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東国人さんのご主張のスレッド- 1 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:20:27 ID:AJ3hr85o0
- 東国人さんが三大秘法について考えませんか。スレッドに書き込まれたものですが、対話の論点を外れていますのでこちらに移します。
どうぞロムをして下さいませ。
また、コメントはしないで下さいね。
レスを保管する意味で立てたスレですのでね。
- 2 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:21:19 ID:AJ3hr85o0
- 204 :東国人:2008/08/14(木) 17:49:34 ID:l96VBSB20
二日ぶりにPCを開けたら随分とにぎやかなので驚きました。
繁盛していいね(笑)。
まあ、順番にやるからね。
だけど「あらぬ東国人像をこしらえて、それを破折?して悦に入る」ような状態ですが、さすが、「あらぬ本尊観をでっちあげて、20何年だった?悦に入ってきた人」ならではの、手法ですね。
私の「与奪」の「与」言わば「私の慈善事業」を、随分と早とちりで考え違いをされていますね。
あなた方には、言ったことの説明もしなきゃならないのかな?これを書くのは二回目か(笑)?相手の言うことの認識というものをきちんとやりましょうね。
それにしても、沖浦克治さんはただ「言いたいことを言っている」だけですね。
少しは大勝利さんを見習いなさい。
耕治クンの「当体義抄」の「解釈論」は論外(笑)。
顕正会が「三大秘法抄」を読んで「国立戒壇だあー」と叫んでいるようなもの。御書の解釈は「いかようにもそれらしく」聞こえるものなのだよ。「解釈に」「解釈」を重ねて、しかも「真蹟」ではなく、「偽書」「真偽未決」をもととしたところで、「私はこう思うマース」を永遠に繰り返しているだけですよ。
205 :東国人:2008/08/14(木) 17:52:00 ID:l96VBSB20
じゃあ、いくよ。
>152
>しかし私は、文段は引用してないですよ。
大勝利さんは、
>観心本尊抄は「教」、当体義抄は「証」、開目抄を「行」として、
己心妙法との証果を論じるには当体義抄はふさわしいと思いますよ。<
と言われましたね。
その「教行証」を「当体義抄」で、明確に記述しているのが日寛上人ですよ。
そして
>東国人さんには当体義抄の、〜中略〜をしっかり読んで議論して欲しかったです。
この文中に三大秘法が示されていると思います。<
と、当体義抄を引用され「三大秘法」と書かれましたので、日寛上人が「「教行証」を示しかつ「三大秘法」を言われている「当体義抄文段」に立ち入って考えてみたわけです。
これは私は「敢えて行った」ものです。
冒頭から「当体義抄」は「真蹟無し、やり直し!」というのは簡単なのですが、沖浦さん、随分とこの御書におすがりしているようなので、私の「与奪」の「与」で、一応、その可能性のあるものは検証してみよう、という考えから「当体義抄文段」に立ち入ったわけです。
それでも、やはり日寛上人は「本門戒壇大御本尊」根本論者ですから、「己心本尊論」の文証とは成り得ないということは明らかなわけです。
繰り返します。
沖浦さんの主張、
・一大秘法とは「私共の己心の妙法」でありそれは「本尊」でもあり、「本迹」の内の「本」である。
・「曼荼羅」は「本尊」ではあるが「方便」であり、「本迹」の「迹」である。更に己心の妙法顕現のための「道具」であり、「本門の本尊」そのものではない。
・本尊に「本迹」がある。
が果たして日蓮大聖人の教えなのか否か、「己心本尊論」の「文証の可能性となる」ものを一つまた一つと確認をしても、現状では、文証とは足り得ないという作業の一環です。私は「日寛上人の文証を用いる」などとは、一言もいってません。「可能性があるのかな?」と、立ち入って考えてみただけであり、それが二日間開けたら「私の手法の評価」が勝手に一人歩きしていたのですね。
こと、御本尊のことに関しては、沖浦さん達が「スレッド一つをいっぱいにする程度」の「考察」では、全然足りないわけでありまして、ワンレス、ツーレス程度で「俺はこう思うぜい」と済ましてしまう、その「姿勢自体」が、不惜身命の法戦を経られて御本尊を図顕された大聖人の「意」を冒涜するものと認識しているのですよ。
- 3 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:22:24 ID:AJ3hr85o0
- 206 :東国人:2008/08/14(木) 17:53:57 ID:l96VBSB20
以下は「与奪」の「与」ですが、議論の最初に沖浦さんが提示した
『問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華経の当体なり、問う若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり経に云く「所謂諸法乃至本末究竟等」云云、妙楽大師釈して云く「実相は必ず諸法諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」と云云、天台云く「十如十界三千の諸法は今経の正体なるのみ」云云、南岳大師云く「云何なるを名けて妙法蓮華経と為すや答う妙とは衆生妙なるが故に法とは即ち是れ衆生法なるが故に」云云、又天台釈して云く「衆生法妙」と云云。』
については既に記述してありまして、
該文の意ですが、私達、末法に生きる衆生が証得するべき「妙法蓮華経の法体とは、如何なるものなのか」と、問いを設けて、「法界の十界三千の事相」という観点から、一切衆生の依報、正報の全体が妙法蓮華経の当体であると答えられていますね。その文証として法華経、妙楽大師、天台大師、南岳大師の文を挙げられています。
しかしですよ、これは一応なのですよ。まだ、以下があります。
問う一切衆生皆悉く妙法蓮華経の当体ならば我等が如き愚癡闇鈍の凡夫も即ち妙法の当体なりや、答う当世の諸人之れ多しと雖も二人を出でず謂ゆる権教の人・実教の人なり、而も権教方便の念仏等を信ずる人は妙法蓮華の当体と云わる可からず、実教の法華経を信ずる人は即ち当体の蓮華真如の妙体是なり
再往、妙法信受という観点から、不信そして謗法の人々には妙法の当体としての発現はなく、正直に方便を捨てて、南無妙法蓮華経を受持・信行する日蓮大聖人の弟子檀那こそが、妙法蓮華の当体を証得し、自在の功徳力有を発現すると示されています。
そしてね、この御書の著された文永10年以降、「実教の法華経を信ずる」とは、具体的にどのような行為となるのか?
それは、現存の大聖人図顕曼荼羅の初見は1271年・文永8年(50歳) 9月12日の「竜口法難」の後、「10月9日相州本間依智郷において認めた曼荼羅(NO1・京都立本寺蔵)」。
最後の現存曼荼羅は1282年・ 弘安5年(61歳)「 6月に認めた曼荼羅(NO123・京都本圀寺蔵)」。
最初の曼荼羅図顕確認から最後に至るまで、ほぼ11年の歳月。
365日×11年=4,015日。
4,015÷929=4,3218ですから、ほぼ4日に一体の曼荼羅を認めたということ。
幅を持たせれば週に一体。
あくまで「試算」ではありますが、これは実に驚異的な数字です。
というものを見ても明らかなように、釈尊より神力品別付属を受けた大聖人が図顕された「妙法曼荼羅」への唱題にあることは明らかなわけです。
南無阿弥陀仏と唱えていて「我が身の妙法」を感得することなど、できようはずもありません。「権教方便の念仏等を信ずる人は妙法蓮華の当体と云わる可からず」です。
要するに、沖浦さんが引用した御文は「一切衆生・万物には十界があり、仏界があり、妙法の当体」なのであり、それが「己心本尊論」の文証としては、全く以て程遠いとしかいいようがありません。
- 4 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:23:04 ID:AJ3hr85o0
- 207 :東国人:2008/08/14(木) 17:55:03 ID:l96VBSB20
それとも「妙法の当体」だから「己心本尊」ということなのですか?
