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日寛教学の再考- 1 :大勝利:2008/08/05(火) 11:04:36
- 第26世日寛は人間主義仏法を目指したのか?
ウイキペィアより抜粋
日寛(にちかん、寛文5年8月7日(1665年9月15日) - 享保11年8月19日(1726年9月14日)、1718年登座)は、大石寺第26世の法主。
日蓮正宗では、第9世日有とともに中興の祖としてあがめている。
中興の祖と言われた理由として、六巻抄を後世に残した事が大きく関係している。
- 2 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/05(火) 11:18:05
- いいスレッドが立ちましたね。
本当は私も立てたかったのです。
こうして、ネットのレベルが上がって行くことが嬉しいです。
- 3 :大勝利:2008/08/05(火) 11:45:36
- ではスレ主として私から問題提起を致します。
意見交換したいと思います。
「名字妙覚等覚一転」という法門ついてですが、現在も教学試験にも盛り込まれている重要なところと考えております。
私は人間主義仏法の基幹となる法門と常々思っております。
-----------------
大白法平成10年12月1日号より抜粋
要するに、凡夫の智慧で到底、計り知れない、境智の実体を示されております。故に、この仏身の常住を信解することによって、分別功徳品に説く如く、多くの衆生が十信・十住乃至、等覚の利益を得、その文底の元意よりしては、等覚一転して名字妙覚の悟りを開いて久遠元初下種の妙法蓮華経を覚知し、その身のままに本仏同体の悟りに至ったのであります。
-----------------
上記の大白法の記事は大聖人の仏法を曲解していると思われます。
はたして大聖人は、一生成仏において等覚一転して妙覚の悟りを開いたのでしょうか?
私は違うと思います。
等覚一転の必要などなく、名字即極からです。
- 4 :大勝利:2008/08/05(火) 11:50:54
- >>3
日寛は「名字妙覚等覚一転」を否定しています。
当流行事抄
「等覚に登らしむとは即ち体外の意なり、妙覚に登らしむるとは即ち体内の意なり、若し体外の意は常の所談の如し。在世の衆生寿量品を聞き但二住乃至等覚に至る、而も妙覚に至るの人は都べて経文に之れ無きなり。」
- 5 :一壮年:2008/08/05(火) 12:01:38
- いやぁ、素晴らしいスレッドです。感謝いたします
私は日寛上人のご出現なくんば今日の創価学会はなかったと本気で思います。
蓮祖日蓮大聖人の御内証を説き明かされたお方でもあります。
- 6 :大勝利:2008/08/05(火) 12:03:54
- >>4
つまり…
日寛教学に於ける「名字妙覚等覚一転法門」とは、
『「名字の凡夫が、等覚に登って、そこから一転して妙覚に至る」を否定する法門』というややこしい状態になっている(笑
この辺が、日寛教学が「差別」を含んでいるような誤解を受ける一因ではないだろうか?
- 7 :73:2008/08/06(水) 23:42:26 ID:qjiW.C7w0
-
文底の意をもってみれば、違うこともないと思います。
ややこしくはないですね。
「等覚一転して理即に入る」(等海口伝抄巻六)とあります。
これは法華経文上の義を通して、文底下種仏法の義を志向する文であり、
成仏の本因が「南無妙法蓮華経」であることを述べています。
- 8 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/07(木) 06:58:18 ID:AJ3hr85o0
- >日寛は「名字妙覚等覚一転」を否定しています。
この思想は仏法の極意なんですがね。
長者遇子と同じです。
寛師の戒壇様本懐論は、幕末の攘夷とおなじでしょう。
錦の御旗といってもいいですね。
今、全く価値はありません。
昨年のカレンダーです。
- 9 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/07(木) 07:30:13 ID:AJ3hr85o0
- 矛盾するようですが、寛師がいなければ現在の創価学会は無かった。との、一壮年さんのご意見はその通りだと思います。
私は 世界広布の時代には不要だと思うだけです。
功績は功績であります。
- 10 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/07(木) 07:33:01 ID:AJ3hr85o0
- 大聖人様と寛師の違いですが、簡潔に述べれば、
蓮祖は信仰の対象。
寛師は学問研究の対象、でしょう。
- 11 :大勝利:2008/08/07(木) 17:34:59 ID:otDqTUdA0
- >>7
73さん
簡潔な文は良いのですが、どこがどう違うこともないのかを書いて頂かないと、文意が通じません。
>「等覚一転して理即に入る」(等海口伝抄巻六)とあります。
>これは法華経文上の義を通して、文底下種仏法の義を志向する文であり
等海口伝抄巻六は天台の説です。文底下種仏法の義を志向する文な訳がないでしょう?
取要抄文段に日寛は、
「天台・妙楽は内鑑冷然たりと雖も、付嘱なき等の故にこの義を宣べず。然りと雖も台家の口決に「等覚一転して理即に入る」と相伝するなり。等海集第六二十六、これを見合すべし。
若し当流の相伝は「等覚一転・名字妙覚」と習うなり。然れば則ち初め発心より終り補処に至るまで、皆久遠名字の妙覚の位に入るが故に、別して更に妙覚の益を挙げざるなり。」
として…、
大聖人の正意は名字即であることを明かしています。
ちょっと補足すると、
つまり一転して理即に入っても、次に今度、理即から名字即に登れる人が一人もいないのでは意味がない。
理即から名字即に登るには、久遠本因の南無妙法蓮華経であると言うことです。
これを、「文底下種仏法の義を志向する」と言いたいのでしょうけども、「等覚一転して理即に入る」文がそのままではないのです。
- 12 :大勝利:2008/08/07(木) 22:19:19 ID:cUEMU.c6o
- >>9
中国広布の時に強力なバックボーンとして必要だと思います。
- 13 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/08(金) 09:04:36 ID:AJ3hr85o0
- 大勝利さん
中国でそう言う思想を広めるなら、思想侵略ですよ。
半世紀と少し以前、私共が中国でどう言うことをしたか。
考えるべきだと思います。
- 14 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/08(金) 09:05:21 ID:AJ3hr85o0
- 中国で私共が広めるべき思想は、
ストレートな創価思想でしょう。
- 15 :大勝利:2008/08/08(金) 11:23:18 ID:FPgFei.k0
- >>14
沖浦さん。
中国の 法○(りん)功 は十数年で1億人まで広がってます。
中国のネット普及の影響は大きいと思います。
中国では多くのPCにネット規制が引かれているので、この掲示板が見れるかどうかわかりませんが、
ネットはすでに多くの思想を発信し続けています。
- 16 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/08(金) 11:28:49 ID:AJ3hr85o0
- 大勝利 さん
私にはもう無理ですが、貴方は耕治と中国で熱原やってくださいませ。
- 17 :森野一士 ◆DrOKpj4BnU:2008/08/09(土) 01:06:59 ID:ny2WHVj6O
- >>6>>11大勝利さんへ
私は(も?)、『等覚一転名字妙覚』を
釈尊の仏法では信徒の方たちは、文上の法華経で等覚の位までは登れたが、『時』と『機』がなかったので、顕すことの出来なかった文底の妙法を『命』の次元で覚知し初めて妙覚の位に登った。と、あくまで、五十二位の段階があることを前提にしている教義と理解しています。
一方、日寛上人は、《末法の大聖人の仏法は名字の凡夫が三大秘法の御本尊様を信じて即妙覚(即身成仏)の位に登るのだから、等覚に登る必要がないので『等覚一転』の部分を否定していて、『名字妙覚』の部分は肯定している》と理解しています。
日寛上人の末法相応抄に、三世諸仏総勘文教相廃立の『名字即の位より即身成仏す、(略)、速疾頓成して下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る、』の御文を挙げられています。
>>8沖浦さんへ
私は、日寛上人は、仏法の極意を否定していないと理解しています。
- 18 :森野一士 ◆DrOKpj4BnU:2008/08/09(土) 01:40:43 ID:ny2WHVj6O
- 大勝利さんへ
>>11をよく読み返し、>>17の自分の間違いに気付きました。
日寛上人が、取要抄文段で、
『等覚一転名字妙覚』を、即身成仏のことであり、肯定されていることを理解しました。
>>8沖浦さんへ
>>17は、私が、間違って理解していました。
- 19 :森野一士 ◆DrOKpj4BnU:2008/08/09(土) 02:13:56 ID:ny2WHVj6O
- >>11をもう一度読み返しました。
『等覚一転・名字妙覚』と・で区切られている事に気付きました。
『皆久遠名字の妙覚の位に入るが故に、別して更に妙覚の益を挙げざるなり。』と大聖人の正意を名字即と言われている、という事は、位は関係ないということを言っていて、・によって、『等覚一転』と『名字妙覚』を区別していると読めました。
以上より、>>17は、間違いでなかったと理解しました。
- 20 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/09(土) 05:59:21 ID:AJ3hr85o0
- 森野一士さん おはようございます
少しご意見を整理なされてからお書き込みされた方がいいのでは無いでしょうか?
- 21 :森野一士 ◆DrOKpj4BnU:2008/08/09(土) 08:32:42 ID:ny2WHVj6O
- >>20
沖浦さん、おはようございます。整理をしてから書き込むよう注意いたします。>>18>>19は、紛らわしい様でしたら削除していただいて結構です。宜しくお願い致します。
- 22 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/09(土) 09:00:57 ID:AJ3hr85o0
- 森野一士 さん
削除するほどの事はありませんよ。
少し方の力を抜いてくださいませ。
- 23 :森野一士 ◆DrOKpj4BnU:2008/08/09(土) 10:33:40 ID:ny2WHVj6O
- >>22 ありがとうございます。 肩の力を抜き参加致します。 教義に関する事では、中途半端な知識で、他の方にご迷惑を掛ける事のないよう注意しなければと思っています。
沖浦さんは、>>8で日寛上人は、>『名字妙覚等覚一転』を否定されている。と、大勝利さんの>11を読まれて、『名字妙覚』名字即(仏法の極意)も否定されていると理解されているのでしょうか?
- 24 :大勝利:2008/08/09(土) 10:37:43 ID:jhurUWtA0
- >>17
森野一士さん
おはようございます。
>>17 に賛成致しますよ〜(笑
>>18-19 も間違いではないと思います。
天台大師は「等覚一転名字妙覚」は、ず〜っと長〜い年月を繰り返し修行してやっと等覚に登る仏法を、
一生の間に「等覚」に登る修行を説きました。等覚一転名字妙覚は内鑑冷然ですね。
そして、一生に等覚に登るために、別教の52位から円教の52位を立て、六即に配立しました。
しかし天台大師はそれでも自分は観行即だと言っています。
ここで「どんだけ大変やねん!」と関西弁でノリツッコミが入ります。
では大聖人の六即はどうなのか?
との視点から御義口伝見ますと、
「御義口伝に云く此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊惣じては十方三世
の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の
弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、
寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し
奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは
事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出づるを分真即と云うなり無作
の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有
の侭を此の品の極理と心得可きなり、無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云」
と、出てきます。
- 25 :大勝利:2008/08/09(土) 10:50:44 ID:WHlmWTKw0
- >>24
理即------一切衆生
名字即----頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時
勧行即----事の一念三千の本尊を観ずる
相似即----惑障を伏する
分真即----化他に出づる
(無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり)
究竟即----無作の三身の仏なり
- 26 :大勝利:2008/08/09(土) 11:00:02 ID:dslbpCwM0
- >>25
分真即から一転して名字即に至るのではなく、名字即究竟が同時であることがわかりやすく説かれていると思います。
- 27 :森野一士 ◆DrOKpj4BnU:2008/08/09(土) 11:29:57 ID:ny2WHVj6O
- 大勝利さん>>24>>25>>26
分かりやすい説明ありがとうございます。
- 28 :大勝利:2010/08/12(木) 12:55:41 ID:FfgO/4W.0
- >>24
無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり
上記の御義口伝で言う時この「南無妙法蓮華経」とは寿量品十六の冒頭に掛かる「南無妙法蓮華経」であるので、
本尊ではなく、読経ですのでつまり「題目」となります。
題目によって「凡夫の当体本有の侭」に名字即究竟なるを御義口伝の時点では説いている解釈出来ます。
- 29 :大勝利:2010/08/12(木) 17:52:56 ID:FfgO/4W.0
- >>3
で紹介した大白法の誤解は、如何にも「僧侶に都合のよい誤解」と言えると思います。
若しくは意図的に僧侶の階級的区別や信徒との区別を狙ったのかも知れませんが…、
どちらにしろ、日興上人〜日寛教学から外れていると言えると思います。
- 30 :大勝利:2010/08/12(木) 18:18:58 ID:FfgO/4W.0
- とりあえず、「名字妙覚等覚一転」から話題を変えて
学頭日寛の開目抄上愚記から「六種の尊貴」を挙げます。
----------------------------------------------------
佐渡抄十七二十に云く「日蓮今生には貧窮下賤の者と生まれ旃陀羅が家より出たり(乃至)身は人身に似て畜身なり(乃至)心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず」と云云。中興抄十八十七に云く「日蓮は中国・都の者にもあらず・辺国の将軍等の子息にもあらず・遠国の者・民が子にて候いしかば・日本国・七百余年に一人も・いまだ唱へまいらせ候はぬ南無妙法蓮華経と唱え候」と云云。文意に云く、日本国七百余年に一人も未だ唱えざる妙法を唱うる故に、日本第一の法華経の行者にして一閻浮提に肩を並ぶる者、これあるべからざるなりと云云。撰時抄上二十三、下二十三、往いて見よ。此等の文意は内証の尊貴を顕さんが為に先ず御身の下賤を挙ぐるなり。今また是の如し。文意に云く、身はこれ下賤の者なれども、内証はこれ尊極なり。通じてこれを論ずれば日本第一なり。豈尊極に非ずや。別してこれを論ずれば、且く六意を明かさん。一には謂く、智慧尊貴なり。能く流転の所以を知りたまうが故なり。二には謂く、慈悲尊貴なり。能く大悲を以て折伏の心地を決定したまうが故なり。三には謂く誓願尊貴なり。能く不愛身命の誓願を立てたまうが故なり。四には謂く、行者尊貴なり。能く三類の強敵を忍びたまうが故なり。五には謂く、本地尊貴なり云云。六には謂く、三徳尊貴なり。且く当抄の意によって略して六意を示す。何ぞ止六意のみならん。実に無量の徳を備えたまえり。誰か尊重讃歎せざらんや。
----------------------------------------------------
- 31 :大勝利:2010/08/12(木) 18:37:49 ID:FfgO/4W.0
- >>30
「創価学会」としては六種の4番をクリア出来るのですが…
「学会なき宗門」は4番をクリア出来ないことになります。
宗門が学会より尊貴である為には、どうしても「大聖人からの血脈」が不可欠な理由です。
- 32 :沖浦克治:2010/08/13(金) 06:50:41 ID:AJ3hr85o0
- 大勝利さん、お久しぶりでございます
私はいつも書いていますが、仏法は、
釈迦〜天台〜伝教〜大聖人〜戸田先生と言う系譜だと思います。
- 33 :あ:2010/08/13(金) 09:41:20 ID:GPto53vo0
- こんにちは 大勝利さん
ずーっと 前に 一度 会話をさせていただきました。
「あ」です。
よろしく お願いします。
>>28
> >>24
> 無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり
>上記の御義口伝で言う時この「南無妙法蓮華経」とは寿量品十六の冒頭に掛かる「南無妙法蓮華経」であるので
>本尊ではなく、読経ですのでつまり「題目」となります。
>題目によって「凡夫の当体本有の侭」に名字即究竟なるを御義口伝の時点では説いている解釈出来ます。
*************************************:
************************************
「無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり」
の 南無妙法蓮華経は、本尊の動作をしていると、思います。
南無妙法蓮華経と言うのが、呪文みたいに 思っている人がいますが、
南無妙法蓮華経如来と言う実体です。
じゃー その 南無妙法蓮華経如来って?
参考 創価公認非公式掲示板より
__________________________________________\\
ここが分かると後はわかりますよ
投稿者:沖浦克治 投稿日:2010年 8月12日(木)15時47分20秒 softbank221104080129.bbtec.net
抜粋
世間で苦しんで生きている、お前たちがそのままの姿で100%の久遠からの南無妙法蓮華経如来だよ。
________________________________________________
- 34 :大勝利:2010/08/13(金) 15:19:13 ID:FfgO/4W.0
- >>33
「あ」さん。 こんにちは。
私の場合不定期な投稿になりますが、よろしくお願いします。
>「無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり」
>の 南無妙法蓮華経は、本尊の動作をしていると、思います。
そのような意味のとり方もできるとは思いますが、法華経の注釈としての御義口伝と言うことと、
「頭に南無妙法蓮華経を頂戴し」、また「聞き奉りて修行する」等の文言から推測するに「実体」とは考え難いと思います。
それに、御義口伝は建治年間の講義なのでまだ「大御本尊建立」してないと言う事も言えるのではないでしょうか。
- 35 :大勝利:2010/08/13(金) 17:53:51 ID:FfgO/4W.0
- >>32
沖浦さん お久しぶりです。
> 釈迦〜天台〜伝教〜大聖人〜戸田先生と言う系譜
私にはわかりませんが…、
学会総体として「主師親の三徳」を具えるとの論調は以前からあったと思うので、
その指導者である歴代会長(三代まで)が三徳具備であるのは当然だと思います。ですが、宗門との関係上、
封印されてきたそういった発言等は、未だタブー視される趣もあるかと思います。
- 36 :沖浦克治:2010/08/13(金) 19:44:06 ID:AJ3hr85o0
- 大勝利さん、戸田先生が、国士訓で三徳について書かれています。
『青年は国の柱である。柱が腐っては国が保たない。諸君は重大な責任を感じなくてはならぬ。
青年は日本の眼目である。批判力猛しければなり。眼目破れてはいかにせん。国のゆくてを失うではないか。諸君は重大な使命を感じなくてはならぬ。
青年は日本の大船である。大船なればこそ、民衆は安心して青年をたよるのである。諸君らは重大な民衆の依頼を忘れてはならぬ。 』
(国士訓)
『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。』
(開目抄下)
- 37 :あ:2010/08/13(金) 19:59:00 ID:0ICcIZc60
- >>34
大勝利さん こんばんは
大勝利さん 本尊って 大石寺の戒壇の大御本尊(板の曼荼羅本尊)の事を
いってるんですか?
ここで、わたしが、法華講の人たちに 質問をしているのですが
大勝利さんにも、同じ質問をさせていただいて、 回答をいただければ
良いのですが?
無理にとは、言いませんので。
そこで、良く 御本尊の事を 考えて欲しいのです。
たぶん めちゃくちゃな 奴だと 思ってしまうのでしょうが。
いたって 真面目です。
- 38 :あ:2010/08/13(金) 19:59:35 ID:0ICcIZc60
- ①大勝利さんの根本尊敬の御本尊は、大石寺の戒壇の板の曼荼羅本尊ですか?
わたしは、己心の妙法の御本尊です。
日女御前御返事
此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり
一生成仏抄
故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。
ちなみに、わたしは、
己心の妙法蓮華経を本尊としています。
大石寺の戒壇の板の曼荼羅本尊は、旗じるしです。
旗じるしとして、見ています。
また、私達の本質的な妙法(宝塔)を書き顕したものとして、認識しています。
② 宝塔(己心の妙法の御本尊)が大事なのか?
それとも
宝塔(己心の妙法の御本尊)を書き顕した紙の曼荼羅が大事なのか?
下記の御文の赤文字を参考に↓
*阿仏房御書 /或文永九年三月十三日 五十一歳御作
今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり、聞信戒定進捨慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへばさにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり、あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ、子にあらずんばゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。
↓
「あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ」ーー>紙の曼荼羅御本尊
わたしは、宝塔(己心の妙法の御本尊)が大事です。
① ② の答えをください。
- 39 :あ:2010/08/13(金) 20:22:25 ID:0ICcIZc60
-
南無妙法蓮華経は、我々凡夫を指す御書
帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変一念寂照と、又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり
↓
帰命 = 南無妙法蓮華経
帰 = 我等が色法
命 = 我等が心法
我等が色法 +(プラス)我等が心法 = 帰 +(プラス)命 = 帰命 = 南無妙法蓮華経
◎我等が色法 +(プラス)我等が心法 = 南無妙法蓮華経
我等が色法 +(プラス)我等が心法 −−−> わたしや、大勝利さんの事
(我等 = 日蓮 弟子檀那)
第三如来所遣行如来事の事 御義口伝に云く法華の行者は如来の使に来れり、如来とは釈迦如来事とは南無妙法蓮華経なり如来とは十界三千の衆生の事なり今日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは真実の御使なり云云
↓
如来 = 釈迦如来
事 = 南無妙法蓮華経
如来 = 十界三千の衆生 (わたしや、大勝利さん) = 日蓮等の類い
- 40 :あ:2010/08/13(金) 20:40:55 ID:0ICcIZc60
-
大勝利さん 「あ」の読み方で 間違いがありましたら
教えてください。
- 41 :高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/08/15(日) 03:04:33 ID:JThdDrQw0
- あさん こんばんは!
>>37->>39 で、お聞きしたい事があるのですが、
質問は、OKですか?
- 42 :あ:2010/08/15(日) 08:35:47 ID:85Zq5.Xg0
- >>41
高速太郎 さん こんにちは
知らない事だらけです。
>質問は、OKですか?
>>37->>39
はい、 とんちんかんでしたら、ご指摘ください。
よろしく お願いします。
お互いに質問させてくださいね。
- 43 :高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/08/15(日) 23:26:40 ID:JThdDrQw0
- あさん こんばんは!
質問を許可して頂きありがとう御座います。
私は、まだ掲示板の経験が短いので教えて欲しいのですが、
あさんが、質問している内容が、今までネット内で物議を醸し出して来たのだと思っています。
究極では、個人に取って、信じることが出来れば教学は必要ないと考えています。
ただ、仏法を世界へ未来へ連綿と続けて行く為には、教学が無ければダメだとも考えています。
私は、古いタイプの人間なので、ご本尊様の話題に触れるのも躊躇があります。
その上で、教えて欲しいのですが、
「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」を、どの様に捉えているのですか?
もう一つ、勤行の二座(今は二座とは言いませんが)の
「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊に南無し奉り、報恩感謝申し上げます。」は、
あさんは、具体的にどの様に御祈念されているのでしょうか?
- 44 :あ:2010/08/16(月) 07:58:17 ID:.c/VUjAc0
- おはようございます。
最近までは
一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を昔は 紙の曼荼羅本尊だと信じて
紙の曼荼羅にこちらの信力、行力を行えば
紙の曼荼羅の仏力 法力が出てきて、願いが叶うと 思っていました。
御書をみると、どうも、御本尊とは自分の事なんだと解りました。
従って、先ほどの質問ですが、
一閻浮提総与ーー> 御本尊が自分なのだから、誰かに与えられたものでは、ない
三大秘法ーーー> 本門の本尊ーー>
本門の戒壇ーー> 本尊 題目 戒壇 −−> 自分
本門の題目ーー>
今は、紙の曼荼羅に 祈っては、いません。
紙の曼荼羅は、自分の妙法を書き表したものだと、思っているだけです。
紙の曼荼羅が何かをしてくれる 訳じゃないからです。
何かをするのは、 自分です。
高速さん
>>37->>39 の 回答を聞かせて いただけませんか?
そして、改めて 御本尊と言う もっとも尊敬しなければならないのは、何なのかを
一緒に考えて行きたいですね。
- 45 :あ:2010/08/16(月) 08:23:01 ID:.c/VUjAc0
- 参考
本尊 題目 戒壇
◎本尊
第廿五 建立御本尊等の事
御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。
↓
本尊とは法華経の行者の一身の当体なり
◎題目
御義口伝に云く此の宝塔は宝浄世界より涌現するなり、其の宝浄世界の仏とは事相の義をば且らく之を置く、証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、宝塔とは我等が五輪五大なり然るに託胎の胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地湧出と云うなり、妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり、蓮華の宝浄なれば十界の胎内悉く無垢清浄の世界なり、妙法の地輪なれば十界に亘るなり蓮華の地なれば清浄地なり、妙法の宝浄なれば我等が身体は清浄の宝塔なり妙法蓮華の涌出なれば十界の出胎の産門本来清浄の宝塔なり、法界の塔婆にして十法界即塔婆なり妙法の二仏なれば十界三千皆境智の二仏なり、妙法の一座には三千の心性皆以て二尊の所座なり妙法蓮華二仏一座なれば不思議なり清浄なり、妙法蓮華の見なれば十界の衆生三千の群類皆自身の塔婆を見るなり、十界の不同なれども己が身を見るは三千具足の塔を見るなり己の心を見るは三千具足の仏を見るなり、分身とは父母より相続する分身の意なり、迷う時は流転の分身なり悟る時は果中の分身なり、さて分身の起る処を習うには地獄を習うなり、かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外は之れ無きなり妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり云云。
↓
かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外は之れ無きなり妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり
↓
一切衆生即南無妙法蓮華経の全体
◎戒壇
第十四 時我及衆僧倶出霊鷲山の事
御義口伝に云く霊山一会儼然未散の文なり、時とは感応末法の時なり我とは釈尊及とは菩薩聖衆を衆僧と説かれたり倶とは十界なり霊鷲山とは寂光土なり、時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出ずるなり秘す可し秘す可し、本門事の一念三千の明文なり御本尊は此の文を顕し出だし給うなり、されば倶とは不変真如の理なり出とは随縁真如の智なり倶とは一念なり出とは三千なり云云。
又云く時とは本時娑婆世界の時なり下は十界宛然の曼陀羅を顕す文なり、其の故は時とは末法第五時の時なり、我とは釈尊及は菩薩衆僧は二乗倶とは六道なり出とは霊山浄土に列出するなり霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり云云。
↓
霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり
- 46 :あ:2010/08/16(月) 09:11:27 ID:.c/VUjAc0
- >>43
>私は、古いタイプの人間なので、ご本尊様の話題に触れるのも躊躇があります。
わたしは、御本尊に対して
タブー じゃないのですから、 真実を明らかにしたいです。
- 47 :大勝利:2010/08/16(月) 14:27:00 ID:FfgO/4W.0
- >>38 「あ」さん こんにちは。
>①大勝利さんの根本尊敬の御本尊は、大石寺の戒壇の板の曼荼羅本尊ですか?
