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◆aPSupcKIa.スレ
1
:
◆aPSupcKIa.
:2013/12/28(土) 15:20:56 ID:.9mwD2OI0
>>1
が自作の文章投下用に建てた個人スレです。
ご意見・ご感想は随時歓迎。
51
:
海の男と箱入り娘 01
◆aPSupcKIa.
:2014/03/23(日) 19:03:55 ID:DcxdmuRw0
神辺健哉に命令が下ったのは、おそらく“そのとき彼が最も一等海佐の近くにいたから”に他ならない。
「よし、神辺二等海士。件の亡命者の、艦内における護衛および監視、貴様に任せる」
二等と言えば訓練から上がりたての新兵である。そんな男に重要な任務を押し付ける上官も
だいぶ怠慢なのだが、健哉も与えられた命令には従うタイプだったため、すんなり決定と相成った。
海上自衛隊の新鋭駆逐艦“ししむら”は、“某国”の重要人物を日本まで護送すべく出航したところだ。
その人物が日本へ亡命するにいたった経緯や、海自の護衛が必要な理由については、この時代の
高度に政治的な事情を一から説明せねばならず、長くなるためここでは割愛する。
とかくインド洋で海賊から日本国籍の船舶を護衛するという任務に就いていた駆逐艦“ししむら”は、
名目こそもっともらしく取り繕われてはいたが、その実たった一人の子供を運ぶために
わざわざ帰国を早められたのである。
「失礼します」
健哉が客用船室に足を踏み入れると、家具類を運び出された部屋の中央に巨大な“箱”が
鎮座していた。目測で、高さは一・八メートル、前後長二メートル、横幅一メートルといったところか。
側面は緑に塗られ、角の部分が銀色のフレームになっている。
護送対象の少女はこの箱の中にいる。
「君に求められることはそう多くない。彼女を部屋から出さないこと、必要以上の会話をしないこと、
それくらいのものだ」
部屋まで健哉を連れてきた渡邊三等海佐が耳打ちした。
「会話、というと……彼女は日本語を話せるのですか」
健哉がそう言うと、風鈴の音にも似て涼やかな響きを持つ、少女の声が箱から発せられた。
「はい、父に教えられましたので」
流暢な日本語だった。静かな喋り方だが、箱のスピーカーが声を増幅しているのか、
音量は充分である。それでいてノイズがなく、音質はクリアだ。声を落としての会話が
聞かれていたことから、マイクの集音性能も高いことが窺える。
「聞いての通りだ。日本語を含め、八ヶ国語を母語同然に使えるという情報がある」
「最近、中国語と韓国語も勉強しました。だから今は十ヶ国語です」
「……なるほど」
末端ゆえ護送対象の素性を知らされていなかった健哉にも、なんとなくこの少女が重要人物たる
所以を推し量ることができた。
「では神辺二等海士、任せたぞ。己の任に責を持て」
渡辺海佐が出て行くと、健哉と箱だけが残された。中々にシュールな光景だ、などと思いつつ
敬礼のポーズを取り、彼は自己紹介をする。
「神辺健哉、階級は二等海士です。日本への到着まで、あなたの護衛にあたります」
「おもに監視――でしょう? あ、気にしないでください。わたし、いちおう民間人ですから、
軍艦の中を勝手に動き回っちゃいけないってこと、ちゃんとわかってます」
こいつはやりにくい女だ、と直感的に思った。そんな健哉の方に、移動用の脚部を展開した箱が
“前”を向ける。
「あらためて――リッケ・ルービンシュタインです。敬語は使わなくていいですよ、私ぜんぜん偉い人じゃないし」
相手が別に偉くなくとも、自衛官は民間人に(それも、護送の対象となれば)敬語で接しなければ
ならないのだが、そういった規律までは知らぬものと見える。
「日本までよろしくお願いしますね、神辺さん」
箱を支える四対の脚のうち、後部の二対が伸びて、箱を健哉の方に傾ける。どうやら
“お辞儀”されたらしいと健哉が気づくまでに、二秒を要した。
52
:
海の男と箱入り娘 02
◆aPSupcKIa.
