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第四十回衆院選後の政局を振り返る
1自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/07(土) 20:26
平成五年(一九九三年)七月十八日以降の政局を振り返ってみましょう。
平成五年七月十八日以降の政局なら何でも構いません。

2自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/07(土) 20:29
私がリアルタイムで知っているのは加藤政局以降ですがよろしくお願いします。

3オリーブの木:2002/12/07(土) 20:34
おっす!スレ立ておめでと。9時までしかいられないけど(K1見るんで)
よろしく。

4自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/07(土) 20:39
>>3
印象に残っている政局は何ですか?
やっぱ自社さ政権発足とか旧民主党結成ですか?

5オリーブの木:2002/12/07(土) 20:44
俺はやっぱ細川政権の誕生だね。
自民党が下野するなんて少し前までは考えられなかった物。
ちなみに非自民政権を誕生させた総選挙が初の選挙権公使だった。
ちなみに埼玉県のある有力政治家に投じたのだが誰だか当ててみほ。

6■とはずがたり:2002/12/07(土) 20:45
平成3年大学入学。こんなに面白いドラマがあったのに殆ど記憶していません。
冬合宿の時に友人と議論した覚えがあるくらいです。彼は国民の意思を示すためにも当選すると判っていても日本新党(前原)に入れるべきだと主張し,私は選挙後の勢力・自民党を大幅に減らすのが重要だという観点から大敗が予想される社会党(忘れた)に入れるべきだと主張しました。

当時から割と首尾一貫しているな,俺w

7自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/07(土) 20:46
やっぱ枝野幸男(日本新党)ですか?

8オリーブの木:2002/12/07(土) 20:48
さきがけの誕生はやっと支持できる政党が現れたと狂喜した。
田中秀征はなんかの本を見て知って以来、シンパシーを持っていたので
彼がイデオローグの政党なら一生支持しつづけようと心に決めた思い出がある。
ちなみに最初の支持政党は社会党だけどね(笑

9オリーブの木:2002/12/07(土) 20:49
>7
ビンゴ。特に他に有力な候補者もいなかったし、さきがけの友党
でわかい候補者だという消極的な理由だったのだがここまで成長する
なんて感無量だ。

10自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/07(土) 20:49
僕が当時選挙権持ってたら粟屋さんに入れたでしょうね。

11オリーブの木:2002/12/07(土) 20:53
なるほど。だけどこんなカタチで自民党が復帰するなんて思いもよらんかった。
>6
確かに(w でも社会党には裏切られて続けたからどうしても入れる気になれん
かった。

12オリーブの木:2002/12/07(土) 20:58
やっぱ自社さ政権は誤りだったな。あの当時はむしろ支持する側だったけど
社会、自民の左右守旧派勢力にはさまれて独自性を発揮できなかったのは
慙愧の念に耐えない。まあ成り行きでああするしかなかったのはわかるけどね。
いずれにせよ、さきがけの誕生は早過ぎたのかも。ただここから菅、枝野、前原
ら民主党の中核をなす政治家が誕生させた功績は大きいと思う。

13■とはずがたり:2002/12/07(土) 20:59
今調べてみると社会党前職の竹村という人ですな。

このときの社会党はこの前の選挙で消費税旋風だかで多めの議席があったので共倒れ続出で歴史的惨敗を喫した。高齢の候補者も多かったので大負けを予想して一本化していればその後の政局で小沢に主導権とられっぱなしでやけになって自民党と組むことにはならなかったのではと残念に思う。

しかし今の友愛と横路らの対立を見ると新生党や公明民社と組むより鳩派リベラルの自民と組むのが自然だったのか?

14自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/07(土) 21:08
あの頃の政局で、僕が印象に残っているのは渡辺ミッチー擁立失敗ですね。
あれができてりゃ非自民保守政権が誕生してたのに、と思います。
小沢氏の社会党斬りは政策的にいけば絶対に避けられないことだったと思います。
小沢氏本人も
「社会党と組んだの政治改革のためだった」みたいなこと言ってましたしね。

15■とはずがたり:2002/12/07(土) 21:15
このねじれた政界の現状を見るとそれが良かったでしょうねえ。
改革保守とリベラルの2大政党制が実現して,自民党の持っていた利権構造が破壊される。この2点が実現していたかも。

16自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/07(土) 21:26
今、思えば
あの時、後藤田政権で自民党と日本新党とさきがけの連立政権ができてたら
小沢氏は完全にピエロになるとこでしたね。

17自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/07(土) 21:27
注 あの時とは衆院選直後のことです。

18■とはずがたり:2002/12/07(土) 21:34
それが実現していたらどうなっていたでしょうか?さきがけ日本新党(2党合併)が実現して,政治家改革法案が実現して,自民党,さきがけ日本新党,新生公明民社新党,社会党,共産党で総選挙ですか。小選挙区ではやはり自民が勝つのか?

19自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/07(土) 21:42
平成八年衆院選とあまり構図が変わらないので
平成八年衆院選と同じような結果になったんじゃないですか?
でも後藤田政権は短期政権だったでしょうね。
それは渡辺政権ができても同じだったような気がしますが。

20自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/07(土) 21:53
ただ当時の社会党が落ち目だったとはいえ
村山政権後の社会党ほど落ち目ではなかったので
50前後は取れたでしょうね。当時はまだ社会党右派もいましたし。

21■とはずがたり@風呂あがり:2002/12/07(土) 22:10
社会党は分裂して右派は新生・公明・民社に,一部のリベラル派はさきがけ日本新党に移ってたかもしれませんね。

歴史にifは無意味とはいいますが,こういう妄想は楽しいですな。

22自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/07(土) 22:30
とはずがたりさんは「排除の論理」のことを当時どう思ってましたか?

23オリーブの木:2002/12/07(土) 23:32
あの当時の俺の望んでいた理想的政界再編劇

新保守G

新生党、公明党、民社党、日本新党(旧新進合流組)
自民党渡辺派 三塚派、小渕派 橋龍、梶山ら保保派
宮澤派(麻生らタカ派)河本派(高村らタカ派)
リベラル派G
さきがけ、社会党右派 日本新党(枝野らさきがけ組+殿)
社民連、自民党 橋本派(野中らハト派)宮澤派(領袖筆頭に河野、加藤らハト派)
田中真紀子、小杉隆他、
教条左翼G
社会党左派原理主義G
共産党

大雑把ですがこんなもんですかね。自民党のタカ派、ハト派の色分けはまた後日
やりたいと思います。まあこんな後ろ向きなこといってても仕方ないのはわかって
ますがまあ当時のあるべき姿はこれだったということで御了承いただきたい。
では落ちます。オヤスミナサイ。

24オリーブの木:2002/12/07(土) 23:34
追記

ただこれだとどちらになっても構造改革は進まないかもしれませんね(笑)

25■とはずがたり:2002/12/08(日) 06:02
>22
 排除の論理には非常に不愉快な思いをしていた訳ですが,当時,さきがけ,社会両党の丸ごと移行派だった私は>6の思考の下(トータルで非自民を増やすべき+余り政治には詳しくない)社民党に比例区を投じてしまった。
 今にして思えば近畿の社民党に入れるよりもさきがけに入れた方が何千倍良かったか…。知らぬが仏だった訳ですが今にして思えば苦い思い出です。

>24
自民党体制を一旦壊せば今の固定的な利権体制は崩れるでしょう。詰まり構造改革とは,小泉が大風呂敷を広げるような大袈裟なものではなく,政権交代で十分可能なんではないでしょうか?

26自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 00:28
村山富市対海部俊樹の首班指名決戦を
リアルタイムで見たかったです。
あの頃はサンフレッチェの優勝喜んでて
(先日のJ2降格決定はショックでした)
政治はほとんど知らなかったです。
ただ細川さんや羽田さんがやめたことは何故か知ってました。
何故やめたかは全く知りませんでしたが。

27■とはずがたり:2002/12/09(月) 01:58
細川擁立は知りたかったので図書館で新聞の縮尺版をコピーしてきました。
あれで政治ドラマを殆ど追体験できますよ。(それくらい既にやっている?)

28自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 02:09
うちの学校の図書館には平成七年以降の朝日新聞縮尺版しかありません。
よってそれ以前の政局は色々な本を読んだりして知っています。

29オリーブの木:2002/12/09(月) 19:35
>28
私立(区立?)図書館でリクエストさえすればあるんじゃないかな?
そうか、広島人にとってみたらショックだよな。おれも浦和レッズが2部落ちした
ときのショックは今でも忘れないもの(笑)

30■とはずがたり:2002/12/09(月) 19:48
磐田完全優勝ウマーです。

31オリーブの木:2002/12/09(月) 19:52
>30
欲張り過ぎだぞ!ゴラァ!

32オリーブの木:2002/12/09(月) 19:59
>26
おれ、リアルタイムでテレビにかじりついていた。
なんかそんな話はあったけどまさか本当にやるとは自民党の執念恐るべし
と感心した記憶がある。中曽根が決選投票前の記者会見で社会党党首は
推せないと海部支持を明言した結果、非自民連立派の社会党右派がアレルギー
反応を起こしてしまい、村山投票に走ったのが勝負の決め手になった。

33■とはずがたり:2002/12/09(月) 20:25
で,結局,中曽根は自民党に居座って与党に居続けるわ,社会党右派も身動きがとれずになるは散々な結果だった訳ですね。
こん時が海部だとするとミッチーを擁立しようとしたのはいつでしたっけ?
本当に当時ちゃんと興味持っていればよかった。

34自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 20:27
いや俺はあん時に中曽根や渡辺ミッチーが
海部支持に回ってくれてよかったと思ってますよ。
ただ自民党内の根回しが足りなかったことが失敗だったと思います。
社会党斬りは正解だったと思ってますから。

35自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 20:33
ミッチーを擁立しようとしたのは
細川辞意表明後の四月中旬ですよ。
でミッチーが離党断念したのが四月十七日です。

36自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 20:36
慎太郎さんもあの時
小沢氏とミッチーの連携に協力してたみたいです。
ただ「小沢には何の戦略もなかった」という風に
「老いてこそ人生」で愚痴こぼしてましたけど。

37■とはずがたり:2002/12/09(月) 20:45
当時ミッチーと中曽根の仲はどうだったの?

38自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 20:57
仲は悪かったと思いますよ。
ハマコーが机投げた大福首班指名決戦の時
ミッチーは中曽根派だったのに大平さんに投票して
中曽根派を除名された過去もありますし。
中曽根はミッチーに派閥領袖を譲った後も
色々仕切ったりしてたまたいですから。
でもあん時はそのことは別だったんじゃないですか?

39自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 20:58
訂正
大平支持を表明して中曽根派を除名された。

40オリーブの木:2002/12/09(月) 20:59
>37
良くはないでしょう。マスコミ報道ではむしろ仲が悪かったみたいだし・・
田原総一郎の頭のない鯨とういう本では渡辺氏が期限内に返事さえすれば
ミッチ―首班は実現していたらしいですよ。ところが彼は当時、極度の不眠症
だった為、睡眠薬代わりの注射を打って床に入り、リミットの時間を過ぎて
しまい、おじゃんになったのが真相のようですね。

41自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 21:01
>>40
まじっすか?
そんなことで政局が変わったんですか?

42オリーブの木:2002/12/09(月) 21:05
うん、詳しいことは彼の本を買うなり図書館にあれば借りるなりして
見ればいい。

43オリーブの木:2002/12/09(月) 21:07
歴史にIFはないというが、あの時、渡辺政権が誕生していたら
自民党は間違いなく割れただろうし、上手く保守対リベラルに割れた
と思うけどね。

44自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 21:10
中曽根といえば小選挙区制移行に伴う候補者調整で
選挙区から出たいとか言ってブーブー文句言ってたのも結構印象に残ってます。
結局、当時の加藤幹事長が絶対当選できる席を用意したわけですが。

45オリーブの木:2002/12/09(月) 21:15
>44
彼は次の総選挙も出るつもりなのか?
とにかく今にしてみればミッチ―擁立失敗劇は返す返すも残念だね。
まあ、それ以上に自民党が結束するかもしれないから一緒かもな。

46自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 21:20
>>45
意外と結束しなかったんじゃないですか。
自民党は200切るか切らないかぐらいで落ち目だったわけですし
柿沢とか新井がフライングして、自民党を出たぐらいですから。

47オリーブの木:2002/12/09(月) 21:24
>46
ただね。当時、ミッチ―擁立論が成就しないといわれていた最大の原因は
同調者がほとんどいなかったため、ミッチ―が連れてくる議員は社会党離脱
の穴を埋めるには到底足りないくらいの数だったんだよ。
だからそれを考えたらどうなのかな。

48自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 21:28
いやあ首班指名選挙となると話は別だったかもしれませんよ。

49オリーブの木:2002/12/09(月) 21:31
>48
うーん、自民党陣営も有力な対抗手段もなかったし、
案外、上手く行く可能性もあったかもね。

50自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 21:42
小沢氏はミッチーだけが離党しても構わないと言ってたぐらいですから
離党したなら離党したで小沢氏にも策があったんじゃないですかね。

51オリーブの木:2002/12/09(月) 21:46
恐らく、首班指名選になれば数十人単位で造反はあり得たかもね。
それでも上手くは行かなかっただろうな。そんな気がする。

52自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 21:54
ただ渡辺政権にせよ第三次海部内閣にせよ新進党小沢政権にせよ
確実に創価が入ってただろうということはいやですね。
そういう意味では晒し上げになってる今の方がまだ少しはマシかもしれません。

53オリーブの木:2002/12/09(月) 21:56
そうだね。菅、枝野や前原が台頭してきたことを考えれば案外これでいいのかもね。

54オリーブの木:2002/12/09(月) 21:56
とりあえず落ちまふ。

55自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 22:24
でもだからといって村山がちっともいいとは思いませんけどね。
政策的にも政局的にも最悪な奴ですから。
当時、政治のことを知っていたら俺ははっきりと支持政党なしの
保守系無党派層だったでしょうね。
平成八年衆院選は選挙区で粟屋さんに入れて比例は苦し紛れで民主党だったかもしれません。
もっともあん時はイチロー対松井の日本シリーズを見ながら
「あっ。選挙やってるんだ」ぐらいの感覚だったんですが。
(この年はカープが巨人にメイクミラクルやられて悔しかった年ですが)

56自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 22:28
でもあの衆院選に負けたのが新進党としては痛かったと思います。
一気に求心力を失って加藤ー野中コンビに一本釣りされるわ太陽党とか分裂するわで。

57■とはずがたり:2002/12/09(月) 22:32
脆かったねえ。最後の代表選で鹿野が勝てば今頃,新進・民主共闘でイイ線行っていたと思うので残念。学会付きだけど。

58自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 22:46
いや俺はあん時新進党がビッグバンして良かったと思いますよ。
その前の平成七年の新進党党首選で
小沢氏と羽田さんの仲が悪くなったことの方が俺は良くなかったと思います。
それで総選挙前で党内の結束が悪くなって総選挙に負けてしまいましたし
新進党分裂の時思ったほど自由党に来なくなってしまいましたし
未だに熊との仲が悪いですし。

59自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 22:49
もっともそれだと今の民主党の規模はありえなかったわけですが。
でも野党の中でも政策の住み分けができていたので
あの党首選で今の民主党保守系との仲が悪くなったことは悔やまれます。

60■とはずがたり:2002/12/09(月) 23:02
改革保守=新進,リベラル=民主で棲み分けが出来れば一番それがよかったでしょう。(不毛な反小沢・親小沢感情に振り回されず。)

しかし,小沢が自自指向だったのは紛れもない事実であり,今に至るまで小沢は信用なら無い奴だいう事になり,そこは小沢のミスだったのでは?

61自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/09(月) 23:22
いや、俺は保保路線は正解だったと思うんです。
真性保守総結集を理想とする俺としては。
創価や社会党を切るためにの方策として。
ミッチー擁立構想や梶山擁立構想はその一つとして評価できると思います。
しかし理想を追い求めすぎて
次善策としての平成八年の民主党との選挙協力を怠ったことが悔やまれます。
自自連立は評価しています。
政局的にはあの時あえて自民党に入り込んで自民党を割らした方が良かったと思います。
野中も「小沢が小渕さんが倒れる前に自民党と自由党の保守合同をして
自民党を割ろうとしたのを知って小渕さんは倒れた。」みたいなことを言ってました。
でも池田大作が連立に入ってきて与党内での主導権が奪われたのが痛かったです。

62オリーブの木:2002/12/10(火) 00:14
>61
政治というのは結果だし、それからいっても間違っていたよね。
自民党が与党である間は割れないというのは新進党時代に痛いほどわかってた
はずだし、それに数年前までは良くも悪くも自民党を牛耳っていた経世会の中軸
にいたのだからそんなことはわかりそうなものだと俺は思う。金融国会後半での
野党共闘離脱から自自連立に走った時はこれで自民党は完全に息を吹き返したと
頭を抱えた。あの時、自由党との連立に動いたのは御存知の通り野中だが、彼の
魂胆は自由党を引き込むことによって公明党の連立参加のハードルを低くする目
的だったのだからね。これは結果論で言ってるんじゃなく、当時のメディアを見て
もわかるように(特に週刊誌)誰もが予想しているほどあからさまなものだった。
特に公明党は新進党の時の経験から自民党と前面対決は避けたいというのが本音
だったし、事実、公明党が復活してからというもの、野党共闘からは常に1歩下がった
位置にいた。(せいぜい、金融再生法でスクラムを組んだくらい)その後、地域振興
券の政策を自民党に飲ませてからは事実上の与党だったしね。また、学会幹部と野中
との会談では間にほかの政党を入れれば連立に加わることはやぶさかではないととれる
発言をしていたのを確か毎日新聞で暴露されたという事実もある。つまり小沢は公明党
が連立に加わる為の当て馬でしかなかったんだよね。自民党にとってはね。
あそこで小沢が連立に加わらなければ自民党は崩壊していただろう。当然結果的には
失敗であるのは動かしがたい事実だ。まあ、でもいまさらそれを糾弾する気はないけどな。

63自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/10(火) 00:32
まあ結果的に失敗だったことはこちらとしても認めざるをえないところで
それは甘んじて受け入れるしかないです。
ただ創価が本当に連立に入ってくる(閣内協力)前に
自民党を割ってしまえばよかったと思います。
利用されるなら利用し返せばよかったと思うんです。
例えばあの春のガイドライン法案辺りでさっさと憲法論議に持ち込むとか
手はあったと思うんですけどね。

64自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/12(木) 15:43
自自連立離脱に伴う自由党分裂は痛かったですね。
これで数的な影響力が大幅に減ってしまいました。
側近が逃げて、選挙区の貴重なタマがいなくなったのも痛かったです。
和歌山は自由党王国だったのに気がついてみれば根こそぎもっていかれてしまいました。
まあ今は岸本健氏が二区支部長をやっているから和歌山は良しとしますか。
せめて小池百合子は残ってほしかった。
でも利権屋かどうかの踏み絵を迫って利権屋が誰か分かったので良かったかもしれません。

(苦しい言い訳。)

この頃、丁度この年の三月に東京に旅行に行って国会議事堂(参議院本会議場)を見学したり
「加治隆介の議」を読んで政治に少し興味を持ったのはこの頃です。
小渕さんが倒れたのは知ってましたよ。

65■とはずがたり:2002/12/12(木) 15:52
露骨な自公連立を糊塗する接着剤にしか過ぎないのにテレビで一応一人前の扱いを受けていると非常に不愉快ですね>保守党

小沢もあそこまで保守へ逝くのは計算違いだったでしょう。もっと計算違いしたのは議席が半減した保守党参加者でしょうが。

66オリーブの木:2002/12/12(木) 16:04
(笑)
時代の流れを読めない日和見主義者の末路を見る思いで痛快ですた。
熊さんは保守党と新党作るのかな?

67自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/12(木) 16:17
加藤六月の婿(でしたっけ?)。あれが一番お笑いでしたね。(笑)

68オリーブの木:2002/12/12(木) 16:20
ばかだね。あいつ(笑) 比例の枠なんて埋まってるのにそんな事も
わからん世間知らずとは(嘲笑)ま、いい気味だよ。

69■とはずがたり:2002/12/12(木) 16:23
よりによって一匹狼で比例上位に押し込む力の橋龍の誘いにまんまと乗り,加藤の名を残したいとか何とか訳の分からない理由で逝きましたな。
加藤の名は参院に弟かなんかの加藤紀文がいるっちゅうねん。

70自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/12(木) 17:07
平成十二年衆院選の選挙速報は二時か三時くらいまで見てました。
「なあんだ、結局自民党が勝ったんじゃん」くらいの感覚でした。
こん時も相変わらず鳩兄は加藤首班発言で
あっさり手の内を見せるという間抜けをやってましたね。
片方は片方で「無党派層は寝てればいい」とかやってましたが。

71■とはずがたり:2002/12/12(木) 17:12
まあ事前の予想よりは野党が善戦した上に政治にも興味を持ちだした頃なので全てが新鮮でもあり,とても興奮して見てました。

72自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/12(木) 17:16
当時の朝日新聞中間世論調査を見ますと
確かに与党有利、野党不利でしたね。
思ったより与党が伸びなかったのは
「寝てればいい」発言が響いたからじゃあないんですか。

73■とはずがたり:2002/12/12(木) 17:21
俺はもうちょっと構造的な見方をしています。
詰まり無党派と云われる連中は従来の有権者と違うため,今までの輿論調査方法では十分汲み取れないからないのではないか?ということです。
民由の支持率が高いElectionと,新聞テレビの輿論調査のちょうど中間に事実はあるのでは?

