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エヴァンゲリオンとは人間の邪悪さを描いた絶望の物語
1死に至る病:2008/01/09(水) 15:14:57 ID:VF.PxFE.0
エヴァンゲリオンとは人間の邪悪さを描いた絶望の物語である。
エヴァンゲリオンには、希望のかけらもありません。
成長も何もありません。
ただ、絶望しか存在しない、破滅の物語です。
それを認めたくない人が何とかしてこの物語の中に希望を見出そうと
しますが、残念ながらそんなものはまったくありません。
それはこの「甘き死よ、来たれ」の歌詞にはっきりと表れています。

〜EVANGELION -THE DAY OF SECOND IMPACT-の歌詞カードより抜粋〜

不安なの。
不安なの。
みんなに嫌われるのが、怖い。
自分が傷つくのが、怖い。
でも、ヒトを傷つけるのが、もっと怖い。
でも、傷つけてしまう。
好きなヒトを傷つけてしまう。
だから、ヒトを好きにならない。
だから、自分を傷つけるの。

嫌いだから。
だいっキライだから。

好きになっては、いけないの。
だから、自分を傷つける。
優しさはとても残酷
心を委ねたら、私は壊れてしまう
心が触れ合えば、あの人は傷つく

だから、私は壊れるしかない
無へと還るしかない

無へと還ろう
無へと還ろう
それは、優しさに満ち満ちたところ
そこは、真実の痛みの無いところ
心の揺らぎの無いところ

無へと還ろう
無へと還ろう
他人のいない無へと帰ろう
無へと還ろう
無へと還ろう
傷つく事のない無へと還ろう………(リピート)
(日本語原詞:庵野秀明)

人類補完計画とか、新たな神になるとか、正当な継承者になるとか、
心の補完とか、人類を進化、再生、新生させるとか、そんなのは全部
後付けの建前の理由に過ぎません。
この物語は、100%破滅しかない物語なのです。

3死に至る病:2008/01/09(水) 15:37:56 ID:VF.PxFE.0
甘き死よ、来たれの英詩と日本語訳詩
この歌詞に庵野秀明監督の思いのが全てがあると言っていいでしょう。

Komm,susser Tod/甘き死よ、来たれ

I know, I know I've let you down
I've been a fool to myself
I thought that I could live for no one else

But now through all the hurt & pain
It's time for me to respect
the ones you love
mean more than anything
So with sadness in my heart
(I) feel the best thing I could do
is end it all
and leave forever

what's done is done it feels so bad
what once was happy now is sad
I'll never love again
my world is ending
I wish that I could turn back time
cos now the guilt is all mine
can't live without
the trust from those you love
I know we can't forget the past
you can't forget love & pride
because of that, it's kill in me inside
It all returns to nothing,
it all comes tumbling down,
tumbling down, tumbling down
It all returns to nothing,
I just keep letting me down,
letting me down, letting me down

In my heart of hearts
I know that I called never love again
I've lost everything everything
everything that matters to me
matters in this world

I wish that I could turn back time
cos now the guilt is all mine
can't live without
the trust from those you love
I know we can't forget the past
you can't forget love & pride
because of that, it's kill in me inside
It all returns to nothing,
it all comes tumbling down,
tumbling down, tumbling down
It all returns to nothing,
I just keep letting me down,
letting me down, letting me down

4死に至る病:2008/01/09(水) 15:42:30 ID:VF.PxFE.0
甘き死よ、来たれの英詩と日本語訳詩
この歌詞に庵野秀明監督の思いのが全てがあると言っていいでしょう。

Komm,susser Tod/甘き死よ、来たれ

そう 私はあなたを失望させてきた
私は無駄な努力をしていたの
誰のためにでもなく 生きていけると思っていた

でも今や辛い日々は去って
あなたの愛する人たちに
何よりも大切な人たちに
敬意を表す時がきた

私はベストを尽くしたわ
でも悲しいことに
私が今してあげられることは
全てに終止符を打つこと
そして永遠に去りゆくこと

過去は過去にすぎない 苦しいけれど
かつて幸せだったことが今は悲しい
もう二度と愛したりしない
私の世界は終わりを告げている

時間を逆戻りさせたい
今や全ての罪は私のものになってしまったから
あなたの愛する人たちの信頼なしには生きていけない

そう 私たちは過去を忘れられない
あなたは愛とプライドを忘れられない
それが私を深く傷つける

無へと還ろう
みんな崩れていく 崩れていく
崩れていく
無へと還ろう
私は壊れていく 壊れていく
壊れていく

心の底から思う
もう二度と愛など求めないと
私は全てを失った
すべてを
私にとって意味のあるものすべてを
この世で意味のあるものすべてを

時間を逆戻りさせたい
今や全ての罪は私のものになってしまったから
あなたの愛する人たちの信頼なしには生きていけない

そう 私たちは過去を忘れられない
あなたは愛とプライドを忘れられない
それが私を深く傷つける

無へと還ろう
みんな崩れていく 崩れていく
崩れていく
無へと還ろう
私は壊れていく 壊れていく
壊れていく

管理人さんへ。レスの2番は読みづらいので削除してください。

5死に至る病:2008/01/09(水) 16:37:00 ID:VF.PxFE.0
エヴァンゲリオンとは母親のエゴの物語である。
エヴァンゲリオンにおける悲劇の根源、諸悪の根源は碇ユイである。

