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沖浦殿の教義に対する論考
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「厳虎独白」というブログがあります。或る顕正会員が主催されているブログです。
私は其処で、初めて沖浦殿と知り合ったのですが、創価学会の正当性について議論なりました。
その内、議論の内容は沖浦殿の仏法観に発展し、興味深いやり取りをさせて戴きました。
コメント欄で私と沖浦殿とのやり取りのあった記事は以下となります。
http://white.ap.teacup.com/ganko/2187.html#comment
http://white.ap.teacup.com/ganko/2188.html#comment
http://white.ap.teacup.com/ganko/2189.html#comment
http://white.ap.teacup.com/ganko/2190.html#comment
さて、観て頂ければ明らかなように、どうにも一向に議論は終わらない感じでした。
其処で、沖浦殿から此の掲示板へご招待下さり、此方へと少々お邪魔させて戴く次第となりました。
私は顕正会員でして、宗門や学会とは敵対関係にはあり、
当然私のコメントも親学会のものとはなりにくく、完全にアウェイ状態ではありますが、
まあ、今までだって何処でもアウェイであったのですから、気にしないという事にします。
こんな私ですが、皆様、よろしくして戴ければ感謝の至極でございます。
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さて、厳虎独白にて途中と成っていた議論を再開させて戴きます。
【謗法呵責について】
>創価学会の恥部であった広宣教宣の方々の多くは、謗法は自身の命の中に潜むこ
とを知りませんでした。
広宣部、教宣部とは恐らく教学部とか広宣流布部のようなものかと思われますが、
私には実態は分かりませんが、教学を高めたり、広布したり、法論する事自体は間
違いではないと思われます。
情けない話なのは顕正会で、現在そうしたものに該当する部がなく、従って会員か
らの突っ込んだ質問にも会として答えられませんし、外部からの法儀的論難に真っ
向から反駁する事もできません。是では会員は自分達の教団の教義がどういうもの
か、そして正しいのかどうかに迷う事でしょう。
>たかだか日蓮正宗の寛師教学、などういう低劣なものを破折することは、創価の
人間である私共に取って、赤子の手をねじるようなものです。
創価学会の御書講義などのサイトを拝見しますと、日寛上人を尊敬しているようで
す。故に、創価学会は公式には歴代上人を「低劣」等と否定している訳ではなさそ
うです。
http://www.sokayouth.jp/study/nenkan/2015/1.html
http://www.geocities.co.jp/inae_sokagakkai/118/newpage1.html#0011
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_47267.html
故に、創価学会が会として公式に正宗義を捨てたとは言い難いと思われます。
亦、これ等の教学の為のサイトでは、「宗祖本仏論」や「戒壇の大御本尊」を否定して
いません。むしろ、処々で強調し力説しているようにも思われます。
実に、上に挙げた三つのサイトは、顕正会員であろうと法華講員であろうと、十分に
教学勉強の為に参照できるものであり、正宗教学としてレベルの高いものです。
>そういう愚かな事より、自身の命に潜む魔性との戦いが大事なんです。
確かに仰るとおり、自分の中の「魔」と闘う事は重要ですが、何を以て「魔」とす
るかが重要であると思われます。大聖人の定義ですと、魔とは正法から身を遠ざけ
ようとする一切の働きの事です。上は天魔から下は煩悩魔や陰魔まで、第六天の眷
属たちが正法を滅ぼそうと全力を傾ける訳です。
>普通に存在する宗教を何でも攻撃することは、呵責謗法ではありません。
>修羅の慢に過ぎません。
>(中略)身延へ入られてからは極めてお優しいものが大部分です。
確かに佐渡前と佐渡後(特に身延入山)では法門に違いはありますが、謗法が何で
あるかという事、及び謗法を呵責せよという事、乃至立正安国の精神に就いては何
ら変わるところはありません。つまり、国を亡国から救わんとする為に、謗法諸教
を駆逐せよ、というお考えです。亦、他者が薬だと思って毒を飲んでいるのを其の
まま放って置くのは菩薩行とは言えません。故に、毒を飲む人々に対し積極的に其
の過を指摘してあげるべきであるというお考えも根幹にありました。
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例えば、「撰時抄」は重書であり、亦、身延入山後の御書になりますが、其処では
以下のように御指南されています。少しく引用を致しましょう。
●「法然が弟子となりぬれば 日本国一人もなく謗法の者となりぬ、譬へば千人の
子が一同に一人の親を殺害せば 千人共に五逆の者なり一人阿鼻に堕ちなば余人堕
ちざるべしや、結句は法然 流罪をあだみて悪霊となつて 我並びに弟子等をとが
せし国主 山寺の僧等が身に入つて或は謀反ををこし 或は悪事をなして皆関東(
鎌倉幕府)にほろぼされぬ」
●「禅宗は又此の便を得て持斎等となつて 人の眼を迷かしたつとげなる気色なれ
ば いかにひがほうもんをいゐくるへども失ともをぼへず」
●「真言宗と申すは上の二のわざはひには にるべくもなき大僻見なりあらあら此
れを申すべし」
この様に、身延後の大聖人も浄土、禅、真言等への呵責の姿勢は崩される事はあり
ませんでした。
他にも同書には、
●「法華経を失う大禍の僧どもを用いらるれば 国定めてほろびなん」
ともあり、邪教が蔓延る事と国の衰亡とが直に関係している事を力説されています。
更に以下の御文は決定的であると言えましょう。
●「宿谷の入道に向つて云く禅宗と念仏宗とを失い給うべしと申させ給へ 此の事
