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ラルフ×アルカード 長編(タイトル未定)- 1 :名無しさん@うまい肉いっぱい:2006/03/29(水) 20:55:52
- ※投稿済みのものでまとめサイトに収録済みの分は
ひとまずこちらの「連載物」の項をご覧ください※
モララーのビデオ棚 in 801板
ttp://moravideo.s57.xrea.com/
- 2 :第10話1/18:2006/03/29(水) 21:05:47
- 木立を抜けると、しだいに前が明るくなってきた。小鳥の声が聞こえる。木漏れ日が大きさを増し、前を行く
連れの銀髪の上で、金貨をばらまいたように輝いていた。
「そら、あそこだ。もう見えてきた」
ラルフ・C・ベルモンドは声をかけた。
「朝早かったからな。着いたらすぐ食事にしよう、とりあえず、一通りのものはそろってるはずだ」
アルカードは肩越しに振りかえると、ちらりと笑みを見せてまたまっすぐ前を向いた。
彼には珍しく、いくらか上の空のようだった。行く手にしだいに近くなってくる明るい野原の風景に、すっか
り気を取られているらしい。並足だった馬が、いつのまにかだく足の速さになっている。苦笑して、ラルフは自分
も追いつくために、馬に拍車をいれた。
木立が切れた。五月の午後の陽光が、さっとあふれてなだれ落ちた。
木立の出口でアルカードは馬を止め、目の前に広がった緑の草原と、鏡のような小さな泉の風景に、またたきも
せずに見入っていた。
「昔はこのあたりの森番が住んでた小屋なんだが」
かたわらに馬を止めて、ラルフは言った。
「ベルモンド家が逼塞してしまったので、森を管理するものもいなくなってな。地所はまだうちのものだが、今の
ところは誰も使う者がない。親父が生きていたころはよく、喧嘩しては家を飛び出して、ここで隠れてふくれて
いた」
木立のなかにぽつんと開けた、箱庭のように小さな野原だった。
静かな水音をたてる泉の水面に水泡の波紋がゆれ、澄んだ水面にまばゆい陽光が踊る。
水はいくつかの小さなせせらぎになって、木立の中へと流れ込んでいた。水辺には緑の牧草がいちめんに
広がり、そこここに、白い雪玉のような花をゆらめかせている。
「森番がいたころはここで羊を飼ってたらしいが、今じゃほぼ放りっぱなしだ。まあ、小屋だけは俺が時々隠れ
場所に使っていたんで、寝起きするのに不自由はないと思うが」
「あれはクローバーか?」
アルカードは、ラルフの話などほとんど耳に入っていないようだった。
- 3 :第10話2/18:2006/03/29(水) 21:06:17
- 今日はいつものラルフのお下がりではなく、身に合わせて新しく仕立てさせたビロードの胴着と、軽い乗馬靴を
身につけている。黒いビロードに赤い絹で切り込みを入れ、共布で下衣と縁なしの帽子をそろえた姿は、どこから
見ても立派な貴公子ぶりだった。同じく黒ビロードの短いケープに銀髪がふさやかにかかり、帽子の飾りの白い
絹房がその上に垂れかかって、まるで一幅の絵のようだ。
「近くでよく見てみたい。行って、触ってみてもいいか」
「好きにしろよ。クローバー、見たことないのか?」
「本の挿絵で見たことはある。本物ははじめてだ」
「そうか。ほら、行け」
苦笑して、ラルフはアルカードの背を軽く押してやった。
大きく目を見開いたまま、彼は馬を下り、吸いよせられるように白い花の咲く野原に向かっていく。
目が輝いていた。やはり、屋敷にこもりがちな生活は、アルカードにとっても窮屈ではあったのだろう。今朝早く
に屋敷を離れてから、アルカードの表情が目に見えてやわらかくなるのがはっきり感じられて、ラルフは安堵していた。
やはり、あまり家人とは顔を合わさせないようにしていたとはいえ、多くの親しくはない人間と近くにいさ
せられるというのは、人慣れしない彼にとってはかなりの緊張を強いるものだったらしい。とにかくそれだけで
も、遠乗りに連れだす意義はあったわけだ、と言い訳めいてラルフは自分に呟いた。
放りっぱなしの馬の手綱を押さえて様子を見ていると、さざ波の寄せる水辺に、おそるおそるというほど慎重
な足取りで近寄っていく。ゆっくりと膝をついてかがみ込み、鼻をすりつけんばかりにして、ちかぢかと白い
丸い花に顔を近づけた。
とたん、葉陰に隠れていた蜂がぶんと飛びたち、驚いたように身を引いた。
ラルフは笑いを抑えるのに苦労した。アルカードは飛び去る蜂を大きな目をして見送ると、また身をかがめて、熱心
に観察のつづきをはじめた。
- 4 :第10話3/18:2006/03/29(水) 21:07:12
- しばらくは好きにさせておこう。ラルフはアルカードの馬といっしょに自分の馬も連れて森番のものだった小屋に入
り、中の様子をざっと点検した。
一年近く何の手入れもしていなかったが、壁も屋根もしっかりしているし、扉や窓にもがたつきはない。
床は土間だが、長年の間に踏みならされて、漆喰で塗ったようになめらかになっている。かまどは灰が
たまったままなので掃除が必要だろうが、薪さえ拾ってくれば、外で石を積んで火を焚くことにしても問題は
ないだろう。
ベッドはないが、納屋の戸を開けると、家畜用の切り藁と干し草の山がたっぷりと積まれていた。これを
積みかさねて毛布でもかければ、マットレスの代わりには十分だ。
ひとまず馬を馬小屋に入れて水と干し草をまぐさ桶に盛ってやり、外へ出ると、アルカードはまだ泉のそばに
いた。
帽子がずり落ちて、踵のそばに投げ出されたままになっている。指先に一輪のクローバーの花をつまんだ
まま、銀髪を乱し、子供のようにぺたりと腰を落として、アルカードは、放心したように泉の上の五月の光を
眺めていた。
近づいてきたラルフの気配を感じたのか、こちらに視線を向ける。蒼い瞳にはまだ、夢を見ているような遠い色
があった。
「……美しい、場所だ」
ささやくように彼は言った。
「連れてきてくれて、嬉しい。礼を言う、ラルフ」
「──そうか」
あまりにまっすぐな視線に、ラルフはまたずきりと胸がえぐられるのを感じてさりげなく視線をそらした。
もし死後の浄福の地が本当にあったとして、それは、教会の坊主どもがしたり顔で説く栄光につつまれた神
と雀のように飛びまわる天使といった騒々しい場所ではなく、たった今の、この場所、泉が湧き、風が梢をわた
り、せせらぎの音と小鳥の声が聞こえる、この場所に違いないという気がした。そしてそばには彼が、小さな白
い花を手にした美しい青年が、緑の野に座り、澄んだ瞳で笑っている。
- 5 :第10話4/18:2006/03/29(水) 21:07:51
- 自分が、ひどく場違いな闖入者のように思えた。エデンの園に侵入したはいいものの、そこで見つけたものの
あまりの美しさと無垢にとまどっている、蛇だ。
あの夜の、昏い夢の断片が脳裏をよぎる。闇の中で蠢いていた白い肢体と、目の前で微笑んでいるこの銀髪の
麗人とを同列に考えること自体、自分が下劣な人間である証拠のような気がしてならなかった。
魔物のしわざだというのは言い訳にならないことを、ラルフはとうに悟っていた。
ある程度は誇張し、ゆがめられていたにしても、あれは確かにラルフ自身の心の底から引き出された願望であり、
欲望なのだ。魔物はそれに少し手を加えて、かたちにして見せつけたにすぎない。
男としての自分が、アルカードに対して欲望を抱いていることはもはや否定しようもない。ただそれを、どう表現
して、どう彼に伝えればいいのかということになると、ラルフはとほうに暮れるしかなかった。
もともと、そんな駆け引きなどにこれまで興味など持ったこともない身だ。加えて、相手は自分と同じく男
で、しかも、アルカードと来ている。
思えばその箱入りぶりと世間知らずには、旅の途中からさんざん苦労させられてきた。こうして今でも、
ありふれたクローバーひとつに熱心に見入るようでは、それもまるで改善されていないと思うべきだろう。
自分に向けられる視線の意味もわかっていないようだったあの始末では、ましてや、人間の色事に関すること
などとうてい理解できまい。しかも互いに男であることを考えると、余計に。
考えていると目の前が暗くなってきた。人の気も知らずにアルカードは膝の上にクローバーの花を置き、鞠のよう
に寄りあつまった小さな花弁の一つ一つをほぐして並べて、熱心に数を数えはじめている。
「ちょっとその辺で薪を集めてくる」
いたたまれなくなってラルフはその場を離れた。
「すぐ戻ってくるから、そこで待ってろよ。いいな」
アルカードは夢中でクローバーを調べつつ、こくりと頭を頷かせただけだった。
- 6 :第10話5/18:2006/03/29(水) 21:08:29
- 剣の練習をしようと言いだしたのは、アルカードからだった。
クローバーに対する知的好奇心を満足させてしまうと、今度は身体が動かしたくなったらしい。やはり一日
部屋に腰をおろして古書をめくる毎日は、いくら好きでもどこかに鬱屈する部分があったらしい。ラルフが捜して
きた薪の中から適当な枝を見つけ出し、削りをかけて手際よく二本の木剣を作りあげる。
「本当にやるのか?」
ラルフとしては弱気な発言だった。いつもなら、自信満々で勝負を口にするのはラルフのほうだっただろうが、胸の
中に口に出せないもやもやを抱えていてはつい腰が引けるようにもなってしまう。
「おまえらしくもない言いぐさだな。剣が使えないわけでもなかろうに」
自分の木剣を軽く一振りして、アルカードはけげんそうな顔をした。
「それとも、鞭を使うか? 持ってきているのだろう」
「……いや。剣でいい。そうだな、久しぶりに、剣の試合も悪くはないか」
思いきり汗を流せば、このもやもやも洗い流せるかもしれない。ラルフは投げわたされた剣を受け取り、アルカード
と相対して、構えをとった。
すぐにわかったのは、たとえ擬闘とはいえアルカードの剣技にみじんの手抜きもないということだった。初めて
会ったときの、あの頭上から崩れおちるシャンデリアを一刀のもとに両断した恐ろしいばかりの剣の冴えは、
たとえ得物が木でできていようとまったく変わらず、むしろ、厳しさを増しているように思われた。
ほんの少しのラルフの意識の乱れをついて、すさまじく鋭い突きが飛んでくる。あやうくはね除け、距離を詰め
ようとしても滑るように後退されて、逆に、思いもよらぬ方向から、今度は胴へ横殴りの一撃が来る。
木のぶつかりあう音と、荒い息づかいが静かな森の空気を乱した。荒い息はほとんどラルフのものだった。アルカード
はほとんど呼吸すら乱すことなく、蒼い瞳をひたりと据えて、重さを持たない影のようにラルフを翻弄する。
やけになったラルフが無謀な打ち込みを入れようとした隙を、アルカードは見逃さなかった。短い気合いとともに、
下からほとんど目にも止まらぬ速さで刃を切り上げる。
- 7 :第10話6/18:2006/03/29(水) 21:09:12
- もし真剣だったとしたら、同時に首まで持っていかれていたろう。腕が折れたかと思うほどの衝撃を受けて、
ラルフはのけぞって腰を落とした。
手を離れた木剣が高々と宙を飛び、どこかの茂みに飛びこんでがさりと音を立てた。ラルフは身を起こそうとした
が、とたん、鼻先に尖った木剣の先をつきつけられて、再度のけぞった。
「参った」
苦笑して、ラルフは両手をあげた。
「やはり、剣ではおまえにはかなわないな。完敗だ」
「──何を考えている、ベルモンド」
アルカードは、ラルフの言葉など聞いてはいなかった。
凍るような瞳が、ラルフを貫かんばかりの強さで光っていた。手にした剣がもし鋼だったとしても、今のアルカード
の目ほど鋭くはなかったろう。
「ベルモンドはよせと言ったろう。それに、何を、とは、どういう意味だ。俺は何も」
「嘘をつけ」
きっぱりとアルカードは言った。
「何も思うところのないものが、あんな無様な戦い方をするはずがない。ドラキュラ城で見せていた身のこなし
はどこへ行った。たとえ、武器が鞭から剣へ変わっても、気の持ち方に変わりはないはずだ、それに」
「それに、なんだ」
一瞬口ごもったアルカードに、ついラルフは尋ねた。
「私の目を、見ようとしない」
しばらく間をおいて、ぽつりとアルカードは応えた。
- 8 :第10話7/18:2006/03/29(水) 21:09:49
- 我にもなく、ラルフはうろたえた。自分では変わりなく接しているつもりでも、聡いアルカードには通用していなか
ったということか。
確かに、戦闘中に相手から目をそらすようなことをしていれば、戦いにならないのはあたりまえだ。それを
わかっていて、アルカードは剣での勝負をラルフに挑んできたのだ。ラルフの気の乱れを確かめ、また、ラルフ自身にも自覚
させるために。
「前にも言ったはずだ、ベルモンド」
こちらを見つめるアルカードの蒼い瞳に、ふたたび不安の色がまじりはじめているのを見てとって、ラルフはうろたえた。
「私に何か悪いところがあるなら言ってほしい、黙っていられてはわからない、と。
屋敷を出たときからずっとそうだった。笑って話していても、おまえは私の目を見ない。のぞき込もうとする
と、ふと視線をそらす。なぜだ。私は、何かしたか。言いたいことがあるなら、言ってくれ。頼むから」
耐えきれなくなったように、声が震えた。長い睫毛がつと降りて、揺れる瞳を隠した。
「……私に何も言わずに、目をそらすのだけは──やめてくれ」
──ああ、畜生。
どうやら、覚悟を決めるしかないようだった。
ラルフは大きくため息をつくと、わかったよ、と呟いた。
「言う。言うから、起こしてくれ。どこかで脚をひっかけたらしい。力がはいらん」
片手をアルカードにむかって差し出す。アルカードはラルフの真意をはかるように少し目を細めてそれを見たが、やがて
木剣を置くと、そろそろと身をかがめてラルフの手をつかもうとした。
もう少しで指が触れようという瞬間、ラルフはいきなり腕をのばしてアルカードの手首を捉えて思いきり引いた。
不意打ちをくらったアルカードはよろめき、倒れこむようにラルフの胸に収まった。
「ラルフ!」
- 9 :第10話8/18:2006/03/29(水) 21:10:29
- しっかりと両腕で抱きこまれて、怒ったようにアルカードはもがいた。
「私はふざけているのではない。どういうつもりだ? ちゃんと話をしろと、言って」
急に言葉がとだえた。
唇をふさがれて、アルカードは大きく目を見開いていた。
またたきもしない、その吸いこまれそうに蒼い瞳の奥深くを見つめながら、ラルフはそっとその小さな頭に手を
伸ばし、銀髪に指を通した。
重ねた唇から、アルカードの体温と、その身体のおののきがじかに伝わってきた。角度を変え、驚きのあまり
開いたままの唇からすべり込ませた舌をそっとかすめると、腕の中でアルカードがびくりと身を縮めるのがわかった。
視線は一度もはずさないまま、ラルフはゆっくりと唇を離した。アルカードはまだなにが起こったのかもわからない
ようすで、茫然と目を見開いている。
「……嫌か?」
「え?」
まばたいて、アルカードはようやくラルフの顔に視線をもどした。また目をそらしてしまいそうになったが、なんとか
こらえる。
「俺に、こういうことをされるのは嫌か、と訊いている」
質問の意味がよく理解できていないようだった。アルカードはこぼれんばかりの目をしたまましばらく黙っていた
が、やがてうつむいて、囁くように答えた。
「嫌なら、今、ここでこうしてじっとしてはいない」
「そ、そうか」
それなら少なくとも、まだ嫌がられてはいないわけだ。
喉にからむものを咳払いで追いはらって、かすれがちな声でラルフはつづけた。
- 10 :第10話9/18:2006/03/29(水) 21:11:07
- 「……もっと、してもいいか?」
アルカードは問いかけるようにラルフを見あげた。
欲望と焦燥がじわじわとラルフの中でわき上がり、同時に、どうしようもない羞恥心と恐怖感が立ちあがってき
た。エデンの蛇のことがまた頭をかすめた。
まるで初めて女に接した時のようだ。いや、その時でさえ、ラルフにはまだ余裕があった。今は余裕など、どこを
捜してもかけらもない。
アルカードが欲しい、だが、無理やり奪って傷つけたくはない。この綺麗なものを自分が汚すかもしれないと
考えただけでもぞっとするが、その半面、あの夢の中のように、思うさま嬲りつくしてすっかり自分のものに
したい、無垢な肌に自分の所有の烙印を押して、永久にどこかに閉じこめてしまいたいという凶暴な欲求が
腹の底で身じろぎする。
「する、とは、何をだ?」
暖かな息が頬をかすめて、ラルフは全身が粟立つような感じを味わった。
「その、もっとキスしたり……身体に触ったりとか……色々なことを、だ」
説明させるなこの馬鹿が、と八つ当たり気味に考えた。
アルカードはひたすら大きな目をしてこちらを見あげている。ラルフにとってはいたたまれないほどの沈黙が、しばし
続いた。
「──そういうことは、男女の間でするものだ、と聞いている」
やっとアルカードが口を開いた。
ああそうか、それくらいは知っててくれて助かった、と自棄になってラルフは思う。
「ラルフは、男だ」
「そうだな」
- 11 :第10話10/18:2006/03/29(水) 21:11:47
- 「……私も、男だ」
「わかってる」
「その上、なかば人間ではない」
「それも、知ってる」
だんだんひどく間の抜けた会話をしている気分になってきた。
「ラルフは、それでもいいのか?」
ぐっと顔が近くなって、鼻先が触れるほどアルカードが間近にいた。かぐわしい吐息が再び頬をかすめ、ラルフは
ほとんど気の遠くなりそうな思いを味わった。
「おまえなら、いくらでもほかの、ちゃんとした人間の女性が受け入れてくれるだろう。
私は、男だ。しかも、なかば人間ではない。
それでも、ラルフは私がいいのか? ──女性ではなく、人間ですらない、私が?」
「それがな、アルカード」
肩に手を回し、強く抱き寄せる。細い身体はあっさりと両腕に収まった。
銀髪に見え隠れする貝殻のような白い耳朶に、声を落として囁く。
「俺はどうやら、おまえでなければ駄目らしいよ」
アルカードはかすかに身を震わせた。
もうそれ以上の言葉は見つからなかった。ラルフはやわらかな髪に顔を埋め、荒れ狂う欲望と恐怖心を抑えつけ
ようとしたが、うまくいかなかった。今すぐに目の前の獲物を喰らってしまいたい、すぐに、今すぐにと、
吠え猛る自分の中の獣を呪った。
「なら……それな、ら」
胸の中から、かぼそい声がした。はっとして、ラルフは腕をゆるめた。
「それなら、私も、ラルフがいい」
- 12 :第10話11/18:2006/03/29(水) 21:12:35
- アルカードが顔をあげていた。白い頬がうすく上気し、髪からのぞいた耳が桜草の色に染まっていた。
だが、瞳の色に揺らぎはなかった。しっかりとラルフを見据え、ラルフの目を、心を、貫きとおすように蒼く美しく
澄みとおっていた。
「私も、ラルフがいい。他の者には、さわられたくない。
──ラルフでなければ、嫌だ」
もはや、声も出なかった。ラルフは全身の力をこめて、アルカードを抱きしめた。
細い指が強くラルフの腕を握りしめる。いきなりきつく抱き寄せられて、アルカードが小さな呻き声を立てる。
その声にさえ、煽られた。アルカードを抱きしめたまま、もつれるようにその場に身を倒す。白い花が咲く緑の野
に、長い銀髪が波のように広がる。
「目を閉じろよ」
この期に及んでもまだ大きく目を開いているアルカードに、ラルフは笑った。
アルカードは一度まばたいて、おとなしく、長い睫毛をそっと落とした。
黒い胴着の留め金を一つずつ丁寧にはずしていく。下の白いシャツの前を開くと、まばゆいほど白い裸体が
白日の下にさらされた。瑕ひとつないなめらかな肌は、指にまつわる絹地よりもまだしなやかで、温かい。
口づけようと身を倒すと、アルカードが、あ、とわずかに身を固くした。怖がられたのかと一瞬思ったが、自分が
まだ上着を着たままだったのに気づいた。留め金の金属が、素肌に直接当たってそれが冷たかったらしい。
「外してくれるか?」
やさしく問いかけると、閉じていた目をぱちりと開いて、こちらを見あげる。
小さく頷いて、おずおずと手を伸ばした。留め金をいじる指先はかすかに震えていて、まるでやり方を覚えた
ばかりの幼児のそれのようにおぼつかない。
- 13 :第10話12/18:2006/03/29(水) 21:13:17
- ベルトが落ち、金属の装具がガチャリと音を立てて転がった。うながされて、アルカードはそのままラルフのシャツ
のボタンも外していった。古さも深さもさまざまな、たくさんの傷痕の刻まれた素肌に触れて、息を呑む。ラルフ
は苦笑した。
「まったく、ひどいもんだな。おまえの身体とは大違いだ」
「だが、これはおまえがこれまで、一度も負けずに戦ってきた証だ」
体温の低い手のひらが、いとおしむように傷痕を撫でる。ひやりとした羽根のような感触に、ラルフは急激に
身体に熱がこもるのを覚えた。
「私はおまえが美しいと思う、ラルフ。──この傷も、なにもかもみな含めて、おまえは、とても美しい」
ラルフは何も言わずに、もう一度強くアルカードを抱いて、唇をあわせた。一度ぴくりと身を引いたアルカードは、今度
は、ためらいがちに少しずつ唇を開いていった。すべり込んできたラルフの舌につたない動きで応えようとし、
濡れた小さな舌をからめ返そうとする。
だがすぐに、ラルフの与えるものに呑みこまれていってしまって、ようやく唇が離れたときには、霞のかかった
ような目をして息を切らせていた。ラルフは乱れた前髪をかき上げてやり、かすかに汗ばんだ額に唇を触れた。
ほとんどの衣服はもう脱ぎ散らされて、あたりの野原に散乱している。細い首筋や、なだらかな白い胸や、
あらゆるところに唇を触れながら、ラルフは唯一残ったアルカードの下衣に手をかけた。
「あ、それは──」
驚いたように止めようとするアルカードの声は、すぐにかすれた喘ぎに押し殺されてしまう。ぴたりとしたビロードの細い足通しにすべり込んだラルフの大きな手は、両足のあいだのアルカードの性の徴をすっぽりと包みこんでいた。
細い腰を、引き締まった臀を両手でたどりつつ、最後の一枚が取り去られる。今やその裸身のすべてが、ラルフ
の前にさらされていた。
大理石の像が生命を持ったような肢体だった。ミルクの上に二滴の血を落としたように色づいた乳首に、誘
われるように唇をよせる。かたく尖ったそこを舌でかすめると、甘えるような、怨ずるような声がかすかに
漏れた。
- 14 :第10話13/18:2006/03/29(水) 21:13:55
- 「あ、あ、ラルフ……」
し、となだめるように舌を鳴らして、そこに吸い付き、わざとのように歯をかすめる。もう片方にも手を
伸ばし、荒い指の腹でざらりとこすり上げると、はっきりとアルカードの身体がそりかえるのがわかった。
手を離してもっと下の方へすべらせていく。髪と同じ、あわい銀の勃ちあがりかけているものをもう一度、
今度は強めに握りこむと、とぎれとぎれの抗議の声があがった。
「ラルフ、駄目だ、そんなところは──」
しかし、抗議もすぐに有無を言わさぬ口づけと愛撫で塞がれてしまう。すでに首をもたげかけていたアルカード
のそれは、固い指先にたくみにこすり上げられてすぐに大きく張りつめた。濡れた感触とその熱がラルフを満足
させる。アルカードはびくびくと身をひきつらせながら、おそらくは初めてなのだろうその感覚に、歯を食いしば
っていた。
「あ、あ、ラルフ、私は、私はおかしい──」
「おかしくなんぞない。黙って、俺にしっかりつかまってろ」
必死に脚を閉じようとするアルカードをあさつりと抑えつけて、いよいよ追い上げていく。やがて、押し殺した
悲鳴をもらして、アルカードは屈した。
「今まで、自分でやったことはなかったのか?」
手のひらに吐き出された白い残滓を見て、ラルフは尋ねた。アルカードはまだ呼吸も整わないまま、肩で息をしつつ
焦点のあわない瞳でぼんやりとラルフを見あげた。
「……自分、で……?」
「──いや。いい。忘れろ」
まあ、そんなところだろう。手首に垂れた白い滴を舐め取ると、もう一度細い腰を抱え直す。
ぐったりとしたアルカードには、すでに抵抗する気力も残っていないようだった。両足を割り、引き締まった臀の
あいだに、アルカード自身のもので濡れた指をそろりと差し入れる。
「ラルフ、何……」
- 15 :第10話14/18:2006/03/29(水) 21:14:44
- 力の入らない腕で押しのけようとするが、もう止められなかった。濡れた指を、白い身体のもっとも奥まった
部分に押し当てる。
指先に軽く力をこめると、かぼそい声があがった。今度ははっきりと、恐怖と苦痛をうったえていた。
「ラルフ、ラルフ、何を──」
「……嫌か?」
アルカードはびくりと動きを止めてラルフを見た。ラルフはいったん手を止めて、その蒼い瞳をもう一度ちかぢかと
のぞき込んだ。
「ここから先は、もうたぶん止めてはやれない。怖いなら、いまここでやめろと言ってくれ。その通りにする。
俺は、おまえの意に反してまで、先を続ける気はないんだ」
本能はその逆のことを叫び立てていたが、ラルフは断固としてその声を抑えつけた。アルカードを怯えさせたり、
傷つけたりするなら自分の欲求不満くらい軽いものだと、そう感じていた。
アルカードはしばらくうつむいて、かすかに身を震わせていたが、いきなり両手を伸ばして、ラルフの首に強く
しがみついてきた。身体はまだ震えている、しかし、両腕にこもった力は、その意志をはっきりと示していた。
「後悔、しないな」
頷きが、動きだけで伝わってきた。ラルフは濡らした指をもう一度、ゆっくりとその先に進めた。
節の高い指が出入りするたび、ひくりと背中がひきつる。殺しきれない呻き声が喉の奥からもれるのが聞こえ
た。顔はきつく肩に押しつけられて見えないが、異物を入れられて中をさぐられる異様な感覚にアルカードが必死に
耐えていることは全身から伝わってきた。
あ、と声がもれた。ラルフの指が、ある一点をかすめた瞬間、アルカードの身体にそれまでとは違う戦きが走った。
「ラ、ラルフ、そこ、は」
その先は、言葉にならなかった。つづけてまたそこを掻かれ、擦られると、呻きははっきりと甘い色を帯び
た。ラルフの背中に爪が食い込んだ。
- 16 :第10話15/18:2006/03/29(水) 21:15:18
- 「ラ、ラルフ、嫌だ、そこは」
「黙って、しっかりつかまってろ」
いったん力をうしなっていたアルカードのものがまた熱を帯びはじめていた。腹に触れるそれに目くるめくような
感覚を味わいながら、ラルフはラルフは指を一本から二本へ、三本へと増やしていった。
もはやアルカードには、声を殺すような余裕は与えられていなかった。中でラルフの指が動くたびに身をよじり、
必死に唇を噛みしめつつも、かすれた喘ぎをもらすことを抑えられずにいる。
「あ、ラルフ……?」
とつぜん指が引き抜かれ、肩で息をしながら、不思議そうにアルカードはラルフを見あげようとした。
その両足が持ちあげられ、さっきまで弄られていた場所に、何か遙かに質量のある熱いものが押し当てられる
のを感じて、身を固くする。
「力を抜け、アルカード。──言っておくが、辛いぞ」
ラルフは細い腰に両手を回し、膝の上に抱きあげるようにして、ゆっくりと腰を進めていった。
かぼそい悲鳴が、アルカードの口をもれた。強引にその唇をふさぎ、聞きたくはない悲鳴を封じる。
指とは比較にならない大きさのものが身体を割って侵入する痛みに、腕のなかの身体が撃たれた獣のようにも
がくのを、欲望と罪悪感の、そしてどうしようもない征服欲の入りまじった気持ちで感じる。
うなじに口づけ、耳を噛み、背筋をさすって、少しでも身体をゆるませてやろうとした。二の腕にすがった手
がわなわなと震えている。わずかに見える横顔は、蒼白だった。
「辛いか」
訊くと、かすかにかぶりを振る。虚勢なことは見ればわかった。アルカードは震える自分の声に裏切られるのを怖
れるように、ラルフの頭をかかえ込み、視線をさえぎった。
「いい、から、早く──先、を」
荒い呼吸の下から、かすれた囁きが聞こえた。
「私は、大丈夫だ、から」
- 17 :第10話16/18:2006/03/29(水) 21:15:48
- 波のようにこみ上げてきたいとおしさがラルフを圧倒した。
青ざめた頬をとらえ、乱れた息をもらす唇にかすめるように口づけると、ラルフは再び恋人を地面に横たえた。
白い花の咲く緑の野原に。投げ出された両手にしっかりと指を絡めて、広げた白い両足の間に、腰を進める。
ひゅう、と喉が鳴った。押し殺された悲鳴のかけらが暴れてでもいるように、アルカードの身体がきつく反り返る。
両手が砕けそうなほどに固く握りかえされた。その痛みをすらここちよく感じながら、ラルフは奥へとわけ入って
いき、やがて、腰と腰とをひたりとあわせて、アルカードの上にじっと横たわった。
「わかるか、アルカード。おまえの中に、俺が、いる」
アルカードはうすく目を開けて覆いかぶさるラルフを見あげた。絞り出された涙が目尻をぬらしてゆっくり流れ落ちていく。
「こんなに、深く、繋がってる──一つに、なってる。なあ。感じるか、アルカード」
「わか──る。感じ、る」
荒い息のあいまに、アルカードは囁いた。
「もっと、抱いて、いてくれ──しっかりと。離さないで、欲しい。もっと、強く──強、く」
ラルフはそれ以上なにも言わず、目尻の涙を舌でぬぐってやると、地面に押しつけていた手をとって背中に
回させ、胸と胸とを重ねた。絶えだえな喘ぎと、早い鼓動が直接たがいの肌に伝わる。両手で細い腰をつかんで、
動き始める。
わずかに動きのたびに息をのみ、懸命に声を殺していたアルカードが、腕の中で少しずつ蕩けていった。苦痛と恐怖
で身をすくめてしまった前を擦ってやり、首筋やうなじに口づけを重ねて、緊張をほぐしてやりながら抜き差しを
くり返す。
やがて、痛みをこらえる呻きの中に、甘い色が混じりはじめた。ラルフの指にこすり上げられたものは重なった
下腹に触れるほどに存在を主張している。ラルフはよりしっかりと細い身体を抱え直すと、力をこめてアルカードを
貫きとおした。
- 18 :第10話17/18:2006/03/29(水) 21:16:30
- 高い声があがった。もはや、声を殺すだけの余力も、アルカードにはないようだった。意志をはなれて暴走する身体
と感覚に翻弄されて、嵐の中で必死に舟板にしがみつく溺れた者のように、夢中でラルフにすがりついてくる。
背中を掻くアルカードの爪の感触が快びをいっそう高めた。いとしい、という言葉を、ラルフは初めて心の底から理解
した。力のかぎりアルカードを抱きしめ、思うさま腰を叩きつける。もう手加減している余裕も、その必要も
なかった。狭くてやわらかな、熱い肉がラルフをぴったりと包み込み、からみついていた。
アルカードがあ、と声を漏らし、ゆれ動く腰の間に熱いものが飛び散った。一瞬、痛いほどにきつく締めつけられ
て、小さく声をあげてラルフも放った。
気の遠くなるような歓びと、永遠と思えるほどの絶頂感が続いた。余韻に身を震わせながら、ラルフはアルカードの上
に崩れるように身を伏せた。
しばらくはそのまま、だたがいの体温と鼓動を感じながら、身じろぎもせずに横たわっていた。まだ身体は
繋がったままで、アルカードは荒い息をつき、ほのかに紅く染まった目尻に涙の筋を残していた。
「……すまんな。無理を、させた」
ようやく起き上がって、ラルフはそっとアルカードの髪をかき上げてやった。
最初はもっと加減するつもりだったのだが、いざ始めてしまうと、そんな計算はもろくも吹き飛んだ。この
美しいものが、アルカードが欲しい、ただそれだけしか考えられなくなり、最後には、自分の快楽しか追求して
いなかったことを思い出して、ラルフは消えてなくなりたいような思いを味わった。
「ラル……、フ」
呟いた声はひくく掠れていた。アルカードはけだるげに手を上げて、ラルフの頬にそっと手のひらを添えた。
「聞いて、欲しい、ラルフ。私の」
一度こくりと喉を鳴らして、アルカードは言った。
「私の──本当の、名前を」
- 19 :第10話18/18:2006/03/29(水) 21:17:31
- ラルフはまばたいて、たった今自分のものにしたばかりの美しい恋人の顔を見つめた。
「私の名前は、アドリアン・ファーレンハイツ──ツェペシュ」
アルカードは言った。
「生まれた時、父と母がつけてくれた。父にそむくと決めたときに、この名を捨てた」
何かに耐えるように、長い睫毛が伏せられた。
「今はもう──おまえだけしか、知らない」
「……アドリアン」
ラルフは言った。
アルカードの肩がびくりと跳ねた。
「アドリアン、アドリアン、アドリアン──アドリアン」
あ、とアルカードの喉が鳴った。
白い身体が、飛びこむように胸にすがりついてきた。ラルフはしっかりとその背を抱きしめ、髪を梳き、耳もとに
何度もその名を、アドリアンという名を、吹きこんだ。肩が熱い滴で濡れた。抑えたすすり泣きが、腕の中から聞こえた。
「泣くな。もう泣くな、アドリアン」
やさしく髪を撫でてやりながら、ラルフは囁いた。
「俺がいる。俺がいつでもここにいて、おまえの名前を呼んでやる。もうひとりにはならない、俺が、けっして
そんなことはさせない。俺がおまえの還る場所になる、だから、もう泣くな。泣くな、アドリアン。泣くな」
すすり泣く声がひときわ高くなった。髪をはらって顔をあげさせ、唇をかさねると、がむしゃらに舌をからめて
きた。唇は涙の塩からい味がした。
暗い森はもうない。迷子の子供は帰り道を見つけた。泣きじゃくりながら、ようやく抱きとめてくれた相手に、
子供が必死にすがりつく。ラルフもそれに激しく応え、再び下腹部に熱が集まるのを感じながら、ゆっくりともう一
度、唯一の恋人を押し倒していった。
(続)
- 20 :第11話1/9:2006/04/07(金) 21:41:18
- 光り輝く時間が、ゆっくりと過ぎていった。
朝、互いの腕の中で目をさまして微笑みをかわしてから、彼らがすぐに手を触れ、目を見交わせる場所よりも
遠くへ離れることなどほとんどなかった。
昼間は森に入り、食事に多少の華を添える香草や小動物を狩るか、木剣や鞭を手に、それぞれの修練に精を
出した。せせらぎで汗を流した昼下がりには、二人で泉の野辺の花咲く野に座り、時の流れるのも忘れて、ただ
じっと寄りそいあっていた。五月の晴れた空は一点の染みもなく、ときおり白い雲が、眠くなるようなゆったり
とした流れで形を変えながら、頭上を漂い流れていくだけだった。
泉は静かに澄んだ水を湧きだしつづけ、花の揺れる岸辺には、おだやかなさざ波が終日寄せては返していた。
余ったパンくずを撒いてやった小屋の前には何羽かの小鳥が集まってきて、にぎやかにさえずりながら思わぬ
ご馳走にあずかっている。二頭の馬は眠そうに目をしばたたき、時々脚を踏みかえては、梢を鳴らすさわやかな
風の音にのんびりと耳を振っていた。
日が暮れれば小屋に入って火をおこすか、外で簡単なかまどを組んで、朝のうちに取ったもので簡素な食事を
すませた。語るべき事は多くはなく、むしろ、沈黙の時間のほうが長かったが、それは気まずいものではなく、
饒舌よりもはるかに多くの意味を含んだ静かさだった。短い言葉と、視線、そしてわずかに触れる指先、その
すべてがどんな言葉よりも雄弁にそれぞれの胸の裡を語っていた。
そして、炎が燃えつきれば連れだって小屋に入り、干し草と藁に毛布をかぶせただけの粗末なベッドで、飽きる
ことなく愛しあった。夢中で互いの身体を探りあったあと、汗にぬれた胸と胸、手と手、唇と唇をかさねて
横たわっていると、素肌の隔ても消え失せて、鼓動さえひとつに溶けていくようだった。
あの名、あの秘密の名前は、ただ二人きりの、吐息が重なりあう距離でだけ口にされた。アドリアン。古風な、
わずかに異国の響きを帯びたその名は、彼らにとってもっとも大切な、愛撫のための呪文だった。耳に、唇に
そっと吹きこまれるその呪文を感じるたびに、アルカードは身を震わせ、今や唯一の相手となった男にすがりついた。
ラルフはわななく細い背を強く抱き返しながら、なぜ今まで彼なしでやってこられたのか、この銀髪の青年を知ら
ないままに、どうやって二十年以上も生きてこられたのだろうと、なかば本気で疑問に思った。
- 21 :第11話2/9:2006/04/07(金) 21:42:46
- それほどまでに、ラルフにとってもはや彼は、アルカード、アドリアンは、切り離すことなどとてもできない、魂の一部
だった。心臓をえぐって渡せと言われたほうが、まだ簡単に思えただろう。またもし、アルカードか心臓かどちらか
を選べと言われれば、ラルフは躊躇なく自分の胸にナイフを突き立てるだろう。
彼を失うことなどとても考えられなかったし、離れることすら理解の外だった。うっとりと自分の胸に頭を
あずけている白い顔を見ていると、苦しいほどの愛情と幸福感がこみあげてきて、ラルフを圧倒した。
これまでどんな相手と寝たときも、そんな感情を抱いたことはなかった。好きだと思った女がないわけではない
し、中には馴染みになって何度か通った相手もいないわけではなかったが、彼女たちに感じたものは、今になって
みれば気楽な友人や、楽しい呑み仲間に対する親愛以上の何物でもなかった。
おそらく、相手のほうもそうだったのだろう。何度か手紙を送ってきたり使者を寄こしてきても、脈がないと
わかるとあっさり連絡も途絶えた。
ラルフもほとんど気にしなかった。彼女たちの中には商売女もいれば、それなりに名の知れた家の夫人などもいた
が、どれをとってもラルフ同様、日々の単調さをまぎらわすためのちょっとした遊戯にすぎなかった。こんなに、
相手のことを思うだけで魂のもっとも深い場所が疼くほどの想いなど、甘ったるい詩人の唄のなかにしかないと、
半分馬鹿にしてさえいたというのに──。
「おまえ、こんな指環をはめていたのか」
ある静かな夕暮れだった。けだるい身体をベッドに沈めて、ときおりの接吻に会話をとぎらせながら、語り
合っている最中だった。
かたわらのテーブルでは蝋燭が燃え、ほのかな橙色の光をあたりに広げている。
「ずっと前からはめていたが。気づかなかったか?」
アルカードは手をラルフの前にかざしてみせた。
ほっそりした左の中指のつけ根に、ごく小作りな、銀色のきゃしゃな指環がはまっている。繊細な唐草模様の
間に、花やその他の小さな葉がからみあった透かし細工のそれは、白い肌にほとんどとけ込んでしまっていた。
- 22 :第11話3/9:2006/04/07(金) 21:43:25
- 「これは……銀か? いや、そうじゃないな。銀にしては色が白い。何か、珍しい金属なのか」
「白金、という」
アルカードは指環を抜いて、ラルフに渡した。
ラルフは蜘蛛の糸で編まれたような指環をこわごわ手の中でひっくりかえし、うっかり握りつぶしてしまわないか
と、はらはらしながら光にかざした。
「白金は銀に似ているが、性質としては金の一種だ。ただ、金よりも高い温度で溶かさなければならないので、
精錬がむずかしい。おそらく今の人間の技術では無理だろう。銀のように黒く錆びたりすることはないので、
それが利点といえば利点だ」
「おまえの髪と同じ色だ」
アルカードの髪に寄せてみると、まるで髪の一部で編まれたように見えた。アルカードは恥ずかしげに微笑した。
「図書館の主に冶金学を学んだときに、ためしに作ってみたものだ。母に渡すつもりだったが、少し大きすぎた
ので、自分ではめている」
「大きすぎる? 嘘つけ」
自分の指に一本ずつ試してみて、ラルフはうんざりした顔で手をあげてみせた。
「見ろ、これを。小指でやっと入るか入らんかだ。怖くてこれ以上は押し込めん」
と突きだした小指には、白金の指環が中途半端な冠のような形でひっかかっていた。もともと指の太さが違い
すぎる上に、関節の高いラルフの指では、アルカードの細い指環を小指の第一関節以上に押し込むことは無理な相談の
ようだ。
「無茶を言わないでくれ。私とおまえの体格の差を考えてみればいい」
アルカードは指を口にあてて苦笑を隠している。
ラルフはむすっとして、華奢な細工物を睨みつけた。
「だいたいおまえは、どこもかしこも細すぎるんだ。前にも言ったろう。抱いていても、いつ壊してしまうかと
気が気じゃない」
- 23 :第11話4/9:2006/04/07(金) 21:44:03
- 「それなら少しは手加減してくれればいい。いつも最後には、私の言うことなど耳にも入れずに好き勝手なことを
するのはどこの誰だ」
それに関しては何も抗弁できなかったので、ラルフは聞こえなかったふりをした。
美しい細工物をもう一度くるりと回してみてから、抜き取って持ち主に渡そうとする。
アルカードはかぶりをふった。
「いや。よければ、それはおまえが持っていてくれ、ラルフ」
「これをか?」
ラルフは動揺した。
自分の気分だけで言えば飛びあがるほど嬉しかったが、世間にはほとんど存在していない貴重な金属で作られた
指環、それも、石は入っていないとはいえ、繊細かつ優美な細工は本職の金細工師でも嫉妬のあまり叫び出すかと
思う完成度だ。金銭的価値で言えば、ほとんど値段のつけようもない宝物だろう。
「おまえ、まだ品物と値打ちの関係がわかってないな。こんなめったにない貴重な品を、ぽんと俺に渡すなんて、
本気か? しかもこれは、おまえが自分で作ったものだろう。その──思い出の品、ってものじゃないのか」
とっさに言いよどんだのは、カルンスタインで殺されたアルカードの母のことが頭をよぎったからだった。
アルカードは一瞬目を伏せたが、すぐに目をあげて、だからだ、と強く言った。
「私の生まれた、あの城はもうない。だからこそ、昔の思い出をもう引きずらないためにも、それは、ラルフに
持っていてほしい。大きさを直すのはしばらくかかるかもしれないが、機会があればやってみるから」
「いや、いい。わかった」
ラルフは微笑んで、白くきらめく美しい指環を手の中に包みこんだ。あらためて、腕の中でこちらを見つめる相手
に、苦しいほどの愛情を感じた。
「そういうことなら、喜んでもらっておこう。大きさも別にこのままでいい。だいいち、俺がこんな品のいい指環
をはめていたら、あのがさつな御当主に何が起こったかと家中の者に目をむかれてしまう。──そうだ」
- 24 :第11話5/9:2006/04/07(金) 21:44:41
- ラルフの頭に、めったにない名案が浮かんだ。
「なら、これをもらう代わりに、何か俺からも贈り物をさせてくれないか。そういえば、おまえから何か欲しいと
ねだられたことが一度もないぞ、俺は」
アルカードは不思議そうに首をかしげた。
彼がベルモンド家へ来てから、ラルフは彼のために服を作らせたり、家具や敷物を新調させたりとそれなりのもの
を贈っているはずだったが、それらはすべてラルフが、言ってみれば勝手にアルカードに与えているだけで、アルカード自身
は何かが欲しいと訴えたことなど一度もなかった。
せっかく作らせた服すら、今回のこの遠乗りで初めて袖を通している始末だ。品物が気に入らないというわけ
ではなく、純粋に、あまり物質的なことに興味がないらしい。箱入りらしいと言えば言えるが、わがままの一つ
も言わないのは感心するのを通り越して少しばかり気の毒にもなってくる。
結局、ラルフのお古の大きすぎるシャツにインクの染みをつけて歩きまわっているのがいちばん気楽らしいのは
嬉しい半面、もっと甘えてくれることも期待したいラルフにとっては、少々物足りない気がしていたのだった。
「欲しい、もの……?」
「そうだ。何かあるだろう、新しい書物とか、その、うまいワインとか、──何か」
たいしたことが思いつけない自分の頭が憎い。
「なんでもいいから言ってみろ。なんとかして手に入れてきてやる。この指環のお返しってわけでもないが、
一度、俺からも、おまえの欲しいものを贈らせてくれよ」
アルカードはしばらく黙って考えていた。
「──では」
やがて、まるで、断られるのを予期しているかのように、ためらいがちに口を開いた。
「今、おまえが指にはめている、その指環が欲しい」
「これをか?」
- 25 :第11話6/9:2006/04/07(金) 21:45:19
- ラルフは驚いて自分の手をあげてみた。がっしりした左手の中指に、分厚い金でできたベルモンドの紋章入りの
指環がはまっている。
父から家督を受け継いで以来ずっとはめているものだが、別に宝物というわけではなく、荘園の書類やその他
の書状の封蝋に印を押すために使う、単なる印章指環だ。
材質はいちおう金だが、質もそれほどいいわけではなく、封蝋の滓やインクの跳ねでしょっちゅう汚れている
し、乱暴に扱うせいであちこち傷がついている。とうていあの、神秘な白に輝くきゃしゃな宝と同じ価値がある
とは思えない。
「やるのは別にかまわんが、本当にこんなものでいいのか? おまえのあの指環ととりかえるなら、こんな指環、
十個や二十個じゃとうてい追いつかんぞ」
「かまわない」
ラルフの手をとって、自分でそっと指環を抜くと、アルカードは傷だらけの指環を両手で包み、抱くように胸にかかえ
込んだ。
「私にとっては、これはおまえが身につけていた品だというだけで、はかりしれない価値がある。傷も、汚れも、
問題ではない。それはすべて、おまえがこれを身につけていたという証なのだから、私にとっては、どんな宝石に
