭に載せ、あるいは肩に担いで、欲するがままに進もう』と。なんじらはそれをどうおもうか?
そのひとがこのようにしたならば、その筏に対してなすべきことをしたのであろうか?

そうではありません、師よ。
・・・比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。
悪しきものならばなおさらのことである。

(マッジマ・ニカーヤ 22)

548NONAME:2012/05/13(日) 16:50:51
米カンザス州の中絶医射殺事件、犯人に終身刑
2010年 04月 2日 15:29 JST
http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-14645920100402

[カンザスシティー 1日 ロイター] 米カンザス州ウィチタで昨年5月、妊娠後期の中絶を行っていたジョージ・ティラー医師が射殺された事件で、裁判所は、殺人罪などに問われた中絶反対活動家のスコット・ローダー被告(52)に終身刑を言い渡した。
 この事件は、米国での中絶の是非をめぐる議論が一段と活発化するきっかけとなった。 

 ティラー氏は米国でも数少ない、妊娠後期の中絶を行う医師だった。ローダー被告は数カ月間ティラー氏を付け回した後、日曜礼拝に出席した同氏の顔を撃って殺害した。今年1月には第1級の殺人と加重暴行で有罪判決を受けていた。

 カンザス州セジュウィック郡地裁は、少なくとも50年間は仮釈放の可能性がない終身刑を言い渡した。

549インディアスのこと:2012/07/06(金) 02:52:42
 本:「インディアスの破壊についての簡潔な報告」は
 キリスト教徒とキリスト教聖職者たちが行なった史上
最悪の愚行(南北アメリカ大陸などの卑劣な殺戮)を記
した書であるが
・・・その49頁に・・・
 キリスト教徒等に、300人のインディオを分配されて、
 3か月のうちに、そのうちの270人が鉱山労働で死ん
でしまい、
 生き残ったのは30人に過ぎなかった。
 3か月か4か月の間に、約7000人以上の子供が
餓死した。 
 両親が鉱山へ連れ去られてしまったからである。
 また、
 私(キリスト教聖職者)は、
 そのほか数々の身の毛がよだつような出来事を目撃した。
 (この聖職者は何らインディオを助けようとしなかった悪漢)
 その後、インディオ達を狩り出しに行くことになった。
 結局、
 キューバ島を荒廃させ、全滅させてしまった。
 総督は、無慈悲で無分別で、
 (今さら、インディオたちが死んでしまった後、こんな
ことを言ったって、この聖職者は殺すがままにさせていた悪漢)
 彼の行った忌まわしい行為は、それまでのものをことご
とく凌いでいた
(他人に悪さを転嫁するな、誰もいなくなった荒れ地に
教会を建てただろう)。
 金も非常に豊かであった。
 それまでは、地上にそんなにも多くの金があろうとは
思いつかなかった。
 金の在所(ありか)を白状させ、
 数々の新しい虐待や拷問の方法を考え出した
 (止めろとも言わなかったキリスト教聖職者、今頃、
弁解したって死んでしまったではないか)。
 その聖なる使命をいつもないがしろにしていた。
 (おまえさん、キリスト教聖職者が聖ではないのだ)。
 全世界に行ってすべての人々に福音を述べ伝えよ。
 (福音じゃないよ、殺しに行っただけではないか、総
べて殺して)
 さもなくば、妻子ともども生命をも失なうことになる
であろう。
 盗賊と変わらない部下たちを先に派遣し、
 われらは神とローマ教皇、それに、この地の君主である
カスティーリャの国王についてお前たちに知らせにやって
きた・・・云々。
 さもなければ、われらが即刻、戦さを仕掛け、お前たちを
殺したり捕えたりすることになると心得よ。
 夜の明けそめる頃、大半が藁造りのインディオ達の家に
火を放った。
(キリスト教聖職者は止めもしない)、
 殺戮をほしいままにし、彼らに奴隷の焼印を押した。
 火勢が弱まるか、火が消えると、彼らは焼け落ちた家の
中にある金を探しに出かけた。
 官吏たちとて例外ではなかった。
 キリスト教の司教も、その御利益にあずかろうと側近の
者たちを派遣した。
(ほら見ろ、キリスト教聖職者も欲にまみれた悪漢だったのだ)。
 数人の無法者の総督が引き続きその地へ赴いた。
 生きのびたインディオ達を暴虐的な奴隷状態へ陥れ、
挙句の果てに殺害した。
 また、彼らは部下たちが同じように振る舞うのを認めて
いた。 (キリスト教聖職者も同罪)・馬鹿め。
(これらの行為はキリスト教の教義から来る行為です・
  ・・キリスト教はこの様な宗教なのです・・・)
参考URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009  
  URL: http://32983602.at.webry.info/

550NONAME:2012/07/07(土) 01:03:59
>3か月か4か月の間に、約7000人以上の子供が餓死した。  両親が鉱山へ連れ去られてしまったからである。

あの〜〜〜。 その子たちよりも、子を置いて連行され、生きて戻った親が居たとすればだ。
その人々の気持ちはどんなだっただろう。

分かりますか???キリスト凶徒。

>全世界に行ってすべての人々に福音を述べ伝えよ。 (福音じゃないよ、殺しに行っただけではないか、総べて殺して)

しょうもねえ福音だな。www 耳が腐って死んでしまうわそんなの聞いたら。wwwww

553NONAME:2012/12/11(火) 16:44:22
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/neo/n016.html

(5)釈迦とイエス  人類2000年の歴史でも否定されることのなかった釈迦・キリストの説かれた神理・・・ ?

インド宗教史・思想史における諸学派のブッダ批判はひとつもめずらしくありません。釈迦の思想はインドでは否定されました。また、イエスはごく初期の時代のごく少数のユダヤ人達を除いて、ユダヤ人達に「キリスト」(救世主たる王)として受け入れられることはありませんでした。イエスはユダヤ人達に否定されました。近代ヨーロッパでもニーチェはイエスを否定しました。このニーチェの思想は今でもヨーロッパで大きな影響力をもっています。日本では、キリスト教が伝えられて450年がたちましたが、日本でのクリスチャンの数は総人口の1%にもなりません。日本人もイエスの思想を否定したと言えるでしょう。
ブッダは神への信仰を否定しましたが、イエスにとっては神こそが救いをもたらすものでした。それゆえ、本質的なところで、ブッダの思想はイエスの思想を否定し、イエスの思想はブッダの思想を否定しています。イスラム教徒はブッダの思想もイエスの思想も受け入れていません。ヒンズー教徒はイスラムの思想もブッダの思想もイエスの思想も受け入れていません。ブッダもイエスも「人類2000年の歴史でも否定されることのなかった」などとは、とても言えないと思います。

554NONAME:2012/12/12(水) 01:33:50
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism30.html

(1)ブッダの沈黙
しかし、仏教は、たとえば、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのではありませんでした。仏教の批判は、ウパニシャッド(やその他の宗教各派)の主張が依って立つ土台そのものに向けられた、もっと根本的なものだったからです。

555NONAME:2012/12/12(水) 01:41:30
自灯明・法灯明
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/gensi2.html

