■掲示板に戻る■ ■過去ログ倉庫一覧■
ローマ・カトリックの方アドバイス願います
- 1 名前: あさと 投稿日: 2004/07/08(木) 23:00 [ ivT23jEw ]
- ①先達クリスチャンによる私たちへの祈りについて
別スレにあったアイさまの書き込みを引用いたしました。
>マリアにしても、ヨセフにしても、他の聖人にしても、
>それから天使たちにしても、私たちが生き生きと信仰の道を歩めるように、
>励まし、祈ってくれている存在と捉えていますね。
「他の聖人」「天使たち」とありましたので、疑問がでました。
わたしが内村鑑三・矢内原忠雄・黒崎幸吉・藤井武・藤沢武義・
政池仁・関根正雄・塚本虎二・三谷隆正など無教会主義のクリスチャン、
また日本のプロテスタントを育てたと言われる植村正久、海老名弾正両牧師、
はたまた、「教会の外」でキリスト教信仰を培ったダグ・ハマーショルド
(スウェーデン人、元国連事務総長。ノーベル平和賞受賞者、著書「道しるべ」)、
ヒルティ(スイス人、著書「眠られぬ夜のために」、弁護士)
上記の様な先達のクリスチャンを聖人のように尊敬(崇敬?)して、
彼らが聖人としてわたしのために祈ってくださっている、
と理解してもいいのでしょうか?
そういう自由はカトリックにはありますか?
それとも、カトリック教会が公式に認めたクリスチャンのみが
そういった「私たちが生き生きと信仰の道を歩めるように、
励まし、祈ってくれている存在」となれるのでしょうか?
わたしにはカトリックがさっぱりわからないので、どうか教えてください。
カトは正直あんまり好きにはなれなそうですが、無知による偏見だけは
完全に除去したいので、よろしければ協力していただけると嬉しいです。
また、わたしは、無教会主義のキリスト教信仰に惹かれる人間
であるということを、お伝えしておきます。何かの参考のために。
公式見解ではなくて、一般信徒的生の声をお聞かせいただければ幸です。
- 2 名前: あさと 投稿日: 2004/07/08(木) 23:23 [ ivT23jEw ]
- ②カトリック教会はカトリック諸教会にみえてしまうのは間違い?
③エキュメニカル運動とはプロテスタント主流派のローマ・カトリックへの再吸収?
④プロからカトへの「改宗」「帰正」という表現に不快感を感じるのは間違い?
⑤カトリックとは全く別の流れで「バプテスト」が2000年前から存在していた
とうことは信じられる?また、カトリックがその歴史を闇に葬り続けているという説は?
という疑問も持っています。これらはまた後ほどお願いします。
まずは、①からアドバイスをお願いいたします。
わたしは「それは、間違っている!」と反論したいための質問ではなくて、
純粋に、カトリックの方がどの様に理解しているのかを、知りたいのです。
- 3 名前: アイ 投稿日: 2004/07/08(木) 23:40 [ TSI3486g ]
- あさとさん、こんばんわ。
>>1に引用してくださった私のカキコは、このサイトの奥村司祭の文章の影響がありました。
http://www.pauline.or.jp/saint/
聖人とは完全無欠の人という意味ではないということですね。
聖人と言った時には、その人個人を指すだけでなく、その人の人生に関わった無名のクリスチャン、その関わりの全てを指すのだと思います。
ですから、あさとさんの書いてくださった先輩クリスチャンたちにも、もちろん、共に祈ってくださいとお願いできます。
というより、誰もそれを止めることなどできないし、何の押し付けもありませんね。
- 4 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/09(金) 01:40 [ iMDN4Dh2 ]
- 聖書の呼ぶ声
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk
あさとさま、アイさま
カトについてのことならば、↑の方のHPを見るのが
良い方法だと思いますよ。運営者の江礼さんは、
かつてプロだったカト信者なので両方理解できる方です。
主イエスの二性一人格(カルケドン信経)みたいですね。
- 5 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/09(金) 02:37 [ dBwtsDY6 ]
- 好きではないなどと書いてしまう時点で他者にモノを訊ねる時の姿勢に疑問を感じるのだが。
なにか知りたいと思うのはいいことだが、嫌いだなどと先にいいなが人に訊ねる傲慢さは
キリスト教がどうのこうのという以前に世間一般の行為としてどうかと思う。
まず、あさとさんの挙げた人々が「カトリック教会において」は聖人になる事はないが、
(何故なら彼等本人にとっても迷惑であろう。教義そのものが違うのだから)
聖人の定義にはあてはまると言える。
聖人とはその人そのものが神であるとかそういう事ではなく、
神の道具として働いた人であり、その働きがより多く働いたと後世の我々にも明らかに納得出来る
ような人々である。天の国に行く事が約束された存在ゆえに天の国において今も我々の為に働いている
という兄弟と認識される。それゆえあさと氏の挙げた人々も、又我々ですら聖人になる可能聖はある。
バプテストをカトリックが闇に葬り続けているなどという被害妄想的な概念についてはよく判らない。
何故なら「バプテスト」は洗礼の事であり、カトリックにおいて重要な秘跡の一つである。
ナニを意味しているのかさっぱり不明である。
カトリック諸教会と見えるということはカトリック内部にあらゆる立場があるという意味で言うなら
その通りであるが、あらゆる立場を全て一つの家族と見做す。意見の違うものすら、自分たちと同じなのだ
という理解をする。諸教会が生じるのは教義の違いから来るもので、教義は人間側の問題に過ぎないが
神によって一致するのは教義によって一致するのとは違う。
改宗、帰正という言葉を用いるのはカトリックだけではない。
カトリックのみと考えているならそれは偏見であろう。
昨今はカトリックでも「転会」という言葉を用いる。
第2バチカン以前のカトリックのイメージを持っているなら認識を新たにしたほうがいいと思われ。
エキュメニカル運動をそのように捉えているのは被害妄想的である。
互いの個を認めるというのはそういう事ではない。
一致とは和する事ではない。尊厳を認めあう事である。
いのちのことば社などではそのような危機感をあおるような論理を展開するものもいるが
翻れば一致するという事を吸収するなどとそのようにしか理解出来ないから起きる批判であろう。
よく理解出来ていない他の存在を考える時、人は自ら自身そのものを投影する。
カトリック教会に対するまったく間違った理解に度々出くわすが、
多くの場合その人自身、或いはその教派自身の個性の投影にしか過ぎないと感じる。
例えば、カトリック教会のヒエラルキアを地上の権力の在りようと同じだと考える人などもいるが
概ねそういう批判を(カトリックは権力志向)する教会の牧師のほうが権力志向が強いということは
度々超教派の場で話していて感じる時がある。牧師を絶対だと感じている人が多いのには驚かされた。
カトリックでは司祭や、あまつさえ教皇がどんな場面においても絶対だなどと考える人はいない。
- 6 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/09(金) 02:56 [ dBwtsDY6 ]
- ・・・・まぁ、真面目に書いてたが、
本当に知りたいなら、神秘理解が必要だろうね。
それ以外の事なんて、実はどーでもいい事だもんよ。
教義なんて人間側の認識の問題で、それで正しいだの間違ってるだの、神からすりゃ阿呆か。
ってなシロモノだと思う。それ以外の地上の事も然り。
けど、神秘、神の恵み、神の働きは重要だからね。これ理解出来ないとカトリックは理解出来ないと思われ。
共に祈ってるなら、ルターも祈ってると思うよ。
カルヴァンは・・・俺の為には祈ってくれないと思うが、
あさとさんの為には祈ってくれてるかもね。
あさとさんが挙げてくれた人たちも天の国で共に祈ってるっしょ。
- 7 名前: あさと 投稿日: 2004/07/09(金) 08:35 [ ivT23jEw ]
- >好きではないなどと書いてしまう時点で他者にモノを訊ねる時の姿勢に疑問を感じるのだが。
>なにか知りたいと思うのはいいことだが、嫌いだなどと先にいいなが人に訊ねる傲慢さは
確かにその通りです。どうも、申し訳ありませんでした。
わたしには日本語で言う「敵ながらあっぱれ!」という感覚で書きました。
つまり「異教義ながらあっぱれ!」という意味でした。
相容れないながらも、互いに認められる存在だという意味です。
ルターもカルバンもそうですね。
再洗礼派のメノ・シモンズ、
クエーカーのジョージ・フォックス、ロバート・バークレー、ウィリアム・ペン、
ブレズレンのジョン・ネルソン・ダービー、CHMなどの先達もおりました。
>神秘
神秘とはどのようなものでしょうか?
わたしが知っているのかも知らない言葉です。日本語としてはわかりますが…。
よろしければ教えてください。お願いいたします。
アイさま
サイト、あとで拝見します。ありがとうございます。
名無し様
聖書の呼ぶ声サイト、何度かトップページだけ見ましたが、
内容が膨大に感じて、どこから読んだらよいかとなやんで読まずじまいでした。
またみてみます。プロからカトへ移った方は無教会主義でも少なくないようです。
南原繁(戦後初代の東大総長)は晩年無教会主義からカトになったと聞きます。
取り急ぎ連絡にて。私たちの救い主イエスの名において感謝です!
- 8 名前: カイト 投稿日: 2004/07/09(金) 17:00 [ xYc6rohw ]
- あさとさん
神秘ってカトでなくとも感じているはずだよ。ただ、あさとさん達は
それを聖書で裏打ち、確認するっていうところがあるのだろうけど
目に見えない神(の導き)を感じることってありやすね。
CHMか、、、自分もそれの五書注解ありやした。
高山右近の列福を求める祈りが調査委員会から出てた。
自分もよう知らんがそこにはこう書いてあった
「この祈りによる奇跡が確認された場合は調査委員会に連絡を」
こういう奇跡体験って名無しのひつじさん等ありますか?(横レス失礼)
- 9 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/09(金) 18:00 [ Po94QiB. ]
- 1>>
聖人達が天国で祈ってくれているとしても、ラザロのたとえのように、生きている私達に直接告知したり、どうこう手助けできるわけではないと思う。
生きている私達に直接どうこうできるのは、聖霊と天使だと思います。
- 10 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/09(金) 18:12 [ bMKXsIvA ]
- >9
私もそう思う。
カトリックの友人が聖人の名を通して祈っていたけど、私は
イエスさまの名だけで十分。
というか、イエスさまの名以外は嫌だ。
でも、もちろんカトリックのやり方は、それはそれでリスペ
クトするが。
- 11 名前: 博士 投稿日: 2004/07/09(金) 19:55 [ /0NHLWuQ ]
- 以下はプロテスタントの神学博士の文章ですが、
なかなかわかりやすいです。
http://www.geocities.co.jp/Outdoors-River/7540/a7.html
http://www.geocities.co.jp/Outdoors-River/7540/caca.html
- 12 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/09(金) 20:02 [ t2eIQeeU ]
- 博士様
要するにカトはおかしいってことつか?
- 13 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/09(金) 20:06 [ OxEmL9sQ ]
- そのおかしいやつらが、世界人口60億のうちの10億人だよ。これどう思う?
- 14 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/09(金) 20:58 [ t2eIQeeU ]
- >>13
だからこわいでつ
- 15 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/09(金) 21:36 [ wD6Z9gKs ]
- >具体的には、旧約聖書39巻はAD90年「ヤムニヤ会議」において決定しました。
>また、新約聖書27巻はAD397年「第三次カルタゴ会議」において決定しまし
>た。いずれも、カトリック教会の教会会議において正典として承認したのです。
何を考えているのだろう。ヤムニア会議はユダヤ教徒の会議なのに。
- 16 名前: カイト 投稿日: 2004/07/09(金) 22:06 [ wNVz4.NA ]
- >>13
10億人とは堅信済み信者数ですか?実質信徒数はどうなんだろう。
- 17 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/09(金) 23:52 [ JAgA9MmM ]
- >>11
これもディスペンだ!
どこでタイトル取った博士なのかね?
- 18 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/09(金) 23:55 [ GRIzjLTM ]
- ディスペンって、何ぞなもし??
