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自己観察スレ5
自己観察について語るスレです。
みなさんで語り合いましょう。
前スレ
ttps://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9650/1555706365/
>>1 乙です
前スレ991ですが正に仕事の面で疑問に思ってました。競争が激しく承認欲求が絡む職種なもので。
好きで飛び込んだ仕事なので後悔はありませんが、周期的に苦しい時期がやってきます。
認識の変更をしても妬みなどの感情は出てくるし、流せたら流せたで競争から脱落していく可能性もあるってことですかね?
それらの感情に振り回されずにその業界の上澄みに居座るっていうのがエゴ目線での理想ですけど……。
なんにしても今の状況は欲求に終わりがなく苦しいので認識変更はしたほうがいいとは思ってます。
>>2
そんな深刻さのある話しだったんですね!?
怒りとか妬みは残りますねー。
残りますが、意識が変われば極端にそのような感情は減っていきますよ。自己観察を継続してればの話しですけどね。やめてしまうとまたエゴが厚みを増してきて苦しくなったりします。
それらの感情が無くなると社内競争に脱落するかどうかですが、必ずしもそうではないと思いますよ?
むしろ積極性が増したり、好感度アップしたりで評価が高くなり昇進したりもあります!
これは私の実体験です!笑
私の言ったバランスというのは、
例えばですが、上司として注意や指導しないといけないシーンで一応仕事として指導します。
「遅刻は皆に迷惑がかかるからね」とか言いながら内心では内心では「まあ良いんじゃね?」みたいなことがあったり笑笑
納期ある仕事で「めんどくさー!やらなくてもいっか笑」みたいに思いながらも、「でも期待されてるのでやらないとな」とちゃんとやってたりとか笑
よくスピの世界では極端にやりたくないことはやらなくて良いみたいに言われますけど、エゴとしての私は現実世界の一員ですので、やっぱりやるべきことはしっかりやるようにしてます。
別にやらなくてもそんな大したことにはなりませんけどね笑
この辺り表現難しいですが、スピに振りすぎないようにしてますね〜。
追記ですが、
自己観察で認識が変わり、それで人生おかしくなるようなことはないと思いますので続けられると良いと思いますよ。
ストレスも少なくなりますしね。
私なんかはめちゃくちゃメンタル強いとか言われますが、ただストレスが溜まりづらくなったんだと思います笑
ただ、劇的に状況が変化したりはあると思いますので、覚悟は必要です(怖…)
結果良い方向に行きますけどね笑
>>4
劇的な変化は起きましたね。前職をクビ同然で辞めたおかげで今の職種に飛び込む勇気が持てたので。
ただいつまでたっても認識が変わらず嫌な感情に支配されるのでウンザリしてました。
どう転ぶかはわからないけど今よりは楽に生きれそうですね。
とりあえず続けてみます。ありがとうございました。
>>5
認識が変わればまた劇的な変化が起こるかと思います。大体良い方向に向かいますけどね。
ポイントは「自分という思考」に気づくことが突発口かなと。その思考を自己と認識しているため様々な苦しみに苛まれる。
別スレを覗いてみたらエゴ(自分という思考)の起動の瞬間を目撃された人がいましたが、そこで自分とは思考であったことに気づいたようですね。
何かに集中している時、ボーッとしている時、没頭している時などは思考の向きがそちらに釘付けになっていて自分という思考が起きない。
ある意味、その集中先が自分になっています。
その思考の向きがふと自分に戻った時(我に返った時)、「自分とその他」に分かれ、「あぁぁぁー!明日めんどくさっ!!」と自分が何とかしないといけない現実に引き戻される。
まあそのような仕組みの中で知らずに私達は個人として一生懸命生きていますが、それが勘違いであったことを目撃すると、無明が晴れ心軽やかになります。
ぜひあれこれと観察の試行錯誤をしてみて下さいね。
>>6
劇的な変化が訪れるかどうかは人それぞれだと思いますよ
あまり不安にさせるようなこと言わないでくださいね
>>7
それはすみませんでした。
少し筆が強かったですね…。
認識が変わり、劇的とは言いすぎとしても自己の認識と世界はイコールで繋がっておりますので良い方に運ばれます。
不安に感じた方、安心して取り組まれて下さいね。
>>7
その不安が結局エゴなんじゃないの?
そこも観察するのが自己観察なんじゃない?
今までも変わりたいのに変われなかった原因のひとつだよね。
観る者と観られる者
観る者は観られる者
こっちが私と思っていたけど
あっちが私だったんですね?笑
勝手に立ち位置を作ってたけど
こっちに私は居ない
あー起きたらまた乗っ取られてた。すぐ分離する。
今思えば何度も体験してるけど。
自己観察を続けていると言われる意味が分かりました。
>>10
こんにちは。
良い感じですね〜。
こちらとあちら。これも思考による分別ですね。
正確には、こちらもあちらも自己と言えます。
こちらが消えると「あちら」が成り立たくなる。
その逆もしかりです。
ですので、どちらも自己(自分と書くとこちら感でますので自己と表現します)です。
これってこの板でもよく言ってますよね、私=世界と。概念だけではなく、自己観察では観察することによって明確に目撃できます。
頭のない実験視点がわかるならより明確ですね。
つまり、観るものは観られるもの。
ですよね!?笑
>>11
そうなんです!
常にこの自己は、まるで懐中電灯かカメラのシャッターのように起こる現象を照らし捉えています。
その照らす対象として私(エゴ)もあります。
ここが無自覚なので、普段私達は「私が○○を見ている」と認識しているのですね。
例えばリンゴが現れた瞬間に「私」に観察の注意を向けようとしても向けられず、その瞬間は「私」がないはずです。
リンゴの次に時間差で私に焦点を当て「私がリンゴを見ている」と認識しているのです。
このような流れを目撃するとエゴである「私」の前提が崩れるという…。
エゴではなくこの「場」という自己が常にここにあるとわかるんですね。
>>10
これどういう意味?
>>13
おはようございます。
昨日はテレビを見ていたら観察者が消えました。思考はナレーションですね。
目覚めると360°の映像やらなんやらかんやらが自己?私?に始まるんですね笑
今日も起きたら無事に乗っ取られてました笑
>>14
>>12 にも書いて頂いてますが正確にはあっちにもこっちにもいないし、あっちもこっちも同じですね。
リンゴが観られる者で私が観る者と思っていたけど、観ている私が観られる者でリンゴも私だったということなんです笑
色々試してたら気づいた感じです。思考に気づいている私が観る者で観られる者らしいので「観る者は観られる者。観る者は私ではない」などと脳内アファしてました。あと意識をできる限り目の奥の中央、脳の下垂体当たりに置くようにしています。
>>16
ありがとう
これは対象物だけでなく、思考とそれを観察する自分でも同じことですか?
自己観察だと思考とそれを観察するほうに分けることが多いと思うんですが
>>17
>これは対象物だけでなく、思考とそれを観察する自分でも同じことですか?
はい。そうです。
立ち位置を作る自分、観察する自分を、観る、疑う感じで私はやっています。
対象物も思考も観察者も観る者で観られる者のようです。
>自己観察だと思考とそれを観察するほうに分けることが多いと思うんですが
それがエゴの巧妙な罠だと思われます。
前スレ988、989に詳しく書いて頂いてます。そのちょっと前にも観察者に気づいてくださいね。みたいなことを書かれていたと思います。
覗いてみて下さい。
前スレ972から読んでみて下さい。分かりやすいと思います。
自己観察って大体ネガティブなことになりません?
どうも、自分は探求者でいたかったらしいw
って最近のレス見てて思った。
別に何かがわかったわけでもないけど、微笑
>>20
○○じゃないと不幸、って思い込んでいた自分に気づけたから、そうじゃなくなったかな
○○がやってきても、また不満を探す自分の習性に気づいたというか、フラットな立ち位置ってのがやっとわかった気がする
私=すべてを体感してから
叶えられる
コントロールできる
判断は正しいなどなど
余計エゴまみれになっていたことに気づきました汗
クリシュナムティの本が届いて読んだから?
叶える必要はない
欲しがる必要もない
コントロールする必要もない
執着する必要もない
判断する必要もない
すべて完璧なので変わらなくてもいい
エゴがニョキニョキ出てくるけど
距離を置きつつ様子見ます。
私=世界を私=全宇宙にしてみたら
現実も思考も何もかも超絶些細なことにしか感じられなくなりました笑
一時これで様子見ます。
自己観察スレが好きだなぁ〜(^_^)
なんだか願望実現や認識変更とはまた違ったベクトルのように感じます
自分と向き合う感じが好きなのかもです
>>23
クリシュナムルティの本買われたんですね!?
スピ系の中では特に難解と言われていますが、自己観察されている方でしたら「なるほど!」とすんなり入るかと思います。
何か気づきに繋がると良いですね〜。
色々と理解を深め進んでいるようで素晴らしいですね!
またエゴに距離を置きつつは正解だと思います。
探求は面白いですよね。
まるで謎解きのようです。
ただ、言葉で表現や理解するにあたり解釈が必要となりますが、あらゆる解釈もエゴのうちでして、それに囚われ過ぎて考えを固定させてしまうと進まなくなりがちになるなと私の経験上感じます。
まあ煮詰まったら、
あらゆる思考全部削ぎ落としシンプルに「場」に寛ぐ。これでオールOK◎笑
>>25
私もこの独自路線!?みたいな進行が好きです笑
板内のアジールみたいな雰囲気ですよね〜。
しかし自己観察ですが、実践で気づきを得ると板内で話されている内容全部繋がると思います!
と言ってみる笑
>>27 さん
なんてゆーか、他のスレにあるような渇望感とか焦燥感があまり感じられないんですよねー
自分に向き合うことに重きをおいてる感じで
うんうん。自己観察さん自身が認識変更しちゃってますもんね。
わたしもその領域に到達したいもんです
自己観察って思考や自我を私だと思っていたところから距離をとるって感じなんだろうなぁ
自己観察で自分がいないと気付いた方は、肉体についてはどう考えられていますか?
自由に動かせる(コントロールできる)から肉体=自分だという認識にどうしても囚われてしまうんです
とエゴが申していますw
>>27
>まあ煮詰まったら、あらゆる思考全部削ぎ落としシンプルに「場」に寛ぐ。これでオールOK◎笑
なんですよね笑
もしあなたがすべての教え、すべての本、すべての言葉で表されたものを無視し、あなた自身のなかに深く潜りこみ、あなた自身を見いだしたならば、これのみがあなたのすべての問題を解決するだろう。マハラジ
を参考にしているのですが、そう出来ないというかしたくないというか…
進んでいるのは確かなので実践に励みます!
>>26
アンカーずれてました汗
若いころの私より若いころイケメンなので読みたくなかったんです笑
でも26さんおすすめなので買いました〜
解釈に囚われないよう気をつけて実践続けます。
>>32
>>32 さんの若い頃よりイケメンでしたか笑
でもちょっと顔も本も濃すぎるように個人的には思います笑
引き続き自己観察を継続して気づきのシェアお願いいたします〜!
>>30
肉体が自己であるかどうかは、思考での追求と、自己観察による検証を私はよくやってました。
まず私の肉体は子供の頃と今では大きく変化しており、今現在も細胞レベルでは破壊と再生を繰り返していますので(昨日まで私の髪だったものが今日には枕に貼り付いているという悲しい事実を目撃したり…)、そのように変化のあるものは私ではないと認識します。
また髪以外にも、この身体をひとつひとつ切り離したとしたら、どこから私でどこから私でなくなるのか?などを思考実験してみます。
またコップの水は私ではありませんが、それを飲み干した時に水はどこから私になるのか?
などを思考で検証してみると良いかもしれません。
自己観察での検証としては、
例えばまず「私の髪の毛」という表現についてです。
普段何気なく表現していますが、「髪の毛」はあくまで「私の」所有物であり「私」そのものではないことを自己観察します。
それと同じく、六感(思考を含めます)すべてを自己観察していきます。
そうすると視覚や聴覚、思考などなど、すべて「私の〇〇」となり、また普段そのように表現していることに気づきます。
そしてそれらはあくまで私の所有物であり、私そのものではない事実を目撃します。
その気づきがあったら即座に「では私とは?」と所有者である「私」と思えるものに意識を向けるのです。
そこにあるものは何なのか??
その辺りを目撃すると、エゴは納得せざるを得なくなり、自分の認識で自分を小さくせざるを得なくなるという笑
これ以外にもハーディングの頭のないところを観る実験とか、いろいろありますのでご自身にしっくりくるものを実践されるのが良いかと思います!
あ、そうそう。
肉体は自分でコントロールできるから、自分である。という認識ついてです。
これも心臓などの内臓、先の髪の毛、爪の成長などなどを検証してみるのが良いかと思います。
また肉体を動かす司令塔と思える思考。
これは自分のコントロールにおいて発生するのかどうかを検証するのが良いかと。
実はそうではないのではないか?
思考の発生には何か「きっかけ」があるではないか?
という感じでよく観察すると気づきに繋がると思います!
ぜひご自身で気づいてみて下さいね。
>>33
私を追求してたのですが、追求している私が確固たる私で私は何をしてたんだ?ってなってます。
また追求しそうになったり、そんな訳ないとか言い出してますが…
この板的には私のあり方、記憶次第でどうにでもなるってことで、この確固たる私も捨てると無我の境地ということでしょうか?
よろしくお願いします。
ダグラスハーディングの実験をやってみたのですが、
どうしても自分の顔を指差す実験がしっくり来ません。
自分の顔を確認することは本当の意味ではできない、という気付きを得たいことはわかるのですが、
私は眼鏡をかけていて、確かに見えないけどここに眼鏡が引っかかる耳と鼻があるのは間違いないし、触覚としても接しているのを感じるので、ピンとこないのです。あるじゃん、頭、となってしまいます。
それとも眼鏡も指させる外界でしかないということ…? などと考えると混乱してきました。
みなさんはこの実験をどのように捉えていますか?
>>37
私も何年も前に実験してみたけど、そのときは全く分かりませんでした。
去年、再度やり直して何度も何度もやってたらなんとなくこうだろうなという感覚が掴めてきました。ちょうど髙木さん(本の翻訳者)のzoomセミナーがあるのを知って、直接教わったら完全に分かりました。
メガネを外して実験した方がいいかもしれません。
伝わるかどうか分かりませんが、記憶、イメージを使わず、指で指した先に(顔があるであろうと思っている場所に)「事実として」顔はありますか?という話なんです。
あなたは顔の代わりに向こう側の景色、すべてを手に入れました。私=世界です。
鼻があるじゃないか!と言われそうですが、それは本当に鼻ですか?向こう側にある鼻とは違いますよね?記憶とイメージによって、向こう側にある鼻と同じものがこっちにもあるとしていますよね?
そして触っているのも本当に顔ですか?って言うことです。それもイメージじゃないでしょうか?鏡を見ながら触ればそうじゃないか!となりそうですが鏡には顔はあるけどこっちには「事実として」顔は無いです。
髙木さん自身も触るに関しては顔がないと気づくのに何十年もかかったと言ってありました。
なので分からない実験があってもいいそうです。何度も繰り返していると分かってくると思いますが直接教えてもらった方が分かりやすいと思います。
すみません。顔→頭でした。
>>36
こんばんは。
おっしゃりたいことは何となくわかるのですが、念のため。
つまり追求者が私の本質だったと理解されているということでしょうか?
>>37
こんばんは。
ダグラスハーディングの実験をされてるんですね!
これは私=世界を知るには一番手っ取り早い方法かと思います。
また私自身がこの実験ですべてが繋がったのでNo.1の実践としておすすめです。
>>38 さんがほぼ完璧に書かれてますねが、
重ねて失礼します笑
ここでもポイントとして記憶、イメージとおっしゃっていますよね。
記憶、イメージ。
これを自己観察にてとらえることができると、腑に落ちると思います。
記憶、イメージも顔のない場所に顕れる現象のひとつなんです。
例えば「メガネの映像と感覚があるってことは、ここには顔あるじゃん!」という瞬間的なイメージ。
このイメージという現象にも自己観察で気付けるかどうかになります。
肉体は現象だけども、記憶やイメージは現象ではない。という思い込みは捨てて、すべてのすべてを観てみます!
この「透明な気づき」上に起こるすべては常に生滅を繰り返しており、私の本質ではない。
私の本質はそれらに気付くこの「透明で広大な気づきそのもの」「この顔のない場」である。
(この透明な気づきがあるからこの世界を認識できますよね?)
という目線で観てみてはいかがでしょうか?
それでもわからないところは>>38 のおっしゃるように高木さんに直接レクチャー受けるのも良いかもですね!
>>40
その通りです!
必死に本当の私を探していたけど、探している私が探されている者だったと気づきました。
この私を消すと無我でしょうか?
ダグラスハーディングの漫画版の本読んで実験も少し試したけど全然しっくりこなくて
古本屋に売っちゃったんだけどもう一回ちゃんとやってみようかな
大勢の人が褒めてるからしっかりできたらすごく良いものなのかもしれないし
>>38
>>41
お二人とも、丁寧なレスありがとうございます。
お二人の書いてくださったことを何回か読んで急に思ったのですが、
つまり私の体も含めてすべてのものは、私が「そこにある」と思っている(感知してる)からある
顔の感覚があるとかないとかは関係ない、だってその感覚自体が私が感知しているものだから
…ということでしょうか。
でもこれが合ってるとしても、世界=自分につながるのはまだ私にはわからないようです。うーん…。
根気強く続けてみます。
教えていただいた翻訳者さんのセミナーもググってみますね。
本当にご親切にありがとうございました!
エゴを介さずに対象を見ようって話だよね
別にダグラスハーディングせずとも意識せず自然にできてることもある
大好きなことに熱中してるときとか
自我と思考が欠落するほど対象に熱中するとき、そこに自分はいなくなりそれと同一と化す
昔から弓道とか剣道とか禅も同じこと言ってて
ダグラスハーディングはその手法の一つって感じだと思うけどね
>>42
ああなるほどです。
あれこれと試行錯誤している自分こそが、あなた探していた確固とした自分だったと気づいた訳ですね〜。
自己観察がうまくできてると思います。
その探し当てた確固とした自分と思える者は、すばり言うとまだ自我であり、本当の確固とした自己ではないかと思います。
おっしゃる通りそれをさらに超えると無我になるかと思いますが、本当の無我の境地に至った場合、完全な悟りってやつですね笑
その確固とした自分と思える者が起動する瞬間をしっかり捉えられるよう観瞑想と止瞑想を徹底すると良いと思います。
私もまだまだだなと思っている境地ですので、ここから先は鬼和尚に聞かれた方が良いアドバイスいただけるかと思います…すみません笑
>>44
>つまり私の体も含めてすべてのものは、私が「そこにある」と思っている(感知してる)からある
顔の感覚があるとかないとかは関係ない、だってその感覚自体が私が感知しているものだから
…ということでしょうか。
この辺り、もう充分に説明されているかと思いますが…
もしよろしければ、ここをもう少し違う角度で説明いただけると良い答えが出せるかもしれません!笑
ここで話されている「自分」「私」をどう捉えていらっしゃるのかが気になります。
何度もすみません。
>>46 さん
いつもありがとうございます。
>>48
いえいえ、決定的なことが言えず逆に申し訳ないです…。
以前私も最終地点を目指していたことがありましたが、何かひっかかるところがありました。
あるマスターに相談したところ、まだやりたいことがあるのではないかと…笑
自分に正直になってみたら図星でしたね。
なので完全にあっち側へはいかずに現実でやり残したことをバランスをとり地道にやってます。
ある程度のところまではアドバイスできますが、最終地点の話になると、自分で経験したことしか話さないようにしてますので私もお答えができかねてしまうという…そこが申し訳ないところですm(_ _)m
最終地点って何ですか?
こちらこそ謝らせてしまってすみませんm(_ _)m
私は一時、鬼和尚のスレにいましたがここにに戻ってきたので現実でやりたいことがあったのだと思います。
ここに戻って菩薩さんに色々教えて頂いたおかげで大分進みました。
上手くできるが分かりませんが笑、現実とスピのバランスをとりながら実践を続けます。
いつもありがとうございます!
>>50
最終地点とは自分自身が完全に達したなと納得できる地点ですかね笑
昔と比べてだいぶ現実に対する捉え方が変わり、一般の方よりも気楽な人生を送っておりますが、やはり大切なものへの未練は断ち切れていないと自分自身を認識しています。
また、まだまだ先があると思っている時点で最終地点ではないなと。
という意味ですね。
それを悟りと表現するには小っ恥ずかしい気がして最終地点と言いました笑
>>51
それは嬉しい!
だいぶ進まれたようで本当に良かったです!
私もまだまだ実践の身ですが、実践者だからこその身近なシェアができるかと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします。
>>51 さんも新たな気づきありましたらシェアお願いしますね〜!(^^)
横からですが鬼和尚のスレってどこでしょうか。この潜在意識板? 検索したけど出てこなかった…
>>54
hを抜いて貼り付けようとしてもエラーになります。
鬼和尚に聞いてみるスレ。で検索してみてください。
>>47
いえいえ、こちらこそ何度もレスいただいてしまって、お手数おかけします。
ありがたいです。
なんと言いますか、イメージとしてはエヴァとシンジくんみたいな…
外から見たらエヴァはエヴァで、攻撃を受けてよろけるのも、敵を見て走ってるのもエヴァの機体なんだけど、
実際には中のコックピットに座ってるシンジくんが外のいろんなものを見聞きして判断している…
というのに似てるな、と思っています。
私の体はエヴァ、私の精神というか、世界を認知してる『なにか』がシンジくんの立場、というイメージです。
でも、これって外ありきだよね…?という感覚が拭えないみたいなんです。
例えば目の前に壁があると私の中の『なにか』が気づいているから壁がある。
でも、それは壁があるから壁に気がつけるんじゃないのん…?と思ってしまうというか…。
私が認知するから世界がある、というのはわかるんですが、認知する世界が先にあるから認知できるんでしょう?というふうに感じているのだと思います。
度々いろんなところで聞く『世界=私』という言葉を『自分が認知してる世界は、自分が認知することで作ってる』という意味で皆さんおっしゃっているのだと思っているのですが、
私にはこの実験の結果も含めて、さっきの壁の例えで言うなら、『壁が黒いか白いか、硬いか柔らかいかを決めてるのは自分かもしれないけど、壁があるのは変わらないし、壁は私がどう見るとかに関係なく存在するでしょ』という見方しかできないでいます。
私の頭は確かにないかもしれないけど、世界はあるし、私とはちっともイコールではない気がする。そんな感じです。
>>52
ああ、その解釈でいいんですね
最終地点てみんな心のどこかで知ってるんじゃないですかね
でも今はこの世界で揉まれたいというかエゴと戯れたいというかw
エゴが絶対に幸せになるものか!絶対に幸せになんてならないもんね!ってやってる
そしてわたしはそれに氣づいている
氣づいているに意識を向ける
ただ氣づく淡々と地道に
今のわたしにはがむしゃらにやるしかやれることはないな
淡々と地道に氣づく、それを軽視しているのはエゴだ
本当はそれが重要なのにそこから離れようとさせる
でもまたそれに淡々と氣づいていればいいんだね
掲示板の外でしたね。見つけました!ありがとうございます。
>>56
またもや横から失礼します。私は認識変更はしてないですが、してない人だから書けることもあるかなと思って。
同じように「自分=世界」と言っても、その人の認識によって指していることはそれぞれ違うように感じています。
たとえば、56さんがおっしゃるように、
自分がどのように認知するかでこの世界のありようは全く変わって見える、そのことに気づいて、ああ世界は自分次第だった、世界=自分だった、と思う人もいるでしょうし、そのように認知を変えたら実際に変わるはずのない状況や相手が変わって、世界=自分だったと感じる人もいるかと思います。
私がよく感じるのは、自分と世界になんの継ぎ目もなく、ひと繋がりである体感覚です。
さらに自分もいなかった、他人もいなかった、観ているものも観られているものもなかったとき、この立ち上がる世界そのものが〈それ〉だった、そこにはわたしも他人も白い壁も黒い壁も存在していない、みたいに感じる人もいるでしょうし、さらに私には想像もつかないような感覚をもって世界=自分だったと感じる人もいるかと思います。
結局のところ、「世界=自分」もこの世界をどう認知するか、という枠のひとつに過ぎないなとも思います。なので56さんは56さんか今感じられている感覚をただ深めていけばいいのかなって。その通り道に「世界=自分」という認知の枠があってもなくてもあんまり関係ないというか。(考察するのは面白いですけど)
あと、
>私の頭は確かにないかもしれないけど、世界はあるし、私とはちっともイコールではない気がする。そんな感じです。
この感覚があるのでしたら、見えない頭は確かにない、そして世界は見えているそのときある、けどもし自分が見ていなかったらない、ですよね。
そこに世界が本当にあるかは、頭と同じように証明できないというか。
あると思っているものは本当にありますか?というのがこの実験の問いかなと思いました。
>>56
なるほど…
細かく説明いただきありがとうございます。
私の説明で果たして納得されるのか、回答が合っているのか若干不安ですが…
>私の体はエヴァ、私の精神というか、世界を認知してる『なにか』がシンジくんの立場、というイメージです。
この世界を認知していると思える『なにか』、またはシンジくん。
これを実感されているようですが、
何かしらの感覚として感じられているようでしたらだいぶ自己観察が良い感じにできていると思います。
そしてその感覚は、以前からこの板で私は「純粋な私」と表現していましたが、これはつまり、あらゆる個人としての記憶やイメージを脱ぎ去った先に残る、「最後の私感覚」であり自我なんです。
全裸のピュアな私です笑
ここに常にある『場』は、壁を作りあげましたが、それを認識する者として相対的に自我の私を作るわけですね。
右を認識すれば左も必然的に認識するみたいな感じですかね…。
私も壁も、どちらも『場』に起こる現象なんですが、勘違いで「私が壁を見ている」と認識してしまっているんです。
なので壁が私の目の前にあるような、奥行きのある現実世界を感覚として感じているんですね。
ですので自己観察や、頭のない場所を見る実験でもポイントは「私感覚」を現象のひとつとしてしっかり観つつ、疑問の思考にもしっかり気づくことが大事となります。
実践中の疑問の思考をも現象として気づいてくると、その疑問も減ってくるかなと思います。
私や世界に対する記憶、イメージを削ぎ落としていくと「あちらとこちら」という感覚にまでシンプルになりますが、この「こちら」感覚が消えると主客が消え、私=世界が本当に顕れるということになります。
ハーディングの実験のうち、「目を瞑る実験」などやってみると主客がわからなくなるので、ぜひ試してみて下さいね。
目を瞑るので高木さんが朗読?してる実験がYou Tubeにありました笑
続きまして、長いです…汗
>私が認知するから世界がある、というのはわかるんですが、認知する世界が先にあるから認知できるんでしょう?というふうに感じているのだと思います。
この疑問も思考として切り捨てても良いのですが、
これはマスターの中でも意見がわかれているかなと思います。
何も記憶やイメージなどの観念がラベリングされていない実像に対して、観念を投射するから「壁」と認識する。
壁と名付ける前の「何か」は元々実在する。
という考えですよね?
しかし私としては、
観察したままを正直に、見たまんまそのまんまを真として捉えるハーディング流そのまんま派(笑)として、以下の考察と、観察をおすすめします。
何か現象(リンゴとします)に気付いたとします。
・リンゴの赤色に気付いた瞬間と、リンゴが出現した瞬間は同時ではないでしょうか?
・そのリンゴに気付く前に、そのリンゴはそこにあったのでしょうか?
・「ずっとそこにあったよ?」「いや、さっき私が置いたんだけど?」
という記憶があったとしても、それはあくまで記憶という現象ではないでしょうか?
・「ずっとあった」「私が置いたんだよ」という記憶が正しいと裏付ける証明が、今の今、記憶以外に、
その視覚内に存在し確認できますでしょうか?
同じくリンゴに向いていた意識をこちら側に向けてみます。
・そこにリンゴを認知している「私」はありますでしょうか?
あるとしたらそれは肉体的、記憶的な現象ではないでしょうか?
・私が見当たらないとしたら、「あちら」であるリンゴと、「こちら」に、奥行きという距離や、境界線はありますでしょうか?
・実は「視覚」と呼んでいる映像が見る者なくただこの『場』に在るだけであり、記憶という現象を利用して「私がリンゴを見ている」というストーリーをその『場』で創りあげていないでしょうか?
ちょっと表現がややこしい感あるのですが、記憶を横に置いて見たまんまそのまんまを真実として観るを追求した考察となります。
もっと色々と考察できるのですが、難しくなりすぎるのでこの辺にしておきます笑
これで疑問が解消できれば幸いですが…汗
>>57
エゴと戯れるのはもうウンザリ!
と一時期は思ってましたけど、不思議なことに世界の捉え方が変わるともっと色々やってみたいと思うんですよね〜笑
最終地点に行くのはもっと戯れてからでいっかと。
けっこうハードな戯れも多いですけどね笑
>>38
>あなたは顔の代わりに向こう側の景色、すべてを手に入れました。私=世界です。
とは、どういう意味でしょうか。
指の先に顔がなく、顔の代わりに向こうの景色が見えるという点までは理解できます
ただ、なぜそれがすべての手に入れたことになるのでしょうか?
目に見えるものは自動的に手に入れたことになるのですか?
>>64
記憶、イメージを使わずに観るといいと思います。
顔の代わりに景色、すべてを手に入れました。が反射的に私のではないとしてませんか?私のにしていいんです。
私の手、私の足、私のお腹などとそれ以外は私のではないではなくて、私の世界、私の現実でいいんです。
テレビの画面のような感覚で観るといいかもです。楕円形の画面、スクリーンです。
2方向指差しなど他の実験も試されたら繋がるかもしれません。2方向に指した指を=にして観てください!私=世界です。
「手に入れた」というハーディングの表現は実験を初めてされた方に楽しんでもらうための盛り上げみたいなものでなのしょうね笑
実際のところは、
顔があると思っていたところに世界が既に在った。
そこには自身の身体らしきもの、また身体の感覚、また思考も映って(顕れて)いますので、
身体の上に世界があるのではなく、ずっと謂わば意識のような透明な場の中に世界が既に在った。
ということです。
そのように見てみようとすることが実感するポイントですね。
また余談になりますが、
「向こうの景色」と感じるかもしれませんが、
向こうを見る顔はないのです笑
そこをじっくり観察してみた時、何かしら景色を見ている主体のようなものを感じますが、それもこの場に顕れている現象のひとつ(思考イメージや身体感覚だったりします)
であることがわかり、エゴの根っこを見抜くことができたりします。
最近気付いたことは思考を相手にしてたらキリがないということです。思考に見切りをつけられるようにしています。
あと何年も前に読んだフランクキンズローさんの本にイースターエッグを見つけましょう。みたいなこと書いてあり、そのときはなんのこっちゃと思ってましたが、本当に卵がありますね笑
なるべく卵に留まることを意識しています。
>>67
こんにちは。
QEもやられてましたか!
私もQEは大変参考にさせていただきましたね〜。
もう10年以上前に話題になったなんて時が経つのは早いですが笑
確か「ユーフィーリング」に書いてありましたよね、人生はイースターエッグ探しみたいなものであると笑
また読み返してみようかしら。
おはようございます。
QEやってましたが当時は全く分かりませんでした。手元にもう本はありませんが、3冊揃ってました笑
キンズローさんの言うイースターエッグというのが分かった気がします。
思考があるのが当たり前と思ってましたが、思考のない空っぽの場所が当たり前なんですね。
あと本や教え、知識など言葉を追ってしまいがちですが、実践して自分で気づいていくことが大切だなと改めて感じております。
いつもありがとうございます。
ハーディングの話されてる方ってもしかして数年単位でこのスレにアドバイス書いてくれてる?
もしそうならすごく参考にしているので大変感謝しています
違ったらごめんなさい
良書スレに書いたけどダグラスの実験がピンとこない人はルパート・スパイラの"プレゼンス"がいいかもしれない
ダイレクトパスという手法なんだけど、体・心・世界のすべての現れが自己(気付き)であるとゆっくり確かめていく感じ
ただこういう非二元の気付きと引き寄せの認識変更って違うよね・・・?
自分は一瞥やら覚醒の体験はしたけど、引き寄せの認識の変更はまだわからないよ
私はすべてが色濃くなって来ました。菩薩さんは場、スクリーンと言われてますが、私は画面という感じです。画面には色々起きますが、5感、思考などを私としてたけど、画面に起きるものすべて私で、何もないところから現れて、何もないとこに消える。この画面に何を写すかが意図で、この板で語られている願望現実法。
できないときもありますが、四六時中実践が好ましい。やめてしまえば元の木阿弥。
>>70
こんにちは。
そうですね〜、私も一時期ほどではないですが実践継続していますので、こちらに質問があった場合は私が得た気づきが何かヒントになればと、たまにレス投下しています。
もうどれが私のレスなのか…笑
一時期よりも気づきに鋭さがなくなりレスも冗長になりがちですが、自己観察に興味を持った方の気づきに少しでも繋がれば嬉しいですね。
>>71
私もハーディングから入りダイレクトパスで大きな気づきを得ました笑
私はグレッググッドが大変ためになりましたね〜。
認識の変更は108さん発信ですが、昔のブログなど読むと共通する部分はすごく多いと感じます。
また私自身が実践の中で実現することが多かった経験がありますので、あながち無関係ではないかなーと。
昔自己観察さんが「別の領域に浸っているだけでいい」という趣旨のレスをしていましたが、私もこれなんだろうなと思いますね。
その仕組みを解き明かそうとすると色々と矛盾が起き議論になりがちですが、その辺のエゴでの議論はとりあえず置いておいて、とりあえず自分は別の領域でくつろぎながら、現実については現実に任せましょうよ、それでうまいこと行きますから笑
というスタンスではあります笑
>>72
素晴らしいですね〜、
ぜひその画面での気づきがまた新たにありましたらシェアしていただけるとありがたいです。
ここ最近での私の経験ですが、何かにチャレンジしなければいけない場面で必ずエゴが不安になります笑
普通でしたらそこで尻込みして終わる場合も多いかと思いますが、別の領域(画面、場、スクリーン)を知った今、別の領域を信頼し、流れるままに自然に湧いてきた意図を意図のままスムーズに実現できるようになれると実感します。
と書くとすごくエゴ的な恣意的な表現になりますが、簡単に言うと、何や知らんけどうまく行った笑
ただ前と違うのは「どうせ私には無理だ」という声に阻止されること少なく、物事を進めることができるようになれるということでしょうかね。
それはまとめると「意図を選択する」という表現になるかなーと私は感じていますね。
>>74
おお、同じようなことをやってる人がいた!!レスありがとうございます🙇
自分は一時期"プレゼンス"しか読んでない時期があって、公園や駅のホームで覚醒体験をしました。それ以降体感が激変してそれは今も継続してます。
なんかお湯に浸ってるような、あるいは母親の羊水の中にずっといるような感覚。
そして実生活でもトラブルとか合わなくなってきたし、火事場につっこんで「やっちゃいけない」という行動をしてももなぜか一切怪我しなかったり、そういうことはあります
ただいわゆる世俗的な望みは叶わず人生が停滞してる感じがしてるし、認識の変更(自分の望みが実現している世界はあるという体感)も分からない。
>>72 さんのスクリーンとしての意図というのも論理的には凄くわかるんだけど、実際何かそうやってイメージしようとすると頭が収縮する感じがして、どうも個人として思考してるような感じがします。
それで、非二元の認識では足りないのかな、この先がまだあるんだろうなと感じてます、、、
スパイラもスクリーンと言っていて、意図とはつまり字のごとく"図を意する"、つまり分離した自己(自分)としてではなく全てである自己、スクリーンとしての自己としてビジョンを持つとは理屈ではわかるんですが、じゃあつまりどうするんだろという感じです。
>>76
>そして実生活でもトラブルとか合わなくなってきたし、火事場につっこんで「やっちゃいけない」という行動をしてももなぜか一切怪我しなかったり、そういうことはあります
え!すごい笑笑
そのような経験があるのでしたら「別の領域への気づきがあったから、そうにちがいない!」と別の領域への信頼をもっと高めても良いかなと私個人としては思います。
だってほぼ無敵じゃないですか笑
私は暇さえあれば別の領域に浸り、小さなことから実現させ信頼を深めて行くことをやってました。
事実、「え!?偶然にしては出来過ぎ…」ということも起こります笑
別の領域のご加護じゃ〜!みたいな笑
>>77
マスター達の教えでは、
「エゴは幻想であり、本体は全体としての自己である」と皆さんおっしゃります。
事実ハーディングの実験やダイレクトパスでもそのことに気づかれたかと思います。
しかしながら、意図が湧いても変わらず「だって過去にこうだったし、私個人でなんとか方法を見つけないと…」という想いがありますと、全体のとしての自己は「あ、自分でやるの?じゃ頑張って!」と実現の力をエゴにホイッと預けてしまうのですよね笑
そうなったら私個人は頑張らないといけません笑
また実際のところ、全体としての自己は、自分で生命の表現として意図をしておきながら、これまた自分で作った私個人(エゴ)フィルターを通してで物事を見たり考えてしまい、アクセル踏みながらブレーキかけている状況を創りだしているとも言えます。
無自覚にですね。
そのエゴ目線に戻ることの回避策、抜け道として、
「全体への信頼」、また「お任せ」だったりがあります。
そうは言っても何かあるとエゴ目線に戻りやすいので自己観察で別の領域に浸ることも必要になるかと思います。
「全体が私だったんやな〜」と気づきがあったのでしたら、その全体を信頼してみてはいかがでしょうか?
自己観察で別の領域に入っていますと、エゴが脱落してすべてをお任せした状態である所謂「自動モード」や、詭弁さん的に言うと「百発成功」状態になるので、そこをしっかり体験されると本当に全体がすべてを司ってることがわかり、よりお任せしやすくなるかもしれませんね〜。
やっぱり幻想も妄想もエゴなんだよね
考えれば考えるほどエゴが大きくなるし妄想でしかない
妄想を削り取った現実は真実だ
より現実的に生きることが理想の世界だ
>>80
エゴというのは全体から分離したと感じる「私」という感覚のことですね。
そしてこの「私」の経験を基にあれこれと分別してるわけです。
幻想という話しであれば、五感に起こるものはすべて幻想かもしれませんね。
現に私達は寝ている時に、現実と同じように夢をリアルに五感で現実として感じていますしね。
感じている時はそれを夢とは思いもよりません。
もしかしてこの「現実」も幻想かもしれませんね笑
また妄想、思考。
これらを妄想、思考と分別しラベルを貼っているのはこのエゴなわけです。
それらラベルを外しエゴによる抽象度を高めていくと、
すべて
「現れ」
「感」
「…」
あとなんでしょうね?笑笑
そう考えるとこの世界って何なんでしょうかね?
なんか意味ありげなレスですが、特に何もないので気にしないで下さい笑
>>80
自分は現実が理想的だから妄想なんてしないよ。
目の前の現実を味わうだけ。
だから特に何の問題もなくいい感じ。
現実をエゴ(妄想)だとしたら、今の現実をいつま
で経っても受け入れられないだけだよ。
今の現実を理想的だとすれば済む話だよね。
いちいち妄想(エゴ)を広げなくて済むしね。
>>81
あなたがいいたいのは全てが幻想(エゴ)ということでしょ?
なのであなたが言ってることは幻想(エゴ)ということでしょうね。
>>83
爆www
その通りです,
元も子もないですねw
ちなみに、サニーボーイというアニメおすすめですよ!
世界と自分を観察するようなお話の上に結構面白いです!
丁寧に答えていただきありがとうございます!!!
そもそも想像や現実というものの区別をつけず、全てがただの自己(スクリーン)の光、現れとするのがダイレクトパスですね。
ここから先の話は、そのスクリーンをどう光らせるかということで、それがつまり意図であって、非二元の教えの先にあるものだと感じているのですが、、、(だから私は引き寄せは非二元の教えの先にあるものだと思ってます)
たしかに何の力も持たない自分でなんとかしようとする意図が抜けていないのかもしれません。いろいろな出来事を思い返してもプレゼンスに全幅の信頼を置いて大丈夫!と言われてる気がします。
自らで光るからスクリーンよりディスプレイのほうがいいかもしれませんね。
聖書でも「まずはじめに言葉があった」として、光より言葉(意図)を先に置いていますね
>>87
スクリーンだと映写機が比喩として必要になるので、ディスプレイのほうがしっくりくるかもですね〜。
私は自分で映しながら自分で見ることができるテレビモニターのようであるなとも感じます笑
ダイレクトパスとしては、
実は世界は一つの光であり、これを記憶の分別によって分離しているとありましたね。
思い込み(エゴ)を横に置いて現実をありのまま見てみるのがダイレクトパスですよね。
それを基にして考えると、
プラトンの洞窟の比喩と似ているなと感じるんですよね。
実体はひとつの無色透明な光であるけれども、自分というエゴを通して様々な色として分別し、それを現実として見ている。
エゴはまるで理科の実験のプリズムのようですよね笑
プラトンはたしか影絵で表現しましたが。
プレゼンスは、いつもすべての可能性を内包した無色透明の光を発し、常に実現をさせている。
もう実現はしているんですよね。
それを色として、現実としてどのように可視化され現れるかはエゴプリズムによる作用が大きいと考えています。
エゴの形を変える。
認識を変える。
それにより現れる色が変化する。
知らんさんも、歯磨き粉のチューブで例えてましたね笑
歯磨き粉が無色透明の光、
チューブの口の形が自分(エゴ)であると笑
☆型の口なら☆型で現実が現れる。○型の口なら○型で現実が現れると。
今までの経験からも、まあそうなのかなと思うところです。
それもエゴの分別やろ!と言われるともう何も言えませんが笑
結局思考によって分別が行われるんだから、思考に力はないと認識したらいいんじゃない?
元祖1式は思考に力があるから、無思考て感じだけど
701式は思考に力がないから、何考えたって大丈夫ってことだと思う
思考をエゴと思うか、そもそもエゴなんてないと思うか
色んな考えも結局何考えたってあなたのエゴだよねって思う今日この頃
思考も感情も現れ、つまり創られる側であって創る側ではないと思ってますが、、、
ただいわゆる物質的なものより意図の反応が早いので、どんな意図を持っているのかの指標になる感じでしょうか
>>73
ありがとうございます
同じようなことを書いてる感がそういう謙遜の言葉に出てるんだと推察しますが、個人的には何度も根気強く繰り返し説かれてるという感じで非常にありがたく思います
同じような内容でも、微妙にニュアンスや表現が違ったりして、立体感のある理解に繋がるというか
あと、去ってしまう達人の方が多い中で、継続的に関わってくださるのは大変励みになりますね
今後ともよろしくお願いします
>>90
そうですね!
思考感情は現れであり創るものではないということは私も過去に何回も話させていただいたことで、その通りだなと思います。
でもその様子を観察し、「そっか!そうだったんや!」と納得して認識を改めるのは思考感情を自分としたエゴなんですよね笑
ここで歯磨き粉のチューブの型が変わるわけです。
そのような気づきをエゴ自身が重ねることによってエゴが薄くなると言いますか、ブレーキ的な影響が弱まると言いますか、エゴが変われば確実に世界は変わってくると感じます。
そのような意味合いで能動的な「エゴを変える」と表現した次第です。
実際に変えているのはこの現実という夢を見ている本体ですが、ここでそれを説明するとややこしくなるので便宜上エゴ(自分自身)が変わると世界も変わると話しました。
>ただいわゆる物質的なものより意図の反応が早いので、
これは具体的にはどのようなことでしょうか?
>>91
恐縮です…笑
同じことを何回も言っているのは、逆に言えば気づきがそこで止まってしまっているのかもしれませんね笑
私は願望実現主体というより、自己観察がなぜか好き笑。ただそれだけなんです。
でもそう言っていただけるとありがたいです。
非二元の立場から言うと潜在意識ってなんなんでしょうね
>>94
非二元(2つない、主客がない)ですから、潜在意識は自分ということになりますかね。
表現としては「潜在」と言いますが、自分を含めたこの世界全てが意識であり、潜在などしていなく、今ここにある剥き出しのリアルが潜在意識であると思います。
非二元とはちょっと違いますが、仏教では阿頼耶識と名付けられた機能が潜在意識になりますでしょうか。
現実を反映させるためのデータと機能…と言いますか、ExcelのXLOOKUPみたいなシステムと考えればわかりやすいかもです笑
>>95
レスどうもです。調べたら仏教というより唯識派みたいですね
空を説く中観派にはそういうのはないみたいで、、、うーん
>>96
中観派は阿頼耶識も空と観じそれにもとらわれず悟りを目指す!という考えでなかったでしたっけ?ざっくりですが。
適当なこと言っていたらすみません…笑
でも阿頼耶識という概念がここで話される潜在意識の元ネタなのかなと思います。
>>97
ありがとうございます、たしかに元ネタっぽいですね
あとはボームの暗在系とか
やっぱり順番的にはハーディングの実験→ダイレクトパスの本→あとは「ある」「なる」系の引き寄せまとめ・動画見まくる
がいいのかな
>>98
暗在系というのは聞いたことありましたがボームが提唱なんですね?知らなかったので私も調べてみます。ありがとうございます!
>>99
自己観察のまとめ読み込んで自己観察の実践→行き詰まったらハーディングの実験→自己観察、ハーディングの実験で色々と気づきがあり、非二元にもハマったらダイレクトパス。
私の場合はざっくりこうでした笑
非二元や悟りに興味ありでも自己観察は必須かと思います。
ダイレクトパスは自己観察、ハーディングの実験での気づきがあるとすんなり入れます。
ベースがないとチンプンカンプンかもです。
「ある」「なる」も自己観察、ハーディングの実験でわかります。
あと「なる」に関しては完璧認定の実践がベストかと私は思いますね。
ダグラスの実験は高木さんのセミナーおすすめ
1000円だし非常に実践的
>>103
今更ですが私も高木さんのセミナー受けてみようかな〜。
なんか楽しそうですよね!!
ついでにラメッシとか色々お話も聞いちゃったり笑
ダグラスの実験以外の回のほうがラメッシの話はするかもしれませんね
わかっちゃった人たち
というグルではない市井の人が悟ったプロセスの体験談を集めた本があります。
もちろん市井の人とは言ってもこのスレの住人のような探求者の人たちですが。
その中で「観察者」という立場から抜けれなくてなかなか見性できない人がいました。
自分の体の後ろから、自分や世界を常に観察しているような感じです。
そしてある時、一人の教師から「違う違う!すべてが観察者なんだよ」と言われ、ハッとして後日見性できたそうです。
つまり観察者、観察される現れという分離は本来存在せず、すべてが観察者(気付き)であるという二元の溶解ですね。
>>105
ダグラスハーディングの実験以外の回もあるんですね。最近シンプル堂の日々を見ていなかったのでまた見てチェックしてみます!
ありがとうございます!
>>106
>>つまり観察者、観察される現れという分離は本来存在せず、すべてが観察者(気付き)であるという二元の溶解ですね。
これなんですよね。
>>61 にも書きましたが、「私」という足場が崩れた時に私=世界が現れるという。既に現れてるんですが、足場から見ているのでそう感じないんですけども。
自己観察さんも後期のレスでは表現が変わり、そのことを伝えていたように思います。
ハーディングの実験を丁寧にやるとわかるのかなと思います。またダイレクトパスなんかはそこに直接繋がるメソッドも多いですね。
なのでダイレクトパスという名前なんですが笑
>>102
完璧認定のコツをぜひ教えてください
ダイレクトパスの本持ってるけど読まずに積ん読したままだわ
思い出させてくれてありがと読んでみる
>>109
完璧認定の方法は簡単に言うと
自分の認識すべてに「完璧」とラベリングすることですね。
普段自分に対して、また自分以外のことに対して、認識によって良い悪いのレッテル付けしていますが、この分別が世界に意味を持たせてるとも言えます。
その良いも悪いも、認識をすべて「完璧」とひたすら認定していくんです。
この認識を司るのはエゴですが、そのエゴとはひとつなる世界からの分離であり、その根底には世界への抵抗があります。
その抵抗を完璧認定によって緩ませていきますが、実際に緩んだ時、世界も同時に変わる瞬間を目撃すると思います。
完璧認定を実践し理解が深まると、同時に認識の変更や「なる」が完璧認定と同じ仕組みであることがわかりますが、自己観察も併用できているとより仕組みがよくわかるという。
自己観察はいろんなメソッドの基礎になるので、私としては基本中の基本、身に着けておくべき立ち位置かなと思ってますね。
>>110
もしダイレクトパスを読んでみてイマイチわからないようでしたら、ハーディングの実験をまずやってみてこの「透明な気づき」を理解をし、その後でダイレクトパスを読み込むとすんなりいけるかもです!
>>112
どうやら自分は人より頭が固いのかハーディングの実験を何度か試したけどイマイチピンと来ないままなのよ
でもダイレクトパス読んでみて立ち止まったらもう一回ハーディングやってみる
読む時期変わったら受け取る視点も変わったりすることあるもんね
ありがとう!
>>111
ありがとうございます!!現実や自分にではなく、認識に完璧認定するんですね!!
現実に完璧認定していたのですが上手くいっていませんでした。
・・・たびたびすみません、認識に完璧認定というのは具体的にどのようにやるんでしょうか(・・;?想像できなくて、、、
何か具体的なセリフやシチュなどをおしえていただけると大変ありがたいですm(_ _)m
>>111
ありがとうございます!!現実や自分にではなく、認識に完璧認定するんですね!!
現実に完璧認定していたのですが上手くいっていませんでした。
・・・たびたびすみません、認識に完璧認定というのは具体的にどのようにやるんでしょうか(・・;?想像できなくて、、、
何か具体的なセリフやシチュなどをおしえていただけると大変ありがたいですm(_ _)m
>>113
いえいえ。
試行錯誤して行くしかないのでぜひ楽しみながら実践をしてみて下さい〜♬
>>115
それでOKです!
ここは自己観察スレなのでこの辺にしておきますが、自分や現実に完璧認定をするで合っています!
認識と書いたのは、
普段私達は外の現実を「現実」として捉えていますが、それは記憶からの参照ですよね?
また自分を他者とは別個の「自分」として捉えていますが、それも記憶からの参照ですよね?
記憶からデータを引っ張りだしてきて「これはこれこれこうである!」というシステムが「認識」です。
ですので、自分の現実への認識、自分の自分への認識をすべて完璧認定しますと書きました。
ちなみに私達は過去起きた出来事にレッテルを貼ってデータとして貯蔵しています。
なのでレッテルがネガティブなレッテルだと、現実で同じようなことが起きた時に、ネガティブなことが起きたと分別します。
その分別を過去のネガティブ関係なく「完璧だ!」としてみたら、現実の展開はその後どうなるか?
そこでここの板で言われる「すべては認識である」が検証されますのでぜひ実践してみると良いです。
文言などは何でも良いのです。
こんな出来事起きたけど完璧なんだよな〜、
そう思っても完璧!、
はは〜ん…完璧!、
何でも良くて、しっくりくるものでOKです。
また必ず「そうは言っても…」とまた過去ネガティブを参照し真実としようとするので「まあそれでも完璧だし」と完璧で終わるようにしていきます。
そうすると「もう何も言えねぇ…」的な無思考になる瞬間があるのでそこを完璧認定完了の目安にしたり笑
いずれにせよ、どんなやり方でやったとしても完璧なんです笑
そう断言してみて下さい。
>>117
横ですがすごく参考になりました。
ありがとうございます。
自己観察しつつ、こまめに何が起きても完璧認定されてた感じかな。
>>117
横ですがすごく参考になりました。
ありがとうございます。
自己観察しつつ、こまめに何が起きても完璧認定されてた感じかな。
>>119
時系列としては、自己観察と完璧認定を併用して実践していたわけではなく、自己観察をある程度身に着けてから完璧認定を徹底してやった感じですかね。
自己観察と自愛って兄弟みたいな捉え方されるじゃないですか?なので自愛も徹底検証してみようとやってみた感じです。
でも自愛の文言が苦手だったので完璧認定でやってました笑
そしたらいろいろ気づくことがあり、また自己観察の経験もあるので完璧認定が効率的だったと言うか…笑
まずスタート段階で、私も現実も同じであると自己観察でわかっていたので、完璧認定も自然と私と現実の両方に完璧認定していましたしね。
で、所謂チケットの第2章から7章への変化も自己観察だけではおそらく気づきにくかったと思いますが、自己観察ベースでの完璧認定実践のためかトントン拍子でわかった感じです。
ああ〜7章ってそういうことか〜!なので自動モードって言うんやな〜みたいな笑
それと自己観察だけではなかなか気づかなかったところも完璧認定によって気づいたかもしれません。
また面白いことに、自己観察から入る別の領域と、完璧認定から入る別の領域の感覚が若干違ったりとか、不思議なことも多いんです。
私個人の感覚ですけどもね。
いろいろ提案するとどっちつかずになるかと思いますので完璧認定についてはこの辺ですみません…。
まずはやりやすい方から、徹底してやってみる!ですね!
>>117 、120
ありがとうございます😆
認識=現実ということなんですね
無意識に「万事上手くいってます」というアファをやってましたが、これは完璧認定っぽいですね❗️
自分というものを疑えという感じかな。
「私」がいかにエゴに操られていたか気づくと、かなり変わった実感がある。
>>120
119です。詳しく書いてくださりありがとうございます。
自己観察を身につけてからの完璧認定、よさそうですね。普通にエゴがたくさん残ってる段階だとどうしても「そうはいっても…」って現実を見て抵抗しちゃったりしますもんね。
やっているメソッドで入るところが違うのはわたしも感じます。
別の領域と一言で言っても実は意識状態はかなり幅広いなと思っていて、その別の領域をエゴ(自意識)でどう理解するかによるのかなって。
世界観の違いとも言えるかも。
わたしも実践してみます。ありがとうございます。
久々にコメントしたから私も少しだけシェアを。
QEを最近久々にやっているのですが、以前取り組んだときにわからなかったりやりにくかったことが、今やってみるとすっとできたりします。ずっとぐるぐるしてると思ってたけどそれでも進んでたんだなあ。
元々自己観察がわからなくて苦しんでたときに出会ったのがQEだったので、自己観察が苦手だけど身につけたい人にはお勧めです。
あと、これもここのスレで教えていただいた『左脳さん、右脳さん』を書かれたオカンさんのYouTubeチャンネルの、オカンメソッド基礎編1自動思考に気づく、もめちゃお勧めです。思考を止めることについてこんなに分かりやすく説明してるの、なかなかないと思いました。
自己観察や今今、元祖1式あたりをされてる人にはすごく参考になるかと。
>>124
124さんの体験も、よかったらもう少し詳しく聞いてみたいです。
エゴに操られている、それに気づくのはやっぱり自己観察かな。どんな変化がありましたか。
>>127
厳密には違うかもですが、広義の自己観察かもしれないですね。
色々なメソッドを試していたんですが、このやり方であってるのかなという不安に負けて、結果が出る前に他のメソッドを試す無限ループに入ってました。
そこで、メソッドに対する不安がエゴによるものだとようやく気づきました
そうすると、メソッド自体に力があるのではなく、自分の意思、意図にまとわりつくエゴを見抜いて、それを採用しないことそれそのものに、自分の生き方を実現する力があるのではと思ったのです。
変化としては苦しみのほとんどが、エゴに振り回されていたことを実感できたので、気楽に生きられるようになったかなと思います。
>>121
そうですね。
内も外も、認識した現象全部ですね。
万事うまく行く、でもOKです!
結局自己観察の現象全部をただ観ている状態と同じなんですけどね笑
>>125
>普通にエゴがたくさん残ってる段階だとどうしても「そうはいっても…」って現実を見て抵抗しちゃったりしますもんね。
これはほんとにそうなんです。
この板を見ていても、結局ここで躓いている人が非常に多い。なので自己観察がベースにあると良いのですが、初めは自己観察中もいつの間にか絡め取られていることありますので、エゴは本当に巧妙だなーと思います笑。
>その別の領域をエゴ(自意識)でどう理解するかによるのかなって。
世界観の違いとも言えるかも。
ああ、うまいこと表現下さいましたね!
その通りかと思います!
結局、別の了解を言葉で表現するのはエゴ(記憶)ですので、人によって経験も違えば世界観も違いますし、理解もそれぞれになるのだと思います。
わかりやすく表現していただきありがとうございます!
>>126
ネドじゅんさんチケットに近いことも言ってるね
同じものの違う表現みたいな印象で
これで理解が深まる人もいるんじゃないかと
すいません。自己観察的に引きこもりはどう見てますか?
自分は今引きこもりなのですが、ここから友達を作ったり、恋愛をしたいのですが、過去に引きこもってしまったため連絡が誰とも取れません。
今思えば過去にエゴに引っ張られ過ぎた自分のせいで大切な人達を裏切ってしまいました。
でも過去の私がやってきたことを今更変えられるわけではないので、ここからどうすればいいのかわからないので自己観察的なアドバイスがあれば教えてください。
鬱や引きこもりから認識の変更や一瞥体験する人はよく見かける
>>132
我流の解釈で少し自己観察とは違うかもしれませんが、よろしければ答えさせてください
まず、願望実現という観点からは自己観察における「別の領域に浸る」という流れは少し遠回りかもしれません
なので、少し改造して、「別の領域に浸る」ことを「願望を意図する」という行為に置き換えて考えてみてはいかがでしょう
まず、友人を作る、恋人を作るという意図を持ちます
それを否定する考えは「全て」エゴです
無論、あなたの過去への後悔や現在への認識も、全てエゴに入ることになります
なので、そういうエゴの考えが湧いた瞬間にそいつを観察しましょう
観察というか、エゴと自分とは違うという認識を意識しましょう
エゴを同定し、対象化することで、それは可能になります
エゴを観察できている時、あなたは願望実現を当然のものとしている立場にあるわけです
ロジックとしては、自己観察と同じです
一点注意が必要ですが、「自分は観察できているだろうか」という考えも当然湧くかと思いますが、この思考もエゴによるものです
こいつに惑わされないように留意しましょう
願望実現における自己観察は、あなたの意図をエゴから守るツールに過ぎません
なので、あなたが意図を保持しつつ、エゴの意見を採用しなければ、自己観察が出来ていようがいまいが関係ないのです
エゴと一体化しているうちは、観察よりも、もう少しアグレッシブな働きかけが有効になるかもしれません
感覚的には、エゴの考えを拒否する、取り下げる、放り投げる。そういった言葉で伝わるでしょうか
距離が取れれば、いずれ観察のみで十分になります
繰り返しになりますが、距離を取る、あるいは観察するためには、まずエゴを認知することが最重要です
それは、あなたの意図や行っているメソッドを否定する「全て」の思考と感情だと覚えておきましょう
願望を持つことで、むしろエゴが見えやすくなるかもしれません
エゴの意見なんて大切にせず、もっともっと雑に扱ってやりましょう
自己観察さんも引きこもり経験者って言ってたよね。
それはともかく、引きこもりという事象は思考の産物だよね。過去いついつから今日まで引きこもって、期間はどれくらいなら引きこもりになるんだろう?
同様に、今日夜寝て明日朝起きて、ってのが続くと勝手に想定してるけど、そんな保証はなくてこれもただの思考の産物なんだな、ってとこから別の領域がわかったよ、私の場合。
いまさらながら自己観察のやり方ですが、ただ単に思考に気づくだけでいいのか、それとも、思考を詳細に観察するのでしょうか?
例えば「エゴが◯◯のことを△△と言っているな〜」という感じですか?
>>134 意図は持っているのですが、なかなか実現できません。エゴの思考に引っ張られているのかもしれません。
そんな感じで生まれてから一度も恋人ができたことがないのでこのまま死ぬのかもしれないと思ったらすごい無気力になってしまいます。
そもそも実現しないということは、これは自分の意図ではないのか?と思ったりもします。
>>138 好きな人ができた付き合いたい!(意図)→お前じゃ無理だよ(エゴの声)→エゴの声を無視してご飯に誘う。→相手からの返事、ダメでした。
こんな感じなんですが、これはどうすればいいですかね?
>>137
こんばんは。
思考の内容を観るのか?
それとも思考を思考としてただ観るのか?
ということですよね。
例えば前者ですが、無自覚にがっちりと自分の中で観念としてしまっている考えを知りたい時に、思考の内容も観察します。
これは自愛等と同じ目線と言えるかもしれませんね。
そんな観念はいらないなと捨てることもできます。
後者は思考の内容がどうであれ、
それを「思考」としてただ観るだけ。
「お、思考だ」と気づいたら流れてしまいます。
私の感覚では、
観ているわたしという歯車と、思考の歯車が噛み合う前に消えてしまい、思考との一体化が起きません。
思考に巻き込まれないってやつですね。
私としてはまず後者を実践し、思考は自分とは別物であることをしっかりと知ることがまずは大事かなと思います。
その上で、普段社会生活を送る中で、自分はどんな観念と無自覚に一体化しているのか?と思考の内容をも都度観察するようにすれば、割と簡単にその観察を思考として手放すことができるのではないかと思います。
前者ができていないと、何が自分で何が思考かわからないですしね笑
✕→割と簡単にその観察を思考として手放すことができるのではないかと思います。
○→割と簡単にその「観念」を思考として手放すことができるのではないかと思います。
ご入力すみません…。
>>139
134です
私も10年くらい引きこもってましたので、お気持ちわかります
ですが、今は彼女と同棲してますし、引きこもってニートだった時期も彼女はいましたので、全然関係ないです
意図に関してですが、これは実現しなかったという事実とは関連付けられないものなんですよ
実現したから、あれは正しく意図出来てたってことなんだ!という結果論ではないということです
この理屈だと、願望が実現しない限り、私達は意図出来ないことになりますよね
また、自分が起こした行動とも無関係なものです
別にフラれようが、今まで付き合った人がいなかろうが、願望実現とは関係なくないですか?
私も何度もフラれましたし、引きずったり執着したりもしましたけど、意図は取り下げませんでした
フラれたという事実や、引きずってしまうこと、執着してしまうことを関連付けてしまうのは、自分がエゴを採用してるからに過ぎないのですね
そして、意図を取り下げてしまうと世界はそのように展開されます
自己観察で見て頂きたいのは、まさにこのプロセスなのです
彼女を作りたいという意図を持つと、フラれたから無理、今度は叶うかもなど様々な思考が湧くと思います
私が提案したのは、そいつらが湧いた瞬間に気付いて、距離を取ってほしいということでしたね
距離を取るとは自己観察的には、別の領域に立つことに繋がり、私が提案したメソッド的には意図が実現する立場に戻る、ということになります
そして、気付く、認知するという段階が特に重要なプロセスであるとも述べました
気付いた瞬間、それは対象化され、自分自身ではなくなるからです
再三申し上げますが、「恋人を作る」という意図に反する思考は「全て」エゴです
これはフラれたという事実から発生する思考であってもそうです
いくら世界があなたの意図を否定しても、それはエゴでしかありえませんし、あなたが何を採用するかという問題に世界は干渉できないのです
悲しいことですが、izVkY.wI0さんにはまだまだエゴがたくさんまとわりついているように思います
もっともっと、自分の意図を大切にしてほしいです
意図を発する事の出来るあなたという存在は、エゴなどというしょーもない塵芥に翻弄される存在ではないんですよ
もっと大胆に、エゴの意見をゴミ箱に放り込んでやってください
そして、あなたご自身こそが力のある存在そのものなのだと、もっと認識してほしいです
>>142 ありがとうございます。意図を取り下げないということは具体的にはもっと好きな人にアタックしろということなんですかね?
でも連絡は返ってこないし、これ以上連絡して嫌われたくないですし。
↑これがエゴなんですかね?
実現してない=意図とは関係ないとはどういうことなんですかね?
彼女がいなくても幸せな状態になればいいという感じですかね?
>>143
意図ってのは単に私は恋人を作るって思うだけですよ
その上でアタックしたいならすればいいと思います
ひょっとして、アタックしなければ恋人は出来ないと思ってませんか?
別にアタックして恋人を作るって意図をしてもいいと思うんですが、個人的には単に恋人を作るって方が楽でいいかなと思います
意図さえ取り下げなければ、なんもしなくても、恋人は出来て良いのです
なんもしなかったら無理だよと思ったら、そいつがエゴです
>>143 で書かれた例ならば、そいつらがエゴですね
アドバイスしといてあれですが、そこらへんの認定はご自身で力強くやった方が理解は早くなると思います
私のアドバイスを採用するかどうかもあなたの力に委ねられてるわけですからね!
実現してないと認定するということは、無意識にエゴの意見を採用してる=意図を取り下げてるわけです
なので、実現してるかどうかとは関係なく、意図は保持しておきましょうということです
現実がいかに絶望的な状況だろうが、そんなことは願望が実現することとは全く関係ないし、そのような視点を持ったらいかがでしょうかというのが私の提案です
幸せでありたいという願望をお持ちならば、>>143 さんの言う通り、何も関連付けずに幸せであるという意図をすれば大丈夫です
でも彼女いないじゃんとエゴが突っ込んできたら、うるせー黙れと一蹴するか、観察して距離を取れば良い
自己観察の本来のやり方はそっちですね
>>144 孤独で苦しいですが、これもエゴの声だとガン無視して距離を置きたいと思います。ありがとうございます。
あげ
おはようございます!
菩薩さんおすすめのダイレクトパス読んでます。
今日目覚めたら音がダイレクトパスしてました。
気づきは
見られるのを待っている色はない
聞かれるのを待ってている音もない
嗅がれるのを待っている匂いもない
味わわれるのを待っている味もない
触れるのを待っている物もない
色は私
音も私
匂いも私
味も私
物も私
すべて私
そうは言っても、そんなわけない!って言うエゴの声を無視するだけなんでしょうけど、記憶を使って痛いとこ付いてくる笑
行ったり来たりするし、本は半分も進んでませんが探究って楽しいんですね。
>>159
ご無沙汰しております。
わ!ダイレクトパスの本も買われたとは!
ハーディングの実験をより突き詰めた感のあるアプローチですよね。
しかしその探究心には脱帽です!
おっしゃる通り、探究は楽しいんですよね笑笑
私もそうでした。
世界は平面なんですと前に言いましたが、今はどうでしょう?笑
ぜひダイレクトパスでの気づきを引き続き共有お願いします!
一休さんはカラスの声を聞いて大悟したそうですね
>>160
平面なのが分かりそうで分からないです。
平面と分かると現実にリアルさ、重みを感じなくなるのでしょうか。
なんで距離を感じてしまうのかなーと言う疑問は常にあります。
視覚だけに頼れば一枚の絵のように感じるときもありますが、動いたりしてると奥行きを感じて元に戻ります。
ダイレクトパスを練習してたら分かるようになりますよね?
他におすすめの方法がありましたら教えて下さい。
>>162
あ、平面というのは難しい話ではなく、
『視覚だけをよく観察してみると、「視覚」そのものに奥行きという情報はどこにもなく、それでも奥行きがあると知っているのは記憶によるものである』という意味です!
世界の色彩自体には、遠い近いがないことに気づくと「ほぉ〜」となるかもしれませんね。
ただ「ほぉ〜なるほど〜」程度のことなので、もし気になって仕方なくなっていましたらすみません…。その程度のお話しです笑
>視覚だけに頼れば一枚の絵のように感じるときもあります
と書いておられるのですでに理解されてるのだと思います。
でもしばらくそこに浸りたいということですよね?
私流ですが、どこか静かなところで自然のもの(花や自然の風景など)をただボーっと見つつ、自己観察でエゴに気づく。
エゴは気づいたそばから出てきますのでそれもどんどん気づく。分析しようとするエゴとかですね。
そうしていくと「こちら側」であるエゴが小さくなり、あちらとこちらが曖昧になる瞬間が起こると思います。
ダイレクトパスでも同じような体験が起こると思いますのでじっくり取り組んでみて下さい〜!
「視覚」で思い出しましたが、
私というエゴは幻想であることを知ることができる観察を書いてみます。
過去にも何回か書いたような気がしますが笑
「視覚」には奥行きという情報はないと書きました。
また「視覚」には音、味、感触、思考と言った他の情報(視覚以外の五感)もないことが観察するとわかります。
まるで視覚は視覚だけでただここにある。
同じく「聴覚」。
音それ自体にはその他の五感は含まれていません。
感触も思考もそうです。
よく観察してみると、それぞれの「感」が独立している。
それら「感」をまとめて「私」というエゴをまるで蜃気楼のように立ち上らせているのは「イメージ」です。
よく思考とか認識とかで私は表現していますが。
そのように観察してみると、「私」という芯のようなものはなく、それぞれの五感+思考という『六根』が集まり「私」を形成しています。
まるで「私」とは、部屋のようなものです。
壁は壁で独立している。
家具は家具で独立している。
でもそれらをまとめて「部屋」と私達は認識し呼んでいる。
でも「部屋」という確固とした実体はありません。
それはイメージですね。
>>163
>>164
ご丁寧にありがとうございます。
またしばらく実践に励みます。
>>165
ぜひ探求続けてみて下さい!
探求は楽しいですもんね!笑
暇なので同じことを角度少し変えてつらつらと書いてみます笑
私たちは普段、五感を総合的にまとめあげて「現実」として捉えています。
普段当たり前のように五感+思考(六根)で現実を感じていますが、改めて六根をひとつひとつ観察してみると、上にも書きましたが五感ひとつひとつには別の感の情報は含まれていません。
それらを総合的にまとめて「現実」と認識しているんですね。
そしてその「現実」として捉えている感の中に「私」(エゴ)があります。
今現に、実感している自分のこの身体や思考も、六根に起こっている感覚であり、そしてそれが私たちの現実ですよね?
もし六根がすべて消えてしまったら、「私」も消えてしまいますしね。
なのでバルゴのシャカの天舞宝輪を喰らっても苦しいどころかエゴが消えて平安の境地に入るのが本当のところです笑
じっくり六根を観察すると現実とは、この「ここ」「場」に六根としてポワっと、浮かんでは消え、浮かんでは消え、をしている様子を観察することができます。
この六根の「浮かんでは消え」が起動されている時を普段私たちは「意識がある」「起きている」と言っています。
より微細にポワっとを観察してみると、実は電光石火のごとくバババババッ!と、「生滅」をしており、お釈迦様の言うようにまさにこの世は「諸行無常」です。それを目撃できます。
ここで重要なのが、六根のひとつである思考、つまり「イメージ」もしっかり観察することですね。
気づいている方もおられると思いますが、思考にはおしゃべりの思考と、イメージの思考があります。
イメージの思考がよく言われる「認識」です。
何かを見たり聞いたりした時に一瞬脳内に現れるアレです。
これを後付説明してるのがおしゃべりの思考。
さて、
上記が理解できると六根それぞれ別個に観察できてくると思います。
理解できればそんなに難しくはないはず…。
それら六根をひとつずつ観察し、
その途中で例えば「ではこの視覚を見ている私はどこにいる?」と観察の注意を「私」に向けた時、どうなるか?
おそらく初めは「私のイメージ」を見ると思います。
それは自分の顔のイメージだったり、もっと削ぎ落として「あちらとこちら」の「こちら」を見るかもしれません。
それを、「これはイメージである」と観察し、改めて「このイメージを見ている私はどこにいる?」と注意を私に向けた時、体感として私の不在性に気づくかもしれません。
もし気づけない場合、そこには本当に「見ている私」はいるのでしょうか?
そこには視覚と、イメージという感しかないのではないのでしょうか?
