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御本尊の考察に関するスレッド
1運ちゃん:2010/09/23(木) 00:50:31
資料室に「御本尊に関する考察」という内容を書いています。
御本尊は信仰の根幹ですが、知られているようで知られていない内容
もあります。

このスレッドは、この御本尊に関してコメントや想いを書き込んで
頂ければと立てました。

ご自由に書き込んでください。

2小五郎:2010/09/23(木) 20:04:40
「資料室」は以前閲覧していましたが、ポータルサイト形式にしてからの方
が身近に、気軽に行けるような・・・そんな気がします。
 特に教義?教学?の解釈説明はありがたいです。「御本尊について」は常
日頃自分が感じていることと全く違わず、それをこのように整った文面作っ
て置いといていただくと本当に有難いのです。1-1〜3の流れも最高です。

3運ちゃん:2010/09/23(木) 20:23:51 ID:P0BB7BRg
>>2
ありがとうございます。
御本尊については、なかなか深く難しい事もあるのですが、
今後も時間があれば資料室にアップしたいと思います。

4小五郎:2010/09/23(木) 20:34:35 ID:hl2CpOEc
 御本尊・・・あんまり深く難しく専門的には・・私には必要ないで
す。歴史研究家ではないですから。実際の生活に活かせなかったら意
味ないし。「胸中の」と「鏡」の表現で自分には十分です。題目は時
々あげますが・・・ご本尊はなかなか最近開きません。「鏡」として
考えると・・・女房の目を盗んで今度開けてみよう!との心境の変化
が・・・

5堅皇:2010/12/29(水) 09:15:32 ID:tbMWmqoM
日蓮曼荼羅に関してなのですが幾つかの疑問が

1.大きく書かれている四天王である持国天、毘沙門天、広目天、増長天に
種字で表現されている不動明王、愛染明王
これに釈提桓因天(帝釈天)、梵天、月天、明星天、日天、第六天魔王
これ等を合わせると全部で12となるのですが
これは日蓮なりの十二天と言う事になるのでしょうかね。

2.釈迦牟尼仏、多宝如来、上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩、
普賢菩薩、文殊師利菩薩、弥勒菩薩、薬王菩薩の10人の菩薩。
これを十羅刹女のそれぞれの本地と合わせると薬王菩薩以外は全て一致。
観世音菩薩ではなく何故に薬王菩薩なのかがちょっとした謎。

3.天台大師、妙楽大師、伝教大師、龍樹菩薩は実在の人物ですよね。
天台、妙楽、伝教は天台宗の影響を示唆し
龍樹は真言宗の影響を示唆したものだと思われるが
日寛さん日達さんの曼荼羅には妙楽、龍樹は書かれてませんよね。
日顕さんのもそうなのかな?

日寛さんに置いては大竜王、鬼子母神、十羅刹女のみで
迦葉、舎利弗、阿闍世、転輪聖、阿修羅、提婆達多がありませんよね。
学会曼荼羅がニセ曼荼羅と言う以前に日寛曼荼羅と言うものが
曼荼羅としてどうなのかと思うところもあったりするのですが
どう思われます?

6運ちゃん:2010/12/29(水) 10:46:08 ID:iVoo4wtg
堅皇さん

日蓮大聖人なりの十二天という事については解りません。
実際に御書の中をみても「十二天」という事は何をさしているか明示
されていないので。

曼荼羅の相という面においては、日蓮大聖人の曼荼羅でも微細に「これだ」
という形式は無いと思いますよ。
日蓮大聖人直筆の曼荼羅をみても、時代とともに変化を繰り返しているますし、
宗門でいう「一機一縁」なるものも、日蓮大聖人については名言をしていません。
これはおそらく後代に分類した時につけた名称でしょう。
日蓮大聖人の御本尊について、あるていど相がかたまってきたのは弘安時代の頃を
推察しますが、やはり微細なところには差があります。

また天台宗という影響よりも、これは日蓮大聖人の仏教観の上からの
「系譜」に基づき代表的なものが列座しているという事ではないでしょうか?

また日寛師だけではなく、日蓮大聖人時代から歴代上人の書写した御本尊も
それぞれに若干、相がかわりますが、大きく分類すると「略式本尊」と
「広式本尊」に分類されています。

御本尊の研究論文などを拝見すると、御本尊の形式は仏教の戒壇形式をとって
いるといわれていますが(堅皇さんには釈迦に説法かも・・・)、細かいところは
実はあまりこだわりがないのかもしれませんね。

実際、勤行唱題する中で、御本尊の詳細の相はあまり意識がされないですし、
せいぜい主題の題目と「日蓮」という文字くらいではないかと・・・

あの御本尊が日蓮大聖人のいうように「虚空会」を模写していると仮定した場合、
地涌千界の菩薩や、その他諸々の菩薩なんて一幅の紙片には書ききれないでしょう。

とりとめない書き込みになってしまいましたが・・・
まとめとして僕が感じているのは、曼荼羅の相については、今後の研究を待たねばならない
ところもあると思いますが、信仰の御本尊とした場合、詳細については実は
あまり拘りがないのかもしれません。

7堅皇:2010/12/29(水) 21:42:51 ID:tbMWmqoM
運ちゃんさん

> 地涌千界の菩薩や、その他諸々の菩薩なんて一幅の紙片には書ききれないでしょう。
> 信仰の御本尊とした場合、詳細については実はあまり拘りがないのかもしれません。

僕も同様で考えてまして現時点の辿りつく結論は同じ感じですね。
ただ、これが結論だと決め付けるのもどうかと思いいろいろと
皆さんのご意見もお伺いしてみたいというところなんですね。

12人いるのはやはり「十二天」からということなのかなと。
で、これらの天神のルーツを辿ってみると
ヒンズー教の神からのものなんですね。
ということは仏教はヒンズー教自体を切り捨てているのではなく
ヒンズー教の神を用いて捉え方を仏としているとも思えるんですね。
つまりは思想自体を「変毒為薬」しているという感じですかね。

曼荼羅にある天照大神や八幡大菩薩も日本の神社も切り捨てる事無く
諸天として引き入れたという感じなのかと思います。

で、観世音菩薩をあえて使用しなかったのは
観世音菩薩が説いた観音経が法華経だからなのかなという感じですかね
現時点で思いつくこととすれば。

ただ、やはり気になるのは日寛曼荼羅ですね。
十羅刹女を入れている時点で十界具足を表現しているとも思えるのですが
あえての菩薩界以外の人物を排除している様にも見えるんですね。

仏法は如説修行とただひたすらに菩薩行を強要しようとする姿勢が
この曼荼羅にも顕れているのではないかと少し危惧するところなんですね。
もちろん南無妙法蓮華経を根本に据えると言う事が一番であり
その目的は失ってはいないのですが・・・。

8主任:2010/12/30(木) 06:03:00 ID:oHzvcFT2
>>7

堅皇さん

>仏教はヒンズー教自体を切り捨てているのではなくヒンズー教の神を用いて捉え方を仏としているとも思えるんですね。つまりは思想自体を「変毒為薬」しているという感じですかね。

原始仏典にも梵天等が出てくるのを考えると、当時のインドには就中、釈尊在世には普通に受け入れられていたのではないのでしょうか。特別、『バラモン教の神々』という分け隔てた意識はなかったかと思います。

>曼荼羅にある天照大神や八幡大菩薩も日本の神社も切り捨てる事無く諸天として引き入れたという感じなのかと思います。

これも日蓮在世当時の、仏教が日本の神々をどのように捉えていたかですよね。日蓮もそれを受けている可能性があります。

>観世音菩薩をあえて使用しなかったのは観世音菩薩が説いた観音経が法華経だからなのかなという感じですかね

あくまで推測の域を出ませんが、薬王品に薬王菩薩の焼身供養の物語が語られていることから、死身弘法的な意味で日蓮は捉えていたのかなと思っています。 なので観音ではなく薬王菩薩を記した(推測です←強調)。

>やはり気になるのは日寛曼荼羅ですね。十羅刹女を入れている時点で十界具足を表現しているとも思えるのですがあえての菩薩界以外の人物を排除している様にも見えるんですね。

