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検証スレッドです- 1 :沖浦克治:2009/06/22(月) 21:18:54 ID:AJ3hr85o0
- 先ず最初に、眺め人教学と、日蓮正宗教学の相似性を検証致します。
- 2 :沖浦克治:2009/06/22(月) 21:20:56 ID:AJ3hr85o0
- 以下、【破邪顕正】創価教義検証館 より抜粋引用
>・創価学会の教義を検証する
[法華経の智慧] 〜二十一世紀の宗教を語る (全6巻)は、平成7年から創価学会の機関紙[大白蓮華]に連載された、
池田名誉会長と教学部の対談形式による法華経二十八品の解説を書籍に収録したものである。
今回、検証と破折の俎上に挙げた第5巻では分別功徳品から嘱累品を解説している。
この対談講座集・第5巻の中で池田名誉会長と教学部幹部は、「如来神力品第二十一」における釈尊から地涌の菩薩への付嘱を題材にとって、
仏と九界の衆生との垣根を取り払い、「凡夫でしかない」という従属的な信仰的立場から、
「凡夫こそ仏なのだ」「人間こそが最高に尊貴なのだ」という主体的な信仰への変革こそが法華経の心 であるとしている。
その文証として日蓮大聖人御書全集から『諸法実相抄』の 『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』(全集P1358)
同じく、『本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』(全集P1359)を、その究極の表現として挙げ、
「信仰実践者である衆生・凡夫こそ本仏であり、教えを説く仏は衆生の影(迹)の役割となる。
であるから、仏は我等衆生にとって主師親三徳を備えているのではなく、実は我等衆生が主師親三徳を被らせることによって仏を尊貴たらしめているのである。」
「凡夫こそ本仏。仏は迹仏にすぎない。」
という、まさに「仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言」であると宣揚している。
さらに、「絶対者と思われている神仏は、 実は凡夫=人間の影であり、用(働き)であり、人間のための手段にすぎない」として
「人間のための宗教」の大宣言であるとし、「人間が上、仏が下」とする創価学会独自の法義解釈を展開している。
- 3 :沖浦克治:2009/06/22(月) 21:21:59 ID:AJ3hr85o0
- >・創価教義の妄説を破折する
「全民衆よ!汝自身の尊貴さに目覚めよ!」とは、何とも仰々しいサブタイトルであるが、個人の趣味に属するものであろうからここでは一笑に付すのみとしておこう。
まず手始めに、斉藤教学部長の発言にある釈尊の「始成正覚」考について一言させていただく。
斉藤氏は、 「実際のところは ”人間として” 真剣に正しき道を求めたからこそ ”わが仏界” に目覚めた。
そうやって目覚めたからこそ、 ”人間として” 最高の生き方ができた。 として「人間・釈尊」の視点へと、会員・読者を誘引しているが、
実際のところは釈尊の本地は久遠(久遠実成)よりの仏であり、釈迦仏が「人間として」真剣に正しき道を求めたからこそ、久遠(久遠実成)よりの仏であることを悟られた。
その過去世からの因縁に従って一切衆生救済のために法を説いたからこそ、「人間として」最高の生き方をしたのである。
という「仏・釈尊」としての視点にも言及しなければ、片手落ちであろうと思う。
釈尊は、「妙法蓮華経如来寿量品第十六」に至り、「我實成佛已来。無量無辺。百千萬億。那由他劫。」(開結P429)と、
「始成正覚」の迹を発(はら)って「久遠実成」の本地を顕し、三十成道において初めて悟りを開いたのではないことを明かした。
そして、創価学会が日蓮大聖人を御本仏と仰ぐ日興門流を自称し、その会則の序分に
- 4 :沖浦克治:2009/06/22(月) 21:22:43 ID:AJ3hr85o0
- 続きです
>【 釈尊に始まる仏教の慈悲と平和の精神は、大乗仏教の真髄である法華経に集約され、一切衆生を救う教えとして明示された。
日蓮大聖人は、法華経の根本を三大秘法として顕され、未来永遠にわたる人類救済の道を確立された。 】とするのならば、
再往、釈尊は久遠元初自受用報身仏との契約に従って末法のために法華経を説かれたのである。 とまでも言及すべきであろう。
釈尊の成道は、私達のような貪・瞋・痴・三毒強盛の荒凡夫が仏の教化によって「わが仏界」に目覚めるのとは根本的に異なるのである。
さて、それでは今回の本論、「凡夫こそ本仏」の大宣言 を破していくことにしよう。