もまさるものだ」
「……そこまで褒められるような代物じゃないんだがな」
苦笑して、ラルフはアルカードの頬を撫で、髪と額にそっと接吻した。
「わかった。じゃあそれは、おまえのものにするといい。エルンストには、どこかで落としたとでも言っておく
さ。奴ならすぐ予備のものを出してくるだろうしな」
謹厳な老家令の顔を一瞬思い出してすぐ後悔し、ラルフはアルカードの手を取った。
「じゃあ、ちょっとそれをはめてみろ。どんなふうに見えるか、見てみたい」
しかし、今度はアルカードの指環の場合と、まったく逆の事態が起こった。どの指にはめても、大きすぎるのだ。
- 26 :第11話7/9:2006/04/07(金) 21:45:59
- これもまた、二人の体格差を考えてみれば当然予想できることだったが、ラルフには大いに不満だった。薬指から
試して中指、人差し指、しまいには親指に通しても、大きな印章部分がぐるりと回って手のひらのほうを向いて
しまう。
「だからおまえは細すぎると、何度言ったらわかる。指くらいもう少し太くしておけ」
その夜二度目の愚痴に、ラルフは口をとがらせた。
「わかったところで仕方がないだろう。それで私の体格が変わるわけではない」
アルカードは笑いを抑えるのに苦労しているようだった。
ごつすぎる指環を指先でひねくり回し、ラルフはこれまで感じたこともなかった、がっしりした自分の体格に恨み
の念を抱いた。
「仕方がないな。お互い、鎖でも通して首にかけておくことにするか」
しまいに、ラルフはあきらめたように言った。
「考えてみれば、俺もおまえの指環ははめられないんだし、おまえも俺の指環を人前でははめられないだろう
から、ちょうどいい。鎖をつけて服の中に入れておけばいいだろう。帰ったら、それに合うような鎖を作らせ
よう。受け取ってくれるか?」
「喜んで」
再び手渡された指環を抱いて、アルカードはベルモンドの紋章に軽く唇を触れた。
「うまくは言えないが……ありがとう、ラルフ。感謝する。これまで、これほど大きな贈り物を貰ったことがない
ような気がする。本当に、嬉しい」
「何を言う。まだまだこれからだ」
指環を抱いたアルカードをそのまま抱きこんで再び横たわりながら、ラルフはその耳を噛むようにして、そっと囁いた。
- 27 :第11話8/9:2006/04/07(金) 21:46:38
- 「これからもっと、いろいろなものをおまえにやる。俺のものは、どんなものでも皆おまえのものだ。命でも魂
でも、なんでも好きなものを持っていけ、もともとそれはおまえのものだ。そのかわり、おまえは全部俺のもの
だぞ。ほかの奴になどくれてはやらん。
なんだ、笑っているな。いい声だ。おまえが笑う声を初めて聞いた。いい声だ、もっと笑ってくれ、いや、
もっと笑わせてやる、俺がずっとそばにいて、おまえをうんと笑わせてやる。だから笑ってくれ、アルカード、
アドリアン、俺の……これからもずっと、そばで……ずっと……ずっと──」
やがて、屋敷へ帰る日が来た。
荘園の村では例年の五月祭が始まり、荘園主であるラルフは当主として、祭りに顔を出さないわけにはいかないの
だった。
「そんなに寂しそうな顔をするなよ、アルカード」
荷物をまとめ、馬の鞍に振り分けながら、ラルフは慰めた。
「また暇ができたらここへ来よう。なあに、秋の収穫期が過ぎさえすれば、あとの時間はたっぷりある。雪が降る
と少し難しいかもしれんが、もう一度や二度、ゆっくりしに来る機会はある。近いうちにまた来られるようになる
さ、な」
「ああ……」
アルカードは自分の牝馬の手綱を取ったまま、陽光に輝く泉と咲き誇る白い花の野原をどこか遠い目で見つめていた。
まるで、もう二度と見られないと思っているかのような翳りのある表情に、ラルフの胸に一瞬の不安が走りぬけた
が、彼はそれを意識的に笑い飛ばした。
- 28 :第11話9/9:2006/04/07(金) 21:47:37
- そんなはずはない。またいつでも、来年も、再来年も、アルカードはここへ来る。俺が、連れてきてやる。誰にも、
文句は言わせない。
「さ、行くぞ。そろそろ出発しないと、屋敷に着くまでに暗くなってしまうからな」
ラルフは馬にまたがった。
続いて馬に乗り、あとに従ったアルカードは、森の小径に入っていきながら、耐えきれなくなったように後ろを
振り返った。
重なりあった木立の向こうに、小さくなっていく光の輪があった。
その向こうに、楽園がある。澄んだ泉の上に光が踊り、白い花と小鳥の唄がある場所。せせらぎが緑の野を
流れ、緑の梢に風がわたる、あの場所。
アルカードの手が上がり、服の上から胸もとをぎゅっと握った。ひとまず見つけてきた革の切れ端で、ラルフの指環を
下げている場所だった。
最後まで聞こえていた水音がとうとう聞こえなくなった。アルカードは何かを振りきるように視線をそらし、手綱を
とりなおすと、前を行くラルフに追いつくために、軽く馬の腹を蹴った。
- 29 :第12話1/12:2006/04/22(土) 00:06:46
- 「結婚?」
耳のはしに引っかかった言葉に、ラルフ・C・ベルモンドは思わず顔をあげた。
「誰と、誰が結婚するって?」
「貴方さまとヒルシュさまのお娘御がです、御当主」
エルンストの返事にはまったくためらいがなかった。
ラルフは慌てた。
「待て、なんの話だ、それは。俺はそんな話、聞いた覚えがないぞ」
「先ほどそれに関する書状を手にしていらっしゃいましたが、開けずに脇へ放られましたな。そちらの、処理済み
の箱の上から四番目ほどに入っていると存じますが」
署名や捺印をすませた書類を収めた箱をいまいましそうに見て、ラルフは中へ手をつっこんだ。
問題の書状はかんたんに見つかった。実用本位な仕事関係の書類とちがって、わざわざ書状を結ぶのに赤い
ビロードのリボンを使い、その上どうやら香水までふりかけてあるらしい悪趣味さに辟易して、差出人の名前を
確認する以前に処分のつもりで放りこんでしまったのだ。
「で、こいつの内容をなんでおまえが知ってる?」
ナイフを取って封蝋を剥がしながら、エルンストに不機嫌な声を出す。
「届けてきた使者がそう申しました。ヒルシュ様は、来年の春をめどに、ご自身の末のお娘御を正式に御当主の夫人、
もしくは、少なくとも婚約者としていただけないかというお話でございます」
「断れ」
ラルフは言下に言い捨てると、音を立ててナイフを投げだした。
「俺は、もともとあいつは気にくわんと前にも言ったはずだぞ。その上、顔を見たこともないような娘と婚約
なんぞできるか。結婚というならなおさらだ。だいたい、その娘というのはいったいいくつなんだ?」
「再来月で確か十四になられるとお聞きしております」
「問題外だ」
再び巻き直した書状にリボンを結びかけ、思い直して、くしゃくしゃに丸めてねじった上で床に放り捨てる。
- 30 :第12話2/12:2006/04/22(土) 00:07:34
- 「ほんの子供だろうが、ばかばかしい。顔も知らないそんな子供相手に、ままごとみたいな夫婦をやるなんぞ、
考えただけでうんざりする」
「世間には十歳の誕生日より先に嫁ぎ先が決められている娘は珍しくございません」
「かもしれんな。しかし俺は、そういうことは趣味じゃないんだ」
頬杖をついて、ラルフは床に転がった書状にむかって腹立たしげに顎をしゃくった。
「とにかく、断る。歳がどうこう以前に、あの脂ぎったにやけた男と親戚になること自体、ぞっとする。その娘
に関しては気の毒に思うべきかもしれんが、どうせ、あっちも顔も見たことのない相手のことだ。すぐに忘れる
だろうさ」
「では、ご結婚も婚約も、なさるつもりはないと」
「ない」
きっぱりと言って、ラルフは次の書面に目を落とした。
くだらぬことで時間をとられた、という不満でいっぱいだった。残った書類を片づけて外出を一件こなせば、
あとは蔵書室にいるはずのアルカードのもとを訪ねられる。今日はことに裁可しなければならないことが多くて、
ラルフを苛つかせていた。
いつも昼の少し前には顔を出せるのに、もう正午をかなり過ぎている。アルカードのことだから騒ぎたてはしない
だろうが、心配してはいないだろうかと考えると、胸の奥で鼓動が少し早くなった。
無意識に、指が胸もとを探る。そこには、しっかりした金鎖を通した繊細な白金の指環が、人知れず肌に触れて
かかっていた。
夏は終わりに近づき、作物の多くが刈り入れの時を控えていた。果樹園の林檎は今が収穫のまっ最中だし、
それにそなえてたとえばヒルシュのような、仲買商人との取り引きにそなえて決済しておかなければならないことが
たくさんある。荘園主としては、実際に作業にたずさわる小作人たちとは別の意味で、忙しい時期だった。
しばらく書面に目を通していたあとで、ラルフは眉根にしわを寄せて視線をあげた。
「なんだ? 言いたいことがあるならさっさと言え。そこで黙ってじっと立っていられると、気分が悪い」
「ご結婚なさるつもりはない、とおっしゃられましたな」
エルンストの顔は石のように動かなかった。
- 31 :第12話3/12:2006/04/22(土) 00:08:27
- 「──それは、あの西の塔におられる若君の御為ですか、若」
ラルフは一瞬、動きを止めて老家令の顔を見つめた。
そして、叩きつけるようにペンを投げすてると、椅子をけたおして立ち上がり、机を回ってエルンストに詰め寄った。
「それはどういう意味だ、エルンスト。俺が結婚しないのと、アルカードと、どういう関係があるんだ。ぐずぐずせずに、
はっきり言え、どうなんだ」
「家の者が申しますには、このごろ、若はほとんどご自分のお部屋でお寝みになっておられないとか」
今にも首を締めあげんばかりの若主人の剣幕にも、エルンストは一歩も引かなかった。
青銅製の兵士のようなぴんと突っ立った姿勢を崩さず、怒りにぎらついている主人の目をまっすぐに見返す。
「一度は寝室にひきとられても、その後、そっとどこかへ忍び出てゆかれることが多いと聞きおよびます。そし
て、明け方ちかくになると戻ってこられて、いかにもそこで寝ていたように振る舞われるとか」
「それがどうした」
ラルフは思わず揺れた声に気づき、また猛然と自分に腹を立てた。
あの森の古い番小屋で過ごした数日以来、アルカードと過ごすことはラルフにとって、何にもまして代えがたい時間と
なっていた。
夏のあいだは妙に事件が多く、くだらない争いの調停やちょっとした行事にかりだされることが続いて、結局
彼とまたあそこへ行くことはできずにいたのだが、だからといって、アルカードに触れずに日々を過ごすなど、もはや
考えられないことだった。
いちおう家人の目をごまかすために自室に入りはするが、その後、家中が寝静まったのを見計らってこっそり
と部屋を出て、西の塔のアルカードの部屋の戸を叩く。
そしてそこで明け方まで過ごし、召使いたちが起き出す前にまたそっと部屋へもどって、寝ていたように
よそおってみせるのが、最近のラルフの日課になっていた。
ラルフとしてはできれば堂々とアルカードと朝まで過ごしたかったが、それはさすがに家人の手前いささかまずい
だろうし、妙なうわさでも立って、アルカードの家の中での立場を悪くしはしないかということが心配だった。
何より、アルカードがラルフを心配した。彼は彼なりに、自分たちの関係が世間では認められないものであることを
うすうす感じとっているらしい。夜明け前に身を起こし、眠っているラルフを揺り起こすのはいつもアルカードだった。
- 32 :第12話4/12:2006/04/22(土) 00:09:13
- もう少し、あの蝋燭が尽きるまでだけ、と引き延ばしにかかるラルフを厳しくとどめて、また午後になれば顔を
合わせるのだから、とうつむく横顔に、自分以上の寂しさと隠してはいるがこぼれる心細さが伺えて、よけいに
離れがたい気分にさせる。
戸口のところで強く抱きしめて唇をかさね、ではまたあとで、と囁くとき、淡く微笑むアルカードのはかない顔は、
いつもラルフの胸を締めつける。もう一度、なんの心配もなく笑わせてやりたい、あの小屋にいたときのようにと、
そればかりが最近の、ラルフの願いだった。
「だからそれと、アルカードとなんの関係がある。部屋を空けることくらい、これまで何度もあっただろう。俺だって
たまには気晴らしに出ることもある。これまでは、三日続けて戻らなくてもおまえは一度も口出ししたことは
なかっただろうが」
「その時はそもそも、最初から部屋で寝るような芝居などなさいませんでしたな」
はっきり指摘されて、ラルフは返事に詰まった。
エルンストは続けて、
「あれだけ頻々と部屋を空けられているのに、リンクィストの酒場でも、あちらで以前通われていた宿屋でも、
若はこのごろ一度もお見えにならぬとのことでした。いったい、そこでないとしたら、毎晩どこで夜をお過ごしに
なっていらっしゃるのです?」
「どこでもいいだろう。別の場所だ」
「別とは、どちらのことです」
「おい。いいかげんにしろ、エルンスト」
激しい音をたててラルフは机を殴りつけた。
「俺は誰だ? ベルモンドの当主じゃないのか? それをいつまでも十歳のガキみたいに、夜は何をしただのどこで
寝ただの、いちいち訊かれなきゃならんのか。御当主御当主と持ちあげるくらいなら、俺のやることにいちいち
口を出すな」
「どこへいらっしゃるのか、どうしてもお教えいただけませんか」
「ああ、そうだ。言わなけりゃならん道理はないからな」
- 33 :第12話5/12:2006/04/22(土) 00:10:06
- エルンストは深いため息をついた。彼がベルモンドに仕えてきた年月をすべて凝縮したような、重い、疲れと苦悩に
満ちたため息だった。
「──女中のひとりが、こう申しております」
ごく小さくひそめた声で、エルンストは言った。
「深夜、西の塔の上の部屋へあがっていかれる御当主を見た、と」
みなまで言わせず、ラルフは老家令の襟首をわし掴みにしていた。
相手が年をとっていることも、自分に長年仕えてきてくれた忠臣であることも、年頭から吹き飛んでいた。
「誰だ」
獣の唸りをもらしながら、ラルフは鋭く囁いた。
「そんなことをおまえにしゃべった奴は誰だ。言え」
「申せません」
若主人にぎりぎりと襟を締めつけられながらも、老人はかすれた声ながら、きっぱりと言い切った。
「その娘は、村に住む愛人と逢い引きに屋敷を抜けだす途中で、貴方さまをお見かけしたと申しております。その
後も何度か、朝方に帰るときにも、あの塔から降りてこられる御当主をお見かけしたと。
わたくしはその娘に厳しく口止めしておきましたが、すでに噂は広がっております。あの御方は、人としては
あまりにお美しすぎる。
あれはもしや、ドラキュラ城で貴方さまに魅入った魔性なのではないか、御当主はあの魔の者とソドムの罪を犯して
いらっしゃるのではと、口さがない者が──」
ラルフの拳が、色を失うほど強く握りしめられた。
締めつけられた喉もとに、エルンストが耐えきれずに細いうめき声を絞り出す。ラルフははっとして手をゆるめ、後ろに
下がったが、両手ははげしく震え、頬が蒼白になっているのを自分でも感じていた。
ソドムの罪とは聖書でその悪徳のために灼かれたソドムとゴモラにちなんで、同性愛のことを意味する。
はたから見ればラルフとアルカードの関係は、確かにそれそのものだろう。互いに男でありながら情を通じ、夜ごとに
肌をあわせて悦びに酔いしれることは、教会の定めた道徳に従えば、もっとも深い堕地獄に値する罪悪となる。
- 34 :第12話6/12:2006/04/22(土) 00:10:56
- だが、あの銀髪の貴公子のことを考えるとき、そのしなやかな身体を抱き、髪に触れ、やわらかな微笑を見る
ときに全身にわき上がる幸福とぬくもりを、なぜ罪とされなければならないのかラルフにはとうてい納得がいか
なかった。
だいいち、彼をあの孤独な境遇に落としたのは誰なのだ。それは狭量な人間たちであり、自らの権威をふり
かざす教会の僧侶どもが、おのが名誉欲といつわりの正義を隠れみのに、罪もない女性をよってたかってなぶり
殺しにした結果ではないのか。
罪というなら、そちらのほうがよほど罪と呼ぶにふさわしい。あるいは、年端もいかない娘を、ただ自分の都合
をはかるためだけに、顔も知らない男のもとへ人身御供同然に妻に差し出そうとすることは、罪ではないというのか。
「お応えをいただけないのですな」
しばらく喉を押さえてあえいでいたエルンストが、ようやく声を出した。
大きく肩で喘いではいるが、その鷲のような瞳は、蒼白い顔でかたく口を引き結んだ若い主人を容赦なく
射抜いている。
「どうか、ご分別を願います、若。わたくしは何も、あの御方が貴方さまを誑かしているなどという愚かな噂を
信じているわけではございません。そのような妄言は、あの御方を身近に見ている者なら信じるはずもないこと
だと、よく承知しております」
聞きたくない、というようにラルフは背を向けた。
だが、エルンストの厳しい声は、容赦なく彼の耳にも降りそそいできた。
「しかし、あの御方はドラキュラ公の御子なのです。魔王の血を継いだ、闇の公子であられる方なのです。そのことは
先日、貴方さまもお認めになりました。
もしこの妄言が村の外まで広がり、それが呼び水となって、あの御方の真の身元があきらかになればどうなさい
ます。魔王の子を匿っていたという事実の前では、ソドムの罪など、その半分にも及びませんぞ」
ラルフの肩がぴくりと震えた。
「以前にも申しあげましたことを、どうぞよくお考えください」
動かない主人の背中にむかって、懇願するようにエルンストは言った。
- 35 :第12話7/12:2006/04/22(土) 00:11:45
- 「貴方さまはベルモンドの御当主でいらっしゃる。もしベルモンド家が消えれば、ここにすがって生きているものはみな
行き場を無くした流浪民になるか、背教者の罪に連座して村ごと焼き払われるか、二つに一つしかないのです。
結婚、いえ、せめてご婚約でもなされば、たわけた噂などたちまち消え失せましょう。婚儀そのものは、まだ
まだ先の話でもよろしいのです。
だいいち、跡継ぎのことはどうなさるおつもりなのですか。貴方さま以外に、いま、ベルモンドの血を継ぐべき方
はおられません。貴方さまが今もし断罪されるか、個人としてでも罰を受けられれば、そこでベルモンド家は断絶
いたします。
もしそうなればいずれにせよ、教会は聖鞭と荘園を取りあげ、村人たちを追いはらうでしょう。教会は未だに、
かつ決して、ベルモンドに気を許してはいないのですから。
同じことです、若。今はたとえ方便としてでも、ヒルシュ様のお申し出を受けて、婚約なりともしておかれるほうが」
「黙れ」
短く吐き捨ててラルフは机を離れ、部屋の扉にむかった。
「若! お聞きください、せめて話だけでも」
「断る、と言ったはずだ」
扉に手をかけながら、首だけで振り向いてラルフは鋭く言った。
「俺は罪と思わなければならないようなことは何もしていない。年端もいかない娘を、顔も知らない男と勝手に
結婚させるような父親に荷担するなら、それこそが罪だ。ヒルシュの話は断れ。今後、同じような話が来ても同じだ。
俺は結婚などする気はないし、婚約など結ぶつもりもない。それがただ世間の目をくらますためだけだという
なら、なおさらだ」
「ならばせめて、あの御方を屋敷からどこかへお移し申しあげてくださいまし」
必死のおももちでエルンストは追いすがってきた。
「ただ、どこか別の街にでも、隠棲場所をご用意してそこへお移りいただけばよいのです。あの御方が屋敷をお出
になれば、少しはたわけた噂も」
「駄目だ」
「若、どうぞお聞き入れを」
- 36 :第12話8/12:2006/04/22(土) 00:12:29
- 「俺はあいつを手放す気はない」
ラルフの傷のある側の目が危険な光をおびた。
「いいか、エルンスト。もしあいつがここから出ていくようなことがあれば、俺は、ベルモンドを捨てるぞ」
エルンストの顔から血の気がひいた。
「なんということをおっしゃいます」
「本気だ。ベルモンドという名前に縛られるのも、あの聖鞭をつかんで離さない教会の坊主どもにいいように踊らさ
れるのも、俺はもううんざりだ」
怒鳴るようにラルフは言った。
「俺にとって、あいつ以上に大切な者などいない。あいつが屋敷を出れば、俺はためらわず追いかけて、つかまえ
る。あいつのいる場所が、俺のいるべき場所だ。ここにあいつがいられないというなら、俺ももうここにはいられ
ない、そう思っておけ」
「なんということを──若!」
それ以上は聞かず、ラルフは部屋を出て乱暴に扉を閉めた。
荒い息をつきながら誰もいない廊下を見回したとき、少し先の曲がり角で、きらりと銀色の光がひらめいて、
さっと隠れるのが目の端に映った。
「アルカード?」
はっきりと息を呑む音が耳に届いた。
ラルフは駆け出し、角を曲がった。きらめく銀髪が揺れ、アルカードの白い顔が怯えをあらわして振り返った。急いで
逃げようとするのを、手をつかんで引き止める。
「なぜここにいる。蔵書室にいたんじゃなかったのか」
「ラルフが遅いので、何か、間違いがあったのかと思って」
少し、ようすを見に来た、と蚊の鳴くような声で言った。
うつむいたアルカードのうなじは、ほとんど色を失って震えていた。
「聞いていたのか。さっきの話を」
一瞬の間があり、すぐにはげしくかぶりを振った。
- 37 :第12話9/12:2006/04/22(土) 00:13:29
- だが、嘘なことは歴然としていた。青ざめて震える肩と、顔もあげられない風情で両腕を抱いている姿から
して、ほとんどの話を耳にしてしまったことは確かだった。
「アルカード──」
「若。お待ちください、若」
執務室のほうから、エルンストの声が近づいてきた。
「お願いですから、話をお聞きください。せめて書状に返事なりとも」
そこまできて、断ち切られたようにエルンストは口をとざした。
凍りついたようにうなだれたアルカードと、そのかたわらでけわしい顔をしている若主人を目にしたのだ。この
老家令もまた、西の塔の麗人が何を耳にしてしまったのか、はっきりと悟ったようだった。
「アルカード様、若、わたくしは」
ラルフは刺すような視線を老家令に注ぐと、いきなり、アルカードを強く抱き寄せた。ぎょっとしたようにアルカードは
もがいた。
「ラルフ、何──を、んっ」
細いあごに手をかけて持ちあげ、ラルフは強引にアルカードの唇に唇をかさねた。
「ラ、ルフ、よせ、こんな……ッ、あ」
懸命に押し離そうとするアルカードの手が少しずつ力を失っていく。
幾度も角度を変えて重ねられる唇は、二人だけの時よりさらに深く、熱かった。夜ごとの愛撫に慣らされた躯
は、口づけひとつで容易にとろかされる。急所を心得た手がうなじや背を這い回り、かすかな抵抗も容赦なく
抑えこんでいく。
ようやく解放されたとき、アルカードはかすかに目尻に涙をためて、荒い息をついていた。白い頬はあおられた熱
と、他人の目の前での乱れた姿に対する羞恥にほんのりと血の色をのぼせている。力の入らない膝をラルフの腕で
ようやく支えられながら、蒼い瞳は、責めるような色を浮かべてラルフを見あげていた。
「見たとおりだ、エルンスト」
しっかりと銀髪の恋人を抱きしめながら、ラルフは言った。
- 38 :第12話10/12:2006/04/22(土) 00:14:14
- 「俺は、アルカードを愛している。心でも、そして、身体でもだ。
それを罪だとは俺は思わないし、思うやつには勝手に思わせておけばいい。こいつに手を出す奴は、俺が許さ
ん。手放すことも、しない。もしもあくまでそれが罪だというなら、俺はそいつらと戦ってやる。ベルモンド家も、
教会も、こいつに害をなすというならみな俺の敵だ、覚えておけ。たとえ相手がおまえでもだ、エルンスト」
燃えるような主の視線を身に受けて、老家令はなにも言わなかった。
「ラルフ、やめろ。私はなにも」
「おまえはなにも心配することはないんだ、アルカード。──アドリアン」
うってかわってやさしく囁き、ラルフは軽く恋人の額に唇をあてた。
「今日はもう部屋へ帰れ。あとでまた行く。今日はまだ、いくつか他に用事があってな」
ほら、とそっと肩を押してやり、もう一度家令のほうに鋭い目を向けてから、ラルフは大股に廊下の向こうへ
消えていった。
アルカードはしばらく茫然と壁に身を寄せかけてその後ろ姿を見送っていたが、やがて、はっと気づいて飛びあがる
ようにエルンストのほうを見た。
老家令はまだそこにいて、哀しげな目で彼を見ていた。その瞳に怒りも、嫌悪すらもなく、ただ悲しみの色
ばかりがあることが、よけいにいたたまれない思いにさせた。
アルカードは逃げるようにその場をあとにした。狭い石の塔の階段を上るときも、あの老人の哀しげな目が、ずっと
背中をついてきているような気がしていた。
- 39 :第12話11/12:2006/04/22(土) 00:14:58
-
部屋に戻ったアルカードは、しばらくベッドに腰かけたまま、両手で額を支えてうつむいていた。
日が暮れかけていた。前夜の残りの蝋燭が、燭台の上で蝋涙をこぼしたまま固まっている。水色の黄昏が、
なかば閉じた窓の隙間から細く流れこんできていた。
ふと、頭をあげた。氷の青の瞳に、かすかな金色の光がひらめいた。アルカードは立ち上がり、窓を開けて、低く
呟いた。
「──そこに、いるか」
キィ、と応えがあった。
濃くなっていくうす闇の中にぽつりと、赤い光が浮いていた。光は何度かまたたくと、静かに目の前まで飛んで
きて、命令を待つようにそこで止まった。
「村へ行ってきてほしい」
と、アルカードは囁いた。
「そして、村人たちのあいだに流れている噂を聞いてきてほしい。手を出してはいけない、ただ、聞くだけだ。
ここのベルモンドの若当主と、私に関する噂なら、みな集めてきてくれ。終わったら戻ってきて、私にそれを教えて
ほしい。わかったか?」
キィ、とまた返答があった。使命を与えられたのが嬉しいのか、赤い光は何度かその場で円を描くと、あっと
いう間に闇に溶けた。
アルカードは窓を閉め、そのまま、崩れるように椅子に腰かけた。昨夜そこで、ラルフと向かいあってワインを飲んだ
場所だった。
手を伸ばして、胸もとに触れる。固い感触があった。新しい金鎖を通されたごつい金の指環が、心臓のちょうど
真上にくるように吊されている。
強く握りしめる。固く目を閉じ、その感触に、しっかりとした重みと厚みに、意識を集中した。室内はしだいに
闇に沈んでいく。
- 40 :第12話12/12:2006/04/22(土) 00:15:43
- 重苦しい時間が過ぎた。
すっかり部屋が闇にとざされたころ、窓の木戸を、かりかりとひっかく音がした。飛びつくように立って、窓を
開ける。しばらくアルカードは微動だにしなかった。
「……わかった」
やがて、静かに言った。
「よくやってくれた。いい子だ。礼を言う」
美しい公子の手に頭をひと撫でされて、赤い眼の小魔は嬉しげにひとつ鳴き、くるりと宙返りして姿を消した。
アルカードは窓を閉め、重い足取りでベッドに戻った。
倒れるように腰を落とし、両手で顔をおおう。耳の奥で、たった今聞かされたばかりの、人間たちのうわさ話が
こだましていた。
小さな魔物に人間の話を理解する知能はない、ただ、聞いてきたままを伝えるだけだ。
だからこそ、嘘のないその報告に示された、人間たちのむき出しの恐怖と不安、想像力でゆがめられた下卑た
言葉が直接胸に突きささる。
どれくらい、そのまま座っていたのかわからなかった。
かすかに、扉を叩く音がした。
アルカードははっと顔をあげた。
「ラルフ?」
いや、ラルフではない。ラルフなら、いつも戸を叩くのといっしょに「俺だ」と声をかけてくる。
アルカードはまっ暗な室内にようやく気づいて燭台に灯をつけ、それを手にして扉を開けに行った。
「お騒がせして申し訳ございません、若君」
白髪の、謹言な顔をした老人がそこに立っていた。青銅の兵士のようにまっすぐ背を伸ばして立ち、鷹のような
鋭い目を、怖れげもなく魔の公子の顔に注いでいる。
「もしおさしつかえなければ、しばらく貴方さまとお話をさせていただきたいのですが、いかがでございましょうか」
アルカードは一呼吸のあいだ、身じろぎもせずその目を見つめかえしていた。
それから黙って頷き、一歩引いて、老人を中に迎え入れた。
- 41 :第12話1/6:2006/05/10(水) 20:20:48
- 扉をしめ、向かいあって座ったあとも、アルカードは顔すらあげられなかった。
いま自分に向けられているだろう、さげすみと嫌悪の視線を思い、大切な当主を罪の
道に引きずり込んだ悪魔の子として、激しい断罪の言葉が今にも叩きつけられるだろう
と、身を固くしてその瞬間を待っていた。
「……本当に、眩いばかりの御方だ」
だが、長い沈黙のあと、聞こえたのはごく小さなため息と、静かな一言だった。
アルカードは思わず顔をあげた。そこにあったのは、年を重ねた老家令の、慈父のような
おだやかなまなざしだった。
「どうぞ、誤解なさらないでくださいまし、公子」
エルンストは言葉を続けた。まるで実の息子に対するような、包みこむような声は、アルカード
が実の父親であるドラキュラ公からさえも聞いたことのないものだった。
「わたくしは、何も貴方さまを非難するためにこちらに伺ったのではございません。
むしろ、これから申しあげねばならないことに、自ら嫌悪を抱いておりますほどです。
しかし、どうしても申しあげねばならないことがあるのです」
しばらく言葉を切って、考えるようにエルンストはアルカードを見つめた。
「貴方さまが、また貴方さまの御父君が、どのようなかたであられたかは承知しており
ます、公子アルカード」
──また、世間の者どもが、御父君にどのような悪名をかぶせているのかも」
自然に身がこわばるのを、アルカードは抑えられなかった。
しかし、とエルンストはほとんど調子を変えずに続けた。
「しかし、ドラキュラ公は奥方様の亡くなられる三年前までは、かえって妖魔どもの跳梁
を手控えさせ、人間の学徒も受け入れるなど、むしろ賢者としての、気高い王侯にふさわ
しい暮らしをいとなんでおられたと聞き及んでおります。
また、貴方様がこちらに来られてからの、家中の者へのなさりよう、下々の者への慈愛
のお深さを見申しあげて、貴方さまがどのような御血筋をお持ちの方であれ、そのおやさ
しさ、蔵書の数々にむけて示された学識のお深さは、こう申しあげては失礼かも知れませ
んが、感服いたしました。
- 42 :第13話2/6:2006/05/10(水) 20:22:42
- わたくしはこのような辺境の田舎者ではございますが、幾人かは高位の貴族や聖職者と
称する者の相手をすることもございました。しかしその中でも、貴方さまほどきらぎら
しい、気高い姿と御心をおもちの方はおられません。世辞で申しあげているとはお取りに
なってくださいますな。わたくしはただ、この半年間、貴方さまを見申しあげて感じた
ことを、そのままお話ししたばかりでございますから」
「わかっている」
細い声でアルカードは言った。この老家令は、たとえ相手を籠絡するなどという考えが
起こったとしても、心にもない言葉など並べることも考えないだろう。
若当主のラルフが連れてきた身元不明の客を監視するためにも、口には出さずとも、さま
ざまなことを調べさせ、それとない観察を続けていたに違いないのだ。その上で、これ
だけのことを口にするということは、エルンスト自身がどれだけアルカードを高く評価しているか
の証明のようなものだった。
「──けれども、公子、貴方さまの輝きは、曇りがちな人の目には眩しすぎるのです」
声を落として、エルンストは静かにつけ加えた。
「貴方さまはお美しく、聡明でいらっしゃる。優しい御心と、誇り高い魂を、常人を超越
した力を兼ねそなえた、生きた宝石でいらっしゃる。
もし人で、そしてできるなら女性であられたならば、わたくしは喜んで若と貴方さま
とが共に人生を歩まれることを望んだことでございましょう、しかし」
徐々に、老人の声に抑えていた苦渋がにじみ出してきた。
「先ほどの話を耳になさったのであれば、今、若と貴方さまとのことに関して、どのよう
な風説が流されているかおわかりでしょう。
あのようなお話を耳にお入れしたことは、わたくしの過失として重ねてお詫び申し
あげます。それでも、若と、今のベルモンド家のおかれている現実を見た上で、わたくし
は、累代の義務と理性の命じるところに従って、お願い申しあげなければなりません。
──どうぞ、公子、若を」
必死のおももちで、老家令は闇の血を継ぐ公子を見あげた。
「若を──わが当主、ラルフ・クリストファー・ベルモンド様を、われら、人間の手に
お返しくださいまし」
- 43 :第13話3/6:2006/05/10(水) 20:23:40
- ついにその言葉が発された。
アルカードは反射的に立ちあがっていた。
ほとんど何も考えることができず、窓辺に歩み寄る。胸の裡で不穏なざわめきが起こ
り、口の中が鋭くうずいた。自分の目が、わずかな金色を帯びはじめているのが見ずとも
わかった。アルカードは強く唇を噛みしめ、疼きに耐えた。
「人は弱く、もろいものです、公子」
アルカードの雰囲気が変化したことは察知しただろうに、老人は微塵も怖れる様子を見せ
なかった。むしろ、目を伏せ、組んだ両手に悲しげに目を落とした。
「事あれば大勢に流され、根も葉もない噂を愚かしくも信じこむ。ベルモンド家はその
ような輩によって長きにわたる屈従を余儀なくされ、一時は廃絶寸前まで追いこまれて
おりました。若は、ラルフ様は、世間にも、教会にもうとまれ、怪物の血筋として火をかけ
られる瀬戸際から、このベルモンド家をお救いになった方なのです。
しかし、まだ完全ではない。もしあの方にふたたび背教者の烙印が押されれば、あるい
は、ただあの方が子孫を持たずにこのベルモンド家を去られるようなことがあれば、教会
はこれ幸いとベルモンドを廃絶に追いこむことでございましょう。申しあげにくくは
ございますが、貴方さまの御父君、ドラキュラ公を倒したことで、妖魔狩人である
ベルモンドの存在価値はなくなったと考えているむきもあるのです。
英雄ラルフ・ベルモンドの名があるうちは世間も手を出しにくうございましょうが、聖鞭
ヴァンパイア・キラーの遣い手を手の内に収めておきたい者は、教会以外にも多くおります。
もし今、跡継ぎもないままにラルフ様が廃嫡されるようなことになれば、当主をなくした
ベルモンド家は、たちまち屍肉をあさる狼の群れに食い散らされて、跡形も残らなく
なることになりましょう」
アルカードは何も言わなかった。答えようもなかったのだ。老人が口にすることのひとつ
ひとつが、正しいことはわかっていた。
おそらく、ずっと昔に、そのことは理解していたのだが、ただ愛し、愛される幸福に
酔いしれて、見ないようにしてきただけだったのだ。
- 44 :第13話4/6:2006/05/10(水) 20:24:35
- だが、いつまでも見ないふりを続けられるわけもなく、押し寄せてきた現実は、抗弁
のしようもなくアルカードを打ちのめした。語りつづける老人の声に、ただ疲れと悲しみと、
虐げられてきたものだけが知っている痛みがこだまするのが、余計に辛かった。
「村にはまだ、乳飲み子をかかえた家族もおります」
沈痛にエルンストは言った。
「立って歩くこともできない老人をかかえた者も、ただ食うための盗みを犯したために
首を吊られそうになったよるべのない罪人もおります。もしベルモンド家がなくなれば、
彼らはみな庇護者も、家も土地もないまま、流民として最低の生活を送らねばならない、
しかも、それはまだ、彼らにとってはましな運命でしかないのです。
どうぞ、公子」
エルンストは椅子を降りると、窓辺に立ちつくして動かないアルカードの足下に跪いた。
「貴方さまは賢く、美しくお強い。そうしておそらく貴方さまのお命は、なみのどのよう
な人間よりも長く、遠くまで続くのでございましょう。
しかし公子、ベルモンド家が、そしてラルフ様がおられねば明日の暮らしさえおぼつかぬ
ものが、ここには大勢おります。乳飲み子や、老人や、世間から追われる者のたくさんの
命が、あの方の肩ひとつにかかっているのです。
この弱く、あまりにもろい人間どもに、どうぞ哀れみをおかけくだされ」
エルンストはすがるようにアルカードの手をとらえた。アルカードは反射的に手を引っこめかけたが、
すぐに力を抜いて、なすがままにさせた。ざらついた老人の指の感触は、衝撃的だった。
それは幾多の艱難に耐えてきた者の手、辛い運命を乗りこえてきた手、長年の辛苦と苦悩
にさらされた、人間の手だった。
「勝手なことを申しあげていることは承知しております。貴方さまにも、また、若に
とっても、おそらく、地上でもっとも酷いことをわたくしは求めておりましょう。
この年寄りの首ひとつで気がお済みならば、どうぞお取りくださいまし。しかし、
やはり申しあげずにはおけないのです。たとえ今、若が貴方さまを愛し、貴方さまも
また若を愛しておられても、公子、貴方さまが人ではない者の血を引いておられること、
そして、若が普通の人間でしかないことは、変えようがないのですから。
- 45 :第13話5/6:2006/05/10(水) 20:25:26
- どれほど共にありたいと願おうと、いつか必ず、年月が復讐にやってきます。もろい
人間の血の、それが定めです。貴方さまはご自分が、人間と同じように年をとり、老いて
いけると、本当に思っておいでなのですか」
思わずアルカードは老人にとらえられた自分の手に目を落とした。
白くなめらかな、女でさえうらやむような美しさを備えた手。人と妖魔、それぞれの血
を継ぐ者の、奇跡のような美。そのすべてが、アルカードという存在に結晶している。
人と魔のあいだに生まれて、その双方の美質を一身に兼ねそなえた宝石、とエルンストは
言った。その大理石のような白い指のとなりに、皺ぶかいエルンストの手がある。
ごつごつと皺が寄り、岩のように黒ずんだ、老いた人間の手。
アルカードは無言でエルンストの手から指を引き抜いた。
窓辺をはなれて壁の燭台のもとにもたれ、灯りに照らされた室内を見回す。
重い綴れ織をかけたベッド、鉄で四隅を補強した衣装箱、優美な装飾をほどこした椅子
や書き物机、その上に重ねられた、読みかけの書物や走り書きの束。
暖炉で薪が暖かな炎をあげている。静かな、初秋の夜の光景だった。
昨晩までは普通のことと見過ごしていたその室内が、今は、ひどく遠いものに思えた。
「……私は明日、この場所を去る」
低く、ごく低く、アルカードは言った。
まだ跪いていたエルンストが、はっとしたように頭をあげた。
「公子、それでは」
「ただ、今夜ひと晩だけ」
アルカードは言葉をついだ。
「今夜、ただ一夜だけの猶予がほしい。明日の朝、私はここを去り、二度と戻らない。
だがその前に、今夜、今夜だけ、彼とともにいさせてほしい」
しばらくためらって、アルカードはつけ加えた。
「叶えて、もらえるか」
「……感謝、いたします──」
- 46 :第13話6/6:2006/05/10(水) 20:26:05
- エルンストはアルカードの手を取って再び押しいただき、貴人にするように手の甲に唇を押し
当てた。声はかすれ、震えていた。声を殺して、老人は、泣いているようだった。
老家令が出ていったあと、アルカードは崩れるようにベッドに腰をおろした。
両手で顔を覆い、しばらくは身じろぎもしない。頭が割れるように痛んだ。心と、身体
のすべてが、はげしい慟哭の声をあげていた。
口にはっきりと感じられるようになった疼きを、舌先でさぐる。血の味がした。長い
あいだ忘れていた尖った牙の先が顔を出し、唇の内側の肉をわずかに傷つけていた。
「アルカード……?」
その夜、ラルフはかなり遅くなった。
昼間の一件が、まだ重く胸に引っかかっていた。また彼のことだから、自分が悪いのだ
と思いこんでうつむいているに違いない、早く行ってやらねばと考えながら急ぎ足に階段
をあがり、扉を押し開けたとき、そこにあったのはちろちろと燃える消えかけた暖炉の火
と、あとは、漆黒の闇だった。
「アルカード──アドリアン? どうした? 灯りもつけないで」
もしかして、またいなくなっているのでは。
そんな不安が胸を走りぬけた瞬間、誰かが動く気配がした。
「なんだ、いるじゃないか。いったい何を──」
言葉はそこでとぎれた。
ぽっと灯りが灯った。
卓に置かれた燭台の横に、黒衣のアルカードが立っていた。
──その瞳はまるで溶けた黄金を流したように、妖しい、金色の光を放っていた。
- 47 :第14話1/8:2006/06/07(水) 20:04:25
- 「アルカード──アドリアン。いったい……?」
「ベルモンド」
声は、鋭い針のようにラルフを突き刺した。ベルモンドと呼ばれたこともつい忘れて、ラルフは思わず足を
止め、もう一度まじまじとアルカードを見つめた。
いつか見た金色の瞳の闇の公子が、そこにいた。人知を超えた力と美をあつめた、闇の中に輝く
星だった。黄金の炎を宿した瞳は、ラルフの胸まで貫きとおすようだった。
「私は今夜、この屋敷を去る」
低い声で公子は告げた。
ラルフは息を呑んだ。
「アルカード、それは」
「誰の指示でもない。これは、私の意志だ」
淡々とアルカードは続けた。
「たとえ父と血に背いた身とはいえ、人間に命令されて諾々と従うほど私は誇りを失ったわけでは
ない。──ラルフ・C・ベルモンド」
白い手がゆるりと上がってラルフをさす。
「おまえは以前、なにがあろうと常に私とともにあると言った。私を、けっして独りにはしないと
誓った。それは、本当か」
「本当だ」
反射的にラルフは答えていた。凍りついていた脚を動かし、ゆっくりと部屋に入る。
後ろ手にドアを閉めた。部屋が閉ざされると、空間に充ち満ちたアルカードの魔力が、ちりちりと耳の
後ろを灼いた。
アルカードは微動だにせず卓の後ろに立ちつくしていた。その姿は闇の公子としての血をすべて解放
し、仮面のような白い顔には、人間らしいところなどどこにもなかった。
- 48 :第14話2/8:2006/06/07(水) 20:05:06
- それは美しくはあったが、暴風の、雷鳴の、すべてを灼きつくす、超自然の炎の美だった。生身の
人間が持つべきものではなかった。身にまとっているのはいつもと同じラルフの古いシャツだったが、
それでさえ、触れている肌の光をうつして、何かあやしいほどの光をおびているようにさえ見えた。
「なぜ、今さらそんなことを訊く? さっき、エルンストがここに来ていたようだな。あいつに何を
言われた、アルカード」
「私とともに来る気はあるか、ベルモンド」
質問には直接答えずに、アルカードは言った。
ラルフは大きく目を見開いた。
「──なんだって?」
「私は、この場所を去る」
抑揚のない声でアルカードは言った。
「その理由について、おまえに話す必要はない。ただ、おまえは以前、私とともにあることを
誓った。妖魔にとって、一度かわされた誓約は永遠のものとなる。おまえは、私との誓約を
かわした。闇の公子の、この私と」
卓を回って、アルカードはラルフに近づいた。
すべるような動きは、まるで宙を飛んでいるかのようだった。またたきの間に、ラルフは金色に
燃えるアルカードの目を間近くのぞき込んでいた。
それは、魂をも灼きつくす業火の渦だった。声もなく、ラルフは黄金の炎の淵に見入った。甘い
アルカードの体臭に混じって、かすかな血の臭いが鼻をついた。
「これが、私だ」
ささやくように、アルカードは言った。
「私の、もう一つの顔、──父から受け継いだ、私の、真の顔だ。
- 49 :第14話3/8:2006/06/07(水) 20:05:45
- 私はしょせん、人間ではない。私の体内には、父から受けた闇の血が流れている。父の血は、私
を人間と同じ生にはけっして導くことはない。おまえが誓約をほんとうに守ろうとするなら、おまえ
は、人間であることを捨てなくてはならない。
もう一度、問う。私とともに、来るか、ラルフ・C・ベルモンド」
アルカードはゆっくりと口を開け、見せつけるように息を吐いた。
「おまえを頼る人々に背を向け、聖鞭の使い手、英雄ベルモンドの名を捨て、人であることを捨て──
すべてを捨てて、おまえは、私とともに来るか。
闇の顔をした私を抱く勇気はあるか、ベルモンドの男。この、闇と血と死に呪われた身体に、触れる
勇気はあるか」
麝香の香りと濃い血の臭いが漂い、その薄い唇の中に人ならぬものの細く、白い牙が、ナイフの
ようにひらめくのをラルフは見た。
「人が闇とともに歩むことなど、しょせんできはしない。これまで敵としてきた者と、おまえは同じ
者になれるか、ベルモンド。死を超えて、永遠の生命を保つ存在となる気はあるか。この私とともに、
果てなき久遠の黄昏を歩いてくれるか」
血の気のない手が、強くラルフの二の腕を握りしめた。
普段の、おずおずとした触れ方からは想像もつかない、まるで万力で締めつけられるような力
だった。細い指に押しつけられた腕の骨が軋むのを、ラルフは感じた。
「答えよ、ベルモンド」
やわらかく、アルカードは囁いた。吸血鬼の声、父が使ったのと同じ、絶対の支配者としての、残酷
にして強力な、闇の王の声だった。
「答えよ」
ラルフはつかの間黙って、自分に据えられた二つの黄金の瞳に見入っていた。
それからやにわに手をあげ、力任せにアルカードの細い身体を抱きこむと、有無を言わさず深く唇を