- 19 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/10(土) 00:21 [ JAgA9MmM ]
- 「ディスペンセーショナリズム」とかでgooogleすればわかります。
- 20 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/10(土) 00:44 [ JAgA9MmM ]
- ディスペン・ミレニアム等に関して,一番客観的・学問的で,かつ分かりやすいサイトは,下記のとおりです。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/JESUS/sennnennoukoku.htm
私のTLCCCほかカルト教会批判は,実は,私の本来のフィールドではないのです。行きがかり上(摂理??),脱線してやっているという面がないでもないのです。本業は弁護士です(笑)まぁ,御心のままでしょうが。
一昔前の羊の掲示板は,このような,結構学問的な議論もなされていたのですが,だんだん[sage]になってしまったのですわ。
- 21 名前: ほすちあ 投稿日: 2004/07/10(土) 00:48 [ JAgA9MmM ]
- >>20
私,オスチアの自宅からの書き込みです。
[ JAgA9MmM ]でわかると思うけど,念のため。
- 22 名前: 続き(ほすちあ) 投稿日: 2004/07/10(土) 00:58 [ JAgA9MmM ]
- 私は,世俗の職業として「弁護士」に召されたわけだが,神学上・信仰上のコーリングは,ポストミレ運動を経済的側面・「人格伝道(笑)」的側面・「学会工作(笑)」的側面で支える,というものであると「主から示されている(何かこの場でこういう言葉を使うと誤解を招くのだが)」。
「世のため・人のため・神さまのために一生懸命生きよう」というエートスは,ポスト・ミレか楽観的ア・ミレでなければ基礎付けられない。
- 23 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/10(土) 00:59 [ JAgA9MmM ]
- 明日から(厳密には本日から)日弁連某委員会の合宿で留守にするのでよろしく。
- 24 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/10(土) 01:07 [ JAgA9MmM ]
- >7
南原繁(戦後初代の東大総長)は晩年無教会主義からカトになったと聞きます。
いにしえの東大教授は,そういう人が結構いるようです。一番有名なのは田中耕太郎(2代目最高裁長官)です。確か日本国憲法の公布文で「文部大臣」の肩書きで署名していた。
- 25 名前: あさと 投稿日: 2004/07/10(土) 05:28 [ ivT23jEw ]
- ほすちあさん
田中耕太郎さんの前の文部大臣は前田多門と記憶してます。
前田多門は神谷美恵子の父で、最初は無教会主義、のちにクエーカーとなりました。
カトとは逆の方向を向かって、無教会主義を出ていく人もいます。
あと以前、藤林益三さんの話を教えてくださってどうもありがとうございました。
勝手にロムっていました。では。
かいと様
もちろん!ただローマ・カトリック用語での神秘とはなんぞや?
と思ったもので…。CHMの五書講義、よまれましたか?
どうでしたか?手元に原著があるのですがまだよんでません。
- 26 名前: あさと 投稿日: 2004/07/10(土) 05:35 [ ivT23jEw ]
- わたしがカトリックに興味があるのは、
無教会主義もクエーカーも、カトリック本来のいみ
Catholic=Universalな信仰を徹底ている様に感じるからです。
わたしが主流派プロテスタントに興味がもてないのは、
そういういみでの「catholic」指向が感じられないためです。
「神秘」などは、クエーカーの「沈黙のなかで主をまちのぞむ礼拝」は
とても神秘的でした。クエーカーにも参加していたことがあるんで。
ローマ・カトリックの本質が神秘であれば、
クエーカーはCatholicの本質を捕らえているのでしょうか。
クエーカーの方の書かれた本で「Catholic Quakerism」という本があります。
http://www.nffellowship.org/book.shtmlにあります。
- 27 名前: アイ 投稿日: 2004/07/10(土) 09:01 [ TSI3486g ]
- >>10
>カトリックの友人が聖人の名を通して祈っていたけど、私は
>イエスさまの名だけで十分。
>というか、イエスさまの名以外は嫌だ。
私もプロ出身ですので、その感覚わかります。
プロでの祈りは、「イエス様の御名によって祈ります」でしたので、イエス様以外の御名によって祈るなんて考えられませんでした。
しかし、カトでの祈りは、それに加えて「イエスの御心を祈る」というニュアンスが強いのですね。
ですから、聖人や天使への取次ぎは、その名によって祈るのではなく、「聖徒の交わり」の一つと捉えています。
- 28 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/10(土) 21:57 [ o7820OhE ]
- あさとさん、わりいけど、敵ながら天晴れ。異教義ながら
という言い方をしてしまう時点で、
「カトリック」なるものと対立してしまうよ。
つまり、敵とか考えている背景に「自分が正しい」という意識が見え隠れしている。
それは教義において、他を排他する思想に基づいた視点だからね。
本来の「カトリック」は神秘に由来するからね。
(ローマ・カトリックでなくキリスト教全体でいう「カトリック」ね)
教義など人智なレベルを超えるのが「カトリック」だから
その視点なら敵だとかほんとはナンセンスなはずなんだけどね。
なんでそう対立したがるんだかなぁ。
単に「異なる」ってだけでいいのにね。互いに違う教派なんだから、
教義が違うのは当たり前。でもこちとら「敵」なんて考えはうかばねーよ。
わりーけど、余計な一言がどうも多い。それを口にしてしまう。
まずそういう意識をどうにかしてほしい。
ほんとに無教会派なのかよ。と思っちまうぜ。
でなきゃ、対話など無理。
はなっから「認めない」「排除したい」的な姿勢でこられちゃ
こっちは「アドバイス」ってもの、頼まれてもね。
お互いニュートラルな、つまり自分自身をも批判できる姿勢で
対話しないと決裂してしまうよ。
無教会ってのは党派性から自由な立場ってもんだろが。
- 29 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/10(土) 21:59 [ o7820OhE ]
- 神秘は定義つけられるシロモんではないな。
神に由来するもんだからなぁ。
- 30 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/10(土) 22:00 [ o7820OhE ]
- 聖人ってのはイエスとは違う。
どーも勘違いしてる人が多いが、ぜんぜん同列ではないんだな。
あくまでも信徒の範囲。
- 31 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/10(土) 22:31 [ GRIzjLTM ]
- >>29
カトリックも正教も、ほんで改革派も
拝んでいる神様、三位一体の神で一緒やのに、
わたしの教派、何となく神秘少なげに見えてまうん、なんでやろう??
と、考え込んでしまう。
- 32 名前: アイ 投稿日: 2004/07/10(土) 23:13 [ TSI3486g ]
- >>30
プロでは父なる神との仲介者はイエス様お一人ということが強調されるので、
聖人の取次ぎをお願いするということが、「取次ぎはイエス様がするものでしょ?」という違和感になってしまうのです。
カトでは日常的にPray(祈る)とWish(願う)を使い分けていますが、それが、他の教派からみると、偶像崇拝的に見えてしまうのですね。
そこに誤解のもとがあるような気がします。
- 33 名前: アイ 投稿日: 2004/07/10(土) 23:20 [ TSI3486g ]
- >>32
「強調されるので」という言い方も変でした。
カトリックでも父なる神との仲介者はイエス様お一人ですから。
仲介をPray(祈る)のはイエス様に対して。
弱い自分がそのことを祈り続けられるように、励ましをWish(願う)のが聖人や天使ということですね。
- 34 名前: カイト 投稿日: 2004/07/10(土) 23:31 [ pLEQ4C2. ]
- 自分はカト新入りなんで上手く言えんけど、聖歌にも特徴表れてる気もする。
自分がプロで歌ってたんは力強いような激励されるよな歌だった。
それはそれで元気になるんだけんど、こう・・・・ひたひたと訪れる
気配が今はあるように思う。イエス様は宮上りしてからはもう主としての
自覚があって力強いイエス様のイメージが強かったが
それは錯覚だったように今は思う。人性と神性、この神秘も深いな・・・
- 35 名前: カイト 投稿日: 2004/07/10(土) 23:45 [ pLEQ4C2. ]
- >>2 【⑤カトリックとは全く別の流れで「バプテスト」が2000年前から存在していた】
その全く別の流れについて詳しく知りたいっす。
確かに遡れば使徒継承の教会以外にも存在していたことを否定できないから。
使徒継承の教会で本家だぜって見下すよな態度はどうも好きになれんとこなんだ。
- 36 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/11(日) 00:53 [ o7820OhE ]
- 改革派の場合、どうしても説教中心というか、聖書の解き明かしが中心に
なるので、いわゆる理性的なんだろうな。
それにおいて優れているし、言論に対する文字通りの「み言葉の神秘」は
他教派にもまして感じるものだと思う。
ただ、一般的に「神秘」というと五感を通じて感じるものだからなぁ。
だから言語というだけの要素を通じた礼拝のあり方では
確かにそれ以外から感じるような、理性的とは実はいいがたい神秘には
弱くなってしまうかもね。
このあたりの解決として聖霊派などがプロテスタントの土壌から出てきたのかも。
しかし神秘を感じるという形式も、行き過ぎると「しるし」を求める
奇跡やわけわからん啓示を求めるような傾向につながりかねない。
いい例がカトリックのマリアの出現や予言だろう。
異端とされるような行き過ぎな一団がいるし、カトリック教会内でも賛否がある。
理性主義も神秘主義も中庸がいいよ。
- 37 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/11(日) 00:57 [ o7820OhE ]
- >>32
「イエスを中心に考えるからだ。」という批判もあるかもしれない。
つまりイエスの人としての部分が以前より着目されたというのが
プロテスタントの宗教改革に見られるといえる。
聖餐の意義の違いがそれを表しているといえる。
これ、話すと長くなるからヒントだけ。
- 38 名前: もぐりカト 投稿日: 2004/07/11(日) 04:08 [ zAmOug12 ]
- どうもアイさんとやらは、知ったかぶりが多すぎる
カトリックで聖人に取り次ぎを願うのは、askであり、wishではない
- 39 名前: あさと 投稿日: 2004/07/11(日) 05:17 [ ivT23jEw ]
- >>28
わたしがカトリックに興味をもっているのは、
無教会主義のクリスチャンが激烈なカトリック批判を繰り返したからです。
あと無教会主義は、一応、ルター等の中途半端な宗教改革を
その論理的帰結にまで徹底させた信仰のあり方だという話もあります。
信仰のみを文字通り徹底的に信じる主義、活けるキリストに拠り頼む主義、
と言えるかもしれません。(まちがいあるかも)
あとイエスは無教会主義であった。パウロも無教会主義であった。
カトリックも、ルターも最初は無教会主義であった。
しかし、教会は改革してもすぐに化石化する。
などの話が内村などの文章に散見されます。
特にイエス伝研究などに熱心だった塚本虎二などのカトリック批判が知られています。
以上の様な見方が無教会の独立伝道者の文章に時々出てきます。
でもわたしの目から見ると、とくにカトリックはおかしくは見えない。
どうしてなんだろう?というのがもともときっかけです。
敵ながらあっぱれというのは、わたしの日本語では誉め言葉なんです。
一般的な使用はちがいますか?そうであれば訂正します。
また、敵を異教義と置き換えていますので、敵ではないと言いたかった。
あと、批判するときはハンドルネームを作っていただけるとありがたい。
わたしの方は、空を切るようで、少々疲れます。
- 40 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/11(日) 07:22 [ GRIzjLTM ]
- >>36 >>言論に対する文字通りの「み言葉の神秘」は
他教派にもまして感じるものだと思う。
レスありがとうございます。
うーん。そっか。み言葉で神秘を感じるものなのか!
道理で、聖書読んでも「ふうん」とかしか思わないわたしが、
いまいち神秘を実感できない訳だ・・・。なあるほど。
主の臨在は実感できるのだけど、神秘というのとは、また違うしなぁ〜。
- 41 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/11(日) 08:11 [ t/q.nFyY ]
- >>38
これ、アイちゃんをいじめるとおじさんが黙っていないぞ!