を御用いなきならば 此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給うべし」
●「只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて 此の国の人人 他国に打
ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺 寿福寺 極楽寺 大仏
長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまに
て切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」
これ等は過去の御諌暁内容の述懐ではありますが、決して此のように政府要人へ発
言した事を後悔なさっての述懐ではなく、「余に三度のかうみようあり」のように
「かうみよう(高名)」だと仰っています。
そして、最後に結んで宣わく、
●「念仏の無間獄 禅の天魔の所為なる事は疑いなし、殊に真言宗が此の国土の大
なるわざはひにては候なり」
…と。是が浄土、禅、真言宗を大聖人が嫌い、除去せよとなされた御文とせず、ど
のように会通できましょう。
身延入山後の重書には他に「報恩抄」もありまするが、其の内容は此の「撰時抄」
とほぼ同じであります。つまり、禅、念仏、真言等に対する呵責を中心とされてい
ます。
或いは、身延に入られて後、尖っていた風が和らぎまるくなられた事はあるかも知
れませんが、立正安国論にて書かれた事には一分の変化もありません。大聖人の御
一生は、この様に一貫不変の信念で貫かれているのです。
逆に、若年、中年の頃は念仏、真言地獄と主張なされていたのに、老年になるとそ
れらも許容すると仰られるのであれば、其れは聖人、御仏ではありません。
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>『各各は日蓮ほども仏法をば知らせ給わざる上俗なり、所領あり妻子あり所従ありいかにも叶いがたかるべし、只いつわりをろかにてをはせかしと申し候いきこそ候へけれ、なに事につけてかすてまいらせ候べきゆめゆめをろかのぎ候べからず。
又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門はただ仏の爾前の経とをぼし
めせ、』
(三沢抄)
>
>三沢小次郎への御書です。
>
>貴方方は私ほど仏法に詳しくないし、その上在家である。
>更には、所領も妻子も養うべき所従(家人)も抱えておられて、その方々の生活
>にも責任があるお立場である。
>只只題目を捨てないことが大事であって、私が他宗を激しく責めた佐渡以前の教
>えは、釈迦の爾前経だったと思って下さい。
>
>概ねこういう意味のことをお書きです。
私は少々解釈が異なります。「…大事であって、私が他宗を…」の部分です。沖浦
殿は此処を一続きの文のように解釈されていますが、本分には「又」と接続詞が入
っています。其処で私は、新たな話題が追加されたと解釈します。
即ち、「仏法についても詳しくなく確信がないし、立場もあるだろうから、怨嫉に
耐え続けるのは無理であろう。故にただ見た目だけは仏法に対して疎かであるよう
に周囲には見せていなさいと前に言いました。だからといって決して本当にあなた
が仏法を疎かにしているという事はありません」(意訳)とされている部分と、「
佐渡流罪前の法門は爾前経のようなものだ」とされている部分は繋がってはいない
、と考えているのです。
御文本文には、沖浦殿が意訳として書かれた「私が他宗を激しく責めた佐渡以前」
の部分の「私が他宗を激しく責めた」という説明書きはなされていません。単に「
又法門の事はさどの国へながされ候いし已然の法門は…」と書かれているのみであ
ります。
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そして、何故、已然の法門は不完全であったと大聖人がなされたのかは、後の部分
を読むと判ります。其処では理由を示して宣わく、
「此の国の国主我が代をも たもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ、爾
の時まことの大事をば申すべし」
とあるように、真言師との対決の場でこそ諸経を示しながら大事の法門を説かれる
つもりであり、其の前までは怨嫉も多い世である事から、ただ秘されていた、とい
う事だと了解できます。
つまり、前までは悟っていなかった、知らなかったから、という訳ではなく、亦、
前までの法門は間違っていたと気付いたから、という訳でもなく単に秘されていた
だけである、という事です。大聖人は佐渡前も佐渡後も考えがコロコロ変わるよう
な方では断じてなかったのであると言えますでしょう。
佐渡前までは単に法華経こそが重要で、禅、念仏、真言なんどは地獄、亡国の沙汰
であるとだけ主張されていたのですが、其の時点では未だ秘められている法門があ
った。つまり、前までの法門を否定するのではなく、其処では深くまでは説かれて
いなかった法門があった、という御指南なのです。其の画された法門が何であるか
を考えるに於いては、佐渡流罪後に信用の置ける弟子、檀那等に送られた御文を参
照するのがよいでしょう。即ち、開目抄、観心本尊抄、撰時抄、報恩抄、三大秘法
抄、本尊問答抄等です。そして、此の中のどこにも「私が他宗を激しく責めた佐渡
以前の教えは、間違いであった」等とは説かれていません。むしろどの御書でも、
禅、念仏、真言等が如何に謗法の教えであるのか、という事が懇切丁寧に記されて
います。
佐渡流罪前に秘されていた大事の御法門とは、例えば一念三千や妙法蓮華経こそ本
尊であるといった事でしょう。即ち、我々全てに全宇宙が具わるのみならず、我々
の一念にも、御題目を唱え奉るのとき、全宇宙が含まれている、という事です。
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亦、此の三沢抄の沖浦殿が引用された箇所の前には、
「此れを申しいだすならば仏の指させ給いて候未来の法華経の行者なり、知りて而
かも申さずば世世 生生の間 をうしことどもり生ん上教主釈尊の大怨敵 其の国
の国主の大讎敵 他人にあらず」