重ねた。
- 50 :第14話4/8:2006/06/07(水) 20:06:22
- 「……!」
アルカードは一瞬抵抗しようとしたが、たちまちラルフの腕に押さえ込まれた。
軋むほどラルフの腕をつかんでいた手がゆるみ、やがて、すがりつくように服の胸もとを握るまでに
時間はかからなかった。
「……ラ、ルフ、待っ」
「やかましい」
ラルフは息をつぐために唇を離しながら、アルカードの牙に軽く舌を走らせた。
アルカードは身震いし、かすれた呻きを洩らした。尖った牙の先がどこかを傷つけたのか、どちらの
ものともわからない血の味が、舌の上に広がった。
「俺を、甘く見るな」
ようやく唇を離して、ラルフは低く言った。抑えきれない怒りと苛立ちが、彼の濃い青の瞳をアルカード
のそれにも増してはげしく燃え立たせていた。
「俺が、心にもないような誓いをするとでも思っていたか。おまえの闇の顔を見たからと言って、
怖じ気づいて泣いて逃げ出すとでも思ったか。ふざけるな。
俺は一度言ったことは必ず実行するし、する気がないなら最初から口になど出さん。おまえが
闇の血を持ってるなんてことは、初めからわかってる。それも考えずに、俺がただ人間のおまえ
だけしか見ていないとでも思っていたなら、大間違いだ」
「ラルフ、私は──」
「答えは決まってる。訊かれるまでもない」
もう一度、かすめるようなキスをして、ラルフは言った。
「おまえが行くというなら、俺も、おまえといっしょに行く」
アルカードは鋭く息を吸いこんで、何か言おうとした。
だが、その言葉はふたたび降ってきた口づけに途中で塞がれた。アルカードは力なくラルフの胸を押し
返そうとしたが、その手も、やがてぐったりと下に垂れた。
- 51 :第14話5/8:2006/06/07(水) 20:06:59
- 「けっしておまえをひとりにはしない、いつでもそばにいて、おまえの名を呼んでやる、──そう
言っただろうが。アドリアン」
荒い息をつくアルカードを、ラルフは強く揺さぶった。
「おまえは俺のもので、俺は、おまえのものだ。それが必要だというのなら、どんなものでも持って
いけ、血でも、命でも、魂でも。英雄の称号なんぞ、俺にはなんの意味もない。ただおまえだけだ、
アドリアン、俺にとって必要なのも、大切なのも、意味があるのも、ただひとり、ただ、おまえだけ」
「だが、──だが、それでは、村の人々は。この、屋敷の、荘園の人々は」
強く胸に頭を押しつけられながら、ようやくアルカードは問いかけた。
ラルフの目が一瞬、深い苦渋に満ちて閉ざされた。
「……それは、俺がこの先、ずっと背負っていかなければならない呪いの一つだ」
ややあって、ごく低い声でラルフは言った。
「俺は、自分が属していた場所を捨てる。それも、自分がいなければ多くの人間が苦しむだろうと
いうこともわかっていて、捨てるんだ。おまえの血の中の呪いと同じくらい、彼らの苦痛は、呪い
となってこれから俺を苦しめるだろう。
だが、それはおまえとは関係ないことだ。これは俺の罪であり、呪いであって、おまえに気に
されるような筋合はない」
「しかし、おまえは私のために人を捨てると言った。ならば、それは私の」
「たとえそうであっても、家より、称号より、村人たちよりもおまえを選ぶのは、ほかならぬ、この
俺自身の意志だ」
いよいよかたくアルカードを抱きしめながら、ラルフは言い切った。手をあげ、小さな顔を両手で包み
こむ。金の瞳の闇の公子は、今にもこわれそうなうすいガラスの細工物のように、震えおののいて
いた。
「おまえは、俺を止めようとした。それでも、俺はおまえを取ると言った。決めたのは俺だ、おまえ
じゃない。俺のすべてはおまえのものだが、俺の罪までも自分のものだとは思うな。俺の罪は、俺だ
けのものだ。誰にも、背負うことはできない」
- 52 :第14話6/8:2006/06/07(水) 20:07:36
- 「──ラルフ」
「おまえの運命を俺にも分けてくれ、アドリアン」
なめらかな銀髪を唇でたどりながら、無限の優しさをこめてラルフは囁いた。
「いっしょに行こう、どこまでも、いっしょに──。おまえは独りじゃない、俺がいる。ずっとそば
にいる、アドリアン。だから、いっしょに行こう。連れていってくれ、おまえの世界へ。おまえの見て
いるものを、今度は、俺にも見せてくれ」
ベッドへ、と息を殺してアルカードは囁いた。
喉を締めつけられるような、かすれた、細い声だった。まるで火花のように、それはラルフの心臓を
燃えあがらせた。
腰に手を回し、奪うように抱きあげてシーツの上に放り出す。身をくねらせ、身体を起こそうと
したアルカードに、覆いかぶさるようにしてはげしく唇を吸った。血の味が、とろりと蜜のように下に
まつわった。それは解放された闇の血がもたらす、誘惑の味かもしれなかった。
麝香の香が強い。引きちぎるようにラルフはアルカードの服を脱がせ、自分のそれを投げすてた。裸の胸
が合わさったとき、首にそれぞれに提げた二つの指輪が触れあって幽かな音を立てた。たがいの鼓動
が、嵐のように胸郭をたたくのをはっきりと感じた。餓えたように舌をからめあいながら、しなやか
な身体が蛇のように腕の中ですべるのをしっかりと抱きしめる。
離れるとき、アルカードが追うようにちらりと舌を出して、唇を舐めた。下腹部を一撃されたように、
かっと熱が全身に広がった。
すでにしっとりと濡れはじめた白い肌にしゃにむに手をすべらせ、かたくとがった乳首を、かたち
のいい臀のまるみを、彫り込んだような鎖骨の窪みを、知りつくしたすべての部分に狂気のように
愛撫を加えていく。ほとんど何も考えることができず、ただ、この目の前のいとおしいもの、たとえ
ようもない美と蠱惑をそなえたものへの欲望に、ラルフはほとんどわれを忘れた。
- 53 :第14話7/8:2006/06/07(水) 20:08:18
- 細いひやりとした手が、胸を、肩を、背中を、執拗に何度もたどっていく。まるでその輪郭と
手ざわりを、すべて手のひらに収めてしまいたいとでもいうようだった。
その手をつかんでラルフは口元に引き寄せ、口づけて、歯を立てた。何もそんなことをする必要は
ないのだ。これから先、彼らはけっして離れない、別れることなど二度とないのだから。
ラルフ、と途切れがちに呟いた口を、もう一度強引にふさぐ。絡ませた舌に、噛みつくようにアルカード
も答えてきた。両腕をラルフの首にからめて、荒い息をつきながら何度も自ら唇を求めてくる。いつも
恥じらいがちに、おずおずと愛撫に応じる彼にはめったにない態度に、一瞬ラルフは疑問を持ったが、
その思いも、押し寄せる快楽と欲望の波にたちまちのうちに押し流されてしまった。
後ろを慣らす余裕さえ、今は持てなかった。腰を持ちあげ、逞しいものをあてがったとき、アルカード
はびくりと身をすくませたが、拒みはしなかった。むしろ、誘うように脚を開き、ラルフの腰に自ら
からみつかせた。
突き入れると、高い嬌声があがった。苦痛と悦びのないまぜになった喘ぎがとぎれることなく漏
れ、ますますラルフをあおり立てた。
身体をつなげたまま細い背に手を回し、抱き起こして、足を組んだ膝の上に腰を降ろさせる。自ら
の体重と、下からの突き上げのふたつの責めに同時にさらされて、白い背が弓のように反り返る。
「も……っと、強く、ラルフ」
ラルフの胸に、顔に残る傷痕に幾度も唇を押しあてながら、うわごとのようにアルカードは呟いた。
「もっと、強く……深く。深く……欲しい、ラルフ。おまえが、欲しい──」
その願いに応えるように、ラルフは叩きつけるように激しく腰を突き上げた。ひときわ高い嬌声と
ともに、反った背中に弾かれた弦のような震えが走る。
恋人の熱い迸りが腹の上に飛び散るのを感じた瞬間、ラルフも達していた。狭く熱い内部に、煮えた
ぎる欲望がどっと注ぎこまれる。
アルカードははげしい息をつきながら、ラルフの肩に身をあずけてきた。まだ余韻にとらわれて動けずに
いるラルフの首筋に顔をうずめ、一瞬、目を閉じる。
- 54 :第14話8/8:2006/06/07(水) 20:09:00
- その頬に、ほとんどわからないほどの苦悩の震えが走りすぎたかと思うと、アルカードの口が大きく
開いた。白い牙が、かっとむき出された。
ラルフが感じたのはちくりとしたほんのわずかな痛みと、脱力感だけだった。
予想していたような苦痛は少しもなかった。最初の針で刺されたような痛みもすぐに消えて、あと
は眠りに引きこまれていくときの快いだるさと、忘我があるだけだった。
アルカードの唇を首筋に感じる。ラルフはそっと小さな頭をかかえ込み、彼がより吸いやすくなるように
首をのけぞらせて、ゆっくりベッドに身をたおした。
猫がミルクを舐めるような、かすかに舌を鳴らす音がしていた。舌のなめらかさが心地よかった。
やわらかな髪を撫でながら、ラルフはこれまで感じたこともなかった充足と、やすらぎに充たされて
いく自分を感じていた。
恐怖はなかった。不安も、なかった。
人でなくなること、この生命の世界に居場所を持たないものになることは、彼の孤独な恋人ととも
にあることに比べれば、ものの数ではなかった。
ラルフの目には、ただ、次に来るであろう新しい夜の世界が映っていた。アルカードが拒まれていた昼の
世界を自分が案内したように、今度は、アルカードが彼を案内するだろう。次に目を開けたとき、自分
は、恋人と同じ目で世界を見るようになるのだ。
ただ今は、それが待ち遠しかった。独りきりで世界と向きあってきたアルカードと、同じ世界を分かち
合う者となることが。
いっしょに行こう、アルカード、アドリアン──夢心地で彼は呟いた。
おまえはもう独りじゃない。俺がいる。ずっといる──いつでも、そばに。
けっしてこの手を離しはしない。二人で行こう、どこまでも、いっしょに──おまえとともに、俺
は、永遠を往く──。
暗黒が、しずかに降りてきた。意識を失う瞬間、ラルフが見ていたものは、恋人の銀髪に映る火灯り
のゆらめきと、肩を並べ、手をたずさえて黄昏を歩く、二人の旅人の後ろ姿だった。
- 55 :第15話1/9:2006/06/29(木) 20:04:26
- アルカードは目を開き、ラルフの腕からゆっくりとすべり出た。
夜明けが、すぐそこに来ていた。早朝のうす青い空気が、閉ざした窓のすきまからかすかに忍び込んで
きていた。
振り返らないようにして、アルカードは手早く身を清め、震えながら服を着た。きのうまで着ていたラルフの古い
シャツではなく、衣装箱の中の新しい服でもなく、ただ、ここに来た日に着ていた、黒と金の、闇の者の
ための服を。
壁からマントを外して身につけ、腰に剣をさげる。
そこまでして、ついに絶えきれなくなった。彼はふりかえった。
静かな顔をして、ラルフは眠っていた。
ゆったりとした寝息が聞こえた。彫りのふかい顔立ちはおだやかに和み、唇には夢見るような、かすかな
微笑みが浮かんでいた。喉からの血はもう止まっていた。
腕は片方へ伸ばされて輪を作り、そこには存在しないものを、まだ抱きしめようとしていた。両腕のあいだ
のシーツに、かすかなくぼみが残っていた。
さっきまで、自分はそこにいた、その考えにうたれた瞬間、アルカードはもはや自分を抑えきれずに、駆け寄って
ベッドのかたわらに跪いた。
手は触れなかった。もしも触れたりしたら、二度と離れられなくなるのが自分でもわかっていた。ただ、
むさぼるようにその顔を、手を、たくましい肩と広い胸を見つめ、その感触とぬくもりを、耳もとでささやく
声を、よく響く笑い声を、口づけの熱さを、ひとつひとつ思いかえして、心の奥に強く刻みこんだ。これから
沈む永遠の闇の底でも、まぶたの裏で、いつでも小さな光になってくれるように。
半分しか吸血鬼ではないアルカードに、もともと他人を同族にする能力などない。
たとえどれだけ血を吸ったところで、相手はせいぜい四、五日ほど昏睡状態に陥るだけだ。ラルフなら、もっと
短いかもしれない。それでも、すぐに追いつかれないようにするためには、十分な時間がかせげるはずだ。
そのあと彼は何事もなく目を覚まし、変わらず人間として生きていくだろう。
人間として、と呟き、アルカードは一瞬強い憤りが、剣のように胸をつらぬくのを感じた。人間にでも、ラルフに
でも、自分に対してでもなく、対象のはっきりしない、ただ漠然とした、何かに対する怒りだった。
- 56 :第15話2/9:2006/06/29(木) 20:05:14
- あるいはそれは、運命そのものに対する怒りだったのかもしれない。だが、憤怒はすぐにあきらめと悲哀、
そして孤独という、彼にとっては馴染みのものに席をゆずった。
怒りなど、何の意味もない。ラルフは人であり、そして自分は人ではない。その事実は動かせない、あの老人の
言うとおりだ。
彼は人として生きるべきであり、ベルモンドの当主として、その肩には多くの人の生命と責任がかかっている。
ともに同じ時間を生きることすらできない者が、独り占めしていいわけがない。ただそばにいることでさえ、
彼と、彼の背負う人々に害悪をもたらしかねないのであれば、もはや、自分はここにいてはならないのだ。
ぽつり、とシーツに赤い花が咲いた。
はっと見おろすと、またぽつりとべつの赤い滴が、先のものに重なるようにはねた。
アルカードは頬に手をすべらせ、拭ったものを光にかざした。
血だった。
闇の血が完全に表に出た場合、半吸血鬼であるアルカードの身体は吸血鬼としての生理に支配される。流す涙を、
吸血鬼は持たない。もしも吸血鬼が泣くときには、その体内を充たす他人から吸った血が、涙のかわりに頬を
つたう。
アルカードは急いで頬をこすり、目尻に指を走らせて、あふれてくる滴をぬぐい取った。震える指を口にはこび、
ついた血を丹念に舐めとる。
たった今血を吸った者のわきに膝をつき、血のついた指をしゃぶっている姿がどれほどあさましいかはよく
承知していたが、それでもこれは、ラルフの血だった。一滴たりとも、失いたくはない血だった。
舌の上で血は甘く濃く、愛している、と言葉ではない意志をアルカードにささやいた。愛している、愛している、
おまえ一人を、永遠に、と。
血は常に、本当のことしか伝えない。吸血鬼にとって血は生命であり、ある意味では、その者の魂の精髄
なのだから。
視界にうすく赤いもやがかかった。こみ上げてきたすすり泣きを懸命にかみ殺す。泣けば泣くだけ、ラルフの血
が外へ流れ出てしまうことになる。
今もまだ、彼に抱かれているような気がする。吸ったラルフの血は全身をめぐり、冷えた身体をいまだぬくもり
で包みこんでくれていた。
- 57 :第15話3/9:2006/06/29(木) 20:05:57
- 尽きかけた蝋燭の灯のもとで、深い陰翳がラルフの顔を彩っていた。腕はまだ、離れていった恋人を誘うように
伸ばされている。
今にもそこへ倒れこんでしまいそうになる身体を必死に押さえつけながら、アルカードは、いくらぬぐっても
あふれてくる血の涙を、何度も口に運びつづけた。
霧の濃い朝だった。雲のようにうすく光る大気が、ベルモンド家を包みこんでいた。切れ切れな鳥の声が
聞こえ、冷たい空気のヴェールを通した朝の光が、水の底のような青さと静けさであたりをくるんでいた。
アルカードはゆっくりと階段を下りてきた。靴の踵がカツカツと刻むような音をたてた。涙はもう影もなく、
白い顔には超自然の美と、刻を超える静謐だけがあった。
庭を横切って門に近づこうとして、ふと立ち止まる。石の大門の横に、背筋をぴんと伸ばして立っている
一人の影があった。
霧のむこうから見えてきたのは、エルンストの白髪と謹厳な顔だった。
彼はアルカードが近づいてくると、ただ黙って、深々と頭を下げた。
おそらく、ほぼ一晩中、ここに立ちつくしていたのだろう。髪は靄のためにべっとりと湿りけを帯び、
毛織りの黒い上着には水晶をちりばめたように小さな水滴がびっしりと貼りついていた。
アルカードは無言で彼の前を通りすぎようとして、ふと足を止めた。
「──彼は、塔の部屋で眠っている」
エルンストははっと顔をあげた。
「数日は目を覚まさないかもしれないが、大事ない。目を覚ませば、何事もなく健康な身体になっている。
彼に、もう闇が触れることはない。
私は、これから永い眠りにつく」
エルンストは何か言おうとしたが、声にはならなかった。
アルカードは淡々とつづけた。
- 58 :第15話4/9:2006/06/29(木) 20:06:30
- 「二度とはさめぬ眠りだ。生と死の境界、どちらともつかぬ領域に、私は自分自身を封じる。永遠に、この世
に目覚めることはない。この地に、戻ることも」
エルンストはしばらく身を震わせていたが、言葉を見つけることができず、もう一度、うめくような声をたてて
深々と礼をした。
「──そして……、彼に伝えてほしい」
一瞬ためらって、アルカードはさらに言葉をつづけた。
「私は、ドラキュラ城が落ちた時、死んだ、と」
エルンストは小さく息をのむ音を立てた。
「ただ、死の瞬間に、──夢を見た」
アルカードは目を閉じた。
できるものならもう一度、あの、夢の日々を呼びもどそうとするかのように。
「幸福な、夢だったと──彼に、そう」
「……お言葉、必ず──」
頭を垂れたままのエルンストの声は、震えていた。
アルカードはもはや何も言わず、その前を通りぬけて、門を出た。
霧が、濃く全身にまつわりついてきた。ひとり、アルカードは歩を進めた。
その姿が完全に霧にまぎれてしまうまで、エルンストは頭をあげず、肩を震わせ、うちひしがれたようにただ
うなだれていた。
霧のただよう森の中を、すべるようにアルカードは歩いていた。
すでにベルモンド家は、遠かった。彼のとった超自然の道は、人間のためのものではなく、その世界に属する
法則にも支配されるような場所ではないのだった。
きしるような啼き声が騒ぎながら近づいてきた。ベルモンド家にいた時には魔狩人を怖れて近づけなかった、
たくさんの小魔たちの群れだった。
- 59 :第15話5/9:2006/06/29(木) 20:07:06
- 彼らは自分たちの公子が還ってきたことを祝うように空中を踊りまわり、鈎爪をならし、嘴を打ちあわせて
われがちに歓喜の意を示した。蝙蝠の羽が、鱗のある手足がすれあって、ざわざわと木の葉のような音を
立てる。先頭を切ってやってきた、あの赤いひとつ目の小魔が大胆にも公子の肩に舞い降りて、高い声で
何度か啼いた。
アルカードはさびしく微笑んだ。
「……駄目だよ。私は、そちらへは行かない」
小さな魔物は首をかしげて、理解できないとでも言いたげに、公子の銀髪をつかんで引いた。アルカードは
そのままにさせておいた。
彼らにはけっしてわからないだろう。ベルモンドを離れたアルカードが行くべき場所を、彼らは知っている、
あるいは、知っていると思っているのだから。
魔王の子、ドラキュラの息子。人間世界を逐われた魔の公子が、還るべき場所はただひとつしかない。
あの、闇の城、──三年前、城主の滅びとともに崩壊した、魔王のための城。
ドラキュラ城がけっして本当には消滅することがないのを、アルカードは知っていた。
城の存在はその城主の存在と固く結ばれており、城主となったものが求めさえすれば、城はいつなりと
再びその威容を顕すのだ。
もしアルカードが今ここで、われは城の主なり、ドラキュラの息子にして、正統なる魔王の後継者なりと名乗りを
あげれば、城はすぐさまこの場に現れて、新たな城主を迎えるためにその鉄の門をひらくだろう。
なぜそうしないのかと、小魔たちはいぶかっているのだ。彼らにとってみれば、アルカードが今までベルモンド家に
身をおいていたことこそが異常なのであって、むしろ、あの魔狩人の一族に囚われ、幽閉されていたのだと
考えているのだろう。
せっかく幽閉の身を抜けだしたというのに、なぜ正統な権利を主張して、自分たちの王となってくれない
のか。懇願するように小さな魔物たちが啼きさわぐ。ドラキュラの血を継ぐものとして、空位となった魔王の座を
占め、再びこの世に闇と血と破壊の影を呼びおろしてくれるようにと、耳もとで赤い眼の魔物が必死に身体を
すりつけてくる。
──もしも、そうしたら、とアルカードは考えた。
- 60 :第15話6/9:2006/06/29(木) 20:08:11
- 彼は、来てくれるだろうか。魔王となった、私のもとへ。
そう、彼は必ずやってくるだろう。それが魔狩人としての、ベルモンドの使命であり、宿命なのだから。
復活した魔王を再び塵に帰すために、吸血鬼殺しの聖鞭を手に、彼は来る。
そして、私を殺してくれるだろう。その時には、おそらく人の心をなくして完全に闇のとりことなっている
だろう、私を。
身体の半分を占める闇の血は、アルカードに自死の道を選ばせてはくれない。
もし、首尾よく命を絶つことに成功したとしても、それはただ自分の人間である部分の息の根を止めるだけだ。
残った不死の闇の血は、人の心という枷をはずされていよいよ猛り狂うだろう。完全な闇の者となった自分
は、この小魔たちが運ぶ夢で見た姿と同じ、恐怖と血と殺戮の宴に酔いしれる者になる。もはや愛も知らず、
生きとし生けるものの苦痛と死に対して、嫌悪も、罪も、哀れみも感じることのない、父と同じ怪物となって。
──そうなった私を、きっと、ラルフは殺してくれるだろう。
そしておそらく、最後の瞬間まで傍にいて、ともに滅びることを選ぶだろう。
なぜアルカードが魔王となることを選んだのか、城を復活させてその城主となったのか、すっかり承知した上で、
彼はやってくるのだろうから。
どこまでも一緒だと、耳もとにささやかれた声がまだ胸の奥にひびいていた。自分がベルモンド家を去り、
やがて、魔王として再びドラキュラ城に君臨するようになったことを知れば、ラルフはきっと、そうしたことの理由を
正しく理解する。
たとえ呪われた怪物となっても、彼の手で殺され、その腕に抱かれて冥府へ墜ちていくことを考えると、ただ
それだけで魂は歓びにおののいた。
魔王を殺した者が、同じくその戦いで相打ちになったとしても、責めるものは誰もいない。たとえ行く先が
燃えさかる地獄の底だとしても、ふたり手を取りあい、ともに黄泉路を往けるのなら、どんなにか幸福なこと
だろう──。
だが、けっしてそうはならないことを、アルカードは知っていた。
もしそうすれば、あのエルンストをはじめ、ベルモンドがなければ生きていけない人々から、命綱である当主を
奪い取ることになるのは同じことだ。
- 61 :第15話7/9:2006/06/29(木) 20:08:56
- 彼は、ラルフはあのままあの荘園で、人間として生き、子を作り、もはや闇とはかかわることなく、おだやかな
生を営むべきなのだ。
自分のような、闇の者とかかわったこと自体が、あってはならないことだった。
夢からさめる時が来たのだ。自分にも、それから彼にも。
眠りからさめれば、彼は裏切られたことに気づき、怒り、悲しむだろう。
だが、おそらくそれも一時のことだ。今もまだ、身体が熱いほどの愛を手ひどく踏みにじった相手に、もはや
向けておく愛情などないにちがいない。
彼はやがて自分を忘れ、相応の女性をめとり、人間としての生を生きる。
それでいいのだ。
そう、あるべきなのだ……。
霧が晴れ、視界が開けた。
啼きながら周囲を飛びまわっていた小魔たちが、急に悲鳴をあげて飛び去った。
廃墟となった集落の、奥まった場所に位置する古びた礼拝堂だった。見捨てられてからかなりの年月がたって
いるようで、焼けこげた石の壁は苔におおわれてひび割れ、屋根の上の十字架は傾いて転げ落ちかけている。
だが、ここには何かがあった。魔が触れることを忌避する生命の力、大地を流れる純粋な白い生命力の流れ
が、ここに集中している。
充溢する力の感覚が、なかば闇の者であるアルカードの肌にも針で刺すような刺激を与えていた。おそらくここは
古代の聖地であり、今もまだそうなのだ。人がこの地を見捨ててからも、大地は変わることなくこの地に力を
渦巻かせ、つきせぬ生命力を発している。
アルカードは崩れかけた石段を登った。
ちょうつがいが壊れて垂れさがった扉に指をふれ、いくつかの言葉を唱えると、まるで時間が逆転したように
朽ちた木の扉はがっちりとした分厚い昔の姿を取りもどした。
扉を開け、中にはいる。内部もまた、荒れ果てていた。
- 62 :第15話8/9:2006/06/29(木) 20:09:42
- どうやら有力者の寄進によって墓所として建てられたものらしく、正面の祭壇のわきには巨大な石棺が据えら
れていた。天井といわず壁といわず蜘蛛の巣があたりを覆いつくし、床にはぶあつく埃が積もっていた。一歩
歩くごとに、かすかに埃が舞い立った。
石棺の蓋はずらされ、中身はからだった。略奪にあったのか、祭壇の装飾品のほとんどは奪いさられ、
ぼろぼろになった綴織が蜘蛛の巣とさほど変わらない姿でひっかかっている。木の十字架は金箔をはがされて、
虫食いの木肌をさらしていた。魁偉な悪魔の姿を模した燭台がいくつか、壊れた椅子のそばに投げ出されている。
アルカードは閉じた扉にかがみ込み、指先を噛み破って、扉を封印する形で流れ出た血で魔法陣を描いた。
「ここにおいて、われはわが名でこの扉を封じる」
小さくアルカードはささやいた。
「われならぬ者にこの扉を開けること能わず、いかなる力も、術も、われならではこの封印を破ることは叶わ
ぬ。刻を知らず、変化も知らず、ただわれの名のみに応えよ」
言葉にしたがって魔法陣は蒼白く燃えあがり、光の輪となって落ちついた。
アルカードはそっと封印に唇をつけ──そこにもまたラルフの血は交じっているのだ──立ちあがって、からの石棺
に近づいた。
石棺もまた埃をかぶっていたが、アルカードが蓋を動かすと、中はほぼ綺麗といっていいほどだった。蓋がずれて
いただけなので、あまり埃も積もらなかったらしい。
蓋は重かったが、なかば吸血鬼であるアルカードにとっては軽い木も同じことだった。
蓋をどけ、中にはいる。超自然の道は、そこを往く者が心に望む場所へと彼を導く。まさに相応の場所へ導
かれたのだ、とアルカードは思った。死者のための礼拝堂、見捨てられた棺、生からも死からも拒まれた者の家とは。
腰をさぐり、小さな鉛製の小瓶を引き出した。
まだ父の城にいたころ、父への叛逆について思い悩んでいたころに、作り出して持っていた薬だった。口にし
た者に、永遠にさめぬ眠りを与える秘薬。この薬を口にすることで、すべてから目をそらし、永遠の無感覚に
逃げ込んでしまおうかと思い悩んだ時もあった。錬金術の奥義から引き出されたその薬を、もう使うこともない
と思いつつも持ち続けていたのは、いつかこういう日が来ると知っていたからだったのだろうか。
- 63 :第15話9/9:2006/06/29(木) 20:10:21
- ……どうでもいいことだった。
指先ほどの小瓶の蓋を外し、口にあてて、一息に中身を飲みほす。重い水銀のようなしずくが、ねっとりと
喉をくだっていった。
瓶を置き、横になった。早くも冷たい無感覚が、つま先のほうからゆっくりと上がってきていた。
これが心臓まで達したとき、夢のない眠りが降りてくるはずだ。まだ動く腕をあげて、ずらしていた蓋をもと
に戻す。視界が闇に包まれ、埃の匂いがした。
固い石棺の底を頭の下に感じながら、アルカードは服の襟元を開き、鎖の先についた大ぶりの金の指環を、そっと
取りだした。
ベルモンドの印章。ラルフの、指環。
あそこで得たものは、すべて置いてくるつもりだった。だがただひとつ、これだけは、どうしても手放すこと
ができなかった。何度も首からはずそうとして、そのたびに手を離すことをくり返し、結局、肌につけたまま
持ってきてしまった。
これだけでいい。かまわない。
アルカードは思った。
なにもかも、死の前に見た夢だった。ならばせめて、幸せだった夢のかけらを抱いて眠ろう。それだけは、闇
を呪うあの神も許してくれるにちがいない。夢の幻の中から、たったひとつ、幻でないものを持って出てくる
ことができたのだから。
しだいに感覚を失いはじめた指に鎖をからめ、大きすぎる指環を手のひらに包みこむ。
目を閉じると、その指環をはめていた者の笑い声が、かすかによみがえってきた。かたいあの指先が、手を
そっと撫でたように感じた。
やがて、暗黒がおりてきた。
静寂と闇に沈むその一瞬、かすかに遠く、荒々しい馬蹄の音を聞いたような気がした。
- 64 :第16話1/9:2006/07/21(金) 19:56:21
- ラルフは目を覚ました。
初めのうちは目を閉じたまま呻き、唸り声をあげ、恋人の名を呟きながら、糊づけされたように
感じる瞼を手をあげてこすろうとした。まだなかば夢うつつのまま、いつものようにすぐそばに
寝ているはずの、温かい身体を無意識に引き寄せようとする。
だが、手に触れたのは冷たいなめらかなシーツの表面だけだった。
冷水をかけられたように意識が目ざめた。
ラルフははね起き、ベッドが身体の下で大きく弾むのを感じた。
一瞬にして心臓が氷と化した。
狂気のように室内に目を走らせる。どこもかしこもきちんと片づき、眠ったときとかけらも
変わった様子はなかった──ただ、燃え切ってしまった蝋燭と、恐ろしいほどからっぽに見える
壁をのぞいては。
そこにこの夏中ずっとかかっていたはずのマントと剣は、いつのまにか消え失せていた。衣装箱
の上にはインクの染みのついた洗いざらしのシャツと、やわらかい革の短靴が、きちんと重ねて
置いてあった。
そこに、彼はひとりだった。
寝床の半分はすでに冷えきって、そこにだれかがいたという痕跡すらなかった。水面のように
なめらかな表面に、かすかなくぼみと、ただ、黒ずんだ血の染みが一つ、枯れ落ちた薔薇のように
ぽつりと残されているきりだった。
「……アドリアン?」
頭の半分では、まだこれはばかげた夢なのだと信じていた。自分をおいて、彼がいなくなる
はずはない。誓ったのだ、どこまでもいっしょに行こう、人も捨て、名も捨てて、永遠の黄昏を
ともに歩こうと、あれほどかたく約束した。
そして、彼は自分の血を吸った。そのはずだ。
そこで、ラルフは閉ざされた窓のすきまから、二度と見ることはないと思っていた陽光が、朝の
弱々しい光を流れこませているのに気がついた。
- 65 :第16話2/9:2006/07/21(金) 19:57:02
- 息をのんで首筋に手をやる。指にふれたのは、すでに治りかけた小さな二つのかさぶただけ
だった。それさえ、ひと触れしただけで乾いた膠のように剥がれおちた。
舌でいくら探ってみても、闇の眷属の証拠であるはずの牙はなかった。
彼は人間だった。人間のままだった。
そして、アルカードは。
「……アドリアン!」
ラルフはベッドを飛びだし、袖を通すのももどかしく服を身につけた。
転がるように階段を駆け下りる途中、ボタンをはめないままのシャツが身体にまつわりついたが、
かまっていられなかった。
「アドリアン! ……アルカード! どこへ行った、アルカード!」
塔の入り口に立って、彼は大声を上げた。
あたりはしんとしていた。応えるものは誰もなかった。鳥でさえ、今朝は妙にひっそりとして、
さえずる声も聞こえなかった。焦燥が喉を締めあげた。
「出てこい、アルカード! どこにいる……!」
「──あの方は、すでにこの地を離れられました」
ラルフははっと振り向いた。屋敷のほうから、ゆっくりとした足取りでエルンストが歩いてくるところ
だった。この時がくるのを予測していたかのように、老いた顔は厳しく引き締められていたが、
鋭い目にたたえられた悲哀と痛みが表情を裏切っていた。
「離れた? なぜだ! 俺は昨夜──」
「貴方さまは三日三晩眠っておられたのです、若」
静かにエルンストはさえぎった。
「公子さまがそのようにはからわれました。そして、数日たてば何事もなく目を覚ますだろう、
とも。その通りに、貴方さまは目をお覚ましなさいました。あの方は、約束を守ってくださった
のです」
「約束? なんの約束だ、俺は」
そこまで言って、ラルフは絶句した。エルンストはただ黙ってまっすぐ視線をこちらに向けている。
- 66 :第16話3/9:2006/07/21(金) 19:57:35
- ようやく、アルカードが去ってしまったこと、そして、これが夢ではない本当のことなのだという
理解が、じわじわと頭にしみわたってきた。
そのとたん、突きあげてきた、はげしい憤怒が喉をふさいだ。
指がねじれ、拳が疼いた。あともう少し自制心のないものなら、表情を消し、いつものように
鉄の人形めいた姿勢を崩さないエルンストの首を締めあげていたことだろう。
だが、そのかわりに彼は踵をかえし、馬房に向かって大股に歩きはじめた。
「どこへ行かれます!」
あわててエルンストが追いすがってきた。忠実な老家令は、ここで主人に殺されるのもやむなしと
覚悟を決めていたらしかった。
「知れたことだ。あいつを追う。追って、連れもどす」
「お止しくださいまし!」
エルンストがつかんだ袖を、ラルフは乱暴に振りはらった。
「もはや時が経ちすぎております。あの方がどこへ赴かれたのか、わたくしも存じません。
手がかりすらもありません、去られるとなればあとすら残さぬお方であるのは若もご存じのはず、
なのに、どうやってお探しになるおつもりなのです」
「そんなもの知るか。見つかるまで捜す、それだけだ」
「なりません!」
馬房から馬を引き出そうとするラルフの腕に、懸命にエルンストはすがりついた。隣の馬房ではアルカードに
与えた黒い牝馬が、相棒の主人が来たのになぜ自分の主人は来ないのかと、濡れた黒い目で不思議
そうにこちらを見ている。
「あの方はおっしゃっておられました。私は、これから二度と醒めぬ眠りにつく、と」
馬具を乱暴に縛りつけていたラルフの手がぴくりと止まった。
「二度とは醒めぬ眠り、生と死の狭間にあって、二度とこの世に戻ることはない、と。そのような
魔法に、どうやって対処されるおつもりなのです」
ラルフは煩げに首を振った。
「あの方は、貴方さまを深く眠らせて立ち去られた。人間である貴方さまが追われぬよう、追った
とて、追いつけぬようにするためです。あの方のお気持ちを無駄になさるおつもりですか、若!」
- 67 :第16話3/9:2006/07/21(金) 19:58:18
- 「そんな眠りなら、俺がたたき起こしてやる」
手が止まったのはほん一瞬だった。すぐにラルフは作業を進め、鞍の腹帯を締めて、馬を外へと
牽きだした。
「このふざけた真似のつぐないもかねてな。どけ、エルンスト。俺は行く」
「およしなさい!」
馬にまたがろうとするラルフの腕をつかんで、エルンストは必死に声をふりしぼった。
「幸福だった、とおっしゃったのです。あの方は」
今度こそ、ラルフの動きは止まった。鐙に片脚をかけた姿勢で、愕然として彼はふりかえった。
「……なんだと?」
「自分は、ドラキュラ城陥落の時に死んだ、と」
夢中で主人の裾に取りすがりながら、エルンストは言葉をついだ。
「ただ、死の瞬間に、夢を見た、と。幸福な、夢だったと……そう、貴方さまにお伝えして
欲しいと、言いおいてゆかれました」
ラルフはただ茫然としていた。
全身がこわばり、名付けようのない感情が荒れ狂って、手足を凍りつかせていた。
「どうぞ、あの方のお心をお察しくださいまし」
拝むようにエルンストは言った。
「あの方が、軽い気持ちで貴方さまのもとを去られたとでもお思いですか。偽りが、本心から出た
ものだとでもお思いですか。
責めもお怒りも、わたくしがすべて負います。どうぞ好きなだけお打ちください、命を取られ
ようとかまいませぬ、ただ、どうか若、お聞き入れを。あの方は誰よりも貴方さまのお為に、
何より辛い選択をなされたのです」
「──どけ」
「若!」
「どけ!」
弾けるようにラルフは叫んだ。
エルンストを突きのけ、馬にまたがる。なおも取りすがろうとするエルンストを押しのけて、馬に拍車を
入れた。馬ははね上がり、ようやく明けそめたばかりの街道めがけて、まっしぐらに駆けだした。
- 68 :第16話5/9:2006/07/21(金) 19:59:26
-
幾日幾夜を駆けぬけたのか、ラルフはほとんど意識していなかった。
馬が疲れていると感じたときだけほんのしばらく小休止を取り、草を食べさせ、水を飲ませたが、
自分では、せせらぎで唇を湿す程度のことしかしなかった。飲む気もなければ、食べる気すら
起こらなかった。考えることはアルカードのことだけだった。彼の顔、彼の手、彼の髪、唇──
最後の夜、彼がなぜあんな態度をとったのか、いつものように恥ずかしげにではなく、すべての
抑制を捨てて乱れたのかが、今になってわかった。すべてが計算のうちだったのだ。自分を闇の
眷属に引き入れる気など、彼にはみじんもなかった。
ただ、ベルモンドを出れば、どれほど目を忍ぼうと必ず追ってくる自分を足止めするために、
手の届かぬ場所に身をかくす時間を稼ぐために、あんな芝居を打ったのだ。それがかえって、
自分自身が余計に苦しむことを意味するのも承知しながら。
──あの、馬鹿野郎が。
短い休息が終わると、ラルフは休まず馬にまたがって先を急いだ。
手がかりもなくどうやって捜すつもりか、とエルンストは言った。だが、アルカードに与えられたひと
噛みは、いまだにラルフの中になにがしかの影響を残していた。
吸血鬼への変化はなされなかったにせよ、吸ったものと吸われたものの一種の血の絆が、
薄いながらも二人の間には存在していた。漠然とではあるがラルフは、アルカードがいる方角を、
距離を、その想いを感じることができた。
彼は昏い場所にいる。そして、ひどく悲しんでいる。
絶望に胸を塞がれ、すべてをあきらめて、もとの暗い森に帰っていこうとしている。たった
ひとりで道に迷いつづけたあの暗黒の森に、今度は自分から閉じこもり、すべての道を閉ざして
しまうつもりなのだ。
光のない森の奥に、蕭然と歩み入っていくアルカードの姿が見えるような気がした。その細い背中を
おおうように、パキパキと音をたてて伸びる黒い枝とイバラが絡み合い、戻る道を永遠にふさいで
しまおうとしている。
- 69 :第16話6/9:2006/07/21(金) 20:00:03
- 「そうはさせるか」
ラルフは呟いて、胸もとに揺れる小さな指環を強く握りしめた。それだけは、アルカードも取り返すのを
忘れていったらしい。二人で交換した、あの指環。
「お前は俺のもので、俺は、お前のものだ。夢になんぞ、されてたまるか。お前は死んでなんか
いない、必ず見つけ出してやる、俺が──馬鹿め。馬鹿野郎め」
もうひと蹴り拍車を入れた。馬は高くいなないて速度を速めた。時間と風景は灰色の縞となって、
またたくまに後方に飛び去っていった。
どれほどの日々を走りつづけたのか、ラルフにはもうわからなかった。
どんよりと曇った午後だった。馬は、見捨てられた村の廃墟にたどり着いていた。
何かに引かれるようにラルフは馬を進めた。ぼろぼろの掘っ立て小屋の跡をぬけると、廃墟の奥に
位置する、古びた礼拝堂にたどりついた。外壁は黒く焼けこげ、とがった屋根の上の傾いた十字架
が、灰色の空にやせ細った手のように伸びていた。
正面の扉はしっかりと閉ざされている。
ここまで来て、馬がついに限界を迎えた。ラルフが鞍を降りると、馬はふらついて口から白い泡を
吹いて座り込んでしまった。ラルフは忠実な馬の首を叩いてやり、枯れ草を踏みしめて、壊れかけた
礼拝堂に近づいた。
まちがいない。ここだ。あいつはここにいる。
「アドリアン!」
ラルフは叫んだ。声はむなしく反響し、曇り空に吸いこまれて消えた。
「アドリアン、俺だ! 迎えに来たぞ! アドリアン!」
返事は、なかった。閉ざされた扉はぴくりとも動かず、中で何かが動く気配もなかった。礼拝堂
はただ、沈黙を保っていた。それは絶対的な沈黙、死の沈黙だった。
「──アドリアン!」
耐えきれずに、ラルフは正面階段を駆けあがった。飛びあがるひょうしに足を捻ったが、もうそんな
ことにかまってはいられなかった。
- 70 :第16話7/9:2006/07/21(金) 20:01:02
- 閉ざされた扉に、身体ごと思いきり体当たりする。まるで分厚い鉄板にぶち当たったような
ものだった。扉は軋みもしなかった。
はじき返されて、ラルフは地面に腰を落とした。理解できずに扉を見あげる。
ただの木の扉だ。これよりずっと堅牢な扉を、何度も力まかせに打ち破ったことがある。それ
なのに、たわみ一つできないとは──
「アドリアン……アドリアン! 開けてくれ!」
おそらく、中から彼が魔力で封じてしまったのだろう。魔の力によって封じられた扉は、
選ばれたものにしか開けることができない。いくら力で打ち破ろうとしたところで無駄だ。
おそらく、一見崩れやすそうに見えるこの礼拝堂全体に、封印は行き渡っているにちがいない。
この中には入れない。
眠れるアルカードが目を覚まし、自分で中から開けてくれる以外には。
「アドリアン! アドリアン、俺だ! ラルフだ!」
血を吐くように叫んで、ラルフは扉に拳を叩きつけた。
扉はぎしりとも言わなかった。
「応えてくれ、アドリアン! どうしてこんなことを……頼む、話をさせてくれ! 出てきてくれ、
頼む、声を聞かせてくれ、アドリアン──アルカード……」
拳が裂け、血が流れた。痛みはまるで感じなかった。ここを打ち破れるのなら、手の一つや
二つ、くれてやってかまわなかった。
「せめて……もう一度──顔を見せて……」
──返事は、なかった。
「……アドリアン」
扉の表面に濃い血の筋を残して、ラルフはずるずるとその場に崩れおちた。
疲れはてて、その場に身を丸める。走りつづけた疲労と絶望が、今になって鉛のように全身に
のしかかってきた。流れる血がゆっくりと石の上に溜まり、ねばい流れを作ってしたたり落ちていた。
- 71 :第16話8/9:2006/07/21(金) 20:01:48
-
エルンストが馬車と家のものを連れてやってきたときにも、ラルフはまだその姿勢のままでいた。
「若」
幼い子供に呼びかけるように、エルンストはそっと呼びかけた。
「お迎えにあがりました。私どもといっしょに、お戻りくださいまし」
「嫌だ」
ラルフは顔をあげようともしなかった。
扉の血はすっかり黒ずんで、石に流れた血も固まっている。血まみれの拳は、まるでナイフで
切り裂かれたようにずたずただった。
だがおそらく手よりも、身体の傷よりも、心の傷のほうがはるかに致命的だったろう。裂けた
手のひらに、血に染まった細い銀色の指環がしっかりと握りしめられていた。近づいてきた老家令
から、ラルフは顔をそむけた。
「……どうして、ここがわかった」
「人に尋ねました。疾風のような勢いで、馬を駆っていく若い男を見なかったかと」
ラルフはなにか低く呟いた。罵り言葉のようだった。
「さ、ここにいてもあの方を目ざめさせることはお出来になりますまい。また、あの方もそれを
望まれないでしょう。お戻りくださいまし、若。家の者はみな、貴方さまのお帰りをお待ちして
おります」
「そんなものは全員地獄に堕ちろ。お前もだ、エルンスト」
「承知しております」
悲しげにエルンストは言った。そして若い主人をやさしくかかえ上げようとした。
「放っておいてくれ」
ラルフは乱暴に振りはらった。
- 72 :第16話9/9:2006/07/21(金) 20:03:07
- 「俺はここにいる。ここにいなきゃならないんだ。あいつはここにいるんだ……ここに。俺は
約束した……あいつを独りにしないと。だから、俺はここにいなきゃならない。ここに、いて
やらなきゃならないんだ」
「しかし今、ご自分がどのように見えるか、貴方さまはおわかりでないでしょう」
エルンストは振りはらわれた手をそのままに、おだやかな声で言葉をついだ。
「こう申しあげてはなんですが、まるで幽鬼か死霊、いえ、彼らでももっと精気のある姿を
しておりましょう。このままここにおられては、いずれ、餓えと渇きでお命を失われることは
目に見えております」
ラルフは唸っただけだった。そうなった方がましだ、というように聞こえた。
「貴方さまはそうかもしれません。けれども、あの方は眠っておられるだけなのです」
辛抱強くエルンストは言葉をつづけた。
「もし、ここで貴方さまがお亡くなりになれば、結局ここに、生の世界にひとりあの方を
置き去りにすることになりますぞ。それでもよろしいのですか」
はじめて、ラルフの肩がぴくりと動いた。
わずかに頭をあげて、家令のほうを見あげる。乱れきった固い髪の下で、濃い青い目が
憑かれた者のように爛々と輝いていた。
エルンストは静かにただ見返していた。
「……あいつは、死んでいない」
「はい」
「だが、生の世界でも逢えない」
「少なくとも、今、この地上では」
苦しげにエルンストは言った。
彼自身、そんなことを言わずにすめばいいのにと思っている口調だった。
「そして、おそらくは──死の世界でも」
ラルフは再び顔を伏せた。肩が震えた。
血で染まった石段に額を押しつけ、やがてその口から、長い、獣のような慟哭がほとばしった。
- 73 :エピローグ/ラノレフ 第一話1/6:2006/09/16(土) 19:56:20
- 「ここまででいいわ。ご苦労様」
前を歩いていた下女はとまどったように振り返った。黒い目にはとまどいと、それに入りまじる
安堵の色があった。
「お部屋まで御案内するように言われてるんですけど」
おずおずと彼女は答えた。
「いいえ、それはもういいの。ここからはわたし一人で行きます。あそこに見える、あのドアね?
