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電子音楽について

1名無しさん:2006/10/16(月) 04:07:08
クセナキスは傑作なないが数が多い。

2名無しさん:2006/10/16(月) 23:16:33
ケルンでコンピューター音楽50周年で企画:
11月3日から5日まで、ttp://www.computing-music.de

3名無しさん:2006/10/16(月) 23:17:22
昨日はケルン大学が主催する音楽学の為の毎年恒例になった大会・
シンポジウム・コンサートで全4日間の日程でしたが、
時間的に無理なので、その第二コンサートだけを聞いてきました。
ラジオでは良くばらばらですがこれだけクセナキスの電子音楽がまとめて聴けるのも珍しいです。
決して彼の電子作品は傑作ではないのだけれども、
結局のところその音楽の構造そのものの考え方は管弦楽曲の完全な基になっているとつくづく再認識しました。
彼の電子音楽はゴーットフリート・ミヒャエル・ケーニッヒくらいの水準でしょうか?決して悪くはないですが、
どうかんがえてもシュトックハウゼンの『少年の歌』や
リゲティの『アーテキュレーション』のような傑作の領域までは達しませんね。

しかしながらこれらの電子音楽を聴く意味はクセナキスの作曲思想の探求にとって
とてつもない意味があります。
今回もいつもながら部屋を暗くしてプログラムが読めないので音楽と題名のイメージの結びつきが難しく、
最強で音楽を流しつづけるので、耳の健康にも良くはなかったのですが、
この売れない電子音楽がすべて入場無料だということと、
この所謂「酷い」音楽に常に焦点を当て常に定期的にこういう大会を内外含めて20人近くの音楽学者を招待し集めて、
レクチャーや討論させるるケルン大学の音楽学学科の電子音楽を最重要視する意志の強さにも敬服します。今
回も知っている音楽学者の一人でパリ在住のギリシャ人のマキス・ソロモスも参加していました。
案の定、彼がアンサンブル・アレフのコンクールとコンサートのオルガニゼーションにかかわっていることも経歴に書いてありまして、
何時の世でも場所でも極端に狭い世界ですね。
さらにダルムシュタットの常連の顔がちらほらでした。

実は電子音楽も僕は専門家ではないのですが、
ラッヘンマン時代彼は僕のスコアを見てすぐカルコシュカのとこに行って電子音楽を習って来ればすぐおまえの問題は解決するといわれたのを覚えています。
これだけ現代音楽にとっては和声学ヤ対位法と並んで電子音楽はとても大切なのですね。

曲目は「モントリオールの為のポリト−プ」(1967)、
「タウリファニー」(1988)、「ジェンディー3」(1991)そして「ボール」(1962)でいずれも地獄のそこの苦しみのような音楽で酷くて耳ざわりで良かったです。
これからもこういうこういう「酷い」・「悪い」・「反美しい」音楽の演奏をここの学科には望みたいです。酷ければ酷いほど聞いて苦しんでみようと気が起こるものです。
これが何十回も聞いているうちに慣れてきてその音楽が全く酷い駄作ではなくて実は歴史を変えるような『大傑作』だったという話はよくあるからです。

この前もWDRのラジオでヴァレーズの「砂漠」の初演の演奏をシェルヒェンとRTFのオケで流していますね。
ケージの「ピアノ協奏曲」のドナウエッシンゲン初演と同じく凄い野次でした。僕は生でこれをユンゲ・ドイッチェ・フィルとシュトットガルト放送のオケで2回きいたことあるけど、
後者はクラシックの「春祭」などのプログラムの前に組まれていたのでジェルメッティ指揮の現在でも聴衆の抵抗や退出が凄かったです。
「テープを回すぐらい誰でもできるじゃないか?アハハハ!」が常套句です。
最近は世界ランク第三位のベルリン・フィルでも大半の聴衆が曲頭の現代物を聞きたくないのでそのあとから意図的に10分・20分遅刻してくるとか!
しかし金もかかっているしそれでは困るので実際の本番はその裏をかいて、
最近の僕の「バセットホルン協奏曲」のように美味しいモーツアルトを最初に、
プログラムのフィナーレにわざと初演を持って来る言うやり方も最近はとてもはやっています。要するに「耳直し」は無しです。
でもこう事件を繰り返して真に残る現代音楽は育っていくのですね。
最近は最初から「美しかった」とか「良かった」なんて言われる初演曲はもう報いを受けているのでまず再演にかからないし、国外にも出ないです。
これが現在の世界的な傾向です。