74自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/12(木) 17:28
まあそんなところでしょう。
この後、副議長で恒三さんかピンかで揉めましたね。
で、秋にいよいよ運命の加藤政局があったわけですが。

75■とはずがたり:2002/12/12(木) 17:43
なんだかえらい昔のようなつい最近のような…。
一番転落が激しいのはチキン加藤紘一氏でしょうかね?
あのまま自民離党に突っ走っていても秘書の件で非自民政権が将に佐川の細川の如く崩壊していたかも。
(というかあの件で野中に造反したら表に出すと脅されていたのかも。野中は佐藤を辞めさせろと加藤に何度も諫言したらしいから。)

一時落ちます。

76自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/12(木) 19:10
加藤政局は忘れもしません。
俺が新聞の政治欄を毎日チェックするようにさせた出来事ですから。

77自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/12(木) 19:21
でも最終的には
加藤の優柔不断さと野党の提出タイミングの遅さと野中のしたたかさが
勝負を分けましたね。
野党の提出タイミングの遅さが自民党側の加藤派切り崩しを楽にさせました。
俺は加藤グループ欠席と出た時ショックでした。
あの朝、絶対勝てると俺も思ってましたから。
本会議中継は水かけくらいまで見ました。

78■とはずがたり:2002/12/12(木) 19:28
政治家を見る目が人一倍無い俺としては(例:加藤:期待してた,熊さん:好き,枝野:なんであんな信者いっぱい居るの?といった感じだった。公明党:そんな悪どいことやってないんちゃうん,といった感じ),加藤紘一に期待するところ大でした。
欠席を知って俺もなんじゃそらと云った感じでショックでした。
谷垣,園田といったコアな加藤派や山崎派の元さきがけの渡海など欲しい人材はいっぱい居ました。

79自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/12(木) 19:41
広島の人間としては
広島で一大勢力を誇る宏池会がどう出るかというのも注目でした。
結局、岸田文雄だけが欠席でしたけど。
その岸田文雄も経理局長のポストをちらつかされて堀内派に行きましたが。

80■とはずがたり:2002/12/12(木) 19:47
我が地元の伯夫ちゃんは早々と古賀氏に付きました。ちょっと期待はしてたんですがね。

81自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/12(木) 20:06
当時は何でYKKの一人の小泉は森なんかかばって加藤を応援するんだとか思いましたね。

82自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/12(木) 20:09
訂正
加藤を応援しないんだ

83■とはずがたり:2002/12/12(木) 20:56
派閥政治家としての自分を優先したのでしょう。
仮にも総裁出身派閥の長ですからね。あそこが森ではなかったらYKK新党が出来ていて変わっていたからもしれないが,森でなければあそこまでひどくいわれはしなかっただろうに。

84自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/12(木) 21:11
>>83
その後、政局が分かるようになってそのことは分かりましたけどね。
しばらく堀内派憎しで加藤+加藤派を応援してました。
今の俺からは信じられませんが。

85■とはずがたり:2002/12/12(木) 21:20
そのころは保守派ではなかったと?
私が大の宏池会ファンなのはともかくとして…

86自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/12(木) 21:23
そうですよ。俺が今のようになったのは
丁度2ch始めたくらいからですよ。
その頃からコヴァと慎太郎にのめり込みました。

87■とはずがたり:2002/12/12(木) 21:58
なんと。
そん時前までにリベラル思想に染め上げとけば良かったですな。

88自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/12(木) 22:13
その話題は思想スレでやりましょう。

89自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/13(金) 13:12
保守党ネタで思い出しましたが
海部俊樹ほど小沢一郎氏に利用され捨てられた人もいないですね。

90■とはずがたり:2002/12/13(金) 13:47
海部はリベラルな三木派の流れを受け継ぐ感じで,離党したときは期待していたのですがねえ。
自由党へ移ったあたりからもう自民党へ戻りたくてしょうがなかったんでしょうな。
愛知民主の底力を見せて落として欲しい。
小沢が擁立しようとしていた候補者が居たがどうなったんでしょうかね?

91自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/13(金) 13:53
今のところいい対立候補がいないようなので
中曽根みたいにひつこく政界に居座るでしょう。

それはいいとして政局を振り返りましょう。
丁度、二年前でしたね。第二次森改造内閣が発足したのは。
自民党総裁経験者がずらりと並びました。
この時、加藤政局の論功行賞で古賀が幹事長になりましたね。

92自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/21(土) 00:11
小泉が出た時の総裁選は興奮しましたね。
俺もまさか勝つとは思わなかったので
出来るだけ僅差で負けて自民党を割ってくれとか思って応援しました。
新宿やら渋谷やら池袋であった演説も見に行きました。

93オリーブの木:2002/12/21(土) 00:34
>92
こう言うことを書くと信じてもらえないかも知れないけど俺は小泉が勝つと
思っていた。なぜなら橋本が勝てば間違いなく数ヶ月後に行われる参院選で
惨敗し、連立与党は過半数を失うのが目に見えていた。
そうなれば政権がレームダック(死に体)におちいるのは火を見るより明らかで
政界は流動化する。ここで橋本を勝たせて全てを失っては元も子もない。
ならば緊急避難的に小泉を勝たせてとりあえずなんを乗り切る。
いわゆる自民党伝統のお家芸、振り子の論理である。やはり勝負事は勝てる時に
勝っておかないとこういう羽目になるという教訓を改めて思い知らされた出来事
だった。

94自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/21(土) 00:43
割とクールに見ていたんですね。
確かに
その前の(森が事実上の退陣宣言をした)武道館の自民党大会での
自民党地方議員の動きを見るとその予感はないわけでもなかったですね。

95オリーブの木:2002/12/21(土) 01:14
>94
流れ的に見てもそうならなければ不自然な状態だったからね。
今度は加藤の乱について語りたいと思います。

96■とはずがたり:2002/12/21(土) 01:22
俺は橋本派が麻生を擁立するかと思ってました。経世会の常套手段は二重構造ですから

97オリーブの木:2002/12/21(土) 01:38
>96
俺も最初はそう思いましたがいくらなんでも露骨だと言うことでまとまらな
かったんですよね。とにかく前回の総選挙で政権を取るべきだった。

98自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/21(土) 01:48
確かあの時、野中が出たかったけど青木が反対したんですよね。
橋龍も行革相やってて
「もう一度」という欲が出たんでしょうね。

99■とはずがたり:2002/12/21(土) 03:16
野中はあそこで欲を出したんですかね?
俺のイメージではそんなにやりたそうにはみえなかったけど。

100自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/21(土) 03:25
そりゃあ総理大臣になりたかったでしょう。
政治家なら誰だってそう思うでしょう。
特に権力欲の強い野中なら。

101■とはずがたり:2002/12/21(土) 03:31
伊藤正義や後藤田は断ったでしょう。野中は「敵」としては個人的に評価してます。
権力欲と云うよりも共産との権力闘争をやってきたので純粋に如何に自民党政権を維持するかに腐心してきた感じが強いです。
ムネオあたりが野中さんと云っていたのは本人の意向がはいっていたのか?

102自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/21(土) 03:36
俺は政策的にも政局的にも野中は大嫌いです。
でも政局に対するしたたかさは見習うものがありますね。
この時、橋龍が政治生命が終わって
麻生が出世したのはすごく皮肉ですね。

103■とはずがたり:2002/12/21(土) 10:35
96年の総選挙で民進(あのときは規模から云って進民だが)協力出来れば政権交代できていたように思う。

今,鳩がガーガー云っているのも公明・保守新党から成る旧新進党連中を民主側へ引きこめれば政権交代が可能となるという深慮遠謀からの発言ならいいのだが…。

104自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/21(土) 16:13
>>52で書いたように創価抜きという意味では今の方がいいと俺は思ってます。

105オリーブの木:2002/12/21(土) 18:42
>104
でも現実的には創価抜きと言う状態は政界再編が起こらない限り無理だろな。

106自由党支持者〜石原シンパ〜:2002/12/22(日) 02:08
田中真紀子更迭の時はよっしゃこれで政界再編だと勝手に思いました。
俺もバカでしたね。
今思えば、
金正男を逃がし、北鮮への米支援をどんどんしろと言ったり
支那に媚びを売って靖国参拝反対に同調したり
李登輝氏のビザ発給はもうしないとか言った
田中真紀子を俺が当時応援したのは信じられませんが。

107自由党支持者〜石原シンパ〜:2003/01/05(日) 14:24
今から見れば
前回の衆院選は
自民単独過半数割れも辛勝。民主敗北って感じですけどね。
その他は公明勢力後退
    自由善戦
    共産勢力後退
    社民善戦   
って感じですね。

108■とはずがたり:2003/01/05(日) 21:55
新進党よりも小さい民主党が学会の支援を受けた強力な自民党相手に,新進党ではなしえなかった都市部での自民党ベテランを押しのけての勝利というインパクトはかなりあったと思います。

その意味で政権を捕れなかっただけでなく100代前半という議席では大敗北でしょうがそう総括してしまうのも惜しいような…。

自由・社民の善戦は云えるでしょうね。

109自由党支持者〜石原シンパ〜:2003/01/05(日) 22:00
何を言っても野党第一党が政権をとることができなかったので負けだと
私は思います。
新進党より小さくて池田大作抜きでよく頑張ったことは認めますが。
政治は結果ですから。

110オリーブの木:2003/01/05(日) 22:07
>109
そうだね。あれほどのチャンスは早々ないのだから生かす事のできなかった
野党の負けだといわれてもしかたがない。今の執行部で行けば勝てたかも
知れないのに・・・・・・(まあ今だからあの体制ができたんだろうが)
勝負事は勝てる時に勝たないとね。

111自由党支持者〜石原シンパ〜:2003/01/05(日) 23:00
羽田幹事長では・・・。
私は民主党羽田幹事長時代の
民主党羽田幹事長の働きぶりはどうだったんですか?
私は全然知らないんで。
受ける印象としては幹事長タイプではないので
あまり幹事長としてはよく働けてなかったように思えますが
実際のところはどうだったんですか?

112オリーブの木:2003/01/06(月) 22:02
>111
ウーンあまりパッとした印象はなかったけど社民党系には受けが良かった
くらいだから彼が党内融和に果たした役割は小さくなかったのかもね。
まあ、この乱世の御時世では彼では役不足かなあと言う印象は否めないが。

113■とはずがたり:2003/01/06(月) 22:07
仕事お疲れさまです。
旧社会系に受けが良かったんですかね?
羽田の印象は俺も余り無いので。

114オリーブの木:2003/01/06(月) 22:26
>113
どうもです。ええ、党内人事なんかではよくつるんで行動してますよ。
昨年の参院会長選は社会党系の角田氏が選出されましたが、羽田Gが前面
にバックアップしたくらいですから関係は良好です。でも羽田氏の影響力
は落ちる一方、もう過去の人ですよ。

115自由党支持者〜石原シンパ〜:2003/01/06(月) 22:38
羽田さんは幹事長としても融和型だったようですね。
派閥領袖や党首、総理大臣としてもそうだったように。
融和型の政治家ですよね。悪くいえば「軽パー」ですが。
羽田さんは
経世会分裂の時、
小沢氏に担がれてから総理大臣になった時までが政治家として
旬だったんじゃないですか?
まあ角さん(でしたっけ?)に
「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」
といわれたぐらいですし。

116オリーブの木:2003/01/06(月) 22:42
角さんじゃなくて金丸だよ。ちなみに橋本についてはそんなやついたっけ?
というリアクションだったそうな(笑)
まあ、そうだろうね。何度も言うが好感は持てるし人間的には好きなんだけどね。

117■とはずがたり:2003/01/06(月) 22:48
解説感謝。そういえばそんな事もありましたねえ。
過去の人という事及びいい人で好感が持てるにも賛成。

118自由党支持者〜石原シンパ〜:2003/01/06(月) 23:00
上記の三人が
羽田さんは二ヶ月、
小沢党首は未だなれずもう遠し、
梶山静六は志半ばで・・・

橋龍が二年半もやって。
政治というのは分からないもんですね。
そういってみれば橋龍が七奉行の中で最も出世しましたね。
羽田さんは「人柄の羽田」ですよね。

119自由党支持者〜石原シンパ〜:2003/01/11(土) 06:42
平成十三年秋の補選は
弔い合戦の二人が勝つという何の面白みもない結果になりましたね。
旧滋賀二区では当初は武村正義が出馬ということで
私も元祖さきがけが復活がするのかなあと思ったのですが。
で、武村正義の後継者として出てきた田島氏は
若くてそれまで選挙負けなしということでかなり期待していたのですが
惜しくも後一歩届きませんでしたね。
やはり低投票率が響いたのでしょうね。
宮城四区の方は落下傘の山条氏では厳しいのではないかと思っていましたが。

120先駆魂:2003/01/12(日) 01:33
2ちゃんの関連スレ。

非自民政権・細川・羽田内閣
http://natto.2ch.net/test/read.cgi/giin/1034508755/l50

●いま一度、新党さきがけを考える(98年10月20日解党)
http://natto.2ch.net/test/read.cgi/giin/1001784872/l50
旧社会党・旧総評系勢力統一スレッド(96年1月党名変更)
http://natto.2ch.net/test/read.cgi/giin/1029587978/l50
民社協会・旧民社党勢力統一スレッド その3(94年12月9日解党)
http://natto.2ch.net/test/read.cgi/giin/1028701353/l50
(旧)新生党について語るスレ (94年12月9日解党)
http://natto.2ch.net/test/read.cgi/giin/1041295755/l50

121先駆魂:2003/01/22(水) 14:19
URL変更です。

非自民政権・細川・羽田内閣
http://society.2ch.net/test/read.cgi/giin/1034508755/l50

●いま一度、新党さきがけを考える(98年10月20日解党)
http://society.2ch.net/test/read.cgi/giin/1001784872/l50
旧社会党・旧総評系勢力統一スレッド(96年1月党名変更)
http://society.2ch.net/test/read.cgi/giin/1029587978/l50
民社協会・旧民社党勢力統一スレッド その3(94年12月9日解党)
http://society.2ch.net/test/read.cgi/giin/1028701353/l50
(旧)新生党について語るスレ(94年12月9日解党)
http://society.2ch.net/test/read.cgi/giin/1041295755/l50
新党友愛 国民の声 フロムファイブ。。。
http://society.2ch.net/test/read.cgi/giin/1040737770/l50

122自由党支持者〜石原シンパ〜:2003/02/15(土) 22:52
新進党が平成八年の衆院選で思うように票が取れなかったのは
やっぱり池田大作がいたからですかね?
私はそう思うのですが。
自分がもしもあの時選挙権を持っていてどこに入れるかを考えた場合
政策で考えれば文句なく新進党でしたしょうけど
池田大作がいることを考えたら
新進党に入れる気持ちを躊躇せざるおえなかったと思います。
民主党は選挙前と全く同じ数になったのはある意味すごいことですね。
あの頃といえば菅代表が厚生大臣と民主党代表の二足のわらじで話題になりましたね。
そういってみれば当初の民主党は二人代表制でした。

123■とはずがたり:2003/02/15(土) 23:08
オリーブの木さんとは決定的に違うところなんですが,私はそんなに公明党に悪感情はないです。なんとか巧く利用できないものかというくらいの感覚です(まあ小沢ですら乗りこなせなかった訳ですが)
共産党の胡散臭さ・独善性の方がイヤですね。
多分どっちもどっちだとは思いまして,どっちの組織をよく知っているかという事に尽きるようなんですが。

新生党・公明党・民社党主軸という組み合わせはそう悪いものではなかったと思います。

124自由党支持者〜石原シンパ〜:2003/02/15(土) 23:20
私は公、共、社は
本来ならいつ破防法が適用されてもおかしくないと思っています。

池田大作さえいなければ宗教法人法で
自民党から総攻撃を食らうことはなかったでしょうし、
シンプルに改革保守イメージで売り出すことができたと思います。

125オリーブの木:2003/02/15(土) 23:28
>>123
最近は考えが少し変わりまして必ずしもその限りではありません。
どの道、政権を取れば公明党の強力無しにはことは進みませんからね。
但し、彼らが野党連立政権に加わる事はないと見ています。
自民党を敵にまわす度胸はまずないでしょう。まあつかずはなれず程ほど
にってとこかな。
>>124

>私は公、共、社は
>本来ならいつ破防法が適用されてもおかしくないと思っています。

おいおい・・(苦笑)

126自由党支持者〜石原シンパ〜:2003/02/15(土) 23:37
池田大作は勝ち馬に乗るのがうまいですし
他の政治家(共産除く)も創価票はおいしいですからね。
現実には腰ぎんちゃくのようについてまわるような気がします。
絶対に勘弁してほしことなのですが。
>>125
いや本気でかなり当たり前のことを言っただけです。
あれらは日本人の敵ですから。
スレ違いなのでこれくらいにしておきますが。

127■とはずがたり:2003/02/15(土) 23:40
ただし,新進党に関してはホンとは社民支持さんに
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=2246&KEY=1036414933&START=553&END=553&NOFIRST=TRUE
といわれて調べてみたんですが,
彼が言わんとした事かどうかは判りませんが,民社系や多くの保守系議員が民主党や自民党へ移ったにも拘わらず比例の目減りはそれ程多くなく,首都圏などでは逆に増えてます。
詰まり単独ではいいが,一緒になるとやだという人が結構多かったといえなくもないです。(96年は自民党に追い風,00年は自民党に逆風なのであんまり断定は出来ない。)

公明党は教義上,負けは許されないので,自民党が大敗北すれば手のひら返すでしょう。

128自由党支持者〜石原シンパ〜:2003/02/15(土) 23:45
平成八年衆院選は
橋龍人気というのは結構、影響したんですか?
の割には、衆院選史上過去最低の投票率だったのですが。

129■とはずがたり:2003/02/15(土) 23:51
95年はなんとなく村山不信任で公明票の上乗せがあった新進党が圧勝,96年はなんとなく橋本信任で自民党勝利だったのか?

しかし95年は民主党が未だなかったから新保守も社会党もイヤという人の受け皿がなかったというのもあったかもしれませんね。96年に進民で選挙協力してれば政権交代だったからでしょうし。

小沢が敗北から学ぶべきは保々連合ではなく,野党間の選挙協力だった筈です。

130自由党支持者〜石原シンパ〜:2003/02/15(土) 23:58
>なんとなく橋本信任
なあんかそんな感じですよね。結果からいえば。

政策的には保保連合というのは間違っていないと思うのですが
選挙は勝ってなんぼですからね。
あの時は進民選挙協力した方が良かったのかもしれません。

131オリーブの木:2003/02/16(日) 00:05
まず始めに破防法は>126のケースで言えば外国政府と共謀して
日本政府の転覆を図ったという具体的な証拠がない限り適用される
事はない事だけ言っておきます。したがって到底ありえない話。
ま、社民党の北朝鮮への態度が行きすぎてたのはその通りだが。
一応それだけ言わせてもらいまつ。
さて>128に関して言えば橋龍人気はあったと思いますよ。
自民党に対する有権者の不信感は今とそれほど変わりませんでしたから
勝つ要素としては十分あったと思います。また創価学会に対するアレルギーも
ありましたしね。それと非自民勢力に対する不信も自民党にまけないくらいありま
したし・・。

132自由党支持者〜石原シンパ〜:2003/02/16(日) 00:14
>>131
橋龍に関しては当時、確か支持率50%くらいありましたから
やっぱり人気は結構あったのですね。
(本当は総理大臣はこれくらいの支持率があって普通だと
 私は思うのですが)
>非自民勢力に対する不信も自民党に負けないくらいありました
色々、政界再編劇があったからですか?

133■とはずがたり:2003/02/16(日) 00:20
96年の共産党の躍進は他党の離散集合ぶりに嫌気がさした有権者が多かったからでは?

134オリーブの木:2003/02/16(日) 00:26
>色々、政界再編劇があったからですか?
そうですね。これが不信を呼ぶ最大の原因の一つでしたから。
それと非自民勢力に橋龍を上回る勢いがなかった。これにつきますね。

135オリーブの木:2003/02/16(日) 00:27
>133
その通りでつ。

136■とはずがたり:2003/02/16(日) 00:32
個人的には万年野党の社会党が解体して行き何の不満も無かったので離散集合が駄目というのがよく分かりませんでしたね。>>134-135

併し考えたら5%(15%でしたっけ?)で政権を維持した森さんは凄いですねえ。(>>132 50%くらいの支持があって当然でしょう。)

137オリーブの木:2003/02/16(日) 00:42
>136
私も同意見ですがただ非自民政権を作っておきながら、自民党の宿敵である
はずの社会党があろうことかその宿敵と連立し、なおかつ一夜のうちに
社会党のレーゾンデードル(存在証明)であった安保政策を転換してしまった
という有権者にとっては唖然とする行動に出た事が大きいのではないでしょうか?

138自由党支持者〜石原シンパ〜:2003/02/16(日) 00:48
>非自民勢力に橋龍を上回る勢いがなかった。
小沢党首ではだめだったんですね。
小沢党首は一部の人には根強い人気を誇りますが
どうも大衆受けしませんよね。
(裏返せばそれほど玄人向けの政治家ということになるのでしょうが)

139オリーブの木:2003/02/16(日) 01:10
小沢さんがダメというよりも新進党の掲げた18兆円減税や消費税据え置き
といった政策が有権者の不信を買った(人気とりだと)という側面もあるかも
知れません。ま、俺的にはこの時政権につくよりも有権者の意識が各段に変化
している今現在政権につくほうが改革は進むと思いますがね。

140■とはずがたり:2003/02/16(日) 11:09
小沢は結局,マスコミによって悪役イメージを植え付けられてしまったからなのでは?

また橋本が失政した訳でもないのに政権交代は起こらないことを考えたらこの時政権交代が起こらなかったことは普通で,寧ろ森政権が存続できたことの方が日本の政党政治を考える上で重大なのでは無かろうか。

また何もしてない小泉に有権者が一定の指示を与えている現状を考えるとこの国の大衆のレベルも非常に疑わしい(←これには自分の主観が入ってます)。

141オリーブの木:2003/02/16(日) 13:59
>>140
そうですね。一番決定的なのはそこなのではないでしょうか?
失政がないどころか割合よく頑張っていた印象がありましたからね。
景気も曲がりなりにも回復しましたし・・。
その点から見ればあの時点では妥当な結果だったと思います。
あなたが仰る通り、森政権が存続できた事に私もこの国の病症があらわれ
てるなあと感じます。まあ民主党も本気で政権を取りにいっているという
姿勢がイマイチ感じ取れませんでしたし政策的にも自民党政権に変わりうる
説得力を有権者に与えたとはお世辞にも言えませんでしたね。
ただ課税最低限引き下げを訴えた事は賛否を別にすればプラスでしたし、
民主党の信用度を与えたという点で良かったのではないでしょうか?
次の総選挙では今回出した予算案をより精度を上げ民由(社?)統一マニュ
フェストを作成し世に問うてほしいものです。

142■とはずがたり:2003/02/16(日) 17:43
次期政権でやるべき事という限定付きで統一綱領を作れば社民党はおろか,共産党などとも協力できないですかねえ。ちょっと無理か…。

143オリーブの木:2003/02/16(日) 17:59
>142
それを言うと自由党支持者さんが青筋立てて怒りますよ(笑)
まあそれはともかくとして今回出した民主党の予算案は社民党としても
乗れるどころかむしろこちらからお願いしたいくらい歓迎なのでは?
安保政策さえ一致できれば問題ないんですけどね。

144オリーブの木:2003/02/16(日) 17:59
まあこの話は政権交代スレでやったほうがいいのかも。

145■とはずがたり:2003/02/16(日) 18:08
破防法違反政党が二つも入ってしまってはねえw

146オリーブの木:2003/02/16(日) 18:43
96年の選挙に関して言えばこの頃から自民党と創価学会の融和姿勢が
目立ち始めましたね。堀内派会長の堀内氏ら自民党議員10数人の候補
者を推薦したり、現職議員がいるにもかかわらず自主投票を決定するなど
やっぱり自民党との腐れ縁は立ちきれないんだなぁと心底あきれ返った記憶
があります。内部の会合でもこれについて説明がありましたが、自民党その
ものではなく、議員個人の紫煙なんだから問題ないとの声が多数で特に反対
する人もおらず、ナイーブな集団なんだなぁとの認識を新たにしましたね。
これが数年後、自民党との連立を組む伏線だと気づいている人は私の知る限り
では1人もいませんでした(苦笑)

147■とはずがたり:2003/02/16(日) 18:51
堀内氏や池田氏と学会の友好関係はもっと以前からあったんじゃないでしょうか?

