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成仏(さとり)について
1運ちゃん:2010/09/28(火) 18:03:16 ID:???
主任さんの依頼でスレッドをたてます。

ここに集う皆様と一緒に議論できたらと思います。

例えば、学会では勤行している時に仏界が涌現しているや境涯革命と言いますが、果たしてそれが釈尊が菩提樹下で悟ったものと同じなのかなど。

他宗派の人物を挙げても構いません。

2主任:2010/09/28(火) 20:04:40 ID:gsYWNmtg
>>1

運ちゃんさん、スレッドをたてて頂きありがとう御座いました。

私が何故、『成仏』について議題に挙げたのか、ですが10年近く前に私が居た地区のある男子部が(私ではありません)『成仏』について教えて貰おう(成仏とは、どういう状態なのか等)と、部幹部から本部幹部、またその上の幹部に会合の合間に質問したらしいのですが、質問された幹部たちはちゃんと答えることが出来なかったという。

その当時、私も質問されましたがお茶を濁す受け答えしか出来なかったことと、幹部も答えられないのだな〜と思ったものです。

この体験が心に残り創価学会について冷静に考える一つの契機になりました。

3アンチ学会員:2010/09/28(火) 20:07:03 ID:.JEO90Xc
>>1

僕も成仏について疑問に思ってたのでスレ立てありがとうです。 主任さんは元学会なのでよくご存知かと思いますが、学会では池田氏を通じてしか仏法を学べない。正しい師匠を持つことの重要性ばかり指導されます。 て事は池田氏は仏? 僕には池田氏が仏だなんて到底信じられません。また、僕自身題目をあげても仏界が出ている実感はありませんでした。
主任さんは学会時代、仏界や功徳の実感を体験したことがありましたか?

4運ちゃん:2010/09/28(火) 20:41:50 ID:2ocaQMQo
会社帰りの途中で、資料が手元にありませんが、とりあえず。
実はこのテーマ、ブログに書くつもりでした。
「成仏」というと「仏に成る」とありますが、本来は「仏を開く」事であっと
思います。
仏法、とりわけ法華経では万人に仏性が備わるという事から考えると、「成る」では
ないのでしょうね。
確か一生成仏抄(だったかな?)には明鏡と暗鏡の例えと共に、迷う時を凡夫、悟る時を
仏と書いてありました。

それでは何を「迷う」「悟る」のでしょうか?

それは自身に仏性が備わる事についての事なのでしょうか?

そもそも仏性が備わる事を知るというのは、なんなのでしょう。

釈迦が法を求めるきっかけは、四門遊廓(文字が怪しい)で、人生が
生老病死によって振り回される事に対しての解決であったはず。

そこから考えると、四苦に翻弄されない自己を築く事なのでしょう。

この仏性が自分にも備わっている。
これを知識ではなく、体得した事を「成仏」というのではないでしょうか?

すみません、移動中にただ思いつくまま書き殴ってしまいました。

齟齬についてはご容赦下さい。m(_ _)m

5主任:2010/09/28(火) 20:53:43 ID:gsYWNmtg
ネット上で気になった方がいましたので挙げておきます。

『インターネット坐禅会和尚甘露庵のブ〜ツ仏』

このサイトの管理者は、大学生の時に不可思議な体験をして、後に仏門に入ったということです。

Yahoo!またはGoogleで検索してみてください。

6主任:2010/09/28(火) 22:15:17 ID:gsYWNmtg
アンチ学会員さん、私も池田氏を仏とは思ったことはありませんでした。

私が学会員時代は仏界の体験はしていないと思います。
学会ではよく勤行している時は仏界が涌現していると言いますが私には正直、分かりませんでした(笑)

功徳体験で言えば、確かに昔に比べて人間的に成長はしましたが、それが功徳かといえば、う〜ん(^_^;)という感じです。

7堅皇:2010/09/28(火) 22:51:54 ID:Sa9nP3tE
成仏(さとり)というものを一言で表すならば目的を達成した時だと思います。

何かを得た時というのであればそれは天界だろうと言われると思います。
ただ、天界と大きく違うところはいわゆるラッキーと言った偶発的なものではなく
ちゃんと自分で描いた筋道の上で手に入れた目的の達成。

自分で勉強して能力を身に着けた言う事も1つの悟りを得た成仏であると思うし
テストに合格したと言う事はある意味(天界)ラッキーの部類だと思います。

学会では仏法の真髄は師弟を通じた如説修行だと言ってるのですが
それって菩薩道を説いた煩悩の1つであり目的ではなく手段の1つだろうと思います。
菩薩道は確かに尊いことだと言えますが
相手を救えない菩薩心は単なるお節介でしかないと思うのです。

更に言えば自分は相手を救えるだけの力を持っているという単なる傲慢であり
結果的に相手を傷つけてしまう結果にも繋がりかねないからです。
そのくせやってやった感から見返りを強く求めてくるようでは
もう完全に手に負えないですね。

学会員を見ているとそんな感じなのではないでしょうか。

さてさて、創価学会は何のために如説修行を行おう言うのでしょうか
目的なんかないのではないかと思いますね、解ってないだろうから教えてもくれないし。

僕は成仏(さとり)なんてものは死んだ時に手に入れると言った遠いところにあるものではなく
極身近なその時その時にあるものだと思います。

8主任:2010/09/28(火) 23:06:55 ID:gsYWNmtg
運ちゃんさん、

『仏性が自分にも備わっている。これを知識ではなく、体得した事を「成仏」…』とすると少なくとも学会でよく言う勤行中の仏界涌現はやはり違うのかな、と思うのです。

むしろ、それを体得するために勤行・唱題するのではないかと思います。

学会指導の勤行中の仏界は、もしかすると偽書濃厚の本因妙抄にある、直達正観からきているかもしれません。

9主任:2010/09/28(火) 23:28:09 ID:gsYWNmtg
わたくし事すみません。

携帯で閲覧・書き込みしているせいか、最新の書き込みが反映されるのがすこぶる遅く、皆様の書き込みが私の携帯では中々見れません。

ですので、私宛ての書き込みに返事が直ぐに出せない場合がありますのでご了承ください。

また、このスレッドは皆様と一緒に議論して行ければと思いますので必ずしも私宛てでなくても構いません(^_^)v

宜しくお願いします。

10アンチ学会員:2010/09/29(水) 00:15:46 ID:.JEO90Xc
>>9

主任さん僕の返信は気にしないで下さい。 時間が出来た時でいいですよ。僕よりはるかに教学がある大先輩の主任さんや運ちゃんさんが信仰を捨ててない。 色々考えさせられます。ただ信仰を捨てた今の生活が心地よいのも事実です。
まあ、学会のインチキ宗教でしたからね。皆さんの意見を聞きながら、じっくり考えたいと思います。

11堅皇:2010/09/29(水) 05:15:21 ID:Sa9nP3tE
>主任さん

> 学会指導の勤行中の仏界は、もしかすると偽書濃厚の本因妙抄にある、直達正観からきているかもしれません。

これはなんか物凄く納得がいく話ですね。
もともと学会が言う百万遍の題目と言うより一遍の題目ってどういった体験なんだろうと言うのを考えて唱えていたので。

学会で活動していたら「如説修行」は理解できるんだけど「衆生所遊楽」が謎だったな。

12主任:2010/09/29(水) 07:35:53 ID:gsYWNmtg
>>11

堅皇さん、昔、池田氏が一遍の題目でも成仏できる(聖教新聞紙上ではこの部分はカットされてました)と本幹同報で言ってましたが、おそらくその根拠は本因妙抄の直達正観だと思います。

真跡の御書にこの文言はどこにも無いです。

13運ちゃん:2010/09/29(水) 12:53:22 ID:???
>>8
主任さん
直達正観について、単語は他御書に無いかもしれませんが、同じ意味合いの
言葉はあったような気がします。
帰ったら調べますが、、、、

あと仏界の湧現についてですが、これは説明が難しいと思います。
一般的に仏界は十界論で言われているので、どうしても他の九界と同列に
考えられがちですが、これは少し誤解を招くと最近個人として思います。

九識論でいう「心王真如の都」が、生命根底にある仏性を指し、勤行唱題はそれを
観じる方法なのかと。

そしてこの過程の中で様々な体験と言われるものがあるのではないかと。

こういった行為だから「一遍の題目」とか「百万偏の題目」といった、
在る意味で数字なんかは意味がないかなあー、、、

また思いつき文書になってしまいました。
すみません。m(_ _)m

14アンチ学会員:2010/09/29(水) 14:11:25 ID:.JEO90Xc
僕も一遍の題目で成仏出来ると聞いた事があります。ただ末法の人間は宿業が深くて直ちに成仏出来ないと日寛上人が言っていたと御書学で聞きました。(間違っていたらご指摘下さい)
法華経では即身成仏を説いてますが、そもそも仏って何なのかよく分かりません。 日蓮は御本仏だとされてますが、言葉は悪いけど飯を食えば糞もするお人ですよね。 自ら余計な事を言って迫害人生を歩んだので幸福だったと僕は思えないのです。
僕の知識は学会からなので他宗の方や誰でもいいので、こんな解釈や教義があるよと解る人がいたら教えて下さい。よろしくお願いします。

15運ちゃん:2010/09/29(水) 15:28:32 ID:HrQTUeyk
>>14
示同凡夫という言葉があります。
仏と言っても凡夫であるという事、三十二相という言葉で称えてますが、
簡単にいえば何事にもブレないでオノが人生を自分らしく
生きていけるというのが仏ではないでしょうか?
御本仏とかいって崇められるのは、日蓮さんの本意では無いと
おもうのですが、いかがでしょうか?