ブッダは旅の途中でヴェーサーリー近辺のベールヴァ村で病に伏した。その時侍者アーナンダ(阿難、ブッダの従弟)は不安と期待に心が揺れた。アーナンダ(阿難)はブッダに近侍していたにもかかわらず「まだ悟りを得て」いなかった。「このままブッダが死去したら自分はどうしたらよいのか」という不安である。期待とは「ブッダが死ぬ前に何か秘密のすばらしい教えを自分だけにこっそり教えてくれるのではないか」という期待感であった。当時のインドでは死の直前に、秘密の教えを特別の弟子にこっそり教える師がいたためである。

このようなアーナンダの心を読んで、ブッダは次のように言う。「アーナンダよ、修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は存在しない。「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、あるいは「修行僧のなかまはわたくしを頼っている」とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか「修行僧のなかまはわたくしを頼っている」とか思うところがない。

向上につとめた人が一切の相を心にとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。

それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。

1.ブッダの教えには握拳(秘密の教え)はない。
2.ブッダには「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、あるいは「修行僧のなかまはわたくしを頼っている」という考えがない。
3.この世で自らを島とし自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
4.心を始め諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気を付けて、念じていて、貪欲と憂いを除くべきである。

の4つである。

1はブッダの教えには秘密の教えはないことを言っている。しかし大乗仏教では秘密の教えを強調し始める。後期大乗仏教である密教はその秘密の教えである。そこにはブッダが禁止した呪術やマントラが麗々しく取り入れられている。

2のブッダの言葉はブッダが無我の教えを完全に自分のものにしていたことを示している。普通新興宗教の教祖は「死ぬ前にその教団をいかにして発展させ、その教勢を保持するか」に腐心する。「後継者を指名したり、有力な弟子達に教団の維持発展について」言い残す。しかし、この経典を読む限り、ブッダには自分が創設した教団に対する我執や<我がもの>という我欲の思いがなかった。我執を去る、わがものという思いを捨てる<無我の思想>は仏教の核心である。教祖自身が完全に自分のものにしていたことが分かる。

3の「この世で自らを島とし自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」 という言葉は<自帰依>、<法帰依>の教えとして有名である。 <自帰依>、<法帰依>の教えはブッダの教えの核心をなすと言えるだろう。 ここで、ブッダは「他のものをよりどころとせずにあれ」と言っていることが注目される。

この言葉は「神や神々へのを信仰して生きる」ことも否定しているからである。ここには神や諸仏への信仰は何も説かれていない。これはブッダの教えがいかに時代を超えた合理的なものであったことを示している。

4でブッダは「心を始め諸々の事象について熱心に、よく気を付けて観察し、貪欲と憂いを除くべきだ。」と言っている。

客観的観察の姿勢は科学者(特に実験科学者)の姿勢である。ブッダは現代の科学者にも通じる合理的心性を持っていた人だと分かる。 キリスト教やイスラム教など他の高等宗教では自己への帰依は説かない。唯一神への絶対的な帰依を説く。 これと反対に、ブッダは神などの超越者に帰依することではなく自己と法(理法=真理)に帰依する道を説いているのだ。

マハー・パリニッバーナ経はブッダの最後の教えとして「法帰依」と「自帰依」を伝える経典として有名である。 「わたしは自己に帰依することをなしとげた。」という言葉は、 「自帰依」の教えをブッダ自身が実践し、なしとげたことを高らかに表明していることが分かる。

556NONAME:2012/12/12(水) 01:47:49
ブッダの教えは私たちが知っている仏教とかなり違います。
http://www.geocities.jp/kytyparis/kyty9.html

大乗仏教は釈迦(ブッダ)が説いた根本仏教ではありません。釈迦は、仏陀になるための修行法を説いたのであって、仏を神様のように信仰することを説いたのではありません。 またブッダは死後生の「霊魂や輪廻や仏性」については無記、つまり答えていません。なぜならブッダはあくまで現世における苦しみの克服をめざしたのであり、輪廻の主体が何であるかとか、自己の本性は有限なのか無限なのかといった観念的な議論や形而上学的な問題については、「我ナシ」の価値観ですから、測る物差しがないのです。したがってブッダは沈黙しました。(中村元・ブッダの人と思想P183)

来世や極楽浄土の存在については何も言っていない。それらは後世の人が創作したものです。「生まれ変わり」というものは、肉体と別個の何らかの主体、つまり「霊魂」を想定しています。しかし、ブッダは無常・生滅縁起・無我、永遠に変滅しない実体は一切存在しないと説いた。そうすると、一体輪廻する主体「霊魂」とは何か、となります。ブッダは当時の常識であるバラモン輪廻思想に対して、無記という消極的なものであったればこそ、自ら主張した「無我」という偉大な考えと矛盾なく整合性をもって、教えを人々に説き示すことができたのです。

ブッダは自分の正当性を誇張したり、信仰を強要したり、教祖的に大言壮語したりするような方ではなく、ただ「真理」という一条の光に向かって自ら進み、また弟子たちの自覚を促し、修行への熱意を奮起させるようなアプローチをされていた人でした。ブッダが説いたものは宗教ではなく、哲学でもなく、真理そのものでした。

「たとえ末端の修行僧でも、堕落から身を守れば、聖者の流れに入り、現世において、至高の智慧に到達できる」と説きました。他力ではなく自力を説いています。
「さあ、皆にもう一度思い出させよう。一切の事象は過ぎ去るものであることを。(自分を信じて、戒を守り)怠ることなく(無我と無所有で)修行に励みなさい」(自灯明・法灯明)これがブッダの最後の言葉でした。 

日本仏教 中国経由で輸入した日本の各宗祖師たちは、その大乗仏教を誤ってブッダの仏教であると信じました。日本の仏教では、戒律はまったくと言っていいほど重要視されていません。小乗仏教では無我と無所有が根本ですが、日本仏教では中観・中道と唯識・心が主流となっています。日本では仏法僧の三宝を信じて帰依することが戒です。三帰依という精神的な戒めです。戒よりも信心、つまり信が徹底すればおのずと戒が身に備わってくるであろうと期待するわけです。例えば、浄土真宗では戒律を認めていません。日蓮宗においても信者に戒を授けることはない。戒名ではなく法名となります。それ以外の宗派は戒名ですが、戒律は大乗戒というゆるゆるの戒律です。またブッダはお題目や念仏など祈りで苦の問題が解決しするとは言っていません。日本仏教は小乗仏教とは極めて大きな差があります。

557NONAME:2012/12/12(水) 01:53:24
―教師の握拳(にぎりこぶし)―
http://www1.ocn.ne.jp/~cdl65021/b5-jitoumyou.htm

お釈迦様はアーナンダ他の多くの修行僧たちとベールヴァ村にやってきました。ここでお釈迦様は恐ろしい病に罹って死ぬほどの激痛に見舞われました。しかし、お釈迦様は禅定に入ってその苦痛を耐え忍び、やがて病は静まりました。するとアーナンダはお釈迦様に近づき、「『尊師が修行僧たちについて何事か教えを述べられないあいだは、ニルヴァーナに入られることはないであろう』、という安心感がわたしには起こりました」と申しました(二十四)。 教師の握拳(にぎりこぶし)とは:それまでのバラモン教の僧侶たちは、教えを独り占めすることによりその地位の保全を図っていたことを指しています。