日寛が誰の曼荼羅を範としたかですよね。先師の曼荼羅なのか、それとも当時、大石寺にあった日蓮曼荼羅か。もしくは他山の日蓮曼荼羅か、それとも他山の先師か。
日寛曼荼羅は、妙本寺の第十四世貫首、日我(1508年〜1586年)の曼荼羅に諸尊勧請が非常に似ているのですよね。

9主任:2010/12/30(木) 06:28:14 ID:mQLjXyr.
>>8

【補足】

日我曼荼羅と日寛曼荼羅の違いは、八大龍王が勧請されているか否かで他の諸尊は同じ。

日我曼荼羅は、日寛曼荼羅の八大龍王の部分に、富士山日目上人遺弟とありその下に日我花押とある。

日寛曼荼羅は、八大龍王の下方に日寛花押とある。

10堅皇:2010/12/30(木) 16:25:32 ID:tbMWmqoM
>>主任さん

> これも日蓮在世当時の、仏教が日本の神々をどのように捉えていたかですよね。日蓮もそれを受けている可能性があります。

原始仏典が普通に受け入れたとすれば日本の仏教が受け入れると言う事で理は同じであり
日蓮が受け入れるところにも疑問は感じられないですね。
それを考えるとやはり日蓮正宗での謗法厳禁ルールは異質だと思いますね。

つまる所、神社仏閣へは立ち入らない受け入れないではなく全て諸天として受け入れるべきだと。

日蓮本人、日蓮宗、日蓮正宗の各曼荼羅のそれぞれの諸天を一度見比べてみないとなんともいえないですね。

ちなみに主任さんの現在使用されている曼荼羅はどの様な面々なのかって解りますかね?

11主任:2010/12/30(木) 20:16:17 ID:51mrHLcI
>>10

堅皇さん

>それを考えるとやはり日蓮正宗での謗法厳禁ルールは異質だと思いますね。>つまる所、神社仏閣へは立ち入らない受け入れないではなく全て諸天として受け入れるべきだと。

これについては難しい問題ですよね。日蓮自身が神社に参拝したとの文献がないですし、いわゆる神天井の法門の問題や、富士一跡門徒存知の事の記述がありますから(日興遺〔言べん+戒〕置文は偽書濃厚なため挙げず)。

>日蓮本人、日蓮宗、日蓮正宗の各曼荼羅のそれぞれの諸天を一度見比べてみないとなんともいえないですね。

そうですね。それぞれの門流で書写の在り方が違いますので見比べてみるのが良いかも知れません。

>ちなみに主任さんの現在使用されている曼荼羅はどの様な面々なのかって解りますかね?

私の自宅安置の日興曼荼羅(元享四年〔1324年〕十月六日)の諸尊勧請は、

まず上の段から釈迦牟尼佛、多寶如来、上行菩薩をはじめとする四菩薩(何れも南無を冠する)。

そしてその下部、主題に向かって左側、南無普賢菩薩、南無弥勒菩薩、南無伽葉尊者等、釈だいかん因大王(←漢字が出ませんでした)、大月天王、大明星天王(帝釈天の下部くらいに、大龍王、阿じゃ世王)。

同じく右側、南無文殊師利菩薩、南無薬王菩薩、南無舎利弗尊者等、大梵天王、第六天魔王、大日天王(梵天から日天の下部くらいに転輪聖王、阿修羅王、だい婆達多)。
そしてそれらの下部、主題向かって左側、十羅刹女、南無天台大師、南無章安大師、南無伝教大師。

同じく向かって左側、鬼子母神、南無龍樹菩薩、南無天親菩薩、南無妙楽大師。

そして主題直下に日蓮御判、向かって左側に八幡大菩薩。右側に天照大神。

四天王や不動愛染は同じ。

【補足】

八幡大菩薩の左側に日興花押、元享二二(四)年十月六日書写之。

南無安立行菩薩の左側に有供養者福過十号。
南無無辺行菩薩の右側に若悩乱者頭破七分。

大増長天王の左側に、日目上人筆にて越後国宰相房日郷日目申与之とあり。

讃文は省略します。

見づらい文章ですみません(^_^;)

12堅皇:2010/12/30(木) 22:17:00 ID:tbMWmqoM
>>主任さん

ありがとうございます、日興さんの曼荼羅なんですね。
取り合えず目を引いたのは南無天親菩薩ですね。

日蓮の浄土真宗からの影響部分の否定も出来ないので
この辺も一人ぐらい入ってないのかなと個人的には思っていたんですけどね。

その昔「善も悪も入っているのがこの御本尊様です」なんて事も聞いた事があった気がするので
個人的には日寛曼荼羅に提婆達多や阿闍世王が書かれてないと知ったとき
少しショックだった感じなんですね。

13主任:2010/12/31(金) 11:38:51 ID:CTFRBeEM
>>12

堅皇さん

>ありがとうございます、日興さんの曼荼羅なんですね。

そうなんです。保田妙本寺では日興曼荼羅を下付しています。よくある誤解は、万年救護大本尊の所蔵もとなので万年救護の御形木を頂けると勘違いされている人が少なからずいるということでしょうか(^_^;)

>取り合えず目を引いたのは南無天親菩薩ですね。

考えてみると、龍樹は中観派の大論師、天親(=世親)は唯識派の大論師でしたね。大乗仏教の二大学派の指導者が揃って勧請されていたのですね。

>日蓮の浄土真宗からの影響部分の否定も出来ないので>この辺も一人ぐらい入ってないのかなと個人的には思っていたんですけどね。

さすがに立正安国論等で法然や、その中国の祖師たちを批判していますので浄土系の人物は入れられないでしょうねf^_^;

>その昔「善も悪も入っているのがこの御本尊様です」なんて事も聞いた事があった気がするので個人的には日寛曼荼羅に提婆達多や阿闍世王が書かれてないと知ったとき>少しショックだった感じなんですね。

私も、日寛曼荼羅を見たときシンプルすぎる勧請にはショックでした。それにも増してちゃんと表装されていないことが二重にショックでした(表装まで印刷!?)
(°□°;)

学会で日寛曼荼羅を下付し初めて我が家でも頂いてから一度、部幹部に日寛曼荼羅のそのシンプルすぎる諸尊勧請について聞いてみたことがあるのですが、誰も明確に答えてくれる人がいませんでした。逆にそれを聞くのは謗法のようなことを言っていました。

いま考えるとお笑いですが、要するに、良く言えば信仰心が純粋だが、悪く言えばただの思考停止なだけ。その当時、私は別に御本尊批判した訳ではなく、ただ、どうしてなのか聞きたかっただけなのですけどね。とても残念な対応でした。

14堅皇:2011/01/01(土) 20:46:09 ID:tbMWmqoM
>>主任さん

> 部幹部に日寛曼荼羅のそのシンプルすぎる諸尊勧請について聞いてみたことがあるのですが、
> 誰も明確に答えてくれる人がいませんでした。逆にそれを聞くのは謗法のようなことを言っていました。

そうなんですよね。
今にして思えば第一次宗門問題の時点で創価学会上層部は曼荼羅の意義を理解していたのだと思いますね。
これに確信があったから自分達での本尊謹刻に踏み切ったのだと思います。
池田さん自らがそれを理解したのか上層部の誰かが池田さんに助言からかは解りませんが。
何れにせよ全ての事実を会員に隠し正宗教義を利用して池田体制を作ろうとしたのだと思います。

そう考えると池田さんのその後の行動が全て納得の行く話になりますね。

取り合えず今解った事は日蓮は「浄土三部経」を否定しているわけではないと言う事
「般若経」から発展した経文そのものを否定していることではないと言う事ですね。

15運ちゃん:2011/01/02(日) 10:53:07 ID:uK43f7YQ
主任さん、堅皇さん

>学会で日寛曼荼羅を下付し初めて我が家でも頂いてから一度、部幹部に日寛曼荼羅のそのシンプルすぎる諸尊勧請について聞いてみたことがあるのですが、誰も明確に答えてくれる人がいませんでした。逆にそれを聞くのは謗法のようなことを言っていました。
●これは無理ないですね。
学会の内部では御本尊については、タブーというより実は何も教わっていませんから・・・
「蛍光灯の仕組みを知らなくても、蛍光灯の恩恵を受ける事ができる」
という理屈でしょうか。

>今にして思えば第一次宗門問題の時点で創価学会上層部は曼荼羅の意義を理解していたのだと思いますね。
これに確信があったから自分達での本尊謹刻に踏み切ったのだと思います。
●曼荼羅だけではなく、宗門史から興門派の位置づけなど、全てを知悉していた
と思いますよ。