16主任:2010/09/29(水) 15:36:10 ID:moGiHu96
>>13

>直達正観について、単語は他御書に無いかもしれませんが、同じ意味合いの
言葉はあったような気がします。
帰ったら調べますが、、、、

すみません。宜しくお願いします。

>あと仏界の湧現についてですが、これは説明が難しいと思います。

確かに難しいです。

>九識論でいう「心王真如の都」が、生命根底にある仏性を指し、勤行唱題はそれを
観じる方法なのかと。

御本尊に向かい勤行唱題をすることでそれを観じるということですね。

ただ、相当、深い祈りでないと深層意識(心王の都)には届かないように思えます。

17堅皇:2010/09/29(水) 15:42:37 ID:Sa9nP3tE
> 同じ意味合いの言葉
少し調べてみたけど速疾頓成あたりですかね。

本因妙抄は基本的に「我々が唯一正しいのだ」という言葉が埋められていると認識していたのですが
主任さんの話を考慮すればその姿勢に至ることも書かれている可能性があると言う事になるので
今後それも考えて見なければと思ったのですが。

いずれにせよ百万遍でもなく一遍でもないと言う事は言えそうですね。
考えてみると百万遍は会員に死ぬまで走り続けろと言って
一遍は俺は到達したから走らなくてもいいんだよと言いたかっただけなんでしょうね。
とするとこれは創価学会オリジナルということになるのかな。

18アンチ学会員:2010/09/29(水) 16:59:23 ID:.JEO90Xc
>>15

運ちゃんさん、ありがとうございます。今、実家から御書や教学の本取ってきたので、これからましなコメントが出来るかと思います。
御義口伝下に「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり」とありますね。 釈迦が三十二相八十種好を具えた仏だったんて信じられないけど一応、日蓮との対比でそうらしい。
ガンジーも信念を曲げない人だと僕は思うけど、運ちゃんさんは他宗でも仏になる人はあり得ると考えてますか?

他門流の方、これから御書を用いますが偽書等疑いあればご指摘下さい。

19主任:2010/09/29(水) 18:02:54 ID:Wx.RJpJ2
>>15

>簡単にいえば何事にもブレないでオノが人生を自分らしく
生きていけるというのが仏ではないでしょうか?

人間の在り方としては良いと思うのですが、果たして釈尊はそれを悟って縁起の法などの教え説いたのであろうか?という疑問が残ってしまうのです。

>御本仏とかいって崇められるのは、日蓮さんの本意では無いと
おもうのですが、いかがでしょうか?

日蓮聖人は、真跡御書を見るかぎり実際、上行菩薩の再誕の立場だったのかなと思います。御本仏と崇められたのは後の富士門流において徐々に神格化されて理論体系化して行ったのではないかと思っています。

富士門流の主任さんが言うんじゃねーとツッコミを入れられそうですが。(^_^;)

20主任:2010/09/29(水) 18:10:44 ID:gJw.phjo
>>18

アンチ学会員さん

すみません。同門ですが御義口伝は偽書の疑い濃厚です。

個人的には御義口伝は嫌いではないのですが…

21アンチ学会員:2010/09/29(水) 21:19:35 ID:.JEO90Xc
>>20

主任さん、ご指摘ありがとうございます。日蓮をあやしく敬う宗門と学会は滅んでしまうのでしょうか(笑)
インターネット座禅会和尚…ブログ見ましたよ。この和尚さん、何かの悟りを得たんでしょうか。主任さんはどう思いますか?

22主任:2010/09/29(水) 21:42:22 ID:ibzx23Ok
>>21

アンチ学会員さん、

『インターネット坐禅会和尚甘露庵のブ〜ツ仏』の管理人さんの過去記事に大学生時代の不可思議体験がありますが、
それが果たして悟りなのかは私も体験したことがないので何とも言えません。

ただ、これと類似する体験談は最近、よくネット上で見かけます。

例えばもう一つは、阿部敏郎さんの『いまここ』でしょうか。

23アンチ学会員:2010/09/29(水) 22:20:06 ID:.JEO90Xc
>>22

主任さん、遭難者等人間の極限状態の時に、こんな類似体験をすると聞いた事があります。 人によっては幻覚だと言いますが、事実はどうなんですかね。
戸田氏の獄中の悟脱は池田氏の作り事だったかな?釈迦の菩提樹下の悟りまでも幻覚だとは思いませんが…
成仏を議論するのに、日蓮を用いるより釈迦の実像に迫るほうが良いかもしれませんね。

24運ちゃん:2010/09/29(水) 23:18:31 ID:P0BB7BRg
>>23
いわゆる「超常体験」という事と「悟り」という事は混同されがちだと
思いますが、どうでしょうか?

例えば釈迦の悟りの描写については、経典にあるようですが、それは釈迦
の教義全体から見た時、どれだけの意味があるのか・・・

日蓮さんも同様ですが、日蓮さんの場合には御書にそういった記述が
ある事、僕の記憶にはありません。
(産湯相承書なるものに、近いものを感じますが、あれは日蓮さんの
体験ではないですしね・・・また後世の創作という話もあります)

戸田会長のいわゆる「獄中の悟達」についても、小説にある幻覚の様な
内容よりも「仏とは生命」というテーマが重要であったはず。
(まあ小説自体、代筆によるものですけど)

僕は「悟り」や「成仏」を考える上で、他人がどういう事を見たという
よりも、己がどうだったのか・・・そこが重要なファクタだと思えます。

人間の深層心理は、とても難解なもので不可思議なものです。
その深層心理より湧き出てくるイメージに惑わされる必要もないのでは
ないでしょうか?
(僕自身、過去にお題目を徹底して唱えた中、不思議な事は多少ありましたが・・
それ自体に重要性は感じません)

>日蓮を用いるより釈迦の実像に迫るほうが良いかもしれませんね。
●「成仏」という事を語る場合、上記に記した事を前提に、釈迦や日蓮さんの
「生き方」の実像に迫る事が大事だと思いますが、どうでしょうか?

25主任:2010/09/30(木) 10:24:29 ID:gsYWNmtg
確かに『超常体験』と『悟り』を混同するのは気を付けないと行けませんね。変な方向に行ってしまう可能性がありますので…(^_^;)

私の悟りのイメージは、生き方も勿論そうなのですが、例えば天台大師や南岳大師、禅宗で申し訳ないのですが白隠慧鶴の仏道修行等の上で豁然と悟りを得た、というイメージなのです。
勿論、悟ってそれで終わりではないですが(生き方や行動)。

今の創価学会の勤行・唱題の位置付けはともかくも、
そもそも古来、宗派にもよりますが、何のために題目や真言等を唱え又、止観や坐禅等の瞑想を、はたまた読経等をしてきたのだろうか、と思うのです。

大乗仏教ならば勿論、積極的に社会に入って救済するのは分かるのですが。

26アンチ学会員:2010/09/30(木) 10:35:40 ID:.JEO90Xc
難しいですねー。
悟りと超常現象を一緒にしては宗教論議が成り立たないと思うので、ここでは別物と考えたいと思います。 ただ体験者の共通する事として命の大切さを知りアリ一匹殺すのも出来なくなるみたいです。
話を戻して確認したいのですが、仏法の究極目的は成仏ですよね。運ちゃんさんも主任さんも信仰を大事にされてますが成仏を目指されているのですか?
僕が信じて活動していた時は成仏なんか考えた事もなく、夢を叶たい幸せになりたい、それだけでした。

27運ちゃん:2010/09/30(木) 10:59:08 ID:2ocaQMQo
>>25
勤行唱題で考えると、「観心本尊」がキーワードではないでしょうか?
生命の奥底にある仏性にを知覚する事だと僕は考えています。
そこで得た事を社会の中で、縁する人達に還元する事が大事で、
この還元の仕方は様々な形があると思います。

>>26
僕もまったく同じ考えです。
夢や希望はこの歳になってもありますから、、、
別に大業な事を考えているわけではなく、それで家族が平和に暮らせて、
僕としては死ぬときに笑って死ねたら、それで良いと
日々考えています。

28主任:2010/09/30(木) 12:15:51 ID:PrrUu0pQ
アンチ学会員さん、

>話を戻して確認したいのですが、仏法の究極目的は成仏ですよね。運ちゃんさんも主任さんも信仰を大事にされてますが成仏を目指されているのですか?
僕が信じて活動していた時は成仏なんか考えた事もなく、夢を叶たい幸せになりたい、それだけでした。

私も学会員時代は成仏よりも夢を叶えることと幸せになりたいでしたよ。(笑)
学会の指導性がそうでしたからね。

しかし、学会を退会してから現世利益信仰は卒業しました。

仏教の原点に帰って成仏(さとり)することを考えています。

…だって仏教徒なんだもん(←可愛く…キモイ?)

