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死の淵に漂うブルース

1 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:15:06


「犯罪には恐怖がつきまとう。それが刑罰である」
                           ――ヴォルテール


「罪とは消極的なものではなく、積極的なものだ」
                           ――キルケゴール


「盗んだ蜜を味わったからには、金で無実を買うわけにはいかない」
                           ――ジョージ・エリオット


「罰せられるなら、子羊より親羊を盗んだ方が良い」
                           ――イギリスの諺


 1 SO BLUE

 男が死にかけていた。
 息絶え、力尽き、人としての最期を迎えるにはあまりに無惨な姿で、静かに朽ち果てようとしていた。
 11月18日未明、小雨の振る横浜、中華街。曇天に包まれた空の下、彼は野晒しとなっていた。何者かの暴
行を受けたのだろうか――その肢体は徹底的に痛めつけられ、弄られ、葬られるかのごとく路地裏に棄てられて
いた。傍らにはダンボール、薄汚れた木箱にポリバケツ。地面には散乱した生ゴミと、いくつかのビール瓶。ど
れもが雨に濡れ、この場にふさわしい饐えた匂いを醸し出す。
 血と泥で汚れたコートはすでに彼の肌を守る役目を果たしていない。衰弱し切った指先はぴくりとも動かず、
瞳は虚ろ、口元からは唾液をしたたらせ、まるで彼自身が一個のゴミのよう。
 なぜ、そんな男を気にかけたかは分からない。
 だがこの獣は偶然、あるいは気まぐれによって男の前に姿を現し、その死を看取ろうとしていた。もの言わぬ
異形の獣。赤と黒の斑の体毛。狼のような体躯に煙草の匂いが漂っている。そして……この獣がもっとも特異だ
ったのは、その四肢が半ば、自らの影に沈み込んでいたところだ。
 錯覚ではない。比喩でもない。本当に影に潜ませているのだ。

2 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:15:50

「……ぁ……か…………」
 男の口元が震えた。黒い狼はわずかに驚いた。もはや意識は失っていると思われたが、そうではなかったらし
い。男は何事かを呟いた。それは途切れ途切れで、聞き取るには細心の注意が必要だった。
「…………? …………」
 どうやら彼は、眼前の獣に問いかけているようだった。人ではない生き物に話しかける。普通ならあり得ない
そんな奇行も、これが死の間際の錯乱から来るものだと思えば、さほど不思議ではないだろう。
 しかし、哀れにもこの男は、今にも人生の幕を下ろしつつある不幸なこの男は、時として自分の言葉が異形の
存在にも通じることを知っていた。そしてそのせいで、絶望の淵へと引き込まれた。
 男は、確固たる意志をもって獣に問うたのだ。「妖怪か?」と。
「…………」
 獣は答えない。不動のまま、じっと男を見下ろしている。男は口端を歪めた。沈黙は肯定と解し、笑ったのだ。
 汚らしい笑みだった。
「妖怪なら…………頼み……を……。……く、く……頼みを聞いてくれる……ような……相手なら……いいんだ
が…………」
 半ば獣へ、半ば自分へ語り聞かせるような内容。自嘲する。満身の力を込めて右腕を動かしはじめる。身じろ
ぎにも似たその動作は、確実に男の死期を早めていた。構いやしない。彼は右手を自分の顔に近づけると、右目
に指を突っ込んだ。
 血の飛沫が袋小路に舞う。飛沫はやがて、雨に流されていった。
 男は眼球を抉り出していた。
「……受け取ってくれ……。……これで……捜してほしい人がいる……」
 目玉は男の掌の中、獣は興味があるのかないのか、さっきから彼の自傷行為を見つめている。男はまたも笑っ
た。獣の沈黙をどう解釈したのだろう。最初から期待していないとでもいった風に、またも薄く笑ったのだ。
「息子を……」
 笑いつつも、獣への嘆願は忘れない。祈りと呪いがブレンドされたような声色に、路地裏の空気がわななく。
 掌から、眼球がこぼれ落ちた。残された左目だけでは上手く世界を捉えられない。雨に追い打ちをかけられ、
何もかもがぼやけて見える。ゆっくりと瞼を閉じていく。
「私の息子を……殺してくれ……」
 その言葉を最後に、男は完全に息絶えた。ダンボールの山と残飯の海に囲まれながら、コンクリートに横たわ
り、二度と目を覚ましはしなかった。
 ここは横浜中華街。獣は、男が落とした眼球へと目を向けた。それはいつしか、一個の小さなフィルムに変化
していた。
 夜明け前から降り続けた雨は、一日じゅう止むことはなかった。

3 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:17:02

 2 Room #1102

 織田久弥は、自らをフリーのカメラマン……と称してはいたが、それが真実ではないことを、誰よりもよく知
っていた。
 彼がシャッターを切るのは、たいてい血生臭い抗争や駆け引きの場面であり、幾人かの人生を左右する重要な
ポイントでであった。戦場カメラマンというわけではない。しかし比喩としての戦場であるなら、彼ほど戦火の
真っ只中にいるカメラマンは少ないだろう。
 彼が撮る写真。――それは例えば、政治家や役人への賄賂や献金、または不倫の証拠写真だったり、誰とも知
らぬ人間が拷問にかけられている写真だったり。挙げ句、銃創にまみれた死体の写真だったりする。
 これらは主に脅迫に使われるらしい。
 らしい、というのは、撮った写真がどのように流れていくのか、織田自身も知らないからだ。興味も執着もな
い。そのかわり常識では考えられぬ多額の金が手元に残る。余所に頼めぬ仕事――社会の暗部を撮影し、安全確
実に依頼元へ渡す仕事――要するに織田は、それを生業にするカメラマンだった。
 まっとうな職に就くつもりだった。腕は一流だと自負していた。けれど世間がそれを認めなかった。誰もが彼
のプロフィールを見ると、煙たがるように追い出すのだ。
 殺人事件の容疑者の息子だから。
 彼の父もまた、カメラマンだった。だが織田が中学の頃、とある女性に傷害を負わせ、死に至らしめた。そし
て失踪。残された家族はなんとか生活していけたが、世間の目は厳しかった。織田が社会に出てからも、一人前
の技術を身につけても。いや、いっそう激しくなったと言ってもいい。いまや父の起こした醜聞は業界に浸透し
ており、その息子である彼にまで、まともな仕事はまわって来ないのだ。
 それでも彼はカメラを手放さなかった。何も言わず家族の前から去っていった父への不信や苛立ちを残したま
ま、彼はがむしゃらにシャッターを切った。自分は二度と、光の当たる世界に戻れぬだろう――そう思いながら
も彼が選んだ道は、いまの、闇の世界に拘束されるものだった。

「おう、久しぶりだな。織田」
「川尻さん、お久しぶりです」
 10月15日。東京、渋谷――
 その一等地にある高級マンションへ、織田は足を運んでいた。ここはその一階。
 招き入れられた彼は、勝手知ったる他人の家とでもいった態で、臆さず怯まず、手前のソファに腰かけた。
 奥にはここの支配者であろう川尻勲のデスクが、そして壁には神棚が祭られていた。カーテンは閉め切られ、
幾種類もの煙草の煙が充満している。それ以外はシックにまとめられていたが、一般の人間なら、室内を包むも
のものしい空気に圧されてしまうだろう。
 織田は萎縮していなかった。ここが一般的なオフィスでないのは重々承知している。彼と川尻の他にも、川尻
の部下らしき人間が五名、部屋の各所を陣取っていた。どれも人相が悪い。なかには明らかに暴力沙汰で付けた
であろう傷跡を持つ者もいる。織田が来てから、全員、無言。無関心を装いながらも織田を注視し、彼の挙動を
うかがっている。

4 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:18:21

「ともかく、よく来てくれた。……おい、客に茶ぐらい出さねえか」
 革張りの椅子にふんぞり返ったまま、川尻が部下を叱咤した。彼は一言でいえば、肉食獣のような男だった。
強力なムースでセットされた短髪は、それでもところどころが乱れ、眼光鋭く、潰れたみたいに低い鼻が、その
面相をさらに凶悪に仕立てていた。180を越える長身ながらもずんぐりした印象を受けるのは、脂肪というよ
り全身に筋肉を鎧っているからだろう。
 16階建てのこのマンションは、すべて彼の所有物だった。一階を事務所、最上階を自宅とし、それ以外は、
信の置ける部下に貸している。関東一円に勢力を広めつつある広域暴力団<鬼総会>の幹部であり、組織全体か
ら見ても武闘派に位置するこの男は、たいそう織田を気に入っていた。
「今日は仕事の話ではないと伺って来たのですが……」
 出された茶に手を出さず、織田が川尻に切りだす。
「ああ。最近は他との衝突が多くてな。諍いが激しくなっているんだが、それについてはまた別で世話になると
して――」
 語りながら、煙草を口に咥える。川尻の背後に控えていた背広の男が、ライターを取り出してそれに火を付け
た。無駄のない、流れるような動作だった。
「――以前、頼まれていた件についてだ。見つかったぜ、お前の親父」
 織田は瞬間、何を言われているのか把握できず、しばし呆然としていた。そして思いいたり、背筋に冷たい衝
撃を受けた。
 失踪した父親の行方。……確かに、この凶暴な男と付き合うようになってから、冗談まじりに捜索を頼んだこ
とがある。が、本当に見つけてくれるとは思わなかった。瓢箪から駒。10月の風に当てられてこのマンション
へやって来た彼だが、外にいた時よりも強く寒気を感じていた。
「どうした? お前の事情は俺も知っている。親父のせいで、お前、食いっぱぐれていたもんな。俺が拾ってや
らにゃ、今頃どこでどうしていたやら」
「……父は……どこに、いたんですか……?」
「横浜。ウチがな、東京からそっち方面へ少し進出しているんだが、その過程で引っかかった。……見つけられ
たのは、ほとんど偶然に近かったが」
 父に逢える。
 突然の知らせに、織田は戸惑った。今さら父と逢って、何をどうしろというのだろう。恨み言なら山ほどある。
家族を見捨てた腹いせに殴ってやりたくもあるが、反面、同情や憐憫の念も捨てきれない。だが何より織田の心
を占拠するのは、不甲斐ない父への軽蔑の気持ちだった。自分はカメラマンとして、すでに父を越えているとさ
え織田は思っていた。業界で売れなかったのは、ひとえに社会的な負い目を持つ父のせいなのだ。今ふたりの写
真を並べたら、父以上の仕事ができると証明できるのに。
 それを伝えたら、あいつはどんな顔をするだろう。詫びてくれるのだろうか。
「住所は割れている。行くのなら、これからすぐにでも連れていってやるぜ」
 あまりにも急な誘い。だが川尻にとっては別段、強引でも何でもない。即断即決即実行。彼はその見かけによ
らず、身軽で、機動力の高い男だった。
 確かに横浜なら、今から出かけても帰ってこれる範囲だ。父のところで長居するつもりもない。織田は静かに
首肯した。川尻は吸殻を落としながら、にやりと笑い、
「車をまわせ。今夜は中華街で飯でも食うか」
 部下に言いつけ、デスクから立ち上がった。
 ……十数分後、織田は川尻とともにベンツの後部座席に乗り込んだ。

5 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:19:24

 川尻勲は、古いタイプのやくざだった。頭で考えるよりも先に手が出、暴力と恫喝によって<鬼総会>の上層
部に食い込んだ武闘派だ。今の地位に上り詰めるまでに流した血の量は、他のどの幹部より多いだろう。
 そんな男と織田が付き合うようになったのは、まさに利害が一致したからだ。はじめは互いに互いを信用でき
るかどうか、腹を探っていた節がある。徐々に依頼する仕事の危険度が増し、それを受け入れ、もう織田が後に
戻れないとなって初めて、川尻は心を開いたのだ。
 死体やコンクリ詰めのグロ写真、撮りたくもない政治家の浮気写真……敵対する組への脅しや、強請のネタに
なるようなものを撮り続け、織田は川尻に気に入られた。フリーと称しながらも、実態は<鬼総会>のお抱えカ
メラマンに変わりなく、そしてこの契約は、おそらく墓に入るまで付いてまわることだろう。

