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安楽死がいいかも、、、- 1 名前:名無しのひつじさん 投稿日:2005/02/02(水) 17:26:16 [ 3OFsfUjk ]
- ここもすでに煮詰まってしまいました。
管理人様もお考えとかお立場があるのでしょうが、、、
そろそろ無意味の極みと思えますが、、、
- 2 名前:名無しのひつじさん 投稿日:2005/02/02(水) 23:46:22 [ 5ZnUk9k6 ]
- http://search.yahoo.co.jp/bin/search?p=%B0%C2%B3%DA%BB%E0&fr=top&src=top&fr=top&search.x=16&search.y=11
- 3 名前:名無しのひつじさん 投稿日:2005/02/02(水) 23:47:49 [ 5ZnUk9k6 ]
- 日本における判例−積極的安楽死が認容される条件−
次に挙げるのは東海大の事例についての判例による条件である。
(1) 耐え難い肉体的苦痛がある
(2) 死が避けられず、その死期が迫っている
(3) 肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がない
(4) 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示がある
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判例プラス・アルファ
次のa,bは東海大以前にあった判例からの補いである。c,dは思い付くままに付加したもの。
(a) 医師が行う
(b) 死をもたらす手段が、本人に苦痛を与えるようなもの、残酷なものであってはならない
(c) 患者の意思確認のプロセスは十分なコミュニケーションとケアによるものである
(d) 医師の独断ではなく、医療チームとしての合意による
--------------------------------------------------------------------------------
上記判例の問題点
上記判例に示される安楽死についての認識自体もまた、それでよいかどうか、また倫理的な視点からいっても正当であるかどうかを吟味する必要がある。たとえば、次のような疑義があろう。
苦痛は「肉体的」に限られるか? (オランダでは、精神的苦痛も条件として認めている)
判例の条件(3)が満たされるような事例は存在可能か? (ことに肉体的苦痛に限定した場合、死をもってしかそこから解放できない事例はなくなるのでは?)
- 4 名前:名無しのひつじさん 投稿日:2005/02/02(水) 23:50:15 [ 5ZnUk9k6 ]
- ◆2005/01/03 「尊厳死法案を提出へ」
『東京新聞』2005/01/03/『中日新聞』2005/01/03
http://www.chunichi.co.jp/00/sei/20050103/mng_____sei_____002.shtml
◆佐々木 公一 2005/01/06 『週刊/ALS患者のひとりごと』165
感謝そして「聞くということ」
◆2005/01/09 「<尊厳死>与党、容認に向け法整備着手へ」
『毎日新聞』http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050109-00000077-mai-pol
◆川口 有美子 2005/01/13 「選択の自由は患者の自由を保障しない」
http://homepage2.nifty.com/ajikun/memo/20050113.htm
◆野崎 泰伸 2005/01/14 「生きていたらよいと言える世の中のほうがいい」
新聞に投稿
◆川口 有美子 2005/01/14 「患者の自己決定による人工呼吸器の停止?──患者会の立場から」
福島県立医科大学・臨床倫理
◆西村 泰直 2005/01/15 「尊厳死のこと」
◆2005/01/15〜02/05 早稲田大学2004年度オープンカレッジ冬講座
「自分のいのちは自分で決める」
◇立岩 真也 2005/01/25 「ALSの本・2」(医療と社会ブックガイド・45)
『看護教育』46-01:(医学書院)
◆2005/01/27 「尊厳死法制化で議員懇話会 自公有志、2月に初会合」
共同通信ニュース速報
◆2005/01/28 「自公 「尊厳死」懇話会設置へ」
NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/2005/01/28/d20050128000011.html
◆2005/01/28 「重症ALS患者の呼吸器外し、厚労省研究班が是非検討」
『読売新聞』2005/01/28朝刊
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news_i/20050128so12.htm
◆2005/01/28 「1月28日付け読売新聞「重症ALS患者の呼吸器外し、厚労省研究班が是非検討」に対する厚生労働省厚生科学研究費難治性疾患克服治療研究事業 「特定疾患の生活の質(QOL)の向上に資するケアのあり方に関する研究」班(H14 年〜H16 年)主任研究者、独立行政法人国立病院機構新潟病院副院長 中島孝によるコメント」
◇立岩 2005/01/28 22:53 [maee:2602] とりあえず掲載
◇立岩 2005/01/31 23:37 [maee:2622] 掲載追加(こちらが本物)
◆2005/02/01〜 『読売新聞』医療ルネサンス 人工呼吸器 患者の決断→ALS・2005
◆内藤 いづみ 2005/02 「”死に傾く”医師たちへ」(書評:『ALS──不動の身体と息する機械』
『週刊医学界新聞』
◆宮坂 道夫 2005 「人工呼吸器を《はずす自由》の議論の前に《つける自由》が保障されなくてよいのか──立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』を読んで」
『週刊医学界新聞』
◇立岩 真也 2005/02/25 「ALSの本・3」(医療と社会ブックガイド・46)
『看護教育』46-02:(医学書院)
◇立岩 真也 2005/03/25 「死/生の本・3」(医療と社会ブックガイド・47)
『看護教育』46-03:(医学書院)[送:20050128]
◆立岩 真也 2005/**/** 「単なる生・1」
『Webちくま』(筑摩書房)[送:20050128]
◆2005/04/16 「尊厳死法」?についての集会
大手町サンケイプラザ 311−312号室(288名収容) 4月16日(土)午後6時〜9時
*詳細未定。決まったらここに掲示します。
- 5 名前:名無しのひつじさん 投稿日:2005/02/02(水) 23:51:50 [ 5ZnUk9k6 ]
- より死のほうがまだまし?