むしろ、この文は以下の「小乗大乗分別抄」とも通じるものがあるでしょうね。
法華経の心は法爾のことはりとして一切衆生に十界を具足せり、譬えば人一人は必ず四大を以てつくれり一大かけなば人にあらじ、一切衆生のみならず十界の依正の二法非情の草木一微塵にいたるまで皆十界を具足せり、
( 1273年・文永10年、真蹟は小湊誕生寺などに断片があります。)
それにね、「当体義抄」は「1273年・文永10年」とされていますよ。
冒頭、私が提示した「観心本尊抄」は同じ年、「1273年、文永10年4月25日」です。
そこには、衆生の妙法の発現といっても、
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。
とあり、始めに「釈尊の因行果徳の二法」、続いて「妙法蓮華経の五字」、そして「我等此の五字を受持」であり、「自然に彼の因果の功徳を譲り与へ」られるということが明確に示されているのです。
「当体義抄」のような「真蹟」なしを持ってきたところで、なんの役にもたちません。「解釈」を要するものではなく、日蓮大聖人が「明確」に記述されている御書をこそ、引用しましょうね。
ですから、
>東国人さんは、当体義抄を真偽未決として斥けておきながら当体義抄文段は引用して結論を導こうとするのですか不思議ですね。真偽未決を斥けるなら真偽未決文を引用する人の文もすべて斥けるべきが潔しと思いますがいかがですか?<
は、全然当たりません。
「その可能性のあるものは検証してみよう」ですよ。敢えて沖浦さんの土俵に乗って、真蹟無しの当体義抄を見たわけです。「真偽未決を斥けるなら」と退けて欲しいようなので、今後は「真蹟・真蹟曽存・高弟写本」のみをもとに論じていきましょうね。
>沖浦さんの「一大秘法が凡夫の己心の妙法だとおもっております」は沖浦さんの「証得」でしょう。<
沖浦さんの「証得」とまじめに書かれても、吹き出してしまいますよ。その記述だけは勘弁してください。
>ですから、「証」の文である当体義抄の引用は相応しいと申し上げました。対して、東国人さんは、「修行」の文の観心本尊抄を「文証」に対境の本尊を説明するのは論点がずれていると思います。<
以降、「当体義抄」は「真蹟なし」論外!はい(笑)。
「論点がずれている」?
日蓮大聖人の本尊観に迫ろうというのに、「真蹟なし」から入ろうという方が、よっぽどずれていませんか。
>然しながら、観心本尊抄でも「凡夫の己心の妙法」について全く触れていないわけではないと思います。<
- 5 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:23:43 ID:AJ3hr85o0
- 208 :東国人:2008/08/14(木) 17:57:34 ID:l96VBSB20
では以下。
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、四大声聞の領解に云く「無上宝聚不求自得」云云、我等が己心の声聞界なり、「我が如く等くして異なる事無し我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」、妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや、宝塔品に云く「其れ能く此の経法を護る事有らん者は則ち為れ我及び多宝を供養するなり、乃至亦復諸の来り給える化仏の諸の世界を荘厳し光飾し給う者を供養するなり」等云云、釈迦多宝十方の諸仏は我が仏界なり其の跡を継紹して其の功徳を受得す「須臾も之を聞く即阿耨多羅三藐三菩提を究竟するを得」とは是なり、寿量品に云く「然るに我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由佗劫なり」等云云、我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり、経に云く「我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云、我等が己心の菩薩等なり、地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり、例せば大公周公旦等は周武の臣下成王幼稚の眷属武内の大臣は神功皇后の棟梁仁徳王子の臣下なるが如し、上行無辺行浄行安立行等は我等が己心の菩薩なり、妙楽大師云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」等云云。
夫れ始め寂滅道場華蔵世界より沙羅林に終るまで五十余年の間華蔵密厳三変四見等の三土四土は皆成劫の上の無常の土に変化する所の方便実報寂光安養浄瑠璃密厳等なり能変の教主涅槃に入りぬれば所変の諸仏随つて滅尽す土も又以て是くの如し。
今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同体なり此れ即ち己心の三千具足三種の世間なり迹門十四品には未だ之を説かず法華経の内に於ても時機未熟の故なるか。
此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏多宝仏釈尊の脇士上行等の四菩薩文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う迹仏迹土を表する故なり、是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る、正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。
訳文 『』は東国人のちょっとコメント。
法華経の経文の心は、「釈尊が成道されるために積まれた修行の功徳(因行)と、それによって得られた覚りの功徳(果徳)は、すべて妙法蓮華経の五字に具わっている。」ということなのです。従って、我等が、この妙法蓮華経の五字を受持していくならば、自然に、釈尊の因行・果徳の二法の功徳が譲り与えられるのであります。
『釈尊の因行果徳の二法(修行の功徳、覚りの功徳)である妙法蓮華経の五字を受持し、日常の生活と信仰実践の中で、その慈悲に浴して功徳を譲り受けて、私達の己心中の仏界を覚知、発現することができるのだということですね。』
法華経信解品第四において、四大声聞(迦葉・目連・迦旃延・須菩提)は、釈尊に対して、彼等自身が領解したことを申し上げた中で「無上の宝の珠を、自らが求めなくても、得ることが出来た。」と仰っています。これは、我等の己心に具している声聞界であります。
『「得ることが出来た」なのです。』
法華経方便品第二においては、「我(釈尊)と等しくして異なることなく、一切衆生に同様の妙覚の覚りを得させようと願った。我(釈尊)が昔の所願は、既に今では、満足に成就した。一切衆生を教化して、皆、仏道に入らしめたのである。」と、仰せになられています。
『仏は「一切衆生を教化して、皆、仏道に入らしめ」られるのであり、日蓮大聖人以降のの仏の当体を思うべきです。』
妙覚の釈尊は、我等の血肉であり、その因果の功徳は、我等の骨髄に他なりません。
- 6 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:24:29 ID:AJ3hr85o0
- 209 :東国人:2008/08/14(木) 17:58:25 ID:l96VBSB20
『菩薩五十二位、最高位の妙覚の釈尊は受持する人の血肉となり、因果の功徳・妙法蓮華経の五字も受持することにより骨髄となるのです。受持する人に功徳力が漲るのです。』
法華経見宝塔品第十一においては、「よく、この経法を護る者は、則ち我(釈尊)及び多宝如来を供養することになる。(中略)また、来集された諸の化仏が、諸の世界を荘厳して光飾する者を供養することになる。」等と仰せになられています。
釈迦如来・多宝如来・十方の諸仏は、我が仏界であります。我等は、その跡を承継して、その功徳を受得するのです。
『釈迦・多宝・十方の諸仏は、妙法信受の人の仏界なのです。ここが重要。「凡夫=釈尊」の真蹟御書の記述の意はここにあると拝するのです。』
法華経法師品第十において、「ほんの少しの間であっても、この法華経の教えを聞いた者は、即ち、阿耨多羅三藐三菩提の覚りに到達することを得る。」と仰せになられているのは、このことであります。
法華経如来寿量品第十六においては、「ところが、我(釈尊)は、実に、成仏して以来、無量無辺百千万億那由佗劫を経ている。」等と、仰せになられています。
これは、我等の己心に具わっている釈尊(仏界のこと)が、五百塵点劫から更に久遠元初へ遡った無作の三身であり、無始の古仏ということであります。
また、法華経如来寿量品第十六においては、「私(釈尊)が、本より菩薩道を行じて成就した所の寿命は、未だに、なお、尽きることがない。また、上の五百塵点劫にも倍するものである。」等と、仰せになられています。この経文は、我等の己心の菩薩界のことを、お説きになられています。
また、地涌千界の大菩薩(菩薩界)は、我等の己心に具わっている釈尊(仏界)の眷属であります。
そのことを譬えてみます。
大公望や周公旦等は、周の武帝の臣下でした。そして、武帝の死後においては、幼かった成王の臣下となって、武帝と同様に仕えました。
また、武内宿禰大臣は、神功皇后の棟梁(臣下の中心人物)でした。その後に、神功皇后の御子である仁徳王子(後の仁徳天皇)の臣下となって、神功皇后と同様に仕えました。
上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩という地涌の大菩薩は、我等の己心に具わっている菩薩界であります。
