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私のビデオ評(第2R)
1 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/10/28(土) 11:08:35 [ 177.net059085054.t-com.ne.jp ]
そろそろ重たくなって来たので、
切りのよい所で第2ラウンドをスタートします。(^^;)

このスレッドは私がビデオで見た作品を、
ジャンルを問わずに勝手気ままに批評する場です。
その内容としては、映画や現代演劇は勿論のこと、
能・文楽・歌舞伎からオペラ・バレエに至るまで、
私が見る価値があると思って見たものは何でも書くつもりです。
ここでも当然、まじめな異論や反論は大歓迎です。m(_ _)m

その場合、評価の目安として、私の場合は、
一つ星から五つ星までで評価しています。
つまり、とりあえず娯楽作品として楽しめれば三つ星、
それ以上に深い内容があると思う佳作は四つ星、
そして、最高に素晴らしいと思う傑作は五つ星ですね。
逆に、退屈した作品は二つ星、最悪で不愉快な作品は一つ星
ということになっていますから結構、分かり易いでしょ!?

ただ、こうした評価ですと、どうしても、
三つ星が大半を占める結果になってしまうんですよね。
そこで、同じ三つ星の中で優劣を付けたい場合に、
☆☆☆+や☆☆☆−を使う、ということにしています。
では、第2ラウンドもよろしく。(*^^)v

  前スレ(第1R)――私のビデオ評
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1102295096/

2 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/11/02(木) 12:32:45 [ 249.net220148234.t-com.ne.jp ]
  ●⑧●ペリクリーズ(2003年さいたま芸術劇場)☆☆☆+●●●(1/2)

これはまたシェエイクスピア作品で、今回は演劇ですが、
例の蜷川幸雄の演出で、英国で上演する為に準備した作品を、
その前に国内で先行上演した時の録画だったようですね。
物語は珍しくハッピーエンドですが『日本文化を惜しげも無く総動員して、
シェークスピア晩期の大作に厚みを与えるのに成功した』という所でしょうか。
全体が琵琶法師の語りによって進行しますし、
途中の説明的な部分では、人形浄瑠璃の演出が流用され、
更に、最後には能まで登場しましたからね。(^^;)

物語は、タイアの王である主人公ペリクリーズが、
アンタイオケの王女に求婚する所から始まりますが……
この王女というのが『父親と近親相姦の関係にある』
というとんでもない設定なんですね。
ですから、父王はなんとかして求婚者をはねつけようとして、
彼らに謎を出し、解けない時は殺すというやり方をしてる分けですが、
その辺は、例のオペラ『トゥーランドット』と良く似てますね。

その時、主人公はその謎を何なく解いてしまうのですが、
それに気付いた王が彼を暗殺しようとするので、
彼は自分の身を守る為に、外国へと放浪の旅に出る分けです。
でも……この近親相姦の親子は最初と最後に話題になるだけで、
あまり物語の本質とは関係ないみたいですね。
結局、彼らは単に『主人公の放浪への旅立ちを動機づける』
という役割を担っているだけのようです。


さて、その放浪の旅で主人公が最初にたどり着いたのは、
飢饉に見舞われているターサスという国でした。
彼はそこで、国の太守クリーオンと知り合いになりますが、
追っ手の気配を感じて、再び旅に出ます。
その航海では、船が嵐で難破して沈んでしまうのですが、
主人公は運良くペンタポリスの海岸に漂着し、漁師に助けられます。
その時、漁師たちからその国の王女をかけた槍の試合が行われると聞き、
それに参戦して勝った主人公は王女セイーザをめとります。

そこへ、母国から迎えが来て、二人は帰国しようと船に乗りますが、
またまた嵐に遭遇する中で、セイーザは娘を産み落として死んでしまいます。
その時、彼は海の掟に従って、渋々ながら彼女を水葬する分けですが、
その柩が流れ着いた先のエフェソスには、
セリモンという名医がいて、彼女を生き返らせてしまうので、
彼女はその土地で、ダイアナ神殿の巫女として暮らすことになります。
他方『幼い王女マリーナに長い航海は無理』ということで、
主人公たちは先のターサスに立ち寄り、
嬰児を託して帰国するという所までが第一幕でした。


さて、後半の第二幕では、
ターサスに預けられたマリーナが美しく成長しますが、
彼女の存在により自分の娘がかすむのを妬んだ妃は、
彼女を殺そうとたくらみます。
しかし、殺される寸前で海賊が彼女を奪い去り、売春宿に売り渡すので、
彼女は、今度はミティリーニの売春宿で苦労することになります。

でも……この辺がいかにも有りそうにない無理な展開なんですが、
田中裕子の演じるマリーナはその智恵と純粋さによって、
客となって来る男たちを、ことごとく改心させてしまう分けですね。(^^;)
その客の中には、その国の太守ライシマカスもいたのですが、
マリーナは彼をも改心させるので、太守は彼女の虜になります。
こうして、奇跡的に純潔を守った彼女は、
その宿のポン引きまでをも感化してしまい、
裁縫の腕で身を立てて、売春宿に金を入れることになります。

3 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/11/02(木) 12:36:18 [ 249.net220148234.t-com.ne.jp ]
  ●⑧●ペリクリーズ(2003年さいたま芸術劇場)☆☆☆+●●●(2/2)

その頃、妻を失ったペリクリーズがターサスに娘を迎えに行くと、
マリーナは死んだと知らされ、失意の余り再び旅に出ます。
すると偶然に、船がミティリーニの沖合でまた難破しますが、
荒んだ主人公を見た太守ライシマカスは、彼を元気付ける為に、
聖女として有名になっていたマリーナを差し向ける分けです。

この親子再会が最大のクライマックスで、中々感動的な場面なんですが……
ここは英国風というのか西洋風というのか、散々気をもたせてますね。
例の山椒大夫にも、親子再会のクライマックスがありましたけど、
あの場面と比べても、かなりくどい感じがします。
見ている方は、さっさと『自分はペリクリーズの娘です』
と名乗らせれば済むのにと思う分けですが、シェイクスピアは、
そこの所をもったい付けて延々とやるので、10分位かかってましたね。(^^;)

そこへ、今度はダイアナ神殿から夢の御告げがあり、
生贄(いけにえ)を捧げろと言うので、親子は神殿に向います。
すると、そこで二人は巫女になっていた母親と再会し、更には、
娘とミティリーニの太守ライシマカスの結婚も決まるので、
全てが、めでたしめでたしという結末になります。


この辺の展開は、ペリクリーズを演じた内野聖陽が前説で、
『余りにご都合主義的だ』と語っていた所でしょうが……
こうして何もかもが、うまく行ってしまうというのは、
或いは、やたら不条理な悲劇が多いギリシャ劇に対する、
シェイクスピアの対抗意識もあったんでしょうかね!?

ところで、劇の最初と最後には、また戦場みたいな情景が出て来ますが、
これは本編を劇中劇にする趣向だった分けですかね。
私はどうも酒を飲みながら見ているせいか、
酔って来ると詳細がわからなくなって困ります。(^^;)
その点で、例の『ほら貝』さんの批評は結構、説得力がありますが、
私としては、そこまで手放しで褒める気はしませんでした。

  http://www.horagai.com/www/play/sibai/pl2003a.htm#P003
  戦争難民の劇中劇にするという趣向は早稲田小劇場的だが、
  早稻小では不幸な人々が不幸な芝居を演じるのに対し、
  蜷川は不幸な人々に幸福な芝居を演じさせた。
  「ペリクリーズ」はロマンス劇の中でも特に御伽噺的で、
  上演しにくい戯曲だが、不幸な人々の見る
  幸福の夢という額縁がつくことで、現代の芝居になった。


舞台装置としては、あちこちに蛇口付きの水道管が突っ立っていて、
そこから水が垂れて、下のバケツに流れ落ちるようになってましたが、
これも『戦争難民がたどり着いたスラム』という設定のようですね。
そこへ、天井から光線が降り注ぐ形になる分けですが、
その光を蛇口の上に垂直に垂らして柱を表現したり、
斜めに交差させて空間を表現したりしていました。

ただ……登場人物が多すぎるせいかもしれませんが、
一人の役者がやたら多くの人物を演じるものだから、
途中から少し頭が混乱して来て困りました。(^^;)
筋も相当複雑なので、まとめるのが一苦労でしたが、
詳細な荒筋は、こちらのサイトにありました。

  http://www.denpan.org/book/DP-23b-2c2-1/index_1.html
  ただいま上演中 〜 Tales of fantasy 目次
  http://www.denpan.org/book/DP-23b-2c2-1/15.html
  「ペリクリーズ」の舞台より〜 <1>

4 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/11/06(月) 10:21:20 [ 53.net220148228.t-com.ne.jp ]
  ●●●恋や恋なすな恋(1962)☆☆☆−●●●

能の『恋重荷』と関係があるのかと思って録画したんですが、
とんだ勘違いだったようですね。というのは、その能では
以下のような和歌が使われていたからなんです。
『恋や恋 我なかぞらに なすな恋 恋には人の 死なぬものかは』
(恋人よ、私を中途半端な状態に置き去りにしないでくれ。
恋の為に人が狂い死にすることがない、とは到底言えないのだから。)

因みに、ここでは『恋人よ』と敢えて意訳しましたが、
元の表現は『恋』という抽象名詞を擬人化してますね。
多分、この場合、相手が天皇の女御なので、
当時としては『恋人よ』と直接呼びかけることが、
恐れ多くて出来なかったんじゃないかと思います。

特に、歌の後半『恋には人の死なぬものかは』の迫力がすごいでしょ!?
それで、一体誰が作った歌かと調べてみたんですが、結局、
良くわかりませんでした。この能の作者が世阿弥のようですから、
ひょっとすると、この歌の作者も世阿弥なのかもしれませんね。


ところで、似たような恋の歌ですごいのが、もう一つありましたね。
それは、万葉集にある柿本人麻呂の歌ですが、
『恋するに 死にするものに あらませば 我が身は千たび 死にかへらまし』
つまり(もし、恋をするたびに狂い死にする宿命にあるのなら、
私は千回死んで、千回生まれ変わろう)という分けですからね。(^^;)

この『恋重荷』という作品は、能という古典芸能の印象からすると、
そのテーマが如何にも現代的なので、少し意外な感じを受けますが……
そのせいか、侍の価値観とは相いれない部分が多かったんでしょうか、
実は、江戸時代以降ほとんど演じられることが無かったそうです。

それが戦後に復活し、良く上演されるようになったようですが、
『庭の手入れをする下男の老人が、天皇の愛人である女御に一目惚れした末、
冷たくあしらわれて自殺する』という内容だったと思います。
その荒筋や内容については、以下のサイトが参考になります。
  http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/mansukejii/diary/200110#02
  京都にゆかりの、能のお話(恋重荷)その17
  http://do-yo.hp.infoseek.co.jp/6.html
  ■第六号■ 世阿弥の序破急


この映画は『阿倍保名(あべのやすな)』と
『芦屋道満(あしやどうまん)』の対立を基調とする物語ですが、
最近の『陰陽師 安部晴明』ブームに乗って、
昔の映画が引っ張りだされて来たんでしょうかね。
実は、この映画で阿倍保名が狐に生ませる子が、例の安部晴明なんです。

goo映画のサイトなどで調べてみると、この映画の元ネタは、
文楽の『芦屋道満大内鑑』や清元の『保名狂乱』にあるようです。
その意味で、ドラマとしては昔から良く知られている話のようで、
最近の安部晴明ブームも多分、この題材を利用したんでしょうね。
で、例の和歌の真相ですが、清元の『保名狂乱』を作った時に、
この能の謡(うたい)の文句が流用されたということのようです。

前半は、保名と道満の権力闘争の話が中心なのに対し、
後半は狐の怪異の話が主で、しかも歌舞伎調の演出になります。
秘伝書『金烏玉兎集』なんてのが出てきて奪い合いになる点は、
どことなく漫画チックで馬鹿くさいですし、
この物語全体も何か散漫な印象を受けますね。

他方、この映画で最後に出て来る岩の意味が良く分かりませんでした。
能の恋重荷に登場する岩を連想させる所もありますが、
周囲を狐火が飛びかっていた点からすると、保名の化身なんでしょうかね。
この頃はカラー映画がまだ珍しい頃だったと思いますが、
そのせいか、少し色の使い方が生な印象も受けました。

5 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/11/07(火) 10:48:26 [ 242.net220148171.t-com.ne.jp ]
  ●●●けちな騎士(2004年・グラインドボーン音楽祭)☆☆☆−●●●

これはラフマニノフのオペラですが……
何か作りかけの出来そこないみたいな作品ですね。(-_-;)
音楽的には大した内容がありませんし、結末もしり切れとんぼでした。
ひょっとすると、途中で放り出した未完成品かもしれませんね。
ただ、そのテーマからすれば、ちょっとした問題作かもしれません。
ひとことで言うと『金持ちのバカ息子』の話です。

『金をためることだけが生き甲斐』という典型的な守銭奴の男爵がいて、
息子はそれを恨めしく思っています。
『自分も、本来なら普通の貴族の子弟のように色々遊びたい』と思うのに、
父親がどけちなばっかりに、それが出来なくて悩んでいる分けです。
で、彼は仕方なくユダヤ人の金貸しから金を借りようとするのですが、
彼には何の担保も無いので、冷たくあしらわれるばかりか、
『父親を毒殺して遺産を手に入れる方法』をほのめかされます。

しかし、さすがのバカ息子も、そこまでやる勇気はなくて、
代りに思いついたのが、父親の上司である伯爵に仲介を依頼することでした。
そこで、伯爵は父親を呼びつけて何とかなだめようとしますが、父親は
『バカ息子に金を渡しても浪費するだけだ』と、全く言うことを聞きません。
更には『財産目当ての息子が、自分の命を狙っている』と言うので、
それに怒った息子が飛び出してきて、からくりがばれてしまいますが……
結局、父親はその直後にあっさり急死してしまい、話はそこで終わりでした。
これでバカ息子が財産を相続し、めでたしめでたしという分けでしょうかね!?
もっと詳しい筋を知りたい方は、こちらをどうぞ。
  http://homepage2.nifty.com/aine/opera1/opera185.htm


一体この物語が何を言わんとしているのか、もう一つ良く分かりません。
解説によると『父親は貪欲の罪で死んだ』ということのようですが、
貪欲の罪と言われても余りピンときませんよね。
まあ、何と言っても貴族が支配する封建時代の話ですから、
余り現代に引きつけて考えてはいけないのかもしれませんが……
取り敢えず、現代の視点で解釈してみようと思います。

先ず、父親が守銭奴であるという点ですが、
それは余り好ましいことではないとしても、一つの生き方であって
他人からあれこれ指図される筋合いの問題ではないでしょうね。
無論『幾ら金をためても、来世まで持って行ける分けではない』
ということを、この父親がどれだけ深く理解しているかは別問題ですが。

まあ、封建社会の場合『金持ちが守銭奴では、金が回らなくて困る』
ということは言えるかもしれませんが、あくまで現代の視点で言えば、
それは単に税制の問題に過ぎないですからね。
つまり『金を回したいなら、金持ちからどんどん税金を取れば良い』
というだけのことですよね。


他方、息子の問題を言うなら、結局『人間というものは、
自分の才覚で手に入る金の範囲で生きるしかない』ということですね。
父親がどんなに金持ちだろうが、それは自分とは関係ないことでしょ!?
その金がどうしても欲しいなら、単に父親が死ぬまで待って、
相続すれば良いだけのことです。

ユダヤ人の金貸しから金を借りようとして失敗したあげく、
金貸しを罵るところなんか、全く愚かというしかないですね。
無論、当時の社会では現代のように
『金が欲しければ、アルバイトをすれば良い』
という分けにも行かなかったでしょうから、
その辺が難しい所かもしれませんけどね。

ともかく、人生で一番大切なことは、背伸びをせず、
身の丈にあった暮らしをすることだろうと思います。
他人から借金をして、自分の収入以上の生活をすれば、
必ずしっぺ返しが来る分けで、
サラ金にはまって自己破産するなんて、その典型ですよね。
私なんか、たとえ泥水を飲むはめになっても、
他人から金を借りて生きようとは思いませんからね。(^^;)

6 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/11/09(木) 09:50:56 [ 222.net059085043.t-com.ne.jp ]
  ●●●晩菊(1954)☆☆☆●●●

これは例の成瀬巳喜男特集の一つでしたが、
ここでも『守銭奴』が一つのテーマになっている点で、
前回の『けちな騎士』と相通ずる所がありますね。
時代は戦後まもなくの、日本がまだまだ貧しい頃で、
戦争をくぐり抜けた三人の中年女の生き様が描かれます。

先ず『身寄りがなく金だけが頼り』という主人公がいて、
彼女は昔の芸者仲間など、知人に金を貸して生計を立てています。
その借り手として『一人娘がこれから結婚する』という女や、
『一人息子が職を求めて北海道に旅立つ』という女が絡みますが、
特にドラマチックなことが起こることもなく、
各人の事情を淡々と描きつつ、映画は終わります。

その中では、主人公と昔の男たちの関係が一つのポイントでしょうね。
一人は彼女と無理心中しようとして失敗し、刑務所に入れられた男、
もう一人は、彼女と一時は恋仲にありながら、別の女と結婚した男。
前者に対しては被害者感情しか持っていない主人公ですが、
後者に対しては未だに未練を残していて、
彼に会う時だけは化粧に余念がない彼女でした。


結局、どっちの男も彼女の財産を聞きつけて、金を無心に来るわけですが、
剣もほろろに追い返す前者に比べ、後者には最初の内、丁寧に接します。
ところが、金目当てと知った途端、彼女の気持ちは冷めてしまう分けです。
女心としては、ここで『妻とはもう駄目だから、二人でやり直そう』
とか口説かれることを期待していたのかもしれませんね。(^^;)

こうして、周囲からは金銭亡者として冷たい目で見られつつも、
どっちの男にも、うかうかと金を巻き上げられることなく、
しっかり生きて行く、という面白みのない(!?)結末のようでした。
これまた『日本の一時代の風景が、こうして切り取って残された』
とは言えるでしょうが、名作とまで言えるかどうかは微妙ですね。

最初に指摘した問題に関して言うなら、この場合にしても、
他に何も頼るものがない身寄りのない女が、一人で生きていこうとする以上、
その守銭奴的生き方を責めることは、誰にもできないんじゃないでしょうか。
その意味で、とにかく子供を産んで育てた他の二人と対比される分けですが、
結局は、女の人生として一体どっちが幸せかということになるんでしょうね。

7 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/11/10(金) 10:51:28 [ 172.net220148238.t-com.ne.jp ]
  ●●●白鯨(1956)☆☆☆+●●●

これまた結構、名の売れた映画なので録画したんですが、
アメリカの小説家メルヴィルの作品を映画化したもののようです。
海の男を描いている点で、例の『老人と海』と似通った所がありますが、
この映画もまた、英語の勉強には良い材料になるでしょうね。

『海の王者として神格化されていた白鯨・モビーディックに、
片足を奪われた船長エイハブが復讐の執念を燃やす』という物語ですが、
『本能で動く動物に復讐心を抱くことは、神の意志に反する』
というある人物による批判には説得力がありました。

結局は、予言者が言う通り、語り手の一人を例外として、
船長を含めた全員が、白鯨との戦いの中で命を落すことになります。
特に、終盤の嵐の描写は中々見応えがありましたが、その中でも
『セントエルモの火』という発光現象が興味深かったですね。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%81%AE%E7%81%AB

8 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/11/12(日) 09:59:53 [ 73.net059085042.t-com.ne.jp ]
  ●●●天網島時雨炬燵(2006年2月国立小劇場)☆☆☆●●●

文楽作品を正式に取り上げるのは、やっと二つめだったと思いますが、
今回は、人形浄瑠璃というもの本質をひとくさり考えてみたいと思います。
文楽観賞では、良く『三人の人形遣いが目障りだ』と言う人がいますけど、
それは、例えばオペラで『一々セリフを歌にするのが不自然だ』
というのと同様に、あくまで『どしろうと』の発想ですよね。(^^;)
結局、そうした枝葉末節が気になるのは、ドラマに没入していないからで、
一度、その世界に入り込むと、途端に全く気にならなくなる分けです。

例えば、オペラの場合『愛しています』とひとこと言えば済む所を、
同じセリフを繰り返しつつ、延々と三分位歌い続ける分けですね。
で、それが冗長かというと全くそうではなくて、
むしろその歌は、どんなセリフよりも圧倒的な説得力をもって、
観客の心に訴えてかけ来る分けです。

文楽の場合、特に人形遣いの親玉である主遣い(おもづかい)が
素顔を出しているので、最初はひどく目障りに感じられると思います。
これを出遣い(でづかい)と言うそうですが、でも、実を言うと、
文楽ではこれがまた不可欠な要素なんですね。
私も最初の頃は、三人とも顔を隠した方が良いように思っていたんですが、
実は、場合によって、そういう演出もあるようなんです。


で、それを見た時の印象なんですけど……
確かに、その方が人形だけに集中できるのは事実なんですが、
何か物足りないんですよね。(^^;)
で結局、気付いたのは『文楽の本当の魅力というものが、
顔を出した主遣いと人形との相互作用にあるんじゃないか』
ということだったんです。
言わば『人形が演じる架空の世界を間に挟んで、
人形遣いと観客とが対峙している』という感覚ですね。

その点では、さっき『ドラマに没入云々』と言いましたけど、
文楽という芸能に限っては『観客は作品の世界に完全に没入することを、
演者の顔によって妨げられている』とも言える分けですから、ある意味で、
作り物としては何か中途半端というか宙ぶらりんみたいな所がありますね。
でも『没入したくても没入できない』という緊張関係の中で、
人形遣いと観客とが『架空の物語世界』を共有するという状況が、
ある意味で、文楽の本質をなしているように思います。

その時、観客は『人形と人形遣いとが全く別の人格でありつつも、
一体化している』という不思議な感覚の中を漂う分けで、
そこに生まれる化学反応のようなものは、例えば、
『二枚のずらし絵(ステレオグラム)が突然、立体的に見え出す』
時の驚きにも似たものがあるんじゃないでしょうか。
  http://namai.com/spg/heikou.html
その意味で、文楽においては『人生の年輪を刻んだ主遣いの顔』
というものが特に大切で、顔の悪い演者では台無しになるように思います。


さて、今回の『天網島時雨炬燵(てんのあみじましぐれのこたつ)』
ですが、一体どんなドラマかと期待した所、
例の『心中天網島』そのまんまでした。(^^;)
結局、近松の原作の方はあまり上演される機会がなくて、
その改作版の方が有名になってしまった、ということのようです。
その辺も含め、次のサイトは良くまとまっていて参考になりました。
  http://homepage2.nifty.com/hay/amizima.html

今回の放映は、もう一つの近松悲劇『曾根崎心中』と一緒だったせいか、
『北新地河庄の段』と最後の『道行名残りの橋づくし』だけの抜粋で、
題名の『時雨炬燵』が由来する『天満紙屋内の段』は省略されてました。
実は、改作でポイントとなった部分も、その段にあるようなんですね。
前の段は『遊女の小春に裏切られたと思い込んだ紙屋治兵衛が、
障子の外から刀で突き刺そうとして、逆に両腕を桟にくくり付けられる』
という有名な場面で、後の段は最後の心中に至る場面ですね。

でも、やはりこうしたものは、何と言っても
通し上演を見ないと面白くないようですね。
そのせいか、途中で『こはる〜おばさん〜あいにゆくよ〜♪』
なんて歌を思い出しましたが……これは井上陽水の名曲でしたね。(^^;)
  http://himajin-nobu.at.webry.info/200604/article_26.html
そうそう、村田英雄の『人生劇場』にも『ぐ〜ち〜もいわずに
にょうぼのこはる〜♪』なんていうのがありました。

9 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/11/13(月) 10:26:40 [ 81.net059085040.t-com.ne.jp ]
  ●●●ジャンニ・スキッキ(2004年グラインドボーン)☆☆☆+●●●(1/3)

これは『けちな騎士』と一緒に放映されたオペラですが、
同じ貪欲をテーマとする作品を二つ並べて上演したようです。
ただ、オペラとしては、このプッチーニ作品の方がずっと上手で、
その音楽的内容も濃いですね。
その中でも、特に有名なのが『私のお父さん』というアリアですが、
『ドードミーシラーソー ドレミド↑ドドーソー』という奴ですね。

物語は遺産相続をめぐる騒動がテーマで、舞台はフィレンツェでした。
ある大金持ちが死んで遺言書を残しますが、そこには
『遺産の全てを修道院に寄付する』と書かれている分けです。
そこで、遺産目当てに集まった親族たちは落胆しますが、何とかしようと
知恵者で知られる主人公のジャンニ・スキッキを呼び出します。

この主人公がまた、ユダヤ人という設定のようですが、
彼は田舎者として親族たちに馬鹿にされている事情もあって、
最初は協力することに余り乗り気ではありませんでした。
ところが、彼の娘が親族の一人と恋仲で、結婚を予定しているという分けで、
何とか父親を口説き落しますが、その時の歌が例の『私のお父さん』で、
『もし一緒になれないなら、アルノ河に飛び込んで死ぬ』と脅します。


そこで悪智恵を働かせた主人公は、まだ死者が生きていることにして、
自分がその死者になりすまし、公証人の前で
新たな遺言の口述筆記をすることになります。
で、親族たちは改めて遺産分配の相談を始める分けですが、
主要な三つの遺産については話し合いがつかず、
最終的に主人公の裁量に委ねられます。

こうして公証人が呼び出されますが……
当時のフィレンツェでは『遺言を偽造した者は、
協力者ともども手の先を切り落として追放する』
という決まりがあったそうですね。

となると、親族たちも主人公と一蓮托生という分けですから、
その恐怖感を逆手にとって、主人公は
主要な遺産の相続人を全て自分にしてしまう分けです。
騙されたと気付いた親族たちは大騒ぎとなりますが……
もはや後の祭りという分けで、騒動のうちに幕となります。


結局、親族の遺産争いの醜さと、
ユダヤ人のずる賢さが印象に残りますが、
前回のオペラ『けちな騎士』よりも解釈が難しそうですね。
悪だくみをすれば、必ずつけ込む奴がいるということでしょうか。

実際、現代でも『余りおおっぴらにしにくい行為では、
やくざにつけ込まれる』という構図があるのは事実ですからね。
まあ、そこを敢えて『強欲はろくな結果を招かない』と解釈すれば、
前回のオペラとも辛うじてつながりますけどね。

因みに、ジャンニ・スキッキというのは、
ダンテと同時代のフイレンツェの詐欺師で、
彼が書いた有名な叙事詩『神曲』の中では、
遺言書偽造の罪で地獄に堕ちた人物として描かれているそうです。

10 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/11/13(月) 10:33:23 [ 81.net059085040.t-com.ne.jp ]
  ●●●ジャンニ・スキッキ(2004年グラインドボーン)☆☆☆+●●●(2/3)

ところで、またまた余談ですが……(^^;)
フィレンツェと言えば、何と言ってもドゥオモですよね。
私がフィレンツェに着いた日は、もう夜中で真っ暗でした。
で、その中を宿を捜しつつ町の中心部へ歩いて行くと、目の前に突然、
このドゥオモが現れたんですが、その時の衝撃は未だに忘れられません。
余りのすごさに圧倒され、暫くは言葉を失って呆然とたたずんでましたね。

それまでにも、すごい教会(カテドラル)は数々見ていましたが、
ここのドゥオモ(ドームという意味ですが)は、それらのどれとも異なり、
色違いの石を組み合わせた、カラフルで極めて壮麗な建築物だった分けです。
  http://www1.plala.or.jp/hos_a/fi1.jpg

特に、運が良かったのは夜に訪れたことかもしれませんね。
翌日に明るくなってから眺めてみると、
かえって壁面の汚れが目について少し興ざめでした。
ただ、世間的にはローマのバチカン宮殿の方が有名かもしれませんが、
建築物としては、こっちの方が遥かに上手でしょうね。


結局、私の評価としては、南ヨーロッパをめぐった中で、
カテドラルの三傑はパリのノットルダム、フィレンツェのドゥオモ、
そして、例のバルセロナのサグラーダ・ファミリアでした。
でも、これらに限らず、ヨーロッパを旅するなら、
何と言っても、各地のカテドラルは必見ですよね。

例えば、富士通が提供する『世界の車窓から』という番組では、
良く沿線風景を映してますけどね、私なんか『お前らアホか、
そこまで行きながら、すぐ近くのカテドラルを見ずに通り過ぎるのか』
と叫びたくなることが度々ですからね。(^^;)


このイタリアで言うと、他にもミラノのドゥオモがすごいですし、
ピサにしても、有名な斜塔なんかより隣のドゥオモの方が必見ですからね。
とにかく南欧の教会建築の迫力は、圧倒的なものがあります。
特に、パリの場合、街の各所にある教会が全て素晴らしいですからね。

観光客には、エッフェル塔や凱旋門の方が有名かもしれませんが、
パリで本当に見るべきなのは、そんなものよりも、
こうした教会建築群の見事さだろうと思います。
その一つ一つが厳選されていて、一つとして似たものがなく、
本質的に異なる形をしてますから、発見するたびにあっと驚かされました。

その中では、ゴシック様式のノットルダム、タージマハール風のサクレクール、
そして、ギリシャ様式のドラ・マドレーヌとこの三つがパリの三傑でしょうね。
こういうのを見慣れた後で、日本に帰国した場合、
その都市風景の貧しさに、ゲッソリすること請け合いです。(-_-;)

11 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/11/13(月) 10:35:12 [ 81.net059085040.t-com.ne.jp ]
  ●●●ジャンニ・スキッキ(2004年グラインドボーン)☆☆☆+●●●(3/3)

ただ、その場合ひとつ考えて置くべきなのは、
こうしたカトリック教会群の建築美の背景には、
ユダヤ主義の戦略があるだろう、ということですね。
というのも、宗教の力の厳選の一つとして、
そういう建築美があるに違いないからなんです。

例えば、日本の場合で言うと、第二次世界大戦での空襲により、
各地の寺院などは大方、焼けてしまった分けですね。
その中で、空襲が無かった京都だけは沢山の古い寺院が生き残りましたが、
その結果、京都では未だに仏教会が隠然たる力を持っているようですね。
その力の背景に、こうした仏教建築があることは疑えないだろうと思います。


似たようなことで言えば、音楽にしてもそうでしょ!?
『三度飯』で良く取り上げるミサ曲は、カトリックの典礼音楽ですが、
このミサ曲に圧倒的な名曲が多いという事実も、
カトリックの力の源泉に違いない分けで、裏返して言うなら、
そのように操作するユダヤ主義の戦略があったに違いないんです。

その意味で、カトリックの教会建築や教会音楽が素晴らしいのは、
単なる偶然ではない、ということを理解すべきだと思います。
つまり、カトリックを通して謀略支配するユダヤ主義にとっては、
あらゆる方法を駆使して、カトリックの強大な権力を
維持することが不可欠だったということですね。


話を再びフィレンツェに戻しますと、この街はまた、
ルネッサンスの生みの親としても知られる分けです。
13世紀のモンゴル帝国による侵略をはね返した後、
神聖ローマ帝国は徐々に弱体化して行きますが、
こうした外からの刺激もあって、ダンテが生まれてすぐ後に、
マルコポーロが東方に旅立ちます。

でも、彼の東方見聞録は当初、誰も本当にせず、
マルコポーロは希代の大嘘つきと思われていたそうですね。
まあ、キリスト教的な価値観からすれば、それは当然かもしれません。
何故なら、神が作った世界において、全くの異教徒が作り上げた、
巨大な文明が存在するという事は矛盾していますからね。

逆に言うと、徐々にそうした事実を認めざるを得なくなると共に、
キリスト教世界の絶対性というものが疑われるようになり、
カトリックでガチガチに固められた世界観にスキが生じたんでしょうね。
『14世紀のフィレンツェでルネッサンスという人間復興運動が始まり、
15世紀の大航海時代が進行する中で、16世紀の宗教改革に至る』
という道筋には、そうした時代背景があっただろうと思います。

12 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/11/14(火) 10:26:43 [ 167.net059085048.t-com.ne.jp ]
  ●●●容疑者 室井慎次(2005)☆☆☆−●●●

これは、例の『踊る大捜査線』からのスピンオフという奴でした。
通常、映画ではゼロから人物関係を把握するのが一苦労な分けですが、
特に私みたいに、人物の顔と名前を記憶するのが苦手という場合、
『それを頭に入れようと努力している内に、物語が半分以上進んでしまい、
分けが分からなくなる』ということが珍しくないように思います。(^^;)

それでもまだ、日本映画で俳優に見覚えがある場合は良いんですが、
外国映画で俳優の顔もろくに知らなかったりすると悲惨ですよね。
その点、最近はやりのシリーズ物は、人物関係が記憶に残っていて楽ですが、
同じことが、こうしたスピンオフにも言えるようです。
シリーズとして継続する程のアイデアがない場合、
この手のスピンオフに頼るということになるんでしょうか。

ただ、この映画に限って言うと、少し脚本が弱過ぎましたね。
特に、悪徳弁護士・灰島の事務所に主人公の室井が最初に乗り込む時、
相手を追い詰める材料を何も持たずに行く所なんか、
余りに芸がないですね。ガキのつかいじゃあるまいし、これじゃ、
軽くあしらわれて追い返されるに決まってますもんね。(-_-;)
更に、一工夫も二工夫も欲しい所ではないかと思いました。

13 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/11/15(水) 10:08:52 [ 85.net220148232.t-com.ne.jp ]
  ●●●LOVERS(2004)☆☆☆●●●

これまた張芸謀作品ですが、内容的にはもう一つでしたね。
何か中国の唐時代に起こった反政府運動を背景に、
政府軍と反政府軍の対立と抗争の中で、男女の三角関係が描かれます。
その場合『実は……実は……』と、やたら意外な方向に展開する点は、
歌舞伎を連想させる所もありますが、基本的には
『忍者みたいな超能力を持つ武者同士が対決するアクション大作』
という点で、以前に書いた『Hero』と同じ系列の作品ですね。

その意味では、竹林における戦闘場面が最大の見所でしょうけど、
やたら香港映画みたいなアクションにアイデアを凝らす余り、
肝心の男女の愛憎劇の方は、味わいが薄くなったように思います。
因みに、映像のみずみずしい美しさは特筆に値しますが、
ワダエミの衣装は、この時代にしてはちょっと派手すぎですね。
多分、当時の服装を忠実に再現したと思われる唐の役人の衣装が
充分地味なのに比べ、かなり浮いている印象を受けました。

それから、これは『Hero』でも書いたことですが、
この放映では、登場人物がまたまたカタカナ名だけなので、
さっぱりイメージが湧かずに苦労しました。
その点、最近のNHKは漢字も出すようになったみたいですが、
この録画はテレビ朝日で、おあいにく様でしたね。(-_-;)

14 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/11/16(木) 11:12:45 [ 33.net059085040.t-com.ne.jp ]
  ●●●曾根崎心中(2006年2月国立小劇場)☆☆☆●●●

先に書いた『天網島時雨炬燵』と同時に放映された作品ですね。
既に部分的には何回か見た記憶がありましたが、
全体を通しで見たのはこれが初めてかもしれません。
で今回、改めて感じたのは、近松の『心中3部作』の中で、
この作品は一番、説得力が薄いということですね。

結局『主人公・徳兵衛が虎の子の大金を幼なじみにだまし取られる』
というのが、この物語の核心をなす分けですが、
自分の幼なじみなのに、その人間性に対して全く無知であるとするなら、
責任の半分は主人公にある、とも言える分けですよね。
その意味で、厳しく言えば、身から出た錆ということになると思います。

他方では、その幼なじみの犯行が極めて計画的であるのに比べ、
主人公が田舎から大金を持ち帰る経緯は偶然性が強い分けで、
その辺にも、矛盾を感じざるを得ません。


更に言うなら、この極悪野郎に騙された後、
『相手と刺し違えて死んでやろう』というならまだしも、
『知り合いの遊女・お初と心中して、身の証しを立てよう』
なんて考えること自体、余りに気弱というか、
男として情けない、と言わざるを得ませんよね。(-_-;)

ただ、ドラマツルギーとして見た場合『こうした悪役の登場は、
物語を一気に引き締める効果がある』ということも事実なんですね。
見る者の憎しみのエネルギーが悪役に集中しますから、
観客は一気にドラマの中に引きずり込まれる分けです。

それから、第三幕は徳兵衛とお初の道行の場面ですが、
ここの冒頭で語られる七五調の名文句は余りにも有名ですよね。
『この世のなごり 夜もなごり
死にに行く身を たとふれば あだしが原の 道の霜
一足づつに 消えて行く 夢の夢こそ あはれなれ 
あれ数ふれば あかつきの 七つの時が 六つ鳴りて
残る一つが こんじょう(今生)の 鐘のひびきの 聞きおさめ……』


この名調子だけで、それまでの『説得力が薄いの何の』
という不満を一気に吹き飛ばしてしまう位の力があります。
近松の道行文については、こちらに詳しい解説がありました。
  http://homepage2.nifty.com/hay/mitiyuki.html

この上演では、一幕と二幕では主遣いは顔を出さず、
ようやく第三幕のクライマクスで、いわゆる出遣いになりますが……
こうした演出法は、多分に現代的な配慮があるのかもしれません。
つまり、観客が物語に完全に没入するのを待って、出遣いになる分けですね。

というのも、この演目は幕府が心中物の上演を禁止した為、
江戸時代には、たった数回しか上演されなかったそうです。
その復活上演は、文楽では戦後の1955年と言いますから、
ほんの半世紀ほど前に過ぎない分けですね。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E6%A0%B9%E5%B4%8E%E5%BF%83%E4%B8%AD

15 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/11/18(土) 12:40:20 [ 156.net220148175.t-com.ne.jp ]
  ●●●ドンキホーテ(2005年6月26日・新国立劇場)☆☆☆☆●●●

これまた、以前は断片だけを見たように思って録画したんですが、
全体を見直してみると、既に全編を見ていたようです。(-_-;)
この作品は、作曲が例のミンクスで、音楽だけを聞くには退屈すぎますし、
物語も、キトリとバジルの恋に焦点を当てた展開は面白みに欠けます。
ただ、今回はクラシック・バレエの粋を尽くした絵巻物のようで、
かなり充実した出来だったので、改めて見ても損は無かったかもしれません。

特に、その舞台美術が中々幻想的で、素晴らしかったですね。
因みに、第三幕の背景に出て来るクネクネ柱が印象的ですが、
もっとすごいのをバチカン宮殿の内陣で見たことがあります。
このバルダッキーノという奴ですが、バロック様式の一つらしいですね。
  http://www.cafesuzie.com/r-vatican11
  http://web.kyoto-inet.or.jp/org/orion/img/hst/pcd03-33.gif


今回の公演では主役級だけをロシアから呼んだみたいですが、以前に見たのは、
1999年の東京文化会館におけるボリショイ劇場の来日公演でした。
改めて調べて見た所、実はその時の評価も四つ星だったんですが……
まあ、この作品の場合、音楽も物語も二流ですから、
どう転んでも五つ星はないでしょうね。(^^;)

セルバンテスの『ドンキホーテ』を元にしたものとしては、
他にも、ミュージカルの『ラマンチャの男』が有名ですが、
原作が相当長いので、同じ素材でも焦点の当て方で全く違って来ますね。
その意味では、あばずれ女・アルドンサの改心に焦点を当てた
『ラマンチャ』の方が遥かに中身の濃いドラマになっていたと思います。

16 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/11/24(金) 10:11:31 [ 165.net220148174.t-com.ne.jp ]
  ●●●きらめきの季節(2001)☆●●●

こんな映画をどうして録画したのか記憶にないんですが……
『台湾のチンピラ』がテーマの、箸にも棒にもかからない代物ですね。
監督の力量がどうの、とかいう以前の問題として、
『何でこんなのもがNHKのBSで放映されるのか』という意味で、
『日本人の批評眼の欠落』が深刻に問われていると思いました。(-_-;)

というのも、この作品はNHKアジア・フィルム・フェスティバルに出品する為、
NHKと台湾の合作で作られたという経緯があるようですからね。
まあこの頃は、不景気の絶頂でもあった分けですが、
それにしても、洗脳の深化と共に『物を見る目を持った日本人が、
決定的な欠乏状態に陥っている』と言うことなんじゃないでしょうか。

実は、後から気付きましたが、この映画を作った監督の前作『最愛の夏』が、
1999年の東京国際映画祭でグランプリを受賞しているようです。
多分それで、録画しようと思ったんでしょうけど、
この様子だと、その前作も余り期待しない方がよさそうですね。

17 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/12/01(金) 10:43:03 [ 245.net220148226.t-com.ne.jp ]
  ●●●愛と哀しみのボレロ(1981)☆☆☆+●●●(1/2)

久々のフランス映画でしたが、私からすると、
1981年なんて暗黒時代の入り口ですからね。(-_-;)
その意味で、余り期待はしてなかったんですが、
結果的には、かなりコクのあるドラマになっていたと思います。
物語は、フランス・ドイツ・アメリカ・ロシアと、
この四つの国の四つの家族の話が中心のようでした。

gooの映画サイトによると、それぞれ、
歌手のエディット・ピアフ、指揮者のカラヤン、
ジャズのグレン・ミラー、バレエのヌレエフがモデルらしいですね。
第二次大戦をはさむ激動の時代に、それぞれの家族がたどった運命を、
じっくりと追いながら、あの大戦が人々の心に残した傷跡を、
重層的に描き出していたような気がします……。
『気がします』というのは、つまり、
例によって俳優になじみがない上、親子を同一俳優が演じるので、
誰が誰だかサッパリ分からない内に終わっちゃったんですよね。(^^;)

国から国への転換も、どれがどの国か良く分かりませんでしたが、
この辺は、もう少し文化の差を強調して描くべきだったんでしょうね。
最後は、エッフェル塔前のトロカデロ広場で、
四つの家族が出会うという設定ですが、その時、
ラベルの有名な『ボレロ』という曲をカラヤンが指揮し、
ヌレエフが踊るなどという点に、この映画の題名が由来するようです。


どの家族がどのモデルかという点はもう一つハッキリしませんでしたが、
アウシュビッツ収容所に送られる途中の停車駅で、
わが子を救う為に置き去りにするユダヤ人の話がある一方、
ヒトラーに協力したカラヤンのニューヨーク初公演では、
ユダヤ人が切符を買い占めてしまう結果、たった二人の記者を前に
ブラームスの第一交響曲を演奏するなんて所が印象に残りました。

また『戦争中はドイツ人と寝たのに、戦後はアメリカ人と仲良くしている』
と非難されるフランス女の姿も印象的ですが、ここには多かれ少なかれ、
フランス人の自画像が投影されているんでしょうね。
でも、余りアメリカナイズされたフランスは見たくない気がしました。

それから、全編を通じて『他人は他人(Les uns et les autres)』
という歌が歌われていて、これがテーマの核心をなしているようですが……
でも『人間がそんなに他人思いになれない』のは言わば当然の事でしょ!?
ですから私なんかは、そこを精神論でどうこうしようと考えるより、
根税制のようなものを導入して『貧富格差を多数決で決める』ことが、
最善の解決策になるんじゃないかと思う分けなんですけどね。(^^;)
(因みに『Les uns et les autres』は映画の原題でもあるようです。)

18 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/12/01(金) 10:50:54 [ 245.net220148226.t-com.ne.jp ]
  ●●●愛と哀しみのボレロ(1981)☆☆☆+●●●(2/2)

ところで、またまた余談ですが、顔の区別がつかないという点では、
欧米人が良く『東洋人の顔は全て同じに見える』なんて言いますよね。
でも『だから、東洋人の顔には個性がないんだ』
なんて主張するとしたら大間違いなんです。
実際問題として、日本人の顔には実に色んなのがいますからね。(^^;)
それは結局、日本という国が人種の吹きだまりみたいな所で、
あちこちから集まった人種が融合した結果として、
今の日本人が出来上がっている為なんじゃないかと思います。

例えば、ブータンとかネパールなんかを旅する日本人は、
その土地の人間が日本人にそっくりなことに驚くそうですけどね。
でも、その場合、仮に『ブータン人が日本人に似ている』としても、
逆に『日本人がブータン人に似ている』とは言えないんですよね。
というのは、つまり『ブータン人が日本人に似ている』というのは、
あくまで『日本人の一部に似ている』に過ぎないからなんです。

言わば、ブータン人の顔は日本人の顔の『部分集合』なんですね。
ですから、任意のブータン人は日本人に似ていますが、
任意の日本人がブータン人に似ているかと言うとそうではないんです。
言い換えるなら、大昔に日本人として融合した要素の一つとして、
ブータン系の人々がいたということなんじゃないでしょうか。


その点で最近、良く思うのはモンゴル人の顔も、
これまた日本人と実に良く似ているということですね。
例の朝青龍をはじめ、モンゴル出身の力士なんか、
もし黙っていれば絶対に、外国人とはばれないでしょうね。
つまり、彼らもまた、日本人として融合した要素の一つなんでしょう。

それに比べると、中国人や朝鮮人の場合、日本人と似た顔がいる一方で、
日本人とは、どことなく違う顔も少なくない分けですね。
結局、この場合は例えば色の三原色の図みたいな感じで、
相互に共有する部分と異なる部分とがある分けでしょうね。
つまり『一方が他方を完全に包含する関係にない』という点で、
ブータンやモンゴルの場合とは違うんだろうと思います。

で、話を元に戻しますが、問題は『欧米人の顔に比べ
東洋人(特に日本人)の顔に個性がない分けではない』ということです。
実を言うと、欧米人から見て東洋人の顔が同じに見えるのと同様、
逆もまた真なりで、東洋人が欧米人を見る場合でも、
全く同じことが言えるんですよね。


で、何故そうなるのかというと結局、人間が他人の顔を判別する場合、
自分の身近にいて良く知っている人を基準に、
その顔との違いというか距離を利用するせいだろうと思うんです。
その時、欧米人から見ると、東洋人の顔というのは、
自分たちの基準からは全て同じ位、遠くに位置する分けですから、
全て同じに見えてしまう結果になるわけですね。
ですから、東洋人が欧米人を見る場合も、全く同じ意味で、
顔の区別を付けにくいということが分かりますよね。

私の経験から言うと、その点で最悪なのが軍隊ものの映画ですね。
というのも、各人が通常の服を着ている限り、その服装には、
その人の個性というものが如実に現れますからね。
顔で区別がつかない分は、服装の個性から
ある程度、見分けることが出来る分けです。
ところが、軍隊もので全員が軍服を来て登場する場合、
顔で区別がつかないと、もうどうしようもない分けですね。(-_-;)

その意味で一つ面白かったのは、題名は忘れましたが、
欧米人が作ったある演劇で、いろんな人種が登場する作品でした。
その時、欧米人が俳優を選び出す場合、欧米人についてはいつも通りですが、
アフリカ人やアジア人を選ぶ時は、彼らが見て区別がつく顔を選ぶ分けですね。
ですから例えば日本人が見ると、アジア人は勿論アフリカ人も区別がつくのに、
欧米人だけは区別がつかないという事態になっていた分けです。(^^;)

20 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/12/14(木) 12:21:56 [ 136.net059086098.t-com.ne.jp ]
  ●●●貞操花鳥羽恋塚(2005年10月国立大劇場)☆☆☆●●●(1/5)

貞操花鳥羽恋塚(みさおのはな とばのこいづか)と読みますが、
これは東海道四谷怪談などで有名な鶴谷南北の作品ですね。
今回はその通し上演ということでしたが、
この放映では前半の相当部分がカットされていました。
ただ、それはともかく、筋が余りに入り組んでいるので、
何か消化不良の感じが残りましたね。(-_-;)

その点では『歌舞伎の筋は余りに複雑過ぎて、
破綻があるかどうかすら分からない』と言う人もいる位ですが、
これは確か『本朝二十四孝』に関してだったですかね。
その場合、ひとつの問題として『登場人物の血縁関係が、
入り組み過ぎている』ということがあると思います。
ですから、各人の感情をどう理解したら良いのか、
現代人はそこの所を解釈するだけでもひと苦労なんですね。

まあ日本の場合、実際の歴史においても保元の乱などでは、
武家の親兄弟が敵味方に別れて殺し合った分けですね。
その場合『どっちが勝っても、自分たちの家系を残そう』
という武家の思惑もあったようですけどね。
それに昔は、現代のような一夫一婦制とは違って、
一人の家長に妻が沢山いた分けですね。
それも一つには、お家の断絶を防ぐ意味合いがあったようですが、
でも、兄弟が何十人もいる場合、同じ兄弟の絆とはいっても、
たった数人しかいない現代の兄弟の絆とは、大違いでしょうね。(^^;)


元の作品は6幕16場もあって、全体の上演に10時間もかかったので、
江戸時代には朝から晩までやっていたそうですが、
この上演ではそれを整理・圧縮して、4幕9場にしたそうです。
その場合、歌舞伎の通し上演では『余り関係のない複数の筋を、
交互に描写して行く』という手法を良く取りますが、
顔見世公演の場合『主役級の俳優が複数いて、
序列を付けられない』という事情も効いているらしいですね。

ですから、この作品も元来の構成はそうなっていたのかもしれませんが、
ここには核心となる筋が三つ位あるようです。
先ず第一は『三井寺に戒壇を開くという野望を持った高僧・頼豪阿闍梨が、
比叡山の圧力でそれを阻まれたので、憤死したのちに、
沢山の鼠に化けて比叡山の経文を食い荒らした』という逸話です。

そして第二は『保元の乱という朝廷内抗争に敗れ、四国に流された崇徳院が、
朝廷を呪う為に、生きながら魔道に堕ちて天狗となった』という逸話、
第三は『渡辺亘(わたる)の愛人に横恋慕した遠藤盛遠(もりとお)が、
彼女を脅して渡辺亘を謀殺しようとしたが、
愛人の袈裟御前(けさごぜん)は、それに同意すると見せつつ、
自分が身代わりになって殺された』という逸話です。


話としてはこの第三の逸話が一番面白いですが、題名の貞操花鳥羽恋塚も
『袈裟御前が亘の身代りになって死ぬことにより女の操を守った』
という点に由来する分けです。因みに、
この逸話に由来する恋塚が京都には二つあるそうです。
  ■ ふたつの恋塚寺
  http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heike/heike16.html

ただ、終幕の場面が特徴的なように、今回の演出はかなり現代的で、
何か新作歌舞伎を見ているような気分にもなりましたから、
これを復活上演と呼ぶのは正確ではないでしょうね。
つまり、これはあくまで古典歌舞伎の現代的な演出であって、
単なる復活上演ではないと言うべきだろうと思います。

その点で、特に注目すべきなのは、光の使い方ですね。
というのも、江戸時代には人工的な光が、
せいぜい蝋燭(ろうそく)のあかり位しかなかった分けですね。
ですから、宝物の『霊猫(れいみょう)の香炉』を光で照らし出したり、
最後の場面の満月を光で投影したりという描写は、
江戸時代には元々不可能なやり方な分けです。
頼豪阿闍梨(らいごうあじゃり)が大鼠に化けて腰元を飲み込む所にしても、
影絵で表現していましたが、当時はどうやったんでしょうかね。

21 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/12/14(木) 12:23:30 [ 136.net059086098.t-com.ne.jp ]
  ●●●貞操花鳥羽恋塚(2005年10月国立大劇場)☆☆☆●●●(2/5)

ただ『筋が複雑だ、複雑だ』とばかり言っていても始まらないので、
今回は、私なりに物語をざっと整理してみようと考えたんですが……
これがとんでもない大手間になって、冷や汗をかきました。(-_-;)
その場合、放映では省略された部分も多かったので、
色々な荒筋サイトを参考にさせていただきましたが、
この『文花座』さんのサイトは、まだ未完成のようです。
  http://blogs.yahoo.co.jp/hana_yukiyanagi/19007081.html

こっちの『みわこ徒然袋』さんのサイトは、
少しくだけた書き方ですが、最後までありますね。(*^^)v
  http://miwa-co.at.webry.info/200510/article_17.html
  http://miwa-co.at.webry.info/200510/article_18.html
  http://miwa-co.at.webry.info/200510/article_19.html

結局、この通し上演では『平家に命を狙われている
高倉宮を如何に守り通すか』という話を縦糸にして、
上述した三件の逸話をつなぐ、という構成になっているようです。
その背景として『高倉宮と共に清盛に歯向かった源三位頼政が、
宇治川の戦いで討ち死にした』という史実がある分けですね。


因みに、この高倉宮という人は別名を以仁(もちひと)王とも言い、
高倉天皇とは全くの別人ですから注意が必要です。
それから、源三位頼政(げんざんみよりまさ)の方は、
若い頃の鵺(ぬえ)退治で有名な人ですね。

でも、平治の乱の時には『同じ源氏でも義朝の河内源氏とは別系統だった、
摂津源氏の頼政が、清盛の側に付いたことが、清盛の勝因の一つとなった』
分けですから、清盛と頼政の関係も単純ではないんですね。
  「宇治平等院」と「頼政」
  http://www2u.biglobe.ne.jp/~rokujoh/yorimasa.html

他方この作品では『色々な小道具で人間関係が知れる』という手法が、
繰り返し多用される点も、ひとつのポイントでしょうね。
小磯(こいそ)と音平(おとへい)が、許嫁(いいなずけ)と分かる貝合わせ、
崇徳(すとく)院と待宵(まつよい)の侍従が、昔の恋人同士と分かる歌合わせ、
そして、袈裟御前(けさごぜん)と長谷平(はせへい)が兄弟と分かる
袱紗(ふくさ)の歌合わせなどがあります。


特に、崇徳院と待宵の侍従の歌合わせで使われる
『瀬を速み 岩にせかるる 滝川の 割れても末に あはんとぞ思ふ』
という短歌は小倉百人一首にも入っていますが、
庶民にはむしろ、落語の『崇徳院』でお馴染みでしょうね。(^^;)

先ず、序幕は祇園社の境内(けいだい)が舞台ですが、ここでは、
第二〜第四幕をつなぐ伏線が沢山並べられています。
まず最初は『崇徳院と会う為の船切手(ふなぎって)を、
袈裟御前が手にいれる』という話で、第三幕の伏線になっています。

次に『悪役の平重盛(しげもり)が千束(ちづか)姫を愛人にしようとして
拒絶される』という話があって、これは第二幕の伏線ですね。
そして最後の『後白河法皇による平家追討の院宣(いんぜん)を、
遠藤盛遠・渡辺亘・袈裟御前の三人が暗闇で奪い合った末に、
盛遠が手に入れる』という話は第四幕の伏線です。

22 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/12/14(木) 12:25:43 [ 136.net059086098.t-com.ne.jp ]
  ●●●貞操花鳥羽恋塚(2005年10月国立大劇場)☆☆☆●●●(3/5)

第二幕は『高倉宮の悪霊払いをした頼豪が、誤って毒殺され鼠に化ける』
というのが核心をなすストーリーです。先ず第一場は三井寺で
『頼政が朝廷の使いとして頼豪阿闍梨を訪問し、
平家打倒への協力を頼むが、条件が半端だったので拒絶される』
という話ですが、この二人の紹介みたいな感じになっていますね。
第二場は頼政館が舞台で、平重盛の家来である平有国(ありくに)が来て、
頼政に千束姫と霊猫の香炉を要求します。

『霊猫の香炉』というは重盛が頼政に預けておいたものですが、
実は頼政を陥れる為に有国が既に盗み出し、紛失している分けです。
ところがこの後、有国は留守を狙って頼政邸に忍び込み、
その香炉を柱時計の中に隠したり、神棚の酒に毒を仕込んだりするんですね。
その場合、酒に毒を入れるのは『頼政の命を狙う』という意味で、
まだ分かるとしても、せっかく盗み出した香炉を、
わざわざ盗んだ家まで隠しに行くというのは解せませんよね。(^^;)
それは結局、この後の趣向を面白くする為の道具立てに過ぎないわけです。

他方、小磯という海女が訪ねて来て『許嫁を捜してくれ』と頼みますが、
実は、この小磯が頼政の弟の娘であると分かるので、
頼政は彼女を千束姫の身代わりに差し出すことを思いつきます。
ところが、その許嫁が実は『物かはの蔵人』の息子・満定(みつさだ)と知り、
結局は身代わりに使うのをあきらめる、という少しバタバタした展開ですが、
ここは、物語の本筋とは余り関係ない話ですね。


でも、歌舞伎では何かというとすぐ『偉い人の身代わりに死ぬ』
という話になって、現代人には理解し難い所がありますよね。(^^;)
『みわこ徒然袋』さんも『昔の「忠義が一番」って感覚、
未だによくわからない…。』とか言ってますが……
結局、当時の社会では主君の為に身代わりに死んだりすると、
その報償として、残された一族に一定の領地が与えられたりする分けですね。

ですから『身代わりの死』は即ち、一族が生計を立てる為の手段な分けで、
そこから主従の強力な絆も生まれて来るんだろうと思います。
この場合も、彼女が身内と分かると身代わりにすることを思いつきますが、
その後で『実は立派な家柄の息子の許嫁だった』と知れた途端、
身代わりに使うことは、あきらめざるを得なくなる分けですね。
それは結局、もはや一族の中だけで済む話ではなくなるからでしょうね。

因みに『千束姫』というのは、頼政が昔、
世話になった藤原頼長の娘を預かっていたという事情があり、
それを『美人だから愛人として差し出せ』と言われても、
頼政としては義理が立たないという分けですね。
(もっとも、この後で千束姫が実は男の高倉宮だったと知れるわけですが。)


他方『物かはの蔵人』というのは袈裟御前に船切手をやった人物です。
当初、袈裟御前は彼の船切手を盗もうとして失敗するのですが、
彼女の事情を聞いた蔵人(くらんど)が同情し、船切手を与えた分けですね。
ところが、それをもれ聞いた有国が、
『朝廷に歯向かう崇徳院の逢い引き助けた』という罪で、
蔵人を切腹に追い込んだという事情があり、満定と小磯にとって、
有国は父の仇ということになる分けです。そこで、
第二幕の最後は二人が父の仇を討つという話になっていました。

結局、窮地に追い込まれた頼政は、千束姫を逃がしてから、
自分は平家の軍勢を相手に討ち死にするという覚悟を決める分けですが……
ここで、その千束姫というのが実は高倉宮であったことが明かされます。
そこへ、先の頼豪阿闍梨が登場し、高倉宮の悪霊払いをすると、
高倉宮は小磯と一緒に神護寺(じんごじ)へと落ち延びて行きます。

こうして一安心ということになり、酒盛りが始まりますが、
その時、有国が仕掛けた例の毒酒を頼豪が飲んでしまうので、
彼は大鼠に化けて、毒酒をついだ腰元を食い殺します。
更には、沢山の小鼠になり家中をはい回りますが、
その時、小鼠が例の柱時計にだけは跳ね返されることから、
そこに隠した霊猫の香炉が発見される、という展開ですね。(ふう〜(-_-;))

23 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/12/14(木) 12:27:29 [ 136.net059086098.t-com.ne.jp ]
  ●●●貞操花鳥羽恋塚(2005年10月国立大劇場)☆☆☆●●●(4/5)