>取り合えず今解った事は日蓮は「浄土三部経」を否定しているわけではないと言う事
「般若経」から発展した経文そのものを否定していることではないと言う事ですね。
●日蓮大聖人が否定をしていたのは、浄土教によって広められた「厭世観」ではないでしょうか。
現実から逃避してしまうという傾向性を否定したかった。
何も経典自体は否定をしていないと僕も青年部時代から感じていました。

16主任:2011/01/02(日) 14:23:45 ID:hEZcHdTY
>>15

運ちゃんさん 堅皇さん

>学会の内部では御本尊については、タブーというより実は何も教わっていませんから・・・>「蛍光灯の仕組みを知らなくても、蛍光灯の恩恵を受ける事ができる」という理屈でしょうか。

それもありますが、こと御本尊に関する議論はタブーであり、それは謗法である。従って罰が当たる。という刷り込みも為されいるように感じます。

>日蓮は「浄土三部経」を否定しているわけではないと言う事>「般若経」から発展した経文そのものを否定していることではないと言う事ですね。

私もそれは同感ですね。経文そのものは否定していなと思います。バリ活さんは、都合の良い切り文をして教条主義に陥っていると感じます。もっといえば、自身の頭で考えていないと思います。

17黒熊 ◆cNlZwZaDGU:2011/02/10(木) 21:07:59 ID:???

偽本尊の色も然る事ながら、偽本尊を「青大将」本尊として、「謗法」其の物と言われています。その様な、得体の知れない物にしがみ付いている創価学会員の気が知れませんねぇ〜。

しかも、偽本尊制作費が一つ100円(86円?)以下で出来て、学会員には3,000円とか、おおきい者は5,000円で販売している現実が有りますが、学会の苦労は解りますが物が無ければ、カラープリント・コピーすれば好いと言う考えが、よく解りませんねぇ〜解りたくも無いけどね!。

時代なのかねぇ〜。

18黒熊 ◆cNlZwZaDGU:2011/02/10(木) 21:10:00 ID:???

訂正:おおきい者は→大きい物(大判)は。

19堅皇:2011/02/10(木) 21:33:35 ID:I95S0p.o
>>黒熊さん

日蓮正宗の方ですかね。
日寛曼荼羅のカラープリント・コピーを本尊にするか
切り張りの日禅曼荼羅を日蓮作の戒壇本尊と言い張るかの違いですよね。
創価学会のコラージュ曼荼羅の手法は日蓮正宗譲りですよ。

100円の物を3000円で売るか500円の物を3000円で売るかの違いでしかないですね。
学会の方が大量に作ってコスト下げているだけでしょ。
正直言って目くそ鼻くその違いじゃないですかね。

20黒熊 ◆cNlZwZaDGU:2011/02/10(木) 21:39:12 ID:???

創価学会の偽本尊青大将が、輝きを見せる為には、今の時代ですから「LED」など付けると最高なんですねぇ〜。

素晴らしい提案ですねぇ〜。

21黒熊 ◆cNlZwZaDGU:2011/02/11(金) 09:50:24 ID:???

目くそ鼻くそは、創価学会・顕正会・天理教のキチガイ3兄弟が、有名ですね(爆笑!)。

偽本尊は、薄緑で蛇の青大将色なので、気持ち悪いですね。

青大将が、トグロを巻いているような偽本尊は、「魔」しかないですね。

気持ち悪い!気持ち悪い!〜ああ〜気持ち悪い!偽本尊ですねぇ!。

まともに偽本尊を見ていないから、関係ないのかナァ〜。

22主任:2011/02/11(金) 10:49:37 ID:51mrHLcI
>>黒熊さん


>偽本尊は、薄緑で蛇の青大将色なので、気持ち悪いですね。>青大将が、トグロを巻いているような偽本尊は、「魔」しかないですね。>気持ち悪い!気持ち悪い!〜ああ〜気持ち悪い!偽本尊ですねぇ!。

◎表装部分の色合いが薄緑だから気持ち悪いのですか?

学会の肩を持つつもりは毛頭ないが、それを言うなら日蓮正宗で下付している形木本尊の表装もセンス無いよね。

貴方のは、ただの罵詈雑言。何か勘違いしていませんか?

そんな発言しても日蓮正宗の宣伝にはなりませぬぞ。

23運ちゃん:2011/02/11(金) 11:19:25 ID:uK43f7YQ
黒熊さん

創価学会の御本尊がニセ物という背景には、宗門下付の御本尊が
本物とでもいう事場があるのでしょうか?

そんな論理なら、この場所では「目くそ鼻くそ」論理で
意味なさないですよ。

24黒熊 ◆cNlZwZaDGU:2011/02/11(金) 12:25:47 ID:???

カラーコピープリンターの偽本尊が、目くそ鼻くそでしょう〜♪。

色合いも青大将の色良い、素晴らしい色合いですねぇ〜♪。

良く見ると、蛇のウロコが見えると言われます〜♪。

25タバサ:2011/02/14(月) 12:05:19 ID:BsXmlP4k
こんにちは!
ちょっとした疑問なんですが、日蓮曼荼羅の諸仏の中に、観世音菩薩とか、阿弥陀如来とかの名前って書いてある曼荼羅はないのでしょうか?(曼荼羅により諸仏が変わるとか聞いたもので…)

天台では祀られて?いるみたいだし、法華経の中にも出てきますよね?

私は観世音菩薩とか、阿弥陀如来の名前が書かれた曼荼羅を見たことがないのですが、なかった場合、日蓮さんは意図的に排したんでしょうか?

法華経に書かれているのに、どうしてないのかなぁ、とふと疑問に思いまして。(日本の伝統の神々は書かれているのになぁ…と)

皆さんの高尚なお話のような疑問ではないのですが、気になったもので…。

26運ちゃん:2011/02/14(月) 12:32:30 ID:WyVB2Q8s
タバサさん

阿弥陀如来や観世音菩薩を配置した曼荼羅は、確か無かったと思います。
阿弥陀に関して言えば、あれは観無量寿経か何かで書かれた如来で、法華経では
出てきてないのでは??

観世音は確かにでていますが、相としては書かれていません。

まあ曼荼羅については、十方の仏菩薩が入っているという事なので
意義としては見えなくても含まれていると思います。

ではあえて何故書かないかは、法華経の虚空会の会座にいた(であろう)
代表的なものと、日蓮さんが大事だとおもわれたものを配置したのでは
ないでしょうか。

また日蓮さんとして、阿弥陀如来を排除という思想も無かったと思います。

日蓮さんが排除したのは、その如来を利用して流布している厭世思想ではないのかと
考えています。

27堅皇:2011/02/14(月) 19:42:55 ID:I95S0p.o
観世音菩薩に関しては僕も同じ疑問を抱きました。>>5
十羅刹女のそれぞれの本地から唯一外されている菩薩と言う事でも。

で、観世音菩薩普門品第二十五を読んでみた段階で
観世音菩薩と言うものがそのまま法華経なのかと思えるような気がして。

念仏は現世で浄土経を学び、阿弥陀如来にお願いしてあの世で観世音菩薩に出会おうとするものに対し
法華経は法華経自体が観世音菩薩なので曼荼羅には記されていないのではないかと言うのが
現時点の僕の考えです。

じゃないと説明しきれないところはあると思うんですけどね。

28タバサ:2011/02/22(火) 00:45:02 ID:d.AxOIsk
運ちゃんさん、堅皇さん、お礼遅くなりすみません。
ありがとうございました!
運ちゃんさん
阿弥陀如来は法華経じゃなかったですね(^^;)
そう言えば、法然さんら念仏宗は当時法華経を川に流したり、法華経に出てくる仏像なんかを磨り潰したりしたって聞いたことありました…。
四箇格言から、日蓮さんは独善的なのかと思っていたのですが、実は逆ということですか?
確かに上にかいた様な事を念仏系がしてたとしたら、念仏宗はカルトみたいですよね。
あれ?何だか学会みたいな…。
そういう姿勢を日蓮さんが否定してたとしたら、日蓮さんは反カルトな立場だったんでしょうか?


