- 1 :名無しさん :2023/03/27(月) 14:11:47 HOST:softbank060111176158.bbtec.net
- 釧路市及び近郊の歴史に関する情報交換をしよう。
釧路を愛する者たちの釧路の歴史を知る学びの場です。
- 8 :名無しさん :2023/03/30(木) 13:09:18 HOST:softbank060111176205.bbtec.net
- 空襲での死者193人のうち百数十人、大部分がこの地区での焼死によるものだった。大川町や住吉町、南大通りには崖や山を利用した横穴の防空壕に対して
平野部の防空壕は平地に穴を掘り天井に板を乗せ土をかけた簡単なものだった。 空襲の半鐘により人々は壕に避難したが木造の家は焼き払われ、防空壕の中にいた人たちは蒸し焼き、焼死、窒息死の状態だったという。
- 9 :名無しさん :2023/03/31(金) 12:44:49 HOST:softbank060111185101.bbtec.net
- 7月14日15日の釧路空襲の死者数は何人だったのか? 私は釧路戦災記録会発行の釧路空襲全1巻(昭和63年)を読みました。
この死者数というのは各資料によってまちまちで、プラスマイナス10人程度の差があります。 釧路市消防沿革誌 177人 戦災箇所一覧図 195人 毎日年間 196人 釧路警察署沿革誌 177人 釧路市戦災死者 194人 : 川上地区では14時間にわたり火災が続いたため遺体の判別がつかなかったり、戦災での混乱がうかがえます。
- 10 :名無しさん :2023/04/01(土) 21:01:18 HOST:softbank060111176066.bbtec.net
- 川上町、栄町、末広町を何気なく通行したり飲食を楽しんだりしていますが、78年前にこのアスファルトの下で百数人もの人が1日で亡くなった。
亡くなった人の遺体はリヤカーに載せて当時の市役所(現在のまなぼっと駐車場)に運び寝かせた。 身元が不明で処理する人がいない139体がこのに収容され、その後にリヤカーで紫雲台に運ばれたとされています。
- 11 :名無しさん :2023/04/08(土) 17:47:17 HOST:softbank060111183034.bbtec.net
- 栄町、川上町、末広町の3~12丁目は昭和7年の地番改正前は「西幣舞町」でした。
明治、上記一帯は中戸川さんが開拓した農場でしたが、金森商船にそれを売却した。 今でも金森商船の土地は広く残って、金森商船から土地を借り受けている人も多い事でしょう。
- 12 :名無しさん :2023/04/14(金) 13:04:06 HOST:softbank060106247228.bbtec.net
- 栄町、川上町、末広町の1~2丁目はというと、釧路川を埋め立ててできた新しい土地。
1丁目は完全に海だったが、2丁目は一部がもともと土地としてあった所と埋立地と混在した状態です。 埋立て地だけあって地盤は低く、2011年の東北沖大震災時に浸水したのはかつての埋立て地でした。
栄町、川上町、末広町の1~2丁目、北大通り1~2丁目、大川町、入船町など。 浸水した状況を見た時は大正時代の光景を見た気がしました、先祖返りかと。 人間にはは大地に見えるが土地は記憶しているのでしょう。
- 13 :名無しさん :2023/04/14(金) 13:19:04 HOST:softbank060106247228.bbtec.net
- 釧路市双葉町に谷藤病院が有りますが、昭和50年代まで栄町2丁目に有りました。
釧路市末広町3丁目の「3丁目ビル」五明酒店の斜向かいに建っていました。
谷藤八太郎さんは北大1期生で昭和11年に開院し昭和16年に増築しましたが、その後は建て替えてはいなかったので 昭和50年代には昭和11年築の古い建物が残っていました。 歓楽街のど真ん中なので夜の喧騒が悩みで、老朽化もあって双葉町に移転したのでしょう。
- 14 :名無しさん :2023/06/29(木) 12:49:55 HOST:softbank060109092084.bbtec.net
- 釧路空襲による被災者の大部分が栄町、末広町、川上町に集中していた。
そして至近距離にあった病院で深刻な被害を免れた病院が栄町2丁目に有ったことから、 ここ谷藤病院に被災者が運び込まれたようです。 しかし、この病院で死亡していることを告げられ 遺族はそのまま引き取ったと、戦災記録に書いてありました。 遺体を引き取った後はどのようにしたのかは記載が無かったので不明です。 でも、多くはリヤカーに載せて紫雲台へ運んだか、幣舞町の当時の市役所前へ運んだのではないかと思います。
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