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北インド
1cat-police@管理人★:2006/12/04(月) 17:47:54
人間の記憶なんていうのは、どんどん色褪せて、
終いには、あの場所、あの時の出会い、
愛を交した言葉さえもどんどんあやふやになっていく。
そんな事があったのかどうなのかも不確かになってきている。
最近、特にそう感じてしょうがない。

デリーでの事もだいぶ忘れかけてきている。
当時、私が書いた手帳や葉書からたどって書いていきたいと思う。

インドに行ってしまった以上、
つまり行ってしまった者には、
まだインドへ行っていない者への嫉妬はないわけだ。
私は今はもう、ただその糸をつなげばいいと思っている。

2cat-police@管理人★:2006/12/04(月) 21:29:52
デリーの空港のツーリスト・ビューローみたいなところで
紹介してもらった宿はどれもみな高い。
泊まり場を求めて、デリーの市中を右往左往する。
けっきょく、YMCAが一番安いということで行ってみた。
ところが、YMCAも満員である。ようやく恩にきせられて
事務室と称する一室を借りた。がらんとした部屋で、
ベットと小机一つを運びこんで、それでおしまいだ。
あーよかった、女一人だし、しかし、ともかくもこれで、拠点ができた。
YMCAは、古ぼけた、うすぐらい建物だった。
いろいろな外国人が泊まっている。
食堂へゆくと、何国人だかわからないのがたくさんいる。
いずれみんなわたしと同様、お金がない人だろう。

わたしをみて、
「コンニチワ」と声をかけてきたのがいた。
「どこの方ですか?」アメリカ人だった。
日本にしばらくいたことがある。日本語を一生懸命、勉強したと言った。
ここでは彼は長期滞在客のようだ。
まねかれて、彼の部屋へゆくと、日本語の教科書が並んでいる。
かなりしゃべれるし、字も書いてみせた。

デリーには日本人もたくさん来ている。
大使館へ行った。郊外のずいぶん小さな建物で、ちょっと悲観した。
しかしそこでIさんとFさんという、二人の日本人留学生と知り合った。
二人ともデリー大学に来ている。
経済学が専攻で、インド経済を研究している。
人間的にも学問的にもひじょうにしっかりした人たちだった。
この二人と知り合ったことは、わたしにとって、たいへん幸いだった。
知識のないわたしは、彼らから、インドについてたくさんのものを吸収する。

それからもう一人、感心させられた人物がいる。
博物館に行った。ここの博物館は展示品は少ないが、
つぶよりの逸品で(?)、大したものだった。
その博物館の一室でサリーをまとった小柄な女性が、
熱心にインドふうの絵を書いていた。色の白い若い人だった。
インドにも女流画家がいるのだな、と思って見ていると、
その人は一緒にいたIさんたちと日本語でしゃべりだしたので、
びっくりしてしまった。この女性は日本人だった。
インドの絵を勉強しに来ているのだといった。
たいした人がいるものだ。
この人が絵を描いているときの横顔は、
なにかひじょうに引きしまって、美しいものに見えた。

3cat-police@管理人★:2006/12/05(火) 15:56:51
私はIさんとFさんとイスラム寺院を見にいった。
パーテッション以来、イスラム教徒はかなりパキスタンへ
行ってしまったが、それでもまだまだ、このデリーにだって
たくさんのムスリムたちが住んでいるのだ。
巨大なイスラム寺院、ジャミ・マスジッド(Jami Masjid)は、
依然としてオールドデリーにある。

わたしはしかし、寺院に感心するまえに、
そのまわりにいる人間に感心してしまっていた。
広い、大きな石の階段に、何十人、何百人の人間が、
つくねんと座っているのだ。
たいていは、汚い、貧しげな人たちであった。
しかし、乞食ではない。
わたしたちがそばを通っても、物を乞うたりはしない。
無表情に、ながし目をくれるだけで、おしゃべりをするでもない。
全体が、やりきれない疲労と倦怠のなかに、
ドロンと沈んでいるようだ。
この人たちは何者で、何をしているのだろうか?