堅皇さん

へええ〜!法華経が観世音菩薩を顕してるんですか!?
どの辺がそう感じるんだろう…?すごく興味があります。
法華経にわざわざ章?品?をさいて書いてあるのに曼陀羅に無いのが不思議だったんですよね(^^;)
世間でもスーパースターな扱いなのに…。

お二人とも書いてなくても含まれると思われるんですね。

日蓮さんにとって、観世音菩薩は単に一仏っていう扱いじゃなかったのかなあ…。

疑問ばかりですみません。調べる時間もなかなかないし、私には文献や資料を読むのは難しくて…f(^_^;

ありがとうございます!

29堅皇:2011/02/22(火) 09:53:11 ID:vQ3WXzrc
>>タバサさん

あまりお勧めは出来ませんが理論的には念仏を創価学会張りに一生懸命唱えると
創価学会で言う初心の功徳と言うものは同様に得られると思います。
そしてその功徳を経験した事により阿弥陀仏に感謝しのめり込み丁度今のバリ活の状態になると思います。
初心の功徳(魔の通力)と言うものは理論的にもあらゆる宗教に存在すると思いますので
おそらく当事の念仏信者は今の創価と同様にカルト化していたのではないかと僕はそう考えています。

観世音菩薩普門品第二十五
爾時無尽意菩薩。即従座起。偏袒右肩。合掌向仏。而作是言。世尊。観世音菩薩。以何因縁。名観世音。仏告無尽意菩薩。善男子。若有無量。百千万億衆生。受諸苦悩。聞是観世音菩薩。一心称名。観世音菩薩。即時観其音声。皆得解脱。若有持是観世音菩薩名者。設入大火。火不能焼。由是菩薩。威神力故。若為大水所漂。称其名号。即得浅処。若有百千万億衆生。為求金。銀。瑠璃。??。碼碯。珊瑚。琥珀。真珠等宝。入於大海。仮使黒風。吹其船舫。飄墮羅刹鬼国。其中若有。乃至一人。称観世音菩薩名者。是諸人等。皆得解脱。羅刹之難。以是因縁。名観世音。
その時、無尽意菩薩は、直ちに座から立ち上って右の肩をあらわにし合掌し仏に向かってお尋ねしました。
「世尊、観世音菩薩は如何なる因縁によって観世音と名付けられたのですか。」仏は無尽意菩薩に告げられました。
「仏法に帰依した男子よ、もし無量百千万億の衆生が諸々の苦悩を受けていたとして、この観世音菩薩の名を聞いて一心に名を称えれば、観世音菩産は即時にその声を聞きつけ、皆、解脱を得るのである。もし、この観世音菩薩の名を受持している者がおれば、例え大火に入ったとしても火も焼くことは出来ない。この菩薩の威神力によるものである。もし大水に流され漂わされても、その名号を称えたならばすぐに浅い所を得るだろう。もし百千万億の衆生が、金・銀・瑠璃・シャコガイ・瑪瑙・珊瑚・琥珀・真珠等の宝を求めて大海に船出したとしよう。仮に黒風が吹き船が羅刹鬼の国に吹き寄せられたとしても、その中にたとえ一人でも観世音菩薩の名を称えたならば、この諸々の人々は皆、羅刹鬼の難から逃れることを得るだろう。この因縁によって、観世音と名づけるのである。」

これが観世音菩薩普門品の冒頭部分です。
この後も観世音菩薩を称える事が如何に素晴らしいかと言う事が幾度も綴られています。
どうですかね、僕は観世音菩薩とは南無妙法蓮華経の事を示していると思ったのですが。

30運ちゃん:2011/02/22(火) 10:01:48 ID:uK43f7YQ
堅皇さん

御書のスレッドではだんまり状態ですみません・・・
#思索しながら読んでいると、なかなかお二人の議論の中にはいれない
#状態です。。。頭の動きが鈍いんですね。。。(^ ^;;

堅皇さんのコメントの中の以下の部分。
>どうですかね、僕は観世音菩薩とは南無妙法蓮華経の事を示していると思ったのですが。
●「観世音」とは社会の中にある音を聞き、状況を観るという働きをあらわしていると
以前に何かの文献で読んだことがあります。
一方、日蓮さんは仏教者(今でいう学者ですかね)でありながら、当時の幕府に対して積極的に
働きかけをしていました。

そう考えると、南無妙法蓮華経とは社会の動きとは密接な関係をもつという意味合いも備えている
という事にもなるのではないでしょうか。
#かといって短絡的に「だから公明党支援だ!」なんていう単純なものではないんですけどね。

なかなか興味深いものだなぁ・・・・と反応をしてしまった次第です。

31主任:2011/02/22(火) 11:09:10 ID:zCR6rdvE
>>タバサさん


>阿弥陀如来は法華経じゃなかったですね(^^;)

◎後出しジャンケンですみませんm(_ _)m

阿弥陀如来について。実は、法華経の化城喩品第七、薬王菩薩本事品第二十三に阿弥陀如来が出て来ます(第二十四の漢訳がない部分にも出てくるらしいですが…)。

ただし、法華経と浄土系の諸仏典(般舟三昧経・阿弥陀経・無量寿経等々)の成立史的な関係は詳しくは分かりません(私の勉強不足…)。

法華経は紀元1〜2世紀、北西インド(現在のパキスタンの辺り)で成立。阿弥陀経は紀元1世紀頃、北インドで成立。地域的に近いというわけではないようですね。編纂者グループも違うと思われます。

むしろ般舟三昧経の方が法華経と地域的に時代的に近いかと思います。般舟三昧経の原典はガンダーラ語で書かれていたようなのです。ガンダーラは、アフガニスタン・カーブル河流域からカシミール西部にかけての一帯地域の古名で、地域的に近いでしょうか。とは言いつつ、編纂者グループはやはり違うと思いますが。

◎観世音菩薩については、まだ私の中で固まっていないです(^_^;)

観世音菩薩は、御本尊に書写されてはいませんがに序品や普門品に出てますので虚空会には列座していると思います。ただ、浄土系の本尊形式として観世音菩薩と勢至菩薩は阿弥陀如来の脇士なので敢えて日蓮が観世音菩薩を書かなかったのはそれもあるのか、または、普門品のバリバリな現世利益は日蓮が重要視する品々の残滓(残りもの)に過ぎないので敢えて書かなかったのかなと愚考します(←あくまで私の私見です…)。

32主任:2011/02/22(火) 12:43:17 ID:XMnKgLw2
>>31

【訂正】

般舟三昧経〔ハンジュザンマイキョウ〕を浄土系としましたが正しくは、三昧経典でした。失礼しました。m(_ _)m

般舟三昧経は、阿弥陀の名が最初に見える漢訳仏典とのことです。

浄土経典で代表的な経典はやはり、『阿弥陀経』(鳩摩羅什、402〜409年訳出)、『無量寿経』(康僧鎧、252年訳出とされていたみたいですが、仏駄跋陀羅、宝雲の共訳、421年訳出が妥当らしいです)、『観無量寿経』(彊良耶舎、424〜453年訳出。観無量寿経は、中国撰述の偽経説が根強い)です。

33堅皇:2011/02/22(火) 21:09:51 ID:vQ3WXzrc
>>主任さん。
> 『観無量寿経』(彊良耶舎、424〜453年訳出。観無量寿経は、中国撰述の偽経説が根強い)です。

らしいですね、日蓮が盂蘭盆御書で書かれている『盂蘭盆経』も偽書だと言う事ですから。
そう言う『法華経』自体が釈迦が説いたとするには偽書と呼べるものですからね。

では、何がホントかと言えば書かれている内容と言う事になりますね。
寿量品での更に1つのポイントは「非実。非虚。非如。非異。」が上げられると思います。
『無量義経』で説かれている「其身非有亦非無 非因非縁非自他 非方非円非短長 非出非没非生滅 非造非起非為作 非坐非臥非行住 非動非転非閑静 非進非退非安危 非是非非非得失 非彼非此非去来 非青非黄非赤白 非紅非紫種種色」と同意の文ですね。

これは、かの「人間革命」で戸田さんが悟りを得たとする文ですね。
まー悟りを得たと言えば確かに得たのでしょうが、また大いに勘違いしたところだと思います。
これを元にして戸田さんは「仏とは生命」と答えを見出したのですが「生命」とは「生きる命」と書きますから
当然「生」を使った時点で「非出非没非生滅」に反しますよね、「生」があるなら「滅」もあり「出」も「没」もある。
てか、殆ど引っかかりますね。
ここで当て嵌めるなら「心」と言う言葉が適切なのかとも思えます。

