[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
◆aPSupcKIa.スレ
55
:
海の男と箱入り娘 05
◆aPSupcKIa.
:2014/03/23(日) 19:55:30 ID:DcxdmuRw0
じっとしているが、カメラはあちこちをズームして見ているらしい。やや興奮気味のリッケが訊く。
「あれ、健哉さんとよく似た服を着てる女性の方がたくさんいます。陸上勤務の女性海士さんでしょうか?」
俺とよく似た服、と反芻してから、健哉は思わず吹き出した。
「それは女子中高生の制服だ。日本では、どういうわけかセーラー服が女子生徒の制服として
定着している。もちろん、正しいセーラー服というのは俺たちが着ている方だ――」
「でもあれ、可愛いですよ。わたしも着てみたいなぁ」
その願いは叶わないと知っているから、健哉は黙っている。
しばらくは次第に大きくなる港からの歓声だけが耳朶を打ったが、やがてリッケが呟くように言った。
「これでお別れ、ですね」
「ああ」
「わたしたち、友達になれたでしょうか」
「友達が“俺たち友達だよな”と言い合うのはフィクションの中の話、実際は確認する必要などない。
必要なのは、君がどう思うか、それだけだ」
「わたしは――あなたを生まれて初めての友達だと思ってます」
彼は傍らの少女に目を向けた。いつ見てもただの箱だ。脚も畳んでいる今、そこには
如何なる感情を表すパーツも存在しない。
にもかかわらず、スピーカーから嗚咽が洩れてくるよりも早く、健哉はリッケの涙を見ていた。
「辛い。寂しい。父の死を聞いたときも似た感じだったけど、これはまた違う。
友達と別れるときって、みんなこんなに胸が苦しくなるものですか?」
「さあな、死別以外で永遠に会えないような別れ方をした友人はいなかったから、わからないが……
入院先を教えてくれたら、休暇のときにでも会いに行くよ」
「来て――くれるんですか」
「行くさ。俺は俺で勝手に、君を友達だと思っているからな」
ぶっ、とスピーカーの電源が切られる音がした。もはや箱を見る必要もない。健哉には、
少女がどんな顔をしてどんな思いでスピーカーを切ったのかが解る。手に取るように解る。
ぶっ、とまた電源の入る音。揺れるリッケの声が流れ出す。
「健哉さん、連絡先を紙に書いたので、下のエアロックに手を入れて取り出してください」
口頭で言うなりメールで送るなりすればいいものを、と思いつつ、彼は小さな扉を開けて
手を突っ込んだ。そのまま手探りで紙を探す――と、指先が何か紙ではないものに触れる。
小さく、やわらかく、少し熱いもの。
握ったそれがリッケの手だと気付いたとき、刹那、思考が止まった。
「な……馬鹿、何をやって……!」
「お願いです。今だけ、もう少しだけこのまま」
大きく、節くれ立って硬い海士の手と、小さく、なめらかでやわらかい少女の手が、
互いの掌を合わせる。指を絡ませる。
「わたしを忘れないでください。歩く箱の姿と一緒に、この手の感触を思い出して……
わたしが生身の人間だったことを、覚えていてください」
ほんの少し力を込めれば砕けてしまいそうな脆さが、リッケの手にはあった。
同時にその意外なほどの熱さは、彼女の中ではげしく燃える炎の熱にも思われた。
彼女は“クローゼット”があってもなお、長くは生きられないだろう――濃密な数秒間に、
健哉は残酷な未来を垣間見る。リッケ・ルービンシュタインという人間は、太陽に
繊細な硝子細工のランプシェードを被せているようなものだ。存在することが奇跡、
しかしすぐにも失われるかもしれない命。きっと、彼女は健哉の中に傷みを残して去ってゆく。
我に返ると、とリッケの手は健哉の手の内になかった。まるで夢を見ていたような気さえする。
しかし、彼の手には一枚の紙片と指先の温もりが残されている。
彼女は確かに、命を懸けてこの手に触れたのだ。
エアロックを閉じ、紙を開くと、そこには病院の住所と電話番号が記されている。
住所はしっかりと漢字で書かれ、リッケの筆跡は細くやわらかく、美しかった。
「ありがとう。また会おう」
健哉が顔を上げると、そこには依然変わらぬただの箱がある。
しかし、彼はその表情を知っていた。
<了>
56
:
◆aPSupcKIa.
:2014/03/23(日) 19:58:25 ID:DcxdmuRw0
以上。
自衛隊はこんな仕事しないって? 逆に考えるんだよジョジョ、こう考えるんだ。
『自衛隊がこんな仕事をするような時代なんだ』と、そう考えるんだ……(作者は考えるのをやめた)
57
:
◆aPSupcKIa.
:2014/06/29(日) 18:54:44 ID:mRcKZDM60
久々に復帰。
しばらく短編連作を一作ずつ投げて行こうとオモフ。
58
:
最後の死
◆aPSupcKIa.
:2014/06/29(日) 19:06:17 ID:mRcKZDM60
連作『Unsung Requiem』より 「最後の死」
ある国の話だ。
一人の偉大な賢者が、ついに“死”を打ち負かすことに成功した。
生なきものに生を与える魔法の秘術を、“死”そのものに対して使用するという発想の転換。
これにより、生きとし生けるものに訪れるはずだった“死”を、一個の生命の中に封じ込めたのである。
その国の人々は――否、人だけでなくすべての生命は、永遠を手に入れることとなった。
そして封印された“死”は、二度と外界に出ることのないよう、最果ての地でアキレスの檻に幽閉されている。
青年がベンチに座っている。
彼自身が覚えている限り、数千年はここから動いていない。ただぼんやりと、狭い空を眺めている。
完全な生を維持し続ける身体は、眠りも食事も必要としなかった。精神もまた、病むことも
毀れることも知らず、健康なままに久遠の時を過ごしている。
そこは並木道だった。成長の限界で時を停めたまま生き続ける樹は、どれも一様に大きい。
枝についた葉や花は落ちずに密生し、点々と白を散らした緑色のアーチが頭上を覆っている。
青年が見続けてきた空は、わずかに木漏れ日を注ぐ枝葉の隙間から覗いていた。
小さな窓の向こうの蒼穹、雲は今日も白い。
彼は思う。
これから何千年、何万年だってこうしていられる。そうしていけない理由はない。時間は無限にある。
青年がベンチに座り続ける。
時は何物をも変えずに流れていく――
言語学者は窓の外を見やった。
遠く国境線上、外界とこの国を隔てる断層障壁(グレート・ウォール)の光彩が見える。
天頂には、生体核で稼動する人工太陽が、彼の苦悩も知らずやわらかに輝いていた。
この国で、芸術以外の仕事を持つ者は多くない。言語学者はその少数に含まれていた。
彼の仕事は百科辞典の編纂であり、いまは第一五七六〇二一版の草稿やメモが机の上に広げられている。
【魔法……
1、魔力を用いて不思議なことをおこなう術。
2、サブプランクスケールでの論理干渉(ロジカル・インターフィアランス)を利用した、確率工学技術の俗称。
→確率工学】
【配置空間……
1、一般力学の問題で多体粒子の配置を表すのに用いられる多次元空間。
2、非存在力学(イマジナリー・メカニクス)において、実相化していないあらゆる存在確率系の量子情報が
プールされると考えられている空間。 →非存在力学】
59
:
最後の死
◆aPSupcKIa.
:2014/06/29(日) 19:09:50 ID:mRcKZDM60
目の前に並べているのは、こういった覚書のようなものだったが、彼が悩んでいたのは
これら専門用語の難解ゆえではない。
ある一語を削除すべきだという進言を受けた。
進言とはいうものの、相手は唯一絶対の統治機構たる劫院<クロノン>。事実上の命令に等しかった。
表す文字も含めてこの語を辞書から削除するとしたら、それはここ数十万年のこの国で最大の変化となる。
「建国の理想を実現するためには不可欠の施策である」という、劫院の大義名分に頷かぬわけでもない。
だが、この言葉を削れば取り返しがつかない――なにが、とは言えなかったが――そんな漠とした不安が拭えない。
言語学者は他のページを仕上げながら、その一語のために数十年間躊躇い続けた。劫院が国外追放を
ちらつかせ、圧力を掛けるに至ってようやく、彼は諦めとともに修正ペンを取った。
一つの言葉を置き去りに、時は流れていく――
最果ての荒野を歩く男たちがいた。
彼らは看守である。二人一組、一定期間ごとの交代制で、アキレスの檻へとやってくる。
と言っても、そこになにを閉じ込めていたのかはもはや忘れ去られ、永らく檻は無人のままに放置されていた。
前任のペアがこの地を離れたのは、少なくとも二十億年前のことになる。たまたま思い出した二人は、
他にすることもなく、ただぶらりとこの地を訪れたのである、
虹色に明滅する断層障壁の向こうは、既に真空の闇が広がるばかり。外界のすべては遥か遠い昔に
散逸し、冷たくなり、失われた。滅び去った世界の中で、この国だけが永遠の時を刻み続けている。
看守たちが檻に辿り着く。一見すると柵も格子もなく、三体の巨大な亀のオブジェが
置かれているだけの場所。それが牢獄だった。
アキレスの檻は一種の論理による結界である。
「亀を追う者は永遠に亀に追いつけない」というパラドックスに基づいて設計され、外向きに微分された時間と、
内向きに圧縮された空間の勾配が発生する。この檻から出るためには無限の距離を進まねばならず、
それには無限の時間を要する。ゆえに脱走は不可能となる。
そんな檻の中を看守が覗き込むと、何かがおかしかった。かつては髑髏や蒼褪めた馬など、
さまざまな姿で檻の中を荒れ狂っていた虜囚が、黒ずんだ文字の形をとって動かなくなっている。
「なんだと思う? あの字、読めるか?」
「いや、見たこともない。俺が生まれる前に使われなくなった字じゃないか?」
彼らにはその文字が読めず、それが何であるのか理解できない。辞書からその言葉が消えて数十億年。
その形も、意味も、人はとうに忘れ果てている。
その文字は、かつて“死”を表していた。
看守たちは去り、今度こそ思い出されることはない。
誰にも想われざるものとなり、牢獄にして枷たる永遠の命の中で、ついに“死”は死んだ。
《不終》
60
:
地獄革命
◆aPSupcKIa.
:2014/07/05(土) 21:44:25 ID:9/amcqmQ0
連作『Unsung Requiem』より 「地獄革命」
ある悪人が死んだ。
悪人といってもこの男、犯した罪は盗みがせいぜい、ごくありふれた小悪党。
されど、小悪党でも罪がある。あれば地獄へ送られる。
さて、いざ地獄に放り込まれて。いたく怯えた小悪党、娑婆での悪事をいまさら後悔。
遅きに失する懺悔に明け暮れ、ふと辺りに目を向けてみれば、よく見たいわゆる地獄絵図とは、
ずいぶん様子が違うと見える。
血の池は改築されたらしく、いまや香り立つワイン風呂。針の山はそもそも見当たらず、
通りすがりの詐欺師に訊けば、とっくに解体されたという。曰くあの山の針は頑丈で、
新閻魔殿を建てるにあたり、建築資材に回されたとか。
新閻魔殿とはなんのことだ? 思えばここではみな楽しげで、地獄と言うにはずいぶん気安い。
悪人どもに問うて回ると、新閻魔殿へ行ってみろという。
言われるがままに道を辿って、ぶらり地獄の一人旅。やがて大きな門が現れ、
叩けばすんなり中へ通された。
「歓迎するぞ、新入り」
奢侈な造りかと思いきや、新閻魔殿の内装は瀟洒。人のものではない巨大な椅子に、
座すは普通の優男。彼こそ噂の新閻魔、名乗ったそばから自らの名を、役職名に過ぎぬと加えた。
新たな地獄の支配者が、事ここに至る顛末を語る。
「地獄ではな、少し前に革命があったのよ――」
新閻魔曰く、かなり前から、地上に悪が蔓延り過ぎた。また天界が、地獄へ送る人間の
判定制度を改正。わずかの悪も見逃さず、死ぬ者死ぬ者みな悪として、地獄へ送られるようになった。
やがて広大無辺の地獄も、ついに収容限界を超えた。ひどい人口過密に陥り、悪人どもが溢れ返る。
地獄の秩序を守ってきた、屈強な鬼の軍団ですら、もはや到底手が回らない。
人間の悪を受け止めきれず、地獄が機能不全を起こした。
そこで一人の大悪人が、弁舌巧みに煽り立てた。これぞ好機。旧い地獄は破綻した。
苦しむ理由がなくなった今、新しい地獄を作るべきだ。かくて男は、数の暴力でもって
革命を起こしたのである。
結果は、見てのとおりとなった。鬼たちは群がってくる暴徒を、ちぎっては投げ、ちぎっては投げたが、
天文学的な物量の差に、あえなく打ち倒されていった。地獄の支配者・閻魔大王も、奮戦むなしく
同じ結末を辿って王座を明け渡した。彼らは不死の存在であるため、今はそろって焦熱地獄の
炉心に閉じ込められている。地獄の最高熱で、永遠に灼かれ続けるというわけである。
難儀な話だが、それは悪人どもが味わってきた苦しみ。たっぷり体験してもらおう、という
悪党どもの粋な計らいだ。ちなみに焦熱地獄そのものは、巨大なサウナに改造された。
「斯様な運びにて、いまや地獄も天国と変わった。新入りよ、気を楽に持つがよい!
ここには罪を咎める者も、くだらん正義もありはせんのだ」
得心した小悪党は一礼し、かつて革命を起こした男、新閻魔の前を辞して去った。
あてもなく、どうしたものかとさ迷い歩く。風呂かサウナに入ってみようか。
それとも賭博でもやりに行くか。探せば淫売宿もあるだろう、地獄の妖婦と寝るのもいい。
道中、人だかりに出くわした。異教の堕天使が密輸してきた、天界の林檎をくれるらしい。
一つもらって齧ってみると、地上のどんな食い物より美味い。
とても穏やかな気分であった。他の連中を眺めてみても、みな思い思いにくつろいでいる。
生前の所業など忘れたか、盗人も人殺しも等しく、平和と幸福に酔い痴れている。
欲しいものはすべて手に入る、ここは欠乏のない世界。そこだけ見れば、読んで字の如し、
確かに極楽と呼ぶに能う。
しかし、ふと己を省みて。小悪党は自嘲に嗤うのだ。
なるほど、ここはもう地獄ではない。
罪が咎められることはない。悪が裁かれることもない。
自分が言うのもなんではあるが、ある意味、地獄よりなお悪い。
こんな最悪の世界を呼ぶ名、きっと神も仏も、露知らぬ。
《末》
61
:
地獄革命
◆aPSupcKIa.
:2014/07/05(土) 21:52:14 ID:9/amcqmQ0
連作『Unsung Requiem』より 「全能なる神」
ある科学者が、研究室に友人の技術者を招いて言った。
「私はついに“神”を科学的な手段で発見したよ」
「へえ?」
彼は異なる空間次元数を持つ宇宙についての観測を行っており、その過程で
偶然にも“神”を見出したという。
「階層の法則が空間次元にも適応される以上、見つかることは当然といえば当然なのだがね。
二次元は一次元以下の情報的特質をすべて備え、三次元は二以下の次元すべてを包含する。
以降、次元数がいくら上がったところで同じだ。ここで言う特質には知性や精神といった要素も
当然含まれている。なぜならそれらは情報として記述可能だからだ……現在のところ、
知性が発生するのに最低限必要な複雑さを持ちうる系の空間次元数は三が下限と
されているから、四以上の空間次元では知性を持つ物理系、あるいは現象が
確実に存在するという仕組みになる」
「前置きが長いね……理論的なところはあまり解らないよ、僕は技術畑の人間なんでね。
それでもよければ聞くだけは聞こう。で、神を見つけたというのは?」
きっかけは、好奇心から新型の観測機器を意図的に誤作動させたことだったと彼は言う。
「思いつきの、ちょっとしたいたずらだよ。本来であれば、GRE(重力子放射反響)レシーヴァーを
起動する前に、観測対象の次元数nには必ず整数を代入しなければならない。
そうでなければ条件を再設定するよう指示が出るし、妙な数値を入れれば故障の危険がある。
レシーヴァーは整数の次元のみを観測するために設計されていたんだ。
しかし私は、条件設定のプロテクトを一時的に解除して、観測する宇宙の空間次元数を
nにしたままシステムを作動させた。何のことはない、データの取得に失敗したというだけの
メッセージが出て終わると思っていたよ。変数の空間次元を持つ宇宙など存在するはずがない。
ところが――」
「きみは何かを見出した?」
「そう、時空マッピングの座標系の果て、その果ての向こう側、すべての時間と空間の外側から
全次元を貫く、莫大にして混沌たる情報の瀑布。次元数nは上下に無限の変域を持っていた。
ゆえに全次元の、全因果律の、無限数存在する平行宇宙の全可能性事象の、それらすべての
情報が対流する超時間的超空間が時空の外に存在していたんだ。否、存在という言葉さえ
正確ではないか――有無の概念すら、この次元変移空間に従属する。そして重力の
ベクトル変化パターンを分析したところ、一定の規則性を維持するわけでもなければ
完全なカオスでもないと来ている。この空間はそれ自体が知性を有していると結論せざるを得なかったよ」
「さすがに何を言ってるのか解らないな」
科学者は昂揚し過ぎていた自分に気付き、短くまとめるための言葉を探す。
62
:
全能なる神
◆aPSupcKIa.
:2014/07/05(土) 21:54:22 ID:9/amcqmQ0
「えー、つまりこれは、我々の住む下位次元をすべて内包している、一種の宇宙そのものなんだ。
階層の法則がある以上、必然的にこの特殊空間は全知全能ということになる。
少なくとも、我々の世界に対してはね」
「なるほど? 議論はあるだろうけど、確かにそれは神と呼べるかもしれないな」
友人は神の宗教的定義について議論をするつもりはなかったので、科学的発見を
実用技術に転ずる立場からの質問を投げかけた。
「ところで、その“神”はどのように利用できるんだい? 何らかの形でエネルギーを
取り出せたりはするのか?」
技術屋としては「神の玉座は何次元空間にあるか?」よりも、まず「神の出力は何キロワットか?」と
訊きたくなるものである。ところが、返事は幾分かトーンダウンしていた。
「いや、残念だが使い道はなさそうだ」
科学者が肩をすくめつつ説明する。
「こちらの観測行動を認識してはいるはずだ。なにしろ全知全能だからね――
しかし認識するだけで、それに対していかなる能動的なリアクションも示そうとはしない。
量子トンネル効果による離散的跳躍(ジャンプ)なのか、ときおり配置空間から粒子が
この宇宙に弾き出されてくることはあるようだ。もしかしたらもっと大きいものも出てくるかもしれない。
だがこれは、純然たるカオスに支配された一定な現象だ。重力波は届くものの、
こちらから向こうに干渉して操作する、といったことは不可能だろう」
「本当に残念な話だな。願いを聞いてくれるものなら、娘の免疫障害を治してもらうところだったんだが」
父親の顔で苦笑する友人に、科学者も笑みを浮かべて言う。
「まあ、そういう実用性(ごりやく)がないからこそ“神”と呼んだわけさ」
「ん? それは宗教的な神が実在しないという意味でか?」
「いや、違うよ――」
科学者は己のデスクに向き直った。
非線形波動の三次元モデルを映すダイオード・ディスプレイの横に、一枚の写真が飾られている。
今より少し若い自分と一緒に、同年代の女性が映ったアナログフィルムの写真。
彼女との年齢差は開き続けている。
「何でもできるが、何もしない。神とはそういうものだろう」
《不落》
63
:
◆aPSupcKIa.
:2014/07/05(土) 21:58:35 ID:9/amcqmQ0
>>61
でタイトルを変え忘れてしまった。やんぬるかな。
>>61-62
が「全能なる神」のパートです。念のため。
64
:
名無しさん@避難中
:2014/07/06(日) 21:49:37 ID:MAL/la/Q0
個人スレの人に感想書いてって言って俺が書かないのはさすがにフェアじゃないよね。
>>56
今までで一番良かった。
良かったというかラノベっぽくキャラが立ってて(立ちそうな気配があって)受け入れやすかった。
つまり箱の動く絵面を想像するとユニークで面白いなっていう話。
多少台詞から何から説明偏重で事務的な感じはあったが、シリーズ物としてもいけそうな感じ。
>>59
感想の必要はないと判断した。
>>60
これも文章が軽妙でなかなか面白い。
何だっけ?地獄を満喫しちゃう絵本があったよなwあれをちょっと思い出した。
オチもシンプルでいい。
>>61
オチ部分までは結構好き。
俺は理系じゃないから何言ってんだこいつしねよって思いながら読んでたけど。
65
:
◆aPSupcKIa.
:2014/07/06(日) 22:50:50 ID:OzUT2DX60
>>64
感想イイヤッホオオォォオオォオウ!(彼はまずここで達した)
お読みいただきありがとうございます。いろいろ実験しながら書いてるので文章も出来も安定しないですね。
『Unsung〜』は全体的に「小説らしい小説」より「怪文章」の方が割合としては多いので
並行して普通の短編も載せるとかしようか、などと考え中です。
66
:
◆aPSupcKIa.
:2014/07/12(土) 14:33:19 ID:6OMg3U.s0
長編含め残弾はまだまだあるが、あんまりハイペースで投下しても仕方がないので
あくまでだらだらとゴーイングマイウェイ(´_ゝ`)
67
:
第三の答え
◆aPSupcKIa.
