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何故人は、人に魅せられるのか?(コミック版より)- 1 :【管理人】セラフィエル:2007/07/01(日) 16:57:08 ID:dnxZ8GyY0
- 本編コミック11巻でちと気になった発言があります。
それは、カヲルを殲滅後にシンジが漏らした言葉に対するミサトの反応です。
「惹かれていたんだ、僕は。いつの間にか、心の深いところで。あんな奴を、好きになってはいけないと思っていたのに。友達はもう要らないと思っていたのに。それなのに、何故人は、自分以外の者に惹かれてしまうんだろう」
ちとこのカヲルに対する感情と言うのは、いささか脈絡がないところがあるので微妙な印象を受けているのですが、問題はそのあとのミサトの発言です。
「それはね、神様が人をそういう風に作ったからよ」
私はこれを見たとき、「ちょっと待て、いつからミサトは有神論者になったんだ?!」と突っ込みたくなりました(^^;)。
これはあまりにも非科学的であると言うか、説得力に欠ける発言だなぁと。
確かにエヴァの世界観は非科学的なものと科学的なものが入り混じっているのですが、果たして人間に関することをこのようなことで纏めてしまっていいのかと。
「逆に言えば、単体では生きられない不完全な生き物なのよ。人は」
確かに人間は一人で生きているわけではない。周りの影響を受けて自分を形作っていくのが人間なのだから。
しかし、そもそも補完計画を遂行しようとしているわけではないミサトが、人間を不完全体とみなしていること自体、何か問題があるのではないかと。
では完全体としての人間ってなんだろうか?
それは劇中で補完計画を説明するミサトの口から明らかになっていますが、人間を不完全・完全の観点で見る事自体が間違いなのではないのかと。
「でも私たちは生きていかなきゃならないわ。例え不完全でも。そんな風に生まれてしまった以上、求め合うのも傷つけあうのも意義のあることだと、私は思うもの」
この言い方は、なんとなく理にかなっているように見えますが、人間を完全・不完全の観点で見ているという点で、それはいつのまにか無意識のうちにゼーレの考え方をそのまま踏襲していることになっています。
この部分を用心深く分析すれば、その隠されている前提を論破し、補完計画がいかに愚かしいものか、それが失敗した所以の説明などがしやすくなるのではないかと思います。
つまりミサトは、補完計画の遂行自体には反抗していても、その観点の是非を問う、と言うことはしておらず、その前提自体は受け入れてしまっていることになるということです。
だから根底では補完を望んでいた、という本編の説明は正しいことになります。
人間を考えるときに完全・不完全の観点は無意味です。
人間はそれが人間であるのですから、完全も不完全もないはず。
このミサトの発言は正論のように聞こえるようで、実は何の説得力も持ち合わせていないと言うことになるでしょう。
それはシンジを見ても明らかでしょう。
シンジはそんなことを聞きたいのではないのです。
ミサトの言う「正しいこと」「守るべきものを守った」と言うこととシンジの中にあるそれとは違うと言うことは明らかです。
そして駄目押しにそんなことを言われても納得できようはずもないんですよね。
だからシンジはミサトに失望したのではないでしょうか?
- 2 :ソレックス:2007/07/01(日) 21:36:27 ID:oUmc6XOo0
- 確かに、何を元に「完全」「不完全」を言うのか?そう言う論議だと「単体生命」である使徒が人の理想の姿とも取れてくる気もします。まあ、ゼーレの言うように己の欲望にのみ生き、愚かな戦いを繰り返し命を奪っていく事を繰り返してきた人類という見方なら「心が不完全」という事になりますが。ただ、「心が不完全」が為、欠けた心を埋めるべく他人を求め補完しようという行為に意義があるわけで。しかし、その行為が己が欲望の為に人を傷付け、人を不幸に貶めるかもしれない事にシンジは疑問を持つわけで。つまりは人の命の上に成り立つ命があって良いのか?「正しい事」「守るべき物を守った」という事は理屈は分かるが、理解しがたい事ということなんですね。感情が受け入れられない。シンジは自分を軽んじている所があるので、「カヲル君の方が良い人なのに。カヲル君が生き延びるべき人なのに」と思うわけですよね。そしてこれは、その裏返しなんでしょうね。己が欲望で他人を傷つける様な人類は滅んでしまえば良いとも。それが結局補完計画を発動させてしまったわけですが。
- 3 :PAX:2007/07/01(日) 22:02:13 ID:RghhgALY0
- 貞本エヴァ11巻、STAGE74の最後のシンジのセリフがどうも補完計画発動ブラフと感じてしまうのは私だけ? 最終的にカヲルが述べていたような
世界を望んでしまうみたいな・・・。
・・・とまぁそんな事は置いておいて、本題へ^^;
ゼーレは「完全なヒト」を望んでいた、逆にミサトは「不完全なヒト」として生きる事を望んでいたのかもしれません。そうとってみると「でも私たちは生きていかなきゃ〜」
の意味も通じるのではと思います。
一応ミサトにも今後のことは見えてきたみたいですが、確信したのはこのやりとりの後ですからね。
もしくは、今後の貞本エヴァの動きで考えとかが明らかになってくるかもしれません。
まぁ現時点だと難しい点もあるかもしれません・・・。
- 4 :メフメト:2007/07/03(火) 17:50:43 ID:f8ZkRK760
- こちらではお久しぶりです。メフメトです。
私はPAXさんのご意見を支持します。ヒトが不完全であると考えることは、完全な存在にしたいと考えるために必要ですが十分ではありません。
つまり補完を望んでいる者はヒトが不完全だと思っていると言う事は可能ですが、逆にヒトが不完全だと思っているからといって補完を望むとは限らないわけです。
エヴァにおいて種としてのヒトの進むべき道についてはおおまかに三つの考え方があって、ゲンドウは「進む」つまりプラス、ゼーレは「還る」つまりマイナス、そしてミサトは「そのままヒトとして生きる」、つまりゼロを
望んだといえると思います(語弊を恐れずかなりざっくり言いましたが)。
これら三つの考え方が対比的に描かれていると考えるならば、三者とも思考の出発点(ゼロの点)は一致していると考えるのが自然だと思います。つまり、皆「人間は不完全で行き詰っている」という考えには到っていると考えられるわけです。
>根底では補完を望んでいた
何かの折にも申し上げましたが人間の欲求というのは多元的です。確かに潜在的には補完に対する欲求があったかもしれませんが、補完に反対する気持ちが偽りということにはならないと思います。
補完されて楽になりたい気持ちと、不完全でも苦しくてもヒトの形を保ちたいという気持ちが拮抗しているのではないでしょうか。
>神様
確かにミサトの口からその単語が出てくるのは意外かもしれませんが、果たして神様は非科学的でしょうか?もちろん、今誰かに現象の説明をするのに「神様が・・・」
とやりはじめたらそれは非科学的極まりないですが、これはエヴァの世界での話です。現に天使の名を関する怪物が攻めてきて魂がどうとかこうとかやっているわけです。
ということは神的、霊的なものがある程度「存在する」世界なわけです。存在する(可能性が高い)ものについて議論するのは「非科学的」なのでしょうか?私はこれが非科学的なのかどうなのか意見を持っているわけではありません。ひとつの
見方として挙げておきます。
または、リツコがアダムについて「ヒトは神様を拾って喜んで・・・(正確な文面ではないです)」のくだりで使ったように、皮肉っぽく「神様」と言ったのかもしれませんね。
- 5 :【管理人】セラフィエル:2007/07/03(火) 18:58:17 ID:dnxZ8GyY0
- >>2-4 みなさんへ
私が問題提起したかったのは、そもそも人間を不完全体だとみなすようになったのは、どこからなのか、と言うことでもあります。
人間は一人では生きられないし、それを心を欠けているとみなすことまでは否定していないのです。
しかしそれが何故不完全とされるのか?
それはソレックスさんが仰るように、まさに理想的である存在にめぐり合わせてしまったからなのだ、と考えるのです。
死海文書に基づくゼーレの教義と言うのは、エヴァ2によれば、アダムやロンギヌスの槍などといった物的証拠が発見される前までは、「先祖の世迷いごとである」と言う程度の認識しかしていなかった、とあります。
つまり、その時点まではそんなものは出鱈目だ、程度の考えでしかなかったのです。
この物的証拠が挙がったことでゼーレやゲンドウはいわゆる「完全体としての人間」(アダム=カドモン的存在への道)を模索するようになった。
その時点まで人間はそれが人間であり、完全・不完全の観点などなかったのだと考えます。
だから私も皆さんの仰ることである、ミサトの発言の後半部分
「そんな風に生まれてしまった以上、そう生きることに意義がある」
と言う説明については否定していないのです。ただそれを完全か不完全かの観点で見ている点については、そのアダム=カドモン的存在となることが「まさに理想」である、と言及している(皮肉じみているが)通り、根底ではそれが理想であるということを認めてしまっているわけです。
私が言いたいことと皆さんの仰ることの相違点にはこの部分の解釈の仕方があるのだと考えます。
>>4 メフメトさん
私が言いたいのは、あの場面で神様を用いて、シンジを説得させるだけの説明になるのかと言うことです。
人間の行為、あるいは社会的行為については経験科学(マックス・ヴェーバー:社会学の根本概念より)で追求されるものであって、形而上学ではないと考えています。
科学、と言うのは狭義には自然科学(サイエンス)の分野になりますが、広義には社会科学・人文科学などが含まれます。
この場合、科学とは宗教学などとは区別されるものであり、神様を用いてそれを説明すると言うことは科学的ではない、つまりあの場面で言うと、シンジにしてみれば曖昧な根拠に基づいた発言であり、説得力に欠けた発言と言うことになります。
シンジの主観に基づくのであれば「神様が僕達をそうしたから苦痛を味わうのは当然だと言うの?」とか彼の発言が考えられそうです。
しかしメフメトさんの仰る、エヴァの世界観に基づいての言及は否定しておりません。
それは最初の方でも述べたとおりです。
私たちのリアルから見て、エヴァの世界は科学的なものと非科学的なものが入り混じっているのは確かなことです。
だからゴチャゴチャになってしまうのです。
確かに、yasuakiさんの掲示板できじさんが仰っていた日本人の中に内在する神様感覚というのもあると思いますし、そういう感覚で動いていれば災難を避けることが出来る、あるいは心の拠り所に出来る、という考え方もあると思いますが。
私がもし、エヴァの世界で形而上学が立派な科学である、という強権的な説明を受けるのであれば、じゃあそれはエヴァの世界では科学的だといえるんだね、と言う感覚を持つくらいでしょう。
事実、エヴァの世界ではまさに、魂などといった神的・霊的なものに対して科学的な解析を行おうとしているのですが、結局ところ、リツコの頭脳をもってしても最後まで科学的な根拠に基づく解明などと言うのは無理なことでした。
シンジのサルベージに関しても形而上学に過ぎず、ミサトはそれをさして「人一人助けられないで何が科学よ!」と叫ぶわけですが、それは形而上学に過ぎないのですから失敗しても文句は言えないし、科学的な根拠に基づいていないので、矛盾してしまっていると考えることが出来るでしょう。
そもそもエヴァンゲリオンという人造人間自体が「形而上生物学」の理論に基づいている時点で、科学的なものに基づいているとは言いがたく、エヴァの世界は形而上学と科学が混同されてしまっているのです。
たしかにそのエヴァの稼動などは科学的なんでしょうけど。
実際に碇シンジ育成計画のパソコン版で、皮肉にもリツコの口から小説を書いているという設定のシンジの作品扱いの「エヴァ」について、非科学的だ、と言う言及がされているんですよね(滝汗)。
- 6 :【管理人】セラフィエル:2007/07/03(火) 19:30:01 ID:dnxZ8GyY0
- 補足です。
エヴァの世界観を考察する方法論としては形而上学が用いられている限り、その考え方を無視することは出来ないのは事実です。
先述したとおり、機体としてのエヴァ自体が形而上学の集大成といっても過言ではないものなのですし。
ただ、人間関係にまで神様を持ち出していいのだろうか、と言う疑問があるのですよ。
これこそが、補完計画が失敗した主因に繋がると思うんです。
だから神様を根拠に人間を完全・不完全とみなして補完計画を実行しようとするゼーレ、ゲンドウと、その観点自体には問題意識を持たず、その前提自体の是非を問うことをしていないミサトに一致しているところを見てしまうわけで、別に人間としての生き方に意義があることだと思うと言うところまでは否定していないのです。
でもミサトは劇場版でもTV版でも心の根底では心の喪失を埋めることを望んでおり、やすやすと補完を受け入れてしまうことになります。
私は、結果的に劇場版と言うのはその前提の是非を問うていたところもあるのではないかと思うんです。
そもそも完全体としての「人」、とは言いますが、果たして「アレ」が人間と呼べる代物なのかと言えば全く違うわけで。
人間というものを完全・不完全の観点で問うこと自体が違うのではないか、と言うことに気付いたために、シンジは「これは違うと思う」として、個としての自分を取り戻し、ふたたび地上へ舞い降りた、と考えるのです。
それは補完を是としなかったわけですから。そしてこれはシンジだけでなく、融合を拒絶したアスカにも言えることであります。
他の人間は、その完全・不完全という観点に囚われ、「補完」と呼ばれる「完全」とされる状態に心地よい感覚を覚えている限りは還ってこれない、と言う理屈です。
劇場版ラストでミサトのペンダントを打ち付けた、ミサトの墓標と思しきものが提示されますが、これを併せて考えてみると、結果的には率先して補完状態を受け入れてしまったミサトであるので、これとなにか関係あるのではないかと考えてしまったりします。
>>3 PAXさん
劇場版だと、まるで劇場に来ている客たちに真実を語るかのようなミサトが描かれますよね?