 横浜、西区――
 父は偽名で、とあるアパートの一室を借りていた。ベンツから降りた織田が、そのアパートをゆっくり見上げ
る。何と貧相な建物だろうか。先ほどの高級マンションとはまるで世界が違う。
 潰れかけの二階建てだった。ペンキの剥げ落ちたベニヤのドアが並び、昔の「安下宿」といった風情を醸し出
している。建物の一端には共同便所が突き出ており、その下から灰色のパイプが伸びていた。
 軒先の集合郵便受けで、父の名を確認する。「崎屋壮介」となっていた。姓は違うが、名は合っている。ここ
へ流れ着くまでに、名前を変えざるを得ない事情や背景があったのかも知れない。郵便受けには新聞や郵便物の
類はなかったが、セールスや風俗関連の広告が何枚か挿入されていた。
 居住者は少なく、雨戸を閉じたままの部屋が多い。父は二階に住んでいるようだった。
「行くか?」
 背後から川尻が尋ねてくる。織田は頷いた。外階段に足をかけ、二階へと進む。川尻とその部下二名も後に続
いた。
 突如、ベキッという音がして、織田は後ろを振り返った。見れば、川尻が階段の踏み板を突き破っていた。
「腐っていやがる」
 悪態をつく川尻。外階段は何度もペンキが塗り直されたのだろうが、ところどころ錆びて腐食していたらしい。
もろい部分は、巨漢である彼の体重に耐え切れなかったようだ。
 それからは慎重に歩を進め、無事、二階の共用通路まで辿り着く。「202」という油性のマジックで書かれ
た部屋番号が父のものであるのを確認し、ドアをノックする。
 沈黙。返事はない。
 不在なのだろうか? インターホンなどないため、ふたたびノックするしかない。
 やはり無反応。まだ日も高いし、どこかに出かけているのかも知れない。あるいは、働いているのか。
「居ないのなら、勝手にお邪魔させてもらえばいい」
 それまで様子を見ていた川尻が、苛立たしげにズイと前に出てきた。彼の手には、不細工な鍵の束があった。
「それは?」
「あらかじめ、ここの管理人に話をつけてあるのよ。何、お前とここの住人は、他人じゃねえんだ。後で謝りゃ
いいのさ」
 口ではそう言いつつも謝る気は皆無の川尻が、鍵を差し込む。カチリという音がして、古めかしい真鍮のノブ
が回された。
 ドアが開き、凄まじい悪臭と、床に雑然と散らばるゴミが、彼らを出迎えた。
 六畳一間の汚海。
 織田はしばらく、玄関のたたきに立ったまま呆然としていたが、気を取り直すと中へ上がり込んだ。彼自身は
靴を脱いだが、川尻らは土足のまま入ってくる。
 それを咎めはしなかった。ゴミの散乱した畳は日に焼けて、端々が黒ずみ、これ以上汚れることはあり得なか
った。室内を見わたす。やはり父は不在だった。荒涼という言葉がぴったりのこの部屋は、その主がどれほど不
健康で退廃的な生活を送っているかを物語っている。

6 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:20:27

 ただひとつ、この部屋で異彩を放っていたのは、壁に貼られた数枚の写真だった。
 小さなものもあれば、引き伸ばされたものもある。どの写真も、あるひとりの人物を映していた。
 美しい、東洋系の女性だった。マイクを持ち、ステージに立っていることから、歌手だと思われる。
 織田はそれらの写真から目が離せなかった。その女性への関心のみならず、こうまで被写体を美しく捉える撮
影技術に見惚れたのだ。これは父が撮ったのだろうか? そう考えたとき、彼は驚くほど素早く次の行動に移っ
た。
 押入れの襖に手をかけ、勢いよく開け放つ。無い。別のところか?
「どうした、織田?」
 川尻の問いかけに応じている余裕もない。周囲を確認する。玄関側には粗末なキッチンと、曇りガラスの戸口
があった。
 おそらくは風呂場に続いているのだろう。織田は確信した。ガラス戸を開け、その中へと駆け込む。
 果たして、それはあった。簡易暗室。洗面所と風呂を兼用しているこの空間には、フィルムを現像するための
機材が所狭しと置かれていた。洗面台には引き伸ばし機、パット類は湯船の蓋の上。現像液槽、水洗槽、フィル
ム乾燥ボックス……どれも埃はかぶっていない。暗幕も張られて使用準備は万全だが、それにしても狭すぎる。
必要に応じて機材を移さねばならないし、水周りに気をつけねばいけない。
 だが、専用の暗室を持たぬ者は、よくその代替として押入れか風呂場を選ぶ。父は写真を続けているようだっ
た。壁に飾られているあの女性は、まぎれもなく父が撮ったもの。
 織田は足元をふらつかせた。父は人物写真が専門ではなかったはずだ。なのに、さっき見た女の写真は織田に
とって鮮烈だった。ステージに立つ彼女の歌声が、今にも聞こえてきそうな躍動感。それでいて儚げな彼女の美
貌を見事に捉えている。じっと見つめていれば彼女の内面さえ伝わってきそうだが、それはあくまで匂わせるだ
けの繊細さ。
「別嬪の写真は、ここで現像してるってわけかい? お前の親父もこれで失敗したのに、懲りないな」
 やや憤然とした声で、川尻が織田の肩をつかんだ。
 力が込められている。これ以上無視すると、さらに機嫌が悪くなりそうだ。
「ええ……。どうしようもないですね、こんなになってまで……」
「まあ、居ないんなら仕方ないさ。ここは有野か藤岡に任せて、俺らは飯を食いに行かないか?」
 有野と藤岡は、ここまで付いてきた川尻の部下だ。どうも川尻は、織田を父に逢わせるという口実で、横浜の
食事を楽しみたいらしい。それは移動中にも察せられた。
 どうしようか。気に入られているとはいえ、あまり逆らわないほうがいい。しかし、父の撮った女性のことが
どうしても気になった。もう少し粘ってみる。
「あの、写真の女性のこと、何かご存知ですか?」
「ん? さあな。だが、これだけお前の親父さんがご執心なんだ。部屋を荒らせば、何か出てくるだろうぜ」
 と言って目配せすると、有野と藤岡が家捜しをはじめた。織田にとっても願ったりだ。
 父に対する罪悪感は薄かった。これまで何年も家族を放置し、好き勝手していたんだ。ここで俺が多少好き勝
手しても、許されるだろう。
 結果、その女の写真がさらに大量に発見された。やはり父は彼女の写真しか撮っていないようだ。それ以外に
は、彼女のものらしきCDが一枚。何組かのシンガーやバンドによる合作アルバムだが、確かにそのなかに居た。
ユニット名は<jury system>、その一員である彼女の名は余碧蘭(ユィ・ピィラン)。やはり日本人ではない。
他のシンガー達も、ほとんどが外国人だった。
 歌詞カードにある彼女の写真は、しかし父の撮ったものと比べると精彩に欠けていた。自分ならどうだろうか。
父を見上げ、いつしか見下すようになった自分の腕なら。
「もういいか? ここにはウチの若い奴らを残しておくから、とっとと飯にしようぜ。親父が帰って来たらお前
に連絡してやるよ」
 川尻が催促する。もともと短気な男だ、これ以上は無理だろう。
 織田は写真を数枚と、そのCDを失敬した。
 去り際、彼はもう一度室内を見まわした。そういえばここは、TVもないのにCDラジカセだけはあった。父
もこれを聞いていたのだろう。訪問時よりさらに荒れた無人の部屋。CDはこれ以外、見当たらなかった。

7 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:21:58

 3 PARANOIA

 10月17日。東京、渋谷――
 川尻より格下だが、父のよりはマシな賃貸マンションの一室。
 あの日以来<鬼総会>からの連絡はなく、織田は、例のCDを繰り返し聴いていた。
 <jury system>、直訳すると陪審員制。このCDには、実にさまざまなジャンルの音楽が収録されていた。
特に写真の女、余碧蘭のブルースは素晴らしかった。父は故・青江三奈のファンだったが、彼女の声はそれに勝
るとも劣らず、安物のオーディオからもよく響いた。
 父が熱を上げるのも無理はない。正直、自分も虜になってしまいそうだ。
 やがて彼は、より深く彼女を知ろうと思った。音楽方面には疎いが、これが一般市場に出回っているものとは
違うことぐらい分かる。いわゆるインディーズ物だろう。
 インターネットで検索する。いくつかのキーワードを挿入した後、出てきた検索結果に、彼は眉をひそめた。
いくつかの情報を編み合わせ、要約すると、次のような内容になる。

 犯罪者だけが入ることの許されるライヴ・ハウスについて――
 異端者、社会からはみ出た者、何らかの罪を犯した者、アウトサイダー……そういった者だけだが、その場所
を知り、そこへ行くことができるらしい。
 <scaffold(処刑台)>。それが、そのライヴ・ハウスの名前。
 そこには大手音楽業界さえ手出しできないインディーズのバンドや歌手が多数、出入りしており、そこのステ
ージで自らの曲を披露するという。
 彼らは<jury system(陪審員制)>と呼ばれ、そのライヴ・ハウスの聴衆たちから神聖視されていた。心が
荒みきった者、精神が擦り切れてしまった者、だけど完全に他者と隔絶できずにいる弱者のために与えられた、
最後の安息の場。終着点。
 彼らはただ、<jury system>の曲を聞き、束の間の安息を味わう。かりそめの平穏に心を休める。
 外部がこの<jury system>の情報を手に入れる方法は、ほとんどない。彼らの曲を聴くには、自らも異端者
になるしかないのだ。
 そうすれば、そこへと辿り着ける。
 たとえば罪を犯した後、たとえば社会から放逐された後……いつかその者のもとへ、一枚のCDが転がり込ん
でくる。
 たまたまショップの店頭で見かけ、衝動買いをしたのかも知れない。
 たまたま道に落ちているのを、拾ったのかも知れない。
 たまたま友人から渡されたのかも知れない。
 たまたま――買ったおぼえがないのに、自宅のCDラックに紛れ込んでいたのかも知れない。
 いずれにしろ、そこでその者は<jury system>というインディーズがあることを知る。ミュージュシャンの
リストや、ネットのデータベースで検索しても、そんなインディーズは見つからない。ただ、マイナーな都市伝
説として広まっている。
 <jury system>のCDを聞いた者は、例外なくその音楽性の虜になる。そして歌詞カードに折り込まれている
案内と地図を手がかりに、<scaffold>に辿り着く。
 そこは会員制の秘密クラブでもある。ここに加盟したメンバーは、自らの犯罪を世間から隠蔽することができ
る。望むなら戸籍を捨て、完全に他人となる手配もしてくれる。
 <scaffold>は一時の憩いと音楽、そして犯罪の揉み消しと、実にさまざまなものをメンバーに与えてくれる。
その見返りは一切求めない。ライヴ・ハウスに入る料金すら取らない。
 ただ、口外しないこと。このライヴ・ハウスの場所を、決して部外者に漏らさないこと。それが暗黙の了解と
なっている。もし破れば、<scaffold>のスタッフによって消されるだろう。

8 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:23:09


 ……以上が、ネットから得た情報だ。
 織田は鼻で笑った。どうやら都市伝説の類らしいが、三流だ。リアリティがないし、いくつかの矛盾を孕んで
いる。
 まず、ここまで徹底した秘密主義であるのに、どうして都市伝説として広まらねばならないのか。この話自体、
誰かが面白半分で考えたものだろう。
 ライヴ・ハウス<scaffold>の場所についても同様。いくつかの噂を総合すると、全国各地に店舗があるらし
い。そこまで大規模に展開しているなら、ちょっと音楽業界に詳しい者は知っていなければおかしい。
 そして決定的なのは、織田が<jury system>のCDを持っていることだ。犯罪者にしか行き渡らないなら、
彼が所持できるはずがない。確かに立場的には境界線ぎりぎりのところだろう。しかし、まだ一線は越えていな
いし、社会から放逐されるほどのヘマは犯していない。
「親父が持っていたってのは、説得力あるがな」
 父は殺人事件の容疑者だった。もしこの都市伝説が正しいなら、そこだけは奇妙に符号している。ネット上で
はこのCDの有無さえ怪しまれているが、織田は所有し、実在するのを知っている。
 ただ、彼の持つ歌詞カードには、ライヴ・ハウスの住所など記されていなかった。
(犯罪者じゃないから、<scaffold>に入る資格がない?)
 ふと、そんな考えが頭を過ぎる。が、すぐに振り払った。馬鹿馬鹿しい。何が都市伝説だ。しょせんネットの
情報には嘘とデマが織り込まれている。信用できる筋から、じっくり情報を集めていこう。音楽通の友人にも心
当たりはある。

