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十字架上の罪のあがない
- 1 名前: れもん 投稿日: 2004/11/21(日) 18:06 [ o0PwmRNQ ]
- 以前 カトリックの人からイエスさまは 十字架上で私達の罪
をあがなって下さったけれど 罪をつぐなっては 下さらなかった
ので 罪のつぐないは 残っていて、それは 人類一人一人に
課せられている。 罪のあがないと つぐないは違うって
聞いたのですが これは正しいことなのでしょうか??
プロテスタントも同じなのでしょうか?
基本的な質問で恐縮ですが そこの所がよく解らないので
詳しく教えて下さい。
- 2 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/11/22(月) 01:11 [ CkoZ3ihM ]
- >>1 スレッド見落として居りました
我等の罪は隣人に害を与えます それを償うため我等は能う限りの事を為す必要があります(盗品を返す 中傷した人の評判を回復する等) それは正義上の要求でも在りましょう
罪は罪人自身ばかりか神や隣人と関係を傷付けます 秘蹟による赦しは罪を取り除きますが罪から生じた全ての無秩序を修復するわけでは在りません
罪から立ち直った者は十分霊的健康を回復しなくてはいけません 罪を償う為何かを為さねばいけません 適切な方法で弁済したり罪を贖う必要が在ります この弁済が償いです
償いの真の意味は償いを行う者の心の状態と深く係り合っています 真の償いは精神的行為で在り何を為すかはその表現です
邦訳聖書は償いと贖いの区別無く訳していますが本来区別する必要が在ります
但しキリストは償いの供え物(Hilasmos)でもありました
プロテスタントでは聖潔が該当しませんか?
- 3 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/11/22(月) 01:42 [ CkoZ3ihM ]
- 別スレッドで書かれていた2ch見ました
「age 荒らし は禁止です。sage 荒らし・sage での煽り・終了荒らし は板全体の迷惑です」
と説明書きに在りました ageも荒らしの一種とは初めて知りました(私の覚えた正義は一般にも通用する?)
- 4 名前: うむぅ 投稿日: 2004/11/22(月) 02:52 [ UjXyWaDg ]
- ですが、説明しますと
カトリックは、聖書が「恵み」によって罪は赦されたとするのを否定して
罪には二種類あるんだと分けます。
いわば刑事と民事に分け、刑事事件の罪は赦されたので服役しないでいいが、
民事事件の罪はまだ残っているのであなたは賠償しなくてはならない、と。
民事賠償をできる権利は、刑事の罪が赦されている「ゆるしの秘跡」を受けている
ことが前提になります。
刑事的に赦されたので、今度は民事賠償をさせて頂ける訳です。
民事賠償の方法には、大きく二種あります。
全賠償と部分賠償です。
部分賠償の方法は例えば
「十字架のしるしをしながら、「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」と唱える」「お告げの祈り」
「黙想をする」「説教を聞く」「個人で「ロザリオの祈り」を唱える」「聖体訪問をする」などです。
全賠償の方法は
「全免償を受けるために、教会によって定められているわざを果たす。前後の数日〜数週
間のうちに、ゆるしの秘跡あるいは聖体拝領を受けること」「教皇様の意向のために、
「主の祈り」「聖母マリアへの祈り」「信仰宣言」などの祈りをすること」などです。
その上に更になお「少なくとも30分間、聖体訪問をして黙想する」とか色々の行為を
求められます。
面倒なので、金払って賠償を済ませるよと歴史に登場したのが、有名な「免罪符」です。
ルターは、この免罪符のあり方を批判しました。
「そもそも犯した罪のための償いを特定の善行によって代替させることが、次第に形式化され、教会への寄付という行為になった。遂には一定に金額を支払えば得られるという売買の対象になった。これに対しルターは、人間が神の前で義とされるのは、そのような人間の善行によるのではなくひたすら恵みによるものである。この恵みは人間の自力の行為によってではなく、ひたすら信仰によって受け止められるものである」と主張したのです。
これを引き継ぎ、プロテスタントは始まります。
- 5 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/11/22(月) 09:53 [ CkoZ3ihM ]
- >>4 ここで贖宥符を持ち出すのは極端でしょう ルーテル派を初めプレテスタントでも聖めの生活を推奨するのでは? 人は救霊の後の生涯も悔恨して行くのでは?
