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僧侶とはどう言う人かを考えるスレッドです
1沖浦 克治:2011/08/10(水) 16:49:47 ID:AJ3hr85o0
 独り言のスレで盛り上がっていますので、スレ立ていたします。

2沖浦 克治:2011/08/10(水) 16:50:28 ID:AJ3hr85o0
 移動ですよ・・・・・

154 名前:某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ 投稿日: 2011/08/10(水) 05:39:30 ID:pFKlftlI0
何度見てもいいですね2007長野法論、長野質問会(耕治さん解答者)、2008大阪質問。
一つ気になったことは、長野質問会後半で質問者側が僧を崇めなければならない文証として
立証安国論の旅客側の邪難を出してきたことです。あれこそ切り文


155 名前:沖浦 克治 投稿日: 2011/08/10(水) 05:55:44 ID:AJ3hr85o0
 某男子部員さん、おはようございます

 あの当時は以下の会話は成立しません。

 俺の親父僧なんだよ・・・・・

 今はふつうです。
 呼び名は同じでも、中身が違いますね。


156 名前:某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ 投稿日: 2011/08/10(水) 06:03:27 ID:pFKlftlI0
沖浦 克治さん、おはようございます

僧の定義は難しいですね。個人的には雪山童子のような死身弘法の行者だと思いますが


157 名前:沖浦 克治 投稿日: 2011/08/10(水) 06:09:38 ID:AJ3hr85o0
 僧は、戸田先生が定義を決めておられます

 『弘教するのが僧で、頭丸めて袈裟着るのは関係ない。
 君たちが必死で折伏に走って、家庭指導するだろう。
 あれが僧なんだ。
 だから、創価学会壊すと破和合僧なんだ。
 頭丸めて威張ってるのが僧じゃないぞ。
 君たちが僧なんだよ。』(趣意)

 と、一応

 独り言です・・・・・・・・・・・・・・


158 名前:某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ 投稿日: 2011/08/10(水) 06:21:13 ID:pFKlftlI0
その通りだと思います

ボソボソ・・・・


159 名前:堅皇 投稿日: 2011/08/10(水) 12:19:14 ID:acgo9yIs0
僧とは僧伽の事であり、出家僧である比丘・比丘尼と在家僧である優婆塞・優婆夷の四衆の事を指します。
つまりは、僧とは信仰者全域の事を指します。

当然学会員さんも全員僧と呼ばれるものですね。

ちなみに僧俗和合と言う言葉がありますが、これは近年に作られた造語であり、経文、御書にも載ってません。
本来僧と俗は対義の言葉ではありません。
僧は信仰者の事を指しますから、僧の対義は不信者、または信仰をしない人と言うことであり
また、俗の対義は聖となります。

つまり御書に出てくる僧俗とは「俗である僧」の事を指し、近年国語辞典に載っているような僧と俗を分ける物ではないと思います。

出家僧である比丘・比丘尼の定義ですが、出家は文字通り家を出ると書きます。
家を出る事によって全ての執着を断つ事を意味します。
袈裟は僧が着る制服と言うことではなく本来はボロ布の事を意味しています。
つまり、袈裟着の新調するという事は袈裟の定義から外れるものといえるでしょう。
今の袈裟の形は仏教が中国にわたって坊さんの権威付けの為に生まれたものであり、本来の袈裟の意味を大きく外しています。

ですから比丘・比丘尼である出家僧の定義は家を出て家庭からの執着を断ち、髪を切り、衣服にも、お金にも執着せずに
ただひたすら仏門に帰する人の事を指します。
僧でありながら金品を請求する行為は乞食僧の類であり
ちなみに、乞食は供養を乞う行為を意味し、与えられたものを食する時点では乞食ではありません。
必要以上に搾取する事が乞食と言う事になるかと思います。

家庭を持って、新しい衣服をまとい、僧を職業として金を稼ぐ手段に行っている人は比丘・比丘尼の定義から外れていると言えますね。
つまり、今の日本では比丘・比丘尼は一人も無く、全ての僧が在家である優婆塞・優婆夷であるという事になりますね。

これらの事を考え学会組織の有り様を見ますと職業幹部と一般会員では
一般会員は私財を投げ打ち全てボランティアで活動している点では比丘・比丘尼に近く
逆に職業幹部は私財を投げ打つどころか宗教で飯を食っている点でもっとも俗である僧、乞食僧の類に映りますね。


160 名前:沖浦 克治 投稿日: 2011/08/10(水) 15:00:00 ID:AJ3hr85o0
 堅皇さん
 
 今の日蓮正宗に出家はいません。
 住職ってね、そもそも出家の正反対ですからね。


161 名前:堅皇 投稿日: 2011/08/10(水) 15:43:26 ID:acgo9yIs0
沖浦さん

日蓮正宗の僧侶に限らず、殆どの僧侶といわれる方々は
出家僧ではなく、在家の住職と言う話ですね。

3タンポポ ◆zAuUlJxdM6:2011/08/10(水) 18:09:11 ID:WwDrUF2wO
他所の宗派で失礼します。高野山真言宗は、お坊さんになる資格得れる大学で勉強と、いろいろな修行の密の点を伝授うけて、高野山のアジャリとか言う身分になられたお坊さん等に見習って行きます。殺生厳禁。四つ足の食べ物厳禁、男女問題厳禁(妻帯は最近は末寺の跡取りの関係で緩やかみたい。。。)と、母方祖母が高野山信徒で言っていました。
赤い朱色の法衣を着れる様になったら、アジャリと言う身分になり大僧正とされています。紫の法衣までは増正の身分とされています。後は、大権律し(しの部分は漢字わかりません)、律師し などがあります。 いろんな色の法衣を設定したのは仏教に篤い、天皇の一人が設定して今に高野山の場合は決められて居ます。
日蓮宗や日蓮正宗のお坊さんは、墨染めの法衣にたすき掛けの南無妙法蓮華経の文字がかかれたモノで、独特ですが、日蓮宗身延山系では、赤い朱色の法衣を着たお坊さんが何人かいます。実家の菩提寺の古い記念写真の知識だけどね。
大僧正とか言う身分もあります。 大僧ず←(ずの部分は漢字わかりません。)菩提寺だけしか知らないが、菩提寺のお坊さん方は、通ってた小さい時、私らが肉のある、カレーライス食べてても お坊さんは野菜の煮たモノとご飯しか食べてませんでした。菩提寺の跡取りの関係で住職は妻帯しています。

日蓮宗は一般的なお坊さんは墨染めの衣を普段着てるが、お会式などの法要には、赤い朱色の衣や紫の衣や青の衣にキンキラ金のお袈裟、頭に頭巾の背の高いモノを被ります。 それぞれ色の違う衣のお坊さんが三人一組で基本的法要がなされます。通ってた小さい時の感じね。

