■掲示板に戻る■ ■過去ログ 倉庫一覧■
海未「思い出を探しに」
-
春の休日のことです。
うららかな陽気に誘われて、急に出掛けたくなりました。
海未「お母さん。急なことで大変申し訳ないのですが、午後の稽古をお休みさせていただけませんか?下らない私用なのですが」
「ええ、構いませんよ。ちなみに私用とは、例の?」
海未「お察しの通り、外を歩いてくるのです。そんな気分になりまして」
-
出掛ける準備は、最低限の身嗜みを整える程度です。
その服装も、以前穂乃果に大学生らしい服装として選んでもらったセットがありますから、鏡の前に立って髪を整えて化粧に不自然がないか確認するだけです。
持ち物も問題ありません。
財布、携帯、ハンカチ、ちり紙、絆創膏や消毒液などが入ったポーチに飴が入った巾着袋。
パインアメが入っています。ジューシーな甘酸っぱさが美味しいですよね。
-
海未「では、お母さん、いってまいります。暗くなる前には帰ります」
「いってらっしゃい。気を付けるのですよ」
さて、出発です。
-
深い意味はないのですが、気の赴くまま、駅までの道のりを歩きます。
いい天気ですね。
晴れ渡る空を見ていると、果のない膨大な空間の中に立っているような、吸い込まれてような感覚になります。
世界の大きさを感じることができます。
-
海未「こんにちは」
「おや、こんにちは、海未ちゃんいい天気だね」
海未「そうですね」
空の下、道端でご近所の方と顔を合わせる度にご挨拶。
皆様どこかあたたかくて気分が良さそうな印象を受けました。
もしかしたら私もそうなのかもしれません。
いい季節です。
昼寝などしたらさぞ心地の良いことでしょう。
優しい日差しにあたためられた体を涼ませる爽やかな風は、新緑を感じさせるのです。
穂乃果辺りは窓際で船を漕いでいるに違いありません。
休息をしているという意味では、私も同じことなのでしょうが。
-
音ノ木坂学院の隣を通り掛かる際、普段駅に行くときには散々目にしているのですが、折角ですので外野から学校を眺めます。
見えるものといえば、変わらぬ校舎と、数日前に満開を迎えほとんどが散ってしまった桜の木くらいのものです。
敷地内に足を踏み入れたい願望もありますが、元はここの生徒といえど、今は違います。
問題が起こってしまっては面倒です、職員室に行くなりして手続きをするのも面倒ですから。
はやいものですね。
-
追想にふけっていると、駅の方から歩いてくる小さな人影が目の端に映りました。
彼女のもとへ駆け寄ります。
近所のミドリさん。
海未「こんちには。海未です。お荷物、お持ちしますからお借りしてもよろしいですか?」
左肩にかけられている破けんばかりに膨れ上がった大きな紫のエコバッグは、明らかに小さな身体に見合っているものではないのです。
ただでさえ右手の杖では体を支えているのです、無茶というものでしょう、見ていられません。
「あら、海未ちゃんかい。優しいねえ。じゃあ悪いけど、お願いできるかい?」
海未「喜んで」
-
服に食い込んだエコバッグをそっと両手で持ち上げると、やはりかなりの重さでした。
しかし、ここで無理をするなと説教をするのは私の役目ではないのでしょう。
怒鳴り散らすのは情けのないことですから。
いえ、何よりも人生の先輩ではありませんか。
「ありがとう。ああ、おかげで凄く楽になったよ」
海未「お役に立てるのなら何よりです」
-
ミドリさんのお宅まではここからだと十分程でしょうか。
「海未ちゃんは、今年で幾つだい?」
海未「今年で二十歳です」
「あらあ、早いもんだねえ。ついこの間までは膝くらいの背丈で駆け回っていたのに。大きくなったねえ」
海未「本当にあっという間ですね。ミドリさんのお家にお邪魔して遊ばせて頂いたのがついこの間のように感じます」
「駄菓子屋の穂乃果ちゃんと一緒に遊びに来ては踊りを披露していったねえ。海未ちゃんの恥ずかしそうだったこと」
海未「自分でもよく覚えています。活発な穂乃果に対して、私は人前に出ることに関しては内気でしたから」