神はキリストの功によりその罪をおゆるしになります 罪のゆるしは自分の罪を痛悔しキリストのお定めになった洗礼あるいは告解の秘跡を受けることで得られます
- 6 名前: うむぅ 投稿日: 2004/11/22(月) 12:01 [ loPRCzPA ]
- 秘蹟
秘蹟の原語はギリシア語「ミュステリオン」ですが、これはパウロがよく用いた言葉で
「奥義」のことですね。
「奥義」は「十字架のキリスト」のことですね。
キリストが十字架で我々の罪を我々の代わりに購って頂いたことが「奥義」ですね。
さて、この「奥義」を「儀式」へと実体化するのがその後のキリスト教の歴史です。
カトリックの秘蹟が七つと確定したのは、ルターが「免罪符」を批判し、
宗教改革が起こり、それに対しカトリックが対抗上開いた、「トリエント公会議」(1545〜1563)
での話なので、この問題を思索する上では重要なポイントですね。
さて「奥義」の儀式化は、3Cのクレメンスが「奥義は入信式(洗礼儀式)を経ないと理解でき
ない神秘」と主張し、テルトゥリアヌスがギリシア語「ミュステリオン」をラテン語訳して
「サクラメント」と呼んだことから確定した。
「サクラメント」はそもそもローマ兵士の誓約儀式ですね。
その後ギリシア的思弁の影響で、カラクテル(霊印)という概念が登場します。
5cのアウグスチヌスが秘蹟は「奥義の見えない印」なのであるが、洗礼という秘蹟の効果
(罪の赦し)は、恵みとしては一時的なのであるが、カラクテル(霊印)としては永遠なのだ。
だから洗礼は一度でOK。幼児洗礼もOk。
12cにはロンバルトが七は完全数だから秘蹟は七つなんだと主張。
そういう歴史に対し、宗教改革は、
「神の恵みの絶対的な『無償』の性格」
「人間の方からできるのは、ただ信仰によって、救いを受け入れるだけであること」
「キリストの十字架上の救いのわざは全体的救いの力をもち、他に救いの道がないこと」
「聖書に根拠のある秘跡は七つではなく、洗礼と主の晩餐しか認めないこと」
なわけで
それに対しトリエント公会議は
「秘跡は七つである」・・・根拠を示さず現代も七つ
「キリストによって制定された」・・・無根拠だが現代でも主張
以下略。
カトリックの秘蹟論は、リベラルと評価が高い第二ヴァティカン公会議でも、
トリエント公会議をほぼ踏襲しただけでまったく深まってないので、
未だに、「自分たちの善行で、罪を償うべき」という見解が、
「秘蹟」を儀式化する風潮を温床にして横たわっているのように感じますが・・・。
- 7 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/11/22(月) 12:40 [ CkoZ3ihM ]
- >>6 教会の教理自体に対する御意見なら見解の相違と言うしか在りません(貴殿の御立場だけが正しいと言えない事は覚えて置いて欲しいですが) 贖いと償いは明らかな聖書教理です
- 8 名前: いちご 投稿日: 2004/11/22(月) 21:29 [ o0PwmRNQ ]
- 皆さんのご教示、有り難うございます。まだ勉強中の私には 少し難しい
内容かもしれません。
あるプロテスタントの牧師は イエスさまは 十字架上で私達の罪を
贖い、償ってくださったので もう償いは いらない。 ただし 現実には
お金を盗んだら 返さないといけないし、そういう償いは 当然必要です。
とのことで 十字架上の贖いも カトリックとプロテスタントは 解釈が
違うと 言う事でしょうか? ややこしいなあ・・・
- 9 名前: れもん 投稿日: 2004/11/22(月) 21:40 [ o0PwmRNQ ]
- >>8 名前を 間違えて書いてしまいました。いちご ではなく、れもん
です。 失礼しました。
- 10 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/11/22(月) 22:42 [ eRKXxEts ]
- いちごちゃんって、あのいちごちゃん?
昨日の又吉さんの勉強会どうでしたか?