願望実現に宗教は関係ないと思います。まぁ、全否定はしませんが。

私の心境、人間、生・老・病・死。楽しいときは笑えばよいし悲しいときは泣けばよい。ありのままで良いと思っています。

29主任:2010/09/30(木) 12:24:13 ID:zMTQMcRM
勤行唱題で考えると、「運ちゃんさん、

>観心本尊」がキーワードではないでしょうか?生命の奥底にある仏性にを知覚する事だと僕は考えています。
そこで得た事を社会の中で、縁する人達に還元する事が大事で、
この還元の仕方は様々な形があると思います。

私も特に異論はありません。

30堅皇:2010/09/30(木) 12:55:46 ID:Sa9nP3tE
アンチ学会員さん

> 体験者の共通する事として命の大切さを知りアリ一匹殺すのも出来なくなるみたいです。

仏法を正義と考え規則と捉えるとそうなるのかもしれません。
僕は仏法は正義ではなく道理ではないかと思っています。

悪とは誰かを傷つけて自分の利益を得ようとするものならば
正義と呼ばれるものもまた自分や誰かを傷つけて利益を与えるものになるのではと。

利益を得ようとすることや利益を与えようとする行為自体は
けして間違った考え方とは思わないと言う感じです。

後は傷つけた相手や自分をどのように納得させるかと言うような気もします。

312:2010/09/30(木) 18:12:21 ID:r1HXLOWQ
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32アンチ学会員:2010/09/30(木) 20:18:19 ID:.JEO90Xc
運ちゃんさん、主任さん、人生悔いなく生きて満足して死ねる、こんな幸せな事はないですね。 その為に成仏(さとり)は必要ないと僕は思いますけど否定もしません。 先生の為、組織の為、これには大反対です。

堅皇さん、僕も仏法は道理だと思うし学会でもよく聞かされました。学会は道理に適ってるかと聞かれたらNOです。道理と正義は、僕はある意味同じようにとらえてたけど、どう違うのでしょうか? 

アリ一匹殺せない釈迦や日蓮のような人間だけになったら世の中どうなりますかね。 肉や魚が食えなくなり食生活が貧しくなるし、つまらない世の中になる気がしますが(笑)← ちょっと想像しただけでスルーして下さい。

33堅皇:2010/09/30(木) 23:44:47 ID:Sa9nP3tE
>アンチ学会員さん

道理と正義は違うと思います。
というか一般的に言う正義なんてものは単なる言い訳の部分が強いと思います。

先にも書いたように正義と言うものは悪と同様に
何かを得るために何かを傷つけている行為だと思います。
助けてもらった人からはその人を正義と呼び傷つけられた人からは悪と呼ばれるだけ。

もし本当の正義があるとすれば傷つけた人に対しどう答えていくかと言う事なのではないかと思います。
これが道理なのではないかと思います。

当然創価学会は僕も道理から外れていると思います。

34アンチ学会員:2010/10/01(金) 08:20:56 ID:.JEO90Xc
>>33

堅皇さん、一つの正義は国や立場で悪になったりもしますね。 尖閣問題で考えると、中国人船長を逮捕したのは日本の立場では正義だけど、中国側や船長の家族にしたら悪です。
創価学会は正義を叫びながら選挙や新聞を勧めますが、一般人には迷惑この上ない悪です。
道理はそんなものには左右されない普遍的な事、そう考えましたがどうでしょうか?

35堅皇:2010/10/01(金) 16:05:36 ID:Sa9nP3tE
>> 34

アンチ学会員さん、道理とは当たり前のことだとも言えます。
まず人は生きている以上必ず何かを求めないと生きていけないと言う事です。
食事をしなければいけない。水を飲まなければいけない。酸素を取り入れなければいけない。
これは道理であり当たり前の事だといえます。

と同時に人は生きている限り何かを与え続けることが出来るとも言えるんですね。
意識しない部分でもその俳生物や二酸化炭素を得ることで存続する生物も居るわけです。

ですからピラミッド型の世界と捉えるより循環型社会として捉えるべきだと思います。
つまりは共存を考えない限りそのバランスが崩れ結果的に自分自身も崩壊してしまう。

自身の主張は自分がより良く生きていく為にも大いに主張するべきなのですが
それと同時に傷つけてしまう人にも何かを与える事を考えた方が結果的に得でしょうと言う事です。

学会が嫌われる最大の理由は自身の正義の名の下に他者を押さえつけたり排除しようとしてしまっている所です。
勝利に拘るピラミッド型の思考であると言えますね。
そこには共存の文字はなく待っているのは主従関係から始まる戦争ですね。

それが望みと言うなら我々はそれに従う気持ちがないので勝手にやればいいじゃん。
そのうち誰にも相手にされなくなって自分達が困ることになるんだからと言う感じでしょうか。

36アンチ学会員:2010/10/01(金) 19:37:42 ID:.JEO90Xc
>>35

堅皇さん、人間が生きていく上で当たり前の事を道理とすると、宗教は必要じゃなくなるしスレ題の成仏(さとり)も必要ありません。 このことはどう捉えれば良いのでしょうか?

堅皇さんが言われた循環型社会の意味と異なりますが、世界的に大量生産・大量消費を止め地球環境にやさしい社会に向かっていますね。 この方向性からも学会は反しています。
日本では2000年に循環型社会形成推進基本法が成立し食品リサイクル法など7つの関連法が制定しました。すなわち、資源に限りがあるしなるべくリサイクルして物を大切にしようとする考えですが学会はどうでしょう。
同じ新聞を何部も取らせ会員も減りSもGも人手不足で困っているのに会館建設を止めません。
社会に逆行する学会は必ず相手にされなくなりますよ。

37堅皇:2010/10/01(金) 23:42:33 ID:Sa9nP3tE
>>36

アンチ学会員さん、仏法が道理であるとすれば悟りもまた道理であると僕は考えます。
例えば水が酸素と水素から形成されていると言う事等を理解すると言う事もそもそも悟りの1つなのだと思います。
それでは縁覚界だと言われそうなのですが、では、それを実践し証明された時とでも言いましょうか。

釈迦が悟ったと言うのはこの世の成り立ちを理解したと言う事で
日蓮が悟ったと言う事は全ての経文に書かれている意味を理解したと言う事だと思います。

日蓮が苦境に合った時こそ「喜悦はかりなし」と言った理由は経文に書かれていることを
試しにやってみたところその通りの事が現実に起こったからなのではないかと思います。
そう考えると日蓮の行動や発言に僕は合点が行く感じなんですね。

仏法では輪廻について道理(当たり前)の事として描かれているわけですから
死や苦難と言うものが怖くなかった訳ですし証明されるたびに喜びが産まれてきたのでしょう。

ただ、日蓮のこれらの行動を人としてマネをしたいかと言う話。普通は嫌ですよね。
仏法は「依法不依人」と書かれている訳ですから、なにも日蓮と言う人に依る(信じる)必要は全くなく
あくまでも日蓮が語った法に依る(信じる)べきだと思います。

そうなると御本尊の正体というものが日蓮自身の事を指すわけではなく
日蓮が解読した法の1つであるという事が想定されます。
曼荼羅はそれの1つの表現方法であるという感じで捉えています。

同じく経文に書かれている内容を自分自身が体験し合点が行った事柄をそれぞれ悟り(仏)を開いたと
言う事だと僕は認識しています。

38アンチ学会員:2010/10/02(土) 01:53:41 ID:.JEO90Xc
>>37

このコメントの説明で堅皇さんの仏法の捉え方と悟りに対する考えがとても良く分かりました。 
宗教を信じると言っても盲目的では悟りはおろか知恵も開きませんからね。経文や教えをきっかけにして、思索を続ける事が大事ですね。