さて、第三幕は『朝廷と平家に怨念を抱く崇徳院が天狗になる』話です。
第一場の屏風ヶ浦は崖上の場面ですが、清盛による崇徳院暗殺の命令書を
清盛の使者と崇徳院の従者が奪い合った末、
魚籠に入った書状が崖下に落ちます。

第二場の崇徳院御在所は、その崖下にある崇徳院の住居で、
そこの立ち木に、例の魚籠が引っかかっている分けです。
このあばら家で崇徳院が平家を呪っている所へ、
幼子を抱いた待宵の侍従が訪れますが、
既に現世の恩愛を断ち切った崇徳院は、母子を拒絶します。

そこへ平家方の侍が来て包囲し、幼子を人質にとるので、
崇徳院は仕方なく我が子を殺さざるを得なくなり、
待宵の侍従は入水自殺する、という無残な成り行きになります。
実は、院は平家を呪う為に「毎日一つの殺生を犯す」
という千日修行をしていたのですが、結果的には最後の千日目に
我が子を殺して、満願成就ということになった分けですね。


因みに本来、崇徳院の主敵は後白河院だったはずですが、
ここではもっぱら、平清盛の圧政を呪うみたいになっていますね。
崇徳院の怨霊について詳細を知りたい方は、こちらをどうぞ。
  【伝奇伝説講座】
  http://www31.ocn.ne.jp/~denkidensetu/ddk/s3.htm
  http://www31.ocn.ne.jp/~denkidensetu/ddk/kouzanew.htm

結局、崇徳院は流刑地で死んだ後に怨霊となり、
都で色々な祟りをなしたと考えられているようですが、
そのことから、ここでは崇徳院が正義の守護神みたいになって、
平清盛の横暴に怒っていると見たてたんでしょうか。

この後、更に魚籠の暗殺命令書を知って怒り狂った崇徳院は、
天狗となって飛び去って行くという幕切れですが……
この第三幕は、他からは孤立している感じですね。
ここで、天狗の崇徳院が『筋交いの宙乗り』で飛び去る場面は、
この公演での一つの見せ場になっていたようです。


そして、最後の第四幕は『袈裟御前が結局、高倉宮の身代わりになる』
という話ですが、第一場は高倉宮が落ち延びた先の神護寺です。
ここへ院宣を手に入れた遠藤盛遠が、渡辺亘と連れ立って現れますが、
平家の侍にそそのかされた盛遠は、亘に高倉宮を討てと命じます。

続く第二場の神護寺庭先では、盛遠が『自分の愛人になれば院宣をやる』
と言って袈裟御前を口説き、渡辺亘を殺す計画を立てます。
院宣というのは平家と対立した後白河法皇が、
源頼朝に下した平家追討(ついとう)の命令書のことですよね。
結局、袈裟御前は亘の暗殺を手引きすることに同意し、
こうして手に入れた院宣を弟に手渡します。

そして第三場の神護寺石段ですが、
袈裟御前と打ち合わせた通りに盛遠が亘の首をはねると、
実はそれが袈裟御前だったということが分かります。
結局、渡辺亘にとっては院宣が命より大切なものなので、
愛人の袈裟御前としては、自分の命を犠牲にしてでも
それを手に入れたかったという分けでしょうね。

24 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/12/14(木) 12:30:00 [ 136.net059086098.t-com.ne.jp ]
  ●●●貞操花鳥羽恋塚(2005年10月国立大劇場)☆☆☆●●●(5/5)

そこへ亘が現れると、盛遠が自分を殺そうとしたということで、
二人は切りあいになりますが、もみ合う内に二人の髷が落ちてしまいます。
ここで、盛遠も実は源氏方だったことが明かされ、
『実は、亘の身代わりで死ぬという袈裟御前の覚悟を知りつつ、
彼女を殺して高倉宮の身代わりとするつもりだった』と告白します。
すると、亘もまた『袈裟御前を高倉宮の身代わりにする』
気持ちでいたことを告げ、両者は和解します。

でも……盛遠が元々源氏方だったとすると最初、
亘に院を殺せと命じたり、袈裟を口説いて亘を殺す算段を立てたりする所は、
全部お芝居だったことになりますが……平家の目をごまかす為ということで、
これら全てを合理的に説明できるんでしょうかね!?
『盛遠が袈裟御前の覚悟を知った上で殺した』という点を含め、
どうも、この辺は無理なこじつけが多いように感じました。

それに、そもそも小磯を千束姫の身代わりにするのと違って、
袈裟を高倉宮の身代わりにする場合は、男女の差があるわけでしょ!?
『死んでも髭(ひげ)は伸びる』という説もありますけど、
『女の首を男の首として差し出してもばれない』なんてことは、
フィクションの世界以外ではあり得ないでしょうね。


こうして、二人は共通の恋人だった袈裟御前を供養する為に共に剃髪すると、
文覚(もんがく)と名を改めた盛遠は、院宣を頼朝に渡すために出立し、
その途中、高倉宮の偽首(つまり、袈裟の首)を平家に届けることになります。
他方、重源(ちょうげん)と名を改めた亘は、
頼朝の挙兵に義経を加えるために、奥州へと向かいます。
因みに、この重源上人という人物は、例の有名な『勧進帳』で
義経と弁慶の主従が利用した『東大寺復興の勧進』を始めた人のようですね。

歴史的な時間軸で見ると、それは源平の戦いが終わった後、
頼朝が義経を追い詰める過程で起こった話ですからね。
それに比べ頼政と高倉宮は、これから平家に歯向かって、
宇治川の戦いで死のうとしている分けですから、
源平の戦いの前段の話な分けで、歴史的には辻褄が合わないんですが……
この作品では、その重源と義経の関係を敷衍(ふえん)して、
『頼朝の挙兵に義経が加わることを重源が勧めた』という形にしたようです。

前説では、解説者が『歴史にうとい現代人には難しくても、
江戸時代の人には分かりやすかったんだ』とか言ってましたけど、
それは本当でしょうかね。歴史を充分に知った上で見ても、
この作品には色々と、無理な所が少なくないような気がします。


結局、こういう顔見世用に作られた作品は、
元々の筋に首尾一貫性が少ないですからね。
それを通しで上演してみても、資料的な価値はともかく
娯楽作品としては、余り意味がないように感じました。
歴史的に言うと、平安末期の朝廷内部で権力闘争が生じた時、
その争いに武士を巻き込んだことの報いとして、
武士が実権を握る世の中になったということですよね。

その最初が保元の乱だった分けですが、
この争いに平清盛や源義朝と組んで勝ったのが後白河上皇で、
負けて流罪になったのが崇徳院である分けです。
その後、平治の乱で清盛が義朝を追い落すと、平家の権勢がどんどん強まり、
今度は後白河法王と清盛の間で新たな対立が生じる分けですが、
その時点では、崇徳院はもうとっくの昔に過去の人ですからね。

頼豪阿闍梨にしてもそうですが、歴史上で清盛と対立した要素の全てを、
反平家という一点で同列に扱うのは、仮に演劇としては面白くても、
元々無茶な話なのではないでしょうか。(^^;)
それでもまあ、源平合戦に関わる著明な人物をきら星の如く並べ、
壮大なフィクションを作り上げたという点で、この鶴谷南北は
やはり、ただ者ではないと言うべきなんでしょうかね。

25 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/12/19(火) 12:06:47 [ 211.net059085040.t-com.ne.jp ]
  ●●●無法松の一生(1958)☆☆☆●●●

前回の件で引っかき回されて、大分書き遅れましたね。(^^;)
この映画は、妙に目につくので録画したんですけど……
やはり、それほどの内容ではなかったようです。
ただ『日本人の心情と良くマッチする』という点では、
例の『残菊物語』とも共通する所があるんでしょうか、
この作品も繰り返し映画化されているみたいです。

最初は1943年の板東妻三郎が主演した作品ですが、
この頃は戦時中とあって、色々検閲がきつかったらしいですね。
それで、例えば片思いする陸軍大尉の未亡人に主人公が言い寄る場面などは、
『戦地にいる兵士の士気を削ぐ』という理由でカットされたそうです。(^^;)

それを気にしたのか戦後、同じ稲垣浩監督が作り直したようですが、
その二つ目の作品がベネチア映画祭でグランプリを取った分けですね。
今回見たのもそれで、1958年に三船敏郎主演で作られた作品ですが、
前作でカットされた部分は結局、そのままになったみたいです。
その後も更に、1963年の三国連太郎主演作、
1965の勝新太郎主演作と四度も作られている分けですね。


物語の舞台は北九州の小倉で、時代背景は明治30年代と言いますから、
ちょうど日本が日露戦争に勝利して、国中が沸き立っていた頃ですよね。
富嶋松五郎という車引きの主人公(別名・無法松)は、
偶然、怪我をした少年を助けたことから、
富島大尉の一家と知り合いになります。

ところが、富島大尉はふとしたことから急死してしまい、
その未亡人に密かな好意を寄せる主人公は、
男手を失った家族の為に何かと世話を焼きます。
でも結局は、思いを遂げられぬまま死んでいくという話でした。

こういう一本気で実直な人間像が、とりわけ日本人好みなんでしょうね。
現代で言うと例えば、女子レスリングの応援で有名になった、
アニマル浜口さんみたいな感じでしょうか。(^^;)
或いは『密かな恋心を隠し、寡黙に耐える男』という点で、
高倉健あたりを使ったリメークも面白いかもしれませんね。

26 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/12/22(金) 10:28:31 [ 225.net059085055.t-com.ne.jp ]
  ●●●蝶々夫人(2005年8月東京文化会館)☆☆☆+●●●

噂には聞いていましたが、ある意味でこれは国辱的な作品ですね。(-_-;)
特に、序盤におけるピンカートンの振る舞いがかなり不愉快で、
『日本人との契約は、どうせいい加減で良いんだ』みたいな意識は、
当時の米国人が後進国の日本を見下しているような雰囲気があります。

ただ、当時の日本に『芸者を囲う』という風習があったのも事実で、
外国人には、そういう『契約妻』が天国のように見えたんでしょうね。
その意味で、日本駐在の外国人が『洋妾』
と言う名の現地妻を持つことは、決して珍しくなかったそうです。
ただ、蝶々さんがそれを本物の結婚のように思い込んだことから、
この物語の悲劇が始まる分けですね。


それで、彼女は実際にキリスト教に改宗し『自分はもうアメリカ人だから、
アメリカの制度に守られるはずだ』と考えた分けですが、
ピンカートンの方は、最初から彼女は現地妻という意識で、
アメリカでは別の結婚を予定しているのでした。
その場合、ピンカートンの考え方が相当、享楽主義的で、
その意味では、むしろイタリア人に近いような印象を受けますが……
それに比べ、アメリカ人というのは元々が禁欲的な清教徒なんですね。

ですから、私は当初『こういう人物像は、このオペラを作るに当たって、
イタリア人が自分の享楽主義を米国人に投影した結果だろう』
ぐらいに考えていたんですが……後で調べたところ、
物語の原作者がアメリカ人だったので、意外でした。
まあ、オペラ化するに当たっては、
原作をかなり改変した可能性も、なくはないでしょうけどね。


他方、西洋人の異国趣味に基づくこの手の作品を現地で上演する場合、
どのように演出するかは、難しい問題があるでしょうね。
例えば『天皇の命令で切腹した』なんて話が出て来ますが、
日本では『将軍が切腹を命じる』ことは多くても、歴史上、
『天皇が切腹を命じた』という話は聞いたことがありません。(^^;)
結局、切腹というのは、あくまで武家の作法なんでしょうね。

ですから、日本での上演をリアリズムに基づいてやるのは簡単ですが、
着物から家屋から、完全に日本的に作り上げた場合、かえって、
元の物語の不自然さが際立ってしまうという危険性がありますよね。
その点、今回の公演では舞台装置は抽象的なものにとどめていましたし、
主演の蝶々夫人も、敢えて外国人が演じたのは正解なんだろうと思います。
冒頭の国辱的な印象も、そのことで多少は薄められたかもしれません。


音楽的に見て興味深いのは、蝶々夫人とピンカートンを象徴するものとして、
両国国歌の『君が代』と『星条旗よ永遠なれ』の引用が多出することですね。
それから、もう一つ意外だったのは、やたら日本の曲が出て来ることでした。
『さくらさくら』に始まり『宮さん宮さん』『お江戸日本橋』あたりまでは、
私もまあ、何とか曲名が分かりましたが、wikipediaによると他にも、
『越後獅子』『かっぽれ(豊年節)』『推量節』などがあるようです。

結局、プッチーニは作曲にあたり相当、日本の音楽を調べ上げたようですね。
因みに、このオペラのアリアでは『ある晴れた日に』が特に有名ですが、
私の評価では、冒頭から10分位の所でピンカートンが歌う
『ヤンキーは世界のどこへ行っても』というアリアがピカ一でした。(^^;)
『ドーソ ララソー ラソファミド ミーレー』という奴ですね。

27 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/12/23(土) 09:55:17 [ 124.net059086100.t-com.ne.jp ]
  ●●●リトル・ブッダ(1993)☆☆☆●●●

チベットに関しては、時折『ダライ・ラマの生まれ変わりがどうの』
という話を耳にしますよね。(^^;)この映画はそこから発想して、
『もし、チベットの高僧の生まれ変わりがアメリカ人だったら』
という設定で、作り上げた物語のようです。

画面は、アメリカやチベットの現代の映像と、
ブッダの生涯を描く過去の映像との間で往復しますが、
日本人にとっては『ブッダの生涯がどんなものであったか』
という興味で見るのも面白いでしょうね。

我々は、一生の色んな場面で仏教と付き合うことが少なくないですが、
『御本尊のブッダが一体どんな生涯を送ったのか』については、
具体的に見聞きする機会が案外、少ないと思うからです。
無論、これはチベット仏教に基づくドラマですから、
『その伝承なるものも、チベット流のアレンジがあるだろう』
ぐらいのことは一応、念頭に置いておいた方が良いでしょうね。

28 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/12/24(日) 11:13:01 [ 201.net059085040.t-com.ne.jp ]
  ●●●十二夜(1998年10月さいたま芸術劇場小ホール)☆☆●●●

これまたシェークスピア作品で、蜷川幸雄の演出でしたが……
実は途中で気付いたんですが、既に同じものを映画で見ていたようです。(^^;)
それで、どうしても、その映画と比べてしまうせいか、
もう一つ面白みがなかったので、今回は二つ星にしました。
この荒筋サイトに引用されているのが、その映画だったと思います。
  http://www.sol.dti.ne.jp/~takeshu/Twelfth.htm
  十二夜 Twelfth Night

こうなると、映画と舞台の優劣比較というか、
『舞台はいかにして映画を越え得るか』なんてことを考えさせられますね。
無論、生で見れば舞台には当然、それ相応の迫力があるんでしょうけど、
あくまでビデオで見ることを前提に考えると、映像としては、
映画の方が遥かに豊かになることは争えませんからね。

この舞台でも、生の弦楽三重奏を持ち込んだりと色々やってますが、
俳優に平安朝風の衣装を着せたり、貴族の顔に、
平安朝式の書き眉をしたりしても全然、面白くないですね。
まあ、元の喜劇自体が大した出来ではないと言うべきなんでしょうが、
それを和風にアレンジしただけでは、何ら刺激的なものは、
生み出し得なかったということでしょうか。

29 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/12/26(火) 12:06:17 [ 7.net059085055.t-com.ne.jp ]
  ●●●フィデリオ(2003年4月ザルツブルク祝祭大劇場)☆☆●●●

フィデリオと言えば、音楽ファンなら誰でも知っている通り、
ベートーベンが作った唯一のオペラですよね。
そのベートーベンというと、近年の私の印象では、
何か『鈍牛』というイメージなんですが……(^^;)
それは多分、彼の音楽の鈍重な感じから来るんでしょうね。
で『そのベートーベンが一体どんなドラマを作ったのか』
という興味で見たんですが……期待した通りの『期待外れ』でした。
その音楽自体、大した出来ではありませんし、
演劇として見ても、ドラマツルギーが全くなってませんからね。

物語はスペインのセビリアが舞台で『ドン・ピツァロという悪玉の看守が、
政敵で囚人のフロレスタンを葬り去ろうとしますが、
その妻の活躍で命を救われ、めでたし・めでたし』という話でした。
その場合、このオペラの序曲は三度も作り直されたことで有名ですが、
その題名が『レオノーレ』だったり『フィデリオ』だったりする理由は、
フロレスタンの妻の名が『レオノーレ』で、彼女が刑務所に入り込む時に、
男装して使う偽名が『フィデリオ』だったんですね。(^^;)

で、少し具体的に『どこがどう駄目か』と考えてみたんですが……
結局『政敵が一体、何を暴こうとしたのか、それに対し、
悪玉が彼をどうやって陥れ、刑務所に放り込んだのか』という過程が、
全く描かれていないという点が、最大のネックではないでしょうか。
ですから、我々がこの悪玉に対し憎しみを持とうと思っても、
具体的なイメージが何も湧いてこない分けなんですね。


つまり『何か尻尾をつかまれた悪玉が、政敵を暗殺しようとしている』
ということは分かるんですが、それだけで『こいつは悪玉だから、
憎みなさい』なんて言われても、どうしようもないんですよね。
その帰結として、最後に善が勝利する場面になっても、
何のカタルシスも生み出されない、という結果に終わる分けです。

因みに、ドラマツルギーが駄目という点からすると、
シューベルトのオペラにしても大同小異みたいですね。
かなり前に『アルフォンソとエストレラ』というのを見たんですが、
これは、例のニコラス・ハルノンコールトが指揮した作品でした。
ただ、彼らの為に少し弁護しておくと、ドイツ人にしろフランス人にしろ、
一流クラスは絶対に他人のまねをしないという事情があるんですね。
その点、日本人の場合、大抵は99%が他人のマネで、
『残りの1%に自分の個性が出ればいいや』みたいな感じでしょ!?

例えばアニメなんかが典型的ですが、アニメ映画祭などに出品される
外国人の作品と比べてみれば、その個性の薄さは一目瞭然ですよね。
それに比べ西欧の一流どころは、そういうマネは決してしないで、
全てをゼロから始める分けなんです。
例えばロックにしても、日本人なら英米のマネから始めますが、
ドイツ人がやるとなると、全てゼロから作り直しますから、
『タンジェリンドリーム』だの『クラフト・ワーク』だの、
英米流とはおそよ似ても似つかない、テクノサウンドになった分けですね。
日本ではYMOなんていう二流バンドが、それをまたマネした分けですが。(-_-;)


逆にフランス人が作ると、ミッシェル・ポルナレフみたいな、
くだけた音楽になったりする分けです。
もう一つ例を挙げるなら、以前に書いた日本のロックでも、
四人囃子なんてのは『欧米のプログレのマネ』であることがバレバレですが、
頭脳警察の方は(好き嫌いはともかく)どのバンドにも似てませんからね。
その意味で、彼らは『一流』な分けで、だからこそ私は、
彼らこそが日本のロックの代表である、と評価した分けです。

その点では、ヨーロッパに少し長く滞在すると気付くと思いますが、
西欧では『一切の事物が、個性なしには存在しない』んですよね。
逆に、日本では大半の事物が他人のマネとして存在しますから、
そこに個性を見いだすことは、ひどくまれで難しいことなんです。
こういう所に、西欧と日本との決定的な落差がある分けですね。

ですから、ベートーベンやシューベルトがオペラを作るとなれば、
そのドラマ作りの部分は、どうしても素人丸出しになるというのも、
まあ、やむを得ない帰結と言うべきなんではないでしょうか。
ただ、ゼロから始める場合、成功することはまれですが、
もし成功した時は、とてつもないものになる分けですね。
その意味で、真のドイツ・オペラが生まれるには、
ワグナーの登場を待たなければならなかった分けです。

30 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2006/12/30(土) 13:03:31 [ 143.net220148168.t-com.ne.jp ]
  ●●●猫の恩返し(2002)☆●●●

久々のアニメでしたが、つまらないのを録画しちゃいましたね。
到底、大人の観賞に耐えるような代物ではありません。
ただ……それはともかくとして、枝葉末節のようですが、
例によって色々と引っかかる所が多かったです。
というのは、主人公の女子中学生が例によって、
『パンツが見えるか見えないか』というミニスカートを履いてる分けですね。
(後から調べた所では、むしろ女子高生のようですから尚更です。(-_-;))

そいでもって『友達に彼氏が出来たのなんの』という
お決まりの見せびらかしパターンが出て来る分けですから、
こういうのに青少年が影響されない分けがないですよね!?
つまり、私がいつも批判している『セックスの若年化現象』を
こういう所でせっせと再生産してる分けです。

『そういう風潮が青少年を荒廃させているんだ』ということは、
いくら言っても言い過ぎではないと思いますが、そうやって一方では、
青少年をトコトンまで痛めつけておきながら、その癖、愚かな親どもは、
『最近の生徒は、学力が低下して困った』とかほざいてる分けですから、
その馬鹿さかげんは、もう笑うしかないですよね。(-_-;)


他方、あるTV局では、つい最近も性懲りもなく『14才の母』とかいう
しょうもないドラマを作ってたようですが、これまた『14才が妊娠した、
さあ大変だ、どうしよう』なんて内容だったんでしょうね。
余りに馬鹿くさくて私は一切、見てないので良く知りませんが、
謀略主義としては『だからこそ性教育が大切なんだ』
とかいう方向に話をもって行きたいんだろうと思います。

こういう風潮を促進している連中には、
もう今更、何を言っても無駄だろうと思いますが、
私が『男女別学にしろ』と主張する狙いの一つは、
それ自体の効果以上に、そうした制度変更が、
この手の風潮を煽っている馬鹿どもに対する何より効果的な
『頂門の一針』になるだろうと期待するからなんですね。

でも……今の愚かな政治家どもには、
幾ら正論を言っても無益なんでしょうね。(-_-;)
因みに、細かい点でもう一つ気になったことを言うと、
信号機の黄色の位置が間違ってました。
つまり、黄色が車道の中央寄りになってますが、
その一番見えやすい位置は、必ず赤色と決まってる分けですからね。

31 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/01/02(火) 12:04:50 [ 118.net059086098.t-com.ne.jp ]
  ●●●メディア(2005年5月・静岡芸術劇場)☆☆☆●●●

これはモスクワ・タガンカ劇場の引っ越し公演だったようですが、
この演目は、いかにもギリシャ悲劇的な不条理劇ですね。
日本では、むしろ『王女メディア』という名で良く知られていますが、
『自分と子供たちを捨て、若い王女と結婚しようとする夫に怒った妻が、
嫉妬の余り、その王女と我が子を殺してしまう』という話でした。

子殺しと言うと、いかにも救いのない暗い話ですが……
実を言えば、似たような子殺し・親殺しは、
現代日本でも頻発している分けですから、
決して他人毎ではありませんよね。(-_-;)

しかも、この作品の場合、子殺しの動機がハッキリとしていますが、
現代の子殺し・親殺しでは、その動機が不可解なことも多いですから、
尚更やり切れない気がするんじゃないでしょうか。
つい最近も『ブラジル人の男が交際相手の母子を殺す』
という事件があったばかりですが……こうした場合、その背景として、
例の洗脳迫害が隠されていると見た方が良いのかもしれません。


他方この作品には、何か現代のフェミニズムに通ずる回路を感じました。
つまり、主人公のメディアが『女の幸不幸は、
一緒になる男次第で決まってしまう』と嘆く場面があったと思いますが、
そうした不条理へのやりきれなさから『女の経済的な自立を求める』
という発想が出て来るのは、ある意味で分かり易い理屈ですからね。
でも、そうした女の自立から逆に今度は、青少年の荒廃や少子化問題、
更には子殺し・親殺しまでが生まれて来るとしたら、
一体どういうことになるんでしょうか。

結局、そうした女の不幸を最小限にとどめる為に、
過去の宗教は邪淫を禁じたり、離婚を禁じたりした分けですよね。
ところが近代に入ると、そうした宗教の支配力が弱まると同時に、
結婚制度のタガが緩んで来た分けでしょうね。
その帰結として、性的な乱れ(つまりは邪淫)が増える一方では、
女の経済的自立やら夫婦の共働きやらが一般的になり、
そこから現代の子殺し・親殺しが生まれて来たように思います。

その意味で、このギリシャの古典劇は、
我々が直面している現代の困難を解決する為の、
一つの切り口を与えてくれているのではないでしょうか。
因みに、今回の演出では舞台に積まれた土嚢が印象的ですが、
ギリシャの貴族をロシアの労働者に置き換えた分けでしょうかね。
他方、この公演ではロシア語のセリフに字幕を付けていましたが、
吹き替えよりは、やはり分量が多いだけ増しのように感じました。

32 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/01/04(木) 14:02:42 [ 58.net059086097.t-com.ne.jp ]
  ●●●ジュピター(2005年3月渋谷公会堂)☆●●●

NHKでは時々とんでもないのをやりますけど、
これまた箸にも棒にもかからない作品ですね。(-_-;)
基本的には、せいぜい高校の学園祭に毛が生えた程度の内容でした。
近藤良平氏が率いるコンドルズというグループの公演だそうですが、
小劇場の公演などでは良くありがちな『固定客との馴れ合い』も
プンプン臭っています。

まあ、踊りの部分だけを取り出して前衛舞踊として見るなら、
その振り付けには一定の才能や独創性も感じられますから、
それでパリ公演なんかが組まれたんでしょうかね。
因みに、ここで使われている映像の一部には、例の911テロで崩壊した
ニューヨークの貿易センタービルがまだ映ってますから、
このグループはかなり前から、海外公演をやっているみたいです。

でも、冒頭で『ヤンキー』などを紹介した部分なんか、
『近年の洗脳進行によって発狂した日本の恥部を、
わざわざ外国までさらしに行った』
という感じですから、冷や汗ものですよね。
それは丁度、北野たけし映画で冷や汗をかくのに似ていました。

33 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/01/07(日) 11:33:40 [ 99.net220148174.t-com.ne.jp ]
  ●●●カプリッチョ(2004年6月パリ・オペラ座)☆☆☆☆●●●

これは例のリヒアルト・シュトラウスが最後に作ったオペラだそうです。
その意味で、彼特有の超甘ったるい音楽の片鱗は感じさせますが、
全体的には断片的な旋律が多く、音楽的な出来としてはもう一つですね。
物語は『ある伯爵令嬢に作曲家と詩人が恋をして奪い合う』という話で、
『彼女がどっちの男を選ぶか』という問題を『オペラにおいて、
音楽と言葉のどちらが大切か』という議論に重ね合わせて描いていました。

そう言えば、以前に引用した『ナスソス島のアリアドネ』もそうでしたが、
シュトラウスはこの手のメタ・オペラ(つまり、オペラについてのオペラ)
を作るのが好きなのかもしれませんね。
でも、言葉か音楽かなんて言っても所詮、結論が出る問題ではない分けで、
最後は、観客に答えを託す形で終わっていたようです。

その点では『春と秋の風情はどっちがまさるか』なんていう議論をした、
平安朝の貴族にも似て、有閑階級の暇つぶしのような趣もありますが、
題名の『カプリッチョ』は、気紛れとか移り気という意味のようです。
でも、さすがにパリ・オペラ座の公演ともなると、美術的な出来は完璧ですし、
そこへ、全く重力を感じさせない見事な踊りをするバレリーナが絡んだりして、
最後まで飽きさせませんでした。


ただ、今回気付いたんですが、シュトラウスの音楽のこうした甘美さは、
ドイツ風というよりは、ウィーン風と呼ぶべきなのかもしれませんね。
その点では、以前に彼をドイツ・オペラの代表として挙げたのは、
まずかったかもしれません。
  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1102295096.html#92

ヨハン・シュトラウスがオーストリア人であるなら、
こっちのシュトラウスもそうかもしれませんし、その場合、
オーストリア人が聞いたら怒る可能性がありますからね。(^^;)
暫く前のニュースで『ドイツを代表する作曲家の一人として、
ドイツ人がモーツァルトの名前を挙げた所、隣のオーストリア人が
彼はドイツ人ではないと言って怒った』とかいう話がありましたけどね。
その辺の民族性は、日本人にはちょっと理解し難い所がありますよね。


昔、外国を放浪していた頃、オーストリア人に出会った時に、
『同じドイツ語をしゃべるのに、どうして一緒の国にならないんだ』
と聞いた所、複雑な顔をしていました。
その点では、カナダ人も面白いですね。
日本では、米国のことをアメリカと呼ぶのが通例ですから、
米国や米国人のことを、会話の中でついつい、
アメリカとかアメリカンとか言ってしまう分けですけど、
そうするとカナダ人は一々怒る分けですよね。(^^;)

カナダ人からすると、アメリカというのは大陸の名前であって、
米国はあくまでUSAである、ということのようです。
ですから『アメリカという表現を米国が独占するのは、
けしからん』ということになるようですね。
そう言えば、五輪の応援でも日本人は『ニッポン・チャ・チャ・チャ』
ですが、米国人は『USA・USA・USA』の大合唱でしたね。

34 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/01/11(木) 10:10:27 [ 48.net220148171.t-com.ne.jp ]
  ●●●歌行燈(1943年)☆☆☆+●●●

これは成瀬巳喜男特集の一つですが、わりと良い出来でした。
私の評価では、今まで見た成瀬作品の中でベストでしょうね。
原作は泉鏡花で、実を言うと彼の小説は割と私の好みなんですが……
とは言っても直接、原文を読んだことは恐らく無くて、
多分ドラマ化された作品か何かを見た印象だったと思います。
この小説の原文はこちらにありますが、
現代の我々から見ると、かなり読みにくい文章ですよね。
  http://www.jfast1.net/~w-hill/shoko/utaandon.txt
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3587_19541.html

この辺の日本語は、もう古文の一種というべきなんでしょうか。(^^;)
因みに、後者は著作権が切れた文学を電子化して公開していることで
有名な『青空文庫』ですが、総ふりがなになっています。
物語は『ある能役者が、増長した盲人の素人謡曲士を、
若気の至りでやっつけた結果、自殺に追い込んでしまい、
そのことを怒った父親に勘当される』という話でした。
特に、この父親像には好感が持てますが……最近は、
この手の気骨のある人物が失われて久しいからでしょうかね。

で、勘当された息子は地方のどさ回りで苦労する分けですが、
その途上で偶然、自殺した盲人の娘と再会することになります。
その時、今は芸者となって苦労する彼女の為に、この息子が一肌脱いで、
能の仕舞『玉の段』を教え込む、という展開になる分けですね。
それを評価した父親が勘当を解き、娘も父の仇である息子を許すので、
二人はめでたく一緒になるという結末でした。


ここで踊られる『玉之段』というのは、
能の『あま(海人、又は海士)』のクライマックスのようです。
この能は、私もまだ見たことがありませんが『ある海士が、
面向不背の珠を龍宮から奪い返しに行くことを命じられ、
結局、自分の命を犠牲にして珠を取り戻す』という話らしいです。
  http://homepage3.nifty.com/noh-no-hana/hana0402.htm
  2004年2月 上演曲目「海士」の解説

以前に小津映画の『父ありき』に関して、
『戦争に背を向けている感じは、反戦の意志表示か』
などと書いたことがありますが、この映画でも似た印象を受けました。
『父ありき』は1942年作ですから、この映画の1年前ですよね。
他方『芸道もの』という意味では、これも以前に書いた、
溝口映画の『晩菊』と共通する所があります。
しかも、そこで『どことなく18代目勘三郎に似ている』
と書いた花柳章太郎が、ここでも主演してる分けですね。

因みに、この映画は1960年に市川雷蔵の主演でリメークされています。
それから『歌行燈』という題名が気になって、少し調べてみたんですが、
その名前の由来は、もうひとつ良く分かりませんでした。(^^;)
どさまわりする主人公が博多節を歌いつつ、流しで回る店先に、
掛行燈(かけあんどん)がかかっていることから来るんでしょうか。
この場合の掛行燈とは、店の屋号を書いた看板のことですよね。

35 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/01/11(木) 10:19:34 [ 48.net220148171.t-com.ne.jp ]
  ■訂正■

>>34で青空文庫の文章を総ふりがなとしたのは誤りです。
青空文庫の方がふりがなが詳しいのは事実ですが、
総ふりがなではありませんよね。(^^;)

36 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/01/13(土) 11:52:08 [ 216.net059086103.t-com.ne.jp ]
  ●●●ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔(2002年)☆☆☆●●●

これは有名なハリウッド映画で、連続ものの第二話でした。
第一話も見ましたが……元の小説がどうかは知りませんけど、
少なくともこの映画に関する限り、大した内容ではないですね。
その意味ではハリポタ同様、これまた
『見なくても困らない映画』の一つだろうと思います。
今回、特に前半では少し退屈しましたが、
終盤の壮大な戦闘シーンは、さすがに迫力がありましたね。

前から一つ気になっているのは、
ワグナーの『ニーベルングの指輪』との関係なんですが、
その点では、ネットを捜しても余り良いデータは見つかりませんでした。
こうした指輪にまつわる話は、ケルトや北欧の神話に源流があるようですが、
両者ともそれをヒントにしたという程度で、余り共通性はないみたいですね。
  http://www.eiga.com/special/lotr1/03.shtml
  「指輪」はもともと、キリスト教に淘汰される以前の
  ヨーロッパ文化ではマジカルな力の象徴。
  そうしたエピソードは、ケルト神話や北欧神話に多数登場している。

それから、権力の象徴としての指輪を原子爆弾の暗喩とする見方は、
誰でも思い浮かぶと思いますが、それも作者の意図ではないようです。
実際問題として、ワグナーのオペラでも指輪は結局、
最後には元の川に返されて終わる分けですし、
『最終的に否定されるべきもの』として指輪を描くのは、
原爆の登場以前からあった発想に違いないわけですね。
一つ面白かったのは、ローハン王国の王様として登場する人物が、
良くあるトランプの王様にそっくりの顔をしていることでした。(^^;)

37 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/01/14(日) 11:36:21 [ 107.net220148247.t-com.ne.jp ]
  ●●●じゃじゃ馬ならし(1967)☆☆☆●●●

これまたシェークスピア作品ですが、今回は、
フランコ・ゼフィレッリが監督した映画でした。
物語の中心は『強情で暴れ者の手が付けられない娘を、
彼女と結婚した夫が無条件に自分に従うように調教する』という話で
『じゃじゃ馬ならし』という題名そのまんまですが……
女権論者なら目をむきそうな内容ですね。(^^;)

まあ夫婦の関係というものは、一昔前には、
どこの国でも、こんなものだったのかもしれません。
つい最近も、どこかの国の保守政治家が『男は国の為に尽くし、
女は夫の為に尽くすべきだ』とか言って顰蹙をかってましたね。
シェークスピアとしては、当時の殿方の気晴らしの為に、
こんな軽い喜劇を作ったんでしょうか。

ただ、それを裏返すと、当時のイギリスでは『夫を尻に敷く妻が多くて、
多くの男が閉口していた』という事情があったのかもしれませんよね。(^^;)
因みに、この映画に関する限り、エリザベス・テイラー演じるケイトが、
『最初は強情だったのに、終盤で急に従順に変わる』
というところの描き方が全く不十分で、説得力がありませんでした。

38 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/01/18(木) 10:14:23 [ 172.net220148224.t-com.ne.jp ]
  ●●●酒神ディオニュソス(2006年・静岡芸術劇場)☆☆☆−●●●

またまたギリシャ悲劇ですが、これは鈴木忠志という人の演出でした。
今回の物語は、酒神ディオニュソスが信女たちを集めて宴会するのを、
テーバイの王ペンテウスが『淫乱である』とか言って批判しますが、
逆に女の色気に目をくらまされたあげく、殺されてしまうという展開です。
その場合、王を殺した信女の中に彼の母親がいて、
最終的には、ここでも子殺しの問題に発展する分けですが……
この劇が何を言わんとしているのか結局は、良く分かりませんでした。

ギリシャ神話におけるディオニュソス(別名バッカス)は、
『自分の神性を認めない者をひどい目に合わせた』
ということで有名なようですが……強いて言うなら、
『飲酒は精神を乱すのでろくなことはない』
という禁酒の勧めでしょうかね!?(^^;)
因みに、私はデュオニソスと記憶していましたが、
ディオニュソスの方が原音に近いんでしょうか。
ディオニソスという表記もありますし、検索では苦労しました。


この演出では、雅楽や低速再生した能のお囃子を使っていたようです。
セリフを斉唱する所などは、前スレの >>133 で書いた
『アンティゴネ』のク・ナウカとも共通しますが、
セリフが聞き取りにくくなるのが難点でしょうね。
この鈴木忠志という演出家は『スズキ・メソッド』
という独創的な方法論で、特に外国では有名らしいです。

  スズキ・メソッド
  http://www.spac.or.jp/spac02.html
  舞台俳優の基本は、呼吸と下半身の集中力を養うことから始まる。
  日常生活のなかで退化させてしまった身体感覚を活性化することを
  目的とし、鈴木忠志によって創りだされた俳優のための訓練。
  世界の劇団や大学で学ばれている。
但し、スズキ・メソッド(又はスズキ・メソード)という名では、
むしろ、鈴木慎一郎が始めた音楽教育法の方が有名のようですね。
検索では、もっぱらそちらばかりが出るので注意が必要です。

39 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/01/20(土) 09:24:42 [ 22.net059085042.t-com.ne.jp ]
  ●●●MEMORIES(1995)☆☆☆●●●

これは、前スレの >>21 で取り上げた『AKIRA』の大友克広が
総監督したオムニバスのアニメーション映画でした。
今回も、全体的にテーマ性は薄いようですが、
ファンタジーとして見れば、それなりに退屈はしないでしょうね。

先ず最初の『彼女の想いで』ですが『ある晴れた日に』を始め
最近書いた『蝶々夫人』の音楽がふんだんに出て来たりして、
中々幻想的な出来でした。二つ目の『最臭兵器』は、
絵も内容もくだけた作りですが、まあ平凡でしょうね。


最後の『大砲の街』は、総監督が自ら監督した作品ですが、
そのメカ好みは、宮崎駿とも共通する所がありますね。
アニメの監督には、この手の趣味が多いのかもしれませんけど、
アニメ作品の性格上、こうした19世紀的な蒸気機関などとは、
馴染みやすいんでしょうか。

街中が戦争に狂奔するあり様を悪夢のように描いていますが、
何か前回の世界大戦に由来する
日本人共通の集団的記憶のようなものが、
こうした形で発現しているような印象を受けました。

40 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/01/21(日) 11:32:00 [ 202.net220148169.t-com.ne.jp ]
  ●●●NINA - 物質化する生贄(2006年・静岡芸術劇場)☆☆☆+●●●

これは『酒神ディオニュソス』と同時に放映されたものですが、
例の鈴木忠志の方法論(スズキ・メソッド)に触発されて、
現代舞踊家の金森穣(じょう)が作った作品のようです。
こうした舞踊では、体の柔らかさが問題になることも多いと思いますが、
ここでは、それを逆手に取ったと言うべきか、
むしろ、人形というか死後硬直した肉体のような
固い体を使った舞踊表現になっていますね。
その振り付けも、中々独創性を感じさせる所がありました。

41 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/01/27(土) 12:05:31 [ 195.net220148245.t-com.ne.jp ]
  ●●●レッド・ドラゴン(2002)☆☆☆●●●(1/2)

これは、例の人肉食もののレクター・シリーズ三部作のひとつで、
『羊たちの沈黙』『ハンニバル』に続く最後の作品ですが、
ホラー・サスペンスとしての出来は悪くないでしょうね。
ただ……この手の薄気味悪い映画は、
『健康な時代に、怖いもの見たさで覗く』分には良いとしても、
今のような狂った時代には、現実の方が怖すぎますから、
もう沢山という気分にもなりました。(-_-;)

因みに、ハンニバル博士にせよ、この作品での殺人鬼にせよ、
『本来なら社会の為に役立つはずの有能な人間が
こうした形でしか生きられない、ということが現代社会の病理である』
という博士の主張は、当を得ているんじゃないでしょうか。
つまりは、ユダヤ支配の洗脳社会が全ての問題の根源にある分けですね。

つい最近も、妻が夫を殺して切り刻んだり、
兄が弟を殺して切り刻んだりする事件があったばかりですが……
皆さんがどう感じたかは知りませんが、私の場合は、
特に前者の事件で色々と考えさせらることがありました。
結局、この事件の教訓として一つ言えるのは、
『女は処女として結婚しないと、本当の幸せを得るのは、
難しいんじゃないか』ということですね。


無論、この事件の夫婦は特別な人間性を持っているかもしれないし、
だからこそ、こんな陰惨な結果を迎えたとも言えるんでしょうけど、
ただ私としては、そうした特異性より普遍性に目を向けたい分けですね。
というのも、随分前からいわゆる家庭内暴力のDVが騒ぎになっていますが、
私にはずっと一つの仮説があったわけです。

その場合、今までそれはあくまで仮説に過ぎなかったんですが、
今回、そうした家庭内暴力が殺人にまで発展した結果として、
夫婦双方の顔写真が出て来たわけですね 。
それで、私の仮説が少し信憑性を帯びて来た分けです。
というのも、この妻の方の顔は少なかからぬ発展家というか、
結婚前にかなりの男と深いつき合いがあったことを感じさせますよね。

それに比べ夫の方は『そうした異性交遊は、全くの苦手』
という顔をしてますが、その二人が合コンで出会って、
すぐに結婚したみたいな話ですからね。
とすると、結婚した時点で『妻は男性経験が多く、
夫は事実上、女性経験がなかった』ことになる分けで、そうなると、
この夫が妻を本当に愛することは難しくなるんじゃないでしょうか。


無論『今のように開放的な時代に、妻の処女性を気にするような男は、
論外だ』みたいな論調が、週刊誌などでは一般的でしょうけど、
それはあくまで建前に過ぎませんからね。
そうした建前論には、騙されない方が利口だろうと思います。

結局『童貞で結婚した男が、妻が処女でなかったと知った時、
かなりの確率で家庭内暴力が発生するんじゃないか』
というのが、私が抱いていた仮説であった分けです。
(週刊誌によると、男の方はキャバクラ嬢と同棲していたとも言いますが、
相手がプロである以上、問題の本質は余り変わりませんよね。)

無論そういうケースでも、DVに至らない場合はあり得るし、逆に、
そうでなくとも夫が妻に暴力を振るうケースは充分あり得ますから、
両者の相関は当然100%ではないと思います。
ただ近年、特にDVが多発して騒がれていることの背景には、
そうした事情があるんじゃないか、というのが私の印象だった分けです。
その結果、夫婦の関係が冷たくなった家庭では、
子供も本当に愛されることは難しいでしょうから、
そこから子殺しや子供の虐待問題も誘発されるような気がします。

42 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/01/27(土) 12:06:49 [ 195.net220148245.t-com.ne.jp ]
  ●●●レッド・ドラゴン(2002)☆☆☆●●●(2/2)

まあ『女が処女で結婚すれば必ず幸せになれる』という保証も無いですが、
少なくともそれは必要条件であるかもしれない、ということですね。
他方『男にも女性経験があれば、うまく行くのか』という点については、
私には何のデータもないので、何も言う立場にはありません。
ただ、たとえその場合でも、男女とも未経験の場合に比べたら、
夫婦の絆が弱まることは不可避なんじゃないでしょうかね。

ならば『夫婦の絆を回復する為に、全てを昔風に戻すべきだ』
と言えるかというと、それは難しい問題でしょうね。
つまり、女性の自立云々を言う立場なら、たとえ絆が弱まるとしても、
その中で方策を考えるしかない、ということになるかもしれませんからね。

なら、結婚前に処女を失った女は、どうすべきかという点ですが、
一つの考え方としては、なるべく年配の男と結婚するのが一つの手でしょうね。
というのも、嫉妬というのは欲望の強さと正比例するようですから、
年をとって欲望が弱まれば、そうした嫉妬の問題も確実に減る分けですよね。


こうした問題に関しては、以前に無差別級の29で書いた『あいのり』で、
最近、興味深い例が有りましたね。
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/29
つまり、男性経験ありの女とうぶな男のカップルが出来ていましたが、
うぶな男がいきなり結婚を申し込んだのに対し、女の方が逆にいなして
『とりあえず、付き合うのはOK』みたいな形になってましたね。
この場合、以上に述べたような意味で、やはり、
女の方に一定の警戒心が働いたのではないでしょうか。

私としては、果たしてこのカップルが、
最終的にうまく行くのかどうか、非常に興味がある所なんですが、
その意味では、前に書いたかどうか忘れましたが、
『あいのりで成立したカップルに関しては、
うまく行った場合だけでなく失敗した場合も含めて、
最後まで追跡して取り上げて欲しい』という気がします。

つまり、このカップルは何年付き合って別れたとか、
このカップルは結婚まで辿りついたが、何年で離婚したとか、
全てのカップルについて、一覧表を作る分けですね。
男女の恋愛模様を番組にするのなら、
そこまで責任を持って、結果を報告して欲しいですよね。

43 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/01/30(火) 11:04:45 [ 129.net059085053.t-com.ne.jp ]
  ●●●謎帯一寸徳兵衛(2006年5月国立大劇場)☆☆☆●●●

謎帯一寸徳兵衛(なぞのおびちょっととくべえ)と読みますが、
例の前進座が国立劇場で公演したもので、鶴谷南北の作品のようです。
例によってというか、とんでもないワルが二人も出て来ますが、
その悪党ぶりは胸糞が悪いというか、ちょっと悪過ぎますね。(-_-;)

例の『夏祭浪花鑑』と同様、ここでも団七なる人物が活躍する分けですが、
井戸端で行われる凄惨な殺しにしても、あれと良く似ていますから、
ひょっとすると、南北はそれをヒントにしたのかもしれませんね。
例によって、筋は複雑で紹介するのも面倒ですから、詳細はこちらをどうぞ。
(このサイトの話によると、この作品は
『夏祭浪花鑑』の書き換え狂言なんだそうです。(^^;))
  http://www5e.biglobe.ne.jp/~freddy/watching150.htm
  謎帯一寸徳兵衛 前進座公演

さて、物語は浪人としてあぶれた団七と佐賀右衛門が、
昔の上司である玉島兵太夫に士官を頼んで軽くあしらわれた後、
その兵太夫が、主人家の家宝である千寿院力王という名刀を、
これから受け取りに行くと知り、それを盗もうとたくらむ所から展開します。
団七は佐賀右衛門をそそのかして名刀を盗ませた後、兵太夫を殺しますが、
更には、その佐賀右衛門も殺して、兵太夫殺しの犯人に仕立てあげます。


団七の想い人のお辰は既に、正直者・徳兵衛の妻となっていましたが、
兵太夫の娘お梶が彼女に似ていたことから、団七はこともあろうに、
父・兵太夫の敵討ちをするという名目で、お梶と結婚してしまいます。
しかし、金策に詰まった団七は、妻のお梶を女郎屋で稼がせようとし、
それに失敗すると、お梶まで殺してしまうという展開になります。

その後、実はお辰がお梶の妹で、
義平次というもう一人のワルに誘拐されていたのだと分かり、最後には、
お辰と徳兵衛の夫婦が、父と姉の仇である団七を討って終わります。
その場合、幕切れで『急に場面が明るくなり、夜から昼に転換する』
という演出は、一体どういう意味があるんでしょうかね。
『水天宮利生深川』でも、そうだったと思いますが、
単に、最後の見栄をきれいに見せる為の趣向なんでしょうか。

他方、前進座がこんな不快な演目を、敢えて繰り返し上演する背景には、
何か謀略的な狙いがあるのかもしれませんね 。
ただ、その点では『そもそも鶴谷南北がどうして、
こんな悪党ばかり好んで描くのか』も気になるところですが……
逆に言うと『当時の江戸町民が、それを喜んで見た』
という事情が問題でしょうかね。


当時の社会は徳川に取りつぶされた藩の侍が浪人となってあぶれ、
江戸市中を沢山徘徊していたようですが、そうした社会矛盾も、
様々な犯罪を生む下地となっていたんだろうと思います。
他方、当時のような貧富格差が大き過ぎる社会では、
一部の大金持ちをゆすって、金品をせしめる程度のことに対し、
庶民は余り罪悪感を持ってなかったようなフシがある分けですね。
その件は、前スレの64でも触れましたが、歌舞伎では、
『白波五人男』のような悪の英雄を好んで描く傾向がある分けです。
  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1102295096.html#64

因みに、これも同じ所で書いたことですが、
『十六夜清心』という作品では、河竹黙阿弥が、
『欲望に負けて犯罪者となる』人間の業を活写していましたね。
そうした悪の本質への洞察と共に、ゆすりたかりへの許容度を持ちつつ、
こんなどうしようもないワルの活躍を娯楽として受け入れていた
江戸町民の心情をどう解釈したら良いんでしょうか。
私には今の所、まだ良いアイデアが浮かびません。

ただ、胸糞の悪い悪党という意味からすると、私にとっては
『嘘は大きい程、ばれにくい』という原則で人々を欺くユダヤ主義と、
それに連なる共産主義の赤犬どもの存在が、ぴったり重なる分けですね。
つい最近も、イスラエルの女性外相が日本に来ていたようですけど、
こういう所で、人当たりの良い女性を前面に立てる所にしても、
全ては『こわもての犯罪国家』を隠す為の計算ずくの謀略ですから、
くれぐれも騙されないようにしたいものです。(-_-;)

44 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/02/02(金) 11:08:37 [ 69.net059085044.t-com.ne.jp ]
  ●●●ザ・ドリーム(2003年7月・アメリカンバレエシアター)☆☆☆●●●

これは、シェークスピアの『真夏の夜の夢』の物語に基づき、
結婚行進曲で有名なメンデルスゾーンの同名の音楽に振り付けた作品ですが、
ここでは物語の一部しか取り上げていないようです。
もっとも、元の物語は映画化された作品などを何度か見たはずなんですが、
どうも物覚えが悪いせいか、詳しい内容は覚えていません。(^^;)

ですから、荒筋を知りたい方は、こちらをどうぞ。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E3%81%AE%E5%A4%9C%E3%81%AE%E5%A4%A2
  夏の夜の夢
それから、原文もこちらにありますので、お暇な方はどうぞ。
最近は、何でもネットで読めて便利になりましたね。(^^;)
  http://www.e-freetext.net/mdnght.html

ところで、この場合の『アメリカン』は必ずしも、
『米国』を意味しないんでしょうかね!?(^^;)
その出来からすると、お隣のカナダと比べても、
米国のバレエの水準は必ずしも高くないようです。
その演出も全体に、かなり通俗的な印象を受けました。


因みに、シェークスピアの原作の名ですが、最近は何故か、
『真夏の夜の夢』でなく『夏の夜の夢』と書くようで、
それが前から少し気になっていたんですね。
で、今回の調べで知ったんですが、さっきも引用したwikiサイトによると、
近年の研究の結果、そういう変更が一般化し始めているんだそうです。

でも、その理由を読む限り、私としては納得できませんね。
つまり、元々は『Midsummer Night』という原題から直訳したのだが、
実は、それは正確には『夏至の夜』を意味するのであり、
真夏と訳すと日本人に誤解を与えるとかいう話なんですね。
しかし、その主張には無理があるような気がします。

例えば、午前0時は真夜中であり、午後0時は真昼でしょ!?
同様に、冬至を真冬、夏至を真夏と言って何が悪いのでしょうか。
結局、一日で言うと気温がピークとなる時刻は、
太陽が南中する正午より少し遅れて午後2時頃にずれ込み、
同様に、一年で言うと最高気温がピークとなる季節は、
太陽が最も高くなる夏至より少し遅れて大暑の頃にずれ込む分けですが、
それは、大気が温まるまでに多少のズレが生じるから当然な分けですね。


それでも、冬至の頃を真冬と言って誰も不思議と思わないのに、
夏至の頃を真夏と言うと少し無理に感じるのは、
日本固有の特殊事情があるからなんですね。
つまり、日本(特に本州)では梅雨という季節があって、
6月中旬から7月中旬にかけて、厚い雨雲に覆われる為、
夏至の頃は、むしろ肌寒いことが多い分けなんです。

ところが、ヨーロッパには梅雨なんてものはありませんからね、
冬至が充分寒いのと同様、夏至は充分暑い(又は、暖かい)分けです。
その意味で、向こうの『夏至』は『真夏』と言っても、
全く差し支えないんですね。

ですから、仮に原題を『夏至の夜の夢』と訳すなら、
日本では梅雨と真正面からぶつかり、誤訳と言えないこともないですが、
『真夏の夜の夢』と訳す限り、別に何の問題もないんじゃないでしょうか。
『夏の夜の夢』だと、かえって原題のニュアンスから遠ざかると思うんですが、
皆様のお考えは、いかがなものでしょうかね。(^^;)

45 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/02/03(土) 10:53:25 [ 89.net220148237.t-com.ne.jp ]
  ●●●山の音(1954)☆☆☆−●●●

1954年と言えば、そろそろ戦後の日本社会も落ち着いて来た頃でしょうか。
これは成瀬巳喜男特集の一つで、川端康成の小説を映画化した作品ですが、
川端康成が私の好みでないせいもあって、もう一つ感心しませんでしたね。
ただ今回の新発見は、主演の原節子が加来千香子と鷲尾いさ子を
足して二で割ったような顔をしているということでした。(^^;)

物語は、鎌倉に住む老夫婦に息子夫婦と娘夫婦がいて、
どっちの家庭も夫の浮気でぐらついているという設定ですが……結局、
この手の不倫でぐちゃぐちゃした話はどうも嫌いなんですよね。(^^;)
『どんなに女を泣かそうが不幸になろうが自業自得だから、
勝手にやってくれ』という感じで、何の共感もそそりません。


じいさんは、息子にコケにされている嫁を大切に扱いますが、
結局、息子の愛人と嫁の原節子にほぼ同時に子供が出来るわけです。
その時、息子は愛人に『子供を下ろせ』と強要してけんか別れしますが、
他方で嫁は『こんな亭主の子は生めない』という分けで覚悟の堕胎をし、
もう確実に離婚だろうな、という予感を残して終わります。

でも……老夫婦にここまで大切にされたら、普通は、
その老夫婦の為だけにでも孫を生んでやろうと、
考えるのが自然であるような気もしますよね。

その意味で原節子の振る舞いには、もう一つ納得が行きませんが……
川端康成としては多分『新しい女』なるものを描きたかったんでしょう。
愛人の絹子にしても、妻がいるのを知りつつ愛人を続けていたり、
けんか別れした後は、自分一人で子を生んで未婚の母を目指したりと、
当節の『新しい女』を相当、先取りしてますからね。

46 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/02/13(火) 12:05:36 [ 226.net220148229.t-com.ne.jp ]
  ●●●山猫(1963)☆☆☆+●●●

これまた、カンヌ映画祭でグランプリを取った作品のようです。
まあ、中々こくのある出来ではありますが、
それほどすごい映画とも思えませんでした。
結局、こうした映画祭では『100年後・200年後に通用する作品を、
選んで欲しい』と、我々は期待しがちですが、
それは元々無理な相談なんでしょうかね。

ところで、ヨーロッパの歴史というのは余りに複雑すぎて、
世界史を幾ら勉強しても、良く分からない所がありますけど、
この映画の背景となるイタリア統一戦争にしても、そうですよね。(^^;)
ここにはガリバルディ率いる有名な『赤シャツ隊』も出て来ますが、
シチリア貴族である主人公たちは、フランス革命後の激動の中で、
自分たちのような特権階級の死滅を予感しつつ、
歴史の流れに翻弄されるというような話でした。


そうした時代の中、主人公サリナ公爵の甥で、
若き日のアラン・ドロンが演じる貴族出身の青年将校が、
平民の村長の娘と恋をするという話が展開します。
実は、主人公の娘も彼に恋をしている分けですが、主人公は、
それと知りつつも、彼に押しつけることはしないという展開で、
シチリア貴族の贅沢な日常生活が活写されます。

結局、その中で大したことも起こらぬまま映画は終わりますが、
貴族階級の落日の気配はぬぐえないという雰囲気に、
主人公の『人生の終わりへの予感』が重ね合わせて描かれていたようです。
荒筋を知りたい方は、このサイトが良いでしょうね。
ここは元の小説の話が中心ですが、色々と参考になりました。
  http://park8.wakwak.com/~w22/566.htm
  「山猫」 G・T・ランペドゥーサ (イタリア)

47 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/02/15(木) 13:01:34 [ 161.net220148175.t-com.ne.jp ]
  ●●●土蜘蛛(2006年・NHK古典芸能鑑賞会)☆☆●●●

これは、河竹黙阿弥が作った歌舞伎舞踊で、
同名の能を元にした作品のようです。
能の舞台を模して、大きな松を描いた背景を使うので、
この手の作品を松羽目物(まつはめもの)という分けですね。
その荒筋などは、こちらにあります。  
  http://www.nhk-p.co.jp/event/koten/index.html

でも……はっきり言って、歌舞伎舞踊というのは余り面白くないですね。
今回も少し退屈しましたが、この作品は前にも一度見た気がしますから、
或いは、その辺の影響もあったのかもしれません。
ただ、最初は好奇心だけで持つとしても、二度目には退屈するとしたら、
やはり、大したものとは言えないでしょうね。
無論、私の理解力が足りないせいである可能性もありますが。(^^;)

48 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/02/23(金) 12:59:30 [ 121.net220148226.t-com.ne.jp ]
  ●●●イドメネオ(2005年12月ミラノ・スカラ座)☆☆●●●

モーツァルトのオペラを正式に取り上げるのは、これが最初でしたかね。
でも残念ながら、この作品の出来はもう一つでした。
結局、天才モーツァルトも、三大オペラ(フィガロの結婚、魔笛、
ドン・ジョバンニ)以外では、余り大したオペラは作ってないみたいですね。
この作品の場合、音楽的に中身が薄くて退屈な上に、そのストーリーも、
典型的なギリシャ悲劇をハッピーエンドに変えたみたいな代物ですからね。

その場合、暗澹たる結末をハッピーエンドに直してしまうのは、
キリスト教的な価値観による部分が大きいのかもしれませんね。
以前に触れた『オルフェオとエウリディーチェ』にしてもそうでしたが、
ここでも、最後は『愛が勝利した』みたいになっていました。
でも……ギリシャ悲劇から肝心の悲劇の部分を取り去ってしまうのは、言わば
『すき焼きから牛肉を抜く』みたいなものではないでしょうかね!?(^^;)

もっとも、少し捜した限り、元となる悲劇は見当たりませんでしたから、
ひょっとすると、この話は完全な創作なのかもしれません。
エレクトラなどは、他のギリシャ悲劇にも出て来る有名人物ですが、
イドメネオ・イダマンテ・イリアなどの名はどうも、
この物語にしか出て来ないようですからね。


クレタ王のイドメネオは、トロイ戦争に勝った後、
帰途の海路で嵐に合いますが、その時、苦し紛れに
『もし助かったら、上陸して最初に出会った者を、
海神ネプチューンの生贄として捧げる』という誓いを立てます。
ところが、その最初に出会った人物が何と息子のイダマンテで、
そこから、如何にもギリシャ的な不条理劇が展開する分けです。