4名無し:2007/01/06(土) 23:00:20
シンセサイザーが出て来た時私もローランドのシンセ悪戯していたのです。
芸大の南先生の指導で。当時は音楽の可能性を拡大できると信じていましたが
途中で限界あるなと。
結局シンセサイザーの機械今はどこも売っていません。
結局失敗したのでは。

5スコット:2007/01/06(土) 23:35:47
シンセサイザーってどんなんですか?
名前は知ってるけど

6Maestro:2007/01/07(日) 01:43:57
今はPCのサンプラーいくらでも売っているし、プログラムも豊富。
どんな風にも家庭で料理できる。
もう発信機だっけ?から出るシンセは入らないね。
でもシンセ悪戯するとその自分の作曲法が変わるのですよ。
唯一の芸大アカデミズムからの脱却の為に良い方法です。

7名無しさん:2007/01/07(日) 17:47:00
ふぅん、 悪戯してみるか

8Maestro:2007/01/07(日) 21:25:12
それでよるしい!

9名無しさん:2007/01/07(日) 22:34:22
まず後ろの配線切ってみる

10野田憲太郎:2007/01/07(日) 22:45:23
全く違った音楽ができるであろう。

11とうがらし:2007/01/07(日) 23:03:06
ちがうところにつなぐ

12Maestro:2007/01/08(月) 01:26:58
反音楽になるであろう。

13名無しさん:2007/01/08(月) 12:25:17
いいね

14Maestro:2007/01/08(月) 19:49:51
楽音反になることもできる。

15名無し:2007/01/14(日) 02:29:24
電子音楽・・・・・。
シンセサイザーが出来た頃、ローランドの最高級の機械を悪戯したことがある
芸大の南先生がイロイロ研究していて、劇伴とかを沢山作っていた。
当時は何か新しいものが出来ることを期待していたが、歴史的に見れば失敗したと
言わざるを得ない。もっと新しい機械が出来れば可能性は在るかも知れないが。
金を掛けた割には大したことが出来なかった。
せめて、とてつもなく美しい音が出来るとか、結局なんだったのか。
人間自体の可能性をそれなりに超越する曲が出来たとは言い切れない。

16名無し:2007/01/14(日) 02:34:53
今はどうだか知らないけれど、長い間聞いていると耳が本当に変になるのです。
基本的に電気の振動ですから。
当時は今ほど良い機械も少なかった。
シーケンサーとかろくなもの無かったので、何度もテープでダビンク゛したりで
音色を保つのも大変・・・・・。
とてもオーケストラのような大編成は出来なかったね。
今は相当に良いのでしょうが、最近の事情は知らないし、大学の機械がどうなったかも
定かでない。

17名無しさん:2007/01/14(日) 19:23:24
当時の電子音楽がオケの書法に影響を与えたならばそれで充分であろう。
当時の音は今では卓上のノートPCですぐ作れる。
大切なのはその作る方法であって特に作られた音楽でなければ納得できる。
南氏は当時増上寺の電子音楽のコンサートで説明を聴いた事がある。
手でしぐさしてるだけでほとんど何もいえなかったのを嶋津武仁が批判していた。
唯一芸大に留学したアクセル・ルオフによると音楽は口で説明すべきではないと教わったらしい。
定年退官後シュトットガルトでも一回来たことはあるが本人と話した事は無い。

18名無し:2007/01/15(月) 23:15:53
そういえば、ウィーン国立音大で日本の作曲家が電子音楽の特別講習を
したことがあった、生徒は作曲家も合わせてほとんどいなかった。
なにやらイロイロやっていたがとても感心できる音楽では無かったように
思えた。
ただ、表面的な面白さだけで電子音楽の決定的な可能性を暗示させるものを
感じることが出来なかった。
日本人ぐらいしかいなかったのが寂しかった。