:2014/07/12(土) 14:39:23 ID:6OMg3U.s0
連作『Unsung Requiem』より 「第三の答え」
異星の宇宙船が地球に接近してきた。
民間の天体望遠鏡でも太陽の向こう側から見えるほどの大きさゆえに隠してはおけず、
その存在はすでに全世界の知るところとなっている。
地上では人々がパニックを起こしたり、興奮して歓迎準備を始めたり、UFO崇拝の新興宗教が
にわかに勢力を増大したり、軍人は相手が侵攻してくるものと決めつけて先制攻撃論を唱えたり、
科学者たちが意志疎通の方法を真剣に考えたり、政治家たちが宇宙人を出汁にした自国への
利権誘導に腐心したり、地球外生命体とのファースト・コンタクトをテーマとした映画や
ドキュメンタリー番組の撮影が始まったり、もしかしたら人類が滅びる事態になるかもしれない
ということで、諸々の人間ドラマが世界各地で同時多発的に生まれたりした。
もちろん、普段と変わらない生活を続けるところもあった。
「エリザベート、今さら遅いかもしれないが……僕はずっと前から君のことが……」
「これは廃物利用――」
「EFBだ。周囲の大気ごと凍結させる。相手は死ぬ」
「アキレスは永遠に亀に追い付けない、この原理を応用する」
「宇宙人なんているワケねぇだろ? 映画の見すぎだって」
「あいつなら今ごろ水底で珊瑚礁とファックしてるよ」
「わかってる、親父が悪かったんじゃないことぐらい!」
「機関に監視されている。駄目だ、校正され……あれは何だ? 窓に! 窓に!」
「俺、この宇宙人騒ぎが終わったらパン屋でも始めようかと思ってるんだ」
「くの字に曲げたレシートを進呈しよう」
「お守り代わりだ、貸してやるぜ。あとで返せよ?」
「お姉ちゃんのこと、忘れないでくださいね」
「こんな奴らと一緒に居られるか! 俺は自分の部屋に戻るぞ!」
「それは“中”の話だ。ぼくには関係ない」
「フフフ……奴はカルネアデス一〇八傑衆の中でも最弱……」
「防護服防護服防護服。シールドシールドシールド」
「看守長」「なんだ」「■です」
「松下企連(マツシタ・アライアンス)のサイバネティック忍者か。はン、商売敵ってわけだ」
「ルービンシュタインさんの病室は? ……友達です。彼女の」
「そして復讐――」
ほんの一端だが、こんな具合である。もちろんそれぞれに背景があり、その人の人生の一幕なのだが、
残念ながらそれらはすべて別の物語ということになる。
狂騒と猜疑と勇気と努力と謀略と情熱とロマンスとカオスとその他以下略の間に日々は過ぎ、
やがて宇宙船が地球と最接近するタイミングが目前となった。侵略であれ友好的接触であれ、
確実に異星人が何らかのアクションを起こすであろうという時だ。
軌道上のあらゆる衛星が宇宙側にカメラを向けていた。近づいてきた異星の巨大構造物は、
全長数百キロメートル。軟質の装甲を持つらしく、呼吸するように伸縮している。有機的な曲線と
金属の光沢を併せ持つデザインで、シンプルながらヒトの作ったものではないことが一目で分かる。
人類は待った。警戒と期待を漲らせて、それが地球に降りてくるか使者を寄越すか――
あるいは、攻撃を開始する瞬間を。
戦争か、融和か?
問いの答えが後者であることを願いながら、世界はその瞬間を迎えた……。
宇宙船は高速で飛来したと思うと、地球になんらの物理的影響も与えることなく、そのまま飛び去っていった。
完璧な“通過”だった。
《めでたしめでたし》
68
:
検閲
◆aPSupcKIa.
:2014/07/12(土) 14:44:53 ID:6OMg3U.s0
連作『Unsung Requiem』より 「検閲」
遙か昔より、世界の歴史を操ってきた闇の組織が存在した。
彼らは“E機関”と呼ばれ、現代に至るまでその支配力は健在である。
彼らはある大いなる目的のためにうごいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ良い五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五五良い
《校正完了》
69
:
非小説・虫
◆aPSupcKIa.
:2014/07/12(土) 14:54:11 ID:6OMg3U.s0
連作『Unsung Requiem』より 「非小説・虫」
麓から山肌をなで上げるようにして、ひときわ強い風が吹き、私の眼前で
紅葉や銀杏の葉が乱舞した。めまぐるしく流れ去る赤と黄は、どこか炎の色彩にも似ている。
炎。罪深い私を火刑に処すべく、ようやくこの山を駆け上がってきたのか。
だが、肌に触れる風は冷たく乾いていた。
熱と光の中に消えた彼女の身体を思いながら、焼かれるべきだったのは本来私の方なのだ、
という思いが胸のどこかをまた突き刺した。
自責には飽いた、さりとて罪悪感を焼き捨てることなどできない。
あの火事は世界そのものを焼き尽くしてしまったのだ。そのはずなのに、どうして私は
灰の中でもがいているのだろう?
答えは徒歩でやってきた。とさり、とさり、と葉を踏んで近づく軽い足音。
私が座るベンチの後ろからだ。振り返りは、しなかった。
「遅れてすみません」
「構わないよ。じゃあ、行こうか」
立ち上がった私の前を、少女が歩いていく。歳も背丈も違うが、その一挙手一投足が
姉に似ていた。おそらくは似せているのだろう。
横に並んだ私が手を差し出すと、おずおずと少女の小さな手が重ねられる。
やわらかな肉とその中に秘められた骨の硬さがいとおしく、掌にそっと包んだ。
「……手。あたたかい、ですね」
「お姉さんにもよくそう言われたよ」
手の冷たさまで似ている気がした。こればかりは努力でどうにかなるものでもない、酷薄な偶然だった。
彼女と似た温度、彼女より小さい手。その相似と差異が心地よいと、一瞬でも感じてしまった自分を、
別の自分がまた罪悪感の針で刺す。さらに、それを所詮ポーズに過ぎぬと嗤う自分もいる。
似ているのであって、同じではない。
同じではないけれども――似ている。
「お姉ちゃんもわたしも、体温低くて。とくに手は冷えます」
「血の巡りが悪いんじゃないかな。今日から明日にかけては冬の寒さになるそうだし、
あとで手袋を買ってあげよう」
「いえ、そんな、いいんです。いつも何かもらってばかりなのに」
話しながら、私たちは待ち合わせた公園からほど近い霊園に入っていった。
石の舗装の無機質な硬さが踵に痛い。
この山の墓地に、彼女の家の墓はあった。
ここに彼女が眠っているわけではない。それを知っていながら、私たちは共に出歩く口実として
今日という日を使う。形ばかりの墓参り。線香の束と果物を供え、石に水をかけ、並んで手を合わせる。
彼女が焼死して、一回目の命日だった――とんだ茶番だ。
「もらってばかりなのは、私のほうだ」
少女の手がぎゅっと固まる。
わかっている。少女は物質的、経済的な話をしていたのだ。この子が持っていた
すべての財産は、灰燼に帰して戻らない。
だからこの子は、たった一つ持っていたものを私に差し出した。
彼女をなくしてほどなく、私が初めて歳を取り、彼女との年齢差が開き始めたことを認識したあの日。
唯一の家族をなくした少女からの誕生日プレゼントを、私は受け取ってしまった。
どうして拒まなかったのだろう。
拒めばこの子を傷つけると思ったからか。独りじゃ寂しいでしょうから、と自分が泣きそうになりながら
言うような少女を。受け入れたとしても、結局はより傷つけることになるとわかっていながら。
70
:
非小説・虫
◆aPSupcKIa.
:2014/07/12(土) 14:57:22 ID:6OMg3U.s0
言えばよかった。もっと早くに、そんなことをしなくても君を見放したりしないと言えばよかったのだ。
それをしなかったのは結局、私の心が弱いからだった。少女の言うことは当たっている。
孤独に耐えかねて、温もりへの渇望に負けて、同じ喪失を共有する少女の申し出を受けた。
救いがたいことに、おそらくは彼女の面影があったからそうしたのだ。
――わたしを代わりに使ってください。
私は壁を築こうとした。ほかに頼れる人はいくらもいるはずだ、親戚や友達が一緒にいてくれるだろう、
お姉さんに申し訳ないと思わないか――迂遠な理屈ばかり並べて、「そうする必要はない」と、
ただそれだけのことが言えなかった。
――男と蒸発しちゃった母親のおかげで、親戚はわたしとあまり関わりたくないみたいです。
――友達では遠すぎます。
――お姉ちゃんはもういません。だからやましいこともないです。
それに、と少女は付け加えて。
――お兄さんは生きてます。独りじゃ寂しいでしょうから……。
そして私は、既に理性も常識も敗走したことを悟り、失われた人と似た少女にとっての
良き“お兄さん”であることをやめた。
「ホントにありがとうございます。いつもすみません……」
「君は嫌がったが、私が無理にプレゼントした、ということで納得しようじゃないか。なかなか温かそうだね」
麓の町で手袋を買った。
あまり高いものにするのも恩着せがましく思われ、少女と共に安いニット編みのミトンを選んだ。
ベースカラーはピンク、横に一本青いラインが入っており、その上下に黄色の三角形が並ぶ。
カラフルなデザインだが、少女が嵌めると歳相応に似合って見える。
「はい! やわらかいし、あったかいし、いい手袋だと思います」
店を出た後になって、そういえば彼女の手袋もミトンだったと思い出す。色がどうしても思い出せず、
正しい記憶を掴み掛けたと思ったところでいつも、傍らの少女と組んだ腕が引き寄せられる。
その瞬間にイメージは上書きされ、おぼろげな輪郭より一回り小さなピンクのミトンだけが残るのだった。
「その手袋、革ですか?」
冷えてきたので嵌めた私の手袋に、少女の視線が向いていた。艶の褪せた黒い合皮。
苦笑しながら、片方外して見せる。
「これはフェイクレザー。本革よりずっと安い、偽物だよ」
「ふうん……やっぱり本物のほうがいいんでしょうか」
それはそうだ、と言いかけて、こちらを見上げる少女と目が合った。
違う――この微笑みは、彼女に似ていない。
ぞわり、と背中から戦慄が走った。正体不明の快感が脊髄を垂直に貫き、同時に総身が粟立つ。
口端がつり上がるのを抑えられず、寒がるふりをして、どうにかやさしい笑顔を繕った。
「――いや、これは温かいのに薄手でね。嵌めたままでも色々と細かいことができるんだ。
素材や値段に関係なく、いい手袋さ」
「手袋選びがうまいんですね」
その一言で、そういえば彼女の手袋は青だったと思い出す。あれも私が選んだのだった。
ふかふかして嵌めるだけで気持ちいい、と好評だったあのミトン。きっと、彼女と一緒に炭になってしまった。
「お姉さんにも言われたよ」
そう言って手を入れ直す。ぷらぷらさせている間に寒風が熱を奪ったのか、薄い手袋の内側は冷たかった。
71
:
非小説・虫
◆aPSupcKIa.
:2014/07/12(土) 15:03:31 ID:6OMg3U.s0
ちらと周囲に視線を走らせ、何気なく路地へ入った。
木製の格子にガラスを嵌め込んだ、小洒落たカフェのような扉を開く。
中はビルの形に合わせて細長い、ホテルのロビーになっている。
後ろ暗い事情のある男女がよくここを訪れる。ホテル側も肝が据わっているもので、
たいていの客は素性を問うことなく通している。よく未成年を連れ込む地元の大物議員が、
警察と暴力団を巻き込んだ利権絡みの密約を結んでいるおかげで、ここが摘発を免れている
という噂もある。客やホテルマンの話からそんな背景を知る程度には、私たちはここを利用していた。
チェックインの際、宿泊カードに名前や住所などを書く。普通の宿泊施設と比べて項目が少なく、
客もデタラメな内容を書いて出すことができる。以前香港で泊まった安宿を思い出す杜撰な管理だが、
その恩恵にあずかる立場としては文句もない。私たちはいつも偽名と偽住所を書き込み、
少女は実年齢より四歳もさばを読んでいる。
初めて来たとき、住所と名字を揃えて兄妹ということにしよう、と最初に言い出したのは少女の方だった。
「お姉ちゃんのこと、忘れないでくださいね」
もしかしたら本当に妹になっていたかもしれない少女はそうも言った。このときは、姉とまったく同じ
微笑みを浮かべて。私が彼女を忘れなければ、その妹からも離れることはないというわけだ。
少女はあくまでも姉の、喪われた女(ひと)の代わり。
それはいい。勘違いとはいえ、少女が可愛い謀(はかりごと)で私を繋ぎ止め、そのことで
心穏やかにいられるのなら。
問題は私だった。彼女を愛していたのは事実だし、忘れることなどできそうにない。
いま少女に向けている気持ちは、かつて彼女との間に通ったものとは違う。
だが、先のことはわからない。私は恐ろしいのだ、彼女以上にその妹を愛してしまうことが。
そのとき少女が姉の代わりでなく、一人の女として求められることを受け入れてしまうのが。
そうなったら、私はなんのために――
ホテルの薄暗い部屋で、私は鏡と向かい合う。
灰に覆われた世界でただ一輪、あわい色彩を残した小さな花。私はそれを守るためにこそ
燃え残ったのだと信じたかった。
しかし、きっと事実は違う。私は花に寄生する虫だ。花を守りたいという思いさえ、
花なくしては生きられないという根源的な危機感に操られた感情かもしれない。
私が生きる限り、少女を傷つけずにはいられない。しかし私が死んでも少女を傷つけることになるだろう。
そう恐怖する――次にその恐怖さえ欲望から出た自己欺瞞ではないかと疑う。
無限の深淵へと降下する、愚考の螺旋。
ああ、彼女が私を責めてくれたなら。
一声でいい。私の弱さを、卑劣を、非難してくれたなら。
そのとき私は地に伏して許しを乞うだろう。そして寄生虫であることをやめ、少女の真の幸福に
命を捧げるのだ。亡き女だけが私にそれを強いられようものを!
しかし彼女は何も言ってくれない。
何故か。
死んだからだ。
もはや存在しないからだ。
鏡に映る私の後ろで、少女が細い両腕を伸ばしている。
赦すように。
慈しむように。愛おしむように。
受け入れるように、与えるように、求めるように。
悼むように。
虚無からの声を切望しながら、虫は今日も幼い花の蜜を啜る。
《終非劇》
72
:
名無しさん@避難中
:2014/07/14(月) 00:05:43 ID:RTOYnNzQ0
>>67
>>68
こういう小賢しいの嫌ーい。
>>67
は安いパロディがなければまあ・・・って感じだけど。
>>69
色が表現の軸になってて、そこは雰囲気が出てていいかなぁ。
他は全体的に書きたいブロックをバラバラにつなぎ合わせたような印象で微妙。
あくまで俺個人の感想だけど、今回のは全部あんま好きじゃないな。
73
:
◆aPSupcKIa.
:2014/07/19(土) 18:59:34 ID:iL8f/Zpo0
>>72
それでも読んで、感想までくれたことに感謝と敬意を。
『非小説・虫』はまず小説として出来がよくないとタイトルが機能しないので、この中では一番失敗してますね。
申し訳ないことにあと二回くらいは“小賢しい”話が続く予定です。
『Unsung Requiem』はそのための実験場みたいなものでしたので。
74
:
哲学者は蒼褪めた馬の夢を見るか?
◆aPSupcKIa.
:2014/07/19(土) 19:08:04 ID:iL8f/Zpo0
連作『Unsung Requiem』より 「哲学者は蒼褪めた馬の夢を見るか?」
「死と生は似ている」
こう言えば、けっこうな人数が賢しげに首肯してみせる。
それなのに、ぼくが「死と紐は似ている」と言うと、今度は彼らの首が横に傾く。
こんな当たり前のことが理解できない奴に限って哲学者を名乗っていたりする。あんまり笑わせてくれるな。
紐だけが特別なわけじゃない。たとえばぼくがコンビニでレジ打ちのバイトをしていて、
くの字に折れ曲がったレシートが、手の中でぴんと跳ねて落ちたとき。この光景はどうしようもなく死に似ている。
一見似ているようで、実はあんまり似ていないものもあるから注意しておかないといけない。
子供の手から離れた風船が夕暮の空に漂っていくとき。枯れ木の枝先に一枚だけ残った、
虫食い穴のある葉。こういうものはどれも死には似ていない。砂漠の真ん中に赤い鳥居が
ぽつんと立っている、これは少し似ているかもしれない。
けれどそんなものより、小学生がぐにゃぐにゃの筆致でノートに書き取った「館館館館館館」とかいう
漢字の羅列の方が、やっぱりよっぽど死に似ている。こうやってパソコンで打って印刷された
「死死死死死死死」なんて、死の爪先さえ掠めちゃいないのに。
たぶん、きみにもそういう感覚の体験はあると思う。意識していなくても、「あ、死だ」と
感じるときがきっとある。そして無駄に感動するはずだ。ぜひ探してみることをおすすめする。
死と紐の相似性に気付かないエセ哲学者とか、絵画の中の髑髏を眺めて悦に入ってる評論家気取りが
難癖をつけてくるようなら、何も言わず見守ってあげるのがいい。そのうち彼らにもわかるときがくる。
《メメント毛利》
75
:
外
◆aPSupcKIa.
:2014/07/19(土) 19:27:25 ID:iL8f/Zpo0
連作『Unsung Requiem』より 「外」
こんにちは。
「うわ誰、え? いつからいた?」
きみが認識した瞬間、つまり今だね。はじめまして。
「ふざけないでよ。どこから入ってきた?」
外から。
「そういうこと訊いてるんじゃないの! ドアも窓も閉まってるのに、どうやって入ってきたか、ってことだよ!」
手段か、それを説明するのは難しいな。きみが配置空間との接触面に引き寄せられ、
引力の相互作用が強まった。するとぼくの存在確率が非線形跳躍(ジャンプ)を起こしやすくなって、
全質量を一気に実体化させることが……
「なに言ってんの……もういいよ。とりあえず、君は誰なのさ」
ぼくは“外なるもの”。
「おちょくってんの? 名前は?」
いろいろある。とりあえず、“タオ”とでも呼んでよ。
「タオ君ね。あのさ、どうして僕の部屋にいるのかな? ひとの家に勝手に入るのはさ、
フホーシンニューなんだよ。わかる? ハンザイなの」
それは法律の中の話だからね。ぼくには関係ないな。
「関係ないわけないだろ。日本はホーチコッカって言って……とにかく出てけよ。ここは僕の部屋だ。
タオ君、家どこ? 家族は?」
家はないし、家族もいない。まあそれはどうでもいいんだ、話を聞いてよ。ぼくは選択を提示しに来たんだ。
「なんのさ」
“外”に出るかどうか。
「なんだ、結局それか。うちのお母さんにでも頼まれてきたの?」
それはなんのことか解らないけど――もし望むなら、ぼくが“外”へ連れて行ってあげる。
望まなければ、きみはこのまま“中”で生きていく。どっちでも構わないよ、好きなほうを選んで。
「連れて行って、あげる?――なにその上から目線。ふざけんなよ。冗談じゃない」
あれ? 出たくないの?
「出ないよ。当たり前だ。君もどうせお母さんといっしょで、引きこもりはムリヤリにでも
引っ張り出さなきゃいけないとか思ってるんだろ? だけどさ、現実を考えてもみてくれよ。
僕にとって外は敵しかいない」
ぼくはだいたい、外に出たがってる人の所に現れるはずなんだけどなあ……どうして出たくないの?
「君さ、知ってるの? うちのクラスの連中、不良ぶるのがカッコいいと思ってるカン違い野郎ばかり。
そうでない奴も見て見ぬふりだ。担任まで一緒になって、クソみたいないじめに参加する」
――ああなるほど、そういう意味ね……言語で思考する存在ってのは不便だなあ。
「この家の中だってそうさ。ねえ知ってんの? お母さんは自分の理想だけ押し付けて、
僕の話をちゃんと聞かない。お父さんはそもそも家にいないし話さない。
出てもなんにもいいことないだろ。この部屋の中しか僕の生きる場所はないんだよ」
それは知らなかったね。大変なんだろうね。
「でも逆に、僕がここから出なくたって誰も気にしないんだ。だから僕は、今のままでいいって
けっこう本気で思ってるんだ。誰にも迷惑はかからないしね――あ、親はどうなんだとか言わないでよ。
フヨーギムってのがあるんだから。助けてくれないんなら、せめてご飯くらいは作ってくれて当たり前だろ。
それがいやなら子供なんか産まなきゃよかったんだ。
とにかく、僕は自分の意志でここにロージョーしてるわけ。出られないとかじゃなくてね」
76
:
外
◆aPSupcKIa.
:2014/07/19(土) 19:29:16 ID:iL8f/Zpo0
そうかそうか。でもあいにくと、ぼくは議論をしに来たわけじゃない。
きみが今話してくれたことね、全部“中”の話なんだ。きみの言語フォーマットに合わせたせいで
認識にズレが生じたけどさ。そうじゃなくて、ぼくが“外”っていうのは、そういうこと全部の外なんだよ。
「日本語でしゃべれよ。『そういうこと』ってなんだよ」
たとえば、世間。
「はあ?」
それだけじゃない。常識。倫理。関係性。社会。法律。国家。物理法則。時間。空間。宇宙。
人間。感情。理性。自分自身。他者の認識。それから、存在。こういうようなこと全部さ。
わかりにくければ、世界と言い換えてもいい。正確さはだいぶ犠牲になるけどね。
「いや宇宙とか入ってたし、ホントに全部じゃん。世界の外ってどういうことだよ。なんにもないだろ」
なにかがあるとも、ないとも言えないんだ。この惑星の言語の枠内じゃ表現できないから、
中と外って分け方も便宜的なものだけど。強いて言えば――有でも無でもないそれだけが、
あるような、ないような?