奥から二番目の?」
彼女は再びうなずいた。この、威厳に満ちあふれた若い女はいったい誰なのだろう、という疑問
がまたちらりと頭をかすめた。
もちろん、それは彼女のような身分の者が考える問題ではなかった。だが、今、かつてない波乱
におおわれているこの屋敷に、ほとんど供の者も連れずに突然やってきて、自信に満ちた口調で
てきぱきと家の者に指示を与えているこの女性が、ただ者であるとはとうてい思えなかった。
本来なら、彼女を当主の部屋まで案内するのは家令のエルンストの役割のはずだった。
だが、半月ほど前からエルンストは当主の身辺に近づくことを禁じられ、エルンストもまた、
黙ってそれを受け容れていた。
あの謹厳な老家令が、汚れてやつれきった若当主を連れてもどってきて以来、ベノレモンド家には
ずっと嵐の気配、雲の奥にこもった見えない雷電のような、ぴりぴりした雰囲気が漂っている。
それは主に、ずっと閉じこもったままほとんど姿を見せない若当主の部屋から発していた。
彼は起きられるようになるが早いか、屋敷にあるだけの酒を持って、自室にこもりきりになって
しまった。酒のなくなったときだけ誰かを呼びつけて代わりを持ってこさせるが、それ以外には
けっして人を近づけようとしない。食事や掃除を、せめて新しいシャツやシーツを届けようとした
使用人さえ、怒鳴りつけて追いはらった。以前の闊達な彼を知っている者からすれば、別人としか
思われぬ変わりようだった。
- 74 :エピローグ/ラノレフ 第一話2/6:2006/09/16(土) 19:56:57
- 真相を知っているのはエルンストと、彼に同行した忠実な使用人頭、そして、若い当主本人、
ただそれだけだった。
「心配しなくてもいいのよ」
義務と恐れの板挟みになって立ちすくんでしまった彼女をなだめるように、貴婦人はやさしく
声をかけた。
「何かあったらすぐに呼びます。でも、しばらくはこの近辺には誰も近寄らせないようにして、
わかったわね? 彼はわたしには何もしないわ。古い馴染みなんだもの」
「はい、ヴェルナンデス様」
彼女はやっと細い声をしぼり出し、あわただしく頭を下げて背を向けた。
逃げるような足取りになったのが恥ずかしく、罪悪感に胸が痛んだ。だが今の当主に近づくのは、
ましてやその姿を目にするのは、彼女のような普通の娘には、荷が重すぎた。
「お救いくださいまし、主よ」
胸に下げた十字架を取りだしてこっそり十字を切る。
御当主様はお元気になられるだろうか。そうなればいい、と願わずにはいられなかった。彼が
失われれば、彼女と家族が住む、この荘園もばらばらになってしまうのだ。
土地を持たない農奴が生きていくには、どこか別の荘園の下働きになるか、ぼろをまとった流浪民
になって盗みや売春に手を染めるしか道がなくなる。ベルモンド家ほど、家作の人々を扱うのに寛大な
荘園主がそう多くいるとは思えない。
あの美しい貴公子には、彼女も何度か飲み物を運んだことがあった。やさしい物腰と、思わず
見惚れるほどの美貌にはいつも魂を奪われる心地がした。ほほえみかけられるとその日一日、
すべてのものが輝いているような幸福感を感じたものだった。
今でも、あの美しい者が魔だったとは個人的には信じられなかったが(だって、あんなに綺麗で
おやさしかったのに!)男たちがそう言う以上、そうなのだろう。町の司祭様もお説教でたびたび、
悪魔は人間をたぶらかすために美しい姿をまとい、甘い言葉を使うとくり返していらっしゃる。
- 75 :エピローグ/ラノレフ 第一話3/6:2006/09/16(土) 19:57:28
- 彼女の単純な頭の中では、男たちと聖職者がそうなのだと断言すればそのことに間違いはないので
あり、彼らに反論したり反対することは、ささやかなその思考の中には含まれていなかった。
男たちは貴公子と若い当主についてさらに下卑た噂も交換しあっていたが、そのことに関してだけ
は、彼女は断固として頭から閉め出していた。それが彼女にとっての、できるかぎりの小さな抵抗
だった。
小さな十字架をしっかり握りしめて、娘は躓かんばかりに階段を駆け下りた。
お仕着せの娘の背中が階段に消えるのをたしかめて、彼女はそっとため息をついた。
状況は、予想していたよりずっとひどかった。せめてもうあとひと月早く着いていれば、と
悔やまずにはいられなかったが、もはや取り返しのつかないことを考えても意味はない。過ぎ
去ったことをくよくよ思い悩むことは、彼女のやり方ではなかった。
憔悴しきった顔の老家令は、どうぞ若をお救いください、と懇願した。
『わたくしがお側に参るわけにはまいりません。そんなことをすれば、ますますあの方のお苦しみ
を増すばかりでしょう。貴女様のみが頼りです、ヴェルナンデス様、どうぞあの方の苦悩をなだめて
さしあげて下さいまし──たとえ、癒すことはできずとも、せめて』
彼女の手をとり、祈るように言った老家令の手は震えていた。彼もまた、自分の主人の苦痛が
誰にも、すでにこの生命の世界からは消えてしまったある者をのぞいて、誰にも、癒し得ぬことを
知っているのだった。
彼女もまた、そのことを熟知していた。二人と別れてからほぼ一年、こうなることは予測が
ついていたはずだったのに、何もしてやれなかった自分に怒りがわいた。そう感じることは
理不尽だったが、どうしても抑えることができなかった。
ドアの前に来た。雑念を払いのけ、彼女はしゃんと頭を立てた。
- 76 :エピローグ/ラノレフ 第一話4/6:2006/09/16(土) 19:57:59
- ゆたかな金髪は凝った形に結い上げられ、真珠の飾り櫛がつつましく輝いている。白鳥のような
首にはレースと金の襟飾りがまとわりつき、耳にはサファイアの小さな耳飾りが光る。ふくよかな
胸と腰の線をさりげなく見せる青いドレスには、彼女のしなやかな肢体を最大限に美しく見せるよ
う、手の込んだ裁断がなされていた。
「ラルフ・C・ベルモンド」
はっきりした声で彼女は言った。
「わたしよ。ヴェルナンデス。入るわよ、いいわね」
ドアを開けたとたん、むっとするような温気と、それを凌駕する強い酒精の臭いが吹き
つけてきた。
窓は固く閉ざされ、何重もの分厚い布で覆いかくされていた。まるで、板のすきまから入る
光さえ厭うかのようだった。
床は砕けた酒杯や素焼きの壷、瓶、踏みつぶされた革袋で足の踏み場もない。あちこちに衣類
や靴が脱いだまま放り出され、絨毯が酒の染みでべっとりと汚れている。
小さな家具類はことごとく投げ倒されるかひっくり返され、中身を床に吐き出していた。椅子や
小卓は壁ぎわで残骸になっているのもいくつかあった。壁に下げられた綴織が、ずたずたに引き
裂かれて海藻のようにだらりと垂れさがっていた。
かろうじて残った奥のひじ掛け椅子で、一人の人物がうっそりと目をあげた。
部屋の闇にしずんでほとんど顔の輪郭もわからなかったが、何かにとりつかれたようにぎらぎら
と光る眼は大きく見開かれて、血走った瞳で侵入者を凝視した。
「──サイファ」
声はしわがれ、まるで百歳の老人のようだった。
それから突然、ひきつったような笑い声をあげた。長いあいだのけぞってげらげらと笑いつづけ、
ふいに静かになって視線を戻した。
- 77 :エピローグ/ラノレフ 第一話5/6:2006/09/16(土) 19:58:37
- 「いったいなんだ、その格好は? まるで宮廷貴婦人そのまんまってとこじゃないか。前に着てた、
あのくだらない灰色の僧服はどうした? 道中で物乞いにやったのか、それとも、ドラキュラを倒した
ご褒美に総主教の後宮にでも入ることになったか?」
「残念ながら、そのどちらでもないわね」
冷静にサイファは言った。
「とりあえず、座っていいかしら。疲れてるの。ここへ来るのにまる一週間、馬車の中で寝泊まり
しなくちゃいけなかったから」
ラルフはいいかげんに片手を振った。どこへでも勝手にどうぞ、という仕草だった。
だが部屋には主自身が座っている椅子以外、無事なものがほとんどない。ごみや木ぎれの散乱する
中、サイファはあたりを見回し、ぼろぼろの綴織の下に隠れて難を逃れた細長い背もたれの木椅子を目に
とめ、それを起こして腰を降ろした。
「散らかっててすまんな」
小さくしゃっくりをしながら、どうでもよさそうにラルフは詫びた。頬が削れたようにそげ落ちて、
鋭い顔つきをよけいに恐ろしげに見せていた。
まるで、折れる寸前まで研がれた剃刀の刃だった。尖った顎にまばらに無精髭が見え、服は何日
替えていないのか、酒と汗とで汚れ放題の悪臭を放っている。
「ただ、今はちょっとばかり取りこんでてな──わかるだろう──どうでもいいことさ。家の中の、
どうでもいいことだ。あんたの気を悪くさせたなら謝るが」
「別にいいわ。わたしも、べつに遊びに来たわけじゃないから」
そっけなく言って、サイファはしばらく黙った。
ラルフは彼女の存在を無視して、手にした革袋から直接葡萄酒をあおった。
「ずいぶん呑んでいるようね」
「ん? ……ああ」
口に運びかけたのを止めて、ラルフは手にした革袋を、汚いものでも見るかのように見つめた。
- 78 :エピローグ/ラノレフ 第一話5/6:2006/09/16(土) 19:59:24
- 「こんなもの、……少しも効くもんか」
吐き捨てるように呟いて袋を振る。液体の揺れる音が重たげに響いた。
「呑めば呑むほど頭が冴えるばっかりだ。呑めば呑むほど、あいつの顔ばかり頭に浮かんで」
唐突に言葉を切って、一気に中身を喉に流し込む。
黒ずんだ滴が顎を伝って流れるのを無造作にぬぐった。さらに呑もうとして、もう袋が空なのに
気づいた。腹立たしげに床に叩きつけ、かたわらに積んだ別の袋に手を伸ばす。
「話は聞いたわ。アルカードのこと」
サイファは言った。
ラルフの手が一瞬止まり、また取りあげた新しい酒の封を乱暴に切る。
「もっと早く来られなかったこと、申しわけなく思ってる。総主教の裁定が下るのに、ずいぶん
時間がかかったの。許可が出てすぐコンスタンティノープルを発ったんだけど、山を越えるのに
天候が悪い日が続いて、余計に遅れてしまった」
ラルフはどうでもいい、と言いたげに鼻を鳴らしただけだった。
「──行ってしまったのね、彼は。アルカードは」
「ああ。それも見事に、な」
できるかぎり無関心を装ったつもりらしかったが、喉を絞められたような声と震える唇が言葉を
裏切っていた。ごまかすようにラルフはまた一口酒をあおった。
「俺は行くつもりだった。本当に、そのつもりだったんだ。あいつが行くと言うならどこへでも
いっしょに行くつもりだった、それが人でない者の世界でも──永遠の闇でも──最悪の地獄の
底でも、俺は、必ず……行くつもりだったのに」
「ええ。あなたならそうでしょうね、ラルフ」
ほとんど聞こえないほどの声でサイファは呟いた。
- 79 :エピローグ/ラノレフ 第一話7/6:2006/09/16(土) 20:00:01
- 「あなたは嘘をつけない人、ついたところで、すぐにその嘘に耐えきれなくなってしまう人だわ。
アルカードもきっと、それを知っていた。むろん、わたしも」
「それが目を覚ましてみれば、あいつはもうどこにもいない」
ラルフはサイファを無視して呟き、口の端から大半がこぼれるのも構わずにがぶがぶと酒を流しこんだ。
はだけたままの裸の胸に、酒が血のように筋を引いた。
「どこにもいない──この地上にいるのに、その場所も知っているのに、もう二度と声を聞くこと
も、顔を見ることもできない。死んで追いつけるのなら喜んでそうするのに、あっちに行っても、
あいつはいないときている」
酒を持っていない方の手が何かを探るように伸ばされ、強く握りこぶしを作った。そこにない
ものを、むなしく引き寄せようとするかのような仕草だった。
「俺の心も、魂も、ぜんぶ持って行くことはわかっていたくせに、──なんで、命は持って行って
くれなかった。そうすれば少なくとも、あいつの命の一部に溶けて、ずっといっしょに眠れたのに」
短く、しゃくり上げるように笑って、ラルフは酒臭い息を吐いた。
「まったく、見事に置いていかれたもんだ。この俺がな」
サイファは黙ってゆっくり首を振った。
ラルフが死を口にしたことを咎めているようにも、認めているようにもどちらにもとれる仕草だった。いずれにせよ、ラルフの述懐を、彼女が一片の疑いもなく信じていることは疑いようがなかった。一年
の間をおいても、共に戦ったものとしての共感はまだゆるんではいなかった。
「とにかく、わたしがここに来た用事を伝えるわね」
無関心に酒を飲み続けるラルフに目を戻して、サイファは言った。
「単刀直入に言うわ。
──わたしと結婚しなさい、ラルフ・C・ベルモンド」
- 80 :エピローグ/ラノレフ 第二話1/7:2006/09/24(日) 20:05:21
- 不穏な沈黙が流れた。
稲光のあと、雷鳴がとどろくまでの間の張りつめた静けさのようだった。ぴんと張った沈黙の糸
を切ることを恐れるかのように、ラルフが低い声で言った。
「──なんだと?」
「わたしはここに、ただ旧交を温めに来たわけではないのよ」
きちんと両手を膝にそろえたまま、サイファはまっすぐにラルフを見つめていた。
「わたしは今日、東方正教会からの使者としてここに来たの。正式なね。
教会はあなたの魔王ドラキュラ討伐の功績に対して、最大の栄誉と報償を与えることを決めたわ。
つまり、高貴の身分の新しい妻と、莫大な報奨金を。
わたしの今の身分は、ウォランド辺境伯の三番目の息女で、いま生き残っている中では唯一の
遺産継承資格者ということになっているわ。ウォランド伯というのはもう五十年ほど前に絶えて
しまった家名だけど、そんなことは教会にとってささいなことだわ。要はわたしというただの女に、
魔王を討伐した英雄に与えるのにふさわしい箔をつけなければならなかっただけだもの。
それから、報奨金という名を出すのも避けたいのよ、彼らは。それは、教会が結局魔王を自分の
手で倒すことができずに、ベルモンド家の──自分たちが悪魔と同じ扱いをしてきた魔物狩りの一族の
力を借りなければならなかったことを、公に認めることを意味するのだもの。
だから、わたしという女に適当な身分と十分な財産を与え、それを持参金として、あなたのもとに
妻として送りつけることにした。
今のわたしは大金持ちよ。荘園が二つといくつかの港湾ギルドの株が相当数わたし名義になってる
し、それからフィレンツェの銀行には、十万デュカートの金貨が唸ってる。
結婚すれば、それはすべて夫であるあなたのものになるわ。若くて身分の高い、大金持ちの妻。
しかも、総主教が自ら選んで祝福した女と結婚できるなんて、なんてベルモンドの当主は光栄な幸せ者
だろう、とそういうわけね」
- 81 :エピローグ/ラノレフ 第二話2/7:2006/09/24(日) 20:06:02
- 「──で?」
ラルフの声は危険なまでに低かった。
「それで、その他には何を命令されてる? ここへ来て、俺の目の前に財宝と地位をぶらつかせて
たぶらかせと、その命令のほかには?」
「……一年に一度、必ず総主教庁に報告をしろ、と。もちろん秘密裏に」
サイファはわずかにうつむいて、ラルフの視線を避けた。
「あなたと、あなたのベルモンド家が教会に対して何か不穏な動きをするようなら、すぐに報せろ、
とも命令されてる。アルカードについてもいろいろと言われてきたけど、彼がもうここにいない以上、
わたしは言わないし、言う必要もないでしょう。
教会はまだあなたを信用しているわけではないわ、ラルフ。むしろ、自分たちのできなかったことを
あなたがなしとげたおかげで、今では、以前よりよけいにベルモンドの血を警戒するようになっている。
でも、まだ魔物やドラキュラの眷属が地上を徘徊している以上、あなたと、あなたの所有する鞭の力
を手放したくはない。かといって、このまま英雄呼ばわりされるベルモンドの者を、野放しにして──
言い方が乱暴なのは勘弁してね──教会以上の尊敬を集められるようになるのは、絶対に困る」
「それで、出された妥協案が、あんたというわけだ」
「ええ。わたし」
サイファは椅子にゆっくりともたれて指を組み合わせた。
「大金持ちで身分も高い、一緒に戦ったことで気心も知れている、美しい若い女」
「そう」
「で、教会には忠誠を誓わされている」
「その通りよ」
「そして、そいつと結婚させることで、俺とベルモンドに教会につながる首輪と鎖をつけ、鼻先を
つかんで、いいように引きずり回そうとしている」
「まあ、そういうことになるわね」
- 82 :エピローグ/ラノレフ 第二話3/7:2006/09/24(日) 20:06:43
- ──部屋の中の空気が一点に凝縮するかのような、一瞬の間が開いた。
「ふざけるなアッ!」
すさまじい音がした。
怒声とともにラルフは全身の力をこめて腕をなぎ払った。破片が飛び散り、こぼれた酒が壁と床に
叩きつけるような音をたててしぶいた。
サイファはまばたきひとつしなかった。
「俺からあいつを引き離しておいて、今度は、初めから教会の回し者だとわかってる女と結婚しろ、
だと?」
振り抜いた手をわななかせながら、ラルフはまだ肩で息をしていた。
小卓が吹き飛び、乗っていた杯や瓶といっしょに、壁際でこなごなになっていた。乱れた前髪の
間から、憤怒に煮えたぎる目が狂おしくぎらついている。
「たわごともいいかげんにしろ、この教会の犬め。出て行け。二度と来るな。あんたの顔も声も、
二度と見たくないし聞きたくない。俺があんたの首をへし折らないうちに、今すぐ、とっとと
ここから出て行ってくれ」
「……そうね。わたしもそう思う。自分で言っていて吐き気がするわ」
両手を膝に置いたまま、サイファはわずかに視線を下げて呟いた。
だが、意を決したようにすぐにきっと頭を上げて、再びラルフを見据える。
「でも、よく考えなさい、ラルフ・C・ベルモンド。これが現実なのよ。
教会は、あなたを信用していない。もし、この話を拒絶してわたしを送り返せば、総主教は即座
にあなたを背教者として糾弾し、ドラキュラと同じように狩りたてるつもりよ」
ラルフはただ黙って顔をそむけた。
「アルカードを保護していたことも、いい方向には働いていない。わたしがコンスタンティノープルを離れるのが
遅れたのも、実はそのせいなの。できるかぎり彼の──アルカードのことについて弁護して、その働き
を訴えてみたけれど、彼の身体に流れる闇の血を恐れる人間の本能を押さえることはできなかったわ。
- 83 :エピローグ/ラノレフ 第二話4/7:2006/09/24(日) 20:07:18
- もうこうなれば言ってしまうけれど、わたしは、ここへ来てアルカードを殺すか、少なくとも、捕らえ
てコンスタンティノープルへ引き渡すようにとも命じられてきたの」
聞きたくないとばかりにまた酒に手を伸ばしかけていたラルフの動きが止まり、喉が、鋭く空気を
吸う音をたてた。
「もちろん、もうここに彼がいない以上、その命令は実行不可能なのだけれど」
彼の口が開いて声を発する前に、サイファがすばやく言葉をついだ。
「彼がどこへ行ったのか、わたしは訊かない。探す気もないわ。教会にも、その通りに言うつもり。
だけど、あなたの問題は変わらず残ってる」
「俺の問題? 問題がどうしたっていうんだ」
今にも爆発しそうな感情をむりやり押し込めて、震える声をようやくラルフは抑えた。
「出て行けと言ったのがわからないか。奴らが俺を背教者呼ばわりするなら、勝手にそうさせるが
いい。こんな家名も、あのむかつく鞭も、教会も魔物ももうたくさんだ。
何がどうなったって構いやしない。どっちにしろ、あいつにはもう二度と会えないんだ。俺の──
アルカード──には」
「あなたは、そうでしょうね。ラルフ」
きちんと座った姿勢を崩さずに、サイファは言った。
「でも、彼は? アルカードのほうはどうなるのかしら」
「アルカード?」
恐ろしい勢いでラルフは振り返った。
「今さらあんたにその名を口にされたくないな、サイファ。教会のイヌに成り下がったあんたに、たとえ
昔は友人だったとはいえ、あいつのことを呼ばれるのは我慢できない」
「アルカードは死んでいない。まだ生きているのよ、ラルフ」
ラルフの怒りは無視して、あくまでも平静にサイファは言葉をつづけた。
- 84 :エピローグ/ラノレフ 第二話5/7:2006/09/24(日) 20:07:59
- 「少なくとも、あなた──とわたし──が生きている間は、目覚めない眠りかもしれない。永遠の
眠り、と彼は言ったと、あなたの家令は話していたけど、でもラルフ、未来にはどんなことが起こる
か、誰にも正確なところは言えないのよ」
ラルフは何かを言おうとして口を開き、そのまま閉じた。
「もしかしたら何かが起こって、ずっと遠い未来に、ふたたび彼が目を覚ますことがあるかもしれ
ない」
サイファは言った。
「その時、彼はどうなると思うの? もし、ベルモンド家がもうなかったら? 彼を知っている者も、
愛している者も、だれ一人地上に残っていなかったとしたら?
そうなれば今度こそ彼は、だれも知るもののない地上で、たったひとり、けっして自分を受け入
れてはくれない世界に立ち向かっていかなくてはならないのよ。それこそあなたが、それから
わたしも、いちばん避けたかった事態ではなかったの?」
ラルフはかすかに呻いたが、言葉の形にはならなかった。乗りだしたままわなわなと震えていた上体
からゆっくりと力が抜け、椅子の深みに沈みこむように腰を落とす。
「あなたは彼を守ろうとした」
サイファは静かに言った。
「そしてわたしも、彼を守りたいの。これは真実よ、ラルフ、信じてくれようとくれまいとかまわない
けれど。
そして、今わたしたちにできることは、なんとかしてベルモンド家を、たとえ教会の監視下であろう
と存続させて、彼が、アルカードが目覚めたときに、帰ってこられる場所を用意してあげておくこと
しかないの」
「帰ってくる。ここに……」
「そう。ここに」
サイファはこの部屋に入ってきてはじめて背もたれから離れて手を伸ばし、投げ出されたままのラルフの
手に、そっと片手を重ねた。
- 85 :エピローグ/ラノレフ 第二話6/7:2006/09/24(日) 20:08:48
- 「これは戦いだわ、ラルフ」
押し殺した声で、彼女は囁いた。
「それも、あの魔の城でわたしたちが戦ったのとは違う。敵の姿も見えなければ、武器を使うわけに
もいかない、世界と、人間を相手にする戦いなのよ。
でも、わたしたちは勝たなければならない。そして、生き残らなければ。
いつまでも教会が今のような強権をふるう時代が続くとは、わたしは思わないわ。必ず、もっと
自由な時代が来る。アルカードが普通の人間に混じって暮らせる時代だって、いつかは来るかもしれない。
その時のために、わたしたちは、彼が安心して身を寄せられる場所を用意しておかなくては
ならない。彼がいつでも、ここに、この家に、帰ってこられるように」
ラルフの手がひきつり、強く拳を作った。
反射的に振りはらおうとする手を、サイファはしっかりと握って放さなかった。
「彼のことを想うなら、協力して。ラルフ・C・ベルモンド」
ラルフの手を握りしめたまま、もう一度サイファは強く言葉を重ねた。
「わたしのことは信じなくてもいい。でも、あなたの、彼へ気持ちを信じなさい。そして考えて、
何をするのがいちばんいいか。あなたはきっとわかるはずだわ」
ラルフはなにも答えなかった。
サイファはしばらくじっとそのかたく握られた拳の上に手を置き、やがて、そっと手をはずして、
立ちあがった。
「帰るわ」
淡々と彼女は告げた。
「しばらく、この近くの街の宿屋に滞在することになってるの。十日ほどしたらまた来ます、その
間に、どうするか決めておいて。とにかく、わたしが言うべきことはこれで全部。アルカードは決断し、
そして、わたしも決断したわ。今度は、あなたが心を決める番よ、ラルフ・C・ベルモンド」
黙ったままのラルフに背を向けて、サイファは戸口に進んだ。
扉を半分開けたところで彼女はふと足を止め、振り向かないまま、「ラルフ」と声をかけた。
- 86 :エピローグ/ラノレフ 第二話7/7:2006/09/24(日) 20:09:38
- 「アルカードが姿を消したのは、あなたを信じなかったからじゃない。あなたを信じたからこそ、彼は
行ってしまったのよ。──そのことは、わかっているのよね」
それだけ言い残して、彼女は静かに部屋を出ていった。
扉が閉まり、ふたたびラルフは暗がりに一人残された。
膝の上にぐったりと頭を垂らし、肉体の重みに耐えきれないかのように、だらりと手足を投げ
だしている。茫然と宙に目を投げていたが、無意識のうちに手が上がって、この数日、習い性に
なっていた動作を──酒袋をつかみ、口まで持っていく動きを──した。
だがそれは、唇まで届く前に止まった。ラルフはまばたき、顔の前まで持ってこられたしみだらけ
の酒袋にじっと見入り、ふいにはげしい嫌悪をあらわに横に放りだした。
再び、疲れたように椅子によりかかり、眼を覆う。
握りしめたままの拳に、何かが光っていた。細い、金の鎖。その先には小さな、繊細な細工の、
白金の指環が通されているはずだった。
『彼』が、行ってしまう前に残していった、たった一つのもの。
「──アドリアン……!」
絞り出すような呻きが、ひびわれた唇を割ってもれた。
- 87 :エピローグ/ラノレフ 第三話1/9:2006/10/12(木) 18:47:24
- ──それからちょうど一か月後、ベルモンドの若当主と、コンスタンティノープルから来た高位の貴婦人との
婚約が発表された。
人々の前にあらわれた女性は美貌もさることながら、小作人たちにはわけへだてないやさしさを、
物珍しさでやってきた客には高い知性と当意即妙の機知とを発揮し、たちまちみなの心をとりこに
した。
夫となるはずの若い当主も、無難にその役をこなしていた。誰も見ているもののないと確信できる
ときには、その顔は曇り、どうしようもない苦渋が噛みしめた唇ににじむことがあったが、それを
彼はとうとう最後まで自分以外のものに見せることはなかった。
結婚式はそれからさらに一か月後、収穫祭を終えて、そろそろ冬の準備にかかろうかというころに
行われた。
花嫁がもたらした多額の持参金と、新しい広い土地とのおかげで、ベルモンド家は一気にこのあたり
に類を見ない大地主に成長していた。婚礼のお客は若当主とその美しい妻をたたえ、気前のいい
ふるまい酒に酔いしれた。
式では、総主教庁からわざわざ届けられた総司教からの祝福の言葉と、天なる主の加護を祈る
祈祷が数人の修道士によって捧げられた。花嫁と花婿は頭を低く垂れ、一度も顔をあげなかった。
花嫁はひとこと「誓います」とだけ口にしたが、花婿のほうは、ただ沈黙によってだけ同意を示した。
格式張った儀式が終わり、陽気な騒ぎが周囲で渦を巻くなかで、花嫁と花婿だけは静かだった。
黙ったまま並んで座り、これから先に待ち受けていることに備えるかのように、しっかりと手を
握りあっているのが唯一結婚した男女らしいといえばいえる仕草だった。
そのことについてからかう客も多かったが、明るい冗談とはなやかな笑顔で話をそらしてしまう
のは、いつも花嫁の役目だった。花婿はときおり、かすかに唇をゆるめるだけで、ほとんど言葉を
発しなかった。
おかわいそうに、と人々は言いあった。まだあの魔物にとりつかれていた疲れがお残りなのだ。
それでもあんなにお美しい、しかも総司教様の祝福を受けられた奥さまがいらっしゃるなら、すぐ
に回復なさるだろうが。
宴が果てて、花嫁と花婿は客たちの喝采と野次を背に、連れだって寝室に引っこんだ。
初夜の見届け役を買って出た何人かの客があとに続こうとしたが、それはこの家の老家令によって
厳しく押しもどされた。
- 88 :エピローグ/ラノレフ 第三話2/9:2006/10/12(木) 18:47:56
- 「世間のしきたりがどうであれ」
白髪の老家令は侵しがたい威厳をもって言い切った。
「当家には、当家のしきたりがございます。初夜の見届け役は、家の者が責任を持っていたします。他家の方には、どうぞご遠慮いただきとうございます」
酔っぱらった客たちはぶつぶつ言ったが、それでも、老家令の堂々とした態度と、無理にでも
押し通れば力ずくも辞さないという気概に負けて、すごすごと退散した。そのころには広間に
新しい酒と料理が運ばれ、主賓たちがいなくなったということもあって、さらなるらんちき騒ぎが
始まっていたこともあった。
……老家令は小さく息をつき、主人とその新妻が消えていった奥の間を悲しみと気づかいのない
まぜになった目で見やった。もちろん、彼らのあいだに他の誰かを見に行かせるつもりなどなかった。
ある意味では、彼もまた、主人たちが立ち向かおうとしている戦いの戦友でもあるのだ。しかも、
若い主人の心を深く引き裂くことになったあの別離を、用意したのは自分なのだ。その事実は、消し
ようのない負い目として彼の老いた背にのしかかっていた。主人は二度と彼を責めるような態度を
とらなかったが、自分を見つめる彼の目に、もはや消しようのない痛みが浮かぶことに、気づかない
ような彼ではなかった。
言葉はなかった。何を口にしたところで、欠けてしまった主人の心は永遠に欠けたままだろうし、
若い妻がそのかわりになるはずもないことは承知していた。ましてやその妻が教会から派遣されて
きた監視者でもあるということを聞かされていてはなおさらだった。
彼にできるのは、ただ祈ることだけだった。誰に、何に対して祈るのかは、すでにわからなく
なっていた。あの輝かしいまでに高貴で純粋だった青年を、体内についだ闇の血のために迫害して
やまない人間の神に祈る気にはとてもなれない。
それでも祈らずにはいられなかった。ある意味では息子のように、息子以上に育ててきた若い当主
のために、黙って去っていったあの美しい公子のために、教会から寄こされてきたにもかかわらず、
そのことをありのままに話してくれた花嫁のために。
- 89 :エピローグ/ラノレフ 第三話3/9:2006/10/12(木) 18:48:29
- どうか、と呟いた言葉の先を見つめることはできなかった。エルンストは向きを変え、給仕たちが指示
を待って呼んでいる方角へ歩いていった。胸は鉛のように重かったが、彼もまた、それを表に出す
わけにはいかないのだ。主人たちと同じ、それは戦いだった。
「で、どうするの?」
二人きりになった部屋でベッドに腰かけ、サイファは言った。結い上げた頭から乱暴にピンを抜きとっ
ては放り投げ、腹立たしそうに頭を振る。長い金髪が滝のように夜着の上に落ちた。
「どうって?」
ラルフは黙ったまま小卓のそばに立ち、新婚の部屋には必ず用意される強い蜂蜜酒の杯を眉をひそめ
ながら口に運んでいる。
「みなが期待しているようなことをするかどうかよ」
いらいらしたようにサイファは言った。
「子供のことなら、わたし、いろいろごまかし方も知ってるわ。なんだったら、いかにも妊娠した
ように見せる方法もね。しばらくそれでごまかしておいて、いざとなったら教会のつてで、どこか
から身寄りのない赤ん坊をひとり引き取ってきてもいい。たぶんそのほうが教会は安心するし、油断
もするわ。自分たちの選んだ血筋の者を、ベルモンド家の血に送り込めるんですからね」
「そういうことなら、奴らの計略に乗るのは気にくわないな」
ラルフは言った。からになった杯を置いて、ゆっくりとサイファの隣に腰を降ろす。
「奴らとしては、ベルモンド家に血筋上でも首輪をつけて、自分たちの飼い犬にするのが最善の展開と
いうことなんだろう。そんなことになってたまるか。どうせなら俺は、俺の血をきちんと継いだ子
がほしいし、それでなければ結婚する意味なんぞない。
これは戦いだ。そう言ったのはあんただぞ、サイファ。少しでも敵の意図に添うようなことなんぞして
たまるか。俺たちは戦い、そして勝つ。そのためには譲れる場所は譲っても、譲れない場所だけは
死守しなければならない、違うか」
- 90 :エピローグ/ラノレフ 第三話4/9:2006/10/12(木) 18:49:03
- 「……そう。そうね」
サイファは目を伏せた。
「ごめんなさい、さっきのは忘れて。あなたの言うとおりだわ、ラルフ。わたしたちは戦わなければ
ならないのだもの。ほんの爪先だって、つけいる隙は与えられない。勝敗が見えるとき、きっと
わたしたちはもうそこにはいないだろうけれど、それでも」
さっと立ちあがって、服を脱ぎはじめる。
「悪いけど、後ろを向いててくれない? 小さいころから、人前で裸になることにはあまり慣れて
ないの。それを言うなら、こういう類のこともだけど。わたしの一族はなかなか妊娠しにくい体質
なの、知ってた? たぶん、魔法を扱うことが、何か身体に影響しているんだろうと思うけれど」
「別にいいさ。それならするまで続ければいいだけだ。俺に異存はない」
無造作に言って向きを変え、ラルフは窓際に歩み寄った。後ろでサイファが服を脱ぐ衣擦れの音を聞き
ながら、服の中から細い金の鎖を引っぱり出す。
鎖の先で、繊細な透かし彫りを施した小さな指環がほのかに光った。
ラルフはしばらくそれを見つめ、両手に包んでそっと唇をつけた。
鎖をはずして、小箪笥の引き出しに大切にしまいこむ。
引き出しを閉める前に、指先でそっと、月のような光を放つその表面を愛撫する。
まるで、恋人の髪を愛撫するかのように、やさしく、想いをこめて。
季節はめぐり、秋が過ぎ、冬が来て、春が訪れた。
表面上、ベルモンドの当主の結婚生活はうまくいっているように思われた。新夫人となった奥方は
てきぱきと家政を指示し、領地や財産が増えたことによって複雑さを増した夫の仕事にも、的確な
助言者としてふるまった。小作人たちにもやさしく、貧しい者や病気の者には欠かさず見舞いの品
や滋養のある食べ物、薬草をたずさえて訪れ、その美しさもあいまって、まるで聖母様のようだ
とうやまわれた。
その一方で、村人たちの記憶から徐々に薄れていくものもあった。昨年の春から半年ほどベルモンド
家に滞在していた、美貌の貴公子の姿だった。
- 91 :エピローグ/ラノレフ 第三話5/9:2006/10/12(木) 18:50:06
- 一時はあれほど人の噂の種となっていたさまざまなことが、風に吹かれる塵のように、少しずつ
人々の記憶から消えていった。
屋敷で、直接彼と接していたはずの使用人たちでさえ、すでのその年の冬には、そのような客人が
滞在していたのかさえあいまいになっていた。しばらく当主が姿を消し、その後、ひどく憔悴した
姿で戻ってきたことも、彼らの頭の中ではとりついた魔物のしわざなどではなく、単に、当主が
重い熱病にかかってあやうく命をとりとめた、というごく簡単で納得のゆく記憶に変更された。
これはまた安堵できることでもあった。すでに魔王はなく、闇の勢力ももはや人間には手出しでき
ない。魔物はもう存在せず、自分たちに手出ししてくることもない。村人たちはただそれを喜び、
魔王殺しの英雄ベルモンド家に敬意を払った。
そのベルモンドの奥方が毎夜少しずつ送り出す夢の魔術が、あの貴公子の記憶を少しずつ消し去り
つつあるのだということに、ついぞ気づくものはなかった。アルカード、というその名さえほとんど
の者にとっては、ベルモンドの年代記において、魔王討伐の旅に同行した者のひとりと記載されるだけ
の意味しか持たなくなっていった。
彼らは闇を忘れつつあった。
──ただ、その闇を守るために、戦いつづける者たちを除いては。
ある五月の午後のことだった。
空は晴れていた。やわらかな木漏れ日のさす中を、ひとりの騎乗者が、ゆっくりと馬を進めていた。
栗毛の去勢馬にまたがり、後ろにはもう一頭、黒毛の牝馬を牽いている。腰には使い込んだ革鞭が
まるめてつけられ、鞍袋からは膨らんだ革の水筒が突きだしていた。
男らしい、鋭い顔立ちの左半面を、白い傷あとが縦に走っている。広い肩を、木々の葉の落とす影
がさまざまな色に翳らせ、また輝かせた。
あたりは緑に充ちていた。一時は廃墟となっていたと思われる、崩れた家や朽ちた井戸のあとが
そこここに残っていたが、それも今はすっかり萌えだした草に埋もれて、眠るようなおだやかな表情
を見せていた。
- 92 :エピローグ/ラノレフ 第三話6/9:2006/10/12(木) 18:50:55
- そこここに野生の薔薇のひかえめな白い花が揺れ、緑の情景にやさしい色を添えていた。騎乗者は
少し馬を止めてあたりを見回し、周囲に変化がないことを確認してから、指先を噛みやぶり、ひとし
ずくの血を崩れかけた石畳の上に振り落とした。
血は石の上ではじけ、火花を散らして燃えあがった。とたん、数歩離れた空間が陽炎のようにゆら
めき、ふいにその先に、きちんと整地された小道が現れた。
それまでそこには、周囲と変わらぬ草に埋もれた村のあとが続いていたはずだった。騎馬の男は
指先の血をなめると、ふたたび手綱を取り、馬を進めて現れた小道に進んだ。
そこもまた、濃い緑の気配に充ちていた。だがここの緑は外のものよりはるかに濃く、いきいきと
して、あざやかな生命の輝きを誇っている。小道の先は開けた場所になっていて、奥には古い礼拝堂
が、青い空に尖塔をのばしていた。
礼拝堂もまた、すっかり緑におおわれていた。つやつやとした蔦の葉が重なりあってひび割れた壁
を守り、からみついた野薔薇の蔓が、ここでも清楚な白い花弁を星のようにきらめかせている。ささ
やかな前庭にはクローバーの緑の絨毯が広がり、咲きそめたばかりの白い花が、風にゆったりと小さ
な頭をうなずかせていた。
ラルフは馬を止め、鞍を降りた。
二頭の馬の首を当分になでてやり、そばの木にゆるく手綱を結びつける。魔法によって閉ざされた
この場所から迷い出ることはないはずだったが、旅の多い人間のくせのようなものだ。馬たちは
さして不服そうでもなく、親しげに鼻面を寄せあうと、肩をならべて、足もとの草を食みはじめた。
鞍袋から葡萄酒の入った水筒と杯を二つだし、ラルフは階段を上がった。
礼拝堂の扉は、以前に来たときとかわらなかった。この場所に充ちる緑の精気も、この扉を閉ざし
たものの意志の力にはかなわなかったらしい。分厚い扉はかたく閉ざされたままで、蔦の葉も、薔薇
も、そこだけが切り取ったようになにもなかった。
ラルフは苔の浮いた階段にかがみこみ、杯に葡萄酒を注いで、扉の前に置いた。
手近に咲いていたクローバーの花を一輪摘み、杯に浮かべる。濃い赤の酒の上で、白い星がゆった
りと回った。
- 93 :エピローグ/ラノレフ 第三話7/9:2006/10/12(木) 18:51:29
- 「アドリアン」
静かな声でラルフは言った。
「元気か、アドリアン。──また来たぞ」
「サイファに子供ができた」
閉ざされたままの扉に背中をもたせて、ひとりごとのようにラルフは言った。
この地所が、ベルモンド家に買い取られて数年になる。最初は、荘園からも遠く、その上村の廃墟
しかないこんな場所をなぜ欲しがるのか、それも別に開墾するわけでもなくと不思議がられたが、
ベルモンドの当主夫妻はそんなことは意に介さなかった。
買い取ったあと、別に手入れをほどこすわけでもなく放置したままになっているのを見ると、
いよいよ噂と憶測がかしましくなったが、やはり夫妻は放っておき、せっかく手に入れた土地が
蔦とつる薔薇に占領されるにまかせた。ただ一つ、奥方があたり一帯とその中心の礼拝堂のまわり
に封印をほどこし、限られた人間をのぞいては入ることも、発見することすらできなくしたのを
のぞいては。
流れた年月は、いくつかの爪痕をラルフの上にも残していた。以前より厳しくなった顔立ちと、
そして、胸に刻まれた新しい傷あとがその主なものだった。昨年、ドラキュラ城にまた不穏な動きが
あるという情報を得て、遠征したときの名残だった。
一時は生命も危ぶまれた深い傷だったが、強靱な肉体と、胸にかかえた強い意志が、死の淵から
彼を引き戻した。この礼拝堂で眠りつづけるものが生きている以上、まだ死ぬわけにはいかないと
いう、苛烈な意志が彼を支えたのだった。
「結局、四年かかったが。──家じゅうそれこそひっくりかえるような騒ぎで、俺はうろうろする
ばかりでいるだけ邪魔だから、どこか遠乗りにでも行ってこいと奥方じきじきに屋敷から蹴り
出された。ひどい話だと思わんか。これでも一応父親なんだが」
言葉を切って、ひとり笑う。
「来年の春には生まれるそうだ。みな喜ぶあまりかけずり回ってどうしていいかわからない始末だ。
落ちついているのはサイファだけだ。大変なのはこれかららしいし」
しばらく間が空いた。
- 94 :エピローグ/ラノレフ 第三話8/9:2006/10/12(木) 18:52:06
- 「……あれは、偉い女だな。サイファは」
ややあってぽつりと言った。
「俺には、……過ぎた女だ」
そう言うと、静かに向きを変え、扉に肩をあずけるような姿勢でよりかかって、静かに目を閉じた。
「──なあ。そろそろ起きてくれないか」
目を閉じたまま、ささやくように唇を動かす。
「ちょっとだけでいいんだ。ほんの少し顔をのぞかせてくれるだけでいい。ひとこと返事をくれる
だけでもいい。おまえの顔が見たいんだ、アドリアン。おまえの声が聞きたい。手に触れたい。抱き
しめたい。おまえに逢いたい、アドリアン。逢いたい」
ひとりでに手が胸をさぐり、小さな銀色の指環を取り出す。
「おまえに、逢いたい──。」
そのまま、眠ったようにラルフは動かなくなった。
昨年のドラキュラ城遠征の時、そこで出会った悪魔錬成士は、なぜベルモンドの者がその指環を持って
いるのかと不思議がった。ラルフはその問いには答えなかった。彼が生きのびられたのはある意味で
その男のおかげでもあったが、この指環と、その持ち主との間のことは誰に話すようなものでも
なかった。
手の中で、白金の指環は繊細な手ざわりを伝えてくる。指の間をすべる、あの輝かしい月光の髪を
思い出させるなめらかさと冷たさ。
陽が、徐々に移ろっていった。動かないラルフの影がしだいに伸び、木々の影が傾いて、ささやき
あいながら木漏れ日を濃くしていく。
そそがれた酒に浮いたクローバーの花が、ほんのりと葡萄酒の色を移して暁のようなピンクに
染まっていった。一匹の小さな蜂が上を飛びまわり、あきらめたようにまた飛び去っていった。
二頭の馬は仲むつまじく肩を寄せあい、うつらうつらと眠っていた。
やがて、西の空にかすかな茜色があらわれはじめた。涼しい夕風が立ち、まどろみからさめた
黒い牝馬が、鼻を鳴らして甘えるように栗毛の相棒に身をすり寄せた。すぐに目を覚ました栗毛が、
応じるように相手の耳に頭をこすりつける。
- 95 :エピローグ/ラノレフ 第三話9/9:2006/10/12(木) 18:52:40
- ラルフはふっと目を開いた。
「──頑固な奴だ」
あいかわらず閉まったままの扉を見あげて、微笑する。
「これだけ通ってきているんだから、少しくらいいい顔をしてくれてもいいだろうに、まったく──
つれないな」
大儀そうに身体を動かし、立ちあがる。
一年前の傷は、まだ完全に治っているわけではなかった。なにしろ一時は、生命にかかわるほど
のものだったのだ。今も冷たい風にあたったり、少しでも限界を超えた動きをすると、たちまち
するどい痛みが走る。
「だが、覚悟しろよ。俺はしつこいぞ。おまえの還る場所はここだ、俺がおまえの還る場所になる、
そう言ったろう。だから」
沈黙を続ける扉の前に立ち、ふと微笑む。
「だから──しっかり生きて、それから来い。
百年でも二百年でも、五百年が一千年でも、俺は──ちゃんと、待っているから」
扉に手をつき、封印が施されているはずの場所にそっと唇をあてる。かたい木の奥に、確かに、
彼と、彼の力の存在が感じられた。
名残惜しげに指を走らせ、置いた杯を取りあげて、中身を飲み干す。すっかり薄紅色に染まった
クローバーを中に戻し、また、扉の前に置いた。
「また来る。それまで、いい子にしていろ。寂しがって、泣いたりするんじゃないぞ」
背を向け、階段を下りる。
もう振り返ろうとはしなかった。馬の手綱をはずし、鞍にまたがる。
黒毛の牝は、かつての主人がここにいることをうすうす感じとっているのか、名残惜しげに目を
またたかせて礼拝堂のほうを振り返ったが、ラルフが首をなでてやり、馬を進めはじめると、おとなしく
あとに従った。
蹄の音が遠ざかる。
やがてその音もすっかり絶える。緑のざわめきと、降りてきた黄昏に包まれて、古い礼拝堂は
眠れる者を裡に抱き、再び、静かな刻を迎えていた。
- 96 :エピローグ/アノレカード 第一話1/12:2006/11/08(水) 19:57:35
- 「アルカード、……アルカード?」
気がかりそうな呼び声に、ようやくアルカードは現実に引き戻された。ふり返ると、金髪の、緑の目
によく似合う装いの愛らしい少女が心配そうにこちらを見あげていた。
「どうたしの、ぼんやりして? 気分でも悪い? やっぱり昼間の旅は、あなたにはあまりよくない
のかしら」
「いや、そんなことはない」
なかば上の空で答えて、アルカードは外套を引き寄せた。
曇った寒い日で、陽光はさしてきつくはないし、半分は人間であるアルカードには陽光自体さしたる
問題を起こさない。ことに、闇の血が鎮まっている今はそうだ。彼は凍るような青い目を少女に
向けて、もう一度、何も問題はない、といってきかせた。
「ただ……少し、昔のことを思い出していただけだ。ぼうっとしていたのなら、もうしわけない、
マリア」
「そう、それならいいの」
マリア・ラーネッドは小さくため息をついた。
「でも、本当に調子が悪いのなら言ってね? 私たちが、特に、リヒターがこうして無事に家に戻れる
ことになったのは、なんと言ってもあなたのおかげなんだから」
アルカードは黙って頷いた。乗っている馬は漆黒の牝馬で、彼がその馬に乗ることに難色を示した理由
を連れの二人は知りたがったが、どうしても言う気にはなれなかった。
「俺がどうかしたか?」
「あら、リヒター、ちょうどよかったわ」
自分が呼ばれたのを聞きつけて、一人の青年が馬に拍車をいれて追いついてきた。
栗毛の去勢馬にまたがり、腰に鞭を提げ、広い肩に濃い色の髪をなびかせたその姿に、一瞬、
アルカードの心臓がはげしく拍った。
だがすぐにそれは、復活したドラキュラ城の中で出会い、結果的に生命を救うことになった、ベルモンド
家の現在の当主であることを思い出した。めまいがして、アルカードは思わず前鞍に手をつき、崩れかか
る身体を支えた。
- 97 :エピローグ/アノレカード 第一話2/12:2006/11/08(水) 19:58:18
- 「アルカードが疲れてるみたいだから、そろそろ休んだほうがいいかもしれないわ。明日にはベルモンドの
領地につくんだし、今日はここで泊まらない?」
馬を寄せていって、マリアがリヒターに野営を提案している。
アルカードはまた一人になり、二人がしゃべっているのを聞き流しながら、もう一度頭をあげてあたり
を見回した。
四百年、ともう一度心に呟く。
信じられない時間だった。あの薬を口にし、棺に身を横たえたとき、もう二度とこの目で見ること
はあるまいと思った生の世界を、自分は今また目の当たりにしている──。
ドラキュラ城は闇神官シャフトの策謀によってよみがえり、その波動が、ドラキュラの闇の血を継ぐアルカードを
四百年の魔薬による睡りから、ふたたび呼びさました。
シャフトは、かつてドラキュラを消滅に追いこんだベルモンド家の血筋を逆手に取り、その強靱な血脈を魔王
復活のための生贄にせんと、現ベルモンド家の当主、リヒター・ベルモンドをその呪力で操って魔城の仮の城主
とせしめた。彼は、五年前にも復活を果たしかけた魔王を、義妹のマリア・ラーネッドとともに殲滅した
当人でもあった。
復活した城に潜入したアルカードは、マリアからリヒターの失踪とその異常な状況を耳にし、シャフトの洗脳から
リヒターを解放することに成功した。
リヒターとマリアを城外に逃し、ふたたび迷宮のような魔の城の奥に進んだアルカードは、四百年前と同じく、
復活した父ドラキュラ公の姿をそこに目にする。息子のいさめる言葉すら耳に入れようとしない父は、
かえって彼から人の血を取り去り、自らの真の眷属にせんと、混沌の怪物に姿を変えて襲いかかって
きた……。
昏い思いを打ち切り、アルカードは手綱からはなした手をじっと見つめた。
二度、と彼は思った。
結局自分は二度までも、父殺しの血に手を染めることになった。
それも、自身にとっては、前回からほんの一年ほどの間しかたっていないというのに。
- 98 :エピローグ/アノレカード 第一話3/12:2006/11/08(水) 19:59:07
- リヒターとマリアがベルモンド家へ立ち寄ってくれ、と熱望したのを受け入れたのは、それを断るだけの力
が残っていなかっただけなのかもしれない。今では彼は、二人に従って四百年前の道を辿っている
ことを後悔しはじめていた。
見わたす景色は、あのころとほとんど変わりがない。彼に──ラルフに連れられ、同じような黒い馬
に乗り、ベルモンド家への道をたどったあのころと。沈みかけた太陽はうすい曇り空にくすんだばら色
の光をにじませ、木々はかわらず風にざわめいて囁くような音をたてている。
──それでも、あのころからは、すでに長い長い時間が流れてしまったのだ。
あのころ知っていた人間は、今はもう誰もいない。
ベルモンドの人間であるリヒターや、マリアでさえ、アルカードのことは「四百年前にラルフ・C・ベルモンドとともに
ドラキュラを倒した人物」としか知らなかった。おそらく、ベルモンドの年代記には、その程度のことしか
触れられていないのだろう。
グラント、サイファ、ベルモンド家の人々、そして──彼。
ラルフ。
ラルフもまた、遠い昔にこの世を去ってしまっている。
当然のこととして受け入れるべきその事実を、理性は受け入れるべきだと主張するのに、感情は
どうしても受け入れようとしなかった。
おまえに彼を求める資格などありはしないくせに、とどこかで叱責の声がする。
自分は彼を裏切ったのだ。すべてを捨てると誓ってくれたあの愛に背を向け、あざむき、眠って
いる彼を置きざりにして、逃げた。
彼を失ったのは自ら選んだこと、彼が、自分を憎み恨んだだろうことも、すべて自分自身が引き
おこしたことなのだ。今さら後悔したところでどうなろう。
いずれにせよ、すでに四百年という時間が、あの時と今との間には横たわっている。何をしよう
とも取りかえしのつかない、深く広い、時間と死という名の深淵が。
「アルカード」
リヒターが馬を寄せてきた。
- 99 :エピローグ/アノレカード 第一話4/12:2006/11/08(水) 19:59:48
- 「マリアと話したんだが、あともう少し先に進むと、そろそろうちの領地の最初の集落につく。宿屋が
あるかどうかまではわからないんだが、少なくとも、泊めてくれる家は見つかるだろ。そこまで
なんとか行けるか? 無理をさせてすまないが」
「別に、無理などしていない」
目を上げてそう答える
「だが、気を使ってくれたのはありがたい。礼を言う、リヒター」
リヒターはいや、その、と口ごもり、具合が悪そうに視線を避けて口ごもった。
「……その、まあ、礼を言われるほどのことじゃないんだが。なんせ、まあ、あんたには迷惑かけた
し、すっかり助けられちまったしな」
その目の縁がうっすらと赤くなっているのを、アルカードはめずらしいものを見るような気持ちで
見ていた。
「リヒターのことは気にしなくていいのよ、アルカード」
追いついてきたマリアが、いたずらっぽく口をはさんだ。
「彼ったら伝説の存在のあなたに助けられて、その上、はじめて見たあなたがあんまり綺麗だった
もので、どういう顔をしていいかいまだにわかってないだけなの」
「おい、マリア!」
あわてたようにリヒターがさえぎった。
「あら、なによう。ドラキュラ城の外でアルカードを待ってるあいだじゅう、俺も行くんだ、あいつを、
アルカードを助けに行くんだって、さんざん駄々こねて始末に負えなかったのはいったい誰だった
かしら?」
唇をとがらせ、マリアは指を振ってみせた。
「そりゃあ、ベルモンドの男として人に助けられて、そのまま待ってろっていうのは不本意だったかも
しれないわよ。でも、いちいちあんな細っこい奴がとか、あんな綺麗な奴がとか、事あるごとに
言ってたのは誰だったかしらね? アルカードの強さは、操られてたとはいえ実際に戦ったあなたが、
いちばんよくわかってたと思うんだけど?」
- 100 :エピローグ/アノレカード 第一話5/12:2006/11/08(水) 20:00:36
- リヒターはぐうの音も出ないようだった。目のふちの赤みはますます広がって、今では頬から耳から
血を噴かんばかりになっている。
アルカードは少々申し訳なくなった。この、すぐに赤くなったり、言葉につまったりする癖のあるのは
別にリヒターの責任ではない。むしろその実直さと、生真面目さには好感が持てた。おそらくシャフトの呪い
に取りこまれたのも、その生真面目さゆえの使命感の強さが度をこしすぎたのだろう。
「そういえば──」
リヒターを助けるつもりで、ふとアルカードは口を開いた。
「ベルモンド家の領地がもし私の覚えているとおりなら、ここからもう少し離れた場所に、小さな泉の
湧き出ている場所があったと思うのだが。……森の中に、古い羊番の小屋があって、クローバーの花
がたくさん咲いていた」
言葉につれて、想い出が溢れるようによみがえってきた。自分の中では、まるで昨日のことの
ように思える日々。白い花の咲きほこる緑の野と、鳥の声、せせらぎの音、闇の中でちらちらと
燃える火、静かな話し声、ラルフの笑み、その──肌の熱さ。
「できれば休む前に、一度そこへ立ち寄ってみたい。ここからもし遠いのならば、別に無理にとは
いわないが」
「泉のわいてる所?」
マリアがいって、リヒターと顔を見合わせた。
二言三言話し合ってから、マリアがふたたびこちらに視線を向け、
「そこかどうかはわからないけど、泉のわいてた所ならあるわよ。昔の地図で見たことがあるわ。
確か、以前は羊を飼ってて、羊番の小屋があったってことも聞いてる。違ったら悪いけど、どうせ
だから行ってみる?」
「ああ、それならたぶん俺も知ってると思う。そんなに遠くないしな」
どこかほっとしたようにリヒターがつけ加えた。
「こっちだ。まだ日没には時間があるから、十分行けると思う」
- 101 :エピローグ/アノレカード 第一話6/12:2006/11/08(水) 20:01:25
- 数刻後、アルカードはただ茫然と立ちつくして目前の光景を見ていた。
そこは、完全に掘り返され、開墾された広い畑地だった。
掘り起こされた黒い土がどこまでも続き、石と何本かの鍬や鍬が放り出されたままになっている。
さらさらと音をたてていた木立はすべて伐りはらわれ、泉も野原もあとかたもなく、かわりに、掘り
出された大きなごろた石が、畑の横に投げ出されていた。空に響く鳥の声だけは変わっていなかった
が、それさえ、今のアルカードには自分をあざける笑い声のように聞こえた。
「こりゃあ……」
ついてきたリヒターも言葉がないようだった。
「すまん、アルカード、どうやら俺たちが間違えてたみたいだ。ここじゃないよな? あんたの言ってる
ところは」
「──いや」
そう言うのがやっとだった。ここだ。確かにここなのだ、と、人ではないほうの血が持つ鋭い感覚
が告げていた。
ここがまちがいなく、四百年前、ラルフとひとときの幸福な日々を過ごした場所に間違いないのだ。
どんなに様子が変わっていても、ここに漂うかすかな水の気の残滓と、肌に感じる風の匂いは同じ
だった。
だが、この様子は……
「ありゃあ、御当主様!」
遠くから、あわてたような叫び声がした。
遠くから、あぶなっかしい足取りで畝を飛びこえ飛びこえ、一人の農夫がこちらへ走ってきた。
大きく身体をかしがせて急停止すると、無精髭だらけの顔から目玉がこぼれ落ちんばかりに大きな
目をむいて、馬上のリヒターを上から下まで穴があくほど見つめる。
「間違いねえ、確かに御当主様だ! 帰ってきなすったんですかい、御当主様、お屋敷のかたがた
も、あっしらも、そりゃあもう心配して──」
- 102 :エピローグ/アノレカード 第一話7/12:2006/11/08(水) 20:02:02
- 「おまえ──ええ、と、そうだ、テオドールだっけ」
弾丸のように喋りつづける農夫に、リヒターはいささか辟易したふうだった。
「へえ、さいで」
藁屑だらけの帽子を胸もとで握りつぶしながら、テオドールは誇らしげに胸をはった。
「こいつあいい幸先だ、一年ぶりに、御当主様がお帰りになったのをあっしが一番に目にしたと
なりゃあ、今後とも、息子や娘にうんと自慢の種ができまさあ。で、何ですかい、御当主様、また
ちょいと魔物退治に出かけてなすったんですかい?