19名無し:2007/01/15(月) 23:20:36
私は、イタリアのべリオと言う作曲家が結構好きなのです。
女性の声を使った曲などははナカナカ良い曲でしたね。

20名無し:2007/01/15(月) 23:29:50
電子音楽で思い出した。
作曲の小倉朗先生が、作曲は最終的に作曲家だけの世界の中での
マスターベーションに終わると。
一般に受け入れられなくなって、作曲家が集まってその中で終わる。
最近特にそう思うことがある。

21名無しさん:2007/01/16(火) 01:32:51
電子音楽はコマーシャルやゲーム・映画音楽と一緒に入っているので受け入れられない事は無い。
独立したコンサートそのものが難しい。
ダルムシュタットヤドナウエッシンゲンなどでは近年電子音楽はライヴ・エレクトロニックや映像など見える媒体と一緒のみしか許可しなくなった。

22名無し:2007/01/17(水) 17:39:03
芸術作品としての可能性というか。
コマーシャルとか映画音楽は普通に理解できる。
最近の生の演奏もナカナカ電子音楽のような効果を出している。
そのほうがもっと楽に簡単に表現できているようだが。

23名無しさん:2007/01/17(水) 19:06:46
芸術性はなくはない。
でもそれを更に研究するための楽譜がない。
音楽学者は思っているよりも耳は良くない。
ただ聴くだけで研究せよと言っても無駄。

現代音楽で研究された「新しい音」は商業音楽によってすぐ応用されている。
現代音楽とは後続の客車を引っ張る先頭の機関車の役目を果たしている。
機関車がない客車は全く走る事はできない。
ただ客車達は先頭の機関車にいつの時代も乗車賃を払ってくれない。

24名無しのメロディ:2007/01/19(金) 00:34:10
19:は電子音楽ではありませんが、Sequenza・Treですね。
傑作です。

25名無しさん:2007/01/23(火) 05:13:40
作曲の小倉朗先生が、作曲は最終的に作曲家だけの世界の中でのマスターベーションに終わると。一般に受け入れられなくなって、作曲家が集まってその中で終わる。
最近特にそう思うことがある。
//////////////////////////
一般に受け入れられない:現在はそうだ!でもこの「最終的に」以降が間違っているとおもう。従ってほんの少しづつだが徐々に受け入れられていると思う。

26名無し:2007/01/24(水) 02:47:30
将来の歴史的に期待するしかない。
ある意味で分からなくも無いが・・・・。
マーラーも100年後に自分の曲は理解されると言った?

27名無し:2007/01/24(水) 03:02:28
でも、コンピーター音楽が一般に消えてしまったと言うことは
結局美しいと思わなかったのではないか。
人間の生態系を超えてしまった。
頭では理解できるが感覚的に捕らえることが出来なかった。
結局ほとんどの音は生の音に近いと言うか。
ピアノとか弦楽器とかは最終的に有名な楽器のサンプルを使うようになっている。
これはいったい何なのでしょう。

28名無しさん:2007/01/24(水) 06:29:54
マーラーは50年後に理解された。
ブルックナーは200年後といった指揮者がいたが70年ぐらいで理解された。

コンピーター音楽はあるにはある。ただし映像やコマーシャリズムといっしょに。
コンピーター音楽は我々は体を使って苦しんで演奏できない。人間が演奏する魅力がない。
コンピーター音楽は最終的に解釈が一つなのでその妙技がない。
コンピーター音楽は人をせいぜい一人しか必要としないので密室で作られる。
コンピーター音楽は楽譜と必要としないので誰にも研究されない。
コンピーター音楽はやりたいことがすぐ出来てしまうので人間の本例の目的からはずれてしまうのでつまらない。
有名な楽器のサンプルを使う事は結局のところ予算の単なる節約にすぐない。
それに比べて真の芸術とはいたずらにお金がかかる物だけを言う。
従って芸術は予算のべらぼうな無駄遣いなのだ。
だから高尚な芸術と言え相当の高い価値がある!
従ってその国の文化の真髄といえる。