御本尊は「大」「小」も「守り」も同じだと思います。摺り木も印刷も。
根本尊敬についてはこのスレッドを進めていく内に「一大秘法」や「本懐の本懐」が何かしら出てくるだろうと思いますので、
私も勉強させていただきたいと思います。
「あ」さんが、挙げられた「日女御前御返事」に本有尊形が出てきますが、私は「本尊」語は「根本尊崇」よりこの「本有尊形」の意味合いを強く採っています。
木像や画の、「本尊」と呼ばれる物は鎌倉以前から多々あったわけですが、例えば、「不動明王」の本尊は恐ろしい姿や表情をしているわけですが、
この像を見て本物の不動明王が現れたと信仰する人(信じる人)はいないですよね。
天上にいる不動明王の姿をこの世界に現してるのですから、信仰の対象である本尊と言っても「本地(天上)の明王の姿」を観ることになります。
大聖人の「御本尊」は娑婆が本地だとするのですから、「久遠の法」「己心の妙法」「生命」を本有の形のままで顕されているので尊いのだと思います。
人法一箇の「生身」の大聖人も本有無作から解せるのであって、大石寺の御本尊が「生身」であるわけではない。(あたりまえですが)
御本尊自体は紙や木で出来ていますが、本有尊形の仏であれば御本尊で間違いないのではないでしょうか。
- 48 :大勝利:2010/08/16(月) 14:54:26 ID:FfgO/4W.0
- >>38
末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり
紙よりも人間(生命)が大事だと思います。当然だと思います。
今回の夏の休暇に池田先生の講義(録音)を聞く機会がありました。
たまたまですが、「あ」さんの質問に通じるようなスピーチでした。
「あるキリスト教の牧師が教会に於いて災難の際に「銀の蝋燭立て」を持って逃げた。
「蝋燭立て」は大事なものかも知れないが、何故一人でも二人でも四人でも五人でも
助けないのか?宗教に縛られてはならない。」と言った内容でした。(うろおぼえですみません。)
- 49 :あ:2010/08/16(月) 19:34:08 ID:6SJzKvuI0
- >>47
>大聖人の「御本尊」は娑婆が本地だとするのですから、
「久遠の法」「己心の妙法」「生命」を本有の形のままで顕されているので尊いのだと思います。
大勝利さん こんばんは、
確かに
大聖人の書かれた曼荼羅本尊は、紙・板・合成樹脂 等 で 現在は、作られています。
阿仏房御書に
阿仏房御書 /或文永九年三月十三日 五十一歳御作
今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり、聞信戒定進捨慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへばさにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり、あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ、子にあらずんばゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。
↓ ↓ ↓
「然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり」
↓ ↓ ↓
「多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへばさにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり」
↓ ↓ ↓
「あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ」
「あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ」ってのが 問題なんです。
宝塔ってのは、ここでは阿仏房の事です。
大聖人は、宝塔の事を
御義口伝では 妙法蓮華経と 言われています。
一 宝塔品
御義口伝に云く此の宝塔は宝浄世界より涌現するなり、其の宝浄世界の仏とは事相の義をば且らく之を置く、証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、宝塔とは我等が五輪五大なり然るに託胎の胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地湧出と云うなり、妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり、蓮華の宝浄なれば十界の胎内悉く無垢清浄の世界なり、妙法の地輪なれば十界に亘るなり蓮華の地なれば清浄地なり、妙法の宝浄なれば我等が身体は清浄の宝塔なり妙法蓮華の涌出なれば十界の出胎の産門本来清浄の宝塔なり、法界の塔婆にして十法界即塔婆なり妙法の二仏なれば十界三千皆境智の二仏なり、妙法の一座には三千の心性皆以て二尊の所座なり妙法蓮華二仏一座なれば不思議なり清浄なり、妙法蓮華の見なれば十界の衆生三千の群類皆自身の塔婆を見るなり、十界の不同なれども己が身を見るは三千具足の塔を見るなり己の心を見るは三千具足の仏を見るなり、分身とは父母より相続する分身の意なり、迷う時は流転の分身なり悟る時は果中の分身なり、さて分身の起る処を習うには地獄を習うなり、かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外は之れ無きなり妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり云云
↓
「かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外は之れ無きなり妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり云云」
宝塔 = 妙法蓮華経
宝塔 = 一切衆生 = 南無妙法蓮華経
と なりますね。
ここから よーく 考えてください。
大聖人は、宝塔を書き顕したものが 一幅の曼荼羅ですよね。
「あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ」の
「宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ」
って 事は、
先ほどの
宝塔 = 一切衆生 = 南無妙法蓮華経
から、
宝塔 すなわち 一切衆生 すなわち わたしや 大勝利さんの事なんです。
わたしや、大勝利さんの 事を 書いたものが 一幅の曼荼羅なんです。
てっとりばやく 言っちゃえば
御本尊 っていうのは、 大勝利さんの 事なんです。
- 50 :あ:2010/08/16(月) 19:53:24 ID:6SJzKvuI0
- まだ、まだ 大勝利さんが 御本尊だと 言う御書が あります。
一生成仏抄で
一生成仏抄
故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。
大勝利さんが 南無妙法蓮華経 と 唱える時は、我が一念を指して すなわち 大勝利さんの 一念を
指して、 妙法蓮華経と 名くるぞと深く信心を発すべきなり
とおっしゃっています。
先ほどの
宝塔ってのは、御本尊の事でしたよね。
宝塔品で
↓
宝塔 = 妙法蓮華経
宝塔 = 一切衆生 = 南無妙法蓮華経
ですね。
大勝利さんは、
一生成仏抄の
故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。
を、実践する時に
自分が妙法蓮華経なんだと信心をするんですよね。
だから、大勝利さんは、 妙法蓮華経 なんですよね。
妙法蓮華経は、先ほどの
宝塔 = 妙法蓮華経
なんだから
宝塔である 大勝利さんは、 御本尊って 事に なるとは、思いませんか。
- 51 :大勝利:2010/08/17(火) 00:38:01 ID:p8f0gunc0
- >>49-50
しかしそれはすべて、名字即の位である事、聞法が前提条件でしょう。
文底下種の南無妙法蓮華経になんらかに縁しなければならないのではないでしょうか?
- 52 :あ:2010/08/17(火) 06:13:56 ID:6SJzKvuI0
- 大勝利さん おはようございます。
>文底下種の南無妙法蓮華経になんらかに縁しなければならないのではないでしょうか?
文底下種って言葉を 大聖人の御書にはないんですよ。百六箇抄だけなんです。
己心の妙法蓮華経を御本尊に縁をする事では、ないのでしょうか?
////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
日女御前御返事
此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり
一生成仏抄
故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。
法華初心成仏抄
我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり
/////////////////////////////////////////////////////////////////
「我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり」
の「深く信心を発すべきなり」ーーー> これって 信心の事じゃないでしょうか?
「深く」すごい重要だとは、思いませんか?
次に参考資料 名字即 を投稿しておきます。
- 53 :あ:2010/08/17(火) 06:15:32 ID:6SJzKvuI0
- 参考 名字即
◎第一信解品の事 記の六に云く正法華には信楽品と名く其の義通ずと雖も楽は解に及ばず今は領解を明かす何を以てか楽と云わんや。
御義口伝に云く法華一部廿八品の題号の中に信解の題号此の品に之れ有り、一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり、此の信の字元品の無明を切る利剣なり其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり解とは智慧の異名なり信は価の如く解は宝の如し三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり智慧とは南無妙法蓮華経なり、信は智慧の因にして名字即なり信の外に解無く解の外に信無し信の一字を以て妙覚の種子と定めたり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と信受領納する故に無上宝聚不求自得の大宝珠を得るなり信は智慧の種なり不信は堕獄の因なり、又云く信は不変真如の理なり其の故は信は知一切法皆是仏法と体達して実相の一理と信ずるなり解は随縁真如なり自受用智を云うなり、文句の九に云く疑い無きを信と曰い明了なるを解と曰うと、文句の六に云く中根の人譬喩を説くを聞きて、初めて疑惑を破して大乗の見道に入る故に名けて信と為す進んで大乗の修道に入る故に名けて解と為す、記の六に云く大を以て之に望むるに乃と両字を分ちて以て二道に属す疑を破するが故に信なり進んで入るを解と名く、信は二道に通じ解は唯修に在り故に修道を解と名くと云うと。
↓
「信は智慧の因にして名字即なり信の外に解無く解の外に信無し信の一字を以て妙覚の種子と定めたり」
◎第二即起合掌の事 文句の五に云く外義を敍するとは即起合掌は身の領解と名く昔は権実二と為す掌の合わざるが如し、今は権即実と解る二の掌の合するが如し、向仏とは昔は権仏因に非ず実仏果に非ず今権即実と解して大円因を成ず因は必ず果に趣く故に合掌向仏と言うと。御義口伝に云く合掌とは法華経の異名なり向仏とは法華経に値い奉ると云うなり合掌は色法なり向仏は心法なり、色心の二法を妙法と開悟するを歓喜踊躍と説くなり、合掌に於て又二の意之れ有り合とは妙なり掌とは法なり、又云く合とは妙法蓮華経なり掌とは廿八品なり、又云く合とは仏界なり掌とは九界なり九界は権仏界は実なり、妙楽大師の云く「九界を権と為し仏界を実と為す」と十界悉く合掌の二字に納まって森羅三千の諸法は合掌に非ざること莫きなり、惣じて三種の法華の合掌之れ有り今の妙法蓮華経は三種の法華未分なり、爾りと雖も先ず顕説法華を正意と為すなり、之に依つて伝教大師は於一仏乗とは根本法華の教なり○妙法の外更に一句の余経無しと、向仏とは一一文文皆金色の仏体と向い奉る事なり合掌の二字に法界を尽したるなり、地獄餓鬼の己己の当体其の外三千の諸法其の侭合掌向仏なり而る間法界悉く舎利弗なり舎利弗とは法華経なり、舎とは空諦利とは仮諦弗とは中道なり円融三諦の妙法なり舎利弗とは梵語此には身子と云う身子とは十界の色心なり身とは十界の色法子とは十界の心法なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は悉く舎利弗なり、舎利弗は即釈迦如来釈迦如来は即法華経法華経は即我等が色心の二法なり、仍て身子此の品の時聞此法音と領解せり、聞とは名字即法音とは諸法の音なり諸法の音とは妙法なり、爰を以て文句に釈する時長風息むこと靡しと長風とは法界の音声なり、此の音声を信解品に以仏道声令一切聞と云えり一切とは法界の衆生の事なり此の音声とは南無妙法蓮華経なり
↓
「聞とは名字即法音とは諸法の音なり諸法の音とは妙法なり、爰を以て文句に釈する時長風息むこと靡しと長風とは法界の音声なり、此の音声を信解品に以仏道声令一切聞と云えり一切とは法界の衆生の事なり此の音声とは南無妙法蓮華経なり」
- 54 :あ:2010/08/17(火) 06:16:08 ID:6SJzKvuI0
- ◎第十聞其所説皆信伏随従の事
御義口伝に云く聞とは名字即なり所詮は而強毒之の題目なり、皆とは上慢の四衆等なり信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり。
↓
「聞とは名字即なり所詮は而強毒之の題目なり」
↓
「所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり」
◎第五是法華経蔵深固幽遠無人能到の事 御義口伝に云く是法華経蔵とは題目なり深固とは本門なり幽遠とは迹門なり無人能到とは謗法なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無人能到の者に非ざるなり云云。
第六聞法信受随順不逆の事 御義口伝に云く聞とは名字即なり法とは題目なり信受とは受持なり随順不逆とは本迹二門に随順するなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の事なり。
↓
「聞とは名字即なり」
↓
「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の事なり」
◎第一其有衆生聞仏寿命長遠如是乃至能生一念信解所得功徳無有限量の事
御義口伝に云く一念信解の信の一字は一切智慧を受得する所の因種なり、信の一字は名字即の位なり仍つて信の一字は最後品の無明を切る利剣なり、信の一字は寿量品の理顕本を信ずるなり解とは事顕本を解するなり此の事理の顕本を一念に信解するなり、一念とは無作本有の一念なり、此くの如く信解する人の功徳は限量有る事有る可からざるなり、信の処に解あり解の処に信あり然りと雖も信を以て成仏を決定するなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。
↓
御義口伝に云く一念信解の信の一字は一切智慧を受得する所の因種なり、信の一字は名字即の位なり仍つて信の一字は最後品の無明を切る利剣なり、信の一字は寿量品の理顕本を信ずるなり解とは事顕本を解するなり此の事理の顕本を一念に信解するなり
↓
「信の一字は名字即の位なり」
「信の一字は寿量品の理顕本を信ずるなり解とは事顕本を解するなり此の事理の顕本を一念に信解するなり」
↓
「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり」
- 55 :大勝利:2010/08/17(火) 11:58:51 ID:FfgO/4W.0
- 「あ」さん。 こんにちは。
>宝塔 すなわち 一切衆生 すなわち わたしや 大勝利さんの事なんです。
そーだとしても、それを覚知出来るのは御本尊を「信」ずるからでしょう。
>己心の妙法蓮華経を御本尊に縁をする事では、ないのでしょうか?
「己心の妙法蓮華経」と言っても、「あ」さんが、大聖人の南無妙方蓮華経と出会ったからそれを言えるのはないでしょうか。
どちらがより本源的かを考えなければならないと思います。
一切衆生=理即 が、名字即になるには何が必要なのでしょうか?
「信」が必要ですよね。南無妙法蓮華経ですよね。御本尊ですよね。
例えばですが御本尊を蔑ろにすることはそもそもが「名字の凡夫位」までに行かないことになります。
「名字即仏」の法門も重要だと思いますが、理即→名字即の方が広く浅いのでより重要ではないでしょうか?
- 56 :沖浦克治:2010/08/17(火) 14:12:56 ID:AJ3hr85o0
- 横レス失礼いたします、お二人さん
先ず、一切衆生が仏であるとは、大聖人様のご指南です。
この点を疑うなら、その人は大聖人御本仏を否定する人です。
『見三界之相無有生死の事 御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、』
(御義口伝下)
このように明快に書かれています。
- 57 :あ:2010/08/17(火) 16:16:55 ID:6SJzKvuI0
- >一切衆生が仏
これは、同じです。
沖浦さんも 「あ」 も 大勝利さんも 仏です。
- 58 :あ:2010/08/17(火) 17:00:00 ID:6SJzKvuI0
- 大勝利さん
沖浦さんの
>先ず、一切衆生が仏であるとは、大聖人様のご指南です。
を、信じて すなわち 大勝利さんが 仏だと 信じて
下記の沖浦さんの投稿した文を、読んでみてください。
下記に沖浦さんの投稿を載せさせていただきます。
ここが分かると後はわかりますよ
/////////////////////////////////////////////////////////////
投稿者:沖浦克治 投稿日:2010年 8月12日(木)15時47分20秒 softbank221104080129.bbtec.net 返信・引用
釈迦は、爾前経で衆生が仏になる可能性を説きました。
画期的ですね。
他の宗教は、人は神になれませんから。
信仰の対象である神と、信じる人間との間には超えがたい壁があります。
釈迦は成仏と言う概念でその壁を打ち破った最初の宗教者です。
ゆえに仏法は偉大なのです。
法華経では、更に進んで、一切衆生に仏性があると説きます。
一大超過ですよ。
大聖人様はもっと凄い。
世間で苦しんで生きている、お前たちがそのままの姿で100%の久遠からの南無妙法蓮華経如来だよ。
このように仰せなんです。
これが大聖人仏法の真髄です。
この点を深く思索しないと、御書は読めませんね。
ここが分かるなら、書写の権能がどうとか、法主の血脈がこうとか、戒壇本尊が一大秘法だなんて、愚か極まりない余事であることが分かりますよ。
今それが分かるのは、創価の信心で御書を読む以外に無いですね。
/////////////////////////////////////////////////////////////
- 59 :大勝利:2010/08/17(火) 23:49:57 ID:MYqDk7aIO
- 携帯から失礼します。我々末法の衆生は、「本未だ善有らず」です。
仏性はあっても仏種がありません。
「我が己心の妙法を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」
「寿量品の眼」がなければ知見出来ないと言うことでしょう。
「あ」さんがいくら「己心の妙法」を語っても「縁因仏性」を明かさなければ私は信用出来ませんね。
- 60 :あ:2010/08/18(水) 05:32:06 ID:OSUCy3I20
- >>59
大勝利さん
おはようございます。
>「あ」さんがいくら「己心の妙法」を語っても「縁因仏性」を明かさなければ私は信用出来ませんね。
今までの信仰のあり方が 紙の曼荼羅本尊 根本でしたから、しょうがないですね。
残念です。
短い間でしたが、対話が出来て、うれしいです。 ありがとう ございました。
- 61 :あ:2010/08/18(水) 05:38:24 ID:OSUCy3I20
-
大勝利さん
あと、これから投稿する文は
大勝利さん 昨日 書いた投稿ですので、
「あ」の理解程度に、お読みいただく 事がありましたら、お読みください。
返信は、無用です。 こちらも、ちょっと、返信が当分できませんので。
- 62 :あ:2010/08/18(水) 05:40:11 ID:OSUCy3I20
- >>宝塔 すなわち 一切衆生 すなわち わたしや 大勝利さんの事なんです。
>そーだとしても、それを覚知出来るのは御本尊を「信」ずるからでしょう。
***************************************************************
大勝利さん こんにちは
大勝利さんにとって、この三千世界は、あなたが、主役なんです。
日女御前御返事
此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり
一生成仏抄
故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。
この御書どのように読んでいるんですか?
上記の御本尊は、あなたの事を言われているんですよ。
>「信」が必要ですよね。南無妙法蓮華経ですよね。御本尊ですよね。
何を信じろと言われていますか?
↓
故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。
↓
故に大勝利さんが妙法と唱へ蓮華と読まん時は大勝利さんの一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。
って書いてあるじゃないですか。
どこにも、曼荼羅本尊なんて書いてはいないのです。
>例えばですが御本尊を蔑ろにすることはそもそもが「名字の凡夫位」までに行かないことになります。
故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。
の実践をした時なんです。
先にあげた 御文をもう一度 拝見してください。
結論は、名字即 とは、 お題目 すなわち 南無妙法蓮華経を唱える人の事なんですよ。
どの様に 唱えるか?
故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり
なんです。
>「名字即仏」の法門も重要だと思いますが、理即→名字即の方が広く浅いのでより重要ではないでしょうか?
これも、私達の事を言っているんです。
↓
第十三 若有能持則持仏身の事
御義口伝に云はく、法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり。則の一字は生仏不二なり。上の能持の持は凡夫なり。持つ体は妙法の五字なり。仏身を持つと云ふは一々文々皆金色の仏体の故なり。さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云ふなり。理即の凡夫と究竟即の仏と二無きなり。即の字は「即の故に初後不二」の故なり云云。
本門の意は理即本覚と入るなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る程の者は宝塔に入るなり云云。
第廿七 礼拝の住処分真即の事
御義口伝に云はく、菩薩は分真即の位と定むるなり。此の位に立って理即の凡夫を礼拝するなり。之に依って理即の凡夫なる間此の授記を受けずして無智の比丘と謗ぜり云云。
返信できなくて ごめんなさい。
では、失礼します。
- 63 :沖浦克治:2010/08/18(水) 06:15:36 ID:AJ3hr85o0
- 寛師はね、一切衆生がそのままで、大聖人と全く等しい仏であることに気づかなかった。
戸田先生との、超えがたい境涯の差です。
- 64 :大勝利:2010/08/18(水) 15:23:53 ID:FfgO/4W.0
- >>60
「あ」さん。
>今までの信仰のあり方が 紙の曼荼羅本尊 根本でしたから、しょうがないですね。
>残念です。
これは「あ」さん御自身の事を語られているのだと思いますが。
せっかく下種を受けた御本尊を用いなければもったいないと思います。
結局それは、「己心の妙法」と気付かされたその仏種を御自身で絶つような事になりはしないかと心配です。
>短い間でしたが、対話が出来て、うれしいです
こちらこそありがとうございました。また機会あれば対話致しましょう。
短い間でしたが、対話が出来て、うれしいです。 ありがとう ございました。
- 65 :大勝利:2010/08/18(水) 16:38:00 ID:FfgO/4W.0
- >>63
沖浦さん
>寛師はね、一切衆生がそのままで、大聖人と全く等しい仏であることに気づかなかった。
所謂日寛教学と呼ばれる思想には素晴らしい処がたくさんあると私は思ってまして…2年前にその再考を呼びかけるつもりでスレを立てさせて頂きました。
「あ」さんのおかげで「種脱相対」が出ましたが、これを体系して確立したことは日寛師の大きい功績であると思います。
また秘匿されてきたと言われる法門の多くを開示したおかげでこうして一般に議論できるようになりました。
ところで、一切衆生が大聖人と等しい仏であると気付いたとして、現実の世界にはどのように反映するのでしょうね?
例えば、「題目」を聞いた平左衛門尉は熱原信徒の殺害を止まったのだろうか?
種を蒔いて直ぐに収穫できなければ、有効性と即効性がありませんね。
日寛上人が種脱相対を強調したと言うことは、一切衆生の仏性を知った上で一切衆生に「下種益」を得させることを伝えたかったのだと思います。
- 66 :沖浦克治:2010/08/18(水) 16:43:26 ID:AJ3hr85o0
- 大勝利さん、今日は
寛師はある程度功績があったと思いますが、昨年のカレンダーですね。
今使うと絶対に駄目です。
戒壇本尊本懐と一大秘法は、世界広布の妨げでしかありません。
ですので、捨て去るべき教学でしょう。
ご指摘の熱原信徒と平左衛門尉は、双方が久遠の南無妙法蓮華経如来の垂迹です。
今世で演じているのです。
本地は仏です。
これが大聖人仏法の極意といえると思います。
- 67 :臥薪嘗胆:2010/08/18(水) 18:52:15 ID:8roELdrE0
- 大勝利さんって、からっきし違おうと思うのーよ。
沖浦さんのおっしゃっとること 理解できとるかいでしょ?
沖浦さんは「あ」氏のおっしゃることよくわかるんじゃよね。
- 68 :あ:2010/08/18(水) 19:13:42 ID:NvQntIhk0
- >>67
臥薪嘗胆 さん
>沖浦さんは「あ」氏のおっしゃることよくわかるんじゃよね。
沖浦さんから、学んだんだから、「あ」が、沖浦さんの考えに、似た考えなんですよ。
- 69 :大勝利:2010/08/18(水) 22:01:41 ID:MYqDk7aIO
- >66
携帯から失礼します。
戸田先生がおっしゃったのは「釈迦仏法なんぞは去年の暦」
「教学は日寛上人の時代に帰れ」
ですよね。まぁ御存知でしょうが。
要は沖浦さんが日寛上人を問題視するのは、文段の
「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」の文でしょう?
もう一度皆さん共に再考しましょうよ。どうですか?
- 70 :沖浦克治:2010/08/18(水) 22:20:06 ID:AJ3hr85o0
- 大勝利さん、今晩は
今日、夕方長野のある総県広宣部のトップだった方が来られました。
お互いスケジュールがタイトでしたが、せっかくなので10分ほど懇談いたしました。
沖浦さん、今も長野の本文に沖浦さんを除名しろと言う電話がよくかかります。
女性なんですが。
私共はまったく相手にしておりません。
一応ご報告しておきます。
沖浦さんは現場で組織にもキチンとついておられますし、文句のない活動家です。
そのように上には上げていますので、ご安心ください。
本題です。
この人と、戒壇本尊本懐論で少し話しました。
大勝利さん、ご指摘の寛師の文には、戒壇本尊は、唯一ではなく、随一だとの表現になっています。
本懐中の本懐、究竟中の究竟ですからね。
所が、戸田先生の率いる創価学会では、戒壇本尊唯一論が前面に出され、大折伏を致しました。
これは周知の事実です。
寛師教学にはない思想ですね。
寛師以後、見るべきレベルの法主はいません。
ですので、この思想は、創価学会から起こったと考えるべきでしょう。
私は仕掛け人は戸田先生だと思うのです。
この点はいかがでしょう?
同じ内容をこの幹部と話しました。
長野県の広宣のトップが一度私と話したようです。
- 71 :高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/08/19(木) 00:04:09 ID:JThdDrQw0
- 皆さん、こんばんは!
あさん
質問に答える事が出来なくてすみませんでした!
本当は対話をしたかったのですが、中々時間が取れなくて・・・!
また、お会いする時まで、楽しみを取っておきます!!!
- 72 :大勝利:2010/08/19(木) 00:15:03 ID:MYqDk7aIO
- >70
戸田先生が仕掛け人ですか・・・
しかし他門流の本尊との比較であれば「唯一」で良いかと思われます。
日寛上人の「随一」の表現は「総与」ではなく「一閻浮提総体」と表している処にも窺い知る事が出来ると思います。
総与の御本尊の中でも随一と言っているに過ぎません。
文段下(七段)では「本門戒檀の本尊は応にこれ総体の本尊なるべし。これ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応にこれ別体の本尊なるべし」と言っています。
別体と総体の持つ本義は同じですのですべからく一切衆生の本門下種の本尊となると読むことが出来ると思います。
- 73 :Fuyu2009:2010/08/19(木) 00:40:23 ID:jMN37fwU0
- 沖浦さん、こんばんは
一言だけ横スレ失礼させて下さいm()m
長野総県の元広宣部幹部との会話の中で
『沖浦さんは現場で組織にもキチンとついておられますし、文句のない活動家です』
との会話をうかがい、自分の認識の間違いを改めました。
以前の沖浦さんのコメントにあった
『ただね、仕事を力一杯するが、学会の組織に出ない人が圧倒的に多い現実があるでしょう。
それがどう言う理由なのか? 組織は本気で考える事が必要ですね。
それと、学会活動をしないから、その人は仏道修行をしていないとは限らない。
私は、こう言う事を何度も言っています。』
この書き込みを私は沖浦さんとはまったく違う別の、自分の目の前の人を想定して
自分の考えを書きました
その前提としていた自身の認識の間違いに気付いてしまったので、失礼は重々承知の
上でお詫びを致します!ごめんなさい。
PS 此処のスレタイに元々関心は持っていないのですが
『仕掛け人は戸田先生』との言葉に釣られてフト思った
事を書きます
戸田先生がそれまで(昭和27年当時)身延の版しかなかった大聖人の御書を
あらためて作成出版の作業を開始されました!その時、斯学に造詣の深かった
第59世堀日亨聖人の協力を得て完成されました
過去の法主のレベルを計る定規など、到底私には(興味も)ありませんが
牧口先生が起こし、戸田先生が基礎を築き、池田先生が発展の潮流を
世界に広げてきた事実から見て、末法の広宣流布を現実社会に起こした
大元は!創価の出現から始まっていると言う他にない事は明らかだと
確信する者です。
- 74 :沖浦克治:2010/08/19(木) 06:17:27 ID:AJ3hr85o0
- 大勝利さん、おはようございます
先ず、ご真筆ご本尊に優劣があるかないか?
ありませんね、御書に明白です。
経王御前に与えられた御書では、この本尊は自分の全力上げて図顕し、魂を墨煮込めた本尊である。
この様に仰せです。
漫荼羅は輪円具足。だと仰せの御書もありますから、全てのご本尊は完全体です。
欠けたところがありません。
これは、ご図顕なされた大聖人の仰せですので、疑う余地がありません。
対して寛師は人師です。
その言は大聖人にはるかに劣ります。
大聖人と並び立つお方は創価三代の聖人、分けても戸田先生だけです。
簡単に考えるなら、
この経王殿が拝んだご本尊が現存しているとして、私や貴方が拝んでお力が出るかどうか?
出るなら、このご本尊は一閻浮提総与です。
でないなら、宗門教学の言うように、一機一縁です。
貴方この点を、どのように考えられますか?
- 75 :沖浦克治:2010/08/19(木) 06:44:02 ID:AJ3hr85o0
- Fuyu2009さん、おはようございます
昨日来られた幹部は、元総県主任部長で、広宣のトップだった方です。
支部長と仲が良くて、時々白馬にこられます。
数年前、樋田さんと法論をして、耕治と二人で木っ端微塵に砕きました。
数日後電話で、この幹部でした。
沖浦さん、凄い法論されたそうですね。
若い者と映像見て歓声があがりました。
ありがとうございます。
私はその時、広宣と言うものを知りませんでした。
60歳を超えていますし、耕治も役職ありません。
ですので、アレぐらいのことで何故お喜びになるのか?
不思議でした。
日蓮正宗の破析などは、私と耕治には赤子の手をひねるようなものですから。
その後、本幹同中に耕治と参加した時、理由がわかりました。
終了後、その幹部がわざわざやってこられて、私と耕治に深々と頭を下げられたんです。
沖浦さん、樋田には本当に手を焼いていました。
それで、民事で訴えて、勝ったような格好にする以外打つ手がなかったんです。
それを、沖浦さん親子で乗り込んで、木っ端微塵にしていただきました。
若い者と何度も映像を見て、
耕治さんと、沖浦さん手ぶらで、樋田たちは資料の山でパソコン2台持って、ペットボトルのお茶ぐびぐびび飲んでる。
お二人は悠然と構えて、これは大勝利だって、見ながら何度も歓声あげました。
耕治さんが御書片手に立ち上がって、エクソシスト見たいに樋田を責めた時。
これが本当にうちの男子部か!!
と、嬉しくて嬉しくて、たまりませんでした。
お二人とも、超Aクラスの活動家でバリバリです。
そのように言われて、広宣の説明を少ししていただきました。
それである広宣部の方から何度も電話があったことが理解できました。
その方習字を生業の方で、何度も電話で、
俺の後輩が樋田と法論して、樋だが30分持たなかった。
この人一体何が言いたいのか?
わかりませんでしたが、
お前がやっつける前に、既に俺たちがやっつけていたんだ。
焼餅だったんです。
そう言う人何人もいますね。
公爵さんという方、小野さん、その他の眺め人です。
嫉妬です。
自分が出来ないこと簡単にやられて立場ない。
そして、一緒になって、私の悪い噂捏造して学会本部に除名工作したんです。
沖浦は熱原公演で組織利用で金儲けたくらんでいる。
法論もそのためにやったんだ。
今、広宣部の悪口言いまわっている。
金儲けの手段で法論やって、諸天の加護はありませんね。
絶対に負けます。
これまで樋田さんに負け続けていた人たち、名聞名利です。
樋田さんやっつけて一旗揚げたい。
これで勝てる道理ないですね。
うるさいので、叩いて学会員守ろう。
動機がこれでないと勝てません。
小野さんが音頭とって除名工作やりました。
それで、本部も捨てて置けなくなって、信越総合青年部長の大田さんを派遣しました。
家に来て、耕治と3時間ほど話し合ったんです。
私は耕治に任せて仏間で唱題いたしました。
最後にお帰りになる時、
お父さん、事情は伺いました。
これを組織利用と言う人に問題があります。
頑張ってください。
そう言って握手されて帰られました。
それをネットで書くと、小野さんたち大騒ぎでした。
その幹部がおかしい。
ここまで来ると惨め通り越して滑稽ですね。
今、ネットに吹き溜まって、こんな事やってます。
http://www21.atwiki.jp/hajaken/pages/1.html
- 76 :沖浦克治:2010/08/19(木) 06:48:08 ID:AJ3hr85o0
- スレ違いでごめんなさいね
こんなこともやってますよ。
http://sgbattoutai.blog104.fc2.com/
これ、習字やさんでしょう。
こう言う事やる暇あったら、押入れ片付けたらと思うの、私だけ〜??
- 77 :大勝利:2010/08/19(木) 13:27:41 ID:FfgO/4W.0
- >>74
こんにちは。
>>72で「他門流の本尊との比較」と言ったのは、他門流所蔵の真筆御本尊ではなく、
文底独一本門を立てない流派の書いた本尊との比較の意です。念の為。
次に
> 先ず、ご真筆ご本尊に優劣があるかないか?