そもそもPKOの時などは自公民路線でしたし。

組織が或る党一辺倒で無いというのは健全な証拠なのかもしれません。学会がそれをやるとどうも節操がない様に見えてしまうのも事実なんでしょうが。

連合が自民党の(党そのものではなく労働問題に詳しい)一部議員の支援をするという話も出てますが…。

148オリーブの木:2003/02/16(日) 19:13
>147
それは仰る通りです。学会と堀内氏、自民党との蜜月ぶりは
政治に造詣が深いものなら誰でも知っている事ですし、別に
それをどうこう言うつもりはありません。
要は学会員のナイーブさの1例を挙げたまでです。
これが学会の自民党に対する和解へのサインだと受け取った人
は(本音ではわかってたのかもしれないが)俺の周りには
1人もいなかったものですから・・・

149自由党支持者〜石原シンパ〜:2003/02/23(日) 22:43
>>139
十八兆円減税に関しては確か宮沢喜一が無責任だとか言ってましたし
消費税据え置きに関してはポスターに載せてまで
ネガティヴキャンペーンやってましたよね。
>>140
そうですね。
当時の週刊誌の広告は小沢批判が多かったですよね。
池田大作と組んだことは批判されても当然だと思いますが
手法に関しては少し悪いように書かれてた印象がします。

森政権が存続したのも野党が自民党に代わるしっかりとした受け皿を
国民に対してアピールできなかったことが原因だと思います。
(小泉政権に関しても同じようなことが言えると思いますが)

新進党の「しんしんとう!」というCMは
結構、頭に残っています。

150■とはずがたり:2003/03/07(金) 04:51
戦後政治史ファン倶楽部
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/index.html

平成5年以降どころではないが一応ここにはっつけておく。

151やおよろず:2007/02/21(水) 09:12:50
① 細川首班

② 渡辺擁立失敗

③ 会派改新結成

④ 社会党離反

⑤ 渡辺擁立失敗

⑥ 羽田首班

⑦ 自社連立・海部擁立

⑧ 新進党結党

 (17回参院選)

⑨ 薬害事件・民主党結党

 (41回総選挙)

⑩ 新進解党

⑪ 自社さ連立解消

 (18回参院選)

⑫ 橋本退陣・小渕首班

⑬ 自自連立

⑭ 自自公連立

⑮ 自自連立解消

 (42回総選挙)

⑯ 加藤の乱

⑰ 森退陣・小泉首班

 (19回参院選) 

⑱ 田中真紀子更迭

⑲ 民主党代表選・鳩山クーデター退陣

⑳ 民由合併


中でも、諸説分かれるのが

Ⅰ 渡辺美智雄擁立騒動

Ⅱ 新進党解党

Ⅲ 橋本後継総裁選挙

Ⅳ 自自連立解消

152やおよろず:2007/02/21(水) 09:20:07
>>151

訂正

 「渡辺擁立失敗」が重複しました。

153やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/02/02(土) 23:56:41
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/nenpyo.html

平成5年(1993) 1月 06.社会党、山花貞夫委員長を選出
        6月 18.自民党羽田派等39名賛成、欠席16名造反で宮沢内閣不信任案255対220で可決。
           21.新党さきがけ結成 23.新生党結成
7月 18.第40回総選挙.自民過半数割れ、社会党惨敗 22.宮沢首相退陣を表明 
           30.自民党総裁に河野洋平を選出
        8月 09.8会派連立の細川護煕内閣成立。
9月 25.社会党、村山富市を委員長に選出
        12月 14.コメ市場部分開放決定 16.田中角栄死去(75才)

154やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/02/02(土) 23:57:37
平成6年(1994)

1月 29.少選挙区比例代表並立制可決成立
4月 25.5党派により統一会派「改新」結成 26.社会党連立離脱 28.羽田孜内閣成立。
6月 29.連立与党、海部元首相を首相候補に擁立 30.自社さ連立の村山富市内閣成立。
7月 20.村山首相が「自衛隊合憲」「日米安保堅持」「日の丸・君が代を尊重」と国会答弁
12月 09.民社党、新生党など解党、10.新進党結成(海部俊樹党首)

155やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/02/02(土) 23:58:47
平成7年(1995)
1月 17.阪神淡路大震災
3月 20.地下鉄サリン事件
7月 05.福田赳夫死去(90才) 23.第17回参議院選挙で新進党が躍進
8月 08.村山改造内閣発足
9月 15.渡辺美智雄死去 22.自民党総裁に橋本龍太郎選出
12月 27.新進党、小沢一郎を新党首に選出

156やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/02/02(土) 23:59:46
平成8年(1996)
1月 05.村山首相退陣表明 11.橋本龍太郎内閣成立。16.日本社会党が社会民主党に党名変更
2月 16.薬害エイズ問題で菅厚相が謝罪
3月 04.住専問題で国会が空転 28.金丸信自民党元副総裁死去
9月 18.社民党が新党移行断念、分裂 28.民主党結党(菅直人・鳩山由紀夫代表) 土井たか子、社民党党首就任
10月 20.第41回総選挙
11月 07.第2次橋本内閣成立.社さは閣外協力へ

157やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/02/03(日) 00:00:21
平成9年(1997)
9月 08.橋本首相が自民党総裁選で無投票再選 11.第2次橋本内閣改造
12月 18.新進党党首に小沢再選 27.新進党解党正式決定

158やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/02/03(日) 00:01:09
平成10年(1998)
4月 27.野党4党が合流して新・民主党結成(菅直人代表)
7月 12.第18回参院選.自民惨敗 24.自民党総裁に小渕恵三 30.小渕恵三内閣成立
9月 01.自民党亀井グループ、三塚派退会
10月 20.さきがけ解党
11月 07.新・公明党発足 30.自民党旧渡辺派分裂、山崎派が旗揚げ
12月 11.自民党三塚派を森喜朗が継承 19.自民党宮澤派を加藤紘一が継承

159やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/02/03(日) 00:01:44
平成11年(1999)
1月 14.小渕内閣改造.自由党と連立 18.宮澤派離脱の河野グループが大勇会発足
3月 18.自民党旧渡辺派・亀井グループが合併して志帥会結成
4月 11.東京都知事に石原慎太郎が当選
9月 23.自民党総裁に小渕首相再選 25.民主党代表選で鳩山由紀夫を選出
10月 05.小渕内閣改造.公明党と連立、自自公3党連立

160やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/02/03(日) 00:02:23
平成12年(2000)
4月 01.自由党連立離脱 02.小渕首相入院 03.自由党分裂、保守党結成(扇千景党首)05.自公保連立で森 喜朗内閣成立
5月 14.小渕前首相死去
6月 19.竹下元首相死去 25.第42回総選挙.与党3党で安定多数維持
7月 05.第2次森内閣成立
11月 21.森内閣不信任案採決に加藤派・山崎派38人が欠席 24.共産党委員長に志位和夫書記局長
12月 05.森内閣改造

161やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/02/03(日) 00:02:49
平成13年(2001)
1月 06.1府12省庁制度の中央省庁再編
4月 24.自民党総裁に小泉純一郎当選 26.小泉純一郎内閣成立
7月 29.第19回参院選.自民党が9年振りに改選過半数獲得
9月 11.米同時テロ

162やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/02/03(日) 00:03:31
平成14年(2002)
3月 26.辻元清美社民党政審会長、秘書給与詐欺疑惑で議員辞職
4月 08.加藤紘一元自民党幹事長が政治資金流用疑惑等の引責で議員辞職
6月 19.あっせん収賄容疑で鈴木宗男議員を逮捕
9月 17.小泉首相訪朝 30.小泉内閣改造
12月 0.民主党代表に菅直人選出 25.保守新党結成(熊谷弘代表)

163やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/02/03(日) 00:04:17
平成16年(2004)
5月 10.菅民主党代表辞意. 18.民主党代表に岡田克也幹事長が就任.
7月 11.第20回参院選.民主党が改選比較第1党に躍進. 19.鈴木善幸元首相死去(93才).30.日歯連献金事件で橋本元首相が派閥退会
9月 13.岡田民主党代表を無投票再選 27.第2次小泉内閣改造

164やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/02/03(日) 00:05:25
平成17年(2005)
8月 08.郵政民営化法案が参議院で自民党反対派の造反で否決.首相は衆議院を解散. 17.郵政民営化反対で自民党非公認の綿貫・亀井らが国民新党を結成  21.新党日本(代表・田中康夫長野県知事)結成
9月 11.第44回総選挙.自民党圧勝.岡田民主党代表辞意.15.自民党旧亀井派の代表に伊吹元労相を内定。 17.民主党代表に前原誠司選出 21.第3次小泉内閣成立 26.自民党小里派の新会長に谷垣財相が就任
10月 14.郵政民営化法案が可決・成立 31.第3次小泉内閣改造
11月 04.自民党旧橋本派会長に津島雄二元厚相が就任

165やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/02/03(日) 00:06:40
平成18年(2006)
2月 23.自民党旧堀内派が丹羽元厚相・古賀元幹事長の二人代表制に移行. 28.民主党・永田寿康衆院議員が「送金メール」問題で謝罪会見
3月 02.民主党・野田国対委員長が辞任。後任に渡部恒三元衆院副議長 31.民主党・前原代表が辞意。永田議員も辞職願提出。
4月 07.民主党代表に小沢一郎選出
7月 01.橋本龍太郎元首相死去(68才)
9月 20.自民党総裁に安倍晋三当選。25.小沢民主党代表再選。 26.安倍晋三内閣成立。公明党次期代表に太田昭宏幹事長代行を決定。
10月 19.自民党森派(清和研究会)会長に町村信孝前外相が就任。
12月 19.河野グループが解散し麻生派(為公会)旗揚げ。

166とはずがたり:2008/02/03(日) 12:39:33
まとめ感謝っす。急にどうされましたん??
そういえば95年の参院選では新進党が低投票率+学会票で躍進しましたねぇ。
微か1年後の96年の総選挙では勝てず解体してしまったわけですけど。。
民主は次の衆院選が正念場ですけど低投票率で勝った訳でもなく国民の支持は高まっているから頑張って欲しいっすな。
こうしてみると97年は12月迄あんまなにもなかったんですねぇ。社さの与党からの離脱はこの辺にあったのでは?

167やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/02/03(日) 20:30:58
>>166
>>153のサイトからの転載です。

97年は、太陽党など竹下・野中・森らによる新進党分解工作が進行した年でしたね。

168とはずがたり:2008/02/03(日) 23:15:25
太陽党やフロムファイブは自民への逃亡を図ると云うよりは民主と新進の橋渡しを狙った動きの様に思いますがどうでしょうかね?
一本釣りされて直で自民へ逝った連中は分解工作にやられたと云う感じでしたが。

169やおよろず ◆N22LLUydY2:2008/02/05(火) 05:27:03
>>168
確かに、民主の力を得て、野党非主流派が小沢に対抗しようとした向きもあると思います。
熊谷は違うと思いますけどね。

170とはずがたり:2008/02/05(火) 11:40:24
>>169
熊さんは,それ程早い時期から自民党へ戻ろうと考えてた様には思えないんですけどねぇ。
00年の総選挙で自民党候補に肉薄された辺りから戻りたがるように成った個人的な印象です。
読んだことはないのですけど『新しい中道主義―さらば国権政治』を99年に上梓してるんですけど題名から判断するにこの頃までは民主中道路線で行こうと頑張ってたんでは?

171とはずがたり:2008/09/28(日) 11:01:00
やっぱこのスレかな。

細川内閣以降の閣僚辞任例
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol&k=2008092800016
〔細川内閣〕
93・12・2  中西啓介防衛庁長官  改憲発言
〔羽田内閣〕
94・5・8   永野茂門法相     南京大虐殺をめぐる発言
〔村山内閣〕
94・8・14  桜井新環境庁長官   侵略戦争をめぐる発言
95・10・9  田沢智治法相     国会質問取り下げ要請
95・11・13 江藤隆美総務庁長官  植民地支配をめぐる発言
〔橋本内閣〕
97・9・22  佐藤孝行総務庁長官  ロッキード事件有罪確定者が入閣したことへの世論批判
97・9・26  越智伊平農水相    病気
98・1・28  三塚博蔵相      大蔵省幹部の過剰接待問題
〔小渕内閣〕
98・11・20 額賀福志郎防衛庁長官 装備品調達をめぐる不祥事
99・3・8   中村正三郎法相    改憲発言、米国人俳優の入国書類私蔵疑惑
00・2・25  越智通雄金融担当相  金融検査「手心」発言
〔森内閣〕
00・7・30  久世公堯金融担当相  金融機関などからの利益供与問題
00・10・27 中川秀直官房長官   女性問題、右翼との交際疑惑
01・1・23  額賀福志郎経済財政相 KSDからの資金提供問題
〔小泉内閣〕
02・1・29  田中真紀子外相    アフガニスタン復興会議のNGO排除問題などでの外務省との対立
03・3・31  大島理森農水相    元秘書の口利き疑惑、献金流用疑惑など
04・5・7   福田康夫官房長官   国民年金保険料未納問題で引責
05・8・8   島村宜伸農水相    衆院解散手続きに反対し罷免
〔安倍内閣〕
06・12・27 佐田玄一郎行革担当相 政治資金収支報告書の虚偽記載
07・7・3   久間章生防衛相    原爆投下「しょうがない」発言
07・8・1   赤城徳彦農水相    不明朗な事務所費計上問題
07・9・3   遠藤武彦農水相    自らが組合長を務める農業共済組合の補助金不正受給
〔福田内閣〕
08・9・19  太田誠一農水相    事故米の不正転売問題で引責
〔麻生内閣〕
08・9・28  中山成彬国交相    日教組・ごね得・単一民族の失言三連発で引責←追加

(了)
(2008/09/28-00:35)

172名無しさん:2009/07/25(土) 17:21:39
あれから、16年と7日、ですね。

173千葉9区:2009/07/25(土) 17:32:05
あの時はまだ小学生でした....

174名無しさん:2009/07/30(木) 01:10:57
細川や武村は今、何を思うのでしょうか。

175とはずがたり:2009/07/30(木) 01:42:05
細川のあっさりとした政界引退ぶりは一寸残念でした。
頑張って色々動いた武村と対照的でもありましたね。
さきがけ日本新党の合流も見てみたかったような気がします。

176千葉9区:2009/07/30(木) 22:42:01
585 :無党派さん:2009/07/30(木) 12:02:06 ID:LbYMyuU2
>>580
静岡1区(96年当選も00年に3位で撤退、競り負け、民主牧野は03年に勝利)、
高知1区(96年に共産が当選、公明は96年(競り負け),00年と続けて3位で撤退、自民が3連勝)、
埼玉6区(96年当選、00年復活当選、03年単独で落戦して撤退、民主大島が3連勝)、
千葉2区(00年にだけ擁立公明3位、民主永田が2回連続当選)、
北海道2区(96年に当選もスキャンダルで00年不出馬、自民勝利は00年だけ)

公明撤退後鉄板なのは高知1区だけか
共産が強いからという落ちもあるが、五島が弱かっただけか
スキャンダルで辞任してくれたが早く候補を変えるべき選挙区だった
587 :無党派さん:2009/07/30(木) 13:15:04 ID:pEU6VfNB
>>585

追加

東京4区(00年にだけ擁立公明次点、無所属出馬の現千葉県知事に惨敗、自民が3連勝(ちなみに自民の面子は毎回異なる))、
東京20区(96年のみ当選、00年は民主に惨敗、民主加藤が連勝の後、郵政では自民木原、公明と争った清水は05年比例単独最下位で初当選)、

177名無しさん:2009/07/31(金) 23:50:40
論説ノート:93年と違うところ=森嶋幹夫
http://mainichi.jp/select/opinion/ronsetsu/news/20090731ddm004070162000c.html

 「衆院選の意義は国民が投票によって政権を直接選択すること。今回ほど政権選択の可能性が現実味を帯び、国民が衆院選の意義を実感できたことは自社両党による55年体制下ではなかった」

 今とよく似た状況認識が示されているが、実はこれ、小沢一郎氏が率いた新生党の選挙公約の一節。1993年7月の衆院選の時のものだ。

 公約はさらに続ける。「衆院選では自民党に代わる政権をつくり、選挙後速やかに政治改革を実現することが最優先課題だ」。「自民党」を「自公」に、「政治改革」を「脱官僚政治」に置き換えれば今回の民主党の主張とそっくりだ。

 しかし、当時と今とでは重要な相違点がある。一つは選挙制度だ。93年選挙は中選挙区制だったが、今は小選挙区比例代表並立制に変わっている。この制度の下での過去4回の衆院選を通じ自民、民主両党による2大政党化が進んだ。政権交代の現実味でいえば、今回の方がずっとある。

 93年選挙の結果で誕生した非自民連立政権の「細川護熙首相」は選挙前には想定されていなかったが、今回はあらかじめ「麻生太郎首相」か「鳩山由紀夫首相」が想定されているのも違うところだ。

 もうひとつの相違点は、93年の日本ではまだマニフェスト(政権公約)選挙が実現していなかったことだ。

 自民党を除く各党のマニフェストを見ると、期限や財源などであいまいな部分も多いが、昔の選挙公約に比べれば真剣さは伝わってくる。自民党のマニフェストは麻生首相が今日発表するというが、遅れた分だけ充実した内容になっていることだろう。

毎日新聞 2009年7月31日 東京朝刊

178名無しさん:2009/08/04(火) 21:55:00
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009080400508

小選挙区制導入で自民勝利=新進伸びず解党へ−96年衆院選【09衆院選】
 小選挙区制が導入されて、今回の衆院選で5回目。同制度導入の狙いの一つである二大政党による政権交代も現実味を帯びている。節目に当たり、過去4回の衆院選はどのような選挙だったのか振り返ってみる。
     ◇         ◇
 中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に変わって初めて行われた1996年10月の衆院選。行政改革と消費税増税が主要な争点となり、自民党は公示前の211から239議席に増やし与党で過半数を確保。これに対し、野党第1党の新進党は4議席減らし、97年に解党するきっかけとなった。衆院解散直後に結成された民主党は公示前と同じ52議席にとどまり、自民党と連立を組む社民、新党さきがけの両党は惨敗した。大政党に有利とされる小選挙区制の特性が表れた。
 選挙戦で橋本龍太郎首相は行政の効率化のため中央省庁を再編する方針を掲げるとともに、消費税率の5%への引き上げに理解を求めた。これに対し、政権奪取を目指した新進党の小沢一郎党首は「消費税率3%の据え置き、減税18兆円の実現」を訴えたが、支持は広がらなかった。
 鳩山兄弟が中心になって結成した民主党は、兄の由紀夫氏と薬害エイズ問題に取り組む菅直人厚相の2人が代表に就任。新党ブームを期待したが伸びなかった。ただ、翌年解党した新進党の受け皿となり、現在の民主党につながっていった。
 社民、新党さきがけ両党とも議席を半分以下に減らし、さきがけは井出正一代表が落選した。(肩書は当時)(2009/08/04-15:01)

179名無しさん:2009/08/04(火) 21:55:50
>>178の議席獲得グラフ画像

http://www.jiji.com/news/kiji_photos/20090804ax05g.gif

180名無しさん:2009/08/09(日) 04:04:08
民主政権は「旗印絞れ」 細川元首相インタビュー(1/6ページ)
http://www.asahi.com/politics/update/0809/TKY200908080277.html
2009年8月9日3時5分

 1993年、初めて「非自民」政権をつくった細川護熙元首相が朝日新聞社のインタビューに応じ、当時の内幕を明かしつつ政権交代に向けた提言を語った。民主党政権が誕生するならこれまでの政治との断絶がその主眼であり、新政権には旗印――目標を絞って政権運営を進めるよう、自民党には健全野党の役割を自覚するよう求めた。「政権交代政治」定着へのカギはそこにあるとの考えだ。

 細川氏は98年の政界引退後は陶芸などにいそしみ、政治へのかかわりを避けてきた。初めて詳細な問答に臨み、細川政権の経験と教訓、日本政治への期待を吐露した。

 細川氏は、自民党政権の宮沢喜一氏との「首相の引き継ぎ」の内容を明かし、憲法や安全保障への抑制した考えで共通していることを確かめ、その後も宮沢氏が折に触れ助言してくれたと語った。

 だが自民党はその後、政権奪回の政争に走り、細川氏も「打倒自民党」に傾いた。今回、政権交代があるとすれば、「自民党が健全野党になって初めて、日本の政治はいい形になる」と提唱した。

 細川政権のキーパーソンだった小沢一郎氏は「権力の強さも脆(もろ)さも知っているリアリストだ」とし、「慎重だがやるときはすぱっとやる。わがままなところもありますが」などと論評した。

 突然持ち出して失敗した7%の「国民福祉税」については「内閣支持率の高さを利用しようという大蔵省の魂胆があった。霞が関が(小沢氏を含む)与党代表者会議と一体になって攻めてきた」と証言。ただ、民主党の「官僚支配の打破」の主張には「官僚機構を使いこなさないと政権は成り立たない。官僚退治は愚の骨頂」と疑問を呈した。

 さらに民主党政権誕生を念頭に「ひとつの内閣で何もかもいっぺんにはできない。限られた目標と期限を明確にして、断固やるかどうかだ。民主党は大丈夫か」と注文をつけた。

 細川氏はもともと二大政党制でなく「穏健な多党制」が持論で、「大きな政党は総花的なテーマを掲げざるを得ない。それでは政治は進まない」と述べ、民主党の提唱する衆院の比例区削減には明確に反対した。(本社コラムニスト・早野透)

181名無しさん:2009/08/09(日) 04:04:38
民主政権は「旗印絞れ」 細川元首相インタビュー(2/6ページ)
http://www.asahi.com/politics/update/0809/TKY200908080277_01.html

■宮沢・細川会談の真実

 ――細川さん、最近は。

 細川護熙 田舎暮らしで草引きをしています。

 ――一時期、細川さんの庭の野菜が評判になっていましたが。

 細川 そうですか。野菜が余るのであちこち配り歩いています。喜んでいる人もあるけど、ありがた迷惑な人もいるかも。

 ―陶器づくりは。

 細川 焼き物はやっています。発表会も年に数回。

 田中秀征 細川さんは以前から、自分のことを「農本主義者」だと言っているんだ。

 細川 いやいや、私なんかちょっと草引きしているぐらいで、すぐに嫌になるほうですから。

 ――さて、いまから16年前のこと。細川非自民政権ができ、自民党の宮沢喜一さんから首相のバトンを受け取りました。あのときの政権交代の経験と教訓をうかがいたい。8月17日、小雨の軽井沢での宮沢・細川会談は政権交代を象徴する場面でした。

