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我見無き本尊論(恩師、師匠の指南)

1副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:15:10 ID:???0
タイトル通りの内容の投稿に限定します。

2副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:16:22 ID:???0
522 :説教オヤジ:2009/10/11(日) 13:41:03 ID:9mtw3rzk0
もったいなくも、大聖人が、三大秘法の南無妙法蓮華経を弘通せられた道程を拝するに、
まず建長五年四月二十八日の、宗旨建立のとき、初めて題目を唱えられ、その後、幾多の苦難を経られつつ、
題目の流布に当たられたのである。
その後、佐渡流罪のとき、ようやく御本尊をおあらわし遊ばし、その後は、御本専の流布に、お力をお注ぎ遊ばされたのである。
しかして、弘安二年十月十二日に、戒壇の御本尊を建立遊ばされた。この御本尊は、一閻浮提総与の御本尊であり、
大聖人の極説中の極説であるゆえに、日寛上人の観心本尊抄文段の御本尊についていわく、
『(御本尊においては)弘安元年已後は、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。
既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり』と。
これをもってみるに、本門の題目の建立は、建長五年四月二十八日、本門の本尊の建立は、弘安二年の十月十二日で、本門の戒壇の建立は、
一期弘法書にみるがごとく、後世の弟子に残されたのである。
(昭和31年4月号大白蓮華巻頭言)

翻って、大聖人滅後の広宣流布の様相をみるのに、題目は一日一日と全国にひろまり、現今は、日本国中、題目を知らぬ者がないまでになったのである。
かくしてみれば、題目の広宣流布は、既になされえたと、一応は考えられるのである。
 さて、本尊の広宣流布においては、どうなっているであろうか。各宗各派は、互いに勝手な本尊をつくりあげ、
正邪混とんとして、いずれが邪か、いずれが正かは、一般民衆には判定のつかない状態である。
すなわち、佐渡御書において『釈教の中に、小乗大乗権経実経・雑乱して明殊と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は、天台大師・伝教大師等の如く
大小・権実・顕密を強盛に分別すべし』とあるごとく、大聖人のご真意の御本尊と、ご真意にあらざる本尊とを、しゅん別しなければならぬときがきている。
 しかして、正しい御本尊をもって民衆に付与して、大聖人が観心本尊抄に、『一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し、五字の内に此の珠を表み、
末代幼稚の頸に懸けさしめ給う』とおおせられた、ご聖意を徹底すべきである。
 これがためには、正しき御本尊を判定して、大聖人のおおせのごとく、身命を賭して、随力弘通をなさなければならない。
さて、そのご聖意の御本尊は、いずれにあり、いかなる御本尊であろうか。 それは、先に述べたごとく、日寛上人のご断言のごとく、
かつは確固たる証拠のある、弘安二年十月十二日の、一閻浮提総与の御本尊であることは、いうまでもない。
(同年同月巻頭言)

3副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:17:10 ID:???0
説教オヤジ:2009/10/12(月) 06:49:57 ID:9mtw3rzk0
御書一つを例にとっても、その大半は在家の人々に対する指導のお手紙であります。その数は、断簡を除いても、実に四百数十編を数えるのであります。
しかも、その一編一編は、皆さんご存じのように、一介の庶民の胸奥に迫り、その人が抱えた悩みを、その人以上の深い思いで悩み、解決への指針を与えておられるのであります。

 また、漢文が、知識階層の主流をなしていた当時にあって、仮名文字によってお手紙をしたためられた事実を通しても、大聖人の民衆の中にあっての実践が眼目であったことが、明らかであります。
 更に、大聖人出世のご本懐たる弘安2年10月12日の大御本尊の建立が、熱原法難を機縁とされたことに典型的にあらわれているといえましょう。
 周知のように、熱原法難は、日興上人を中心とする弟子の戦いによって起こった大難であり、それを受けた中心者は、弟子のなかでも、社会的には、なんの権力も財力もない無名の庶民、農民たちでありました。
 神四郎、弥五郎、弥六郎という農民信徒の殉教を大御本尊ご図顕の機縁とされたところに、私は深い意義があると思うのであります。
 それは、農民であれ、漁夫であれ、自ら汗して働き、生産にたずさわる庶民こそ、民衆救済の代表とされ、その不惜の信心を観ぜられ、一閻浮提総与の大御本尊をあらわされたという事実であります。

(昭和51年10月:第39回本部総会)