:2014/03/23(日) 19:37:59 ID:DcxdmuRw0
リッケ曰く、その箱は“クローゼット”というらしい。
「父が作ったものなんです。わたしはもともと呼吸器系なんかの内臓が弱くて、そのうえ
後天的な理由で免疫機能も低下してしまって、病院の無菌室から出られない身体でした。
そこで、人工環境の中でしか生きられないわたしが、ある程度自由に、安全に移動するための
機械を父が開発した……それがこの“クローゼット”というわけです」
彼女の父、ゼーリッヒ・ルービンシュタインはすぐれた科学者であると同時に発明家でもあった。
確かに彼ほどの頭脳と資金があれば、娘のために“移動無菌室”とでも言うべき代物を
発明することも可能だっただろう。
「父には感謝しています。これが無ければ、わたしは病院の白い壁以外の景色を見ることも
ありませんでした。……神辺さん、あなたの目から見て、わたしはどう映りますか?
やっぱり変ですか?」
健哉はその声から彼女の心情を読み取ろうと努力した。表情が見えれば苦労はないのだが、
目に映るのは無機質な箱である。
「そうですね、私からすれば……」
「神辺さん、け・い・ご」
向こうが譲るつもりはなさそうなので、こちらが折れることにした。
「……じゃあ、特例として。俺からすれば、それは車椅子のようなものだと思う。必要があって
使用する器具、乗り物ならば、それは当然のことで変とは言えない。もっとも、見た目が
少々奇異だと感じたのは否定できないが」
相手が求めている言葉と、正直な感想の中間項を述べたつもりだった。果たして、
スピーカーからリッケの笑いが洩れる。
「神辺さんはやさしいんですね。わたしの国では、同年代の子供からその親くらいの大人まで、
わたしを見るたびに指差して笑ったり、ひそひそ話をするのが普通でした」
祖国の辛い思い出を語っているはずの声は、まるで別次元の話でもしているように
記憶との距離を感じさせた。話の内容からして一般的には伴うであろう悔しさや悲しさが抜け落ちて、
代わりに達観か諦観にも似た寂しさだけが残っている――そんな話し方だ。
「もちろん、“クローゼット”の見た目が奇妙だったのもあります。でもそれ以上に、あの国では
直接顔を合わせてのコミュニケーションが交友関係で最も重んじられるんです。
表情を見せないわたしは、そのまま信用もできないと見られてしまいます」
彼女が“クローゼット”に入っている理由について、周囲の人間は無責任な憶測を
事実のように語ったという。曰く、精神を病んでいる。生身で出歩けないほど醜い容姿をしている。
未知の病原体を保有しており、それを拡散させぬように閉じ込められている……。
「それに、最近は若い人たちの間で障害者への風当たりが強くて。どうも“健常者の税金で
ただ飯を食っている”とか、弱者利権だとか、不況下でそういう論調が勢いづいてるみたいです。
そういうわけで、友達は一人もいませんでした。わたしとまともに話してくれるのは父だけ、
あとはこの中から、インターネットのチャットで知らない人と喋ったり、掲示板に書き込んだり……
日本では生身の友達ができるといいな、と思ってるんです」
日本でも彼女に向けられるのはまず好奇の目だろう、と健哉が先を思いやっていると、
箱からの視線を感じた。どこが目なのかは分からないが、見返した瞬間に“目が合った”という
感触があった。
「神辺さん、わたしと友達になってくれませんか?」
このとき健哉が思い出したのは、中学校に入ってすぐの頃のことである。
いわゆる“ぼっち”状態を回避するため、生徒たちは思い思いの方法で互いの
距離感を図りながらコミュニケーションを取り、人間関係の新たなネットワーク構築に奔走する。
が、つい先日まで小学生だったということもあり、不器用な者は一歩目の踏み出し方が
わからずに出遅れることが間々あるものだ。
53
:
海の男と箱入り娘 03
◆aPSupcKIa.