 それから織田は、知り合いの何人かに連絡を取っていった。<scaffold>の存在を信じてはいなかったが、イ
ンディーズで活動している限り、どこかでコンサートなりライヴなりを催しているはずだ。そこへ出向いて、ど
うしても彼女を――余碧蘭を――撮りたかった。父の自室で見た、あの美しい姿が、聴衆に自分の魂を捧げるよ
うな顔が、今も忘れられない。自分ならもっと上手く撮れるだろうと期待に胸を膨らませていた。いや、より率
直に彼の心情を伝えるなら……彼女に惹きつけられていた。
 友人のツテを頼るかたわら、自らも横浜近辺のライヴ・ハウスへ赴く。そう、父が撮影していたのなら、彼女
の活動範囲は横浜も含まれるはずだ。そこで余碧蘭の写真を見せ、その噂を集める。と同時に、出向いたところ
では必ず予行演習をした。
 ライヴの撮影だ。
 ぶっつけ本番で彼女を撮れると思うほど、織田は自惚れていなかった。ライヴ・ハウスでの撮影は、いかに十
分な光量を得るかが勝負になってくる。どんなにライト・アップされようと、ステージというものは基本的に暗
いのだ。しかも、なるべく静かに撮らなければいけない。シャッター音が演奏を妨げたり、ステージの雰囲気を
壊したりすることはままある。特に、彼女が歌うのはブルースだ。その素晴らしい歌声を、カメラの駆動音など
で穢したくはない。
 光量についても、単純にストロボを焚けば解決する問題ではない。まず演奏者やオーディエンスの迷惑になる
し、技術的にも照明効果を殺し、背景に醜い影を残してしまう。
 そこで一眼レフが必要となる。開放値の明るいレンズを使い、フィルムも高感度のものを用いる。質感を犠牲
にせぬよう配慮しつつ。
 露出は基本的にマニュアルだが、ステージ上の変化に追いつけないときは多分割側光で挑む。スポット側光な
ら適性露出を計りやすいが、それだとシャッター・チャンスを逃してしまう恐れがある。
 多分割測光には照度の高いものを無視する機能があり、それを利用すればいいものが撮れるのだ。ただし若干
変則的な方法のため、素人には難しい。当然織田は、これを使いこなすだけの技術があった。

9 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:24:54

 来たるべき本番――余碧蘭をファインダーに収めるその日まで、彼は演習を怠らなかった。いくつものライヴ
・ハウスをハシゴし、足で情報を稼いでいった。横浜を中心にライヴ主催者やイベンターに声をかけ、積極的に
情報網を広げていく。それらしき話を聞いたなら、ここへ連絡してくれと言付ける。なのに彼女の居場所は、よ
うとして知れなかった。いくら探しても見つからない。ここにも居ない、あそこにも居なかった……誰もその存
在を知らぬ女性シンガーを求め、ひとり夜のライヴ・ハウスを彷徨う様は、さながら夢遊病者のようでもあった。
 そしていつしか、<jury system>のCDを紛失している自分に気づいた。毎晩のように聞き返していたのに、
常に目につくところに保管していたのに、ふっと、煙のように消えていたのだ。盗難に遭ったわけではないし、
どこかに紛れ込んだのか? 織田は狼狽しつつも、必死にCDを探しはじめた。あれがなければ、彼女の声を聴
けないじゃないか。あれがあるからこそ、まだ見ぬ彼女のステージを夢見て奔走できるんじゃないか。部屋じゅ
うをひっくり返し、それでも出てこなかったとき、彼は、全身の力が抜けるような虚脱感に襲われた。ほどなく
して、自室の電話が鳴る。
「おう、生きてるか?」
 川尻からだった。
「最近、よく横浜へ遊びに行ってるそうじゃねえか。ところで、お前の親父さんが帰ってきたらしいぞ」
 ぐったりとソファに寝そべりながら、聞くとはなしに聞いていた織田が、ばっと起き上がる。そうだ。父に逢
えば、彼女の居所を紹介してくれるかも知れない。なぜそんなことに気がまわらなかったのだろう。自分の愚か
さに舌打ちしつつも、川尻に話しかける。
「帰ってきてるんですね!? これから、そっちに向かいます。川尻さんは――」
「いや、待て待て。どうした、せっかちだな」
 短気で有名な川尻にそう言われるとは、よほどのことだ。今の自分はどうかしている。
「いいか、落ち着け。お前の親父はたしかに帰ってきたんだが、俺んとこの奴らを見つけて、すぐ逃げ出しちま
ったんだ」
 川尻の話によると、組の若い衆にアパートを張り込ませていたらしい。父が帰ってくればすぐ川尻に連絡する
手筈だったが、運悪く玄関先で鉢合わせてしまい、逃げられたのだそうだ。
「取り押さえられなかったんですか!?」
 意外な失態に、語気が強まる。自分でも心なしか非難の色が混じっていた。
「若い奴らの話が、どうにも要領を得なくてな……。相手の目を見た途端、金縛りに遭ったように動けなくなっ
たんだと」
 最後のあたりは、笑い飛ばすように言う。完全に部下の証言を信じていない。それどころか、腹を立てている。
おそらくその「若い奴ら」は、彼によって厳しい処罰を受けるだろう。
「――で、お前の親父は、俺の部下を放って、いったん部屋に戻ったそうだ。探し物をしてたらしく、出てきた
ときは何とかってCDを手にしてた」
 受話器を片手に、織田はせわしなく思考を続けていた。どういうことだ? あの部屋には<jury system>の
CDしかなかったはず。そしてそのCDも、あの日、自分が持ち出した。もう一枚あったのか? いや、それは
ない。
 例のCDを確認しようにも、ついさっき失くしてしまった。持ち出した分が失くなって、父の部屋から、ふた
たび出てくる。まるで一枚のCDが瞬間移動したかのよう。

10 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:25:14

「父の身なりは聞きましたか?」
「ロングコートに、帽子を目深にかぶっていたそうだ。まあ、また戻ってきたら教えてやるよ。それとも、お前
があそこで待ってるか? 最初も言ったが、お前最近、横浜に通ってんだろ? そっちに女でも――」
 その後の会話は適当に受け流していたからか、よくおぼえていない。ともかく、父はCDを持ち去った。それ
が昨日まで手元にあった<jury system>のCDかどうかは分からない。だが、織田のなかにはひとつの予感が
あった。あの都市伝説は真実だ。たとえ一時他人の手に渡ろうとも、あれは犯罪者にしか所持できない。自分は
CDに拒絶されたのだ。資格がなかったのだ。――馬鹿らしいと否定していた物語が、非現実的なまま、彼の背
中に迫ってくる。
 織田は、前にも増して活動を続けた。仕事を切り詰め、寝食を惜しんで情報を集めていった。父を探した。余
碧蘭を探した。探しても探しても、それらしき影は見当たらなかった。それでも諦めない。もう一度、あのCD
を手にしたい。彼女のいるライヴ・ハウスへ行きたい。そして曲を聴きたい。
 狂ったように探し続ける。
 だが、繋がりは完全に断たれた。あのCDを失ったときから、どんなに探しても見つけられないことを、彼は
知っていた。もし都市伝説のとおりだとすれば……もう辿り着けないのだ、永遠に。
 方々を歩き回った末、ふたたび父のアパートを訪れる。以前と何も変わらなかった。壁に飾られている写真。
そこに映る彼女の姿。都市伝説が事実なら、彼女は限られた聴衆に向けて歌っている。罪を犯し、社会から逸脱
した者達に向けて。彼らを癒すために。
 今も、歌っているのだろうか。
 自分には見つけられないどこかのステージで、歌っているのだろうか。
 織田は唇をかすかに歪めると、携帯電話を取り出した。着信履歴から呼び出す。コール3回で繋がった。
「川尻さんですか? お願いがあるんですが――」

11 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:26:53

 4 MONOTONOUS LIFE

 11月20日、横浜中区、雨の降る午後――
“港の見える丘公園”の近くに、小さな教会がある。そこには信仰厚き神父がいて、訪れる者の悩みを解きほぐ
してくれるという。たとえその悩みが、常識から外れた怪奇の類だったとしても――
 横浜山手聖母教会。それが、ここの名だ。
 しかし今日の訪問者は、とてもじゃないが教会に似つかわしくない風貌の男だった。
 礼拝堂に居座り、机に足を投げ出している。不遜にも煙草をふかし、ステンドグラスに煙を吐き出す。傍若無
人なその振る舞いは、ここに誰もいないからなのか、いたとしても咎められないからか。
 黒井崇。三十代後半の、痩身の男だ。
 伸びすぎた前髪と無精髭のせいで顔の半分も見えていない。服装自体はシンプルだが、全身に煙草の匂いが染
みついている。彼は口元に意地の悪い笑みを覗かせ、新聞に目を走らせていた。
「白昼の銃声。神奈川県警は暴力団関係者同士の抗争と見て捜査中……。怖いねえ」
 台詞とは裏腹に、ちっとも怖がっていない。
 興味半分に記事を流し読みしていた彼は、目の端に知人がやってくるのを認めて、それを放り棄てた。
「あなたに頼まれていた件ですが、色々と分かりましたよ」
「おう」
「まず、先日あなたが運んできた死体の身元について――」
 およそ礼拝堂には相応しくない話題。けれど躊躇なく話しはじめる。
 彼こそこの教会の神父、ガブリエル早坂紘一だ。眼鏡をかけた端正な顔立ちは、派手さに乏しいが誠実さと温
厚さにあふれた柔和な美貌を備えていた。
 その彼が、浮浪者もかくやという猥雑な男と接している。しかも深刻な表情で。
「名前は崎屋壮介……となっていますが、これは偽名で、本名は織田壮介。57歳のフリー・カメラマンです。
ただ、ほとんど仕事はしていなかったみたいですね。家族はいますが、五年前に彼らの前から失踪しています。
現在の交友関係は皆無。住所は横浜西区の某アパート。あなたと遭遇する数日前から、そこへは帰っていなかっ
たようで……って、何ですか、もう」
 黒井は煙草を吸いながら、早坂神父の説明を聞いていた。気まぐれに、輪っか状にした煙を神父に吹きかける。
困った顔を見せる彼を鼻で笑い、
「さっさと本題に入らんからだ」
 と付け足した。
「順序というものがあるんです。さて、お預かりした物ですが、とりあえず現像してみました」
 そう言って神父は、小さな紙袋を差し出した。中にはフィルムとネガ、そして数枚の写真が入っていた。
 東洋系の女性シンガーが、ステージで歌っている写真。プロ並の技術で撮られていた。
「写真自体はどこにでもある普通の物ですが、フィルムのほうが特殊で。……あなたが話していたとおり、元は
違うものなんですね」
 机に広げられた中身のうちフィルムを手に取って神父が言う。しばらく彼の手でいじられていたかと思うと、
手品のように次々と変形し、やがて人間の眼球になった。
「非常に精巧な義眼です。しかも、表面に小さな刺青が施されている。私の知り合いは、そこにある種の妖力を
感じ取りました」
 話を聞いているのかいないのか、黒井はじっと写真を眺めている。一枚一枚、違う角度から撮られた女性の姿
を見つめる。
 やがて飽きたのか、写真をすべて机にバラまいた。天井を見上げ、ゆっくり紫煙を吐き出すと、ようやく神父
に問いかける。
「前に、似たようなケースがあったな」
「ええ、横浜ユニコーン・アイランドの一件ですね。瀬河修という少年にも、背中に同じような刺青がありまし
た。<バロウズ>の情報によると、これは<ASHES>というネットワークの一員である可能性が高いです」
「ハンターか」
 鬱陶しげに黒井が呟いた。
「いえ、厳密にはハンターとは別物で<報復者>と名乗っています。<ASHES>の実態は<ナイト・フォッグ>
の下部組織なのですが、末端の<報復者>は、そのことを知りません。それをいいことに、<ナイト・フォッグ>
は、ハンターと同じ力を持った彼らを操っているようですね。
 彼らは肉体の一部に妖怪の力を取り込み、おのれの力としています。彼の場合、カメラの付喪神がこの義眼に
施されていました」
 刺青という形を取って――と、神父は補足した。哀しげな目だ。それはこんな姿にされたカメラの付喪神と、
それを施された人間の双方を思ってのことだろう。