とあり、謗法を謗法である地きちんと指摘してこそ「法華経の行者」であるとされ
、謗法を謗法だと知っていながら口をつぐんでいるのであれば、其の罰で口がまと
もにきけなくなり、教主釈尊の大怨敵であり、且つ亦国主の仇でさえあり、それ以
外ではない、と書かれています。
其れは教主釈尊が是をこそ末法にて伝えよとされた法華経の大事を伝えず、法華経
を謗る諸教の悪を示さない故に釈尊の弟子ではないのであり、亦、正法を保たざる
が故に国が亡国となるにも関わらず忠言をしない故に国主の忠臣とは言えないから
です。
謗法を謗法であると知って、而し其れを示さないのは、石油ストーブの使い方がま
づくて一酸化炭素が出てしまっているようなのに黙してアドヴァイスもせず傍観す
るようなものであり、他人(ひと)の為にもならず、国の為にもならない。更に言
えば釈尊乃至大聖人の弟子だとは言えない、という事なのです。
更に、三沢抄の締め括りでは、
「ただし禅宗と念仏宗と律宗等の事は少少前にも申して候、真言宗がことに此の国
とたうどとをば・ほろぼして候ぞ」
と述べられています。禅宗や念仏宗等の悪法なりは前にも話した通りだが、殊に日
本や唐土(中国)を滅ぼしているのは真言である、と強調されている訳です。この
ような情況であるのに、かの日顕上人は悪書「本門事の戒壇の本義」にて、「大聖
人の御精神は信教の自由にこそあった」等と頭破作七分の言を開陳されていますが
、一体、御書をどう解釈すれば、そのようになるのか。既に中国を疲弊させ我が国
も滅ぼさんとしている(と大聖人が説かれている)ところの真言宗を、其々人が何
を信じるのかは自由だし尊重すべきだから、放っておきましょう、等と言う前後の
繋がりが明らかにおかしい法門がありましょうや。
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>日蓮正宗などでは、佐前の教えがこれを衣文として間違いだ、など言う愚かな方
もおられますが、それならば立正安国論も爾前の教えとして捨てねばなりません。
顕正会員でそのような御不敬な事を言う人間はおりません。まあ、とはいえ顕正会
員と言いましても何十万も居る事ですから、中には若しかしたら居るのかも知れま
せんが。日研宗であるならば、まあ居てもおかしくありません。そもそも彼等にと
って法門など法主が好きに決めて良いものらしいので、どのような発言があっても
おかしくはありません。
沖浦殿の仰られるように、佐渡流罪前の御主張、御法門も大事な教えです。単に宇
宙真理の大事は秘されていたに過ぎず、謗法厳戒や法華経の大事、真言亡国等につ
いての度重なる御指南、御諌暁は決して曲げたり捨てたりはされていないのです。
>この御文は、謗法呵責が第一だ言う原理主義を戒められたものと拝します。
其の解釈は、今まで申し上げてきた理由で明らかに間違いです。
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勝さんおはようございます。
今からスキーなんです。
仕事の一部ですので・・・
帰宅後返信いたします。
この板の皆様方も、どうぞここにご意見をお書き下さいませ。
非礼無礼と、質問返しは謹んで下さいね。
広宣や教宣のようになったらお終いですので。
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勝さん、今晩は。
今日はスラローム8本滑って、帰宅後ベンチプレスでした。
その後食事して(ここまで何も食べないのです)昼寝。
3時半からはジムの生徒がやって来るので、コーチングしながら、仕事のエッジチューンをやりましした。
隙間見て自分の板にもワクシング。
結構タイトなんです。
今勤行して、風呂入って食事がすんだ所です。
今年71歳になりますが、世間様にニーズがある人生そのものが功徳だと喜んでいます。
私の入会は昭和37年9月10日、16歳でした。
極度の貧困と家庭不和に悩んだ母が、職場の同僚に折伏されて家族が順次入会しもう53年経ちました。
私は創価学会に人間の形にしていただきました
歴代会長の御恩、創価学会から受けた恩を絶対に忘れません。
ですので、破門になろうが教義変更しようが、そういう事に左右されません。
教学は昭和53年に教授になりました。
現在役職も無い末端の一会員でございます。
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勝さん、
広宣部とか教宣部と言うのは、主に法華講員との対決のために出来た組織です。
愚かなものですね、そういう所で活動することは。
信心の正さは、自身の功徳の実証を示すより他にございません。
法論で勝って広宣流布はできません。
出来なら、大聖人の時代に出来ています。
以上、自己紹介と広宣教宣の説明を致しました。
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呵責謗法についてです。
大聖人の時代には、他宗が国家権力と結ぶついて、民衆を支配しておりました。
戦時中の国家神道と同じです。
そういう時は、その宗派を厳しく責めねばなりません。
これは佐渡御書に詳しく載っております。
『仏法は摂受折伏時によるべし譬えば世間の文武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子薩・王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし、破戒無戒を毀り持戒正法を用ん世には諸戒を堅く持べし儒教道教を以て釈教を制止せん日には道安法師慧遠法師法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし、釈教の中に小乗大乗権経実経雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は天台大師伝教大師等の如く大小権実顕密を強盛に分別すべし、』
(佐渡御書)
今我が国では国家権力と結びついて、民衆を支配する宗派はございません。
ですので、対話で布教をする機根です。
今他宗を邪宗と責めることは、肉を欲しがる鬼神がいない時、身投げをすることと同様です。
それは時にかなった仏道修行ではございません。
