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時空の移行に伴う形而上学的陥穽の恐怖- 1 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/05(土) 15:29:14 ID:???0
- 今回は少々当たり前のこと過ぎてつまらな過ぎることを言うことになるが、語らざるを
得ないと考え、そもそもの根底にある「解釈」とは何か、その大前提になる方法自体に
ついて述べることにする。このことから私はひとつの恐怖を覚えるのである。
それは時間と空間の移行によって、かつての認識が忘却されてしまうということである。
ソシュール+丸山理論を用いれば尚のことであるが、人間は世界を言葉によって分節し、
それによって意識を分節して、世界を世界、自分を自分、他者を他者、そのほかあらゆる
ものを「認識」している。つまり人間が認識し得るのは、一秒一秒現存在の在り方におい
て、どれだけのことを知ることができるか、にかかっているということだ。それによって、
「世界の見取り図」を広げることが出来るのである。
しかしだ。この言葉というものは、その認識に基づいて語られるものであっても、すべて
をありのままに語りつくそうとするツールとしては、案外不便な側面を持ち合わせている。
そこにかかわってくるのが、時間と空間(以下時空と略)の移行にともなった、ある特定
の時空においての共同主観の忘却である。いや、忘却以前にその特定の時空における共同
主観の認識について言葉で述べたところで、その時空を共にしていなかった者には実感が
わかず、「知ることができない」ということもある。
私が痛感したのが、ある特定の時期においては当たり前以前の問題であったことが、この
時空の変遷によって、もはや当たり前が当たり前として通用しなくなっているということ
である。それをさして古い人間だ、老人くさい、と感じた方がいればそれはそれでいい。
私の言うことなど笑い飛ばしてくれて大いに結構である。
しかしだ、物事に関する解釈の方法にしても、大前提となるような当たり前の事実ですら、
口にしたところで通用しない。この事態に私はいかんともしがたいものを感じ、立ち尽く
してしまった。それはエヴァの「解釈」においても同様である。
ハイデッガーが述べた形而上学についての言及を用いるならば、混沌とした自然や素材は、
形を与えられるまでは、存在しないも同然である。「形を与えられて在るもの」は、すべ
て、人間がその精神活動によって自分の意識野の中につくった像、すなわち「観念」とい
う、ありとあらゆるものを在らしめる事への「可能性」に基づいて、物質的次元において
行われる人間の製作活動、すなわち「生成への動き」があって、初めて認識できる対象と
して存在するようになる。
これがいつも、時空の移行によって忘れ去られてしまうのが、これまでの人間の歴史にお
ける形而上学的陥穽であるというのである。これを踏まえた上で述べているならばまだし
も、自由に解釈できる余地があるからといって、そこに与えられているものをかんがみず、
事物を二項対立化させて議論しようとすることほど無意味なことはない。
形而上学の狙いは「プロス・ヘン」という、「根源への問い」、すなわち「一性への問い」
が根源にある。私が「解釈」と称しえるものというのは、それを前提にしており、エヴァ
ならば、そこに描かれた根源たるもの、即ち一性に対する多様な表現方法であると考えて
いる。それならばいくらでも幅が利くことであるし、だからそれは解釈と呼べるものと呼
べるであろうと考えているのである。
われわれが解釈と称しえるもの、それは、本来この当たり前のようなことを踏まえた上で
成り立つものであったはずではなかっただろうか。この時空の移行による「忘却」や「知
らない」ということは恐ろしいもので、それが過去の出来事のおぞましいことの黒歴史化
による隠蔽、誤魔化しなどの介入を許し、いつのまにか情報が歪曲されるばかりか、興論
統一そのものが異常を正常、つまりとても普通ではないようなことまで普通とみなせるま
でに変遷せしめるものと化すのである。
この事態を出来(しゅったい)させているのが、一方的に情報を発信する側にあることは
言うまでもない。この事態もまた、それに出くわした人間だけにしか分からぬ恐怖であり、
それに対する反撥を強引なまでにねじ伏せる人間のやり方にもまた理不尽さを感じ、私は
それにいかんともしがたいものを感じるのである。
そしてまた、このようなことを言うと、それは解釈のあり方をお前一人が決めている、と
曲解される方がでてこよう。しかしこれをよくお読みになられたかたならば、私が説明
していることが、多様な表現の否定ではなく、また解釈法の決めつけなどではないという
ことをわかっていただけると信じ、書き記させていただいた次第であるが、いかがであろ
うか。
- 2 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/05(土) 18:04:41 ID:???0
- この形而上学的陥穽について分かりやすい例を紹介しよう。それは、「自然へ還れ」と叫
ぶ人間の不毛なスローガンである。
人間は「人間性の世界」の中で生きている。それは人工物によって作り上げられた<第二
の自然>と呼べるものである。つまり人間が「人間性の世界」の中で生きているのは、人
間にとっては当たり前のことの中で生きていることにほかならない。この中に生きている
人間が、「自然へ還れ」というのは、自然の中で自然へ帰れといっているのと同じである。
同じく見出せるのは「現実へ還れ」という庵野監督の宣言の不毛さである。監督はその
立場上、映画監督という、「人間性の世界」における文化的営為を担う一人である。その
立場から「現実へ還れ」といったことがいかに無意味で不毛であることが分かるであろう
か。
もともと監督は、エヴァという作品に対して、自分が生きてきた現実が「閉塞した世界」
だという「観念」のもと、その世界に対する見取り図を、作品としてエヴァに投影して製