12 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:28:05

 妖怪。この世の闇に潜む、古来からの怪奇。神話や伝承、あるいはもっと身近な噂話に登場し、人々を脅かし
てきたもの。怪談にある鬼女や天狗のように有名なものもいれば、ごく一部にしか名の知られぬものもいる。
 彼らは時代が進むにつれ、文明社会にその住処を追いやられていった。誰も踏み込めぬ山林の奥、越えれば帰
れぬと言われた川の向こう岸、神社の裏手、村の外れ、空の彼方、海の底……そうした人々の近寄らぬ場に潜ん
でいたが、開発され、ひとつ、またひとつと失っていった。
 やがて彼らは自然の闇ではなく、都会の闇に潜むことをおぼえた。人間が造った文明社会の、その狭間でなら
居場所があろう。そう考えた一部の妖怪が、人々のなかに紛れ込んだのだ。それどころかネットワークを築き、
相互に助け合って生きている。
 黒井も早坂神父も人間ではなかった。彼ら妖怪は、なるべく世間に悟られぬよう正体を隠して暮らしている。
 ところがここ数年、情勢が変わりつつあった。人間のなかにその存在を知る者が現れ、妖怪を排斥しようと動
きはじめたのだ。
 なかには友好を求める者もいる。だがそれは少数で、大半の者は、さっき黒井が言ったようなハンターとなる。
妖怪を探し、そして狩る人間に。
「<ナイト・フォッグ>は、妖怪のネットワークだったよな」
「はい。国際的なネットワークで、我々とは対立しています。あらゆる犯罪を覆い隠す……という名目で活動し
ていますが、そのためにさらなる犯罪や大きな事件を巻き起こすことも」
「それが、人間を操ってるのか」
「都合がいいのでしょう。自分達と敵対する妖怪を始末するのに」
 ふたりの間に、しばしの沈黙が訪れた。ハンターと同じ力を手に入れた<報復者>も、しょせん妖怪の手駒と
して使い捨てられるのだ。そういう運命を辿った少年を、かつて黒井は知っている。この義眼を持っていた男も、
似たような境遇に陥ったのだろうか。
「彼の死体は、<バロウズ>で埋葬してくれるそうです。できれば、この義眼も――」
「後学のため、俺から没収したいってのか? 金も出してくれねえのに、手前勝手な話だな」
 黒井が拒絶する。<バロウズ>とは、早坂神父をはじめ人間に友好的な妖怪をまとめる、巨大ネットワークだ。
黒井も神父を通じて、わずかに繋がりを持っている。
 が、積極的に協力しようとは考えていない。彼の人間に対する態度は、友好とまでいかないのだ。
「これはしばらく俺が持ってる。写真とネガもな」
「分かりました」
 神父も了承した。この男に対して無理強いするつもりは毛頭なかった。「それで、これからどうするつもりで
す?」
 黒井は立ち上がって、新しい煙草に火をつけた。
 一息目を大きく吸い込み、肺から吐き出す。
「ここに、CDを再生する物はあるか」
「はい?」
 唐突な質問に、神父は思わず聞き返した。
「いや、あの死体から、ちょっと拝借していたんだが――」
 答えつつ、懐から一枚のCDを取り出した。それを見た神父がわずかに顔をしかめる。
 黒井には盗癖があった。さほど欲しくなくとも、機会があれば盗んでしまうのだ。二日前、横浜の中華街で男
の死体を拾ってここへ運ぶまでに、この程度の物を失敬するのは造作もない。
 大抵のことに寛容な神父も、さすがにこれは見過ごせなかった。かねてより直せ直せと注意しているが、昔悪
名を轟かせた黒井の手癖は更正の兆しを見せない。
「盗ったはいいが、ケースを開いてもいなくてな」
「手がかりになるかも知れないと?」
「さあな。だが昔の知り合いには会えそうだ――」
 そう言って、礼拝堂の出口へ向かう。呼び止める神父に背を向けたまま片手で応じ、黒井は、雨の降る街中へ
消えていった。

13 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:29:24

 5 A LOVE SONG

 結局、そのCDは黒井の自宅で再生されることとなった。彼の家はキーセンターを営んでいる。開店休業だ。
看板も下げられていないこの店には馴染みの客しか寄りつかず、また黒井も相手しようとしない。
 一階が機材の置かれた店舗、二階がプライベートな住居となっている。
 本人の性格を象徴したような汚い部屋へ戻り、黒井はベッドに腰かけた。猥雑とした空間。その片隅にあるオ
ーディオ・コンポの埃を払い、例のCDを挿入する。壊れていなければいいのだが。
 流れ出すメロディ。
 CDには<jury system>とあった。さまざまなアーチストによる合作アルバム。その中のひとりに彼は心当
たりがあった。CDは曲を流し続け、やがて、目当ての人物が歌うトラックへ。
 ブルースだった。よく伸び、響き、バックミュージックに映える声。聞きおぼえのある声。黒井はベッドに寝
そべりながら煙草に火をつけ、その一曲が終わるのを待った。
 はじめて歌詞カードに目を通す。中には折込が挟まれていた。ライヴ・ハウス<scaffold>への案内。ふっと
皮肉げに黒井の口端がゆがむ。紫煙が部屋じゅうに充満する。
 曲が終わった。彼は残りを聞かず、さっさと再生を停止させた。歌詞カードに挟まれていた折込をポケットに
押し込み、ふたたび外出する。

 同日、深夜――
 <scaffold>はすぐに見つかった。中華街からそう離れていない雑居ビルの地下。予約など入れずとも、すん
なり通してくれた。
 比較的大きなライヴ・ハウス。いくつかのエリアに分かれ、テーブルシートの他に、ボックスシートなどもあ
った。ステージは最奥、一段低いところに造られ、周辺はテーブル席で埋められていた。遠く離れた二階席では、
それら全景を見下ろすことができる。
 落ち着いた雰囲気の、クラシカルな世界。個々の客席に酒や料理を運べるバーもある。黒井はそのバーの近く、
ステージが小さく見える二階席に腰を下した。
 それにしても客がまばらだ。普通はファースト・ステージとセカンド・ステージの合間に客の入れ替えが行わ
れるが、その必要もなさそうである。集団で来ている者はなく、誰もがひとり、そう、たったひとりで、ここの
音楽に酔いしれている。
 皆、暗く沈んだ面持ちだった。
 外界での傷をここで癒すかのように、ステージの演奏に集中している。ある者は瞳を閉じながら、ある者はグ
ラスを傾けながら、一様に耳を澄まして。
 心の安住はステージの中にしかないとでもいった真摯さ。さながら儀式のようにも思え、黒井は自分の場違い
に気づいた。しかし居心地の悪さは感じない。咥え煙草で、この空間と同化する。
 ……半時間ほどしたろうか、ステージが暗転し、アーチストの入れ替わりがはじまった。これまで歌っていた
者に拍手が送られ、歌い手も軽くそれに応じる。それ以外は一切騒がない。わずかな私語さえ口にしない。気味
が悪いほど静かだった。
 ふたたびステージにスポットライトが当たったとき、東洋系の美女がマイク・スタンドの前にいた。シックな
ロングドレスに身を包み、堂々と舞台の中央に立っている。
 前奏がはじまり、彼女の声が聞こえはじめる。CDにもあった、例のブルース。生演奏ならではの迫力があっ
た。
 日本にブルースやジャズが浸透した時代といえば、やはり戦後のイメージが強い。第二次世界大戦後、壊滅に
近い被害を受けた日本は急速な勢いで復興していった。経済だけでなく、音楽においても海外の要素を取り入れ、
独自の進化を遂げた。淡谷のり子や青江三奈といったブルースの女王を輩出し、人々もそれに耳を傾ける、そん
な時代があった。
 黒井がこの国へやってきたのも戦後だ。あの頃の日本は何もなかった。いや、何もないからこそ何かを生み出
そうとする人々のエネルギーに満ちあふれていた。無論、そんな明るい側面だけではないのも知っている。戦後
には失意と貧しさという負の部分があり、人々はそれらに翻弄されていた。この目で見てきた。
 だが一時でも日々を忘れさせ、彼らを支えたもののひとつに音楽があったのだ。
 急速に復興していく日本と、徐々に変遷していく音楽。流行り廃りを越えて今も愛されているものもあれば、
一過性のものもあった。黒井は、日本のブルースは死んだと思っていた。それはひとえに彼の認識不足なのだが、
少なくとも彼の生活にそうした音楽が聞こえてくることはなかった。
 しかし違った。まさか地下のステージで、妖怪がそれを歌っているとは――

14 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:31:06

 ステージが終了した。帰り支度をはじめる者もいれば、まだここの空気に浸っている者もいる。黒井はしばし、
誰もいなくなった舞台を眺めていた。
 背後から近づいてくる靴音があった。
「ご愁傷様。これであなた、目をつけられたわよ」
 座席に座ったまま、首だけ振り向く。大量の煙を吐く。
「いつ日本語をおぼえたんだ?」
「あなたのためじゃないわよ」
 切れ長の冷たい瞳、氷のような――
 ロングドレスは私服に様変わりし、柳のように細い肢体を隠している。ステージでは伸ばされていた黒髪も、
今は結われ、かつて黒井が知っていた女の姿に、ほんの少しだけ近づいていた。
 再会の今このときにも喫煙をやめない、そんな横柄な客に声をかけたのは、さっきまで舞台に立っていた女性
シンガー、余碧蘭だった。

「中国の妖怪がブルースを歌うとはな」
 皮肉を言う黒井。たしかに、元々ブルースは黒人のものだった。西アフリカのリズムと音楽センスが、他の国
々の楽器や音楽形式と融合して生まれたもの。それがワークソングやスピリチュアルズに変化をもたらし、初期
のブルースとなったのだ。
 だが現在は全世界に広まっている。どの国籍のどの人種が歌おうと、もはや関係なくなっている。揶揄するた
めにその起源を遡るなど、無粋というものだろう。
 <scaffold>内のバー。
 黒井と碧蘭のふたりはカウンターに並んで座っていた。
「仕事のためよ。私はスティンガー。あなたは?」
「焼酎」
「野暮ね。ちょっとは合わせてくれてもいいじゃない」
 不平を漏らす碧蘭に肩をすくめ、オーダーし直す。
「スレッジ・ハンマー」
 ほどなくして、ふたつのカクテルが出された。しかし黒井は手をつけず、煙草を吸おうとケースに手を伸ばす。
空だ。ここへ来るまでに買い足しておけば良かった。
「吸う?」
 碧蘭が何気なげにメンフィス・ブルーを差し向けていた。遠慮しない。火をつけて彼女に向き直る。
「歌手が、喉を痛めないのか?」
「そんなにヤワじゃない……と言いたいところだけど、控えてるわ。だから普段は持ってるだけ」
 ふぅ、と、さっきまでとは違う味の煙を楽しみつつ、黒井が茶化す。「そういえば酒も煙草も、俺を真似て
はじめたんだったよな」
「ふん……」
 碧蘭はスティンガーに口をつけた。その昔、彼女は黒井と夜を共にしていた。互いに夜行性で、まだ彼らの
「散歩」が人に知られぬほど夜が深く、静かだった頃。
 その頃、ふたりは決して素行の良い妖怪とは言えなかった。
 はぐれ者として、自由であることを誇っていた。ネットワークに属し、その恩恵に授かる者を見下してさえい
た。その傾向は黒井よりもむしろ、碧蘭のほうが激しかった。
 近代化されていく中国。徐々に住み場をなくしていく妖怪達。
 紆余曲折を経て、黒井は碧蘭と決別した。ひとり日本へと身を投じて。
「どうやってここを知ったの?」
 あえて過去には触れず、碧蘭が問うた。
「ここの常連客と知り合ってね。……もっとも、そいつはもう喋れなくなっていたが」
 黒井はテーブルに義眼を置いた。「こいつに見覚えは?」
「……あるわ」
「ほう」
「カメラと被写体の関係だった。それだけよ」
「お前が殺したのか?」
 追撃急である。碧蘭はしばらく言葉を詰まらせた。
「……結果的には、そうなるわね。ここのことは、誰にも漏らしちゃいけないの。たとえそれが過失だったとし
てもね。彼は身内に嗅ぎつけられた。だから制裁を受けた」
 立ちのぼる紫煙に身を委ねながら、黒井は黙っている。