あれって、シンジの心情などまるで無視している発言だと思いませんか?
果たしてあの状態のシンジにそれを聞かせることで何か意味があると思っているのだろうか。
シンジにしてみれば、「そんなことどうだっていいよ」と言いたそうな場面ですよね。
- 7 :【管理人】セラフィエル:2007/07/03(火) 20:01:29 ID:dnxZ8GyY0
- ふたたび訂正じみた補足です。
メフメトさんの神様を用いることが科学的ではないと言えるのか、という言及についてです。
形而上学というのは「現実的世界を超越した本体的なものや絶対的な存在者を、思弁的思惟や知的直感によって考究しようとする学問」です(大辞泉)。
うーん、だとするとやっぱり、リアルの私たちにしてみれば形而上学でも、エヴァの世界ではその現実世界を超越したものが実際に存在してしまっているから、科学のうちに入ってしまうのでしょうかね・・・。
人間関係にまで形而上学を持ち出してそれが科学的であるというのかなぁ・・・。
冬月の研究室の名前が形而上生物学と書いてあるから、形而上学であることの言及はされているはずなんですが・・・。
- 8 :【管理人】セラフィエル:2007/07/03(火) 22:56:58 ID:dnxZ8GyY0
- またまた補足です。
エヴァの世界の人間(特にゼーレやゲンドウら)は、人間を「行き詰った存在」であるとしています。
ですが、これは見方や解釈の問題であって、彼等にとっての「理想」とでも言うべきものが見つかってしまったが故に、自分達の中で勝手に行き詰った、と解釈しているのに過ぎないのではないか、と考えるのです。
これはリアルで考えるのであれば、様々な社会問題(経済格差、環境問題など)に解決策が見出せない、と言うことなども含まれているのではないかとも考えますが、だとすれば補完計画と言うのは、これらの社会問題の一切から逃避するための究極的な手段だと見なすことも出来るのではないでしょうか?
しかしその逃避方法を考えたのが、こういった社会問題に直接対応する羽目になっている発展途上国の国々が考えたものではなく、本当に対処することを考えなければならないはずの先進諸国の代表らが決め付けたことであるので、傲慢が二重にもなっています。
「生きることを放棄して、見せ掛けの希望に縋ったのよ」
この劇中のミサトの言葉はカヲルについての言及ですが、実際のところはゼーレやゲンドウにも当てはまるし、結果的にはミサトにも繋がってしまったことになります。
補完計画は結局のところ、一切の煩わしさから逃避するための手段であって、人間として生きることを放棄して、見せ掛けの希望に縋っているに過ぎないのではなかろうかと考えるんですよ。
- 9 :【管理人】セラフィエル:2007/07/03(火) 22:59:06 ID:dnxZ8GyY0
- ちなみに何故このような題名のスレッドを立てたかと言いますと、その趣旨はもうちょっと別のところにもあったんですよね。
このミサトの神様を用いた説明が、説得力に欠けると考えたのは、TV版でシンジが、このスレッド名に対する答えのようなものを喋っているからなんですよね。
「カヲル君が・・・、好きだって言ってくれたんだ、僕のこと。僕に似てたんだ、綾波にも・・・。好きだったんだ」
注目すべきは「僕に似てたんだ」と言う発言です。
この発言に「何故人は、人に魅せられるのか」という問いに対する一つの答えとでもいうものがあるのではないのかと考えます。
自分と似た者を持つ人の事を好きになる(恋愛・親愛・友愛と言う区別されたものではなく好意的になると言う意味)傾向が強いということが社会心理学で説明されています。
シンジの場合、何故カヲルに好意を持ったのかといえば、このことにあわせて、ささくれ立っていく人間関係や、レイの真実を知ったりと、恐怖や不安状態から親和欲求が高まっていたのではなかろうかと考えるのです。
アニメ版のカヲルは極めて自己開示的で、しかもシンジの存在を認めるような発言をします。これらはシンジの関心をひくのに十分すぎるほどでした。
第一印象からしてその物腰や口調はシンジに親和的でしたし、シンジにしてみれば魅力のある人間だったのかもしれません(ナルシストっぽいけど^^;)。
これはアニメ版だと顕著ですね。
逆にコミック版の場合は、第一印象で嫌悪感を与え、軽薄的だったことで相手の気分を害し、外見(貞本先生からすると人間的でない?)もよくなく、極めて自分勝手と言う、好意など生まれようもない性格をしていました。
唯一惹かれる要因だと考えられるのは、自分とどこか似たものを持っていた(コミック版で言うと2巻辺りを見てみるとかつてのシンジと似ている)こと、あるいは不安による親和欲求ではないかと考えられますが、それも最初は「かつての自分を見ているようでいやだった」と言うような嫌悪感があったのではないでしょうか?
心の奥底で惹かれていた、と言うのはかつての自分のいやな部分を見ているようだった嫌悪感が、本当は自分と似ていた、と言うことで、生じていた感情だったのではないかと考えるのですがいかがでしょう?
ちと描写に説明が不足気味な気もしますが。
このような考え方はシンジ・カヲルの関係だけでなく、シンジとレイ、シンジとアスカなどでも説明できると思います。
こういう要因こそが人に対して好意を生む過程なのではないかと。
この解釈はそれ自体が個々の人間に元々備わっている心理的なものであって、神がそう創ったからというのでは説明が通らないのです。
ミサトに対して突っ込ませてもらえれば、じゃああなたは、神様がそういう風にあなたを創ったから加持に惹かれたのか?と。
この突っ込みは似たような形でTV版のエンディングに向かう中で行われています。
多分このような突込みを受ければ、彼女は「違うわ!」と反発すると思います。
そういう思いは自分自身のものだと考えるのがミサトの生き方ですから。
この点が矛盾しているのではないかと言う指摘でもあったんです。
それはシンジだって同じ反応を示して当然じゃないかと。
だからシンジはそんな説明をしたミサトに「もういいよ」と失望したのではないかなと。
こういう説明は、自分の気持ちなどの心的なものが、全て神のマリオネットでしかないと言うことになり、かなり投げやりな考え方だと見ることも出来ないでしょうか?
ちと深く穿ちすぎたかなぁ・・・。
- 10 :メフメト:2007/07/03(火) 23:07:46 ID:Kao1ikZk0
- こんばんは。
私の先ほどのレスは、主として
>補完計画を遂行しようとしているわけではないミサトが、人間を不完全体とみなしていること自体、何か問題があるのではないかと。
に対応して書いたものです。本旨に対する反論として当たっていないようでしたらスルーしてください。
>私は、結果的に劇場版と言うのはその前提の是非を問うていたところもあるのではないかと思うんです。
>そもそも完全体としての「人」、とは言いますが、果たして「アレ」が人間と呼べる代物なのかと言えば全く違うわけで。
>人間というものを完全・不完全の観点で問うこと自体が違うのではないか、と言うことに気付いたために、シンジは「これは違うと思う」として、個としての自分を取り戻し、ふたたび地上へ舞い降りた、と考えるのです。
その通りだと思います。劇場版全体が、シンジと視聴者含めヒトに対して「傷つけあうことの無い世界は完全なのか?」という問題を提起し、そしてラストシーンで「No」という回答を出すという筋書きになっています。
これは明確に正しいです。
しかしながら、いや、だからこそ、完全・不完全について論じるには慎重さが必要です。上記より、エヴァでの「人間の完全・不完全」には2種類あると言えるのです。つまり
①ゼーレ、ゲンドウなどがそれについて考えていた『完全と不完全』
②作品のメッセージ、またはシンジが気づいた真実における『完全と不完全』
こう分けたとき、②は存在しません。セラフィエルさんがおっしゃるとおり、また劇場版のテーマよりそういえます。
しかし①は存在します。これは彼らの「定義」だからです。「補完状態=完全、現在のヒト=不完全」という「定義(あるいは仮定)」ですので、この定義について語ることはできます。
だからミサトがアダム=カドモン的存在になることを「理想」と言った場合、この「定義」上の理想にあたる、と言った可能性があります。
すいません、なんかとても的外れなことを言っている気がしてきました。一応せっかく書いた意見なんで残しますがわけわからなかったら無視してください。
- 11 :メフメト:2007/07/03(火) 23:26:24 ID:Kao1ikZk0
- さて気を取り直して。
>形而上学
どうも言葉遊びのような議論になってしまい申し訳ないのですが、
>科学とは宗教学などとは区別されるものであり、
これはあくまで我々の住むリアルが「神様のいない世界」だからそう定義されているわけで。(いや神様いるかもしれないですけど、具体的にその存在に直面していない世界)
つまり補足でおっしゃっているとおり、形而上学=非科学的とはいえない状況だと思います。
ここまで言ってみましたが、私がミサトの発言の「神様」が科学的と思っているかと言うとやはり怪しいですけどねw一概にはいえないんじゃないか、という提起をしたかっただけです。
結局この神様発言は・・・むしろ「有神論者でない」ミサトが神様を持ち出したことこそに本旨があるのかもしれません。
要するに「まともに答えてない」んじゃないでしょうか。カヲルの件についての「気にするな」という軽薄な慰めであり、それこそセラフィエルさんのおっしゃる「シンジの求める答えではない」につながるのではないでしょうか。
何が言いたいかというと、ミサトが神様を持ち出したのはミサトの思想に一貫性がないためではなく、シンジに対する最適な言葉を思いつかなかった結果の苦し紛れの慰めではないでしょうか。
- 12 :蝙蝠:2007/07/03(火) 23:45:08 ID:RbqXKHvc0
- こんばんは。 蝙蝠と申します。
議論の最中に横槍を入れるようで、申し訳ないのですが・・・
そもそも、神様と言う言葉を使ったからといって、有神論者にはならないのではないでしょうか?
よく、理屈や理論では上手く説明できない時に「きっと、神様が・・・」的な表現を使う事がありますが、その場合、発言者の意図は、相手になんとなく納得してもらう事であり、神が居ようと居まいと、実は全く関係ないのです。
それ故に、もともと説得力など皆無である発言は、それを見透かしている者にとっては、何の効力も示さないという事なのではないでしょうか?
つまり、ミサトは持論を伝えるための方便として神という言葉を使ったに過ぎないのではないかと・・・
ミサトが「単体では生きられない不完全な生き物」と言ったのは、シンジが思い描いているであろう、他人に関わることなく1人(単体)で生きる事を「完全」とした場合の対比でしかないような気がします。
結局、他人に関わらずに1人で生きる事(完全になる?)を目指していたシンジは、根本的な所でゼーレと同じであり、ミサトは、それを否定し不完全でも人として生きるべきだと主張しているように思うのですが、如何でしょうか?
- 13 :【管理人】セラフィエル:2007/07/03(火) 23:52:04 ID:dnxZ8GyY0
- >>10-11 メフメトさん
いや、趣旨からはずれてませんから大丈夫ですよ。
仰ることはよく判りますから。
って、レスを見る限り根本的なところでの解釈は、結局のところ私と同じなのかもしれませんね。
私の理屈的な説明を実に明解にしてくださっているようで恐縮です。
完全・不完全の観点が二種類あるという言及についてはまさにその通りだと思いますよ。
ゼーレの観点には②がなく①のみ。
作品としてのメッセージには主に②を伝えている。
と考えています。
>つまり補足でおっしゃっているとおり、形而上学=非科学的とはいえない状況だと思います。
うーん、この辺の考え方って実に曖昧ですからねぇ・・・。
言葉遊びになっても仕方ないかも・・・。
>要するに「まともに答えてない」んじゃないでしょうか。カヲルの件についての「気にするな」という軽薄な慰めであり、それこそセラフィエルさんのおっしゃる「シンジの求める答えではない」につながるのではないでしょうか。
さようでございます。
って、凄く簡潔的に纏めてくださってますね(笑)。
私がこのスレを立てた趣旨は補完計画もさることながら、そういうところも大きいんですよ。
仮にもシンジを自分から預かった保護者なのですから、適当な発言で気休めにもならないようなことをいってどうするの?と(^^;)。
ミサトはコミック版でもアニメ版でもそうですが、自らの思想方針を相手に規範付けるような言動が多いです。
しかも不器用すぎるから余計にそれが強まってしまう。
シンジにしてみれば、ミサトに対する最終的な印象は、アニメ版で言うのなら「恐怖」、コミック版で言うなら「口うるさいだけで自分の感情には応えてくれない」と言うことになっているのではなかろうかと。
- 14 :【管理人】セラフィエル:2007/07/04(水) 00:18:40 ID:dnxZ8GyY0
- >>12 蝙蝠さん
どうもです・・・、って、えっと、個人的にご存知の蝙蝠さんですよね?(汗)
>そもそも、神様と言う言葉を使ったからといって、有神論者にはならないのではないでしょうか?