ジャミ・マスジッドは、美しい寺院だった。
白い大理石と赤い砂岩との、単純な縞模様が、
独特の造形的効果をあげている。
イスラム寺院に多い、色とりどりのタイルばりのモザイクよりも、
この方がけばけばしくなくて、わたしの趣味にはあう。
大きなドームの屋根には、こまかいゴマ粒のようなものが
いっぱいついていた。よく目を凝らすと、ハトの群れだった。

わたしたちは、くつを脱いで内陣に上がった。
イスラム教徒たちは、あるいは祈り、
あるいはくつろいで休んでいた。
人だかりのする一隅に行ってみた。
預言者モハメッドの遺物だというのだが、
何だかよくわからなかった。

4cat-police@管理人★:2006/12/07(木) 17:10:15
ジャミ・マスジッドの寺院を見終え、
オールドデリーの中で、わたしたちはレッドフォードというのを
見に行った。赤い砂岩で築かれているので、この名がある。
やはり17世紀、シャー・ジャハーンのときにできたものだと
Iさんが教えてくれた。
わたしは、さっそくフィルムのはいったカメラを向ける。
しかし、どこからか叫び声が聞こえる。
わたしは、ちょっとためらった。大きな体の巡査が、
わめきながらわたしのほうへとんできて、
写真をとってはいけない、というのだ。
口頭で規則を申しわたされたので、わたしはそれに従う。

もう一つ、今度はヒンドゥ寺院だが、
ラクシュミナラヤン寺院に向かった。
しかし、みんなビルラ・テンプルと呼んでいる。
大富豪ビルラ家の寄進によって作られた寺だそうだ。
庭はひろく、池や噴水もあり、
子供づれでたくさんの人が遊びに来ていた。
大理石と砂岩との巨大なものだった。
ヒンドゥ寺院特有の、四角い紡錘形の三つの塔を中心に、
たくさんの塔をそびえ立たせている。
ヒンドゥ寺院に間違いないのに、なぜか中に入ると、
仏教、ジャイナ教、あきらかに道教のものではないかと
思われる像があり、意味がわからなかった。

寺院の内部のきらびやかな、かざられた広間の大理石の床の上に、
ふんどし一つの痩せた男が座り、大声で何ごとかを唱えながら、
体を前後にゆすっていた。ヒンドゥの行者だろうか。
わたしは、かれの黒い、痩せて醜くもあり肉体の前に、
すらりとポーズして立っているクリシュナ像をみた。
豊満な女のような顔つきで華やかな着物をまとった
クリシュナ神は、この痩せた男の前にしっかりと立っている。
わたしは、この異様な空気とそれに魅せられた人たちの
心象風景のように見えた。

5cat-police@管理人★:2006/12/07(木) 17:17:36
ニューデリーについてだが、
それはデリーの南にあって、デリー門とよばれる
アーチ型の煉瓦の門でへだてられている。
いわば別の都市である。
デリーが、古いムガル帝国の首都であったのに対して、
ニューデリーは、イギリスの支配するインド帝国の首都だった。

デリー門をくぐって、古いデリーの中に一歩ふみこむと、
世界は一変する。古い中世的な町が、ごたごたと、
重なりあうように建ち、やせた人たちの、おびただしい群集が、
このせまい地域にひしめいている。
魚屋の店先には魚が並び、肉屋の店には肉がぶらさがっていた。
古くて汚くても、ここには生きている民衆がいた。

ニューデリーで撮った、魅力的なヘビ
http://redloop.blog.ocn.ne.jp/photos/india/25b.html

6cat-police@管理人★:2006/12/07(木) 22:07:19
夜、IさんとFさんに連れられて、映画を見る。
インド各地の踊りを主題にしたもので、
うつくしく、面白かったが、長いのにはあきれてしまった。
1時間半ほどで終わったので、帰ろうとしたら、
それは中間の中休みで、あとまだ1時間半ほどあった。
話の筋はごく単純で、歌と踊りが果てしもなく続く。
インド映画は、本当にこういうのが多いと聞いていたが、
本当にそうだった。

わたしは夜の映画から帰って、
親切にしてくれたIさんとFさんに手紙を書きはじめる。
すると、停電する。そして、なかなか直らない。
停電は、たまにあることだという。
明日中には、わたしはもうデリーを出発しなければならない。
暗いベッドの中で、私は急に寂しくなってしまった。
人一倍、寂しがりやのくせに、いつも強がっているだけなんだから。
この町にきたという先ほどまでの嬉しさは消え、
わたしは、ずっとこの町に住んでいたいたような錯覚に捉われてきた。

7cat-police@管理人★:2006/12/09(土) 11:50:56
ニューデリー→マトゥラ→アーグラー①

バスはニューデリーを7時半出発となっている。
マトゥラを見て、アーグラーへその日のうちに着き、
アーグラーで宿をとるという予定であった。
6時に起床、朝食をとり、支払いを済ませ、
7時にはバス発着所へ行った。
わたしの旅としては上出来である。
8月のはじめであるが、早朝ともなれば、すこし肌寒い。
果物や、サモサ(豆をいったようなもの)、
簡単な朝食になるような食物を路上で売っている売り子の
皮膚も鳥肌だっている。