ですが…
観心文段では日寛上人は優劣があると言っていると読めます。
それは、弘安元年の前と後で分けています。
別体総体でも弘安2年でもありません。
御本尊に本門下種の意義を含むかどうかで区別していると言えると思います。
つまり一切衆生に文底本門の下種をすることが大聖人の出世の本懐だと言っているのだと思います。
弘安元年以前の本尊は文上で一切衆生に総与したと言う事ではないかと思います。
確かに日寛上人は人師ですが、大聖人の御本尊を取捨選別しているのではないです。
弘安元年以降に大聖人の一切衆生の為の真意を説明しているに過ぎません。
一機一縁の御本尊を出世の本懐と言っているのです。
おっしゃるとおり御本尊は完全体ですが一層深い意義を明かしている時かどうかで違いはあるという意味だと思います。
- 78 :沖浦克治:2010/08/19(木) 16:16:52 ID:AJ3hr85o0
- 大勝利さん、今日は
暑い日が続きますが、お身体大事にしてくださいませ。
さて、寛師はご本尊に差があると説きます。
私はそれが邪義だと思うのです。
大聖人様は、宗教を極めて合理的に説かれておられます。
御義口伝を読めばわかりますが、極めてシンプルに説かれています。
そして、衆生がそのままで久遠の仏だと何度も出てきます。
池田先生が、昭和37年8月、学生部の代表に御義口伝講義をなさいました。
5年間続いたと、今日の聖教新聞に載っています。
私入会が昭和37年9月10日、直ぐに組織につきその年の暮れの任用試験を受け合格いたしました。
その時の講師が、大道さんと言う学生部のお方で、御義口伝講義を受けておられました。
その人に教学を学ぶ姿勢を教わりました。
当時私の組織は隊長がいなくえ、その方が隊長の代わりに一時組織を見ておられたのです。
数ヶ月間の短い期間でしたが、教学を学ぶ姿勢を叩き込まれたのです。
私が御書を粗末に扱った時です。
畳に直に置いたのですが、
沖浦君、僕は御書を開く時、手を洗ってから開くんだ。
そう言う扱いをしてはいけない。
今日の聖教新聞、先生の当時のご指導が載っています。
『君たちは、物事を疑いの眼で見ている。
学問研究はそれでいいかもしれない。
しかし、日蓮仏法はそうではいけない。一言一句、仏の金言として『その通りだ』『その通りだ』と言う姿勢で読まなければいけない。』
このように載っています。
大道さんはこれを私に教えて下さいました。
御義口伝を、私は、この通りだ。と読みます。
要らざる解釈は無用だと信じています。
『第四 如来如実知見三界之相無有生死の事
御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、』
(御義口伝巻下)
この通りだと読めばいいのです。
私共が如来です。
そして、漫荼羅はその私共如来が仏道修行をする武器です。
漫荼羅中心は間違えです。
ちなみに、一機一縁のご本尊というものはございません。
御書には無いのですよ。
- 79 :臥薪嘗胆:2010/08/19(木) 18:39:39 ID:8roELdrE0
- 沖浦さん・・・・・
>>75ですが
以前まったく同じ文章を読んだことありますけど・・・・
- 80 :臥薪嘗胆:2010/08/19(木) 19:00:17 ID:8roELdrE0
- これですけど
↓
沖浦克治
10/03/23(火) 19:16:23 ID:6wWhcHTM0
しげきょんさん
貴方がどのように評価をしても、私と耕治に、壮年部の本部長さんで、広宣の件のトップだった方がわざわざ頭を下げられましたよ。
沖浦さん、ありがとうございました。
樋田には、本当に手を焼いたんです。
民事で訴訟して賠償取って勝った形にする。
ああ言う情けない方法しかありませんでした。
それを沖浦さん親子が乗り込んで、完膚なきまでにやっつけてくださいました。
本当に長野の創価学会は助けられました。
そう言われて頭を下げられたんですよ。
貴方方無関係のかたがどう評価しようが、現場の責任者はこのように言われておられます。
貴方のは、怨嫉謗法なんですよ。
更にです、
若い者とビデオ見ました。
耕治さんと沖浦さん手ぶらで、あっちはパソコン並べて資料の山。
耕治さんが御書片手に、相手を追い詰めた時、歓声があがったんです。
あっちはベットボトルのお茶、ぐびぐび呑んで。
沖浦さん達はゆったり構えて。
これが本当にうちの男子部と壮年部なのか!
嬉しかったです。
その後ですがね、
沖浦さん親子はバリバリの活動家で、超Aクラスです。
このようにも言われたんですよ。
しげきょんさん、創価学会の恥はね、私共親子が本気で祈って大勝利した法論、失敗だと中傷する、貴方です。
そう言う事実をキチンと認めておきましょうね。
あまりにも情けないですね。
- 81 :沖浦克治:2010/08/19(木) 20:08:36 ID:AJ3hr85o0
- 同じで当然ですよ
私という同じ人間の体験ですからね。
- 82 :沖浦克治:2010/09/17(金) 06:07:36 ID:AJ3hr85o0
- 少し整理いたします
先ず、一大秘法とは法ですね、文字通りです。
法は御本尊ではなく、法華経です。
ですので、法は末法ではお題目です。
これが基本だと思います。
- 83 :大勝利:2010/09/17(金) 09:11:39 ID:FfgO/4W.0
- >>82
一大秘法と言うからには三大秘法の「人」「法」「行」「信」「理」「事」の六義を全て含むことと思いますが、
草木の上に顕された私達の御本尊は「事」を包括してますが、
唱える「お題目」はどのように「本門の戒壇」の「事」を含んでいるのでしょうか?
- 84 :あ:2010/09/17(金) 10:39:58 ID:jfWrsj3I0
- 第十四 時我及衆僧倶出末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり名体宗用教の五重玄の五字なり、戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈等も来下して・給うべき戒壇なり、此の戒法立ちて後延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に、の事
御義口伝に云く霊山一会儼然未散の文なり、
時とは感応末法の時なり我とは釈尊及とは菩薩聖衆を衆僧と説かれたり倶とは十界なり霊鷲山とは寂光土なり、
時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出ずるなり秘す可し秘す可し、本門事の一念三千の明文なり御本尊は此の文を顕し出だし給うなり、
されば倶とは不変真如の理なり出とは随縁真如の智なり倶とは一念なり出とは三千なり云云。
又云く時とは本時娑婆世界の時なり下は十界宛然の曼陀羅を顕す文なり、其の故は時とは末法第五時の時なり、
我とは釈尊及は菩薩衆僧は二乗倶とは六道なり出とは霊山浄土に列出するなり
霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり云云。
霊鷲山 = 戒壇 とらえる事の説明 ↓
三大秘法禀承事
叡山に座主始まつて第三第四の慈覚智証存の外に本師伝教義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、
存の外に延暦寺の戒清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん、
彼の摩黎山の瓦礫の土となり栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし、
夫れ一代聖教の邪正偏円を弁えたらん学者の人をして今の延暦寺の戒壇を・ましむべきや、此の法門は義理を案じて義をつまびらかにせよ、
此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、
今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。
御講聞書
一耆闍崛山の事 仰に云く耆闍崛山とは霊鷲山なり、霊とは三世の諸仏の心法なり必ず此の山に仏法を留め給う、
鷲とは鳥なり此の山の南に当つて尸陀林あり死人を捨つる所なり、鷲此の屍を取り食うて、此の山に住むなり、さて霊鷲山とは云うなり、
所詮今の経の心は迷悟一体と談ず、霊と云うは法華経なり、三世の諸仏の心法にして悟なり、鷲と云うは畜生にして迷なり、
迷悟不二と開く中道即法性の山なり、耆闍崛山中と云うは迷悟不二三諦一諦中道第一義空の内証なり、
されば法華経を行ずる日蓮等が弟子檀那の住所はいかなる山野なりとも霊鷲山なり行者豈釈迦如来に非ずや、
日本国は耆闍崛山日蓮等の類は釈迦如来なるべし、惣じて一乗南無妙法蓮華経を修行せん所はいかなる所なりとも常寂光の都霊鷲山なるべし、
此の耆闍崛山中とは煩悩の山なり、仏菩薩等は菩提の果なり、煩悩の山の中にして法華経を三世の諸仏説き給えり、
諸仏は法性の依地衆生は無明の依地なり、此の山を寿量品にしては本有の霊山と説かれたり、本有の霊山とは此の娑婆世界なり、
中にも日本国なり、法華経の本国土抄娑婆世界なり、
本門寿量品の未曾有の大曼荼羅建立の在所なり云云、瑜伽論に云く東方に小国有り、其の中唯大乗の種姓のみ有り、
大乗の種姓とは法華経なり法華経を下種として成仏すべしと云う事なり、所謂南無妙法蓮華経なり小国とは日本国なり云云。
霊鷲山は人間の事ですよね。従って 戒壇とは、人間の事なんですね。
「此の耆闍崛山中とは煩悩の山なり」 煩悩の山なり???−−−> そんな山は人間の心の中なんです。
- 85 :あ:2010/09/17(金) 13:50:01 ID:jfWrsj3I0
- 南無妙法蓮華経
御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、
人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり
又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、
釈に云く随縁不変一念寂照と、又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり、
釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと、
又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり、
又云く梵語には薩達磨芬陀梨伽蘇多覧と云う此には妙法蓮華経と云うなり、
薩は妙なり、達磨は法なり、芬陀梨伽は蓮華なり蘇多覧は経なり、九字は九尊の仏体なり九界即仏界の表示なり、
妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり
蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、
或は三世常恒なるを経と云うなり、法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり能く能く之を思う可し已上。
↓
●「又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり」
「我等」とは、日蓮・弟子旦那の事であり
●「経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり」
「一切衆生」とは私たちの事です。
南無妙法蓮華経とは、自分の事なんです。
南無妙法蓮華経が、自分の事ならば、南無妙法蓮華経である、自分の居るところが、戒壇です。
戒壇とは、南無妙法蓮華経の存在する所です。
- 86 :あ:2010/09/17(金) 14:06:57 ID:jfWrsj3I0
- 本尊 = 題目 = 戒壇 −−−> 自分の事です。
本尊 = 題目 = 戒壇 = 自分
信心とは、この事を信じれるか、どうかです。
では、失礼します。
- 87 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/17(金) 14:16:50 ID:8FNX.yWoO
- >>85
あさんm(__)m。お久しぶりです(^0^)/。
【>戒壇とは、南無妙法蓮華経の存在する所です。】
……なるほど!と思いました。
では《存在するところ》とは???。
ワタシの考えは《題目を上げる(上げた?上げている??)ところ》ではなたあかなあ……と(^_^;)。
そう感じました。
題目を信じ、祈る場所(地理的に?時間的に?)。
考え方は様々ですが(^_^;)。
ワタシは、今こうして携帯ピコピコしながら、題目上げてます。
この場合の『戒壇』は?
オーイシ寺になるんですかね?。
分散の理念??で、我が家の仏壇前になるんですかね?。
会館にある御本尊になるんですかね?。
今回の提議。
【戒壇とは、南無妙法蓮華経の存在する所】
コレ!
大事だと思います。
横から失礼いたしましたm(__)m。
皆さまのカキコミで、学ばせてくださいm(__)m。
- 88 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/17(金) 14:19:59 ID:8FNX.yWoO
- あっ…………。
あさんが>>86で書いてましたね(^_^;)。
失礼いたしました(^_^;)……m(__)m。
(ハチのコゾロメは、偶然です(^_^;)。)
- 89 :あ:2010/09/17(金) 14:42:32 ID:jfWrsj3I0
- 日々さんこんにちは
日々さん自身の事ですよ。戒壇っていうのは。
日々さんの事を 御本尊っていうのです。
日々さんの事を 南無妙法蓮華経っていうのです。
本尊 = 題目 = 戒壇 = 日々さん
日々さん、これだけを 信じて題目を唱える事が、信心です。
日々さん自身が、この三千世界なんですよ。信じがたいのですが、
一生成仏抄
一心法界の旨とは十界三千の依正色心非情草木虚空刹土いづれも除かずちりも残らず
一念の心に収めて此の一念の心法界にx満するを指して万法とは云うなり、此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし、
但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず・法なり、・法は今経にあらず
今経にあらざれば方便なり権門なり、
方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、
故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。
「一心法界の旨とは十界三千の依正色心非情草木虚空刹土いづれも除かずちりも残らず」
[但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず]
本尊 = 題目 = 戒壇 = 日々さん
これが、信じられなければ、どんなに長い信心でも意味ないですよ。
信心って難しいですよね。
- 90 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/17(金) 15:35:23 ID:8FNX.yWoO
- 「あ」さん!
ありがとうございますm(__)m!!!。
自分の事情に併せて納得できました!。
「あ」さん!ありがとうございますm(__)m!。
自分の事情とは………。
機会ある時、あさんに発信いたしますねo(^-^)o!。
(そんときは、日々スレで(^_^;)。)
そんときは、【互いの対話の中で、アドバイス】くださいネ!。
- 91 :大勝利:2010/09/17(金) 17:54:23 ID:FfgO/4W.0
- >>86
>本尊 = 題目 = 戒壇 = 自分
挙げて戴いた御文のどこに
「自分=本尊」と書いてあるのかわかりませんね。残念ながら。
「戒」を自分の心中に求める思想に繋がるような発想を私は善しとは思いません。
「下種最後直授摩頂の本迹 久遠一念元初の妙法を受け頂く事は最極無上の潅頂なり法は本人は迹なり。」
- 92 :大勝利:2010/09/17(金) 18:14:05 ID:FfgO/4W.0
- 「妙法蓮華経と唱へたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり〜但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず〜〜然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば〜〜深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし〜〜故に経文には「我が滅度の後に於て応に斯の経を受持すべし是の人仏道に於て決定して疑有る事無けん」とのべたり〜〜」
「自分」=「本尊」であるようなことはひとつも言ってるようには思えないですね。
むしろ、(法華経)に向かう姿勢、本尊に向かうことに対して、権門迹門に対比して、(葉が落ちる姿や荘厳仏像に法を求めるのではなく)「心を観る」と言っています。
( )は私の付け加え
- 93 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/17(金) 18:15:01 ID:8FNX.yWoO
- 大勝利さん。あさん。
二人の対話。
見守りたいと思います。
それで多くを、学ばせてもらいたいと……
ワタシは、そう思っております。
(横からヤリ投げ。失礼します(^_^;)。ですがヨコヤリでも、ナゲヤリでもありません。ワタシはいたって真面目です)
- 94 :あ:2010/09/17(金) 18:53:35 ID:jfWrsj3I0
- 百六箇抄
下種最後直授摩頂の本迹 久遠一念元初の妙法を受け頂く事は最極無上の潅頂なり法は本人は迹なり。
下種弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり。
大勝利さん こんばんは
上記の文章で、日蓮大聖人の御書に該当する御文があるのでしょうか?
- 95 :あ:2010/09/17(金) 19:04:07 ID:jfWrsj3I0
- 大勝利さん 大聖人が言われていない事は、少なくても、大聖人の
教えでは、ないのでは、ないのでしょうか。
私は、106箇抄は、???です。
南無妙法蓮華経
御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、
人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり
又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、
釈に云く随縁不変一念寂照と、又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり、
釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと、
又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり、
又云く梵語には薩達磨芬陀梨伽蘇多覧と云う此には妙法蓮華経と云うなり、
薩は妙なり、達磨は法なり、芬陀梨伽は蓮華なり蘇多覧は経なり、九字は九尊の仏体なり九界即仏界の表示なり、
妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり
蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、
或は三世常恒なるを経と云うなり、法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり能く能く之を思う可し已上。
↓
●「又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり」
「我等」とは、日蓮・弟子旦那の事であり
●「経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり」
「一切衆生」とは私たちの事です。
南無妙法蓮華経とは、自分の事なんです。
南無妙法蓮華経が、自分の事ならば、南無妙法蓮華経である、自分の居るところが、戒壇です。
戒壇とは、南無妙法蓮華経の存在する所です。
- 96 :あ:2010/09/17(金) 19:08:31 ID:jfWrsj3I0
- 大勝利さん
大勝利さんが上記の御文の南無妙法蓮華経に該当しないのであれば、
話がかみ合わなくなって、しまうのですが。
該当しますか?
わたしは、該当すると、自分では、思っています。
- 97 :大勝利:2010/09/17(金) 19:20:21 ID:FfgO/4W.0
- >>95
では、
御義口伝は日興の真書と証明出来るのですか?
- 98 :大勝利:2010/09/17(金) 19:29:08 ID:FfgO/4W.0
- >>96
御義口伝の全体を読めばほとんど、
「日蓮の類」ですよ。日蓮・弟子旦那の事です。
つまり御義口伝での条件は現代風で言えば「信心」していることが前提です。
御本尊を持つ法華経の行者であることでしょう。
失礼な事を申しますが「あ」さんは、仏を集めたまんだらを足元に敷くようなものではないですか?
「紙の御本尊」をやめたなどと仰らずに大事にして欲しいと思います。
- 99 :あ:2010/09/17(金) 19:53:40 ID:jfWrsj3I0
-
>>97
日興上人は、大聖人が法華経の重要箇所について行った講義をまとめ、
大聖人に査閲してもらったものですよね。
それが、違うのであれば、これは、大変な事ですよ。
真書との証明は、できないです。
百六箇抄と御義口伝 どちらが、
信用できるのでしょうか?
わかるなら、教えてください。
- 100 :あ:2010/09/17(金) 20:06:32 ID:jfWrsj3I0
- >>98
>紙の御本尊をやめたなどと仰らずに大事にして欲しいと思います。
紙の曼荼羅本尊が、私の人生を変えてくれるわけが、ないではないでしょうか?
紙の曼荼羅本尊は、旗じるしと言われていますよ。
旗印だから、日寛上人の御本尊をコピーしたんでしょ。
これって、だれが、コピーしてもいいって事になりませんか?
- 101 :あ:2010/09/17(金) 20:15:45 ID:jfWrsj3I0
- 御本尊のコピー つまり 書写 の 資格があるわけじゃないんですよね。
つまり、わたしが、コピーしても、御本尊なんですか?
キリスト教の人がコピーしても 御本尊なんでしょうか?
そんな、御本尊は、尊極だとは、思えませんね。
わたしには、ただの、印刷物です。
御義口伝では、一切衆生が仏だと 言われています。
色心を持つ人間が南無妙法蓮華経だと 言われています。
だから、わたしは、御義口伝を根本としています。
- 102 :あ:2010/09/17(金) 20:23:36 ID:jfWrsj3I0
- 大勝利さん
わたしが、すごいと思った 沖浦さんの投稿文です。
/////////////////////////////////////////////////////
投稿者:沖浦克治 投稿日:2010年 8月12日(木)15時47分20秒 softbank221104080129.bbtec.net
抜粋
世間で苦しんで生きている、お前たちがそのままの姿で100%の久遠からの南無妙法蓮華経如来だよ。
/////////////////////////////////////////////////////
これが、仏法では、ないでしょうか。
- 103 :沖浦克治:2010/09/17(金) 20:58:48 ID:AJ3hr85o0
- あさん、今晩は
間違いがおありですよ。
尊くない御本尊を、大聖人が御図顕なさる道理がございません。
ですので、私共門下は、ご本尊に向かい端座するとき、眼前に大聖人が座っておられると思い、唱題をすべきです。
然しながら、やはり御本尊は迹で道具で物なんです。
ここのたてわけが肝心だと思います。
- 104 :あ:2010/09/17(金) 21:06:08 ID:jfWrsj3I0
- 沖浦さん こんばんは
沖浦さん もっとも 尊いものが本尊ですよね。
南無妙法蓮華経如来の本尊と 紙の曼荼羅本尊は どちらが、
沖浦さんにとって、もっとも 尊い本尊なんですか?
わたしは、南無妙法蓮華経如来の本尊がもっとも尊い本尊です。
- 105 :沖浦克治:2010/09/17(金) 21:13:23 ID:AJ3hr85o0
- 当然、私共の命ですよ。
でもね、命が大事だと言うことは、それを写しとったご本尊も大事なんです。
私はね、初恋が遅くて19歳でした。
彼女の写真をもらって、写真立てに入れてそれはそれは大事に致しました。
彼女の次に大事でしたね。
同じですよ。
私共の命が最も大事。
そして、その命の次に大事なものが、御本尊です。
当然ですね、命写したものなんですから。
整理します。
一番大事が私共の命。
二番目が御本尊。
その他の財宝は三番以下。
- 106 :あ:2010/09/17(金) 21:17:49 ID:jfWrsj3I0
- 沖浦さん
南無妙法蓮華経如来を写したものが
紙の曼荼羅本尊なんですよ。
- 107 :沖浦克治:2010/09/17(金) 21:49:20 ID:AJ3hr85o0
- あさん、そうですよ
世の中で最も大事な私共の命の、南無妙法蓮華経如来を写し取った御本尊。
2番目に大事です。
そう思いませんか?
- 108 :あ:2010/09/17(金) 21:56:57 ID:jfWrsj3I0
- 此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、
是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、
曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名るなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。
沖浦さん 求める 本尊は、胸中の肉団におはしますのでは、ないのでしょうか?
- 109 :あ:2010/09/17(金) 22:10:19 ID:jfWrsj3I0
- 故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。
信仰の対象は、我が一念を指して妙法蓮華経と名くるところの
自分の事ではないのでは?
- 110 :大勝利:2010/09/17(金) 22:12:23 ID:MYqDk7aIO
- >108
>只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる
「法華経を持ちて」とあるでしょう。
御本尊が不要ならば、「只我れ等衆生の南無妙法蓮華経と唱うる」との御文言になっていたのではないでしょうか?
- 111 :あ:2010/09/17(金) 22:16:09 ID:jfWrsj3I0
- >>110
なぜ、「法華経を持ちて」のところが、 「御本尊を持ちて」では、
なかったのでしょうか?
- 112 :大勝利:2010/09/17(金) 22:18:07 ID:MYqDk7aIO
- >100
>紙の曼荼羅本尊が、私の人生を変えてくれるわけが、ないではないでしょうか?
いいえ
人生を変えると思います。
- 113 :あ:2010/09/17(金) 22:22:31 ID:jfWrsj3I0
- >>112
第十三若有能持則持仏身の事
御義口伝に云く法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり、則の一字は生仏不二なり上の能持の持は凡夫なり持つ体は妙法の五字なり仏身を持つと云うは一一文文皆金色仏体の故なり、さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり、理即の凡夫と究竟即の仏と二無きなり即の字は即故初後不二の故なり云云。
- 114 :あ:2010/09/17(金) 22:26:13 ID:jfWrsj3I0
- すみません。間違いです。
>>110
第十三若有能持則持仏身の事
御義口伝に云く法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり、則の一字は生仏不二なり上の能持の持は凡夫なり持つ体は妙法の五字なり仏身を持つと云うは一一文文皆金色仏体の故なり、さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり、理即の凡夫と究竟即の仏と二無きなり即の字は即故初後不二の故なり云云。
- 115 :大勝利:2010/09/17(金) 22:27:29 ID:MYqDk7aIO
- 「祈って叶わざるはなし」の日寛上人書写の御本尊です。
印刷機がコピーしようとも人生を変える御本尊で間違いないです。
- 116 :あ:2010/09/17(金) 22:28:13 ID:jfWrsj3I0
- 沖浦さん 大勝利さん
きょうは、このへんで
どうも ありがとうございました。
- 117 :沖浦克治:2010/09/17(金) 22:31:46 ID:AJ3hr85o0
- あさん、おやすみなさい
又明日・・・・・
- 118 :大勝利:2010/09/17(金) 22:37:31 ID:MYqDk7aIO
- >102
私は少し言葉が足りないと思います。
世間で苦しんで生きている、お前たちが「御本尊を持ちて南無妙法蓮華経と唱え奉れば」そのままの姿で100%の久遠からの南無妙法蓮華経如来だよ。
- 119 :大勝利:2010/09/17(金) 23:13:14 ID:MYqDk7aIO
- >111
>なぜ、「法華経を持ちて」のところが、 「御本尊を持ちて」では、
なかったのでしょうか?
御義口伝はイチエンブダイ総与御本尊以前ですからね。
日蓮弟子旦那で限定的だと思いますが、
それでも御本尊を持たない弟子旦那も多く居られたでしょうから「法華経を持ちて」の方が広くなりますね。
- 120 :大勝利:2010/09/17(金) 23:18:00 ID:MYqDk7aIO
- >113
「法華経を持ち奉るとは」
法華経を持つ人の事ですね。
- 121 :大勝利:2010/09/17(金) 23:37:45 ID:MYqDk7aIO
- 日寛上人の説明する一大秘法論は限定的であった「法華経の行者」をイチエンブダイ総体の御本尊によって一切衆生に下種を総与すると言う意義を表した重要な民衆主義が流れていると思います。
全人類の為の大御本尊であり一大秘法と思います。
- 123 :高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/09/17(金) 23:45:49 ID:JThdDrQw0
- 皆さん こんばんは!
あさん、オヤスミなさい。 起きてから読んでくださいネ。
少し、質問させて頂きたいのですが、
「帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり」
あさんは、「我等が一人一人の色法なり」と読まれているようですが、
「我等が一閻浮提(宇宙)の色法なり」と読んだらどうなるのでしょう?
>>39
>我等が色法 +(プラス)我等が心法 = 帰 +(プラス)命 = 帰命 = 南無妙法蓮華経
生きているときは本尊で、死んだ瞬間に、本尊では無くなると云う事でしょうか?
色心ともに三千の諸法を具足しているのですよ。
「此の三千、一念の心に在り。若し心無くんば已みなん。芥爾も心有れば即ち三千を具す」(摩訶止観)
芥爾を、宇宙の中のチッポケな一人の人間と考えたら、どの様に読まれますか?
あさんは、宇宙が生命体である事と、宇宙の本有の法と云うものを、無視しては、いませんか。
私も、おそらく、あさんも生命をまだ深く理解をしていないのではないでしょうか。
己心も宇宙の当体だから、自分と宇宙が繋がっているなどと言い出したら
論理では無くなるような気がします。
- 124 :あ:2010/09/18(土) 05:21:28 ID:D98lamWw0
- 沖浦さん 大勝利さん 高速さん おはようございます。
- 125 :あ:2010/09/18(土) 05:42:33 ID:D98lamWw0
- 大勝利さん
>>120
第十三若有能持則持仏身の事
御義口伝に云く法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり、
則の一字は生仏不二なり上の能持の持は凡夫なり持つ体は妙法の五字なり仏身を持つと云うは一一文文皆金色仏体の故なり、
さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり、理即の凡夫と究竟即の仏と二無きなり即の字は即故初後不二の故なり云云。
「仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり」
↓
「我が身の外に仏無しと持つ」
したがって
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」
↓
上記の文は
此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の 我が身の外に仏無しと持って 南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり
と読むのでは、ないでしょうか。
- 126 :沖浦克治:2010/09/18(土) 06:05:48 ID:AJ3hr85o0
- あさん、大勝利さん、おはようございます
お二人共に教条主義だと思います。
あさんは、
衆生己心の妙法が本尊であるので、大聖人ご図顕のご本尊は大事ではない。
これは間違えだと思います。
当然最も尊いものは私共衆生の生命です。
本尊そのものですから。
しかし、それを写し取った御本尊は命の次に尊いのです。
命が尊いから本尊はいらない。
こう言う事にはなりません。
恋人が実在しているから、写真はいらない。
こうはならないでしょう。
私は数年前まで携帯の壁紙は女房の写真でした。
今は、生徒が沢山来るので愛犬にしてありますが、映像は大事保存しております。
愛犬も、女房も毎日一緒ですが、映像は大事に致します。
ましてや命を写したご本尊です。
大事にしない道理がございません。
ご本尊を粗末にすると言うことは、我が命を粗末にすると言うことです。
大謗法なんですよ。
大勝利さん、
>「御本尊を持ちて南無妙法蓮華経と唱え奉れば」
ここは間違いだと思います。
熱原三烈士は一生ご本尊を見なかったでしょう。
でも、地涌の菩薩です。
この点は如何お考えでしょうか?