をじっくり事実だけを観察してみる。
また、六根それぞれに前後の奥行き、距離はあるでしょうか?
すべて「ここ」としか言いようのない場で起きていないでしょうか?
あちらもこちらもないのではないでしょうか?
視覚を見ている私がいるのではなく、「視覚が視覚を見ている」。
ハーディングの実験をされている方でしたらよりわかりやすいかなと思いますし、よりエゴが幻想であり私=世界であることを理解することができると思います。
>>167
ここでいうイメージは認識の変更の「既にある」の物理的にあると同じになります?
>>169
ここで言うイメージとは本当にただのイメージのことです。頭にほわんと浮かぶやつですね。
あるいはレッテルともよく言いますよね。
で、既に在るですね。
「物理的」と普段表現することは多いですが、これを先程の視点で見てみると、全然物理的ではないことになります笑
例えば車が目の前にあるとしたら、
この視点で見ると、
①四角いピカピカの何かが「視覚」に現れる。
②視覚に肌色の細長い何かがニョキっと伸びてピカピカした何かに重なると(つまり手のことです)、「ヒヤッ」として「カチカチ」した「触覚」が現れる。
③そして『これは道路を走って便利だけど、たまに危険な「車」だよー!』という映像が一瞬でイメージ(思考)として現れる。
④最後に上記を「思う私」というイメージ(思考)で現れる
上記4点が揃い、『車を触る私』という現実が見事出来上がります。思考内で笑
「物理的」という表現は、要するに六根に感として現れることを言うと思います。
これらすべての感はこの何もない「場」で起こっている夢みたいなものです。
夢なのですからこの「場」を夢を映すスクリーン兼映写機として考えると、この世のものすべてが「既にある」と言えるのではないでしょうかね?
質問の意図に沿ってますでしょうか…?笑
>>170
ありがとうございます
質問の意図とはちょっと違いますね…
よくいう、認識の変更した人の「既にある」の感覚が知りたいです
既に得ているの感覚とかですね
>>171
違いましたか笑
すみません…。
既に在るという表現は人によって解釈がだいぶ違うんですよね。
見えないけど実は既に叶っているという意味での既に在るだったり、意識にすべての出来事が既に在るだったり(既にあるから認識できるみたいな)、またこの意識のことを在ると表現したり。
私の場合は既に在ると聞くと、この世界のすべてはこの「場」という意識上で起きており、既に知っているから世界の全てが存在する。だから既に在る…派ですかね。
これを知りたいなら自己観察がおすすめです。
>>172
ああ、なるほど。
それでしたらアファ一択かもです。
度々書いてますが、認識はエゴの作用というのが私の考えです。
つまりエゴが「これこれこうだ!こうに違いない!」となれば、現実もそのような方向に向かいます。実際そうだなと思うこと多々ありますし。
もちろん100%ではないですけどね。
「実際私は持ってるんだい!」と認識を持って行くにはアファが良いかと思いますね。これも昔やりましたがけっこう骨折れますけども笑
>>174
何度も恐れいます
アファですか、ここがよく実践とか意図を撤回しないとか言われるところですね
認識も認識の変更もエゴだというのは理解してきました
抵抗してるくるのもエゴですよね
>>175
いえいえ暇なので大丈夫です。
抵抗してるのも自分ですね。
自分でアファ一択です!と言いながら、昔を思い出しました。
けっこう大変ですよね笑
アファがんばれ言われても既にやってるし!キツいし!忘れるし!
よくわかります。
意図撤回しないとかも正直難しくないですか?
普段あまり自己観察実践以外のこと書かないのですが、お盆なので特別に…。
私の個人的な話ですが、勝手に進めます笑
エゴをそっち(希望する自分)に持っていくには、まずはとっかかり現実的な対応をするのが良いと私は考えています。
「えー」と思うでしょう!笑
でもそうなんです。
例えば私の場合ですが、もうかなりのオッサンです。膝痛いです。
普段自己観察だなんだと言っていても異性にはまだまだモテたい!爆
という思考も観察しつつ「異性と楽しく過ごしたい」というエゴに負けて、お洒落には手を抜かないようにしています。
髪は週一で切りに行き、常に天然香料の自然な香水も付け、1時間毎にビオレシートで顔を拭き、加齢臭はシャットアウト!(これは若い時から)
格好ばかりでもダメなので、肝心なコミュニケーション能力。
これは自己観察でオープンハート。
らくらくクリアです。
このように現実的な対応をしていると、
何かのタイミングで「え!来た!」ってことがあるんですよね。
「あれ!?俺ってもしやまだまだイケる!?」「モテてる!?」
とエゴがなればこっちのもんです。
あとはどんどん自分をおだてて行けば本当にどんどんモテるようになり「俺はモテる」に到達することができます。
これってつまり、エゴの認識を変更した。ということと同じですよね。
努力としてはアファと同じくらいの労力ですが、お洒落は楽しいので苦ではありません。お金かかりますが…。
「ここで腹括らんと!」いう時に「いやー、俺って昔からダメだし…暗いし」みたいな思考が行動をストップさせますが、私には自己観察があります(ムフフ…)。
なのでお断りされて「あぁぁぁやっぱダメだ俺〜!」という思考もスルーで立て直し、「次!」行くのです。
以上はほんの一例ですが、
あなたのおっしゃる「既に在る」へほんの少しでも向きを変え、あとはうまいこと自分を持ち上げていければ、実現するのにメソッドや何やらは必要ないかもしれませんね。
ちょっとの自信が運命を変えるんですよね。
今日は喋りすぎたのでこの辺で笑
ではでは笑
自己観察とかを続けてて気づいたんだけど、
自分には◯◯がない、◯◯が欲しい!って渇望してる時、
本当に自分を苦しめてるのは「◯◯がない」という現実じゃなくて
自分自身が「今の自分では◯◯を持っていてはいけない」と認定してることだったよ。
不足の認定をしてるのは自分だと気づいたから
「じゃあ自分は◯◯を持っていて当然の人間だって認定すればいいだけじゃん」
と思ったら渇望感がスッと消えた。
で、自信とか満足感とかが勝手に湧いてきた。
「叶ってないのは自分が実現を許してないから」ってこういうことだったんだな。
自分の場合だけどただ安心感に浸っててもあんまり変化がなかったのは
無意識レベルで望まない認定をし続けてたからだろうなって思う。
自分の場合はエゴに乗っ取られるような感じ
別の領域が分かりました。ここにいるとすべてがただ通り過ぎて行くというか、気にならないというか。
菩薩さんが観察中のエゴに気づいてくださいと言われていたのがやっと分かりました。
他スレで紹介されていたホールネスワークをやったのですが私の場合、思考に気づいている私、その私に気づいている私、さらにその私に気づいている私が別の領域でした。
人によっては気づいている私が6つくらいあるそうなので別の領域が分からなくて往生している人は試してみたらいかがでしょうか。
ここに居て任せとけば現実は勝手に整っていくよという話だったと思うのでしばらく様子見ます。
>>179
こんばんは。
別の領域がわかりましたか!
わかってしまうと、実はいつも居た場所であると気付いたかと思います笑
観察の思考については、そうなんですよね〜。
これに気づかないと自己観察したフリになりがちなんですよね。
ホールネスワークとは初めて聞きました。
なんか面白そうなので私も調べてみようと思います!
シェアありがとうございます!
>>180
>わかってしまうと、実はいつも居た場所であると気付いたかと思います笑
いつも居たとは気づけませんでした笑
いつもあったんだなという感じです。
その辺りが長く難民になる人とそうじゃない人の違いでしょうか笑
>>181
そうですね〜。
いつも居た(エゴがここに居た)より、いつもここに在った(エゴも含めて、全部ここに在った)の方が表現としては正しいかもですね!笑
ちなみに長く難民になってしまう原因?というは、別の領域と自分を分けてしまっているから、ということでしょうか?
>ちなみに長く難民になってしまう原因?というは、別の領域と自分を分けてしまっているから、ということでしょうか?
菩薩さんのレスの>これに気づかないと自己観察したフリになりがちなんですよね。の通りです。
別の領域に気づいたフリになりがちです。
>>183
あ、そういうことでしたか!
話し噛み合っておらず申し訳ありません笑
エゴは巧妙と言いますが、ひとまず数分でも良いので思考全部気付いてやろうという心持ちがあると、気付くところですね。
段階があるのでまずはざっくりでも思考に気付くことからがスタートになりますけども。
>>184
>エゴは巧妙
>段階がある
そう思います。一気に進みたい終わらせたい気持ち(エゴ)がありますが、地道に進みます。
おはようございます!
いつもの私です。
夢も現実も同じ場所で起きていて
夢も現実もすべて私が創っている。
夢なんだからなんでもあり。
ってことでいいですか?
>>186
こんにちは!
私もいつもの者です笑
>夢も現実も同じ場所で起きていて
>夢も現実もすべて私が創っている
その通りですね。
すべてこの「場」「気づき」「スクリーン」で起きています。
なので何でもありはありですが、
倫理観に反すること、肉体を傷つけること、はやらない方が良いでしょう笑笑
カルマというと何やら怪しい響きですが、エゴとして生きている以上、エゴが感受した想いはデータとして溜まって行きどこかで世界に反映される。と私は思います。
夢の中で感じた想いが、夢の次の展開に反映されるという点で、現実も夢も同じだなと思います。
なので自分の創る世界に感謝し、優しいこと、楽しくなること、なら何やって良いかと思いますね。
>>187
いつもアドバイスありがとうございます。
おかげさまで大分進んだようですし、楽になってます。
悪いことはせず、良いことをして優しく楽しい現実を創っていきます。また、しばらく様子見ます。
>>188
楽になってきましたか!?
いや〜!本当に良かったです!!
私が力になれたかどうかは疑問ではありますが…笑
楽になった、生きやすくなった、ついでに叶っちゃった!みたいな方が増えて行くのは本当に嬉しいものです。
こちらこそありがとうございます。
>>189
ここに初めて書き込んだのが去年の10月か11月だったからもうすぐ1年です。
その間何度も諦めそうになりましたが、こうして実践を続けてこれたのも菩薩さんに相手してして頂いたからです。
まだ乗っ取られたり、乗っ取られようとするので実践を続けて様子見ます。
いつもありがとうございます。
最近気づきについて思うことありまして、書いてみました。
皆さんそれぞれ捉え方あるかと思いますが、参考程度に捉えていただけますと幸いです笑
よく「気付くことが大事」と言います。
また「気づき」という言葉もよく使いますよね。
これはそれぞれ別の意味で私は使い分けています。
「気付く」
気付きによって自分の認識が変わります。
ただ表面を理解しただけではなく、実際に色々繋がったり、自己観察で目撃したりして腑に落ちることのことですね。
「気付きがあった」の気付き。
よくレスでも見かける表現です。
ではもうひとつの「気づき」とは何でしょうか。
「透明なこの気づき」ともよく言いますけども。
結論を言うと、私たちはこの「気づき」があるから世界を構築できています。
ハッとあることに気付くの「気づき」。
原初の認識…。
私たちのこの「気づき」がなければ私たちの世界は存在できないのではないでしょうか。
「気づき」をもっと抽象度を下げて一般的な感覚で説明してみると、五感+思考と言い換えられるかもしれません。
目、鼻、舌、耳、皮膚があるから世界を感じられますものね。
これら五感で世界を感じ、そして思考で反芻して現実があると認識しています。
しかし、
目や鼻、思考など名前を付けて説明しますが、これら五感という肉体の器官は外側に本当にあるのか?
同じく外側にあると思える周りの世界もあるのか?
そもそも気づき自体に外側内側が在るのか?
外側内側関係なく「気づき」ますものね。
というこは、「気づき」は外側内側関係なく、
今ここにある全てではないのか…笑
例えば「目」で言いますと、「目で見ている」という当たり前の認識も、目の前の映像を思考・イメージを横に置いて今をそのままリアルに見た時、「目で見ている」という情報はどこにもありません。
「目で見ている」という感覚は記憶という「気づき」が起こしていませんでしょうか。
目の前(便宜上そう表現します)にあるのは色とりどりの「何か」が、「気づき」と共にただここに在る。
それが今ここでの真の現実ではないでしょうか。
「気づき」そのものが、色とりどりの「何か」そのものではないでしょうか。
記憶思考でさえ、いろいろとイコールで情報を繋げなければただの「気づき」です。
「気づき」=「何か」
「気づき」=「何か」に満たされた私たちの世界は、時に色や形や匂い感触に姿を変えて現実として現れます。
この「私」の肉体も思考も、この「気づき」が変化して現れている。
とは言えないでしょうか。
一個人である「私」が気づきに気付いているのではなく、遍在する全てが「気づき」であり、その「気づき」そのものが「気づきに気付いている」。
気づきに気付く。
そのように気づきを自己観察にて観てみると、大きな発見があるかもしれませんね。
自己観察さんも、
観察していることに気づいているこれは誰なのか、
そこに気づいたのが始まりだった、みたいに書いてましたね。
気づき=空で色、と思ってます。
>>193
ありがとうございます。
そういえば自己観察さんも言っていましたね〜。
誰というと個を想像してしまいますが、気づきのみを注意深く意識してみると、本当にシステム的な何かみたいな感じですよね笑
こんにちは。
気づきに気付いてみてくださいと書きましたが、私も改めて気づきに気付いてみました。
やってみると、
五感と思考(自分の全部になりますね)をじっくりスキャンしてるような感じで、まさに自己観察です。
例えば何か音に気付いたその一瞬、
この時の気づきをよく観察。
この時、一個人としての私は在るのか?
その一瞬は、音がただ在るなと。
「ただ在る」って何だ?という話ですが、
その後で思考として一個人の私イメージが起こり、「私が音に気付いた」と認識している。
この私イメージがないと、音もここに「ただ在る」としか表現できないんですよね。
そしてこれら全ての現象は気づき上で起きています。
世界に顕れる私イメージを含む全ては、気づきが気付いているからこそ存在していると言えないでしょうか。
「気づき」と言う、まるで透明な水のような、エネルギーのような何かに全てが満たされており、それが私イメージ含め色とりどりの形で表現されています。
水=私であり、空=色である。
かっこよく言ってみました笑
これが実感されます。
いつもお話していることで大事なことですが、私が「気づき」に気付いているのではなく、私も私というイメージとして「気づき」に気付かれているという。
そのように私も気づきの顕れとして見てみると、真のわたしというのは、ここに遍満している「気づき」そのものであるとわかります。
私=世界ですね。
>>168
横
すごくわかりやすいです。
ありがとうございます。
私はストーカー被害にあっていたんですが、
自己観察やマインドフルネスをすると、ストーカーされにくくなります。
>>196
こんばんは。
伝わったようで良かったです。
ありがとうございます。
瞑想するとストーカー被害に遭わなくなるとはすごい。マインドフルネス、自己観察をした際の内面の変化などあったのでしょうか?気になりますね。
明日のことで気が重いという方がいたので気の重さについて考えてみました。
よく聞くワードですが、
「エゴが私にこんなことを言うんです!」
「エゴが私を苦しめるんです!」
という嘆き。
これを言っている私が、そのエゴ自身なんですよね。
そこに気付かないとずっと堂々巡りでして、ズーンとのしかかる心の重しやセカセカした焦燥感はなかなか消えないものです。
この「私に!」とか「私を!」とか言ってるのはこの私です。
「エゴに手を焼いているんです!」と言っているこの私が言っています。
私以外に誰が言うのでしょう?笑
そしてその私とは、「過去の経験の体験者」というイメージに無自覚に意識(気づき)が向いた時に起こる幻想です。
そのことを見破り、その「私!」をポイっと捨ててしまえば「私!」と叫ぶ者はもういませんので楽になる…
という単純な構造を体感するのが自己観察だったりします。
で、自己観察をしているとわかるのが、私という幻想に意識が向かなければ、日がな一日私が起こっているというものではないのです。
エゴが立ち上がっていない時というのは、例えば何かに集中している時とかですね。
ゲームやドラマ、YouTubeとかに没頭している時です。
寝ている時もそうですが。
自己観察でそれに気付くと人生の窮屈さが減ってきます。
よく気が紛れるとか言いますよね。
あれは紛れているのではなく、意識(気づき)がゲームの方に釘付けになっている。
もしくは「気づき」がゲームの映像や音になっているので、その間は「ピンチな私」が立ち上がらないので苦がないのです。
けっこうそのような瞬間は1日の間に何回もあります。
ゲームを止めると、意識はすぐに過去を参照し始め、私が立ち上がります。
そして私は自分が存続できなくなることを一番恐怖しますので、「ああ…ゲームなんてやってる場合じゃない!明日の宿題どうしよ!」となり苦しくなるんですね。
なんで宿題やらないことが私エゴの存続に関わるんだ??という話しですが笑
ここは掘り下げると明らかで、エゴの苦に繋がることは大体「私の死」に最終的には行き着くという。
苦に思うことがあったらどんどん「なぜそう思うの?」と自分に聞いて掘り下げると最後に「死にたくないから」となるかと思います。
ちょっと話しがそれましたが、
明日のことで気が重い方は、ひとまずエゴを対処しようとするのは止めてゲームをしましょう笑
それかギターでも弾くとか、絵を描くとか、瞑想でも良いですが集中できることならなんでも。
もちろん自己観察も。
今痛みなどに苛まれている方や戦時下の方はまた話しが別かなと思いますが、普通に暮らしていて起こる未来に対しての大体の気の重さや焦りは、その時になればなんとかなるものです。
「明日のことは明日の自分が何とかするさ」
「何とかならないなりに何とかなる」
とは阿部敏郎さんの言葉ですが、まさにその通り。
滅多なことでは死にませんし、今までだって何とかなってきたから今生きている。
だからこのくだらないレスをおうちで寛ぎながら読んでるんですもんね笑
集中も自己観察もできん!という方は、「まあ何とかなるさ」と張り詰めた気を緩ませ、今ふと楽になれば、明日も大したことにならないかなと思います。
むしろ予想してたより何だかうまく行くな〜笑
なんや知らんけど〜♫
というのが私が今まで経験してきたことですかね。
で、うまく行ったら感謝ですね。
感謝が一番心持ちとしては大事。
どなたかの参考になれば。
>>197
IDが違うから別の方かな?
自己観察などいろいろ試して気づいたことは、ストーカーが私を認識できるのは、私がエゴとして同化してるときだけ。
私が本来のあり方にあるとき、ストーカーには私のことがわからないようです。
私が本来のあり方にあるとき、ストーカーには私が思考を止めているように見えるそうです。
以前どなたかが「瞑想(マインドフルネス)は、盗聴のバリアになる」とおっしゃってましたが、まさにそういうことだと思いました。
私もまだまだ途中段階なので、別の領域とエゴのいったりきたりですが、少しずつ別の領域へと完全に認識を変更していきたいと思います。
>>199
108さんの荷を下せもこういうことなんでしょうな
で、下ろしてどうすんの?となってしまうんですがw
>>200
こんにちは。
スレで長文投稿しているのは大体私です笑
idがコロコロ変わっていて紛らわしくてすみません…。
別の領域に入っている時、本来の在り方にある時に気配が消えている…というか見えない?
これは長いこと自己観察を私もやってきましたが、本当に驚きです笑
そんなこともあるんですね〜…感嘆しましたが、
考えてみれば、この現実を自己が創っているという前提で本来の立ち位置になった時、「個人の私は幻想であり、確固とした自分はいない」という認識になりますが、その時、現実的に本当に個人の私は消えているのかもしれませんね。
ましてや相手はストーカーですので、相手の認知から消えたいという意図も働いたのかな?と。
あくまで憶測ですが。
ちょっとお釈迦様の神通や、摩利支天の隠遁術みたいな話しなので試したくなりますね笑
シェアありがとうございます。
私も試してみようと思います。
>>201
重圧とか重荷とか、私個人が堪えられない笑
それもありますが、知人が悩んでいて何か良いアドバイスがないかと考えていこともあり、なんとなく書いてみました。
重苦しい想いがあると一日中そのことで頭いっぱいで休日がダメになったりするのが私は嫌なんですよね笑
これが毎日続くと病んでしまったり…。
私も何年も重苦しい中で過ごしていて、この重しが足枷になって何も楽しめないし前に進めない経験がありましたが、
重苦しいのは外部のせいではなく自分の思考、私自身でした。
そして私が自分自身を攻撃していることに気づいたら人生軽やかになったんです。
今も重苦しいこともたまにありますが、切り替えが早い笑
ただ思考がすべて悪いとは言いません。
道具として使うべき時もありますもんね。
ただ、ちゃんと思考しないと人生酷い目に遭う!
と言いながら、その思考に苛まれている方も多く見受けますので、そこから自由になった風景も一度見てみてはどうでしょう?という提案でした。
これをうまいこと108式にも応用していただければと思います。
>>202
そうだったんですね。
いえいえ!むしろすみません。
たしかにそうかもしれませんね。
全体(本来のあり方)から気づくことによって、エゴと同化していたことで収縮していたエネルギーの塊のようなものが、サラサラと溶けてなくなるのかもしれません。
五感も思考の一種だから、気づくことで何かを認識する前になくなる。
「私が〇〇をしている」という認識が起こる前に、今にある。
全体であるから、その背景の一部として認識していたストーカーが、思考として私を認識するまでにいかないのかもしれませんね。
うまく説明できなくてすみません。
たしかに意図が働いたのかもしれませんね。
勉強になりました。こちらこそありがとうございます!
>>204
>五感も思考の一種だから、気づくことで何かを認識する前になくなる。
>「私が〇〇をしている」という認識が起こる前に、今にある。
素晴らしいですね。
五感も思考の一種と観たとは、かなり自己観察が進んだ方のようですね。
五感もそれぞれ名付けなければただの「何か」、私は単純に「感」と呼んでますが、何物でもないものを思考で名付けることによって認識しているんですよね。
また何か気付きがありましたらシェアお願いします〜♪
>>205
このままいけば、日中何かをしているときも、人と話している時も、ストーカーが私のことを一切把握できなくなると確信しています。
こちらこそありがとうございます。
後戻りできないと思える現実を間に当たりにすると、落胆と共に「どうにかしなきゃ!」「何か方法探さなきゃ!」などと心がジタバタするものです。
自己観察もそのような場面で試される場合が多いかと思います。
実際に思考を観察してみると様々な想いが浮かびます。
それをセオリー通りスルーしてみても、思考しないようにしても、それでもなぜかどんよりと胸が重い。
「この現実は幻想なんだ」と言い聞かせようとしたところで、どこか白々しい。
私も経験していまして、自己観察よりも自愛などの方が感情を収めることに向いているのではないか?と考えることもありましたが、あることに気付くと感情は瞬時に収まります。
それは、
「ジタバタしている自分」
「自己観察しなきゃと方法を模索している自分」
「思考を見ようと対処する自分」
「スルーしてもダメだと焦っている自分」
これら「エゴをどうにかしようとしているエゴ」に気付くことです。
自分にグッと意識を向けた時、どうにかしようとする自分や思考に気付きますが、もっと視点を拡げるつもりで全体の状況と、現実から逃れようとジタバタと方法を試行錯誤している自分に気付いてみる。
「別の領域に入るために自己観察をしようと努力する自分(エゴ)」に気付くと、スッと別の領域に入れ楽になる…というパラドクスみたいなお話しです笑
肝心の現実はどうなのか?と現実を確認したくなりますが、ここで希望通りに変化がないと元の木阿弥で感情が騒ぎます。また方法探しの旅に翻弄します。
楽になったらそのまま現実のことは現実に任せる。
「思考を観察しているのに楽になりません!」という方はここに気付いてみると良いかもです。
参考になれば。
「六根」という言葉がありまして、
何度かこちらでも出したワードではありますが。
これは視覚、嗅覚、味覚、聴覚、触覚の五感に、プラスして心を入れた6つの感覚のことを言います。
心はざっくり思考感情のことですね。
この6つの感覚が連動されて「私(エゴ)」が想起されると同時に、「私以外」も想起されます。
「左!」って認識すると一緒に「右」も自動的に想起されるみたいな話しです。
ただし熟睡中は6つの感覚が完全にスリープしてしまうので何も映らなくなってしまいます。
このスリープ状態の時も「ここに在る何か」が本来のわたしだったりしますが。まさにパソコンのスクリーンみたいな話ですね。
上記のように、そのスクリーンに五感+思考という映像が起き、「観ている私」と「私に観られているあの人」という分離が起こり現実として感じていますが、
そもそも視覚だけフォーカスしてみると、ただただ色を映しているだけの1枚の絵のような映像がここに浮かんでいるだけであり、「観ている私」と「観られているあの人」という情報はどこにもないんですよね。
観るものも観られるものもなく、
絵がここにただあるだけです。
なのに「私があの人を観ている」という感覚が漠然とあります。
ここで実験。
自己観察で、私と視覚に距離を置いてみる。
あえて「私」と「視覚」を区分けします。
そうすると私と視覚が別物であると感じてきます。
例えば、「これは私の視覚である」と確認すると良いかもしれません。
「私の視覚」なのですから視覚は私自身ではなく、いわば私の所有物みたいなものであることがはっきりしてきます。
次に視覚と同じように、私と思考の距離を置いてみる。「私」と「思考」を区分けします。
では、視覚でも思考でもなく、それらの所有者である「私」とは何なのか?
ここを観察していきます。
そうすると大体そこにあるのは、やはり六根のどれかではないでしょうか?
つまり「私」そのものではなく、「私」の所有物です。
それらをさらに区分けして「私」から引き剥がし「私」を丸裸にしていきます。
この私の場合、六根のうち2つの感覚に距離を置くと、残り4つの感覚も勝手に距離ができます。
伺い知れるのは、六根とはまるで本来の私が纏っている金属の鎧?のようです。
どれどれ鎧の中の本体はなんだろう?とさらに深く観察しようとすると、そこには…何もない!笑
鎧の中の本体は空っぽなんです。
ドラクエのさまようよろいかと笑
(実際に空っぽが見えるわけではありませんが、伺い知ることができます)
そして、鎧の中身の空っぽさと、鎧が現れる空っぽな場所は繋がっています。
空っぽという言葉は空虚さをイメージさせますが、実際納得することは「何でもあり」ということです。
宇宙のすべてがここで起きている壮大感と、「なんだーそんな仕掛けだったのかー笑」という安堵感。
自己観察で熟睡しなくとも実際にスクリーンを知ってみよう!というお話しでした。
>>207
>これら「エゴをどうにかしようとしているエゴ」に気付くことです。
これに気づき、
>「別の領域に入るために自己観察をしようと努力する自分(エゴ)」に気付くと、スッと別の領域に入れ楽になる
こうして別の領域に入ったとしても、
私の一部であるエゴの人生は、現状の望ましくない現実の展開に引きずられてしまう。
と考えてしまいます。(これもエゴの思考なのですが)
つまり、エゴに気づいたとしても、
目の前にある請求書は請求書のままで、困難な支払いをなんとかしなければならない現実はそのままだろう。
この請求書は、なにやら模様(文字)が印刷されたただの紙で、ただの紙が目の前にあるだけだ、
と解釈を解体したニュートラルな視点に立ってみても、
やはり支払いは発生するだろう、と考えてしまいます。
もし、そう考えることをやめられれば支払いは発生しないのでしょうか?
あまりにもエゴエゴな質問だとは自覚していますがww、
私はエゴではないと認識が変更されると、請求書は請求書でなくなるものでしょうか?
>>210
こんにちは。
ありがとうございます。
>もし、そう考えることをやめられれば支払いは発生しないのでしょうか?
これは非常に難しいご質問ですね笑
まあご自身がどう世界を捉えているかにもよりますが、私自身はいつもではないけれど、支払いが起きないこともある。
と考えています。
ただ、クレカ?でしたらそもそよ「後払いするもの」「しなければカード停止」「最悪自己破産」という認識が普通ならあると思いますので、いずれにせよ自分か家族かはわかりませんが、支払うことになると思います。
根底にある、人間として、社会人としてみたいな前提ってありますよね。
なぜかその時カード支払が起きなかったとしても、その後前提に従い、「システム障害でした〜」とか、「親が肩代わりしました〜」とかで辻褄が合うようになりますね。
そんな前提までも外すとなると容易ではないと思いますが、可能ではあるかなと。
その前に、自己観察の実践で支払いに対してもそうですが、人生に対しての恐怖心が減っていけば、自然と現実の辻褄も理に適いながら、局所的ではなく全体的にそのような悩みは減ってくると思います。
>局所的ではなく全体的にそのような悩みは減ってくると思います。
最後の部分、わかりづらいのでちょっと補足です。
支払いに対しての恐怖感が減ってくると、現実も恐怖するような状況ではなくなってくるということです。
例えば収入が上がったり、カードをあまり使わなくなるとか、どんな辻褄合わせになるかわかりませんが、自分の捉え方(エゴフィルターってやつです)が変わると現実も実際に変わってきます。
人間関係なんかは顕著に現れますのでわかりやすかったりしますね。
ただ「支払い」に対しての捉え方だけの問題ではないのかなと。
仕事だったり自分の能力だったり…あとなんでしょうか?いろいろな自身に対するレッテルが複雑に絡まって「支払い怖い」になってるはずですので、自分も含めたこの現実の捉え方全部ひっくるめて変わると、いろいろとスムーズになるかと思います。
横すみませんが、
思考を眺められるようになると、自分ってこんなものだというストーリーを演じてた、って気づく感じなのかな。
ずっと自己観察状態ではないのだけど、人間関係が何故か好転していたり、お酒やタバコが必要なくなったりなんてことがありました。あと、どうしようもないときに金銭的に援助してくれる人が現れたり。
自力でなんとかするよりも委ねることが出来るように、少しずつなってきた。
>>213
こんにちは。
>思考を眺められるようになると、自分ってこんなものだというストーリーを演じてた、って気づく感じなのかな。
そうですね。
自分ってこんなものだ、と客観的に観ている視点というのは、今まで自分と思っていた自分属性のフィルター(エゴ)から一歩引いた視点になります。
自分属性とは今までの経験から積み上げてきた記憶であり思考です。
それに今まで無自覚に従ってきたのですが、それって例えるなら服(しかも拘束服)みたいなものでして、極論ですが脱ぎ捨てることも着替えることもできるわけです。
「今ここ(実際の今です)」に在る時はそんな自分属性からは解放されているのですが、この先どうしようかと考えると無自覚に過去の衣服を纏ってしまい結果今までと同じような自分になってしまうという感じですかね。
今自分がこうしたいな〜と思うことがあったら、そんな拘束服に囚われずに自然に起こる意図に従って行けば良いというのが、自己観察での願望実現法と言えるかと思います。
なので「エゴとは別の領域」にいつも在れ、ということなんですね。
不思議なことに、エゴに囚われずにいると何故か意図通りな展開になったり、気付いたら前に意図していたことが実現していた、なんてことが起こったりしますが、それは経験されているんですね〜。
そのまま不思議は不思議のままで過ごしているのが楽しいですし一番だなと思います。
不思議を解明しようとあまり掘り下げない。
過去の経験をまた利用しようとエゴがしますのでね。
私が言うなという話しですが笑
>>214
10年くらい前からか、自分の意志で依存症は治らないというのを目にするたびに、どういうことなんだろう、理解したいなあと思っていたのですが、なんとなく腑に落ちた感じです。
不思議なままでおいておく、先のことはわからなくていい、というのは金言ですね。
レスありがとうございます。
>>215
腑に落ちたようで良かったです!
金言とは恐縮です笑
こちらこそありがとうございます。
知っている方も多いと思いますが、
別の領域(今ここ)に在れとは?
と思われた方もおられると思いますので補足です。
エゴとは別の領域という表現だと、何やら神秘的な印象ですが、これは「今」のことを言っています。
今と言っても現状とか現在ではなく、ほんとに今の「今」です。
試しに「ここ…今…」と呟いてみると何となくわかるかもです。
一旦スマホは置いて「ここ…今…」とゆっくりつぶやきながら、あちこちと落ち着きのない意識の向きを今皆さんが居るまさにそこに向けてみる。
そうするとそこに定まるような、落ち着くような、人によっては安堵が感じられたり。
いかがでしょうか?
「ああ、これか…」といつもの感覚で全然神秘的ではないですよね笑
「今」以外のどこかに居ることは絶対に出来ないのですが、思考が覆ってしまい本当の現実である「今」が見えなくなっているんですね。
常に霧の中を彷徨ってるようです。
自分の「現状」を考えるといろいろと問題や悩みはあるでしょう。
その「現状」とは結局のところ過去と未来に意識が飛んだ思考であり、夢想のようなものです。
それらを払いのけて「ここ…今…」を観てみる。
心配することは何も起きてませんよね?と言ういつもの達人のフレーズ通りかと思います。
「でもでも…」とすぐに前述を忘れて夢想に陥りがちですが、またまた「現状」を観ていることに気付くかどうか。
ほんとの「今」については考えたくても思考できないものです。
すぐ過去未来の夢想に耽ってしまうのは習い性ですから、そこから抜けるには自己観察の実践が必要となります。
思考を観ている自己観察の視点。
それが「今」。
過去や未来というものは今経験していることではなく、思考上だけで展開されるものですよね。
その過去未来の思考から離れた視点って、必然的に「今」ってことになりますよね?
また「過去をいろいろ経験し、未来について考える者」としての私(エゴ)も思考です。
「いや!私はここにいる!」と主張するその「私」について説明してみて下さい。すべて過去についての説明になるかと思います。
つまりその私(エゴ)という思考から離れた「エゴとは別の領域」も、「今」のことになりますよね?
なので「今」=「別の領域」
なんですね。
文章だと回りくどくこんがらがるので実践してみるとわかるかと思います。
一旦無思考に留まり、そこから思考が起こる様子を観察するのがわかりやすいかなと。
無思考(今)の時と、思考(エゴ)中の時のギャップ。
この違いに気付くと言わんとしてることがわかると思います。
「厚い雲の上にはいつも太陽があった!」みたいな気付いた人のいつもの表現が、まんまを表現しているんだなとわかります。
そして「これが本来の自分だったのか!」とエゴが腹落ちしたら、ハイ!自分に対する今までの認識が変わりました!認識の変更の完了です!笑
あなたはこの世界そのものだったのです!!
これで晴れて今までのうだつのあがらない自分とはお別れですね〜♪
うだつのあがらない自分とは過去の経験であり思考だったと気付きましたもんね。
そんなものは引きずらなくてOK!
なんて風にすぐに納得できないほどエゴは強力でして、すぐに習い性で元通りになりますので、何度も別の領域に浸ってみてください。
もう知ってる方も沢山いると思いますが…。
いかがでしょうか笑
単純に人生相談なんですがさせてください。好きな人と付き合うにはどうしたらいいですか? 簡単に言うと好きな人から好かれていないんですが、その人といると世界が明るくみえたり、その人いる時だけ自分のことを好きになれます。もう5年以上前の話です。しかし付き合うことはなくそのまま離れてもそれ以降好きな人がまったくできません。なのでその人の事は今でも好きなのですが、相手は自分がいなくても幸せそうに生きているので、このまま相手が自分を必要としていない限り自分一生孤独のままなのかなと思ったりして辛いです。そういう人に出会えたのは奇跡ですが、それが故に苦しんでしまいます。
続きです。自我幻マンさんの記事を読みましたが、願望は叶うようにできている。って書いてありましたがあれは本当なんでしょうか?だとしたらなんでこんなに叶わないだろうと思ってしまうんですが、、、
>>220
> その人いる時だけ自分のことを好きになれます。
ここじゃないでしょうか。現実にその人と一緒にいないときに自分だけでしあわせを感じられるようになってくれば、現実にも立ち現れてくると思います。
>>221 それってどうやればいいのでしょうか?ひとりでいても何も楽しくないしその人がいなくても楽しむやり方がわかりません
>>222
・内面で彼とたのしくつきあっている状況を感じて感覚を先取りする、その感覚に調和する
・彼に愛を送る(愛を送るメソッドで検索)
・趣味などに没頭して充実感を得る
・食事やお風呂、睡眠のここちよさを意識して感じる
どれでも大丈夫です。日常を快、たのしい、になるべく保ってください。
>>223 すいません。無限ループになってしまうんですがそれができません。
>>224
こんにちは。
横からすみません。
>相手は自分がいなくても幸せそうに生きているので、このまま相手が自分を必要としていない限り自分一生孤独のままなのかなと思ったりして辛いです。
その人が自分を必要としない限り、自分は幸せになれないと限定してしまっていますね。
相手を好きなので気持ちはわかりますが、自分として一番良いのは、その人が自分を好きだろうが好きでなかろうが、自分はいつも幸せでいることだと思います。
その人がいないから私は不幸だと、気付きにくいですが、今ある幸せも全否定で追いやられてしまっているのは勿体ないなと感じます。
自己観察的に言うと、
「その人が手に入らない」という、過去の経験を基にした勝手な予測思考(接点がないからとか、嫌われてるかも…とかですね)が、あなたを不足に陥らせているのでその思考から解放されれば、あなたはその不足を感じることがなくなります。
そうなった時にその人がいてもいなくても幸せになれるかもしれません。
こう書くと「それじゃ相手を諦めろというのか!」となりがちですが、諦めるのではなく、その相手に対する高いハードルのような気負い?みたいな気持ちを無くすという説明がわかりやすいかと思います。
そうなった時に、私=世界なのですから「相手に気負いのない、不足のない世界」が現れます。
どんな風に現れるかはあなたの今までの世界への捉え方や、認識の要素によって発現の仕方が決まるのでわかりません。
もしかしたらその人と急に接点ができるかもしれませんし、もっと良い人が現れる場合もあります。
いずれにせよですが、その燻ぶる想いをしっかり掴んだままだとなかなか前に進みませんので、自己観察でも良いですし、上記の方がおっしゃっていることをやってみる。
私としては、初心者の方はセドナメソッドか、完璧認定がメソッドとしては良いと考えます。
自己観察は普段から実践していないとわかるまで難しく、本当に探求したい人や根本から考えを変えたい人向けなので、まずは上記の2つのどれかを1ヶ月くらいやってみると良いかと思います。
この苦しさは思考があるからだって気づいてしまった。
不思議なのは、こんな単純なことにどうして今まで気がつかなかったんだろうということ。
>>224
ttps://www.ug-inc.net/blog/sudanote/archives/1014
瞑想やってるけど100日経っても妄想雑念だらけで、願望リスト見てから瞑想しても
瞑想中にイライラしてきたり100日連続やっても瞑想で雑念に苛まれて願望イメージがぶれぶれだったのだけど
瞑想前にやっておくと何故か雑円が格段に減る
で、そのあと簡単に感謝ノート書いてから願望リストみて、それから瞑想してる
とりあえず頭の中の雑念を掻き出すようにアウトプットすると理由は分からないけど
そのあとの願望イメージがインプットしやすくなる
ネタ切れで書くこともなかったのですが、久しぶりにレスしてみます。
自己観察、完璧認定、自愛、無思考。
これらのメソッドに共通する相手は「思考」「私(エゴ)」ですね。
またこれらメソッドで到達する場所は「別の領域」。
どれやれば良いんだと悩むかと思いますが、メソッドの名称が違うだけでポイントはすべてほぼ一緒ではあります。
なら共通する要点だけやれば良いのではないかというお話です笑
もちろんオリジナルの方がやりやすいならそちらをやれば良いかと思いますので参考程度に。
ただ、原則条件として思考を捕らえられるかどうか。
思考が起きた時に、それを思考として気付けるかどうかが前提となります。
①思考に気付きます。
この時の思考の内容はポジティブ、ネガティブ関係ありません。
どんな思考もまとめて「思考」として気付きます。
②思考に対して「完璧」とラベリングします。
どんな思考に対してもです。
思考の内容に巻き込まれて思考に入り込むとポイント外しますのでここは重要です。
③②のラベリングに対して連鎖して次の思考が起こった場合も、その思考に対して「完璧」とラベリングします。
例えば「完璧!」のラベリングの直後に「何が完璧なの?」や、「完璧な訳ないじゃん」「意味わからん」などの思考ですね笑
またその思考に対してモヤモヤした感情が起きたなら、それにも「完璧」ラベリングです。
ラベリングしたことにまた「全然モヤモヤ消えない」とか思考は言いますが、ここはセオリー通り「このモヤモヤも完璧だ」ラベリングですね。
④「完璧」ラベリングの後の思考の隙間を意識します。
ラベリングした直後に「」(隙間)が在るはずです。
ここが「今」であり「別の領域」ですので見逃さず。
⑤④の隙間に居てもまた思考は起こりますので、すかさず完璧ラベリングをする。
①〜⑤を循環して実践となります。
上記をまとめるとすると、
「エゴとは別の領域の立ち位置から発生する思考に気付くことによってエゴと同化しないのと同時に、現実への完璧ラベリングにより自らの向きを決めている」でしょうか?
スマホをつい見てしまう癖があるなら、その時間を実践にあてるとなおベスト。
無思考フィールドから飛び立つ思考を「完璧砲」で撃ち落とすイメージでやるとゲームみたいで良いかもです。
これらをやってると、
普段「」に思考が覆ってしまっていることや、「」というニュートラルな現実に、自分の思考で白黒つけて方向性を決めそう判断していることなどわかるかと思います。
嫌なこと思う事象も、実は自分がそう現実にラベリングしているからそのような世界が創り出されている、私=世界が検証できるかと思います。
完璧とラベリングしたらどうなるか?
ぜひ検証してみて下さい。
思考の隙間大事!
>>229
こんにちは。
ありがとうございます笑
思考と思考の隙間には、創造の源泉である凄まじいパワーが在るとエックハルトトールが言ってましたよね〜。
イエス様は奇跡を起こす時、そのゼロポイントにいつも触れていたとかどっかで読んだ記憶があります笑
自己観察的に言うと、思考のないその隙間にある意識が本来の自分だったりします。
とりあえずなんか起こるかも、大きな気づきあるかもなのでやってみると良いかも?です笑
「別の領域に入るには?」
こちらで様々な別の領域への入り方を書いてきましたが、要はモンキーマインドに絡め取られないようにし、無思考、または思考に気付いている視点(これが初めはわかりづらい…)に在るだけ。
と言えるかと思います。
先日の思考を完璧!で前後裁断することによって「」(隙間)に気付くやり方も良いですが、慣れてないと「維持するのが難しい」という思考に絡め取られる場合があるなと思いました。
せっかく「」に気付いても、「これがそうか?」「また思考しちゃった…」とかとか、無意識に思考の相手をしがちではありますよね。
ここに気付くことができると、自己観察できている人かなと思います。
そこでもう一つ提案。
『思考の湧き出し口を観る』メソッド笑
これも自己観察です。
やり方は、
頭の中の思考が湧き出す場所を見つけ、思考発生の瞬間を見張る。です。
湧き出す場所はぼんやりでも構いません。大体この辺だろうなーという所を意識します。
そこから思考が湧き出ますが、やってみると思考に絡め取られないでそのまま流せるかと思います。
湧いてきた思考を小舟に乗せて、そのまま河口まで見送るような。
そんな表現が合いますでしょうか。
見送っている自己が、エゴとは別の自分(領域)です。
あらゆる思考過去記憶を脱ぎ捨てた今ここ。
私は「純粋な私」とも表現しています。
見送ったら無事送り出した自己に浸って、普段の自分と何が違うのか、そのギャップを観てみましょう。
そして生活の中で忘れたら、また湧き出し口を観てみましょう。
※詳しい方、いろいろ試された方は、
湧き出す場所のイメージは思考ではないか?
また見送っている自己もエゴではないか?
という疑問が起こるかと思いますが、その疑問は一旦置いておきましょう笑
この思考は別の領域へのガイドとして思ってもらえれば。
思考の湧き出し口を観る。
まんま自己観察ですが、いろんな切り口のひとつと捉えてもらえますとありがたいです。
現実ってまぶたの内側で起きてますよね?
>>232
こんにちは。
質問の詳細をもう少し詳しく聞かせてください!
現状言えるのは、まぶたもその現実の1つということです。
まぶたを閉じるというのは物理的に物事を遮断しているわけではなという感覚です。
頭がない方法の感覚が馴染んできたようで
頭があると思っていた位置に世界があった=現実ってまぶたの内側で起きてる?と質問しました。
>>234
実験が馴染んで来たとは素晴らしいです!
ひょうげん的には「まぶたの内側」となるかもしれませんね。
でも実際は、まぶたなどこちらからは見えず、風景が一瞬一瞬暗くなっては明るくなる。という状況かと思います。
またまぶたが閉じている瞬間も客観的には見れず、主観としては、何かが触れ合った感覚が起きては消えている。
それら一瞬暗くなったり、何か感覚が起きているのは、透明なこの気づき上でですよね。
なので表現としてはまぶたの内側で起きているでもOKかと思いますが、現実は気づきという意識上で起きている。というのが正確かなと思います。
>>235
ありがとうございます♪
>>236
こちらこそありがとうございました♪
さて、前にも書いたと思いますが、また「気づき」について話したいと思います。
「気付きがありました!」の「気付き」は、腑に落ちたとか、新たな発見をしたというニュアンスですよね。
その気付きとは少し違って、ここで私が話す「気づき」は、
「雨が降っていることに気づいた」
「空気が冷たいことに気づいた」
の「気づき」について。
これは普段、五感+思考の概念のどれかで現れています。
これが自分の本質だとしたら面白いですよね笑
普段私達は、この気づきがあるから物事、つまり現実を認識していますよね?
雨が降っていることに気づいた
空が青いと気づいた
猫が鳴いていることに気づいた
空気が冷たいことに気づいた
↑
これらは外側への気づき。
楽しいと気づいた
嬉しいと気づいた
悲しいと気づいた
不安だと気づいた
思考していることに気づいた
↑
これは内側への気づき。
内外ともにわざわざ「気づいた」なんて言わないと思いますが、瞬間的にこれらに気づいてますよね?
では、この気づき自体に内面、外面は本当にあるでしょうか??
この気づきは、周りの世界に気づくことのほか、この「私」自身にも気づいてますでしょ?
つまり気づきなければ、世界も私も存在できませんよね?
ということは、世界も私も、ベースである「気づき」上で起きているもの…なのではないでしょうか!?
また、例えば、テーブルのリンゴに気づいた瞬間と、リンゴが現れた瞬間は同時ではないでしょうか。(当たり前ですが笑)
ということは、気づきはリンゴであり、リンゴは気づき?
つまり、「リンゴ即気づき」笑
主客はなく、気づき=私を含めたこの世界すべて、なのでは?
これこそが自己の本質なのでは?
目に見ることも触ることもできませんが、ここには「気づき」が遍満していて、あれも気づきでこれも気づき…気づきしかない。
そんな風に世界を見てみると、何かに気付くかもしれません。
自己の本質は「気づき」である。
とつい先日書きました。
「私」ではなく「自己」と表現したのは、「私(エゴ)」も気づきのひとつであり、気づかれる方ですので分けて表現してみました。
例えば、自己である気づきが広大で静かな凪の海だとしたら、そこに起こる大小の波が、私(エゴ)や私以外を含めた現象全てである。
そのようにイメージするとわかりやすいかもしれませんね。
今現に、この私も様々なことに気づいています。
目前には色とりどりの部屋の風景が気づきの海に波打っています。
猫の鳴き声も気づきの海に波打っています。
風が語りかけます。
うまい!うますぎる!
もとい笑、風の吹く音も気づきの海に波打っています。
(どうでもいいローカルネタです)
外側だけではなく、私(エゴ)の呼吸、心臓の鼓動などの肉体感覚や、思考や感情も気づきの海に波打っています。
「これが気づき?」「で?」という波も起きていますよね?笑
この波にも気づければ、エゴに戻っていることを客観的に知ることができます。
このように気づきの海には、
私も世界もすべて、内側も外側もなく、波(現象)として現れています。
「これが一体願望実現とどう関係するんだ!」「叶う方法はよはよ!」と思われた方、
その波に気づけますでしょうか?
その荒れ狂う波に飲まれ方法探しに没頭すれば、気づきは望み通り次から次へとそれらしき波を起こします。しかしキリがないのです。
それに気づいたならば、そんな波はとりあえず置いておいて、凪の大海に身を委ねてみてください。
それが既にあることの表明にもなりますので。
でわでわ。
自己観察をして自分を遠くから眺めるようにしていたら、身体が動いて、歯の食いしばりが緩むとともに、自分がものすごく「寂しい!!!」って気持ちがブワーッと出てました。
その寂しさが、背骨の痛み、ヒリヒリ焼け付くような痛みのような感じなのですが、何度感じ切っても取れず、痛くてたまりません。
よく、感じきるとそれは終わると言われますが、感じても感じても中から湧いてきて終わりません。正直、痛いです。だからそれを感じないように、何十年も身体を硬くしていたのだとは思いますが、反動が凄い。
自己観察とちょっと違うのかもしれませんが、動けなくなるくらい背骨が痛くて、どうしたら良いのか困っています。
>>239
こんにちは。
え!何でしょうね?その痛み…。
よく私が肉体的な痛みがある場合にやる自己観察として、痛みを隅々までよく観察し、痛みそのものになる…などもありますが、いきなりできるものでもなく、そうこうしてるうちに悪化しても良くないのですぐ専門医に診てもらうことをおすすめします。
内容からすると、今までの精神的な抑圧が身体に出てきているのかな?とも考えますが、肉体的な疾患も考えられますので自己観察は一旦休止して医者に診てもらい、肉体的に何も問題がないことが判明したら、少しずつ取り組めば良いと考えます。
>>240
ご助言ありがとうございます!
変な話なんですけど、自己観察をやめると痛みが治まっていくことがわかりました。
多分、この痛みと一体化して何十年も身体にとっては当たり前になりすぎたのが、そこから離れてみて実はこんなにも(心の)痛みを抱えていたことが判明、、という感じがしました。
よく、抑圧している感情を再体験するために現実の出来事が起こるとかいいますよね。
それを避けるために一生懸命、自己観察していたのですが、もしかして余計なパンドラの箱を開けてしまったのかなとも思います。
ちょっとしばらくは、やめてみます。
少しずつやりなさい、ってことかな。。
でもこのことで、この自己観察をしようとする「自分」もエゴではないのか?という疑問も湧きました。
エゴから離れようとする意志、これはエゴとは違うのかな?
>>241
>変な話なんですけど、自己観察をやめると痛みが治まっていくことがわかりました。
今まで聞いたことはありませんでしたが、こうなると自己観察が原因としか言いようがないですね、、、。
もっとソフトな自愛などに切り替えた方が良いかもです。
ただ、今回のこともそうですし、抑圧している感情の再体験もよく言われていますが、自己観察的には、それらはエゴによって関連付けているのではないか?とも言えます。
関連付けしているエゴにも自己観察で気付いた時、もしかしたら収まるかもしれませんが、今痛みが出てるなら休止が一番かと思います。
>でもこのことで、この自己観察をしようとする「自分」もエゴではないのか?という疑問も湧きました。
エゴから離れようとする意志、これはエゴとは違うのかな?
自分=エゴですので、しようとしているのはエゴですね。
エゴから離れようとしてるのもエゴです笑
エゴは苦しいと結果的に自分が消滅してしまうようなことにも飛び込んでしまうんですよね。
またそのような、何か大きなフェーズに入ったことによりエゴが突き動かされているとも言えますね〜。
そうなると探求が止まらないんですよ笑
>>242
ありがとうございます。
そうすると自己観察って、結局はエゴの欲求なのかなぁ。
本当はエゴから離れる行為なのだろうけど、その離れようとする意志はやっぱりエゴっていう、、結局「エゴから離れるゲーム」を繰り返しているような気がしてきました...
そりゃそうだよ。
エゴは悪いモノだから離れないといけない。という前提がそもそもみんな間違っている。
別に悪いモノでも良いモノでもない。
その時々でエゴを悪いモノ良いモノと私達が判断しているだけ。
上の方で悟った風なこと書いてる人だってエゴで理解したことをエゴを通して書き込んでるだけ。
この気づきは良い事だ!と思ってるのもエゴ。
だって自己観察して気づいたはず。全てのことに意味はない。と。
それなのにまたこれは良い!悪い!とやってる。
悪いモノは排除や!更に自己観察!と一生ループ。
気づきを得たらすごいみたいな風潮、このスレに限って言えば自己観察できたら凄い、出来たら願いが叶うとか全部普通にエゴでしかないんだよ。
エゴからくる願いを叶えるために、エゴを引き剥がそうと躍起になってるという事をよく考えた方がいい。意味わからんことしてる事に気づくはず。
じゃあどうしたらいいか?
エゴから離れることではなく、エゴの存在を受け入れて共に生きていくんだよ。
>>243
こんにちは。
もう少し内容を詳しく教えていただいてよろしいでしょうか?
どの変に落胆されているのでしょう?
>>245
レスありがとうございます。
何か、何をやっても結局、叶わないのかなって。。
結局、エゴが強い人の方が願いが叶ってませんか?
今日の人事異動を見てもそう思いました。。
>>244
同意
エゴもネガティブも悪くないよ。悪いと思ってるエゴに乗っ取られてるだけ。それで自分の一部を否定してたらいつまでたっても変わらん
何一つとして悪いことなんてないってことに気づかなきゃずっと自分を否定して分離してることになる
>>246
>>246 さんが落胆されたのは、
無力なエゴがエゴを観察しているから意味がないと捉えられたのかな?と思いました。
何かメソッドをやって叶うということではなく、メソッドをすることによってエゴの物事への捉え方(認識)が変わり現実にそれが現れる、と言った方が良いかなと思います。
例え話ですが、
映写機なんかはただ透明な光しか発しませんが、そこにフィルムを通すことによって映像を映し出します。
私達の源泉もそうでして、無色透明の光を発しており、そこにエゴを噛ますことによって色とりどりの現実が起こります。
なのでエゴはフィルター、もしくはプリズムのようなものによく例えられますね。
今どのようなフィルムを噛ましているか?外側、内側、今現れている現実を見れば明白かと思います。
そこを客観的に知ることによって、
その認識から離れられ無効化されます。
その仕組みは長くなるのでここでは割愛しますが、思考にどっぷり浸かっていると自分が見えなくなりがちなんですよね。
「エゴ観察だとダメなのでは?」
「何も叶わないのでは?」
「エゴが強い人が叶う」
そのような認識のご自身に気づいてみましょう。
ハッ!となることも多いと思います。
ちなみにですが、
色々叶いますし、エゴが強くなくとも叶いますよ。
そのうち何を思ってようがどんな自分だろうが叶う認識にもなります。
もちろんエゴエゴで邁進して人生切り開くのもひとつの手段なので良いと思います。
自己観察に限らず、色々試されると良いですよ。
ではでは。
上級者さんの素晴らしいレスの後で恐縮だけど自分のような凡人の解釈を書かせて欲しい
エゴと一体化しているとパニック映画を見て映画の登場人物と一緒にパニックになってる状態
自己観察する事で「今はパニック映画を見ているな」と一歩引いた状態になれる
すると「役者の演技が素晴らしい」とか「CGが本物そっくりで迫力あるな」とニュートラルな立場に立てる
>なにをやっても叶わない
叶わない世界を自分で創造してそれを叶えてる
どこかの謎のパワーで叶わない世界を創造しているんじゃなくて自分の潜在意識が「なにをやっても叶わない」という意図通りに叶わない世界を作り出してる
つまり叶わない世界を作り出せているんだから叶う世界にすれば良い
要するに「ある」方に焦点を当てればいい
そうすれば望んでない現実を見ても「叶わないが叶ってるな」と落ち着いて「ある」に戻れる
>>249
私の感覚だけど
「役者の演技が素晴らしい」とか「CGが本物そっくりで迫力あるな」
→これニュートラルじゃない
パニックになっても別にいいやってなる
素晴らしいとか迫力あるなとかならない
「叶わないが叶ってるな」
→これもう一歩すすもう
不足はないから何かが叶ってる
叶ってないが叶ってるじゃなくて、自分にとって都合いいことの何かが叶ってる
何が叶ってるかの視点で見る
叶ってないって言葉を使わない
そうすると願望認識する前から叶ってるじゃんって気付けるタイミングくると思う
>>249
書かせて欲しい→聞かせて欲しい
だと勘違いして自分の感覚(>>250 )書いちゃった
まじ何様って感じよね。余計なレスでした
ごめんなさい
>>249 「ある」に焦点を向けるってどうやるんですか?例えば愛されていない現実を目の当たりにした時に、「ある」を感じるには愛されているという経験をしないと、「ある」を感じることはできないと思うんですが。
それとも現実で「ある」という現象を経験しなくても「ある」に焦点を当てることはできるのでしょうか?
>>248
246です。お答えありがとうございます。
仰る通りだと頭では理解しているのですが、
ふと疑問に思ったのは、そのエゴというフィルターを取り除く意志もエゴではないのかということです。
よく、「ある」に意識を置くといいますよね。
もしくはその無色透明な「無」が本来の私で、そこに任せるのが最強だと。
しかしそれにもそれぞれ意志が要る。
結局、意志の力が必要なのかなと思った次第です。
248さんは自己観察で願いが叶うようになったとありますが、どういう訓練をされていましたか?
>>253
こんにちは。
>ふと疑問に思ったのは、そのエゴというフィルターを取り除く意志もエゴではないのかということです。
そうですね。
フィルターを取り除こうとしているのもエゴです。でもそれで良いんですよ。
わかりやすくあえてエゴを区分けすると、
まず核に「私」というエゴがあります。
これは私の造語で「純粋な私」と呼んでいます笑
これはこの世界の経験の主体ですね。
それと、自分に関する「過去の経験」というフィルターがあります。
これに悩まされているんですよね笑
皆さんこれら両方ひっくるめて「エゴ」と何となくですが呼んでると思います。
で、自己観察で「別の領域に入る」とよく言いますが、ここでは過去を落とした、ただ私が在るだけの「純粋な私」に戻ることができます。
余談ですが、この「純粋な私」というエゴまで外れると世界が消えて無になります。またすぐに世界は戻ってきますけども、趣旨に反れた話しですすみません笑
で、
余計なフィルターを落とすに至ると、そもそもの動機(フィルターを取り除こうフィルター)も落ちるわけです。
動機も落ちますし、なぜ過去の経験というフィルターに振り回されてたんだろ?何も初めからすることなんてなかった!と気付く訳ですね。
このままでいいじゃんと。
この気付きは純粋な私というエゴが新たに身につけたフィルターですが、この界隈では「認識の変更」と読んでいます。
そのフィルター通りの現実を目撃するようになると思います。
> もしくはその無色透明な「無」が本来の私で、そこに任せるのが最強だと。
これも種明かしすると、そのようなフィルターを純粋な私というエゴか身に着けた。
というのが私の見解です。
「自分という無力な人間が努力で成し遂げるのは難しい、なのでサムシンググレートに任せればうまく行くんだ!」というフィルターですね。これも自作自演なんです。
しかし信じれば信じるほど強力に世界に現れます。
鰯の頭も信心からですね笑。
>248さんは自己観察で願いが叶うようになったとありますが、どういう訓練をされていましたか?
私はリアルタイムで自己観察さんのスレを見ていまして、自己観察に興味をもってやるようになりましたが、初めはまったくチンプンカンプンで笑
自愛や完璧認定、セドナもがっつり実践して通ってます。
自己観察さんの話が繋がったのは、ハーディングの実験がきっかけですね。
>>254
何度も丁寧に答えてくださりありがとうございます。
私はいわゆる「引き寄せの法則」や潜在意識を知ってかれこれ10年近くになり、実践もしてきましたが、あまり叶ったことはありませんでした。
むしろ、叶わないなー、という無力感を感じることが増えました。
引き寄せを知らなかった頃の本が、世間的にはうまくいっていたように思います。
一度、それまでの人生では一番というくらいの幸せな体験をしました。一方で、それが故に、まだ叶っていないことが目につく、気になるようになってしまい、それが潜在意識の世界を知るきっかけになりました。
しかし、それから不思議なことに、これでもかというような理不尽な目に遭うことが続きました。もうお気づきでしょうが、不足感からの願いだからです。
確かにその前に願いが叶った時は「もう何も変わらなくていい、このままで良い」と思った時でした。そしてその後、自分がそれまで知らなかった新しい世界に触れ、とても満足のいく生活になったのです。
しかし、潜在意識でもっと幸せになりたいと願った時、なぜかそれが突然なくなるようなことが起きました。
今ではあんな世界なんて知らない方が「足るを知る」ことができて今、幸せだったのではないかという思いがあります。
結局色々やってみて、潜在意識の世界、引き寄せの法則というのは「今に満足する」方法ではないかと思いました。
エゴで動こうが、そうでなかろうが、それを楽しいと感じているかどうか、ある程度の満足感があるかどうか、それが全てではないかと。
自己観察や元祖一式も不満の元になっている思考から離れる技であり、「今にある」方法。
すなわち、「私」を捨てる方法とも言える。
それを会得したのがお釈迦さま、ブッダなどの聖人なのでしょうが、彼らは別に金持ちになった訳でも、また社会的に恵まれた訳でもありません。
すみません自己観察からズレてきましたね。。
何を言いたいかというと、いわゆる現世利益を求めるなら、潜在意識を使うのは違うのではないかと思い始めたということです。
自己観察もあくまで条件に左右されない、心の平和を保つための一つのツールかもしれません。過小評価しているわけではなく、だからこそ息をするくらいに普通に身につけた方が楽になるのかもしれない、という意味です。
>>255
こちらこそ私のまとまりのない話を真摯に聞いていただきありがとうございます。
何というか、>>255 さんはすごくよくわかってらっしゃるんではないかなと思いました。
今回はかなり深掘りした話になってしまいましたが、「足るを知る」ことが最も大事だなと私も改めて思っており、一昨日も相談を受けた友人(潜在意識知識ゼロ)に、恵まれている境遇に目を向けて足るを知ろうと話したばかりです笑
しかし、一度足る以上を経験してしまうと、比較が起こってしまい難しいもんですよね…。
そういった意味では、おっしゃるように自己観察などで過去の経験から解放され今に在るように癖付けれられれば人生楽になるでしょうね。
私も元々は願望実現のためではなく、精神的に辛いのでどうにかならんかと自己観察を始めたんです。
特定の願望ではなく、なぜこんなに人生に悩むのか辛いのか、ただ楽になりたくて実践したのが動機です。
やってみると、探求や実践からの発見や、実際に楽になるのが楽しかったこともあり継続できましたね。
心が楽になりたいがそもそもの動機だったので、特定の願望への不足感もなく(というよりそれどころではありませんでした笑)、わりとスムーズに実践できたと記憶しています。
思考が心の重苦しさと辛さの原因だと気付き、起こる思考を観察し流していたら様々な気付きが起こりました。
そうすると物事の捉え方が変わり、行動も軽くなり、言動も前向きになり…と。
そして元々こうなれば良いなと思っていたことが、あれこれ叶いはじめました笑
願望実現のために始めると現実チラ見で内面に向き合えなくなりがちになりますが、そもそも心平和でいたいから願望実現させたいが根本にある訳で。
願望は欲を言うなら叶えばより嬉し。
願望はあくまで心平和になるための条件であり、実現しなくても問題なし。
みたいに、実現はあくまで心平和の副産物的な捉え方ができれば良いんですけどね〜。
>>251
いえいえそんな・・・
謝らないで下さい
「何が叶ってるのかの視点で見る」の件は思いもしなかった視点で目から鱗でした
本当にありがとうございました
「間違ってたら上級者さんが突っ込み入れてくれるだろう」と思ってたのでまさに251さんのレスを自分が引き寄せたのでは?と都合よく解釈しています
そういうことにしておいていただければ自分の引き寄せ成功体験にカウントできるので大変ありがたいです
>>252
現実で愛されてる経験がなくてもドラマや小説を見てで愛されてる主人公に共感した経験があると思います
自分の内側に「愛されてる自分」が既にあるから愛が知覚できます
そうでないなら愛が何なのかすら解らないはず
愛に限らず最初から「全てある」んです
だから願望が持てる
スマホ(既にある)があるからメール(願望)が届くみたいな感じだと思っています
だから現実での経験あるなしに関わらず「既に愛されてる私」でいればいいと思います
と偉そうに書きましたがまだまだ初心者なので間違ってたら上級者さんが突っ込みを入れてくださるはず(他力本願)
なので話し半分に読み流してください
>>256
ありがとうございます。やりとりさせて頂いたおかげで、なんとなく共通項が見えて来て嬉しいです。
>>実現はあくまで心平和の副産物的な捉え方ができれば良いんですけどね〜。
まさにその境地に行けたら最高ですね。
256さんが仰る「世界が消える点」、これは私も瞬間的ではありますが体感したことがあります。確かにそこにはこの世界はなく、もちろん自己や願望もない、平和で完璧な「無」でした。
そこに常に立ち返るようにすれば、少なくとも苦しみは和らぎそうです。
>>258
>>258
こんにちは。
>まさにその境地に行けたら最高ですね。
行けると思いますよ。
またこう書くと、これをクリア条件にしようとしてしまいますが、エゴも使いようで、「刺さったトゲを別のトゲで抜く。トゲで刺さったトゲを抜いたらどちらのトゲも捨てる。」なんて言われてますからね笑
やっぱりポイントは繰り返しになりますが「足るを知る」かなと。
実際別の領域や、うまくスポットにハマると、強烈な感謝の念がわき起こりますが、
これが今までと何の変哲もない、いつもの当たり前の世界に対して、もの凄い感謝の念と安心が湧くんですよね〜。
フィルターが「ない」から「ある」に焦点が定まるのだと思います。
なので私も普段からないない言っているエゴを観察(距離をとる)しつつ、意識して足る(ある)を探すようにしてます。
もちろんそんなことしなくてもOK認識ならそれに越したことはないですね。
>これは私も瞬間的ではありますが体感したことがあります。
>>258 さんも!?
予想以上に探求されてる方のようですね笑
私はインドのneti neti(これでもないあれでもない)の方法で、自分に対する記憶(名前、性別、国籍、年齢、などなどの属性)を1つずつ「これは私ではない」と否定し、最後に残る核みないな私を認識したら、それをポイッと捨てるとガクンと無になります。
エゴ=フィルターということが腑に落ちます。
ちょっと危険?戻らなくなったら?…とエゴが後で焦りますが笑
必須ではないので興味があれば笑
>>259
259さんはすごく達観されていて羨ましいです。
私は、ものすごく苦労して手に入れたものや経験、キャリアや学歴など、それを手放すのが凄く難しく感じています。
頭ではそんなものを持っている方が苦しくなると分かっているのにそれができないのは、実際にそれを持っていないことで酷い扱いされたり、軽んじられた嫌な経験がトラウマになっているからです。
259さんはそんな経験、ありませんか?
もしくは、経験されていなくても、そんな嫌な目に遭った時にはどう考えたら良いものでしょうか。
>>260
おはようございます。
達観だなんてそんな笑
この界隈にいる期間が長いだけです。
「これは自分ではない」は瞑想みたいなものでして、一時的にあらゆる自分属性を捨て去った自分(純粋な私)に一時的になる方法です。
記憶思考でこさえた鎧を脱ぎ去ることによって本来の自分に戻り、ホッと楽になる瞑想なので安心して下さい。
その間は過去から解放されますが、
数分もすればエゴが戻ってきていつもの自分になります笑
>>260 さんは過去努力され、学歴、キャリアを確立されたんですね。
やっとのことで手に入れたものを失う恐怖に苛まれるのは仕方ないことだと思います。大事なものを失う恐怖はみんな持ってますよ。
私の場合ですが、苦労はだいぶしましたが元々大した学歴もキャリアもないので、自分の社会的地位を本当に失ってもまあそんなに痛手ではないです笑
そんな私の大して誇れないキャリアですが、本当に失ったことがあります。
続き。
話すと長くなりますが、
認識の変更が起きたら以前願っていたことが次々叶ったと書きました。
そのほんのり願っていたことのひとつに「仕事が苦しいから抜け出したい」がありました。
それまで頑張って休みなく働いていて、人間関係も最悪で周りは敵ばかりだったのですが、認識の変更が起きて楽になり性格がガラリと変わりました。
その後すぐにですが、昇格栄転したんです。
栄転先ではみんな協力的で業績も良く、社内でも注目と憧れの的だし、本当に人生の絶頂でしたね。モテモテでした。
そんな感じでカッコつけて調子乗っていたら、社内政治に巻き込まれて降格、左遷です笑
「あ!叶ってしまった!」と思いました。時間差でキタと…笑
普通ならここで落ち込み辞職を考える人もいますが、この時私はすでに認識が変わっていましたので、ほぼダメージなく左遷先では若い女の子達とストレスなく楽しくのびのびやってましたね笑
栄転先より楽しかった。
「あいつ問題起こして左遷されてきたんだぜ」って陰口言われたり、私の方が立場が上なのに辛く当たってくる人もいましたが、私はあまり気にしておらず、楽しく数年遊んでいた私を上層部が引き揚げ返り咲いた時、その人は泣いて喜んでくれましたね。
悪口とか嫌味など言われたら普通は反抗、もしくは落ち込みますが、この時は内面で消化されてそれ以上の敵対関係や、ぎこちない自分にはならなかったんですよね。
引きずりもしなかったと思います。
ちなみにこの頃は自己観察にプラスして、何が起きても完璧!と、完璧認定の真価を知ろうと徹底実践中だったのもあってか、嫌味言われても消化、ネガティブをスルーできていたんだと思います。そのうち言われなくなりましたね。
あ、それでも別件でスルーできないことがあり、感情に呑まれて
2回くらい激怒した時がありましたが、逆にそれが功を奏したりと、なぜかうまく行っていました。
長くなりましたが、この時の私をまとめると、
例え地位を失ったり、失敗したとしても何とかなると思っていた。
ひどいと思える環境でも、よく見ると楽しいことが落ちていて、それを拾っていた。
プライドはきっぱり捨てて、周りと一緒になってバカをしてみた笑
バカになって周りに溶け込んでみたら、意外と周りはバカではなかったと気付いた笑
人の悪いところではなく、良いところを見つけていた。
自分のやることなすこと思うこと、常に良い方向に向かってると思っていた。
ひとりの時間は自己観察で内面に向き合っていた。
自分の内面を常に肯定していた。
こんな感じでしたね。
自己観察や完璧認定の実践だけ努力で、それ以外は勝手にそうなっていました。
全然まとまっておらずよくわかりませんね笑
つらつらと書いてしまいすみません。
>>262
とても参考になるお答え、ありがとうございます。
社内政治で左遷されたとき、なぜ「叶った」と思いましたか?
実は私も来週からの人事異動で、座席の場所含めてとても環境の悪い職場に異動することになり、かなり落ち込んでいます。
これまでもそういうことがあったのですが、
私の場合、我慢するのは良くないと思い、とにかく自分を苦しくさせないよう、きちんと自分の意見を伝えたり、もしくは出勤形態を交渉して変えたりして、なるべくその職場とは関わらないように対処しました。
人間関係は悪くはありませんでしたが、特別良くもなく、距離を置いていました。
結果、あまり楽しくはありませんでした。
私にとってはプライドがズタズタになるような人事で、傷が深過ぎて鬱になりました。
まるで人格を否定されるような扱いでした。
262さんは自己観察から認識の変更にいたり、そのようには感じなかったということですね。
今回のような場合でも、262さんは楽しめる自信がありますか?