バス前で数人が待っている風景をスナップしながら
わたしも待っていたが、このバスの出発が8時である。
バスの中で沿道の写真を撮るため、
わたしは最後部に乗ろうと思った。
入り口のある前方では、停まるごとに乗り降りする人と
ぶつかりあい、写真どころではなくなることを知っていたからである。

ところが、後部席にゆこうとするわたしを、
運転手が無理に自分のわきの最前列に座らせ、
わたしがいくら説明しても、
「あなたの席はここです」とくりかえすだけであった。
このバスでわたしは、前列シートがアッパー・クラスで、
料金も少し高く、後部席は労働者用であることを知った。
もしわたしが無理に後部に座ったら、運転手は、
ひどくわたしを軽蔑しただろうか。

8cat-police@管理人★:2006/12/09(土) 12:18:00
マトゥラ①

ここでマトゥラについて、書いてみたいと思う。
マトゥラは、タージ・マハールで有名なアーグラーと
同じくジャムナ河にそっている。
アーグラーは、ニューデリーから東南200キロ弱の
ところにあるが、マトゥラは、この距離の4分の3ほどの位置、
列車だと、マトゥラを通り、アーグラー、サンチー、ムンバイへ行く
幹線である。

なぜこんな町へでかけたかというと、
かつてこの町はヒンドゥー、仏教、ジャイナ各教の
信仰上の重要な土地として知られ、現在でも多くのヒンドゥ寺院が、
ジャムナ河畔にたっているからであるが、
それよりもわたしにとって重要なことは、
ここの小さい美術館なのである。
4,5世紀、グプタ前期のマトゥラ派の古代インド彫刻の
最も輝かしい完成度の高い作品が集められていると知ったからだった。

マトゥラ彫刻は、ガンダーラの黒色岩に対して、
紅褐色の赤色砂岩が特色とされている。
この赤色砂岩が、このマトゥラを中心に産出されたそうだ。
わたしは、この赤色砂岩という素材の色彩が、
官能的というか、ひどく豊満というか、そんな気がしていた。
根っからの好奇心も手伝い見に行くことにしたのだった。

9cat-police@管理人★:2006/12/10(日) 19:13:15
マトゥラ②

マトゥラへは、10時半着のはずが、12時に着き、
午後3時にふたたび美術館が開くまで、町を歩いて
時間をつぶさねばならず、しかも事前にニューデリーで調べたときは、
午後は3時から6時半まで開館と聞いていたのに、
実際は4時半に閉まってしまった。しかも主要な作品10点以上が、
ヨーロッパの古代彫刻展に貸し出されていて残念だった。

しかし、かえってそのため、
マトゥラの町をゆっくり見物することができ、
紙と粘土、のりなどで型どりをして、干し固め、
泥絵具を塗ったような、象と魚と子供の、
実にひなびた人形を買ったりした。
象と子供がいずれも1ルピーだから、2、3円、
魚はもう少し7ルピーで20円前後ということになる。

この人形たちは、ひなびているだけでなく、
どこかぬるっと生臭い感覚をもっていて、
わたしには大いに興味のあるものだったが、
帰国までの全旅程じゅう、どうやってこわさず持って帰るかが、
悩みの種になってしまった。日本に持って帰ったのは、これと
アーグラーで買ったヤシの葉製の赤ん坊用のガラガラだけだった。
送れるもの以外は、物を買わないというわたしの旅行原則を
破らせるほどの力はあったが、原則をやぶった罰はてきめんだった。

美術館からさほど遠くない簡易レストランで昼食をとる。
決して上質とはいえないマトンのカレーと、
やたらに多い、ハエに閉口した。

10cat-police@管理人★:2006/12/12(火) 21:05:21
このあとアグラまで行くまでがひどかった。
夕方マトゥラ発ジャンシー行きの準急程度のが1本あったので、
それに乗り込んだ。
車室にはいって驚いた。全部木のベンチで2段式、
車室を眺めると、片隅でコンロのようなものに火をおこして
食事作りをしている。車内で火を使っているのを見たのは
後にも先にもこれ1度きりだったが、何とも物騒なことだと思う。
そのうえ、髪の毛に何か落ちてくるので妙だなと手をやってみると、
ざらざら砂のような手ざわりがする。
見上げると、上に男が一人寝ていて、彼の足が頭の上にあり、
ベンチ式に細い板を打ちつけただけのものであるから、
その男の足の土ほこりが降ってくるわけである。
よく見ると、裸足で、皮膚が靴の底皮のようになってひびわれている。
生まれてから、じかに土の上をあるいてきた足である。