ここまでで御疑問がございましたらどうぞ。
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沖浦殿 おかえりなさいませ
スキーですか。いいですね。私も以前はやっていました。最近は忙しいのと出費が
かさむためにやっていませんが、いずれはまたやりたいと思います。まあ、林間コ
ースをのんびり滑るくらいが私にはちょうど良いですが。
確か、長野にお住まいだとの事ですから(そういう縁もあって樋田氏との対論にも
なったのでしょうね)、スキー場は近いのではないかと思われます。
御年齢が想像していたよりも高くて驚きました。動画(長野対論でしたっけ?)を
拝見した時の印象では50代後半のようにお見受けしましたので。屈強なイメージ
でしたが、スキーをしたりジムをしたりとの事ですからなるほど、合点が行きまし
た。私が普段主にやっている運動?と言えば、自転車をこいだりキーボードを打っ
たりする程度ですが…
創価に入信をされたのはなんと、私の生まれる前ですね。そんな方に私が仏法につ
いてあれこれ言うのはオコガマシイ感じも致しはしますが…。まあ、でも年輩であ
るという事を理由に法論をやめてしまうと、私は樋田氏とも青年僧侶邪義班中とも
法論できなくなりますし、池田氏も日顕師も浅井会長も論難できず、ポリ銀殿やト
チロ〜殿、厳虎殿にも仏法上逆らえぬ、という事になってしまいますから、此の方
針は少々不都合なので採らない事にします。私と同年齢(だと思われる)のは、沖
浦殿のご子息の方でしょう。
さて、現在、充実した人生を送っておられる事、ご年齢が私の親の世代である事、
地獄界の状態から創価に助けられた過去がある事、師匠に対して恩義を忘れぬ事、
教学でも教授(是は創価大学とかの教授という事でしょうか)であられた事等を知
りますと、どうにも法論を続けるのに気が引ける思いも致します。
年輩の方にあれこれ反駁するのは失礼である事、結局は本人が幸福なのであれば其
れが一番良いという事、恩義を保ち続けるというのは人として大切である事、現証
として貧困や家庭不和が解消されたという事が出ている事々が其々の理由になりま
す。
私としては沖浦殿の教義には、大聖人門下としては疑問を感じていますが、疑問は
疑問の侭、見解の相違は相違の侭にして、変に事を荒立てずに此の侭終わらず方が
良いのかも知れませんね。
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【沖浦教と創価学会教義の差異について】
>「牧口氏も戸田氏も往時の学会も間違いなく正宗であった」という二つの真実を
以て、御書を聖典とし三ヶ代会長を聖人と位置づける沖浦教を破析できるのだ。
→先ず、世に沖浦教と言うものは存在致しません。
→創価学会員として、大聖人門下として御書を読んだ場合、必然的に私の主張にな
ります。
→これだけのことですね。
先に、誤解されないよう明言しておきたいのですが、私が「沖浦教」という時、揶
揄や批判の念を込めて言っている訳ではありません。馬鹿にして言っている訳では
なく、概念の峻別の為に此の語を使わせて戴きました。或いは、其のようには受け
取っておられないかも知れませんが、念の為。
さて、私は沖浦殿の教義と創価学会の教義とでは違いがあると考えています。とい
うよりも私の印象からしますと、創価学会の教義は過渡期であり、未だしっかりと
は決まっていません。そして、もしかしたら沖浦殿の教義は未来の創価の教義と同
一となるかも知れません。実際、其の方向へは傾き始めていて、例えば創価の宮田
教授は日蓮本仏論に疑義を呈しています。だがしかし、是はあくまで一部の声であ
り、会全体の決定事項ではありません。沖浦殿の教義は過去の創価の教義とは勿論
、現在の創価の教義も幾分違いが明確に存在する故、沖浦殿の主張を創価の公式の
主張だとして論難するのは語弊がある訳です。
●例せば、沖浦殿は戒壇の大御本尊を偽者だと看做されていますが、最近、沖浦殿
が私に教えてくれたところに拠れば、創価の最近の会則変更の一である「戒壇の大
御本尊を受持の対象としない」とは、「謗法の地に存す故」との事であり、偽物だ
と判断したから、という訳ではないとの事でした。然すれば、此処に沖浦殿の教義
と創価の教義とに違いが存するという事になりましょう。
●亦、沖浦殿は謗法者、謗法教団破折、謗法忌避を否定されていましたが、現在の
創価学会は其処まで踏み切っていません。即ち、真言でもキリスト教でも認めます
、とはなっていません。私の学会員の友人も、真言宗に対して非常に否定的でした
。立正佼成会についても。即ち、その様な邪教を信じているから不幸になっている
、との考えであったのです。亦、前にも触れました通り、学会が宗門を攻撃し学会
を称揚する論法の一つが、宗門は軍部に諂い謗法を犯したが、初代、二代会長は毅
然と是に抗った、というものがあります。亦、謗法破折や忌避を捨てるのは大聖人
の法門からも離れる事です。創価は大聖人門下を謡っている訳ですから、当然、大
聖人の御意志を引き継ぐつもりであると思われます。
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●沖浦殿は学会の広宣部や教宣部を学会の恥部だとして否定されていましたが、こ
れ等の組織は非公式に活動しているのではなく、正式に学会組織として存在してい
るのであり、当然、会長の許可を得てのものであると思われます。故に此処にも学
会本部と沖浦殿との考えに隔たりがあります。
●亦、此の辺りは微妙なのですが、学会の公式、乃至個人学会員HPを拝見しまする
と、日興、日有、日寛上人等の御指南が大事の事として引用されていたりします。
更に日顕上人を「日顕宗(私も便利な故に盗用させて戴いておりますが)」等と非
難しています。詰まり、未だ正宗内にあるというアイデンティティも引き摺ってい
る模様なのです。此の辺り、明確には判りません。然るに、正宗を敢然離脱したの
であれば、歴代御法主の御指南を拝するのはおかしいと言えましょうし、宗門を攻
撃するのであれば、沖浦殿のように「正宗は駄目、邪教」という表現になっても良
さそうですが、そうではなく日顕宗、つまり日顕の代から急におかしくなった、詐