何事をするにも自分で判断できないという優柔不断な人というのがいます。あるいは子供のように智慧が発達していないので、どうしてよいか解らないということもあります。一般の大人でも進学、結婚、就職、リストラ、マイホームの建築など人生の節目では、自分ひとりではなかなか判断できないこともあります。このような場合、普通は周囲にいる信頼できそうな人に相談することになります。おそらく、自分だけで判断した場合よりはうまくいく確率は上がるでしょう。しかし、そんな場合でも結果がうまくいかないということはあります。そのとき、「あなたの話した通りにやったらこんなことになってしまった。どうしてくれるのか」という人がいます。これはとんだお門違いの話です。相談相手の話はアドバイスであり参考意見として受け止め、結論はあくまでも自分で出さなければいけません。そして、その結果は全て自分で責任を負わなければなりません。さて、自分で結論を出すといっても難しい問題の場合は困ってしまいます。そのときの判断の拠り所になるのが法です。法とは本当のこと、すなわち真理です。真理とは三法印や中道などのお釈迦様の教えということになります。
どうしたらよいか迷ったら法を拠り所として、自分で判断しなさい、そしてその責任は全部自分で受け止めなさいということですし、他の者の意見や原理、原則、主義、主張に惑わされてはいけません、ということです。

569NONAME:2013/05/20(月) 20:46:47
雪山童子
http://www1.clovernet.ne.jp/ponnpe/syaka3.html

はるか遠い昔、雪山にバラモンの若い修行僧がいた。人はその修行僧の事を雪山童子と呼んで敬っていた。帝釈天は雪山童子の修行の熱意を確かめようと、悪魔の姿に身を変えて雪山童子の前に立って「諸行(しょぎょう)無常(むじょう)、是生(ぜしょう)滅法(めっぽう)」と唱えた。

諸行無常とは一切の物事は常に移り変わり止む時が無いという意味であり、是生滅法とは万物はみな必ず亡びるという事である。悪魔の唱えた“諸行無常、是生滅法”の言葉を聞いた雪山童子はその深遠な言葉に驚いて、悪魔に「今の歌の後はありませんか。」と尋ねると、悪魔は「いやあと二句ある。」ともったいぶって答えた。雪山童子は是非その後の句を聞きたくて、是非教えてくれるように悪魔に頼んだ。しかし、悪魔は言った。

「この尊い教えはわしが一生かけて得た悟りだ。そのわしが今食べるものがなくて餓死しようとしている。もしお前をわしが食べる事が出来れば、お前の血と肉でわしは永遠にいき続ける事が出来よう。この後の歌を聞きたければお前の血と肉をわしに捧げるがよい。」

「本当に私の肉体を捧げれば、その後の歌を教えてもらえるのでしょうか。」悪魔は嬉しそうに言った。「勿論だ。」「解りました。私の肉体を貴方に捧げることを約束いたします。どうかその歌の続きをお聞かせ下さい。」

悪魔は嬉しそうに言った。「では教えてやろう。それは生滅(しょうめつ)滅己(めつい) 寂滅(じゃくめつ)為楽(いらく)という歌である。」生滅滅己とは生滅すなわち生き死になどの煩悩を自分の心から滅すれば、寂滅為楽、すなわち涅槃に入り、安らかになり悟りを開く事ができるという事である。

雪山童子はその言葉を聞いて歓喜した。「諸行無常、是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽」と何度も口ずさむと、この言葉を山中の木々の幹、石などに書き連ねるた。総て書き終わった雪山童子は悪魔に言った。「これで思い残す事はありません。後世の人はこの歌を読んできっと悟りを開くことが出来るでしょう。さあ、何時でも私を食べてください。」

その瞬間、悪魔は帝釈天の姿に戻った。「貴方は将来必ず仏になって、人々を救われるであろう。私は貴方の影になって貴方を守護しましょう。」と言うと、天に昇って行った。

「諸行無常、是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽」の歌を無常(むじょう)偈(げ)と呼ばれる仏教の根本原理である。 この世にあるすべての現象や事柄は、常に移り変わってやむときがない。この変移こそ、無常の真理である。変移にとらわれると苦悩も果てしなく続くが、とらわれる心をよく調(ととの)え、管理する事に努めるなら、身も心も安らかになって、まことに楽しいものである。

この無常(むじょう)偈(げ)は平安時代に日本でいろは歌として訳された。

色は匂へどちりぬるを   諸行無常
わが世誰ぞ常ならむ    是生滅法
有為の奥山今日越えて   生滅滅己
浅き夢みし酔ひもせず   寂滅為楽

これを現代語に訳すと 美しく咲いたよい匂いのする花も必ず散る。私たちの人生もまた常に移ろい変る。有為すなわち因縁により生じた様々な煩悩の心の山を今日越える事が出来た。もはや煩悩から解き放たれて、煩悩の酒に酔うこともないであろう。

雪山童子として、また色々な姿で釈迦はこの世に現れては、完全な悟りを得ることなく死んでいった。完全な悟りを得ると仏と一体となり、もはや輪廻転生から逃れる事が出来る。しかし、悟りが完全でない以上、仏になる事は出来ず如来、あるいは菩薩となり、再び輪廻転生してこの世に戻ってこなければならない。観音や菩薩も修行中の身であり、仏となるべく布施をして、人々を助けてくれると信じられていた。しかし、後世になると如来信仰、菩薩信仰が強くなり、如来はすでに真実を悟り仏となることが出来るが、人々を助けるためにあえて仏とならず、菩薩としてこの現世に戻り、人々を救う為に奇跡を起こすと考えられるようになる。

このように、釈迦が生まれる前の前世の釈迦を過去仏という。釈迦は何度もの過去仏を経て今、ゴーダマ・シッダールタとして生まれたのであった。そして、釈迦こそ雪山童子の生まれ変わりとして、必ずや悟りを開く事が出来るであろうとアシタ仙人は確信したのであった。

570NONAME:2013/05/31(金) 23:06:28


571NONAME:2013/06/02(日) 00:04:26
葬式仏教/檀家制度/ http://ameblo.jp/emeth-spriggan/entry-11258879467.html

釈迦は、弟子に死後の遺骸の処置を問われた際に、「僧侶は遺骸の供養等考えず真理の追求に専念すべきだ」、「供養は在家の信者がしてくれる」、と答えたとされています。

また振り返って――インドから中国へと伝播し、民衆へと教化が行われるうちに、漢民族の道教や儒教に由来する先祖供養の民間信仰と習合し、仏教は葬送儀礼も司る様になりました。 例えば位牌は、儒教の葬礼に用いられる神主(しんしゅ)が変化したものだと考えられています。
日本伝来後、仏教は豪族など上層階級の心を捉え、篤く信仰されました。平安時代の貴族の葬儀は仏教寺院で行われ、僧侶が念仏し、墓に卒塔婆を立てるなど、この時代には大きく仏教の影響下にあったと思われます。鎌倉時代には庶民層にも仏教が広まり、仏式の葬儀が行われる例が見られる様になりました。

