- 1 :genG :2016/11/12(土) 16:00:44
- 最近のNHKのドキュメント「クロ現+」で、SEALDsの特集をしていて、その中で、代表の奥田君が、社会の中で人々が「痛み」をきちんと伝えられることが大事だ、と言っていた。
しかし、患者という存在を考えたときに、その生活主体としての存在は必ずしも「痛み」を必然的に伴うわけではない。
彼らはそれぞれの生活を、ただ淡々と、いや、平々凡々と生きているだけだ。
そうした患者という存在を、「痛い」と扱う社会の側、コミュニティの側の力学のために、患者は、「痛い」ものとなり、実際に様々な「痛み」を感じざるを得なくなる。
こうした構造、コミュニティのあり方をこそ、問題としたい。そうした文脈で「痛み」を語ろう。それこそが、この掲示板で、みんな(それには患者でないひとも含まれるだろう)で共有できる「痛み」なんではないか?
そんな事を、奥田君の発言から感じ取った。
- 2 :genG :2016/11/12(土) 16:22:03
- >>1
「感じ取った」はないか。連想した、って感じかな?(笑)
- 3 :genG :2016/11/13(日) 04:08:33
- >>1
同時に思ったのは、「社会を良くしたい」とか、「コミュニティの再建」とか言うときに、「それは誰のことなのか?」ということについて、あまりに無頓着に、ナイーフに、「社会」や「コミュニティ」を想定してしまっている言説が多いということ。
これは自戒の意味も込めてだけれど、「ぼくはその『社会』に入っているのかい?」という、マージナルな人々からの問いかけに、僕らはあまりに無頓着すぎる。
患者というのは、そうしたマージナルな人間の一部だとおもうけど、他にも、移民、性的少数者、地域的少数者(田舎モノ)、二重国籍(または外国籍)のひと、不就労者(ニートやドロップアウト)、底辺の労働者、などなど、「周辺部」で、「社会」の構想から簡単に弾かれてしまう人たちは山のようにいる。
ある場合にはそれらの人たちは、「社会」には「入れてもらえる」けれども、「他者」という扱いで、「われわれ」とは異質な外部として、実質的に弾かれてしまっている。
そうしたことに無自覚に、能天気に「コミュニティ」を語る言説に秘かに紛れ込んでいる社会のアプリオリな線引きに、患者という存在は敏感にならざるを得ない。
やや自虐的に言うなら、もう一度聞きたいのは、「その『社会』ってのに、ぼくらはホントに入れて『もらえて』いるんですか?」ということ。
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