イドメネオは既に死んだと思われていたので、
クレタは息子のイダマンテが治めていましたが、
彼は、トロイの捕虜を解放したりする中で、
トロイの王女だったイリアと恋仲になります。
ところが、もう一人、アルゴスの王女エレクトラも、
イダマンテを恋していて、二人に嫉妬するという三角関係にある分けです。

クレタに戻った王は何とかして海神への誓いから逃れようと画策し、
その為に、息子をエレクトラと一緒にアルゴスへ追放しようとしますが、
怒った海神は怪物を送り込んでクレタの住民を殺戮します。
その時、イダマンテは怪物を退治することに成功しますが、
海神の怒りは尚も収まる気配がなく、イドメネオはついに、
国民に真相を告白し、イダマンテを殺そうと決意します。


ところが、王が息子を殺そうとした瞬間、恋人のイリアが
『それなら、代りに私を殺してくれ』と身を投げ出すので、
その愛によって神々の怒りが解け、イダマンテは、
めでたくイリアと結婚し、王位に付くというお話でした。

因みに、父親が生贄に捧げようとする息子の名が『イダマンテ』
アイヌが熊を殺してあの世に送る儀式が『イヨマンテ』……
名前も似てますが、内容も似通っているのが面白いですね。(^^;)
それから、ここでは王子のイダマンテをソプラノが演じていますが、
この手の宝塚的というか倒錯的な演出は、
リヒアルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』にもありました。

その為か、シュトラウスのオペラではやたらソプラノが目立っていて、
バスが目立つワグナーとは好対照ですが……そうした点で言うと、
イタリア・オペラではテノールが、スラブ・オペラではアルトが
目立つように思うのは、私の気のせいでしょうか。(^^;)

49 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/02/24(土) 10:24:10 [ 156.net220148228.t-com.ne.jp ]
  ●●●DEATH NOTE 前編(2006)☆☆☆●●●

これは、シチュエーション・ホラーとでも言うべきか、
『ノートに名前を書くだけで、人を殺せる』という他愛のない設定ですが、
結果的には、かなり楽しめる娯楽作品に仕上がってました。
去年は、映画の興行収入において日本映画が外国映画を上回ったそうですが、
ここしばらく、いわゆる韓流に押されてばかりいた日本映画に最近、
ようやく元気が回復して来た気配があるのは、ご同慶の至りです。(^^;)

ただ、ここに出て来る死神が、如何にも西洋的なのが引っかかりますね。
CGの製作をアメリカに発注したのかもしれませんが……
どうせなら『ゲゲゲの鬼太郎』に出て来るみたいな妖怪の方が、
日本映画には、むしろふさわしかったのではないでしょうか。
それから、主人公のキラを演じている藤原竜也ですが、
犯行内容の悪どさに比べ、その雰囲気が善良すぎて、
凶悪さが足りないのが、もの足りませんでしたね。

自分の恋人まで殺してしまう所なんか『こいつは一体、
何を生き甲斐に生きてるんだ』なんて感じがしますしね。
その点、エルを演じた松山ケンイチの方が、
何やら得体の知れない不気味な感じが良く出ていましたから、
二人の役を入れ換えたら、丁度よかったんじゃないでしょうか。

50 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/02/25(日) 12:18:47 [ 161.net059085047.t-com.ne.jp ]
  ●●●華麗なる賭け(1968)☆☆☆−●●●

これは結構、有名な映画のようですが……
フランスかぶれのアメリカ映画という所でしょうかね。
結局、この手の『時代の最先端』を気取るような作品は、
時間と共に古くなるのも早い、と言えるのではないでしょうか。

『気晴らし(!?)の為に銀行強盗を実行した大金持ちと、
それを追究する美人捜査官とが恋に落ちて、
互いに駆け引きを展開する』という荒筋ですが、
今から見て、大して面白くも感じませんでした。

因みに、この映画は主題歌が有名らしいですね。
『ミミファファミミ ララミミドドシラシ〜』
という曲は多分、誰でも聞き覚えがあると思いますが……
実を言うと『主題歌が有名になった映画に名作はない』
というのが私のジンクスで、ほとんど外れたことがありません。(^^;)

51 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/03/08(木) 18:02:06 [ 238.net059085045.t-com.ne.jp ]
  ●●●パッサカリア(2005年5月ボリショイ劇場)☆☆☆●●●

これはウェーベルンの無調音楽に、
ローラン・プティが振り付けをした作品でした。
ウェーベルンと言えば、例のシェーンベルクやベルクと共に、
新ウィーン楽派の三人組の一人ですが、私の評価では、
ベルクに比べて、その音楽的な魅力はもう一つですね。

その前衛音楽に前衛的な振り付けをした、
まさに前衛舞踊ですが、尻上がりに良くなってはいたものの、
それほどびっくりする程の出来ではありませんでした。
何のストーリー性もなく、抽象的な踊りだけで見せる作品ですから、
まあ、こんなものなんでしょうかね。

52 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/03/10(土) 10:53:39 [ 166.net220148244.t-com.ne.jp ]
  ●●●スペードの女王(2005年5月ボリショイ劇場)☆☆☆●●●

これは、前作と同時に放映された舞踊作品ですが、
今度はチャイコフスキーの音楽に、
同じローラン・プティが振り付けをしたものでした。
製作の時期も場所も一緒ですから、
恐らくまとめて作られたものでしょうが、
こっちはプーシキンの同名小説を下敷きにしていますから、
当然ストーリー性がありますよね。
  
ただ、スペードの女王と言う題名から、私はてっきり、
同じチャイコフスキーが作った同名オペラの音楽を聞けるのかと、
少し期待していたんですが、意外にも音楽は『悲愴交響曲』でした。
無論、悲愴(交響曲第六番)と言えば、彼の代表作とも言える傑作ですから、
音楽として決して不足はない分けですが、その音楽が、
元のプーシキンの物語とマッチするかどうかは、また別問題でしょうね。

スペードの女王の荒筋を知りたい方はこちら。
  http://homepage3.nifty.com/operasuzume/PiqueDame.htm
全文を読みたい方には、例の青空文庫がありました。(^^;)
  http://www.aozora.gr.jp/cards/001088/files/42305_16644.html


ある老夫人が『ファラオン』というトランプゲームに勝つ為の
必勝の手を知っていると分かり、その秘密を聞き出そうとして、
青年がピストルで脅しますが、彼女はショック死してしまいます。
しかしその後、青年の夢に死んだ彼女が現れて、
順に3・7・1と賭けることを教えます。

その結果、青年は3と7を使った勝利で大金持ちになりますが、
最後に1を使うとスペードの女王のカードが出て、
彼は全財産を失ってしまいます。
その時、彼はそのカードの絵に彼女の亡霊を見いだし、
それに怯えた末に、発狂してしまうというお話でした。

何やら教訓めいていますが、
話としてはもう一つぴんと来ませんよね。
舞踊作品として見ても、振り付けの多少の新奇さを除けば、
取り立てて言うほどの内容はなかったと思います。

53 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/03/13(火) 11:37:04 [ 142.net220148231.t-com.ne.jp ]
  ●●●楊門女将(2006年6月東京芸術劇場)☆☆☆●●●(1/5)

久々の京劇で、これは上海京劇院の日本公演でしたが、
題名は楊門女将(ようもんじょしょう)と読みます……というか、
『日本では、そう読み習わされている』と言うべきなんでしょうね。
実を言うと、この演目は以前にも抜粋を見たことがあるんですが、
今回は通し上演に近いのか、4時間もかかる長丁場でした。(^^;)
http://www.nikkei-events.jp/concert/kyougeki.html
京劇「楊門女将−楊家の女将軍たち−」

舞台は仁宗皇帝が治める十一世紀の宋で、
北方に興った西夏という異民族国家との抗争がテーマです。
当時の宋では、楊家の血筋を引く将軍が、
一手に軍事を引き受けていたらしいですが、
打ち続く戦乱の中で、その将軍たちが次々と戦死してしまうので、
後に残されたその妻たちが、女将軍として活躍するという話でした。

この手の女豪傑という意味では、日本でも『木曽義仲の愛人で、
彼が討ち死にする直前まで一緒に戦った巴御前』の話が有名ですよね。
  http://www003.upp.so-net.ne.jp/mujisan/other/tomoe.html
  巴逍遙
でも……女が将軍になるしかなくなったような国は、結局、
最終的には滅びる運命にある、ということではないでしょうか。


舞台は、楊家出身の元帥・宗保が50才になる誕生日の祝いを準備する席に、
配下の将軍二人が戻って来る所から始まります。
その時、元帥の殉死を聞いた妻と母は、真相を隠したまま、
宴会を開こうとしますが、100才になる祖母は、
彼女たちの様子に不審を抱き、それを見抜いてしまいます。

元帥の戦死を知らされた宋の作戦会議では、
弱気な皇帝が西夏と講和しようとしますが、一部の臣下が徹底抗戦を主張し、
楊家の女将軍たちも復讐の意気に燃えていることが分かるので、結局、
100才の祖母を元帥として、遠征軍が送られることになります。

実は、戦死した元帥にはまだ幼い息子が一人いたのですが、この後、
彼も戦列に加わることになる、というエピソードが加わります。
こうして遠征した宋の軍は、初戦には勝利しますが、すると、
西夏軍は険しい山岳の砦に引きこもって消耗戦を仕掛け、
宋軍の糧食が尽きるのを待つという戦法に出ます。


その時『戦死した夫の元帥が山岳部の抜け道を捜していた』という事を知り、
先行将軍に任命された妻とその息子は、その情報を探った末に、
とうとう抜け道を知る老人と出会います。
こうして後は、その抜け道から敵の本拠を奇襲して大勝利を治め、
目出たし目出たしという結末でした。

さて、そこで問題はこの物語をどう解釈するかなんですが……
ここには色々と面白い問題が含まれているように思います。
先ず言えるのは、先にも少し触れましたように、
どんな経緯があったにせよ、北方異民族との戦い中で、
中心となるべき男の将軍たちが次々と戦死して、
一人もいなくなってしまった、という事実の重さですね。

たとえ一時は、女将軍の活躍で盛り返すことが出来たにせよ、
その事実自体、宋という漢民族の王朝の末路を暗示してますよね。
実際問題として、この後の宋は、次に勃興した金に追い込まれて、
開封から臨安に遷都せざるを得ず、その遷都した先の南宋も、
引き続いて勃興したジンギスカンの元に飲み込まれて行く分けです。
ですから、この楊門女将という戯曲は宋王朝の没落、ひいては、
漢民族の没落への序章と見ることが出来るように思います。

54 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/03/13(火) 11:39:02 [ 142.net220148231.t-com.ne.jp ]
  ●●●楊門女将(2006年6月東京芸術劇場)☆☆☆●●●(2/5)

その意味では、唐詩と宋詩の違いが興味深いですね。
NHKラジオの第二放送では、今でも時々
石川忠久氏の漢詩購読をやっているようですが、
唐代の詩の特徴は、李白・杜甫に代表されるように、
あくまで、その貴族的な格調の高さにありますよね。

それに比べ、宋代の詩はどうかと言うと、
ぐっと庶民的でくだけた雰囲気になる分けです。
で、そうした変化の背景にあるものが何かというと、
結局、生産力が発展して社会が豊かになるのに伴い、
文化が一部貴族のものから、より広範な庶民のものへと、
拡散していくという過程でしょうね。

こうした落差は日本で言うなら、平安朝の貴族文化と、
江戸時代の町民文化との差に近いものがあると思います。
で、そうした文化の大衆化が何をもたらすかと言うと、
結局、戦いよりも文化に慣れた国民は、
戦争をする勇猛さからは遠ざかるということでしょうね。


日本では良く『文武両道』なんて言い方をしますが、
逆に言うと、それは『文武を両立させることが容易ではない』
という事実を示唆しているような気がします。
日本の場合は幸い島国ですから、いくら町民文化が発展しても、
外部から異民族におびやかされる危険が少なかったという点で、
運が良かったと言うべきかもしれませんね。

少し脱線しますが(既に脱線してるか(^^;))、
私が小学生の頃、本ばかり読んでいたという話は、
メルマガ紹介の所で少ししましたよね。
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1070069570/7
そうした中で特に印象に残っている作品のひとつとして、
例えば『幸せな王子さま』というのがありました。

とある港街に王子の銅像が立っていて、その王子に頼まれた一羽の燕が、
貧しい人々の所へ、銅像を飾る金箔や宝石を届けるという話ですが、
その仕事がいつになっても終わらず、ついに燕は、
南に帰る機会を失って、凍え死にしてしまうという荒筋でした。


これはオスカー・ワイルドという人が書いた小説で、
今では『幸福な王子』という名前で良く知られている、
ということを最近になって知りましたが……当時の私は
『世の中には、なんという残酷で悲しい物語があるんだろう』
と少しショックを受けました。

で、どうしてこんな話を始めたのかと言うと、
結局、子供の頃にこんな小説ばかり読んでいると、
はたからは泣き虫に見られるだろう、ということですね。
小学校や中学校時代の私が、色々ないじめを受けたという話は、
既にあちこちでしたと思いますが、大人になってから、
そのいじめられた原因をつらつらと考えてみるに、
原因の一つとして、このことがあるに違いない、と思い至った分けです。

つまり、野山で暴れ回っているガキ大将から見れば、
そうした、本ばかり読んでいるような『泣き虫』は、
格好のイジメの対象になっただろうということですね。
脱線ついでに、もう一つ私の経験を言いますと、
それは小学校三年生の時のことでした。

55 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/03/13(火) 11:40:48 [ 142.net220148231.t-com.ne.jp ]
  ●●●楊門女将(2006年6月東京芸術劇場)☆☆☆●●●(3/5)

お昼休みの時間に校庭に出ていると、あるいじめっ子が、
弱い子をいじめている現場に出食わしたんですね。
そのいじめっ子の名前は今でも覚えていますが、
彼は、弱い子を横倒しにした上、その頭を足で踏んづけていたのでした。
それを見た私は、さすがにムッとしましたが、
その時、頭の中で色々な考えがひらめいたんですね。

その頭を踏んづけているいじめっ子は、
後ろ側は全く無防備だったので、私がその気になれば、
『後ろから思い切り、その頭をぶんなぐることも出来る』
と一瞬思ったんですが……
当時の私は腕力には、からきし自信が無かったんですね。(-_-;)

ですから、たとえその時はぶんなぐることが可能だったとしても、
後の仕返しを考えるとこわくて結局、何もできませんでした。
まあ、たとえ思い切りぶん殴ったとしても、
私の腕力では、大した効果はあるまいと、
合理化してあきらめた面も、あったかもしれませんけどね。


でも、その時の無力感がずっと忘れられず、
後々まで苦く残ったので、こうして覚えている分けです。
或いは、更に逆上って小学一年生の時にも、
忘れられない事件がありました。

今度は休み時間の教室内での出来事ですが、
10分位の休憩時間に生徒たちは、
窓に鈴なりになって、外を眺めていた分けですね。
すると、ひとりずうずうしいガキ大将タイプの奴がいて、
皆が鈴なりになっている窓の所へ、強引に割り込んで来る分けです。

多分、それが一度や二度でなく、いつものことだったので、
ムッとした私は、彼の後ろ側に回り、
両方の足を持ち上げて、窓の外に落っことしてやったのでした。
(多分、この頃はまだガキ大将の怖さを知らなかったんでしょうね。(^^;))


その後、どういう騒ぎになったのか、あいにく良く覚えていませんが、
幸いだったのは、それが一階建ての校舎で、
窓から落ちても、大した怪我はしなかっただろうという点ですね。

もし、これが二階建て・三階建ての校舎で、
その時の私に、充分な判断力が無かったとしたら、
『小学生による殺人事件』として、私は補導されていたかもしれない、
と考えると、今でも冷や汗が出ます。

で……結局、何が言いたかったのかというと、
文学少年が泣き虫になるのに似て、文化にどっぷりと染まった国民は、
戦争をする兵隊としては、余り役に立たなくなるだろうということですね。
宋代の中国も、丁度そんな状態になっていたとすれば、
異民族に押しまくられた末に、男の将軍が全て戦死してしまう、
という体たらくに陥るのも、必然だったのではないかと思う分けです。

56 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/03/13(火) 11:42:50 [ 142.net220148231.t-com.ne.jp ]
  ●●●楊門女将(2006年6月東京芸術劇場)☆☆☆●●●(4/5)

で、次の問題はそれが世界史的にどういう意味を持つかという事ですね。
例のヒットラーは、文明の盛衰という問題に関して、
『人種的な混血が民族の質を低下させ、国を滅ぼす』
というようなことを言ってますけどね、
果たしてそれは本当なんでしょうか。

私の考えでは、文明の盛衰に関わる最も大きな要因は、
そうした混血よりも、異民族支配ではないかと思うんです。
実際問題として、漢民族の場合、
この後の二世紀近くに渡る元王朝の支配の下で、
その民度が相当低下したんじゃないかという気がします。

というのも、そうした異民族支配に至る途中やその後には、
圧政に抵抗する内乱が度々起こると思いますが、
そうした事態が何百年も続く場合、民族の中の最良の部分が、
死滅してしまう可能性が高いということですね。


つまり『命を賭けてでも民族の尊厳を守ろうとする者』は死に絶え、
逆に『長いものには巻かれろ』という事なかれ主義の腐った部分だけが、
生き残るという結果になり易い分けです。
それに比べると、混血による民度の低下というのは、たとえ起こっても、
100と50を混ぜて平均が75に下がる、という程度のことですからね。
この場合、後から幾らでも回復可能な問題であるように思います。

その中国では、元が滅びた後、一時的に、
明という漢民族の王朝が復活しますが『明』という国名自体に、
圧政から解放された安堵感のようなものが感じ取れますよね。
しかし、その明も300年位するとまた滅びて、
今度は清という王朝による別の異民族支配が始まり、
これがまた三世紀近く続く分けです。

その場合、この二度目の異民族支配が民度の低下に及ぼした影響は、
余り大きくはなかったような気がします。
というのも、朝鮮半島は清の支配を受けなかった分けですが、
朝鮮が被った民度の低下は、やはり中国と大差ないように見えるからです。
その意味では、やはり最初の元による異民族支配の影響が、
決定的だったのではないでしょうか


そこで今度は、眼を西に転じますと、
こうした異民族支配による文明の没落として、
一番目に付くのはギリシャの例でしょうね。
今なお西洋文化の基底を成すギリシャ文明を作り上げた民族は、
キリスト教の侵入と共に弱体化して、ローマ帝国の支配下に入り、
その後、更にイスラムの支配を長く受けた分けです。

この場合、どの辺で民度の低下が激しかったのかについては、
浅学な私には知る由もありませんが、
現在のギリシャ人に過去の栄光に匹敵するような
文化的生産力がない事は、誰の眼にも明らかではないでしょうか。
エジプトもしかり、インドもしかりですが、
西洋でもう一つ特筆すべき例は、イベリア半島でしょうね。

現在のスペインやポルトガルが、その経済力において、
北のドイツ・フランス・イギリスに及ばない理由は、
やはり、一時期イスラムの支配下に入ったことに伴う、
民度の低下以外には、あり得ないだろうと思うんです。

57 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/03/13(火) 11:45:30 [ 142.net220148231.t-com.ne.jp ]
  ●●●楊門女将(2006年6月東京芸術劇場)☆☆☆●●●(5/5)

それから、この楊門女将に関し、もう一つ思い出したことですが、
例えば、TBSの『世界ウルルン滞在期』などでは良く、
東南アジアの未開民族の部落に入りこむことがありますよね。
そうすると時々、女性上位というか『女が男よりいばっている』
みたいな社会が、あちこちに存在する分けですね。

その場合、詳しい事情は番組内で紹介されることもありますが、
結局、そういう民族というのは、元をたどると、
『昔々の戦争で男が全て死んでしまい、
奴隷として使っていた身分の低い男を、
子孫を残す為に、やむなく夫として迎えた』
というケースがほとんどのようですね。

ですから、男は単なる種馬として扱われて、女性上位の社会が生まれ、
その習慣が現在まで引き継がれている、という分けです。
近代の戦争では、兵器の発達と共に戦死する割合が増えたかもしれませんが、
古代の戦争に於ける戦死率は、別の意味で、もっと高かったんでしょうね。
というのも、古代の戦争は言わば『皆殺し』戦争だからです。


つまり、奴隷として利用するのでない限り、捕まえた敵兵は、
捕虜にするよりは、全員殺しただろうということです。
ですから、未開部族間の抗争では、負けた側で、
男がいなくなってしまうという事例が、
案外珍しくなかったのではないでしょうか。

で、この問題は『通い婚』という風習とも関係がありそうですよね。
例えば、平安時代の日本では、男と女が結婚すると、
男が女の家に通うという習慣があった分けですが、
中国の辺地には、今でも同様の通い婚が残っているようですね。
問題は、どうして、そういう風習が生まれたのかという事ですが、
結局、それも男の戦死率の高さに由来するように思います。

日本でも、万葉集が作られた時代やそれ以前の時代には、
やはり皆殺し戦争が主流だったのではないかと思いますが、
そうした時代の恒常化した抗争の中では一度、男と女が結婚しても、
男はどんどん死んでしまうに違いない分けですね。


ですから、ある部族が子孫を残し続ける為には、
『男が戦争で死んだら、すぐにまた別の男を補充する』という点で、
通い婚という形式が便利だったんだろうと思います。
場合によっては、生き残った一人の男が十人以上の女の面倒を見る、
なんてことも珍しくなかったでしょうね。(^^;)
それは、戦争で生き残った強い男だけが子孫を残すという点で、
いわゆる優生学的にも優れた制度だったんだろうと思います。

恐らく、そうした風習がなくなるのに必要な条件というのは、
『男が立派な邸宅を構えて家族を養う』時代の到来でしょうね。
一説によると、日本で現実にそういう通い婚が無くなるのは、
侍が支配する時代になってから後だそうですね。
侍の時代になると、男が嫉妬して妻を囲うようになった、
ということのようです。

ただ、実際問題として、上述したような皆殺し戦争は、
仏教が広まって以降の日本では、
もはや無くなっていたのではないかと思いますが、
それでも、やはり平安時代あたりまでは、
過去の風習が尾を引いていたんだろうと思います。

58 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/03/14(水) 10:46:09 [ 59.net220148247.t-com.ne.jp ]
  ●●●ハウルの動く城(2004)☆☆☆●●●

宮崎駿監督の最新作ですが、テーマがなんだったのか、
もう一つピンと来ないというか、印象が薄かったですね。
戦争の話は原作には無く、この映画で付け加えられたもののようですが、
反戦もテーマの一つに加えようとしたんでしょうか。
詳細については、例のwikipediaが詳しいですね。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%8B%95%E3%81%8F%E5%9F%8E
結局、こうしたアニメ作品の場合、マニアが多いせいか、
微に入り細をうがつような記述が豊富にあるようです。(^^;)

帽子屋の平凡な少女ソフィーが、ハウルという少年と出会ったことから、
魔女の魔法によって老婆に変身させられてしまい、
冒険に巻き込まれていく、という展開ですが……
あの軟体動物みたいな奇抜なお城の造形とか、
魔女や魔法が出て来る世界とか、あくまで、
少年少女の夢を充足させる為のファンタジーとして見れば、
出来は悪くなかったと思います。

因みに、こうして良くアニメ作品を見るのが自分でも少し不思議なんですが、
その理由としては、SFやアニメの場合、日常の煩わしさから解放されて、
非日常の世界に遊ぶことが出来る、という点が大きいように思います。
ただ、そんな異国的な非日常の世界のはずなんですが、
ここで食器として使われている陶器の模様が、
どことなく和風なのが面白いですね。(^^;)

59 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/03/16(金) 11:33:05 [ 41.net220148170.t-com.ne.jp ]
  ●●●至福のとき(2002)☆☆☆☆●●●

これまた張芸謀の作品で『あの子を探して』『初恋の来た道』に続く、
幸せ三部作の最終章なんだそうですが……ちょっと困った映画でした。(^^;)
というのも、途中までは『何だ、これは?』という感じの作品で、
私としては星二つにする気でいたんですが、幕切れ近くになって、
最後の5分間に圧倒され、ひっくり返されちゃったんですよね。

今の日本には、こんなに明快なメッセージを、
これだけ強力にぶつけられる監督は、いないような気がします。
それもこれもつまる所は、経済的に飛ぶ鳥を落すような勢いの国だからこそ、
こんな作品が生まれるのかもしれませんね。

舞台となる大都会は上海あたりでしょうか。
さえない中年男が太った女と見合いするシーンから始まります。
男は、何とかして女に取り入ろうと苦労しますが、
最初は結婚費用を工面する為に、公園に打ち捨てられたバスの廃車を、
手製でラブホテルに改造し、一儲けしようと企みます。
そのホテルの名前が『至福旅館』とか言って、
題名の一つの由来である分けですね。(^^;)


この辺のどうしようもない安っぽさは、昔の香港映画を思い出しますが、
全体にコメディー調の作りではあるものの、その子供じみた発想には、
『一体どこまで本気なのか』と疑わざるを得なかったですね。(^^;)
で、太った女には連れ子が二人いて、少年の方は実子なんですが、
少女の方は離婚した前夫の連れ子で、女は義母に過ぎないのに、
前夫が無責任にも放り出して行っちゃったらしいんですね。

しかも、その少女は目が見えないのですが、
義母である女は、お決まりのコースとして少女を邪険に扱います。
で何とかして、盲目の少女のやっかい払いをしようと、
男に彼女の就職先を頼む、という展開になる分けです。
男は、例のお手製のラブホテルを大げさに誇張し、
自分が大ホテルの社長であるかのように装っていたので、
仕方なく、ホテルの従業員として雇う約束をします。

ところが……そのぼろホテルは、市の再開発に引っかかって、
あっさり撤去されちゃうんですね。(-_-;)
そこで、今度は彼女をマッサージ嬢として雇う為に、
自分が以前に勤めていたらしい、
倒産した工場の一角を改造することになります。
その場合、工場時代の同僚が無給で力仕事を引き受けてくれる点など、
もう一つ理解し難い所もありますが……この辺には、
近年の中国の社会状況が、色濃く反映されているのかもしれません。


そもそも『最近の自由競争で国営企業としての工場が倒産してしまい、
この男が仕事にあぶれていた』という事情が背景にあるようです。
ただ、そうした窮状の中でも、昔の同僚同士がこうして助け合っている、
という所は、意外とほのぼのとした印象を受けますよね。
で、マッサージ室は出来たものの、誰も客が来そうにないということで、
仕方なく、その元同僚たちが客の役も引き受けることになります。

その場合、マッサージ嬢に払うチップは、男が出す分けですが……
そんなことは、いつまでも続けれられるはずがないですよね。
ということは、つまり『結婚するまで女を騙し続けさえすれば、
後はどうにでもなる』という発想なんでしょうかね!?
この辺も『どこまで本気か』と思った理由なんですが、
後で、あの鬼母から『詐欺師』と罵られることになります。

そうなると『どっちが善で、どっちが悪』という
明確な構図が崩れてしまう点が、少し苦しいように思いました。
で、当然の事ながら、その内に金が尽きてしまうので、
今度は、偽の紙幣を使って少女を騙すことになりますが……
後の展開は、見てのお楽しみということにしておきましょうね。(^^;)
『至福のとき』という題名が、二重の意味を持っていたことに気付かされます。

60 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/03/21(水) 09:12:09 [ 174.net059086100.t-com.ne.jp ]
  ●●●枕慈童(2007年正月)☆☆☆●●●

これは喜多流の能で、今年の正月に放映された作品でした。
題名は枕慈童(まくらじどう)と読みますが、例によって、
正月は祝祭能ですから、まあ余り大きな期待は持てませんよね。(^^;)
それでも……枕慈童が能面をかぶって登場すると、
舞台がぐっと引き締まる感じになって、やはり能においては、
能面が果たす役割が大きいように思いました。
  http://awaya-noh.com/modules/tinyd1/rewrite/tc_72.html
  粟谷能の会 - 『枕慈童』について

実を言うと観世流だけは、この演目を『菊慈童』と呼ぶそうですが、
その『菊慈童』に関しては、既に見たことがあったようです。
  http://blog.hix05.com/blog/2007/01/post_73.html
  能「菊慈童」(枕慈童:邯鄲の枕の夢) (壺 齋 閑 話)
ある山の麓に霊水が沸いていると聞き、魏の文帝が勅使を派遣すると、
菊の花が咲き乱れる山中の庵で、一人の少年と出会います。
少年は『昔、周の穆(ぼく)王に仕えていたが、誤って王の枕をまたいだ為、
遠流(おんる)の刑でここに流された』という事情を告げます。


穆王はその昔、天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)に行き、釈迦から、
法華経の四要品(しょうぼん)の中の、八句の偈(げ)を授かっていましたが、
中国に帰っても、それを秘して誰にも言わずにいました。
しかし、少年が遠流になる先は、虎や狼が住んでいて、
生きて帰るのも難しい山奥と知り、それを哀れんだ穆王は、
お守りとして八句の偈のうちの二句を少年に授け、
毎朝、唱えるように教えたのでした。

山に行った少年が、その偈を忘れないように菊の葉に書き付けると、
菊の葉に結んだ露が谷川に滴り落ち、霊水(不老長寿の酒)となりました。
ある日、咽が乾いた少年がその霊水を飲むと、それは甘露のように美味で、
虎狼も恐れて近寄らなくなり、しかも、少年は不老不死となって、
700歳となった今も尚、少年の若さを保っていると語ります。
こうして菊の酒に酔った少年は、舞楽を舞い、
帝王の徳を讃えつつ、山路の仙家に帰って行くのでした。


この作品は、当初『少年が罪を得て遠流になる前段』と、
『不老不死を寿(ことほ)ぐ後段』に別れていたようですが、
今では前段が省略され、正月に相応しい祝祭能となったそうです。
他方では、こうして少年が魏の文帝に秘術を伝えた結果、
文帝は毎年9月9日に、菊の花を浮かべた酒を飲んで長寿を願うようりなり、
そこから、いわゆる『重陽の節句』が始まった、という伝承があるようです。

因みに、周の穆王は紀元前十世紀の人、それに比べ、
文帝は『三国志』に出て来る曹操の子・曹丕(そうひ)で、
三世紀の人ですから、両者の間には1200年近くの開きがある分けですね。
とすると、少年が700歳というのは、ちょっと計算が合わないんですが……
まあ、その辺の正確な所は、昔の人も良く知らなかったんでしょうね。(^^;)
つまり、こうした年代計算というものは昔から相当いい加減で、
きちんと整備されたのは、近代に入ってからのようですからね。

61 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/03/22(木) 12:40:35 [ 125.net059085053.t-com.ne.jp ]
  ●●●ホフマン物語(2002年バリ・バスチーユ・オペラ座)☆☆●●●

オッフェンバックのオペレッタですが……音楽的には大方、退屈でしたね。
レハールのジュディッタが中々良かったので、少し期待していたんですが、
或いは、あっちはオペレッタに入れてはいけなかったんでしょうか。
その中では、例の有名な『ホフマンの舟歌』がピカ一ですが、
『ミーファファーミ ミレファファーミ ミレファファーミ ミー』
という奴ですね。私の評価は世間相場とはいつも異なるのが通例ですが、
今回ばかりは、何故か一致したのが不思議です。(^^;)

話はモーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』を上演中の劇場付近で、
観客が休憩に来る酒場が舞台になります。
主人公のホフマンは、そのオペラの主演歌手・ステラに恋をしていて、
ステラも詩人のホフマンが好きという両思いのようですが……
そこにもう一人、ステラを恋している男がいて、
ステラがホフマンに送った恋文を、横取りしてしまいます。


その後、ホフマンは酒場の学生たちにせがまれ、
実らなかった昔の三つの恋の話をする、という展開になります。
先ず最初が自動人形のオランピア、次が歌手志望のアントニア、
最後に娼婦のジュリエッタと続く分けですが……
どうも話の流れが複雑過ぎるせいか、
分かったような分からないような話ですね。

主人公は、三つの恋に失敗した話を繰り広げたあげく、
それぞれの恋人がステラと二重写しに見えて来るので、
そのステラもあきらめてしまうみたいな話ですが……
一体、何が面白いのか、サッパリ分かりませんでした。
特に、娼婦との恋では『自分の影を売る』とか言う話が出て来ますが、
その含意も、もう一つハッキリしませんしね。


興味のある方がいるかもしれないので、
念の為に、荒筋サイトを二つ挙げておきますが、
両方を読み合わせても尚、スッキリとは分かりません。
後者はgooの映画サイトにあった同名映画の荒筋ですが、
展開はかなり違っていて特に、第二と第三のエピソードが逆順でした。
  ホフマン物語
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3%E7%89%A9%E8%AA%9E
  あらすじ - ホフマン物語(1952)
  http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD14175/story.html

62 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/03/25(日) 13:00:27 [ 63.net220148172.t-com.ne.jp ]
  ●●●交渉人 真下正義(2005)☆☆☆−●●●

これは『地下鉄パニック映画』とでも言うべきでしょうか。
例の湾岸署シリーズのスピンオフなるものに付きあっては見たものの、
ちょっと時間を無駄にしたような気分でした。
米国映画では、良く『B級映画』なんて言い方をしますけどね、
これなんか『和製C級映画』という所でしょうかね。(^^;)

特に『魚河岸のあんちゃんか、暴走族上がりか』
といった感じの木島という警官が出て来て、
やたら『バカヤロ』を連発するのには閉口しました。
それから、指揮者を演じた西村雅彦にしても、
もうちょっと、何とかならなかったんでしょうかね。
指揮者というものは、その全身で音楽を表現するものだと思いますが、
彼の指揮ぶりは、まるで人形みたいで全く様になってませんでした。

ただ、あの『クモ』という芋虫みたいな地下鉄車両の暴走には結構、
迫力があって昔、見た『暴走機関車』という映画を思い出しました。
こうした地下鉄車両にしても、日本のデザインは平凡すぎると思いますが、
この手のデザイン優先の車両を実際の路線で走らせたら、
少しは面白くなるんじゃないか、という気がしました。(^^;)

63 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/03/29(木) 12:54:50 [ 241.net220148228.t-com.ne.jp ]
  ●●●マトリックス・リローデッド(2003)☆☆☆●●●(1/2)

これは、例の『マトリックス』シリーズで、
三部作の内の第二作ですが、ひどく小難しい感じのSFなので、
その全体像をざっと理解するだけでも、ひと苦労でょうね。(^^;)
その意味では、例のWikiPediaに、かなり詳細な荒筋がありました。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%83%E3%83%89
これなども参考にしつつ、私なりに、この作品の全体像を
ざっとまとめると大体、以下のようになると思います。

機械が支配する世界では、人間はプラグにつながれ夢を見せられている。
一部の人間はそこから脱出して、ザイオンという地下の解放区に住み、
機械の支配と戦っていたが、今そこに機械の軍団が迫っていた。
その時、第一作で救世主として指名された主人公のネオは、
何とか対策を探そうとして、仮想世界であるマトリックスに潜入する。

その結果、解決の手がかりを知るキーメーカという仮想人物を見つけ出し、
マトリクスを支配する装置(ソース)への入り方を聞き出すのに成功する。
……この辺のカーチェイスやアクションは、この映画の一つの売りでしょうが、
香港映画式のカンフーは、すっかり米国に定着したみたいですね。(^^;)


で、主人公は何とかソースまで到達し、マトリックスの設計者と出会うが、
設計者の話によれば、今のマトリクスは何と6代目のものであるという。
初代のマトリクスは、人間に天国の幻想だけを与えて失敗したが、
色々な試行錯誤ののち、人間に偽の意志を与えることによって、
99%の人間を服従させるのに成功したのが今の6代目だった。

しかし、そのシステム自体まだ不完全で、徐々に不穏分子が生まれる。
そこで、脱出したザイオンの住民に予言を与え希望を持たせることにより、
それらの不穏分子をザイオンにおびき出し、システムの安定を保っていた。

ところが、そうしたやり方も尚、充分ではなくて、
時々はザイオンを破壊して作り直す一方、
マトリクスを再起動(リロード)する必要があった。
それをする役割を与えられた者が救世主であり、
ネオは6代目の救世主として選ばれたのだった。


もし、救世主が自分の役割を果たさない場合、
ザイオンもマトリッスクも全てが崩壊し、
人類は滅亡することになる……。
しかし、その頃、ソースに侵入するのを手伝ったネオの恋人が、
敵に捕まり、危険な目に会っていた。

そこで、主人公のネオが迫られたのは、
『恋人を見捨てて、ザイオンの破壊・再生とマトリクスの再起動をする』か、
『救世主としての任務を放棄し、人類を滅ぼしてでも恋人を救出する』か、
の二者択一だったが結局、彼は後者を選んだ。

その後、ネオは現実世界に逃げ帰る途中で機械軍の攻撃に会い、
何とか機械軍は食い止めたものの昏睡に落ちてしまう。
その時、仲間は彼を連れて別の船でザイオンまで帰還するが、
そこで彼らを待ち受けていたものは『機械軍の侵略を防ぐ為に決行された
奇襲攻撃が結局、失敗に終わった』という悲報だった……。
で後は、第三作に『請うご期待』という分けですね。

64 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/03/29(木) 12:57:37 [ 241.net220148228.t-com.ne.jp ]
  ●●●マトリックス・リローデッド(2003)☆☆☆●●●(2/2)

そこで問題は、この映画のテーマなんですが、興味深いのは、この映画が、
『キリスト教的な世界観に対するひとつの解釈』になっている点ですね。
つまり、前に『ゴドーを待ちながら』の所でも触れましたが、
欧米人にとっての世界とは『神の創造によって始まり、
キリストの再臨で終わる』という閉じた時間なんですね。
ところが、この映画が示唆していることは、
我々が『現実』と思っている世界が、実は
『何代目かのマトリックス』に過ぎないかもしれないという分けでしょ!?

とすると『キリストの再臨で世界が終わる』という聖書の予言は、
『ザイオンの破壊と再生に伴うマトリックスの再起動』に過ぎない分けで、
裏にいる支配者が、全てを操っているということになる分けです。
その場合、裏にいる支配者というのは機械自体か、或いは、
例のマトリックスの設計者ということになるんでしょうね。

ですから、仮にその裏の支配者をユダヤ主義と読み替えれば、
今度は、私の謀略分析とかなり似て来る分けですね。
まあ、私の場合『世界の終わり』なんていうキリスト教的な予言は信じない、
というか全く興味がないですから、その点では大きく異なりますが、
少なくとも、ユダヤ主義が作り出す『仮想現実』の世界で、
大半の人間が欺かれ、操作されているという構図は、そっくりな分けです。


となると『どうしてユダヤ主義がわざわざ、
自分の手の内を明かすような宣伝をするのか』
という疑問が沸くかもしれませんよね!?
その点に関しては、ヒトラーが例の『我が闘争』の中で
『ずずしい公開の原則』というような事を言っていたと思います。

つまり『嘘は大きければ大きいほどばれにくい』分けですから、
そうやって、逆に『真実』を目の前に公開されてしまうと、人々は逆に
『まさか』と思って信じなくなる、というメカニズムですよね。(-_-;)
因みに、解放区の『ザイオン(Zion)』という名前は、
シオニズムの由来となった『シオン(Zion)』そのものである分けですね。
日本語のシオニズムは、フランス語のSionismeから来ているようですが、
英語では、それをZionism(ザイオニズム)と言うらしいですからね。

他方、エジプトではこの映画が上映禁止になったとwikiにありますが、
或いは、監督のウォシャウスキー兄弟がユダヤ系なのかもしれませんね。
まあ、私がざっと見た印象だと、欧米の文化人の内、約半分くらいは、
ユダヤ系という感じですから今更、驚くには当たりませんけどね。
特に、日本に入って来る時には、一種のフィルターがかかるみたいで、
『日本で著明な欧米文化人』となると、ユダヤ系の比率は更に高いようです。

65 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/04/05(木) 12:07:47 [ 196.net220148246.t-com.ne.jp ]
  ●●●アマテラス(2006年6月京都南座)☆☆☆●●●

これは、歌舞伎役者の板東玉三郎が演出し、
鼓童という太鼓演奏のグループと作り上げた共同作品のようです。
『アマテラス』という以上、日本の神話に基づく物語が展開されるのか
と期待してんいたんですが案外、そうした物語性は希薄で、
せいぜい『天の岩戸』神話を連想させる所が少しある程度でした。
結局、舞踊だけでは意味の取れない部分も多いわけですから、
出来れば『ここは何を表現している』と字幕に出して欲しかったですね。

その意味では、この作品における最大の見所は、歌舞伎的な舞踊と
様々な和楽器を総動員した鼓童の演奏との絡みにあったと思います。
鼓動の演奏を見るのはこれが初めてでしたが、中々の迫力ですね。
この手の和太鼓では、能登半島の御陣乗太鼓などが有名ですが、
鼓童も、そこから派生し、発展したグループなんでしょうか。
民謡と融合したような感じのする所もありますが、それと同時に、
子供の頃に見たお神楽を想起させるような所もありましたから、
これは『21世紀の神楽囃子』とでも呼ぶべきでしょうかね。(^^;)

他方、こうしてドンドコなる太鼓の低い唸り声を聞いていると、
何やら、日本人のDNAに直接訴えかけて来るものがあるように感じました。
或いは、大昔の戦さでは、こうした太鼓が、
進軍ラッパのように使われたことがあったかもしれませんね。
因みに、御陣乗太鼓は『昔、能登に攻め込んで来た上杉謙信の軍勢を、
太鼓と鬼の面で追い払った』という故事に由来するそうです。

66 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/04/10(火) 10:37:14 [ 71.net220148231.t-com.ne.jp ]
  ●●●皇帝ティトスの慈悲(2005年6月チューリッヒ)☆☆☆−●●●(1/2)

またモーツァルトのオペラですが、今回も余り面白くありませんでした。
何より音楽がもう一つですし、物語にしても歴史感覚が欠如してますからね。
結局『ローマ皇帝のティトスが、如何に寛容で罪人を許したか』が焦点で、
つまりは、キリスト教的な寛容の精神を宣揚することに主眼があるようです。
でも『神々のゆるしがどうの』という多神教的な表現からしても、
この時代が、キリスト教が支配する以前のローマであると分かりますよね。

そんな時代に、皇帝暗殺を企てた者を無罪放免するなんて、
どう考えたって不自然だろうと思います。
そもそも、殺された影武者の方はどうしてくれるんでしょうかね!?
wikiで調べた所、ティトスという皇帝は実在(西暦79-81)していて、
その世評も、かなり高かったらしいですが、
この物語自体はやはり創作のようです。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9

今回も、セストとアンニオという主役級の男二人を女が演じていて、
私は音域のことは詳しくありませんが、共にメゾソプラノのようです。
ですから、主要な配役で男が演じるのは、皇帝と近衛隊長官だけでした。
因みに、皇帝に求婚される二人の女性は共にソプラノですが、
どうしようもない悪女のヴィテルリアはともかく、
セルヴィリア(マリン・ハルテリウス)の方は、
いかにもあちらの漫画に出て来そうな、金髪美女ですね。(^^;)


皇帝ティトスは、友人セストの妹セルヴィリアに恋していますが、
実は、彼女には別にアンニオという恋人がいました。
他方、兄のセストは前皇帝の娘ヴィテルリアに首ったけですが、
そのヴィテルリアは自分が当然、妃になると思ん込んでいたのに、
それを拒否されたものだから、皇帝ティトスを恨んでいました。

そこで、彼女は自分に夢中のセストを利用し、皇帝暗殺を企みます。
他方、セルヴィリアに求婚した皇帝は、彼女には既に恋人がいると知り、
彼女をあきらめて、何と今度はヴィテルリアに求婚しようとします。
驚いたヴィテルリアは、あわてて暗殺を止めようとしますが……
もう後の祭で、セストによる暗殺計画は既に進行中でした。

こうしてローマの中枢に放火され、皇帝の影武者が暗殺されますが、
皇帝自身は生き残るので、反逆者捜しが始まります。
その時、捕らえられたセストは何も言わずに死のうとするので結局、
ヴィテルリアが皇帝に自分の罪を打ち明けるという展開になります。
その時、皇帝は全てを許し、アンニオとセルヴィリア、
セストとヴィテルリアの両カップルを認める、という結末のようですね。


さて、ここでまた脱線ですが……(^^;)
先に引用したWIKIの項目なんかを見ると、
この時代にはやたらと暗殺が多くて、
一年の間に皇帝が4人も変わった年があるようですね。
折から、キリスト教がローマ帝国に侵入し初めていた時期ですが、
ユダヤ謀略が浸透する過程では、いつの時代にも、
こうした暗殺がつきもののように思います。

つい最近は、ロシアあたりで頻々と暗殺騒ぎが起こっていますが、
私から見れば、それもまたユダヤ謀略の浸透過程なんですよね。
プーチンなどの中枢部は、とっくに洗脳済みと考えられますが、
広大なロシアでは、その先の浸透が大変なんでしょうね。
ですから、部下クラスに洗脳が浸透して行く過程で、
ユダヤ支配への一種の抵抗として、
こうした暗殺事件が多発するんだろうと思います。

その点では、ロシア同様に広大な中国でも、
暗殺がはびって不思議はないと思うんですが……或いは、
中国はユダヤ主義から少しなめられているのかもしれません。
実を言うと、日本でも幕末から戦前にかけては暗殺がはびこっていて、
『一人一殺』なんていう物騒な標語もあった位ですからね。
で、大戦前になると、5/15事件・2/26事件と打ち続く軍部の反乱を鎮圧し、
最終的には、その第二次大戦で抵抗勢力を完全に叩きつぶし、こうして、
日本のユダヤ支配が完成した、というのが私の歴史認識である分けです。

67 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/04/10(火) 10:43:21 [ 71.net220148231.t-com.ne.jp ]
  ●●●皇帝ティトスの慈悲(2005年6月チューリッヒ)☆☆☆−●●●(2/2)

更に、もうひとつ脱線しますと『カンピドーリアが燃えている』
という表現が気になって、改めてローマの地図を調べてみたんですが……
それはローマ市の中心部にある、市役所に面した広場のようですね。
この広場は、敷石に幾何学模様が描かれていて、
GOOGLE地図で航空写真を見ると、その幾何学模様を確認できます。
(因みに、以下の説明は解像度800×600の画面を基準にしていますから、
より大きな解像度の画面では、大分様子が違って来ると思います。
また、私はNS7を使ってますが、IE6では操作も少し変わるようですね。)

先ず、次のサイトを開いて『rome』で検索すると、大きな地図が出ますよね。
  http://maps.google.co.jp/maps
ただ最近、この時点で左側に検索画面が出るように変わったみたいです。
境界の中段にある紺色の三角マークを打つと閉じられるらしいんですが、
NS7では何故か、その三角マークがまだ出ないので困ります。(-_-;)
次に、F11キーで全画面に直してから、右上方の『航空写真』を打ちます。
更に『吹き出し』が邪魔なので、緑の矢印を打って閉じます。
(IE6では何故かこれが効きませんが、吹き出しを下にドラッグしてから、
右上部の�@印を打って閉じる、という手もあるようです。)

その後、左上で四つの矢印が集まる所の中央の印を打つと、
ローマの中心を指す緑の矢印が中央に寄りますよね。
こうしてから、左のスライドバーで上から五段目の横棒を打つと、
拡大写真が出て、中央下(緑の矢印の先)に白く目立つのがベネチア広場です。
この広場に面して、壮大な記念碑のような建物があるんですね。
そこで、この広場を二打して拡大する操作を二回繰り返し、その後、
この写真をドラッグして少し上に引き上げてやると、ベネチア広場のすぐ下に、
その10分の1位の面積の幾何学模様が見えますが、これがカンピドーリオです。


ここで、幾何学模様を中二打(ダブル・ライトクリック)して、
一段階の縮小をしてから、カンピドーリオを左上隅へドラッグすると、
右下に有名なコロセウム(円形競技場)が現れます。
そこで、両者を結ぶ直線を引き、カンピドーリオから1/4位の所を見ると、
そこにあるのが、フォロ・ロマーノという観光名所の遺跡なんですね。
航空写真ではハッキリしませんが、ここには崩れ欠けた古代の柱列があって、
日本人にはワビ・サビを感じさせる所です。
もっとも、ここの一直線のつらなりを見ていると、
どことなく、女性のあそこに似てなくもないですけどね。(^^;)

改めて、左上の四つの矢印が集まる真ん中を打って元の写真に戻り、
今度は左スライド上端の+印を打って拡大する操作を二度行います。
すると、左上の川岸に星型が見えると思いますが、
これがサンタンジェロ要塞で、この川はテヴェレ河、また、
要塞の左に鍵穴みたいに見えるのが、カトリック総本山のバチカン宮殿です。
逆に、画面の右手を見ると、テルミニ駅の引き込み線が目立ちますが……
こうして観光案内みたいなことをしていると、
私なんか、またローマへ行きたくなりました。(^^;)

最近は、こういう航空写真で世界中の空中散歩を楽しめますから、
まるで、いながらにして世界旅行をしたような気分になれますよね。
このサイトはまだ作りかけのせいか、使い勝手はもう一つですが、以前には、
『愛と哀しみのボレロ』でパリのトロカデロを調べことがありました。
(続く)

68 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/04/10(火) 10:44:42 [ 71.net220148231.t-com.ne.jp ]
(続き)
今度は『paris』で検索し、吹き出しを消したら左上矢印の真ん中を打ち、
更に、左側スライドバー上端の+印を打つ拡大操作を、二回行います。
ここでも、緑の矢印はパリ市庁舎付近のようですが、
そこから西北西に向かって、ルーブル美術館、チュイルリー公園、
更に、シャンゼリゼから凱旋門と一直線に続く分けですね。
左上隅の凱旋門からは、八本の通りが放射状に広がっていますが、
そこからほぼ真下に目を転じると、中段付近に丸い印が見えると思います。

ここはシャンドマールと言って、昔の練兵場を公園にした所ですが、
この丸い印を二打して更に拡大します。すると、
そこから西北に向かってセーヌ河岸にあるのがエッフェル塔、
川を挟んでその対岸にあるのが、問題のトロカデロ宮殿です。
この宮殿の建物は何やら弓を張ったように見えると思いますが、
ここでスライドバーの下から六段目の棒を打って一気に縮小すると、
丁度、英国に向かって弓を引いているようにも見えますよね。
両国の長年に渡る歴史的抗争を考えると、中々興味深いと思います。

ついでに、もう一つ紹介すると『砲艦サンパブロ』に関して、
中国の杭州近辺を調べたことがありました。
今度は『杭州』で検索してから、吹き出しを消すと、
もうその時点で、緑の矢印の真上に大きな湖が見えますよね。
これは杭州の北にある太湖という湖らしいですが、
その右下の部分が真っ黒に汚れているのが分かると思います。(-_-;)
ここの入り江の奥は、蘇州夜曲で有名な蘇州という古都ですが、
そこからの排水で、湖水がこんなに汚染されている分けでしょうね。
中国ではその内、環境汚染で大騒ぎになるような気がします。

69 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/04/10(火) 11:04:26 [ 71.net220148231.t-com.ne.jp ]
  ■■訂正■■

>>67で、また外字を使うミスをやっちゃいましたね。(^^;)
  『右上部の・印を打って閉じる、という手もあるようです。』は
  『右上部の×印を打って閉じる、という手もあるようです。』のことです。

ついでに、もう一つ直すと、前回の>>65でも公演の日付と場所が間違っていました。
  『●●●アマテラス(2006年6月京都南座)☆☆☆●●●』は、
  『●●●アマテラス(2006年5月世田谷パブリックシアター)☆☆☆●●●』のミスです。
うっかり、ネット調べで出たデータを引き写したんですが、NHKの放映分は別物だったようです。

70 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/04/14(土) 16:53:34 [ 231.net059086101.t-com.ne.jp ]
  ●●●新平家物語(1955)☆☆☆●●●

これは吉川英治の原作を三つに分けて映画化したものの一つで、
各々別の監督ですが、溝口健二シリーズのこの作品は第一作でした。
昔、古典購読で聞いた平家物語に関し興味があったので録画したんですが、
こうして映像化されると、さすがに良く分かりますね。(*^^)v

時代は武士が権力にのし上がって行く過程の初期段階で、
平家物語でも、冒頭のエピソード『殿上の闇討ち』は有名ですよね。
ここでは清盛出生の秘密から、殿上の闇討ち、そして、
比叡山の僧兵を成敗する話が取り上げられていました。

その場合、溝口監督という人はかなりの完璧主義者で、
時代考証には随分こだわったそうですが……一つだけ言わせてもらうなら、
NHKの大河ドラマを筆頭に、この手の時代劇では、
着物や建物といった外形をどれほど完璧に復元したとしても、
『中身の人間は、どこまでも現代人である』という印象が、
私にはどうしても、ぬぐえないんですよね。(-_-;)


無論、当時の人々の人間性までを正確に復元するなんていう芸当は、
圧倒的に難しいし、至難の技であることは間違いないでしょうけどね。
でも映画やドラマで、いくら昔の扮装を復元し、歴史をなぞってみても、
登場人物の中身が、どうしても現代人にしか見えないとなると、
私なんか『どこかが違う』という違和感が付きまとうんですね。

例えば、この話で言うと、歴代天皇の御霊を祭った神輿を、
僧兵の権力の源であるかのように強調していますが……
私に言わせるなら、それ以前の問題として、
『仏教というものが、当時の人間の精神世界において、
どれほど巨大な位置を占めていたか』と言う点が、
この映画では見落とされているように感じました。

つまり、僧兵の権力と言っても所詮は、
当時の仏教が及ぼし得た巨大な影響力と無縁ではないわけで、
天皇の御霊を祭った神輿の効力なんてものも、あくまで、
そうした仏教権力の一部に過ぎないんじゃないですか!?