作していた人間である。それはすべて監督が自分の認識に基づいた「世界の見取り図」の
中の出来事の投影であると考えられる。
自分の認識した世界の見取り図である「閉塞した世界」をテーマにエヴァを作っていた監
督だが、これがもたらしたのは現実にあらざるものだった。当然だが、虚構の中に現実を
意識して作ったところで、そこには現実などどこにも存在しないモノが作り出されるだけ
なのである。エヴァの世界は監督の自己投影の世界であり、そもそもエヴァというもの自
体が、彼が製作するまで現実には存在していなかったのだ。つまり、「閉塞した世界」と
いう彼の認識そのものが、真実にあらず、虚構に過ぎないのである。
人間が生きる世界を構築する作業が文化的営為ならば、製作活動によって作られた映画な
る虚構の世界もまた、人間性の世界の一部となる。となると、人間が生きる現実というも
のは、全ての人間の製作活動によって形成されるものであるから虚構の集まりであるとい
えるであろう。ここに虚構の集合体=人間が生きる現実という図式が成り立つ。
その中で生きている人間は、すべて現実の中で生きている人間である。であるにもかかわ
らず、自身が作り上げた虚構をしてその鑑賞者たちが現実に生きることから逃避している
人間であると見て、それを虚構が生み出した諸悪であると見るのは不毛であるといわざる
を得ない。
虚構の集合体によって形成されている人間性の世界を否定して、現実へ還れというのなら
ば、文化的営為を育む人間の根本的な特性自体を否定しているということになる。それは
自身の否定のみならず、全ての人間の否定であるということになる。
以前にも述べたが、バタイユは、人間とは羞恥心から動物性を拒否し、人間性の世界を構
築したが、その人間性の世界において、動物性への郷愁のしがらみに苛まれ、今度は人間
性を拒否しようとして動物性へ回帰しようとするも出来ず、自己を超越する存在であると
述べている。人間性の世界で生きることはあたりまえであり、その文化的営為を拒否する
ことは、人間をやめる、つまり死ぬしかない、ということにまで行き着いてしまう。
すなわちそれが意味するところは、人間に停滞感をもたらす、生の高揚とは程遠い狂気と
いえるもので、死を宣告されているのと同じなのだ。
「甘き死よきたれ」「タナトス」など劇中に用いられている曲は、いずれも「死よ万歳!」
と動物性への郷愁と死への郷愁を絶賛するものであり、ネクロフィラスな歌である。さらに
だ、「だからみんな、死んでしまえばいいのに・・・」と大々的に宣伝ポスターで広告して
いるありさまを考えるならば、これは文化の中で生きる人間の生の否定になるであろう。
自らが生み出した現実の一部である虚構の内容を、前向きなあり方に進めていくならばまだ
しも、死にたいと思うような状況ばかり色濃くし、自分がやったことが客に諸悪をもたらし
ているとして、全員死ね、というのは、停滞感をもたらす狂気の渦を巻き起こしにすぎなか
ったのである。
- 3 :harahetta:2008/07/07(月) 02:30:44 ID:/DoqokEA0
- 庵野の監督の「現実へ還れ」という発言について言えば、視聴者との
関係性を取り結ぶことにより、初めて存在理由が与えられるという
「作家」という立場を考えれば、その発言は自己矛盾していたこと
は否めません。しかしながら、エヴァという虚構をベースに作られる
経験のレベルで言えば、やはり作家と視聴者とでは異なるような気が
します。
その違いとは、庵野氏はエヴァという虚構を作り上げると同時に製作
委員会との調整作業や、他技術的・資金的問題など物語外部(庵野氏
が言う現実)に接しているのに対し、視聴者は物語に対して受動的で、
コミケなどでの二次創作するにしても、作品発表当時の状況においては、
借り物の物語の継ぎはぎに過ぎなかったからではないでしょうか。
エヴァは言うまでもなく、「他者との関係性」をテーマとした作品です。
しかし、庵野監督が視聴者の反応を見ると、視聴者は逆にますます
他者を排除し、監督の作り出した物語世界にのみ耽溺・自閉していく。
また他者について考えたにしろ視聴者の周りの知人など生身の人間
ではなく、アニメのストーリー内のキャラクターについて言及して
いく。そうした形で監督が伝えたかったことと、正反対の方向に視聴者
が流れていくのに耐えきれなくなった結果、物語を破たんさせたような
気がします。
しかし、秋葉原・コミックマーケットの隆盛をみると、庵野監督が
否定したオタク達の虚構もまたある程度の強度を持ち、参加者数の
増加に伴いタコツボ的ではあるがコミュニケーションも活発、さらに
価格がついて取引されていることを鑑みれば、それこそ虚構世界で
ある金融取引の世界と変わりはありません。異なるのは、政府など
公的機関の関わりが厚いか薄いかの問題だと思われます。
しかし、やはり最近の秋葉原の治安悪化問題などを見ると、その現実
に脆弱さが伴うのも事実。私自身は二次創作・コミケなど所謂オタクに
ついてあまり詳しくなく、外側から見ているだけなので、断言できません
が、庵野氏の「現実に帰れ」という発言はだいたい以上のようなこと
言いたかったのではないか?と推測します。
- 4 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/07(月) 23:40:53 ID:???0
- >>3 harahettaさん
こんばんは。ご意見ありがとうございます。ただ、今回私が形而上学的陥穽
と称しましたのは、丸山理論を下に、何も監督だけが形而上学的陥穽に陥っ
ていたと説明していたわけではないということを述べさせていただきます。
ほかならぬ、観客の側にもそれが見られるということを説明するつもりで、
書き出した次第です。つまるところ、どっちもどっちなのです。
>そうした形で監督が伝えたかったことと、正反対の方向に視聴者
>が流れていくのに耐えきれなくなった結果、物語を破たんさせたような
>気がします。
果たしてそうでしょうか?