4副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:17:46 ID:???0
説教オヤジ:2009/10/12(月) 07:03:54 ID:9mtw3rzk0
弘安二年の御本尊は、本門戒壇の大御本尊と申し上げ、日蓮大聖人が出世の御本懐として、弘安二年十月十二日に御図顕になられたのであります。
聖人御難事に、建長五年より、余は二十七年にして出世の本懐を遂げるとおおせあそばされています。
日寛上人は、大御本尊の功徳について
「これ則(すなわ)ち諸仏諸経の能生(のうしょう)の根源にして、諸仏諸経の帰趣(きしゅ)せらるる処なり。
故に十方三世の恒沙(ごうしゃ)の諸仏の功徳、十方三世の微塵(みじん)の経々の功徳、皆咸(ことごと)くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。
譬(たと)えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用(みょうゆう)あり。
故に暫(しばら)くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、
理として顕(あらわ)れざるなきなり。妙楽の所謂(いわゆる)「正境に縁すれば功徳猶(なお)多し」とはこれなり」(観心本尊抄分段)と
おおせであります。
このようにすばらしい大御本尊が、七百年の昔から日本に厳存し、今日では奉安殿に(現在は正本堂に)御安置されているのです。
これに対しては、なにものも絶対疑っては相なりません。
弘安二年の御本尊様は、弘安二年の御本尊様です。これは拝んでみれば功徳があるのでわかるではないですか。
あの御本尊様を他の人がつくれますか。
私がラジオやテレビを作るようなもので、いくらやっても映らないようなものです。
洗濯機にしても私の作ったのでは動かないのです。そのようなものです。
(戸田城聖第二代会長)

5副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:19:30 ID:???0
説教オヤジ:2009/10/22(木) 14:25:01 ID:9mtw3rzk0
南無妙法蓮華経の実体とは

>南無とは帰命、すなわち妙法蓮華経に絶対にしたがうという意味です。妙法とは、われわれ人間の智ではかりしれぬ不思議な法であり、蓮華の法であります。
われわれは泥沼にいるのです。泥沼から咲く花は美しい、華と果が功徳となって現れる、これが因果倶時(いんがぐじ)であります。
経とはわれわれがありがたいと思うことです。これ自体が、われわれの運命を支配するのです。
別の立場からこれを拝せば、無作三身如来すなわち根本の仏様であり、永遠に不変の仏の御名をいいます。末法にはいっては日蓮大聖人様であり、
日蓮大聖人様御自身所有の、久遠元初(くおんがんじょ)のありのままの生命と力とを、大御本尊様にしたためられたのが、法本尊即日蓮大聖人様、人本尊です。
すなわち人法一箇であります。

われわれが信心すれば、日蓮大聖人様の所有の根本の力が、われわれの生命に感応して湧いてくるのです。
われわれもやはり、ありのままの永遠真如の自分にかわるのです。これが「南無妙法蓮華経」の実体であります。
(戸田先生)

6副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:20:10 ID:???0
説教オヤジ:2009/10/22(木) 16:28:12 ID:9mtw3rzk0
>よく「法華経を読みました」などという人がいますが、おかしくてたまりません。
読めるものですか、読めるわけがありません。大御本尊を信じないで、読めるわけなんかありません。
もし、ありとすれば、大御本尊様を信じないまでも、
大御本尊を知りぬいていえなかった竜樹(りゅうじゅ)、天親(てんじん)、天台、妙楽はこのかぎりではありません。
読めていたのです。

>歴史的に調べて実証して、こうあらねばならんなどというのは、科学ということばに迷った人のやり方で、
仏法哲理の上からいけば、日蓮大聖人己心の弥四郎国重に授与あそばされたのですから日蓮大聖人のお考えとしては、
もっとも理想の人格、法華経の行者の弟子として、理想の人格の人物として、世の中へおさだめになって、
その者にお下げ渡しになっているのですからそんなこと、実在であろうとなかろうと、考えなくともいいことになってきます。
これは私はたくさんの人のなかでは話しません。もしこれを話して、あなた方がこれを人に話していい負かされたり、
自分の心に疑いを起こしたりしたならば、かならずや罰を受けねばなりません。
それほど重大な本尊論の問題でありますから、めったに話したことはありません。ごく側近の者に話したことがあります。
本日はもしこれをいわなければ、なおさら疑いを起こす時期にきているように思いますからして、やむなく問いにまかせて答えました。
これは絶対にまちがいのないことですから、信じていただきましょう。
(戸田先生)