-
十五分程で到着しました。
ミドリさんは前へ出ると、鍵を差し込んでかちゃと回して、玄関を開きます。
海未「お荷物、どちらまでお運びしましょうか。失礼でなければ家の中までお持ちしますよ」
ミドリさんの先手を打つように口を開きます。
「いいよ。娘に聞いてから仕分けたりするからね、玄関においておいてくれるかい?」
海未「ええ、かしこまりました」
しわくちゃな笑顔のミドリさんに案内されて、踊り場の隅の方に荷物を置きました。
-
それにしても、懐かしいですね。
木造ならではの落ち着いた雰囲気と特有の香り。
変わったものといえば、旅行のお土産か何かの赤べこの置物が増えたくらいでしょうか。
美しいものです。
変わらぬ空間というものは。
落ち着き、やすらぎ。
不動は平和です。
安心を与えるのです。
だから歴史あるものは保護されるのでしょう。
-
「ありがとね、お茶出すから、あがっておいき」
海未「いえ。お気持ちは有り難いのですが、私は散歩の続きをしますからので結構ですよ。お気遣い痛み入ります」
あるいはミドリさんは上がっていって欲しかったのかもしれません。
「そうかい?なら、そうだねえ」
肩に掛かっていたブランド物のバッグの中を覗き込むと、あろうことか財布を取り出しました。
お札を睨みながら捲る姿を確認して、止に入ります。
海未「ミドリさん、しまって下さい。お金は要りません。かえって罪悪感を感じてしまいますから」
「気にしなくていいさ、これはお礼の気持ちだよ、受け取っておくれ」
海未「いえ、お礼なんてされようものなら、申し訳が立たなくなって、二度とこういうことができなくなってしまいます」
「でも、海未ちゃんに悪いよ。こんなばあさんを助けてくれたんだからね、何かお礼をしないと」
海未「見返りなんて求めていないので安心して下さい。ムラタさんに喜んでいただけたのなら、それが何より嬉しいんですよ」
「…ははは、そうかい。お節介な婆さんですまないね」
海未「お節介なんてとんでもないです」
彼女もまた変わらず人の良い方ですね。
その笑顔が、私にとって一番の報酬なのです。
-
「何にもならないけど、これだけ持っておいき」
そう言ってポケットから出てきたのは、個包装されたオレンジ色の飴玉でした。
見覚えのあるものでした。
海未「ありがとうございます」
「ありがとう。海未ちゃん。大人になったね」
海未「大人だなんて、私には勿体無いお言葉です。まだまだ半人前ですから」
-
散歩の再開です。
ルートが変わりました。ここからだと、来た道を戻るよりもこのまま住宅街を進んでいって駅前の大通りに出る方が早いでしょう。
一つ深呼吸をして、人間味溢れる道の中を歩き出しました。
-
公園の前を差しかかったところで、どうやら泣いているらしい女の子を発見しました。
ベンチに一人で座っていますから、迷子か、お友達と喧嘩でもしてしまったのかもしれません。
側まで行って屈み込むと、女の子は伏せていた赤い目をこちらに向けました。
「…だれ?」
海未「はじめまして。園田海未っていいます。あなたのお名前は?」
「おなまえ…ほのか」
海未「ほのかちゃんですね。ほのかちゃんは、どうして泣いているのですか?」
「ママ、いなくなっちゃった…」
-
海未「ママと逸れてしまったのですね。大丈夫です。すぐに見つかりますから。ママの電話番号は知っていますか?」
「…」フルフル
海未「お家の電話番号、分かりますか?」
「……」フルフル
海未「ママと二人で、この公園に来たのですか?」
「うん。なのにママ、一人でどっか行っちゃった」
海未「時間、覚えていますか?ママがいなくなったのはしばらく前でしょうか」
「さっき」
ふむ。ここで逸れたのなら、ここで待機しましょう。
海未「では、ほのかちゃん。ママは恐らくここに戻ってきますから、それまで私とおしゃべりしませんか?」
「…ママは?」
海未「すぐに戻ってきます。大丈夫ですよ」
「…」
しゅんとした様子で俯いてしまいました。