大石寺のお坊さんの生活ぶりはよくわからないが、代理で法事に高校の時まだ創価学会が合体してた時代に見た末寺のお坊さんは、グレーの色の法衣を普段着ていたみたいね。法要儀式もそれにキンキラ金のお袈裟だった記憶があります。
大石寺のお坊さん方は、四つ足食べるのかな?、妻帯もOK?このへんの違いがよくわかりません。

4堅皇:2011/08/10(水) 21:44:34 ID:acgo9yIs0
タンポポさん

> 高野山真言宗は、お坊さんになる資格得れる大学で勉強と、いろいろな修行の密の点を伝授うけて、
> 高野山のアジャリとか言う身分になられたお坊さん等に見習って行きます。

真言密教の教えと言うのは元祖師弟不二といいますか
弟子は師匠の言う事は絶対に聞かなければならないと考える宗派であり
伝統や相承の点から考えると、その長さからは龍樹菩薩から続いているもので
高々700年の日蓮各宗派と比べ物にならないものですからね。
また、上下関係、戒律は特に重んじる宗派とも言えますね。

そもそも密教では真言は念仏や題目などのように誰でも唱えられるものとは考えていなく
僧として仏法を段階的に学んで、一人前になったと思われた時に初めて真言を口にしても良いという感じです。
民衆仏法とは掛け離れた階級仏法と言う感じですかね。

題目でこそ誰でも唱える事は出来るのですが
自分でものを判断すると、直ぐに「我見だ」と上から断じられるところは
日蓮正宗や創価学会と通じるところはありますね。

密教での階級的要素を廃止、誰にでも出来る物を最初に思い立ったのが法然さんの念仏であり
法然さんの念仏の誤りの部分を補正して題目として仏法を広めたのが日蓮と言う流れかと。
そもそも大乗仏教以降、煩悩は滅せずに菩提に転じることを目的としていますので
小乗経での戒律は今の世では無意味なものが多いと思いますね。

もちろん、出家とは何の為に行ったかと言う基本は大事な事であり
それは小乗の教えからも学ぶべき点は多いとは思いますが、今時五戒を守るというのは時代錯誤かと。

肉を食べないとか酒を飲まないとかそういう事ではなく、一切の思い込みから来る執着を捨てて物事を見ると言うことかと。
そういう日蓮も五戒を破り酒を飲んでいた破戒僧の一人でしたから。

5タンポポ ◆zAuUlJxdM6:2011/08/10(水) 22:43:04 ID:WwDrUF2wO
堅皇さん。今晩は。小さい時に見て聞いてたお坊さんのイメージは高野山のお坊さんの生活ぶりと、日蓮宗や大石寺のお坊さん方のチョイとでも見た感じから、見比べちゃうのよね。

極端な話、外道のユダヤ人の中に生まれたイエスも、ユダヤ教の堅苦しい戒律を廃してもっと自由な考えの新キリスト教を立ち上げた時に戒律主義のユダヤ人から迫害うけたわね。日蓮大聖人も五戒の一つを破り酒を飲むのは、何か思うところがあって、新しいやり方なんだろうね。古い因習のとらわれから自由と言うか、脱却の道を開くためにね。

お釈迦様も、スジャータから乳粥をもらった時に、戒律を重んじるグループから戒律破り!と非難ごうごうだったしね。

何か新しいことを初めてされる人には何か邪魔があるね。会社組織でも、改革開発が面倒な上司が何かとコストがどうのこうのと邪魔をして新しいやり方をなかなか開発させてくれないからね。それでも1人立つ精神で頑張った人は日蓮大聖人みたいな人やね。

日本のお坊さんの多くはきらびやかな服装の法衣で権威的な面がイメージにあるが、東南アジアや南方のお坊さんみたいに布を継ぎ合わせただけのシンプルな原始仏教みたいなお坊さんのイメージもあるしね。

色々私の知らない知識教えてくださってありがとうございました。本日は、お疲れさま。お休みなさい。

6タンポポ ◆zAuUlJxdM6:2011/08/11(木) 07:56:38 ID:WwDrUF2wO
おはようございます。

お坊さんで、うちの実家の菩提寺はそうヤカマシク熱心では無くなって団さんで身延山お参りもなくなったが、他所の日蓮宗身延山系末寺では、荒行とか言う修行を冬位にやります。氷水を頭に被ったり、庵の中で寒さに耐えて瞑想したり、山をかけ上がったり等の修行をします。荒行の歴史的云われは、よく知りません。 それを達成出来た住職は、地元の担当教区に帰って来たら、ヒーローの様に尊敬を信徒から見られるようです。

エンの行者とか言う山伏みたいなお坊さんは大峰山や羽黒山等を登って修行します。高野山の空海もそれに近い修行を若い時にしています。京都と滋賀県の間の、織田信長が焼いてしまった、比叡山延暦寺の関係のお坊さんは一時、刀携帯の兵隊みたいなお坊さんになって京都に昔親鸞上人が開いたグループで西と東のなむあみだぶつを唱える蓮如上人が開拓した石山本願寺の繁栄具合を妬み迫害しましたが。。比叡山延暦寺でも、庵で瞑想したり、水を被ったりするなど何らかでも教育もあって修行工程があるようですからね。

日蓮正宗の大石寺のお坊さん方は、お坊さんの資格得るため等はどんな修行を山の中のお寺でするんですかね?アニメで見たことがある、 一休さんの曹洞宗系の禅の修行のところでも、一休さんが伝説的な「とんち」の知恵を利かせれる様になったのは禅の座り続ける瞑想修行を経たからですもんね?何らかの修行工程がありますね。他所の各宗派のお寺ではね。

◎その修行工程に近いことや教育の何らかの勉強をしないで、お坊さんの袈裟を着てお坊さんと名乗るのは頂けないなぁ!と基本的に感じて居ます。

◎在家の生活の、創価学会でさえ、お題目や勤行で何時間かでもご本尊さまの前で座り思索祈る修行工程があるのだしね〜!