私にはそれは彼のいいわけだと思うんですよね・・・。
「動物化するポストモダン」にもありますが、監督がもともと視野においていたのが
そもそも二次創作や同人誌などの関連グッズによる売り上げでもあったといいますし。
また、このことは大月プロデューサーも認めていることですからね・・・。
エヴァより新しいアニメはこの十年なかった、という監督に対して「よく言うよね」
と揶揄を飛ばしていることはインタビューで明らかになっています。
ネクロフィラスな風潮を垂れ流しにしたその傾向は、その後のアニメ界に退廃ムード
をもたらしたというのは大月氏らの業界ではほとんど当たり前のように知られています。
そして、そのようなアニメがウケるようになったのも事実です。
今の現状、私には十年前の再来を再び出来させているに過ぎないのではないか、
と考えている次第です。いたずらに妄信する態度、そして「生成への動き(存在=監督)」
の忘却、終わりもしないうちからの謎解きに対する血眼ぶり・・・。
対象年齢を中学生向けにするという方向でもって新劇場版ですが、十年前と同じことを
今度は彼らにもたらしているにもかかわらず、情報誌はそれに対してなんの突っ込みも
しない。これは忘却の隙を作っている限り、過去においていっていたことの発言をごま
かせるということです。
問題は経済的活用に結び付けようと、のべつ幕無しに大衆ムードを煽り立てようと
する情報発信側にあり、それを簡単に受容してしまう受動者たちにもあります。
十年前と同じ事態、それは彼が作品を破綻させる「理由」として持ち上げたオタク
の行動をして言い放った「現実へ還れ」とまた破綻させる口実を作っていることに
なります。
その上で今回そのようなことをしなければ十年前のそれはなんだったのか、それに
言い訳は通用しません。再び同じ事態を出来させている以上、新劇場版の展開が、
この後どのように変化しどのように転がりこんでも、既にしでかしたことから、私
の視点からすれば形而上学的陥穽の落とし穴に落ち込んでいるだけであるという認
識しか抱いておりません。
私の場合、「快楽主義の哲学」において澁澤龍彦が言っているように、用心に越した
ことはない、と考えているので、やたらと熱狂的なブームには身構えてしまう人間です。
そして、この「生成の動き」を忘れただけならまだしも、あえて知らないことにし、自分の
好き勝手に解釈したいとのことで、そこに付け込む隙を作っている人間もまたいるというこ
とも事実ではないでしょうか。
なんにせよ、十年前の資料を持ち合わせている人間からすると、製作者の発言には矛盾に矛盾
を重ねていることは明らかであり、見るたびにその発言に責任をもっていないということばか
り私の認識においては露呈していると考えられます。旧作において唯一エンタ指向を絶やして
いなかった樋口監督は例外ですが。
- 5 :harahetta:2008/07/08(火) 21:37:12 ID:/DoqokEA0
- >ほかならぬ、観客の側にもそれが見られるということを説明するつもりで、
>書き出した次第です。つまるところ、どっちもどっちなのです。
なるほど、両成敗する立ち位置であれば論ずる意味があると思います。
ところでもう一度、一つ前のアブラクサス様の文章を読み返してみたところ、
文末に以下の文章がございました。
>バタイユは、人間とは羞恥心から動物性を拒否し、人間性の世界を構築した
>が、その人間性の世界において、動物性への郷愁のしがらみに苛まれ、今度
>は人間性を拒否しようとして動物性へ回帰しようとするも出来ず、自己を
>超越する存在であると述べている。
この文が意味するところは、人間が動物と異なるのは現実に対して過剰な何か
(羞恥心など)読み取る。そして、現実そのものではなく虚構を含んだ世界を
読み込んでしまう人間は、その虚構に合わせ新たな虚構を作り物質的に還元し、
現実を実際に変えてしまう。また、その改変された現実に対しさらに虚構を
見出し同じ作業を繰り返していく。それが人間性の世界であり、文化である。
しかし同時に人間は、その虚構の反復によって現実からかけ離れていくことに
不安も感じる。かといって動物に戻るわけにもいかず、さらなる超越を望む。
といった解釈でよろしいでしょうか。
解釈が正しいとすれば、問題になるのは人間性に対する「超越の仕方」が気に
なるところです。考えられるのは、すでに述べられている遠り、全てを否定し
「死」を選択する方法。もう一つは動物性への郷愁を完全に断ち切る方法。
バタイユを少し読んだところ他にも「死ぬほど面白い」といった死の擬似体験
という道もあるような気がしますが、しかし、そうは言っても、その動物性
への郷愁、死への憧れに対して、動物性への郷愁の断ち切り、死の疑似体験は
どうもイメージがつかめません。その点について今後の期待するアニメーション
シーンの展開を絡ませながら詳しくお聞かせ頂けば幸いです。
- 7 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/09(水) 01:05:33 ID:???0
- >>5 harahettaさん
こんばんは。
>バタイユの引用について
うーん、若干harahettaさんが仰っていることとは、私が今回用いた意味のニュ
アンスが違うかもしれません。というか、私自身が少々その引用において、はしょ
