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郵便本読書会2.0
1名無しさん:2009/11/15(日) 14:09:46
やる?

2名無しさん:2009/11/15(日) 17:15:51
第3章 郵便、リズム、亡霊化

いささかパースペクティブを広げよう。前二章の議論からすでに明らかなように、デリダのテクストの多くは、思考不可能なものを思考するという共通した課題をめぐり展開されている。例えば「法の力」は「正義」の、また「シボレート」は日付の逆説的性質について分析いしたテキストだが、そこで扱われる問題は基本的に同型である。「正義」や「日付」について論理的に、つまり通常の思考規則のもとで語ることは出来ない。にもかかわらずそれらの存在は、モンテーニュやツェランのテクストに影響を及ぼす。デリダの関心は、この「思考不可能なもの」、柄谷のいう「外部」がテクストへと不可避的に侵入する瞬間を暴露することにある。この問題設定は、わたしたちの考えでは、前期、後期を通し一貫している。実際67年にすでに彼は、脱構築とは「哲学によっては形容されえず、名づけ得ないある外部から出発して」考えることだと明確に述べている(ポジシオン14p)。脱構築は、テクストに残された「外部」の痕跡を追跡する。そんてその作業は、具体的には、一方で前章でも挙げた両義的観念、「パルコマン」や「婚姻=処女膜」といった語の分析に、他方でマラルメやソレルスやポンジュといった詩的テクストの読解により導かれる。つまり脱構築は、逆説と詩を通して外部へ至る。
 この戦略はデリダ独自のものではない。周知のようにポスト・サルトル世代のフランスの現代思想家たちは、おしなべて後期ハイデガーから強い影響をうけた。そしてそのハイデガーは50年代にすでに次のように述べている。
(引用略)
「思考されざるもの」へと向かう逆説的、あるいは脱論理学的な思考を、詩的言説へと近づきつつ組織していくこと。デリダはこのハイデガー的戦略を継承している。そしてこの継承線は、ドゥルーズやリオタール、また多少世代が異なるラカンやレヴィナスたちにも共通して辿られる。「思考されざるもの」、「不可能なもの」、「潜在的なもの」、「現実界」、「外部」、どう名づけてもいいが、そこでの問題は結局、非世界的な何らかの存在を捕まえるための隠喩的=理論的戦略である。そしてハイデガーから出発した彼らの戦略は、必然的に細部まで似通っている。例えばハイデガーの「存在論的差異」を変奏し提示されたデリダの「差延」は、ドゥルーズの「差異化」やリオタールの「争異」に、その射程のみならずすでにその命名方法から酷似している。この点ではデリダの哲学は、明らかに同時代のフランス思想家たちと地平を共有している。しかし私たちが読むデリダは、そこから逸脱するものである。

3名無しさん:2009/11/15(日) 17:17:35
思考不可能なものというのは、今の東用語でいえばデータベースだろう。

4名無しさん:2009/11/15(日) 17:18:30
この辺も隠喩レベルで違う思考を展開しようとする意思がうかがえる。

5名無しさん:2009/11/15(日) 17:31:36
150p

別のテクストから補強しよう。68年の講演「人間の目的=終末」ですでにデリダは、脱構築の二重性がハイデガーとの距離に関係することを明言している。一方で彼の脱構築は、ハイデガーの「解体」「破壊」に直接の起源を持つ。しかし「開けへ向ってのたえまない解明は、閉域の内閉性のなかへのめり込む危険がある」。つまりハイデガー的解体の徹底化は、解体する当のシステムをより高次で強化する危険がある。この捩れは、私たちが前章で「否定神学」的論理と呼んだものに等しい。それゆえ他方でデリダには、もうひとつの脱構築、「乱暴に外部に身を置き、絶対的断絶と差異とを肯定することによる…場所替え」が求められる。ここで、「場所替え」とは、哲学素を乱暴に別の文脈のなかへと投入する戦略、より正確には、あらゆる哲学素に宿る無数の連想の糸を辿ることであえてそれを誤解してみせる戦略を意味する。
(中略)
ひとつの語を連想のセリーの束に分解し、単数の「tympan」のなかに複数の幽霊を見出すその隠喩的戦略を、わたしたちは今まで「デリダ的脱構築」と呼んできた。したがってわたしたちはここでその哲学的試みを改めて、ハイデガー的解体への代補、あるいはそこからの逸脱として位置づけることができる。