11cat-police@管理人★:2006/12/15(金) 16:12:39
アーグラー

アーグラーへ着いて、すっかり暗くなった道を歩き、
シャンティ・ロッジにたどりつき、やっとひとつのベッドを
手に入れたときは、まったくホッとした。エアコン・バス付きでRs120。
水しかでないバス・ルームで、頭から洗い、
少しさっぱりした気分でダイニング・ルームに行ってみると、
オーナーが話しかけてくる、カジュラホーまでの里程を聞くと、
113マイルもあると言った。宿の食事はなかなか美味しかった。
ビールを頼むと、どこかに買いに行ったようだ。
戻ってくると、驚いたことに、ドイツ製のうまいのを持ってきた。
オーナーとしばらく話を続けたが、
これ以上、口をきくのもおっくうなくらい疲れていたので、部屋に戻る。
そしてたちまち眠ってしまった。

12cat-police@管理人★:2006/12/15(金) 16:14:15
タージ・マハル

タージ・マハルは、さすがにインド第1の観光地である。
門のまえには、観光客のためのトンガが、たくさんたむろしていた。
前の広場から、大きな門をくぐる。門の中は、広い庭園になっていた。
真ん中に、細長いプールがあり、その両側に、
石畳の通路とイトスギの列があった。
そして正面に大理石の巨大な台があり、
その上に、タージ・マハルの本体があった。
強烈な太陽をあびて、大理石の大きなドームが、まっ白にかがやいていた。

このタージ・マハルの造営には20年の歳月を要したという。
ムガルの皇帝シャー・ジャハーンが、愛する妃、ムスターズ・マハルの
霊廟としてつくったものである。ムガル王朝の遺跡である。
くつを脱いで、階段をあがる。巨大なドームを中心とする廟をかこんで、
四隅に、高い尖塔が立っている。わたしは、廟の中に入り、まわりをまわる。
廟のすぐうしろは、ジュムナ河の岸だった。ジュムナの川面に、
尖塔の長い影がおちていた。

観光客たちが来ていた。外国人もいるけれど、インド人も多い。
こういうところで見るインド人は、わたしが毎日見ているインドの庶民たち
とは、別の人種のようだ。男たちは、清潔な白いシャツにズボン、
女たちは、華やかな色どりのサリーを風にひるがえして、
プールの横の石畳の道を、堂々と胸をはって歩いてる気がした。
タージ・マハルを背景に、カメラをかまえて記念撮影している一群もいる。
わたしは、どのようなインド人を見てきたというのか。
この人たちが、ひどくめずらしく見える。

タージ・マハルを出て、ジュムナ河の橋を渡った。
しばらく行って、南の方を見ると、広い畠を越えてはるかかなたに、
タージ・マハルの大きなドームが、まっ白にかがやいていた。
わたしはこのとき見たタージ・マハルを一番美しいと思った。

写真はタージ・マハル
http://redloop.blog.ocn.ne.jp/photos/india/1b1.html

13cat-police@管理人★:2006/12/19(火) 17:15:38
12時40分、カーンプル(Kanpur)に入る。
KanpurまたはCawnporeと、二つの綴りが入り乱れてでてくる。
カーンプルの町では昼ご飯を食べようと思ってホテルを探したが、
なかなかわからない。一人の自転車に乗った青年に道をたずねた。
彼は親切に教えてくれて、じぶんで引き返して案内しようという。
そんなにしてもらわなくてもわかると言って断った。
しかし彼は、じつはわたしとの接触を求めているのだ。
あとでホテルに訪ねていきますといった。こっちは苦笑いするだけだった。

ホテルは結局わからず、町のなかをただうろうろしただけだった。
缶詰でも買えばいいと思ったが、そういう店もない。
すると、さっきの青年がまた向こうからやってきた。
なぜホテルに行かないのか、なぜ泊まらないのか、という。
また、じぶんの家に来ないかともいった。

わたしは、この青年のしつこさの理由がわからないではない。
ここカーンプル以外でも、インドにおいてはたくさん誘われてきた。
これは、親切とは違うのだ。
彼にとって、このカーンプルの地方都市では、
たしかにこれはめったにない機会だったに違いない。
外国人が、むこうから英語で話しかけてきたのだから。
彼は、外国人と近づきになるこの絶好のチャンスを、
しっかりとつかみたかっただけなんだから。

外国人に対する劣等感とエゴイズムの結合といえば、
この青年に対してあまりにも酷だろうか。

14cat-police@管理人★:2006/12/26(火) 16:35:51
ガンジスのほとりへ

アラーハーバードのレストハウスを8時半ごろ出発。
ここのサーヴァントははじめから感じが悪かったが、
出発のときにも、チップの額が少ないからもっとくれと言った。
わたしはとりあわなかった。
ここで車を出してもらうことにしてある、30分待たされる。