7副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:20:54 ID:???0
説教オヤジ:2009/10/22(木) 16:33:41 ID:9mtw3rzk0
>むずかしい問題です。がっかりすると悪いし、よほど信心のしっかりしている人であれば、きちんとわかってくれることなのですが、
初信の人だと説明の仕方がへただと、ふと迷ってしまうのです。気が弱ります。
御本尊様には違いがあります。仏法の上では分身散体(ぶんしんさんたい)ということがあります。
私なら私の心と同じ心にできているのを分身体というのです。
奉安殿(正本堂の)大御本尊様、ここの客殿の御本尊様、私どものいただいている常住御本尊様、あなた方が拝んでいる御形木御御本尊様、それぞれ違うのです。
違うのですが、こちらの信心の仕方で少しも違わない結果を出せるのです。すべてそれは信力の問題です。
あなた方の御本尊様の力をいえば、釈尊時代からある仏と菩薩とを、みないっしょにしたその功徳の何億倍と違ってくるのです。
釈尊時代にもその前にも仏はいたでしょう。それらの三世の諸仏の功徳がぜんぶ出ているのです。
これは勧心本尊抄に 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば
自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲(ゆず)り与え給う」(御書全集二四六ページ)ときちんと出ています。
(戸田先生)

8副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:21:29 ID:???0
説教オヤジ:2009/10/22(木) 16:41:18 ID:9mtw3rzk0
>御本尊様をおそまつにするということは、仏罰をこうむります。
しかし、あなたのいうように、御本尊様をそまつにしたら、愛する夫がヤクザに乱暴されるとか、
御本尊様に七つ穴をあけたら、自分が七つ穴をあけられるとか、そういうふうに、さもわかったようなことをいう人はおかしい。
そんなばかなことはありません。
それなら仏罰はないか。あります。ありますが、その仏罰は、こんなものが出るとか、あんなものが出るとかは、いえないのです。
ただその人が、幸福になれないということはたしかです

この御本尊をそまつにした人は、ひどいものです。その貧乏な姿を、見せにきます。不幸になった姿を見せにきます。
それを、乱暴されるとか、なんとかというのは軽率です。
そういう場合もあるかもしれませんが、それは、その人のもっている不幸をば、とくに現してくるのですから、どういう形で出るとはいえません。

これは恐ろしいものです。ほんとうに恐ろしいものです。そういうふうな現証は、かならずあるのです。
さきほどのように、どうなるこうなるなどと決定したようなことは、いうものではありません。
ただ仏罰の恐ろしいというだけでは、いっておかなければなりません。

9副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:22:10 ID:???0
説教オヤジ:2009/10/23(金) 05:22:20 ID:9mtw3rzk0
>日蓮大聖人様は、たくさんの信者の方に、御本尊様をすらすらとお書きになって与えられたのです。
その一機一縁の御本尊様は墨で書かれたのです。
そのときに御生命を「すみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ」とおっしゃったのです。
しかし、墨以外のものは御本尊の力がないとはおっしゃっていないでしょう。
しかも大御本尊をおしたためになったときには、日蓮大聖人様が、お弟子の日法上人に、彫刻をお命じになったのです。
墨ですと、五百年も七百年もたつとはげて、薄れてくるでしょう。
ですから「日蓮が慈悲曠大(じひこうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが(流布)るべし」(御書329ページ)
というのですから、墨では日蓮大聖人様の御本尊が薄くなったりすると困るから、彫刻しておいて、
さらに、われわれにはっきり見えるように、金文字にこしらえられたのです。
墨でなくてもいいでしょう、日蓮大聖人様の魂(生命)があればいいのです。
また日蓮大聖人様の魂(生命)があるからこそ、ご利益があるのではないですか
(戸田先生)

10副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:23:01 ID:???0
説教オヤジ:2009/10/23(金) 05:28:02 ID:9mtw3rzk0
これは質問から書き込もう

>戒壇の大御本尊様のお文字と、われわれがいただいている御本尊様のお文字の形に相違が見られますが。
また世間のふつうの字と、御本尊様のお文字とは、南無妙法蓮華経の法の字だけは同じで、
あとは違うのはどういうわけですか

>御本尊様を信心のない人が拝めば、なんだ紙きれに字が書いてあるだけではないか、ということになります。
だが御本尊様は、紙片でもないし字でもないのです。仏様だと信じて拝むのです。
私たちは仏様の子であり、弟子であり、家来でもあります。だから、困ったときに御本尊様によって守られないわけがない
諸天善神に、守られないわけがないでしょう。仏の子ですから、どんなわがままな願いでも聞いてくださる、
育ててくださる。しかしこわい、そして慕わしい、そういうのが御本尊様です。
けっして、紙でも字でもないのです。御本尊様の字にはひげがあるとかなんとか考えないほうがよいと思います。
(戸田先生)