ユイ=唯。唯一神。
ゲンドウ=言動。ユイの言葉、行動。神の言葉。ユイの代弁者。
シンジ=神児。
セカンドインパクトの誘発には「碇ユイ」が関わっている。
それをほのめかす発言を冬月がしている。

第弐拾壱話 ネルフ、誕生
冬月:その後国連は、セカンドインパクトは大質量隕石の落下によるものと正式発表した。
冬月:だが、私の目から見れば、それはあからさまに情報操作をされたものだった。
冬月:その裏にはゼーレ、そして、キールと言う人物が見え隠れしていた。
冬月:私は、あの事件の闇の真相を知りたくなった。
冬月:その先に、たとえ碇ユイの名があろうとも。
この発言は碇ユイがセカンドインパクトの誘発に関わっている事を暗示している。

碇シンジは碇ユイの操り人形である。
碇ユイ(唯。唯一神)は、碇ゲンドウ(言動=神の言葉=ユイの代弁者)を通じてシンジを操っている。
残酷な天使のテーゼの2番の歌詞に碇ユイの母親としてのエゴがはっきりと表れている。
この歌詞は、碇ユイの気持ち(エゴ)である。

ずっと眠ってる 私の愛の揺りかご
あなただけが夢の使者に 呼ばれる朝が来る
細い首筋を 月明かりが映してる
世界中の時を止めて 閉じ込めたいけど

「ずっと眠ってる 私の愛の揺りかご」とは、エヴァンゲリオン初号機の
エントリープラグの事である。
エヴァンゲリオン初号機のコアには碇ユイの魂が宿っており、初号機のエントリープラグは
つまり碇ユイの子宮(私の愛のゆりかご)である。

「あなただけが夢の使者に 呼ばれる朝が来る」とは、碇ゲンドウに呼ばれる、
という意味である。夢の使者とは、「碇ユイの夢」の使者である。

「世界中の時を止めて 閉じ込めたいけど」まさにここに碇ユイの母親としての
エゴが在る。つまりエヴァンゲリオン初号機の中に永遠に閉じ込めておきたい。
というエゴの表れである。これは、第弐拾話:心のかたち、人のかたちを見れば
はっきりとわかる。

第弐拾話:心のかたち、人のかたち より抜粋

リツコ:これがシンクロ率400%の正体。
ミサト:そんな、シンジ君は一体どうなったのよ!
リツコ:エヴァ初号機に取り込まれてしまったわ。
ミサト:何よそれ!エヴァって何なのよ!
リツコ:人の作り出した、人に近いカタチをした物体、としか言いようがないわね。
ミサト:人の作り出した?あの時南極で拾ったものをただコピーしただけじゃないの!オリジナルが聞いてあきれるわ!
リツコ:ただのコピーとは違うわ。人の意思が込められているもの。
ミサト:これも誰かの意志だって言うの?
リツコ:あるいはエヴァの。
ミサト:!
ミサト:何とかなさいよ!あんたが作ったんでしょう!?最後まで責任取りなさいよ!!

どうだろう?エヴァの意志=碇ユイの意志。
「ずっと眠ってる 私の愛の揺りかご」=「初号機のエントリープラグ」
「世界中の時を止めて 閉じ込めたいけど」=「シンクロ率400%」

6死に至る病:2008/01/09(水) 17:07:14 ID:VF.PxFE.0
あ、すみません。自己紹介が遅れました。
はじめまして。ここでのHNは、「死に至る病」です。
エヴァンゲリオンを見て色々と感じるものがあり、ネットで色んな意見を読んで
ここにたどり着きました。
僕なりのエヴァンゲリオンの解釈を通じて皆さんと議論をしたいと思います。
では、つづきを。

綾波レイもアスカも操り人形に過ぎない。
綾波レイ=ゲンドウの人形。後にシンジの人形になる。
アスカ=惣流・キョウコ・ツェペリンの人形。キョウコに関するトラウマが
アスカの原動力になっている。
赤木リツコも赤木ナオコもゲンドウの操り人形。
ゲンドウに惚れて惚れた弱みで利用されただけ。
葛城ミサト=父に関するトラウマを中心軸に人格形成されている。
シンジに自分の父親に対するトラウマを投影している。
そして、ゲンドウもおそらくはユイの夢、願望を叶える夢の使者、代弁者、道具に
過ぎない。
エヴァンゲリオンの世界は、ユイ(=唯=唯一神)が姿をほとんど見せていないが
物語の全てを裏側から支配している。
残酷な天使のテーゼの歌詞、魂のルフランの歌詞は碇ユイの視点で書かれている。
ttp://www.utamap.com/showkasi.php?surl=58075
ttp://www.utamap.com/showkasi.php?surl=58156

7【管理人】アイオーン:2008/01/09(水) 18:36:47 ID:eS3TrGbk0
>>1-6 死に至る病さん
初めまして、管理人アイオーン・アブラクサスです。

