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《人間》のヒートデス(?)- 1 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/01/05(月) 02:11:44 ID:???0
- バタイユって・・・、探りに探りを入れれば入れるほどネタの宝庫
なんだが(^^;)。これは本当にあらゆる意味で困った。秘密結
社“アセファル”とか、無神学大全とか、もう「裂傷」を切り刻み
込まれて傷だらけみたいな心境(^^;)。まるでヘッセのデミア
ンがシンクレールに「鳥の紋章」を食わせた感じである。
(彼の賭する<好運の一撃>=「鳥の紋章」みたいな)
ところで・・・、この“アセファル”と無神学大全に、バタイユが
「共同体」について述べている箇所がある。
まだ試論の段階であるが、人類補完計画と兼ねて、書き綴ってみた
いと思う。
まずは秘密結社“アセファル”について簡単に。
資料① ジョルジュ・バタイユによる計画草案
[計画]
1.価値(団結を作り出す価値)を生む共同体を創設すること。
2.人間に取りつき、望まない戦争を強いたり、成果を手にすることのない労働へ差し向ける、呪いと罪悪感を払拭すること。
3.破壊と解体の役目(存在の否定ではなく、完遂としての)を引き受けること。
4.個を通した存在の実現と存在の緊迫を、精神集中と積極的な禁欲と自ら進んで従う規律によって成し遂げること。
5.個別存在の普遍的な実現を、動物たちの世界が持つイロニーのうちで、国家や義務ではなく、戯れとしてのアセファル(無頭)の宇宙を明らかにすることよって成し遂げること。
6.倒錯や犯罪を、排除すべき価値としてではなく、人間の全体性に統合されるべきものとして自ら引き受けること。
7.普遍的共同体とは異なるどのような共同体(民族主義の、社会主義の、共産主義の、そして教会の)をも解体し、排除するために闘うこと。
8.諸価値の現実性、そこから生じる人間の不平等を明確にして、社会の有機的性格を認識すること。
9.現存する世界の破壊に参画し、来るべき世界へ目を大きく開くこと。
10.来たるべき世界を、最終的な幸福という方向ではなく、今ここから保持される現実という方向において考察すること。前者は、到達できないだけでなく、敵視すべきものである。
11.暴力と攻撃への意志の持つ価値を、それらが絶対的な権力の基盤である限り肯定すること。
(1936年4月4日)
- 4 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/01/17(土) 01:02:41 ID:???0
- 「われわれはニーチェのように凶暴的なまでに宗教的である!」
一見すると暴悪に荒れ狂っているように見えてしまう(一見でなくとも
過激なのだが)。なんせ、この“アセファル”は『秘密結社の手帖』と
かを読んでおられる方ならご存知だろうが、「ブードゥー教」の動物犠
牲もびっくりの、人身御供による宗教的儀式(供犠)を行うことを想定
していたのだ!しかも、この犠牲に身を捧げるものとして、名乗りを上
げたのが、バタイユ本人だというのだからまさに驚愕である。(◎д◎)Σ
しかし盟友の誰もが、この類稀なる鬼才にして親友であるバタイユを人
身御供にすることに賛同しなかったので、結局はブードゥー教のように
動物犠牲を行うことに落ち着いたという。
バタイユのこのコンセプトにはニーチェの仏訳(F・ヴュルツバッハ版)
を精読し、彼が解釈した要素を多く含んでいる。ニーチェにはニヒリズ
ムを含んでいる従来の価値定立を、積極的ニヒリズムによって徹底的に
破壊したのち、生命力に満ち溢れた新たな価値定立を測るというコンセ
プトがあるというのをよく想起する必要があろう。この秘密結社“アセ
ファル”は“社会学研究会”と表裏一体をなして連動していた組織であ
るが、デュルケム→モース及び、ニーチェの思想をナチスとは違う意味
でそのまま実行しようとしている。これはある意味で失敗した共同体で
あり、その後のバタイユの思想に残りつつも変化の過程にある思想であ
るということも言っておこう。なぜならこの頃のバタイユはまだ絶頂期
に至っていない。後期の円熟期に至るまでバタイユの思考に大きく影響
が見られるモーリス=ブランショともまだ出会っていないのである。彼
の「失敗」は、『無神学大全』における「内的体験≒好運」の概念へと
昇華され、共同体についても、ニーチェを批判的に検討したうえでここ
で論じられていくことになる。
- 5 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/01/17(土) 01:03:15 ID:???0
- 「一人の首長が創設する独裁主義的な統一体に、首長が存在せず悲劇
の執拗なイマージュによって結合している共同体が対立している。生
は人間たちが集合することを求める。だが人間たちが集合するのは、
首長によるか悲劇によるかしかないのだ。頭(かしら)無しの人間共
同体を追求することは悲劇を追求することである。首長を死刑に処す
ること自体が悲劇であり、悲劇への欲求であり続ける。ここに次のよ
うな真理、人間の事象の様相を将来一変させるであろう真理が始まる。
共同の実存に執拗な価値を与える情動的な要素は『死』である。この
≪ディオニュソス的な≫真理はプロバガンダの対象にはなり得ない。
そして、この真理は、それ自らの運動によって、ピュイサンスを招来
し、深い神秘を取り巻く組織体という構想に意義を与える」
バタイユのアセファルは、西欧の神学的共同体構想に対する反抗的精
神の表れである。それは一つの有形の共同体であり、ピュイサンスを
備えた団体であるとされる。ピュイサンスというのはニーチェで言う
ところの、強大で他を圧倒する支配的な権力であり、秩序維持の力で
もある。このピュイサンスを、悲劇あるいは死との接触によって生成
しようとしていたのが、この頃のバタイユである、と私は捉えている。
しかし、このように得られたピュイサンスを、バタイユのアセファル
は、革命や権力奪取に差し向けようとしてはいない。アセファルは同
志による選択的な共同体であり、プロレタリアートだの全体主義だの
を中心とした民衆の結集ということも問題にならない。アセファルが
これらの共同体と違っていたのは≪悲劇的なもの=聖なるもの≫の体
験に直接的に関係していた点である。
- 6 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/01/17(土) 01:09:26 ID:???0
- すみません、バタイユが参照したニーチェの「力への意志」の編集者
の名前が間違っていました。「F・ヴュルツバッハ」というのだそう
です。どこで取り違えてしまったのやら、ドイツの哲学者のヘーゲル
左派に属する全く別人であるフォイエルバッハを出してしまいました。
訂正させていただきます。
- 7 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/01/31(土) 18:13:12 ID:???0
- すでにHPに載せているが、アセファルと同時に、バタイユは「社会学
研究会」なる組織も結成している。しかし社会学といってもこれは一般
にいわれているような社会学とは毛色が違う。
では研究会のメンバーにとってこの社会学とはなんであったのか。それ
は「病気に類した何ものか、社会体の奇妙な感染症、嫌悪に満ち、疲れ
果て、分裂した社会の老人病」のようなものだという。
「われわれがここで提示しようとした社会学が、一般社会学でも、宗教
社会学でもなく、厳密に言って聖社会学であることは、明瞭この上なく
説明されました」(バタイユ)
なんという逆説的な表現であろうか!「聖」と称しつつまるで呪詛に取
り付かれているような言い回しである!この研究会という言葉にまどわ
されてはならない。なぜならこの「研究会」にはまったく教育的要素な
どないからだ。バタイユに教育的関心という言葉ほど似合わない言葉は
ないのだ!