その意味では、平安時代は死刑が無かったことで有名ですが、
どうしてそんなことが可能だったのか、と考えてみると良いと思います。
結局、当時の人々にとっては地獄や極楽というものが、
現代人には想像できない位に身近で現実的なものだった分けですね。
ですから、補陀洛(ふだらく)渡海と言って『熊野から小船で海に漕ぎ出し、
極楽を目指す』みたいな、無謀な自殺行為も珍しくなかった分けです。
  密閉舟で決死の出帆
  http://www.k-monogatari.com/michi05/10/1.html

そして、そういう時代には、現世で重い処罰をしなくても、
人々は地獄を恐れて悪いことをしませんから『死刑が無くても、
世の中がきちんと治まっていた』ということなんでしょうね。
他方では、被害者側にしても、あえて現世で重い処罰をしなくても、
罪人はあの世で大変な目にあう、ということを全く疑っていませんから、
報復感情を満たす為の処罰も、そんなに必要ではなかった分けです。

そうした事情を考えると、外形の再現にこだわるのも良いですが、
それ以上に、当時の人々の思考や感じ方にまで肉薄しなければ、
本当の意味で、歴史を復元したことにはならないと思うんですが……
皆様のご意見は、いかがなものでしょうか。(^^;)

71 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/04/21(土) 10:53:29 [ 97.net220148231.t-com.ne.jp ]
  ●●●トレインスポッティング(1996)☆☆●●●

一時期、大分噂になっていたので録画してみたんですが、
もう10年以上も前の作品だったんですね。(^^;)
でも、その内容たるや、ヘロインとセックスに明け暮れる
麻薬中毒のチンピラの話で、どうしようもない映画でした。
因みに、舞台はスコットランドですから、イギリスの支配に対する
スコットランド人の鬱屈した心理も描かれていますね。

その場合、世界の若者がこんな状況に陥るのは、
私に言わせるなら、全てユダヤ支配の帰結なんですね。
それは、一方では『ユダヤ支配で希望の見えない閉塞状況』
から生み出される間接的な結果でもあるでしょうけど、
それ以上に、直接的な操作が疑われる分けです。
というのも、こうして大衆を愚民化して操作するのが、
謀略支配における奴らの常套手段だからです。


ところで最近、ある筋から聞いた話なんですが、
麻薬捜査に使われる麻薬犬というのは、余り長生きできないそうですね。
毎日、麻薬の臭いを嗅がされるので、体がやられてしまうようですが……
それにしても『臭いを嗅ぐだけで早死にする』というんですから、
麻薬というのは、何とも恐ろしい代物ではないでしょうか。(-_-;)
逆に言うと、こうして麻薬なんかに逃避する人間たちがいるお蔭で、
犬までが命を縮めている分けですから、犬から見たら良い迷惑でしょうね。

それから『トレインスポッティング』という題名も気になる所ですが、
wikiによれば『鉄道マニアが列車の番号票・認識票を収集すること』で、
ヘロイン中毒の隠喩なんだそうです。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0#.E3.82.BF.E3.82.A4.E3.83.88.E3.83.AB.E3.81.AE.E7.94.B1.E6.9D.A5

72 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/04/27(金) 14:00:28 [ 25.net059085050.t-com.ne.jp ]
  ●●●シャモニーのリンダ(1996年チューリッヒ歌劇場)☆☆☆●●●

今度はドニゼッティのオペラですが、
ドニゼッティと言えばイタリア・オペラのファンには有名でしょうね。
私も既に『愛の妙薬』や『連隊の娘』を見ましたが、
ベストは『愛の妙薬』でしょうか。
今回の作品も出来はまあまあですが、彼のオペラは、
音楽的にはオペレッタに近い代物というべきかもしませんね。

ただ、ややこしいの歌舞伎の筋なんかと比べると、
筋がはるかに分かり易いのには大助かりです。(^^;)
簡単な荒筋はこちらにありました。
  http://shazaku.com/donizetti/donizetti04.html
より詳細な筋はこちらにあります。
  http://homepage2.nifty.com/aine/opera/opera85.htm
因みに、サイトによってカルロが子爵だったり伯爵だったりするし、
シャモニーの知事も村長だったり司教だったりと、混乱してますね。

第1幕、シャモニーの村娘・リンダには、
貧しい絵描きの恋人・カルロがいましたが、
土地の名士が彼女に邪心を抱いている、という良くある設定で始まります。
そのボアフレリー侯爵は、彼女の両親が借地契約の延長を望んでいるのを種に、
彼女を自分のものにしようと企みますが、シャモニーの知事がそれを見抜き、
パリに出稼ぎに行く村民たちと共に、彼女をパリへと送り出します。


第2幕、パリでは彼女は頼るべき人を失ってしまい、
辻芸人をしながら貧しい暮らしを立てていましたが、
そこへカルロが彼女を追いかけて来て、
自分が実はシルヴァル子爵であると身分を明かします。
(そんなことなら、始めから彼女の両親を助けてやれば、
何も問題は起こらなかったはずなんですけどね。(^^;))

その結果、彼女は豪華な御殿住まいに移りますが、
カルロの方は、母親が身分違いの恋を知って反対するので、
心ならずも身分相応の結婚をさせられそうになります。
他方、リンダの父親もシルヴァル子爵の口添えを求めてパリに来ますが、
その愛人に取りなしてもらおうと会いに行って、自分の娘と出食わします。
そこへ、カルロが結婚式の準備をしているという噂が飛び込んで来るので、
父は彼女のふしだらを責めますが、リンダは絶望して心を病んでしまいます。

第3幕、村民たちが出稼ぎから戻って来る頃、
村ではカルロが何とか母親の承諾を得てリンダを待っていましたが、
帰って来たリンダは気がふれていて、両親の顔も分かりませんでした。
しかしその時、カルロの愛をこめた歌が彼女の心を癒すので、
彼女は正気に戻り、二人はめでたく結婚するというお話でした。
全体に分かり易い音楽ですが『ドーシーラソーソー シーラーソー』
というのがメインテーマでしょうね。

73 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/05/04(金) 12:00:42 [ 49.net220148244.t-com.ne.jp ]
  ●●●歌麿をめぐる五人の女(1946)☆☆☆−●●●

またまた溝口健二の白黒作品ですが、その意図は分かりにくいですね。
そもそも、歌麿という画家は今では『謎の絵師』として有名な位ですが、
そんな正体不明の人物の周囲に五人の女を配して、
一体何を描こうとしたんでしょうか。
出て来る女優たちも馴染みのない顔ばかりで、
誰が誰やら分からない内に終わっちゃいました。(^^;)

実は、同名映画が1959年にもあるんですが、必ずしもリメイクではないのか、
荒筋が大幅に違っていて、登場する女たちの名前すら違うんですね。
  http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD26843/story.html
  http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD26413/story.html
どうやら、原作は共に邦枝完二の『歌麿をめぐる女達』という小説で、
そこに出て来る多くの女たちから、それぞれ5人を選んで脚色したようです。
  http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2006-11-12/kaisetsu_16.html
  没後50年溝口健二再発見


題名からは『歌麿には五人の恋人がいた』という風にも受け取れますが、
実際は全くそうではなくて、中心は歌麿の弟子になった狩野派の絵師が、
武家の娘を捨て、絵のモデルにしていた腰元と駆け落ちするという話と、
紙問屋の息子がやはり恋人を捨てて、花魁と駆け落ちするという話でした。
で、この二つの三角関係には当然、四人の女が出て来ますが、
五人目の女は、どうでも良いような端役なんですよね。

そうした痴話騒動に、歌麿の色々なエピソードが絡む分けですが、
絵師としての狩野派との確執の話や、松平邸のらんちき騒ぎを覗きに行き、
そこで目をつけた腰元をモデルに有名な絵を描いたという話、
更には、幕府ににらまれて、お仕置きを受ける話などがありました。
ただ、何しろ戦争直後の作品ですから、お色気は相当押さえ気味ですね。
その点では"リメイク"版の方が、カラーですし女優陣も豪華ですから、
ずっと派手な作りになっているのではないでしょうか。(^^;)

74 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/05/10(木) 12:01:10 [ 82.net220148239.t-com.ne.jp ]
  ●●●男はつらいよ 寅次郎の休日(1990)☆☆☆−●●●

このシリーズは幾つか見落としたので、最近の特集から録画したんですが……
この第43作自体は既に見たことがあったようで、ちょっと失敗しました。
それでも、寅さんシリーズは何と言っても最初のテーマ曲を聞くだけで、
ホッとして肩の力が抜けるところが、その魅力でしょうね。(^^;)
但し……このシリーズも中盤ぐらいまでは良かったんですが、
しまい頃には、どんどん謀略に流された感じがあって残念でした。

例えば、その最終回は神戸の震災復興がテーマだったかもしれませんが、
在日朝鮮人の踊りか何かで終わっていたのが象徴的ですよね。
つまり、この映画には『古き良き日本情緒』を求める人が多いはずなんですが、
そこでどうして朝鮮の踊りを見せられなきゃいけないんだ、ということですね。
まあ、ある意味で、このシリーズは『昭和を代表する作品』であって、
平成に入る頃には、もう実質的に終わっていたと言うべきかもしれません。

実際問題として、この回でも話の中心は寅さんの恋から、
その甥っ子の恋に移っていて、寅さんはもはや脇役に過ぎない分けですね。
最後のCDを叩き売りするシーンなんかにしても、
多分その実体は海賊版でしょうから、著作権にうるさい近年の風潮の中では、
寅さんの商売もやりにくくなっていたのではないでしょうか。(-_-;)

75 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/05/12(土) 11:20:02 [ 199.net220148228.t-com.ne.jp ]
  ●●●オール・アバウト・マイ・マザー(1999)☆☆☆●●●

この作品は題名が英語ですが、実はスペイン製作の映画のようです。
その点では、少し毛色の変わった作品という印象も受けましたが、
臓器移殖やらヘロイン中毒やら性転換やらの話題が出て来る所は、
さすがに現代の映画という感じですね。
ただ、臓器移殖はともかく、乱れたセックスやエイズが蔓延する状況は、
スペインも『ユダヤ的頽廃』から自由ではないと言うべきなんでしょうか。
特に、子供の父親が性転換して女になっちゃったりする所は、
『日本の社会は、まだまだ健全だなあ』なんて思いました。(^^;)
ですから、登場人物はほとんど女ばかりで、
そこにオカマが二人絡む、という展開なんですね。

舞台はマドリードとバルセロナを往復する分けですが、
バルセロナでは、例の聖家族教会がチラッと見えていました。
それからマドリードの方なんですが……私がフランスから南下した時は、
かなりコテコテの『濃い』街を予想していたんですよね。
というのも、フランス人は『ピレネー山脈から南はアフリカである』
なんて悪口を言いますし、マドリードに向かう夜行列車の中でも、
隣の乗客がフラメンコみたいのを歌って騒いでましたからね、
その意味で、相当の覚悟をしていたんです。

ところが、実際にマドリードに着いてみると、
その余りにヨーロッパ的な町並みに、拍子抜けしました。
確か、マドリードではアトーチャという駅に着いたと思いますが、
その手前で車窓から見えた遠景は『緑に囲まれた丘のような所に、
瀟洒な集合住宅が散在する』といった印象でしたからね。
ただ、街の中心部にある建造物は、何か中世の建築様式を
コンクリートで模したみたいな造りが多いですから、
ローマやパリを見慣れた目には、大分安っぽく映ると思います。


あらすじはgooの映画サイトを見た方が早いかもしれませんね。
  http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD31870/story.html
まあ、大した物語ではないと思いますが……少し説明不足で難解でした。
冒頭は、母子家庭の息子が女優のサインを貰いに行って、
交通事故で死んでしまう、というエピソードから始まります。
実は、この母親が臓器移殖のコーディネータをやっている分けですが、
息子が脳死になって、臓器を提供する側に回り苦悩するという展開ですね。

で、母親は息子のことを父親に報告しようと、バルセロナに出発します。
しかし、その父親を探す途上で偶然、父親の昔のオカマ仲間と再会し、
そのつながりで、教会のシスターとも知り合います。
更に、例の女優と偶然に出会い、その付き人として雇われますが、
彼女が落ち着いた先に、さっきのシスターが妊娠して押しかけて来ます。

どうしてシスターが妊娠するのか、よく分かりませんが……(^^;)
色々と問題のある娘が、教会に助けられていたということなんでしょうか。
主人公は、胎児の父親が自分の元夫であると知ってショックを受けますが、
その後で、シスターがエイズ検査で陽性になったことが判明します。
で、シスターは子供を産むとすぐ死んでしまうようですが、
その葬式にオカマになった元夫が来て、主人公と再会する分けです。
ただ……この元夫というのが相当の色男というか"美女"なので、
女たちがはまるのも当然という気がしました。(^^;)


実は、このシスターの家庭も中々複雑で、
保守的な母親がぼけた父親を世話している分けですが、
その母親がエイズに感染した孫を恐がるので、結局、
主人公が元夫の子供をマドリードに連れ帰って育てることになります。
こうして何年かたった後、その子は奇跡的にエイズから回復するので、
彼女はバルセロナのエイズ学会に呼ばれ、話を聞かれることになります。

こうして子連れでバルセロナに行った主人公は旧友と再会しますが、
そこで例の元夫がエイズで死んだことを知らされます。
結局、両親が死んで子供だけ生き残ったという分けですが、
その子供に希望を託して、この映画は終わっていたようです。

因みに、この映画の題名にあるマイ・マザーというのが、
一体、誰のことを指しているのか釈然としませんでした。
原題も『All About My Mother』のようですが、
死んだ息子から見た主人公のことなのか……或いは、
エイズを生き延びた息子から見たシスターのことなんでしょうか。

76 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/05/15(火) 12:38:33 [ 176.net220148234.t-com.ne.jp ]
  ●●●死ぬまでにしたい10のこと(2002)☆☆☆●●●

かなり期待していた割には、大した内容ではありませんでした。
結局、この手のテーマでは、その国の国民性や民族性がハッキリ出ますね。
というのも、死ぬまでに余り時間がないとなれば、
『その国民が一体、何を生き甲斐に生きているか』
ということが如実に現れざるを得ない分けですからね。

この作品では、米国の若い母親がある日突然、末期癌の宣告を受けて、
『残りの時間をどう過ごすのか』というのがテーマになっていました。
その時、彼女が思いついたことが10あったという分けですが、
その内容として、二人の幼い娘たちに誕生日毎の声のメッセージを残したり、
新しい母親を探したりすること以外に『夫以外の男と浮気をしてみる』
というアイデアの出て来る所が、如何にも米国式という感じがしました。


で、そうしたことを全て思い通りにやり遂げる為には、
自分の死期が近いことを他人に悟られてはまずいということなんでしょう。
夫や母親、更には浮気相手にも一切気付かれないようにして、
死の直前まで、誰の力も借りずに孤独な努力をする分けですね。
日本人から見たら、余りにドライで無味乾燥な選択とも思えますが……
逆に『全てを知った家族と最後の何ヶ月かを過ごす』というやり方は、
米国人には、余りにベタベタし過ぎると映るかもしれませんね。

そもそも日本では、いまだに『本人だけが真相を知らされない』
というケースも少なくようですが、米国では、
先ず本人に真相を告げるのが、当たり前みたいですからね。
結局、そうしないと米国の場合、後で真相を知った本人から、
医者が訴えられて大変なことになるらしいです。

77 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/05/17(木) 11:36:29 [ 176.net059086103.t-com.ne.jp ]
  ●●●草ぶきの学校(1999)☆☆☆●●●

これは中国映画で、何か自伝風の話ですが、大した内容はありませんでした。
どこかの田舎の小学校で、校長の息子が様々な体験をするという物語ですが、
例によって、のどかで美しい農村風景が展開する所は、癒し系でしょうか。
ただ、その中には戦時中の抗日闘争の話が沢山出て来たりしますから、
日本人にとっては、見るのがちょっとつらいかもしれませんね。
割と詳しいデータがここにありました。
  http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200411/dianying.htm
  名作のセリフで学ぶ中国語⑪ 草ぶきの学校(草房子)

ただ、最後に主人公が重たい病気になり、医者から見放された後、
父親が在野の漢方医みたいな老人を探し出して、結局は、
その老人の処方で病気が治ってしまう、という所が興味深かったです。
つまり、日本でも『末期癌になって、あらゆる民間療法を試した』
なんていう話は良くありますけど『それが最終的に成功した』
ということは余り聞きませんからね。
ですから『本当にこんなことがあり得るのか』と半信半疑の気分でした。

因みに、偶然と言うべきか、この草ぶきの学校は、
少し前に『皇帝ティトスの慈悲』で紹介した、
例の太湖に浮かぶ無人島で撮影されたそうです。
Google地図で見ると右下が真っ黒に汚れていた、あの湖ですよね。
他にも、こんなサイトがありました。
  http://www.eigaseikatu.com/title/s-3202
  中国太湖のほとりにたたずむ、草ぶき屋根の小学校。
  誰の胸にも残る、思い出を紡ぐ一作

78 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/05/18(金) 10:51:10 [ 119.net059085052.t-com.ne.jp ]
  ●●●梅初春五十三驛(国立大劇場)☆☆●●●(1/4)

梅初春五十三駅(うめのはるごじゅうさんつぎ)と読みますが、
これは、今年の正月に国立劇場から五時間近く生中継された奴でした。
(駅は本当は驛と書くようですが、私の主義として、略字が通用する限り、
この手の画数の多い漢字は、なるべく使わないようにしています。(^^;))
最初、例の頼豪阿闍梨や鼠小僧が出て来たりして『一体何が始まるのか』
と少し期待させるところがありましたが……結果的にはガッカリですね。
いくら正月のお遊びとは言え、余りにお粗末な気がしました。
結局、元々の物語が散漫な上に、この放映が断片的だったせいか、
何がなんだかサッパリ分からない内に終わっちゃったんですよね。

ネット上を探すと、今回も色々な荒筋サイトが見つかりましたが、
それによると、一応はひとつながりの筋があるようですから、
NHKの正月中継は、見る前に予習が必要なようです。
実はこのビデオを見たのは4月上旬で、もうひと一月以上前なんですが、
この通り複雑な荒筋をまとめたり、関連する歴史を調べたりで、
大変な手間がかかり、またまた冷や汗を掻きました。
その間に他の雑用も紛れこんだりしたので、こんなに遅くなったんですが、
もう正月歌舞伎はこりごりですね。(-_-;)

以下の荒筋では、主に次の三つのサイトを参考にさせて頂きました。
  http://www5e.biglobe.ne.jp/~freddy/watching175.htm
  「梅初春五十三驛」 音羽屋の家の芸 2007.1.18
  http://www.geocities.jp/khtmamas1/sukikabukihonnbunn070104.html
  わたしのはなし・歌舞伎観劇記録
  http://d.hatena.ne.jp/khtmamas3/20070104
  ■[観劇]1月国立「梅初春五十三驛」


この手の作品は『五十三次もの』と言って他にも色々あるらしいですが、
ここでは京都から江戸に下る点で、通例とは逆順になっているようです。
しかも、時代背景となる鎌倉時代に、五十三駅はまだなかったと言いますから、
その辺は、いかにも『歌舞伎お得意のいい加減さ』という所でしょうね。
因みに、この作品の作者の一人は五世鶴谷南北のようですが、
これまた書き換え狂言で、元ネタは四世鶴屋南北の
『独道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』なんだそうです。

話の内容をざっとまとめると以下のようになりますが……
その場合、ここでは同じ源氏同士の対立関係が軸になりますから、
先ず、その辺からおさらいする必要があると思います。
源平合戦の荒筋として、最初に平家を京都から追い落したのは、
木曽義仲だった分けですが、この作品では、そこの展開を、
『朝廷に恨みを持つ頼豪阿闍梨の霊が義仲に乗り移り、
朝廷に復讐を遂げた』と解釈しているようです。

ところが、その木曽義仲は、都での振る舞いが粗野すぎて嫌われた結果、
後から来た義経が彼を滅ぼし、更に平家一族を壇の浦で滅亡させる分けです。
しかしその後、今度は頼朝が義経の謀叛を疑うという形でその義経を滅ぼし、
こうして鎌倉幕府が成立した分けですが……そこに頼朝のもう一人の弟で、
蒲冠者(かばのかんじゃ)と呼ばれた範頼がいた分けですね。


最終的には、この範頼も謀叛の疑いをかけられて殺されたようですが、
この物語では、その範頼が悪役として扱われています。
結局、頼朝の方は何と言っても武家政権の創始者ですからね、
江戸時代には、幕府に遠慮して善玉扱いになるのは必定で、
その結果、範頼が悪役を引き受けるという形になるんでしょうか。

そういう分けで、ここでは頼朝という善玉と謀叛を企む範頼という悪玉、
更には、父の仇を取ろうと頼朝をつけ狙う木曽義仲の末裔が絡みます。
話の発端としては、天下取りを企む範頼が宝剣を盗み出す分けですが、
その宝剣をめぐって、頼朝・範頼・義仲のそれぞれの関係者が
三つ巴の争奪戦を繰り広げる、というのが基本的な構図ですね。
そこに、白井権八・鼠小僧・八百屋お七といった、
当時の有名人が続々と絡んで来る総花的な構成で、
最後は宝剣が頼朝側に戻って、目出たし目出たしとなります。

その場合、鼠小僧や八百屋お七はともかくとして、
白井権八は、現代人には余り馴染みがないでしょうね。
その人物像については、ここが少し参考になると思います。
  http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24692/story.html
実は、そのモデルとして平井権八という人物がいたようです。
  http://home.elmblog.com/diary/001042.html
  歌舞伎の「白井権八」と「比翼塚」

79 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/05/18(金) 10:58:15 [ 119.net059085052.t-com.ne.jp ]
  ●●●梅初春五十三驛(国立大劇場)☆☆●●●(2/4)

●先ず序幕は、天下取りを企む範頼が宝剣と宝鏡を盗み出す話でした。
平家一族を壇の浦に沈めた時、源義経は三種の神器の内の二つ、
八咫(やた)の鏡と天叢雲(あめのむらくも)の剣を取り戻しますが、
宝鏡は京都御所に収める一方、宝剣は鳥取の大江家に預けました。
この話の当時、義経は既に頼朝に滅ぼされて亡く、京都では、
頼朝のもう一人の弟・範頼が実権を握っているという設定のようです。

さて、舞台は京都御所の新年を祝う席で始まります。
範頼の家来の石塚玄蕃は、同席した大江因幡之助に宝剣の返還を求めますが、
問題の宝剣は既に誰かに盗み出され、紛失していました。
そこで因幡之助は仕方なく、宝剣の返還を待つよう申し出ますが……
実は、その宝剣を盗み出したのが、他ならぬ範頼なのでした。
結局、因幡之助は、宝剣紛失の取調べで関東に下ることになりますが、
こうして歌舞伎に典型的な、善玉と悪玉が揃ったわけです。(^^;)

範頼は、大江家の家臣である本庄助太夫に命じて、
宝剣を預かっていた白井兵左衛門を殺し、宝剣を盗ませたのでした。
それを知った白井の息子・権八は、助太夫を殺して父の仇を取りますが、
宝剣は、助太夫の息子・助八が持って逃走します。
助八は東海道の白須賀にいる知人の所へ向かうので、
権八もそれを追って、東海道の旅に出ます。


さて、この後で登場する木曽義高ですが、歴史的に言うと、
頼朝と義仲が和解した時に、木曽義仲の長男・義高は、
頼朝の娘・大姫の婿になる形で人質に差し出されました。
その後、義高は鎌倉で暮らしていましたが、
義仲が討ち死にした後、謀殺されたようです。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E9%AB%98

ここでは大姫がその後、京都御所に入内したことになっていて、そこへ、
昔の恋人という百姓の次郎吉(実は鼠小僧)が御所見物に忍び込んで来ます。
こうして、元の恋人たちが偶然に再会しますが……後から、
『次郎吉こそが木曽義仲の息子・義高だった』となるようですから、
妙な具合に辻褄が合って来る分けですね。(^^;)

そこへ更に、石塚玄蕃の家来が御所の宝鏡を盗みに来て、
ついでに、範頼が横恋慕する大姫をも誘拐しようとするので、
居合わせた次郎吉は、それを阻止すると同時に宝鏡も手に入れてしまいます。
しかし、次郎吉が大姫を葛篭(つづら)に入れて、担ぎ去ろうとすると、
見えない力に引き戻されました。(TVの放映はこの辺からですね。)


その時、次郎吉の前に現れたのは、頼豪阿闍梨の霊でした。
阿闍梨は、朝廷に復讐する為に義仲にとり付いていましたが、
義仲が死んだ今は、息子の義高に乗り移ろうとしています。
その阿闍梨から『実は死んだ義高は偽者で、お前が本物』と聞かされ、
更に鼠の妖術を授けられた次郎吉は、頼朝への復讐を誓います。

阿闍梨が消えて次郎吉が我にかえると、
そこは阿闍梨をまつる祠(ほこら)の前で、
助太夫の息子・本庄助八とその助八を追う白井権八、
更には、大江因幡之助や木曽の旧臣・根の井小弥太に出食わします。
こうして大姫を含め、関東を目指す六人が一同に会して、
暗闇での探りあい(いわゆる『だんまり』)となります。

その結果、小弥太は宝鏡を、助八は大姫の十二単を、
そして、義高は木曽の家系図を各々手に入れますが……
この辺はどこかで見たような、使い古された手口ですね。(^^;)
義高は鼠の妖術で姿を消してしまうので、
義高にはぐれた大姫は小弥太に助けられます。
こうして結局、宝剣は悪役・範頼の関係者の手に、
宝鏡は木曽義仲の関係者の手に渡った分けですね。

80 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/05/18(金) 11:08:29 [ 119.net059085052.t-com.ne.jp ]
  ●●●梅初春五十三驛(国立大劇場)☆☆●●●(3/4)

●続く第2幕は、小弥太と大姫が化け猫に出会い、
白銀の猫の香炉を手に入れるという話でした。
舞台は東海道の池鯉鮒(ちりゅう)にある茶屋ですが、
そこの女房おさんは昔、木曽の家中に奉公していました。
彼女はおちぶれた元の主人家に貢ぐ為に、年貢の金を盗んで捕まり、
その後で牢死しましたが、何故か死体は消えていました。
それ以来、茶屋は強欲な亭主・又四郎と娘のおくらが営んでいましたが、
この茶屋に例の大姫の十二単が持ち込まれ、飼い猫がじゃれつきます。

そこへ義高を探す小弥太と大姫が到着し、一夜の宿を頼むので、
娘のおくらは二人を自宅へと案内しますが、その途中で忽然と古寺が現れ、
死んだはずのおさんが、大姫の十二単を着て出て来ました。
大姫は足を痛めていたので、仕方なくこの古寺に泊まることになります。
ところが夜更けになると、その古寺では化け猫たちが踊りだし、
おさんは行燈の魚油をペロペロと舐め始めます。
実は、おさんの正体は木曽義仲が滅ぼした猫間中納言の飼い猫の霊なのでした。

化け猫は正体を見られたおくらを食い殺すと、
更には、木曽義仲に殺された主人の恨みを晴らす為、
小弥太と大姫に襲いかかろうとします。
その時、小弥太が例の宝鏡で化け猫を照すと、化け猫は猫石となり、
付近で猫間中納言愛蔵の『白銀の猫の香炉』を発見しました。
因みに、木曽義仲にとりついていた頼豪が義高に授けた『鼠の妖術』と、
木曽義仲が滅ぼした中納言の『白金の猫の香炉』という取り合わせが、
最後の最後に意味を持ってくるので、忘れないようにしましょう。(^^;)


●第三幕は問題の白須賀で、権八が宝剣を取り戻そうとして失敗する話です。
吉祥院という寺へ、宝剣を盗んだ疑いを持たれている白井権八と、
盗賊の鼠小僧を探して役人が来るので、所化の弁長が応対します。
因みに、仏教の世界では師匠を能化、弟子を所化と言うようですね。
ですから、ここで所化というのは見習僧みたいなものでしょうか。
  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%83%BD%E5%8C%96%E6%89%80%E5%8C%96
  能化所化

実は例の宝剣は、助八からこの寺の大日和尚の手に渡っていました。
そこへ、寺の勧進芝居に加わる為、旅役者に化けた権八が来ます。
出し物は菅原伝授の車引と忠臣蔵の五段目ですが、その大道具代りに、
神社の鳥居やら死人が入った棺桶やらが持ち込まれ、大騒ぎとなります。
そのどさくさに紛れて和尚を殺し、一度は宝剣を取り戻した権八でしたが、
油断したすきに、今度は所化の弁長に奪われてしまいます。

この時、所化の弁長は寺の金を持ち逃げしようとしていた分けですが、
偶然に宝剣までをも手に入れて、小躍りして喜ぶ滑稽な仕草は、
板東三津五郎のアドリブなのか、中々の見もので客席は大受けでした。(^^;)
次は、浜名湖にある新居の関所ですが、ここでは、
大姫の葛篭を担いだ小弥太は何とか通り抜けますが、
権八は捕まってしまい、網駕籠で江戸に送られることになります。

81 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/05/18(金) 11:33:27 [ 119.net059085052.t-com.ne.jp ]
  ●●●梅初春五十三驛(国立大劇場)☆☆●●●(4/4)

●四幕目の吉原では、遊女のお七が弁長から宝剣を奪い取り、
権八にそれを与えて逃がしてやるという展開ですね。
所化の弁長は、例の盗んだ金で金回りが良かったので、
吉原の宿にいた小夜衣お七という女郎にほれて通っていました。
ところが、そのお七は昔、白井家に奉公していた関係者だったので、
色仕掛けで弁長を騙し、宝剣を奪ってしまいます。

他方では、白井家の旧臣である吉三郎が、
生き別れた姉のお七を探しに来て巡り合う、という話がありました。
そこへ、例の白井権八を乗せた網駕籠がやって来ます。
この頃、富士の裾野では頼朝一行の狩りが行われる為、吉原の宿でも、
四ツ(晩の十時)には木戸が閉じられることになりました。
緊急時には、櫓(やぐら)の太鼓を打てば木戸は開かれる約束ですが、
みだりに打てば厳しく罰せられることになっています。

お七は網駕籠を警護する役人を騙し、眠り薬の入った酒を飲ませると、
権八に宝剣を与えて逃がそうとします。
ところが、その頃には既に木戸が締まっていたので、
お七は櫓の太鼓を叩いて木戸を開き、権八を送り出すことになります。
この辺の櫓と太鼓の構図は、既にどこかで見覚えがありましたが……
この芝居には、他にも色々とパロディが多いらしいですね。
(TVの放映は、ここまでで終わりでした。)


●大詰めで、宝剣は権八から義高へと渡り、最後に因幡之介の所に戻ります。
大磯の三浦屋で、権八と恋人の傾城・小紫が正月を過ごしていると、
田舎の大尽がやって来て、よく見るとそれは敵の本庄助八でした……
というのが実は夢で、夢からさめるとそこは鈴が森でした。
権八は既に処刑されていて、小紫が恋人の首をこっそり盗みに来ます。
そこへお七がやって来て、首をめぐって二人の争いになりますが、
それを止めに入ったのが何と、権八本人でした。
実を言うと、お七は主人家の権八を救う為に、
弟の吉三郎を身代わりに差し出したのでした。

そこへ更に、宝剣を取り返しに助八がやって来るので、
権八は助八を討ち取ります。
その後、権八は宝剣を因幡之助に届けるべく先を急ぎますが、
途中の御殿山で、今度は玄蕃の家来に取り囲まれてしまいます。
その時、権八は何とか玄蕃を殺したものの、
肝心の宝剣は義高の妖術によって奪われてしまいます。

最後の日本橋では、宝剣を手に入れた義高が、
いよいよ鼠の妖術で鎌倉に攻め入ろうとしています。
すると、そこへ因幡之助、権八、小弥太、大姫たちがやって来て、
小弥太は、白銀の猫の香炉の霊力で義高の鼠の妖術を消してしまいます。
小弥太から『実は義仲は、頼豪の霊に操られていた』と聞かされ、
更に、大姫からも『父の頼朝が義仲を弔う寺を建てた』と知らされるので、
義高は宝剣を因幡之介に返す事を納得します。
結局、義高は木曽家再興の為に時節を待つことになり、
小弥太たちとの再会を約束して、物語は幕となったようです。

82 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/05/24(木) 12:57:46 [ 80.net059086098.t-com.ne.jp ]
  ●●●ノスタルジア(1983)☆☆☆−●●●

タルコフスキーと言えば、通の間では有名な監督のようですが、
これは彼の代表作のひとつなんでしょうか……
残念ながら、私は余り感心しませんでした。
ある意味で、その難解さが売物みたいな映画ですが、
『せりふよりも映像に、より多くを語らせる』という点では、
例のテオ・アンゲロプロス監督の作品に近いような気もします。
ただ、そこで語られる内容というのが、余りに馬鹿げているんですね。

つまり、主人公は『文学の翻訳は不可能である』とか言いつつ、
『ならば、相互理解の為に何が必要か』と問われると、
『国境を無くせば良い』なんて答える分けですね。
でも……言葉の壁があるからこそ、人類は国境というものを設けて、
その中で辛うじて秩序を維持しているわけですよね!?
それを、言葉の壁に関しては翻訳不可能であるとか言いながら、
『国境を取り除きえすれば、全てが解決する』みたいな間抜けな考えが、
一体どこから出て来るのか、私なんかは途方に暮れてしまいます。

実際問題として、言葉の壁をそのままにして国境を廃止した場合、
その後に待ち受けているのは間違いなく、混沌と流血の阿鼻叫喚地獄ですよね。
似たようなことで言うと、無政府主義なんていう思想にしても同じですが、
これらは『想像力の完全な欠如』に由来する産物ではないかと思います。
この手の現実離れした発想は、ある意味でユダヤ人好みの所があって、
私は『血液型がAB型の人間の陥り易い欠陥ではないか』と考えています。
ユダヤ人にAB型が多いことは有名ですが、
タルコフスキーという人も、ひょっとするとユダヤ系かもしれませんね。


この映画のテーマ自体『世界の終わりがどうたら』
というキリスト教徒以外には余り馴染みのない話に加えて、
『蝋燭(ろうそく)をかざして温泉を渡り切れば世界が救われる』
とか言う謎めいた主張で、煙に巻いている所がありますが……
前述したような意味で、主人公の主張に全く共感できないとなると、
そうした謎々ごっこにしても、説得力を持ち得ないように思いました。
特に、最後の演説シーンにしても、まるで上滑りな印象でしたね。

因みに、その演説から焼身自殺に至る場面の舞台が、
これまた偶然というべきか、例のカンピドーリオ広場なんですね。
残念ながら、この映画では地面の幾何学模様は良く見えませんでしたが。
この作品の内容については、割と詳しい荒筋がgoo映画サイトにありました。
  http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD11484/story.html
それから、この監督はイングマール・ベルイマンとも関わりがあるそうですが、
そう言えば、ベルイマン監督に関しても、余り芳しくない記憶があります。

もう大分昔の話になりますが、私が名画座に通っていた頃、
たまたま、彼の『処女の泉』という映画を見たんですね。
当時は、そんなに有名な監督とも知らずにいた分けですが、
その余りに下らない内容に、一つ星を付けたのを覚えています。
後になって、この映画が名作とされているのを知り、
私は、途方に暮れてしまったのでした……。(-_-;)


ところで少し脱線して、ここ数日の夏のような暑さに関してですが……
実は最近ある事情で、私はちょっと風呂に入れない状況にあるんですね。
そこをまた、赤犬共というかユダヤ主義の天候操作に狙われたようです。
それで、関東地方を中心に急に暑くなっている分けですね。
まあ私から見ればこれも、あまたある嫌がらせの一つに過ぎないわけですが、
それにしても、世の中の気象予報士なる連中は、
実に間抜けと言わざるを得ませんね。(-_-;)

83 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/05/31(木) 12:34:23 [ 98.net059086097.t-com.ne.jp ]
  ●●●流星に捧げる(2006年3月 紀伊國屋サザンシアター)☆☆☆●●●

これは例の山田太一さんが脚本を書いた舞台作品ですが、
去年4月の放送なのに、こんなに遅くなってしまいました。(^^;)
で、その内容ですが、今回はどう考えても題材が悪過ぎましたね。
何か消化不良みたいな気分が残って、出来はもう一つでした。

導入としてインターネットの書き込みが使われる点など、
最新の時代背景も取り入れられてはいますが、何と言っても、
ボケ老人の問題というのは、救いようのない話ですからね。
どうあがいても、希望の持てる決着なんて付けようがない分けで、
それで最後は、あんな尻切れトンボみたいな感じになったんでしょうか。

物語は、ある老人がネットに書き込みをしたことから、
それを見た人々が『この家に違いない』と考えて、
続々とやってくる、という所から始まります。
それらの人々は皆、それぞれの悩みを抱えているらしく、
中には、ひとくせもふたくせもありそうな人物もいる分けですね。


で、この老人がいつ食い物にされるのかとハラハラして見ていると、
彼にボケの症状が現れ、物語は意外な方向に転がって行く分けです。
老人のボケはどんどん進行し、彼が自殺未遂を起こした後では、
近づく者を妻や母親と間違えるので、大混乱となります。
この辺の場面は喜劇仕立てなんですが、よくある
『司会者とモノマネ芸人のやりとり』にそっくりでしたね。

つまり、司会者が『森さん』と呼びかけると、
芸人が突然、森進一に変わるというアレですね。(^^;)
それがコロコロと変わるので皆、大笑いする分けですが、
ここでも、周囲の人間がボケ老人に合わせて、
母になったり妻になったり、というドタバタを演じます。

こうして深刻な問題を笑いに包むことで、
『一時でも救われればそれでいいんじゃないか』
という脚本家の意図が、後で語られていましたが……
でも、それは『熱愛して結婚しても、すぐに喧嘩を始める』
というのとは、やはりちょっと違うでしょうね。
例えば、良く『自分の死のことを考えろ』なんて言う人がいますが、
それはあくまで『そこから今を逆照射して、生きる意味を考える』
という点で価値があるんであって、それ以上の意味はありませんよね。
結局、死ぬことやボケることを幾ら心配したって、
そんな後ろ向きのことには何の価値もないのであって、大切な事は
『今日一日をより良く生きること』以外にないわけですからね。


因みに、私個人としては、同じ山田太一作品でも、
どちらかと言うと、舞台作品よりTVドラマの方が好きなんですね。
というのも、特に最近の彼のドラマ作品に見られる
あの何となく、ほんわかした気分が捨て難い魅力だと思うんです。
舞台の場合、どうしても俳優のテンションが高くなりますから、
そういう、ほんわかとしたものを醸し出すのは難しいでしょうね。

その点では前回(前スレの122)取り上げた『終わりに見た街』は、
同じTVドラマでも、そうしたほんわかした雰囲気はありませんでした。
  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1102295096.html#122
ですから、あれはやはり作者の年輪から生み出される
『円熟の境地』によるものだったんだと、改めて納得した分けです。

それから、この作品の『流星に捧げる』という題名の意味が、
もう一つ良く分かりませんでしたが……ここに説明がありました。
  http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~CJK/ftr_100.htm
  地人会第100回公演 山田太一書き下ろし 『流星に捧げる』  
  『人はみな何処から来て 何処へ行くのかも分からず、
  短い間それぞれの輝きで空を横切る
  流れ星のようなものとはいえないでしょうか。
  ――多くの流れ星に、この舞台を捧げます。』(山田太一)
つまり、流星とは人間の一生に対する比喩だったんですね。
確かにそう言われると、強引に納得させられたような気分になりますが……
ならば、劇の最後にこの一文を朗読したら、
結末がぐっとしまったものになったのではないでしょうか。

84 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/06/04(月) 09:37:44 [ 243.net220148246.t-com.ne.jp ]
  ●●●白夜(1957)☆☆☆−●●●

これはルキノ・ビスコンティの映画ですが、面白さとしてはもう一つでしたね。
まあ、いわゆる恋愛キチガイみたいな人は見ておいて損はないと思います。(^^;)
ドストエフスキーの初期の短編小説を元にした白黒映画で、
最後の美しい雪景色はキリコの絵にも似て、印象に残りました。

内容は『あるイタリア男が、恋人を待ち続ける女に惚れ込んで、
色々と手練手管を尽くした末に結局、その恋人が現れて振られる』
という話なんですが……『あいのり』なんかで、
男女の色恋模様を見慣れた目には、少し不自然に感じました。

というのも、人間一般の性としては『遠くに行った元恋人より、
新しく出来た近くの恋人になびく』のが自然のような気が、私はするからです。
ただ、この映画では、どっちの男も遜色ない美男が演じてますが、実際は
『新しい男の方が醜男であった』ということなら、納得が行きますけどね。

85 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/06/05(火) 11:54:28 [ 199.net059085044.t-com.ne.jp ]
  ■補記■

前回の『白夜』ですが……後から
『白夜とイタリア男の取り合わせが妙だなあ』
と気になって、少し調べ直してみたんですね。(^^;)
まあ、その答えは単に『ロシアの短編をイタリアに翻案した』
ということに過ぎないんですが、本来は、
二人の出会いや別れが白夜だったんでしょうかね。

で、更に見つけたのがこんなサイトでした。
  http://media.excite.co.jp/book/daily/thursday/010/
  第10回 ロシア版電車男? ドストエフスキー『白夜』の巻
なるほどね、主人公はロシア版の醜男だったという分けですね。
でも、そうなると、映画の主人公を
マストロヤンニに演じさせたのは、大失敗でしょうね。
なぜなら、彼では到底醜男とは言えませんし、
その上、このサイトの話だと、非モテ男の主人公は、
女性と話すのも苦手な『電車男』のようですからね。

その場合、彼女から託された男への手紙を、彼が処分してしまう一件にしても、
私は『恋愛に手慣れた男の手練手管』みたいに受け取っていましたが、
むしろ、もてない男のギリギリ心情から出た行為だったことになる分けです。
だとすると、彼がそれを告白した後で、彼女がむしろ彼にわび、
彼の方になびいてくる、という経緯も良く分かるような気がします。
もし単なる駆け引きでそんなことをしたのだとしたら、
彼女も簡単には彼を許せなかっただろうと思うからです。

86 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/06/08(金) 09:32:43 [ 193.net220148168.t-com.ne.jp ]
  ●●●スペードの女王(2005年6月・パリオペラ座)☆☆☆●●●

今度こそ、本物の『スペードの女王』でした。(^^;)
前に見たバレエ作品に比べると、さすがに筋は複雑で、
前半では主人公の恋物語が大きなテーマになっているようです。
でも、基本的な構図には大きな変化がなくて、やはり、
何となく分かったような分からぬような気分が残りました。

例えば、主人公がカードゲームの秘密を聞き出そうとして、
相手の老婦人が急死してしまうという場面にしても、
元の話では『主人公が相手を脅す為にピストルを突きつけた結果、
老婦人がショック死してしまう』みたいな描き方ですが、
オペラでは、そのピストルすら持っていないようですからね。

その意味で、果たして主人公を殺人者と呼び得るかどうかが、
先ず、釈然としない分けですが、
最後に主人公が発狂する場面にしても、
エウゲニ・オネーギンのように、
ピストル自殺にした方がスッキリしたでしょうね。


ただ、今回の詳しい筋によると、実は『3番目に言い寄る男の為に
老婦人が死ぬ』ということが、事前に予言されているようですね。
ですから、老婦人の死と言い、主人公の発狂と言い、
何やら、オカルトのような謎めいた感じになるみたいです。

他方、主人公が片思いしていた女性は、貴族から求婚されたのに、
最終的には主人公の想いが通じて、彼の方になびく分けですね。
それなのに、主人公は大金に目がくらんでしまい、
老婦人の秘密を何とか手に入れた後は、その恋人すら無視して、
賭博場に出かけるという展開になります。

それで、老婦人から手に入れた情報通りに賭けて、
最初は3、次は7のカードで勝利し、大金を手に入れます。
ところが、三度目にスペードのエースを出したつもりが、
老婦人の呪いか何かで、それがスペードのクイーンに化けてしまい、
全てを失って発狂する、という結末になっているようですね。


まあ、これを深読みするなら、次のようになるでしょうか。
『片思いの恋人』という宝をせっかく手に入れたのに、
愚かで強欲な人間の常として、一度手に入れたものには、
もはや大したあり難みも見い出せなくなった主人公は、
更に、大金を手に入れようと欲をかいた末、
全てを失って発狂するということですね。

その点、バレエでは前半の恋物語を省略していましたから、それでは、
主人公の強欲さがもうひとつ鮮明に浮かび上がらない分けですね。
その意味で、物語として必然的に弱くなったんだろうと思います。
他方、チャイコフスキーの音楽ですが、確かに、
エウゲニ・オネーギンなんかと比べても、目玉となる曲が少ない感じで、
これではバレエを振り付けるには、ちょっと辛いだろうなと思いました。

特に、第2幕の音楽なんか、モーツァルトの影響が濃厚ですね。
例えば『ソードードーレーレーミー』という所なんか、
どことなく、魔笛のパパゲーノのアリアに似てますしね。(^^;)
ですから、これは彼の初期の作品ではないかと思って調べた所、
意外にも、最後から二つ目のオペラでした。

89 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/06/13(水) 10:27:54 [ 17.net220148234.t-com.ne.jp ]
  ■■お断り■■

ここの所ゴタゴタ続きのせいか、どうもいけませんね。(-_-;)
時事放談に入れるべきものを、間違えてこっちに入れてしまい、
それで、87・88の二件を削除しました。

90 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/08/04(土) 12:16:57 [ 109.net220148232.t-com.ne.jp ]
  ●●●弁天小僧(1958)☆☆☆−●●●(1/2)

すっかり間が開いて興ざめですが、うまくまとまりますかね!?(^^;)
これは、歌舞伎のおさらいみたいなつもりで録画したんですが、
例の白波五人男で有名なゆすり・たかりが主要テーマでした。
但し、この映画では結果的に『ゆすった相手を助ける』
みたいな形になる点が、歌舞伎とは少し違っていたようです。
どっちが実像に近いのかは良く知りませんが、最初に、
胸糞の悪い悪党が出て来る所なんかは、歌舞伎とそっくりですね。
  http://www.raizofan.net/link4/movie3/benten.htm
  弁天小僧

もっとも後から色々調べてみると、この弁天小僧菊之助というのは、
河竹黙阿弥が創作した架空の人物に過ぎないようですから、
『どっちが実像に近い』ということは無いのかもしれません。
  http://www.ten-f.com/goemon.html
  石川五右衛門と白波五人男、オノコロ交響曲
一説によると、この映画は『白波五人男』のリメークらしいですから、
もし歌舞伎と違う部分があるなら、それは映画監督の創作なんでしょう。

それから、今回の調べで気付いたんですけど、以前に
『地下室のメロディー』で『三人吉三のゆすりたかり』云々と書いたのは
『白波五人男のゆすりたかり』の勘違いだったようです。(-_-;)
  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1102295096.html#64
そのゆすりというのは、この映画にも出て来る浜松屋の有名な場面なんですが、
ここで女に化けている美少年は、お嬢吉三でなく弁天小僧だった分けですね。
むしろ、>>81で書いた『櫓と鐘の場面』を見たのが、
この三人吉三だったかもしれません。
どうも、人間の記憶というものは容易にすり替わるようですから、
こうした『うろ覚え』は、良くよく気をつけないと危ないですね。


父の病気を直す為に金が必要になり、貧しい娘・お半が奉公に出ますが、
その奉公先では、彼女に惚れた雲州という老人が、
彼女に手を出そうとして抵抗され、手をかまれてしまいます。
それで、老人はお半を座敷牢に閉じ込めて拷問する分けですが、
このスャンダルを聞きつけた王手飛車連というやくざな旗本の一味が、
偽坊主などに化けてその家に乗り込み、金をゆすろうと計画します。

その時、彼らを出し抜いたのが弁天小僧で、宮様の使いに化けて先に入り込み、
悪事を暴露する瓦版を高値で買い取らせた上、お半を引き取って行きます。
実は、弁天小僧たちは、彼女を女郎屋に売り飛ばす算段でしたが、
その前に、弁天小僧がお半に乱暴しようとします……
この辺が、いかにも胸糞の悪い悪党なんですけどね。
それが結局、お半の清純さに感化されてしまい、
奪った金まで彼女に持たせて、病気の父の所へ返してやる、
なんていう展開はかなり不自然な感じがしました。

さて、その病気の父親というのが堅物の侍で、貰った金のことを知ると、
娘に金を返すよう命じて送り出した末、自害してしまいます。
お半が金を返しに行った先では、弁天小僧が捕方に包囲されてしまいますが、
弁天は彼女を逃がした後、逃走の途中で名奉行の遠山金四郎に出会います。
ここで遠山の金さんを演じているのが、若き日の勝新太郎なんですが……
後年の姿からは想像できない位の色男なのに、びっくりでしたね。(^^;)
この金さんの人物像に関しては、色々な比較サイトがありました。
  http://www.chiyoda-days.jp/edo/enemy/1.html
  大岡越前vs遠山金四郎
  http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/papers/onihei-kinshiro.htm
  鬼平と遠山金四郎

91 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/08/04(土) 12:21:17 [ 109.net220148232.t-com.ne.jp ]
  ●●●弁天小僧(1958)☆☆☆−●●●(2/2)

その頃、雲州ゆすりの一件が老中・松平の耳に入り、
甥の鯉沼伊織を筆頭とする王手飛車連の立場が危くなります。
老中は伊織に、隠居してまだ幼い息子に家を継がせるよう言うので、
伊織はこれを機会に、呉服屋・浜松屋の身代を乗っ取ろうと計画します。
具体的には、浜松屋に密貿易の濡れ衣を着せて脅しをかけ、
浜松屋の全財産を持参金に、娘・お鈴を息子の嫁にしようとする分けです。

しかし、その祝言の噂を聞きつけた白波五人男もまた、
浜松屋をゆすって、江戸をずらかる資金にしようと企みます……
ここからが例の有名な、ゆすりたかりの場面になる分けですね。
先ず、女装した弁天小僧たちが浜松屋を訪れ、
品定めのすきに万引きするようなふりをするので、
見とがめた番頭たちと争いになり、弁天小僧は額に傷をおいます。

その時『万引きしたという品が実は、他の店で買った品だ』と証拠を突きつけ、
『娘の額に付けた傷をどうしてくれる』と、お得意のゆすりになる分けですね。
ところが、そこへ一人の侍が来て、娘というのが実は男であると見抜くので、
見破られた弁天小僧たちは『さあ首を切れ』と居直ります。
でも、呉服屋の店先で首なんか切られたら、大切な着物が血だらけになる上、
店の評判もガタ落ちになって大損害ですからね。
あわてた浜松屋は、侍をなだめて奥へ引き入れます。


ところが、この侍というのが実は、弁天小僧たちの親分格である
日本左衛門(歌舞伎では、日本駄衛門)だったわけで、結局、
ゆすりは二重三重に仕組まれていたという分けですね。
で、その奥座敷では、更にケタ違いの金をゆすり取ろうと、
日本左衛門とその仲間が脅しをかけますが、ゆすられた浜松屋の主人は、
『自分たちが既に、王手飛車連にゆすられている』という事情を明かし、
『そうした運命も、自分が過去に息子を捨てたことの報いだ』と語ります。

それを聞いた日本左衛門は急遽、浜松屋を助けることに方針を変え、
仲間を説得しますが……その過程で、浜松屋が捨てた息子というのが、
他ならぬ自分自身であることに、弁天小僧は気付く分けですね。
しかし、もはや『三尺高い木の上へ』と獄門首を覚悟した身として、
親子の名乗りを上げる資格はないと、悲しい覚悟を決めたようです。
こうして祝言の席には、仲間のお吉が花嫁のお鈴に化けて入り込み、
王手飛車連の悪事を暴こうとするので、争いになりますが、
その場にいた遠山の金さんが、双方を取りなします。

こうして何とか場を逃れた弁天小僧でしたが、
既にその頃、日本左衛門たちにも捕方が迫っており、他方、
お半とお鈴が隠れていた船宿の網十は、伊織の仲間に襲われていました。
そこで、弁天小僧は遠目で仲間に別れを告げると、お半とお鈴の難を救い、
更に、娘のお鈴を追ってきた実の父と運命の再開を果たす分けですが……
既に、ここにも追手は迫っていて、
捕方に包囲された弁天小僧が最後には自殺して、幕となるのでした。

92 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/09/01(土) 10:50:29 [ 121.net220148172.t-com.ne.jp ]
  ●●●ルートヴィヒ(1972)☆☆☆●●●(1/2)

『山猫』『白夜』に続き、これまたヴィスコンティの作品ですが、
この映画の題名は『ルートヴィヒ』だったり、
『ルードウィヒ』だったりで、検索に一苦労でした。
物語としては大したことないと思いますが、例によって、
耽美的な映像で、しかも今回はワグナーの音楽が絡んで来ます。

『ミーラーラー♯ソー ソーーラーシー』という曲は、
『トリスタンとイゾルデ』のテーマとして有名ですが、
もう一つの『ドーソー♭ソ ファーミー ♭ミーーレドー』という曲も、
同じオペラの曲でしたかね……良く覚えていませんが。(^^;)

その意味では結構、見応えのある映画かもしれませんが、
何しろ今回は、完全復元版とか言って4時間もかかってましたから、
やはり、冗長な感じをぬぐえませんでしたね。
物語は『ワグナー狂いのバイエルン王が、そのワグナーを援助したり、
お城を作ったりの浪費癖がたたって失脚し、自殺に追い込まれる』
というような話でした。


『破滅型の性格』という点では、
日本の文士にも似たような人が少なからずいたようですが……
ドイツ南部のバイエルン地方と言えば、カトリック支配ですからね、
何やら謀略の渦に巻き込まれたような感じがしないでもないですね。
逆に言うと、その日本の破滅型文士にしても、
私は、明治以来の謀略との関係を疑っている分けですからね。

少し歴史をあさってみると、この物語の背景にあるのは、
例のビスマルクによるドイツ統一戦争で、その民族統一の胎動の中、
プロイセンとオーストリアが主導権争いを繰り広げた分けですね。
その時、ワグナー狂いで戦争嫌いのバイエルン王は、
自身の優柔不断も相まって、歴史の流れに取り残されて行くようです。
もっとも『山猫』の場合と同様、当時の王族・貴族には、
どの道、没落の道しか用意されてはいなかったんでしょうけどね。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%922%E4%B8%96_(%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E7%8E%8B)

結局、バイエルン王国はオーストリア側について戦争に敗れた末、
プロイセン側に飲み込まれて行ったようですが、この辺には、
統一ドイツにカトリック支配のバイエルン地方を組み込もうとする
ユダヤ主義の狙いがあったような気もします。
何しろ、戦争大国のプロイセンを内側から操るには、
その方が便利ですからね。


ここに出て来るワグナーは、かなり身勝手な人物として描かれていますが、
浪費癖は芸術家に付き物としても、その浮気癖は意外な感じもします。
何しろ丁度、今見ている『さまよえるオランダ人』の中では、
女性の貞操を『絶対的な美徳』として強調している分けですからね。
その癖、自分では他人の女房を寝取ったりしたんですかね。(^^;)

他方、芸術と政治の関わりという点で言うなら、
日本でも似たような話は色々ありましたね。
つまり、どこかの地方の首長がその地域に文化を根付かせようとして、
芸術家を呼ぶのに金をかけたりすると『そんなことより生活を優先しろ』
なんていう批判が必ず出て来る分けですね。

でも、このルートヴィヒ二世の場合にしても、
ワーグナーの為に作ったバイロイト祝祭劇場や、
自分の趣味で作ったノイシュヴァンシュタイン城が、
今では、かけがえのない観光資源になっている分けですね。
ですから、長い目で見た場合『生活優先ばかり考えていたのでは、
地方は真の意味で豊かにはなれない』と言えるのではないでしょうか。

93 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/09/01(土) 10:54:35 [ 121.net220148172.t-com.ne.jp ]
  ●●●ルートヴィヒ(1972)☆☆☆●●●(2/2)

その点、同じ芸術と政治の関わりと言っても、
中国の場合は少し事情が異なるみたいですね。
つまり、そこでは、政治家が芸術に関わる代りに、
芸術家が政治に関わることになる分けです。
例の古典購読では今丁度、李白の漢詩を取り上げている所ですが、
古来、中国では何故か『詩人が政治に参加する』ことが、
当然の義務と考えられていたようです。

この辺は、儒教哲学が深く関わっているのかもしれませんが、
ともかく『詩人は政治に参加し、民の幸福をはかるべし』
という考え方が広く行き渡っていたみたいですね。
それで、李白の場合も色々苦労した末に、
玄宗皇帝の宮廷に招かれるのに成功した分けですが、
結局は、宦官と衝突したり楊貴妃に疎まれたりして、
ほんの数年で宮廷から追い出されたようですね。(^^;)

その結果、絶望した李白は『世にあるは大夢(たいむ)のごとし』
(『春日酔起言志』)とか、うそぶいた分けですが……
そもそも、李白が政治にどんなビジョンをもって臨んだのか、つまり、
自分が宮廷に入って一体、何をしたかったのかは判然としませんよね。
結局、いくら儒教の常識とは言え、一介の詩人が政治に関与して、
どれだけのことが出来るかは、疑わしい限りでしょうね。


他方、その後の展開として、安史の乱の時に、
李白は、再び政治に関わろうとして大失敗します。
その結果、今度は流刑の憂き目に合う分けですが、
その時、流刑地の夜郎という土地に向かう途上で、
李白がやたら時間をかけた、というエピソードがありました。
やはり、当代の大詩人として人気抜群だったので、
各地で引き止められたのか、などと始めは思いましたが……
少し調べて見ると意外な事実が出て来ました。

つまり、これは日本古代の話ですが、流罪犯の場合、
恩赦が出た時に、既に流刑地に到着していると、
たとえ流刑地での役務は免除されても、
元の土地に帰ることは許されなかったそうです。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A9%E8%B5%A6
  なお、流罪となった者は配流先に到着後は
  恩赦が出ても付随する徒罪などの刑罰が免ぜられるだけで、
  元の居住地には戻れず配流先で生涯を送る事とされていた……

でも、その日本における恩赦は唐の制度を真似たそうですから、
唐の恩赦にも似たような規定があった可能性は高いですよね。
で、仮にそうだったとすると、
例の李白の牛歩戦術は、単なる物見遊山というより、
必死の時間稼ぎだった、ということになりますよね。(^^;)
ですから、それと並行して、元権力者の娘である妻を通じ、
早期の恩赦を画策していたんだろうと思います。


因みに今回の購読では、李白が生きた足跡に沿って、
彼の詩を時間順に並べていましたが、その並べ方に関しては、
私なりに少し疑問を感じた所がありました。
例えば『宿五松山下荀媼家』という作品ですが、
これを写実的に解釈するのは、ちょっと無理があるのではないでしょうか。
つまり『流罪を解かれた李白が、その帰り道で、
実際にこんな貧しい家に泊まった』と考えるより、
むしろ異説に従って、天宝年間の作品とみなすべきかもしれませんね。

もっとも、天保年間と言っても14年間もあるようですから、
どの辺のことを言っているのか判然としませんが、例えば、
李白が宮廷時代に作ったものと見る可能性はないんでしょうか。
その意味で、例えば『子夜五家 其の三』などと同様に、
民衆の生活を詩に読んで、皇帝に献上したと考える分けですが……
その場合、かなりフィクションを交えている可能性がありますね。

他方『宿巫山下』という詩では、季節がずれているのを
『夢の中の風景』と解釈し『青年時代の李白が、
三峡下りをした時のもの』と位置づけていましたけどね。
この作品などはむしろ、流罪を解かれた李白が、
三峡を下る旅の途中に作ったと考えてはどうでしょうか。
それなら季節もぴったりはまりますし、この詩における涙もろさは、
年老いて気弱になった李白にこそ相応しいという気もするからです。

94 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/10/15(月) 14:14:57 [ 11.net220148237.t-com.ne.jp ]
  ●●●バレエ・ミサ曲ハ短調●●●(2005年6月・ライプチヒ歌劇場)(1/2)

これは、ライプチヒ・バレエ団の作品で、
例のモーツァルトの最高傑作にバレエを振り付けたものでした。
何と言っても音楽が音楽ですからね、一体どんな出来かと、
期待していたんですが……ちょっと、がっかりしました。

というのも、ミサ曲ハ短調以外に、
様々な音楽が持ち込まれた結果、この崇高な音楽が、
現代風の猥雑さによって分断されてしまったような印象があり、
それが残念な気がした分けです。

さすがに、バッハの音楽だけは負けていませんでしたけどね。
(但し、それはバッハの曲を元にした別の作品のようですが。)
他方では、オーケストラも合唱も生ですから、さすがに贅沢な感じですね。
振り付け家のウーヴェ・ショルツという人は、既に、
前年に45歳で夭折していて、これは彼の追悼公演だったようです。


この作品では、白い衣装と黒い衣装によって、それぞれ、
過去の聖なるものと現代の俗なるものとを対比させているようです。
その場合、後者は『現代が抱える闇』を象徴しているんでしょうけど、
仮に『今という時点で、この音楽に振りを付けるとすると、
こういう風にならざるを得ない』のだとすれば、それは、
現代という時代の不幸と言わざるを得ないでしょうね。

因みに、この曲はかなり不純な動機で作られたようですが、
それが畢生の最高傑作となる点など、いかにもモーツァルト的ですね。(^^;)
つまり、恋人との結婚を父親に認めさせる為に作曲を始めたものの、
最後までは作り切れず、未完成のまま終わったという代物らしいです。

  大ミサ曲
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E3%83%9F%E3%82%B5%E6%9B%B2
  1782年にモーツァルトはウィーンで
  コンスタンツェ・ウェーバーと結婚したが、
  故郷ザルツブルクにいる父レオポルトの許可を得ないままであった。
  モーツァルトはこの曲を作ることによって、
  結婚の誓約が確かなものであることを証明し、
  妻が技量のあるソプラノ歌手であることをアピールするつもりであった。


実を言うと、この音楽は私にとっても特別な意味があって、
三重の意味で転機となった作品なんですね。
先ず第1に、それまで私にとってのモーツァルトは、
『妙に装飾音譜ばかりが鼻につく、いやらしい音楽』と映っていたんですが、
これによって、彼の音楽の真価に目を開かされた分けです。

そして第2に、この作品は私がバロック音楽にのめり込む切っかけであり、
更に第3には、宗教音楽にはまる入り口でもあったのでした。
ですから、ミサ曲ハ短調は『私の音楽人生を二分する分水嶺』
と言っても過言では無いんですが、私が最初に聞いたのは、
意外と言うべきか日本人によるもので、森正指揮のN響の演奏でした。

内容的には、かなり粗削りな印象ですが、的ははずしていませんから、
まあ、名演と言っても良いのではないでしょうか。
ただ、後から聞いたヘンデルの『オラトリオ救世主』
の母性的な伸びやかさなどと比べると、この曲は、
少し息苦しい感じがするのが難点かもしれませんね。

95 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/10/15(月) 14:17:39 [ 11.net220148237.t-com.ne.jp ]
  ●●●バレエ・ミサ曲ハ短調●●●(2005年6月・ライプチヒ歌劇場)(2/2)

この公演では、先ず冒頭にグレゴリオ聖歌による導入が置かれていて、
その後で、キリエとグローリアがありますが、ここでは何と言っても、
グローリアの2曲目に出て来る『ドー ソーーーーーファミ
ラーーーードシラ ラーソー』というメロディーが衝撃的ですね。
ここでソロを踊っているのは、大石麻衣子という日本人ですが、
もう一人、木村規予香という日本人も主役を張っていたようです。

それに続いて、時間についての省察が挿入されます。
この辺は寸劇の連鎖という感じですが、特に、
足で床に幾何学模様を描くようなダンスが印象的ですね。
因みに、ここで使われているピアノ曲もバッハ風ですが……
余り聞き覚えがなくて、原曲は分かりませんでした。

次にまた、グレゴリオ聖歌があって、クレドに入ります。
この『ミサ曲ハ短調』は全編が名曲揃いとは言え、
その中でもとりわけ美しいのは、このクレドの二曲目にある
『ソーーソーラ ラーソファミー』というアリアでしょうね。
これを歌っていたのは中国人のソプラノようです。