いくつか疑問点はあり、一見みも蓋もないご指摘ではありますが、仰りたい意味はわかります。
もとよりHPや他の過去ログを見ていただければわかると思いますが、同意見のほうが多いのです。
その点を指摘しているあなたには、ぜひともエーリッヒ・フロムの社会心理学の分析方法を読んでいただきたいと思います。
歌の中にある歌詞の意味がわかっていればなおさらです。
「甘き死よ、来たれ」という歌は、その内実ともに死を賛美するような歌です。
歌の内容だけでなく、描写自体が有機体である人間を無機体に変貌させているところからして、接合点があります。
エーリッヒ・フロムの分析方法を用いるのであれば、あの描写には「衰退の症候群」の全てがそろっており、とりわけ「ネクロフィリア」と「近親相姦的共生→母固着」の傾向ばかりが強まっております。
エヴァは反ヒューマニズム的でバーバリズム的です。それは現代社会のヒューマニズムの視点から見たらきわめて「悪」です。
今回の新劇場版の宣言文にしても「原始的な感情に触れる本来の面白さ」とあり、これは変っていないところがあります。
初号機の暴走を見ても明らかですが、あの暴れようは、まさに文明社会によって禁圧されて神経症、あるいは精神病理的に退行した、バーバリズムへの憧憬の表れです。
そして最後においてはサードインパクトにより、退行的な方法での意味の「補完」が実行に移されました。
これはフロイトにしてもフロムにしても指摘していることです。
ひとつ「悪について」のフロムの言及を紹介しましょう。

「いわゆる精神的に健康な人とは、その文化の一般原理に従っている。古代チュートン民族の狂戦士(いわゆるバーサーカーのこと。北欧伝説で一度戦場に出れば狼のようにほえ、熊のようになり、狂暴の限りをつくしその驚くべき力にはいかなる武器も役に立たなかったという)にとって「健康」な人たちとは野獣のように行動できる人であったが、その同じ人間は、現代では精神病者であろう。精神的体験のあらゆる原初的形態は―ネクロフィリア、極端なナルチシズム、近親相姦的共生―何らかの形でも退行的・原初的文化の中の「正常」ないしは「理想的」とも言えるものを構成しているが、その理由は、現代では重症の精神病理と考えられる状態をあこがれる共通の衝動により結ばれているからなのである。それが軽症の場合には、反対の力によって阻止されると、先に述べた原初的な力は抑圧されるが、この抑圧の結果は「神経症」となるのである。
退行的文化と前進的文化との間に存在する原初的オリエンテーションの本質的相違は、次のような事実に存在している。すなわち原初的文化の中にある原初的傾向の人は、孤独感に悩まされず、かえって共通の世論によって支持されるが、前進的文化の中にいる同じ人には、ちょうどこれと正反対の事態が生じるという事実である。彼は自分の精神が全ての人の精神と対立するが故に「発狂する」のである。
今日のような前進的文化の中においてさえも、相当強い退行的傾向を持つ人がかなりおり、それは日常生活の中では抑圧されていて、戦争などのような特殊条件の下で初めて出現するのである。」

言っている意味がお分かりになるでしょうか?これを歌の内容と照らし合わせてみれば、当時の監督がいかに退行的で倒錯していたか、それがわかると思います。
彼はその退行的なオリエンテーションの持ち主であるが故に、その衝動が前進的社会の中で抑えきれなかったのです。
閉塞した社会の打破といいつつ、逆に退行的なオリエンテーション、つまり閉塞感を撒き散らしていることは明らかで、倒錯していたのは明らかです。
あのように退行的なドラマを展開するのではなく、前進的で生命愛に満ち溢れたものであったほうが、成長的かつエンターテインメントといえるでしょうに、それが未だにわかっていないようなところがある。
エヴァの世界観には、退行的な展開を迎えてしまうであろう要素が大量にちりばめられています。異常が正常化しているので、それに気づかないままに終わってしまう人も多いのです。

8死に至る病:2008/01/09(水) 19:06:53 ID:VF.PxFE.0
>>7
はじめまして。死に至る病です。
なるほど。エーリッヒ・フロムの社会心理学の分析からアプローチしているんですね。
フロム著の「悪について」を元に。
でも微妙にズレを感じてしまいます。庵野監督がおそらく読んでいる本は、
キリスト教の新約聖書、ユダヤ教の旧約聖書、そして、キルケゴールの「死に至る病」だと思います。
ttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%E0%A4%CB%BB%EA%A4%EB%C9%C2
↑これです。とりあえず↑これを読んでみてください。
庵野監督の精神状態により近いと思います。
ttp://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/Yohane.html
↑は、ヨハネの黙示録
ttp://www.geocities.jp/enten_eller1120/text/kierkegaard/krankezumtod.html
↑これはキルケゴールの死に至る病の概略です。
悪について、もいいですが、庵野監督の精神状態を知るには、庵野監督が読んでいる本を
読んだ方がより近いと思います。

9死に至る病:2008/01/09(水) 19:20:18 ID:VF.PxFE.0
管理人アイオーン・アブラクサスさんは、心理学的なアプローチをしているようなので、
僕は、宗教的なアプローチから迫ってみたいと思います。

ttp://www.geocities.jp/enten_eller1120/text/kierkegaard/krankezumtod.html#死に至る病
↑の死に至る病、緒言 からの抜粋。

ヘーゲルの「全体」を扱う学問は,「キリスト教的」ではない.あえてまったく
自己自身になろうとすること,一人の特定の単独な人間,神の前にただ一人で
立つ人間になろうと努力することこそが,キリスト教的なヒロイズムである.