>よく、理屈や理論では上手く説明できない時に「きっと、神様が・・・」的な表現を使う事がありますが、その場合、発言者の意図は、相手になんとなく納得してもらう事であり、神が居ようと居まいと、実は全く関係ないのです。
>それ故に、もともと説得力など皆無である発言は、それを見透かしている者にとっては、何の効力も示さないという事なのではないでしょうか?
すみません・・・。
有神論者になっている、というのは、神を持ち出して説明したという点からみた、言葉のあやでございます・・・。
ちと言葉の使い方を軽率すぎたかもしれません。
この辺について私が言いたかったのは、実際には蝙蝠さんが指摘してくださったことがズバリそのものです。
ただ、いかに対比表現であっても、監督がエヴァを作った趣旨としては、「見た者が内に篭らず、外にでて活動したくなる」ような作品をコンセプトにおいていたようで、それを考えれば、メフメトさんが、私の理屈っぽい説明から明解にご指摘してくれた②の趣旨が根本的には入れられている、ということが事実ではなかろうかと考えるのです。
あと、シンジが一人で単体として生きる、と言うことについてはちと疑問があります。
劇場版のシンジが当初願ったのは、自分も含めた全ての人間の破滅です。
この自己破壊願望は依り代として利用され、実際にはアンチATフィールドの展開に拍車をかけました。
シンジは当初、他人も自分も存在しない世界を望みました。その結果があのような形になったと考えるのですが、あれには恐らく、シンジだけの意向しかなかったというのは考えにくいです。
それは綾波レイの存在です。
実際にあのような状態になったのは、シンジだけではなく、レイの存在が大きく関わっているのではないかと考えるのです。
レイはシンジと一緒になりたい、一つになりたい、という願望を持っていました。
3人目になったとは言え、あの時点で記憶を取り戻した、と考えるのであれば、その願望を満たすためにゲンドウを見捨てて、シンジの元に走ったと言う理屈も筋が通ります(極めて自分勝手ですが・・・)。
レイは基本的にゲンドウの事に関しても、シンジの事に関しても、自分本位的な態度が見られることがあります。
この点を考慮すれば、あの状態であることを願ったのは実際にはシンジよりも、その破滅的な思考を自分の解釈の下に実行に移したレイの願望の方が大きかったりするのではないでしょうか?
「これがあなたの望んだ世界よ」
「でもこれは違う、違うと思う・・・」
本当のシンジが望んでいたのはかつての13話あたりくらいのみんながいて自分もいて、楽しかったあの頃ではなかろうかと。
ちなみにあの集合写真的なカットですが、あれはたしかその頃のイメージを投射したものである、というのがDVD版のスクリプトに書いてあったような気がします。
だから単体として生きようと考えていたわけではないと考えるのですが、いかがでしょう?
- 15 :【管理人】セラフィエル:2007/07/04(水) 00:25:38 ID:dnxZ8GyY0
- >>12 蝙蝠さん
補足です。監督が、エヴァと言う作品に込めた趣旨の件ですが、これは、『監督不行届』という、監督の奥さんである安野モヨコさんが描かれた漫画の最後に書かれている監督のインタビューに記されていたことです。
監督自身はエヴァと言う作品に最後までそういうものを込めることが出来なかったと残念がっているような話し方をされております。
しかし、この点を踏まえてエヴァと言う作品をもう一度見直しますと、様々な場所でその残骸(と言ったら失礼か?)とでも思しき欠片が掘り出せると思います。
それが、私が論考で書こうと思っている、監督の趣旨についての概要でもあります。
- 16 :蝙蝠:2007/07/04(水) 01:53:08 ID:RbqXKHvc0
- はい。 その蝙蝠です(^^;)
>>9
何故、人は人に魅せられるのか・・・
頭で考えたシンジは、それを拒絶し、感情に従ったミサトは、それを受け入れていた。
TVで零号機が自爆した後、シンジに拒絶され、ペンペンに無視されたミサトが「誰でも良かったんだ。 寂しかったのは私の方・・・」と呟いたのが、それを象徴しているような気がします。
心理学的に考える事も必要ですが、それは飽くまでも頭で考えた事であり、神がそう創ったからというのでは説明が通らないのと同様に、それだけで説明がつくほど感情は単純な物ではないと思います。
>ミサトに対して突っ込ませてもらえれば、じゃああなたは、神様がそういう風にあなたを創ったから加持に惹かれたのか?と
逆に、問います。
じゃあ、あなたは、心理学的な理由だけで人に惹かれるのですか?
(答えが「YES」なら「ロボットですか?」 「NO」なら「矛盾してますね」と更に突っ込みますが・・・ ^^;)
>>14
>だから単体として生きようと考えていたわけではないと考えるのですが、いかがでしょう?
全体を客観的に見れば、そうですが、重要なのは「その時点のミサトがにシンジをどのように見ていたのか?」ではないでしょうか?
他人との関係を断ち切ろうとしている様子は、1人で生きていこうとしているように見えますし、その後のミサトの言動から考えて、シンジに破滅願望があると見ていたとは思えません。
- 17 :【管理人】セラフィエル:2007/07/04(水) 04:31:10 ID:dnxZ8GyY0
- >>16 蝙蝠さん
>逆に、問います。
>じゃあ、あなたは、心理学的な理由だけで人に惹かれるのですか?
失礼ですが、その質問は少し見当違いなのではないかと考えます。
私が心理学的な説明を用いたのは、その考え方を取り入れてその考察に当たったにすぎず、学問だけで人間全てを把握できるわけがありません。
私が試みたのは、何故人間は人に好意を持つようになるのか、あるいは人間の行為や人間同士の関係ということについて、出来うる限り綿密な「アプローチ」、つまり接近ができるよう、全体社会から一個人の行動を分析しようとする社会学の手法を用いたのにすぎません。
ですから私の考え方に矛盾が生じるとは思わないし、私自身がまるでロボットのようにその行動原理のみに従って動いているわけではありません。
それは社会の中で生きる上で、人間が厳密に言えば紙に書かれた法律に則って行動しているわけではないことと同じです。
それを専門的に学んだ法曹ですら、大概は全部覚えていられるかどうか心配なほどの無数の法律があるのに、それについて専門的に学習したことがない人間がその全ての法律を把握しているわけもなくそんなことは有り得ない。
また、全ての人間が法律に則って動いているわけではないのと同時に、法律では説明しきれない人間の行動もある。
それと同じことだと思います。私が言及したのはアプローチの仕方であって、確かに頭で考えた結果です。
人の体験はその人自身だけのものだし、それこそ完全な理解をするにはその人自身になってみなければ出来ないことです。
しかしある程度の理解ならこのようなアプローチによってできるのではないか、という見解で書いたことなんです。
ですからその質問の二択形式の回答にはお答えのしようがありません。
私の書き方が誤解を招いたのであれば謝罪いたします。
それを言ったら神を用いた説明も「理解の方法」としては筋が通るではないか、と突っ込まれるかもしれませんが、少なくともコミック版のミサトの態度からは、メフメトさんも仰るようにまともに応えてない(つまりテキトーな)ようなところが見受けられるのと、神を用いる発言で、いい加減だなぁ、と考えたしだいです。
また、あの場で神を用いた発言は実際にシンジに対して応えているとは考えられないので、コミック版のシンジが失望した理由を強調したかっただけなんです。
ですからそのような適当な発言をしたミサトに正当性があるとは思えなかったわけです。
- 18 :【管理人】セラフィエル:2007/07/04(水) 04:33:34 ID:dnxZ8GyY0
- >>16 蝙蝠さん、続きです
>全体を客観的に見れば、そうですが、重要なのは「その時点のミサトがにシンジをどのように見ていたのか?」ではないでしょうか?
>他人との関係を断ち切ろうとしている様子は、1人で生きていこうとしているように見えますし、その後のミサトの言動から考えて、シンジに破滅願望があると見ていたとは思えません。
なるほど、確かにそういう考え方もあるかもしれません。
しかし、完全に人との関係を断ち切りたかったのであれば、アスカに縋ったりしないと思うのです。
シンジにとってレイやミサトなどの他者は、自分に対し強圧的な行動方針と強迫観念を与えられる抑圧的な存在となり、自分の自我を脅かす存在となりつつあった、つまり「怖い」のです。
しかしアスカだけは自分を脅かす存在ではなかった。その叱咤などの態度は、決してシンジに対して禁圧的であったわけではない。シンジの行動方針を決める他者の一人であることには変わりないのですが、彼女の場合は強制的なものではありません。シンジはアスカと触れ合い続けるうちに彼女の態度を自分の中に内在化していました。
だから自身の心の中に最後に残った禁圧的な存在ではない他者であるアスカに縋ったと考えます。アスカの態度からは厳しい一面も見られますが強迫観念を与えていたわけではないと考えます。
そうしなきゃ怒る、みたいな感覚ぐらいはあったかもしれませんが。
アスカに「いつもみたいに馬鹿にして欲しかった」とするシンジの発言は無視されるべきではありません。
故に本来は人との繋がりを求めていることに変わりはないのです。
しかしこれはそのような魂胆で自分に助けを求めていることを見抜かれ、アスカはシンジに愛情を持っていてもその彼を受け入れることが出来なかったと考えるのです。
アスカとの関係のことはさておき、シンジが自己破壊願望を持ち始めたのは病室の一件があった後に明示されています。
あのあとのシンジは自身に対する嫌悪感で満ち溢れていますよね?
「いやだ、もう死にたい。もう何もしたくない」
自分の存在が、その行動が、他人の存在を傷つけてしまうくらいなら、何もしない方がいい。こんな自分などいなくなってしまえばいい、と言う考え方をもったからこそ、戦略自衛隊の攻撃にも無抵抗であり、ミサトの呼びかけにも当初は応えようとしていなかったのではないかと考えます。
シンジが何もしようとしなかったのは、結局自分自身の中に残ったのが道具として使われていた自分だけだったことに気付いているとも思われます。
それはミサトの(決して合理的であるとはいえないけれど)必死の説得によって、シンジの心はようやく揺さぶられました。
しかしそれも僅かな反応に過ぎませんでした。
アスカの弐号機が鳥葬されているのを目の当たりにした結果、シンジの心の均衡は完全に崩れ、その自己破壊願望に拍車をかけてしまうことになったのだと考えます。
- 19 :蝙蝠:2007/07/04(水) 16:49:59 ID:EcXwZi.60
- >>17 セラフィエルさん
>失礼ですが、その質問は少し見当違いなのではないかと考えます。
はい。 それは十分に承知しています。
では、なぜ問うたかと言うと・・・
>人の体験はその人自身だけのものだし、それこそ完全な理解をするにはその人自身になってみなければ出来ないことです。
↑この答えを出して欲しかったと言うか・・・
>>16で、この問いをする直前の私の文章を、キチンと見て頂ければ、この答えと同じ事を言っていると判ると思いますし、そうすれば、この問いが、その補強でしかない事も御理解頂けるのではないかと思うのですが・・・
>ですからそのような適当な発言をしたミサトに正当性があるとは思えなかったわけです。
なぜセラフィエルさんが、そこまで正当性を求めるのかが、私には良く判りらないのです。
>>12でも書いたように、ミサトは、シンジの問いに対して持論を述べただけに過ぎないように思いますし、正当性を問われるような事ではないと思うのですが・・・
>>18
ですから・・・
>重要なのは「その時点のミサトがにシンジをどのように見ていたのか?」ではないでしょうか?
と、言ってるじゃないですか・・・ orz
事件の全貌が明らかになってから「犯人はこう考えていたのだから、あなたの対応は間違っていた」と指摘したところで、事件が起こっている時に当事者が、それに気がついていなかったのならば、それは結果論でしかないのではありませんか?