私はまだその域に達しておらず、また今回の人事異動で同じことを繰り返してしまいそうで怖いです。
よく、嫌なことは感じきる、というのがありますが、もう枯れない井戸のように「嫌だ」という感情が湧いて来ます。
自己観察で見つめても、見つめても。
認識の変更なんてはるか彼方に思えます。
>>262
続きです。
あ、ちなみに、自分では以下2点の自分の本音にうすうす気づいています。
①もう今の会社(仕事)なんてやめたい
②自分には価値がない
YouTubeか何かで、自分を小さく感じさせるような仕事は辞めた方が良いというのを見ました。今回はまさにそんな職場への異動です。
自分で自分を小さく感じているから気になるんでしょうね。
そんな自分を自己観察すれば、何か変わるのでしょうか。
>>263
>社内政治で左遷されたとき、なぜ「叶った」と思いましたか?
認識の変更に至る前に「もう仕事嫌だ抜け出したい。」と心の奥にあり見て見ぬふりしてたんです。
認識の変更後、そんなことは忘れて栄転先で調子に乗っていましたが、左遷と決まった時に「叶ってしまった…」と思ったんです笑
実際左遷先ではストレスも少なく抜け出した感もありましたしね。
なので時間差と書きました。
一般的に「左遷」っ落武者みたいで残念なイメージですが、私としてはは非常に有意義なだったなあと。
左遷先では、栄転先では得られなかった気付きが多くありましたし、仕事抜け出したいという当初の願いは結果良い形で叶ったと思っています。
ドラマのショムニ的な評価をされていた左遷先でしたが、そこに心で距離を置くことなく飛び込み、一緒に一体となって私もショムニしてみたら(バカになってみた)、見えていなかった部分が見えてきたという経験がありました。
左遷という評価は、自分のレッテルだったんだなと。
レッテル通り、心で距離を置いていたら私はすぐに辞めていたと思います。
つまり自分の内面(フィルター)次第で体験する世界が変わるが実証された期間だったかなと思います。
>私にとってはプライドがズタズタになるような人事で、傷が深過ぎて鬱になりました。
まるで人格を否定されるような扱いでした。
積み上げて来たものを否定されたと感じるのは普通の反応ですので、起こることは仕方ないと思います。
なぜ反応するのかを考えてみると、
やはり>>263 さんが最も執着している事柄なんでしょうね。
私の場合、仕事に関してはどんな人事になってもあまり気にしないかなと。
上に書いたような感じでどこ行っても楽しめると思います。
それは現在私はそこに、重要性を置いていない、執着があまりないからですね。
なぜ自分は仕事について思い悩むのか?執着するのか?
「なぜそう思うの?なぜ?」で自分に問いかけ原因を探って行くと良いと思います。
例えば>>263 さんの場合は、過去に何かしらのインプットがあったはずです。
書いておられましたが、例えばキャリアを持たないことによる冷遇の経験とか。またもしかしたら子供の時にそう教わった、そうしないと自分を守れないとインプットする出来事があった等々。
とにかくこれ以上深掘れないというところまで深掘ってみると思わぬ発見があったりします。
それらを執着の原因を客観的に知ることにより、なぜ自分がそこに拘るのかがはっきりしますが、ここでその原因と自分との間に距離が生まれ、執着が薄れます。
なぜ執着と距離が生まれるか説明が難しいのですが、今まで漠然と嫌だと思っていた本当の理由がはっきりすると惑わされなくなる効果があるんですよね。
これをまずやってみてはいかがでしょう?
思考を流す自己観察のやり方は長くなるのでまた次に書きたいと思います。
>>264
この件に関しては>>264 さんは辞めたいと仰ってますが、本当はどう思ってるのでしょう?
キャリアもある方なので辞めて次行くのもありですし、残留して頑張ってみるのもありですよね。
ただこのような拘ってることって、度々起きがちでもあるという…。
なぜか私の人生にはこれがつきまとう…
みたいなのってよくありますが、そこに拘りがあったりすることが多いと思います。要するに執着ですね。
自己観察でそこを消化していくことは可能です。
というか、自己観察自体が手放しのメソッドですしね笑
>>266
263、264です。
なるほど、「やめたい」が叶ったということですね。
私も仕事やめたい、もっと言えば、何もかも嫌だ!やめたい!って心が叫んでいる自覚があります。
全てをガラポンにして一からやり直すなんて、今までの人生は何だったの、、というくらい、これまでその好きでもないことにエネルギーを費やした半生でした。
その自分の人生にも絶望しています。
どうして人生は「喪失」という体験をさせるのでしょうかね。
「足るを知る」とか、本当の自分を知るための経験とか、頭では分かっていても、「いやでも本当は死ぬほど辛いし、物理的に満足したいんだよ!!」というのが本音です。
ただ一つ、こうした長年の苦労から分かったことは、「今まで自分はものすごい我慢をしてきた。本来の自分ではない、不自然な生き方をしてきたんだ」ということです。
これがクセ者で、我慢して頑張って来たからこそ報われたいという強烈な執着がある一方で、もう仮にその道で成功しても借金を返したような喜びに過ぎず、何かを得たような、けっして本音の自分がやりたかったことではないということを知っていることです。
自分を大切にするなら、方向転換した方が良いとは分かっているのに、あまりに今まで逆の方向に注力してきたので、やめるのはそんな自分が可哀想に思えて、二の足を踏んでいます。
人事異動で理不尽なことばかり起こるのも、本音では今の仕事を全然好きではないからかもしれません。それはうすうす気づいていましたが、それ自体を見て見ぬふりして、抑圧していたのが悪かったのかもしれません。
>>267
おはようございます。
ほんのり見えているけど見ないようにしていた本音。
これに向き合ってみたんですね。
ありがとうございます。
転職してやり直すとしても、今まで我慢して努力してきたのに、ここで人生スゴロクガラポンでやり直すの!?また失敗したらどうすんの?
みたいな不安は、現状不満のある方は誰しもが思うことですし、私も昔そうでしたのでその気持ちわかります。
今が自分に向き合うタイミングなのかと思います。大体30代頃に皆さんそのようなタイミングに差し掛かるようで、近いお話を私のプライベートでもよく耳にします。私もそうでしたしね。
>>267 さんの現状として、
自分に向き合うのにもなかなか気持ち的に骨が折れるかと思いますが、今まで現実をがむしゃらに走り続けてきたけども、ちょっと休憩というつもりで自分に割く時間を増やしていかれれば良いかなと思います。
こう書くと無責任ですが、どうせ希望でもない部署に行くなら、がんばらなくてもいいやと笑
その分自分に時間費やそと。
真面目な方にはなかなか難しいかとは思いますけどね。
>これまでその好きでもないことにエネルギーを費やした半生でした。
自分への向き合いですが、もっと掘り返してみると良いかもです。
なぜ好きでもないことにエネルギーを費やしてきたのか?
なぜやりたいことをしてこれなかったのか?
これに対しては経済的余裕が欲しかったからとか、いろいろ理由が出てくると思いますが、なるべくひとつひとつ細かく「なぜ私はそう思うのか?」を深く掘り返していきます。
最後、これ以上掘り返せん!という所にある「自身の苦の根本」を目撃してみて下さい。
そこから枝分かれしていろんな悩みになってるはずですので。
>自分を大切にするなら、方向転換した方が良いとは分かっているのに、あまりに今まで逆の方向に注力してきたので、やめるのはそんな自分が可哀想に思えて、二の足を踏んでいます。
わかりました。
どんどん>>267 さんの想う気持ちを整理して言語化して行くとよいと思います。
しかしそれは本当の>>267 さんの言葉ではなく、本当の>>267 さんが過去インプットした情報から作りあげた幻想です。
と、自己観察スレなのでズバリ言っちゃいます。
その幻想に悩まされいるので今苦しいし、幻想がブロックになり好きでもないのに我慢ということに繋がっている。と言えます。
なので自己観察を実践しよう!なのですが、思考を捕えて観察はできるんですよね?
現状、思考は自分ではないことはわかりますでしょうか?
>>268
たびたび温かいお返事をありがとうございます。
どうしてしがみついているのか、、
根本には、経済力含む生活の安定があると思います。
独り身なので、社会的な肩書きがないとアパート一つ借りるにも困るとか、年齢的にもう選択肢がないとか、、どんどん出てきます。
でもそれまでにどうして軌道修正出来なかったか、という点については、多分、そうでなければ認められなかった幼少期からの体験があると自覚しています。
実は今の仕事も既に閑職みたいなものなので、ご提案のとおり、その間に自分を見つめ、癒すこともやってきたつもりですが、何年も状況が改善されず、むしろこれだけ色々あって今更変わるのは無理じゃないか?という新たな観念まで染み付きそうです。
よく言われる通り、思考と本当の私は別モノ、らしいですね。
私も一瞬だけそれがわかった体験があり、その時間を少しでも長引かせるよう、訓練したりもしたのですが、まさに無意識にいつも一体化して、よほど注意していないとすぐに戻ります。
そしてそれを一生懸命やることでヘトヘトに疲れたりします。
そしてますます何もかもが嫌になった。。それが今の私です。
>>269
>でもそれまでにどうして軌道修正出来なかったか、という点については、多分、そうでなければ認められなかった幼少期からの体験があると自覚しています。
いい感じですね。
認められないとどうなってしまうと自分は思ってたのか、などなど細かく細かくエゴの主張を意識上にあげて観てあげて下さい。
自愛やセドナにも共通するものなのでどんどん観て行くといいです。
>そしてそれを一生懸命やることでヘトヘトに疲れたりします。
できれば普段の生活中でも観察できれば良いのですが、社会生活をしてるとずっと思考を観るのは難しいので、休憩中や通勤電車の中でやると良いのです。
おすすめはお散歩しながら思考観察が捗りますよ。
観察と言われますが、自分の思考に巻き込まれず、思考を捕らえたらそのまま右から左に流す、消滅まで見送ると言ったイメージが近いです。
「ああー今日も思考観察うまくいかなかった…」
「もう疲れた…」
↑こんな思考に気付にも気付いてみましょう。
気付いたら見送る。
見送ったら、その直後の「」に留まる。
この辺りは>>228 や>>231 にコツを書いてます笑
このスレで長文の独り言は大体私なので参考にしていただけると。
私が最初に思考と自分が別物であると気付いたきっかけはラジオでした。
昔あるマスターの方がラジオに出演されるとのことで、普段イヤホン使わないのにわざわざイヤホン買って、その時間聞いてました。
マスターが話ししている聴いていて
「あれ?頭に響いているラジオの声と、この思考の声、どちらも同じではないか?」
「ラジオの声は私ではない。でも思考は私である。と自分で勝手に決めてるだけじゃん!」
と、ラジオの声と私の思考の共通点を見つけました。
ラジオの声は私の声ではないので別物として聞ける。なら思考もそのように聞けるよね。ってことですね。
まずここがわかれば思考に同化せず巻き込まれずらくなります。
では、この声を聞いている私とは?
と、その思考ではない自分に意識を向けるコツを掴むと良いと思います。
この辺りはまず実践してみてさらに詳しくですかね。
多分早く効果出したいと焦り、無理な実践や、実践してもすぐに思考に巻き込まれてる可能性があります。
こう言ってしまうとなんですが、、、
私もそうでしたが、認識が変わるまで長期の取り組みに取りかかる決意が必要と考えています。
私の場合はメソッドが楽しい、もっと追求したい動機があったので続きましたが、全員に当てはまらないかなと。なので、やるぞ!という決意は必要かなと思ってます。
また私の場合は自己観察さんのレスを読み込み、その他達人さんの理論や実践を行い、ある程度理解ができてからのブレイクスルーでしたので前段階は必要だと思っています。
267さんも理解はすでにあると思いますので、あとは諦めずやることだけかなと。
このまま何もやらず後悔より、やってダメで諦めの方がまだせいせいしますでしょ。
人生においてやらずの後悔が一番辛いかなと。
ご年配は皆さんそうおっしゃいます。
>>270
269です。まさに、来週からの異動でバタバタしており、お返事と御礼が遅くなりすみませんでした。
ラジオの音と同じ、とまでは未だ難しそうですが、自己観察がうまくいけば、それくらい「自分でない」感覚なんですね。
自分の思考を掘り下げて、無価値観が染み付いている自覚はできましたが、私の場合、思考というよりは身体の痛みというか硬いヨロイのようなものがあって、蛤のようにそれ以上深く掘り下げるのを辞めさせようとしている感があります。
いわゆるトラウマというやつかもしれませんが、こんなに嫌がっているものをこじ開けるのもどうかという気もしてきました...実際、怖いです。
こんな私の場合は、思考観察よりも、心理学でいうマインドフルネスとかの方が向いているのかもしれません。それはそれで、難しいですが。
>>271
いえいえ〜、落ち着いた時で返信は大丈夫ですよ。
>ラジオの音と同じ、とまでは未だ難しそうですが、自己観察がうまくいけば、それくらい「自分でない」感覚なんですね。
そうですね、思考もラジオの声と同じ「現象」であると気付きます。
そのまま自分の肉体や感情も「現象」として気付くのです。
そして「現象」は常に起こっては消えの変化するものですので、現象のひとつである自分(エゴ)は確固とした存在ではないと気付くんです。
悩みは、肉体を持った自分が確実に生きて存在しており、能天気に油断して生きていたら命に関わるかもしれないという根底の恐怖の思考があるから、人生について悩むんですね。
悩みの根底には死が隠れてます。
これが幻想であると気付けば、悩みは吹っ飛びます笑
>いわゆるトラウマというやつかもしれませんが、こんなに嫌がっているものをこじ開けるのもどうかという気もしてきました...実際、怖いです。
無理はしなくて大丈夫です。
自己観察でなくとも、自愛や完璧認定、セドナなどいろいろ方法はあります。
しっくり来るのをやれば大丈夫です。
>心理学でいうマインドフルネスとかの方が向いているのかもしれません。
マインドフルネスは、止瞑想と観瞑想の合体的な瞑想でして、要は座ってじっくり自己観察してるようなものです。
マインドフルネスをやることによって自己観察とは?がわかるかもしれませんのでやってみると良いかもです。
異動で忙しいと思いますのでしばらくはそちらに集中されて下さい。
私はよくここにいますので、また自己観察が気になったら声かけて下さいね〜。
はじめまして。私は自愛をしていて前よりは思考と距離を取れるようになっていたんですが
ちょっと停滞感もあって自己観察について調べていました。
穏やかでいいスレですね。
特に、>>228 を読んでハッとしました。ありがとうございます。
最近は漫然と自愛するようになっていたので、もっと隙間を意識していこうと思います。
>>273
はじめまして〜。
読んでいただき、ありがとうございます。
自愛をやられてるんですね!
どんな自分も許可していった先には、自己観察と同じように思考から解放された何者でもない自分に到達しますが、実は自愛直後など随所で何者でもない「」が顔を覗かせてます笑
自愛がんばってくださいね。
>>274
ありがとうございます!
自愛は大好きで自分にとても合っていたと思うのですが、
最近は自愛をしていると、思考と「私」がくっついていることにちょっと違和感というか、
少し遠回りのような感覚も出てきまして...全然うまく言えないんですけど笑
自己観察は思考と自分を切り離すようなクールな印象があって気になっていました。
>>237 は自己観察さんのまとめにあった「気づいている意識に気づく」というものでしょうか。
違ったら申し訳ないですが、こちらもとても面白く読ませていただきました!
>>275
こんにちは。
そのような気付きがあったということは、自愛が進んだんですね〜。
初めは自愛による感動で強力に作用しますが、エゴと別の視点がわかってくるとその感動もエゴのストーリーに呑まれているんだなとわかってきますよね。
自愛の行為自体が、一旦エゴに戻ってエゴを認めて〜みたいにうざったく感じるのかもしれませんね。
そうなったら次の段階で、淡々とエゴに気付いて受け止める(流す)、自己観察的な自愛をやってみるのも良いかと思います。
うまくいかないなら戻せば良いですし笑
おっしゃるとおり「気づきに気付く」です笑
私の五感(+思考)はすべて気づき上で起きていることに気付くことにより、自分の本質は気づきであることを知ります。
そのことにより、私(エゴ)は自分が作った幻想であり、私=世界であると知ります。
その気付きから、その私(エゴ)を捕らえやすくなると同時に、一体化しなくなることを意図して書いてみました。
この辺りを面白いと感じていただけるなら捗りますね笑
>>276
あ、やっぱり「気づきに気づく」でしたか。
まとめで読んだときは、なんか心は惹かれるけど訳わからん、でした。
今もですけど、賢くないからか頭で考え出すと余計遠くなる感じがしますね。
ただ>>237 を読んだとき、あ、面白いと思えたので、
実践してたらきっとそのうちわかる!としておこうと思います笑
>自愛の行為自体が、一旦エゴに戻ってエゴを認めて〜みたいに
これ、正にそんな感じです。すごい!
以前は「〜と思う私」を疑いなく自愛でどんどん許可してたんですが、
今は「〜」だけが出てくる感覚になることがあります。
そのとき、わざわざ「私が〜と思っている」にしないと許可できなくて、なんか変だなと。
なまじ自愛が合っていたので、変えていいのか怖かったんですけど、
たしかに上手く行かなかったら戻せばいいだけですね笑
淡々と気づいて流す、を試してみようと思います。
いろいろとありがとうございます。お話できて本当に良かったです!
>>277
>なんか心は惹かれるけど訳わからん、でした。
心惹かれますか!?
多分277さんは気づきに気付く時が必ずきますね〜これは。
求める気持ちと探求心があればきっと、ハ!これが気づきか…と膝から崩れる時がきます。
ちなみに私は椅子から転げ落ちてます笑
>これ、正にそんな感じです。すごい!
やはりそうでしたか!
私も自愛やっていたのでわかります笑
私が自愛や完璧認定を検証していた時は、あえて様々な疑問は横に置き、ただひたすらに「〇〇な私完璧!」とやっていましたけど、ある日突然エゴが黙り込んでしまい「無」の境地になりました。
なので疑問を気にせず邁進するか、もしくは疑問を感じる私も自愛しつつ実践していけば、行き着くところは同じかと思います。
>今は「〜」だけが出てくる感覚になることがあります。
>「私が〜と思っている」
「私」を言葉でつけなくても、許可する意識さえあれば自愛や自己観察になりますので大丈夫です。
まあ、なんか違和感あれば戻せば良いですもんね笑
私の場合は、感覚として思考の歯車と、私の歯車が噛み合う(同一化)する前に、思考が空回りして消えていきます。
自己観察さん風に言うと「思考はBGM」ですね笑
こちらこそお話できて良かったです!
また何かあれば来て下さいね〜♪
>>278
>「私」を言葉でつけなくても、許可する意識さえあれば
あ、そうですよね。
変に頭が固いところがあって、そんなことにも思い至りませんでした。
278さんの経過や感覚もいろいろ教えていただいて嬉しいです。
私も椅子から転げ落ちたい!という気持ちは出てきますが笑
焦らずに、深く知るのが楽しいという観点で取り組んでいきたいと思います。
何かあればぜひまたお願いいたします。
ひとまずはいただいたレスを参考に実践を続けていきます!本当にありがとうございました。
少し前に自己観察を始めてみたのですが、私の場合はエゴの立場からの思考しかない(悩みについて四六時中考えている)状態で、途方に暮れています。
観察して気付いたとしても、数秒経てばまたエゴの思考にまみれており、これが自己観察になっているのかすら疑問に感じています。
でも、自己観察について沸く疑問や、これで平気なのか?というのも思考なんですよね。
思考の狡猾さに驚くばかりです。
見ている風景の中にあるものを指差します。例えば木とか。
木を指差したらその下に咲く花を指差します。
次はその手前にある道を指差します。
どんどん指差す対象が自分に近くなるよう順番に指を差し、自分の足をが目に入ったら足を指差します。
次は膝、次にお腹、胸…と順に上がってきます。
最後にこれら指差しながら見ている私を指差します。
そこにあるものは何か?
当たり前、常識、記憶は通りだとそこにあるのは「顔」のはずです。
それら思い込みを横に置き、「そこにあるもの」は何か?をあるがまま目撃する。
これはダグラスハーディングの指差し実験ですが、これでわかることは私(エゴ)は思い込みであること、エゴの素である思考は木と同じ現象であること、世界と私は一体だったことなどなど。
わたしの本質とは何か?がわかります。
何のことはない、普段の風景でしたが、答えはいつも目の前に、既にあったんだなーとびっくりするかと思います笑
わたしという本質は、常に起こる現象に気づき続けている意識です。
そして「普段の私であるエゴに気付き、気付いている本質の意識に在ること」。
これが自己観察であり、別の領域に留まること、となります。
「エゴとは別の領域」の別という表現は語弊があり、本質の「わたし」の中でエゴが起こっている状況なので、別ではなくエゴは「わたし」の一部、が正しいかと思います。
エゴも含めすべてがその「わたし」が創ったものですが、わたしの創造物のひとつであるエゴという仮面を被っていることに普段気付いていません。
その仮面を通して、物事を見、分別し「私」と「その他」に分離してこの世界を仮面の個人になりきり生きています。
そのまま分離を楽しんでいれば良いのですが、過去をベースにして言葉で分離していますので
「私は〇〇だから人とのコミュニケーションが下手」とか、
「私〇〇だから無理だ」とか、
色々と余計なものも副産物として創ってしまい、行動できなくなるという…。
またその想いが世界に反映されてしまうんですよね。
スマホのキャッシュみたいなものですかね。
仮面は外しても外しても、いつの間にかすぐ被ってしまい「やっぱり私なんて…」と元通りになりがちです。
なのでこの仮面にいつも気づいていましょう。というのが自己観察です。
そうしていれば過去に惑わされることなく、自分の希望に向かって進むことができ、またそれに世界も応えてくれます。
そもそも世界は自分ですしね。
>>280
こんにちは。
ちょうどまた自己観察について書いてました笑
↑のダグラスハーディングの実験をやってみてはいかがでしょうか?
細かい方法は説明できますので質問いただければ。
うまくいけばコツがわかるかもです!
ttps://www.headless.org/japanese/pointing.htm
>>282
レスありがとうございます
ハーディングの実験は一発で認識変更できる方もいるらしいですね
私もやったことがあります
私を指差すと何もない(空間しかない)のはわかるのですが、「そりゃそうでしょ、私に目がついているのだから、その目で私自身を見ることは物理的に出来ないじゃん」となってしまい、ハーディングが何を言いたいのか理解できませんでした
>>283
>「そりゃそうでしょ、私に目がついているのだから、その目で私自身を見ることは物理的に出来ないじゃん」
過去の参照である思考はそのように言います。
しかし、思考を参照しないで、今をありのまま見るとどうでしょうか?
それが今現れている真実であり、それ以外はすべて思考であることに気付いてみて下さい。
またその空間しかない何もない透明な場所が、自己観察の思考を観る立ち位置となります。
そこをベースとして、そこに起こってくる思考を捕らえることができれば自己観察は成功しています。
その透明な場所に、思考に注意しながらなるべく留まってみて下さい♪
>>284
私に目がついている、というのも思考であり記憶だと考えるのですね
あまりにも当たり前というか、そこを疑う発想はなかったです
自己観察をする立ち位置というのはあまり気にしたことがなかったので、意識してみます
>>285
そうですそうです!
思考は本来のあなたではありません。
本来のあなたから、世界とエゴに分離させるための道具、システムみたいなものなので、しっかり捕らえないと巻き込まれてしまいます。
「頭があって目が付いている」という認識は、思考が言ってることですよね?それが思考であると観ることはできますでしょうか。
その他、
自分の名前
自分の性別
自分の国籍
自分の生物としての属性
などなどの自分についての説明や、
ご自身を自己紹介した時に出てくる内容はすべて、思考の主張ですよね。
思考をしっかり捕らえてみて下さい。
ではそのような思考の言い分は聞かずに横に置き、記憶をあてにせず、
今、この今、自分とは一体何か?
それを自分に意識を向けて観てみるのです。
そこに見えるのが本来の自己です。
多くの達人さん方が伝えている、まるでポエムのような言葉が、実はまんまそのまんまを言っていることがわかると思います笑
良スレage
認識変更できなくてもがいてる人はものすごく参考になるよ
ダグラス・ハーディングの話がでてたので、こちらに来ました!
前のところはなんか話についていけなくて…完全に引き払おうとしていましたが、つい(笑)
ハーディングの本に出合ったのは20年くらいまえですが、当時はぜんぜんわかりませんでした(笑)実感できるようになったのは視点が変わって以降で、しかも一度わかりはじめると、ホントわかりみがすごいよかったです。そこから、なにもない、という0ポイントのようなものがやっとこさ理解できました。禅でいう「無い」という意味ですね。
・・・しかし、当時指差しとか頭がないとかわからなかったのはつらかったなー。なんで自分にはわからないんだって焦ったり自分をうたがったりと、、、まあ要は若かったんですね(笑)
前のところは引き払おうってさ失礼すぎない?あなたがぐちゃぐちゃにしたようにしか見えなかったけど、中途半端に分離意識強めるだけ強めてサヨナラ〜👋ってびっくりする
>>289
もう書くのはおろかこちらをのぞく時間もなくなりそうなんでいなくなるんだけど、それじゃあだめなの?
あと「めちゃくちゃ」にするような影響力もなんもないですよ。実際反響もほぼなかったし。内容が無粋なたとえ話やポエム調になっちゃうのは、見えないことを言葉にするのは難しいので・・・まあ勘弁してくださいというところですね。ではでは
>>287
>>287
こんにちは。
私ばかりレスしててすみません笑
何か神秘的なイメージを持ちやすい潜在意識界隈ですが、実は普段観ている何のことはない世界内に巧妙に隠されていることを伝えられればなーと思い独りレスしてます笑
ダクラスハーディングの実験は本当に素晴らしいですよね。多くの人がこの視点に気付いてほしいなと思っています。
この視点がわかり、自己観察による思考に気づくことが癖づいているなら、認識の変更から戻ってしまった…などということがなくなると思いますね。
熱いハーディング推しに惹かれてハーディングの本注文しちゃった
高木さんの翻訳のトニーパーソンズの本が非常に読みづらくて同じ高木さん翻訳のハーディングも避けてたんだけど
感覚的理解が多少できるようになってからトニーパーソンズ読み直したら嘘みたいに普通にスラスラ読めた
書いてる意味もわからないし日本語への翻訳もわかりにくいと思ってけど自分側の問題だったみたい
>>292
こんにちは。
熱いハーディング推し笑
そうなんですよね、自分の中で気付きが積み重なるとどんどん読めるようになりますよね!
達人さんのレスがある日突然理解できるようになることと同じかもしれませんね〜。
高木さんは実践者なのでわかりますが、こういった書籍の場合、訳者の方も気付きがないと訳せないと思うんですよね。皆さん実践者なんでしょうか。
>>286
自己レスですが、netineti(私はあれでもないこれでもない)についてもう少し突っ込みましょうかね。
昔一人ボエムで書いた記憶ありますが、けっこう認識変わるメソなのかなと考えてます。
元ネタは昔のインド人、あと雲黒斎さんのブログ、阿部敏郎さんの瞑想の一つとして知りました。
要するに、自分のレッテルをひとつひとつ自己観察しながら剥がして行く手順となります。
普段自分のことを「○山○夫」みたいにレッテル貼ってますよね?
名前また思考ではないですか?
また言葉による名付けで全体から個に分離させている。ということが観察できますでしょうか?
ということを知る瞑想です。
まず座ります笑
聞こえる音に集中します。
が、「〇〇の音」と区別せず、ただただ音としてあるが聴覚に集中します。
心が静まったところで、自分に意識を向けます。
・「〇山〇夫という自分の名前は?」
→これは思考である(もしくはそれは自分ではない)
と、思考を観察しつつ、名前が思考であることを観察し、それは自分とは別物であることを観察します。
・「私は男(女)である」→と思っているのは思考である(もしくはそれは私ではない)と、そのレッテルは思考であることを観察します。
・「私は〇〇歳である」→同上
・「私は〇〇人である」→同上
・「私は人間である」→同上
・「私は哺乳類である」→同上
・「私は生物である」→同上
・「私は思考である」→同上…
などのように具体的な私レッテルからレッテルを剥がして行き、どんどん大きな括りの私レッテル
を認識し、否定して剥がしていきます。
最終的には、見ている「こちら側」と見られている「あちら側」という非常に抽象度の高い意識になっていきますが、「こちら側」も否定し剥がします。
「もう自分レッテルで剥がすものないよ!」ってところまで、思いつく限りレッテルを剥がしてください。
その剥がした先の私が本当のわたしです。
これで認識の変更をするかもしれません!笑
しなくても非常に深い安心感を感じるかもです。
何せ自分レッテルという責任や重荷を降ろしましたしね。
お試し下さい♪
好きな人が自分のことを好きじゃなかった死にたい
既にあるなんてないじゃん
>>295
こんにちは。
ここに書き込まれたということは、自己観察や別の領域、既にある等に興味がおありということですかね。
詳しくご自身の状況や心境など教えていただければ、何かきっかけとなる話ができるかもしれません。
ただ、読むだけではなく実践が必要となります。
実践し、既にあるを心の目で目撃し、ご自身の内面が変われば、変化は必ずあります。
その変化が相手が振り向いてくれることに繋がるかどうかもご自身の内面次第になりますが、前には進めると思います。
みなさんに聞きたいのですが別の領域ってどこにありますか?人それぞれ場所は違うのでしょうか?
自分は最近、「真の自分」に気づく?感じる?時に頭から少し離れた右上だったり、脳の後ろあたりに感じます。脳の後ろあたりの場合は少しポカポカするのように感じるのですがどれが正解なんですかね?
自己観察さんが別の領域について「無限の広がり」「ここには全てがあるんだなと感じるようにしていた」と言っていたのがわかるようになってきた。
普段いわゆるエゴから離れることはないけど、その外側に無限の広がりと全てがあるんだなって信頼が自分のものになったなという感じ。
何か心配事があっても、そこに委ねておけばいいやと思える。楽。
今まで長いこと叶ったり叶わなかったりで不足に囚われてもいたけど、ようやくかな。
そしてこれを書こうとしたらこのスレが一番上に上がっていた笑
あるんだなあ笑
>>298
横からすみません。
私も願望への執着や、普段の生活での不安、悩み、怒りなどに縛られて、なかなかスッキリした日々を過ごすことができません。
どのようにして、自己観察され、どれくらい継続されたら、その今の状態に辿り着けましたでしょうか?
自己観察自体はかなり前に知って実践に入ったけど、それを続けてこうなったという感じではないな
「これは自分じゃない」としても「だから何?」という反応からは逃れられてなかった
その反応すら観察すれば良いのだと思ってそうしても、また別な反応が現れて、結局反応に囚われてた
だから意識的な実践はあまり長くやってなかったと思う。
自己観察さんの言ってたことに納得したからこのスレに書いたけど、この状態になったのは自己観察を実践してたからってわけじゃないな
主な要因の一つは自由意思について自分の中で結論を出したことだと思う
思考も感情も自分の自由意思によって起きているわけではなくてただの自然現象だからもう放っておこう、っていう。
そうしたらその自然現象をただ観察、体験するだけの立場というか状態になれた感じ。
自己観察さんも自己観察は「する」ものではなく状態であるみたいなこと言ってた気がする
>>300
ありがとうございます。
確かに考えが浮かんでくるのは自然現象のように思います。
思考が浮かんでくるのは地震みたいなもので、自分で意図して思考しているのではなく、反応のように思います。
ある道を通ったら、昔の友達を思いだすように、思考も何かの反応のように思います。
そして、その反応にいちいちリアクションしているから疲れたり、苦しくなるんですよね。
あーなんか浮かんできたなあ、みたいに距離をとってあげるのが自己観察のように思いました。
自己観察って、どれくらい継続すると効果があらわれてくるものでしょうか?
>>302
初めは闇雲だけどやっていると気付きがある
気付きがいくつか重なって認識の変更が起こるけど、起こるまでの期間は人それぞれじゃないかな
自愛とかもそうだけどメソッドやることによって気付くことがあり、それで内面が変わる
逆に言えば気付くことがなければ意味ないよ
フリーレン読んでたらエゴって魔族みたいだなと気づきました。記憶を使って感情を揺さぶってくる。それに気づいてからハイハイって流せるようになりました。お釈迦さまも悪魔と呼んでいたと思う。
いい記憶も流した方がいいのでしょうか?
>>303
ありがとうございます。
よく自己観察のまとめを読むと、エゴを認識している本当の自分は、それほど特別なことではなく、普段感じていたものだったと書いてあるのですが、エゴを認識している自分または気づくというのは、どんな感覚なのでしょうか?
>>304
フリーレンそういう風に読むことができるのってすごいデス!
自分の場合は、過去の存在自体が自分の中で薄くなっていったので、よいもわるいもなく、囚われることが少なくなりましたよ。
(ついでに未来も・・・)
<今>にいることができれば、悪魔も恐るに足らず!ですかね…
>>305
ヨコですが…自分の場合は、意識の焦点が広がって自分の存在を包み込むような感覚になりましたよ。思考や感情に囚われ小さな部屋に閉じ込められていた意識の焦点が、部屋から出て自由になって伸びノビしているイメージ。文字通り視界が広がったりもしましたし、景色の色彩が鮮やかになったりと、外への印象も併せて変わっていきましたね。おもしろいですよね。
も〜頭の中のおしゃべりがうるさすぎて笑っちゃう!でも
ハイハイ、いくらでもおしゃべりどうぞ〜って否定しないでいると
頭の中が急に静かになったりするから面白い
>>307
何かすごい体験ですね。
朝の寝ぼけているときに、願望に対してネガティブな夢や考えが浮かんできて、すごく苦しいんですが、いかんせん寝ぼけているので、自分でもうまく自己観察ができません。
そんな寝ぼけてときの自己観察は、どうやったら良いでしょうか?
>>310
俗に言う「朝ネガ」という、目覚めた直後にネガティブな感情を感じることですね。
私もあります。ありまくります。
皆んなもあるみたいです。
私は感じ尽くすようにしてます。
>>310
こんにちは。
それは寝ぼけというよりいわゆる朝ネガってやつですね。
寝ている時は全(自他がない)の状態ですが、起きがけはエゴが立ち上がり、その分離から強烈な分離感を感じます。よくあることですのであまり気にされないで下さい。
それでも不快でしたら、私の場合は朝風呂に入ります。朝風呂でスッキリしたら朝ネガは消え、かつそのスッキリ感のまま無思考、別の領域に浸ります。それでその不快感は消えますね。
>>231 に「思考の発生場所を観る」を書きましたが、朝風呂の習慣がないなら朝の起きがけにこれをやってみて下さい。
これをやると無思考&別の領域に入りますが、一旦リセットされる感覚がわかるかと思います。
そのまま発生ポイントに集中していれば、そのまま自己観察継続となりしばらくはエゴに巻き込まれなくなります。
ぜひやってみて下さい。
>>311
あ、ちょうど311さんが書かれてましたね笑
みんなあることですよね〜。
>>311 さん
>>312 さん
ありがとうございます!
朝ネガって、願望実現には悪いことではなく、また朝ネガしちゃったなあと受け流した方が良いですかね?
一方で、朝ネガがすくなくなるような工夫をしていくことが大事ですかね?
>>314
「朝ネガが影響する」と関連付けなくて良いのですよ。それはそれ、これはこれとしてしまえば良いということですね。
それよりも、
>朝ネガって、願望実現には悪いことではなく、また朝ネガしちゃったなあと受け流した方が良いですかね?
一方で、朝ネガがすくなくなるような工夫をしていくことが大事ですかね?
↑このご自身の思考、つまりエゴの疑問ですが、これを解決しないと叶わないのでは?とエゴは思っています。
私=世界を前提とすると、これをほんとに解決しないといけなくなるということになります。
ご自身でそのようにハードルを課してるわけですね。
なので自己観察で、この思考丸々相手にしない、流してしまえば良いということです。
そのため実践実践と皆さんうるさく言われるんです。
参考になれば。
>>315
ありがとうございます。
315さんは、自己観察が願望実現にどう関係していると思われますますか?
ネガを観察しているとネガにとらわなくて、願望の世界を作り上げやすなるのかと思ったりするのですが。
>>316
そうですね、普段思考と一体化してしまい、思考こそが私であり、思考の言う事が絶対のように感じますよね。
自己観察をやればわかりますが、思考は記憶からの反応なんです。雑音みたいなもんですね。
思考を道具として使うシーンもあるのですべてダメとは言いませんが、過度な不安も煽ってきますので前に進めなくなる要因にもなります。
そう言ったことって多々ありますよね?
もちろんどう考えても危険な事は記憶、思考に従うべきではありますけど、何かにトライしたりチャレンジすることも過度な恐れに巻き込まれなければ前に進めますよね。
このようにけっこう現実的なお話ですが、
不思議な面もあります。
私=世界ですので、余計なフィルター(思考)を通さず進めば、世界の方が勝手に整います。
実際に実践し、それを目撃してみて下さい。
>>317
ありがとうございます!
とにかく観察ですね。
>>318
ぜひ継続してみて下さい〜。
初めは難しいと思いますが、実践のやり方、コツはまた質問いただければお伝えできます♪
頑張って下さいね。
>>319
本当、ありがとうございます!!
>>296
>>296 もう手遅れだったってことだよ。今更連絡しても遅いし自分がその人に嫌われてしまっただけ。もう自分はいないような扱いを受けてる。まじで許さない
自己観察しはじめて、自己観察しても願望なんて叶わないという観念がどうしても出て来てしまいます。
自分の場合は、復縁が願望なのですが、だいぶ年齢を重ね、相手に迷惑をかけたこともあり、どうしても復縁できるとは思えません。
自己観察を継続しようとは思いますが、自己観察をされた方は、そういった雑念をどう克服されて、願望実現されましたでしょうか?
>>323
よくわからないのですが、自己観察ってそういう否定的な観念や雑念をこそ観察して静観するものであって、願望実現のメソッドではないと解釈してましたが、違うのかな…。
願望実現って自分が心から実現を確信できたことが実現するというのが基本的な考えだと思いますが、確信に持っていくために、望ましくない考えに同化した自分に気づいて、仕切り直して意図確認をする。
そうすることでだんだん自分の認識が変わっていく。
ということを期待して行うものと自分は考えています。
話逸れますが、世間でよく言われてるように復縁は片手間とするのがおすすめですよ。
実現可能性が低いから保険かけろって意味じゃなくて、心も体も軽やかな方がモテますし、モテたら流れも変わるので。
もう一生会えないし恋愛が取れないと思ったら一気に寒気が襲ってきました。現実には居場所がないのでとりあえずネットの世界で落ち着いています
>>324
ありがとうございます。なるほど、そういう風に考えれば良いですね!
例えば、イヤホンで今自分はこの音楽を聞いているなあと考えるみたいに、自己の今の状態や感覚、動きを意識して認識することが自己観察になるのでしょうか?
それとも、イヤホンから流れてくる音楽を集中して聞くことが自己観察にもなるでしょうか?
前者と後者両方において、ネガティブな考えからは距離をおけているように思うのですが。
>>327
こんにちは。
ラジオ実践されているんですね〜、
ありがとうございます。
>イヤホンで今自分はこの音楽を聞いているなあと考えるみたいに、自己の今の状態や感覚、動きを意識して認識することが自己観察になるのでしょうか?
私が言わんとしてるのは↑の方です。
イヤホンでのラジオの声は自分とは別ものとして聞けるけども、頭の中の思考は自分そのものとして一体化していますが、思考もラジオも同じ「現象」であると気付くことを目的としています。
これがわかれば、思考から距離を置きながら観察がしやすくなり、巻き込まれなくなります。
思考という現象は、私(エゴ)の意思で起こしているように普段感じますが、ラジオの声も、その他世界すべての現象も私(エゴ)のコントロール外である。
これがわかれば、ただ観ている視点に気づくかと思います。
またもう1つの方のラジオの音に集中するについてですが、これは別の瞑想となります。
これはこれでやってみるとわかりますが、ラジオの音に一点集中すると雑念が消えます。
上の方に書いた「思考の発生場所を見張る」も、
一点集中の無思考効果と、プラスして思考観察に繋がるようになっていますので、ぜひやってみてください。
うーん…読み返したら少しわかりづらい(汗)
空飛ぶ鳥や、道を走る車、その他世界に起こる現象いろいろ。
これらは普段、私ではないと確実に思っています。
でも思考、感情、肉体は私だと思っている。
そりゃそうだろという話ですが笑
これらはすべて、この場というひとつのスクリーンに起きている現象、映像みたいなもんなんです。
実は普段からただ観ている視点から現象を観ているのですが、こと思考、感情、肉体になるとどっぷり一体化してしまい、私という一個人に成り切って私と世界を分離しています。
そこで思考もラジオの声も全部、またついでに感情や肉体まで全部「外側」として観てみる。
全部「外側」で内側がない。
それって変な話ですが、内外の概念が崩れますよね?
外側って、内側があるから外側なんですもんね。
ここで内外のない私=世界の気づきに気付くんです。
それを知っていただくことを目的としているんです。
では観察しているただ観ている視点って?と疑問が湧きますが、これはまた次の段階になりますのでひとまず私=世界に気づいてみましょう、というお話でした。
>>329
ありがとうございます。
より理解できました。
>>330
こんにちは。
理解していただいたようで良かった!
私=世界に気付けば、普段の「私(エゴ)」は瞬間瞬間に立ち上る思考である。
ということがわかり、エゴに振り回されづらくなります。
例えば「私は昔からネガティブでどうの〜」という人は、ネガティブな自分とは思考だとわかるので脱却されます。例えばですけど笑
人によっては人生が一変するんでよね。
自由になるというか。私がそうでした。
孤独からはどうやって抜け出せますか
>>332
こんにちは。
孤独感って完全にエゴによる世界との分離感から来ています。分離はダメ!という訳でなく、分離しないと世界を経験できないんですよね。
まあ難しい話は置いておいて、心の隙間を埋めるための現実的な方法として私のご提案。
・集中できる何かを趣味を持つ。
・ペットを飼う。
・町の常連がいそうな飲み屋にいく
私の経験上、3番目は嫌でも友達できますよ笑
情報が少ないので「そうじゃないんだよ」と言われそうですね…。
なのでこの板的な提案。
・自愛の徹底
・私=世界を体感する
・心をオープンに心がける
こういう場合は自愛が一番だと思います。
心が自愛で満たされれば孤独感も消えてきます。
孤独感が消えると出会いがあったり。
そして出会いがあってもこちらが壁を作っていてはまた孤独になるので、ハートをオープンにすることを心がけることが私の一番の提案です。
自己観察も自愛も、継続していけば自分の創る壁に気づき、過去や未来に恐怖することが減ってオープンハートになっていきますのでやってみると良いですよ。
>>331
を読んだら気づけました!
私は「 」でいつも「」をエゴに乗っ取られてたんですねw
ありがとうございます。
>>334
こんにちは。
その通りです!
気づきましたね笑
「」が本来のわたしです!
エゴがざわざわしだしたので観察していたら
どんどん小さくなっていった後、ドーンと巨大してエゴに飲まれてしまった
エゴを凝視し続けるのではなくて、目をそらせばよかったのかな
>>336
こんにちは。
いえ、目を逸らしたつもりでも逸らせないでしょう。エゴを観るが正しいです。
普通の思考を観ることはできていると思います。
そしたら、思考を観ている「普段の自分という思考」が観れますでしょうか?
エゴエゴよく言いますが、正しくは「私」という思考が「エゴ」なんですよ。
この「私」という思考を自分と思い込んでおり、ここから派生して「自分の悩み」となります。
例えばゲームで言うと「HPが少ないのに薬草が見つからない!」と主人公キャラ言っているとします。
これはあなた本来の悩みではなく、主人公キャラになりきっていることによる悩みですよね?
主人公も薬草もHPも思考上の幻想であることに気づけば、悪夢から醒めた時のように安堵します。
今すぐに気づくことは難しいかもしれませんが、実践して「私」という主人公・エゴに気づき、実はこの画面こそが本来の自分だったと気づくことができれば、そのような苦からは解放されますよ。
>>335
これからどうなるのか楽しみです。
ありがとうございます。
>>338
その視点にいつもいると良いですよ。
上にも書いたような制限された「私(エゴ)」視点ではないので否が応でもオープンハートになり現実も変わります笑
自己観察で言う“思考に気付いている何か”と、自愛で言う“どんな自分も愛する自分”って同じ立ち位置ですか?
「なる」にも、“叶っていない私を叶えている私”って表現がありましたが
つまりはどれも思考から離れて、思考(私・エゴ)は自分ではないと知るためのものなのでしょうか?
>>340
これはすごくややこしいご質問かもです笑
自己観察のただ観ている視点は、自分の過去を断ち切った今ここの自分でして、簡単に言うと自分の属性(名前や性別など)を捨て去り、ただ「私」という核のようは感覚だけがある純粋なエゴなんです。私は在る…とか良く言います。
私は「純粋な私」とわかりやすく表現しています。
自愛の、何でも許す自分は普通の私(エゴ)だと思います。
ただ、許すことによってエゴの分離が統合されていくとisaさんは表現されています。
つまり自己観察の「純粋な私」に近づいている。と言えるかもしれません。
私は昔自愛、完璧認定を徹底してやっていましたが、ある瞬間からスン…と「純粋な私」になりましたので、この説明で合ってるかなと思います。
だいぶ昔の話ですので憶測となってしまいすみません。
>>341
なるほどです。私は願望実現から入ったので、“思考を観察している(許している)自分”の立ち位置にあれば
“叶っていないという思考”との一体化を解除していることになるから、つまりは叶うという理屈なのかと思っていました
もっとも自己観察は願望実現系のアプローチとは少し違うのだろうとは思いますが
どうしてもやっているうちに「叶えたい」がチラついてきちゃうんですよね
ご回答を聞けてよかったです。ありがとうございました
はじめて自己観察をする場合、どうやっていくのが良いでしょうか?
>>342
自愛のメカニズムは、許すことによって分離を統合して行くことかと思いますが、他にセドナと同じく、思いを言語化して認識すること。
これも肝なのではないかと。
これは自己観察もその側面があるので共通点は多いと感じます。
ただやってみると、
自己観察は一気に観察視点に到達。そうでないと自己観察できない感覚ありです。
自愛は赦しによって徐々にその視点に移行するようにも感じます。
ですのでエゴエゴ状態の場合は自愛の方が入りやすいのかなとも思います。
嫌だ嫌だと反発することが逆にその思いに力を持たせてしまい分離が強まる。なので許して受け入れる。統合ですね。
すごく微妙な感覚なのと、私個人の感覚なのでこれが絶対とは言いませんけどね笑
こちらこそご質問いただきありがとうございました!
>>343
こんにちは。
まずは思考が自分とは別物であることを目撃することからですね。
自分に意識の矢印、注意の矢印を向けて(これが初めは難しいかもです)、頭の中に起こる思考を捕らえる。
上にも書きましたが、思考の発生ポイントを注視し、思考が起こったらそのまま思考をあるがまま観る。
注視している間は無思考ですが、そこを定位置とします。
定位置から思考を見張る感じです。
思考の言い分を聞く必要はありません。
物のように見てみると良いかもですね。
または頭に漫画の吹き出しのように思考がほわわ〜んと浮かぶのをイメージしながら観察するのも良きです。
>>337
ありがとうございます
やはりエゴから目をそらさず、観たほうが良いのですね
自分A「自分が自分を虐めても良いよね?誰にも迷惑かからないし」
それを見ている自分B「なにそれ…自分ブラック企業による自分パワハラじゃないですか…」
これ以降、AもBも静かになりました
Bが<思考を観ている「普段の自分という思考」>なのかな、と思いました
溢れ続ける愛の泉のような場所に行ったこともありますし
(初めてたどり着いた時は、あぁこれでもう大丈夫だ、ここがゴールだ、と思ったのですが)
安心感しかない静かでただただ落ち着く場所に居られることもあります
でも、エゴに飲まれている時は、上記に行く方法が分からなくなってしまうことに、今日気が付きました
あっいまエゴと一体化している!安心感しかない場所へ行けばいいんだ!と思ったのですが
行き方がどうしても思い出せませんでした。もう完全にゲームの主人公状態でした
落ち着いているとき、色々思い返してみると、エゴに飲まれてあたふたしている自分さえ、可愛くていとおしいと思えます
この時が、「画面こそが本来の自分だった」の状態なのかな、と思いました
世界はきれいで優しいです。内面が穏やかで静かな幸福感に包まれているときは、周りにそれが反映しているのを実感します
優しい対応をしてもらえる、周りの人の発言もポジティブ、
食べ物がとても美味しい、道端の花や空の雲が美しい…嬉しさ、優しさ、感謝、愛しかない世界です
決めたことも、小さなことですが、叶ってくれます
この機械大丈夫だよ、ちゃんと動く、と決めてからは機械の調子がいいし
幸せな気持ちになれるものが来てくれるよ、と決めると、ランダム景品で欲しかったものが来てくれます
そして、そこまで分かっていながら、どうしてエゴゲーム世界に飛び込んでは
自分をボッコボコに叩きのめさないと気がすまなくなってしまうのか、なんですよね…
今日、エゴ大暴走が落ち着いた後、回転寿司を食べに行ったのですが
行きがけの、何気ない風景も、愛おしいなぁと思えたし
お寿司もうどんも美味しかったし、帰りに引いたガチャも一番好きなキャラが来てくれました
やっぱり世界は優しかったです
それなのに、どうしても、発作的にエゴゲームに飛び込んでしまう癖が治らないなんて
へんな話しだよねぇ、と落ち着いているときの自分は、なにも否定せず、責めず、穏やかに笑っています
>>342
私も願望実現から入りました。
自己観察が進むと
世界=私、私は「 」が分かるので
なる、意図する、決める、アファなどを安心してできます。
世界=私が分からない状態で願望実現のためのメソッドをしても常に不安や恐怖と隣り合わせ。そして、叶ったり叶わなかったり、叶ったとしてもやめたらリバウンド…
私はそういうのがもう嫌になり自己観察に辿り着きました。
もっと進むと、ただ今を楽しめるようになるのかな?と思っています。
自愛スレにて、自分になかった視点への気づきを頂きました
これで、自分ボッコボコ叩きゲームから脱出できるかもしれません
すでにもう↑の言葉自体、自分で書いていてなんかこわいし違和感あります
全然平気だったのに(いやそれ異常ですってば!笑)
明るい方へと進める気がします
ありがとうございました!
こういう話すればする程ほんとエゴって邪魔だなって思うわ。お前がいなければもっと幸せに生きれたのに
>>345
ありがとうございます。
>>346
こんにちは。
なるほど、そういうことでしたか。
>自分A「自分が自分を虐めても良いよね?誰にも迷惑かからないし」
それを見ている自分B「なにそれ…自分ブラック企業による自分パワハラじゃないですか…」
ここは自己観察スレですのでズバリ書きますが、
この件で言えば、どちらも普段の自分、つまりエゴですね。
このエゴのやり取りが起きている場が本来の自分ということになりますね。
>行き方がどうしても思い出せませんでした。もう完全にゲームの主人公状態でした
例えばですが、今のような「どうすれば」「エゴが〇〇で〜」とか、また「行き方どうだっけ?」とか、これらぐるぐるしている思考に気づく。
そしてこれら思考が起こっている場に気づく。
思考、そして思考の起こる「」に気づくんです。
>行きがけの、何気ない風景も、愛おしいなぁと思えたしお寿司もうどんも美味しかったし、帰りに引いたガチャも一番好きなキャラが来てくれました
やっぱり世界は優しかったです
わかります。
しかしこれを追い求めているエゴ、そしてエゴから派生している思考。そこに気づく。
そこに気づくクセがないと、またエゴが暴れた時に呑まれて右往左往してしまいます。
と、すごく淡々とある意味冷たい感じで書いてしまいましたが笑
こういった右往左往は私にも何回も経験があり、何回もアップダウンを繰り返して、疲れてしもた…となった経験は数しれず…。
おそらくそのような方もここでは多いと思います。
でもよく観ると簡単だったんです。
「これは本来の私視点で〜」
「いや、これはエゴだ!」
「こちらがエゴか?」
「いやいやこれが別の領域だ」
「わかった!いやわからない…」
とかとか、
それら観察しているつもりで、完全に呑まれてしまっていた。
ドラマが繰り広げられているスクリーンの方ではなく、役者を演じてしまっている自分に気づく。
また、スクリーン、「」を追い求めるのではなく、追い求める思考、追い求める役者に気づく。
それが巻き込まれなくなるポイントです。
いつでもスクリーンは静かで、平穏で、何事もなく常にここにあります。
でも自愛で気づきがあったようですね。
そしたらまず自愛一本で徹底してやるのがおすすめです。
ひとつ軸になるものをしっかりモノにしたほうが後々助けになります!
頑張ってくださいね〜♪
あ、また文章が変だ
>ドラマが繰り広げられているスクリーンの方ではなく、役者を演じてしまっている自分に気づく。
ドラマが繰り広げられているスクリーン上で役者を演じてしまっている自分に気づく。
ですね。
すみません。
>>351
もう一度、思考を見てみました
ポンッと浮かんでは消え、ポンッと浮かんでは消え、を繰り返しています
静かな場所で独り言のようなものが生まれては消え、生まれては消え…
こんなものに呑まれてしまっていたのか〜(笑)
ただ見ていればいいのに、相手をしちゃったんですね
本当に、ただ見ているだけで大丈夫だったんですね
とても丁寧なアドバイスをくださり、ありがとうございました!
>>353
>>353
こんにちは。
そそ。それです。
ポンと浮かんでは消え…
と、思考も他のこの世界に表れる現象と同じく、諸行無常です。
しかし、それら現象が浮かんでは消えることができる「場」がいつもそこにあるはずです。
これは自分が産まれてこの方、ずっとここにあったのではないでしょうか?
またポンと浮かんでは消えですが、
「私」に意識を向けた時、同じように今までの「私」イメージがポンと浮かんでは消え、してませんでしょうか?
意識している時は「私」はあるように感じますが、意識していないとただ世界が現れては消えではないでしょうか?
そのような浮かんでは消えの確固としない「私」という現象をしっかり大事に握りしめ、「私は〇〇で苦しい!」「私は△△で嫌だ!」などとやっているのが普段の私達なんです。
でもそれらの背景には、いつもそれらを見守っている大きな私がずっとここにいるんですね。
今の状況的に1人でいなくちゃいけない時間が長くあるのですが、その長い時間の中で、ついついエゴに引っ張られてしまい、苦しいです。
何度もエゴに気づこうとはしているのですが、1人でいる時間が長く、飲み込まれてしまいます。
仕事などもできる状況ではないので、1人でいざるをえないのですが、もしそういう状況にある場合はどう対処されますでしょうか?
>>355
こんにちは。
なかなかそうは思えないと思いますが、一人でおられる状況が多いのは逆にチャンス!と捉えていただけると良いかと思います。
じっくり自己観察を調べて見て下さい。
>>228 、>>231 は私がレスしましたが、こちらがとっかかりやすいかなと思います。
まったくの初心者でしたらやり方お教えしますが、過去の自己観察スレの長文で書いているのは私が多く…笑
読んでいただくと「あ!」と私のレスだとわかるかと思います笑
自己観察スレまとめにも多く出ていますので参考にしていただけると幸いです。
昔のレスは手前味噌ですが、かなり鋭く自分でもほほう…となること多しです笑
そちら含め自己観察さんのレスや他の方のレスも参考にしていただきたいと思います。
その上でのご提案ですが、
お散歩はできますでしょうか?
お散歩しながら自己観察が一番捗ります。
公園に寄って、この季節の風を感じ、野花を見ながら自己観察をしてみてください。
非常に落ち着いた心で自己観察ができます。
ぜひぜひ♪
>>354
「美味しい」「わぁ可愛い!」「あっ!あれやらなきゃ」
これらの思考に「私」は居ませんでしたが
ムッ!とした時には「私が不快を感じた」になっていました
ネガティブな思考が湧いた時、思考は「私」と一体化していました
「私」に意識を向けると、私と一体化したままの思考が始まりました
なんだか「息苦しさ」を感じたので、「私」ではなく、ただの思考の観察に戻りました
思考の観察、ちょっとしたゲーム感覚で面白いですね
無理なく出来る気がします
>いつもそれらを見守っている大きな私
以前、パニック発作の不安に駆られたときに、大きな私に助けられました
不安がる、怖がる私を否定せず、全て受け入れ、そのまま包み込んで癒してくれました
小さな私は、感情や思考の言葉がいっぱいで落ち着きがないですが
大きな私は、静かな安心感が有りますね
いつもアドバイスくださり、ありがとうございます
とても勉強になります!
おはようございます
>しかし、それら現象が浮かんでは消えることができる「場」がいつもそこにあるはずです。
>これは自分が産まれてこの方、ずっとここにあったのではないでしょうか?
なにか掴めた気がします
産まれた時からずっと敷いてある安全マットみたいなものです
泣き喚いても、飛び跳ねても、暴れまわっても
絶対に私のことを怒ったりしません
もし子供の頃の私が、上記のようなことを現実世界でずっと続けていたら
それはやはり叱られると思います、迷惑がかかるので
でも、マット=場 は、私が心の中でどんなにじたばたしても、受け止めてくれます
そしてその「場」は、生涯、ずっとそこに在り続けるものだと思いました
>>356
ありがとうございます!
過去のもの、拝見してみます。
たびたびすみません
思考の観察を始めて以降、変わったなと思うことがあります
感情が濃くなった気がします(振り回されるのではなく濃度が上がった)
アニメを見ながら自己観察をしていると
可愛い、優しい、ほっとする、せつない、がんばれ〜!などの思いが
なんというか、そのままストレート、という感じがしました
いままでよりも、濃いです
>>357
こんにちは。
>「美味しい」「わぁ可愛い!」「あっ!あれやらなきゃ」これらの思考に「私」は居ませんでしたが
ムッ!とした時には「私が不快を感じた」になっていました
良い感じで観察できてますね〜!
その通りで、「私(エゴ)」が不在のまま物事が進んでいる時って、日常でとても多いんです。
何かに没頭してる時、今回で言うと美味しいや、かわいいなどの感動でしょうかね。
つまり思考が「私(エゴ)」ではなく、その時は感動に変化している。感動に成っているんです。
すかさずその後に、思考が自分に向いた時、自分に成った時、
時系列を記憶で組み上げ「感動している私」という状況が出来上がるんですね。
これらのストーリーはすべて、
大きな私、「場」、別の領域、あとなんでしょうか?笑
遍満している意識とでも呼びましょうか。
その意識の中で繰り広げられている幻想みたいなものであり、本来のわたしはこれらを創ったり破壊している意識である。
そのように観えてくると、今までの個人としての重苦しい人生がそんなに重いものではなく、軽やかで自由に思えてきたり、「全部この私(エゴ)が何とかしないと人生大変になる!」というプレッシャーから解放されたりします。
その視点、「場」は、
ずーっとそこにあったんです。
これからも様々な気づきがあると思いますので、面白いと感じるなら継続してみると良いかもですね♪
>>360
「嬉しい」「切ない」「楽しい」などの感情が「私」フィルターを通さずダイレクトに意識が成っているから。でしょうかね。
上にもかきましたが、例えば「花」があるとします。
普通なら意識は、「花」→「私」→「綺麗!」
とざっくりですが3段階に変化して「花を見て綺麗と思う私」という状況が創り上げられるんです。
これが、「私」をすっ飛ばして「花」→「綺麗!」の2段階短縮になっており、その後じんわり「私」が想起する世界を、今生きている可能性がありです笑
なのでダイレクトに感じる。
あくまで私の予想ですけども笑
あまり気に取られず、そのような感情も淡々と観て行くと良いかと思います。
>>359
実践でわからないことあれば質問ください〜、答えられるところは頑張って答えます笑
>>361 >>362
ありがとうございます
>「私(エゴ)」が不在のまま物事が進んでいる時って、日常でとても多い
このときは、とても安心感があります
ただ、それ以降に頂いたレスの内容が
現段階の自分では、何度も読み返したのですが
どうしても、理解することが出来ませんでした
丁寧に教えてくださったのに、申し訳ございません
気づけば、理解できるのかもしれません
自分には、まだまだ気づきが足りないようです
観察、続けてみます
ありがとうございます
>>364
>ただ、それ以降に頂いたレスの内容が現段階の自分では、何度も読み返したのですが
どうしても、理解することが出来ませんでした
丁寧に教えてくださったのに、申し訳ございません
いえいえ、こちらこそいきなり意味不明な内容を話してしまい申し訳なかったです…。
この気づきは、見ている客体が実はそのまま主体だった、主客が一緒の気づきを説明したものです。
私=世界をより焦点絞ったと言いますか。
観るものは観られるものと言われる気づきでした。
この板的にはそこまで重要ではない話かと思うので、観察が進み追求モードになるようでしたら思い出していただければ。
これよりも、昔自己観察さんがしきりき言っていた、観察にて思考や思考の1つであるエゴに気づき「別の領域に浸る」を日々やられると良いと思います。
また大事なこととして、この「別の領域」「大きな私」を全面的に信頼し、普段の生活中も大きな私の中に常にいることを意識し、すべて委ねてみて下さい。
エゴがガーガー言ってきますが、自己観察中ですので巻き込まれず、この領域に留まることができるかと思います。
観察、無理せず頑張ってくださいね♪
>>356
昨日はありがとうございました。
228拝見しまして、②の完璧は、こころの中で言えば良いでしょうか?
>>365
ありがとうございます
>また大事なこととして、この「別の領域」「大きな私」を全面的に信頼し
>普段の生活中も大きな私の中に常にいることを意識し、すべて委ねてみて下さい。
別の領域に居るはずなのに「別の領域どこ?」と探し続けている感覚があるので
何でかな?と思って思考を見ていたら
「私なんかが別の領域に居続けるなんて申し訳ない」という思考が湧きました
思考の中に「私」が居るので、これはエゴですね
>「別の領域に浸る」を日々やられると良いと思います。
いつも別の領域の中に居る、という感覚を、しっかり身につけていきたいです
アドバイスくださり、ありがとうございました!
>>366
こんにちは。
読んでいただいたようでありがとうございます。「完璧」は心の中で言うで大丈夫です。
疑問も、ネガティブ思考も、完璧と思えないとでも、どんな思考にも完璧ラベリングをする感じです。
ここで「この思考に完璧ラベルなんて貼って良いのかな?」などあれこれ考えてたら思考にハマってます。
全部「完璧」とラベリングしてみてください。
その上で、その後の「」(思考の隙間)に在るようにしていれば、自己観察ができていることになります。
この「」に在りながら思考を完璧砲で撃ち落とす感じですね。
>>367
はじめは、自己観察していてもあれやこれやと思考に巻き込まれたり抜けたりとありますが、だんだんと研ぎ澄まされてきますよ。
いろいろと疑問もあると思いますが、自分に意識を向けての観察と、「」に留まりその平安さに浸る。
それら継続していれば気づきがありますので引き続き頑張って見て下さい。
>>368
ありがとうございます。
1、思考に気づく、
2、心の中で完璧と唱える
ちなみに、完璧と唱えるときは、何か感情を込める必要はなく、機械的にたんたんと唱えれば良いでしょうか?
また、完璧と唱えた後に、「」を感じようとするのですが、自分の体に意識を置いているのであっていますでしょうか?
思考が浮かんで苦しいときは頭に意識が向くんですが、「」の方は、体の方に意識を向ける感じになっています。
いかんせん、「」がどんな体感なのかわからないので、いつもこれでいいのかと考えてしまいます。
>>370
>ちなみに、完璧と唱えるときは、何か感情を込める必要はなく、機械的にたんたんと唱えれば良いでしょうか?
これは基本淡々とで大丈夫です。
感情がこもってしまっても問題はないですが、淡々とやった方が簡単にできます。
>自分の体に意識を置いているのであっていますでしょうか?
思考が浮かんで苦しいときは頭に意識が向くんですが、「」の方は、体の方に意識を向ける感じになっています。
これはですね、
はじめは身体に意識を向けるでもOKです。
意識の向き(注意の向き)がはっきりご自身でわかるようでしたら、どこにも意識の注意が向いていない瞬間というのを見つけてみてください。
意識の矢印が身体でもなく、思考でもなく、矢印がフッと消えてしまつまている瞬間が「」になります。
はじめはそこまで厳密にできなくとも大丈夫です。思考と思考の隙間に気付ければ成功ですよ。
遊びのつもりでやってみて下さい。
>>371
ありがとうございます!
少し理解できたように思います。
>>372
こんにちは。
はじめは良くわからないかもしれません。
今まで思考することが当たり前だっただけに、「」に在ると落ち着かず、すぐに思考が騒ぎ出します。
落ち着いた時間があれば、
視点を動かさないようにし、
身体の動きを止め「」に在ると、湧き出す思考に気づきやすくなりますよ。
湧き出したら完璧で撃ち落とす。
慣れればそのまま完璧と言わなくとも思考をスルーできます。
そのようにしていくといずれ、コップの濁った泥水がだんだんクリアになるように、常に頭スッキリ、休日の晴れの日がずっと続くような、過去未来に囚われない軽やかな日々を過ごすようになります。
>>369
たくさんのアドバイスをくださり、ありがとうございました!
昨夜、「私」が居なくなる感覚が訪れました
でもそれは、ちょっと味気ないなと思ったので、私を呼び戻しました(笑)
別の領域も、大感動するようなものではなく、ごく普通のものと捉えられました
これが到達点なのかどうかは分かりませんが、とりあえずは、もう大丈夫な気がしました
ありがとうございました!
>>373
ありがとうございます!
おっしゃるように、今日は思考が騒がしく、「自己観察しても現実なんて変わらない」、「自己観察で変わるなら、その原理を科学者が証明していたり、もっと多くの人が活用しているはず」みたいな感じになってしまいました。
373さんも似たような思考が浮かんでくる経験もあったかと思いますが、それは実践を重ねていって、ある時うまくいった感じでしょうか?
>>374
こんにちは。
>昨夜、「私」が居なくなる感覚が訪れました
え!すごい!
そんなに早く!?
観察初めて一週間も経っていないのにその感覚になったとは驚きです笑
>でもそれは、ちょっと味気ないなと思ったので、私を呼び戻しました(笑)
味気ないと思いましたか笑
それはすぐにエゴが戻り、期待という記憶との「比較」が起きたのですねー。
私を呼び戻したのは他ならぬ「私(エゴ)」ですが、なかなかそこまでいけないのですごいと思いますよ。
>別の領域も、大感動するようなものではなく、ごく普通のものと捉えられました
普段の生活中でもよく顔を覗かせることがあるけっこう普通のことなんです。
なので期待が大きいとエゴからしたら拍子抜けする場合もあります笑
その拍子抜けしたり期待したりするエゴがあるからこその愉快で楽しい人生なのですが、逆に言えば、愉快で楽しいがあるからこそ、裏に苦や悲しみが潜んでいるんですよね。
そのエゴから離れたところに不動の平安あります。というか、いつもここに在る。
エゴのアップダウンにもう疲れた…。
人生ダウンばかりや…。
という方には、このいつもココにある不動の存在の発見は、大きな救いになるかと思いますね。
到達点については、自分で芯から納得できたかどうかですが、現在はもう大丈夫とのことですので、ひとまずは良かったですね〜。
また何かあればスレ覗いてみてくださいね♪
>>375
こんにちは。
私の場合は追い詰められ過ぎていて、もうこれしかないと言った感じでやってました笑
もう精神的にボロボロだったのと、私の初期のマスターにあたる(と勝手に思っています)やまがみてるおさんという方が、自己観察で鬱から脱したんです。
それを希望に私もひたすら頑張りました笑
あと、あの桑田さん(知らんさん)にもいろいろアドバイスいただいたことがあり、マスター方を信じて実践していました。
なので私の場合、疑問なく突き進んでいましたね笑
それとやはりハーディングとの出会いが非常に大きいです。ハーディングもやまがみさん、桑田さん経由で知りました。
>>377
横からスミマセン、鬱で悩んでいる者です。
自己観察でどうやって鬱を治したか、教えて頂けたら嬉しいです.
「鬱になっている自分を観察する」みたいな感じでしょうか?
>>378
>>378
こんにちは。
私自身が鬱病と診断されたわけではないのですが、一時期布団から出れない状況だった時はあります…。
鬱から脱したとおっしゃっていたのはやまがみさんでして、日がな一日思考を観察し、思考と自身とは違うことを認識していたと言っていました。
またそうしていると辛さがなっかったと言っていましたね。
私も思考にのめり込むことがなくなってから心の辛さから開放されたので効果はあるのだと思います。
あくまで医学的見地外での意見ですが。
>>344
>>340 、>>342 です。
ありがとうございます。私はエゴがまだ強いようなので完璧認定をし始めました。
しつこく完璧と言っていると思考が黙る瞬間があるので面白いですし、単純に楽にもなりますね。
少し前になんとなく自愛や自己観察をしていたときは、隙間というより思考の内容を見ていただけだったように思います。
今は別の方へのレスで出ていた、>>228 をとても良い指針にさせていただいています。
>>347
私も徹底アファなどを数ヶ月やっても全く変化がなかったので、これは何かを根本的に変えないといけないのではと思い、こちらにたどりつきました。
今後は願望はひとまず置いといて内側を見つめていこうと思います。
遅くなりましたがレスありがとうございました!
>>376
レス有難うございます!
さっそく戻って来ちゃいました(笑)
観察を始めてからは1週間以内ですが
自分と向き合う取り組みを始めてからは、今年で10年目でした
下積み10年(笑)無駄じゃなかった
積み上げてきたものが、一気に統合された感じです
私が居なくなった時、世界は色あせてしまいました(実際の視界も、彩度が低く見えました)
こんな世界は嫌だ!と思い、「私、私!」と体の中心に私を強くイメージすると
私が元に戻り、世界も色鮮やかになりました(視界も色鮮やかに戻りました)
ああ、この色鮮やかな世界は、私が創っていたんだ、と実感した瞬間でした
別の領域は、私がエゴにまみれて寒がっていたから、暖かい場所に感じていたけれども
私が暖かい→別の領域も暖かい→温度差が無いから気づけない、でした
笑ってしまうほど簡単なものでした(笑)
到達点ではなく新たなスタートでした
気づきには終わりが無くて楽しいです!
メソッドと呼ばれるものに本気で取り組んだのは、今回が初めてでした
丁寧に教えていただいたおかげで、短期間でいろいろな気づきを得ることが出来ました
ありがとうございます!
>>377
ご丁寧にありがとうございます。
>>379
ありがとうございます。
鬱ってネガティブな自動思考が自動再生されている状態なので、そこから離れるのは至難の業です。
ほぼ思考観察以外、何もできないくらい。
気づいたというか、思ったことがあるのですが、自分の場合、ネガティブ思考が出てくると、そこから離れるために、スマホで動画を見たりするのですが、それよりは自己観察した方がネガティブ思考には効果があるということでしょうか?
ネガティブ思考を動画でかき消すのは、むしろ思考に力を与えてしまうのですかね。
>>380
こんにちは。
>しつこく完璧と言っていると思考が黙る瞬間があるので面白いですし、単純に楽にもなりますね。
完璧認定やられてるんですね!
こういう実践を楽しいと感じるようでしたらどんどん気づきが訪れますよ。
このアレンジ完璧認定以外にも、このスレで過去たくさん投稿してますのでお時間あれば探してみて下さい。
けっこう面白いと感じていただける方法だったり考えがあるのではないかと…大体同じようなことを違う切り口で話すようにしてますが、手前味噌すみません笑
>>381
こんにちは。
あ、10年もやられてたんですね!?