人間的には死は一切のものの最後であり,生命がある間だけ希望があるにすぎない.
しかしキリスト教的な意味では,死は一切のものを包む永遠なる生命の内部に
おける一つの小さな出来事であるにすぎず,無限に多くの希望が死のうちにある.
だからキリスト教的な意味では,死でさえも「死に至る病」ではない.
しかし同時にキリスト教は,人間は人間である限り知るに至らない悲惨がある
ことを発見した.これこそが「死に至る病」である.
ここでキェルケゴールの言う「死」は一般的な意味,肉体的な意味での「死」
ではなく,キリスト教的な意味での死である.
キリスト者はこのような恐怖を知ることによって,キリスト者以外の人間が怖れる
危険は取るに足りないものとなり,そのような危険の中へ踏み入る勇気を得るの
である.

A 絶望が死に至る病であるということ
A 絶望は精神における病,自己における病であり,したがってそれには三つの場合
がありうる.絶望して,自己をもっていることを自覚していない場合(非本来的な
絶望).絶望して,自己自身であろうと欲しない場合.絶望して自己自身であろう
と欲する場合.
キェルケゴールは以下のように人間を規定する.
人間は精神である.しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である
人間とは精神であるからには,人間は精神となるべきであり,精神とは自己である
からには人間は自己であるべきなのである.
自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である.
あるいは,その関係において,その関係がそれ自身に関係するということ,
そのことである.自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係
するということなのである
人間というのは,「無限性と有限性」との,「時間的なものと永遠的なもの」
との,「自由と必然」との綜合であり,それはつまりそれら二つのもののあいだの
関係なのであるが,それだけではまだ人間は自己ではない.
その関係それ自身は消極的統一としての第三者である(ただ,二つの関係項を綜合
しているだけで,第一義的なのは関係項のほうである).その関係がそれ自身に
関係するとき(いま挙げた二つの関係項にどのように関係するかということを
決定するとき),この関係は積極的な第三者であって,これが自己なのである.
つまり自己が自己になるということは,二つの関係項とどのように関係している
かということを,自ら反省し,関係の仕方を決断することである.
しかし自己が選び取るべき「関係」(桝田氏にしたがってこのような関係を
「本来的な関係」と呼ぶ)を措定したのは誰か.それは「ある他者(神)」
であるか自己自身であるかのどちらかである.
さて,キェルケゴールによると,絶望には
絶望して,自己をもっていることを自覚していない場合(非本来的な絶望).
絶望して,自己自身であろうと欲しない場合.絶望して,自己自身であろうと
欲する場合 の三様があるという.そして後二者が本来的な絶望である.
これらはそれぞれ,自己自身が自己を措定した場合と他者が自己を措定した場合
に対応する.
というのは,「本来的な関係(自己)」を措定したのが他者でなく自己自身で
あるならば,絶望して自己自身であろうと欲するということはありえない.
つまり,ここでいう,自己自身であろうと欲する場合の「自己」は,本来的では
ない自己であるから,絶望して,飽くまで非本来的なあり方に留まろうとしている
場合の絶望のことを言っているのである.
しかし本来的な関係を措定したのが他者であるのならば,そのようなことは起こり
得ない.したがって,本来的な関係を措定したのは他者である神なのである.
本来的な絶望のもうひとつの形態である,絶望して自己自身であろうと欲しない
場合,というときの「自己」は本来的な自己のことであり,つまり,絶望して
本来的な自己であろうとしない場合の絶望を言っているのである.

長いですね。すみません。でも、エヴァンゲリオンで庵野監督が言わんとしている
ことは、ほとんどこの「死に至る病」という本の中にあるのではないか? と思うのです。
どうでしょうか?

10【管理人】アイオーン:2008/01/09(水) 19:30:51 ID:eS3TrGbk0
次にご指摘させていただきたいのは、

>ユイ=唯。唯一神。
>ゲンドウ=言動。ユイの言葉、行動。神の言葉。ユイの代弁者。
>シンジ=神児。
>セカンドインパクトの誘発には「碇ユイ」が関わっている。

この点はいかがなものでしょうか。
そもそも、ゲンドウと冬月の名前は浅田彰の著書「構造と力」からとられています。
構造→冬月コウゾウ
力→原動力→碇ゲンドウ
こうなっています。
その考え方は一時私も考えてみましたが、そこだけキリスト教的であるのも変なものがあると思いました。
ユングのグノーシス主義的に考えるのであれば、三位一体よりも、「悪」をいれた四位一体を考えたほうが面白いかもとは思いましたが。
冬月の台詞から「その先に碇ユイの名があるとしても」というのは、本人の中にあるユイへの思慕の念との葛藤でしょう。
そのセカンドインパクトの誘発にかかわった「ゼーレ」のメンバーに碇ユイがいたとしても、という意味ではないかと。
まあどっちにしてもセカンドインパクトの誘発に彼女も含めて一味全てがセカンドインパクトに噛んでいたと考えるのが普通だとは思いますが。