称法主である、という言い方なのですから、裏を返せば「日達上人までは御正師で
あった」という事になろうかと思われます。正宗そのものが駄目なのであれば、日
顕宗等という言葉は要らないからです。日寛上人御書写の曼荼羅や其の御形木を御
本尊として奉っている事も、正宗から敢然には離れていない有力な証左となりまし
ょう。
●文字曼荼羅についても、沖浦殿は単なる道具で仏ではないとされていますが、創
価の公式教義ですと恐らく文字曼荼羅は仏の化身という事になっているのではない
でしょうか。創価の人は(まあ創価の人に限らずですが)曼荼羅本尊を非常に大事
に扱います。是、単なる道具ではなく御仏の分身だと思われてこその事であると思
われます。
●更に、学会は公式には戸田氏を大聖人の生まれ変わりだとはしていません。永遠
の師匠だとはしているかも知れませんが、大聖人は仏、戸田氏は人という位置づけ
です。然るに沖浦殿は戸田氏こそは大聖人の御再誕であると断言されています。
以上の点から、私は沖浦殿の教義と創価の教義とには違いがあると思う訳です。創
価の教義と違うからといって駄目という訳ではありません。此処では良い悪いには
中立で話しています。善悪是非は問わず、単に、明確なる違いがあるが故に、便宜
上「沖浦教」とお呼びさせて戴いている訳です。
此処までに何かご質問、ご反論等ありましたら、是非。
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勝さん、おはようございます。
先ず創価学会員は1600万人以上います。
先年顕師の対座要求の署名が1600万以上集まりました。
私も家族も署名しませんでしが、全体ではその程度は在籍中でしょう。
1600万人が全く同じ意見を持つなら、ファシズムです。
それは全体主義ですね。
全体主義と大聖人仏法は対極にあります。
御書に明らかなんです。
『はわき房さど房等の事あつわらの者どもの御心ざし異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なしと申す事は外典三千余巻に定りて候、殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさにまけぬ、周の武王は八百人なれども異体同心なればかちぬ、一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし、百人千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず、』
(異体同心事)
同心とは南無妙法蓮華経を信じること。
これだけです。
後はどういう思考を持とうと自由なんです。
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勝さん、
創価学会の公式見解と、私の思想に異なりがありますね。
でも、私は独立する自由人ですので、公式見解に束縛されない人生です。
戒壇本尊本懐は、昭和56年から否定しておりますし、同じ時期に日蓮正宗とは縁を切りました。
公明党の応援は致しませんし、大聖人御本仏も見直すべきだと思っています。
ですが、私は正真正銘の創価学会員です。
教学部の教授とは、創価大学とは無関係で、創価学会教学部の資格です。
佐渡御書を引用致しましたが、時によって法のひろめ方が異なって当然です。
他宗を否定することが破邪顕正なら、西暦なんて使えません。
キリスト誕生が尺度ですからね。
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極めて基本的なことですが・・・・
>日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
= 弘安五年壬午九月 日 日蓮在御判
血脈の次第 日蓮日興
〜引用終わり〜
これは偽書です。
先ず、日蓮日興と言う思想は仏法にはございません。
仏法は一切衆生への法。
一人だけに血脈などは大嘘の代表です。
日蓮正宗と言う宗派は、これを信じていますね。
それはご自由ですが、そういう物は、大聖人仏法にはあり得なことは御書に明明白白です。
戒壇については三大秘法抄にあります。
『戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈等も来下して・給うべき戒壇なり、』
(三大秘法禀承事)
現在は民主主義ですので、民衆の機根が戒壇建立を要求した時しかるべき所を選んで建てればいいですね。
この御文から国立戒壇などは出て来ません。
少しだけ冷静に思考できるなら簡単に理解出来ますね。
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沖浦殿 ご返事ありがとうございます。
>広宣部とか教宣部と言うのは、主に法華講員との対決のために出来た組織です。
>愚かなものですね、そういう所で活動することは。
となると、法華講や妙観講との法論を待ち望む私のようなものも愚か者、と思わ
れるかも知れませんね。是は沖浦殿の御信念なので、それについてとやかく苦言
を申し上げる事はありませぬが、私一個人の考えとしますれば、法論をさかんに
法華講やら妙観講から挑まれているのに、コソコソと逃げ回る方が何やら疚しい
事のように思われます。
其の故は如何―凡そ宗教とは優れたるを用いるべきものであり、毒薬を薬だと見
紛うて飲み続けるのであれば、其れは体にとりて甚大なる害悪となりましょう。
故に、宗教の正邪は一刻も早く明らかにせねばならないものかと存じます。宗教
とは此の世の幸不幸などに留まらず、来世、来々世…にまで渡る命の状態を決定
付けるものならば、其の選択に誤ってはいけません。親鸞上人は「明日ありと、
思う心の仇桜。夜半に嵐の、吹かぬものかは」と詠んで「後生の一大事」を解決
する方法を求めに出家しました。大聖人も臨終の事を先に学ぶべしと仰せです。
死後の世界が仮に非常に長く、更に今世での行い如何で其れが決まるのであれば、
宗教の正邪、有効無効を決するのはむしろ公共事業ともいえるものです。
従いまして、何だか判らないけどとにかく自分が偶々縁あったものが此の宗教だ
から、とか先祖代々の宗派は是だから、という安易な事ではなく、理証、文証、