- 11 名前: うむぅ 投稿日: 2004/11/23(火) 00:01 [ yfh7Ik8E ]
- 私はカトリックや福音派さんではなく、一個人ですので、
自分の考えを、根拠を示しつつ提出しているだけです。
自分の見解だけが正しいとは思っていません。
カトリックや福音派さんたちは自分を正統派と思い込んでられるようで、
自分たちの教派の解釈の真実性を「無根拠」に断定されますが、それに
対して私は疑問を感じているだけです。
そしてその私の疑問に対してまともに向き合うクリスチャンは少数です。
「贖いと償いは明らかな聖書教理」とのことですが、
信者さんたちにとっては、自明であっても客観的にどうかは甚だ疑問です。
むしろ旧約の動物犠牲祭儀による購いを否定し、キリスト教は、
「イエスの十字架の購い」を主張したと私は考えています。
「信じるだけで我々は救われる」と。
挑発的に申せば、カトリックは、この福音に対する冒涜として、元々「購い」一つなのに、
解釈によって「購いと償い」を分化さし、「十字架で罪は購われたが、罪は償われてない」
と聖書にはない主張を無根拠に強弁していると私は考えています。
しかも「人類一人一人に罪の償い」が課せられているなどいう暴論は、
信者を宗教的脅迫に隷属させようとする教会のエゴから出た教義ではないかと
思います。
「十字架のイエスの購い」の意義を否定し、キリスト教を顛倒させる、しかも
無根拠に…。不思議でなりません。
ちなみにプロテスタントの「聖潔」「聖めの生活」「聖化」は、聖書的にあるかは疑問
なのですが、語源的には「分離」を意味する「聖」から来ているのらしいのだが、
聖書的には人間の努力によって聖人の域に達するという思想はなく、聖化は「恵み」
ですね。
「罪の償い」としての行為ではなく、「恵み」によって成長させていただくこと。
あるいは、自分の歩みに「神の恵み」を実感することでしょう。
新約をちらちら眺めているだけの私は以上の感想を持ちます。
- 12 名前: うむぅ 投稿日: 2004/11/24(水) 00:21 [ 6JHh8JYI ]
- カトリックの「公教要理」の償いの項です。
この「償い」の聖書的根拠を明確に出せるとは私には
思えないのだか・・・。
五、償(つぐのい)
485* 償とは何でありますか。
償いとは天主に加えた侮辱と他人にかけた損害とをおぎなうことであります。
486 償には幾種ありますか。
償には、司祭の命ずる秘蹟の償と、自ら行う任意の償との二種があります。
487* 司祭の命ずる秘蹟の償は、天主に加えた侮辱を償うに足りますか。
司祭の命ずる秘蹟の償は、天主に加えた侮辱を償うために特別の効力がありますが、必ず足りるとは言えません。それ故、その他に祈をなし、善業を行い、此の世の苦労、心配などを耐え忍んで、之を罪の償とするように心がけねばなりません。
488 悔悛の秘蹟によって罪の赦を受けた後、なお償が命ぜられるのは何のためでありますか。
悔悛の秘蹟によって、地獄の終なき罰は赦されますが、限りある罰は此の世または煉獄で果さなければならないからであります。
イエズス・キリストの御苦難の功徳は無限であるにも拘らず、償が命ぜられるのは、有限の罰を償う外に、一、罪の源となる悪い傾を直し、二、罪から生じた躓を償い、三、イエズス・キリストに倣い十字架を担って徳を積み、救霊の事業に与る必要があるからであります。
489 他人に対しては、罪の償の必要がありませんか。
他人の身体、財産、名誉に損害を掛けた場合には、できるだけのこの損害を補って、償を果さねばなりません
- 13 名前: うむぅ 投稿日: 2004/11/24(水) 00:23 [ 6JHh8JYI ]
- イエズス・キリストの御苦難の功徳は無限であると本当に解っているならば
「償い」がべつにいるという発想が出ること自体、イエスに対する否定と
しか思えないのだが・・・
- 14 名前: うむぅ 投稿日: 2004/11/24(水) 00:28 [ 6JHh8JYI ]
- カトリックも福音派も もしかしたらルター派 カルビン派も
教派に属して満足しているクリスチャンって
自分で聖書を読まず、教派教理を鵜呑みにしているだけではないのだろうか
だとしたらここで問題視されているカルト教会の鵜呑みと、本質的に
如何なる差異があるのか と不思議に感じているところです
- 15 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/11/24(水) 00:28 [ CkoZ3ihM ]
- >>12,13 我等の聖書理解は教会教理に基くべしと考えます 貴殿は貴殿の教会の教理に立つ それでよいでは在りませんか? 教会相互の批判は好みません
- 16 名前: うむぅ 投稿日: 2004/11/24(水) 00:36 [ 6JHh8JYI ]
- 此の世で「償い」をもつともっとしなくてはいけないのだよ。
金たくさんだしねと、かつてカトリックは免罪符を売り、
(カトリックは反省して 今やそんなことはしないし
どちらかというとブロテスントより問題が少ないかもだが)
現代カルト教会は献金を募り捲くる、と・・・。
宗教の名の下に収奪するのは止せばいいのに・・ぼそっ
- 17 名前: うむぅ 投稿日: 2004/11/24(水) 00:39 [ 6JHh8JYI ]
- >聖書理解は教会教理に基くべし
なるほど、そこが私には理解できない。
立場の差ということにしておきますか
ではでは
- 18 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/11/24(水) 06:56 [ AIr0luoA ]
- 子供の頃は、教理の時間が好きでした。
ミサで、蝋燭持ちもした事があります。
http://www.bigcosmic.com/board/f/board.cgi?id=xvssv&id=xvssv
- 19 名前: れもん 投稿日: 2004/11/24(水) 20:32 [ o0PwmRNQ ]
- プロテスタントは イエスさまは 十字架上で私達の罪を贖い、償った
ので それを信じれば 私達の罪は 赦され、償いも終わっている っと
いう解釈でしょうか?
