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社会契約論 光文社古典新訳文庫
1ルソー:2009/11/02(月) 00:16:54
第3章 一般意思は過ちうるか 64p

一般意思と全体意思の違い

これまで述べたことから、一般意思は常に正しく、つねに公益を目指すことになる。
ただし人民の決議がつねに同じように公正であるわけではない。
人はつねに自分の幸福を望むものだが、何が幸福であるかをいつも理解しているわけではない。
人民は腐敗することはありえないが、欺かれることはある。人民が悪しきことを望むように見えるのは、欺かれたときだけである。
一般意思は、全体意思と異なるものであることが多い。
一般意思は共同の利益だけを目的とするが、全体意思は私的な利益を目指すものに過ぎず、
たんに全員の個別意思が一致したにすぎない。
あるいはこれらの個別意思から、(一般意思との違いである)過不足分を相殺すると、差の総和が残るが、これが一般意思である。

2ルソー:2009/11/02(月) 00:21:09
結社の否定
人民が十分な情報をもって議論を尽くし、たがいに前もって根回ししていなければ、わずかな意見の違いが
多く集まって、そこに一般意思が生まれるのであり、その決議はつねに善いものであるだろう。
しかし人々が徒党を組み、この部分的な結社が(政治体という)大きな結社を犠牲にするときには、
こうした結社のそれぞれの意思は、結社の成員にとっては一般意思であろうが、国家にとっては個別意思となる。
その場合には成員の数だけの投票が行われるのではなく、結社の数だけの投票が行われるにすぎないのである。

3ルソー:2009/11/02(月) 00:27:04
こうして意見の違いが少なくなると、意思の一般性も低くなる。ついにはこれらの結社の一つがきわめて巨大になって、
他のすべての結社を圧倒した場合には、もはやわずかな数の差異の総和もなくなり、差異は一つだけになる。
こうなるともはや一般意思は存在しない。
ただ一つの個別意思が、一般意思を圧倒することになる。
だから一般意思が十分に表明されるためには、国家の内部に部分的な結社が存在せず、それぞれの市民が自分自身の意見だけを
表明することが重要である。偉大なリュクルゴスの独特で崇高な制度は、これを目指していたのである。
部分的な結社が存在するときには、ソロン、ヌマ、セルティウスが行ったように、結社の数を増やして、
不平等が発生するのを防ぐ必要がある。こうした周到な配慮こそ、一般意思が常に輝きを失わず、
人民が欺かれないための唯一の良策なのである。

4ルソー:2009/11/02(月) 00:32:38
第4章 一般意思が正しい理由 69p

私たちは約束によって社会体に結ばれているが、この約束は相互的なものであるからこそ、
拘束力をそなえているのである。この社会体との約束は、人がこの約束にしたがって
他人のために働くとき、同時に自分のためにも働くことになるような性格のものである。
それではなぜ一般意思は常に正しく、なぜすべての人は各人の幸福を願うのだろうか。
それはこの各人ということばが語られるとき、それを自分のことだと考えないひとはいないし、
全員のために一票を投じるとき、自分のことを考えない人はいないからではないだろうか。

5ルソー:2009/11/02(月) 00:40:38
このことから次のことが明らかである。
まず、権利の平等と、これから生まれる正義という観念は、各人がまずみずからを優先するということ、
すなわち人間の本性から生まれたものである。
次に一般意思とは、それが真の意味で一般的なものであるためには、その本質が一般的であるとともに
その対象も一般的でなければならない。
そして一般意思はすべての人に適用されるものであるから、すべての人から生まれたものでなければならない。
最後に一般意思は、ある特定の個人的な対象だけに向けられた場合には、
それが自然のうちに備えていた正しさを失ってしまうのである。
特定の個人的な対象に向けられた場合には、自分にかかわりのないものについて判断するのであるから、
私たちを導いてくれる公正さについての原則が働かなくなるのである。

6ルソー:2009/11/02(月) 00:45:56
一般意思が変質する場合

このように個別意思が一般意思を代表できないように、一般意思も個別なものを対象とするときには、
その(一般意思という)性格を変えてしまって、人間についても事実についても
一般意思として判決を下すことはできなくなるのである。
たとえばアテナイの人民がその首長を任命したり、罷免したりするとき、…人民はもはや本来の意味での
一般意思を所有していなかったのである。
この場合には人民は主権者としてではなく、為政者として行動していたのである。
これは一般的な考え方とは違っていると思われるかもしれないが、わたしがどう考えているか、
説明する時間を与えていただきたい。