現証を以て、何が正しい宗教なのかを見極める事が重要で、法論とは理証、文証
によりそれを明らかにする行いであるとすれば、蔑視するのは間違いかと存じま
す。
亦、創価学会が自身の法門、教学に自信を持っているのであれば、其れを堂々と
論じ切る事が、創価学会自体の防衛の為にも、会員の為にも、そして学会以外の
人の為にも良いことでしょう。第一沖浦殿が創価の看板を背負って弁論にて闘っ
ているではありませんか。
無論、法論相手の生活に言及したり、人格攻撃をしたり、感情的になって怒鳴っ
たり嘲笑ったり、罵詈雑言を吐いたりというのは慎まねばなりませんし、切り文、
詭弁、循環論法、曲解、論の飛躍等は避けねばなりませんが、一定の礼節と道理
を以て法論をする分には、むしろ喜ばしい事だとも思います。
特に、講頭、会長、教学部長、住職、法主等は一宗を率いる責任ある方々であり、
率いている信徒を四悪道に迷わさぬ為にも、きちんと公開討論をし、自宗の正当
性を内外に示す責務があろうかと勘案致します。
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基本的なことですが、勝さん、おはようございます。
法論で広宣流布は出来ません。
出来るなら大聖人の時代に出来ていたでしょう。
創価が学会の広宣流布の進め方の基本は以下のものです。
『広宣流布はおからみたいなものなんだ。
君達がうんと信心してうんと功徳を出す。
これが豆腐なんだ。
そうすると、広宣流布と言うおからは勝手に出来上がります。』(趣意)
戸田先生です。
現世利益を前面に押し出すことが可能な宗教は広まります。
私は樋田さんたちと一度だけ法論を致しました。
同じ長野県に住んでいて、彼の行いが目に余ったからです。
息子と二人で木端微塵に致しましたが、法論はそれだけですね。
その後は質問会を3回やりました。
質問会なら何時でもお受けすると公言してありますが、今の所顕正会さんも法華講さんからもお呼びはかかりません。
恐ろしいのでしょうね。
教宣、広宣は罵りが破邪顕正と錯覚した組織。
ああいうのは仏法ではございません。
樋田さんを砕いた時、広宣や教宣の連中は私と息子を持ちあげました。
私と息子は法華講さん方とサッサと仲良くなって、一緒に食事したりして和気あいあいになって、写真などとってネットで公開いたしました。
すると今度は私どもは広宣教宣から仏敵にされました。
ああいうのどっちでも良いですけれどね。
所詮は実名も出せず、対面すら出来ない小心者の付和雷同の集まりです。
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>>11
>ここまでで御疑問がございましたらどうぞ。
質問というより反論なのですが、もし宜しければお聞きください。
>呵責謗法についてです。
(中略)
>今我が国では国家権力と結びついて、民衆を支配する宗派はございません。
>ですので、対話で布教をする機根です。
大聖人は特段、国家権力と結びつく宗教ばかりを責められた訳ではありません。確
かに真言は非常に朝廷との結び付きが強かったものですから、其の事も問題視され
ました。真言にて朝廷が祈祷する事が多いが、是が衰国の原因であると。然るに、
禅宗は朝廷とは無縁の鎌倉時代辺りに中国から新しく入ってきた宗派ですし、念仏
に至っては朝廷から迫害された過去も持ち、あくまで民衆宗教でした。
大聖人が他宗を批判された理由は国家権力と結び付いている事が主な理由ではな
く、法華経を誹謗し、或いは遠ざけ、寿量品の教主釈尊を差し置いて阿弥陀仏や大
日如来を信仰している、という点にありました。
創価学会の初代牧口会長や二代目戸田会長が他宗を厳しく責め、他宗から人々を
遠ざけようとしたのも何も他宗が国家権力と結びついているからではありません。終
戦前までに国家と結び付いていたのは国家神道だけです。国家と結び付いてどうこ
うという事だけが呵責の理由ならば、初代、二代目会長も国家神道「だけを」呵責し
ていた事でしょう。
>今他宗を邪宗と責めることは、肉を欲しがる鬼神がいない時、身投げをすること
と同様です。
>それは時にかなった仏道修行ではございません。
大聖人は正像時代とは異なり、末法の現在では実経(法華経)の中の更に本部(後
半十四品)以外は無益であるから、正像時代は摂受や山に籠もっての諸経の読誦
でも良いが、末法には以下の仏道修行をするべきであると御指南されています。
宣わく、法華経のみを篤く信じ他教を捨てる事、方便品、寿量品、御題目を読誦す
る事、謗法の教えに従う人が居れば明確に是の間違いを指摘する事の三つです。
端的に言えば、日々御題目を唱えており、謗法を呵責していれば、仏道修行として
はOKである、とも言えましょう。同時に、此の二つをなおざりにしてはいけません。
そして、大聖人は今から七百年後には亦別の仏道修行の時代に入り、其処では謗
法呵責や折伏といった修行は除かれる、等とは一切御指南されていません。そして
其れ故に現代も未だ末法の時代にあると思われます。
確かに大聖人は時代によって仏道修行のやり方も全く異なるという事を強調されま
したが、是は、諸経に説かれた末法以前の修行法を捨てよという事であったり、紙
や食料に不足した時代の修行法(己の皮を剥いで法を記す紙代わりとする)等は時
代に合わない、という事であって、大聖人が鎌倉時代に提示された修行法をいつか
は捨てよ等とは一切説かれていませんでした。亦、末法の世である事、国に謗法が
蔓延している事などの情況は鎌倉時代と一切変わっていません。
此処までで何か御反論、御質問等あれば、なんなりと。
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遅ればせながら…
>>8
>この板の皆様方も、どうぞここにご意見をお書き下さいませ。
皆様(恐らく殆ど学会の人だと思われますが)も是非、自由に思うところをお聞か
せください。
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こんばんは。
顕正会さん、はじめまして。
興味はあるのですが、あなたの文章は単細胞のわたくしにはわかりずらく存じます。
内容を少し薄めてお書き込みいただけないでしょうか?