(本音:仕切り屋アイちゃん、知ったかぶりアイちゃん、ちょっと自重してね)
- 42 名前: 雲 投稿日: 2004/07/11(日) 09:33 [ MdGYZeKI ]
- >>39
あさとさん、おはようございます。
カトリック側の無教会に対する評価は、「カトリック入門」(岩下壮一、講談社学術文庫)
が参考になるかもしれません。
もっとも、評価と言うより批判に近いですが。
あと、現在のカトリックではなく、第2バチカン前のカトリックの視点から書かれています。
しかし、非常に興味深いです。
- 43 名前: 余白 投稿日: 2004/07/11(日) 10:58 [ OxEmL9sQ ]
- >>39
こんにちは。
昔読んだ本に、晩年の内村は、もし自分が無教会にいかなかったら、
プロテスタントではなく、カトリックに行ったかも知れない、と述懐していた
と書いてあったのを思い出しました。
- 44 名前: 元福音派 投稿日: 2004/07/11(日) 11:09 [ KN2daZKs ]
- >>42 雲さまのホームページをななめ読みして、いろんな牧師を批判している人達もおられるようですが、雲さまからなにかアドバイスはありますでしょうか?!
- 45 名前: アイ 投稿日: 2004/07/11(日) 18:06 [ TSI3486g ]
- >>38
>カトリックで聖人に取り次ぎを願うのは、askであり、wishではない
そうですか、それは失礼いたしました。
が、私個人の域としては、askまで至っていないようです。
- 46 名前: アイ 投稿日: 2004/07/11(日) 18:32 [ TSI3486g ]
- あさとさまが>>1にて
>公式見解ではなくて、一般信徒的生の声をお聞かせいただければ幸です
と、書いてくださっていますので、そうしてきたつもりですが、
「知ったかぶり」「仕切り屋」(何のこっちゃ?)というご批判を頂いたので、念の為に申し上げておきますが、私の書き込みはカトリックの公式見解とか、一般的な(そういうのがあるのかどうか知りませんが)受け取り方とかいうものではなく、あくまでも、私個人が現時点で受け止めていることです。
違うご意見がありましたら、ご自由に提示してくださればと思います。
- 47 名前: 雲 投稿日: 2004/07/11(日) 20:35 [ NBCD99Xo ]
- >>44
私はホームページを持っていませんから、他の人のことですね。
批判のための批判は意味ないです。
かと言って指導者を批判するなら呪われるというのは馬鹿馬鹿しいです。
批判するなら具体的なことがらについてすべきです。
- 48 名前: あさと 投稿日: 2004/07/11(日) 20:38 [ ivT23jEw ]
- >>35
カイトさん、わたしもしりたいんですよ。
手元にある資料は根本主義バプテストの本で、実のところ
少々トンデモ本ぽい感じがあります。(他文書の引用が記されてるのに、
その元本が参照できないような構成になってるなど…)。
あとその本は日本語訳が正直、閉口してしまうほどで…。
でも、多数は少数の歴史を消そうとすることはヒトの歴史によくみられると
思います。アナバプテストなどはそれを避けるためにか、主イエスに始まる
アナバプテスト系の1000人の殉教者の本を出版しています。
だから、その根本主義バプテストの本も無視はあまりしたくないんです。
本題からそれるので、この話はたぶん別スレッドにて。
カイトさんがスレ作ってくれてかまいませんよ。では。
- 49 名前: あさと 投稿日: 2004/07/11(日) 20:57 [ ivT23jEw ]
- >>43
雲さま
>カトリック側の無教会に対する評価は、「カトリック入門」(岩下壮一、講談社学術文庫)
アマゾンで探しましたが、見つからなかったのですけど…。
どうしたらよいでしょう???
>>43
余白様
こんばんは!一度だけ、HPにお邪魔して書き込みをさせて頂いたことがあります。
>昔読んだ本に、晩年の内村は、もし自分が無教会にいかなかったら、
>プロテスタントではなく、カトリックに行ったかも知れない、と述懐していた
わたしも読んだことがあります。
ただ、それが晩年の発言か否かどうかわたしは知りません。
別の話では、ある事柄がきっかけで、今までは親カトリックだった彼の態度が
以後一貫して反カトリックとなってしまったと、聞きました。(記憶違いの可能性アリ)
彼の発言が晩年であったかどうかが、ポイントとなると思います。
- 50 名前: あさと 投稿日: 2004/07/11(日) 20:58 [ ivT23jEw ]
- 内村鑑三の
>プロテスタントではなく、カトリックに行ったかも知れない、と述懐していた
との主旨の意見について。
プロテスタントよりはカトリックがよいという考えは、わたしも同意できます。
わたしの目にはプロテスタントはいろんな事が中途半端にみえます。
この世的な話ですが…。
儀式にしろ、教会制度にしろ、全くなしか、
あるなら徹底的に儀式を執り行い、制度も教会法を制定して細かく徹底的に構築したらいいのに、
そう思ってしまいます。
また聖書に基づく平和主義のあいまいさにも少なからず幻滅を感じるときがあります。
それが出来ないなら、無教会とかクエーカーのように、
そういった儀式、教会制度を徹底的に不採用にしたらよいのに、そう思います。
そして聖書に基づく平和主義を身を以て証するクリスチャンが生じる下地を作ったらよいのに。
しかしカトリックと言っても正教のほうが論理的に徹底してるように感じます。
わたしは全く無知で間違いに基づく意見であるかもしれません。
(以上全て幾分思いつきも含めた発言ですので、今後の変動は十分あり得ます。)
- 51 名前: あさと 投稿日: 2004/07/11(日) 21:06 [ ivT23jEw ]
- アイさまの
>>公式見解ではなくて、一般信徒的生の声をお聞かせいただければ幸です
>と、書いてくださっていますので、そうしてきたつもりですが、
との書き込みについて。
>>1
にわたしも書きましたが、多少の間違いや勘違いなどが混ざった見解であっても
個人の生の声であることが貴重だと思います。
インターネット掲示板という空間は、良い方向に利用されれば、
日常生活では接することの出来ない方々からの、生の声を聞くことが出来きると思います。
公式見解であれば、たぶんバチカン本部などのHPを検索すれば
必要な情報は手にはいると思いますので。
故意に行うのでなければ、「知ったかぶり」は問題ないのでは、と思います。
あとは、その文章を読む方が自分でその真価を判断なされば良いと思います。
- 52 名前: 雲 投稿日: 2004/07/11(日) 21:06 [ NBCD99Xo ]
- >>49
あさとさま、タイトルが間違えていました。
「カトリックの信仰」です。アマゾンで確認したら、在庫ありました。
- 53 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/11(日) 21:25 [ GRIzjLTM ]
- 隣の教会に行って(隣の教会は同じ日本基督教団なのだけど、教派が違うのですわ。)
「自分は、自分ところの教派の教理の本、好きで読み倒しているけど、
あんまり、(自分の教派の教理に)凝り固まったら、
よそ行ったときに、つぶしがきかないんちゃうんかな?と、最近心配になっている。」
と、言ったのですわ。
そしたら、 そこの教会員の人に、
「つぶしきくって??どういうこと??」
と言われてしまったのですわ。
よく考えたら、宗教的信念って、会社や仕事じゃないのだから、
あんまり、よそ行ったときに、つぶし効くとか、効かないとか、
そもそも考えないものだよねぇ・・・。
ネットの影響もあって、つい、宗教的信念や信仰も、
その時々の所属教会といった、環境に合わせて変える流動性を常に持っていなければいけない、と思ってしまうのだけど、
そうじゃなくて、自分の信念の方に、教会を合わせるんだよねぇ??
- 54 名前: あさと 投稿日: 2004/07/11(日) 21:28 [ ivT23jEw ]
- >>52
雲さま
ありました。が、中古のみで高いっす。学生にはキツイ価格。
他の古本屋サイトや書店のサイトもあたってみましたが、
出版社品切れ・重版未定のようです。
名著のようなので、是非手に入れたいです。もう少し待ってれば
古本が流通しますかねぇ?どうでしょう。
コレも神の意思、のんびりしっかり本を待ちます。
>>51
追伸。間違いがあったときは、どなたか間違いを指摘してくださって結構ですよ。
あくまで、間違いの訂正が目的であって、そして間違いが訂正されれば万々歳です。
間違いの訂正とは、それ以上でも以下でもありません。よろしくおねがいします。
- 55 名前: 余白 投稿日: 2004/07/11(日) 22:04 [ OxEmL9sQ ]
- >>49
ぼくは逆に、「晩年」ということだけがはっきり記憶しています。
弟子達がみんな離れていって、
老いが迫ったときの述懐として書かれていたので、印象に残っているのです。
- 56 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/11(日) 22:12 [ GRIzjLTM ]
- ローマじゃないカトリック、ってあるのだろうか??
- 57 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/11(日) 23:29 [ o7820OhE ]
- >>40
> うーん。そっか。み言葉で神秘を感じるものなのか!
道理で、聖書読んでも「ふうん」とかしか思わないわたしが、
いまいち神秘を実感できない訳だ・・・。なあるほど。
>主の臨在は実感できるのだけど、神秘というのとは、また違うしなぁ〜。
つーか、それが神秘体験でねーの?
充分、神秘だと思うぞ。主の臨在を感じる。っての。
- 58 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/11(日) 23:45 [ o7820OhE ]
- あさとさん、
俺がハンドル使わんのは、わざと。無教会派的でいいっしょ。
それに常連=ハンドル対匿名的な雰囲気がこの掲示板にあったから。
匿名=荒らしという構造がよくねーなーと思ってるだけ。
「カトリック批判」にあるような外から見たイメージと
中のイメージとのギャップに気づいたとき、「無教会」というのは
カトリックが捉える「教会」のイメージと重なるというのはあるかも
しれないな。
そもそも「無教会派」すら、ある一定の集団を作ってるという矛盾を
内包するわけで。
それから「カトリック」というのは
聖公会も自身を聖公一の「カトリック」として捉えているし、
正教会も自らを「普遍の教会」としての「カトリック」と認識
しているはず。正教会はローマカトリックから見ても、使徒継承の
地方教会だから。
だから広義に「カトリック」はそういう意味を指すわけだし
本来的にはそれは正しい。聖なる公同の教会すべてカトリックなわけだ。
慣習的訳語として日本においては「ローマ・カトリック」を
「カトリック」と呼称する。
日本において「カトリック」として使ってきた教会を
「ローマ」をつけて呼ぶときは、ある程度、批判的な意図は
込められているとは思う。その意図が透けて見えるときはあまり
気持ちいいものではない。
でもまぁ、最近は神父も自らをローマ・カトリックと言うのを
よく聞くよ。東方教会との再交流が盛んだし。
- 59 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/11(日) 23:59 [ o7820OhE ]
- 無教会派であるということはトロツキーのように永久革命をし続ける
ことになるんだろうけど、現実としてはそれは理想論に過ぎない。
実際、結局一から構築しなくてはならないために、同じ道や過ちを繰り
返すのみだったりする場合もある。構築されたものを完全に否定しないで、
バージョンアップを繰り返し続けるのが西方カトリック教会といえるかもね。
こういう姿勢はしょうもないモノを抱えすぎるし、動きも鈍くなるけど。
マイナーチェンジはあるものの聖伝を尊重するという形で、一部を伝え
続ける。過去否定したものをもう一度見直す。
完全に固まらず、「旅し続ける教会」としてカトリック教会は「教会」
という共同体を捉えている。教皇の無謬性すら将来覆されるかもしれないし、
現に、過去教皇の権威は公会議の権威に勝るといいながら、
現代では実質第二バチカンの決定を現教皇は非常に尊重している。
公会議至上主義的ともいえるほどだ。
この辺りの流動性は逆に世俗的過ぎると東方教会から批判される要因
ではあるけどね。まったく「普遍」なら、あれこれ変わるなよ。と、
言いたくはなるね。
- 60 名前: アイ 投稿日: 2004/07/12(月) 08:46 [ TSI3486g ]
- >>59
>「普遍」なら、あれこれ変わるなよ
カトリックの友人が、「普遍」についてある映画のワンシーンからこう説明してくれました。
コップに入った水がある。その水をこぼして、ぞうきんでふき取られると、その水はぞうきんに沁み込むけれど、しかし、それが水であるということに変わりは無い、と。
形か変わっても、その本質において、変わらないことが普遍なのだと。
- 61 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/12(月) 17:06 [ I5K9dPKs ]
んだなぁ。 腐っても 汚れても カトリック (^m^)
- 62 名前: あさと 投稿日: 2004/07/12(月) 18:09 [ ivT23jEw ]
- >>58
ハンドルを使わないのに理由があったんですね。了解しました。
>「ローマ」をつけて呼ぶときは、ある程度、批判的な意図は
>込められているとは思う。
わたしは、正式名称だと思って使用していました。
英語でRoman Catholicってフツーに使いません?