まだ心配は拭えないようです。
あれで機嫌を良くしてくれるといいのですが。
-
ハンドバッグを開け、一番上に載せるように置かれた巾着袋をと取り出して、飴を取り出します。
……。
大変な御無礼にあたる行為でしょう、けど、目の前で泣いている人にできる限りの事をしたいのです。
ミドリさん、ごめんなさい、と心の中で謝りながら、二種類の飴を手に取りました。
海未「ほのかちゃん」
俯いてしまった顔を再び上げました。
海未「これ、私の好きな飴なんですが、食べたことありますか?」
一方はパインアメ。
目を少し見開いたようにして、手の中を見つめています。
興味を持ってくれたようです。一安心です。
-
「黄色いのは舐めたことあるけど、このオレンジの知らない」
海未「美味しいですよ。是非食べてみてください」
「うん」
泣き止んだほのかちゃんは包装を破いて飴をじっくり観察した後、口の中に入れました。
様子を見ながら、屈み込んだ体勢から、ベンチの隣に失礼します。
「…おいしい、甘い!これ何味?」
海未「糖、いえ、お砂糖の味です。麦芽糖っていうお砂糖の種類みたいなものがあるんです」
「ばくがとう?」
海未「はい、麦芽糖。癖のない優しい甘さが特徴的です」
「癖?」
海未「いえ、失礼。パインアメもそうですけど、果物の味が付いていますよね。そのオレンジ色の飴は、なんの味も付けていないのに、美味しいということですね」
「ほんとだ!すごい美味しい!」
元気になったほのかちゃんは満面の笑みを見せてくれました。
-
それから彼女と、飴の話、お菓子の話、彼女の通う幼稚園の話をしました。
飴を舐めながら会話をするというのははしたない行為なのではという疑問が頭をよぎりましたが、優先順位の低い、言い換えればどうでもいいことだと思い直しました。
-
話し始めて十分と経過しないうちに、地面を蹴るような音と乱れた呼吸の音が会話を止めました。
そこには、ほのかちゃんによく似た、母親らしき女性の姿があります。
勢いも冷めぬままに、名前を叫びました。
「ほのか…!」
「ママっ!」
駆け出し、脚に飛びついたほのかちゃんを、母親もまた抱き締め返した姿を見て、ほっと安堵の息を吐きました。
一件落着です。
その微笑ましい姿に何かを擽られたのでしょうか、格好つけたくなって、残り五つほどのパインアメが入った巾着袋をベンチに放られた鞄の上にそっと置いておきます。
もともと彼女に差し上げる予定で、手渡す予定だったのですが、そうするには少し勇気が必要だったかもしれません。
15年近く、もしくはそれ以上昔のものですから、幾分か年季が入っていますがそこはご了承下さいね。
-
静かに立ち上がり、黙ったまま公園を出ようとすると、母親に声をかけられました。
「あの、お姉さん」
お姉さん、ですか。
お姉さんですか。
「お名前、教えて貰えませんか?」
海未「いえ。ほのかちゃんとお喋りさせて頂いただけです。何もしてませんから」
背を向けたまま答えます。
これもまた大変に無礼な行為です。
気持ちを正面から真摯に受け止めた上で退散したいところではあるのですが、やむを得ない事情が。
「海未ちゃんっていうんだよ。えと、そね?そうま?そから始まるの」
あらら。バラされてしまいましたか。
-
「海未さん……あ、もしかして、元アイドルの」
アイドルではなく、スクールアイドルではありますが。
こう、気付かれてしまうというのは恥ずかしいものですね。
私としたことが、不躾と言いましょうか、ぶっきらぼうにも、相手の話を遮るように歩き出しました。
我ながら格好つけたものです。
海未「楽しい時間を過ごすことができましたから。ありがとうございます。さようなら」
背中で、元気な声が響いていました。
「ありがとう、海未お姉ちゃん!」
-
裏道を抜けると、駅の目前に到着です。
人と文化が入り乱れる大通りです。
明確な目的なんてものは無いのですが、電車に揺られたい気分なのです。
人混みを掻き分けて改札を抜けます。