7某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/08/11(木) 08:54:03 ID:DdBq3XZs0
インド土着の習慣で四住期というものがあったそうですね。
結婚して後継ぎが生まれると主は家を出て遊行・林棲していたそうです。

僧は堅皇さんがおっしゃる通りサンガの音写で、単に「集まり」の意味なのだそうです。
いつから出家修行者を僧と呼ぶようになったのでしょうか。
インドでは釈尊滅後に出家修行者らが教義を弄んで民衆から乖離し、
民衆からの信用も失って仏教が滅亡してしまいました。
民衆が仏教から離れていく過程で、仏教者の集まり(サンガ)は出家修行者ばかりとなり、
出家修行者イコール僧との認識が広がったのではないかと考えられます。

8堅皇:2011/08/11(木) 12:58:33 ID:acgo9yIs0
某男子部員さん

> 民衆が仏教から離れていく過程で、仏教者の集まり(サンガ)は出家修行者ばかりとなり、
> 出家修行者イコール僧との認識が広がったのではないかと考えられます。

民衆の仏法離れの原因は僕は密教の登場によってだと思いますね。
仏法を浅深を理解し段階的に学ぶというものは良いのですが秘密裏に上層部が隠した事に問題があるかと。
例えば幼児相手に、これは危険であると隠すのは良いが分別つく大人にも隠すのはどうかと。

仏法においての秘密とは本来は「雖近而不見」(近しと雖もしかも見えざらしむ)と言うことで
要するに仏法を学ばないとその意味は理解できないというもので
解らないように誰かが隠すというものではないということ。

この密教の有り方に異を唱えたのが天台の顕教と言う事になるでしょう
敢えて上が隠さずとも見る人が見ないとその意味は理解できないという点で充分仏法の段階的教えは守られると。

上の立場の人間が隠す理由は2つあったと思います。
1つは自身の地位を守るため、見せなかったという事と、もう1つは上の立場の人間がそもそも理解できなかったとが考えられます。
いくら在家が頑張っても教えてくれないのであれば、そりゃ在家は離れていきますね。

仏法はもともとヒンズー教のカースト制度と言う権威主義からの脱却を目指したものであるにも拘らず
密教により新たな権威主義の誕生になったと言う感じではないかと。

日蓮正宗の秘すべし秘すべしの有り方は、まさに密教そのもので
学会のそれは池田先生ではないと解らない事であり、凡夫のお前らが考えるなと言うのは
同じく密教であるというところでしょうか。

9堅皇:2011/08/11(木) 12:59:05 ID:acgo9yIs0
タンポポさん

> 荒行とか言う修行を冬位にやります。氷水を頭に被ったり、庵の中で寒さに耐えて瞑想したり、
> それを達成出来た住職は、地元の担当教区に帰って来たら、ヒーローの様に尊敬を信徒から見られるようです。

難行苦行に関しては釈迦の時代でもその無意味さは説いているんですけどね。
そこでヒーロー扱いする檀徒にも問題がある気もしますが。

もちろん、訓練や演習と言うことが全くの無意味とは思いませんが
演習にこそ真実があると考えるなら、それこそ方便に執着して真実を見誤るという事。
敢えて氷水を頭に被らなくても、生きてる上でもっとリアルな修行はあるというもの。

> 日蓮正宗の大石寺のお坊さん方は、お坊さんの資格得るため等はどんな修行を山の中のお寺でするんですかね?

まじめに修行するとすれば学会員さんと同様に唱題と宗内教学の研鑽でしょうね。
んじゃ学会と同じじゃないかと思われるでしょうが同じですね。

ただ、あえて日蓮正宗肩持てば大石寺のお坊さん方は日蓮正宗教学はかなり修学していると思います。
こと日顕さんの教学力は学会員さんは見くびっていますが、かなりのものだと思って見ています。

ただ反面、日蓮正宗教学自体が大きな矛盾を抱えていますから
その中での迷いも見えてきているのかと。
それは日顕さんがこっそり他宗の神仏を持っていたりしているところにも伺えたりします。

日寛講義の本を書かれた日顕さんですが、実は日寛教義に不信を抱いているのではないかと言うのは
僕の中での予想ではあるんですけどね。

後に否定しましたが、大御本尊が後世の作であると宗内に言い出したのも日顕さんでしたからね。

10タンポポ ◆zAuUlJxdM6:2011/08/11(木) 15:06:16 ID:WwDrUF2wO
>>8←今日は。密教は高野山の空海が中国の恵か(かの部分漢字わかりません)アジャリに伝授承けている流れから違反して他の人に勝手に伝えると、越法(おっぽう)となって、良くないと、亡き母方祖母から聞いた事があります。どう良くないのかは詳しくは教えてくれなかったけどね。
不遜な気持ちで他人に秘密を漏らしてはならないという厳しい掟なのかも知れません。。

創価学会でも、基礎教学を学び中の方が、幹部のするような儀式ごとを知ったかぶりで勝手にやれないのと同じで、分かって居ても飛び越えてやったりしたら慢心を起こすみたいな不遜な気持ち起こすのを予防なのかも知れないと感じて居ます。

11堅皇:2011/08/11(木) 21:27:19 ID:acgo9yIs0
タンポポさん

空海は青龍寺の恵果阿闍梨からの伝授により確かなる密教体系を受け継いでいる。
この流れに反して、空海の教えを勝手に伝えると良くないと。
人ら伝えるならちゃんと密教で阿闍梨号を取得してから正確なものを伝えなさいと言う話ですよね。

では、阿闍梨号受けついた空海の教えが邪智であった場合どうするんですかね。
日蓮は、空海の説いた真言に対し泥棒とまで揶揄しているわけですよ。

対する真言では日蓮は密教に付いて来れなかった落ちこぼれが「慢心」で法を説いていると表現しています。

どちらの言い分が的を射ているものか互いの教義を比較してみるしかありませんよね。
ちなみに僕は相伝、伝授した空海の教義より独学の日蓮の教義の方が優れていると判断していますが。

> 創価学会でも、基礎教学を学び中の方が、幹部のするような儀式ごとを知ったかぶりで勝手にやれないのと同じで、
> 分かって居ても飛び越えてやったりしたら慢心を起こすみたいな不遜な気持ち起こすのを予防なのかも知れないと感じて居ます。

これに対してタンポポさんはどう思われるかと言う話です。
創価学会の考え方は密教そのものだと思いますね。

創価学会の基礎教学と慢心を起こすみたいな不遜と思われている人の教義をちゃんと見比べて
どちらが優れているか判断するべきだと思います。
つまり、密教の考え方自体が誤りであると思います。

全ての考えを「慢心」の言葉で片付けてしまう行為は単に権力者を増徴させるだけだと思います。
相手の事を「慢心」と言うのであれば、まずそれを法論によって証明させるべきですね。
それをしないでただ断じるのは不遜と決め付けている側が「慢心」だと思います。

12堅皇:2011/08/11(木) 22:08:58 ID:acgo9yIs0
ついでに言えばこの密教的権威主義も単なる邪智と片付けるのではなく
僕は方便として捉えています。