 細川 実は首相の引き継ぎというのはないんです。各省大臣は事務引き継ぎのサインをしますが、首相にはない。

 ――そういえば、そうだ。

 田中 すべて官僚が知っているから引き継ぐ必要がないのです。宮沢さんは特別だった。

 細川 田中秀征さんと一緒にお会いしましたが、助言、アドバイスというものでした。中身は日米関係や欧州との関係。とりわけ中国の軍事大国化、経済大国化を心配されていた。国連安全保障理事会の常任理事国入り、NPT(核不拡散条約)延長は「自分は中途半端にしてある」と、手で抑えるしぐさをされた。

 私自身、憲法や安全保障、例えば海外での武力行使はダメだとか、同じ考えを持っていましたし、宮沢さんのようなバランス感覚のある賢人からそういう機会をいただいてうれしかった。懇切に、ほんとうに思い入れがこもった話でしたから。

 ――あのときの話の中身をこんな風に聞くのは初めてです。

 細川 しゃべったことがないですから。

 ――安保理常任理事国入り問題ではどんなやりとりがあったのですか。

 細川 「あまり物欲しそうな顔をするのはいかがなものか」ということでした。当時、ドイツが常任理事国になりたいとはっきり表明していたので、外務省も宮沢さんに前向きな姿勢を示してほしいと、さかんに言っていたようです。この問題はその後、秀征さんが矢面にたって、外務省とやりとりがありました。結局、「積極的に常任理事国にしてくれとは言わない。大多数の国がなってくれというのであれば受ける」という線で、1カ月後に国連で首相演説をしたわけです。

 田中 会談が終え細川さんは私に一言、「宮沢さんという人はすごい人だね」と言いました。

 ――宮沢さんを見送った後、細川さんが「あの人たちと一緒にやりたかった」とつぶやいたとも記録されている。

 細川 ほんとうにそうでした。

 田中 冷戦が終わり、経済の拡大が約束されなくなったという時代認識を2人は共有していました。その後も私を含めた3人で会い、何度も助言してくれました。

 細川 自分を引きずり下ろした張本人なのに、助けていただいていたのだから。

 じつは新聞記者を辞めて政治家になるとき、通産相だった宮沢さんを訪ね、「政治のほうにいきたいのですが」と相談したのです。宮沢さんは祖父の近衛文麿首相の秘書官だった父の細川護貞とも親しく、息子の私にも親近感をもっていただいていました。そのときは即座に「政治の世界なんてやめたほうがいいですよ」と言われましたが、その後もゴルフ場や食事先で折に触れてお会いし、あいさつをしたりしていました。

182名無しさん:2009/08/09(日) 04:05:20
民主政権は「旗印絞れ」 細川元首相インタビュー(3/6ページ)
http://www.asahi.com/politics/update/0809/TKY200908080277_02.html

■「細川首相」浮上の背景

 ――歴史を感じますね。ところで細川政権ができたときは、新たな政治の扉が開かれたという熱気がありましたね。いま、そのうねりは感じますか。

 細川 そのときとはちょっと違うんじゃないでしょうか。あの頃は、バブルの崩壊、リクルート事件、政官業の癒着で、政治が変わることへの期待が非常に大きかった。いまは小選挙区制に促される形で二大政党化が進み、民主党が自民党を凌駕(りょうが)するかもしれないところまできている。立ち上げたのと違い、少し受け身な感じです。

 ――自民党が統治能力を失ったので、一度民主党にやらせてみようかというのは、悲しい選択かもしれない。

 細川 熊本県知事の頃から、中央政治の壁や官僚機構に嫌というほど頭をぶつけ、「既成の政治勢力では打開できない」と思い知りました。そのためには新しい政党しかないと心を決め、92年初夏、「文芸春秋」に新党結党宣言を発表。あのときは事務所の電話が鳴りっぱなしでした。

 ――日本新党を結党、7月に参院選があり、4人が当選しました。

 細川 日本新党は政治運動として始めました。私自身は議員になるつもりはなかったが、「言い出しっぺが出なくてどうする」と言われて立候補、参院議員になった。旗揚げから2カ月、十分な準備もないままに人が集まったのです。

 ――その後、金丸信・自民党副総裁の5億円の政治献金問題が起こり、93年春には金の延べ棒の不正蓄財が暴かれ逮捕された。細川さんは予言者のようでした。

 細川 たまたまそういう事件も起きて、既成の政治への不満が爆発する状況になった。われわれへの期待をさらに感じました。

 夏の都議選で20人、その後の総選挙では私も含めて35人が当選。遊説していると、ビルの上から人が駆けおりてきたり、窓を開けて手を振ったり。街頭演説も千人ぐらいのところは素通りし、3千人ぐらいいないとしなかった。申し訳なかったですが、ありがたい状況でしたね。

 ――総選挙の直前には新党さきがけが旗揚げ。田中さんはその中心人物です。細川さんとは話が通じていたのですか。

 田中 ええ。細川さんとは92年8月、経済雑誌「東洋経済」の対談で会い、そのあと2、3時間話をしました。その場で私は「宮沢内閣が終わる日に自民党を離党して行動を共にします」と約束した。たった一人で出る、と言いいましたね。

 ――総選挙の結果、自民党が過半数割れし、小沢一郎さんが動いて細川さんを首班とする非自民8党派の連立政権ができる。首相になる決意は、いつ?

 細川 選挙が終わって、小沢さんから「首相に」という打診がありました。私はまったくそういうことは考えていなかったし、首相のポストにはちっとも魅力を感じていなかった。だが「これは天命だ。受けるしかない」と直観的に思い、すぐに腹を決めました。

 ――さきがけの中には、自民党の後藤田正晴さんを担ぎ出し、日本新党と組んで政権をつくろうという動きもあった。

 田中 僕は全然、関知していない。

 ――代表の武村正義さんが工作していたと言われているが。

 田中 そういう相談が僕にあったわけじゃないしね。

 ――ほんとに?

 田中 細川さんに首相の打診があったとき、私は猛反対したんです。準備ができていない。「非自民」だけでは「旗印」にならない。ある日、旗が浮かんだ。政治改革政権の提唱です。これをこなさないと何も進まない。細川さんも納得しました。

 細川 ひとつの内閣で何もかもいっぺんにはできない。限定的な目標と期限を明確にして、断固やるかどうかです。あれもやります、これもやりますと喧伝(けんでん)した揚げ句、何一つできないのではダメ。その点、民主党は大丈夫かな。

 田中 細川さんは旗印がないと行動しない人なんだ。

183名無しさん:2009/08/09(日) 04:06:55
民主政権は「旗印絞れ」 細川元首相インタビュー(4/6ページ)(1)
http://www.asahi.com/politics/update/0809/TKY200908080277_03.html

■小沢一郎氏を語る

 ――小沢一郎さんはまだ、現役で頑張っています。

 細川 なかなか慎重ですが、やるときはすぱっとやる。わがままなところもありますね。

 ――細川さんを首相にするというのは、歴史的なアイデアだった。

 田中 総選挙の前に山口敏夫さんが電話をかけてきて、「次は細川政権だ」というんだ。「ついては小沢と2人で部屋で話をしてくれないか。おれはルームサービスでも何でもやるから」と。「いいから、いいから」と逃げちゃったんだけど。

 細川 山口さんご本人の勘もあったんでしょうね。

 田中 政治が流れていく先に「細川首相」があるというのは、勘のいい人なら感じていた。小沢さんはそうした政治力学に熟達していた。私にいわせると細川政権のパワー担当です。「旗印」に徹底してこだわる細川さんと対照的だ。私も「旗印」組だが。

 細川 小沢さんは権力の強さも脆(もろ)さも知っている。リアリストなんです。官邸や首相を陰で操っているという世評もありましたが、必ずしも事実ではない。政治改革関連法案について小沢さんは当初、「政府案を粛々と実現するだけだ」と言い張っていたのですが、私が「自民党と話をしないとまずいんじゃないか」と言うと汗をかいてくれました。参院で法案が否決されたときも、「総選挙にうってでるべきだ」と主張していましたが、私と河野洋平自民党総裁によるトップ会談での成立に協力してくれた。悩まされたこともありますが。

 ――その後の小沢さんは新進党をつくって壊し、自由党を率いて自民党と連立したかと思うと、袂(たもと)を分かち民主党に合流するという具合にぐるぐる変わる。

 田中 だから旗印よりパワーなんだ。

 細川 自分の年齢とか健康とか政治状況とかいろいろ考えながら、現実的な判断を下してきたのでしょう。

184名無しさん:2009/08/09(日) 04:07:12
民主政権は「旗印絞れ」 細川元首相インタビュー(4/6ページ)(2)

■霞が関と与党が攻めてきた

 ――細川政権に話を戻します。あのときは官邸が細川さんと武村正義官房長官、首相特別補佐の田中さん、鳩山由紀夫官房副長官と日本新党、さきがけでラインをつくっていた。一方、新生党の小沢さんを中心とする連立与党代表者会議がありました。武村さん、小沢さんの対立で苦労が絶えなかったですね。民主党代表の鳩山さんは「政府と党の二元構造をやめ、政府に一元化する」と言いますが、その反省からなのでしょうか。

 田中 準備不足でした。細川さんもわれわれも10年ぐらい先を見ていましたから。なにより私をはじめ細川さんを支える人間が、未熟で力不足でした。さらに言えば、やはり8党派という事情です。唐突にできた寄り合い集団が抱えるマイナス面を、政権はもろに背負いました。

 細川 なにしろ社会党が連立政権の第一党だったのですから。内閣のキャッチフレーズに「責任ある変革」を掲げたのは、安保や外交について確立している国の政策は引き継ぐということを、あえて強調する狙いがあった。国民に余計な不安を与えないために、そう言わなければなりませんでした。

 ――細川さんは真夜中の記者会見で消費税に代えて税率7%の国民福祉税の導入を発表しましたが、すぐ撤回に追い込まれました。政権への打撃は大きかった。

 細川 内閣支持率の高さを利用しようという大蔵省の魂胆が、たしかにあったとは思います。私が福祉税の中身を聞いたのは記者発表の数時間前。与党で決めるというので、政府はほとんど関与していなかった。

 ――与党代表者会議で決めて、細川さんのところに持ってきた?

 細川 そうです。それもその日の夕方に。政治改革がずれ込んだあおりで本予算もできていなければ、補正予算も組めない。日米経済協議のための訪米も迫っていて、身動きとれない時期でした。国民に十分説明する時間がとれないまま、ばたばたと決められた。

 ――小沢さんと大蔵省の斎藤次郎事務次官が組んだとも言われましたが。

 細川 小沢さんだけじゃないでしょう。「霞が関」が与党代表者会議と一体になって攻めてきた。

 田中 そのころ、宮沢さんと3人で会うごとに、経済をどうするかの議論をしていた。内需刺激のための減税はやるべきだが、大蔵省が主張する増減税一体ではないだろうと。では、どうすればよいか、細川さんも苦悩していました。辞めるに辞められず、追い込まれていった。私は政治改革が実現した時点でいったん身を引いておけばよかったと、いまでも思っています。

 細川 94年の年明けに、「コメの市場開放と政治改革に道筋をつけたら辞めようと思う。この内閣の使命はそれで終わるのだから」という話を秀征さんとしていたのです。そうしたら実現した直後の1月30日に秀征さんのほうが、首相特別補佐を辞めてしまった。

185名無しさん:2009/08/09(日) 04:08:08
民主政権は「旗印絞れ」 細川元首相インタビュー(5/6ページ)(1)
http://www.asahi.com/politics/update/0809/TKY200908080277_04.html

■「官僚退治」民主は不安だ

 ――官僚といえば、政権発足時、官僚トップの官房副長官には石原信雄さんを留任させましたね。

 細川 政権交代が軌道に乗るまでという条件で留任していただきました。いまの民主党で心配するのは、官僚機構への敵対的な傾向が少し強く出過ぎていることです。われわれも官僚とは随分やりあったが、官僚機構を使いこなさないと政策の立案も実行もできない。政権は成り立たない。「官僚退治」は愚の骨頂だと思います。政権交代が常態化すれば官僚機構も当然、中立化します。石原さんの留任は唯一の継続性でした。政権交代はあくまで断絶が目的ですからね。

 ――断絶、ですか。

 細川 断絶です。例えば核を搭載したアメリカの艦船が日本に入っていたという問題。アメリカは認めているのに、日本政府は認めない。そういうことは政権交代があれば、解決する話でしょう。道路建設にしても、過去の行きがかりと決別し、中止して福祉に回すこともできます。

 民主党のマニフェストを巡り、財源論の議論が出ていますね。一般会計と特別会計の合計から不要なものを削って予算を組み直すというのも、断絶です。手間は大変ですが、意味のあることだと思います。

 田中 細川内閣は突然できたものだから、官僚の側に用意をする暇がなかった。脳振盪(のうしんとう)を起こしちゃったみたいなもので。

 細川 首相特別補佐をおいて、秀征さんを起用したのも、意外な提案だったでしょうね。法律にはない役職ですから。石原さんには苦労をかけました。

――民主党は「国家戦略局」を官邸におくとか、「関係閣僚会議」をつくるとか、事務次官会議を廃止するとか提案をしているが、細川政権では秀征さんの特別補佐がひとつの突破口だった。事務次官の廃止はどう思います?

 田中 あっても構わないと思いますが。連絡のため必要な場合もある。

 細川 少なくとも、事務次官会議をなくしたら官僚支配がなくなるというものではないですね。

■自民党は健全野党でなくなった

 ――一方、野党になった自民党は佐川急便からの1億円借金問題など細川さんのスキャンダルを執拗(しつよう)に追及し、細川さんは間もなく辞めてしまった。

 細川 やることをやれば、さっさとさよならをしたらいいと思う性分で、首相のポストに未練はありませんでした。古代ローマにキンキナトゥスという人がいた。ローマがある部族に攻め込まれたとき、田舎で百姓をしていた彼は元老院から独裁官に任命される。1週間ほどで敵を破ると、「仕事は終わった」と百姓に戻った。それでいいんです。私は権力のポストに恋々とするような人とはあまりおつき合いしたくない。

 ――野党・自民党の河野総裁はフェアプレーで競っていくと言っていたんですが。

 細川 河野さんとは「超大国路線」を目指さないなど、共通点は多かったと思います。自民党もはじめは、「健全野党」を標榜(ひょうぼう)し、是々非々で対応する構えだったのですが、次第に政権復帰を最優先し、抵抗と攻撃に終始するようになった。

 ――攻撃の急先鋒(きゅうせんぽう)は野中広務、深谷隆司の両氏だった。

 細川 ほんとに立ち往生しました。日本の政治改革のためには自民党支配の基盤を打ち崩さないとダメだという思いがだんだん強くなってきた。自民党が健全野党の役割を引き受けていればほかにやりようもあったのですが、裏で社会党に手を回したりもした。私も方便として、新進党、民主党に向かわざるを得なかった。自民党が健全野党になって初めて、日本の政治はいい形になると思います。

186名無しさん:2009/08/09(日) 04:08:24
民主政権は「旗印絞れ」 細川元首相インタビュー(5/6ページ)(2)

■民主党の三木武吉

 ――細川さんは日本新党を解党、小沢さんと新進党を結成する。新進党が解党されるとかなりを民主党に糾合し、「新民主党」をつくった。

 細川 新進党には自民党の対抗勢力の先鞭(せんべん)としての意味はあったと思うが、いかんせんにわか仕立てでした。小沢さんを支持するかしないかという意図せざる対立軸ができてしまった。公明党という異質な勢力を抱えたため、内部でしょっちゅう問題が起き、解党に追い込まれた。

 しかし、野党が細分化したままでは自民党に対抗できません。統一会派「民友連」(民主友愛太陽国民連合)を結成したが、政権を狙うには会派では弱い。やはり政党だと関係者を説得しました。みんな自己主張が強く、いったんはあきらめかけたが、最後は拡大民主党に収れんしたということですかね。随分長くかかりました。

 毎晩遅くまで走り回った。55年に民主党と自由党が合併したときも、夜ごと小料理屋に人が集まっていたといいますが、同じような感じだったかもしれません。

 ――三木武吉の心境?

 細川 そうですね。不毛だなと思いつつ、統一会派なんかでは自民党に太刀打ちできないと必死でした。

 田中 細川さんはいわば、現在の民主党の生みの親ですよ。ここで気合をかけてもらわないと。

187名無しさん:2009/08/09(日) 04:09:26
民主政権は「旗印絞れ」 細川元首相インタビュー(6/6ページ)(1)
http://www.asahi.com/politics/update/0809/TKY200908080277_05.html

■穏健な多党制をめざせ

 ――ただ、細川さんは単純な二大政党論者ではない。国会答弁で将来は「穏健な多党制」に向かうと発言された。

 細川 その時点とその後では事情が変わりました。選挙制度が変わった。最初の政府案は小選挙区250、全国区の比例代表250でしたが、法案成立時は小選挙区300、ブロック制の比例代表200。いまは300と180。だんだん二大政党制に有利な制度になっています。

 田中 政府案の「250・250」がそのまま成立していれば、穏健な多党制を担保できたのですが。少数政党は主張が明確です。大政党にあいまいさを許さない存在になるんですよ。今の流れだと、大政党がわけの分からない烏合(うごう)の衆になります。

 ――民主党はさらに比例区の定数を80、減らそうとしている。

 細川 それはよくない。しかし民主党が今度の選挙で勝利すれば、その先は二大政党制ではなく、「穏健な多党制」に移行するのではないかという予感もある。単純小選挙区制で二大政党制のイギリスでさえ、第三党の自由民主党が力をつけ、「穏健な多党制」にシフトしつつあるのですから。

 ――中選挙区制はどうですか。

 細川 私は万全の制度はないと思っています。どんな制度にだってプラスもあればマイナスもある。

 私は選挙制度は一神教の小選挙区より多神論の中選挙区連記制がいいとずっと思っていました。日本人のメンタリティーからすれば、小選挙区で「白か黒か」「AかBか」という選択をし、敵対的な政治になるのは好ましくない。しかし、あの時点で実現可能な選挙制度としてあえて推進したのです。が、現状をみるに、小選挙区に張りついて選挙運動ばかりしている人、あるいは人気だけのタレントみたいな人が目立ちます。賢明な政治判断ができる立法府にはならない。中選挙区で「Aさんもいいけど、Bさんもいい」という選択、複数の名前を書けるほうが、日本的なよい政治になるのではないでしょうか。

 ――どういう政党が望ましいと。

 田中 私は二つとはいいません。とりあえずいい政党がひとつ先にできてほしい。

 細川 三、四十人規模のしっかりと旗を掲げた政党ができるかどうかがポイントでしょう。与党でも野党でもいいんです。大きな政党で何百人も議員がいれば、総花的なテーマを掲げざるを得ないですから。それでは政治が進みません。

 ――民主党と自民党の大連立は?

 細川 民意が反映されない形ですから、望ましい姿とは思いません。

188名無しさん:2009/08/09(日) 04:09:41
民主政権は「旗印絞れ」 細川元首相インタビュー(6/6ページ)(2)

■宮沢さんと一緒にやりたかった

 ――細川さんは政権発足直後の記者会見で、先の大戦について「侵略戦争だった」と答えられました。

 細川 もう少し言葉を尽くして説明すればよかったと思わないでもなかったが、明快に言ってしまった。

 ――発言への反発、脅しとかも。

 細川 それらしきことは随分ありましたね。

 田中 大量に来たよね。血で書いたような手紙もあった。

 細川 街宣車もたくさん来た。

 田中 細川発言の延長線上で、自社さの村山政権は「侵略」や「植民地支配」を謝罪する「村山談話」を95年に出す。05年、自民党の小泉政権がそれを踏襲する「小泉談話」を出した。小泉さんは、細川さんが「侵略戦争」発言をしたとき、私に「あれでいいんだ」と言ってきました。

 細川 そうなんですか。

 ――小泉さんの後の安倍政権は、「憲法改正」「占領政策からの脱却」を主張した。どう思われますか。

 細川 「ノーサンキュー」です。それだけです。

 ――宮沢さんは首相をやめる直前に番記者に語っているんです。「憲法は変えないほうがいい。二度と戦争はしちゃいけないんです」と。政権交代は構わない。自分の原点である平和、憲法は守ってほしいと。

 田中 宮沢さんは細川さんがそれを引き継いでくれると期待したんです。

 細川 宮沢さんや後藤田正晴さんなんかと一緒にやれたらおもしろかったでしょうね。

 ――国民的ブームで登場した細川政権は、高い支持率を維持し続けました。発足直後は70%、辞任時でも60%近い。

 細川 支持率を意識したことはまったくありません。知事時代も70%の支持がありましたが、とくに意識しなかった。やりたいように思い切ってやれば、支持率はおのずからついてくる。「新幹線なんかいるか」と言って県議会で弾劾決議を食らったこともありますが、支持してくれる人は支持してくれた。

 ――支持率で肩を並べられるのは小泉さんぐらいです。

 細川 掲げたテーマが明確でした。郵政改革などターゲットの選び方については、同意できないところが多々ありますが、物事を断固としてやる姿勢は、ほかの人にはまねできません。

 ――安倍政権以降は支持を得ようとして、いずれも失敗しています。

 細川 何を言っているのか分からないから、ついていきようがなかったんじゃないでしょうかね。

 田中 細川さんや宮沢さんにはぶら下がりのインタビューは似合わないよね。

 ――政治家が小泉さんあたりから変わった印象がある。

 細川 もう少し黙っていないとね。

 田中 細川さんはいままで黙りすぎていたけどね。

189名無しさん:2009/08/09(日) 04:16:04
>>180-188
民主政権は「旗印絞れ」 細川元首相インタビュー(1〜6)

長々と転載しましたが、非常に読み応えのある記事でした。
細川元首相自身の口から、政権の内情が語られるとは…

190千葉9区:2009/08/13(木) 21:41:28
903 :無党派さん:2009/08/13(木) 19:42:42 ID:uqkTLX/M
>>881
自民党の選挙を仕切ってきたのは、
2005年 飯嶋
2003年 安倍
2000年 野中
1996年 野中
1993年 梶山
1990年 小沢
1986年 金丸(竹下)

本当は今回古賀が自民党を見事に勝利に導いて時期首相を射止めるはずだったのに
参院選後福田の下で選対委員長になたった古賀は殆ど表に出てこないから
結構不気味だったんだが、今の自民党を見てると2年間何やってたんだろ。
自分の当選すらおぼつかなさそうだし。野中の直弟子のくせに拍子抜けもいいとこ

191名無しさん:2009/08/13(木) 23:20:27
http://sankei.jp.msn.com/politics/election/090813/elc0908132254010-n1.htm

【数字で読み解く衆院選】「2」政権交代 米英に比べると圧倒的に少なく
2009.8.13 22:53

このニュースのトピックス:衆院選
 戦後、衆院選の結果で政権交代が起きた例は2回だけ。2大政党制の米国が8回、英国が6回経験しているのに比べると、圧倒的に少ない。これは戦後、中選挙区制が長く続いた側面が大きいといえる。

 2回のケースを見ると、敗戦直後の昭和22年の衆院選では、第一党となった日本社会党が(当時の)民主党、国民協同党と連立を組み、社会党首班の片山哲内閣が発足した。だが、当初は組閣がうまくいかず、首相が10大臣を兼務する「1人内閣」としてスタートした。

 平成5年の衆院選では、政治改革関連法案をめぐって自民党の小沢一郎氏(現・民主党代表代行)らが離党して新生党を結成。「非自民」を旗印に8党・会派の連立政権が発足し、細川護煕・日本新党代表が首相に。昭和30年の結党以来、38年間政権を維持した自民党は初めて下野したが、1年もしないうちに、社会党委員長の村山富市氏を首相として自民、社会、新党さきがけの3党連立政権を作り、政権に返り咲いた。

 平成8年に小選挙区比例代表並立制が導入されると、中小政党の議席の維持は困難となり、自民、民主両党による「二大政党化」が進んできた。

192名無しさん:2009/08/19(水) 20:44:55
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009081800891
http://www.jiji.com/news/kiji_photos/20090818ax09b.jpg

主な政党の変遷【09衆院選】
 自民、社会両党による「55年体制」は、1993年に非自民の細川連立政権が発足したことにより崩壊。政界は連立政権の時代に入った。94年に細川政権を支えた保守・中道政党が新進党を結成し、二大政党時代への期待が高まった。
 しかし、新進党は96年、小選挙区比例代表並立制が導入された最初の衆院選で敗北。選挙直前に誕生した民主党への合流者が相次ぎ、97年末に解党した。一方、民主党は2000年、03年の衆院選で順調に議席を伸ばし、野党第1党の座を確実に。07年参院選で勝利し参院第1党に躍進した。
 この間、自民党は、社民党、自由党、公明党と連立のパートナーを取り換えながら政権を維持してきた。05年の郵政選挙では、郵政民営化反対組が国民新党と新党日本を旗揚げしたが、自民党は大勝した。
 その後、08年9月に民主党の一部が改革クラブを結成。09年8月には自民、民主両党の離党者が中心になり「みんなの党」を発足させたが、いずれも小規模で選挙互助会的要素が強い。(2009/08/18-14:42)

193とはずがたり:2009/08/19(水) 23:50:40
>>192
>しかし、新進党は96年、小選挙区比例代表並立制が導入された最初の衆院選で敗北。選挙直前に誕生した民主党への合流者が相次ぎ、97年末に解党した。
民主党への合流者が相次いだのではなく自民党への脱走者が相次いで解体したってのが正確では?