15 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:32:19

「撮られて悪い気はしなかったわ。彼はそれ以上立ち入らなかったし、私もそれで良かった。最期まで、一度も
言葉を交わさなかった」
「ここの情報は、都市伝説以外で伝わってはいけない。都市伝説にある手段以外でCDが手に入ってもいけない。
おおかた写真が他人の目に触れ、CDが流出したってところか」
 そう言って、やっとスレッジ・ハンマーを一口飲む。碧蘭が微笑する。
「なんでも知ってるのね」
「道すがら調べただけさ。ここは隠れ里なんだろ?」
 彼女は首肯した。
 隠れ里とはこの世の隙間にある、妖怪の隠れ家である。ここではないどこか。森の中にある妖精郷、滝の裏側
に続く洞窟、あるはずのないビルの階数……そんな、現実世界から少し道を踏み外した異界や秘境のことを、ま
とめてそう呼ぶ。
 所有者以外には入れない隠れ里、来る者は拒まずの隠れ里、ある条件を満たせば招き寄せられる隠れ里――そ
の種類は様々だ。このライヴ・ハウスは、おそらく訪問者を選別する類のものだ。<jury system>のCDを持ち、
そこに折り込まれている案内に頼らねば、見つけることもままならない。そういう過程を経て、やってくる者の
タイプを絞り込んでいる。
「住人は私を含めて、両の手で数え切れない。元々の支配者は殺されたわ。今は私達が共有してるの」
 グラスの中の氷塊が揺れる。スレッジ・ハンマーは半分ほどなくなっていた。アルコール度数30近くのこの
カクテルは、鍛冶屋にある大型ハンマーがその名の由来。後頭部をそれで殴られるほどの衝撃があるという。グ
ラスを弄びながら、黒井が言う。
「凶悪な犯罪者が捕まらない、検挙されない、時効になった……という人々の不満、警察への疑念、そして雲隠
れした犯罪者の居所への関心が、ここを形作ったんだな。それに『秘密主義のライヴ・ハウス』や『誰も知らな
いインディーズ』なんて具体的なイメージが付与されて、都市伝説となった」
「彼の復讐をしようというなら、やめておいたほうがいいわ」
「復讐? 冗談じゃない」
 黒井は、さもおかしそうに笑った。
「俺はそいつに、厄介な頼まれ事をされてね。できるなら、お前に押し付けたいぐらいさ」
「お断わり」
「へっ。しかしここは、客が少ないな」
「都市伝説を聞いたなら知ってるでしょ? ここに来ている連中は、脛に傷もつ社会逸脱者ばかりよ。そういう
人間しか入ってこれない。この隠れ里は彼らにとって、最後の拠りどころなの」
「さぞかし、妖怪ハンターやはぐれ者の妖怪なんかも入り浸ってるんだろうな」
「……何が言いたいの?」
「隠し事は程々にしておいた方がいいってことだ」
「あなたも言動に気をつけることね。ここでの会話は、私以外の連中も耳にしてるってこと、忘れないほうがいい」
 黒井はストゥールから立ち上がった。グラスは空になっていた。残りわずかとなったメンフィス・ブルーと代
金をテーブルに置き、別れも告げずに<scaffold>から出て行こうとする。碧蘭は見送らなかった。そうしたと
ころで、何かが変わるわけではない。
 いつも勝手な男だった。自分を捨て日本へ消えたときも、前触れなど見せなかった。身勝手で、何を考えてい
るのか解らなくて、そうして唐突に姿を消す。期待はしていない。きっと今回も、そうなのだろう――

16 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:33:39

 6 サイコアナルシス

 11月26日深夜、横浜中区――
 港沿いの廃倉庫。
 外にはベイブリッジの夜景が広がっている。廃倉庫と言っても、内部はすっかり改装されていた。入り口付近
はコンテナが積まれ一見それらしいが、中央で区切られ、そこから奥は人間の住める空間 彼はベンチから立ち
上がった。義眼を握りしめ、歩き出す。人間に妖怪の力を与える、この刺青。それを施しとなっている。
 水道、電気、ガス、冷暖房完備。調度品も高級で、この間まで彼のいたマンションより居心地が良かった。何
より、広い専用暗室が用意されているのが、ありがたかった。
 <鬼総会>のダミー会社が買い取った物件。そこに織田久弥はいた。
 彼はすでに川尻のお抱えカメラマンなどではなかった。彼のために引き金を引き、人を殺める、ひとりの部下
だった。
 横浜へと勢力を広げる<鬼総会>の尻馬に、彼が乗っただけの話。そう、彼には都合が良かった。そうせねば
撮りたいものを撮れなかった。彼女がいるというライヴ・ハウスの都市伝説。織田は恋焦がれた。切望し、これ
までの生活を捨てる決意をした。
 あの夜の電話がすべてを変えたのだ。川尻は自分のことを気に入ってくれていたから、ふたつ返事で了承して
くれた。こうして彼は「筋金入り」となったのだ。
 もはや傍観者でいられないが、こうした場所へ引きこもる必要もなかった。横浜の地元暴力団と抗争している
とはいえ、すべてをドンパチで片付けているわけではなかった。むしろそれは非常手段だ。最少人数を、恫喝の
道具として処理する。誰にも見つからない場所で。
 織田は、こうした仕事を少し請け負っただけなのだ。だから面が割れることはない。彼がここに引きこもるの
は、以前とは違う自分になったのだという自覚と、東京より横浜へ出向くのが多くなった事情からだ。川尻に甘
えて、用意してもらった。奴には一生頭が上がらないだろう。
 倉庫には音楽が流れている。織田はそれを聞きながら、奥にある専用暗室へと赴いた。
 暗幕に覆われた、完全な闇の世界。現像されるのを待っているネガ。彼にとって居心地のいい世界。
 しかしそこに異物が侵入していた。誰もいないはずの暗室に、小さな灯りが灯されたのだ。ライターの炎。数
瞬だけ辺りを照らし、幻みたいに消えていく。無精髭の男が見えた。しばらくして、ふぅっと吐き出される煙。
そいつは煙草を吸っている。
「……誰だ?」
 恐怖を感じながらも、織田がそう問いかけた。影は答えない。ただ、こちらへと近づいてくる。
「どうやって、ここへ入った?」
 後ずさりしつつ、さらに問う。影の動きが止まった。溶液の中にある現像された写真を手に取り、見つめてい
る。気配でわかる。
「――こんな女の写真を撮って、何が嬉しいのかねえ」
 こちらからの問いには答えず、そんなことを影が呟いた。織田は反発をおぼえた。恐怖より怒りが優越する。
「何を撮ろうと、俺の勝手だろう」
「そうだな、勝手だ。その結果犯罪者になり、命を狙われるようになっても、お前の勝手だ」
 意地の悪い影の返答。織田は苛立ちをおぼえながらも、自分の足が震えているのを認めた。どうやってここへ
入った? こいつは誰だ? 俺のことを、どこまで知っている?
「そう緊張するな」
 影が進み出て、その輪郭があらわになる。闇に慣れた織田の目が、その姿を確認する。
 蓬髪の、痩せた男だった。先ほど灯された煙草の炎が、皮肉っぽく歪んだその口元を照らしている。
 そいつは、無遠慮に織田の真横を通り過ぎると、暗室の出口へ向かっていった。
「お前と同じ<scaffold>の客だよ。こっちに灰皿はあるか? ……なければ、床をそのまま灰皿にしちまうだ
けだが――」

 黒井と名乗る男を部屋に招き入れたときには、織田も、どうにか冷静さを取り戻していた。
 相手が正体不明の人間であることは変わらない。しかし、今すぐ何かの危害を加えようというわけではないら
しい。いや、それすらも演技で、自分を油断させる作戦なのだろうか。彼は用心していた。用心ゆえに黒井とは
距離をとり、いつでも拳銃を取り出せる位置にいた。

17 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:35:10

「お前の親父さんに頼まれてね」
 黒井はソファに座らず、壁沿いに身を預けている。
「父に?」
 意外な切り出しに、織田は当惑した。最悪、<鬼総会>の抗争相手である地元暴力団の尖兵ではないかと疑っ
ていたのだ。
「俺に、お前さんを殺してほしいそうだ」
 織田は身構えた。父を持ち出したのは動揺させるためで、やはり暴力団がらみの人間なのか。にやにやと薄い
笑みを浮かべているこの男は、前髪と髭のせいでひどく顔が見えにくかった。
「だから、そう緊張するなって。俺にその気はない」
 信じられるか。織田は、この男から醸し出される剣呑な雰囲気に脅えていた。少なくとも、まともな人間の雰
囲気ではない。武闘派で鳴らした川尻の、いや、それよりも危険な匂いがする。
「ちょっと話を聞きたくてな。お前、<scaffold>に入るために人を殺したのか?」
 何気なく訊ねてくる。あの都市伝説を知っているのか? そういえば<scaffold>の客だと言っていた。自分
と同類、自分と同じ者……とてもそうとは思えなかった。
「どうなんだ?」
「……そうですよ。でも単独でやったわけじゃない」
「やくざの後押しと保護があってか。臆病だね、どうも」
「俺が人を殺したと、どうしてそう?」
「目で判る。業を背負った人間の目には、どうしたって暗いものが宿る。それと……さっきから曲が流れている
からな。<jury system>のCD。俺も持っている」
 室内には、ブルースが流れていた。
 余碧蘭の――かつての黒井の女の――歌声が。
「もう生で聴いたのか?」
「聴きましたよ。痺れましたね。初めての日はシャッターを切るのも忘れて、聞き惚れていた。ようやく求めて
いたものに巡り逢えたんだと」
 ずっと願っていた。一線を踏み越えて、やっとそれは叶えられた。彼のもとに、ふたたび<jury system>の
CDが舞い込んだのだ。以前は存在しなかった歌詞カードの折込に導かれ、<scaffold>の扉を開いた。
 CDで聞いたのと、まったく同じメロディ。
 気だるくも狂おしい、頽廃のメロディ。
 切々と、観衆の耳に響いてくる。
 観客はまばらだった。
 その誰もが、ステージの歌姫を見つめていた。彼女にだけ視線を注いでいる。自分も心を奪われた。なんて哀
しい瞳をしているのだろう、彼女は。父はこの瞳を、物憂げなこの顔を、自分の写真に収めたかったのだろうか。
「ここにあるのは、全部お前さんが撮ったやつかい」
 黒井の問いに、織田が頷く。部屋のあちこちに、引き伸ばされた余碧蘭の写真が飾られていた。だが、どれも
粗末な扱いだ。飾っているというより、見せしめに貼り付けているといった感じ。未熟な自分の腕を戒めるため
に。
「満足のいく一枚が撮れないんですよ。見下していた父のものの方が、マシに思えてくる」
「同感だ」
 無遠慮な黒井の感想に、織田は不快さを隠さなかった。
「……父はどうしているんですか?」
「もう死んだ」
 あっさりと黒井は答えた。壁の写真から目を離し、織田に向き直って何かを投げる。
 織田は、思わずそれを手で受け止めた。
 掌にある物体を確かめる。義眼だった。
「お前の親父も<scaffold>に出入りしていた。それが、その末路だ」
 都市伝説の内容に思い当たる節があり、織田ははっとした。
『……口外しないこと。あのライヴ・ハウスの場所を、決して部外者に漏らさないこと。もし破れば、<scaffold>
のスタッフによって消されるだろう……』
「原因は、俺ですか」
 認めたくない事実。あれは、能動的な行為以外も適当されるのか。とにかく漏洩しないこと。たまたま空き巣
まがいに侵入してきた息子が、たまたま写真を持ち去っただけでも、アウトだったのだ。
「そういうことだ。お前の親父さんは、何らかの方法で、お前が嗅ぎつけたのを知ったんだろう。死ぬ寸前に、
俺に泣きついてきたぜ」
「殺してくれ、と?」
「ああ」
「――きっと、息子が自分以上に良い写真を撮るのを怖れていたんですよ。失踪してから、腕がなまったみたい
ですからね」
 義眼をテーブルに置きながら、注意深く黒井を見つめる。