>>59
>現実としてはそれは理想論に過ぎない。
無教会主義に対するこの手の批判は、昔からありますね。
「理想主義だけじゃ教会はやってけねぇんだよ!」と
牧師に怒鳴られた無教会伝道者もいたようですし。
確かに、当たっている面が大きい。
今の無教会主義集会は風前の灯火だし(私見)。
ところで、o7820OhEさまはカトリックですか?
- 63 名前: あさと 投稿日: 2004/07/12(月) 18:16 [ ivT23jEw ]
- >>55
余白さま
もし思い出しましたら、その文献の出典などをおしえて頂けないでしょうか?
>>55
追伸。そういえば、コプト正教会とかその周辺にも関心アリです。
- 64 名前: あさと 投稿日: 2004/07/12(月) 18:17 [ ivT23jEw ]
- >>55ではなくて>>50への追伸でした。すんません。
- 65 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/12(月) 18:43 [ GRIzjLTM ]
- あ、わたしの一行の書き込みに対して、これだけのレスありがとうございます。
- 66 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/12(月) 19:37 [ GRIzjLTM ]
- >>57
そっかぁ。主の臨在を感じる、というのも十分に神秘体験なのだな。
それはいいこと聞いた。(^-^)
どうも、わたしは教理のことばっか言っているから、
ネットでもリアルでも、本当に信じているの?単なる頭だけの信仰ではないのぉ〜って、言われることが多くて。笑。
- 67 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/13(火) 00:43 [ o7820OhE ]
- >>62
この手のカルト対策の掲示板は荒れやすいけど、
マジに悩んでいる人で匿名でないと書き込む勇気のない人もいるだろうから。
だから匿名=荒らしってイメージを払拭したかったのと、
ハンドル常連ばっかりじゃ話しづらくなるだろうなあと。考えたわけよ。
ハンドル常連が多いのは安心感もあるけど、身内的になりやすい欠点も
あるだろうからね。
で、仰せのとおり、俺はカトリックだよ。
ところで英語表記ってのは、つまり英語を使う国の主流な宗教はいったい何か?
って、考えればおのずとその意味するところはわかると思うがね。
カトリック主流の国では、ローマカトリック教会を指す言語にローマはつけないよ。
カトリクスとか、カトリカとか。んな感じ。
俺としては無教会派にはがんばってほしいけどね。
だから、風前の灯なんてのは残念だ。
結局、集団化する利点というのは、
重要な要素を長い時間伝えていく強さを保持する面もあるわけよ。
反対にどーしょもない部分も長い時間保持してしまったりもするが。
2000年かけて地球の反対側に届いたのはそれらの人々の働きがあった
ということを忘れないでほしいね。くそたれな文化ももたらしたが、
福音ももたらした。背後にそれなりの資金もある組織的な援助があって
福音は伝えられてきたという事実もある。改革派の宣教師も、正教会の宣教師も
ルーテルの宣教師も、カトリックの宣教師も母国のセクトの資金援助があって
福音宣教に専念することができたんだな。
- 68 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/13(火) 00:44 [ o7820OhE ]
- >>63
「砂漠の修道院」という本が平凡社ライブラリから出てるがいいぞ。
コプト教会のレポートだ。
- 69 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/13(火) 00:52 [ o7820OhE ]
- >>66
主の臨在を感じることが神秘体験そのものなのだ。
神秘体験はなにも激しく特別なことではない。
常に働きかけている神の存在を、捉えることが出来ないほうがおかしいのだ。
しかし残念ながら人間はついついそれを出来ずにいてしまうんだけどね。
時々ふっと感じるそれが、だからありがたいわけだ。
そのありがたさはその人、個人にとって大切なものであって、
他人から見るとたいしたことないってのもある。
だから、それは他者のそれと比較して語られるべきものではない。
ま、教理は自らの信仰を客観的に捉えるためには重要だよな。
世の中には理論武装のためと思っている馬鹿もいるが、
そりゃ使い道が違う。
教理のことばかり言ってるからといってその人の信仰の所在がどうかなどは
結局その人自身にしかわからないことだ。
本当に信じているの?などと聞くほうがおかしい。
信仰の形など千差万別で、だからこれだけ教派が存在するってもんでね。
- 70 名前: アイ 投稿日: 2004/07/13(火) 06:42 [ TSI3486g ]
- 匿名、コテハンについて
少なくとも私には匿名=荒らし、というイメージはないですよ。
固定ハンドルでなくても、そのスレッドのみのハンドルを付けていただけると、会話がしやすいし、ロムしている方も、会話を繋げやすいと思います。
ただ、固定ハンドルで投稿していると、投稿数は少なくても目立ちますから、非難や中傷を受けることも多いと感じます。「名指し」ということができるので。
ですから、怖い、とお感じになる方は匿名でも良いと思います。
私の場合は、ネットでの関係が、ただの通りすがりの関係であるかどうかは、その人次第だと思うので、
現に、私はネットで知り合いになった方にカトリックの代母さんになっていただきました。
ですから、どんなにコテハンで叩かれても、ひつじのアイは、アイとして、いつ声をかけてもらってもいい存在としていたいと思っています。
- 71 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/13(火) 07:36 [ GRIzjLTM ]
- >>69ありがとうございます。
どうも、こう、ネット上で(リアルでは、まだ信仰経験が浅いこともあって、遭遇したことないのですが。)
改革派の教理、というのではなく、教理そのものに対する毛嫌いに遭遇することがたびたびあったのですわ。
イエス様だけを信じる、という信仰態度は尊重すべきだと思います。
しかし、あまりそのことを強調しすぎると、
かえって、「イエス様だけ」ではない、多種多様なキリスト信仰に関する他者の言説が
「イエス様だけを信仰する信仰を阻害する余計なもの」としてとらえられ、
結果として、他者の信仰の関する言説を封殺することも、ありうるのではないか、と思うことがあります。
- 72 名前: ほすちあ 投稿日: 2004/07/13(火) 21:53 [ JAgA9MmM ]
- post第二バチカン公会議における,(ローマ)カトリックの解説本としては,やはり,ホセ・ヨンパルト神父(上智大学 刑法学 法哲学教授)が良いでしょう。
一般向けの非常に分かりやすい本が書かれています。絶版でない本は,まだかなりあるとは思います。
- 73 名前: あさと 投稿日: 2004/07/13(火) 23:29 [ ivT23jEw ]
- >>68
>「砂漠の修道院」という本が平凡社ライブラリから出てるがいいぞ。
>コプト教会のレポートだ。
アドバイスありがとうございます。一度、まだ新潮選書(だったかな?)
から出ていたときに読みました。平凡社から再刊されたのですね。
実は、著者の山形孝夫先生には一度お会いしたことがあります。
東北の仙台市にクエーカーの集会を探していたときです。
東京のクエーカーの方から、山形先生がクエーカー的な礼拝を開いていると
聞き、一度参加したんです。
- 74 名前: あさと 投稿日: 2004/07/13(火) 23:36 [ ivT23jEw ]
- >>67
>俺としては無教会派にはがんばってほしいけどね。
>だから、風前の灯なんてのは残念だ。
無教会派や無教会主義が滅んでも、無教会の精神は消滅しようがありません。
わたしはそう考えています。
>この手のカルト対策の掲示板は荒れやすいけど、
>マジに悩んでいる人で匿名でないと書き込む勇気のない人もいるだろうから。
>だから匿名=荒らしってイメージを払拭したかったのと、
>ハンドル常連ばっかりじゃ話しづらくなるだろうなあと。考えたわけよ。
>ハンドル常連が多いのは安心感もあるけど、身内的になりやすい欠点も
>あるだろうからね。
まったく、アーメンです。
>神秘体験はなにも激しく特別なことではない。
>常に働きかけている神の存在を、捉えることが出来ないほうがおかしいのだ。
これも、アーメンです。で、ハレルヤです。
今日、交通量調査のバイトで炎天下の下ずっと外でカチカチ車をカウントしてました。
まわりは田んぼで、あめんぼうや大きなトンボがいて、
たくさんの神秘を感じてきました!心の中で一番最後の詩編を口ずさんでいました!
そういった素朴な神の被造物に、わたしは神秘を見、神を賛美します。
- 75 名前: あさと 投稿日: 2004/07/13(火) 23:38 [ ivT23jEw ]
- >>74
詩編148、150のことです。
- 76 名前: あさと 投稿日: 2004/07/13(火) 23:41 [ ivT23jEw ]
- ほすちあさま
アドバイスありがとうございます。
でも、ホセ・ヨンパルト神父によるカトリック入門書は
アマゾン検索で引っかかりませんでした。
自然法とかそういった難しそうなのばかりです。
- 77 名前: あさと 投稿日: 2004/07/13(火) 23:54 [ ivT23jEw ]
- 追伸。
>>67
>ところで英語表記ってのは、つまり英語を使う国の主流な宗教はいったい何か?
>って、考えればおのずとその意味するところはわかると思うがね。
わたしはアメリカ合衆国に住んでいたときに、初めてカトリックの方と交流しました。
その時の自分の体験が元になって文章化されているので、Roman Catholicとなりました。
カトリックが圧倒的に強く、ローマという言葉を付加する必要もないほどに土着化
している様子は、スペインに住んでいたプロテスタントの友人から聞いています。
しかしなかなかそういったキリスト教をイメージできません。
外見的には日本の神道ような感じでしょうか?
ところで、正教会はローマ・カトリックという言葉はつかいますか?
- 78 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/14(水) 21:30 [ o7820OhE ]
- >>77
土着化したキリスト教ってのはいいよ。
無意識で信じている。
教義やなんかに真面目にならざるを得ないのは、やはり自分自身の落としどころが
欲しいというのもあるかもしれないし。
だから、神を信じているのが当たり前みたいな土壌ってのはいいよ。
正教会からすりゃ、
カトリックはローマ地方教会とかラテン典礼教会とかそういう認識じゃね?