りすぎてしまったせいで、その先についていた部分を書いていなかったのが、ニュ
アンスをたがえてしまったかもしれません。
人間性の世界とは、「動物性あるいは自然の否定の中で形成され、次に自己自身
を否定し、さらにこの第二の否定の中で自己を超越して、もはや最初に否定した
ものには二度と戻れなくなった」ものである。
動物のごとく自然の中で生きることに対して羞恥心と不安を覚えた人間は、それ
を拒否して、文化的営為をつむぐ人間性の世界を形成するようになったというの
がバタイユです。人間は不安に駆られていることにその本質が形作られていると
いうことです。人間性の中で、絶えず人間性から来る動物性への恐怖と郷愁とい
う矛盾にがんじがらめになり、不安に駆られている人間にとって、生とは「生の
浪費」だというのです。つまり、人間は生きている限り、それは限りなくその人
間の持ち合わせているエネルギー(力・資源)を消し尽くすまで汲み尽くし、全
て消尽したときに死に行くのです。
その中で、人間は受身の状態です。しかし極限においては、不安のあまり自分
の生を危険にさらすことを是とします。これがアスカの項でも説明した死に物
狂いの生というものです。これはバタイユも言っていますが、人間性の世界の
中で不安を解消しようとしても、いかにして解消するかということで苦悩を呼
びさらなる不安を招くだけで、ますます生の浪費を招いていくだけになります。
ここで問題となるのが、harahettaさんの選択肢についての補則です。
動物性に対し恐怖と郷愁というふたつのがんじがらめの矛盾にさらされなが
ら、不安に駆られているのが人間です。ここに人間が選べる道ということで、
harahettaさんが提示されていることが私と若干ニュアンスが違う気がします。
>全てを否定し「死」を選択する方法。もう一つは動物性への郷愁を完全に断
ち切る方法。バタイユを少し読んだところ他にも「死ぬほど面白い」といった
死の擬似体験という道もあるような気がしますが、しかし、そうは言っても、
その動物性への郷愁、死への憧れに対して、動物性への郷愁の断ち切り、死の
疑似体験はどうもイメージがつかめません。
そもそも人間は、先述したように、このがんじがらめになっているそれ自体
が人間というもの、すなわち不安に駆られていることが本質にあると説いて
います。人間がそれ以外の何者でもないとすると、生ある限り、動物性に対
する恐怖と郷愁を完全に断ち切ることは絶対にできません。結局それを充足
するには、死の真似事としてのエロティックな活動を行い、人間性によって
定められた禁止を違反することで一時的に「自己を見失う」までに自身を混
乱状態にさせることでその両方をごまかす、それが自己の超越であり、死の
真似事であるエロティシズムだというわけです。
性行為における絶頂のエクスタシー、暴力による犠牲を伴った破壊行為などが
それに該当するというのがバタイユです。わざわざ自分を危険にさらし、死に
限りなく近い状態にあることを是として死に物狂いに死の踊りを踊るかのよう
にのた打ち回る様などもそれと同じだというのです。
だからバタイユが言うエロティシズム、すなわち人間のエロティックな活動と
いうものは彼が言っているように、厳密には俗に言う「エロい」などというこ
とだけが該当しているわけではなく、死に限りなく近づく生の極限状態を露呈
させる人間独自の行動であると言わしめるわけです。
しかしそれもやはり、人間である以上、一時的に擬似的に動物性に回帰するだけです。
どれもみな人間であるが故に行われるエロティックな活動であるわけですから、自分の
不安の解消をするためにはエロティシズムによって自己を超越してひとつの混乱状態に
置くことしかないというわけです。そしてそれが過剰なまでに表れたのが、マルキ・ド・
サドの文学作品であります。
バタイユの言っていることは難解のように聞こえますが、一貫して言っていること
を取り上げれば、こういうことであり、忘れてはならないのは、「死」とはそれへ
の郷愁だけではなく、恐怖も伴っているということであります。
それが冒頭においてバタイユがサドの言及を用いて説明していることとつながっている
ということは明らかでしょう。
- 8 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/09(水) 01:59:36 ID:???0
- ちょっとすみません、何か違和感あるので書き直します。
harahettaさん、もし>>7を読まれていたら、もうしばらくお待ちください。
整理しなおしますので・・・。
- 9 :harahetta:2008/07/09(水) 20:50:25 ID:/DoqokEA0
- >7の件
自分でも多少ニュアンスが異なるなぁとは気づいていたのですが、
自分一人ではどこがどう違うのかいま一つよくわからなかったので、
とりあえず書き込んでみました。丁寧にご返事ありがとうございます。
>8の件
かしこまりました。お待ちしております。
- 10 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/10(木) 02:51:56 ID:???0
- >>9 harahettaさん
私が感じたharahettaさんとのニュアンスの違いから、少々整理しなおす必要がある
と考え、今回このスレにて述べようとしたことになぜバタイユの論及を使ったかを