妙楽大師は、『摩訶止観弘決』において、「当に知るべきである。心を宿す身も、身を置く国土も、そのすべてが、我等の己心(御本仏日蓮大聖人の己心)に具わる一念三千である。故に、成道を遂げる時には、この一念三千の本理によって、一身・一念が法界に遍満するのである。」等と、云われています。
そもそも、釈尊が覚りを開かれた直後、ブッダガヤの菩提樹の下の寂滅道場において、華厳経の蓮華蔵世界を現して御説法をされてから、沙羅双樹の林の中で御入滅される迄の五十余年の間に、蓮華蔵世界(実報土)や密厳浄土(寂光土)、そして、法華経見宝塔品第十一においては、同居土→方便土→実報土→寂光土へと、国土が三変して、見る者の機根により、四つの国土に見えることを示されています。
これらは、皆、極めて長い年月を掛けながら、無常の国土として、変化してきた所であります。その代表的なものは、上記の同居土・方便土・実報土・寂光土、阿弥陀仏の安養浄土(極楽浄土)、薬師如来の浄瑠璃浄土、大日如来の密厳浄土等であります。
能化である教主の仏が御入滅すれば、御化導を受ける側の諸仏も、教主の仏に随って滅尽します。能化である教主の仏が御入滅すれば、その国土も同様に、教主の仏に随って滅尽します。
しかし、今、本時(釈尊の久遠成道の時)に説き明かされた娑婆世界は、火災・水災・風災の三災を離れて、成劫・住劫・壊劫・空劫の四劫を抜け出た、過去・現在・未来に及ぶ三世常住の浄土であります。
- 7 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:25:03 ID:AJ3hr85o0
- 210 :東国人:2008/08/14(木) 17:59:23 ID:l96VBSB20
この『久遠実成』(注、五百塵点劫という久遠の昔に成仏されていたことを、法華経如来寿量品第十六において、釈尊が説き明かされたこと。)の仏は、決して、過去にも滅することなく、未来にも生じることはありません。 これは、即ち、「己心に一念三千が具足されて、国土世間・衆生世間・五薀世間の三世間が具えられている。」ということです。
法華経迹門の十四品には、未だに、この義が説かれていません。法華経の御説法の内においても、時と機が未熟であったためでしょう。
この法華経本門(文底)の肝心である、南無妙法蓮華経の五字におかれましては、文殊師利菩薩や薬王菩薩等にも、釈尊は付嘱をされていません。ましてや、それ以下の者に対して、何故に、付嘱をされるのでしょうか。
ただ、地涌千界の四菩薩(上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩)を召し出だされて、法華経従地涌出品第十五から法華経嘱累品第二十二までの八品を説かれている時に、この南無妙法蓮華経の大法を付嘱されたのであります。
その御本尊の御相貌を申し上げます。
本師(本仏・日蓮大聖人)がいらっしゃる常住の娑婆世界の上には、宝塔が空に居しておられます。宝塔中央の妙法蓮華経の左右には、釈迦如来・多宝如来の二仏がいらっしゃいます。そして、釈尊の脇士として、結要付嘱を伝授された上行菩薩を始めとする、地涌の四菩薩がいらっしゃいます。更に、文殊師利菩薩や弥勒菩薩等は、地涌の四菩薩の眷属として、末座に居しておられます。
また、迹化・他方の大小の諸菩薩は、万民が住する大地に身を置いておられます。まるで、雲閣月卿(雲の上の人のような公卿)を見ているかの如く、本師(本仏・日蓮大聖人)や釈迦如来・多宝如来の二仏や地涌の四菩薩や文殊師利菩薩や弥勒菩薩等を仰いでいます。
また、十方の諸仏は、大地の上に身を置いておられます。これは、本時(久遠元初)の娑婆世界における本仏・本国土に対して、十方の諸仏は迹仏・迹土に過ぎないことを表明するためであります。
このような御本尊は、釈尊御在世の五十余年間にも、存在していません。また、法華経が説かれた八年間であっても、法華経従地涌出品第十五から法華経嘱累品第二十二までの八品の時だけに限られています。
正法時代・像法時代の二千年の間においては、小乗の釈尊は迦葉尊者や阿難尊者を脇士とされたり、権大乗経の釈尊、並びに、涅槃経・法華経迹門等の釈尊は、文殊師利菩薩や普賢菩薩等を脇士とされています。
これらの仏像は、正法時代・像法時代に造り画かれていたとしても、未だに、寿量品の仏は顕わされていません。末法に来入して、始めて、寿量品の仏像(御本尊)が御出現されるべきなのでしょうか。
以上、訳文。
一読して
・一大秘法とは「私共の己心の妙法」でありそれは「本尊」でもあり、「本迹」の内の「本」である。
・「曼荼羅」は「本尊」ではあるが「方便」であり、「本迹」の「迹」である。更に己心の妙法顕現のための「道具」であり、「本門の本尊」そのものではない。
・本尊に「本迹」がある。
などという簡単なものであるならば、「観心本尊抄」など必要なく、当抄における日蓮大聖人の苦悩を突き抜けるが如きの設問や思惟、また「大難四度」「小々の難数知らず」の不惜身命、忍難弘通の「日蓮という人の人生の意味」すらも無くなってくることでしょう。
- 8 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:25:35 ID:AJ3hr85o0
- 211 :東国人:2008/08/14(木) 18:00:18 ID:l96VBSB20
現存の曼荼羅は、竜の口の法難以降に図顕されたものばかりで、これは即、何によって衆生を利益せんとされていたのか、何を信仰の中心とすべきなのか、その時の大聖人の「いつ命を落とすか分からない」環境を考え併せても、自身滅後の衆生利益、そして令法久住のためでもあったと考えられます。
更に「観心本尊抄」の、
「十界互具の仏語分明なり。然りと難も我等が劣心に仏法界を具すること信を取り難き也。」
「是くの如き仏陀、何を以てか我等凡夫の己心に住せしめんや。」
という大聖人の苦悩、設問は、
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。」
という妙法信受、「仏からの自然譲与」により解決されました。この妙法を受持して、日常の営みの中で、釈尊の因行果徳の二法が具足された妙法蓮華経の五字の功徳力を譲り受けることができ、私たちの煩悩・無明に覆われた心に仏界を具することを信じ、発現できることになったのです。
いきなり「始めに凡夫の己心に妙法」があるのではないのです。この妙法を受持すれば成仏できるという、大聖人の観心の本尊の確立によって、私たちは成仏の法を得ることができたのですね。だからこそ私たちは、曼茶羅本尊を信仰の中心に据えているのです。
一言で言えば、「本未有善である私達、末法の一切衆生は、釈尊の因行果徳の具足する妙法を、上行菩薩再誕の日蓮大聖人によって下種される義」が示されているともいえるでしょう。
212 :東国人:2008/08/14(木) 18:01:01 ID:l96VBSB20
>153
>「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり」南条殿ご返事(写本)<
「南条殿御返事」弘安四年九月十一日です。真蹟はありません。以下、慈善事業。
釈尊から上行菩薩への神力品第二十一の別附属の秘法ですが、さて、「教主釈尊の一大事の秘法」とは何でしょうか? 末法出現の日蓮大聖人により、御本尊として図顕されています。
1274年・文永11年5月24日、真蹟・中山法華経寺 問うて云く・如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と・戒壇と・題目の五字となり 中略
仏既に宝塔に入つて二仏座を並べ分身来集し地涌を召し出し肝要を取つて末代に当てて五字を授与せんこと当世異義有る可からず 中略
是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か。
「一大事の秘法」は、神力別付属を受けられた「日蓮が肉団の胸中」にあるのです。それは「本門の本尊」として図顕されました。
以上により私も、一大秘法は凡夫の己心ではありません。
- 9 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:26:07 ID:AJ3hr85o0
- 214 :東国人:2008/08/14(木) 18:02:29 ID:l96VBSB20
>「此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」日女御前御返事<
建治三年八月二十三日付け「日女御前御返事」ですね。以下、慈善事業です。
御本尊どころか、
日妙聖人御書
1272年・文永9年5月25日、真蹟・静岡内房・本成寺他三箇所蔵
今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子これなり、我等具縛の凡夫忽に教主釈尊と功徳ひとし彼の功徳を全体うけとる故なり、
経に云く「如我等無異」等云云、
法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり、
譬えば父母和合して子をうむ子の身は全体父母の身なり誰か是を諍うべき、牛王の子は牛王なりいまだ師子王とならず、師子王の子は師子王となるいまだ人王天王等とならず、む今法華経の行者は其中衆生悉是吾子と申して教主釈尊の御子なり、
教主釈尊のごとく法王とならん事難かるべからず、
「教主釈尊のごとく法王」であり、
「観心本尊抄」では、
「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」とあります。
では、そのまま私達は「教主釈尊であり、現在では日蓮大聖人」なのでしょうか?