ここは、いわゆる処女懐胎がテーマで、
『処女マリアが、三人の精霊の力によってキリストを身ごもる』
という所が踊りによって表現されていました。
因みに、クレドの二曲目とは言っても、
ここも未完成で、クレドには二曲しかありません。

そして、この後には、キリスト教の教義の核心として、
『目には目を』という復讐法を否定する挿話が入ります。
つまり『悪人に逆らってはいけない』という奴ですが、
『汝の敵を愛せ』という寛容の精神から、全ての復讐を禁止するのが、
キリスト教の教えの本質のひとつである分けですね。
それが、椅子取りゲームなどを使って表現されています。

でも、同じ悪人についての教義でも『悪人に抵抗するな』というのと、
『善人なおもて往生す、いわんや悪人をや』という親鸞の視点を比べると、
両者の間にある隔たりは、途方もなく大きいですね。
その背景を考えて見るのも、一興ではないでしょうか。
結局、キリスト教では善悪二元論に立って、悪人を突き放しますが、
仏教では、そうした善悪を全て包み込んだ上で、
人間の業に迫ろうとする視点があるように思います。


他方、ここで使われる音楽はバッハの平均律第一巻の冒頭の一曲ですね。
『ドミソド ミソドミ』という分散和音で余りにも有名なこの曲は、
私の評価では、バッハが残した世俗音楽の中での最高傑作と言えるでしょうね。
この上なくシンプルで、かつ、この上なく美しいという意味で、
ここへ何かを付け加える必要は全くないと思う分けですが、その意味で、
グノーが乗せたアヴェ・マリアの旋律も、私には蛇足のように感じられます。

この後、クレドの最後を閉じるような形で『アヴェ・ヴェルム・コルプス』
というモーツァルトのこれまた有名な宗教曲が挿入されています。
更に、サンクトゥスとベネディクトゥスを挟んで、
死んだ兄を追悼する妹のメッセージのようなものがありますが、
ここは尺八の曲が使われていて、その間に舞台は片付けに入ります。

そして最後のアニュスデイですが、ここも原曲が欠けているので、
代りに、再び冒頭のキリエの音楽を流用していました。
そのせいか、ダンサーたちは既に休養の体勢で、音楽だけでしたね。
まあ、我々みたいな異教徒からすると、
別にアニュスデイはなくても構わないような気もしますが、
宗教的な観点からは、やはりアニュスデイ(神の小羊)を、
外す分けには行かないんでしょうか。

96 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/10/15(月) 14:26:19 [ 11.net220148237.t-com.ne.jp ]
  ■補記■

また、ドジをやらかしたようですが……評価が抜けてましたね。(^^;)
  ●●●バレエ・ミサ曲ハ短調(2005年6月・ライプチヒ歌劇場)☆☆☆●●●

97 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/10/21(日) 11:04:58 [ 143.net220148231.t-com.ne.jp ]
  ●●●さまよえるオランダ人(2005年12月モネ劇場)☆☆☆●●●(1/2)

このオペラを見るのは実は二度目なんですが、何年か前に見た作品では、
確か、現代の難民問題か何かにこじつけるみたいな解釈があって、
それで、もう一つ素直に楽しめなかったのを覚えています。
今回は夏の猛暑をしのぐ意味もあって、敢えて見直したんですが、
そうした無理な解釈がなくて、安心して見ていられました。

前に、この作品を『ワルキューレ・トリスタンに続く第3グループ』
と評価したことがありましたが、このオペラの魅力は何と言っても、
その若々しく生命力にあふれた音楽にあるでしょうね。
この作品は彼のオペラの中では5つ目のようですから、
まあ初期の代表作と言って良いのかもしれません。

他方、この作品にはワグナーの他のオペラにみられるような、
彼特有の妙な難解さもありませんから、その点からしても、
気軽に見て音楽を楽しむには良い作品でしょうね。
その意味でも、彼のオペラの中では、
最もとっつき易い部類に入るだろうと思います。


テーマは海洋をさすらう幽霊船の話ですが、物語は、
ノルウェーの船長が、故郷の港に到着する寸前に嵐にあって流され、
『さまよえるオランダ人』の船に出会う所から始まります。
その場合、幽霊船の船長が何故オランダ人なのか、という気はしますが、
恐らくドイツ人から見ると、オランダ人は海洋民族なんでしょうね。
実は、この話は当時あった幽霊船伝説を元にして、
詩人のハイネが書いた作品を下敷きにしているようです。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%BE%E3%82%88%E3%81%88%E3%82%8B%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E4%BA%BA

このオランダ人というのが実は悪魔に呪われていて、
死ぬことも出来ず、永遠に海原をさまよっているという設定ですが……
私の価値観からすると『永遠に生き続けるように呪われている』
というのは、言葉の自己矛盾であるような気がしますけどね。(^^;)
何故なら『日々是奇跡』な分けですからね、
たとえどんな境遇であれ、この世に存在して息をしていられるだけで、
それは充分な恩恵であるに違いない分けです。

で、ともかく、その悪魔の呪いから逃れる為には、
七年に一度だけ許されている上陸の機会に、
『自分に一生を捧げてくれるような、貞節な乙女』
を見つける必要があるということなんですが……
ノルウェーの船長は、オランダ人が大金持ちであると知った途端、
金に目がくらんで、何とか婿にしようと自分の娘を売り込むのでした。
この第1幕では、舵取りが歌う『ソー↑ソーソ ♯ファ↓ラシー
ドレミファ ソーーラソー』という南風の歌が目玉ですが……
この頃は、ワグナーも作曲に苦労していたんでしょうか、
メロディーの上下のブレが大きいので、表記が難しいですね。(^^;)


第2幕は、沢山の女たちが夫や恋人を待つ場面から始まりますが、
ここで歌われる『ソーラ ソーラ ソーラシ ドーミー
↑ソーラ ソーラ ソーミ ド』という糸車の歌は、第2幕で出色というより、
このオペラ全体を代表する名曲と言えるでしょうね。
実は、第1幕の末尾でも南風の歌が繰り返されるので、結局、
『このオペラの神髄は、第1幕の末尾5分と第2幕の冒頭5分を合わせた
10分間に凝縮される』と言っても過言ではないように思います。

ここを聞き込んで何も感じないようなら、
『ワグナーには縁がなかった』とあきらめるしかないでしょうね。(^^;)
この後、船長の娘が登場すると、伝説のオランダ人に
彼女が少女的な憧れを抱いていることが示されます。
ここで仮に彼女が男に縁のない、うぶな少女だったなら、
全てが丸く収まったのかもしれませんね。

でも、あいにく彼女には既に狩人の恋人がいて、
それで話がこんがらかって来るという分けです。
で、ひとしきり彼女と恋人とのやりとりがあった後、
父がオランダ人を連れて帰って来ると、
彼女は即座に恋に落ちてしまいます。

98 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/10/21(日) 11:07:35 [ 143.net220148231.t-com.ne.jp ]
  ●●●さまよえるオランダ人(2005年12月モネ劇場)☆☆☆●●●(2/2)

最後の第3幕に入ると、帰って来た乗組員の宴会が始まりますが、
その冒頭で歌われる『ミレドミーー ーレド ファミレファーー ーミレ』
という宴会の歌が、第3幕の目玉になりますね。
ここで船員たちと町の女たちとのやりとりが暫くあって、
その後、娘と狩人が現れますが……何やら、幕の間に、
娘とオランダ人ができちゃったみたいな様相なんですね。(*^^)v

それで元恋人の狩人は船長の娘をなじる分けですが、
それを見たオランダ人は『もう破滅だ』といって出航しようとします。
結局、自分に貞節を尽くすという娘は見つけたものの、
『自分に貞節を尽くすことが実は、元恋人にとっては裏切りになる』
という分けで、それでは真の意味で貞節な娘とは言えなくなる、
ということなんでしょうか。

娘はそれでもオランダ人を引き止めようとしますが、
オランダ人は『あなたは神に誓った分けではないから、
まだ間に合う』とか言って去ってしまいます。
何しろ『一度、貞節を誓ってそれを守れなかった場合、
その女は永遠の呪いを受けることになる』というんですね。


それでも尚、彼女はオランダ人をあきらめ切れず、
彼を追って海に入っていくという所で幕となりますが……
この結末が一体何を意味するのか判然としませんでした。
果たして、それでオランダ人は救われたんでしょうか。
そもそもオランダ人は、永遠に海をさまようように呪われていた分けで、
その場合、彼にとっての救いというのは結局、
安らかな死につくこと以外にないかもしれない分けですね。

で、仮にそうだとすると、彼を救う娘というのは、
結局、心中のおつきあいをするみたいになるわけですから、
父親が狙っていた彼の財宝も、海の藻屑と消えたことになるんでしょうか。
それとも、船長の娘は悪魔に魅入られて破滅しただけで、
オランダ人は今尚、海をさすらっているということなんでしょうか。

ともかく当初、父親が望んでいたようなこと、
つまり『オランダ人が上陸して娘と仲良く暮らし、
自分たちは巨万の富を手に入れる』というもくろみは、
始めから望み得ない幻影だったような気もしますが……ならば、
父親自身も悪魔に魅入られていた、ということになるんでしょうかね。
まあ、考え方によっては『呪いを解かれたオランダ人が、
改めて娘と普通の人生を生き直し、しかる後に死ぬ』
という可能性があっても良いのかもしれませんけどね。



以前に、ワグナーのオペラではバスが目立つと書きましたが、
この作品でも、主役のオランダ人をバスが演じている分けですね。
でも、今回の主役はちょっと迫力不足の感じが否めませんでした。
実はこれは、私がベルギーを旅していた時の印象なんですが、
ベルギー人には童顔が非常に多い、という気がしたんです。

ここでも、それが迫力不足の一因のように思えます。
つまり、この主役の顔も何やらお坊ちゃん風で、
得体の知れないオランダ人を演じるには役者不足という感じなんですね。
狩人役にしても、わざと髭面にして迫力を出していたようですが、
その髭を取れば、やはり童顔のようですしね。

因みに、王立モネ劇場というのはベルギーのブリュッセルにあるようですが、
画家のモネとどういう関係があるのかと思って調べて見たんです。
すると、その歴史は画家のモネよりずっと古くて、ここで言うモネとは、
フランス語のお金(la monnaie)に由来するんだそうです。
  http://www.belgium-travel.jp/destination/sites/brussels/mone/mone.htm

それから、音楽という点で一つ書き落としたことですが、
もう一つ、オランダ人の受難と救済のテーマがありますね。
これは全編を通して歌われる『ミーレード ドー↓ソド↓ミラ
ソーミソド↑ミ ソーラソー』という曲ですが、
これまた、このオペラの目玉の一つと言えると思います。

99 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/10/24(水) 10:46:11 [ 24.net220148233.t-com.ne.jp ]
  ●●●まだそんなに老けてはいない(2007年01月)☆☆☆+●●●

例によって大分、見遅れましたが、久々の山田太一作品でした。
今回は、定年間近の消防士である夫とその妻が、
よその夫婦のごたごたに巻き込まれる、という軽いお話のようです。

物語は、消火活動中の事故で休職を余儀なくされている主人公が、
下着泥棒に間違われるという所から始まります。
その彼にある日、不審な男が近づいて来て『君を好きな、いい女がいる』
とか言うので行ってみると、これが女性下着ショップの店員なのでした。

それで、主人公が彼女と繰り返し会う内に、段々と恋が芽生えて来ますが、
実はこの店員というのが、例の不審な男と別居中の妻で、
どうやら下着泥棒の一件も、真相は『この男が、
実家に戻っている妻の下着を盗みに入った』ということのようです。


でこの男は『妻と別居する原因となった自分の浮気を正当化する為に、
わざと主人公を自分の妻にけしかけた』という分けですが、
二人の仲が怪しくなって来ると、さっそく、
主人公の妻に告げ口するので、ちょっとした騒動が持ち上がります。

結局、最後には、主人公夫婦が元の鞘に収まり、
問題の店員の方は、主人公の家庭をこわすことを恐れて、
夫の浮気相手で、別居の原因を作った昔の親友を頼り、
彼女が住んでいるカナダに去ってしまうという結末でした。

因みに、岸部一徳が演じた『不審な男』は少々薄汚い感じがするせいか、
ネット上では、このドラマの評判は今ひとつ芳しくないようですね。
最後の方で、この男が主人公と並んで歩く場面などもありましたが……
『こんなことをされても、主人公がこの男を簡単に許している』
かのように見えるのが、少し解せませんでした。


まあ、こうした軽い痴話騒ぎだけなら、ありふれていて、
別に取り立てて言うべきこともないと思うんですが、この劇の目玉は、
むしろ、主人公が怪我をした消防活動中の逸話にあったようですね。
つまり『老夫婦が自宅に放火した上で、自殺した』という事実から、
『分別ある老人が、他人の迷惑も考えず自暴自棄に走る社会』
への重たい疑問が提示されていたように思います。

似た事例が実際にあったのかどうか、私は良く知りませんが、
このエピソードは今の世の中の本質を鋭くえぐっていて、
中々良い文明批評になっていたのではないでしょうか。
結局、私に言わせるなら、今のような洗脳迫害が横行する社会では、
こうしたことがあっても全然、不思議ではないということですね。

その時、主人公は燃えさかる火の中へ、人命救助の為に飛び込んだのですが、
首を吊った老人に出食わして、自分の職業に疑問を持つようになります。
その場合、ひとつの問題は、その経験からショックを受けた彼が、
苦しい胸の内を最初に打ち明けた相手が、自分の妻ではなく、
浮気相手の店員だったということでしょうね。
その点からすると、既にこっちの夫婦も、
事実上終わっているんじゃないか、という気がしました。

100 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/10/28(日) 12:22:28 [ 105.net220148245.t-com.ne.jp ]
  ●●●ジュラシック・パークⅢ(2001)☆☆☆●●●

これは第1作・第2作と見た流れで、ついでに録画したようですが、
気晴らしに見るには悪くない映画だったと思います。
離婚した夫婦が恐竜のいる島への観光旅行を計画しますが、実は、
自分たちの息子が友人とその島に旅行に行って消息不明になっており、
この旅は、その子を救い出す為に計画されたものなのでした。

で、元夫婦は恐竜学者を金で釣って一緒に連れ出したものの、結局、
乗っていた軽飛行機が恐竜の島に墜落してしまうという展開で、後は、
『またまた恐竜に出食わして大変な目にあう』というお馴染みの話ですね。

その場合『恐竜は予想以上に頭が良かった』というのが今回のポイントで、
恐竜同士が言葉を交わしたり、人間に罠を仕掛けたりします。
その中では終盤、いわゆる翼竜に襲われる所が特に面白かったですね。
翼竜にさらわれた息子が、飛び地を伝って逃げる所なんか、
昔のスーパーマリオを思い出しました。(^^;)

101 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/11/01(木) 15:50:56 [ 163.net059086103.t-com.ne.jp ]
  ●●●着信アリ2(2005)☆☆☆●●●

これまた暑さしのぎに見た映画でしたが、実は、
このシリーズは、既に第1作でも色々と書いてましたね。
  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1102295096.html#94
今回は話が台湾にまで広がりますが、実は、
前回の呪いを生み出す元となるような別の事件が、
ずっと前に台湾で起こっていた、ということのようです。

他方では、前回の美々子の呪いもまだ残っていて、
それで死んだルポライターが、今度は彼女自身のトラウマから、
美々子の霊に共鳴して、また新たな呪いとなる……のでしょうか!?
実を言うと、この録画は『渋谷の誘拐事件解決』とかいう臨時ニュースの為、
途中で10分ほど中断したので、肝心の末尾が切れちゃったんですね。(-_-;)

ですから、この点はあくまで後からネットで知ったことで、
正確なことは良く分かりませんが……もしそうだとすると、
この呪いは共鳴者の出現により、どんどん増殖して行くみたいですね。
それで、後は『最終回をお楽しみに』となっているようです。(^^;)


まあ、このシリーズは恐がらせることが主目的ですから、
ストーリーの整合性とか、そうした問題は二の次でしょうね。
今回の展開にしても、余り細部をつついても仕方ないような気がします。

例の死の予告電話にしても『着メロ』が鳴った時に、
電話を捨ててしまえば、死ななくて済む節もありますからね。
男友だちが主人公の身代わりになって死ぬ場面にしても、
わざわざその電話に出たから死んだわけでしょ!?

実はこのシリーズに関しても、例のwikipediaには、
マニアが書いたらしい詳細なデータがあるようです。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%80%E4%BF%A1%E3%82%A2%E3%83%AA
既に、最終回の話もほぼ出来上がっているみたいですから、
蘊蓄好きで、充分お暇な方には打って付けかもしれません。(^^;)

102 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/11/08(木) 14:31:02 [ 1.net220148172.t-com.ne.jp ]
  ●●●エンドゲーム(06年世田谷パブリックシアター)☆☆☆●●●(1/2)

例の『ゴドーを待ちながら』と同じ脚本家の作品ですが……
前回、そのサミュエル・ベケットがフランス人であるとか、
書いたのは、どうやら早とちりだったようです。(-_-;)
彼は、本当はアイルランド人で、その活動が、
英仏両国にまたがっていた、ということのようですね。

で、今回もまたまた難解な前衛劇ですが、
エンドゲームという以上、今度は世界の終わり、
つまり、キリスト教的な終末観がテーマかと思っていたんですけどね。
実際は、宗教的な意味での最後の審判みたいなものはカケラもなくて、
むしろ、当時の世界を重く覆っていた『核戦争による滅亡の予感』
のようなものが色濃く舞台を支配しているようです。

因みに、題名の『エンドゲーム』というのは、
チェス用語での『終盤戦』を意味しており、以前には
『勝負の終わり』という題名で上演されたんだそうです。
チェスでは盤面の駒は、どんどん減っていく分けですが、
ここでも最後には、一人消え二人消えという具合に、
登場人物が減っていく趣向のようでした。


この作品が作られた1957年は丁度、米ソの核軍拡が進行中で、
その5年後には例の有名なキューバ危機に至る分けですね。
その場合、後から色々調べてみたところでは、この話は、
『核戦争で世界の大半が滅亡した後の核シェルター』が舞台で、
そこに生き残った人間たちの物語である、とする解釈が多いようです。

でも……それにしても、話の展開はサッパリ分かりませんからね。
ここでも、主人と召使みたいのが出て来て、
目も体も不自由な主人がやたらいばり散らす、という展開ですが、
舞台の隅にはドラム缶のようなものが二つ置いてあって、その中に、
この主人の父母らしき人物がいるという設定のようです。

それで、全く救いも希望もない虚しさの中で、
不毛な言葉のやりとりだけが交わされるという感じですから、
決して、見ていて面白い舞台とは言えません。
これもまた『キリスト教的な終末論に対する一つの批評』
として見ることは出来るのかもしれませんけどね。


……と、ここまでは一度目に見た感想なんですが、
これを書くにあたって、改めて見直した結果、
またまた、新たな解釈の仕方を発見しました。(*^^)v
この場合も、ハムをキリスト、クロヴを人類と置き換えると、
俄然、話が分かり易くなるようですね。

最初にハムが出て来た時、血止めの布とかいうのを取り出して、
目を拭きますが……これはつまり『人類の悲惨なありように、
キリストが毎日、血の涙を流している』という暗喩でしょうね。
そう言えば、バッハのカンタータで『我が心は血の海に泳ぐ』
なんてのがあったのを思い出します。

103 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/11/08(木) 14:33:29 [ 1.net220148172.t-com.ne.jp ]
  ●●●エンドゲーム(06年世田谷パブリックシアター)☆☆☆−●●●(2/2)

で、そのハムがクロヴに言うには『お前はこんなにひどい目にあいながら、
どうして私を殺そうとしないんだ』という分けですが……
この点は『神は死んだ』というニーチェの言葉を想起させます。
つまり、その時点で『人類は一度、神を殺した』とも言える分けですが、
その後の歴史ではキリスト教の神は、尚しぶとく生き残っている分けですね。

実を言うと、神が支配するとされるこの世界において、
耐え難いような悲惨がしょっちゅう起こっていて、
それを神の意志としてどう解釈するのかという問題に、
西洋人は長年、悩まされて来た歴史がある分けです。

そうした事実を背景に置いて考えると、
このハムのせりふは中々意味深長ですね。
結局『そこまで神に見放され、ひどい目にあいながらも、
尚、神を捨て去ることが出来ない多くの人間たち』に対する
強烈な皮肉が、ここにはこめられているとも言えますよね。


そのハムが、両親が入っているドラム缶に向かって、
『忌まわしい姦淫の罪をおかしたる者』と非難する所は、更に強烈です。
つまり、この場合の両親は『聖母マリアとその間男』という分けですから、
『キリストが精霊によってマリアの体に宿った』という見方を、
生物学的な観点から根本的に否定し『キリストは姦淫の結果、
私生児として生まれたのだ』と痛烈に批判している分けです。

それから、ハムが言って聞かせる作り話というのがありますが、
『腹這いになって自分に助けを求めに来た男とその息子』
というのも、やはり間男とその息子キリストでしょうね。
『誰もいなくなった土地で、もはや生きてるか死んでるかすら分からない』
と瀕死の神(キリスト)を皮肉ってることになる分けです。
ただ、全てが明快に分かるか、というとそうでもありません。

冒頭でクロヴが登場する時、左右の高窓から外を覗いて薄ら笑いし、
その後のせりふで『終わった』とか『終わりそうだ』とか、
ごちゃごちゃ言いますが……『仮に核戦争で世界が終わるなら、
いわゆるキリストの再臨による世界の終わりというのも消え去って、
もはや自分が神に罰せられることもない』という理屈なんでしょうか。
それでホッとして薄ら笑いしているようにも見えました。


他方、ハムの所有物として犬の縫いぐるみのような物が出て来ますが、
これが一体何を意味するのかは、最後まで良く分かりませんでした。
ひょっとして教会や神父の暗喩なんでしょうかね。
どなたか、良い知恵があったら教えて下さい。(^^;)

その点で一つ困ったのは、クロヴを演じる柄本明のせりふが、
ひどく聞き取りにくいことでした。
自分のせりふが観客に明瞭に伝わらないようでは、
舞台俳優としての第1条件を満たしていないんではないでしょうか。

因みに、この録画も何故か末尾が切れてしまっていて、
終幕近くに、クロヴがハムのところに引き返して来た後で、
一体どうなったのかは結局、分からずじまいでした。
辻褄のあわせにくい前衛劇とは言え、最後の結末は重要ですからね、
ちょっと中途半端な評になったかもしれません。

104 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/11/19(月) 11:12:04 [ 2.net059085043.t-com.ne.jp ]
  ●●●リトル・チュン(1999)☆☆☆●●●

これは、日本と香港の合作映画だったらしいですが、
中国への返還を間近に控えた香港の世相がテーマのようでした。
とある食堂の子であるチュンという少年と、その友達で、
中国本土から来た難民の子であるファンという少女が、
香港のスラムの中で、たくましく生き抜く姿が描かれます。
でも……何と言っても香港映画ですからね、
そのえげつなさは、さすがに桁違いです。
これには、さすがの大阪人も真っ青ではないでしょうか。(^^;)

にくたらしいヤクザのデビッドに仕返しをするのに、
飲み物にツバを入れる位はまだ序の口です。
それがエスカレートして、次は小便を混入するようになり、
最後には、とうとう使用済みタンポンまで放り込むので、
飲み物が真っ赤に染まるというギャグなんか、
日本人には、ちょっと強烈すぎましたね。(-_-;)

他方では、とにかく『金が全て』『金=幸福』
という単純すぎる価値観にも、圧倒されます。
その意味では、香港は徹底した商人の街という印象ですが、
ここでも大阪に似てるというか、更に輪をかけたような感じですね。
少年は店の配達を任されている分けですが、
それでチップを稼ぐことができる点など、
英国支配の文化ならでは、という所でしょうか。


彼の家は、給料の安いフィリピン人家政婦を雇ってる分けですが、
それで暇になった母親が、麻雀にうつつをぬかしている所なんか、
日本の常識からすると、ちょっとどうかという気もしますね。
ですから、少年は必然的に母親よりも家政婦になつくわけですが、
その家政婦が帰国してしまった後で、少年が彼女に会う為に、
フィリピンまで行くという所なども、日本人には珍しい風俗です。
他にも沢山のエピソードが絡みますが……
ちょっと色々盛り込み過ぎて、焦点がぼやけた印象がありました。

特に、父に勘当された兄のハンを捜しに行った主人公が、
父に厳しく叱られる場面などは、少し飲み込みにくいですね。
その時、パンツを脱がされて家の前に立たされた少年が、
京劇風の歌を歌いますが一体、どういう場面の歌なのか気になりました。
実はその歌は、香港一のスターで京劇俳優でもあるチュン兄の歌を聞いて、
彼が覚えたようですが、このチュン兄と祖母が何やら関係があるらしくて、
少年の名前も、祖母がスターの名を取って付けたのかもしれませんね。

その祖母は、兄のハンが『医者が間に合わない内に勝手に生まれ落ちた』
という昔話をした晩に急死してしまい、彼女の葬式の状況が描かれます。
初七日に紙で作った飛行機などの模型を燃やすのは、
香港特有の風俗なんでしょうか。
棺桶同様、こうした紙の模型を作る専門の店があるらしくて、
映画の最初のほうから出て来ますね。


最後は、ヤクザのデビッドが糖尿病で緊急入院となりますが、
丁度その時『不法難民狩りを逃れて身を隠していたファンが捕まり、
本土に送還される』という話が伝わります。
少年は、彼女が乗った送還車を自転車で追いかけますが、
間違えてデビットの救急車に乗り込んでしまい、
今はもう落ち目のデビッドから歓迎される、
という落ちがついて幕となります。

でも……それから大した年数もたっていないというのに、
今では、既に中国元の方が香港ドルより強くなって、
香港と本土との間の力関係は逆転したみたいですからね。
近年の時代の流れの速さは、本当に恐ろしいものだと思います。
因みに、このファンという少女は五輪真弓に少し似ていますが、
リトル・チュンの『兄貴分』であるチュン兄も、篠井英介に似てますね。

それから、この映画には当時はやった『タマゴッチ』とか、
日本の『だるまさんがころんだ』みたいな遊びが出て来ますが
少年たちが蹴鞠みたいな遊びをしているのに興味を引かれました。
日本の蹴鞠は、過去の文化遺産として引き継がれているに過ぎませんが、
中国では、その原形がこういう形でまだ生き残っているんでしょうか。

105 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/11/20(火) 10:35:28 [ 134.net220148169.t-com.ne.jp ]
  ●●●ストレート・ストーリー(1999)☆☆☆●●●

デビッド・リンチと言えば、このスレッドでも五つ星を付けた、
『エレファント・マン』の監督ですよね。
  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1102295096.html#22
暫く前に、彼の初期の作品『イレイザーヘッド』を見た時は、
その余りに前衛的な映像に、ゾッとさせられましたが、
この監督も、既に老境に入ったということなんでしょうか、

ここでは、割と平凡な話を淡々と叙情的に綴っていますが、
『イレイザーヘッド』と続けて見たせいか、
ビートルズが前衛的な『レボリューション№9』の後に、
叙情的な『グッドナイト』を並べたのを連想してしまいました。
ストレート・ストーリーという題名は、主人公の姓がストーリーなので、
『ストレートという男の物語』という意味に、
『困難な(旅の)物語』という意味をかけているようですね。

知恵遅れの娘と一緒に暮らしている老人が、
ある日転倒して、杖を手放せない体になります。
その時、彼が昔、喧嘩別れした兄が急病で倒れたという話が伝わり、
老人は兄と和解する為に、長い道のりを独力で旅する決意をします。
しかし、彼は足腰が立たないばかりか、既に目も悪くなっていて、
車の免許を持っていないので、無謀にも小さな芝刈り機に、
寝泊まりする為のトレーラーハウスをつないで出発することになります。


因みに、映画では『ローンモウアー』を、
『トラクター』と訳してますが、これは明らかな誤訳でしょうね。
lawn mowerは直訳すれば芝刈り機のことですが、ただ、
米国では何事もスケールが大きいですからね、芝刈り機とは言っても、
日本で言う小型のトラクター(耕運機)位のサイズはある分けです。
でも、その実体はあくまで芝刈り機なんですね。

つまり日本で言う耕運機は、それなりに馬力があって頑丈に出来てますが、
ここで言う芝刈り機は、あくまで芝刈り専用機ですからね、
そんなに馬力もなければ、頑丈でもないに違いない分けです。
そこへ、大型のトレーラーハウスなんかをつなぐから、
その無謀さが際立つ分けで、これが仮に小型のトラクターだったら、
仮にスピードは出なくとも、何とかなってしまいそうな気がしますよね。

例えば、主人公が目的地に到着する直前に、道を訪ねる場面がありますが、
あの時に相手が乗っている機械が、まさにトラクターなんですね。
gooの映画サイトでは『最初の芝刈機が壊れてトラクターに乗り換えた』
みたいに書いていますが……これは、最後まで芝刈機のようです。
結局、日本と同様、米国でも車の免許がないと、
トラクターには乗れないんじゃないでしょうか。


で、出発した後は、もう大体予想した通りの展開ですね。
500Km以上もある道のりを行く間には、様々な困難があって、
その中で、妊娠して家出した娘を助けたり、
自転車ラリーの若者たちとの交流があったりします。
この辺の味付けは、ベテラン監督には朝飯前という所でしょうか。
特に、衝突事故で鹿を殺し、いらついている通勤女性に出くわす話では、
後で老人がその鹿の肉を焼いていると、仲間の鹿が沢山寄って来て、
じっと見つめるので、ビクビクしながら食っている所なんて笑えました。

その後、主人公の芝刈り機は急坂にさしかかって暴走し、
村で消火演習をしている人々に助けられますが、その結果、
壊れた機械を修理する間、その村に滞在して住民の世話になります。
その時、前回の大戦を経験した老人と気晴らしにバーに行く所では、
狙撃手だった主人公が、戦争中の苦い思い出を打ち明ける場面があって、
こうしたエピソードも映画に厚みを与えていました。
そして最後は、とうとう兄が住む家にたどり着き、
二人の和解を予感させたところで幕となります。

因みに、近年の米国映画では、必ず色々な人種が出て来て、
『こうして皆、仲良くやってますよ』みたいな演出をするのが定番ですが、
この映画では、そうした配慮が一切なくて白人しか出て来ませんね。
妙に世相にこびない点は、むしろ厭味がなくて好ましい感じがしました。
それから、老人の目指す先が、ウィスコンシンのザイオンなんですが、
アメリカにもZionなんて地名があったらしいですね。

106 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/11/30(金) 10:46:05 [ 94.net220148225.t-com.ne.jp ]
  ●●●私は告白する(1912)☆☆☆●●●

これは、いわゆるサスペンスの巨匠・ヒチコックの白黒映画で、
カトリックの神父が殺人事件に巻き込まれるという話でした。
その神父が懺悔(ざんげ)の中で、犯人から殺人を告白されるんですが、
『神父は懺悔の内容を決して口外してはならない』という規則があって、
それがこの映画のポイントになって来る分けですね。

これはアメリカ映画ですが、神父と言えばカトリックですからね、
その意味で、舞台はカナダのケベックになっているようです。
で、その犯人が神父の恰好をして殺人を行ったことから、
警察の嫌疑が、他ならぬその神父に掛かって来ることになります。

神父には昔、恋人がいたのですが、その後、戦争が起こり、
彼が志願して出征したので、二人は別れ別れになります。
その時、恋人は彼が戦争から戻るのを待たずに、
別の男と結婚してしまいますが……この辺の展開は、
『シェルブールの雨傘』と良く似ていますね。
フランス系の女は、よくよくこらえ性がないんでしょうか。(^^;)


こうして恋に破れた結果か、彼は神父になってしまいますが、
女の方は、まだ彼に未練を残しているという展開ですね。
でも、神父に女なんかいたら一大スキャンダルですからね、
それを知ったある男が、彼女をゆすろうと計画する分けです。
その時、ゆすられた彼女が元恋人の神父の所へ相談に行った結果、
神父は、その男と会って話し合う約束をしたらしいのですが、
たまたま、その日の晩に男が殺されてしまいます。

こうして、神父の嫌疑はますます深まりますが、
彼は『懺悔を通じて真犯人を知っているのに、
密告はできない』という究極的なジレンマに陥ります。
まあ、現実問題として、カトリックの戒律が、
そこまで杓子定規なものなのかどうか、私は良く知りませんが……。

結局、裁判では嫌疑不十分で、神父は無罪となるようですが、
嫌疑が灰色ということでは、神父としてはもう失格らしいですね。
で、取り囲んだ群衆が彼を侮辱するので、真相を知る犯人の妻は、
神父を身代わりにすることに耐えきれず『神父は無実だ』と叫び、
それを見た犯人が妻を射殺する……という、まあ順当な結末でした。


ここには陪審裁判も出て来て、その点では、
前から批判している日本の参審制に関わる問題もあるんですが……
今回これを録画したのは、むしろ、
懺悔とカトリック謀略の関係に興味を引かれた為でした。

以下は時事放談でも書いたことですが、最近の日本では、
政治家のスキャンダルから、食品メーカーの偽装に至るまで、
後から後から不祥事の連続で、皆さんもいい加減、食傷気味でしょ!?
結局、こうした騒ぎで世の中を引き回すことが、
ユダヤ主義の手口であることは、前から言っている通りなんですが、
ユダヤ主義は昔はカトリック、現代は共産主義を通じた情報網により、
世の中のそうした不祥事の一覧表を持っているような気がします。

ですから、ユダヤ主義にとって何か不都合な事態が起こり、
マスコミや国民の目をそらしておきたい時には、その一覧表を使って、
次々と汚職や法律違反の問題を暴き出し、騒ぎ立てるんでしょうね。
そういう目で見直すと、最近の不祥事多発も別の見方ができる分けです。
私は、こうした騒ぎ方からして『ユダヤ主義が相当、
追い詰められている証拠じゃないか』と思ったのでした。

107 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/12/09(日) 11:07:01 [ 2.net220148231.t-com.ne.jp ]
  ●●●PROMISE(2006)☆☆☆−●●●(1/3)

プロミスとは言っても日本のサラ金とは無関係で、これは、
例の陳凱歌が作った歴史的アクション・ドラマでした。(^^;)
その場合、近年の中国映画は社会派ものとアクションものに別れるようですが、
社会派ものはともかく、この手の娯楽大作はもう一つ感心しませんね。
というのも、絢爛豪華なCGや華々しいアクションに力を入れる余り、
肝心なドラマの部分が、どうしても散漫でお粗末になりがちなんです。

他方、これは以前に取り上げた張芸謀の『HERO』にしても同様ですが、
中国のアクションものは、何故か忍者映画みたいになるようですね。
超能力者のような人間が出て来て活躍するという点では、
例の古典購読にあった李白の詩『元丹丘の歌』を連想させますが、
道教の関連か、中国にはこの手の超能力の話が昔からあるらしいです。
この物語も、何か元となった中国の伝説があるんでしょうか。

ストーリーは複雑で分かりにくいですが……ある意味で、
紙芝居的な所が、スーパー歌舞伎と似ているかもしれませんね。
飢えた少女が女神と約束した結果『満ち足りた生活と引き換えに、
少女は永遠の愛を得られない』ということになります。
年月が経ち、美しく成長した少女は、王妃となりますが、
一人の逆臣がその王妃を奪いに来ます。


その頃、北の異民族との戦争で活躍していた将軍は、
戦争に使っていた奴隷の中に、屈強な男を見つけて家来にします。
その後、王が逆臣に包囲されたと聞き、将軍は救援に向かいますが、
その途中、森の中で道に迷ってしまいます。それで仕方なく、
奴隷と別れて別々に道を探すことりなりますが、そこへ例の女神が出て来て
『将軍が今着ている花鎧をつけた男が王を殺す』と予言します。

その直後、将軍は黒マントを着けた刺客に襲われ、
そこに奴隷が来て助けますが、将軍は深手を負ってしまいます。
そこで将軍は仕方なく、奴隷に自分の花鎧と鉄仮面を貸し与え、
自分の身代りとして、王宮に差し向けることになります。
その頃、王宮では王妃が王を裏切った為、王が王妃を殺そうとしますが……
ここの場面にしても、王妃が王を裏切る経緯はあっさりし過ぎてますし、
人間がしっかり描かれているとは到底、言えませんからね。

さて、王の救援の為に派遣された奴隷は、
王妃に一目惚れしたのか、王を殺した末に彼女を奪って逃走しますが、
結局は、滝を背にして逆臣に追い詰められてしまいます。
その時、逆臣が『お前が滝に飛び込めば王妃は自由にする』とだますので、
花鎧を付けた将軍(実は、奴隷)は『お前は生きろ』と王妃に言い残して、
滝に飛び込む分けですが……何しろこの奴隷は超能力者ですからね、
それで死ぬ分けでもないらしいです。(^^;)


ただ、ここに至って『女にとっての永遠の愛』というのが、
この花鎧を付けた男の愛であると明らかになる分けで、
王妃の方もこの花鎧の男に惚れてしまったようです。
その後、王妃は結局、檻に入れられて逆臣の情婦にされたようですが、
怪我をした将軍の方もまた、王の暗殺者として捕らえられる……
というか、この場面は全て女神がつくり出した幻影なんでしょうかね!?

またまた現れた女神は『空に太陽と月が一緒に登る時、
女は花鎧を付けた男のものになる』と再び予言を残しますが、
女神が消えると、将軍は自由になっていました。
そこで将軍は、女神との賭けに勝つべく、
王妃を自分のものにする為に、その救出に奴隷を差し向けます。

しかし、救出の途中で奴隷と王妃は逆臣に襲われます。
そこへ馬に乗った将軍が来て、王妃をさらって行きますが、
今度は奴隷が逆臣に捕らえられてしまいます。
例の黒マントの刺客は、実は逆臣の手下だったのですが、
逆臣は、その刺客に今度は奴隷を殺すよう命じます。

108 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/12/09(日) 11:09:37 [ 2.net220148231.t-com.ne.jp ]
  ●●●PROMISE(2006)☆☆☆−●●●(2/3)

ところが、この奴隷は刺客と同じ『北の国の者』で、
同じ超能力を持つ同胞だったので刺客は結局、奴隷を逃がしてしまいます。
他方、将軍は王妃と一夜を共にしますが、彼女は翌朝去ってしまうので、
今度は奴隷が将軍を背負って王妃の所に導く、という展開になります。
この辺も、もう一つ飲み込みにくい所なんですが、
まあ、王妃が将軍をじらした、ということなんでしょうか。
結局、二人は元の鞘に収まるので、奴隷は帰郷することになります。

すると、帰る途中で刺客が奴隷をさえぎり、幻影を使って、
自分たちの国が既に、逆臣によって滅ぼされたことを見せます。
その幻影の中では『刺客が、自分が逆臣の手下となることにより、
同胞を救おうとした』ことが描かれますが……
彼の黒マントは逆臣への忠誠の証しで、
その奇跡の黒マントを脱げば、彼は死んでしまうのでした。

こうして今度は将軍が王妃をかこって自分のものとし、
うつつを抜かしている所へ、彼の部下たちが迎えに来ます。
『逆臣を捕らえたから、裁きをつける為に戻ってくれ』と頼まれると、
将軍は最初こそ断りますが結局、王妃を連れて出かけることになります。
ところが実は、これが将軍と王妃を捕らえる為に逆臣が仕掛けた罠で。
逆臣は二人を捕まえると、将軍の花鎧も手に入れてしまいます。


ここで逆臣は、捕まった二人を前において、
『王を殺したのが実は奴隷である』と真相をばらしますが、
王妃はその言葉を信じようとはしません。
その後、牢屋に入った将軍を救出しに、奴隷がまた来る分けですが、
真相をばらされた将軍は、もうやる気を無くしていたので、
その代りに奴隷が花鎧を手に入れ、王妃を救い出すことになります。

こうして奴隷が花鎧を奪いに行くと、また例の刺客と出食わしますが……
逆臣は奴隷に『黒マントと花鎧のどちらかを選べ』と迫るので、
結局、刺客は自分の命と引き換えに、花鎧を奴隷に与えます。
奴隷は更に王妃の救出に行きますが、王妃は、
『王殺しの罪で翌日、将軍が処刑されるから救けてくれ』と頼むので、
奴隷は王を殺したのが自分であることを裁判で告白する、と約束します。

翌日、王殺しの裁判で将軍が裁かれている所に奴隷が来て、
自分が下手人であると告げますが、誰も信じようとはしません。
そこで王妃は、滝に飛び込む前に『一緒に死のう』と言っただろうと、
実際とは違うことを言って奴隷にかまを賭けますが……
この場面の王妃は『王を殺して滝に飛び込んだ男が将軍である』
と確認しつつ、奴隷が自分の言葉に同意したら、
『やはり、奴隷が犯人だ』と証言するつもりだったのかもしれませんね。


でも、奴隷がそれを否定し『お前は生きろ』と言ったと真相を告げるので、
王妃は驚き、花鎧の男が奴隷だったことを悟ります。
その状況を見て、他の人間も真犯人が奴隷と知ったようですが、
将軍の方は、こうして無罪と分かっても結局、放免されません……
この辺は、逆臣が主催する裁判なので、いい加減なんでしょうかね。

こうして結局、三人とも捕まって縛られていると、
そこへ逆臣が来て、将軍に例の黒マントを着せようとします。
その時、始めは従う素振りを見せた将軍でしたが、
黒マントから剣を抜いて、逆臣に襲いかかります。
でも、何故そんな所に剣があったのか……
見せ場を作る為とは言え、余りに都合が良過ぎますね。(^^;)

結局、格闘の末に王妃の目の前で、奴隷も将軍も逆臣も死ぬようですが……
奴隷は例の黒マントの力で生きかえった節もあり、よく分かりません。
最後は、奴隷が王妃をさらって飛んで行く所で終わりますが、
ここはまた幻想場面風の演出なので、或いは奇跡が起こったというより、
『奴隷の魂が王妃の魂と共に昇天した』という表現なのかもしれませんね。

109 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/12/09(日) 11:16:59 [ 2.net220148231.t-com.ne.jp ]
  ●●●PROMISE(2006)☆☆☆−●●●(3/3)

ところで、この映画では中国名が、またまた全てカタカナなんですね。
この放送はTV朝日の製作ですが 、香港映画ならともかく、
中国製作の映画で、どうしてこういう間抜けなことをやるんでしょうか。
おかげで登場人物の名前が分かりにくくて苦労しました。
gooの映画サイトを見ると、将軍カンミンが『光明』、
奴隷クンルンが『昆崙』、王妃チンチャンが『傾城』とあって、
この方が遥かに分かり易いですよね。

他方、太陽と月が同時に空に昇るという場面では、
三日月が太陽に背を向けているのが、
現代人の目からすると何とも奇妙でした。
夜空に浮かぶ半月などをじっと見ていると、
『ゴム毬が光に照らされて光っている』
ように見えることもありますからね。

結局『月が太陽の光で光っている』という認識は、
近代科学を知る以前の人間にとっては決して自明ではないということで、
ここは、それを意識した表現なんでしょうかね。
その点、ギリシャ人などは既に『月が球体であり、その満ち欠けが、
太陽との位置関係で起こる』ということを理解していたようですし、
地球が太陽の回りを回っている、という地動説すらあったようですね。


それがキリスト教によるユダヤ支配が確立した『暗黒の中世』に入ると、
地動説から天動説に逆戻りする分けですね。ですから私などは
『仮にそのユダヤ支配がなかったなら、産業革命もそれだけ早くなって、
人類の歴史は数百年、前倒しになっていたんじゃないか』とも思う分けです。

因みに、最近は日本から月に送り込まれた『かぐや』という衛星が、
月の裏側の写真などを送って来ているようですが……
ひとつ私が昔から疑問なのは『どうして地球からは、
月の裏側が見えないのか』という事なんです。

何故なら、物理現象というものは全て連続であって、それと同時に、
厳密に成り立つ法則というものは、一つも存在しない分けですね。
つまり、全ての物理現象は誤差を伴って存在しているわけです。
だとすると『地球から見て、月が全く回転しない』
というのは、とても不思議なことなんですね。


つまり、多少とも誤差があるのなら、
長年の間には、少しづつ月の見え方が変わり、
その裏側を見せても良い分けですが、実際には大昔から、
例の『兎が餅をつく』姿は変わっていないわけですね。
で、思い至ったのは結局『月の重心の位置が、
少しずれているんじゃないか』ということです。

その場合、地球が月を引っ張る引力の中心と、
月を外に引っ張る遠心力の中心(質量中心)の距離が、
今の月の姿勢において最大化されている、ということになりますね。
ただ、尚も誤差のことを言うなら、
月は『両者の距離を最大化する姿勢』に固定されているというより、
その姿勢の周囲で振動しているはずなんですね。

ならば、その振巾とか振動周期とか、
そういう事はもう分かっているんでしょうか。
私は余り聞いたことがありませんが……
どなたか知っている方がいたら是非、教えて下さい。(^^;)

110 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/12/14(金) 13:47:03 [ 73.net220148175.t-com.ne.jp ]
  ●●●21グラム(2003)☆☆☆●●●(1/3)

これは死を主要テーマとするアメリカ映画でしたが……以前、
似たテーマの『死ぬまでにしたい10のこと』という映画に関し、
『米国女性の話』としたのは、とんだ勘違いでした。m(_ _)m
実は、あれはスペインとカナダの合作映画でしたから、
主人公はカナダ女性と考えるべきなんでしょうね。

因みに、その合作映画の製作総指揮者が、
ペドロ・アルモドバル監督だったようです。
それで、彼が作った『オール・アバウト・マイ・マザー』
についても既に取り上げましたが、その映画も、
心臓移殖を一つのトピックとする点で、この作品と共通していました。

ただ『マザー』の方では、心臓を貰った主人公は、
提供者の家族を遠くから観察するだけでしたが、
この映画の主人公は、提供者の家族に直接会いに行って、
深い関わりを持つに至るところが、大きく違いますね。


その場合、ここでは心臓を貰った者の家族と提供者の家族、
そして更には、ひき逃げで提供者を殺した者の家族と、
三つの家族の話が重層的に描かれます。
ですから、同じ死がテーマとは言っても、筋はずっと複雑ですね。

しかも、ピカソの絵みたいに『一度全体をバラバラにしてから、
時間をずらして組み立てた』みたいな構成ですから、尚更です。
今は、ビデオで幾らでも見直しが出来るから良いようなものの、
こんなのを劇場で見せられて、一度で何か分かるんでしょうかね。(^^;)
映画の作り方として、この手の手法にはかなりの疑問を感じます。

先ず、冒頭に最後の臨死のベッドの場面が置かれていますが、
全体がこの移殖患者である主人公の回想という形式なんでしょうか。
その後、最初の10分位で、犯人が仕事を首になる場面、
被害者の家族が血の付いた着物を洗う場面、
主人公が心臓を移殖される場面と、立て続けに展開します。


つまりは『仕事を首になった男がやけになって交通事故を起こし、
その被害者が脳死状態に陥った結果、彼の心臓が主人公に移殖された』
という事情を、一気に見せようとしたんでしょうか。
この主人公は大学で数学を教えているようですが、
何とか心臓を貰って生き延びたものの、妻との間には子供がなく、
人工受精や過去の中絶をめぐって、夫婦間に隙間風が吹いています。

で、この主人公は心臓提供者の素性を探偵に調べさせた末、
ひき逃げした犯人のことをも探り出します。
この犯人というのが実は、軽犯罪の常習者なんですが、
ただ最近は信仰心を得て、立ち直ろうと努力していたようです。

ところが、首に彫った入れ墨の為に客に嫌われ、
ゴルフ場のキャディーの仕事を失ってしまいます。
それで平常心を失った為か、ひき逃げ事件をやらかし、
建築家とその二人の娘を殺してしまう分けですね。

111 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/12/14(金) 13:48:53 [ 73.net220148175.t-com.ne.jp ]
  ●●●21グラム(2003)☆☆☆●●●(2/3)

その時、一度は逃げた犯人でしたが、自分の子供と同じ年頃の子供たちを、
見殺しにしたことを悔い、自分から警察に出頭します。
こうして留置場に入れられた彼は、信仰心を持った後に、
こんな事故にあったので、神の意志を疑ったりします。
例の『エンドゲーム』で触れた、キリスト教の根源的な問題が、
こんな所にも顔を出している分けですね。

つまり『そんなにひどい目にあっているのに、
どうして私を殺さないんだ』という奴です。(^^;)
結局、キリスト教の神は全知全能ということになっていますから、
『髪の毛一本が動いても分かる』という分けですよね。
となると、この事故だけを『神の意志とは無関係の偶然に過ぎない』
と主張するのは首尾一貫しないというか、かなり苦しい説明になる分けです。

まあ『全能の神が全てを決める』とすれば、一種の決定論になりますから、
人間の自由意思は存在しない、ということにもなりかねない分けですね。
それで、そうした矛盾を解消する為の努力のひとつとして、
例の予定調和なんていうライプニッツの哲学もあったわけです。


一方、主人公は残された未亡人に会いに行き、交際を始めますが、
ある日、深夜に呼び出されて彼女に会いに行った際、
『夫の心臓を自分が貰った』という事実を告げます。
すると最初、未亡人は激しく反発しますが……
翌朝、彼が外の車中で一夜を明かしたことに彼女が気付き、
呼びに行った後で、二人は深い仲になってしまいます。

その頃、彼に移殖された心臓はうまく定着せず、吐き気を催した主人公は、
その心臓が長くは持たないことを医者から告げられます。
他方、自首した犯人は証拠不十分で釈放されてしまうので、
怒った未亡人は主人公に『犯人を殺して決着を付ける』ことを頼みます。
そこで、犯人を殺しに出かけた主人公でしたが結局、殺すことは出来ず、
『どこかへ消えてしまえ』と脅しただけで、その場を去ります。

こうして主人公は、殺したふりをして舞い戻った分けですが、
そこへ、自責の念にかられた犯人が押しかけて来てしまいます。
その時、未亡人は錯乱して照明器具で犯人を乱打するので、
彼女が人殺しになるのを、彼は恐れたのかもしれませんね。
それを食い止める為、主人公はピストルで自分を撃ってしまいます。

112 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/12/14(金) 13:50:42 [ 73.net220148175.t-com.ne.jp ]
  ●●●21グラム(2003)☆☆☆●●●(3/3)

そこで目が冷めた未亡人は、犯人と共に主人公を連れて病院に急行しますが、
到着した後、犯人は自分が主人公を撃ったと『自白』してしまいます。
主人公には『どうせ、長くない命だ』という意識があったでしょうし、
犯人は犯人で、こうして別の事件で死刑になることにより、
自分の人生に落し前を付けようとした、という分けでしょうかね。

他方、主人公に輸血する血が足りなくて献血をした未亡人は、
その血液が麻薬で汚染されていて使えないことを告げられ、
それと同時に、自分が妊娠していることを知らされます。
つまりは、主人公の子供が出来たということでしょうが、
新たに生まれる子供に希望を託した形になっているようです。

こうして最後は、冒頭のベッドの場面になる分けですが、
ただ、映画のテーマとしては『だから何なんだ』
という感じで、もう一つスッキリしませんね。
ひき逃げで一つの家族を地獄に陥れた無責任な男が、無罪で釈放された時、
被害者による復讐が許されるか、なんていう単純な話でもないですしね。


或いは、改心した元チンピラに神がこんな仕打ちをしたなら、
元チンピラは神にどう向き合うべきか、なんていう神学的なテーマですかね。
それとも『一つの犯罪の結果、主人公の命が救われた』なら、
彼の存在理由はどう正当化されるか、なんて問題でしょうか。

監督はアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥといって、
ラテン系の名前ですが、神父でなく牧師が出て来る点からすると、
やはりカトリックではなく、プロテスタントなんでしょうね。
因みに、題名の『21グラム』というのは『人が死ぬと21グラム軽くなる』
つまり『魂の重さが21グラムである』という説に由来するようです。

一体、誰がそんなことを言い出したのかと調べてみた所、
昔からある結構、有名な説らしいですね。(^^;)
  http://med-legend.com/mt/archives/2004/02/post_203.html
  「人は死ぬ瞬間に4分の3オンスその重さを減じる」
  という研究結果が発表されたのは1907年、
  マサチューセッツの医師、ダンカン・マクドゥーガルによってであった。

113 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/12/26(水) 11:08:27 [ 126.net220148239.t-com.ne.jp ]
  ●●●隠し剣 鬼の爪(2004)☆☆☆●●●

これは、例の山田洋二が作った時代映画ですが、
同じ藤沢周平の原作で『たそがれ清兵衛』に続く作品のようです。
藤沢周平の小説は、直接読んだことはありませんが、
朗読で聞いたり、色々なドラマで接した感じでは、
その人情に厚い話は、私も結構好きでしたね。

ただ、山田洋二の時代劇として、前作はともかく、
この映画は、ちょっと抵抗がありました。
主人公の敵役は、幕末の政争の中で謀叛の罪を着せられますが、
他の仲間が切腹させられたのに比べ、
何故か『郷入り』という刑になったようです。


その場合、武士にとって『郷入り』というのが、
切腹より重い刑罰である、という点が非常に興味深い分けですが……
結局『武士の立場では、それは恥辱の生でしかない』という分けでしょうね。
で、仮にそうだとすると『夫の命乞いをする為に、
彼の妻が自分の体を差し出す』などという展開は、
幾ら時代が変わり始めていたとは言え、かなり不自然な感じがしますよね。

実際問題として彼自身、自分の不名誉をそそぐ為に、
死に場所を探していて、それで牢屋を抜け出し、
これから追っ手と決闘して、死のうというわけですからね。
まあ、その意味では、主人公が最後に武士を捨てるというのも、
同様に不自然ですが……実際に、似た事件があったんでしょうか。
例によって、この映画の登場人物たちも現代人にしか見えませんが、
藤沢周平にしても、この時代の人間の考え方に肉薄することは、
楽ではなかったということかもしれません。


因みに、この作品の主要テーマは、それとはまた別にあって、
この敵役を討つように命じられる主人公と百姓の娘との、
身分違いの恋物語が中心をなしているようですね。
彼女は主人公の家の奉公人の娘でしたが、
二人の間には、互いに淡い恋心が芽生えていたようです。

その時、その身分違いの為に、彼女は商家の嫁となる分けですが、
嫁ぎ先で虐待されて病気になるので、怒った主人公が連れ帰ります。
まあ、この辺のイジメにまつわる悪玉と善玉の絡みは、
ごくありふれた展開で、シンデレラ物語なんかとも共通してますよね。
ただ、その頃の主人公はまだ独身だったので、
世間の悪評が立ち、彼女を実家に返すことになります。

その頃、例の謀叛事件が起こると、討手役に選ばれた主人公は、
敵役を殺してから更に、彼の妻を騙して弄(もてあそ)んだ家老を
『隠し剣 鬼の爪』で暗殺し、二人の仇を討つ分けですね。
こうして最後は、地元にいられなくなった主人公が侍の身分を捨てて、
百姓の娘と一緒に蝦夷に旅立つ、というハッピーエンドのようでした。

114 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2007/12/26(水) 11:10:40 [ 126.net220148239.t-com.ne.jp ]
  ●●●赤い靴(1948)☆☆☆●●●

これはイギリス製の古いバレエ映画ですが、
特に、その前半に出て来る踊りが、
やぼったくて田舎臭いのには、少々意外な気がしました。
現代のバレエを見慣れた目には、体形が相当太めですし、
踊りにしても、余り洗練されてはいませんからね。
ロイヤル・オペラ・ハウスとは言っても、元々、
この時代のバレエは、こんなレベルだったんでしょうか。

それでも、この作品は1948年度のアカデミー賞で、
音楽賞・美術監督賞・美術装置賞を取ったんだそうです。
因みに、この映画では、ヨーロッパをめぐる公演旅行を中心に、
英語と仏語がごちゃまぜになっている印象ですね。
まあ、ヨーロッパのインテリの間では、そこに更に独語を加えて、
三ヶ国語をチャンポンで使うのが、当たり前のようですけどね。

それから、この映画の冒頭で『この物語は全てフィクションであり、
実際に似たことがあったとしても、それは偶然に過ぎません』
とかいう断り書きが出て来ますね。
日本の民放ドラマで良く見かける例のお断りの元祖は、
こんな所にあったという分けでしょうか。(^^;)


新進の作曲家と新進のバレリーナ同士が恋仲になりますが、
『芸術の探究に恋は邪魔だ』と考える興行主は、二人をクビにしてしまいます。
その後、結婚した二人は暫く別の道を歩いていたようですが、
ある時、興行主がバレリーナを連れ戻そうと画策します。

その時、それを阻止しようとした夫が、
新作オペラの上演という自分の晴れ舞台をキャンセルしてまで、
妻を迎えに来るので、ジレンマに陥った彼女は、
鉄道に飛び込んで自殺してしまうという結末でした。
『芸術と恋の間で股割きになった女の不幸』という所でしょうけど、
何も死ぬほどのことはないんじゃないか、という気もしますからね。
ストーリーとしては、通俗小説の域を出ないように思いました。

因みに『赤い靴』という題名は『アンデルセンの同名の童話を元に作られた、
バレエ作品を上演する』というストーリーから来ているようです。
その童話では『赤い靴に憧れた踊り子が、その赤い靴を履くと、
靴が勝手に踊り出し、いつまでも踊り続けるものだから、
踊り疲れた踊り子が死んでしまう』という展開ですから、
ここでの主人公の死も、そこに重ね合わせられているみたいですね。

115 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/01/10(木) 10:20:32 [ 129.net059085054.t-com.ne.jp ]
  ●●●葛城(宝生流)☆☆☆●●●

これは去年の正月頃に録画した分ですが、古い神話を元にした能でした。
能の分類としては、宝生流では三番目物(髷物)として扱われますが、
流派によっては四番目物(雑能)とする場合があるようです。
その場合、能における日本の神々は何故か皆、罪深い存在で、
仏によって救われることになる、というのが興味深いですね。
  http://www.sonoda-u.ac.jp/private/k25022/setsu9.htm
  日本の神々は、中世の能では本質的に罪の意識をもって描かれ、
  仏の力によって解脱する対象であった。

羽黒山の山伏が修行の為に大和の葛城山(かづらきさん)に出かけますが、
あいにく山中で吹雪に会い、道を見失ってしまいます。
そこに土地の女が現れ、自宅に案内すると柴を焚いてもてなします。
実はこの里女が、葛城山の神である葛城明神の化身なのですが、
葛城明神は女の神で、自分の顔が醜いのを恥じているのでした。

一段落して、山伏がいつもの勤行を行おうとすると、
里女は、自分を救う祈祷を一緒にやってくれと頼みますが、
三熱の苦しみ云々という話に不審を抱きます。
そこで、山伏は女が去ってから土地の者を呼び出し、
事情をたずねた末、詳しい話を聞き出しました。


ある時、役行者(えんのぎょうじゃ)は、修行者の便宜をはかる為、
葛城山から吉野の金峰山(きんぷせん)に岩の橋をかけようと思い立ち、
土地の神である葛城明神に、その工事を言いつけました。
ところが、彼女は自分の醜い顔を他人の目にさらすのを恐れ、
夜中しか作業をしないと言うので、押し問答となります。