ただし、アセファルは秘密結社であるが、社会学研究会は門戸解放が唱
えられていた。この社会学研究会を主導していたのは、バタイユ、レリ
ス、カイヨワであった。
ただしレリスに関しては、『反撃(Contre-attaque)』誌にもアセファル
にも懐疑的で、アセファルのほうには参加しておらず、社会学研究会の
構想においても、むしろその懐疑心を強めていったという。そのためこ
の研究会はほとんどバタイユとカイヨワの二頭体制だったといえよう。
- 8 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/01/31(土) 19:04:39 ID:???0
- 私はすでにHPのほうでアセファルと社会学研究会の双方とも崩壊した
ということを述べている。しかし、それはなにもナチスだけが原因であ
るわけではない。この組織内でもいろいろとごたごたがあって、その細
かい破れ目が結果的に崩壊へとつながっていっていることも確かなので
ある。
この細かい破れ目から生じた崩壊への一途をたどることになる人間の思
考を考察する、この違いがまた面白いからそれを紹介したい。ただし、
この崩壊によってバタイユ、レリス、カイヨワらの親交に断絶が生じた
わけではないということをあらかじめ言っておく。
レリスはほとんど傍観視している状態だった。ではカイヨワはどうだっ
たかというと、彼の場合はアセファルにも参加しており、積極的に行動
している節がみられる。
「バタイユと私の間には、稀に見るほどの精神面での共通点、つまり物
事の深奥のところで、一方の領域が他方の領域と見分けがつかなくなる
ほどの相互浸透のようなものがあったのです」(カイヨワ)
これはカイヨワ本人の言葉であるが、ドゥニ・オリエによれば、カイヨ
ワのほうが権力への志向を持っていたのに対し、バタイユのほうはとい
うと、悲劇への志向をまず第一に選ぶという点で異なっていたという。
研究会もまた有形の共同体であるが、この「聖社会学」と名づけられて
いる不気味な命題を掲げたこの社会学共同体は、いったい具体的にはな
にを行おうとしていたのか。
- 9 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/01/31(土) 19:56:17 ID:???0
- 「当面直面する活動の対象は、『聖社会学』と呼びうるものである。な
ぜならそれは、聖なるものが立ち現れ活発に作用するような社会的実存
のあらゆる発現形態の中で、この実存の有様を研究しようとするものだ
からだ。したがって活動の課題は、個人的心理現象につきまとう基本的
傾向と社会組織を司り、その変動を律する主導的構造とをどこかでの点
で合致させることである」(カイヨワ)
わずかな疑念の余地も残さぬ明確な口調で述べられたこの言葉は、カイ
ヨワ一人の署名によるものだとは言え、実際にはレリスとバタイユの承
認つきであることを前提としている。しかし、シュリヤによれば、単純
にこの『聖社会学』の定義が人類社会学的性格にのみ立脚しているので
あれば、バタイユも全面的にそれを認容していただろうという。暗にそ
れだけではないということを強調しておく必要があると、彼は言う。
バタイユが書いた論文である『ファシズムの心理構造』は、カイヨワに
ヒントを得たもので、むしろカイヨワのほうがその探求の企ての先駆者
だった。しかしカイヨワの志向には、先ほども言ったように、権力への
志向が隠されている。すなわち、カイヨワが示した定義には、そこで言
われた現象を感染的で秩序壊乱な方向に導こうとする野心が付け加えら
れていたのである。
「つまり、このように形成される共同体がその最初の場をあふれ出て、
認識の意志から力への意志へと移行し、さらにいっそう広大な陰謀の
核となるというような野心であり、この共同体の身体がひとつの魂を
見出すという断固たる目論見である。」(カイヨワ)
- 10 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/01/31(土) 21:20:08 ID:???0
- だが、このカイヨワの、研究会を単なる認識の核とは別のもの、つまり
感染的に広がる行動の核にしようとする野心は、レリスやバタイユと一
致していたとはどうもいえないようである。むしろ、この野心は、バタ
イユにしてみれば、自分がリーダーとなって秘密を原則としたアセファ
ルにだけ当てはめていたようなのだ。
「最初にその菌を蒔いた者をついにはその感染力で捉え、熱狂させてし
まうような聖なる撹乱的なものを復活させたいのだ」(バタイユ)
これはカイヨワがバタイユから打ち明けられた言葉だという。つまり、
バタイユはアセファルについては、自ら破滅することになるのは覚悟の
うえで、動揺と眩惑に満ちた現象を広めたがっていたことは確かだが、
社会学研究会にそういった意図は抱いていなかったのである。対してカ
イヨワは、アセファルも社会学研究会も一緒くたにしていた。それゆえ
カイヨワは、バタイユが打ち明けた言葉に「バタイユは自分の目論見を
ことごとく理解してくれた共謀者」のようにみていたのである。
では社会学研究会にあっては、アセファルと一緒くたにしていない当の
バタイユはどう考えていたのかというと、カイヨワにとって「かく乱す
ること」が問題だったのに対し、バタイユにあっては「“最終的に”か
く乱されること」が問題だったという。つまりバタイユは、世に蔓延し
た汚染の見返りとして、おのれ自身が感染を蒙ることを望んだのだとい
うのだ。
- 11 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/02/19(木) 20:40:43 ID:???0
- カイヨワにしてみると、バタイユにはアセファルで握っていた絶大なる
影響力を、社会学研究会にも及ぼそうという意図があったというように
見受けられ、その点でバタイユに異議を唱えようとしていたという。
バタイユとカイヨワのこの違いが、ついにわずかなヒビではすまないと
きがやってくる。レリスには告発を受け、カイヨワからは「見捨てられ
て」、最終的にバタイユは孤独に陥ったという。このような事態が生じ
たのは、この三頭体制のなかに見られていた見掛けよりはずっと深刻な
見解の相違にあったといえる。少なくともバタイユ視点ではカイヨワ・
レリスとの距離が離れていくということ以上に見放されたという感じが
見受けられる発言が目立つ。
1939年、ナチス軍がパリに迫りくる中、研究会最後となる講演が開かれ
る。が、この講演の場にいたのは、バタイユ一人であった。レリスもカ
イヨワも不在だったのである。
「今晩発言するのはカイヨワとレリスと私の三人のはずでした。ところ
がここにいるのは私一人です。いささか悲しい思いがいたします。」
カイヨワはこのときアルゼンチンに向かって発っていたのだが、その出
発以来、カイヨワがバタイユに送ってよこしたテクストは自分たちの間
にあった合意を中断させるものだったというバタイユの記録が残ってい
る。
レリスにしてみると、社会学研究会の存在そのものに疑念が募っていた。
その疑念は主に「方法論的な点だった」という彼の釈明がある。なんの?