7シュミット:2009/11/02(月) 01:12:02
「政治神学」 61p

18世紀合理主義が、無造作に自明のこととした、国家的法生活の理想は、「神に由来する不易の定めを模倣すること」であった。
この表現は、ルソーの論説「政治経済論」に出てくるが、ルソーにおいて、神学的概念の政治化は、
とくに主権概念については顕著なのであって、かれの政治的著作に本当に通じている人の目に
とまらずにはいられなかった。プトミはいう。
「ルソーは、主権者に対し、哲学者が神について作り上げた理念を採用している。
すなわち、おのれの欲するところはすべてなし能うが、ただ悪を欲することはできぬのである」等々。
君主が17世紀の国家理論において、神と同一視され、デカルト流の体系において、神が世界に対して
占めるのとまったく似た位置を、国家に対して占めるということは、アジエが言及している。

8松浦寿輝:2009/11/02(月) 01:16:07
明治の表象空間(22)

アガンベンは、カール・シュミットが「政治神学」において展開している主権論はベンヤミンの「暴力批判論」への
「精細な応答」であるという仮説を立てている(「例外状態」)。

9名無しさん:2009/11/02(月) 01:45:16
法哲学 有斐閣アルマ 274p

ルソーの民主制観
しかし、人民による統治と人民のための統治との一致を信じる立場も古くから有力である。
例えばルソーは社会契約論の中で、市民が徒党を組んだり談合したりすることなく、自分にとっての利益を考えて
法律案に投票すれば、自分にとって権利となるものは、他人にとっても権利となるから、自分だけの利益をはかることはなく、
結果的に一般意思が実現されるはずだと主張している。人民による投票は人民のための投票に結果するのである。
ここでルソーが想定している制度は、市民全員(外国人、女、子供は入らない)が投票に参加する直接民主制である。
なおルソーはデモクラシーという言葉を市民集会における討議と投票にではなく、一般意思の個別的事情への適用の任にあたる
行政の体制に関する一分類として用いているが、ここでは、上に述べたような彼の一般意思論をデモクラシーの思想とみなすことにする。

10名無しさん:2009/11/02(月) 01:47:39
もちろん、ルソーは、結果的に成立した法律すなわち一般意思に反対票を投じるものが
いることを否定しない。そして、多数決に敗れたそのものたちは、端的に誤っていたとされる。
いささか奇妙に思われるが、ルソーは、これについてほとんど理由を述べることなく
「一般意思はつねに正しい」と繰り返すのみである。

11名無しさん:2009/11/02(月) 01:53:14
価値相対主義と多数決

ルソーにせよ功利主義者にせよ「人民のための統治」をデモクラシーの本質とみる立場は一般に、
公益に関する認識主義(公益に関する真理が認識可能であるとする立場)をとる一方で、
公益の認識ないし発見の手段としては討論と投票を考えていた。
討論と投票への参加は、間接民主制の元では選挙を通じた間接的なものとなる。
しかし、20世紀に入って価値相対主義的な風潮が優性になると、公益に関する認識主義は
維持しがたくなり、いきおい、投票と選挙の要素、とくに多数決が民主制の本質として強調
されるようになる。これは「人民による統治」を重視する民主制観に属する。

12名無しさん:2009/11/02(月) 01:55:56
>>1 

Thanx.

社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫) (文庫)
ジャン=ジャック ルソー (著), Jean‐Jacques Rousseau (原著), 中山 元 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%A5%91%E7%B4%84%E8%AB%96-%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%B4%E8%8D%89%E7%A8%BF-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%B0%E8%A8%B3%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF/dp/4334751679/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1257094376&sr=1-2

13名無しさん:2009/11/02(月) 01:58:44
討論によるデモクラシー

しかし最近では民主主義における討論の意義を重視する立場が有力になりつつある。
そのような立場も政治の現実が利害の妥協や駆け引きに陥りがちであるという事実を
認めないわけではない。だが、そうであるからこそ、規範的な理想としては、
自己の利害を捨象し、権力や財力の差に由来する交渉力の差を無力化した
理想的な状態を反事実的に想定した上で、自由かつ平等な条件のもとで、参加者の
討論を通じた普遍化可能な利益の実現が目指されるのである。
人間の社会的行為全般に適用されるべき「討議倫理」の立場からデモクラシーに
接近するハーバーマスはそのような立場の代表である。