なら土壌は耕されてた状態だったんですね〜。
>私が居なくなった時、世界は色あせてしまいました(実際の視界も、彩度が低く見えました)
こんな世界は嫌だ!と思い、「私、私!」と体の中心に私を強くイメージすると私が元に戻り、世界も色鮮やかになりました(視界も色鮮やかに戻りました)
ああ、この色鮮やかな世界は、私が創っていたんだ、と実感した瞬間でした
この体験はどこかのマスターの体験を読んでるようですね笑
でもこれによってしっかりと私=世界であることに気づきましたね!
エゴはフィルターやフィルムであり、これを通して世界を観ていることがはっきりしたと思います。
ですので、エゴの認識が変われば世界も変わるんですよね。
その他にも重要な気づきがあったようで何よりです。
私と同じ探求型ですね笑
楽しいと思えるならどんどん先に進むと思いますよ!
またなにか気づきあったらシェアお願いします♪
>>383
こんにちは。
それはやまがみさんもおっしゃってましたねー。
なのでずっと「思考!思考!」と思考に気づくように努力されたようです。
私もはじめは思考に気づく努力をしていましたが、すぐ忘れちゃうんですよね笑
いつの間にかネガティブに呑まれてしまう。
自己観察しながらも自愛やったり瞑想やったりいろいろやりましたが、自己観察の型(思考と自分を分けて観るコツと言いますか)がハッキリしたのはハーディングの実験をやってからかなと思います。
かなり紆余曲折はありまして、当時今でこそ有名なマスターの方のブログにコメントしまくって教わってました笑
>>384
こんにちは。
スマホは禁止です!笑
実は私はこの板やまとめで自己観察を知りましたが、実践がうまくいかず、また達人の方の言っていることが夢物語なポエムのように見えてさっぱりだったのですが、先のやまがみさんだったりにアドバイスいただいてからは潜在意識ちゃんねるやまとめ禁止。
仕事の休憩時間や通勤の電車でも禁止笑
ずっと実践やってました。
特に、思考から離れて、「」である別の領域から思考が湧き出す瞬間を捕えるようにしていました。
なので休憩中の休暇室やカフェでの私は、一点をじっと見て動かない、端から見たら様子の変な人だったと思います笑
また駅から家までは歩きながら「」に起こる現象(風景のことです)を見つつ、自分が家まで向かっているのではなく、世界が動いて家が自分に近づいてくる…と観ながら帰ってました。
つまり、意図が起こると、私が動いているのではなく、世界の方が動いている。
そのように世界を観る、ある種の瞑想ですね。
これはハーディングの実験の応用ですけど。
そんな感じでとにかくスマホは必要な情報を得る時のみ見て、それ以外は実践してましたね笑
どうしてもスマホに逃げてしまうので、そこを実践に当ててました。
>>382
また何かあればお答えします。
参考になれば良いですが笑
>>387
鬱について質問した者です。何度も素早いお返事ありがとうございます。
鬱に限らずですが、思考の元にはすべからく「恐れ」があるような気がしています(これも思考ですが笑)
私の場合、トラウマが大きいと思っているのですが、こんな時も「あ、私はトラウマがあると思っているのかな」と眺める感じでしょうか。
いくら「これは思考だ」と思っても、幼少期の思い出が消えません。
あと、他のレスの件で恐縮ですが、スマホの使い方については「習うより慣れよ(つべこべ言わずやれ!)」という意味でしょうか?
>>388
ありがとうございます。
今さっき、前にある電信柱とかに一点集中しながら歩いて、自己観察してみました。
思考が浮かんできて、気づくを繰り返したのですが、「」を感じるというよりは、歩いているときの足の感触や、風が触れる感触、車の音などに意識が向いてしまいます。
歩いているときの自己観察と、じっと座っているときの自己観察だとやり方が変わるということでしょうか?
>>390
「恐れ」が根底にあるのはその通りです。
それは自分とは1人の人間であり、頑張って生きていかないと死んでしまう。自分を守らないといけない。
という死への恐怖が根底にあります。
願望は全部根底にこれがあるなと私は考えています。
1人の個人ではなく人間でもなかった。死もない。
全部思考の虚偽だった。
という気づきが自己観察で訪れますが、根本原因が虚偽だとわかると、人生の重さみたいなものがだいぶ減りますよ。
まずはどんな思考をも観察し、
思考は自分とは別物である。
ということを目撃することからですね。
思考を認識できるということは、それは自分そのものではないのです。
「目玉は目玉自体を見れない」とよく知らんさんは言ってますよね笑
あとは、
白い画用紙に意識があるとして、
白い画用紙は白点を認識できないけれど、黒点があると認識できる。
黒点が思考みたいなものです。
あとはー、
熟睡中は自らを認識できないけど、夢が起こることによって、夢と夢を見ている意識を分別できる。
これが近いかもです笑
思考が別物であると気づいたら、
今度は自分と思っていたもの(肉体やその感覚、感情など)も同じように観察します。
そこでわかることは、自分と思っていたものはすべて起こっては消えて行く「現象」であり、確固とした存在ではなかったということです。
では常に確固として存在しているものは何か?
そこに気づくと、前述したように、死もないことがわかります。
今はトラウマは辛いと思いますが、その気付きで解放されるかもしれません。
スマホ禁止と書いたのは、
情報ばかり追い求めてしまい実践が疎かになるからです。
これで合ってるのか、間違ってるのか?など
情報を探すばかり、思考ばかりとなり、大事な身になる自身の気づきがそこにはないのです。
真実は自分で体験し、目撃しないと身にならないと私は考えます。
私は2年間潜在意識ちゃんねる禁止にしてましたけど、これは極端かもですね笑
>>391
やってみたんですね。
ありがとうございます。
いろんなパターンがあり、身体の感覚で意識に登ったものを観察する方法はヴィパッサナー瞑想もありますが、
初心者さんでしたらまずは>>231 をやってみてはいかがでしょう?
これでしたら集中する場所は思考の出口のみ。
あれこれ集中しなくても良いのでわかりやすいかもです。
ポイントは、やはり思考は自分そのものではないことを知ること。
また、思考無くとも自分が在ることを知ることです。
これを知るだけでも自動的に自己観察ができるようになるかもです。
思考が起こっている時と、思考が無い時の違いもよく観察してみて下さい。
普段思考が自分だと思っているから思考に悩まされるんですもんね。そこに距離ができるとどうなるか?検証してみて下さい♪
こんばんは。
質問です。
これは問題だ!なんとかしなきゃって叫んでいるのは思考だと気付いているのですが、例えばDVを受けている人がいたとして、夫からの暴力は問題だ、なんとかしなきゃと思うと思うんですよ、実際。
これは思考だから別の領域にいればいいんだ、で、問題というかDVがある現実は流れていくんでしょうか?
現実的に対処するべきなのかとか問題に対して逃げるのかわからなくなってしまって。
>>394
こんにちは。
そのようなご質問、昔からよくあるのですが、
DVを受ける環境におられるとしたら現実的な対応をまず取るのが一番です。
病気やケガもそうですね。
その上で、そのような疑問も含めてちゃんと自己観察ができる環境で時間をとって自己観察を実践するのをおすすめします。
自己観察が身に付くと、普段の生活で適切な動きができるようになったりします。
それは「こうなるとマズいな」「こう動いたら後で面倒なことになる」などのエゴの過度の恐れが減るからですね。
ある意味直感で動くような感覚に近いかもしれません。
この辺り、昔詭弁さんが「百発成功」として説明されてましたね。
とにかく、今現に危機が迫ってるようでしたら逃げる。それが一番ですね。
>>393
ありがとうございます。
392で、2年間掲示板を禁止されていたとのことですが、ひたすら実践されていたんですかね。
自分の場合は、どうしても「これであっているのか」確信を得たくて、まとめ読んだり、質問させていただいたりするのですが、それもあまり良くはないですかね。
>>396
こんにちは。
私の場合、やはりずっとまとめやスレから気づきや認識の変更について知ろう知ろうとしてましたが、1年間読み込んでも相変わらず達人さん方のポエムの意味がわからずでした。
なんとなくイメージはできたんですけどね。
で、自己観察をちょこちょこやってたら気づきがあり、実践すればする程、達人さんの話す意味が実感としてわかったんです。
イメージしていたことと違うこともたくさんあり、自分で気づかないとわからないもんだな〜と感じました。
それからはまとめは不要、自分の気付きを指針にしようと思い、自然とまとめを読まなくなった感じですね。
禁止というよりも、まとめに頼らなくなった、また読み出すとハマるなと思ったのと、実践が面白いのもあり2年間離れてました笑
とにかく達人の話される域まではいきたいという気持ちがあり、実践中心にしてましたよ。
>>392
かなり長い間、認識の変更をしたくて、できないでいるものです。
底に死への恐怖という書き込みに、はっとさせられました。小学校の頃から、ずっと死にたい死にたいって思っていたけれど、最近、自分は本当は死にたくないんじゃないかって気がつき、392さんの書き込みで
死にたいは死への恐怖の裏返しだったのじゃあないかと
思いました。
認識の変更したいのも、死への恐怖があるからだというのも、わかりました。
長い間取り組んでいるので
私は一生、認識の変更ができないのではと
辛くて絶望感でエゴに巻かれて涙する時もあるけれど
自己観察続けてみます。
>>396
あ、私も途中達人さんに答え合わせしたり、実践においての消えない疑問などは質問していたのでそれはOKだと思います。
まあ人それぞれの所もありますけどね。
良くないのは、実践少しやってすぐに効果ない!と諦めてまとめ探して効果ありそうなものをあれやったりこれやったりすかね笑
正直もったいないです。
じっくり腰を据えてやればどれも効果あります。
また自己観察でしたら、そのような疑問も観察すべき思考なんですよね。そうすればブレない。
私も実践中なんやかんや疑問にブレつつも、いかんいかん!自己観察!ってやってました笑
>>398
お声がけありがとうございます。
そうなんです。
私も自分の願望すべてに「私はなんでそう思うの?叶えたいの?」を追及したら、「死にたくないから」と最後返って来たんです。
現世利益的な願望も、精神的な安心や幸福感も、死から距離を置いた立ち位置(と思っている)ですもんね。
私であるエゴは、耐えられないほどの苦しいことがあると自ら消えようとしてしまう傾向がままあり、実際に自らそちらを選んでしまう方もいますが、それは倒錯であり、あなたのようにしっかり本心を見ると本当は「生きたい」なんですよね。
よく気づかれたと思います。
引き続き、エゴの本心を聞くこととも併せ自己観察やられてみて下さい。
>>399
ありがとうございます!
>>400 さん
心のこもった書き込み、ありがとうございます。
引き続き自己観察してみます。
>>395
お答えいただきありがとうございます!
多い質問だったんですね。
私自身見たことなかったので、すみません。
自己観察をしたら適切な答えがわかるというのが目からウロコでした。
私はどうしても迷いが生じた時にどうするのがいいかわからず止まってしまっていました。
直感が鈍っているのかもしれません。
もしよろしければ自己観察のやり方を教えていただけないでしょうか?
静かな空間で頭に浮かぶことを淡々と見る?でしょうか?
>>392
お礼が遅くなりましたが、丁寧な回答をありがとうございます。
スマホの誘惑にも負けず、実践を何年も続けられたとのこと、凄いですね。
実践が辛いのは多分、あまりにも今の「問題がある」自分に慣れすぎて、本来の自分に戻るという「変化」が怖いのでしょうね。
そう考えると、「恐れ」とは未知なるもの、体験への変化に対する反応かもしれません。死も含めて。
>>403
こんにちは。
適切な答えが思いつく、もしくは自然とスムーズな動きをするようになる。という感じですかね。
私は昔剣道をやっていたのですが、試合中にあれこれ考えると勝てないんです。
特に「やばい負けるかも」なんて思考しちゃうともうダメですね笑
身体と心、つまり「私」を神に預け(当時信仰していた剣道の神様です笑)、動くがまま動く。
無心、無私の境地笑
そうすると勝てたんです。
そこには個としての「私」の存在はなく、その場というか、状況そのものになっていた。
それはまさに読んで字のごとく、
「没頭」していたんです。
つまり頭(自分という意識)がない意識状態。
ハーディングの頭のない実験と同じですね笑
これって不思議だなと思ってましたが、大人になり自己観察やハーディングの実験の実践でわかりました。
例えば何かしようと意図が起こった時に、うまく成し遂げないとと「私(エゴ)」が介入するとスムーズにいかないことが多いんだなと笑
たとえば自転車なんかは乗り慣れているので無心無私で運転できますでしょ?
これがペダルの角度はこうで、ハンドルはこうでとか、うまく乗ろうと私が介入するとコケますよね笑
つまり過去を参照した打算的な思考が逆に身体の動きを邪魔していたり、また恐れの思考で頭に余裕がなくなりパフォーマンスが発揮できていない。などなど、現実的な説明だとそうなります。
しかし不思議で括ってしまうと、なぜだかわからんが不思議とスムーズに行く笑
その時、思考もしてますが迷いがなく冷静で適切な思考が起こります。
で、自己観察のやり方ですよね?
まずは思考が自己ではない。
(自分とか私と書くとごちゃごちゃになるので自己と表現します)
そのことに気付くことからです。
それには、思考をまず客観的に捕らえる。
無思考になれるなら一旦無思考になってみて下さい。
無思考になっても自己はありますよね?当たり前ですが笑
ということは、思考は自己ではないですよね?
そして無思考になったら、そこから思考が湧き出す瞬間に気づきます。
これをやっていると、自己と思考が別ものであることがわかるかなと思います。
長くなったのでまたご質問あれば♪
>>404
>>404
こんにちは。
いえいえ、とんでもないです。
参考になりましたでしょうか笑
そうですねー、一生懸命やってました笑
そういえば思い出したのですが、何か一点に集中していたり、自己観察で思考を観察しスルーしたあとの無思考のままでいたり。
そうしているとハートから何やら淡い安心感が起こるんです。
自己観察さんも言ってましたよね?別の領域の安心感って。
そこによく浸ってましたね。それが気持ち良かったし安心できたから、おもしろかったから続いた、とも言えますね。
逆に思考するとウザったく感じるというか、頭の中が騒音だらけのような気がして、スマホ見ると情報で騒音だらけになるので自然と避けていたのかもしれません。
>あまりにも今の「問題がある」自分に慣れすぎて、本来の自分に戻るという「変化」が怖いのでしょうね。
エゴ的には自分がどうにかなってしまうという恐怖があるかもしれませんね。
もしかしたら消されてしまうのか私は!?なんて笑
でもエゴはしっかり残りますから大丈夫ですし、スイッチみたくエゴエゴにも戻れるので安心して下さい笑
ただ気づきは忘れることがないので根本的なところで変わると言えますね。
こういうのって、自分でどうこうではなく自然とタイミングが来て導かれるものだなと思うので、今が辛くてもいずれ自然と向こうから呼ばれますので乞うご期待ですね笑
ふと思ったのですが…
私(エゴ)とか、ハーディングとか、
当たり前のように言ってましたが皆さん何のことやら?って感じですかね…?
もし「なぜ私がエゴなんだ?」とか、「ハーディングって誰や」と思われたようでしたら言っていただければ時間あれば説明しますので遠慮なく。
>>386
こんにちは!いつも丁寧なお返事を下さりありがとうございます
その後、なんか躁鬱っぽい感じなのですが(汗)
まあそれは置いといて
思考を観察しようとすると思考が止まり「無」になる事があるようになりました
1点を凝視しながら行い、上手くいくと、すごく安定感があって力強い「無」になります
他の方へのレスで拝見したのですが、剣道をされていたのですね
私は幼少期に、ほんの一時期だけ合気道教室に通っていたことがあって
「気を入れる」というのを教えてもらったのですが、無は、それと同じ感じがしました
気が入っていると、体をグッと押されても動かない
気が入っていないと、フラッとバランスを崩す、そんな感じでした
いい感じで無になれている時は、自分が静かで力強く、世界がキリッと引き締まって見えます
私408はひどい猫背で、姿勢を正そうとしても維持できないのですが
先ほど「気を入れる」をしただけで、自然と背筋が伸び、その姿勢を維持できました
意識して背筋を伸ばそうとしてもきついだけですぐ背中が丸まってしまうのに
気を入れるだけで、自然と出来てしまってびっくり、という気づきでした
以前のスレで、思考が浮かんできて、それに気づいて、気づいている自分に意識を向けると安心感が得られ、それが別の領域と書かれていました。
自分も気づいて、無思考になって思考から距離を置けたようには思うのですが、安心までは得られていません。
その場合は無思考になっている時間を長くするように意識すれば、安心を得られるのでしょうか?
>>409
こんにちは。
もともと躁鬱の気があるんでしょうか?心配でしたら少しメソッド系はお休みしたほうが良いかもしれませんね。
あまり無理はなさらないでください。
「無」になられたとのことで、
その無に浸るのも良いですね〜。
それと自己観察スレなのでしつこく言いますが笑
「無」から「私(エゴ)」が立ち上がる瞬間を観察ですね。
ここでわかることは、この自己とはずっと前から「無」でありスクリーンであった。
そのスクリーンに、色んな現象とともに「私(エゴ)」という思考も現れ、私の世界が繰り広げられている。ということですね。
本来の自己はスクリーンなんですから、映像である現象に惑わされなくて良いんですね。
合気道をやられてたとはカッコいい!
「気」を入れたら現実に変化があったとは興味深いですね〜。
一体「気」とは潜在意識的にはどのようはものなのか、「神」の概念と同じく、エゴのリミッターを外す抜け道的概念なのか…。
私は今は気については疎い(昔はハマってましたが)ので、ぜひ探求していただきたいと思います笑
>>410
こんにちは。
思考から距離を置けたとは素晴らしいですね!
ぜひとも継続していただきたいと思います。
安心感ですね。
それはまず何かに集中したり、自己観察で思考をスルーしたあとにそこにある「無」に留まったり。
とにかく思考から解放されましたらそこに留まってみてください。
無思考にくつろぐイメージです。
で、安心感は初め非常に微かな感覚として、
静寂さ、温かさ、幸福感、清々しさ、などとして、
人によって現れ方は違うのですが、胸(ハート)奥辺りに現れます。
無思考に留まったら、ハート奥に意識を置いて感じてみようとしてみて下さい。
見つけたら、まるでマッチの小さな火を大切に扱うように、そっと感じるイメージです。
安心感が湧いてきたら「ああー気持ちいい〰」とか、思考しても構いません。
現れるまでは、無思考に寛ぐ。ですね。
おっと、そうでした。
感じたい!どれだ!これか!いやちがう!
みたいなのはエゴがガンガン邪魔して微かな安心感が隠れてしまいます。
「感じてみようとしてください」と書きましたが、逆ですね。そのような意思を放棄して待つ。
いや、待つだと自分の意思がありますね。
などなど、そんな方法論を考える自分をまるっきし放棄して、ここ、今、に寛ぐ。
そうするとわかるかと思いますを
>>411
レス有難うございます!
思考の「場」を集中して観察しようとすると→無→無→無
ただ無→無のみで、エゴが立ち上がらなくなる感じでした
その時、普段は思考が沸いては消えるその「場」だけがそこに在りました
場は私の場合、何も無い部屋のイメージです
思考という煙がポンポン出ては消えています
もくもく沸いて低い位置でぐるぐる回っているなかなか消えない煙がエゴでした
これが、無のときは、煙の無いただの部屋だけ、になった感じです
合気道は、幼少期に本当に短期間だったので、技などは一切覚えていませんが
「気を入れる」だけは覚えていました。今回初めて正しく行えた気がします(笑)
軽い頭痛が起きていたのですが、気を入れると楽になり、そのまま治りました
気を入れることを思い出し(実はすっかり忘れていました)
気づきを得られたので、その方向で探求を進めてみます
色々教えてくださり、ありがとうございました!
>>412
ありがとうございます!
>>405
丁寧な説明ありがとうございます!
無思考には意識的になるよう気をつけています。
思考にすぐまみれてしまいますが(苦笑)
自己と思考が別だという気付きはあるのですが、腑に落ちていないのか、愛を感じるとかはそういうのはないです。
自己観察が足りないのでしょうか?
もしくはエゴの解釈自体が間違っているのかなと思ったのですが私(エゴ)についても教えていただいてもいいですか?
>>414
こんにちは。
色々と気付きが起こっているようで素晴らしいですね。
よく認識の変更と言いますが、その気付きがまさに認識の変更であり、気付きによって自身と世界への認識が変わると本当に現実も変わってくるもんです。
また「気」ですが、この現実をスムーズに生きるためのツールとなると良いですね。
自分にコントロールできるものが増えると楽しいですもんね笑
その切り口からもぜひ追求お願いしていって下さい♪
>>416
こんにちは。
>無思考には意識的になるよう気をつけています。
思考にすぐまみれてしまいますが
良い感じですね。
思考が湧いても巻き込まれても、それが普通ではありますので凹まず続けてみてください。
思考が絶えず湧いてきたとしても、思考をまるで音やエネルギー、また物体、そのような客体として気付ければOKです。
また無思考ですが、自己観察的には無思考になることによって何かを叶えるという目的はあまりなく、
無思考でも自己が常に在ることに気づくこと。
またそこに思考が乗っかっていることを気付くため無思考になる感じです。
例でいうと、まっさらなスクリーンという自己が常にここに在り、そこに思考という映像が乗っかる、映っていることによって、世界が現れている。
そのことを目撃するため無思考になってみるということですね。
そこに気付ければ無闇に思考の主張に巻き込まれなくなります。
また、愛を感じる等は必須ではないので感じなくても大丈夫です。
本来の自己に気付いた時の感動でエゴが愛を感じたりすることもありますが、それは副産物みたいなものです。
私も経験ありますが、それらの大きな感動を感じた後にそれを欲するようになってしまいます。
あの感動をもう一度と、それを感じて気持ち良くなることが目的になってしまう。
上にも書きましたが、
ああでもないこうでもないと忙しく動き回り探し求めているこの「私」を放棄したところに、静寂として本来の自己が顔を出します。
なので「私」がそれを求め探しだすと見つからなくなってしまうというわけです。
この本来の自己を見えなくしている「私」こそがエゴなんですね。
その正体は、経験で積み重ねた記憶であり、思考です。
その証拠に、「私」について自己紹介をしてみて下さい。
すべて過去のことを説明するかと思います。
名前、性別、年齢、国籍、社会的地位、またどのような経験をしてきたか?
これらすべて記憶であり、記憶を私と定義してないでしょうか。
さらにさらに、
何科の動物か、生物か、物体か、何星人か(細木数子の方ではなく)。
全部記憶であり思考です。
さらにこの「私」の実態とは何かを追求していくと、
肉体でもなく思考でもない、細胞でもないし五感の感覚でもありません。
どれも「私そのもの」とは言えないのです。
なのに「これが私です」と普段当たり前のように言いますが、それ全部思考によって『私としてるもの』であり、しかも自分でもどれが私なのかが漠然としながらも「これが私」ですとしています。
「いやいや、確かに私はこんな素晴らしい経験をした!こんな辛い経験をした!それがこの私だ!」
と主張されるかもしれません。
しかしその時のシーンをじっくり思い返してみた時、あることに気付きませんでしょうか。
そこにあるのは、その時の映像、その時の音、その時の思考、その時の感情、その時の肉体感覚。だけ。
そこに何か「私」というものは見つかりますでしょうか。
これら経験ひとつひとつを漠然と私としてませんでしょうか。
そしてこれが「私(エゴ)」。
普段の私の正体なんです。
これら起こったり消えたりしているものを漠然と私としていますが、これは私の本質であるとは言えませんよね。
なのにこれら起こったり消えたりしてるものを記憶によって引きずり苦しんでいるのがいつもの私たちなんですね。
でも1つ、ずっと変わらず、ずーっといつもここに在る存在が隠れています。
それがそれら起きては消えて行くもの、映像が映ることのできるスクリーン、本来の自己なんです。
今目の前にある、「私」を内包した意識のことですね。
むむ、大切なのにわかりにくい文!
>それがそれら起きては消えて行くもの、映像が映ることのできるスクリーン、本来の自己なんです。
→それがそれら起きては消えて行くものが起こることのできるベース。
映像が映ることのできる不動のスクリーン。
それが本来の自己なんです。
です。
願望が叶わないために、他のことがあまり楽しく思えず、ただ無駄に時間を過ごしています。
その時間のときは、たいてい嫌な思考が浮かんでくるので自己観察をするように心がけているのですが、何か熱中できることを探して、嫌な思考が浮かんでこないようにした方が良いものでしょうか?
それともそういう時間で自己観察をしつづければ、楽しめることが急に浮かんできたりしますでしょうか?
>>420
こんにちは。
何か熱中できること、趣味など興味あることがあるならそれをやられた方が良いと思います。
楽しいことに意識が集中するのはおすすめですね。
自己観察を無理にやることはないですよ。
でもなんか気になる、やってみたい、やらなきゃダメだ、などの気持ちがあるなら実践おすすめします。
自己観察をやったから楽しい思考が出てくるという訳ではなく、ネガティブな思考に惑わされることが減るので気持ちが楽になる。
結果楽しいことに意識が向くということはありますね。
また気づきのメソッドと言われますので、色々なことがわかります。
それが楽しいと感じたら自然と自己観察を実践するようになると思います。
>>421
ありがとうございます。
421さんは、手持ち無沙汰な時って、何を趣味としたやられていましたか?
>>422
前にも書きましたが、まとめ等は見ていなかったのですが、気に入ったマスターのブログや、昔の賢者の本をよく読んでましたね。
あとはYouTube見たりとか笑
音楽も聞いてました。
家に帰り、寛ぐ時間ってあるじゃないですか?
その時間は好きなことをしてました。
憩いの時間に悩みや仕事の事をぐるぐる考えると全然休まらないんですよね。
なのでそっちに意識を持っていかないようにしていまたよ。
だってぐるぐる考えてしまうようなことは、解決策がなく、ただただ心配で考えてしまうということですからね。
もしそうなるのでしたら、自己観察を実践するか、「なぜ私はこの事案について心配なのか?」を掘り下げることもおすすめします。
例えば仕事のことだとしたら、
「だってうまくいかないとクビになるし」
「クビになったら食っていけないし」
「食っていけなければ死ぬでしょ?」
みたいに答えがどんどん出てきますが、だいたい今の日本で本当に食っていけないなんてほぼほぼないんですよね笑
そう冷静になると「ま、大丈夫か!」と気持ちが楽になります笑
だいたいのことは「ま、どうにかなるでしょ!」でほんとにどうにかなるんで大丈夫です。
今までどうにかなってきたんだから、今後もどうにかなります笑
なんて無責任言動みたいですみません。
仕事の休憩中なんかはエゴが騒ぎやすいので、集中して自己観察してましたね〜。
前述しましたが、一点を見て動かない人でした笑
すみません、最後の3行は消し忘れです…
>>423
ありがとうございます。
10年くらい引きこもりで、仕事もできていなくて、今後も大丈夫とはなかなか思えないのですが、希望は持ちたいと思います。
>>418
ヨコから失礼します。
>>何科の動物か、生物か、物体か、何星人か(細木数子の方ではなく)。
全部記憶であり思考です。
ということは、科学もエゴなのでしょうか?
>>425
こんにちは。
そうでしたか…。
私も若い頃働くのが嫌で2年ほど家でゴロゴロしていた時期がありましたが、家に籠もっていると思考が止まりませんよね。
私の場合は精神的なものではなく、ただの怠惰(笑)で無職をしていたのですが、それでも家にいるとネガティブな思考でいっぱいになり辛かった覚えがあります。
お散歩できますでしょうか?
お外に出られるなら、今の時季は新緑が綺麗ですので公園や土手などで、まじまじと野花を細かいところまで観察したり、風が肌に当たる感覚をじっくり緻密に観察したり。
それも自己観察の練習になりますよ。
ふと自分に意識を向けると、じーっと観察していた間は思考が止まってことに気づいたり…。
自然を観察するように自分を観察してみると気付きがあったりします。
川の土手を歩きながら、
「私に気づく意識があるからこそ、この世界が気づかれ、存在しているんだ」と、外の世界が私の中で起きているとイメージしながらお散歩したら、何か大きな気付きがあるかもしれません。
お散歩瞑想、
無理せずに、できそうならやってみてください。
>>426
こんにちは。
私はヒト科ホモサピエンス、人間であり、そして生物であり、物体でもあり、地球という星に産まれ、生きている。
という認識自体は、「私」を意識した瞬間に記憶を参照し引き上げられ、自己にレッテルとして貼り付けられる思考であり、そしてそれがエゴの正体です。
という意味ですね。
それらレッテルを全部横に置き放棄した時、最後に残っている意識が本来の自己ですというお話でした。
こちらは自己観察スレですので一般論からするとトンデモ話に聞こえるような話もしますが、決して現実を全否定しているわけではありません笑
現実は現実としてあり、また私も一人の人間、エゴとして現実を生きています。
しかし見方を180℃変えて、
科学を含めたこの現実が存在するのは、この本来の自己である「気づきの意識」があるからこそ。というのがこの私の認識です。
この気づき、気づくこと、それができなければ現実も科学も何も無いですもんね。
そのように物事を観ることによって今まで積み重ねてきた「常識」を破壊し、自分を含めた世界に対する認識を変えることによって現実の捉え方を変える目的でお話をしています。
またそうなることによって、実際に現実が変わることを私自身が目撃していますので、おすすめもしております。
>>418
>無思考でも自己が常に在ることに気づくこと。
またそこに思考が乗っかっていることを気付くため無思考になる感じです。
なるほど!私は自分が常に何を考えどんな思考クセがあるかを見るために自己観察があるんだと思っていたのでこの視点は気づいていませんでした。
その後のスクリーンのお話はまだそこを理解できる域には達してませんが何回も読んでみますね。
おっしゃるとおり思考とは自分の記憶で構成されたもので、親や社会から言われたり自分で学んだりして得た記憶を基に成り立つ。
ここまではわかるのですがただ一つずっと変わらず在るものもなんとなく捉えてはいるのですが、
だからなんなの?という感覚なんです(笑)
そこに留まると確かに安心感は感じます。
ただ、現実に戻ると問題が問題としてのさばっているというか。
先日例に挙げたDV問題のように逃げるの?安心感に浸かってたらいつの間にか無くなるの?みたいな。
ただおっしゃるように無思考が願いが叶うわけではないとは頭ではわかってるのでただ、直感を待つという感じで過ごしているのですが、、、
書いててわかりましたが、無思考で願望が叶うと思っていましたね、私は。
ただここからどうしたらいいかわからず悩んでいます。
なんだか意味不明な文ですね。
きっと頭では情報がグチャグチャで整理できてないんでしょうね、、、
>>429
こんにちは。
よく言われていることですが、「この現実世界は自分が創った」と言われますよね。
この自分とは本来の自己のことであり、エゴの元になる思考もこの自己が他の現象と同じく創ったものです。ともよく言われます。
↑これを前提として。
私は普段あまり願望実現に焦点を絞ってレスしてないですよね笑
このスレを読んでおられる方は気付かれているかなと思います。
なので「で?どうしたら良いの?」
と皆さん思ってしまうのかと思いますが、そこは申し訳ないところです…。
ただ、
私が直接的な内容で「こうしたら叶うよ!」と書いてしまうと、
前述の↑前提を思い出していただきたいのですが、読んだ方は「叶えようとする私」を自己からエゴとして分離させてしまい、ずっとエゴとして「叶えような私」を創ってしまうことになってしまうのです。
実践して少しずつ気づき、認識が変わってくればその限りではありませんけどね。
自己が「叶えよう私フィルター」越しに世界を創るとどうなるかと言いますと、ずっと叶えようとする方法探しの世界が創られるという…笑
ひたすら実現方法探しの旅に出てしまうのです。
なので叶えることを目的とした直接的と思える表現ではなく、
自己観察の実践による気付きへの誘導、また実践によって叶えよう叶えようとする不足のエゴに気づいていただくこと、またその気付きによって「叶えようエゴ」を創らないような体質になる(つまり認識の変更です)ことを目的とした表現のため、
願望を叶えようとされている方からするとずっと「叶える方法はよはよ!」となるモヤッとしたレスばかりだったかと思います笑
ここはすみません。
しかし叶えようは一旦置いておき、
実際に実践してみるとわたしが何を言わんとしているのかが体感としてわかるかと思うのと、エゴの疑問に巻き込まれるのではなく、ぜひご自身で目撃していただきたいと思います。
>ただここからどうしたらいいかわからず悩んでいます。
ご自身を観察した時に、↑の思考越しに世界を見ている、創っていることに気づきますでしょうか。
また「この場合はどうなんだろう」「こんな時はどうすれば」という思考と私(エゴ)にもですね。
「私はこのフィルター越しに世界を創っているんだな〜」と。
「それはわかった!ではどうすれば?」となると思いますが、ここにも気づく。
ちょっと直接的な表現になりますが、自己から「こんな体験したい〜」という意図が発せられていますので、上記のようなエゴフィルターに気づき、フィルターが外れるとどうなるか?
ここは実践して目撃していただきたいと思います。
観察してみて「」にいられたと思った数秒後から思考まみれのエゴになってしまう…
気が遠くなる
全然出来てないじゃん
自己観察なんて出来るようになる気がしない
って思考が湧いてきて、エゴが自己観察をリタイアさせようとして来ている気がしてなりません
まあこれも思考なんですけど
>>427
ありがとうございます。
やれることからやってみます。
>>430
めちゃくちゃよくわかりました!
私はメソッド自体願望実現のためのものではないことを頭では理解していたので、あなたの説明でいつのまにかエゴにのみ込まれていたことにようやく気付けました。
>自己から「こんな体験したい〜」という意図が発せられていますので
やることはこれですね!
自己観察して自己からの意図を察し、それをただやる。
ずっと自己の意図なのかエゴの意図なのか、いつどう動くべきなのか疑問があったんですがなんだかそれも解決できそうな予感。
自己観察を続けながらじっくり見極めてみようと思います。
まだ聞きたいことはあったのですが、なんだったか忘れてしまったので(笑)
また思い出したら質問させてください!
詳しく丁寧にありがとうございました。
>>428
ヨコからの質問にも、詳しく答えてくださりありがとうございます。
そうですよね。実は私は科学ですらもエゴだと思っているのです。
何故なら科学の法則は全て「時間」という概念を前提にしているからです。
私自身は、若い時から科学の振興に携わる仕事をしてきましたが、潜在意識というか、観察者の視点に気づいてから、科学に対する見方がかなり変わり、正直もう楽しめなくなってきました。
むしろ、何かをコントロールしたいというエゴを強めるものとして、嫌いにまでなってしまいました。。
>>433
こんにちは。
>私はメソッド自体願望実現のためのものではない
そうですね。
メソッドでやることによって気付きが起こり、その気付きによって内面が変わることが目的ですね〜。
私のお話しで気付きがあったようで良かったです!
しかしいつの間にかエゴに飲まれると思いますので、ご自身に意識を向けて自己観察継続ですね。
>やることはこれですね!
自己観察して自己からの意図を察し、それをただやる。
「やること」と表現すると若干違和感がありますが、あえてやるとしたら私はやっぱり自己観察ですね笑
別の領域「」に浸り自己視点になりながら思考を観察する時間を作る。ただそれだけですかね。
エゴ視点であれこれと悩むのをやめ、自己視点から私(エゴ)を含む現象世界を眺めていれば、適切な方向に進めてくれると思います。
またなにかあればレスお願いします♪
>>434
>>434
こんにちは。
いえいえ、私も認識できるものは全部エゴ!と観ていた時もありましたのでちょっとピンときました笑
>実は私は科学ですらもエゴだと思っているのです。
>何故なら科学の法則は全て「時間」という概念を前提にしているからです
なるほどです。
観察者視点から見ると、科学もエゴによる意味付けで成り立ってますし、意味付け自体が過去を元に分離されるためにそれもエゴと言えるのでしょうね。
>むしろ、何かをコントロールしたいというエゴを強めるものとして、嫌いにまでなってしまいました。。
ということは、常に観察者視点から現象を眺めておられるんですかね〜。
>>430
横から失礼します。
→自己から「こんな体験したい〜」という意図が発せられています
これは、願望実現に直結するような行動を自然と思いつけるということでしょうか?
>>437
こんにちは。
そうですね。
そういうことになります。
「ない」と主張する思考と同一化している立ち位置から、観察することにより離れるということですね。
既にあるってよく言いますが、
本当に既に実現していたら「ない」なんて言いませんよね。
また、叶っているのに「私は叶っている!」とも言いません笑
叶っていたら願望自体成り立たないので、あるもないも考えませんね。
考えないし、やっとのことで手に入れたものもそのうち飽きてぶん投げちゃったりします笑
思考を観察し、思考から離れている立ち位置とは、まさに叶っている立ち位置ですよね。
あるもないも無い立ち位置であり、それは既にある立ち位置です。
その立ち位置に在るようにすれば、自ずと適切な行動が起こる。
そのように解釈するとスッキリすると思います。
>>434
私も科学は二次的なものだと思ってたので
同じような意見の人がいて嬉しい
>>438
横から失礼します
「こんな体験したい〜」となった後、それを叶える方法を探し出す思考によって不足が生まれるから、自己観察することによって思考と距離を置くことが大切ということでしょうか?
思考がなければ不足もないと言いますか。
>>440
こんにちは。
その解釈で大丈夫です。
これってとても現実的な話でよくあるのですが、心配のあまりぐるぐる考えてばかりで行動ができない時ってあるじゃないですか。
それでタイミング逃してしまったりとか。
そんな思考と普段から距離を置いてると、いざって時にススっと行動できるんです。
その時って、後で思い返すとバチッと世界と同期していてベストな動きをしていたな〜と思うんです。
前述した剣道の話と同じで、「私(エゴ)」も世界の現象のひとつとして一体化しており、世界に動かされていたような。
この辺りは感覚なので表現しにくいのですが、ハーディングの「頭のない場所」を観る実験を併用した思考の観察をやってみると、わかるのではないかなと思います。
>>431
こんにちは。
その調子で大丈夫ですよ。
しかし自己観察の実践では、無思考に留まり続けなければいけないというわけではないのです。
思考と、思考が起こる「場」(これが「」ですね)があることを観察によって目撃し、その上で「場」に留まってみましょうって感じですね。
その「場」に思考が起きると「あ、思考だ!ダメダメ!」ってなりがちですが、それを言ってるのはエゴなんですよね笑
ということは、その思考も観察する。
その繰り返しです。
そうして行くうちに思考が静まります。
起こる思考に抵抗しているのも思考であることに気付いておられるので、その調子で良いと思います。
やはり、自己観察はネガよりも願望に対してのほうがエゴに乗っ取られやすいね
>>438
ありがとうございます!
ここで書かれていた「思考が発生する場所」が、自分の場合は、鼻や眉間のあたりのような気がします。
時間を設けて自己観察をする場合は、そのあたりをじっくり観察しておけば良いものでしょうか?
それに対して、構えて待っている自分というのは、別の領域の自分と考えて良いでしょうか?
>>445
こんにちは。
>そのあたりをじっくり観察しておけば良いものでしょうか?
思考の出口観察やられてるんですね〜。
ありがとうございます。
やり方としてはそれでOKです。
なんなら眉間なのか鼻なのか、どちらのどこから出てくるのか焦点を絞って観察していくとより具体的になってきます。
ところで、445さんは普段、
その辺りに自分のいると漠然と感じてませんでしょうか?
私の場合は普段、眉間の奥の中心が漠然と私感があります。
そこが普段、思考によって自分の中心だと漠然と感じている場所でして、そこに自分がいつもいると無自覚にイメージしている場所になります。
>それに対して、構えて待っている自分というのは、別の領域の自分と考えて良いでしょうか?
それで大丈夫です。
今後も疑問が起こるかと思いますが、疑問が起きたら観察する視点に戻るようにしてみてください。
>>445
追記ですが、
人によって思考の出てくる場所のイメージが違うので、この私と違ったとしても心配なさらないでください。
人によっては後頭部とか、首の後ろとか、胸あたりの人もいます。
それだけあいまいなものが「私(エゴ)」なんですよね〜。
でもそれを観ている側の意識は、ここだ!と居場所を特定はできませんが、いつも在りますよね?
在るからこの世界のあれこれに気づけるわけで。
と、まあこんな感じです。
自己観察は良いけれど、それにハマってしまう危険性もある様に思える。
バッチリ自己観察出きたけど、職場ではうだつがあがらないとか嫌でしょ?
山の行が出来たら、里の行。両方大事。
自己観察で得られたものを日頃の業務や人間関係にスライドさせて活かせれば良いかと思う
>>439
科学が正しいという迷信の風で育った♫
>>441
アドバイスありがとうございます
ハーディングは、やってみても何が何だかさっぱり分からず、余計思考が「ハーディングを分かるようにならなきゃ!」みたいなことになってしまったのであまり深入りせずにおりましたが、人によっては一発で認識が変わるみたいですよね
>>446
ありがとうございます。
「私感」というのは、思考してしまう自分ということですかね?
別の領域は、「私感」ではないということで正しいでしょうか?
>>448
こんにちは。
そうですね、何事もバランスが大事かと私も思います。
仰るように、自己観察で得たものを現実で活用していただければと思います。
合わない、危険だなと思うようでしたらすぐ止めて問題ないので、良いとこ取りしていただければ幸いです。
>>450
こんにちは。
ハーディングの実験、いきなりわかる人もいますね笑
素直に今、ご自身の方に意識を向けた時、そこには風景があるじゃないですか?
自分の頭は見えませんよね。
素直になるとそうではないですか?笑
そこを素直に見れないのは、
「いやだって私が目で見てるわけだから頭が見えるわけない」
「ここに頭あるよね?」
とかの思考、つまり記憶を元に思考しているから。なんです。
素直に見たらそこには世界しかない。
なので私=世界。
「そんなの子供騙しじゃん!」となりますよね笑
でも自己観察をしばらくやっていると、
「あれ、この頭があると思っている場所には、記憶を元にしなければ、今だけを切り取ってみたら世界しかない」
「その世界の中に思考、また私の手や足と思える映像、また感覚、それらが頭のない場所に現れているんだ!」
などなど、気付くかと思います。
イマイチ納得できないのでしたら、何が「そんなの馬鹿らしい」と言っているのか自己観察してみてはいかがでしょ?
>>451
私感というのは、ご自身で「これが私の中心です」と言える場所ですかね〜。
世界を見ている感じている大元の場所とも言えますでしょうか。
観測者の立ち位置とも言えるかもです。
大体みなさん、頭の中の中心とか、前述したどこか身体の一部かなと思います。
そこから思考が湧いて出てきていると思っているはずですが、そうではない場合もありますので違ったら気にしないで下さい。すみません。
>>451
追記ですが、
私感は正確にはエゴです。
私感は肉体感覚やイメージ、思考などが正体ですが、そその私感を観ている立ち位置というか意識が「別の領域」ですね。
>>453
レスありがとうございます
よく理解できないところがあったので伺いたいです
>素直に今、ご自身の方に意識を向けた時、そこには風景があるじゃないですか?
この風景というのは胴体のことでしょうか?
>素直に見たらそこには世界しかない。
の世界というのは、前述の風景とは違うものですか?
>>456
こんにちは。
わかりにくくてすみません…。
>この風景というのは胴体のことでしょうか
胴体や、足、手も見えますでしょうか?
それと屋内でしたらお部屋や、屋外でしたら街も見えますよね。
それと音もありますし、思考も現れています。
↑これら全部現象ですが、それが現れている「場」がありますよね?
>世界というのは、前述の風景とは違うものですか?
これは現象世界のことですね。
つまり上記で書いたような「色」の世界です。
でもその「色」が現れるための「空間」「場」「意識」がありませんでしょうか?
自己観察を実践しているようでしたら、ここで「いや〜ただの風景があるだけじゃん」という思考に気づくかと思います。
そしてその思考も、「色」のひとつである。
ということに気づかれると思いますがいかがでしょう?
>>457
何度もありがとうございます
>>453 の内容を要約すると、
「ご自身の方に意識を向けた時、そこ(自分の方)には風景があるじゃないですか?」
〜略〜
「素直に見たらそこ(自分の方)には世界しかない。」
だから、風景=世界ではないのでしょうか?という意味で>>456 のような質問をしました
自分の方に場があるのは分かるのですが、>>453 で「なので私=世界」となるのが分かりませんでした
私の場合は、「いや〜ただの風景があるだけじゃん」という思考ではなく、思考や記憶に頼らなければ、自分の方に世界があると判断できないのでは(何かがあるかないかは分からないのではないか)?と思ったので、なぜ自分と世界が=になるのかなと疑問に感じまして
>>458
>思考や記憶に頼らなければ、自分の方に世界があると判断できないのでは(何かがあるかないかは分からないのではないか)
なるほどです。
その辺りは気にしないで下さい笑笑
と、言いたい所ですが気になるんですもんね〜笑
これは超精密に自己観察ができるとわかりますが、一瞬時間がストップしています。
その直後にエゴが起動し、エゴの認識でその時を説明すると、私のような「言葉」での説明となります。
私=世界は、その瞬間は一枚の世界の絵だけだったな〜という、後からの感想ですね。
「なんでそのストップしてる瞬間がエゴがないのにわかるんだ?」
という疑問が湧くかもしれませんが、ここは私もまだわからないですね〜。すみません。
ただエゴが無くとも何かしらの認識機能はあるんじゃないのか?とも思ってます。
ここは私も自己観察中です。
またおっしゃるように、
この時間ストップの先には、まったく無になる深い境地もあります。
その時は完全にシャットダウンしています。
でもそれがわかるのは、寝て起きた時みたいな感じか気絶した時に後から思いだすに近いかもですね〜。
この辺りはあまりこの板的な話しではないのでお話していません笑。
質問です。
毎日、不安と怒りで一杯です。
どうやって自己観察すれば良いでしょうか。
>>459
他のスレでこの動画が紹介されてたのですが
ttps://www.youtube.com/watch?v=W6ZtzhHNNo8
自己観察と比べてどう思われるますか?
>>460
こんにちは。
ありがとうございます。
自己観察のやり方ですね。
まず思考って何なのかを考えてみてはいかがでしょう?
普段思考と自分自身って一緒だと思っているじゃないですか。
でも思考は過去の経験から積み上げてきた記憶(データ)でして、自分自身ではないんです。
何か出来事があった時、その状況に反応して思考は勝手に出てきます。
勝手に出てきて、頭の中を常に占拠していますが、その内容は真実のように感じますよね。
その内容が非常にネガティブなものですと、ずっと聞いているとヘトヘトになりますし、そのうち病んでしまったり、逆に人を傷つけてしまったりしてしまいます。
勘違いで攻撃してしまったりとかですね。
ある出来事があった時、状況を一側面でしか見ておらず、ひどく限定的な情報しか得ていないにも関わらず、思考は「最悪だ!」とか、
それがまるで真実かのようにに大騒ぎして感情を刺激してきます。
もちろん、物事をどううまく進めようか思考したり、リスクも考えて計画するために思考を使うことは全然良いことですが、この思考がいつも頭を占拠してネガティブな内容をずっとループさせてしまうような状況は後々問題になりがちですよね。
こんな思考と自分自身は別なんだよということに気付き、まずは離れることが自己観察のスタートとなります。
私のやり方で説明しますが、
①まずは無思考になってみる。
無思考でも自分自身ってありますよね?
無思考になったら全部消えてしまうということはありません。
このことからも思考と自分は別であることに気付きます。
②その無思考の視点に慣れる。
ここをベースとしますので、落ち着いた場所で無思考状態になり、まずはその視点に慣れてみてください。
③無思考から思考が起きる瞬間に気づく。
無思考状態に慣れたら、思考が出て来る瞬間に気付いてみて下さい。
どんな風に思考は現れますでしょうか?
音のような感じ?映像のような感じ?物体のような感じ?
人によって違いますのでご自身はどうなのか思考を観察してみて下さい。
また思考の内容は気にしないで下さい。内容を聞いてしまうと思考に呑まれてしまいます。
ただの現象として、どんな感じなのか?を観察します。
④思考の出口を注視する
上記がわかってきたら、今度は思考が起こる大元の場所がどこなのか探してみて下さい。
頭の中心だったり、眉間や後頭部だったり、胸だったり。
人によって色々ですが、自分はここだなって場所を見つけて、その出口を注視します。
思考が出てきたら、③と同じく内容は聞かず、ただの現象として観て下さい。
そうこうしていると思考はどこかに流れていってしまいます。
以上を、思考しなくても大丈夫な時間がある時にやってみて下さい。
仕事中とかは避けた方が良いかもですね。
そのうち出口を注視しなくとも、思考が発生したらすぐに気づくようになります。
気づくとその思考に巻き込まれなくなり、ネガティブ思考だった方はだいぶ心が楽になったりします。
また何も考えていない時間のほうが楽になって行き、そのうち別の領域というのもわかってくると思います。
>>461
今外出してますので後で見てみますね。
>>455
ありがとうございます。
>>462
横から失礼します。
こちらは、時間あるときは、何分くらい継続されていますか?
>>461
こんにちは。
そちらのリンク見ましたよ。
言っていることは自己観察とほぼ同じですね。
自己観察の働きや効果を左脳右脳で説明してるんだなと思いました。
左脳の説明では「過去未来」つまり思考、エゴについて話されてますので私の説明とほぼ同じかと思います。
右脳に説明ついては、
感覚に集中で今ここに在ることができることを説明されていましたね。
感覚に集中は、サマタ瞑想(止瞑想)でも数息観という呼吸を数える方法があり、呼吸のみに意識を集中することにより今に心を持っていく実践が有名ですよね。
私の自己観察の方法提案でも
「思考の出口を注意して観る」がありますが、同じ効果を狙っています。
思考の出口を見るということは、まず思考から離れているということ。
また「ただ見る」という、感覚。
思考から離れてこの感覚一点に集中していることにより左脳よりも右脳を優勢にし今に在る(つまり別の領域です)。
と、この動画と自己観察の共通点を考察してみました。
また「ありのままを見る」と動画内でおっしゃってましたが、これは悟りの実践における自己観察と同じ手法です。
現実世界の現象を、左脳(思考)フィルター越しに観るのではなく、ありのままを観ることにより世界の実相を知る。
そのままフィルターを外しながら自身を観ることにより、真の自己を知り悟りに至るんです。
別板の悟りの鬼、鬼和尚がよく説明されている自己観察の説明と同じですね。
こんな感じですみません笑
>>465
こんにちは。
時間はその時々です。
筋トレとかアファ音源とは違うので何時間やるとかは特にありません。
強いていえば納得するまでやる。
もしくは気付きがあるまでやる。
ですかね笑
サマタ瞑想の場合は大体このくらいの時間ってありますが、観瞑想のひとつである自己観察は、慣れてきたら1日中やっていても構いません。できればですが笑
ただ初心者さんですと静かなところで時間をとって自己観察しないと集中できないのと、自己観察の方法ばかり考えて仕事にならないかもと思い、時間をとって静かなところで実践と書きました。
電車の中や歩き中やっていても問題はありませんよ。ただし事故らないよう注意して下さいね。
>>466
動画見て頂きありがとうございます。
やはり自己観察とほぼ同じですよね。
身体のほうへ(五感)意識を向けるところが少し違うと感じました。
ここでいう自己観察は身体等も観察の対象なので。
でも行き着く先は大体同じですかね。
私は自己観察のほうが合ってそうなので続けてみます。
>>468
五感に意識を向けることもありますよ〜!
このスレではそこまで言及していないだけです笑
色々方法を提示すると読んでる方が混乱するかと思い、思考の観察のみに絞っています。
思考の観察が一番重要ですしね。
自己観察一本実践で、動画でのお話しがわかってくると思いますので大丈夫です。
五感は観察するか今にあるに目を向けるためですか?
>>470
身体の感覚に1点集中するやり方はどちらかとあうと止瞑想になります。
自己観察的には身体の感覚を観察し、それも他の自分以外の現象と同じものであり、自己そのものではないことを知るために観察します。
例えば五感+思考(つまり私のこと)は、起きては消えるものであり、それを確固とした私であると言えるのか?
それを観察と考察し、確固とした自己ではないことを知ることにより普段の私(エゴ)から脱した視点に気付くという感じですかね。
この辺りは>>164 〜にちょこちょここの私の考察書いてますので興味あれば。
文章だけだと理解し難いかもですが…。
>>427
2年仕事をされていなかったということですが、自己観察によって、仕事をするためのやる気が出てきた感じでしょうか?
それとも、たまたま仕事の誘いが来た感じでしょうか?
自分も仕事から離れてだいぶ経ってしまい、何とかしたいのですが、どうもやる気が起きてきません。一方で、時間が経てば経つほど焦りも出て来て、苦しいです。
>>471
ありがとうございます。
五感に関して同じように思っておりました。
>>472
こんにちは。
無職の時の話ですか笑
無職は若いころの話で、自己観察を始めたのは仕事も責任ある役職に就いていろいろ辛くなって来てからですね。
無職の頃はフラフラしてましたがさすがにお金も無くなり、貸してくれる人もいなくなり笑
でも支払いもあるので仕事せざるを得ない状況となってバイトからはじめた感じです笑
今やる気が起きないとのことですね。
でもやらないとマズイという焦りもある…。
そうですね〜、
私の提案としては、まずどこでも良いので職に就いて、ある程度経済的にはなんとかなるなという基盤作ってから自己観察などじっくりやられるべきかなと。まずタイミー等で働き、身体を慣らしてからの方が良いかもですね。
それが無理なら自治体に相談が良いかと。
自己観察でネガティブが減り、何かチャレンジすることへの余計な心配が減るのは事実ですが、
そこまで自己観察で行くには時間がかかります。
なかなか気力が必要かと思いますが、まずはエイヤ!で何か初めてみるのが良いかと思いますね。
>>473
同じような考えとのことで良かったです。
この辺りの話は自己追求、悟り方面に行くので興味あるようでしたら自己観察を追求されると良いと思います。
>>474
ありがとうございます。
わたしの場合、対人不安がつよく、今はすごく難しいように感じます。
それで自己観察に期待をしてはいるのですが、やはり自己観察を継続してやっても、認識の変更には1年くらいはかかるでしょうか?
>>476
対人関係の不安ですか。
自己観察でどこまでそれが改善されるのかはっきりとは言えないですが、確実に効果はあると思います。
私自身がかなりオープンな性格に変わり、好かれやすいと自分で言ったらアレですが、実生活でもいろんな方からよく声をかけてくださります。
それは自分の中での壁みたいなものが薄くなったからなのかなと思いますね。
さて期間についてですが、
人にもよるかと思いますが、闇雲に実践するのではなく、実践による気付きが重ならないとなかなか難しいかと。
それには1年、2年くらいは必要なのかなと思います。でもそれはどのメソッドでも言えるかなと。
自愛をやってなんか効果あったけどすぐに元通りになってしまったとかよく聞きますが、ほんとに定着するまでは時間を要する世界ではあると私見ですが思っています。
実践が楽しくて仕方ないという人はもっと早いかと思いますけども。
でも長い人生で1〜2年なんてすぐじゃないですか。今時間があり、生活もなんとかなるのでしたら、じっくり1つに取り組まれた方が後々良いかなと私自身は考えますよ。
>>477
ありがとうございます。
オープンな性格になれるのは良いですね。
追加で質問なのですが、自分の場合、人間関係で嫌なことが起きると、それについて何度も思考が蘇ってしまいます。その度に自己観察していますが、観察するよりはそれから逃れようとする感じになってしまいます。
それがだいぶ癖になってしまっていまして、うまく逃げずに観察するにはどうした方が良いでしょうか?
>>479
こんにちは。
そうですね、
まずなぜそのような状況が嫌なのかをじっくりご自身に「なぜそう思うのか?」を掘り下げていかれると良いと思います。
掘り下げて行き、原因の根本を目撃すると漠然と恐怖に感じていたことが明確になり、それに対しての改善案や対処法も明確になったりします。
不安の原因のひとつとして、
「人間関係でまた仕事がダメだった時、その後どうすればよいかわからない」「わからないままだったら私はどうなる?」という不安。
という先の不明瞭さだと思うんですよね。
まずその後の対処案をはっきり明確にしておくだけでも不安は減ります。
今の日本はめちゃくちゃ恵まれている国なので、セーフティネットも他国と比較したらかなり充実しています。
例え仕事がうまくいかなくても何とかなりますので、既に調べられていると思いますが、もう一度確認してみて下さい。
その上で、ご質問に対する答えなのですが、
思考の観察のやり方は>>462 に書いた通りでして、思考の内容まで相手をしなくても良いんです。
「思考をしっかりと掴んでしまうから苦しくなっているんだなー」と気付けますでしょうか。
逆に「思考を掴まず流してしまうと楽だよね」と。
思考を掴み、内容にハマってしまうとまた「どうすればいいんだろ…」とぐるぐるとハマりこんでしまいます。
もしまたハマるようでしたら、そこは上記に書きましたが、深堀りして確認したことを思い出し「まあダメでも何とかなるか!」と切り替える。
で、また思考を観察。
それとですが、
「私、思考から逃げてるのかな…」という疑問も思考です笑
そこにも気付けますでしょうか?
ここはあるあるですが、自己観察実践における思考。
これにハマる場合がけっこうあります。
ここにも気付けるようになると、余計な思考から解放されるようになり、そのうち「自分自身が思考だった」ことに気付きます。
ここが自己観察の本当の肝なんですが、
まずは地道なメソッドになりますが、継続してみて下さい。
自己観察って大体ネガティブな物事を観察することになる?
やっていて良いことや問題のないことは観察の対象にすらなってないことに気づいた
>>481
こんにちは。
良い気付きですね。
通常はポジネガノーマルどの思考も観察していきます。
初めはネガティブ思考から気づいて行くのが良いかと思いますが、だんだんとすべての思考に気付いてくるんですよね〜。
そうやってると、自己観察中にですね、
「自己観察してるのに全然楽にならない!」
と主張する「私」に気付きます。
この「私」も過去を積み上げた思考だったと気付くわけです。
この瞬間はけっこうな気付きですので物凄い安心感がその後出てきたりします。
だって今までこの「私」のために苦しみ、頑張ってきたんですもんね。
それが思考だったと気付いた時、もう頑張る必要はない、責任を背負う必要もない解放感が噴出します。その安堵感は非常に大きいです。
ネタバレ書くと感動が薄れますのでこの辺で笑
>>480
ありがとうございます。
たまに、ハッと苦しくなるようなネガ思考が出てきて、「何やってもダメだ」みたいな絶望感にさいなまれるのですが、そのときだけはうまく自己観察できていないように思います。
「何やってもダメだ」というのも、思考と言われれば思考なのだと思いますが、一気にやる気をそがれて、憂鬱な時間が長くなってしまいます。最後はつらすぎて、眠りにつくしか解決方法がない状態になってしまいます。
この何年間はその繰り返しなので、何とか着実に積み上げていきたいと思い、自己観察にたどり着きました。
その絶望感はどう処理したら良いでしょうか?
>>483
こんにちは。
>一気にやる気をそがれて、憂鬱な時間が長くなってしまいます。最後はつらすぎて、眠りにつくしか解決方法がない状態になってしまいます。
絶望感は、まず憂鬱な思考と、その思考に身体が反応してどんよりとした感情となって現れています。
思考が感情に燃料投下してるとイメージするとわかりやすいですかね。
一回身体に燃料投下されるとなかなか消えないんですが、「憂鬱な時間が長い」と書かれてますよね。それは憂鬱な思考をどんどん感情に投下してるんですね。
で、これを止めるには?というご質問ですが、自己観察してみて下さい。ずっと憂鬱なことを考えて燃料投下していませんでしょうか?
そして解決法もご自身で書いてらっしゃる。
「寝るしかない」と。
寝ている間は憂鬱思考が止まっていますので燃料投下が無いんです。
そして投下先である「私」という思考もない。
なので寝ている間だけ安心なんですね。
これを起きている間に安心したいのでしたら、
燃料投下をやめれば良い訳です。
具体的には、憂鬱な思考と、「私(エゴ)」という思考に気付いて同一化しないことです。
これは慣れていないと難しいので簡単なものですと、どこか1点に集中してみてください。
例えば楽器を弾く、ゲームをするなど集中できることをする。
その1点に思考を集中させることで憂鬱な思考を遮断する方法です。
巷ではマインドフルネスと呼ばれてますでしょうか。
いずれにしても思考と離れることができないとまたすぐ元通り憂鬱になる対処的なやり方なので、根本から変わるには自己観察は継続をおすすめします。
それだとガッカリかと思うのでもう一つ笑
そういう時は昔から自愛をすると自己観察さんも言ってましたね。
ひとつに絞るのがおすすめですが、自愛をある程度修めてから自己観察に移行するでも良いかと思います。
時間があることを逆にチャンスと考えやられると良いかもです。
こちらの板を見て興味を持ち、ハーディングの実験をやってみました。ありがとうございます。
動画だととっつきやすくて、思いの外スッと入りました。
自分が回っているのではなく世界が回っている、という実験は特にわかりやすかったです。
よく見る、世界=自分とか、自分は居ないとかの言葉ってサッパリ意味がわかりませんでしたけど、こういう事かと納得できました。
といっても一気に何かが変わったとかでは全然ないので、やはり何度も行ったり、日常で常に意識していくと良いでしょうか?
よろしければハーディングの実験をどう取り入れていらしたのか教えていただけると嬉しいです。
>>485
こんにちは。
ハーディングの実験で私=世界がわかったんですね!素晴らしい。
それがわかってしまうと、達人さんの所謂ポエムがまんまそのまんまを話されていたことがわかるという笑
私の過去レスも、読み返していただくと「ああーそゆことね笑」なりませんでしょうか?笑
その立ち位置をどう言葉にして説明しようかあれこれ話しているレスも多いのでぜひ読んでいただけると嬉しいです。
さてどうその視点と向き合えば良いのかというご質問ですね。
その視点から観ると、あらゆる現象が起こっては消えと生滅してますよね。
もうわかってらっしゃると思いますが、思考もその現象の1つ。
感情もそう。
また五感である肉体感覚もそう。
それら、
五感+思考(六根と言います)が連携し、「私(エゴ)」が想起されている。
ということがわかりますよね。
その視点が本来の自己なのですが、普段自己は、「私(エゴ)」が自己だと勘違いしてしまっています。
思考はただの反応なのに、それと同一化してしまい「私は不安だ」となるわけですね。
なのでその視点から常に思考を観察し、それら思考に巻き込まれないようにしていれば良い。
というのがこの私の答えですね。
現象は勝手に起きて勝手に消えて行きますが、その様子をその視点からただただ観ていれば良い。
それが自己観察さんが昔言っていた「別の領域に浸る」の本当の意味になります。
ここは過去や未来という思考から離れていますので「今ここ」に在ります。
また余談ですしちょっとマニアックですが、「ただ観ている視点」という思考も外れると、昔達人の詭弁さんの言っていた「百発成功」の境地になります。
日がな一日、可能ならそこに居るようにしてみて下さい。
「それで叶うんですか!?」と必死にエゴが聞いてきそうですが笑
これで皆さんが必ず叶うかどうかは私にもわかりません。
ただ私の経験からすると、その視点に在るといろんな奇跡的なことが起きました。
また最後にここ重要なのですが、
その視点、本来の自己を全面的に信頼していただけると良いですね。
ここは大前提となります。
>>484
ありがとうございます。
自愛は、自分の好きなことをしたり、自分に感謝したりするので大丈夫でしょうか?
484さんは、どんな自愛のやり方をされていますか?
>>486
ご丁寧にお答えいただき嬉しいです。できるかぎりこの視点にあるように気をつけながら過ごしてみます。
まだまだこの世界の入口を覗いただけとは思いますが、おっしゃるように達人さんたちの使っていた言葉の意味はわかる(おそらく)ようになりました。
「今に在る」とか「今ここ」とか「別の領域」とかも、以前は正直ちんぷんかんぷんだったんですけども。
「頭がない」だけでこうなるのだから、本当にハーディングの実験はすごいですね。
実は前から知ってはいたのですが、なんとなく食わず嫌いでやらなかったのが勿体なかったです。
>その視点、本来の自己を全面的に信頼していただけると良いですね。
はい。言われたことで、これは本当に大事だと思いました。疑おうとするエゴと一体化しないように心がけます。
これから他のレスも読ませていただきますね。本当にありがとうございました。
ネガティブ思考より浮かんできた願望や成果を期待する思考の観察のほうが難敵だねぇw
つい結果を求めるために自己観察しちゃうしね
>>487
こんにちは。
自愛はむかーしやってました笑
とにかくひたすらに「私(エゴ)」の言い分を認めてあげるが鉄則です!
実は自己観察と自愛って近いところありまして、自愛も「私(エゴ)」の言い分に客観的に気づかないとできないんです。
例えば、
「辛い」とエゴが言うとして、それに客観的に気づき「辛くていいよ」と認めてあげる。
「辛いのヤダ!」とエゴが言ったらそれに気づき「ヤダでもいいよ」と認めてあげる。
そんな感じで全部認めます笑
そうこうしてるうちに「はあ…こんなことしてて効果あるのかな…」と言ったりしちゃいます。
ここで重要なのが、「そう思ってもいいよ」と気づいて認めてあげられるかどうか。
この辺りが自己観察に似ていますよね?
だいたい皆さん途中でエゴと同化してしまい、「自愛やっても変わらない!」とか思ってしまうんです。
「自愛やっても変わらない!」と言うならば、「変わらなくていいよ」です笑
とにかくひたすらに認める。
認めるがしっくりこないなら「それも完璧!」でもいいですし、何でも肯定する言葉だったら構いません。
そんな感じですかね笑
詳しくは自愛スレで聞いてみて下さい♪
>>488
いやー素晴らしいですね〜。
私も嬉しい限りです!笑
その視点で物事を観るとほんとに気づきが山のように起こりますので、ぜひ新たな気づきがあったらこちらでシェアお願いします♪
>>489
こんにちは。
確かにそうですね〜。
私もけっこうそういう時ありますよ?笑
でも期待は観察すべき思考かもですね。
歓喜中はエゴがないのでそのままで良いかと。
大笑い中とかもエゴがないです笑
ここ観察すると面白いですよ♪
>>490
本当にありがとうございます!
>>492
確かに世界=私に気づいている時は歓喜ですね!
すぐエゴがなんやかんや言い出して隠してしまいます。
頑張って維持してみます。
過去の嫌な記憶が頭の中心から出てくる感じがして、それを自己観察して、すぐに消えたのですが、これを繰り返してていれば、嫌な記憶が浮かぶのも減るでしょうか?
>>495
こんにちは。
思考が頭の中心から出ていると観察したのですね〜!
それで思考が消えたのですから、思考に気づいてそのまま流れる様を観察できたと言えます。
それが自己観察のコツです!
記憶を消すことはできませんが、そのように思考とは別の立ち位置から思考が流れて行く様子が掴めたのでしたら、その記憶に怖れることはありません。同一化しなければ大丈夫です。
そのうちその記憶がぶり返すことも少なくなると
思いますので、継続してみて下さいね♪
>>496
ありがとうございます。
「自己観察さん-99/10秒チャージ 今に在る方法」で、以下のような解説がありました。
↓
今に意識を向けるというのは、たとえば目を瞑って、3〜4回呼吸に集中してみてください。
軽い思考停止状態になるかと思います。
そうしたら「呼吸している肉体」が自分なのか、
「その肉体を見てる(感じてる、気づいてる)意識のようなもの」が自分なのか、
よく分からないような感覚になるんじゃないかと思います。
そのよく分からない感覚の中で「意識というものがある」というのは感じ取れるんじゃないかと思います。
普通の、いつもそこにあった自分の意識です。
その意識に集中してるとき、架空の過去とか未来がなく「今」しかありません。
ということは、「○○がない」という過去の記憶データもないし、
「だから○○が欲しい」という希望とか執着もありません。
「そこ」がすべての始まり、現実の起点ということになります。
エゴからすると、ただなんだかよく分からない虚無なので、落ち着かないのですぐ思考に戻りたくなります。
その状態を続けていると、ふと周りの音が気になったり、皮膚感覚とかに気をとられたりして、
いつの間にか思考が出てきたりもするんですが、その思考に引っ張られないように。
といっても強く意思を持つとかじゃなく、リラックスしつつ意識としての自分を感じ続ける、
という感じでいると、何もない、空っぽの中に、別の領域の感覚である心地よさとか
優しい気持ち、穏やかな感覚を感じやすくなってきます。
上にあるように、思考を観察している自分であるときはなんとなく実感できているのですが、どうしてもそこから離れようとする自分がいます。多分、思考や外部の刺激の方に慣れすぎていて、思考を観察する自分に居心地の悪さを感じているのかもしれません。
それは、徐々に時間を増やすようにして慣れていくしかないですかね?
>>497
こんにちは。
かなり懐かしい自己観察さんの書き込みですね!笑
慣れてないというのもあると思います。
あと「これが別の領域だ!」という何か確信的なもの、コツ?みたいなのがまだ少ないのかなとも感じました。
もちろんこの確信は思考なのですが、別の領域に誘導すし誘導し終わったところで自ら消える思考…というのもありますので。
私の場合、ハーディングの実験で確信を得ましたが、それでもわかりたての時はなかなかスッと入っていけませんでした。
その後も気づきがたくさんあり、今ではいつでもスッと入れますので慣れやコツなのかなーと思います。
あ、ちなみにハーディング流ですと慣れると自分側に注意の矢印を向けた時に「顔がない」と認識した瞬間に別の領域に入れるようになります。
こちらに矢印を向けたら顔はなく、そこにあるのは「透明な意識」。
この透明な意識が、自分の部屋を創っていたり、周りの人を創っていたり、また私と思える肉体や感覚、そして思考を創っている。と一瞬で理解するというか認識すると言うか。
そのまま思考が湧いてきても創造物として観るだけの意識状態になります。
こちら参考になれば♪
>>498
ありがとうございます。
自己観察していて、思考に気づいている側の自分に意識を向けているのは、結構集中力を使うように思うのですが、それはやり方だったりを間違っているということですかね?
それとも慣れないうちは、集中力や耐力が必要になるものでしょうか?
>>501
こんにちは。
自己観察やられてますね〜!
しかも気づいている自分に気づいている。
これができてるとは良い感じに進んでますね。
逆質問で申し訳ないのですが、
今やられてる方法って、
①自己観察さんが話されていた思考を観ている自分を意識する。
②私の話していた思考の出口を見張る。
以上のどちらでしょうか?
まどろこしくても良くないですね…。
結論を言いますとどちらでも合っています!
合っていますが、この実践は「まずはこれやってみて」的なステップを踏むための段階的な実践なんです。
今やられているのは、
思考から離れて、思考と自分が違うことをまず知るためのステップですなんですね。
私の「思考の出口を見張る」も、
まず一旦無思考になり、そこから起こる思考を捕えることにより、思考と自分って違うことを知るのと、
思考に巻き込まれないコツを体得するためのステップとしてお話ししていました。
もしすでに思考が自分ではないと気付かれているのでしたら、次のステップ。
まだ良くわからないようでしたら集中力が要りますが、わかるまで継続してみて下さい。
ちょっと話が逸れますが、
実は私のベースとなっているハーディング流はこのステップをすっ飛ばしています。
なのでいきなり真理を見ようとする頓悟(とんご)の方法なんです。
これはわかってしまうと集中する必要はありません。
なぜかと言うと、遍満する意識すべてが観ている自分であるとわかるからです。
集中しなくても意識は常にありますもんね。
でもいきなりだと「で?」となる人も多いので、
順を追って気づきを重ねた後でしっかり腑に落とす、漸悟(ぜんご)というアプローチがよく提示されます。
2種類のアプローチがあるんですね。
今やられているのは漸悟のアプローチでして、ハーディングの実験をやってみたけどピンとこない!という方はそのまま継続されて良いかと思います。
なんだか難しい話をしてしまいましたが、
それでOKということですね笑
次のステップは、
その「観ている自分」って一体何なのか?