11副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:23:48 ID:???0
説教オヤジ:2009/10/23(金) 05:46:10 ID:9mtw3rzk0
これも質問から

>「富士一跡(いっせき)門徒存知の事」のなかで、日興上人様が、五人(日昭・日朗・日向・日頂・日持)
と義絶する理由のなかに、その五人が、人が死んだ場合、御本尊を曼荼羅だといって、死んだ人にかけて埋めたり、
ひじょうにおそまつを申し上げているから、という意味のことが述べてあります。
それについて、他の御消息文を読みましても、日蓮大聖人様がいかにこの御本尊様というものを大事にされていたかということがわかると思うのです。
そうしてみますと、五老僧といわれる方は、日蓮大聖人様につねにそうとう訓練を受けてこられた方ではないかと思うのです。
そのような方が、どうして、日蓮大聖人の御本尊様をおそまつにあつかったかと、それがどうしてもわからないのですが。

>じつにいい質問をしてくれました。この問題についていわなければならないことは、二つ三つ四つとありますが、
第一に五人は、日蓮大聖人様のおそばで給仕が足りなかったのです。
みな日蓮大聖人様に服して、南無妙法蓮華経ということをひろめにかかりましたが、
おそばでほんとうの、真実を聞く時間が少なかった。これが一つです。
それから、日蓮大聖人の仏法のゆき方を、おそばですっかりみないからわからない。
なぜかならば、第一番に日蓮大聖人様がおおせあそばしたのは、
南無妙法蓮華経へいれるまえに、法華経、法華経とおっしゃったのです。
これは「教相・観心(かんじん)」という二つに分けていくことが大事です。
ところで、当時の五老僧は、教相の面においてみな服したのです。そのころの学者は、みなそうでした。
法華経ということは知っているけれども、南無妙法蓮華経の真実がわからない。
日蓮大聖人様は、まず南無妙法蓮華経ということをしみこませたのです。
それから佐渡へおいでになって、御本尊がご出現になるわけです。
そして、佐渡から帰られてから、未来のわれわれにたいして、戒壇の建立と、
この三つ(三大秘法のひろまる順序)に分けていらっしゃるのです。
そうなると、佐渡以後の本尊建立については、五老僧はわからないのです。
ですから、御本尊とはどれほどのものかということは、「常随(じょうずい)給仕」と申しまして、
そばについて離れなかった御開山日興上人しかわからなかったのです。
これを「唯授一人(ゆいじゅいちにん)」といいまして、ただ一人しかわからぬのです。
いまのように、交通機関が発達しておりませんし、日蓮大聖人様の化導(けどう)の方法が、
題目、本尊、戒壇と、こうでているのですから、いっぺんにだしてくれたら助かったのにと思うのですが、
南無妙法蓮華経とこういうことを聞いたことがない人たちに教えるのですから、南無妙法蓮華経とわかっただけでも感心です。
しかも、地方在住の棟梁(とうりょう)なのですから、南無妙法蓮華経だけ覚えて、御本尊様を覚えないでしまったのです。

それゆえに、御開山様はお叱りになったのです。「南無妙法蓮華経がわかったら、御本尊様がわからないわけはないではないか」と。
あのころ、天台宗や念仏宗などでは、仏・菩薩の絵図を死んだら棺の中へ入れる風習があったのです。
阿弥陀(あみだ)とか大日如来をくっつけてやるというわけです。
ですから、日蓮大聖人様の御本尊を平気で棺の中へ入れてしまうのです。
それで、御開山様が「もったいない、ぜんぶ御本尊様は集めろ」と、こういうご命令をだして御本尊を集めたのです。
だから題目論はわかったのですが、五老僧は本尊論がわからないのです。

そこが、「三重秘伝」の奥義なのです。いま、学会で三重秘伝という、
むずかしいことをいっているのは、そのわけなのです。
五老僧は、それで御開山様に叱られたので、反対したのではないのです。
「富士一跡門徒存知の事」というのは、そういうふうに読まなければならないのです。

ましてや、五老僧が、「戒壇論」なんかわかるわけがないのです。
そういっては、「また戸田の野郎、景気のよいことをいう」と思うかもしれませんが、
七百年後にでて、戸田城聖がまさに解決せんとしているのであります。