といえばこれはデュルケームやモースの援用とかかわっているらしい。
聖なる社会的現象は数多く、それが決定的役割を果たすことも確かだ。
しかし、それだけがすべての社会的現象か?といえばそうではないだろ
うというのがレリスである。もしそれがそうだというならば、デュルケ
ームらを援用していながらそれを軽視しているだろうというのである。
- 12 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/07/18(土) 01:50:10 ID:???0
- この項を復活させよう。カイヨワとレリスが不在となった社会学研究会の、二
年次の総まとめを一人でやることになったバタイユ。そこでバタイユの思考が
ついに開放される。それは「暴発的に」といっても過言ではなかった。彼が、
「私」という言葉を使い、自分自身のための凄絶な言葉を語りだしたのである。
それは「通常のものの見方の中に最大限の無秩序を導入する」ためだという。
「祝祭を開く供犠の亀裂は、開放する亀裂です。喪失に加わる個人は、この喪
失が彼を支える共同体を生み出すのだという、おぼろげな意識を持っているの
です。」
「…愛することと自己を失うことの欲求が、彼らのうちで自己を取り戻そうと
する配慮より強ければ、もはや亀裂や嵐のような情熱の背徳行為あるいは悲劇
にしか、そしてもし欲求の性格が十全ならもはや死にしか出口はないのです。
こうなると第三者がそこにいても、愛の初めにそうだったような最後の障害で
はなくなります。彼らは抱擁の中で出会う共通存在を超えて、激しい消費のう
ちに見境のない無化を追求するのです。その消費の中では、新たな対象つまり
一人の新たな女あるいは男の所有も、さらにいっそう破壊的な消費のための口
実に過ぎません」
「…同様に、エロティシズムは苦もなく躁宴にまで滑り行き、供犠の躁宴を無
際限に拡張するためには、普遍的神という形で共同体の等価物を見出さなけれ
ばなりません」
- 13 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/07/18(土) 11:31:49 ID:???0
- 実際この発言は、社会学の講演を聞きにきていたはずだった聴衆を混乱させた。まさ
にカオスだという状況だったという。どこかの躁宴に終始した某「蠱毒の壺」的アニ
メの終盤の展開と同じことを言っていると思う。この場合「共同体」というのは『エ
ロティシズム』で説明している、人々の間にある沈黙の深淵、「存在の連続性」とか
かわりがあると見ている。この共同体については、また社会学研究会とかアセファル
とかとは違った共同体の側面がある。それについては、これらが瓦解したあと、ブラ
ンショとの出会いによって理論が昇華されていく。『内的体験』はまだ読めるほうな
のだが、それが特にカオスな形で顕わとなるのが『ニーチェについて 好運への意志』
である。フロムのネクロフィリア理論とどうつながってくるかということもあるかと
思うので、これについては後日詳しく述べるとしよう。
- 14 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/07/19(日) 13:15:48 ID:???0
- 後期バタイユの非常に簡略化された「禁止と違反」の論理の原型的理論だと思うが、
バタイユは「不断の生成のうちに全生命体を貫流する力を称揚する思想家」として
のニーチェを読み直す突端を切り開いた人物である。その中で特徴的な言葉として
出てくるのが《好運》である。バタイユは『好運への意志』の中で、自分の「語る
こと」を「自分の生を持って綴った《好運》の一撃(賭けの大胆さの中で与えられ
た一撃)」だといった。それは『エロティシズム』や『文学と悪』などで説明され
ている「エロティシズムとはなにか」の記述とほぼ意味的には同じである。
「エロティシズムとは死にまで至る生の称揚である」(澁澤)
「エロティスムとは死を賭するまでの生の讃歌である」(山本)
この「《好運》の一撃」は言うなれば「《力》(フォルス)の一撃」である。それ
は沈黙の深淵という名の壁に風穴を開け、その《力》によって相手に裂傷を与える
ものである。何のことかといえばそれは《力》の伴う「交流(コミュニカシオン)」
を思い浮かべればよい。『好運への意志』にてバタイユが提起する共同体とは、友
愛の共同体である。
「私の文章を読んでくれている君、君が誰であろうと構わない。君の《好運》を賭
けたまえ。私がしているように慌てずに賭けるのだ。今これを書いている瞬間に私
が賭けているのと同様に君も賭けるのだ。この《好運》は君のでも私のでもない。
全ての人の《好運》であり、全ての人の光なのだ」
- 15 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/07/19(日) 14:12:22 ID:???0
- 私は既にバタイユの人物紹介でサルトルとの論争について書いてあるが、サルトル
の無理解というのは、丸山圭三郎が指摘しているように形而上学的思考の「対象化
思考形式」の陥穽に陥っていることと関わっている。《存在》が「語る」というの
は「語ること」によって「語られたこと」を在らしめる行為であるが、それは語ら
れるまで実体化していなかったことを、語った途端に現実態として実体化させる行
為に等しい。それゆえにバタイユが「無」とか「未知のもの」と「語ってしまった
途端に実体化してしまっている」ところだけをついて、バタイユが言わんとしたこ
とを無視したのである。「不断の生成」と「反抗」とは切って切り離せないもので
ある。「思考の思考それ自体に対する反抗」。それがバタイユの「思考方法」であ
る。が、「思考の思考それ自体に対する反抗」と「語ってしまった」時点で、それ
は言葉上において「形式化」してしまっている。だからバタイユは自分が語ってい
ることについて「失敗している」と繰り返す(『非−知と反抗』より)。だがバタ
イユは(というか人間は)自分の思考について伝えるためには「語ること」によっ
てしか伝達しえない。だからバタイユは、「失敗の程度」を示すことによってそれ
を語ろうとするのだ。《好運》の一撃をぶちかます『好運への意志』のテクストは
浮き沈みが激しい。それ自体が《好運=力》の昂揚と呼応しているかのようである。
- 16 :レイア・ピラデルピア:2009/07/27(月) 15:12:37 ID:LbkIQDcY0
- >>《存在》が「語る」というの
>>は「語ること」によって「語られたこと」を在らしめる行為であるが、それは語ら