14名無しさん:2009/11/02(月) 02:03:35
もちろんそのような討論重視の規範的民主制論は、シュミットからは大衆民主主義社会の現状を無視する時代錯誤だと、
シュンペーターからは、公益の実在または認識の可能性を素朴に肯定する古い民主制に他ならず、科学的認識に耐えない
という批判をうけるであろう。
しかし、本当の問題は、民主制に関するどのような規範的理想であれ、それを
どのようにして具体的に制度化するかという点にある。
制度の具体的内容とそれが適用されるべき条件が明らかになって初めて、規範的望ましさだけでなく
実行可能性の問題をも考慮に入れた学問的議論が可能になる。

15名無しさん:2009/11/02(月) 02:12:03
情報環境論集 情報社会を理解するためのキーワード 413p

データベース
データベースは、データの集合体とその整理・管理手法を含む総体を指す。
記憶媒体の「チープ革命」はインターネットを巨大なデータベースに変えた。
この巨大なデータベースはしばしば巨大な「図書館」のイメージで理解されてきた。
図書館は近代的な知を代表し、単一の視点をもつ「ツリー構造」によって情報の複雑性を縮減する装置である(認知限界)。
対照的にデータベースは、単一の視点を持たず、ユーザーのクエリによって多様な姿を見せる点でポストモダンの知を代表するものだと考えられる。
たとえばgoogleのユーザーはネットの全体を見渡すことがなく、検索を通じて局所的にしか情報に接することができない。

16名無しさん:2009/11/02(月) 02:18:35
現在、データベース技術の進化は消費者の行動履歴をかつてない規模で管理可能にし、amazonのレコメンデーションや
google adsenseに代表されるようなマーケティング手法を生み出している。
その延長線上にweb2.0の構想が語られているが、そこではデータはもはやただ蓄積され、管理され、解析されるだけではない。
web2.0の特徴は、プログラムが解読可能なメタデータを介して、柔軟にデータベース間を連携できる点にある(オープン)。
その一部はすでに実現している。
…鈴木健はweb2.0の未来を自己情報コントロール権の完全な実装にあるとする。近い将来、私たちは、人生に関するすべての
データがブログ的領域(ライフログ)で逐一記録され、どのデータを加工し情報在するかがすべて決定できる
徹底した自己責任の世界に直面することになるだろう(情報財)。

17名無しさん:2009/11/02(月) 02:21:56
参考
ised倫理研 第6回 鈴木健からの応答
http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/10091008

18名無しさん:2009/11/02(月) 02:34:32
倫理とは何か 永井均 91p

M先生の講義Ⅲ
ここで最初の問題にした、ホッブスやヒュームとの問題意識の違いを思い出してください。
ルソーは社会の現状に対して異議を申し立て、改革の原理を打ち出そうとしていたのでした。
決して、いかにして社会は可能か、と問うたのではありません。
ルソーの問いは、本質的に、社会選択の問いなのです。それは、可能な複数の一般性のうちから、
どの一般性を選ぶべきなのかという、理性的で意思的な一般性選択の問いなのです。

19名無しさん:2009/11/03(火) 02:12:27

終   了

20名無しさん:2009/11/03(火) 16:39:48
>>12
アドレスなげえw

http://www.amazon.co.jp/dp/4334751679/

これでいいんだよ

21名無しさん:2009/11/03(火) 17:31:47
ログインしたままだったんだろう
大丈夫か

22名無しさん:2009/11/04(水) 05:29:59
構造と力 159p

5 構造と力
我々はラカンの姿を、いわば構造主義の極限に立つものとして浮き彫りにしてきた。
にもかかわらず、その姿には構造主義の限界が執拗に付きまとっている。
その限界とは、端的に言って、力を事後的にしか見出せないということである。
我々は、諸個人の平面が孕む矛盾の帰結として、垂直の力を見出してきた。
…こうして我々は、端的に垂直の力の運動から出発して論理を展開する必要を見出すことになる。
マルクス・ニーチェ・フロイトが構造主義以降あらためて問題になるとすれば、それは、彼らが今述べた意味における〈力〉の思想を展開した−あるいは可能性として内包している−からに他ならない。
ここでそれを唯物論と呼び、〈かたち〉を始原とする思考を観念論と呼ぶといえば、蛇足になるだろう。
このなかでとりわけニーチェの影のもとで書かれた「アンチ・オイディプス」に注目しておきたい。
そこでは、文化は、何よりもまず垂直の力のドラマとしてとらえられる。
それは、錯乱せる自然を矯めようとする力とそれに反発する力の葛藤である。
この力が負債の運動によって社会の表面にひろがってはじめて、そこに構造が形成される。