また、ユイについては、フロムの分析方法を用いればあなたが仰るように「根源悪」です。
ただ、絶対的強者の存在として見るのであれば、すでにユイ自身は人間であることをやめ、あらゆる意味で超人と化しているので、善悪の概念で図り得ないところもあります。
先日より私が紹介している「死者との七つの語らい」には「アブラクサス」という名の、神を超える神という、「存在にあらざる存在」があります。
これは今考察中のことですが、ユイにはニーチェの超人思想やグノーシス主義者バシリデースが創作した至高神である「アブラクサス」という、善悪の概念を超えた超越的存在との接合点があるとみなすこともできるのだということを明示しておきます。

さらに、チルドレンたちのことですが、彼らは人形というよりも、自身で自分が使徒を倒せる存在であるという商品価値としてネルフに売り込んでいたのです。
あるいは、チルドレンたちはみな、ファースト・セカンド・サードと記号化された人間です。
そういう点ではナチス・ドイツのアドルフ・アイヒマンとの接合点を見出すことができます。
アイヒマンも「親衛隊番号45326号」という記号化された人間でありながら、率先して機械的にユダヤ人ホロコーストを実践するようになり、そうすることでヒトラーにも認められ、その第一人者となっていった人間です。
アイヒマンは「500万人ものユダヤ人を列車で運んだ」と、任務を着実に遂行することを自慢していました。
この点においても、使徒殺戮マシーンとしての自分の価値として、シンクロ率の上昇にそれを見出し、無意味に喜ぶシンジとの接合点が上がります。
その後もアイヒマンはドイツの敗色が強まる1945年において親衛隊隊長ヒムラーの虐殺中止命令にもかかわらず、ユダヤ人の虐殺をやめずに続けていました。
これはすでにそうすることでしか、自分が生きる道がなかったのです。
アイヒマンは武装親衛隊の予備役として委任させられていたため、戦闘命令を回避するために、ホロコーストを実践し続けていたのです。
これがシンジの何と同じだというのか。
「生きるには機械的な任務に没頭して殺すしかない」
まさにこの点です。アイヒマンとの比較については、また別項に記します。

11【管理人】アイオーン:2008/01/09(水) 19:36:38 ID:eS3TrGbk0
書き込んでいたらすでに反応がありました、早いですね。
一言気になることがあったのでご指摘を。
私は別に監督が読んでいたかどうかなど関係ないと考えています。
フロムの方法論については、監督のあずかり知らぬところだと思います。
しかし、フロムの記述にはまるでエヴァのなかにある描写をそのまま照らし合わせることができるような記述が多く、とりわけフロムに関しては、聖書などからの引用も多いのです。
分析する上でエヴァに使われているか否かでズレにはならないということを明記しておきます。

12【管理人】アイオーン:2008/01/09(水) 19:51:14 ID:eS3TrGbk0
誤解なきように申し上げますが、監督がそういったものを読んで考えられたというその事実も全てひっくるめて、フロムの解釈においては、描写からして「衰退の症候群」に含まれているものだと解釈しえるのです。
ネクロフィリア=死への希求(死を強く願い求めること)です。
これは「死よ、万歳!」と絶叫する、スペインのフランコ率いるファランヘ党のミラン・アストレイ将軍と、それに反発した哲学者ウナムーノのやり取りに置き換えることができます。

13死に至る病:2008/01/09(水) 20:00:19 ID:VF.PxFE.0
ほとんど同時に書き込みをしているみたいですね。
なるほど。勉強になります。
西洋の文化は、東洋の文化と全然違いますね。キリスト教がいかに西洋において
強い影響力を持っているか。それが心理学にも大きく影響しているように感じます。
ではちょっと話題を変えてみます。
キリスト教では、原罪とは善悪を知る知恵の木の実を食べたこと。ですね。
それでエデンの園を追放される。
原罪に対する贖罪とは、なんでしょうね?
善悪を超える事、でしょうか?
辞書では、キリスト教で、人々の罪をあがない、人類を救うために、
イエス-キリストが十字架にかかったとする教義。和解。
ロンギヌスの槍で刺される事が、一種の贖罪、なのかもしれないですね。
ユダヤ教では、贖罪の日というのがあって、
ユダヤ教の祭日の一。ユダヤ暦の七月(現行暦の一月)一〇日に断食をし、
大祭司がいけにえの動物を捧げ、人類の罪をあがなうための儀式を行う。贖罪節。
というのがあります。
善悪を超える=原罪を超える=神に近づく。ということなのかな?

あとは、母性について。ですね。
これについてはどうでしょう? ユング心理学のグレートマザー。
河合隼雄先生は、母性には否定的側面と肯定的側面がある。と書いてありますが。
河合隼雄著「物語の深層」
童話には母性を象徴するものが出てきて、そこには否定的側面と肯定的側面がある。
その母性の呪縛からいかにして抜け出すか。というのが物語の原型として、存在する、と。
これについてはどうでしょうか?