「”凡夫でしかない”と卑下し・・・」 と。まず 「凡夫でしかない――」 と卑下した言い方は、池田氏も言うようにこれは仏道修行者として誤った心の有り方である。
卑下は十四謗法の「憍慢謗法」(きょうまんほうぼう)の七慢中の「卑慢謗法」(ひまんほうぼう)にあたる。
謙(へりくだ)っているようで、その本心に慢心を隠した、真には謙虚でない卑しい心である。
ここで池田名誉会長は、「”凡夫でしかない” どころか ”凡夫こそ仏なのだ”」と。 ”人間こそが最高に尊貴なのだ”」 と大転換を宣言しているが、
ここが大きな問題点である。
この転換論は、「迷いの衆生そのまま」が短絡的に「そのままで仏。最高に尊貴な存在である」とする行き過ぎた転換論であり、
「未だ得るざるを得たりと謂(おも)い」(妙法蓮華経方便品第二・開結P100)そのものとなってしまう。これを「増上慢」と言うのである。
仏道修行者に求められる求道心とは、「上求菩提 下化衆生」(じょうぐぼだい げけしゅじょう)。
すなわち、上=仏に菩提を求め、下=衆生に布教化導していくことが、仏の境界を開くことを願い菩薩道を修する者の心得であり、
宗祖日蓮大聖人が『持妙法華問答抄』(平新P298)に仰せの
『上根に望めても卑下すべからず。下根を捨てざるは本懐なり。下根に望めても憍慢(きょうまん)ならざれ。上根も漏るゝ事あり、心をいたさざるが故に。』
との「上冥下化」(じょうみょうげけ・上の者にも卑下せず、下の者には高慢にならずに教化していくべきこと)の決定心(けつじょうしん)に住すことが弘教者の心得であるが、
「中道主義」とやらを標榜する池田氏自身の発想に、実は道念を置くべきニュートラルポジションがないのである。
この御書の一節の直前には 『されば持(たも)たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし。然らば則ち其の人を毀(そし)るは其の法を毀るなり。
其の子を賎(いや)しむるは即ち其の親を賎しむなり。ここに知んぬ、当世の人は詞(ことば)と心と総てあはず、孝経を以て其の親を打つが如し。
豈(あに)冥の照覧恥づかしからざらんや。地獄の苦しみ恐るべし恐るべし。慎むべし慎むべし。』(平新P298) との誡めがあるが、
「信受する教えが第一であるからこそ、持経者もその法の尊貴に随って第一となる」のであって、
それをいきなり「衆生本来仏なり」とする禅宗の「見性仏性」のように、仏性の内在を教わったのみで 「人間こそが最高に尊貴なのだ」 と短絡して迷妄に陥り、
得てもいない仏果(悟り)を得たと錯覚して 「凡夫こそ仏なのだ」 と直結し、我と仏と等しいと思い上がれば、
『禅宗は理性(りしょう)の仏を尊びて己(おのれ)仏に均(ひと)しと思ひ増上慢に堕つ、定めて是阿鼻の罪人なり。
故に法華経に云はく「増上慢の比丘将(まさ)に大坑(だいきょう)に墜ちんとす」と。』(蓮盛抄・平新P27)の御妙判の如く無間の大坑に堕ちるのである。
得受職人功徳法門抄の 『然るに、我が弟子等の中にも「未得謂得未証謂証」の輩有って、出仮利生の僧を軽毀せん。』(平新P594)との御妙判は、
現代においては、まさに創価学会池田大作名誉会長その人を指しての厳格なる御聖誡であったと言えよう。
- 5 :沖浦克治:2009/06/22(月) 21:24:53 ID:AJ3hr85o0
- 以上、日蓮正宗の教学を引用し、池田先生の講義に反旗を翻す宗門の主張を提示いたしました。
この宗門教学は、恋さん、小野さん、マグマグさん、天城さん、もくれんさんなどと瓜二つですね。
ご意見をどうぞ。
- 6 :沖浦克治:2009/06/22(月) 21:39:53 ID:AJ3hr85o0
- 若鷹では、創価学会を辞めたと公言する人を中心に据えて、人が迹、仏が本を宣伝しています。
普通の創価の人間なら、退転した人の意見を用いませんね。
それが、大将に据えて創価を攻撃しています。
創価学会員ならやらないと思うのですけれどね。
- 7 :沖浦克治:2009/06/23(火) 22:54:15 ID:AJ3hr85o0
- 若鷹で検証会議さんが宗門教学を支持していますね。
この人どうして創価にいるんですかね?
本当は日蓮正宗の方じゃないかと思えます。
教学が日蓮正宗そのものですから。
佐藤さんが、私の以前書いたものを貼って、戒壇様本懐論を否定なさいました。
創価学会員として普通の判断です。
戒壇様本懐論では、創価を広げられません。
どころか、戒壇様本懐論は創価の一凶になりかねません。
考えればわかりますよ。
折伏するのに、
創価学会の本尊は、日蓮正宗の総本山である、富士大石寺の戒壇様であって、戒壇様だけが末法の御本尊様です。
こう言って折伏できますか?