>>れるまで実体化していなかったことを、語った途端に現実態として実体化させる行
>>為に等しい。
聡明で博識なアイオーン・アブラクサス氏に敬意を表させて頂きます。「実体」と
か「現実態」というのは、substantia や energeia とは違う意味のように思えま
すが、こういう術語というか語法が存在するのですね。語ることで実体化が起こる
というのは、ユングの特殊な言い方では、イマージュが「区別されたもの・広義の
クレアトゥール」に現成するという意味に思えますが。イマージュとクレアトゥー
ルが「異なる」のは自明で、トートロジイを述べているように思える。語り得ない
もの・知り得ないこと、とは原イマージュであるが、原イマージュがクレアトゥー
ルとなるのではなく、精神の視界を反転させて充満させるメタ・イマージュとして
現成したとき、これがグノーシスであるのではないかと思います。充満のメタ・イ
マージュは「言葉ではない」のであり、メタ・イマージュの経験を語ろうと試みる
とそこに創作神話が生まれる……あるいは神話が生成される。これはロゴスの過程
とはまた別の過程で、反・知ではなく無・知であり、これを智慧あるいはグノーシ
スと呼ぶのではないのかとも思うのですが、これは畢竟、何も語っていないのだと
も言えるでしょう。
「生」あるいは「精神」は不断の生成であるというのは、クレアトゥールを恒に否
定して現成するという意味である以上、「反抗」と云えば、社会的なコードにすで
に解釈されてしまっているのではないのかとも思う。無為自然にして、精神は星辰
の彼方を飛翔しているというべきでしょう。つまり、バタイユは、空しいことを繰
り返していたとも云える。(ニーチェは、もう少し深く考えていたと思う……とは
空想なのかも知れないですが。とまれ、あいだに文章を入れて失礼します)。
(追加:「思考」はクレアトゥールの一部であること。『ヨブ記』に何故オイコノ
ミアというギリシア語が出てくるのかよく分からないこと。カオスは確かにヘーシ
オドスは「コーラまたはトポス的な空隙」の意味で使っていたが、プラトンの時代
だとそれは、コスモスとの対比でやはり「無・秩序」ではなかったのでしょうか)
- 20 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/07/27(月) 23:16:01 ID:???0
- レイア・ピラデルピアさん
こんばんは、そして初めまして。アイオーン・アブラクサスです。お書き込みくだ
さり、まことにありがとうございます。まずちょっとお話させていただければと思
いますが、私は博識というには程遠いです(汗。レイアさんの疑問と受け取れるこ
とにできうる限りお答えさせていただきますが、思索中・研究中の身なれば、用語
インフレ状態で、至らぬところがあるかもしれません。むしろ私のほうがなにかと
うかがうことが多いかもしれません。それでよければ、よろしくお願いいたします。
>「実体」とか「現実態」というのは、substantia や energeia とは違う意味のよ
うに思えますが、こういう術語というか語法が存在するのですね。
それは、プラトンやアリストテレス的な語法と、ということだと見受けましたが、
そういうことでしょうか?そう捉えられてしまうと、違う意味に受け取られてしま
うかもしれませんが、見受ける限り、レイアさんは私が述べていることをたがえて
いないです。
>語ることで実体化が起こるというのは、ユングの特殊な言い方では、イマージュ
が「区別されたもの・広義のクレアトゥール」に現成するという意味に思えますが。
私が知っている限りのユングについての知識を動員すれば、その通りといっていい
のではないかと思います。丸山式に言えば、「実体化されたもの」というのは「対
象化されたもの」とか「差異化されたもの」といった方がいいのかとも考えました
が(シノニムって本当にややこしいですよね・・・)私の語法の下敷きとなってい
るのは丸山圭三郎です。あとはそうしたところからフーコーやバタイユなどの解釈
を行っているといえます。「コスモス(あるいはノモス)とカオス」といった語も、
今のところ丸山式のやり方とその応用です。
「混沌とした自然や質料(要するに事物)は、形相を与えられるまでは存在しない(つまり実体でない)も同然である」
「形相を与えられて在るもの(=存在者)を在らしめる可能性、生成への動き(=存在)は、いつも忘れられてしまうのではなかったか」(ハイデッガー)
ソシュール=丸山式の言語哲学を参照いたしますと、人間が生得的に持ち合わせて
いる言語活動(ランガージュ)能力というのは、「存在」のもっている「形相を生
成し、混沌とした自然や質料にそれを与える能力」とシノニムです。非常に簡単な
例を持ち出すとすれば「命名行為」などを見れば分かりますが、命名行為による記
号化は、要するに事物に「記号=形相」を与えることによって実体化(あるいは対
象化)させるということに等しいわけです。これは、たとえば『創世記』の神がロ
ゴス(言葉)によって宇宙空間(コスモス)を創造する行為を想像していただけれ
ば非常に分かりやすいと思います。
- 21 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/07/27(月) 23:27:06 ID:???0
- 正確に言えば
「形相(forme)=記号(signe)=表現(signifiant)+意味(signifié)」
でしたね。
つまりは、言語活動能力とは「存在」の「存在者」を在らしめる(=つまり事物を
具現化・実体化させる)能力であるということになります。こういうことを併せて、
私は、レイアさんの仰っているユングの「クレアトゥール」という語を、日本語で
「存在具現者」とかいったりします。
この言語活動能力による「対象化」は、精神活動の表象作用です。これによって人
間が意識野に形成するのが「コード(記号体系)化」された「ラング」とか「意識」
とか「観念」とか「主観」とか「心象」とか「ゲシュタルト」といった言葉に等し
く、拡大解釈を逞しくするとすれば、アリストテレスの「魂」(psyche)も、グノ
ーシス主義の「心魂」とかの概念もこれらとシノニムであるということができるの
ではないか、というのが私の考え方です。これらは「意識野のカタログ」というこ
とができます。フーコーのいう「表(tableau)」とかも同じですね。これを意識野
に形成することによってわれわれは現象世界を認識しているというわけです。
ニーチェのいう「事実などは存在しない、在るのは解釈だけである」というのもこ