大きな転機は、江戸時代にやってきます。少々前述しました「檀家制度」です。 これまでの民衆の葬式は、“葬式組”と呼ばれる村落共同体のグループが葬式を仕切り、棺や装具をつくったり炊き出しをしたりしていましたが、檀家制度以降、僧侶による葬式が一般化しました。

寛永12(1635)年頃、国民すべてを近隣の寺院に帰属させる寺請制度が施行されます。これは、国民全員に仏教徒となることを義務付けたもので、国教化政策と言っていいでしょう。(てらうけ。寺請証文を受けることを民衆に義務付け、キリシタンではないことを寺院に証明させる制度。必然的に民衆は、寺請をしてもらう寺院の檀家となったため、檀家制度や寺檀制度と同様に扱われて呼ばれますが、厳密には檀家制度と寺請制度は異なります。)(この年、参勤交代制度化。寺社奉行設置。)(慶長17(1612)年 キリスト教禁止令。)(寛永8(1631)年 新寺建立禁止令。) 檀家制度は、寺院が檀家の葬祭供養を独占的に執り行なうことを条件に結ばれた、寺と檀家の関係を言います。幕府としては、寺院に一定の信徒と収入を“保証”するものでした。 その目的において、邪宗門とされたキリスト教や不受不施派の発見や締め出しを狙った制度でしたが、宗門人別改帳など住民調査の一端も担いました。異教信徒に対し改宗を強制し、それに抗した一部の者は“隠れ”となる事を強いられました(キリシタンのレッテルを貼られる、または無宿人として社会権利の一切を否定されることに繋がりました)。

572NONAME:2013/06/21(金) 15:51:23
主イエスキリストは父なる神
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1370965511/l50

>>16 :どうしてそんなにキリスト教を攻撃するのですか?

中絶駄目という正論を盾にして「だからキリスト教は正しい」と言うキリスト教徒。 自分たちが裁かれる恐怖でマインドコントロール
されているからってその反動で非信者を裁こうとする意図見え見え www
そのために、罪も無い赤ちゃんを利用している。 中絶をネタにして威張ろうとするキリスト教徒。絶対に許さない。

>>21 :あなたが頑張れば、主はきっと救って下さるでしょう。

頑張ったら結果が出る それがなんで主?とかいう奴の功績なんでしょうか。出鱈目は言ってはいけません。
勝手な予想ならいいですが。
勝手な予想なら勝手な予想とあらかじめ言うべきでしょう。

>>24 :私もまだまだ修行が足りません。

ということは、あなたの発言には確実性が少ない、ってことを自覚してますね。自信が持てるまで頑張りましょう。

>>27 :キリストが憎いのですか?

キリストは知りません キリスト教とキリスト教徒がしょうもないし汚いので排除すべきだと思うのです。
キリスト教とキリスト教徒は 身から出た錆、自業自得なので、甘んじて批判を受け入れ懺悔しましょう。
そうすれば向上できるでしょう。

573NONAME:2013/06/21(金) 15:53:29
>>27 :仏教は憎む宗教なのですか? 憐れむのではないですか?

あなたは仏教を知っているのですか? 憐れむ???そんな教義が仏教のどこにあるのでしょうか。
仏教は真理を観じて苦を取り除くことを目的としていますから、悪いものを攻撃するのはありだと思いますよ。
てか、宗教関係無く、悪ければ攻撃されて当然だと思います。

アナタの質問に対し私は答えましたが、アナタはそれに対し質問返ししていますね。これはマトモな人のすることではありません。
駄目ですね。
あなたは間違っています。あなたは自らの欲望を制御できず、礼儀もありません。質問には答えず更なる質問をする
ようでは人間的に駄目です。

>>31 :キリストが悪を行えと仰ったでしょうか?

聖書には殺人指令があるそうですね。 ろくでもない書物ですね聖書は。汚らしい。
しかも殺人は時として正しい場合もあるかもしれないが、聖書の場合は正しい殺人であるとは思えません。
ので汚ならしいと思います。
それを読み肯定するイエスやキリスト教徒もまったくしょうがない。

>仏教徒が悪を行ったら、それは仏教のせいなのですか?

仏教には悪い教えが無いと思うから良いと思います。だから私は仏教徒なのです。当たり前でしょう。

>私はそれは宗教のせいとは言えないように思います。 その人の責任ではないでしょうか?

聖書には殺人指令があるそうですね。 それを奉じているのがキリスト教徒。そして産婦人科医を殺しているのです。
さらには、
中絶駄目という正論を盾にして「だからキリスト教は正しい」と言うキリスト教徒。 
そのために、罪も無い赤ちゃんを利用している。 中絶をネタにして自分らを正当化するキリスト教徒。絶対に許さない。

574NONAME:2013/06/21(金) 15:56:48
>>25 :主を知ったところまではいいのですが、まだ5合目です。

ということは、10合目まで行って、道を誤ったと知り、また別の道を歩むことも考えられますね それは仏道です。
宗教盲信者というのは、道を正さずただ盲信して生きます。 キリスト教徒はどちらでしょうか。

>>32 :私は自分が人間的に駄目であることを特に否定しません。

それはアナタの勝手ですから私には関係ありません。

>>34 :あなたはどうしてそんなにキリスト教を悪く言うのですか?

殺人を指示したり、最近になってやっと進化論を認めたり、しょうもないと思うからです。

>>35 :人間が悪いことを、あまり宗教のせいにするのはどうかと思いますけれど。

殺人を指示する、しかもその内容が悪いし汚いと思えるので、キリスト教が大嫌いだし、悪いものが悪いと言われるのは当然でしょう。

>>36 :宗教は人間に悪いことをしなさいとは言いません。

聖書には殺人指令がありますね。それもあなた方の認識では悪事ではないのでしょう。 あなた方とは相容れることは出来ません。

>もし、そういうことを言うものがあるとすれば、それは宗教ではないでしょう。

ですよね。その意味で、キリスト教は宗教とは思えません。

575NONAME:2013/06/21(金) 15:58:36
>>37 :33さんは、人間の過ちを宗教のせいにして、立ち往生してるのだろうなあ。

宗教が間違っていると思いますよ。キリスト教が。なんですかねこの殺人宗教は。駄目駄目ですよ。そのくせ綺麗ごとが書いてある。
まさに偽善。早く誤りに気付いて悔い改めて欲しいものです。

>>21 :あなたが頑張れば、主はきっと救って下さるでしょう。

頑張ったら結果が出る それがなんで主?とかいう奴の功績なんでしょうか。出鱈目は言ってはいけません。
勝手な予想ならいいですが。
勝手な予想なら勝手な予想とあらかじめ言うべきでしょう。