ここで少しインドとイギリスについて書いてみたいと思う。
インド共和国が、どれだけのものをイギリスから受け継いだか、
それはむつかしい問題である。現代インドを見る場合、
インドにとってぐあいの悪い事例は、すべて何十年も前のイギリス
帝国主義のせいにすることもできるのである。
たとえば、親切の恩着せがましさだって、長い植民地時代にイギリス人に
頭をおさえられているうちに、おのずと身についた小役人根性なのかも
しれない。実際、インドの大学などでは、この種の論理で、
現代インドの欠点を弁護するようだ。

しかし、すこし意地の悪い見方をすれば、いいものだって、
みんなイギリス時代の遺産じゃないか、ともいえるよ。
大幹線道路も鉄道網も、踏切も、鉄橋も、もとはみんなイギリス人が
作ったものじゃないか。
少なくとも、わたしには、どれだけが今のインド創造なのか、
区別がつかないときがある。どんな立派な建物をみても、
あ、これはイギリス時代のものだな、と思わなければならない。

じつは、わたしたち日本人だって、同じ悩みをもっているのだ。
カラチで、わたしの時計を見て、あるパキスタン人は、
「アメリカの監督で作っているのか?」と聞いた。
わたしが、「なぜ?」と問いかえすと、だまってしまった。
戦後、何年経ってると思ってるんだろう。
made in occupied Japanという文字が頭の中で浮かんだ。
考えがだんだん深刻になってきたとき、ガンジスが見えてきた。

15cat-police@管理人★:2006/12/27(水) 17:10:09
ガンジスが見える。ガンジスの橋をわたる。
あんまりいい橋ではなかった。幅が狭い。
しかしガンジスはさすがに大きかった。
濁流が河幅いっぱいに、とうとうと流れていた。
なかほどに砂、と言うよりは泥の中州が僅かに水面より上に出ていたが、
それを除いては一面の水だ。さすがにこんな河は日本にはない。
橋を渡ってからも、よいアスファルト道が続いた。
道の上に何か動物の死体が転がっている。そばを通るとき、
それはロバのように見えた。ひどく死臭がにおって来た。
わたしは思わず嘔気をもよおす。こういうのは、ここがはじめてではなかった。
昨日、おとついあたりから、なんべんも見た。
ほとんど骨ばかりになっているのもあるから、
ずいぶん長いこと放ってあったに違いない。
こういうものは、決してかたずけない習慣になっているのだろうか。

ゆうべ、部屋のなかに蚊がたくさんいて、熟睡できなかった。
夜中に起きて、薬をつけたりした。今日は本当に眠い。
前の運転手を見る、まったくの無言だ。
わたしはそのまま、眠りに落ちてしまった。
途中のことはほとんどなにも覚えていない。
そのままバナーラス(ベナレス)に着くまで寝てしまった。

16cat-police@管理人★:2006/12/27(水) 18:09:39
バナーラス(ベナレス)

ゆうべ人から教わったホテルは、どうもわりに安いらしい。
いっぺんホテルに泊まってみようかな、という気持ちになっていた。
ホテルに泊まるのは、日本以来だ。
ところが、歩くたびにしつこく客引きがまとわりついてくる。
それに子供も群がってくる。
群がる子供の中には、胸やお尻を触ってくるのもいて、
平常心がどんどん苛立ちに変わり始めた。
そのとき、体格のいい一人の色黒い大柄の男が、腕を掴んだ。
「いい宿あるよ。日本人たくさん、問題ない!」と言う。
強く腕を掴んだので、私もムカッときて、この男の顔を睨む。
顔を見たら、この男の目は切れ長で、仏像のような目だった。
獲物を見つけたトラのように、鋭い眼光、笑っているが目だけは笑っていない。
わたしは、こういう目の男に昔から弱い。目で殺すつもりが、殺される形となった。
結局、この男の後をついて、プージャ・ゲストハウスに落ち着くことになった。
帰り際、チップを渡して、明日、ドゥルガ寺院を案内してほしいと頼んだ。
男は「OK!」という。 朝、9時にここに来る、と言って、行ってしまった。
ところが、次の日、この男は9時になってもやってこなかった。
30分ほど待った頃、きっと事情が変わったのだ、ここには来ない、と諦めた。
9時半に出発。例によって道がわからない。
ホテルを出ると、ガイドらしき男がなんべんも案内しましょうと申し出てきたが、
断った。
しかし、料金次第ではガイドをやとった方が能率的でよかったかもしれない。
とにかくいちばん遠いドゥルガ寺院へ行くことにする。