18 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:36:10

「あなたと父は、どういう関係だったんです?」
「別に。道端に転がっていたのを見つけただけさ。もともと酔狂な盗人でね。欲しくないものでも拾っちまう」
「冗談は、それぐらいにしておきましょうよ」織田はソファの背もたれに隠していた、一丁の拳銃を取り出した。
「何が目的です? 何が欲しい? 返答によっては、ここから帰れなくなるかも知れませんが――」
 座ったまま威嚇する。銃口を黒井に向けて。
「急くなよ。さっき親父以上に良い写真を撮ると言ったが、それはできたのかい? できねえから、こんな所に
篭っているんじゃないか」
「あんたには関係ない」
「お前には無理だよ、多分」
 銃を突きつけられても黒井は飄然としている。煙草の火が揺らめく。
「お前は親父と同じ場所に行こうとした。そしてお前は、そこに辿り着いたと思った。だが、それは錯覚だ。お
前と親父とじゃ、あそこにいる意味も意義も違う」
「…………」
「仮に親父以上の写真が撮れたら、お前、どうするんだ?」
「それは……」
「今みたいに自室に飾っておくか。それで満足なら構わんが。写真家ってのは、誰かにそれを見せるために、写
真を撮るんだろ?」
 銃声が響いた。
 黒井の肩越しに、銃弾が駆け抜けていった。壁の写真――余碧蘭の額――に、穴が穿たれる。
 それでも黒井は微動だにしなかった。平然と煙草を吸い続けている。
「ごちゃごちゃと……っ! 文句を言いに来ただけなら、出て行け! まだ居るつもりなら、今度は本当に狙うぞ!」
「そうだな。俺にとっちゃ、どうでもいいことだ。どこで誰が死のうが、人間が何に巻き込まれようが。だが知
り合いがちょっとトチ狂っててね、個人的にその義眼に憑いているものにも恨みがある」
 黒井の視線が織田からテーブルの義眼に移る。奇妙な刺青が施されたそれは、まるで意志を持っているかのご
とく黒井を睨み返していた。
 織田がふたたび拳銃を構える。そのとき、義眼の瞳孔が赤く濁った。黒井の身体が硬直する。自分の意志とは
裏腹に。
 二発目の銃声。今度は直撃した。
 左胸よりやや下の辺りが血に染まった。黒井は、まったく動かなかった。さっきまでのような余裕からではな
い。不自然な干渉、外界からの強制によって。
 動かなかったのではない、動けなかったのだ。
「ここぞというときに、邪魔してくれる……」
 傷口を手で抑え、悪態をつく。悲鳴も苦悶の喘ぎも上げない。にやりと笑って、この状況を楽しんですらいる
ようだ。
 興奮して立ち上がった織田がテーブルとぶつかって、義眼は床にこぼれ落ちた。黒井がそれを拾う。銃弾を撃
ち込まれたとは思えぬほど機敏で、隙のない動作だった。
「待てっ――」
 織田の制止も聞かず、黒井はそのまま奥の暗室へ向かった。三発、四発と、連続で発砲される。どれも外れ。
背中に目があるのかと疑いたくなるほど正確に躱される。
 そして、暗室で消えた。
 何の痕跡も残さず、影の中へでも潜ったように。
 怒りのせいで忘れていた恐怖が、徐々に甦ってくるのを織田は感じた。結局、奴は何者だったのだろう。どう
やってここへ忍び込んだのだろう。<scaffold>の都市伝説を知って以来、身近になった非現実が、またも彼を
追い詰めようとしていた。

19 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:38:01

 7 PAPPAYA

 11月27日午後、横浜中区――
 一般に中華街と呼ばれているこの界隈に、『鴻華菜館』という飯店があった。かなり古くからある店で常連客
も多い。人間だけでなく、妖怪も含めてだ。
「まったく、いつもながらお主には手を焼くわい」
 店内の、一般客は出入りできない奥の一室で、禿頭の老人が溜息をついた。
 頭は禿げ上がっているが、顎にはなみなみと灰色の髭をたくわえている。小さな身体ながらも背筋は伸び、き
びきびとした印象を見る者に与える。これで齢何千年というのだから、人間ではないのは明白だ。
 彼の名は神農。中華街近辺の妖怪達を統べる、薬の妖怪だ。
「早坂殿が心配しておったぞ。お主はいつもひとりで先走るから――」
「爺さん、そんな説教をするために俺を呼び出したのか?」
 面倒くさそうに煙草から口を離す。神農は丸テーブルを囲んで、黒井と対峙していた。
 どちらが目上でどちらが目下か、言うまでもない。その昔、彼らは退治する側とされる側だった。日本へとや
ってきた黒井は当時盗人として活動し、中華街の妖怪に目を付けられたのだ。
 なかなか捕まらない黒井に業を煮やした神農が、本腰を入れんとしたとき、早坂神父が仲介に入った。両者を
調停し、黒井を神農のネットワークに招いた。もっとも、招いた方も、招かれた方も、そんな意識は薄いのだが。
 以来、神農とも早坂神父とも腐れ縁が続いている。
「港でお主の姿を見たという報告があっての。放っておくこともできんし、少し話を聞こうと思ったんじゃ。こ
っちから連絡せんと、お主は全然顔を見せんからな」
「当然だ」
 かつての追跡者に、不敵な笑みを送る黒井。しかし、これでも彼はこの老人に敬意を払っているのだ。神農が
身を乗り出して話しはじめると、彼も煙草を灰皿で揉み消し、吸うのをやめた。
「お前が調べておる件、<バロウズ>でも話題になっとる。現場の妖怪が協力してくれんと嘆いておったが……」
 ちくりと、黒井の素行の悪さを刺す。だがそのぐらいで動じていては、黒井もこの老人の相手はできない。平
然と受け流し、先を促す。
「……あの隠れ里の真の目的は、社会からの『逸脱者』を把握するためらしい。ネットワークに属さぬ妖怪、ま
た妖怪ハンターのほとんどは、社会からはみ出し、孤立して生きておるからのう。そんな者にとって、あの
<scaffold>という隠れ里は、絶好の安息地となるじゃろう」
「いい具合に都市伝説が広まれば、蛍光灯に群がる蛾みたいに、かりそめの憩いを求めに来るってことか」
 話しながら顎髭を撫でる神農に、黒井が相槌を打った。そのぐらいは彼にも推測できた。妖怪も妖怪ハンター
も、はじめは警戒するだろう。が、いずれ居心地の良さに利用する者は増えていく。そしてそれは、都市伝説と
なる。
「<ASHES>の報復者も、そこに含まれるのか?」
「む? うむ、そうじゃな。組織の内外部含め、あらゆるハンターや報復者の動向を、できうる限り調査し、情
報収集しておるのだ。
 <scaffold>は、全国各地に点在する『出入り口』と、そこから繋がるステージ、楽屋、客席を保有する、か
なりの規模の隠れ里じゃ。かつては支配者級の妖怪がおったみたいじゃが、もう殺されて、別の者に奪われてお
る」
「隠れ里の強奪か……」

20 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:38:33

「と言っても、制御できておるのか否か。あれ以来、<scaffold>そのものが一匹の妖怪のように、やってきた
異端者を受け入れ、その安息を保証しておる。あそこで働いておる妖怪も、その様子を見届ける監視者程度の力
しか持っておらぬだろう」
 言って、神農は目を閉じる。彼の住む中華街も、これに似た性質を帯びているのだ。街そのものが生き物のよ
うに蠢き、変貌する異境として。
 中国の様々な時代が繋ぎ合わされた街並み。神農をはじめとする中国系の妖怪が、故郷を懐かしんで造った隠
れ里。はじめは壷の中にあったそれが、とある地震の影響で、現実世界と重なり合ったのだ。
 ゆえに中華街は、昼と夜とでその様相を変える。夜になると隠れ里としての街並みが現れ、昼のそれと入れ替
わってしまう。彼らはこれを<裏の中華街>と呼んでいた。もはや持ち主も支配者も存在しない。勝手に現れ、
勝手に消えゆく。誰にも制御できない。
 中華街の妖怪は、こうした現状を受け入れることにした。夜にここを訪れる人間も、この異変に気づかず(気
づいても『変だ』とは思わず)、過ごせている。隠れ里そのものに危険はないため、放置してもいいだろうと判
断したのだ。
 だが、<scaffold>もそうだとは限らない。『犯罪者だけが入れるライヴ・ハウス』となっているが、その裏
に隠れ里のどんな意志があるのか分からないのだから――
「それでお主、中に入ったのか? 早坂殿によれば、知り合いに会いに行くと言っておったそうじゃが」
「まあな。だが爺さん、あんたの知ってる奴じゃねえよ。何しろ俺が大陸にいた頃の知り合いで、しかもネット
ワークに属していなかったからな」
「お主と同類か」
 苦笑まじりに神農が言う。黒井のような手合に、彼は多くを望まない。腕ずくで自分やネットワークの方針に
従わせもできようが、それは彼らを殺すのと同義だ。無頼であるからこそ、縛られていないからこそ、黒井のよ
うな連中は存在できる。
「しかし厄介じゃぞ。お主もすでに知っていようが、相手は世界規模の犯罪ネットワークじゃ。群れを嫌う最強
の狼も、徒党を組んだ並の狼らには敵うまい」
「忠告だと思っておくぜ」
「……お主も、もうちっと連帯することの大切さを学べばのう……」
「俺みたいな奴が連帯したら、逆に足並みが乱れるだろうさ。ところで、久々に会ったついでだ、ちょっと頼ま
れてもらうぜ」
「わしに拒否権は無しかい」
 文句を言いながらも、神農の声色は明るい。孫に小遣いをせびられる好々爺の心境なのだろう。
「この義眼。中華街の、過去を見通せる目を持った奴に見せてくれ。面白いものが見れるだろうよ。ただ悪いも
のが憑いていてな、注意するように――」
「その悪いものが、お主の身体に風穴を開けたのかの?」
 茶をすすりながら、神農が絶妙のタイミングで突っ込む。
 昨夜、たしかに黒井は撃たれていた。妖怪ゆえに弾丸の一発程度では死なないが、まったく痛くないというわ
けでもない。それを見破られてしまったのだろうか。それとも。
「……爺ぃ、どこまで知っていやがる」
「ほっほ。お主のことは、港で見かけたと言ったじゃろう」
 してやったりという顔で、からから笑いはじめる。黒井は肩をすくめた。喰えない爺さんだ。きっと追いかけ
っこを続けていたら、最終的には捕まっていただろう。

21 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:40:08

 8 Midnight Dejavu

 11月29日、横浜中区、深夜――
 織田久弥は<scaffold>内のバーにいた。さっきまでステージへとカメラを向けていたが、それはもう仕舞っ
ていた。被写体はステージから降りてしまったし、その被写体が今、彼に話しかけているのだから。
 余碧蘭の方から声をかけてきた。
 昨夜から彼女とふたり、バーを利用するようになった。
 すでに他の客は帰っている。最初、織田は憧れのシンガーと酒を飲めることに、有頂天となっていた。舞い上
がって、自分が何を話していたかもおぼえていない。しかし時間が経つにつれ、彼女が、黒井と名乗る謎の男と
同種の匂いがするのを感じ取っていた。
 この女性は美しい。けれど、危険だ。
 しかしそれでも彼女との一時を捨てようとは思わなかった。惜しむらくは、まだ彼女に誇れるほど上手い写真
を撮れていないことだ。彼女はそれに興味を示して、自分に近づいてきたのだから。
「女性にスレッジ・ハンマーは強くないですか?」
 気持ちを切り替えるため、彼女が新たに注文したカクテルの話をする。それまでも結構刺激的なカクテルを飲
んでいたが、最後にはこれを飲むと決めていたようだ。その瞳は、グラスに浮かぶ氷塊へと向けられていた。
「いいのよ。それより考えてくれた? ここに居てくれること」
 碧蘭が話題を戻す。
 彼は、ここで働くよう誘われていた。その代わり、今までの犯罪はすべて揉み消してくれるという。戸籍さえ
も買い換えて、完全な別人になれる。都市伝説にあったとおりだ。
「そうすれば、安心して暮らせるわ。何に脅えることもない。暴力団の一員になったそうだけど、一生、その道
を歩いていくの? 川尻さんだっけ。その人が失脚しないとも言えないんじゃない」
 ……たしかに、川尻のやり方ではどこかに無理が出てくるだろう。これまで成功していたとして、これからも
失敗しないとは限らない。
 元々、この<scaffold>へ入るために犯した罪だった。受け入れてくれるなら、飛び込んでしまってもいい。
だが彼の決断を鈍らせるのは、もうひとつの条件があったからだ。
「あの……。どうしても、ここで撮った写真は……」
「駄目よ、世間に発表しちゃ。親しい人間にそれを見せるのも禁止。……もっとも、あなたにはいないでしょう
けど」
 ちょっと小馬鹿にした口調。織田は怒る気にもなれなかった。これほど美しい女性に構ってもらえているのだ、
嘲られても仕方がない。
 織田は迷っていた。自分はここへ辿り着くのに執着し過ぎて、その後のことをまったく考えていなかった。写
真を撮れば、どうしても発表したくなる。すべての創作はそれを創った自分以外の誰かにその感動を――それは
ポジティヴなものでも、ネガティヴなものでもいい――共有してもらうためにある、とは写真学校での恩師の言
葉だ。今はその意味が、痛いほど分かる。もし会心の作ができたら、人にそれを見せたい。賞賛されたいとか批
評されたいとか、そういう俗っぽい欲は抜きにして、ただ、純粋に見せたいのだ。
 父の部屋で見た、哀しくも儚い写真の数々。なぜあんなにも美しく撮れたのだろう。織田はただただ心惹かれ
た。自分も撮りたいと思った。父の写真を見たのと同じように、自分も、誰かにこの感動を伝えたかった。創作
は連鎖していかなければ嘘だ。前の世代の作品に魅せられ、嫉妬し、模倣し、ときにはそのレベルの差に絶望し
……次世代の人間が追い抜こうと足掻いているからこそ、世に作品が絶えないのだ。
 その連鎖から断ち切られる。彼は身を引き裂かれる思いだった。けれど、今のままでも発表の場は残されてい
ない。父のせいで希望の業種に就職できなかった。しかも自ら、その夢を遠ざける影の世界へ踏み込んでしまっ
た。もう帰ってこれない。遅すぎた。
『写真家ってのは、誰かにそれを見せるために、写真を撮るんだろ?』
 いつかの言葉が甦る。悔しいが、そのとおりだよ。それを言った無精髭の男に、心うちで認める。奴の話を信
じるわけじゃないが 父はすでに殺されたのだという。自分が写真を持ち出したから? 外界に情報を漏らした
から?
 父は、写真を発表しなくても平気だったのだろうか。はじめて<scaffold>へ来たとき、生の碧蘭の美貌を目
の当たりにして喜ぶ反面、どこかで心を翳らせていた。たしかに美しかったが、父の写真というフィルターを通
すことで、さらに彼女の哀しみや儚さが、浮き彫りにされているように感じたから。
 それを越えようと努力した。だが最初から勝負は決まっていた。父は自分にはない、彼女へのシンパシーを感
じている。