「こんな兆候があったのだから、当事者も気がついていたはず」と言う論拠を示した上で、「だから、その対応は間違っていた」と指摘すべきではないかと私は思ったのですが・・・
つまり、仰りたい事は判るような気がしますが、論の展開やアプローチ方法に、少々問題があるのではないでしょうか?と言う事です。
(最初から、そう言えば良かったですね すみません)
- 20 :【管理人】セラフィエル:2007/07/04(水) 20:50:56 ID:dnxZ8GyY0
- >>19 蝙蝠さん
>この答えを出して欲しかったと言うか・・・
私はなにも、心理学的側面だけでみたものが全てだ、と言ったわけではないです。
最初の方でも言ったと思いますが、そんなのが人間の本質なのか?といえばそんなわけがない。
ひとつ書き忘れましたが、どこかでお伝えしましたように、人間社会や個々人の活動において、宗教的な思想も大きな影響を与えてきたのは事実です。
ただ、コミック版のミサトの場合、それまで神(精神的な意味での神の存在など考えてもいなかったような人間であるのに、いきなり神様が人間をそう作ったから、と言い、それを神のせいにしているのがいただけないと考えたのです。
神様がそう創ったんだと誤魔化し、だから人間が傷つけあうのはしょうがないんだと正当化して、平気で人を傷つけるようになっていってるのではないかと。
ミサトを始めとして、ネルフの人間のほとんどは自分のことで精一杯で、余裕があるときは他人に対していい顔をしてますが、ひとたび何かあれば、仕方がないんだと誤魔化して何でもやってしまうところがあります。
リツコがその典型例です。
そしてミサトは、第拾参話『奇跡の価値は』のサブタイトル「彼女は言った、自分の憎しみのために他人を巻き添えにするな、と」ともあるように、そういう考え方の元に他人を巻き添えにしているところがあるので、ミサトの言っていることは正しいように聞こえて、実際にはシンジの反応もあるとおり、そして蝙蝠さんも言っている通り、自分本位の思想を押し付けているだけで、その思想自体は穴だらけな論で、人間味のない冷めすぎた説明だ、と言うことを言いたかっただけなのです。
そんなものだけで人間の本質を測れるわけがない。
シンジが「もういいよ。ミサトさんの言う事はいつも『正しい』よ」と投げ槍に近い形で言い捨てるところがあり、そしてそのあと「戦うのはいつも僕だ、ミサトさんはいつもモニターの後ろで命令してるだけじゃないか!」と憤激することもあって、そこが子供と大人の差異なんでしょうけど、実際にはミサトも他人でしかない、と言うことを認識した一面があるのではないかなと。
私がこのスレの趣旨の一つとして挙げたのは、蝙蝠さんの言葉を借りるのであれば、いわゆる正しいとされる『「大義」と言うものは自分本位のエゴを満たすためだけに利用されることがあり』、時として人の気持ちを踏み躙り、そして、『その大義が周囲の人に、人としての心を捨てさせる』という指摘であります。
あとはシンジの気持ちを表現するなら『そんな大義なんていらないよ』と言うことです。
これらの『』内の文に覚えがあると思いますがいかがでしょうか?
>事件の全貌が明らかになってから「犯人はこう考えていたのだから、あなたの対応は間違っていた」と指摘したところで、事件が起こっている時に当事者が、それに気がついていなかったのならば、それは結果論でしかないのではありませんか?
ですから上で書いたようにそういう指摘ではないのです。
私が言いたかったのはあの場のやり取り自体について、シンジとミサトの間には確実に「壁」と思しきものが出来てしまっている、と言う指摘です。
いわゆる正しいことである『大義』によって人としての心をなくし、それがしようがないこと、或いは当たり前のことであると考えているミサトと、そんな正しいことでがんじがらめにされることなどもう真っ平だとするシンジの考え方の差がありありと出ているな、と言うことです。
ですから正当性に拘るのは、そのことに正当性が帯びているように話すミサトは、実はただ大義に振り回されているだけだなと言うことを、述べたかったのです。
- 21 :【管理人】セラフィエル:2007/07/04(水) 20:58:23 ID:dnxZ8GyY0
- うーん、私の考え方は奇特なのかなぁ・・・。
そういえば、リリスを人間の神とみなした場合、リリスがそういう風に人間を作ったから、と、リリスのせいにすると言う手はないこともないですね。
でも「何かのせいにする」というのは、変わらないですね。
とかくエヴァは、宗教的なものと人間の心理的なものをゴチャゴチャにしているところがありますから・・・。
宗教が心理に影響を与えると言うのは、その宗教とて人間が造ったもので、かぶれさえしなければ、合理的なところもありますが、結局のところは、人間の心理に基づいたものであるし、神がそう創ったから、と言う説明ではまかり通らないと思ったんですけどね・・・。
- 22 :【管理人】セラフィエル:2007/07/04(水) 21:32:39 ID:dnxZ8GyY0
- 蝙蝠さん、浅慮な読み方で申し訳なかったです。
蝙蝠さんが仰るのは劇場版のミサトの目から見たシンジ、ということですよね?
それって、ミサトから見たシンジは自己破壊願望を持っていると思っていないということで、シンジ自身は自己破壊願望を持っていたと思われると言うことでしょうか?
そこまでミサトはシンジの心を読んでいなかったということですか?
ちなみに自己破壊願望はデストルドーとかタナトスと同義語であって、人間に元々備わっているだろうとされる「死」の本能です。
再度挙げますが、ミサトがシンジのもとへ駆けつけ、エヴァのところへ無理矢理にでもつれていこうとしますが、シンジの態度はかたくなで、何もしようとしません。
生きることの緊張と努力に疲れ、そこからの解放、ひいては生命以前の無機状態への回帰を目指す力だとされるタナトスです。
実はこれを唱えたフロイト自身、最終的には顎の癌に悩まされ続け、その痛みに何の意味ももてなくなった彼は主治医にもう終わりにしてくれと、モルヒネ投与を頼んで安楽死してます。
- 23 :ャヤ:2007/07/05(木) 00:50:50 ID:KL/DJwDc0
- はじめまして。
「神様が〜」の件ですが、
わたくしは【たしかに理不尽だけれども、自分ではどうすることの出来ない根本的なこと。】という意味だと解釈いたしました。
神がいるいないとかではなく、
ただ抗えないこと。
それに対して嫌悪感を持っても憤りをもっても悲しみをもっても、どうすることも出来ない。
ということだと思いました。
- 24 :【管理人】セラフィエル:2007/07/05(木) 01:03:44 ID:dnxZ8GyY0
- ちなみに蝙蝠さんのご指摘があったのでもう一度纏めなおしますが、心理学や社会学など、人間の「経験」に基づく心理・行為・行動などを研究する学問は、経験科学と言って、習慣や傾向などの生じる過程などを分析する学問でもあります。
人間は意識的にそれに基づいて行動しているわけではない、しかし大概において無意識のうちにそれを実践していることが多いです。
これが心理学に対して「人の心を読もうとする嫌な学問だ、その掌の上で踊っているわけじゃない」というような偏見を持ってしまうところなのですが、そういう偏見を持たずに、ありのままにその考え方を理解しようとする刷新した捉え方を持てば、そんな偏見は打破できると思います。
かといって無意識のうちの行動のうち、ことごとく全て把握しているわけではありません。
それは先述の法律の概念と同じです。
こういう学問の考え方は、いわば、いろいろなことを認識させてくれる故、色々な見方を考えさせてくれるものであり、そこから様々な分野に発展させて色々なことを考えさせられることがあります。
あくまでアプローチの仕方であって、人間に関することに対しては、それだけで完全に把握することなど出来ません。
でもそれに触れてみることで、実際に自分の「経験」と照らし合わせてみれば、なるほどと頷くことも多いと考えます。
ですから、実際にそれに基づいて行動する、というロボット的な解釈ではなく、あくまで参考にし、考えてみることにこそ意味があると考えます。
蝙蝠さんが出された二択式のYESかNOかみたいな答えを出されただけではこういう答え方が出来ませんでした。
これが蝙蝠さんの問いに対する答えと言うことでよいでしょうか?
ただ、私がミサトに対して突っ込んだことの対比表現でそれを私に突っ込まれたのはちと・・・。
いささかミサトのように冷めた考え方しかしてないといわれたかのようで・・・。
- 25 :【管理人】セラフィエル:2007/07/05(木) 01:21:46 ID:dnxZ8GyY0
- >>23 ャヤさん
初めまして、管理人です。
>わたくしは【たしかに理不尽だけれども、自分ではどうすることの出来ない根本的なこと。】という意味だと解釈いたしました。
>神がいるいないとかではなく、ただ抗えないこと。
>それに対して嫌悪感を持っても憤りをもっても悲しみをもっても、どうすることも出来ない。
>ということだと思いました。
人間の根底にあるものであって、神がどうとかそういうことではないと言うことですよね?
でもそういうものが人間の根底にあるからこそ、人間は人間でいられるわけで。
補完計画によって作り出されようとしていた、いわゆる「完全体としての人間」が人間と呼べる代物ではないことは明らかですからね。
- 26 :蝙蝠:2007/07/05(木) 05:28:12 ID:srD0pMZg0
- はぁ・・・
とりあえず、これまで私の言ってきた事を纏めておきます。
・「神」と言う言葉を使ったのは、持論を伝えるための方便に過ぎないのではないか?
・「不完全」と言ったのは、シンジが思い描いているであろう事を「完全」とした場合の対比的な表現なのではないか?
・その時、ミサトが、シンジが思い描いていると思った「完全」は、他人との接触を避けて1人で生きる事だったのではないか?
(他人との関係を断ち切ろうとしている様子は、1人で生きていこうとしているように見えたのではないか?)
・結局、ミサトがした事は、シンジの問いに対して、持論を話しただけの事ではないのか?
・持論を述べるのに、果たして正当性が必要なのか?
・その時点では、当事者が気がついていなかった事を、後で全体を客観的に見て是非を問うのは、結果論でものを言うのと同じではないか?
・そうでないならば、「こんな兆候があったのだから、当事者も気がついていたはず」と言う論拠を示した上で、是非を問うべきではないか?
- 27 :蝙蝠:2007/07/05(木) 05:32:28 ID:srD0pMZg0
- >>20 セラフィエルさん
>これらの『』内の文に覚えがあると思いますがいかがでしょうか?
無論、あります。 自分が書いた事ですし、私自身が良く思う事でもありますから(^^;)
ただ、それは第4使徒を殲滅した直後に、作戦部長としての立場で、命令に従わなかった事を大義名分を振りかざして非難した事に対してであり、命令云々ではなく、ただ持論を展開しただけ(シンジを非難した訳でも、傷つけあえと命令した訳でもないですから)の今回のような場合まで、それに該当するとは思いません。
ミサトが大義名分を振りかざして、シンジにカヲルを殺すように迫ったと言うならば話は判りますが、カヲルに乞われたシンジが自身の決断で殺したのに、その後のミサトの発言のエゴが・・・云々と言うのは、そもそも無理があるような気がします。
それでも、ミサトの発言のエゴが・・・と言う事ならば、逆に「カヲルを殺した罪の意識を、シンジはミサトに責任転嫁する事でやわらげた」という論も展開されてしかるべきだと思いますが、いかがでしょうか?
反論ばかりするつもりではないのですが、セラフィエルさんの論が展開されればされるほど、穴が増えているようで、どうにも気になってしまって、ついつい・・・
本当に、すみません(−−)
- 28 :【管理人】セラフィエル:2007/07/05(木) 11:31:19 ID:dnxZ8GyY0
- >>27 蝙蝠さん
うーん、どうやら私の中で考えていることが伝え切れてないのかもしれません。
蝙蝠さんが列挙してくださった論点の中には、元々私のなかにもあることもあるので。
もしかすると根本にある考え方は似ていて、それに対する表現がちと至らないだけなのかもしれないです。
書き込みだけではやはり誤解が生じてしまうのもありますから・・・。
ちともう一度整理して書き直します。
個人的な事情で時間があいてしまうかもしれません。申し訳ないのですが、少々お待ちください。
- 29 :【管理人】セラフィエル:2007/07/06(金) 00:24:17 ID:dnxZ8GyY0
- >>27 蝙蝠さん
>ミサトが大義名分を振りかざして、シンジにカヲルを殺すように迫ったと言うならば話は判りますが、カヲルに乞われたシンジが自身の決断で殺したのに、その後のミサトの発言のエゴが・・・云々と言うのは、そもそも無理があるような気がします。
>それでも、ミサトの発言のエゴが・・・と言う事ならば、逆に「カヲルを殺した罪の意識を、シンジはミサトに責任転嫁する事でやわらげた」という論も展開されてしかるべきだと思いますが、いかがでしょうか?
えっと、この書き込みを見て思い出しました。確か蝙蝠さんはコミック版を買うのをやめてもうご覧になっていないと聞いたことを記憶しているのですが、もしかしてお読みになられておりませんか?