17cat-police@管理人★:2006/12/27(水) 18:35:12
バナーラス(ベナレス)の町は思ったよりずっと大きかった。
ドゥルガの寺は、ほとんど町はずれに近いところにあった。
大きなプールがあって、女が洗濯したサリーを、ながながと干していた。
サイクルリキシャの男に、ここで待つように言い、
買った案内記やガイドブックをすべて座席に置き、それを見張るようにたのんだ。
ヒンドスターニー語はぜんぜん知らないけれど、チョーキダル(見張り番)という
語を一つ知っていたら、あとは手まねで、これくらいのことは話がつく。
チョーキダルというのは、ペルシャ語だと思うが、
ヒンドスターニーでも同じらしく、ずっと通じる。
男は「アチャ」といって、首を横にかしげた。承知した、ということである。

寺は、モンキー・テンプルと異名のとおり、サルがたくさんいた。
ベンガラ色の塀のなかに、するどくとがった塔がいくつもつっ立っていた。
横の入り口から内陣に入ろうとすると、半裸体の行者ふうの男が手で制した。
異教徒はだめなのだ。
中をのぞくと、しぶい褐色の飾り柱のあいだを、サリーの女たちが動いていた。
ドゥルガは女神である。シヴァ神の妻である。
日本でいえば鬼子母神にあたるだろうか。
おそろしげな姿をしているはずだけれど、ここからは見えない。
ひややかに湿り気をおびた石造の内部の空気が、
かすかに揺れ動くだけである。

あきらめて外に出た。正門の方にまわると、門前に市があった。
キノコ型の傘を立てて、その下で花を売っていた。
黄色い花のレイを、参詣者たちはドゥルガに捧げるのだろうな。
広場には乞食がいた。男も女の乞食もいた。
5,6人がひとかたまりになって、石畳の上にべったり座り込んで、
レプラにくずれた手をさし出した。
腰巻だけのドーティの男たちが、サリーの女たちが、
がやがやしゃべりながら、行きかった。

18cat-police@管理人★:2006/12/27(水) 18:48:12
この門前の市の露店と、乞食と、そして超現実的な怪奇なイメージ。
ここにあるものは、権力者による壮大な造形ではない。
猥雑で汚らしい、人の体臭のぷんぷんたる信仰だ。
わたしは、異教徒として内陣に入ることは拒否されたけど、
悪い感情は持っていない。
一人の仏教徒として、むしろこの日はじめて、
ヒンドゥ教徒に共感さえ覚えた。
ドゥルガ寺院の見物は、たいへん印象深いものになった。

ドゥルガ・クンドのリキシャまでかえると、
さっきの運転手は忠実に見張り番をしていた。

途中、ほそい通りのある街角で、頭のない石像を見た。
まっ赤な塗料で、べたべたに塗りこめてあった。
頭にはないが、首にはやはり花のレイがかかっていた。
ハダシの子供たちがまわりを飛びはねていたが、
わたしを見ると、ワッと歓声をあげ、追いかけてきた。
わたしは、自分の幼年時代の姿を見た気がして、ひとり笑った。

19cat-police@管理人★:2006/12/28(木) 16:49:43
ガンジスの岸辺

本通りから東の折れると、ガンジスのふちに出た。
広い階段いっぱいに、人びとが群がり、ワンワンわめいていた。
キノコ型の傘がニュキニョキ生えている。
下には小さな床机をおいて、男が大声でわめいている。
なんだかわからないが、何か宗教講談のようなものではないだろうか。
人びとは、石畳の上に腰をおろして、聞きいっている。
ときどき、どっと笑う。キノコ傘のあいだを、人びとは下へおりていく。
わたしもそれに混ざって、水ぎわに下り立つ。

水ぎわには小船がたくさんいた。わたしは一そうをやとって、
ガンジスに漕ぎ出す。岸をはなれて、やや遠くから水ぎわのにぎわいを
見ると、印象は一そう強烈だった。
人びとは、階段をおりて、そのままガンジスにつかってしまう。
サリーのすそをまくりあげて、すねを水にひたしている女。
水からあがって体をぬぐう半裸体の丸坊主。
岸にしゃがんで、手を河につける髭のお爺さん。
なかには、岸のやや小高い石垣の上に、座禅のようにすわって、
ガンジスの対岸を見つめている男。
これらは奇怪だけれど、ひどく精神的な風景であった。
しかし、わたしは彼らの精神の内部をのぞきこむ能力はない。
わたしには、ガンジスの水の神聖さということさえ、
正当に認識する力がないのである。