- 127 :あ:2010/09/18(土) 06:23:21 ID:D98lamWw0
- 高速さん
>>123
>己心も宇宙の当体だから、自分と宇宙が繋がっているなどと言い出したら
論理では無くなるような気がします
一生成仏抄 /建長七年 三十四歳御作
+ 与富木常忍
夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし、
衆生本有の妙理とは妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり、
文理真正の経王なれば文字即実相なり実相即妙法なり唯所詮一心法界の旨を説き顕すを妙法と名く故に此の経を諸仏の智慧とは云うなり、
一心法界の旨とは十界三千の依正色心非情草木虚空刹土いづれも除かずちりも残らず
一念の心に収めて此の一念の心法界にx満するを指して万法とは云うなり、此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし
↓
「一心法界の旨とは十界三千の依正色心非情草木虚空刹土いづれも除かずちりも残らず
一念の心に収めて此の一念の心法界にx満するを指して万法とは云うなり、此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし」
自分と宇宙が 一緒でなければ、このように、表現されないのでは。
御義口伝
「悟つて見れば法界三千の己己の当体法華経なり此の内証に入るを入仏知見と云うなり秘す可し云云」
「即は円なれば法華経の別名なり即とは凡夫即極諸法実相の仏なり、円とは一念三千なり即と円と言は替れども妙の別名なり、
一切衆生実相の仏なれば妙なり不思議なり謗法の人今之を知らざる故に之を秘と云う、
又云く法界三千を秘妙とは云うなり秘とはきびしきなり三千羅列なり是より外に不思議之無し、
大謗法の人たりと云うとも妙法蓮華経を受持し奉る所を妙法蓮華経方便品とは云うなり今末法に入つて正しく日蓮等の類の事なり」
「第三如来所遣行如来事の事 御義口伝に云く法華の行者は如来の使に来れり、
如来とは釈迦如来事とは南無妙法蓮華経なり如来とは十界三千の衆生の事なり今日蓮等の類い、
南無妙法蓮華経と唱え奉るは真実の御使なり云云。」
「第三如来所遣行如来事の事 御義口伝に云く法華の行者は如来の使に来れり、
如来とは釈迦如来事とは南無妙法蓮華経なり如来とは十界三千の衆生の事なり今日蓮等の類い、
南無妙法蓮華経と唱え奉るは真実の御使なり云云。」
- 128 :沖浦克治:2010/09/18(土) 06:48:12 ID:AJ3hr85o0
- 寛師って、極めて紛らわしいですね
我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり。
(観心本尊抄文段下)
一応は尤もなんですが、キチンと読むと
我等この本尊を受持し。
ここが駄目なんです。
ここはね、お題目なんです。
それを、文字漫荼羅であるとする。
邪義なんです。
- 129 :あ:2010/09/18(土) 07:30:41 ID:D98lamWw0
- おきうらさん
最後は現証なんですよね。
幸せになれば、過程は、どうでもいいですよね。
では、失礼します。
- 130 :沖浦克治:2010/09/18(土) 09:58:51 ID:AJ3hr85o0
- あさん
そうですよ、最後は現証です。
- 131 :大勝利:2010/09/18(土) 16:40:20 ID:FfgO/4W.0
- >>126
沖浦さん
> 熱原三烈士は一生ご本尊を見なかったでしょう。
> でも、地涌の菩薩です。
> この点は如何お考えでしょうか?
熱原三烈士は御本尊に唱えたでしょう。
弘安元年には藤太夫日長授与の28紙御本尊があります。
藤太夫は在家で河口湖付近の農民が持ち寄った紙に書かれたとの説があります。
また日弁授与が2年の4月なので一緒に唱題したのじゃないでしょうか。
持妙尼授与も2年の2月です。高橋入道の女房とすれば熱原や田中の直ぐ近くです。
- 132 :沖浦克治:2010/09/18(土) 16:44:28 ID:AJ3hr85o0
- 御本尊に唱えた可能性はありますね、大勝利さん
でもね、下付はされていませんでしょう。
おそらくですが。
この時代は、紙も墨も筆も貴重品です。
とても爆発的に広がる題目を、ご本尊でカバーすることは不可能です。
ですので、現在と異なって、読誦の中で、誦が主体です。
物理的にそうなります。
ですので、本尊流布より題目広布の時代です。
ご本尊は拝んでもたまにです。
- 133 :釈子・創価門流:2010/09/19(日) 00:44:05 ID:CSmnFY5k0
- >>132
沖浦さんの言う「ですので、本尊流布より題目広布の時代です」
この通りだと思います。
しかし、正確に言うのであれば「五字(妙法蓮華経)」です。
「五字」に南無する行を行うものが、「法華文字曼荼羅」です。
「法華文字曼荼羅」内で、顕されている図の如く、東を向かれている日蓮大聖人に
続き、「五字(妙法蓮華経)」=「宝塔(釈迦・多宝)」に礼拝する。
- 134 :沖浦克治:2010/09/19(日) 05:54:03 ID:AJ3hr85o0
- 釈子・創価門流 さん
そう言う正確さは要りませんね。
- 135 :高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/09/19(日) 16:05:39 ID:JThdDrQw0
- 沖浦さん、こんにちは!
あさんは、居なくなったのですか?
これでは、アラシですね (笑
>己心も宇宙の当体だから、自分と宇宙が繋がっているなどと言い出したら
>論理では無くなるような気がします。
上記も、あさんの論には、宇宙観(三千)を体得していない様に見えるので、上記に逃げ込まないで
しっかり、論を話して欲しくて書いたのですが・・・。
本当に、いろいろな方達がいらっしゃいますね! 勉強になります。
- 136 :大勝利:2010/09/19(日) 16:31:08 ID:FfgO/4W.0
- >>132
>とても爆発的に広がる題目を、ご本尊でカバーすることは不可能です
逆に一機一縁(各自一舗)にこだわるからそうなるのではないでしょうか。
私は究極的には世界に一体でも良いと思います。
日寛上人も「一機一縁、一人に限りべけんや」(これは仏像を指してですが)とも言っています。
「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」
は、別に本尊授与の化義そのものを指しているわけではないと思います。ですから、題目にくらべても決して限定しているわけではないと思います。
一機一縁とは今生当世の意味あいですのでたとえ真筆御本尊を一機一縁の為と呼んでも邪義とは思えません。
>ですので、現在と異なって、読誦の中で、誦が主体です。
御本尊がなければ「誦」もできませんでしょう・・・。
>ご本尊は拝んでもたまにです。
「信」があれば良いと思います。
>本尊流布より題目広布の時代です
私も反対はしませんが、御本尊を蔑ろにしてはいけないと言うこと言いたいだけです。
題目公布とは本尊を弘むことでしょう。
勿論、沖浦さんが御本尊を大事になさってる事は私は十分承知していますが、
知らない人は沖浦さんが「本尊不要論」だと勘違いされるかもしれませんから。
- 137 :あ:2010/09/19(日) 16:51:09 ID:D98lamWw0
- >>135
高速さん
荒らしは、ないでしょ。(笑い)
>>127 で、 答えているつもりなんですよ これでも 精一杯ね。
ま、この位しかできないですが。
とりあえずは、 読んで頂けましたか?
そんなには、投稿は出来ないのですが、けっして 荒らしをする 意図は
無い事を、お伝えしておきます。
荒らしをする人間と思いましたら、沖浦さんに言って、
アクセス禁止にしてください。
では、失礼します。
- 138 :高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/09/19(日) 16:58:32 ID:JThdDrQw0
- あさんへ こんにちは!
>>137 大変失礼しました。
私も、書き込み出来るのは、週に2〜3日ですので、あさんの書き込み出来る時に
書き込んで頂ければと思います。
ゆっくり進めましょう。
誤解をお詫び申し上げます。
- 139 :あ:2010/09/19(日) 17:07:06 ID:D98lamWw0
- 高速さん
わたしは、法華講のれいなさんからも、 ただの「莫迦」と言われる
位ですから、相手には、ならないと 思いますよ。
また、そんなに、書き込みをする事ができません。
そのような、形で よろしければ、 研鑽を、させていただきたいです。
- 140 :クララ:2010/09/19(日) 17:38:35 ID:aee/NCXIO
- >>128
受持ではなく信受
よみちがえです。
信じて受ける
- 141 :沖浦克治:2010/09/19(日) 18:13:21 ID:AJ3hr85o0
- 2年前の私の書き込みです
ご本尊に向かう姿勢を書いております。
6 :沖浦克治 ◆V.rL30nGVA:2008/08/02(土) 16:15:43
私共は地涌の菩薩です。
久遠の彼方で、大聖人様と、牧口先生、戸田先生、池田先生と共に約束をしたんですよ。
平成の日本で、人類幸福のための革命を世界に開いてやるぞ!
革命児なんです。
その根底の革命が人間革命です。
己心の妙法の具現です。
これはね、理屈じゃないんです。
うんと苦労して、世のため人のため、自分のためにお題目を唱えないと、また、折伏しないと不可能なんです。
それ以外に近道などありません。
大聖人様の御図顕の御本尊様は、大聖人様の御魂が込められているのです。
仏前に座る時、眼前に大聖人様が微笑まれて、お前、頑張れよ。
見てるぞ。
と言って頂いているのです。
私はその様に思います。
三大秘法でも、一大秘法でも、本門の本尊でも,本門の題目でも、どっちだっていいんですよ。
大聖人様の御命に己心の妙法で境智冥合すべく唱題する自分。
世界でただお一人だけの仏法指導者の池田先生と、その生き様に共感する自分自身の行動。
この二つに狂いがなければ、それだけで良いんです。
戸田先生が理事長を引かれたとき、先生はお聞きになられました。
『理事長が矢島さんになったら、私の師匠も矢島さんですか?』
『いいや、迷惑ばかりかける師匠だが、君の師匠は僕だよ。』(趣意)
これでいいんですよ。
先生がもし地獄に行かれたら自分も喜んでお供致します。
これ以上何もいらないでしょう。
ここだけが肝心で後は自由です。
お手本があるでしょう。
『あなた(牧口先生)の慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくだ
さいました』
これが根本です。
あと、枝葉なんですよ。
- 142 :ヒロGO:2010/09/19(日) 20:13:28 ID:.frqldFwO
- 沖浦さんこんばんは
本・釈論では本尊軽視もしくは本尊不要論になるのでは?と今でも僕は思ってます
任用試験での勉強では、本・釈は勝ると劣ると習いました
そのスタンスで、僕は沖浦さんに異なる意見と申しました
これは高速太郎さんにも会った時沖浦さんに言ったことを同じこと言ってます
この前の本部幹部会放送の中ビデオ放映で、池田先生が、自分自身の仏界を引き出す為に本尊があると言われてました
僕はこれに関して。ある幹部に本尊とは?曼荼羅とは?と質問しました
曼荼羅は本尊の旗印的なもの
信無くばただのものと言われました
本尊は宇宙の法であり曼荼羅はそれを表したものとも言われました
その幹部から言われのは、現在の創価学会公式の元では、本・釈の使い方?を間違えると誤解されるとも言われました
また別な幹部は、人間の為に仏があるとも言われました
リアルでの意見を聞いてると、本尊と曼荼羅が同じ扱いでネットで動いてるように感じます
高速太郎が言われる、日蓮正宗創価学会と創価学会の混石なんですかね?
こんなことを書き込みするとね、いつから沖浦派に寝返ったと言われそうですが(笑
僕は池田先生派なんで、ご理解ください
組織について活動してますから(笑
- 143 :沖浦克治:2010/09/19(日) 21:32:37 ID:H5rYOyPYo
- ヒロGOさん、今晩は
今福井に出張でサービスエリアで車載のノートです。
耕治は家で仕事で今回は私は一人旅です。
本シャクは勝劣と少し異なるんです。
本があるなら、必ずシャクがある。
そう言う関係です。
不二なんです。
池田先生は明確に曼荼羅は道具だと仰せです。
命が一番尊い、その命を写した道具は命の次に尊い。
こう言うことです。
- 144 :ヒロGO:2010/09/20(月) 08:07:37 ID:.frqldFwO
- >>143
沖浦さんおはようございます
う〜ん道具ですか
この表現が誤解を招く原因なのでは?(笑
しかしこれからの教学も変わる時がくるでしょうね
現在神輿とか祭りに参加してる時代ですから(笑
神社の社をくぐるのも駄目だと言ってた時代もつい最近までありましたからね
その時の時代の僕は????でした
これに対しても、質問したことがあります
言われたのは、時がくるでした
沖浦さんこれ以上敵を作らないのを願ってます
沖浦さんと反目する方々も素晴らしい人がいます
そこが、僕には辛いとこです
僕もリアルでは、過去異端児でしたが
時代が、僕が予測したとおりになり、今は異端児ではなくなりました
そんなものです
世界宗教になれば、過去の教学では、無理がきます
キリスト教もそうですから
イスラム教は、中央アジアでは原始宗教に戻ってしまい、紛争の原因になってます
これ以上の書き込みは反体制の人間に見られるので、また別なスレッドでも(笑
- 145 :備前 ◆TtzwqSGci2:2010/09/20(月) 11:03:28 ID:g2zr24dw0
- おっはようッス!ヒロしゃん v(^^
> う〜ん道具ですか
> この表現が誤解を招く原因なのでは?(笑
あははは (^0^ ♪ まっ!確かに「表現方法」も大切ですわな。しかし、それ以上に大切なのは内容だと思います。
皆、瞬発力の良い人達ばかりだから、内容の吟味と言う所まで至らず、文言句々の「表現」の部分で、その瞬発力を
生かしてしまうでしょうね (笑 よく言えば体育会系、悪く言えば、頭の中身は筋肉のみと言う所ですか v(^0^ ♪
> 沖浦さんと反目する方々も素晴らしい人がいます
たしかに、そう言った人は、おられるでしょうね。
しかしながら、教義解釈の相違から、その人の過去の行状を攻撃したり、悪口雑言を遣り始めた時点でアウトでしょうね。
そういう人は、自身の仲間作りのために「素晴らしい人」を印象付けるために演じているのに過ぎません。
真に「素晴らしい人」であるならば、ネット上での教義解釈論争の限界を知っていますからリアルで
行動を起こしています。その人間と直に会うとか本部に指導を仰ぐとかね v(^^
もっとも、本部で指導を仰いだなら、指導を受けた内容、指導した人の役職・氏名の公表と言う付帯事項が発生しますがね。
- 146 :ヒロGO:2010/09/20(月) 11:29:06 ID:.frqldFwO
- >>145
備前ちゃんどうもです
本部で指導ね?
難しいところかな(笑
僕が聞いた幹部の名前も出さなくなりますわ
これをやったらとんでもない結果になりますわ
僕はペペの末端会員やけど
本部職員の幹部の知り合いはいますよ
やっぱ時期の問題やね
しかし道具はちょっとまずいよ
僕の先輩幹部が、錦の旗みたいなもんやと言うのも、誤解されるかもしれんしな?
僕は曼荼羅不要論者ではないけど、日蓮正宗みたいな考えはできない
備前ちゃんイタリアに行ってみな、最初の一年間は内得信仰やで、壁に向かって題目あげるんや
それでも功徳は出るそうや
- 147 :備前 ◆TtzwqSGci2:2010/09/20(月) 13:11:18 ID:g2zr24dw0
- こんちゃ!ヒロしゃん!! v(^^
> 本部で指導ね?
> 難しいところかな(笑
> 僕が聞いた幹部の名前も出さなくなりますわ
> これをやったらとんでもない結果になりますわ
その事ね、自分の疑問として聞きいて、回答を得た分ではなく、
「ネット掲示板で沖浦克治なる者が、こうこうこう言う事を言っているが学会としてはどの様に思う」といった主旨で訊ね、
その結果を持って、「本部はこう言う意見だ」と書き込んだ場合の話ですよ (^^;
少し、言葉足らずでしたか・・・・・(^^;ゞ ポリポリ
> 僕の先輩幹部が、錦の旗みたいなもんやと言うのも、誤解されるかもしれんしな?
「錦の御旗」も「日本の正式な統治者の使い」と言う権威を表す立派な道具ですよ (^0^
ただ言葉が、表現が違うだけ。内実は一緒です。そんな表層に囚われる輩が、
「文上」や「文底」なんて言葉を口にするなと言いたい! (笑
> 僕は曼荼羅不要論者ではないけど、日蓮正宗みたいな考えはできない
ヒロしゃん!誤解や!「曼荼羅不要論者」なんて輩誰もおらんぞなもし。マグマグ氏をはじめとする沖浦氏批判者の捏造です。
沖浦氏が言っているのは、「我等の成仏にとって、曼荼羅は必要条件ではない」と言っているだけで
「不要」とはいっておりませんよ、それが証拠に、沖浦氏自身は「自分には必要」と言っておりますよ。
> 備前ちゃんイタリアに行ってみな、最初の一年間は内得信仰やで、壁に向かって題目あげるんや
あははは、イタリアなんぞに行かなくとも、昼間実践しております v(^^
> それでも功徳は出るそうや
はい!出て当然の事ですね。
- 148 :沖浦克治:2010/09/20(月) 20:38:28 ID:AJ3hr85o0
- ヒロGOさん
ご本尊は道具なんですよ。
私共が仏道修行するために大聖人様が残し置かれた道具なんです。
御書にもありますし、戸田先生池田先生もそう仰せです。
ですがね、成仏のための道具です。
命の次に大事です。
- 149 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/20(月) 22:13:41 ID:8FNX.yWoO
- 御書にない言葉ですが、師匠の恩師、戸田先生は、
ワタシの記憶するに、『もったいなくも、幸福製造機』と表現なさいました。
機械に例えられています。
- 150 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/20(月) 22:15:57 ID:8FNX.yWoO
- そして、こちらのスレッドも……(^_^;)、
伸ばしてしまいましたm(__)m。
- 151 :沖浦克治:2010/09/20(月) 22:17:37 ID:AJ3hr85o0
- 日々さん
池田先生は、戒壇本尊も、私共の信心の2字が無かったなら、只の物だと言われました。
大聖人は、ご本尊を武者の剣に喩えておられます。
剣は道具なんですよ。
旗印とも仰せです。
これも戦いの道具なんですね。
- 152 :高速太郎 ◆Z9TaEykyCQ:2010/09/20(月) 23:23:32 ID:JThdDrQw0
- みなさん、こんばんは!
あさん
>>139 了解しました。 対話したい時には、お声がけくだされば、幸いです。
- 153 :沖浦克治:2010/09/21(火) 06:34:06 ID:AJ3hr85o0
- 大勝利さん、おはようございます
先日貴方が一機一縁の本尊と、一閻浮提総与をたて別けてお書きでした。
私は間違いだと思います。
ご本尊は何方に授与されても、全てが一閻浮提総与でしょう。
経王御前に下付された漫荼羅を書いた御書があります。
その漫荼羅を、南条時光が拝んで功徳が無い。
一機一縁だから、対告衆にだけしかお力が出ない。
こう言う事はないでしょう。
一切衆生の何方があのお漫荼羅を拝んでも同じ結果です。
でないと、小乗経ですね。
御書と同様です。
金吾に与えられえた御書を、750年後の私共が読んで効果がございます。
全ての御書は対告衆に関わらず、一閻浮提総与です。
ですので、ご本尊のたて別けはありません。
この点如何お考えでしょうか?
- 154 :大勝利:2010/09/21(火) 10:26:55 ID:FfgO/4W.0
-
沖浦さん おはようございます。
>>153 のご質問にはすみませんが時間のある時お答えします。
> ご本尊は道具なんですよ。
> 私共が仏道修行するために大聖人様が残し置かれた道具なんです。
> 御書にもありますし、戸田先生池田先生もそう仰せです。
> ですがね、成仏のための道具です
上記の件ですが、沖浦さんの仰る通りだと私も思いますしある意味真理だと思いますが、
ですが、本迹の付け方が逆だと思います。
沖浦さんの指してるその「命」は、「道具」により「幸福」へと変化します。
変化させたのは「道具」で、変化したのは「命」ですね。
より本源的な方を「本」とすると思いますので、道具が「本」で命が「迹」になると思います。
本迹は立ち位置の目線で変わりますが、「仏の説いた法華経」の立ち位置から解釈していくべきと思うので、
「仏」が「本」で、「人」が「迹」です。
これは「道具」を法華経に説かれる「薬」と考えればもっとわかりやすいと思います。
「薬」を飲んで「人」の病気が治るとすると、「薬」が「本」で、「人」が「迹」となるのではないでしょうか。
これに敢て「勝劣」を付ければ「薬」が「勝」で「人」は「劣」です。
「薬」を服して「病気」は治るのですから・・・。
- 155 :雨煽り:2010/09/21(火) 13:10:27 ID:Pssg0Hu.0
- >>154
>道具が「本」で命が「迹」になると思います。
これは逆です。
『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、』
諸法実相抄です。
成仏゛する゛当体が『体』で、成仏゛させる゛働きが『用』です。
体用本迹で、当体が『本』、働きが『迹』です。
つまり、道具が『迹』で命が『本』です。
- 156 :大勝利:2010/09/21(火) 19:20:38 ID:FfgO/4W.0
- >>155
諸法実相抄のその文ですが…引用自体少し誤解があると思います。
「道具」と「道具の働き」に本迹を付けると、
「道具」が「本」
「道具の働き」が「迹」ではないでしょうか。
道具の本体がなければ、道具の働きはありません。
よって、「道具」が「勝」で「働き」は「劣」です。
「本仏」がなければ「迹仏」はありません。
凡夫の体がなければ、荘厳仏はありえません。
そこの凡夫を転じて「私達俗衆」と読むのは自分的には嫌いじゃないんですが
、三身説を持ち出してるのですから、釈尊であれ大聖人であれ、先ずは「仏身」についてが先だろうと思います。
- 157 :沖浦克治:2010/09/21(火) 19:28:12 ID:AJ3hr85o0
- 道具は使用者がいてはじめて効果がでます。
ピアノはピアニストが弾かなければ只の箱です。
人が弾くから音楽が鳴ります。
ですので、弾き手が本、ピアノと言う道具が迹。
こう言うことですね。
道具と道具の働きは、道具が本なら、働きが用ですから迹になりますが、それは働きを主体に考える時は反対になります。
どっちにしても、今回の例えは、道具とその働きの本迹ではなく、道具と使用する人の本迹です。
無関係でしょうね。
- 158 :沖浦克治:2010/09/21(火) 19:47:31 ID:AJ3hr85o0
- 大勝利さん、今晩は
難しく考えすぎです。
人のために仏法はあります。
そして漫荼羅は仏法の中にあるんです。
AのためのBならば、Aが目的で本、Bが手段で迹。
こう言う立て別けになります。
自然にそうなるんですよ。
- 159 :雨煽り:2010/09/21(火) 21:33:09 ID:Pssg0Hu.0
-
>>156 の書き込み自体(全文)が、私には意味がよく解りません。
諸法実相抄のその部分は、凡夫と釈迦との立て分けだと思っているのですが、
私の認識間違いだと言われてるのでしょうか?
仏身の体用の立て分けだと言われているのですか?
- 160 :釈子・創価門流:2010/09/22(水) 01:04:22 ID:CSmnFY5k0
- 横スレ失礼します。
「されば釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」
是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通 之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、
仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず
返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏二仏三仏本仏迹仏
の通号なり」と判じ給へり、 此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏異なるに
依つて倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり」
「倶体倶用の三身」=仏・・衆生ではない。
体そして、用もあらわせるのが仏(衆生は欠けている)
人は、十界で全ての界を具している。当然、授記を受け、仏果にも到れる。
その際の、働き(用)が人(凡夫)にも顕れる、つまり十界を具している事を表すためにある文。
「本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり」
「諸法実相抄」の文の前半部分(本仏云々は偽書濃厚)は、あくまで、衆生は仏界を具し、仏果に到れば、仏の働きを
顕すんですよと言う意味です。
- 161 :雨煽り:2010/09/22(水) 07:02:40 ID:Pssg0Hu.0
- >>160
>「具体具用の三身」=仏・・衆生ではない。
体そして、用もあらわせるのが仏(衆生は欠けている)
日蓮正宗教学なら、その通りかも知れませんが、間違いです。
『本仏と云うは凡夫なり迹仏と云うは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依って具体具用の三身と云う事をば衆生しらざるなり』
凡夫が本仏で釈迦多宝が迹仏です。けれども、凡夫は迷いの衆生だから、自分自身が体も用も具わっている本仏だと云うことを知らないのです。
釈迦に、主師親の三徳を被らせているのは凡夫なのですから、凡夫のために仏は存在しているのです。
よく、先生が「会員のために幹部がいるのだ」(趣意)と言われていましたが、意味は同じですね・
会員のために幹部がいる。凡夫のために仏がいる。
幹部を幹部たらしめているのは会員で、仏を仏たらしめているのは凡夫です。
ただ、迷いの衆生だから、それがわからないだけなのですよ。
- 162 :沖浦克治:2010/09/22(水) 07:18:37 ID:AJ3hr85o0
- 人間のことを凡夫と言います
凡夫に2種類あって、衆生と仏に分かれます。
迷うのが衆生、悟るのが仏。
こう言うたて別けです。
凡夫を衆生と呼んで、仏と分る事もあります。
『凡夫の仏になる又かくのごとし、』
(兵衛志殿御返事)
これは当時仏と凡夫は全く異なった存在であるが常識でした。
機根にあわせたお言葉です。
本当は衆生と仏、両者はまったく同じで、悟るか迷うかの差しかありません。
ですので、釈子・創価門流さんはお間違えですね。
- 163 :大勝利:2010/09/22(水) 18:05:02 ID:FfgO/4W.0
- >>159 雨煽りさん こんにちは。
>諸法実相抄のその部分は、凡夫と釈迦との立て分けだと思っているのですが、
>私の認識間違いだと言われてるのでしょうか?
>仏身の体用の立て分けだと言われているのですか?
前半の文章は、創価門流さんが仰るように「方便品」の「諸法実相」についての質問についてのお手紙でしょうから、
十界互具についての説明だと思います。
『妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ』〜〜
『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、』
で「三身一如の具体具用」を説いていると私は思います。
用の迹仏とは、「三十二相」であったりする色相荘厳の仏の姿のことですが、実はその本体は凡夫の姿の久遠本仏なんだと言っているんおだと思います。
(久遠本仏は先に、「妙法蓮華経こそ本仏にては」とあるので私としては日蓮本仏、創価門流さんは教主釈尊、または大通知勝でも)
普通は、凡夫に「体」はありますが「用」はないですね。また迹仏は「用」はあるが「体」は別ですね。
それが、凡夫に「体」も「用」も備わっていて法身、応身、自受用報身であると・・・。
「如来秘密は凡夫のままで神通之力を用いるのだ」と言っていると思います。
ですから、三徳を具備した壮大な仏は衆生の機根に合わせた姿であるが、実は凡夫本仏の「用」によるものなのだと・・・。
衆生は荘厳仏をありがたっがて、(衆生)と(仏)が別々だと思っているので迷い、凡夫本仏に「神通之力」が備わることを知らないのだと。
私達は「菩薩」や「仏」ではあるかも知れませんが、「自受用報身如来」とは顕われていません。寧ろ久遠下種の三類に属するかも知れませんが、
一念三千の当体でしょう。
- 164 :大勝利:2010/09/22(水) 18:15:23 ID:FfgO/4W.0
- >>158 沖浦克治さん
今晩は
> 難しく考えすぎです。
> 人のために仏法はあります。
> そして漫荼羅は仏法の中にあるんです。
> AのためのBならば、Aが目的で本、Bが手段で迹。
> こう言う立て別けになります。
> 自然にそうなるんですよ。
確かにそう言う考え方もあるかも知れませんね。
ピアノの演奏者は観客の為に演奏する。
演奏を行う方が「本」で、
演奏を受ける方が「迹」。
私はこっちの方が自然だと思うのですが・・・。
しかし、まあ、どちらでもいいですね。
目くじら立てて騒ぐことではありません(笑
所詮、人間が後から付けているだけですからね。
- 165 :沖浦克治:2010/09/22(水) 20:36:54 ID:AJ3hr85o0
- 大勝利さん、今晩は
そう言う考え方は確かにあるでしょうが、創価思想ではないでしょうね。
でも、貴方がそう言う考えをお持ちになられることはご自由です。
要するに、私共の仏道修行は、ご本尊にお題目を唱え、世間で戦い、勝利の実証を社会に示し、その実証を持って創価の信心の正義を示すことです。
そう言う結果さえ出せるなら、一大秘法が、ご本尊でも、題目でもかまいません。
現証勝負が仏法ですから。
- 166 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/22(水) 21:18:22 ID:8FNX.yWoO
- ところで……【道具】って言葉。
"読み下す"と、なんと読めますかね……。
一部の皆さん、悪い印象をお持ちのようですが(-.-;)。
具っていうのは、具材の具とか(-.-;)、具(ぐ)する(そなわる)とか………。
道っていうのは、道路の道を思い浮かべます。アスファルトや畦道なんか(^_^;)。あとは、極める事(精進して)を道っていう時もありますね。
空手道。とか剣道、武道……。
アスファルトの道路だと、県道ですね(^_^メ)。
って事で、皆さん、道具の意味を考えてみませんか?。
沖浦さんが使う「道具という表現」。
小学生がガッコで使う「お道具箱のよう」に、どうでもいいとか、粗末にしていいとか……そんな事は言ってないと思うんですけどね。
先入観なく、『道具』という文字の意味を考えると……
勘違いの差も埋まってくるのではないでしょうか………。
ふと……そう思いましたもので(^_^;)。
失礼いたしましたm(__)m。
- 167 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/22(水) 21:28:37 ID:8FNX.yWoO
- >>166の補足?