もう一つ当て嵌めるなら「方便」と言う言葉も当て嵌まるかと思います。
方便と言えば単なる「嘘」と言う事ではなく「悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法」ですね。
これだと正に「実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず」に合致するかと思います。
つまり仏法(仏の説いた教え)と言うのはその全てが方便でなくてはならないという事だと僕は解釈しました。

「念仏」にしろ創価学会の指導にしろあらゆる宗教と言うものは全部これに引っかかってくるわけですね。
我こそが「実であり如である」と主張しているわけですが、これこそ方便に非ず仏法に非ずと。
また爾前経文が同じく方便と言うのであれば仏法であり「虚である異にある」と謗る事こそが謗法なのかと。

観世音菩薩普門品を「実であり如である」と捉え「南無観世音菩薩」と唱えても的外れであり
だからと言ってここに書かれている事柄が「虚でも無ければ異でもない」方便なので嘘ではない。
「南無妙法蓮華経」を唱えるとちゃんと現実の物となるわけですから。

しかし、また題目が「実であり如である」とか日蓮や釈迦が本仏と言うのであれば方便に非ず仏法に非ずで
讃えているようで実は謗法を行っている行為であり
「念仏」も同様で『観無量寿経』を讃えているかのようで謗法を行っていると言う感じです。
日蓮にとっては『観無量寿経』が真であるか偽であるかと言うことよりも
『観無量寿経』が「実であり如である」と示した念仏に問題があったと主張されているのだと思います。

鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』を読んだ限りではその理論はある意味、誰が説こうがその理論は鉄板なのではないかと僕は思うわけですね。

34主任:2011/02/22(火) 23:21:59 ID:Pfk5hzvg
>>堅皇さん

>そう言う『法華経』自体が釈迦が説いたとするには偽書と呼べるものですからね。

◎それを言ってしまうと大乗経典全般に言えてしまいますよね(^_^;)

>「生」があるなら「滅」もあり「出」も「没」もある。>てか、殆ど引っかかりますね。>ここで当て嵌めるなら「心」と言う言葉が適切なのかとも思えます。

◎これは同感です。

>「念仏」にしろ創価学会の指導にしろあらゆる宗教と言うものは全部これに引っかかってくるわけですね。>我こそが「実であり如である」と主張しているわけですが、これこそ方便に非ず仏法に非ずと。

◎学術的に言うと、どこの団体、寺院も自分たちが正しく、他は誤っているなんて言えないのですがね。今の時代に史実でない五時教判を使って布教するのはある意味で布教相手の無知につけ込んで騙しているに等しいのではないかと思います。

35流れ星:2011/02/22(火) 23:42:25 ID:LT.F/gq.
難しいことはよく分かりませんが。。
学会は、総本山と決別してから日顕の書かれたご本尊は回収して
そのあと、そのご本尊はどうしたんでしょうか。。?

また、何故そのときに前のげいかのご本尊も回収したんでしょうか。。?

学会の作るご本尊って。。どうやって作られているのですか。。?

36堅皇:2011/02/23(水) 08:10:00 ID:vQ3WXzrc
>>主任さん

> ◎学術的に言うと、どこの団体、寺院も自分たちが正しく、他は誤っているなんて言えないのですがね。
今の時代に史実でない五時教判を使って布教するのはある意味で布教相手の無知につけ込んで騙しているに等しいのではないかと思います。

凄く解りにくいのですが
日蓮の言う正しいと言う表現は「諸法実相」が正しい「久遠実成」が正しい「非実。非虚。非如。非異。」が正しいと言っている訳ですね。
これはどういう事かと言えば「真如なる実相は存在しない」「本仏は存在しない」「方便は大事である」と言う事が正しいと言っている訳です。
対するその他の宗教は「真如はこれである」「本仏はこの人だ」「方便(しいては煩悩)を責めなさい」としているわけですね。

ちなみに天台の五時教判の順番ですか年代別ではなく方便を段階的に並べたものであると言えるのかと思います。
方便とは「悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法」ですから
悟りに近づかせる方法からより悟りに近づく方法のものに順番に並べ替えていったと言う感じですかね。

日蓮は方便に関してあまり細かな立て別けをしていませんが五時教判ではこの方便の種類に言及しています。
これが五重の相対や五重三段へとなるのですが
で、最終的に「秘妙方便」である法華経に導かせる為の順番ともいえます。
つまり天台の五時教判の順番と言うものは史実的に捉えると誤りと言えますが理論的には正解だと言えると思います。

最終的に「秘妙方便」である法華経が真実と言う事になりますが
ここで言う真実とは「秘妙方便」が真如であると言うことではなく
真如は「非実。非虚。非如。非異。」である方便を使って導き出すものであると言う事が真実であると述べてあると言うことですね。

凄く解りにくいですが僕の話をしている事解りますか?

37堅皇:2011/02/23(水) 08:19:37 ID:vQ3WXzrc
>>流れ星さん

> 日顕の書かれたご本尊は回収してそのあと、そのご本尊はどうしたんでしょうか。。?

僕が実際に立ち会ったわけではありませんが学会員さんから話を伺った段階ではまとめて大量処分しているようです。

> 何故そのときに前のげいかのご本尊も回収したんでしょうか。。?

建前では会員が嫌がるからとの理由ですが、その実は会員の大半が謗法曼荼羅と信じているからだと思います。
丁度、法華講の方々が学会の曼荼羅をニセ本尊と信じているように。
これに関して言えば日蓮正宗の上の方ではニセ本尊と思ってない節があります。
宗門の曼荼羅を大量処分している学会に対し正宗側は処分せずに保管している様子ですから。

38主任:2011/02/23(水) 09:18:22 ID:p1slK85I
>>堅皇さん

>つまり天台の五時教判の順番と言うものは史実的に捉えると誤りと言えますが理論的には正解だと言えると思います。

◎私はこの辺は、あくまで幾つかある教判論の考え方のひとつで、そのうち五時教判は天台智者大師の解釈であると捉えています。理論的に云々は天台がそう解釈したと冷めた見方を私はしています。とは言え、法華経が不可思議な経典であることは間違いないと思います。

>日蓮の言う正しいと言う表現は「諸法実相」が正しい「久遠実成」が正しい>

◎諸法実相や久遠実成が日蓮が正しいとしていたのは解りますが、以下の文言については日蓮は特に言及してないと思いまし、この部分の堅皇さんの解釈がいまいちよく解りません。
>「非実。非虚。非如。非異。」が正しいと言っている訳ですね。

39黒熊 ◆cNlZwZaDGU:2011/02/23(水) 09:27:44 ID:???
現代の創価学会は、似て非なる「念仏」なんですねぇ!〜♪。
まして、半島系の朝鮮人が、巣食う念仏御殿が、信濃町に有るんですよね!〜♪。
犬作も、溜息吐息と聴きましたが、近い内には楽に成るんですかねぇ〜♪。

40堅皇:2011/02/23(水) 10:23:32 ID:vQ3WXzrc
>>主任さん

ま、確かに「非実。非虚。非如。非異。」は諸法実相や久遠実成に比べれば差ほど重要ではないと言えるんですが
諸法実相での諸法の定義というか仏法の定義と言う事で示されているのが
「非実。非虚。非如。非異。」になるかと思います。
「非実。非虚。」はライトな部分で根幹は「非如。非異。」と言う事になるかと思います。
仏法に置いて「如」を語れば仏法ではなく、仏法を「異」と責めればそれは謗法となる。
そういう意味では経典には多少矛盾が生じそうですが「実」と「虚」の存在はありますね。
「非如。非異。」が「実」であり、「非如。非異。」を否定するのが「虚」であると言う形で。
しかし、どれもこれも全ては方便であると解釈する事によりこの矛盾も解消されるかと。

天台教判に関してなのですが年代判断ではなく理論判断を持ってすれば
その時点で見事に五重の立て訳が可能であると言う事も出来るのだなーと感心した部分がありまして。
もっとも、日蓮の場合この部分が形骸化して単に年代判断として用いている節は感じられたりするのですがね。

41主任:2011/02/23(水) 10:34:07 ID:J9i7QsjA
>>38

【補足】

私は結局のところ、縁起の理法や空、円融三諦一念三千、妙法の五字、大日如来や阿弥陀等々は、そこへ至る教義理論や表現が違うだけであって、すべて同じものを表しているのだと理解しています。

42タバサ:2011/02/23(水) 10:37:03 ID:d.AxOIsk
堅皇さん、主任さん

ありがとうございます!