これも前述しました、「観心本尊抄」にあります、
「釈迦多宝十方の諸仏は我が仏界なり其の跡を継紹して其の功徳を受得す」でありまして、
「胸中の肉団におはしますなり」も、
私達の仏界を説き示されたものにほかならないのですね。
もし、そのまま「本尊」であるならば、お互いが向かい合い拝めばいいことになてしまいます。
もし、そのまま「釈尊・日蓮大聖人」であるならば、誰でもが「御本尊を書く」ようになるわけです。
そしてね、後も読んでくださいね。
日蓮が弟子檀那等正直捨方便不受余経一偈と無二に信ずる故によつて此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなりたのもしたのもし、如何にも後生をたしなみ給ふべしたしなみ給ふべし、穴賢南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす
法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の修行を具足するなり、此の事伝教大師入唐して道邃和尚に値い奉りて五種頓修の妙行と云う事を相伝し給ふなり、日蓮が弟子檀那の肝要是より外に求る事なかれ、
写本とはいえ、これはそのまま当てはまるでしょうね。
ここでは「日蓮が弟子檀那の肝要是より外に求る事なかれ」が、「法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる」のであり、即ち御本尊の受持なのです。この御書を引用して、「大聖人の直接的な教示のない本尊論」を構えているのですから、見事なものですね。
同じ「日女御前御返事」には、
「法華経二十八品の文字六万九千三百八十四字一一の文字は字ごとに太子のごとし・字毎に仏の御種子なり、」ともあります。文字には力があるのです。御本尊の功徳力を思うべきです。
兄弟抄
1275年・文永12年4月16日、真蹟・池上本門寺
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」
凡夫の己心はね、例えば、沖浦さんが人生の道を変える結果となったように、揺れ動くものなのですよ。
- 10 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:26:54 ID:AJ3hr85o0
- 216 :東国人:2008/08/14(木) 18:04:57 ID:l96VBSB20
>157
>『一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり』<
文永九年二月二十日付け、草木成仏口決 真蹟、真蹟曽存でもなし、本満寺本、
論外、やり直し!
以下、慈善事業。
創価ネットより、
日蓮大聖人が、末法万人の成仏のために南無妙法蓮華経の御本尊を御図顕された理論的支柱の一つです。
唱法華題目抄
1260年・文応元年5月28日、
東京由井一乗氏所蔵真蹟「南条兵衛七郎殿御書」(第2紙13行、1264年・文永元年12月13日)の行間に日興上人筆の「唱法華題目抄」一部分の書写あり、
「其の上法華経の肝心たる方便寿量の一念三千久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり、」
大聖人の己心中のその妙法を図し顕したものが、曼荼羅本尊。我等凡夫の己心中の妙法を顕したものではなし。
>158
寛師は優れた学者ですが、それだけです。
戒壇様本懐論は邪義です。
『うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し』
(曾谷殿御返事)<
レベルさらけ出し。
居酒屋で酔っ払いが「ブッシュはなんで俺に会わないんだよ」と、「御発言」されるのと同レベル(笑)。
では、「戒壇本尊本懐論=邪義を証明する論文」「日寛を凌駕する教学論文」の執筆を期待する。
>163
法主に血脈があるなら、鈴木法主は焼死していませんよ。<
懐かしいね。沖浦さんは「これだけ」を言っている方がよい。あとの発言は毒気の垂れ流しが多い。
217 :東国人:2008/08/14(木) 18:06:42 ID:l96VBSB20
>167
そして戸田先生が牢獄で悟達をされ、仏とは生命だと仰せになられた。
これで全てです。
本尊は仏ですね。
すると命が本尊。
簡単明瞭です。
それを、ややこしくして飯食ってた連中がいただけの事です。
簡単な道理ですね。<
学習能力を露呈している。
>98のレスを読み直すべし。
>178
今回の討論?
討論になっていませんね。
東国人さんには仏法を学ぶ姿勢が無いでしょう。
教学も日蓮正宗のままです。
ところがご自分は創価学会員だと言う。
あの人ね、ダブルスタンダードなんです。
無理なんですよ。<
一人ごとがお好きですね(笑)。
>180
では、私は貴方に一点質問です。
貴方は当体義抄はご真筆が無いから引用するなと言う。
ところが寛師の文段は引用する。
この矛盾を明確に、皆様方が理解できるように、具体的に述べる事。<
回答済み。
あなたの早とちりを露呈しているだけ。
「沖浦説の補強となるかもしれないものを優しく検証」してやったのをこのように逆手に取るのでは、これ以降、前記、記述通り「真蹟」「真蹟曽存」「高弟写本」のみの引用でやること。
なぜ、これらにこだわるかというと、「日蓮大聖人の本尊・教え」に関することは、「その実像・真実」に迫るためにも、対外的にも通用するものを、まずは用いて確認、検証する必要がある。あなたさんのよく言う「世間」というものに対しても、「創価学会の教学的レベルの高さ」を示すことにもなる。
- 11 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:27:27 ID:AJ3hr85o0
- 218 :東国人:2008/08/14(木) 18:07:33 ID:l96VBSB20
以降は、ロムされている方のために、じっくりと書きますね。
「日蓮大聖人の御書」とされるものをめぐっては、「中古天台本覚思想」とのかかわりを指摘されるものがありまして、特に「本覚」「無作」という語は、「中古天台本覚思想」を語るうえで不可欠な用語となっている。そして今日、「御書」として伝わる文献を見れば、
・「本覚」「無作」といった用語が使われている書は、真蹟や真蹟曽存などの信頼できるものが皆無に等しい。
・「本覚」「無作」といった用語のある書は、偽書やその疑いのある不確かなものが多い。
・「本覚」「無作」といった用語は『観心本尊抄』『開目抄』『立正安国論』『撰時抄』『報恩抄』などの、日蓮大聖人「五大部」といわれる代表作には見当たらない。なお、御書の真偽判を行うのに、真っ先に基準となるのが、これら五大部ですね。
そして、
「『当体義抄』の当体蓮華義は、中古天台の観心的色彩の強いものであり、『法華玄義』のものではない。」「日蓮聖人遺文辞典P799」となっていまして、今日それを「真撰」として用いることは難しいのです。
故に、「日蓮大聖人の実像・真実に迫る」作業の過程では、真っ先に排除されてしまう書でもあるのです。
219 :東国人:2008/08/14(木) 18:08:15 ID:l96VBSB20
☆では、「中古天台本覚思想」の成り立ちとはどのようなものだったのでしょうか?
