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記録庫2

684考える名無しさん:2019/05/23(木) 07:54:52 ID:t6ctEEfw0
数学は実在するのか?という疑問がある。

じゃんけんがある。
体育館で1000人がじゃんけんをする。
1秒間に1勝負する。
何秒後に勝者1人だけになるか。

じゃんけんの存在が、あらゆる問いを生んでいる。
じゃんけんが数字など、関係性の要素の喩えだ。

じゃんけんが在ると、無限に世界は広がる。

しかし、広がるじゃんけんの世界が存在する思考空間が、現実に、存在する。

現実という世界に、じゃんけん、即ち、数学の世界は内包されている。
数学では「現実」に、触れることすらできない。

そこまで考えた上で、数学よりも真に迫る何かにピントを合わせて、全てを考えている。

論理と感情。

クオリアの段階において「感情」の立ち位置は独自に定義しているが、
それを踏まえながら、そして、別にそれを前知識として必要のないまま、
「判断」という軸から相対的に描写する。

ものの可否や合否は論理により判断される。
それ以外の何かは感情により判断される。

「判断」という行為において、
論理に基づく判断と、感情に基づく判断は、プロセスの構造として同じ形をしている。

「論理的な正しさ」という比較対象に合致するか外れるかの審査、
生まれた感情による審査。

あえて後者を曖昧に書いたが、
感情は、自己の何かと比較されることで生まれている。

ほんの少し意図的に飛躍すると、

論理的な文章から感情が生まれることはない。

極めて論理的な文章は、人に感情を与えない。

更に、脱線すると、

日本人が、他国の人と比べて感情的であるのは、です・ますなどの語尾により感情が拭えない空間に閉じ込められているからだ

と言える。

感情的にニュートラルな言語を獲得する重要性、というのが問える。

感情は、クオリアの後の意味生成の段階に付随して発生する、と考えた。
これが前から書いているものだ。

意味が発生しない限り、感情は発生しない。

ところが今、論理的な文章は感情を生まない、と書いた。
なので、この辺りを更に詳細に定義する必要がある。

意味生成と志向性クオリアは異なる。

意味生成を志向性クオリアの管轄とすると、感情をクオリアの外側に追い出す形になる。
これだと「科学」としてまとまりをつけやすいけれど、多分、現実の実際のものからは、ずれていく。

因みに、意味とは、自己が意識で自覚している必要はない、と思う。
意味の認識が後からくることはあるだろう。


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