堅皇さん

普門品訳を掲載してくださってありがとうございます!お時間割いていただいて申し訳ありません。

観世音菩薩ってスーパーなお方なんですねf(^_^;

実に非ず如に非ず…。
なんか、よその宗派が具体的な仏の名前を称名してるのに対して、日蓮さんは法そのものを敬ったんですよね…。

う〜ん。日蓮さんは、観世音菩薩を実体的な仏として捉えずに、法華経の法則?作用?強い特徴として捉えてたんですかね?
法華経のもつ具体的な作用に名前をつけて方便として観世音菩薩を見てたら、南無妙法蓮華経と称えることでそのまま観世音菩薩も称えてることになるから、曼陀羅には記載しなかった。記載しなくても、称えることにはかわりなく?

そもそも他宗の仏の捉え方と日蓮さんの仏の捉え方が根本的に違うのかな…。

う〜〜〜〜〜ん。
実に非ず如に非ず…。でも、日蓮さんは曼陀羅の前に釈迦の立像を置いて祈った、とも聞いたことがあります。
それは日蓮さんとしては、どういう意味なんだろう?

主任さん

ありがとうございます!
阿弥陀如来も法華経に書かれてるんですねf(^_^;
すみません勉強不足で…。(というか勉強枯渇で…。)
阿弥陀如来も観世音菩薩も法華経に出てくるし、書かれてなくても、諸とも作用としてひっくるめて南無妙法蓮華経で称えたるyo!って事ですかね?(考えるの放棄)難しい〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!わたしったら所詮可愛いだけのおバカさんなのよね(←オイ)

阿弥陀如来は古そうですよね。元々ゾロアスター教のアフラマズダを阿弥陀如来として仏教に取り入れたって聞いたことがあります。
それにしてもお二人とも凄いですね!勉強になります。学者さんなのですか?
支離滅裂な事を書いてたらすみませんm(__)m
普段使ってないニューロンが繋がるのに苦労してますf(^_^;

43主任:2011/02/23(水) 10:48:52 ID:4J8ykv7k
>>堅皇さん

私は寿量品の該当箇所は単に『空』を述べていると解してます(教科書どおりの解釈と言えばそれまでですが…)。

原文『如来は、ありのまま三界を見る。生ぜず、死せず、退せず、出でず、流転せず、帰滅せず、有ならず、無ならず、実ならず、非実ならず、同ならず、異ならず、偽ならず、真ならず、如来は、凡愚が見るようには、世界を見ず』

44堅皇:2011/02/23(水) 11:11:33 ID:vQ3WXzrc
>>主任さん

> 私は結局のところ、縁起の理法や空、円融三諦一念三千、妙法の五字、大日如来や阿弥陀等々は、
> そこへ至る教義理論や表現が違うだけであって、すべて同じものを表しているのだと理解しています。

その考えは間違いではないと思います。
ただあえて言うなら大日如来や阿弥陀等々は、最終的に「真如」を求めたという事と「異」を切り捨てた
と言う事になるのではないかと思います。
そこで「異」を限りなく再生させ「真如」を求めない法華経に寄せて行った順番が天台教判なのかと。

事実、密教に関して言えばその解釈の発展性は高く評価し得るところがあるのですが
理の再生に関しては諸経を捨て去り自分達で作り上げたものを用いられていますから。
ここで救われない者の存在が発生してくるのだと思います。
「異に非ず」再生して菩提に転じるのが仏法だと言う事ですね。
と言いつつ「煩悩即菩提」と言う言葉は法華経後の密教により生まれた言葉でもあるのですが
その密教が諸法を捨て去るとは此は如何にと言うところでしょう。

45堅皇:2011/02/23(水) 11:12:17 ID:vQ3WXzrc
>>タバサさん

> よその宗派が具体的な仏の名前を称名してるのに対して、日蓮さんは法そのものを敬ったんですよね…。

僕はその様に解釈しています。

> でも、日蓮さんは曼陀羅の前に釈迦の立像を置いて祈った、とも聞いたことがあります。

これは普通に念仏行為だと僕は思います。
念仏でも実際には功徳と言うものが得られますからね。
ただ、念仏を信じ切ると結果的にしっぺ返しを食らうと言う話で
創価にも功徳は普通にありましたし、ただ念仏が過ぎるとカルト化すると言うだけの話ですから。
仏法は釈迦が説いたものであるから釈迦に対して念仏を行うと言う行為は
学校で先生が教えている事を熱心に信じて学ぶと言う行為になんら変わりがありません。
ただ、その先に先生の言ってる事が全て真実と思い込むと先生の考えだけに執着しカルト化すると言った話です。
日蓮が「曼陀羅の前に釈迦の立像を置いて祈った」と言う行為は法華経と言う秘妙方便に辿り着く為の
「正直捨方便」の1つの方便と言う事でしょうね。

46堅皇:2011/02/23(水) 11:42:29 ID:vQ3WXzrc
あーそうそう
「日蓮さんは曼陀羅の前に釈迦の立像を置いて祈った」ではなく
確か「法華経の経文の前に釈迦の立像を置いて祈った」ではなかったかと思います。

47堅皇:2011/02/23(水) 11:43:53 ID:vQ3WXzrc
曼陀羅の前に釈迦の立像を置いて祈るのは日蓮宗ですね。

48タバサ:2011/02/23(水) 12:14:19 ID:d.AxOIsk
堅皇さん


釈迦の立像を置いて祈ったのは、念仏行為なのですか〜。
単純に釈迦に対する敬愛から、先祖供養とか、そういうものなのかな?

釈迦の立像を置いて祈ったのは、経文の前なのですか。
あれ?色々読んでいると、日蓮は理に傾きすぎているため、情愛を感ずることができる立像を置いてその弱点を補ったとかいう人もいらっしゃいました。日眼女さん?に曼陀羅の前に釈迦の立像を置くことを勧められたとか…。
また曼陀羅は十界を互具してるため、祈りかたによっては変なものに感応するので、フィルターとして釈迦の立像を置いたとも。
この主張は日蓮宗なのですね。日蓮宗は史実を曲げてるんですかね?


どちらにしろ学会脳ではちょっと違和感があるような話ですよね(^^;)学会では曼陀羅しかないですから。仏像敵視!みたいな。(そのかわり池田さんが仏像扱いですけどね。)

学会では教えてもらえないことを教えていただけるのですごく新鮮です!

49主任:2011/02/23(水) 12:49:38 ID:rgWFrfH6
>>タバサさん

>この主張は日蓮宗なのですね。日蓮宗は史実を曲げてるんですかね?

◎史実と言うより教義を曲げているのは日蓮宗に限らず富士門流もまた同様だったりします(^_^;)

日蓮の真蹟遺文によると釈尊の像を本尊として奉安していたのは事実でしょうね(久遠実成の釈尊として)。

どの文献だか失念しましたが、確か日興の義は広布造像だったと思いましたけど(広布の暁には文字曼荼羅の配列の如く仏像を造立。それまでは暫定的に文字曼荼羅を拝する←この説も争いあり)。

50運ちゃん:2011/02/23(水) 12:50:04 ID:2ocaQMQo
流れ星さん

ピンポイントなレスですみません。
学会の御本尊は写真製版で作られていますよ、確か。

あと学会が回収した御本尊は、、信濃町のどこかに置いてあるかもしれないですね。
(このあたりの事実確認はできてませんが、、、)

御本尊の製法については、宗門とあまり変わらないかと思いますよ。
まあ表装は確かに安っぽいですけどね。

51堅皇:2011/02/23(水) 13:00:28 ID:vQ3WXzrc
>>タバサさん

> 釈迦の立像を置いて祈ったのは、念仏行為なのですか〜。

僕はそう解釈しています。
単純に釈迦に対する敬愛から、先祖供養とか、これ自体は悪い事ではないですよね。
ただ自分の人生を釈迦のためだけに生きたり先祖供養のためだけに生きると言う事は
創価学会のためだけに生きると言う事と同様だと言う事ですね。