にしても、誰にも言わずに武者修行なんてのはちと頂けませんぜ、そりゃあ、男ってえのはたま
にゃあ女子供を放りだして、どっか遠くで、うんと羽根を伸ばしてみたいもんだってのは、あっし
だってお察ししますがね……」
「あ、あのね、テオドール」
リヒターがまた困惑のあまりまっ赤になって口がきけなくなっているのを見かねて、マリアが割って入った。
「ちょっと訊きたいんだけど、この土地、前は泉がわいてる空き地じゃなかった? 古い羊番の小屋
があって、前にクローバーが咲いてる」
「はあ、こりゃ、マリア嬢さま」
また目を丸くして、テオドールはいっそう帽子をもみくしゃにした。
「そいじゃ、ほんとに御当主様を見つけて連れてきなすったですかい! こりゃあおでれえたね、
さすがの御当主様も、マリア嬢さまに耳ひっつかまれて引っぱり戻されちゃたまんねえってこってす
かい。まったく女ってえのは恐ろしいもんだ、くわばらくわばら──おっと、ごめんなさいましよ
嬢さま」
「そ、そんなことはどうでもいいの」
マリアも少し赤くなった。
「私もよく知らないんだけど、このあたりって、ずっとベルモンド家の地所だったわよね? その中
でも、昔からここだけはあまり手のつけられてない場所だと思ったんだけど、いつ開墾したのかし
ら、ここ」
- 103 :エピローグ/アノレカード 第一話8/12:2006/11/08(水) 20:02:43
- 「はあ、そりゃ、御当主と嬢さまのご存じねえのは無理もありましねえ」
なぜそんなことが気になるのかといった顔で、農夫は目をぱちくりさせた。
「ありゃあ確か御当主様のお父っつぁまの代のこったと思うんですがね、ここに、そりゃあどえれえ
雷が落ちやしてね。
それまでは確かにここに泉もありゃあ、ぼろっちい番小屋もありやしたが、そいつでみんな焼け
ちまって」
離れたところで黙って聞いていたアルカードの肩がぴくりと震える。
「まわりの森も火事になっちまうし、泉もそれっきり涸れちまったもんで、こいつあしょうがねえっ
てんで、お屋敷の方にお許し頂いて、あっしがこうして畑にしたってわけでさ。そら、そこに切り株
がなんぼか残ってるでがしょうが」
と、ぐいと顎をさした先には、黒こげになった大きな木の株や炭になった太い樹の幹が、斧を突き
立てたまま無造作に積みあげられていた。
「なんせ数が多いもんで、ちょっとずつ割っちゃあ焚きつけだのなんだの使っちゃおりますが、なか
なか太え、年の経った木が多いもんで、割るにもいささか苦労が多うがすよ。
で、御領主様は、なんだってお屋敷へ戻る前にこんな所へお寄りになっただかね?」
「あ、それは……おい、アルカード!」
その時には、アルカードは話を最後まで聞かないまま、馬首をめぐらしてもと来た道を戻りはじめていた。
「アルカード、ちょっと待って!」
マリアが急いであとを追っていく。「へえっ!」とテオドールが目を丸くした。
「ぺっぴんのお人だね、ありゃあ! お姫様だか旦那様だか、よくわからねえけんど、どえらい美人
だよ、まったく。いったいどこのお人ですね? 服からしたらまあ、旦那様でがしょうが、それに
したって、あんな綺麗なのは女でもなかなかねえや。うちのかかあに見せたら、仰天して目の玉
ひっくらかえすでがしょうよ。いったい、どちらのお方ですかね? もしかして、マリア嬢さまのいい
お人とかですかい?」
- 104 :エピローグ/アノレカード 第一話9/12:2006/11/08(水) 20:03:20
- 「そうじゃない」
さすがに切れ目のないお喋りにつき合うのにいらいらしてきたのと、アルカードを追うほうに気も
そぞろになっていたリヒターはいささか乱暴に話を打ち切った。
「あれは俺を助けてくれた友人で、しばらくベルモンド家に滞在してもらう。すまないが、誰か屋敷に
使いを出して、明日の午後には屋敷に客を連れて帰るから、用意していてくれと伝えさせてくれ。
今夜はもうひと晩、休んでから帰るから」
テオドールがどうしても自分の家に泊まれ、と言い張るのをなんとか断り、一行は、ふたたび街道脇の
木陰の草地に寝場所を作った。
皆、言葉少なだった。もとから無口なアルカードは言うにおよばず、リヒターも、普段はよくしゃべるマリア
も、なんとなく胸のふさがるような思いにとらわれがちだった。
「その……ごめんね、アルカード」
食事を済ませて皆で火を囲んでいたとき、おずおずとマリアが口を開いた。
「あんなことになっているなんて思わなかったの。聞いてよければだけど、あそこは、どういう場所
だったの? 以前、あそこに行ったことがあったとか?」
「そのようなものだ」
平坦にアルカードは答えた。
「だが、長い年月の間には、いろいろなことが起こる。誰の責任でもない。別にマリアが謝る必要はない」
それきり会話は途切れ、沈んだ沈黙の中、火の燃える音だけがパチパチと響いていた。
マリアは力を奮い起こすように頭を一振りすると、これから行くベルモンド家と、自分の子供のころと
あわて者リヒターに関する愉快な逸話を、元気な口調で語りはじめた。
- 105 :エピローグ/アノレカード 第一話10/12:2006/11/08(水) 20:03:53
- 「……なあ」
夜が更けて、しゃべり疲れたマリアがあくびをして自分の寝床にもぐってしまって少し経ったころ、
リヒターが、遠慮がちに口を開いた。
「その、俺の顔、……なんか、ずっと見てるんだな」
アルカードはまばたいた。心臓が大きく跳ねた。
マリアがしゃべっているのを聞こうと努力しつつも、小鳥のようなおしゃべりはいつの間にか、
右から左へ抜けてしまっていた。そしてこの時ようやく、火のむこうにほのかに浮かぶ、リヒターの顔を
じっと見つめていたことに気がついたのだった。
「その……何だ」
どう言っていいのかわからない、といった顔で、リヒターはがりがりと頭を掻いた。
「助けてもらったことに、まだちゃんと礼を言ってなかったよな。ありがとう、感謝してるよ。もし
あのままシャフトに操られてたら、俺は、俺がいちばん憎んでいるものに変えられちまうところだった
んだ。その上、あんたにまた……辛い思いをさせて」
アルカードは応えなかった。どう応えようがあっただろう?
二度までの父殺し、ふたたび、目の前で混沌の怪物となって消滅してゆく父の姿を目の当たりに
したのは、確かに思い出すことさえ胸をかきむしられる記憶だった。
だが、それはこの青年の責任ではない。あの小さな楽園がいつのまにか掘り返された畑地に変わ
っていたように、人間には、そして人間ではないものにすら、どうしようもない宿命というものが
ある。自分はたまたま、その自らの宿命の網に、またもやからめとられただけにすぎない。
そう、ただ、それだけのことにすぎないのだ……
「……なあ、その」
長い沈黙をはさんで、リヒターがまたおずおずと口を開いた。
「俺は、似てるのか? あんたと、一緒に戦った──その、ラルフ・C・ベルモンドと」
ふいにするどい痛みが胸を走りぬけ、無意識のうちにアルカードはぎゅっと服の下の、小さな固い物
を握りしめていた。
「ア、アルカード!?」
いきなり立ちあがったアルカードに、あわてたようにリヒターは腰を浮かせた。
「すまない、何か気にさわることを言ったか? もしそうなら謝る、すまん、だから座ってくれ。
こんな夜中に、火のそばを離れると危ないぞ」
- 106 :エピローグ/アノレカード 第一話11/12:2006/11/08(水) 20:04:40
- 「別に、怒ってはいない。少し風に当たりに行くだけだ」
感情の表れにくい自分の声を、この時だけは嬉しく思った。
「心配する必要はない。私の血のなかばは夜と闇に属している。闇は私を傷つけはしない、ことに、
魔王がふたたび地上から消えた今、私を害するものはいない」
リヒターはさらに口を開いて何か言おうとしたが、皆まで聞かず、アルカードは外套をひるがえして、足早
に闇の中に踏みいった。
奇妙に頭は冴えていた。闇は四百年前と変わらず、木々の間から月光が差しこむ夜の森は、〈彼〉
とともに辿った道、〈彼〉から逃れて闇雲に走った道と同じだった。
一心不乱に茂みを分けていく闇の公子に、夜の木々はささやき合いながらそっと道を空けた。
小さな虫が葉の陰で歌い、夜の鳥が遠くでするどい叫び声をあげた。
火と灯りとリヒターから十二分に距離を置いたと感じたとき、アルカードはようやく足を止め、これまで
感じたことのないほど強い疲労に囚われて、短い草地に崩れおちた。
浅ましい、と思った。
リヒターを見ていたこと、そのことにすら気づかなかった自分自身に。彼を見つめ、その中に、ラルフの
面影を見つけようとしていたことに。しっかりした顎の形や、広い額や、高い鼻に、遠く受けつがれ
たベルモンドの血脈を捜していたこと、リヒター自身ではなく、今はいないラルフを、そこに見いだそうとして
いた自分の愚かさを、アルカードは心底嫌悪した。
そんな権利はないのだ。自分に、そんな資格はない。〈彼〉の名前を口にすること、思いうかべる
ことすら、本来ならば許されるべきではないのだ。
自分は彼を裏切った。
差し出された手を振りはらい、もっとも酷いやり方で信頼を踏みにじった。
彼はおそらくその後立ちなおり、かつていた魔性の者のことなど忘れて結婚したのだろう。ああ
して子孫がその血を継いでいるのがその証拠だ。
リヒターは確かに、ラルフの血を受け継ぐベルモンドの者だった。ラルフよりもいくらか生真面目そうな、実直
さが表に出ている顔立ちだが、ふとした時の仕草や横顔の線に、叫び出したくなるほどの類似を
ときおり見いだすことがある。
それを思うと、気が狂いそうだった。一夜のうちに流れすぎてしまった四百年という年月、自ら
捨てたにもかかわらず断ち切れない執着、影を落とす裏切りと拒絶の記憶、リヒターという一人の人間
に、今はいない人間の影を重ねて見てしまう罪悪感。
- 107 :エピローグ/アノレカード 第一話12/12:2006/11/08(水) 20:05:16
- 二度と戻らないと誓ったはずのベルモンド家への道をこうしてたどっているのも、もしや、〈彼〉の、
あのころの幸福の残り香の、そのかけらでもいい、見いだすことはできまいかというさもしい期待の
ためだ。あの小さな楽園の消滅は、そんな都合のいい期待に下された、天の鉄槌だったのだ。
見えない血を流して痛む胸を抱え、アルカードはかたく丸く身を縮めた。肌をさぐり、鎖につけた無骨
な金の指環を取りだして、かたく握りしめる。
四百年前にも、こうして闇の中、一人で隠れていた。混乱し、恐怖にとらわれ、どうすることも
できずに、夜の底で一人うずくまっていた。
(──いいか。選択肢は三つある)
(一つ。自分の足で立って、俺といっしょに歩いて火のそばに戻ること。二つ。俺にかつがれて火の
そばへ戻ること。粉袋みたいにな。三つ。俺に襟首つかまれて引きずられて火のそばへ戻ること。言
っておくが例外は認めん。十数えるだけ待ってやるから、その間に好きなのを選べ、わかったか)
探しに来てくれた者は、もういない。いつも、引きずってでも光の中に連れもどしてくれた、彼は。
(アドリアン)
――俺の、アドリアン。
そういってくれた彼は、遠い昔に、もう手の届かない場所に去ってしまった。
ここは寒い。ここは、昏い。
──私は、独りだ。
口を開けたが、声は出なかった。
もっとも呼びたい名は胸の奥に重く沈んだまま、ようやく出た言葉は、「何故」だった。
「──何故、」
とアルカードは呟いた。木々がざわめき、不安げな月光が地面を踊った。
「何故、目覚めてしまった。──何故、目覚めてしまったのだ。
目覚めたくなどなかった。永遠に、私は、目覚めたくなどなかったのに」
そのまま声もなく、俯せた。手の中には、爪の食い込むほどに握りしめられた、ベルモンドの紋章
指環があった。
涙は、出なかった。今、ここに生きているべきではない者に、涙など流すことはどのみち許され
ないのだ、と、そう思った。
- 108 :エピローグ/アノレカード 第二話1/11:2006/11/24(金) 19:51:17
- ベルモンド家には翌日の夕暮れ時に着いた。
傾きかけた陽光の中に、主人と客を出迎えるために居並んでいる使用人たちの姿を見て、アルカード
は軽いめまいを覚えた。
すべてが四百年前と似通い、同時に、あまりにも違っていた。知っていた顔はひとつもなく、
屋敷自体も、大まかな輪郭は変わっていないながら、細部が微妙に立て増しされたり、修繕され
たりしている。
なまじ似ていればいるだけ、そのわずかな違いが針のように心を突き刺した。いつのまにか、
馬の足が止まっていた。
「どうした?」
気がかりそうに、リヒターが馬を留めて振り向いた。
「疲れたか? あと少しで屋敷だ、見えるだろう。着いたらすぐに部屋を用意させる。無理を
させて、すまなかったな」
「いい。別に、疲れたわけではない」
アルカードは反抗する身体を無理に動かして、馬を先に進めた。
見たくはない、しかし、見たい。四百年という年月、自分にとっては、ただ一夜のうちに過ぎ
去ってしまった長い年月を確かめることは、治りかけた傷口をわざとえぐるかのような痛みを
ともなった。だが、同時に、すてばちな気味の良さももたらしていた──自分は彼を裏切った。
ラルフを捨てて、逃げたのだ。
その罰を、受けることになるのは当然だ。彼が裏切り者をどう思ったかも、どうやって、嘘つき
な魔性の者の蠱惑を追いはらったのか、その痕跡を自分で確かめられれば、きっと、この灼けつく
ような痛みも受け入れられるようになる。逢いたい、どうしても、たとえひとかけらでもいいから、
彼の形見を、ここにいた名残を目にしたいという、この身勝手な欲望に水をかけることができる……。
- 109 :エピローグ/アノレカード 第二話2/11:2006/11/24(金) 19:52:04
- リヒターとマリアが歓声をあげる使用人と村人たちにもみくちゃにされ、泣かれ、さんざんひっぱりまわ
されているあいだ、アルカードは気配を消して、ひっそりとただ後ろに立ちつくしたままでいた。
「ちょっと、もう、アルカード」
半泣きの女中頭の抱擁からやっと身をもぎはなしたマリアが、上気した顔でアルカードの腕を引っぱりに
来た。
「そんなところでぼうっとしてないでよ! みんな聞いて、彼はアルカードよ。いい、彼はね、あの、
ラルフ・C・ベルモンドといっしょに四百年前に魔王を倒した、そのアルカードなの、本当よ!」
大きなどよめきがあがった。アルカードは視線を下げたまま、そこから走って逃げたい誘惑と懸命に
戦っていた。
四百年前も、このようだった。
──だが、あの時には、彼がいた……
「彼がリヒターを助けてくれたのよ。もし彼がいなかったら、リヒターが帰ってくることはできなかったわ、
そうよね、リヒター?」
「ああ、その通りだ」
まったくこだわりなくリヒターは頷いた。
「恥ずかしい話だが、俺は闇の勢力に踊らされて、魔王の城の城主に据えられていた。しかし、彼が
やってきてくれたおかげで、洗脳から逃れて、こうして帰ってくることができた。復活しかけた
ドラキュラも、彼がふたたび眠りにつかせた。今回のことの功労者は俺じゃない、彼だ。アルカードだ」
どよめきがひときわ大きくなった。集中する視線は、アルカードにとっては真夏の陽光よりも耐えがたく、
じりじりと身を灼いた。
「リヒター」低く彼は言った。
「リヒター、私は……」
「あ? ああそうだ、すまん。疲れてるのに、大勢でわいわい騒いじゃ悪いな」
リヒターはまた少し赤面し、それじゃ、と声を高めて、
「俺は少し村のほうを回ってくるから、マリア、俺のかわりにアルカードの部屋を捜してやってくれないか。
ジウリア、任せられるか?」
- 110 :エピローグ/アノレカード 第二話3/11:2006/11/24(金) 19:52:35
- 「はいはい、だんなさま」
さっきからマリアに抱きついて泣きじゃくって辟易させていた大柄な太った女が、派手な音をたてて
鼻をかんで、エプロンで目をぬぐった。
「喜んでご用意させていただきますとも。まあ、なんて、おきれいな若様なんでございましょう
ねえ。ベルモンドのお家の年代記は年寄りの者から昔話で聞いておりましたけれど、まさか、その中
でもいちばんの勇者のお一人を実際この目で見ることがあるなんて、それも、こんなにお美しい
殿方だなんて、考えもいたしませんでしたよ」
「行きましょ、アルカード」
マリアがまた手を引っぱった。
「馬は馬番のじいやに任せておけばいいわ。とにかく、用意ができるまで、客間ででも休んでて
ちょうだいな。何か、お茶でも飲む? ワインとか?」
「構わないでくれ」
心底そう言ったのだが、マリアはほとんど聞いていない様子で、大きなお尻をふりふり歩くジウリアと
にぎやかに部屋やベッドや新しい椅子のことをしゃべりながら、ずんずん本館のほうへ引っぱって
いく。アルカードとしては従うしかなかった。
四百年前とは取っ手が付け替えられている正面玄関を通り、少し飾りつけの変わったシャンデリア
の下をくぐって、この位置にはあった覚えのない広い廊下を歩く。
自分が眠っていたあいだに、ベルモンド家はかなり富裕になったらしかった。かつてはかっちりと
した実用本位のものが多かった調度が、見た目にも上質さをうかがわせる品のよい品物になっている。
かつては貴重品扱いだったガラスが、大きな窓いちめんに張りめぐらされているのには少々驚か
された。窓にかかった重いカーテンには金糸の縫い取りがあり、東洋趣味の美しい飾り壷が猫足の
卓にさりげなく置かれている。足もとの絨毯はふかふかと柔らかく、疲れた足を気持ちよく受け
とめる。
──ふいに、その足が止まった。
「アルカード? どうしたの?」
気づいたマリアが戻ってきた。
- 111 :エピローグ/アノレカード 第二話4/11:2006/11/24(金) 19:53:15
- アルカードは壁に掛けられた一枚の肖像画の前で凍りついていた。どうしても、視線を動かすことが
できなかった。
見あげて、マリアは「ああ」と頷いた。
「ラルフ・C・ベルモンドの肖像ね。そうね、あなたは、彼とは直接の知り合いだったんですもの。
見入るのは無理ないわ」
その一角には、歴代のベルモンド家の当主の肖像画がずらりと掛けならべられていた。
魔狩人の一族としての初代のレオン・ベルモンドから、リヒターの父に当たるのであろうアルカードが名前を
知らないベルモンドまで、何枚もの絵が壁面をおおっている。おそらく、リヒターの絵もいつかはここに
飾られることになるのだろう。
アルカードは熱い火に近づくように、ためらいがちにラルフの絵に近づいた。膝が、全身が、熱病に
でもかかったように震えてとまらなかった。
いくらか後世に描かれたらしく、筆遣いはラルフのいた時代からすれば見慣れないものだったが、
画家は驚くほどよくモデルの顔立ちを再現していた。
覚えている彼よりも、少し年齢を重ねていた。だが、高い鼻と秀でた額、左目に走る傷痕と、鋭い
眼光は少しも変わっていなかった。
唇をきつく引き結び、画面の外の何者かを射抜くような視線でじっと睨みつけている。大きな拳
は握ったまま膝の上に置かれ、何かを握りしめているようにも見えたが、はっきりとはわからなかった。
考えるより先に、手が出ていた。握りしめられた拳は、アルカードのすぐ目の前にあった。のばした
手が一瞬ためらい、震え、指先が画面に触れた。
とん、と乾いた感触があった。
アルカードは身震いし、灼けた石に触れたかのように身を引いた。
「アルカード?」マリアが呼んでいる。
「どうしたの? 行くわよ。絵なら、またいつでも眺められるわ」
「……ああ」
- 112 :エピローグ/アノレカード 第二話5/11:2006/11/24(金) 19:53:56
- 指に残る乾いた感触を痛みのように味わいながら、上の空でアルカードは答えた。
埃のついた指先を見おろした。先ほど、絵に触れた指だ。
そこにあったのは、アルカードが一瞬期待したような、あたたかく大きな手がやさしく握りかえして
くれるようなものではなかった。ただの、うすく埃をかぶった顔料と、画布の感触にすぎなかった。
当然のこととはいえ、その事実は手ひどくアルカードを打ちのめした。あの時一種、心の、ほんの片隅
で、ラルフが、絵の中の〈彼〉が、あの頃のように笑いながら手を取って力強く引きあげ、隣に座ら
せてくれるかと思ったのだ。
本当にそうなら、とぼんやりと思った。
本当にそうなったら、どんなに幸せだろう。たとえ絵の中に永久に閉じこめられることになって
も、ラルフのそばに、静かに身を寄せていることができるなら、この呪われた生命など今すぐ捨て
てかまわない。ただ彼の肩に身を寄せて、何にも触れられない場所で永劫を過ごすことができれば
──。
けれども、それはかなわぬ夢だ。ラルフはかつてそばにいた魔のことなど、思い出すのも避けて
いたにちがいない。結婚し、子を持ち、当主としての日常をこなす中で、あの戦いのことも、自分
のことも、きっと悪夢の中のことのように薄れていっただろう。
そうあってほしい。むしろ、そうあるように祈るべきなのだ。人間と闇の者がともに刻を過ごす
ことなど、しょせんできはしないのだから。
それでも指先はちりちりと疼きつづけた。お前など知らない、と、冷酷に告げられた気がした。
お前は、俺をたぶらかし、俺を裏切って逃げた、ただの魔物だ。その魔物が、今さら何を虫のいい
ことを、と。
──今夜、ここを出よう。
そう、アルカードは心に決めた。
歓待してくれるリヒターとマリアには悪いが、やはり、ここに来るべきではなかった。
戻ってくるべきではなかった。ここは自分がいるべきではない、いてはならない場所なのだ。ここ
を去るとき、あの老家令にそう告げ、自らも、けっしてここには二度と戻らぬと誓ったはずだった
のに、なぜ、うかうかと戻ってきたりなどしたのか。
- 113 :エピローグ/アノレカード 第二話6/11:2006/11/24(金) 19:54:32
- 言うまでもない、それは、自分の心の弱さだ。裏切りと罪を自覚すると言いつつ、そこから少し
でもいい、赦しの言葉を得たいという、いじましい心根からだ。
けれどもそれはかなわぬ夢だと思い知った今、もはやここにいる意味はない。
家の者が寝静まった頃を見はからって、屋敷を出ればいい。霧や蝙蝠に姿を変える魔導器もまだ
持っている。霧に身を変えれば、誰の目にもとまることはあるまい。
そして遠くへ行って、今度こそ、二度と目覚めることのない強力な薬を作ろう。どんな事があって
も破れることのない、永遠の眠りを与えてくれる薬を。
体内に流れる闇の血を、あらためてアルカードは呪った。この黒い血さえなければ、短剣一つですぐに
でも、死の向こうにいる彼のもとへ逝けるのに。
呪われた血の子である自分には、その道すらも閉ざされてしまっているのか。
「こっちよ、アルカード」
扉を開けてマリアが待っている。
「ちょっと待っててね、今、ジウリアがお茶とブランデーを取りに行ってるから。ワインはこの部屋に
あるから、私、用意するわね。赤がいいかしら、それとも白?」
「いや、私は……」
どうか、構わないでくれ。
そう言いかけて、ふとガラス張りの窓に視線をあげたとき、暮れなずむ空に、ちかりと小さな光が
灯るのを、アルカードは見た。
星?
だが、距離が近い。暖かな橙色の光がちらちらと揺れながら、窓から見える屋敷の屋根のすぐ上
あたりにぽつりとかかっている。ふわりとした虹のような暈を広げ、まるで、窓に灯された蝋燭の
光のような──。
「アルカード!?」
いきなり、身をひるがえして走り出したアルカードの背中を、驚いたマリアの声が追いかけてきた。
「ちょっと、どうしたの!? アルカード? アルカード!」
何も、アルカードの耳には入っていなかった。すれ違う家人の驚いた顔も、目に入らなかった。頭が
熱を持って膨れあがったように感じられた。耳の後ろで血がずきずきと鳴り、せり上がってきた
鼓動で息もできないほどだった。
(あの光。あの、光)
- 114 :エピローグ/アノレカード 第二話7/11:2006/11/24(金) 19:55:08
- 四百年の間にいくらか建物の配置は変わっているが、あの場所、あの、高さ。
そして、藍色に翳りはじめた空に浮かんでいた、あの、とがった屋根のかたちの影。
つむじ風のように廊下を駆けぬけ、庭へ出る。足に刻みつけられた記憶をたどって、増築された
新しい東翼のはしを回り、屋敷の古い部分に出る。
きれいに整えられた小さな薔薇の植え込みに囲まれて、それはあった。
見るからに古びた、石造りの古風な塔で、ごつごつした壁面には蔓薔薇がくまなく枝を伸ばし、
なごりの白い薔薇をぽつぽつと星のように咲かせている。
階段の上がり口に付けられた扉は、開いたままだった。ほとんど何も考えることなく、階段を
駆けのぼる。
一歩ごとに、時間が巻き戻っていく。配された真鍮の燭台、ところどころに切られた明かりとり
の窓、まわりながら、ゆるやかに上がっていく長い階段……
途中で、籠にシーツやリネン類を山と入れた女中が降りてきて、血相を変えて駆けあがってくる
銀髪の青年にぎょっとしたように口を開けた。
だが、相手をする気も、その余裕もアルカードにはなかった。彼女を押しのけてさらに上りつづけ、
ようやく、階段のてっぺんにたどり着く。
扉は閉まっていた。覚えているのと同じ、がっしりした樫の、鋲と彫刻とで装飾した美しい扉
だった。真鍮の取っ手は古びて、少しすり減っていた。
ためらいが頭を走りぬけた。そんなはずはない、と誰かがささやいた。そんなはずはない、そんな
はずはない、そんなことがあるはずはない──
だがそれでも、アルカードは扉に手をのばした。
取っ手をつかみ、まわして、引いた。
扉が開いた。
- 115 :エピローグ/アノレカード 第二話8/11:2006/11/24(金) 19:55:44
-
──なんだ、遅かったな。
窓のそばで、誰かが笑ってふり返るのを、アルカードは確かに見たと思った。
だが次の一瞬、幻影は消え去り、明るく照らされた室内に、アルカードは一人で立っていた。
「これ……は」
自分の眼が信じられなかった。何度もまばたき、あたりを見回す。
まるでここだけが、四百年前からそのまま引き抜いて持ってこられたかのようだった。
覚えているとおりの家具調度が、そっくりそのままそこにあった。大きな、黒光りする天蓋の
ついたベッド、そこから下がる重たげな金襴、しわひとつなく整えられたシーツ。
壁をおおうこまかなタペストリと、優雅な寝椅子や異国風の小箪笥。書き物机には何冊かの書物
と数か国語の辞書、金のペンにインク壷が揃えられ、白い紙束がいつでも使えるように、きちんと
重ねて置いてある。
壁ぎわに据えられた、今では骨董品に近いであろう頑丈な衣装箱の上には、白いシャツとやわらか
そうな革でできた靴が一足、きちんと揃えて置いてあった。
よろめくように近寄って、取りあげる。
何度も洗ったシャツはやわらかく、かなり大きな体格の男物だったと思われたが、袖と腰回りだけ
は、なぜか全体とつり合わないほど細く短めに詰めてあった。
声も出ないままシャツを置き、窓辺へと向かう。
以前は木戸だった窓の扉が、本館と同じくガラスになっていることだけが、以前と違う箇所だっ
た。暖炉にはすでに火が焚かれていて、大きな薪が快い音をたてて楽しげに燃えている。
ちょうどその温みがあたるように置かれた窓辺の小卓に、一人分の軽い食事が用意されていた。
冷めないように布に包んだパンと、何種類かのチーズ、スープと果物、冷肉に葡萄酒。パンは焼き
たてで、まだパチパチと皮が弾ける音をたてている。
- 116 :エピローグ/アノレカード 第二話9/11:2006/11/24(金) 19:56:38
- つやつやした皮に、窓ぎわに置かれた燭台の投げる、ほのかな光が照り映えていた。
「アルカード?」
息を切らせながら、やっと追いついてきたマリアが戸口に顔を出した。
「もう、どうしたっていうの、アルカード? 急に走り出すから、わたし、びっくりしちゃって──
アルカード? ねえ、聞いてる?」
「どういうことだ」
自分が何を言っているのか、アルカードはほとんど意識していなかった。
「これは──どういうことなんだ? 私は、ここを去った──何もかも捨てて、四百年前に。私と
来ると言ってくれた者に背を向けて、裏切り者としてここを出たのに。なぜ、ここはなにひとつ
変わっていない? まるで、あの夜のまま、時が止まっていたかのように。これは、私に罪を忘れ
させないためなのか? どうして……」
マリアがとまどったように眉をひそめた時、戸口で、「失礼します」と声がした。
「あら、エルンスト。どうしたの?」
アルカードは息をのんで振り返った。
「──エルンスト!?」
「ええ、そうよ。ベルモンド家の家令」
目を見開いているアルカードをけげんそうに見返して、マリアは戸口に近づいた。
「彼の家系はずっと、仕事を継ぐ長男にはエルンストと名前をつけることになっているの。それで、どう
したの、エルンスト? その手の箱はなに?」
「は、それが、うちの家系に伝わる伝言がございまして」
扉にくっつくように立っているのは、むろんあの白髪の老家令ではなかった。
まだ四十がらみの、黒髪に少し白いものの交じりかけた実直そうな男で、明るく照らされた部屋に
すらりと立つ銀髪の貴公子に目をこぼれ落ちそうにしつつも、古びた箱をひとつ、大事そうに腕に
捧げていた。
マリアは眉をひそめた。
「伝言?」
「はい。このお部屋に住まわれるお方がお戻りになったら、その時には、これをお渡しするように、と」
箱を差しだす。その手はまっすぐ、アルカードに向かっていた。
- 117 :エピローグ/アノレカード 第二話10/11:2006/11/24(金) 19:57:19
- 雲を踏むような足取りで、アルカードは近づき、箱を受けとった。
箱は木彫りで、見かけのわりにはずっしりと重たかった。銀と真鍮で縁取りがしてあり、しっかり
鍵がかかっていた。蓋の上には、封蝋にベルモンドの紋章が捺された巻紙が一つ、青いリボンで結んで
置いてある。
「あ……」
マリアが声をあげた。
アルカードが手をのばすと同時に、蓋の上の巻紙の封印がひとりでに解け、リボンがほどけたのだ。
まるで待ち続けた人の手に、ようやく渡って安堵したかのように。
「手紙、が──」
「……そうか。そう、だったのね」
開いた手紙を見ながら、しみじみと、マリアが呟いた。
「あのね、アルカード。この塔と、このあたりの一画だけは、昔からずっと、せったいに手をつけない
ように言い伝えられてきたの。他はどんなに増築したり改築したりしても、ここだけは、けっして
何一つ変えてはいけないって。
塔も、もちろん、塔の部屋の家具も、調度も、たとえ壊れて修理したり、新しいものを入れると
きでも、前のものとかけらも違わない、すっかり同じ意匠のものを入れるように、って厳しく言われ
てたって聞いてるわ。
それも、ただ変えないだけじゃなくて、毎日、きちんとベッドを整えて、掃除して、窓を開けて
風を入れて。朝と夕方には温かい食事を運んで、季節ごとに、衣装箱の中身を新しく入れかえて。
夜になれば暖炉に火を入れて、窓辺には明かりをともして、──まるで、誰かがここでずっと暮らし
てでもいるみたいに。
いったい、何のおまじないかしらって、ずっと思ってたんだけど」
顔をあげ、マリアはやさしい目でアルカードを見つめた。
「でも、やっとわかったわ。ここは、あなたのための部屋だったのね、アルカード。あなたがいつ帰って
きてもいいように、いつでも、迎える用意ができているように。
この部屋は、あなたの帰るのをずっと待っていたんだわ──四百年の間、ずっと」
言うべき言葉を、アルカードは見つけられなかった。声すらも、喉の奥で形にならないまま、ただ
慄えていた。
- 118 :エピローグ/アノレカード 第二話11/11:2006/11/24(金) 19:57:59
- 開かれた手紙の黄ばんだ羊皮紙の上に、細いペンで書かれた文字が見える。Alucard、と読める。
自分宛の手紙であることは、もはやまちがいなかった。
「ジウリアに、部屋は用意しなくっていい、って言ってくるわね。だってもう、あなたの部屋はここに
あるんだから」
箱を持ったまま立ちつくすアルカードに、マリアは声をかけた。
だが、耳に入っていないらしいことは明白だった。マリアは面白がるような笑みを浮かべ、おろおろ
している若いエルンストをひっぱって、さっさと部屋を出ていった。
「リヒターには、わたしからちゃんと言っておくから。ゆっくり休んで、その夕食、良ければ、冷めない
うちに食べてね」
扉が閉まった。
アルカードは箱を持ったまま、ふらふらとベッドに腰を降ろした。
何もかもが信じられなかった。自分は城で死んで、あるいはまた眠っているのではないか、死の
まぎわに、ふたたび幸福なあの日々に戻れたという夢を見ているのではないかという思いが、
どうしても捨てきれなかった。
だが、箱は確固として膝の上にある。
おそるおそる、封を切られた手紙に手をのばす。歳月に色の薄れた文字は細く、繊細な女文字だった。
『──Alucard,』と手紙は始まっていた。
『──アルカード、
あなたがいつ、どういう状況でこの手紙を読むことになるのか、今のわたしには見当がつきませ
ん。それでも、これを読んでいるあなたが、元気でいることを祈ります。
覚えていますか、わたしは、サイファ・ヴェルナンデスです……』
「サイファ」
アルカードは呟いた。魔王の城で戦った三人の仲間、美しく気丈な教会の魔女。
そのまま、吸いこまれるように読みつづけた。暖炉は暖かく燃え、窓の外で夜は、橙色の灯りを
懐に抱いて、ビロードのような闇をしだいに濃くしていった。
- 119 :<削除>:<削除>
- <削除>
- 120 :エピローグ/アノレカード 第三話1/18:2006/12/24(日) 23:44:57
-
『……覚えていますか、わたしは、サイファ・ヴェルナンデスです』
と手紙は続いていた。
『どうしてわたしがここにいて、この手紙を書いているのか、あなたはきっと不思議に思う
でしょうね。
わたしはあなたがここを去ったあと、教会から与えられたベルモンド家当主の妻として、この家に
入りました。
いいえ、下げ渡された、と言ったほうがいいかもしれません。魔王ドラキュラ討伐の功績に対する
報酬という表向きの理由と、魔狩人のベルモンドが、教会の手に負えなくなるほど勢力を伸ばさぬよう
監視する意味もこめられていたのですから。
だからと言って、わたしがここで幸せではなかったとは思わないでください。結婚にいたるまで
のさまざまなことはここに書くようなことでもないし、場所もありませんのではぶきますが、おお
むね、わたしたちはうまくやっていました。
教会の目をごまかして、という意味です。ラルフとわたしはあなたのことを隠し、表向きは教会に
恭順の意を示しながら、弱められたベルモンドの力を温め、のばすことに力を注いでいました。あなた
が眠っていた、古い教会の所在を隠す必要もありましたし。
教会の監視の目はきびしく、ひやりとさせられることも何度かありましたが、そのたびに、
わたしたちはうまく乗り切ってきました。そういう意味で、わたしたちはあの頃と変わらず、
いい仲間だったと思っています。
……ああ、でも、いつまで延ばしていても仕方がありませんね。書かなければならないことを
書きましょう。
──半月前に、彼の葬儀をすませました。
わたしたちの共通の友人であり、ベルモンド家当主であり、わたしの夫であった彼──
ラルフ・C・ベルモンドの、です』
- 121 :エピローグ/アノレカード 第三話2/18:2006/12/24(日) 23:52:14
- アルカードは鋭く息を吸いこんだ。
それはすでに起こってしまったこと、四百年も昔に起きてしまった出来事であると頭では
解っていたが、こうして文字にして目の前に突きつけられると、心臓を貫かれたような衝撃と
痛みが襲ってきた。
思わず胸から下げた金の指環を握りしめる。手の中で、肌に温められた指環はほのかに
ぬくもりを持ち、しっかりとした手応えを返してきた。その手ざわりに励まされるように、
アルカードは先へ進んだ。
『──突然のことでした』
とサイファは書いていた。
『収穫祭が終わって、冬の準備に入ろうという秋の終わり、家畜たちが急にばたばたと死に
はじめたのが始まりでした。
それまでにない、熱病の大流行でした。数日のうちに、弱い赤ん坊や老人をはじめ、村人たち
にも死者が出ました。何人もの頑健な大人たちも、高熱とひどい節々の痛みでベッドから起きあ
がれなくなり、村は一気に死におおわれてしまいました。
人々の上に立つものとして、ラルフは先頭に立って村を襲った病と闘いました。感染を怖れること
なく病人のいる家に入り、手当ての指示を出し、薬を作らせ──あなたの書き残しておいてくれた
薬草の処方が、とても役に立ったことをここでご報告しておきます──それをすべての家に配って
歩きました。病気になった家畜や、その小屋は焼かせ、人間の食器やシーツは熱い湯で煮てきれい
にさせるよう、指示を徹底しました。
だれかに任せることもできたのに、彼は、一切を自分の手でとりしきったのです。彼にとって、
村とベルモンド家は自分の命に替えても守らなければならないものでした。たとえ自分が生き残っても、
ベルモンド家がなくなってしまったら何の意味もないと、彼はそう考えていたようです。
そしてようやく熱病の流行が収まったかと思われた矢先、ラルフは倒れました』
自然に力の入った指が、古い羊皮紙に幾筋かの皺を入れた。
- 122 :エピローグ/アノレカード 第三話3/18:2006/12/24(日) 23:52:49
- 『いつものように、村の巡回を終えて屋敷へ帰ってきたとき、突然、気を失って落馬したのです。
気づいた時には、もう手遅れでした。全体に回ったひどい熱が、身体のあらゆるところをとうの
昔にすっかり灼きつくしてしまっていたのです。
薬草の備蓄は、村人たちのためにすっかり使ってしまっていました。できることは何もなく、
それから一度も目を覚まさないまま、三日後に、彼は息を引き取りました』
知らないうちに呼吸を止めていたことに気づいて、アルカードは大きく吐息した。
ラルフらしい、と心の中に呟いた。おそらく、身体の変調を感じたときにも、今はそんなことに
構っている場合ではないのだと頭から追い出して、だれにも気づかせることなく、目の前の人々を
救うことだけに集中していたのだろう。
手の中の指環をあらためて強く握りしめ、先へ進む。
『……馬鹿なこと、ほんとうに馬鹿だわ』
それまではきちんとしていた筆跡が、ここから先はしばらく乱れていた。
『妻であるわたしにさえ気づかせなかったなんて、まったくどういうつもりかしら。もう少し早く
気づけば、なんとかできたかもしれないのに──せめて、まだ熱がひどくならないうちに、無理に
でもベッドで休ませていれば、こんなことには。
あと一か月で、彼は四十になるところでした。早すぎる、とだれもが言いました。わたしもそう
思います、でも、彼の身体はもう以前ほど丈夫ではなかったのです。
あなたが去ってから三年後、もとドラキュラ城のあった場所である事件があって、彼は出かけ、瀕死
の重傷を負ってもどりました。
魔力を持った武器でつけられた傷の治りがどういうものかは、あなたもご存じでしょう。わたし
も何度か治療のわざを行いましたが、傷に残った毒と瘴気を完全に取りのぞくことは、結局
できませんでした。
- 123 :エピローグ/アノレカード 第三話4/18:2006/12/24(日) 23:53:48
- 傷は、その事件で知り合った人たちの協力と手厚い治療もあって、見た目の上ではうまく
ふさがっていました。でも、それ以来、冬になると彼はよく痛みをこらえるように胸を押さえたり、
こっそり咳きこんだりしていました。口数も前に増して少なくなり(これはいつものことでした
が)、少し痩せてもいました──他人にはうまく隠していたようですし、わたしも、何も言いは
しませんでしたけれど。
……ごめんなさい。つい取り乱してしまいましたね。
わたしもまだ、心の整理がついているわけではないのです。あの傷がなければ彼が生き残れたか
どうかは、正直、わたしにもわかりません。
今となっては、悔やむことばかりです。でも、どうしようもありません。彼は逝ってしまい、
わたしには、遺された子供たちとベルモンド家、そして、まだ病の流行から立ちなおりきっていない
村の存続が遺されています。
教会は当主のラルフが死んだことでいよいよ、まだ幼い子供たちを、自分たちのいいように扱おうと
するでしょう。そんなことをさせておくわけにはいきません。
ラルフのためにも、そして、わたし自身のためにも、これからはさらにきびしい戦いが続くことに
なるでしょう。ラルフが自分の身体を省みることをしなかったように、わたしにも今、自分の感情に
かまけている暇はないのです』
蝋燭がかすかにジジ、と音をたてた。
アルカードはまばたきもせず、次の紙をめくった。
『亡骸は、火葬にしました。熱病がふたたび広がることを防ぐためには、そうするしかなかった
のです。
薪の上に寝かされたラルフの手に接吻するふりをして、わたしは、彼の手の中に指環をひとつ
すべり込ませておきました。
彼が生前、ほとんど肌身離さず身につけていた品です。銀に似ていますが、それよももっと
白く輝く金属でできていて、美しい透かし模様に飾られた小さな指環です。
- 124 :エピローグ/アノレカード 第三話5/18:2006/12/24(日) 23:54:18
- 彼はそれを鎖に通し、服の下にいつも下げていました。人に見られていないと思った時には
取りだして、長いあいだ見つめ、そっと唇を触れることもありました。
指環をおさめてわたしが下がると、教会から派遣されてきた司祭が祈りを唱え、さっきわたしが
指環を入れた拳の上に十字架を置いて、火をかけるように命令しました。
燃えあがる炎が生命のない肉体を包み、やがて、すべてが灰になりました。お墓に入れるため、
燃え残った骨とその他のものが拾い集められましたが、ただひとつ、見つからないものが
ありました。あの指環です。
司祭が置いた十字架は、装飾も剥げ、黒こげになって灰の中に埋もれていました。
けれども指環は、あの小さな指環だけは、どこにも見つからなかったのです。溶けた塊と思える
ような残骸すら、見つかりませんでした。まるでだれかが立ち去る時、炎の中からいっしょに持ち
去りでもしたように。
──だから、彼があちらへ持っていったのはただひとつ、あの指環だけなのです。
あの小さな銀色の、透かし模様の美しい、きゃしゃな指環。
その指環がだれのものか、あなたはきっとご存じだろうと思います』
心臓が早鐘を打ちはじめた。
アルカードは握りこぶしをぎゅっと胸に当て、飛び出しそうな心臓を抑えようとむなしく努力した。
そんなはずはない、そんなはずは──頭の中で言葉がぐるぐる回る。
ラルフが指環を? あの指環を?
ずっと持っていた、持っていてくれた──大切に、肌身離さず……?