39アンチ学会員:2010/10/04(月) 17:15:59 ID:.JEO90Xc
参考までに
方便品寿量品精解、昭和三十三年二月八日印刷
講述者 戸田城聖 
(1)釈迦の出世の本懐から抜粋しますと「当時の修行法というのは、実にムチャクチャで、石の上にすわって何日間も断食したり、ご飯も食べないで思索するような、いろいろの苦行を重ねた。しかし、このような十二年間の修行でも悟れず、人生の問題とか、世界観の思索するのに、身体が疲れて、どうしても思索する力を失ってしまう。そこで釈迦は、ちょうどある娘がもってきた牛乳のおかゆを受けて食べた。ところが、五人の仲間が釈迦が堕落したものと思い『釈迦は邪道におちて、断食を中断した。こんな者と、ともにはおれぬ』といって立ち去った。 釈迦はほど良く食べ、眠り、真面目に人生を思索した。こうして、色々な難問題を考察していくうちにある朝、丑寅の時刻に、天の一方に明星がきらめいた、そのきらめいた瞬間に、ハッと悟った。これを仏法では刹那成道といっている。これは東洋の演繹哲学の根源であり、ほんとうの大宇宙の悟りそのものを得たわけである。西洋の哲学は帰納哲学である。 それでは何を悟ったかといえば、それはいってしまえば簡単です。しかし、われわれ凡夫がそれを悟ろうとして、これから百万年、二百万年思索しても悟れないことです。それは何かといえば、自分はずっと昔、五百塵点劫という大昔に、もうすでに仏であったという、永遠の生命を悟ったわけです。そこで正しい仏の境地から、十界互具一念三千という哲理を余すところなく解ってしまった。」と講義されています。酒飲みのヘビースモーカーで妾までいた戸田二代会長ですが、ユーモア交えた講義は人気が高かったそうですね。
戸田氏によると我々末法の人間は悟る事が出来ないと講義されています。一方で人間革命(偽書?代作?)によると戸田氏は虚空会の儀式に地湧の菩薩として参列し自己の本地を知り得た事になっています。

40主任:2010/10/04(月) 18:21:44 ID:C.W0HMM.
>>39

アンチ学会員さん

>方便品寿量品精解、昭和三十三年二月八日印刷講述者 戸田城聖 
(1)釈迦の出世の本懐から抜粋しますと「当時の修行法というのは、実にムチャクチャで、石の上にすわって何日間も断食したり、ご飯も食べないで思索するような、いろいろの苦行を重ねた。しかし、このような十二年間の修行でも悟れず、人生の問題とか、世界観の思索するのに、身体が疲れて、どうしても思索する力を失ってしまう。そこで釈迦は、ちょうどある娘がもってきた牛乳のおかゆを受けて食べた。

ここの部分は史実に沿っていますね。

>釈迦はほど良く食べ、眠り、真面目に人生を思索した。

真面目に人生を思索したの部分は誤りですね。
憚りながらさんのコメにもあるようにヴィッパサナー瞑想(観瞑想)しています。

>こうして、色々な難問題を考察していくうちにある朝、丑寅の時刻に、天の一方に明星がきらめいた、そのきらめいた瞬間に、ハッと悟った。これを仏法では刹那成道といっている。これは東洋の演繹哲学の根源であり、ほんとうの大宇宙の悟りそのものを得たわけである。

ここの部分はまぁ、いいでしょう。

>これから百万年、二百万年思索しても悟れないことです。

これは誤りでしょう。
テーラーガーターやテーリーガーターを読むと仏弟子たちが悟っていますし、南岳大師や天台等も悟ってますからね。

>それは何かといえば、自分はずっと昔、五百塵点劫という大昔に、もうすでに仏であったという、永遠の生命を悟ったわけです。そこで正しい仏の境地から、十界互具一念三千という哲理を余すところなく解ってしまった。」と講義されています。

五百塵劫云々は法華経の話しで歴史上の釈迦とは関係ないです。
釈迦は法を悟ったでしょうけど、天台の十界互具一念三千は知らないでしょう。
天台は法を十界互具一念三千と表現したのだと思います。

>戸田氏によると我々末法の人間は悟る事が出来ないと講義されています。

末法が説かれている大集経自体が(法華経より新しいらしい)釈迦の直説ではないですから誤りです。

41アンチ学会員:2010/10/04(月) 20:21:51 ID:.JEO90Xc
>>40

主任さん、詳しい解説ありがとうございます。 学会教学を用いても主任さんにかかればズタズタにされてしまいます(笑) これからも、どんどん指摘して下さい。
法華経や末法思想は釈迦の直説ではないとの研究はいつ頃発表されたんですか?

42小夜子:2010/10/04(月) 20:55:48 ID:YV73zWfg
>>40・41

えー!嘘
法華経ってお釈迦さんが説いたものじゃないわけ??

43主任:2010/10/04(月) 21:05:35 ID:2VScqL3A
>>41

アンチ学会員さん

法華経に関する研究の発表は、原典の翻訳についてはイギリス人やオランダ人が19世紀頃に発表・出版していますね。

日本人は南条文雄・泉芳(王+景)の共訳『梵漢対照・新訳法華経』京都・大正二年(1913年)等が出ています。

梵語原典そのものの成立を論じた研究は、布施浩岳『法華経成立史』東京・昭和九年、等があるようです。

(^_^;)

44主任:2010/10/04(月) 21:32:12 ID:OyQg6ib6
>>42

小夜子さん

>えー!嘘
法華経ってお釈迦さんが説いたものじゃないわけ??

ハイ。歴史上の釈尊は法華経を説いていません。

布施浩岳氏の『法華経成立史』によると法華経の成立には四時期を経過したと論じています。

1、原始法華の成立は西紀前一世紀。

2、第二期法華の成立は西北インドに於いて西紀後一世紀。

3、第三期の成立は西北インドに於いて西紀100年前後。

4、第四期の成立は西紀150年前後。

学者によっては二十七品、同時成立説などがあります。

45小夜子:2010/10/04(月) 22:39:29 ID:YV73zWfg
>>44

日蓮大聖人も騙されちゃたわけ(?_?)
ガ━(゚Д゚;)━ン

46主任:2010/10/04(月) 23:28:42 ID:avOMGzjM
>>45

日蓮聖人は騙されたわけではありません。

鎌倉時代の教学などの仏教の常識と、現代の仏教の常識は違いますからね。近代になってから研究によって分かってきた事もありますし…(^_^;)

47運ちゃん:2010/10/05(火) 09:54:57 ID:2ocaQMQo
法華経が釈迦の直説でない事は学説としてありますが、
考えてみれば釈迦時代に文字で残すというものはなく、
それを考慮する必要があるのではないかと。

取り急ぎのコメントです。

48運ちゃん:2010/10/05(火) 12:36:54 ID:hRc3TMUE
続きで少し。
確かに法華経の教典としての成立は、中央アジアあたりで「大乗仏教」の成立前後で
あった事だと記憶しています。
この問題については、創価学会も以前から認識していて、過去に教学部で論じていた事
を何かの論説で読んだ事もあります。
ただ、ここからは僕の考えなのですが、文字として教典が成立していない事は、それほど
重要でしょうか?
前のコメントにも書きましたが、そもそも釈迦在世には文字で残すというもなは無く、第一回の
教典結集でも口承による結集でした。
そして大乗仏教が勃興した時に明文化したと言う事は、もともとそれなりのエッセンスが
既に仏教の中にあったと考えるのが自然ではないかと思います。
また考えなければならないのは、そこで成立した法華経が、歴史の中で常に高い評価を受け、仏教
全般にも影響を与えたという事実です。
確かに学術的に調べて、明確にする事は大事な事ですが、信仰の軸として見ていくのは、視点が違うと
思うのです。

49運ちゃん:2010/10/05(火) 12:48:51 ID:quuSxxxU
あと日蓮さんの法華経に対する姿勢ですが、御書には幼少の時に、智慧の宝珠を授かったという内容が
ありましたが、日蓮さんは恐らく直感的に感じたというか、持った確信を補完と証明をする為に、一切経を読み込んで、
そこで法華経にたどりついたのでは無いかと思われます。

これは過去の天台大師や伝教大師、竜樹菩薩も同じではないかと
推察します。

そして天台大師は摩訶止観を顕し、日蓮さんは御本尊を顕した。

僕はここに法華経は釈迦一人を越えた普遍性を感じてならないのです。

長文、失礼しました。

50主任:2010/10/05(火) 14:10:05 ID:nQkkf1xw
>>48

運ちゃんさん

>そもそも釈迦在世には文字で残すというもなは無く、第一回の教典結集でも口承による結集でした。

ええ。最初、仏弟子たちは教えの内容を韻文または簡潔な文句でまとめ、暗誦の便をはかったらしいですね。
その後、何度か結集され三蔵(経・律・論)が成立、現存のパーリ語聖典(上座部で使用される)の原形が出来上がったようです。
そして紀元前後に大乗仏教の勃興、大乗経典成立(悪く言うと創作される)