23名無しさん:2009/11/04(水) 05:34:51
42p

レヴィ=ストロースをはじめとする多くの人々が構造主義とゲシュタルト理論の類縁性を云々しているにもかかわらず、我々はドゥルーズにならって、〈構造〉は「形態に関係がない」と断じなければならない。

24名無しさん:2009/11/04(水) 05:39:02
hazuma

「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」とヘーゲルは言った。行動経済学=アーキテクチャ学派の主張はこの点でじつにヘーゲル的である。彼らは人間集団を数学(理性)によって管理するべきだと言っているのではない、人間集団がすでにして数学的(理性的)だと述べているわけだ。
したがってアーキテクチャ学派が「現状肯定主義」と非難されるのは思想史的に見て必然である。そもそもヘーゲルがそう批判され続けている。そして思想史的には、マルクスとニーチェがその保守性をそれぞれ別方向から転倒したことになっている。
しかしはたしてマルクスとニーチェは本当にヘーゲルを乗り越えていたのか。これはいささか微妙である。ポストモダニズムはマルクス/ニーチェの直系の子孫だが、その無力はぼくは当事者なのでよくわかっている。
つまりは、いま突然に気づいたのだが(!)、この10年間ぐらいのぼくはじつはヘーゲルに回帰していたのだ。コジェーブを引用した『動物化するポストモダン』から、『思想地図』のアーキテクチャ特集までは一直線に繋がっていたのである。
という文脈だと、ルソー再読にはなんの意味があるのだろうか。

25名無しさん:2009/11/04(水) 17:16:27
思想 2009年 第11号
人民は代表されえない 長谷部恭男
http://www.iwanami.co.jp/shiso/1027/kotoba.html

26名無しさん:2009/11/04(水) 20:25:25
Jacques Derrida
The Beast and the Sovereign, Volume I

デリダ
獣と主権者
http://www.press.uchicago.edu/presssite/metadata.epl?mode=synopsis&bookkey=308682

google preview
http://www.press.uchicago.edu/presssite/metadata.epl?mode=preview&isbn=9780226144283

27名無しさん:2009/11/05(木) 04:42:15
日本近代文学の起源 柄谷行人 講談社文藝文庫 86p

たとえば、ルソーは明治10年代の自由民権運動に決定的な影響を与えている。
しかし、ルソーの「影響」とはなにか。というより、ルソーとは何者なのか。
たとえば、それまで旅するものにとって障害物にすぎなかったアルプスの山中で「風景」を見出したルソーがおり、
「告白」を書いたルソーがおり、政治思想化ルソーがいる。ルソー自身が矛盾に満ちた多義的な存在である。
スタロバンスキーは「透明と障害」のなかで、多義的なルソーのテクストに、一つの明確な視点を与えた。
それは「透明」という問題にかかわる。ルソーにとって、自己意識だけが透明なものだと、かれはいう。
それは自己自身にとっての直接的な現前性のみが透明で、それ以外のものは二次的であいまいで不透明ということである。
この不透明なものへの怒りと、透明な直接性をもっていた(と彼の信じる)原始人への賛美が、彼の政治・文化論となっている。
ところで、この不透明性への攻撃がまず文字表現に向けられたのは当然である。
文字表現は2次的なものであり、直接的な透明性を裏切るものである。
しかしまた、ルソーにとって、音声表現もまたそれ自体では重要ではない。重要なのは自分自身が聞く音声、内的な音声であり、それだけが透明なのである。
そこでは「主体の言語はもはや相互に外的なものではなくなる。主体は感動であり、感動は直ちに言語なのである。主体、言語、感動はもはや区別されない。」(透明と障害)
そこに、スタロバンスキーはルソーの新しさを見る。