中古天台本覚思想について、学説によると、究極・内奥の真理を解明したものということで、文章に公にすることはできず、師から弟子へと以心伝心で口授するほかにないと考えられているものでした。ここから秘授口伝、面授口決が強調、重んじられるに至ります。
この口伝、口決の特徴は、教相・経説によらず、師の内的体験を直接弟子に伝えることを意味しました。これは、本来の天台の教相・経説に基づく口伝に、密教の口伝思想が付け足されてできあがったものです。
この密教が加わったのは勝範(996〜1077)のあたりとされています。この勝範の師匠・皇慶(977〜1049)が台密事相の大成者で、著作することなく、口伝、秘伝を重んじていました。
その師についた勝範から天台本覚思想が口伝となり伝えられていった、とされています。
同時に切紙相承という、小さな紙切れに真理を書き記し伝授する方法も行なわれました。
この頃、恵心僧都源信(942〜1017)、檀那院覚運(953〜1007)が登場し、後の恵心流、檀那流の二つが派生しました。
口伝、切紙相承が平安末期に至ると文献化されるようになります。しかし、個々別々に秘授口伝・切紙相承として伝えられていたので、誰が誰に伝えたものなのか全く不明で、一冊の書にまとめた時には著者名が必要ということから、更に権威付けもあり、最澄・円仁・円珍・良源・源信等の名を使用しました。その為、文献考証は極めて困難なものとなっています。
初期の文献としては1100年頃の「本理大綱集」1207年の「円多羅義集」があります。
1250年(鎌倉中期)から1300年(鎌倉末期)頃にかけては、「修禅寺決」(伝最澄)、「断証決定集」(伝最澄)、「三大章疏七面相承口決」(伝最澄)、「漢光類聚」(伝忠尋)、「法華略義見聞」(伝忠尋)があります。
続いて1300年(鎌倉末期)から1350年(南北朝期)にかけては、
・1329年・元徳元年(滅後48年・日興入滅4年前) 比叡山の俊範から静明・心賀を経て心聡によって記述され、花園天皇に提出した「一帖抄」。
・「二帖抄(相伝法門見聞)」尊海(1253〜1332)が心賀から相伝を受け、同学の一海が筆録したもの、があります。
1350年(南北朝期)から1400年(室町時代)にかけては中古天台本覚思想の集大成期となり、
・1347年・正平2年(大石寺は5代日行の時) 「蔵田抄」豪海
・1349年・正平4年(大石寺は5代日行の時) 「等海口伝抄(宗大事口伝抄)」等海
・1367年・正平22年(大石寺は6代日時の時) 「八帖抄見聞」直海
・1402年・応永9年(大石寺は6代日時の時) 「七帖見聞(天台名目類聚抄)」貞舜
・1501年・文亀元年(大石寺は12代日鎮の時) 「二帖抄見聞」尊舜
・「三大部見聞」尊舜
・「法華鷲林拾葉抄」尊舜
などが著されました。
- 12 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:28:02 ID:AJ3hr85o0
- 220 :東国人:2008/08/14(木) 18:09:19 ID:l96VBSB20
☆中古天台本覚思想・恵心流の関東仙波に学ぶ
中古天台本覚思想・恵心流の総本山ともいうべき存在で、天長七年(830年)に円仁・慈覚が開山した関東仙波(現・川越市喜多院)に、大石寺歴代貫主の中で、学んだ者が数名いるということです。
・6代日時 「家中抄」(富要 5-251 )
日時伝 釈の日時、俗姓は南条、出家して良栄と号す、日行に随順し当家の諸書を学ぶ、後武州仙波に於て広く台家を聞く、
・8代日影 「有師物語聴聞抄佳跡 上」(富要 1-222 )
日影上人(下野平井園部御出生俗姓不知)日時上人に随順し出家学道す、武州仙波に台家を学びて後下野平井園部に弘通し会津実成寺に住居すの時日時上人御遷化なり
・13代日院 「家中抄」 (富要 5-258 )
日院伝 釈の日院、俗姓等日鎮伝に出づ、出家して右京と号す、十三歳にて富士に登り当家を習学す、十七歳にして相州土屋に往て台家を受く、又武州仙波に往いて実海の座下に於て広く修学す。
☆中古天台本覚思想・恵心流の影響
武州仙波談林は関東天台といわれた恵心流本覚思想の一大牙城で、当時の天台宗が本覚法門に覆われていた中でも、その最先端をいき、密教臭プンプンのところでした。この仙波談林や比叡山で学んだ日蓮系の僧侶達は口伝、切紙相承を取り入れて、自門教学の樹立に好都合なように作り上げ、歴史的に由緒ある相伝の如くに仕立て上げていきます。
・日昭門流
常楽坊日伝「御本尊相伝抄」
「右法門当流代々口伝也、於日伝代初載紙面也〜可為唯授一人也」
・日朗門流
大覚 「受持法華作法」
「弟子一人外他聞不可有者也」
・同
比企谷日山 「一字五義口伝」
「唯授一人秘伝也可秘々々」
・身延門流
日海 「御本尊十如習合口伝」「本尊二字口決」
・中山門流
日祐 「本門三箇大事」
「唯授一人之秘法」
等々・・・。
☆中古天台本覚思想・恵心流の影響〜大石寺
当然、大石寺の門流も貫主だけではなく、多くの僧が恵心流の仙波談林で学んだことでしょう。又、比叡山にも行ったことでしょう。どこに行っても当時は「中古天台本覚思想」の全盛期、その影響を受けたであろうことは容易に推察できるものです。
さて、ここで大石寺の教義との比較をしてみれば、
・中古天台本覚思想・恵心流
七箇口伝 唯授一人相承 切紙相承 各種相承書の偽作
・大石寺
御本尊七箇相承 唯授一人血脈相承 切紙相承 「二箇相承書」
他、各種相承書
と神秘的な相承観の上において又相承書とする紙切れの作成等、全く同類となっています。
中古天台本覚思想・恵心流の全盛期に大石寺の相承書の登場
日蓮・日興の上代において見あたらない「唯授一人血脈相承」「相承書」「秘法の秘伝」「貫主は生身の本尊」等、これらが文の表に登場しだしたのが中古天台本覚思想全盛期と重なります。
・1480年・文明12年(滅後199年)、京都・住本寺僧・日叶の「百五十ヵ条」(富要2-182)
に「二箇相承書」の全文。
・1488年・長亨2年 左京日教作 類聚幹集私 (富要 2-309 )の文面に、恵心流の「天台自受用身(天台本仏)」の影響を受けたような、「日蓮自受用身」を通り越して「大石寺貫主自受用身」ともいえる主張。
第四 諸宗先ず本尊を定むる事
日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次ぎ其の次ぎに仏法相属して当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、此の法主に値ひ奉るは聖人の生まれ代りて出世したまふ故に生身の聖人に値遇結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ奉り信心異他なく尋便来帰咸使見之す、何ぞ末代の我等三十二相八十種好の仏に値ひ奉るべき、当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ
- 13 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:28:42 ID:AJ3hr85o0
- 221 :東国人:2008/08/14(木) 18:10:19 ID:l96VBSB20
☆全盛を極めた中古天台本覚思想も1600年代に至り、妙立慈山(1637〜1690)、霊空光謙(1652〜1739)の二人が出て、四明天台復帰、安楽律唱道を試みて、霊空が1689年・元禄2年(大石寺は23代日啓の時)「闢邪編」を著し玄旨帰命壇を批判して、中古天台本覚思想を終らせた、とされています。
☆大石寺貫主自ら「歴代貫主が天台真言の邪義に附する」と告白
更に注目すべきは、大石寺31世・日因は「袈裟数珠の事」(富要1-377)にて、文字通り「大石寺の袈裟数珠相伝」を述べる中で、20世・日典の時に「相承書」は全て焼失してしまったと述べています。
この場合の「相承書」は、前代の大石寺貫主から伝わる「全ての相承書」のように読めますが、現在の日蓮正宗としては「いや、それは本書題名にもあるとおり袈裟数珠の相伝だけだ」といわざるをえないでしょうが、その当否は別として、大石寺貫主自らが「近代上人は皆正法を失ひ天台真言の邪義に附する」と正直に告白したのは、なかなかのものです。