6名無しさん:2009/11/15(日) 17:34:26
この「場所替え」が、「二次創作」と言い換えられちゃうと、みんながっかり、なんだろうな。

7名無しさん:2009/11/15(日) 17:35:52
否定神学の危険性というのは1章とか>>5で明らかだと思うが。
ラカン系の「否定神学批判」批判ってなんなんだろう。

8名無しさん:2009/11/15(日) 17:37:37
2.0と銘打つからには、こうやってひたすら呟き続けるスタイルがいいと思うけど、体系的に最初から読んでいく人は平行してどうぞ。
可能な限り一緒に読んでいきたいと思っている。

9名無しさん:2009/11/15(日) 18:09:15
この否定神学批判はオタクの「ダメ」なアイデンティティ捏造批判というAir論のテーマの一つでもある

10名無しさん:2009/11/15(日) 18:16:20
しかし今気づいたが、このスタイルならtwitterでハッシュタグつけて読書会とか成立するのか
#azumareadingpartyとか

11名無しさん:2009/11/15(日) 18:48:49
>>10

それだ。

12名無しさん:2009/11/15(日) 18:49:42

いや、ごめん。もちろん、それだ、なんだが、操作性が悪すぎるよ。Twitter。

13名無しさん:2009/11/15(日) 23:08:00
続きマダ?

14名無しさん:2009/11/15(日) 23:16:39
範例性について論じた「デリダで読む千夜一夜」も名著だった
けっこう東も範例性という言葉を使っていることは有名かな

15名無しさん:2009/11/15(日) 23:21:59
続きp152から
60年代以降のフランスにおいて、ハイデガー的思考はきわめて強力な範例として機能した。したがってその中で精神分析の哲学化を試みたラカンの意図もまた、必然的にフロイトのハイデガー化という性格をもっていた。デリダ的脱構築はそのハイデガー的範例性への抵抗の一つとしてより広い文脈で解釈される。とすれば脱構築の二重性とはある意味で、デリダがハイデガーに対し抱えたダブルバインドの現われに他ならない。したがってわたしたちはここで本書の出発点となった問い、「なぜデリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか」という疑問を次のように書き直すことができる。問いは3つに分割される。

16名無しさん:2009/11/15(日) 23:22:31
書き写しながらわくわくしてきた
いい文章だ

17名無しさん:2009/11/15(日) 23:27:46
(1)デリダはなぜハイデガー的思考に抵抗したのか。あるいはデリダ的脱構築とハイデガー的脱構築のあいだの差異は何か。これは純粋に理論的な、言い換えればコンスタティブな問いであり、かなり明確に答えることができると思われる。わたしたちはその答えを第4章で提示するが、この章ではまずその準備作業を行う。前章でのゲーデル的脱構築とデリダ的脱構築は、いまだ多くの点でイメージに留まっていた。わたしたちはここではその不十分さを補うため、後期デリダが提示したいくつかの注目すべき隠喩=概念の機能を、より詳細に整理しておく。その過程で、形而上学システムでも否定神学システムでもない、デリダが思考した「郵便=誤配システム」の特質が浮かび上がることだろう。

18名無しさん:2009/11/15(日) 23:28:33
このままあと2つの問いを書いてもいいんだけど、先に(1)の答えとか書いたほうが分かりやすいのか

19名無しさん:2009/11/15(日) 23:30:31
しかしそうすると4章の議論の泥沼に突入してしまう

20名無しさん:2009/11/15(日) 23:31:05
ここはおとなしく3章に留まろう

21名無しさん:2009/11/16(月) 00:55:20
それでお願いしたい

22名無しさん:2010/03/06(土) 10:16:07
読み始めたんだけど1章から誰か共に読まないか。

23名無しさん:2010/03/06(土) 10:16:59
age

24名無しさん:2010/03/06(土) 11:29:12

    _  ∩
  ( ゚∀゚)彡 おっぱい!FBI!
  (  ⊂彡
   |   | 
   し ⌒J

25名無しさん:2010/03/07(日) 13:26:48
なんでだろ〜なんでだろ〜♪nananaなんでだろ〜♪

26名無しさん:2010/07/19(月) 15:35:09


なんでだろ〜♪

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