例えるなら親子関係や師弟関係は最初は権威的縦社会から始まるものです。
最初は親や師匠の方が知識があり教える側にありますからね。

しかし、子も弟子もいつかは自分が親や師匠にならなければいけなくなります。
対する親や師匠は老化による衰退や時代に付いていけなくなる時が来ますからね。

その時に子や弟子の方たちが親や師匠を守るためにも諭す側に成長する必要があります。
成人した子供がいつまでも親の権力に振り回される状況であれば
その家の繁栄はそこで終わってしまいますよね。
つまりは、密教の教えを守り通していれば、訪れるのは「亡国」と言うことになります。

日蓮が唱えた真言亡国は実に的を射ていると僕は思います。
方便である密教的権威主義に執着していては真実を見誤る時が来る。
そう思います。

13タンポポ ◆zAuUlJxdM6:2011/08/11(木) 22:35:06 ID:WwDrUF2wO
>>11←堅皇さん。今晩は。色々知ってなさるね〜!
お坊さんの違いをイメージから高野山の関係話を祖母から聞いた断片的な記憶の中からだけど、日蓮正宗派の大石寺のお坊さんと見比べたら、伝統の法を伝授具合もなんか大石寺の方が物足りない感じ受けるし、もしも、大石寺の人が、一通り、高野山のやり方の修行方法をやってみたら、耐えれるんだろか?って単純に興味あるのよね。
日蓮宗の云われが間違っているモノであっても、荒行も一通りやってみたら耐えれるんかな?って興味があります。

当然、創価学会員も、一通り、ヨソの宗派の修行方法に耐えれるだけの根性と言うか?信心の強さ柔軟さがなければと厳しく思って居ます。さあ、ヨソの宗派から、『イッペン一通りやって見てください』と言われたら、サッとやれるだけの信心の強さを慢心なく、やれると体験として、良いな〜と思って居ます。

確かに、お釈迦様は難行苦行の無意味さを断じては居ますが。イッペン、留学的にヨソの宗派の修行方法を全て取得体験も面白いと思って居ます。御書に照らして、より深く、その修行のどこが、かつて体験された、お釈迦様の言う様に無意味な所があるか?机上の勉強だけでは解らない、変わった方面から見る見方で、より御書に理解が深まるかも〜!と興味があります。
ちなみに、小学校の林間学舎で高野山の空海のお母さんの声の役を出し物で体験したことがあります。高野山の宿坊では林間学舎中39度の熱で三日間宿坊の小さな部屋で寝込んで梅干し粥だけで、精進料理を味わい損ねてしまいました。大人になって、精進料理のレストランに高野山でリベンジ食事は、創価学会入会前のずっと前に体験しましたがね。

ホウボウ罪にならない程度気を付けて、体験修行は面白いと思います。

14堅皇:2011/08/12(金) 02:35:22 ID:acgo9yIs0
タンポポさん
> 留学的にヨソの宗派の修行方法を全て取得体験も面白いと思って居ます。
> 机上の勉強だけでは解らない、変わった方面から見る見方で、より御書に理解が深まるかも〜!と興味があります。

これはやるべき事だと思いますね。

> ホウボウ罪にならない程度気を付けて、体験修行は面白いと思います。

そもそも日蓮正宗が考える他宗に踏み入らないと言う謗法罪と言うのは謗法罪でもなんでもないですから。
むしろ他宗の事をよく知らないで揶揄する行為こそが謗法罪であるといえますね。

少なくとも日蓮は天台宗の僧の一人でしたが他宗の教義をちゃんと修学した上で指摘してますからね。
日蓮が最初に仏門に入ったのは清澄寺であり、その後天台宗の本山である比叡山に修学。
三井寺に就いてから薬師寺、真言宗の本山である高野山の他、仁和寺、四天王寺、東寺へ修学しています。

その後迎える建長5年ですが、正宗、創価で言われるような「立宗」は行っていなく、あくまで台密僧としての独立と言う程度の話であると思います。
日蓮が一般的な台密僧であったという根拠は、建長6年の真蹟「不動・愛染感見記」からでもうかがい知れます。
(もっとも日蓮正宗では「不動・愛染感見記」は勝手に偽書扱いですけどね。)

そもそも建長5年の時点で全てを悟って「南無妙法蓮華経」と言うとなると
何故に正嘉元年の実相寺まで修学を続けているかですね。
念仏に対して疑問を持ち始めたのは、おそらくこの年の正嘉の大地震を経験してからかと。

更に文応元年の「立正安国論」を読む限りだと念仏の批判はすれども
真言や台密への批判にまで及んではいませんし、むしろ讃えていますね。
実際に真言や台密への言及は更に後の話となります。

この事から考えても日蓮の悟りと言うものは「直達正観」と言うように
ある日突然と言うことではなく、段階的に悟りを開いていったものであると思います。
そういう意味では日蓮と言う人は臨終に至るまで悟りのための修学を続けていたものと思われます。

15堅皇:2011/08/12(金) 02:35:54 ID:acgo9yIs0
それはさて置き、僕が日蓮の言説に説得力を感じるのは
ちゃんと他宗の教義を読んで理解しているところにあります。

それに対して日興さん以降日蓮正宗の歴代法主の言説は
他宗の事を良く知りもしないくせに批判だけしているという点です。
これは明らかに日蓮正宗が考える謗法厳禁の誤った解釈にあると思います。

宗内教義だけしか見てなくそれが全て正しいと信じてしまえば
その中に何が混ざっても疑う心を持たなくなってしまい
仮に宗外で真実を唱える人が現れていたとしても、宗内の権力によってそれは握りつぶされてしまう。

雪山童子の説話は見た目の判断に捕らわれることなく話を聞くことを説いているのではないか。
鎖国状態で、ただ自分たちが正しい、外は嘘ばかりだと言うのであれば
太平洋戦争時の日本や、今の中国と同様なのではないかと言う事ですね。

本当に自分たちが正しいと主張するなら、相手の意見もよく聞いて理解した上で
それでも相手の考えが誤りと思う時に初めて指摘するべきではないかと言う事です。

日蓮のように一切経を読破したわけではありませんが
一通り他宗の教義に触れ、他宗の信者と話してみた上で、日蓮の「四箇格言」は僕も賛同します。

と同時に日蓮正宗の教義自体が「四箇格言」とまんま同じ状況に陥っているではないかと思いますし
また、創価学会の指導や教義内容も同じ状況下にあると思っています。

16沖浦 克治:2011/08/12(金) 06:04:36 ID:AJ3hr85o0
 おはようございます

 創価学会が僧侶をなくしましたが、これで僧侶の必要性が相当薄れましたね。
 
 ああ言う制度はゼロにするのではなく、大幅に縮小するべきです。

17タンポポ ◆zAuUlJxdM6:2011/08/12(金) 06:06:50 ID:WwDrUF2wO
>>14←はい。おはようございます。それは一通り、小さい時やが実家の菩提寺日蓮宗で小学5年生頃の子供会の時紙芝居の形で説明受けて習った事あるわ。

詳しくありがとうです。
大人になって、その確認に比叡山を一度見学した時比叡山の案内係のお坊さんは当時の仏教大学の扱いだった比叡山での修行学習を日蓮は見切りをつけ退学したようなものと言ってましたよ〜!