私はミサトの行動や言動には劇中でほとんど変わっていないと考えるのです。
全ての事象は繋がっているのです。終盤に至るまでに、関係や行為の経緯と言うのは無視されるべきではありません。
このやりとりがある前に、カヲルを殺した描写があって、この殺害に至るまでの経緯と言うのは、アニメ版とはほとんど違います。
コミック版のシンジとカヲルの関係は、アニメ版とは打って変わってとてもじゃないけど仲睦まじい親友と言うような要素を含んでおりません(独自展開と言うわけです)。
シンジはこれまでの苦難に疲れきっていました。
コミック版のシンジは、7巻にて加持に言われたことがかなり影響をされており、全ての事象に自分の目でしっかり見て自分で考えようとする姿勢を持つよう、努力しております。
ですから逃げてはいないし、責任転嫁をしようとする態度は、曲がりなりにもトウジを見殺しにしてしまったあとはなくなっています(ちなみにコミック版ではトウジがフォースに選ばれたと言うことをトウジ本人の口から直接聞いています)。
あの言葉はミサトに責任転嫁をするというより、ミサトの言うことに、もううんざりしていた、ととれるような経緯が、その前にもきちんと説明されているのです。
(カヲルを殺したあとの疲れきったシンジをミサトが訪れる)
「でも、あなたがやったことは正しいことよ、守るべきものを守ったんだもの」
(ミサト退出)
「守るべきものを守った、それは確かにそうなんだろうけど・・・。ミサトさんの言う守るべきものと、僕が守りたいものは、別のものだ。僕が守りたいものは、次々と失われていくのに・・・」
「僕が守らなければならないもの、僕が必死で守ろうとしているもの」
ここの描写には、レイ、トウジ、加持など死んでしまった者たち(6巻でトウジは死にました)、壊れてしまったアスカが描かれています。
(殺害寸前のカヲルの回想)
カヲル(サードインパクトが起こったとしても、人はただ滅びるんじゃない。新しい形で生まれ変わるんだ。一つに結合して、単体の生命としてね。そうすれば君の望んでいる通りの世界が訪れる。ATフィールドも必要ない、闘いや争い、人を失う苦しみや悲しみ、君はその全てから解放されるんだ。それでも君は、僕をとめると言うの?)
シンジは加持に、真実から逃げるな、と言われてから、真実と直面し、きちんと受け止めようとしていました。
アスカが壊れてしまったとき(彼女はアラエルの精神攻撃で直接壊れてしまいました)、まず真っ先に病院に送られた彼女の元に駆けつけ、「どうして僕は、肝心なときに何もできないんだろう・・・」と言います。
それに立て続いて二人目のレイの死、地下のレイの真実、という、目を背けず直面した真実は、苦痛を伴うものばかりだったんです。
そして今度はカヲルのことが立て続きに起こります。
コミック版のシンジは、カヲルを殺す際、アニメ版のように長時間躊躇する、と言うことがあったわけではありません。
カヲルを殺すことに、なかば諦めに近い皮肉を帯びた笑みを浮かべて握殺しています(くびちょんぱではありません)。
この諦めに近い顔、というのは、やはりそこに至るまでの経緯がきちんとあるわけで、彼はカヲルの願望をきちんと把握し、また僕は苦しみを味わねばならないのか、とカヲルを殺しているのです。
責任転嫁をするつもりはないようです。
しかしこのような苦痛がシンジの精神をすり減らし、彼を疲れさせていたことも事実なんです。
それがよくわかる描写が挿入されています。
長期的に休載したりして読者を舐めている、と以前きって捨てられていたと思いますが、もし私の言うことに納得がいかないようでしたら、一度読んでみてはいかがですか?
多分私が持ち出したことに穴がある、と仰る蝙蝠さんの見解と私が言いたいことの齟齬はここにあると思うのです。
今の私はアニメ版も交えて発言していますが、もともとの出自はコミック版最新刊であって、それに基づいた発言をしているのです。
- 30 :【管理人】セラフィエル:2007/07/06(金) 01:01:54 ID:dnxZ8GyY0
- 続きです。
>ただ、それは第4使徒を殲滅した直後に、作戦部長としての立場で、命令に従わなかった事を大義名分を振りかざして非難した事に対してであり、命令云々ではなく、ただ持論を展開しただけ(シンジを非難した訳でも、傷つけあえと命令した訳でもないですから)の今回のような場合まで、それに該当するとは思いません。
確かに命令していたわけではないでしょう。でも、その人間に対する物の見方は、その我武者羅に突き進まざるを得ない衝動に駆られ、大義を理由に「仕方がない」としているように見えませんか?
上述したようにこれまでの事象を省みれば、ミサトの態度と言うのは根本的に劇中を通じてどこか傲慢的なところは変わっておりません。その点はたとえその持論が「命令」でなくても、態度で見え見えです。
実はあの会話のあとに、憤激するシンジに対しミサトがシンジに張り手を見舞おうとします。
途中でやめますが。
「僕が今までどんな気持ちで戦ってきたか、ミサトさんには判らないよ!」
張り手を張ろうとして途中でやめるミサト。
「本当にそんな風に思っているの?」
「ぶたないんですか?ぶってもいいのに。・・・降ります」
車を降りるシンジ。
「シンジ君、待ちなさい!シンジ君!」
しかしその呼び止めに応じず、憤激のあまり、さっさといってしまうシンジ。
「判らないわけないでしょ・・・。判るからこそ辛いのに、あなたに命令しなきゃならないのが。でも私たちには泣き言を言っている時間はないのよ、シンジ君」
これは気遣っているかもしれませんけれども、結局のところ、自分でもどうにもならない葛藤や衝動を大義を理由に誤魔化しているのと同じです。
>・「神」と言う言葉を使ったのは、持論を伝えるための方便に過ぎないのではないか?
これについては否定してないです。
ただ、持論というのは説得力がなければ他人を納得させることが出来ません。
これは私や蝙蝠さんのやり取りの中でもいえることで、私の読解力の至らなさ、表現の至らなさ、私の考えていることの本質を伝えきれていない、と言うことと同じです(汗)。
そして私が指摘したかったのは、あのような持論で、精神的に疲弊しているシンジを納得させるようなことなどできようはずもなかったと言うことです。
そこのところはコミック版の経緯を見ても判るとおもうし、それをアニメ版のシンジに説いても聞く耳を持たないと思います。
シンジは単体として生きる、或いは完全な人間になる、という考えなど持っているとは思えません。
彼が根底で望んでいたのはみんなと共に自分もいた、楽しかった「あの頃」。これはアニメ版とも共通することです。
彼の根底には人を失いたくないと言う気持ちが内在しているのです。
しかしその多重的な苦しみから開放されえない・・・。それどころかどんどん積み重なっていくばかりで、そういう自分の気持ちにこたえてくれるものは誰もいない。
その苦しみに耐え切れなくなったことで、タナトス、及びデストルドーが強くなっていったんだと考えます。
コミック版ではまだ戦略自衛隊が突入した直後でありますが、劇場版での冒頭のシーンは、シンジがアスカを揺り動かすことで、アスカが金切り声を上げて発狂することに変えられ(多分相手がシンジである事を認識していないと思う)、シンジはそれに殺されかけています。
そのせいでしょうか?シンジはもう、頭では判っていても体が拒否反応を示すようになってしまってます。
「また外で何か起こってる・・・。戦闘配置・・・。エヴァに乗る準備をしなきゃ・・・。でもどうしよう・・・。体が動かないよ・・・」
こんな感じです。
- 31 :【管理人】セラフィエル:2007/07/06(金) 01:40:25 ID:dnxZ8GyY0
- ちなみに補足しますと、責任をもってとは言え、シンジがそのような姿勢を余儀なくされたのは、加持から言われたサードインパクトの発生条件とそれによる全人類の滅亡という強迫的な認識です。
コミック版の加持は、シンジがネルフをやめて去ろうとした際、独断でシンジを捕まえてセカンドインパクトにまつわる自らの過去を語りだし、自分がかつて弟を犠牲にして生残ったことをシンジに言い、それをトウジを見殺しにしたシンジも同じであると指摘しています。
加持は戻るも戻らぬもシンジの自由だ、と言いながら、全人類の滅亡を持ち出し、それを止めることが出来るのは使徒と同等の力を持ったエヴァンゲリオンだけである、と言うことを強調し、真実から目を背けるなと、自分のことを持ち出して、暗にシンジを戻らせています。
これはミサトから与えられた、大義を理由にした強迫観念の再認識とも取れませんでしょうか?
それ以前に「ミサトさんの夢って、願いってなんですか?『人類の平和』ですか?人の命を犠牲にして?人の命の重さは、みんな同じなのに・・・」と言う発言でミサトを皮肉っていたりしますけどね。
また、アニメ版で言うならば、ミサトは「奇跡の価値は」で自分がネルフに入り、使徒と戦う理由をシンジに聞かせます。
シンジからミサトに聞いたものではありますが、これはいわば、思想教育にも近いでしょう。
これがその時点でのシンジにとって共感を得られるもの(父に関する点で)であったが故に、シンジはそれに乗せられてしまったのです。
でもシンジはその言動に載せられていただけ、だったと言うことに気付いてしまいます。
「ミサトさんのお父さんの仇だから?何で僕が戦うんだろう・・・」
それはもはや戦う理由にはならなくなっていました。
そういう苦しい思いをしてまで自分が戦わなければならない理由がシンジには判らなかったのではないでしょうか?
- 32 :【管理人】セラフィエル:2007/07/06(金) 02:14:47 ID:dnxZ8GyY0
- これまでの経緯と言う点をもって、
>・そうでないならば、「こんな兆候があったのだから、当事者も気がついていたはず」と言う論拠を示した上で、是非を問うべきではないか?
の論拠とさせていただきます。
結果論としてみたのは作品のテーマを考えるならば、と言う点で持ち出しただけです。
結果論からそうすべきだったといっているわけではなく、当事者も気付いているような描写もあるのだし、もしミサトが持論を展開するのであれば、説得力を持たせなければ相手に納得してもらえようもないじゃないかと言うことです。
私はそれについて言及したに過ぎないのです。
私自身にも言えることでもありますけどね・・・(汗)。
- 33 :蝙蝠:2007/07/06(金) 23:03:14 ID:Dp5iqHVo0
- >>28 セラフィエルさん
私も、どうして話が噛合わない(と感じる)のか、少々考えてみました。
その結果、私とセラフィエルさんとでは、視点もアプローチの仕方も考え方も、全てのベクトルが、まるで違う方向を向いているのではないかと・・・
(誤解のないように言っておきますが、あくまでも考え方の相違で、どちらが正しいとか間違っていると言う話ではありません)
ミサトに対して、セラフィエルさんは検察的な考え方で、私の方は弁護的な考え方・・・なのではないかと思うんですよ。
ですから、何か決定的な証拠にでもなるようなものがないと、恐らく話が噛合う事はないのではないかな?と、今は思っています。
そこで、逆転発想なのですが・・・
これを裁判形式にして、他の方にミサトが有罪か無罪かを投票してもらったりしたら、面白いんじゃないかなぁ・・・などと、ふと思ったりして(裁判員制度の導入も近いし ^^;)
- 34 :【管理人】セラフィエル:2007/07/07(土) 01:35:20 ID:dnxZ8GyY0
- >>33 蝙蝠さん
検察・・・(^^;)。
考察って結局ありのままの全てを見たうえで、それを客観的に見るように心がけても、最終的には自らの主観に頼らざるを得ないところがあると思うんですよね。
客観的な分析に正しいも何もない、と言うのは蝙蝠さんの意見と合致すると思います。
でも主観は違います。それは人個人がもつ解釈の仕方に異なるものがあるのですから、時に同調し、時に意見が違うことがあるのはあってしかるべきものでしょう。
私の場合は一応、この掲示板でも考察法を述べておりますように、まず客観的にその人間ドラマとしてのエヴァのストーリーを見て、弁護すべきは弁護し、批判すべきは批判する主観を用いて分析しているつもりです。
検察のようにまず罪状を挙げてそれに対する根拠を挙げようとしているわけじゃないんですよ。
じっくりよくみないと自分に都合のいい解釈の方法になってしまうので、弁護すべきは弁護するし、批判すべきは批判しなければならないでしょう。
ミサトのほうに弁護すべき点がないというわけではないんです・・・。
むしろ私は弁護的な解釈だって多くしますよ?