れに集約されているでしょう。『権力への意志』に書かれている《真理[=誤謬]》
の形成もこれに等しいわけで。
この対象化は、意識野にこれらのものを形成すると同時にですが、物質的次元にお
いて「ロゴスの有機空間」を製作活動しているということになります。つまり言語
活動能力は、混沌(カオス)のなかに秩序(コスモス)を建築(アーキテクト)す
る作業であるともいえるわけです。つまり人間は、常にカオスの中にあり、またコ
スモスの中にもおかれている。丸山の論理ではこのカオスは「実体ではない」と説
明されています。なぜなら、言語活動によって形成されるのが「意識」であるなら、
このカオスは「未だ言語活動されていない領野=未知のもの」であるからであり、
意識にないもの、つまりは「無意識」のものだからです。この「無意識」はお読み
になられていればわかるかもしれませんが、ユングやフロイトのいうところの「無
意識」とはまた違うといえます。
- 22 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/07/27(月) 23:28:21 ID:???0
- すみません、時間の問題がありますので、お答えできるところから順に応えさせて
いただきます。
>『ヨブ記』に何故オイコノミアというギリシア語が出てくるのかよく分からない
こと。
新共同訳の『ヨブ記』には、「主」がヨブの目の前に現れて言った言葉のなかに、
「神の『経論』を暗くするとは」とあります。『ヨブへの答え』とかには「はかり
ごと」とありますし、岩波文庫版には「経論」のルビに、「はかりごと」とあった
かとおもいます。奇妙に思ったので調べたんですが、この場合の意味はオイコノミ
アといって差し支えないと解釈しております。グノーシスとギリシャ語に詳しい方
と文通したことがありますが、その方もオイコノミアといって差し支えないだろう
とのことでした。この場合、「主」の言っている言葉は、「神の宇宙秩序、神の宇
宙経営に楯突こう、異論を唱えるものは何者だ!」と問うているに等しいといえる
わけです。で、その解釈をちょっとひねってヨブ記をグノーシス解釈する、という
ことで下に書かせてもらったわけです。
(番号がぬけてますがちょっと書き直したためです、失礼しました)
- 23 :レイア・ピラデルピア:2009/07/28(火) 00:25:18 ID:LbkIQDcY0
- こんにちは。というかもう夜ですが。
話は、西欧の2500年の哲学史、3000年の宗教史の全体に関わっていることなので、
急ぐ必要はないと思います。次の書く意見は、少し横にそれる話なので、大体そ
んな話もあるという程度で聞き流してください(ただ、時間をかけて考える必要
があることでもあると思います。基本的な概念やタームの把握で重要な意味があ
るからです)。次のように記されました:
1]>>「混沌とした自然や質料(要するに事物)は、形相を与えられるまでは存在
しない(つまり実体でない)も同然である」
2]>>「形相を与えられて在るもの(=存在者)を在らしめる可能性、生成への動
き(=存在)は、いつも忘れられてしまうのではなかったか」(ハイデッガー)
2] はハイデッガーが述べているようなことなので、これはハイデッガーの言葉な
のだろうと思います。1] はしかし、「混沌」「自然」「質料」「事物」「形相」
「実体」「存在」というような哲学史の基本タームを並べているのですが、失礼
な表現ですが、支離滅裂に響きます。つまり、これらの言葉は哲学史の術語では
なく、「比喩的」に使われているのだろうと感じます。ハイデッガーはこういう
ことは云わないと思いますので、誰か別の方の言葉だと思う。1] の言説の意味は、
より後に考え直すとして、ハイデッガーは何を言っているかです。
ここの点、わたしも門外漢で嘘を書く可能性がありますが。ハイデッガーの書い
ていることは、「常識」というか「決まり文句」が半分です。ハイデッガーは、
中世哲学の大家でもあった訳で、ここでは、レース(個物)=マテリア+フォル
マ(形相)という基本構成に、存在(esse)を加えています。「materia+forma
+esse」というのは中世哲学の基本的な存在論・存在物の構成です。materia,
forma は実体で、esseも実体です。esseは、神よりの不断の恩寵として与えられ
るもので、こうしてレースの「現実存在」が成立するのです。これを「実存(エ
クシステンティア)」と云います。近現代の「実存」とは意味が少し違います。
- 24 :レイア・ピラデルピア:2009/07/28(火) 00:45:56 ID:LbkIQDcY0
- (続き)ここまでは、中世哲学の公式のようなもので、ハイデッガーの思想ではあ
りません。問題は、彼が存在(エッセ)を、「生成への動き」と述べている点です。
ハイデッガーは「存在(Sein)」とは何かと尋ねた人で、ザインの能動的企投をも
考えた人だっと思います。
ハイデッガーは晩年になって易しい言葉で説明しますが、近現代人の「現実存在」
が中世時代の人間と比較して、決定的な欠落があるという自覚を持っています。こ
こから、現実存在、つまり「実存(エクジステンツ)」の問題意識となり、晩年は
「神がいない時代の我々の存在」の問題だというのですが、そうではないだろうと
も思います。実存が不完全である、つまり「本来的自己」が現成していない、実現
できないのが人間だという話となり、人間の本質的な、今日的問題は何かというこ
とを尋ねて、「時間に関わる人間」という答えを出すのですが、彼には満足が行か
なかった。「存在(Sein, esse)」についてハイデッガーは考え直して、西欧哲学
の源流まで遡り、プラトンの存在論以前に、「生成する自然」を唱えていた(とハ
イデッガーが考えた)偉大な自然主義哲学を措定します。これが「生成する存在」
です。ハイデッガーが何を考えていたかはともかく、1] と 2] では、別の内容や
背景があり、少なくとも、ハイデッガーをここで出すのは、話が混乱してくるとの
ではないかということです。
また、先に記した中世哲学の「存在物」の成り立ちの構成・公式は、(わたしの記
憶違い・勘違い・嘘の可能性もありますが)、西欧哲学史を横断して何かを述べよ
うとされるなら、必ず考えなければならないことだと思います。substantia とか
energeia(つまり、実体と顕在態=現実態)というのは、これは中世哲学の概念の
はずです、プラトンやアリストテレスとは少し違うのです。
- 25 :レイア・ピラデルピア:2009/07/28(火) 01:26:49 ID:LbkIQDcY0