要点を絞って、ゆっくりと時間をかけてやりましょう。
はっきり言ってあなたの文章を読む気力がわきません。
ご検討をお願いいたします。
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>>22
グラスルーツ殿 初めまして
文章が長く難解である故に、いまいち意味が判らないとのお叱りがありました。
確かに仰るとおりかも知れません。そうした事は方々で指摘されます故。
ただ、どうしても説明を丁寧にしようとすると、
それ相応の長さが必要になってしまうのも確かでして…。
そこで、詳細を省いてザックリ要点のみ述べますと、
沖浦殿は「謗法とは自分の心の中の状態だけを意味して」
「謗法呵責とは他者、他宗を呵責する事ではない」と主張されていのたで、
私は、「謗法呵責とは他宗や他者を責める事でもある」
という事を主張しているのであります。
亦、沖浦殿は「真言や禅宗も釈尊の教えなのだから認めるべき」
と仰られていましたが、私は、
「大聖人は真言や禅宗を邪宗だとされ、亡国の原因だとさえされていた」
と主張すると共に、従って、
「それらの宗教を呵責する事は現代の世でも必要である」
と述べているので有ります。
以上。
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グラスルーツ殿
すいません、謗法呵責の話だけで終わらせてしまいました。
もう一つ、私がこのスレッドで主張しています事は、
「沖浦殿の正しいとされる教義は、正宗とは勿論、
創価学会の公式教義とも幾つもの点で異なっている」
という事であります。
だから駄目だとか良いとかいう事ではなく、
単にその違いを明白にし、それらは各々違うものだ、
という前提から議論を始めないと、議論は錯綜すると思います。
私が沖浦殿の書かれた事を創価の公式教義だと勘違いして、
「創価の教義は御書とは懸け離れている」と批判したとしますと、
ここに参加の学会員の方から、
「そんな教義は創価にはありません」と非難されるかも知れません。
従って、私はまず議論の大前提として、
沖浦殿が方々で主張なされている教義と、
創価の教義とを峻別する事から始める必要がある、と思い、
便宜上、沖浦殿の教義を「沖浦教」と呼んでいるのです。
その釈明の為の説明がやや長くなってしまっただけです。
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私は独立する自由人ですし、顕正会で浅井さんと全く同じ考えの人っていますかね?
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>>23-24
顕正会さん、おはようございます。
まず冒頭に、クラスルーツ殿←、このドノは勘弁してください。
じんましんが出そうなくらいそこらじゅうがかゆくなります。
よろしくお願いいたします。
文章がすこしだけ読みやすくなりました。
ご配慮感謝いたします。
文章をわかりやすくしていただいて、沖浦さんとのやりとりは思う存分におやりください。
わたくしはROMという立場で拝見させていただきます。
当面はあなたがたの議論に参加するつもりはありません。
せっかく書き込んでいるのに、文面が読みにくくて意図が伝わらなくてはもったいないと思いまして、進言させていただきました。
今後とも整理された表現で、要点をしぼったわかりやすいお書き込みをお願いいたします。
何か感じるところができましたら、わたくしも参加させてただ来ます。
-
>>25 沖浦殿
>私は独立する自由人ですし、顕正会で浅井さんと全く同じ考えの人っていますかね?
私は別ですが、殆どの会員は浅井会長と同一の考えを持っているかと思われます。
それはそうと、私は別に沖浦殿が創価学会の公式教義とやや異なる考えを持たれている事に、
一切、批判などしていませんが…。
私は創価学会の現代の教義を沖浦殿におしつけた事は一度もなかったかと思われます。
私も貴殿も、そして誰人も究極的には同じく自由人であろうかと思います。
私は、何度もご説明しておりますように、私は此処では単に議論の錯綜を避ける為に、
峻別を図ろうとしていただけです。
確かに、「考え方が違うのに何故創価に?」という疑問も幾分生じてはきますが、
「過去に創価学会にお世話になった事」「戸田氏や池田氏を尊敬されている事」
「自身の考えと同じ方向に創価の公式見解も移行してきており、
亦、未来の創価の教義は自身の考えと同一になるであろうと思われている事」
などを、以前ご説明戴きましたから、沖浦殿が、
考えが違っていても創価に在籍している理由も心得ているつもりです。
亦、未来の創価教が沖浦教と同一になる事も十分にあり得る事だと思っています。
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勝さん、おはようございます。
では今後は私の現在に思想が、日蓮正宗時代の戸田先生牧口先生の表面上のお言葉とは異なっていることは問題にしないで下さい。
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沖浦殿 お早うございます&ご返事ありがとうございます
さて、ええと、私は「創価の教義(略して創価教)」と
「沖浦殿の教義(略して沖浦教)」とが違っている事は問題視していませんと述べていますが、
同じ「沖浦教内部」での矛盾については、やはり問題だと思っています。
問題というより意味が判りません。沖浦殿自らが聖人とされている戸田氏の言葉に真っ向から逆らうなどは。
とはいえ上に「表面上」とありまして、以前にも「方便」とご説明されていましたので、
まあ、沖浦殿にとっては、牧口氏や戸田氏の殆どのご発言、乃至池田氏の会長就任初期の頃の発言は、
表向きには方便として日蓮正宗を絶対だとしていながらも、内心では、是は本当の法門の仮の姿である、
と考えていた、というご見解なのでしょうから、沖浦殿の中では矛盾はないのやも知れませんが…
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因みに、仮に沖浦殿が「現在の創価学会の教えは完全に正しい」等とされるのであれば、
私は沖浦殿と現在の創価の教義に食い違いがある事を問題視せねばなりません。
違いがある二つが共に完全に正しい等という事は論理的にあり得ないからです。
そうではなく、現在の創価の教えはまだまだであり、
沖浦殿の教義と同じになった未来の創価の教えのこそが、真に正しい教えだ、
とされるのであれば、其処には矛盾がない為、問題視は致しません。
-
勝さん、今度質問にお答えがない場合、アクセス禁止となります。
ご注意下さいませ。
質問いたします。
以下の御書は正反対を書かれています。
この意見の相違にはいかがお考えですか?