こうした行動を普段から頻りにやっているかというとそうではなく、時々したくなる程度でしょうか。
この時間は比較的空いていますね。
好都合か、不都合か。
いいえ好都合でしょう。
-
意味もなく乗った端の十一号車はやはり特に空いていました。
数ある空席の一つに腰掛け、座席の両端に設置されているパーテションにもたれ掛かって、ぼうっと窓の外に流れる景色を眺めます。
ガタンゴトン。ガタンゴトン。
電車に揺られます。
ガタンゴトン。ガタンゴトン。
吊り革だって、揃って揺れます。
この、路線と車輪が奏でる一定のリズムというものは、不思議と落ち着きます。
ある、一種の揺りかごのようなものでしょうか。
みんなで渡れば怖くない、などという非道徳的極まりない言葉がありますが、電車にも同じようなものを、時々感じるのです。
-
皆が皆、失い、船を漕ぎます。
春の日の昼寝は、さぞ心地の良いことでしょう。
アナウンスさえも子守唄のようではありませんか。
どこへ運んでいるのでしょう、どこへ誘っているのでしょう。
顔を見せた黒い思考を追い払うように、バッグの中から飴を取り出そうとして、無いことに気が付いて、何も考えないことにしました。
ですが眠る以外に思考に蓋をする方法を知らなかったので、眠ることと休日であることと今日の私の行動に関連した、休息について考え直すことにしました。
全く大したことは考えてはいないのですが。
休息は人間にとって必要である、だとか、休息なくして日々の努力精進はありえない、ですとか、どこかで聞いた話ばかりです。
考える、というより、思い出す、という表現の方が適切なように感じます。
ですが何もかも経験という名の知識の元に成り立っていることを思うに、考えるという動作はどこにも存在せず、自分なんてものはいないのかもしれません。
随分と悲観的になったのです、私。
知らずのうちに限界が近づいていたというのなら、この思考も当然のことかもしれませんが。
破綻する前に精神が訴えてこうして休息をとっている訳ですから。
-
……。
などと、言い訳する自分は随分と甘くなったものですね。
そこを耐えずして一人前の大人にはなり得ません。
今日も何度感じたことでしょうか。
今に始まった話ではありませんが、最近、特に顕著に感じるのです。
自分に甘く、父親母親から教わった礼儀や道徳というものをないがしろにしています。
大人になるどころか、実感できるくらい劣化しているではないですか、気を引き締めなさい、園田海未。
……と奮起できるのならば、そもそも緩んだりしないはず。
こんな自分を認めてしまう自分、そんな自分を嫌悪も忌避もしない自分の存在があることが、甘さの正体なのですから、そもそもやる気が起きようがありたせん。
ああ、両親にこの事実を告げたら、どれだけ悲しむでしょうか。
失望のあまり泣いてしまうかもしれません。
人に厳しく、自分に甘い。
お姉さんなんて程遠い。大人など雲の上の存在です。
大学生の肩書が、自分を誤魔化しているだけでなのです。
園田海未はどうしてしまったのでしょうか。
憧れたあの影は、ますます遠ざかっているのではないでしょうか。
心底では…どうでもいいと思っているのですが。
それでも、どこかへ向かう電車に一人揺られるような孤独感を覚えました。
まるで、外の景色に取り残されるような感覚でした。
-
十駅少々通過して、ある駅名を告げるアナウンスが車内に流れました。
間もなく到着です。到着、というのは、実は、降りる駅は予め決めています。
この散歩に深い理由や明確な目的、目的地が無いのは確かで、敢えて挙げるならば休息の為であることに違いないのですが、副産物とでも言いましょうか、横文字にしてサブ目的、が一応ありまして。
探索、探求、追憶、思い出巡り。
そんなところですね。
-
入り組んだ構内にも大分慣れました。迷うことなく駅を進み、街に降り立つと、懐かしい記憶が蘇ってきます。
ビルと人工物による圧迫感。視界を埋め尽くさんばかりに押し込める人々。
私の住む街も相当賑わっていますが、ここは何度見ても驚異的です。