28名無しさん:2009/11/05(木) 04:51:13
存在論的、郵便的 187p

引用した書簡でデリダは、電話の声は「かつてなく近」く、また「ある種の純粋性を持」つと記していた。
フィルター=ネットワークへの接続は一つの声による専制的統御を部分的に解除し、それぞれの機械のリズム(とそれらのあいだの衝突と共鳴)を耳よりも近い地点、内耳で響かせる。
そこから生じる「内耳的めまい」、「マルクスの亡霊たち」で「脱臼」とよばれたリズムの衝突こそが、「不可能なものの体験」である。
つまり脱構築は何よりも、内(耳)的な郵便空間の統御の失敗から要請されるのだ。
それが脱構築が呼びかけへの応答であるという命題の一つの意味である。

29名無しさん:2009/11/05(木) 05:00:44
ゲーム的リアリズムの誕生 94p

柄谷によれば、前近代の物語は「不透明」で、近代文学あるいは自然主義の現実描写は言葉を「透明」にすることで生まれた。
そして、大塚によれば、キャラクター小説はその過程で抑圧された可能性の回帰として生まれた。
つまり、キャラクター小説の誕生によって言葉はふたたび「透明」ではなくなり、現実を単純に描写するものではなくなった。
しかし、それはただ「不透明」に戻ったわけでもなかった。
なぜならば、キャラクター小説が導入した新しい言葉、まんが・アニメ的リアリズムは、記号的でありながら「自然主義の夢」を見る、すなわち、
不透明で非現実的な表現でありながら現実に対して透明であろうとする矛盾を抱えた、マンガ表現のそのまた「模倣」として作られた言語だからである。
自然主義と反自然主義(ロマン主義)、現実と非現実、透明と不透明の関係は、ここでは大変に入り組んでいるのだ。
…ポストモダンのキャラクター小説の言葉は、近代の理想を前近代的な媒体に反射させ、その結果を取り込んだという屈折した歴史のゆえに、「半透明」だといえないだろうか。

30名無しさん:2009/11/05(木) 20:10:37
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/rousseau.html

31名無しさん:2009/11/05(木) 20:58:11

通勤途中の電車の中と休息時間中に久しぶりに自然哲学系の本を読んでたけど、
自分は哲学ってのは、当初はそういうものだと信じ込んでたし、いまもそうなんだけど、
近現代に入っちゃうとガラッと様相が変わるようだとしか思えないよね。まるで関心がないからよくわからんが。

ところで、自然学とか自然哲学とかこのスレで好きな人いないのかな。

32名無しさん:2009/11/05(木) 21:01:12
>>31は誤爆です。ごめんなさい。

33名無しさん:2009/11/06(金) 13:56:21
"五十六世紀人たちのしゃべる言葉は、長い場合は猛烈にはやかった。――まるで昆虫の翅音のようにしか
きこえない。一つ一つの単語をゆっくりきかせてもらうと、その中には二十一世紀の言葉が、猛烈に簡略
化され変形されて、かすかな痕跡をのこしていることがわかるが、とてもききとれたものではない。その
上、彼らの言語系の中には、数式や数字の概念が、たくさんとりいれられていて、とてもついていけたも
のではなかった。――日常の会話は、まったく静粛で、言葉すくなかった。というよりは、大脳前頭葉が
二十一世紀人にくらべて極度に発達した彼らは、ほんの短い、間投詞のような言葉を投げかけあうだけで、
ほとんどの意味が通じてしまうらしかった。しかし、長い議論になると、鳥のさえずりのような、せせら
ぎのようなせわしない声があたりにみちた。――彼が発見しておどろいたのは、五十六世紀人たちは、会
話が熱をおびてくると、しばしば二人ないしそれ以上の人たちが、同時にしゃべりまくるということだっ
た。最初はそれが受け答えになっているのかと思ったが、そうではないらしく、めいめいの人間は、相手
のいっていることなどきかず、猛烈なスピードで自分の考えをしゃべりつづけ、相手のしゃべりつづけて
いる話のうち、ほんの一つ二つの単語なりフレーズなりで、なにかこちらが展開している思考にヒントと
なるようなものがあれば、それが相手方の展開している思考系列のなかで、どういう順序、または意味で
組みこまれているかということとは関係なく、それをこちらの思考の流れにとりいれて、また新たな方向
へ、自分の考えを展開していくらしかった。――つまり、彼らの議論とは、めいめいが相互に情報発信源
になってのべつ発振し、何かめいめいにとってそのなかで、瞬間的に共鳴する情報だけがコミュニケート
すればいいのであって、相手の考えを全面的[#「全面的」に傍点]に理解する必要はなかったのだ。に
もかかわらず、そのやり方は、相互に共鳴し、コミュニケートする情報が、ある確率[#「確率」に傍点]
でもって整理されていくことによって、りっぱに――むしろいちいち言葉の厳密さをたしかめて、煉瓦
《れんが》のように論理を構築していく古いやり方より、よっぽど効率よく――相互の思考を進展させ、
同時にめいめいがちがった側面において、新しい問題に達することによって、ひろがりを深めていくのだっ
た。"
― 小松左京『神への長い道』

