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ストーリーの全体像(簡潔化文)
1【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/04/05(土) 02:37:05 ID:???0
まったく、これまたどうしようもないのが居るもので、せっかく書き綴ったものが台無しにされてしまいましたので、y氏の掲示板のそれをこちらに修正加筆、転写し、過去ログに保存することにします。

・ユイが何をしようとしていたか

一連の出来事はそれこそ劇中で某々氏が言っているように「すべてがリンク」している。
ユイのいうすべては流れのままに、という台詞もまた然りである。故に「補完計画が実践される前にはどのような手段でサードインパクトを起こそうとしていたのか」というその点の流れに区別をつける必要は無い。
なぜなら部分部分にとらわれると、ストーリーの全体像を見失うからである。
また、サードインパクトを引き起こすための方法であるとか、それは結構付加読みが横行する部分なのだが、深く考える必要の無い部分である。
なぜなら、ゲンドウにしろ、ゼーレにしろ、彼らはそれに対する考え方が違っているだけであり、主導権争いをしているだけで、何が引き起こされるかの本質は何にも変わらないからだ。
ひとえに申し上げると、ユイが行おうとしていたのは、ニヒリズムの徹底化による閉塞した世界の価値観の打破である。
監督が公言しているように、「閉塞的な世界」や「関係性の病」などといった人間のしがらみだとか、自己確立の問題など、自分の価値云々を問うという方法でしか自分の存在意義を問えず、生そのものを肯定できなくなった人間たち、というのが劇中でまざまざと描かれている。
虚像にとらわれた自分、パースペクティヴィズムがはびこっている。さらには自分が神だ、救世主だ、などと思い込み、それを自分と取り違えて傲慢になり、自我インフレを引き起こしたものたちもいる始末である。
こんな存在価値がどうのこうのというのは、自分で勝手に自分の枠組みを決めてしまうことで、虚像の自分しか作りえない。
「快楽主義の哲学」で澁澤龍彦が非常に爽快かつ明快に、そんなことはもっともバカらしいことだとばっさり切ってくれることなのだが、現にそういう人間が劇中には大勢居るだろう。
それは人間の中にあるルサンチマンの本性が克服されない限り、永遠に続くものである。
これはニーチェ哲学を用いた私見ですが、ユイがサードインパクトに何を見出したのか、それはニヒリズムとルサンチマンで最終的に「生を否定する」ことにまで行き着いてしまう閉塞していく人類のなまったるい宙ぶらりんな状態を、サードインパクトというニヒリズムの徹底化によって、人間のニヒリズムそのものを徹底的に破壊することを測っていたと捉えていいだろう。
すなわち、乱暴に言ってしまえば価値がどうのとぐだぐだいって生があるということに理由をつけて生そのものに難癖をつけ、生そのものを肯定できないような人間は消えうせろというわけである。
真に全面的にそして生を肯定しうる人間のみが、再び自分の生を歩み出す。
それはユイが劇場版で最後のほうで「すべての生命には元に戻ろうとする力がある」というような台詞があったと思うがそこに結びつくわけだ。
つまりサードインパクトによって、ユイはニーチェが永遠回帰の思想で述べているように、生そのものに価値観を問う自体がルサンチマンの元凶であるから、すべては流れのままに、同じことの繰り返しに過ぎぬ、ということを突きつけることによってルサンチマンによる生に対するもろもろの難癖を無効化しようとした、と考えていいだろう。
ユイは50億年たって太陽も月も地球もすべて滅んだ後も、といっているように、ニーチェの言う「超人」となり、永遠に生を肯定する人間の証として、その意識は時空を超えていったと見るべきである。

2【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/04/05(土) 02:56:19 ID:???0
・ゼーレの本性