色々と考えてると……
『道具っていうのは、武器』なんていう発想はどうですかね(^_^;)。
すると(^_^;)武器?。
武将の器?。それって……どんぶりみたいにデカイ(大きい)のかなあ?お茶碗みたいにチッサイ(小さい)のかなあ??。
とか(^_^;)。
で、その器で武将は何を食べていたのだろうか(@_@)。
武将に無精(ぶしょー)髭は似合うか否か(^_^メ)。
とか(^_^;)。
思索は尽きません(^O^)。
アホなカキコミゴメンなさいm(__)m。
これでも結構、真面目に考えてるんですが(-.-;)。
- 168 :沖浦克治:2010/09/22(水) 21:31:53 ID:AJ3hr85o0
- 日々さん
御本尊が道具とはけしからん!!
などと浮かれ騒ぐ人はね、
車なんか道具なんだ、ワックスなんかかけられるか!!
とう言う、道具大事に出来ない人なんですね〜〜。
お前上着背中破れてるよ。
いいんだよ、これで充分暖かいから。
こう言う人なんですね〜〜〜〜。
道具大事に出来ない、物持ちの悪い人でしょう。
- 169 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/22(水) 21:48:35 ID:8FNX.yWoO
- >>168
沖浦さん、こんばんは。
プロ野球選手が守備に着くと時、グローブはめますよね。
いくらプロだからといっても、素手で守備には着きませんね(^_^;)。
それやったら単なるバカです(-.-;)。
バッターボックスに入る時、バットを握りますね(^O^)。プロだからといって、傘とかホウキでバッターボックスには入りませんよね(^_^;)。
それをやったら……前述に同じ(*_*)。
こんな事を考えてしまいました(^_^メ)。
セガレ君のグローブ。
大事に使ってほしいな……って思います。
- 170 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/22(水) 23:17:05 ID:8FNX.yWoO
- 道具という言葉の持つ意味、内容と同時に、【報恩感謝】についてを考えております。
他板でのある方のカキコミがキッカケになりました。
では、改めて、お休みなさい。
(歴史ヒストリアの秀吉さんの俳優さんと、声を演じた役の人。あれは、ちょっと(*_*)。ふざけた角度になってしまったのが、少々、残念でした。)
- 171 :備前 ◆TtzwqSGci2:2010/09/23(木) 09:22:25 ID:g2zr24dw0
- 武士の魂は、悪く言えば、「人斬り包丁」と異名の刀。
料理人の命は包丁。
大工の命はノミや鉋の大工道具一式。
旋盤工の命は外パスや自作バイト。
昔は、それぞれ自身の使う道具には、自身の命と思い大事にしていましたね。
まッ!料理人の包丁は現代でも生きているでしょうけど、なんせ機械化出来きてないから (笑
- 172 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/23(木) 11:06:02 ID:8FNX.yWoO
- >>171
なるほど(@_@)!
素晴らしい思索(^O^)♪!。
- 173 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/23(木) 12:09:51 ID:8FNX.yWoO
- ひらめいた(゚o゚)!
道具とは……『其の道が具(そな)わっている』って事だ!。
で備前さんが言われた『職人の命に匹敵する』って事なんだw(゚o゚)w!。
すげえ!。
- 174 :備前 ◆TtzwqSGci2:2010/09/23(木) 12:36:38 ID:g2zr24dw0
- おォ〜!!すごい!すごい!
さっすが、日々さん日本人!そう言う発想は、どうやら日本特有の文化みたいですね。 v(^^
何事につけても、人間性の昇華、個々の精神世界の充実を図る手段と捉えるのは。
- 175 :雨煽り:2010/09/23(木) 13:33:59 ID:Pssg0Hu.0
- 大勝利さん、こんにちは。
>>163
>一念三千の当体でしょう。
そうです。「当体」です。
ですが、大勝利さんと私の「当体」は少し意味が違っているような気がします。
大勝利さんは日蓮正宗教学のままだと感じますが、どうなのでしょう。
私は戸田先生の「仏とは生命なり」で解釈しますから、
妙法蓮華経の概念が違うのではないでしょうか?
大勝利さんは「妙法蓮華経こそ本仏」を凡夫本仏、つまり、御本仏日蓮大聖人として解釈されてるのですよね。
私は違います。私は、凡夫とは我等衆生と解釈しますから、我等衆生こそが本仏だと解釈します。(勿論、大聖人も含まれます。)
「凡夫本仏論」だと思われるかも知れませんが、少し違います。
頭に南無妙法蓮華経を冠した名字即を指します。つまり、信心している我等衆生です。
「日蓮等の類い・日蓮弟子檀那」等です。
一念三千ですが、依正で言うと一念が正報で、三千が依報です。依正不二ですから一念と三千は不二です。
三千は一念の現れ、森羅三千は一念の生命が現実に現れた世界です。
森羅三千の全ては、自分の生命の中の事で、己心と同義です。だから内道になるのですよね。
で、御本仏日蓮大聖人、または久成釈尊、また、無始の古仏、と言っても全ては己心の話ですね。
違うのなら内道ではなく、外道になります。
でも、内道ですから己心の御本仏ということになります。「説己心中所行法門」です。
誰の己心だ。と言う疑問もありそうですが、
『久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無し』ですから、
大聖人の己心であろうと釈尊の己心であろうと我等衆生の己心であろうと、差別は無いのです。
『心仏衆生三無差別』
『心と仏と及び衆生と是の三差別無しと当に知るべし己心に一切の法を具することを』
『心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世界の中に法として造らざること無し、若し人三世の一切の仏を知らんと欲求せば応に是くの如く観ずべし心は諸の如来を造ると』(八宗違目抄)
森羅三千の全ては自らの己心が描き出す世界という事です。
そして、三千を描き出している当体、我等衆生こそが本仏だという事です。
『仏の心法妙衆生の心法妙と此の二妙を取って己心に摂むるが故に心の外に法無きなり己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり』
『我が身は本覚三身如来の身体なり』
『此の十如是は十法界なり、此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し』(総勘文抄)
『無作の三身は覚前の実仏』
『我とは釈尊我実成仏久遠の仏なり此の本門の釈尊は我等衆生の事なり、如来の我は十如是の末の七如是なり九界の衆生は始の三如是なり我等衆生は親なり仏は子なり父子一体にして本末究竟等なり、此の我等を寿量品に無作の三身と説きたるなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱うる者是なり』(御義口伝)
本仏と迹仏ですが、本体と迹用で、釈迦を例えるなら、釈迦が本体でその他諸仏が迹用です。
諸仏と言っても、全ては釈迦が説いたのですから話の上だけの仏で、その実体はないのですよね。
つまりは、釈迦の説いた世界ですから、本体の釈迦しか実体はありません。釈迦の己心の話、釈迦の己心の諸仏だという事です。
「妙法蓮華経こそ本仏」とは我等衆生こそ本仏だと前述した通りですが、凡夫こそ本仏も同じ意味です。
凡夫の己心の大聖人・釈尊・無始の古仏ですから、その実体は無く、迹用だけがある。という事で、
凡夫が本体なのです。
解り易く言えば、凡夫の仏界の話だと思えばいいのではないでしょうか。
諸天の「内薫外護」と同じような事だと思えばいいと思います。
つまりは、凡夫が本仏で、御本仏だと思ってる大聖人・釈尊・無始の古仏が迹仏という事です。
本体の凡夫には「体」も「用」も具わっていますが、大聖人・釈尊・無始の古仏には「用」だけしか具わっていない。という事です。
難信難解を文章にするのは、私の頭では容易な事ではありませんので
解り難いかも知れませんが、ご容赦下さい。
- 176 :あ:2010/09/23(木) 14:38:58 ID:CNIsgLRI0
- 雨煽り さん こんにちは
たまに、投稿を見させていただいています。
>>175
雨煽りさんと、同じように、捉えます。
わたしも、同じように 考えます。
わたしは、
私 = 本尊 = 題目 = 戒壇
と捉えています。
雨煽りさん からみれば
雨煽り = 本尊 = 題目 = 戒壇
雨煽りさんも 私と捉え方は、同じでしょうか?
同じ捉え方だと、いろいろ 聞いてみたいです。
ご指摘ありましたら、よろしくお願いします。
- 177 :雨煽り:2010/09/23(木) 15:25:01 ID:Pssg0Hu.0
- >>176
あ さん、こんにちは。
>雨煽りさんも 私と捉え方は同じでしょうか?
大略、同じだと思ってもらえれば良いと思います。
でも…率直に言いますが、
問題提起と結論は同じなのですが、結論に行き着くまでの過程は違うかも知れません。
あ さんは、その過程で飛躍があるように感じます。
飛躍なのか省いているのかはわかりませんが…
あくまでも私が感じるだけなので、具体的にどこがどうという事はありません。
それに、難しく考えるより、
理論は理論として、現実に「唱題すれば功徳がある」のですから、
それでいいのではないかと思っています。
それと、難しい事は私には聞かないで下さいね。
スキルが素人なので、書き込むのが大変なのです(;一_一)
すいませんが宜しくお願いします。m(__)m
- 178 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/23(木) 18:21:42 ID:8FNX.yWoO
- 楠板。ワタシアク禁。よって、こちらに。
---------------------------
こちらの雨煽りさんの言葉を用い、やまいぬ。さんの主張を導き出した無名さん有り。
その主張の一部を転載。
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆
「凡夫即極」の中に、「凡夫たる蓮祖」を含めないで、
つまりわざわざ沖浦さん自身が挙げた『法華経の智慧 第5巻』の
文意を真逆にして、「自分は凡夫だから本、蓮祖は仏だから迹。」と
「沖本蓮迹論」を捏造した沖浦さんは、その瞬間、「誰もが蓮祖と同じ仏界の生命、
南無――を有する尊極の存在である」ことを全否定した。
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆
これは、沖浦さんの言葉ではなく、やまいぬ。さんの言葉です。
『凡夫たる蓮祖を含めない主張』など、沖浦さんはしていないと思います。
それとコレ。
【「自分は凡夫だから本、蓮祖は仏だから迹。」】。
当時から沖浦さんは、そういう発想で、本迹を論じてはおりませんでした。
それは、単なる、やまいぬ。さんの思い込みです。
楠板の無名さん。
やまいぬ。さんに恥をかかすのは止してくださいね。
- 179 :大勝利:2010/09/23(木) 20:58:44 ID:MYqDk7aIO
- >>175
雨煽りさん
こんばんは。
「有為の報仏は夢中の権果・無作の三身は覚前の実仏」
本日、大白10月号届きました。
任用の「一生成仏」のP80に、
この御義下の次の文が掲載されています。
「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見す」
前の私の投稿では「無作三身=本仏」を強調しすぎてしまってるかもしれません。
ですが、「衆生こそ本仏」は学会の教学とも大聖人の仏法とも違うと思います。
キリスト教を代表する神は「神」と「衆生」が隔絶されていました。
内道仏法はこの問題を解決しているとは言え「神=人間」のような結論ではないと思います。
我々は妙覚に至れるがまた本仏と全く等しくある道も開かれていると思いますけれども本仏ではないと思います。
それでは日顕宗如くの差別的だと思われる節もあるかも知れませんが、
「衆生所遊楽」
衆生は人生を楽しみ遊びに生まれてますから、本仏である必要がないのが仏法だと思うのです。
- 180 :沖浦克治:2010/09/23(木) 21:33:31 ID:AJ3hr85o0
- 大勝利さん、今晩は
学会の教学は今闇の中です。
言えない事が沢山ありますから。
衆生が本仏。
大聖人の仏法はそう言う教えです。
御書には書かれていません。
明確な言葉でではですが。
同じく、大聖人本仏は書かれてありません。
私共がそう言う風に読むだけです。
御書を普通に読めば、釈迦が本仏です。
教主釈尊と言う言葉は、100回出ていますが、教主日蓮は一度もありません。
法華経の行者日蓮は、3回出てきますが、法華経の行者は本仏ではありません。
本仏釈尊が説いた法華経を説の如く修行する人です。
御書は戸田先生がはじめて読み解かれたのです。
まだ、半世紀少しなんです。
ですので、これからの研究が大事なんですよ。
現時点での創価学会の教学は入り口に過ぎません。
- 181 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/23(木) 23:10:26 ID:8FNX.yWoO
- >>179
大勝利さん。こんばんはm(__)m。
私も、紹介された箇所(大白の)を読みました。
桜梅桃李。
個々の特性特質を改めずに云々。
『無作三身』である御文を思い出しました。
「本来無作の三身念念に起るなり。所謂、南無妙法蓮華経は精進行なり」
(御文、間違っていたらご指摘くださいm(__)m。)
『一生成仏』の項目にも、学ぶべきところがありました。
【成とは開く義なり】の御文には、成仏とは、自身の内に具わる仏の生命を開く。という意味。
再確認させて頂きました。
最後には、このように書かれておりましたね。
『また、成仏とはゴールに到達することではありません。妙法を受持して、悪を滅し善を生ずる戦いを続けていく、その境涯が仏の境涯なのです。間断なく広宣流布に戦い続ける人こそが仏なのです。』(大白蓮華10月号より抜粋)
【仏なのです。】で締めくくられています。
これは、大勝利さん、どう感じましたか?(どう捉えましたか?の意)。
【仏なのです。】とは……《仏の境涯》を指すのでしょうか?。
どうなんでしょうか?。
私は素直に【仏なのです。】を、"仏"と捉え読みました。
すいません(^_^;)。
馬鹿なレスして(-.-;)。難しい事わからないもんで(^O^)♪。
私が今日、任用試験の特集で興味深く読んだところは、【日蓮大聖人の御生涯】の71頁の"熱原の法難と出世の本懐"の項です。何度も何度も読みました。
では大勝利さん、皆様。お休みなさいm(__)m。
- 182 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/23(木) 23:18:15 ID:8FNX.yWoO
- >>179をも一回、目を通しました(^_^;)。
【衆生こそ本仏】っていう言葉です。
ムムムっ(@_@)!。この言葉に目を奪われました。
本仏は、日蓮大聖人です。
衆生こそ本仏。って(^_^;)、誰か言いましたか???。
すいません(^_^;)、鈍感なもんで(*_*)。
では、風呂入って寝ます(-.-;)。
- 183 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/23(木) 23:50:35 ID:8FNX.yWoO
- 風呂入ってきました。
>>182に私の勘違いがありました。
雨煽りさんが>>175で言ってたのですね(^_^メ)。
完璧な私の勘違いっす!。
申し訳ございませんでしたm(__)m。
参考までに、雨煽りさんが言ってた箇所は、以下ですね。
【大勝利さんは「妙法蓮華経こそ本仏」を凡夫本仏、つまり、御本仏日蓮大聖人として解釈されてるのですよね。/私は違います。私は、凡夫とは我等衆生と解釈しますから、我等衆生こそが本仏だと解釈します。(勿論、大聖人も含まれます。)/「凡夫本仏論」だと思われるかも知れませんが、少し違います。/頭に南無妙法蓮華経を冠した名字即を指します。つまり、信心している我等衆生です。/「日蓮等の類い・日蓮弟子檀那」等です。】
………勿論、大聖人も含まれます。
………「凡夫本仏論」だと思われるかも知れませんが、少し違います。
という言葉。
これに感じるものがありました。
そして、「日蓮と同意ならば、地湧の菩薩たらんか」(御文、間違っていたら、ご指摘ください)を思い出しました。
大勝利さん。雨煽りさん。やっぱ、私には、二人の対話のやり取りに入っていくのに、無理がありました(^_^メ)。
ゴメンなさいm(__)m。
マジ、お休みなさいですm(__)m。
アラシた訳ではありませんm(__)m。
- 184 :大勝利:2010/09/24(金) 00:42:49 ID:MYqDk7aIO
- 日々さん
おばんです。
私達の信心は本仏になることを目指しているのでしょうか?
絶対的幸福境涯とは本仏でなければ得られないのでしょか?
「教えいよいよ実なれば位いよいよ下し」
凡夫は凡夫のままでこの現実世界で生き抜くことが大聖人の仏法であり、学会人間主義なのではないでしょうか。
さまざまな困難が起こったとしても、その困難をバネとして強い生命力を湧き上がらせ、逆境を悠々と乗り越えて行きましょう。
では、
おやすみなさい。
- 185 :雨煽り:2010/09/24(金) 01:15:54 ID:Pssg0Hu.0
- 日々さん、こんばんは。
>【仏なのです。】で締めくくられています。
日々さん鋭い!!(^^)!
大白蓮華を読んで、創価学会もやっとここまできたか!って感じです。
以前とは明らかに違ってきてますよね。
>やっぱ、私には、二人の対話のやり取りに入っていくのに、無理がありました
全然無理などありませんよ。
と言うより、日々さんの理解度に少し驚いています。
お世辞にも教学に長けているとは言えない(失礼m(__)m)日々さんなのに、
博識の大勝利さんより、理解度は高いかも知れませんよ。(^^)v
それと、他板の悪口雑言の徒輩達は、どうせ文証を上げての批判などできないのでしょうから
好きに言わせていればいいと思います。
す て て おきましょう。(^O^)/
- 186 :雨煽り:2010/09/24(金) 02:16:12 ID:Pssg0Hu.0
- >>179
大勝利さん、こんばんは。
>「衆生こそ本仏」は学会の教学とも大聖人の仏法とも違うと思います。
違うと思います。と言われても、
『本仏と云うは凡夫なり』
『迷悟の不同にして生仏異なるに依って』
と、書いてありますでしょ。
違うと言われるのなら、文証が必要になりますけど、どうでしょうか?
大白蓮華の82Pに「文証とは、日蓮大聖人の「御書」に基づいているかどうかです。」
とあります。御書に基づいているかどうか。なのですよ。
>「神=人間」のような結論ではないと思います。
これは意味が解りません。
>我々は妙覚に至れるがまた本仏と全く等しくある道も開かれていると思いますけれども本仏ではないと思います。
大勝利さんが思われる「本仏」とは何なのでしょうか?
「本仏」と、私が言っているのではなく、御書に書かれているのですよね。
私は大聖人を御本仏と立てていますし、御本仏は大聖人だけだと思っていますが
それは三宝という立て分けなのです。
この諸法実相抄は、三宝の立て分けを云々しているのではないと思います。
>本仏である必要がないのが仏法だと思うのです。
大勝利さんが、どう思われ、どう解釈されてもそれは自由なのですが、
だからと言って、御書に書かれていることを否定するのは駄目だと思いますよ。
どうでしょう、否定するのだけはやめてみませんか?
理解できなくてもいいのですから、「雨煽りが言うのも一つの解釈だな。」という事にしませんか?
- 187 :沖浦克治:2010/09/24(金) 06:00:29 ID:AJ3hr85o0
- 雨煽りさん、日々さん、おはようございます
大白蓮華10月号まだ届きません。
創価学会の教学は脱皮しつつあります。
私がこの8年間書き続けてきたことに、ドンドン接近するでしょう。
御書を読めば、物体であるお漫荼羅が、一大秘法や出世の本懐になれない事が直ぐ理解可能です。
それでは世界広布が不可能だからです。
所が眺め人は理解不可能。
毒気深入・失本心故。
寛師教学と言う毒気ですね。
- 188 :沖浦克治:2010/09/24(金) 06:02:16 ID:AJ3hr85o0
- 大勝利さん、おはようございます
三宝ってわざわざ差別して固有名詞にする必要ないと思います。
一切衆生が本来久遠元初の南無妙法蓮華経如来です。
全てが同じなんですよ。
人類。見たいなものです。
- 189 :沖浦克治:2010/09/24(金) 06:05:44 ID:AJ3hr85o0
- >大白蓮華の82Pに「文証とは、日蓮大聖人の「御書」に基づいているかどうかです。」
とあります。御書に基づいているかどうか。なのですよ。
寛師の文段なんか問題外です。
あの文段の戒壇本尊本懐と一大秘法論。
何処に御書の引用がありますか?
タロット占いレベルの数字合わせだけです。
ああ言うレベルの人と、大聖人直結の創価学会員一緒にされたら、たまったもんじゃありません。
今生きているなら、任用試験から始めるレベルです。
- 190 :沖浦克治:2010/09/24(金) 06:07:32 ID:AJ3hr85o0
- 大聖人様は
その時点での人類の最高のリーダーです。
だから、ご本仏と定めています。
私はですが。
- 191 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/24(金) 07:34:21 ID:8FNX.yWoO
- 大勝利さん。雨煽りさん。沖浦さん。皆様。おはようございますm(__)m。
昨日、あれから色々と考えたんですが……
「本仏」って?「仏」って??
同義の言葉?。
なんて(^_^;)♪事を考えました。
御観念文に「末法の御本仏 日蓮大聖人に南無し奉り……」とあります。
大勝利さんは、その「本仏」って言葉が、ピンとこないのではないのかな?と思いました。
『衆生こそ仏』って言われるとワタシは、すんなり納得できるのですが、『……こそ本仏』って言われると、正直抵抗感がありまして(^_^メ)………、だから(そのような理由で)昨晩のようなカキコミになった訳です。
その抵抗感は何処からくるのか?と、雨煽りさんの前の投稿などや、大白などを探っていくと、理解ができ、なくなりました。
その抵抗感って……自己の先入観だったって気づきました。
昨晩は、色々ありがとうございましたm(__)m。
皆様、お仕事無事故で頑張ってください。
- 192 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/24(金) 07:37:26 ID:8FNX.yWoO
- >>184
大勝利さん!
【凡夫は凡夫のままでこの現実世界で生き抜くことが大聖人の仏法であり、学会人間主義なのではないでしょうか。/さまざまな困難が起こったとしても、その困難をバネとして強い生命力を湧き上がらせ、逆境を悠々と乗り越えて行きましょう。】
激励!ありがとうございますっ(^0^)/!!。
- 193 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/24(金) 07:43:38 ID:8FNX.yWoO
- >>185
雨煽りさん!。
【と言うより、日々さんの理解度に少し驚いています。/お世辞にも教学に長けているとは言えない(失礼m(__)m)日々さんなのに…………】
ナハハ(*_*)♪\^o^/!。
すいません(^_^;)、表現リョクが馬鹿っぽくて(^O^)♪!。
ナハハo(^-^)o♪!
俺らしくて、ヨロシイ(^0^)/!。
ですよねっ!雨煽りさんo(^-^)o♪!
- 194 :雨煽り:2010/09/24(金) 18:41:36 ID:Pssg0Hu.0
- >>193
日々さん
ほ〜んと日々さんらしい(^^)v
で、肝心なところはしっかり理解してる…
知識のあることでも《かしこぶらない》
知識のないことなど《かしこぶれない》 《信心がぶれない》
素直な自分のままでいられる日々さんって…
…ヨロシイ(^O^)/!。
大白蓮華にしろ聖教新聞にしろ誰かの論にしろ、
正しいと思う事はどんどん吸収していく。
そんな日々さん
【お世辞にも教学に長けているとは言えない(失礼m(__)m)】
のです。( ^^) _旦~~
- 195 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/24(金) 19:11:51 ID:8FNX.yWoO
- >>194
嬉しいっすネo(^-^)o!
照れるなあ(^_^メ)。
でも、ワタシを褒めると、攻撃のタイショーにされますよ(笑)。
なんせ、ワタシ。
沖浦さんの一番弟子みたいな評価ですからね。
《信》から発して、自然に御書を読み、悩んだら、池田先生や、その恩師の戸田先生の指導や書籍(文献)を求め、場合によっては大白蓮華や、過去の聖教新聞を読み(当然、今現在のものも含め)、
フツーに、そうしてるんですがね(^_^;)。
不通のようですね(^_^;)一部のヒトには。
慢心は恐いから!。
しかも、根本が馬鹿だから、
自分の個性で(桜梅桃李の原理を用いて)
その発起衆の役割をしてるんですが(^_^;)。
気づいてくれないんですよね(-.-;)。
そこが、ワタシの宿業なんでしょうね(-.-;)。
(^_^;)♪。
- 196 :雨煽り:2010/09/24(金) 19:15:20 ID:Pssg0Hu.0
- …
日寛教学、よく憶えていませんが、
【五百塵点劫の当初】 当初ってついてるから五百塵点劫よりもっと過去で元初だ。
…って、
それが本当なら
【三千塵点劫の当初】はいつになるのだろう。
同じ【当初】がついているのに五百塵点劫だけがもっと過去になるなんて、
道理が通るのか。ただ単に、過去と云う意味じゃないのか。
…って、
日寛上人の単なるこじつけ、牽強付会だろう。
と思ったのを、思い出しました。(^。^)y-.。o○
- 197 :あ:2010/09/24(金) 19:54:48 ID:CNIsgLRI0
- 日寛上人は、素直に御書読めなかったんでしょうね。
または、わざと 読まなかったんでしょー。
自分がリードする(現 日蓮正宗)の権威を付けたかったんでしょう。
///////////////////////////////////////////////
第廿五 建立御本尊等の事
御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、
戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、
日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、
本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」
これ↑ 知ってたはずなのに!!
日寛上人は、大石寺の戒壇様本懐論なんかを立ててしまって
大聖人に、こっぴどく 怒られたんだろーな。 かわいそーな上人だな〜!!
- 198 :大勝利:2010/09/24(金) 20:02:20 ID:FfgO/4W.0
- >>196
雨煽りさん
当初がつかなくても、
五百塵点劫の方が三千塵点劫よりも過去ですよ。
- 199 :大勝利:2010/09/24(金) 20:07:40 ID:FfgO/4W.0
- >>186
雨煽りさん
>違うと言われるのなら、文証が必要になりますけど、どうでしょうか?
衆生が本仏ではない文証は沢山あると思いますよ。
曾谷入道殿許御書
「今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ」
唱法華題目抄
「此の釈の如きは末代には善無き者は多く善有る者は少し故に悪道に堕ちんこと疑い無し」
教行証御書
「今末法に入りては教のみ有つて行証無く在世結縁の者一人も無し権実の二機悉く失せり」
- 200 :大勝利:2010/09/24(金) 20:13:26 ID:FfgO/4W.0
- >>186
末法の衆生は「本未有善」と大聖人が判じられています。
本仏どころか本仏に縁もない凡夫が末法の衆生でしょう。
- 201 :あ:2010/09/24(金) 20:21:48 ID:CNIsgLRI0
- 本仏についての 参考 御書
諸法実相抄
妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
実相と云うは妙法蓮華経の異名なり諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、
- 202 :大勝利:2010/09/24(金) 20:23:05 ID:FfgO/4W.0
- >>186
雨煽りさん
>大勝利さんが思われる「本仏」とは何なのでしょうか?
もちろん、
「久遠元初の自受用報身如来」ですが・・・、雨煽りさんは違うのですか?
確かに、皆さんの「本仏」が各々違うような気もしますね。
日寛教学の「日蓮本仏論」をちゃんとやらないと、「第三法門」が理解できなくなると思います。
- 203 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/24(金) 20:27:15 ID:8FNX.yWoO
- なんかようわかりませんが(^_^;)。
スレッドタイトルの集合欄で、このスレッドが199のレス番だったので、キリ番を取りに行こうと思ったら、
大勝利さんが200でカキコミしてました(^_^;)。
なんだか難しい展開に???
なってないかい(^_^;)????。
では、ワタシが恥を覚悟で提議します(^_^メ)。
【不軽菩薩は、仏か否か!!】
これに答えられるヒト!いますか???
漢字の馬鹿なワタシに、教えてくださいm(__)m。
「あ」さん。「大勝利」さん。「雨煽り」さん。のサンシ(三氏)に(^_^;)。
順番は、どうでも結構です。
桂三枝のサンシではありません。
三人のお方。っつう意味です。
- 204 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/24(金) 20:34:49 ID:8FNX.yWoO
- 三氏から見たら、>>203は、的がハズレてますかね(^_^;)。
結構、事態の集束っつうか、安穏っつうか………
議論を一旦、ヒラタクする(思考をゼロにするの意)ためにも、イイ質問だと思ったんですが(^_^;)。
皆さん………。
冷静に冷静にo(^-^)o!
落ち着きましょう(^0^)/♪!。
ナハハ(@_@)♪!。
ダメか(´Д`)、馬鹿の進言は(^_^;)。
- 205 :あ:2010/09/24(金) 20:36:58 ID:CNIsgLRI0
-
>【不軽菩薩は、仏か否か!!】
御義口伝に云く此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり
不軽菩薩が一切衆生ならば 上記の答えです。
///////////////////////////////////////////////
いっさい‐しゅじょう 【一切衆生】
仏語。
この世に生を受けたすべての生き物。
特に人間をいう。生きとし生けるもの。一切有情。
//////////////////////////////////////
- 206 :大勝利:2010/09/24(金) 21:00:46 ID:MYqDk7aIO
- >203
日々さん
仏ですが、本仏ではありません。迹です。
- 207 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/24(金) 21:07:05 ID:8FNX.yWoO
- >>205
「あ」さん、早速の返答、ありがとうございますm(__)m。
ですが、いきなりの飛躍的な論で、一部の方には、解りにくいと感じております。
ですので、解りやすくするために、ひとつ更に質問します。
不軽菩薩って……誰の事でしたっけ???。
- 208 :あ:2010/09/24(金) 21:13:00 ID:CNIsgLRI0
- 24文字の法華経をといた 人の お話を聞いた事があるんですが
たしか、いろんな人に手を合わせたって
それぐらいしか、聞いてないです。
- 209 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/24(金) 21:14:53 ID:8FNX.yWoO
- >>206
大勝利さんもカキコミなさっていたのですね。
ありがとうございますm(__)m。
本仏ではなく、シャクとの事。
(すいませんm(__)m相変わらず変換なりませんので片仮名表記です)
では、そのシャクである理由を、教えてください。
- 210 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/24(金) 21:19:56 ID:8FNX.yWoO
- >>206
それと、ついでに、
【仏ですが、本仏ではない】といってますから、合わせて質問しますが、
"仏と本仏の違い"
これをワタシに教えてください。
- 211 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/24(金) 21:22:13 ID:8FNX.yWoO
- >>208
では、
釈尊と不軽菩薩との関係は???