- 以上は長いですが、寄り道というか余談です。
少し思うところは(何か根本的に間違っている可能性があるので、質問も兼ねさせ
て戴きますが)。
ラカンは確か、無意識は言語によって整序されていると主張したのではなかったで
しょうか。精神病者の支離滅裂な言葉の山は、支離滅裂であるが、ランダムではな
い。つまり、構造的なロゴス・言語の整序がそこにはある。「狂気」というのは、
意識の文化調整機能が、無意識の言語的整序とのあいだにずれを生じている状態で、
人間は狂気になってもロゴス・言語知から逃れられない。
では、どこからそんな無意識や意識の整序秩序が人間に与えられたのか。これを通
時的、歴史的に分析改名しようとしたのがフーコーの『言葉ともの』『狂気の歴史』
『性の歴史』などではなかったのか。
言語整序から逃れたい、歴史的な整序の運命から逃れたい、そのためには、非ー知
的・反言語的な行為自体、エロスの起動が歴史的整序の桎梏を脱するまで「狂う」
のがよい。しかし、逃れようとして、再び言語整序・知の構造の網に絡め取られる。
救いようがないなあ、というのがバタイユの行き着いた処ではないのかと、勝手に
いま空想しました。
もう一つ、昔考えていたことをいま思い出しましたのでメモを。人間の文化・社会
は「自走している」という考えがありました。文化なり社会はコードを持ち、制度
を持ち、個々人の意識的な思惑とは別のところで、言語的整序運動を自動的に進行
させている。個々人は無意識の構造刻印を通じて、社会や文化と切り離しがたく結
ばれていて、個々人が社会を動かしているようにも見えるが、社会が自走して、む
しろ個々人は自分が主体ではないという自覚がなくなっている……というような想
像の話です。
- 26 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/07/28(火) 20:54:26 ID:???0
- >レイアさん
こんにちは。うーん、支離滅裂なのかなぁ…。まあそれをいってしまうと私の言語活
動も狂気である、ということになってしまいますかね(^^;)。最近自覚がないと
いうわけでもないというのが自分で怖いですが(汗。
私がここで展開した考え方は基本的にソシュール=丸山が基調となっているわけです
が、ちと整理しなおします。というか哲学用語辞典読み直さないといけないですね…。
ソシュールの言わんとしていた事を踏まえるならば、「形相を与えられるまでは自
然や質料は存在しないも同然である」というこの言葉は、「全ての認識という認識
は表現体という形をとらない限り認識ではない」ということに重点が置かれている
と思います。ソシュールの批判はご存知かと思いますが、「実体論」に対する批判
です。ソシュールの理論はポール・ロワイヤル文法やチョムスキーの主知主義への
批判として丸山に用いられています。あるいは19世紀の物質主義とも呼べる「事
物に《存在論的優先性》を与える《経験主義 empirisme》への挑戦である」ともい
えます。これは『言葉と物』のフーコーも同じです。
そもそも、
「形相(forme)=記号(signe)=表現(signifiant)+意味(signifié)」
とこのように書いたわけですが、「表現」と「意味」は同時的かつ双面体的な《存
在》であると説明されています。このあたりはフーコーも『言葉と物』で説明して
いることではなかったかと思いましたが。記号は自然の中にあらかじめ与えられて
いるものではないから、様々な視点から考察できるような実体ではない。逆に「視
点が生み出す対象」なのであると。このあたりは『創世記』のアダムが、既に神に
よって創られたものに対して命名行為を行っていることが引き合いに出せます。ソ
シュールの批判は、「言語を経ずして実体を想定することは錯視である」としてい
ます。そして「『指向』とはコトバによる言語外世界の『解釈』であり、差異化で
ある。いかに言語記号が言語外現実を指し示しているように思われても、その指し
示されている指向対象は、コトバによって創りだされた現実に過ぎない。」たとえ
ばフーコーは、「法典」について、書かれることによってその刑罰制度が現実化す
る、そして「しかじかの懲罰は、しかじかの犯罪と結び付けられ、犯罪が行われる
と、時を移さず、処罰がやってくるが、その際処罰は、法の言説を現実態となす」
といったりします。
《実体化》という用語は、「概念的あるいは抽象的なものや単に思考のうちにある
ものを客観的にある実体となすこと」という意味だととっています。
- 27 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/07/28(火) 20:57:27 ID:???0
- >ラカンについて
まさにツボだというところを突いてきますね(^^;)。ですが私が先に申し上げ
たように、丸山理論における「無意識」は、フロイト流の「無意識」とは違うので
す。レイアさんが仰るように、ラカンは、「言葉こそが無意識の条件である、言葉
が無意識を生み出すのだ」「無意識はランガージュのように構造化されている」と
いいますが、丸山理論では、このラカンの定式化する無意識を「下意識」「潜意識」
と解する限りにおいて認めており、丸山の言う「無意識」は《a-conscient》とでも
呼ぶべき無構造の欲動であるとされ、それを実体として措定されないものだといい
ます。《a-》というのは「欠」という意味の接頭語です。言葉的には「欠意識」と
いうことになりますが、日本語になじまないので「無意識」と呼ぼう、と丸山は説
明します。これは文字通り、「《意識》が無い」あるいは「《意識》が欠けている」
状態だということができます。この「無意識」は、確かに「ランガージュ(ロゴス)」
の「産物」でありますが、「ランガージュ以前」であって、構造化されていないと
されます。丸山において《意識》は、「表層意識(表層のロゴス=ラング)」、
「深層意識(深層のロゴス[=パトス])」とに分けられています。そして深層意識
が「下意識」「潜意識」とされるわけですが、「下意識」はラングに抑圧されて沈
殿した個人の欲望の集積場、「潜意識」はユングが言うところの集合的無意識に近
いものとされています。
- 29 :レイア・ピラデルピア:2009/07/28(火) 23:25:16 ID:LbkIQDcY0
- 非礼は承知の上で敢えて記させて頂きます。まず:
[1]>>「しかじかの懲罰は、しかじかの犯罪と結び付けられ、犯罪が行われると、
時を移さず、処罰がやってくるが、その際処罰は、法の言説を現実態となす」