ラテン地方教会、西方教会ってのもあるかもね。
まぁ、こっちは相手に合わせて日本ではその教派自らが用いる通称を使うように
気を使うケド、なぜかカトリックを他教派が呼ぶときはローマをつけたがる奴がいる。
日本のカトリックが用いている通称を無視するんだな。
すげー無知なのか、傲慢なのか、そういう姿勢ってどうよ?と思うな。
一応こちとら正式には「カトリック」と称してるわけで。
だからそれ知っててあえてそう呼ぶ奴ってのは、やな奴だなとは思うね。
よーするにカトリックがカトリックのみを名乗るのはおこがましいってこったろうが、
正教会とか、正しい教会の自称とか、聖公会聖なる公同の教会って自称とかも
よく考えたら相当だもんな。でも、そう名乗るのはそれぞれの立場で正しいわけで、
別にあえて英国国教会とか、東方正教会とかいちいち言わないよな。
厳密さを要求するときなんかは用いるけどね。
(西方ラテン教会と東方ギリシャ教会とか比較して語る時とか
イギリスの歴史について語るときとか)
- 79 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/14(水) 21:38 [ o7820OhE ]
- >>71
いるよな〜。教義の話をすると
難しいことを言い過ぎるとか、知識をひけらかすとか、
頓珍漢な批評する馬鹿。
てめーのやり方にこっちがなんであわせなきゃならねーんだよ。
・・とか思うよな。
そういう方法=教義をあれこれするやり方で信仰というものを探るのもアリなわけで、
「教義話すんな!」などという奴がいるなら余計なお世話だと思うな。
「信仰が薄いだ」のお前何様よ?とか思っちゃうよなぁ。
まぁ、ろりぽっぷさんの葛藤はここでも見てるけど、
実に率直な信仰の人だと俺なんか思ってるんだけどね。
イエス様だけを信じるというのは「聖霊の働き」や「御父」というものを
無視してしまうことになりかねないかもね。
特に聖霊の働きについては、人間の間に働く結果として現れるだけに、
判断が難しいとはいえ、三位一体を信じるってのは
そういうこったろうがと思うわけよ。
- 80 名前: ほすちあ 投稿日: 2004/07/15(木) 00:49 [ JAgA9MmM ]
- いや,さすがに「強硬派(じゃない教皇派)」というルーテル派信徒は,少なくとも日本には居ないがな。アメリカのルター派原理主義(ルターの教えにファンダメンタリスティックに従うという意味。いわゆる「原理主義」とは色合いが違う)では,「パパイスト」という言葉は生き残っているかもしれない。
私は時々,うっかり口を滑らせて「ローマ教会」といってしまう。
今日,ウクライナ人の依頼者と話しをした。
ウクライナ正教会・ロシア正教メトロポリタン主教区・ギリシア正教・バプテストがあるそうだ。
私の方で「ユニエイト」もあるようですよ,と言ったら,「聞いたことがない」とのことだ。たぶん,スターリンに粛清されたのだろうと思う。
「ホスチアさんは?」と聞かれたので「俺は一応ルーサランだ」と答えておいた。
- 81 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/15(木) 11:51 [ GRIzjLTM ]
- >>79
ありがとうございます。
>>イエス様だけを信じるというのは「聖霊の働き」や「御父」というものを
無視してしまうことになりかねないかもね。
ほんま、そうですわ。その通りですわ。
わたしは、単に改革派の教義が好きなだけで、ほんで、こうやってネットでほざいているのだけど、
それでもやっぱり従いきれないものも感じます。
どうも自分は、喜びを持って神に仕える、ということができなくて、
さんざん、「しんどい」とか「むかつく」とか、ブー垂れながらでないと、神に仕えられないのですわぁ。
あんまり、ええ僕じゃないと思います。自分でも。笑。
- 82 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/15(木) 14:33 [ JrCYzIj. ]
- イエス様だけを信じるっていうのは、父も聖霊も含んだ
意味です、普通は。
だからイエスさま〜〜って言ってる人が父と聖霊を無視
してるってことはありません。
「イエス様(父、聖霊)との交わりが第一」という人は、
「教義」というのが、どっちかと言うと苦手な人が多い
ということでしょう。
- 83 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/15(木) 17:51 [ GRIzjLTM ]
- >>82そうですねぇ〜。
教義に関しては、その人が教義苦手とか、言う前に、
その人の教派自体が、教義をうるさく言わない教派ということもありますしねぇ。
ほんま、別スレの聖餐式、聖体拝領に与れる範囲に関する議論なんか、その典型例ですが、
同じ「キリスト教」でも、教派違うと、パラダイム思いっきり違いますしねぇ。
その辺は、対話の上で、常に配慮していかなければならない問題だと思います。
自分の教派と違ったパラダイムが、「キリスト教」の中には存在する、ということは、
常に意識しておかないと、ということは、自分がクリスチャンになって学んだことの一つですわ。
- 84 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/15(木) 19:58 [ bzEcVuCU ]
- >>80
ユニアは西方に多いのでその方は東ウクライナの出身だったとかでは?
あと、ギリシァ・カトリックという呼称でしかしらない方もいるみたい。
- 85 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/15(木) 21:43 [ GRIzjLTM ]
- >>84ふむふむ。「ローマ」以外のカトリックがある訳だな。なあるほど。
- 86 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/16(金) 00:33 [ pCGVAu2s ]
- 傾向として「イエス様だけ〜」と言っている場合、
他者に働く聖霊についての考察が浅い時もある。隣人に対する視点が厳しい傾向が生じるね。
異なる考え方を受け止めないとか。幅が狭い。
教義について苦手というのもそういう理由からだろう。
キリスト教のよさは、イエス・キリストが人としてこられた神ということなんで、
たしかにそれを中心に考えるのは当然というか、むしろ当たり前に出発点なんだけどね。
それはどこの教派でも同じだろ。
しかし、自分ところだけがそのようであるということを主張しはじめるヤツがいたら、
それは方法論の差違によって生じている言葉やもろもろの事柄の違いにすぎないことを
違いを認めずに受け入れられないというだけ。
まぁ、寛容な思考ではないわな。
概ねはどこの教派のヤツでも差違があるのは当たり前と受け止めるんだろうが、
タマに違う事が赦せない御仁がいるようだ。
- 87 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/16(金) 00:36 [ pCGVAu2s ]
- >>85
ほんとうは「カトリック」はシスマ以前の地方教会全部がそうだからね。
正教会もカトリック(普遍)教会なんだよ。本来は。
西方か東方かって違いとかは、典礼、教皇の優位性を認める。などが目安となるんだろ。
- 88 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/16(金) 10:32 [ iPXl4Xco ]
正直に話すが、聖霊体験をした人は「教義のみによる議論」という
ものに興味が無くなる。
そして、どの教派においても聖霊体験した人はいるので、ガチガチ
の聖公会であろうと長老派であろうと、それが牧師であった場合は
教えそのものが変わることがある。
というか「教義」や言葉だけの「講義っぽい」説教をしなくなる。
聖霊に触れられる体験と言うのは、主キリストを実感を伴って知る
体験なので、その後イエスさま〜〜となるのが本筋かも知れない。
(聖霊体験をしながら、体験だけを求めて歩み実がならないという
人も多々あるが、そしてイエスさま〜〜と言いながら実がならない
人も多々あるが。)
聖霊体験をしてしまった人は、「聖霊の臨在」がある説教や話でな
いと、まったく受け付けなくなる時期というのがある。
ただ、体験の無い人に臨在だのなんだのと説明しても、まったく分
かってもらえないことを知っているので、そして教義議論になるこ
とにも興味を失うので、黙っている人も多いかもしれない。
でも、これは宗派や教義の話には加わらなくなるということだけで、
熱く燃えてキリストを伝えていく分にはおしゃべりになるかも知れ
ない。
しかし、もちろん聖霊体験さえしていれば良いというものでは無い
。(しつこく言うが、体験主義のあげく悪い実がなることもあるの
だ)
最初から聖霊体験で救われてしまって、キリスト教の背景・歴史・
宗派・教義などに完全に無知であったのに、ある日、神学校に行き
始めるということがある。
人に伝えていくのに、又、人に教えていくのに、やはり神学的な学
びは必要だと実感するからだ。
どちらが良い悪いではない。
体験する人はするだろうし、体験しない人もいるというだけの話だ。
すいません、本スレとは話がずれましたね。
- 89 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/16(金) 11:35 [ B7.1Iy56 ]
- 信仰と理性。中世からいわれていた事だ。
神秘体験(霊的体験・聖霊体験<業界用語だろ?)と教義は常にバランスよくあるのが理想。
偏り過ぎるとどちらも傲慢になるばあいがある。
どちらかの立場で相手を批判しはじめたりしたり
熱くなりすぎて、他の要素を嫌悪するほどになるようでは、
特に人を導かなければならない教職にある人などはダメだろうな。
そういう立場の人は判ってもらえないのではなく、判ってもらえるように語る方法を探るべきで、
それが出来ずに偏っていると、自ずと傲慢さに行ってしまう。
教義ばかりの頭でっかちも、
電波っぽ過ぎるのも、よくないというこった。
特に神秘体験(聖霊体験)は格別な事でなく、
また個人に働くものであって他者と共有出来るものでない事は
自覚しておかないとやばい。そういう内容の証しばかりが教会で語られてしまっては、
本末転倒になる場合も起きるからね。
こういう体験は新約の時代、古代から中世、近代にいたるまで多くの人が体験している特別なものではない。
聖人伝などを読むとイエス・キリストに一致するとか、神と一致する体験などが出て来る。
それらが伝えるものは、その人がそれによってどういう生き様をしたかであり、
神秘体験をしたという事で終ってしまう事でなく、その賜物をどのように受け止めいかしたか。
それが大切なんだろう。
だから体験者はそれをよく自覚すべきだろう。
- 90 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/16(金) 11:49 [ B7.1Iy56 ]
- ・・・体験をしたから教義がどうでもよくなる。
・・って感覚はよく判る。
はっきり言って、こざかしく、言葉遊びに過ぎないように見えるのが教義的な事だ。
しかし「どうでもよくなる」と思うこと自体、危険な道に入り込む可能性が高くなる。
独りよがりの信仰に陥るとか、選民意識が生じたりとか。
だからそれらはおおっぴらに語るものではなく、
それ自体を目的と語るものでもない。
優れた指導者はそうならないよう導く為に、教義を無視してはならないであろう。
多くの羊は迷いやすいのだからね。
だから神秘体験ばかり語る牧師や神父がいたら要注意だな。
教義の話をぶつけてみて嫌悪するようであれば、そりゃかなりヤバ系かもね。
反対にそういう体験が語られる時、あからさまに嫌悪を示すような牧師や神父がいたら
それもどうよ?って思うな。
カトリックなんかだと後者のほうが多い気がするな。
信仰の賜物の一つであることは聖書にも書いてあるのにな。
とにかく中庸がいいよ。
- 91 名前: カイト 投稿日: 2004/07/16(金) 16:01 [ 1BGkQIRs ]
- >体験が語られる時、あからさまに嫌悪を示すような牧師や神父がいたら
>それもどうよ?って思うな。
>カトリックなんかだと後者のほうが多い気がするな。
>信仰の賜物の一つであることは聖書にも書いてあるのにな。
自分とこの神父はこれに当てはまるな。
そんなことより現実の社会に目を向けよと嫌な顔して横向く。
だからそんな話はちらっとも出さんのだもう。
まぁうちの神父にとって聖書なんて道具にすぎないんで書いてあっても
どこ吹く風ってことになるんだが(笑)
どっちかというと修道司祭のが神秘体験を拒絶しないかな?
- 92 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/16(金) 19:30 [ GRIzjLTM ]
- うーん。自分は、キリスト教入信以前に、神秘体験一通り経験してしまっているから、
神秘体験に対する渇望とか、神秘経験による世界観の一変とか、すでに卒業してしまっているのですねぇ・・・。
それで、次に求めるのは何か?となると、
その経験を踏まえた上で、どう日常生活を送るか?の枠組みなのですね。
だから、どうしても自分の場合、改革派というキリスト教の一教派の教理とか、
カルヴィニストとしての生活とか、具体的な生活の枠組みを、キリスト教に求めてしまうのですわ。
- 93 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/16(金) 19:58 [ iPXl4Xco ]
- 92さんの神秘体験は、キリストの聖霊体験とは違うのでは
ないでしょうか?
もちろん、洗礼を受けていなくても聖霊体験は在り得るの
ですが、入信以前なら主を知る前ということになりますね。
キリストとの神秘体験をしていようとしていなかろうと、
本来はどうでも良いことです。
大事なのは、誰もが主に愛されていて許されているとい
うこと。
キリストが、命をかけて救ってくださったという事実で
す。
- 94 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/16(金) 20:09 [ GRIzjLTM ]
- >>93もちろん、そういう意見もあると思いまして
>>神秘体験(霊的体験・聖霊体験<業界用語だろ?)