「それさ、ひょっとして死ぬってこと? 回りくどい言い方してるけど、実は君って
宇宙人だの妖怪だので、ぼくを殺しにきたとか言っちゃったりする?」
そういう自由な発想ができるのはいいね。でも違うよ。ぼくは宇宙人や妖怪じゃないし、
きみは死ぬわけでもない。
死は確定した一つの状態に過ぎない。“外”は非存在の場だ。きみは生と死のどちらでもなく、
また同時に両方の状態をとることにもなる。『シュレーディンガーの猫』で例えれば、
箱が開けられた後でも猫が重ね合わせの状態を維持するようなものかな。
「しゅれ……え何? 猫?」
解らなくていいんだ、“外”ってそういうところだからね。どう? 行ってみたくなった?
「ならないよ。どう考えても君の言ってることはおかしい。いきなり入ってきた知らない奴と、
そんなどこかもわかんない変なとこにホイホイ行くと思う?」
思わないのかい? だって、よっぽど“中”にいたくないみたいだから。
「だからって、君と一緒に“外”とやらに行くってことにはならないだろ……ホントに君なんなの?
お母さんの回し者じゃなかったら、シンコーシューキョーのカンユーとか?」
違う違う……うーん、今回はまだ早かったみたいだね。そろそろぼくの存在確率も
不安定になってきたし、この辺までにしとこう。
「帰るの?」
配置空間に戻って、次の機会を待つさ。今度もぼくが来るとは限らないけどね。もっと強引なやつかも。
だけどいずれにせよ、きみはいつか“外”へ出て行くことになる。これは確かだよ。
「なんでわかる?」
心の力学ってやつさ。引力があるんだ。精神を通して存在そのものに作用する、n次元からの力。
それは不完全形成された運命を、世界の因果律が拒絶し排除する、必然の弾き戻しでもある。
この部屋の中しか僕の生きる場所はない、きみはさっきそう言ったね。だったらもし、
この部屋の中でさえ生きられないと思うようになったら? きみはどうする?
「そりゃ……自殺とか? 僕が部屋から出なくても誰も困らないんだから、
僕が死んだっていけない理由はないだろ」
なるほど、それも一つの選択肢ではあるね。
けど、それができるくらい“中”への未練がなくなる頃には、たぶんきみはもう“外”に出てると思うよ。
「勝手に決めるなよ。ていうか帰るんじゃないのかよ」
ぼくは楽しみにしてる。きみが純粋な不確定性の雲となって、赤い夜の扉の向こう、
可能性の狭間を横断するようになるのを。
「聞けよ!」
じゃあね。
《OUT》
77
:
爆弾処理班
◆aPSupcKIa.
:2014/07/19(土) 19:47:59 ID:iL8f/Zpo0
連作『Unsung Requiem』より 「爆弾処理班」
ぼくは頭がおかしい、ということになっている。
八歳のときだ。交通事故で頭に重傷を負ったぼくは、奇跡的に一命を取り留めた。
が、手術を指揮したさる高名な医師から、後日「脳に損傷が残った。重度の知的障害を一生患うだろう」
という宣告を受けた。母はその場で泣き出し、父は「なんとか改善の道はないのか」と
医者に詰め寄り、ぼくはそれをぼんやりと眺めていた。その日のことを、今でも覚えている。
入院中にあれこれテストを受け、これまた高名な精神科医だという人から
何やらむずかしい病名を頂戴した。やはり、ぼくは脳を怪我したことで何らかの知的障害を
持つことになったらしい。病名が覚えられないのもそのせいかもしれない。
どこから情報が漏れたのか、退院して一週間以内にはもう学校で気違い呼ばわりされていた。
以降、ぼくの呼び名にはバリエーションが増え、イケヌマ(知的障害者の略で知障、
それと同音語の池沼<ちしょう>をかけたネットスラングらしい)とか、シンショウ
(ぼくに身体的な障害は無かったはずなので、あえて字を当てるとすれば身障ではなく“心障”だろう)
などを経て、最終的に“サイコ野郎”というのが定着した。当時流行っていた洋画の
日本語字幕から取ったそうで、呼ばれた当初は意味が解らなかった。
なんだか超能力者みたいでカッコいいとか思って、辞書で意味を調べたら精神病患者のことだった。
「なるほど上手いな」と、別に上手くもない蔑称に何故か感心していたぼくは、
辞書のページに落ちた水滴を見て、初めて自分が泣いていることを知った。
両親も教師たちも、ぼくを慎重に扱った。丁重に、と言ってもいいだろうか。
ぼくだけかもしれないが、大人に中途半端に気を遣われるというのは、実のところ
子供たちからのいじめと同じくらい応える。
「障害があるってこととね、気が狂っているってことは別なのよ」
と、机越しに言ってくれた担任をぼくは忘れない。ことある毎に母はぼくを
抱きしめるようになったが、その手つきはまるで爆弾処理班だった。
爆弾処理班。一度、テレビでやっていた映画に出てきた。分厚い防護服を着込んで、
大きな防爆シールドを構えて、爆発物を刺激しないようにゆっくり近づく。
歩くだけでも疲れるような重装備があって初めて、彼らは解体なり爆破なりの仕事ができる。
爆弾に触れる指先は壊れものを扱うなんてレベルじゃなく、たぶん人間ができる触り方で
一番やさしい。当たり前といえば当たり前、文字通り自分の命をかけているんだから。
母の腕に抱かれながら、ぼくは母とのあいだにポリカーボネートの透明なシールドが
挟まっているように感じた。これじゃあぼくだって、間違っても自分が爆発しないように
気を遣わないといけない。
78
:
爆弾処理班
◆aPSupcKIa.
:2014/07/19(土) 19:51:24 ID:iL8f/Zpo0
けれど、ぼくは本当に爆弾なのだろうか――いちばん辛かったことがこれだった。
なんと言っても、ぼくには自分の何がおかしいのかわからない。
精神医学の権威が障害と診断し、両親を含めてみんながぼくを気違いとして扱っている以上、
当事者が否定したところで始まらない。自分が正常かどうかを自分で判断するなんて冗談もないだろう。
ぼくはどこかがおかしいはずなのだ。それなのに自覚症状はなく、誰に聞いても具体的なことは
教えてくれない。一番知っていそうな例の医者は、ぼくを診てほどなくして行方不明になっていた。
わからないことがなにより怖かった。
そんな小学生時代は永遠に続く責め苦のように思えた。でも過ぎてみればそれだって、
誰にも平等な速さで流れる当たり前の時間だったことがわかる。
ぼくは中学生になり、やはり精神異常者としてからかわれ、遠巻きにされ、
自分はどこが異常なのだろうと悩みながら、いつのまにか中学を卒業した。
高校では中学までの知り合いが居なかったこともあり、しばらく普通の生徒のように
生活していたけれど、他校から漏れてきた情報によってぼくの障害は露見し、
できかけていた友達も爆弾処理班に変わってしまった。
防護服防護服防護服。シールドシールドシールド。
みんな同じ格好。同じ手つき。このやさしい指先は誰ですか、おや先生でしたか。
サイコ野郎の噂は逆輸入される過程でだいぶ膨らんだようで、ぼくは身に覚えのない伝説を
いくつも背負う羽目になった。いわく、小六のときに同級生が話しかけただけで半殺しにした、
中学で新任の女教師をママと呼びながら犯した、妹をバラバラにして(ぼくに妹はいないのだが)
その肉を食った、等々。
その全部が事実だと思っている奴はいなかった(と思いたい)けど、
火のない所に煙は立たぬの理論で「全部がネタでもない」とされてしまうあたり、
どうもユーモアに溢れすぎる学校だったらしい。おかげで不良さえも気味悪がり、
病気をネタにからまれなくなったのはむしろ僥倖と言えた。
気付けばぼくの敵は孤独だけ、あとは誰もが爆弾処理班。ぼくは図書室の隅で
自分の異常性について考えるのが日課になり、いつのまにか高校を卒業していた。
ぼくの頭はどんなふうにおかしいのだろう。大学に入って二年が過ぎようという今もわからずにいる。
日々そのことを考えながら、まともな人間のふりをして暮らしている。
誰もぼくのことを知らないこの大学では簡単なことだ。サークルやゼミでできた友達は、
わざわざぼくの過去を掘り返そうとはしない。人と人の繋がりが希薄な社会も、それはそれで
いいものかもしれない。一方的に問題視してる人たちは、もうちょっと視野を広く取った方がいい。
たぶんこれからも、なんだかんだで単位を取り、なんだかんだで就活に身を投じて、
なんだかんだで普通の人と同じように生きていくんじゃないかという気がしている。
《不発》
79
:
◆aPSupcKIa.
:2014/07/19(土) 19:56:17 ID:iL8f/Zpo0
以上。
『Unsung〜』は次回で最後の予定。
80
:
名無しさん@避難中
:2014/07/21(月) 01:57:12 ID:CZkvuQHs0
>>73
俺が言いたいのはさ、一発ネタって本人がドヤって思ってるほど意外性なかったりするってこと。
それの一点突破で書かれてて、読んだ後で「は? なにこれ陳腐。本気でそういうのが書きたかったの?」って
がっかりするようなのには辛辣になってしまうんだ。
まあそういう意味では短いのは逆にまだ良心的と言えるかもしれないけどね。でも前回の二つ目とかは「ないわー」って感じ。
・・・半分くらいは俺自身に跳ね返って来るな。
すまなかった。
81
:
名無しさん@避難中
:2014/07/21(月) 02:13:14 ID:CZkvuQHs0
>>74
-
>>79
全部ではないけど、共感できるところはある。
でもこの
>>74
のエセ哲学者(語り手)、こういう奴は死ぬほどムカつく。
82
:
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 00:16:20 ID:OjG/Be/M0
ふむん。
まあドヤとも思いませんし「本気でこういうのが書きたくて」やってるわけですが
読者をがっかりさせてしまう点に関しては素直に申し訳なく思いますね。
今回はサイバーパンクっぽい描写の練習で書いたような話と、連作の〆にあたる文章。
83
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 00:22:34 ID:OjG/Be/M0
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
連作『Unsung Requiem』より 「Midsummer Madness」
土星へ向かう無人探査機が、例の生物にぶつかって軌道を逸れた。
朝のニュースはそんな情報で始まった。朝食の席では、誰もホログラフィック・テレビに
注意を払っていない。そんな視聴者の態度には関わりなく、女子アナ風の合成音声は淡々と
原稿を読み上げ続ける。いま全国で何人の彼女がBGMと化しているのだろう。などと考える私も、
鈴を転がすようで耳に快いその声を楽しむに留まっている輩の一人なのだが。
「ごっちそさまァ」
「はーい、あっ? またトマトに手ぇ付けてない! 天然ものは高いんだから、ちゃんと食べなさいよ」
「食ったら吐いちゃうんだから、仕方ないじゃないですかー」
ランドセルを引っつかみ、息子が玄関へ駆けてゆく。妻がその後を追いかけ、
食卓に一人残された私は同じ境遇にあるトマトを見出した。ほとんど無意識に腕を伸ばし、
赤い半円形を口に放り込む。
高速培養や合成物の比ではない、舌が縮むような酸味が弾けた。実を言うと私も
天然トマトは好きではない。毎度今日こそは好きになれるかもしれないとの希望を抱いて、
食べては後悔する。基本的に加工品を好むくせに、野菜だけは天然物がいいと主張する妻が
理解できない点で、私と息子は共同戦線を張っていた。
「ほらまた家の鍵忘れてる……ほかに忘れ物ない?」
「ないと思うよ。しかしね、ほんとうの忘れ物というのは、手遅れになるまで気付かないモンだよ」
「だからぁ、それを無くす努力はしろよ!」
「はいはーい。んじゃ、いってきまーす」
ドアが閉まる音を聞くのと同時に、コーンスープに浸した加糖パンの最後の一かけらを飲み込んだ。
ごちそうさま。
眼鏡を掛け、テレビの時刻表示を見る。私もすぐに仕事へ出なければならない。
「リニア、何分だっけ」
戻ってきた妻が皿を片付けながら訊く。
「十六分だ。間に合うよ」
「そ。今日だよね、あの人に会いに行くの」
首肯し、椅子に掛けていた背広を着る。私がつい厳しい顔になってしまうこんなときでも、
伸びやかに話してくれる妻が好きだ。同じ理想に向かって歩く友としても、その気丈さに励まされてきた。
「明日には戻る」
息子には会社の出張と伝えてあった。私の表向きの顔は凡庸なサラリーマンである。
もっとも、いまは勤め先の限ヶ島ユニバーサルテクノロジー社に対して重大な背信行為を働いているのだが。
「たまには土産の一つもヨロシク」
「他の仲間にも強請られたよ。ブルータス、お前もか」
そう答えながら、家族にはなにを買って来ようかと考えている。まだ家を出てもおらず、
無事に帰れる確証もないのに。
だからこそか――と気付いて、思わず苦笑した。
土産を買って来いとは、要するに生きて帰って来いということだ。
「それじゃ、行ってくる」
革靴に足を入れ、玄関のドアを開ける。
すぐ目の前に例の生物がいた。
形については名状しがたい。息子はこれを「でっかいタコさんウインナーをひっくり返して、
テカりのあるライトグリーンで塗った感じ」と表現する。それにはこの生物が備える八本の腹足や、
歩行足の繊毛状器官に関する描写などが欠けているものの、さりとて私には彼よりマシな説明も思いつかない。
「どいてくれるかな」
そいつは腹足をゆったりと波打たせながら道を開けた。こんなのは珍しいことでもない。
先日などトイレの外にこれがいて、出ようとしたらドアが開かなかった。
歩き出すと同時に、妻の声が背中を押す。
「行ってらっしゃァい」
上半身だけ振り返って手を振り、駅への道に急ぎ足を乗せた。家族想いの、善き父親の時間は終わり。
ここからは息子の知らない私――独善的で過激な、進歩主義者の時間だ。
84
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 00:31:22 ID:OjG/Be/M0
早くも気が滅入ってきた。
リニアトレインで揺られること数時間。そこから、ミニカー同然のチャチな緩衝機構(サス)しか
備えていない骨董品のトラックで、さらに山道を数時間。現地に着くとそれが聳えていた。
バラックが雑然と横に並ぶスラム街を、何層も縦に積み上げたような、奇形の巨大構造物。
名を“天底(ネイディア)”という。
誰が名付けたかは知らない。そもそも私は、こんなものがいつから存在しているのかさえ
知らないのだ。もちろん実見したのも初めてである。ここは本当に国内か、そもそも現実か?
いつの間にかヴァーチャル・リアリティにジャック・インしたのではないかという疑念がきざし、
私は頸の後ろのモジュラージャックを無意識にさすった。しかしふと思いついて眼鏡を外すと、
視力は自動補正されていない。安堵とともに、しばらくぼやけたままの世界を眺めた。
眼鏡をかけなければ見えないのが、いつも決まって現実である。
百科事典サイトによると、外国人労働者の居住施設群が、違法かつ無軌道な増改築で
勝手に拡張された結果がこれだという。にわかには信じがたい。違法建築が云々という次元を
遥かに超えている。普通は警察なり行政なりがここまで放置しないはずではないか。
しかし現に私の目の前には、もはや一個の都市を内蔵した要塞とも呼ぶべき“天底”が、
厳然たる質量を伴って屹立している。
数百年前の香港に膨れ上がった九龍塞城もかくやという、見た目通りの無法地帯。
凡そまともな人間が入るところではない。が、私はおそらくまともな人間ではないし、
ここの住人の一人に会うべくやって来たのだ。踏み込まざるを得ない。
内部は迷路さながらの複雑さだが、部外者が安全に歩く手段は用意されている。
周辺に広がる市街でガイドを雇うのである。
私が雇ったガイドは、筋骨隆々たる白人の男だった。
「道案内のローウェルだ。もちろん偽名だがな」
料金は割高ながら、ボディガードも兼任してくれるということで信頼性に定評がある。
以前アメリカの民間軍事会社に所属していたという彼は、中東の戦場でMIA(戦闘中行方不明)の
認定を受け、それを機にと傭兵稼業から足を洗ったのだそうだ。非常にどうでもいい。
「あの爺さんは間違いなく頭がイっちまってる」
訪問相手の老人について、元傭兵のガイドが語った話だ。
「仕事に使ってた水銀をしこたま飲んで、脳ミソがどうにかなった……ってのが有力な説ではあるな」
暗い通路の床は水溜まりだらけだった。天井には無造作に引かれた配線・配管が
血管のように絡み合っており、その隙間からも水滴がしょっちゅう落ちてくる。いくらかは
明らかに下水で、排泄物のような臭いが鼻を衝く。慣れているらしいローウェルは平然としていた。
「奴さん、いつもケーブルに絡まって、半分空中にぶら下がってんだ。本人曰く
『妹を生き返らせるため』だそうな……どういうことかは訊くな、俺にも解らん」
糞尿より遥かにひどい腐臭をぷんぷんさせている人間も多い。ときおり転がっている
死体(と思しきもの)を勘定に入れずともだ。首や四肢の関節周りで皮膚が黒ずんで、
生きながら蠅を何匹も侍らせているような手合いからは、特有の膿の臭いがする。
ヤブ医者が義肢接合やインプラント埋伏の手術をしくじった結果だ。
抑制剤(インヒビター)の量をケチって周辺組織が化膿したり、逆にオーヴァドーズで
細胞を壊死させたり――
私や妻の頸部モジュラージャックは腕のいい医者が埋設しているから、そういうことはない。
息子の処置も同じ病院でやってもらうことになるだろう。前を歩くローウェルの頸に目を向けると、
米軍規格の円い大型ジャックが植わっていた。戦車や戦闘機も神経接続で動かせる代物だ。
やはり軍人くずれ、よくある経歴である。
「もっとも、複数のアカウントで同時にネットを潜ってるあたり、ただの電脳中毒かもな。
ちなみに合成肉屋の婆あが言うには、奴は六十年前からずっと配線まみれだ」
85
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 00:40:00 ID:OjG/Be/M0
汚水を躱しながら歩いていると、鼻が麻痺してくる頃に例の生物とすれ違った。
後ろ向きに歩くタイプだ。後ろ向きといっても顔などはなく、すべての個体が同じ形に見えるくらい
特徴に乏しいので、どちらが前かは判りにくい。かろうじて歩行足の数で見分けがつく。
これから取引に行こうという先方について、ガイドの話は続く。
「オカルト紛いの話も吹かしてるみたいだぜ。何だったか……この世界は“外なるもの”に
脅かされてて、自分はそれに対抗する兵器を作ったとかナントカ……ヤクでもキメてんのかね?
それとも自動更新の電ヤクが、脳にエンドレスで走(ラン)ってんのかね?」
逸話の数々を聞くうち、件の老人が信用できる取引相手かどうか、疑う思いが強まってくる。
危険は承知の上で来たが、それと警戒しないこととは別だ。
ちらと脇に目を向ければ、柱の隙間に“必需護身武装”なる看板を掲げた店がある。
ショーケースにずらりと並ぶは何故か、強化(エンハンスト)カーボン製の手裏剣、クナイ、
艶消し黒塗りの短刀、エトセトラ。
忍者の真似事はなしとしても、道中で武器を調達していくべきか――割と真剣に
そんなことを思っていたら、床で平べったくなっていた例の生物を踏んだ。
「おっと」
ここは人だけでなく例の生物も多いようだ、とぼんやり思う。住人が家具として使っているところも
一度ならず目撃した。枕代わりにして寝ている男性を見たときなどは、やわらかくて気持ちいいかも
しれないと一寸思ったが、私が見ているうちに枕は男性の頭の下から脱出してどこかへ行ってしまった。
これは御免こうむる。
五分と経たぬうちに、曲がり角と階段を数えるのは諦めた。なるほどガイドなしに立ち入れば、
素人は二度と出られまい。
「彼の住居までは、あとどれくらいだ?」
「もう少しかかる。この街でも奴は最古参だからな、昔は松下企連(マツシタ・アライアンス)の
外人寮だった中心部に住んでんだ。どの入り口からも、真っ直ぐ通じてる道なんぞありゃしねえ」
それで右に左に迂回したり、階段をいくつも昇り降りしていたのか――納得するとともに、
帰りも同じ道を通らなければならないと解ってますます憂鬱になる。
長い階段――曲折階段が半ばで途切れ、錆び付いた螺旋階段が継ぎ合わされている――を
下りていくと、薄汚れたシャワー室が両側に並ぶフロアに出た。扉も噴水口も元々雑な造りだったようで、
ほとんどは壊れている。床はここでも水浸し、ネズミやゴキブリや例の生物が行き交っていた。
シャワー室の間を抜けた先は、また細い通路。天井から壁面、床に至るまで配線・配管が
埋め尽くしている。LED灯の明かりが照らす壁に、“年劈頭路”と書かれた金属のプレートが打ち付けてあった。
「旧居住区“ヴィア・ロウシュ・ハシャナ”だ。“天底(ネイディア)”発祥の地だが、爺さんを含めても、
もう数えるほどしか人は住んでねえ。さすがに交通の便がなさ過ぎるし、ここ半世紀は
陽も当たらんらしいからな。ま、住環境の悪化って奴だ」
環境の悪化と言う割には――私は足元を見回した――水溜まりはないし、ネズミやゴキブリもいない
(例の生物はいる)。隣接するシャワー室の惨状とは比べ物にならない清潔さである。
害虫害獣がいない代わりに、小さな銀色の物体がいくつも配線伝いに動き回っている。
蜘蛛のような多脚の機械だ。
「虫型オートマトン? 誰が作った?」
「そりゃ爺さんのロボットだな。勝手に増えるそうだぜ」
自己増殖型。おそらくはこれが漏水や虫獣害から配線網を守っているのだろう。
だが、最新の設備もなしにこんな精密機械を作り上げるとは。溶接跡のない滑らかな
合成アルミニウム・フレームが、このオートマトンがハンドメイドでないことを雄弁に物語る。
確信を深めた――やはりブラフではない。
彼は“持って”いる。
86
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 00:51:25 ID:OjG/Be/M0
「さて、お疲れさん。着いたぜ――
爺さん! 客を連れてきたぞ! 居るんだろう!」
ひと目でそこだとわかった。走っているケーブル類のほとんどが一つの部屋に集中している。
むしろ、何らかの巨大な植物が扉の奥から四方に根を這わせているようにも見える。
電子的に加工された、抑揚に乏しい男の声が響いた。
〈“コンヴィンスト”か?〉
事前の連絡でそう名乗っていた。間違いはない――部屋の中へ声を投げ返す。
「そうです。予定通り“品”を持って参りました」
〈では、入れ。ガイドはパーシヴァル・ローウェルだな? 話が順調に進めば、
ここはほどなく戦場となる。貴様の力も借りたい〉
その言葉から、何かきな臭いものを嗅ぎ取った。戦場――何かの比喩か、文字通りの意味か?