- 212 :あ:2010/09/24(金) 21:24:17 ID:CNIsgLRI0
- 第十聞其所説皆信伏随従の事
御義口伝に云く聞とは名字即なり所詮は而強毒之の題目なり、
皆とは上慢の四衆等なり信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり
随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり、
所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり
ここでは、お題目をとなえる 私たちの事ですね。
「所詮今日蓮等の類い」ですから。
- 213 :あ:2010/09/24(金) 21:26:40 ID:CNIsgLRI0
- >釈尊と不軽菩薩との関係は???
どんな関係なんですか?
教えてください。
- 214 :雨煽り:2010/09/25(土) 05:56:05 ID:Pssg0Hu.0
- 大勝利さん
>>198
>当初がつかなくても、
>五百塵点劫の方が三千塵点劫よりも過去ですよ。
何故、当初という言葉がついているのか大勝利さんは考えたことがありますか?
五百塵点劫、三千塵点劫だけなら単なる時間の単位で、過去か未来かわからないからでしょう?
弥勒なんかは未来ですから、未来の話も過去の話もある訳で、当初がついてなければ過去だとは特定できないでしょう。
日寛上人は仏説に未来があるのを知らなかったのかもしれませんね?
五百塵点劫の当初が元初になるのなら、三千塵点劫の当初は五百塵点劫になるのですか?
とすると、大通は五百塵点劫に出現して久成釈迦と同期という事になりますね。
日寛上人の解釈はそういう事なのでしょうか?
>>199
>衆生が本仏でない文証は沢山あると思いますよ。
で、これですか。ここで出された三編…
大勝利さんは釈迦仏法を信仰されてる訳では無いですよね。
『権実の二機皆悉く尽きぬ』『末代には善無き者は多く』『在世結縁の者一人も無し』
どれも、釈迦に結縁が無いという文証でしょう。釈迦に結縁が無いのは当然です。
だから、大聖人を御本仏と立てるのですからね。
「衆生が本仏」ではない。という意味のある文証が必要ですよ。
>>200
>末法の衆生は「本未有善」と大聖人が判じられています。
>本仏どころか本仏に縁もない凡夫が末法の衆生でしょう。
大勝利さんは釈迦を本仏と立てるのですね。でしたら本仏に縁はないでしょうね。
私は大聖人を御本仏と立てますから、御本仏に久遠からの縁があって、今現在、創価学会員なのです。
『逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る、例せば不軽品の如し我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり』(法華取要抄)
『在在諸の仏土に常に師と倶に生ぜん』『是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん』(曾谷殿御返事)
『在在諸の仏土常に師と倶に生れん若し法師に親近せば速かに菩提の道を得ん』(秋元殿御返事)
>>202
>もちろん、
>「久遠元初の自受用報身如来」ですが・・・、雨煽りさんは違うのですか?
「久遠元初の自受用報身如来」を、現代語で訳してみて下さい。
そして、私達が成仏したとして、違うのか同じなのか考えてみて下さい。
「久遠元初の自受用報身如来」というのは名前ではありませんので、「南無妙法蓮華経如来」です。
「妙法蓮華経如来」の日蓮大聖人を御本仏と立てて信仰し、自分自身も全く同じ「南無妙法蓮華経如来」になるのです。
『妙法蓮華経こそ本仏』に、つながりましたね。
>日寛教学の「日蓮本仏論」をちゃんとやらないと、「第三の法門」が理解できなくなると思います。
そんなことを言ってるから大勝利さんは釈迦仏法が抜けないのですよ。「第三の法門」って、釈迦仏法から見て「第三」なのでしょ。
日蓮仏法は一つしかないのですから、大昔じゃあるまいし、釈迦仏法と対比する必要など無いでしょう。
御書が読めれば、日寛教学なんて何の必要も無いことが解りますよ。
釈迦の部分を大聖人に読み替えるだけなのですから。
『過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり』
『末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり』
『今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり』(御義口伝)
『法華経を行ずる日蓮等が弟子檀那の住所はいかなる山野なりとも霊鷲山なり行者豈釈迦如来に非ずや』(御講聞書)
>>206
>日々さん
>仏ですが、本仏ではありません。迹です。
こんな文証どこにあるのですか?
失礼ですが、大勝利さんは、少し思い込みが激しいのではないですか?
大聖人が言われても無い事を、勝手に思い込まれているようですよ。
私は創価学会員ですから、御書の全てを戸田先生の「仏とは生命なり」で解釈します。
妙法蓮華経は生命、仏とは生命、本仏とは生命のある人間、迹仏とはその働きだと解釈します。
覚前の実仏ですから、我等衆生は、まだ仏と成いていない実仏(本仏)だという事です。
- 215 :沖浦克治:2010/09/25(土) 06:14:04 ID:AJ3hr85o0
- 雨煽りさん、大勝利さん、おはようございます
本未有善と言う者はありません。
釈迦仏法の限界を説明するためにある方便です。
一切衆生は、宇宙の源である南無妙法蓮華経を保つ、久遠元初からの南無妙法蓮華経如来です。
久遠からの仏が、本未有善である道理はございません。
- 216 :沖浦克治:2010/09/25(土) 06:24:48 ID:AJ3hr85o0
- これが創価思想の原点です
後は説明書きですね。
『は唱題を重ねていった。そして、ただひたすらに、その実体に迫っていた。三十四の「非」を一つ一つ思いうかべながら、その三十四の否定のうえに、なおかつ厳として存在する、その実体はいったい何か、と深い深い思索にはいっていた。時間の経過も意識にない。いま、どこにいるかも忘れてしまっていた。
彼は突然、あっと息をのんだ。――「生命」という言葉が、脳裡にひらめいたのである。
彼はその一瞬、不可解な十二行を読みきった。
――ここの「其の身」とは、まさしく「生命」のことではないか。知ってみれば、なんの不可解なことがあるものか。仏とは生命のことなんだ!
彼は立ちあがった。独房の寒さも忘れ去っていた。時間も分らなかった。ただ、太い息を吐き、頬を紅潮させ、眼は輝き、底しれぬ喜悦にむせびながら、動きだしたのであった。
――仏とは、生命なんだ!生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自身の命にあるものだ。いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!
戸田城聖のこの時の展開の一瞬は、将来、世界の哲学を変貌せしむるに足る、一瞬であったといってよい。それは、歳月の急速な流れと共に、やがて明らかにされていくにちがいない。』
仏〜南無妙法蓮華経如来と私共の命と宇宙の命の呼び名です。
これだけキチンと理解しているなら、御書はわかって来ます。
五百塵点劫とか、三千塵点劫とはあっても無くてもいいのです。
別に創価思想に関係はありません。
一大秘法とは、衆生己心の妙法であり、宇宙生命である南無妙法蓮華経です。
そしてその事実を一大事の秘法と言います。
ここさえ信受できるなら、後は余事だと思います。
- 217 :雨煽り:2010/09/25(土) 06:48:27 ID:Pssg0Hu.0
- 沖浦さん、おはようございます。
>後は余事だと思います。
私もそう思います。
でも、その余事をしなければ余事だと解らない。
のが、難儀です(;一_一)
あっ、
意味不明ですね。すいません。<m(__)m>
- 218 :雨煽り:2010/09/25(土) 09:28:43 ID:Pssg0Hu.0
- すいません、訂正です。
>>214
「妙法蓮華経如来」の日蓮大聖人
↓
「南無妙法蓮華経如来」の日蓮大聖人
- 219 :沖浦克治:2010/09/25(土) 09:59:50 ID:AJ3hr85o0
- 大白蓮華来ました。
大聖人の出世の本懐は戒壇本尊図顕ではなく、熱原法難での農民たちの信心です。
キチンと書かれています。
ようやく日蓮正宗教学からの脱皮が始まりましたね。
- 220 :沖浦克治:2010/09/25(土) 10:54:25 ID:AJ3hr85o0
- 雨煽りさん
等覚一転名字の妙覚。
余事が等覚に上がる修行ですね。
でも、それは妙覚出始めてわかります。
同じでしょうね。
- 221 :雨煽り:2010/09/25(土) 16:05:07 ID:Pssg0Hu.0
- >>220
そういえば過去に…
元学会員で正宗僧侶になった人が出した書籍をチラ見しました。
学会員はいくら信心しても等覚までしかなれない…
という趣旨の記事でした。
ほぉ〜これが戸田先生の一番弟子で比類無い程の頭脳明晰と謂われた人か…
ばっかじゃないの〜自分が覚れないからといって、そんなこと御書のどこに書いてあるんだ!
と思ったのを思い出しました。
一切声聞辟支仏所不能知
唯仏與仏乃能究盡諸法実相
ですから、解らなくても何も不思議はないですけどね。
- 222 :雨煽り:2010/09/25(土) 16:45:54 ID:Pssg0Hu.0
- 日々さん
>>191
>その抵抗感って……自己の先入観だったって気づきました。
全ては、`それ`なのです。
それに気がつく日々さんの境涯は高いということです。
難信難解ですから、殆んどの人が解らないと思いますよ。
まぁ、他板も含めて私が見渡す限りで解る人は、
沖浦さんと高速さんくらい…でしょうね。
文証を出して批判する。ってことの出来無い他板の人達には
どう足掻いても理解などできません。それ以前の問題ですからね。
日々さんはもう少しです。
一念に億劫の心労を尽くして唱題しましょう。(^O^)/
- 223 :大勝利:2010/09/25(土) 18:59:25 ID:FfgO/4W.0
- >>213
雨煽りさん
>釈迦に結縁が無いのは当然です。
>だから、大聖人を御本仏と立てるのですからね
釈迦に結縁がないから大聖人を御本仏と立てるのではないでしょう。
末法の衆生は、「久遠」以来、成仏の根本法を信受せず、下種を受けていない人々です。
下種すらないので、当然、調熟もなく、したがって、法華経の本門、つまり釈尊の真の仏果を説くことによる
脱益の教えでは成仏することができないのです。
これが「本未有善」の考えであり、「日寛教学」の上で重要な「第三法門」である「種脱相対」なのです。
「本から善有らず」と言っても、それは決して人間主義の否定ではなく、「万人のもつ可能性をもれなく開きあらわす法」を選びだされています。
(詳しくはp88)
失礼ですが、雨煽りさんは私がこのスレで何度か言っている乗性と種性を理解せず、
「正因仏性=仏性の本体のことであり、万物が妙法の当体であること自体」を「本仏」と混同しているのではないでしょうか。
- 224 :あ:2010/09/25(土) 19:32:10 ID:gkxbF11E0
- 大勝利さん
横すれです ごめんなさい。
>正因仏性=仏性の本体のことであり、万物が妙法の当体であること自体」を
「本仏」と混同しているのではないでしょうか。
混同ではなく、同じなんですよ。
妙法の当体と仏は 同じなんですよ。
よこレス 失礼しました。
多分 雨さんも 同じ答えだと 思います。
- 225 :大勝利:2010/09/25(土) 19:33:30 ID:FfgO/4W.0
- >>209
日々さん
「其の故は釈迦仏昔不軽菩薩と云はれて法華経を弘め給いし」
久遠元初の本仏に対すれば、三五塵点の仏は迹になるのです。(日々さんはわざと聞いてるのでしょうが)
五百塵点劫(五百千万億那由他阿僧祇)に釈尊を成仏させた根本法が「南無妙法蓮華経」であり「久遠元初の自受用報身如来日蓮大聖人」です。
ですので、「本仏」は根本法であるので大聖人ひとりに限って良いと思います。
それを差別的だと思うふしもあるかも知れません。「全員が本仏である」とは一見カッコ良く見え吸引として悪くはないし、
「生命の尊厳」の意味では重要でしょう。
しかし、日蓮大聖人は一人「万人に開かれた根本法」を末法に弘められたのですからそもそも成仏は開かれていると思います。
私は「衆生こそ本仏」はいらないと思います。
- 226 :あ:2010/09/25(土) 19:39:48 ID:gkxbF11E0
- 仏が 迷って居る時が 凡夫
仏が悟って居る時が 仏
なんです。
- 227 :大勝利:2010/09/25(土) 19:45:22 ID:FfgO/4W.0
- >>224
言葉だけ「本仏」を簡単にして下に落としているだけではないですか?
「あ」さんはどうやって「仏に成って」どのように「本仏に成る」のですか?
今のままが「本仏」なのですか?それは「本仏のような気」になってるだけではないのですか?
本仏に成ってどように変化しましたか?
答えていただかなくても結構ですが、
意地悪な質問をしているようですが、私が言いたいのは、
「そのままでもいい」と言うのは仏法ではないのではないかと言うことです。
- 228 :あ:2010/09/25(土) 19:49:11 ID:gkxbF11E0
- 日々さん
>>207
>不軽菩薩って……誰の事でしたっけ???。
大勝利さんが 答え出してくれました。
其の故は釈迦仏昔不軽菩薩と云はれて法華経を弘め給いし
- 229 :あ:2010/09/25(土) 19:53:02 ID:gkxbF11E0
- >>227
>今のままが「本仏」なのですか?それは「本仏のような気」になってるだけではないのですか?
本仏に成ってどように変化しましたか?
自分が仏だと信じて 題目をあげるだけなんですよ。私は
変化では、なく 自覚するんですよ。信じて 自覚するんです。
ただ それしか 私はできません。
- 230 :あ:2010/09/25(土) 19:58:28 ID:gkxbF11E0
- 故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は
我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。
・///////////////////////////////////////////////
このまんま 信じればいいんですよ。
大勝利さん 難しく考えちゃだめなんです。
信じるんです。
- 231 :雨煽り:2010/09/25(土) 20:23:20 ID:Pssg0Hu.0
- あ さんのレスは、私も同意です。
あ さん、代弁して戴きありがとうございます。
大勝利さん、
大勝利さんの考え方は釈迦仏法です。一つ一つが釈迦仏法からの見かたです。
釈迦仏法の話など聞きたくありませんから、
凡夫こそ本仏が、大聖人お一人だけが本仏だという文証を出して下さい。
それと、衆生が本仏では無いとの文証もね。
御書が読めない訳ではありませんよね?
私は、大勝利さんが日蓮仏法の知識があるものだと思い、それを前提でお話をしていましたが
私の認識が間違っていたようです。
ですから、私の主張した「本迹」「本仏と迹仏」が間違っている。という文証を出して下さい。
私の言っている意味が解りますか?
釈迦仏法や天台教学、日寛教学からの考え方では無く、
大聖人の仏法から見た考え方で、それに伴う文証を出して下さい。
確かな文証を提示戴ければ、それで終りにしますが、いかがですか?
文証を出して下さいね。
- 232 :沖浦克治:2010/09/25(土) 21:23:26 ID:e1ngYF3Uo
- 種脱相対は、大聖人の仏法と釈迦仏法の対比ですが、あくまでも当時の常識であった、釈迦仏法の立場を抜け出ていません。
大聖人の仏法は本当は、種と脱を兼ね備えています。
ですので、種脱相対で釈迦仏法と比較して大聖人の仏法を見れば、真実は見えません。
一切衆生が久遠からの仏ですから、本から善があって当然です。
釈迦仏法の立場を一度捨てないと、大聖人の仏法は理解できませんし、創価思想はなおさらですね。
- 233 :沖浦克治:2010/09/25(土) 22:15:00 ID:Rzh0oI0U0
- 雨煽りさん
>大勝利さんの考え方は釈迦仏法です。一つ一つが釈迦仏法からの見かたです。
釈迦仏法の話など聞きたくありませんから、
この表現は良くないと存じます。
対話を拒否していると取られかねません。
お気をつけてくださいませ。
- 234 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/25(土) 22:22:16 ID:8FNX.yWoO
- 先ほど、仕事から帰宅o(^-^)o!。
夕飯はカレーでしたo(^-^)o!。
昨日の記念日を祝う意味で、嫁さまにヤッスイ(安)赤ワインをプレゼントしましたら、カレーの隠し味に使ったよ。って言ってました(#^.^#)。いつものカレーより可憐で鰈(華麗)な鰺(味)でしたo(^-^)o!。
>>228
あさん。こんばんはm(__)m。
その通りで〜〜〜す\^o^/♪!。
>>225
大勝利さん。こんばんはm(__)m。
ありがとうございます(^0^)/♪!。
不軽菩薩は、シャク仏。って事で宜しいです………か?。
では、視点を変えます。
虚空会の儀式に、皆さんは参加なさいましたか?。
前世を占える占い師なら、すぐに見抜けるはずですが(^_^;)。
ワタシ達は………
どうなんでしょうかネ(^_^;)。
仏法観で見てみると、ワタシ達でも創造できそうですねo(^-^)o!。
こういう質問はどうですかね(^_^;)。
- 235 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/25(土) 22:32:06 ID:8FNX.yWoO
- >>222
もう少しの日々でーーす\^o^/♪!。
大白蓮華の任用試験の再勉強と、再考察をして、頑張りまーす(^0^)/♪!。
- 236 :あ:2010/09/25(土) 22:38:13 ID:gkxbF11E0
- 第五見大宝塔住在空中の事 御義口伝に云く見大宝塔とは我等が一身なり住在空中とは我等衆生終に滅に帰する事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて信心に住する処が住在空中なり虚空会に住するなり。
/////////////////////////////////////////////////////
お題目あげてる時なんですね。
- 237 :雨煽り:2010/09/25(土) 23:00:35 ID:Pssg0Hu.0
- >>233
はい、気をつけますm(__)m
- 238 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/25(土) 23:04:20 ID:8FNX.yWoO
- >>236
って事は……
あげてない時は???。
- 239 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/25(土) 23:11:07 ID:8FNX.yWoO
- >>236
【今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて信心に住する処】
これをどう読むか、どう感じるかだと思います。
不軽菩薩の時代には、【南無妙法蓮華経】がありませんでしたね!。
大勝利さんも一緒に考えていきましょうo(^-^)o!!。
では、少ししたらお風呂です(^_^;)。
- 240 :日々前進(朗らか) ◆TFKQq1Qllc:2010/09/25(土) 23:19:58 ID:8FNX.yWoO
- >>238
でわ、もう少しツッコンデo(^-^)o!「あ」さんに……。
1.御本尊に題目を唱えている時。
2.事情により御本尊がない場所で、題目を唱えている時。
3.全く唱えていない時。
1〜3全て学会員だと定義します。
虚空会の儀式に関係あるのは?どの学会員ですか?。
ワタシは全部の学会員が関係あると思っています。
- 241 :あ:2010/09/26(日) 06:05:49 ID:gkxbF11E0
- >>240
まず 全ての 森羅三千が 南無妙法蓮華経です。
全てが 南無妙法蓮華経なのだから
当然 私たちも 南無妙法蓮華経なんです。
それが、キリストでも 親鸞 日顕 でもです。
だから 自分が 南無妙法蓮華経なんだと 信じる事なんです。
南無妙法蓮華経が自分だと 信じて南無妙法蓮華経を唱える事を 信心と
言うのです。
紙の曼荼羅本尊は森羅三千を顕したものです。
その 森羅三千である南無妙法蓮華経を顕した紙の曼荼羅本尊は
日々さんを 顕したものなんです。
日々さんの実体は 森羅三千なんです。
後は 日々さん自身が南無妙法蓮華経なんだと 信じて題目を唱えられるか
どうかなんです。
だから
日々さんが 本尊であり
日々さんが 題目であり
日々さんが 戒壇なんです。
あくまでも 紙の曼荼羅本尊は 日々さんの実相を 顕したものです。
- 242 :あ:2010/09/26(日) 06:28:27 ID:gkxbF11E0
- 大勝利さん おはようございます。
大勝利さんは、日寛上人の教えから 大聖人の仏法をみているから 限界が
あるんです。
大聖人の仏法(御書)から 見ていけば いいのです。
御書から 日寛教学を見ていけば 日寛教学の問題点が はっきり 見えて
きます。
日寛教学の問題点が すなわち 日蓮正宗の問題点です。
大勝利さんの 視点が変われば 大勝利さんの 豊富な教学力が
大きな前進の糧になります。期待したいです。
私は教学力はありませんが、
信心の仕方は、
「故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。」
を そのまま実践しようとしています。
では 失礼します。
- 243 :あ:2010/09/26(日) 06:34:16 ID:gkxbF11E0
- >>240
日々さん おはようございます。
虚空会の儀式は 日々さんの中で 行われているんです。
- 244 :沖浦克治:2010/09/26(日) 07:38:02 ID:SVN/nLw2o
- 日々さん
座談会行くでしょう。
そのまま、そこが虚空会です。
ご本尊に唱題するじゃないですか。
それも同じです。
車で題目唱えます。
ここもそうです。
夜寝ますね。
虚空会で寝ています。
- 245 :沖浦克治:2010/09/26(日) 07:39:06 ID:SVN/nLw2o
- 日々さん
地球ね、宇宙に浮いてるじゃないですか。
そのマンマ、虚空会ですよ。
- 246 :大勝利:2010/09/26(日) 17:54:34 ID:MYqDk7aIO
- >231
本仏が一人とは大聖人が言ってます。
沢山ありますが、真言見聞
「娑婆世界の仏と云はば世に二仏無く国に二主無きは聖教の通判なり」
- 247 :大勝利:2010/09/26(日) 18:03:32 ID:MYqDk7aIO
- >231
転重軽受法門
「末法には日蓮一人身に読みて候」
- 248 :大勝利:2010/09/26(日) 18:34:52 ID:MYqDk7aIO
- >231
雨煽りさん、あ さん
の言ってることの方が、天台本覚思想の「凡聖一如」にそっくりでしょう。
対して大聖人は、本尊と修行を確立して天台との違いははっきりして行ってると思います。
あ さんは、
己中説法門、理行の題目喩えると
「目的は本で手段は迹」は理の上、教相の本迹。
実相から見れば、手段を行う主体が「本」で「目的と手段」は「迹」になる。
「妙法は本・唱うる日蓮は迹なり」P863
- 249 :日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/09/26(日) 21:09:09 ID:8FNX.yWoO
- あさん。沖浦さん。大勝利さん。こんばんはm(__)m。
有意義な対話になりそうですね!。
今日は、仕事でした(^_^;)。
娘ッコ、セガレ君、嫁さまは、ワタシが仕事中に、映画を見に行ってきたそうです(^_^;)。
「ベック」を見てきたって言ってました(^0^)/!。
これから「ルーキーズ〜卒業〜」の地上波アナログ放送(TBS系列)を見ます。
一年前に劇場で家族見た映画ですo(^-^)o!。
子供たちは、すでにお風呂を済ませて、臨戦態勢ですo(^-^)o!。
『夢にときめけ!明日にきらめけっ!!』
ワタシのイチ押しキャラは、平塚クンですo(^-^)o!。
追伸、>>248
大勝利さん。貴重な御文、ありがとうございますm(__)m。
- 250 :日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/09/26(日) 22:18:37 ID:8FNX.yWoO
- >>245
て!ことは、、って!事は!!。
この掲示板も………
虚空会。
ですか?。
今度は、雨煽りさんに聞いてみたいなo(^-^)o♪。
- 251 :日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/09/26(日) 22:35:07 ID:8FNX.yWoO
- >>250
先に申し"アゲて"、"オキ"ますね。
スレを上げると、沖浦さんの板って事で、その言葉を掛けました(^0^)/。
……ワタシの考えは、
「虚空会」だと思います。
- 252 :雨煽り:2010/09/27(月) 02:32:16 ID:Pssg0Hu.0
- 大勝利さん
>>246
>本仏が一人とは大聖人が言ってます。
沢山ありますが、真言見聞
「娑婆世界の仏と云はば世に二仏無く国に二主無きは聖教の通判なり」
この本仏とは、釈迦を指すのではありませんか。
とすると、大聖人は本仏では無いという事になりますよ。
大聖人を本仏だとすれば釈迦が本仏では無いという事になって、法華経は仏教では無いという事ですよ。
それでいいのですか?
しかも、この文証のどこが、凡夫こそ本仏は大聖人お一人だけで我等衆生は本仏では無い。という文証になるのですか?
説明して下さいね。
>>247
>転重軽受法門
>「末法には日蓮一人身に読みて候」
この文証、間違ってないですか?
転重軽受法門にはこの文証がありませんが。
で、転重軽受法門には、仏や本仏等の話がありません。難・迫害の話ですが。
確認して下さいね。
- 253 :雨煽り:2010/09/27(月) 02:41:34 ID:Pssg0Hu.0
- 日々さん
今日は唱題の日と決めて5時間唱題しました。
で、こんな時間です。
霊山一会厳然未散ですから、
どこに居ても何をしていても、
そこは霊山、虚空会です。そして戒壇です。
- 254 :雨煽り:2010/09/27(月) 03:22:36 ID:Pssg0Hu.0
-
大勝利さん
『請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓に纏れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ』(四信五品抄)
八十万億劫に供養せし大菩薩が本未有善ですか?
天子の襁褓に纏われているのですから、長じては天皇になるという事ですよ。
どこに善根が無いのですか?
本未有善とは釈迦仏法の下種が無いという事で、下種が無いので、随って三益も無いのです。
ところが、地涌の菩薩は久遠より教化されて来ていて、虚空会で出現したのでしょ。
で、付属を受けて末法に広宣流布するのですね。
どこが、善根が無いのですか?久遠より教化されているのに?