それとも プロテスタントも統一は なく宗派によって違うのでしょうか?
- 20 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/11/24(水) 20:35 [ 6L2GukXo ]
- こうゆう質問はもっと別のところがいいですよ。
- 21 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/11/24(水) 20:58 [ CkoZ3ihM ]
- >>19 確かに十字架は罪の贖いであり償いの供え物でした 只 私達の罪の償いが終っているという解釈には抵抗があります 信じ洗礼を受けてもプロテスタントでも悔恨し続け聖化され続けると主張されるのではありませんか?
「だからわたしの愛する人たち いつも従順であったように わたしが共にいるときだけでなく いない今はなおさら従順でいて 恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(フィリピの信徒への手紙2:12)とあります
- 22 名前: ほすちあ# 投稿日: 2004/11/24(水) 22:13 [ 6862vgzg ]
私は,時々同業者から,「あんたは正義感が強すぎる」と面と向かって言われたり,「やっぱりあの先生,クリスチャンだからね」と言う噂話が耳に入ったりすることがある。事務員さんからも「センセーは宗教的バックグラウンドがあるかも知れないけど(経営のことを考えてよ・家族を大切にしてよ・ちゃんとお客さんから適正な報酬を貰ってよ)。」 と団交されることもある。
そのたびに思う。確かに私は,クリスチャンだ。私が現在の職業に召されたのも神の選びなのだろう。でも,俺は,今の職業を遂行する際,「神の為に」とか「神の愛の故に」とか,ましてや,「神の怒り,裁きを避けるため・神に従うため」なんて思ったことは,全然ない。勝手気ままに仕事をやっているだけのことなのよ。祈りの時に,「神よ,私を用いてください。それにしても,私に対するクビキは結構重いんじゃありませんか?」とボソボソいう程度である。
「神からの一方的愛」とか「聖化」とか,「良き業」と言うのは,そういうもんじゃないだろうか?(プロ倫的カルヴァン派とはちょっと違うエートスかも知れない)。
私の解釈はルター派的なものかも知れない。「神の一方的愛」は人知では計り知れないものであり,人間の分際で,常日頃「私は神から愛されている。その愛の返礼として,救われた証として,○○をしよう」などと「自覚的努力」をすることはない。
しかし,私は,「愛の恩恵の自覚」がないとしても,神に一方的に愛されているが故に(神の片思いか?),聖霊の実を結んでいるのであろう。だから,「正義感が強すぎる」とか「あの先生クリスチャンだからね」と言われるのじゃないだろうか?
神に一方的に愛されている人は,「私は神に愛されている」と言う自覚はないのかも知れない(祈りや礼拝の時にそういう「反省・内省」はするが)。しかし,神に愛されている者は,そういう自覚のないままに,「愛の実」を結んでいるのかも知れない。
もしかすると,救いの「条件」として「良き業」は必要なのかも知れない(あるいは,救われた後は,良き業に励むべきである,良き業・実を結ばない者は救いから脱落するのかも知れない)。
しかし,「良き業を行って,救われよう」という発想は,文字通り,「律法主義」であり,そのような考え方は,「神への恐れ」・「罰」・「裁き」・「救いからの脱落」と言う聖パウロがもっとも嫌忌した考えをもたらすもののように思う。聖ヤコブもそこまでは言っていないはずだ。そういう神学を公式見解としているまともなキリスト教団はないと思う。あるとすれば,アナテマだ。
- 23 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/11/24(水) 22:38 [ CkoZ3ihM ]
- >>22「良き業を行って救われる」との教理を持つ教会はキリスト教界にはないはずです
但し小罪は成聖の恩恵を失わせませんが 心をけがし神に対する愛を冷やしこの世または煉獄の罰を招きます また小罪を重ねれば大罪に陥りやすくなります(シラ書19.1)
その人の罪を神はイエス・キリストの御功徳によってお赦しになります 罪の赦しは自分の罪を痛悔してイエス・キリストのお定めになった洗礼あるいは赦しの秘跡を受けることによって得られます(エゼキエル書18.23-24,31-32,エフェソの信徒への手紙1.7)
- 24 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/11/24(水) 22:51 [ hpfVZuss ]
- 「良き業を行って救われる」という教理に近いのはエホ証かな?