と、霊的体験・聖霊体験を、キリスト教の枠組みにおける神秘体験定義している、
>>83さんに倣いまして、わたしは「神秘経験」と表記しました。
聖霊体験は、キリスト教の枠組みに依拠するところの(あるいはキリスト教の枠組みで解釈した)神秘体験であると、わたしは考えております。
- 95 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/16(金) 21:00 [ iPXl4Xco ]
- >94
そうですか。
聖霊体験は一度だけのものでは無く、主に出会い、継続して聖霊に
満たされ続けるというのが歩みだと思いますが・・。
ですから、
>神秘体験に対する渇望とか、神秘経験による世界観の一変とか、
>すでに卒業してしまっているのですねぇ・
というのは、ちょっと分かりにくいですね。
まあ、何度も言いますが、神秘体験・聖霊体験自体はどうという
ことはないものです。
89さんの言われるように、キリストとの個人的な出会いですか
ら、むしろ秘めておくのも麗しいかもしれない。
- 96 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/16(金) 21:05 [ GRIzjLTM ]
- >>95あ、それも分かりますわ。
いや、こうこれまでのお話の進み具合から、
一回の神秘体験で経験する、人生観の転換とかそういうお話かな、と思いましたもので、
あのようなレスを書いたのです。
継続して聖霊に満たされ続ける信仰の歩みこそ、地味ではあるけれども喜ばしいものかも知れませんね。
- 97 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/16(金) 21:33 [ 86H55ps2 ]
- >>89氏のは明快でいいね。「信仰と理性」。
>>91のカイト氏んトコと同じでウチとこもそういうことって話したがらないね。
俺たまたま神父と二人の時に「何でですか?」って聞いたら
「神秘体験で浮かれている人を教える側の僕達が認めてしまうと
極端な神秘主義とか心霊主義に走っちゃうからねー。信仰は地に足がついてないと歩めないんだよ」
って言われた。なるほどーと思ったよ。
- 98 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/16(金) 22:09 [ iPXl4Xco ]
- キリストとの霊的な出会いは、結果として他者への愛という実
を結ぶべきものだから、神秘・聖霊体験だけで浮かれて終わる
としたら、虚しい。
だから、97さんの神父が「信仰は地に足がついていないと」と
言うのはわかる。
他のスレでも書いたが、体験主義が過剰になり悪の実がなること
さえあるからだ。
ただ、聖霊体験をした直後というのは、その人の中に聖霊が力を
持って働くので、未信者を救いに導く役割をすることも多い。
聖霊の働きは、人間の頭で理解出来る働きでは無いので、又、人
間の知識はかえってその邪魔になることもあるので、神学的知識
の無い人間に臨まれた時に、その人がものすごい証をすることも
ある。
初代教会の、どちらかといえば知的階級ではない使徒達が、ペン
テコステの後、力をもって福音を述べ伝えたのも聖霊の力が臨ん
だからだろう。
しかし、神秘・聖霊体験をして浮かれていた者も、究極的には
自然に静かで尚且つ力ある信仰で歩むようなると思うのだが。
- 99 名前: アイ 投稿日: 2004/07/16(金) 22:48 [ TSI3486g ]
- ろりぽっぷさん、スレ違いの話で恐縮なんですが・・・
改革派って、労働を美徳としているのでしょう?
私も、別にキリスト教でなくても、単純に日本人的ににそう思っていたのですが、
以前、あるクリスチャンお2人に、労働は罪の罰として与えられてるんだって言われて、思いっきりびっくりしたことあります。
同じ聖書読んでいて、どうしてこうも捉え方が違うんでしょうねぇ・・
脱線失礼しました。
- 100 名前: カイト 投稿日: 2004/07/16(金) 22:50 [ pB21gNeM ]
- 自分とこの神父は「正統から離れるほど派手に強調するようになるもんだ」と言っとった。
98さんの意見のように、そういう体験が自己満足で終わってたら意味がないのは確か。
体験を通してガラッと生活変わってしまった人間っているのも確かで
パウロの回心って現実に出くわした話なんさうちの神父に話しても無駄だろう。
そういう話は通じる人間とすればいいのさ。(笑)
- 101 名前: カイト 投稿日: 2004/07/16(金) 22:52 [ pB21gNeM ]
- アイさん それって「額に汗して糧を得なければならない」からきてるんでしょかね。
- 102 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/16(金) 23:42 [ bZVweLIA ]
- >>98
真の智慧ある人間は、神秘体験をしたから浮かれる事はないだろう。
知識と智慧は両立されていなくてはならず、聖書の「智慧の書」がそれを教えてくれる。
知識は我々が神を認識する単なる道具に過ぎず、神秘体験も神が我々に示す一つの道具に過ぎない。
>>91
最近そういう馬鹿神父が増えているよな〜と言いたいが、
実は昔っからそういう馬鹿は多い。
教区司祭に多いのは彼等が教区の世話をしなければならず、
どこか小役人的だったりするのも信徒の生活に密着していなきゃならないという宿命からだろ。
修道司祭に少ないのはもともと修道会は教区に携わらず聖域で「修道」するのが彼等の
やるべき事だったわけで。祈りも多い。
現代は情報化社会で、中世とは明らかに信徒を取巻く情報量が違うから、
信徒としても従来の教区司祭のあり方に不満が出て来てしまうのも無理ないかもね。
自発的に道を究めようとする信徒(俗界)の数が増えている。
こういう動きは、なにも新しいことじゃなく、例えばフランシスコ会の誕生とか、
シトー会の創設とか、過去にも修道会のムーブメントを作ってきたわけで。
- 103 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/16(金) 23:44 [ bZVweLIA ]
- >>100
正統って言うより、中庸だろうな。
カトリックの場合、常に中庸を採択してきたんだが、
世俗のバランスで流動的になるもんだから、一貫性がなくは見えるかもね。
- 104 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/16(金) 23:54 [ GRIzjLTM ]
- >>89信仰と理性かぁ・・・。
改革派は、この二つは対立するものとして捉えないですね。
どこかのスレにも書いたのだけど、カルヴァンも結構聖霊については言っているのですわ。
ただ、こう聖霊を、神秘体験をもたらすものとしてではなく、
み言葉の理解を可能にしたり、神を崇める目的で知ることを可能にするといった、
うーん。言うならば、そうですねぇ・・・。
聖霊の働きによって、理性が神の存在を捉えることを可能にする、
といったニュアンスで、聖霊が捉えられていると思います。
>>99アイさんへ
確かに、神の支配下における世俗労働、という考え方が改革派にはありまして、神に仕える方法として世俗労働を肯定しますね。
これは、わたしが改革派の教えの中で一番共感する部分でもあります。あと、資本主義的経済活動も肯定しますしねぇ。
最近改革派の教理の本を読んでいて知ったのですが、
これは、労働だけをとりだして、それが美徳だ、というのではないようです。
神の支配下における世俗労働の概念は、
教会の中のみならず、この世のすべての被造世界において、神の栄光を認めそれを賛美し、
人間は地における神の代理者、神の共働者として神の栄光のために生きる
といった、改革派の「有神論的人生観・世界観」の中に、包括される考え方のようです。
それにしても、自分はこのような教理に共感しているので、
>>101さんが、聖書箇所を指摘されておられますが、
労働は罪の罰として与えられている、という考え方も、
クリスチャンの中にあるんだ、って知って、わたしも、ほんま驚きましたわ。
そうなんかぁ〜。
- 105 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/17(土) 00:07 [ GRIzjLTM ]
- >>104
ほんで、常日頃思っていることだけど、この労働のとらえ方、あるいは「有神論的人生観・世界観」って、
改革派特有のものなんだろうか??
改革派は、神の絶対的主権性、言うならば神中心主義を強く主張し、
基本的に、そのような神を賛美し、神に栄光を帰するのが人間の役割である、と考えていますわ。
ほんで、このような神の絶対的恩寵によって、(予定説w)
救われた人間がいかにして生きるか?ということが問題になってくるというのはあるのだけど。
- 106 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/17(土) 00:11 [ bZVweLIA ]
- つーか聖霊は常に働いてるからなぁ。
神秘体験というのにはいくつかあって、
「聖霊体験」「霊の満たし」は聖霊に満たされた状態、充満する自分の中に働く聖霊を知る事。
異言を語っちゃったりするのもその範疇だろうね。
「神との一致」「神との出会い」は、これはカルメル会なんかがお得意だな。
十字架のヨハネとかね。
一瞬出会うらしいよ。大テレジアなど恍惚となっちゃうもんなぁ。
まぁ。そんなすごいのじゃないのでも微妙なの体験する人もいる。
「イエス・キリストとの一致」は有名どころではフランシスコだな。
彼の人生はそればっかりだ。
それ以外に啓示。聖書からの啓示とか、そういうのも神秘体験だよ。
ろりぽっぷさんのはこれの範疇だね。
- 107 名前: アイ 投稿日: 2004/07/17(土) 09:35 [ TSI3486g ]
- >>101
カイトさん、うん、聖書箇所としてはそんな説明があったかもしれない。
その話を聞いたのは、カトリックの方からなんですが、
今のカトリックでは、労働が罪の罰だとは公式には教えたりしないけど、カトリックが根付いている国では、労働はしない方がいいという風潮が、聖書の解釈というより、文化として根付いてしまっていると聞きました。
私は、行ったことがないからわからないけど。
そういうわけで、プロテスタントの国は近代化が進み、カトリックの国は遅れたとも。
そういえば、そうなんかな・・・?
日本の場合は、宗教無しに近代化が進んだ珍しい国だと、そんなふうに聞きました。
- 108 名前: アイ 投稿日: 2004/07/17(土) 09:44 [ TSI3486g ]
- >>104
ろりぽっぷさん、
>人間は地における神の代理者、神の共働者として神の栄光のために生きる
>といった、改革派の「有神論的人生観・世界観」の中に、
>包括される考え方のようです。
あ、改革派も共働者という感覚あるのですね。
改革派の教えは、厳しいとか、暗いとかいうイメージがあったのですが、ろりさんのお話を聞いていると、人生に対して肯定的というか、明るい感じがしてきますね。
>有神論的人生観・世界観」って、
>改革派特有のものなんだろうか??
宗教的にはよくわからないんですが、私は、キリスト教を知る前から、フツーになんだか働くことは良いことみたいな感覚が植えつけられてた気がする。
神様の為にという明確な意識はなかったかもしれないけど、なんていうか、神さまはフツーに生活の中にあったような。
そういうのが、一般的な日本人の感覚だと思っていた。
だから、日本人は宗教なしに、プロテスタンティズムを実行したなんて話を聞いた時に、なるほど〜と、ちょっと納得できる気がしたんですが。
- 109 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/17(土) 21:36 [ GRIzjLTM ]
- >>改革派の教えは、厳しいとか、暗いとかいうイメージがあったのですが、ろりさんのお話を聞いていると、人生に対して肯定的というか、明るい感じがしてきますね。
ありがとうございます。
そういって頂けると、日々ネットで「教理の擁護」にいそしんでいる甲斐がありますわ。笑
>>あ、改革派も共働者という感覚あるのですね。
でも、救いに関しては、改革派は共働者ではないのだなぁ。
神様しか働かないのだわ。不思議だ。w
- 110 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/17(土) 22:45 [ GRIzjLTM ]
- あ、>>109の、「教理の擁護」という表現は、
ある改革派の教団の規約にある、
「長老は、教師と共に教理を擁護する務めを負い」
という一節にちなんでおります。^^
いや。これを読んだとき、
「そうなんか。教理の擁護、というのも長老の務めなんか。
教会の維持だけでなく、教理面でも、長老って責任あるんやぁ〜。」と、
と、長老の役割に関して、いたく感心させられたのですわ。
それにしても、教理を擁護しようと思ったら、
教理を擁護する立場にあるもの自身、
教理をきちんと知っていないとできんのでは、
と思うのだが、その辺はどうなんだろう?