をよく観察してみて下さい。
どんな風にその自分が現れているのか?
そしてその自分は起きては消えていないか?
確固とした存在なのか?などなど。
そこがわかれば、じーっと集中し続ける必要は無くなると思いますよ♪
>>502
ご返信ありがとうございます。
思考の出口がどこか意識しつつ、思考を撃ち落とす感じで思考に気づき、気づいている自分にとどまるようにしています。
ただ、気を抜いていると、過去の記憶や他の考えに意識がいって、自分ないし今には集中してはいない自分にハッと気づく感じになります。
>>504
なるほどです!
私のお話しした方法でやられているんですね。
ありがとうございます。
それで大丈夫ですよ。
思考に気付くことがクセになってくると自然と観察できるようになります。
ハッ!思考に飲まれていた!と気付いておられるのでかなりの進歩だと自信持って下さい。
「これで良いのか?」という疑問があり私に質問されたということは、探求心があるということです。
それがあれば、いろいろと気付きが起こると思うので継続されていかかればと思います。
>>505
ありがとうございます。
今、一点を見つめながら、観察していまして、明日会う予定の嫌いな人が頭の真ん中あたりに浮かんできて、頭の真ん中あたりに意識を集中させてみました。
思考の出口(今回は頭の真ん中)に意識を向けることは、イコール観察している自分に意識を向けることになりますでしょうか?
>>506
>思考の出口(今回は頭の真ん中)に意識を向けることは、イコール観察している自分に意識を向けることになりますでしょうか?
観察している自分に意識を向けるとはまた少し違います。
思考の出口から思考が湧き出す様子を観ることにより、相対的に、「思考とは違う自分があるんだ」「思考がなければこの自分に苦はないんだな」と知る。と言ったほうが正しいかもです。
明日のことで自己観察を今やられているんですね。
しかし今日の今日で安心するのはなかなか難しいかもですね〜…。
こういうのって普段の積み重ねでいつの間にか嫌いな人とも普通に接することができている自分になっている気付くみたいな感じなので、明日は腹を括って行くしかないですね。
「まあ何とかなるや」くらいの気持ちになれますでしょうか?そうなれればベストなんですけども。
>>507
ありがとうございます。
「思考とは違う自分があるんだ」「思考がなければこの自分に苦はないんだな」
↓
なんとなくはわかってきたかに思います。
初歩的な質問かもしれませんが、自己観察するときは、特定の願望や悩みを考えはじめてから、それに関する自己観察をするのでしょうか?
普段やっている自己観察は、まず頭を空っぽにして、自然に浮かんでくる思考を5分くらい観察するといったところであります。
>なんとなくはわかってきたかに思います。
思考と自分が違う存在であることがわかってきたようで良かったです。
そうなると、今まで思考=自分と同化していために、無自覚に思考のストーリーに引き込まれネガティブになっていたとわかるでしょう。
そのストーリーは迫真に迫る主張で訴えてきますが、そのまま観察して流れてしまえば、そこに残るのは静寂と平安です。
そこに在れば何も問題ないよねということですね。
>特定の願望や悩みを考えはじめてから、それに関する自己観察をするのでしょうか?
いえ、特定ではなく、できることなら全ての思考を観察できるのがベストです。
でもそれは実生活の中では困難な話ですし、私もそこまでは達成したことないです笑
できる限りで良いですよ。
1つの思考にハマると、思考が連鎖して起こり、どんどん思考の渦に飲まれていきます。
でも飲まれたことに気づけば、すぐに脱することはできますのであまり気張り過ぎなくて良いかと思います。
前にも書きましたが、
思考を観るだけで何か変わるというものではなく、観察することによる発見。気付き。
これによって認識が変わってくると捉えておられると良いでしょう。
例えば、思考は自分ではなかったこのに今まで無自覚に飲まれ悩んでいたこと。
またそのストーリーに飲まれなければ、今ここでは何も問題がないこと。
などなど、他にもいっぱい気づきはあります。
それらは思考と同化していてはなかなかわからず、また人から聞いただけでは何も変わらず…。
自身で目撃して初めて根本から変わることができるものです。
今は何が正しいのか右も左もわからない状態かと思いますが、今やられてる観察を続けることにより気付きは必ず起こりますので続けていただけると。
今何かに悩まれており、そのためにあれやったりこれやったり、どうしたものか?と考え七転八倒されているのだと思います。
まず、その悩みは誰の主張なのか?
またその悩みを問題解決するため右往左往しているのは一体何者なのか?
ご自身をじっくり自己観察し、見抜き、気付きを得られることが肝要かと思います。
その気付きによって、
そもそも自分はずっと安心の中にいたこと。
その安心を隠すように問題を自ら作っていたこと。
また自ら作った問題を解決しようと右往左往していたこと。
などを目撃されるかと思います。
横からすみません。
>そのストーリーは迫真に迫る主張で訴えてきますが、
>そのまま観察して流れてしまえば、そこに残るのは静寂と平安です。
これは、ニュートラル、ということですよね?
いま目の前に見えている風景は単なる風景であって、悪い意味も、良い意味もない。フラットである、ということで合ってるでしょうか?
もしそうなら、「そこに残るのは静寂と平安です」ということは理解できます。
しかし、
>そこに在れば何も問題ないよねということですね。
これが私にとってのラスボスです。
確かに今に在れば、問題は存在しない、と言えるのですが。
いやいや請求書が手元にあるし、問題はここに在るよ、としか思えません。
思考に飲まれなければ現実の問題は解消する、ということが信じられないのです。
こんなこと書いているのもエゴなのでしょうけれど。。。
頓悟と漸悟ってなんか間違って使われてるというか、優れた近道とゆっくりだけど一歩一歩確実に丁寧な道みたいな感じで使われること多いけど
漸悟を成した人が少なくて頓悟の視点で漸悟を語る人が多いからなんだろうなと思う
すみません、なんか書き方アレだったけど批判とかじゃないです
ただ漸悟ってなんか達人とかのまた先の達人のような感じがして
>>510
無理に信じることはないよ
現実を優先するタイプにはこれは最もしんどいハードルだから、信じられなくてもむりない
あなたが請求書を見て、何を思い何を感じるのかを見つめてみて
心配したり憂うつになったりあれこれ考えたりと、問題だとすることが何かの役に立ったことはあったかな?それはあなたからエネルギーを奪うだけ、あなたがいう現実ってやつ、問題っていうやつを解消改善させることに何も役立たない。請求が来たらとっとと払えばいいだけだ。払えないならアテを探せばいいだけだ。心配や憂うつは必要ないことを認められるかな?
なぜ必要ないことをするのか、それは楽だからだよ。人は苦しみにこそ執着する。そのため自作自演を繰り返すんだ。それを断ち切るためには、真の現実、自分自身を見つめることなんよ。怖いよ?でも自由が欲しかったらいつもと同じことをしいても手に入れられない。決意が必要だよ
>>509
ありがとうございます。
ちなみに、思考の出口を見ようとすることは、観察している自分に気づくというのと同じものであると考えても良いでしょうか?
>>510
こんにちは。
色々と理解されている方なんですね。
ありがとうございます。
>思考に飲まれなければ現実の問題は解消する、ということが信じられない
私もほとんど>>513 さんに全面同意です。
その上で私の考えをひとつ。
思考を観察したからと言って、実際はその場では解決はしません笑
見知らぬの紳士がその場で現れ肩代わりしてくれる…みたいな奇跡を起こそうと期待しメソッドを頑張ってしまいますが、そのような期待を諦める(!)ためのメソッドが自己観察です笑
諦めると言うと誤解を生みそうなのでアレなのですが、期待するしない、失敗するしないなどの思考から解放されると言ったほうが良いかもですね。
具体的な話だと、苦しい状況は自分の思考から来ていることを知り、苦しい想いから一旦楽になった上で、冷静に解決のため自分で行動していこう。
というニュアンスで捉えられると良いかもです。
期待や心配が過度にあると判断ミスる場合ってありますもんね。
その結果としてですが、
奇跡が起こることはあるはあります。
もしくは意外とうまくいったな的な状況ですね。
それって思い返すとすごく頑張った自分がいたりしますが笑
でも冷静に観ると、
普段からちょっとしたことでも、自分一人で成せる事、完結することなんて生きることも含めて何もないですよね。
自分と世界、それらがうまく連動することにより物事は進んでいます。
世界があるから自分も存在するわけですし、その逆も然りです。
そのように自分と世界がうまく調和して進むことを阻む過度な期待や心配から解放され、スムーズに進めていくための自己観察と、まずは捉えていただけるとありがたいです。
>>512
こんにちは。
あ、いえいえ。
批判ではないことは理解しています。
私が昔実践していたダイレクトパスという手法が「漸進的ではない」という意味で、いわゆる頓悟だと言われていて、その対極にあるの瞑想修行等が漸悟であると学びました。
ダイレクトパスは私自身大きな気付きがありましたが、根本的な何かが変わったものの、普段現実を生きていると頓悟とは言うもののその視点に立たないとすぐエゴエゴになり、頓悟後の漸悟修行実践の大切がわかりました。
なので漸進の大事さというのは実感しているところではあります。
でも確かにこの場で頓悟の言葉は似つかわしくないかもですね笑
ここはすみません。
ただ自己観察に限って言うと、その手法から悟り色が強く…笑
観瞑想由来のためその傾向にあり、このよう言動がたまに出てくることがたまにあります。
完全な悟り目的という意図は私にはなく、この板的にその手法で有用と思えるもの、活かせるものがあればという考えですので、大目に見ていただけるとありがたいです。
>>514
こんにちは。
まずはそのように捉えていただいて大丈夫です。
思考とは別の自分というのをしっかりわかるようにしていただければ。
ここがわかれば思考の仕組みだったり、思考が及ぼす影響だったり、いろいろ思考について客観的にわかってくると思います。
慣れたら疑問も観察してみて下さい。
疑問も思考であり、でも聞かないと気がすまない自分があるはずです笑
それにも気付くと心が落ち着きます。
さらに慣れたらですが、
ではこの思考を観ている自分って何?
と、今度は思考から離れ、思考を観察している自分とは何かを観察。
そこを観られると良いかと思います。
>>517
ありがとうございます。
自分は湧いてきた思考そのものより、何でそう思うのか?っていう根拠となる思考(信念)を観察するようにしたら色々と気づきが深まった。
そっちの方に気づいて「これもういらない」って捨てれば、それに基づく思考は湧かなくなる。
自己観察しつつも、「これで願望実現するのか?」「状況が好転するのか?」みたいな思考がどうしても出てきて、それに一応気づくのですが、またループしてしまいます。
ループからうまく抜けられた人は、どういった流れで、そこから抜けられましたでしょうか?
>>510 です。
>>513
>請求が来たらとっとと払えばいいだけだ。払えないならアテを探せばいいだけだ。
>心配や憂うつは必要ないことを認められるかな?
心配や憂鬱は何の役にも立たない余計なことだと気づけば、
問題だと思っていたことが、ただ対応すればいいだけの事になりますね。それは分かります。
思考に飲まれないニュートラルな立ち位置から淡々と対応することが、
意図を取り下げないことになる=意図したことが現れる、という理解でいいでしょうか?
>>515
>苦しい想いから一旦楽になった上で、冷静に解決のため自分で行動していこう。
私が望んでいるのは、そういう穏やかなことではありませんw
行動不要論を語ってた達人さんもいましたよね。
108さんも、この世界でブイブイ言わせてほしいんです、などと書かれていたように記憶しています。
ようするにそんな風になりたいわけですw
自己観察により私は思考ではないと理解する → ニュートラルな立ち位置に立つ → 意図する、または「なる」 → いわゆる願望が叶う
このニュートラルな立ち位置に立つ、ここまでは理解できるのですが、そこから先がまだ信じられていないという。
本当にそうなりますか?という疑問がラスボスです。
このラスボス自体が思考なのですが、このラスボス思考に捕らわれなければいのでしょうか?
とまたこれも思考で、となりますけれどもw
>>521
>意図を取り下げないことになる=意図したことが現れる
その<意図>と呼んでいるものが、実は意図でもなんでもなく、
エゴのカムフラージュだったということに気づくこと、なんだけどね。
これは簡単ではないと思う。気がつこうと思ってできるものでもないし、
崇高で聡明な自分、という思い込みを捨ててありのままの自分を見つめることになるから
そういったウソで塗り固められた虚像の自己イメージに、言わば絶望し、そしてそこから自由になることによって
<意識>というものを取り戻し、そうやって本当の<意図>=何かを為すということ、に到達する
そこまでいけば、もう世界はあなたのもの、自分=世界 の構図になるからね
こちらで以前かかれていたハーディングの実験とは、どうやるのでしょうか?
絶望した人はどうやって自己観察すれば良いですか?
ハーディングの実験はググれば出てきますよ。
youtube にも動画があります。
すみません。年々不足感が増してきているんですがこういう場合はどうしたらいいですかね?
あの時こうしてればとか、後悔の思考が年々強くなってきて。
何をしてても満たされない感じになっています。
このまま将来どうなってしまうのか怖くなってきました
「あの時こうしていれば」得られた人生と、今の人生のルートで違うものは当然あるはず
会う人だったり、恵まれていた事に気づけたり、学ぶ事ができたり
このルートに来れたからこの人に会う事ができたし、この事に感謝できるようになった
などとせっかくなので良い点を探せば良い、タダで腐らせるのももったいない
ハーディングの動画全部見てみました
結論としては、指差し実験で本来自分の頭があるはずの空間にある受容能力(意識)こそが本当の自分で、受容能力と世界の間には境界線がないから、「自分=世界」ということなのでしょうか?
潜在意識界隈でよく言われている「全てが自分だった」という言葉は、自分と見なすものが肉体ではなく受容能力であるが故に、対象を受容したらそれ自体が自分であるという意味ですか?
>>528
受容した時、というより元々ずっとそうだったという事そこに気がつく、という事。
意識とは客体を認識する気づきそのもので、その両者を包み込む環境、本体と共に三位一体で完全となる、そこに生きるという本体からの意図を意識できればそこが一つのポイントとなる
>>228 >>231
>>345 さん
同じ方と思うのですが…教えていただきたいです。
私は、言葉として思考が生まれたら、どこから発生した→何となく頭のあたり→言葉が消えて、頭の中に感覚(だいたい不快なことを考えているのでもやっとした感じ)を、別の場所から見る(胸のあたり、身体全体など)というのを気づいたときにやっています。
そこで、観察している方(胸のあたりなど)を意識する時間を持ったりはしているのですが…
・思考は私ではない、ということは頭では理解できました。腑に落ちているかは分かりませんが。。いまでも多くの時間は思考にのまれています。
・頭のもやもやはなくならないまま、胸のあたりにも意識を置いているので安心感までいかない
・続けていても、今のところ変化がない?
というあたりで、つい、実践より情報を得る方に走ってしまいます。
投稿されたのを読んで、「なんでそう思うの?」みたいな深堀は必要なのか、といった疑問もわいてきます。
ざっくりした感じで申し訳ありませんが…このまま続けていれば認識変更の時がくるのかアドバイスありましたらいただけると助かります。。
例えば充足を受け取れなかった場合、また受け取ることってできるのでしょうか?
再配達みたいのがこないので
>>530
こんにちは。
仕事が立て込んでしまい、なかなかこちらを見れない状況ですみません。
「思考の出口を観る」を実践されているようで、ありがとうございます。
そのメソッドの目的ですが、
①思考に気づくことに慣れ、自己観察に慣れる。
②思考を観ているということは、本来の自己は思考ではないことに気づく。
③思考が流れた後の静寂、沈黙に気づき、そこが別の領域であることを知る。
そして、
④その思考を観ている自己と思える立ち位置の感覚。
それは果たして何なのか?を目撃する。
このように色々な気付きに繋がる自己観察のひとつですが、特に④を見破った時に認識の変更が起こるかと。
ネタバレしちゃいます笑
初めはよくわからないと思いますが、①〜③で気付きを深めていけばわかるかと思います。
胸のあたりに観察するご自身が居ると思われているようですが、ではその胸を観察している者は何者でしょう?
ハーディングの実験も一緒にやられると良いと思います。
>思考は私ではない、ということは頭では理解できました。腑に落ちているかは分かりませんが。
いまでも多くの時間は思考に呑まれています。
実社会を生活していたらそれが普通ですので気になさらず笑
でもなるべく自己観察の時間を増やせていけたら気付きも早く起こるかと思います。
>つい、実践より情報を得る方に走ってしまいます。
どうしても行き詰まったら仕方ないと思います。
私も行き詰まったまま1年経つとかありましたよ笑
>投稿されたのを読んで、「なんでそう思うの?」みたいな深堀は必要なのか、といった疑問もわいてきます。
深堀りは自己観察初期の段階では効果があったりします。
また同じ思考が頻繁に起こり自己観察していてもどうしても呑まれてしまうとか。
そんな時に客観的に、なぜそんな思考が絶え間なく湧き出てくるのか?を知ると思考が落ち着きます。
薄暗い道に横たわる蛇に恐れ、なかなか進めない。
恐る恐る近寄ってよく見たら縄だった…。
それで恐怖は一気に消滅し、前に進めたとさ。
という話がありますが、それに近いですかね。
>>521
こんにちは。
>私が望んでいるのは、そういう穏やかなことではありませんw
ええ、わかりますよ笑
もっと紙さんみたいなガンガン実現!の派手なお話を聞きたいのだと思います笑
しかし長年私もこの板を見てきて、派手な実現話に夢を見て、実践もそこそこに現実を疎かにしてしまう方。
そして人生棒に振った、騙された、後悔しかない、なんて主張される方など、そのような方を沢山見てきました。
自愛でも他のメソッドでもそうですが、実践と言いながら結局のところただ読むばかりで理解したつもりになり、自身の気付きがない方が多いなと見受けられます。
なので私としてはなるべく派手な話だったり夢見がちなお話は避けて、地味な実践中心のお話。
また実生活とうまくバランスとれた、両立できる方法をお話ができればと考えています。
正直つまらないと思いますが笑
でも、私のこの返信のレス、
>苦しい状況は自分の思考から来ていることを知り、苦しい想いから一旦楽になった上で、冷静に解決のため自分で行動していこう。
これですが、苦しい状況という想い(思考)から一旦楽になり、そこで打開策を練るのか、策もなく当たって砕けろで行くのか、その時にならないとわかりませんが、その時の現実的と思える自分の行動というのは、
同じく私の以下のレス、
>自分と世界、それらがうまく連動することにより物事は進んでいます。
世界があるから自分も存在するわけですし、その逆も然りです。
こう書いている通り、
地味と思える現実的な行動も、私=世界のこの「気づきの意識内」で起こり、すべてが連動して動いているんです。
>>529 さんが三位一体とお伝えしている通りですね。
現象の発現が奇跡的で派手なのか、はたまた現実的で地味でなのか、それはその時々ですが、派手でも地味でもすべて同じ現実化という現象であり、優劣を付けているのはこの「私(エゴ)」である。
言ってみれば、すべて奇跡であると捉えられてみると良いかもですね。
>自己観察により私は思考ではないと理解する → ニュートラルな立ち位置に立つ → 意図する、または「なる」 → いわゆる願望が叶う
まあ文章で整理するとそうなのですが、これをコントロールして起こそうとすること自体が不足視点ではあります。
ただ日々自己観察をする、時間があればニュートラルに在ることのみ。
そこで気づきを深めて行く。
そしたら「結果として」叶った。
というのが本当のところですかね。
やっぱり実践による気付きで根本的に認識が変更することが大事だと考えますね。
>>533
横からすみません。
自己観察をしていて、思考とは距離を置いた自分を感じられるときがありますが、そのときは今に集中しているときであると解釈しても良いでしょうか?
そして、思考にとらわれない今に集中する時間をできる限り作ることで安心しやすくなるということでしょうか?
さらに安心する時間が増えることで、何かうまく人生が回りだすみたいな感じでしょうか?
今今メソッドも思考から距離を置いて安心が得やすくなる方法のように思えまして、どのメソッドも「思考から距離をとる→今に集中→安心→願望達成」みたいな流れを生み出すもののように思えるのですが、いかがでしょうか?
>>534
こんにちは。
>>218 にも前に書きましたが、
思考というのは、過去か未来のどちらかについてしかあれこれ言えません。本当のこの今について説明しようとすると何も言えなくなるんです。
つまり、思考から離れている立ち位置というのは、限りなく「今にある」。
また悩みや苦しみのほとんどは、この過去や未来から来ていますので、今に在れば苦も無くなるんですね。
人生がうまく回るかどうかについては、過去や未来からくる自身への縛りが無くなるから。
と言えます。
大体私も含め皆さん「私は〇〇である」という過去の思考から作り上げた自己イメージに縛られて生活しています。
この自己イメージは何かにつけて「でも私なんて…」と、本来こうなりたいと思うことに対してブレーキをかけてきます。
過去未来に囚われなくなると、このブレーキが減ってきますので前に進みやすくなる。
そのように捉えていただけると良いかと思います。
>>535
思考に気付くのポイントですが、無意識に騙されてる時間が長い場合やかなり荒れた感情が起きてる際はどの様にして気づいていましたか?
無意識にエゴに乗っ取られてる時間が24時間中18時間はあるんですよね。
その内乗っ取られない時間や自己観察できてる時間が1日の内20分とかならさすがに動く現実も動かなくなりますよね…
この時間の比重に関してはあまり誰も記載してないので気になって質問させて頂きました
>>522
>その<意図>と呼んでいるものが、実は意図でもなんでもなく、
>エゴのカムフラージュだったということに気づくこと、なんだけどね。
確かにこれ、気づくの難しいですよね。
不足前提の思考を意図と勘違いしていたら不足が叶い続けるという理屈は分かるんですが。
>>533
耳が痛いですw 特に
>実践と言いながら結局のところただ読むばかりで理解したつもりになり、
>自身の気付きがない方が多いなと見受けられます。
私のことですw
こういう人間のことも視野に入れてレスくださったんですね。ありがとうございます。
ミラクルを期待して現実的な対応がおろそかになる、というのはよく分かります。
>すべて奇跡であると捉えられてみると良いかもですね。
なるほど。そういう感覚は分からないでもないです。
生きてるだけで丸儲け、みたいな。何がどうなろうとOK。
いまここに居ることがそもそも奇跡、なんですよね本当は。
>これをコントロールして起こそうとすること自体が不足視点ではあります。
はい。まずはニュートラル状態をもっと体感するよう実践してみます。
>>535
ありがとうございます。何か良い意味ですっきりしました。
>>536
こんにちは。
>思考に気付くのポイントですが、無意識に騙されてる時間が長い場合やかなり荒れた感情が起きてる際はどの様にして気づいていましたか?
私が集中して取り組んでいた時期は、「どんな思考でも気付いてやろう」という意志を持ってやっていました。それでもいつの間にか思考に巻き込まれていたということはよくありました。
ただ何時間やっていたかと言われると、あまりはっきりしないですね笑
裏技がありまして、例えばスマホ壁紙とか、ストラップ、またよく目にするもの触るもの、そのどれかにアンカーと言って忘れてもすぐに思い出させるための「印」を付けておくとすぐに思い出せるかもです。
例えばスマホの壁紙に「自己観察!」とデカデカと映るようにしておくとか笑
>無意識にエゴに乗っ取られてる時間が24時間中18時間はあるんですよね。
起きている間の6時間自己観察できているなら大したものだと思います笑
>その内乗っ取られない時間や自己観察できてる時間が1日の内20分とかならさすがに動く現実も動かなくなりますよね…
↑このような思考に気づけるようになる、呑まれないようになるまで自己観察する…ですかね笑
結局「この少ない時間じゃ叶わないよな…」という思考に呑まれ、不安になっているわけです。
また「〇〇時間やらないと叶わない」というハードルをご自身で設定しようとしています。
たとえ長い時間呑まれてしまったとしても、別の領域に入れば「長い時間呑まれていた」と言う現実は、
この別の領域である「今ここ」において、既に実際にあったかどうかもわからない「ただの思考」であります。
「少ない時間じゃ叶わない」
「では何時間やればよい?」
「また長い時間呑まれていた」
これらは思考です。
ここに気づけば全部チャラになるのではないでしょうか?
ただ気付きを得るためにはなるべく自己観察の視点で物事を観察された方が確実に気付きはありますので、前述のアンカーなど利用してやられると良いかと思います。
>>537
>>538
こんにちは。
いろいろご自身で工夫されて続けて見て下さい。
いずれ繋がる時が来ると思います。
「いやぁ〜耳が痛いです。」という人ほど耳をいたがるだけで終わるパラドックス
>>541
それは逆説ではなくほとんどの場合真実
人は弱い存在だからね
>>539
横からですが、「このような思考に気づける〜」の部分が大変勉強になりました
結局は実践の妨げとなるような思考に気付けるか、呑まれるかが自己観察の分かれ道だと思います
そういう自分も呑まれてばかりですが
>>543
こんにちは。
自己観察中の思考ってやつですね。
手前味噌でアレですが、私が当時集中して実践していた時は、そのようなことをお伝えしている方は見当たりませんでした笑
当時はまとめも少なく、各ブログの観瞑想らしきことをやっている人に質問したりしてました。
(知らないだけでもしかしたらいたのかも…?)
自己観察を実践しているのにいつまで経っても先に進んでない気がしながらも、ただ実践している時に私自身の気付きとしてここに気づいたんです。
何が言いたいかと言いますと、自身で気付いた気付きというのは、しっかり身になるんですね。
これに気づいてからは進んだ感ありましたし。
また他のマスターの方でも気付いていないこともまだ沢山あると思います。
皆さん実践され、自分の気付きを得ていただき、それを共有されれば、もっと自己観察は身近になるのではないかと思っています。
ぜひ続けていかれて下さい。
>>544
ありがとうございます
おっしゃるとおり、他の方の気付きを知るだけでも、自分では気付かなかった視点を意識出来て自己観察に大いに生かせると思います
私はまだどなたかのお役に立てるほどの気付きはないですが、自分を揺さぶるような思考(いわゆる本願であったり、自分が重要と考えるものに関するような思考)は根強いなと感じます
ひっきりなしに浮かんできて、隙あらば自分を呑み込もうとしているようで。
本当に構ってちゃんだなと思いつつも観察を続けているうちに、自分がそのことを頻繁に考えているのではなく、特定の思考が頻繁に湧いて来ているという感じ方になりました
>>545
こんにちは。
>自分がそのことを頻繁に考えているのではなく、特定の思考が頻繁に湧いて来ているという感じ方になりました
良い感じですね〜。
思考が本来の自己ではないことが、体感として気付いてきたって感じですかね。
そのまま継続して気付きを深めていただけたらと思います。
この私の観ている世界を書いてみようと思います。
こういうのってどうしてもポエムになるのでお許し下さい笑
思考もそうですが、音や味、感触、そして風景。
それらも思考と同じ属性の「湧いては消えて行くもの」として眺めています。
誰が眺めているのか?
と観察すると、よく鏡で見る中年の男性が思考としてフワっとイメージされます。
しかしそれも思考。
これこそがエゴであり私イメージです。
「眺めている者がいるんだ」という思い込みが、「観るものと観られるもの」というの主客2つの分離を起こします。
その分離は、
「主である者が、客である思考やその他現象をどうにかコントロールしなければならない」という思考をさらに起こさせ、対立や、コントロールしようしようの想いを起こさせます。
これら主客が同じ思考であると見抜くと、これらは溶け合い、もはやコントロールするものも、されるものも無くなり、ただ意識がここにあると気付きます。
ここは自分が何かを変える必要もなく、すべてが自動的に起こっては消えており、何も問題のない平安な「場」。
これはあくまで我に返ってからのエゴを通した表現ですが、何か気付きの参考になれば幸いです。
>>546
横からすみません。
普段、何かしているときに、思考が浮かんで、一応気づくのですが、気づいている自分に意識を向けて、安心を得られるところまではいきません。
それだけでも十分でしょうか?
または、何かしていることはやめて、気づいている自分にしっかり意識を向けて、安心できるまで自己観察した方がよろしいでしょうか?
>>548
こんにちは。
>気づいている自分に意識を向けて、安心を得られるところまではいきません。
それだけでも十分でしょうか?
自己観察ができているかどうかの指標として、「安心」が起こるか起こらないかを目安にされていますかね?
もちろん瞑想と同じ効果もありますので、自己観察で思考を流し続けていけば、思考が落ち着き安心する効果があります。
また自己観察とは別の方法として、例えば呼吸や身体の感覚1点に意識を集中し維持すれば、同じような効果があります。
自己観察が観瞑想だとすると、1点集中は止瞑想と言われるものになります。
そういった効果もあるのですが、
せっかく自己観察をされているので気付いていただきたいのが、
「安心を得よう得ようとしている自分」
です。
ここに気付くと、「あ、これがエゴである私なんだ…」とホッとハートが開くようは安心が起きるかと思います。
一瞬ではありますが、エゴから離れ気付きがあると、そのような安心がハートに起きるんですね。
先ほどの瞑想時の立ち位置と、この思考に気づいている立ち位置が別の領域なのですが、ここに立つ時はしっかり思考に気づける落ち着いた時にやられた方が初めは良いかもですね。
慣れてくるとすぐに入れるようになります。
それと、安心は必要なのか?ではなく、
そのような思考に気づき結果として安心が起きると捉えていただければ。
>>549
ありがとうございます。
例えば充足を受け取れなかった場合、また受け取ることってできるのでしょうか?
再配達みたいのがこないので
>>550
こんにちは。
何かを解決しようとして思考に呑まれ苦しくなっていることに気付く。
「この私がこの問題を作り悩んでいたんだな」と自覚する。
これけっこうポイントだなと思いますので、継続してご自身を観察されてみて下さい。
>>539
6時間もできてなかったです笑
私、うつ病で(躁鬱の疑いもあり)現状生活もかなり追い込まれてて支援も期待できない環境なので、思考がぐるぐるする時はなるべく離れようとしてるんですが、なかなか思考の連鎖反応が収まらず書き込みました。
問題を自分で作って、乗り越えなきゃいけない状況を量産してるのは自分なんですが、問題を作らないと!叶ってない!不足まみれだ!手を打っても解決策をいくら施してもその手を次から次に潰されてしまい今疲れ切ってる状態です。
なんでこんなにエゴは問題が好きで、自分もその問題を解決したがるのか。
自愛をしようと思っても愛された経験値があまりなくて、愛とか受け入れるも感覚で全く理解できず、むしろジャッジして裁くことを愛と思ってる節があるので、自愛も反発がすごくてうまくいかず…という感じです。
きっと問題や不安を持っている方が安心するんでしょうけど、なかなか前途多難です。もう年齢も年齢で仕事もなくなっちゃって借金もあって気力もなくて実家の支援も期待できなくてどうしたらいいと思いますか?なかなか詰んでますよねすみません。
>>553
こんにちは。
今鬱病で苦しんでらっしゃるんですね…。
非常に辛い状況かと思いますが、
まずは現実的に相談できそうな、自治体等に相談されてから(すでにされていたらすみません)、少し落ち着いてから自己観察に取り組まれた方が良いかなと思います。
やっぱり生活が保障されていないと、それって命に関わることになりますのでエゴがどうしても騒ぎます。
ほとんどの悩みは最終的に、「死にたくないから」に行き着く…。
というのが私自身が自分を掘り下げ、気付いたエゴの最終的な本音でした。
なのでエゴは解決策を模索すべく繰り返し思考するわけです。
しかも解決策がその時にならないとわからないことまで延々と考えて疲弊するという…。
多少でも安定が見込めれば、焦り思考も減りますので少しは自己観察に取り組めるかなと思います。
>乗り越えなきゃいけない状況を量産してるのは自分なんですが、問題を作らないと!叶ってない!不足まみれだ!手を打っても解決策をいくら施してもその手を次から次に潰されてしまい
自分の人生の問題はすべて自分自身の責任と、責に苦しまれているのだと思います。
ご自身(エゴ)目線では確かにそうです。人生の責任は自分にあります。
しかし見方を変えるとそうでもないのです。
これは気付きのひとつなのですが、
自分(エゴ)には何もできることなどなく、自分(エゴ)もこの世界と一緒に連動して起こっている、ただの現象なんです。
今はそのように物事を見れないかもしれません。
自己観察に併用しハーディングの実験で、ご自身含めた現象すべてが、
この透明な意識の中で自動的に起こっていると観てみて下さい。
ttps://youtu.be/98CindnEs58?feature
これは思考と離れなければ体感としてわかりにくいことです。
まずは思考から離れた視点がわかるまで自己観察も併せて続けてみて下さい。
そこでご自身には何もコントロールできることなどなく、何も人生における責任などなかった、
もっと言えば、「死」さえもなかったことがわかったりします。
そこに気付くことができれば、エゴとして思い患うことなどなく、また根本的な死への恐怖も減り、うまくいけばですが、症状が改善するかもしれません。
これで自分の命を粗末にする無謀な人間になったりはしません笑
むしろ生きていることへの感謝と、この本来の自己という意識の偉大さに驚愕し、もっとこの世界を楽しんでみたいと思うかと思います。
ご自身のペースで無理なく続けてみて下さい。
ちなみに私の実践における心持ちは「わかるまでやる」です笑
>>554
ありがとうございます。
死とエゴに関しては色々と目にしてましたが、確かに死ねば楽になると考える一方で、死にたくないという欲求がありました。
今までメンタルを病むまでやっていた仕事をやめて、新しい仕事を始めたんですが、それがまたイレギュラーな事が起きて戻らざるをえない状況でした。
生活保護などは条件的に厳しく、貸し付けなども利用できない状況で、前の仕事に戻るしかないなという感じです。
嫌な事をしたくない気持ちと死にたくない気持ちがあって、死にたくないを否定してたから何回も似たような出来事が起きてたのかもしれません。
指差し実験は昔本を買って読んだのですがよく分からずでした。ただ頭で理解しようとしてるからかもしれません。
ただ、仰る通り体感して気付きが得れるまでやるしかないですよね。
現実対処でエゴを落ち着かせながらゆっくり進むしかなさそうです。
アドバイスありがとうございます。
>>555
生活福祉資金なども難しい状態ですかね…。
いろいろご事情があるのかとは思いますが、なるべく無理はなさらないで下さい。
それと、このような板なのでお伝えしますが、必ず救いがあると信じて過ごされるようお願いします。
普段は気付かないしわからないと思いますが、本来の自己は常に555さんと一緒です。
一時も離れたことはありません。
思考がそれを見えなくしているだけです。
たとえ見えずわからなくとも、555さんはいつも本来の自己に包まれています。
今可能ならば、
一旦考えることをやめて、
静寂である本来の自己の声に、
注意深く耳を傾けてみて下さい。
それくらいしか今私ができること、言えることがないのが申し訳ないのですが、ダグラスハーディングの本を読まれたとのことですので、気が向いたら動画も見られてわからないところがあればまた質問くださいね。
>>555
ヨコですが、まるで私が書いたのかと思うほど、私も非常に似たような状況で、人ごととは思えず書き込みました。
私も今、自分に合わない仕事をやり続けて鬱になり、八方塞がりと感じています。
鬱は思考過多で、とても辛いですよね。
それを観察しようと思っても、すぐに、1秒もせずに戻ってしまう。
あまりに酷くて、一生こんな世界に生きなければいけないと絶望。それが思考とはわかっていても、鬱の人は思考を思考でカバーするから、ある意味、余計に辛くなる。
私も正直、本当にどうして良いか分からないです。
ただ、心のどこかで、そんな私がいつか、幸せな私として復活すること(それは鬱になる前の私とは同じではないと思います)が、今生かされている意味ではないかなと、そんな思いが、それこそ単なる思考かもしれませんが、拭いきれないのです。
私も今、いわゆる無価値観や孤独感に苛まれていますが、あなたのメールを読んで、私だけではないんだなと思いましたし、あなたにもどうか、自分一人ではないことをお伝えしたくて。
あなたはそのつもりがなかったかもしれませんが、あなたは間接的に私を今、少し救ったのです。
それに気づいて、ふと私も、もしかしたらただ生きているだけで、人の役に立っているのかもかもしれないという気もしてきました。
質問してくれてありがとう。
自己観察とは関係ない、スレ違いかもしれませんが、御礼を言いたくて書き込みました。
鬱の人は、自己観察できない自分を許す方が早いかもしれません。
>>556
ググって調べたんですが条件的にどうでしょうか。なかなか難しいと思います。
一度動画も見てみます。
エゴをなだめるために色々な事をやってきて負けてきたので、今回でもう最後。ラストチャンスくらいの気持ちでもう一度だけ頑張ります。
>>557
辛いですね。気持ちお察しします。
この状況や、いわゆる不幸な人生を歩む運命や、安心できる生活の為にどれだけ頑張って実生活でもスピリチュアルでも頑張ってやってきたんだろうと思います。
上記でもお話してた通り、私は小さい頃から死にたくありませんでした。
生きて、安心できる居場所をずっと探して、それに見合う人間になるために色々頑張ってきました。
でも普通の人と比べて出来が悪くて、頭も悪くていつも劣等感がついてまわってきてました。
親も自分のせいで不幸そうでした。
思考が歪んでるからそう感じるのだと思うのですが常に四方八方から責められてました。
でも幸せになりたかったので、問題に取り組みました。なかなかうまくいきませんでした。
結局安心も幸せも思考で望んで手に入れるために頑張ると遠ざかっていきます。
でも幸せを求めるこの執着心はいつまで経ってもなくならないので、深掘りしたり、許してみたりしたけど、自分の、力だけじゃ限界があり、病院やカウンセリングにも頼りましたが徒労に終わりました。
何がいいたいのか自分でもよくわかってません。でも再配達ばかりで今疲れてます。あなたも私もゆっくり生活のこと気にせず休めたらいいのに。
愛されてる子どもみたいに安心し切ってそれに対して罪悪感も感じずのびのび生活できたらいいのに。楽しく仕事できたらいいのに。
何もいいこともないし、自分の思った通りにうまくなんていかないし最悪の人生だなって今も思うけどこんな私の書き込みに目をとめてくれてありがとうございます。
あなたの幸せを心より願ってます。
例えば充足を受け取れなかった場合、また受け取ることってできるのでしょうか?
再配達みたいのがこないので
>>552
ありがとうございます!
ふとしたときに、これで変わるのか?、一生変わらないのではないか?みたい思考が出てきまして、それに気づけるようにはなった感じです。ただ、まだ不安がなんとなく漂っている感じです。
552さんもそういった不安あったかと思いますが、どんな流れで、不安が解消されていきましたでしょうか?
>>559
こんにちは。
回答は私でよろしければ。
>充足を受け取れなかった場合、また受け取ることってできるのでしょうか?
充足のどう定義されてるのかご質問の文章ではわからないのですが、充足はいつも、常に、「今ここ」にあります。
また受け取りたいのでしたら、思考にハマらなければ充足が顔を出しますよ。
よく雲(思考)の上には太陽(充足)があると表現されていると思いますが、あれです笑
ただ雲がかなり厚いのでなかなか太陽を実感しづらいと思います。
雲をどこか身体の1点に集中して集める。そうしていると太陽の光がハート辺りから微かに洩れていることに気づくので今度はそちらを味わう。
こんな感じでわかるかと。
それと再配達というのは、
「私(エゴ)」がしっかり掴んで離せないこだわり、執着、などの思考フィルターがあると、それを通して見ている世界を分別するので、そればかりが目に付く(実際に起こる)。
と私は理解しています。
充足を見たいのでしたら、それら思考を一旦どければ、充足はそこに常に在るものなので見つかりますよ。
>>560
こんにちは。
>一生変わらないのではないか?みたい思考が出てきまして、それに気づけるようにはなった感じです。ただ、まだ不安がなんとなく漂っている感じです。
良い感じで自己観察できてると思いますよ。
そのような思考が纏わりついて不安になっていたんですもんね。
>552さんもそういった不安あったかと思いますが、どんな流れで、不安が解消されていきましたでしょうか?
不安はエゴがある限り、生きている限り起こります笑
なので無くなることはないのですが、気付きが積み重なってくると、不安に呑まれづらくなっていきます。
不安をなんとか消そうとしている私(エゴ)という思考に気付く。
この気付きで結果として楽になるかと思いますので、ぜひ気付いてみてください。
私もいつの間にかハマっているこのような思考によく気付くようにしていました。
これがわからないなら今度は「わかろうわかろうとして苦しくなっている私(エゴ)」に気付いてみる。
このように、どんな思考に今ハマってるのか気づくと良いと思います。
>>532
ありがとうございます。
メッソドの目的を教えてくださり、ありがとうございます。
>胸のあたりに観察するご自身が居ると思われているようですが、ではその胸を観察している者は何者でしょう?
ハーディングの実験も一緒にやられると良いと思います。
私は、今まで、頭に思考が湧いてきて、それを胸の位置から観察しているイメージをもっていました。
胸のあたりから、頭の方へ意識が矢印で向かっている感じで終わっていました。
では、胸のあたりを観測しているのは何か?
この問いかけで、胸のあたりを観測している、「場」「空間」のようなものが感じられ、
その「場」は、境目なく広がっていて‥体を越えてあたり全体のような気がして‥‥
この世界の場と一体化したような感覚になりました。
なんか、うまく言えていませんが‥‥
私にとっては、新しい視点です。
ありがとうございます。
>深堀りは自己観察初期の段階では効果があったりします。
また同じ思考が頻繁に起こり自己観察していてもどうしても呑まれてしまうとか。
そんな時に客観的に、なぜそんな思考が絶え間なく湧き出てくるのか?を知ると思考が落ち着きます。
私は、以前、深堀り(起きた出来事や自分の行動の前提とかセルフイメージを考える)
をしていた時期があり、、、でも、結局、気づいてすっきりするけど、状況は
変わらなかったり、深堀することが多すぎて終わらない感じにつかれてしまったので、
つい避けたい気持ちがあったのかもしれません。
自己観察の過程で、しつこい思考に気付いたらやってみるのもいいなと思えてきました。
ハーディングの実験も取り入れてみます。(わかってからお礼言おうと思っていたら
遅くなってしまいました)
やってみます。ありがとうございました。
>>563
こんにちは。
>では、胸のあたりを観測しているのは何か?
この問いかけで、胸のあたりを観測している、「場」「空間」のようなものが感じられ、その「場」は、境目なく広がっていて‥体を越えてあたり全体のような気がして‥‥
この世界の場と一体化したような感覚になりました
わあ、素晴らしいですね!
それが私=世界ですよ。
563さんは知識だけでなく、過去の達人さんが言っていたその視点に実際立ったんです。
大体皆さん、頭か目の少し奥あたりに「私(エゴ)」、つまり個人としての感覚を置いています。
その感覚を自分と認識しているので、自動的に「自分以外」も認識されるんですね。
そうなると自と他の分離が起き、その分離が原因でいろいろと人生の悩みが起きる…という仕組みなんです。
563さんの場合、
頭ではなく胸の感覚を自分として設定しているとわかりましたので、その胸を観ている存在に気づけば、本来の自己に気づくのではないかなと思い提案してみました。
仰るように、その存在は「私(エゴ)」である個の境界のない、いわゆる私=世界の視点、本来の自己の視点です。
その本来の自己が普段思考を使い、私と世界に分離させていたんですね。
今はまだはっきりしないと思いますが、世界はすべて563さんの本来の自己そのものであり、自己が世界を創っていたんだと実感としてわかってくると思います。
そうなってくると深掘りも必要なくなるかもですね。深堀りの理由も自作自演になりますし笑
色々とわかることがありますので、その視点になるべく浸ってみて下さい。
>>562
ありがとうございます。
自己観察していて、無理だ、こんなので変わるわけない、みたいな思考にできる限り気づくようにしていますが、結果を急いでしまう自分がいることに気づきました。まだかまだか、みたいな感じなのですが、それに対してはどのように対処したら良いでしょうか?
結果を急いでいる自分がいるんだなぁ、くらいな感じが適切でしょうか?
>>565
こんにちは。
>まだかまだか、みたいな感じなのですが、それに対してはどのように対処したら良いでしょうか?
ご自身を変えたいということですね。
基本的には生活の中で、変わりたいという思考や、焦りの思考に気づき「あ、また変わりたい思考が起きてるな」と気づくことを継続していきます。
しかしながら、
ただこれを例えばアファのように闇雲にやっていても、なかなか変化は起こらないかもしれません。
自己観察は、実践することで色々とご自身に対しての発見があります。
いわゆる気づきですが、これにより変化が起こります。
実践していて、何か気付かれたことはありませんでしたでしょうか?
まだ自己観察に慣れていないのでしたら継続あるのみですが、初心者さんに起こりがちな例としては、思考に気付いたにも関わらず、その直後に無自覚に思考に呑まれてしまう。
これはあるあるです。
思考に気付いても、
「で?」
「いつ叶うの?」
「これの何の意味があるのか」
などですね。
これらの思考にも気づかないと、いつまでもエゴとの同一化が止みません。
さて、今現在思考によく注意して観た時、どのような気付きがありますでしょうか?
・思考が、さらに思考を呼び思考の連鎖が続いている。
・いつもそれに呑まれっぱなしだ。
・しかし思考を注意して観ていれば、いずれ消えて無くなる。
・思考に注意して、思考を捕らえれば、思考に呑まれることがない。
・思考に呑まれなければ焦りや不安もない。
・しかしなぜそのような不安が起こるのか?
それは「私」の人生に関わることだから。
・では「私」とは何なのか?
・「私」を探そうとすると、「これが私そのものだ!」と特定できるものが何もない。
・かつ「私」を説明しようとすると過去の情報ばかり出てくる。
・つまり「私」そのものが思考なのではないか?
過去の情報のカタマリが「私」なのでは?
・では、それらカタマリを玉ねぎのように剥いだ時、最後に思考を観ている者とは何なのか?
・この何者かが自身で思考を創り、それを真実として採用していた。
・もっと言うと、思考だけでなく肉体の他、世界すべてを創っていた。
上記はあくまで気付きのほんの一例ですが、
このような発見があり、さらに興味を持って探求されていくと気付きが深まり、根本的な変化が出てくると思います。
>>566
ありがとうございます。
今の段階ですと、思考に気づいて、ハッとして、「また考えているなあ」みたいな感じになります。
「いつ変化するの?変化するとしたら、どんな変化が起こる?このやり方で自己観察は合っている?」みたいな思考がよく浮かんできて、眺めている感じではあります。
そして、空いた時間は体を横にして目を瞑って、思考が浮かんでくるのに意識を向けています。
数分くらいですが、終わったときは少しスッキリしています。
あと、自分は、過去や未来に関する思考が多いのですが、それらはある種の誘惑みたいなものだと思うようになりました。今現在って割と退屈なので、刺激の強い過去や未来に関する思考の方を頭が求めているように思います。
頭は、とにかく刺激が欲しくて、未来の願望や過去の後悔、YouTubeを見ることといった外部からの刺激を求めているのかなと思います。
>>567
こんにちは。
>「いつ変化するの?変化するとしたら、どんな変化が起こる?このやり方で自己観察は合っている?」みたいな思考がよく浮かんできて、眺めている感じではあります。
思考に気づかれてるようですね。
この方向で合っていますので大丈夫です。
多分ですが、なかなか納得できない部分があるとしたら、感情(身体)が反応されているからかな?と思いました。
以前も書きましたが、思考の内容に身体が反応するとハートが重くなったり、モヤモヤしたりといわゆる感情として反応が起きます。
思考と身体が連動してしまうと、思考の虚偽も非常にリアルさを持って迫ってきますよね。
それでも継続して思考に気付き続けていれば感情も消えていきますし、
まず感情も思考と同じく、本来の自己が創ったただの反応、現象であると観ていただくと、惑わされなくなると思います。
そういった現象を、
「コントロール」しようとせず、
ただ眺める。
思考も感情も、その他あらゆる現象。
これすべて透明なスクリーンという本来の自己に起こっている「起こっては消えていくもの」。
まさに今ここでは、もうそれは消えてしまって既に無い。
そのように観てみてはいかがでしょうか。
>今現在って割と退屈なので、刺激の強い過去や未来に関する思考の方を頭が求めているように思います。
非常に良い気付きですね!
そう言った気付きがさらに自己観察を深めてめていきます。
刺激と書いておられますが、スクリーンに起こる小さく精妙な衝動(苦)が、この現象世界を展開するエンジンになっていることもいずれわかるかと。
ぜひそのまま観察を継続されてみて下さい。
>>568
今が退屈っていうの、すごくよく分かります
暇で刺激を求めて色々な思考に夢中になったり、私の場合、こういう掲示板を覗くのも外の世界からの刺激欲しさが理由だと思います
>>568
ありがとうございます。
私の場合、思考が浮かんで、気づいて、眺める間もなく消えてしまう感じなのですが、それはそれで問題ないでしょうか?
>>569
こんにちは。
この現象世界、エゴの世界って、
常に不安定→安定の繰り返しでして、不安定状態ですと衝動が生まれ、これを解消しようと安定に向かう。
このサイクルがエゴに起きないと現象世界が展開しない…というのが私の個人的な気付きです。
例えば、小さな衝動ですと「お腹すいたからご飯食べる」もそうですし、「ちょっと気になったので横向いてみた」も不安定→安定の1つです。
「将来こうなりたい!」みたいな大きな衝動もあります。
そうやって自分の世界が展開しているな〜と。
何が言いたいかと言いますと、
それがエゴとして生きているってことなのかなと思ってます笑
なので別の領域という静寂(安定)に入りっぱなしだと、そのうちエゴが退屈するのは仕方ないのですが、
安心感という現象もそこでは起きてきますので、しばらく留まってみるのも面白いです。
コツは安心感を得ようとしないことですね。
得よう得ようとするとエゴが太陽を覆ってしまいますので。
>>570
こんにちは。
あ、すぐに消えてしまうならそれに越したことはありません笑
うまく言っている証拠です!
>>571
そうですね
おっしゃる通り、求めると「感心感を得たい!」「あの感覚をもう一度体感したい!」みたいな思考まみれになるので、それを目的とする姿勢は自己観察から遠ざかるだけのような気がします
スレチになるかもですが、これは夢で、あっちは短編小説でこっちは長編って感じでしょうか?
>>572
ありがとうございます!
こんにちは。
全然関係ない話でしたらすみません笑
私、昔QEというメソッドをやっていまして、これが非常にためになりました。
別の領域にいると安心が起こるとよく言われていましたが、当初私も安心感などまったく感じることなかったんです笑
ところがQEの書籍を読んで「安心を探そうとし、安心を期待する私(エゴ)」が安心を隠してしまっている…と知った時は目からウロコでした。
なるほど、自分がしゃしゃり出るから見えなくなってるんだと…笑
QEも実践中心の本でしたが、
私がよくやっていたのは3点法という所謂サマタ瞑想の一種で、エゴの注意を身体の感覚3点に集中させる(これが非常に秀逸)ことにより、エゴに何かを探すことをやめさせる実践でした。
ある意味、感覚について100%思考(意識)させるということになります。マインドフルネスですね。
面白いことに、思考は1点に張り付けさせ動かなくすると逆に無思考になるという…。
エゴと時間の関係が垣間見えたと思います。
ただの瞑想といえば瞑想なのですが笑
これをやると本当にいつの間にかハートに安心感が起こるんですよね。
QEは願望実現の切り口なので興味ある人はぜひ。
暇な時、何か手持ち無沙汰な時、
ある種の遊びとしてやられると、気付きも後から着いてきて良いかもです。
>>574
こんにちは。
どういうことでしょ?笑
>>577
スピ系では現実は夢、幻と言っている方もいらっしゃいますが、イマイチ信じられませんでした。
今日、目覚める直前まで夢を見ていたのですが、目覚めたときにこっちも夢だと思ったんです。寝ている時の夢は短編(続きを見れる方もいるようですが)でこっちは長編かな?と思ったところで、背中を押して欲しくて質問しました。
この世界で絶対的な安心を得るには、これが夢で幻だと確信できるかにかかっていると思うのですが、なかなかそう簡単にはいきませんね。
>>578
こんにちは。
そういうことでしたか。
背中を押すんですね、わかりました笑
ちなみに私も現実は夢と同じ…として暮らしてますよー。
夢の世界も、そして現実も、
ある種の透明なスクリーン上に上映されている映像ですもんね。
その映像には思考もあるし、肉体感覚、そして世界も映っていますが、これらもやはり「観ている」。
よく感じると言いますが、観ていますよね。
誰が観ているかというと、
神が観ている。
昔からこの世界は「神の観ている夢」と言われていまして、
578さんというキャラが活躍する夢を観ている者は、神そのものなんです笑
つまり578さん=神。
でも神さまは578さんに成り切ってしまっていて神であることを忘れているのです。
忘れてしまっているので、
自分で無自覚に創った世界を見て惑わされ、さらに思考も創りそれにも惑わされ、思考を介して創った世界に揉まれ一生懸命578さんとして生きています。
リンゴをリンゴとして認識しそこに顕現させているのも、猫を猫として認識し、かわいい子猫としてそこに座らせているのも、すべて578さん自身。
起こる現象すべてを「この私が創った」と自覚して観ていくと、ご自身が創造主であったことを思い出すことができます。
思い込みではなく、実際そうなんです。
ネガティブな思考や感情に悩まされているのなら、それは自分の創造物であることを自覚してみて下さい。
神が自分の創造物に悩まされている滑稽さに気付きます笑
てな感じですが、
夢といえど、夢の中での役割というのもありますので、無茶はせずしっかりと夢を生きつつも楽しんでみてください〜♪
>>580
背中を押していただいてありがとうございます♪
自己観察で、よく「思考は私ではない」と言われますよね。
思考は、まだわかるのですが、肉体的な感覚は、どうしても「私」からは切り離すことが難しく、観察という境地に至るのが難しいです。
例えば、誰かが怪我をして痛がっていても、私にはその肉体的な痛みは感じません。
こういう肉体の感覚が、「私」の感覚を無くすことを難しくし、つまりは分離の感覚にさせられるように思います。
>>576
こんばんは。
QEは6年ほど前に本を読んで実践していたので懐かしいです。
3点法は身体の痛みが消える、と書かれていたと思うのですが、頭痛がひどい時に何回か試してみたのですが効果を感じなかったので辞めてしまいました。
ですが、576さんの仰る通り思考を鎮めるという観点には良さそうですね。
久しぶりに本を読み返してみようと思います!
>>582
こんにちは。
そういえば思考についてはよくお話に出てますが、身体の感覚についてはあまりお話ししていませんでしたね〜。
これは、非常に説明がしづらいところではありますが…どうにか笑
現在思考は「私」そのものではないと気付いておられると思います。
思考は起きたり消えたりするものですが、ここに在る透明な意識、世界に気づいている意識。
これはずっと在りますよね?
その透明な意識があるから、思考してる、思考していない、などがわかるというものです。
※透明な意識がわからない場合はハーディング実験やってみる!です♪
では肉体感覚はどうか。
これもよく観ると、肉体感覚も起きては消えたりしていませんでしょうか?
例えば仕事で忙しい時、足の裏があったことも忘れて(消えて)いますよね。
しかし足の裏痒いとかでわずかでも注意が向くと、そこにはたしかに足の裏はある。
あったりなかったりです笑
肉体感覚も思考と同じく、
「透明な意識」に起こる現象なんだなとわかると、感覚がまるでモノというか、音などと同じ属性であると気づきます。
ここ見抜くと同一化から離れられると思います。
しかし感覚はちゃんとありますよ?笑
もう少し突き詰めて、
それら現象を観ていると思われる「この私」に注意を向けてみます。
普段自己観察をしている時、思考を観ている確固とした「この私」がいると感じていますよね。
それが何なのかを観てみます。
答えを書きますと、
この「私」も思考です。
この「私」という感覚も、実はここに在る透明な意識上で起きたり消えたりしている現象ではないでしょうか?
例えばスマホに集中したり熱中している時、「この私」も足の裏と同じく、ないですよね?笑
スマホに熱中している最中にふと「この私」という思考に意識が向くと、「明日早番めんどくさ…」などと思考が連鎖し、現実という虚構を創り上げリアルに感じてしまうのです笑
この辺りに気づくと、肉体感覚を伴った「この私」というものも、透明な意識内で起こっては消えていく現象であるとわかり、思考、肉体感覚と厭離できるかなと思います。
>>583
こんにちは。
私もQEは全巻持ってます笑
確か世に出た当時はこの板でも自己観察と同じだ!と騒がれてスレもありました笑
3点法はその当時のスレ主さんも工夫されてやってまして、探求していた私も結構勉強になったのを覚えています。
あのスレもう無くなっちゃったかなー笑
懐かし…。
こんばんは
QEスレ下がりまくってますがまだありますよ
昨日からQEというかキンズローさんのメソッドの話したいなと思ってたので良いタイミングで嬉しい
私もあのメソッドとホールネスワークが認識変更の助けになりました
>>580
>でも神さまは578さんに成り切ってしまっていて神であることを忘れているのです。
スピノザという哲学者が「エチカ」という著作に同様のことを書いています。
「神すなわち自然」というフレーズが有名な汎神論なのですが、
私たち各々の人間の精神は、神の無限な思惟能力の端末部分だ、というような内容です。
端末部分(人間精神)に成りきっている神は、
これまでの無限に連鎖する思惟・思考の結果として今・ここに居るのですが、
端末部分に成りきっているため、
これまでの思惟・思考の無限連鎖を認識できない。
それが私たちの自己認識の状態だ、ということを書いています。
要するに、私たちは自らの前提を知らず(認識の蝕)、結果だけを目にしている、と。
すべて必然の連鎖なので、自由意志も完全否定しています。
「自由意志があると思っている者は、目を開けながら夢を見ているのだ」とか。
スレチなので無視してください。
ここ最近、自己観察と自愛を混ぜたような感じで自分に気付いて認める事をしてきました。
不安になったら「不安を感じている自分がいる事を認めます」みたいな感じで。
上手くできない日もありつつ、だんだんと心から毎日安心して過ごしても良いんじゃないか、と昨日の朝思いました。でも、安心していたのに何か起こったら怖いと言う気持ちも同時に出てきました。
良い方向に来てると思ったのに昨日の夜からペットの様子がおかしくなり心が落ち着きません。試されているのかと思ってしまう。今も安心したいのに、安心したらダメだ!と。悪い方へ悪い方へと考えてしまいます。
現実を自分で作ってると思いたくないけれど、見事に「安心したらダメ」が現実化してる。
どう持ち直せば良いのか分からないです。
暗くてすみません。
>>586
こんにちは。
まだスレ残ってましたか笑
キンズローメソッドは色々ありましたよね〜。
それこそ思考を観るや、気づきの中を歩くとかあった覚えがありますが、結局3点法だけ今だに風呂上がりにやってる感じです。
風呂上がりのサッパリさと別の領域がマッチすると最高です笑
ホールネスワークは私は噛んでないのですが、方向性としては同じなんでしょうね。
スレ主さんの今の心境はどうなのか、なんとなく気になりますね。
>>588
大丈夫でしょうか?大切なペットの具合が悪いと誰だって心配で不安になると思います。
様子を見て動物病院に連れていくなどの現実的な対応をしつつ、悪い方へと考えてしまう自分に気づく。
見事に安心したらダメだが現実化してしまった、と言っている思考に気づく。
これらの脅迫的な思考と距離を置いて、不安などの強い感情はセドナメソッドなどで対処するというのはどうでしょうか。
ペットの具合が良くなるように私も願望投げておきます。
>>587
こんにちは。
スピノザさんの「エチカ」については前にYouTubeで名前を知ってる程度なのですが、西洋哲学も面白いですよね。
私の好きなダグラスハーディングにその素養があるからなのでしょうか。
ありがとうございます。
>>588
>>588
こんにちは。
ペットの具合が悪いとのことで…心配ですね。
こういう時の対処法としていつものメソッドを行う気持ちもよくわかりますが、まずは現実的な対応を採られるのが先決かと思います。
こういう時に心配が起こるのは当たり前のことですので、無理に安心を求めなくても大丈夫です。
心配していると心配通りのことが起こると思わなくて良い、ということですね。
今はできることをやって、少し落ち着ける時間があるなら、上記アドバイスがあるようにセドナや自愛、自己観察で心を落ち着かせらればと思います。
>>592
横から失礼致します。
自分もなんとなく不安が常に漂っている感じで、不安が漂う自分を認めるようにしていますが、何か明確な気づきみたいなものがありません。明確な気づきがないことを認めつつ、他に何かした方が良いでしょうか?
>>593
こんにちは。
認めるということは、
自愛をやられているんですかね。
耳タコなお話ですが、
不安があるなら不安のある「私」を認める。
気づきがないなら、気づきを求めて右往左往している「私」を認める。
他に何かやった方が良いのか迷う「私」を認める。それの繰り返し。
で、繰り返してもことあるごとに「このままで良いのだろうか」と「私」が言いますので内面はよく観ておく必要はあります。
そしてそれもまた認める。
「私」の不安って何でしょうか?
掘り返すと、あれやこれやと不安の理由が出てくると思いますが、それらも認める。
「いや!認められない!」という「私」も認める。やはりそれの繰り返しです笑
自愛をやられているのでしたら、可能でしたら極めるまでしつこくやってみる。
自愛も実践で途中必ず気づきは起こります。
この私としての提案であります。
>>584
詳しい説明をありがとうございます。
仏教でも五蘊(≒五感)は幻と言っているので、それが正解なのでしょうね。
正直、五感がなければ自分という感覚はかなりなくなると思いますが、思考よりもリアリティがあって、かなり振り回されてしまいます。
>>594
ありがとうございます。594さんは、自己観察されて、どんなことが実現されましたでしょうか?
>>580
1ヶ月位前に向かいの家の小屋が撤去されて、玄関をガチャっと開けると2.3キロ先の「youme」タウンの屋上の看板が目に飛び込むようになっていたですが、世界からのメッセージだったのかなと勝手に思っています笑
>>595
こんにちは。
五蘊!そのとおりですね。
私はハーディングの実験での気づきから、仏教でいう、五蘊に思考をプラスした六根を観察する方法に繋がり、そこで大きな大きな気付きがあった経験があります。
>>164 〜>>170 あたりのレス、また>>208 。
五蘊や六根に興味お有りでしたら、この辺のポエム笑をぜひ読んでいただけると幸いです。
>>596
こんにちは。
>>261 あたりで他の方へ過去あったことを赤裸々に書いてます笑
私の一番の願望実現はズバリ、
物質的なモノでの実現というよりも、
生きることがあまり辛くなくなったことですね笑
昔は自分を追い詰めるタイプでしたが今はだいぶ気楽な性格に変わりました笑
あとは、手前味噌ですがアラフィフなのに異性にモテる方だと思います!爆
見た目も20歳は若いです。
これは根本的な自己イメージが1人のしがない中年ではなく、カッコよく言うと、不滅の意識、私=世界になったからなのでは?と思っています。
あくまで見た目だけですけどね笑
>>597
こんにちは。
なるほど〜笑
でもそれはこじつけではなく、本当だと思いますよ。私=世界ですしね。
世界に対して、「今の私に何かメッセージをくれ!」とお願いしておくと、ほんとにちょいちょいメッセージくれたりしますからね笑
そういう自分の世界内での遊びも面白いと思います。
>>599
それは理想的な実現ですね。
ありがとうございます。
その領域になるまで、腐らず諦めずに行けたのは、どういった工夫があったのでしょうか?
本当、自分の中で根負けしそうな思考が絶えず、599さんも似たような思考が頻繁にあったかと思いますが。
>>601
こんにちは。
工夫はいろいろしてきましたねー。
それこそ主要メソッドをひとつひとつ徹底実践とか笑
このように工夫しました!と一言では説明しづらいので、私の自己観察の経緯をお話しようかと思います。
以前も書いたかと思いますが、
私が自己観察を始めたきっかけは仕事での人間関係トラブルと極度のプレッシャーで病みがちな自分をどうにかしたいということからでした。
最初は自己観察さんのレスとまとめを読み漁り実践。
まったく意味不明のまま何となく思考を観察してみるも非常に難しく一時断念。
知らんさん(桑田さん)や、
他の自己観察をされているブログなど探し、そこのブログ主にコメントしてヒントをいただいたりと、なかなか困難な道のりでした笑
そんな中、知らんさんとやまがみてるおさんという自己観察を実践されているマスターがブログでハーディングの実験を紹介されていたんです。
ハーディングのYouTube動画を見ましたが、動画はあまりスピ感もなく、なんとなくサッパリとしていたので敬遠していました。
当時は神とか宇宙、愛などのワードに惹かれていたんですよね笑
それと比較するとなんか学問的?なイメージで、、、。
ここまでの間にいろんな達人の方のまとめや仏教の経典集、またインドの賢者の言葉なども読み漁り、知識だけはありましたが、実感がない状況だったと思います。
そんな中でふとハーディングの実験動画をしっかり見て実践したんです。
そしたらバチーン!!とすべてが繋がったんです笑
あまりの衝撃に椅子から転げ落ちて、まとめの達人さんのポエムや、知らんさんの難解な話しが、実はそのまんまを伝えていた!!とわかり笑った覚えがあります。
だいぶ皆さん丁寧に回答してるなと笑
そこからはあまり自信なかった自己観察の方法や理念もよくわかるようになりました。
しばらく経ってから性格が一変していることに気付き、仕事も楽しく昇進もし絶好調。
なんだかわからんけどほぼ接点のなかった意中の女性からアプローチがありお誘いがあったりと(!)
潜在意識マジスゲーの中過ごしていたら、件の左遷の話しに繋がります笑
上記はもうだいぶ昔の話になってしまいましたが、今の私はというと、大変ありがたい役割をさせてもらっているなと思っています。
好きなこと、やりたいことを仕事としながらも、郷土や日本の発展に繋がって行くことを生業としており、日々感謝され、感謝してを過ごしているなと思います。
良い仲間にも恵まれ、またこのように私の話を聞いて下さる皆さんもいらっしゃる。
こんな幸せなことはないなと思います。
突然の自分語りすみません(いつもですが…)。
感謝が溢れてウルウルきてしてしまいました笑
いつもありがとうございます。
>>602
すみません、左遷後の復活エピソードはどの辺にありますでしょうか?ぜひ拝読いたしたいです
>>603
横ですが、このスレの260以降辺りに書かれていらっしゃいますよ。
>>604
ありがとうございます♪
>>603
こんにちは。
え!?
私の左遷話、そんなに興味あります??
>>604 さん、ありがとうございます笑
左遷先はドラマショムニみたいな所だったと書いたまま、その先は書いてなかったかもですね。
では笑
ショムニで若い女の子達と一緒に、時にはぶつかり、時には笑い、時には泣き…と、本当に楽しかったです。
着任当初は、アメリカ映画でよくある重低音の響く秘密の地下クラブ?みたいな…ホントヤバい所に来てしまった…と逃げ出そうと思いました笑
その時はエゴがかなり反応していて「職場とはこうでなければいけない!」と規律を正そうとしましたが見事にハレーションが起きてしまいどうしたもんかと…。
自己観察も継続していたので、「こうあるべき」エゴには気付いてましたがエイヤ!と捨てきれなかったんです。
でもふと、もう左遷してるし私の中の壁を取り払ってみようと。もうどうにでもなれと笑
この環境に飛び込んで一緒にバカをしてみようと思いました。
エゴは「大変なことになる!」と言っていましたけど、無視して本当に一緒に遊び呆けてみたんです。
これにはある種の透明な意識、つまり本来の自己への信頼がやっぱりあったのかなーと思います。
いずれにせようまく行くという密かな確信はあったかもしれません。
飛び込んでみたら色々と真実が見えて来た、というのは前述した部分ですね。
そんな感じでだんだんとショムニからの信頼も得て、すっかりショムニの一員として馴染んでいたある時、会社幹部との会食が開かれることになったんです(!)。
社内政治とは言え、私はやらかした社員なので、私を出そうか直属上司は迷ったみたいですが、行くことになりました笑
普通はそこで大人しくしているのがやらかした社員かと思います。
しかし認識の変更もあってか、「もうどうにでもなれ」の心境だったのか、信頼があったのか忘れましたが、私のハートはすっかりオープンになっていてめちゃくちゃ場を盛り上げてきました笑
私の想いも幹部にぶち撒け熱弁してきたんです笑
それが功を奏したのか(それだけではないとは思いますが)、1ヶ月後に栄転が決まりました笑
今度も社内で今一番イケイケの部署に来いと。
お前みたいな奴が必要だと笑
「え!?マジか…」とびっくりしましたが、やはり潜在意識スゲーと思いつつショムニを去るのは本当に淋しかった覚えがあります。
栄転先でまたカッコつけて仕事してましたが、結局なんか違うな…と感じていた時に、別会社からお呼びがかかり辞めちゃったんです。
そっちの方が本当にやりたいことだなと。
そんな感じですかね笑
これ以上赤裸々に書くと身バレするのでこの辺でご勘弁を笑
以上すみません…。
>>606
私も左遷されて、
頭では私も開き直って受け入れようと思って色々頑張ったのですが、
かえって鬱っぽくなって、会社に行くのも身体が言うことをきかなくなってきました。
そこで無理に受け入れようとするよりも、「受け入れられない自分を受け入れる(観察する)」ようにしたのですが、やはり身体が自動的に嫌だ!!と反応しているのか身体がカチコチになって、どんどん不健康になっている気がします。
嫌で嫌で仕方ないときは、どうしたら良いのでしょう?
>>606
横からすみません。
左遷された時、「自分の全く望まない部署に左遷になった。これは、もうここの会社は去った方がいいというメッセージかもしれない(だから転職しよう)」という風には思われなかったのでしょうか?
現実に対する意味付けは、思考(エゴ)が勝手にしていることなので、転職してもしなくても、どっちでもいいという感じなのでしょうか?
>>607
こんにちは。
前にレスいただいた方でしょうか?
>やはり身体が自動的に嫌だ!!と反応しているのか身体がカチコチになって、どんどん不健康になっている気がします。
そうですか、、、。
現状できることは既にやり切ったのかなと思いますが、そのような状況であるなら、もう無理なさらないで下さい。
場合によっては上司に相談、休職も選択肢に入れて良いと思います。
私の場合は、結果良い方向に向かったので、後から経緯でお話すると前述のようなサクセスストーリーのように見えます。
しかし実際は、
その時はうまく進めようなどとという気持ちはなく、「どうせ左遷だしこの先どうなっても構わん」という手放しの心境でした。
先の事などわからない中でのコントロール放棄でした。
じゃあそれをやれば良いんだ!
と真似をしたとしても、必ずしも同じ結果にはならないかと思います。
どうしたって真似してうまくやろうとエゴのコントロールが入りますし、私自身、また左遷させられたとして同じようにできるか疑問です。
自己観察のメソッドの方法は私が話す方法でなぞってOKですが、
その活用による、ご自身の人生の在り方は、人それぞれ、その時々、
になるかと思います。
私も左遷当時同じ状況なら「身体の方が大事、なので休む!」となっていたかもしれません。
だからと言ってお先真っ暗とも思わなかったかもしれません。
今私として言えるのは、
もう無理だなと思われるならそれも間違いではない、ということですかね。
>>608
こんにちは。
左遷直後は転職しようかと思いましたよ?笑
でも着任して少ししたら、何でしょうか、意図せずこの状況を受け入れた、コントロール放棄、すべて委ねていた、と言うところにあるのかなと思います。
メッセージという点では、私の場合は考え方が逆で、この状況に置かれたこと、この状況に置かれて起こることすべてに意味があると捉えています。
なのである意味、すべて起こることは最善という捉え方笑
なので受け入れられたのかなと思います。
>現実に対する意味付けは、思考(エゴ)が勝手にしていることなので、転職してもしなくても、どっちでもいいという感じなのでしょうか?