14【管理人】アイオーン:2008/01/09(水) 20:12:10 ID:eS3TrGbk0
反応早いですなぁw
チャットしてる気分だw
さて、死に至る病さんは、どうやらエヴァをキリスト教的な解釈に従って分析しているようですね。
しかし、エヴァはキリスト教的解釈ではなく、むしろキリスト教正統派から異端視されて徹底的に叩かれた、グノーシス主義的な解釈のほうが接合点があります。
使徒(天使)をぶちのめすあたりからしてすでにキリスト教に対して背反的です(笑)。
グノーシス主義の解釈においては「善悪を知る(グノースケイン)木」の実を食べたことがむしろ原罪ではなく、神聖視されます。
ゲンドウらは原罪という言葉を使っていると思いますが、これは結構能天気な使い方をしているといわざるを得ないんです。
逆に、グノーシス主義では、魂=至高神の一部とされる(人間即神也)ので、悪の造物主が作った肉体に囚われていること自体が罪であり、知恵はむしろ神聖視され、食べるように勧めた蛇が神聖な動物となるのです。
過去ログに「反宇宙的二元論に基づく正統と偽りの定義」というのを書いてありますからそちらをご覧になってみてください。

15死に至る病:2008/01/09(水) 20:34:59 ID:VF.PxFE.0
そうですね。グノーシスですね。忘れてました。
ちょっと、質問です。
参号機のコアの魂は、トウジの妹ですかね? それとも母親?

16【管理人】アイオーン:2008/01/09(水) 20:46:09 ID:eS3TrGbk0
解答なし!(爆)
ってすみません、明確なことは答えがありませんが、一応、エヴァ2ではトウジの母親でしたね。
妹説はありえないと思っています(笑)。
久々にさまざまなことに話題がとんでブレインストームをもたらしましたね(笑)。
一応紹介しておきますが、われわれはウロボロス・ゲマインシャフトというチャット同盟を結んでいます。
あなたがそれに参加したいというのであればHPにその方法が書いてありますから、もしよろしければどうぞ。
おそらく今までの考え方が根本的に変るかもしれません(笑)。
あるいは同じであっても発展的になる可能性もあります。
巷ではキリスト教的解釈についてデマが流れていることも多いので(笑)。
ちなみにユング心理学については、今のところ私よりも極東博士殿のほうがお詳しいので、彼の意見を聞いてみるのがいいと思いますよ。

17【管理人】アイオーン:2008/01/09(水) 23:17:38 ID:eS3TrGbk0
とりあえず、死に至る病さんがグレートマザーについて持ち出されましたので、河合隼雄氏の「ユング心理学入門」よりの抜粋をさせていただきます。
・・・深淵は多くの国の神話において、重い役割を演じている。すなわち、地なる母の子宮の象徴であり、全てのものを生み出す豊壌の地として、あるいは全てを呑みつくす死の国への入り口として、常に全人類に共通のイメージとして現れるものである。
原始時代の人間にとって、地面から植物が育ち、また枯れて土に返り(と彼らは思ったことであろう)、そして、また、新たな植物、生命が生まれ出てくることは、まったく驚きであり、不可思議であったに違いない。とくに、その植物、つまり穀物によって彼らの生命が維持される場合、この「土の不思議は」は彼らの胸を打ったに違いない。
かくて、「産み出すもの」としての、母、土、何かを蔵している深さなどは、一体として感じられ、地母神のイメージとして、全世界いたるところに見出すことができる。
この、穀物の生成と、母なるものの意味を伝える神話の典型的なものとしては、ギリシャ神話のペルセポネと母デメテルの物語をあげることができるであろう。
そして、生み出すものとしての地母神が、また、死の神としての特徴を持つことも、多くの神話には認められる。
土から生まれでた植物が、また土にかえるごとく、全てを生み出す深淵はまた、全てのものを呑みつくすものとしての意味も兼ねそろえている。このため、このまったく矛盾している生と死の両方を、一人の地母神が兼ねている例を認めることもできる。
・・・中略・・・
このような深い意味をもった母なるもののイメージは、全人類に共通に認められるものであるが、これを個人的な実際の母親像とは区別して、ユングは太母(グレートマザー)とよんでいる。

18死に至る病:2008/01/13(日) 00:33:16 ID:MMcqk/e20
なるほど。面白いですね。
フロイトもそうですが、心理学(精神分析学)が神話から生まれているというのは
興味深いですね。
エディプス・コンプレックスは、ギリシャ悲劇オイディプス王(ソフォクレス著)が
元ネタですしね。

19【管理人】アイオーン:2008/01/13(日) 00:46:15 ID:eS3TrGbk0
>>18 死に至る病さん
まあそうなんですが、フロイトの場合、それ以前に自分が生まれ育った環境からして、特殊でしたからね。
父親と母親の年の差とかかなり開いていたから、自分の兄のほうが母親の相手にふさわしいとか、子どもながらにこんがらがって痛んだと思いますよw
エディプスコンプレックスが解消されずに、母親に固着しすぎると、近親相姦共生となり、エヴァでいうならシンジとレイとか、シンジとユイとか、それに当てはまるでしょうね。
てか、フロムの「悪について」に記述されている内容に基づいていますが、溺死したい願望というのが近親相姦共生に陥った人間にはあるようで、LCLに「おぼれている」状態が心地よいと感じていたりするところからして、エヴァのパイロットには「近親相姦共生」へと退行する要素が大量に含まれていたことになるのです。
だから成長的にならなくて当然だといえば当然だったのでしょう。