:::: これがフーコーの言葉の翻訳であるなら、何をここで言わんとしているのか理解可能
です。または理解できます。しかし:
[2]>>《実体化》という用語は、「概念的あるいは抽象的なものや単に思考のうち
にあるものを客観的にある実体となすこと」という意味だととっています。
:::: この文章は理解できません。失礼ですが申し上げます(何を表現されたいのか、分か
るようには思いますが)。一体、誰の用語法・誰の理論システムに基づいて述べておられ
るのか不明であり、そうとすると、「客観的にある実体」というのは、デカルト・カント・
ヘーゲル・マルクスの伝統的な哲学史的な術語で理解するしかないということになります。
ソースュールは「客観的にある実体」などとは云わないとわたしは浅学で無知ですが、感じ
ます。フッサールは、現象のシステムから客観的真理が導出できるはずだと考えて、現象
学的還元を提唱しましたが、これは成功しません。ソースュールは、客観的真理や客観的
実体などは求めていない。現象の関係性の構造の真理を求めているというべきではないので
しょうか。フーコーも同様ではないかと思います。
そこで、丸山の「欠如意識」ですが、「欠意識」か「ア意識」か何でも構いませんが、この
ように言葉を使うべきであった。「日本語になじまないので」とは傲慢であるというか、哲
学や思想や科学の歴史をあまりに無視した独善的姿勢としか言えないでしょう。深層心理学
一般で(更に近現代の思想においても)、「無意識」はある共通のレンジで概念諒解のある
術語です。「無意識」をそのような独りよがりな概念を表現する言葉として使うと、支離滅
裂な話にしかならないのではありませんか。「欠如意識」とか「外意識」とか、それは何の
ことか、という疑問が生じる言葉を使うのが正道だとも思います。
丸山という人物の学説や理論はわたしは知りませんが、独りよがりなことを言う人物だとい
う印象が残っています。彼は「長年ラカンが分からなかった。しかし今はよく分かる」云々
と云って、独語のようなことを述べていたように記憶します。丸山自身が長年分からなかっ
たものを、彼が分かったと思ったとしても、読者が同じ位置に立ってはいないことが理解で
きない人です。「欠如意識」と呼ぶべきものを「無意識」と呼ぶような独善がまかり通ると
思っているのなら、研究者として学者として失格だとも僭越ですが感じます。
- 30 :レイア・ピラデルピア:2009/07/28(火) 23:49:18 ID:LbkIQDcY0
- (追加)
以下のように述べました:
>>[2]>>《実体化》という用語は、「概念的あるいは抽象的なものや単に思考のうち
にあるものを客観的にある実体となすこと」という意味だととっています。
>>:::: この文章は理解できません。失礼ですが申し上げます(何を表現されたいのか、
分かるようには思いますが)。
「理解できない」というのは、「客観的なある実体となすこと」という言葉・表現・説
明です。つまり、これはおそらくすでに説明されたように、「個人あるいは、一部の集
団の内部で、意識され、概念として提唱されているように思えるが、実際の処、厳密に
は差異化が行われておらず、社会や文化の他の領域での概念等との関連が必ずしも明ら
かではないことを、言語によって表現し明確な差異化を行うことで、間主観的に概念共
有され、社会や文化にあって、既存構造の一部として整合化させること」……長々しい
ですが、フーコーの例は、こういう事態を指しているのだと思います。「法の言説」は、
単に個人や小集団が、私念として構想している限りでは、潜勢態でしかないが、この言
説が社会の制度の一部として実際に組み込まれ機能したとき、この言説は、「現実態」
となる。
このような過程を「実体化」と呼ぶのは妥当な語法なのだろうか。そういう語法が存在
しているのでしょうか、というのがわたしが最初に記したことです。また、伝統的な術
語の「比喩」として使用されているというのは、「実体化」というのは、何か別の事態
を元々指していたからです。こういった「言説」の語法は、アイオーン・アブラクサス
さん個人のものなのか、またはこういう語法が一般に使用されている分野があるのか。
どちらなのか、よく分からないのです。
- 31 :レイア・ピラデルピア:2009/07/29(水) 00:29:05 ID:LbkIQDcY0
- (追加の追加)
>>ソシュールの言わんとしていた事を踏まえるならば、「形相を与えられるまでは自
然や質料は存在しないも同然である」というこの言葉は、「全ての認識という認識
は表現体という形をとらない限り認識ではない」ということに重点が置かれている
と思います。
このことは非常によく分かります。というか、少し面倒な話は棚上げにして述べると、
「事物」とは恒に「何かである事物」です。「何かでない事物」は、そもそも人間の
認識の対象にはない。「何かである」ということが、中世哲学の用語では「形相」ま
たは「本質」であり、他方、近現代では、特に構造主義的な見方では、「差異化され
たこと」あるいは「差異化の差異性」ということになるでしょう。
言葉・ランガージュが対象を差異化する。差異化によって対象認識は成立する。これ
はその通りなので、どこにも「支離滅裂な」ことはありません。
問題は、事物として認識できないもの、形相が欠如している何か、差異化されていな
いもの、……こういうものは、存在するのかしないのか、こういうものはそもそも何
なのか、という次元での話です。中世哲学では、そして古代のギリシアの哲学でも、
人間が認識できないものがあるが、それらは「存在しない」とは考えていません。認
識・差異化できないが、また言語で表現できないが、何か存在しているという考えで
す。カントの哲学でも、「もの自体」は認識できないし、差異化できない。しかしそ
れは存在していると想定される。
ランガージュ以前のものがある。それは「欠・意識」である。丸山のこういう考えは、
どこにもオリジナリティがないというか、当たり前のことを云っているとしか思えな
いのです。差異化できないもの、人間の言語による分節以前のもの、認識されていな
こと・もの……そういうものが「ある」というのは、2500年前から考えられていると
いうことだと思います。アイオーンさんの云っておられることが分からないというこ
とではなく、術語の使い方が、どこか恣意的に見えるというか、ある人が「こう云っ
ている」ように、と引用された言葉は、それ自体として見ると理解できるのですが、
どこか強引にこじつけているようにも思え、引用や例が妥当なのかどうかで疑問を感