立ち止まっていては他人の通行の邪魔になりますから、まずはあのビルに行きましょう。
-
私のルートは決まっています。
どんなルートかというと、自分で好き勝手に決めたルートでありません。
ここに来ては五歳の頃に母親と周った箇所を拙い記憶を頼りに巡っていたのですが、幾度となく巡るうちにそのルートも固定されたのです。
物心がつく前の事ですから、全て周れているか、また道順の正確性に関してはかなり怪しいところがありますが、お母さんに尋ねるというのは気恥ずかしいものです。
話してしまえば、毎年のように稽古を怠けて向かっていた先がここであることをお母さんなら見抜くでしょうから、さらにそれは過去にすがっているようでやはり失望させてしまうかもしれません。
何よりそこまでの思い入れはないのです。大体の記憶を辿ることができれば満足で、何度か言いました通り深い理由はありませんから。
-
──
─
─
──
ビルに入ってはぶらぶらと商品などを物色し、大きな歩道や歩道橋を歩き、人を掻き分けて、別のビルに入る、そんなことを繰り返してふと視線を上げると、出発時は青かった空は赤みがかかっていました。
気にして周囲を見渡してみれば、人の数は更に増し、路上ライブを始める方もいてますます賑わっている風です。
まったりとした陽気に誘われたはずが、これが人混みの中に入ってしまうと時間が過ぎるのはあっという間ですね。
まだ行く予定だった場所が数箇所ありますが、家から駅までの道のりで寄り道をしたので少々ずれ込でしまいました。
引き際でしょう。
予定を変更して、駅から数分歩いたところに小さな店が軒を重ねる商店街のような通りがあるのですが、最後にそこへ向かいます。
-
お母様に、東京のあちらこちらに社会勉強ということで連れていってもらったのですが、時々思い出したように足を運んでくるのはこの街だけです。
なぜここに拘っているのかというと、端的に言って、迷子になったからです。
いえ、それでは足りませんか。迷子になって、見知らぬ親切な女性に救われたからです。
救われたというといささか大袈裟に聞こえるかもしれませんが、夥しい量の人の中、知らない街に取り残された私の心を、彼女は救って下さったのです。
当時、二十代後半くらいだったでしょうか。長い茶髪と溌剌さが印象的な、とても温厚な方だったことを覚えています。
それ以外のことがあまり思い出せないのが恥ずかしい限りですが。
私が迷子になり、彼女が迷子の私を救って下さったのがその商店街です。
なぜそこに向かっているかというと、一つは思い出巡りであるのに間違いはありませんが、もう一つは、彼女を見つけ、お礼を言うためです。
あれ以来、あの人を尊敬していました。親切で温厚なところ、何より、まるで頼れるお姉さんのような人柄、カリスマ性とでも呼ぶべきものに心を打たれ、憧れたのです。
いえ、今でもこの気持ちは揺らぎません。ずっと尊敬し憧れているからこそ、こうして何度も足を運んでいるのではありませんか。
記憶は曖昧ですし、名前一つ聞けなかったことに後悔の念が押し寄せてきます。
ああ、私は何たる御無礼を。
あの素晴らしき方に、一度でいいから会って、お礼が言いたいです。
探したところで無駄とは分かってはいるのですが、どうも淡い期待をしてしまいますね。
最近の私は駄目です。
あのベンチに座っているだけでも、当時のことが回想されて自己満足に浸れるのかもしれません。
早く行って帰りましょう。
-
駅前から離れるに連れて多少人混みは引いてゆきます。
ある程度周囲との距離が確保されて歩きやすくなり、人で数メートル先が見えないなんてこともありません。
商店街の入り口に飾られた昭和をイメージさせる古臭い門を潜ると、先に無人のベンチが見えるはずでした。
賑々しい喧騒の中で座っても寛げないと考えるからなのか、分かりませんが、今までいつも無人でしたから。
私の視界に映ったのは、見覚えのある人が座っているベンチでした。
あれは……穂乃果?
