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学校へ通うということについて。
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先日友達からこのようなことをメールで受け取りました。
『学校へいくのは義務教育だよ』と。
もちろん義務教育ではありますが。それでもってその法律でしばられる必要はあるのでしょうか。
それは絶対的なことなのでしょうか。
それだと不登校はどうなるのでしょうか。
法律にそむいていますがこういうものが有る以上。義務教育という法律にはまったく縛られていないことになります。
義務教育=学校へ通うこと。の定義がおかしいのでしょうか。
という素朴な疑問です。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%8B%99%E6%95%99%E8%82%B2
日本の義務教育の概要[編集]
日本の場合、憲法において、子供を保護する日本国民には、法律の定めるところにより教育を受けさせる義務があると定められている[1]。もっとも、すべての日本国民は、法律の定めるところにより教育を受ける権利も有している[2]ので、「教育を受ける権利」「教育を受けさせる義務」の双方について法律で定めることが想定されており、これらの条件の整備などは、法律によって行われる。
”受けさせる義務””受ける権利”なのであって、”受ける義務”ではないっぽい(引用ページちゃんと読んでないし義務教育についての知識もないから断言できかねる)から、
義務教育=学校へ通うこと とは一概には言い切れないんじゃないでしょーか。どうでしょうか
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不登校は御託をごたごた並べてねーで学校行けや甘えボケッ
つぅ〜か、死ねば?w
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>>2
そうですね。一概にも言い切れないですね。
色々調べてみましたが義務教育→親が子供に教育を受けさせる義務であり。))子供が受ける義務にはならないそうです。
法律の定めるところ→学校など。ということで良いのでしたら。
受けさせる義務。その義務を絶対的なものとした場合。それは必然的に受けること。になるのではないでしょうか。と。思ってみたり。
もっとも。義務というものが必ずしも絶対的でない場合は親は子供に受けさせる義務があるが。子供には受ける権利があるため(義務ではないため)。
教育をうけさせることは法律で絶対的なものとして縛られないような気がします。
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>>3
私は不登校ではないんですがね。一応訂正しときますが。
あと。
もしも教育をうけさせることの義務の義務。が絶対的なものの場合
定義は
義務教育=法律の定めるところで教育を受けること。
になりますが。
教育をうけさせることの義務の義務。が絶対的ではなかった場合
定義は
義務教育=法律の定めるところで教育を受けさせようとすること。
になってしまいそうな気がするんですがどうでしょう。
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>>5参った
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おでん敗北か
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つーか勤労の義務とかあるけど、ニートとかいるよな
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•••義務は「成すのが常識」みたいな認識でいいんだろうか•••。
てか義務の定義がはっきりしない。
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義務ってしなければならない、みたいな感じじゃねーの?しらねーけどさ
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勤労の義務は憲法の条文の一種のことを指し、
憲法とは国民が国家に対して守ってほしいことが書いてあるのであって、
その憲法を国民が守る義務はない。
つまり、憲法は国民を法的に拘束する力はないのである。
だから、国民が憲法の条文に書いてあることに反した行動をとっても法的には許されるのである。
これらのことを前提に勤労の義務に関する問題を考えると、勤労の義務に反するような状態にあるニートは法的にはその存在が許されるのである。
では、何で国家が守るべき憲法の条文に国民が守るべき内容が書いてあるかというと、
諸説あるらしいけど、一説には戦後の日本は国として様々な面で衰えてしまったので、それらを復興するための努力目標として憲法に勤労の義務が書いてあるといわれている。
結論をいうと、勤労の義務に反したニートは法的にはいてもOKということである。
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↓携帯の簡易辞書なので詳しくはのってないが。
義務=(法律上、道徳上)なすべきこと。
•〜的(=シカタナクするようす
(対)権利
らしい。
勤労なんたらはみぞれさんの通り憲法であるが。
義務教育とかは法律ではなかったっけ。
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義務教育っていうのは、国家が国民に対して教育を受けさせる義務であって、