:2014/03/23(日) 19:43:45 ID:DcxdmuRw0
そして、第一歩を踏み外すパターンの最たる例が「僕と友達になってくれない?」というものである。
健哉はこの切り出し方で友達作りに成功したという話を聞いたためしがない。
メールアドレスくらいは交換するかもしれないが、大抵は微妙な距離感のまま
高校進学まで過ごし、別々の道に進んでそれきりとなる。
それが日本に特有の文化なのか、あるいは自分の通っていた学校だけの現象なのかも
健哉は知らなかったが、ただでさえ外見的にハンデのあるリッケが、日本でこういった
失敗をする可能性は低からざるものと思われた。彼は義務感めいたものに動かされ、
自衛官としてではなく人間・神辺健哉として、また一人の日本人として首を縦に振っていた。
渡辺三等海佐からの「必要以上に喋るな」という指示などは、もとより頭になかった。
「俺は構わないが、ひとつ言いたいことがある。そちらの国ではどうだったか知らないが、
日本では友達というのはなろうと宣言してなるものじゃない。互いに話したり、
一緒に遊んだりするうちに自然と形成される関係だ。だから、友達になりたい相手とは
自然なつきあいを心がけるのがいいと思う。俺を呼ぶときも“神辺さん”じゃなくて“健哉”でいい」
ぶっきらぼうな言い方になった、と健哉は内心で反省していた。悪意あってのことではなく、
平生からして彼は柔和な話し方というものを心得ていないのである。自衛隊の中では
上官受けする硬質さも、一般人に対しては「取り付く島もない」との印象を与えるのが常だった。
またしばらく沈黙が続く。相手と直接対話しているなら、表情なり所作なりで反応を窺えるのだが、
“クローゼット”は中にいるリッケの視覚的な情報を一切洩らさない。
健哉の態度が悪い、と怒ったのだろうか? ――そうではないことが、唐突にスピーカーから
流れ出た「んー」という声によって知れた。どうやら、何か考えていたらしい。
「わかりました。でも、いきなり“健哉”だと親密すぎるというか、馴れ馴れしい感じがするから、
折衷案として“健哉さん”でどうでしょう?」
名前を呼ばれるだけで、印象がまるで違った。情報源が声だけだからかもしれない。
先ほどまで漠然とイメージしていた少女の像が一気にぼやけ、新たな像がまた漠然と
箱の中に結ばれる。
「君がそうしたければ、それでいい」
顔の見えない少女が、微笑しているような気がした。
リッケは驚くほど手のかからない子供だった。健常者でもこうはいくまい。大部分は
“クローゼット”の高性能ゆえに、残りは彼女の落ち着いた性格ゆえに、健哉は勤務中で
あるにもかかわらず、休暇中に等しい日々を過ごした。
食事はどうするのかと最初に聞いたとき、リッケはただ「必要なものは中にあります」とだけ言った。
免疫不全と内臓疾患が並存しているとあれば、通常の食品を経口摂取できないことは
容易に想像がつく。健哉は何となく、自分が任務中に携行する軍用レーションのようなものを
食べている少女を想像した。
後に彼女が話したところでは、もう少し複雑だったようだ。
「消化器官も弱いから、固形物は食べられません。それで、真空パックされた特注の流動食とTPN……高カロリー輸液の点滴を合わせて、必要な栄養を補っています。流動食と輸液のパックは、下部の小型エアロックから入れる仕組みになってますが、今回は長期間補給ができないことを想定して一ヶ月分くらい中に積み込んであるんですよ。その分、ちょっと狭いですけど」
このとき彼女は、健哉が訊きにくいことを先読みして説明するという聡明さも見せている。
「あ、トイレやシャワーの心配もしなくて大丈夫です。老廃物をほとんど完全に分解再利用する
循環システムが組み込まれていますから。本当、この中ってビックリするくらい清潔で……
って、当たり前か。そうでないと死んじゃいますからね」
内容はともかく、人と話すのが楽しくて仕方がない、といった響きが声に乗っていた。
放っておけば、彼女は乏しい体力の続く限り喋り続けるだろう。話題の大半はじつに
くだらないことだったが、リッケにとっては会話できるという事実そのものが重要であることを
健哉は心得ていたから、一回りも年下の少女が展開する無軌道なお喋りに根気良く付き合った。
まんざら退屈でもないのだ。彼にとっては何でもないような事象に、リッケが示す意見は
悉く興味深い。彼女が駆逐艦を駆りだしてまで日本に受け入れられるのも、やはりその明晰な
頭脳ゆえであろうという健哉の推測は、確信に変わりつつあった。
54
:
海の男と箱入り娘 04
◆aPSupcKIa.