私はね、出来ないまでも困難だと思います。
宗旨の根源であり、教義の基本をなす本尊が、他宗の寺にあって、創価学会員は拝む事すら出来にない。
ご辛抱下さいませ。
こう言って折伏できないですよ。
これはね、常識です。
折伏される方は、
それなら、日蓮正宗に入るよ。
これが普通じゃないですか?
ですから検証会議さんが本当に創価学会員であるなら、戒壇様本懐論は否定するでしょう。
所が、彼は以下の書き込みを行っています。
>出して来たのは沖浦論のコピペかよ
名前:検証会議 日付:6月23日(火) 22時41分
>私は、戒壇様はご本懐では無いと思っています。
戒壇本尊の彫造年次はさておくとしても、「聖人御難事」の
解釈については、金原明彦氏の本に関連する議論をしてたサイトで
「あきれたよ」を名乗ってた人物から、「糞思いつき理屈」
「デタラメ」と粉砕されてたばかりか、沖浦氏を「ニセモノ信者」と
までこき下ろしてましたな。
明らかに彼が戒壇様本懐論者である事を物語っています。
検証会議さんは創価の人ではないですね。
成りすましが、いたずら電話して愉快がる。
最低の掲示板に成り下がりました。
反面教師といたします。
- 8 :沖浦克治:2009/06/24(水) 22:25:30 ID:AJ3hr85o0
- 若鷹です
>31702.イタ電がお好きの沖浦氏
名前:武 日付:6月24日(水) 20時20分
最近の沖浦氏の発言はイタ電ネタが多いですね。よほどお好きだったとみえて心理描写が見事です。実名さらしたネットはイタ電ではないと言いますが、ウソ\つき、狂言訴訟、放火魔でっちあげ、等の反社会的言説で皆に迷惑をかけ続ける沖浦氏は、それが実名であろうとなかろうとイタ電よりひどいことをしている事に気づかないのでしょうか。本人はムリとしても回りの人も何もいえないのでしょうか。
この武さんね、コソコソハンネでネットして、イタ電そのままで、反論できなくて難癖つけてごまかしてます。
これね、まともな創価学会員なら絶対にやりませんね。
『智者に我が義やぶられずば用いじとなり』
(開目抄)
私はこの方の門下です。
末端の中の末端ですがね。
ですから、私の主張が論理的に破折される以外は、びくとも致しませんよ。
武さん貴方も師創価学会員なら、正々堂々とかかってきなさい。
貴方ね、地蔵でも拝んで穏やかに人生過ごした方が似合うと思いますよ。
- 9 :沖浦克治:2009/06/24(水) 22:28:59 ID:AJ3hr85o0
- 同じく若鷹です
>名前:ファビウス 日付:6月24日(水) 19時24分
>公爵さん、お気の毒ですね。
>仕事も家庭もダメでしょう。
>仕事量と給料が下がっただけで平凡な生活をしてますが、それがどうかしたか?ウソバレ。大体、他の学会員の私生活やプライベートをみだりに口にするのは禁物だという学会の指導を知らんのか?
給料下がった?
罰ですよ。
頑張って祈って変毒為薬しなさい。
そう言う決意を祈りとともに書き込むなら、宿命転換のきっかけになる可能性があります。
それが学会指導の根本ですよ。
声仏事をなす。
先生が常ご指導です。
公爵さん、貴方も宗門がお似合いです。
お気の毒ですね。
- 10 :沖浦克治:2009/06/24(水) 23:06:38 ID:AJ3hr85o0
- また若鷹です
>名前:やまいぬ。 日付:6月24日(水) 23時0分
沖浦の戒壇本尊不要論は、いつものあの発狂捏造サイコパス爺さんの我見による“振り切れ過ぎ”に
過ぎません。(^o^) 嘲い飛ばしておけばいいことですよ。(^o^)v
この人も戒壇様本懐論ですね。
何故創価にいるんでしょう??
- 11 :提 起:2009/06/28(日) 20:34:03 ID:.23NJf/o0
- >貴方は仏法の知識に欠けています。
いえ、少なくとも、創価会員さんよりは、欠けていませんね。
・法華経: 釈迦没後数百年後に創られた大乗経典。
『法華経』に特徴的なことは、『法華経』そのものへの「信仰」を説く点にある。
たとえば、常不軽菩薩品では、この経典を奉ずる人には幸福がおとずれ、非難する者には災難がふりかかると説く。
仏教ではこのような、「経験も論証も不可能な独断」は、「無記」として退けますが、法華経では何故か、それらは退けられずに、
「受容」されてしまっています。
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