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戦後の日本歴代政権の評価
1 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/01/05(日) 10:36
サンフランシスコ講和条約が発効して日本が主権を回復した
昭和二十七年(西暦一九五二年)四月二十八日以降の
日本歴代政権の政治を評価してみましょう。
ただし現政権は除きます。

2 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/01/06(月) 10:40
石橋湛山、宇野宗佑、羽田孜は総理大臣としては
あまりにも短すぎて評価のしようがないですね。

3 名前: ■とはずがたり 投稿日: 2003/01/06(月) 22:09
この手の評価というのは難しいと思うのですが,石橋湛山内閣はもっとやらせてみたかったですね。

4 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/01/06(月) 22:20
石橋湛山は病気だったのでどうしようもなかったでしょう。

5 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/01/06(月) 23:33
宇野宗佑は経世会に担がれて
火中の栗を拾わされたわけですから何もしようがないですよね。
羽田孜も火中の栗を拾わされたわけですし。

6 名前: 名無しさん 投稿日: 2003/01/11(土) 05:01
吉田茂、岸信介をどう評価するかで、その人のスタンスが分かる気がしますね。
私は、毀誉褒貶あれど、2人とも名宰相であったと思いますが。

7 名前: 先駆魂 投稿日: 2003/01/11(土) 05:02
>>6は先駆魂です。随所でスレ汚し、大変申し訳ないです。

8 名前: 自由党支持者〜石原シンパ〜 投稿日: 2003/01/13(月) 17:49
確認

吉田茂内閣 昭和二十七年(西暦一九五二年)四月二十八日から昭和二十九年十二月十日まで
鳩山一郎内閣 昭和二十九年十二月十日から昭和三十一年十二月二十三日まで
石橋湛山内閣 昭和三十一年十二月二十三日から昭和三十二年二月二十五日まで
岸信介内閣 昭和三十二年二月二十五日から昭和三十五年七月十九日まで
池田勇人内閣 昭和三十五年七月十九日から昭和三十九年十一月九日まで
佐藤榮作内閣 昭和三十九年十一月九日から昭和四十七年七月七日まで
田中角榮内閣 昭和四十七年七月七日から昭和四十九年十二月九日まで
三木武夫内閣 昭和四十九年十二月九日から昭和五十一年十二月二十四日まで
福田赳夫内閣 昭和五十一年十二月二十四日から昭和五十三年十二月七日まで
大平正芳内閣 昭和五十三年十二月七日から昭和五十五年七月十七日まで
鈴木善幸内閣 昭和五十五年七月十七日から昭和五十七年十一月二十七日まで
中曽根康弘内閣 昭和五十七年十一月二十七日から昭和六十二年十一月六日まで
竹下登内閣 昭和六十二年十一月六日から平成元年(一九八九年)六月三日まで
宇野宗佑内閣 平成元年六月三日から平成元年八月十日まで
海部俊樹内閣 平成元年八月十日から平成三年十一月五日まで
宮沢喜一内閣 平成三年十一月五日から平成五年八月九日まで
細川護煕内閣 平成五年八月九日から平成六年四月二十八日まで
羽田孜内閣 平成六年四月二十八日から平成六年六月三十日まで
村山富市内閣 平成六年六月三十日から平成八年一月十一日まで
橋本龍太郎内閣 平成八年一月十一日から平成十年七月三十日まで
小渕恵三内閣 平成十年七月三十日から平成十二年四月五日まで
森喜朗内閣 平成十二年四月五日から平成十三年四月二十六日まで

9 名前: ■とはずがたり 投稿日: 2003/03/07(金) 04:53
戦後政治史ファン倶楽部
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/index.html

こっちに貼っつけとく方が適切だったか。

10 名前: ■とはずがたり 投稿日: 2003/06/10(火) 11:20
戦後史スレとして再活用しましょか。

http://news.lycos.co.jp/topics/society/war.html?d=10yomiuri20030609i515&cat=35
「朕ノ不徳」…昭和天皇が国民に謝罪?詔書の草稿発見 (読売新聞)
2003年6月10日(火)1時14分
終戦後まもなく宮内府(現宮内庁)の長官を務めた故・田島道治氏が残した記録の中から、昭和天皇が自らの戦争責任に触れ、国民に謝罪しようとしたと受け取れる詔書の草稿が見つかった。田島氏の筆跡で506文字からなり、「朕(ちん)ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧(は)ヅ」などと記されている。10日発売の月刊「文芸春秋」に掲載される。同誌編集部によると、この草稿は地域社会研究所の加藤恭子理事が、田島氏の評伝執筆のために田島家から借りた資料から見つけた。 天皇の1人称として使われた「朕」で始まり、多くの犠牲者を出した戦争に触れ、「憂心(ゆうしん)灼(や)クガ如シ」などと悲痛な心情を述べ、「朕ノ不徳ナル」と自らの責任に触れたとみられる一節が続いている。
加藤理事は同誌の中で「宮内府長官の独断で書けるものではない。天皇の謝罪の気持ちと、留位の決意を国民に伝えることが必要と天皇と田島の意見が一致を見たのだろう」と解説している。

11 名前: 日帝極右保守反動分子 投稿日: 2003/09/08(月) 17:48
>>10
確か昭和天皇が其の証書をお書きになられた頃は昭和二十三年頃だったと思います。
(立ち読みのうろ覚えですが。)
其の当時は正確には戦後ではありません。
(一般に日本では昭和二十年八月十五日が終戦日だと思われているようですが。)
何故ならサンフランシスコ講和条約第一条a項に
「日本国と各連合国間との戦争状態は、
 第二十三条の定めるところにより
 この条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。」
とあり、
講和条約発効日つまりは昭和二十七年四月二十八日までは
連合国とは法的には戦争状態にあったからです。

12 名前: 日帝極右保守反動分子 投稿日: 2003/09/08(月) 18:17
私は吉田茂はそれほど評価できません。
(ここのスレッドでは講和条約発効後に限ってですが)
帝国憲法復活改正等、占領体制の清算を怠りましたから。
そのつけが現在の自衛隊の立場の曖昧な点など残っていますし。

13 名前: 名無しさん 投稿日: 2003/09/11(木) 15:03
それはむしろ鳩山一郎こそ責められるべきでしょ。

14 名前: 日帝極右保守反動分子 投稿日: 2003/09/13(土) 19:34
>>13
そう主張していたにもかかわらず
やらなかったという点では
確かにあなたの仰る通り鳩山一郎が責められるべきでしょう。
しかし講和条約発効直後、
日本が独立国になったにもかかわらず
占領体制の清算を怠って
それからずるずると今までの51年、
占領体制の尾を引きずる元をつくった
吉田茂は責められるべきだと思います。

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