:2014/03/23(日) 19:49:39 ID:DcxdmuRw0
その確信が完全なものとなったのは、日本への航路も半ばを過ぎた頃のことだった。
彼は何気なく尋ねた。
「そういえば、日本に着いたらどうするんだ?」
箱が心なしか前傾する。今度は頷きではなく、俯いているように見えた。
「東京の病院に入ることが決まっています。食事や“クローゼット”のメンテナンスといった
身の回りの世話は、父の友人がしてくれるそうです。費用は父の遺産から捻出しました」
「遺産? 御父上……ゼーリッヒ氏は亡くなったのか?」
「ええ。政府が治安維持能力の欠如を知られたくないからと報道管制を布いているので、
まだ知る人はあまりいませんけど――そう、健哉さんにも事情は知らされてなかったんですね。
先日、東部ミュンヒハウゼンで起きた右翼団体の大規模デモは、わたしの父を暗殺するための
カムフラージュでした。警察はろくな捜査もせず、人種的な理由から暴徒に殺害されたと
断定して処理しましたが、それにしては手際が良過ぎるんです。荒らされた研究室から、
金目のものと一緒に研究資料が消えていたのが決め手になりました。
父の研究を完成させたくない組織か、国家――わたしの見たところ、N連邦共和国あたり――が
デモを扇動して、その間に送り込んだ刺客に父を殺させた。そう考えざるを得ないような状況です。
こうなると、次にわたしの命が狙われかねません。国も信頼できないとなれば、
国外に逃れるしかない。そういうわけで、父の友人がいる日本へ行くことになりました」
「待て、どうして君が狙われる?」
「わたし、父の研究内容はすべて覚えているんです」
健哉がこの護送作戦そのものに抱いていた疑問の答えが、唐突に明かされた瞬間だった。
民間人であるはずのリッケを“難民”ではなく“亡命者”として扱う理由。難民・亡命の
受け入れに厳しいことで知られる日本政府が、駆逐艦一隻を迎えに出す特別待遇で、
しかも秘密裏に彼女を受け入れた理由。
すべては絶大な見返りが期待できるからこそ。
「取引というわけだ……君はいいのか、父上の研究成果をよその国に明け渡すようなことをして?」
「あの国は、わたしに愛国心というものを芽生えさせるような所じゃありませんでしたから……
それに、仮に父が生きていたとしても、わたしの選択を責めることはないと確信しています」
「そう言い切るのか」
「はい。“こんなもの”を作る人ですから」
死者の意思を知ることはできない。なぜなら、そんなものは存在しないからだ。
生者にできるのは、ただ記憶を頼りに個人の人格をエミュレートすることだけである。
それでも健哉には、リッケの“確信”が理にかなったものであるように思えた。
駆逐艦“ししむら”が長い外征から帰ってくるその日、日本のC港は艦を迎える人々が掲げた
旗や横断幕で彩られていた。
「これが日本――はぁ、すごいものですね。あの国では絶対に見られなかった光景です」
出迎えに応じるべく、手の空いている乗員は甲板に出ている。渡邊海佐の許可を得て、
健哉とリッケも陽光の下にいた。
「彼らはこの艦が、インド洋の海賊から日本船を守るために戦ってきたものとしか思っていないからな。
君のことを知ったら何と言うか――しばらく“クローゼット”を動かさないように」
「わかってます。じっとしてればただのコンテナですから」
まさにその通りで、海自は“クローゼット”をコンテナの一つとして運び出す計画を立てていた。
脚を折り畳んだ状態なら、誰がどう見ても箱である。貨物搬出用リフトで堂々と陸に揚げ、
トラックに積み替えて東京まで運ぶ手筈になっている。
55
:
海の男と箱入り娘 05
◆aPSupcKIa.