舟の男は、ゆるやかにオールをこいで、舟を上流にすすめる。
岸はいわゆるガッドである。河に向かって大きく口をひらいた
ほら穴のような建物の中に、チロチロと赤い火が見える。
死体を焼いているのだ。死体を焼いた灰は、聖なる河ガンジスに流される。
岸には、火葬場が軒をならべている。

20cat-police@管理人★:2006/12/28(木) 17:21:00
舟から上がって、もう一つ寺を見る。
バナーラスはまったく寺の町なんだ。
インドにおけるヒンドゥ教の七つの聖なる都の一つであり、
シヴァ信仰の中心地である。年々、インド全土から巡礼者が
やってくるという。町のなかには、いくつもいくつも寺がある。
そのなかで、ゴールドン・テンプル・ヴィシュワナート寺院を見た。

それは、ぎっしり建てこんだ家なみのあいだにあった。
せまい路地を、人ごみにもまれて入って、運よく中に入ることができた。
靴をぬいで2階に行った。床も、手すりも、階段も、手あかで黒光り
しているような感じだった。
数百万の巡礼の肌が、これをこすっていったに違いない。
2階のバルコニーふうのところに出たら、せまい路地をへだてて、
目のまえに金色の塔が二つ、きっちりくっついて立っていた。
一つはヒンドゥふうに、楯を立体的にかさねたような形だが、
もう一つは、どういうわけかむしろイスラム的なタマネギ型に似ていた。
下の路地には、お参りの群集がひしめいていた。

下に出て、境内の石畳みの上を歩いた。
石畳の上には、女たちがすわりこんで、トウガラシのような、
まっ赤な色の粉をもりあげて売っている。顔料らしい。
色は色々ある。顔にしるしを書き、さまざまな宗派の標識であろう。
おなじ境内に、半裸の行者が座っている。
これも、顔に白や赤の顔料を塗りこんである。
しかし、行者だろうか。乞食じゃないのか。
ふっとそんな考えが頭をよぎる。
わたしはカメラを向けようとしたが、怖くなってやめてしまった。
ちょっと行くと、サリーを売っている。
店に入ってみたが、わたしのような貧乏旅行者には、おみやげ用には高すぎる。

日暮れの町をあるく。
私が帰った後も、変わらずに巡礼者は行き交い、
ガンジス河は流れ続けているのだろう。
日本人である私の不安や小さな悩みなどは、この壮大な宇宙と地球、
そして必死で生きる人間の営みに比べれば取るに足らないことだろう。
ただこの地球に生きているというだけで、とても素晴らしいことじゃないか。
そんな思いで、胸が満たされた。

宿に着く。すると宿の人が、
「昨日の男が、何度も来て、お前を探していたぞ。」と言った。

21cat-police@管理人★:2007/01/10(水) 15:43:57
サールナート遺跡①

ゆうべは蚊はいたけれど、蚊帳があったので、
途中で目が覚めることもなく、ぐっすり眠った。

きょうはサールナートを見物する予定。
バナーラスはヒンドゥの都だが、サールナートはヒンドゥではない。
仏教遺跡である。あるいは、いまのインドにおける仏教の中心地である。
サールナートはバナーラスから5、6マイル離れた郊外にあった。
ガンジスの支流バルナ河を渡って北にゆく。
もちろん歩いてきたわけではない。車を雇った。
まもなく博物館が見えた。
博物館は遺跡を見てからのほうがよいと思ったが、
なにか地図でも手に入らないかと思って、先に行ってみることにした。

地図はなかったが、ちょうどこれから遺跡を見物するという青年に出会った。
彼がみんなと一緒に案内しましょうと言う。それについて行く。
その一行は背広を着た青年ふたりとインド風の紳士ふたり。
それに女の人が4人いた。それから男の子がひとり。
話していると、彼らは南インドの人らしい。
コルカタ(カルカッタ)から車で来たという。
案内してくれた青年はカルカッタの人だった。
彼はここへなんべんも来ているらしい。

大きなストゥパがあった。
上半分は少し形が崩れているが、下の方は立派なものである。
彫刻や飾りがしっかりしているので、よく保存されてな、と思う。
ストゥパの一角にニッチがあって、そこにろうそくが並び、しかも灯がついている。
それは感動的な光景だった。
わたしは、インドに来てはじめて、生きている仏教遺跡を見たのだ。

22cat-police@管理人★:2007/01/10(水) 18:59:59
サールナート遺跡②

日本ではしばしば、インドを仏教国だと考えている。
もちろんそれは、大きな間違いである。
インドはヒンドゥの国である。
仏教は、たしかにこの国で発生したかもしれないけれど、
現代では、わずかに少数の人たちの中で、
ほそぼそと生きながらえているにすぎない。
その少数の人たちの手によって、なお信仰の対象として生きつづけている。