34名無しさん:2009/11/06(金) 16:59:06
宮台真司 連載第二一回:法システムとは何か?(下)
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=225&catid=7

■社会空間のまだらをカバーする「神聖な法」を持ち出すのがイスラム法ですが、近代実定法へと繋がるのは、裁定の累積(コモンロー)や専門家による培養(ローマ法)を通じ、裁決の決定前提を法テキストに書き留める場合です。いずれも、決定前提は奪人称的です。
■「神聖な法」は社会の外側にある神のメッセージなので、奪人称的です。コモンローは端点を歴史的記憶の彼方に溶け込ませるので、奪人称的です。ローマ法は膨大な数の専門家が時間をかけて特定紛争と無関連な概括規範を練り上げたものなので、奪人称的です。
■奪人称的な決定前提から導かれる(と見做される)裁定は、過程が三段論法的な演繹に基づく場合も、類似からの帰納に基づく場合も、奪人称性を帯びます。もはや汎人称的であり得ない決定を、奪人称化するのは、法的決定を特殊利害から有効に隔離するためです。
■神ならざる人が練り上げたにもかかわらず奪人称的な法的決定前提を持ち得た社会だけが、法変更の合法化を法テキストの全域に及ぼし、法変更可能性の持続的法体験を与える実定法に道を開きます。法変更は社会成員一般を拘束する政治的意思決定が生み出します。

35名無しさん:2009/11/06(金) 17:09:33
リベラル・デモクラシーと神権政治 柴田寿子 121p

すでにシュミットは、スピノザからマルブランシュにいたる汎神論が「真の実在」を非人格的な法則性に転化させ、人格神を一般的な自然秩序に服しめたことは
政治革命家が君主を一般意思に服せしめようとしたことと軌を一にすると指摘していた。
かれは、スピノザ・ルソー・シェイエスというおのおのの思想が関連を持ち、しかもスピノザが人格神を自然法則へ解消したのと同様、一般意思をシュミットの
表象とは異なるものへと変換してしまう可能性に気づいてはいた。
しかしシュミットはスピノザが、ルソー的社会契約論をヘブライ国家型の民主制へ変容させつつ人民=民衆の権力と法の関係について論じた点に言及しようとはしない。
そこにみてとれるのは能産的=所産的自然というスピノザ自身の概念を援用しつつ、対立的なスピノザの議論をシュミット自身の構成的権力論へと理論的に回収してしまおうとする
意識的ないしは無意識的なシュミットの身振りであり、それは同時にスピノザの末裔である同化ユダヤ人の思想に対するシュミットの理論的態度そのものだった。

36名無しさん:2009/11/06(金) 17:12:41
175p

こうしたシュミットの同一性と代表=表象の論理が、国家という実存を持たない流浪のユダヤ民族と、
また同一性を律法とのみ維持し、キリストという神の代理人としての人格的表象を欠如させている
ユダヤ人の発想と鋭く対立していることは明らかであろう。

37名無しさん:2009/11/06(金) 17:15:42
スピノザ協会 
http://www1.odn.ne.jp/gakuju/kyokai/spinoza.html

スピノザ協会第51回研究会のお知らせ更新

合評会:
 柴田寿子著『リベラル・デモクラシーと神権政治―スピノザからレオ・シュトラウスまで』
 (東京大学出版会 2009/09)

本年2月に急逝した著者の遺作を合評します。主催者としましては、フロアからもできるだけ多くの方からお話しが聞ければと願っております。

コメンテーター
 森政稔(東京大学大学院総合文化研究科教授)
 服部美樹(東京理科大学兼任講師)
 桜井直文(明治大学法学部教授)
  司会 上野修(大阪大学大学院文学研究科教授)

日時:2009年11月7日(土) 13:30〜17:00(開場13:00)
会場:明治大学和泉校舎 リエゾン棟 2階会議室(アクセス)