194千葉9区:2009/08/20(木) 21:51:28
新進党解党前に民主党に移ったのって、鳩山弟 一人だった記憶があります。

195名無しさん:2009/10/12(月) 18:21:43
「選挙・議員関連情報スレ」とこのスレのどちらに書き込むか迷いましたがこのスレに。
懐かしのスレの過去ログを見つけました。

やっぱり僕らは民主党政権をつくる必要があるんだね
http://piza.2ch.net/test/read.cgi/giin/974605075/1

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2000/11/19(日) 12:37
 人生にはそう多くはないが輝きうる「一瞬」というものが訪れると僕は思う。自民党の加藤紘一はその「一瞬」の舞台を自らつくり、あとは時を待つだけであるかに思われていた。加藤自身が動けば、加藤がこの国のリーダにもなれるし政権交代を実現させ、真に国民の未来を見据えた改革を実行できる舞台は用意されたのである。
ところが、加藤はテレビ番組の一司会者の煽りによって、最高の−普通の人間では何年生きても体験できないような−舞台を自ら降りてしまった。悲しい事だと思う。国民の期待をこれだけあつめただけに、裏切られたと感じた国民も多かったのではないか。

 でも、今回の騒動で分かったのはやはり加藤は「自民党」の人間だと言う事、そしてそのような自民党の人間に政権交代の夢や改革の希望を託しても結局僕らは裏切られるだけであるという事だ。
我々は失望した。でも、政治に失望してはいけない。僕達は自民党に失望すべきなのだ。

やはり、僕達は「自民党」にはたよらないで自力で政権をつくらなければならない。
具体的には、民主党を中心とする政権を僕達が僕達の力でつくらばならないのだ。自民党員の気まぐれに期待しても無駄である。
来年の参議院選挙は勝負である。この選挙で与党を過半数われに追い込めば、衆議院も解散になる。
この選挙に賭けようではないか。今回の悔しさを次の選挙でぶつけようではないか。

もう一度言いたい。僕達は政治に失望するのではなく、自民党に失望すべきである、と。

196名無しさん:2009/10/12(月) 18:30:14
>>195のスレを見つけたのを契機に、議員・選挙板の過去ログや成り立ちを
検索していたら以下のレスに当たりました。
ネオ麦茶事件のすぐあとだったんですね〜。


第2回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-012
http://ch2vote.jog.buttobi.net/1k/1112590599.html
http://74.125.153.132/search?q=cache:-ag2OUBXMt8J:ch2vote.jog.buttobi.net/1k/1112590599.html+%22%E8%AD%B0%E5%93%A1%E3%80%81%E9%81%B8%E6%8C%99%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%A7%E3%81%99%22&cd=10&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

200 名前:議員・選挙板 選挙用語第一部1/20 :2005/04/04(月) 22:28:36 ID:0UYXYpLT
議員・選挙板は、名前の通り公職選挙法に規定された議員(国会、都道府県、市区町村)と、
議員・知事・市区町村長を選出するための選挙を扱っています。地方議員・首長は
地方自治・知事板(http://society3.2ch.net/mayor/)の領分でもありますが、選挙は
どちらでも扱っています。もちろん、国会議員の選挙は議員・選挙板の専門です。
政策は政治板(http://money3.2ch.net/seiji/)、選挙と議員個人は議員・選挙板です。

2000年(平成12年)5月18日、6月の第42回衆議院総選挙を前に設立されました。また、
ネオむぎ茶君のバスジャック予告スレ立ちの15日後であり、2chの知名度と悪名が
急上昇し始めていた時期です。
時事ニュース板(現在はニュース速報板とニュース議論板を中心に、派生板多数。
ネオむぎ茶君の立てたスレもここ)
からの分割といわれています。全体としては古参の板ですが、政治系では政治金融
(現在は政治と金融に分割)板や創価・公明板、共産党板などが先輩です。


201 名前:議員・選挙板 選挙用語第一部2/20 :2005/04/04(月) 22:31:05 ID:0UYXYpLT
議員、選挙いたです(恐らく初めてのスレ)
http://piza.2ch.net/log/giin/kako/958/958619711.html
議員板へのスレッド移転依頼(批判要望板より。設立直後は隠し板的扱いだった)
http://mentai.2ch.net/accuse/kako/959/959001951.html

民主党・菅直人氏より2ちゃんねるへの通知
http://log-chan.hp.infoseek.co.jp/kan02.html
当初からこんな騒ぎを。ひろゆきがわざと問題を大きくしたように思える。

ここでは、議員・選挙のうち、選挙で使う用語を紹介します。板の用語ではなく、本当の選挙で
使われるものです。

(以下、議員・選挙板の成り立ちとは関係ない話題なので略)

197名無しさん:2009/10/12(月) 18:42:20
何故か地方自治・知事板の書き込み。
議員板はサーバダウンとかだったんでしょうか。
やはり上記板が初めての板で間違いないみたいです。


ガス抜き・雑談所@議員板 Part2
http://choco.2ch.net/test/read.cgi/mayor/998073028/662

662 名前:小泉純一六〇郎[sage] 投稿日:02/04/30 22:44 ID:44JgFQW8
議員・選挙板の設置ってこの↓2000年5月18日なんでしょうか?

議員、選挙いたです
http://piza.2ch.net/log2/giin/kako/958/958619711.html

663 名前:無党派さん[sage] 投稿日:02/05/02(木) 18:28 ID:3LYbDbC9
そのようですね。

田中秀征帰ってきてくれぃ
http://piza.2ch.net/log2/giin/kako/958/958654317.html
>2 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/05/18(木) 21:56
>議員・選挙板が出来て早々議員でもない選挙にも出ない人のスレッドだし^^;。

664 名前:無党派さん[sage] 投稿日:02/05/02(木) 22:40 ID:1Ot3SLSF
>>662
多分その日です。

198名無しさん:2009/10/21(水) 21:27:04
http://www.kamei-shizuka.net/action/2005/050315.html

2005.3.15◎月刊自由民主3月号特集 立党50年企画
政権奪還への道
対談
毅然と対決、死闘十一か月の攻防



政治は生きものである以上、それを預かる政党の浮沈興亡は避けがたい。政党人たる者の真価は、党の隆盛期よりもむしろ大家(たいか)倒れんとする時、それをよく支え得るかーその気概にかかっていると言っても過言ではない。わが党五十年を振り返る時、野党転落の最大の窮地に、気骨ある政治家たちが一丸となって踏んばり、身命を賭して政権奪還を成し得たこの現実を決して忘れてはならない。叛服(はんぷく)常ない政界にあって、人の道を守り、正義を貫き、奮闘した二人の政治家・森喜朗前総理と亀井静香元党政調会長が、ここ本誌に「時代の証言者」として、初めて当時の死闘を生々しく語った。この歴史に刻まれた事実は、明日の政治の糧(かて)として多くの教訓と示唆と党魂燃ゆる感動を次世代に託している。



■出席者
前内閣総理大臣、元党幹事長、衆議院議員 森喜朗
元党政調会長、元建設大臣、衆議院議員 亀井静香


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党名の重みをひしと感じる日々



森喜朗 今年の十一月十五日で自由民主党は、ちょうど立党五十年を迎えます。正に大きな節目となる年ですが、振り返れば立党以来、その党の名前を守って来ているのは共産党を除くと自由民主党だけです。しかし、かつての共産圏であったソ連邦は消滅してしまい、いまでは共産党の名は文字通り有名無実化し、その看板はすでに化石となった観すらする。政党の消長が激しい今日の政界にあって「自由民主党」という党名がなお健在であることの意味は非常に重いと思う。

亀井静香 そうです。自由主義と民主主義を根幹に据えた国家運営によって日本を主導するー。この理念のもとに参集した多くの先輩、同志たちが手がけた自民党のこれまでの政策が、その大筋では決して間違っていなかったと、私は確信しています。我が党の半世紀は敗戦により焦土と化した戦後の日本の発展の歴史そのものといっていいでしょう。国民の期待に応えて、政権を担当してきた我が党は、軽佻浮薄な流行に迎合し、その時々の風に乗って離合集散を繰り返す昨日今日にできた政党と違って、伝統の重み、名前の重み、それは国民がいちばんよく知っていることですよ。

森 自民党が野党に転落して間もなく十二年になるんだなぁ、あのとき、うちの若手議員たちが「自民党の名前を変えろ、自民党のマークも変えろ」と大騒ぎをして党に党名改正小委員会まで設置した。

亀井 平成五年です。七月に行われた第四十回総選挙で議席の過半数が取れず、我が党は結党以来三十八年目にして初めて野に下った。その途端に「政治改革だ!」と都合のいい理屈をつけて自民党から脱走し、細川連立政権へとなびいていく者が続々と出てきた。残った若手は若手で、自民党のイメージを悪くするような年寄り議員は、皆やめろと大騒ぎする。派閥は解散しろ、老害政治はいかん、最高顧問会議は廃止しろ、その挙句に「自民党の党名を変えろ」とまでいって、騒ぎだしたものだ。

森 マスコミも細川政権は今までとは違った「フレッシュ内閣だ」ともちあげ、世論もその一点に向けて誘導されているようなところがあった。何しろ、そのころ細川政権の支持率は歴代最高の七〇%を超し、我が党は過去最低の二五%だった(笑)。当時、細川連立政権は社会、新生、公明、日本新党、民社、新党さきがけ、社民連、民主改革連合の八党派からなる「八頭立ての馬車」といわれていた
 しかも、第五党から総理が出るというおかしな政権で、政策の整合性も何もなく、ただ「政治改革」のスローガンだけを接着剤にした政権でした。要するに「非自民」であれば何でもいいということでくっついた政権だが、しかし世論調査の支持率は高かった。

亀井 我が党議員はボロボロこぼれ出し、連立政権に行ってしまう。このままでは自民党は消えてなくなるんじゃないかと心配になるくらいに…。

森 当時、国会対策委員長だった小里(貞則)さんも話していましたよ。国対委員長室で「頑張りましょう」と誓いながら一緒にラーメンをすすった仲間が、その翌日には離党していったと(笑)。

亀井 当時は、笑いごとではなかった。

森 そう、「こっちの水は甘いぞ、そっちの水は苦にがいぞ」と、比例区の候補は新生党にどんどんとられるわ、まさかと思った連中もヒョコヒョコ幹事長室に離党の挨拶にやってくる。出て行くなら勝手に出ていきゃいいものを党内の平河クラブでわざわざ、「われわれは自民党を出ていきます」と記者会見までやっていた連中もいた(笑)。

199名無しさん:2009/10/21(水) 21:27:27
>>198

連立政権追及に最強の布陣



亀井 野党に転落したことは、予想以上に党内を動揺させましたね。

森 あのとき、党を出ていくタイプが三つあったんですよ。本当に心から小選挙区制にしなきゃいかん、政治改革を行わなきゃいかんと純粋に燃えている連中が一つのタイプ。もう一つは、野党になってしまった自民党はもうあかんわ、早いとこ向こうに行って甘い汁を吸った方がいいと、何か適当な理屈をつけてぞろぞろ出ていったタイプ。もう一つは、ポスト細川に渡辺美智雄先生(元副総理)を担ぎ出そうと画策をしたり、最後は海部(俊樹)総裁までを引き込んだ、いわゆる新生党の小沢さんの攻略にひっかかったタイプがあったが、とにかく日を追うごとに櫛の歯が抜けるように離党者が相次いだ。あのときは、「このまま黙って手を拱(こまね)いていると、自民党そのものが潰れてしまう」という、ものすごい危機感がありましたね。

亀井 党内には、「しばらく野党生活を経験して、党の体質を抜本的に改善してから政権奪還を目指せばいい」といった意見もあったが、私も森先生の言われるように、このままでは「座して死を待つに等しい」と思いましたよ
 それで当時、幹事長だった森先生と何とかせにゃいかんというので、あれは十一月か十二月だったでしょうか。「こう脱党者が増えれば、逆にこちらから城中に忍び込んで、殿(細川総理)の首を取る以外にはない」ということになり、私は森幹事長から、その密命を受けた。

森 そう、この際、何でもやってくれと…。

亀井 森先生は太っ腹なんだ。党のカネを自由にいくらでも使えと言ってくれた。それで勢いづいて「打倒細川連立政権」へと猛然と突き進んだ(笑)。

森 警察官僚出身の亀井先生は、細川首相自身に係る、いわゆる佐川急便などの疑惑を調べ上げるとともに、社会党の左派を取り込む工作に骨を折って下さったが、本当に見事なものでしたよ。

亀井 いや、いや、総大将の森先生の要所、要所をピシッと押さえた腹の座った采配ぶりこそ立派でした。森幹事長はじめ党執行部は、予算委員会の理事に強烈な布陣を敷いて、細川内閣を徹底的に攻めまくりましたね。

森 予算委員会はラジオやテレビで中継されるので、我々野党にすれば政府追及と自民党の存在を世に問う絶好の見せ場です。衆院予算委員会の筆頭理事に深谷隆司さんを起用したのは、河野洋平総裁と私と国対委員長の小里先生とが話し合って決めたんです。当時、越智通雄さんが筆頭理事をやられていたが、彼は紳士で与党への攻撃ぶりにいささか迫力が欠けるので、申し訳なかったが小里先生にお願いして雄弁であり武闘派の深谷さんに代わっていただいた。体も大きく迫力があり、議会では論理的に相手を追及するし、押しも強い。まず正面の戦線、予算委員会で最強の布陣を敷きました。

亀井 あの人は都議会時代には野党で、美濃部(亮吉)知事に果敢に論戦を挑んだ猛者(もさ)だったそうですね。我々みたいに長く政権政党にいた者は、最初はなかなか与党ボケがなおらず、野党ということを忘れてつい法案をどう成立させたらいいのか、そればかり考えてしまう(笑)
 それから、予算委員会の理事には衛藤征士郎さん、野中広務さん、桜井新さんらが、あたりました。

森 連立与党と徹底的に闘うぞという、こちらの意思表示でもあったわけです。野中さんも京都の府議会時代は野党議員として、共産党王国といわれた蜷川府政の激しい攻撃に一歩もひるまず戦い続けた気骨の政治家です。このときの予算委員会の理事は、いずれ劣らぬ筋金入りの猛者ばかりでした
 最初は自衛隊の存在を認めない社会党の閣僚を追及した。平成五年の年末には突然、細川内閣が打ち出した「コメの自由化問題」を捉えて、その反対決議を断固行えと、大号令を発し、連立与党を揺さぶった。

200名無しさん:2009/10/21(水) 21:27:46
>>199

コメの自由化問題で連立与党にヒビ



亀井 しかし、細川内閣はウルグアイ・ラウンド(ガット・多角的貿易交渉)で、ついにコメの市場開放受け入れを表明してしまったわけだ。コメはあくまで国産米で自給するというのが以前からの国会決議でした。しかも細川首相自ら行ったコメ輸入反対声明を反古(ほご)にしての、なし崩し的な市場開放だったので、全国のコメ農家から一斉に非難の声が上がった。社会党はコメの自由化に反対だったので、離脱してくれればいいと期待したんだが、まだこの段階では連立政権に留まっていた。

森 コメの自由化は連立与党内でも足並みが乱れていた。とくに社会党は明らかにコメの自由化には反対の姿勢を見せていたから、我々はそこらをうまく突いた。輸出国に対して、安定供給の責任をまったく負わせていない杜撰(ずさん)な自由化などとんでもない。コメの自由化問題では、私も当時の橋本(龍太郎)政調会長と官房長官で新党さきがけの武村(正義)代表のところに直談判にいきましたよ。 

亀井 また、細川内閣は突然、真夜中に「国民福祉税」構想を発表した。

森 あの案は、細川さんが税率七%については「腰だめ」の数字だと説明していたように、その根拠もはっきりしなく、与党の社会党も不快感を見せていた。国民からも大反発を食らって発表した翌日に撤回してしまった
 そう、そう。あのとき小里先生は、「かくも大きな税制の根幹をなす提案を深夜の与党会議で突然発表し、すぐに撤廃するなど前代未聞の大混乱、政府不在だ」と、例の■小里節■で国民福祉税の白紙撤回を激しく批判追及し、ここぞとばかり連立与党を攻めまくっていたが、あれは実に見事なものでした。

亀井 その前に「椿発言」事件がありましたね。日本放送連盟の会合で、テレビ朝日の椿貞義取締役報道局長が、我々が負けた総選挙中の報道を振り返って、「非自民政権が生まれるように報道を画策した」と受け取れるような発言をした…。

森 そんなこともあったなぁ、とくに選挙となれば、どの政党の候補者も同じ土俵で競い、国民による公平な審判を受けなくてはならない。テレビという大きな影響力があり、国民に強力なインパクトを与える媒体が、公共の電波を使って特定の政党を狙い撃ちするのは言語道断です。言論の自由との兼ね合いもあり、この種の問題は追及しにくいが、我々は党の調査会や衆議院本会議で徹底的に追及した。結局、椿氏は非を認め辞任する羽目になったが、この事件を境にして細川政権にも影が差してきたように思う。

亀井 勢いづいた我々は、いよいよ■殿の首取り■に突入する。

森 あのとき、亀井先生には大いに働いていただいた。 

亀井 いや、いや、今、議席を失っているが、松永光さん(元蔵相)たちも頑張ってくれたんですよ。

森 元検事だった松永さん、それと参議院の服部三男雄さんが最初に、「細川首相に疑惑あり」と指摘した。二人とも法曹界の出身で筋道がよく分かっているから…。

201名無しさん:2009/10/21(水) 21:28:21
>>200

史上最強の野党、細川疑惑を糾す



亀井 細川疑惑では、森司令官の下に一糸乱れず攻めまくった。表で激しい追及をしながら、裏でもいろいろ新たな証拠を調べ上げるというように、実にチームワークよろしく、表裏一体となって動きましたね。

森 我が党は「細川総理の疑惑に関する調査特別委員会」を設置して徹底的に追及した。

亀井 国会議事堂二階にある自民党幹事長室の部屋に「細川政権糾弾本部」を置いてドンパチをやりました。

森 あのとき糾弾本部の看板を掛けようとしたら、「議事堂内にその種の看板を掲げるのはいかがなものか」と、事務方に猛反対されましたよ。自民党本部にならどんな看板をかけようと自由だが、院内に掛けるのは好ましくないといわれたが、私の独断で掛けさせてしまった。この部屋は、ちゃんと員数配分によって自民党が借りた部屋だから、品格さえ失わなければ何の看板を掲げようと自由じゃないかとね。狙いは、こちらの闘う姿勢をはっきり連立与党に見せつけるためでした。

亀井 実際に疑惑解明に誠意のない態度を取り続ける細川さんを、入れ替わり立ち替わりどんどん攻めまくったものです。

森 あのとき、小里先生は大きなパネルを持ち込んで、テレビカメラの前で徹底的に追及していた。「佐川からカネは借りたのか、借りなかったのか」「返したのか」「領収書はそろっているのか」。我々が国会でガンガン追及するたびに細川さんの答弁は二転三転し、答えに詰まる場面が増えてきた。

亀井 下野した当初は与党ボケしていたが、その頃になると自民党は「史上最強の野党」になっていた(笑)。行け行けどんどんと追及の手を緩(ゆる)めず、その一方で細川さんにNTT株を仲介した証券コンサルタントの藤木周蔵氏を温存させておくという高等戦術も使った。みんな命がけでしたからね。私は本当のところ、人のあら探しはするのはあまり好きじゃないが、森幹事長に尻叩かれ、同志といろいろ走り回ったら結構うまくいった。松永さんたちも、細川さんの地元の熊本まで調査に行き、国会は細川疑惑追及一辺倒になっていった。

森 そう、自民党の用意周到で果敢な攻撃が功を奏して、ついに平成六年四月初め、細川さんは辞任を表明した。我が党の疑惑調査特別委員長を務めて下さった松永光さんや、予算委員会の筆頭理事の深谷隆司さんらには、本当に頑張っていただいたと思っている。改めて感謝申し上げたい。