あと、日蓮がやっていたからと言う理論ももおかしな話で、日蓮も極普通の一人の人間ですからね。
例えば日蓮が説法中に頭が痒くなって頭を掻いたとするなら
頭を掻くのも修行の1つだと捉えてしまう事と同じ事ですからね。
ここで思わず屁をこいたりしようもんなら大変な事になりますよね。
これこそ「師弟不二」の理論と言う事になります。

そこで曼荼羅は十界互具を顕し諸法を全て含んだ妙法を中心にあらゆる諸仏を記したと考えています。
祈りかたによっては変なものに感応すると言うのは釈迦の立像を中心に据えても同じ話であり
妙法の周りに釈迦の立像を置くのはなんら問題がないものと思われます。
能化(人)を規範とする以前にちゃんとした所依(妙法)と言う規範がありますから
そもそもが変なものに感応して偏る心配はないと言えるわけですからね。

てか、その前に曼荼羅の中に釈迦は既に存在してますから置いても置かなくても一緒ですね。

日蓮宗に置いては「何故にわざわざ置く必要があるのか」と問いたいし
日蓮正宗に置いては「何故にわざわざ捨てる必要があるのか」と問いたいわけですね。

52堅皇:2011/02/23(水) 13:14:06 ID:vQ3WXzrc
>>運ちゃんさん

> あと学会が回収した御本尊は、、信濃町のどこかに置いてあるかもしれないですね。

これが事実であれば最近では保管していると言う事でしょうかね。

53堅皇:2011/02/23(水) 13:37:25 ID:vQ3WXzrc
主任さん、以前僕が別のところで「釈尊の像を本尊として奉安していたのは事実」として上げられてたのは以下です。

『神国王御書』(全集 P1528 定本 P892 御真蹟)
 「其の外小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其の室を刎こぼちて、仏像経巻を諸人にふまするのみならず、糞泥にふみ入れ」
日代師『五人所破事(抄)』(日興上人全集 P294 全集 P1614)
 「先師所持之釈尊者忝弘長配流之昔刻之、弘安帰寂之日随身」
『宗祖御遷化記録』(興全 P115)
「佛者 釈迦立像 墓所傍所立置可云云」
 『御遺物配分事』(興全 P119)
「御本尊一体體 釈迦立像 大国阿闍梨」

参考までに。

54主任:2011/02/23(水) 14:07:23 ID:Ln35/eXM
>>堅皇さん

挙げて頂いた資料はすべて存知ております(日興上人全集は先月購入)。

神国王御書の他にもう一つ釈尊を奉安していたとの文言がある真蹟遺文があったと思います(すみません。失念してます)。

55堅皇:2011/02/23(水) 17:52:43 ID:vQ3WXzrc
>>主任さん

流石ですね。
というか、何れにせよ日蓮が釈迦の立像を置いて祈ったのは事実であると言う方向で捉える事は先ず間違いないという感じですよね。
それだけでも今更ながら日蓮正宗の釈迦の立像を置くこと自体が謗法行為と言う認識自体がどうなのよって話ですからね。

56運ちゃん:2011/02/23(水) 18:45:49 ID:WS9Bz4O6
日蓮正宗では御本尊の奉安形式も、実は統一されたものが有りませんよね。

例えば今は無き大客殿では、御本尊の両脇に日蓮さんと日興上人の座像があると思えば、
塔中内の坊では、御本尊の前に日蓮さんの座像があったり。または無かったり。

そもそも釈迦に対しては、日蓮さんの本仏論から「しゃく仏」という扱いになった事から、脇へやられたのかと
推察しますが、代わりに日蓮さんの仏像をおくのはどうかと。。。

教学的な解釈はわかりませんが、御本尊のみで奉安形式は良いのではないでしょうか。
謗法とまではいりませんが、僕は仏像は不要かと思います。

57主任:2011/02/23(水) 19:10:57 ID:yr9ffrkQ
運ちゃんさん、堅皇さん

伝統的な日寛教学でいうと、日蓮正宗の本来の正式な奉安形式は御本尊の前に日蓮御影像を安置するです(その是非は兎も角も)。

日寛教学的に日蓮御影像は人本尊の位置付けなので古くからの大石寺の根檀家のお宅や大石寺の末寺には御本尊の前に御影像があるというわけです。

日蓮正宗が曼荼羅正意なんて言い出したのは創価学会の影響ですね。

過去の戸田会長や秋谷前会長の御本尊が見えないから御影像をどけろ発言は本来の日蓮正宗教学としてはとてもおかしいのですよね。何故ならば御影像は人本尊ですから。

そもそも創価学会は草創期から日蓮正宗とは異質の教学だったと言えます。

58堅皇:2011/02/23(水) 21:06:45 ID:vQ3WXzrc
>>主任さん

御影像を外したのは創価学会だったんですか?
この点は個人的には創価に対して高く評価するところはありますけど。
一尊四士を非難しながら、かたや御影像を置くってのは何だか矛盾している話ですからね。
日蓮正宗が法本尊と人本尊で日蓮宗が法本尊と仏本尊でしたっけ。

互いに法本尊が曼荼羅で人本尊が御影像、仏本尊が一尊四士。
もっとも日蓮宗でも宗派によって曼荼羅の解釈は異なるようですが。

59主任:2011/02/23(水) 22:20:06 ID:Q26ZONgU
>>堅皇さん


>御影像を外したのは創価学会だったんですか?

◎ええ。そんなかたちですね(^_^;)

基本的に富士門流は曼荼羅が法本尊、日蓮御影像が人本尊で人法体一(人法一箇)です。その教学上の根拠は、大石寺では日寛教学、妙本寺では日要・日我教学ですね。

まぁ、そもそも日蓮本仏論が日蓮に遡源できるか、どうかといえば出来ないでしょうけども。

60運ちゃん:2011/02/23(水) 22:51:22 ID:uK43f7YQ
>>御影像を外したのは創価学会だったんですか?

>◎ええ。そんなかたちですね(^_^;)
●石山の化義の重要性とはそんな程度のものであったという事でしょうか。
ここでちょっとした疑問ですが、「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」で人法一箇の意義付けだったんじゃ
なかったんですか?
身延系の御本尊では「南無妙法蓮華経 日朗」というのがあったりで、少し意味合いが違うという
感じもするんですけど・・・どうでしょうか?

すみません、遅レスで中々書き込みができず、御書の方も放置状態のままですが、
少し思ったまま書かせてもらいました。

61主任:2011/02/23(水) 23:29:15 ID:k/Y4CouA
>>運ちゃんさん


>ここでちょっとした疑問ですが、「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」で人法一箇の意義付けだったんじゃなかったんですか?

◎主題の記し方で人法一箇というのは、私の勉強不足で出てきませんが、御影像が奉安されていない場合は、曼荼羅のみで人法一箇を表すかたちですね。

◎石山の教義、なかんずく御影本尊についてその当時、創価学会に指導できる僧侶もその力も無かったのかも知れません。学会は石山にとって重要な大檀那でしたし、それに御影像の造立と言いましょうか、大きさにもよりますが購入するとなると決して安くはないですから。

>身延系の御本尊では「南無妙法蓮華経 日朗」というのがあったりで、少し意味合いが違うという感じもするんですけど
◎日蓮宗の御本尊書写の形式については私も解りません(^_^;)

もちろん意義付けはなされているとは思うのですが…。

62主任:2011/02/23(水) 23:46:17 ID:ijGmy/vU
>>61

【補足】

>◎日蓮宗の御本尊書写の形式については私も解りません(^_^;)

この文の趣旨は、日蓮宗の御本尊を見たことがないという意味ではなく、書写についての意義付け・形式でした。

確かに日蓮宗の御本尊は、『南無妙法蓮華経』の直下は『日蓮在御判』ではなく書写した貫首等の日号と花押(御判)です。ただし、日向門流は日興門流と同様に『南無妙法蓮華経 日蓮在御判』だそうです。

日向は日蓮入滅後の一時期、日興と共に身延山に居ましたからその影響とも考えられます。

63タバサ:2011/03/02(水) 09:18:26 ID:d.AxOIsk
主任さん、堅皇さん

またもやお礼がおそくなりすみませんm(__)m
ありがとうございます!