役行者は、修行の為の尊い橋をかけるのに、
夜中しか作業しないのはけしからんと怒り、
彼女を罰する為に、蔦葛(つたかづら)でぐるぐる巻きにすると、
天の岩戸の中に閉じ込めてしまいました。
それ以来、彼女は今も苦しみ続けていると言うのです。

それを聞いた山伏は、彼女を救う為の加持祈祷を、
夜なべで行いますが、するとやがて葛城明神が現れます。
彼女は、ようやく呪縛から解放されたことを喜んで舞を舞いますが、
夜明けが近づくと、醜い顔を見られるのを恐れて、
また、岩戸の中へと消えてしまうのでした。


因みに、葛城山と吉野の金峰山とは40km前後も離れていますからね、
『そこにかける岩橋とは、一体どんな橋か』という気もしますが……
まあ神話なら、驚くには当たらないのかもしれません。(^^;)
この神話の元の筋では、天の岩戸は出て来ませんが、
当時、葛城明神を天照大神と同一視する風潮があったので、
世阿弥も、それに合わせてこの作品を作ったのだそうです。

他方、話の中で三熱とか五衰とか難しい仏教用語が出て来ますが、
三熱というのは、畜生道で竜や蛇が受ける三種の苦しみ、
五衰というのは、天人が死ぬ時に現われる五種の前兆のことで、
こっちは三島由紀夫の『天人五衰』という小説でも有名ですね。
それから、後シテとして現れる葛城明神の能面は、
ごく普通の顔で、決して醜くはありませんでした。
能の演出としては、これが普通なんでしょうか。

116 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/01/10(木) 10:22:45 [ 129.net059085054.t-com.ne.jp ]
  ●●●トリック劇場版2(2006)☆☆☆−●●●

前作の『トリック劇場版』を見た流れで録画したんですが、
ちょっと時間を無駄にしたような気がしました。
以前に取り上げた『交渉人 真下正義』と同様、これまた、
TV局製作のC級映画という感じですからね。(^^;)

格闘シーンでは突然、何の脈絡もなく手足が伸びて、
ろくろっ首ならぬ、ろくろ手足になったりしますけど、
こういう脈絡のなさは、昔の漫画でこまわり君の顔が突然、
犬などに変わったりしたのを想起させますね。
この手の手法は、山上たつひこの独創なのかもしれません。

117 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/02/25(月) 13:32:08 [ 2.net059085041.t-com.ne.jp ]
  ●●●太陽はひとりぼっち(1962)☆☆☆●●●

これは、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の白黒映画ですが、
伊仏合作のせいか、舞台はイタリアなのに言葉はフランス語でした。
株の暴落に見舞われたイタリアの証券市場の狂騒が描かれているので、当初、
第二次大戦を引き起こした大恐慌の時代の話かと思い込みました。(^^;)
実は、後で『核の軍拡競争がどうたら』という話が出て来ますから、
これはどうやら戦後のことで、この暴落も戦後の話のようです。
そこで株取引の場立ちをする男として、アラン・ドロンが出て来ますが、
怪しげな情報で昨今のデイトレのようなことに励む彼の姿は、
この映画の一つの見所かもしれませんね。(^^;)

話は、ある男女の別れ話から始まりますが……
このリカルドという男が何か、女に付きまとうだけの、
頼りない男で結局、女には振られてしまうようです。
前にもどこかで書きましたけど、こうした場合に大切なのは、
やはり『相手を引きつけておく技術』でしょうね。
つまり『ただ付きまとうだけでは結局、双方が不幸になる』
という点で『マノン・レスコー』と全く同じことだろうと思います。

他方、ビットリーアという女の母親が実は株にのめり込んでいて、
今回の暴落で大損して借金を背負い込むことになる分けです。
その時、母親を捜しに来た娘は、前から顔見知りだった、
アランドロン演じる株屋と仲良くなって、一時の火遊びをします。
しかし、その後は、また同じ倦怠に落ち込んでいくという感じで、
特に大したことが起こるわけではありませんでした。


序盤のクラゲみたいな給水塔や、後半の建築途中のビルなど、
特徴的な風景が各所に出て来ますが、何か前衛風の感じですね。
その中でも、特に終盤の寂寥感が印象的に残りましたが、
監督が何を言いたいのかは、もうひとつピンと来ませんでした。
愛の不毛というか、都会的な頽廃を描き出した点が評価されたのか、
この作品は、カンヌ映画祭で審査員特別賞を取ったんだそうです。
まあ、この手の国際合作というのは殆どの場合、ユダヤ絡みですからね、
その意味では、例によってユダヤ主義の引きもあったんでしょうか。

それから、ひとつ気になったのは字幕の訳語の不完全さでした。
別れを切り出した女に、男が『僕を愛していないのか、結婚が嫌なのか』
と聞く分けですが……この字幕だと『現在の結婚が嫌で別れたいのか、
これから男と結婚するのが嫌なのか』判然としませんよね。
元のフランス語では『僕を愛していないのか、僕と結婚するのが嫌なのか』
と言ってますから、今の二人は未婚であることが明らかな分けです。
元々日本語の表現というものは、こうしたあいまいさを許容しがちですから、
よほど神経を使わないと、完全な日本語にはならないようですね。(-_-;)


直近の確定申告でも、みなし配当に関する税務用語が難解で閉口してます。
  http://dp.nikkei.co.jp/genre/zaimu/rensai/point.cfm?i=20060215z1000z1
  みなし配当については配当として課税される他、
  交付金銭等のうちみなし配当以外の部分の金額は、
  株式の譲渡対価として支払いを受けた金額となり、
  みなし配当以外の部分に対応する金額として計算した
  株式の譲渡原価との差額が、株式の譲渡益または譲渡損となります。

果たして、これが日本語として完全なものかどうか良く分かりませんが、
少なくとも、これを読んですんなり理解できる人は少ないでしょうね。
ここでは、元の文章をきちんと行分けしただけでも、
少しは分かり易くなっているはずなんですけが……。(-_-;)
特に『みなし配当以外の部分に対応する金額として計算した株式の譲渡原価』
なんて言いますけど一体、何をどう対応させて譲渡原価を計算するのか、
分かる人がいるでしょうかね!?この『みなし配当』の問題に関しては、
また改めて『株スレッド』の方で、詳しく書くつもりです。

119 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/03/02(日) 12:25:59 [ 115.net059085053.t-com.ne.jp ]
  ●●●阿弥陀堂だより(2002)☆☆☆●●●

小泉堯史という監督は、以前に見た『雨あがる』では、
黒沢明の遺志を継ぐという制約があったせいか、
それほどとも思えませんでしたが、
この映画では、かなり個性が出て来た感じですね。
全体に癒し系という印象を受けますが、阿弥陀信仰なども含め、
生と死の問題をしっとりと描き出していました。

東京に住む女医とその夫である売れない小説家が、
都会の生活に疲れて夫の郷里・長野に引っ越しますが、
そこで田舎の人々の素朴な生き方に触れて癒され、
元気を取り戻すというような話ですね。
ただ、私からするとテーマ音楽が三流なのが玉に瑕(きず)でした。
その出だしはフォーレの名曲『シチリアーノ』にそっくりですが、
内容的には月とスッポン程の差がありますからね。こんなことなら、
いっそのこと、元の曲をそのまま使ったらどうかと思いました。

因みに、最近は何でもネットで済むようになり便利ですが、
フォーレの原曲を聞きたい方は、こちらへどうぞ。
  http://classic-midi.com/midi/classic/Faure_sichiriano_mi.mid
で、気に入ったら次のサイトに行き、絵の右下の拍手札を打ちましょうね。
大体、こういうのを一生懸命に作って公開している人は、
それが生き甲斐でやってるみたいなもんですからね。(^^;)
  http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Faure_sichiriano.htm

120 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/03/15(土) 16:51:39 [ 10.net220148234.t-com.ne.jp ]
  ●●●突撃(1957)☆☆☆+●●●(1/2)

これはスタンリー・キューブリックの初期作品で白黒映画ですが、
第一次世界大戦中のフランス軍を舞台に、軍隊の非情さが描かれます。
ドイツ軍が守る要塞に向かって、無謀な攻撃指令が来て、
それを自分の昇進の為に受諾する元帥……という構図は、
『一将功成って、万骨枯る』という古い格言を思い出させますね。

結局、その攻撃は無様な失敗に終わる分けですが、
その時、ある部隊が『突撃命令に従わなかった』
という理由で軍法会議にかけられます。
その場合、全員を処刑する分けにも行かないという分けで、
小隊毎に一人づつ、3人が選び出され、
即決裁判の末にその3人が処刑されるという展開ですね。

実際に似た事件があったのかどうか良く知りませんが、
戦闘場面の迫力は中々のものですし,
反戦映画としても良く出来ていたと思います。
特に、軍法会議に向けて選び出された男たちが、
三者三様に描かれている点が、一つの見所でしょうね。


先ず、パリス伍長は『部下を見捨てて逃げた臆病な上官』
を批判したことから、その報復として上官から指名されます。
また、アルノー二等兵はくじ引きで選ばれ、
更に、もう一人のフェロール二等兵は、単に
『社会的に問題がある』と言う理由で選び出される分けです。

この場合の『社会的に問題がある』というのは、ひょっとすると、
彼がユダヤ系であるという含みなのかもしれません。
というのも、今回の調べで分かった所では、
監督のスタンリー・キューブリックがユダヤ系らしいんですね。
ですから『人種差別への告発』を込めている可能性があります。

で結局、あす処刑されるという日に神父が来ると、
フェロール二等兵は素直に教戒を受け入れるのに対し、
報復で選ばれたパリス伍長は、自分の信仰が薄いことから迷います。
その時、くじで選ばれたアルノー二等兵は神への不信から、
神父への懺悔を拒否するので、仲間内で喧嘩になり、
結局、アルノーは殴り飛ばされて、重傷を負ってしまいます。

121 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/03/15(土) 16:54:19 [ 10.net220148234.t-com.ne.jp ]
  ●●●突撃(1957)☆☆☆+●●●(2/2)

ここでは突撃の部隊を指揮した大佐が、良識派として描かれますが、
自分を批判した部下を選んだ上官を、銃殺の指揮官に命じたり、
『出世の為に無理な攻撃を受け入れた元帥が、
突撃命令に従わない自軍の部隊に対して砲撃を命じた』
という事実を暴露したりと、精一杯の抵抗をします。

問題の軍法会議でも色々と抵抗を試みますが、結局は失敗し、
担架で運ばれたアルノーを含め、三人とも銃殺されてしまいます。
因みに、その軍法会議で大佐が弁護をする時の描き方として、
軍隊が規律を維持する為に行う見せしめの処刑に対し、
人間の正義やら慈悲やらを対置させるという点は、
少なからず無理があるように感じました。

結局『人間を殺人機械として作り直す』という点に、
軍隊という組織の本質がある分けですからね。
その意味で、当時のフランスでは『部隊が敵前逃亡をしたような場合、
くじ引きで選び出した者を処刑する』という慣例もあったようです。
日本の例でも、旧軍隊では新兵を意味も無く殴って恐怖を植えつけたり、
『敵のスパイを木に縛りつけておいて、その前に新兵を並べ、
次々と銃剣で刺させる』なんていう訓練をした、という話がありますね。


そういう非情な訓練によってのみ初めて、平和に慣れ切った者たちを、
過酷な戦場で戦える兵士に作り変えることが出来る、という分けでしょうか。
逆に言うと、そういう戦場に慣れた男たちが帰国とした後では、
今度は、まともな社会に復帰するのに困難が伴う分けですね。
ですから米国の場合なんか、昔のベトナム戦争や今のイラク戦争では、
帰国した兵士たちの処遇に苦労している、という話があります。

最後は、捕虜として捕まえられたドイツ女性が、
酒場に引き出され、はずかしめられようとします。
その時、彼女が兵士の恋人を慕う歌を歌い始めると、いつしか、
誰もがそれに唱和する、というほのぼのとした場面で終わりますが……
『一体、何の為に愚かな殺し合いをしているのか』という無言の批判ですね。

因みに、戦場の塹壕で『戦う覚悟は出来ているか』と元帥が問いかける所、
英語では『ドイツ人をもっと殺す準備は出来ているか』となっていますね。
遥かに露骨な元の表現を、いかにも当たり障りのない字幕に直したようですが、
この辺の翻訳は一考を要すると思います。

122 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/04/10(木) 12:05:22 [ 153.net059085208.t-com.ne.jp ]
  ●●●ターミネーター3(2003)☆☆☆●●●

ターミネーターと言えば、今ではカリフォルニア州の知事にまで出世した、
例のシュワちゃんの代表作ですが今回、漸くその第三話を見ました。
第一話では、ロボットが支配する未来からやって来たターミネーターが、
未来の人類司令官ジョン・コナーの母サラを殺そうとして失敗し、
最後は圧延機でのされる、という展開でしたね。
この映画では、未来から来た殺し屋という設定が中々斬新でした。

第二話では、ターミネーターと新型ロボットT-1000が来る分けですが、
何故か、二度目のターミネーターは善玉に変わる分けですね。
この頃は既に、シュワちゃんも有名になり過ぎたので、
悪玉より善玉の方が受けが良いという分けでしょうか。(^^;)
で、この回ではT-1000が、まだ幼いジョンを殺そうとし、
ターミネーターはそれから彼を守る役割だった分けですが、
結局、T-1000は溶鉱炉の藻屑(もくず)と消え、
ターミネーターも、それを追って自殺したんでしたね。

そして、今回の第三話ですが、またまた新型のT-Xがやって来て、
ジョン達は、再び味方のターミネーターと一緒に戦う分けですが、
月並みなカーアクションがちょっと多すぎる気がしました。
それに『未来の人類を支配するスカイネットの大元を破壊しようとして、
要人用の核シェルターに辿り着く』というのも、少し間の抜けた展開でしたね。
結局、スカイネットの生みの親であるロバート・ブリュースター将軍は、
ジョン達を救う為に、わざと嘘をついて、
彼らを核シェルターに導いたということのようです。


ただ今回のT-Xは、何と言っても色っぽい女ロボットですからね。
殺人兵器なら、その姿形は別になんでも構わないわけでしょうが、
この辺はやはり、観客サービスを狙ったんでしょうか。
女ロボットがシュワちゃんの股ぐらをひっつかんで、
便所の壁をぶち抜く所なんか、フェミニストには痛快でしょうね。(^^;)
で、そのT-Xの最後ですが、ターミネーターの動力源である水素電池、
つまりは超小型の核融合炉でしょうが、それを口の中に押し込まれて、
その核爆発で一巻の終わりということになってましたね。

でも、スカイネットの核攻撃で人類が抹殺される所まで描いた分けですから、
このまま終わるのでは、余りに中途半端すぎますよね。
その意味では、第四話を期待したい所なんですが……何と言っても、
主役のシュワちゃんは、この映画が公開されたその年の内に、
カリフォルニアの州知事に当選しちゃった分けですからね。
このシリーズは、このまま尻切れトンボで終わる宿命なんでしょうか。
それとも、知事をやめた後で更にまた第四話を作る、
なんていう展開があり得るんでしょうかね。(^^;)

……なんて考えていた所、実はもう第四作の準備が進行中で、
来年には公開予定であるという話を見つけました。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC4
但し、問題のシュワちゃんは、この映画には出ないそうです。
このサイトの話によれば、その理由は『現職の知事だから無理』
なんていう単純な理由ではないようですけどね。
ただ、次回作は新たな三部作のスタートになるという話も出てますから、
或いは、第五・第六作での復活登場という可能性はあるのかもしれません。

123 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/04/22(火) 11:55:21 [ 251.net220148125.t-com.ne.jp ]
  ●●●孔雀 我が家の風景(2005)☆☆☆−●●●

これは顧長衛監督の処女作となる中国映画ですが、
ベルリン国際映画祭で銀熊賞をとったんだそうです。
そのぼそぼそとした語り口は『ユリシーズの瞳』や、
『ノスタルジア』の作風を思わせる所もありますが、
文化大革命が終わった直後の中国を背景に、
ある平凡な中国人一家の日常が淡々と描かれていました。

その場合、知恵遅れの兄と身持ちの悪い妹、そして、
末弟という三人兄弟の話が中心になっていますが、
全体に説明不足の傾向が強く、良く分からない所が多かったですね。
監督がカメラマン出身なので、映画の文法にうとい点もあるんでしょうか。
その上NHKが『漢字名の代りにカタカナ名を使う』というクソマヌケなことを、
相も変わらずやってますからね尚更、分かりにくくて閉口しました。(-_-;)
その意味で、私としては余りお勧めできる映画ではありません。

先ず妹ですが、落下傘部隊の将校に片思いしたあげく、
その落下傘部隊の入隊試験に落ち、恋にも敗れて拒食症になります。
その後、彼女は自分で落下傘を作り、自転車に付けて走ったりしますが、
その落下傘をある男に奪われた末、それを取り返そうとして、
男の前でズボンを脱ぐという所が、先ず良く分かりませんでしたね。
『男に身を任せた』という表現かもしれませんけど、
男が銃で自分の足を撃つという描写は何なんでしょうか。


また、彼女が何かの本を弟に頼んで買ってもらう場面がありますが、
この場合の本も一体なんなのか、もう一つ良く分かりませんよね。
エロ本のたぐいか、或いは避妊の為の本でしょうか。(^^;)
ひょっとすると、最後に彼女が子供を生む点からして、
何か妊娠と出産に関する本なのかもしれませんね。
その後、彼女はある運転手と結婚しますが、
結局、何年か後には離婚して出戻って来るようです。

他方、兄は幼い時の病気の為に、いわゆる知的障害者である分けです。
で、彼の存在を重荷に感じた弟は、兄を殺そうとして、
コップの水に毒薬を入れるみたいですが、そこへ妹が来て、
その水を捨てる所、そしてそれをまた母親が見つけるというあたり……
この辺の描き方も、もう一つスッキリとは分かりません。
ただ、母親がその殺鼠剤をアヒルに飲ませた結果、
アヒルが反り返って死ぬ、という場面は印象的ですね。

この兄は何とか足の不自由な女と結婚しますが、二人で始めた屋台が成功し、
三人の中では一番まともな人生を送っているようです。
そして、末っ子の弟ですが、裸の女の素描を父親に見つけられて、
父親は勘当しようとしますが、その場は何とか逃れたようです。
でもその後で父親が学校へ出かけ、弟の机をこじ開けて何かを取り出すので、
弟は家を出てしまう分けですが、この辺の描き方も余り良く分かりません。
その後、彼は近くの老人施設で職を見つけて働いていたようですが、
そこも妹に発見されると、今度は町を捨てて出て行ってしまいます。


暫く後で、弟は子持ちの女歌手を連れて帰って来ますが、
やくざな生活の為か、指を一本なくしていて、
今は、女のヒモみたいな生活をしているようです。
そして最後の場面、動物園の孔雀のいる檻の前に、
この兄弟たちが自分の家族を連れて次々と現れます。
彼らは孔雀に向かって、それぞれに羽根を開くよう呼びかけますが、
孔雀はそれを無視し結局、彼らが去った後でようやく羽根を開きます。

この孔雀が開く美しい羽根は、人生の希望の象徴だろうと思いますが、
『羽根が開いた時には、家族は誰もいなかった』というチグハグさに、
思い通りにならない人生の難しさを暗示させているんでしょうね。
この映画の題名も、そこに由来しているようです。
ただ……子連れで現れた妹の夫は、最初の男のようにも見えますが……
もしそうだとすると、余りに安直なハッピーエンドでしょうね。

動物園のシーンの直前に、弟妹がトマトを選んでいる場面では、
彼女が顔を歪めて号泣するシーンがありましたが、
未婚の母になることに絶望しているようにも見えますからね。
そう言えば、兄が結婚する所にしても『このままでは、
またいじめられて兄弟が不和になるから、福祉作業所へ入れようか』
と両親が話し合っていた直後に、丁度うまい具合に、
結婚相手が見つかるというのも、余りに都合良過ぎる気がしました。

124 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/05/10(土) 11:18:15 [ 148.net059086090.t-com.ne.jp ]
  ●●●十二人の怒れる男(57米)☆☆☆−●●●

この作品は、例の裁判員制度に関して録画したようですが、
米国の陪審裁判を主題とする白黒映画で、
監督がシドニー・ルメットでした。

ある少年に父殺しの容疑がかかっていて、この裁判では、
十二人の陪審員が有罪か無罪かを判定する分けですが、
『全員一致の評決が不可欠で、もし有罪となれば、
少年は死刑になる』という前提のようです。

その場合『最初は11人が有罪で、1人だけ無罪だったのが、
議論を戦わせる内に、どんどん無罪の割合が増えて行って、
最後には、とうとう12人全員が無罪で一致する』という、
ちょっとあり得ないような展開でした。
その背景として、この裁判を担当した弁護士が余り有能ではなくて、
『弁護士が見落とした論点が、議論の中で次々と暴かれていく』
という状況がある分けですが、その点でも現実性は薄いですよね。


まあ『映画としては、その方が面白い』というのは分かりますが、
もし、この映画の通りだとすると『最初に無罪を主張した一人が、
たたまたいなかったとしたら、少年は確実に死刑になっていた』
ということになるわけですね。
或いは、仮に全員一致が成立せずに評決が不成立となった場合も、
また別の陪審を選び直して、最初からやり直すらしいですから、
少年は、やっばり死刑になる可能性が大のようですね。

その意味で『正義を偶然に任せる』という所に重大な疑念が生じますから、
米国流の陪審裁判は、はなはだ困った制度と言わざるを得ないと思います。
その点、日本の裁判員制度の場合、裁判官も加わって議論する点で、
その欠点は免れますが、そこにはまた別の欠陥があり得る分けですね。

ですから、この映画は余り参考にはならなかったような気もしますが……
まあ、どっちみち日本の裁判員制度というものも、結局は、
衆愚政治ならぬ、衆愚裁判でしかあり得ないのではないでしょうか。
この裁判員制度に関しては、以前にも色々と批判しましたが、
もう少し余裕ができたら、改めて詳しく書きたいと思います。
  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1069408696.html#20

125 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/05/15(木) 11:32:54 [ 235.net059086084.t-com.ne.jp ]
  ●●●ベニスに死す(1971)☆☆☆●●●(1/5)

またまたヴィスコンティ映画で、前に書いた『ルートヴィヒ』より、
遥かに有名な作品ですが、それだけ出来が良いかどうかは疑問ですね。
恐らく、ルートヴィヒでワグナーの音楽が使われたのに対し、
ここではユダヤ系のマーラーの音楽が使われていますから、
例によって、その点でユダヤ主義の引きがあったのではないでしょうか。

舞台背景は二十世紀初頭、コレラに犯されはじめていたベネチアですが、
原作として、トーマス・マンの小説があるようです。
保養の為にリドーという小島を訪れたドイツ人の作曲家が、
ポーランド人の美少年と出会い、恋に落ちるという展開でした。
つまり、禁断の同性愛が主要テーマですが、そこに回想シーンとして、
『芸術と道徳の関係』などという美学論争が重ねられています。

彼が一度、島を去ろうとした時、手違いで荷物が紛失してしまい、
それを捜すのを待つ間『仕方なく』島に居残ることになりますが……
実際は、島に残る良い口実が見つかり、腹の中でほくそえんだのでした。
でも結局の所、彼は少年に対して何も出来ず、ただ見守るだけなのですが、
そうこうする内、島では次々と不審なことが起り始めます。


島に残ると決めた日の列車の駅では、突然一人の男が崩れ落ちますが、
その後も、町中に張り紙が張り出されたり、
水飲み場に消毒液が撒かれたりするので、
彼は色々な人にその理由を訪ねますが、
誰も言を左右して本当の事を教えてくれません。

しかし、ある日とうとう真相を聞き出すのに成功した彼は、
『ベネチアでは、コレラがはやり始めていて数日後には、
この島も封鎖される』という驚愕の事実を知るのでした。
そこで彼は、例の少年の母親に退去を勧めるのですが……
ここは単なる夢想なのか、また元のシーンに戻ります。

結局、彼もうっかり口にした生の果物か何かがもとでコレラに感染し、
海辺の椅子にもたれて息を引き取るという結末でした。
例によって、この監督特有の耽美主義が、
この作品でも十二分に発揮されていますが、
映画としては『だから何なのか』という感じもありますね。


表面的に見るなら『愚かな中年男が美少年に恋をして、
無用な長居をしたあげく、運悪くコレラで死んだ』
というだけの話ですからね。
例の美学論争について言うなら、主人公は道徳を重んじ、
『美は芸術家の努力が作り出す』という立場ですが、
それを真っ向から否定する厭味な男が出て来ます。

wikipediaによれば、この主人公はマーラーに似せてあるそうですが、
厭味な男の方は、シェーンベルクがモデルとかあって驚きました。(-_-;)
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%81%AB%E6%AD%BB%E3%81%99_%28%E6%98%A0%E7%94%BB%29
で、その男は『美が生まれるのは芸術家の努力とは無関係であって、
元々自然の中に存在する』とか『天才とは、天が与えた罪深い閃きであり、
悪が天才を養う』など主張して、主人公をいらつかせます。

でも結果から言うと、マーラーが甘美で中身のある音楽を残したのに比べ、
芸術家の努力を否定したシェーンベルクの方は結局の所、
大した音楽は残していないようですから、自業自得でしょうかね。
『悪が天才を養う』などと言って、美と悪を結びつける傾向は、多分、
キリスト教が音楽に対して否定的であることに由来するんだろうと思います。
実は仏教でも『歌舞音曲は悟りの障害である』と言って否定しますから、
これは案外、あらゆる宗教に共通する考え方ではないでしょうか。

126 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/05/15(木) 11:37:16 [ 235.net059086084.t-com.ne.jp ]
  ●●●ベニスに死す(1971)☆☆☆●●●(2/5)

他方『美は天才の努力と無関係に元々、自然の中に存在する』
という主張の背後にあるものは多分、自然の美しさでしょうね。
昔、私が南紀白浜の海岸で素もぐりをした時、
極彩色の熱帯魚を見つけて驚いたことがありました。
その時、私がふと疑問に感じたのは『一体誰に見せる為に、
魚たちは、こんなに美しい姿をしているんだろう』ということでした。

その場合、宗教家なら『自然は神が作ったものだから、
それが美しいのは当たり前だ』と言うでしょうね。
恐らく、キリスト教的な世界観を根っこで支える大きな要因の一つも、
こうした大自然が本来持っている美しさにあるに違いないと思います。
つまり『もし神が自然を作ったのでないとしたら、どうして、
自然がこんなに美しいのか説明がつかない』という分けですね。

でも……神などとは余り縁のない私からすると、
もっと納得のいく説明があるだろう、と色々考えた分けです。
で大分、後になってから辿りついた結論は、次のようなものでした。
ある時、アイアイという猿の話を聞いて驚いたんですが、
童謡でも有名なこの猿は、原産地のマダガスカル島では、
悪魔の使いとして恐れられているんだそうですね。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%A4


その結果、原住民はこの猿を見つけしだい殺してしまうので、
今ではアイアイは絶滅の危機に瀕している、という話でした。
実際この猿の姿は、悪魔みたいに薄気味悪くも見える分けですが、
この話が示唆するのは結局『人間が本来持っている美意識によって、
自然が作り変えられて来たのではないか』という疑いですね。

実際、人間という種族が生れて以来、既に長い年月を経ている分けですが、
その間に、人類の祖先は醜い動物や樹木を悪魔のように恐れ、
それらを徹底的に殺したり伐採した結果、人間から見て醜悪なものは、
絶滅してしまったのではないでしょうか。

その結果が現在、我々が見ている美しい熱帯魚であったり、
美しい森林や草原なのだと考えるなら、こうした自然の美しさも、
『長い間に祖先が行って来た悪魔狩りの結果』
として充分、説明できるのではないかと思います。
その一つの傍証として上げられるのは、深海魚の醜悪さですね。


近年、科学技術の進歩に伴い、色々な深海魚が発見されていますが、
その姿は普段、我々が見慣れている魚に比べると、
何とも醜悪なものや薄気味の悪いものが多いですよね。
例えば、これなんかも良い例だろうと思います。
  http://readigg.com/img/deep/16.jpg

で、それは何故かというと『この手の深海魚は、
我々の祖先の目に触れることが、ほとんど無かった為に、
人間の美意識による淘汰を受けなかった』と考えれば辻褄が合う分けです。
ただ……それでも尚、色々と問題があって、
その最大のものは天体の美しさでしょうね。
これは前に少し触れた『見知らぬ人』という映画にも描かれていましたが、
例えば地球から見て、太陽と月はほとんど同じサイズに見える分けですね。

その結果、太陽が月に隠れる日食や、
月が地球の影に入る月食が起こって来る分けですが、
実際問題として、太陽と月の本来の大きさは全く違う分けです。
それなのに、太陽・地球・月の奇跡的とも言える位置関係のおかげで、
地球からは月と太陽の大きさがほとんど同じに見える分けですね。
どうして、こういう奇跡的な位置関係があるのか不思議でしょ!?

127 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/05/15(木) 11:40:06 [ 235.net059086084.t-com.ne.jp ]
  ●●●ベニスに死す(1971)☆☆☆●●●(3/5)

この場合、我々の祖先が幾ら頑張ったとしても、
月や太陽を操作するなんてことは到底不可能でしょうが、
この問題については、次のように考えることも出来ます。
結局、こうした美しい天体が見える星だからこそ、
それによって高等動物の知性が刺激され、
その結果、人間が生まれたのだということですね。

つまり『人間のような知性を持つ動物が生まれる為には、
こういう美しい環境が不可欠なのだ』と考える分けです。
もっとも、それを言うなら、前述した自然の美しさにしても、
同じ論理で説明した方が良かったですかね!?(^^;)

しかし、問題は更に続きます。
この映画の場合、美少年への恋が一つのテーマですから、
もう一つ外せない問題は、人間自体の美しさだろうと思います。
ならば、人間の姿の美しさは、一体どうして生まれたのでしょうか。


これに関して、私が思い出すのは古代エジプトの壁画ですね。
よく美術や歴史の本には、アメンヘテプだの何とかアテンだのという、
王墓の壁画写真があって、誰でも見たことがあると思いますが、
皆さんはあれを見て、一体どんな印象を受けますかね。
私が最初に感じのは、その体形が日本人に良く似ているということでした。

つまり、現代の我々は、映画などで、
欧米人の逆三角形で恰幅の良い裸体を目にしますが、
それに比べ、日本人の体格というのは何とも貧弱ですから、
劣等感を持つことも少なくないですよね。
それに比べ、エジプトの壁画に描かれた人物たちを見ると、
彼らの体格はそれほど恰幅が良くないし、肩幅も狭くて、
これなら日本人も充分、対抗できるという気がします。(^^;)

なら、欧米人のあの肉体が一体どこに由来するのかといえば、
なんと言っても、その起源はギリシャ彫刻にあるでしょうね。
但し、その場合、ギリシャ彫刻の美というのは、
あくまでギリシャ人が作り上げた『理想像としての人間の姿』
ではなかったかと思います。


というのも、ギリシャ人自身がどうかというと、必ずしも、
その彫刻ほどに美しい姿では、なかったと思えるからです。
例えば、有名なソクラテスの彫像を見ると分かりますが、
彼は典型的な醜男ですし、体形もずんぐりしていて、
彫刻に示された理想像とはほど遠いですからね。
  http://www.bibalex.jp/Japanese/artsmuseums/antiquitiesmuseum/images/s-socrat.jpg

つまり、ギリシャの彫刻というのは、あくまで、
ギリシャ人が『人間の姿はこうあるべきだ』と考えた理想像であって、
一部にそれに近い人がいた可能性はあるにせよ、当時のギリシャ人が皆、
ああいう理想的な姿をしていた分けではないだろう、ということですね。
でも、その後の西洋の歴史の中では、あの彫刻を理想とする価値観が確立し、
人々はその理想に自分を近づけようと努力したんでしょうね。

その間にどういう淘汰の過程があったのかは良く知りませんが、
約2000年の間に西洋人たちは、自分の姿をあの理想像に近づけることに、
かなりの程度、成功したのではないでしょうか。
ですから、この場合の人体の美しさについては、やはり、
人間の美意識が直接的に投影された結果と言えるだろうと思います。

128 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/05/15(木) 11:43:03 [ 235.net059086084.t-com.ne.jp ]
  ●●●ベニスに死す(1971)☆☆☆●●●(4/5)

因みに、ついでに言っておくと、エジプト彫刻でもう一つ印象的なのは、
人々の表情が柔和で伸びやかなことでしょうね。
それは例えば、ローマのネロ皇帝の彫像と比べれば一目瞭然ですが、
その険しい表情との違いは実に印象的ですよね。
その背後にあるものは一体何か……それが問題ですが、
私の見る所では、これまた洗脳謀略の浸透だろうと思います。

つまり、ユダヤ支配が及ぶ前の時代のエジプトの古代王国では、
人々はこんなにも伸び伸びと生きていたのに、
カトリック支配を通じてユダヤ謀略が浸透した後のローマ帝国では、
人々の表情も変わり果てた、ということではないでしょうか。
実を言うと、エジプトの壁画やネロの肖像もネットを漁ったんですが、
結局、目的のものは幾ら捜しても見つかりませんでした。(-_-;)

多分、ここでもユダヤ主義の邪魔が入って隠されたんでしょうね。
エジプトの壁画は『6〜7人の人物が右を向いている姿』を、
重ねて浮き彫りで表現したものですが、表情が良く出ていました。
他方、ネロ皇帝は若いころの彫像は色々あったんですが、
私が見たのは、かなり晩年のものではなかったかと思います。


話は変わりますが、ベネチアについても、
私の印象をざっと述べておきましょうかね。
ベネチアという街は不思議な所でした。
この街では車の乗り入れが禁止されているので、
駅の改札を出ると、そこから先は徒歩で行くしかないのですが、
街に入って先ず驚くのは、その都会的な雰囲気に反して、
空気が高原のように澄んでいることでした。

それで『車がないというのは、こういうことなんだ』と納得しました。
その代わり、この街では唯一の交通機関が船ですからね、
運河添いを歩くと、ガソリンの臭いが鼻を付いたりします。
ただ、私の中ではベネチアの印象はいま一つでしたね。
というのも、何となく閉鎖的で息苦しい印象を受けたからで、
よそ者に冷たいという感じは、日本の京都に似ているかもしれません。

その点で正反対に位置するのがナポリという街なんですが……
『ナポリを見て死ね』という諺には、全く同感しましたね。(^^;)
ベスビオス火山に面した港街のナポリは、どこまでも開放的で、
『帰れソレントへ』などのナポリ民謡から受ける印象そのままですね。
裏町を歩くと、アパートとアパートの間に紐が引いてあって、
そこに洗濯物が満艦飾のように干してあったりしました。


他方、裏山みたいな所に昇るケーブルカーがあって、
これは『フニクリ・フニクラ』で有名な奴かと思いましたが、
今回、調べ直した所では、ちょっと違うようですね。(^^;)
実は、ベスビオス火山に昇る登山鉄道があって、この歌は、
そのコマーシャルソングとして作られたんだそうです。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%A9

結局、イタリアという国の面白さは、
地方地方が全く異なる個性的な姿をしていることですね。
例えばフランスの場合、パリという大都会が一つデーンとあって、
後は、その田舎と地方都市という感じなんですけどね、
イタリアの場合は全くそうじゃありません。

それは結局、歴史的に多数の王国として別々の歴史を歩んだせいでしょうが、
各都市が一国一城の主という印象で、独自の風貌を備えている分けです。
ですから、ミラノもベネチアもフィレンツェもナポリも、
ローマに対する田舎という感じは、全くしない分けですね。

129 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/05/15(木) 11:45:29 [ 235.net059086084.t-com.ne.jp ]
  ●●●ベニスに死す(1971)☆☆☆●●●(5/5)

それでまた一つ思い出したんですが当時、日本人の外国旅行というのは、
随行員が旗を立てて、行列で連れて歩くみたいなのが主流で、
国外でも国内でも、概して評判が良くなかったようですね。
今もそうかどうかは良く知りませんけど、
私がその頃に思ったのは『この手の駆け足旅行も、決して、
言われるほどに悪くはないんじゃないか』ということでした。

というのも、私の経験から言うと、ある都市から受ける印象は、
その都市に滞在した期間とは、余り関係がないからなんです。
例えば、私はパリには何度か出入りして、通算すると、
恐らく半年近くはいたんじゃないかと思います。

まあ、パリという街が外国人には案外、
居心地の良い所だったせいもあるでしょうけどね。
でその間に、パリとその近郊を隅々まで見て回った結果、
しまいの頃には『パリとその周辺の地理に関しては、
パリッ子より俺の方が詳しいだろう』と思っていた位です。(^^;)


それに比べ、ナポリにいたのはたった一日に過ぎないんですが、
結果的に私の中に残った印象の密度としては、余り差がないんですね。
ですから、日本人お得意の駆け足旅行は、各街々の精神に触れるのに、
最も効率的なやり方ではないかと思った分けです。

ところで、そんなに気に入ったナポリなのに、
何故一日しか居なかったのか、ということなんですが、
実を言うと、ローマでやったある政治活動(共産党批判)がもとで、
当時の私は『国外退去処分』を食らっていたんです。(-_-;)
で、丸四日以内にイタリアの外に出る必要があったんですが……
でもイタリアなんてまた、いつ来られるか分からないですからね。
その四日の間に、見られるだけは見てやろうと思ったのでした。

で、すぐにローマから南に向かってナポリを見、そこから東海岸を北上して、
次にベネチアを見物し、最後にミラノから列車に乗った分けですが、
そのミラノでは、例のドゥオモに圧倒された分けですね。
ですから、本当なら1〜2時間はじっくり見物したかった所なんですが、
既に、国外退去にギリギリ間に合う列車の時刻が迫っていたので、
早足で駅を目指す途上、チラチラ見るだけに終わったのでした。

130 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/06/01(日) 12:17:05 [ 35.net220148121.t-com.ne.jp ]
  ●●●郵便配達は二度ベルを鳴らす(1942)☆☆☆●●●

何かの特集でまとめ取りしたのだったか……
意外にも、これまたビスコンティ映画でした。(^^;)
原作者のジェームズ・ケインは余り有名ではありませんが、
この小説は三度も映画化されているようです。

その最初がこの白黒作品で、
ビスコンティにとっては処女作になるようです。
年の離れた男と結婚した若い女が、若い男と恋に落ちた末に、
邪魔になった夫を二人で殺す、というありふれた犯罪映画でした。

題名の意味が良く分からないので少し調べてみた所、
こんなデタラメな話が出て来ました。(-_-;)
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B5%E4%BE%BF%E9%85%8D%E9%81%94%E3%81%AF%E4%BA%8C%E5%BA%A6%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%92%E9%B3%B4%E3%82%89%E3%81%99
  この作品は13社から出版を断られ続けた。14社目で採用が決まった際、
  出版社からタイトルはなんとつけるかと尋ねられたケインは、
  出版社からの返事の手紙を届ける郵便配達が2度ベルをならすので
  郵便配達だとわかることを引き合いに出して
  このタイトルに決めたといわれる


もっとも、この『二度』という点に、この作品の内容が
色々暗示されているという話がありました。
その中で最も重要なのは『警察による逮捕を一度は免れた彼らが、
最終的には、事故によって天に処罰される』ということでしょうね。
つまり『運命のベルは二度鳴らされる』という分けです。

他にも『殺人を二度計画して、二度目に成功する』とか、
『男が二人目の女と恋に落ちて、それが破局のきっかけになる』とか、
『殺された男が保険金を二重にかけていて、司法取引に使われる』
などという話があって、三度目の映画化では全てが使われたようです。

こういう風に、物語の背景に宗教的なテーマを織り込むことは、
作品に深みを与える為の手法として、欧米の映画では珍しくないようですね。
これは書き落としたことですが、以前に取り上げた『ストレート・ストーリー』
にしても、旅の行き先がマウント・ザイオン(シオン山)であるという所に、
この旅が理想郷への旅でもある、という重層的な意味を持たせていた分けです。

131 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/06/05(木) 10:49:36 [ 137.net220148121.t-com.ne.jp ]
  ●●●ガラスの牙(2006年12月新国立劇場中劇場)☆☆☆●●●

これは勅使河原三郎による現代舞踊ですが、
以前に取り上げた『KAZAHANA』も、彼の作品でしたね。
  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1102295096.html#121
今回はガラスがテーマのようですが、その砕けたガラスの上を、
揺れるように滑るように踊る所が印象的でした。

うっかり転べば、血だらけになりそうな設定なんですが、
そうした危険を余り感じさせないところが、何といっても、
鍛え抜かれた肉体による超絶技巧と言うべきなんでしょうね。
例によって、よじれるような痙攣するような踊りが中心ですが、
前半の前衛音楽から、後半の調性音楽に変わるとほっとします。

その後半の曲ですが、ベートーベンの弦楽四重奏曲か何かかと思って、
ちょっと調べてみたんですが結局、分かりませんでした。(^^;)
それから、題名の『ガラスの牙』をGlass Toothとか訳してますが、
牙なら、toothよりfangの方がふさわしいかもしれませんね。

132 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/06/12(木) 11:50:28 [ 210.net220148120.t-com.ne.jp ]
  ●●●ドン・ジョバンニ(2006年ザルツブルグ音楽祭)☆☆●●●(1/6)

これは、モーツァルトの二幕もののオペラですが、
この作品を見るのは二度目でした。
最初に見たのは例のフルトベングラー指揮の作品で、
以前にオペラのベストスリーに入れた奴ですね。
まあ、あれと比べるのは無茶かもしれませんが、
今回の出来はもう一つでしたね。

何しろ舞台装置がシンプルな上、その衣装も現代的ですから、
まるで金をかけた感じがしないというか、豪華さを感じません。
私などからすると『オペラというものは、聴覚的にも視覚的にも、
贅を尽くした最上のものの集合体であるべきだ』と思う分けで、
そうでないと何か、時間を損したような気分になるんですね。(^^;)
指揮はダニエル・ハーディングでしたが、
音楽的にも、前作と比べると大分、物足りない気がしました。

結局、これはオペラ作りの根本に関わる問題でしょうが、
やたら現代風の新解釈を提出することにばかり捕らわれて、
本来の『オペラを楽しむ』という観点が損なわれるとしたら、
困ったことではないでしょうか。確かに、単に過去をなぞるだけでは、
新たな感動を生み出すことは難しいかもしれませんが、
オペラ本来の総合芸術としての充実感というのか、
五感全体に訴える力を軽視して欲しくはないと思います。


さて、物語は伝説化しているスペインの放蕩男の話ですが、
日本人にはドン・ファンと言った方が通りが良いでしょうね。
ドン・ジョバンニというのは、そのイタリア風の呼び名なんですが……
というのも、オーストリア人のモーツァルトが作ったのに、
どういうわけか、この作品のセリフは全てイタリア語なんですね。

何故かと言うと、当時はまだ『オペラと言えばイタリア』
と相場が決まっていて、作曲家がオペラを書く場合でも、
無言の前提として、イタリア語でなければいけなかったらしいですね。
ただ、モーツァルトの時代はその過渡期だったので、有名な『魔笛』の他、
『後宮からの誘拐』など、ドイツ語で作られたものもあるようです。

因みに、スペイン語では Don Juan と書いてドン・ファンと読む分けですが、
正確に言うと、この場合のJの音は実は日本語のハ行ではなくて、
フランス語などの『のどを使うR』の音が無声化したもののようですね。
それで思い出しましたが、スペイン語というのは面白い言葉で、
何か英語とフランス語の中間みたいな所があるんですよね。
地理的に見る限り、スペインは決して『イギリスとフランスの中間』
にある分けではないですから、この現象は私には奇異に思えました。


例えば、日本で言う食品のハムはオランダ語のhamに由来するそうですが、
英語でもhamと言うのに対し、仏語ではjambon(ジャンボン)なんですね。
この両者だけを見ていると、何か全く別の言葉のようにも思えますが、
実はスペイン語では、ハムのことをハモン(jamon)と言う分けです。
こうなると、ハム〜ハモン〜ジャンボンとつながるでしょ!?
ですから、スペイン語は英語と仏語の橋渡しをするように思ったのでした。

さっそく、どうでもよい脱線をしてしまいましたかね。(^^;)
第一幕は、従者のレポレッロを従えた貴族のドン・ジョバンニが、
ある貴族の家に忍び込み、娘を強姦しようとする所から始まります。
結局、娘(アンナ)が騒いだ為に強姦は未遂に終わったらしいのですが、
その時、主人公は、娘を助けようとして飛び出して来た父親に出食わし、
騎士長である彼を刺し殺してしまいます。

こうして、モーツァルトの優雅な音楽に乗せて、
冒頭からいきなり、相当どぎつい話が展開される分けです。
さて、その場は何とか逃れた主従でしたが、その先で、
昔だまして捨てた女(エルヴィーラ)に出食わします。
その時、主人公は彼女を従者に任せて逃げ出してしまうので、
従者が有名な『カタログの歌』を歌って聞かせます。
彼の手帳には、今までに主人が寝た女のリストが、
何千人分も書かれているのでした。

133 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/06/12(木) 11:54:41 [ 210.net220148120.t-com.ne.jp ]
  ●●●ドン・ジョバンニ(2006年ザルツブルグ音楽祭)☆☆●●●(2/6)

その後、主従は結婚式を上げたばかりの村娘と農夫の所に現れ、
今度はその花嫁を何とかだまして、自分のものにしようと企みます。
ドン・ジョバンニは、何といっても金持ちの貴族ですからね、
結婚式の一同を自分の屋敷に招待します。
そうして御馳走でもてなす間に、新婦に手を出そうとしますが、
そこへ昔だました先ほどの女が来て、花嫁の危急を救います。

獲物を取り逃がした主人公が腐っていると、今度は、
父親を殺された娘とその婚約者オッタービオが現れます。
二人は最初、ドン・ジョバンニがあの夜の男で、
父を殺した犯人であるとは気付かないのですが、
別れ際の彼の言葉を聞いて、あの夜の男だと悟ります。

主人公が再び宴会に戻ると、そこへ仮面を付けた三人の人物、
即ち、強姦未遂の娘と婚約者、そして捨てられた女が登場します。
主人公が改めて新婦に手を出そうとした時、新婦が叫びを上げるので、
仮面の三人は主人公を、殺人犯として告発しようとします。
その時、卑劣な主人公は罪を従者になすり付けようとするのですが、
誰も信用せずに失敗すると、どさくさに紛れて逃げ出してしまいます。


第二幕に入ると、主人公は例の昔の女に仕える美人の女中を狙っています。
ずるい主人公は、身分が違い過ぎると相手に警戒されると考えて、
自分と従者の着物を交換し、その従者に昔の女を誘い出させると、
その留守を狙って、女中の部屋の前でセレナードを歌います。
ところがそこへ例の新郎が、仲間を連れてこん棒を持って集まって来ます。
(今回の演出では、こん棒の代りにゴルフのクラブになってましたけどね。)

そこで主人公は従者の振りをして彼らを騙しつつ、あちこちに分散させると、
残った新郎のマゼットを逆襲して、痛めつけてしまいます。
他方、従者は捨てられ女を連れ出して『デート』していましたが、
そこへ、父を殺された女と婚約者、更には新郎と新婦がやって来ます。

四人はその服装から、従者をドンジョバンニと思い込み、
殺そうとするので、昔の女は彼の命乞いをしますが、
あわてた従者は自分の正体を明かすと、隙を見て逃げ出してしまいます。
これで、騎士長殺しの犯人がいよいよハッキリしたという分けで、
婚約者のオッタービオは、復讐を宣言します。


その後、主人公と従者は墓場で落ち合って、再び衣服を交換しますが、
その時、墓場にあった騎士長の石像が口をききます。
従者は亡霊かと怯えますが、主人公はせせら笑って、
石像を自分の邸で行う晩餐に招待することになります。
こうしてその晩、彼が屋敷で食事をしていると、
ドスンドスンという音と共に例の石像がやってきます。

石像は彼に心を入れ替えるよう諭しますが、全く聞き入れないので、
最後は石像が主人公を地獄に引きずり込んで幕となります。
結局、ここでオッタービオに復讐させるのを敢えて避け、
石像に全ての決着をつけさせた分けですが、この辺は何と言っても、
復讐を禁ずるキリスト教の戒律が効いているんでしょうね。

さて、このオペラの物語はドタバタ調でもう一つですが、
この作品の中で世間的に最も有名な曲は、
ドン・ジョバンニのセレナードでしょうね。
つまり、主人公がエルヴィーラの女中を誘惑する場面で歌う
『ドレミファソミ ドーミーソー』という序奏で始まる曲です。
でも私の評価からすると、婚約者のオッタービオが復讐を宣言する
『ドードーレ ドシラシ ドーレーミー』というアリアがベストでしょうね。

134 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/06/12(木) 11:58:21 [ 210.net220148120.t-com.ne.jp ]
  ●●●ドン・ジョバンニ(2006年ザルツブルグ音楽祭)☆☆●●●(3/6)

さて、西洋のドンファンに対し、日本のドンファンと言えば、
何と言っても光源氏ですからね、次はその話をしようと思います。
というのも、今年は何か『源氏物語の千年紀』とかいうことで、
例の古典購読でも四月から、その抜粋をやっているわけですね。
因みに、先のオペラでは主人公が終始、悪党として描かれますが、
そこには、ドイツ語文化圏の影響が色濃いかもしれません。
暫く前に映画化されたドンファンでは、必ずしもそうではないようですからね。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3

でも、それにしても、源氏物語の描き方は極端に思えます。
実を言うと、もう大分前に、同じ古典購読で、
この源氏物語の全文購読をやっていたんですが、
全体を読み通すのに10年近くかかってましたかね。
私も暇だったので、それに全部付き合いましたが、
ハッキリ言って、その序盤の部分は全く面白くありませんでした。

結局、そこにおける主要なテーマは、
光源氏という男が『天皇の息子』という権力を傘に来て、
やりたい放題の漁色(女漁り)をするという話ですからね。
当時の身分社会を考えれば、仕方ない面もあるのかもしれませんが、
光源氏という男は、どうしようもなく不愉快で、むかつく奴なんですね。


強姦はする、婦女子は誘拐するという分けで、現代なら、
すぐにでも手が後ろに回りそうなことを平気でやる分けですが、
彼が理想的な美形であるという事情と、彼が背負った権力故に
その全てが免罪されてしまう分けですね。
これは、同じ貴族の色漁りでもドン・ジョバンニが、
悪党として徹底的に断罪されるのに比べ大違いですが、
この辺には、人権意識の差もあるんでしょうかね。

特に、紫式部の場合、強姦された女の方も『結果的には、
まんざらでもなかった』みたいな、予定調和的な描き方ですからね。
こんなものを判断力が不十分な高校生に読ませたら、
うっかりまねをしないとも限らない、という危惧を感じました。

つまり、自分の欲望を満たす為なら、強姦だろうが婦女子誘拐だろうが、
好きなようにやって構わない、ということになりかねませんよね。
今の高校生も古文でこれを習っているのかどうか、良く知りませんが、
ハッキリ言って、源氏物語というのは相当、不健全な代物ですからね。
もし、青少年が健全に育つことを望むのなら、
こんなものを高校生に読ませることには、大いに疑問があります。


因みに私の場合、自慢じゃないですが『受験の為の勉強』
というものは、一度もしたことがないんですね。
というのも、そんなことで多少、良い大学に行けたとしても、
つまらない受験技術の為に人生の貴重な時間を費やすのは、
耐え難い無駄のように思われたからです。

むしろ、本当の実力を付ける為の勉強をやって、
その結果、成績が上がるのでないと全く意味がないですよね。
ですから、受験科目を選ぶ場合も、より易しいものを選ぶよりは、
たとえ難しくても、王道を選ぶように心がけた分けです。
その意味で、日本史よりは世界史、漢文よりは古文を選んだのですが……
後になって考えると、世界史はともかく古文は大失敗でしたね。

というのも、古文というと、どうしても平安時代が中心で、
その中で、源氏物語を始めとする女流文学やら、
花鳥風月の和歌やらを学ぶわけですけどね。
何とも閉塞的で不健全な感じが否めないですよね。
それに比べ、漢文の方は例の李白・杜甫を始めとして、
遥かに広大で、健全な世界が広がっていますからね。
青春時代の友とするのに、どっちが良いかは言うまでもないと思います。

135 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/06/12(木) 12:04:24 [ 210.net220148120.t-com.ne.jp ]
  ●●●ドン・ジョバンニ(2006年ザルツブルグ音楽祭)☆☆●●●(4/6)

因みに『源氏物語を高校生に読ませるべきでない』
と私が考える理由が、実はもう一つあるんです。
それは、つまりこの作品が難解すぎるという事ですね。
そもそも、日本語というものは主語の脱落が多いことなど為に、
元々、構造が全く非論理的に出来ている分けですね。

そこへもってきて、男より女の方が論理的な思考が苦手なせいか、
女性の文章は、その非論理性に輪をかけたみたいになるようですね。
しかも源氏物語では、そうした難解さがある所へ、
更に、文学的なひねりが加わる分けですからね。
その難解さは、屋上屋を重ねたみたいになる分けです。

ですから、大人になってきちんと読み直した時、
『こんなものを高校生に解釈させるのは、
無茶も良いところではないか』と感じた分けです。
ある意味で、そういう無理なことばかりやらせるから、
日本人には、知ったかぶりが多くなるんじゃないでしょうか。
もう少し、きちんと分かる範囲で、分かることを教えるべきですよね。


で、少し具体的な話に入ろうと思いますが、
源氏物語の冒頭の不愉快な展開の中でも、
とりわけ、むかつくのは第二〜三巻の空蝉にまつわる話ですね。
その第二巻『帚木』に『雨夜の品定め』という有名な場面があって、
上中下の身分の女について、源氏が色々と先輩の体験談を聞く分けです。
その中で特に『中の品』の女には興味深い人が多いという話が出ます。

その場合、中の品と言っても、実際には上流階級から落ちぶれた者と、
下流階級からのしあがった者とがいる分けですが、
実は、その差は余り関係がないというんですね。
私が思うに、その背景にある事情は多分『中流階級の場合、
国司として地方に派遣されることが多い』ということでしょうね。

つまり、都で箱入り娘として育てられた場合よりも、
そうした地方で育てられた場合の方が、結果的に、
遥かに多様な経験を積むことになる分けですね。
その結果、ものの見方も多様になりますから、
『中流階級の女の方が、付き合って面白い』
というのは当然の帰結ではないでしょうか。


さて、そのすぐ後で、源氏は方違えという迷信の為に、
ある地方官の屋敷に泊ることになります。
その時、おあつらえ向きの『中の品』の女を発見した源氏は、
さっそく、夜中に忍び込んで強姦に及ぶ分けですね。

この女性は、その屋敷の主人の父親に後妻として入った若い娘で、
屋敷の主人にとっては義母にあたる分けですが、
父親が地方に一人で出張中の為、その時分は一人でいたのでした。
その場合、晩に源氏が忍んで行くと、たまたま内側の鍵が外れていた、
という話になってますが……これは恐らく、
鍵をかけ忘れたとか、そういうことではないでしょうね。

ドン・ジョバンニでも、レポレッロという従者が活躍しますが、
貴人の場合、こうした女漁りでも必ず手下として動く者がいる分けで、
源氏の場合も、惟光(これみつ)などという家来が出て来ます。
それに加え高貴な姫君の方にも、お付きの女房がいる分けですが、
その女房がまた、仕える主人の意志に反してでも、
貴人の意を受けて動くことがあるようですね。

136 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/06/12(木) 12:08:29 [ 210.net220148120.t-com.ne.jp ]
  ●●●ドン・ジョバンニ(2006年ザルツブルグ音楽祭)☆☆●●●(5/6)

結局、それらの女房たちにしても、その命綱は、
自分が支える姫君につく男に左右される分けで、
仮に姫君が男に相手にされなくなった場合、
彼女たちも食いっぱぐれて、路頭に迷うことになる分けですからね。
ですから、高貴な男が忍んで来ることは、基本的に大歓迎なんでしょうね。

その意味で、源氏が空蝉の部屋に忍び入る場面にしても、
そこの内鍵は、惟光が適当な女房に指図するなりして、
わざと開けてあったんじゃないでしょうか。
もっとも、この場合は一応人妻ですから、
空蝉お付きの女房は、また別かもしれませんが、
貴人の言うなりで動く女房は、幾らでもいたんじゃないでしょうか。

こうして一度は思いを遂げた源氏でしたが、その後、
また会いたくなって、彼女の年の離れた弟を手なづけて画策します。
ところが、貴人の衣には特有の香がしませてあるので、
寝ていた空蝉は、忍んで来た源氏の香に気がつくと、
とっさに上着を脱ぎ捨てて、脱出してしまいます。
こうして、源氏は脱け殻の衣だけを手にすることになり、
それで、彼女に空蝉(蝉の脱け殻)という名が付く分けですね。


その後『ドン・ファンの源氏は、転んでも只では起きない』ということか、
空蝉の代りに、隣で寝ていた別の娘をものにして帰って行く分けですが……
それでもやはり、空蝉に逃げられたことが相当悔しかったのか、
『おまえがまだガキだから、こんな失敗をするんだ』とか言って、
手引きをした弟に対し、当たり散らす分けですね。

なら、ガキでないなら一体どうしろというのか、という話になりますが……
それは、恐らく『空蝉が自分に気付いても、逃げ出せないように、
どうして外側から鍵をかけておかなかったんだ』ということでしょうね。
この後も更に、父天皇が熱愛している藤壺という女御を強姦したり、
政敵である右大臣の娘を、それと知らずに強姦したりという話が続きます。

この右大臣の娘というのが実は、既に皇太子に嫁ぐことが決まっていて、
それを源氏が先に寝取ってしまった、という分けですからね。
この二人の関係が公になったことがきっかけで源氏は墓穴を堀り、
実質的に須磨に流されるような形になって、憂き目を見る分けですから、
私なんかからすると、ザマーミロってなもんですけどね。(-_-;)


世間ではよく『源氏読みの須磨源氏』などと言って、
源氏を読み始めた人の多くは、最後まで読み通せず、
この須磨の巻あたりで放り出すんだそうですけどね。
でも、私に言わせるなら、そこまでは最も面白くない部分なんですね。
というのも、あのむかつく光源氏が活躍するのが、その辺りまでで、
源氏物語が本当に面白くなるのは、その先の玉鬘あたりからなんです。

結局、光源氏という人物には、全く感情移入できませんからね、
小説として読んでも、面白い分けがありません。
それが、第二十二巻の玉鬘あたりから徐々に変わって来て、
更に、終盤の宇治十条へ入ると、この辺は本当に楽しいですね。
どんどん先へ先へと読み進めたくなる点で、
近代小説を読むのと、全く変わりないような感じがしました。

結局の所、紫式部の場合、残した小説はこの一作だけのようですから、
かなり長い期間をかけて書いたものじゃないか、という気がします。
その意味で、同じ小説でも、序盤と宇治十条とでは、
もう別の小説といって良い位、異質な感じを受けましたね。