1765年・明和2年(滅後484年)8月12日 31代日因「袈裟数珠の事」(富要1-377)
「当山念珠の御相伝三通之れ有り、目師御筆、道師・御目録之れ有り、然る処に十八代日精上人御代之れを失ふと見へたり・日舜上人・精師在府の砌り仰せ越され候へば・長持の中に之れ有るべき由仰せ候へども之れ無しと見へたり、たとへ之れ有るも日典上人御代に大坊焼失の砌り焼け失せたる者か、故に今・御目録十七条のみ之れ有り・御相伝悉皆失ふ故、日忍上人・日俊上人已来・数珠相伝に当山の相伝之れを失ふ故に・要法寺日大上人叡山相伝之れ有り、喜ばしい哉、悲い哉、大衆方正法を守ると云へども近代上人は皆正法を失ひ天台真言の邪義に附する故に・今日因之を改め近代上人方の附邪の法を疑ふのみ
〜三には当山日目上人の相伝悉く房州・保田に有る故、四には要法寺二代日大叡山相伝当山に伝ふ、故に知んぬ近代上人方、要法寺日大の邪伝に附するのみ。」
概訳
大石寺に念珠の相伝が三通ありました。日目の文書、日道の目録に記載されています。ところが日精の時にこれを紛失したということ記録があります。
日舜は、日精が江戸にいた時に相承を受けた際、長持の中に相承書があるはずだと言われたが実際には無かったと書かれている。たとえその時には有ったとしても、日典の時代に大坊が焼亡した際に焼失してしまったのでしょう。故に今は相承書の目録の十七条だけが存在している。
相伝書は悉く皆失われたので、21代日忍や22代日俊以来、数珠の相伝について大石寺の相伝は失われてしまった故に、(京都)要法寺日大や比叡山の相伝がある。
喜ばしいかな、悲しいかな、大衆達は正法を守っているのに、近代の上人(大石寺貫主)は皆正法を失ってしまい、天台真言の邪義を付属しているので、今、日因がこれを改めて、最近の上人(大石寺貫主)たちの付属してきた邪義を疑っているのである。
〜三には日目の相伝は全て房州保田・妙本寺に有る故に、四には要法寺二代日大や比叡山の相伝が大石寺に伝わっている、故に知っているのである、近代の上人方(大石寺貫主)は要法寺日大の邪義の相伝を付属しているのだということを。
ここでは「袈裟数珠」を首題に「近代上人は皆正法を失ひ天台真言の邪義に附した」ので私・日因が「之を改め近代上人方の附邪の法を疑ふのみ」と撤廃整理した、とあります。
しかし、これは「袈裟数珠」という化義に属するものであり、いわば飾り物のことにすぎません。
「唯授一人血脈相承とそれに類する神話」という中古天台本覚法門・密教的な伝統教義は前代からの伝承のままでノータッチ、一切触れることすらなかったのです。枝を切っただけで、大木はそのままだったのですね。
以上、大石寺門流も「中古天台本覚思想」の影響を受け、また、天台真言の邪義を取り入れてきたことを見ましたが、当然、文献上でも、「大聖人の御書」とされるものでも、「真蹟」か否かを確認することが、まずは「学的な態度」というものです。
故に、「大聖人の本尊論」に関しては、「真蹟」「真蹟曽存」「高弟写本」で行おうというのです。
- 14 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:30:10 ID:AJ3hr85o0
- 222 :東国人:2008/08/14(木) 18:11:23 ID:l96VBSB20
ですので、
>185
>3日たちましたが、読んだ痕跡がないので、通解を加えます。当体義抄の一節です。<
は「論外」「やり直し!」ですね。
「僕の読み方に従ってほしいので、あと三日間待っててね」って。大笑いですね。
だいたいね、「誰が、いつ、『そうですか、あと三日ですか。はい、では、お待ちさせて頂きます』なんて、言った」のかね。私がおやじさんの言うことに無条件で従わねば成らない根拠など、どこにあるのかね?
一方的に要求を押しつけて、従わせよう、原則を押しつけようという、こう言うやり方を「独善」というのですよ。おやじさんも、自分の言った文証ならば、とっとと三日前に解説していれればいいのにね。ただ、三日かかって「このレベル」じゃあ、ホント、意味不明の質問会など、止めることをすすめるよ。
将棋を指す時に、素人でも「二手先、三手先」は読むものですな。今、ここで「慈善事業」でお相手をしたところで「解釈論」は、いかようにもできることは目に見えていますよ。その応酬だけでは、価値が生まれませんね。ましてや、「日蓮大聖人の本尊」について論ずるのに、学界では「偽書扱い」のものをもとにして論じた所で、なんの意味もないものでしょう。
・一大秘法とは「私共の己心の妙法」でありそれは「本尊」でもあり、「本迹」の内の「本」である。
・「曼荼羅」は「本尊」ではあるが「方便」であり、「本迹」の「迹」である。更に己心の妙法顕現のための「道具」であり、「本門の本尊」そのものではない。
・本尊に「本迹」がある。
このような「大それたこと」をいうのだから本来なら「真蹟」そのもので論を組み立てるべきなのですよ。「当体義抄」では、「僕たちだけの世界でース」「沖浦親子はこう読みマース」にすぎませんね。「三大秘法抄」を読んで「国立戒壇論」に浸って悦に入る、顕正会と同じに見えますわね。
おっと「ずるい」なんて、勘違いしないでね。こっちじゃないよ、あつちだよ。
この程度の御書を出してくる、「沖浦親子のレベルの問題」なのですよ。
- 15 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:30:47 ID:AJ3hr85o0
- 223 :東国人:2008/08/14(木) 18:13:29 ID:l96VBSB20
>193
>//まず、本尊のことと言えば「観心本尊抄」です。
同抄の中で大聖人は、//
あなたが、あげた文証に通解を加えます。いわゆる、沖浦の考え方などは,当会には存在しませんので、主張は全て御書によります。<
あのね、キミが「創価学会には」だの、「当会」だのと書いてあるのを見る度に、力が抜けちゃうのよ(笑)。そういうことはいいからね。
>//(1) 問うて曰く、十界互具の仏語分明なり//
この御文も、上記レスの内容を、表現をかえて述べていらっしゃいます。(「十界交具」と「我等が如き一切衆生も妙法の全体なり」は違うだろとか言わないでくださいね。大聖人様が、その文証に妙楽の「実相は必ず諸法諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」の釈をひかれていらっしゃるのですから、ですから文句は大聖人様に言ってください)<
「文句は大聖人様に言ってください」〜現場で対論をしているメンバーは、あなた方親子のこの「ものいい」に爆笑なのですわ。
>//・然りと雖も我等が劣心に仏法界を具すること信を取り難き者なり、//
そうなんです。大聖人様が、御書のあらゆるところで、「南無妙法蓮華経の当体は、衆生(生命)そのものである。しかし、仏様以外は、そのことのに皆迷っているからこの信心が必要なんだ」とおっしゃっているにもかかわらず、あなたには、それが信じられないのです。<
本当に親子で人のレスを読まないね。はい。
>47の私のレスを見てね。
>問う一切衆生皆悉く妙法蓮華経の当体ならば我等が如き愚癡闇鈍の凡夫も即ち妙法の当体なりや、答う当世の諸人之れ多しと雖も二人を出でず謂ゆる権教の人・実教の人なり、而も権教方便の念仏等を信ずる人は妙法蓮華の当体と云わる可からず、実教の法華経を信ずる人は即ち当体の蓮華真如の妙体是なり
再往、妙法信受という観点から、不信そして謗法の人々には妙法の当体としての発現はなく、正直に方便を捨てて、南無妙法蓮華経を受持・信行する日蓮大聖人の弟子檀那こそが、妙法蓮華の当体を証得し、自在の功徳力有を発現すると示されています。 <
「妙法蓮華の当体を証得」と書いてありますよ。他にもまだあるけど、探してね。
でもね、それが
・一大秘法とは「私共の己心の妙法」でありそれは「本尊」でもあり、「本迹」の内の「本」である。
・「曼荼羅」は「本尊」ではあるが「方便」であり、「本迹」の「迹」である。更に己心の妙法顕現のための「道具」であり、「本門の本尊」そのものではない。
・本尊に「本迹」がある。