『──彼は生前、時間が空くとよく図書室に行って、長いあいだ腰を降ろしていることが
ありました。とくに何か調べものをしたり、本を読んだりということではなく──もともと、
仕事以外の書類をのぞいては読んだり書いたりするのは好きではなかったようです──ただ、
本を読むための大机に肘をついて、窓際の書見台を何時間もだまって眺めているようでした。
そういう時にはだれも近寄せず、日が暮れてようやく時間を過ごしたことに気がつき、立ち上がる
といったふうでした。
- 125 :エピローグ/アノレカード 第三話6/18:2006/12/24(日) 23:54:58
- ときおり、何か書き物をしていることもありました。仕事以外には読み書きはしなかった、
と先にいいましたが、眠れない夜や、何か落ちつかないことがあると、夜遅くまで灯りをつけて、
ひとりで黙々とペンを走らせていました。
彼はそういう時に書いたものはインクが乾くとすぐ、鍵のついた樫の手箱に──今、あなたの
手もとにあるその箱です──収めて、鍵をかけてしまいこんでいました。
何を書いていたのかは知りません。読んだこともありませんし、その機会も、尋ねるつもりも
ありませんでした。彼が他人の目に、少なくとも、たった一人をのぞいては人の目に触れさせたく
ないものなら、わたしには、それを守る義務があります。
この手紙を書き終わったらすぐ、わたしはその箱と鍵といっしょに、今は家令職を退いて隠遁して
いる老エルンストの所に持っていくつもりです。
わたしがこの屋敷に来てしばらくすると、彼は家令職を自分と同じ名前の長男に譲り、地所の中の
自分の屋敷に隠棲してしまいました。自分の姿を目にすることが、傷ついた主人の心をさらに傷つけ
ることを慮ったのでしょう。
わたしはこの手紙と箱を彼と、彼の子孫に託し、渡すべき人がこのベルモンド家にもどってくる
まで、守っていてくれるよう頼むことにしました』
指先に、ふと固い感触があった。アルカードは手紙を支える指を動かし、重なった羊皮紙のいちばん
下に、糸で縫いとめられている一本の鍵を見いだした。
小さな金の鍵は歳月にやや輝きをくすませていたが、アルカードの指に触れられると、かすかに鈍い
光を放った。古くなった糸はふつりと切れ、鍵はおのずからアルカードの手のひらの上に転がり落ちて
きた。
『老エルンストもまた熱病にかかり、死はまぬがれたものの、ベッドから起きあがれない身になって
います。けれどもこのことを話したところ、その場で息子たち娘たちを全員集め、わたしの言葉に
従うことを天地にかけて誓わせてくれました。あなたがいつここに戻ってきたとしても、きっと
彼らは、誓いを守ってくれたことと思います』
- 126 :エピローグ/アノレカード 第三話7/18:2006/12/24(日) 23:55:49
- アルカードは手紙を机に置いた。
小さな鍵をつまみ、そろそろと箱の鍵穴に近づけていく。苦しいほどに胸が高鳴っていた。
鍵を鍵穴に入れ、回す。カチッと音がする。
鍵をさしこんだまま、重い蓋に手をかけて、アルカードはそろそろと古い箱を開けた。
中には、ぎっしり文字が書かれた羊皮紙が縁まで積みかさなっていた。インクと、かすかな埃の
匂いがした。角張った、癖のある字が目に飛びこんできた。
『アドリアン』とそれは書いていた。
──アドリアン。
今はもう、だれも知らないはずの、自分の、人としての名前。
震える指で一枚を取りあげ、おそるおそる目を落とす。
『──アドリアン、
今朝、雪が降った。今年はじめての雪だ。
ひと晩でえらく積もったので、屋敷の庭では子供たちが雪合戦だの雪人形を作るので大騒ぎして
いる。果樹園のほうで雪で枝が折れていないか見回ってきたが、大丈夫そうでほっとしている。
ともあれ、この雪が溶けるまでは、おまえの所へ行けそうにない。秋に植えた新しい薔薇の苗が
いささか心配なんだが、根づいていてくれることを祈ろう。サイファは、あの土地でならどんな植物でも
丈夫に育つと保証してくれている。そうだといいんだが。
そこは寒くないか、アドリアン。冷たくはないか。
雪の晴れ間のいい天気で、氷柱がガラス細工みたいにきらきらしている。おまえが見たらどんなに
喜ぶだろうと思う。おまえには結局、降誕祭の祭りは見せてやれなかったな。あの祭りの市場や、
広場の芸人たちがやる踊りの輪はずいぶん見物なんだが。
考えてみれば、おまえに会うまでは、冬も、雪も、これほど綺麗なものだとは思っていなかった。
おまえに見せてやりたいと思うたびに、自分の住んでいる世界が、どれだけ美しかったかに今さらの
ように気づく。たとえそばにいなくても、アドリアン、おまえは、俺にこの世界の美しさを教えてくれる。
アドリアン、逢いたい。おまえに逢いたい──』
- 127 :エピローグ/アノレカード 第三話8/18:2006/12/24(日) 23:56:47
-
長い、震えるような吐息をついて、アルカードは手紙から目を引きはがした。
そんなはずはない、とまた小さな声が胸の中で呟いている。自分は彼を捨てたのだ。ひどいやり方
で騙し、裏切り、置き去りにしたのだ。それなのに彼が、こんなことを言ってくれる理由はない。
四百年の時をへだてて、苦手なはずの文字を綴って、こんな──。
別の一枚を取りあげる。蝋のしみがついたその一通は、夜遅くに灯をともして書かれたもののよう
だった。
『──アドリアン、
さっき、おまえの夢を見た。眠れなくなったので、下へ降りてきてこれを書いている。
夢の中でおまえは、ただ悲しそうな顔をしたまま、いくら呼んでもどんどん遠くへ行ってしまっ
て、少しも手が届かなかった。夢の中でくらい抱きしめさせてくれてもいいだろうに、まったく
ひどい奴だな。
とても静かな夜だ。燭台の明かりにぼんやりと、いつもおまえが使っていた書見台が見える。
ここでいつも、おまえに叱られながら書き取りの練習をしていたことを思い出すと、妙な気がする。
あの時はただもう面倒なのと腹が立つばかりだったが、今、こうしてペンをとって字を書いている
と、少しだけ、おまえに近づける気がする。気持ちが乱れた時、どうしてもおまえに触れないでは
いられない気分になった時、ペンを持って書くことが、いくらか気分を鎮めてくれる。
不思議なものだ。あの時のおまえのくそ生意気な先生ぶりに、今になって感謝の気持ちを抱くと
は、まったく思ってもみなかったんだが──本当にあれは苦行だったぞ、アドリアン。おまえはきっと
笑うだろうが。わかっているか?』
- 128 :エピローグ/アノレカード 第三話9/18:2006/12/24(日) 23:57:26
- 手紙は何枚も、何枚もあった。
日常のちょっとしたことを報告する手紙もあり、子供が生まれた日のとまどいと喜びを記した
ものもあった。アルカードの眠っていた教会跡がベルモンド家によって買い取られ、大切に補修されていた
ことも、この手紙ではじめて知った。
恋しさに苦しめられ、いたたまれずに乱れた文字で書き殴られた手紙も何通もあった。黒くて
大きなくせ字が、そういった手紙ではいよいよ乱れ、ほとんど判別不可能なものもあった。きちん
とした紙ですらなく、手近にあった切れ端や、裂き取った布の一片に叩きつけるように書かれた
ものもあった。
内容も書かれたものもさまざまな、雑多なその束のどの一枚の中にも、必ず一度は書かれている
言葉があった。
『逢いたい』。
かさかさと音を立てる羊皮紙一枚一枚を広げているうちに、紙束の間から、小さな紙片がはらりと
落ちた。
拾いあげてみると、それも手紙だった。大きな、乱れた文字で、ほんの数語が紙からはみ出さん
ばかりにいっぱいに、黒々と殴り書きされていた。
『アドリアン、逢いたい。逢いたい。逢いたい。
逢いたい、逢いたい、逢いたい』
──ただそれだけを紙いっぱいに書き殴られた、手紙とも呼べないような紙片だった。
アルカードはしばらくの間、呼吸することすら忘れていた。紙片を持った手がはげしく震えだし、はっ
としたように胸に抱きかかえる。
胸の上に、握りしめられていたためにすっかり暖かくなった指環があった。金の指環と小さな
紙切れは、そこにこめられた同じ響きの叫びを響かせ、共鳴しあって、アルカードのもはや失ったと
思っていた部分の空洞に、幾重にも反響するようだった。
- 129 :エピローグ/アノレカード 第三話10/18:2006/12/24(日) 23:58:09
- 「……ラ、ルフ」
言葉が、こぼれた。
けっして口にはすまいと、自分に言い聞かせつづけていた言葉だった。自分にはもうその名を口に
する資格はないのだと、何度も言い聞かせ、胸の中で暴れまわる思慕を、むりやり凍りつかせようと
努力を重ねてきた。
「私、の、ラルフ」
だが、その小さな紙片に刻まれたむき出しの愛情と恋人を求める叫びは、いやおうなしにアルカードの
心を揺り動かした。堅固だと思っていた防壁はあっさり突き崩され、まるで、その手紙の主自身に
抱きしめられたように、身体が燃えるのを感じた。その手の、腕の、胸のぬくもりを感じ、熱い唇が
触れてくるのさえ感じるような気がした。
「私、の、愛する──ラルフ……!」
限界は、ふいにやってきた。視界が曇り、あふれてきた涙に耐えかねて、アルカードは指環と手紙を
握りしめたまま、ベッドに身を投げるように身を伏せた。抑えきれない嗚咽がもれ、子供のように
身を丸めて、声をあげてアルカードは泣いた。
(愛されていた。愛してくれていた。あの裏切りの後でも。裏切りの後でさえ)
想いは、ずっとそばにいた。そばにいて、今もなお、ここに、そばに形をとっている。
明るい部屋と暖かな火、あの頃と少しも変わらない室内、窓辺にともされた目印の灯、季節ごとに
入れかえられる衣装箱、毎日運ばれていた食事。
四百年間、変わらず続いてきた想いが、今ここにある。両腕を広げて、アルカードを迎え入れてくれて
いる。愛に背を向け、闇と沈黙の年月をくぐり抜けて、もはやどこにも帰る場所などないと思ってい
た自分に、変わらず差しだされる温かい腕がある。
(もっと笑わせてやる、俺がずっとそばにいて、おまえをうんと笑わせてやる。だから笑ってくれ、
アルカード、俺の、アドリアン……)
「私の──ラルフ」
- 130 :エピローグ/アノレカード 第三話11/18:2006/12/24(日) 23:58:48
- 彼を、自分のものだとはあえて考えないようにしてきた。ラルフ自身はいく度もそう口にし、誓った
ものの、アルカードの中にある小さな怯えが、彼を自分のものだと宣言することをいつもためらわせて
きていた。
自分がラルフと同性であり、男であること、世間にはとうてい認められないであろう関係であること、
彼が荘園主として大勢の人間に責任を負う身であること、何よりも、なかばしか人ではない、この
呪われた闇の血のこと──それらすべてが、自らのすべてを差しだすと言ってはばからない、ラルフの
心を受け取ることをためらわせてきた。
だがもう、そうした障壁は取り払われてしまった。長い年月の前に、人の世の雑事は流れ去り、
ただ、強い想いだけが残った。
(俺がおまえの還る場所になる、アドリアン)
いつの日か、彼はそういった。あの、白い花と光に満ちた小さな楽園、二人だけの、ささやかな
箱庭の天国で。
そして、彼はその通りにしたのだ。命を継ぎ、想いを継ぎ、いつになるかも判らない恋人の帰りを
待つために、人間としてできるかぎりのことを──苦悩も、寂しさも、すべて呑みこんで──よるべ
ない自分のための、居場所を作っておいてくれた。
「私の、愛しい、ラルフ」
涙はとめどなく流れ、四百年間の闇と寒さを、あとかたもなく流し去っていく。
愛しいものの想いの結晶をかたく抱きしめて、アルカードは、ただの人間アドリアン・ファーレンハイツ・
ツェペシュとして、やわらかいベッドに頬を埋め、あふれる涙をシーツに吸わせながら、自分の身内
にかたく凍りついていたものが、静かに、ゆるやかに解けていくのを感じていた。
- 131 :エピローグ/アノレカード 第三話12/18:2006/12/24(日) 23:59:39
-
「ヴァンパイアキラーを手放す?」
朝の香草茶を淹れる手をとめて、マリアは驚きの声をあげた。
「本気なの、リヒター? だってあれは、ベルモンド家の宝なんでしょ? ヴァンパイアハンターとしての
ベルモンド家の象徴って言ってもいいくらいなのに、どうして」
「本気だよ。聞いてくれ、マリア、アルカード」
一夜明けた、朝食の席だった。自室に運ばれた食事をすませたアルカードも、茶をともにしないかとの
招きを受けて、窓際の長椅子に茶器を手にして足を伸ばしている。何か考えにふけっているような
横顔は、リヒターの声を耳にしたのかしていないのか、表情からはうかがい得なかった。
「俺は今回、シャフトに操られてドラキュラの復活に手を貸すことになった……少なくとも、そうなる
はずだった。アルカードが俺を、洗脳から叩き起こしてくれなければ」
窓辺に頭を寄りかからせている麗人をちらりと見やる。アルカードは自分のことが話されているのにも
注意を払っていないふうで、開けた窓から入ってくるひやりとした風に、けだるげに銀髪をなぶらせ
ていた。
「これは、ベルモンド家の家長としては重大な失態だ。いずれ、教会のほうからも、その点について
糾弾の使者がやってくるだろう。そうなる前に、こちらから手を打っておこうということさ。先に
こちらから恭順の意志を見せれば、あちらも行き掛かり上、それ以上の詮索はできなくなる」
「でも……でもリヒター、失態って言ったって、結局大事にはならなかったんだし、教会の奴らにああ
だこうだ言われる筋合いなんてないわよ」
ポットを乱暴に置いて、マリアは口をとがらせた。
「だいたい前の事件の時だって、リヒターと、それからあたしに何もかも押しつけといて、全部終わって
からやってきてなんだかんだ役にも立たないこと言ってっただけじゃない。何もあんな奴らに気を
使うことなんてないわよ、リヒター、あなたはただシャフトに利用されただけだわ。もう二度とそんな
ことがない今は、堂々としてればいいのに」
- 132 :エピローグ/アノレカード 第三話13/18:2006/12/25(月) 00:00:23
- 「いや、そういうわけにはいかないさ」
マリアの言葉を片手を上げて止め、リヒターはいかにも彼らしい真面目な口調で、
「どう理由をつけたとしても、俺が心の隙をつかれて、シャフトに操られていたことは明白な事実
なんだ。もしアルカードが来てくれなかったら、そのままドラキュラ復活の道具にされて、ふたたび闇の世
の再来になっていたかもしれない。だから俺も、ベルモンドの家長としてなんらかの責任を取る必要は
ある──
──と、ここまでは、あくまで表向きの理由だ」
「え?」
不服そうに頬を膨らませていたマリアは、意味ありげにリヒターがつけ加えた最後のひとことに、けげん
そうに目をまたたいた。
「表向き? 表向きって、どういうこと?」
「前の事件から五年間、少しずつ考えるようになっていたんだが」
食卓に肘をついて、リヒターは組んだ両手に顎を乗せた。
「ベルモンド家──それから、ヴェルナンデス家の血統は、これまでずっと東方正教会の監視下に置かれて
きた。それは俺たちが唯一、吸血鬼殺し、魔物殺しの聖鞭を持つ一族だからだ。教会にとっては
手放せない便利な武器、そういうわけだ。教会の威信を保つためにも、俺たちみたいな魔物狩りの
道具をかかえておく必要があった、反乱を起こされないように、しっかりと監視の目を利かせて
おくことも。
そういうことは、たぶんアルカード、あんたのほうが身にしみていると思うが」
アルカードはわずかに肩をすくめ、カップの中に目を落として静かに茶をすすった。
「だが、時代は変わってきている」
リヒターは話を進めた。
「もう昔ほど、教会は強い力を持っていない。人々に対する影響力も、田舎じゃともかく文化の
進んだ都会では、馬鹿みたいに弱くなってる。それなのに、教会は変化を認めたがらずに、今でも
人間を、世の中を支配していると思いこみたがり、俺たちベルモンドやヴェルナンデス、異能の力を持った
血筋を管理して、自分たちが邪魔だと思ったものに闇雲に殴りかからせる道具にしている。
- 133 :エピローグ/アノレカード 第三話14/18:2006/12/25(月) 00:01:15
- ドラキュラのことだってそうだ。奴らは結局、ドラキュラが復活するたびごとに俺たちに叩きに行かせる
だけで、どうすれば完全に魔王を封じることができるのかについてはかけらも考えようとしないし、
その手だても捜そうとしない。
奴らにとって、ドラキュラは必要悪なんだ。自分たちのもとに民衆を惹きつけておくための、具合の
いい敵なのさ。そして、それを倒すための道具が俺たちで、握っているのは、あくまで自分たち
教会だと思わせたがっている。
もし、ベルモンド家が魔王を倒す力を持ったまま自分たちの手を逃げ出そうとすれば、たちまち潰し
にかかってくるだろう。昔よりはかなり弱まったとはいえ、まだまだ、教会の力はあなどりがたい
からな」
「それはわかったけど」
マリアはまだとまどっていた。
「それと、ヴァンパイアキラーを手放すのと、どういう関係があるの? 確かに、あれがなくても普通の
魔物は狩れるけれど、魔王を倒せる武器はあれだけしかないのよ。
教会に頭を押さえられているのは本当にしゃくにさわるけど、情報は少なくとも手にはいるし、
何も普段から、ああだこうだ干渉してくるわけじゃなし」
「そうかもしれないな。だが、アルカードのことはどうするんだ?」
「あ……」
はじめて気づいたように、マリアは窓辺の青年のほうを見返った。半魔の公子は聞いてはいるのだろう
が、注意は払っていない様子でぼんやりと庭を眺めている。
「今回、魔王の子のアルカードがまだ生きていて、ベルモンド家とふたたび繋がりを持ったとわかれば、
教会側はたちまちイナゴみたいにそこに飛びついてくるだろう。アルカードに引き渡せと迫るか、危害
を加えようとすること、少なくとも、身柄を拘束しようとすることは間違いないと見ていい。
だから、そういう事態にならないうちに、先手を取ってヴァンパイアキラーを餌に、教会の注意を
そらそうというんだ。奴らはベルモンド家の力が、あの鞭に集約されているものだと思っている。
ヴァンパイアキラーがベルモンド家から離れれば、教会の監視は、なくなるとは行かないかもしれないが、
少なくとも手薄にはなるだろう。
その間に俺たちには、やることがある」
- 134 :エピローグ/アノレカード 第三話15/18:2006/12/25(月) 00:01:58
- 「どんなことなの?」
今ではマリアもすっかり興味をひかれた顔で、卓に手をついて身を乗り出していた。
「教会に縛られない形で、魔王や魔物に対抗できる組織を新しく作りあげる」
力強くリヒターは言い切った。
「何年か前から、ヨーロッパに散らばったベルモンドやヴェルナンデスの血筋と、こっそり連絡を取りあって
きた。他にもいくつかの異能者の家系ともつながりがとれている。
教会の監視さえはずれれば、それらを再編成して、新しい体系に作りあげることができると思う
んだ。もちろん、それにはずいぶん長い時間がかかるだろうし、もしかしたら俺一代では終わらない
仕事かもしれないが、それでも、やり遂げる価値はある。
そして、アルカード」
静かに座りつづけている青年に、リヒターは真摯な視線を向けた。
「あんたなら、たとえ俺が寿命尽きて死んだあとでも、その仕事を引き継いでくれることができる。
仕事が何代にもわたり、遠い子孫の時代になっても、あんたはすべての記録と知識と、力をたずさえ
て、そこにいることができる。
どうか、俺たちに協力してくれないか、アルカード。このまま、復活するドラキュラをそのたびに封じ
直しているだけでは、いつまでたっても同じことの繰り返しだ。
どうにかして、ドラキュラの魔力を完全に、そして永久に封じる方法を見つけなければならない。
あんたなら、教会なんぞ足もとにも寄れないほどの知識と、闇の力に対する深い理解を持っている。
力を貸してくれ、アルカード。──ドラキュラを、あんたの父親を、本当に、闇の力から解放するために
も。どうか」
アルカードはゆっくりと茶器を脇の小卓に置いた。
白い顔がゆるやかに上がり、リヒターとマリアに向けられる。
マリアははっと息をのみ、口に手をあてた。知らず、目尻にほのかな血の色がのぼり、リヒターは、先を
つづけようとして口を半開きにしたまま、真っ赤になった。
アルカードは、微笑んでいた。
まるで春風に、白い薔薇のつぼみがほころんだようだった。氷青の目はやわらかく和み、唇は
美しくゆるやかな曲線を描いていた。長い銀髪が朝の風になぶられ、微笑む貴公子の笑顔に、
明るい陽光が霞のような光をまとわせていた。
「──喜んで」
ただ一言、彼は、そう応えた。
- 135 :エピローグ/アノレカード 第三話16/18:2006/12/25(月) 00:02:39
-
『……わたしは、冷酷な女なのかもしれません』
そう、サイファは書いていた。
『わたしにとって愛とは、神と同じ意味しか持っていませんでした。ただ言葉として教えこまれる
だけの、冷たい言葉と石像、他人を従わせるための口実であり道具、祈りと恭順だけを強要し、
何一つ与えることなく、ただ、すべてを奪い去るばかりのもの。
そんなわたしが唯一、愛情らしきものを感じたのが、あなたがた、ラルフ、アルカード、それからグラント
──あの戦いで行動をともにした、仲間たちなのです。
ラルフとわたしの結婚生活は、人によっては夫婦らしくないというものもあったでしょう。愛して
いなかったとは言いません。けれども、あの魔の城の中でと同じように、わたしたちは男女である
以前に、世の中と、そしてのしかかってくる教会という巨大な敵にともに立ち向かう、二人の戦友
だったのです。
あなたの存在を世間から隠し、ベルモンド家に、わたしのヴェルナンデス家と同じ道をたどらせようとする
教会の策謀をはじき返すこと。その間に領地を安定させ、村人たちを守ること。そして、いつか
あなたが目覚める日のために、あなたの居場所を確保するために、血を次代に繋いでいくこと。
やらなくてはならないことはたくさんありました。危険なことも、同じくらいたくさん。ラルフは、
ある意味、戦いの中で、戦士として斃れたのです。彼らしい死だったと、今では、わたしは思います。
そして、あなたにお願いがあります、アルカード。
- 136 :エピローグ/アノレカード 第三話17/18:2006/12/25(月) 00:03:21
- どうかラルフの、ベルモンドの血を継ぐ子供たちの、力になってあげてください。
この手紙がいつ、あなたの目に触れることになるのか、それはわたしもわかりません。もしかした
ら、結局あなたの手には渡らないまま失われることになるのかもしれない。
けれどもわたしは祈る思いで、この言葉を記します。
自分がほんとうに神に祈ることがあるとは思いもしませんでしたし、神が、だれかの願いを叶えた
りすることなどないと思っていましたが、それでも、祈らずにはいられません──神でなければ、
運命に、または、その他どんなものにでも。
彼はあなたを愛していました、アルカード。それはきっとご存じですね。
そしてあなたも、彼を愛しているのだろうと思います。
もし、その愛が今でもあなたの心の中に燃えているなら、どうか、ラルフの子供たちを助けてあげて
ください。
そこがいつの時代であろうと、ベルモンドがいまだに魔王と戦いつづけているのであれば、──いえ、
そうでなくとも、厳しい時代が続いているはずです。人間の住む世の中が、厳しくないことなど
あったでしょうか?
けれどもラルフはその中に、どうにかして小さな平和を見いだそうと、弱い者たちが幸福に暮らせる
場所を、作り出そうと努力してきました。
どうか少しでも、その夢に力を貸してあげてください。
あなたの指環ひとつを抱いて、彼岸に旅立った、彼のためにも』
- 137 :エピローグ/アノレカード 第三話18/18:2006/12/25(月) 00:04:12
-
(俺がおまえの還る場所になる、アドリアン)
(──だから、もう泣くな。アドリアン。泣くな)
ああ、ラルフ、私はもう泣きはしない。
私はただ歩いていく、ラルフ。
真っ暗だと思っていた世界に、今、一筋の道が見える。
長い長い、旅になるだろう。道はどこまでもはてしなく続き、途中で傷つき、膝をつくことも、
立ち上がれないほどに打ちのめされることも、何度もあるだろう。
それでも私は歩くだろう。立ち上がり、脚を引きずり、少しでも前に進むために、あらゆる力を
つくすだろう。
どんなに道が遠くとも、けわしくとも、踏み出す足がどれほど苦痛に満ちていても、それが、
おまえのもとに還るための一歩だと思えるのならば、──
私はきっと、最後まで──歩いていける。
おまえは私を笑わせてくれると言った。だから今度は、私がおまえを笑わせよう。
すべてが終わり、なすべき事をなし終えたら、最高の笑顔を持って、おまえのところに駆けていこう。
目を閉じれば、おまえの笑い声が聞こえる。痛いほど強く抱きしめる腕の感触も、深く青い瞳の
やさしさも、広い胸のぬくもりも、すべて、私は覚えている。
──それから、その胸に今も下がっているはずの、小さな銀色の指環も。
(愛している、ラルフ)
私の、ラルフ。
また逢おう。必ず。
永久の黄昏の果てる場所で、昼と夜が、光と闇が溶けあう場所で、──おまえと。
- END.-
- 138 :小夜曲 1/14:2007/03/01(木) 00:05:04
- 「何も考えなくていいんだ」
とラルフ・C・ベルモンドは言った。
「いつも俺がやっているとおりのことをしてくれればいい。できるだろう? 毎晩俺がやってる
ことを、ちゃんと覚えていれば」
アルカードの頬がうっすらと赤く染まったが、返事はなかった。
二人とも裸体で、ベッドの上で向かいあい、脱ぎ捨てた服は床の上でからまりあっていた。
アルカードはラルフの足の間にうずくまり、じっと視線を落としている。いつもは消される明かりは、
ラルフの強硬な主張で、今夜はあかあかと灯されたままだった。
なめらかな白い肌に、蝋燭の明かりが真珠色に映えるのをラルフはほれぼれと眺めた。いつも
相手に言っていることを、今度は自分が言われる気分というのはどういうものだろう、と
考えると、さらに愉快だった。
『私が毎回やっていることをちゃんと覚えていれば、間違いなくできるはずだ』。
そう、間違いなく覚えていたからこそ、ラルフはちゃんとできたのだし、その結果こういう事に
なったのはアルカードが言い出したことであって、ラルフのせいではない。
発端は、ラルフの語学の勉強があまりに進まないことに業を煮やしたアルカードが、「書き取りの中
で綴りか、文法の間違いが三つ以下になったら、なんでも言うことを聞いてやる」と約束した
ことからだった。
それを耳にしたとたん、ラルフのやる気は俄然盛りあがり、今日の学習で、とうとう綴りの間違いも
文法の間違いもひとつもなしに、課題を仕上げることができたのである。
ラルフは意気揚々とアルカードに約束の履行を迫り、アルカードも、内心はどう思っていたにせよ、自分が
口に出したことを今さら翻すほど不正直ではなかった。嬉しさを隠しきれないラルフを部屋に迎えたと
きもさほどの動揺はあらわさなかったし、服を脱いで寝台にあがれと言われたときも、別に文句も
言わずに従った。
しかし、それから先、どういうことをやらされるかは考えていなかったようだ。
- 139 :小夜曲 2/14:2007/03/01(木) 00:06:12
- 「さあ、やってみろ」
ラルフはくり返した。
「全部は入らなければ、入る分だけでいい。少しずつでいいんだ、手を伸ばして、さわってみろ。
先のところにキスしてみてくれ。俺がいつもやってることだろうが?」
アルカードはもう一度だけちらりと視線を投げると、黙ってかがみ込み、すでになかば頭をもたげて
いるラルフの雄に、おそるおそるといった様子で触れた。
「両手で包みこむようにするんだ……そう、それから、唇に……少しずつでいい、まだたっぷり
時間はあるんだからな……復習する時間だってある」
からかうようなラルフの言葉に、アルカードは一瞬きっと眦をあげてラルフを見あげたが、結局これも自分
が招いたことだと観念したらしい。
おとなしく身をかがめ、細い指で、熱く脈打つ肉の槍をおずおずと包みこんだ。体温の低い
アルカードの、ひやりと冷たい指の感触に、早くも戦慄にも似た快感がラルフの背筋を駆けあがった。
「舐めてみろ」
自分の声がかすれるのがわかった。
「いつもやっている──して貰っていることだろう? たまには自分でやってみるんだ」
アルカードはしばらくためらっていたが、言われたとおり、固く反り返ったものの先端に唇をあて、
ためらいがちにちろりと舐めた。濡れた舌の感触が心臓を直撃し、鼓動が急上昇するのをラルフは感じた。
「くわえろ」愛しさと征服欲の入りまじった欲情に胸を轟かせながら、ラルフは命じた。
「口を開けて、中に入れるんだ。舐めてるところを見せてくれ」
アルカードはかすかに頬を震わせたが、従った。小さな口をせいいっぱい開き、腹を叩かんばかりに
反り返ったラルフ自身をくわえ込む。
とうてい全部を呑みこむことはできず、ほんの先端部分を口に入れただけにすぎなかったが、
それでも苦しげに眉根が寄り、目を固く瞑るのを見て、ラルフは自分の中の雄の部分が激しく刺激
されるのを感じた。
- 140 :小夜曲 3/14:2007/03/01(木) 00:06:47
- 思わず腰を動かして軽く突きあげると、喉の奥を突かれたアルカードは、小さくむせてくわえたもの
を吐き出した。わずかに涙のにじんだ目で責めるように見あげられると、かえって嗜虐の与える
後ろ暗い歓びが増した。
「どうした、まだちょっと先を口に入れただけだぞ? 俺はもっと、いろいろなことをしてやって
いただろう? おまえだって、さんざん悦んでいただろうに」
「それは──……」
アルカードは反論しようとしたようだったが、毎晩、自分がラルフに同じことをされてどんな嬌態を
見せているか思い出したらしい。ふたたび俯き、髪で顔を隠した。かすかに見える耳の端が、
羞恥と怒り、それにおそらくは昂奮で、薔薇色に染まっている。
「さあ、続けろ。まだちょっと先を口に入れただけだろう?」
垂らした髪で顔を隠したまま、アルカードはふたたび身をかがめた。
全部を口に入れるのはあきらめたようで、先端部分を含んで吸ったり、胴の部分を横からくわえて
舌を走らせたりと、必死に言われたとおりにしようとしている。
いかにもたどたどしい、技巧も何もない幼い奉仕だったが、それがまた性感を煽る。やわらかな
舌と唇にまじって、とがった歯の先が敏感な部分をときおりかすめるのが、ぞくぞくする快感を
もたらした。
手を伸ばし、垂れた髪をかき上げて顔をあらわにする。額に触れられて、アルカードはびくっと身を
縮めたが、そんなことにかまう余裕はもうとうにないようだった。細い指を肉の塔に添え、懸命に
舐め、しゃぶり、ピンクの舌をちろちろと覗かせて奉仕に専念している。荒くなった呼吸が、熱く
ラルフの内股に触れた。
長い睫毛のかげの瞳が、ラルフと同じく欲情に煙りはじめている。いつもきちんと引き結ばれ、
おだやかな短い言葉しか発しない形のいい唇が、自分の欲望をくわえこんで懸命に動いているのを
目にしたとたん、意に反してラルフは、低い声をあげて達していた。
- 141 :小夜曲 4/14:2007/03/01(木) 00:07:18
- 「───っ」
口を離して、アルカードははげしくむせた。ちょうど先端を口に入れかけていたところで、まともに
口からあごにかけてぶちまけられることになったのだった。
「すまない」
不明瞭な声でアルカードは言って、したたる白い滴をぬぐおうとした。
「上手くできなくて──呑みこめなかった──ラルフはいつも呑んでくれるのに」
「待て」
口をこすろうとするアルカードの手を、腕を握ってラルフは止めた。
そのまま、ゆっくり押し倒す。滴はあごを伝い、胸から腹に至るまで飛び散っていた。
「ラ、ラルフ……?」
上にのしかかったまま頭を下げていくラルフに、アルカードがとまどった声をあげる。
「──あ」
臍のすぐそばに飛んだ滴を舐め取られて、かすかな声をあげた。
「ラ、ラルフ? 待って」
あわてたように抑えにかかる手を軽く払いのけて、ラルフは、アルカードの肌に飛び散った自分の精を、
一滴ずつじっくりと舐め取っていく。
「あ、ラル、──フ」
うっすらと筋肉の載った平らな腹から、なだらかな胸へとラルフの舌がすべっていくたびに、なめら
かな肌が大きく波打った。声をあげまいと歯を食いしばり、シーツを握りしめて顔をそむけている
恋人に、ラルフは胸苦しいほどの愛情と昂奮を覚えた。
尖った乳首の上に乗った一滴を軽く舐めとる──わざと乳首そのものには触れず、舌先をわずか
にかすめるだけにする。こわばった全身がびくりと跳ねる。ラルフは身体をずり上げてぴたりと身体を
合わせ、鎖骨のくぼみや、首筋、うなじに軽く歯をあてながら、丹念に残った汚れをぬぐい取って
いった。
- 142 :小夜曲 5/14:2007/03/01(木) 00:07:54
- しかし、たったひとつの場所には触れない。アルカードが羞恥と快感に怯えながらも待ちかまえて
いることはわかっていたが、もっとこの愛らしい肢体の慄えるさまを味わっていたかった。太腿に、
すっかり熱を帯びたアルカードの性器が触れてくる。
「あ……あ……ラルフ……、ラルフ……」
「どこだ?」
囁いて、そっと耳に歯をあてる。首も、胸も、頬やあごまですっかり清めつくしたあげく、残って
いるのはあとたった一箇所しかない。
「どこをきれいにしてほしい? 教えてくれなければ、わからないな」
いじわるく囁かれて、アルカードは閉じた目を一瞬開けてラルフを睨もうとしたが、じきにその目は
力なく閉じられた。
「く……ち、を」
濡れた唇で、あえぐようにそう答えた。
「く、ちを……唇、を」
「唇を?」
両手で小さな顔を包みこみながら、舌先でつと相手の唇をかすめる。小さく息をのむ音が聞こえた。
「──キス、を──……」
それ以上は焦らさずに、ラルフは深く唇を重ねてアルカードをベッドに沈めた。
こちらが吸うまでもなく、熱を持った舌が小さな魚のように性急にすべり込み、絡みついてくる。
自分の放ったものの苦みを舌先に感じながらも、ラルフは、夢中ですがりついてくるアルカードのキスの
甘さを存分に楽しんだ。
片手で髪を撫でてやりながら、もう片方の手を、そっと下腹へ滑らせていく。張りつめたものを
包みこんでやると、はっと全身をこわばらせるのがわかった。軽く二、三度扱いてやっただけで、
小さく身震いしてアルカードは爆ぜた。
- 143 :小夜曲 6/14:2007/03/01(木) 00:08:25
- 「あのままじゃ、少し苦しそうだったからな。……少しは楽か?」
唇を離して、囁いてやる。アルカードは答えず、ほどいた腕で顔を隠してなんとか呼吸を整えようと
していた。ラルフは苦笑し、あらためて、ぐいとアルカードを抱き寄せた。
「あ、ま、……って」
抗おうとした声はたちまち途切れる。ぴったりと抱き寄せたラルフが、濡れた指をアルカードの後ろに
挿しいれ、ゆっくり抜き差しをはじめたからだった。
「わかるか?」
息を殺してラルフは囁く。
「さっきおまえが舐めていてくれていた奴が……ここに入る……こんな風に動く。ここをこうして
……突きあげて……ここに当たる。こんな風に」
ひ、と悲鳴を喉でかみ殺す声が漏れた。
ラルフの指が中の一点を強く突きあげたと同時に、強く腰を押しつけて、すでに最前の勢いを取り
もどしたものをアルカードの腹に押しつけたのだ。その熱も、形も大きさも、しっかりと伝わったはず
だった。先ほど口にしていた固いものの熱さと大きさが、否応なしにアルカードの脳裏を支配している
はずだった。
アルカードの呼吸がせっぱ詰まって浅く、早くなる。中に入れた指が、物欲しげに強く食いしめられる
のを感じた。
「欲しいか?」中に入れた指を二本に増やしながら、ラルフは尋ねた。
「欲しいか、と訊いてるんだ」
紅く染まった頬が、さらに薔薇色を濃くする。息をするのもやっとの様子で、アルカードは二、三度
小さく喉を動かし、ようやくわずかに頭を上下させた。
「よし」
指を引き抜き、喉を鳴らして喘ぐアルカードを、いったん片手で抱きあげる。
それから自分が仰向けに横になり、抵抗する力もないアルカードを腰の上にのせて、足を開かせて
馬乗りにさせた。
- 144 :小夜曲 7/14:2007/03/01(木) 00:08:58
- 「ラルフ……?」
わずかに正気を取りもどしたアルカードが、愕然とした視線を向ける。
「自分で入れて、好きなように動いてみろ」
上半身を枕にあずけながら、ラルフは命令した。
「さっきよく解してやったから、できるだろう? 倒れないように支えてやるから」
「…………っ」
自分で男を受け入れ、動いてみろ、という屈辱的な要求に、アルカードの目が一瞬金色にきらめいた。
反駁しようと口を開けかけたが、それに覆いかぶさるように、
「何でもいうことを聞いてくれるんだろう?」
ラルフの言葉が、すべての反論を封じた。アルカードは金色のちらつく瞳に涙をにじませてしばらくラルフ
を睨みつけていたが、やがてあきらめたように視線を落とし、腰を浮かせて、おずおずとラルフの腰を
手探りした。
「そこじゃない……もう少し前だ。そう。ほら、こうして……そのまままっすぐ腰を降ろせ。そう。
そうだ」
「で、き、ない……」
荒い呼吸の下から、ようやくアルカードが声をしぼり出す。いくら解したあととはいえ、ラルフの逞しい
ものは、アルカードのきゃしゃな身体にとってはそう簡単に受け入れられるようなものではないのだ。
「そんなことはないだろう。息を吐いて、力を抜け。いつもやっているとおりにすればいいんだ。
そう。そう。そうだ……」
震える細い腰に手を添えて、崩れないように導いてやる。導かれるままアルカードはじりじりと腰を
落としていき、やがて、ラルフの下腹にまたがる形でぴったりと密着した。
「ほら、全部入った。……さあ、あとは自分で動くんだ。気持ちいい場所はわかっているだろうな?」
「……む、りだ……」
- 145 :小夜曲 8/14:2007/03/01(木) 00:09:44
- 答えはほとんど喘ぎに近かった。ラルフの熱をすべて体内に呑みこんで、アルカードは身じろぎひとつ
できないようだ。少しでも身体を動かそうとすると、常よりずっと深々と打ち込まれた肉の楔が、
まるで予想もしていない場所を刺激して、息がとまる。
「無理じゃないだろう。──ほら」
ラルフが軽く一度腰を突きあげると、アルカードはひっと喉を鳴らしてのけぞった。深々と埋め込まれた
ものが弱い場所を鋭くえぐったらしい。
「動かないと、いつまでもこのままだぞ? それとも俺に、一晩中ずっとこの眺めを堪能させて
くれるのか。まあ、それも悪くないがな」
にやりとしたラルフの顔で、アルカードは、男を受け入れているときの自分の姿を、今夜は完全にラルフに
見られているのだということに、ようやく気づいたようだった。
ただでさえ紅い頬に、さらに濃い朱が散った。青い目は、もうほとんど金色に近い。闇の血を
受けた者の怒りが、視線となってちりちりとラルフを焼く。
だがそれも、今のラルフにとっては危険な快楽のひとつだった。怒り狂うしなやかな豹を抱いている
ようだ。たとえ喉を食い破られても、今この一瞬と引き替えにするのなら命など惜しくない、と
思った。
「さあ、動け」
圧倒的な歓びに目眩すら覚えながら、ラルフは命じた。
「ゆっくり、少しずつでいいから、動いてみろ。急がなくていい。おまえのいちばん綺麗な姿を
俺に見せてくれ、アルカード、──俺の、アドリアン」
アルカードの瞳が、揺れた。
燃え上がる黄金の光が吹き消さられるように薄れ、かわって、あわい青色が浮かび上がるように
戻ってくる。アルカードは目を伏せ、小さく息をついた。なだめるように手をあげたラルフの手のひらに、
そっと頬を寄せる。
- 146 :小夜曲 9/14:2007/03/01(木) 00:10:40
- 「アドリアン?」
――……おまえは、狡い……。
指先に触れた唇が、吐息だけでささやいた。
──そんな風に言われたら、私が抗えないことはわかっているくせに。
そして目を閉じ、きつく唇をかみしめて、アルカードはそろそろと動きはじめた。
最初のうちはつたない、おずおずとした動きだったが、しだいに呼吸が荒くなり、かみしめた唇が
ゆるんで甘い喘ぎをこぼす。はしたない声だけはあげまいと、必死に堪える表情が燭台の仄かな灯り
に照らされて、うつりかわる陰翳の中に踊る。
ラルフは垂れかかる長い銀髪をかき上げてやり、腰に添えた手で崩れかかる身体を支えて軽く腰を
突き上げた。
あ、と耐えかねた声が唇をわり、アルカードはびくりと腕をあげて口を覆おうとしたが、その前に
すばやくラルフが両腕を押さえ込んでいた。
「我慢するな。いくらでも声を出せ。おまえの可愛い声を、聞きたい」
ひとつ突き上げるたびに、白い肢体がそりかえる。ぎこちなかった腰の動きはいつのまにか
なめらかに、そしてなまめかしいものになり、突き上げる動きにあわせるように荒々しく波打って
いた。もう口から漏れる喘ぎは抑えられるものではなく、いくら堪えようとしても、そのたびに
加えられる強いひと突きに少しずつ理性は削りとられていく。
「ラ、ルフ、ラルフ……もう、っ」
激しく揺さぶられるアルカードの悲鳴が、ようやく言葉の形をなした。いかせて──か細い声で
ようやく絞り出された哀願に、抑えに抑えてきたラルフの理性のたががとうとう弾け飛んだ。
- 147 :小夜曲 10/14:2007/03/01(木) 00:11:40
- 「ラ、ラルフ?」
深々と打ち込んだ自身をいったん引き抜き、驚いているアルカードを抱き上げてシーツの海に投げ
落とす。身を起こそうとするところへのし掛かり、押さえつけて、本能的に逃げを打とうとする
細い腰をつかまえ、片方の足を持ち上げて、一息に貫いた。
悲鳴のような嬌声があがった。
長い銀髪がシーツに流れ、うねり、滝のようにこぼれ落ちる。もはやどんな虚勢を張る余裕も
アルカードには残っていなかった。足を抱え上げられ、容赦ない抜き挿しが加えられるたびごとに、
しなやかな身体は殺される獣のように悶え、すでに声にならないむせび泣きがとめどなく漏れる。
軋むベッドの上でシーツが嵐の海のように乱れてゆき、その中で、ふたつの肉体が激しく絡みあう。
「あ、ぁ……っ、──っ……!」
最後の深々とした突き上げを受けて、アルカードがひときわ大きくのけぞる。二度目の絶頂を迎えて、
銀色の茂みに飾られた性器が悦びのしるしを吐き出す。
一瞬遅れて、ラルフも達した。体内に広がる熱いものを感じて、アルカードの背がわななく。ぐったりと
した恋人の身体を抱きしめて、ラルフは自らも重なり合うようにベッドに沈んだ。
- 148 :小夜曲 11/14:2007/03/01(木) 00:12:31
-
「……なあ」
「……………。」
「……なあ。悪かったって言ってるじゃないか。反省してるよ。だからちょっとでいいからこっちを
向いてくれよ。なあってば」
「……………………。」
──しまった……。
痛切にラルフは思ったが、今さら後悔してももう遅かった。
どうやら、少々調子に乗りすぎたらしい。身体を清めてもらっている間はまだ余韻が後を引いて
いて、されるがままになっていたアルカードだったが、徐々に正気が戻ってくると、ラルフが約束を盾に
とってやらかしたことと、それに対する自分の反応を思い出して、すっかり腹を立ててしまった
ようだ。
ふだんおっとりしているので忘れがちだが、アルカードは曲がりなりにも立派な王侯の子であり、
闇を統べるものの公子であり、それなりに矜持もあって気位も高ければ、そこそこ頑固でもあり
意地っぱりでもある。いったん機嫌を損ねると、直させるのにはひどく苦労することになる。
「なあって。せめてこっちを向いてくれよ。謝る、謝るから。な? 俺が悪かった、だから、ほら」
アルカードは背中を向けて横たわった姿勢を動かさず、ちょっと身体をずらしてますますラルフから
距離をとっただけだった。
「だから、そんなに拗ねるなよ。おまえだって快かっただろ? 少なくとも、あんなに可愛い声で
啼いてくれたじゃないか。アドリアン、怒らずに、こっち向いてくれよ。ほら」
なんとかなだめてみなければと、肩に手をかける。
シーツに顔を伏せていたアルカードは目を上げてじろりとラルフを睨むと、口づけしようと降りかけて
いたその唇に、力いっぱい噛みついた。
- 149 :小夜曲 12/14:2007/03/01(木) 00:13:26
-
「──つ……」
「どうされました?」
翌朝、ベルモンド家の若当主の朝食を給仕していた若い女中は、熱いスープを一口すすって顔を
しかめたあるじに驚いた顔を向けた。
「あの、スープに何か入ってましたか? 厨房に持ってって、替えさせましょうか?」
「いや、いい。スープが悪いわけじゃない」
ラルフは言って、今度は慎重にスプーンを口にあてたが、やはり顔をしかめた。
「あれ、どうなさったんですか、その唇」
おそるおそる朝食をとる若当主の唇が、見るも痛々しく腫れあがっているのを目ざとく見つけて、
彼女は尋ねた。
「なにかで切れたか、噛まれたみたいな感じですけど」
「ああ。ちょっとな。猫に噛まれたんだ」
「猫?」
「青い目の、綺麗で気の強い猫にな」
若い女中はからかわれているのだと判断したらしく肩をすくめ、からになった皿を持って食堂を
出て行った。ラルフはまた一口慎重にスープをすすり、昨夜のことに思いをはせて、ひとりでに浮かんで
くるにやにや笑いを抑えた。
午前の仕事が終われば、またアルカードが図書室で待っている。
昨晩はかなり怒らせてしまったが、今日もまたきちんと課題をこなすことができれば、アルカードには
また自分のいうことを何でもきく義務ができるわけで、それに関しては実に望むところだった。
まあ、昨夜腹を立てさせたことはとにかく謝ることにして、自重はするように心がけよう。
とにかく、少しは。
普段の凪いだ湖面のように静かなアルカードの顔が、自分のいうがままに快楽に溺れるさまを思い
うかべると、自然に頬がゆるむ。
- 150 :小夜曲 13/14:2007/03/01(木) 00:14:18
- 食事を終えて席を立ち、いつもの当主としての単調な仕事についてからでも、昨夜のアルカードの
あでやかな肢体はしょっちゅう脳裏をよぎり、気がつくと署名の途中で手を止めてにやにやして
いるのもたびたびだった。
そのたびに、さらに勢いこんでペンを取り直し、いつもの倍の勢いで仕事を終えて図書室に
向かったのは、いつもよりかなり早い時刻だった。図書室のドアは開いていて、アルカードがいつもの
ように、窓辺の書見台についてさらさらとペンを走らせている音がかすかに聞こえてくる。
少々気後れはしたが、部屋の外で聞こえるように大きく咳払いして、大股に中へ入っていった。
ペンの音が止まる。目を向けると、まばたきもせずこちらを見つめる、澄んだ氷青の視線にぶつかった。
「まあ……その……来たぞ」
どう言うべきか思いつかなかったので、ぶっきらぼうにそれだけ口にした。昨夜はすまなかった、
などとここで言っても意味がない。
どのみち、アルカードは聞いてもいないようだった。こちらの背筋がむずむずするほど綺麗な青い瞳で
じっと見つめ、無表情に、いつもの大テーブルの席を黙って指さす。
これ幸いと冷たい視線から逃げ出し、椅子を引いて腰を落とす。
ペンをとり、目の前に広げられた書き取り問題を一瞥して、「おい!?」とラルフは悲鳴をあげた。
「なんだ」
アルカードは目を上げもしなかった。書見台の巨大な古書に目を落とし、いつものようにさらさらと
注釈を書く手を止めもせず、
「何か、問題でもあるのか」
「問題? これが問題でなくてなんだ! なんだ、この課題は!」
椅子を蹴って立ち上がり、書き取り用手本として置かれた書面を憤然と掲げる。
書面はほぼ全面、びっしりと黒い文字で埋まっていた。十文字以下の単語はほとんどなく、それを
言うなら、ラルフがこれまでになんとか覚えた単語など、かけらもない。
- 151 :小夜曲 14/14:2007/03/01(木) 00:15:11
- 「これは本当に人間語か!? 俺の知ってる綴りがひとつもないじゃないか! 見たこともない単語
ばっかり選びやがって、いったいどういうつもりだ、おい!」
「ある段階を終えたら、新しい段階に移るのが学習というものだ」
淡々と言って、アルカードはペンにインクを付けなおした。
「おまえはこれまでの課題はこなせるようになった。だから、新しい課題を用意した。そのどこが
おかしいのか、私にはわからない」
「だからっていきなりこんなまっ黒な文章……!」
「ああそれから、今日から書き取りに制限時間を設けることにした」
細い指が指ししめした先には、大きな砂時計がひとつ、さらさらと砂をこぼしていた。
「この砂時計の砂が三度落ちきるまでに課題を終えられなければ、落第だ。綴りと文法の間違いも、
三つまでからひとつ以下に減らす。落第した者は課題がこなせるようになるまで、私の部屋には
入れない。わかったか」
「誰がわかるか、こら! 勝手に決めるな、その、だから、昨晩は悪かったと言ってるだろうが、
だいたいおまえは、この……」
「しゃべっている時間があるなら早くペンを持ったほうがいい。そろそろ一回目の砂が半分ほど
落ちきる」
ページをめくって、そっけなくアルカードは言った。
ぐっとラルフは言葉につまる。
そうする間にもアルカードの手元で、砂はさらさらと落ちつづけて、着実に持ち時間を削っていく。
「……く、くそ。わかった! やりゃあいいんだろう、やりゃあ!」
勢いまかせに腰を落とされて、がっしりした樫の椅子がぎしりと悲鳴をあげる。
「ふ、ふん、なんだこんな文字の塊くらい、このラルフ・C・ベルモンドを舐めるなよ! くそっ、見て
ろ、出来上がったらどうするか、この、この──」
「砂が半分。あと二回と半」
アルカードの声が無情に残り時間を告げる。
もはや呪いの言葉を吐く余裕もなく、若きベルモンド家当主は汗ばむ手にペンを握りしめ、ほとんど
暗号にも等しい文字だらけの紙面を、必死になって追い始めた。
- 152 :小夜曲・その後… 1/5:2007/03/01(木) 00:16:30
- ──その夜。
「……なあ。アドリアン」
遠慮がちなノックの音が続いている。ぼそぼそと低い声が、ドアの向こうからとぎれとぎれに
聞こえてくる。
「なあってば。今日はもうほんとに何もしないよ。何もしないって。だから、入れるだけ入れて
くれ、頼むよ。そんなに拗ねないでくれよ。悪かった、俺がほんとに悪かった。もうしない、反省
してる。だから、今夜は勘弁して入れてくれってば、なあ」
アルカードは返事もせずに、毛布をひっかぶった。
ぼす、と音をたてて枕に顔を埋める。ノックはまだ控えめに続いていたが、聞かなくてすむよう
に毛布を頭の上まで引っぱり上げ、ドアに背を向けて身を丸めた。
少しくらい反省すればいい、と胸の中で呟く。
思い出すだけで顔が熱くなるようなことを──半分くらいは八つ当たりなのはわかっているが──
約束を盾にとって、むりやりやらせたのはどこの誰だ。
だいたい、約束約束というのなら、落第した者は部屋に入れないというのも約束だ。その基準に
達しなかった者を、締め出すくらい何が悪い。
予想通りというか、ラルフは時間内に書き取りを終わらせるどころか、ほんの五、六行書いたところ
で時間切れとなった。
やっと書き上げた部分でさえ、一つどころか一行に四つも五つも間違いがあり、むしろ間違って
いないところを捜す方が早いようなありさまだったので(つけ加えるなら、筆跡もいつもに増して
ひどいものだった)、あえなく落第の断を下され、今夜はアルカードの部屋には入れてもらえないこと
になったのだが。
「なあ、アドリアン──」
うるさい。
ベッドの中できつく膝を抱えながら、小さく呟く。
その名を呼んだからといって、なんでも許されると思ったら大間違いだ。
それがどんなに甘く、やさしく響いて、すがるような声がいくら胸をちくちくさせるとしても、
約束は約束、決めたことは決めたことだ。自業自得だ。締め出されて情けない声を出すくらいなら、
やることくらいちゃんとできるようになっておけばいい。
- 153 :小夜曲・その後… 2/5:2007/03/01(木) 00:17:29
- とはいえ──。
抱えていた膝を放して、寝返りを打つ。
いつもはあまり着ない、というより、着る機会のないリネンの夜着が肌にまつわる。
灯りはもう消して、半分がた溶けた蝋燭が枕もとの燭台にささっているきりだが、細く開けた木戸
からさしてくる月光で、室内はほのかに青く明るい。青い光の中にぼんやりと浮かびあがる室内は、
いつもとひとつも変わっているわけではないにもかかわらず、奇妙に空虚な感じがした。
こんなにこのベッドは広かっただろうか、とふと思う。無意識のうちに手を伸ばして、隣にあいた
大きな空間をさぐっていた。
ならされたシーツがなめらかに冷たく手に触れる。
いつもはここに、温かくてしっかりした手応えの誰かがいて、笑いながら抱き寄せてくれるのだ。
低声の会話とくすくす笑いが、やがて熱い吐息に移りかわっていき、がっしりした身体の重みを
全身に感じ、そして、それから……
それから。
ぼんやりとシーツのすきまに手を伸ばしているうちに、いつの間にかノックの音がやんでいるのに
気がついた。
何故かぎょっとして、毛布をはねのけベッドに身を起こす。しばらくそのままの姿勢で耳をすまし
ていたが、ドアはコトリとも音をたてなかった。
──あきらめて、部屋に帰ったのだろうか。
それがどうした、と心の一部がつぶやく。
まさかあの馬鹿者も、踊り場の冷たい石床の上でひと晩過ごすほど我慢強くはないだろう。今夜は
これで安眠できる。邪魔者なしに。訪問者はいなくなったのだから、こちらもさっさとベッドに
戻って、朝まで眠ってしまえばいい。
とはいえ、身体は別の動きをしていた。毛布をはいで起き上がり、手探りでつかんだベッド覆いを
上着がわりに肩に巻きつけて、蝋燭に火をつける。
ゆらめく灯りを手にして、つま先立ってそろそろとドアのところへ忍び寄った。灯りが漏れないよ
うに慎重に遠ざけて持ちながら、身をかがめ、鍵穴に耳を近づけて、向こうの物音に耳をすます。
「──おい」
もう少しで燭台を取り落とすところだった。
「こうやって、一晩じゅうドアをはさんでにらめっこしてるつもりか?」
アルカードはしばらくじっと立ちつくしたままでいたが、やがてその手は、自分のやっていることに
抵抗するかのように、極めてのろのろと、ドアの取っ手に伸びた。
- 154 :小夜曲・その後… 3/5:2007/03/01(木) 00:18:14
-
後ろでゆっくりドアの開く気配がして、ラルフはふり返った。
アルカードが、そこに立っていた。裸足で、白い夜着の上に金襴のベッド掛けをぐるぐる巻きにし、
胸元をきつく押さえて、片手にゆらめく蝋燭をかかげている。弱い灯りでは表情はよく読めなかった
が、とにかく、機嫌のいい顔ではないのは確かだった。
「──で?」
後ろ向きにどっかとあぐらをかいたまま、すねたようにラルフは言った。
「入れてくれるのか、くれないのか、どっちだ?」
アルカードは答えず、そのままくるりと背を向けた。
「おい?」
「──どこにでも、いたいところにいればいい」
長いベッド掛けの裾をずるずる引きずりながら、そっけなくアルカードは言った。
「私は寝る。おまえがどこにいようと、私の知ったことか。勝手に好きなところにいろ」
ベッド掛けを乱暴に放り捨てて、そのままシーツのあいだに潜ってしまった。
ドアは開いたままである。ラルフとしては、現在いたい場所などただ一つしかなかったので、
こそこそと部屋に入りこみ、まっすぐそこを目指した。
アルカードのベッドの端から、遠慮しつつそっともぐり込む。とりあえず靴と上着だけは脱いだが、
さすがにそれ以上するのは、今夜はいささか気が引けた。
「……アドリアン?」
返事はない。
見えているのは枕に埋もれた銀色の頭だけで、しかも、後ろを向いている。
ため息をつき、まあ、部屋に入れてもらえただけでも今夜は良かった、と自分に言い聞かせること
にする。
- 155 :小夜曲・その後… 4/5:2007/03/01(木) 00:19:02
- すぐそばにあるやわらかい肌のことは考えないようにしつつ目をつぶろうとしたその時、
いきなり、そのやわらかな肌とかぐわしい香りが、まともに胸にしがみついてきた。
「ア、アドリアン!?」
アルカードが身を丸め、しがみつくようにじっとこちらの胸に顔を埋めていた。
両腕を首に回し、胸と胸を押しつけて、子供が人形に抱きつくようにしっかりとしがみついてくる。
とまどいながらも、ラルフはおそるおそる腕を上げ、細い肩に手を回した。
抵抗はない。
少し大胆になって、腰に触れ、脇腹から背筋に手を這わせた。
やはり、抵抗はない。
(お、おい、いいのか!?)