主任さん
時代と共に、教えって変質していくものなんでしょうか?
富士門流の掲示板を見たことがありますが、難しすぎて???という感じでついていけなかったんですが、皆さん真剣に考えておられた事は伝わりました。

釈迦の立像を日蓮さんが奉っていたのは事実なんですね〜。(海中から出土した立像でしたっけ?)

広布が叶った暁には、曼荼羅の中の仏を造立するって話もあるんですか〜!
はじめて聞きました!

そしたら、祈りの対象物はその像に?
日蓮さんを中心に配置するんでしょうか。
仏像が基本になっちゃったら、信徒さんたちの仏壇は大変なことに…(^^;)
ミニサイズ仏像でないと入らなさそう…f(^_^;
その場合は信徒さんの仏壇には文字曼荼羅ですよね?
文字曼荼羅でも仏像でも意味合いとして変わらないならわざわざ造立する必要もないんじゃ…。と個人的には思います。広布の暁に造立ってところが何か権威っぽいなあ。
圧巻でしょうけれど…。


堅皇さん

ありがとうございます!

日蓮さんは個人的に釈迦の立像を供養してたんですかね。
屁をこいたら大変!ってところ、笑っちゃいましたが分かりやすかったです。
ホント、勤行中みんなブーブーしなきゃなんない(笑)
弟子は師匠を敬愛しすぎてなんでもマネしたくなるものですね。
大好きなアーティストの格好や仕草をマネしたがるファンの方と似た心理でしょうか。
創価はそのファン心理を利用した師弟不二なんでしょうね。
私も長々学会員でしたので、やっぱりそういう考え方に今でも陥りやすいみたい…。

勉強になります!

お二人ともありがとうございます(^-^)!

64主任:2011/03/02(水) 11:44:50 ID:2YioYeDU
>>63

タバサさん

どう致しまして(^_^)v

>時代と共に、教えって変質していくものなんでしょうか?

◎そのとおりです。教えの本質部分は変わらなくとも時代によって変容して行きます。例えば、仏教ひとつ取ってもブッダの体験した悟り、それに基づく教えが後に纏められて時代や地域、諸信仰の影響により数多の経典が編纂(創作も含めて)されたように変わって行きます。

>釈迦の立像を日蓮さんが奉っていたのは事実なんですね〜。(海中から出土した立像でしたっけ?)

◎日蓮が釈迦立像を本尊として拝していたのは真蹟御書からみても間違いありません。もちろん日蓮の教説からして釈迦は釈迦でも法華経の久遠実成の釈迦として拝していたと思います。ただ、海中からの引き揚げ云々は史実ではないでしょうね。船守弥三郎許御書自体が偽書濃厚ですし。

>広布が叶った暁には、曼荼羅の中の仏を造立するって話もあるんですか〜!>

◎はい。いま手許に資料がないので挙げれませんが、日興に広布像造義があったのではないかという文献があります。

>そしたら、祈りの対象物はその像に?>日蓮さんを中心に配置するんでしょうか。

◎どうでしょうね(^_^;)パターンにもよりますが日蓮が中心にはならないと思います。

>その場合は信徒さんの仏壇には文字曼荼羅ですよね?>文字曼荼羅でも仏像でも意味合いとして変わらないならわざわざ造立する必要もないんじゃ…。と個人的には思います。広布の暁に造立ってところが何か権威っぽいなあ。

◎仏像の造立については観心本尊抄の絡みもあり、解釈も日蓮門下や研究者によって違いがあるので結構、難しい問題ではあります(^_^;)

65主任:2011/03/02(水) 11:55:46 ID:RuxQTAoY
>>64

自分で読み返してシミジミ思うことは、オレって文才ないな〜と思いました(笑)

事務方ではなく、肉体労働系サラリーマンをしているので許してくださいm(_ _)m

66主任:2011/03/02(水) 12:40:21 ID:yOZiC4uk
>>63

【補足】

タバサさん

>時代と共に、教えって変質していくものなんでしょうか?

◎例えば、日蓮の教説で見ると、各門流で教義や御書の解釈が異なる訳ですよね(どの門流が正当かはともかくも)。やはり、時代時代で同門他山との交流や、他門流の影響、他宗派(特に天台宗)の影響、その地域の民間信仰の影響で大なり小なり変容して行く訳です。

なので、学会が日蓮宗を謗法とのたまうのも考えると可笑しいですよね。何故なら、学会がベースとしている宗門の日寛教学にしても天台宗や同門他山の影響を受けて成立していますから日蓮宗を謗法と言うなら創価学会もまた同様に謗法な訳です( ~っ~)/オナジアナノムジナ

67タバサ:2011/03/02(水) 12:51:25 ID:d.AxOIsk
いえいえとーんでもございません!

主任さんて学者さんなのかと思いましたもんφ(.. )
主任さんで文才ないなら、あたしはなんなんでしょうか?おトイレの落書きでしょうか?(゚_゚)ヤダソウカモ

海中から出土した立像は嘘濃厚なんですね〜。
なんでそんなことを…。
出所は曼荼羅と共に釈迦の立像を奉っている所かな?若しくは他宗か…。


私は主任さん達のように勉強していないので、なんでも鵜呑みにしてしまう所があるからホントに勉強になっています!

ありがとうございます<(_ _*)>

68銀の月:2011/03/02(水) 13:49:38 ID:rJDmeaVI
>>65
横入りごめんなさい 主任さん、そんな事ないです

お話が解りやすいです(^_^)vとっても

又1つ勉強になったなぁー♪喜びです♪ ありがとうございます

69主任:2011/03/02(水) 15:13:31 ID:k/Y4CouA
タバサさん、銀の月さん、ありがとうございます(^-^)

70主任:2011/03/02(水) 21:15:00 ID:6/wSiL2Y
>>63

タバサさん、何度もすみません。誤解を与える恐れがありますので、補足の補足です。

日興上人の広布像造義は、現段階では学説の一つで広く一般に認められている説になってはいませんので、そういう学説もあるんだな〜、と思って頂けれはと存じます。

参考資料ですが、kominatokataumiさんという方のlivedoorブログ【日蓮ノート】2010年10月25日付けの記事『観心本尊抄一考・京都・日尊』が大変参考になります(^_^)v

71タバサ:2011/03/03(木) 19:51:34 ID:d.AxOIsk
主任さん

わかりました!

一般的ではないのですね。ご紹介のブログも行ってみますね。
ありがとうございます<(_ _*)>

74安房の漁師の子:2011/08/27(土) 23:54:48 ID:pqgZFSuY
競い合いなさい、切磋琢磨し高みに上りなさい、競うことを大聖人は望みます。
決して他者を見下し中傷してはなりません修羅ではなく声聞として話しなさい。
まさに仏が人の体に入りあなたの修行の成果をためしているのです。
法華経は、無学、女人、悪人、二乗、すべての方の成仏を説いた経文です。
末法のご本仏および諸天善人は南無妙法蓮華経と唱え奉るすべての方を守護することを誓います。
あなた方、すべてを守護します。是非、仏のきょう涯を、器を知る努力を
言い争っているあなたは、十界のだれですか?   南無妙法蓮華経

75流れ星:2011/08/28(日) 05:00:57 ID:Q31YQPLE
地獄かもしれない。。
ただ、偽善や欺瞞で飾りたてて生きたくはないです。。
そのようなもので己れを誤魔化せても死ぬ間際に削ぎ落とされると思います。。
なので日々ありのままに嘘なく生きることがいまのわたしにとってBestだと思うに至っています。仏の境涯は、
そうやすやすとなれるものではないと信じているので、わたしには偉そうに語れません。
言葉でどんなに良いことを言っても、死んでも尚且つ人を救いたいという命の人が
どれほどいるのだろう。。と想うキッカケを与えてくださいました。
ありがとうございます。謝謝

76流れ星:2011/08/28(日) 05:13:48 ID:Q31YQPLE
これは批判ではありません
言葉が、あまり上手く言えない人なので。。

人は本来ののいのちはダイアモンドのように美しいと信じています。
ただ、さまざまな汚れで曇っているのかと。。
だから、削ぎ落とす作業が必要かと思うんです。
それなのに、そこに偽善や欺瞞を塗りたくっては元も子もないと思っています。
なので、ただひたすら。。ありのままで生きたいと願っている自分があるわけです。
すみません連投を。。

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