38名無しさん:2009/11/07(土) 19:58:12
「個人」が均質になれば利害は同一というトートロジーだな

39名無しさん:2009/11/07(土) 21:05:39
あたま悪すぎ

40名無しさん:2009/11/07(土) 23:01:58
ホント頭悪いよな、ルソーは


>それではなぜ一般意思は常に正しく、なぜすべての人は各人の幸福を願うのだろうか。
>それはこの各人ということばが語られるとき、それを自分のことだと考えないひとはいないし、
>全員のために一票を投じるとき、自分のことを考えない人はいないからではないだろうか。

41名無しさん:2009/11/08(日) 01:26:49
個人が均質にならないから特殊意志と一般意志が分かれるのも
理解できないのか

42名無しさん:2009/11/08(日) 01:27:21
×特殊意志
○全体意志

43名無しさん:2009/11/08(日) 02:06:36
引用してんのに何ぬかしとんだろうか、こいつは

>それはこの各人ということばが語られるとき、それを自分のことだと考えないひとはいないし、
>全員のために一票を投じるとき、自分のことを考えない人はいないからではないだろうか。

44名無しさん:2009/11/08(日) 12:56:51
その引用部分が
>「個人」が均質になれば利害は同一というトートロジーだな

になるとか、なにぬかしてるんだろう、このバカは

45名無しさん:2009/11/08(日) 15:25:52
「各人」というのは各々の人々であって「自分」のみではない
各人が自分のことを考えて一般意志が形成され且つそれが正しいと言えるのは、
「各人」が元々同種の存在である場合のみ

46名無しさん:2009/11/08(日) 15:33:24
この社会契約のあらゆる条項は、よく理解されるならば、ただ一つの条項に帰着する。
すなわち、各構成員は、自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡すということである。
それはなぜかというと、まず第一に各人はいっさいを譲り渡すので、万人にとって条件は平等となるからであり、
条件が万人に平等であるなら、だれも他人の条件の負担を重くすることに関心をいだかないからである。


まんま万人の条件を等しくすれば利害対立は解消出来ると書いてあるな

47名無しさん:2009/11/08(日) 16:14:40
均質かどうかと条件のちがいもわからないのかw
もうだめだ

48名無しさん:2009/11/08(日) 21:36:20
>均質かどうかと条件のちがい

揚げ足取りして自爆するバカ
「万人の条件を等しくする」
「個人が均質になる」
同じこと

つうか「万人の条件を等しくする」なら可能だと思ってんだろうか?

49名無しさん:2009/11/08(日) 21:50:48
まあどのみち「条件を平等にすれば利害対立は解消出来る」でもトートロジーなわけだが

50名無しさん:2009/11/09(月) 18:40:33
次に引用すべきは「言語起源論」と「グラマトロジーについて」か
レヴィ死んだしタイムリーかな

51名無しさん:2009/11/13(金) 20:20:18
>>28

本を借りてきたよー。

52名無しさん:2009/11/14(土) 01:14:20
>>51
郵便本読書会2.0やる?

53名無しさん:2009/12/16(水) 19:22:20
ぴゃぴゃぴゃ

54名無しさん:2009/12/18(金) 21:01:50
はっしっしーーはっしっし0−ー

55名無しさん:2009/12/18(金) 21:16:19
まあ、しかし、マダラもさすけに話したことはすべて真実だ、ありのっまを聞かせてサスケに復讐の道を選ばせるのは大きな賭けだったよ、
な〜んてコトアルゴトにホザキまくっていますけど、いかにもっぽく言ってはいるが、実は九尾事件のくだりは嘘ですからね(笑
まったく、まいりますな。
こういうのは、腐った大人の常套手段なんですかね?
よその哲学の掲示板なんかでも、仕切ってる古参や運営がほんと日常茶飯事につかってますよ。
これだけはマジな話だが〜、とかいう切り口で嘘をカモフラージュしたりメロンジュするんだよね。
下衆どもが!