でも気の毒な事に救いの確信がないので救われたいが為に必死に伝道の業に
励んでいるのだね。
でも、ちょっとカルトっぽい教会(律法主義に走り過ぎてる)なども、やたら
「業(伝道、奉仕)に励んで神に愛を示しましょう!」とか「沢山献金をして
神を喜ばそう!」とか言ってるよ。
- 25 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/11/24(水) 23:05 [ CkoZ3ihM ]
- >>24 貴重な情報有り難う御座います Jehovah's Witnessesの実態は聞いて居ります
推測ですがキリスト教会なら御奉仕等の業を以て救われるとは言わないのでは? 御神にお仕えする義務でこそあれ
信者が正しく安んじて神に仕えることができるように教会によって定められた教会の掟は重んじなければなりません 日曜日と守るべき祝日にミサ聖祭にあずかり労働を休むこと 少なくとも毎年一度 罪を告白すること 少なくとも毎年一度 復活祭のころに聖体を受けること 定められた日に償いの勤めを果たすこと おのおのの分に応じて教会の維持費を負担すること 等です
- 26 名前: うむぅ 投稿日: 2004/11/25(木) 04:21 [ UfCnS7lU ]
- 続編のシラ書って、律法主義ですね。
律法を守れと書いてあっておよそキリスト教的ではない。
「その人の罪を神はイエス・キリストの御功徳によってお赦しになります 」
までは解ります。
エペソ 1:7に
「 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されま
した。これは、神の豊かな恵みによるものです。」とありますからね。
「罪の赦しは自分の罪を痛悔してイエス・キリストのお定めになった洗礼
あるいは赦しの秘跡を受けることによって得られれる」のではなく、
御子によって無条件に無償で赦されたのであり、神の恵みと読めますけど
ねぇ。
「痛悔」+「洗礼」あるいは「許しの秘蹟」を受けてはじめて、
罪の赦しが得られるとはどこにも書いてないではないですか。
※イエスはヨハネ伝によると「洗礼はしてなかった」とあります。
弟子が勝手にしていたと。
カトリックは公教要理487で
「善業を行い、此の世の苦労、心配などを耐え忍んで、之を罪の償とする
ように心がけねばなりません」と書いていて、実質、キリスト教界に
ないはずの「良き業を行って救われる」との教理になっているように
思うから 疑問なのですが・・・汗
「善業して、罪の償いとしなさい」と書いてありますし・・・
「日曜日と守るべき祝日にミサ聖祭にあずかり労働を休むこと 少なくとも
毎年一度 罪を告白すること 少なくとも毎年一度 復活祭のころに聖体を受
けること 定められた日に償いの勤めを果たすこと おのおのの分に応じて教
会の維持費を負担すること 等」を守らず、数年ぶりに教会に戻ると
歓迎されず、逆に教会から離れてた=神から離れてたと決め付けられ、
保守カトリック者からは、悔い改めなくホスチアを拝領したら、
白眼視され冷たく「何しに来たのだと」と見られることもあると
噂に聞きますけどね・・・汗
- 27 名前: (●^o^●) 投稿日: 2004/11/25(木) 06:45 [ ZMMJemR2 ]
- >>1
使徒パウロの「キリストの贖いの教理」を書きます。
①罪の赦し(ローマ1-5章):イエスの血により自罪を赦されることです。
②原罪からの解放(ローマ6章):イエスの十字架の死に結合され復活し原罪から解放され、善を
意思できるようになることです。
③律法からの解放(ローマ8章):イエスの十字架の死で養子とされ、自力で善行を行うことから
解放されて、意思する善を行える聖霊の力を得ることです。
神学用語で言うと
①義認← あなたの言う、罪のあがないです。
②聖化← カトリックの教える「義化」、罪のつぐないです。
③聖霊のバプテスマ (続く)
- 28 名前: (●^o^●) 投稿日: 2004/11/25(木) 06:56 [ ZMMJemR2 ]
- >>27
自力と他力の関係を記します。
①義認=他力の信仰、神から賜るキリストの信仰による瞬時の義認です。
(×自力の信仰、善行としての人間の信仰ではありません!)