29名無し:2007/01/25(木) 00:40:04
電子音楽なのだから、予算の節約はないでしょう。
コンピーター買う金ないの・・。
その程度でコンピーター音楽とか言うなよ。
生たってバイオリンに3億とか掛けている・・・音源に3億掛けろ。

30名無しさん:2007/01/25(木) 07:40:30
PCは今なら10万以下で買える。
どんどん良くなり安くなる。

四管編成のオケは必ず100人余りの四管編成でやらなければならない。
ギャラは高くなることはあっても安くなることはない。
拘束すれば拘束しただけギャラが跳ね上がる。
人間だから演奏不可能もあるし休憩も必要。
練習場も必要。
テクニックのある演奏家も必要。
生の人間なのでいろいろと練習中文句を言う。
だから人間的に嫌な事もあるし、達成した時の暁には喜びも大きい。
それをPC完璧にやったら誰も聴きに来ない、家でラジオ聴いてた方が安くて並ばなくて良い。

31名無し:2007/01/25(木) 21:01:07
結局CD買えばよいのだよ。

32名無し:2007/01/25(木) 21:09:49
三億掛けるのは音源ですが。

33名無しさん:2007/01/25(木) 23:11:14
結局CD買えばよいのだよ。
・・・・・・・・・・・・
誰かが書いているようにCDは結局広い意味で電子音楽。
解釈が一通りしかないから。
チェリは生以外の演奏は認めなかったがそれは本来の意味で正解。
結局同じ演奏者で3〜4番同じプログラムで演奏しても、
ガーディナーが言うように全く同じ演奏は存在しない。
それが生身の人間でやる演奏の醍醐味。
違うのだ!
即興的で何時予期しない何が起るかわからないのだ!
それだけでわくわくしてしまう。
遠くはヨーロッパからはるばる飛行機でやってきて演奏してくれるのだ!
この非経済さ大変さは電子音楽にはない。
それが反って人間による演奏という行為が廃れない理由なのであろう。

34名無し:2007/01/26(金) 15:53:28
人が演奏するから、そのつど演奏が違うと言うのは必ずしも
そうではない、勝手にそうなるのと、仕方なくなるのでは意味が違う。
大抵の演奏家は同じように演奏しようとするものだ。
そうでない演奏家は大抵は自分の才能の無さの言い訳に過ぎない。
私の知る限り、演奏家は限りなく何回でも同じように演奏しようと
するものだ。

35名無しのメロディ:2007/01/26(金) 18:33:07
勿論、誰でも同じように演奏しようと思っている。
自分でもピアノなどを複数回同じプログラムで演奏すればわかるように、全く同じ演奏というものはありえない。
それが生身の人間の演奏というものでその都度面白い。
コンピューターには版を換えない限りこれが絶対できない。

36名無し:2007/01/26(金) 23:11:37
以前、キュッヘルカルテットの演奏会でラズモススキーの3番を演奏したことがある。
三回とも聞きに言った。
最後のフーガの出だしが三回とも違っていたので、後日、三回演奏スタイルを変えたのかと
たずねたら、そうではないと言っていた。
あれだけの人が正直な人だと思った。
言いたいのは、同じようには弾こうとすることですが。

37名無しさん:2007/01/27(土) 00:22:45
3回ともちがう。
それが面白い。
3回とも聴きに行って悪い事ではない。
お金はそれだけかかるが!

38名無し:2007/01/27(土) 01:11:59
ブラームスザールの一番安い席で練習のときから聞いていた。
席が舞台の上なので気がつかれなかった。

39名無し:2007/01/27(土) 10:47:49
キュッヘルさんとの話は人間味があって、日本人ならそうは言わないかも
知れないと。何かそう言われると演奏会をまた聞きに行こうと思った。
何かホットするところがある。

40名無しさん:2007/01/27(土) 17:56:11
普通に音楽をやっているのでしょう。
ごく自然です。

41名無しさん:2011/03/03(木) 20:29:57
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