彼らの思想はまさにルサンチマン思想の権化といっていい集団ナルシシズムの団体である。
神を語ったエセ聖者団体にすぎない。劇中では無責任なまでに贖罪、福音、神などといった宗教的な用語がちりばめられているわけだが、何を絵空事を言っているのだろうか。
一神教の神概念の知識がいきわたっていない一般の日本人(無論私もキリスト教徒ではない)に、そこで使われている用語をちりばめたところで、劇中の内容だけで判断しろといわれても看破できない。彼らの宗教的儀式は、罪を贖うとか、福音をもたらすと称した、単なる暴力と殺戮にすぎず、それ以上に何の意味もない。
一神教の神概念においては、神とは不可知なる存在で、誰もが把握することの出来ぬ、イメージを決め付けることが出来ぬものとされている。
旧約ヨブ記のテーマでもある。それは誰よりも信仰心厚いヨブが、どんな災難にあってもその信仰心を保ち続けることが出来るか、という考えの下、狂言回し役としてのサタンにけしかけられた全知全能である神ヤーヴェ自身が、持っているはずの全知を使えばその結果がどうなるかなど予見できるはずであろうに、何が不満なのか、ヨブに対し悪魔のなすがままにさせる物語である。
ヨブは意識の高い人間であった。彼は神を「義の神」だと思い込み、そのイメージにとらわれていたため、なぜに災難を受ける覚えも無い自分がこのような目にあうのかわからず、神に抗議し、対決する。しかし、はっきりいって神の被造物としてのヨブの方が圧倒的に弱い立場に居る。
ヨブの抗議に神はカバやワニに似た怪物を無から創出し、その無尽蔵な創造力をヨブの前に構え、ヨブを力ずくで屈服させてしまう。
結果的に神自らヨブに打ち明けるのは、我がなすこといかんは、人間の身で測り知ることのできないことなのだ、というようなことをいい、ヨブは結果的にこれに「賢明」にも「口に手を当て」て屈服する。
ユングはこれをその著書「ヨブへの答え」にて、神とヨブの関係を無意識と意識の関係に等しいと指摘した。
ヨブが神に対し疑問を抱き、神と対決するのは、それまで無条件に神を崇めていた人間に「意識」が芽生え、「無意識」と対峙する構造だと。
人間の側からすれば理不尽で児戯にも等しい神の行動は、ユングからすれば、人間が特定しえぬ、非合理的な無意識のヌミノースな情動に等しいという。
神とは人間の無意識、あるいは心の断片的なイメージを統合したものだというのである。すなわち人間の心が持った衝動的なエネルギーの源泉に等しいとされる。
はかり知れない神=捉えることの出来ぬ無意識の暗闇
無意識とは自己の中に潜んでいる内なる神に等しいのだというのだ。これらからの意味で、無意識とは現実的ではない。
ヨブが最初に持っていた神概念は、個人の中で「義の神」だと思い込んだ「神のイメージ」でとどまっており、それは神の側からすれば傲慢なのである。
結果的にヨブは、神とは不可知なものなのだと知り、悟りのようなものを得て、最終的に神からようやく施しを受けることになるが。
人が神を知る、というのは、意識が無意識を知るということであり、人間が自己を確立するためには、まず自己自身が非現実的なものであり、現実の範疇で捉えられないものなのだと悟ることから始まるという。
自分が現実において受ける災難や苦労などは、なぜなのかはわからないものなのだ、それは人間自身の心が非現実的なものだから。だけれども現実の範疇を超えている非現実的な人間の心は、現実のあらゆる災難に耐え、それを凌駕する力を持っている、という、生を価値基準なしに全面的に肯定する道徳をも会得することにもつながるのである。
ユングはそういうことを指摘していた。ところがこのような神概念とは一切無関係であるにもかかわらず神がどうのこうのと難癖つけているのがゼーレである。

3【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/04/05(土) 02:56:53 ID:???0
補完計画=神への道=完全なる人間への道=それが人間の本来の姿
劇中の台詞をまとめてしまえばゼーレの思想はこんなところで、グノーシス主義の考え方、あるいは薔薇十字団の錬金術の考え方に接点がある。とはいっても形骸化しているが。
彼らは自分たちの本来の姿が神であった、と捉え、冬月に抗議している所を見ても明らかなのだが、それは神とはかくあるべきだ、というイメージの固定であり、自分たちこそが神を知るもの、あるいは自分が神だ、という思い込みからくる無限の傲慢に陥った自我インフレを起こしている。これは上で述べたような神概念自体が壊れていることを意味する。
既に神概念自体が壊れている以上、ニーチェに言わせれば「神は死んだ!」と宣告され、価値観自体が壊れているので、ゼーレが何を言おうと、贖罪も福音もくそもなく、それはただの暴力と殺戮にすぎないお粗末なルサンチマンであり、「死よ、万歳!」的に死を絶賛しているにすぎない、それが彼らの本性だと、私が用いた分析方法では解せる。
なによりそれがすべてあの醜悪な量産機に滲み出ていると考えれば、これ以上の皮肉はない。
彼らの視点からいえば、贖罪とは罪深き肉体から解放されること、という風に解せるが・・・。