18タンポポ ◆zAuUlJxdM6:2011/08/12(金) 06:35:22 ID:WwDrUF2wO
>>17←続き。アチコチ日蓮大聖人は研鑽学習に各種宗派の門を叩き勉強されましたが、比叡山から退学したことで、比叡山の関係者が悪い噂を振り撒かれ、行く先々で、色々な辻説法のため1人立つ精神で立たれた大聖人は『偽物坊主』と石をぶつけられたり迫害のネタにされたんだろうな。。と当時の苦難な広宣流布の苦労具合が偲ばれ想像されます。

19堅皇:2011/08/12(金) 18:05:49 ID:vq54SzT20
タンポポさん

日蓮の辻説法に関してはいろいろと見解が割れてますね。
辻説法を行ったという説もあれば、辻説法は行わなかったという説もあります。

僕は辻説法は行わなかったと言う風に考えていますが
諫暁八幡抄を読む限りでは四箇格言を他宗の僧たちに広く主張されていた事は事実だと思います。

四箇格言の内容の過激さから日蓮は誰彼構わず辻説法を行ったかのような噂を広めたもしくは広まったのではないかと見ています。

比叡山から退学と言うのもどうなのかと。
天台宗の僧侶でありながら真言宗の高野山へ修学へ行った事を指すのか
はたまた、批判対象が念仏だけに留まらず最終的には天台宗にまで及んだからなのか。

何れにせよ大人しく台密僧のままでいたならば『偽物坊主』とは言われなかったのだろうと思います。
日蓮信者が日蓮は人以上の存在であるかのように解釈したように
アンチ日蓮も同じく必要以上に悪く言っているところもあると思います。

20タンポポ ◆zAuUlJxdM6:2011/08/12(金) 18:42:12 ID:WwDrUF2wO
>>19←堅皇さん今晩は。日蓮宗身延山系の絵本には、辻説法の描写があります。私は小さい時に見た絵本のそれしか知らないので、辻説法の状況について、見解が別れてるのは知りません。小さい時の記憶でスミマセン。

21堅皇:2011/08/12(金) 23:08:58 ID:vq54SzT20
タンポポさん

日蓮といえば直ぐに辻説法と連想されますが
辻説法に関して更に言えば、立正安国論を提出する以前の日蓮なら
民衆を集めて街角等で説法していたのだろうと思いますが
幕府に追われる立場となってからはそれどころではなかっただろうと思うという話です。

辻説法で受ける印象は、道場破りのように他宗の寺院の僧にいきなり問答をかけたとか
道行く人に辺り構わず折伏を行ったという事は無いだろうという事です。

もし、日蓮が誰彼構わず辻説法を行っていたとすれば
比喩品に書かれている
汝舎利弗 我此法印 為欲利益 世間故説 在所遊方 勿妄宣伝
(汝舎利弗 我が此の法印は 世間を利益せんと 欲するを為ての故に説く 所遊の方に在って 妄りに宣伝すること勿れ)

この部分に反すると思うんですね。
「此の法印」つまりは妙法は、誰彼構わず説くものではなく
遊び場で説くものではなく、また遊びとして説くものではないと思いますから。

22タンポポ ◆zAuUlJxdM6:2011/08/13(土) 00:00:03 ID:WwDrUF2wO
>>21←堅皇さん。今晩は。1日お疲れさまです。多少伝わって居る話しの違いこそあれ小さい時の日蓮宗で教わった基本的な日蓮の行動具合からも、鎌倉幕府に追われる身でも、日蓮大聖人は行く先々で辻説法は可能ですね。1人立つ精神が大聖人さまにはあるからです。

基本的に辻説法をしたと私は素直に信じています。

さて先ほどお題目感謝ですみました。JAL123便の墜落冥福と5ヶ月めの東日本大震災の犠牲者行方不明者のためその残された家族さんの気持ちの落ち着きのため。お題目に祈らせていただきました。

1日お疲れさまでした。本日も知らない部分教えて下さりありがとうございました。私の方は記憶の幼い知識理解力の点はスミマセン。m(__)m。
今日はプールの帰りに車の中から見たけど、自転車、バイク、歩きのお坊さんどこの宗派かわかりませんが、自転車歩きのお坊さんは帽子も被らず暑い中
黒い夏用の法衣を着てアチコチの盆法要の家庭に向かってました。。。よくお坊さんの儲けだからとか稼ぎどきって創価学会の座談会では言ってるのを聞きますが、うちの主人系の菩提寺西本願寺末寺には、月一回祖母は年金が老齢基礎の年金しかなかったから、やってた時には1000円、主人の父の代には月二千円のお布施で年金生活に配慮して、末寺に許されてます。まだ他所に比べたら年間にしても、お布施額には良心的な方です。お金持ちの家庭はお布施の出せる志具合も違うだろうけどね。

生活ぶりに配慮出来て居るお坊さんは、まだ違う宗派でも、良心的だと思います。ちなみにお布施とはふせこむと言い密教的にお布施の志の額は言わない方が良いと聞きます。あえて額を言いましたのは、やたら座談会でお盆やお彼岸、命日のお布施は、お坊さんの稼ぎになるんやと聞かされて居るから、多少違和感あるので、うちは主人系の菩提寺では少なくとも、習慣のお布施額は良心的な方の額なので、出させていただきました。
本日は1日お疲れさまでした。おやすみなさいませ。

23虞王管王虞:2011/08/13(土) 18:52:12 ID:3HrAfdiQ0
堅皇さん

真言はサンスクリット語を音写したものと聞きましたが
どうして法華経は漢語訳されて伝来したのでしょうか?
ある意味法華経は釈迦の教えというよりも
鳩摩羅什の経典と読んだほうが正しいのではありませんか?