穂乃果です、間違いありません、荷物で姿が隠れていますが、長い付き合いですから、正真正銘の穂乃果でしょう。
遊びに来たのでしょうか?なかなか奇遇ですね。何気なく近付いて声をかけましょう。
海未「穂乃果、久しぶりです」
「え、と…う、海未ちゃん?!」
海未「はい。奇遇ですね」
「海未ちゃああん!」
海未「き、急に抱き着かないで下さいよ」
「会いたかったよおおー!」
-
穂乃果を鎮めて、ベンチに座ります。
まさか誰にも明かす予定の無かったこの場所に穂乃果と座ることになろうとは思いませんでした。
基本的に二人用であろうベンチを占領して真ん中に座っていたものですから、ちょっと新鮮です。
海未「ショッピングでもしていたのですか?春季休暇中ですし」
「うん。最近ここにハマってて、よく来てるの」
海未「ああ、ファッションについて勉強する学校でしたね。やはり服などを?」
「そう。周りの子みんなお洒落で可愛いから、穂乃果も頑張らないとって思って。でもお小遣いが全然足りないんだよね」
海未「穂乃果らしいですね。アルバイトなどはしているのですか?」
「短期のアルバイトやってた。冬にケーキ作るバイト」
海未「ほう、ケーキですか」
「うん。クリスマス過ぎて満期で終わっちゃったけど美味しかったよ」
海未「何がです?」
「ケーキが!じゃなくて給料だよ」
海未「ふふ」
-
「ははは。穂むらの安賃金と比べれば超美味しいよ、だって時給700円だもん」
海未「ケーキのアルバイトは幾らですか?」
「時給1000円」
海未「確かに差がありますね。でも、時々でも顔を出せば喜ぶと思いますよ。揚げ饅頭など買いに行くと毎度のように穂乃果について聞かれますし」
「そうなんだけどねー」
海未「他のアルバイトは考えているのですか?」
「考えてるよ。近くのスタバとか、ドトールとか」
海未「良いですね。お洒落で。まあ、言ってしまえばどんな経験も役に立ちますが」
「…海未ちゃん?」
海未「何でしょう?」
「海未ちゃんさ、丸くなった?」
海未「…? いえ、そんなことはないと思いますが」
「そっかなー」
海未「気のせいですよ」
「そっか。えと、私の話ししてたんだっけ。じゃあ海未ちゃんはどうしてここに来たの?」
海未「…そうですね。散歩、でしょうか」
「お散歩?」
海未「はい。特に意味もなく歩いていただけですから」
「珍しいくない?…海未ちゃんがここまで出てくるなんて」
海未「たまにそんな気分になるんです」
「…うん。海未ちゃん」
海未「はい」
-
「なんか…大切なお散歩?」
海未「…そんなことは、ないと思うのですが」
「…」
海未「…」
「…この後、予定ある?ああいや別に、帰るだけなんだけど、海未ちゃんはまだ行くところあるの?」
海未「いえ、ここを最後に歩いて、帰るところでしたよ」