の証明にはならないよ。衆生己心の妙法=仏界なのだからね。衆生己心が本尊ならば、事相に顕わされた本尊はいらないよね。
>現実に、40年間御書を学んだと主張するあなたに、「ご本尊とは、その体は己心の妙法ですよ。それを、御図顕されたのが、曼荼羅のご本尊のなんですよ」といっても、理解ができないのをみれば明らかです。それどころか、あなたの教義を否定する内容でしかない大聖人様の御文まで、あなた自身が引いているのです。それでも理解ができません。いかに、信じがたいかということです。<
「御本尊とは、その体は日蓮大聖人が神力別付で釈尊より授けられた己心中の妙法を図顕されたものなのです」よ。我ら衆生の劣心は、それを受持して初めて「我が己心の仏界=妙法」を発現できるのです。
「あなたの教義を否定する内容でしかない大聖人様の御文まで、あなた自身が引いているのです」⇒もう、めちゃくちゃな認識、解釈ですな。
あなた、人を評論したり、揶揄したり、自慢するのはどうでもいいから、ホント、創価学会の組織について、仏道修行し直した方がいいね。
- 16 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:31:34 ID:AJ3hr85o0
- 224 :東国人:2008/08/14(木) 18:15:03 ID:l96VBSB20
>//今時之を信ぜずば必ず一闡提と成らん、//
しかも、東国人さん、困ったことに、これを信じなければ、「必ず一闡提と成」るそうです。法華経方便品でも「即断一切世間仏種」と説かれていますね。仏に成る種を切断する行為なんだと。<
事実誤認を前提とした一人ごと。
>//願くば大慈悲を起して之を信ぜしめ阿鼻の苦を救護したまえ。//
じゃあ、どうすればいいんですか?
実は、曼荼羅のご本尊様は、そのために顕わされたのです。曼荼羅のご本尊様は、「之を信ぜしめ阿鼻の苦を救護」するために、大聖人様が御図顕されたのです。だから、普段の信心において、あなたが別に大聖人様の仰せを信じれなかったとしても、ご本尊様に信をもって向かえば、必ず救われるようにできているんです。また、ここで書いてることも理解できるようになってくるんです。<
一人ごとが続くね。
曼荼羅図顕の意味については既述。
>//(2) 問うて曰く、教主釈尊は[此れより堅固に之を秘す]三惑已断の仏なり、//又十方世界の国主・一切の菩薩・二乗・人天等の主君なり、行の時は梵天左に在り帝釈右に侍べり四衆八部後に聳い・金剛前に導びき八万法蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ、是くの如き仏陀何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや、//
東国人さん、あなたが上げた御文の[此れより堅固に之を秘す]の「此れ」とはまさに「己心の妙法」そのものです。それがどうして、
(一大秘法とは「私共の己心の妙法」でありそれは「本尊」でもあり、「本迹」の内の「本」である。(略)などは、夢にも出てこないことでしょう )
などという主張ができるのですか。
しかも、「此れ」の内容に関することを、あなたは以下に張り付けていますよね、以下
//(1)への返答の中では、
十界互具之を立つるは石中(中略)之を信ず可きなり。
( 十界互具を立てるということは(略)信じるべきなのです。)//
「此れ」の本文に通解まで加えて書いています。はっきりいいましょう。東国人さん、あなたは内容をただコピペしただけで、意味を全く理解していないんではないのですか?
釈尊が堅固に秘した「此れ」の正体が、「ご本尊」であり、そのご本尊が己心の妙法(生命)だということを、石中の火などのたとえを引用して説かれている段を、コピペまでしているお方の主張が「一大秘法とは「私共の己心の妙法」でありそれは「本尊」でもあり、(などは)夢にも出てこないことでしょう」
となるんですか?支離滅裂です。
全く、ご自身が提示した文の理解していないのではないのですか?<
ホント、何回も言うけど、キミは「相手の主張を認識」することから始めた方がいいよ。もう一度よく読みなさい。
- 17 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:32:29 ID:AJ3hr85o0
- 225 :東国人:2008/08/14(木) 18:15:46 ID:l96VBSB20
あとね、該文の上から順に読んでごらんなさい。煩雑になるから、「質問箇所」の訳文だけ挙げるね。文中のテーマが明確になるからね。
・質問致します。
十界互具につきましては、法華経の何処の経文に書かれているのでしょうか。
そして、天台大師の御解釈においては、如何に記されているのでしょうか。
⇒十界互具に対する問いから始まって、
・質問致します。
自分や他人の顔を見ると、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根があることは、理解出来ます。
しかし、この十界互具に関しては、目で見ることが出来ません。
如何にすれば、十界互具の法門を信じることが出来るのでしょうか。
⇒続いて繰り返す。
・質問致します。
法華経の経文並びに、天台大師や章安大師等の御解釈に対しては、疑いようがありません。
ただし、火を水と云ったり、墨を白いと云ったりしているようにも、感じられます。
たとえ、仏説であったとしても、信じ難いものがあります。
今、しばしば、他人の顔を見ても、ただ、普通の人間の顔に見えます。
つまり、「人界だけにしか見えずに、他の九界を見る事は出来ない。」ということです。
自分の顔を見ても、また、同様のことです。
如何にして、十界互具・一念三千の法門への信心を立てることが出来るのでしょう
か。
⇒仏説であったとしても、信じ難いとして、
・質問致します。
まだ、明確ではありませんけれども、ご説明を伺うと、ほぼ、六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界)を具備していることは、理解出来ました。
しかし、四聖(声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)については、全く見ることが出来ません。
如何に、お考えでしょうか。
⇒六道までは理解した。四聖は分からない。
・(答えの途中より)
ただ、仏界ばかりは、現じ難いものがあります。
それでも、人界に九界を具する事実が存在することを以って、強いて、人界に仏界が具足されていることを信じるべきであります。決して、疑惑を持ってはなりません。
法華経方便品第二の経文においては、人界に仏界を具することを、「衆生に対して、仏知見(仏の覚り)を開かせたい、と、欲している。」と、仰せになられています。
涅槃経には、「大乗を学する者は、肉眼を有していたとしても、それを名付けて、仏眼と為す。」等と、仰せになられています。
末代の凡夫が出生して、法華経を信じていることは、人界に仏界が具足されている証拠であります。
⇒人界に仏界が具足されている、
- 18 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:33:06 ID:AJ3hr85o0
- 226 :東国人:2008/08/14(木) 18:17:17 ID:l96VBSB20
(そして)
・質問致します。
『十界互具』という仏様のお言葉は、分明になりました。
しかしながら、私どものような劣った人間の心に、仏界を具していることは、なかなか信じ難いものがあります。
今の時点において、人界に仏界が具わっていることを信じられなければ、必ずや、一闡提の者(注、正法を信じることがなく、覚りを求める心もないため、成仏する機縁を持たない者)となってしまうことでしょう。願わくば、大慈悲を起こして、人界に仏界が具わっていることを信じられるようにして下さい。それによって、地獄の苦悩から救護して下さい。
⇒更に仏界を具していることは、なかなか信じ難いと、
そして、(少し飛んで)