137 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/06/12(木) 12:11:38 [ 210.net220148120.t-com.ne.jp ]
  ●●●ドン・ジョバンニ(2006年ザルツブルグ音楽祭)☆☆●●●(6/6)

ところで、今回の購読の空蝉の巻の所で出ていた話ですが、
この空蝉が実は、紫式部の自画像であるという説があるそうですね。
私は、非常に興味深い話だと思いました。
というのも、同じ古典購読で以前に紫式部日記を聞いた時、
紫式部と藤原道長が『できている』という印象を受けたからです。
実際問題として、紫式部に貴重な紙を沢山与えて、
源氏物語を書くよう勧めたのは、この道長らしいですね。

というのも、当時の藤原氏は『自分の娘を天皇に嫁がせ、
男子を生ませて次の天皇にして、自分は外祖父として権力を振るう』
というやり方でのし上がった分けですからね。
その時、天皇を自分の娘に引きつける為に、
才女を集めてサロンを作り、競争した分けですね。
そうした才女の中に、この紫式部や清少納言がいたわけです。

それで道長は、留守中に紫式部の部屋に忍び込み、
彼女が書いたものを勝手に持ち出すみたいなことをしている分けですね。
ですから、両者は普通の関係とは思えなかった分けです。
そもそも、道長みたいなすけべな(!?)権力者の場合、
その手の届く所に紫式部みたいなインテリ女がいたとして、
彼女に手を出さない、なんてことは全く考えにくいですよね。(^^;)


その意味で、紫式部は道長によって、
空蝉みたいな経験を一度はしたんじゃないでしょうか。
最初は強姦され、次は空蝉同様に逃げ出したということは、
充分あり得る展開でしょうね。

脱線したついでに、更にもう一つ脱線すると、
私はひょっとするとこの道長という男は、
相当のワルじゃないかと疑っています。
あのう、時代劇なんかでは良く、お毒味役というのがいますよね。
それに反して、現実の日本史では、
毒殺事件があったという話は、サッパリ聞かないわけです。

唯一の例外として、私が最近知ったのは、
『家康が加藤清正を毒殺した』という噂があることですね。
まあ、それはあくまで噂の範囲を出ないようですけどね。
でも……現実にお毒味役がいるのに、そもそも歴史上の毒殺事件が、
一件も伝えられていない、というのは全く妙なもんですよね!?
結局、日本では、現実に毒殺事件があっても、
歴史から抹殺されてしまったのではないでしょうか。


それで、私が一つ疑っているのがこの道長なんです。
確かこれも紫式部日記だったと思いますが、
兄の藤原通隆が柱によりかかって、
ぐったりしている描写が出て来ますよね。
どうも、私は道長が兄を毒殺して権力を手に入れたんじゃないか、
それも急性でなく遅効性の毒で徐々に殺したんじゃないか、
と疑っている分けです。

というのも、兄の死に続いて、その関係者が、
次々と都合良く死んでいる分けですからね。
通隆の娘で、例の清少納言が仕えた中宮定子が、
すぐ後に死ぬのもその一例です。
ひょっとすると、道長は兄から権力を奪う為に、
邪魔者を次々と毒殺したんじゃないでしょうか。

で、この後は更に、例の漢文に関して、
同じ古典購読でこの春までやっていた、
杜甫の話を書くつもりだったんですが……
既に、充分長くなり過ぎましたからね。
その件は、補足として次回書くことにしました。(^^;)

138 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/06/24(火) 12:35:32 [ 80.net059086089.t-com.ne.jp ]
  ■補足■(1/7)

空蝉が紫式部の自画像である云々に関し、後から思いついたことですが……
ひょっとすると紫式部は、自分自身のそうした体験に基づいて、
『権力者によって蹂躪(じゅうりん)される女の性の哀しみ』を告発した、
と言えば少し強過ぎるかもしれませんが、物語の形式を借りて、
遠回しの批判を試みたのかもしれませんよね。

そういう風に考えると『源氏物語の冒頭部分が持つ一種異様な雰囲気』
に対し、全く別の解釈が可能になるような気もします。
その場合、光源氏の描き方には、何らかの意味で、
道長という人物が投影されている可能性が出て来ますよね。
光源氏という人物を、ここまで理想化して描かざるを得なかったのも、
そうした力関係が原因と考えるべきでしょうか。

その異様さという点では、源氏と若紫が最初に関係を持った晩の後、
彼女がひたすら涙に暮れる、という描写がありましたよね。
この部分は、ある意味で相当エロチックですが、
少女の若紫がこうした感情を持つということは、
彼女が得た教養抜きには、恐らく理解できないだろうと思います。


つまり、全く教養のない娘なら、たとえ親代わりの源氏に暴行されても、
そこまで悲しむ理由がないだろうと思うんですね。
その教養というのは具体的に言えば、色々な和歌に始まって、その当時、
既に広く読まれていた様々な物語類を知っているということですね。
その結果、彼女は彼女なりに、結婚や男女関係についての理想像、
今風に言うなら『白馬の騎士願望』のようなものを、
形成していたと考えられる分けです。

だからこそ、父同様に慕っていた男から乱暴されることに、
ショックを受け、悲嘆に暮れることになる分けですよね。
実際問題として、光源氏は若紫を誘拐して来てから後、
四年というもの、彼女に本格的な子女教育を施したようですからね。

似たようなことで言うと、これまた暫く前の古典購読でやっていた、
『更級日記』にも似たような場面がありました。
彼女がある貴族の家に出仕した後で、ある日初めて、
夜中に呼び出されて行った後の描写が、色々と示唆的でした。


更級日記の原文と対訳はここにありますから、
お暇な方は全文を読んでみてはいかがでしょうか。
  http://eva.genji.cc/boujin/sarasinanikki.htm
問題の場面は、ここの56〜57回あたりですね。
  http://eva.genji.cc/boujin/sarasinanikki-067.htm
  http://eva.genji.cc/boujin/sarasinanikki-068.htm

その場合、具体的に何があったのかは一切書いてありませんけど、
彼女も相当なショックを受けた様子で、放心状態に陥る分けです。
で、これは私なりに、色々と妄想(笑)した結果なんですが、
当時、ハーレムとしての大内裏は当然として、大貴族の場合も、
その夜の生活は、かなり性的に乱れていたような印象を受けます。
一例を挙げると、これも恐らく紫式部日記で、正確な内容は忘れましたが、
ある日の朝方、道長邸に天皇か皇太子が押しかけて来て、道長の娘と、
終日ベッドインしていた、なんていう描写がありますからね。

これはインドのエローラ石窟だったと思いますが、
王様が複数の女と絡んでいるような彫刻がありますよね。
恐らく、そうした乱交パーティーまがいのことは、
世界中のどこの宮廷でも、あったんじゃないでしょうか。
大体、昔は夜の娯楽と言えば、それしかありませんからね。(^^;)
もっとも、キリスト教倫理が支配していた西洋宮廷の場合は、
一夫一婦制のしばりがきつかったので、例外かもしれませんけどね。

139 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/06/24(火) 12:38:04 [ 80.net059086089.t-com.ne.jp ]
  ■補足■(2/7)

で更級日記の作者の場合も、その晩に犯されて処女を失ったという以上に、
その手の乱交パーティーに参加させられた可能性がありますよね。
そして、彼女の場合もまた物語が大好きで、
色々なものを読みあさっていたようですから、
それなりの結婚観や男女観を形成していたと考えられる分けです。

その意味で、ここで彼女が受けたショックというのも、また、
若紫が受けたショックと同質のものではないかと思うんですね。
結局、彼女の場合その後は何とか、
そうしたものから逃れるのに成功したみたいですが、
その代り今度は事実上、親代わりに育てていた、
二人の姪を出仕させろと言われて、差し出す分けです。

でもその姪二人はというと、彼女ほどショックを受けた気配がないんですね。
まあ、そこには当然、個人差もあるんでしょうけど、
そんなに教養のない女の場合、そうした乱交パーティも苦にしないというか、
それなりに楽しんでいるような気配がありますね。
そもそも当時、貴族の生活は庶民にとっては夢みたいなものですし、
夜の生活はともかく『うまいものを食って、良い着物を着て』
という生活は、決して居心地が悪くはなかったんだろうと思います。


で、やっと漢詩の話になるわけですが……話の流れからして、
こっちでもハーレムの話題から始めましょうかね。(^^;)
その場合、私が一つ気になっていることは、果たして、
李白の場合『玄宗皇帝の後宮で、宮女のおこぼれにあずかる』
みたいなことが無かったのかどうか、ということですね。

というのも、何しろ中国の場合、ハーレムもケタ違いというか、
玄宗皇帝の後宮には、何千人という女がいたらしいですからね。
それで皇帝一人では、とても面倒を見切れないものだから、
『後宮には入ったものの、一度も皇帝の訪れがないままに、
淋しく年老いていく』という宮女の哀話が、
漢詩の形で色々と残されていて、それを宮怨詩という分けですね。

そういう事情がある一方で、問題の李白には結構、
女好きみたいな所がうかがえる分けですね。
例えば李白も杜甫も、その生涯を旅に暮らすことが多かったようですが、
杜甫の場合、奥さんなしでは一時もいられなかったのか、
その旅はずっと妻子連れだったらしいですね。


それに比べ李白の方はというと、結婚していても妻子を放り出して、
一人でどんどん、あちこちに出かけていってしまう分けですね。
ですから、その旅先では、また別の女が出来ただろうと思いますし、
結婚自体も何度も繰り返したようですね。
そうした点からしても、杜甫がかたぶつであったのに比べ、
李白の方は、かなり女好きだったように思われる分けです。

更に、そこへもってきて、講師の話によると『ある時、
酒席で李白が嘔吐したものを、玄宗皇帝が拭き取った』
などという逸話が残っているそうですね。
となると、この二人は既に、単なる『皇帝とお付きの詩人』
という関係を越えて、親密な友人同士という印象を受けますよね。

以上のような状況から総合的に判断すると、女好きの李白が、
後宮の宮女の内の何人かと関係を持つというか、皇帝からあてがわれる、
ということが全く無かったとは考えにくいと思います。
で、仮に私のそうした勝手な憶測が正しいとするなら、
李白と宦官の関係がうまく行かなくなるのは、
至極、当然の帰結のように思われる分けです。

140 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/06/24(火) 12:40:18 [ 80.net059086089.t-com.ne.jp ]
  ■補足■(3/7)

何故なら、宦官というのは『後宮に入って出世する為に、
自分から男であることをやめた人間』のことですからね。
そういう立場の者から見た場合、李白のような人物が、
詩人という特権故に、男のまま後宮に入り込んで来て、
本来は皇帝の独占物であるはずの宮女に手を出すなんてことは、
到底、承服できないことではなかったでしょうか。

そう考えると『李白が宦官の高力士と衝突して、
宮廷から追放された』という歴史的逸話も、私には、
避け難い必然の成り行きだったように思われるのでした。
さて、李白と杜甫という両雄の比較に関しては、
女好きかどうかという一点にとどまらず、
様々な観点からの分析してみるのも一興でしょうね。

まず、一つ形式的な違いから言うと、今回の古典講読では、
李白の場合、有名な詩であるにも関わらず、その作成時期が不明で、
後方にまとめられているものが少なくなかったですよね。
それに比べ、杜甫の詩は作成時期が分からないものは案外少なくて、
そのほとんどが、時代順にきちんと並べられていたのが印象的でした。
少し時代が下がるだけで、資料がずっと充実して来るんでしょうか。


他方、内容的に見ると、李白には天才的な詩才の閃きがあり、
杜甫の方は、努力型の秀才といった印象を受けますが、
その最大の違いは何と言っても、社会性ではないでしょうか。
李白の方も一応は、社会的な問題への感心を見せますが、
杜甫と比べると、まだまだ能天気な感じが否めませんよね。

そうした社会問題への感心は、根本的にはやはり、
儒教の影響ということになるんでしょうけど、
杜甫の場合、その関心の持ち方が相当過激ですよね。
それは例えば、李白の『戦場南』と杜甫の『兵車考』
を比べてみても歴然としていますが『ここまで言って、
果たして皇帝の不興を買わないのか』と心配になる位ですね。

それは杜甫の場合、若くして李白のような天才に出会い、衝撃を受けた結果、
『自分は少し違う方向に活路を見いだそう』と努力した結果かもしれませんが、
それにしても、七世紀という時代にあって既に、
これだけの社会意識を持っていたということ自体、
驚異的ですし、偉大と言うしかありませんよね。


例えば『茅屋為秋風所破歌』では、秋の暴風で屋根が吹き飛ばされた時、
近所のワルガキ共が、その屋根の材料である茅を盗んでいく、
といった情景を描写した後で、そのことを恨む代りに、
『部屋数が何万もある大きな家があって、雨露をしのぐ為に、
貧しい人々をそこに収容できたならどんなに良いか。
もし、そういう家を実際に見ることができたなら、
自分の粗末な家は取り壊され、凍死してもかまわない』
とまで言うわけですね。

ひるがえって日本の状況を考えてみるに、
漢詩の影響を濃厚に受けたらしい山上憶良が、
『貧窮問答』なんて歌を残していますけど、
そうした影響は一時的なものに終わり、平安朝時代は、ひたすら、
花鳥風月を愛でるだけの和歌に陥って行く分けですからね。
こういう、閉塞的で私小説的な感覚は、民族性の差なんでしょうか。

そう言えば、政治制度にしても似たような問題がありますね。
中国では、あくまで皇帝一人が君臨していて、その下の官僚は、
科挙という制度によって、公平に選抜された分けですね。
ところが日本の場合、一応は中国をまねて似た制度が導入されますが、
それが最終的に制度として根付くことはなくて、結局は形骸化し、
藤原氏一族のような閨閥が、権力を独占していく分けです。

141 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/06/24(火) 12:43:27 [ 80.net059086089.t-com.ne.jp ]
  ■補足■(4/7)

そこにあるのは恐らく、常に異民族の脅威にさらされていて、
民族の精鋭を国政の中枢に取り込む必要があった国と、
海によって異民族の脅威から遮断されていた国の差でしょうね。
そういう所から、日本特有の民族性が形成されたのかもしれません。
ところで、こういう古い時代の詩を鑑賞する場合、何と言っても、
恵まれ過ぎた現代との落差が、大きな障害になるような気がします。

それはつまり、以前に>>70の『新平家物語』の所で、
過去の人間性を再現することが圧倒的に難しい、
と書いたこととも関係します。今回の漢詩の講読では良く、
メールやビデオカメラが引き合いに出されていましたが、
それ以前の問題として、電気・水道・ガスのある生活というものが、
産業革命以前の世界とは、如何に隔絶しているかを知るべきですね。

例えば宦官のように、幾ら出世の為とは言え、
『自分から男であることをやめる』なんていう選択が、
どうして可能なのか、現代人には想像することすら困難でしょ!?
例えば、例のwikipediaには、こんなデータがあります。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A6%E5%AE%98
  「皇明実録」によると、1612年(明の天啓元年)に政府が、
  宦官の補欠3000人を募集したところ、応募者が2万人に達したため、
  急遽募集人数を4500人に増やしたという記録が残されている。


例の秋葉原の通り魔男は『彼女がいないことが全てだ』
なんて言ってましたけど『そんなら、男をやめた宦官は、
一体どうしてくれるんだ』ということになりませんか?
結局、宦官になる人間の思考過程を追体験することは、
我々には途方もなく難しい、ということが言えますよね。
その意味で、彼我の間に横たわる感性の断絶は、
途方もないものがあると言うべきでしょうね。

但し、私が見る限りでは、この通り魔男が暴発した真の原因は、
派遣労働の不安定さや、彼女の不在ではないと思います。
無論、そうした問題を解決すること自体、
緊急性を要する課題であることは言うまでもありませんが、
それはいつも言う欲望管理に帰着しますから、今は繰り返しません。

この事件のポイントは彼が『つなぎがない』
と言って暴れた、という所にあります。
というのも、そうやって必要な物をわざと隠したりして、
嫌がらせをするのは、赤犬どもの典型的なやり口なんですね。
言いかえるなら、ユダヤ主義は、相手を激怒させる技術において、
天才的なものを持っているんです。その意味で、あの通り魔事件は、
『ユダヤ主義が狙って起こした』と言っても、過言ではないでしょうね。


追体験の難しさということでもう一つ例を上げると、
死というものの身近さの違いがあると思います。
例えば、同じく杜甫の詩で、初めて仕官した後、
家族の元に報告に帰る途上を描写した、
『自京赴奉先県詠懐五百字』という長い詩がありましたね。

その中に『朱門 酒肉臭きに 路に 凍死の骨あり』
(金持ちの家では、酒や肉が腐るほどあり余っているのに、
路上には凍死者の骨が転がっている)という有名な描写がありますが、
ここから分かるのは、通行人が凍死しても誰も遺体を片づけないので、
死者が骨になるまで放置されているという状況ですね。

それは中国に限った話ではなくて、日本でも同様な分けです。
例えば、これは源氏物語でも最終盤になりますが、
宇治十条の『手習の巻』では、三角関係に悩んだ浮舟が、
川に身を投げた後、川辺の木の根元に横たわっている所を、
横川の僧都たちが偶然に発見して救う、という話がありますね。
その場合、彼女を発見した一行は最初、
行き倒れの死体か何かと思い込む分けです。

142 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/06/24(火) 12:46:05 [ 80.net059086089.t-com.ne.jp ]
  ■補足■(5/7)

ということは、当時は『死体がその辺にゴロゴロ転がっていても、
誰も不思議に思わない』という状況だったことが分かりますよね。
更に言うなら、これは非常時なので少し特殊な例かもしれませんが、
方丈記には『飢饉で街中に無数に死体が転がっている時に、ある僧が、
その死体の額に梵語の「あ」の文字を書いて回り、成仏を祈った』
という話が出て来ますけど、この場合も、
そうした死体が片づけられることはない分けです。

結局、人が死ぬことは、ごくごくあり触れたことだったし、
死ぬ人が多過ぎて、片づけたり埋葬したりするのが、
到底、間に合わなかったという状況かもしれませんね。
そういう時代の中で生きている人々の感じ方・考え方を、
現代の我々が推察するのは、途方もなく難しいことのように思います。

そういう観点から見て、幾つか気になった点を挙げると、
例えば、杜甫が成都時代に作った『江村』という詩の中で、
『妻が紙に線を引いて碁盤を作り、子供が縫い針を曲げて釣り針を作る』
という描写を、暇な時に遊んでいるという解釈をしていましたけどね。
ここはむしろ、内職で金を稼いでいる情景と見るべきではないでしょうか。


結局、杜甫は何度か士官して、安定した収入を得た時期もありますが、
大体が流浪の生活で、困窮することが多かった分けですね。
ひとつには、彼のような民衆思いの詩人の場合、
金持ちや知人から金品を貰っても、それをどんどん、
周囲の貧しい人々へ分け与えてしまったんでしょうね。
その結果、かえって自分の子供が飢えることもあったように思われますし、
裕福で安穏な生活など、あり得なかったような印象を受けます。

ただ、李白や杜甫の生き方を見ている限り、
彼ら自身は飢え死にする心配はなかったように思います。
彼らはあちこちへ旅をして、行く先々で援助者に助けられるわけですが、
結局、当時、娯楽と言えば、詩歌くらいしか無かったわけでしょうね。
ですから、彼らの生活は一種の旅芸人のようなものだった気がします。

その点、杜甫のように妻子や使用人まで引き連れた十数人の旅では、
援助する側もひときわ大変だったろうと思いますが……
一つ考えられることは、李白などが活躍した結果として、
杜甫の時代には、詩人の社会的な地位が、
一段と向上していたという可能性ですね。
その結果として、そうした家族連れの旅が可能になり、他方では、
資料も沢山残されて、足跡が良く分かるということかもしれません。


その場合、杜甫と使用人の関係を仲間か共同生活者のように言うのにも、
ちょっと抵抗を感じましたね。やはり、当時は、
主人と使用人の上下関係は、厳然としたものがあって、その中で、
杜甫は使用人に対しても、優しかったということではないでしょうか。
或いは、男女の差異についても、余りに現代的な解釈はどうかと思います。

例えば『新婚別』は、夫を兵士に取られた妻の立場を詠んだ反戦詩ですが、
『女を生みてとつがしむるところあれば、鶏狗もまたともにするを得』
という所は、文字通り『娘を産んで、嫁がせる先が見つかったなら、
たとえ相手が鶏や犬でも、ずっと連れ添うのが理想だ』
と解釈すべきではないかと思います。

元となる諺自体がそういう意味ですし、
そもそも中世以前の中国社会は、
徹底的な男尊女卑だった分けですからね。
近代的な男女平等の価値観に捕らわれると、間違うと思います。

143 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/06/24(火) 12:49:16 [ 80.net059086089.t-com.ne.jp ]
  ■補足■(6/7)

政治との関わりという点で言うと、杜甫も李白と大差がないというか、
やはり現実政治は、詩人の手には余るものであったように思います。
杜甫の場合、一度目は例の玄宗皇帝の下で軽い役職に付きますが、
すぐに安史の乱が起こって、パアになったようですね。

その後、反乱軍に捕らわれた杜甫は、必死の思いで脱出すると、
新皇帝の所に馳せ参じて、また新たな役職を貰う分けです。
この新皇帝の粛宗は、詩文への理解が玄宗ほどでなかったのか、或いは、
先帝の轍を踏まないように警戒した結果か『宴席に杜甫を招いて、
詩を作らせる』なんてことはしなかったようですけどね。

反乱軍の鎮圧で大失敗した宰相の房かん(たま偏に官)が失脚した時、
杜甫が彼を擁護した為に、粛宗の不興を買ったという話ですが、
ひょっとすると、この宰相は杜甫の恩人だったのかもしれませんね。
例えば『杜甫が最初の役職に付く時、同郷のよしみで彼が推薦した』
と考えるなら、杜甫がそこまで彼を弁護するのも分かる気がします。
恐らく、杜甫は義理堅い人間だったでしょうからね。


ただ、その後、杜甫が妻子の待つ家に帰った経緯に関しては、
皇帝が怒って暇を出した、というのとは少し違うような気もします。
というのも、彼が馳せ参じた後で作った『述懐』という詩を読むと、
むしろ、杜甫からそれを願い出たような節がありますからね。

『涕涙 拾遺を授けらる 流離 主恩厚し
柴門ゆくを得といえども、未だ即ち口を開くに忍びず』
(私は感涙にむせんで、左拾遺の職を賜ったが、
さすらいの身に、皇帝の恩は厚かった。
望めば我が家に帰る願いもかなえられただろうが、
それをすぐに願い出ることはためらわれた。)

ここは、明らかに『早く家に帰らせてくれ』と遠回しに催促してますよね。
結局、どんなに個人的な述懐であるにせよ、彼らが作る詩というものは全て、
娯楽として皇帝に献上されたのではないでしょうか。
その点、彼らが詩を壁に書いたとする解釈も多かったですが……
たとえ詩にそうあるとしても、それは単なる創作上の虚構であって、
現実には、やはり紙に書き残したような気がします。


そもそも建物なんていうものは、いつかは取り壊される運命なわけですし、
もし壁に書き残したのなら、こうして後世まで残ることは無かったでしょうね。
むしろ、詩を鑑賞することが当時の数少ない娯楽の一つだったと考えるなら、
彼らが作った詩は、一度紙に書かれた後も、
どんどん書き写されて、世の中に流通したような気がします。

それから、杜甫が李白の故郷である四川省を訪れる場面では、
『何やら、杜甫の詩が李白に似て来たんじゃないか』
という話が出ていましたが、私が思うに、むしろ四川省という土地には、
『人間を気宇壮大にさせる何か』があるんじゃないかという気がします。
四川省と言えば、今は例の大地震で大変なことになっているようですが、
杜甫の詩が李白に似て来るのは、李白を意識した結果というより、
そうした土地柄が生み出す気質が、関係しているように思います。

蜀犬日に吠ゆ(四川の犬は太陽を見て吠える)という格言があるそうですが、
地図を見ると、この地域は丁度、チベット高原の山裾に当たる分けですね。
ですから『常に、もやがかかったような気候である』というのは、
そうした地形のせいではないかと思いますが、時々は、
チベット高原の雄大な風景が望めるのではないでしょうか。
実際、この紀行文によると、四川省も春には晴れるらしいですからね。(^^;)
  蜀犬吠日 〜 蜀犬日に吠ゆ 〜
  http://www.geocities.jp/xiaokobamiki/shuquanfeiri.htm

144 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/06/24(火) 12:53:24 [ 80.net059086089.t-com.ne.jp ]
  ■補足■(7/7)

その他、幾つか気になった点を書くと、一つは重陽の解釈が間違っていました。
奇数が陽であるのは事実ですが、陽は縁起が悪いというのは全く逆ですね。
1・3・5……という奇数は、あくまで縁起が良い陽数であって、
そうじゃなかったら、正月一日も縁起が悪いことになりますからね。

それでは何故、重陽の節句に魔除けのまじないをするのかというと、
近代はともかく古代中国では、九が重なる陽の極は『上り切った後は、
もう下るだけ』という意味で、逆に警戒されたらしいですね。
その辺の事情に関しては、ここに分かり易い解説があります。
  http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2007-12/10/content_89664.htm
  古い陰陽思想によれば、「九九重陽」は陽数が強すぎた

二つ目は、これまた『自京赴奉先県詠懐五百字』の一部で、
『河梁 幸いに未だくだけず』の河梁を橋脚と訳していましたが、
ここを『船で河を渡る情景』と考えるなら、橋があるはずはないですよね。
ならばこれは、むしろ船着場を支える櫓のようなものではないでしょうか。
つまり、大きめの船を接岸させる為に、河の中に張り出すように、
櫓が組まれていたということではないかと思います。


最後に、有名な詩『旅夜書懐』の一節に触れたいと思います。
『名はあに文章もてあらわれんや、官はまさに老病にてやむべし』
という所は、ついに政治的な大望に敗れた杜甫の苦い感慨ですが……
でも、現実は皮肉なことに『その文章の力によって、杜甫は今日、
千数百年の時を隔てて、こうして名を残している』分けですからね。
文章というものには、むしろものすごい力があるように思います。
特に私の場合、詩の力のすごさは漢の武帝が作った『秋風辞』
によって思い知らされましたね。

『歓楽極まりて哀情多し 少壮幾時ぞ老いをいかんせん』という所など、
二千年以上も昔の人が、舟遊びの最中に抱いた生の感情が、
こうして詩を介して、我々にじかに訴えかけて来る分けですからね。
皆さんも、今の自分の気持ちを詩に書いて残したら、
何千年か後の人が、それに共感してくれるかもしれませんね。(^^;)
その意味で、余裕のある方は詩作に励んでみてはいかがでしょうか。

ところで、以上の引用では詩の題名を元の漢文のまま、
あえて書き下しにしないでおきましたが、その理由は、
書き下し文では検索に引っかからない心配があるからなんですね。
実を言うと、私が高校時代に漢文を習っていた頃には、
書き下し文を何か、絶対的なものと思い込んでいました。


大人になってから、同じ漢詩を色々な書物で読んだ時に初めて、
その書き下し方が一様ではない、ということに気付いたわけですね。
考えて見れば、漢文書き下しというのは一種の和訳に等しいですから、
訳者によって書き下し文が異なるのは当たり前なんですね。
残念ながら高校時代には、それを教えてくれる人がいませんでしたが。

その意味では、漢詩を鑑賞する場合のこつとして、
書き下し文と和訳によって、一通り意味を理解したら、
今度は元の漢文を、日本語式の音読みで構いませんから、
元の語順のままで読んで見ると良いですね。

例えば、さっき引用した旅夜書懐の一節なら、
『名豈文章著 官応老病休』を、
『メイガイブンショウチョ カンノウロウビョウキュウ』
などと書き下さずに読む分けですね。
そうすると、また新しい発見があると思います。

145 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/07/29(火) 12:02:26 [ 157.net059086085.t-com.ne.jp ]
  ●●●仮面の男(1998)☆☆☆●●●(1/2)

gooの映画サイトで検索すると、同名の映画が四つも出て来て、
びっくりしますが、しかも全て別の物語というのが意外でした。
それらの全てに共通する構図は『瓜二つの双子がいて、
両者がすり変わることで、複雑な物語が展開する』という点なのですが、
元ネタはアレクサンドル・デュマの小説『鉄仮面』かと思うと、
話はそれほど単純でもないようですね。

結局、三銃士もダルタニアンも仮面の男も、全て実在の人物がいて、
特に仮面の男の素性については歴史上、諸説があるようです。
最も新しいこの映画はデュマの『鉄仮面』から脚色したもので、
若い女性に大人気の『レオ様』ことレオナルド・ディカプリオが、
一人二役を演じていますが……この手の一人二役というのは、
ファンにとっては中々悩ましいもののようですね。

というのも、日本のTVドラマでも時々ありますけど、
二役の内のどっちが実像の『レオ様』に近いのか、
惑わされて、分けが分からなくなるんでしょうね。(^^;)
荒筋は、好色で傲慢なフランス国王の圧政に耐えかねた三銃士が、その王を、
思いやりがあって優しい、双子の弟とすり替えてしまうという話ですが、
元がフランス小説とは言え、味付けは完全なハリウッド調ですね。


先王のルイ13世に使えた3人の騎士は、今は引退していましたが、
その内の一人アトスの息子ラウルには、恋人クリスチーヌがいました。
ところが、彼女に横恋慕した現王のルイ14世は、彼女を奪う為に、
息子のラウルを戦地に追いやり、戦死させてしまいます。
その頃、王が繰り返す戦争の為に、国民は飢えに苦しんでいましたが、
息子の死に怒りを爆発させたラウルは、復讐を誓います。

その時、三銃士に昔の仲間ダルタニアンを加えた会合が開かれ、
三銃士の一人アラミスは、自分がイエズス会の首領であることを明かします。
その上でアラミスは、現国王をその弟とすり替える計画を持ちかけますが、
現役の銃士であるダルタニアンだけは、何故かそれを拒否します。
実はダルタニアンは、現王の母である皇太后アンと密通関係にあるのでした。

現王の双子の弟フィリップは、王権がおびやかされないように、
先王が幽閉していましたが、現王は更に彼に鉄仮面をかぶせ、
バスチーユ牢獄に閉じ込めて、社会から抹殺していました。
三銃士は神父に化けて牢獄に忍び込むと、フィリップを救い出し、
仮面舞踏会の夜に現王とすり替える手筈を整えます。

146 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/07/29(火) 12:05:29 [ 157.net059086085.t-com.ne.jp ]
  ●●●仮面の男(1998)☆☆☆●●●(2/2)

しかし、最初のすり替え計画は、ダルタニアンの機転によって挫折し、
その渦中で、クリスティーヌは自殺してしまいます。
その時、ある決意を固めたダルタニアンは、
フィリップを救い出すチャンスを教えるので、
三銃士はそれが罠であることを覚悟しつつ、救出に向かいます。

結局、三銃士に加勢したダルタニアンは、最後の土壇場になって、
ルイやフィリップが自分の実の息子であることを明かします。
既に、彼らは圧倒的な王の軍勢によって包囲されていましたが、
彼らの捨て身の反撃に気押されて、ダルタニアンの部下たちの銃撃は、
盲撃ちになって的を外してしまいます……この当時の鉄砲というのは、
『一発撃てば、もうそれで終わり』というのが一つのポイントですね。

その時、焦った現王がフィリップを殺そうと斬りかかると、
ダルタニアンはフィリップの身代わりに刺され、死んでしまいます。
それを見て、兵士たちも現王を見限り、フィリップを真の王として迎えます。
こうして、最後はフィリップがルイ14世となり、
ルイは鉄仮面をかぶせられて、幽閉されてしまうのでした。


結局、ベルサイユ宮殿を作り、太陽王とあがめられたルイ14世の後半生は、
すり替えられた偽物であったという分けでしょうかね。
でも……私からすると、この映画に出て来る騎士たちは、
みな良く似た馬面なので、見分けるのが一苦労でした。(^^;)
他方、この映画で興味深いのは、カトリックの一組織であるイエズス会が、
様々な謀略を企てる陰謀組織として描かれていることですね。

その点は、カトリックをユダヤ謀略の手先と考える私の立場からしても、
中々興味深いものがありますが、例のwikipediaにはこんな話がありました。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%82%B9%E4%BC%9A
  イエズス会は近代において
  プロテスタント側のみならずカトリック側の人間からも
  さまざまな陰謀の首謀者と目されることが多かった。
  「イエズス会員」を表す言葉(たとえば英語のJesuit)が
  しばしば「陰謀好きな人、ずる賢い人」
  という意味でも用いられるのはその名残である。

それから、もう一つ言うと、良くラグビー等で使われる標語で、
『ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン』というのがありますが、
どうやら、これは西洋流の騎士道に由来する言葉だったようですね。
通常は『一人は全体の為に、全体は一人の為に』と直訳されますが、
この映画では『われらは銃士、心は一つ』と訳していたのが印象的でした。

147 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/08/04(月) 10:53:51 [ 134.net059086088.t-com.ne.jp ]
  ●●●小袖曽我(2007年11月・観世流)☆☆●●●

歌舞伎ばかりでなく能においても、例の曽我兄弟の仇討ちに想を得た、
曽我物という演目が色々あるようですね。
これはその一つで『勘当された弟の許しを請う為に、
仇討ち前に、曽我兄弟が母に会いに行く』という話でした。

ただ……いつも言うように、この手の現在能は、
私の考える本来の能ではないので、高い評価はつきませんね。
曽我物については、次のサイトに詳しい説明がありますが、
その中では最後の『伏木曽我』というのが、幽玄能のようです。
  http://www.aizu-noh.aizu.or.jp/sogamono.html
  「曽我物語」の能

148 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/09/18(木) 10:23:43 [ 80.net220148127.t-com.ne.jp ]
  ●●●ガゼッタ(2005年7月リセウ劇場)☆☆☆−●●●(1/2)

これはロッシーニのオペラですが、ワグナーなんかと比べると、
彼の音楽は相当、軽い部類に入りますからね。
軽音楽と言っても言い過ぎではないと思います。
その上、今回の物語は支離滅裂というか、相当いい加減な代物ですから、
荒筋をまとめるだけで一苦労しました。(^^;)
ただ、バルセロナのリセウ劇場ともなると、さすがに
その舞台美術は水準を超えたものがありますね。
題名のガゼッタとは新聞の事ですが、古典芸能(!?)に新聞が出て来る点では、
例の歌舞伎の『水天宮利生深川』を連想させる所もありました。

パリに出て来たナポリの商人ポンポーニオは、
娘リゼッタの広告を新聞に出して、
才色兼備の娘の婿となるべき男を募集します。
しかし、リゼッタには既に、好きな男フィリッポがいて、
彼は宿屋の主人をしていました。

その宿へ、理想の花嫁を捜して世界中を旅する男アルベルトが、
新聞を見て早速やってきて、広告どおりのリゼッタに目をとめます。
そこであわてた恋人のフィリッポは、アルベルトに、
『自分が彼女の夫である』と出まかせを言って彼の求婚を妨げます。
アルベルトは『それならリゼッタは別の娘か』と思って捜す内に、
ドラリーチェと出会い、彼女を広告の娘と思い込んで恋に落ちました。


丁度そこへリゼッタの父親が現れるので、アルベルトは、
相手を誤解したまま、さっそく『娘との結婚』を申し込みます。
その時、持参金が目当ての父親は『どこの馬の骨か』と彼を相手にしないので、
自分の家系は由緒あるフィリッポという名家だと騙し、父親を納得させます。
喜んだ父親は、さっそく娘を呼びつけて結婚を言い渡しますが、
最初、リゼッタはフィリッポという名前から誤解して空喜びします。

ところが、そこに二人のフィリッポが現れて、大騒ぎになります。
偽フィリッポのアルベルトは、父親と一緒にいるリゼッタを見て、
『彼女は既に結婚しているはずだ』と言うので、
父親が問い詰めると、本物のフィリッポの出まかせを聞いていた人々が、
そのフィリッポが彼女の夫だと、ばらしてしまいます。

宿屋の亭主と結婚するなんて言語道断だ、と怒ったポンポーニオは、
リゼッタを勘当すると、自分の遺産を相続させる為に、
新たに子供を作ることにし、今度は自分の花嫁を募集する広告を出します。
すると、そこへフィリッポが来て『実は二人は結婚していない、
自分の広告を出されたことに怒ったリゼッタに頼まれ、
父親に仕返しする為に嘘をついたのだ』と弁解し、
更に『自分には別に妻がいる』と言って父親を安心させ、
父親の再婚計画を思いとどまらせようとします。


実は、フィリッポが作戦を変え『クエーカー教徒に化けて、
リゼッタと結婚しよう』と企んだのでした。
彼は『娘の広告を見て、金持ちのクエーカー教徒が来る』
と父親に告げ、その場を去ります。
そこにリゼッタが来ると、父親がフィリッポは妻帯者だと言うので、
今度はそれを聞いたリゼッタが本気にして、卒倒してしまいます。

更に、父親がクエーカー教徒との結婚の話をするので、娘と口論になりますが、
そこへ、クエーカー教徒のベルロクに化けたフィリッポがやって来ます。
フィリッポは、何とか父親をだまそうとしますが、
リゼッタは、ベルロクの正体に、すぐ気が付いたようです。
彼女は、フィリッポが妻帯者だという父の話に腹を立てていたので、
ベルロクに化けたフィリッポを痛めつけてしまいます。
こうして、フィリッポの計画は水の泡となりますが、
彼はその怒りを父親に向け、復讐することにしました。

因みに、クエーカー教徒というのは、日本人には馴染みが薄いですが、
キリスト教の一派で、新渡戸稲造などもその信者だったようです。
髭もじゃな点など、どことなくユダヤ教徒にも似ていますが、
『質素を宗(むね)とする変わり者』として知られているようですから、
『金持ちのクエーカー教徒』というのは、もう一つピント来ませんね。

149 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/09/18(木) 10:27:36 [ 80.net220148127.t-com.ne.jp ]
  ●●●ガゼッタ(2005年7月リセウ劇場)☆☆☆−●●●(2/2)

さて、第二幕に入ると、話は相当いい加減で、
筋はあって無いような感じですね。(-_-;)
或いは、日本語訳が悪いせいもあるんでしょうか!?
トラベルセンというパリの男が、ドラリーチェとの結婚を申し込み、
ミラノから来た父親は、すぐにも二人を結婚させようとします。

それを見て、アルベルトは『ドラリーチェが新聞広告の娘ではない』と、
ようやく悟りますが……既に恋に落ちた彼には、どうしようもありません。
こうして窮地に陥ったアルベルトは、
策士のフィリッポに助けを求めることにしました。

他方、フィリッポは自分が妻帯者だと嘘を付いたことを、
リゼッタにあやまりますが、彼女が簡単には許しません。
そこで、フィリッポは『それなら自分は死ぬ』と言い出して、
ピストルを自分の頭にかざす、というドタバタした展開の末に、
結局、二人は和解しますが……この辺は相当バカバカしいですね。


フィリッポの所にアルベルトが会いに来ると、フィリッポは、
『ドラリーチェがまだ彼を愛している』と告げ、
二人の結婚の為に自分が協力すると申し出ます。
しかしその頃、リゼッタの父親が帰国しようとしていて、
彼の計画の為には先ず、父親を引き止める必要がありました。

実は、父親の振る舞いで宿屋の客が減ったことを口実に、
フィリッポは既に、父親に決闘を申し込んでいたのでした。
すると、その決闘の場にアルベルトが乗り込んで来て、
彼もまた、同じ父親に決闘を申し込みます。
今度は『娘との結婚を一度は許しながら、破棄した』という理由ですが、
しかし、この決闘騒ぎも暫くドタバタやった末に、結局、
最後は三人が和解して別れるという、さえない結末でした。

こうして父親を引き止めた後、
フィリッポが最後に考えていたのは仮面舞踏会でした。
娘たちがトルコ人に化ける計画を相談していると、
ポンポーニオがやってきて、またリゼッタと口論になります。
その後、父親が宿にいる所へトルコ人たちがやってくるので、
彼は、トルコ人に殺されるのではないかと怯(おび)えます。
フィリッポは『アフリカから金持ちのトルコ人が泊まりに来るが、
お客である以上、断る分けにはいかない』と言い、
その代り、父と娘がトルコ人に化けて逃げ出すことを勧めます。


この辺の『トルコ人恐怖症』は、我々には分かりにくいですが、
当時の西欧では、強大なオスマン・トルコによる侵略の記憶が、
まだまだ生々しかったのかもしれませんね。
何しろ、最盛期のオスマン・トルコというのは、
東欧からアフリカの北岸にまで至る、
広大な帝国を築いていた分けですからね。

結局、父親は騙されて、トルコ人の為の仮面舞踏会では、
誰が誰だか分からなくなり、娘を見失ってしまいます。
こうして、どさくさに紛れて消えた二組のカップルは、
結婚の手続き済ませて戻って来ますが、
最後は父親たちが結婚を許して、幕となります。

因みに第二幕の終盤では、解説のようなものが入って『この物語は、
現実の宗教や宗教家とは一切関係ありません』とか言ってますけど、
或いはこの作品の中に、当時の教会への風刺があるのかもしれませんね。
我々には良く分かりませんが……。

150 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/09/21(日) 10:14:16 [ 66.net220148112.t-com.ne.jp ]
  ●●●殯(もがり)の森(2007年)☆☆☆●●●

これは河瀬直美という人が作った映画で、
カンヌでは何か賞を取ったらしいですが、
それほど大した作品とも思えませんでした。
いわゆる認知症の老人を世話する為の施設に、
ある女性が就職し、散々苦労した末に、一人の惚け老人と、
何とか心を通わすことに成功する、という話ですね。

この惚け老人は、既に妻を亡くしていて、ある時、
妻を葬った森(殯の森)へ墓参りに行こうとしますが、
老人を追いかけた彼女は、森の中で一緒に迷ってしまいます。
その時、凍える老人の命を救おうとして、
まだ若い主人公の女性が、上半身素っ裸になり、
老人を抱きしめる、というシーンがありますが……
或いは、この手の少しエッチな場面が、
フランス人の好みなのかもしれませんね。(^^;)

そう言えば、以前にも例の『うなぎ』という映画に関して、
『大賞を取った割に、大した映画ではない』と書きましたけど、
あの場合にしても、似たようなことを感じた記憶があります。
http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1102295096.html#15
因みに、ここに出て来る惚け老人というのが妙にモダンで、
ピアノやダンスが得意だったりする分けですが、
これは日仏合作のせいもあるんでしょうかね。


それから、妻を葬った墓というのが、通常の日本の墓とは大違いでしたね。
森の中にただ一本、棒を立ててあるだけなんですが……
題名の『もがり』から、日本の古代の墓を想定したんでしょうか。
或いは、この老人に資力がなかったので、とりありず(違法でも)、
付近の山にこんな葬り方をした、ということなんでしょうか。

一つ雑学を披露すると、冒頭で真言密教の呪文が出て来ますね。
『ウンナボ・キャー、ベーロシャ・ノー、マカ・ボダラー、
マニ・ハンドマ・ジンバラ、ハラバレター』という奴ですが、
ここで言うマカ・ボダラーのマカとは多分、摩訶不思議の摩訶でしょうね。
で、実はこの摩訶という言葉が、PCでおなじみのメガバイトのMegaと、
同じ語源であるということを、皆さんは御存知でしょうか。

『インド・ヨーロッパ語族』という言葉もあるように、
古代インドの言葉・サンスクリット(梵語)は、
西洋の言語と共通の起源をもっている分けですね。
ですから、この手の意外な同義語が、他にも色々あるようです。
例えば、仏壇に備える『閼伽(あか)の水』の閼伽は、
これまた、アクアラングのAquaと同じ語源なんですね。


それからもう一つ、うるさいことを言わせてもらうと、
映画の中で『死んでから三十三年たったので、
三十三回忌だ』とか、僧が言ってましたが、
これは正確ではないですね。

多分、この僧は本物の僧じゃないので、
その辺の事情には疎いのかもしれません。
亡くなって一年目に行う法要を一周忌と言うのに対し、
亡くなって二年目の法要は三回忌という分けですね。

つまり、回忌という場合は、
死んだ直後の法要を一回忌と数えますから、
三十三回忌は三十三年後ではなくて、
三十二年後の法要ということになると思います。

151 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/11/12(水) 11:51:31 [ 224.net059086095.t-com.ne.jp ]
  ■補足■

このビデオ評もスッカリ間があいてしまいましたね。(^^;)
ところで、前回『もがりの森』でひとつ書き落としたことですが……
当初、第一印象として感じた危惧がひとつありました。
それはつまり、若い女性が惚け老人を介護するという場合に、
この映画では、余りに無防備に描かれていないかということですね。

まあ『惚け老人を赤の他人が介護すること自体、大変なことだ』
という点は、この映画でも良く分かりますけど、
例えば『老人の大切な品物を、うっかりさわった為に、
主人公が突き飛ばされる』というシーンがありましたよね。
この点からも分かるように、惚け老人の場合、
理性による制御が余り効かない分けですね。

ですから、うっかり色っぽい女性が近づいたりすれば、
本能のままに、強姦されてしまう危険があるんじゃないでしょうか。
その意味で、例の裸で抱きしめる場面などにしても、
そうした事への配慮が全く感じられない点を、気がかりに感じました。
何しろ、今のユダヤ支配の世の中では、
何事につけ、万事に悪意が満ち満ちている分けですからね。


最近も、また『コドモのコドモ』なんていう、
しょうもない映画を作った奴がいるみたいですけどね。
何度でも繰り返しますが、こういう連中こそが、
例えば暫く前に騒ぎになった東金市の幼女殺し等に対して、
直接的にも間接的にも、責任があるんじゃないんですか!?

まあ、この事件の場合、まだその犯人が、
いわゆる幼児性愛の変質者と決まった分けではありませんけどね。
でも一般論としては、そういう変質者による犯罪も珍しくない分けですよね。
で例えば、江戸時代の浮世絵には様々な性愛を描いたものがあるようですが、
この手の幼児性愛のような変質的なものは、聞いたことがありませんからね。

ということは、つまり『そういう変質者の生まれる原因が、
現代社会の病理にある』と断言してもいいんじゃないかと私は思う分けです。
世間では良く『幼児ポルノを規制しろ』とか騒いでいますけど、
真の解決策は、そうした対症療法でなく、幼児性愛者を生み出す根源というか、
その原因となっている現代社会の病理を暴き出し、
それを取り除くことにあるんじゃないでしょうか。


その場合、私が言いたいのは、こうした『幼過ぎる性愛を煽る風潮』が、
そうした変質者を生み出しているんじゃないかということなんです。
で、結局の所、そういう風潮自体、洗脳支配の手段として、
ユダヤ主義が作り出している分けですからね。
これまた、ユダヤ支配に伴う歪みとも言えるわけです。
その意味で、この『もがりの森』にしても、
『そうした悪意が仕掛けられていなければ良いが』
というのが、私が最初、少し不安に感じた点でした。

ついでに、もう一つ言うと、同性愛にしてもそうなんですね。
この場合、浮世絵にそれがあるかどうかは良く知りませんが、
少なくとも同性愛に関しては、江戸時代からあったことは、
若衆歌舞伎の例を見ても間違いないようですね。
でも『フランス人に比べ、イギリス人に同性愛者が多い』
などと言われることに関しては、私はここでも、
ユダヤ主義による洗脳の影響があるんじゃないか、とにらんでいます。

というのも『女を使って色仕掛けで男を洗脳する』というのは、
ユダヤ主義が良く使う手口なんですが、イギリス人の場合、
フランス人よりも、洗脳することが難しいようですからね。
その意味で、英国ではこうした手口が多用されている気がする分けで、
その結果『女嫌いになって同性愛に向かう男が増えるんじゃないか』
というのが、以前から私が考えている一つの仮説なのでした。

152 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/11/30(日) 13:39:26 [ 169.net059086082.t-com.ne.jp ]
  ●●●居酒屋(1956)☆☆☆●●●(1/2)

これは白黒のフランス映画で、監督はルネ・クレマンですが、
エミール・ゾラの小説の映画化ということで録画したようです。
主演のマリア・シェルという女優は、どこかで見覚えがあったので、
ひょっとして『突撃』に出て来たドイツ人女性かと思ったんですけどね。
調べてみると、実はあっちはスザンヌ・クリスチャンという人で、むしろ、
ヴィスコンティの『白夜』のヒロインが、この人だったようです。(^^;)

足の悪い洗濯女の主人公は、若くして駆け落ちしたのか、
パリで男と同棲しており、既に子供も二人生まれていました。
ところが、色男で浮気者の亭主は、ろくに仕事もせず、
向かいのアパートに住む好色な姉妹の所に出入りしていました。

ある日、主人公が洗濯場で働いていると、二人の子供が捜しに来て、
亭主が向かいの姉妹の妹の方と一緒に、出て行ったことを告げます。
その時、何故か姉の方が同じ洗濯場にいたようなんですが、誰かが
『彼女は亭主に逃げられた主人公の様子を探りに来たのだ』と言うので、
主人公が怒って、二人は殴り合いの大喧嘩になってしまいます。


その後、主人公は幸いにも屋根職人と正式な結婚をし、
娘も産まれて順調な人生を送っていました。
彼女の夢は、何とか貯金をして自前の洗濯屋を開くことでしたが、
やっと金が溜まった頃、夫が屋根から転落して大怪我をしてしまいます。
その時、健気な彼女は無料の病院を敢えて避け、自宅で夫を看病しますが、
その結果、医者に払う金でせっかく溜めた貯金も底をついてしまいました。

その時、一人懇意にしていた親切な鍛冶工の男が、
大金を貸してくれることになり、彼女は何とか洗濯屋を開きます。
しかしその頃、例の喧嘩別れした洗濯屋の元同僚が近くに越して来て、
彼女の妹と逃げた最初の男が、街に来ていることを知らされます。
これはどうやら偶然ではなくて、主人公への恨みを根に持つ元同僚が、
色々と策略を巡らせた結果のようなのでした。

他方、危うく命を取り留めた亭主の方は、
屋根に上がるのが怖くなって仕事をしなくなります。
こうして亭主は酒に溺れるようになり、
主人公が鍛冶工に返す為に溜めたお金まで飲んでしまう始末でした。
それで当時、主人公が計画していた晩餐会も危うくなりますが、
鍛冶工とも相談の末、結局、予定通り開くことになります。


さて、例の元同僚は、夫の巡査と共にその晩餐会に招待されますが、
晩餐会の最中、妹と逃げた最初の男が付近に姿を見せます。
それに気付いて密かに驚く主人公をよそに、亭主は彼を招きいれますが……
どういう分けか、この二人は兄弟のようにそっくりなんですね。(^^;)
で結局、亭主は彼を気に入ってしまい、自宅に下宿させることになります。
この辺には、どうやら『鍛冶工を密かに慕う主人公』に対する、
亭主の嫉妬というか、当てつけもあるみたいですね。

他方、当時の社会風潮として、王制派と左翼との対立があったようで、
晩餐会の中では、鍛冶工が『軍人に恩給があるのに、
労働者には何故ないのか』と言って、巡査と対立したりします。
で、そうした政治思想故か、鍛冶工はストライキ騒動に巻き込まれます。
当時、この鍛冶工は工場勤めをしていたようですが、
その工場には、主人公の長男も勤めていました。

彼らは賃上げ要求の違法ストライキに加わった末、
鍛冶工の男は、刑務所に入れられてしまいますが、
その結果、残された主人公は精神的な支えを失います。
ある時、のんだくれの亭主が嘔吐して、
二人のベッドを汚してしまった晩に、行き場を失った主人公は、
隣の部屋にいた最初の男と再び関係を持ってしまうのでした。

153 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/11/30(日) 13:50:04 [ 169.net059086082.t-com.ne.jp ]
  ●●●居酒屋(1956)☆☆☆●●●(2/2)

出獄して来た鍛冶工はそのことを知って絶望すると、
彼女の長男を連れて旅に出てしまいます。
この場合の旅というのは、職人の修行旅行のようですね。
つまり、中世以来のヨーロッパでは、職人が一人前になる為に、
武者修行のように各地を旅する、という風習があったようです。

以前に書いた『ニュルンベルグのマイスタージンガー』
の中でも、その辺の事情が描かれていたように記憶します。
こうして息子を送り出した主人公は、何とか持ちこたえようとしますが、
元同僚の洗濯物についた香水の移り香から、
元同僚と最初の男が、愛人関係にあることを知ってしまいます。
二人は最初から、主人公夫婦の店を乗っ取る計画だったのかもしれません。

怒った主人公は、とうとう最初の男を自宅から追い出しますが、
酒乱の亭主はアル中で病気になり、錯乱した末に、
洗濯屋の店をメチャメチャに壊してしまいます。
こうして、主人公は店を手放すしかなくなりますが、
結局、その店は元同僚が買い取って、菓子屋を開くのでした。


元同僚の夫である巡査はお人好しだったので、
そこに愛人の男がまとわり付きます。
他方、アル中の夫にも死なれて、落ちぶれた主人公は、
酒に溺れる日々を送るのでした……。

結局、この主人公は『幸せになろうとしては失敗する』
ということの繰り返しのようですが、こういうのが、
いわゆる自然主義文学という奴なんでしょうかね。(^^;)
でも、亭主が怪我をした時に、どうして無料の病院を避けて、
自宅療養で大金を費やしたのか、その辺の説得力が薄いですね。
その結果、開業資金を鍛冶屋の男から借りることになり、
そこから夫婦の不和と転落が始まったようにも見えるからです。

他方では、主人公にいつまでも付きまとい、
悪意を向けて来る洗濯女の元同僚というのも、
もう一つ理解し難い所がありますね。
実は、gooの映画サイトによると、1933年にも同名の作品があって、
この映画は、そのリメークだったようです。
で、その最初の映画の方には、この同僚は余り出て来ないようなので、
或いは、物語としてはそっちの方がスッキリしているのかもしれません。


この映画から、敢えて教訓めいたものを捜すとすれば、
『経済的に自立した女は、不幸になり易い』ということでしょうか。
男が女の稼ぎをあてにして働かないというのは、良くあるパターンですよね。
つまり、なまじ女が働き者で甲斐性があったりすると、
えてして男は、堕落したり酒浸りになったりする分けですね。
実際問題として、最初の男も次の亭主も結局はそうなった分けですからね。
その意味で、男というものは『自分の力で家族を養っているんだ』
という誇りがないと堕落し易い、ということが言えるのかもしれません。

原作となる物語の背景を調べて見ると19世紀後半で、
ナポレオン三世による第二帝政の時代らしいですね。
この『居酒屋』という作品は『ルーゴン・マッカール叢書』
とかいう連作の一つで、自然主義文学の元祖という位置づけになるようです。
  http://www.syugo.com/3rd/germinal/review/0036.html
  ゾラ『居酒屋』 - 書評 - SYUGO.COM

このサイトには、原作についての解説に加えて荒筋もありますが、
それによると、主人公は既に売春婦に身を落していて、最後は、
のたれ死にするそうですから、惨憺たる人生ですね。(-_-;)
それからもう一つ、こんなサイトを見つけました。
名作文学をほんの数行に要約して紹介していますが、
こういうのも、それなりに役に立つかもしれませんね。
  http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/arasujipeji3.htm
  名作のあらすじ

154 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/12/10(水) 12:22:06 [ 234.net220148125.t-com.ne.jp ]
  ●●●本当と嘘とテキーラ(2008年05月)☆☆☆●●●(1/2)

山田太一作品はこの前にも二件あったようですが、
ある事情で、それらを録画しはぐったんですね。
そうした所、このドラマは既に再放送されましたが、その二件の方は、
謀略の邪魔が入ったのか結局、再放送されかったみたいです。(-_-;)

さてそれで、このドラマですが、嘘の是非が中心テーマのようですけど、
もう一つ消化不良という印象を受けました。
その意味で、山田作品に特有のほんわかした感じも少なかったですが、
まあ、テーマの深刻さからして、それは仕方がなかったんでしょうか。

ある会社が不祥事を起こし、顧客への説明会が行われますが、
主人公はそれを仕切る専門の会社を経営しているようです。
顧客の不満を何とかしてガス抜きし、会社への風当たりを減らす為に、
色々なトリックが紹介されますが、実際にこんな商売があるんでしょうかね。
で、主人公の会社は社員教育も引き受けているようですが、
その時、常に笑顔を絶やさない為の技術が『テキーラ』なんですね。


写真をとる時の『ハイ・チーズ』とかいうのは知ってましたが、
今度はテキーラで笑顔を作るんだそうです。(^^;)
そうした意味で、主人公の会社は『他人に、
嘘の付き方を伝授する』のを商売としている分けですが、
そこへ娘と同級生の少女が自殺するという事件が起こって、
今度は自分が真実を隠蔽する側になってしまいます。

その自殺には例によっていじめの疑いがあり、
そこから自分の娘に嫌疑がかかって来る分けですが……
この辺はさすがに、世相を良く捕らえていますね。
第一の嫌疑は、自殺した少女が残した落書きのようなメモですが、
その少女の方にも色々と問題が多かったということから、
担任の教師らと主人公はひそかに相談した末、
『そのメモは握りつぶそう』とかいう話になります。

でも……同じ嘘とは言っても、これは人の生死に関わる嘘ですから、
ユニフォームの色落ちに関する嘘とは、次元が違いますよね。
それを、幾ら自殺した少女に問題があったからと言って、
重要な証拠となりうるメモを処分してしまう、
なんていう発想は全く理解に苦しみます。
少女の肉親にとっては、大切な遺品でもありますしね。


まあ、こういう所は何と言っても保身が優先する、
学校や教師の典型的な発想なのかもしれませんが、
それに乗っかる主人公の側にも、生き方の甘さを感じますね。
たとえ、それが自殺者の両親をどれだけ刺激するとしても、
ここはやはり、全ての事実を明らかにした上で、
きちんと両者が向き合い、とことん話合うのが筋ではないでしょうか。
こうして真相を闇から闇に葬るやり方は、決して好ましくないですよね。

しかしその後、今度は自殺者の母親から、もう一つ物証が出て来て、
白紙の日記帳か何かに、主人公の娘の名が大きく書いてある分けです。
妻に死なれた主人公は、娘と二人暮らしをしていたのですが、
そのせいか、その日記帳を突きつけられた時も逃げ腰でした。
で一応、娘に事情は聞いてみるものの『しつこい』とか言われただけで、
それ以上は聞けずに、引き下がってしまう始末でした。

因みに、主人公がその日記帳を返しに行った時、
余りに早すぎると怒って、母親が取り乱す場面がありました。
その時、人間の心の闇を暗示するかのように、
土俗的な仮面を登場させていた演出が印象に残りました。

155 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2008/12/10(水) 12:24:45 [ 234.net220148125.t-com.ne.jp ]
  ●●●本当と嘘とテキーラ(2008年05月)☆☆☆●●●(2/2)

それで相手の母親は、仕方なく主人公の娘を勝手に連れ出して、
何か手がかりとなる話がないか聞き出そうとします。
しかし、この娘の方も毎日、父親を見ていますからね。
その嘘の付き方をまねしたというべきか、
母親から色々と探りを入れられても、ごまかし通したようです。

結局、その後でやっと娘が父親に真相を告白することになりますが、
余り親しくない同級生の少女に絡まれて争った末、
『死ねば』と言い放った、という事実が出て来ます。
それで、父と娘が揃って母親を訪ね、
全てを打ち明けるという展開になるので、
最初に学校側がごまかそうとしたことの問題性が、
結果的には帳消しにされたような感じですかね。

その点、事件処理の方法としては、ほぼ完璧と言って良い運びですが、
それにしても尚『最後に父娘と母親が一緒に花見をする』
というハッピーエンドのような結末には、
抵抗を感じる人が少なくなかったようです。
例えば、このブログにも色々と書かれていますね。
  http://konkaji.blog52.fc2.com/blog-entry-338.html
因みに、より詳しい荒筋もこのサイトにありました。


少女の自殺の真相については、それ以上のことは何も語られません。
後は『その少女自身に色々と問題があった』ということで、
あいまいにされてしまっていますが……
ドラマとしては、まあこの辺が限界なんでしょうかね。
何と言っても、このドラマで主役の主人公を演じているのが、
典型的な赤犬顔の佐藤浩市ですしね。(-_-;)

その点からしても、このドラマには、
もう一つ、素直に入って行けませんでした。
仮に、現実に似たような事件があったとして、
敢えて、その背景をかんぐるとするなら、
これは洗脳迫害に伴う事件でしょうね。

つまり、この少女はその手の嫌がらせや迫害の中にいて、
追い詰められた末、最後は自殺したと考えられます。
その場合、親も含めて洗脳工作に関わっている分けですから、
余り他人の責任ばかり問い詰められないんでしょうね。
その帰結として『当人が問題児だった』みたいな所で、
幕引きされてしまうんだろうと思います。


例えば、元厚生事務次官への連続テロにしてもそうでしょ!?
マスコミでは『昔、保健所で殺されたペットへの復讐』
とかいう話が表面的に大きく取り上げられていますけどね。
これなんか、私から見ると典型的な洗脳失敗事件ですよね。
この犯人の場合も長年、洗脳迫害の中を生き抜いて来たように見えます。

自殺した芥川龍之介の昔の白黒写真などを見ると、
彼と同様に『射る様な目つき』をしていますけどね。
実は、それこそがまさに自由な人間の証(あかし)であって、
洗脳された赤犬には、決してないものなんです。
ただ、この犯人の場合、行く先々の職場でいじめや迫害に会っても、
その背景に何があるのか結局、理解できなかったんでしょうね。

ですから最後は、そうした生活の中で不満を募らせた末に、
一つの出口として、昔のトラウマに行き着いたんだろうと思います。
『子供が可愛がっているペットを、父親が勝手に、
保健所に連れて行って処分してしまう』というのも、
考えようによっては、随分ひどい話ですけどね。
多分、それもまた『洗脳の為にやった嫌がらせ』
の一つだったのではないでしょうか。

156 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2009/01/11(日) 11:57:22 [ 164.net220148117.t-com.ne.jp ]
  ●●●華氏911(2004年)☆☆●●●(1/3)

遅れに遅れて、とうとうこんな時節になってしまいましたね。(^^;)
今や共和党政権の退陣が決まり、オバマの大統領就任式も間近ですが、
でも、単なる『共和党と民主党の交代』なんていう党派的視点を超えて、
米国という国家そのものの成り立ちを根本的に考え直す上では、
今というのも、決して悪くないタイミングではないかと思います。

先ず冒頭は、2000年の大統領選挙でのブッシュ当選に関し、
選挙のイカサマぶりを告発する所から始まっていますね。
でも日本人から見る限り、大差が付くような勝負でない場合、
多少の票差であれこれ言うのは、虚しいような気がします。
つまり僅差なら、どっちに転んでも文句は言えないですよね。

因みに、この時の選挙では電子投票に関しても、
色々な混乱や不正があった、という主張がなされていましたよね。
今後、日本でも電子投票を導入しようという画策がある以上、
そうした点も、忘れてはならないポイントではないかと思います。
例の裁判員制度にしてもそうですが、ユダヤ主義の狙いは、
政治や社会を混乱させ、引き回すことにあるようですからね。


その後の911テロの対応をめぐっては、しきりに、
大統領としてのブッシュの無能さを強調していますが……
でも、こうした場合、後からなら何とでも言えますからね。
ああした突発的な事態では、誰でも混乱して当り前な分けで、
『ブッシュがとりわけ有能だった』とは言えないとしても、
とりわけ無能だった、とも言えないんじゃないでしょうか。
例えば、阪神淡路大震災の時の日本の村山首相の対応にしても、
随分、間が抜けてましたものね。

その意味では、この映画のような『事後的な揚げ足取り』には、
大した意味がないし、全体にこの映画には、
その手の後付けの理屈が多すぎるように感じました。
とえあえずブッシュ叩きに徹することで『ユダヤ謀略という観点から、
大衆の目を遠ざける』という効果はあったんでしょうね。
因みに、米国映画では当たり前かもしれませんが、実際問題として、
この映画のスタッフにはユダヤ系の名が多いですね。
詳しくは知りませんが、何とかマンという名前は大体ユダヤ系でしょ!?