>浜田省吾さんの歌に、とらわれの貧しい心で♪というのがありますわな。

浜田省吾に興味ありません。 仏教は囚われのこころから解脱することを目的にするのでキリスト教とは真逆ですね。
キリスト教は主に従う?聖書に従う?か分かりませんが、仏道は真理と自己に従うので
この点も似ても似付きません。

576NONAME:2013/06/21(金) 16:14:42
>>43 :敵を愛し、あなたたちを呪う者を祝福

あと、右の頬を打たれたら左の頬を・・・でしたっけ? まず、悪質カルトまたは宗教は、美味しい話、綺麗な話、をよくしますね
たとえばオウム真理教の目的はご存知でしょうか。 世界救世です。

悪い組織は、いいことをいうのです。キリスト教はいいことを言いますか?一方で、殺人指令ありませんか?
キリスト教には予定説というのがあるそうですね。
ゆえに、キリスト教の神は 最大の悪人でも救済する。人間がそれを不公平というのは涜神行為である。らしいです。w

>>36 :宗教は人間に悪いことをしなさいとは言いません。

それはなんか可笑しいでしょう。神は人間より上なんでしょうから、神の判断に従うのは当然かもしれません。
無意味に殺されても〜神に召された〜というように。
だったら、我々がその殺人とかに対して、悪い悪くないと言うのは可笑しいでしょう。

聖書の殺人指令 「これは神の指示なので、いいことだ。だから殺す」これがキリスト教の正体です。
なんら矛盾はありません。

一方、そんなわけの分からない指示は仏教にはないし、その内容に納得できるので、私は仏教徒です。
キリスト教とキリスト教徒には感心しません。

577NONAME:2013/06/21(金) 18:46:08
>>47 :あなたは殺人指令云々と言いますが、キリストがそんなことを言っていますか?

聖書に書いてあります イエス?は、聖書を奉じているんですよね。だったら聖書に殺人指令あるなら
それをイエスは肯定しているんですよね。じゃ駄目でしょう。

>キリスト教というのはキリストの仰ることを信じて守るのがキリスト教です。

仏教とは真逆ですね 仏教は、釈迦に盲従ではなく、真理と己に従います。誰だかに盲信はありません。

>>48 :私が引用するものは、私がそうだと思うから引用しているので、私の考えでもあります。

それをそのままコピペじゃ進化しません 自分が食べて、それを消化したものを書かないと、
責任放棄になります。
責任を持ちましょう。 金魚の糞では駄目です。間違えるからコピペする、というならアナタは今後一切自分の言葉で書かない
のがベターです。

>旧約聖書は信用したくありませんね。なぜなら、イエスキリストは所々で旧約聖書を修正しているからです。
イエスは
新約聖書 ヨハネによる福音書5:39において 旧約聖書でさえも イエス・キリストを証明するものだと高らかに宣言しています。

>>49 :宗教が盲信を勧めるというのは感心しません。

キリスト教というのはキリストの仰ることを信じて守るのがキリスト教なのですから、それは盲信+盲従、つまり信仰でしょう。
たとえそれが殺人であっても、教祖を信じて実践する。それが宗教者です。
ちなみに、殺人だから悪いとは思いません。
殺人だから悪いと決め付けるのは、仏教徒ではありません。

578NONAME:2013/06/21(金) 23:01:08
マタイによる福音書(口語訳)
http://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#5:43
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

579NONAME:2013/06/21(金) 23:34:43
>旧約聖書は信用したくありませんね。なぜなら、イエスキリストは所々で旧約聖書を修正しているからです。
イエスは
新約聖書 ヨハネによる福音書5:39において 旧約聖書でさえも イエス・キリストを証明するものだと高らかに宣言しています。

580NONAME:2013/06/24(月) 23:44:51
宣戦布告の電報は開戦時刻前に大使館に到着したが、クリスチャンである担当官が教会のミサに行ってて留守だったために
米国政府への通知が遅れたのだそうだよ。真珠湾奇襲さえもキリスト教の神が原因。

582NONAME:2013/06/28(金) 13:31:53
無我の思想--- 第二章 ブッダの沈黙 ---
☆☆☆☆☆ 仏教 真理 誰でも 手に取って 誰にでも知覚できる そこにある
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html

ブッダの教えは、それを聞いた人々にとって、「眼あるものは見よ」というがごときだった。 ブッダは、「人知でははかりえない神秘的形而上学的な事柄」を権威的態度で「信じよ」と説いたのではない。

教法は世尊によりて善く説かれた。すなわち、この教法は、現に証せられるもの、時を隔てずして果報あるもの、来り見よというべきもの、よく涅槃に導くもの、知者がそれぞれに自ら知るべきものである。

(増谷文雄、『新しい仏教のこころ』、講談社、74頁)

ブッダの教えは、「現に証せられるもの」、つまり、現実の世界で実証できるものであり、「時を隔てずして果報あるもの」、つまり、未来の果報を約束するものではなく、「今ここでその結果が現れるもの」であり、また、「来り見よというべきもの」、つまり、ここに来て自分の目で確かめよ、と「眼前で示すがごとく、ハッキリと知ることのできるもの」であった。このようなブッダの教えに感動した人々の印象は、「神秘的形而上学的な問題に対するブッダの沈黙」という態度とまったく一致する。

583NONAME:2013/07/31(水) 20:37:02
>>482 :名無しで、聞かれても自らの信仰を明らかにしないで批判するのは

ブブ〜〜〜〜 ハズレです。
たとえば殺人犯がいたとするよね。でそいつがキリスト教を「殺人宗教だ〜」と言ったと。
その殺人犯が自らの素性を隠していたとしても。。。キリスト教が「殺人宗教である」ことには変化は無いわけ。
キリスト教は、殺人しなさいと教える宗教なの。

だからそれを、一般人とか殺人犯に言われても、どっちでもいいの。キリスト教は、殺人宗教なの。
分かった?www
これは仏教の考え方だよ。

>単なるキリスト教に対するネガティブ・キャンペーンですか?

ネガティブ・キャンペーンじゃね〜から。事実を暴露してるだけだから。
ネガティブ・キャンペーンじゃないのにネガティブ・キャンペーン って言うなよな。www

>たとえ2chでもフェアではありません。

おいおい w ここは2ちゃんだから名無しでいいんだよ 名無しが気に入らないなら規制すりゃいいだろ?
もしくは別所でやればいいんだ。
やれやれ。対抗できないとすぐこれだ 駄目だなあ嘘吐き殺人宗教は。。。w

>>436 :教会にも真理を知っている人はいません。

んじゃ教会無駄なんだなあ。w 
でもそもそもキリスト教って 真理ではなく妄想を説くから真理という言葉は使うべきじゃないね。w

>>483 :たぶん、日蓮正宗から破門されたカルト邪教の創価学会員だろうよ。

なんで 日蓮正宗および創価学会が仏教なんだよ。そういうのは、仏教じゃなくてトンデモ仏教だろ?
仏教徒のオレには、トンデモ仏教とかカルトは不要さ。www

>>454 :支離滅裂なアンチ・キリスト教キャンペーン。

どこが支離滅裂なのですか? 支離滅裂じゃないのに支離滅裂と言うなら。それは誹謗中傷ですよ。
さあどこが支離滅裂か言いなさい。w

http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1370965511/

584NONAME:2013/07/31(水) 20:52:47
>>615 :アスカが言うところの仏教国家日本も人のこと言えないぞ

なるほど火炙りとかね? しょうがないでしょうそれくらい。それしなかったら国を守れなかったろ?www

>>519 :カルト教団に批判されても説得力無し

またまた愚かなクリスチャン露呈。www 悪いもんは悪いんで、たとえ批判者が極悪人でもキリスト教の悪は消えね〜んだよ。
オレに軽く一刀両断されてんじゃね〜よカス。
たくこんな低レベルの奴がクリスチャンになるんだなあ。w

>>575 :仏教は日本文化に多大の功績を遺し、京都・奈良は世界の憧れの的です。
>その一方で、キリスト教の方はどうでしょうか?