安楽死をあのように定義した場合、死を意図的に選択する状況があるとすると、そこでは、 「このような苦痛に満ちた生ならば、死のほうがよい」と考えていることになる。
言い換えると、「このように低いQOLならば、死のほうがベターだ」ということである。
これは一昔前の生命倫理の議論における〈SOL論対QOL論〉という対立図式において、QOL論者がとっていた考え方に他ならない。
意図的に死をもたらすこと
意図的に死をもたらす仕方には二種類あった。積極的には、死をもたらす措置を選択することによって ------消極的には、死を当面避ける措置をとらないという選択をすることによって。
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緩和医療の目指すこと
緩和医療の原則は、苦痛等を除去するという仕方で〈QOL を高める努力をする〉ことである。
では、それを達成する手段として「生を終わらせる」という方途が可能であるか。
QOLを高める意図で選択する処置が残りの生を短縮する結果となることはありえよう。
「鎮痛薬を適切な量で使ったことが死を早めることになったとしてもそれは適量投与によって意図的に命を絶つことと同じにはならない。適切な痛みの治療法が死を早めることになったとしたら、尊厳のある、容認できる生活状況を維持するのに必要な治療手段にさえ耐えられないほど患者の状態が悪化していたことを意味するだけである」(WHO 1990: 8.1)
これは〈殺す〉ことにも〈死ぬに任せる〉ことにも該当しないだろう。医療者は「QOLを高めよう」と意図したのであって、「死を予想した」かもしれないが、「死ぬに任せる」とも、いわんや「殺す」とも意図しなかったからである。
可能な延命の方途を選択しないという選択が正当化されるのは、「死ぬに任せる」という意図でではなく、徒に苦しいないし無意味な生を結果することはQOLの向上という意図に反するという理由でそれが選択される場合である。 そうであれば、少なくとも緩和医療の範囲では、安楽死−積極的にせよ、消極的にせよ−が選択される場面はあり得ないことになる。
- 6 名前:名無しのひつじさん 投稿日:2005/02/02(水) 23:54:08 [ 3OFsfUjk ]
- はあ〜?
ここはやばいよ、私はそろそろ失礼いたしやす。
この種の人たちに関わってる時間もないから。。。
(しかしいったいどこまで行くやら。。。管理者さまは何を思ってご覧になっているのか。。。)
- 7 名前:名無しのひつじさん 投稿日:2005/02/02(水) 23:56:39 [ 5ZnUk9k6 ]
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[以下は、試みに言ってみました。あなたはどう思われますか?]
A 「もうこうなったら生きていても意味がない」というある人の自己認識を認め、安楽死に参与することは、その「こうなったら死んだ方がましだ」という価値評価を認めること、つまり、そうなっても生に意味を見出し、生きようと積極的に努めている人を否定することにもならないだろうか。
--> 他者危害の原則に抵触するのではないか。
今私の生きがいとなっている仕事が出来なくなった暁には、私は生きていても仕方がない、と思いもする。しかしまた、その考えを反省して、そうした暁にはむしろ、それまでそういうことが出来たことをあり難いと思い、そういうことがずっと出来なくても生きる意味を見出だして生きている人の気持を理解し、その人たちに学ぼうとするのが本当だとも思うのである。
[しかし、以上の論は想定している状況がまだ甘い。そこで・・・]
B 身体的苦痛こそないものの、全く動けず、また意識はあるが他者と全く交流できないというようなぎりぎりの状況を想定したならばどうであろうか。
つまり、公共的に「このような状況では誰が見ても、生きることは苦痛以外のなにものでもない」と認められる場合=精神的理由といっても、それは身体的状況の厳しさに全く由来している。「全く動けない」、「他者とまったく意思の疎通ができない」という状況は身体がそのような状況にしているのである。そのような状況では、意識があっても (自己内の思考で満足できるという稀な場合を除いては)、あるいは意識があるだけに、精神的苦痛は想像を絶するものである。この場合、短期的にはセデーションが有効かもしれないが、長期的にはセデーションは無意味な生をただ続けるだけという結果をもたらすものでしかないと言われよう。
人間としての尊厳を保つために積極的な安楽死を選択するということが真に検討課題になるのは、こうした局面においてである。ここでは、死なせる以外にいかなる緩和の措置も見出せない。また、ここでもなお安楽死を認めないという結論をもたらすような論拠------公共的に妥当し得る論拠------を私は知らない。 したがって、このような場合には死なせるということを緩和の措置として行う可能性がある、と私は言わざるを得ない。
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あなたはどう考えますか
- 8 名前:名無しのひつじさん 投稿日:2005/02/02(水) 23:57:45 [ PG1A7wuo ]
- ビョーキだわwwwww
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