202名無しさん:2009/10/21(水) 21:29:19
>>201

相次ぐ連立離脱と細川氏の政権投げ出し



亀井 そろそろ細川政権の末期が近づいてきた頃だが、細川連立政権の通産大臣をしていた熊谷(弘)さんが、ぜひ私に話がしたいと連絡があったので会ってみた。そしたら、赤坂の日商岩井のビルにあるレストランでご馳走してくれて、「あまりガンガン追及するのは勘弁してくれ」と頼まれたが、「駄目だ、勘弁ならない、こちらは細川さんを助ける義理はない」と、はっきり断りましたよ
 その少し前に私はやめろといったんだが、兄貴(亀井郁夫参院議員)が広島県知事にどうしても出るという。いろいろ経緯があったが、兄貴は、当時の細川政権の与党の統一候補で出ることが決まったので、県政記者クラブで立候補声名文を読み上げた。しかしその後、細川さんから横槍が入り統一候補を外され、負け戦を覚悟で知事選を戦わざるを得なかった。そんな経緯もあったので熊谷さんの頼みを蹴飛ばしてまったんだよ。細川政権が総辞職したのは、それから五日後のことだった。

森 そうでしたか。いろいろあったが、クリーンなイメージを売り物にしていた細川殿様にとって、我々の徹底的な疑惑追及によるダメージは大きかったと思う。NTT株購入問題での細川糾弾は、実に迫力満点だった。

亀井 資金運用をめぐる新たな疑惑が浮上していたことと、予算審議空転の責任をとって細川さんは辞任したが、一矢報いたという気持ちとともに、簡単に政権を投げ出してしまった細川さんに、正直言ってちょっと拍子抜けがしましたよ。

森 ここまでが第一幕で、またまた亀井さんが大活躍する第二幕が上がる(笑)。

亀井 いや、森司令官はきついことは、全部私に命令するんだから(笑)。それでポスト細川に、我が党の渡辺美智雄先生の名前が浮上してきた。新生党の小沢一郎代表幹事が担ぎ出しを図ったんです。私が高輪の議員宿舎で、ちょうど寝ようとしたら森先生から電話がかかってきた。「カメちゃん、カメちゃん、渡辺ミッチーさんが向こう側から総裁候補で出るよ。そうしたら、自民党の中にも同調する者が必ず出てくる。今晩中に対抗する政権構想をつくらないといかんから、お前また働け」と…
 夜中の十二時過ぎだったが、赤坂プリンスホテルに集まり、森幹事長、私、桜井新さん、衛藤晟一さん、社会党から野坂浩賢さんと山下八洲夫さんが来て、朝までかかって六項目の政策協定をつくった
 私と野坂浩賢さんとは、古くからの知り合いだったんです。私が鳥取県警本部にいた頃、彼は鳥取県議でして、そのとき親しくなったんですよ。人の出会いとは、有難いものですねえ。まあ、それはともかく、その後いくらテレビを見ていても、渡辺先生が離党するというニュースが流れない。

森 社会党が連立政権を離脱したのは、確か羽田孜内閣ができる少し前でしたね。新生党、日本新党、民社党の三党が、社会党抜きで統一会派「改新」をつくったので怒って連立を離脱したと…。

亀井 その前にすでに新党さきがけも小沢、細川さんらとの複雑な人間関係や、国民福祉税構想のごたごたで連立を離脱していました。一方、「改新」結成の仲間はずれにされていた社会党は、いくら羽田さんが復帰を呼びかけても応じませんでした。

森 しかし、この時点では社会党の中にも連立政権に戻りたがっていたグループがあり、離れることに未練があったことも確かでしょう。

203名無しさん:2009/10/21(水) 21:29:37
>>202

渡辺美智雄・元副総理の苦悩



亀井 話が前後してしまうが、我が党は、新党さきがけ、民社党にも入ってもらい、四党でリベラル政権樹立の声明を出し、そこで協議して首班を決めようということになった。渡辺先生が自民党を出て行って向こうに擁立されても、こちらは数で勝てると計算していた。しかし、いっこうに渡辺先生が離党したというニュースが流れてこない
 それで森幹事長に電話を入れたら、河野総裁が渡辺先生に離党しないように説得されているという。しかしそのとき、裏では小沢一郎さんが渡辺さんに、「あなたを我々の総理候補にする」といいながら、実際は羽田さんに乗り換えてしまっていた。だから、渡辺先生がいくら連絡をとろうとしても、とれない。これは雲行きがおかしいなと思っていたところに、河野総裁が慰留したので渡辺先生も党を出ることを思い留まられたようです。こちらは幹事長にいわれて徹夜で社会党の野坂さんらと政策協定をまとめ、闘うつもりでいたのにパーになってしまった。

森 実は亀井さんには内緒で、私も渡辺先生を慰留したんです(笑)。いろいろあってね。

亀井 森先生は見かけによらず悪なんだ。二股かけたりして(笑)。

森 そのとき河野総裁と一緒だったが、渡辺先生は私にこう言われた
 「君らは政権奪還、奪還というが、いつやれるんだ。今、ここで具体的に言ってみろ。取り戻すといったって本当にできるのか?」と…
 「いや、いや、渡辺先生のような国民に人気があって、財政、経済、その道にかけては絶対の方ですし、あなたがいないと自民党は成り立たない。ですから、ここはどうか思い留まってほしい」とお願いしたのだが、そのときは聞いてくれないんだな
 「俺が向こうに行ったら、君らを全部迎え入れるから心配するな。まず、俺が河を渡る」と意気軒昂だった
 私は、「小沢さんの謀略に乗ってはいけません。あの人は何をやるか分からない人だから」と止めたんですよ。
 後日、聞いたんだが、亀井先生がいうように小沢さんは最初、渡辺先生を首班にするといったようだが、そのうちに「自民党を出て新党をつくれ。五十人連れてきたら党首にする。三十人だったら友党だ、連立だ」と、そんな話だったと渡辺先生は話して下さった
 渡辺派の中山正暉さんも、渡辺先生を首班にするという話を聞いたとき、心配して小沢さんの家に真偽を確かめに行ったそうです。そうしたら居留守をつかわれたようで、仕方なく帰ってきて改めて電話で連絡をとったら、「そういう話は、すべて羽田さんに任せてある」という。そこで中山さんが羽田さんに確かめたら、「えっ、そんなこと何も知らないよ」と、ケロっとしていたという。この話を中山先生から聞いて渡辺先生は大変不快感をもたれたそうだが、そんなことなどもあって、先生は離党を諦められたようだが、それからしばらくして、渡辺先生は亡くなられた
 私は、那須の家までお悔やみいった。もう冷たくなっておられたけど、本当に涙が出てしょうがなかった。やはりあのとき、何がなんでも総理をやりたい、おそらく最後のチャンスと思われ、ご自分の体のこと、虫の知らせのようなものがあったのかもしれない。いまの私の気持ちとしては、あのとき慰留したことを本当に申し訳なく思っています。渡辺先生は、一度は総理の座に就いていただきたかったお一人でした。

204名無しさん:2009/10/21(水) 21:30:07
>>203

社会党左派の闘士たちを説得



亀井 いろいろあったが、細川さんが退陣したので、与党側は後継者として羽田孜さんを担いで新内閣を発足させたが、あの内閣は初めから不安定なものだった。すでに新党さきがけも連立を離脱していたし…。

森 社会党も羽田内閣が発足する二日前に連立を離脱していた。ただ、社会党の中には、連立政権に戻りたいという執念を持っていた人たちがいたので心配だったが、とにかく羽田内閣は第一次鳩山内閣以来の少数与党政権となった。

亀井 そう、我が党としてはますます攻めやすくなった。奥田敬和さん(議院運営委員長)の解任決議案、細川さんの秘書の証人喚問、ゼネコン汚職に関連して小沢さん(新生党代表幹事)の証人喚問と次々揺さぶりをかけていった。

森 その裏で亀井先生は、前代未聞の社会党と連立の道を探って水面下で動いていた。

亀井 桜井新さんや白川勝彦君たちが頑張ってくれたんですよ。当時の社会党は衆議院七十三名のうち、久保(亘)書記長をはじめ、ほとんど右派。これがみんな小沢さんの子分のようなもので、小沢さんの政治手法に反発していた左派は二十一名しかいなかった
 あのとき桜井さんは病院に入院していたのだが、夜、病院の裏階段から抜け出して、大出俊さんだとか山口ツルさん(山口鶴男予算委員長)らと、左派の幹部を命がけで口説いてくれたんですよ
 私も、まだ社会党が連立政権に留まっていたときに、仲のいい野坂浩賢さん(国対委員長)と小料理屋で飲みながら、こんな話をしたことを覚えている
 「お前さんは、次はいいポストに入るんだろう」「小沢さんが、次の改造にはどの大臣でも好きなポストを選べといってくれている」「ああ、いいなぁ、お前もようやく日の当たるところへ出られて……。だけどなぁ、お前のような社会党左派の大物が、小沢あたりにこき使われていて満足しているのか。それで政治家の一生が終わっていいのか」  彼は飄々としているが、鳥取県議時代には、自衛隊美保基地反対闘争を指導するなど、社会党の闘士として知られていた男で、本当は小沢さんの政治手法と合わない。だが、連立の枠組みに入っている以上、立場上、「そんなこと言ったって、しょうがないじゃないか」と話していた。私は酒をぐいぐい彼に飲ませて、「自民党が連立政権を潰したら、こっちの新しい政権の枠組みと結ぶか」と聞いてみた。そしたら、彼は「社会党は俺一人でどうにもなるもんじゃないが、俺はいいよ」という。「いいか、今の言葉をしっかり覚えといてくれ、約束は守れよ」と念を押したら「守る」と約束してくれた。

205名無しさん:2009/10/21(水) 21:30:38
>>204

水面下での社会党への働きかけ



森 実のところ社会党は、連立与党の政策協議でも異論が出て党内は、なかなかまとまらなかったようだが、それでも付いていった。■何処までも、付いていきます、下駄の雪■などと、からかわれながらも…。でも、内心では忸怩(じくじ)たる思いをしていた人もいただろうな。とくに左派の人たちには…。

亀井 その通りです。そうこうしているうちに新生、日本新党、民社が社会党に黙って統一会派「改新」をつくった。それでさすがに■下駄の雪■も怒って連立を離脱した(笑)。

森 我々は、少数与党政権の羽田内閣を潰す勝負時がすぐにやってくると分かっていた。そこで亀井さんは素早く、水面下で社会党の抱きこみ工作に入り、汗を流してくれた。

亀井 私は、永田町のキャピタル東急に部屋を借りて、「社会党左派の連中をまとめてこい」と、白川勝彦君にはっぱをかけた。彼は伊東秀子、金田誠一さんらを窓口にして、勉強会と称して社会党の若い連中を連日、部屋に集めて懸命に説得してくれた
 やがて、彼からこんな報告が入ったんですよ。「もし社会党がもう一度、連立政権に参加して小沢と手を組むなら、ここに集まった十三人は脱党して新党をつくる。そのときは自分も彼らと一緒にやらなくてはならない。そんな雲行きになってしまったが、どうしたらいいか」と…。

森 亀井さんからその話を聞いたとき私は、「白川君にはご苦労だが、その新党に入ってもらって多くの議員に入党を呼びかけてもらいたい」と言った。

亀井 ええ、ですから白川君は我が党にとって大功労者なんですよ。ところが、途中から彼は迷走して、我が党を離れてしまい、本当に残念でしょうがない
 少し後の話ですが、自民党は社会党の伊東秀子さんにこのときの借りがあるから、彼女が北海道の知事選に出たとき「あなたのおかげで日本は助かった。あなたはジャンヌ・ダルクだ」と言って彼女を推薦したんだよ。まぁ、いろんなことがあったが、あのときは私も命がけで野坂浩賢さん、山口ツルさんなど社会党の幹部を次々と口説いていったから、あの時点で確か社会党の二十一名が我が陣営側に。これで社会党との連立の一つの大きな手がかりができたわけです。

206名無しさん:2009/10/21(水) 21:30:55
>>205

党議の前に村山首班を約束



森 私の方も、社会党右派の久保亘書記長と密かに会っていた。参議院自民党幹事長の山本富雄さん、社会党の参議院議員会長の浜本万三さんらと会談の場を持ち、さきがけの武村さんとも話し合った。ただ社会党とは、焦って政策面まで詰めるとかえって亀裂が入ると思ったから、まず国会内で協力しようということにした。久保さんは、最後まで連立与党に戻りたいという執念のようなものが見えたから…。

亀井 そう、社会党からは久保さんを中心に、「羽田総理が自主的に総辞職すれば政権に復帰する」といった話が流されていましたね。

森 最後まで揺れ動く社会党と、小沢さんらの自民党分裂工作に、こちらも命の縮む思いをさせられた。

亀井 社会党の左派には、自民党と組んでもいいという者がかなりいたが、何しろ「日の丸」「君が代」「日米安保」反対の者ばかりでしょう。彼らも胸を張って自民党と組むには抵抗感がある。とくに、若い連中にはね
 しかし、彼らも何か大義名分があれば、我が方と手を組みやすくなる。そこで、彼らが尊敬しており、社会党に影響力のある朝日新聞の中馬清福さんのような高名なジャーナリストから「自民党と組んでやってみろ」と言ってもらえれば、社会党の左派の者たちも、こちらに歩み寄りやすくなる。私がそう考えていたら、うまいことに当の本人である中馬さんが、私の思っている通りのことを言ってくれた。これは大きかったな。たぶん、彼らが結束する大きな力の一つになったのではないのかと思う。

森 社会党の左派はまとまりつつあったが、久保書記長からは連立政権に戻りたいという執念が伺えた。話は前後するかもしれないが、久保さんに河野洋平総裁と社会党の村山富市さんとの党首会談の開催を求めると、「まだ党首会談といった時期は来ていませんな」と、絶対に二人を会わせようとしない。国対委員長の小里先生も、いろいろ骨を折って下さったが、どうしてもうまくいかない
 そこで小里さんは、「では、あなたが自民党の幹事長と会ってほしい」と、強引に社会党と自民党の四者会談をセットしてくれた。

亀井 久保さんは、自分に都合の悪いことは腹に飲み込んでしまうところがある。

森 そこは小里先生のうまいところで、どうしても党首会談をさせまいとする久保さんに、「分かった、もう負けた。あなたたちはもう一度、小沢さんたちと組んだらいい。こっちは諦めた。しかし、鹿児島の同郷のよしみで、俺の顔を立ててくれ」と頼んで最終日の前日、四者会談ということで野坂さんと一緒に久保さんを引っ張って来てくれた。その頃、社会党の連立政権復帰の可能性が見えていたので久保さんは、もう勝ったつもりになっていたのだろう。気楽な気持ちで、野坂さんとやってきた
 私は会談の席で、「もう会う機会もないだろうから、あえてこの場で言っておきたい。われわれは首班指名選挙において村山首班でいきたいと考えている。そのことをただちに党に持ち帰って協議していただきたい」と突然切り出した。そしたら久保さんは、びっくりしていたな(笑)。

亀井 聞くところによると■裂帛(れっぱく)の気合■だったそうですね(笑)。

森 そしたら、同席していた野坂浩賢さんが、待ってましたとばかりに久保さんに、「書記長、この森幹事長の発言は重いですよ。早速党に持ち帰り、村山委員長や中執(社会党中央執行委員会)に報告すべきです」と促してくれた。久保さんはあわてて、「森さん、それは本当ですか。今の話は森さん個人の考えですか。それとも党議で決まったことですか」と聞いてきた。私はとっさに、「ここは自民党の幹事長と社会党の書記長の公式会談です。その席でいやしくも自民党の幹事長が提案したことだ。私が責任を持って党の意見にします。書記長も党に戻って相談の上、村山党首のご返事を持ってきてほしい」と念を押したら、野坂さんは大きく頷いてくれたが、久保さんの顔色は変わっていた。

亀井 突然、そんな話を持ち出されたら、久保さんだって緊張しますよ。野坂さんは心得ていたでしょうけど…。

森 別れ際に久保さんは、声を振り絞るように言うんですよ
 「森さん、この村山首班の話は絶対に外部に洩らさないでほしい。その発言はここではなかったことにしていただきたい」とね。私は即座に、「承知しました」と返事したものの、そのときの小里先生は戸惑った顔をされておられた。

亀井 当然でしょう。そういう話は、既成事実をつくるためにマスコミに流すなどして、外に出さなければ意味がない。

森 承知したといったのは、あくまで幹事長の私であって、国対委員長の小里先生の口まで封じるとは約束しなかった。小里先生も後になって「なるほど、その通りだ」と笑っていましたよ(笑)。

207名無しさん:2009/10/21(水) 21:31:28
>>206

河野洋平総裁の英断



亀井 四者会談をセットした小里先生は、大功労者ですね。

森 ええ、そのとおり。まあ、そこまでは順調だったのだが、本心、えらいことになってしまったと思ったな。自民党の浮沈にかかわるこんな大事なことを河野総裁の了解を全く得てないし、党の機関にもかけないで独断でやってしまったんだから…
 とにかく、私は河野総裁の許(もと)に走り、村山さんを擁立する提案をしたことを報告し、威儀を正して「申し訳ないことをいたしました。最高責任者である総裁の了解もとらずに、こんな重大なことを勝手に言ってしまいました。昔なら切腹ものです。村山委員長との党首会談は必ず実現させます。そのときは枉(ま)げてこの話をしていただきたい」とお願いした。そのくだりを河野さんは昨年十二月の日経新聞の『私の履歴書』欄で、私が涙を流しながら訴えたと書いておられたが、このときの総裁は終始淡々としたご様子で、「ありがとう。それしかないね。私があなたの立場でも同じことを言ったでしょう」と了解して下さった。本当に立派な態度で、ありがたく頭が下がりました。

亀井 その後でしたか、待ち構えていた新聞記者から、野坂、久保さんら社会党との四者会談のことを聞かれた。そのとき森幹事長はもったいぶって、「極めて重要な提案をしてきた」と答えていた。そのすぐそばで、小里先生が近くにいた記者にそっと、「村山首班だ」と耳打ちしたと…。

森 そう、まごまごしていると、自民党は潰れてしまう。政権復帰するために「社会党と組もう」といったのは亀井さんです。あなたから、「早くやれ、早くやれ」と急せかされていたが、何とか流れをつくれたかなと思って幹事長室に戻ると、「よく言ってくれた、よく言ってくれた」と、目に涙をいっぱいためて、そのひげ面で私に抱きついてきた(笑)。芝居でいえば森・亀井の『涙の抱擁』シーンでしたね(笑)。

亀井 久保さんらに邪魔されて、思ったよりも自社連立の話が進まなかったので、あのときは本当に嬉しかったな。「ついに、ヤッター」という気持ちでしたよ。だが、次なる難関が待ち受けていた。

208名無しさん:2009/10/21(水) 21:31:56
>>207

両院議員総会で迎えた正念場



森 そう、自民党内で正式に村山擁立をどの機関で決定するか、それが大きな問題でした。通常、これほど大事なことは、総務会を経て両院議員総会にかけるという手順をとる。そうすると二回手続きが必要になり、その間に潰されてしまう可能性があった。

亀井 森幹事長は、「よし、議員総会一回で行こう」と決断された。

森 こうした総会は事前にしっかりシナリオを練っておかないとうまくいかないと思い、平井卓志先生(両院議員総会長)にお願いして、綿密に進め方を話し合いました。平井先生の協力がなかったら、どうなっていたか。案の定、あのときの両院議員総会は大荒れに荒れた。総務会を飛ばして開いた総会だから…。

亀井 ほんとうに、すごかった。反対、反対の大合唱(笑)。

森 「何をお前ら血迷っているんだ。社会党と組んでやるんだと。もともと河野はハト派と分かっていたが、お前まで気が狂ったのか」などと、さんざん怒鳴られ、えらい目にあった。いまの武部幹事長も大反対の演説をぶったぞ(笑)。とくに、当時の中曽根派の人たちは、烈火のごとく怒って、バンバン反対意見をふっかけてくる。

亀井 そのとき、私のすぐ側に座っていた衛藤晟一議員がスッーと立ち上がると、ダッーと前にすっ飛んで行きマイクをパッと掴むと、まさに声涙ともにくだる大演説を始めた
 「ただいま河野総裁が、社会党の村山委員長を総理に推薦いたしました。皆さん、いま誰が一番悲痛な思いでおられるか、おわかりですか。それは河野総裁ご自身にほかありません。それに私は社会党の村山委員長と同じ選挙区で、しかも五百メートルほどの近所に住んでおります。今や小選挙区制に代わり、次の選挙を私は現職総理大臣を相手に闘うことになるのです。皆さん、おわかりですか。私はそれだけ大きな荷物を背負ってもなお、我が党のことを思えばこそ、村山首班に賛成いたします」  この瞬間、あれだけ騒がしかった会場が、水を打ったようにシーンと静まり返ってしまった。私は憲政史上に残る素晴らしい演説だと思った。

森 それからあのとき、「この混乱した政局を収拾し、民主的な政権を打ち立てるため、枉(ま)げてご了承いただきたい」と、村山首班による自社連立を訴える河野総裁の力強い演説には胸を打たれました。

亀井 本当に立派でした。両院総会の少し前の話ですが、面白かったのは、トイレで連立与党の山口珍念(敏夫)さんに会ったら、「カメちゃん、カメちゃん、こっちの負けだよ。そっちの勝ちだよ」というんだ。あの人はカンがいいからな。中曽根元総理が、連立与党に担ぎ出された海部(俊樹)さんを支持するという記者会見を見て、そう判断したのだと思う。

森 社会党の人たちは、「タカ派で改憲派のシンボル的存在の中曽根先生が海部さんを支持するのなら同調できない」と、逆にこの一件で村山首班の流れが一気に加速した(笑)。これは皮肉でしたね
 それでも一回目の投票は、どちらも過半数を超えなかった。それで再投票になった。その間、確か四十分の休憩だと思ったが、我が党の素早い動きに社会党の人たちはびっくりしていたな。誰が村山さんに入れ、誰が海部さんに入れたか全部集計して持ってきてくれた。これは我が派の中川秀直さんだったね。派閥はいろいろ言われるけど、ああいうことは、派閥じゃないと出来るものではない
 まあ、それで、ある程度の票読みは出来たが、正直いって、二回目の投票のときは緊張した。三十五年間この世界でやってきたけど、あのときほどドキドキしたことはなかったなあ。もし首班指名に敗れれば昔だったら、私も亀井さんも市中引き回しの上、獄門さらし首ですよ(笑)。

209名無しさん:2009/10/21(水) 21:32:13
>>208
政治に新たな転機をもたらし、政権に復帰



亀井 幸い、平成六年六月二十九日の衆参両院本会議において、自民党、社会党、さきがけの支持により、村山首相が誕生した。そして翌日、村山内閣が発足し、約十一か月ぶりに我が党は政権に復帰することができたが、いま振り返れば、我が党にとっては貴重な試練の期間であったと思います。

森 あのときほど、党幹部、同志の方々が、それぞれ使命感、闘志をみなぎらせて一丸となって闘ったのを見たことがありません。当時のYKK(山崎拓、小泉純一郎、加藤紘一の各議員)しかり、中でも労組に太いパイプを持つ加藤紘一先生(元幹事長)は、村山富市委員長の出身母体の自治労(全日本自治団体労働組合)と密かに接触を重ね、活路を見い出す努力をされた。われわれは挫折感も味わい、辛い日々が続きましたが、河野洋平総裁の決断はご立派で頭が下がります。