20死に至る病:2008/01/13(日) 01:01:11 ID:MMcqk/e20
なるほど。フロイト自身の病から生まれた理論なんですね。
ちなみにフロイトは、「オーストリアの白人系ユダヤ教徒アシュケナジー」の家系だそうですね。
ユダヤ教の影響もあるのかもしれません。
フロイトに関しては批判も多いし、現代ではフロイトの理論は否定的に捉えられても
いますね。
僕はやっぱりユングの方が好きです。

21【管理人】アイオーン:2008/01/13(日) 03:23:38 ID:eS3TrGbk0
一言申し上げますが、フロイトに関しては確かに批判は多いですけれども、批判と非難を間違えてはいけませんよ?
たとえば、フロムはフロイトの流れを汲んではいますが、フロイトを批判しつつ社会学的見地を取り入れてはいても、フロイトに対しては偉大な発見も多いと敬意も払っています。
フロイトは新地の開拓者です。故に頑固で固まっているところがありますが、開拓者と第二世代→第三世代とくると、その材料がありますから、さまざまな見地を取り入れてそこに理解を得ることで、「批判」が生じるのです。
対して、非難というのはただ罵声を浴びせれば事足ります。批判にはそれだけの論拠があるし、その人自身にはきちんと敬意を払っているヒトもいます。
そもそもフロイトは文学作品にもかなり影響を与えましたから。
私はどれもみんな面白いと思いますよ。でもそれ自体をホントに信じ込んではいませんがね(笑)。
フロムに関しては理解できるところも多いですよ。
個人主義的な支店が強いですがね。フロムの本は非常に読みやすいですから。

22死に至る病:2008/01/13(日) 10:44:10 ID:YBwijzjU0
個人主義的な支店、は個人主義的な視点の間違いですね?w
フロイトは一つの「叩き台」なわけですね。
叩き台と言っても、罵声を浴びせて批難するわけじゃなく・・・w

23人類補完計画推進委員会:2008/01/19(土) 10:19:30 ID:byJ7KUJA0
確かにエヴァは絶望の物語ですね。アイオーンさん曰く、この物語の
最終的なものは破錠ですから無理も無いかも。
けど、ゆういつ希望が持てるのはテレビ版最終話。人類が補完されてしまう中で
シンジが自分の存在と他人の存在とのトラウマを無くす事が出来ましたし、
世界の見方を変えることで世界の存在も決して悪くは無いと思えることを
知ることも出来ました。個人的にあの場面だけは大好きですね。
(なぜ今の今まで希望の無いストーリーの最後の最後にある意味希望的な
ラストを迎えるにいたったかはよくわかりませんが。)

24【管理人】アイオーン:2008/01/19(土) 13:03:56 ID:eS3TrGbk0
>委員会さん
>(なぜ今の今まで希望の無いストーリーの最後の最後にある意味希望的なラストを迎えるにいたったかはよくわかりませんが。)
巷では、その最後だけ、どうにか希望的観測に見えるような描写を見て、それを「自己啓発セミナー」だという人間も少なからずいる様子。
ですが私からするとそれはどう見ても怪しいことです。
そもそもその過程からして、あそこに結びつくのがわけのわからんことです。
あなたが違和感もたれたことと同じ理屈で、私もそれに至るまでの描写が、矛盾だらけであることを立証しようと思えばできます。
自由とはなにか、というところがあると思いますが、あれはフロムの方法論を用いた私の解釈からすれば、自由という概念そのものの捉え方を、根本のところから履き違えています。
自由とは、本来子どもが、初めてでくわす出来事に対する驚きとそれに対する興味・関心から、その探究心など、自分で試行錯誤しつつも、さまざまに模索できる環境をいいます。
人間にとって何ものにも束縛されない自由な世界を、安定しない不安と捉え、不自由を与えられることで安定すると捉えているところからして、私の「自由」に対する解釈は監督の思考と真っ向から対立しています。
人間にとって不自由とは、行き過ぎると羽交い絞めにされることにつながりますし、確かに安定感を得た感覚がある例もありますが、それは、他人によって与えられた情報に脅威を覚え、その情報を吹聴する人間に自分の安住感をえているだけ。

フロム「もし弱さや無力などが理由で行為できなければ、つまり無力であれば彼は懊悩する。この無力に起因する悩みは、人間の平衡状態がかく乱されたとき、自分の行為する能力を回復しようと試みずに完全な無力の状態をそのまま受容することはできない、という事実そのものに根座しているのである。しかし彼にはそれができるのか?またどんな風にして?そのひとつの方法は、力を持った人や集団に屈服し、同一化することである。(力を持った人や集団が)他人の生命にこのように象徴的に関与することにより、人間は行動の幻想をもつのであるが、実際には彼は行動する人々に屈服してその一部になるに過ぎないのである」

この言及を見ても明らかです。だから監督が自由について述べているそれは、実際には「力を持った人や集団に屈服し、同一化」することの肯定を論じているだけになり、この「幻想」を抱くことによっての安住感こそが人間の安定する条件だ、などというとんでもない倒錯発言をそこに見出せてしまうのです。
これは自己啓発になりえていません。自身の倒錯振りをそのまま露呈しているさまとなっています。
それに真実を述べていると誤って捉えてしまう人が多いのです。
厳しいことを言うようですが、それに真実を見出す人間は、「大衆の愚行」に引きずられていることになってしまいます。