じるとでもいうようなことです。(たいへん失礼で申し訳ありません)。
- 32 :レイア・ピラデルピア:2009/07/29(水) 02:59:00 ID:LbkIQDcY0
- あらためて、こんにちは
どうも今になってこのようなことを記すのは非礼なこととも思います。ただ、
すべてはわたしの無知から来ているように思えてきましたので、深くお詫び
させて頂くと共に、この話はご放念をお願いしたくも思います。妨害にしか
ならなかったようで、たいへん申し訳ありません。バタイユについて、ご高
察を継続して頂ければ幸いです。
- 37 :レイア・ピラデルピア:2009/08/01(土) 08:01:05 ID:LbkIQDcY0
- あなたは、ご自分の主張しかない方なのですね。わたしは次のように記したと思います:
>>あらためて、こんにちは
>>
>>どうも今になってこのようなことを記すのは非礼なこととも思います。ただ、
>>すべてはわたしの無知から来ているように思えてきましたので、深くお詫び
>>させて頂くと共に、この話はご放念をお願いしたくも思います。妨害にしか
>>ならなかったようで、たいへん申し訳ありません。バタイユについて、ご高
>>察を継続して頂ければ幸いです。
「あらためて、こんにちは」と何故書いているのかおわかりですか。
それに続く文章では、わたし自身が無知にもかかわらず僭越なことを記し、申し訳あり
ませんでした、と述べています。
「ご放念願います」というのは、この件については、できれば「忘れて頂ければ幸い」
ですとの意味です。
この掲示板は、削除キーがありません。どこかにあるのかも知れないが、少なくとも、
投稿の場面では見つかりません。
わたしは、失礼なことを書いたので削除したかったのですが、削除できないので、全面
的に謝罪して、この件については「ご放念願います」と記しているのです。
あなたは、自分の発言は削除するが、他者には削除させないで、削除できないが故に、
追記で、謝罪し、この件は忘れて頂ければ幸いですと記しているにも拘わらず、その前
の文書をなお取り上げられるのですか。
もう一度書きますが、わたしは全面的に謝罪し、この件はお忘れ下さい。と記したので
す。掲示板やフォーラムの主催者として、謝罪している者の謝罪は受け入れ、穏やかに
話を終焉させることが何故できないのかと思います。
例えば、次のように記すことで、話をうまく収拾させることもできたのです。
「……レイアさん。いえ、わたしも大学院のことが頭にあり、また自分の専門のことを
自明なこととして書いていたので、すれ違いが起こったのだとも言えます。等々」
わたしは、「わたしに非がありました。お詫びします」と書いたのです。それ以前に書
いたことは「ご放念願います」とも書きました。
最後に、僭越ながら記すと、わたしはあなたに「好意」があったので、色々と余計なこ
とを書いたのです。あなたに「好意を持たない人」は、どう対応するか、想像されると
何かしらの意味があるかも知れないです。
- 38 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/08/02(日) 17:08:53 ID:???0
-
すみません、「自分の主張しかない」というのはあまりというか心外ですが、行き違いが生じて
いるのは掲示板の問題も含めて実際にあることは確かですので、謝罪というか弁解が許されるの
であれば述べさせていただきます。まず私は、確かに自分の書き込みを修正するために削除した
りはしましたが、「自分の発言は削除するが、他者には削除させない」などとは、微塵も考えて
いません。そのように思われてしまったのならそう思わせてしまった私がいけないので謝ります。
この掲示板は、一番下に「掲示板管理者に連絡」という項目から削除依頼を出すか、あるいは直
接ここのスレでどこからどこまで削除依頼を述べるかするしかないという欠点があります。これ
は掲示板の機能上、直接的に削除依頼がなければ私はその人の意向の関係なしに削除することは
できないということです(無論荒らしや商品広告、冷やかしなどは即刻消しますが)。「忘れて
いただければ幸い」とは申せ、私は機械ではないので、述べられているだけ述べられた後にいさ
さか口を塞がれた感が強かったのも確かです。しかし、レイアさんの今の書き込みを見て後悔し
たのは、結果的に私が以前別の掲示板で非常にいやな目にあわされたこと(他人の書き込みの削
除権を関係なしに、自分の書き込みとしてコピーし、削除権を奪って絶対に消させないようにす
る傲慢な行為)と同じことを、結果的にレイアさんにも思わせてしまったも同然であったという
ことでした。あとになって弁解としか言いようがありませんが、私自身その最も軽蔑すべき人と
同じことをやってしまったも同然だったと恥じ入りました。掲示板の機能についてもこれは問題
だ、というのを今回痛感させられましたが、それ以前に私は、結果的にその人間と同じことをし
てしまっていた、反省させていただきます。今後こういった掲示板の機能云々の問題も含んだト
ラブルを避けるために、私は昨日同じライブドアのレンタル掲示板の中に、削除など自分の書き
込みを自己管理できる掲示板があるのを見つけました。今使っている掲示板は2ch形式で、削
除の協力者を募るという形で下のパスワードを教えないとできないということしか私にも分かっ
ていないので、お詫びといってはなんですが、もっと話がしやすいよう、フリートーク用の掲示
板を別に開設しようかと考えています。そちらは管理のしかたが若干複雑で、時間とかデザイン
とかの編集がままならないのですが、これでお許しいただけますでしょうか。ちょっといまのと
ころできるかわかりませんが。ところでこのような形となってしまいましたが、とりあえず「削
除したかった」という要請にお応えします。私の書き込みも非があったと思いますので消させて
いただきます。削除のときは具体的にどの箇所からどの箇所までととりあえずはご提示ください。
- 39 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/08/04(火) 01:51:26 ID:???0
- 返答がないのですが、確認が取れないと私が勝手に削除してよいものか分かりませ
ん。全部消せというのは違うと思いますし、とりあえず私が失礼なことを言ってし
まったレスは書き込みは削除します。嫌な思いをさせてしまって申し訳ありません
でした。
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