「ほんと?なら一緒に帰ろうよ。一緒に電車乗って」
海未「穂乃果こそ、この後の予定は無かったのですか?」
「うん、私も何も。見たいところ見て人混みに疲れてブラブラしてて、ベンチ発見して座ってただけだから」
海未「ふ、ファッションの最先端を行く大都会の若者が、それではまるでお年寄りではないですか」
「くたびれちゃったんだよー。人多すぎ」
海未「そうですね。私も多少疲れていますし、帰りましょうか」
「うん。あ、そだ」
海未「…?」
「これ、私の大好きな飴なの。麦芽棟っていうのが入ってて、癖がなくて甘くて美味しいよ。疲れた時とか大変な時に舐めてね。
……飴あげるとか、ちょっと子供っぽいかな。その、何か悩みがあったりしたら、穂乃果でもことりちゃんでも、誰にでも相談してね」
-
二人、電車に揺られます。
この電車が新型のせいなのか、時間帯のせいなのか、人の多さのせいなのか、穂乃果と乗っているせいなのかは分かりませんが、雰囲気が違うものです。
「また学年上がっちゃうよー」
八割型の理由は穂乃果と乗っていることでしょうけど。
海未「人間関係とか、勉強とか、何か不安があるのですか?」
「何がって聞かれるともう全部不安だけど、一番は、やっぱり勉強?」
行きの電車で感じた後ろめたい感情は姿を潜めています。
理由は簡単で、その感情の根本、私の中を蝕んでいた黒い靄が薄くなったからに他なりません──分かりにくいですね。
つまりは心が軽くなったのですよ。
穂乃果のお陰で。
海未「けれど穂乃果、一人で留年などせずに頑張ってきたのでしょう?ならその調子ですよ」
先程のベンチでのやり取りです。
五歳の頃、親とはぐれて一人座り泣いていた私に声を掛けて一緒に待ってくれたあの人は、拭うことのできない怖さに泣き言を吐く私に巾着袋をくれました。
そこに入れられたオレンジ色の飴は、幼い私の恐怖を忘れさせてくれました。
迷子の私を救ってくれたのですよ。
嬉しくて、輝いて見えて、尊敬しましたし憧れました。
頼れるお姉さんでした。
頼れるお姉さんに私は頼り、甘えていたのです。
過去に。
像を結ばない偽物を、淡い期待と称して美化して、怠ける理由を人のせいにして。
-
「えへへ。でも一人じゃ絶対無理だよ、先輩に頼んで教えてもらってるし、過去問いっぱい貰ったりしてるから、なんとか進級できたんだもん。
それに、半分以上は海未ちゃんのお陰。海未ちゃんがすぐ側にいないからさ、海未ちゃんに言われなくても頑張らなきゃーって」
尊敬できる人がいたから頑張れる。頼れる人がいたから頑張れる。
穂乃果がそう言ったとするのならば、私は。
お礼が言いたいことは紛れもない本心です。
救ってほしい、甘えたいという気持ちもまた、本心なのです。
何と幼稚なのでしょう!