地湧の菩薩は迹化や他方の仏よりも位の高い菩薩なのですよ。
大勝利さんが、もし、自分自身を地涌の菩薩では無いとお思いなら、本未有善です。
私は地涌の菩薩ですから本未有善ではありません。
善根いっぱいで、成仏するところを敢えて末法に生まれんが為、自ら悪業を作ったのです。
で、その悪業により、現世で苦しみますが、苦しむ代わりに本地を思い出し使命の道を進んで行くのです。
大勝利さんも早く地涌の菩薩になられますよう、祈りますね。
- 255 :雨煽り:2010/09/27(月) 04:03:12 ID:Pssg0Hu.0
- おっと…ひとつ見逃していました
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ネムイ(p_-)
>>248
>天台本覚思想の「凡聖一如」にそっくりでしょう。
少しね。^^; でも、解らない人が見れば(法華講の難癖連中とか)同じように見えるでしょうが、
必ず南無妙法蓮華経が付随しているでしょ。
つまり、理即のまま何もしないで…ではなく
名字即のまま唱題をして…の仏ですから、正論でしょう。と私は理解してます。
大聖人と天台の仏法の決定的違いは
理事本迹と事理本迹の違いです。
天台は不変真如を本と立てました。(迹面本裏)
大聖人は随縁真如を本と立てておられます。。(本面迹裏)
つまり、天台は、理の一念三千を本としたのですが、(一念三千の法理)
大聖人は、事の一念三千を本としました。(御本尊は法理・不変真如で迹。)
事の一念三千とは、随縁真如ですから、我等衆生が仏と成いていく現実の姿の有様です。
事理本迹とは、我等衆生が本・仏が迹ということです。(事とは成仏の智恵)
大勝利さん、立て分けというものがあるのですから、
仏・本仏・迹仏・本・迹…等、同じ言葉を使っても、立て分けによって
多少意味は違ってくるのですよ・
違う立て分けを同じに論じてはならないのです。意味が混同しますからね。
- 256 :沖浦克治:2010/09/27(月) 11:13:22 ID:AJ3hr85o0
- 本仏は大聖人お一人
これは決まりでしょうね。
但し、一切衆生が同じ可能性を持っています。
大統領は国に一人です。
但し全国民が同じ可能性を持っています。
同じ理屈です。
そして、国民で無い人は、全く可能性を持っていません。
一切衆生でないものは、可能性がありません。
同じですね。
人のことを凡夫と言います。
凡夫には2種類あって、仏と衆生です。
国民には2種類あって、大統領とそれ以外です。
同じです。
でも、国民は全て、条件が整えば大統領になれます。
厳しい条件ですが。
衆生は、全て仏に成る可能性がある。
ここまでが釈迦仏法です。
大聖人は、衆生はそのままで仏だ。
成るのではなく、開く。
そう言う差です。
専制君主の大統領と、主権在民の差です。
- 257 :エバ クララ:2010/09/27(月) 11:57:03 ID:aee/NCXIO
- >>256
「大聖人は、衆生はそのままで仏だ。」
法華経をもってして、です。
そのまま仏だったら、御本尊も、お題目もいりません。
- 258 :あ:2010/09/27(月) 13:14:00 ID:gkxbF11E0
-
大聖人さま と 私たち凡夫 は 同じでしょ。
諸法実相抄
「妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」
凡夫のわれわれが 妙法蓮華経ならば、答えはでてきます。
「かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外は之れ無きなり妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり云云。」
「宝塔即一切衆生一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」
- 259 :雨煽り:2010/09/27(月) 14:26:54 ID:Pssg0Hu.0
- 仏とは、
総じては一切衆生、理即の凡夫で、
別しては名字即、日蓮弟子檀那の事です。
『妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無き』(一念三千法門)
『一切衆生の言悟音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す』
『一切衆生実相の仏なれば妙なり不思議なり』
『理即の凡夫と究竟即の仏と二無きなり』
『六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり』
『自とは別しては釈尊惣じては十界なり、是念とは無作本有の南無妙法蓮華経の一念なり、作しは此の作は有作の作に非ず無作本有の作なり云云、広く十界本有に約して云わば自とは万法己己の当体なり、是念とは地獄の呵責の音其の外一切衆生の念念皆是れ自受用報身の智なり是を念とは云うなり』(御義口伝)
『此の迷悟の二法二なりと雖も法性真如の一理なり』(当体義抄)
- 260 :大勝利:2010/09/27(月) 18:38:31 ID:FfgO/4W.0
- >>256
沖浦さん
こんばんは。
その通りと思います。
日寛上人はそのことを
「我等衆生の凡身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身なり。」とまで言われています。
- 261 :大勝利:2010/09/27(月) 18:43:06 ID:FfgO/4W.0
- >>254 雨煽りさん
時間がないのでひとつだけ、
「末法今時は全く是れ久遠元初なり、運末法に居すと雖も而も宗は久遠に立つ、久遠は今に在り今は則ち久遠なり。」
- 262 :雨煽り:2010/09/27(月) 18:50:37 ID:Pssg0Hu.0
- >>257
愚論です。
逆に、御本尊とお題目があったら仏なのか。となります。
仏と成いてなければ仏ではないでしょう。
では、究竟即が仏なのか。
究竟即が仏は間違いないのだが、
凡夫が元々内在している仏を成いただけなのだから、
凡夫こそ仏の実体。
つまり、一切衆生が理即の仏。
- 263 :沖浦克治:2010/09/27(月) 18:52:34 ID:AJ3hr85o0
- 大勝利さん、今晩は
寛師はね、いいところまで行ってるんですが、最後に過ったんです。
日蓮正宗を正当化するために、戒壇本尊本懐論と、一大秘法論をでっちあげた。
だから、駄目なんですよ。
漆千杯に蟹の足です。
- 264 :大勝利:2010/09/27(月) 18:57:58 ID:FfgO/4W.0
- >>255
血脈抄
「迹門を理具の一念三千と云う脱益の法華は本迹共に迹なり、本門を事行の一念三千と云う下種の法華は独一の本門なり」
- 265 :雨煽り:2010/09/27(月) 18:58:35 ID:Pssg0Hu.0
- >>261
大勝利さん
久遠即末法は解りますが…
すいませ〜ん!大勝利さ〜ん!意味がわかりませ〜ん(^^ゞ
- 266 :雨煽り:2010/09/27(月) 19:31:04 ID:Pssg0Hu.0
- 私は、
「御本仏」と「本仏」を使い分けています。
御本仏とは日蓮大聖人で、大本の仏で一切衆生を成仏に導く仏の事、(仏宝)
本仏とは本体のある仏、実体を持つ仏の事としています。(対迹仏)
「御」がついてるだけじゃないか。と言われそうですが、
ただ単に私が勝手に使い分けているだけなので、
他人から見れば意味の無い事かも知れません…^^;
- 267 :釈子・創価門流:2010/09/27(月) 21:54:24 ID:CSmnFY5k0
- >>264
大勝利さん、お手伝いしましょうか?
- 268 :沖浦克治:2010/09/27(月) 22:05:18 ID:AJ3hr85o0
- 基本的な事ですが
寛師は人師です、大聖人や戸田先生とは月と鼈です。
私共は、御書根本。
寛師は参考程度なんです。
所が、寛師を大聖人と並び立つ人にしてしまった。
これが根本的な誤りです。
- 269 :大勝利:2010/09/27(月) 22:30:00 ID:MYqDk7aIO
- >263
沖浦さん
一大秘法は御書に何点か表されてるわけですが、
「一大秘法を留め置き給う」
曾谷入道殿許御書(真)
ここで、「その所属の法は何物ぞや」「妙法蓮華経の五字」と言われているので、一大秘法が本尊と言うのは日寛上人に拘わらずとも御書を読めば明らかなのではないでしょうか?
- 270 :大勝利:2010/09/27(月) 22:47:36 ID:MYqDk7aIO
- 次に60歳の南条殿御返事で、いままでの上行付属の秘法から、
「一大事の秘法を霊鷲山にして相伝」として「法華経の行者の住処」と所を論じられるのですから、日蓮大聖人に一大秘法の戒壇の考えがあったことは窺えると思います。
- 271 :沖浦克治:2010/09/27(月) 22:49:59 ID:AJ3hr85o0
- 一大秘法が本門の本尊であるとして、
その実態は漫荼羅ではございません。
本尊が漫荼羅との考えは間違いです。
漫荼羅は仮の本尊で、実態は衆生己心の妙法です。
それを書き顕したものが、漫荼羅本尊。
本体は衆生の命で南無妙法蓮華経です。
ですので、本門の題目と本門の本尊は、同じものの別命です。
漫荼羅がここに入るからややこしくなります。
- 272 :大勝利:2010/09/27(月) 22:58:27 ID:MYqDk7aIO
- >267
創価門流さん
いえ、更にややこしくなるので、ご勘弁(笑
- 273 :大勝利:2010/09/27(月) 23:43:35 ID:MYqDk7aIO
- 雨さん
こんばんは。
すみません。携帯でお名前が変換できません。
「地湧の菩薩」は本未有善かどうか?ですが、
(これは私論の域を出ないかも知れません)が、確かに地湧の菩薩は久遠下種の機根です。
釈尊己心の地湧の菩薩をが、大聖人は本尊抄で「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」との重要な御文で「始めて世に出現し」と言ってます。
釈尊の初発心の弟子から三五の間一度も世の中に出現すること無く、末法に日蓮が最初になります。熟が全くないことになりますね。
つまり久遠即末法ですから、今が下種脱の本末有善になりますね。
- 274 :沖浦克治:2010/09/28(火) 06:22:42 ID:AJ3hr85o0
- 大勝利さん、おはようございます
人として世に生まれる。
元々善根があるからです。
『人身は得難く天上の絲筋の海底の針に貫けるよりも希に』
(聖愚問答抄)
そして、人と生まれても、よほどの福運がないなら、題目は唱えません。
まして、創価の題目を唱える私共が、過去世でどれほどの大福運を積んだか。
本未有善は釈迦仏法の限界を説明する方便です。
- 275 :雨煽り:2010/09/28(火) 06:43:52 ID:Pssg0Hu.0
- 大勝利さん、おはようございます。
>>273
今回のレスは少し道理らしくなっていますね。
私は、正誤は別として、そんな道理の思考が好きです。
御書を元にして道理で思考する。それこそ仏法だと思いますからね。
>つまり久遠即末法ですから、今が下種脱の本未有善になりますね。
あのね、地涌の菩薩が本未有善なのかどうかなのですよ。
末法という見かたも釈迦仏法から見た見方なのですが、それはいいとして、
その末法が本未有善かどうかではなく、地涌の菩薩の問題なのですよ。
現実に、信心をしている衆生(学会員)というのは地涌の菩薩な訳で、善根の無い菩薩がいる訳がないのです。
善根がなければ菩薩になれないのですからね。
今現在、地涌の菩薩では無い学会員がいるかどうかが現実の問題になり、
自覚の有無があるにせよ、総じて全員地涌の菩薩でしょう。と私は思っています。
地涌の菩薩が眷属拡大と言うか、折伏弘教をしているのだと考えています。
もし、地涌の菩薩では無い学会員がいる。という事なら、私の論は破綻しますが、どうでしょう。
- 276 :沖浦克治:2010/09/28(火) 07:31:02 ID:AJ3hr85o0
- 雨煽りさん
>今回のレスは少し道理らしくなっていますね。
こう言う表現はおやめ下さいませ。
大勝利さんは私の友人で同志です。
貴方もお会いすればきっと好きになります。
対話なんですから、馬鹿にしたように取れる表現は謹んで下さいませ。
- 277 :雨煽り:2010/09/28(火) 09:15:02 ID:Pssg0Hu.0
- 沖浦さん
>>276
>こう言う表現はおやめ下さいませ。
多分、誤解です。
私は揶揄や皮肉のつもりなど、全く無く、今までの大勝利さんのコメントが、私が感じるだけですが、
私にとって、意味がわからなかったり、私の引用している御書を、何ら文証を出すことなく否定されるような
噛み合わないコメントが多かったので、今回のレスは私にも意味がよくわかりますし、道理立てて展開されていると感じましたから、
前述のような表現になりました。(私としては喜んでいるのですが)
しかし、
>馬鹿にしたように取れる表現
と感じられるとの事ですので、お詫びいたします。
>貴方もお会いすればきっと好きになります。
私は嫌っている訳ではありません。お会いしたことは無くても、どちらかと言うと好きです。
私とは全くタイプの違う方で、博識な方のようですので、その人柄には好感を持てます。
だから今現在対話を続けている訳なのです。(対話を続けている理由は理解できないかもしれませんが)
ですが、誤解を招く表現を用いているという事ですので、
以後、気をつけてコメント致します。申し訳ありません。
- 278 :沖浦克治:2010/09/28(火) 09:35:36 ID:AJ3hr85o0
- 雨煽りさん
喧嘩好きの私が、管理人の立場で堅苦しい道徳と説きます。
蕁麻疹がでそうで、そのぶん、大河さんで発散しています。
ご理解いただきました事、感謝申し上げます。
(頭痒い〜〜)
- 279 :あ:2010/09/28(火) 09:39:58 ID:gkxbF11E0
- >>273
おはようございます。大勝利さん
横れす 失礼します。
下種とは?
第七 或失本心或不失者の事
御義口伝に云く本心を失うとは謗法なり
本心とは下種なり不失とは法華経の行者なり失とは本有る物を失う事なり、
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは本心を失わざるなり云云。
●「失とは本有る物を失う事なり」
↓
御講聞書
「九識法性をば、迷悟不二凡聖一如なれば空と云うなり」
- 280 :大勝利:2010/09/28(火) 13:23:40 ID:FfgO/4W.0
- >>275 雨煽りさん
地湧の菩薩は「本未有善」です。
そも意味を>>273で説明したつもりなのですが…。
>末法という見かたも釈迦仏法から見た見方
地湧の菩薩が「釈尊の初発心の弟子」であれば、五百塵点劫の長い間に調熟されて正像二機に脱益されることになります。
つまり「本已有善」の者はすでに(ほとんどが)成仏しているので末法にはいないことになります。
ところが「地湧の菩薩」は末法に出現します。これは地湧の菩薩が久遠元初に大聖人の下種仏法を受けたからでしょう。
久遠元初に下種を受けてから今回末法に始めて世に出現する。
タイムスリップみたいなものだと私は思いますよ(笑
地湧の菩薩も本は本未有善の「凡夫」、今現在が久遠であり下種を受けて地から湧き弘宣流布を行う、正に学会員そのものでしょう。
ただし(ほとんどが)と言ったのは、法華誹謗で仏種断絶の者も末法にまだいくらか残ると思うからです。
- 281 :大勝利:2010/09/28(火) 13:33:33 ID:FfgO/4W.0
- >>279
下種について、それこそ御講聞書に詳しいと思います。
●「失とは本有る物を失う事なり」
良薬を持っても飲まない人や飲んでも毒がつよく効かない人もいますね。
仏種断絶の人も「本未有善」と同じでしょう。大聖人の下種即脱で仏と顕わすことが出来ますね。
- 282 :あ:2010/09/28(火) 14:16:55 ID:gkxbF11E0
- 大勝利さん
御講聞書
「九識法性をば、迷悟不二凡聖一如なれば空と云うなり」
↓
「迷悟不二凡聖一如」の 「凡聖一如」の部分を見てほしかったんです。
続いて
「此の九識法性とは、いかなる所の法界を指すや、
法界とは十界なり、十界即諸法なり、此の諸法の当体本有の妙法蓮華経なり、
此の重に迷う衆生の為に、一仏現じて分別説三するは、九識本法の都を立出ずるなり、
さて終に本の九識に引入する、夫れを法華経とは云うなり、
一切智地とは是れなり、一切智地は我等衆生の心法なり心法即ち妙法なり一切智地とは是なり」
大勝利さんは、大勝利さんの心法が妙法蓮華経だと信じる事ができますよね。
- 283 :大勝利:2010/09/28(火) 14:21:39 ID:FfgO/4W.0
- >>275
あぁそれと、・・・
雨煽りさんは「理即の凡夫」から即妙覚と仰ってるようですが、
私は理即(聞法の位)は、名字(不退転=信)になってからではないかと思います。
以得信入です。
- 284 :あ:2010/09/28(火) 14:29:15 ID:gkxbF11E0
- ●「失とは本有る物を失う事なり」
↓
第七 或失本心或不失者の事
御義口伝に云く本心を失うとは謗法なり
本心とは下種なり不失とは法華経の行者なり失とは本有る物を失う事なり、
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは本心を失わざるなり云云。
↓
「失とは本有る物を失う事なり」
もともとあったんですよ。仏の自覚があったのが 無い状態なんです。
迷悟不二凡聖一如の 迷いの状態なんです。
- 285 :大勝利:2010/09/28(火) 14:31:51 ID:FfgO/4W.0
- >>282
一切衆生に十界があって、誰もが仏界(妙法蓮華経)の体である。
それはそう思いますよ。
その隠れている仏界を湧現するにはどうすれば良いのか?
「あ」さんは、自分の心の妙法を信じればいいと言ってるのでしょう?
だから私はそれではダメだと言ってるのですよ。
自分の心を観るのではなく「御本尊を信じる事」だと言っています。
- 286 :あ:2010/09/28(火) 14:46:15 ID:gkxbF11E0
- 大勝利さん
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ
只我れ等衆生の法華経を持ちて
南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」
↓
大勝利さんの胸中に御本尊はおはしますか?
- 287 :あ:2010/09/28(火) 14:59:21 ID:gkxbF11E0
-
故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は
我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり
////////////////////////////////////////////////////////
大勝利さん
大勝利さんの一念が妙法蓮華経だと 深く 信心してますか?
- 288 :あ:2010/09/28(火) 15:12:36 ID:gkxbF11E0
- 信解品
一念三千
無上宝珠 不求自得
題目
此の文は無始色心本是理性妙境妙智なれば
己心より外に実相を求む可からず所謂南無妙法蓮華経は不求自得なり。
///////////////////////////////////////////////////////
大勝利さん
大勝利さんの己心より外に実相を求めては、いないですよね?
- 289 :あ:2010/09/28(火) 15:23:45 ID:gkxbF11E0
- 五百品
日本国一切衆生 題目御本尊 心法色法 煩悩即菩提生死即涅槃
貧人 見此珠 其心大歓喜
信心ノカタチ
此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く
所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。
//////////////////////////////////////////
大勝利さん
大勝利さんの我心が、「本来の仏なりと知るを即ち大歓喜」と
大聖人は 言われています。
- 290 :大勝利:2010/09/28(火) 17:31:52 ID:FfgO/4W.0
- >>289
いいえ。
御本尊に向かい唱題するのが「歓喜の中の大歓喜」です。
- 291 :あ:2010/09/28(火) 17:48:36 ID:gkxbF11E0
- 大勝利さんの 御本尊は?
////////////////////////////////////////////////
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ
只我れ等衆生の法華経を持ちて
南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」
//////////////////////////////////////////////////////
↓
大勝利さんの胸中におはします 御本尊の事ですか?
- 292 :あ:2010/09/28(火) 18:10:40 ID:gkxbF11E0
- >>280
大勝利さん
先ほど
「地湧の菩薩」を 調べたんですけど、御書には、無いのではないでしょうか?
間違いでしたら、ごめんなさい。
> ところが「地湧の菩薩」は末法に出現します。
これは地湧の菩薩が久遠元初に大聖人の下種仏法を受けたからでしょう。
「地湧」で調べると下記の御書があります。
一 宝塔品
御義口伝に云く此の宝塔は宝浄世界より涌現するなり、
其の宝浄世界の仏とは事相の義をば且らく之を置く、
証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、
宝塔とは我等が五輪五大なり然るに託胎の胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、
凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地湧出と云うなり、
妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり、
蓮華の宝浄なれば十界の胎内悉く無垢清浄の世界なり、
妙法の地輪なれば十界に亘るなり蓮華の地なれば清浄地なり、
妙法の宝浄なれば我等が身体は清浄の宝塔なり
妙法蓮華の涌出なれば十界の出胎の産門本来清浄の宝塔なり、
法界の塔婆にして十法界即塔婆なり妙法の二仏なれば十界三千皆境智の二仏なり、
妙法の一座には三千の心性皆以て二尊の所座なり妙法蓮華二仏一座なれば不思議なり清浄なり、
妙法蓮華の見なれば十界の衆生三千の群類皆自身の塔婆を見るなり、
十界の不同なれども己が身を見るは三千具足の塔を見るなり己の心を見るは三千具足の仏を見るなり、
分身とは父母より相続する分身の意なり、
迷う時は流転の分身なり悟る時は果中の分身なり、
さて分身の起る処を習うには地獄を習うなり、
かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外は之れ無きなり妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり云云。
↓
ここでも、 宝塔は、私たち衆生だと言われています。 私たちが 南無妙法蓮華経なんだと。
「かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外は之れ無きなり妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり云云。
」
↓
「宝塔即一切衆生一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」
- 293 :大勝利:2010/09/28(火) 18:18:09 ID:FfgO/4W.0
- >>291
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ」
ここで言われている「余所」というのは「胸中の肉団=心の中の他」との意味ではないと思います。
「余所」と言うのは「この現実世界の他」を指して言われているのではないでしょうか?
「あ」さんは、御本尊を心のなかの空想世界、観念の世界に求めているにすぎないのではないでしょうか?
「御本尊を実在以外に求めてはいけません」と言ってるのではないでしょうか?
実在しているからこそ「胸中の肉団におはす」のではないでしょうか?
「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はずただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふこれにまよふを凡夫と云う」(上野殿後家尼御返事)
- 294 :あ:2010/09/28(火) 18:24:15 ID:gkxbF11E0
- 大勝利さん
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ
只我れ等衆生の法華経を持ちて
南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」
上記の文を読んで、御本尊は、どこに おはしますか?
- 295 :あ:2010/09/28(火) 18:32:56 ID:gkxbF11E0
- >「あ」さんは、御本尊を心のなかの空想世界、観念の世界に求めているにすぎないのではないでしょうか?
>「御本尊を実在以外に求めてはいけません」と言ってるのではないでしょうか?
>実在しているからこそ「胸中の肉団におはす」のではないでしょうか?
御本尊は、実在しているんですよ。
↓
「宝塔即一切衆生一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」
実在してたでしょ。 我々の事ですよ
- 296 :大勝利:2010/09/28(火) 18:33:25 ID:FfgO/4W.0
- 家の仏壇におはします。
- 297 :あ:2010/09/28(火) 18:43:29 ID:gkxbF11E0
- 大勝利さん
大勝利さんの家の仏壇にある 曼荼羅本尊が
南無妙法蓮華経と 唱える大勝利さんの胸中の肉団にあるんだ と
読むのです。
もう一度 御文を確認してみてください。
そのように、信じていくんですよ。
↓
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ
只我れ等衆生の法華経を持ちて
南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」
- 298 :大勝利:2010/09/28(火) 18:47:21 ID:MYqDk7aIO
- ゴメン
冗談。
南無妙法蓮華経は私の生命にあるし、生死の二法は当体におはします。
- 299 :あ:2010/09/28(火) 18:50:00 ID:gkxbF11E0
- 大勝利さん
曼荼羅本尊が 表現しているものは、森羅三千です。
あくまでも、表現しているだけです。
その 森羅三千が 実は 衆生なんだと 信じられるか? どうかなんです。
森羅三千 すなわち、 その名前 南無妙法蓮華経 が
自分なんだと 信じて お題目をあげる事を 信心と 言うのです。
- 300 :あ:2010/09/28(火) 19:00:05 ID:gkxbF11E0
- 大勝利さん
「故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は
我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。」
↑上記のように、
大勝利さんが お題目を唱える時は
大勝利さんの一念をさして 南無妙法蓮華経なんだと 深く 信心する事を
お勧めします。
- 301 :大勝利:2010/09/28(火) 19:19:23 ID:MYqDk7aIO
- >299
表現しているだけで何故功徳が出るんでしょうね?
「あ」さんは御本尊に唱題した功徳の体験がないのですか?
- 302 :あ:2010/09/28(火) 19:39:33 ID:gkxbF11E0
- 大勝利さん
南無妙法蓮華経と 唱える事が 出来る自体 わたしにとっては、功徳ですよ。
「然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり」
私には、これより他の才覚いらないみたいですから。
- 303 :あ:2010/09/28(火) 19:45:02 ID:gkxbF11E0
- だ
- 304 :あ:2010/09/28(火) 19:49:53 ID:gkxbF11E0
- 大勝利さん
されば此の如我等無異の文肝要なり、
如我昔所願は本因妙如我等無異は本果妙なり
妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや
- 305 :日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/09/28(火) 20:11:47 ID:8FNX.yWoO
- 命の設計図。書き顕した鏡。御本尊。………。
「自分の命(ピッチャー=投手)」と「御本尊(キャッチャー=捕手)」。
それは、バッテリーの関係。
バッテリーと云えば、蓄電器?。
それって?パワーの源。って事か?。
コントロールの悪いピッチャーだから、悪送球もあるかも……。
でもどんな球でも受けてくれる。
全衆生を対象にした、キャッチャーです。
コントロール悪い時は、練習しないと(-.-;)。
でも、悪いままでも、コントロール悪くても、18メートルの距離から球が届かなくても……、
ピッチャーはピッチャー。差別なく皆さんピッチャー。
そして、小高いマウンドは舞台………。
全衆生、全民衆の人生の舞台。
ピッチャーにはキャッチャーが絶対必要。
アドバイスをくれるキャッチャーが必要。
だから御本尊をこの世に顕した大聖人。だから御本仏。
釈迦じゃない。
これ、ワタシの考え。所謂=主観の類い。
御書に照らしてどうかが問題。
御書籍に、ピッチャーキャッチャーなどは当然、載っておりません。
誤解しないでください。
(皆さん、御書の一節がバンバン出てきて素晴らしいと思いました。ワタシのは……息抜き?生き抜き?ガス抜き?のネタにしてくださいm(__)m。)
この考え………間違ってますか(*_*)?
止めたほうが宜しいでしょうか……。
アドバイスお願いいたしますm(__)m。
- 306 :あ:2010/09/28(火) 21:58:58 ID:gkxbF11E0
- >>305
日々さん こんばんわ
鏡に写った鏡の中の日々さん と 日々さんが写っている鏡をみている日々さん
本体は、どっち?
>これ、ワタシの考え。所謂=主観の類い。
どんな人でも、
日々さんと同じで、わたしも含めて
「ワタシの考え。所謂=主観の類い。」で 生きているんでしょうね。
ま 沖浦さんの投稿みなかったら、私は大勝利さんと同じ考え方をしていたでしょうから。
人それぞれ、信仰の対象が同じであっても、同じようには、信仰をしていないのですから
どうせ生きるんですから、信じたい信仰の仕方を選択すればいいのだと 思います。
わたしは、己心の妙法蓮華経の本尊すなわち自分が妙法蓮華経だと信じて題目をあげていきます。
日々さんは、日々さんの信じる信仰で幸せになってください。
わたしは、己心の妙法蓮華経の本尊すなわち自分が妙法蓮華経だと信じる信仰を日々さんには、勧めたいですが。
- 307 :日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/09/28(火) 22:26:32 ID:8FNX.yWoO
- >>306
あさん。こんばんはm(__)m。
【>わたしは、己心の妙法蓮華経の本尊すなわち自分が妙法蓮華経だと信じる信仰を日々さんには、勧めたいですが。】
私もそう考えておりますよ。
【「大宇宙」と「小宇宙」】ですからネ!。
『宇宙根源の法である南無妙法蓮華経』ですからネ!
それを大聖人が悟られて御図顕されたのが御本尊。ですからね!。
【受持即観心】の上で、自身(小宇宙)の可能性(内在した仏の命)を信じる!!
私も、基本的にあさんと考えは同じ?似てる?かもしれません。
text(掲示板の会話)ですから、百パー(%)迄は、辿り着けませんけど(^_^メ)!。
因みに、さっきの話し。
ピッチャーは、キャッチャーを信じてないとバッテリーは組めません(^_^メ)。
それと「あ」さんの鏡の例え。
任用試験範囲(大白蓮華10月号)の「信行学の実践」の"行"の項目(91頁)に載ってましたo(^-^)o!。
今日は、テレビの日じゃなく、学ぶ日ですo(^-^)o!。
- 308 :日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/09/28(火) 23:04:33 ID:8FNX.yWoO
- 今日は大白蓮華10月号の任用試験範囲を学んでおります。
《4信行学の実践》の中に、このような一文がありました。
【そして仏道修行の目的は、まさしく自分自身の生命の内に秘められた仏と等しい命の働きを顕現して……云々】
また
【仏の境涯を自身の生命に顕現するためには、道理に適った実践の持続が必要であり……云々】
とあります。
私はここで疑問に思ったのであります。
前述の文章の【自分自身の生命に秘められた仏と等しい命の働き】と、
後述の文章の【仏の境涯】。
『内在した仏の命』と『仏の境涯』………。
"仏"と、"仏の境涯"と、"本仏"と、"御本仏"。
"宇宙根源の法と自分"などなど(^_^;)
色々と!考えてまーす(^0^)/♪!。
【仏の命】と云えば、南無妙法蓮華経となりますし、
【仏の境涯】と云えば、悩み事が沢山あって、怒る時もあるし、泣きたい時もあるし、笑う時もあったり………。
まだまだだなあ(^_^メ)と思うしo(^-^)o!。
ナハハ(^0^)/♪!
もう寝ますo(^-^)o!皆さま、お休みなさいm(__)m。
- 309 :日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/09/28(火) 23:15:14 ID:8FNX.yWoO
- >>308の続き(^_^;)。
前段に、こういう一文もありました(^0^)。
【仏法では、私たち自身の生命の内に、仏と等しい命の働き、即ち仏界が、本来、厳然と具わっていると説かれます。】
南無妙法蓮華経って……仏界?。
違うよね……九界即仏界だと思ったりして、
だとしたら、"厳然と具わっている。"と………あるし(^_^メ)。
こんな馬鹿をいつもお相手してくれて、ありがとうございますm(__)m。
"馬鹿の身"になって考えて頂ければ幸いです笑っ♪!。
考え出したらキリがないので(-.-;)、次のキリ番も未だのようだし(^_^;)、
では改めて、お休みなさいm(__)m。
- 310 :あ:2010/09/28(火) 23:17:45 ID:gkxbF11E0
- >>308
>後述の文章の【仏の境涯】。
仏の境涯??
「境涯」なんて 言葉 御書には、ないみたいですよ。
間違いでしたら、ごめんなさい。
きょうは、「地湧の菩薩」も 御書に無い事も知り、少しびっくりです。
すこし ??? です。
日々さん おやすみなさい。 では
- 311 :日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/09/28(火) 23:33:24 ID:8FNX.yWoO
- >>310
あさん。お休みなさいm(__)m。
私の思索は止まりません(^_^;)。
曼茶羅が九界即仏界を顕していて、題目は仏の命を顕していて、
曼茶羅にも首題であるし、自分の命にもあるし……。
曇った鏡に映る自分は、間違いなく本体だし、磨く行為はお題目を唱える事だし………、
『譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし』
んーーん(^_^;)♪!