ストゥパのまわりを、黄色い衣の僧侶が、すたすたと風のようにまわっていた。
ストゥパをひとまわりして、遺跡にゆく。なかなかよく手入れされている。
2、3人の子どもが、草取りをしていた。
煉瓦のあいだから、草が芽をふいている。

サールナートとは一体何か。
ここは、鹿野苑(ろくやおん)である。
ガウタマ・シッダールタは、
この地において、はじめてその教えを説いた。
仏教説法に有名な、初転法輪の地である。

この遺跡の発掘は、ここがたしかに、
初めの仏教文化の一大中心地であったことをあきらかにした。
今思えば、遺跡はパキスタンのタキシラなどにやや似ていた。
細部はもちろんちがう。タキシラのような石造りではなく、煉瓦づくりだった。
煉瓦づみの壁に、少しだけ仏像が掘りとらず残してある。
その様式は、ガンダーラあたりの、いわゆるグレコ・ブディスティックのもの
とはすっかり違っている。これはもう、たしかにインドの彫刻だ。

23cat-police@管理人★:2007/01/15(月) 15:47:03
バナーラスを出て、すぐまたガンジスをわたる。
パトナーからカトマンドゥ入りをめざす、悪路、泥の海、
パトナーに行かず引き返す、デーリという町に行く、デーリ駅を出る、
アウランガバードで、ダックバンガローを見つけて泊まる、
久しぶりでシャワーを浴び、気持ちがせいせいする。
アサンソルの町に入る、カルカッタ。

********************************

24cat-police@管理人★:2007/01/15(月) 16:25:57
アサンソル

アサンソル付近に近づくと、景色はしだいに都会らしい様相を加えてくる。
建物が多くなり、電線はふえてくる。
石炭を積みあげたところがあった。
大きな立派な工場が見えた。煙突がたち並び、煙をあげている。
ほかにも工場がある。

2時40分頃、アサンソルの町に入る。
小さい町だが、バスとトラックがごちゃごちゃとたくさんにぎやかな町だった。
町のあちこちに真っ赤な三角形の旗が立っている。大きな旗だ。
まんなかに神様が踊っている姿が描いてある。その旗のあるところには
たいていバナナの葉を添えたものがあって、中に神様を祀ったらしい跡がある。
たぶん一日か二日前のものだろう。
あるいは今晩、なにかあるのかも知れない。
夕時、母、後藤先生、武山君、東原さんに手紙を書く。

25cat-police@管理人★:2007/01/17(水) 23:09:10
アサンソルあたりからカルカッタに向う途中、
家の形式はまた次第に変わってきた。
瓦屋根は減って、ワラぶきが増えてきた。
全体の印象がひどく東南アジア的である。
今、道はすばらしく良い。幅も広い。
この運転手の調子ではきょう中にカルカッタまで着けそうだ。
夕陽が赤い。朝はからりと晴れていたのに、いまはずいぶん雲がある。
まだ5時前だというのに、もう日の入りだ。
カルカッタに着けばきっと半時間ほど時計を進めなければならない。
ずいぶん東に来たんだから。

運転手と話をする。
ここに来るまでに見た遺跡、そしてガンジス川の話だ。
「何故こんな所までそれを見にきたのか」と運転手はわたしに訊ねた。
運転手よ、旅に駆り立てられる興味とはそんなものなんだよ。
君には物好きと思えるだろうけど、ガンジス川でいえば、
川の底の下にたくさんの死体がある。
この茶褐色のほの黒い、人の希望や望み、叫びや訴えるような声が
きこえるガンジスの底に、わたしは、人生の一つの投影を見に来たんだよ。

26cat-police@管理人★:2007/01/17(水) 23:13:44
カルカッタ入り

ブルドワンの町に5時に着く。
ごちゃごちゃの汚い町。立派な凱旋門みたいな門があった。
歩いている男を見るが、インド人はほんとにヒョロ長い人が多い。
いまや日が暮れようとしている。
カルカッタには8時頃には着けるだろう。
だんだん都会の郊外のようになってきた。
町が多い。人通りが多い。道が細い。交通量が多い。
もうあんまりスピードが出せない。車は比較的ゆっくり走る。

カルカッタに入るまでに、フーグリの橋を渡らなければならないはずだ。
道はいつの間にかフーグリ河のほとりに出ているようだった。
左側に河がある。

はるか向こうに、対岸の灯が見える。
カルカッタの灯が見える。

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