その比較は無意味だね。 流行っているからって素晴らしいとは言い切れないんだから。
たしかどこかの馬鹿信者が言ってたな。
本物は理解され、受け入れられるんだ〜とか。www その割りに、たとえば仏教だ。
釈迦仏教より後世の出鱈目仏教が流行っているじゃないか。

出鱈目のほうが好まれるのかもしれないな。だって、巷にオマエらみたいな出鱈目野郎が多ければ、出鱈目宗教が流行るだろ?
www

http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1370965511/

585NONAME:2013/07/31(水) 23:48:18
あの〜 w アンタオレに対抗しちゃって大丈夫?w 
>>670 :キリスト教は一枚岩ではない

まそりゃそうですけどね どこの宗教にも宗派があって。
でも聖書は絶対じゃないんですか???旧約と新約とあって。たしか「聖書の殺人指令」って、旧約に書いてあるんじゃないの?
でクリスチャンって、
聖書+そのトップに従うのかな?それとも誰だかが作った組織+そのトップに従うのかな???

>直接の責任は各教会に帰属する。

つうことは、仮に聖書と組織の言うことが異なってたら組織に従うのかな?
やれやれ。どこまでも指示通り動く下僕か。

しかもその組織が聖書を利用して信者を騙し利用しても、その言い成りになる奴ら。こりゃオウム真理教やK科学や創価と
同じシステムだな。同じ穴の狢同士仲良くしたら?www

>信徒はロボットではなく、自由意思の下行われた行為は教会は帰属しない

ロボットじゃなくて?神?だかの忠実な下僕なのね?
結局どっちよ。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

>>670

てことは、教会の指示なら教会の責任。信者の意思でなら信者の責任。ということかな?
あれ?聖書とかイエキリの責任はどこに行ったのか?
もしくはそれを信じた信者の責任は無いのかな?
なるほど。「宗教には必ず逃げ道が用意されている」そうだが、これこそが宗教の旨みである。www

聖書とかイエキリは悪くない。殺人指令していても悪くない。
そしてそれを信じた本人がなんか悪いことをしてもその本人の勝手な行動なので 聖書とかイエキリは悪くない。
あるいはそもそも殺人指令なんてしてないとか?w

凄いな。www で?あんたクリスチャンじゃないのね?その割りに言うことが
どこかの教会の経営者みたいだね 信者じゃなくて操る側ってこと?w

>>48 :私は間違えるので、出来ることなら自分勝手な想像はしたくないのです。

大丈夫です 
キリスト教を信じた本人がなんか悪いことをしてもその本人の勝手な行動なので「聖書とかイエキリは悪くない」
ということにできますから。www

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4145/1210417061/l50

586NONAME:2013/08/04(日) 01:08:08
>>615 :アスカが言うところの仏教国家日本も人のこと言えないぞ

なるほど火炙りとかね? しょうがないでしょうそれくらい。それしなかったら国を守れなかったろ?www

>>519 :カルト教団に批判されても説得力無し

またまた愚かなクリスチャン露呈。www 悪いもんは悪いんで、たとえ批判者が極悪人でもキリスト教の悪は消えね〜んだよ。
オレに軽く一刀両断されてんじゃね〜よカス。
たくこんな低レベルの奴がクリスチャンになるんだなあ。w

>>575 :仏教は日本文化に多大の功績を遺し、京都・奈良は世界の憧れの的です。
>その一方で、キリスト教の方はどうでしょうか?

その比較は無意味だね。 流行っているからって素晴らしいとは言い切れないんだから。
たしかどこかの馬鹿信者が言ってたな。
本物は理解され、受け入れられるんだ〜とか。www その割りに、たとえば仏教だ。
釈迦仏教より後世の出鱈目仏教が流行っているじゃないか。

出鱈目のほうが好まれるのかもしれないな。だって、巷にオマエらみたいな出鱈目野郎が多ければ、出鱈目宗教が流行るだろ?
www

587NONAME:2013/08/04(日) 02:13:02
しかしまあ。キリスト教徒「忠実な神の下僕になることを目指してる」のに 都合が悪くなれば「本人が勝手にしたことだ〜」
聖書に殺人指令書いてあっても「殺人は駄目だ〜」とか言うし。 しかもほんとうの善は「神にしか分からない〜」
そのくせ、「殺人は駄目だ〜」とか「イエキリは父だ〜偉大だ〜」言う。
そんなの神にしか分からないだろ? それなのに神が偉大かどうか分かんのかよ。モロ破綻し過ぎだろうが。wwww 
つまりキリスト教というのは〜

1.神は絶対だ〜と言って従属する
2.従属して、言い成りになり、なにかあっても神の思し召しだ〜と言って自分を慰める
3.聖書なんて昔の民の勝手な思い付きなので、侵略とか虐殺とかの指令が書いてある
4.それは当時の民の自己都合の正当化するための勝手な設定である
5.ゆえにその指令は普遍性を持ちえず、TPOが変わり吟味すれば、単に当時の民の自己都合の勝手な設定に過ぎないw
6.しかしそれを認めたら、聖書の出鱈目がバレるので、それは比喩だとか言って現信者は誤魔化すしかない
7.さすがに誤魔化すだけでは劣勢なので、批判者の弱みを探したり聞き出そうとする
8.そのために、相手のコテハンや宗教的背景を聞き出そうとする
9.それは真理ではなく自己の立場を守ろうとする卑しい態度しかない
10.卑しいからこそ、現実(真理)から逃げて妄想を愛するために信者になり、従属することで責任を神に丸投げする
11.従属しているくせに形だけの懺悔して自己陶酔して偉いと思い込み威張る
12.威張らない謙虚さを演出するために、自分はまだまだだ〜とか言いながら一方で反撃するために相手の過失を探すw
13.そんなことをやっているから尊敬されず、また誤魔化しとかお惚けしないと体面を保てない
14.体面を保ちたい欲望からも脱却できないので、益々尊敬されない

↑こんな感じですかねえ。 これは「すべての宗教信者」に共通する症状である。
こういうふうになるから信者は尊敬されないのだが、↑をしないと自分の精神の安定を保てないので
辞められないのである。w