12副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:24:25 ID:???0
説教オヤジ:2009/10/24(土) 06:36:03 ID:9mtw3rzk0
大聖人様のお約束は、この御本尊を拝み、拝ませるだけで、前の世にやってこなかった金持ちに
なる原因をつくる。善根を積んでいなくても、現在御本尊を拝む事によってつくってやるという
ことをいっておられる。これはうまい話でしょう。大聖人様の最高峰としての法、法本尊につい
て観心本尊抄に、そうお約束になっている。
だから、そうならなかったら大聖人様は嘘つきになるわけです。大聖人様は嘘をつきません。
だから、ただご本尊様を信じて南無妙法蓮華経と唱える時は、過去世に善根をつんでいなか
った我々でも善根を積んだと同じ功徳を受けられるのです。
しっかり拝んで、そして幸せになってもらいたいと思う。

(昭和30年6月26日 東京・中央大学講堂)

13副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:25:11 ID:???0
説教オヤジ:2009/10/24(土) 20:40:55 ID:9mtw3rzk0
>あらゆる点から説明はできるが、ただ一つ簡単に申し上げれば、観心本尊抄と申しましす、
日蓮大聖人がご本尊様のことについてお約束なされた御書がある。「この五字、すなわち
ご本尊様を受持すれば、釈尊の因行果徳の二法を譲り与え給う」(全集P246)
こういうお言葉がある。
(中略)
末法の御本仏日蓮大聖人は、どうおっしゃっているか。この御本尊を受持すれば、
過去世において、金持ちになるところの原因のなかった者も、その原因をやるとおおせられている。
原因をもらったり、この世で金持ちになるのは、あたりまえの話ではないか。
過去世において、じょうぶでない原因をもった者は、いますぐに、じょうぶになる原因をくれてやると
ご本尊様を受持するとともにくれるのです。
じょうぶになる原因をいただいた以上は、その結果が出てくるわけなのです。
これが「この五字を受持すれば、釈尊の因行果徳の二法を譲り与え給う」
ということの約束で、かならず願いがかなわなければならんのです。
ですから日寛上人のおおせには「いかなる願いとしても、その願いがかなわないことはない」
とおっしゃっている。これが、大御本尊様の功力です。仏力・法力です。
これを疑うならば信心しないほうがいい。これを信ずるならば、しっかりとおやりなさい。

(昭和30年8月11日)

14副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:25:54 ID:???0
説教オヤジ:2009/10/24(土) 21:09:35 ID:9mtw3rzk0
>「なぜ私はこんなに体が弱いのでしょう」
「おまえは、前の世で体の弱くなることをやってきたからだ。いま弱いのだから
この世では体の弱い人を親切にしてやれば、来世はじょうぶになる」
 どうです、たいしたいい仏教だろう。好きですか?・・・・私は大きらいだ!
前の世でやってきて、この世でこんな貧乏をしている。どうにもならないではないか。
来世で金持になる。そんなのは、私はいやです。
好きな者はやったらいい。ただし困るでしょう。前の世でやったことは、自分は知らない
ことなのですから。
 しかし、実際そうらしい。いくらなんでも私は嫌だよ。といって、
おまわりさんのところへ行って「私は嫌だ」といっても、「おやじさん、嫌だ」と言っても
駄目です。この宿命をどう打開するかと考えてみても、人に聞いてもだめなのです。
 ところが末法御出現の日蓮大聖人様は、前の世で色々やってきた我々が可哀想でたまらない。
この世でお前達の宿命を打開する方法を与えてやるから、それによって
前の世はどうであろうと、この世で幸福になれとおっしゃって、こしらえてくださったのが
「ご本尊様」である。
そこでご本尊様を拝みまいらせて、大聖人様のお約束によって、過去世に金持になる種がなかったのを、
なる種をくれるとおっしゃっているから、金持になるのは、あたりまえだろう。
こんなやさしい方法はないだろう。前の世は釈迦に言わせれば、何千年、何万年も修行して、この功徳に
よって金持になったと言う。我々はそんなことをしておらない。
 ご本尊様を拝んでさえいれば、何千、何万年間も修行したと同じ金持になる功徳(原因)
をちゃんとくれる約束になっている。それは、もらわない者が悪いのです。
このなかに金が欲しい者があろうと思う。欲しかったら大御本尊様に向かってお願いするのです。
 この世の中は、苦労する為に来た所ではない。「衆生所有楽」といわれているように、
この世は遊ぶ為に来たのです。
それは理屈ではわかるけれども、実際やって見られないではないか。
それをやるために、大聖人様がご本尊様をおつくりくださったのです。