- 111 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/17(土) 23:11 [ 9EJIGHYo ]
- 教職にあるもののスキルとして当然だろう。
知合いの神父が「神学を修めていないといかーん」と常に言っている。
というのも司牧の現場で動揺しないほどの堅牢な学を修めることってのは、
存外馬鹿に出来ない。
なんせ世俗で別の分野で極めた人間相手に司牧する場面も多いわけで。
学者とか、その筋の権威とか信徒にいたりするわけよ。
そりゃすごい専門的な質問なんかも来るわけだ。
養護するってのは、対象に精通してなきゃいかんのよ。
だから司牧の現場の人間は体験的信仰(感覚的信仰)と同時に、理性的な要素も両方合わせもたにゃあかん。
カトリックの神父は6年も勉学させられるわけだがそれでも足りんとさ。
正直、教会の維持ってのは、信徒でも出来るが、教理に関して極めようと思ったら
生半可な事じゃ出来んわな。
もっともカトやオーソの場合は司祭は神秘とか秘跡に携わるというあの世的付加価値もあるんで。
そっちのほうが大切なんだけどね。ほんとは。
- 112 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/17(土) 23:12 [ 9EJIGHYo ]
- ま、ろりぽっぷさんはイケてるような気がするけどね。
改革派の為にも頑張ってもらいたい。
- 113 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/17(土) 23:46 [ GRIzjLTM ]
- >>111レスありがとうございます。ほんま、その通りだと思います。
どこからどんな質問が来るか分かりませんものね。
それに、牧会活動は、人の生死や、人生の不条理を扱う訳ですから、
単なる知識だけでは不十分で、
人間存在の様々な様相に対する、深い認識能力や共感能力も要求されますしねぇ。
あ、ちなみに、わたしは、牧師ではないのです。
改革長老派でいうところの長老という、言うならば教会役員ですわ。
だからこそ、>>110に挙げた、ある改革派の教団の規約を読んで、
牧師が教理について知っている必要があり、それを擁護する務めがあるというのはわかるのですが、
教会役員であるところの長老にも、教理の擁護という、教理面での務めを負わせている点に感心させられたのですわ。
- 114 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/18(日) 08:37 [ kHXSB1UA ]
- >>113
流石、万民司祭だ。
長老改革派には落ち着いた雰囲気があるね。ろりぽっぷさんは歴史が古い・・とか
カトやオーソと比して言うケド、改革派も充分古いし、伝統に基づいた落ち着きがあると思うけどね。
だからカトやオーソとは違う、別の形の神秘を感じるよ。
落ち着いた雰囲気はきっと長老達のその自覚(教理の擁護の務め)から来るのかもしれないな。
指導する立場のもの、中心となるものが、教理に対し精通していれば、その人たちは自信を持つ。
揺らぎがないという空気はそれだけで、安定する。
だから落ち着いた祈りの空間も出来上がるって寸法だろう。
改革派にはそういうかたちで神秘が存在していると思うよ。
実は教理というのは単なる道具に過ぎなくて、大切なのは普遍を感じるそういう雰囲気かもね。
しかし普遍=動じない空気を作るのは中心となる人々のなにごとにも動じない精神だろう。
だからこそやはり教理には精通しておいたほうがいいと思われ。
- 115 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/18(日) 20:56 [ GRIzjLTM ]
- >>114
ありがとうございます。
言われてみれば、このような長老に対する考え方は、
まさに、万人祭司の考え方ですよねぇ。>>114さんの指摘で初めて気づきました。
わたしの書き込みが、少しでも、
みなさまの改革長老派に対する理解の一助になれば、
わたしにとりまして、これ以上の幸いはございません。
あ、わたし自身は、実はそんな古い信徒という訳ではないのです。
洗礼受けて2年ちょっと、と言ったところでしょうか。
その割に、このように、改革長老派どっぷりになってしまっているのですわ。
- 116 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/18(日) 22:25 [ MlA.iu3M ]
- やり方が違うってだけで、目指すとこは一緒だもんな。
改革派の揺籃してきた独自のよさってモノをろりぽっぷさんから感じるよ。
あと受洗からの時間は関係ない。生まれてから今に到るまでの体験が大切だったりする。
パウロなんか回心してからあっという間に指導的立場になってるしよ。
>>114の続きだけど、指導者が揺るがない。というのは共同体として大切だ。
というのも教会に来る人は大抵、重荷を背負っているし、救いを求めてくる。
受け入れる側の動じない態度、普遍性というのは、そういう人達にとって安心感を与えるし、
安らぎになる。両親が常に尊敬される存在であって欲しいように、
共同体の指導者にもそういうのをどこかで求めるよな。
キリスト教の独自性には、教会を家とし、新たな家族という共同体を形成している所にもあるからね。
それぞれの教派がそれぞれにそういう要素を持っているね。
どこかに「普遍」となる要素を持っている。それを秘跡としてとか、聖書に由来するとか、
色々だけど。
ただ、下手すると依存度の強い共同体になり過ぎ、カルト化する。
だから独善とならない為にも、指導者達は常に自分に対しもっとも厳しくないといけない。
教理を学ぶというのは、自己への客観性を学ぶ事にもなる。
- 117 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/20(火) 13:54 [ GRIzjLTM ]
- いや。こう、このような身に余るお褒めの言葉を頂き恐縮です。
あまりにも恐れ多いので、どうレスを返していいのかわからなくて・・・。
レスが遅くなってしまいました。
- 118 名前: あさと 投稿日: 2004/07/21(水) 00:55 [ ivT23jEw ]
- みなさま
アドバイスありがとうございました。
カトリックについては通信講座で少し勉強することにしました。
また、ろりぽっぷさまのお話しを読んでいて、改革派にも興味がでたので、
ハイデルベルグ信仰問答も通信講座で勉強しようとおもいます。
その他SDAやブレズレンなどから発せられる教理も学ぶ予定です。
自分の知らないキリスト教をしって、
「公同の教会」のなかでもめ事が起こらないように、
自分なりに個性としての教派を学びたいと思います。
取り急ぎお礼にて。
- 119 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/21(水) 19:55 [ GRIzjLTM ]
- >>118
そうですかぁ。ハイデルベルグ信仰問答は、そんなに分厚いものはないので、
またできましたら、読んでみて下さいねぇ。
わたしも、ネットでは、マイナーな改革派について、少しでもみなさまに紹介できましたら、
この上ない喜びでございます。
- 120 名前: うむぅ 投稿日: 2004/07/22(木) 07:56 [ FM/RhnQ2 ]
- >救われた人間がいかにして生きるか?
ふむふむ。
改革派の論理構造としては、信仰後=救済後なんだ。
- 121 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/22(木) 11:37 [ GRIzjLTM ]
- >>120 基本的に改革派の論理構造はそうですわ。
あの、ネットで叩かれまくり、ブーイングの嵐の予定説も、
そういう、信仰後=救済後というか、救済後=信仰後といった、
論理構造を前提としておりますわ。
- 122 名前: うむぅ 投稿日: 2004/07/22(木) 16:59 [ eSll3UjI ]
- ウエストミンスター信仰告白 第三章 神の永遠の決断について 第3項
「神は自己の栄光をあらわそうとして、
自らの決断によりある人々を永遠の命に予定し、
他の人々を永遠の死滅に予定した」
現代的の標準的な感覚では、うなずけんでしょう。
どこぞの公立中学の校長が、
「神がいて、自分の栄光のために救われる人と
救われない者を元々、予め選別しているのだ。
救われん生徒になにを言っても無駄」とか言ったら、
ブーイングの嵐だと思うが・・・。
まあエリート好みの感覚かもしれませんですね
- 123 名前: うむぅ 投稿日: 2004/07/22(木) 17:03 [ eSll3UjI ]
- 神が誰を選んだか最後まで(死ぬまで)、
不明ではなく、
改革派に入信たら、即、選ばれた(救われた)ならば、
統一教会あたりと、さしてかわらんカルトのような
気がするなぁ。
宗教的脅迫でMCかけてるだけのような・・・以下略
- 124 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/22(木) 17:31 [ XNjfl5q6 ]
- >>123
同意。私の友人で改革派で傷ついた者がいます。
- 125 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/22(木) 20:31 [ GRIzjLTM ]
- もちろん、誰が救われ誰が滅びるかは、この世ではわかりません。
改革派の教理も、数多くある宗教の中のキリスト教というある宗教、
またまた、その中に数多くある教派の教理の一つなので、
わたしも改革派の教えを絶対化するつもりはありません。
うーん。その改革派教会で傷つかれた方の傷が、早く癒されますようにお祈り申し上げます。
- 126 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/23(金) 16:27 [ dPDJXI3A ]
- / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
冫、 < ろりぽっぷさん、パソコンばかりしないでちゃんとお仕事してネ!
` \_____
|
|
|⌒彡
|冫、)
|` /
| /
|/
|
|
- 127 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/23(金) 16:49 [ GRIzjLTM ]
- >>126へえへえ。ご忠告ありがとうございます。
- 128 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/25(日) 22:25 [ dPDJXI3A ]
- やっぱりろりぽっぷさんは超かわいい!
- 129 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/25(日) 23:29 [ 2xQgr4ug ]
- >128
同意!
長老改革派って理屈っぷい堅物というイメージがあったんですが、ろりさん
見てたら結構良いかも?なんて思っちゃうもんね。ろりさんボクシなったら
転会したいぐらいです!
- 130 名前: うむぅ 投稿日: 2004/07/26(月) 07:49 [ 1sdKcyvM ]
- 理屈ぽい堅物じゃん、彼女は・・・汗。
教会の他の役員さんは、教理的背景が多少違っても
いい牧師さんが来て欲しいと思われている中、
彼女一人・・・、
教理的背景重視せんでどーする!と、律法主義に、
原理原則に忠実たらんと、頑固に拘ろうとしているじゃん。
ユダヤ−キリスト教が「割礼」の伝統に拘ったごとくね・・・。
汗
- 131 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/26(月) 08:35 [ aUQIdqkU ]
- >>130
理屈っぽいとか、伝統にこだわるとかそういう表面的な事より、
人間性。
うむぅさんの方がそういうの批判しながら、そういうのに実はこだわっていたり、
理屈っぽく見える。批判してるものと一つ穴のムジナって感じだな。
人の批判とか他教派の批判しかしねーじゃん。
ろりぽっぷさんはそういうのしねーもんよ。
- 132 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/26(月) 08:45 [ aUQIdqkU ]
- そもそもこむずいことは嫌!とか、人がマジに話してるとこにわざわざいーに来るヤツのほうが、
独善的ですかねーよ。
聖霊派の人たちが異言について語ってるとこに、理屈っぽいひとがいきなりやって来て
「そんな電波な話は阿呆臭い」などという光景もよく見るけどよ。
こういうのも余計なお世話的、独善的光景なのと同じで、
自分にわからない話は全部許さない的なのって単なる我侭だよな。
全部自分の思い通りの世界じゃないと嫌ってな心理を感じるよ。
ほっときゃいいのにわざわざ言いに来るのな。もうね。馬鹿かと。
気分だけでいい、信仰だけでいいとか、そういうのはいーけど、
別の悩みを抱えて色々考えてる人にそういう言葉を言って自己満足してるようなヤツ大杉。
その人が語っている文脈読め。
場合によっては頭でっかちはやめたら?とも言うけどよ。
自分のほうが正しい的な介入してくるヤツ、むかつくよな。
単純なのがいいのは当り前だが、そこに至るまでに色々考える事もあるわな。
- 133 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/26(月) 10:31 [ ozpleKjU ]
- ろりぽっぷさんって、女なの?
オッサンかと思ってた
- 134 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/26(月) 11:21 [ M.Ug5i.k ]
- >133
なんでやねん!(爆
- 135 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/26(月) 12:06 [ GRIzjLTM ]
- >>133 オッサンだと思われていたのかぁ〜。(><)
- 136 名前: うむぅ 投稿日: 2004/07/26(月) 19:34 [ pwQQd26I ]
- >131
なんでキミがムキになるか不思議だが・・
私は理屈ぽいよね。私もそー思う。異存ないです。
だけど私の理屈ぽさが並外れているとしても、
誰かが理屈ぽくなくなるわけでもないように思う。
だからあなたの言説は「ずれ」ていると思うのだけど、
ろりぽっぷさんもかなり世間と「ずれ」ていると私は思うが、
人によってはそこを可愛いと感じる人もいれば、
逆に「なんだ、こいつ」思う人もいるのではないか、と思う。
「そこに至るまでに色々考える事もあるわな」
そうだね。悩みつづけているということは思索しつづけている
ということだから、別に悪いわけではないし、大事にされたらと思う。
他のスレッドで似たようなことを書いているのだが、
印象薄いみたいね。
雑談失礼しましたm(_)m
- 137 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/26(月) 19:58 [ eW/lKyOQ ]
- >>136
印象有り過ぎてああいう意見が出たんでは?