24堅皇:2011/08/14(日) 02:43:56 ID:vq54SzT20
>>23 虞王管王虞さん

密教に関しては元祖師弟不二と敢えて表現させて頂きましたが
真言密教では師匠の考えが絶対にあるわけです。

つまりは真言密教では「老いては子に従え」の思想も当然無く
師匠がカラスが白いと言ったら白いものであり、その反論は許されないと言う事ですね。
また、何処まで言っても弟子が師匠を超えることは許されず師匠の方が偉いんです。

ですから真言では原本主義の音写を用いているわけですね。
また、真言曼荼羅の諸天が梵字で表現されているのもその辺ですね。
大日如来はバーンであり、不動明王はカーン、愛染明王はウーン、てな感じ。
ちなみに不動明王のカーンと愛染明王のウーンは日蓮曼荼羅でも用いられてますよね。

対する鳩摩羅什の訳は意訳ですね。
大般涅槃経の四依品の中の「義依不依語」から照らし合わせると
「語」に拘る音写より、「義」に拘る意訳を用いるべきだと僕は考えますが。

更に言えば梵本法華経を他の経文との照らし合わせから矛盾点を修正しながらの訳になります。
結果、鳩摩羅什の訳は密教独特の記述に関してはバッサリとカットされているところも特徴の1つですね。

鳩摩羅什は単なる翻訳家と言う側面だけではなく
仏法をかなり熟知していた人であったと僕は判断しています。

25沖浦 克治:2011/08/14(日) 06:42:50 ID:AJ3hr85o0
 簡単に言いますとね

 大聖人と信じる問かの間に、沢山挟まっている所ほどダメなんです。
 日蓮正宗は、
 法主、能化、ご住職様、等々沢山間に挟まっているでしょう。
 顕彰会は浅井さんだけ。
 この点で既に勝ち負けが決まります。

 創価学会??
 
 誰も挟みません。

 大聖人と自分は、本来全く等しいのですからね。

26沖浦 克治:2011/08/14(日) 06:43:29 ID:AJ3hr85o0
 問か〜門下です

27某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/08/14(日) 07:04:50 ID:0tkLaAUE0
ルターの改革は素晴らしいですね

28堅皇:2011/08/14(日) 07:08:53 ID:vq54SzT20
ちなみにですが鳩摩羅什の信仰対象は大乗仏教の中観派の龍樹菩薩の法にあると思います。

妙法蓮華経の十如是の原型は龍樹菩薩の「大智度論」が元となっているものであり
先にあげた法四依も「大智度論」に記されてものであったりするわけで
また、鳩摩羅什はこの「大智度論」の訳こそが自身のライフワークとして捉えていた節が感じられます。

かたや密教である真言なのですが、こちらも基本なるのが龍樹菩薩だと主張しているわけです。
しかも真言密教では、うちが龍樹菩薩から代々一子相伝で受け継がれてきているんだとの事。

どこぞの宗派もうちこそが日蓮の教えを代々一子相伝でと、なんだか同じ事を言ってますよね。
で、果たして師匠の解釈に絶対服従の一子相伝ゲームで果たしてどれだけ正確な義を伝えられるのでしょうか。

僕は師弟関係で伝承されたものよりも地涌の菩薩にあたる鳩摩羅什の訳の方が
全然龍樹菩薩の意を掴んでいるように思えるのですが。

29堅皇:2011/08/14(日) 07:14:35 ID:vq54SzT20
>>25 沖浦さん

そう言う創価も思いっきり挟まってますよ、三代が。

30虞王管王虞:2011/08/14(日) 08:27:04 ID:3HrAfdiQ0
堅皇さん

ご丁寧にありがとうございます。
なんでも知ってらっしゃいますね。素晴らしいです。
日蓮大聖人のお曼荼羅ですが、現存127体の中で幼少の日像に
授与したもの他わずか4体だけを除いて後は全て
カーンとウーンが用いられています。
法華真言未分から真言を破折へとお考えを変えられたのに
不動と愛染はどうじて最後まで用いられたとお考えでしょうか。

31公平人:2011/08/14(日) 08:35:05 ID:xp89GTWU0
堅皇さん、おはようございます

挟まっていませんよ。

32虞王管王虞:2011/08/14(日) 08:43:40 ID:3HrAfdiQ0
堅皇さん

龍樹菩薩伝も鳩摩羅什の存在によって後世に残されているわけで
同様に法華経も鳩摩羅什の手で後世に残されたわけですよね。
今さら憶測で発言しても何の根拠もないのですが
はたして「訳」だったのでしょうか?
数々の経典が鳩摩羅什作と考えるのは飛躍しすぎでしょうか?
法華経自体が釈迦滅後数百年後の創作とされている現在ですが
その後、鳩摩羅什の意訳によって(創作)完成したのであれば
釈迦の法華経という図式が成り立たないと思うのですが。

33虞王管王虞:2011/08/14(日) 08:50:31 ID:3HrAfdiQ0
公平人さん、おはようございます。

戸田会長の悟達によって
創価学会は生命論を語るようになったのじゃなかったでしたっけ。
沖浦さんも日蓮大聖人、そして三代会長と常々おっしゃってます。
挟まるという表現が正しいかどうかわかりませんが
三代の存在があるから創価学会だと思うのですが。

34沖浦 克治:2011/08/14(日) 10:05:40 ID:AJ3hr85o0
虞王管王虞さん、堅皇さん、おはようございます

 挟まってないのですよ。
 大学でアインシュタインの相対性理論を習うとしますね。
 この時、大学の先生は生徒とアインシュタインの間に挟まりません。
 同じですね。

 松尾芭蕉の句はですね、誰が解釈しても、松尾芭蕉です。

 誰も間に挟まれません。
 同じです。
 ところが日蓮正宗は、有りもしない戒壇本尊本懐などと言う己義を構えて、信徒と大聖人の間に立ちふさがっています。
 あれは、挟まっていますよ。

35虞王管王虞:2011/08/14(日) 16:23:34 ID:3HrAfdiQ0
沖浦さん、こんにちは。

沖浦さんと日蓮大聖人の間には何も挟まっていないと思いますが
最近の新聞を見ますと、御書学習記事は探さないとわからないくらいで
名誉会長記事満載です。挟んでる人も結構いますね。

36堅皇:2011/08/14(日) 17:59:14 ID:vq54SzT20
虞王管王虞さん

真言の破折と一言で片付けるとなんですが
仏法では本来、あらゆる人が仏であると称するように
あらゆる法もまた方便(悟りへ近づく方法)であると言う事であり本来は邪法と言うものは無いのです。

では一体なにを邪教、邪法と呼ぶのかと言えばこの方便を方便と思わず真実と思い執着する事を指すわけですね。
仏法は本来、あらゆる法の受け入れているものですから、そこに誹謗の対象は存在しないわけです。

ちなみに梵天、帝釈天(釋提桓因)と言った天部の方々はヒンズー教の神々であり
これを受け入れるところから仏法は始まっているわけですね。
ですから、これらを誹謗するのではなく、また、これらに念仏し執着する存在では無いと言うことですね。
執着してしまえば邪儀となり、結果、他を誹謗する事になるでしょう。