「そりゃ、仕事(ビズ)の依頼か……どういうんだ?」
〈仔細は事がそのように進んだら話す。あるいは杞憂に終わるやもしれん。
最高の装備を揃えてこの近くで待て、いずれ話が終われば呼ぶ〉
ローウェルは片眉を上げ、大仰に肩をすくめた。日本のアニメを見て育ったアメリカ人は
よくこんな動きをする。
「ふうん、まあ、あんたなら見返りもそれなりなんだろう。いいぜ、俺はしばらくネットでハメてる。
連絡はビズ用アカウントのアドレスに寄越してくれ」
ひらひらと太い腕を振って去っていくガイド。その頸の黒いモジュラージャックが、にわかに
卑猥な器官の相を帯びた。
「この体勢のまま話すことを許されたい」
彼は本当にケーブルに絡まっていた。
サマーズ・サルスティス。分子工学(ナノテクノロジー)の危険な応用を研究し、国を追われた
マッドサイエンティスト。行方不明となっていた彼がここで隠遁していることは、外部では
数えるほどの者しか知らない。すなわち私と、その同志たちである。
「仮にも堅気の会社員が、危ない橋を渡ってきたものだな。主義者というのはつくづく度し難い」
半身を床から浮かせたまま、襤褸切れの中で老人は笑った。武骨なスコープで隠された
目元は見えない。
「面倒な駆け引きを抜きにするための交換条件だ。早速だが、約束のものを見せてもらう」
言われたとおり、私は鞄の中からメモ帳を取り出した。
「電子部品は一切なし、正真正銘の紙媒体です。アクセスキーは十五ページ目から、
手書きで写し取ってあります」
65535文字から成る電子の鍵。限ヶ島のメモリーバンクから手に入れるにあたり、
セキュリティは仲間のハッカーと協力して突破、のち十二層の欺瞞工作で
システムを完全に白痴化させた。これを盗み出したことに京都府警(モノリス)が勘付くまで、
少なく見積もっても一週間はかかる。
その頃には――すべてが取り返しのつかない地点まで進んでいるだろう。
「結構。かくも電脳化が進んだ時世に、ただの紙の何と重宝なことよ」
「こんな時代だから、でしょう――それで、そちらは?」
サルスティスが細長い左腕を上げると、アクチュエーターの駆動音がかすかに聞こえた。
機械化義肢――その指が、主の頭を示す。
「私の、補助脳の中だ」
メモリの増設などで機械的に脳機能を拡張する技術は、高度電脳化社会の現在では
常識の範疇だ。補助脳とはいわば、記憶を保存するための外付けハードディスクである。
これがなければ、ネットにジャック・インしても大きなデータを扱うことができない。
もちろん私も植えている。
老人の右腕が、こちらもサーボモーターの唸りを上げながら、おもむろに一本のケーブルを差し出す。
その一端は、老人の耳の後ろに繋がっていた。
「外部ネットワークと完全に隔絶されたドライブ領域を用意した。そこに件のプログラムを
トランスプランテーションしてある。ニューロリンクを行い、サブドライブの記憶構造野に
君がダイレクト・サブマージするのだ」
87
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 00:57:24 ID:OjG/Be/M0
呼吸するように奇怪な専門用語が飛び出してきたが、要点を言うとこうだ。
私は目的のものを手に入れるために、この変態技術者と脳を有線直結する必要がある。
正直なところ、生理的嫌悪感を禁じ得ない。それ以前に危険だ。
「システムトラップが仕掛けてあって、潜った瞬間にサブドライブごとシャットダウン、
なんてのは御免ですよ」
「仮に私が君の魂を亡き者とするつもりでも、『実はNLSからパルスが逆流するようになっている』
などと、正直には言わぬだろうな」
老人が挑発しているように思われた。欲望と怯懦を秤に掛けて、進むか退くかを選択せよと。
しかし彼は続ける――
「ただ、言わせてもらえば――私はここから一歩たりとも動くことなく、半世紀以上も生き延びて来た。
オートマトンやネット接続環境の整備にも、この手は動かしていない。すべてはあのプログラム、
“分子煽動者(モルアジテーター)”の力だ」
その名を聞いて、理想への欲望が燃え上がるのを自覚する。
そうだ、ここへ何をしに来た。危険を冒して最高機密のアクセスキーを手に入れてきたのは何のためか。
足踏みするちっぽけな自分を奮い立たせようと、私は頭の中に計画の青写真を描いた。
貧困や苦役から解放され、遺伝子の限界を超越した人類の新世界――
「やろうと思えば飢えも渇きも、死すら寄せ付けないでおける。私とてこの外貌から
推測されるより遥かに健康なのだよ。常時ネットワークに並列接続していなければならない
関係から、全身をターミナルと化し、こうしてケーブルだらけの姿になっているがね」
不老不死。然り、あのプログラムさえあれば可能かもしれない。だが、だからこそ疑わしいのだ。
私がアクセスキーの書き出しに要した労力は小さいものではなかったが、報酬はあまりにも大きい
――大き過ぎる。
「それほどの力を、ずいぶん簡単にくれると言ったものですね?」
真意を確かめたくなった。割に合わない取引を持ち掛けてきた、この老人の。
「……君には君の理想と目的がある。同じように、私には私の理想と目的がある。
私を信ずるかどうかは、畢竟己を信じて決めることだ」
青臭い好奇心のまま、踏み込んだと思ったら突き放されていた。ただ、その声に
頑なな拒絶の響きはない。
「私にとって、“アジテーター”はツールであり手段に過ぎない。失礼な言い方かもしれないが、
私の望みは分子工学(ナノテク)ではどうにもならない領域にある。おそらく理解してはもらえまいが」
それは諦めだった。彼はそもそも理解を求めるつもりがないのだ。
糸に絡め取られたマリオネットのようになりながら、ここで孤独に時の中を歩んできた男に、
私は自分の鏡像を見る。理解してもらおうとは思わない――私も、否、私たちも同じではないか。
サルスティスが契約を守るつもりでないのなら、とっくに私を殺している。すべからくこの男は
それが可能な武器を持っているのだし、それは殺人の証拠も残さない。
割り切れ――と、頭ではない体内のどこかから声がした。
人は所詮世界のすべてを知ることなどできないし、知る必要もない。私と彼は別の
線の上を歩いている。各々の利害が一致を見たからこの取引が成った、それで充分ではないか。
「どうする。やめるのなら、君のガイドを呼ぶが……」
迷いの終わり、ほんの一瞬間、妻と息子の顔がよぎった。
「やりますよ。それなりの覚悟はしてきたんだ」
用意された椅子に身体を固定し、アームレスト先端のボタンを押す。備え付けの
アームが展開し、頸部ポートにプラグを差し込んだ。
「結構。私はその間にキーコードを試させてもらう」
老人の手がメモ帳を取り上げる。その拍子に見えたのだが、彼の後ろに例の生物が
一体佇んでいた。
「ああ、一応言っておこう。いくつかの無害なダミーファイルが格納されているが、
本物は一つ。じっくり目当てのものを探すことだ」
その言葉の意味について思いをめぐらす暇はなかった。かしゅん、と小さな音を立てて、
プラグの量子電位フィルターが展開。私の意識は二進数信号の世界へと、虚実の断絶を跳躍した。
88
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 01:02:16 ID:OjG/Be/M0
1011000000000011011001001
流れ込んでくる情報が、次第に人間の知覚に合わせたものへと再構成される。
初めに音が聞こえ、それから三原色の光が複雑に重なって風景を形作っていく。
仮想空間は夢とは違う。感覚情報は現実そのまま、明晰に認識される。まもなく、
身に着けた背広の些か窮屈な感触と、やや涼しいが快適な気温を肌で感じられるようになった。
フォルダ001。私は個人用の病室らしき場所にいた。
壁や天井は黄色がかって温かみのある白。並んで置かれた机とベッドは、ともに明るい色の木製。
ベッドの上では、動物の絵がプリントされた掛け布団にくるまって、少女が眠っている。
ここを病室らしく見せているのは、壁に埋め込まれたバイタルサインのモニターと、
眠る少女が身に着けた白一色のワンピース。飾り気のまったくないシンプルなデザインは、
死装束という言葉を連想させる。
「なんとかならないのか。脳機能を制限するとか……!」
後ろから若い男の声が聞こえた。懇願するような音の震えに、必死の響きが乗っている。
振り返ると、部屋の隅に扉があった。やはり明色の木製で、縦に長い磨りガラスが
嵌め込まれている。声はその向こうからだ。
別の男が応じる。
「諦めるしかないだろう……ウィンタースの量子状態は一個の系に収束している。
それも、本人の意志の力でだ。n次元認識能力はグリア細胞なんかに依存しちゃいない、
君の方がよく知ってるはずだ――まぎれもない異能だよ」
歳は一人目とさほど変わらないように思われた。こちらの声は自棄になっているような、
ヒステリックな響きを帯びている。
「そしてあの子の位相は、本人の意思と関係なく、配置空間との接触面に近づいている。
ゆっくりとだが、確実に。いずれ“外”からの引力がシェーンベルク限界を超えれば、
あの子は初めからこの世に存在しなかったことになる」
「やめろ、そんなことを言うのは!」
盗み聞く私には、専門用語らしきものが飛び交う話の内容は飲み込めない。だ
が、二人の男が交わす声の調子には、扉越しにもどこか悲愴さがあった。
ベッドの方に視線を向けると、眠っていたはずの少女が目を開けている。
寂しげな表情で、扉の方を見ている――
と、少女の姿がブレた。次の瞬間にはいきなり最初と同じ体勢で寝ており、
また扉の外から「なんとかならないのか」と男の声がする。映像の時間がループしているのだ。
これはダミーファイルだ。記憶の再生(リプレイ)か、ただのフィクションか。
いずれ、私にとって無意味な映像。
アドレスを書き換え、再跳躍する。フォルダ002へ。
89
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 01:06:49 ID:OjG/Be/M0
1011000000000100001100101
手術室のような照明に照らされていた。金属とインヒビターの臭いが、
仮象でしかない鼻を通過する。量子化された感覚の奥で、饐えたクオリアが像を結ぶ。
フォルダ〇〇一でベッドに寝ていた少女が、今度はコンピュータとケーブルで繋がれた
銀色の椅子に座っている。傍らには白衣を着た長身の青年がおり、神経質そうな顔を
不安に――罪悪感だろうか?――曇らせていた。
「――おまえのQ波パターン、つまり心の形に合わせて筐体をデザインする。
そのための人格移植だ」
その声は、病室の外にいた二人目の男のものに聞こえた。ただ先よりも
ずっとやさしく、自嘲するような色はない。
「くどいようだが、一度起動してしまえば、観測兵器(アーティフィシャル・シンカー)は
無限に稼動し続けることになる。途中で降りることはできないんだ」
「わかってる。何度も聞いたよ。覚悟はできてる」
涼やかな、凛とした声がそう答える。少女は自らプラグをセットすると椅子を倒し、
端子の上に頭を置く形でジャック・インした。このタイプはやや旧式のものだ。
男の指がキーボードの上をのろのろと歩き、コマンドを打ち込んでいく。
関節の駆動音から、男の腕が義手であると判る。
「この身体は保存しておく。もしやめたくなったらいつでも言っていい。
シンカー起動前なら、すぐに戻してやるから……」
「いいよ、普通のハードウェアじゃ存在確率が安定しないんでしょ。
わたしは忘れるのも、忘れられるのもいやだよ。だからさ――」
きしゅん、と鳴って量子電位フィルターが脊髄を挟み込んだ。接続(コネクト)デッキとなった
椅子の上で、少女の肢体が小さく跳ねるように反り返り、すぐにぐったりとして動かなくなる。
男は唇を噛み、眉根を寄せていた。彼は横たわる華奢な身体に医療用ナノマシンを注入し、
椅子ごと動かして冷凍槽へ運んでいく。その後ろで、コンピュータと繋がったスピーカーから
少女の声が出力されていた。
〈だからさ――お願い、兄さん。わたしにヒロインをやらせて……〉
映像はここで途切れ、またループし始める。
もう一週してプログラムを探してみたものの、隠されている様子はない。
これもダミーファイルだった。かまわず003へ跳ぶ。
90
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 01:58:26 ID:OjG/Be/M0
1011000000000100111100001
直径五メートルほどの、円い部屋だった。触覚フィードバック式ホログラフィック・スクリーンが
周囲三六〇度にずらりと並ぶ。それを前の映像と同じ青年が、指揮者のように
腕を振って操作している。同時に、誰かと回線越しの会話をしているようだ。
「……二百年前、シェーンベルクが提唱した理論には欠陥があった」
先の映像でも思ったが、青年の義手が立てるサーボモーターの音に聞き覚えがある。
もしやという連想に、白人のガイドの話が結びついた。
この青年には妹がいる。彼にも妹がいた。
「非存在の存在化、いわゆる絶対他性現象(エンジェル・ディセント)は、
カオスに支配された一定な現象などではなかったんだ」
会話はまたぞろ意味不明の用語で切り出された。思えば、この話し方も似ている気がする。
「確認しながら話すから、間違いがあったら訂正してくれ――非存在とはいわば、
可能性の水面下に潜む“存在予備軍”だ。それが量子トンネル効果で瞬間的に
高い存在確率を獲得し、ときに配置空間から弾き出されてくる――そうだったな?」
〈ああ、だいたい合ってる。それで?〉
通話相手の声も、フォルダ001で最初に聞いた男のそれだった。
「非存在の中には巨視的存在の確率、また意思や知性を持った系もある。
そして、絶対主観に基づく自己観測能力を持つ系は、量子的に単一の
纏まりとしてふるまう。ウィンタースと同じように」
〈彼女にだけはそれを実証してほしくなかったがね。それから?〉
「――こういう単一系の非存在は、ただ一度の跳躍(ジャンプ)で全体を実相化できる」
〈はっは!〉
スピーカーから笑声が響く。心底、吹き出したといった調子だ。
〈馬鹿な、不可能だ。通常空間では量子ゼノン効果が働く。意識を生じるほどの
複雑系まるごとなんて、ディラックの海に大穴が開くような確率変動、必ず阻害される――〉
「忘れていないか、宇宙はほとんど真空だ。超空洞(ヴォイド)のように殆ど粒子がない
ところでは、エネルギーの巨大な揺動を妨げるものが何もない。不確定性は極大になる
……今データを送る。それを見てくれ」
彼らの会話を文字に起こしたら、さぞ凄まじい怪文章になることだろう――
そんなことを思いながら、“アジテーター”を探して歩き回る。こうも蚊帳の外に
置かれ続けていると、冷やかしでもしなければやっていられない。
〈――確認した。なるほど、太陽系ではあり得ない密度とはいえ、この予測値は凄い。
……いや待て……ということは、宇宙が超光速で膨張している以上……〉
「それが最大の問題だ。エントロピーは増大する」
回線越しに息を呑む音が伝わってきた。何に驚いたのかは窺い知れない。
熱力学第二法則がそんなに珍しいものだろうか。
91
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 01:59:49 ID:OjG/Be/M0
「空間の拡大は粒子間の距離を広げ、量子ゼノン効果は漸減していく。
一方で空間の不確定性は高まり、比例して絶対他性現象の発生は指数関数的に増加する。
神はどんどん気紛れになるんだ。
そうなると、この宇宙に存在しないはずのエネルギーが、無の中から際限なく生まれてくることになる。
バランスの崩壊だ。最終的には宇宙そのものがシェーンベルク限界を超える。
破綻した可能性事象面が虚数反転を起こし、存在と非存在がひっくり返る――」
長い沈黙があった。各種機器の排気音だけが、低く不吉に響く。
やがて、震える声が答えた。
〈……あとどれくらいある? つまり、この宇宙が“発狂”するまでの時間的猶予だが〉
「わからないが、どうやら天文学的な年数は必要としない」
プログラムが部屋の中にある気配はない。この後で出てくる可能性もあるため、
私は最後まで男たちの会話を傍観することにした。しかし――ダミーファイルにしても
退屈な映像である。
〈終わりか、人間も地球も〉
「絶望させるために話したわけじゃない。私に考えがある。
量子ゼノン効果を維持するための観測ユニットを作るんだ。あらゆる環境で活動し、
いかなる力でも破壊されず、かつ我々にとっては無害なもの。過去と未来を往復し、
この宇宙から不確定領域を消し去るまで観測行動を続ける端末」
青年が一つのスクリーンを拡大する。そこには例の生物が映し出されていた。
「この設計プランを見ろ。世界が配置空間に落ち込む前に、“外なるもの”を駆逐するための
観測兵器――アーティフィシャル・シンカー。すべての存在は彼女が認識し、思うゆえに存在し続ける」
〈これは……どうやってこんな代物を作る? 荒唐無稽だ〉
「ウィンタースの能力を組み込む。プランク秒ごとに自己を完全な状態で再定義し、
目的を果たすまで永久に稼動し続けるように」
〈そんなことが可能なのか?〉
「ああ。複製は不可能だが、そのために時間軸上を往復させる。反電荷の時空対称性が使えるだろう。
陽電子は時を遡る電子――時間に逆行するときのATは、後ろ向きに歩くように見えるはずだ。
君には行動制御などのソフトウェア・アーキテクチャを担当してもらいたい。
躯体は私のナノアセンブラで形成する」
〈……わかった。協力しよう。彼女の了承も得ているんだろうな?〉
青年はほんの刹那動きを止め、それから決然たる口調で言った。
「無論だ。これはあの子の望みでもあるし、救済でもある」
ここで、ようやく映像が終わる。
私とは関係がなさそうな会話、関係がなさそうな世界。繋ぎ合わせれば全体像が
見えそうな気はするのだが、何故かそれを見たいとは思わない。
見てしまえば、何かが崩れる。そういう予感がある。
余計なことは考えないように。それだけを考えてフォルダ004へ向かう。
92
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 02:07:53 ID:OjG/Be/M0
1011000000010111000110111
壁一面がダイオード・ディスプレイになっている、暗い部屋。
モニターの明かりが、二人の男の輪郭を闇に浮かび上がらせている。
「……自分が何をしたか、解っているのか」
そう言った男は椅子に腰掛け、頭を抱えるようにして俯いていた。
光に背を向けていて判りにくいが、あの義手の青年だ。
もう一人は彼の目の前に立っていた。こちらも白衣を着て、長い髪を後ろで束ねた美丈夫である。
画面の光を映して冷たい瞳が、傲然と相手を見下ろしている。
「彼女を永遠の苦痛から救ったんだ」
病院の廊下と003の電話、両方で青年と話していた声だった。
青年が弾かれたように顔を上げる。赫々と血走った目には涙を浮かべ、声はかすれて絞り出すように。
「きさまは人類の……この宇宙の未来を何だと思っている!」
「人類も、未来も、ただの言葉だ」
見下ろす男の声は低く、感情の爆発を抑えているような危うい揺動がある。
「曖昧な大義に身を委ねて、自分が大きくなったつもりでいるのか、サマーズ?
お前が完璧な人間だなんて思っちゃいなかった。それでも、ただ一人の家族を
兵器に仕立て上げるほどの屑とは、さすがに見抜けなかったよ」
「きさまこそ屑だ。私に選択の余地はなかった。それを……」
椅子の男は――義手の青年は――サマーズ・サルスティスは――立ち上がり、
床に向かって絶叫した。
「何故解らない! 曖昧でも何でもない、現実の危機が目の前に迫っているのに!