(昭和30年8月12日)

15副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:27:22 ID:???0
説教オヤジ:2009/10/29(木) 08:45:33 ID:9mtw3rzk0
仕事前に一つ二つ、ご本尊の事。

>大聖人様はこういうことをおっしゃっています。
「ここに、御本尊というものをこしらえるぞ。この御本尊に向かって
南無妙法蓮華経と唱えるならば、過去世につくっておかなかったところの原因を
、運命を打開するところの原因を、即座にやる」と、こうおっしゃっている。
これはじつにありがたいことです。
 ですから、私がこの世を貧乏で一生おくらねばならんという宿命をもっている。
ところが大聖人のおことばをそのまま信じて、大御本尊様を受持して題目を唱えるならば、
過去世に貧乏と言う宿業、原因をつくってあったのが、過去世に金持になるという原因を
つくったと同じに、その金持ちになる原因をくださるのだと、こういうのです。
これが観心本尊抄において「この五字を受持すれば、釈尊の因行果徳の二法を譲り与え給う」
(御書全集P246)
と、こうはっきり約束してらっしゃる。これがうそなら、大聖人は嘘つきになる。
末法の御本仏がうそをつくようになったらおしまいです。絶対にうそではありません。
 この中に貧乏人がいたとする。そうしたならば御本尊様を信じまいらせて、しっかりと
折伏を行ずれば、あなた方が持ってこなっかった福運がでてくるのです。
なぜかならば金持になる原因をくださるのですから。からだの弱い者だったら
今の世にちゃんと御本尊様を信ずれば、からだが丈夫になるという原因をくださる。
それを因行というのです。果徳というのは結果の果の徳分です。
それをくださる、譲り与えると、大聖人はちゃんとおっしゃっている。
(昭和30年8月13日 新潟市公会堂)

16副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:28:07 ID:???0
説教オヤジ:2009/10/29(木) 08:51:25 ID:9mtw3rzk0
>コップの中に、きれいな水を入れておく。ひじょうにおいしい冷たい水であります。
「ちょっと一粒ぐらい、いいだろう。」といって、うんちをちょっと入れたとする。
ほんの一粒だが、飲めといわれたら飲めますか。
御本尊様を少しでも疑う心が起これば、この水と同じことなのです。
清浄なる法水が濁る。功徳はでません。
断じて御本尊様を疑わず、折伏に燃えきっていくならば、いかなる願いでも、
かなわないことは絶対にない。

(同、新潟市公会堂)

17副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:29:03 ID:???0
説教オヤジ:2009/11/02(月) 14:34:42 ID:9mtw3rzk0
末法になってくると、釈迦の仏法の功力がありません。
釈迦に誰も縁の無い我々なのですから助かりようがない。
 そこで日蓮大聖人様は、偉大なこの生命哲学の原理によって、偉大な力を
おつくりになったのです。それがずなわち『御本尊様』というのです。
それは、御本尊様とも、曼荼羅とももうしあげます。
 この御本尊様を受持して南無妙法蓮華経と唱えますれば、過去世につくっておかなかった
金持になる原因、過去世につくってない、そのつくってなかった原因を即座にやるということに
なっているのです。

(昭和30年8月24日札幌)

18副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:29:49 ID:???0
説教オヤジ:2009/11/02(月) 14:50:24 ID:9mtw3rzk0
 しからば、宗教がわれわれにいかなる影響をあたえているか。
どんな宗教でも影響を与えている。日蓮宗と称するもの以外に真言がある。
真言亡国といって国の者が皆信ずれば、国が滅びてしまう。
禅宗は天魔の所為である。
かならずや、われわれをして惑わせている。
また、念仏は無間地獄に堕ちなくてはならない。
これらはわれわれに大きな影響を与えているではありませんか。
 また日蓮宗と称するもののなかで、身延も、また仏立宗、霊友会
または立正佼成会と、これらは一家離散となり、あるいはまた、病人が
多く出たり、商売不振となったりして、けっしてわれわれの生活を幸福にしない
不幸にする、ここに大きな影響を与えている。
 なぜこのようになるかというと、本尊がない。
本尊とは根本に尊敬すべきものである。
また、御本尊様でなくとも、あなた方の友人の中で、スリを尊敬すれば
スリがうまくなり、詐欺をやる人を尊敬すれば詐欺師になる。
根本の尊敬すべきものが大事なのであります。