>そして大乗仏教が勃興した時に明文化した

厳密にいうと、最初に明文化されたのはスリランカの上座部です(紀元前後、スリランカにおける大干ばつが原因。法を伝えるため明文化)。

>もともとそれなりのエッセンスが
既に仏教の中にあったと考えるのが自然ではないかと思います。

ええ。大乗仏典の土台は初期経典やその当時、行われていた諸信仰のようです。

>また考えなければならないのは、そこで成立した法華経が、歴史の中で常に高い評価を受け、仏教全般にも影響を与えたという事実です。

これはそのとおりです。異論はありません。

>確かに学術的に調べて、明確にする事は大事な事ですが、信仰の軸として見ていくのは、視点が違うと思うのです。

信仰は信仰です。学術面は学術面。学術的な部分も真摯に受け止める事は大切だと思います。

でないと盲目的な信仰に陥る恐れがありますので(バリ活さんのように)。

前にも出しましたが臨済宗の白隠慧鶴(1685〜1768)は42歳のとき、毎日、法華経を読んでいて、ある夜、譬喩品を読んでいたところ豁然と悟って号泣したそうです(『遠羅天釜・おらてがま』)。
他宗派の僧侶ですら悟達できる法華経はやはり凄いと思います(←この白隠禅師の部分は、創価学会や日蓮正宗の教学に対する私のイヤミです)。

m(_ _)m

51主任:2010/10/05(火) 14:29:16 ID:Hm1LpezE
>>49

運ちゃんさん

日蓮聖人の信仰の姿勢、異論はないです。運ちゃんさんの仰る通りかと思います。

私は、何も法華経を全否定している訳ではありません。

私は、学術的な成果は真摯に受け入れる、というスタンスなのですよ。

信仰者にとっては辛い部分ではあると思います。

私も辿って来ましたから。

52アンチ学会員:2010/10/05(火) 19:24:53 ID:.JEO90Xc
>>51

主任さん、とても参考になりました。 戸田氏の時代には、すでに研究されていたわけですね。博学だった戸田氏だから知っていた可能性は高いですね。
獄中で法華経を身読したといわれ出獄後、法華経講義から始められましたが法華経に魅力を感じていたんでしょう。戸田氏の法華経講義は個人的には面白かったです。
他宗で法華経を読んで悟ったと言われる人がいるんですね。 
主任さんが推薦する仏教関係の本があったら教えてくれませんか?

53主任:2010/10/05(火) 20:39:18 ID:eX74qcRs
>>52

アンチ学会員さん

私の推薦する仏教書はまず、

岩波文庫『ブッダのことば・中村元 訳』

講談社学術文庫『バウッダ[佛教]中村元 三枝充(直+心)』

角川文庫・仏教の思想5『 絶対の真理<天台>田村芳朗 梅原猛』

講談社学術文庫『天台思想入門・天台宗の歴史と思想 鎌田茂雄』

ちくま学芸文庫『増補・日蓮入門・現世を撃つ思想・末木文美士』

角川ソフィア文庫『永遠のいのち〈日蓮〉紀野一義・梅原猛』

中公新書196 『田村芳朗著 法華経 真理・生命・実践』

岩波新書748 『菅野博史著 法華経入門』

祥伝社新書 『松原泰道著 法華経入門 七つの比喩にこめられた真実』

ちくま学芸文庫『禅のこころ その詩と哲学 竹村牧男』

中公新書1983 『湯浅治久著 戦国仏教 中世社会と日蓮宗』

思文閣出版『安房妙本寺 日我一代記 佐藤博信』(←この妙本寺の本は手前味噌)

…などがお薦めです。

まだ、あるのですが挙げきれないので止めておきますm(_ _)m

54アンチ学会員:2010/10/05(火) 20:49:11 ID:.JEO90Xc
>>42

小夜子さん、僕も法華経は釈迦が説いた物だと当たり前のように思ってました。まあ、今の学会では法華経講義もしないし勉強もしませんから関係ないかな。 僕がアンチになって、学会内で絶対と言われてる事が覆される事が多いので正直呆れるの通り越して笑ってしまいますよ。
後になってすいませんが、他スレでかばって頂いてありがとうございました。

55主任:2010/10/05(火) 20:52:03 ID:pp507CF2
>>52

アンチ学会員さん

もう一つ大事な書籍がありました!

平楽寺書店『大石寺教学の研究 東佑介 著』

はちす文庫『石山本尊の研究 柳澤宏道』

です(b^ー°)

56アンチ学会員:2010/10/05(火) 20:54:58 ID:.JEO90Xc
>>53

主任さん、ありがとうございます。今週の連休中に仕入れてきますよ(^-^)

57アンチ学会員:2010/10/05(火) 20:57:41 ID:.JEO90Xc
>>55

主任さん、了解です。
こちらを優先すっかなー。

58憚りながら:2010/10/06(水) 00:24:37 ID:Wn8amN52
こんばんは。
この談話室ではいろいろな意見や質問や議論がなされていて、こんな座談会が学会でもなされていれば
学会から離れなかっただろうなというのが率直な感想です。
師弟不二の名のもとに、公明党支援、自民党支援が決まっていて、異論のある会員を説得して組織の方針に従わせるだけの団体に、二度ともどるつもりはありません。

さて、

悟りについては、脳機能学者・計算言語学者・計算機科学者・離散数理学者・認知心理学者・分析哲学者・ドクター苫米地ワークス代表
・コグニティブリサーチラボCEO・角川春樹事務所顧問・南開大学(中国)客座教授・カーネギーメロン大学コンサルタント・
多数のオウム真理教信者の脱洗脳を公安の依頼により手がけたなど、多彩な顔を持つ苫米地英人氏が、以下の映像でわかりやすく述べています。

http://www.ustream.tv/recorded/7716988

今月出版されたばかりの苫米地氏の本でも仏教と悟りについて、詳しく述べられています。
http://www.amazon.co.jp/dp/4098250969/

1、仏教ブームの正体
2、釈迦は神の存在を否定
3、どこまでが「仏教」か
4、釈迦の教えは社会改革
5、日本仏教は老荘思想
6、チベットのタイムカプセルと般若心経
7、煩悩はコントロール可能
8、密教の超能力と方便
9、悟りの正体

59堅皇:2010/10/06(水) 02:06:19 ID:Sa9nP3tE
>>48 >>50
> 確かに学術的に調べて、明確にする事は大事な事ですが、信仰の軸として見ていくのは、視点が違うと思うのです。

僕も学術面は受け止めるべきだと思います。
特に法華経を説いたのは釈迦ではないと言う事が事実であったとして何故に法華経の価値が下がるのでしょうか
もし事実であれば困るのは釈迦を本仏と捉える日蓮宗ぐらいの話ではないでしょうか。

また釈迦滅後の五箇の五百歳を正像末としての日蓮の出生時の差異に関しても
事実として困るのは日蓮を本仏と捉える日蓮正宗を始めとした日興日興門流ぐらいの話かと。

と、その前にこう言った相対的な時間軸の話と言うのは仏法においてそれ程重要な事柄なのですかね。
これは純粋に疑問な箇所なのですが誰かお答え出来れば宜しくお願いします。

60主任:2010/10/06(水) 08:46:52 ID:DYpo/Kh2
>>58

憚りながらさん

苫米地氏の書籍は持っていませんが、書店で苫米地氏の書籍を立ち読みをするときがあります。

苫米地氏は天台宗の僧籍も得ているようで一念三千や止観に関することが出ていますね(^_^)

61主任:2010/10/06(水) 08:58:55 ID:i4PP9NCk
>>59

堅皇さん

>その前にこう言った相対的な時間軸の話と言うのは仏法においてそれ程重要な事柄なのですかね。

本来、重要でないと思います。

『法』に、流行り廃りがある訳がないと思うし、

あるとすれば、時代によっての法の表現の違いや理屈(理論)、形式が変わるだけで『法』は不変だと思います。

日蓮教学は正像末の三時に基づいているのでどうしても末法云々の話しが出て来るのですよね(^_^;)

62堅皇:2010/10/06(水) 09:58:17 ID:Sa9nP3tE
>>61

主任さんありがとうございます、やはりそうですか。
仏法では依正不二と言っているので「時」の観念もまた相対的なものではなく正報で捉えるべきではないかと思いました。
とすれば正像末の「時」を人間の一生で捉えると

正法時代は子供時代、親を信じることによって守られる時代。
像法時代は青年期、親の力が形骸化するもののまだその力は及ぶものとする。
末法時代は大人となってから、もう親の力は効力をなくし自分自身の力で生きていかなければならない。