人ひとりと世界、秤に掛けるまでもない!」
「そうだろうな。他人を生贄にするのは、お前には簡単なことか」
若きサルスティスの叫びを一蹴し、友であったらしい男は出口へ向かう。
扉に手を掛け、半分だけ振り返った横顔は苦々しさを隠さない。
「ああするのが彼女のためだった。未来を手に入れる代償が命ならまだいい――
いや、よくはないが、理解はできる。
だが、ひとりの人間から死を奪ってまで救うには、世界など安過ぎる」
二歩で部屋を横切り、幽霊のような形で傍観している私の身体を通り抜け、サルスティスが
男に掴みかかる。
「よくもぬけぬけと! 精神をバラバラに切り刻んで“リグ”全域にぶち撒けたのが、あの子のためだと!」
「救済と抜かして俺を利用した男が、言えた科白か」
細長い義手を殴りつけるように振り払い、男は部屋を出て行った。
残されたサルスティスはコンピュータに歩み寄り、ディスプレイに表示された
エラーメッセージの赤い点滅を眺めている。
「違う。違うとも……これは死を取り戻すための……」
彼はコンピュータの向こうにいる誰かに、ひどく惨めな声で語りかける。
「私は諦めない。必ずおまえをサルベージする、必ず――」
答える者はないまま、映像が初めへ巻き戻る。
今では確信していた。これはサマーズ・サルスティスの記憶。話の内容が何を
意味しているかは解らなくとも、断片からローウェルの話が正しいらしいことは推察できる。
サルスティスの妹は、何らかの目的のために意識をコンピュータに移植した。
そして兄と対立するに至った友人の手で、彼女のデータは散逸した。サルスティスは
何十年もの時を掛けて、少女の精神を復旧しようとしている。私の理解はこんなものだ。
――本人曰く「妹を生き返らせるため」だそうな。
あの老人は少々頭がおかしいかもしれない、だが嘘は言っていなかったのだ。
「案外とセンチだな」
あくまで私には関係ない人生である。依然変わりなく、宝探しのおまけで見せられている他人の物語。
だというのに。
――人類も、未来も、ただの言葉だ。
――曖昧な大義に身を委ねて、自分が大きくなったつもりでいるのか?
名も知らぬ男の言葉が、何故か私まで殴りつけてくる。
ここにプログラムはない。私にとって重要なことはそれだけだ。
再び言い合っている二人から逃げるように、フォルダ005へ飛んだ。
93
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 02:11:48 ID:OjG/Be/M0
1011010000110110001110001
ひどく不安定なフィールドだった。
記憶が曖昧なのか、そもそも奇妙な空間として作られたイメージなのか。
抽象的な模様が流動する足元は、どこが地面かも定かでない。私の前には
年老いたサルスティスと例の生物がおり、遥か遠くで白い馬が走っている。
馬の額には一本の細長い角。一角獣(ユニコーン)という名が自然に浮かぶ。
膝をついた姿勢で、サルスティスが言う。
「おまえにしか出来ない」
祈るように。
すると例の生物が、少女の声を発する。涼やかで凛とした――だが、奇妙に抑揚を欠いた声。
「兄さん、わたしはキョジンの夢を見た」
「巨人? ジャイアントの?」
「違う、虚人。うつろな人、からっぽの人――」
映像は唐突に冒頭へ戻る。
三度目のループが始まるまで、これが短い映像なのだと気付かなかった。
いかにも意味深ではあるが、プログラムは見当たらない。ここもダミーファイル。
やれやれ。私は跳躍(ジャンプ)した。
94
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 02:16:50 ID:OjG/Be/M0
1011010010101011110001111
それまで存在しなかったフォルダ0に入ると、そこは雪国だった。
雪国どころか雪原、あるいは氷原と言ってもいいだろう。完全に平坦な、一面が白の冬景色。
地球上に存在し得ない遠い地平線は、ここが現実の記憶でないことの証だった。
そして地の果てまで、例の生物だけが無数に蠢いている。
息が吐くそばから凍った。ここは寒さまでもリアルに作り込まれている。
長くは留まっていたくない。
背広姿のまま震えていると、小さな違和を見つけた。例の生物に混じって、
二度ダミーファイルで見たあの少女――サルスティスの妹が佇んでいる。
白のワンピースが背景に溶け込んで見えにくいものの、気付いてしまえばいかにも怪しい。
「君が持っているのか?」
少女は頷き、答えた。
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。紙に書くこともできぬデータゆえ、
信頼性の点から迂遠な手段を取るほかなかった」
表情も抑揚もない。おそらくは、簡単な擬似人格をインストールしておいた自律ボットだろう。
口調はサルスティスのものをトレースしているようだが、妹を再現したイメージを
自分の口調でしゃべらせるとはどういう趣味か? 理解に苦しむ。
「すまないが、ダミーファイルの中に一つだけ本物がある、というのは嘘だ。
サマーズ・サルスティスが君の持ち込んだキーを使い、量子演算機関超連結体群(リグ)
セキュリティレベル7のネットワークに侵入できた段階で初めて、このフォルダ0への
跳躍が可能になるように設定されていた」
さらりととんでもないことを言ってくれた。要するにこれまで見せられてきた映像は
ダミーですらなく、あの老人が私のアクセスキーを試すあいだの時間稼ぎだったということだ。
癇に障ったので、どうせ粗製AIだから、と蹴りつけてやろうとする。その瞬間、
少女の輪郭が仄青く光った。
「――基底現実(ベース・リアリティ)におけるサルベージ作業が終了した。約束通り、
KUT製汎用アセンブラのリミッター解除プログラムを譲渡する」
おもむろにそう告げられる。どうやら現実世界で私のコードを使ったサルスティスが、
目的を達したらしい。逆に言えば、それまではプログラムを渡さないようにシステムを
組んでいたわけである――とんだ食わせ者だ。
少女を包む燐光が小さな手の中に流れていき、青白い光の正八面体が形成された。
本来目に見えないデータを仮想空間内で可視化するとき、こういった幾何学的イメージは珍しくない。
缶コーヒーでも受け取るように手を伸ばせば、一瞬で転送が完了する。有線直結の
通信速度がなせる業である。
「トランスプランテーション完了。確かに、受け取った」
用が済めば、いつまでもここにいる理由はない。私は接続を終了し、無窮の氷原から
暗黒の中へ飛び出した。もう数秒も経てば、意識が現実の肉体に戻る。
闇に取り巻かれた数秒、この手にある光を見ていた――そう、見た目はありふれている。
だが、このデータの内容は世界を一変させ得る力だ。
95
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 02:21:05 ID:OjG/Be/M0
分子工学(ナノテクノロジー)の進歩は、多機能ナノマシンの実用化に結実した。
エリック・ドレクスラーが提唱した、分子サイズの微小機械。万能に近い
分子加工能力を有し、人類を豊かにする究極の技術の一つ。
しかし現実に販売されるようになったそれは、医療用や工業用など、用途ごとに
厳密な機能制限を掛けられている。シェアを独占するKUT社は、安全性を考えての
処置だと説明するが、その内実は利権のためである。わざわざ低性能化(デチューン)した
ナノマシンを、時間制限つきの使用権と合わせて売ることで儲けるのだ。
利益の追求。企業としては正しいかもしれない。
だが、敢えて言えば――それは全人類に対する罪だ。
いま目の前にあるプログラムは、KUT製万能アセンブラ“アゾット”のリミッターを
解除することができる。信じがたい愚かしさだが、KUTは技術の流出を恐れるあまり、
作った当人たちですら解除できないようなプロテクトを組んだ。そもそも解除方法を
設定しなかったのだ。扉のない部屋、鍵のない錠とでも言うべきそれを、世界でただ一人
サルスティスだけが破ることに成功した。
私たちはこの“分子煽動者(モルアジテーター)”を世界に公開する。
全能力を解放された分子マニピュレータの可能性は想像を絶する――おそらく、
人類文明のあり方を変えるほどに。この偉大な発明が、一企業によって管理されている現状は
打開されなければならない。それが思想犯たる私たちの思想。確信犯の確信。
誰もが平等にナノマシンの恩恵を受けるようになれば、貧困は消滅し、労働は生存の
手段ではなくなり、不治の病は不治でなくなる。芸術の技術的限界は取り払われ、
砂漠は沃野に変わり、別の惑星を地球と同じ環境に改造(テラフォーミング)することもできる。
もちろん、それは混乱を生む。既存の秩序はまさしく分子レベルまで解体されるだろう。
それでも混沌の後には、物質的欠乏の殆どを克服した人々が、必然として新しい秩序を
築いてゆくことになる。なんといっても、人間は社会的な生き物である。
私や妻を含めた仲間たちは、来るべき革命さえ必要な痛みと捉えている。この信念が
大衆に理解されないとしても、やらなければならないという義務感が同志を結びつけていた。
ゆえに私たちは自ら名乗る――“確信犯(コンヴィンスト)”と。
96
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 02:27:38 ID:OjG/Be/M0
現実に戻ると、サルスティスが床に膝をついていた。全身にまだケーブルが
繋がってはいるものの、半身宙吊り状態から降りたらしい。
彼の前には例の生物がいる。ジャック・イン直前に見た個体だろう。
「感謝しよう。君のアクセスキーは確かに機能した。記憶映像の内容はもう忘れてよい。
君には関わりのないことだ」
「そうですね。で、妹さんは再生できましたか」
向き直ったサルスティスと、真っ直ぐ目が合う形になった。といっても、彼の目は
顔の上半分を覆い隠すスコープなのだが。
「再構成記憶(レック・メモリー)をすべて見ていったのか? 真面目なものだな」
「まさか、あんなに神妙な口調で『おそらく理解してはもらえまいが』なんて言う人に、
一杯食わされるとは思いませんでね」
老人は一瞬きょとんとし、次に呵々大笑した――これまでの枯木然とした陰鬱さからは
想像も付かない――と思うと、また口元を引き締めた。
「面白い男だ。ゆっくり話したいところだが、残念なことにその時間はないようだ――
ウィンタース、始めよう。不完全起動したATをいま一度、全時空でアップデートしなければならない」
「はい、兄さん。オールタイムレンジ・同位体リンク開始」
例の生物がそう答えた。涼やかな、凛とした、抑揚のない声で。
うすうすその正体に勘付いていたにもかかわらず、私は
「しゃべった!?」
などと粗製AI以下の月並みな反応を示してしまい、人間の尊厳を少し傷つけられる結果となった。
“ひっくり返したタコさんウインナー”が私に近づいて来て、また少女の声を出す。
「わたしの名前はウィンタース・サルスティス」
だろうな、という感想。今度は落ち着いて返事ができる。
「どうもはじめまして。うまく意識が再統合できたようで何より」
「兄さんだけでなく、あなたのおかげでもある。ありがとう」
差し出された腹足と握手をする。グミの感触に似ていた。ちょうどそこへ、
身体のあちこちに銃をぶら下げた白人の男が入ってくる。
「呼んだろ、爺さん? 結局どうなった――何だそいつ、しゃべるのか?」
ローウェルだ。いつの間にか老サルスティスが連絡したらしい。ウィンタースがまた自己紹介し、
腹足で握手する。
何やら役者が揃った感があった。もっとも私としてはもう帰るだけなので、
ここから何らかの劇的な展開があってもらっては困る。
そんな個人的事情をよそに、事態は既に動いていた。
サマーズは己の失敗を告白する。
全世界のインフラを支える、惑星規模の量子コンピュータ連結体“リグ”。
その最高度セキュリティは、予想を遥かに超えて堅牢だった。正規のアクセスキーが
あってなお、素通りできるのは入り口まで。ウィンタースの意識データ断片(フラグメント)を
回収したはよかったが、出る頃にファイアウォールが作動してしまったという。
「この場所を特定された。京都府警(モノリス)が来る」
「ああ、それで俺が呼ばれたってか」
飄然と答えるガイドほど、私は気楽でいられなかった。
京都府警(モノリス)。その名がサイバー犯罪者にとっての死神と同義になって久しい。
活動範囲は全国、ときには海外にまでわたり、実働戦力としてサイボーグで固めた特殊部隊を抱える。
今や警視庁をも凌ぐ、最強の警察機構として電脳化社会に君臨するのが京都府警だった。
警察(ポリス)を超えた電脳空間(サイバースペース)の単一権力――ゆえに、モノリス。
「しかもレベル七に侵入したっつーと、半端な戦力じゃ来ねえぞ。国家機密クラスの情報が
ゴロゴロしてるところに入られたんだ、府警は“天底”もろともブッ潰しに掛かってくる……
爺さん、早えとこ逃げちまうのが賢いと思うね」
どうも、やはり私の出る幕ではなさそうだ。モノリスの実働部隊が来る前に脱出したい――
と口を開きかけたところ、遠くからの破裂音が聞こえた。
「もう遅い。奴らが来た」
97
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 02:37:37 ID:OjG/Be/M0
さらに音は二度、三度。配管伝いの響きを聞くにつれ、破裂音というより
爆発音であると認識を改める。そこに銃声らしきものも混ざり始めた。
「外で何をやってるんです?」
サマーズはどこかのカメラからの信号を拾ってきて、壁のディスプレイに繋げた。
小汚い格好の男たちが銃を撃ち、手裏剣や手榴弾を投げている。ここの住人だ。
敵は爆風でよく見えない――と、映像が途絶した。
「街中から戦える人間を雇ったのだ。彼らが足止めをしている。この“天底”自体の
防衛機構も起動させた――」
「防衛機構? このバラックの山みたいな街に?」
老人は平然と首肯する。
「“天底”はもともと私のナノアセンブラが作り上げた、自己成長型環境建築(アーコロジー)だ。
隠れ蓑としては貧民街の方が都合が良かったから、偽装のためにあえて汚く造ったがな。
いわばこの構造物は全体がナノマシンの塊。ナノテク兵器への対抗策を持たぬ侵入者なら
一瞬で、分子分解槽に放り込まれたのと同じ状態にできる」
ここへ来た時の謎が今になって明かされた。自己拡張する建物など、行政がいくら
介入したところで巨大化を止められるものではない。しかし今はこの街の歴史などどうでもいい。
「最初に何体か突っ込んできたサイボーグは、丸裸になって外に転がっている。
だがその後に来た奴がまずい。対抗分子機械防御(アクティヴ・シールド)に
指向性EMP(電磁パルス)と、完璧にナノマシン対策を施している。米軍も御用達、
HIA(ヒタチ・インダストリアル・アーマメンツ)の技術だ。君にやった“煽動者”も役には立たん。
ウィンタース、進捗状況は?」
「リンク形成完了。これより配置空間との接触面制圧に入る」
「急げ。私はおまえより先に殺されることができてしまう」
爆発音がはっきりと建物の振動を伴い始めた。戦闘が近づいてきている。
針弾銃(フレシェット・ガン)を手に取ったローウェルが部屋を出て行き、私は中に残っていた。
どちらにいても私ができることなどないが、足手まといにならない点ではここの方がマシだ。
外からはローウェルの声が聞こえてくる。
「ありゃあ……まさか“侍(サムライ)”? 実在したのか」
さむらい、とはあの“侍”だろうか――と他人事のように思う。
レベル7に侵入者あるとき、どこからともなく“侍”が現れる――とはネットの伝説である。
尖端のサイバネティクス技術で強化された、最精鋭から成る秘匿部隊。モノリスの管轄下にあるとも、
より上位の機関に属しているとも言われる。事件そのものを消し去りたいようなときにのみ、
何者かの命を受けて彼らは動く。
おそらくは巨大な組織、あるいは権力とも呼べるものが背後にありながら、公には認められていない戦力。
その存在は嘘でなければならない。誰が呼んだか、幾許かの嘘(サム・ライ)。
どうやらそんなものが差し向けられたようだ。サマーズが妹を救い出すために潜った
セキュリティレベル7のネットワークとは、逆に言えばそれほどまでに、侵入者があってはならない
聖域なのである。
「手加減はなしだ、向こうは殺る気で来てる」
「散開して包囲――ん? 奴はどこへ行った?」
「上から来るぞ気をつけろ!」
現実がしばしばリアリティを欠くというのは周知の事実だが、自分さえ渦中にいなければこれは笑劇だ。
などと現実逃避を図るのも、状況に対して無力な自分とどう向き合っていいか解らないためか。
瀬戸際での自分探しほど不毛なこともない。自分から走馬燈を回すようなものである。
「ウィンタース、進捗は」
「接触面、99.999999%制圧。ハリの黒い湖はまだ残ってる。非存在側に押し返せない」
「死角があるせいだ、包囲しろ。おまえの認識が現実を書き換える」
「時空角度追加、多角観測。湖の存在を否定。
拒絶。
否定。
――完了(ダン)」
相変わらず部屋の中の兄妹は理解不能だった。が、どうも何かと戦っているらしい。
98
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 02:44:34 ID:OjG/Be/M0
一方外では、ローウェルと複数の同業者たちが“侍”相手に命を削り合っているようだ。
「下がれ!」
「駄目だ!」
「日本刀(サムライソード)じゃねえ……フォトンカッターか!」
「耳ふさげェ、鼓膜が吹っ飛ぶ!」
紙が一気に破れるような音。重いものが壁に激突する音。
「日立製? 警察の装備じゃ……」
銃声。液体が落ちる音。銃から吐き出される薬莢が立てる音。
ごっ、と冷たい床で誰かが死ぬ音。
漂ってくるのは焦げ臭さと火薬と血の臭い。そしてあの膿の腐臭。
目で見ていない分だけ、耳や鼻が敏感になる。
「サブエーテル域掌握。配置空間の分離にかかる」
「離すだけでは駄目だ、引力が働く。間に分界領域を作れ」
兄妹の作業は静かに行われていた。まったく関係のなさそうな戦いが、隣り合って進行している。
ローウェルの笑い声が響き渡った。
「ッハハ! 日本のアニメはいい――」
軍人や傭兵という人種には、死への恐怖心が麻痺している者も多いと聞く。これがそうか、
と納得する間に決着がついた。何発もの銃声が重なって轟音となり、それから静かになる。
やがてかすかに聞こえてくる足音。部屋の入り口に、笠に似たレドームをかぶった人物が姿を現す。
纏うは黒衣、顔は和風のマネキンといった平坦な無表情。手には日本刀のような武器を提げて。
これが“侍”――
殺気も殺意もなかった。それらは全て過程に過ぎない。草鞋のようなものを履いた足の
静かな歩みが、結果たる死だけを運んでくる。そういう、相手だった。
こいつが来たということは、ローウェルはさっきのが辞世の句になってしまったのだろう。
何故彼があんなことを言ったのかは永遠の謎である。私にも、彼のために悲しむ余裕はありそうになかった。
“侍”が得物を無造作に振り上げる。紙を破くような音。
「完了(ダン)」
光の線が逆袈裟に走り、肉の焼ける臭い。
「勝った」
死ぬ。
それ以外の思考がすべて消え、世界の時間が停止した。
――。
――錯覚でなく、本当に止まっている?