国民が教育を受ける義務ではないよ。
余談になるけど、義務教育という言葉は国家が国民に対して教育を受けさせる義務という言葉のはずななのに、国民が教育を受けなくてはいけない義務のような言葉として使われている。
ある人の話では、これは国家が国民を教育するために生まれた、つまり、洗脳するために生まれた言葉らしい。
まぁ、この話が本当かどうかは置いといて、国民が教育を受けるのは権利であって、義務ではないよ。だから、国民が教育を受けなくても法律的には問題ないはずだね。
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>>13 詳しく有難うございます。
やはり義務教育=学校へ通うこと というのは単なる勘違いでしたようで。
義務教育でいう義務は、教育を受ける権利を持った国民(子供)の教育を受けるための環境や待遇を保証するのか義務らしいです。
だから不登校の人がいても。国家、親は法に触れないため罰せられないんですね。
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国は領域、人民、主権によって成立するっていうのが世界ルールらしい。
憲法はなんだっていうと、主権から人民を守るっていうシステムなんかなって昔考えたことがある。
支配者に盲目的にしたがってしまうことがないように、教養を身につけなければならない。
そのための「教育の義務」また「教育の権利」じゃないかな。
でも、いま考えるのは、その守るシステムも結局は主権によって操作されるわけで、
人民を守るというのが第一の存在意義なのではないのかもしれない。
憲法はその国家が"どうあるべきか"という自己認識を助けるためにある。
その国が、国としての存在を持続するためにあるシステム。
だから、「人民を守る」というのも経過でしかなくて、
「人民を守る」ことによって「国家が崩壊することを防ぐ」ためにある。
だから、憲法に反する人がいても法的にはその存在を認められるっていう事態が起こるんじゃないかな。
一見、矛盾のように疑うけれども、憲法が向かっている対象が違うのなら起こりうるのかな。
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次に「学校に通うこと」を考えてみる。
上記のように、俺は"教養を得る場"を"教育の場"と考えている。
だから、教養が得られるなら学校に行かなくてもいいんじゃないか、と思うし、
不登校っていう存在があり、もしそれが増えているっていうことは、
学校教育の枠組み、もしくは学校教育という枠組みが古くなってしまったんじゃないかと思う。
狭い水槽で大量の魚を飼ってるとストレスで共食いを始める、なんて話を聞いたことがあって、
いじめも結局それとおんなじことなんじゃないかなと思う。
ストレス ってのが子供にも大人にも老人にも蔓延してる現代社会ならそりゃそうなるのも当たり前かもしれない。
ストレスへの耐性が強い奴もいれば、弱い奴もいるってのは人間千差万別、いるに決まってる。
そしたら、その「弱い奴」への救済策が必要になってきているのが今の段階なんだと思う。
関係ないけど、バリアフリーとかが一時期流行ってたけど、
あれも肉体的に弱い奴への配慮をするって意味で救済策を講じていたわけだ。
そして、それを良しとする風潮があった。
じゃぁ、精神的に弱い奴へはどうなのかっていうと、強いバッシングを受ける。
今でも「気合いが足りん」と叱咤するシーンが多い。
まぁ、実際に気合いが足りないだけの時もあるから一概には言えないんだけどさ。
でも、肉体的に弱い奴には配慮するのが正しくて、
精神的に弱い奴にはバッシングをするってのは、道理が通らないね。
理性的じゃない。
教養ってのは人を高めるためにおさめるものなわけで、
高めるって何を高めるのか、って考えるとやっぱ人格とか徳とか、そういったものじゃないかな。
知識や知恵、やり方や考え方、信念や反省。そういったものをおさめるための教育だ。
だとしたら、理性的でないことをしてしまう奴が多いなら、その教育自体がお粗末だったってことになる。
なら、結果論だけど、そんな程度の低い教育の場に通わなければいけない必要はあるんだろうか。
俺は無いと思う。
ただし、それは単に学校にいかなくてもよいということではなくて、
「自分から教養をおさめるために、学校以外の場で学ぶ」という方法があるはずだってことであって、
その方法を自分で探し出すことができないなら、学校に行った方がいいね。
50点より100点だけど、0点になるよりは50点の方がいい。
学歴がどうのとか言う奴もいるだろうけど、
別に全部の学校に通う必要はないってことではないからね。
やりたいことがあるなら専門学校にいけばいいだろうし、
やりたいことを探すなら大学にいけばいいだろうし、
学歴が必要だなと思うなら、それ相応の学歴のために通えば良い。
だから、「学校に通う」ってことを考えていった結果、俺が考えるのは、
「自発的な行動を取らないなら、意味がない」ってこと。
てきとーに学校にいって、てきとーにお勉強して、てきとーによわいものいじめして、
てきとーな人間関係に合わせて、てきとーに良いことも悪いこともやって、自分に何が残るんだろうね。
みたいな、ことを考えた。
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良スレッド
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義務教育って中学生までだよね 高校はどうなるの?
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