22 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:41:47

「どうしたの? 色々考え込んでいたみたいだけど」
「いえ……。父のことを、少し……」
 しどろもどろになりながらも、なんとか答える。碧蘭に顔を覗き込まれていた。心臓の鼓動が早くなる。
 自分も殺されるのだろうか。ただ写真を見せる、それだけの行為で、殺されてしまうのだろうか。
 彼女の誘いに乗って、ここで暮らせば幸せだろう。だけどその幸せには、決定的な何かが欠如していた。
「お父様、失踪なさってるんだって? 住所は分かったけど、帰って来ないんだったのよね」
「余さんは、ここで父に撮られていたんですよね」
「ええ。しょっちゅう来てたわ。でもあなたが来るようになってから、全然顔を見せなくなって……」
 残念そうに、碧蘭が語る。これも演技なのだろうか。表面では父子の再会が果たせずにいる自分に同情してみ
せ、裏では父を殺めてしまったのだろうか。疑いたくないが、やはり信用しきれない。彼女からも危険な香りが
するのだ。
「ね、そろそろ答えを出してちょうだい。急な話だと思うけど、悪いようにはしないから」
 織田は目を瞑って、葛藤した。
 返事を出すのに、たっぷりと時間をかけた。
「……俺、やっぱりお誘いに乗れません。写真をやめるってことは、俺が俺でなくなるってことです。一生日陰
者でも、カメラを握っていたい」
 碧蘭の顔が翳った。明らかに落胆し、そして激情に身を震わす。そのとき、織田のものでも碧蘭のものでもな
い、第三の声が聞こえた。
「よく言った」
 黒井だ。彼はどこからやってきたのか、ふたりの後背、――ステージ袖の照明スイッチに寄り添っていた。
 スイッチを入れる。照明がつく。誰もいないステージ、誰もいない観客席に、煌びやかな光がもたらされた。
「随分と引き込みに熱心だな。口封じしなければ、自分の立場が危ういか?」
 碧蘭に向け、皮肉っぽく笑う。彼女はそれを受け止め、ストゥールから立ち上がった。
「あなた……、どうしてそれを……っ」
「そろそろ身元を明かしたらどうだ? 犯罪者を匿う隠れ里。あの義眼に憑いていた魔性の霧は、そいつ――」
と言って、織田を指差す――「そいつに近づいた俺を傷つけた。これだけ条件が揃っていれば、どのネットワー
クか見当はつくがな」
 碧蘭は全身を駆け巡る激情を殺すと、途端、自嘲めいた笑みを浮かべた。
 冷たい双眸。
 諦観したような、硬質の表情。
「そうよ。<ナイト・フォッグ>……。でも日本のそれじゃないわ。<ナイト・フォッグ・チャイナ>。日本の
<ナイト・フォッグ>に協力する形で、この国の動向を窺っているのよ」
「ネットワークには属さないんじゃなかったか?」
「あなただって!」碧蘭は激昂した。「あなただって、<バロウズ>や<裏の中華街>に肩入れしてるじゃない!
 ……時代が流れすぎたのよ……大陸の荒野でふたり、夜を疾駆していた頃には戻れないわ……」
「そうかい」
 別れてから数十年。――彼女はもはや、孤高の一匹狼ではなかった。時代の波に逆らえず、ネットワークに属
していた。しかも<ナイト・フォッグ>に。
 CDや写真が出回ったら、それを漏らした人間だけでなく、自分さえも<ナイト・フォッグ>に粛清される。
だから殺した。後は、その息子もこの隠れ里に閉じ込めればいい。……昔の、ネットワークに頼らない彼女の気
高さは、消え失せていた。
 だけど、そんなときに黒井と再会した。期待していなかったわけじゃない。ここは日本。彼が私を棄て、飛び
込んでいった国。出会えるんじゃないかと心の隅で期待しながら、どうしても自分から会いに行けなかった相手
のいる国。
「……変わったわね、お互い……」
「そう思ってるのは、お前だけさ」
 黒井は碧蘭との距離を詰めていた。バーまでは、まだ随分と開いている。おそらく彼女は、それまでにこちら
へ飛びかかってくるだろう。そして自分も。
 碧蘭の姿が、徐々に変化していく。
「ねえ、私の邪魔をしないでくれる? 別にいいじゃない、人間のひとりぐらい。この隠れ里で暮らしていたほ
うが、安全よ」
「人間がどうのじゃない」黒井もその本性を現していく。「人間を利用することでしか生き残れない、お前の弱
さが問題なんだ」
 二匹の獣は相対した。一方は、黒と赤の斑の体毛。狼に似ているが一回り大きい。頭から背にかけ毛が逆立ち、
脚には水かきのある、赤い眼の四足獣。
 シイ。中国では戦乱や亡国の前兆として恐れられる、夜の魔物。それが黒井崇の正体だった。

23 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:43:28

 もう一方は、シイよりは小さな体躯だった。豹に似た青い獣で、全身は山猫のようにしなやかだ。変化した黒
井の姿を見て、唸るように喉を鳴らしている。
 風狸、あるいは風生獣と呼ばれている魔物。伝承によれば、風に乗って空を飛べるのだという。余碧蘭は、そ
れが人間に化けたものだった。
 姿を晒し合うのは何年振りだろう。もはや叶わぬと思われた一時。だが、共に夜を駆けるのではなく、互いに
傷つけ合うために正体を見せたのだ。
 織田は驚いていた。非現実にもいい加減慣れてきていたが、今回はとびきりだ。ここには、自分以外に人間は
いないのか? そうだ、ここのバーテンダーは? さっきまでホールを片付けていた、清掃員は?
 ――どれも人形に変わっていた。いや、戻ったと言うべきかも知れない。まるで何かが抜け落ちたかのように、
ぐったりしていた。糸の切れた操り人形。
「私以外に住人がいないときを狙ったみたいだけど、残念ね。この隠れ里自体が、大きな妖怪みたいなものよ」
 言って、風狸がシイに肉薄した。迅い。全身に風を纏い、滑空するようにステージまで一直線。風の化身の彼
女にとって、この程度の距離は無きに等しい。
 シイは迎え撃たなかった。足元にある影に四肢を溶かすと、そのまま全身を中に沈ませたのだ。風狸が風を操
るなら、シイは影を操る。影から影へ、亜空間の「門」を通じて移動する。それが彼の能力だった。
 突風と黒影が、<scaffold>内で幾重にも交錯する。それは地面だけに留まらず、壁や天井までも利用した縦
横無尽なもの。剥かれる牙、鋭く疾る爪。空間すべてを使って、シイと風狸が激突する。
 その光景は、見る者によれば風狸がシイを追いかけているようにも映るだろう。
 影の門を抜けたシイに、風狸が素早く襲いかかる。だが直前で躱される。シイも時おり風狸の相手をするが、
そのほとんどを受け流す。二匹の関係性を暗示している戦い。
 碧蘭は必死に黒井を追いかけていた。自分の中に彼を見出し、彼の中に自分を見出そうとした。それが彼女に
とっての――互いにとっての――重荷になるとも知らずに。
 風狸の虚をつく位置に姿を現したとき、はじめてシイは攻勢にまわった。側にある濃い影を切り取って、その
まま風狸に投げ放ったのだ。
 影の刃。夜の魔性であるシイでも一日に四度しか使えぬ、必殺の武器。
 それは大きな弧を描いて、風狸へと迫った。はじめてこの技を見る相手なら、思わぬところからの発射と曲線
的な軌道で、回避するのが難しい。
 が、彼女はそれを熟知していた。
 寸前で身を翻す。ぎりぎりのところを掠めていく刃。黒井は舌打ちした。あと三発。
「織田くん、見てる?」
 戦いのさなか、風狸は、観戦しているはずの人間に声をかけた。
「驚いたでしょうけど、これは現実なの。世の中には私達みたいな化け物がいて、あなた達人間の社会に紛れ込
んでいるわ。でも安心して。私が、外の化け物からあなたを守ってあげる。どんな苦しみからも遠ざけてあげる。
だから――」
「――だから、私の保身の道具になって、か?」
 語を継いで、黒井が碧蘭の心を見透かした。彼女は怒りと羞恥で荒れ狂った。そこへ影の刃の第二波が。
 風狸の、左胴を切り裂いた。
 苦しげな呻きを漏らす風狸。まだだ。確実に仕留めるには、もっと狙わねばいけない。あと二発。
「お前の親父は、俺達と同じ異端者だった」シイも織田に語りかける。「化け物の、一歩手前になっていた。だ
からあの写真が撮れた」
 二匹の言葉を聞いた織田は、混乱していた。何がどうなっている? この世には、あんな化け物がうようよ紛
れているっていうのか? ここにいれば守ってくれるだと。父は、そんな化け物の仲間入りをしていただと。
 破裂しそうな脳内で、懸命に物事を整理する。細かいことはどうだっていい。いや、どれも細かい問題じゃな
いだろうが、このさい強引に目を瞑る。
 そう、自分にとって一番大事なのは何だ?
「いい加減に気づけ。お前が親父の後を追っても、同じ写真は映せない」
 シイの声。言われなくとも気づいていた。愚かしくも認めたくなかっただけだ。自分はどうすべきなのか。何
を欲し、何を求めてここへ来たのか――
 織田が自分の内面と向き合ったとき。
 突如、世界が暗転した。
 さっきまで激しい攻防を展開した空間が、完全な闇に覆われる。
「言ったでしょう? ここは大きな妖怪みたいなものだって。この隠れ里にいること、それ自体が、私に有利に
働く」
 風狸の声。だとすればこれは、隠れ里自らが照明を消したのだろうか。