伝えさせていただきます。もともと原稿としてまとめていたものを流用しています
ので、若干長文となりますが、分かりやすくするためには仕方がない処置だと考え
ます。それでもよければお付き合いください。
既に述べていますように、私は人間がもとよりあった「自然」、すなわち
ハイデッガーが言うように、人間にとって形を与えられるまで存在しない
も同然の混沌とした自然や素材から、意識野の中に形作った観念と、その
存在の生成の動きによって構築した人工物の世界である「第二の自然」の
中に住まう者だと申し上げました。
すなわちこの第二の自然とは、既に「人間」という生き物にとってそれが
当たり前の世界であり、人間である以上、これが人間の住まう環境であっ
て、人間はそこから抜け出して今更自然に還ることはできぬ生き物である、
ということはおそらくharahettaさんの反応を見る限りでは理解されている
ものであると考えます。
そこにこんな図を挿入してみましょう。
「第二の自然」---「役割」---「社会関係」
| | |
<自然>------<人間>-----<社会>
| | |
「外的自然」--<内的自然>---<記号>
- 11 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/10(木) 02:52:36 ID:???0
- 人間はありとあらゆる自然を言葉によって記号化し、世界を分節し、意識を
分節します。そうして意識野に記号化された世界から、人間が生成の動きに
よって、「第二の自然」を形成します。
それは文化の総体です。おそらくharahettaさんならば言うまでもないことだ
と思いますが、ここに来られている他の方々のために具体的に言えば、都市・
街路・映画・広告・デザイン・ファッション・流行・テレビ・ラジオ・インタ
ーネットなどなどです。当然アニメーションも漫画もここに含まれます。
ハイデッガーの言を用いるならば、まず記号→人間の存在→第二の自然という
ベクトルが形成されます。この人間の存在は、絶え間なく生成の動きをします
ので、人間の住まう環境である第二の自然は終わりなく変化し続けます。
社会学的見地からすれば、人間は存在による生成だけではなく、常に置かれた
環境からも影響を受け続けます。人間は人間の絶え間ない生成の動きに伴って、
その環境から自分の役割認識と自己の主張の葛藤に挟まれながら、社会関係の
構築に至り、その中で行為することになります。
つまり外的自然→内的自然→人間→役割認識と自己主張の葛藤→社会関係の構
築というベクトルが形成されます。
- 12 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/10(木) 02:53:33 ID:???0
- そしてここからがおそらく、ニュアンスの違いを招いてしまったところなのか
もしれません。それは視点の向けどころの順序が招いているものなのだ、と考
えました。
私がまず監督のやったことについて述べたのは、世界を記号体系化して、意識
とともに分節した監督のその認識の仕方そのものがまず問題であるということ
を述べてから、観客にしてもどっちもどっちだ、ということを述べようとして
いました。
彼がよく口にする「閉塞した世界」とは、彼が記号体系化された現実世界を、
分節することによって意識野に形成した「観念」に基づいたテーマです。この
「観念」の下に彼はエヴァというアニメを「第二の自然」の中に作り出しまし
た。しかし、これは彼の主観によるもので、明確に言えば副監督の鶴巻氏のほ
うがそれに拍車がかかっていますが、一つの誤謬に過ぎないものです。
その誤謬についてそれが真実だと述べたところで、それが世界の真実ではない
のです。この誤謬に基づいて作られたエヴァは、あたかもそれが真実である、
というように力説する側面があり、常に影響を受ける側になるわれわれ側には
それが一方的に垂れ流しにされます。
問題はこれが誤謬であるということに気づくことが出来ない人が多いというこ
とです。テーマが誤謬であるだけならまだしも、衒学的趣向と称しつつ衒学に
なっていない欺瞞もあり、それがそのまま、おかしな認識に基づいた行動に結
び付けてしまいます。
- 13 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/10(木) 03:18:10 ID:???0
- 監督自身の「観念」が誤謬に過ぎない以上、その誤謬の下に、「見るものが外
に出て行動したくなるような映画」にしたいといったところで、その認識自体
が誤っていたら逆効果になるのは必然だったといえるということです。
「すべての人間は、生まれつき知ることを欲する」(アリストテレス)
ここまで単純であるとは言いませんが、人間はありとあらゆるものに対し投げ
かけられた「問い」から答えを得ようとします。新劇場版のパンフレットにも
この記述(ユング心理学入門)がそのままあり、衒学的趣向の面白さという宣
伝がされています。
この一見単純なアリストテレスの言及は、私がありとあらゆるところで見てき
たエヴァファンの質問の仕方、考え方などを見ると、如実に表れているところ
があると考えます。パンフレットにそのような記述があり、エヴァの魅力とは
そこにあるという宣伝をしているのです。