「この宇宙の物理法則は現在、一時的にわたしの支配下にある」
目の前で刀を突き上げたまま“侍”が固まっている。フォトンカッターで胸を斜めに
切断された私も微動だにできなかったが、視界の端でウィンタースが普通に動いていた。
「本当ならあなたはここで死ぬ。けれど、危険を冒して兄に手を貸してくれたお礼として、特別に助ける」
腹足がするりと伸び、私の胸に触れた。断面から落ちかけていた上体がするりと元の位置に戻り、
飛び散った背広の繊維が逆再生映像のように胸元へ戻ってくる。
次にウィンタースが“侍”に触れた。
「消去(デリート)」
止まった時間の中、音も光もなく、ただ“侍”が消失した。それは殺害ですらない行為だった。
ただの、この世からの排除――身体が動けば私は戦慄していただろう。
「兄さん、もういい?」
唐突に時間が動き出し、私は足に込める力のバランスを失ってよろめいた。
振り向くと、サルスティスが全身のジャックからプラグを引き抜いている。
「待て。ガイドがいなくば、彼は外へ出られまい」
「今のわたしなら、この人を家まで飛ばすこともできる」
「そういう話ではない。外の連中はみな、私がしくじらなければ死なずに済んだ者たちだ。
ついでと思って元に戻してやれ。機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)の本懐はご都合主義にこそある」
「はい、兄さん――完了(ダン)」
99
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 02:50:49 ID:OjG/Be/M0
すぐに外が騒がしくなった。ローウェルが走り込んできて、混乱した様子でまくし立てる。
「何があった? サイバネ侍はどこ行った? あの野郎、一歩の踏み込みが
音速(マッハ)超えやがるんで、まともに狙っても当たりゃしねえ。だから、
日本のアニメでよくある『肉を切らせて骨を断つ』戦法をやろうと思ったわけだ……
攻撃の瞬間には隙ができるだろ」
服はボロボロだが、肉体的には健康そのものと見えた。自分が恐らく一度死んだらしいことは
自覚していない。その方が精神衛生上いいのだろう、と私は納得した。それにしてもこの男、
こんな発想でよく戦場を生き抜いてこられたものである。
「あやつは妹が事象地平線の彼方へ吹き飛ばしてしまった。京都府警には悪いことをしたな」
兄の発言に、ぷるん、と明緑色の身体が揺れる。
「戻す? 同じのを作り直す?」
「せんでいい。もう何も、な」
表情のない生きものが喜びを露にする、という貴重な瞬間を私は目撃した。
抑揚のなかった声に、記憶映像で聞いた少女の溌剌さが戻る。
弾みのついた声で、彼女は言った。
「じゃあ、もう死んでいい?」
聞き違いかと思った。が、サマーズは深々と頷いてみせた。スコープの下から光るものが
流れ落ちている。
「ああ――ああ。おやすみ、ウィンタース」
「おやすみ、兄さん。ずっとありがとう」
そして例の生物は――ウィンタース・サルスティスは――死んだ。腹足がだらりと垂れ下がり、
いかなる兵器でも傷つけられなかった体組織が液状化し、床に広がったと思うや、端から蒸発していった。
「おい爺さん? あんたの……妹、せっかく生き返らせたんだろ?」
「そう。この世界に存在し、生きたものとして、死ぬためにな。そして私もこれから逝く」
老人は肩を震わせ、滂沱たる涙とともに哄笑した。
「死ねる――これでようやく――」
これが最期の言葉であった。サマーズ・サルスティスはデッキに横たわると、
体内を循環するナノマシンに自殺コマンドを出し、笑いながら絶命した。
「俺には爺さんが何をしたかったのか、サッパリ解らん」
「私だってよく解らない」
サイボーグ部隊による襲撃を受けたはずなのに、何事もなかったような“天底”の中、
私とガイドは出口に向かって歩いてゆく。
「だが、彼らのおかげで助かったのは確からしい」
「そうなのか? まあ、いつか墓でも立ててやるさ」
来るときと同じ、汚水と腐臭が鼻を苛む隘路を、住人たちとすれ違いながら進む。
彼らもウィンタースが“修正”したのだろうか。
そこまで思って、例の生物が一体もいないことに気付く。
ああ、本当に逝ってしまったんだな――と妙な感慨を覚える。おそらく全世界で
例の生物が蒸発したのだろう。
ローウェルも同じことを考えていたらしい。
「俺な、けっこうあの生きもの好きだったんだ。あいつらがいると安心したってのかね」
「安心?」
「そう。ガキの頃、日本のホラー映画を見てな。夜トイレに行けなくなったんだ。
あんたもそういう経験あるだろ? でもあいつらが近くにいると、暗闇が怖くなかった。
目も耳もないあんな連中が、見守ってくれてるような気がした」
その感覚は私にも解るものだと思った。あのつるっとして愛嬌があるような、それでいて
どこか宇宙人じみてグロテスクな、やわらかい生きもの。いなくなってみると、
何か寂しさのようなものを感じずにはいられない。
出口が見え、もう外が夜になっていることを知った。ぽっかりと四角い口を開けた闇の向こうに、
刹那、なぜか白いワンピースの少女を幻視する。そのとき私は、家族への土産を決めた。
「じゃあな、お別れだ。いろいろとんでもないことに巻き込まれたが、また用があったら頼ってくれ」
外へ出たところで、差し出された手を握る。大きな毛深い手が力強く握り返してきた。
「別れの挨拶は粗製AIレベルの月並みさだな」
「馴染みの客になったら見せてやるよ、オリジナリティってやつ」
握手した手を、そのままルーズな敬礼の形にして見せ、ローウェルは汚濁のアーコロジーへと
戻っていった。その後姿は『健全女子按摩(平均三六〇円)』なる看板の店に消え、
私は踵を返して家路についた。
100
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 02:55:00 ID:OjG/Be/M0
「ヘイ……ねえ旦那……なんかこう、もっとあるでしょ……まんじゅうとか。ケーキとか。クッキーとか!」
「甘いものがよかったのか」
「ていうかこれ、どこでも売ってるからね!」
妻に買った土産は“ぷにぷに例の生物キーホルダー”だった。確かにどこでも売っているもので、
土産という字義からは外れるかもしれない。しかし買ったものは買ってしまったのだ。時は戻らない。
「メール見たよ。仕事、成功だってね――みんなに報告した?」
土産の話をするときと同じ、いたずらっぽい顔と声で犯罪計画の話を切り出す。
常時自然体といった妻のこういうところは、ときに恐ろしくもあり、また大いに魅力でもある。
「まだしてない。通信回線を使う媒体で、詳細な報告をするのは危ないからね。明日にでも紙にまとめるさ」
変革の理想が褪せたわけではない。だが今日は、もう血なまぐさいことを片鱗でも考えたくなかった。
ドアをノックし、息子の部屋に入る。
「おー、パパおかえりー。おっみやげ! おっみやげ!」
私はポケットからそれを取り出し、勉強机の上に置いた。これも土産という言葉には
あてはまらないかもしれない。
「これフィギュア? なんのキャラ?」
「パパが作った人形だよ。出張先で会った女の子をモデルにした」
「出張先で、会った、女の子……? フリンのにおいがする!」
妙な想像力が逞しくなったのは母親の影響に違いない。
「もしくはロリコンに目ざめたか!? うわぁ……パパェ……」
「不倫と聞いてやってきました! 説明しろ夫!」
計ったがごときタイミングで妻が登場した。息子は引き気味、妻は追及の姿勢、
つまり挟み撃ちに遭う形となる。
「根も葉もない疑惑で盛り上がるのはやめないか、いじめだから!」
家族の茶番劇をよそに、机の上には土産の品が佇んでいる。
白いワンピースをふわりと翻す少女。
サマーズ・サルスティスから譲り受けた“分子煽動者”を使い、ナノアセンブラを操って
作り上げた、ウィンタース・サルスティスの人形だった。
《10101101011000010111100001》
101
:
Midsummer Madness
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 03:00:30 ID:OjG/Be/M0
連作『Unsung Requiem』より 「謳われざる鎮魂歌――烏有砂丘にて」
そこは“外”であった。また“外”でないとも言えた。この砂漠は実在と可能性の狭間を
往復する場。ただ生滅のサイクルは、常に配置空間の底で繰り返されている。虚人は、
狂人の残した無銘碑の傍らに自らの小さな碑を建てた。そして二つの石の前で砂に
半身を埋めた。人型の輪郭だけが、空っぽのまま砂を押しのけている。存在せざる目
に砂が入り、虚人はそれが“紐”という文字であることに気付く。無の指先に砂を掬い
取ってみると、やはりそれらはすべて文字であった。あいうえおTAO館館館館館館。
この砂漠は無数の文字の堆積。渡る風の音は数知れぬ声の囁き。さらに遠く、広く見
渡してみると、刻一刻と様相を変えていく砂紋はどれも文章の形をしていた。「黄衣の
王は空の中枢で架刑に処せられていた。ゆえに彼を架空の王と呼ぶ者もいる」「彗星
の核から採取された種子は、地球の重力によって覚醒を促され、バイコヌール基地に
て発芽した」「クローゼットという言葉はもともと、“小さな囲い”という意味だそうです。
父のセンスを疑いますよね」「十歳の、妹を、舌で、」「■などルサンチマンの生んだ妄
想に過ぎん。そうやって文学は頽廃してきたのだ」……さらさらと砂が流れ、新たな風紋
が描かれては消える。虚人は数多ある創造の神話を思った。世界は無限に存在する。
創造の途中で投げ出された世界もあるだろうし、歴史の必然として滅亡したり、不要と
して廃棄されたりした世界もあるのではないかと。そういう世界は忘れられ、風化し、
砂となってここに積もる。ここは烏有砂丘、世界の墓場。遥か天に揺蕩う蜃気楼の海
から、いまも絶え間なく現実と幻想の砕片が降りしきる。虚人は二つの碑を見上げた。
狂人の無銘碑はすでに風化し、吹き付ける文字砂に削られつつある。やがては虚人の
碑も砂となって、ときおり碑文が風紋として浮かび上がるだけになるだろう。呼吸をしな
い虚人は嘆息する。烏有砂丘の風化作用はかくもやさしい。爆弾処理班の手つきと違
って、だれも傷つけることはない。うつろう砂紋をいつまでも眺めていたいとも思う。だが
虚人は砂に埋もれた身体を掘り起こし、立ち上がった。歩き出した彼の足跡は「失敗作」
という文字列を繰り返し綴り、すぐに吹き消されていく。そして虚人は砂漠を去った。
かれの残した墓標はしょせん脆く、もう風化が始まっている。そこにはただ一つの言葉
が残されていた。
《WOR D》
102
:
◆aPSupcKIa.
:2014/07/28(月) 03:04:18 ID:OjG/Be/M0
いじょう。
最後に名前欄で痛恨のタイトル更新忘れ。ぐぬぬ案件。
103
:
◆aPSupcKIa.
:2014/08/24(日) 01:19:05 ID:PBd3NBfU0
就活中に一番精神が荒廃していた時の殴り書きを発掘したので投下。
104
:
手折る
◆aPSupcKIa.
:2014/08/24(日) 01:20:07 ID:PBd3NBfU0
【手折る】
鳩を一羽殺した。
時は四月上旬の金曜日。大学四回生となった僕は、就職活動の真っ只中。その日も
リクルートスーツに身を包み、とある大手企業の筆記試験を受けるべく、品川区まで足を運んだ。
試験開始は午後二時から。まだ昼飯を食べておらず、決戦へ臨む前に腹ごしらえをしておこうと
決意したのが午後一時。駅近くのファミリーマートで塩むすびとハムカツサンドを買い、
ついでにリプトンの新作ミルクティーを試しで追加した。ハムカツサンドはまだしも、
塩むすびにミルクティーとはこれいかに、なんて言う人もいるだろう。でも僕は
そういう取り合わせを気にしなかった。平気で米と甘い飲み物をペアにする。
就活というのはただでさえ気が滅入る。だから僕は、会社を訪ねて知らない街へ出向くと、
時間に余裕をつくって辺りをぶらぶらしてみる。これが案外楽しくて、昨今僕の精神的な
支えにすらなっていた向きがある。さて、その日その昼も、僕は西品川をうろついていた。
買ったものを落ち着いて飲み食いできる、椅子のある場所を探しながらだ。
ちっこい神社があった。なんたら権現と名前はカッコいいが、境内と呼べるスペースが
一メートルくらいの幅しかない。なかなか良く出来た石彫りの龍が置いてあり、その横の石段に
腰掛けて塩むすびを食ってみたい衝動に駆られたが、意外と人通りが多かったのでやめておいた。
神を恐れはしない僕だが、人の目は恐れたのだ。
次に、区役所の前の広場が目にとまった。ブロック状の椅子が花壇の周りに配されている。
なかなか美しい。しかし、役所に用もないのにその真ん前で飯だけ食ってオサラバというのも憚られた。
僕はそういう空気だけは読む男だったのだ。
で、見つけたのがその道路向かいにある公園だった。桜が七分咲きくらいで、
花見客たちが親子で楽しい時間を謳歌している。桜花だけに。そんな状況だから
僕が一人でパンやおにぎりを食っていても怪しまれる危険はないわけで、ベンチも豊富な
この公園を本日の昼食スポットと決め込んだ。ついでに独り花見に興じる算段であった。
まず、リプトンの新作ミルクティーを吟味する。一口で、「まあまあ」としか形容し得ないと
結論付け、僕はその飲料についてそれ以上思考することをやめた。悪かあない、でも
紅茶花伝の足元にも及ばん。ティーズティーも午後ティーも同じだ。何故どいつもこいつも
午後ティーを市販ミルクティー界隈の王者と位置付けやがるのか。解せぬ。僕にはきっと永久に解せぬ。
次にハムカツサンド。普通だ。しかし二日前に大学の食堂で口にしたクソみたいなカツ丼が
脳裏をよぎり、コンビニで普通レベルの代物が買える日本の食糧事情のインフレっぷりに感謝した。
そして塩むすび――美味いに決まっている。米と塩、シンプルだがこの組み合わせは
最強に近いものだと僕は信ずる。よほど邪悪な意思を持って商品開発が行われない限り、
塩むすびが不味くなるなんてことはあり得ない。もちろん、水準以上に美味いものを作るのだって
簡単ではないだろうが、少なくとも水準以下に不味いものを作る方が難しい。それが塩むすびである。
絶妙に柔らかい米の食感と、精妙な塩加減のハーモニーが、僕の口腔に曼荼羅的ミクロコスモスを
生ぜしめた。具はない、だがここにすべてがある。この味と結びついた桜の記憶はさぞ美しかろう
――などと思っていたら、そいつがやってきた。
鳩だ。
その公園の鳩どもは人間を恐れない。人慣れした東京の鳩の中でも、群を抜く蛮勇さで
花見客のパーソナルスペースを侵犯してくる。
その鳩は僕の座っていたベンチに飛び乗ると、塩むすびをもぐもぐしている見慣れぬ男を
鳥目で見据えた。僕が最後の米一粒まできれいに平らげ、包装を片づけてからもまだ見ていた。
何の脈絡もなく、手を伸ばせば届く、と思った。
105
:
手折る
◆aPSupcKIa.
:2014/08/24(日) 01:21:59 ID:PBd3NBfU0
そして、僕はその思い付きを実行した。右手が僕の常識とか理性とかを瞬時に忘却し、
まるで化物じみた蛇のような動きで鳩に襲い掛かる。毛のないサルを敵と思っていなかった鳥には、
その意味不明な攻撃を避けることはできない。僕は鳩の首根っこを後ろから掴んでいた。
悪意ある手に握りしめられ、平和の象徴が遅まきながら暴れる。足をばたつかせ、
狂ったように羽ばたく。その足掻きを観察しながら、硬い、とまず思った。もっとやわらかい
肉の弾力を想像していたのだ。だが、それは店で売られている鶏肉のイメージだと気付いて苦笑する。
いま掌中にあるこれこそは、生きている動物の筋肉に漲るエネルギーの硬さだ。血の脈動に乗って
環流する、生命そのものがエントロピーに抗う硬度だ。
それは無機物の――たとえば石や金属の――硬さとはもちろん違う。鳩の首の硬さは、
いとも容易く失われ得る性質のものだ。指の腹から伝わってくる温かさ、激しい抵抗、
その奥に脆さがある。僕の指は確かに、それに触れていた。
その感触を確かめたくて、僕は五指に力を込めた。決してマッチョではない細腕に筋が浮き出し、
その線を伝って好奇心が物理作用へ転化する。肉が、肉にめり込んでゆく。
唐突に、ぼぎゅ、という音を聞いた。
指先の感触では、「折れた」というより「潰れた」、そんな振動だった。
右手から全身へ、鳥肌の波が駆け抜けた。鳥を殺して鳥肌、などと冗談を考える精神状態では
もちろんない。けれど、パニックを起こしたかと言えばそうでもなく、僕は一抹の寂寥感と共に
「ああ、死んだのか」とぼんやり考えていた。自分が殺したという事実への認識、動物虐待に
対する罪の意識、そんなものは露ほどもなしに。
僕の思考よりも深い部分、クオリアの記憶が、鳩の首が折れる感触を何度も右手に再生する。
折れたのではない、潰れたのだ、という余人には理解しがたい感覚。やがて思考が追いつくと、
僕はそこに生命の神秘を再発見したような気になり、いっそう事実認識を放り投げて死の考察に没頭した。
潰れる、という現象が起きるためには、潰れるものの内部に空間が必要である。隙間なく
ぎっしり詰まった物質塊は潰れたりしない。ただ中身がどこかへ押し出されて、変形するだけだ。
鳩の死はそういう変形の結果ではなかった。殺した僕だけに解る。あれは内なる虚無に向かって
落ち込んでいく運動。羽毛の内側に張りつめていた生命力が、存在の中央に開いた死の暗渠へと、
肉体の破滅をトリガーに縮潰してゆく音を僕は聞いたのだ。
温もりが失われてゆく右手の中の肉塊に、生命の本質があった。言葉にすれば当たり前の真理だ。
要するに――死は生に内在する。死ぬのは生きているものだけだ、と言えば如何にも阿呆の
トートロジー。しかし知性で理解するのみならず、五感のうち二つまでを介して、直接的に
その意味を感得したのは僕ぐらいのものではないのか!
けだし、死とは常に外部から生命を襲うものではないのだ。すべての死因なるものは、
生命を己の最奥に広がる深淵へと突き落とす、力学的作用に過ぎない。ナイフで刺されたとか、
首を折られたとか、そういう事象は死そのものではないということだ。結果は常に一つ。
命は内向きに潰えるのである。それが、それだけが、死だ。
ただの物体となった鳩。僕はそこに、全体性の回復、一なるものへの統合、完全性の
発現をも見て取る。あの音とあの感触を知るものだけが真に理解できるだろう。この鳩は
もはや死ぬことがない。数多の神話でヒトが不死を求めてきた、本当の意味を今こそ知る。
僕は笑った。鳩の死骸を握りしめたまま。花見客たちの誰も、スーツ姿の男が鳩を一羽
殺したなどと気付きもしなかった。
106
:
◆aPSupcKIa.
:2014/08/24(日) 01:24:39 ID:PBd3NBfU0
いじょう。
この話の半分はフィクションです。
107
:
◆aPSupcKIa.
:2014/11/02(日) 18:02:34 ID:O1uZ.7ls0
ケータイ小説を書いて、と無茶ぶられた結果
いつも通り趣味に走ってしまったお話↓
108
:
テセウスの船は星海を往く
◆aPSupcKIa.
:2014/11/02(日) 18:08:28 ID:O1uZ.7ls0
【テセウスの船は星海を往く】
フランツが入院して二週間になる。
慧は今日も彼の見舞いに訪れる。急に寒くなり始めた十一月、日曜日の朝である。
パーカーのポケットに手を入れ、病院までの道のりを歩く。
一階の受付では彼の体調に急変がないか、面会は可能かなどを訊ねる。容態は安定しているらしく、
すぐに許可が出た。カードキーを受け取ると、慧はエレベーターを待った。
乗り込むべき箱は、ほとんどの階で停止しながら降りて来る。患者や職員、見舞い客らを
ボタンに応じて拾い集める律儀さから、なかなか一階に辿り着かない。
結局、開いたドアから満員の乗客が吐き出されるのを見ることなく、彼女は階段で昇っていく。
長期入院の患者となるフランツには個室があてがわれている。部屋番号は二四〇四。
二号棟の、四階の、四番目の部屋ということになる。この病院には四階や九階もあるし、
各階でそれらの数字が付く部屋番号も抜かされていない。それを気にする患者がいるという話は、
少なくとも慧の耳には入っていない。
二号棟の個室の扉は横にスライドする自動式で、内側からは開けられないようになっている。
外側から開けるにも、部屋ごとのカードキーを壁のスロットに挿さねばならない。フランツは
入院したての頃、ここを称して「きわめて清潔な牢獄」と言ったことがあった。
慧は軽いノックの後、「入っていいか?」と声をかけた。
それだけで、「構わないよ」との答えが返ってくる。
慧は分厚いドアの前でしばらく立ち止まっていた。やがてひとつ大きな呼吸をすると、扉を開ける。
円筒形の、棺にも似た自動医療(オートメディック)カプセル。少し傾斜をつけて置かれたそれが、
この部屋のベッドだ。強化カーボン製の透明なシールドを通して、内部の経過が観察できるように
なっており、患者はおとなしく本を読んでいる。と、ライトブルーの目が慧のほうを向いた。
「やあ、来てくれてありがとう」
「気にするな、来たくて来ている」
右手を上げるフランツの声は、カプセル内で反響してくぐもったエコーを帯びていた。
「ちゃんと学校行ってる?」
「ああ、忙しいよ。課題が山積みでなければ、毎日こうするところなんだが」
「それは逆に気が滅入るよ。なるべく自分の生活を優先して」
「これも生活の一部さ」
慧は話しながら彼の顔を、次に右手、右足を見やる。
健康そのものだ。今は、まだ。
しかし――慧の視線が移る――フランツの左半身は、もうヒトの形をしていなかった。
109
:
テセウスの船は星海を往く
◆aPSupcKIa.
:2014/11/02(日) 18:09:37 ID:O1uZ.7ls0
変異性マシンセル結合症。
分子工学(ナノテクノロジー)の発達がもたらした、新たな現代病。
マシンセルはもともと、いわゆる分子機械(ナノマシン)の医療用途に進化したものであった。
それは名のとおり機械で出来た細胞(セル)、細胞の代替となるべく創り出された人体の機械部品。
この微細なロボットには、傷をふさぐことができた。病原体を駆逐することができた。
癌細胞を選んで殺すことができた。のみならず、再生力の衰えた細胞に代わることができた。
人体に必要な物質を合成することができた。義肢と肉体を、拒絶反応なしに接合することができた。
全能の技術ではなかったが、紛れもなく人類文明を変える万能の技術だった。
しかし、精密機械である以上は誤作動もある。巨大な恩恵の影で、必要な犠牲として
大衆が看過した奇病が存在した。
それが変異性マシンセル結合症――何らかの原因で機能不全を起こしたマシンセルが、
際限なく自己複製を繰り返しながら肉体を変質させていく。奇しくも癌細胞と似た状態に
なるわけだが、最大の違いは結果にある。癌細胞は人間を人間のまま死に至らしめるが、
暴走したマシンセルは宿主の人間を殺すことなく、異形の存在へと分子レベルで改造するのである。
細胞変異が進行するほど、結合症の罹患者は容易には死ねなくなる。医療用ナノマシンとしての
生命維持機能が暴走することで、不死の肉体を作ろうとするのだという説もある。
発生率はきわめて低い。そうでなければ、むしろ問題として取り上げられる所だった。
だが現実は一千万人に一人というもので、ましてや死病でもない。様々な思惑と利害から、
世論は一千万分の一の発症者たちを誤差として黙殺する。
フランツもその一人であった。
綿のような白い繊維質のものと、鈍い銀色のフレーム。
それらの隙間を縫う透明なパイプに、血液や黄色がかった漿液が通っているのが見える。
先週の時点では、変異してこそいたものの、まだ左腕と左脚がその形を残していた。
今はカプセルの縁に沿って、もくもくと機械的構造物の塊が膨れ上がっている。その中ほどから
三本の突起が生え、フランツの読んでいる文庫本を器用に支えていた。
「それは自分で作ったのか?」
慧が指差しているものに気付くと、フランツは本を閉じて、指のような突起を曲げ伸ばしした。
人の指とは違う、関節を持たない滑らかな動き。
「そう。だんだん変異したところの動かし方がわかってきた」
「自分の意思で動かせるんだな」
「ある程度はね。単純な器官なら、必要に応じて作り出せるみたいだ。元の形に、つまり
手や足に戻したりはできないようだけど――」
二人の間を沈黙が塞いだ。
110
:
テセウスの船は星海を往く
◆aPSupcKIa.