私は世間がよく決め付けていることに関して、果たして本当にそうやって決め付けていいものなのか?という疑念をもつようにしています。
私の場合、エヴァについての考察はそこから始まるといってもいいでしょう。
これは蝙蝠さんと個人的にやり取りしているときもそうでしょう?ルシファーのこととか。
蝙蝠さんも、鬼についてとかきちんと見るべき視点を持つべきという意見がまじまじと判る持論を展開なされていると思いますし。
ですから根底にあるもの自体は同じなんだと思います。
だから意見が合うこともあるんですし。
ただ、私の場合は根底に、一般的な意見として「劇場版のシンジの有様が酷すぎる」と言う解釈のもと、「シンジが最低だ」「シンジが悪い」などというような安直な非難が飛ばされることに、「異議あり」と唱えたいことが強いのかもしれません。
シンジの自我は、シンジが置かれた環境・社会によって影響をうけ、その中で自分に向けられた役割期待を自分の中に内在化して、自分がすべきことを認識し、最後までそれをやってきたわけで。
シンジの主張していることは、ただ駄々をこねているだけだ、と決め付けられることも多そうですが、実際に彼の言いたいこと、そしてその心理に対し、目を開いてきちんと考察してみれば、そういう偏見はなくなると思うのですよ。
それをよくよく考えさせてくれたのがyasuakiさんの解釈法であり、蝙蝠さんの考察法でもあるんです。他に挙げるとすれば2次小説作家のnakaya氏ですが、かれの解釈は第3者の視点もさることながら、シンジを使ってシンジの一人称からみた視点で実にずけずけと非難すべきは非難する、と言う態度をとっていますね。
私は蝙蝠さんとやり取りし始めるよりかなり前からその考察についてよく見ていたものです。
ただ気をつけなければならないのは、感情移入して、そちらの弁護にばかり向いてしまうことは避けなければとも思っています。
劇中においても一般的な見方においてもシンジが非難されることが多いので、それをもう少しちゃんと見てあげたら?と言いたくなることが強いため、それに傾倒してしまうことに気を付けたいと思っております。
ミサトを弁護すべき点とてあります。
彼女のおかれた家庭環境、父に対する複雑な感情、加持と言う存在・・・。
なによりシンジ自身、ミサトに対し悪い人じゃないんだ、という解釈は持っている・・・。
でもその悪気なく全てをその衝動の元に肯定してしまうところが恐ろしい、と最終的に思ったのがあるのではないかと。
禁圧的な態度もさることながら、よけいなおせっかいをやいているミサト。
「これから判るのよ」と根拠のない事を言い、いかにも保護者然とした言い方は、果たしてどう捉えるべきでしょう?
その後にそんなことをシンジにいえる立場にないと自分でも判っていて自己嫌悪に陥ってるミサトを見れば、ミサトは過去の自分にシンジを被せて、まるで嫌悪すべき過去の自分を見ているかのように、シンジにもどかしさを感じてその感情をぶつけているような節が見えます。
ですから確かにその発想は面白いことですし、様々な意見が寄せられると思いますからやってみる価値はあると思いますが、私がやっていることは罪の是非を問うとは違う解釈で、「ミサトは保護者としても作戦部長としても責任ある立場にいる」と言うのが、まず先に考察する上で念頭に置かれなければならないと思うのです。
- 35 :メフメト:2007/07/07(土) 19:26:45 ID:brTo.w7w0
- こんばんは。近頃このスレのながれについていけてないので深い内容についての突っ込みは避けますが、話の整理の助けになればとやってまいりました。
>蝙蝠さん
>私も、どうして話が噛合わない(と感じる)のか、少々考えてみました。
>その結果、私とセラフィエルさんとでは、視点もアプローチの仕方も考え方も、全てのベクトルが、まるで違う方向を向いているのではないかと・・・
そうでしょうか。諦める前にもうちょい冷静に見直されても良いかと思いますよ。例えば、
>19(蝙蝠さん)
なぜセラフィエルさんが、そこまで正当性を求めるのかが、私には良く判りらないのです。
このへんに食い違いのもとがあると思うわけです。
>持論を述べただけに過ぎないように思いますし、正当性を問われるような事ではない
とおっしゃってるように、蝙蝠さんは、セラフィエルさんがミサトの『発言の内容』の正当性にこだわっていると考えられたようです(ちなみに私も最初そうだと思ってレスしたわけですが)
しかしながら実際はセラフィエルさんは『ミサトがそのような発言をしたこと』の是非を問うてらっしゃったわけですね。
具体的には、前者は『神様がヒトを・・・』のくだりを「ミサトの持論」として扱いますが後者では「持論でない」として扱う点に違いがあります。
本当にミサトが、持論として、『神様がそう創ったからだ』と考えているなら、セラフィエルさんとしてはそんなに問題は無かった(多分)のです。なぜならそれは。ミサトが「持論を展開してシンジを必死に説得している」場面
になるからです。しかし後者の解釈に基づけば、ミサトは「本気で思ってもいないリップサービスでシンジをあしらった」といえるわけです(もちろんこれは極端な表現で、実際は「シンジが立ち直るようになんとか言葉を選んだ」んでしょうけど)。でシンジにはそれがわかってしまったから失望したと。そういうのがセラフィエルさんのおっしゃることです(いや違ったらマジですいません)。
なので、蝙蝠さんのおっしゃる
「持論を述べる⇒正当性を問われるような事ではない」
はおっしゃるとおりで、それはセラフィエルさんもご承知のことなわけです。が、「本当に心底それが持論なら」という前提がつくわけです。
どうでしょう。一例だけ挙げましたが話がかみ合わないと言うのはこのような小さな論点のズレの積み重ねだと思います。各自のスタンスの違いだけでかみ合わなくなるのは事実関係の解釈が整ってそれを是とするか非とするかの段階で初めてだと思いますよ。
ではお節介失礼しました。
あと、裁判形式は私にはできないですね。なぜかというと、私はミサトが「至らなかった」とは思いますが「悪かった」とは思わないからです。
ミサトにはセラフィエルさんも上げられている通り上官として、母親としてダメな部分が多くありました。しかしそれは罪でしょうかといえば、罪ではないはずです。ミサトに絡んでくると私はいつも申し上げるのですが、ミサトは「人間」そのものだからです。
強いつもりだけど弱い、人を気遣っているポーズをしていても実は自分のことを考えていることがあり、また気持ちをわかっているつもりでもずれている。まさしくヒトが不完全であり、それがヒトなのだということそのものであります。ですからミサトは裁く対象ではなく自らを映す鏡として見るべきものと捉えています。
- 36 :【管理人】セラフィエル:2007/07/07(土) 20:20:12 ID:dnxZ8GyY0
- >>35 メフメトさん
かなり砕けた指摘をしてくださいましてありがとうございます。
大方私の見解と一致しているのですが、ちょっとだけ追加を・・・。
>でシンジにはそれがわかってしまったから失望したと。そういうのがセラフィエルさんのおっしゃることです(いや違ったらマジですいません)。
これについてはですね、シンジがそれ自体を判ってしまったから失望したこともあるでしょうけど、シンジにはこれまでの積み重ねがあるわけです。
まず最初にカヲルを殲滅した後、慰めのつもりで言ったミサトの発言「守るべきものを守った」と言う言葉や、更に過去に遡るのであれば、
「私はあなたに自分の自分の夢・願い・目的を重ねていたわ。それがあなたの重荷になっているのが判っていても、私たちネルフのみんなは、あなたに未来を託すしかなかったのよ」
「ミサトさんの夢って・・・、願いってなんですか?人類の平和ですか?人の命を踏みつけにして?人の命の重さは同じなのに?」
というやりとりに注目していただきたいのです。
これらのやり取りは、いつもミサトの主観から見たミサトの都合に合わせた思惑がシンジに向けられている表れともなっていると捉えることが出来ないでしょうか?
ミサトの口からでてくる言葉は、いつも「大義」が優先です。その大義すら自分の衝動の理由として誤魔化しになっているのですが、シンジがいかにそれにたいして疑問を投げかけたとしても、その思考自体に変化が生じるわけではなかった。
メフメトさんも仰ってくれたように、ミサトは自分でも言っている通り、自分の思惑をただ勝手にシンジに重ねていただけなのです。
その行き違いと言うものが何時までたっても変わることがない。
だからシンジはうんざりしていたのだと考えるのです。
あとは人間に不完全、と言う解釈を用いること自体に、個人的に抵抗感があるのです。
かといって人間が完全な存在であるとも考えているわけでもない。
私は、そういう完全・不完全の解釈の元に人間を断じるべきでないと言う、それこそ「持論」を持っているわけですから、それについての是非を問いたかったのです。
人間が目指すべきはそんなものじゃないのではないかと。
補完計画自体、全ての煩わしさからの逃避に過ぎないわけですし。
- 37 :メフメト:2007/07/07(土) 23:58:42 ID:GFYieiZY0
- >あとは人間に不完全、と言う解釈を用いること自体に、個人的に抵抗感があるのです。
>かといって人間が完全な存在であるとも考えているわけでもない。
そうですなぁ難しいところです。
でもやはり完全というものは定義されてもよいかと思います。もちろん、それは目指したりするものじゃなくて。仮想上というか、比較基準のために。
化学の世界でも「理想気体」といったようなものが定義されているように。
さて「完全=長所をすべて兼ね備えている」と言い換えられます。
とすると、エヴァの世界で完全になるとはヒトの持つ長所と使徒の長所を両立した存在になる、ということだったんでしょうか?「知恵の実を持つヒトが生命の実を手に入れて・・・」
のくだりを考えればそういうことになります。だとすると、多様性と不死性、それから心の壁の問題等をすべてクリアした存在ということになります。しかしゲンドウの言うことには「完全な単体」を目指しているようです。
単体であると言う時点で生物的長所のひとつ「多様性」を放棄しているわけで、これでは完全とは言えないというパラドックスに陥ります。
ゲンドウの思い通りの補完が進むと、実際人類はどうなる予定だったのでしょうか?
- 38 :バン・グゥ:2007/07/08(日) 03:07:36 ID:vJiDOK.g0
- こんばんは 初めて書き込みさせていただきます
メフメトさん
私の考えを書かせていただきますと、「多様性」は失わないと思います。
「完全な単体」というものは、「単一の思考と記憶を持つ単体」ではなく、「全ての思考と記憶を持つ単体」だと思います。
劇場版の補完において、
・シンジらの、ミサトの記憶への侵入
・レイ「とこからが他人で・・・」
・シンジ「もう一度会いたい・・」
から、他人の概念自体は依然として在るわけです。
劇場版の補完の過程では「全て」は「脆弱な世界」に漂っていましたが、ゲンドウの理想はそれを強固な外殻(つまりATフィールド)で覆い、単体にしたかったのだと想像します。
つまり「All in one」の「One」の中は多様性に満ち溢れています。
- 39 :蝙蝠:2007/07/08(日) 03:51:29 ID:pVr.GSMk0
- >メフメトさん
お気遣い頂き、ありがとうございます。
>セラフィエルさん 及び 皆様
余計な事を言って、スレを汚してしまい、申し訳ありませんでした。
- 40 :【管理人】セラフィエル:2007/07/08(日) 04:12:14 ID:dnxZ8GyY0
- >>38 バン・グゥさん
どうもです。
うーん、私的にはちと違和感を感じる意見ですね。
私はバンさんの指摘される多様性を残した、と言う部分は、劇中において補完されていく過程を描いたものだと思うんです。
魂だけの状態で多様性を保ったのは、それは依り代にされた初号機のシンジが、補完の概念について否定したからです。
完全に融合してしまえば、多様性も何も、人間に境界などなく、魂すら結合状態になってしまうと考えます。
なにより、「一つに結合して」と言う言葉が用いられていることもありますし。
もし多様性を残したままの状態でそれを補完とするのであれば、それは補完としての意味を成しません。
それは互いの持つ煩わしさ、及び心的苦痛など、欠けた心同士が永遠に触れ合っている状態であり、互いの心をさらけ出している分、さらけ出していない現実世界よりも更なる苦痛を伴うことになります。
知られたくないようなことまで知られてしまう状態が劇中で描かれ、それは補完状態ではなく、補完に至るまでの過程であると私は解釈しているのです。
元々「補完」という概念に対して否定的な私ですが、魂同士が結合しようとして、互いの心の中にあるものに触れた、ところがそれは融合しがたいものだった、と解釈すれば、ちょっと触れ合っただけであの有様(主にシンジとアスカ)がおこった理屈も通ると思います。
私は、いわば補完とは、私のホームページでも紹介しているミードの自我論で挙げるのであれば、「I」を完全に失った究極的な「Me」のみを目指した生命体(つまり個としての個性と言う多様性などどこにもない)だと考えます。
いや、そもそも自我と言う観点すら作りえませんね。
なぜなら自我と言うものは個としての概念あってこそのものであって、他者との触れ合いによって形作られるものです。
他者の影響があって初めて、それにあわせた行動が出来るようになり、そこに自分の個性を加えて社会の中に生きる自分を形作ったのが自我(社会的自我)なのですから、単体だけで自我を形成するなどと言うことは有り得ないのです。
これは自分がどこにもおらず、どこからが他人でどこまでが自分なのか判らない状態と言う説明に繋がります。
それがぴったり当てはまるのではないかと。
- 41 :【管理人】セラフィエル:2007/07/08(日) 04:20:58 ID:dnxZ8GyY0
- >>39 蝙蝠さん
いえ、私はスレ汚しなどとはこれっぽっちも思っておりませんよ?
私は蝙蝠さんの考え方を否定しているわけではありませんし、そのやり取りに十分意義があったと思いますから。
私のほうこそ、浅慮な読み方で、蝙蝠さんの意図を読みきれず、見当違いなことを言ってしまい、ご気分を害してしまいましたでしょうか?