『月月日日につより給へすこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。』
(聖人御難事)
月々日々に信心を強くしていきなさい、
でないと魔がその情報を得てやって来ますよ。
『摩訶止観第五に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」文』
(種種御振舞御書)
行解を務めれば務めるほど、三障四魔が競い起こります。
これじゃ、どっちにしても魔が来ますね。
貴方はどう考えますか?
-
>勝さん、今度質問にお答えがない場合、アクセス禁止となります。
>ご注意下さいませ。
ちょっと待ってください。
一体全体、私がどの質問に答えていないと仰るのでしょうか?
それとも、質問とはスレッドを超えたものなのでしょうか。
つまり、例えば公明党スレッドで或る人が私にした質問に答えずに、
功徳スレッドで別の人が私にした質問には答えたり、九条スレッドにコメントしてはならないといった…
私は今読み返してみたのですが、やはり此のスレッド内には誰も私には質問をしていないようです。
然るに、もし私の読み落としがありましたら、是非ともアク禁にする前に、
その質問が何であるのかを御教示ください。
私は上で(>>29-30)沖浦殿が折角私にコメント下さった事(>>28)について返答したまでです。
亦、質問ではありませんが、ご意見、ご主張ならば、私は沖浦殿から上で幾つも戴いています。
即ち、法論では広布できない事、樋田氏や広宣部の事、戒壇論の事・・・。
一度に全てを題材にすると、議論が錯綜するだけですので、まだ触れていませんが、
いずれ全てにご返事するつもりです。
然るに、これ等は私宛の質問ではありませんね?
別スレッドでも、調べましたが沖浦殿から私への未回答の質問はありませんでした。
教義の変化のない宗教を挙げよ、とのご質問にも既に返答致しました。
其の上で、述べますが、一体私は具体的に『どの質問に答えていない』のか、
明日までに是非、ご回答ください。
もう一度、念を押します。『どの質問に答えていない』のか、具体的にご指摘ください。
-
それはそうと、ご質問ありましたので、以下に私なりの考えを書きたいと思います。
>質問いたします。
>以下の御書は正反対を書かれています。
この意見の相違にはいかがお考えですか?
然ればお答え致しましょう。
仏道修行を致しますと、第六天は怒りを催します故、配下の陰魔、煩悩魔、死魔などを従え、
自らも天子魔となり、その行者に襲い掛かります。それを説明したのが以下、
>『摩訶止観第五に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」文』
(種種御振舞御書)
>
>行解を務めれば務めるほど、三障四魔が競い起こります。
即ち、健康が損なわれたり、行学をやめたい気持ちになったり、
或いは、周囲の人間に怨嫉が生じ、是をやめさせようとします。
特に、時の権力者や権威ある法主等が妨害してくる場合が一番手強い。
そういう時、
>『月月日日につより給へすこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。』
(聖人御難事)
>
>月々日々に信心を強くしていきなさい、
>でないと魔がその情報を得てやって来ますよ。
とあるように、こちらの行学に向ける気持ちが弱いと、
体は陰魔にやられ体調不良となり(最悪、急逝し)、心は退転の気を起こし、
周囲や権力者の怨嫉にめげて、行学を放り出してしまう事になります。
「たよりをうべし」とは足掛かり、付け入る隙を得てしまう、という事です。
そして、魔が優勢となり、遂には魔に屈してしまうという事にもなりましょう。
故に、
>これじゃ、どっちにしても魔が来ますね。
>貴方はどう考えますか?
前者は魔が周囲や心身に生じる事を述べたもので、
後者はそれらに篭絡されてしまう、 乃至篭絡の手掛かりを与えてしまう、
という事を述べたもので、別の話であると思われます。
どうしようが魔は行学すれば必ず生じるものです。
然るに、心強ければそれらに動じずに済みますが、心弱ければ魔に完全に入られ支配されてしまう、
という事だと、此の二つの御文を合わせて考えれば、解する事ができると思われます。
喩えて言うならば、病原菌の多い隔離病棟に行くならば、
周囲に様々な病原菌が競い起こりますが、
その時、マスクを外してしまったり、病原菌のついた手を口や目や鼻に入れてしまったり、
或いは傷口が空いていたりしては、そこを手掛かりに菌が体の表面のみならず奥深くまで侵入してしまう、
という事になりましょう。
此の譬えでの「マスクは外す」「手を口や目に入れる」「傷口が空いている」等が、
「たゆむ心」に相当すると言えましょう。
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