亀井 あのとき社会党と手を組んだことに批判の声が上がりました。中には「頭が狂ったのか」と言う者もいたが、自民党は決して筋を曲げたのではないということをはっきりここで申しておきたい。「日の丸」「君が代」「日米安保堅持」といった、我が党の基本路線はきちっと守り、逆に社会党に同調させる中で連立政権をつくっていったわけですからね。
 ともすれば世間では、自民党が政権欲しさに野合したと言う人がいるけれど、実は違うんだ。我々は小沢さんや有象無象に任しておくわけにはいかん、という気持ちだった。社会党はこれまで日の丸、君が代、安保反対などはあくまでも建前で、建前である以上、誠心誠意、社会党を口説ければ、必ず突破口は開けると確信していた。

森 ベルリンの壁が崩れた時から、社会党は何かの転機が欲しかったんだよ。亀井先生はある意味ではベルリンの壁的な役割を政界で演じられたわけですよね。私は村山総理は最初の本会議で社会党の政策転換をどのように訴えられるか、固唾を呑んで聞いていたが、見事な演説でした。あぁ、これで社会党は変わる。日本の政治のためにこんないいことはない。これこそ村山さんの大ホームランだと思った。その日の午後、私は総理官邸に村山さんを訪ね「いつ党の了解をいただけたんですか」と聞くと、村山さんは「社会党の委員長と日本国の総理大臣の地位はどちらが重いのか、言わずもがなだ。気に入らなければ即刻、社会党委員長をクビにして下さい」と、言われたそうです。実に立派でした。見事なものでした。

210名無しさん:2009/10/21(水) 21:32:23
>>209

村山政権から自民党へのバトンタッチ



亀井 あれは確か村山政権の末期、平成七年十二月二十日ごろだったと思うが、官房長官の野坂浩賢さんから、村山さんが政権を自民党に渡すと言っておられるとの電話があった。私は官邸に飛んで行った。村山さんは多数を擁する自民党から首班を出すべきだ。今はイレギュラーだ。自民党に総理の座を渡さなきゃいかんと前々から思っていた。今でないと私は責任を持って自民党の首班指名に、社会党票をまとめて入れさせるという自信がないんだと言われた。

森 社会党の党内にいろんな確執が残っていたのに、村山さんは我々のことにも気を配って下さっていたわけだ。実は村山さんが政権の禅譲を口にされたのは、この時だけでなかった。平成六年七月の参院選挙で社会党が大敗したときもそうだった。このとき村山さんは、政権を河野さんに譲ると言われたんですよ。

亀井 せっかくの申し入れを河野さんは断られたとか…。

森 そうじゃないんだよ。いろいろあるんだが、ある自民党の有力者が河野さんの総理就任には絶対反対だと異を唱えられたんだ。

亀井 誰が言われたかだいたい見当はつくが、はっきりこの場で公表して下さいよ。そうすれば、この『月刊自由民主』が飛ぶように売れるのになぁ(笑)。

森 今の小泉政権にもいろいろ影響するからいえないよ。後日、楽しみに。私が政界を引退した暁に日経新聞の『私の履歴書』ででも語りますよ(笑)。私は党の総裁になって、総理になられていないのは河野さんだけ。ご本人は野党の総裁として、その名を残せればいいと思われているのかもしれませんが、河野さんに本当に申し訳がないというか、私は負の遺産を抱えているような気持ちでした。

亀井 そういう意味から言っても、河野さんが国権の最高機関の衆議院議長になられたことは本当によかったと思いますね。

森 綿貫議長辞任後、直ちに小泉総裁に進言、小泉さんも即座に了承でした。今年は立党五十周年という節目の年になりますが、これからも我が党の理念を曲げることなく、自由民主党という名前に誇りを持ち、立党の原点である「政治は国民のもの」という政治信条に基づいて政治の舵取りをしていく限り、国民政党たる我が党は必ず進路を誤ることなく前進することができると、私は確信しています。立党の原点に立ち返り、これからも国民に責任ある政治を実現するためにお互いに頑張りましょう。

亀井 えぇ、もちろんです。森先生は現在、自民党の新憲法起草委員会の委員長としての国家的な大事業に取り組んでおられますが、くれぐれもお身体には気を付けて下さい。私も将来に希望が持てる国づくりのためには骨身を惜しみません。同じ思いを抱いている方々と力を合わせて今後とも頑張ってまいる覚悟です。

※無断転載を禁ず

211名無しさん:2009/10/21(水) 21:39:25
保坂視点

http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/f88026385f410369920bd09d90215ef7
1996年、自社さ連立政権と2009年夏の選択

政治 / 2009年07月27日


 天候不順の日々が続いている。またもや、土砂崩れなどの豪雨の被害が続き、ここ関東地方も午後から暗雲が立ち込めてきた。ひさしぶりに国会議員会館に来てみると、人の出入りはまばらだ。長妻昭氏とエレベーターで会い、中野区と杉並区で連動してたたかいましょうと挨拶。「就任御挨拶の名刺です」と秘書から渡された束を見て、「ン?」と思ったのは見慣れぬ肩書の人たちが何人か挨拶に来ていたからだ。法務省の西川克行刑事局長・大野恒太郎事務次官や文部科学省の坂田東一事務次官・山中伸一官房長・玉井日出夫文化庁長官などは、これまでの所属委員会でのかかわりでまあ納得できるとしても、丹呉泰健財務事務次官・勝栄二郎財務省主計局長・真砂泰財務省官房長など財務省幹部の名刺や環境省の小林光事務次官や厚生労働省や国土交通省の各局長などの名刺もある。霞が関も「8月30日」を意識して動き始めているのだろう。いい結果を出して、そのご期待に応えなければならない。

 テレビ番組などでは、「外交・安全保障」と「労働者派遣法の抜本改正」の部分で比較第一党になる可能性のある民主党と、社民党の「距離」「齟齬」がたびたび話題にされている。政策が全部一致しているのであれば、わざわざ違う政党である必要はない。連立政権というのは、どの国でもそうだが、総選挙後に協議が始まる。それぞれの政党の基本的な立場を尊重しつつ、最大公約数として一致出来る政策合意がなされるのかどうかを詰めていく過程でもある。

 私が初当選した1996年には、当時の自民党・新党さきがけ・社民党の「3党連立合意」を練り上げるまでに数日間を要した。現在、広島市長の秋葉忠利さんが交渉担当となり、粘り強い話し合いを続けた。「NPO法案」「情報公開法」などは、こうした連立協議の確認事項として、その後に実現していったものだ。もちろん、そのときに「憲法9条改正」などを自民党が持ち出してくれば、連立合意はならなかった。秋葉さんが参加した連立政権に向けた政策合意の中には「合意した点」「課題として検討する点」「合意に至らなかった点」が仕分けされてあった。「合意した点」が多かったが、「合意に至らなかった点」もいくらかはあり、それはバランスの問題だ。必ずしも、100%の一致が必要条件ではない。

212名無しさん:2009/10/21(水) 21:39:36
>>211

 それでも、憲法や憲法に関わる安全保障上の原則については、きちんと整理することが必要となる。すでに、「自社さ政権」など過去のことになっているが、当時の自民党は「改憲」や「復古主義」を封印して政権奪回をはかるために、宗旨がえをしたように見せかけた。それでも、1994年から1998年までの4年間は、この政権は継続した。私は、96年秋の第2次橋本内閣で衆議院議員となっているから、最初の1年半は与党議員として政策の立案過程に参加している。その経験があるから、一部のメディアが騒ぎ立てるほど「政策の距離」が大きな断層となって、すべてが合意出来ないかのような悲観論には立っていない。

 実は、この「自社さ連立政権」の中では、私は「連立政権離脱派」だった。当時の新進党から次々と離党者を抱え込んだ自民党は、ついに衆議院の単独過半数を獲得する。明らかに社民党に対しての姿勢も変化し、高飛車となった。私は、ズルズルと与党をやり続けていたら「社民党は自民党政治によって溶解してしまう」という危機感を持った。1998年に連立与党を離脱した社民党は、2000年の総選挙で19議席という議席増に転じた。この自社さ連立政権の経験から学んで、村山内閣→橋本内閣の総括と検証は不可避だが、世間の人たちがほとんど語っていないことがある。社民党が連立政権から離脱したとたん、自民・自由連立から自民・自由・公明の連立へと発展する1999年以降に、自民党が封印してきた改憲・国家主義志向は大きく強まって、政治は荒っぽくなり暴風雨のように「盗聴法」や「国旗国家法」「住民基本台帳法」などが次々と成立していった。社民党は自民党によって溶解することはなかったが、政権内で歯を食いしばって止めていたストッパーが外れた政治が濁流となって流れだす怖さを感じた。

 総選挙の洗礼を受けて、社民党が何議席取るかによって影響力は大きくもなり、小さくもなる。少なくとも、社会的な少数派だった非正規労働者がいまや少数派と言えないぐらいに増えて、「不当な格差」に泣いている現状をそのままにするような自民・公明の政治には退場していただきたい。自民・公明の政治に変わる新しい政治が、質的転換を鮮やかにはかる触媒であり、小さくとも骨のある政策主張をこの1カ月で展開していきたい。東京都議会議員選挙後に、日本共産党は「たしかな野党」から「建設的な野党」に変身した。社民党も「意欲的な政策実現」に向けて「格差是正・生活再建」の中身を明らかにしていくための準備をしている。

213とはずがたり:2009/10/25(日) 16:18:22

「総理の雰囲気出てきた」 中曽根氏が首相を評価?
2009.10.21 23:46
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091021/plc0910212346021-n1.htm

鳩山由紀夫首相と握手を交わす李肇星・全人代外字委員会主任委員。左は中曽根康弘元首相=21日午後、首相官邸(酒巻俊介撮影)鳩山由紀夫首相と握手を交わす李肇星・全人代外字委員会主任委員。左は中曽根康弘元首相=21日午後、首相官邸(酒巻俊介撮影)

 中曽根康弘元首相は21日夕、官邸に鳩山由紀夫首相を表敬に訪れた後、記者団に新首相の感想を問われ「非常に落ち着いている。首相としての雰囲気が出てきた」と“合格点”を与えた。

 中曽根氏は、新党さきがけ代表幹事を務めるかたわら新党構想にまい進していた鳩山氏を「愛とか友情とかリベラルとかソフトクリームのようだ。おてんとうさまが出たら溶けるのではないか。あまりに甘っちょろすぎる」と酷評した経緯がある。

 表敬の際、中曽根氏はそれから13年余りで「首相の座」を射止めた鳩山首相を感慨深げに見つめていた。

214名無しさん:2009/10/28(水) 20:56:12
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091027/plc0910270306008-n1.htm

【話の肖像画】野に下る(上)前衆院議長・河野洋平 失われた調整政治
2009.10.27 03:04

このニュースのトピックス:国会
 かつて、野党自民党をかじ取りした河野洋平前衆院議長(72)。細川護煕(もりひろ)首相との党首会談で政治改革関連法案を修正、成立させた。再び野に下った自民党と、民主党政権誕生をどう見ているのか。(佐藤好美)

 −−自民党大敗の原因は何でしょうか

 河野 基本的な原因の一つは不景気です。これだけ景気が悪ければ、国民は不満や不安を持つ。有権者には、自民党は分かっているのか、という気持ちがあったでしょう。しかし、自民党幹部に傲慢(ごうまん)な部分があり、発言も上から目線のものが多かった。それが敗因だと思います。

 −−政策の違いではないと?

 河野 政策的には、自民党と民主党とはそんなに違いはないと思います。財源などに違いがあっても、財布の中身に実感がある党と、財布にとらわれず、「こうしたらいいな」と、アイデアを並べた党の違いでしかない。

 −−小選挙区制の影響も大きかった

 河野 小選挙区制では、振り子が揺れるように、ワーッと結果があっちに行ったり、こっちに行ったりする。小選挙区制でも、米英のように国政が二大政党で動く国も、独仏のように小党が連立を組む国もある。日本の国民性はどっちを選ぶか、と。小選挙区制に改革した当時は国民性まで考えませんでしたが。

 物事をバサッと決めるのが政治だという人からすれば、国会で3分の2を取れば物事は決まる。1人区の方がそうなりやすい。「民主主義は本来、少数意見や多様なニーズを取り入れるもの」という政治哲学なら、そうはならないけれど。最近、政治を語る人たちはバサッと行く方がマスコミも含めて好きなようです。

 そういう方はまた「官邸に権力を集中すべきだ」とも言う。自民党は長い歴史の中でバサッと決めたり、権力を集中させるのはだめだと言って派閥などが動いた。例えば、幹事長は総裁派閥から出さない暗黙のルールがあった。他派閥から出すのは、ある意味で権力の謙虚さです。それが総裁派閥から出るのは、謙虚でないというか、一極集中型です。かつては田中派が圧倒的多数で、ここしばらくは清和会。小派閥でがんばる政治家も減り、政治の質がだいぶ変わりました。

 −−小泉政権時代にそう感じられた?

 河野 そうですね。小泉さんは久しぶりに登場した豪腕のリーダーでしたね。ただ、政治家・小泉純一郎の非常にいい点は金にまつわる醜聞が皆無だったこと。その清潔さが反対派の抵抗を弱めた。

 −−清潔だけれど、豪腕だった

 河野 清潔だけれど、だんだん独裁的になったのかもしれません。衆院選の候補者から郵政民営化賛成の誓約書を取ってみたり。「ノー」という人は公認しない。しないばかりか、刺客を送っちゃう。それはやっぱり、やりすぎじゃないんですかね。党内の一体感というか、求心力を失った。それでも、政治家もマスコミも「権力は集中すべきだ」と言い、官邸強化に一生懸命だった。小沢民主党でそれが実現しますが、本当にうまくいくか、興味を持っています。

 −−行き過ぎないかと?

 河野 本当の意味で機能するかですね。例えば、民主党は「議員立法を出さない」と言う。それは立法府に、ひどく無礼じゃないですかね。国会が内閣や行政をコントロールするのが議院内閣制の本旨なのに、あべこべです。

 しかし、3分の2を持つ党は、何でもできる。自民党が郵政選挙で3分の2を取ったとき、「これでは議会はうまくいかなくなる」と思いました。

215名無しさん:2009/10/28(水) 20:56:23
>>214

 −−多く取り過ぎてどうなりました?

 河野 思った通り何でもできると思い、調整ができなくなった。かつて、田中(角栄)さんは、政治家の役割をスペシャリストになることだと言った。自民党で長年、農政をやったら、役人が何と言おうと、こうだと言える。しかし、大平(正芳)さんは「政治家はゼネラリストだ」と。全体のバランスを見て物事を進めるのが政治家だと。調整する政治とは、そういうことです。

 −−民主党も慣例を破り、議長と副議長の両ポストを取ろうとした。調整し、話し合う政治に日が当たらないと?

 河野 ですね。民主党の若い人には、田中さんが言ったようなスペシャリストが多い気がします。IT(情報技術)の専門家とか金融の専門家とか。しかし、最後はどこかで全体の整合性を取らなきゃいけない。そういう人が数人いればいいとは、僕は思わない。

                   ◇

【プロフィル】河野洋平

 こうの・ようへい 昭和12年、神奈川県平塚市生まれ。72歳。早稲田大学卒業。42年の衆院選に自民党から立候補し、初当選。以来、14期連続当選。51年に自民党を離党し、新自由クラブを結成。科学技術庁長官などを経て復党。政治改革関連法案をめぐる議員の大量離党で野に下った自民党で第16代総裁。社会党、さきがけと組んで政権党復帰を果たした。外相、衆院議長などを経て今夏、政界を引退。現在は早稲田大学特命教授。

216名無しさん:2009/10/28(水) 20:56:56
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091028/stt0910280325002-n1.htm

【話の肖像画】野に下る(中)前衆院議長・河野洋平 政権党復帰は8年後か
2009.10.28 03:53

このニュースのトピックス:自民党
 −−野党自民党の総裁だった経験から、自民党にどうアドバイスされますか

 河野 私が総裁だったときの自民党は、野党でも断トツの第一党でした。田中派のかなりの人が抜けただけで、二百数十人の議員がおり、相当な人材がいた。今、人材がいるかが問題です。

 私は当時、田中派の支持を得ないで総裁になった唯一の総裁でした。いつからか、田中派は多くのスキャンダルが出て後列に下がり、清和会が取って代わった。田中派は誰かを総裁にし、キングメーカーとして糸を引いた。それはある意味で、自分たちのためにも党のためにも、表通りを歩かないという自覚があった。ところが、清和会は何回やっても表通りを行く。「派閥の何が悪い」と、ずっと表通りを歩いている。でも、していたことは、田中派も清和会も同じです。権力を握りしめて離さない。

 −−河野総裁は村山(富市)さんに首相を譲って政権党に復帰しました

 河野 そのときの自民党は野党とはいえ第一党ですから、混乱している政局を収拾する責任もあり、半年でも早く政権に戻ろうとした。今はそんな状況じゃない。もう一度、人材を集め、どう伸ばしていくかです。政治は、とにかく人です。いい人材が集まるか、使えるか。それにかかっている。

 −−自民党の政権復帰の見通しは?

 河野 政権復帰には時間がかかる。民主党が「選挙は4年先だ」というなら、復帰に8年かかるかもしれない。しかし、参院選で勝てば違うかもしれませんが。民主党は3分の2近くも議席があり、連立の組み替えをする必要がありません。自壊作用で崩れれば別ですが。でも、ずいぶん、失敗もされて学ばれたでしょうから。

 −−小沢さんですか?

 河野 (笑)(佐藤好美)

217神奈川一区民:2009/10/28(水) 22:50:38

11月1日、2日、3日の三夜連続で
NHKスペシャル「証言ドキュメント 永田町・
権力の興亡」を放送します。
1日と3日は21時から、2日は22時からです。

218名無しさん:2009/10/28(水) 23:49:39
>>210
森 そうじゃないんだよ。いろいろあるんだが、ある自民党の有力者が河野さんの総理就任には絶対反対だと異を唱えられたんだ。

亀井 誰が言われたかだいたい見当はつくが、はっきりこの場で公表して下さいよ。そうすれば、この『月刊自由民主』が飛ぶように売れるのになぁ(笑)。

誰ですかね?加藤紘一か、竹下登か、中曽根か

219とはずがたり:2009/10/28(水) 23:53:04
>>218
中曽根ですかねぇ??

220名無しさん:2009/10/30(金) 20:31:23
http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920010&sid=an0BotoQcR3g

首相:細川内閣、官僚主導大きく変えられず短命に−参院本会議答弁

  10月30日(ブルームバーグ):鳩山由紀夫首相は30日午後の参院本会議で、1993年8月に非自民連立政権として誕生しながら翌年4月に退陣した細川護煕内閣が短命に終わったのは官僚主導の政治を大きく変えることができなかったことが要因との見方を示した。首相は細川内閣で官房副長官として首相官邸に入り、政権の中枢で政策決定などに関わっていた。

  鳩山首相は、細川氏が率いていた旧日本新党出身の円より子氏(民主)への答弁で、「官僚主導の政治というものを大きく変えることができなかった。それが15年間、大変大きな後悔になっていた」と振り返った。

  現在の鳩山政権については「脱官僚依存政治を作り出すために15年かかってきた。この思いだけはこのまま維持していかなければならない」と官僚依存から脱却できているとの認識を強調。官僚との関係に関しては「官僚の皆さんが悪いのではない、有能な彼らの能力を使い切る政治のリーダーシップが必要だ」と述べた。

  鳩山政権をめぐっては元大蔵事務次官の斎藤次郎氏を日本郵政の新社長に就任させたことに、竹中平蔵元総務相が「市場最強の天下り」(ブルームバーグとのインタビュー)と指摘するなど官僚との関係を批判する声も出始めている。

記事に関する記者への問い合わせ先:東京 広川高史 Takashi Hirokawa thirokawa@bloomberg.net

更新日時: 2009/10/30 17:08 JST

221名無しさん:2009/11/01(日) 21:02:43
>>217
始まりました。

222とはずがたり:2009/11/01(日) 21:52:55
>>221
うおっ,今帰ってきました。。

223とはずがたり:2009/11/01(日) 21:57:51
何度見ても悔しいなぁ。。>村山首班指名

224221:2009/11/01(日) 22:21:00
全3部の第1部で1993-1995の細川連立から自社さ連立まででした。
少し駆け足で物足りない感じもありましたが面白かったですね。

政権交代した今の視点で見ると、細川連立崩壊は仕方なかったかなという思いもありますが、
やっぱりもうすこし我慢して欲しかったなという思いもあり(小沢も細川も武村も社会党もそれぞれが)。

225とはずがたり:2009/11/01(日) 22:47:22
>>224
ほんと,そうですね。
>やっぱりもうすこし我慢して欲しかったなという思いもあり(小沢も細川も武村も社会党もそれぞれが)。

肝腎のその辺りの証言を聞き逃してしまったのは残念です。。

226221:2009/11/01(日) 23:03:08
>>225
以下のようなことかたってました。
正確な言葉は思い出せないです。言い回しはちょっと違うかもしれません。

小沢「(ワンマン・剛腕と言われたが)55年体制を覆すのが嫌な連中からみれば、そうかもしれない。でももう少しやり方を変えても良かったかも」
細川「(選挙制度改革で)政治改革を遂げてしまったら、連立には次の旗がなかった。自分は行財政改革が次の旗だと思ったが、そう思わない人も与党にはいた」
武村「(非自民を志しながら)人間関係の好きや嫌いで動いてしまった部分はある。それは残念だった。それはこれからの政治でも変わらないかもしれない」
村山「(社会党を考慮しない政権・連立運営をする連立与党内小沢派から)出て行けと言われているようなものだ。ただ、自民党の延命に手を貸してしまったのかもしれない」

227とはずがたり:2009/11/01(日) 23:18:05
>>226
有り難うございます。
政権交代が有っての企画だったかと思いますが小沢,野中や森,武村,村山など当時の主立った面々はみんな生きてる今の時点で企画が行えたのは非常にいいタイミングでありましたね。

小沢も殊勝な事云ってたんですねぇ。

228建設的与党らいおんはーと@カキコ規制巻き添え中 ◆S3/.7DxKSg:2009/11/01(日) 23:27:02
HDで録画した

229とはずがたり:2009/11/01(日) 23:30:29
>>228
佳境部分うpしる(0゜・∀・)

230221:2009/11/01(日) 23:32:49
ここで後日ネット視聴できるようになるみたいです。
使ったことないんでわからないですが、他のNHKスペシャルが有料なので有料なのかな?

https://www.nhk-ondemand.jp/index.html

231とはずがたり:2009/11/01(日) 23:36:22
多分有料なんでしょうねー。
それにしてもNHKもこんなコンテンツ販売始めてるとは。頑張ってますね〜。

232名無しさん:2009/11/02(月) 20:04:26
昨日の番組関連
本日は22時から
1996年〜2000年まで

http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091101/stt0911012334006-n1.htm