と当てはめてみると末法が万年と言われる部分も含めしっくり来ますね。

仏法に描かれている「人」や「時」という物はあくまで相対的に表現したもので
その人その人の状況にによって変わるものと言えるかも知れませんね。

63堅皇:2010/10/06(水) 10:16:34 ID:Sa9nP3tE
これを創価学会という組織に当てはめてみても話が通じそうですね。

一人の指導者を中心人物と捉えて正像末考えると
学会の繁栄から現在の衰退状況の流れにも納得が行く感じです。

64運ちゃん:2010/10/06(水) 11:39:33 ID:NlKWQxus
昨日は寝てしまい、レスを返してません。
帰ったらゆっくり皆さんの意見を拝見します。

「石山本尊の研究」読みました、ヨメには変な顔されてますが、、

昔はここにある内容、語れる先輩も多かったのですが、最近はいないですね。
なかなか教義的な内容について、話さない人が多いですね。
特に幹部が顕著です。
「理屈ばかりこねないで戦え!」みたいな傾向が強くなりました。
信濃町の思惑通り。

65運ちゃん:2010/10/06(水) 23:35:49 ID:P0BB7BRg
主任さん
>最初に明文化されたのはスリランカの上座部です
●法華経がスリランカで明文化されたのは、少し驚きです。
文献は何か教えてもらえますか?
僕が読んだのは維摩経の解説書(書籍名は失念してしまいましたが・・・)で
法華経の明文化は紀元前後の中央アジアと読んでました。

>学術面は学術面。学術的な部分も真摯に受け止める事は大切だと思います。
●この姿勢は確かに大事ですね。同感です。

堅皇さん>
>事実として困るのは日蓮を本仏と捉える日蓮正宗を始めとした日興日興門流ぐらいの話かと。
●確かにそうですね。
また創価学会にしても宗門を未だに「敵」といっていますが、結局は興門流教学の域(つまり宗門と同じ)を
出ていない状況ですからね。

66主任:2010/10/07(木) 00:54:54 ID:TPIL9j.c
>>65

運ちゃんさん

>●法華経がスリランカで明文化されたのは、少し驚きです。
文献は何か教えてもらえますか?

いえ、運ちゃんさん、私がそこで述べたのは法華経ではなく上座部で用いる仏典(アーガマ)のことです。

法華経の明文化は、段階的成立説を支持する田村説で考えると、

方便品第二から授学無学人記品第九までを第一類で西暦50年。

法師品第十から嘱累品第二十一までと、序品第一とを第二類として西暦100年頃の成立(薬王品以下省略します)。

第一類には受持・読誦・解説までは説かれていますが書写はありません。

第二類にきて書写が加わり、後に受持・読・誦・解説・書写が完備されますので、私が思うに法華経で明文化が進んだのは西暦100年頃かと思われます。

参考文献、中公新書・田村芳朗『法華経』

ただ、法華経が中央アジアで明文化というのは私も知りません。

成立史的には西北インド(現在のパキスタン辺り)だと思うのですが。

67主任:2010/10/07(木) 07:40:12 ID:bA4XjGDA
>>66

訂正と補足です。

訂正は、最後の部分の『西北インド』は、正しくは『北西インド』でした。すみません(T_T)

補足は、仏典(大乗仏典ではない)の明文化の部分ですが、口伝で伝えられてきた仏典が文字で書写されたのは西暦前一世紀、スリランカの上座部からのようです。

68運ちゃん:2010/10/07(木) 11:25:24 ID:g69V.1jo
主任さん

ありがとうございます。
とても勉強になります。
今度の週末に図書館で文献を漁ってみます。

こうゆうやりとりは良いですね。

69主任:2010/10/07(木) 11:52:25 ID:W06Rn7pQ
>>68

運ちゃんさん

私の方こそ大変、勉強になります。

>こうゆうやりとりは良いですね。

私もこういうやり取りは良いと思います(^-^)

70憚りながら:2010/10/10(日) 11:02:38 ID:.fSs2SVc
>>60
主任さん

苫米地氏はオウム真理教信者の脱洗脳で有名になったそうですが、
今は著作やその他の活動を通して、日本人全体の、さらには人間全体の脱洗脳を試みているように見えます。
オウム信者の脱洗脳をいまでも続けているそうですが、いまだにひとりも失敗したことがないそうです。
苫米地氏の著作は怪しいタイトルばかりですが、スピリチュアルや占いやカルトに嵌るタイプの人に本を手にとってもらえるようにという
販売戦略なのでしょうね。

さて、「悟り」についてですが、
苫米地英人氏の【お釈迦さまの脳科学】第8章 「悟りの正体」
http://www.amazon.co.jp/dp/4098250969/
から、一部抜粋してみました。

「そもそも、悟りとは難しいものではないのです。」

「悟るのも難しくなければ、悟りについて理解するのはもっと簡単です。ただ、「この世は幻」と知るだけのことです。」

「いくら映画がリアルでも、観客は映画を現実ではなく幻として認識することができます。それが空観すなわち悟りによって得られる認識です。」

「今どきは小学生でもゲーム機の中で動いているキャラクターが本当に生きてるとは思ってないでしょう。小学生でもゲームの世界では悟っているのです。
現実世界もゲームと同じだということを知れば、この世で悟ることができるのです。」

「では、釈迦の「悟り」とはいったい何でしょうか。上座部仏教は、それを「縁起」であると言い、大乗仏教は「空」だと説きました。
しかし、釈迦の悟りとは縁起でも空でもありません。」

「悟りとは言語を超えた体感です。」

「釈迦は瞑想によって悟りに至りました。」

「瞑想とは何も考えないことではなく、脳をフル回転させておこないます。」

「釈迦は瞑想によって自我はない(または空である)と知りました。それが悟りの状態です。」

「洗脳されたものを含めてあらゆる価値観から開放された状態、その境地が釈迦の悟りなのです。」

「悟りとは「自分」と「宇宙」の両方を完全に認識すること、とも言うことができます。」

「そして釈迦が、この境地を人に伝えるにはどうすべきかと考えて生み出された説明原理が十二支縁起なのです。」

「本当に「空」を体感するには、お勉強だけでなく、釈迦と同じように瞑想しなくてはなりません。本を読むだけでは悟れないのです。」

「密教の超能力それ自体をありがたがるのはカルトですが、その方法論は「空」を体感するために有効なものです。」

「しかし、人は悟りを開いたとしても、それだけではなんの価値もないのです。」

「悟った次に大事なのは、自分がどういう機能を社会や宇宙に対して果たすかを決めることです。」

「悟ってから何をするか、それは自分で決めないといけませんが、学校の先生でも世界最大の企業を作るでも何でもかまいません。情動からではないゴールだから
意味があるのです。情動から離れれば、おのずと抽象度の高い、利他的な目標が得られるでしょう。」

71主任:2010/10/10(日) 18:56:37 ID:GrJxhX3k
>>70

憚りながらさん

私も苫米地氏の著書、『お釈迦さまの脳科学』を買って読んでみました。(^_^)

仏教史に関しては疑問符が付く所が何点かありました。

例えば、第3章の77頁の釈尊暗殺説は、ちゃんと論文にして世に問うた方がよいのではないか?と思いました(読者が誤解しそう)。

ただ、全体的には参考になりました。

第8章の『悟りの正体』の178頁の「悟りとは言語を超えた体感です。(中略)悟りとは説明を超えた体感なのです。」は確かにそうだろうな、と思いました。

よく、悟りは言語道断心行所滅の境地と言われる所以ですよね。

72運ちゃん:2010/10/11(月) 18:15:10 ID:P0BB7BRg
そういえば「悟り」という事について、チベット仏教の方が進んでいるというか
非常に解りやすいというか・・・ちょっと一文を紹介します。

「この約束(悟り)の驚くべき点は、それがエキゾチックでも幻想的でもないということ、選ばれた者だけの
ものではなく、全人類のものであり、師たちが言うように、思いがけないほど当たり前なことだと
いうことである。真理は複雑なものでも難解なものでもない。実際のところ、それは深遠なる常識
なのだ。あなたが心の本質に目覚めると、混乱した層がはがれ落ちてゆく、あなたは覚者になるのでは
なく、ただ、少しづつ惑わされなくなってゆくだけのことなのだ。覚者になるということは、万能の
精神的霊的超人になるということではなく、ようやくにして真の人間になるという事なのだ。」
(「チベット生と死の書」著:ソギャル・リンポチェ P103「心の本質」より抜粋)

73運ちゃん:2010/10/11(月) 18:20:57 ID:P0BB7BRg
よく人間革命の事になると、戸田会長の神秘体験が取りざたされたりしますが、そもそも
日蓮さんの仏法においても、神秘体験というか、「悟りの体験」というものは書かれていないし、
重要視もされていないと思うのです。御書にもそんな事書いてないですしね。

日蓮さんの場合、行動の中で、法華経を依処として己の仏性覚知へ向かっているのではないでしょうか?
天台大師の場合は「摩訶止観」の修行法により、それを目指した。

そして仏法でいう仏性の覚知というか本質は、そんなエキゾチックなものでも無い。

うーん、、、うまくまとまっていないけど、そんな感じですね。

74主任:2010/10/11(月) 19:58:18 ID:4.I1WMvA
>>73

運ちゃんさん

>そして仏法でいう仏性の覚知というか本質は、そんなエキゾチックなものでも無い。

こればかりは、体験してみないと分からないかも知れません(^_^;)