(昭和39年9月18日 東京)

19副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:31:30 ID:???0
説教オヤジ:2009/11/14(土) 16:09:14 ID:9mtw3rzk0

ご本尊について

>我々の信力行力で、大聖人、御本尊の仏力法力に感応するのです。
その時に我々は南無妙法蓮華経の当体であると仰せです。『当体義抄文段』には
「我等、妙法の力用によって即蓮祖大聖人と顕るるなり」というもったいない一節があります。
戸田先生は、大聖人の御仏智が湧く・・・・とも仰せになっています。
だから困るわけがないではないですか。そうでしょう。仏と同じになるというのですから。

(師弟の御義口伝講義  大白蓮華11月号)

20副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:32:30 ID:???0
説教オヤジ:2009/11/14(土) 16:42:41 ID:9mtw3rzk0
>いかなる中傷批難にあい、逆境に置かれても「根本尊敬」「功徳聚」「輪円具足」の
御当体であられる三大秘法総在の戒壇の大御本尊を絶対に疑ってはならない
捨ててはならない、との仰せである。「無疑曰信」の信心に厳然と立つべきである。
第二十六世日寛上人は「三重秘伝抄」に「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」
と仰せである。この御本尊への強き祈りの信心を終生にわたって確立しゆくために
私どもは、日々月々年々に行学の二道に勇敢に励んでいるのである。
(昭和52年9月1日聖教新聞掲載 開目抄要文講義)

21副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:33:28 ID:???0
説教オヤジ:2009/11/14(土) 17:14:32 ID:9mtw3rzk0
ここで、ワシが何故この作業を続けるのか・・・・
を書き込んでおこう

>教学において、己義ほど恐ろしいものはない。
それゆえ、正しき師弟が何よりも大切である。
広宣流布の師弟の道を踏み外す邪義の輩に対しては徹底して
破折していかねばならない・・・・・

との師匠の仰せの通り、
まずは、ご本尊への邪義を、師匠、恩師の言葉で破すためじゃ。

22副管理人Z★:2009/11/15(日) 21:34:10 ID:???0
説教オヤジ:2009/11/15(日) 11:35:18 ID:9mtw3rzk0
>我々の三世に渡る根本の師匠は。日蓮大聖人であります。
釈尊滅後二千年余の間、どんなに唱えたくとも、誰一人口にすることの出来なかった南無妙法蓮華経の題目を
日蓮大聖人は、押し寄せるであろう迫害、中傷の嵐を覚悟のうえで、命を賭して
説いてくださった。我々はこの深恩を夢にも忘れる事があってはならないと思うのであります。
(昭和52年7月12日 聖教新聞掲載 報恩抄講義)

23説教オヤジ:2009/11/16(月) 07:08:26 ID:9mtw3rzk0
>いかなる愚人、悪人なれども、ひとたび御本尊を信じて南無妙法蓮華経と
唱うる功徳は絶大なのである。これは悪人成仏をみごとにしめしておられるおことばである。
宗教は信ずる対象、すなわち本尊によって決まる。信仰は本尊と人との関係における
感応利益を信ずる事である。ゆえにいかに信ずるかは、また別問題になってくる。
「仮使(たとい)発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳猶多し。
若し正境に非ずんば縦(たと)い偽妄無きも亦(また)種とならず」
との妙楽大師の言葉をよくよく思うべきである。
(報恩抄講義)

24説教オヤジ:2009/11/16(月) 07:22:05 ID:9mtw3rzk0
本文「問うて云く汝が心如何 答う南無妙法蓮華経肝心なり」

講義
>南無妙法蓮華経肝心とは法体をさしているのである。
すなわち「本尊問答抄」の「法華経の題目を以って本尊とすべし」(御書P365)
と同意である。これは日蓮大聖人が
「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせたまへ」(「経王殿御返事」P1124)
と仰せの十界互具の三大秘法の大御本尊であられる。
このように「南無妙法蓮華経肝心」とは、どんなニセ本尊に向かっても
南無妙法蓮華経と唱えればそれでいいというようなものではない。
三大秘法中の本門の題目とは、本門の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と
唱えることなのである。
(報恩抄講義)