寝ますマジでm(__)m。
- 312 :求道の人:2010/09/28(火) 23:34:20 ID:VpWtJTtE0
-
横レス失礼します。
御書では「境涯」ではなく「境界」が多数出てきます。
もちろん「地涌の菩薩」(或いは「地涌菩薩」)も法華取要抄や観心本尊抄等、多数出てきます。特に真蹟断簡には「地涌菩薩」ではなく「地涌の菩薩」とあります。
他者の言を孫引きせず、自身で調べる事が大切だと思います。
- 313 :求道の人:2010/09/28(火) 23:58:17 ID:VpWtJTtE0
-
創価学会の考えでは「鏡」のたとえが通じるかもしれませんが、日蓮大聖人の御真蹟の現存する御書では説明がつかないと思います。
一生成仏抄も真偽未決書です。
日蓮大聖人は弘安三年卯月に盲目乗蓮に御本尊を授与されています。
目の見えない信徒に対しても御本尊を授与されているところにはよく考察すべきところだと思います。
- 314 :あ:2010/09/29(水) 00:00:20 ID:gkxbF11E0
- 「地涌菩薩」御書にありました。
求道の人さん ありがとうございます。
閲覧のみなさん お騒がせしました。
- 315 :求道の人:2010/09/29(水) 00:04:28 ID:VpWtJTtE0
-
あさん、「地湧」は確かにないです。「地涌」です。「境界」と同様漢字が違っているということだと思います。
- 316 :あ:2010/09/29(水) 00:17:30 ID:gkxbF11E0
- 求道の人さん こんばんわ
> 一生成仏抄も真偽未決書です
こまりましたね。
真偽が、どれか 解らないのですから、使っていいやら、いけないやら
大聖人に、聞かないとダメですね。
どの 御書ほんと?って
信心って、教学って 難しいですね。
では、お休みなさい。
- 317 :雨煽り:2010/09/29(水) 00:51:22 ID:Pssg0Hu.0
- >>316
あ さん
>こまりましたね。
富士門スレをROMするか、
現宗研の真蹟遺文を開けばわかります。
ですけどね、創価学会は戸田先生の獄中悟達なのですから…
私流の解釈ですが、戸田先生が感得された仏法を世に表す為の御書でしょう。
明らかな意図のある偽書は別ですが、創価学会版の御書全集は仏法を現しているものとして、
使用していいのではないでしょうか。
特に、学会員に対してはいいと思います。
明らかな偽書を除けば、法華講対論にも使っていいでしょうしね。
- 318 :釈子・創価門流:2010/09/29(水) 00:56:00 ID:CSmnFY5k0
- >>316
「真偽未決」は、沢山あります。
「生死一大事血脈抄」「諸法実相抄(前半部分)」「当体義抄」「御義口伝」
「御講聞書」「本因妙抄」「百六箇抄」「産湯相承」「二箇相承」などなど。
私は、これらはほぼ偽書であろうと思っております。
学術の場では、更に濃厚であるという事は言うまでもありません。
創価学会が、新たなる御書を発刊する予定ですが、内容はあまり変わってないと聞きます。
御書全集には、真蹟・録内・録外・写本などの項目が記載されています。
そのまんま参照とまでは言いませんが、簡単で大まかな参照にはなります。
- 319 :雨煽り:2010/09/29(水) 01:11:10 ID:Pssg0Hu.0
- >>296
>>298
大勝利さん
こんな冗談、私は
だ〜い好き!(^O^)/
吹き出して腹を抱えて笑ってしまいました(●^o^●)
1レス目で吹き出して2レス目で腹を抱え
めっちゃおもろい!(^^)! ハ ラ イタイ〜(@_@;)
それにしても…
大勝利さんも、あ さんも、日々さんも、沖浦さんも、此処の人達、良い人ばっかりだなぁ〜
あっ、私も・・・・・・・・ダメッ?(^^ゞ
- 320 :釈子・創価門流:2010/09/29(水) 01:16:31 ID:CSmnFY5k0
- >>求道の人さん
「天台本覚思想」に付いて、どの様な見解をおもちですか?
- 321 :釈子・創価門流:2010/09/29(水) 01:19:28 ID:CSmnFY5k0
- 続き
偽書・真偽未決の書を除いた場合、「天台本覚思想」が日蓮大聖人の思想として
どうなのかと言う意味になります。
すみませんm(_ _)m
- 322 :求道の人:2010/09/29(水) 02:13:51 ID:5dh..rbk0
-
釈子・創価門流さん、
日蓮大聖人に天台本覚思想は無かったと思います。
但し天台宗には天台本覚的な志向がかなり早くから芽生えていたと思います。
よく天台大師の摩訶止観を「法華経の注釈書」と勘違いする趣がありますが、摩訶止観の中身は行法論ですね。
名は体を示すといいますが、摩訶止観の名の通り、摩訶=大いなるものを止まって観ると書きます。
「大いなるもの」とは人間の心をさすと思います。つまり天台大師の残した行法論は、煎じ詰めて言えば「自身の心を止まって観る」=禅定による解脱です。
それは人間の心の中には既に悟りがあり、それを禅定によって感得し解脱するというものですから、もとより悟りは自身の外にではなく内にある、いわば「本覚」的な要素が十分にあると思います。
しかし日蓮大聖人は釈尊の悟った方法でもなく、天台大師の示した行法論でもなく、「心を観る本尊」=観心本尊として大曼荼羅を残されたと思います。
そこには日蓮大聖人の強調された差別義、正法・像法時代の衆生と末法の衆生は機根か異なるというもの、これがあると思います。
末法の衆生には本覚の種子はないので、禅定によって自身の心を見つめても悟りには至らない、末法の衆生は本尊への信をもって心を観てこそ、初めて悟りにいたる事ができる。
概略このようなイメージではないかと思います。
- 323 :沖浦克治:2010/09/29(水) 06:20:24 ID:AJ3hr85o0
- 雨煽りさん、おはようございます
私共創価の人間は創価思想を奉じます。
その創価思想の原点が戸田先生の獄中の悟達です。
ですので、御書経文も、戸田先生を通じて読めばいいですね。
そのほかは余事です。
但しそのようなお方も時代に束縛をされます。
ですので、日蓮正宗信徒としてのお立場の、戸田先生のご指導はストレートに受け取ってはなりません。
大聖人の、教主釈尊と同じです。
- 324 :雨煽り:2010/09/29(水) 08:02:38 ID:Pssg0Hu.0
- >>323
沖浦さん、おはようございます。
全面的に賛同致します。
時代と共に「時」は変わりますね。
それが解らない人は、今頃戸田先生の指導を持ち出して云云しいていますが…
朝一から散歩寄り道ですね。
頭の痒いのは治りましたか?(^^)v
- 325 :日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/09/29(水) 12:51:33 ID:8FNX.yWoO
- あさん。大勝利さん。雨煽りさん。沖浦さん。皆々様。こんにちはm(__)m。
チラ見ですけど、今回の任用試験御書三編の『阿仏房御書』を見ました。
今晩、じっくりと思索したいと思います。
- 326 :大勝利:2010/09/29(水) 13:12:37 ID:FfgO/4W.0
- >>318 釈子・創価門流さん
偽書を造る動機はいろいろとあるでしょうが、
「大聖人の仏法を本覚よりに近づけて自門に箔をつけたい」のが大雑把ですが凡そでしょう。
となれば、当然出尽くされた本覚思想に大聖人の思想をミックスするのだろうと思います。
本覚が偽経を作るのにあまり罪悪感を持たなかったのは、自分の発見発想を重要視し己心の探求に終始しすぎた為ではないかと考えます。
私は大聖人が本覚を取り入れ弟子にも説明したと思いますが、真意の目的ではなかったと思っております。
- 327 :大勝利:2010/09/29(水) 13:30:01 ID:FfgO/4W.0
- >>313 求道の人さん はじめまして。
貴重な御意見ありがとうございます。
目の悪い御方や、字が読めない御方、喋れない御方、聞こえない御方、
赤子、胎児に至るまで今世に仏と成るには、「首にかけたもう御本尊」との表現は絶妙だと思います。
御書には、「お守り」が2箇所出てきます。
これがお守り御本尊であれば、大聖人の曼荼羅御本尊の考え方は、「修行の対境」のみの枠には納まらないだろうと私は思います。
- 328 :大勝利:2010/09/29(水) 16:44:39 ID:FfgO/4W.0
- >>327
失礼
妙心尼御前御返事を入れると3点でした。
亀姫本尊を入れると4点で全女性宛てなのも気になるところではありますが、
中でも、「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ」の
経王殿御返事の御本尊を「守り」と言っているのは見逃せないと思います。
- 329 :求道の人:2010/09/29(水) 17:35:14 ID:s7H6aQ9I0
-
大勝利さん、はじめまして。
盲目乗蓮授与の御本尊も、亀姫授与の御本尊も、共に一紙で大きさからいえばどちらも御守り的な要素が高いようですね。
現在のように表装されていなかったでしょうから、恐らく日蓮大聖人も700年以上の未来にこれらの御守りが残っているとはおもってもみなかったであろうと思います。
しかしそれが大切に受継がれ、現在まで残っていてくれていることに、御守りに護られながらも逆にそれを護り伝えてくださった先人達に感謝したいです。
- 330 :釈子・創価門流:2010/09/29(水) 18:25:52 ID:tS0VJAUw0
- >>327
>>328
御真蹟曼荼羅の画像です。
【40番 京都 立本寺蔵-龜姫】
建治二年太才丙子八月十四日
http://homepage3.nifty.com/juhoukai/mandara/040.html
折り目がついてますね。
縦に折るより、横折りですかね?
【91番 京都 本圀寺蔵-盲目乗蓮】
弘安三年太才庚辰卯月十三日
http://homepage3.nifty.com/juhoukai/mandara/091.html
- 331 :釈子・創価門流:2010/09/29(水) 18:34:25 ID:tS0VJAUw0
- >>322
求道の人さん
「天台本覚思想」の見解、ありがとうございます。
仰られる通りだと思います。
>>326
大勝利さん
「「大聖人の仏法を本覚よりに近づけて自門に箔をつけたい」のが大雑把ですが凡そでしょう」
「私は大聖人が本覚を取り入れ弟子にも説明したと思いますが、真意の目的ではなかったと思っております」
同感致します。
- 332 :釈子・創価門流:2010/09/29(水) 18:49:33 ID:tS0VJAUw0
- 沖浦さん
・大聖人の、教主釈尊と同じです。
➪戸田先生の正宗外護時代の御指導と今現在の創価学会指導とのズレに関しては、
時の観点という事で、理解は出来ますが、「大聖人の、教主釈尊と同じです」は良いところ
どりでは?と思いますよ。
この釈解も、日蓮正宗の伝統的な解釈になります。
➪今現在の創価学会は、日蓮正宗の教義を100%とはいいませんが、基にしているのも
事実です。
それを認識した上うえで仰られているのですか?
- 333 :求道の人:2010/09/29(水) 19:37:22 ID:s7H6aQ9I0
-
>330
釈子・創価門流さん、安40番は一紙ですから、これは明らかに折り目だと思います。
やはり折りたたんで懐中本尊というか、現代風でいえば携帯御本尊、御守りということなんでしょうね。
来年の夏(確か8月26日)は実物を見に行きたいと思いました。
- 334 :求道の人:2010/09/29(水) 19:58:41 ID:s7H6aQ9I0
-
>>330
京都立本寺でご真筆御本尊を拝せるのは8月24日でした。
失礼しました。
http://honzan.ryuhonji.nichiren-shu.jp/link04/link04.htm
- 335 :沖浦克治:2010/09/29(水) 20:33:57 ID:AJ3hr85o0
- 釈子・創価門流さん、今晩は
大聖人が御出現にならなければ、釈迦仏法は嘘を説いたことになります。
嘘なら、教えは消滅します。
正に嘘になる寸前、大聖人が法華経を身でお読みになられたのです。
ですので、釈迦の仏法の全ては大聖人の法に含まれます。
同じく、大聖人の仏法が正に隠没先とした時、戸田先生が御出現になられ、大聖人の仏法を身でお読みになられました。
ですので、大聖人の仏法は、戸田先生の創価思想に全て包含されています。
私共は、それだけで充分なのですよ。
- 336 :大勝利:2010/09/29(水) 20:34:08 ID:MYqDk7aIO
- >>330
釈子・創価門流さん
サイトの紹介ありがとう。
花押の中に「護也」
これは大聖人の大確信を感じます。
- 337 :あ:2010/09/29(水) 21:06:01 ID:gkxbF11E0
- >>318 釈子・創価門流さん
こんばんは
>「真偽未決」は、沢山あります。
>「生死一大事血脈抄」「諸法実相抄(前半部分)」「当体義抄」「御義口伝」
上記の中の
御義口伝が なぜ 偽書なのかを 詳しくしりたいのですが
教えて いただけないでしょうか?
御義口伝の内容の破折をお願いします。
御義口伝の内容の破折が、納得できましたら、この御文は、使えないと 思いますので。
御義口伝の内容の破折が、納得できませんでしたら、この御文を 活用して いきたいと思います。
素人のわたしでも よくわかる様に 説明お願いします。よろしく お願いします。
- 338 :日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/09/29(水) 21:30:14 ID:8FNX.yWoO
- 横から失礼。
「御義口伝」がなんですと???。
偽書??
私には、影響されませんし、関係ありませんね。
私は、池田先生の御義口伝を通しての講義や指導を信じております。
偽だろうが本当だろうが、私には関係ありません。
と同時に、【別スレを立てて】もしくは【教義スレで継続して】、やっては頂けませんか?。
偽だとか真だとか……。
日寛教学に関係ありますか?。
ゴチャゴチャして敵いません(-.-;)。
たしかに「対話」なんですから、仕方ないですが(^O^)。
私からの希望というか、要望といいますか……。
そんな感じで捉えて頂くとありがたいです。
ところで、大勝利さんは、
そういう話しに興味があるのですか?。
- 339 :あ:2010/09/29(水) 21:44:51 ID:gkxbF11E0
- >>318 釈子・創価門流さん
先ほどの御義口伝の話ですが。
教義再考 スレで移動して教えてください、よろしくお願いします。
- 340 :あ:2010/09/29(水) 21:54:16 ID:gkxbF11E0
- >>338
日々さん こんばんわ
> 偽だろうが本当だろうが、私には関係ありません。
この姿勢は??? ↑ です。
- 341 :日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/09/29(水) 22:16:27 ID:8FNX.yWoO
- >>340
あさん。こんばんはm(__)m。
だって、【御書】にありますよ(゜▽゜)!!。
それで充分です。
これが、私見(私観)です。
- 342 :日々前進(朗らか) ◆kzJPIT27Ks:2010/11/30(火) 18:32:39 ID:8FNX.yWoO
- 【楠板】から転載(元を辿れば、ゴーマンの剣板?)します。
ハンドルName、太陽の子さんの投稿。(以下、転載)
Re: 太陽の子 さん、おはようございます 投稿者:太陽の子 投稿日:2010年11月30日(火)09時48分28秒 proxy10061.docomo.ne.jp
一言でいうと、面倒くさいんですよ。
突っ込み処満載で(笑)
貴方は寛師教学を捨てたと公言しておりますが、先生は今でも多々引用され、
戸田先生は「寛師に還れ!」とまで言われています。
師が捨ててないものを貴方は勝手に捨てた。これは師敵対の謗法ですね。
捨てる捨てないは会長の専任事項です。
成る程、貴方の板には非公認非公式となっていますから、個人的に何を言っても
構いませんが、法華講の板に来て創価教学でないものを、あたかも創価教学の様に
振る舞うのを止めて下さいと言ってるのです。
貴方が何を言おうが、それは貴方自身の内部規定であって
創価学会には通用しません。
…………………………………………
果たして、そうなのでしょうか……。
【>戸田先生は「寛師に還れ!」とまで言われています。】
と太陽の子さんは言っておりますが、
戸田先生の時代(日蓮正宗創価学会時代)は、確かにそうでしょう。
しかし!!。池田先生は【大聖人の時代に還れ!】と申しております。
池田先生も、寛師を通して指導されておりました。
「特に、頻繁にあったのが、寛師の御本尊の授与が、某住職のご厚意により、行われた時代です。」
私は考えます。何故だったのかを………。
その時期は、《仏子である全ての学会員の疑い(魔)を微塵もなく晴らすべき時!!だったから》です。
と、私は思います。
【戸田先生は「寛師に還れ!」とまで言われています。】というカキコミは、「旧学会員現在法●講」の方の投稿だと、私は思います。
これをあたかも沖浦さんが批判されてる事をいい事に、【楠慰他】に貼付ける(しかも無名で)事を容認する【楠板】は、どうかと思います。
戸田先生の弟子!池田先生は
【大聖人の時代に還れっ!】とおっしゃっていますっ!!。
そういう意味から【楠板】は、間違っていると思います。
(私、【楠板】アク禁のため、コチラを使わせて頂きましたm(__)m。)
*
- 343 :求道の人:2010/11/30(火) 22:28:49 ID:yrxG4b3w0
-
>>1
石山48世日量師著『続家中抄』には、「諸堂塔を修理造営し絶を継ぎ廃を興す勲功莫大なり、頗る中興の祖と謂ふべき者か」と、日精師を日有師と同じく石山の中興と云われています。
ウイキペィアにある、「明治以前までは、大石寺の中興二世とは日有・日精であった。その頃は、現代中興二世に立てられている日寛は、入っていなかった。その後、日亨の研究により、日寛が中興二世にたてられるに及び、外された。」というのもまんざらではないでしょう。
- 344 :沖浦克治:2010/12/01(水) 07:17:58 ID:AJ3hr85o0
- 寛師が見直されたのは、近年です。
昔は、精師が上で、寛師は軽んぜられていました。
私共地涌の菩薩から見れば、どっちもどっちで、どんぐりの背比べです。
- 345 :沖浦克治:2010/12/01(水) 07:20:31 ID:AJ3hr85o0
- 日亨さんと、寛師は似ていると思います。
教学に長けていますし、それなりの良識派でした。
ただ、お二人とも、創価学会出現のために出た人ですが、ご本人はそれを知らなかったでしょう。
- 346 :沖浦克治:2010/12/01(水) 07:23:31 ID:AJ3hr85o0
- 寛師の戒壇本尊本懐論と、一大秘法論は、
戸田先生の折伏の大きな武器となって、創価学会大躍進の理論武装を助け、大きな貢献を致しました。
今は、昨年のカレンダーです。
使うと駄目ですね。
世界広布には不要です。
日亨師は、創価教学の原点御書編集に貢献なさいました。
学者では一番でしょう。
- 347 :沖浦克治:2010/12/01(水) 07:25:08 ID:AJ3hr85o0
- 寛師は、戒壇本尊随一論者でした。
戸田先生はそれを脚色なさって、唯一論の焼きなおして、広宣流布の武器になさいました。
文字通り世界一のお方です。
- 348 :沖浦克治:2011/04/17(日) 20:17:58 ID:AJ3hr85o0
- 御本尊は大聖人が虚空会の儀式の時、虚空に出現した宝塔を写し取ったものです。
御書に書いてあります。
『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、』
(日女御前御返事)
大聖人がお書きですので、私共門下は信受すれがすみます。
議論の対象ではございません。
そして、その虚空の宝塔とは、私共衆生の生命です。
これも御書にあります。
『今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり、聞信戒定進捨慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへばさにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、』
(阿仏房御書)
以上の通りです。
釈迦は法華経で、私共衆生の生命を虚空の宝塔として説いた。
それを大聖人が御本尊として御図顕なされた。
ですので、全ての御本尊は、私共凡夫の命のコピーなんです。
当然、私共衆生が本、本尊は迹です。
御書にあるんですから、信受すべきで、議論をすべき事柄じゃないのですよ。
戒壇本尊一大秘法論は、御書に照らしてあり得ません。
- 349 :某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/10/03(月) 16:28:11 ID:4GAL7Lzc0
- 1級試験うけてきました。
問題の中に三重秘伝が出てくるなど未だに寛師解釈の余韻があります
寛師解釈と日顕宗を破すが廃止されることを望みます
学会から日蓮正宗色が完全に抹消される日を待ち望みます
- 350 :日々朗らか(前進) ◆kzJPIT27Ks:2011/10/03(月) 18:57:52 ID:8FNX.yWoO
- >>349
某男子部さん、こんばん和m(__)m。
レスを読みまするに、今回の青年一級試験。受けられたそうでm(__)m。
本当にお疲れ様でしたm(__)mm(__)mm(__)m!。
わたしの私感ですが、日寛上人は、一流大学教授レベルの方だったと……勝手に推察します。
大聖人を求める求道は、有ったと思います。
それを、わたしの立場で否定はできません(-_-メ)。
在世時の時代背景は厳しい状況だった推察できます。
だから、教学という立場で、後世に何かを伝えたかったのだと思います。
わたしの考えは、河内平野さん含め(特に若鷹板の常連さんが顕著ですが)、【大聖人と日寛上人が師弟不二だと誤解しているところに端を発している】と思っています。
わたしの意見を勝手に述べさせて頂きましたm(__)m。
「わたし専用のスレ」で、今回の試験についての話題を取り上げましたf^_^;。
一級試験、落ちてリベンジできないマンマに、壮年部になったものですからf^_^;、広く参加者(御教示して頂ける人)を募っております。
「求道」の気持ちは持っておりますm(__)m。
気が向きましたら、宜しくお願いしますm(__)m。
- 351 :沖浦克治:2011/10/03(月) 21:01:12 ID:AJ3hr85o0
- 某男子部員さん、今晩は
私は昭和63年に教授になりました。
いい思い出です。
試験お疲れ様でした。
- 352 :某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/10/04(火) 00:52:41 ID:4GAL7Lzc0
- 日々朗らか(前進)さん、こんばんは
ありがとうございます
- 353 :某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/10/04(火) 00:53:51 ID:4GAL7Lzc0
- 沖浦克治さん、こんばんは
ありがとうございます
昭和63年といいますと面接があった頃でしょうか
- 354 :沖浦克治:2011/10/04(火) 05:55:45 ID:AJ3hr85o0
- 某男子部員さん、おはようございます
私が任用試験を受けたのが、昭和37年。
次の年に講師の試験を受けました。
その時に面接がありました。
その後、助教授補も面接があって、助教授、教授補、教授と、全て面接がありました。
- 355 :沖浦克治:2011/10/04(火) 06:41:34 ID:AJ3hr85o0
- 日顕宗破折はよくないテーマですね
キチンと、日蓮正宗の戒壇本尊本懐や、三大秘法論を破折しないと駄目です。
そう言う力無い教授を、何万人作っても無意味ですよ。
- 356 :沖浦克治:2011/10/04(火) 06:42:24 ID:AJ3hr85o0
- 大体、今でも寛師教学にすがりついてたら
みっともないでしょう・・・・・・
- 357 :沖浦克治:2011/10/04(火) 16:32:16 ID:AJ3hr85o0
- 某男子部員さん、今日は
教授は昭和53年でした。
- 359 :某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/11/19(土) 03:36:40 ID:QVCIziG60
- 沖浦克治さん、おはようございます
助教授補、助教授、教授補、教授と面接がありましたか
自分の場合は全て面接はありませんでした。
清流七百何十年というのは神話だったことが暴かれましたので、
次の段階に入ってほしいですね。
学会書写御本尊の授与を開始すれば日寛教学ときれいさっぱり別離できると思うのですが・・・
教授は昭和53年でしたか。了解しました。
- 360 :沖浦克治:2011/11/19(土) 06:09:54 ID:CHcrDTxoo
- 某男子部員さん、
講師も面接があったかもですが、半世紀近く前ですから、忘れました。
寛師教学は捨てるべきですね。
戒壇本尊本懐論さえ捨てれば、ご真筆のご本尊の複製をこしらえればいいですね。
戒壇本尊は要りません。
邪魔な教義ですから。
- 361 :某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/11/19(土) 06:27:49 ID:xf8HoNCA0
- 沖浦克治さん、おはようございます
戒壇の本尊の文字列が公式な場面で消えましたので、
寛師教学から徐々に別離していっているものと信じます
- 362 :沖浦克治:2011/11/19(土) 23:56:21 ID:Iy9P92GUo
- 某男子部員さん、今晩は
別離していっていると信じるより、別離させることが大事です。
- 363 :某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/11/20(日) 01:46:36 ID:G3YUdIBw0
- 沖浦克治さん、こんばんは
そうですね。受身では駄目ですね。
寛師書写御本尊を授与している故に
無理やり寛師教学を擁護しているのではないかと思いまして、
このあいだ学会サイトのご意見フォームから学会書写本尊の
授与を開始するよう要望しました
- 364 :某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/11/20(日) 01:52:27 ID:G3YUdIBw0
- 寛師は依義判文抄を書きましたが、
依義判文する対象は不了義経で、
了義経は依文判義しなければならないそうですね
- 365 :沖浦克治:2011/11/20(日) 06:52:55 ID:aqgm8LZko
- 某男子部員さん、おはようございます
御書を依義判文して読まれた唯一のお方が、戸田先生です。
だから、創価学会は残ったのです。
以前、池田先生が言われました。
- 366 :沖浦克治:2011/11/29(火) 08:14:40 ID:34Awcud2o
- パスカルが言いました。
河ひとつで分け隔てられる正義とは、妙なものだ。
大石寺派境内でだけ通用する正義に、どう言う意味もありません。
無論、草も木も仏ですよ。
でもね、それを掲示板で論じ合えるのは、貴方も私も人間だからです。
この立場を離れて、仏法はありません。
ですから、草や木や、紙で出来た漫荼羅を、人の上におくことはいけません。
漫荼羅は人のためなんです。
命の次に大事な、人間革命の道具なんです。
ここに迷いがあるのが、大石寺派です。
大聖人と釈迦仏法の相対も要りません。
学問の対象として必要なだけです。
御書にあります。
『在世は今にあり今は在世なり』
(種種御振舞御書)
今が釈迦在世と全く同じだと仰せですよ。
そして、平成の現在も、全く同じなんです。
人類はそのままです。
ですので、仏法も同じです。
釈迦も大聖人も戸田先生も、全く同じなんです。
それがわからないと、知識の羅列に迷うだけです。
これらの3人の仏が、全く同じだと悟ることが、創価仏法の出発点です。
『久遠の釈尊の修行と今日蓮の修行とは芥子計も違わざる勝劣なり云云。』
(百六箇抄)
久遠即末法です。
ですから、3000年や、750年は問題ありません。
種脱相対など無用です。
絶対に必要なものが、内外相対です。
世界広布は内外相対なんです。
- 367 :某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/11/29(火) 08:33:18 ID:kNgGoLkU0
- >>365 沖浦克治さん、おはようございます
戸田先生は獄中悟達、自解仏乗の義によって御書の文を判じることができたのでしょうか
- 368 :沖浦克治:2011/11/29(火) 08:56:46 ID:34Awcud2o
- 某男子部員さん、おはようございます
そうだと思いますが、戸田先生のご境涯は推測するだけです。
私はそう言う立場ではありませんので。
その上でですが。
『大聖人は佐渡で、経文も何も無いところで、観心本尊抄や開目抄などの、法門の大事の御書を、すらすらとお書きです。』(趣意)
同じご境涯だと推測しております。
- 369 :某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/11/29(火) 17:55:33 ID:zoTQ/8bI0
- 沖浦克治さん、こんばんは
御返答ありがとうございました。
南岳大師の後身として聖徳太子、、
天台大師の後身として伝教大師、
日蓮大聖人の後身が御出現されても不思議ではないですね
- 370 :沖浦克治:2011/11/29(火) 19:09:09 ID:AJ3hr85o0
- 某男子部員さん、今晩は
諸法実相抄には、大聖人がまたご出現すると書いてあります。
- 371 :某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/11/29(火) 19:11:56 ID:Pn4XeXPo0
- 沖浦克治さん
諸法実相抄を読みます
- 372 :某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/11/29(火) 19:23:38 ID:Pn4XeXPo0
- 沖浦克治さん
現在の大難を思いつづくるにもなみだ、未来の成仏を思うて喜ぶにもなみだせきあへず
この一節でしょうか
- 373 :沖浦克治:2011/11/29(火) 19:50:01 ID:AJ3hr85o0
- 『日蓮一人はじめは南妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、』
(諸法実相抄)
某男子部員さん、
大聖人が最初一人で唱えて、2人2人100人と次第に唱え伝わった。
未来もまたそうなる。
キチンと仰せです。
これを身で読まれたのが、戸田先生です。
興師が入る隙間はございません。
- 374 :某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/11/29(火) 19:53:49 ID:Pn4XeXPo0
- 沖浦克治さん
ありがとうございました
- 375 :沖浦克治:2011/11/29(火) 22:02:38 ID:AJ3hr85o0
- 某男子部員さん
人間革命に書いてあります。
- 376 :某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ:2011/11/29(火) 23:06:31 ID:YkA4PvX60
- 沖浦克治さん
読んでみます
- 377 :沖浦克治:2011/12/02(金) 09:16:06 ID:AJ3hr85o0
- 大白蓮華12月号に池田先生の日女御前御返事講義が載っています
この御書は、建治3年、8月の御作、弘安2年10月の2年と2か月前です。
ここで大聖人は、ご自分は本門の本尊を既に図顕し終わっている。と書かれています。
『抑此の御本尊は在世五十年の中には八年八年の間にも涌出品より属累品まで八品に顕れ給うなり、さて滅後には正法像法末法の中には正像二千年にはいまだ本門の本尊と申す名だにもなし、何に況や顕れ給はんをや又顕すべき人なし、』
(日女御前御返事)
『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、』
キチンと書かれてあります。
本門の本尊を釈迦滅後誰ひとり図顕せず、名前すらなかった。
それを、大聖人が不思議にも御図顕なされた。
誰が読んでもわかります。
戒壇本尊が本門の本尊ではないのです。
全てのご本尊が、本門の本尊ですよ。
漫荼羅としての差別はありません。
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