もしそうでしたら自分の至らなさ故です・・・。
申し訳ありません・・・。
私としてはまた蝙蝠さんと意見交換のやり取りをしたいです。
ですからもし差し付けなければ、遠慮なく参加してくださいね。
- 42 :【管理人】セラフィエル:2007/07/08(日) 04:22:27 ID:dnxZ8GyY0
- すみません、差し付けなければ、ではなく差し支えなければ、の書き損じでした・・・(滝汗)
- 43 :バン・グゥ:2007/07/08(日) 05:14:19 ID:vJiDOK.g0
- セラフィエルさん
>魂だけの状態で多様性を保ったのは、それは依り代にされた初号機のシンジが、補完の概念について否定したからです。
シンジは「これは違う」と否定したのはレイ「全てが1つになった・・」の後です。
>それは互いの持つ煩わしさ、及び心的苦痛など、欠けた心同士が永遠に触れ合っている状態であり、互いの心をさらけ出している分、さらけ出していない現実世界よりも更なる苦痛を伴うことになります。
カヲルは「再びATフィールドが君や他人を傷つけてもいいのかい?」と言いました。
つまり、ATフィールドが無ければ傷つかないので苦痛はありません。
創世記におけるアダムとエヴァは善悪の知恵の実を食べた時、裸であることに気付き恥じました。
しかし、知恵の実を持つはずのシンジは裸であることに恥じていません。
これは恥や心の痛みを理解しつつも「越えて」いるからに他なりません。
>多様性も何も、人間に境界などなく、魂すら結合状態になってしまうと考えます。
その通りだと思います。しかし、記憶や思考の結合とは、「同化」ではなく「共有」だと考えます。
結合した魂の一つ一つは結合する以前、「自分が何であったか」を知っています。
「個」を棄てども「個」とは何かを知る「知識」があるからこそ神なワケです。
だからこそシンジとアスカは復活を遂げ、またレイ「誰でも元に戻れる」と言うことになります。
>単体だけで自我を形成するなどと言うことは有り得ないのです。
全てが1つになったLCLの海から、シンジとアスカの自我が形成されたことから、
1つの海(単体)には他者の概念と影響がある、ということが証明されました。
- 44 :メフメト:2007/07/08(日) 09:46:01 ID:JCk/efxI0
- >バンさん
おひさしぶりです。
なるほど理解いたしました。以前yasuakiさんの掲示板でも話題になったことを想起しても、魂の独立は
保たれているわけですね。思い返すと私自身もそのように申し上げていたようです。
「魂」が他人の存在を望んだとき、生命のスープの中から「自分」の成分を選び取り、ATフィールドで切り取って個人が遊離するというようなことを言ったような・・・。
>劇場版の補完の過程では「全て」は「脆弱な世界」に漂っていましたが、ゲンドウの理想はそれを強固な外殻(つまりATフィールド)で覆い、単体にしたかったのだと想像します。
ゼーレは「退化」を望みゲンドウは「進化」を望んでいたわけですが、このおっしゃり方だとどちらも具体的にはかなり近いことを行おうとしていたことになります。
これは「進化と退化は裏表一体」というような解釈でよろしいでしょうか?
そこまで納得はしたのですが、それが多様であるのかと言われるとまだ少し腑に落ちない部分が残ります。そのへんはまた考えますが・・・。
あと、いままで「補完状態は完全と言えるのか」みたいな言い方をしましたが、これは日本語としておかしい気がしてきました。
「補完」は「欠けている部分を補って完全にする」ですから、補完状態という言葉はアレが完全だと言う過程のもとに使われている言葉なんですよねw
ってわけで今後は「融合状態」と表現します。個人的に。
- 45 :【管理人】セラフィエル:2007/07/08(日) 11:21:07 ID:dnxZ8GyY0
- バンさん、もしかしたら、言葉の用い方が私と異なっているところがあるのかもしれませぬ。
多様性、というのは、あの単体としてまとまった生命体をさして言うのであれば、当てはまる言葉ではありません。
すなわち、あれそのものが、一個体だからです。
そして、私が言った自我が一人では確立し得ない、といったのは、あの「完全体」と称される生命体自体に自我など生じ得ないと言うことなんです。
ですから全ての人間を包絡し、それを強固なATフィールドで殻を持つ、すなわちその状態で自我を保つ、などと言うことは不可能なんです。
と言うことで、最初から破綻することが目に見えていた、と捉えることも出来るのです。
あるいは、バンさんの考え方で言うならば、あの巨大綾波は人間個々の魂にとって見れば、自我で纏め上げられるものではなく、超自我の肥大化だと考えられます。
超自我は自我を形作る上でリビドーと均等が取れていないと、リビドーの暴走を招くことになります。
あのとき、全ての人間の自我を取り払う方法として、デストルドーの投射が強制的に行われました。これは他者がそれを強いると言う点で「超自我(スーパーエゴ)」です。
超自我の肥大化によって自我が脅かされ、それが取り払われてしまった状態であるならば、その人間の魂が目指すのはリビドーの快感原則だけです。
その中にはエロスもあればタナトスもあり、本能的に持っているとされる快感をえることに基づいた行動のみをしてしまうということです。
補完過程で描かれた描写は、強制的に自我を取り払われて、個々人の持つ本能的な部分のみが残されたことになります。
ですから他者を隔てる壁がない、本能的なものだけが衝突する場となり、それが融合しようとしてされえなかった。
そして、補完計画は頓挫した、と言う説明があるように、完全に一つとなって融合して、自分の他人もない状態になる前に、頓挫したから、まだ個として分離できたのだと考えます。
レイのいう一つになっているだけ、或いは一つの海の状態というのは確かに他者の集合状態である、と解釈しております。
しかしそれが本当に補完状態と同義なのかと言うと違うのではないかと考えるのです。
つまり、補完の定義にちと齟齬が生じているのかも。その時点ではまだ、あの巨大綾波の中に関しては他者の多様性と言うのは残っているのでしょう。
>しかし、知恵の実を持つはずのシンジは裸であることに恥じていません。
>これは恥や心の痛みを理解しつつも「越えて」いるからに他なりません。
これは、自我のない状態と言うのは生理的欲求(リビドー)の快感原則にのみ従うというフロイトの自我三層構造を踏襲しているのだと考えます。
自我のない状態と言うのは本能的なものをさらけ出しているので恥も外聞もありません。つまり、この解釈に生命の実や知恵の実を持ち出すよりは、自我が取り払われた状態と言うのが果たしてどのような状態なのか、ということを考えてみる必要があると考えます。
- 46 :バン・グゥ:2007/07/08(日) 15:46:21 ID:td.wopIg0
- メフメトさん
キールは「始まりと終わりは同じところにある」と言いました。
つまり、全てが終わったら、また全てが始まるということです。
なので、同じ過程を辿っても最終的にはまったく異なる結果になると思います。
セラフィエルさん
>自我が一人では確立し得ない
アダムやリリスはたった一人で自我を確立しました。
>他者を隔てる壁がない、本能的なものだけが衝突する場
そもそも壁が無いのだから、本能的なものとて衝突しません。融合を拒む壁もありません。
>本当に補完状態と同義なのかと言うと違うのではないか
違うという根拠は何ですか?
1つのカラダに1つのココロでは、使徒を含む全ての生命となんら変わらないと思います。
>自我が取り払われた状態と言うのが果たしてどのような状態なのか、ということを考えてみる必要があると考えます。
私が言いたいのは、アダムとエヴァは知識の実によって自我を知ったということ、そして知恵の実をもつシンジは自我を知りつつ自我を失ったということです。
他人を望んでいないだけで、他人を知っているわけですから「多様性」に富んだ「海」になります。
- 47 :【管理人】セラフィエル:2007/07/08(日) 17:03:34 ID:dnxZ8GyY0
- >>46 バン・グゥさん
>アダムやリリスはたった一人で自我を確立しました。
それは他者としての人間の存在からの干渉があったからです。
自我という概念は、自分一人で確立しえません。
自我は他者からの影響が入って初めて形成されるものである、という説明が経験科学で立証されております。
人間は生まれたときから自我を持っているわけではないし。
アダムとリリスと同時に生まれたほかの5つの生命体は、自我を持たず、ただ流れに身を任せるエネルギー体(概念的・精神的なもの)としての姿しか持ち合わせておりません。
いわば唯一神アッラーが偶像で模されず形を持たない概念的なものであるのと同じように。
そもそも、アダムとリリスとてその両者が他者であるわけですし。そしてアダムとリリスには並々ならぬ因縁があるのですから。
>そもそも壁が無いのだから、本能的なものとて衝突しません。融合を拒む壁もありません。
自我という壁を取っ払った状態と言うのは自分の知られたくないところまでさらけ出すことと同義です。
自我に関する論を展開している学者達はみな、まず根底に個人個人が持っているだろう生理的欲求というものを行動と切り離して考えることはできないと主張しています。
その知られたくないようなところまでさらけ出されてしまった描写が劇場版で生々しく描かれたのだと考えます。
そしてその生理的欲求に従い、快感原則に基づく行動のみしていては、他者の心を傷つけてしまうことは然りです。
なにせこの快感原則と言うのは自分本位の願望を満たす行動であり、他者のことなど省みない部分ですから。
それが顕著となっているのが、シンジとアスカの愛憎劇です。
融合を拒む拒まないは壁の有る無しではなく、その魂自体が融合を受け入れるかしないかの問題です。
アスカはシンジを拒絶しました。
>違うという根拠は何ですか?
>1つのカラダに1つのココロでは、使徒を含む全ての生命となんら変わらないと思います。
メフメトさんが定義した、『さて「完全=長所をすべて兼ね備えている」と言い換えられます』という部分に関わることです。
私自身はゼーレやゲンドウが完全と定義したことの共通点として、全ての感情と社会のしがらみである自我を取り払い、全ての快感原則のみに浸ることを考えています。
あるいはユングの考え方でいうと、人が持っているだろう「社会のしがらみ」や「不安の解消」、「人間関係の複雑さを捨てること」など、集合的無意識のうちに抱えている煩わしさをかなえる物として、計画が定義付けられている、と考えているのです。
だからこれは、人が個人個人に持っている個性や意識的なものを全て無視した考え方であり、この計画は、集合的無意識に依拠したものだと考えます。
ですから完全とは名ばかりで、ゼーレやゲンドウ、ミサトひいては作品中監督がテーマとして打ち出す上で必要となった「完全」という定義づけであり、本来の完全の意味がどうあれ、それを理想、完全と考えているが故の「完全」という言い方なのだと考えます。
最終的には全ての人間が持っている集合的無意識の統合を目指し、全ての魂を、その点だけで纏め上げようとしているのが補完計画だと考えます。
私は「完全」「不完全」の定義づけに違和感を感じざるを得ないのはそのためなのだとも言いたいのです。
- 48 :【管理人】セラフィエル:2007/07/08(日) 17:23:39 ID:dnxZ8GyY0
- 書き損じです。
『あるいはユングの考え方でいうと、人が持っているだろう「社会のしがらみ」や「不安の解消」、「人間関係の複雑さを捨てること」など、集合的無意識のうちに抱えている煩わしさをかなえる物として、計画が定義付けられている、と考えているのです。』
ここは『あるいはユングの集合無意識論でいうと、人が持っているだろう「社会のしがらみ」や「不安」、「人間関係の複雑さ」など、人が共通して無意識のうちに抱えているであろう煩わしさを解消することをかなえる物として、計画が定義付けられている、と考えているのです。』と置き換えていただきたいです。
- 49 :【管理人】セラフィエル:2007/07/08(日) 17:45:54 ID:dnxZ8GyY0
- 極東博士殿、講義録で補完計画と集合的無意識の関連性を題目に挙げられていたと思いますが、博士は補完計画をどのようにとらえておりますか?
私も集合的無意識論を用いてこのように考えて見ましたが・・・。
- 50 :メフメト:2007/07/08(日) 18:09:59 ID:0ZoB9ocY0
- さてさて私はまたどちらが正解とも信じかねる状態に入ってきました。
まぁどうやら生命の海状態の時点においては個性、多様性が保たれているというところまでは一致しているようです。
>セラフィエルさん
>自我は他者からの影響が入って初めて形成されるものである、という説明が経験科学で立証されております。
このへんがまたアレですよね。形而上学のくだりでも申し上げたように「我々の経験則」を適用してよいのかという問題も生じてきますね。
突き詰めれば「全知全能」の「神」は自我を当然持っているわけで、すべてを生み出した神はすべてを生み出す前から、つまりひとりで自我を持っていたことになりますから。
現実を見ればもちろん単独での自我形成はありえないんですが・・・。ゲンドウは「ヒトは新たな段階に進むべき」と言ったわけですから、彼の言う「完全体」になればヒトができなかった
ことが出来るようになるのかもしれません。
>自我という壁を取っ払った状態と言うのは自分の知られたくないところまでさらけ出すことと同義です。
これは解釈の違いですね。
バンさんのおっしゃるには「自分の知られたくないところ」があるというのがそもそも「壁が存在する」ということ
なんだと思います。つまり「壁が存在しない状態」であれば即ち知られたいとか知られたくないとかいう概念自体が無いということになります。
どちらの解釈がより正しいのかはわかりかねますがね。
>バンさん
>>本当に補完状態と同義なのかと言うと違うのではないか
>違うという根拠は何ですか?