この映画の出演者の中にも、例によってむかつくユダヤ顔は多いですしね。
例えば、兵器産業カーライルの問題を告発した作家のDan Briodyとか、
防弾車メーカーのBlaine Oberとかが、その典型ですね。
そうした意味では、911の跡地を訪問した日本の有名人などが、
ことさら悲劇を強調するばかりで、被害者意識の観点でしか、
ものごとを見ようとしないのも、私には随分と滑稽に思えます。
911事件での消防士の献身的な活動を描いたドラマなんかにしても、
全く同じ意味で、鼻白む思いがしました。(-_-;)


それよりもっと大切なことは、911事件の後の、
アフガン攻撃やイラク開戦前の米国のマスコミ論調を、
今の時点できちんと再評価することではないでしょうか。
というのも、米国のマスコミは普段こそ、
割とバランスがとれた報道をしていますが、
戦争前になると突然、ギア・チェンジでもしたかのように、
露骨な戦争策動を始めるからなんですね。

後になって『どの議員がイラク開戦に賛成したか』
なんて議論をしていますけど、そんなことよりも、
むしろ『嵐のような戦争策動を始めるユダヤ・マスコミ』
の論調の変化をきちんと把握しておくことの方が、
アメリカの将来にとって、はるかに有益なことだろうと思います。
まあ、大衆の忘れっぽさも問題かもしれませんが、それ以上に、
マスコミの情報操作がどれ程ものすごいか、ということですね。

この映画の最後では、ジョージ・オーウェルの言葉を引用して、
『戦争の目的は勝利ではなくその継続である』とか、
『戦争は支配者が被支配者に対して行うものであり、
その目的は体制を永続的に維持することである』などと言っていますが……
それは、いわゆる階級闘争史観の理論とそっくりですから、
ある意味で、極めて共産主義的な発想とも言えるでしょうね。
ただ、それを少しひねって、支配者の『ブルジョア階級』という所を、
『ユダヤ主義』と読み替えると、世界の現状にドンピシャリだと思います。

157 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2009/01/11(日) 12:00:40 [ 164.net220148117.t-com.ne.jp ]
  ●●●華氏911(2004年)☆☆●●●(2/3)

その後も、この映画は色々と多くの問題を暴いてはいますね。
ブッシュ親子が関わる兵器産業にサウジ王族が多額の出資をしていて、
それで911事件の直後、ビンラディン一族の出国に便宜を図ったという話、
或いは、アフガン経由のパイプラインの利権絡みで、
オサマ・ビンラディンの探索作戦がおろそかにされたという話、
更には、連邦議員の子供に兵士が一人しかいないという話……。
でも、こうしたもろもろの告発は、結果的に、
事態の本質から目を遠ざけているだけのように思われました。

つまり、それらの個々の事実関係自体、嘘ではないとしても、
それはユダヤ主義の工作を霞ませているだけだということですね。
特に『イラクは一度も米国を攻撃したことがないし、
米国にとっての脅威でもなかったのに何故、
一方的に戦争を始めたのか』という疑問に関し、この映画では、
『イラクの石油利権が最大の狙いである』とか言ってますけどね。

それは明らかに、問題の本質をすり替える為のごまかしですよね。
だって、ユダヤ支配の観点からすれば、答えは火を見るより明らかでしょ!?
イラクはたとえ米国の敵でなくとも、ユダヤ国家の敵なんですね。
つまり、イラクはイスラエルの存続にとって脅威だから、
攻撃してつぶしたまでのことなんです。


その意味で所詮、米国はユダヤ支配の奴隷国家に過ぎない、
ということを米国人は思い知るべきでしょうね。
そういう観点から見ると、この映画は予想以上にくだらない映画で、
全ては『ユダヤ主義の工作から目をそらす為のごたく』
に満ちている、と言っても過言ではないと思います。
ただ、ひとつ興味深かったのは『恐怖を煽るやり口』に関して、
それを口実に、米国民の自由を奪う工作が述べられていたことです。

その結果、手紙やメールの検閲が正当化されたようですが、
実は、その法案は911事件の前から準備されていたと言うんですね。
私から見ると、それこそが911テロの主眼か、という気もします。
つまり、私が流す謀略データの拡散を恐れたユダヤ主義が、
情報の流れをコントロールする仕組みを事前に用意する為に、
あんなテロを起こした(起こさせた)可能性がある、ということです。
その意味では、炭疽菌テロ事件にしても同様で、
『手紙を検閲する』為の口実作りに利用した疑いが濃厚ですね。

唯一の救いは、末尾のテロップでイラクだけでなく、
アフガンの犠牲者についても、触れられていたことです。
つまり、この映画には、あくまでアフガンも含めた反戦の意志があって、
その点で、オバマの立場とも少し違うと言えますよね。
で問題のオバマですけど、その後の言動から総合的に判断する限り、
彼もやはりクロのようですから、余り期待はしない方がよいと思います。


日本との関わりという点で言うと、これまた随分書き遅れましたが、
石破防衛大臣(当時)という人は、人相も悪いが、
頭はもっと悪いという感じでしたね。(^^;)
去年の夏頃だったか、インド洋での海上自衛隊の給油活動に関し、
随分と間の抜けたことを言っていました。

結局『世界をどうしたいのか』ということに関して、
何の思想も戦略もないまま、ただ単に『欧米の尻を追いかけないと、
日本が孤立する云々』という論理ですからね。
まあその点では、自民党の政治家は皆、大同小異でしょうけど、
他にも、外交評論家の岡本行夫だとか、むかつく奴は多いですね。
皆、米国のケツをなめることしか眼中にないみたいですからね。

それに比べると、最近の騒動で『核武装と米軍撤退による真の日本の独立』
を主張した田母神幕僚長の方がよほど、見識があったと思います。
要するに、核を持っていないから『兵を出さないなら、もっと金を出せ』
なんて、なめたことを言われる分けですし、核を持っていないから、
中国やインドのように、腰の座った主張も出来ない分けですね。
結局、戦争によって世界を引き回すのがユダヤ主義の戦略であると知るなら、
『そうしたユダヤ支配の下では、軍事的には一切何も貢献しないことが、
世界平和への何よりの貢献である』とも言えるんじゃないでしょうか。

158 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2009/01/11(日) 12:03:05 [ 164.net220148117.t-com.ne.jp ]
  ●●●華氏911(2004年)☆☆●●●(3/3)

それから『テロとの戦い』という言い回しに関し、
私が前から気になっていることがあるんですが……
ある意味で、テロというのは弱者の最後の手段なんですね。
つまり、米国の戦略に従いたくないアラブ人は、
正規軍による戦争では全く勝ち目がないから、
テロに訴えるしかない、という事情があると思うんです。

無論、その場合には『米国と反米アラブ人のどっちの主張がより正しいか』
という議論は外せないとしても、少なくとも、
テロが『ユダヤ主義に追い詰められたアラブ人の最後の拠り所』
であると考えることは出来る分けですね。

他方で日本には、古来の侍の美学として、
『強きをくじき、弱きを助ける』というのがある分けですね。
少なくとも明治以降の気骨ある日本人は、
それを自分の美学としていたはずなんですが、
その点、最近の日本人は一体どうなっているんでしょうか。


『テロとの戦い』なんて言いますけど、
ユダヤ支配の欧米が主張する『対テロ戦争』なるものに、
無思慮に協力することは、結果的に『弱き(アラブ)をくじき、
強き(ユダヤ)を助ける』ことにしかならないんじゃないですか!?
自民党が対テロ特処法でやろうとしていることは、
まさに、そういうことじゃないかと私には思える分けですが、
それは古来、日本人が最も忌み嫌ったことではないんでしょうか。

無論、ひと口にテロといっても、様々な状況があり得ますし、
うかつにテロを肯定する事は、非常に危険ではある分けですね。
でも、少なくとも『中東絡みで起こるテロに関しては、
もう少し別の見方をしてもいいんじゃないか』というのが、
ユダヤ支配と長年、戦って来た私の言い分である分けです。
その場合、特に自爆テロという形態が問題なんですね。

例えば、少し前の東京地裁の判決で『刑務所に入りたくて、
他人を刃物で切り付けた79才の老女』が有罪とされましたが、
私が裁判官なら、敢えて無罪にしたい所ですね。
何故なら、真の問題は老女をそこまで追いつめた社会にある分けで、
全ての責任はそういう社会を作った政治家たち、及び、
その政治家を選んだ選挙民にある、とも言える分けですからね。


実際問題として『彼女が身勝手だ』なんて批判しても無意味ですし、
刑務所に入りたくて犯罪を犯す者を刑務所に入れることは、
犯罪への処罰どころか、報酬にしかならない分けでしょ!?
ですから、この場合、そういう方法で犯罪を抑止できないことは、
誰が考えても明らかな分けです。

『自殺代わりに死刑になりたくて殺人を犯す者』にしても全く同様で、
処刑に報復としての意味はあっても、犯罪抑止の効果は皆無ですよね。
その意味では、自爆テロでも似たようなことが言える分けです。
欧米人には『背後にある組織を処罰しさえすれば、
自爆をくい止めることが出来る』という発想があるようですけどね。

でも、自分の命と引き換えに行うそうした行為は、
最終的に、何をやっても止められないんじゃないでしょうか。
その意味で、そうした行為が起こる根源の問題を処理しない限り、
何ら根本的解決にはならない、ということを知るべきなんですね。
つまり、今の世界を覆うユダヤ支配が全ての悪の元凶であり、
それを倒さない限り、何の解決にもならないということです。

159 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2009/02/03(火) 11:04:22 [ 244.net059085211.t-com.ne.jp ]
  ●●●リゴレット(2006年11月チューリッヒ歌劇場)☆☆☆●●●(1/7)

これはベルディの有名なオペラですが、実を言うと、
私がビデオで最初に見たオペラが、この演目だったんですよね。
その時は、フジTVの深夜枠でやっていたのを録画したんですが、
いきなり冒頭から、ちょっとエロイ演出でビックリしました。(^^;)

今回の演出でも、トップレスみたいなのが出て来ましたけどね。
結局、これまたプレイボーイの話で『どこかの好色な公爵が、
あちこちの娘に手を出して騒動になる』という展開は、
例のドン・ジョバンニとも良く似た物語なんですね。

で、最初に見た時は、音楽的にもそれなりに楽しめた気がしますが、
ワグナーを始めとして沢山のオペラを見た今の時点で見直すと、
音楽的には、それほど大した内容はないという感じですね。
一番、有名なのは例の『女心の歌』ですが、
『ミーミーミー・ソーファレー』という奴ですよね。


さて、物語はマントバ公爵の館で催される舞踏会から始まりますが、
この場合、公爵とは言っても、公国の国王かもしれませんね。
その時、公爵はある伯爵の令嬢で、別の伯爵に嫁いだ夫人に目をつけ、
彼女をたぶらかすのに成功するので、騒ぎが起こります。
その時、公爵に仕える道化師で、醜いせむし男のリゴレットは、
いつも通り、公爵にこびを売る為に夫の伯爵を笑い物にします。

そこに娘の名誉を傷付けられたと怒って、老父の伯爵が現れると、
リゴレットは彼をも嘲笑するので、老父は呪いの言葉を叩きつけます。
その呪いに怯えつつ家路を急ぐリゴレットの前に、一人の殺し屋が現れ、
『殺しが必要な時はいつでも呼んでくれ、妹も協力する』と告げ、
またここで会おうと言って去ります。

自宅に戻ると、そこに待っていたのは美しい娘・ジルダでした。
リゴレットの娘は最近、故郷から出て来たらしいのですが、
教会に行く時以外、父親が外出を禁じて家に閉じ込めておくので、
街を見物できないことに不満を持っています。


でも……そもそも、そんなに大切な娘なら、何故わざわざ、
危険な都会に呼び出すのか、もう一つ事情が良く飲み込めませんね。
それさえなければ、こんな悲劇は起こらなかったわけですしね。
で、娘を危険から守るように、乳母によくよく言いつけて父親が去ると、
さっそくそこに忍び込んで来たのが、例の色好みの公爵でした。

公爵は『自分は貧しい学生だ』と偽ってジルダを安心させ、
彼女を教会で見て一目惚れしたと、自分の恋心を打ち明けます。
実はジルダの方でも彼には既に気付いていて、
密かに慕っていたので、彼女は有頂天になってしまいます。

一方、日頃リゴレットを快く思っていない公爵の部下たちの間では、
『リゴレットには美しい愛人がいる』という噂が広まっていました。
そこで、彼らはその愛人を公爵邸に誘拐して来て公爵に貢ぎ、
リゴレットに一杯食わせて、笑い物にしてやろうと企みます。

160 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2009/02/03(火) 11:08:21 [ 244.net059085211.t-com.ne.jp ]
  ●●●リゴレット(2006年11月チューリッヒ歌劇場)☆☆☆●●●(2/7)

ある日、廷臣たちが愛人を誘拐する為にリゴレット邸付近に集結していると、
丁度そこへ、リゴレットが帰って来ました。
廷臣たちは『これから例の伯爵夫人を誘拐に行く所だ』とだまし、
リゴレットにも手伝わせようとします。
暗闇で目隠しをされたのにも気付かず、リゴレットは梯子を押さえて、
誘拐の手伝いをしますが、目隠しに気付いて取り去った時、
誘拐されたのが実は自分の娘だったことを知り驚愕します。

他方、ジルダが誘拐されたことを聞いた公爵は当初、
事情が分からぬままに、彼女の身の上を案じますが……
何のことはない、実際は廷臣たちが公爵の為に誘拐して来たのでした。
で、公爵がジルダのいる部屋へ去ると、リゴレットがやってきて、
娘が邸宅の中にいないかとさぐりを入れますが、
やはり公爵と一緒と分かると、怒りを爆発させます。
そこへ、部屋から出て来た娘が『公爵に辱めを受けた』と言って泣くので、
彼は復讐を誓いますが、ジルダ自身は尚、公爵を愛しているのでした。

さて、ある河畔の安宿にジルダを連れたリゴレットがやってきて、
公爵がどんなにいい加減な男かを教えようとします。
ここで公爵は前述した『女心の歌』を歌う分けですが、今度は、
例の殺し屋の妹をくどき落して、二人は安宿の中に消えるのでした。
こうしてリゴレットは何とか娘を説得し、故郷に帰るよう命じると、
例の殺し屋に前金を渡して、公爵の殺害を依頼しました。
ところが、殺し屋の妹も公爵に惚れてしまっていて、
兄に殺害をやめるよう頼むので、問題がややこしくなります。


兄も前金を受け取った以上は、殺しをやめる分けに行きません。
そこで結局、適当な身代わりを探そうという話になり、
午前0時までに安宿に来た男を、身代わりにしようと決めました。
しかし、そこへ公爵を尚あきらめ切れないジルダが、
旅支度の男装をして、再び舞い戻って来ていました。
その結果、二人の話を盗み聞きしてしまった彼女は、
自分が公爵の身代わりになろう、と決意するのでした。

事が終わった時、リゴレットがやって来て、後金と引き替えに、
死体入りの袋を受け取りますが、袋を川に捨てようとしたその時、何と、
帰って行く公爵が歌う『女心の歌』が聞こえて来るではありませんか。
あわてて袋を開けると、中から出て来たのは虫の息のジルダでした。
彼女は父の言いつけに背いたことをわびつつ息を引き取るので、
リゴレットは『伯爵の呪いが現実になった』と絶叫して幕となります。

結局、例の復讐禁止の戒律が、ここにも影を落しているんでしょうね。
その意味で、復讐がすんなりと成功することはあり得ず、
ここでも『トスカ』と似たような苦い結末を迎える分けですね。
その点では、劇のドラマチックな構成は『トスカ』に匹敵しますが、
音楽的には、トスカの方が上手のように思います。


この物語の原作は、ビクトル・ユーゴーの戯曲『逸楽の王』ですが、
実は、その戯曲の上演をめぐっても、ひともんちゃくあったようですね。
この作品は、7月王制のフランソワ一世の放蕩をモデルとしていた為、
1832年にパリで初演された時、翌日には上演禁止となったそうです。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88

7月王制と言えば、例の『居酒屋』のナポレオン三世の時代より、
少し前で、ブルジョアが支配する世の中だったようですね。
で、この戯曲のオペラ化にあたっては、ベルディも色々と苦労し、結局、
舞台をイタリアの小国に変更することで、当局の検閲を免れたようです。
日本の文楽や歌舞伎にしても、権力者の話題を扱う時は、
時代背景を入れ替えたりしていますから、良く似ていますね。(^^;)

因みに、今回の演出で公爵を演じたピョートル・ベチャーラは、
例のドン・ジョバンニでは、オッタービオを演じていた人ですね。
あの時は、父親を殺された恋人の為に復讐を誓う正義派の青年だったのが、
今度は女たらしの悪役という分けですから、何とも皮肉な配役です。(^^;)
それから、このオペラの指揮をしたネッロ・サンティという人は、
『良くあれで立っていられる』という位のすごいビール腹ですね。
最近、騒がれているメタボの典型という感じでした。(^^;)

161 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2009/02/03(火) 11:19:28 [ 244.net059085211.t-com.ne.jp ]
  ●●●リゴレット(2006年11月チューリッヒ歌劇場)☆☆☆●●●(3/7)

さて、ドン・ジョバンニの話が出たついでという分けでもないんですが
またまた、源氏物語のその後の展開についてまとめてみたいと思います。
先ずは例の玉葛をめぐる話ですが、ここでも光源氏の振る舞いは、
どこまでもエゴ丸出しで、グロテスクなモンスターを見るようですね。

結局、当時の身分制度故に、どんなに不埒な振る舞いも許されてしまい、
誰からも何の批判も受けないことの結果として、
こういう精神的にかたわな人物が出来上がるんでしょうね。
因みに、この源氏物語の時代には、既に世間の目というものがあって、
登場人物たちは『こんなことをしたら世間に笑われないか』
と常に気にしているのが、非常に興味深い点です。

昔、ある米国人は『欧米は罪の文化、日本は恥の文化』と言いましたが、
案外、こうした所からヒントを得たのかもしれませんね。
つまり、欧米人は『神様の目に対してどう生きるか』が問題なのに比べ、
日本人は、むしろ『世間の目に対してどう生きるか』が問題なんですね。


ただ、日本にも仏教という宗教があり、少なくとも平安時代頃には、
現代とは比較にならない位、巨大な影響力を及ぼしていたはずなんですね。
でも、人々の行動を縛る規範としては『仏様の目に対してどう生きるか』
という意識は案外薄くて『世間の目に対してどう生きるか』つまり、
『世間の笑い物にならない為にどう生きるか』が主要な関心事のようです。
この辺は一つには、やはり仏教という宗教の特性も絡んでいるんでしょうか。

つまり、仏教では『現世へのこだわりを捨てろ』
という教えが核心をなす結果、殺生するな、嘘をつくな等の戒律が、
積極的に意識されることが、むしろ少ないのかもしれません。
或いは、キリスト教の場合『汝の敵を愛せ』みたいな、事実上、
実行不可能な戒律が多いので、必然的に意識から離れないんでしょうかね。

その点、近年は日本人の宗教意識が希薄になってしまったのに比べ、
日本人の行動規範は、平安時代以来ほとんど変わっていないようですね。
つまり、あくまで世間の目に対してどう生きるかが問題な分けです。
結局、日本人はそうやってお互いの目を意識することを通じ、
自分の行動を律している分けでしょうね。


それに比べ欧米人の場合、ひとたび信仰を失った途端、
いきなり真っ暗闇に放り出されるというか……もう、
人殺しでも何でもあり、の世界に陥るのかもしれませんね。
例えば『罪と罰』のラスコーリニコフみたいなもんですよね。
少なくとも欧米人の場合、世間の目はあまり気にしませんからね。

それなら、中国人やインド人はどうなのか、という話になりますが、
インド人はヒンドゥー教、中国人は儒教が規範と言うべきなんでしょうか。
それとも案外、日本同様に世間の目なんでしょうかね。
どなたか良い知恵があったら教えて下さい。(^^;)

結局『世間の目に恥じない生き方をする』ということが、
日本人の行為の規範になっているとすれば、それは、
学校でのいじめ問題とも、深いつながりがあるかもしれませんね。
つまり幼い頃から、そうした社会関係の中で、もまれることを通じて、
日本人は『正しい生き方』『まっとうな生き方』というものを、
自然に身につけていくような気がします。

162 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2009/02/03(火) 11:24:59 [ 244.net059085211.t-com.ne.jp ]
  ●●●リゴレット(2006年11月チューリッヒ歌劇場)☆☆☆●●●(4/7)

大分、脱線しましたが、源氏のエゴイズムという点で言うと、
先ず、玉葛を引き取った際の経緯がありますよね。
その昔、源氏が夕顔の君(頭の中将の元愛人)を自分の女にした後、
なにがしの院へ連れ出した時に、彼女が急死してしまう分けですね。
その時、ことが公になると面倒と考えた源氏は、家来の惟光に命じて、
死んだ彼女を実家にも知らせず、勝手に火葬してしまうのでした。

この辺にもまあ、当時の権力者の横暴ぶりが見て取れますが、
その時、彼女の付き人で源氏との仲を取り持った右近は、
そのまま源氏が引き取って面倒を見ることになります。
その結果、夕顔は行方不明ということになってしまうので、
他の付き人たちは、彼女の娘(玉葛)を連れて、
九州へ都落ちすることになる分けです。

ところが、その玉葛が九州で美しく成長すると、
地元の豪族たちが無理やり婚姻関係を迫ってくるので、
彼女たちは逃げ出すようにして、再び都に登って来るのでした。
玉葛は一応、大貴族の血を引く高貴な姫君ですから、
田舎豪族の嫁などにはやれない、という分けでしょうね。


その時、玉葛一行は、願掛けに行った先の長谷寺で、
偶然にも、右近とばったり出くわす分けですね。
で、それを聞いた源氏は、玉葛が本当は頭の中将(元)の娘と知りつつ、
勝手に自分の娘にしてしまうのでした。

その時の理屈が『頭の中将には既に沢山の子がいるから、
もういらないだろう』とか言うんですが……
現代人からみたら、とんでもなく身勝手な理屈ですよね。
その上、当時の権力闘争は『自分の娘を天皇の嫁にして、
娘が男子を生んだら次の天皇に据える』ことにあった分けですから、
その点からしても、よそ様の娘を横取りするなんて論外ですよね。

そもそも、頭の中将がいくら子沢山とは言え、多くは男子だったので、
女子を欲しがっていた、という事情もある分けです。
ですから、頭の中将は自分の隠し子に女子がいないかと捜し回った末、
近江の君などというトンでもないのを捜しあてて、
恥をかいたなんていう話が、後から出て来る分けですね。


で、源氏は当初、その玉葛を六条邸の目玉のようにして宣伝し、
貴公子たちを自邸におびき寄せては、集めた蛍の光にすかして、
チラチラ見せびらかしたりして、楽しんでいたみたいですね。
そうした貴公子の中に、髭黒の大将や実弟の蛍の宮がいた分けです。

ところが、そうこうする内に今度は自分が玉葛を欲しくなり、
口説き始めるという始末なんですね。
しかし、世間的には一応、親子という触れ込みですから、
玉葛は困ってしまう分けですが……彼女自身としては、
蛍の宮あたりを本命と考えていたらしく、
彼の恋文にだけは返事を書いたりするのでした。

その後、源氏は玉葛を天皇の尚侍(ないしのかみ)として出仕させようと考え、
彼女の裳着の儀(成人式)に頭の中将を呼んで、親子の対面をさせます。
この点で解説者は『こうした源氏の行動の隠された狙いとして、
玉葛を頭の中将の娘として公表し、尚侍として出仕させた後は、
自邸に引き取って、改めて自分の愛人にしようと考えたのではないか』
と言っていましたが、そうなると話はますます分かり易いですね。(^^;)

163 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2009/02/03(火) 11:28:32 [ 244.net059085211.t-com.ne.jp ]
  ●●●リゴレット(2006年11月チューリッヒ歌劇場)☆☆☆●●●(5/7)

因みに当初、源氏から自邸に呼ばれた時、
頭の中将は、夕霧と雲居の雁の仲を引きさいた件で、
再考を促されるのではないか、と思い込んだようですね。
夕霧と雲居の雁は幼馴染みで、互いに思い合っていたのですが、
頭の中将からしたら『天皇に嫁がせて権力の足掛かりとする為の、
大切な娘を夕霧になんかやってたまるか』と言うわけでしょうね。

でも、この光源氏という怪物は、
『自分の息子の為に骨を折ろう』なんてタマでは全く無くて、
どこまでも自分の欲望のことしか、眼中にないみたいですね。
例えば『才能があっても、親以上の出世は難しい』という理屈で、
夕霧を、あえて低い官位から出発させるようなことをしますが、
それは一見、息子思いのようで、必ずしもそうではなさそうですね。
結局、夕霧の恋より自分の恋という分けで、彼にとっては、
息子の夕霧すら恋敵だったのかもしれません。

因みに『子供が優れていても親以上に出世できない』というのは、
何と言っても、当時と現代との事情の差が大きいでしょうね。
現代では、親の選挙区を受け継いで、
楽々と当選して来る代議士も珍しくないですけどね。
当時の身分社会では『天皇からの血筋の近さ』が全てで、
血筋が遠くなるほど、出世の可能性はなくなる分けです。


その意味で、天皇の息子である光源氏と、
天皇の孫に過ぎない夕霧とでは、雲泥の差があるようですね。
現代でも、庶民は天皇家の子息なら誰でも知っていますが、
天皇の兄弟の子息(つまり先代天皇の孫)となると、余り知らないでしょ!?
その上、当時は一夫多妻で、子供が何十人もいるのが普通ですから、
親の権威が子に受け継がれる可能性は、ますます小さくなる分けです。

結局、天皇の周辺からは新たな皇族が次々と生まれ、その一部は、
高位の貴族としてどんどんスピンアウトして来るわけですね。
ですから、天皇の子供の更に息子ともなると当然、影が薄くなります。
その意味で、ちょっとやそっとの才能がある位では、
親と同じ官職につく可能性は、先ずない分けですね。

その点では、例の平治物語にも似たような現象がありました。
つまり、源義朝が落ち延びていく途中、部隊を二手に分けて、
長男の『悪源太義平』が一方を率いて別の道をくだる分けですね。
ところが、義朝が暗殺されたという知らせが伝わった途端に、
その別動隊は、たちまち雲散霧消してしまう分けです。


現代の常識からすると、父親が暗殺されたなら、
その息子が権威を引き継いで、結束を保つのが自然でしょうが、
当時は全くそうならない、というのを少し不思議に感じました。
まあ、この場合は親の義朝が天皇から左馬頭という官職を受けていて、
それが権威の源だったという考え方も出来るでしょうけどね。

他方、源氏が玉葛を勝手に自分の娘にしてしまった件では、
頭の中将は、何の恨みつらみを言うわけでもないようですね。
結局、この二人は当初からライバルとして扱われますが、
それはあくまで表面上のことに過ぎなくて、
実際は身分的な上下関係が厳然とあったんでしょうね。
ですから、何をされても最終的に文句は言えないんだろうと思います。

結局、そのライバル関係なるものも、
一種のお遊びとしてのものなんでしょう。
例えば、玄宗皇帝と李白とが表面上は、
どんなに友人同士のように振る舞うとしても、
実際上は厳然たる身分格差があったのと似ていますね。

164 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2009/02/03(火) 11:32:08 [ 244.net059085211.t-com.ne.jp ]
  ●●●リゴレット(2006年11月チューリッヒ歌劇場)☆☆☆●●●(6/7)

その後の展開としては、
女房の一人が髭黒を玉葛の部屋に導き入れるので、
二人が関係を持ってしまうことになります。
玉葛としては本当は蛍の宮を慕っていたので、
こうした女房の勝手な振る舞いに大分、
機嫌をそこねたようですが……私の見るところでは、
ここには頭の中将の差し金があったように思います。

つまり、一介の女房が独断でそこまでするとは考えにくいわけで、
『玉葛までをも自分の愛人にしようと画策する源氏の意図に勘づいた彼が、
自分の息がかかった女房に指図して、髭黒を導き入れた』
と考えるのが自然ではないか、と思うわけです。
その意味で、頭の中将も最後には、源氏に一矢報いたことになりますね。
玉葛は最終的に、自分の娘だった分けですから、
そこまで源氏のやりたい放題にはさせないぞ、という分けです。

そして、次の焦点は女三宮をめぐる経緯ですが……この辺は、
源氏という漁色男によるエロティシズム追求の極致という感じですかね。
ここでも、彼女を熱望していた柏木(頭の中将の長男)や、
自分の息子の夕霧を差し置いてでも、何とかかんとか理屈をつけて、
自分の愛人にしてしまう分けですね。


上皇が出家する際に、娘を安心な状態にしておきたいと考えるのですが、
源氏は『上皇の為に』女三宮という高貴な姫君の面倒を見るのだ、
という口実で引き取ると、紫の上の本拠を取り上げるみたいな形で、
彼女を隅に追いやってしまうのでした。
現代で言うなら、愛人の為に買い与えた高級マンションを、
都合が変わったからと、取り上げてしまうみたいなもんでしょうね。(^^;)

それで『結婚から三日間は毎晩通う』という当時の慣例に従って、
紫の上と同居する部屋から出かけて行くわけですが、
その場合、三日目には、わざと行くのをためらってぐずぐずし、
紫上が自分に出かけるよう促すように仕向ける分けですね。
この辺は、一種の精神的な3P(トリプル・プレー)狙いのようです。
その点では、泉式部日記にあった似た場面を思い出します。

この和泉式部という人も女としては結構色好みで、
色々な男と出入りが多かったようですが、
ある貴族が彼女を愛人にした後、地方に行く別の愛人と別れるという時に、
自分の代りに、その女への別れ文を書かせるという話があります。
その時、泉式部は男の立場で『女に送る和歌』を作らされる分けですが、
これなんか、精神的な3Pの典型ではないでしょうか。
  惜しまるる 涙に影は とまらなむ 心も知らず 秋は行くとも
  http://blog.livedoor.jp/mizuho1582/archives/2007-01.html#20070128


そうしたことから、紫上は心痛がたたって寝込んでしまう分けですが、
療養の為に彼女が二条院に移った後、源氏が看病の為に本宅を空けたすきに、
今度は、柏木が六条邸に忍び込み、女三宮と密通するという事件がおきます。
その結果、宇治十条の主人公・薫の君が生まれて来る分けですが、
それに勘づいた源氏が、女三宮を責めるので彼女は出家し、
他方、酒席で散々にいびられた柏木は病死してしまいます。

という分けで、源氏の欲望追求は、
周囲の人間をどんどん不幸に追いやる感じですが、
そうした源氏の専横に関しては、誰も逆らえないようですね。
その点、同じ漁色でも髭黒や夕霧の場合、少し様子が違っていて、
怒った正妻が実家に帰る、という現代的な展開になります。(^^;)

以前に、通い婚について色々書いた時、
『妻を囲うになったのは武家社会になってからだ』
と書いたような気がしますが、実際には、
既にこの物語の頃が過渡期だったようですね。
例えば、光源氏にしても、六条院という巨大な邸宅を作り、
そこに愛人たちを集めて住まわせる、みたいなことをしていますから、
ここでは既に、妻や愛人の囲い込みが始まっている分けですね。

165 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2009/02/03(火) 11:35:09 [ 244.net059085211.t-com.ne.jp ]
  ●●●リゴレット(2006年11月チューリッヒ歌劇場)☆☆☆●●●(7/7)

髭黒と玉葛が関係した後にも、髭黒が彼女を自邸に引き取ろうとすると、
それを源氏が退ける、という場面がありました。
多分、当時の貴族たちは若い時は、あちこちの女に通う一方、
一応の地位を得た後は、自分の邸宅を作って愛人を囲ったんでしょうね。
前述した『夫の浮気に怒った妻が実家に戻る』というような、
現代にも通ずる展開は、通い婚ではあり得ない風俗である分けです。

つまり、そうした事件が起こり得るのは、既にそれが通い婚ではなく、
自宅に妻を住まわせているからこそなんですね。
これが通い婚なら、男が別の女の所に通っても、
文句は言えないというか、分かりさえしなかったでしょうね。
もし、分かったとしても、その時は女の方で訪問を拒絶したり、
別の男を招き入れる、という展開になったのではないでしょうか。

髭黒の話で非常に興味深いのは、玉葛を愛人にした時、
彼の正妻が腹を立てて、玉葛の所に出かけようとする彼の背後から、
香炉の灰を振りかけるという場面ですね。
それで着物を汚し『三日間続けて通う』しきたりを守れなくなった髭黒は、
『中間(ちゅうげん)になりぬべき身なめり』と印象的な嘆息を吐きます。


つまり、妻には嫌われる一方、愛人の家にも行きそびれて、
『何とも中途半端で、あぶはちとらずの立場になってしまいそうな、
我が身であることよ』という分けです。(^^;)
それで妻は結局、娘の真木柱を引き連れて、
実家の藤原家に里帰りしてしまうことになります。
夕霧の場合も似たような事件がありますね。

一度は引き裂かれた幼馴染みの雲居の雁との恋を、
何とか実らせた夕霧でしたが、柏木が病死する時、
正妻である落ち葉の宮の面倒を見るように頼まれます。
それで、彼女の家に通う内に、夕霧が恋心を募らせるので、
今度は、夕霧の正妻・雲居の雁が二人の仲を疑い始めます。
で、落ち葉の宮の母親から来た手紙を恋文と思い込んだ雲居の雁が、
それを夕霧から奪い取ってしまうという事件が起ります。

その場は、何とか取りつくろってごまかした夕霧でしたが、
結局は、落ち葉の宮を愛人として引き取ることになるので、
今度は雲居の雁が怒って、実家に帰るという展開になります。
こういう状況は現代でも十分あり得るので、
現代人はニヤリとする分けですが、それに比べ、源氏の場合、
周囲の人間が全く抵抗できないのが不思議な感じですよね。


つまり、髭黒や夕霧の場合、正妻とかなり対等な印象ですが、
源氏と愛人たちの関係はそうではなくて、
源氏に何をされても抵抗するすべがない感じですね。
まあ紫上の場合、実家などという後ろだてが既に存在しないので、
どこにも逃げ場が無かった、という事情もあるでしょうけどね。

それ以上に、天皇の息子という立場は『雲の上の存在』みたいなもので、
何と言っても、特別なものだったと言えるのではないでしょうか。
源氏と夕霧の愛人問題に関しては、二人の性格の差を言うことが多いですが、
それとは別に、こうした力関係の差も見逃せないように思います。

ところで、この源氏物語で以前から気になっていることとして、
一部の主要な登場人物に固有名詞がない、という問題があります。
私などから見ると『日本の古典研究者は、長年の間、
一体、何をしていたのか』と思わずにいられませんが……
少し話が長くなり過ぎましたので、ここから先は、
またまた補足として別途、書くことにしようと思います。

166 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2009/02/08(日) 11:43:28 [ 75.net220148119.t-com.ne.jp ]
  ■補足――言葉の混乱と概念分析の大切さ■(1/4)

さて、源氏物語の主要人物に固有名がないという問題でしたね。
何故、私がその点をそんなに気にするのかというと、
結局『別のものには別の名前をつける』という態度は、
学問をする場合の基礎中の基礎だからなんですね。
というのも『言葉が混乱すれば、必然的に思考が混乱し、
そして、混乱した思考は何も生み出さない』からなんです。

その点、日本の学者にはアホが多いというか、
そうした点に、まるで無頓着な人が少なくない分けですね。
こんなことだから、日本の学問はいつになっても、
二流から抜け出せないんじゃないでしょうか。
例えば、日本では最高峰とされる東大ですら、国際的な序列では、
二十位以内に入るかどうか、という程度ですからね。

幾つか具体例を挙げると、例えばこれは近年に作られた学問で、
民俗学というのがありますけど、この名前にしても無神経でしょ!?
つまり、これでは耳で聞いて民族学と区別できない分けですね。
『別のものには別の名前を付ける』という場合、『字面以上に、
耳で聞いて区別できる』ことが望ましいのは、言うまでもありません。


私に言わせるなら、そういうことが分からないような人は、
そもそも、学問をやる資格がないというか、
学問なんかやるべきではないんですよね。
この例で言うなら、民俗学は敢えてひっくり返して、
俗民学と言い換えるか、そうでなければ、
民衆の衆の方を取って、衆俗学としてはどうでしょうか。

そうした学問の名前では、医学の方でも似たようなことがありましたね。
つまり、暫く前に口腔外科の読みを、わざわざ『こうこうげか』から、
『こうくうげか』に直す、なんて妙なことをやっていました。
でも『こうくうげか』なんて聞くと、私なんかは、
『飛行機の手術でもするのか』と思っちゃいますからね。(^^;)

そもそも、漢字の読みの法則からしても、
『元の漢字に偏が付けば、読みが変わる』ことが多いんですね。
例えば、各(かく)に対する酪(らく)とか、
青(せい)に対する情(じょう)とか、色々ありますけどね。
その意味で、空(くう)に対しては腔(こう)が望ましいでしょうね。


とにかく学者がこの始末ですから、世間一般は推(お)して知るべしですね。
日本語というのは元々、同音異義語が多くて困っているわけですが、
それなのに一時期、まるではやりみたいに、わざわざ、
そうした同音異義語を作って喜ぶような風潮がありましたからね。
例えば、辞典に対して事典なんて言葉を作ってみたりね。(-_-;)

そうした点で言うと、名前の付け方がうまいのは、
何と言っても米英系の人々ではないでしょうか。
色々と混同しがちな物事に、分かり易い名前をつけて区別したり、
全く新しい概念を言葉として作りだしたり、
その辺の新語の造形力はさすがですね。直近の話題で言うなら、
『クラウド・コンピューティング』なんてのも好例ですよね。

更に言うと、全く同じ内容でも、どんどん言葉を言い換える傾向があって、
これなんか私には、ちょっとやり過ぎじゃないか、と思える位ですね。(^^;)
例えば、今は他人の曲を歌い直したものを『カバー』なんて言いますが、
一昔前は、確か『リメイク』とか呼んでいたわけですね。
ですから、これも数十年もしたら、また違う名前になるんでしょうね。

167 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2009/02/08(日) 11:45:50 [ 75.net220148119.t-com.ne.jp ]
  ■補足――言葉の混乱と概念分析の大切さ■(2/4)

それに比べ、ドイツ人の場合、何でも数字で区別して、
それで良しとしているような所が、少し疑問ですね。
まあ、それでも『きちんと区別できる』という点では、
固有名を付けない日本人より、遥かに増しではあるわけですが、
何と言っても数字だけでは、さっぱりイメージが湧きませんからね。

例えば、ハイドンの交響曲とか、モーツァルトのピアノ協奏曲とか、
何十曲もあるのに、番号しかつけないものだから、
どれがどれだか区別するのが難しいでしょ!?
無論、中には固有名が付いている曲もありますが、実は、
その多くもイギリス人などが命名しているようですね。
私にしてみれば『豚のケツ』でも『ロバのシッポ』でも何でも良いから、
取り敢えず、全曲に適当な名前をつけたらどうかと思うわけですけどね。

どんな名前でも、ないよりはあった方が増しでしょ!?
車の名前でも、ベンツやBMWはアルファベットと番号だけですからね。
或いは、米英流の命名法に敢えて逆らっているのかもしれませんが、
近年のドイツが米英の後塵を拝していることの一因として、
案外、そういう問題もあるのかもしれませんよね。


で、話を再び源氏物語に戻しますが、例えば、
光源氏にしろ夕霧にしろ、紫式部自身が与えたというより、
後世の人間が、慣例的に呼びならわしているんでしょうね。
その場合の命名法として、その人物が作った和歌から一句を取り出し、
その人の固有名にする、というやり方が多いようです。

例えば夕霧の場合は、落ち葉の宮への恋心を募らせて通いつめていた頃、
拒絶されても帰るのをためらった時に作った歌がある分けですね。
  『山里の あはれを添ふる 夕霧に 立ち出でむ空も なき心地して』
これは中々情緒纏綿(てんめん)たる歌ですから、
源氏物語の和歌の中でも、10指に入る出来かもしれません。
夕霧という彼の固有名は、ここから出ている分けですね。

それに比べ、源氏のライバルとして描かれる『頭の中将』というのは、
役職の名前に過ぎませんから、時間と共にどんどん変わる分けですね。
ここでは一々変えるのが面倒で、頭の中将(元)で済ませましたけどね。(^^;)
或いは『女三宮』という名前にしても『天皇の三女』という意味ですから、
別の天皇には、また別の女三宮がいて当然な分けですね。


そこで私なりに、彼らの固有名を考えてみたことがあるんです。
先ず、頭中将ですが、彼の場合『常夏の中将』はどうでしょうか。
例の雨夜の品定めでは、夕顔に贈ったこんな歌がありましたからね。
  『咲きまじる 花はいづれと わかねども なほ常夏に しくものぞなき』
他方、女三宮については『岩根の宮』が良いだろうと思います。

彼女の場合、自分で作った和歌は出て来ないかもしれませんが、
源氏が皮肉を込めて贈った歌がありましたよね。
  『たが世にか 種はまきしと ひと問はば いかが岩根の 松は答へん』
  (あなたと柏木の密通の結果、生まれたこの子だが、
  もし将来『誰が種を蒔いたのか』と人から聞かれたら、
  岩に覆われた松の根っ子に生えた子松のようなこの子は、
  いったい何と答えるのだろうか)

168 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2009/02/08(日) 11:48:14 [ 75.net220148119.t-com.ne.jp ]
  ■補足――言葉の混乱と概念分析の大切さ■(3/4)

ところで『別のものには別の名前をつける』というのは、
一件ごく当たり前で、簡単なことのように見えますよね!?
しかし、実際は必ずしもそうではないんですね。
というのも、最初に『それが別のものである』と気付くこと自体、
簡単ではないというか、全く自明ではないからなんです。

最初の印象としては、何かの問題を考えている最中に、
『なんか変だぞ』という感触がある分けですね。
で、その時『今は一緒くたにして扱っているけれど、
実際には、その内容に二種類あるんじゃないか』
という所に思い至るかどうか、が勝負なんですね。

極論するなら『そこに気付くかどうかで、
有能な人間と無能な人間が決まる』と言っても良い位です。
一例を挙げると、このwindowsというソフトを勉強している時、
強制終了という言葉が引っかかったんですよね。
つまり、漠然と"強制終了"とか言っていますけど、
実際には、その内容として二種類あるんじゃないですか!?


先ず、人間の操作に無理があった時に、ソフトの方でつむじを曲げて、
"強制終了"してしまう、という場合がありますよね。
それに対し、ソフトの動きがおかしくなったり、フリーズしたりした時に、
人間の側から『制×別×削』などのキー操作によって、
ソフトを"強制終了"させることがありますよね。

でも、この二つのケースは全く別のことなんじゃないですか!?
それで、私の場合は、前者と区別する為に、
後者を『絶対終了』と呼ぶことにした分けです。
もう一つ、同じwindowsの例で言うと、
ハードディスクの分割で使う言葉に、不備がありますよね。

つまり、HDDを分割して物理領域を作る時に、
拡張領域と基本領域という二種類がありますが、
windowsのようなOSを入れる為に使う所を基本領域、
それ以外のデータを入れる所を拡張領域と分けているようです。


その時、例えばwinXPでは『拡張領域と基本領域の総数は4つまで』
という制限がありますが、基本領域がそれ以上分割できないのに比べ、
拡張領域はより細かい論理ドライブに分割できるようになっている分けです。
その場合、拡張領域と基本領域の両方を合わせた呼び名がないんですね。
人によっては、それをまた基本領域と呼んだりしていますから、
これまた混乱の原因となって、私には頭痛の種なんですね。(-_-;)

そこでこの場合、私は両者を合わせた名前を基本領域とし、
拡張領域の対立概念は、固定領域と呼ぶことにしています。
つまり、更に細かく分割して数を増やせる拡張領域に対して、
分割できない固定された領域という意味ですね。

結局、こうして言葉を区別して整備する問題は、
概念分析といって哲学の基礎をなす分けですが、
これがきちんと出来ないと、一人前の学者とは言えないでしょうね。
つまり『使われる言葉の内容を分析して概念を切りわける』
という作業が、学問の進歩には不可欠な分けです。

169 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2009/02/08(日) 11:50:42 [ 75.net220148119.t-com.ne.jp ]
  ■補足――言葉の混乱と概念分析の大切さ■(4/4)

さて、話はまた少し変わりますが、源氏物語で気になる点と言えば、
かな文字の読み方もありますね。先ず『そこはかとなく』という言葉を、
現代語と同様に『sokohakatonaku』と読むのが気に入りません。
現代語では、これは慣用句ですから、それでも構わないんですが、
古典語として読む場合、この言葉に本来の意味を持たせる上で、
『sokowakatonaku』と読むべきではないでしょうか。

つまり、この言葉の本来の由来からすると、
『そこがあそこかどうか、はっきりとは分からないが』
という意味があったはずなんですね。
その場合、ここの『は』はあくまで助詞ですから、
『私は』を『watasiha』でなく『watasiwa』と読むように、
『sokowakatonaku』と読むのがいいんじゃないですかね。

それから、もうひとつ今回の講読で気になったことですが、
『御法の巻』で匂の宮が祖母役の紫の上に対して、
『はは』と呼びかける所がありますよね。
  まろは内の上よりも宮よりも、
  ははをこそ、まさりて思ひ聞こゆれば、
  おはせずは、ここちむつかしかりなむ。


その場合『当時は祖母のことも"はは"と呼んでいた』
という説があるそうですが……ここは、むしろ濁らせて、
『ばば』と読めば済むことではないんでしょうか。
何しろ、当時はまだ、そうした表記法が整備されてなくて、
いっしょくたに表記していたようですからね。

脱線ついでに、もう一つ脱線すると、
現代人の言葉使いでも、色々引っかかる点があるんですよね。
先ず、この古典講読の講師の場合『理解できなく、苦労した』
というような言い方を良くするのが結構、耳障りですね。

標準語なら『理解できず、苦労した』か、
或いは『理解できなくて、苦労した』と言う所ですよね。
ひょっとして、これは関西方面の方言なんでしょうか。
それから方言と言えば、これは九州方面の人が良く使うようですが、
語尾の『す』を、いちいち有声音で言うのも気になります。


つまり、標準語だと『そうです』は『soudes』と、
末尾を無声化して発音しますが、九州系の人はそこを一々有声音で、
『soudesu』と発音するのが、ひどく耳障りなんですね。
例えば、社民党の福島瑞穂党首なんかが良い例です。

さて、最後のまとめですが結局、リゴレットにしろトスカにしろ、
『復讐しようとして、復讐しきれない』みたいな中途半端で、
不完全燃焼の結末は、余り体に良くないようですね。(^^;)
その点では源氏物語にしても、光源氏が活躍する部分は、
むかつくことが多すぎて、体に良くない気がしました。

それに比べ、日本人の心情にぴったりはまるのは、
やはり何と言っても、忠臣蔵ではないでしょうかね。
『やるべきことをやり遂げたら、後は潔(いさぎよ)く死を受け入れる』
というのは、何とも後腐れが無くて痛快ですもんね。(*^^)v

171 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2009/03/22(日) 13:50:30 [ 29.net220148113.t-com.ne.jp ]
  ■スレッド切り替えのお知らせ■(1/2)

500kBを越す前に、このスレッドも切り替えることにしました。
『私のビデオ評(第2R)』は、次の新しいスレッドに引き継がれます。
  私のビデオ評(第3R)
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1237697206

そして、目についたミスの修正ですが……今回は色々沢山ありました。(^^;)
その場合、二段に並べた所では今回も上段がミスで、下段がその修正です。
先ずは、最初のスレッドで書き落とした分から。

  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1102295096.html#15
ああした映画によって世界中に宣伝する狙いが合ったと考えると、
ああした映画によって世界中に宣伝する狙いがあったと考えると、

  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1102295096.html#149
英作文でも、この手が使えるということを御存じでしょうか。
英作文でも、この手が使えるということを御存知でしょうか。


そして、ビデオ評(2R)のミスです。

  >>2-3
●⑧●ペリクリーズ(2003年さいたま芸術劇場)☆☆☆+●●●(1/2)
●●●ペリクリーズ(2003年さいたま芸術劇場)☆☆☆+●●●(1/2)

  >>10で『カテドラルの三傑は……サグラーダ・ファミリアでした。』
と書いたのは、少し不正確でしたね。というのも、
この聖家族教会は、将来のカテドラルとして作られてはいますが、
今の所は未完成ですから、まだ『カテドラル』ではない分けですね。
実際、現時点でのバルセロナ市のカテドラルは、別にありました。

  >>11
というのも、宗教の力の厳選の一つとして
というのも、宗教の力の源泉の一つとして

  >>14
こんじょう(今生)
こんじゃう(今生)

  >>14
第三幕etc.
三段etc.

但し、文楽で言う段という表現は、どうも紛らわしい所があって、
例えば、第一段と一段目は別ものかもしれないですね。
というのも、第一幕にあたるものを初段と言うことがある一方、
各幕の第一場〜第三場を一段目〜三段目と言う場合もあった気がします。

  >>34
玉の段
玉之段

  >>56
決定的だったのではないでしょうか
決定的だったのではないでしょうか。

ここは句点が抜けただけですが、>>53でも、
リンクの字下げをタブでやって失敗していますね。(^^;)

  >>60では『周の穆王と文帝の間には1200年近くの開きがあるのに、
少年が700歳というのは計算が合わない』とか書きましたが……結局、
この700年というのはブッダの時代から数えて700年ということでしょうね。
その意味では『紀元前10世紀の穆王が、紀元前6世紀のブッダから偈を授かる』
という話にそもそも無理がある分けです。(^^;)

  >>61
バリ・バスチーユ・オペラ座
パリ・オペラ座(バスチーユ)

  >>65
と期待してんいたんですが案外、そうした物語性は希薄で、
と期待していたんですが案外、そうした物語性は希薄で、

  >>67
更に、もうひとつ脱線しますと『カンピドーリアが燃えている』
更に、もうひとつ脱線しますと『カンピドーリオが燃えている』

  >>84
むしろ、もてない男のギリギリ心情から出た行為だったことになる分けです。
むしろ、もてない男のギリギリの心情から出た行為だったことになる分けです。

  >>94
装飾音譜
装飾音符

172 名前:闇夜の鮟鱇★ 投稿日:2009/03/22(日) 13:52:24 [ 29.net220148113.t-com.ne.jp ]
  ■スレッド切り替えのお知らせ■(2/2)

  >>128
駅の改札を出ると、そこから先は徒歩で行くしかないのですが、
駅を出ると、そこから先は徒歩で行くしかないのですが、

ここは、ついうっかり日本の感覚が出て、改札なんて書きましたが
そもそもヨーロッパの鉄道駅に、改札なんて無粋なものはありせません。(^^;)
ですから、駅では誰でも自由に乗り降りできますが、その代わり、
時々列車内に乗員が回って来て、もし正規の乗車券を持っていないと、
運賃の何倍もの罰金を取られることになります。

日本の列車の場合、朝夕のラッシュがひどく、
乗員が改札に回ることが現実的に難しいので、それで、
日本の鉄道駅には改札口が不可欠なんでしょうね。
他にも、ヨーロッパの鉄道は日本と異なる点が多々ありますが、
その辺の話は、また機会があったらしたいと思います。

  >>136
自分が支える姫君につく男に左右される分けで、
自分が仕える姫君につく男に左右される分けで、

  >>136
とっさに上着を脱ぎ捨てて、脱出してしまいます。
とっさに上着を残して、脱出してしまいます。

ここも、ちょっと説明が必要なところですが……当時の貴族たちは、
夜、寝る時は上着を脱いで、夜具代りに上から掛けていたらしいですね。
ですから、この時の空蝉にしても、上着を『脱ぎ捨てた』分けではなく、
掛けて寝ていた上着をそのまま残して逃げ出したことになりますね。

  >>137
ところで、今回の購読の空蝉の巻の所で出ていた話ですが、
ところで、今回の講読の空蝉の巻の所で出ていた話ですが、

  >>140
それにしても、七世紀という時代にあって既に、
それにしても、八世紀という時代にあって既に、

  >>141では、浮舟の例を引いて色々書きましたが、
今回の講読で改めて聞き直すと随分、思い違いがあったようです。(-_-;)
第一に『川に身を投げた後』という表現は、どうやら間違いですね。
私は『浮舟が宇治川に飛び込んだ後、増水した川に押し流されて、
川辺の大木に引っかかった』という風に記憶していたんですが、
実際の浮舟は、身投げはしていないようなんですね。

彼女が行方不明になった時、事情を知る人々は、
てっきり、川に身投げしたと思い込んだ分けですけどね。
のちの彼女の回顧によると『身投げしようと家出はしたものの、
もののけに取りつかれたようになって正気を失い、
宇治院の大木の根元で発見される』という経緯になっていました。

その場合、僧都たちが発見した時も、彼女の髪の毛は、
つやつやとしていたと言いますから、どう見ても、
『川に身を投げて、岸に打ち上げられた』感じはしませんよね。
他方、第二の思い違いですが『彼女を発見した僧都たちが、当初、
行き倒れの死体と思い込んだ』と書いた点にも無理があるようです。

実際はむしろ、狐か何かの変化と疑ったという話になっていますが、
私の記憶の中で、何か別の話とすり替わったんでしょうかね。
その意味で『当時の日本ではその辺に死体がゴロゴロしていても、
誰も何とも思わなかった』などという論証も崩れてしまいます。(^^;)

こうした引用をする場合、実際にリンクをはってあるケースは、
改めて調べ直していますから、ミスは少ないと思いますが、
そうでなく、単に記憶だけで書いているケースは、
案外、この手の思い違いが少なくないのかもしれません。

  >>149
結婚の手続き済ませて戻って来ますが、
結婚の手続きを済ませて戻って来ますが、

  >>150
例えば、仏壇に備える『閼伽(あか)の水』の閼伽は、
例えば、仏壇に供える『閼伽(あか)の水』の閼伽は、

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