その時はそこまで考えてなかったかなと思います笑
大して責任もなく時間もできたので、色々メソッド徹底実践したろ!くらいの気楽な過ごし方だったかなと笑
>>610
教えていただきありがとうございます。
やはり左遷直後は退職されたいと思われたのですね!
仕事を辞めるか辞めないかといった決断や、期限内に何らかの決断を迫られる時、いつも自分の決断に自信が持てません。(仕事を辞めて転職活動がうまくいかなかったり、転職先が今までよりも更に労働環境が悪くて超短期離職することになって前の職場を辞めたことを後悔したり。)
自己観察を継続して思考から距離を取れるようになると、こういった決断をする際に迷うことは減るのでしょうか?
(こういう疑問も思考ですね・・・)
>大して責任もなく時間もできたので、色々メソッド徹底実践したろ!くらいの気楽な過ごし方
この考え方はいいですね。私も真似させていただきます。笑
>>602
ありがとうございます!
>>611
こんにちは。
>自己観察を継続して思考から距離を取れるようになると、こういった決断をする際に迷うことは減るのでしょうか?
余計な恐怖や不安が減り、判断がクリアになる効果はありますよ。
あれこれ悩むけど解決策が特にない悩みってありますでしょ?
ただ悩んでるみたいな。
そういう思考は切り捨てて、論理的に考えて前に進めることはよくあります。
また例えばキャパ以上の仕事が急に舞い込んできたりトラブルあったりするとパニクるじゃないですか?
あの時って「どうしよ」の思考で固まりがちですが、普段から思考に呑まれないようにしてると、いざという時に適切な対応が自然とできたりします。
まあそういうのもありますが、
もしかしたらですよ?
断定はできませんのでお気を悪くしないでいただきたいのですが、
もともと611さんが持っている記憶データ自体に何かバイアスがかかっている場合もあります。
過去の辛い経験バイアスです。
データに偏りがあると出力される思考も偏りがあり、現実を偏光フィルター越し見てしまう。
普段エゴフィルターと私は呼んでますけども観念ってやつですね。
それがあると「いつも同じようなことばかり起きる!」という、この板であるあるの状況になりがちです。
自己観察やってると、それが軽減されますが、セドナや自愛でも同じ効果はありますね。
いずれにせよ、611さんはいつも611さんの本来の自己に包まれて見守られているので大丈夫ですよ。
自己観察をしていればいずれそれにわかる時がきっときます。
それを信頼し「まあ何とかなる」の気楽な気持ちで進まれれば、ほんとに何とかなりますので心配しないで下さい。
>>613
ありがとうございます。
仰る通り、こうなったらどうしよう、あんなことになったらどうしようと悪い想像をして恐怖で動けなくことがあるので、こういう時に自己観察で思考と距離を置くと現実的な対応もスムーズにできそうですね。
バイアスは物凄くかかっていると思います。元から悲観的でネガティブで物事を何でも深刻に捉えてしまうので、分厚いエゴフィルターがかかっていそうです。。。
今は自己観察とたまに瞑想、セドナメソッドをやっています。613さんがこのスレに書かれた自己観察の実践方法も真似させていただいています。
自己観察は、自分にとって重要度が高いと位置付けしている思考(仕事やお金のこと)や不安や恐怖心などの強い感情を伴う思考は、すぐに飲まれてしまいます。散々飲まれたあとに「あ!また飲まれていた!」と時間が経ってから気付く場合や、飲まれたままで気付けない場合もあります。
(強い感情に対しては、613さんが以前「思考が燃料投下している」とレスされていたのがとても参考になりました。)
ですが、継続して自己観察とセドナメソッドをやっていこうと思います。あと、仰っていただいたように「何とかなる」と肩の力も抜くようにします。アドバイスいたけてとても嬉しいです。ありがとうございます!
>>609
ありがとうございます。
根本的に劣等感が強く、自分を蔑ろにされることにもの凄く敏感だという自覚があります。
あと、頑張っているのに全然、報われないという悲しみが染みついていることも。
これが強すぎて、ハーディングの実験による透明な感覚も分かったのですが、その感覚に留まることがとても難しいです。
物凄くエネルギーが要り、疲れてしまうというか。
練習あるのみ、ですかね。
>>614
こんにちは。
そうですそうです。
気楽にいきましょ。
自己観察さんも言ってました、別の領域で肩の荷降ろせと(と言ってたような…笑)
私も四六時中、自己観察を継続できている訳ではないですし、「ずっと気付き続けないといけない!」ということはありませんので楽に行きましょう。
ぶっちゃけ「自己観察できてなかった…」というのも思考でして笑
今ここからすれば、それもあったかどうかもわからないただの思考。
それに気付けば全部チャラです笑
そのくらいの気持ちで。
思考に気付けることは基本ですが、思考がある時も無い時も、いつもずっと在る意識。
この意識に思考が現れているんだなー
自分の手足もこの意識上に現れてるんだなー
感覚もこの意識上に現れてるんだなー
風景も他人もこの意識上に現れてるんだなー
なんやしらんけど、思考と手足と感覚を自分、それ以外を他者として区分けしてるんだなー
区分けしなきゃこの意識全部自分だし何も恐いもんないなー
意識が本体なら死もないなー
え!無敵やん!?
みたいな感じで遊びのような感覚でやられても全然OKです笑
>>615
こんにちは。
ハーディングの実験は、集中して留め置くようなことは何もないのですが、もし疲れてしまうのならしばらく離れられても良いかもしれませんね。
別のメソッドやったり、メソッドではなく気晴らしで何か趣味をやったりと、もっと気楽で良いかなと思います。
それでも気になるようでしたら、以下のように観てみてはいかがでしょうか?
今目の前にある風景(色)が現れるためには、ベースとなる真っ白(透明)なキャンバスがそこに在ります。
目で見ることはできませんが、風景がそこにあるということは、キャンバスが在るということです。
それは集中などしなくとも、いつも在りますよね。
その透明なキャンバスには、
風景のほか、キャンバスの下からは手足が現れ、キャンバスの中央?あたりからはまるで映画館のサウンドスクリーンのように思考が現れます。
ちょっと下あたりからは感情、感覚などもキャンバスを彩る色として現れています。
それらは現れては消えと、ずっと留まることはありません。
しかし私達は、その現れては消えて行く色ばかりにこだわりがちです。
「ずっとその色を維持していたい」
「早くこの色を退けたい」
などと色に執着してしまいますが、
何一つ永遠に留まる色などないのです。
しかしその色が現れるキャンバスだけは、永遠にそこにあります。
そのキャンバスは、風景どころか森羅万象、宇宙の全てを生み出し、破壊していきます。
この壮大な、まるで神とも言えるキャンバス。
それこそ、本来のあなたなのです。
それは頑張らなくとも、力まなくとも、いつもあなたと一緒にそこに在ります。
悲しみも怒りも、不安も恐怖も、
すべてそのキャンバス上で起きては消えていく、まるで映画やドラマのようなものです。
辛い時は、目を閉じ、深呼吸をし、
騒がしい上映をゆっくりとした呼吸とともに消して行き、このキャンバスそのものに浸ってみて下さい。
そこには静寂とも思える安心が在るはずです。
ではでは、おやすみなさい〜。
ハーディングの実験をしているのですが、実験1のここを指さすは、どういった気づきを得られるのが良いのでしょうか?
>>618
こんにちは。
「こんな気付きがありますよ」って先に話してしまうと、その気付きを得ることを目的に追い求めてしまう……という弊害があるのと、気付きの衝撃が半減してしまうかなと思いますが、すでに何度か書いてますので再度笑
まずハーディングの実験で自分に注意を向けることによりわかることは、
まず、顔のない「透明な気づき(意識)」が本来の自己であったことがわかります。
そしてこの気づき(意識)の中に世界が現れており、かつ、「私(エゴ)」も思考や感覚として現れていることに気付きます。
普段それをこの自分としていて、それは勘違いの思い込みだったことがわかります。
そこで私=世界だったことが判明するわけです。
もうその時点で、地球という星の、日本国の〇〇県〇〇市で、しがない1人の無力な人間「私、◯川◯夫」という自己イメージが手放されますが、今まで1人の人間として無意識に制限していた力?を解放し、実現に繋がります。
認識の変更①ですかね笑
で、
その視点から思考に気付いてみると、今まで自分は起こる思考を掴み、まるでサングラスのようにかけて、物事をサングラス越しに現実を見、また現実を創っていたことに気付きます。
例えば
「〇〇をすれば叶う」
「〇〇をしないと幸せになれない」など
そこで気付くのは、それも自分の制限だったということですね。
じゃあそれ外しちゃえば?
手放しちゃえば?
何かを実現するためのチケットなんて元々いらなかったでしょ?
というのが108さん等の考えです。
認識の変更②ですね笑
あ、だからと言って「なら自己観察やらんでもええやん!」ってならないで下さい笑
やってこそ体感として、やらなくていいことがわかる。というものですので笑
あとエゴエゴの元通りになりにくい。
この①②の気付きがハーディングの実験と自己観察の併用でこの私が気付いたことです。
これ以外にも、私の過去レスにもたくさん書いてますが、この視点で観ることにより、多くの気付きが起こりますよ。
>>619
いつも面白いお話しありがとうございます♪
いつも、こんにちは、からスタートしているような気がしますので、私の中では勝手に「こんにちはさん」というお名前のイメージがついちゃってます💦
>>620
こんにちは。
こんにちはさんですか!
何かがこんにちは!してるみたいでナイスネーミングですね…爆
おっと!すみません笑
ありがとうございます。
ハーディングの実験と最近話題に上がってた純粋な気づきのテクニックをしてたら気づいたのですが、私ってなにができるとか、できないとか、持っているとか、持ってないとか、してきたとか、してこなかったとか関係なく、とんでもなく素晴らしい存在なんですね。
自愛になるかと思いますが、すべての存在を可能にしている、ありえない位素晴らしい存在なんですね!
>>619
ありがとうございます。
「まずハーディングの実験で自分に注意を向けることによりわかることは、
まず、顔のない「透明な気づき(意識)」が本来の自己であったことがわかります。
そしてこの気づき(意識)の中に世界が現れており、かつ、「私(エゴ)」も思考や感覚として現れていることに気付きます。
普段それをこの自分としていて、それは勘違いの思い込みだったことがわかります。
そこで私=世界だったことが判明するわけです。」
↑
こちらの部分は、1本指の指差しと2本指の反対方向の指差しからわかることでしょうか?
1本指で自分側を指指すと自分自身は見えないので、色や形は見えませんが、自分という肉体の存在はあるわけですよね。
いまいち、ハッとした気づきが得られず、こんがらがってしまっています。
>>616
ありがとうございます。
確かに自己観察さんも「やっていて辛いと思うのであれば、それは自己観察ではない」と(多分)仰っていましたね。
自己観察の実践は思考に気づいたら、「」に留まるよう意識しています。
知識としては、仰っているような「いつもずっとある意識に思考や感覚が現れては消える」は知っているのですが、実感としてはまだわかりません。
でもいずれわかるだろう、と軽い気持ちでいようと思います。
無敵に思えたら最強&最高ですね!笑
あと、私もハーディングの指差し実験を何回かしているのですが、今一わからないので他の方宛てのレス(>>619 )も大変参考になりました。ハーディングの実験は、よくわからないながらも「目を閉じた実験」が好きでたまにやっています。
ホッとしたり心が温かくなるようなレスをいただきありがとうございます^^
>>622
こんにちは。
>すべての存在を可能にしている、ありえない位素晴らしい存在なんですね!
素晴らしいです!!
そうです。622さんがすべての存在を可能にしています。
つまり
622さん=世界。
素直にまんまそのまんまを受け取られましたね笑
>>623
こんにちは。
>こちらの部分は、1本指の指差しと2本指の反対方向の指差しからわかることでしょうか?
1本指差しで大丈夫です。
私も2本指差しはピンときません笑
>自分という肉体の存在はあるわけですよね。
ここなんです。
肉体の存在は、
指を差した方向を、まんまそのまんまを見ると、顔はありません。
それが「今ここ」での真実ですよね。
なのに「顔ある!」と思うのは、その通り「思っているから」です。
つまり記憶を基にした思考が「顔ある!」と主張しているだけです。
そして今の今を真実として見ると、
ただただ世界が映っていますよね。
それでも「顔の感覚はあるから顔あるじゃん」となると思いますが、
「これが顔の感覚です」と言っているのも、記憶という思考です。
記憶を横に置いてその「感覚」と言われるものを観た時、真実は、透明な意識に何やらモヤモヤと浮かんでいる「ただのモヤモヤ」ではないでしょうか?笑
モヤモヤ。
そしてもし今この瞬間、623さんがこの世に生まれたとしたら、そのモヤモヤを「顔の感覚だ!」と言いますでしょうか??
見たいな笑
思考実験もしたりして追求してみて下さい〜。
>>624
こんにちは。
>確かに自己観察さんも「やっていて辛いと思うのであれば、それは自己観察ではない」と(多分)仰っていましたね。
確かに自己観察さん言ってましたね!(多分)
いや本当に言っていました笑
>「いつもずっとある意識に思考や感覚が現れては消える
これも興味を持ってやっていけばわかるようになります。
夢を思い出してみるとわかりやすいかもですね。
あれこそ寝ている意識に思考や、実際に触れてもいないのに感覚が起きたりしてますからねー。
>「目を閉じた実験」が好きでたまにやっています
すばらしい!
私も一番好きな実験は「目を閉じた実験」です笑
いきなり日本語のナレーションでビビりますが笑
一番ホッとして落ち着く実験です。
あそうそう、これも暗い意識上にぽわん、ぽわん、と思考や感覚が起きては消えしてますもんね。
また何かあれば質問下さいね〜♪
>>625
ありがとうございます♪
今まで幾度となくこの感覚にはなったことはあるのですが、その度に「だから何だよ、(現実は)何も変わってないじゃないか」という声に引きずられて元に戻ってました。
それとこの感覚を100%信頼するのは、安全装置なしで絶叫マシーンに乗るような恐怖感もあり、任せきれなかったのかなもと思います。
とにかくこの感覚(別の領域ですよね?)に浸り、信頼して、任せてみようと思います。
>>627
同じ実験がお好きと知って嬉しくなりました。笑
確かに夢は感覚や思考がありますね。考えたことはありませんでしたが、言われてみると不思議です。
何かあった際はまたご質問させていただきます^ ^ ありがとうございます!
>>628
>>629
こんにちは。
ハーディングの実験捗られているようですね!
実はいつも見ていた世界にヒントが隠されていた。
その謎解きに興味を持たれて、楽しいと感じていただけるのが私にとっての幸いです。
ありがとうございます。
また何かありましたらご質問下さい〜♪
>>626
ありがとうございます。
前、足元、膝、胸と指さして、最後、自分の顔に向けて指さしますが、指先とは反対方向から自分の顔を見るけれども、自分の顔は指先側なので、見えはしないですよね。
こういった実験は、何か言葉遊びのようにも思えるのですが、どうやったから深い気づきがえられますでしょうか?
>>631
だから何?とか言葉遊びじゃない?という思考から自由になることです。
気づきそうになると思考が介入してきます。それに気づくだけでも相当の気付きです😅
思考や感情が湧いてくるスポットというか空間が感じられるようになるかもしれません
>>631
こんにちは。
そうですねー、
そのように思考から抜ける実践なのに、論理的な回答を求めてしまう傾向にあるとなると難しいかもしれませんね笑
なら逆に一旦実践は止めて、エゴが反論できなくなるまで理詰めで思惟してみるのはどうでしょう?
よく主観・客観と言いますが、
この世に生まれてこの方、客観になったことないなと。
皆さんもなったことないですよね?笑
「客観的に見てさー」ってよく言いますが、これも「客観的に見る」と、主観しているだけです。
「いやいや!現に他者が話しかけてくるじゃん!客観あるじゃん!」って思っても、これも「他者が話しかけてきている」と、主観しているだけです。
「いやいや!現に幽体離脱してさー!客観的に俺の寝ている身体見たんだよ!客観あるじゃん!」
いえ、これも結局「幽体の私目線」という主観です笑
もうどこまで行っても逃げようとしても、この主観の窓から逃れることはできなくないでしょか?
これって頑固なエゴも認めざるを得ない「事実」ですよね。
「いやいや、だからと言って客観がないとは言い切れない」
確かにそうですね。
しかし客観があるかないかは、
この主観の圧倒的な事実に比べたら、はるかに存在が怪しいと私は思いました。
私のエゴもぐらつきます笑
この辺りを追求したのがデカルトさん。
「我思う故に我あり」
これだけは明らかに事実である、と言うことかと思います(多分笑)。
しかし私的には
『「我思う故に我あり」と思う故に「顔のない場」あり』
と表現したいと思います笑
デカルトさんの「我」は賛否両論あるかと思いますが「私(エゴ)」のことを仰っている感ありますので笑
「我」は思わなければ消えちゃいますが、「顔のない場」はずっとありますもんね。
という感じで、
どうせ思考するなら思考し検証しでやってみると良いと思います。
>>631
こんにちは。
フォローしていただきありがとうございます!
631さんはすでに気づかれているようですね〜。
ほんと美奈さんありがたやです♪
すみません笑
美奈さん→皆さん、の間違えです笑
美奈さんって…
>>633 さん、632さん
ありがとうございます。とにかく思考に気づく、気づくの繰り返しなんですね。
>>636
632です。
気づきの形は様々ですし、いつ気づきが訪れるかどうかも恩寵です。
私の場合は、自分の観念に気づき、それが大きなきっかけとなり、思考からもある程度自由になることができました。
手法メソッドやその結果は様々ですが、一つ共通して言えることは、真剣に自己と向き合う覚悟を持つ、ということではないかと思うんです。普段「なんだくだらん」と本当に大事なものに気づかないように仕向けているものに対抗するためには、覚悟が必要でした。
>>636
こんにちは。
そうですね、632さんが仰るように、「言葉遊び」と感じているのは思考であり、「大事に抱えている者」ですね。
実験の前に、思考と距離を置く自己観察にまず慣れてみるのが良いかもしれませんのでいろいろ工夫してみてください♪
>>637
632さんレスするつもりが631さんと入力していました…(汗)
大変失礼しました…m(__)m
美奈さんと誤入力してしまったりすみません…。
>>639
いえいえ、レスありがとうございます♪
やっぱり自分と向き合うのが億劫なのは自分がいなくなってしまうという恐怖、孤独のような感じです。でも一回気付いてしまえば、意外となーんだっていうふうに感じます。冬の朝布団から出たくないっていう程度
>>639
いえいえ、レスありがとうございます♪
やっぱり自分と向き合うのが億劫なのは自分がいなくなってしまうという恐怖、孤独のような感じです。でも一回気付いてしまえば、意外となーんだっていうふうに感じます。冬の朝布団から出たくないっていう程度
>>641
2回押してしまいました、、、
>>637
ありがとうございます。
どんな気づきをされたのでしょうか!
>>638
ありがとうございます。
大事に抱えている者とは、どういうことでしょうか?
>>643
それまでは、努力して何かを得たり、何者かになったり、社会で認められたり、人格的に優れていなければならなかったりと、とにかく何かをしなければならないという観念に取り憑かれていましたが、ある時、それらが全て不要なもの、自分以外の外部から刷り込まれ、または自ら進んでコピーして来た思い込みであるということにきずきました。
そうすると、何もない自分という存在はただ在るだけで完璧なものであり、後から何かを得たり何者かになる必要は全くない子供の頃のようにただその日その時を過ごせばいいんだ、という認識がやって来ました。
その時、ドサっと羽織っていたコートのようなものが落ちる感触があり、その後にはやけに身軽になり、文字通り視野が広がり、なぜか景色の色が濃くなり、外の世界に包み込まれたようになりました。
とこんな感じです
>>644
私の個人て理解ですが、
分離不足という知覚障害のような状態に留めておこうとする機能、それからhomeostasisというような今の状態にとどめおく本能的な機能なんだと思います。
おそらく、この世界で人間として人生ゲームをプレイするための機能が度をこして作用しすぎているような印象です。それがエゴとかと言われているものでしょう。潜在意識の対比としてよく悪役として登場しますが、実際は健在意識と潜在意識はを互いに隠しあっているようです。それが人を本来の状態から極端に遠ざける結果となり、不幸や苦しみが生まれる原因になっているとみています。
>>646
顕在意識 変換ミス
>>640
こんにちは。
そうですねー、
よく「私はいない」と知ることをエゴは恐れると言いますもんね。
私の場合はまったく恐れがなかったのですが、気付きはじめの頃に自分の性格に悩んでいる友人にそれを話したら、かなり激怒された記憶があります笑
それだけエゴにとっては避けたいことなのでしょうかね。
エイヤ!と布団から出てしまうと、ほんと何んてことない話なんですよね。
なーんだーって感じです笑
しかしこれを説明するとなると非常に難しいのが悩ましいところではあります笑
なのでご自身で実践して体感してもらう他ないんですよね〜。
ありがとうございます。
>>644
こんにちは。
「大事に抱えている者」とは、
思考でありエゴであるご自身のことです。
気を悪くなさらないで下さいね?
普通はそれが当たり前ですし、この私も社会生活している時はエゴとして生きていますので。
なぜ自分がエゴなのか?ということに関しては、
>>198 >>214 >>218 >>418 >>462 >>535 >>566 に書いてまして。また過去スレでも、ずーっと同じようなことを言ってます笑
参考にしていただけると幸いです。
この思考であるエゴが、これまた「指先とは反対方向から自分の顔を見るけれども、自分の顔は指先側なので、見えはしないですよね」
と、過去を参照した思考を引っ張り出し、それを大事に抱えて現実としているので真実がなかなか見えてこない。ということなんです。
この抱えている「記憶」「常識」をポイっと捨てて、実際に、現に、本当に、まさに「今」見えている様子を正とした「気づきの視点」で観るんです。
「今」以外の「そうは言っても」はすべて思考ですので参照しないでください。
思考を一旦横に置いて観た視点が「今」の本当の真実です。
「あー、まあたしかにそう言われればそうだけど…」
と思われたら、それも思考であることに気付いてみて下さい。
それに呑まれると真実が見えてこないので、その思考に気づいたらスルーし、「まさに今」の様子を正としてもう一度観てみる。
※どうしても呑まれてしまうのなら、やはり思考に気づいて離れる自己観察の体得が必要となります。
話を戻して、
「そんなこと言ったって現に顔を手で触るとここにあるじゃん顔!カオ!」と、顔をペタペタと触られたりするかと思います笑
前述の主観の話を思い出していただきたいのですが、ご自身のそこに顔というものがあるかどうか、本当の意味で客観視することは不可能ですよね。
どう足掻いても主観の窓から抜け出すことはできませんし。
鏡や動画で撮ったとしても、それも主観の窓に起こっているという…。
つまりこの世界は、実はその主観しかない(と言い切ります笑)。
そして実際にその主観で今まさに起こっている様子しかここにはありません。
それが事実です。
それ以外はしつこいようですが、幻想を見させる思考となります。
それを前提に実験。
主観の窓から「顔を触った感覚」を、目を瞑って、じっくり観察すると(正に自己観察ですね!)、
・主観の窓が急に暗くなる
・主観の窓全体に、ムワ〜んと生暖かい温感が起こる
・主観の窓にピタッと何か貼り付いた感覚が起こる
などなど、他にも様々なことが起きていますが、
思考(今まで常識)をポイッとして、
今の事実だけ正とした「気づきの視点」で観た時、それが実際の現実ではないでしょか?
それを「私は顔を触っとるんや!」と言っているのは記憶という幻想である思考、つまりエゴです。
そして非常わかりにくいところにはなってきますが、「肉体」のことです。
エゴの常識視点だと「手を動かして顔を触っている」という説明になりますが、
これを「気づきの視点」で観ると、
まず腕や手は、思考が「腕」「手」と言っているだけであり、思考を参照しなければ、
実際は「色のツギハギ」が見えるだけではないでしょうか?
もっと言うなら、主観の窓全体と「色のツギハギ」とぴったり隙間なくくっついてませんでしょか?
これはなかなか難しい視点ではあります笑
しかし実際そうではないでしょうか?
色のツギハギは視覚が司ってますが、目を瞑って視覚を遮断した時、次にそこに気付くのは、
何かモヤッとした、圧迫感というか、エネルギーのようなもの。
それが浮かんでませんでしょか?
もう一度目を開けた時、
その「色ツギハギ」と「モヤッと」を思考で支え繋げて「ここに手がある!」と、現実として認識していませんでしょか?
実は五感はそれぞれ独立して現れており、それを思考で繋ぎ合わせ「身体がある」と思考し、またそれらの総称として「私」を思考している。
主観の窓に起こる、五感+思考(六根)
が、現実という思考を構成しているということですね。
「それもこじつけだ!」と思われたなら、その思考にまず気付いてもう一度現実をよく観てみて下さい。
なんだかまたややこしい話になってしまいたが笑
でもこうやって細かく細かく自己を観察し、現象を紐解いていくと、「この世界は幻想」としか言えなくなるのです。
ハーディング実験は常識を横に置く。
そしてまんまそのまんまの「今」を観ること。
それしかないです。
気になるようでしたら、諦めずわかるまでやってみて下さい。
>>644
あそうそう
637さんが「恩寵」と言われています。
つまり向こうから気づきはやってくるということです。
現在644さんが探求したい、知りたいモードがやまないようでしたら、恩寵が近いメッセージであると捉えられると良いかもです。
というか昔からそのように言われていて、私もそうでした。
どうにも気になって仕方ない。
それは本来の自己がそのように促しています。
なので腐らず希望を持ってやられると良いと思います。少し頑張ってみて下さい。
>>650
637です。素晴らしいフォローありがとうございます。
確かに気づきが得られるかどうかは、求めに対する全努力によりますが、ただし何をどこまでやればそうなるか、というような基準はないです。というか、元々あるもの、忘れてしまったもの、観ないように避けてきたものの存在に気付くわけですから、本来は眼鏡をかけながら眼鏡を探していることに気付くだけでいいのです。でもその事実を認めたくない思考、エゴが「内なる声」を遮ります。
因みにですが、宗教的表現になってしまいますが、本体からの内なる声は常に語りかけています。♪眼に映るすべてのことはメッセージです
目覚めよと呼ぶ声は常に鳴り響いています。親の心子知らずなんです。父(本体)子(エゴ)精霊(潜在意識)の三位一体で「自分」が構成されていることも自然と「思い出します」
ただ焦りは逆効果です。大体が歩けないくらい疲れているのに走ろうとせき立てているようなものだからです。今感じている自分の気持ちを大事にしていくこと、そこから全てが始まりそこに帰って(還って)いきます
言い換えれば、「きずき」それ自体が自分自身と言えるでしょう。あなたが扉を開いた時、それはやってきます。自分自身を信頼しましょう。
>>651
こんにちは。
こちらこそ思い遣りの感じられる優しいフォローいただきありがとうございます!
たしかにどのくらいやったら恩寵が得られるのかはエゴには計り知れぬ領域ですね。
また辛い時に厭々やっても恩寵は訪れないと私も思います。
私の経験でしたか物事を語れないのですが、私の場合は本当に辛い時に救いを求めて自己観察を実践しており、とにかく内から湧き起こる実践へのモチベーションが非常に高かったことを覚えています。
また内面で求める心があることにより恩寵は降りてくると経験上感じています。
皆さん同じではないのは承知ですが、このような経験から、私のエゴ的には実践おすすめという表現ばかりになってしまうことご容赦ください。
ただ仰るように、無理は禁物ですね。
致し方なくやっていては気付きとは逆行していると考えますので。
なので実践が楽しい、気になると感じて下さるようなら探求していただければと思います。
それと、もしかして奇跡のコース実践者さんですかね?
私は奇跡のコースは知っている程度なのですが、何となくそう思いました笑
その視点からのアドバイスもいただけると皆さんの気付きにより繋がるかなと。
>>653
こんにちは!
こういうステキな人と匿名でも会話できるのはネットのおかげですね。嬉しいです。
そうですね、実践ありきです。本来こちらのようなスレは実践者たちが集い情報交換する場だと思います。やったことない人には話が通じないですから😅でも知的な人ほど自己納得のために理論から入っていきますし願望実現が目的の場合は、実利がないとダメなんでしょう。
ただ動機はなんでもありですので、その動機でモチベーションがつづくかどうかですから
奇跡のコースは詳しくは知らないんです
ホワホワした感じは苦手で😅
私は十代の頃音楽を通じて知ったワークというシステムがベースになっています。
>>576
いろいろとやって行き詰ってたんだけど
それとちょっと便の出が最近よくなかったのだけど
その三点法をぐぐって何回かやってると、お腹がウnコしたくなって排便できた
本を持ってないので理屈はよくわかんないけど三点法は少なくとも体の不調に効く
>>654
こんにちは。
>こういうステキな人と匿名でも会話できるのはネットのおかげですね。嬉しいです。
またまた〜笑
こちらこそ嬉しいです!
ありがとうございます。
あ、ACIM実践者さんではなかったんですね笑
三位一体のお話でピンときたんですが、全然違いましたね…失礼しました^^;
ところで音楽を通じて知ったワーク…。
ワークという名称は初めて聞きました。
私も調べてみよと思います♪
>>655
こんにちは。
キタコレ!!
スポン!と出ましたか!?笑
元々癒やしと願望実現の切り口のメソッドですが
別の領域とか観察とか共通点多いので、
続けてると次はドカン!とくるかもしれません笑
>>637
ありがとうございます。
覚悟大事ですよね。
>>649
時間をかけて文を書いていただき、ありがとうございます。
まだ理解できない部分もありますが、それを含めて、自己観察してみます。
>>659
こんにちは。
いえいえとんでもないです。
私の文章も拙いのでなかなかわかりづらく申し訳ございません、、、。
自己観察で思考を客観的に観ることができるようになればわかってくるかもです。
ハーディングについてはこちらのやりとりも、もしかしたら参考になるかもなのでぜひ♪
ttps://subconscious.hatenadiary.jp/entry/2016/05/06/144343
>>660
ありがとうございます!
自己観察をする時間を設けても、なかなか長い時間できていませんでした。いつの間にか思考にのまれて、自己観察するのを中止するみたいな感じでした。
ただ、今朝、自己観察しようとして、最初身体の感覚や外部の雑音に意識を向けて、今に集中してから思考に意識を向けてみました。そして、思考に気づいて、のまれそうになったら、また外部の雑音に意識を向けて、落ち着いたら、思考に意識を向けてみたら、割と長い時間、自己観察できました。
上のようなやり方でも大丈夫でしょうか?
>>662
こんにちは。
それって私の知ってるマインドフルネス瞑想と手順がほぼ同じですのでまったく問題ないです。
自然とやってましたね笑
1点集中の止瞑想から、観瞑想に移るべしとお釈迦様もおすすめしてましたのである意味正統派かもしれません笑
こんにちは。
最近こちらでまた頻繁にレスをするようになってから非二元酔い?のような、ずっと明晰夢を観ているような感覚に浸っています笑
昔のインド哲学では、この世界は神の見ている夢と言われていましたが、こちら側には夢を観ている「何者か」はおらず、この夢全体が「観る者なしに起こっている」「この夢のフィールド自体が神の内側」と言った様相ではあります。
どこか立体感のないような、空間に映像だけ映っているような…。
熟睡時は真っ暗なスクリーンだけ。
朝になったらまた上映が始まった。
また夜中には一旦上映休止中…。
みたいな笑
人生の重みというものはまったくなく、軽やかで、どこかうっとりするような甘美さも感じられるリラックスした感覚です。
もちろんこの「私」もこの映画の中に現れていますが、完全に映画の一部として、朝とともに映像として現れ、夜になったらフッと消えてしまう映像です。
ただその繰り返しです。
仕事を一生懸命こなしている映像、
ちょっとトラブって「うわ…」と思う映像。
そんなものも上映されますが、素敵な出会いや、また朝の涼しく気持ちの良い田園風景も上映されており、
そんな映像をどこか明晰夢のような視点で観ていると、人生を必死になって頑張り生きている「私」に、思い入れて悩むことは何もないんだなーと感じます。
結局この甘美な感情も、「私」というフィルターを通り、この様相を分別して起きたエゴですので、ゲームで言えば「酩酊ステータス」ではあり、いずれまた変化するのかなと考えます。
しかし根底にあるのは、やはり現実は映画やゲームと同じ。
「それならそんな根詰めて生きんでもええか」です笑
ですので今、気持ちが四苦八苦されている方、現実とは意識というスクリーン上で上映と休止を繰り返しているだけの儚い夢みたいなものなんだなと思ってもらえますと肩の荷が降りるかもです。
なかなか切り替えが難しいとは思いますが、少しだけでも気持ちを楽になれるものや、ポイントを見つけ、ちょっとそこに浸ってみられては。と思います。
その気楽さに委ねていれば、きっとうまく事は運ばれます。
委ねられなくとも、何も問題は起きていませんので心配なさらないで下さい。
>>663
ご回答いただき、ありがとうございます。
思考の中で、感情を揺さぶられるキツイ思考に関しては、身体の感覚に意識を向けて逃げる感じになってしまい、キツイ思考をじっくり観察することはできていないのですが、それでも大丈夫でしょうか?
>>665
こんにちは。
私としては、そのキツイ思考が起こるとよく呑まれてしまうようでしたら、どうせならしっかり観るべきだなと考えています。
どうキツイのか?
身体にどんな反応が起こるのか?
なぜキツイと感じるのか?
誰にとってキツイのか?
その誰とは何者なのか?
などなど、掘り下げていくことによりキツイと思うことが思い込みだったなど、わかることがあるかと思います。
キツさの理由が解明されてくると巻き込まれなくなってくると思いますよ。
>>666
ありがとうございます。
私の場合は、仕事での人間関係と、好きな人に対する執着についての思考がすごくのまれやすいですね。
仕事の人間関係は、この人嫌い!と思うと、仕事外でも考えてしまうので、それが自己観察中にも影響してしまいます。
仕事と恋愛、どちらもなんですが、人についての思考が自分を悩ませているように思います。
>>667
こんにちは。
>仕事と恋愛、どちらもなんですが、人についての思考が自分を悩ませているように思います。
なるほどです。
自分ってある意味、他者との相互の関わり合いがあるからこそ起こるものなので、どうしたって人間関係の摩擦は人生やっている以上避けられないものなのかなと思います。
ここにあるひとつの意識。
つまり本来の自己ですが、それが認識と思考を使い、他者という現象を創ることによって、「あなた」と「私(エゴ)」という分離が起きています。
そして「私があなたをコントロールしたい」という想いが起きはじめ、いろいろな苦に繋がっているのが、この私の気付いた自分世界のシステムです。
まあこれがあるから世界がドラマチックに展開していると言えばそうなのですが…。
こうやってこの自分世界を創っているのですが、
ご自身がそのような現実を創っているなーと、認識と思考を観察していると気付くことがあると思います。
悩みや問題は自作自演であるとわかると、それらはもはや重荷ではなくなり執着も手放されます。
それらに気づく立ち位置、既に無問題の立ち位置が別の領域というやつですね。
こう書くとまた「こうやるとええよ?」みたいなある種クリアしないといけないハードルや制限的な表現になり、努力を促す提案となってしまうのが申し訳ないところです。
自己観察でシステムの様相に気づき、その気づいている立ち位置に立ってみると、そんな努力もいらんかったとわかるので、無理しない程度に続けてみてください。
こちらで、五感+思考(六根)を教えてもらい、今まで思考+おまけで五感が自分を形成するものだと思っていたのが、思考も五感も横並びなんだーと意識が変わってきました。
そうなると、ハーディングの指差し実験も、指さした先にあるのは、「なんかこのあたり(頭)に、感覚はあり、それが私だと思っていたけど…
視覚で見えるものと思考が並列になり、私が視界いっぱいに充満した感じになりました。
すみません、説明が下手ですが、六根というとらえ方はとてもためになりました。
こんな感じで、頭の方でぐるぐる思考している自分に気付いたら、意識を外に広げてみる、なんて方法も、自己観察に近いものでしょうか?(認識変更に近づきますか?)
また、教えていただきたいのですが。
何かに夢中になっているときは、世界と一体化してる?みたいに言われますが、例えば、今、文章を書く作業があるのですが、頭の中で、文章の言い回しを考えているときって、これは、夢中なのか?それとも自己観察で気づくべき思考なんでしょうか。パソコンや紙に書きながら考えているときは、夢中な気がしますが、そうでなく頭の中だけで考えているときって、どうでしょうか。
>>668
ありがとうございます。
ちなみに、普段、仕事したり掃除したりしているときに浮かんでくる思考の自己観察はどうされていますでしょうか?
私の場合は、浮かんできたら「あっ、浮かんだ」と気づいて、そのまま何となく、思考が他のことに移る感じになるんですが、そんな感じでも大丈夫でしょうか?
もう一つ、すみません。
嫌いな人のことがよく頭に浮かんできて、辛くなり、それにすごく囚われやすく、長い時間考えてしまいます。
そういったことは、どのように処理したら良いものでしょうか?
>>669
こんにちは。
>視覚で見えるものと思考が並列になり、私が視界いっぱいに充満した感じになりました。
えー!すごい!!それです!!
その五感+思考(六根)が並列の属性であることをずっとこちらでお伝えしていました笑
とうとう共有できたことに嬉しさと驚きで鳥肌立ってます笑
ありがとうございます。
>頭の方でぐるぐる思考している自分に気付いたら、意識を外に広げてみる、なんて方法も、自己観察に近いものでしょうか?(認識変更に近づきますか?)
これこそが、自己観察で到達すべき領域であると私は思っています。
この現実自体が六根を通して構成されていることに気づく。
↓
自己観察で思考を観ている時、
「思考を観ている私」がありますが、これも五感+思考(六根)が創りだす幻想、つまりエゴであると気づく。
↓
そしてこれら六根が起こることを可能にしているこの「場」、「まっさらなキャンバス」、ハーディングで言う「透明な気づき」、こそが本来の自己であることに気づく。
つまり私=世界。
↓
>>619 の認識の変更①
なので669さんはすでに認識の変更されてるのです笑
なんかまだスッキリしないな〜という気持ちもあるかもしれませんが、しっくりきたその六根でのアプローチを続けると、その辺りがよりクリアになってきます。
六根アプローチでの気づきは、
よく言われる「この世界は幻想と同じ」が本当に目撃され、エゴがぐぅの音も出なくなる程の気づきになるかと笑
>これは、夢中なのか?それとも自己観察で気づくべき思考なんでしょうか。
いえいえ、
この没頭時というのは「私」という記憶を基にした思考が無くなっているかと思います。
「私」がないため、「私」と「その他」という分離もなく、完全に私=世界を体現している状態と言えます。
六根は当然起こっていますが、世界から分離した「私(エゴ)」を創っていない状態と言えますでしょうか。
その状態の時に自己観察をするのは、わざわざ世界から「観察する私(エゴ)」を分離して創ることになります。
これが悪いということではなく、自己観察の実践として、そこを敢えて観察することも大事なことかなと思いますので色々やってみると良いですよ
>>670
こんにちは。
実生活内で自己観察を取り入れているんですね。
よく出来てるなと思いますし、私も最初の頃は必死に気づこう気づこうとしてやってました笑
もしすでにそれら思考や五感が起こることのできる意識、場が在るとわかるようでしたら、そんな思考が起きたり消えたりしている「場」がいつもここに在るんだよな〜、と気づかれるのも良いかと思います。
どの実践も必ず後々大きな気づきに繋がるので、今やられている方法に間違いはないです♪
>>671
こんにちは。
一度、
なぜそんなに嫌いなのか?
嫌いと思ったきっかけは?
そのきっかけで反応した自分の中にある「ものさし」は何なのか?
その「ものさし」はいつから自分の中で出来たのか?
そもそも、その「ものさし」とは一体何でできているのか?
など内面を調べてみて下さい。
それで「なーんだくだらん」と「ものさし」を捨てるきっかけになることもあります。
それがうまくいかないようでしたら、
とりあえず感情をなだめるのには自愛がベストだと私は考えていますし、自己観察もおすすめしていたので自愛の在り方も修められると良いかと思います♪
すみません
>自己観察もおすすめしていたので自愛の在り方も修められると良いかと思います♪
自己観察✕
自己観察さん◯
です、、、。
>>674
ありがとうございます。
私の場合、他人の攻撃性・怒りが苦手で、他人の攻撃性がものさしになって、好きか嫌いを決めていると思います。
一方で、自分自身としては、怒りをコントロールできない人間はダメな人という考えがあり、私自身の怒りを過度に抑圧しているように思います。
>>676
なるほどです。
怒りはこちらに向けられてるのでしょうか?
もし身体精神ともに実被害を受けているなら嫌いのままで、可能なら会わないのが一番ですね。
潜在意識どうのとやってる間にひどい目に遭ってもいけませんので、、、。
そうでなく、単に怒りっぽい人が周囲にいる程度の話でしたら、ご自身の内面に向き合い、「ものさし」…つまりフィルターですね、これに気付き受け入れる(まあええかの精神です)と、実際に現実が変わったりします。
671さんの場合はアンガーマネジメントできない人=ダメ人間って「ものさし」があるんですね笑
私もありますよ?笑
でも私個人は怒ってる人がいてもあまり引きずらないのは、「怒りも時と場合によっては使いよう」というフィルターがあるからかもしれません笑
ただ感情の起伏が激しいだけの人ももちろんいますが、自己観察をしていると、
「エゴに呑まれてるなーこの人」とか、「この人は過去に怒りでなんとか窮地を脱したんだろなー」とか。
そんな風に見えてしまいある種分析が入ってしまうという…笑
なんか話が脱線してしまいましたが…笑
根本的には少し前にレスした通り、現実すべて自作自演で映画のようなものであるという気付きがあると、自己観察さんの「別の領域10秒チャージ」ではないですが、そこに入れば現実への拘りすべてがチャラになってしまうので大して引きずりません。
自己観察を継続し、別の領域というものを実感されると良いと思います。
>>677
ありがとうございます。
現実すべて自作自演というのは、どうやったら気づけますでしょうか?
他人ですら、自分が生み出しているということかと思いますが、全く別の人間としか思えず、今は自分の一部とは考えられません。
また、別の領域10秒チャージは他の方が書かれていて、調べたこともあるのですが、どういった方法でしょうか?
>>672
こんばんは!
ヨコから失礼します。
書き込みをいつも楽しみにしています。
そして参考にさせていただいております。
読ませていただいて
もしかして私も認識変更できたのか?なんて思ってしまいました。
ただの勘違いかもしれませんしちゃんと意図をくめてないかもしれませんけどw
不足の状況が起きたとき
これは「自作自演なんだ」とはまだ私も思えないです。
そのときはどのような視点でいるのかを私も知りたいです。
>>678
>>679
こんにちは。
ありがとうございます!
そうですねー、
自作自演を知るにはどうしたら良いか?ということですが、
私もこれを体系化した訳ではないので説明が難しいところではありますが、スピスピしてなく、ちょっと現実的な切り口で説明してみようと思います笑
私もこの世のすべてを解明したわけではないので、この説明が真理とは捉えず、「まあそんな解釈もあるよね」程度にお願いします笑
普段私達が現実を認識する時って、予め持っているデータをその現象に貼っつけて「これは〇〇だ」と認識しています。
例えば道端に四本足の毛だらけの何かが現れたら、そのフォルムを一瞬でデータと参照し、「犬だ」と認識しているわけです。
これが例えば昔、犬にひどい目にあった人はこれだけでは済まず「犬だ!恐い!」と恐怖するんですね。
犬は人によっては「かわいい」と認識するし、人によっては「恐い」と認識する。
犬自体はただの犬なのにです。
つまり私達は普段、自分の持っているデータフィルターを通して現実を認識し構成している。
ということになります。
自身の捉え方で、現実の見方がまったく変わるわけです。
「犬かわいい♪触ろ♪」となるか。「犬怖い!逃げよ!」となるか。
その認識の違いでだいぶ現実が変わってくると思いません?笑
これら「認識」の中には、
「私(エゴ)」という認識があります。
いわずもがな、この「私(エゴ)」は過去のデータから認識されていますので、「私について説明せよ!」と言われると全部過去の自分の認識についての説明しかできません。
これは物事すべてそうで、全部過去の認識についての説明になります。
前述の「犬怖い!」と同じように、自分で「私暗い!」とか「私モテない!」とか、過去を参照して自身を認識しているので、そのような自分になるし、その自分通りの現実を展開させてしまっているんですね。
なので自作自演と言われるんです。
「その認識を変えましょうよ〜♪」
というのが認識の変更ということです。
これは普通に自己観察をじっくりやっていればわかってきます。
まず認識は、物事を見た聞いた感じた際に「イメージ」として現れます。
そのイメージを言葉で言語化したのが「思考」。
例えば「こちら側」に意識を向けた時、フッと顔がイメージされますよね?そして「私」と思考で言語化するんです。
そんなシステムで私達は現実を生きています。
ですから思考の観察に慣れたら、その直前の認識にも気付けるようになると、より自作自演がわかってくるかなと。
また、例えば完璧認定であらゆる物事に「完璧!」とやっていると、現実が本当に完璧に整う様を見ることになります。
そこで自分の認識で現実を創っていた。
自作自演してたんだなとわかるんです。
とりあえず認識について説明すると長文にどうしてもなるので、こんな感じでお許しを笑
>>678
こんにちは。
「10秒チャージ」というのは、別の領域にとどまることを言います(確か…笑)。
前述の過去の認識である「私(エゴ)」を一旦脱ぎ捨てて、エゴとは別の領域である「今ここ」に在ってみると楽になるよ、というやつですね笑
「今ここ」については>>217 >>231 辺りにも書いてますのでご参考にしていただければ。
>>664 なんかは10秒どころか1日中チャージしまくってる様子を書いてます笑
というか、ハーディングの実験で言う「頭のない場所」や「透明な気づき」などもすべて過去の認識であふエゴから離れた「今ここ」です笑
いろいろ用語使いすぎて混乱させてしまってますかね。
すみません…。
>>681
横からすみません。
> 10秒どころか1日中チャージしまくってる様子を書いてます笑
読んでいて笑ってしまいました。笑
私も今後10秒チャージ取り入れようと思います。個人的には、飼っている猫のお腹に顔をうずめてモフモフ感を全力で味わうという方法もかなりチャージされます。笑
朝から気持ちが楽になるコメントを読めてプチチャージできました。^ ^
>>682
こんにちは。
ウケていただいたようで良かったです笑
猫モフも、その間の意識の注意は過去や未来ではなく、今目の前に寝転んでいる猫のお腹の柔らかさと、お腹のなんとも言えない優しい匂いに向いています。
なので、
猫モフ=今に在る
これも10秒チャージですね!笑
すごい笑
>>679
こんにちは。
>不足の状況が起きたとき
これは「自作自演なんだ」とはまだ私も思えないです。
この件について言及してませんでしたね、、、すみません。
「不足の状況」というのは、誰にとっての不足なのか?
を考えて見られると何となく見えてくるかなと思います。
答えを書いちゃいますが、「私(エゴ)」にとっての不足ですよね。
で、その「不足」をより細かく観察すると、前述にあるように認識と思考なんですね。
過去に「これは良くないことだ」という経験があり、今回それに似た現実が起きた。
その現実に対し「不足だこれ!」と、レッテルを貼っている訳です。
そのエゴのレッテルを「完璧」に変えてみたら?というのが完璧認定になります。
なので完璧認定というのは、そのまま認識の変更なんです笑
自己観察で言うと、そんな不足の認識思考はそのままスルーする。
そうすると、実際の今の今は何も不足など起きていないことに気付くというわけです。
何も問題などないまっさらなキャンバスである現実に、「これはアカン」と自分で不足の色付けしてたよね。 自作自演してたよね。
ということが自己観察でわかります。
ただ、これを文章で理解しても体現できるかどうかなんですよねー。
完璧認定なんかは簡単なのでまずはやってみると良いですよ。
なんでも実践して体感してみると身になります。
「私(エゴ)」が、「これは最悪だ!」と最悪認定しても、完璧にひっくり返すようにしてみる。
なぜこの状況が完璧と言えるのか?などの理由はいらないんです。
「完璧」という言葉の印象がフィルターとなり現実に現れてきます。
前述のように、内面外面に起こるものすべて、「自分でレッテルを貼っている」ので、不足の思考はもちろん、起こる物事すべて完璧として過ごしてみると、自作自演が実証されるかと思います。
>>680
ありがとうございます。
思考というのは「私、仕事できない」、認識は「仕事に対する何か嫌な感じ、避けたい気分」という感じですかね。
そうすると今まで思考と思っていたのは、認識だったかもしれません。
私の場合は、ぼんやりとしたイメージが浮かんできて、それに浸ってしまう感じで、言葉(思考)まではいかないことが多いように思います。
>>686
こんにちは。
認識は大体が映像イメージとして浮かびますが、他のイメージも連結させたりけっこう複雑に絡んでます笑
すごく簡単に言うと「印象」ですかね。
リンゴなら、赤、酸っぱい、甘い、良い香りなど…いろんなイメージがパパパっと現れ、言葉をつけて「リンゴ」と認識します。
それらイメージが時には自分を苦しめることになるので、そこを客観的に気付いて見ましょうというのが自己観察になりますかね。
>>672
ありがとうございます。
何度も読まさせていただいてます。
本当に、いろいろなことを書いていただき、気づきをいただいています。
言葉で言い表しにくいことを、言葉で伝えてくださってありがとうございます。
>この「場」、「まっさらなキャンバス」、ハーディングで言う「透明な気づき」、こそが本来の自己であることに気づく。
つまり私=世界。
このあたり、まだまだよくわからないとことろです。思考が自分だというなら、視覚が自分でもいいじゃないか、と思ったとき、見えているものが自分という感じはしましたが、実感はありません。
書いていただいた通り、まだ実感が定着するには至っていないので、実戦あるのみですね。
思考についても、お答えいただきありがとうございます。私は、思考しないと!考えないとうまくいかないと、思っているようです。思考で準備しないと不安、準備しないと失敗する、と思っているようです。
これもまた、過去を参照にしたエゴのフィルターなんですね、いやはや、強固です。質問させていただいて、頭で考えてることもエゴと指摘していただき、思考しなきゃ、という観念に、気づけたところです。
これからも教えていただいたことを実践していきます。ありがとうございます!
>>684
ありがとうございます。
文章がわかりやすく丁寧に教えてくださり理解が深まってきました。
エゴが不足と捉える事が立て続けに起きたとしても
684さんは
これもまた完璧だ!
として過ごしていて
この不足もいつか終わるだろう
いつか解決するだろう
というように思う事もなく
ただ物事が起きただけ
その不足が長期間に渡ろうが
あまり気にならない
といった感じで過ごされているのでしょうか?
こんな質問をするのはまだ私のエゴが不足を嫌がりどうしても充足を欲しがっているんだと思います。
目を瞑って左右の目玉を感じているというか見ている私が別の領域ですか?
目で見ていたわけでなく、いつもここから見ていたように感じます。
ここに一日中いるのが>>664 ?
ここに留まると静かで喜怒哀楽が無くなりますが、胸やみぞおちがほわ〜っと暖かくなります。
すみません。一応知っておきたいんですが、もしエゴを採用し続けたら最終的には死に行き着くと思うんですが、もしそういう選択をした場合ってその死後ってどうなるのでしょうか。それともまだ誰もわかってないのでしょうか
例えば現実で彼女に相手されなくてもその現実を認めないで諦めたくないからアタックしまくったらその意図が反映されて彼女が振り向いてくれることってあるんですかね?
エゴまみれでエゴの声を真に受けていると、絶望的としか思えずタヒにたくなりますね。自タヒ願望が強くなるというか。
エゴは自分のことをタヒなせたいのかな。
だから自己観察でエゴと距離を取ることが大事なんだと思ってる。
>>687
ありがとうございます!
>>688
こんにちは。
「あーなんか気になる!」という探求心が自己観察を実践に向かわせますのでそのまま実践されればわかってくると思います。
>>669 さんはけっこう進まれてると感じますよ。
前に「私(エゴ)」とはお部屋みたいなものだと書きました。
普段「部屋」と言葉でレッテル付けしてなんとなく部屋をイメージしてますが、その実体は何だろうかと部屋を観察すると、
・テレビ
・ベッド
・テーブル
・椅子
・床、天井
・壁
以上があるだけで「お部屋」はありませんよね?笑
お部屋とは、それらが集まった時にレッテル貼りされる「概念」です。
もしお部屋の四方の壁と、天井と床が、それぞれ少し離れて隙間が出来たとしたら、どこからどこまでが部屋で、どこからどこまでが外なのか…。
もはや部屋と外を区別(分離)できなくなりますよね笑
それと同じようなものが「私(エゴ)」なんですね。
前述の部屋の構成物を六根に当て嵌めてみます。
・テレビ→視覚
・ベッド→嗅覚
・テーブル→味覚
・椅子→聴覚
・床、天井→触覚
・壁→認識思考(意識)
部屋という概念を観るように、六根をよく観察してみて下さい。
それぞれの五感がそれぞれ独立して起こり、認識思考によって「私(エゴ)がここにいるなー」とまとめあげられています。
しかし実際は、前述のように「私(エゴ)」は概念であり、その実体は「隙間のあるお部屋」と同じく、外との区別が本来はないんですね。
「この場合の外って何?」と思われると思いますが、これが私がよく言ってる「場」「透明な意識」になりますかね。
引き続き自己観察継続してみてくださいね♪
>>689
こんにちは。
>この不足もいつか終わるだろう
いつか解決するだろう
というように思う事もなく
ただ物事が起きただけ
その不足が長期間に渡ろうが
あまり気にならない
これですと、エゴが未来を期待(=今は不足である認識)している不足のままの立ち位置になりますね笑
自己観察で上記のような思考に気付いたら、「この思考も完璧だ!」です。
それである意味、不足の立ち位置から充足の立ち位置に変わります。
不足の出来事が起きたとしても、今はもうその現象は過ぎ去っています。
「うわ〜、今不足だ〜」と今を無視して過去を引きずっているのは「私(エゴ)」なんですよね。
そんな言い分は聞かず
「何やしらんけど今完璧だ!」と断定してみて下さい笑
それが認識を変えるということになります♪
>>690
こんにちは。
良い感じです!!
その通り、物心つく前から690さんはそこからすべてを眺めています。
成長するにつれ、自我が形成され、「私(エゴ)」をご自身だと思い込むようになりました。
みぞおちのぼわ〜は、別の領域のハートの安心感ですね。
その温もりを時間ある時に感じ浸るのが「10秒チャージ」になります。
私が居る場所とほぼ同じなので安心して浸って下さい♪
>>691
こんにちは。
エゴを採用し続ける先に死とはどういうことでしょう…?
もう少し詳しく教えていただけますでしょうか?
>>692
こんにちは。
現実的な動きってことですかね?
私的にはそれも認識の変更なのかなーと思ってます。
現実的に諦めずアタックしてると少し「イケるかも!?」って時もあるじゃないですか笑
相手がそうは思ってないとしてもです。
それが突破口の認識となり波に乗ってゴールっていうパターンも全然あると思いますよ?
ていうかそのパターンって皆さん経験されていることかと思います笑
>>693
こんにちは。
まあそういう時もありますよね。
しかしそこで自タヒしたとしても、そのエゴのデータを抱えたまま次の映画が始まるだけですよ。
次の映画でも同じような悩みストーリーを上映させるだけです。
なので自己観察で、そのようなエゴの想いは今の上映中のストーリー内で手放して行って下さい。
693さんの本性は「光」なんです。
映写機から発せられる光です。
しかしエゴフィルムを通して上映されている映画の主人公を自分として見ています。
フィルムは今すぐにでも変えられます。
今ある充足を探してみて浸ってみて下さい(108さんみたいですが笑)。
>>700
独り言のようなコメントに、お優しいレスありがとうございます。
不安や恐怖、憂鬱などの感情があると、つい呑まれてしまいます。
アドバイスいただいたようにエゴのストーリーを手放して呑まれないよう自己観察を継続します。
レス頂いてとても嬉しい気持ちになったので、この嬉しい気持ち(充足)に浸ろうとしましたが、掴みずらいというか消えてしまうのが早く感じました。
憂鬱や不安、心配な感情はずっと消えずに、いつまでもまとわりついているのに、充足は儚い感じです。浸る前に消えてしまった感じです。
ですが、不足にしか目を向けていなかったことに気付けたので充足も探してみます。
>>695
ちょうどタイムリーに聞きたいポイントがあり質問させて頂きます。
昨日QEヒーリングの実践(瞑想のようなもの)をしていた時、薄暗い部屋で自分の身体のパーツそれぞれに気付いていき、その後部屋に意識を向けた時、意識を向ける対象は思考も部屋も同じだと気付きました。
この時本当の自分というものがなんなのか明確に説明出来ず、存在に目を向けたところ存在すらも意識を向ける対象で、あれ?自分ってなんだ?となりました。
気づきか自分といいますが、自己観察さんの言うところの自分や気づきの面での自分というのは一体どの感覚なのでしょうか?
全てが観察対象でちょっと混乱気味です。ただ内側にあると思ってた思考が外側にいたのには驚いてしまいました。
>>701
こんにちは。
いやいや、
私のような者のお話を聞いてくださって逆に感謝いたします笑
ありがとうございます。
喜びは掴みづらい…
確かにそうかもしれませんね。
喜びはすぐに消えてしまい、辛い想いはずっと残ります。
それは喜びよりも辛いことに執着してしまっているから、辛いが勝ってしまっているんですね。
実は喜びも辛いも、思考からくる感情であり、起きては消える諸行無常のものです。
なのに辛い思考が勝るのは、「それを考えないと大変なことになる!」と、「私(エゴ)」の存続に関わることなので喜びよりも辛いに焦点を当ててしまうんです。
ご自身で辛いを選択しています。
さて、私の言う「充足」とは、
この思考による喜びとはちょっと違います。
喜びと辛い思考が起こることのできる、ずっとここに在るこの「場」こそが充足と言えるかもしれません。
普段は爆発的な喜びや、重くどんよりした辛さの思考に隠れてしまっています。
それら思考をどかす、または思考を1点に釘付けにしておくと、ヒョコッと顔を出します笑
かわいいですね笑
本当はいつも顔を出しているんですが、思考のせいで見えなくなっています。
それは「静寂の中の安心感」という表現がぴったりかと。
自己観察で思考に気付き、流した後に残る「場」に留まることができるとわかるかと思います。
しかしそれが難しければ、
何か感謝できるものを探して感謝に浸ると良いと思います。
この安心感が拡大したものが、感謝の念に非常に近いのかなと感じます。
身近に実は感謝できるものなど沢山隠れてるはずです。
でも「私々」「思考思考」で目に入らないのです。
ぜひ「私」は一旦横に置いて、探してみて下さい♪
>>702
こんにちは。
へぇーすごい!!
しかもQEをやられてこれに気付くとは…。
私も昔QEもやってました笑
702さん、
その気付きはひじょーに進んでますよ!!
願望実現というよりも、悟りの気付きですね笑
>その後部屋に意識を向けた時、意識を向ける対象は思考も部屋も同じだと気付きました。
まず、
「意識を向けた」ところに対象、つまり現象が起きていますが、
私達は意識を向けたところしか認識できないですよね?
というか、そこしか現実がないんです。
意識を向けていないところは「虚無」。
何も無いんです。
それがこの現実の真実です。
その意識が、
まるでスポットライトのように対象を照らしています。
その照らした部分だけに現象が起きていますよね?(さっきと同じことを言っていますが笑)
意識のスポットライトが当たった部分しか現実は起きていないんです。
そのスポットライトの機能をよーく観察すると、あちらこちらと現象を照らしてませんでしょうか?
その現象には思考があったり、身体の感覚があったり、部屋の壁があったり、ベッドだったり…。
つまり思考も部屋も、スポットライトの光が変化したものなんです。
なのでいつも「消えては起こるものは、現象はすべて同じ属性であり並列ですよ」とお伝えしています。
この意識の方向性は、
「スポットライトを当てた」ような感覚ではありますが、実際は意識のスポットライトは、
ドーン!と全体に固定されており、いろんな映像(現象)が映るスクリーンとも言えます。
そのスクリーンに映像(現象)が起きたり消えたり…常に猛スピードで生滅しています。
これが「諸行無常」の本当の様相なんです。
お釈迦さまのアレです。
すごいですねー!笑
>存在に目を向けたところ存在すらも意識を向ける対象で、あれ?自分ってなんだ?となりました。
これは、
今までその「存在」というものを本来の自己と思考されていたのでしょう。
でもそれも「現象」だったということです。
本来の自己は、その「気づきの意識」(>>191 >>192 )であり、またはスクリーンもしくはスポットライトです。
しかしです。
ここから難解で頭では理解不能なのですが、
スクリーンに映る現象自体が、現象を観ているのです笑
スクリーンがスクリーンを観ているとも言えます。なんだそりゃ?って感じです笑
これはエゴが完全に落ちた瞬間にわかることで、「観るものは観られるもの」という表現で昔のインドの賢者もお話していることですね。
702さんは概念やイメージではなく、
本当に「私=世界」を目撃したんですよ。
QEってやっぱすごいですね!?
しかし何でしょうか…
最近怖いくらい気付かれる方が多くないですか!?
皆さん自己観察を実践されてるってことなんですかね〜。
>>704
ご丁寧にありがとうございます。
自己観察も出来たり出来なかったりでものによってはパッと観察する立ち位置に戻れるんですが、固執してるものに関しては戻れなかったりしてたんで、とりあえずQEやろと思ってやってみました。
その時見られる対象は思考も含まれていて見ているものが自分なんだと思うんですが、(これ余談ですがこの自分は見ても見ても玉ねぎみたいに層になってました)一体自分ってなんなんだ?っていう気付いてる自分に気付くの自己観察する上で大切な部分がまだ体感できてはいませんが、かなり良い感じに実践は進んでると思います。
身体の観察から始めると部屋にあるものや身体の感覚、思考や感情も観察している側だったわっていう不思議な体験だったのですがまだお言葉を理解するとこまで至れてなくて、続けてもう少し体感が進むといいなと思います。
>>706
こんにちは。
まだはっきりしないことも多いと思いますが、
読んだ感じ、観察のポイントを掴んでるなといった印象です。
観察中は「思考を観ている存在はこれだ、そして観られている思考はこれだ」と、主客を確認しつつ観察したりしますが、観察が進んでくると、
「思考を観ている存在」主→「観られている思考」客
という、時間差で主客どちらも思考が変化していたこと。
またそれを観ている「主」などなく、
「客」であるはずの思考が思考自体を観ていた…と言う、もはや主客が崩壊した表現の気付きがあります。
これは結局のところ、「私」対「その他」の対立構造が崩れていますので、簡単に言うと「すべてあるがまま現象が起こっていいじゃん、だってそれを苦に思う私はないんだし」という笑
苦から脱した悟りの段階のひとつに繋がるわけですね。
私の気付きもこの辺りで止まってますので、ぜひ702さんにはその先に進んでいただきたいですね。
よろしくお願いいたします笑
>>697
ありがとうございます。
面白そうなのでやってみたいのですが「諸行無常」を観るにはどういう練習をしたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。
>>708
こんにちは。
諸行無常に興味ありますか笑
ある程度の気付きがないと「で?」となるかと思います笑
私は一時期、観瞑想(ヴィパッサナー)を実践していた。
併せて止瞑想(サマタ)もやっていたのですが、止瞑想って意識を1点集中させなければいけないのに、あちらこちらと意識が飛んでしまい無理だこりゃと諦めかけてました笑
ある時に観瞑想も併用したところ気付いたんです。
止瞑想中の大きな真っ暗なスクリーンに、
思考と五感(六根)がそれぞれバババババッ!っと一瞬一瞬現れては消えていると…。
よく言われる「世の中は無常だな〜」という諸行無常とは違い、これがお釈迦様の言っていたものだとピーンと来たんですね。
この辺に詳しい方にも聞き、お墨付きももらいました笑
私達は「私(エゴ)」という固定されたひとつの個人であると思い込んでますが、
ここからわかることは、思考+五感(六根)のそれぞれの発生を記憶でまとめて「私(エゴ)」としている、ということでした。
つまり実体がなく常に起こっては消えの現象をまとめたものであると。
ちょっと文章にしにくいですね、、、笑
>>708
練習としては、
例えばハーディングの「目を瞑る実験」の中で、起こる現象に細かく気づいてみると良いかと思います。
真っ暗の中でも「意識の方向」が向いた(向かされた)方に細かく現象が現れています。
そのことから、目を開けている時も「意識の方向」が向いたところに現実が細かく起きていることがわかるかと思いますよ。
>>710
ありがとうございます。
例えば、目の前にりんごがあったとして、そのりんごは生滅を繰り返しているということでしょうか?
壁などを凝視しているとチラチラしだすのですが、更に続けると生滅している様を観ることができるのかな?と思いました。
>>703
レスありがとうございます。
確かにネガティブな感情のほうに焦点を合わせてしまっているのだと思います。
充足とは、「 」のことだったのですね!こちらのほうが思考で考える充足より良さそうです。
思考で充足を見ようとすると「今の環境で充足に思えることなんてない!」「現状で我慢しろということか!」と思考(エゴ)が騒いで難しく感じていたので。充足=「 」、という考えは非常に良いですね!
自己観察して思考に気づいたあとの「
」、思考と思考の間というか、思考していないけれど気づいている状態。ここに意識的に浸る、をやってみます。これなら抵抗なくできそうです。
感謝を探すのも今は難しそうですが、探してみます。
ありがとうございます!
>>707
まだまださわりなのでなんともですが毎日気づきがあります。QEを習慣にして良かったなと思います。
ダメなもんはダメ!この状況はクソってうるさすぎるエゴに対してやり始めたんですが、正直エゴエゴモンスターだった自分がエゴとスッと離れられることができてるのはすごい
普通に無理な時もあるんですがそれでも精度高めです。
>>711
こんにちは。
>例えば、目の前にりんごがあったとして、そのりんごは生滅を繰り返しているということでしょうか?
うーん、そうですね…、
「生滅」って言葉だと点滅してるような笑
そのような印象になりますね笑
実際は見たままあるがままです。
例えばご自身が固定された映写機+スクリーンだとします。
テレビみたいなものをイメージしていただければ笑
また映像のフィルム。
これのコマの1つ1つが「今ある現実」です。
それ以外は過ぎ去ってしまい、もうどこにもありません。
その視点で観ると、例えばリンゴが映っているシーンが流れてるとしても、途中で真っ暗になるコマが差し込まれていたり(つまりまばたきのことです笑)、また微妙に位置が横にズレたり、またまったく別の思考や身体の感覚がリンゴと一緒に映り込んでいたりと…、
よく観ると、リンゴ単体がずっと映っていると思い込んでるだけで、一コマ一コマはまったくさっきのコマとは違うのがわかりますでしょうか?
映写機がわかり難ければ、
ご自身は現象を照らすスポットライトのつもりで観てみるのもアリかと。
これはご自身が「一人の人間」という認識だとなかなかわかり難いかもです。
ハーディングの頭のない視点がわかればスッと入ってくるかと思いますが、興味おありなら色々試してみてください♪
>>712
こんにちは。
>自己観察して思考に気づいたあとの「 」、思考と思考の間というか、思考していないけれど気づいている状態。ここに意識的に浸る、をやってみます。これなら抵抗なくできそうです
そうですそうです。
「 」に、エゴの喜び、悲しみとは違う、それらが起こるベースとなる静かな安心がいつも在ります。
喜びや悲しみは起きては過ぎ去ってしまうもの。
特に喜びは悲しみよりも過ぎ去りやすいので、固定させようとするとエゴと格闘するハメになり余計に苦しくなります笑
実生活はそれらに翻弄されますが、お時間ある時にいつも在る「 」に浸られて思い出すと良いかと思いますね♪
>>713
こんにちは。
>まだまださわりなのでなんともですが毎日気づきがあります。QEを習慣にして良かったなと思います。
習慣にされているとは素晴らしいですね。大体皆さん途中で投げてしまいますので笑
その習慣にすることが、今まで強固にしていたエゴを緩ませ、精度を高めていく秘訣だと思いますよ。
お釈迦さまも毎日瞑想されてたと伝えられてますので、やっぱり現実ストーリーって強力なんだなぁ〜と思います。
ぜひ引き続きQEを継続されてください♪
2ヶ月くらい自己観察したり、今に集中したりするようにしているのですが、状況が好転したり、何か気づきを得たりすることがありません。
どうしたら良いでしょうか?
自己観察のある本に書かれていました。
修行はその成果を求めず、修行のみを目的に行う。
>>717
全ては起こっているということに気づくことが目的なんで、何かをやっているつもりでいる夢の中では、文字通り何も出来ないよ。
>>717
こんにちは。
そうですね…
他のメソッドも自己観察もそうですが、気づきがないとなかなか進捗感がないですよね。
2ヶ月継続されたとのことですが、自己観察へのモチベーションはまだありますでしょうか。
もし既になく、惰性でやられているようでしたら別のメソッドに切り替えても良いかもしれませんね。冷たい言い方に聞こえてしまったら申し訳ございません。
私の場合、自己観察に初めて挑戦した時はは意味がわからずすぐに離れてしまいました。
その後は自愛をよくやっていましたが、初めて自己観察に挑戦してから1年後にしっくり来た感じです。
自愛ではたくさん気づきがありましたが、タイミング的に自愛があってたのかもしれませんね。
なので無理に自己観察に絞らずいろいろと試してみるのもアリかと思います。
>>717
ちょっと離れてからチャレンジしたらすんなり入ってくることありますよ
私は何回も自己観察チャレンジしてるんですがエゴの強さとしつこさにやられて何度も挫折しましたがようやくちょっとづつ理解し出したとこです。
肝心な文章って読み飛ばすことも多いので、慣れるまでは頑張ってみてください。叶えるためにやるのではなく、エゴから離れるためのメソッドなので。
>>714
なるほどです♪
指を指した先に人はいないと気づきました。
すぐ人がいる感覚になってしまいますが、積み重ねて慣れるしかないですね。
>>721 さん、720さん
ありがとうございます。
あまり根詰めずにリラックスした方が良いですかね。
自己観察は1回やるときは、何分くらいされていますでしょうか?
>>723
特に何分とかはないです。
ネガティブな思考が多い時は気分が悪くて身体も重くなるしどんよりしてるのが嫌だったのでそういう時楽になるためにしてました。
あとエゴがストーリーを作ってる時は離れるように心掛けてます。(難しい事も多いですが…)
>>696
ありがとうございます!
その前のご回答も何度も読んで段々理解できてきました。
完璧認定をしばらくやってみようと思います。
>>724
ありがとうございます。
ちなみに、歩きながら自己観察はされたりしますか?