4【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/04/05(土) 03:01:50 ID:???0
ゼーレとゲンドウの補完計画の方法はどっちもアダム・リリス・エヴァなどそれらを使うということに関しては当初からして同じだった。
アダムとリリスの禁じられた融合はゲンドウの方法ではないのか、と思うかもしれないが、ゼーレ自体、アダム・リリスを無視していたわけではない。
第弐拾四話のビデオフォーマット版に「希望」であるとか、パンドラの箱がどうの、というのがあるであろう。
彼らにとっての希望とは「神への道」、すなわち人間の本来の姿だという「完全なる人間」である。
希望とは人の数だけ存在するといい、それは本来人の心の中にしか存在しないものだった、しかし彼らの希望は具象化された、という発言もある。
神への道は、これまで誰もがなしえなかったものだとある。それは結局人の心の中の「希望」としてしかなく、絵空事に過ぎなかった。
ところが彼らは彼らの希望が具象化された、といっている。それは自らの心のうちに秘めていた神への道という「希望」が、現実のものとなって目の前に現れたことを意味する。
ゼーレはそれにとっついたわけだ。
神への道をなしえる具象化された希望とは、彼らが言っているように「失われた正当なる継承者である白き月よりの使徒、その始祖たるアダム」「偽りの継承者としての黒き月よりの人類、その始祖たるリリス」、すなわち謎にまつわるもの全てである。
彼らにとって、それらは「神への道」という希望をなしえる道具なのだ。だから彼らも、アダム、及びリリスの融合を図ろうとしていたとしか考えようがない。
アダムや使徒の力は借りぬという言葉もあるが、それは自分たちが補完計画を自分たちの主導の下に行っている、という自己満足を得たいがためだけの理屈である。
現にカヲルという使徒を使っているのに、使徒の力は借りぬ、とそのままに受け取っては矛盾もいいところである。要するにカヲルは自分たちの支配下にあるし、それを使って予定を繰り上げようとしたのだから、それは結果的に自分たちがそれをなす、という自己満足を満たせるわけである。
その自己満足を得たいがためだけ、という顕れは、結果的に初号機を使っての計画に変更するという自身の本性をさらけ出したそれにも顕れている。
また、ロンギヌスの槍が月より舞い戻り、さらにアダムとリリスが融合して現れたことを、ゼーレは何の不満も抱いていないこともキーポイントだ。つまり、その時点でアダムとリリスの融合物(巨大綾波)が現れたことに何の不満も無く、ロンギヌスの槍もその手に返ってきたことで、ことの成り行き自体は自分たちが望んでいたものにほとんどといって良いほど同じになったわけである。
唯一つ、シンジと初号機というのが彼らにとってはなし崩し的に受け入れざるを得なかったようだが。
それでも「よい、すべてはこれでよい」といっているあたり、やはり自己満足を得たいだけなのだ。
アダムとリリスの融合によって「完全なる人間」の復活を図り、それが人間の本来の姿だった、というのが彼らの主張なのだ。
だから方法自体も本質的にはほとんど何も変わらない。ロンギヌスの槍をめぐる攻防に関しても、ゼーレにとってロンギヌスの槍とは、自身のナルシシズムの象徴だった。
それはゲンドウの「ユイを神とみたてたかのような偶像崇拝=疎外された形で自分を崇拝すること」にとって邪魔だったというだけのことである。
自分が人から愛されるとは思えない、という風に暴露しているように、ゲンドウはそこに現れたカヲルが言っているように自分で自己を疎外していただけのことで、周りが何にも見えてなかっただけだった。ユイの願いというものを自分の願いに同一化していたわけだが、肝心のユイの願いにおいてゲンドウは既に無用の人間と化していたのである。
結果的には上半身を丸かじりされて下半身だけがそこに残ったが。

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