小沢氏「予算編成より政治改革」
2009.11.1 23:32
 民主党の小沢一郎幹事長は1日夜に放送されたNHK番組「永田町・権力の興亡」に出演し、細川護煕連立政権が政治改革関連法案の成立を優先し、平成6年度予算を越年編成したことを振り返り、「予算編成はもちろん大事だが、1カ月遅れたからといって国民生活に大きな支障をきたすわけではない。その意味では政治改革の方がはるかに国の将来にとって大きい。今でもそう考えている」と述べた。

233名無しさん:2009/11/02(月) 20:05:16
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20091102dde012010070000c.html

特集ワイド:’09大政変 前衆院議長・河野洋平さん
 <この国はどこへ行こうとしているのか>

 ◇強く生きよハトよ−−前衆院議長・河野洋平さん(72)
 「ああいうものをテレビで見たことはほとんどなかったわけで。でも、大きな違和感はなかったですね」。衆議院の前議長、河野洋平さん(72)は、国会に近い個人事務所で静かに言った。画面に映ったのは、金色のネクタイを締めた鳩山由紀夫首相。衆議院本会議で先月26日、50分を超す異例の所信表明を行った。

 「無血の平成維新」と声を張り上げるたびに、議長の右手に座る与党・民主党議員から拍手があがった。夏に衆議院が解散されるまで、河野さんも所属した自民党の議席だった。5年あまり議長席から見続けた立法府の光景は一変したはずだ。戸惑いは、口調からはうかがえなかった。

 「鳩山さんらしい演説だったと思います。あれだけ一生懸命選挙をやって、あれだけの成果を上げれば相当高揚しておられるでしょう。それが時間の長さになった。景気対策にせよ、具体性がない、という批判はある。ただ、今までの政治と違うんですよ、と宣言するということでしょう」

 自民党は元気がないですね? 「去年の今ごろは民主党があんな状況だったんです。だから、これから。質疑応答、予算委員会があって。そこできちんとできないと力負けという感じがするけれど」。谷垣禎一・党総裁の評へと続く。「とてもいい人だと思います。問題は政治的キャリア、修羅場をどれくらい越えてきているか、どれだけ重い責任をしょって歩いたか」

 河野さんは自民党が大きく揺れる場面で注目された。1976年、ロッキード事件を批判して党を飛び出し6人で新自由クラブを結成した。当選3回、39歳だった。内紛もあり10年後に新自クは解党し、自民党に戻った。93年の細川政権誕生の際は、初の野党として自民党総裁を務めた。

 「私はずっと40年間、修羅場ばっかりです。若いころ、党内で意見を言えば、『あいつは航空母艦の上でたき火をして遊んでいる』と言われた。(新自由クラブを)つくっては壊して、壊されて、どのくらい辛酸をなめたか分からない」

 だから谷垣総裁を「まだまだ」と見るのだろう。「これから修羅場を行くわけです。乗り切ればいいリーダーになると思います」

 河野さんは、新自クを結成するときに保守新党を掲げるなど、「保守」にこだわってきた。選挙で敗れた自民党内から聞かれたのが「保守の再生」だが、どんな意味なのでしょう。「ちょっと分からない。いろいろ意味を持つ言葉です。今の自民党の『保守』はよく分からないなあ」

 55年体制が続いた自民党で、河野さんは、自他共に認めるハト派だ。その理念とは。「権力者が力で押し付けることには反対という立場です。そして、戦後の政治、民主主義を肯定する。もう少し言えば、アジアを重視するということです」。気持ちを同じくした政治家として、宇都宮徳馬元参院議員、伊東正義元外相の名を挙げた。

 ハト派は生きづらくなったという。

 「自民党の中で、ハト派の割合は4割足らずでしょう。小選挙区制では、ハト派は公認候補になりにくい。(選挙制度を変えた)私自身にも罪はあります」。残念そうだ。「だけど」と言葉をつないだ。「今に支持が得られるようになる。オバマさんが当選した新たな潮流が流れてきて、何年先か、日本を包むだろうと思っています」

 米同時多発テロの後、ブッシュ大統領の強硬政策は、米国で圧倒的に支持された。時がたち、冷静さを取り戻した米国民は、武力の行使より、話し合いや助け合いで世界の平和を築く道を歩き始めた。「新たな潮流」がこうして生まれた、と河野さんはみる。

 その潮流が日本に民主党政権を誕生させたのでしょうか。間髪を入れずに答えが返ってきた。

234名無しさん:2009/11/02(月) 20:05:26
>>233

 「いや、そうでもないでしょう。ぼくは小沢(一郎・民主党幹事長)さんがそういう潮流の人には見えない」。口調が少し強くなったのは、自民党ハト派としての自負か、権力を握ったかに見える小沢氏への警戒感か。

 河野さんは麦茶をすすった。大きな目、立派な鼻、柔らかな笑顔。大仏さまのようですね、と声をかけたら気を悪くするだろうか。つかの間空想して、言葉を待った。

 「政治生活で非常に大事だと思ってきたのは、目的のためには手段も選ぶべきだということです。カネを集める方法はちゃんとしたことじゃないと駄目。秘書に任せて何でも集める、というのは目的を得られない」。自民党の派閥領袖はかつて、億単位のカネを集め若手にばらまいた。現在の不明朗な献金問題も、政治への国民の信頼を失いかねないという点では一緒だ。

 「科学技術庁長官をやってつくづく思った」。85年当時である。「米国は、ものすごいお金をかけてものすごいものをつくる。車でもでっかくて立派。でも、乗り心地や価格は全然別なんですね」。昨年来の不況で、GMなどの米大企業の屋台骨は揺らいだ。

 ものづくりの現場で、日本人の良さを再認識した。「使う人を考えたつくり手の優しさが投影されている。日本人の誇りであり、国際社会で不可欠なものとなる」

 政治家としての集大成ともいえるのが、昨年9月に広島で開いたG8下院議長会議(議長サミット)だ。参加したナンシー・ペロシ米下院議長は、大統領、副大統領に次ぐ実力者だ。一行は原爆死没者慰霊碑で花をささげ、平和記念資料館を時間をかけて回り、被爆者から話を聞いた。

 ヒロシマへの思いは94年、外相として臨んだ国連総会にさかのぼる。核実験全面禁止条約の署名式を広島で開催するよう提案した文言のうち、米国などへの配慮から「最初の被爆地である」を削ることになった。

 「国連に集まる人にヒロシマは見えていない。ヒロシマを持ってこなくちゃ駄目だ。それができないなら、連れて行って、どんなだったかを見せなくちゃ、と思いました」

 決心は14年後に実現した。成果はそれだけでなかった、のかもしれない。「広島での議長サミットで、『我々は核のない世界を目指したい』と言った。ペロシさんは終始まじめに聞いていました」。今年4月、オバマ大統領がプラハで行った演説で「核兵器のない世界を目指す」と述べた。「私たちの思いはオバマさんに届いていたと思う」

 鳩山首相は国連で、非核三原則の堅持を約束した。ハトは強くあらねばならない、という河野さん。平和の潮流が広がるかどうか、注視している。【坂巻士朗】

 この国はどこへ行こうとしているのか「’09大政変」シリーズは終わります。

==============

 ◇「特集ワイド」へご意見、ご感想を
t.yukan@mbx.mainichi.co.jp

ファクス03・3212・0279

==============

 ■人物略歴

 ◇こうの・ようへい
 1937年神奈川県生まれ。早大卒業後、商社マンなどを経て、67年に初当選。94年の自社さ政権で与党に復帰し副総理兼外相に。02年、長男の太郎衆院議員から生体肝移植を受ける。03年から09年まで2029日間の衆院議長在職は歴代最長。健康問題を理由に今夏、政界引退。主著に「決断 河野父子の生体肝移植」

235名無しさん:2009/11/02(月) 20:08:51
>>214-216
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091029/stt0910290259002-n1.htm
【話の肖像画】野に下る(下)前衆院議長・河野洋平 政治改革は道半ば
2009.10.29 02:59

このニュースのトピックス:国会
 −−ご自身は小選挙区制に反対でしたが、細川護煕(もりひろ)首相との党首会談で政治改革関連法案を修正、成立させました。今、政治改革への評価は?

 河野 当時は政界も財界もマスコミも政治改革で熱に浮かされていた。それが途中から小選挙区制導入にサーッと話が矮小(わいしょう)化された。小選挙区にイエスかノーか、ノーなら誰もが守旧派だと。党内の賛否は半々でしたが、「導入しなければ離党だ」という主張の方が強硬だった。しかし、総裁としては党を割りたくない。なんとか合意を、と党首会談をしました。1回目は受け入れられず帰ってきた。そうすると、党内に「よく帰ってきた」という人と、「やる気がない」という人と、両極端で。

 しかし、細川さんも七転八倒されたと思う。連立8党会派は社会党が圧倒的多数だったから、小選挙区制に反対の人が多かった。しかし、意外や意外、そうはならなくて、手練手管を弄(ろう)する人たちに押さえ込まれ…。

 −−小沢(一郎)さんと新生党のことですか?

 河野 まあ、とにかく、そういう人たちに押さえ込まれて、細川さんも仕方がなかったに違いない。我慢比べでした。細川さんは最後、「小選挙区制なら、小選挙区の数も比例区の数も思う通りにどうぞ」と、こちらの無理難題を百パーセントのんだ。それで、こっちも困った。受けなきゃならないから。向こうは名を取り、私は実を取った。

 しかし、私はあのとき、話し合いの政治というのは、こうなるんだと思ったんです。話し合って、話し合って、詰めて、詰めていくと、歩み寄る。取るべきところは取り、捨てるべきものは捨て、落ちるところに落ちる。その結果が良かったか悪かったかは、これからでしょう。

 −−政治改革は田中政治で噴出した「政治とカネ」が原点でしたが、カネの方はすっかり飛んでしまいました。企業献金はやめるはずではありませんでしたか?

 河野 その通り。企業献金を続けるのは詐欺みたいなものです。国から政党助成金を300億円ももらう代わりに、企業献金は5年でやめようという話がありました。それで「政治とカネ」から脱却できると。企業献金をやめられないなら、政党助成金をやめたらいい。「民は知恵を絞るから、官より民へ」と、政治家は言うが、じゃあ、自分はどうなんだと。カネのかからないように、もっと知恵を絞らなければ。政治改革は不断の努力です。ずーっとやり続けないと。(佐藤好美)

236名無しさん:2009/11/02(月) 21:26:00
本日の予告

http://www.nhk.or.jp/special/onair/091102.html

2009年11月2日(月) 午後10時00分〜10時49分
総合テレビ

証言ドキュメント 永田町・権力の興亡
第2回 1996〜2000
漂流5年 “数”をめぐる攻防

55年体制で対決してきた、社会党の委員長を総理に擁立することで政権を奪還した自民党。10か月の野党体験は、「与党であり続けること」の重みを自民党に刻みつけた。
一方、自ら作った細川政権が、1年足らずで崩壊してしまった小沢一郎。今度は野党を結集して「新進党」を結成。二大政党制、そして政権交代を目指した。

戦後システムの制度疲労、押し寄せるグローバル化の波…。
日本社会が激震に見舞われる中、過半数の安定政権は生まれず、自民党と小沢の対決は〝数を巡る攻防〟になっていった。

自民党で先陣に立ったのは、かつて小沢がいた「経世会」の、新たな実力者・野中広務。数の確保を狙う「引き抜き工作」。互いに思惑を秘めた「自自連立」…。攻守様々に入れ替わる駆け引きは、激しさを増していった。
混迷する政局の果て、自民党で起きたのは「五人組の密室劇」、そして「加藤の乱」。いま証言で初めて明かされるその内実と秘話とは…。

閉塞感が日本を覆っていた90年代後半、水面下で繰り広げられていた知られざる攻防に迫る。

237とはずがたり:2009/11/02(月) 21:36:20
今日は既にテレビの有る部屋にスタンバッてま〜☆

238とはずがたり:2009/11/02(月) 22:13:11
釣り堀。。酷いなぁ

239名無しさん:2009/11/02(月) 22:16:59
新進党結党大会が見たかったんですが、やらなかったですね。
あれはかっこよかった。

創価おばちゃんのコールはやってましたが。

240建設的与党らいおんはーと@カキコ規制巻き添え中 ◆S3/.7DxKSg:2009/11/02(月) 22:51:39
今日もHDで録画したお

241とはずがたり:2009/11/02(月) 23:04:15
野中の自由党=座布団もひどすw

加藤,自分の乱に就いて喋るとき涙目でしたねー。一生自分の思い切りや実行力があの時なかった事を悔いて過ごすがいいさ。

>>239
ありましたね〜>結党大会

>>240
今日はバッチリ全部見たぜ〜

242名無しさん:2009/11/03(火) 21:39:46
http://www.nhk.or.jp/special/onair/091101.html

2009年11月1日(日) 午後9時00分〜10時08分
総合テレビ

証言ドキュメント 永田町・権力の興亡
第1回 1993〜1995
“政権交代” 誕生と崩壊の舞台裏
「国民のためという目的を持って政権を代える…それ自体が権力闘争であり政局だ――」。
自民党を飛び出して16年。幾多の権力闘争の末、ついに政権交代を果たした民主党幹事長・小沢一郎は、NHKの単独インタビューでこう語った。

16年前――。1993年6月18日、宮沢内閣への不信任決議。それに続く自民党の分裂。
自民党を飛び出した男たちと、とどまった男たちの、政権を巡る長い戦いの始まりだった。

冷戦終結、グローバル化の嵐、〝一流国〟からの転落・・・。
時代が、世界が、日本が、激変したこの16年。私たちは何を選び、何が失われてきたのか――。
「55年体制」に代わる「新たな政治」模索の道のり。
権力を巡る攻防のドラマを、中枢にいた20人を越える政治家たちの生々しい証言で綴(つづ)る。

3回シリーズの第1回は、原点である「16年前の政権交代」。
小沢一郎が仕掛けた細川政権成立のドラマ。短命に終わった〝ガラス細工の政権〟の内実。そして自民党・執念の政権奪還劇…。道のりの始点、10か月の政権攻防に迫る。

243名無しさん:2009/11/03(火) 21:40:47
第3夜、最終回。

http://www.nhk.or.jp/special/onair/091103.html

2009年11月3日(火) 午後10時00分〜10時58分
総合テレビ

証言ドキュメント 永田町・権力の興亡
第3回 2001〜2009
小泉 そして 小沢 “民意”をめぐる攻防
「失われた10年」と呼ばれる長い停滞。〝一流国〟からの転落。そして〝政治の漂流〟…。
閉塞感を打ち破るように登場したのが、自民党の異端・小泉純一郎だった。国民の熱狂的支持を背に〝古い自民党〟を次々と壊していった。

一方、細川政権の崩壊、新進党の分裂を経て、30名に満たない自由党を率いるようになっていた小沢。小泉旋風の凄まじさを前に、三度目の大勝負−民主党との合併に出る。そこには、政権交代を目指す小沢のしたたかな戦略があった。

熱狂に支えられた小泉が真に壊したものとは何か。瀬戸際から政権交代の実現にまで持ち込んだ小沢の政治決断とは。稀代の二人の政治家の深層に迫る。

日本政治16年を証言で綴るシリーズ最終回。
55年体制終焉(えん)後の16年とは何だったのか。今回の政権交代とは何なのか。
小選挙区制で変質した永田町政治の攻防とは――。

244名無しさん:2009/11/03(火) 21:42:33
第1回の動画発見。

NHKスペシャル 動画 「証言ドキュメント 永田町・権力の興亡 第1回 1993〜1995 “政権交代” 誕生と崩壊の舞台裏」
http://veohdownload.blog37.fc2.com/blog-entry-3278.html

245とはずがたり:2009/11/03(火) 22:03:49
おお,忘れてた。やべやべ。

246名無しさん:2009/11/03(火) 22:07:58
ヤマタク「この際だから話すと総裁選で小泉が負けたらYKK新党をつくる構想だった」

!!!

247建設的与党らいおんはーと@カキコ規制巻き添え中 ◆S3/.7DxKSg:2009/11/03(火) 23:00:00
全部HDで録画した

248とはずがたり:2009/11/03(火) 23:06:31
最後の15分おかんからの電話で邪魔された…orz

249とはずがたり:2009/11/04(水) 11:10:16
>>195-197
亀レス失敬ですが発掘調査感謝っす♪
俺が始めて議員板の存在を知って参加したのは2000年総選挙の直後からですので割りと古参だなぁw

>ネオむぎ茶君のバスジャック予告スレ立ちの15日後であり、2chの知名度と悪名が急上昇し始めていた時期です。
ムネオ麦茶氏とか居たけど今どうしてはるかなぁ。

250名無しさん:2009/11/04(水) 19:53:40
>>249
どういたしましてっす。

板が出来て1〜2ヵ月後には既に参加されてたんですね〜。
私は2003年総選挙からです。

2chで最初に見たのが議員選挙板だったんですか?

251とはずがたり:2009/11/11(水) 21:17:42
>>250
>板が出来て1〜2ヵ月後には既に参加されてたんですね〜。
そうだったんですね。我ながら古参ぶりに吃驚っすw

始めて2ch知ったのが議員板でしたね。選挙でGOのリンクを辿ったかと思います。

252名無しさん:2009/11/12(木) 20:08:18
2000年のサンデープロジェクトの特集みたいです。
私もまだ触りしか見てませんが。

鈴木宗男 加藤政局を語る
1 http://www.youtube.com/watch?v=RDAOHBdmRys
2 http://www.youtube.com/watch?v=y7-pCHadt6E
3 http://www.youtube.com/watch?v=msCow2r7a4I
4 http://www.youtube.com/watch?v=Tm5LYDVKhWY

253名無しさん:2009/11/30(月) 20:29:53
再放送です。

http://www.nhk.or.jp/special/rerun/index.html
2009年12月1日(火)  午前0時10分〜1時18分 (11月30日深夜) 総合
証言ドキュメント 第1回 1993〜1995 “政権交代” 誕生と崩壊の舞台裏
初回放送 2009年11月1日(日)

2009年12月2日(水)  午前0時40分〜1時29分 (1日深夜) 総合
証言ドキュメント 第2回 1996〜2000 漂流5年 “数”をめぐる攻防
初回放送 2009年11月2日(月)

2009年12月3日(木)  午前0時10分〜1時08分 (2日深夜) 総合
証言ドキュメント 第3回 2001〜2009 小泉 そして 小沢 “民意”をめぐる攻防
初回放送 2009年11月3日(火)

254隙間工作を見破れ!:2009/11/30(月) 20:30:52
12月4日まで国会延長が勝手に決まったぞ。
山岡が間違いなく韓国人参政権を仕掛けて来る。韓国人権侵害救済法案などもろくに審議をしないで強行採決するつもりだ!!気付いた者から順に叩き潰せ!!国家の存亡の危機である!!

255名無しさん:2010/01/05(火) 21:15:17
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100105/plc1001050035000-n1.htm
「南京大虐殺はでっちあげ」発言の永野茂門元法相死去 87歳
2010.1.5 00:28

このニュースのトピックス:諸政党

元法相、元参院委員の永野茂門氏 元法相で元参院議員の永野茂門氏が4日、肺炎のため死去した。87歳だった。葬儀は近親者で行い、後日お別れの会を開く予定。

 大分県出身。昭和16年陸軍士官学校卒、終戦時は陸軍大尉。陸上幕僚長を経て、退官後の昭和61年、参院選に出馬し当選。2期務めた。

 平成6年、羽田内閣の法相に就任したが、毎日新聞のインタビューでの「南京大虐殺はでっちあげだと思う」との発言が問題にされ在任10日間で辞任。10年に政界を引退した。

http://www.asahi.com/obituaries/update/0104/TKY201001040308.html
羽田内閣法相だった永野茂門さん死去2010年1月4日23時43分

永野茂門・元法相
 永野茂門さん(ながの・しげと=元自由党参院議員、元法相)が4日、肺炎で死去した。87歳。葬儀は近親者のみで行い、後日、お別れの会を開く。喪主は妻尚子(ひさこ)さん。

 大分県出身。陸軍大尉で終戦を迎えた後、陸上自衛隊で幕僚長などを歴任。1986年から98年まで参院議員を2期務めた。自民党を離党後の94年、当時所属していた新生党が参加した羽田連立内閣の法相に就任したが、直後に毎日新聞のインタビューで、南京大虐殺について「でっち上げだと思う」などと発言したことが報じられ、在任期間11日で引責辞任した。

256名無しさん:2010/01/06(水) 15:37:46
報道操縦
今年の元旦の新聞というのを今日になってざっと見た。
なるほど噂には聞いていたが、朝日、読売、産経、東京が1面に小沢一郎の資金管理団体問題を持って来ている。
しかもその中身となると、各紙とも「関係者への取材でわかった」と判で押したように同じ調子で書いているが、要するに東京地検特捜部からのリーク情報を垂れ流しているに過ぎない。
つまりは特捜部による「報道操縦」である。
相場操縦は立派な犯罪であるが、こうした報道操縦もまた犯罪的ではないだろうか。
おそらくリーク現場での検事たちは必ずしもはっきりとした物言いはしないのだろう。ヒントをつぶやき、それに対して記者がストーリーを作るとそれを否定しないといったことの繰り返しのはずである。そうやって踊らされる記者は、裏を取る術もないまま記事を書く。結果、特捜部の思い通りの“空気”を作ることができるわけだ。
それにしても、なぜこれほどまでに東京地検は小沢一郎をしつこく追いかけるのかというと、結局は昨年の3・3大久保秘書逮捕が無理筋だったからではないだろうか。
当時の郷原信郎の解説では、事件日照りが続いていた特捜部は、なんとか成果を出さなければ、、、と追いつめられたなかで大久保秘書の問題を立件したという。しかし、やはりこの問題を“事件”にするにはあまりにも無理があった。それは当時、郷原信郎がくどいほど指摘していたし、ここでも述べている。
このままいけば東京地検特捜部は大失態である。そこで、再度、小沢に狙いを定めて粗さがしをして、なんとか“成果”をあげないと特捜部の死活問題とばかりに目の色を変えているのがいまの状況ではないだろうか。
にもかかわらず、相変わらずリーク情報を垂れ流す記者クラブメディアは末期症状であり、臨終が近づいている。

・日々坦々
検察問題・三連弾!検察には人事で対抗していくしかない

・湘南の片田舎から
シリーズ「刷り込み報道はなぜ可能か...1」(ポシャる)

・日本がアブナイ!
元旦の小沢報道&年末の前原、鳩山報道で、検察他の情報リークの問題を考える

・憂き世の日々に埋もれて、たまには温泉へ
大朝日新聞様が馬鹿にしているメディア「日刊ゲンダイ」の記事を引用して記事を作ってしまう恥知らずぶり

・THE JOURNAL
佐藤優×高野孟:この国の主導権を握るのは誰か ── 官僚 vs. 政治家の仁義なき戦い

257名無しさん:2012/10/16(火) 16:08:38
test

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