25説教オヤジ:2009/11/16(月) 15:11:56 ID:9mtw3rzk0
>日蓮大聖人の御抄を拝するには、日蓮大聖人の出世の本懐が三大秘法の御建立にあり
御一代の化導はすべて三大秘法のご建立」を中心として行われていた事を知らなくてはならない。
 三大秘法とは、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目(順序原文ママ)である。
日蓮大聖人はまず、建長五年四月二十八日、三十二歳にして南無妙法蓮華経の本門の題目を立てられ、
弘安二年十月十二日には、本門戒壇の大御本尊を御建立あそばされた。
そして、この大御本尊とともに、本門戒壇の建立を弟子の日興上人に相伝され、弘安五年十月十三日、
六十一歳で御入滅されたのである。
(撰時抄講義)

26説教オヤジ:2009/11/18(水) 11:10:04 ID:9mtw3rzk0
>「法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし」
ーーーーこの御文の中に、本門の題目と本門の本尊を示されております。
 もし大聖人が、単に「南無妙法蓮華経」の題目流布のみをもって本懐とされたとするならば、
「妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の二仏並座の作り顕す」
とは言われなかったでありましょう。
 むしろ「宝塔の中の二仏並座の儀式」すなわち御本尊を顕わされたところにこそ
日蓮大聖人の出世の御本意があったことは、この文に明確にうかがわれるのであります
(諸法実相抄講義)

27説教オヤジ:2009/11/18(水) 12:02:58 ID:9mtw3rzk0
>たとえ諸法実相の哲理を知ったとしても、単なる観照の哲学に終われば
それも理の範疇にとどまる。
 それを希望の方向へと向け、価値創造し、幸福へと蘇生させていく方法として
日蓮大聖人は御本尊を顕わされたのであります。すなわち、諸法は実相であるとの
法理を、日蓮大聖人の魂魄をとどめて御本尊という当体のうえに具現化されたのであります。
それは、もはや諸法実相という法理ではなく、日蓮大聖人の御本仏の生命それ自体の諸法実相
であります。御本尊を「事の一念三千」と申し上げるゆえんは、ここにあるのであります。
 ゆえに、諸法実相とは、一往は、諸法は、そのまま妙法蓮華経という真実の姿であるという
観照の哲学のようでありますが、再往、文底観心のうえから言えば、ご本尊こそ諸法実相という
大宇宙の縮図であり、大聖人の仏法においては、諸法実相とは即御本尊の異名なのであります。
(諸法実相抄講義)

28説教オヤジ:2009/11/18(水) 15:11:43 ID:9mtw3rzk0
されば御本尊は釈迦仏の宝塔の儀式を借りてこそおれ、大聖人己心の十界互具一念三千ーーーー
本仏の御生命である。この御本尊は御本仏の永遠の生命を御図顕遊ばされたので、末法唯一無二
の即身成仏の大御本尊せあらせられる。
(戸田先生 法華経講義)

29説教オヤジ:2009/11/18(水) 16:51:05 ID:9mtw3rzk0
>「日蓮が一門」の自覚に立つという事は、具体的な私どもの実践に約して申し上げれば
我が同士の広宣流布への異体同心の世界に生きる事であります。
なぜかならば、創価学会は御本仏日蓮大聖人の生命である御本尊を根本にした、
広布実践の団体であるからであります。
 ゆえに「日蓮が一門となりとおす」とは創価学会と運命をともにしていくことに通じていくのです。
 しかも、この「日蓮が一門」という根本が欠けていては、たとえ御本尊を護持しても
何もならないのです。
(諸法実相抄講義)

 >私達にとって成仏とは、この世で最も尊い御本尊を受持し人生を全うしきることが
即、仏の生命とあらわれるということです。
(同講義)

30説教オヤジ:2009/11/19(木) 13:25:14 ID:9mtw3rzk0
>時とともに、人の心は変わる。また、凡夫の心は、まことにはかなく、もろい。
大聖人御自身が種をまかれた、「下総弘教」から十年、そして二十年・・・
このゆかりの地からも、大聖人の御本意に反して、勝手な「邪義」を言いだす
門下が顕れてきた。

それに対して、大聖人は、富木常忍への御手紙の中で、次のように厳しく戒められている。

「私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし」(998P)

大事な法門を勝手に曲げて考える人は、ひとえに天魔波旬(第六天の魔王)がその身に
入りかわって、他人も自身もともに、無間地獄に堕としてしまうのである。
まことに愚かなことであると。

仏法の正法正義に背く人間は、本人はおろか、紛動され、巻き込まれた人まで地獄へ堕としていく「悪知識」であることを、鋭く指摘された御指南と拝される。
(昭和63年4月24日 第三千葉県祈念幹部会)
『大河と潮流板対話の力』転載

大河殿
ありがとう


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