②聖化=他力の信仰、神から賜るキリストの信仰による瞬時の聖化です。
(×自力の信仰、善行としての人間の信仰ではありません!)
③聖霊のバプテスマ=他力の信仰、神から賜るキリストの信仰による瞬時
の全き愛の体験です。(カトリックでは「至福直感」と言います)
(×自力の信仰、善行としての人間の信仰ではありません!)
※福音派の中には、キリストの贖いを割り引いて、罪の赦しはキリストだけど
原罪の赦しや律法の問題は「自力」という人が多いと思います。
その点、カトリックは原罪と義化を問題にするので、主の贖いの範囲を
理解すれば、ご自身への贖いの適用は楽ではないかと考えますがいかが
でしょうか?
- 29 名前: (●^o^●) 投稿日: 2004/11/25(木) 07:09 [ ZMMJemR2 ]
- ■罪の赦しと行いの関係について
行いによる罪の赦しだと誤解されているようなので記します。
ガラテヤ人への手紙でパウロが嘆いたユダヤ主義者のことを思い出しなさい。
かれらはエビオン主義者という異端でした。
彼らはイエスをキリストと信じていました。
ただし、罪の赦しの範囲だけです。
彼らはユダヤ人ですから、大切なのは「律法を厳守する」ことでした。
だから律法を守る、善行は自力でやらなければいけないと錯覚しました。
パウロがガラテヤ教会を責めたのは、あなた方は既にキリストの贖いに
よって「自力で律法を守ることから解放された」のに、なぜ再び自力で
善行しようとするのか?という問題で、つまり行いで罪を赦されようと
すると責めたんじゃなくて、自分の良い行いで、原罪をつぐない、律法
を守ろうと戻ってしまったからなのです。
◎何回も言いますが、福音が単なる「罪の赦し」だと信じている人は
愚かなガラテヤ人というよりエビオン主義的な間違った信仰だと思います。
- 30 名前: うむぅ 投稿日: 2004/11/25(木) 07:52 [ SKhsfS7g ]
- 非常識な・・・汗。
バウロがガラテア書で批判したのは、「割礼派」とも呼ばれる
ユダヤ人キリスト者です。異端というより、パウロが書いた頃(48年ごろ)
では、エルサレム教会の主流ですね。
あえて言うならばパウロの方が使徒性に疑問を持たれていた。
(詳しくは新共同訳 新約聖書注解Ⅱ ガラテア書の項p156参照)
エビオン派は、70年代以後トランスヨルダン地方でキリスト教に帰依した
エッセネ派の中の一グループ説が有力です。
「ユダヤ教宗規に固執しつつ、エルサレム神殿に敵意を抱くアラム語を
話すキリスト教徒」と言われています。
特徴は「イエスをキリストと認めているが、普通の人間」と常識的な見方を
したので、エイレナイオスやオリゲネスらが問題視したのですね。
150年ごろのユスティノスによけば、ユダヤキリスト教には二種あり、
ヤコブ教団の子孫(キリスト教と同じ信仰だがユダヤ宗規に忠実な人々)と
「イエスを普通の人間と見なしている人たち」。
この後者がエビオン派と言われています
(上智大学中世思想研究所「キリスト教史Ⅰ」p141以下参照)
- 31 名前: うむぅ 投稿日: 2004/11/25(木) 08:14 [ SKhsfS7g ]
- ローマ6章は、「イエスの十字架の死に結合され復活し原罪から解放され、
善を 意思できるようになることです。」とは書いてません。
「恵みの元にあるから、どんどん罪を犯そうぜ、もう救われたんだから」
という自力作悪に対して、それはダメよんと説明しているのですね。
それは罪の奴隷であり、肉の弱さからくる発想だ、と。
ではなく神の恵みによって、神から背を向けていたのに、
神に向き合えるようになった。この恵みによる方向転換のままに
歩むと終極は永遠の命であると展開しているのですね。
「方向転換」も「歩み」もあえていうなら恵みでしょ。
誇るなら 神を誇れ ですから
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