:2014/03/23(日) 19:55:30 ID:DcxdmuRw0
じっとしているが、カメラはあちこちをズームして見ているらしい。やや興奮気味のリッケが訊く。
「あれ、健哉さんとよく似た服を着てる女性の方がたくさんいます。陸上勤務の女性海士さんでしょうか?」
俺とよく似た服、と反芻してから、健哉は思わず吹き出した。
「それは女子中高生の制服だ。日本では、どういうわけかセーラー服が女子生徒の制服として
定着している。もちろん、正しいセーラー服というのは俺たちが着ている方だ――」
「でもあれ、可愛いですよ。わたしも着てみたいなぁ」
その願いは叶わないと知っているから、健哉は黙っている。
しばらくは次第に大きくなる港からの歓声だけが耳朶を打ったが、やがてリッケが呟くように言った。
「これでお別れ、ですね」
「ああ」
「わたしたち、友達になれたでしょうか」
「友達が“俺たち友達だよな”と言い合うのはフィクションの中の話、実際は確認する必要などない。
必要なのは、君がどう思うか、それだけだ」
「わたしは――あなたを生まれて初めての友達だと思ってます」
彼は傍らの少女に目を向けた。いつ見てもただの箱だ。脚も畳んでいる今、そこには
如何なる感情を表すパーツも存在しない。
にもかかわらず、スピーカーから嗚咽が洩れてくるよりも早く、健哉はリッケの涙を見ていた。
「辛い。寂しい。父の死を聞いたときも似た感じだったけど、これはまた違う。
友達と別れるときって、みんなこんなに胸が苦しくなるものですか?」
「さあな、死別以外で永遠に会えないような別れ方をした友人はいなかったから、わからないが……
入院先を教えてくれたら、休暇のときにでも会いに行くよ」
「来て――くれるんですか」
「行くさ。俺は俺で勝手に、君を友達だと思っているからな」
ぶっ、とスピーカーの電源が切られる音がした。もはや箱を見る必要もない。健哉には、
少女がどんな顔をしてどんな思いでスピーカーを切ったのかが解る。手に取るように解る。
ぶっ、とまた電源の入る音。揺れるリッケの声が流れ出す。
「健哉さん、連絡先を紙に書いたので、下のエアロックに手を入れて取り出してください」
口頭で言うなりメールで送るなりすればいいものを、と思いつつ、彼は小さな扉を開けて
手を突っ込んだ。そのまま手探りで紙を探す――と、指先が何か紙ではないものに触れる。
小さく、やわらかく、少し熱いもの。
握ったそれがリッケの手だと気付いたとき、刹那、思考が止まった。
「な……馬鹿、何をやって……!」
「お願いです。今だけ、もう少しだけこのまま」
大きく、節くれ立って硬い海士の手と、小さく、なめらかでやわらかい少女の手が、
互いの掌を合わせる。指を絡ませる。
「わたしを忘れないでください。歩く箱の姿と一緒に、この手の感触を思い出して……
わたしが生身の人間だったことを、覚えていてください」
ほんの少し力を込めれば砕けてしまいそうな脆さが、リッケの手にはあった。
同時にその意外なほどの熱さは、彼女の中ではげしく燃える炎の熱にも思われた。
彼女は“クローゼット”があってもなお、長くは生きられないだろう――濃密な数秒間に、
健哉は残酷な未来を垣間見る。リッケ・ルービンシュタインという人間は、太陽に
繊細な硝子細工のランプシェードを被せているようなものだ。存在することが奇跡、
しかしすぐにも失われるかもしれない命。きっと、彼女は健哉の中に傷みを残して去ってゆく。
我に返ると、とリッケの手は健哉の手の内になかった。まるで夢を見ていたような気さえする。
しかし、彼の手には一枚の紙片と指先の温もりが残されている。
彼女は確かに、命を懸けてこの手に触れたのだ。
エアロックを閉じ、紙を開くと、そこには病院の住所と電話番号が記されている。
住所はしっかりと漢字で書かれ、リッケの筆跡は細くやわらかく、美しかった。
「ありがとう。また会おう」
健哉が顔を上げると、そこには依然変わらぬただの箱がある。
しかし、彼はその表情を知っていた。
<了>
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