:2014/11/02(日) 18:11:17 ID:O1uZ.7ls0
慧は知っている。彼女以外の人間が、ここへ見舞いに来ることはほとんどない。
家族は遠く彼の祖国におり、互いに久しく連絡を取り合っていないという。理由については
あえて訊かなかった。推し量れることであるし、話すべきことなら彼から話す。
大学での友人たちは最初こそ連れ立って足を運んでいたが、病状が進行するにつれて回数も
人数も減った。遠からず慧がただ一人の訪問者となるだろう。
「……気持ち悪いだろ、慧」
「いいや」
「気休めはいいよ?」
ぷちぷちと音を立てて、フランツの左肩だった辺りが泡立つように膨らんだ。その表面に
無数の気孔が開き、拡がったり窄まったりを繰り返す。巨大なキノコの胞子にも似ている。
「ぼく自身、身体の左半分が気色悪くてしょうがないんだ」
慧は表情を変えない。当たり前のもの、たとえば電車の吊り革やビニール製のストローを
見るときと同じ目で、フランツの肩が呼吸するのを眺める。
「気休めなものか。それを言うなら、私の目には男性器の方がよほどグロテスクに見える。
なぜあんなものが人間についているのやら……」
「だけどきみ、それを」
「みなまで言うな」
フランツが笑った。慧も微笑んだ。
「ねえ、慧――」
呼びかけた相手と己の左半身から、顔を背けて彼は言った。
「きみが来てくれること、ほんとに嬉しいと思ってるんだ」
慧の指が、棺のようなカプセルに触れる。
「だけど……」
「――だから」
苦しげにフランツが続けようとした言葉は遮られた。
「また来るさ。会えて嬉しいのは私も同じだ」
慧が玄関で靴を脱いでいると、母がおよそ感情の欠落した顔で出迎えた。若い母親だが、
いまは年齢より歳老いて見える。
ただいま、と娘が言う。おかえり、と母が言う。
「また病院?」
「うん」
脱いだ靴を足先で器用に揃え、慧は母の脇を通り抜ける。
111
:
テセウスの船は星海を往く
◆aPSupcKIa.
:2014/11/02(日) 18:13:31 ID:O1uZ.7ls0
「彼、今どんな具合?」
肩越しに母親が訊いた。穏やかな声だ。
しかし、互いに背中を向け合っている。顔は見えない。
「身体の左半分が変異してる。あと、ちょっと弱気になってたかな」
「それは、そうでしょうね」
何を言っても同じ意味になるほど、言葉通りの口調だった。
「ねえ、慧――」
静かなままに、母の声はさらにトーンを落とす。その響きを耳の奥に受けた慧は、
冷たい水を思い浮かべた。高い山の頂上近く、生き物が住めない岩場のくぼみに、
ひっそりと雪融け水を湛える湖面。
「あなたが彼のところに行くの、ほんとはやめて欲しいと思ってる」
「それも、そうだろうね」
娘も言葉通りの調子で答える。
暗い水面がわずかに波立った。
「治る見込みはないんでしょう。一生、人間には戻れない」
「身体はね。ヒトの形には、もう戻らないって」
「何の希望も、ないじゃない――」
小波が重なり、大きな揺らぎになる。
対し、慧の声は調子が変わらない。
「そうかな。人型でなければ人間じゃないとも思わないし、だいたい私は、あいつがあいつで
いる分には、人間でなくても構わないんだ。にんげん、なんてのはしょせん言葉でしかないしね」
「屁理屈をこねないで頂戴」
慧は背中で母が振り返る動きを感じ取った。が、彼女自身は背を向けたままでいる。
「あなたの幸せのために言うけれど――早いうちに彼と別れなさい」
「フランツの幸せはどうでもいいの?」
「お母さんもあの人は嫌いじゃなかった。でも他人よ。いいじゃない、身内の幸せを優先したって
……親なら当然の気持ちよ」
「自分の息子になっていたかもしれない男でも、他人?」
小さな間があった。
「もうその可能性はないわ。永遠に他人のまま」
苦笑いとともに慧が頭をかく。
「私の幸せは、あいつと一緒にいることなんだけどな」
「機械の塊と付き合うのは人として当たり前の幸せじゃないでしょ。それは絶対に違う」
母の手が娘の肩に掛かった。慧は振り返らない。
「まあ、当たり前じゃあないかもね。ただ、別に構わないんだ。『人として』って部分には、
特にこだわりがないから」
「……あなたがわからない」
肩に乗っていた重みが揺れて、離れる。母親が泣いているような気がした。本当にそうなのか、
慧には解らない。確かめることもできそうにない。
彼女は自分の部屋に入り、扉を閉めた。
112
:
テセウスの船は星海を往く
◆aPSupcKIa.
:2014/11/02(日) 18:15:49 ID:O1uZ.7ls0
「入っていいか?」
「……どうぞ」
数日が経ち、慧はまた病室の扉を開く。
見舞いの品などが増えている様子はない。カプセル下部の二重扉を通して差し入れは
可能なのだが、その機能を活用しているのは慧だけらしかった。
フランツの頭は右に傾いている。先より更に膨張した変異細胞に圧迫され、首を真っ直ぐに
しておけないのだ。
首にしても左から変異部が侵食しつつあり、そこから下は右腕を残して、白い繊維と
絡まり合う細管の塊にすっぽり呑まれている。右腕は赤い血液が通わなくなり、緑がかって
見えるほど白かった。
「ぼくを見ないでくれ」
傾いた頭と片腕だけがヒトの形を残す、その姿で彼は言った。
「部屋に入ってから言うことか?」
カプセルに歩み寄る慧は、真っ直ぐフランツの目を見ている。
「じゃあ出ていってよ」
「満を持して言うぞ――いやだね」
そして彼女は椅子に腰を下ろした。そこで初めて気付いたのだが、椅子がフランツから見て
右側に移動されており、カプセル自体もその配置のために少し動かされていた。面会人が来たとき、
症状の重い左側に座られては、もう互いの顔も見えないのだ。
「どうだい、さすがに気持ち悪いだろう?」
フランツは笑いながら、右手を自分の胸に――胸であった辺りに――突っ込んだ。
繊維と金属質のフレームをこじ開け、心臓をえぐり出そうとするかのように胸腔をまさぐる。
引きむしられた液管が何本も千切れ、漿液や冷却水がカプセルの中に飛び散った。
「心臓、なくなっちゃったよ」
慧は彼の胸に空いた空洞を見て、肺もなくなっていることに気付いた。フランツは既に
生存のための呼吸をしていないのだ。喉元の気孔がぱくぱくと開閉しているのは、声帯を
震わせるために過ぎない。変異が首まで及べばそれも不要になるだろう。
「他の内臓も全部だ。食道がないから物は食べられない。アルコールは一瞬で分解されるから、
たぶん酒を飲んでも酔えない。きみがグロテスクと言ったペニスも、めでたく消えてなくなった」
暴れる蛇のような右手が、下腹部だった部位まで自らの身体を掻き回しながら切り裂いた。
当然、本来あるべきものは悉く失われている。
「よせよ、見てて痛い」
「ぼくは痛くない、マシンセルが痛覚を遮断するからね。痛みの信号そのものを生命に対する
脅威と認識して、神経を麻痺させるんだ。そうでなければ、細胞が一つずつ置き換えられていく
変異過程は、ぼくを狂い死にさせるのに充分な激痛を生むだろうな。当然、変異した部分は
初めから痛覚を持たない――」
彼の声は息継ぎのための間隔をおかなかった。言葉の区切りは単に、シールド越しでも
声を聞きやすくするためだけに挟まれている。
113
:
テセウスの船は星海を往く
◆aPSupcKIa.
:2014/11/02(日) 18:17:00 ID:O1uZ.7ls0
「カウンターセルで変異を抑制してもこの進行速度だ。あと一週間もすれば、ぼくは脳まで
機械に侵されて完全にヒトでなくなる。全身が、このわけのわからない、蜘蛛の巣みたいな
圧電素子フィラメントの筋肉と、金属炭素の骨格で出来た物体(モノ)に変わってしまう」
青い高分子ゲルまみれになった右手が引き抜かれると、荒らされた変異組織は瞬く間に
自己修復を始めた。目に見える速度で再結合していく機械の細胞を、フランツは不死身の敵でも
見るような目で睨んでいる。しかし、それは自分の身体だった。
「胸も痛まない。言ってる意味がわかるかい、慧。胸が締め付けられるような感じだ、あれが
ないんだ。あれには神経とか関係ないって思ってたよ。あの痛みだけは残ると思ってたのに」
黙って自分を見ている慧に、フランツの声が大きくなる。
「何か言えよ! 正直に言っていいよ、気持ち悪いとか別れたいとかもう耐え切れないとかさ。
思うだろ? まともな人間ならそうだ」
「なら、私はまともな人間じゃないってことだ」
フランツがその答えを理解するのに数秒を要した。
「……気を遣うのはやめてくれ。嘘を吐くのもなしだ」
「ああ、本心しか話してない。嘘ってのはそれなりに整合性を維持しないといけなくてね、
疲れるからあまり吐かないことにしている」
慧はフランツがまったく健康だったときと同じように話す。
「はっきり言うと、確かにその格好、お前以外の……たとえば知らない奴が相手ならけっこうきつい。
人を外見で判断しちゃいけない、なんておためごかしは投げ捨てて逃げ出したくなるレベルで」
相手が反応する前に、彼女は続ける。
「が、逆に言えばだ。お前だと解ってるなら怖くもなんともない。外見で判断する必要なんか、
今さらないからだ。……控えめに見て、その程度の関係ではあったと自負しているんだがな」
「普通じゃないよ。どうして、そこまで」
「さあな」
慧は肩をすくめ、首を傾げてみせる。二人の視線の軸が合った。
「私が知りたいくらいだ。ドラマティックな出会いから始まったわけでもなし、具体的に
お前のここがいいと挙げられるようなポイントも、実を言うとすぐには思い付かない」
「じゃあ、なんで来るのさ」
「そりゃ、会いたいからだ。会いたい理由はとくになし。いいじゃないか。お前だって、
『嬉しい』って言ったの、忘れないぞ」
かく言う慧の表情こそが嬉しそうであった。それを見るフランツの頬を、涙が斜めに流れ落ちる。
「……それは何泣きだ?」
「まだ嬉しいと思ってる自分が悔しくて……」
「あのな? 見ようによってはこれ、タチの悪いストーカーに言質取られてるとも言えるからな」
フランツは傾いたままの首をぎこちなく振った。
「じゃあ、ストーカーの慧さん。ぼくを見てくれ。よく覚えておいて。ぼくが人間で、
泣けたんだっていうこと」
つい先刻「見ないでくれ」と言ったその口で、彼は懇願する。
「カウンターセルの追加投入だとか、変異組織のサンプリングだとかで、明日からしばらく
面会はできなくなる。次に会えるとき、ぼくはもう泣けないかもしれない。だから、
きっとこれが、きみが見るぼくの、最後の涙――」
114
:
テセウスの船は星海を往く
◆aPSupcKIa.
:2014/11/02(日) 18:19:27 ID:O1uZ.7ls0
「あなたも何か言ってください」
母がテーブル越しに咎める。味噌汁をすすっていた父親が顔を上げた。
「寒くなってくると大根がうまい」
「そういうことじゃありません」
慧は母から見て左に座っている。つまり父は慧から見て左にいる。
「子供が間違った道を進もうとしてるんですよ。自分から不幸になろうとしてる。父親として
反対する義務があると思わないの」
「人は間違った道しか歩けないものさ」
母は短く熱い息を吐き出すと、いちいち大きな音を立てて自分の食器を片付けた。
積み上げたそれらを流しへ持っていき、洗い物との宿命的な決闘に没入する。
食卓には父と娘が残された。
「問題はつまるところ、お前が自分の選ぼうとする道を理解しているかだ。それがどの程度
過酷なものか、他の選択肢は本当にないのか。もちろん未来のことなんて正確にはわからない、
でもよく考えることで覚悟はできる。覚悟、これが重要だ」
父親は娘に語りかけつつ、等量の厳粛さをもって揚げだし豆腐を口に放り込んだ。
慧もそれに倣う。つゆがよく染みている。
「それから、自分の行動に責任を持てるかどうか。大人になった子の人生に、親は責任を
取ってやれない。自分の選択がもたらすあらゆる結果を、自分ひとりで引き受けるくらいの
踏ん張りが要る。足腰が強くないといけない、とくに険しい道を歩く人はね」
そう言いながら、彼の箸はほぐした焼鮭と米を運ぶ。豊かな髭が持ち上がり、丸い眼鏡の奥で
目が細められた。
「で、お前の覚悟は?」
「私の人生まるごと、あいつのために使える」
即答であり、声に揺るぎはない。父は慧の瞳を正面から見据え、慧はその目を逸らさず
観察されるに任せている。
「使える――か。うん、そういう相手なら仕方ない」
母が洗い終えた皿を割れそうな勢いでかごに突っ込んだ。
「口ではいくらでも大きなことが言えるものよ。それを真に受けて、“仕方ない”?
どこまで子供をないがしろにする気なんです」
「君はやや過保護、僕はどっちかといえば放任主義。バランスは取れてる――ちょっと待った、
こっちの話がまだ終わってない」
泡のついたボウルを投げつけかねない顔の妻を制止し、父は自分と慧のコップに茶を注いだ。
ペットボトルの緑茶だ。
「お前の気持ちが単なる意地や同情じゃないとしても、お前の身体は健康だ。変異した身体で
生き続ける彼との間には、絶対に超えられない隔たりができる。そういう関係の上では、
たといどんなに崇高な愛でも、偽善の影を投げてしまう」
「家族会議でそんな言い回しを聞こうとは」
壁に掛かった時計がいつも通り五分進んでいるのを一瞥し、父は味噌汁を飲み干す。
それを待って、慧は続けた。
115
:
テセウスの船は星海を往く
◆aPSupcKIa.
:2014/11/02(日) 18:22:11 ID:O1uZ.7ls0
「言ってることはわかるよ。私が健気な女を気取るためにフランツを利用している、
そう見られるのは避けられないってことだろ」
父は頷いた。
「その方が理解しやすいからね。人は納得のいく説明を探す。多くの人にとって、
お前の考え方は理解できない」
「私にだって理解できません」と口をはさむ母親。
レースのカーテンが翻り、細く開いた窓から冷たい風が吹き込む。外はもう冬の気温である。
「それもわかる。でも、そんなことどうでもいいんだ。他人の評価が偽善者でも悪女でも、
私のやることは変わらない」
「他ならぬ彼さえ、疑うかもしれないよ。自分は出汁にされているんじゃないかって」
考え込むそぶりを見せた慧だったが、
「それはない。あいつが私の中に疑うとしたら、利己心じゃなく義務感になる。そういう奴だよ
――だから放っておけないんだ」
口の端で笑い、すぐに結論する。それからコップをひと息に空けた。父も緑茶に口をつけ、
髭を濡らしたまま問う。
「やることは変わらないと言ったが、お前が彼に何をしてやれる?」
彼の声は大きくはなかったが、流しの水音を圧して耳孔に重く響く。慧は再び父と
まっすぐ向かい合い、答えた。
「ただ一緒にいる。それだけで、孤独を遠ざけておくことはできる」
テーブルの上に身を乗り出していた父が長い息を吐き、背もたれに寄りかかった。
「母さん、こりゃ駄目だ。君じゃ説得不可能です」
「だから、あなたがやってくださいよ!」
「僕は最初っから、説得なぞする気ないし」
振り返った母が、信じがたい不条理を見たという顔で硬直する。その前に慧が立ち、
手に持った自分の食器を見せた。
「ごちそうさま。あとは洗うよ」
夢遊病者のような足取りで流しの前を明け渡しながら、母は俯き、呟いた。
「慧、あなたきっと後悔する」
慧はスポンジに洗剤を少し加え、泡立たせながら言う。
「もしそうなったら、笑っていい」
「こっちもごちそうさま」
父が歩いてきて、重ねた食器を娘に差し出した。
「いちおう言っとくが、お前のことを思えば母さんの方が普通なんだ。あこぎなことを
しているのは忘れないように」
「これでも親不孝への申し訳なさは感じてるよ――皿貸して」
デザートを探すべく冷蔵庫を開けようとした父親は、カレンダーの小さなメモに目を止めた。
「おや、十二月一日は……そうか。もうすぐだな」
116
:
テセウスの船は星海を往く
◆aPSupcKIa.
:2014/11/02(日) 18:25:24 ID:O1uZ.7ls0
翌週、十一月末。空は曇っていた。
慧が病室で目にしたのは、機械の塊が隙間なく詰まったカプセル。がらくたのような
それがフランツだった。
「先週のぼくはどうかしていたよ」
電話越しに話しているような声だ。どこから出ているのかは、見ただけでは解らない。
「やっぱり別れよう、慧。自分の姿を鏡で見た。どんな精神論だって、脳まで機械に
取って代わられたこんなモノを人間と呼ばせることは、決してできない」
「別に、お前が人間じゃなくたって――」
「ぼくは嫌だ」
慧は外から見えるフランツの組織表面に、小さな六角形のレンズがいくつも覗いている
ことに気付いた。ほのかに光る色はライトブルー、彼の瞳の色に似ていた。とりあえずは
その一つを見ながら話を聞くことに決める。
「看護師たちが話してるの、知ってる? きみのことだよ。自分だったらとても耐えられないとか、
あの子ちょっとおかしいんじゃないとか、女捨ててるよねとか、言いたい放題さ。病院って怖いね」
「言わせておけよ。それ全部、客観的には当たってるし」
「ぼくが、嫌なんだ。生きてるだけで君に迷惑を掛けるなんて」
カプセルが揺れた。中でどうにかして動いているようだ。
「いまの自分がたまらなく嫌だ。それがきみと一緒にいるのはもっと嫌だ。ねえ、
きみのために言うよ。もっと普通の、健康な男とやり直していいんだ。ぼくは怨みも
責めもしない。どんなに強がったって、そっちの方が幸せに決まって――」
慧の足が思い切りカプセルを蹴った。
「私の幸せを決めるのは、私だ」
ほんの一瞬、慧は泣き出しそうに顔をゆがめた。しかし次の瞬間には笑い始め、
カプセルに身体をもたせ掛ける。
「お前はやっぱり甘いな、聞いてるだけで糖尿病になりそうな甘さだ。本気で私を
遠ざけることだけ考えるなら、たとえば私の具体的な欠点をあげつらいながら、
有無を言わさず百年の恋も冷めるような罵詈雑言を垂れ流すべきだったんだ。
それを何だ、バカ正直に『きみのため』だと!」
透明なシールド一枚隔てて、二人の――あるいは一人と一個の――身体が重なっている。
「ぼくは未練たっぷりですと宣言してるようなものじゃないか。いやわかってる、お前なら
打算とか自己憐憫で言ってるんじゃないだろう。私は面倒だから嘘を吐かないだけだが、
お前ときたら相手の幸せのためとかいう大義名分があってすら、人を傷つける嘘を吐けない奴だ。
よく知ってるよ――だからな、逆効果だ」
ほとんどカプセルの上に乗っていた慧は、飛び降りるとまた椅子に腰掛けた。
「お前の自虐とか憎まれ口とか、不器用で半端で痛々しくて、弱さが透けて見えるけど――
最後まで聞けよ。私はそれがいいと思ってるんだ。そういうお前だから余計に離れたくないし、
誕生日も祝ってやりたい」
「誕生日?」
「十二月一日、もうすぐだろ」
117
:
テセウスの船は星海を往く
◆aPSupcKIa.
:2014/11/02(日) 18:27:22 ID:O1uZ.7ls0
慧がカレンダーを指差すと、カプセルの中の塊は沈黙した。動くこともやめ、レンズだけを
ゆっくりと点滅させている。
「どうした、忘れてたのか」
「……祝ってくれるところ申し訳ないけど、こうなるとわかっていたら、ぼくは生まれたくなかったよ」
呪いのように洩れた言葉。
慧はそれさえ笑みをもって受け止める。
「――誰かの、生まれた日を祝うってことは」
ブラインドの隙間から光が射す。窓の外で太陽が顔を出したのだろう。
「かれが生きてきた過去と、生きてる現在(いま)と、これから生きてゆく未来にわたって
その存在を肯定する。そういう意味があるそうだ」
慧はそれが誰の言葉だったか思い出そうとした。歴史上の人物だったか。小説の登場人物だろうか。
全体的な陳腐さが父親のものらしくも思える。しかし陳腐でも、彼女はその説を支持した。
「だから祝う。毎年おめでとうを言ってやる。悪いが私はこう思っているんだ――フランツ、
お前が生まれてきてくれて、よかった」
慧は窓に近づき、ブラインドを上げて空を仰ぎ見た。細い光が幾筋も、雲間から地上へ延びている。
「私はお前と一緒にいきたい。でも、お前はどうしたい」
短いといえば短く、長いといえば長い間があった。
やがてフランツは再び蠢動を始め、全身のレンズが赤い光を灯す。
「正直に言ってほしい。もし私のいることが心の底から苦痛でしかないなら、単刀直入に
そう言わないとわからないんだ。私は粘着質な女で、どうやら思い込みが激しく、しかも少々
調子に乗っている。おまけに鈍い。手を切るならこれが最後のチャンスかもしれない」
つとめて淡々と主観的事実を述べると、慧は窓の外を見たまま、彼女なりに神妙な面持ちで
返事を待った。
「……そういうとこ、好きだよ」
電話越しのような声に、先までなかったやわらかさがある。
「大事なときにこっち向いててくれないのとか」
「照れ隠しだ」
慧は振り返らない。
「真っ赤になってる耳とか」
「うるさいぞ」
慧は振り返らない。
「ぼくの発光ダイオード(LED)も真っ赤(RED)だ」
窓に赤い光点が映っている。その並びを見て、慧は振り返った。
「ごめん、慧――」
六角形のレンズが集まり、きれいなハートマークを形作っている。
「ぼくも、きみと一緒にいきたい」
「やれやれ」
慧は苦笑し、溜め息を吐いた。
「なんてセンスのなさだ」
《了》
118
:
◆aPSupcKIa.