海未「私のお陰などではありませんよ」
私が口うるさく言わなくたって、立派に成長しているではないですか。
過去を糧に前に進む足は、紛れもなく穂乃果のもので、誰の意思でも無いんです。
上に立ったつもりなのか、指導して、存在意義を見出して、いざ距離が空いて心配して。
ままごとの親役にでもなったつもりですか。
てんで子供じゃないですか、私は。
-
「海未ちゃんあってこその今だよ」
私は幼くて醜いのです。
真面目なふりをして、人前に立ったふりをして、一番甘えん坊で我儘な赤ん坊なんです。
人から避けられて当然の存在なんです。
どうして、気が付かなかったのでしょうか。
力強く成長し続ける、お姉さんと呼ぶべき存在に。
一番側で、今もなお私を甘やかし続けてくれている存在に。
いつだって私の醜い願望に応えて手を引っ張って、私を笑わせながら導いてくれていたんです。
ただ一人私を連れて行ってくれたのは、穂乃果ではないてすか。
感謝しなくてはなりません。
本当に。
穂乃果は。
海未「穂乃果は」
「へ?」
海未「大人ですね」
「い、いやいや、全然成長してないよ?落ち着いてる海未ちゃんと比べてすっごい子供だと思うんだけど」
海未「そんなことはありませんよ」
「海未ちゃんの方こそ超大人になってない?お姉さんっぽいって言うか、雰囲気も柔らかいし」
海未「髪を少し伸ばしたのと、穂乃果が教えてくれた服装と化粧の外見はそう見えるだけです。内面は成長していません」
あの飴、15年もの間探し続けているのですが、どこを探しても見つからないんです。
まさか一日に二度見ることになるとは思ってもみませんでした。
案外、どこか見落としているのでしょうか。
あるいは、奇跡のようなものなのかもしれません。
あの子の名は、ほのか、と言いましたし。もしかしたら。
「嘘だー、前の海未ちゃんなら、無駄遣いはいけませんとか、勉強内容が難しいなら時間を増やしなさい、とか絶対言ったもん」
大人びた穂乃果の顔が重なって見えた気がしました。
-
自宅の最寄り駅に到着する頃には、空の赤は大方藍に染まって、一日が終わることを告げていました。
穂乃果とは家の方向が違いますから、駅を出てすぐお別れとなります。
以前まではご近所の仲の穂むらに住居していたのですが、大学生になるにあたってということでわがままを言ったらしく、実家から徒歩十五分程の距離にあるアパートで一人暮らしをているのです。
時々でも穂むらに顔を見せてあげてくださいね。
-
「じゃあね、海未ちゃん。連絡するからさ、都合の良いときに遊ぼ」
海未「はい。近いうちにまた会えるといいですね」
「あとさ、海未ちゃんは大人だよ。穂乃果よりずーっと大人」
穂乃果も結構引きずりますね。
ですがここは私も譲れないところです。
海未「いいえ、穂乃果の方が立派に成長しています」
「そんなことないって」
海未「そんなことなくないです」
「そんなことなくなくない」
海未「そんなことなくなくなくないです」
「ふっ、ははは」
海未「ふふふ」
「どっちもまだまだ子供だね」
海未「ええ、本当に子供です」
-
「今度こそばいばい。またね」
海未「今日はありがとうございました。では」
私たちは子供です。
もしかしたら一生大人になんてなれないのかもしれません。
子供なのではないかという恐怖と葛藤を心に抱きながら生きていくしかないのかもしれません。
きっと、そうなのでしょう。
成長できず、満足できずに、もやもやとしたまま、掴めない何かに手を伸ばし続けるしかないのです。
けれど、きっと大丈夫です。
疲れたときには、そばに、誰かが居てくれます。
もやもやの霧の中に迷子なあなたを、見ている誰かが救ってくれます。
共に成長してきた仲間がいるから、私は怖くありません。
だからこそ。
別れを告げましょう。
幼い自分に。過去の憧れに。過去への甘えに。
さらに成長した穂乃果に会うために、別れを。
海未「さようなら、穂乃果」
-
私は園田海未です。
頼れるお姉さんになる為に、この一歩を踏み出します。
あの飴の味は忘れません。
けれど、思い出してはならないものですから。
園田海未としての決意と覚悟をもって、正解の見えない修羅の道を己の力で切り開かなければならないのです。
さあ、奮い立ちなさい、と。
いざ意気込んでも、私の心は弱く、昼間は心地良かった風が、どこか薄ら寒く、肌を刺すように感じて。
ならばもう一度。
ありとあらゆる煩悩を振り払いましょうか。
歩みを止めてはなりません。
後ろを振り返ってはなりません。
私だけの道を信じ、前を見据えなさい。
一人で生きていくために。
別れを、告げましょう。
「さようなら」
終
-
おつ。
面白い。
次もお願いします。
-
なんか、雰囲気がめっちゃ好き
-
乙
これを見つけて良かった
■掲示板に戻る■ ■過去ログ倉庫一覧■