>>696
こんばんは
いつも拝見しています。
横からですが、この完璧認定と
ただ起きていることを観察して
自分も外側もない、みたいなニュートラルなポジション、両方同時にやるのが難しいのですが、
696さんは
そう観察しては、完璧と認定、と二段階に認識し直しているのでしょうか。
うまく言えないけど、
ニュートラルなポジションにいられるとき(ただ観ることが起きているとき)は、やっぱりすべてが完全な感じがありますが、それは私の場合どちらかというと、①大変なことも含めてそのまんま全てが完璧(大変さはある)みたいな感じなんですね。
または、全てが満ちていて完全、みたいなときもありますが、それはやっぱり696で書かれているような、意図的に完璧とする、という感じではないというか。
(意図的であろうとするとずれてしまう感じ)
私も潜在意識を知って早10年以上、間ではっとするような気づきは何度もありつつ、どうも変化がないのどころか最近は拗れつつあるのはこの辺がうまくいってないから、まさしく不足を完璧として不足を再生産しているからかなと思いました。
けど、なかなか気づきの場所にいながら意図的であるということがうまくできません。
何かアドバイスがあればお願いします。
質問が2つあります。良かったら教えてください。
1. 許せない、というような強い感情(距離を置くのが難しいくらい強い感情)はどのように自己観察したら良いでしょうか。
2.自己観察は願望実現するためのツールではなく、むしろ願望を持つ必要が無かったと気づくためのものですか?
私にとって成功とは、キラキラした目で生き生きとした人生を送ることです。
自己観察は平和で穏やかな気持ちにはなるけど、必ずしも元気はつらつ、イキイキ!という感じにはならないので、2.の質問をさせていただきました。
>>728
1 何かを「しようとする」ことを諦めることです。「する」ではなく受け入れる感じに近いです。
2 動機や目的はひよそれぞれです。キラキラが欲しい人、平安が欲しい人、いろいろです
>>722
こんにちは
>すぐ人がいる感覚になってしまいますが、積み重ねて慣れるしかないですね。
私も自己観察徹底していた時は、しばらく「観るものなしに観る」状態になったことはあります。
が、これって結局「状態」であり変化が必ずあります。
なので戻ってしまうのは普通のことなので、それで大丈夫です笑
この「透明な気づき」上において「私(エゴ)」というものは起こったり消えたり生滅をしている様相を目撃したのでしたら、なにも「私(エゴ)」に固執して苦しむこともないんだなという気付きがあると思います。
その気付きで今までの人生観が変わり楽になれば、現れてくる現実も変わってくるかなと思います♪
>>723
こんにちは
自己観察の実践時間については>>467 にも書きましたのでご参考にしてみてください♪
>>727
こんにちは。
>ただ起きていることを観察して
自分も外側もない、みたいなニュートラルなポジション、両方同時にやるのが難しいのですが、
696さんは
そう観察しては、完璧と認定、と二段階に認識し直しているのでしょうか。
ニュートラルなポジションにいる時は完璧認定はやらないですね笑
ニュートラルに在る時はそれで完結してますので、そこでの完璧認定は私も違和感あると思います。
ここで説明した完璧認定は、
不足思考に気付くための自己観察視点は基本としてまず必要。
そして思考に気付き、そのまま思考が空回りして消滅に向い、ニュートラルに在るようでしたら普通に自己観察ができていますので問題なし。
しかしそのスルーがよくわからない方は、不足認識の思考を完璧認定で意図的にひっくり返すのも、同じ作用がありますよという意味で、もう一つの提案としてのお話でした。
>どうも変化がないのどころか最近は拗れつつあるのはこの辺がうまくいってないから、まさしく不足を完璧として不足を再生産しているからかなと思いました。
ここは私見なので賛否両論あるかと思いますのでご参考程度にしていただけるとありがたいのですが…。
結局のところ、ニュートラルな立ち位置に立ったり、私=世界に気付いたり。
そのような様々な気付きを、
「誰がどう評価するのか?」
という点は大きいと思うのです。
その誰が?は「私(エゴ)」だと思うんですよね。
実践にて「私(エゴ)」が消え、
ニュートラルを目撃した。
それを「これがニュートラルか!」と気付きがありますが、これを分別するのは一旦消えたはずの「私(エゴ)」なんですよね笑
また出て来てレッテル貼りしてるんです笑
しかし現実というのはこのレッテル貼りがあってこそ意味が出てくると思うのです。
真の自己とはただの「光」であると前述しましたが、真っ白な「光」を色分けして意味のある映像にするにはフィルム(エゴフィルター)が必要です。
というのが私見です。
気付きは誰に対しての気付きなのかと言ったら「私(エゴ)」です。
この「私(エゴ)」の気付きでどのように現実や自身に対しての認識が変わってくるか?が肝要なのかなと思います。
>まさしく不足を完璧として不足を再生産しているからかなと思いました。
このようなフィルターが心の奥に潜んでいるようでしたら、やはりそのような現実を見るのかと思いますがいかがでしょうか。
例えばですが、
不足と思える事象が起き、その不足に、もし何かしらの意味付けをして無理に納得しようとしていると、それに対応した現実を創ることになるのかなと思います。
なのであまり深く意味づけせずテキトーに「なんや知らんけど完璧!」なのかなーがベストと思っています笑
私も色々やってきましたが、アファやら、神へのお任せやら、全部これに帰結すると思うんですよね。
「私(エゴ)」の認識ですね。
そんな感じですが、
私の気付きも途中かと思いますので今後変化あるかもです笑
あくまで参考としてお願い致します♪
>>731
ありがとうございます。
自己観察と今に集中って、どこか似ているように思うのですが、どうでしょうか?
潜在意識に関するメソッドかたくさんある中で、どれが1番良いのか迷っていまして、数あるメソッドの中で共通している要素を導き出したいと考えています。
>>734
こんにちは。
自己観察の立ち位置=今に在る
です。
思考というのは過去か、過去に基づいた未来しか思考することができず、それに呑まれている間は今にいないんですね。
なので自己観察中の立ち位置というのは思考から離れていますので今に在ると同じです。
共通点を探されてるんですね。
自己観察、自愛、元祖1式、完璧認定などいろいろありますが、どれもご自身の思考に気付こうとする点では共通してます。
自己観察の視点は基本中の基本かなと私自身は思っており、後々自己観察を身に着けていて良かったと思うことも多々ありましたのでおすすめです。
また気付きの瞑想とも言われていますので、継続していくと深い気付きが得られると思います。
>>735
ありがとうございます。
今に集中していればいるほど、良いと解釈してもよろしいでしょうか?
また、無思考になって、身体の感覚や外の音などに意識を向けるのも今に集中していることになりますでしょうか?
>>736
こんにちは。
>今に集中していればいるほど、良いと解釈してもよろしいでしょうか?
今に在れば余計な思考に惑わされたり、悩まされたり、また変なストッパーがかかったりしないので良いと言えますね。
誰しもが経験していることなんでわかるかと思います。
例えばすごく楽しい時って会話がめちゃくちゃ弾んだり、すごく面白い話しができたりってあるじゃないですか?
あの時って思考しておらず、全体と調和して自然と会話が続きますよね。
あれを意識してやろうとするとエゴが介入し難しいのですが、普段から今に在れば自然と起こるようになるかなと思います。
>また、無思考になって、身体の感覚や外の音などに意識を向けるのも今に集中していることになりますでしょうか?
これは逆でして、
身体の感覚や、外の音(何の音かは分別しない)に意識を向けると無思考になります。
気付きがありますのでぜひ色々試してご自身を観察してみて下さい♪
>>737
ありがとうございます。
無思考になるのは、今に集中している状態にはなりますでしょうか?
そして、無思考から思考が出てきたら、自己観察するか、または無思考に戻ろうとすれば良いでしょうか?
>>738
質問を繰り返したり外に答えを求めても
ずっとわからない状況が続くだけ。
少しは自分で考えて実践した方がいい。
>>738
こんにちは。
>無思考になるのは、今に集中している状態にはなりますでしょうか?
無思考=今に在る
なので、その通りですね。
>そして、無思考から思考が出てきたら、自己観察するか、または無思考に戻ろうとすれば良いでしょうか?
それで大丈夫ですよ。
ぜひやってみてどうだったか教えて下さい♪
>>740
ありがとうございます。
>>462
いつも参考にさせていただいています。
書き込みを参考に、できるだけ、思考に気づくようにしています。
思考しているときは、頭が熱い感じでそこに意識がぐっと囚われている感覚がします。気づけたら、意識を空間に広げるようにしています。
こんな感じのことを続けています。
まだ、思考から離れようとするともやもやする感じがしますが、外に意識を向けてるときの無の感じの良さにも少し気づけている感じです。
その中で、教えていただきたいことがあります。
自己観察を続けていれば、気づきが起きるとおっしゃってますよね。私の場合、気づかず思考しているとき、ふと、他人と思うから酷いことするんだなー自分=他人なら平和になるなぁーとか思うんですが、462さんの書かれている気づきとはどういうものですか?
あと、こちらの掲示板を読んでても気づきはありますが、462さんの言われている気づきとは違う気もしています。
あと、今、職場に少し厄介な人がいて、ついつい思考、、無駄にその人のことを考えて対抗する妄想を、してしまいます。
また、YouTubeなんかで、対策になりそうな動画をみたり。その人への対策を考えることは現実対策としてはありな気もしますが、これもあれやこれや考えず、自己観察していた方がいいのかも、と思います。
前におっしゃられていた、完璧だ、、と、唱えてみたりしています。すぐ、思考に戻りますが、完璧だ、と唱えたときのもやもや感を、感じるようにしてます。
こういう状況ですが、現実対策と自己観察の棲み分けに迷います。
ちなみに、厄介な人は、少々苛立ちを感じる程度で、逃げなければならない状況ではないです。多分、頭の奥底で、仕返ししたい、みたいな感情が湧いてる感じです。
スレチですみません、ハーディングの指差し実験について伺いたいのですが
目に見えているものを指差していき、自分の顔に指を差すと、瞬間的に自分の顔のイメージが浮かび上がりました
これは普段生活している時に感じる自意識的な顔と全く一致していました
ハーディングの実験の目的は、順番に指を差していくことで、その自意識的な顔が自動的に湧き起こるイメージに過ぎないと気づかせていくことなのでしょうか
この顔って無意識に自分だと思い込んでいるイメージに過ぎないのでは?と気づいたとき、そのイメージは消え去り、何を指差しているのか分からない状態になりました
イメージが浮かんでいる空間からイメージが消え去ると、空間?だけが残りました
これがいわゆる観察する場とか別の領域的なものなんでしょうか
>>743
そん通りですね!
その場とやらに意識の焦点が当たったという事。
訳がわからなくなった、というのは成功した証拠だよ。オメデトウ!
>>742
こんにちは。
こちらこそ読んでいただきありがとうございます。
自己観察を実践されているんですね。その調子で試行錯誤しながご自身についての発見をされていくと良いと思います。
>他人と思うから酷いことするんだなー自分=他人なら平和になるなぁーとか思うんですが、462さんの書かれている気づきとはどういうものですか?
私の言う「気付き」は、既にこのスレに書いていることほとんどが私の「気付き」となります笑
ただ、これを皆さんが読んで理解しても皆さんの「気付き」には完全にはならないのかなと。
私も経験があるのですが、
書かれていることを想像するのと、実際にやってみて、その様相を実際に自分で目撃するのとでは雲泥の差があり、「このことをあの人は言っていたんだ!」という腹落ちがあって初めて「気付きがあった」と思うのです。
そうでないと本当の意味で自身に適用ができないのかなと考えています。
>他人と思うから酷いことするんだなー自分=他人なら平和になるなぁーとか思うんですが
これは私=世界というワードから着想を得た742さんの「気付き」のヒントのひとつかなと思いますが、ここから「自分=他人」を実際に自己観察で目撃した時に完全に身になるかと。
また私のレス内容とご自身の気付きが少し違ったとしても気になさらないで下さい笑
各々人生の経緯が違いますので、やはり「見ている側面」も変わります。
私も教えをいただいたマスターの方と気付きが違い意見も違うことはけっこうあります笑
でも追求していくと結局は同じことを言っていたな…みたいなこともあるあるですので、まずはご自身の気付きを大事にされると良いかと思います。
>これもあれやこれや考えず、自己観察していた方がいいのかも、と思います。
私のここでの提案は、質問者さんの進捗や状況によって自己観察をすすめたり、完璧認定をすすめたりしていて、けっこう臨機応変になっています笑
なので他の方は「どれやればいいの?」と思われてしまうのかなと…。
そこは申し訳ないです。
ただ私としては、色々やってみて良し、ご自身が自己観察一本で良しとされるならそれで良し、かなと思っています。
その人にとっての正解はほんとに人それぞれなんです。
たとえ色々やって回り道をしてしまったとしても、その道中には大きな発見が必ずあり、それも自身にとって必要な過程だったんだと思える時が来ます。
正解を見つけるのは各々ご自身ですが、私はそのきっかけを提案する程度の役目なのかなと思いますので、ぜひ今のご自身を信じて前進されて行かれると良いかと考えます♪
>>743
こんにちは。
>ハーディングの実験の目的は、順番に指を差していくことで、その自意識的な顔が自動的に湧き起こるイメージに過ぎないと気づかせていくことなのでしょうか
そうです!
実際に目撃されたんですね〜。
その自己イメージがいわゆる「私(エゴ)」でして、普段からその自己イメージを自分として色々思考し、悩み考えている…ということですね。
それがただのイメージ、思考とわかれば、何か開けてくるのではないでしょうか?笑
>これがいわゆる観察する場とか別の領域的なものなんでしょうか
その通りです。
過去の自己イメージに囚われなければ、そこに自由に新しい自己イメージを表現できるのでは?ということですね。
素晴らしいです。
>>746
こんにちはさん、こんにちは😃
こう言った気がついた人が最近多くなって来てますね!
コレもこんにちはさんがこちらでレスし続けている成果なんじゃないかと思います。
本当にありがたいです。
コレからもっともっと増えていくと思います。ワクワクしますね♪
>>747
こんにちは。
こんにちはです笑
いえいえ、私は勝手気ままにレスしてるだけです笑
気付く方が多くなったのは実際に皆さん実践されてるからだと思います。
あと今そのような流れにこの板自体がなってますよね♪
タイミングなのかもしれませんね〜。
でもそのようなお言葉いただき、本当にありがとうございますm(_ _)m
>>747 、>>748
私は密かに「自己観察マスターさん」とお呼びしていました。笑
747さんに同意です。
私もいつも748さんのコメントを参考にさせていただいてますし、読むと心が暖かくなり元気になります。
自己観察の実践で迷ったときの道標になっています。
それに748さんからレスをいただくと、とても嬉しくなります。
いつもありがとうございます^_^
>>749
こんにちは。
こちらこそいつも読んでいただきありがとうございます♪
そのように言っていただけると、とてもお話しがいがありますし、とても嬉しいですね笑
でもマスターだなんて恐縮です…。
自己観察さんが去った今、このメソッドを実践するきっかけとなるお話を私ができればと思い続けさせていただいていますが、私のお話がきっかけで皆さんの気付きに繋がることが私の喜びですので、逆に皆さんには感謝しております♪
本当にありがとうございます😊
でも私もこの辺りで気付きが止まっていますので、皆さんの中から自己観察をさらに極めた方が出てくることを熱望しております!
それがさらに皆さんの気付き、私の気付きにも繋がりますので、ぜひお待ちしております笑
私の場合、ADHD 気味で、じっくり自己観察しようとしても集中が続きません。無思考にとどまるのも苦手ですし、観察していても、ついつい他のことに意識が向いて自己観察を長くできません。
そんな場合のコツなどはありますでしょうか?
>>751
こんにちは。
>無思考にとどまるのも苦手ですし、観察していても、ついつい他のことに意識が向いて自己観察を長くできません。
これはですね、瞑想において気が散るのは大体の人に当てはまるかと…。
この私も似たようなところはありますので、あまり気になさらないで下さい笑
でも、自己観察に必要な集中力は訓練次第でUPさせることができます。
有名なのが止瞑想(サマタ)でして、仏教でもこれで集中力を上げてから観瞑想に取り組むのが正式です。
止瞑想で一般的なのは数息観という呼吸に集中する方法ですが、私のおすすめは「お鈴」です笑
音の止瞑想ですね。
静かで暗い場所で実践お願いします。
ttps://youtu.be/SvZrnkWAqe0
私が実践で心がけたポイントとしては、
・お鈴の音が頭の中心の点から鳴っているとイメージしながら音を聴き、そこに一点集中する。
・お鈴の音がだんだん小さくなってきますが、音をどこまでも聴き拾う気持ちで、中心点に集中して音を追って行く。
・途中、無音になります。
無音ですが、頭の中心点の一点集中は止めずそのまま維持。
・またお鈴が鳴ったら集中を弛めて、音が小さくなってきたらどんどん集中して追って行く。
こんな感じです。
これを1日10分、時に20分、一週間くらい私がやった結果、めちゃくちゃシャープな観察意識が育ちまして、思考が起こっても即座に気付き、また実生活中も常に中心点に意識が向き、長時間の無思考維持もできるようになりました笑
この瞑想中は無思考になっていますので、
実践の中で何かしら発見もあると思います。
興味あるようでしたらぜひ♪
>>744
>>746
ありがとうございます
自分なりの感覚ですが、ハーディングの実験で感じたものは、無思考や自己観察、今今メソッドで感じたものと似たような感覚でした
イメージも思考の一部だと感じられたのが面白かったです
あと、指差している他のものも、情報を取り払うと、実際には「なにか」なのかなあと感じました
>>752
ありがとうございます、使ってみます!
>>745
ありがとうございます。
お返事いただけてありがたいです。
気づき→腹落ち
まさに!と思いました。私の場合の気づきは、思考の延長という感じです。745さんのコメントのおかげで、腹落ちしてないから、いまいちしっくり来なかったのだと気づけました。
>これは私=世界というワードから着想を得た742さんの「気付き」のヒントのひとつかなと思いますが、ここから「自分=他人」を実際に自己観察で目撃した時に完全に身になるかと。
自己観察を続けていると、思考ではない、気づきが感覚として湧いてくる感じなのでしょうか。
自己観察で目撃、というのが私にはわかりませんでした。。
>私のここでの提案は、質問者さんの進捗や状況によって自己観察をすすめたり、完璧認定をすすめたりしていて、けっこう臨機応変になっています笑
自己観察も完璧認定も、どちらも思考し続けないという点では同じと思ったのですが、こういう、人間関係の悩みなんかは、対処するというより、考えないという方法を745さんは取られていましたか。
(そして完璧認定と自己観察は違うんですね。。)
すみません、ついつい先人のお知恵を借りたくなっていろいろ聞いてしまってます。
おりん瞑想、やってみます。ありがとうございます。
>>755
こんにちは。
>自己観察を続けていると、思考ではない、気づきが感覚として湧いてくる感じなのでしょうか。
そうですねー、
頭の中での思考実験で想像し、そこから「気付きがあった」と表現することもありますが、それをご自身に当てはめて観察し、そこで本当にその様相を自身で目撃し発見すること。
それが本来の気付きなのかな思います。
例えばですが、
どなたかから「エゴってなんでしょう?」というご質問があったとして、そこで私が「それは森みたいなものです!」と回答をしたとします笑
普段、「あそこに森がある」「裏の森」とか言いますけど、冷静に見て「森」って何でしょうか?笑
「あ!森がある!」と一言で「森」とレッテル貼りしてますが、その実体を分析すると「木の集まり」であり、実際は動植物が集まった環境的なのことを指していると思ます。
そして森の中の「木」も、森と同じように一言でレッテル貼りされていますが、実際は水分やら繊維やら、もっと細かくすると細胞やら成分やら、色んなものが集まったもの。
それを総称として「木」と私達はレッテル貼りをし、表現しています。
そしてこの「私」も、
森や木と同じではないでしょうか?
私とは環境みたいなものだった!!笑
ここで思考で理解し、
「ああ〜なるほど、私という確固とした実体はないのに、なぜか私として生き、悩み、ここで質問しているんだ…は!それがエゴの正体!?」みたいな気付きがあったりします笑
これは気付きの進捗としてはOKなのですが、しかしもっと追求していただきたいのです。
自己観察は気付きのメソッドであると書きましたが、せっかく自己観察をされているのでしたら、その観察眼で実際に上記の内容が真実なのか、ご自身に当てはめて観察していただきたいのです。
>>695 に「五感+思考」をまとめたものを「私(エゴ)」としてますよ、と書きましたが、本当にそうなのかを自己観察していただきたいのです。
そこで「私(エゴ)」を観察し、それが幻みたいなものであったという「目撃」をして初めて実体験としての気付きがあります。
この気付きは忘れることがなく、ご自身の一部となり、自分の世界の認識を根本からひっくり返す気付きです。
そのような体感としての気付きのことをお伝えしていた次第です♪
人間関係については長くなってしまったのでまた後日レスしますね、すみません…。
お鈴はぜひ♪
こんにちは。
先程の続きです♪
>こういう、人間関係の悩みなんかは、対処するというより、考えないという方法を745さんは取られていましたか。
人間関係の悩みですか。
これはすべてご自身の持っている「ものさし」次第かなと思います。
「こうあるべき」
「こうじゃないと非常識」
「普通こうでしょ」
みたいな「ものさし」って皆さん持ってますよね。
そのものさしで他者を評価し、また自身もそのものさしを規範として生きています。
自身に深く根差した、
このものさしに沿わない行動や言動の他者を見た時、エゴがザワつきます。
そしてそのものさしに強い拘りがあると、人間関係でトラブル起こしやすいと思います。
あ、755さんのことではなく、私が実際に見てきた人の話ですよ?
実は私も対人トラブル続きの人間だったのでここは実体験としても納得できるところではあります笑
自己観察をしていると、それら「ものさし」は「私(エゴ)」の保身からくる思考として現れていることに気付きます。
気付くと、ものさしはゆるくなります。
もちろん交通ルールとか犯罪とか、法律に抵触するような行動や発言のものさしはゆるくする必要はないです。あくまでよくある人間関係においてですね。
「オープンになるって、相手が悪いのに私が折れなきゃいけないのか!我慢か!」
「私が損するハメになる!」
とか、
大切な「私(エゴ)」を守ろう守ろうと壁を作ったり、攻撃したりの抵抗は、「私(エゴ)」対「私(エゴ)」の衝突の現実を見やすいかなと思いますね。
やっぱり自己観察での気付きですかね。
我慢とかではないので念のため。
仕事がうまくいかず、ピンチな状態にありまして、そんなときの自己観察はどうしたら良いでしょうか?
>>758
なんのために自己観察しているのか、その目的を思い出すことかな
>>758
ピンチな状態であっても普段通りに自己観察をしてみてください。
ピンチの時ほど思考が騒がしくなりますが、その騒ぐ思考に気づきましょう。
>>760 さん、759 さん
ありがとうございます。
結構自己観察しているのに、事態が好転するどころか悪くなる一方で。。。
とりあえずリラックスして、自己観察ですかね。
>>761
現在のピンチの状況にもよると思うのですが、一刻を争うような状況でなければ継続して自己観察をされてみるといいと思います。
1日の中で自己観察している時間よりも、問題についてあれこれ思考したり、その思考に引きづられて不安や心配になっている時間のほうが圧倒的に多かったりしていませんか?
好転反応かも。
>>762 さん 763さん
好転反応だったら良いのですが、確かに自己観察する時間よりも、悩んでいる時間の方が長いかもしれませんね。
QEゲートテクニックの方をしてたら気づいたんですが、無意識にラベルを貼ってそういう現実を見ていただけなんですね。
だから最終的には大雑把にすべて上手くいくや神にお任せした方がいいという方が多いんでしょうね。
あと私だけかもしれませんがエゴが現れる場所は非常に小さくて、意図を表明する場所は超巨大だったことに気づきました。
>>765
こんにちは。
なんかスレが活性化しつつあり嬉しいですね〜♪
>QEゲートテクニックの方をしてたら気づいたんですが、無意識にラベルを貼ってそういう現実を見ていただけなんですね。
ゲートテクニック!懐かしっ!笑
これって本当に自己観察ですが、
無意識にラベル貼りしてたことに気付いたんですね!素晴らしい。
現実は本来まっさら(意味なし)なのに、無意識にエゴを通して意味づけして現実を分別していたんですよね。
>だから最終的には大雑把にすべて上手くいくや神にお任せした方がいいという方が多いんでしょうね。
神にお任せ。
これもエゴによる分別なんですよね。
「神が私を最善に導いてくれる!」「この状況は完璧だ!」
も、エゴの分別ですね。
現象を見てそう分別(認識)するのではなく、そう分別するからそのような現実を見るという。
ちょっと学者のソシュールの言語学的な話しですが、私の経験上そうなんだろなと考えます。
>あと私だけかもしれませんがエゴが現れる場所は非常に小さくて、意図を表明する場所は超巨大だったことに気づきました。
これは面白い気付きですね!
興味をそそります笑
>>766
ありがとうございます♪
>これは面白い気付きですね!
興味をそそります笑
そんな大層なことではないと思います笑
今まで世界をエゴを通して見ていた。
世界>エゴ>私=意図だったのが
世界=私=意図<エゴになった感じです。
>>767
こんにちは。
>世界=私=意図<エゴになった感じです。
なるほど!
「私(エゴ)」も現れの一つであることに気付きましたか!素晴らしいです!
認識が変われば世界も変わりますので、ここからが注目ですね〜♪
>>768
ありがとうございます♪
誰かの参考になればと思いますが、捻くれ式も必死に?してました。
>>756 さん
ありがとうございます。
私は、自己観察をほぼ、思考しないと近いものを思っていましたが、
観察というだけあって、思考に気付いた後、「思考実験」といった形で何かしら意識を加える?ようなことなのでしょうか。
>>695 に「五感+思考」をまとめたものを「私(エゴ)」としてますよ、と書きましたが、本当にそうなのかを自己観察していただきたいのです。
そこで「私(エゴ)」を観察し、それが幻みたいなものであったという「目撃」をして初めて実体験としての気付きがあります。
この気付きは忘れることがなく、ご自身の一部となり、自分の世界の認識を根本からひっくり返す気付きです。
そのような体感としての気付きのことをお伝えしていた次第です♪
695も読みましたが、脳内で分からな過ぎて逃しておりました。。
違うかもしれませんが、私というものはない、というところから、
思考してる頭の感覚、身体の感覚、全て「私ではない」、目に見ているものも、私ではない、全て私ではないと念じてみたら、じゃあ、私は…空間?のような気持ちになりました。
腑に落ちたらいいな…と思っております。
おりん瞑想、5分と持ちませんが、音色が好きで続けてみてます。
ありがとうございます。
>>757
続きもありがとうございます。
>自己観察をしていると、それら「ものさし」は「私(エゴ)」の保身からくる思考として現れていることに気付きます。
気付くと、ものさしはゆるくなります。
やっぱり自己観察での気付きですかね。
また先ほどと同じ質問になってしまいますが、自己観察とは…思考実験なのでしょうか。
思考していくなかで、結局、相手を嫌いになるのは、おっしゃるとおり、自分のエゴのなせるものというのは、頭で理解できます。
嫌いな人は、自分の禁止していることをやってのけていたり、自分の見たくない姿をさらしている人だったり…
私の場合、思考でそこに気付くのですが、でも、嫌な感情はなくならない=ものさしがゆるくなりにくかったりします。
ゆるくなることもありますが。。。
なんだか理解が悪くて申し訳ありません。
こうしてやり取りできるのは私はとてもありがたいです。
>>770
こんにちは。
どうやら私の回答のせいで混乱されているようで申し訳ないです…。
自己観察では無思考の徹底が必須ではないことをまずはご理解いただけると幸いです。
大事なのは思考に気付くこと、です。
そして、
・どんな思考を今採用しており、
それによりどんな現実を見ているのか?
・その思考は果たして真実なのか?
・その思考を採用しなかった場合、どのような現実を見ることになるのか?
などなど、他にもたくさんありますが、「私(エゴ)」という思考に同一化し、採用し、その通りの現実を見ていたことに気付くこと。
それが自己観察となります。
「でもお前も無思考になれ言うてたやないか!」と思われるかと思います笑
これは無思考になることによって、
・無思考のニュートラルな状態
・思考に呑まれている状態
この2つのギャップに気付くため無思考実践としておすすめしており、また無思考からでないと思考の発生の瞬間を捕らえづらいと思います。
まずは無思考時の本来の自己に気付き、その本来の自己上に思考が起こり、その思考を無自覚に採用し現実を創造している。
それらを無思考実践から目撃してみる。ですかね。
思考実験ですが、
これは自己観察とは別でして、
自己観察での気付きをスムーズに腑に落とすための準備運動として捉えていただければ。
たまにまったくの偶然で気付きが起きてしまい、しかし何のことだかわからず気が狂ってしまったのではないかと悩まれる方もいるそうですので、思考実験による理解もあった方がスムーズに気付きを受け入れられるのではないかと思います。
>思考してる頭の感覚、身体の感覚、全て「私ではない」、目に見ているものも、私ではない、全て私ではないと念じてみたら、じゃあ、私は…空間?のような気持ちになりました。
良い線いってます!笑
そうです。
771さんはある意味「空間」「場」なんです。
「空間」なんですから、771さんは肉体でもなければ感覚でもなく、思考でもありませんよね?
肉体や感覚、思考はその「空間」である本来の自己上に起きては消えているただの現象です。
でも771さんは普段、記憶という思考から、
ご自身を肉体であり感覚、思考であると勘違いしています。なのでそれら現象に振り回されてしまうのですね。
そうやって実践で得た気付きと、予め理解していたことを当てはめて気付きをより深めていきます。
今は色々混乱あると思いますが、
その混乱思考も「空間」という本来の自己上に起きている現象として観ることを継続してみて下さい。
点がいずれ線として繋がりますので。
お鈴は集中力アップしますので、これやってから自己観察やるのも良いかもですね♪
>>771
続きですが、
モノさしがゆるくならないのでしたら、
いつそのモノさしを創ったのか、なぜそのモノさしが必要なのか、絶対なのか、誰にとっての大事なモノさしのか…。
などなど一度掘り下げてみてはいかがでしょうか?
結局その長くなってしまったモノさしは「私(エゴ)」存続のためのモノさしであり、思考であり、本当にそれがないとダメなのかどうかを知ることができるのではないかと思います。
>>773
ありがとうございます。
>いつそのモノさしを創ったのか、なぜそのモノさしが必要なのか、絶対なのか、誰にとっての大事なモノさしのか…。
などなど一度掘り下げてみてはいかがでしょうか?
数年前、セルフイメージやその要因となったできごとを探すことに取り組んでいた時期がありました。773の言われていることと違うかもしれませんが、今の状況で考えてみます。
本人も理解不十分な不明瞭な仕事を依頼されることがあります。その上、態度もいまいち。
これに、対して仕事を依頼する相手には丁寧に接しないといけない
と、いうモノサシをもっています。
もちろん、絶対ではありません。
私も毎回できているわけではありません。
まぁ、いいいか、その分自分で采配して能力があがるし、、、と、ゆるむ気持ちにはなります。
元を探れば、親との思い出でもっと自分のことを考えて欲しかった(くれなかった)
など心のキズのようなものに思い当たります。
私は、人から思いやりを持って考えてもらえない、雑に扱われる、というセルフイメージをもっていると気づきます。
雑に扱われてもいいし
雑に扱われきたわけではないし、、、、
など、自分なりに癒しの時間を持つ、、、
もちろん、ゆるむ気持ちはでてきます。
以前、こういうセルフイメージを探るみたいな考える時間をもっていた時期がありますが、結局、その場で緩むけど、また違う状況で同じ気持ちになったりで、イタチごっこのように感じ、考えることをやめた経緯があります。
癒し方が甘いのかもしれません。
>結局その長くなってしまったモノさしは「私(エゴ)」存続のためのモノさしであり、思考であり、本当にそれがないとダメなのかどうかを知ることができるのではないかと思います。
なくてもいい、ない方がよいと思えますが、どうも手放しのやり方がわからない、、、という感じでしょうか。
長い目で見たら、良くはなっているし、こういうことはずっとやり続けることなのかもしれませんが、、、。
長くなってしまって申し訳ありません。。
突然の書き込み失礼します。
スレチでしたら、ごめんなさい。
質問させて下さい。
上司からパワハラを受け,うつ状態となり、病休しています。
1 パワハラを受けたことを、きちんと上に報告してしっかりと罰してもらおうと、行動する自分と、
2 自分の鏡?となる相手からの学びに感謝して相手の幸せをも願って、手放そうとしている自分(相手から離れるため)
この二つがぶつかり合っている気がして、矛盾しているのではと感じて苦しいのです。
アドバイスいただけると幸いです。
よろしくお願いいたします🙇
>>775
書いた者です。
絵文字失礼いたしました。
自己観察してて連鎖反応みたいなの起きてて、この最悪の出来事を回避したい、今まだこういう気分になった時大体は嫌なパターンだった!みたいな思考にハマっても手放せない…
このまま思考を放置して観察すればいいのかな
>>774
こんにちは。
>元を探れば、親との思い出でもっと自分のことを考えて欲しかった(くれなかった)など心のキズのようなものに思い当たります。
私は、人から思いやりを持って考えてもらえない、雑に扱われる、というセルフイメージをもっていると気づきます。
掘り下げてみたんですね〜、なかなか辛い掘り下げだったかと思いますが実際にやれたようで、ありがとうございます。
掘り下げは切りがないように思えますが、確実にモノサシはゆるんでるはずです。
ただ解消しきれてないのでイタチゴッコのようになってしまうのかもしれませんね。
エゴの回答に対して「なぜそう思うのか?」とどんどん追求するように掘り下げていくと、より効果的かなと思います。
「私(エゴ)」の言い分を客観的に知り、原因を観ることも自己観察になります。
さてここは自己観察スレですので、ひとつご提案ですが、その回答している「私(エゴ)」についてよく自己観察していただければと思います。
771さんは>>770 でレスされているように、本来の自己に気付きつつあります。
「今ここ」「本来の自己の視点」から、「私(エゴ)」と、その言い分やモノサシについて観てみて下さい。
きっとそれらは、本来の770さん的には取るに足らない(今はそう思えないかと思いますが)思考であり、手放そうと思えば手放せるものであると気付くかと思います。
「え!どうやるんだっけ?」と思われたようでしたら、ぜひハーディングの実験を何度か試されてみて下さい。
>>770 での感覚が再度甦るかなと思います♪
>>775
こんにちは。
>1 パワハラを受けたことを、きちんと上に報告してしっかりと罰してもらおうと、行動する自分と、
>2 自分の鏡?となる相手からの学びに感謝して相手の幸せをも願って、手放そうとしている自分(相手から離れるため)
ご質問ありがとうございます。
これ気付かれてるかどうかわかりませんが、
1も2も「パワハラ上司ともう関わりたくない」意図を発信してません?笑
またこの文章からしか汲み取れないのですが、「逆恨みされたくない」も読み取れますが、いかがでしょう?もし違ってたらすみません。
実際に上に報告するかどうかの判断は775さん次第ですが、まっすぐ意図通りに進んでると思うので矛盾はしてないと思います。
報告後の懸念がちょっと邪魔してるのかなくらいですかね。
パワハラ上司の性格や、報告する上司の考えにもよりますが、ちゃんとパワハラの証拠や同僚の証言もあれば逆恨みにはならないかと私は考えます。
こいうのは準備が大事ですかね。
普通の回答ですみません。
>>777
こんにちは。
連鎖反応とはどういうことでしょうか?
もう少し詳しく書いていただけると何か回答できるかと思います♪
>>780
思考が思考に反応している状態です。
以前は反応に反応した思考に乗っ取られていたんですがあ、思考だと気づくようになりましたが、なかなか執着心がある思考や思考になってないモヤのような感情?とはなかなか距離を取れず、気づいてる方の意識に気付けなくて(自覚ともいうのかも)
なんとなく間違えているような感覚があるんですがどうでしょうか…
>>781
こんにちは。
>なかなか執着心がある思考や思考になってないモヤのような感情?とはなかなか距離を取れず、気づいてる方の意識に気付けなくて(自覚ともいうのかも)
思考と格闘されているようですね…。
わかりますよ〜!
私も何度もそのような右往左往に嘆いたことがあります笑
ちょっと落ち着いて、あることに気付いてみて下さい。
そのあることとは、
「思考や感情と格闘して右往左往いる私」
これです。
思考や感情、また執着をどうにか制御しようコントロールしようとしている自分。
また気付いている意識を探そうと右往左往している自分です。
それこそが本来の自己を見えなくしている「私(エゴ)」の正体です。
文字通り本当に「私(エゴ)」が本来の自己である「今ここ」「場」に現れてわーわーやっていて見えなくしているんですよ。
一旦落ち着いて
「どうにかしよう」
「解決してやろう」
「どうしよ…これじゃせっかく気付いたのに元通りだ」
などのご自身。
つまり「私(エゴ)」に気付いてみると解決するかと思います♪
>>778 さん
ありがとうございます。
>「今ここ」「本来の自己の視点」から、「私(エゴ)」と、その言い分やモノサシについて観てみて下さい。
きっとそれらは、本来の770さん的には取るに足らない(今はそう思えないかと思いますが)思考であり、手放そうと思えば手放せるものであると気付くかと思います。
確かに、空間になる意識(と呼んでみます)になると、思考そのものがただの塊?感覚になり、消えていく気はします。
思考している→空間になる意識 でおさまらないような思考が暴れ出したとき
思考→思考を掘り下げ→ゆるんだところで→空間になる意識 だとスムーズということでしょうか。(それとも掘り下げは必須でしょうか)
>エゴの回答に対して「なぜそう思うのか?」とどんどん追求するように掘り下げていくと、より効果的かなと思います。
「私(エゴ)」の言い分を客観的に知り、原因を観ることも自己観察になります。
こういう掘り下げを何年かしてきたこともあるからこそ、実は、掘り下げても結局根本的に楽にはならなかった、という思いがあります。
だから、思考がでてきたら気づく、(分析もせず)観察して消えるのを見届ける、的な方法だと、いつかすぱっと変わるのかなという期待があったりします。
もし、よろしければ、778さんが、どのようなことをして今の境地に至られたのか、こういった思考分析がキーだったのであればそのあたりを教えていただければとても参考になるのですが…(すみません、自分でやってて挫折した道すぎて、つい本当にこれに意味があるのか…と思ってしまうのです‥‥)
「え!どうやるんだっけ?」と思われたようでしたら、ぜひハーディングの実験を何度か試されてみて下さい。
>>770 での感覚が再度甦るかなと思います♪
まだこちらはかみ砕けていませんが、770も読まさせていただいています!
思考でいっぱいになる時間の方がだいぶ長いのですが、気づけたら一時でも思考や体感が私、ではなく、その周囲のもの、という感覚になるようにしてみています。
778さん、何度も質問すみません!
>>783
こんにちは。
>確かに、空間になる意識(と呼んでみます)になると、思考そのものがただの塊?感覚になり、消えていく気はします。
これですコレ!
思考も現象のひとつですから、物体などと同じように塊として起こっては消えて行くのをただ観る。
これぞ自己観察における思考観察。
その「型」が出来ています。
>思考→思考を掘り下げ→ゆるんだところで→空間になる意識 だとスムーズということでしょうか。(それとも掘り下げは必須でしょうか)
掘り下げを行う理由は、執着している事柄(執着しているからしつこく思考が起こります)の原因、根本を探るためです。
原因を知ると手放されるのですよ。
例えば足の裏がやけに痛いとします。なんかわからないけど痛みがあり不安に苛まれている。
なので足の裏をまじまじと観察してみたら小さなトゲが刺さっていた…。
「なーんだトゲのせいか笑」
みたいに、原因がわかると楽になります。
また「蛇と縄」の比喩でも伝えられていますが、お釈迦様が推奨していた心の苦の手放しのひとつであるのと、また原理的にはセドナに近いなと思っています。
しかし…、
「ホントの根本原因であるトゲは抜かんのかい!」となりますよね笑
その抜くべきトゲが、思考なんですね。
掘り下げて根本理由がわかった。
しかしその根本の理由自体が、起きては消えるただの思考であると気付く。
そこで元々トゲなんか刺さってなかったことに気付くんです。
「トゲは幻だったんだ!」と笑
>だから、思考がでてきたら気づく、(分析もせず)観察して消えるのを見届ける、的な方法だと、いつかすぱっと変わるのかなという期待があったりします。
それも正解です。
向き不向きもありますので、掘り下げがイマイチと感じるなら無理にやる必要はなく、分析しない方法を徹底されると良いと思います。
私もどちらかと言うと分析しないで流す派でしたし笑
ただ人によっては大きな効果があるので掘り下げもお話しています。
続きです。
私の場合はハーディングの実験によって自己観察とは何たるかを知ったという感じですね。
それまで自己観察の基本みたいなのもよくわかってなかったのです。
上記の、「思考は塊」「思考は物体みたいなものだから物のように観る」などのコツもハーディングの実験でわかった次第です。
また「ダイレクトパス」からも多大な気付きがありました。
これはハーディング実験をより追求したものと言えますかね。
その他、自愛、完璧認定、セドナ、アファ、イメージング、各種瞑想などなど、色々やって今があるって感じです笑
なんでも試して検証すると良いですよ♪
ここのカキコで「別の領域」を感じられたかもしれん。ありがとうといいたい!
以下は報告です。
【やったこと】
①_ずっとここでおすすめされていたダグラス・ハーディングの実験をする。
はじめは想像で「こんなの効果あるのかよ」って思ってた。
youtubeを見ながらやると確かに「頭がねえ!」ってなって、意識の変容を感じる。
でも「で?」という気持ちはある。
②_そこで、同じくこのスレでおすすめされていた「思考がどこからはじまるか」を①に
足すことにする。そしてその「思考がどこからはじまるか」を見ている意識(?)を
とらえるようにする。
③_「確かに思考は自分じゃないわ」と気づく。
・頭のなかのおしゃべりもちょっと遠いところから聞いている感じがする。
「こいつメッチャしゃぺるやんけ」と感じるし、そのおしゃべりを止めることも可。
・俺が生まれる前からこの意識(と表現していいのかな。位置?場?)は在った
だろうし、俺が死んだあともこれは在るんだろうな、と実感する。
③_浮かんでくる思考やおしゃべりに対し、>>228 の完璧認定、セドナメソッドを試すと
簡単にポロポロと剥がれる感じがする。
④_いまは前スレの278で激賞されてたので「クオンタムリビングの秘密」を読んでいる。
「別の領域」を感じながら「指が伸びる実験」をしたところ、徐々に指が伸びていく様子
をとらえることができた!「流石にこれはwwマジかw」と笑ってしまう。
ただ客観的には、強い自己暗示が作用したのと、ボンヤリした間接照明だったから錯覚
かもしれんと思う。長さは伸びてた。
【今後の課題】
①_これでいつでも「別の領域」にいける!と思っていたけど、すごく入りづらい時が
ある。多分、何らかの欲やエゴが関係してるっぽい。
そういうときはダグラス〜の実験を丁寧に最初からやることで解消してる。
②_「別の領域」を感じながら本を読むと速読できるかテスト中。本当に単なる実験。
③_精度をあげるために、数息観・内観の悲報・なんその法をそれぞれ10分間することにした。
以前より深い瞑想状態になってる。
④_「願望の実現」とはリンクさせて考えていないけど、想像してないところから結構でかい
仕事の話が来だした。でも、別にそれにこだわっていない感じ。
「すべては完璧のはず」やからね。
⑤_いわゆる「充足」とか「わたし=世界」とかはまだ実感がない。
「あなたは受容能力そのもの」というのはうっすらわかり始めている。
⑥_なので「ほんとにこれが『別の領域』かい?」という気持ちはまだあるww
【お礼】
こんにちはさん?旧wildさん?でいいのかな。このスレで出てくる質問や疑問に飽きることなく
丁寧に答えている様子をみてやる気になったよ。
やっぱりこういった自己観察系のメソッドにはサンガみたいなものが必要で、
このスレが自分にとってはちょうどいいサンガで、よい師(のみなさん)に出会えたと思う。
感謝しておりますです。
>>786
こんにちは。
わわわわわわわ
>>786 を読ませていただきましたが…ここまで真剣に私のお話を信じ継続して取り組まれている方がおられたとは…本当に感激です!!
こちらこそ素晴らしいご報告、ありがとうございます♪
で、本当に別の領域を見つけられたようで嬉しいですね〰!!
【やったこと】を読む限り、しっかりと実践されて気付きを積み重ねておられると感じました!
>・俺が生まれる前からこの意識(と表現していいのかな。位置?場?)は在っただろうし、俺が死んだあともこれは在るんだろうな、と実感する。
そうなんですよー、その「場」です!その「場」「意識」が786さんの本体でして、肉体が滅んでもその「意識」はあり続けます。
その気付きだけでも、現世の重い責任感から解放されてけっこう気楽になりますよね笑
【今後の課題】も、そのまま進まれて下さい。それで大丈夫です!
ご自身で工夫されて検証されてるのも素晴らしいと思います。
速読実験面白いですね笑
根拠はないですが、いけるんじゃないかなと思います!
>④_「願望の実現」とはリンクさせて考えていないけど、想像してないところから結構でかい仕事の話が来だした。でも、別にそれにこだわっていない感じ。
「すべては完璧のはず」やからね。
キマしたね笑
今すごく良い感じですし、私もあまり書くとエゴが介入してくるので詳細は書きませんが、そのまま別の領域に浸ったり追求したりされて下さい♪
どんどんそのようなことが起きてくると思います!
【お礼】につきまして、
私こそいつもお付き合いいただいてとてもありがたく感じているのと、皆さんにとっては本当か嘘かもわからない話にお時間割いていただき、本当に感謝していますm(_ _)m
>こんにちはさん?旧wildさん?でいいのかな。
おっと、誰か来たようなのでこれにて失礼いたします♪爆
そのまま続けられて、ぜひ私も気付いていない気付きを発見していただき、この板で共有していただければ本当に良いサンガになると思います。
素敵なご報告、本当にありがとうございます♪
>>786
QEの指伸びる実験を明るい場所で試した私も指伸びたので
>>786 さんもきっと伸びてますよ
>>787 オウフww達人キタコレwww
いや本当に感謝しています。もちろん、>>787 さんにもそうですし、このスレで質問していた方たちにもです。
自己観察スレを読みはじめのうちは「まーたおんなじ質問しやがって、過去スレよめや」とか「はいはい、ダグラス・ハーディングのあれでしょ、頭のないやつ」とか思ってたんですけどね。
途中で「あれ、こんなに熱心に勧めるってことは何かあるんかも。ちょっとやってみたるわw」と思ってやってみたら、何と!というわけです。あの馬鹿にしていた自分についてはタイムリープして「鳩尾に十七回突きを入れ、六十九回両ビンタを食わしてやりたい」(by筒井康隆)ですわ。どんなに既出の質問でもスレの賑わいのためには必要かもしれないですね。
正直、いずれ悟り系メソッドが自分にとって必要になるとは思っていたんですけど、仏教3.0ムーブメントの顛末をみてげんなりして距離をおいてしまってたんですね。
そのほか、あの界隈の覚者然とした立場での、あまり実生活で役に立たない助言とか。
(実際かわいそうでしたからね。OLさんの切実な問い「職場でいじめられているけど、どうしたらいいですか」に対して「それは幻想です。ヴィパッサナー瞑想しなさい(大意)」とか。まあ教義的にそうだろうけど身も蓋もないし、その答えはいま彼女にとって何の意味もなさないっていう)
それなのに、もういちど悟り系メソッドを信じてやってみようと思ったのはこのスレがあったからで、やっぱり間違ってなかったと思いますね。まさに僥倖、キタコレです。
あとは
【今後の課題】
⑦_「別の領域」にいる者同士が会話したらどうなるか。
はちょっと試してみたいかなw
>>788
ありがとうございます!機会があったらいっしょにいろんな指を伸ばしあいましょうw
>>782 嫌なこと起こる→対処したい→自己観察してみよう!ってスタートから割と意味ないですよね
エゴが自己観察使って物事うまく行かせようとしてるから
>>789
こんにちは。
私は歴が長いだけの一実践者ですので達人はご勘弁をw
>「鳩尾に十七回突きを入れ、六十九回両ビンタを食わしてやりたい」(by筒井康隆)ですわ。どんなに既出の質問でもスレの賑わいのためには必要かもしれないですね。
自分痛めすぎですね笑
既出の質問に関しては、新参の方のきっかけになればと思いあしらわずご返答しています。
おっしゃる通り、それが実践のきっかけになりますしね。
ただやってみないとわからないのがこの世界ですので、いかに実際に実践いただけるかが課題かもしれません。
そう言った意味ではキンズローさんの指伸ばしは掴みとしては秀逸ですよね〜笑
私も指伸びて興奮した記憶があります笑
>仏教3.0ムーブメントの顛末をみてげんなりして距離をおいてしまってたんですね。
そのほか、あの界隈の覚者然とした立場での、あまり実生活で役に立たない助言とか。
仏教3.0というのは初めてお聞きしました!
調べたら仏教のアップデート?的なコンセプトらしいですね。
私は昨今の情報に疎いところありますので教えていただき感謝です。
しっかり読んだ訳ではないのであまり意見はできないのですが、私も実生活で相談を受けることが多く、
お釈迦様みたいに今のモヤモヤを和らげるお話をできるようになりたいな〜と思っています。
それが結果実践に繋がればなと。
(一体私は何を目指してるのでしょうか!?笑)
>⑦_「別の領域」にいる者同士が会話したらどうなるか。
はちょっと試してみたいかなw
昔女性に「ヤダ気持ち悪い!何一人でニヤニヤしてるの!?」って言われたことがあります。
2人でカフェにいたのですが、ひとり別の領域の安心とワクワクに浸っていたんです笑
なので虚空をボーっと眺めたニヤニヤ顔の2人がフフフと囁きながら会話することになるでしょうね!笑
また進捗ありましたら共有いただけると幸いです♪
>>790
こんにちは。
ご質問ありがとうございます。
つまり不足を不足で支えるからということですよね。
例えば嫌なことが起き対処しようと聞きかじりの自己観察をやってみて、「どれどれうまく行くかな?」と現実チラ見する…みたいなのは、結局は現実的な対処とあまり変わらないと思います。
しかし観察のスタートが不足の対処からだとしても、「どうにかしようとしてる私」という対処の大元の根っ子、「私(エゴ)」に気付くと、
すべてがチャラになります笑
チャラって何だ?という話ですが、
例えば夢の中で嫌なことが起きて「メソッドしなきゃ!」という夢の展開になるとします。
夢の中であれやこれやと付け焼き刃ですが色んなメソッドをしたり、潜ちゃんに相談したり笑
まあこれはこれでうまく行ったり、代わらずだったり、逆に悪くなったり…色んな夢の展開が起きますが、自己観察が身につかれている方なら、
「そもそもこれって夢じゃんよ〜!なんだ〜♪」と大前提の土台に気付くことができます。
夢なんですからそもそも何も不安に思うことはない。と言う気付き。
それをチャラと言っています笑
このニュアンスは実際取り組んでみられると「なるほど」とわかるかと思いますので、ぜひ自己観察をやられてみて下さい♪
こんにちは。
上記ちょっとわかりにくい所もあるので補足です。
「何かをやらないとと思うことは結局はエゴ」。
これはまさしくその通りです。
その思考がご自身の中で越えるべきハードルとなり、ハードルを越えないといけないというブロックになるから。そうなると実際にハードルを飛び越えないと進まなくなるのです。
なので「何もしない」を推奨する達人さんも多いのですね。
しかし大体の方は「何もしない」をしようとしても、エゴが騒いで普通採用できないと思います。
そこで自己観察なのですが、
自己観察の実践の場合は、ハードルを自身で置いているというよりも、「ハードルを置いている自身に気付く」メソッドとなります。
確かに自己観察をはじめる動機は、エゴによる「何かをやらないと!」のハードル設置となりますが、
実践によって自分自身による無自覚なハードル設置作業と、その後それに対して対処している自分に気付ける。ということですね。
気付けば自然とハードルはすべて撤去されます。
そこで晴れて「何もしない」が採用される訳です。
有名な「そんなの関係ねぇ!」です笑
昔からそのような疑問はあったようで、私の知ってる界隈では「刺さったトゲ(エゴ)を別のトゲ(エゴ)で抜き、抜いたら両方捨てる」と言われています。
うまいこと言いますね笑
でも思考の元になるデータっていつの間にかキャッシュみたく溜まっていき、いつの間にかまたハードル設置作業をがんばっていることが多いので、私個人としては自己観察視点はずっと持っていた方がいいなと思っています。
>>791
返信ありがとう!ガチ、ありがとう!
いろいろ教えてもらいたいことが出てきたけどバタバタしてるから、また改めて聞くぜ。いいかな?
自愛をやってたんですけど、なかなか上手くできなかったんです。
どうやってやればいいのか、あれこれ調べてたら、ある達人の方が自分自身を自由にしてやることが自愛だといっていました。
なので、自分のしたいように、あれこれ思い悩んだり、感情を爆発させて、自由にしてやりました。
すると、こうやって暴れまわってるのは俺自身じゃない、という考えがふと思い浮かびました。
エゴに集中することで、そいつを見てる自分が逆にくっきりと浮かび上がってきたんです。
おいおい、てことは、そいつを見つめてるやつが、いわゆる自己観察で言うところの観察する立場ってやつかい?マジかよ、となりましたが、どうでしょう。
自愛をやってるつもりが自己観察になっちゃって、少し困惑気味ですが、もう少し続けてみようと思います。
>>794
こんにちは。
私でお話で良ければぜひ笑
私のわかる範囲でですがお答えします♪
>>795
こんにちは。
自愛と自己観察ってけっこう共通点があります。
どちらもまず「私(エゴ)」、思考(想い)に気付くことから始まります。
どちらも自身が無自覚に大事に抱えている観念、想い、ハードルを浮き彫りにし、客観的に気付くことによってそれらが手放されます。
これはセドナも同じかと思います。
無自覚から自覚的に想いに気付くのがこれら手放し系の肝であります。
また自愛は思考を認めますよね。
湧き出した思考(想い)に呑まれその内容に嫌だ嫌だと抵抗したり、
特に打開策もない未来への不安をダラダラと思考したり…。
ということはよくありますが、
それ自体が逆にその思考(想い)を強化し増幅、連鎖させています。
その思考を認めてあげると、
あーでもないこーでもないやっていた思考の一人相撲が止まり、消滅してしまうのです笑
自愛もそうやって思考や「私(エゴ)」を見つめ実践しますので、いずれ自己観察と同じ視点に気付くのは必然ですね。
自愛はもちろん、完璧認定も同じような手法なので継続しているとそうなります。
なので今の795さんは自愛が進んでいると思って継続くしていただいて大丈夫だと思います♪
>>797
ありがとうございます。
同じ方かと存じますが、以前参考にしていたのを思い出し、書き込ませていただきました。
ヒントを書き込んでくれて、大変ありがたく存じます。
>>798
>>798
こんにちは。
いえいえとんでもないです。
以前もこちらのスレ?でお話したかと思いますので私ですかね笑
いつもありがとうございます。
追記で申し訳ないのですが、
自愛は「言葉(思考)」を実践で使いますのでその効果にはアファ要素も多分にあるかと思います。
自身の「言葉(思考)」によるラベリングで区分けして世界を見てますからね。
一旦ニュートラルな視点に立ち、そこで「私(エゴ)」に対してネガティブなラベリングをしていたことに気付くとラベルは剥がれます。
同時に自愛は「愛される私」などのポジティブなラベリングもしていますのでそれ相応の世界を見始めます。
結局は「私(エゴ)」というフィルムが今どのような向き(また108さんですみません笑)を向いているか?に落ち着くのかなと思います。
いろいろ解釈できるかと思いますが、ここはぜひ追求されてご自身なりの答えを見つけていただければと思います♪
>>784
>>785
ありがとうございます。
実践しつつ、思考にとらわれつつですが、とても参考にさせていただいています。
ハーディングの実験
初回→意味わからない
数回→確かに指の先は見えない、頭の感覚はあるけど、それが何か?
というところでしたが
最近、指の先に何もないといいつつ、ほんのうっすらですが自分の顔を思い浮かべていることに気づきました。
まだ頭の中の残像は消せていませんが、無意識に近いところで記憶を頼りにしていたことに気づけてよかったです。
あと、意図するということが気になって、望みをまず、明確にした方がいいのかと思いましたが、意図しないと良くならないという思い込みだったと気づきました。他にもこんな風に、こうした方がいいのかなと思ったことの答えのようなものが、本に書いてあったり。。→以前は、そんなの偶然と思うタイプでしたが、この時は、なんか答えがもらえたような気が強くしました。
まだ、起きてる時間の9.9割は、エゴ思考に支配されていますが、少しでも思考がおさまったら良いなと思います。784さんの頭の中は静かな気がしています。
ご経験をお聞かせいただきありがとうございます。784さんが試行錯誤しながら今の境地に至られたことがわかり、励みになりました。
とりとめのないコメント失礼しました。
>>800
こんにちは。
こちらこそいつもありがとうございます♪
>最近、指の先に何もないといいつつ、ほんのうっすらですが自分の顔を思い浮かべていることに気づきました。
それですね。
それってイメージ、思考ですもんね。
その思考を普段「私」として認識し暮らしていて、それ以外は「私以外」としています。
それがよく言われる世界からの「分離」ってやつなんですよね。
本来世界はすべて意識上に現れている謂わば夢の世界みたいなものでして、すべてがひとつの自己。
そのひとつである自己を、思考認識によって「私」と「私以外」に分けている。ということですね。
その分離から、人生の悩みが生まれているという感じですね。
>意図しないと良くならないという思い込みだったと気づきました。他にもこんな風に、こうした方がいいのかなと思ったことの答えのようなものが、本に書いてあったり。。
「意図しないと良くならない」というフィルターを持っていると、やはり現実もそのように見えてきます。
そのフィルター、認識、観念が「気付き」により外れると、もうそのルールに縛られない現実を見るようになります。
実際にフィルター手放しで現実が変わったという人も多いですもんね笑
>起きてる時間の9.9割は、エゴ思考に支配されていますが、少しでも思考がおさまったら良いなと思います
少しずつで良いと思います。
エゴ思考に支配されている状態は、ある意味夢に入り込んでるってことですが、そこから抜けた別の領域という場所もあるんだとわかるだけでも気楽になりますよね。
私なんかも実生活では色々ありますが、
そこに入ればとりあえずOK♪笑
実際現実もうまいことまとまったり。
そんな感じで生きています笑
もう叶うのが100%難しいとわかっている願望にどうしても執着してしまい、あのとき〜してれば、みたいな思考が出てきて辛くなってしまいます。
願望に対しては絶望感があり、もう人生どうでもいいや、みたいな感じもあります。自己観察を継続していれば、そういった執着や絶望感も楽になるものでしょうか?
>>802
こんにちは。
>自己観察を継続していれば、そういった執着や絶望感も楽になるものでしょうか?
そうですね、思考に巻き込まれず自己観察視点というものがわかってくると、執着や絶望から抜け出せると思います。
執着や絶望を誰が抱えているのか?
というと、思考である「私(エゴ)」です。
正確には、思考が「私」になったり執着になったり絶望になったりと変化しています。
その変化の時間差を繋げて「私が絶望している」と勘違いしている状態なんです。
そこに気付けば、実は自分とは「私」でもなく、執着や絶望を抱えてきた1人の人物でもなく、
本来の自己とはそのような「私の人生」が起こっている器や容れ物のような存在だったことがわかります。
そして器視点で自分の中で起こる現実をただ眺めるだけとなります。
器なので、執着や絶望に影響されなくなってくると思いますよ♪
>>801
ありがとうございます!
多分、そのエゴではない自分を感じることの良さがわかればいいんでしょうね。。
自己観察、続けていきます!
未来を思考しない(未来を不安視してどうにかしようとする)って、不安ですが、今にいる安らぎを見つけられたらなと思います。
801さんの言葉で、あー、そういうことかもー、みたいな、ことが、出てくるようになりました!
また、質問させていただくかもしれません。よろしくお願いします!
>>803
ありがとうございます。実は復縁希望なのですが、もう大分時間も経ち、相手も結婚していると思いますので、諦めた方が良いと思っています。
ただ、無意識に相手のことが浮かんできて、後悔ばかりです。
何か没頭できることもなく、ただ苦しいだけであります。
どう自己観察したら、楽になりやすいでしょうか?
>>805
横で恐縮ですが、自分は自愛が効果的でした。先輩や親などの目線で自分を慰め励ましてあげるんです。
後から冷静になると、思い人を自己評価の材料にしていただけだったと言う気づきが得られます。自分を下げ、責める材料になっていたわけです。
>>805
こんにちは。
何かふとした時にある特定の事柄についての思考に呑まれがち…。
こういうのって何かしらの根っこの想いがあるんですよね。
執着していることがあるとかなり視野が狭窄的になっていますので、まず視野を広げていくつもりでやっていただきたいのが、ご自身で蓋をしてしまっている想いの原因を客観的に観ることですかね。そうすると手放されたり、想いが癒やされたりします。
それで視野が広がるとともに見える側面も変わり、展望が見えてくる場合もありますね。
方法は、
「なぜそう思うのか?」「なぜ?」をしつこく繰り返して原因を掘り下げていきます。
「もうこれ以上掘り下げられません!」ってところまで「なぜ?」で追求していきますが、大きな苦になる原因ほど直視したくない感じがするかなと思います。
無理は禁物ですが、勇気を出して観てみて下さい笑
こうやって見て見ぬふりしていた心の中を客観的に目撃、観察することによって、心の風通しが良くなった感、軽くなった感を感じられると思います。
上の方がおすすめしている自愛も同じ効果があると思います。
「なんや!ただの掘り下げか!」と思わず、まずはやってみていただけると笑
もしかしたら「何度もやっとるし掘り下げもキリがないんじゃ!」と思われるかもしれません笑
掘り下げだけでも効果は徐々にですが現れますし、一応これも伝統的な自己観察のひとつなんです。
また自己観察の場合は掘り下げた先があります。
掘り下げで出てくるあれやこれやの根っこの原因である記憶。
またその原因のせいで苦しめられる「私」。
それら両方とも幻想のような「思考」であるという気付きです。
これで前にも書きましたが、全てがチャラになります。
もし自己観察をされていて、思考を客観視できるようでしたら、どちらも思考であり、そもそも思考に思考を重ねて悩んでいたことに気付かれてみて下さい。
思考の観察がわからないようでしたらまたお答えしますので笑
よろしくお願いします♪
>>806
ありがとうございます。
自己評価のこと、よくわかります!
相手が自分よりも高い存在に見て、その相手と復縁できることが自分の価値を上げることにつながると思っているふしがあります。
自愛って、わざとらしくなりやすいのですが、それでも大丈夫でしょうか?
叶えるためにやっている感じで、本当に自愛していると心から思えなかったりします。
>>807
ありがとうございます。相手に執着する自分の深い思いは、やはり自分または今の状況を認められないところにあるように思います。
相手と付き合うことで、自己肯定感が得られるみたいなものもあるように思います。
>>808
自愛の理由やきっかけはなんでもオッケーですよ。そもそも願望実現のために心をすり減らしちゃってるんだから、そんな自分を見つめてあげるだけでも十分な自愛だよ
これは全てを受容するための一つの手法、道だよ。なんせ本当の自分がいる世界には分離や否定がないからね。全ては自分自身に再会するための舞台装置なんで、悩んだら立ち止まればいいし、疲れたら休めばいいわけ。何かを、誰かを、一番自分を責めないでね
一回観察して距離を置いた思考がまた復活するのはなんなんだろうか。
これらもどうにもしなくてもいいと言われてもしたくなる。
うまくいったと思った現実が結局はダメになるよみたいな思考が湧いてくる。
うまくいかない、こんなうまくいくはずがないって観念なんだろうけど。
それをどうにかしようとするエゴと、膨れ上がる不安と失望感と、いっぱいいっぱいでどうにも出来ん。
>>809
こんにちは。
>やはり自分または今の状況を認められないところにあるように思います。
相手と付き合うことで、自己肯定感が得られるみたいなものもあるように思います。
そうですそうです。
良い感じに掘り下げてるじゃないですか!さらに、
「なぜ私は今の状況を認められないと思うのか?」
「なぜ相手と付き合わないと自分を肯定できないのか?」
などなど、細かく枝分かれしたご自身の思考の土台、普段ご自身を無自覚に突き動かしている隠れた観念、それらをどんどん掘り下げて観ていかれると良いですよ。
途中で直視したくない理由も出てくると思いますが、それが今の苦しみの大元だったりします。
普段日常生活で無自覚に反応してしまうきっかけの現象って皆さんあると思うんです。
その現象を見たり聞いたりすると、ネガティブな思考が起こり呑まれてしまうような、そんなきっかけの出来事ですね。
前述の掘り下げにプラスして、思考に気づくように心がけていると、そんな現象に出くわして思考が起こった際に、
「フムフム、この現象を見たから観念からこの思考が湧いたんだな、それでこの感情が湧いたのか。なるほどね!」
と、自分の反応に客観的に冷静に分析をするようになったりします。
掘り下げによって、ご自身の思考や行動の大元となっているデータを自覚的に気付いたことにより、それに無自覚に呑まれてしまうことを回避できる視点に立つことができます。
今まで無自覚に束縛されていた観念から抜け出せば、今までと違った考え方、言動、行動が起き、それがまたデータの書き換えになりますよね。
つまり現実も変わっていきます。
かなり現実的というか、機械的なイメージで自己観察のお話しをしましたが、実際私達ってかなりシステマチックな存在だなと実践していると思うんですよね。
あのお釈迦さまも「十二縁起システムによってお主らの苦が起こるんじゃ」と言ってますので、やはりそうなんでしょうね!?笑
>>811
こんにちは。
>>812 にも繋がるのですが、
結局は自己イメージが過去の「今までうまくいかなかった自分」という「私(エゴ)」のまま思考を観察されているからかな?と思います。
観察中はそうじゃなくとも、またすぐに思考に呑まれ戻ってしまっているとかですね。
でもこれってあるあるでして、私もそうでしたし初めはそれで良いんです。
思考観察に慣れてきたら、そのまま観察が自分という存在の観察に移ってくると思います。
>>34 や>198>>619 >>756 、
その他にもハーディングの実験等、自己イメージに関する事をたくさん書いてますので、もしよろしければご参考に♪
>>810
ありがとうございます。
自分の場合は、別れたときの辛い記憶や、もし別れずにいたら、こんな生活できていた、みたいな妄想による後悔の念とか、相手に対する少し恨みみたいなものに縛られて苦しいです。
こういった記憶やネガが浮かんできてたときに、「辛かったね、大丈夫?」と声をかけるのが1番でしょうか?他の自愛方法としては、自分にご褒美を与えるとかもあるかと思いますが、今、お金的に余裕がありません。
>>812
ありがとうございます。
「なぜ私は今の状況を認められないと思うのか?」
「なぜ相手と付き合わないと自分を肯定できないのか?」
↓
今の状況を認められないのは、相手と一緒にいたときよりも楽しくなく、結婚している友人とかと比べてしまい、惨めになるからですかね。
復縁をゴールのようにしてしまっていると思うのですが、ゴールするまで自分の肯定感が得られないように思っています。
今書いていて思ったのですが、自分の思考で自分を苦しめているように思います。
たとえば、結婚できない自分が惨めだ、孤独だと思っていたとしても、世の中には、そのように感じない人もいますよね。
自分の場合は、家族や友人が何気なく言ったことや、テレビとかの情報によって、今の自分を悲観的にとらえてしまうように方向づけられてしまっているのかもしれません。それに加えて、自分が悲観的になることで、そういった言葉を自分に対して、より強化してしまっているのかもしれません。
>>815
こんにちは。
>今の状況を認められないのは、相手と一緒にいたときよりも楽しくなく、結婚している友人とかと比べてしまい、惨めになるからですかね。
良い感じに掘り下げてますね!
そのままもっと掘り下げて、気付かれていない部分を観ていかれると良いと思います。
またその通りでして、
過去との比較によって苦が起きています。その比較の元は記憶という「思考」です。
この「思考」が起こっていない寝ている時や、何かに没頭している時は苦はないはずですもんね。
そしてなぜこの思考が起こると苦しいのか?をさらに分析すると、
「私」がその思考を認めたくないという抵抗から苦が起きています。
それなら思考に呑まれない、もしくは受け入れれば良いのでは?ということになりますよね。
「今ここ」、本当のリアルな現実の様子を見てみると、スマホかパソコンを見ているだけで何も嫌なことなど起きていない。
なのに「私」は思考がリアルと感じ、またそれに反抗し格闘している。
それは言わば自身で敵である思考にパワーを与えているのではないか?
ならこの思考を認めて受けいれたらどうなるか?
ということですね。
上で自愛を勧められていますが、検証として自愛もやってみると良いですよ。
>自分の場合は、家族や友人が何気なく言ったことや、テレビとかの情報によって、今の自分を悲観的にとらえてしまうように方向づけられてしまっているのかもしれません。
それに加えて、自分が悲観的になることで、そういった言葉を自分に対して、より強化してしまっているのかもしれません。
素晴らしいです笑
まさにその通り!
良い感じでご自身を観ることができています!
「言葉」とおっしゃっていますが、本当にその通りでして、「言葉」という思考でご自身を方向付けています。記憶も言葉の集まりなんです。
さらに観ていただきたいのが、
思考と格闘しているこの「私」も、もしかしたら記憶であり思考なのではないか?ということです。
記憶を参照しない「今ここ」においては、この「私」は何者でもないのではないはずです。
「私」という思考と、そこから枝分かれした「私の想い」という思考。
それら思考同士が交互に現れて「思考の独り相撲」を取っているのではないでしょうか。
ここを観られると何か変わるのではないかと思います。
「私が思考!?」と思われるかもしれません笑
では「言葉」である思考レッテルが貼られる前の「私」の本質を観てみてそれを確かめてみてください。
そこに気付かれれば、思考がご自身の付属品みたいなものであるとわかり、不必要に巻き込まれなくなるかなと思います。
私の名前は◯川◯美である。
私は◯◯歳である。
私の性別は○◯である。
私の仕事は◯◯である。
私の国籍は◯◯である。
私は人間である。
私は哺乳類である。
私は肉体である。
私は思考である。
…etc
などなど、すべて「私」に思考(言葉)でレッテル貼りして「私」を自身で決めてますよね?笑
そのレッテルも分析してみると過去からの情報という思考であるはずです。
そのレッテルだらけの「私」を基準にし、思考して悩まれているのです。
上記のレッテルを一枚一枚、
具体性の高い名前レッテルから、具体性が低い最後のレッテルまで、イメージで良いので「バリ!バリ!」と剥がしてみてください。
レッテルをしっかり確認しながら「私は〇〇である→バリ!」みたいに笑
そのレッテル全部剥がしたらどうなるか?「もう剥がせません!」という所まで剥がします。
レッテル(言葉)で分離する前の、全部が一緒くたになった「本当のわたし」が露わになるはずです♪
また長い!笑
すみません…。
>>814
これで最後にしますが、
子供の頃にかけて欲しかった言葉がいいかも。
自分の場合は、何いっても嘘っぽく感じたので、黙ってそばに寄り添う感じで行きましたよ。
寂しさって、外に癒しを求めてもすぐにまた元に戻っちゃう。飢餓感から来る欲望の一種なんだと思う。お金やモノと一緒。次なるターゲットが直ぐに現れる。彼彼女と付き合うことができたら、結婚できたら、第一志望に合格できたら、就職できたら、、、これらは人生の通過点であって目的や終着点ではないんだよね。そして王子様とお姫様は幸せに暮らしましたとさチャンチャンとはならない。これは自分の人生、自分に任された命なんだ。外に委ねたり、誰かに任せたりするのは自分自身に対する一番の冒涜なんよ。自分から目を逸らしちゃいけない。相手は自分が創り出した幻影だよ。そこに逃げ込んで、満たされない自分というドラマの設定のためにね。それが嫌なら演じるのをやめれば良いだけだよ。それには自作自演の一人芝居のアクトレスだということに気がつく必要があるけど、どっぷりのめり込んでるんで自分で気が付かない限りはわからない。そこに風穴を開ける手法の一つが自愛。
みんな長いなもしこの板がサーバーダウンするとしたらこのスレが原因になると思う笑
>>818
盛況熱烈歓迎❤️🔥
>>816
横からすみません。
> 「私」は思考がリアルと感じ、またそれに反抗し格闘している。
それは言わば自身で敵である思考にパワーを与えているのではないか?