そういう趣向にしておいて引き込んだにもかかわらず、自分の意向にそぐわな
いからと自らの主観に基づいた誤謬が絶対に真実だと称し、製作者の一部から
すらも反撥を受けたにもかかわらず、それを罵倒して「現実へ還れ」という言
い草をもって投げ出したことにあります。私の観点からは、彼のそれは、思い
違いからくる自分の意向にそぐわない現実に対する復讐であり、その撒き散ら
しの結果、さらにそれに耽溺する人間が増えたと見ています。
劇中で描かれたのは、死を絶賛し、みんな死んでしまえ、自分も死んでしまえ、
と、ネクロフィラスな傾向を垂れ流しにしました。
レヴィ=ストロースをやっておられるならお分かりになると思いますが、使徒と
いうスケープゴートをなくした劇中の人間はもともとそのスケープゴートの存在
によって結びついていた浅薄な絆を崩壊、破綻させ、誰も彼もが自分が正しい!
と勝利を得るまでなんでもやっていました。
スケープゴートによって結びついていただけの絆なだけに、ぶち壊れるのも破綻
に帰すのもいとも簡単なことだったということであり、エントロピー極大化に対
する抗力(ゲネントロピー)を持たなくなっています。
劇中に描かれたのは、突き放した見方をするならば、シンジの自我肥大症であり
ます。
だから、harahettaさんの言われる「他者を排除し、作り出した物語世界にのみ
耽溺・自閉」していったのは、それによって描かれていたと捉えることもできま
すが、そういう誤謬の下に破滅させたほかならぬ監督にもあてはまるでしょう。
まずは監督のそれについて解説しました。破綻が意図的でなく必然的に招かれた
ことで、それがあたかも意図的にしたというのは、私の観点からはとても言い訳
にしか聞こえないのです。自分たちの目的、目標に向かわず、ただ状況に流され
るだけの展開というのが、監督の序文にも表れており、今回もまた例に漏れてい
ません。
まずはここまでで打ち止めておきます。
- 14 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/10(木) 03:33:25 ID:???0
- バタイユの言及についてはまた明日あたりに付け加えさせていただきます。
その後に、harahettaさんが仰っていた、オタク社会についての外側から
みた考察についての私の同意点について述べさせていただきます。
- 15 :harahetta:2008/07/10(木) 22:47:35 ID:/DoqokEA0
- なるほど。要は、監督が作品外で作品に対して語っているメッセージ
(現実に帰れ)というメッセージと、作品内で語るメッセージ(物語
内に取込み洗脳)の齟齬に見られる大きな矛盾を筆頭に、その他諸々
の行き当たりばったりな発言に基づく矛盾、さらには、まんまとそれに
騙されて信じ込んでしまっているファンの矛盾が、お気に召さないの
ですね。確かにそう説明されると憤るのもわかります。
- 16 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/11(金) 01:15:54 ID:???0
- 一区切りのところで返答ありがとうございます。
大体そんなところですが、私の場合、このサイトを経営している立場上、
質問にさらされることも多かったわけですが、答えの出しようのないこ
と、たとえば、まだ新劇場版でなんの示唆も与えられていないようなこ
とについて、あれはなんだったんだ、これはなんだったんだ、答えを出
せ!と病理的に執拗に付きまとう人間がいたもので、余計にこの認識が
深まるばかりなのですよ。
ちなみに一区切りついでに、harahettaさんが私に問われていた私がアニ
メの今後の志向に期待するものとは何か、という点について述べさせて
いただきます。
それはエンターテインメント志向を目指すその本質についてです。それを
述べるとすれば、エヴァなら樋口監督の趣向を一番にあげます。誤解のな
いように申し上げておきますが、彼を信仰しているわけではありません。
しかし樋口監督のエンタ指向は好きです。旧作エヴァでも彼が担当したと
ころは庵野監督とは違って退行的ではなく、前進的な側面があり、彼はエ
ンタ指向を理解していると考えるのです。
なにより、自分でやっていて快く楽しいと思える、文字通り「快楽」指向
の仕事をやらなくてどうするの?といいたいのが私の心情です。
下手に「閉塞した世界」という誤謬にすぎないものを意識しすぎて、逃走
論に基づいた「逃げるな逃げるな」というプレッシャーばかり自分の中に
こじつけることほど、不安を解消しようとして更なる苦悩を巻き起こし、
死に至る、死にたくなるほどの不安にさらされるものはないです。
ユング心理学のエナンティオドロミーという概念がありますが、それは
あることに意識を集中しすぎると、その反動というか、逆の思考がその
人間の中で膨れ上がり、ついに我慢しきれなくなってそのたまりにたま
った鬱憤とでも言うものがどくどくとあふれ出すとあります。
澁澤龍彦も言っていますが、よく誤解されがちなのが、快楽を直に堕落に
結びつけることです。バタイユを中核思想においている彼の論は最高に愉
快であります。「死ぬほど面白い」というのとはまたちょっと違いますが、
もういい加減ネクロフィラスな側面はやめていただきたいものです。