588NONAME:2013/08/04(日) 02:18:10
こういった宗教システムは、人をマインドコントロールするのに適しているため、巷のカルト宗教ももちろん
こういう思想を使用する。
教祖や教義の絶対性が必須なので、信者は誤魔化しに躍起になるが、元々破綻しているものを正当化しなければならないため、
信者は大変なのである。w

ここのスレの信者は致命的に思惟が足らない低脳なので、私の突込みには耐えられないが、
仮に私が反論するとするならこうする。↓w

1.聖書には殺人指令が書いてあるが、それにも何か意味があるかもしれない 
2.悪いことだと思うが、神の摂理なので 善悪の判断は神に任せる
3.私は自ら納得しているキリスト教の教義に沿って進んでいるため、わからない部分もあるので、現時点では何とも言えない

↑キリスト教徒は、このように惚けるしか逃げ道は無い。
下手に反論すると、私のような一般人にボロクソにされるのだ。w

ちなみに私は仏教徒である。 
ここのキリスト教徒低脳どもはそう言うと、「どこのカルトだ〜ライバルを蹴落とすために工作しているな〜」
とか言い始めるがw
自分たちがそういうレベルなのでそう思うのだろう。

590NONAME:2013/08/04(日) 02:27:27
>>814 :教え子が不貞だからと言って、教師の責任に結びつける意味がわからない。
>仏教徒が殺人を犯したら仏陀に責任を問うのか? オウム真理教の罪科は仏陀の責任か?

だ〜か〜ら〜 www それは >>661 で答えたよな?

仏教は宗教を否定している。宗教は、「真理ではなく妄想」に振り回される道であるが、
仏教は「真理」を観じてそれに直接的に対処していく道である。
信仰すると、その教義どおりにものを見て対処するようになるが、仏教にはドグマが無いので
縛られることがない。 

真理を観るということは、自らも他のものもすべてを客観視するということである。
そういった固定観念やら妄想を捨てることを「解脱」という。
宗教信者は、教祖やら教義やらその効果などを客観視せず、逆に崇拝したり盲信しているので、客観視とは逆に
そういった物事に縛られるから、解脱はできない。
宗教信者は解脱できないので真理は観れない。

真理が観れれば 正しい対処ができる。つまり、仏道の目的「苦からの開放」に向かうことができる。
宗教みたいに、呪文とか祈祷とか信仰とかで苦が消えたように「思い込む」必要もない。
むしろそういった逃避では、正しいどころか的外れな対処となり、解決に向かわない。w

仏教では上記の理由で、教祖や教義に乗っかるのではなく「自らが自らを整え進んでいく」釈迦はそのガイドでしかない
ので、何かあっても基本的に「自己責任」となるが、
キリスト教のような、絶対的追従崇拝盲信型の「宗教」では、「信者が勝手にやったことだ〜」
なんて言い訳は通用しない。
だったら「絶対的追従崇拝盲信型」を辞めろという話だ。 「殺せ」と指示があれば殺す。
それが素晴らしいキリスト教徒というものである。
そこで殺さなかったら駄目信者。 そのどちらかしか、キリスト教徒に選択肢は無い。

同じく、たとえばオウム真理教。
あれは仏教を名乗りつつ、絶対的追従崇拝盲信型の「宗教」だから、名前だけ仏教である。
創価もK科学も同様である。 だから、「サリンを撒いたから脱退した」多くのオウム真理教元信者は、
まったくしょうがない奴らなのである。

殺すキリスト教徒。もしくは主に逆らい殺さないキリスト教徒。 
どっちにしてもしょうもないのだが、そのどちらに認定されるのも避けたいから、
結局逃げるしかないのである。w

何があっても、言い訳せず、信を貫く。 それが、立派な宗教者と言えるだろう。www

http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1370965511/l50

591NONAME:2013/08/06(火) 22:54:58
法華経は仏教か ★法華経★
http://like2ch.com/ag/etc/psy/1036825435/l50

84 名無しさん@3周年==03/01/22 23:22
三車火宅の譬え(譬諭品第三) 佛⇒舎利弗

自分も佛になれると自覚できた舎利弗が、佛に、他の多くのものたちにも、みな佛になれることを教えてやって欲しいと請うたのに対して、佛が説いた譬え話。
目前に見える境地の達成を目指して、羊車(聲聞)・鹿車(縁覚)・牛車(菩薩)を求めて自らの意思によって走り出せば(努力すれば)、その努力は大白牛車(佛、最高の境地)につながっている。

85 名無しさん@3周年==03/01/22 23:25
↑つづき
長者の荒れ果てた家(現実の人間社会)が火事になるが、長者の子どもたち(凡夫)
が何も知らないで家の中で遊びに戯れている。このままでは、子どもたちは
(煩悩の火に包まれ)焼け死んでしまう。

86 名無しさん@3周年==03/01/22 23:31
↑つづき
長者は子どもたちを救い出そうと考え、最初自分の手で救い出そうと考える。
しかし、思いとどまり、子どもたち自らの力で、他(神)の力を借りないで
火宅を出ることが必要であることを覚る。

87 名無しさん@3周年==03/01/22 23:33
↑つづき
長者は、子どもたちが日頃から欲しがっていた羊車・鹿車・牛車を使う。
(聲聞・縁覚・菩薩の境地を示す)
「火宅から出て来たら羊車・鹿車・牛車あげるぞ」と方便を使って誘う。

88 名無しさん@3周年==03/01/22 23:46
↑つづき
子どもたちは、喜んで羊車・鹿車・牛車が欲しくて、火宅から走り出してくる。
そして煩悩の炎から救われるのである
長者(佛)は喜び、子どもたちに羊車・鹿車・牛車ではなくて、
もっともっとすばらしい大白牛車(佛の境地)を与えるのである。

以上

592NONAME:2013/08/07(水) 00:18:47
■■■ 法華経の内容 ■■■
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1200639597/

「法華経」とは、妙法蓮華経という仏教経典の事です。この経典の原品は、サンスクリット(梵語)にて記されており、
梵語名では「サッド・ダルマ・プンダリーカ・スートラ」 (sad-dharma-pundarika-sutra) といいます。
「サッド・ダルマ」とは正しい法、真実の法という意味ですが、どこがどう真実ですか???

真実真実真実と言われてもしょうがないですし 結局何が言いたいのでしょうか。 論理的に説明ください。

6. 法華経 http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/hokekyo.htm  によれば
主な内容としては、大乗と小乗の対立を越えたところに統一的な真理があること(一乗妙法、いちじょうみょうほう)、
ブッダが永遠不滅の存在であること(久遠本仏、くおんほんぶつ)、
苦難を堪え忍び、慈悲の心をもって、利他の行に励むこと(菩薩行道、ぼさつぎょうどう)が説かれる。

『法華経』に特徴的なことは、『法華経』そのものへの「信仰」を説く点にある。
たとえば、常不軽菩薩品では、この経典を奉ずる人には幸福がおとずれ、非難するものには災難がふりかかると説く。

↑ これでは釈迦仏教とは隔たっていて、仏教と呼べるのかどうか。。。

仏 教 入 門  http://sky.geocities.jp/sonnna_ahona4649/bkn.html

593NONAME:2013/08/08(木) 02:38:21
【イエス】癒し主 救い主 198【キリスト】
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1375538405/

654 :神も仏も名無しさん:2013/08/06(火) 22:05:14.37 ID:ko/3KMYv
>>651

>イエスは信じればよいとは言ってないんじゃね?