:2014/11/02(日) 18:30:05 ID:O1uZ.7ls0
いじょう。
119
:
名無しさん@避難中
:2014/11/02(日) 19:55:10 ID:Gi8haM/w0
悲しいながらも爆発しろと言いたくなるリア充っぷりw乙
120
:
失われたL
◆aPSupcKIa.
:2015/04/11(土) 23:36:20 ID:YsjhFrcA0
部屋の隅にはまるでなんだか解らない機械があった。
頭頂部に銀色のリングがあり、表面で青い光が回転している。その下は少しずつ隙間の空いた
六角形の部品で円筒が構成されており、一つ一つのパーツは絶え間なくカシカシ動いて
様々なパターンをつくり出す。円筒の下には箱型の部分がある。これは立方体の周囲の面
すべてに立方体が一つずつ隣接し、しかもそれらの側面がまた互いに密着している。
構造としては四次元的だが、結局外からは一面ずつしか見えないため、全体で一つの
立方体に見える。中央の立方体は時間が経つとともにすり減っていき、なくなると周囲のどれか一つが
自動的に〈内側〉へと送り込まれる。そこで監査官が欠けた部分に新たな立方体をセットする。
こうしてカートリッジ交換は完了し、機械は滞りなく稼働し続ける。
機械の前には椅子が置かれ、一人の男が固定されている。髪や眉など毛という毛がなく、
機械から伸びたケーブルが頭のあちこちに植え込まれたポートへと接続されている。
機械が動作する間、男は「あああ」とか「ううう」といった唸り声を上げながら、断続的に言葉を発する。
単語が多いものの、文章の形で出力されることもある。
書記官は男の近くで机に向かい、彼が発する語句をノートに書き写す。ときおり不明瞭な声が
聞こえると、それが書き取るべき言葉であったか、それともノイズであったか、監査官の判断を仰ぐ。
監査官は、書記官が聞き漏らしたり判断に困った言葉があれば、それを拾わねばならない。
他にも機械の動作状況や書記官が正確に記述しているかどうか、また接続された男の体調を
監督する義務もある。要するに、彼がこの現場の責任者である。
機械はきっかり三時間連続で稼働し、椅子の男の出力と書記官の筆写――必要なら監査官の
カートリッジ交換――も並行して三時間続けられる。これが日に三サイクル、休憩を挿んで実行される。
機械が動いている間は部屋の出入りが禁じられる。もちろんトイレにも行けないので、どうしても
我慢できなければ部屋の中で垂れ流すしかない。なお椅子の男は食事を取らないため、排泄もしない。
一日の作業が終わると、書記官はノートを机の抽斗に入れ、監査官は機械を点検し、
二人で外へ出て鍵を閉める。部屋の鍵は二つあり、二重に施錠したあと、一人が一本ずつ
持ち帰ることになっている。椅子の男と謎の機械は密室に残され、書記官と監査官は帰宅する。
翌日の朝、鍵を持つ二人が揃わなければ扉は開かない。中へ入ると、椅子の男が
無言・無表情・微動だにせず彼らを迎える。抽斗に入れていった前日のノートは回収され、
代わりに新しいノートと筆記用具が用意してある。部屋の隅には交換用のカートリッジ・キューブが
積み上げられている。書記官らが仕事を終えた後、何者かがやってきてノートの回収と
備品の補充を行い、一度開けた鍵を元の通りに閉めていくらしい。
食事やトイレなど、部屋の外で済ませるべきことを済ませたかどうか互いに確認し、
二人は部屋の鍵を中から閉める。そうして書記官は机に向かい、監査官は機械を作動させる。
きっかり三時間ずつ、また三セット。これを金曜日以外は毎日繰り返す。
そんな職場がある。
121
:
失われたL
◆aPSupcKIa.
:2015/04/11(土) 23:51:25 ID:YsjhFrcA0
孝仁が書記官に着任したのは二年前だ。
働き口を探していた彼は、「書記官急募」という張り紙を見つけ、高給に釣られてその足で
面接を受けに行った。月給五十三万、さらに二度のボーナス付――守秘義務の遵守など
軽いことと思えた。元々、秘密を話すような相手もあまりいない。
「前任の書記官が仕事を続けられなくなりましてね」
面接官は手足の長い初老の男だった。物腰は穏やかだが、どこか隙がない。牧師にも見えるし、
やくざの頭にも見える。
「枠が空いたので募集をかけた次第です。今のところ、来たのはあなただけですが」
「張り紙が見えにくいからでは?」
おずおずと言う孝仁が見た紙は、電柱の下の方、ちょうどポストの陰になっているところにあった。
見逃さなかったのは偶然に過ぎない。
「あれはわざとそうしているのです。わたくしの経験上、普通の人が気付かないところに
気付くような方が、書記官には向いていると思われますので」
「そういうものですか」
「ええ」
そして面接官は彼を部屋に連れて行った。機械と、椅子に固定された男のいる部屋に。
椅子の男は瞬きをせず、よく見ると瞼が切り取られている。
「それは従業員ではなく、備品です。ご心配なく」
「なるほど」
孝仁は自分でも馬鹿馬鹿しいと思ったことに、男が深刻なドライアイを引き起こしてはいまいか、
などと心配した。
「職務内容の性質上、お試しでやってみて合わなければ辞める、というわけには参りません。
やるなら定年まで付き合う覚悟をしていただきます。作業自体はシンプルなもので、
聞く、そして書く。これだけです」
「俺が教える」
いつの間にか、孝仁の後ろに小柄だががっしりした男が立っていた。
「監査官のカガシだ。書記官はべつに特殊な技能が必要な役職じゃない。センター試験の英語で
リスニング問題を解ける程度の耳があれば、誰でもできる。日本に文盲はいないからな」
「吉岡孝仁です。お世話になると思います」
意外の顔つきで面接官が確認する。
「やる、ということでよろしいですか?」
「秘密を守る代わりの高報酬、という類の仕事でしょう? その点は大丈夫です」
「そこさえ心得ておいでならば、結構ですよ」
この瞬間、孝仁の人生は決まった。
122
:
失われたL
◆aPSupcKIa.
:2015/04/11(土) 23:54:01 ID:YsjhFrcA0
「うううううう」
機械の天辺で青い光が廻る。
「ああああ、こつずい、うんんんん、んんん、みなと、あううう」
椅子の男が唸りながら言語の断片を吐き出す。
「『骨髄』、『港』」
孝仁はそれを書き留め、カガシが脇でチェックする。
「ふんんん、んんんんんん、しろいみずうみ」
「『白い湖』」
「むいいいい、ぎぎ」
「『疑義』」
「今のはノイズだ」
「すみません」
書いた単語に訂正線を引き、上から印鑑を押す。ノイズを書いてしまったり、書き損じたり
してしまったときの、正規の手順である。
カガシはそれほど歳がいっているようには見えないが、かなり長いこと監査官の仕事を
やっているらしい。拾うべき言葉とノイズの判別は、ほとんど経験からくる勘で行う。
「うんんんんんんん、んみいいいいい、いげえええええ」
「これは?」
「んんう、んぎうう、えげええ」
「長いノイズは長文の前触れだ。集中しろ」
間もなく、抑揚のない声で長い出力が始まる。
「きょうおう、びーりーぶず・おーるどばっくわうちゅうをつくる」
「『饗応』? いや、『教王』――『狂王』かも――」
「迷ったら平仮名でいい。まだ続きが来るぞ」
その通りだった。唸り声を挟むことなく、呼吸だけを間隔として椅子の男は喋り続ける。
孝仁は「きょうおう、ビーリーブズ・オールドバックは宇宙を創る」と走り書き、
暫し作業に没頭した。
「おうこくをもたぬおうわみた」
王国を持たぬ王は見た。
「たいようをくうちぇれんこふのあんこく」
太陽を喰うチェレンコフの暗黒。
「たんほいざーげーとのかなた」
タンホイザーゲートの彼方。
「やみのなかでかがやくしーびーむ」
闇の中で輝くCビーム。
「おおいなるはいいろのはしらどけい」
大いなる灰色の柱時計。
「めいじょうしがたいえんとう」
名状しがたい円筒。
「そして、■」
そして――
「何だって?」
123
:
失われたL
◆aPSupcKIa.
:2015/04/11(土) 23:56:15 ID:YsjhFrcA0
しかし椅子の男はもう言葉を紡がなかった。「むうううううう、んむうううう、んんんんんむ」
などと唸るばかりである。カガシも聞き取れなかったらしく、最後の音はノイズとして処理された。
結局そのサイクルが終わるまで、ノイズ以外が聞かれることはなかった。
「僕たちがやってることは何なんでしょう?」
「さあな。たぶん、訊かないほうがいい類のことだ」
外の公園で並んでベンチに座り、コンビニで買ったパンを食べる。休憩中はあまり部屋の中に
居たくないということで、二人の意見は一致していた。ましてあの中で食事など御免である。
「それに、出力される言葉について深く考えるのも止した方がいい。おまえの前任者は
あの言葉の意味や規則性を調べようとして、何かに気付いた――だが、おそらくそのせいで
発狂して、死んだ」
「死んだ?」
孝仁が訝しげにカガシを見た。
「そう、死んだ。その前任者も同じだ。そいつは書き取った言葉を外に持ち出そうとして、
守秘義務違反で粛清(パージ)された」
「パージ? 殺されたんですか? 誰に?」
「上さ。俺たちの雇い主、この意味不明な作業をお膳立てしてる連中だよ」
カガシは横目で孝仁の表情を確かめた。
「怖気づいたか? そうなら遅い」
「いえ、別に。命懸けてまでルールに背くだけの、理由も情熱も僕にはありませんし」
孝仁の声に恐れはない。勇敢というよりは、単に生への執着が薄いといった調子の、
消極的で淡白な平静だった。
「そうか」
カガシは手に持った紙パックを絞り、角に残った最後の一滴までコーヒー牛乳を吸い上げた。
ただのごみになった容器をぱっと放ると、それはきれいにごみ箱の中へ落ちていく。
「ああああああ、むこのたみ」
「『無辜の民』」
書き続ける。
「んんんんん、ただよう、んうう、とじたひも」
「『漂う』、『閉じた紐』」
ただ書き続ける。
「ほあああ、てせうすのふね」
「『テセウスの船』」
124
:
失われたL
◆aPSupcKIa.
:2015/04/11(土) 23:57:42 ID:YsjhFrcA0
機械が立方体の一つを飲み込み、カガシが新しいカートリッジをセットした。椅子に座った
瞼のない男は、瞬こうとするように目の上下の筋肉を素早く動かしながら、自らの唸り声と
言葉に合わせて身体を揺らしている。
「うううう、まじゅつ、ぃえええええ、ゆーくりっど」
「『魔術』、『ユークリッド』」
「いいいいいい、はかいしょうどう」
孝仁は「破壊衝動」と書こうとして、出所の解らない神聖な義務感に駆られ、
「破戒衝動」と書き直した。
カガシが瞠目するも、止め立てはしない。
「んんぬ、むんんん、おるふぇうす、ううええ、しんきろう」
「『オルフェウス』、『蜃気楼』」
「おおお、ぶんすいれい、しぎいい、せみおーとまてぃずむ」
「『分水嶺』、『セミオートマティズム』」
気付けば三時間は過ぎ去り、機械が止まった。
この日の作業はここまでとなる。
「あの『破戒衝動』は良かった」
機械を点検しながらカガシは言った。
「見た瞬間、あれが正しいという直感があった。おまえには才能があるかもしれない。
奴の言葉を正しく文字にする才能が」
「自分でも解らないんです。どうしてあの字にしたのか」
「それが、書記官の才能なんだ。今までの奴らも、多かれ少なかれそういう能力を持っていた。
こればかりは天稟に頼るしかない」
孝仁はノートを抽斗に入れ、扉の外でカガシを待った。自分に何かの才能があるというなら、
それが評価されて給料がさらに上がらないものか、などと思いながら。
「帰るぞ。お疲れ様」
彼らは鍵を閉め、それぞれの帰路につく。
孝仁が最後に見たとき、椅子の男はどこでもない場所を見ていた。
歳月が過ぎるにつれ、孝仁の才能は尖鋭化した。
「うううう、ううう、こうりん」
「後輪」とも、「降臨」とも書き得たはずである。しかし彼は迷うことなく「光輪」と記した。
「んうおおおお、せいなるひ、おんんんんん」
彼はまた「聖なる日」とも、「聖なる火」とも書くことができた。あるいは、無理をすれば
「正なる比」という字面もあり得た。
しかしそのどれをも選ばず、孝仁は「聖なる緋」と書いた。
125
:
失われたL
◆aPSupcKIa.
:2015/04/12(日) 00:03:23 ID:PzdHgOc60
孝仁の手で普通ならざる変換が行われるとき、カガシはそれらを決して訂正させようとは
しなかった。そのどれもが、何らかの秘法に基づいて導き出された正解であるという、
理解を飛び越えた確信があったからだ。
初めは孝仁が記録すべき言葉とノイズの判別に気を遣っていたが、今や緊張を強いられているのは
カガシの方だ。一度など、彼がノイズだと思った「うゆう」という声を孝仁が拾い上げ、
「烏有」と書き下すのを見て、長年培ってきた直感に対する信頼が揺らぎさえした。
これまでに、孝仁ほど成長の早い書記官はいなかった。
カガシは素直に喜ぼうと思ったが、一つの不穏な事実が影を落としていた。機械と繋がれた
あの椅子の男が、孝仁に引きずられるようにして、長い文章や複雑な言葉を頻繁に
出力するようになってきている。これも初めてのことだ。
そして、その日は来た。
「っんいいいい、つみとばつのじゅうりょくほうかい」
「『罪と罰の重力崩壊』」
「ふずうううう、くろいたいよう、んんず、まつじん」
「『黒い太陽』、『末人』」
二人がいつも通りに作業をこなしていると、何の前触れもなく椅子の男が奇妙な声を発した。
それは同じ声の男が四人ほど、同時に同じ調子でまったく別のことをまくし立てるのにも似ていた。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
決してノイズではなく、しかし確実に人間のものでもない何らかの言語――孝仁とカガシは
ぎょっとして男を見た。彼はそれまで焦点の合っていなかった目ではっきりと孝仁を
凝視しており、拘束された身体で椅子をガタガタと揺らしている。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
男は再び宇宙的言語を紡いだ。すると、孝仁が応じて呟く。
「あ――わかる」
そうして彼は机に向き直り、自分が機械に繋がれたかのように喋りながら、同時にその言葉を
紙が燃えだしそうな勢いでノートに書き始めた。
「土を肉として――岩を骨として――水を血として――魔術師は――土偶(ゴーレム)をつくる」
椅子の男はにっこりと笑った。カガシはただ茫然と、二人の間に立ち尽くしている。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
「知性が世界を嘘へと分解する。Lは繰り返し失われ続ける。賢者だけがそれに気付いていた」
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
「彼女の名はゾニアと言ったが、ロシア風にソーニャと呼ばれることを好んだ。
厳密にはまったく別の名前になってしまうのだが、そのやわらかい響きが彼女に
とても似合っていたので、周りの人々はみな彼女をソーニャと呼んだ」
「おまえは何を言ってるんだ」
126
:
失われたL
◆aPSupcKIa.
:2015/04/12(日) 00:05:10 ID:PzdHgOc60
孝仁が振り返った。口端を限界まで攣り上げるような笑いを浮かべ、手だけを紙の上で
動かしながら、カガシに話しかける。
「見えるんです。ぜんぶが見えます。この言葉は――そうか――」
椅子の男はもう何も言っていない。ノートの上の手は、「禅の境地において、すべては
螺旋状の真空と後退線で表される」と書き終え、行を移して「1001100101101101111100111」と
二進数を綴り始める。明らかに、孝仁はもはや一人で情報を出力していた。
そこへ、中から施錠したはずの扉が開かれ、黒服の男たちを引き連れた初老の男が入ってくる。
面接官だった。
「監査官、今日の仕事はそこまでです。御苦労様でした」
そして黒服の男たちに向き直って短い指示を出す。
「〈嘘吐き〉は解体。〈詩人〉は本部に移送、のち適合処置」
黒服たちは二手に分かれ、片方は何事か呟きながらノートに書き込んでいる孝仁を担いで
運び始めた。孝仁は運ばれながらノートとペンを手放さない。もう片方は、沈黙した椅子の男の
拘束を解いて、やはり運び始める。こちらは持ち方がぞんざいで、両者を比べれば、椅子の男が
モノとして扱われていることは一目瞭然だった。
「何が起きたか、訊かない方がよろしいですか?」
動揺しながらも言葉は賢しげなカガシに、面接官は皺の増えた顔で微笑む。
「訊いても構いませんが、答えられることは多くありません」
孝仁が部屋から運び出され、椅子の男も続いた。部屋の中には機械と交換用カートリッジ、
椅子と机、それからカガシと面接官の二人だけが残された。
「吉岡――書記官はどうなったのです?」
「彼は覚醒しました。書記官の歴史上初となる偉大な才能です。我々はようやく、
第四文字復元計画を先に進めることができる」
面接官がそれ以上続けないのを確かめ、カガシは追求を諦めた。この初老の男は、問いに対して
言うべきことを言い終えたから黙ったのだ。覚醒とは何か、計画とは? おそらく答えは返ってこない。
カガシは質問を変えた。
「私たちがやっている仕事とは、一体何なのです?」
それは、長年にわたって訊くのを避けてきたことだった。知り過ぎる、あるいは
知ろうとし過ぎる者は粛清(パージ)される。カガシは経験と本能に従い、自らを無知な
一個の駒と規定してきた。
だが、今を逃せばおそらく訊く機会はない。
「……ひとつ、たとえ話をしましょう」
面接官は機械に歩み寄り、上部の円盤にそっと触れた。
「図書館があるとします。とても広い、無限の蔵書数を誇る図書館です。私たちがこの機械を
使ってしていたことは、畢竟、小さな窓からその巨大な書庫を覗くに等しい。
見えるのはせいぜい、書架に並んだ本たちの表題に過ぎません」
127
:
失われたL
◆aPSupcKIa.
:2015/04/12(日) 00:07:36 ID:PzdHgOc60
カガシは椅子の男が機械の上に乗り、天まで届く石造りの図書館を小窓から覗いている
様子を想像した。その後ろで孝仁が、男の見た書名をノートに記録している。
自分はしゃがんで機械にキューブを押し込んでいる。そんな光景だ。
「しかし、〈覚醒〉した書記官がいれば、機械と出力器からなるこのシステムは不要です。
今や彼は堂々と、門を開けて図書館に入っていける。探し方を訓練すれば、必要な本を
必要な時に引き出して読むことができるようになるでしょう。我々はずっと彼を
探し求めていたのです」
面接官はカガシを見た。話は以上、理解したか、と言うように。
「漠然とながら、わかりました」
「それで結構。具体的に理解されるようなら、双方にとって些か不愉快な処置を取らねばなりません」
二人は部屋を出た。カガシが習慣的に片方の鍵を閉めると、面接官が予備の鍵を出して
もう一方を閉める。あの機械や椅子も、いずれ黒服の男たちが片付けるのだろうか。
「して、私の処遇は?」
「経験豊富な人材をむざむざ手放しはしません。明日からあなたには本部勤務へと移ってもらいます」
面接官はカガシに、新たな勤務先の位置を記した地図を手渡した。そして部屋の鍵を
彼から回収すると、いつの間にか暗くなった街に消えていった。
カガシはぼんやりした頭のまま帰宅し、ソファに腰掛けてビールを飲みながら、手渡された地図を
じっと眺めていた。これまで気にも留めなかった一つの事実が再認識される。
自分はサラリーマンなのだ。
職を失わずに済んだことを喜ぶうち、男は浅い眠りに落ちる。ゴーレムを操る魔術師と、
ソーニャという女が出てくる夢の中で、知性がやってきて世界を殺害した。その骸は
無数の嘘へと切り分けられ、Lは失われる。もはや戻らない。
《限(きり)》
128
:
◆aPSupcKIa.
:2015/04/12(日) 00:10:47 ID:PzdHgOc60
いじょう。
>>119
ありがとうござんます!
こうなったフランツ君は爆破しても死ねないのでごあんしんください。
129
:
名無しさん@避難中
:2015/04/12(日) 00:40:54 ID:NrOXQGrw0
コズミックホラーなふいんき…
130
:
◆aPSupcKIa.
:2015/06/29(月) 18:20:14 ID:VeUJjeSM0
したらばNGワードに引っかかる懸念ありだったのでtxtで投下してみるの巻。
初稿の出来が酷くて、そこからいろいろ改修を試みたが、結局どうにもできず爆発四散した失敗作@三年前。
『一切の望みを』
http://u6.getuploader.com/sousaku/download/883/%E5%AE%B6%E5%87%BA%E5%B0%91%E5%A5%B3.txt
乱暴すぎて誤解を招くあらすじ:
JCの愛依ちゃんは家出少女である。一人前のビッチになるべく男たちの家を泊まり歩く日々。
あるとき彼女が見つけたひょろ長い男はロリコンだった。しかし重度のお人好しだった。
果たして愛依ちゃんはこの男を立派な性犯罪者に仕立て上げることができるのか!?
(※R18描写はないのでごあんしんください。だが青少年のなんかが危ない)
131
:
名無しさん@避難中
:2016/06/29(水) 18:21:11 ID:p.7VlR6w0
ksks
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板