この事から考えて日蓮曼荼羅において不動と愛染を真言の表記のまま諸天として勧請されている事に
矛盾や疑問を感じる事はありません。
その前に曼荼羅の中には釈迦の仏敵と言われた提婆達多や阿闍世王さえも勧請されていますから。

それよりも日興曼荼羅を見ると、どう見てもカーンとウーンに見えない文字が書かれているわけです。
結局、日興は自分で何を書いているか理解していなかったのではないかと思うところです。
つまるところ、諸天はあらゆる人々の総称ですから
題目文字さえ違わなければ何を書いても問題はないといえるのですが
どうも日興さんの教学レベルに少し疑問を持つ箇所と言うところですか。

次いで「釈迦の法華経という図式が成り立たない」との話ですが
確かに教説の部分から言えば明らかに「釈迦の法華経」とは呼べないものといえるのですが
釈迦と言う人を主人公で描かれた物語(方便)として捉えれば
充分に「釈迦の法華経」と呼べるものであると言えるかと思います。

37堅皇:2011/08/14(日) 18:26:50 ID:vq54SzT20
公平人さん

創価の方が三代会長に執着してないとするなら挟まって無いといえるのですが
永遠の指導者として仰いでいるという事は執着し挟めていると言う事ですね。

>>33 で虞王管王虞さんかご指摘されているように
これが創価学会と言う組織の実状であると思います。

沖浦さん

戸田さんの獄中悟達と言うものは同意しかねますが
戸田さんが地涌の菩薩であったかと言えばそうだと思っています。

戸田さんは牧口さんを師匠として持っていましたが、どちらかと言えば
自らが法を読み、御書を研鑽した結果導き出されたもので
誰かから相伝を受けた人ではありませんから地涌の菩薩ですね。

ただ、地涌の菩薩の一人である上行菩薩に念仏する事が信心であるとは僕は考えていません。

戸田さんにしろ池田さんにしろ僕はその行動を上行菩薩の存在に見立てて
組織に在籍していたわけです。

ところが近年、その池田さんを念仏対象として活動している状況を見て
組織に対して退会の意を申し立てたわけですね。
終始菩薩に執着しても、判断を見誤る事がありますので。

あくまで「依法不依人」、その判断対象は人ではなく法により決めますし
「義依不依語」、「南無妙法蓮華経」と言うものも、その「語」そのものではなく
その「義」により判断すると言う事ですね。
題目は真言ではありませんので、その「語」に執着する事が邪法であると思いますから。

38沖浦 克治:2011/08/14(日) 18:41:42 ID:AJ3hr85o0
 虞王管王虞さん

 私と大聖人の間に何も挟まっていないなら、他の人がどれほど挟もうとかまわないのです。
 私は私ですから。

39沖浦 克治:2011/08/14(日) 18:44:04 ID:AJ3hr85o0
 堅皇さん、今晩は

 戸田先生の獄中の悟達を貴方が認めるかどうかは、貴方の主観ですので、タッチいたしません。
 私は認めますが、これもノータッチでお願いします。

40虞王管王虞:2011/08/14(日) 19:05:06 ID:3HrAfdiQ0
>題目は真言ではありませんので、その「語」に執着する事が邪法であると思いますから。

堅皇さん

語に執着とおっしゃるところを、もう少しわかりやすく
ご教授いただけませんでしょうか。

41堅皇:2011/08/14(日) 19:49:56 ID:vq54SzT20
虞王管王虞さん

真言はその「語」自体が真実だと解釈するから音写するわけですね。
つまり真言はその「語」にこそ真実があると判断しているわけです。

例えば「水」と言う文字がありますが、これはあくまで「水」と言うものを文字で表現したものであり
「水」そのものではないですね、「水」と表記されるこの文字は水を表現した「題目」であると言う事。

これで真言と題目の違いと言うものがお解かりでしょうか。

水が飲みたいと思って水を持ってきてくれと言われた時に
文字で書かれた水を持ってこられても飲む事ができませんよね。

この説明は、戸田さんが学校で子供たちに黒板に「犬」と文字を書いて説明している場面もあるのですが。

つまり「南無妙法蓮華経」は真言ではなく、この「語」自体が宇宙のリズムではないと言う事。
その「義」から察するに、宇宙のリズムを表現した題目と言う事なら話は解るんですけどね。

故に妙法とは真理そのものではなく、妙法の題目を通した深理にこそ真理があると言う事です。

42虞王管王虞:2011/08/14(日) 20:32:06 ID:3HrAfdiQ0
堅皇さん

そこが最大の疑問なのであります。
釈尊の法華経に帰命するのであれば
namo saddharmapuNDariika-suutra 
でなければ正しくありません。

南無妙法蓮華経であれば羅什の法華経に帰命ではありませんか?
しかも南無=namo を
日蓮正宗・創価学会は「ナン」と発音するわけです。
ナンとは何ぞや?となりますね。
ナンとは帰命の意にあらず。
引き題目では「ナム」と発音し観念文で祈念する。
では「ナン」とは何?っと悩むわけです。

日蓮大聖人が法華経は後世の団体が説法をまとめて
羅什が意訳+創作したものと全てお認めになって
「南無妙法蓮華経」とおっしゃられて
はじめて
「南無妙法蓮華経」なのではないでしょうか。

43虞王管王虞:2011/08/14(日) 20:36:51 ID:3HrAfdiQ0
>宇宙のリズムを表現した題目と言う事なら話は解るんですけどね。

そういう話になると「釈尊」はどう必要となるわけです。
宇宙生命とのきょうちみょうごう(変換できません)となると
南無妙法蓮華経という五字の言葉自体に真理となりませんか?

44虞王管王虞:2011/08/14(日) 20:39:54 ID:3HrAfdiQ0
>そういう話になると「釈尊」はどう必要となるわけです。

変な言葉つかいになってますね。
釈尊は必要ないんじゃありませんか っというつもりでした。

45岩志九郎:2011/08/15(月) 00:50:32 ID:PvmTYINA0
創価内部での序列は↓なんですね。

仏陀 < 日蓮 <<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<< 池田大作

一般の評価は↓なんですけどね。

仏陀 >>>>>> 日蓮 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> 池田大作

46堅皇:2011/08/15(月) 01:09:36 ID:vq54SzT20
虞王管王虞さん

どうも「釈尊の法華経」と言うものに拘っておられるようですが
これは何故でしょうか。
日蓮が「釈尊の法華経」と表現されているからと言うことでしょうか?