十界互具を立てるということは、石の中に火があったり、木の中に花があったりするようなものです。信じ難いことではありますが、これらは、縁に触れて現われることがありますから、まだ、信じることが出来ます。ところが、人界に仏界が具わるということは、水の中の火、火の中の水のようなものです。従って、到底、信じ難いものがあります。しかりと雖も、竜火は水より出て、竜水は火から生じます。理解し難いことではありますが、現証があれば、人界に仏界が具わっていることを信じることが出来ます。
既に、あなたは、人界に八界『十界から人界と仏界を除いた八界』が具わっていることを信じています。にもかかわらず、何故に、人界に仏界が具わっていることを信じられないのでしょうか。
中国の名帝である堯王や舜王等の聖人は、万民に対して、平等な態度で接しました。これは、人界に、仏界の一分が具わっていることの証拠です。不軽菩薩は、人と会うたびに合掌して、相手の仏身(仏性)を礼拝されていました。悉達太子( 釈尊 )は、人界から仏身を成じられています。これらの現証を以って、人界に仏界が具わっていることを、信じるべきなのです。
と答えられ、
該当の文にくるのです。
・質問致します。
教主釈尊は、〈ここから先の記述は、堅固に秘さなれければなりません。〉見思惑・塵沙惑・無明惑という三惑の煩悩を断じられた仏であります。
また、釈尊は、十方世界の国主であり、一切の菩薩・声聞界・縁覚界・人界・天界等の主君であります。
釈尊が行かれる所には、必ず、大梵天王が左に在して、帝釈天王が右に侍っておられます。また、僧・尼・男性信徒・女性信徒の四衆や、仏法を守護する八種の異類が後に随って、前には、密迹金剛と那羅延金剛が先導をしています。
そして、教主釈尊は、八万法蔵の経々を演説されることによって、一切衆生を得脱させておられます。
是くの如き尊い仏陀(仏界)が、何故に、我等のような凡夫の己心に住しているのでしょうか。
また、法華経迹門や爾前経の意を以って論ずるならば、教主釈尊は、始成正覚の仏であります。
釈尊の過去世の因行を尋ね求めてみると、或いは能施太子、或いは儒童菩薩、或いは尸毘王、或いはサッタ王子の御姿で、仏道修行をなされています。
或いは蔵教の菩薩として、三祇・百大劫という長い年月の修行をされたり、或いは通教の菩薩として、動喩塵劫という長い年月の修行をされたり、或いは別教の菩薩として、無量阿僧祇劫という長い年月の修行をなされています。
或いは始成正覚における初発心の時や、或いは久遠・三千塵点劫等の膨大な時間を通して、七万五千・六千・七千等の多数の仏を供養されたり、長い年月を重ねて修行を満じられた結果として、今の教主釈尊と成られたのであります。
果たして、是くの如き、教主釈尊の様々な因位の修行は、皆、私どもが己身に所具している菩薩界の功徳になるのでしょうか。
以上、訳文。
さて、ここまでで、どこに『一大秘法とは「私共の己心の妙法」でありそれは「本尊」でもあり、「本迹」の内の「本」である。』とあるのでしょうかね。
以降の解釈は、冒頭のレスを繰り返しになるので、省きますね。
一大秘法については、文証既述です。
- 19 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:33:42 ID:AJ3hr85o0
- 228 :東国人:2008/08/14(木) 18:22:35 ID:l96VBSB20
沖浦さん、息子さんにこんなことをやらせているのではなく、ホント、組織につけてきちっと活動させた方がいいと思うよ。
あと、今後は「「受持即観心」から、もう一度勉強し直した方がいいとも思うよ。
ついでに、
「支離滅裂です。
全く、ご自身が提示した文の理解していないのではないのですか?」とかいうのは止めた方がいいと思うよ。「若気の至り」「若さの勢い」と認識しておくけれども、「生き恥さらし」ということもあるのだからね。今後、余計な言葉は使わないこと。
じゃあ、また、
・一大秘法とは「私共の己心の妙法」でありそれは「本尊」でもあり、「本迹」の内の「本」である。
・「曼荼羅」は「本尊」ではあるが「方便」であり、「本迹」の「迹」である。更に己心の妙法顕現のための「道具」であり、「本門の本尊」そのものではない。
・本尊に「本迹」がある。
①一大秘法とは「凡夫の己心に備わる大宇宙と全く同様の妙法」であるとの文証をお示しください。
②本尊とは「一大秘法である凡夫の己心に備わる大宇宙と全く同様の妙法」であるとの文証をお示しください。
③「本尊に本迹がある」との文証をお示しください。
④「漫荼羅は本尊ではあるが方便であり本迹の迹である」との文証をお示しください。
⑤「本尊である私共の己心の妙法が本迹の本である」との文証をお示しください。
⑥「本門の本尊とは漫荼羅本尊その物を示さない」との文証をお示しください。
⑦「観心本尊抄」の「其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に〜」と記されているように、曼荼羅の相貌を明かされながら、「其の本尊」と記されていることで、「曼荼羅=本尊」と認識できます。そこで、沖浦さんの言う「本門の本尊とは漫荼羅本尊その物を示さない」との説は、いったいどこから出てくるのであろうか?ということ。これを明確にしてください。
⑧「観心本尊抄」では、「一閻浮提第一の本尊」とも記されていますが、沖浦さんの説を○とすると、「一閻浮提第一の本尊」は「方便」であり、「本迹」の「迹」である。更に己心の妙法顕現のための「道具」であり、「本門の本尊」そのものではない、ということにもなります。これまたもって、従来にはない見解と思われますが、この点も合わせて明確にしてください。
を調べてね。
だけど、「子供のけんかに親が口をはさむ」というのは世間にあるけど、お父さん同士のやり取りに「息子さんが口をはさむ」というのも、珍しいね。
壮年部のお宅を周ってきますので、今度は何時かな。
9時過ぎにでも、また、PCを開けますよ。
230 :東国人:2008/08/14(木) 18:25:07 ID:l96VBSB20
>それと、当体義抄をご真筆が無いから引用するなと言いながら、大聖人様の書ではない六巻抄を引用する矛盾のご説明がありません。
私の質問に答えてから、次に進んでください。
おいおい、おとーさん。
ちゃんと説明してあるんだから、削除なんかしちゃあ、ダメだよ。
- 20 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/14(木) 19:41:27 ID:AJ3hr85o0
- 以上です。
このスレッドは近日中に削除いたします。
ロムをされておられる人はメモリーに保管をどうぞ。
- 21 :東国人:2008/08/15(金) 01:45:32 ID:CyjOqHqg0
- なんだ、こんな所に移動されていたのですね。
沖浦さんは何回も「アク禁」を繰り返す程、嫌がっているのか、疲れているのかのようですし、息子には何の用もありませんので、
これにて、失礼します。
ただ、
戒壇御本尊・出世の本懐は「邪義」
日寛教学はいらない、
己心本尊論、
組織批判などは、「わが心の豊かさ」をもたらすものではない、ことだけは言っておきます。
ネットで批判だ、不満だをぶちまけるのも、勝手ではあるけれど、現実とはなんの関係もないことを知るべしですね。
信仰の感動、感謝、歓喜こそ人生に恵みをもたらすものだと思います。
共々にラインの第一線で頑張ってまいりましょう!
では!
- 22 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/15(金) 06:58:33 ID:AJ3hr85o0
- あれ?
いなくなるんだね〜〜?
数日で削除します。
- 23 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/28(木) 22:45:38 ID:AJ3hr85o0
- このたび東国人さんの御主張が以下のコピペだったことが判明致しました。
資料として貼っておきます。
日蓮宗広済寺ホームページ
http://www.kosaiji.org/hokke/nichiren/mikkyo.htm
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