号泣する人もいれば、な〜んだ。そうだったのか。で終わる人もいるかも知れませんし。

ただ、人が思っているほど、特別なものではないのかも知れません。

白隠慧鶴の『坐禅和讃』を一部抜粋して。

衆生本来仏なり

水と氷の如くにて

水を離れて氷なく

衆生の外に仏なし

衆生近きを知らずして

遠く求むるはかなさよ

たとえば水の中に居て

喝を叫ぶが如くなり

長者の家の子となりて

貧里に迷うに異ならず

六趣輪廻の因縁は

己が愚痴の闇路なり

闇路に闇路を踏みそえて

いつしか生死を離るべき



75憚りながら:2010/10/12(火) 22:33:09 ID:Cg3POB6A
>>71
主任さん

釈迦の暗殺についてですが、アウトカーストや女性の出家を認めた釈迦であれば、
カースト制の社会では暗殺されてもおかしくないなというのが私の感想です。
苫米地氏も断定をしているわけではないようです。
釈迦の高弟の多くが毒殺されていったという話は初めて知りました。

>>73
運ちゃんさん

大聖人は成仏という言葉は知っていても、成仏とはなんなのか、釈迦の悟りとはなんなのか、わからなかったのではないでしょうか。

具体的な瞑想法について記述のない大乗仏教しか日本に伝わっていなかったのですから、無理もありません。

そのような状況で自分なりに考えた、大聖人独自の成仏の解釈が、南無妙法蓮華経の題目による悟りだったのではないかと思います。


ですので、悟りをひとつと考える必要もないと思います。
釈迦の悟り、大聖人の悟り、戸田城聖の悟り、すべて異なるものであり、自分にとって好きな悟りをお好みで選べばそれでよいのだと私は思います。

その中でも私は、全ては幻、輪廻転生はないと言い切った現代物理学と現代心理学の結論からも矛盾しない釈迦の悟りというものに一番の興味を覚えます。

76運ちゃん:2010/10/12(火) 23:59:48 ID:P0BB7BRg
>>75
>釈迦の悟りとはなんなのか、わからなかったのではないでしょうか
う〜ん、、、どうなんでしょうか?
「霊山一会儼然未散」という言葉、これは御義口伝にある言葉で、どこまでのものか??
という事はありますが、釈迦の言う「成仏」というものは理解していたと思いますよ。

まあ日蓮さんの「悟り」として取り上げられるものに「御本尊」があります。

でもこの御本尊の相にしても、日蓮さんの直筆のものでもかなりブレが
ありますから、、、そこを考えるとどうなのか??

>悟りをひとつと考える必要もないと思います。
縁覚という言葉がありますよね、、、「独覚」
これは「独りで覚る」という意味合いもありますが、そういった観点でいえば
種々あるものかもしれません。。。。感じ方という事についてですが。

「独覚」と「仏」の違いは、、、というと「己のみ」か「化他」があるかという
事でしょうか・・・・

すみません、ただ思いつくままに書いてしまいました。

77堅皇:2010/10/13(水) 03:05:45 ID:Sa9nP3tE
1つ思うことがあるのですが
曼荼羅に題目とやらを唱えるとなんらかの効果を感じると思うのを悟りと考えるのはダメなんですかね。
僕の中ではこれは大前提なんですよ。
難しく考えるのはそれはどうしてそうなるのかと言う事ぐらいですね。
解らないでやってるってのが気持ち悪いと言う事もあるし
基本オカルトを信じるのが嫌なのでそれが理論的に解ればいいなと思うくらいなんですね。
更にポイントさえ掴めればより効果的に活用できると言う事もあるし。

78小夜子:2010/10/13(水) 08:34:28 ID:YV73zWfg
ご本尊様を信じないでお題目をあげても功徳がないって学会では教えていますよね。
その唱題中に仏界が涌現して悟った状態と同じだと。だから、創価学会は仏の集団なんだってねf^_^;

今考えたら変だってわかるんだけど
(;´・`)

79主任:2010/10/13(水) 11:31:50 ID:.pXVHO/2
>>77

堅皇さん

祈りについて、実験をした学者がいたようです。

PHP文庫『生きがいの本質・飯田史彦著』より一部抜粋・要旨。

元カリフォルニア大学の心臓学教授のランドルフ・ビルドはサンフランシスコ総合病院で次のような実験を行う。

まず、心臓治療ユニットに入院した393人の入院患者をコンピューターを使って無作為に、二つのグループに振り分けて、

A群は、『祈ってもらうグループ(192人)』

B群は、『祈ってもらわないグループ(201人)』

この振り分けは、臨床実験で用いられる厳密な基準を適用して行われ、

しかも患者本人はもちろんのこと、医師や看護婦にも、どの患者がどちらのグループに入るかは知らされいなかったと。

知らせると先入観で治療に何らかの作用を及ぼす危険があるためだそうです。

次に、『祈ってもらうグループ』に振り分けられた患者たちのために祈ってくれる人たちを、全国のローマ・カトリックとプロテスタントの教会から募集。

一人の患者に対して五人から七人程度、祈ってくれる人を割り振ったようです。

その祈ってくれる人たちには、患者の名前と病状を教え、その人たちのために毎日祈ってくれるように依頼(祈り方については何の指示も与えず、祈る人それぞれの祈り方に任せる)。

結果は、祈ってもらった患者たち(A群)の方が、祈ってもらわなかった患者たち(B群)に比べて、病気の進行が明らかに遅かったそうです。



ここで分かることは、別に創価の祈りでなくても効果はあるということでしょうか。

80主任:2010/10/13(水) 12:18:18 ID:cxxGQVR2
>>77

堅皇さん

>曼荼羅に題目とやらを唱えるとなんらかの効果を感じると思うのを悟りと考えるのはダメなんですかね。

悟りの考え方にもよると思いますが(^_^;)

書籍を抜粋して(運ちゃんさんは嫌いかも……)、

ちくま学芸文庫『禅のこころ』

この坐禅の最中、人はどのような境地を体験するのだろか。実は、古来、神秘体験の道すじを説くものは、大体、似たような境地の進展を示している。たとえば、十六世紀、宗教改革に反応し、カトリック側の改革運動として現れるスペイン神秘主義の代表的人物に、テレサ(1515〜1582)がいるが、テレサは、神秘体験への過程を、次の四段階に示した。

①黙想

②寂心の祈り

③心の眠り

④融合


①感覚を制し、②心を統一し、③思惟作用を消滅させる。そうすると、④神と合一するというのである。心の眠りの段階まで入ると、ほとんど純一に帰した心の中で、記憶作用のみが「夏の夜半の蛾の羽ばたき」のように狂い回るといわれている。それは、インド古代のヨーガ学派の聖典『ヨーガ・スートラ』の、ヨーガの八支中の後半、

①制感

②執持

③静慮

④三昧

とほぼ対応しているであろう。ただし、『ヨーガ・スートラ』ではその前に、坐法と調息、さらには生活の慎み等についての説示もあるのである。
実際に坐禅をすると、この坐禅という行においても、ほぼこうした過程を経て、三昧の境地に達するに違いない。



題目を深く唱えると同じ状態になる可能性は、ありますね(^_^;)

81運ちゃん:2010/10/13(水) 12:38:14 ID:meXq1CUk
>>80
ちらっと見ですが、チベットの死者の書にも似た記述があったような、、、
ちなみに嫌いではないですよ、こういった書籍。
とはいえ抵抗はありますけどねー。、、、

82堅皇:2010/10/13(水) 14:13:48 ID:Sa9nP3tE
>>79

主任さん、そうですね。曼荼羅に題目とやらを唱えるという限定行為だけでなく
祈り自体に効果があると言うこともあらかた知識としては知っているのと同時に自分の中でふにも落ちています。
功徳が得られるのはうちのご本尊様だけなんですとは思ってはないんですね。
そう思っているのは創価学会を始め独善曼荼羅信仰をしている日興門流の方ぐらいであるということも。

僕が考えている事は何故に祈りがなんらかの効果を生む事になるのかというその理屈の部分ですね。
加えて題目で発せられる言葉の意味と曼荼羅に書き記されているそれぞれの意味とはと言う部分ですね。
つまり、悟りとはこの事を理論で証明するか自身が感じ取るかと言う事なのではないかと考えています。