- 17 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/11(金) 20:46:07 ID:???0
- 私がバタイユを用いたのは、この人間の住まう第二の世界について、
閉塞した世界をテーマにあげつつ、撒き散らしたのは実際には、現実
に対する復讐であり、誤謬に過ぎない閉塞した世界をあたかも真実で
あるがごとく現出させただけだということを踏まえたうえです。
このような矛盾に満ちた中で、現実へ還れと言ったところで何の意味
も持ちません。文化の諸悪を否定するつもりが文化主義という土俵か
ら抜け出すことはできないからです。文化主義の立場で反文化を唱え
たところで不毛です。
もし本当に文化の総体=第二の自然を悪だとみなし、完全否定するな
らば、人間にとっては文化の総体こそが現実なのですから、人間の世
界(第二の自然)自体を否定し、記号体系化されて形を与えられるま
では存在しないも同然の混沌とした自然=無=「人間の動物的死」に
回帰するほかありません。
それは人間にとっては生きている限り、ありえないことです。人間に
あるのは、生きている限り、絶えざる差異化による生の運動(丸山氏
は生の円環運動と呼ぶ)だけだといいます。つまりこの人間の生の運
動の所為によるところの文化の総体を否定することは、生の運動の停
止であり、それがもたらすものは、生の昂揚とは程遠い「人間の動物
的死」か、狂気です。
これは丸山理論ですが、フーコーやバタイユに通ずるところがあります。
この現実へ還れという言葉とともに、旧劇場版に載せたメッセージが虚構
ではなく、真実だと監督は十年前のインタビューで語っています(ニュー
タイプより)。
「だからみんな死んでしまえばいいのに」
これがアニメ界に停滞感をもたらしたともなれば、それは人間に対し生
の運動の停止、すなわち動物的死をもたらしたものであり、狂気の言葉
と捉えられるのです。
これを説明する上で、人間とは何か、ということを説明しているバタイユ
の論を用いたのです。
それゆえ、harahettaさんの質問に関しましては別の説明となりました。
バタイユの死の真似事(疑似体験)ということとは少々ニュアンスを異
にするものだということです。
- 19 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/11(金) 22:53:46 ID:???0
- そして、ここからが観客側の態度についての指摘になります。当時、
これを受けた観客は、その荒廃ぶりに沈黙するものもおりました。
この有様を受けて、われわれが考えるべきは、それを真実だとのっけ
から信じ込むことではありません。誤謬だらけのそれをしてわれわれ
が見るべきは、その暴力的にして狂気的な様を見て、迂回する形で意
識野に捉えるほかないと考えます。
しかし、観客の中には、これを監督に付き合うことだとし、何の意味
があるのかという人間がいます。われわれは付き合っているのではな
く、誤謬であろうとも存在しているエヴァという作品に、まずその生
成の動き、つまり監督の存在が「在る」と認めたうえで、人間性に隠
された暗部に対し正面から向き合い、それをわれわれがどう捉えるか
です。これがバタイユの言う、言語化された狂気じみたものを迂回す
ることによって意識野に捉えるという方法です。
- 21 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/11(金) 23:24:29 ID:???0
- いかになんと言おうと、監督もやはりわれわれと同じ人間なのです。
その同じ人間が暗部をさらけ出したということは、人間のうちにこの
ような倒錯が起こりうる、ということが捉えられます。
バタイユはサドの作品「ソドム百二十日」が出現した条件を述べた上
で、彼の作品が人間の意識野に「倒錯」という迂路を経て捉えられる
ことに意味があるということを述べました。それが人間の心に隠され
ている「悪徳」だというのです。
サドをある意味で認めれば、このようなことが見出せるというわけで
す。そして問題は、それを見て、われわれがどのように考えるかにこ
そ意味があると考えるのです。
サドの場合はそれにこそ彼の真意が含まれている、とバタイユは述べ
ますが、監督の場合はサドのように一貫していないので、その迂回の
方法による考察のみが有効でしょう。
ところが、このような迂回もせず、また生成の動きを見据えようとも
せず、ただ劇中に描かれている謎を、自分を耽溺させることで、解説
しうると考えている人間がいるのです。
- 22 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/11(金) 23:27:33 ID:???0
- 製作者同様、作り出された物語世界にのみ耽溺し、自分の考えうる限
りの自己投影をそこに介し、その自分の自己投影の感覚(その人間に
とっての一般論に基づいた感覚)からもし自分があのキャラだったら
こう考えるはずだ、〜したかったはずだ、という何の根拠もない暴走
を働き、全てを観念的な可能性で埋め尽くすのです。
他者の言うことを全て阻害し、その迂回する方法によって捉えられる
べきものを無意識のうちに締め出し、全て隠蔽し、倒錯と聞くだけで
向き合おうとしない人間がいるのです。それはバタイユのいう嘔気の
せいだといえるでしょう。