しっかりしがみついたまま動こうとしないアルカードに、鼓動が急速に高まってくる。
いつもはじかに触れるなめらかな肌が、今夜は夜着に包まれている。もどかしい思いでさっそく
その下に手をすべり込ませようとしたとき、アルカードがいきなり顔を上げた。
「何も、しないと言った」
「は?」
思わず身体が固まる。
「な、何もしないって、おまえ」
「しないと言った」
「──その、しかし、これは……」
「言ったな?」
「…………言った……。」
「なら、何もするな」
満足げにそう言うと、アルカードは気持ちよさそうにラルフの腕枕に頭を乗せ、喉もとに頭をすりつけた。
- 156 :小夜曲・その後… 5/5:2007/03/01(木) 00:19:44
- 「何もしないと言ったのだから、何もするな。黙ってじっとしていろ。動くな。しゃべるな。私は寝る」
小さくあふ、とあくびをして、最後に一言重ねて釘を刺した。
「何もするなよ。いいな」
そう言うと、もぞもぞと動いていちばん温かい場所に身を落ちつけ、目を閉じる。
いくらもしないうちに、静かな寝息が聞こえてきた。
「……おい。これはなんの拷問だ?」
夜着姿で無防備に眠るアルカードを胸に抱いて、ラルフは天を仰いだ。
愛しい恋人の甘い香りがすぐそばで香って、しなやかなその肉体がうすい夜着一枚を隔てただけ
で腕の中にあるのに、何もするなとはどういうことだ。
昨夜のなまめかしい姿態の記憶さえまだ新しく、長い銀髪がやわらかく頬に触れ、細いうなじ
には、昨夜自分がつけた痕さえはっきり残っているというのに──。
だがしかし、ここであえて手を出そうとすれば、今度こそ本当にアルカードの機嫌をそこねてしまう
ことはよくわかっていた。
ここでまた怒らせてしまえば、部屋に入れてくれないどころか、今度は、最低一週間は口をきく
どころか、視線すら合わせてくれなくなるだろう。もちろん今しているような、(甘やかな)拷問
すら受けさせてもらえない、ということになる。
まさに地獄だ。
最低最悪だ。
「くそ……この……」
愚痴ってもののしっても、事態はなんら改善されない。
あきらめて、ラルフはかたく目をつぶり、朝までの長い時間を、今朝習った単語の綴りを頭の中で
くり返すことでやりすごそうとした。しきりに訴えてくる下半身の疼きを無視し、腕の中で安らか
に寝息をたてる身体をできるだけ意識から追い出そうと、甲斐もなく努力しながら。
- 157 :サーヴァント・ワルツその1 1/10:2007/06/23(土) 01:02:13
- 「はい、できあがり」
明るい声でマリアは言って手を離し、二、三歩下がって、作品のできぐあいを上から下からためつ
すがめつした。
「ほんとにアルカードは何着せても似合うけど、雰囲気変わっていい感じよねえ。ねえ、せっかく
だから、いつもこういう感じでもうちょっとましな格好しない? あのぶかぶかのシャツと
レギンスひとつじゃ、いくらなんでももったいないわよ。なんだったら、あたしが選んであげる
から──」
「おい、これは遊びじゃないんだぞ、マリア」
義妹のはしゃぎぶりに、リヒター・ベルモンドは多少苛ついた声を出した。
話題になっている当の人間が、全員の注目をあびて実に居心地悪そうにうつむきかけていたから
でもある。もともと、人と接するのがあまり得意ではないのだ。一緒に暮らし始めてまだ一年と
たたないが、ゆるく波打つ美しい銀髪の下の細い眉が、困ったように寄せられていることくらい
想像はつく。
「とにかく今は、アルカードをごく普通のうちの雇い人として見せておくことが大事なんだろうが。
着せ替え人形をしてるんじゃない。……アルカード、服はそれできちんと合っているか? 借り着で
悪いんだが、急いで仕立てさせるほどの時間がなくてな」
「かまわない。これはこれで、動きやすい」
アルカードは少々落ちつかない顔で、深緑の上着の袖をひっぱっている。しかしマリアがはしゃぐのも、
少しばかりうなずける姿ではあった。
今日のアルカードは、いつもの粗末な白シャツではなく、たっぷりと胸にひだを取った豪華な絹の
シャツを身につけている。
その上に葡萄酒色のヴェストを重ね、腰を細く仕立てた濃緑色の長い上着を着て、下は膝までの
ぴたりとした細いズボンに、白の長靴下。ぴかぴかに磨いた黒い靴は、流行の大きなバックル飾り
がついたもの。いつもは結わずに流している髪も後ろにかき上げてまとめ、幅広な紺色のタフタで
ゆったりと結んで背中に垂らしている。全体的に、良家に仕える上級使用人を絵に描いたような
いでたちだ。
リヒターとともにベルモンド家へ来てからのアルカードは、たいていの場合、少し大きすぎるのではないかと
思われる白いシャツと、細身の簡素な黒いレギンスに、短い皮靴といった格好を頑として変えずに
いた。
- 158 :サーヴァント・ワルツその1 2/10:2007/06/23(土) 01:03:02
- その姿で家の図書室と、自室である西の離れの塔の上の部屋を往復するのが、彼の毎日の日課
である。来たとき身につけていた豪奢な黒ずくめの衣装は衣装箱の奥にしまいこまれ、剣は壁に
かかったままだ。
しかし、どういう布にくるまれていようが、輝きは覆うべくもない。ゆるやかに垂れかかる月光
のような銀髪と、氷の青の色をした瞳、かすかに朱く色づいた形のいい唇。めったに表情を変える
ことはないが、ときおりわずかに微笑むと、その幻めいた美貌は、見た者の魂を雷に打たれたよう
に震わせる。
魔王と人との間に生まれた希有の宝石、光と闇の混血が生みだした人ならざる美。
見つめているのに気づいたのか、目を上げて訴えるような視線を返され、リヒターは思わずくらりと
しかけて、あわてて頭を振った。
「しかし、本当に私が表に出る必要があるのか?」
やはり落ちつかない顔でアルカードは髪をいじっている。
「リヒターも言うように、その教会からの視察とやらが来ている間だけ、どこか別の場所へ行くか、
地下室にでも隠れていれば──」
「そんなこと、するだけ無駄よ」
マリアが断固として首を振った。
「アルカードが、少なくとも銀髪のものすごくきれいな若い男が、ベルモンド家に来てるっていう噂は
もう、この村どころかあたり一帯もちきりだもの。いないなんて言えば、それこそいらない疑いを
あおるだけだわ」
──教会本部から、ベルモンド家に対して使節を送った、という知らせが入ったのは、ほんの三日前
のことだった。
書面によれば、一昨年から昨年にかけての当主リヒターの失踪、ならびにそれによる悪魔城の一時的
な復活に関する事情聴取、そして、リヒターが返上を申し出た聖鞭ヴァンパイアキラーの受け渡し、
といったあたりが主な目的となっている。だが、あまりに急すぎる使節の到来は、リヒターたちに
大きな不安を抱かせた。
表向き、リヒターは自分で闇神官シャフトの洗脳から醒め、魔王と悪魔城を再封印したことになっている。
しかし本当のところは、魔王ドラキュラの実子であるアルカードが、醒めないはずの眠りから醒めて城に
やってこなければ、シャフトはそのままリヒターを利用してドラキュラの復活に成功し、ふたたび四百年前と
同じ暗黒が世界を覆うはずだったのだ。
- 159 :サーヴァント・ワルツその1 3/10:2007/06/23(土) 01:03:56
- ドラキュラの子アルカードの存在は世間的には秘匿されているが、当然、教会の記録には残されている。
その容姿や血筋、能力も、むろん残っている。
それに合致する人間がふたたびベルモンド家に身を寄せているという噂が耳に入れば、教会側は即座
に彼を捕らえるか、殺そうとするだろう。魔王と人間の間に生まれた子供など、単なる魔物以上に、
教会にとっては認めがたい、呪われるべき存在なのだ。おそらく今回の急な査問も、魔王の息子を
隠す暇を与えずに、呪われた闇の血を発見し、捕らえるための方便にちがいない。
アルカードは、かつて最初にドラキュラが人間の大虐殺を始めたときに、教会に召還されて戦ったベルモンド
家の一人、ラルフ・C・ベルモンドの戦友であり、おそらくは、深い絆を結んだ仲でもあった。
二度の父親殺し、そして再び帰る場所を失った孤独に深く傷ついたアルカードを、もう一度生きること
に目覚めさせたのは、まさにラルフとの、強い絆にほかならなかったのだろう。今はまた、ベルモンド
家の食客として、四百年前と変わらず保たれた自分の部屋で寝起きし、おそらくは、四百年前にして
いたのと同じ気に入りの格好で、毎日本と古い羊皮紙、インクの染みといっしょに歩き回っている。
かたく閉ざされていたその心を開いたと思われる、四百年間、家令の家系に伝えられてきたという
箱に何が入っていたのか、リヒターは知らない。人に見られていないと思うとき、アルカードが胸元から
そっと取りだして唇をふれるものに、心がざわつくのがなぜなのかも、よくわからない。
ただ、先祖代々の肖像を並べた廊下を歩くとき、ラルフ・C・ベルモンドの肖像の前で立ち止まって
睨みつける習慣がついたのは確かだ。なぜか知らないが、そうしてしまうのだった。アルカードが
ときおり、ぼんやりとその前に立ちつくして、服の上から胸につるした何かを握りしめているのを
見てしまってからは、特に。
書簡に書かれた日付から計算すれば、使節が到着するのは、おそらく、今日。
(ラルフ・C・ベルモンドは、アルカードを守った。俺だって、きっと──)
「村の人たちはベルモンド家の不利益になるようなことは絶対に言ったりしないでしょうけど、教会は
事実を自分のいいようにねじ曲げることが大のお得意だもの」
力強くマリアが言っている。
「だったら、ねじ曲げようもないくらいきっちりした事実を見せつけてやって、うまく追い返して
やればいいのよ。そのほうが、あとあと安心でしょ」
それはその通りであるのだが、そんなわけで、リヒター──口には出さないが、アルカードに対して言い
表しようのない何か、──つまり、単に感謝や、友情や好意、という言葉では、どうやらすまされ
ないのではなかろうか、と自分でも思われるたぐいの感情を抱いている、リヒター──にとっては、
この勇猛果敢な義妹が立てた計画は、いささか無謀にすぎるのではという思いがぬぐえないのだった。
- 160 :サーヴァント・ワルツその1 4/10:2007/06/23(土) 01:04:45
- 「しかし、なあ、マリア。やっぱりこれはいくらなんでも──」
「はい、じゃあアルカード──じゃなくて、アルベール」
おそるおそる意見しようとする義兄をきれいに無視して、マリアはぱんと手を叩いた。
「あなたの名前と、ここへ来るまでの身の上を言ってみてちょうだい」
「私の名前は、アルベール・デュ=クール」
従順にアルカードは教えこまれたとおりのことを暗唱してみせた。
「フランスでジャコバン党員として政治活動をしていたが、ロベスピエール一派のために暗殺
されそうになって、友人を頼ってハンガリーに脱出した。しかし、そこでも発見され、逃げ回って
いるうちに、このベルモンド家の領地に迷いこんで保護された」
「はい、よろしい。それで、あなたの仕事は?」
「今は、主人付きの従僕として働いている」
ちらりとリヒターに目をやって、アルカードは答えた。
「今は家令が小麦の売買のために、主人の代理人として街に出ていて不在のため、当主の従僕の私
が代理として家を取りしきっている。客人の出迎えや接待、その他一切のことも、私がすることに
なる。こういったことには不慣れな上、外国人なもので、多少の失礼はあるかもしれないが、
どうかお許し頂きたい」
「ま、そんな感じね。みんな、いい?」
周囲に集まったおもな使用人一同を見回して、マリアは声をあげた。
「教会の使節が帰るまでは、アルカード、じゃなくて、このアルベールが家令の代わりよ。みんな、その
つもりで気をつけてちょうだいね。呼び方も注意して、間違えないように。リヒターの従僕、という
ことになってるから、もし何か危ないと思ったら、リヒターが呼んでる、とかなんとか言って、教会
ネズミから引き離して。わかった?」
「もちろんですとも。承知いたしましたわ、マリア嬢さま」
料理人、兼女中頭のロベルタが興奮した声をあげた。
陽気な太った未亡人である彼女は、庭師の夫が死んでからずっとベルモンド家の台所を預かって
きたが、例にもれずアルカードに夢中になっている人間の筆頭であり、その上、屋敷の中の使用人は
全員、まだ若い家令のエルンストも含めて、彼女に首根っこを押さえつけられているという話
だった。
- 161 :サーヴァント・ワルツその1 5/10:2007/06/23(土) 01:05:43
- 集まったほかの使用人、特に女たちが、そうよ、そうですわ、と声を合わせる。当世風の伊達男
に変身したアルカードにいつも以上にうっとりした目を向け、仲間同士でこそこそささやきあったり、
頬を染めたりと早くも忙しげなようすだった。
「アルカード様、じゃありませんね、気の毒なアルベールにひどい濡れ衣を着せて捕まえようだなんて、
それこそ神様がお許しにゃなりませんよ。まかしてくださいな、あたしがしっかり目を光らして、
奴らをお月様まで放り返してやりますから!」
「あなたがそう言ってくれるなら心強いわ、ロベルタ」
たっぷりした胸をどんと叩いたロベルタに、マリアは明るい笑顔を向けた。それからくるりとリヒターを
振り返って、
「それと、あなたがいちばんしっかりしてちょうだいね、リヒター。何といっても、あなたが主人と
して使節と直接話をする機会が一番多いんだし、うっかり口をすべらせないようにしてよ? その
ために、わざわざアルベールなんて、アルカードとよく似た名前にしたんだから。もし言い間違えても、
うまくごまかせるようにね。いちばん呼ぶ機会が多くて、間違える機会も多いのはあなたなんだか
ら、気をつけてくれなくちゃだめよ」
アルカード、いや、しばらくはアルベールと呼ばれることになる青年の不安そうな視線をあびながら、
リヒターはひたすら首をちぢめるしかなかった。
使節は正午を少し過ぎたころに到着するはずだった。前もって、近くの街に走らせておいた村の
少年が、それらしい三人の修道士が馬車に乗って出発するのを見たと、息せき切って戻ってきて
報告したのだ。
どういう相手なのかは、まだ名前しかわかっていない。指導者格のひとりがジェロームという
名の司祭、その下に二人の修道士、ペトラスとアンセルムが同行しているとなっている。三人が
どういうことを考えているのか、三人とも同じく固い信仰を保っているのか、それともうちの一人
くらいは生臭坊主が混じっているか。
できれば三人とも、うまいものを食わせて気持ちよくさせて帰せばすむ阿呆ぞろいであってくれ
ればいいんだがな、とリヒターは思った。
屋敷の二階の窓から、正面の大門とその前に整列した使用人たちの列が見える。
もともと騎士階級だった始祖、レオン・ベルモンドの居城をそのまま今も使っている部分がベルモンド
家の屋敷には多くあり、屋敷の周囲を囲む堅固な壁と、城塞の城塞を思わせる巨大な大門が特に、
今の時代では時代錯誤なほど目立つ存在になっている。
- 162 :サーヴァント・ワルツその1 6/10:2007/06/23(土) 01:06:27
- 不便だからとりこわそうという意見がないこともなかったようだが、もとより、魔の狩り手として
戦いに生きることを宿命づけられているベルモンドの者にとって、城壁と大門はかえって今の世も戦士
たることを思い出させる重要なよすがとなっていた。さすがに昔のような堀や跳ね橋、落とし格子
などは取り外しているが、分厚い樫の板を鉄で補強した大扉はそのまま残され、攻めてくる敵を
いつでもはね返すべく準備を整えている。
大門の内側はちょっとした馬寄せの中庭になっており、そこで他の使用人に混じって、アルカード、
いや、今日のところは『俺の』従僕の、アルベール(俺の、と思ったところで何故か心臓が一瞬跳び
はねた)が、そのまん中にぴたりと背筋を伸ばして立ち、来るべき客を迎える体制をととのえて
いる。
いや、客ではない、敵だな、と思い直した。
奴らは彼を、アルカードを獲物にするためにやって来る、いわば三羽のハゲタカなのだ。昨今、以前の
ように信心堅固な聖職者などそうたくさんはいなくなっているが──むしろ、宗教権力に近い聖職者
ほど奢侈にふけっているのは昔からの伝統ともいうべきだが──相手の性格が読めないかぎり、
こちらも対応策が立てにくい。
(まあいい。当たって砕けろだ)
「ちょっと。いざとなったらアルカードを庇って大暴れして奴らを追っ払ってやる、とか思ってないでしょうね」
後ろですねたように座っていたマリアが心を読んだように言った。
リヒターが目に見えてぎくっとしたのに、ため息をついて、
「いっとくけど、駄目よ。そんなことしたら、アルカードがよけいに傷つくのが目に見えてるわ。自分
のためにベルモンド家を窮地に陥れた、なんて思ったら、せっかくここに居場所を見つけた彼を、また
追いはらってしまうことになる。きっと自分から、また黙ってひとりで出て行ってしまうわよ。
そんなこと、させていいの?」
「うるさいな。よくないに決まってるだろうが」
リヒターは唸った。
「だったら黙っておとなしくして、当主らしくしてて。見なさい、アルカードはちゃんとやってくれてる
じゃないの」
言われなくてもわかっている。
口で義妹に勝つのはもうあきらめた。リヒターは開けた窓から、中庭のようすを黙ってうかがいつづけた。
- 163 :サーヴァント・ワルツその1 7/10:2007/06/23(土) 01:07:12
- 半時間ほどするうちに、街道のほうから、馬車の輪が軋みながらまわる音と、御者が勢いよく馬に
呼びかける声が遠く聞こえてきた。
「──開門! 開門!」
よく通る声が、内側で待ち受けている下男たちに届いた。
「こちらはコンスタンティノープル総主教、レオナルドゥス猊下より下された使者なり!聖教の
しもべにして闇の狩り手たる、ベルモンド家当主に面会を願いたい!」
下男たちが左右から、それっとばかりに扉を開く。
ゆっくりと扉が開ききるのを待って、黒塗りの立派な箱形馬車が一台、しずしずと進んできた。
両側にはロバに乗った修道士が二人付きしたがっている。馬車の前屋根には正教会の権威を象徴する
金色の十字架が高々とかかげられ、陽光にまばゆく輝いていた。
馬車の扉が開き、御者が忙しげに横へ回って足置き台を置く。
アルカードが一歩、前へ進み出るのが見えた。
「あ、ちょっと、リヒター!」
我慢できなくなって、リヒターは窓辺を離れた。椅子に投げてあった上着をつかみ、袖を通しながら
大股に部屋を出て、階段を駈け下りる。マリアの声があとを追いかける。
「待ってよ、もう! ちゃんとアルカード、ええと、アルベールが、お客さまを案内してくるまで部屋で
待ってないと……」
うるさい、そんなところまで我慢してられるか、と声に出さずにリヒターは唸った。
アルカードがリヒターより先に使節に会う、というのも、マリアの立てた作戦だった。きっと彼らはベルモンド
家がアルカードを隠すと思っている、まさか、自分たちの捜している当人が、主人より先にいきなり
堂々と目の前に現れるとは思わないだろう、というのが彼女の意見だったのだ。
だが、もし教会の奴らが怪しい相手は誰でもいいからさっさと捕まえる、というつもりでいたら
どうする。銀髪に妖しいまでの美貌の青年、という人相にぴったり一致するアルカードを見たとたんに、
これこそ求める相手だと断定されたらどうするつもりだ。
廊下を歩いている間にも、アルカードが見知らぬ相手に押さえつけられ、恐ろしい声で罵られながら
馬車に引きずり込まれる映像が頭を回る。
彼がいざとなれば強力な闇の力をふるう、齢四百歳になんなんとする魔王の子であり、魔力抜き
でもきわめて手ごわい剣士となることは知っている。
だが、この屋敷に来てからのアルカードは、常にごく柔和で優しく、むしろ幼いほど純粋な性格に
見えた。眠っていたあいだに激変した世の中や、進んだ科学に素直に目をみはり、取りよせてやった
書物や地球儀に飽きずに見入った。
- 164 :サーヴァント・ワルツその1 8/10:2007/06/23(土) 01:07:52
- 彼が前に目覚めていたころにはまだ発見されていなかった、遠い極東の島国からの美しい細工物
に夢中になるようすも見せた。印刷という技術や、その他の新技術に嘆声をあげ、答えられない
質問をいくつもしてきては、そのたびにリヒターを困らせたりもした。
どんなに強力な力を秘めた存在であろうと、また、その力をふるうところを目の当たりにしていよ
うと、リヒターにとってアルカードは恩義はさておき、どうあっても守るべき存在であり、今もその意識に
まったく変わりはない。
極東からの輸入品である、漆黒の漆塗りに虹色の貝殻をちりばめた小函を珍しそうに触っている
のを見つけて、「良ければ、持っていくといい」と言ってやったとき、一瞬ぱっと輝いた顔を、
リヒターは忘れることができない。
まるで初めて誕生日の贈り物をもらった、十五歳の少年のような顔だった。
あんな顔をする青年を、どうしてひとり放ってなどおけよう。
四百歳だろうが五百歳だろうが、魔王の息子だろうが何だろうが、教会などに、──いや、俺以外
の他の人間に、アルカードを触れさせてなるものか。
ラルフ・C・ベルモンドの肖像の前を通りすぎざまはったと睨みつけておいて、リヒターは勢いよく
表玄関の扉を開けた。
「ア! ──ル、カー……」
「旦那様」
勢いこんだリヒターの言葉はいきなり小さくなって、尻切れとんぼに終わった。
名前を呼ばれた本人のごく静かな、何事もなかったような返事で。
「たった今、御案内しようと思っていたところです」
平然とアルカードは言った。
「教会からお出での方々がご到着になられました。お疲れのご様子ですので、先に客間へお通し
して、お飲み物などお出ししてもよろしゅうございますか?」
そこでは実に、平和な光景が繰り広げられていた。
アルカード、いや、今日のところはリヒターの従僕アルベールを中心に、使用人たちがいつにもましてせっせ
と、大事なお客さまの世話に走りまわっている。屋敷付きの馬番が御者と冗談を飛ばし合いながら
馬車から馬を外し、女中たちが布と冷たい水を運んできて客人が旅の埃を落とせるようにしている。
馬車のそばで、内側から肉といっしょに水気さえ吸いとられてしまったというような修道士が、
ぶすっとした顔であたりを睨みまわしていた。服装からして、これが使節団を率いる司祭のジェロー
ム師だろうと思われた。
- 165 :サーヴァント・ワルツその1 9/10:2007/06/23(土) 01:08:38
- その隣に、剃毛の必要のないほど頭の禿げあがった、たるんだ頬をした小男の修道士が一人、卑屈
な姿勢で腰をかがめて立っている。アルカードは側で、太った赤ら顔の、のんきそうな初老の修道士が
ロバを降りるのを手伝っていた。
「これは、感謝いたしますぞ、お若いの。やれやれ、暑かったわい!」
そばから女中が手渡した濡れた布で汗を拭きながら、修道士は嬉しげに言った。
「いくら聖なるおつとめとはいえ、長旅は慣れぬ身にはつらいものじゃて。お前さん、名前はなんと
言われたかな?」
「恐れ入ります。アルベール・デュ=クールと申します」
ごく自然にアルカードは答えた。
「当家の現当主である、リヒター・ベルモンド様の従僕を務めております」
「そうか、そうか」
顔を拭いた布をアルカードに受け取ってもらいながら、修道士は目を細めて笑った。たっぷりした頬
の肉が持ち上がり、ほとんど目が見えないほどになった。
「これほど立派な若者に仕えられておるとは、御当主殿も幸せ者よの。で、あそこにおられるのが、
御当主のリヒター殿かな?」
「多弁は戒律に反する行為であるとされておるぞ、アンセルム修道士」
司祭のジェローム師らしき、枯れきった顔の聖職者が不機嫌そうに言った。
「われらに課されておるのは聖鞭の返還の受領と、ベルモンドの者に加えられたという呪いの可否の
選定よ。使用人ごときと世間話をするために来ているのではない。リヒター・ベルモンドよ!」
扉をあけたままぼうっとしているリヒターに、使節団長はきんきんした声を張りあげた。
「主教庁、ならびに総主教猊下は、今回の事件に対してきわめて高い関心を払っておられる。その
つもりで、われらの質問に答えるがよい、よいな! 言い抜けしようとすればたちまち、神の裁き
の鉄槌が下るものとするがよいぞ!」
「まったく、まったく」
とそばからちびの、禿頭の修道士が合いの手を入れる。太った方がアンセルムということは、
これが随員のもう一人、ペトラスらしい。
「聞かなければならぬことは山のようにありますぞ、リヒター・ベルモンド殿。鞭の返還は返還として、
その復活した魔王の城という話も、詳しくご報告願わねば」
そう言いながら、すぐそばでロバと馬の手綱をまとめて馬番に引き渡しているアルカードのすっきり
した後ろ姿を、粘りつくような目で見ている。
- 166 :サーヴァント・ワルツその1 10/10:2007/06/23(土) 01:09:24
- 「ちょっと、もう、リヒターってば」
やっと追いついてきたマリアが、息をきらして乱暴に腕をひっぱった。
「ああもう、あなたがまっ先に暴走してどうするのよ! 一瞬どうなることかと思ったわ。ちゃん
と挨拶して、口上を言って、あいつらを部屋へ案内するの! ほら、しゃんとして、背筋を
伸ばして、お願いだから旦那様らしくして! このままじゃ、アルカードの方がずっとご主人様らしく
見えちゃうじゃない!」
「あ、ああ」
危ういところだったことにやっと気がついて、リヒターは生返事をした。
馬を馬番に牽かせていったアルカードが、問いかけるような目でこちらを見た。指示を待つのか、
それとも、これでいいのかと迷うようなまなざしにも見える。
リヒターはなんとか気を取りなおし、しっかりと立って、咳払いをした。
「ようこそ来られた、教会の方々。ともかく、まずは中へ。あー……、その、アルベール。お三方を
客間に案内して、お好みのものをお出しするように。俺も、すぐに行く」
「はい、旦那様」
涼しい声でアルカードが答える。
後ろでマリアが大きなため息をつくのを聞いた。自分もつきたい気分だった。
(これが奴らが帰るまで続くのか!?)
──いや、帰るまで、というより、魔王の息子のアルカードなどという存在はここにはいない、と
きっちり確信させるまで、だ。
そちらのほうが、ただ帰らせるよりよっぽど重要だ。今回はなんとか帰しても、アルカードに関する
疑いを持たせたままでは、監視はそのまま続くに決まっている。
今後、アルカードを安全に過ごさせ、さらには、教会から離れた魔王封印のための組織作りを円滑に
進めるためにも、ここですっぱりベルモンド家に対する興味をなくさせるのが先決だ。そのために
こそ、先祖伝来の聖鞭を手放すという挙にも出たのだ。
失敗は許されない。
(くそ。魔物どもと戦ってる方が、よっぽど気楽じゃないか)
思わず曲がりかけた背を無理にしゃんと立て、深呼吸して、リヒターはアルカードから目を引き離し、
接客用の服に着替えるために踵を返した。
- 167 :サーヴァント・ワルツその2 1/6:2007/09/24(月) 20:53:10
- 晩餐までは、ほぼこともなく進んだ。高貴な使節たちは滞りなく屋敷内でいちばん豪華な部屋に
通され、えり抜きの贅沢な家具と心地よい絨毯に宗教的な軽蔑の目を向けながらも、長旅に疲れた
身体をそこに預けることには異論はないようだった。
ただし、使節団の長たるジェローム師はこの不快な魔狩人の家の思わぬ奢侈に対して何か一言
述べる必要を感じたらしく、ふかふかのソファに身を預けながら、この世での快適さに慣れ親しんで
神への感謝を忘れることの悪とその罪科について長々と自説を開陳し、ペトラス修道士は、いかにも
感じ入った風で、合間合間に合いの手と適切な感嘆の声を挟むことでそれに応えた。
残るひとりのアンセノレム修道士は、あきらかにそのような神学上の問題には耳を傾ける気がなく、ただかわいい女中に囲まれて、まるい頭の下にやわらかいクッションをはさんでもらい、焼きたての
種入り菓子と冷えた葡萄酒でちやほやされることを素直に喜んでいるようで、口に出してもそう言明
した。
「いや、まったく、まったく」
三つめの菓子を女中から受け取りながら、アンセノレム修道士は嬉しそうに言った。
「長くてつらい旅路の端で、このような暖かい歓待を受けることはまことに喜ばしいことじゃて。
神の御心にも、疲れ果てた旅人に心づくしのもてなしを与えることは、第一の徳に数えられておる
ことよ。のう娘さん、そこの実にうまい葡萄酒をもう一杯いただけるかな? ……おおおお、よし
よし、よい子じゃ、よい子じゃ。神の祝福をのう、娘さんや。そうそう、あんたにも神の祝福の
ござらんことをな、お若いの」
盆を手にしてつつましく部屋の隅に控えていたアノレカード、今は家令のアノレベーノレにむかって、
アンセノレム修道士は愛想よくうなずいてみせた。
「あんたのような素晴らしい若者に家のことをまかせておけるとは、まこと、ベノレモンドのご主人
は果報者だのう。名前からすると、生まれはこのあたりではないようだの?」
「恐れ入ります。お言葉の通りです」
優雅に一礼してアノレカードは答えた。
実のところ、部屋を往来するベノレモンド家の雇い人一同は、客の視線が静かに立っている銀髪の
若い家令に向くたびに肝の冷える思いをしていたのだが、今までのところアノレカードは、まったく
といっていいほど失敗らしい失敗をしていなかった。むしろ、本来の家令であり、何かあったとき
はすぐに助け船を出せるように、下男のひとりに扮してそばをうろうろしていた若いエノレンストは、
この高貴の身の若者が自分以上に完璧な家令ぶりを発揮するのを見て、内心ひそかに驚愕していた
くらいだった。
- 168 :サーヴァント・ワルツその2 2/6:2007/09/24(月) 20:53:49
- もとから身についた優雅な挙措と、一目見れば目を奪われずにはいられない美貌もあいまって、
家令アノレベーノレは、ヨーロッパのどのような王宮でも、帝国の宮廷でも、夢にも見られぬような完璧
な家臣を演じていた。
「あの、ええ、そうですの。アノレベーノレはフランスの生まれなんですけど、祖国では命を狙われて─
─ほら、革命とか、例のロベスピエーノレのごたごたとかで」
客たちに同席し、女主人役として接待の指揮をとっていた(そして、雇い人たちと同じくことの
成り行きに目を光らせていた)マリアが、あわてて口をはさんだ。
「それで、なんとか逃げ出してきてドイツやポーランドを逃げ回っていたんですけど、嬉しいことに
──あら、こんな言い方をしてはアノレベーノレに気の毒ですわね──あたしたちのところへたどり着い
て、ここでこうして働いてくれることになったんです。ねえ、ア──その、アノレベーノレ、そうよね」
「おっしゃる通りです、お嬢さま」
今度はマリアにむかって頭を下げ、アノレカードは静かに答えた。瞼ひとつ震わさず、睫毛一本動か
さなかった。
「こちらの方々に救われていなければ、私は遅かれ早かれ、故国の、かつて友人であり、同志と呼び
合った人々からの刺客によって命を奪われていたことでしょう。心から感謝しております、ベノレモン
ド家の方々に、そして、素性も知れぬ異国者の私を受け入れてくださった、こちらの村の方々に」
「それよりも、神に感謝を捧げるべきことを忘れてはならん!」
聞いていたジェローム師が、偉そうに口をはさんだ。骨張った指にはめた、高位聖職者のしるしの
紫水晶の指輪をくるくる回しながら、
「この世の人の運命は、すべて神お一人の御手のうちにあるのだ。若者よ、そなたの命が救われる
も、また暗殺者の凶刃に倒れるも、いずれも神の御心のままにあったことを知るがよいぞ。その後の
運命にしても、われらはみな、神の御旨に添うておることをのみ願うべきであって、それ以外のもの
になどすがってはならんのだ。その後教会に行き、感謝の祈祷は願ったか? 寄進はいくら、何を
捧げたか? 神は感謝の心なき者には、容赦なき鉄槌を下される。そちらの娘が名をあげたロベス
ピエーノレとやらいう輩も」
マリアにむかってとがった顎をぞんざいに上げる。マリアはぴくりと片眉を跳ね上がらせたが、
必死になって無邪気そうな笑顔を保った。
- 169 :サーヴァント・ワルツその2 3/6:2007/09/24(月) 20:54:26
- 「『神はすでに死し、存在せぬ』などというばかげた狂気にとらわれ、神の聖なる家であるところの
教会を軒並み焼き討ちしたあげくに、まさにその罪によって断罪の地獄に堕ちたのだ。今ごろはその
魂も、煉獄の炎の中で自らの罪を悔いておろう。そなたもまた、そなたの訴追者と同じ運命をたどら
ぬよう、心することだな、若者よ」
「お言葉、深く胸に」
短くアノレカードは答えた。
白い顔は完璧な無表情を保ち、この場にふさわしくないようないかなる感情をも表していなか
った。必死にソファの肘掛けをつかんで平静を保っていたマリアは、アノレカードが(少なくとも
表面上は)動じていないのを見て取って、見られないように横を向き、ほっとため息をついた。
「ほんとに、こっちが心臓とまっちゃいそう」
ごく小さな声で、低く呟く。
「とっとと鞭を持って帰ってくれないかしら、この人たち。でないとアノレカードのことがばれる前
に、あたしが四聖獣で殴り殺しちゃいそうだわ」
リヒ夕ーを別室へ隔離しておいてつくづくよかった。またもや暴走して不用意な言動をしないよう
に、鞭の譲渡に備えてふさわしい支度をさせるという名目で、自室へ押しこめてあったのである。実
のところは晩餐にも同席させたくはないところだったが、当主であり、現在のヴァンパイアキラーの
正当な所持者である以上、その譲渡には立ち会わせないわけにはいかない。義兄の性格を考えると危
険この上なく、実に悩ましいことだった。
「……困ったわねえ」
静かにしてくれるといいんだけど、とマリアは、礼儀正しくアンセノレム修道士にチーズののった皿
を勧めるアノレカードを見ながら、深く嘆息した。
- 170 :サーヴァント・ワルツその2 4/6:2007/09/24(月) 20:55:05
-
「さて」
いつものベノレモンド家の家族的な夕食から見れば、贅を尽くした、と言ってよい凝った晩餐の最後
のひと皿を片づけて、口を拭くと、ジェローム修道士が重々しく口を開いた。
「それでは、われらのこの地に来たった用を片づけさせていただこうか。……ベノレモンド家当主、リ
ヒ夕ー・ベノレモンドよ。汝が教会に返還すると申し出た、聖なる鞭ヴァンパイアキラーを、ここに持
ち来たれ」
何を三文芝居めいた口叩きやがって、とリヒ夕ーはあやうく口から出そうになったが、マリアがす
ぐ隣に座っていて、無邪気ににこにこしながらも、テーブノレの下ではいつでも義兄の臑を蹴飛ばす用
意をしているとあっては、うかつな口はきけない。ぶすっとした顔で手の横のベノレを鳴らし、家令を
呼んだ。給仕の指揮をとっていたアノレカードが、「はい」と答えて、幻のようにすぐそばに出現する。
「ご用でございましょうか、旦那様」
「こちらの方々が、例の品をこちらにお持ちせよとのご用命だ」
乱暴な仕草にならないように気はつけていたが、どうしても投げやりなものが言葉にまざりこんで
しまう。
アノレカードはまばたきひとつせず、かしこまりました、と一礼し、すべるように部屋を出ていっ
て、しばらくして厳重に封印された、古い革張りの箱を手にして戻ってきた。扉の前でまた一礼し、
客人たちの長であるジェローム司祭の前にそっと置く。
「聖鞭〈ヴァンパイア・キラー〉でございます。どうぞ、お確かめを」
リヒ夕ーはぶすっとした顔で、ジェローム司祭のとがった鼻が疑わしげにひくつき、骨張った指が
封印を探るのを眺めた。やがて蓋が重々しくきしみながら開いた。
ジェロームは目をぎらつかせて中身をのぞき込み、すぐに、あきらかに失望した顔で上席のリヒ
夕ーを睨みつけた。
- 171 :サーヴァント・ワルツその2 5/6:2007/09/24(月) 20:55:45
- 「家伝の秘宝にしては、ずいぶんと粗末なしろものではないか、ええ?」
「では、どのような品物ならばお気に召しますか。宝石作りの柄に、黄金の糸、聖なる銀の十字架に
飾られた、光り輝く宝物だと?」
ばかばかしくなって、リヒ夕ーはからになった葡萄酒のグラスを音を立てて置いた。
「ヴァンパイア・キラーはそのようなものではありません。これは、わがベノレモンド一族が魔狩人と
しての役割を果たすことになった初代、レオン・ベノレモンドが、実際に魔と戦い、魔王を打ち倒すた
めに手に入れた鞭なのです。
その後もこの鞭は数多くのわが祖先によって振るわれ、幾度となく復活する魔王ドラキュラを討ち
果たしてきました。この鞭は、飾りものではないのです。実戦の中で鍛え上げられ、魔を討ち果た
す、ただそれだけのために存在する破魔のための武器なのです。贅沢な飾りなど、この鞭にとっては
無用の長物です。その重ねてきた戦いと、魔狩人ベノレモンド一族の歴史すべてが、その一本の鞭に収
められていることを、どうかお忘れなきよう」
「だとしたら、ずいぶんとまたこれは、みすぼらしい歴史であることよな」
ペトラス修道士が横を向いて聞こえよがしにひとりごとを言い、息を吸うような音をたててひっひ
っと笑った。
テーブノレの下でリヒ夕ーは拳を握りしめたが、部屋の隅で静かに佇立しているアノレカードの姿を目
にして、あやうく自分を抑えた。
耐えろ。今は耐えろ。彼のためだ。
どんな高価な宝にもまさる大切な、彼という宝物を守るためなのだ。
耐えなければ。
「ほんとうにこんなただの革鞭が、聖なる力を持っているというのか?」
ジェローム師の耳障りな声はまだ続いている。
「どう見ても、使い古しのどこにでもある鞭にしか見えぬ。まさか、偽物を渡して、われわれを騙そ
うというのではなかろうな、リヒ夕ー・ベノレモンドよ?」
「騙す、だって──」
「リヒ夕ー!」
あまりの暴言に、顔色を変えて立ちあがりかけたリヒ夕ーを、マリアがあわてて制止する。リヒ
夕ーはすんでのところで自制し、無理に椅子に腰を落ちつけた。
- 172 :サーヴァント・ワルツその2 6/6:2007/09/24(月) 20:56:33
- 「……お疑いの気持ちは、理解する」
一言一言が舌の上で灼ける小石のように感じられたが、リヒ夕ーは乱れがちな呼吸を整えつつ、
慎重に言った。
「俺が闇神官シャフトの奸計に嵌り、自らドラキュラ復活の計画にわが身を捧げる寸前だったこと
は、すでに教会にも報告してある。もしかして、俺がシャフトのあやつり糸にまだつながれている
のではないかという、そちらの懸念も理解しているつもりだ。だからといって、今そこに置かれて
いるヴァンパイア・キラーが偽物だなどという、根拠のない非難はひっこめてもらいたいものだな。
では本物である証を見せろと言いたいところだろうが、残念ながら、その鞭は魔物や悪魔相手に
しか真の力を発揮しない。もしそうしようとすれば、この場に、魔物なり悪魔なりを一匹呼び出し
て、そいつと俺が鞭を使って一戦やり合うのがもっとも手っとり早くて確かな証明になるんだが、
そういうことでいいのか」
「ちょっとちょっと、リヒ夕ー」
興奮しすぎよ、落ちついて、というようにマリアが手を引っぱるが、リヒ夕ーは苛立たしげにその
手を振り払った。
「どうする? この場で召還の儀式でも行うか? だがそうすると、あんたたちが禁止している
黒魔術の業を、ここで行うことになるな。しかも、聖なる教会の修道士様が、こちらが進んで献上
しようとしてる家宝に対して、そいつが家宝らしく見えないってんでだだをこねた結果で。いい
のか、そういうことは? こういうことは、神様の御心に従うことになるのかい、ええ?」
「ちょっと、ねえ、リヒ夕ー」
「別に、魔物など召還する必要はないのではないかな?」
あざけるようにジェローム師が言って、じろりと視線を横に流した。視線の先には、つつましく
睫毛を下ろしてまっすぐ立っている、アノレカードの姿があった。
一瞬にして心臓が凍りつくような気がした。
「どういう意味だ、それは──」
「今回のドラキュラ城復活と再封印に関しては、リヒ夕ー・ベノレモンド、貴君とは別に、もう一人、
伝説の闇の中から抜け出してきた者が関与していたという、信頼できる情報が入っているのだ」
ペトラス修道士がちびの背筋をそっくりかえらせて、偉そうに言った。
「その者の名は、アノレカード。──魔王ドラキュラの血を分けた息子にして、四百年前、ラノレフ・
C・ベノレモンドとともに、ドラキュラを打倒したとかいう、闇の子供だ」
- 173 :サーヴァント・ワルツその3 1/22:2007/09/30(日) 21:31:07
-
「バっ──」
「お言葉ですけれど、ペトラス修道士様」
テーブルをひっくり返さんばかりにわめきかけたリヒターの怒鳴り声は、マリアの強烈な蹴り一発
で喉の奥へ押しこめられた。
マリアの瞳もまた、押し殺した怒りと戦慄でらんらんと光っていたが、少なくとも、内心の動揺は
その燃える瞳以外のどこにも現れていなかった。震えてもいない声で、彼女はごく冷静に続けた。
「わたしは自ら義兄を探しに行き、ドラキュラ城で彼を発見しました。そして、それが闇神官の陰謀
であることを知って、確かに、ある人物に協力を求めました。同じくドラキュラ城の復活を察知し、その原因を探るために、城内に足を踏みいれていた人物とです。
その人物が誰であったかは、ここでは申しません。すでにあなた方は答えを入手しておられるよう
ですし、たとえここでわたしが違うと言っても、けっしてお信じにはならないでしょうから」
燃えるような緑の瞳をきっと三人の修道士に据える。
ジェローム師はびくっとしただけでなんとか平静を保ったが、ペトラス修道士はあわてて目をそら
して何か祈りの言葉を小さく唱えた。まったく平気だったのはアンセルム修道士だけで、彼一人は食
堂の緊迫した空気にはかかわりがないといった顔をして、のんびりと葡萄酒の残りを味わっている。
「けれども、この場で彼の名前を出すことはお門違いです。彼とは崩壊したドラキュラ城の前で別れ、それきり、消息すら耳にしていません。いずれにせよ、ラルフ・ベルモンドの時代がいつだった
かご存じですか? 四百年も前の人間が、今の時代に存在などしているはずがないではありませんか」
「闇の血を継いだ者は、人間の及びもつかない長寿と呪われた力を持つのだ」
ジェロームが毒々しい口調で言った。その目は動かないアルカードの姿を、なめるように上から下
まで見つめている。
「その魔王と人の女の間に生まれた闇の子は、体内に流れる呪われた血のために魔王そのものと同様
の不老不死の肉体を持ち、また、文書に遺された古い記録によれば、一目で人の魂を奪わんばかりの
美しい容姿を持っていたとある……長い銀髪、青い瞳、女にも見まがうばかりの、美しい青年の姿を
していた、と」
「ただの記録です!」
やっきになってマリアは言った。自分がかなり危険な領域に入りこみかけているのは自覚していた
が、こうまではっきりとアルカードに矛先を向けられようとしていては、黙ってなどいられなかった。
- 174 :サーヴァント・ワルツその3 2/22:2007/09/30(日) 21:32:36
- 「四百年も前の、ただの記録です。その時のことを実際に見た人など、今はもういないのでしょう?