まず、イエスを神の遣わされた救い主であると信じること。これが救いの条件である。
次に、イエスは、羊が飼い主の言うことを聞くように、私達にイエスの言うことを聞くことを求めている。

594NONAME:2013/08/20(火) 15:28:44
薬っていうのは薄めた毒なんだよ。トリカブトだって少量なら強心剤として使われるし。
宗教ってそんなものかもしれない。信仰は絶対にいいものだ、とか思ってドカドカ服用するとたちまち他人も自分も殺す毒に変わる。
生活全般にかるく振りかける香辛料のような用い方がいいのかも。

キリスト教の神って絶対者だから毒も強い。そのかわり適量にはまれば
抜群の薬効を発揮する。宗教の中では劇薬指定だから、それに気付かぬと、ああなる。


>宗教の思想を信じてないんですよね? ならあなたの家族が死んだら、死体置き場を作ってそこに
>焼きもせず捨てるんですよね?

人は悪魔を作り出し、自らその悪魔に支配されることを望んだ。
その最大の成果がキリスト教。そして、そのキリスト教によって正当化されてきた幾多の悪魔的蛮行。

604NONAME:2013/11/29(金) 02:57:06
法華経について 法華経とは|創価学会公式サイト

釈尊の説いた仏教の教えは、さまざまな経典として残されていますが、「万人の成仏」を実現する完全な教えを説いた経典が「法華経」です。他の経典は部分的な教えにとどまっています。例えば、爾前経(=法華経以前のさまざまな経典)では、声聞・縁覚の二乗や、女人や悪人は成仏できないと説き、一切衆生の成仏を明かしていません。
法華経は八巻二十八品(章)から成り立っています。 天台大師(=6世紀の中国で法華経を宣揚した人)は、この二十八品のうち、前半十四品(序品第一〜安楽行品第十四)を「迹門」、後半十四品(涌出品第十五〜普賢品第二十八)を「本門」と分類しました。

法華経のあらすじ
http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/hokekyo/03.html
宝塔品第十一で、7種の宝で飾られた巨大な宝塔が大地から涌現して空中に浮かびます。その宝塔の中にいた多宝如来が、釈尊の法華経の説法は真実であることを証明します。続いて十方の仏土、すなわち全宇宙から一切の仏や菩薩が来集します。

また、この万人成仏の原理から、同じく法華経以前の経典で否定されてきた悪人成仏、女人成仏が明かされていきます。

法華経の要約あらすじ
h ttp://777fine.web.fc2.com/lotus/lotus1.htm

■■■ 法華経の内容 ■■■
http://www.geocities.jp/tonndemo_gozaima/hokke.html
http://unkar.org/r/psy/1200639597

605NONAME:2013/11/29(金) 03:12:30
法華経28品の癩病の話は、
「若復見受持。是経典者。出其過悪。若実若不実。此人現世。得白癩病。
若有軽笑之者。当世世。牙歯疎欠。醜脣平鼻。手脚繚戻。眼目角?。 身体臭穢。悪瘡膿血。水腹短気。諸悪重病。」(鳩摩羅什訳)
のこと。 解り易く言うと、
「この経典(法華経)を持っている人の悪い点を指摘すると、それが事実でも嘘でも
言った人は現世でハンセン病になる。もし、法華経を軽んじたり笑ったりすると歯がすいたり、
三口や豚鼻になったり、手足がよじれたように曲ったり、眼がただれて潰れたり、
体が臭くなったり、悪いできものや血膿が出たり、腹に水が溜まったり、いろんな悪い病気になる」
というもの。
この文言を根拠に、ハンセン病患者や身体障害者は前世の行いが悪かったから、とか、
法華経を信仰しないから、信仰が足りないからといって、差別をされたり、脅されてきたということ。
因果応報、六道輪廻の教えが道徳的な戒めとなっているならば、
まぁそれなりの倫理上の役割も果していただろうけど、
実際は(希心会や顕正会がいい例)「先祖の悪因縁」とか何とかと理屈をつけて勧誘の道具にしているの。
日蓮は、他の仏教宗派を全て邪教だといって、禅宗を信じてると跡継ぎが出来ずに家が絶える、
念仏なんて唱えてても浄土に行かれず地獄に落ちるとかいって、当時の人々を脅したの。
実際に、日蓮宗の寺でも被差別民(いわゆるエタ、非人)に差別戒名をつけたりして
差別をしていた歴史的な事実があるのです。

実際に希心会でも身体障害の子供がいる親や、家族で病人が出ると信仰が足りないとか、
お山に行けば良くなるとかいって勧誘してるでしょ。
品物こそ売りつけないかもしれないけど、この霊水を飲めば治るとか、
多宝塔(壷)を買えば幸せになれるとか言ってるどっかの宗教と理屈はおんなじ。

うちの嫁が希心会やってる友人に引っかかって総戒名貰ってきたから、
俺はそいつにこのことを言ってやったら「でも、でも」しか言えずに泣きやがった。
自分の言葉じゃ何にも言えないで、教団に言われたこと繰り返すだけ。 完全に思考停止して洗脳されてる。

606NONAME:2013/12/12(木) 22:16:35
キリスト凶徒は「神の僕」と自称しているが、その神自体がしょうがない神 www 殺しまくりですから。w

だいたい、なんとか神の「金魚の糞」で生きるってのは、「自立してない未成年」だから 駄目なんだ。しかも誠実さが無い。

神が言ってるから〜と言って、自分で責任を取らない。 

これでは嫌われて当たり前である。w

607NONAME:2013/12/12(木) 22:20:26
キリスト凶徒は「神の僕」と自称しているが、その神自体がしょうがない神 www 殺しまくりですから。w

だいたい、なんとか神の「金魚の糞」で生きるってのは、「自立してない未成年」だから 駄目なんだ。しかも誠実さが無い。

神が言ってるから〜と言って、自分で責任を取らない。 

これでは嫌われて当たり前である。w

宗教というのはじつにイイカゲンなものなので、指摘されると言い返せないんだ。 言い返せないのに無理に返そうと

するから、「何それ、ふざけてんの?」と言われる。

宗教信者とはそういうのなので、関わらないようにしよう!w

608NONAME:2013/12/15(日) 09:22:10
雑記:聖書にみる神および悪魔サタンの殺害人数の比較
http://yosh.exjw.org/blog/archives/000648.html
神の殺人数は悪魔の10万倍

610NONAME:2014/01/27(月) 23:34:40
キリスト教が信仰してるもの自体がおかしいのは真実だろうね 逆にそうでなきゃ信者も狂ってないしね

614NONAME:2016/07/26(火) 01:18:18
バクサイの静岡雑談でしずちゃん管理人の中傷してるキリスト教徒が遠隔操作で盗撮盗聴してる


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