83憚りながら:2010/10/13(水) 20:49:50 ID:37uVC43o
>>79>>77
主任さん 堅皇さん

日経サイエンスには、こんな記事がありました

お祈りは処方外
自分自身の励ましにするのはよいが…


第三者が患者の回復を祈ると,何らかの効果があるだろうか?調査の結果,神頼みの効力を示す証拠は得られなかった。むしろ,患者を悲観的にする悪影響がありそうだ。
American Heart Journal誌4月4日号に報告された「祈りの治療効果調査(STEP)」は,祈りが他人の健康に及ぼす影響を科学的な方法で測定した3年がかりの研究で,この種のものとしては過去最大規模。心臓バイパス手術を受ける1800人の患者を対象に調べた。ある患者グループについては,手術前夜から2週間にわたって修道士たちが祈った。1人の患者につき約70人の修道士がお祈りしたが,患者と修道士に面識はない。
調査の結果,お祈りを受けたグループも受けなかった患者も,生存率や合併症罹患率に差は認められなかった。唯一統計的に有意な差が表れたのは,祈りを受けて患者自身もその事実を知っていたグループで,手術後に不整脈を起こす割合が高かった(祈られていることを知らなかった患者では52%だったのに対し,知っていた患者では59%)。
研究チーム(ハーバード大学医学部やメイヨークリニックなど6施設の医師や心理学者,聖職者で構成)は,神経過敏による悪影響ではないかと考えている。「不安を感じるとアドレナリンの分泌が増え,そのせいで心細動が悪化する場合がある」と,オクラホマシティーにあるインテグリス・バプテスト心臓病院の医師ベテア(Charles Bethea)は4月の記者会見で述べた。「患者は『自分の病気は祈祷を頼まなければならないほどひどいのか』と不安に思ったのかもしれない」。
ただし,メイヨークリニックの牧師長マレック(Dean Marek)は,調査の仕方が間違っていたのではないかとみる。「今回の調査では人と人とのつながりを無視していた。『人のための祈り』ではなく『人間味のない祈り』だったといえる」。
友人や家族による祈りの“癒しパワー”が祈りそのものではなく,人間関係から生まれる──というのは確かめようがないので,研究チームは追跡調査の計画はないという。この研究は主にジョン・テンプルトン財団の支援で行われ,240万ドルが費やされた。

84堅皇:2010/10/14(木) 00:56:39 ID:Sa9nP3tE
>>83

憚りながらさん、この調査はあまりにも乱暴な設定での調査を行っていますね。
この研究に乗っかった牧師長マレックさんって自分の宗教によほど自信があったのかとも思いますが
僕はこの調査結果も主任さんが提示したサンフランシスコ総合病院の例もどちらも嘘だとは思いません。
どちらも公平な条件の下に集められた研究データなのでしょうから。
ただ祈ると一口に言っても様々な条件が絡んでくると言う事がいえると思います。

それとあくまで効果と言う表現を使ったのは必ずしも良い結果が生まれると言うことだけではありません。
事実あらゆる宗教家の祈りが必ずしも良い方向へ向かっているものだとも言えませんからね。

僕はこの祈るという行為は宗教と言う括りだけではなく自分自身に気合を入れるとか
誰かを応援すると言うようなものの延長線上にあるものだと捉えています。
こちらも力みすぎて失敗するとか期待を重く感じてしまって失敗すると言う例もあります。
ただ、感情を変化させる1つの効果を成していると言う事なんですね。

85主任:2010/10/14(木) 06:59:47 ID:JXhEajVw
>>82

堅皇さん

>僕が考えている事は何故に祈りがなんらかの効果を生む事になるのかというその理屈の部分ですね。

私は、縁起(縁起の法)しているからだと思います。

互いに関係しあい影響しあう。また互換しあう関係かと(人の思いもまた、縁起するから)。

それは、別の言葉で表現すると、華厳経でいう、一即一切、一切即一。
一つの事物に、一切の事物が収まっている。

更に、別の表現をすると、一念三千かと思います。
僅かばかりの心の働き(一念)にも世界のすべてが含まれているからだと思います。

自他不二や、身土不二とも依正不二と表現しても良いとも思います。

86堅皇:2010/10/14(木) 13:34:53 ID:Sa9nP3tE
>>85

主任さん、縁起ですか。
この縁起の科学的証明結果とかあるんですかね、その一部とかでも
つまりは依正不二や自他不二の研究結果というやつですよね。
色心不二のデータはいろいろとありそうなんですけどね。

ただ縁起にしろ成仏にしろ当時使われてた言葉より現在の意味のほうが
神格化神秘的解釈されている気はしますね。
また醍醐味の場合は現在使われている感じのままなのか本来はもっと深いのか

87主任:2010/10/14(木) 14:58:56 ID:WF.vMtVA
>>86

堅皇さん

>この縁起の科学的証明結果とかあるんですかね、その一部とかでも
つまりは依正不二や自他不二の研究結果というやつですよね。

うーん(^_^;)

私の勉強不足かも知れませんが、縁起や依正不二を科学的に研究している学者は知りません(いるのかな?)。

個人的には縁起は十分、科学的かと思うのですが。原因・条件・結果…

研究者がデータを取っているかですよね…(^_^;)

88堅皇:2010/10/14(木) 17:16:07 ID:Sa9nP3tE
>>87

主任さん、研究結果がないとすれば観念論の域からまだ出てないと言う事になるんですかね。

> 個人的には縁起は十分、科学的かと思うのですが。原因・条件・結果…

僕も充分にその条件は満たしていると思っているんですけどね。
依正不二は色心不二の延長線上にあるものだと思っていますから
仏法で全般的に言っている事は解らない事はいくつもあるにせよ否定せざるを得ない事実には
未だ直面していないのではないかと思うんですね。

で、個人的にはこの成仏って事ですが一般的に思われるような神秘的に気張ったものではなく
もっと単純なものなのではないかと考えているのですが。

89主任:2010/10/14(木) 18:16:57 ID:9d7NfJ8Q
>>88

堅皇さん

>主任さん、研究結果がないとすれば観念論の域からまだ出てないと言う事になるんですかね。

観念論というより、そういった類いの研究する人がいないだけかと思えるのです(^_^;)

>で、個人的にはこの成仏って事ですが一般的に思われるような神秘的に気張ったものではなく
もっと単純なものなのではないかと考えているのですが。

成仏という用語が現代では多少、神秘的なイメージで捉えられていますが、私もそんなに神秘がかった体験ではないと思います。

とは言っても、私はやはり豁然として悟る、体得する、というような感じかと思っています。

90らくだ:2010/10/14(木) 23:50:24 ID:s3oWx3Io
祈りというものが、どのような効果をもたらすか、という観点で少しコメントさせてもらいます。

心理学の本では、普通、学習・動機づけなどの章で、「オペラント条件づけ」について説明があります。
ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E6%9D%A1%E4%BB%B6%E4%BB%98%E3%81%91

昔、オペラント条件づけというものを知ったとき、祈るという行為も、同じように理解できるのでは、と思いました。

ごく大雑把に述べます。
祈る→望むような環境の変化
これを繰り返すことで、祈るという行為が強化される。

ただし、祈るという行為の場合は、行動(祈り)と、それが引き起こす環境の変化が、きわめて主観的に解釈される。
(場合によっては、当人に都合のよいようにさえ。祈りに祈って、例えば病気が治ったとすれば、実際には祈りと治癒に
因果関係がなくても、祈りのおかげだと、当人は解釈するでしょう)
なぜ祈りが叶うかを説明する縁起などの思想も、この主観的な側面を補うものに類するかもしれません。

祈りの主観性ゆえに、客観的な研究としての心理学的見地からその実効性に迫るのは、やはり難しいように思えますが、
科学や学問では捉えきれない、人間の奥深さがあるということでしょう。
個人的には、科学一辺倒というのも、ある種の信仰ではないかと思います。

91憚りながら:2010/10/15(金) 23:01:49 ID:7sJgTdoQ
私は祈りの実現が悟りだというのは違うと思っています。


その上で祈りのついてコメントしますと、私は祈りそのものには、なんの効果もないと思っています。
ただし、祈りを本気で信じている場合にのみ、願望実現の効果が現れるのだと思います。

きっかけは、例えば医者の治療効果を祈りの効果だと勘違いしただけだったのかもしれませんが、
単なる治療の効果を祈りの効果であると強烈に信じることにより、その後の祈りにも効果が出てくるのだと思います。

キリスト教の信者には、イエスを強く信じるあまり、傷をつけたわけでもない手のひらから血が流れるという聖痕現象があるといいますし、
日蓮宗では僧侶が霊と戦う最中、心臓が止まって僧侶が死ぬことがあるといいます。

それと同様に、祈りへの絶対の信仰心が、物理的身体に影響を与えて病気を治してしまうこともあるのだとおもいます。

そのような祈りの効果を体感した人が、たまたま南無妙法蓮華経の祈りであれば学会員となったり日蓮正宗信者となったり、
エホバの祈りで効果を体感すればエホバの証人となったりするのだと思います。

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