- 1 名前:後平 投稿日: 2008/12/24(水) 20:10:09
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タイトルの後の系図に詳しい方いらっしゃいませんか?
後平 約230
桓武平氏大葦原氏より分かれる。現在、山形県や北海道に多い。
- 2 名前:惟惟姫 投稿日: 2009/01/04(日) 22:25:10
- あけましておめでとうございます♪
ご訪問有難うございます*^^* 今年もどうぞよろしく!♪
まだこのサイトへご訪問くださる方も少なく 後平さんの疑問に答えることができる方もいらっしゃっていないようですネ
【黒田氏】豊臣秀吉に口説かれて家臣に加わった今の福岡地方の武士(?) その時代のことは詳しくはありませんが、たしか、黒田氏、とかとか? 疑問点をずれているかも^^;ちがうかも^^;
- 3 名前:惟惟姫 投稿日: 2010/08/11(水) 12:34:32
- 桓武平氏(かんむへいし)は、天長2年(825年)以降に桓武天皇の孫たちのうち
身分の低い者が、「平朝臣」を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族で 大きく四流に分かれる。繁栄したのは葛原親王の流れで、 その他、万多親王流・仲野親王流及び賀陽親王流の三つの流れがある。
- 4 名前:惟惟姫 投稿日: 2010/08/11(水) 12:39:24
- 葛原親王流
桓武平氏四流のうちの一つ、葛原親王流には 葛原親王の長男高棟王が臣籍降下し平高棟となった公家の高棟王流と、 三男の高見王ととも高見王の子高望王が臣籍降下し平高望となった 武家の高望王流の二流が知られる。
- 5 名前:惟惟姫 投稿日: 2010/08/11(水) 12:44:07
- 高棟王流
葛原親王の長男で、天長2年(825年)に賜姓を受けて平高棟となった 高棟王の子孫。この流れは公家として京都に残り、 平安時代末期に平清盛(高望王流)の正室平時子(二位尼)と、 その弟で清盛の威勢によって正二位権大納言にのぼった平時忠、 異母妹の建春門院平滋子が出た。 時忠は壇ノ浦の合戦後、能登に流され没落したが、 時忠の弟親宗の子孫(唐橋家)や 叔父信範の子孫(西洞院家・安居院家・烏丸家)は 鎌倉時代以降も公家として続いた。 歴史物語の今鏡に、「日記の家」と紹介されているように 平記・兵範記をはじめ多くの古記録を残す。 江戸時代には西洞院家・平松家・長谷家・交野家・石井家という 5家の堂上家を出した。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 6 名前:惟惟姫 投稿日: 2010/08/11(水) 12:47:17
- 坂東平氏
高望は、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ遥任国司が多いなか、 子の国香・良兼・良将を伴い任地に下向した。 そして任期が過ぎても帰京せず、国香は常陸大掾、良将は鎮守府将軍を勤めるなどし、 上総国ばかりでなく常陸国や下総国にも勢力を拡大、 坂東に武士団を形成し武家平氏の基盤を固めた。 また、高望の側室の子良文もその後坂東に下り、 良文の子孫も坂東に散らばって三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などの武家となった。 特に良文流の坂東平氏を坂東八平氏という。
- 7 名前:惟惟姫 投稿日: 2010/08/11(水) 12:50:59
- 伊勢平氏と平家
国香の孫維衡よりはじまる一族が伊勢平氏である。 平氏の中でも伊勢平氏、特に正盛の系統を平家(へいけ)と呼ぶ。 正盛の子忠盛が初めて昇殿を許され、忠盛の子清盛は平氏政権を樹立し栄華を誇ったが、 壇ノ浦の戦いで滅亡した。
各地に散らばって隠れ住んだ平家の落人の子孫を自称する武家は大変多く、 代表的なものとして薩摩の種子島氏、対馬の宗氏、 尾張の織田氏などが挙げられる。 しかし、これらは子孫だとしても平家一族の子孫ではなく、 平家に仕えた郎党の子孫というべきだろう (織田氏については藤原氏説もあり)。
熊本県の五家荘や富山県の五箇山などは平家の落人の隠れ里と伝えられる。 これら平家の落武者およびその家族、使用人等の隠れ里と伝わる地を (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 8 名前:惟惟姫 投稿日: 2010/08/11(水) 12:53:30
- 仲野親王流
桓武平氏四流のうちの一つで、仲野親王の流れ。 仲野親王の娘・班子女王が光孝天皇の女御となり、 定省親王(のちの宇多天皇)を産んだ
桓武平氏 周辺を調べて転記してみました。
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