25人類補完計画推進委員会:2008/01/19(土) 15:57:48 ID:6IsjmF4o0
>アイオーンさん
アイオーンさんの言ってることはもっともです。
しかし、シンジの誤解や他人と自分の存在のトラウマを無くし、
強いて言えばシンジの心が少なからず救われたわけです。
主人公であるシンジがハッピーエンドを迎えられた、という点については
良いと思いますよ。
例えこのラストが矛盾していたり、あまり良い意味を含んでいないとかは
別として。
暗い話が続いて最後に主人公が救われるわけですから、中学生にとってはそれでいいんです。

26【管理人】アイオーン:2008/01/19(土) 17:06:30 ID:eS3TrGbk0
>>25 委員会さん
うーむ・・・。ちょっと誤解されているようなのですが・・・。
私はフロムの分析法に基づいてここで話しているわけですが、確かにあれも「人間の不安の解消」という点で「退行的解答」という方法によってなしえていると申し上げたのです。
矛盾に満ちているという点で何とかなし崩し的に「補完」された感じですねぇ。
それ自体が「退行的」解答の一環であるから私には受け入れがたいところもありますが・・・。
たとえ救われているように見えても、その救われ方が「退行的解答」という倒錯方式なので、それを自己啓発と勘違いする人間が多くなってしまうのです。
実際、この本編終了した後、監督は自己矛盾の嵐に壊れたましたから。
そのネクロフィラスな衝動がそのまま現出したのが旧劇場版ですからねぇ・・・。

当時放映終了直後だったのもあると思いますが、評論家であるとか「おとな」がですよ?関係ない事件に照らし合わせるほどで・・・。
サカキバラ事件とかですがね。当時14歳だった少年という理由でこじつけもいいところなまでに別の意味で曲解し、結び付けていた人間がいると言う実情があるからなんともいえませんな・・・。

27【管理人】アイオーン:2008/01/19(土) 17:25:28 ID:eS3TrGbk0
まあ、確かに、旧劇場版よりはマシだとは思います。
誤解されてお気を悪くされたら申し訳ありませんが、「大衆の愚考」というのは、なにもあなたのことをさしていったわけではなく、監督の作り上げたエヴァという作品の構造、つまり虚構の中で作り上げたキャラたちが、すべて心中で心の補完を望んでいた、という設定になり、これが「退行的解答」に同調する、という点で、「大衆の愚考」化現象が起きており、価値観の倒錯感がそこにおいて一番置きやすいのです。

29人類補完計画推進委員会:2008/01/20(日) 13:01:48 ID:F/x0.yFs0
>アイオーンさん
サカキバラ事件の少年とシンジは心の闇、歪みという点で共通してますよね。
多少似ている点はあると思います。直接関係あるわけは無いと思いますが。

32【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/02/18(月) 14:20:28 ID:???0
>委員会さんへ
遅れた指摘になって申し訳ないのですが、委員会さんの文の中で「トラウマ」という言葉が使われていますよね?
あなたの文意からあなたが何を言いたいのか、大方予想がついていましたので、あまりこまごま言うのもどうかと思っていましたが、私や博士が、極東博士著作集の序論において述べた主方針のこともありますので指摘させていただきたいことがあります。
委員会さんが「トラウマ」という言葉を用いて表現したいそれは、本来の意味の「トラウマ」とは違っています。
「トラウマ(外傷)」は、「過去において心を酷く傷つけられた体験」です。
このトラウマによるショックが払拭されず、発散されないで抑圧されっぱなしになると、自身にたいする危機感、あるいは緊張感がとけることが無い状態が続くので、そういう中で心に障害を引き起こしてしまうことになると、ブロイラーによって説明されています。
ですから劇中のシンジやアスカをみても分かるとおり、彼らは過去に両親の病理的なまでの性格や、おかれた環境などに酷く傷つけられ、トラウマだらけだったわけですが、「他人と自分の存在のトラウマをなくす」という表現は用語の意味が踏まえられていないことになります。
あなたが言いたいことをこちらで表現しなおすのだとすると、本来の意味でのトラウマゆえに抱く「他人への恐怖」から生じる人間関係のわだかまりとかについて、「ただ当たり前のことに気づいた」ことで、コンプレックスが解消されたことを指して話していると受け取りましたが、それで間違いは無いでしょうか。
まあ私はその方法自体が「怪しい自己啓発セミナー」だと思いますがね。大衆を引きずる思想統制的な側面が強いです。

くれぐれも誤解無きよう申し上げますが、私はあなたを吊り上げているのではなく、誤っていることをそのままにしておくととんでもない誤解をしたままとなり、知らないで使っていると用語乱用だ、という風に受け止められてしまう可能性がある故にご指摘するのです。
使うなら調べてみるという作業も必要ですよ。委員会さんが良識ある方だと見込んだ上での書き込みです。
先日の書き込みはちと私も愚痴っぽくなってしまったので、書き直しました。

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