したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

仏教大学講座講義集に学ぶ     【 “宝塔”の意義について 】

17美髯公:2015/05/22(金) 00:18:26

  「第五 見大宝塔住在空中の事」(P.740 ⑪) には、次のように述べられている。
 「御義口伝に云く見大宝塔とは我等が一身なり住在空中とは我等衆生終に滅に帰する事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて信心に住する処が
  住在空中なり虚空会に住するなり」
 宝塔が空中に住したとは、いったい何を表しているのか。まず大聖人は、この「見大宝塔」とは宝塔が一身の事であり、「住在空中」とはその我等の一身が
 滅に帰す、すなわち大宇宙に帰していく事であるといわれている。そして南無妙法蓮華経と唱え奉り信心に励む我々が住する処が「住在空中」であり、
 虚空会であると結論づけられている。

 ここで大聖人が示されようとしているのは色心不二、生死不二の理法である。見大宝塔とは色法 (健全なる身体) であり、住在空中とは心法 (価値創造しゆく
 知恵、精神) である。また、その色心不二、生死不二の当体として生命が永遠である事を明かされている。所詮、信心の一念とは、我が胸中を指す以外にない。
 それを住在空中、あるいは虚空会と説いているのである。従って我等が空中に住するとは、まさしく御本尊を信受し題目を唱える事によって絶対に
 崩される事のない永遠の幸福境涯に住する事をいうのである。また、宝塔品では一座大衆をも釈尊が神通力をもって虚空に引き上げ事が説かれているが、
 これも我々衆生の滅の相、すなわち死の相を表している。つまり、我々の生命は永遠にこの生と死を繰り返す。この生死の当体である生命そのものを
 変革する事によって、生死を即涅槃と転ずる事ができるとも仰せである (「第十一 摂諸大衆皆在虚空の事」) 。

  考えてみれば、七宝に飾られた宝塔が大地から涌現し虚空にかかったという宝塔涌現、そしてその後に展開される虚空会の儀式とは、まさしく我々の
 生命が生と顕われ、死と顕われ、その生死の相を永遠に繰り返していく、実にダイナミズムを説き起こそうとしたものといってよいだろう。
 しかも、もう一重立ち入って見るならば、その生死の苦海に沈む我々の生命を、いかにして即涅槃と開覚せしむるか ― その大転換のドラマをも暗示して
 いるのである。大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は生死即涅槃と開覚するのを皆在虚空と説くなり生死即涅槃と被摂するなり」 
 (P.742 ②) と仰せである。すでに、虚空会の儀式を借りて、大聖人は大御本尊を御図顕された事をみてきた。恐らく大聖人の御心中は、一切衆生が
 この大御本尊を生命の大回転軸として、生死の苦海から永遠不滅の絶対的な幸福境涯に自在に遊戯する人間革命の壮大なドラマを、事実の上に読み取られて
 いたのではないかと拝せられるのである。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板