セラフィエルさんは生命のスープ状態は「補完状態」に至るまでの過渡的な状態だと考えられています。生命のスープが補完への前段階で、
ここでシンジが補完に対してイエスと言えばさらに自我を喪失する補完状態へ進むが、ノーと答えたためそこまでは至らなかった、という
仮説だと思います。その論から逆算すれば生命のスープ状態は補完状態と同義ではない、ということでしょうな。
- 51 :バン・グゥ:2007/07/09(月) 13:14:07 ID:ATXlEbZQ0
- セラフィエルさん
>アダムとリリスと同時に生まれたほかの5つの生命体は、自我を持たず
>アダムとリリスとてその両者が他者であるわけですし。そしてアダムとリリスには並々ならぬ因縁があるのですから
お互いに自我を持たず、それでいて因縁はある、というのはどういう意味ですか?
ゼーレのゲンドウへの批判
「ヒトのカタチを捨ててまで、エヴァという方舟に乗ることはない」
ゲンドウの腹心である冬月
「ヒトを救う方舟となるか」
ゲンドウ
「不要なカラダを捨て、全ての魂を今、1つに」
これらから、「全ての魂はエヴァという方舟に乗る」ということがゲンドウの目的だということがわかります。
ということはこれが達成された場合、1人のエヴァが自我を持つ、という結論が出ます。
自我を持つ→ATフィールドを持つからこそ、ゲンドウは「我らの願いを妨げるロンギヌスの槍」を廃棄します。
「5つの生命体」というのが何かよく解りませんが、5つ各々が自我を持たないならば、リリスは本来、リリンを生むことができないのではないでしょうか?どこにも自我が無ければ自我境界により分化することができません。
逆に5つ各々が自我を持つなら、そのうち1つが「完全な単体」になることになんの不都合もありません。他者を知るので自ずと自我を保てます。
また、アダムは人間の干渉を受ける前から南極に埋まっていたと考えられるので、自我はあります。(カタチがある→イメージがある→自我境界を持つ)
>他者の心を傷つけてしまうことは然りです。
メフメトさんが改めて説明してくれたようにATフィールドが無ければ傷つきません。
セックスシーンを暴かれた時のミサトの反応
「そうよ、これもアタシ」
と、冷静に受け止めています。
- 52 :【管理人】セラフィエル:2007/07/09(月) 22:34:27 ID:dnxZ8GyY0
- >>51 バン・グゥさん
>お互いに自我を持たず、それでいて因縁はある、というのはどういう意味ですか?
質問の趣旨が私の述べていることとちとずれてしまっているような気がするのですが・・・。
私が自我を持たなかったといったのは、アダムとリリスと同時に生まれた「他の5つの生命体」のことです。
彼等は概念的な存在として、ただ宇宙を漂うだけの存在となりました。ですから自我を持っているわけではないのです。
ちなみに自我の定義と言うのは、個性とは全く別物です。自我は我を我と思う部分であり、それは他者なくしてできません。
また他者なくして個性もなにもありません。
それこそ「人と人とのコミュニケーション」、人間同士の関係というテーマの中に含まれている揺ぎ無い定義です。
ですから他者の概念がなくなってしまう補完計画では、自分も他者もない状態にしてしまうのですから、本当に全て一つになってしまえば、そこにいるのはただの木偶人形です。
木偶人形に自我は持ちえません。或いはただの概念的な存在になるだけです。
かといって、木偶人形の中に他者の多様性がのこったままであるのが補完であるとするのであれば、その木偶人形は物凄い葛藤を抱えるだけであり、余計に都合が悪くなるのではなかろうかと。
私の主張することは、メフメトさんが指摘してくれた、LCLに溶けてしまっている状態が厳密に言うなら補完状態であると言うのとは違う、ということがそのまま前提になっています。
だってそうでしょう?自我って自分を形作るうえで影響を受けて成立していくものなんですよ?
他者の介入なくして自我は成立し得ないんです。もし、個人のみで成立している自我があるというのなら、それは厳密言ったら自我と呼べるものではありません。
私の定義する補完がなされたとき、それは多様性もなく個性もなく他者からの介入もない自我を持ち得ない生命体となり、ただの概念的な存在となって「神」の完成です。あるいは、ただそこにいるだけの木偶人形です。
自我は個人だけでは成立し得ない。他者の概念があってこそ初めて成立しえるものなのだという定義は覆されるものではありません。
何より、全てがひとつにならず、補完されたとはいえないあのLCLに浮遊しているだけの状態では他者の概念が残っているのです。
他者の魂との触れ合いで、アスカは融合を拒絶しました。
彼女の存在は補完が失敗する一番最大の要因ととることも出来ます。
補完計画が失敗したのは彼女が自分が自分であることを保ち続けようと、シンジを拒絶したからです。
自己完結しようと全てが一つになることを願ったわけですが、結果的には他者がいなくなることを恐れて計画は破綻したのです。
他者がいなければ自分もいないからです。
- 53 :【管理人】セラフィエル:2007/07/09(月) 22:35:30 ID:dnxZ8GyY0
- ちなみにアダムとリリスの因縁と「他の五つの生命体」というのは、私の創作ではありません。
エヴァ2で説明された第一始祖民族の謎、及び聖書におけるアダムとリリスの因縁、七つの生命体など多岐にわたって用いています。
アダムとリリスは対立する他者です。
というよりとある聖書の説を流用するのであれば、リリスはアダムに対し復讐心を持っていたそうです。
エヴァの世界では、アダムが全ての生命の実を食べつくしたためにリリスの分がなくなってしまったのだとエヴァ2では定義しています。
知恵の実を食べるしかなくなったリリスは生命の実を全て食べつくしたアダムの存在を認識した、そこでアダムに復讐心を抱き、故に追跡劇が起こったのです。
この時点でリリスには自我が生じています。この時点で概念的なものではなくなったのです。
この辺の定義を本編とは関係ないものだ、とされるのは結構です。
ただ、とにかく何らかの理由でリリスとアダムは対立する存在となったことは確かであり、そこで他者の認識がなければ、対立など生じはしないです。
そうでなければアダムとリリスが対立する理由が判りません。
当初、アダムは生命の実を得てただ何の感情持たない永遠の命を持っただけ、ただそこにいるだけの存在でした。
ところがジャイアントインパクトによって、アダムはリリスの介入を受け、自我を持った。しかし同インパクトによって覚醒することは不可能になった。
その介入がある前はそこにいるだけの存在でした。
しかし自我を持ったものの、その他者とは皆自分とは種を異にするもの、すなわち周りは全て敵だらけでした。
よってそれに対して強大な自我を持たなければ押し潰されてしまうことになるのです。
それが物理力にまで影響を与えるほどの自我であるATフィールドです。
バンさんが定義する自我と言うのは厳密に言ったら自我とは呼べないです。
形があるから自我があると言うのは自我の概念に反します。
それは赤ん坊を見ても明らかです。赤ん坊に果たして自我があるといえるでしょうか?
赤ん坊は純粋に生理的欲求に基づいた行動をとります。それは自我がないからです。
フロイトに言わせれば、自我とは、幼児にはほとんどありません。他者の影響を受けている段階であるからです。
だから子供は無邪気に善悪の分別なく、あるいはそれが危険なことと判断することも出来ず、行動してしまうのです。
そしてこのほかの五つの生命体ですが、今となっては宇宙に四散し、どこにいるとも判らないただの概念的な存在と化しています。
なので他者たりえません。その概念的な存在を認識するには、自我を持っていなければ認識するということすら出来ないです。
メフメトさんは神に自我があると仰いますが、神とは果たしてなんなのでしょう?
神とは人間がその心理から生み出した概念的なものです。神になるということは、自我を持たない、ただそこにいるだけの概念的な存在になることを意味します。
そして補完計画の過程でLCLに還ったのは、タナトスが具現化されたアンチATフィールドによって人々の持つ無機物への回帰が促されたために自我を保ちえなくなっただけです。
- 54 :【管理人】セラフィエル:2007/07/09(月) 22:36:03 ID:dnxZ8GyY0
- >メフメトさんが改めて説明してくれたようにATフィールドが無ければ傷つきません。
>セックスシーンを暴かれた時のミサトの反応
>「そうよ、これもアタシ」
>と、冷静に受け止めています。
それは人によってでしょう。
ミサトの場合は加持と邂逅し、超自我のしがらみがなくなったために自我を失った状態なので、恥も外聞もなく、生理的欲求の快感原則にのみ突き動かされてその状態に快感を覚えていたからです。
その融合が全ての人間にとって快であるとは限りません。
その説明はシンジとアスカの説明を無視しています。
あの世界は、全ての自我が取り払われている状態であるとは言え、個々人の概念は未だ残っています。
そしてその生理的欲求にのみ突き動かされる心は快感原則のみを徹底的に追求し、不快なことは徹底的に排除します。
それが心を傷つけないと言いきれるでしょうか?
心が傷つかない状態と言うのは、本当に他者がいなくなり、個性もなく多様性もなく、一つだけの存在になって概念的なものになったときだけです。
私は、使徒との戦いは、心の壁である自我を犯し、壊し、その中にある心を傷つけることであると考えています。
個人の自我が他者の自我を脅かすことで心を傷つけてしまうという解釈です。
しかしその解決方法に自分も他人もない状態にすることを用いるのが果たして解決策になるのかということです。
自我が取り払われた状態で快感原則に従う心だけが取り残されれば、それはむき出しの状態で傷つけあうことも有り得ます。
それは人の気持ちに配慮することなく、何でもできるからです。
本当のことはいつも痛みを伴うことになる、の解釈です。
- 55 :バン・グゥ:2007/07/10(火) 12:17:31 ID:ttFkYf/U0
- >「5つの生命体」
なるほどエヴァ2の話でしたか。
ではセラフィエルさんはロンギヌスの槍の機能をどうお考えですか?
エヴァ2の説明ですと槍は「生命の種とセットになった保安装置」なわけですよね?
第一始祖民族は生命の種(始源の存在)が自分達の目的に沿わないときの対策としてこれを用意していた。
しかしセラフィエルさんのお考えでは、自我が無い、つまりイメージの力が無いので変化のしようがありませんね。
この辺の定義は本編とは関係ないものだ、とされますか?
>LCLに溶けてしまっている状態が厳密に言うなら補完状態であると言うのとは違う
キール「始まりと終わりは同じところにある。よい、すべてはこれでよい」
時間の流れは、イメージの変化によって生み出されています。つまり始まりとは自我の誕生時を指します。
ということはシンジやアスカのATフィールドが回復した瞬間が始まりであり、終わりの終わりです。
キールにとって良い結果になったになったことがわかります。
そしてもちろんゼーレの願いは「人々の補完」です。補完状態は経たという結論がでます。
>赤ん坊に果たして自我があるといえるでしょうか?
セラフィエルさんは今何の話をしているのでしょうか?ちなみに私はエヴァの話をしています。
少なくともエヴァの世界においては赤ん坊に自我はあります。
証明は簡単です。自我境界線を持っているからです。アンチATフィールドによって固体生命の形を維持できなくなる理由は、固体生命はATフィールドによって体を支えているからに他なりません。
>心が傷つかない状態と言うのは、本当に他者がいなくなり、個性もなく多様性もなく、一つだけの存在になって概念的なものになったときだけです。
それがエヴァの「海」の状態です。
レイ「全てが1つになっているだけ」「他人の存在を今一度望めば・・」
後ろのセリフは「現段階において他者がいない」ということ、また「他人」の概念を持っていることを意味します。
「多様性」を除けばそっくりそのまま当てはまります。
そして上で説明したとおり「海」は「始まりと終わり」がある場所なので、厳密に「補完状態」です。
- 56 :【管理人】セラフィエル:2007/07/10(火) 17:12:08 ID:dnxZ8GyY0
- >>55 バン・グゥさん
ええとですね、ちと私が本来込めたこのスレの趣旨である主題と違う方向に向かってきたので、仕切りなおしにしたいと思います。
このスレは本来この討論を目的に立てたわけではありませんので。
新しくスレを作ります。ただ、私も今個人的な事情で立て込んでいるので少々お待ちください。
逃げも隠れもいたしません。
あと、何についての話をしているのかについてですが、私が言いたかったのは、「自我」という言葉の持つ、本来の意味から見たATフィールドの解釈です。
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