ならこの思考を認めて受けいれたらどうなるか?
ということですね。
自分は嫌な人について考えながら、対策を考えている気がします。確かに不快ですが、その場で言い返せず、後からこう言えば良かった、次言われたらこう言おう、と言う具合です。
また、仕事のことでだらだら考えてしまっているなかで、アイディアや気づきが生まれることもあります。
→思考し続けるって大事なのではないかと思ってしまうのですが、そうでもないですか?
あと、好きなドラマのシーンを思い出すこともあります。
→これも思考に夢中になっているけど悪いことでもないのでしょうか。
思考に種類はありますか?
思考している時点で、何かエゴが騒いでいると思ったらよいですか?
いずれも、何か作業してたり、テレビを見てたりと、今にいないときに頭の中だけで、だらだら考えていることなんですが、これらを自己観察で、
止めるのも、ひらめきが湧かないのではと不安になったりします。
そもそも自己観察と元祖一式を混同しているかもしれないのですが、別物でしょうか。
思考に気づくということまでは同じなように思い、思考してるなと思うと、完璧とか思って終わらせるようにしてます。
>>820
こんにちは。
>自分は嫌な人について考えながら、対策を考えている気がします。確かに不快ですが、その場で言い返せず、後からこう言えば良かった、次言われたらこう言おう、と言う具合です。
なるほどです笑
ご自身的にそれを苦に感じないならそれでもOKだと思います。
それで突き進む方もいますしね笑
でも大体の方はその思考が非常にストレスになると思います。
常に油断できない、勝たないといけない戦場に身を置いてるような精神状態は消耗しますしね笑
これは人によりますので
「闘いに身を置いてないと生を感じられない!」
「私はズバリ言う人間だ!」
「私は勝たなければならない!」
という方はそれで良いかと思います。
但し、闘いは終わらないのでバイタリティある方のみでしょうかね…。
>あと、好きなドラマのシーンを思い出すこともあります。
→これも思考に夢中になっているけど悪いことでもないのでしょうか。
これは構わないです。
ご自身を傷付けるネガティブな思考に呑まれていなければ心身ともに問題はないですね。
ただ自己観察の肝である「本来の自己への気付き」「創造主の気付き」「別の領域の発見」という点で言うと、見えづらくなるのかな?とは思います。
>いずれも、何か作業してたり、テレビを見てたりと、今にいないときに頭の中だけで、だらだら考えていることなんですが、これらを自己観察で止めるのも、ひらめきが湧かないのではと不安になったりします。
何か作業している時、テレビや本に集中している時、また楽器を弾いてる時やゲームをしている時もある種「今」にあります。
思考が過去や未来ではなく、今の対象にリラックスしつつも釘付けになっている時ですね。
釘付けの時と、だらだら思考に埋もれている時、明確に意識状態が違うかと思いますがいかがでしょう?
また「ひらめき」ですが、
思考で捻り出そうとウンウンしている時よりも、やはりふとリラックスした時や、釘付けの時の方が出るかなと思いますが、こちらもいかがでしょう?
例えば仕事で何か企画を考える際に、上司に囲まれた会議室で「良い案出さなきゃ!」と考えるよりも、喫煙室や喫茶店で雑談交えながら気楽に同僚と話している時の方が「お!その案イイネ〜!!」と妙案が出て興奮してる事の方が多かった気もします笑
まあそれは例えばの話しでして、全部その瞬間を確かめたわけではないのですが、
「ひらめき」という表現通りのものがいつ起こるか?と言う点では、やはり思考と思考を組み立てて起こるものではなく、思考と思考の隙間にポン!っと現れるものかと思います。
>そもそも自己観察と元祖一式を混同しているかもしれないのですが、別物でしょうか。
とても共通点が多いと思います。
無思考になろうとしている時は、必然的に自分を観察することになりますし笑
ただ自己観察の場合は、思考から離れられれば良いので無思考はマストではないですね♪
>>818
すみません!また長くなってしまいました…笑
>>821
>勝たないといけない戦場に身を置いてるような精神状態は消耗しますしね
なるほど、確かに勝たないといけないと思ってました。ただ、理不尽なことを言われた、というのが元々あるのですが...。821さんレベルになると変なことを言われても気にならないですか?
あ、ここで自己観察ですか?何をされても、自己の中に要因があるということ?
>自己観察の肝である「本来の自己への気付き」「創造主の気付き」「別の領域の発見」という点で言うと、見えづらくなるのかな?とは思います。
不快でないが今にいない思考、これも気付けるようにしてみます。
>釘付けの時と、だらだら思考に埋もれている時、明確に意識状態が違うかと思いますがいかがでしょう?
違いますね。嫌なこと(そうじとか、風呂とか)してると、だらだら思考してしまいます。自分に趣味がなく暇な時間があると、そうなってしまいます。
>「ひらめき」という表現通りのものがいつ起こるか?と言う点では、やはり思考と思考を組み立てて起こるものではなく、思考と思考の隙間にポン!っと現れるものかと思います。
自分の場合、嫌なこと言われた→言い返しを考える→相手の論点の間違いに気づく(=ひらめき)→しつこく相手を言い負かすイメージを考え続ける。
書いててもしんどいです。
だけど、だらだら嫌な思い出について考えてるなかで、論点に気づけたりするのかな?と思い込んでるふしがあり、だからこそ、ダラダラ考えることを、手放すのが怖い気もしてます。思い込みですかね?
>自己観察の場合は、思考から離れられれば良いので無思考はマストではないですね♪
なるほど、思考に気づいたら離れる、離れ続けなくても気づければいいということかなと思いました。
ありがとうございます。
思考はしんどく、やめたいですね、、、。
誰か三行にまとめでもらえないかな
>>824
しんどいのが嫌なら止めればいい。
でも簡単にやめられないのは、その苦しさに依存しているから。そこに気がつけばいい。
3行
>>825
ありがとう。このスレは長文でやり取りしないといけない暗黙のルールでもあるのかな
>>823
こんにちは。
>821さんレベルになると変なことを言われても気にならないですか?
あ、ここで自己観察ですか?何をされても、自己の中に要因があるということ?
私もたまにカチンとくることはありますよ?笑
勢いで言い合いになったこともありますが、そうなったとしても仰るようにに後で「相手の何に自分は引っかかったのか?」など、自分の中の拘りを自己観察していました。
大体は「私」を守りたい、「私」を認めてもらいたい、だとか「私」に関わることばかりであると気付きがありました。
ハーディングの実験でその「私」も思考だとわかると拘りが減りましたが、そうなると「相手に何がなんでも勝たないと私が酷い目に遭う!」
みたいな感情もなくなり、結果闘うのではなく、お互い理解し合うみたいな感じになりましたね。
仕事ですと、敢えてその場ではこちらが折れて相手を立て、うまく動いてもらい結果、本来の目的は達成…みたいな考えもできるようになりました笑
以前なら相手をねじ伏せようとしてたかもですね。
そのように、やはりポイントは自分、「私」にあるかと思います。
>違いますね。嫌なこと(そうじとか、風呂とか)してると、だらだら思考してしまいます。自分に趣味がなく暇な時間があると、そうなってしまいます。
ああーなるほどです。
面倒臭いことやってると確かにダラダラ思考が続きますね。
そんな時こそ実践です!なんて笑
でも意識しないとダラダラ思考は続きますので、敢えて掃除の一挙手一投足に集中しながら「心を込めて」やると文字通り意識が釘付けになり、掃除の時間もすぐ過ぎますしお風呂もピカピカになります笑
これって禅の修行、マインドフルネス瞑想と同じでして、元祖一式にも通ずるかと思います。
>だけど、だらだら嫌な思い出について考えてるなかで、論点に気づけたりするのかな?と思い込んでるふしがあり、だからこそ、ダラダラ考えることを、手放すのが怖い気もしてます。思い込みですかね?
ダラダラ思考を手放すのが怖いのは、やはり「私(エゴ)」をどうしても守りたいからでしょうね…。
自身を守りたい一心で攻撃は最大の防御と言わんばかりに相手を負かそうモードになっているのかと。
そうなるとどうなるかと言うと、攻撃の応酬の世界を見ることになります。
仏教でいうと「修羅道」の世界を生きることですね。
それってご自身でも仰っているように辛くてしんどい世界です。
ダラダラ思考だけでも疲れるのに、そこから相手の弱点を見つけため思考している姿は想像するだけでも疲れます笑
でも私も昔そうだったので気持ちはよくわかりますよ。
その思考癖から脱却できれば修羅道の世界から脱却できると思います。
怖いとは思いますが、これは私も経験したことですのですし、認識が変われば世界も変わるは本当です笑
ぜひじっくり自己観察など「私」の抱える拘りを手放すメソッド実践を継続されると良いかと思います。
三行でまとめてみました♪笑
>>827
全レス長文返しって凄いな。さてはあまり仕事してないな笑
こんにちは。
いつもレスが長くて申し訳ありません…。
私もだいぶ書きたいことを書かせていただき、最近は私生活も大忙しになり、レスも冗長かつ鈍くなりつつあるなと思っていましたので、そろそろこの辺でおいとまいただこうかと思います。
たまにレスする時あるかもしれませんが、その際はまたよろしくお願いいたします。
皆さん色々とご質問くださり、お話しさせていただき、本当にありがとうございました♪
ではでは。
>>828
仕事サボってるのバレました!?笑
ありがとうございました♪
こんにちはさん色々と教えてくださってありがとうございました
また時間ができたら書き込んでください
すまん、ワイも長文になってしまいそうや。なるべく読みやすくなるよう気を付けるわ。
ちょっと面白い記事があったから紹介するわ。
URLそのものを張り付けるのは規制されているので以下のタイトルで検索してください。
『「意識」とは一体何なのか?研究者が全身全霊を傾けて説明する!』
【1.前提】
①_先月出版された『意識の脳科学――「デジタル不老不死」の扉を開く』
(講談社現代新書)のパブ(広告)記事です。
②_著者は渡辺正峰という東京大学大学院の准教授。調べると町田高校出身みたいね。
③_GoogleChomeのおすすめで一昨日にたまたま出てきたんで読んでみたけど
このスレにも合うんじゃないかなー。面白かったよ!
【2.内容】
①_この渡辺さんはSFでよくある、意識をハードウェアに移すということを
本気でやろうとしているらしい。一昔前ならいわゆるマッドサイエンティスト
呼ばわりされてるやろな。彼はその研究において意識というものを
“Something that it is like to be(それになる感覚)”と定義している。
そしてその感覚を体感するためには”悟り”を得る必要があるんじゃね?
という認識に至ったようだ。
②_で、自分の受け持っている東大院の講義の中で院生たちを悟りに至らせようとするが”全敗”。
残ってくれたのはのは東大医学部の学生と、九州大学(1年生)からの聴講生だけに
なってしまうという(笑)
③_そして文中でいろいろ「その感覚」になるためにつらつらと方法論を書き連ねている。
④_以下が文中で語られた方法論。
a)コウモリになる・・・哲学者トーマス・ネーゲルが唱えていたそうで、視覚のかわりに
超音波を用いて空間を把握するコウモリのモダリティ(感覚)を 自分が持っていたらと想像する。
b)宇宙人になる・・・地球人とは異なる認識体系をもつ(はずの)宇宙人のモダリティを
想像し、それでいろいろな事象や事物を認識してみる。
c)ライプニッツの実験・・・世界史とか倫理政経の教科書にも登場するあのライプニッツ です。そのライプニッツの「風車小屋の思考実験」というものを
現代版にアレンジしてます。
【3.感想】
①_本文中で意識の変容過程を詳しく描写しているので、もしかするとこれを読むだけで
悟りを得られるひとがいるかも知れんと思いました。ええ、私もかなりの意識の変容を
覚えました。
②_本邦の理系かつ現役のアカデミア(それも最高レベル)でなおかつCS(コンピュータサイエンス)側面から
「悟り」にアプローチする人はいなかったんじゃないかな、っていうことで面白いと思いました(小並感)。
※欧米なら禅を実践していたスティーブジョブズとか、シミュレーション仮説に傾倒しているイーロンマスク
とかいっぱいいますけどねー。
>>こんにちはさん
ええ、マジですか?!
もっと、いろいろ教えて欲しいことがあったんですよ!
ただ、うーん、言語化することの功罪というか。。。
うん、でもちょっとこうなることも予想してたんです。
また気が向いたら来てください。
>>827 さん
詳しく説明していただき感謝してます。
827さんかな、と思われる過去レスも参考にさせていただき自己観察励みます。
もう去られるかもということで、取り急ぎお礼です。ありがとうございました。
>>817
ありがとうございます。
自分の場合は、「優しくして、大切にしてほしい」が自愛になるかもしれません。
>>816
ありがとうございます。
結構掘り下げようとするのですが、なかなか出てきません。
復縁することで、相手に復讐したいのかもしれませんね。
振ったことが間違っていたでしょ!と。
あと、人と自分の関係でみると、勝ち負けに重きを置いてしまっているように思います。仕事や恋愛は、自分が他人に勝ったと思うための手段なのかもしれません。
一方で、相手と仲良くしているイメージもたまに浮かんでくるので、そこは純粋な相手への好意かもしれません。
憎しみと愛情という1番感情を揺さぶられるものだから、苦しいんでしょうね。
こんにちはさん
私もいろいろと参考にさせていただいてます。
またお時間できましたら書き込んでくださいね!
自己観察マスターさん(こんにちはさん)
コメント大変参考になり、お陰様で私の認識も進みました。
時には笑えるようなコメントもあって元気をいただいていました。
レスをいただいた際は本当にありがとうございました。
是非是非またいらしてくださいね!!
こんにちはさんにつっかかる奴もとうとう出てきたか。
かなり具体的かつ的確なレスでかなりの気づきもあったので、出来れば板から離れてほしくないなと思う。
こんにちはさん、いつもありがとう。
自分もこんにちはさんのレスに共鳴するのか読んでて気づきが深まることがあったので
しばらく離れてしまわれるのは残念です
また時間ができたら名前を変えてでも良いのでぜひ浮上してください
わたしはこんにちはさんのおかげで指差し実験見直すことができました。
ずっとピンと来なかったんだけど(だって鼻が見えるからここに何かあるのは確かじゃん、て)、両手使う奴で少し、たしかにここには何もない、みたいな感じに。
いろいろありがとうございました。またぜひ遊びに来てください。こんにちはさんのおかげで長らく過疎ってた自己観察スレが活気付いたように思います。
こんにちは。
皆さん温かいお言葉、本当にありがとうございます!
私の話しを真剣に聞いて実践くださり、本当に感謝しかないです…(ToT)
今回一旦お話を休止することになった要因は、図らずもお仕事でだいぶ上の立場に昇進することになりまして…。
以前のように仕事サボりながら合間に皆さんとじっくりお話しをする時間がなかなか取れない状況になってしまいました笑
急に降りてしまって本当に申し訳ございません…m(_ _)m
それにプラスして、
自己観察が現実逃避ではなく、現実という社会生活を迷うことなく生きるきっかけになるメソッドであることを私自身さらに実証し皆さんにお伝えしていきたいという気持ちと、
しばらく質疑応答をしていて、私自身ここをもっと追求したいという点があり、実践に専念したく休止とさせていただきました。
こちらのスレでは遡ると過去たくさんレスをしており、旧コテではありがたいことにまとめにも上げてくださってますので、そちらも参考にしつつ、皆さん実践でご自身オリジナルの気付きを見つけていただければと思います。
皆さんお身体には気を付けて、無理せずご自身の道を進まれて下さい。
求める気持ちがあれば必ず、必ず道は開けます(^^)
ではでは♪
>>841
ご昇進おめでとうございます㊗️
おめでたい理由だったんですね
認識変更できたら願望らしきものを持たなくても現実はなんとなく上手く行きますもんね
サットサン的な雰囲気でこのスレ好きだったので寂しくなります
今までとても勉強になる話をありがとうございました
こんにちはさん
それはおめでとうございます。こんにちはさんのさらなる実践とそれがもたらす何かのお話をまた聞けたら嬉しいです。私も励みます。
ところで旧コテ、どなたか教えていただけたら嬉しいでーす。
どうしよう幸せにならのが怖いってわかったなんだこれ分からないすっごい怖い、なのに頭は冷静。体はホラー映画見たあとみたいな恐怖。いらそら以上で震えが止まらない誰か助けて
845です。
すみません落ち着きました、読み返すと全く冷静ではありませんね。
自己観察や瞑想をしていたら、ふと、小さな頃は親から愛されていたことを思い出し、直後に猛烈に怒りを抱く私を見てました。幸福であったことを認めたくないんですね。ではどうして認めたくないのかと深掘りしたら
「幸せになりたくない」
分かった瞬間、強烈な恐怖が出てきて取り乱しました。結局私自身が幸せを拒み、なりたくないと願い(思考)、エゴが消えたくないと大騒ぎする。
ここからが未だに分からなくて、私はどうしてこんな恐怖が出てくるのか、幸せを拒むのか、深掘りしようとしても体が震えてしまってうまくいきません。無理に思い出す必要も深掘りする必要もありませんが、この先になにかがあると、これさえ分かれば一歩前に進めるとザワザワが止まりません。どうしたら先に進めるのでしょう……。
誰かご教示お願いします。
>>844
wildさん
マスター中のマスターと昔言われてたよ
>>846
不幸でいた方が安心できる過去があったのでは?
それで出てきた答えもエゴの言い分だから、それに納得はしても呑まれっぱなしにならないよう観察の立ち位置に立ったほうが良いかもね
>>848
ものすごく納得しました。ありがとうございます。
観察の立ち位置から外れるとたまにこうして大暴れすることがありますが、定期的に「私って世界じゃん……!世界は私を愛していたの!!」とディズニープリンセスの歓喜を表現する歌を歌うような感覚になり、降り戻しと戦っている最中です。
もうすこし落差を落ち着かせたい(既に落ち着いている世界にいる)ですね。人生楽しみます。
>>847
ありがとうございます。wildさん、スレが立ってるのは見たことあったけど、覗いたことなかったです。まとめ読んでみまーす。
>>841
こんにちはさん
おめでとうございます!
まとめも読んで自己観察の実践もしていきたいと思います。
穏やかな口調やわかりやすい書き込みをどうもありがとうございました!
私は運良く2年くらい相手してもらっていました。
大分形になってきた感じです笑
菩薩さんありがとうございました!
菩薩さん
ゾルバザブッダ
そして誰もいなくなった
現実に意味などない
でも意味がないとラベリングしてるのも自分
その自分もラベリングされたもの
こんにちはさんが昔wildさん時代に残した面白ポエムが気づきスレにある
全部意味などないけど、自分で意味を付けられるよという点は参考になる
↓
45 : 幸せな名無しさん 2016/12/30(金) 23:09:49
異形の粘土
普段感じている「私」とは何なのだろう?
五感と思考が「私」?
では五感、思考とは何なのだろう?
視覚は目に色が映ること?
聴覚は耳で音を聞くこと?
思考は頭にモヤモヤと感じる声?
では目とは何なのだろう?
色とは何なのだろう?
頭とは何なのだろう?
声は?思考は?
と、このようにどんどんと「私」に関するあらゆる事柄に疑問で追求すると、最後には「私」とは何とも形容しがたい「何か」だけとなる。
実は普段感じている「私」は、
何の境界もないこの「何か」に、五感や思考というラベルを貼りバラバラに分離させている。
それをまた存在の中で個としてひとつに再構築したものを「私」としている。
「私」とはラベル、概念の塊だった。
まるで粘土でヘンテコな物体を作り、それに「この子は私と言いまして〜、この二つの穴は目と言いまして〜、外の風景を見る役割をしてまーす!
そしてここは鼻と言いまして〜、匂いを嗅いだりほじったり〜…」など役割付けを細かくしてるかのように。
常にこれらを瞬時に成し遂げている。
「私」が概念なら、「私」が見て感じている「周りの世界」も概念。
外も概念、風景も概念、他者も概念。
外が概念なら時間や距離も概念。
そして概念も概念。
これも存在をラベリングで分離させ、外と内に切り離した。
全部自分で「そういうものである」と決めてるから、それを基にした世界が成り立っていたのだ。
自分は神だった。
もし第三者の神的な存在がいるとしたら、その神から見たこちらの世界は「異形の土塊」の何物でもないだろう。
「隣の神は粘土で気持ち悪いヘンテコなもの創って、名前とかいうものまでつけて遊んでるよ…」と第三者の神は思うに違いない。
しかしこの自分からしたら立派に意味のある粘土。
「私」を含めたこの世界は、概念に概念を塗り重ねて自分の中で成り立たせている異形の粘土だらけの箱庭みたいなものと言える。
そうなると「叶う」も概念。
願望が叶うって何なのだろう?
「頑張って欲しいものを手に入れること」だろうか。
単純に「欲しいものが手に入る」だろうか。
それとも「メソッドによって私の内面が変わり、棚ボタ式に手に入ること」だろうか。
自分でどのように「叶う」という言葉にラベリングしてるだろうか。
これらの言葉すべてがラベルであり、自分で粘土をこねてそれにストーリー性を持たせた粘土細工だ。
「叶う」の言葉自体がそもそも自分でラベリングした概念であり、「渇望するものが悲願の末にようやく手に入ることが叶うである」とさらに細かくラベリングしている。
またそれは、
「願望を叶えるとは非常に難しく、もしかしたら叶わない。死ぬほどの努力が必要ストーリー」も勝手に成立していることにもなる。
ラベルがなければ叶うも叶わないもなく、そこにはただの粘土しかない。
逆に言えば、ラベリング次第なのだ。
現に今も様々なラベリングを粘土に貼っている。
今、目の前の粘土を「画面」とラベリングし「画面とは🌕🌕である」とさらに細かくラベリングしているのも自分だ。
そうして今この瞬間にも自分の箱庭を成立させているはず。
粘土は目前に「既にある」。
そこからどう粘土を形創るかは自分次第なのだ。
ID:PBCbmMLI0 返信
自分がいなくても幸せに生きている好きな人がムカつきます。なんで自分はこんなに苦しんでいるのに、相手はのうのうと生きてるのか不思議で仕方ありません。ただ連絡して会ってくれるだけでいいのに、何故こんなに執着しててうまくいかないのでしょうか。もうこんな状態が3年以上続いてて苦しいです
>>856
執着してるから上手くいかないのでは?
あなたはその人の何なの?その人はあなたの何なの?
>>856
苦しんでるのはあなたそのものではなく、あなたがこれが自分であるとしている思考が苦しんでる
なので思考とあなた本来が別物であることを知れば楽になるよ
>>858
そうね。引き剥がさなくちゃ。
でも執着が糊になってくっついてる
>>859
ううん、本来のあなたと思考が執着でくっついているのではなく、あなたがあなたと思っている記憶の中のあなた、それと思考がくっついているんだ
引き剥がそうとしてるあなたは記憶であり思考じゃないかな?それは本来のあなたではないんだ
一見難しそうな言い回しだけど、そうとしか言えないかも
>>858 ということは本当の私は相手のことがすきじゃないということ?
思考が相手のこと好きって勘違いしてるってことですか?
>>861
857です。ヨコですが、
相手があなたをどう扱っているかによって自分の価値を量ろうとしているので、本当の自分を見失っている状態なんじゃないかと
あなたはあなたであり、誰かの何かという属性に関わらずその存在は揺るぎないもののはずだけど、そのことを自分で認めていない。その軋轢が来ているのだと
>>862 頭では理解できるのですが、要するに自己肯定感が低いってことですよね。1人でいても楽しくできる方法ってあるんですかね
うーん、ここ自己観察スレなので自己観察しよう
他のどのスレよりも具体的な方法が書いてあるので過去レスをよく読むといい
>>863
楽しみを外じゃなくて内に求めればイイよ。
そもそも何で楽しみを求めるの?
自己観察というか内省してみれば
こんにちはさんはもう見てないかな。
自己観察スレで幾度となくお世話になった者です。
エゴから離れる、エゴの嘘に乗らない、などひたすらエゴの外に目を向けて実践していました。
かなり困り果てた状況だったんですが、仕事で必要な起業の為の資金が数百万入りました。
ここで自己観察について色々とアドバイスしてくださったこんにちはさんにありがとうございましたと伝えたいです。ありがとうございました。
>>866
すごいね
自己観察を実践してたんだろうけど、エゴから離れて別の領域に浸るをやってたのかな?
>>867
思考を観察していたんですが、それでエゴと離れて冷静になれる癖がつきました。
大変な事が起きた!とかそんな事したらこんな酷い出来事が起こる!ってエゴが大騒ぎした時に、ああ、どうにかしようとしてるな、別に一緒になってどうにかしようとしなくてよかったんだった。と思い出して離れる感じです。
どちらかというとハッ!!さんに近いかもしれません。
>>868
基本中の基本だけど、それ継続して結果出してるからすごいよね
エゴと離れた立ち位置で安心したってことは、別の領域に浸ると同じだね
やっぱり意図をブロックするエゴに呑まれず、意図通りに進めば良いってことなんだろな
ありがとう
自分の中に自我があってそれが孤独でどんどん大きくなってる状態です。彼女もできたことがないのでそれがかなり大きいです
孤独感や寂しさで死にそうなくらい辛いです。
好きなことも好きな人もおらず、人生の目的もありません。
自己観察して別の領域に行くと、何故か胸が痛くなります。頭は楽になるけど、身体は痛い感じです。
とにかく辛い、、どうしたら良いのでしょう
>>871
それ胸の奥底かもしれないけど別の領域じゃないよ?
閉塞感から脱出するには気分転換が1番よ
世の中、人生の目的持ってる人なんてごく少数だし、好きな人に至っては別に生きていく上で関係ないんじゃないのかな。
心に寂しさを埋めるために常に好きな人を作ってそこに没頭してる人いたけど、それって寂しさが倍になるだけのような気がする。もしくはDVされたりね。依存症になっちゃう。
自己観察の効果はそれとは真逆だよ。
>>872
ありがとうございます。
気分転換もたくさんやりましたが、本音では一人でやっても寂しいです。
よく、自分一人でも楽しく、、って言われますけど、本音ではやっぱり苦しかったことに気付きました。
これも自己観察の一つだと思うのですが、キリが無いくらい次から次へと出てきて、ますます苦しくなりました。
>>871
辛いなら辛い辛い…とアファしたらどうでしょうか?
辛い…という私の在り方が辛いを叶えている。
苦しい…という私の在り方が苦しいを叶えている。
ある程度続ける必要はありますが、在り方次第でなんでも叶う、私の在り方が叶っているって気づけるかもしれません。
自己観察さんのdoではなくbe
バシャールの状況は問題ではない、私の在り方が問題だ
なるはなるだけ
とかその辺の感覚が分かるかもしれません。
>>873
なぜ自分1人だと苦しいんだろうか、、、
人はこの世に生まれ出てきた時も一人、そしてこの世をさる時も一人
この世の全ての人達は皆同じです
もちろん、大事な人を失った時、大失恋の後、親の愛を受けられなかったという積年の思い、これらが簡単に癒えるとはいいません。これらも大なり小なり通って行く道ですので、悲しみや苦しみに寄り添うことはできます。
しかし、ここは匿名掲示板なので一般論を言います。
あなたには「あなた」がいます。その存在ははじめからあなたとずっといっしょにいました。そしてこれからも居続けます。その存在は、唯一絶対にして全てであり全体であるものです。
その存在がなければ、あなたは朝起き上がることすらできないのです。
だから、安心して楽しめばいい、安心して苦しめばいい、安心して生きればいいのです。
これが全ては完璧であるということの理由です。
あなたは全体でありかつ全体の一部でもあるというパラドックスの中で生きています。しかし今あなたの心の針は、分離に振れている。だからあなたが全体の方に目をむければいい、空を見上げればいい。
「在る」はあります
>>871
寂しいも恋人がいないもそれはエゴの嘘だよ。
自己観察は淡々とエゴの嘘を見破って別の領域にいた事を思い出すためのメソッドなので、辛くなったならそのエゴから離れてみてください。
>874、>875、>876さん
871です。それぞれ早速の、鋭くも温かいお返事ありがとうございます。
こうしてレスをいただけていること自体、孤独ではないし、恵まれていると実感しました。
まずはそのことに感謝の気持ちでいっぱいで、御礼申し上げます。
そうそう、潜ちゃんのみんながいるじゃん
たびたび失礼します。871です。
>874さん
そうですね。辛いと認識しているのは私ですね。。
認識の変更スレで聞くべき質問だったかもしれません。
>875さん
「わたし」がいつも一緒、というのは確かにそうですね。
「自己観察」って、観察する対象が「私」ではなくて、観察しているのが「わたし」であることに気づきました。
それと、寂しい理由を突き詰めて考えてみると、感情を含む体験を共有する相手がいないからだと気付きました。
でも、仰る通り、「わたし」が気づいてあげればよのかな。
これも自愛スレで聞くべき質問だったかもしれません。
>876さん
エゴに巻き込まれているとはアタマでは分かっているのですが、感情パワーに負けています(涙)
自己観察にはかなりエネルギーが要るなと感じています。
でも、皆さんのおかげで孤独感とは一体何か、考えるようになりました。それ自体が客観的に見つめるきっかけになり、結果的に自己観察になったかもしれません。
改めてありがとうございました。
>>878
そうですね!ありがとうございます。
>>879
>>>879
ヨコから失礼
>エゴに巻き込まれているとはアタマでは分かっているのですが、感情パワーに負けています(涙)
自己観察にはかなりエネルギーが要るなと感じています。
ヨコから失礼
>876さんが言ってるのは、その感情をどうにかしよう、エゴをどうにかしようと格闘してる自分に気付く
それがエゴの嘘に気付くってことじゃないかな?
エゴという自分の1人格闘ゲームに気付き、気付いたことでそのゲームから一旦降りることができる
「ああなんだ、自分が自分を抑え込もうとしてたわ」と気付いた立ち位置が別の領域だね
トリをミスってすません
でも他人に感情を共有しないで自分だけで完結することってできるのかな?
ひとりで解消できないから寂しいのに、ひとりで解決することってできんのかな。
みんな友達と遊んだり、恋人を作ったりするのって寂しいからだと思ってるんだけど。ひとりで寂しくないなら死ぬまでひとりで生きていけばいいし。
この孤独感が解消されない限り恋人とかはできないってことなのかな。
ひとりで孤独感を感じない人間になりたい
>>881
そういうことです。
いまだに私も巻き込まれるけど、気付いたらもう何もやる事ないので都度気付いて離れて却下する。淡々と
>>883
>でも他人に感情を共有しないで自分だけで完結することってできるのかな?
他人に感情共有する、という体験自体はとても素晴らしいことで、身体を持って生まれてこないとできない貴重な体験だと思います。
ただ、そのことと1人では寂しい、寂しいから誰かと一緒にいたい、というのは別かなと思います。
そもそも人が孤独を感じて外側に向かってしまうのは、〈本当は自分の中に全てある〉という真実を忘れて
「自分は足りないし、孤独だ」という感覚があるからで、そうじゃなくて内側に全てあったし、何よりも自分が自分の声を聞いて欲しかった、気持ちをわかって欲しかった、と気づいた時、他人はダミーだったことにも気づきます。
そして本当は孤独ではなかった、と気づいたり、自分の孤独の声に本当に耳を傾けてあげた時、人生のパートナーが現れた人をたくさん知っています。
だけど、「孤独感が解消されない限り恋人はできない」という新しい思い込みをつくる必要もないけど。
解消されたら多分楽にできるし、そうやって出会った人とは付き合った後もうまくいく、という感じ。
ここまでは潜在意識の話ですが、
現実的にも寂しい同士が寂しさを埋め合うために付き合ったり、満ち足りている人と寂しい人が付き合ってもなかなかうまくいかなくて、結果的により寂しさを増す体験になったりすることが多いんじゃないかな。
まずは
>ひとりで孤独感を感じない人間になりたい
の前に、寂しいって感じてる内側の声に、親身に耳を傾けてあげるのがいいかも。これは自愛ですね
自己観察的にはただ寂しさに気づいて、その寂しさは自分じゃなかったって気づく。でもこれは寂しいと思ってる時にはなかなかできないかも?
自愛の手前で、誰かに寂しいって話を聞いてもらう(カウンセラーとか友だちとか)のもいいかなと思います。
万策尽きた。誰かに最後に質問したい。
自己観察の観点から、自死とは悪いことだろうか?
エゴに飲まれ切ったのだろうな、自分にはもう答えが出せない。
>>886
質問の答えにはなりませんが…
死んでもいい、と思われるなら、死ぬ前に、あらゆるところに助けを求めてみてください。絶対に死ななくてもいい方法があるはず。
というか、死ぬしかないってって本当でしょうか。
死なないと助からないって本当でしょうか。
>>887
お気遣いありがとうございます。
ずっとギリギリでしたからね。別の領域らしきものも垣間見ました。確かに素晴らしいものでしたが、ちょっと私には分かるのが遅かったかな。
そのあとのエゴの揺りもどしも凄くて耐えられないので、いろいろ諦めようと思いました。
いまは死の訪れを感じて、恐怖で震えてきたので、最後に一番きになっていたことを質問してみようと思った次第です。
管理人様、お目汚しですね。申し訳ありません。私のレスは削除していただけると助かります。
>>888
横から失礼します。大変お辛い思いをされてきたんだと思います。かくいう私も、この10年大変辛い日々を過ごしています。
いっそ、このまま〜と思うときもありますが、まだ生きていこうと思っています。
888さんにも生きていてほしいと思います。
生きていれば、良いことがあるとは言えませんが、888さんなりの、この人生における生きる意味があると思います。
ちょっとご自身への視点をずらして、他者に関心を向けてみられてはどうでしょうか?
せっかくなら、自分の人生を他者のために使ってみるのも一つの考えかもしれません。
888さんの心が軽くなって、穏やかに過ごせることを深く願っています。
>>886
自己観察の視点に立てたなら
自死自体を考えないのではないでしょうか?
万策尽きたとは現実的な行動も出来る限りやったという事でしょうか?
>>886
将棋の大山名人の言葉「助からないと思っていても助かっている」
>>886 さん
まだ生きてる!?
自己観察的には、◯んだら無になる楽になる、、、とは限らないよ!?
肉体が滅んでも、気付きがないとエゴは残り得るのではないかと思ってる。
だからお坊さんは葬式で般若心経あげるわけだし。
かつ自◯は本当は生きていたいの倒錯。
その強いエゴが残ったままだとそれこそ後悔しながらフラフラ迷い続ける存在になっちゃう恐れ大。
間に合うならまだ生きててほしい。
>>888 私もまったく同じ状況ですね。既にあるをもう少し早く知れたら、手遅れにならなかったのかもしれませんね。もしかしたら取り戻すこともできるのかもしれませんけど、自分にはエゴに飲み込まれ過ぎてもう取り返す気力もないです
自分が不幸になると周りも不幸になるので、もっと自分が幸せになる努力をすればよかってたなって思います
自己観察的にどう思うかって自己観察的には今言ってる危機的状況や焦りや失望は嘘ということになるので結局その嘘から離れるしかないって答えになるよね。
まあでも難しいと思うので書き出すのもおすすめ。何も考えずに書きまくって出し切って楽になるために瞑想することをお勧めします。
そうだね、結局「ない」と今の状況を判断しているのはエゴである自分自身
そこに気付くと、あるない良い悪いなどの判断が無効化してしまう
ここが別の領域だけど、この視点で現実の展開をただ眺めるだけになると思う
こう書くと「それやると叶うんですか?」とまたエゴが騒ぐんだよね
その騒いでるエゴに気づいて、叶う叶わないと結果をコントロールしようとするエゴから抜け出そうということ
>>886
できるだけこういうのには関わらないでおこうと思ったんだけどたまたま通り過ぎたのと大チャンスな状況でしかないからお告げにきた!
(他にも誰かの勇気と希望につながりますように!)
人生終わったと思ったときがほんとに大チャンスでしかない。
私自身もそうだったし、達人さんのまとめとか見てても無職になってとか借金あってとかいろいろエゴからみたらヤバい!人生終わり!みたいな状況からだんだん認識の変更に至ってしあわせを感じたり現象化したりしてるよね。
(嘘だと思うなら達人さんのまとめ動画全部見てみて。)
だからわざわざ◯ななくていいから
人生のあらゆることをあきらめて。
もうむりです〜。こうさーん(降参)!!!って。
そしてただ在るだけでいい。
あとさ…
>>888
>>894
もだけど
エゴの揺り戻しがすごくて〜とか
エゴに飲み込まれて〜とか
気づいてる立ち位置にいるのは誰よ⁈
少なくともエゴじゃないよねってことには気づこうぜ‼︎‼︎
つまりエゴに飲み込まれてもいないし一体化してもいないということ。
ということで
なんでもかんでもエゴのせいにしてんじゃねぇ。
エゴと一体化してないのに、あたかも一体化したフリして不幸を演じてる自分に気づこう。
エゴはなくならないしなくそうとしなくていい。
相手にしてエゴのせいにして不幸を演じるのも
相手にするときもあるけど採用せず幸せでいることを選び続けるのも
自分で選択できるってことを思い出そう。
>>898
そうだね
自分の作った不幸な腹話術人形が、自分自身と思い込んでしまってるんだよね
本当の自分は腹話術師の方なのに
完全に人形になって物事を考えてる
本当は腹話術師だからこそ、人形を眺めることができている
人形は人形自身を見れないもんね
>>899
うんうん。
その例えわかりやすいね!
>>898 いやエゴは自分自身じゃないというのはまとめとか見て理解できているのですが、どうしてもそのエゴの声が強すぎて引っ張られてしまうんですよね。別に不幸を演じてるとかじゃなくて、負の感情にひっぱられてしまうというか
>>901
ん?
負の感情に引っ張られたら何かいけないのかな?
>>902 頭も痛くて、気持ちの良いものではないので、なるべくだったらこの時間を少しでも減らしたいです。昔に比べてどんどんその時間が増えているので。
あとエゴがやってきた愚行って取り戻すことできるんですかね。
上の人生を終わらせようしてた人もそれができないから絶望を感じてるように見えるんですが
>>903
>>904
スレチになってる気がするけど…
頭痛くなったりひどくなってるなら自己観察とかやめたらいいんじゃないかな。
苦しいのになんでそれやってるの?
その不自然さにまず気づこうよ。
不快なら本来の自分と一致してない証拠だよ。
自分が大事なんだからちょっとでも合わないと思ったらやめる勇気が大切だよ。
達人さんや他の願望実現してる人の体験談をおなじようにあなたがやってみても効果があるわけでも合うわけでもないし。
自分に合うことやってこー。
>>905 あ、ごめんなさい、自己観察をやってなくてもこのような状態だったので、もう快の方向に向けなくて限界を感じてました。確かに自己観察で解決できないからスレチではありました。とりあえず自分のことを必要としてる人がいるということを信じて、死なないように生きてみます
>>906
自己観察すらしてないんだね。
ならやってみるのもありかもね。
自己観察もできなかったら感情感じ切るだけでOKだよ。
あなたの場合は苦しい感情を感じないように抵抗して苦しんでるみたいだから。
苦しい感情も感じ切ってあげてね。
>>906
あと快の方向むけないー!ってそのままの自分をゆるすことが快の方向に向けるきっかけになるよ。
不快な方向いていいんだよ。
そのままの自分を認めてゆるすんだよ。
ゆるせなかったときに
「あ、自分快な方向こうとして向けないーまた苦しんでるなぁー。」って自己観察するんだよ。
>>898
これめちゃくちゃいいレスだな
自己観察スレは本当良スレ。
本当やる事なくなっちゃうよね
>>909
お〜ありがとね、書いてよかったよ ´ ꒳ `
>>907 自分は恋愛において傷つきたくないって感情を優先してたら孤独な人間になってしまいました。やっぱり人は傷つかないと生きていけないものなんですかね?
>>911
ヨコだけど、傷つくか傷つかないかは人によるし、その傷の深さも人によるよね。
全然平気な人もいるしさ。
私はダメージ受けやすくて傷も深くなりがち、だから逃げているということだよね?
過去のある出来事から、その私という思考を過度に守ろりたいがために逃げる方向の生き方になったんだろね。
それらの経験から今の私という思考が毎度起きていていることを自己観察で気付き、その思考が状況を解決しようともがいていることを知る。
そこに気付くと、幻想を何とか解決させようとしていたことに気付き私に振り回されにくくなるよ。
メンタルやられやすい人の特徴は、具体的な解決策のないことをぐるぐる四六時中考えてしまいがちな人、というのは納得。
自己観察でネガティブ思考に気付き眺めていると、思考が流れ晴れてきて「今」だけが残る。
そこに留まるようにしてる。
それでも「ぐるぐる考えなくて大丈夫なのか?」とエゴが囁いてくる笑
コイツも観察して呑まれないようにすると心が軽く楽だ。
>>911
久しぶりに来てみたらレスついてた。
レスありがとう〜
私は普段ここにいるわけではないので次質問いただいたりしても回答できないかもです。
それをお伝えした上で、
>やっぱり人は傷つかないと生きていけないものなんですかね?
→これは2つの方向からの回答がある。
>>912 さんが書いてくれている通り、
そもそもいま孤独なのとか恋愛がなんかうまくいかないとか(あとたぶん素直に自己表現できないとか)あるだろうけどそもそもそれをなおさないといけない、解決しないといけないということ自体が虚構だからどうにかしようとしなくていいよ。
私からの回答のまとめとしては、傷つく→癒すこれ自体が人生での学び、魂の成長だからそもそも傷つくことを避けては通れない。
1つ目の方向からの回答は、あなたが「やっぱり」と思う時点で、これからの日々で自分が傷つく視点からしかできごとを捉えない=傷ついたと感じることがより日常で増えていくだろう。
私もそうやって生きてきたから世界で安心して生きられない感じ、そして人と接して傷つきたくないからこそ関係を回避する感じ、わかるなぁ。
でね。もうひとつの方向からの回答は、
人生で誰しも傷のタネを持って生まれてくるからそもそも傷ついて傷を自覚していやすこの一連の流れが人生でやることなんだよということ。
このあたりは人生の課題と言われるやつ。
この傷が深ければ深いほど、エゴの錯覚、認知の歪み的なものは強まる。鋭く屈折する感じ。
でも、この傷を癒していけば、エゴの錯覚=恐れも弱まってできごとをそのまま捉えられるようになる。
傷つくことがこわいのは人間誰しもあって、毎回同じようなパターンで傷つきたくないからこうする!みたいな行動パターンがあると思うんだ。
避けたり、依存したり、復讐しようとしたり、裁こうとしたり、いろいろ。
その行動パターンに気づいて、
そうすることでどう感じることを避けたかったんだろう?
と自分の内側を見つめることでエゴが必死に隠そうとしている傷がみえてくるよ。
>>911
あ〜。
あなたに書いた回答がそのままいまの自分へのメッセージになってた。
質問ありがとね。
人生の試練とか、恋愛は傷つくものとか考えてるのはだれ?って観察するのが自己観察では?
51歳、未婚、仕事はしているけど辛くてたまらない、もう人生に不安しかなく、何の希望も見出せません。
こんな自分も観察していれば良いのでしょうか。
不安で押しつぶされそうです。
>>917
こんにちは。
51歳、未婚、仕事辛い状況なんですね。
これを書かれているということは、「こんな状況だから私は不安」ということを仰りたいのだと思います。
が、不安の原因はそこではなく、
その思考です。
過去に「老齢の未婚者は悲惨」という情報をインプットし、その情報と自分を比較して思考が「やばいやばい!」とあなたを責め立てているのでしょう。
本当にやばいかどうかはその時にならないとわかりません。
もちろん、将来に向けての準備のために動くことは大切ですが、過度な不安で自分を常に責め立てていては動くこともままならなくなってしまいます。
なので、
その不安の大元である思考を観察し、思考と自分は同一ではないことをまず知りましょう。
反応からただ起こっている思考を、
自分そのものであると思っているから振り回されるのです。
思考とは、
ニコ動に流れるコメントのようなものであるとイメージして観察、流して行きましょう笑
コメントが流れ切ったところの「間」に常に在るようにし、コメントが流れたら意識してコメントを観て、流して行きます。
観ている間は同一化していないはずです。
その中でこれはと思うコメントがあったらそれをチョイスし行動に移して良いと思います。
さて、多くの方がそうかと思いますが、
「将来不安だ」思考は実際その将来になった時、また別の不安を見つけ、また「将来不安だ」を死ぬまで続けます。
実際そうではないでしょうか?
私も20代の時は「将来不安」でした。
そしてその将来である30代になった時、やっぱり「将来不安」でした笑
それはいつも未来に思考が飛んでいたからなんですよね。
「今ここ」に意識を置いてみると、何も不安なことなどないのにです。
思考と同一化していると、本当のリアルである「今」を疎かにしがちなので、ぜひ思考との同一化を断った視点というのを知っていただきたいなと思います。
思考とはニコニコ動画のコメントみたいに流れていくもの、なんかすごくイメージしやすい!ありがとう!横からごめん。
>>918
丁寧なご回答をありがとうございます。
そうですね。不安癖が問題なのだと思います。
不安で動けないのもその通りです。
頭では「これは思考だ」と、不安と一体化しないように頑張っているのですが、少し疲れてしまいました。
一体化に身体が慣れてしまったようで、朝も目覚めとともに不安による不快感を身体で感じます。
感覚的には、自分の世界が不安でいっぱいになってしまい、楽しみや喜びの入る隙間が無くなっている感じです。
ニコ動のテロップ...なるほどです。
そのテロップとテロップの隙間にもう少し意識を置いてみます。
>>919
こんにちは。
久しぶりにレスしましたが、ヒントになったようで私も嬉しいです笑
こちらこそありがとうございます♪
>>920
こんにちは。
コメントではなくテロップって言うんですね笑
ありがとうございます笑
そのテロップが流れている間は気付きにくいのですが、テロップとテロップの「隙間」こそが本来の920さんが露わになっている瞬間なんです。
今までテロップこそが自分と思い込み、テロップの内容こそ真実であると振り回されていましたが、テロップが無い「隙間」も、自己はありますでしょ?
ということは、テロップが920さんではないことが判明しました。
その「間」「場」「空間」「まっさらなスクリーン」が本来の自己であり、そこに世界が現れている。
そして思考、感覚、肉体などの「私と思っていたもの」もそこ現れているのです。
本来の自己は空っぽな器みたいなものですが、そこに現れる思考、感覚、肉体を自分だと思い込んでいるため、老いを恐れ、死を恐れ、幸せを掴みたいと渇望に苛まれるということですね。
同一化しないように頑張る。
それに疲れたのでしたら、「同一化しないよう頑張っている私(エゴ)」が器内に現れていることに気付いてみて下さい。
そこに気付くと、頑張る私から自然と離れられると思います。
ではでは。
こんにちはさん
こんばんは!
何回か過去に質問をしてアドバイスをいただきました。
こんにちはさんの過去のスレやまとめなどを読み実践するうちにエゴから離れる事ができて「全てある」「今しかない」「ワンネス」などを体感する事ができるようになりました。
お礼が言いたくて書き込みしております。
本当にありがとうございます!
でもここ数日エゴエゴになってしまった事があるせいかエゴと離れても「何もない空間」しか感じられなく「全てある」などを感じられなくなりました。
こんなもんなのでしょうか。
>>922
どうもありがとうございます。
私はずっと恐怖をベースに生きていたようです。
何に対する恐怖かというと、自分は何者でもない、ということを受け入れる恐怖です。
空白、ゼロ、それが怖いのです。
それを埋めるためにこれまで頑張ってきましたが、頑張っても頑張っても、埋まらないどころか、ますます乏しくなっていきました。
仕事も、健康も、人間関係もない人生に意味を見出せず、「何もない自分」になるのが死ぬほど怖いのです。
テロップとテロップの隙間の空間が、怖いとも言えます。
自分はまだそうした「空白」に安らぎを感じたことがないのですが、それはまだ、何かと一体化しているからでしょうか。
>>923
こんにちは。
わお!すごい!!
923さんも体感されたとは!
こちらこそ真剣に私のお話を実践いただき、本当にありがとうございます。
ご質問についてですが、
そんなもんです♪笑
いえ、一度それを目撃していますので、どこか前とは違う安心感が根底にはあるかと思います。
その状態なんですが、
「あの経験をもう一度」状態でして、エゴが初めての気付きの際の衝撃を再度求めている状況ですね。私も経験していますし、あるあるみたいです笑
結局、感動や衝撃というのも、思考や感情などと同じく永遠に続くものではなく、時間が経てば消えてしまい、慣れてくれば再度経験しても大きな衝撃は起こりません。
それをまた経験しようと執着されると逆方向ですね。ただ、さらに新たな気付きがあったりすると衝撃があったりはありますけども。
大事なのは、そのような感動や衝撃が起こることのできる「場」「器」「まっさらスクリーン」がいつもここに在る…。
ということを再認識されると良いと思います。
そして「何もない空間」と仰っていますが、そこは「虚無」ではなく、何もないからこそ全てが起こることのできる無限の「空(ゼロ)」の空間であると捉えられると良きかと。
最初のような大きな感動はありませんが、再度ハーディングの実験など実践されると良いかと思います。
何度も実践し定着すると、すぐにそこに戻れるようになります♪
>>924
こんにちは。
空白が怖いというのは典型的なエゴの主張かと思いますよ。
「何かやらねば」
「何かを得なければ」
「何かに成らねば」
「何か成し遂げなければ」
などなど、
常に空白の自分を何かで埋めるために追い求めている不足状態かと。
「空白になったら私は大変なことになる!頑張らねば!」と。
私たちは物心ついた時から、「何かに成りなさい!」と言われ続けてきました。「そのままのあなたではダメ!」って言われて来ましたよね?笑
でもそれが過去を悔やみ未来を追い求め、いつまでもゴールに辿り着かず苦しい私達を作ってしまった。
一度、過去未来にいつも飛んでいるその思考を流し、その空白に留まってみて下さい。
言葉ではうまく表現できませんが、
そここそが実は空白ではなく「全てある場」「充足」であったと気付くかと思います。
少しづつで良いので試されてみて下さい♪
では皆さまごきげんよう!!
また遊びきます。
サバラじゃ〜♪
>>925
こんにちはさんの書いてくださっていたそのときは理解が追いつかなかったのですが実践していくうちにいろいろと気付く事ができました!
とても分かりやすく実践しやすく書いてくださったお陰です。
本当に感謝しております。
その場を目撃したときは本当に衝撃と興奮を感じました。
これがあるあるならあまり不安にならずハーディングの実験や自己観察を続けてやっていきたいと思います!
この状況も完璧!と思いながら♪
今回もいろいろと詳しく書いてくださりありがとうございます。
また遊びに来てくださいね〜!
お!こんにちはさんじゃん!
今日なんか色々考え事してたんだけど、物事をコントロールするために自分が変わらなきゃってエゴがいてて別にそれらをどうにかしようとしなくてもよかったんだったってなった時に謎のありのままの自分でいていいんだって無敵モードになったな。
起きてる思考や物事や願いに対して何かしなきゃ!ってリアクションをエゴってその都度絶対にしてるからそこから気付いて離れるのが大事だなって思うから慣れるまでは自己観察で思考と離れる、気付く癖をつける必要があるんだなと。
今もなっちゃう時あるんだけど叶えるためにメソッドやるんじゃなくて叶ってるからもういいんだって安心するためにメソッドがあるんだよね
ニコ動の例えをしている人がいるけれど、某有名サイトの管理者がかなり前に記事にしていたことと同じ内容ですね
人の話を自分のもののように話されているのか、全くの偶然なのかは分かりませんが
ニコ動メソッド?は、こんにちはさん旧コテ時代のwildスレ発祥だよ
こんにちはさん a.k.a. wildさん、菩薩さんですね。
私は達人さんとやり取りがしたかったのですがその願望もここで叶いました!
wildスレ見てみたら2016年にニコ生のコメントを観るように思考を観るって書いてあったね。
こまけぇさんブログは2018年にメソッド紹介してるかはwildスレの方が先。
もしかしてこまけぇさんってwildスレの住人だったかも??
つかメソッドの提案者が誰か言い出したら切りが無いし板内でも提案もできなくなるよw
こんにちはさんなんていたんだ。
他の方も書いてたけど、
思考=ニコ動で流れてくるようなもんってめっちゃわかりやすいと思った‼︎‼︎‼︎
やっぱり何かしないといけないとかってエゴの虚構なんだな。
こんにちはさん久々に来てくれてたんだ
聞きたいことあったからタイミング逃したのちょっと悔しい
>>935
こんにちはさんじゃなくても他の人が答えてくれるかもよ
自己観察さんだっていつか戻ってくるかもだしね
>>914 長文ありがとうございます。自分の場合は嫌われるのが怖いので傷付きたくないんだと思います。だから引きこもりになったんだと思います。なので好きな人に嫌われて大切な人がどんどん離れていきました。
今から勇気を出して連絡しても連絡拒否、無視されるようになってしまいました。
このまま孤独で誰とも喋らず死んでいくのは怖いです
傷を癒す方法ってあるんですかね?
自分は人との繋がりでしか癒せないと思ってるんですが、他の方法があったら知りたいです。
夢でも人に嫌われている夢ばかり見るので、自分の中の小さなエゴがこれ以上嫌われたくないから傷つきたくないと言っています。
>>938
あれこれと問題を解決しようとしている自分自身、
それがエゴであり、内面にいる小さな自分はエゴから派生した思考だね
それを抱きしめたり癒やしたりする方法もあるけど、自己観察なら、
>自分は人との繋がりでしか癒せないと思ってるんです
この思考に囚われて人との繋がりを持つにはどうしたら良いか、これを潜在意識で解決するにはどうしたら良いのか右往左往している自分自身、つまり本当のエゴに気付くことだね。
気付くと囚われから解放されるよ。
現象化を期待してしまう自分のことも、観察者の立場から「期待してるな〜」と観察していればOKでしょうか?
>>940
だね。
期待してる自分に気付く。
しかしその気付く側の視点が確立していないと、イマイチよくわからないかもしれない。
なのでまずはその視点を知ることからだね。
自己観察さんもこんにちはさんも、皆それについて書いてるよ。
>>939 気づくと孤独から解放されますかね?
なんか自分の存在を認めることができないんですよね。生きてて楽しいっていう感覚がないっていうか
>>941
孤独は、他人や世界と自分の間に境界があると捉えているから起こるんだよ。
その境界線を引いてるのはエゴ。
自己観察と言うくらいだから、そのエゴがどう世界を捉えているのかエゴである自分を観察するといいよ。孤独感も減ると思うよ。
自己観察と今今メソッドって、突き詰めると似たようなことなのでしょうか?
>>945
>>217 〜>>218 にピンポイントで書かれてるね
>>946
ありがとうございます。
やはり、今今と自己観察は関連性があるんですね。
>>946
横からだけど参考になった。
ありがとう。
眉間にシワ寄せて頑張るものではないんだろうな。108さんは「針の穴に糸を通すような感じではない」なんて動画で言ってた気がするし。
今体調悪くて寝てるんだけど、先のことや過去のことに考えが行くよね。それもよしとしながら今に休みたい。
>>948
少しは参考になったようでよかった
って他の人のレスだけどw
これもこんにちはさんのレスだったかな?
このスレは気付きに繋がる宝庫だよね
>>949
レス元の者だよ。
お返事ありがとう。
たまに過去レスを読むのも面白いね。
自分は自愛的な思い方で過ごすことが多いんだけど、思考が暴走したりたくさん湧いたりつらくなることもたまにあって。
その時は「思考を思考で追わない」「湧いてくる思考に手を付けない、放って置く」っていう自己観察的なあり方がすごく助かる。
雑念が少なくなる時も止まらない時もあるんだけどさ。少ないとかない時の方が心地よいんだけど、まあ人間だからワチャワチャする時もあるよなって。
お返事があってうれしかったから自分語りしてしまった。えへへ。
>>950
思考は思考として湧いてくるけど流してしまい、自分は別の領域に在る。
これけっこうガチかなと私も思う。
そらからパンが降ってきたりはないけど、自然と良い方向に進んで行くんだよね。
>>951
なるほど。
思考を流せてる時って落ち着いているし、そういられるとホッとするんだよね。まあできない時もあっていいと自分はしてるんだけど。寝てるより起きてる方ができることもあるし、周りに人がいた方がしやすいこともある、、不思議。
思考がうるさくてほっといても無視できないし、どんどん苦しくなってくるんだけどどうすればいいんだろう、、
>>953
わたしもそういう時たくさんあるよ。つらいよね。
思考が湧きながらも好きなことをしてみるとか、(些細なことでも構わない)今日はそういう日なんだと諦めてしまうとか、しているかな。
あとは、落ち着くようにするとかも有効だった。ただ座って、落ち着こうってしてみる。
呼吸に意識を向けてみるのもいいかなと思います。
思考を消そうとするのではなくて、ただ今している呼吸、身体の感覚に意識を向ける感じ。
その程度じゃ止まらないってくらい溢れてるなら、とりあえず外に出て全力で走るw
頭に行ってるエネルギーを消費できるし、そのエネルギーが身体に向かいます。
エネルギーが余ってると思考、それも自分を傷つけるような思考に向かいがち。
>>953
眼球の左右の運動
>目を左右に30秒ほど動かすと、感情のハイジャックを引き起こす偏桃体の働きを抑制する効果が期待できます
ttps://note.com/shimaki2023/n/nbe761673a225
ちなみにこの上にあるdouble inhaleという呼吸法は
マインドフルネスやいろんな呼吸法瞑想と比べて簡単でもっとも即効性が高いと
スタンフォード大学で発表された呼吸法
ttps://www.youtube.com/watch?v=dQud9En2VAI
この二つを自己観察とかの前に組み込んでみれば
どうでもいいことで泣きたいくらい辛さを感じてるから観察してみるー
怒りとか不安とか恐怖とか浮かび上がっても、スッと観察している場に意識を向けると溶けるみたいに消えていくようになった
この観察してる意識こそ本当の私で、この私はいついかなる時も在って満たされていて不動……なのはじわじわ感じつつある
ただ今までと感覚が違いすぎて困惑というエゴも浮かぶ
このままいっていいのかな
自己観察していたらエゴは過去か過去に基づいて推測した未来予想のようなものしか喋ってない事に気付いた
「今は?」と尋ねると沈黙する
思考は自分じゃない、頭に入ってても腑に落ちなくて苦しんでたんだけど
私はもう苦しみたくない思考に振り回されたくないって感じてるのに、何回も何回も勝手に浮かんでくるこいつは私とは違うんじゃないか?って気づけた
そこから一気に(でもこれは私じゃないんだよな)って落ち着ける
958さんはその後どんな感じかな。
もう次のステップかもしれないけど、その困惑もただ観察してたらいいと思う。
思考って、思考する種類はテレビのチャンネルみたいにクルクル変わるけど、
土台は1種類しかないんだなと思う
今の思考を見てると、以前見ていたものはないし、
以前の思考が復活すると、今さっき見ていた思考がない
まるで映写機がスクリーンに思考を投影しているみたい
じゃあスクリーンの側にいる『私』とその空間は何だろう
少なくとも静寂と、減点がないからこその完璧がある
あぁ、そうか
エゴって映写機とスクリーンか
分離とは映写機とスクリーンのスクリーンに没入している時か
小学生がゲームにのめり込んでいるように
おそらく完全に思考がない時は分離はなく
思考があっても見ていれば、一体なのか
将来が不安すぎて自己観察や思考停止を徹底的にやろうと決めて実践してる
実践したこと
思考が浮かんだ時に怒りや恐怖の思考を眺めてる立場を意識するようにした
思考とは別の立場・視点、不安とは別の立場 、つまりこの立場には不安とか恐怖はない…を意識した
これやってたら自分自身こそがその立場そのものだったんだ…と腑におちてきた
それと同時に将来への不安が浮かんでも、浮かんだことを気づいた視点がある=いつでも本当は安心なんだというのも分かってきた
思考があると認識している=思考とは違う本当の自分がいるってことだから、いつでも本当の自分に戻れる
これやってると本当に落ち着くね
物理的証拠が一見ないから思考が暴れたりするけど、それすらも本当の自分が眺めている
連投失礼します。
もう一つ気づいたのは、思考がどれだけしつこく何回浮かんできても、それと同時に思考に気づいてる(眺めてる)立場も確実にあるからそれに気づいたら思考に対する不安感も薄れてきた
思考がある=思考を認識している本当の自分もいる。
もっと言うと本当の自分は常にいる、自分自身が実は充足の塊で、その中でそれを理解できない思考という幻が泡のように浮かんでるだけ。
なんかこうなるとずっと安心の自分になるなぁ。
素晴らしいですね。
自己観察を体得されたようですね。
思考をしても自身と同一化せず、空回りして消えてしまう。自身の歯車と思考の歯車が噛み合うと同一化してしまうんですよね。
ありがとうございます。
この気づいている意識が自分だと自覚すると、不安や恐怖はなにもないと感じられますね。
過去や未来を考えて「このままじゃ大変なことになる」と脅してくる思考に巻き込まれがちだったのですが、気づいている意識=自分自身であり、所謂今この瞬間であり別の領域だったんだなと意識できるようになりました。
そっちが真実。そっちこそが本当。
圧倒的な安心感で、少し困惑するぐらいです。その困惑も思考だと自覚できてはいますが。
言語化しにくいけど、気づいている意識=自分自身、今この瞬間=自分自身。
思考ではない気づきの意識こそが自分なら、思考の全ては嘘。
それならばネガティブな思考の大前提の過去や未来の不安も嘘。何とかしなくてはいけないというのも嘘。
実際にあるのは気づきの意識という本当の自分であり、その意識は充足そのものであり、今この瞬間充足で満たされている。
それこそが絶対的な真実なのだと感じるようになりました。
あげ
>>968
私も観察している自分はわかるのですが、長く継続できずにいます。
964さんは、どれくらい継続されていますか?
>>970
継続しようと意識すると逆に苦しくなると思います、私がそうでした
あの感覚をずっとやろう!とすると焦りや不安がどんどん出てきたので、思考が浮かんだらその度に気づけばいいと力を抜いています
思考は勝手に浮かんで消える泡のようなものです
コントロールできるものじゃないですし、コントロールしたくなるのも"ない"が前提の思考です
コントロールして幸せな自分になりたい!という思考からの行動です
ですが本当の自分は"既に幸せ"な自分です
気づきの意識に浸ると自然と安心感が出やすいですよね
あれは既に幸せだからこそ、安心で満たされているのです
浮かぶ度に気づいて、(本当の自分は思考じゃなくて気づいてるこっちなんだ)となれば大丈夫ですよ
名前入れ忘れていましたが964です
>>971
ありがとうございます!勇気もらえました。
自分は寂しい思考に囚われてしまうのですがどうすればいいのでしょうか。このままほっといても消えないし、特定の人とじゃないと孤独を消せなくて、その人は私のことを無視します。
自己観察なら、それを見て終わり
観察対象を見て、そうなんだねとなって、見ている立場に溶け込む
しかし自分の本音を偽りなく見れてなんとかしたいなら
エイブラハムの感情の22段階を一つずつ登っていくと良い
一日一つ登ったとして
最下段からでも2週間くらいで変わるし
大体、そんな極地にいないから1週間もあればだいぶマシになるんじゃないかな
慌てず丁寧に実践すれば1カ月もあれば何かしら良いことが起きるし、
起きてないならその立ち位置が好きなんだって分かる
苦しい気持ちが消えないってのも、孤独を癒せない、無視されるってのもエゴの自作自演だよ
エゴは一人で不足に囚われてるだけなんだ
もっとエゴに気づいてる視点に集中していいんじゃないかな
気づきの視点に気づいて、本当の自分はエゴじゃないんだって気づいて
そうすれば不足に囚われたエゴとも自然と離れることができるし、本当は不足なんて嘘なんだって実感しやすくなるよ
エゴの視点のままエゴをどうにかしようとするとただ苦しいだけだよ
苦しいものからは離れて気楽にね
>>976 ひとりの状態でも孤独って消せるんですかね?今友達もいなくて恋人もいないのですごい苦しいです
>>977
家族は?
友達100人いても心を開かなかったら孤独だし恋人いても浮気してるとかされてるとかあるし、知り合いくらいなら自発的につくれるからつくってみては?
自己観察スレだから自己観察的に書くけど、
孤独は消えないよ
というよりただあるものを眺める感じ
起きては注意するものによって移り変わっていくものを見る
自分のものを見ている私
その私は言語化が難しいか、できないのだけど、
できる限りそこにいる
無理せず見ていて、無理したら、無理したそれを見て、
いつか、自分が何かと言う問いの答えに気づくのを待つだけ
その過程で全ての感情と距離を置いて残る感覚というか、
ハートのようなもの
それと共にいて、安心感とか言われる
そんな感じ
だけど孤独感をどうにかしたいなら、
多分自己観察は合ってないから、
自愛とかそっちにいくといいんじゃないかな
連投申し訳ないけど気付いたので
孤独感も何もせず、そのまま認めるなら受容なのかな
あるがままに起きては消える
スピ的な愛とはこっちのことを言うのかもしれない
それは他者や自分を否定せずに、ただ受け入れて、
変わりゆくのを認める
だから逆説的に変えようとしないので傷つけない
だから愛と言われる
まぁ、でも、暖かさや満たされた感じを求めるのを愛としたら、
もしかしたら思ってたのと違うかも
でも自己観察的な愛はスピ的な愛で、
自愛の愛は暖かさや満たされた愛かもしれない
>>980 自愛とかはやっても何も変わりませんでした。自分を愛すると他人から愛されると聞いたのですが今のとこら実感はないのでまだ自分を愛せてないんだと思います。
>>982
他人から愛されるのと、孤独感が消えるのは別ですよ
シンプルにストーカーから愛されても嬉しくないですし、
むしろ苦痛な上、孤独感が恐怖に変わるだけかも知れません
>>979 のレスがとても良い点をついていると思うのです
結局、孤独感の消失や幸福感は誰かを愛した時に生まれるものです
理想論ではなく、セドナメソッドの『レスターの物語』を読んで、
試した結果、本当にその通りだったのです
ただ他人はいたりいなかったりするので、
並行して自愛も行いましたが、効果はありました
他者から愛される、好まれるのは副産物です
愛ある眼差しで理想化されてない最良を見て、
卑屈さがなく、適切な自己愛に満ちて笑顔になっている方がいたら
目を奪われないはずがないでしょう
とはいえ、信じるかはお任せします
私も昔は愛なんて気恥ずかしく、
その恩恵や素晴らしさに気づいていませんでしたから
今ではこうしてかけるまで愛が大好きになりました
家族がいるかいないかに答えてないけど、家族がいる孤独じゃなさに気づけないのなら恋愛とか友情とかまでなかなかいかないよ。
孤独感はそもそもエゴの幻想だよ
不足ってのはエゴが言う幻で、エゴを自分だと誤認することで不足があるっていう嘘を信じてしまうだけ
不足を眺める視点・場所・気づきの意識が本当の自分で、そこは何もしなくても充足で満たされてる
不足なんてない
自己観察さんも不足はただ既に在るものを否定するだけのものみたいな事言ってたね
本当は"充足が既に在る"が事実なんだよ
そっちが本当の自分だって気づければずっと充足のまま
だから孤独も嘘そのもので、本当の自分は孤独じゃない
既に孤独感とは真逆のものに満たされてる
ただエゴと一体化してたら意味わからないと思う
いや自分は孤独のままなのにおかしいって
そういう思考を眺める視点に気づいて、そこに浸ったり信頼するよう心がけるだけでも何か良い方向に変わるんじゃないかな
再配達っていつ来ますか?受取拒否してしまったんですけど、受け取るまで再配達が来るらしいんですが、全然来ません。受け取らなすぎると再配達は来なくなることってあるんでしょうか?
再配達があるってそもそも不足という概念がある前提だよね
ないんだよ、不足なんて
もっと言うと不足があると感じてる思考がそもそも幻
再配達を気にする思考が湧く度に、これは自分じゃないって気づいて離れるのが自己観察
再配達は自己の真実を突きつけるためにあるから、
本当のところに気づいてたら終わりだよ
さらに再配達を受領しよう、
自己の真実を受け入れようってなったから、
もう必要無くなったんだ
あとは必要に応じて気づきの中で、
再利用するかもだけど、
来ないならそれは終わった話なんだ
新しいものを見れば良い
一言で言えば、気づかないうちに受け取ったんだよ
きっと
対処しなくちゃいけないことなんてないよ
ないっていうか、対処しないといけないって思考って、その前提に"対処するべきもの"があるんだよ
前提が不足なの
思考は勝手に不足を見出しては対処しないと!どうにかしないと!ってやってる
ただの自作自演
そういうの全部思考がやってることで本当の自分には関係ないんだって気づくのが良いよ
対処しなくちゃ!→四苦八苦しながら解決したりしなかったり→また対処しないといけない問題を見出す
のループに入るよ、思考が自分だって採用してると
そういえば、そろそろ次スレ立てる時期だね
>>989 最近どんどん食欲もなくなってきてこのままだとまずいと思ってたんですけど、これも思考のせいなんですかね?とりあえず何も対処せず思考を置いておきます
そもそも思考に囚われて苦しい苦しいってなってるから食欲減ってるんじゃないの?
それから離れろってことじゃないの
横ですまないけど、
上手くいっても食欲が減ることがあるよ
それはやけ食いのように感情を食欲にぶつけなくなるからなんだけど
ただ本人がまずいと思ってるなら献立決めて、
食べられる範囲で栄養価バランスが取れた食事を摂るのがオススメかな
孤独のグルメ見ると食欲が甦るらしい
>>975
この方まだいらっしゃるかな?
エイブラハムの22段階を登っていくって言うのを詳しく教えてほしい!
次スレ
ttps://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9650/1740244292/l50
このスレを使い切ってから移動してください
思考が落ち着いてるときって勘がよくなってる気がする。
やろうと思って完全に忘れてたことをベストタイミングで思い出すとか。
今までもちゃんと知らせてくれてたんだろうけど、
思考で完全に埋もれちゃってたんだな。
思考を眺めるって全然出来ない
なぜみんな出来るんだろう?
思考に気付いたら思考が止まってしまう
>>998
思考が止まってるんだったら元祖1式ができてる
ってことで、それはそれでいいんじゃないかな?
>>999
おーレスがついてる
板自体が過疎ってるから嬉しい。ありがとう
止まるけど、それは一瞬なんだよね
そのまま止めたことに対しての思考が出てくる
それは仕方ないとして、無思考になってたとしても無思考になってることの自覚が出来ないというか
無思考=無意識って感じ
もう次スレか
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