当然、その嘔気から、自分が考えうる限りの自己投影により語るわけ
ですから、その人間からすれば、倒錯を全て隠蔽しつくした自分の一
般論が出来上がるだけなのです。バタイユもこの例を持ち出していま
す。
メルロ=ポンティに言わせれば、それは形而上学の陥穽から、ありも
しないような精神現象を、物質界をモデルにして、因果関係で結ばれ
た出来事の連なった織物であるかのようにみなす自己の神話を築き上
げているだけになっているということになるでしょう。
- 23 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/11(金) 23:42:18 ID:???0
- 十年以上前もそうでしたが、エヴァにはまっていく人には、こういう
傾向が多く、harahettaさんが仰ったようなオタク社会は秩序崩壊、
すなわち皮肉にもエヴァの登場人物のようにエントロピー極大化に対
する抗力を失っていると考えます。
そういった人に、いかにそれがつけこまれる隙を作るようなことをし
ているといっても、勘違いによって自分の悪口を言われているとだけ
わめき散らし暴れまわるのです。これでは解釈も議論も成り立ちませ
ん。まさしくレヴィ=ストロースのいう秩序崩壊でしょう。いかにゲ
シュタルト崩壊を危惧して言ったところで、その中にいると逆に血祭
りにあげられてつぶされ、巻き込まれるのです。だから私は恐怖だと
述べました。
このように考えると、観客が監督の存在自体、迂回という意味合いで
さえ忘却するか、あえてそれをないものにするという方法は、生成の
動きたる存在の忘却であり、メルロ=ポンティが言うように自分の神
話を作り上げるだけで、やはり形而上学の陥穽に陥っているといえる
でしょう。その場合、監督もまた犠牲者になるのです。
だから私は、監督と観客のどちらもが、形而上学の陥穽に陥っている
というのです。
- 25 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/17(木) 19:00:44 ID:???0
- とりあえず、私がこのようなことを言っても私自身も不毛なだけな
ようですね。バタイユもエロティシズムの締めくくりとして言葉が
いかなるものなのかについて説明していますが、語ることのできる
ものと語りつくせないものの限界というものは、やはり言葉によっ
てのみ知ることができるといいます。
というか、引き上げたいまでも、この書き込みをわざわざ他サイト
であるyasuakiさんの掲示板で槍玉に上げ、無理解の連鎖を繰り広
げているのが明らかに見て取れるのですが、なぜわざわざ理解して
もいないのにここにきて、削除する権限のないところで徹底的にそ
の語り口を消滅させるまで敵対意識を剥き出しにして、破壊のスパ
イラルを働くのか。
われわれがいかに当時の出来事について言葉で語っても、やはり言
語記号が自らに外在する実体を指し示す表象でない以上、完全に再
現できないというのが悲しいところです。しかもそれは、間主体性、
共同主観を持ちえるものでなければ接点が見出せないのでしょう。
時間と空間をともにしていなかった者には、まるで立ち入りたくな
い異世界を覗いているかのような感覚だから全部消しつくすまでな
んでしょうな・・・。かつての歴史上の出来事を語るもの(たとえ
戦争体験者)がいくら経験から来るその惨状を述べても、立場を異
にするものからは自虐主観だといわれて、それそのものがないも同
然扱いにされてしまうのと同じですね・・・。
- 26 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/17(木) 19:02:34 ID:???0
- 私が言葉を使って説明していることが、自分の頭で考えることができ
ないとまで言われてしまったわけで、自分がいかに無力であるか、言
葉を紡ぎ語る者はそれを知ることになる・・・。エロティシズム最後
の結論に書かれているバタイユの言及どおりになってしまった自分が、
何かものすごく疲弊感を覚えたのは皮肉にしかなってないですね・・・。
というか言葉を語るということは記号体系化されている自分の脳内思
考を働かせることだという当たり前の事すら忘却している人間って、
一体何なんでしょうか・・・。意味を持たせようとして作られている
言葉、これは当たり前のことであり、意味が違っていれば意味盲にな
る・・・、哲学しなくてもわかるようなことです。
不意に仮想狂気の世界(バーチャルインサニティ)について歌ってい
るジャミロクワイを思い出してしまいました。私たちがなんと狂気的
な混乱した世界に住まうのか、その中での人間が、あらゆる欺瞞(ニュ
ーテクノロジー)に愛され支配され、それに執心し、自我肥大化すると
とれるような・・・。
- 30 :【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/07/17(木) 21:32:33 ID:???0
- ところでharahettaさん、この掲示板、全部読むのボタンを押したあとの
フォントの変化はやりかたがわかりません。そのため、見やすくするため
に、数行ずつに分割して書くことにしました。これならそのまま読みやす
いのではないでしょうか。
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