日蓮の時代では法華経は釈迦の教説であると信じてこられた時代であったからと言うだけですね。

梵本法華経の成立は1世紀ごろと言われていますので
当然歴史上の釈迦と言う人はこの世に既にいないものであると言う事ですね。
更に天台の五時八教から考えると法華経の元となっている大乗経とされる
金光明経や仁王経は4世紀ごろであり梵本法華経よりかなり後ですね。

天台の五時八教を歴史的時系列に捉えると天台と言う人はどれだけ嘘つきなんだと言うことになるかと思います。
でもその実、これらの経文に書かれている内容を五時八教に当て嵌め見比べてみると
見事に法の浅深によって並び替えられている事が解ります。
これ実は、日蓮も全く気が付いていなかったわけでもないんですね。
ただ当時はそれを調べる手段が無いのでそのまま天台の五時八教を時系列として釈しているところはあります。

ちなみに竺法護訳の正法華経が2世紀ごろであり鳩摩羅什訳の妙法蓮華経が5世紀ごろ
添品妙法蓮華経が7世紀ごろと言う話ですね。

日蓮と言う人は梵本法華経を実際に目に触れた事は無いと思います。
と言うのも当時の日本ではこれを目にする手段はありませんでしたから。

実際に目にされたのは訓読における正法華経、妙法蓮華経、添品妙法蓮華経の三種であろうかと。
その中で羅什訳の妙法蓮華経が一番の名訳であり、それ以外は水で薄めて毒を入れたようなものだと表現されていますから
そこに持ってきての「南無妙法蓮華経」であると思いますね。

47堅皇:2011/08/15(月) 01:10:29 ID:vq54SzT20
これが日蓮が実際にsaddharmapuNDariika-suutra梵本法華経を読んでいたとしても
選んだのは妙法蓮華経を選び「南無妙法蓮華経」と唱えたと思います。
もっとも、この場合「水で薄めて毒を入れた」と言う表現ではなく
「毒を除いて味濃く煮詰めて醍醐に仕上げた」表現されたのではないかと思います。

加えて「ナンミョウホウレンゲキョウ」と言う発生は日本読みであり言ってみれば日本語ですね。
それもそのはず日蓮は日本人であったことに加え
自身の事を「日本の柱」と表現されている事からも
この発音は日本人のためのものであると言えますね。

では、インドでは「namo saddharmapuNDariika-suutraと」なるかと言えばそうはならないでしょうね。
「sad」は妙の意味合いよりも正の意味合いでもありますし
「puNDariika」は白蓮華の事を指しますが、妙法蓮華経では
「saddharmapuNDariika-suutra」に登場の赤蓮華、白蓮華、青水仙、黄水仙を一括りに蓮華と表現され
白蓮華だけを特別にしてはいないと言う事。

妙法蓮華経を訳するとなればそれに見合う名意訳が要される事と思います。
音写で「ナンミョウホウレンゲキョウ」を当て字にすると、またそれはそれで「義」が変わるでしょうね。

でもって、「境智冥合」に関して言えば法華文句からその意を辿れば
境智を冥合させるのではなく、境と智を冥合させる手段と言う事になりますね。

つまり、題目そのものが真理と言う事ではなく、題目を持ってして真理を得ることとなると思います。

48虞王管王虞:2011/08/15(月) 08:53:33 ID:3HrAfdiQ0
堅皇さん

釈尊に拘るのではなく、釈迦の教説であると信じて
ひろまったものが、釈迦をとらえた釈迦物語であったというのでは
現代の数々の教えの根底から考える必要があると思うのです。

日本の柱であるから日本語読みというのはわかります。
ではSGIなどが諸外国で日本語読みの題目を指導している
事はまったくの間違いということになりませんか。
世界共通の題目であれば
題目そのものが真理であることになりませんか?

49堅皇:2011/08/15(月) 09:54:27 ID:vq54SzT20
虞王管王虞さん

「妙法蓮華経」は名詞ですし、それに加えて「南無」は帰命すること、信じることと言うだけですから
この二つの単語の意味を伝えればよいだけですから後は外来語と認識してもらえば
世界各国概ねそれで事足りると思います。

そりより問題なのは「題目」と言う言葉ですね。
この「DAIMOKU」とは何ですかと聞かれた時にちゃんと「Title」と答えているかどうかという事。
「truth」「Truth Word」と言った真理、真言と答えると完全に義は変わってきてしまいますよね。

「Title」と聞いていれば南無妙法蓮華経は何のタイトルだと思い意味をちゃんと理解しようと思いますが
「truth」と言われればこの「ナムミョウホウレンゲキョウ」の発声自体に意味を見出してしまいますから。
こうなると語に捕らわれ義を忘れてしまいますね。

まー創価学会では「Title」ではなく「truth」と伝えていそうなんですけどね。
SGIの教学事情は把握してませんから何ともいえませんが
池田さんの発する「南無妙法蓮華経は宇宙のリズム」と言う発言から見ると
SGIメンバーは「Title」ではなく「truth」と解釈してそうです。
そうなると題目を唱えながら真言を唱えている事になってしまうでしょうね。

50堅皇:2011/08/15(月) 10:03:38 ID:vq54SzT20
題目とはそもそも日本語にも拘らず
その日本人ですら題目と言う言葉の意味が形骸化し、真言と取り違えているわけですから。

51虞王管王虞:2011/08/15(月) 13:54:08 ID:3HrAfdiQ0
>「妙法蓮華経」は名詞
名詞と認識できるのは日本語がわかる民族だけです。
世界各国には何の意味もなしません。
タイトルがどうか地球の裏側の人種には理解不能です。
それにあなたは何回も「ナンミョウ・・・」と書きますが
「ナン」は帰命の意味をなしません。
その回答もまだです。

SGIのメンバーは「truth」と解釈しているのではなく
お題目を唱える全ての集団が「truth」と指導しているのです。
あながも「truth」を口から発しているわけです。
世界中に「Title」という意識は存在せず、現在は全て「truth」です。
現にこの板でおわかりでしょう。題目の意味をわかる信徒はゼロでしたでしょう。

あなたアク禁になってしまいましたね。
私の書き込みへの答えは是非ブログでお願いします。

52虞王管王虞:2011/08/15(月) 13:54:49 ID:3HrAfdiQ0
あながも→あなたも

53しげきょん:2011/08/19(金) 21:46:14 ID:OK8Nt67Q0
南無とは奥義口伝では梵語で日本語で帰命といいます
仏法西還の意義で南無は梵語、妙法蓮華教は漢語、
日本の日蓮の仏法が世界に広まる意義に立つ菩薩の祈りである

55提 起:2011/11/18(金) 00:49:13 ID:Tf0pAeZI0
仏とは命だ・・・なんて具体性の無い、または勢いだけの発言なんて仏教どころか創価学会みたいですよね。

まあ勘違いといいますか意訳といいますか。。。苦笑

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