56名無しさん:2009/12/19(土) 15:16:18
この手のテクを使う時に本人達はどうやらメタ視線で話しているつもりみたいなんですが、
嘘がまじってるメタ視線な理屈なんて成立しえるとでもおもってんですかね?(ま、本人は馬鹿だからそう思い込んでるんでしょうがね)

57名無しさん:2009/12/19(土) 15:27:10
メタ視線ついでに他にも気になる話(気になるけどどうでもいい話)をしときましょう。
巷にあふれているメタ視線のほとんどは中2病という病気です。ま、識者はそんなこと知っているでしょうが。
自分の経験してきた世界しか、本人は断言できないはずなのに、その世界が狭い奴が外の世界のことを断言するんですよ。
おかしいですね。
よく、よその掲示板でやられてることなんですが、中2連中は、やれ、中国がー、やれ、万が一核が飛んできたらー、
でまったくの空想世界の話を断定型の話術で閉めるわけですよ。

ばかですな。

58名無しさん:2009/12/19(土) 15:31:57
つまり、馬鹿がいくらメタ視線っぽく話しても、それはメタではないし、ただただ聞き手は萎えるだけ、
逆に、その世界のエキスパートがメタで語り始めれば、これは説得力があるから聞き手は惹かれてしまう、
説得力がある、メタが成立している、と聞き手がとらえるのは、あくまで相手が相対的または絶対的に信用に足る、つまり発言の資格がある、と感じるときでしょう。
そういうことですよ。ま、あたりまえの話でしたね。

59名無しさん:2009/12/19(土) 20:39:17
>>58

メタ、などはくだらない。なぜならば、それは<1>を認識できないまま、
神を夢想しながら、言葉を操っているだけなのだ、流されているだけなのだ、ということすら
気がつかないほど未熟だからだ。

60名無しさん:2009/12/20(日) 04:16:38
この世界 大いなる吐き気

61名無しさん:2009/12/21(月) 00:08:37
サルにたき火で暖を与えつつ目の前のたき火の中で焼き芋して振る舞う
そんなことをしている地域(岡崎市)があると、ニュースで見た。どうやら毎年の恒例行事らしい。

それをみて、サルに暖かくておいしい料理が火を使ってできることを教えて、サルが火を使えるようになったらどうすんの?
なんて思ってる人がいるかもなーなどと思ったのでちょっとネットで調べてみると、おもしろいサイトがひっかかった。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=207515

脳の進化、進化論を類人の観念の獲得やら生存危機やらの理論に絡めて説いていて、その中に火を使い始めたということで焼き芋というキーワードがタイトルに入っている。
以下は抜粋
*********************************************************************************************************************************************************************
動物は本能的に火を恐れ、野火跡などには近づかない。生存の為の本能的な武器を失った人類にとって、他の動物が近づかない野火跡に存在する植物の根などは、絶好の食料源・栄養源だったと考えられる。
当然、人類も動物なので、本能的には火を恐れる。その恐れを克服して、可能性に踏み出すためには、観念機能が必用不可欠である。

人類は、極限的な外圧状況の中で、超越存在たる自然を畏れ敬い、自然を凝視し続ける中で、万物の背後に期待に応えてくれる存在=精霊を策定した。(実現論1_6_01)
このようにして獲得された観念機能によって、本能では恐れて近づかない火の奥にも精霊を策定し、本能的な恐れを超えて可能性へと収束することが可能となった。
これによって、人類は他の動物にはない、植物(デンプン+食物繊維)から大量のブドウ糖を摂取し、連続的に脳に供給する画期的な方法を獲得することが可能になったと考えられる。
*********************************************************************************************************************************************************************
この線でいくと、岡崎のサルは、生命の危機的状況の中で火の利便性を目の当たりにしているわけではないからして、
焼き芋作りの前提、すなわち必要とされる観念形成を通して本能的に恐れるところの火を自ら使うに至る進化を遂げるのは無理ということになる。

62名無しさん:2009/12/21(月) 21:51:02
http://www.youtube.com/watch?v=gSo1bfCAahI&feature=related

63名無しさん:2009/12/22(火) 17:58:59


所詮、後から先へ流されているだけなのだから、流されるまえをぼんやりと想起しながら
それを<メタ>として言語化し、仮想しているだけではないのか。
それ以外の理解のあり方が、自分には難しい。

観察してわかった。ほとんどの人は、後からただ流されていることにも無自覚だってことがね。
精緻な概念を操る人は、先にいわば概念の触手を伸ばしているだけだってことも。

64名無しさん:2009/12/25(金) 17:29:41
イブの前々日くらいから、毎知に毎日、スーパーにはでっかい鶏肉のローストが何十個も
オレがオレがと所狭しと並んでいる今日この頃。
閉店直前にいっても値引きされず、何十体も売れ残り。テカテカロースト売れ残り。
さずがに引くよありゃひどい。
なにがひどいって、肉食獣の怠慢が。
いまや過程が目的か?テカテカするのが目的か?食う必要はないのかね?

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