ずれてないと思う。
ケチばっかりつけてる印象あるもん。
- 138 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/26(月) 19:59 [ eW/lKyOQ ]
- >>137はうむぅさんのことね。
- 139 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/26(月) 20:59 [ w2bQ8CJo ]
- うむぅさんの言ってることで確信突いてることもあるよ。
そして、ここは常連に意見言いにくいところだから、はっきり意見
言う人はある意味で偉いけどね。
反対意見言われたからって、一々相手潰していたら(このスレのこ
とにあらず。今まで色々見ててそう思う)そのうちある意味での真
実を言ってくれる相手無くなるよ。
- 140 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/26(月) 22:44 [ GRIzjLTM ]
- ふと、気づいたら、常連がわたしぐらいになっているぅ〜。
みんな、どこへ行ってしまったのだろう??
- 141 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/26(月) 23:23 [ eW/lKyOQ ]
- ついてるどころかとんちんかんにしか思えない。
理屈っぽいっていわれて開き直って、人に理屈っぽいって言ったこと正当化してるし。
意見ったって、ろりぽっぷさんの立場に立ってないですごく独善的だもん。
堅物とか・・人格攻撃だよね。あんたナニ様?って感じ。
>>140
名無しさんになっていたりしてね 笑)
- 142 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/27(火) 21:10 [ xLQWZbZo ]
- つーか、具体的な困った事書かなきゃ、意味ねーじゃん。
改革派の教義を批判してどーするよ。神学論争は嫌だとか誰か書いてたけどよ。
カルト問題のサイトで改革派の教義のあり方そのもの批判してもな。意味ないよな。
具体的にカルト傾向な教会の問題をあげるならともかく、
ろりぽっぷさんにかみついてても単なるいじめにしか思えんけどな。
カルト化した改革派の教会っていうのに思い当たるモノがあるなら、
どんな状況で困ってるか書けばいいと思われ。話はそれからだわな。
幸いにして話がわかるろりぽっぷさんがいてるわけで、
相談に乗ったり、説明してくれると思うぞ。
- 143 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/27(火) 21:28 [ GRIzjLTM ]
- そろそろまじめなレス返さないといけませんねぇ〜。
他教派の批判はよくない、というのは分かるのですが、
ただ、他教派のことだけあって、「どうしてこうなっているの?」といった、
素朴な疑問を持つことは誰にでもあると思うのですね。
そういう素朴な疑問を質問することは、その回答や回答にいたるやりとりによって、
お互いの教派背景に対する知識を得る機会でもありますので、その機会や質問は尊重したいと思います。
最近、このサイトを見ていて、ほんまそれぞれの教派には一つの体系があって、
聖餐式の問題一つにしても、救いの説(予定説、予知説等)をとってみても、
それぞれの教派の体系の中で理解しないと、いけないんだなぁ〜。って、思いますわ。
カルト化した改革派教会の問題は興味あります。他のスレで書いたので繰り返しませんが、
自戒も含めて、出来る限り考えてみたいと思っています。
- 144 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/28(水) 00:19 [ BiC4GhW2 ]
- 素朴な疑問はいいと思う。それが批判の形をとっていてもね。
改革派の予定説については議論の余地はあるかも知れないし、
それを逆手に実際に阿呆な事を言う牧師の事例でもあるなら、ここで話すに足る話題だとは思う。
ケド流石に>>130みたいな言い方はないよな。
>124 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/22(木) 17:31 [ XNjfl5q6 ]
>>>123
>同意。私の友人で改革派で傷ついた者がいます。
実際にうえのように見聞きした人がいるようだから
具体的な話題を出して検討する余地はあるわけだが、その後、来ないな。
- 145 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/28(水) 01:02 [ GRIzjLTM ]
- 予定説を説明しきれる力量が、わたしにあるかは?なのだけど、
改革派を名乗る以上、予定説は避けて通れない、というのがあるしねぇ。
その節は、どうか、お手柔らかに頼みますわぁ〜。
- 146 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/28(水) 07:35 [ Ax5357Ng ]
- 予定説は神の救済の範囲の問題で、神の超越性を考えると当然出て来る。
アウグスチヌス以来の伝統だ。
ただ、それを現実にフィードバックさせる場合、難しい説になるな。
誰も神ではないわけで。わからない領域だもんよ。
- 147 名前: うむぅ 投稿日: 2004/07/28(水) 07:44 [ IOtPUJwE ]
- >144
うむぅ(笑)。なるほどね。言い方ね。
せっかくなので130の背景(ネタ)を他人の言葉で紹介しておこう。
興味ないだろうが、気が向いたら読んでごらん。
http://www.calvin.org/colamdeo1.htm
信仰の出発点は理屈(イデオロギー)ではなく、
「神の前に」という宗教性に立つのが
改革派信仰の核心と書かれているわけだが、・・・略
- 148 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/28(水) 09:02 [ GRIzjLTM ]
- >>147 それにしても、このURL自体、ほんま改革派コテコテだと思う。
なんてったって「calvin」やもんなぁ。
「colamdeo」っつうのは、それこそ「神の前に」っつうラテン語らしいしなぁ〜。
よくこんな「そのまんまやぁ〜」って、突っ込みたくなるURLゲットできたものだなぁ、感動しますわぁ〜。
- 149 名前: ろりぽっぷ 投稿日: 2004/07/28(水) 09:26 [ GRIzjLTM ]
- >>146 そうなんですわ。
ほんで、そやから>>143に、
>>ほんまそれぞれの教派には一つの体系があって、
聖餐式の問題一つにしても、救いの説(予定説、予知説等)をとってみても、
それぞれの教派の体系の中で理解しないと、いけないんだなぁ〜。
と書いたのですわ。
うむぅさんが>>147で言っているように、
このHPにありますように、神戸改革派神学校校長の牧田吉和氏は、
「神の前に」と包括的に表現されているのですが、
一般的に、改革派の根本原理として、神の主権、というのがあるのですわ。
ほんで、神様は人間より遙かにえらい(もっとええ表現ないんやろか?)以上、
救いに関しても、それがなされるにあたり、神様の意志が最も尊重される、ということになってくるのですねぇ。
で、予定説、となる、のですわぁ〜。
自画自賛になっちゃうかも知れないけれど、これに気づいたとき、
「うわぁ〜。そうなんか。ようできたあるなぁ。ちゃんと一本筋通してあるんやな。」
と、つくづく思いましたわ。
- 150 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/07/28(水) 09:47 [ Ax5357Ng ]
- 予定説に関しては、実はカトも内在はしている。
悪名高いマリア無原罪もその流れから出てきたという話だが。俺もよくわからん。
自由意志論と予定論とは、人間の応答と神の超越性とそれぞれに主眼を置いてるわけで
整合性持たせようとするとわけわからん事になる。
ケキョーク、神の領域への知覚の限界性を思い知らされるだけでな。
俺みたいな頭悪い人間にとってはね。
神の前に神学は阿呆なシロモノだろーが、神を知りたいと願うヤシらに
神はどういうものなのか説明しなきゃならなくなった時にマジに考えなくちゃならなくなったわけで。
無理とわかっていながら説明するしかない時もある罠。
そういうわけで、長い時間論議されてきた説ってのはそれなりに突っ込みどころに対する
説明もつくのが多い。
あと、なんらかの啓示は当然その中にもあると思う。
- 151 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/10/22(金) 06:51 [ wiSNBIuk ]
- あげ
- 152 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/11/16(火) 17:22 [ zQGd3AtQ ]
- ageだしどうふ食べたい。
- 153 名前: 2ちゃんのコピペですが。 投稿日: 2004/11/23(火) 08:32 [ eRKXxEts ]
- >550 :名無しさん@3周年 :04/11/22 21:53:21 ID:Mkykua2m
>カトリックにおけるプロテスタントの教会員への配餐は、
逃げ道があります。
カトリックの規定ではたしか「他教派の教会員で、どうしても
物理的にカトリック教会でしか聖体にあずかることができない
場合は特例として可」となっているはずです。
そこでは転居や病気などのケースが考えられているわけですが、
考え方によればもしカトリック教会のミサに、ルター派の私が
参加しているならば、私がそこにいる時間は「どうしても物理
的にカトリック教会でしか聖体にあずかることができない」と
解釈することが可能なわけです。私は遍在できないからね。
あと「合同礼拝」と「合同祈祷会」ですが、ほんとうならルター派
でも聖餐式を伴わない「礼拝」は「礼拝」ではなく、「祈祷会」です。
ですからカトリックがそう呼ぶのは当然ですし、ルター派だって
そう呼ばなければいけない。
「説教+聖餐」ではじめて「礼拝」なのに、月1回しか聖餐式
を行わないルーテル教会が多くてまったく困ったものです。
ルターは礼拝改革を行いましたが、カトリックのミサから聖餐
を取り去るような真似は決してしませんでした。
聖餐式の回数を増やそうとすると、聖餐式を増やすとありがたみ
が少なくなるなんて本当に馬鹿みたいな話になることがあります。
なんだかな・・・と思っちゃいます。
- 154 名前: 名無しのひつじさん 投稿日: 2004/11/23(火) 11:16 [ CkoZ3ihM ]
- 聖体とはパンとぶどう酒との形や色のもとにイエス・キリストの御体と御血が実際においでになる秘跡です 聖体にはそれと共にキリストの御霊魂も神の御神性も存在します
イエス・キリストはお亡くなりになる前日の夕食の時パンをとってこれを祝福し使徒達に与えて「とってこれを食べなさいこれは私の体である」と 次に杯を取ってこれを祝福し「この杯から飲みなさいこれは多くの人のために流される私の血である」と仰せられ 終わりに「私の記念としてこれを行いなさい」と命じて聖体の秘跡をお定めになりました(ルカ22.14-23)
イエス・キリストは聖体の秘跡を行う権能を十二使徒とその跡継ぎの司教司祭に与えられています
イエス・キリストが聖体の秘跡をお定めになったのはミサ聖祭によって十字架の犠牲を再現し聖体拝領によって信者の超自然の命を養い常に人々と共にお住まいになるためです
ミサ聖祭にあずかるにはイエス・キリストの十字架の犠牲を偲びながら罪の許しと救霊の為に祈り聖体拝領によって心も体も神に捧げるように努める事が大切です(コリントの信徒への手紙一11.23-30)
聖体拝領する訳はイエス・キリストが「私の肉を食べ私の血を飲まなければあなた方のうちに命はない」と仰せられたからです(ヨハネ6.48-59)
教会は少なくとも毎年一度復活祭の頃に聖体拝領するように命じています しかし度々 できれば毎日でも聖体拝領することが勧められます それは神との交わりにおいてこれに勝る方法がないからです
聖体拝領には心の準備と体の準備が必要です。
心の準備とは成聖の恩恵を持っていること つまり大罪がないことです
大罪がある人はその前に赦しの秘跡を受ける必要があります 大罪がありながら聖体拝領すれば汚聖の大罪をおかすことになります
イエス・キリストを信仰する人たちですからプロテスタントの方でもミサに参加できます ただミサの司式など細かいところは異なりますのでおいでになる前に神父様に連絡ください またおいでになったときは近くの者にカトリックのミサの手順などをたずねてください
特に御聖体はカトリックの信者でなければ拝領できませんのでご注意ください それ以外は問題はありません
■掲示板に戻る■ ■過去ログ倉庫一覧■