24 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:45:00

 闇の中で、シイの唸る気配がした。これでは影の刃を使えない。光があるからこそ影が生まれる。まったく光
の無い状態ではむしろ、この影妖怪は力を失うのだ。
 形勢が逆転した。
 それからは風狸の猛攻がはじまった。得意技を封じられたシイに向け、自ら風の弾丸となってぶつかっていく。
俊敏なスピードで遠距離からの衝突を繰り返し、嬲るようにダメージを与えていく。
「昔より……威力が落ちたんじゃないか……?」
 吹き荒ぶ風の乱舞に翻弄されながらも、シイが軽口を叩いた。
「強がりを。すぐ楽にしてあげるわ」
「そう願いたいね。あの人間を殺したときみたいに、思い切りやれよ」
 内心で躊躇していることを指摘され、今また織田の父親を殺めたことも見抜かれた。
 これだから――
 これだから、あなたとは――
「殺してあげるわ。そしてあそこにいる人間は、ずっとここに居てもらう」
「…………」
 シイは何も答えなかった。彼は自分の勝利を確信していた。さっき、彼女の誘いを断った人間が、どう答える
か、すでに分かっていたから。
 彼からの答えはもう出ている。ここに残るのか否か。
「俺は……やっぱり、外に出て……写真を見せたい……撮り続けたい……」
「いいの!? ここから出たら、死んでしまうわよ。いいえ、殺してやるわ。外に出たって、何もいいことなん
て残ってないじゃない」
 織田の言葉に、風狸はなおも食い下がった。
 しかし彼は首を振る。彼の声には、悲痛なものが混じっていた。
「いいえ、私が殺さなくたって、あなたは苦しみ続けるわ。殺人の罪を問われて、刑務所へ行く。捕まらなくて
も警察に脅えながら、一生、後ろ指を差されて生きていくの。まともな職にもありつけない。あなたは死んだも
同然なのよ」
 彼は涙していた。自らが犯した過ちに押し潰されそうだった。今自分の求めているものを突き詰めれば突き詰
めるほど、冷酷な現実と向き合わねばならなかった。
 悔いているとは言えない。言えるはずもない。
 今このときまで、たとえ過ちだろうと彼女に会うため火中へ飛び込む自分がいた。涙が、後から後からあふれ
出てくる。なんと業深いのだろう。きっと自分は、繰り返すに違いない。罪を悔いても、ふたたび素晴らしい被
写体に巡り合えたら、それに近づくのだろう。過ちを犯してでも。罪を犯してでも。
 そして撮ったものを見せられるなら、何であろうと罰を受けよう。無論、人としての道徳心があるからこそ、
自らの愚かさやどうしようもなさが許せず、それを甘受できるのだ。理性では否定し、衝動では欲し、その狭間
で苦しむのだ。外界とのつながりを断って暮らせれば平穏だが、罪の苦さも創作の懊悩も感じられない。
 業界に入れない自分を父のせいにしていたけれど、自分には覚悟が足りなかった。今このときと比べれば、そ
れはどんなにぬるま湯だったろう。もっと必死になれば仕事は見つかっていたはずだ。今はもう分からない。だ
けど――
 撮りたいから撮る。そして、見せたいから見せる。そこには理屈も打算もない。どちらか一方でも欠けては、
彼は、不幸なのだ。
「今、出て行ったら死ぬのよ。これは脅しじゃない」
 彼の心を奪った淋しい歌姫が、そう呼びかける。彼は嗚咽していた。
「死んでもいい……。俺は……」そう、作品を見せられない痛苦に比べたら、死ぬことぐらい。「……俺は……
自首する……」
 小さく、一言。だがそれで充分だった。
 犯罪者を匿う隠れ里に、歪みが生じた。彼は匿われることを望んではいない。罪悪を霧の彼方へと隠す、そん
な援助は必要としていない。
 隠れ里の一端が崩れ、ステージが明滅した。わずかに生じた影。シイは残り二発となっていた影の刃を、続け
ざまに風狸に叩き込んだ。それぞれ腹と脳天を切り裂いていく。
 儚く淋しい逢瀬の時が終わろうとしていた。シイが、風狸の喉に牙を立てる。ブルースの美声ではなく、痛切
な獣の呻き声が、ライヴ・ハウスを満たしていった。

25 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:46:37

 9 Wherever You May Be

 12月1日、東京、成田空港――
 その出発ロビーに、ガブリエル早坂紘一はいた。彼自身がどこかへ旅立つわけではない。彼の知人の代理で、
とある女性を見送りに来たのだ。
「本当にすみません。どうしても手を外せない用事があるそうで……」
「いえ、いいんです。彼が来ないのは予想してましたから」
 だから変に取り繕わないでください、と早坂神父に言う。逆に気遣われてしまい早坂は苦笑した。まったく、
損な役回りだ。
 余碧蘭だった。首には包帯を巻いているが、それ以外はほぼ全快していた。あの夜、シイとの戦いに敗れた彼
女は、致命傷をいくつも負いながら死ななかった。死に至らなかった。
 風狸は不死身であるという伝承のお陰だろう。完全に滅ぼすには鉄槌で頭を砕き、石菖蒲で鼻をふさがねばな
らない。それをせず、その身に風を与えると復活してしまう。
 シイは与えてくれた。いや、よくおぼえていないけれど、与えてくれたように思う。あの忌まわしい隠れ里を
抜け、どこかのビルの屋上まで連れて行ってくれたのだ。
 それが現実なのか、彼女自身の願望による幻なのかは定かではない。確かめる気にもなれない。彼がいた。自
分の弱さに諦観していた私に、あえて牙を向けてきた。それで充分だ。もう弱さに流されまいと、そう思える。
「道々、くれぐれもお気をつけください。万全の配慮と手続きをしていますが、それでも彼らが何をしてくるやら」
「はい。色々とありがとうございます。向こうでも歌うつもりですから、神父さんも、中国に来たときには立ち
寄ってください」
 碧蘭は笑った。彼女は<ナイト・フォッグ・チャイナ>から離脱した。無論、裏切り者をそのままにしておく
彼らではないが、<バロウズ>や、<バロウズ>と友好的な中国のネットワークが彼女を保護したのだ。――も
っとも、彼女から<ナイト・フォッグ>の情報を得る下心もあったが。
 すでに碧蘭はこだわらなくなっていた。ひとりで生きられぬとも、それがどうだというのだ。日本に来て、彼
と再会して分かった。ネットワークに属しているかどうかが、真に自由である証にはならない。
 構内にアナウンスが響く。彼女が搭乗する予定の飛行機について。かつての歌姫は一礼し、
「待たせているので、これで。神父さんも、あんな男と付き合うのは面倒でしょうけど、よろしくお願いします」
 軽やかな足取りで消えていった。その背中に淋しさや哀しさはない……とは、言い切れない。強がって、無理
をして、意地を張っているのが見てとれる。強情な女と、本音を隠す男。どちらも不器用で、足りない言葉を補
わない。
(うまくいかないのは、当然かも知れませんね)
 早坂は胸元で十字を切った。機内には<バロウズ>の護衛が付いているはずだ。自分の役目はこれで終わった。

「容疑者の供述から、東京の広域暴力団<鬼総会>に捜査の手が……か」
 その男は空港近くのベンチで、新聞を広げていた。ここまで来てるなら、見送ってあげればいいのに――と早
坂は思ったが、結局、言うのをやめた。どんな反応をするか、目に見えているからだ。
 織田久弥は、あの夜の言葉どおり自首していた。彼の逮捕は<鬼総会>にとって大きな痛手となるだろう。優
秀な部下を失ったという意味ではなく、彼らの内情を包み隠さぬ告発者として。
 彼自身も罪を犯しているため、刑に服するのは免れない。だが彼は戻ってきたのだ。彼の父親や新聞を読むこ
の男には生涯溶け込めぬ、人間の社会に。
「罪を認める気持ちがあったからこそ、今回の事件は解決したんですね」
 早坂が評価する。
「その気持ちも、写真を撮りたいって業から来てたみたいだが」
 黒井が揶揄する。
「それでもです」あくまで感情的にならず、早坂は真面目な顔で、「それでも、過ちを認めたことに変わりはな
い。彼らの欲深さや罪深さも含めて、私は、人間を信じていますよ」
 ……黒井は、何も答えず新聞を折りたたんだ。背後からそれを覗いていた神父に向け、右手を広げる。
「? 何ですかこれは?」
 ちょんと、その掌をつつく早坂。
「神農の爺ぃから預かってきた物を出せと言ってるんだ!」
 吠える黒井に、早坂はそれを手渡した。例の義眼だ。織田の父、崎屋壮介の右目に嵌められていたもの。

26 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:48:49

「ちゃんと見えたのか?」
「ええ、魔霧の影響を封じた上で、行なったそうです。かなり悲運な人生を送ってきたようですね」
 上空に義眼を投げてはキャッチし、キャッチしては投げ……を繰り返し、黒井は話を聞いた。

 崎屋壮介は、数年前の第二次関東大震災で、その悲惨な風景を写真におさめ脚光を浴びた。しかしそれとは裏
腹に「震災地で支援活動もせずにシャッターを切り続けた」などと噂された。
 事実はそうではなかった。彼は支援活動もした上で震災地の風景を撮影していた。
 しかし現実は無情で、同じ業界の、しかも彼の躍進を妬む人間は彼の醜聞をまき散らした。そんななか、ひと
りのストーカーが彼に迫る。
「あたしの彼は震災で死んだ。助けなかったあんたが、殺したんだ」と。
 誤解だ。自分は殺してくれない。だが聞いてはくれなかった。
 殺されると思った。だから先に殺した。
 正当防衛だった。
 そのつもりだった。
 だが、その訴えは却下された。殺人の罪を着せられ、そして彼は、社会に絶望した。
 牢獄へ送られる間際、彼は闇からの声を聞く。そして<ASHES>の報復者となったのだ。
 家族と別れた、一方的に。
 社会との接点も最低限のものになった。
 そんな自分が唯一、まだ執着している場所があるとすれば、それはライヴ・ハウス<scaffold>だ。そこにい
る余碧蘭という女性シンガー。彼女の唇からこぼれるブルース。――彼は、彼女に魅せられた。
 崎屋は報復者としての能力、<紅濁の義眼>を使い、余碧蘭を撮影した。義眼から写真を現像し、そこに映っ
た彼女の姿を愛でた。
 それで満足だった。薄々だが、彼女が、そしてあのライヴ・ハウスのミュージシャンが人間でないことを悟っ
ていた。構わない。今までだって<ASHES>の走狗として働いてきた身だ。人外だとして、驚くまい。
 しかし。
 その一方で、嫌な情報が彼の耳に入った。彼の息子が、自分と同じカメラマンとなり、失踪した自分を捜して
いるというのだ。
 拒絶せねばならない。しかし息子は、横浜一帯に睨みを効かせる暴力団ともつながっているらしい。すでに、
まっとうな人生から外れている。
 何とかせねば考えつつ、彼は今夜も<scaffold>の扉をくぐった。
 彼女が歌っていた。
 そして信じられぬことに、ステージが終わった後、自分の席にやってきた。
 しばしの会話。誘われるままに彼女と<scaffold>を出、そこで――

 崎屋壮介は思う。自分の人生とは、一体何だったのだろうか。<ASHES>の走狗として、異端者としての道を
選んだ後、何か良いことがあっただろうか? 何もない。ただ犯罪を揉み消してくれるからと、それに縋り、
だらしなく生きてきただけだ。息子がもし、自分と同じ道を選ぶなら――

27 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:53:23


「そこへ、あなたが通りがかったわけです」
 長い話の間に、黒井は煙草を一本吸い終えていた。冬空に紫煙が消えていく。
 あの日、あの男から託された「息子を殺してくれ」という願い。何となく察しはついていたが、その本当の意
味が窺い知れた。歌手と観客。妖怪と、妖怪の力を持つ人間。人の枠に収まらぬ異端者同士のシンパシー。彼が
碧蘭に共感できたのは、淋しすぎる幸福だったのかも知れない。
 <scaffold>の隠れ里は、近々<バロウズ>が総力を挙げて乗り込む予定だという。碧蘭の情報を元に、敢然
と立ち向かうそうだが、もう黒井の興味はそこになかった。
 彼はベンチから立ち上がった。義眼を握りしめ、歩き出す。人間に妖怪の力を与える、この刺青。それを施し
ているのは<ナイト・フォッグ>に違いない。胸糞の悪くなる話だ。
「黒井さん」
「ん?」
「お手伝いできることがあれば、どうぞ仰ってください。何しろ、あなたの彼女からあなたのことを任されまし
たからね」
「気色の悪いことを言うな」
 黒井が横に並ぼうとする早坂を待たずに歩く。朱に染まろうとする東京の街並。どこか物悲しい斜陽の空。そ
こへ溶けゆく小さな影――中国へと向かう飛行機に見下ろされながら、彼らは横浜へ帰っていった。


                              MUSIC BY 「かつて…。」 EGO-WRAPPIN'


                   ……was written by someone that belonged to Group SNE in 2003.

28 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:55:06

●妖怪ファイル

余碧蘭(ユィ・ピィラン)

分類:風狸
個体名:余碧蘭
所属ネットワーク:<ナイト・フォッグ・チャイナ>
外見的特徴:風をまとった、青い豹のような獣。
武器、武装など:鋭い牙と爪。
特殊能力:風と同化しての体当たり(評価C)、死んでも風を受ければ甦る(評価B)。
性格傾向:強情、負けず嫌い。執着したものには依存してしまう。
嗜好、食性等:酒が好き、音楽全般が好き。
弱点/弱味:石菖蒲で鼻をふさがれると復活できない。
人間時の主な姿:きつい顔立ちの、中国の美女。
人間時の職業:シンガー
経歴:中国の荒野を彷徨っていた風の魔物。シイである黒井と夜をともにしていたが、数十年前に離別。
 <ナイト・フォッグ・チャイナ>の指令で来日し、隠れ里<scaffold>の住人となっていた。現在は
<バロウズ>と友好的な中国のネットワークに協力している。

パワー:D
スピード:B
IQ:C
タフネス:A
コンバット:C
スキル:D

総合能力評価:推定CP=580


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