銀髪の人も、青い瞳の人も、世の中にはたくさんいます。女性のように美しい容姿を持つ男の人
も、きっとあちこちにいるでしょう。だからといって、その人たちが魔王の末裔だなどと言えるので
すか? アルベールを、わが家の大切な家令を、どうしてそんな目でごらんになるのです?」
「少し黙るのだ、娘よ」
高圧的な態度で命令すると、ジェローム師は立ちあがってアルカードに向かいあった。
アルカードが顔をあげる。その輝くような美貌に、修道士はあらためてぎょっと身をそらしたが、
咳払いして落ち着きを取りもどし、高圧的な調子はそのままに命じた。
「アルベール・デュ=クールとやら! 汝の生まれはどこか」
「フランス、パリの、リュー・サン・トノレです」
ぴんと張りつめた空気の中に、打てば響くように答えた静かなアルカードの声が、穏やかな波の
ように響き、広がっていった。
「両親は裕福な布地商でしたが、二人とも私が十五の歳にあいついで亡くなったので、私は親戚の
家に預けられて育ちました。成長した私はその当時、パリの市民たちがみなしたように、革命活動
に身を投じ、そのために、最後には故国を追われることになりました」
それは前もってリヒターとマリアが考えておいた、フランス人亡命者の『アルベール・デュ=
クール』としての生い立ちだった。ジェローム師はさらに追求した。
「それで、洗礼を受けたのはどこでだ? 洗礼記録は残っているか? 両親の埋葬記録も、ちゃんと
そこにあるのだろうな?」
「洗礼を受けたのは母の実家の近くにあるモン・サン・ミシェル教会ですが、今はもうありません。
洗礼記録も、埋葬記録も、燃えてしまったでしょう。ご存じの通り、あの革命で、カトリックの教会
や聖堂はことごとく焼き討ちにあいましたから」
ジェローム師がはっとしたように唇をかむのを見て、マリアとリヒターは二人とも会心の笑みを
浮かべそうになるのをなんとか抑えた。
アルカードを『ロベスピエールによって追い出されたパリ市民階級の若者』としておけば、教会に
とっては戸籍と同じ働きをする洗礼記録や、係累の埋葬記録などがなくても、「革命で全部燃やされ
てしまった」ならば、それ以上追求はできなくなる。政府の方の戸籍も同じことだ。革命前後のパリ
はあまりにも変動と混乱が大きすぎて、身元をごまかすには絶好の場所と機会をアルカードに提供し
てくれている。
- 175 :サーヴァント・ワルツその3 3/22:2007/09/30(日) 21:33:22
- 「信仰告白を唱えてみるがいい」
首からはずした大きな十字架を押しつけて、ジェロームは叫んだ。
「それから天使祝詞と、聖母の祈りもだ。早くしろ」
アルカードは十字架を受け取り、額に当てて口づけすると、臆する風もなく、すらすらと信仰告白
を唱え、つづいて天使祝詞を、聖母の祈りを暗唱した。
キリスト教徒であればもっともなじみ深い、日常的な三つの祈りは、この青年が口にすると、まる
で異国の美しい詩のように響いた。最後の一言を唱え終え、十字を切ってアルカードが十字架を持ち
主に差し出すと、ジェロームは腹立たしげに、もぎ取るようにして自分の持ち物を奪い返した。
「──ところで、のう、お若いの」
十字架をふところに押し込みながら、ジェロームが次の言葉をさがして口を開いたとたん、それま
で黙っていたアンセルム修道士が、のんびりと口をはさんだ。
「お前さん、ずいぶんと苦労してきなさったようだが、どうだな、お父上とお母上というのは、
どんなお方だったかな?」
「そんな話は、今は──」
ジェローム師が苛立ったように口を開いたが、アンセルム修道士が軽く手を挙げると、どうした
ことか、その声は急に小さくなってもぐもぐと喉の奥に消えた。太った修道士はたっぷりとした腹
の上で手を組み合わせ、笑みを浮かべて銀髪の青年を眺めている。
「どうだな、お若いの? よかったらこの年寄りに、昔の話を聞かせてくれんかね」
「──父、は──……」
一瞬、アルカードは言いよどむ気配を見せた。だがすぐに、きっと頭を上げ、アンセルム修道士
の温顔をまっすぐに見返した。
「……立派な、父でした」
静かに、だが、はっきりと、アルカードはそう言った。
「そして、優しい──美しい、母でした。
二人の息子であったことを、私は今でも幸せであったと思い、誇りに感じております。もはやこの
世にはない両親ですが、十五歳までの私は、ひとつの小さな天国に住んでいたと、今でも思っており
ます」
- 176 :サーヴァント・ワルツその3 4/22:2007/09/30(日) 21:34:26
- 「天国などという言葉をみだりに使ってはならん」
ジェロームが不機嫌そうにぶつぶつ言った。
「それは神のご所有にのみ帰する言葉なのだ。罪に汚れた人間が、軽々しく使ってよい言葉ではない
のだ」
「父は、私に神と世界について学ばせ、母は、祈り方と愛する方法を教えてくれました」
アンセルムもアルカードも、ジェロームについては一顧だにしなかった。最初はあわてて口をはさ
もうとしたリヒターとマリアも、いつのまにか、二人の間に流れはじめた奇妙に濃密な空気に、入り
込む術をなくしてただはらはらと見守るしかなかった。
「今も私は、両親の教育に従って生きております。そのことについては、一片の後悔も抱いたことは
ありません。今後も、おそらくそうでしょう。
母はいまわの際に、私にこう告げました──『誰も、憎んではならない』と。
憎しみは悲しみと、さらに大きな憎しみしか生むことなく、自らが生んだ子である憎悪と罪を餌に
して、さらに大きく肥え太っていきます。
私はそのような実例を長い間見てきました。母が最後に告げたことについて、悩んだこともありま
した。けれども今は、やはり母は正しかったのだと確信しています。母は私を愛し、世界を愛し、何
よりも、父を愛しておりました」
遠くを見るように宙に向けられていた青い瞳が、つと伏せられた。
「……本当に──母は父を、そして、父も母を──愛していたのです」
しばし、間があった。広い食堂は、咳払いひとつなく静まりかえった。
「とにかく、昔の話はいい。今は──」
「で、その、天国のようだった子供のころというのは、どんなものだったかね」
ジェローム師がじれったげにまた尋問をはじめようとしたとたん、またアンセルム修道士がゆった
りとさえぎった。
「……それは」
アルカードは微笑んだ。夢見るように。
「ほんとうに、幸せな日々でした……私はほとんど屋敷の外へ出ることはありませんでしたが、たく
さんの書物と、やさしい母が、そして夜になれば父が、いつでも相手になってくれました。父の技術
を学ぶために、弟子入りしてきた二人の少年もいました……彼らは私の兄であり、友人ともなってく
れました。いっしょに母の薬草園の手入れを手伝ったり、剣の練習の相手をしてもらったり……夜に
なれば、父の前で机を並べて、その日学んだことの復習をするのが日課でした。
- 177 :サーヴァント・ワルツその3 5/22:2007/09/30(日) 21:35:29
- 上手にできたときの父の笑みと、頭を撫でてくれた大きな手の感触を、今でもよく覚えています…
…そばではいつも母が、私たち三人をやさしく見守り、夜遅くなれば温かい飲み物を用意して、ベッ
ドへ入れてくれました。眠りに落ちるまで、静かに歌ってくれていた母の声──ああ」
かつての幸福の影を追うかのようなアルカードの遠い目に、ふと笑みが浮かんだ。
「十歳かそれくらいのころに、夜中に目がさめてどうしても眠れずに、ヘクター──先ほど申しあげ
た少年の一人ですが──の部屋へ行って、無理にいっしょに寝かせてもらったこともありました。
朝になって、私が部屋にいないのに気づいた母が捜しにやってくるまで、そこで丸くなっていた…
…ヘクターは私が叱られないようにいっしょうけんめい弁護してくれるし、私は、ヘクターが叱られ
てはいけないと思って同時に言い訳しようとするし──もっとも母にかかってはどちらの気持ちも
お見通しで、二人の額を同じようにそっとつついてから、両方をぎゅっと抱きしめて、いつもと同じ
ように朝食を用意してくれました……あの時は、面白かった」
追憶が、かすかな苦みを含んだ微笑になって唇に浮かぶ。
「ほんとうに……あの時は、面白かった」
「それで、礼拝へはきちんと行っていたのか? 例祭の寄進や、十分の一税は欠けることなく支払
っていたのだろうな?」
いらいらしたようにジェローム師が割りこむ。椅子から半分腰を上げかけながら、
「家から出たことがほとんどなかったというのならば、教会へ通うこともなかったというのか?
それは、キリスト教徒として重大な背信であるぞ!」
「少し、静かにせんかね、ジェローム」
アンセルム修道士がごく穏やかに言った。
ジェロームはまだ大声を出そうとして口を開けていたが、そのとたん、開けたままの口をぴしゃり
と音がしそうな勢いで閉じ、どすんと椅子に腰を落とした。なおも口をぱくぱくさせていたがけっき
ょく何も言うことができず、うつむいて、指にはめた紫水晶の指輪を、猛烈な勢いでいじり始めた。
「のう、お若いの」
この部屋には、もはやアンセルム修道士とアルカードしか存在しなくなっているようだった。ジェ
ロームとその腰巾着のペトラスはもちろん、リヒターとマリアも、二人の間に漂う緊密な空気に、
とうてい立ち入れないものを感じていた。
- 178 :サーヴァント・ワルツその3 6/22:2007/09/30(日) 21:36:21
- 「そんなに幸せだった暮らしがいきなり崩れ去ったとき、お前さんはどう感じたかね? 十五歳だっ
た、と言っておったな。それほど若くして両親を失い、また成人しては、さまざまにゆがんだ思惑が
渦巻き、血が流れ、怨嗟の声とどろく世間を渡り歩くこととなって、お前さんはどのように思ったね?
この世がこのようであるのは、すべて人間が犯した原罪のためであるという者もおる。そのことに
ついて、お前さんはどう思うかね? 幸福な日々をある日、いきなり奪い取られたことや、その後経
験した苦痛や、苦悩や、裏切りについてはどう感じるね? これまでに自分がなし、またなさねばな
らなかったことについては? 『罪』というものに対して、お前さんはどのように考えているかね?
そこのあたりを、この年寄りにちと聞かせてはくれんかの」
「何が『罪』とは、神が決められることだ。人間が決めるものではない」
ジェロームがまた口をはさんだが、その声は弱々しかった。
「神の御意に添わぬことこそが唯一の罪であり、それを赦すことができるのもまた神お一人にほか
ならぬ。人間はアダムとイヴの原初より、神の御意志にそむいて蛇の誘惑に負け、禁断の実を口に
した。それ以来、人は罪を負い、その負い目を払い続けねばならぬものとなったのだ。神の子キリ
ストの十字架の償いによって永遠の生命を得るものは、ひとえにただ神の威光の前にひれふし、
その赦しと加護を希うのみだ、そして、呪われたる蛇はもっとも深き地獄に堕ち、永遠の炎の中で
のたうつ!」
ジェロームの怒りにぎらつく目が、蛇の鋭さをもってアルカードを射抜いた。しだいにまた声が
熱してくる。
「汚れた悪龍の息子めが、いつまでこのような問答を続けてわれわれを欺くつもりなのだ? 悪魔
がその業をなそうとする時には、美しい姿の仮面をかぶり、聖書の言葉すら平然と口にすることは
だれでも知っている! 罪! 貴様と、貴様を生んだ闇の者どもの存在そのものが罪なのだ、貴様
はそれを知っているのだ、魔王の子め! 知っていて、そのように人間のふりをして恥ずかしげも
なく頭をあげ、神の使者の御前に恐れ知らずにも立っている、それこそが神に対する最高の侮辱
なのだ! 貴様はこの世に存在してはならぬ、貴様こそが、この世に形をとった罪そのものなのだ!」
リヒターの噛みしめた奥歯がぎりっと鳴った。
無礼な『神の使者』に殴りかかろうと力のこもった腕を、マリアが急いで押さえる。
「落ちついて!」
- 179 :サーヴァント・ワルツその3 7/22:2007/09/30(日) 21:37:33
- 鋭くマリアは囁いた。
「落ちついて、リヒター。アルカードは大丈夫よ。これは、わたしたちが口出ししてはいけないこと
だわ。見て」
視線だけでアルカードを指す。
「彼はちっとも動じていないわ。あんなジェロームみたいな馬鹿のことなんか、アルカードは最初
からちっとも気にかけてない。それよりも、問題はあのアンセルムっていう修道士だわ。彼は手ごわい」
マリアの言うとおりだった。アルカードも、アンセルムも、ジェロームのわめき立てる声など少し
も耳に入ってはいないようだった。
二人はそちらを見もしなかった。アルカードは青い目を考え深げに太った老修道士の温顔にそそ
ぎ、修道士は盛りあがった腹の上に手を組んだまま、ゆったりといつまでも答えを待つ姿勢でいた。
「『……もし人間が決して罪を犯さなかったとしても、人間は死の苦しみを受けなければならなかっ
たろうか』」
やがてアルカードが口を開いたとき、流れ出たのは流暢なラテン語だった。
「『また神も、人間にそれを要求したまわなければならなかったろうか。……』」
「おや、お前さんは聖アンセルムスを読んでいるのかね」
修道士の顔がほころんだ。ラテン語のわからないリヒターとマリアは顔を見合わせ、ジェロームと
ペトラスもそろって面食らった顔をしている。
「『神は何故に人間となり給ひしか』。……何ゆえに神の子であり、ご自身が神でもあられるキリス
トが、人として肉の身を受けられ、死の苦しみを耐え忍ばれる必要があったかを論じた書だの。あれ
を読んでいるとは、若い者には珍しい」
「父の図書室には、ほとんどどのような書物でも蒐められておりましたから」
控えめにアルカードは答えた。
「私は、その本をどれでも、好きなように取って読むことが許されていました。判らない箇所があれ
ば、父が書物の管理を任せていた老人が、手をとって読み方を教えてくれました。聖アンセルムスも
その一冊です──貴方さまと同じお名前でいらっしゃいますね」
老修道士に笑みを向ける。アンセルムは微笑んで、軽く一礼した。
- 180 :サーヴァント・ワルツその3 8/22:2007/09/30(日) 21:38:30
- 「あの書物には、罪というものの重さについて、このように書かれていました。『神の意に反する
行為──もしそれが、神の命令に背いて何かを一瞥するというような小さな罪、あるいは、それを
犯さなければ全世界が消滅し、無に帰するというような罪であっても、神の意志に背くということ
はいかなる損害にも比較せられぬものである。──どんな小さなことにもせよ、われわれが承知し
ながら、神の意志に背いて何かをなすならば、いつでも、われらの罪は重いのだ。われわれは常に
神の目の前におり、神は、われわれに罪を犯すなということを、常に命じ給うのだから』」
目を閉じて、眠っているような顔をしながら、アンセルムは静かに聞き入っていた。
「……罪、とは何なのか、私にはもうよくわかりません」
目を伏せて、アルカードは低く言った。
「もし、私がこの手で父を殺したとしたら、それは世の中の基準においては、まぎれもない大罪でし
ょう。しかし、もし父を殺さなければ、その数千倍、数万倍の無辜の人々が、無惨に殺されることに
なると知っていたならば、私が父を殺すのは、罪でしょうか、それとも、そうではないのでしょう
か。……また、私が傍らにいることで、不幸に陥るとわかっている相手に、嘘をつき、その心を踏み
にじって身をもぎ放すことは、罪でしょうか、それとも、違うのでしょうか」
指がかすかに震え、無意識に手が胸元をさぐる。
「──病の人々に、善意をもって薬を配っていた女を指弾し、捕縛して魔女と呼び、その子の目の前
で生きながら彼女を焼き殺すのは、罪ではないのでしょうか。そして、女を愛していた夫が、妻を殺
した人々を、人間を、悲しみのあまり無惨なやり方で皆殺しにすることも、また罪なのでしょうか」
しばらくの間、アルカードは言葉を捜すように口を閉ざした。
「……私には、わかりません」
やがて出た声は、ため息のように遠くかすかだった。力なく両手が垂れる。
「聖アンセルムスとボソーのように、罪とそうでないものを判定し、常に迷いなく従うことのできる
神が目の前にいると信じられるのならば、どれほど楽かと思います。けれども、私の目は曇り、耳は
塞がれ、神の声はこの身に届くことはありません。あれが罪か、これが罪かと迷うことも許されない
まま、私は生きてきました。
ジェローム師は、私自身の存在が罪だとおっしゃる。そうかもしれません。けれども、私は母の臨
終の言葉を破ることが、どうしてもできないのです。『誰も、憎んではならない』──燃えあがる炎
の中から、母は何もできずにうずくまる私に、そう叫んだのです。そのような言葉に、背を向けるこ
となどどうしてできるでしょうか。──
- 181 :サーヴァント・ワルツその3 9/22:2007/09/30(日) 21:39:27
- 今、母の言葉が、どれだけ正しかったかわかります。憎悪は憎悪を生み、血と殺戮を拡げつつ、自
ら呼び起こした悲惨と残虐を餌に、ただただ肥え太っていくのです。どこにも赦しはなく、出口など
存在しない。なぜならそれは、指からこぼれた麦粒ほどの、ほんのささいな、人間的なあやまちから
呼び起こされたことだからです。
もし、人間に原罪が存在せず、アダムとイヴが永遠に楽園にとどまったままなら、そのようなこと
はなかったとおっしゃるでしょうか。けれども、蛇の誘惑に屈したのは、確かに人間の意志であり、
彼と彼女は、蛇の誘いに背を向けてその場を歩き去ることもできたはずなのです。
神の意に服従することが善、意に反することが悪であり、罪であるというのならば、意志を持って
なされた最初の行為が、服従であることもありえたはずです。なぜなら、服従とは単なる思考停止を
さすのではなく──何も考えずに神の言葉に従うだけなら、主人の指示に従う犬と、ほとんど変わら
ないでしょう──『自分はこのものの意に従う』という、断固たる決意をもってなされるのでなけれ
ば、意味のない行為なのですから。
聖アンセルムスは神たるキリストが人としての死を耐え忍んだことについて、『それは父なる神に
命じられ、強制されたがためではなく、自らの意志をもって、辱めと苦痛に身を任せ、父の命を果た
すことを望まれたからだ』と述べています。そして、『最初の人間の罪が、意志を持って神への不服
従を選んだことであるのならば、その償いが、再び人間の意志によって絶対の服従が選びとられる行
為となるのは、必然である』とも述べておられます。それが、神たるキリストが受肉して人間とな
り、人としての死を甘受された真の理由であるのだ、と」
一息にしゃべりつづけたアルカードはふと言葉を切り、部屋にいる人々を順番に眺め渡した。リヒ
ターを見、マリアを見た。ジェロームとペトラスを、周囲で息をつめているベルモンド家の雇い人た
ちを見た。そして最後に、じっと目を閉じたまま動かないアンセルム修道士に、澄んだ瞳をそそいだ。
「……私には、わかりません」
そっと、吐息のようにアルカードは言った。
「何が罪で、何が罪でないのか。何が善で、何が悪なのか。悪が善を生み、善が悪を生むことがあるのか。
自分や他人の正邪を質すには、私はあまりにも、多くのことを見過ぎ、多くの血でこの手を染めて
きました。けれども、もし自分のしてきたことが悪であり、罪であるとなった時には、私はすすんで
その責めを負おうと思います。それも、そうせねばならないからではなく、自ら選び取った者とし
て、罰を受けるのです。
- 182 :サーヴァント・ワルツその3 10/22:2007/09/30(日) 21:40:15
- どのようなものがそこに待っているかは、知りません。しかし重要なことは、これまで私がしてき
たことは、ただ生まれてきたことを除いて、すべて私自身の意志のなすところであり、それが善であ
れ悪であれ、私自身の意志意外に帰すべきものではない、ということです。それを罪と呼ばれるので
あれば、仕方がありません。しかし、それもまた、私自身の意志であることを、はっきりとここでお
話ししておきたいと思うのです」
「傲慢だ!」
顔を真っ赤にしてジェロームが怒鳴った。
「これは許されぬ傲慢の罪だ、この悪魔の子は、自らの闇の血を恥じ入るどころか、その生まれを誇
り、とるに足らぬおのが意志などというものを、至高なる神の上に置こうとしている! もはや猶予
はならん、この悪魔めをとらえ──」
「黙るのだ、ジェローム!」
雷鳴のような叱責が食卓にとどろいた。
ジェロームは片手を振り上げ、口を半分開けた状態でぴたりと凍りついた。
もはやこれまで、といっせいに立ち上がろうとしていたリヒターとマリアも同様だった。ペトラス
修道士はひっと声を上げて、こそこそとテーブル掛けの下に潜り込みそうな様子を見せ、アルカード
だけが、泰然としてその場を動かなかった。
「ペトラス修道士。わしの指輪をここへ」
静まりかえった食堂に、アンセルム修道士の声が大きく響いた。温顔は別人のように引き締まり、
まるまるとした身体からは目に見えるほどの強い威厳が発されていた。
「ゆ、指輪でございますか」
ペトラスがおどおどと卓の下から頭を覗かせる。
「しかし──」
「二度は言わぬぞ」
有無を言わさぬ調子でアンセルムは命じた。
ペトラスはあわててテーブル掛けの下をちょろちょろと走り出すと、固まっているジェロームのと
ころへ走り寄って、その指から高位聖職者の印である紫水晶の指輪を抜き取り、小走りにアンセルム
のところへ持っていった。アンセルムは軽くうなずいて指輪を受け取り、慣れた手つきで左手の中指
にはめた。
- 183 :サーヴァント・ワルツその3 11/22:2007/09/30(日) 21:41:15
- 「お騒がせして申し訳ない、リヒター・ベルモンド殿。それに、御妹御」
指輪をはめたアンセルム修道士、いや、もはや単なる修道士ではないことをあきらかにした聖職者
は、椅子から立ち上がって、事の成り行きについて行けずにぽかんとしているベルモンド兄妹に向か
って深々と頭を下げた。
「あらためて名乗りいたそう。わしは聖グレゴリウス修道院の院長にして、コリント主教職について
おる、アンセルムなる生臭坊主じゃ。──そちらのジェローム修道士、それに、ペトラス修道士は、
それぞれわしの修道院の者。こたびモスクワ総主教のご命令にて、聖鞭ヴァンパイア・キラーの授受
と、そして、四百年前に現れたという、魔王ドラキュラの息子が再び姿を現したという噂の真偽を確
かめるために、派遣され申した」
「じゃあ、あたしたちを騙してたっていうの!?」
黄色い声をあげてマリアが立ちあがった。リヒターはすでに椅子を蹴り、食卓越しに食いつかんば
かりに身を乗り出している。
「それに対しては、心の底より陳謝いたす。申し訳ない」
両袖をあわせて、アンセルム修道士──今は、コリント主教アンセルムと言うべきか──は、もう
一度深く頭を垂れた。
「だが、いまだに疑い深い正教会の主教ども──わしもまた、ここに到着するまではこれに入ってお
ったことは、正直に白状せねばなるまいが──を納得させるには、はっきりとした証拠と、確信とが
必要だったのでな。
いつわりを述べたこと関しては、幾度謝罪しても足りなかろう。しかし、今までの話で、やっと確
信が持てたて。──のう、この若いのは、の」
かたわらに立つアルカードに、目を細めるやさしい微笑を向けて、アンセルム主教はそっとその白
い両手を取った。
「よき両親のもとに生まれて、高い教育を受け、過酷な運命を耐え忍びつつ、雄々しくまっすぐに生
い育った、実に気持ちのよい聡明な若者じゃ。われらが抱いておった、愚かな疑いを許しておくれ、
アルベール・デュ=クール殿」
アルカードの手を軽く押しいただくようにして、額に当てる。
「お前さんのような有能な家令を抱えることができたベルモンド家は、実に幸運であったという他な
い。わしらとしては、さまざまな無礼に関して陳謝し、今は受け取るべきものを受け取って、静かに
この場を引き上げるのみじゃ」
- 184 :サーヴァント・ワルツその3 12/22:2007/09/30(日) 21:42:04
- 「アンセルム様、それは、しかし」
ジェロームがまだ懲りずに、飛びあがって異議を申し立てようとする。
「黙らぬか、と申したぞ、ジェローム」
アンセルムの氷のような一瞥で、叫びだそうとしたジェロームはたちまちへなへなとなって椅子に
崩れおちた。
「今回の件に関して、すべての決定権を総主教猊下より預けられたのはこのアンセルムじゃ、お前で
はない。そもそも、この指環のいつわりの一件も、お前が言い出したことであった。はかりごとを許
した点についてのわしの罪は明らかであるが、無辜の者にいわれなき疑いをかけ、あまつさえ罠まで
はろうとするとは、まことに恥ずべき行いである。この場ではもはやこれ以上問うまい、だが、この
ように立派な若者を非道な策略にかけようとするとは、わしらこそ神の怒りを受けてしかるべきであ
ろう。神を畏れるのならば、もはやその口を開かず、黙りおれい、ジェロームよ」
指環とともに虚飾も虚勢もはぎとられたジェローム修道士はがたがたと震え、椅子の張り地の中に
そのまま溶け込んで消えてしまいそうな風情だった。
「ペトラスよ、聖鞭ヴァンパイア・キラーを、これへ」
雷に打たれたように直立していたペトラス修道士がはっとわれに返り、ジェロームの前に置かれて
いた聖鞭箱をとって、ちょこちょことアンセルムの前へ運ぶ。「うむ」とひとつ頷くと、ろくに中を
確かめもせずにアンセルムは蓋を閉め、小脇にかかえた。
「それでは、わしらは部屋に引き取らせていただいてもよろしかろうか、ヘクター・ベルモンド殿。
これにて聖鞭の授受はつつがなく終了した。ドラキュラの息子とかいう妄言に関しては、一顧するだ
に意味なしと言うべきであろう。この年寄りじゃ、あまり夜更かしすると、頂いたうまい夕食をこな
すのに苦労する」
「御案内いたします、アンセルム様。そちらの箱をお持ちいたしましょうか」
「おお、これは助かるの、アルベール殿。ぜひお願いいたそう。これ、ジェローム、ペトラス、ぼう
っとせずについて来ぬか。ヘクター殿、マリア殿、まことによきおもてなし、感謝いたす。有難うご
ざった」
指の紫水晶をきらめかせて、もう一度頭を垂れるとアンセルムは十字を切り、聖鞭箱を持ったアル
カードに先導されて、悠々と食堂を出ていった。魂を抜かれたような歩き方のジェロームがあとに続
き、ペトラスがちょろちょろとあわただしく後を追う。
- 185 :サーヴァント・ワルツその3 13/22:2007/09/30(日) 21:42:48
- 四人が出ていき、食堂の扉が閉まると、一気に緊張の糸が切れた。リヒターとマリアは同時に椅子
にへたり込み、目を合わせて、おたがいの顔の中に自分と同じ混乱と、疑念と安堵が複雑に交錯する
のを見てとった。
「ほんとうに、ごまかし切れたと思っていいのかしら。アルカードのこと」
ささやき声でマリアが尋ねる。
「ごまかせた、とは思わないほうがいいだろうな。だが、あのアンセルムとかいう爺さん、もうアル
カードに手出しする気はないらしい──何故だかはよくわからんが」
閉まった扉を、リヒターは透かすように目を細めて見つめた。
「とにかく、明日になれば、奴らは鞭を持って帰っていく。追い払えれば、それで万歳だ。後から何
か言ってくるようなことがあっても、今回のことが証拠になって、反駁することもできるようにな
る。とりあえず今は、それで我慢するしかない」
翌朝、東方正教会からの使節一行は、来たときと同じ二頭のロバと一台の馬車を仕立てて帰って
いった。それぞれに載る人間の顔ぶれが二つほど入れ替わっていはしたが。昨夜、食堂で交わされた
舌戦のありさまは、食堂にいた給仕や女中たちの口からあっという間に下働きの少年の最後のひとり
に至るまで広まり、だれしもがひそかに快哉を叫んだが、むろん、完全に危険物が屋敷を出ていく
まで、そのような様子を表すような不用意な真似は誰もしようとしなかった。
「いやいや、用が済んだとなれば、長居は無用よ」
もう数日の滞在を、と形ばかりは勧めるリヒターとマリアに、アンセルムは笑って手を振った。
「よい客とは、邪魔にならぬ程度に席を温め、相手の重荷になってきたと感じたら、即座に腰を
上げるものじゃて。わしらはすでに十分もてなしてもろうた。これ以上の歓待はお前さま方以上に、
わしらにも毒というものよ。不実ないつわりを責めずに甘やかしてもろうたは言うに及ばず、なにし
ろ、かわいい娘さんに囲まれて葡萄酒と菓子を食べさせてもらうというのは、僧院の中ではなかなか
体験できぬ良いものじゃでのう」
ほっほっ、と笑いながら、上機嫌で馬車に向かう。扉の足台のそばではまだ家令姿のアルカード
が、きちんとかしこまって貴人の客が乗り込むのを待っていた。
「そうじゃ、お前さんにも謝らねばならんな、お若いの」
足台に片足を乗せかけて、アンセルムはふとアルカードを振り返った。
- 186 :サーヴァント・ワルツその3 14/22:2007/09/30(日) 21:43:21
- 「あのような策略を弄したことは、非常に恥ずかしいことと思っておる。笑うておくれ、人間とは、
かように愚かなものなのじゃ。疑心に曇った目で欺瞞を繰り出そうとしても、いずれ真実は顕れるも
のじゃというのにな」
「何もおっしゃる必要はありません、アンセルム師」
アルカードは微笑して言った。
「それに、私は一度も騙されてなどおりません。あなたさまが、ただの修道士ではあられないこと
は、ここに来られたときからうすうす見当がついておりました」
「ほ、ほう」好奇心にアンセルムは目を輝かせた。
「よければ、いったいどうしてそれに気づいたのか、聞かせてもらえるかな? なに、今後の参考に
しようなどというのではない、ただ、面白いなぞなぞの答えを聞くのみじゃ、──いったい、わしは
どこの何をしくじっていたのかな?」
「最初にあなた様がここへ来られて、手を取ってロバからお下ろししたとき」
とアルカードは言った。
「あなた様の指に、つい最近まで指輪をおつけになっていたと思われるあとがあるのが目に入りまし
た。単なる修道士ならば、そのようなものを身につけるはずもありません」
「おお」
とアンセルムは言って、むっちりした指にはめた紫水晶の指輪を上げた。太い指に指輪の食い込ん
だあとが、はめ直した今はわずかにずれて下からのぞいている。
「それに、肝心の指輪をおつけになっていたジェローム様は、どう見てもそういうものに慣れていら
っしゃらないご様子で、しきりに指輪を回したり、いじったり、落としはしないかといつも気にして
おいでとお見受けしました」
手を裏返してしげしげと眺めているアンセルムに微笑んで、アルカードは続けた。
「それに指輪がぐるぐる回るというのは、大きさが合っていない証拠です。指輪を身につけるのが
許されるとなれば司祭か、それ以上のご身分であることは確実のはず。そのようなお方が、指に合
わぬ指輪にそれほど長い間我慢なさっているものでしょうか?」
「なるほど。いや、これは、やられた」
ぴしゃりと額を叩いて、アンセルムはそっくりかえって笑った。
「それでは最初から、様子をうかがわれていたのはわしらの方だったというわけか。いやはや、これ
は、いい教訓であることよ。結局のところ、何であれいつわりは正しき者の目には何の意味ももたぬ
ということが、これでよくわかった。今後はけっして思い上がらず、真実のみを口にするのが最上
と、肝に銘じておこうよ。──のう、お若いの」
- 187 :サーヴァント・ワルツその3 15/22:2007/09/30(日) 21:44:02
- 「はい」
「お前さんの背負うた重荷は、わしらには想像もできぬほど、大きいのであろう」
足台の上から腰をかがめて、アンセルムは慈父の笑みを浮かべて囁いた。
「生あるすべての生き物はみな、創り主なるお方に光の種子を心に撒かれて地上に下されたとわしは
思うておる。ほとんどの者が一生その種子に気づかず、生なる長き道のさまざまなよしなしごとに盲
い、耳ふたがれて生きておる。その光に気づき、自らの裡に芽吹かせることのできる者はまことに
少ない、しかし、お前さんの魂は、この年寄りの目にも、星より眩しく輝いていると思われる」
アルカードはまたたきもせず、じっとアンセルムの目に見入っていた。
「のう、その輝きを消すではないぞ、お若いの。お前さんはきっとこの年寄りよりも、想像もつかぬ
ほど長く生き、多くのことを見るであろう。そのことをわしはうらやみはせぬ、だが、どうぞその
途上で、わしが今見ているその輝く光を消すことのないよう、誓ってはくれまいか。わしが、今日、
安心してこの場を去ることができるように」
「お誓いいたします」
短くアルカードは入って、アンセルムの手をとり、紫水晶の指輪に軽く唇をあてた。
「これは神に誓うのではなく、あなた様に、そして、私の心に抱くもう一人の人間のために誓うので
す、アンセルム様。私はけっして闇に囚われることはいたしますまい、たとえどのような絶望や孤独
に襲われようとも、あなた様や、彼らのような人間がいるかぎり」
離れたところで、心配そうに手をもみ合わせているリヒターとマリアを振り返る。
「──私は、けっして父のように、人であることを捨てたりはいたしません」
「よしよし。……よい子じゃ。よい子じゃの」
アンセルムは温顔をさらに笑み崩れさせ、幼い子供にするように何度もアルカードの髪を撫でて、
祝福の十字を切り、悠々と馬車に乗りこんだ。
あとから、ジェロームとペトラスがやってきた。昨晩、部屋にひきとってからかなりの叱責を受け
たらしいジェロームは、来たときの勢いはどこへやら、青ざめた顔で視線も定まらず、ふらつく足を
なんとか前へ運ぶのがやっとというありさまだった。
ロバにまたがるのにアルカードが手を貸そうとしたのをぎろりと睨んだが、馬車の中のアンセルム
に聞こえているかもしれぬと気づくと、それ以上呪いの言葉を発することはできなかったらしい。ア
ルカードが差しだした手綱を腹立たしげにひったくり、鞍の上にかがみ込んで背中を丸め、ぶつぶつ
口の中で不平を鳴らすことでなんとか自分を抑えた。
- 188 :サーヴァント・ワルツその3 16/22:2007/09/30(日) 21:44:48
- ペトラス修道士はといえば、自分からちょこちょこと、小ネズミのような走り方でアルカードに駆
け寄ってきた。
「のう、アルベール殿、アルベール殿、ちと話があるのだが」
自分よりはるかに背の高いアルカードをちょいちょいと手招きし、身をかがめさせてわざわざ耳も
とへ口をもっていく。
「どうやら、アンセルム主教はたいへんそなたをお気に召されたようですぞ」
両手をこすりあわさんばかりに、ペトラスは得々としていた。ジェロームがアンセルムの信用を失
い、昇進の望みも失った時点で、腰巾着の役割は放棄したらしい。
「昨夜、ジェローム修道士に投げつけられた叱責ときたら、魂の底まで凍りつくようであった。実の
ところジェローム修道士としては、ここで魔王の息子を捕縛して、一気にアンセルム様を飛びこえ、
どこか大都市の主教職を手にするおつもりだったのだろうが、その計画は見事に失敗に終わったとい
うわけでの」
けっけっ、とカエルが何かを吐き戻しているような、いやな笑い方をペトラスはした。
「それでじゃ、そなた、この機会に、このような辺境の魔狩人の家など出て、アンセルム様の持童と
してコリントへ出てみぬか。身元ならば、アンセルム様にお頼みすればどうともなるであろう、なに
しろ、あのなかなか他人に腹を見せぬお方が、そなたに対してはあれほどはっきりと賞賛の言葉を述
べられた、──これは、なかなかあることではない。
それに、そなたのあの教養に、見事な物腰、月のごとき美しさときては、モスクワの総大主教猊下
さえ魅了せずにはおくまいて。このような、没落するを待つばかりの家などさっさと見捨てて、自ら
の身の立つことを、考えたほうがよくはないかの……」
さて、これらの会話は、すべてリヒターの耳にも入っていた。生粋のヴァンパイア・ハンターとし
て、分厚い石の壁のむこうのかすかな物音ひとつを聞き分けることが、生死を分けるというのが骨身
に染みているのである。思い上がった修道士が、身の程知らずに、破廉恥な提案をアルカードに持ち
かけているのが聞こえないわけがない。
握りしめた拳が、不気味な音を立ててぎしっと鳴った。
ペトラスがいやらしく目を細めて、アルカードの白い耳朶にささやきかける。
「そうとも、そなたならばかならず総大主教のお目にもとまり、いずれは、この世のどんな栄華も思
うがままの地位にも──」
- 189 :サーヴァント・ワルツその3 17/22:2007/09/30(日) 21:45:28
- ──耐えに耐えていたリヒターの中で、ついに、最後の堤防が決壊した。
「……──……ハ・イ・ド・ロ・ス・ト・ー・……ッ!」
「あら。あんなところに鳩の群れが」
マリアがふと横を向いて、なにげない口調で言った。
とたんに、嵐のような白い翼ととがったくちばしと鋭い爪の乱舞が、ペトラスとジェロームの二人
にむかって突進してきた。
「うわっ!? な、何だ!? やめろっ、痛っ、痛いっ!」
二人は両袖をあげて頭を庇おうとしたが、とうていそんなもので避けきれるような騒ぎではなかっ
た。鳩たちはぐるっぽーぐるっぽーと喉を鳴らしながら、剥げた剃髪に猛烈に爪を立て、耳を突っつ
き、翼で頬を叩き、黒い僧衣に好きなだけ糞の雨をまき散らして、勝ちほこったようにぽっぽーぽっ
ぽーと飛び回った。
「しっ! しっ! あっちへ行きなさい! ……大丈夫ですか、ペトラス様」
「大丈夫でなどあるものか!」
手を振って鳩の群れを追いはらい、いかにも心配そうにマリアが駆け寄る。耳やら頬やら脳天やら
から血を流し、糞まみれになって半べそをかいているペトラスは、怯えと怒りが入りまじった声で、
自分より背の高いマリアにつま先立って噛みついた。
「あれはいったい何なのだ? あんな凶暴な鳩など、聞いたことがない! あれは、この家で飼って
いるものなのか、ええ!?」
「とんでもありません。あれは、野生のハトです」
マリアは断言した。
「ただ、どこかでタカかワシかの血を拾ってきてしまった種類らしくって」
「タ、タカ!? ワシだと!?」
「ハヤブサかもしれませんわね、大きさを考えると」
考え深げに唇に手をあてて、マリアは眉根を寄せてみせた。
「うちとしても困っていますの、何しろウサギや、リスなんかをみんな取ってしまうもので……巣作
りしているときに近づいた人間がつつかれるのなんてしょっちゅうですし、何しろ数がたくさんいま
すから、なかなかいい手も打てなくて。ああでも、おかげでネズミの害はほとんどありませんの、
そこだけはいいところですわね。なにしろ、あのハトたちがみんな取って食べてしまいますもので」
- 190 :サーヴァント・ワルツその3 18/22:2007/09/30(日) 21:46:12
- 「ウ、ウサギ!? リス!? ネズミ!?」
「最近は、ネコや犬まで狙うようになってきたと聞いてますの」
心配そうな口調で、マリアはもう一押しした。
「実際、あの凶暴なハトのことは、何とかしなくてはといつも思っていましたの、こんな被害にお合
わせして、ほんとうに申しわけありませんわ。このごろ、仔牛や子ヤギもさらわれそうになったとい
う話を聞いていますし、お耳を食いちぎられずにすんだだけ、ご幸運だったと申しあげてもいいかも
しれませんわね」
ペトラスとジェロームの顔が紙より白くなると同時に、まだ逃げずにじっと近くの木にとまってい
たハトの一羽が、嘴にくわえた一房の髪を、挑戦的にぺっと吐き捨てた。
「し、出発! 出発だ!」
糞だらけの僧衣の裾をからげたジェロームが、ロバの首にしがみついて叫んだ。
「こんな呪われた場所にこれ以上一秒たりともいられるものか、ええい、出発! 出発だ、馬車を出
せ! 御者! 馬車を出すのだ!」
豪快な笑い声が馬車の中から轟いた。扉ののぞき窓から、中でアンセルムが腹をかかえてひっくり
返っているのがちらりと見えた。
ペトラスもアルカードのことなど放りだし、ほうほうの体で鞍に這い上がると、ゆっくりと動き始
めた馬車に必死の勢いで食いついていく。待ってましたとばかりに、門の前で扉に手をかけていた下
男たちが戸を開ける。馬車は大きな笑い声と、車輪が石畳を踏み鳴らす音を残して、東方正教会の一
行は聖鞭ヴァンパイア・キラーをたずさえ、予定どおりにベルモンド家をあとにした。
喜びの歓声をあげるのは、用心深く轍の音がすっかり消えるまで控えられた。
がたがたいう車輪の音がすっかり聞こえなくなってしまうと、ついに耐えられなくなったベルモン
ド家一同は、いっせいに喜びの声をあげて手を叩き、帽子を放りあげ、誰彼なしに手近にいた者同士
で抱き合った。
「アルカード!」
きちんと手を胸に当てたまま、出ていった馬車のあとを遠い目で見送っているアルカードに、マリ
アはドレスの裾をからげて急いで近づいた。
「もう大丈夫よ! よかったわ、途中で何度も心臓が止まるかと思ったけど、それでもなんとか、最
初の予定どおりに──っっっ!?」
- 191 :サーヴァント・ワルツその3 19/22:2007/09/30(日) 21:49:01
- 残念ながら、最後まで言うことはできなかった。雲ひとつない空から、いきなり大桶で水をぶちま
けたように、大量の水が一瞬にしてどっと降りそそいだのである。
「……な、なに!? 何なの!?」
驚きの声と「ひゃあ!」「冷てえ!」という悲鳴がこだまする。
ぽたぽた水の垂れるとっておきのドレスを唖然と見おろして、それからマリアはくるりと振り向
き、怒りに目を燃やして叫んだ。
「リヒター!」
「──あ……いや──その……」
リヒター自身ももちろんずぶ濡れであった。雇い人たちも同様。アルカードもむろん。
どうやら発動を途中で止められたハイドロストームが、不完全なまま、緊張のとけた今ごろになっ
て、中途半端に威力を発揮したらしい。
「まったくもう!」
ばしゃばしゃと水を撥ね散らかしながらリヒターのところへ突進して、義兄の胸ぐらをつかまんば
かりにマリアは怒鳴った。
「いったいなんなの、ほんとに! あいつらが帰っていったあとでよかったわ! なんとかごまかし
たと思ったのに、あともう少しでだいなしになるところだったじゃないの!
それに、見なさい、こんなにどこもかしこも水浸しにしちゃって! アルカードまでもよ、かわい
そうに! みんなの晴れ着はどうしてくれるの? あたしのドレスも! これ、とっときの服だった
のに、もう二度と着られやしないじゃない!」
「そ……その……なんだ……すまん……」
安堵と怒りのないまぜになった義妹の勢いに、今はひたすら小さくなるしかないリヒターだった。
「マリア。リヒターをあまり怒らないでやってくれ」
見かねたアルカードが小走りにやってきた。頭の先から足の先までぐっしょり濡れて、長い髪は額
に貼りつき、細い顎の先から水滴がしたたっている。
「いずれにせよ、リヒターは私を守ろうとしてくれたことなのだ。マリアのドレスや、服のことは、
私からも謝る。どうか、許してやって欲しい」
「そ……それは」
アルカードに言われると、マリアもそれ以上強くは出られなかった。むっと唇を突き出しはした
が、しぶしぶリヒターを離して、水でへたったドレスの襞をつまみあげ、ため息をつく。
- 192 :サーヴァント・ワルツその3 20/22:2007/09/30(日) 21:49:39
- 「リヒター?」
棒立ちになったままのリヒターに、アルカードは気がかりそうに手を伸ばした。
「リヒター、大丈夫か? 私なら大丈夫だ、濡れただけでなんともない。迷惑をかけてすまなかっ
た、リヒター。……リヒター?」
相変わらず目をむいたまま、棒を飲んだように突っ立っているリヒターをゆさぶる。
「リヒター? どうかしたのか?」
水を吸って重くなった長い上着とヴェストを、アルカードは脱いでいた。自然、上は薄い絹地の白
いシャツだけという姿になる。
シャツの飾り襞は水でしおたれてしまい、残りの薄い布地は濡れて肌に貼りついて、ガラスのよう
に透けている。なめらかなシルクはその下のしなやかな身体の線を、いささかという以上にはっきり
と浮き上がらせていた。
「リヒター?」
銀髪をかき上げる指にも、きらめく雫が愛撫するようにまつわりついている。細い顎を伝った水滴
が首筋をたどり、形のいい鎖骨の間の、秘密めいた部分へ流れ落ちていく。
「……リヒター? リヒター!?」
──大きく目を見開いたまま、リヒターはゆっくりと後ろにかしいでいき、直立姿勢を保ったまま
で、大音響をたててその場にぶっ倒れた。
「……マリア」
片手にシーツをかかえたマリアが寝室から出てくると、壁にもたれていたアルカードが、すぐに心
配そうに駆け寄ってきた。もう家令のかっこうはしておらず、いつも通りの大きすぎるシャツに黒い
レギンスという質素な姿に戻っている。
「リヒターの様子はどうだ? まだ目を覚まさないのか?」
「ああ、大丈夫大丈夫。ベルモンドの人間は殺したってそう簡単には死なないわよ」
片手にシーツ、片手にびしょぬれの当主の晴れ着をぶら下げて、マリアはあははと笑って手を振った。
- 193 :サーヴァント・ワルツその3 21/22:2007/09/30(日) 21:50:24
- 「まあ、今回のことじゃ、リヒターもずいぶん気を張ってたでしょうからね。たぶんいっぺんに緊張
が切れたのと、普段あんまり使ってない頭をひさしぶりに全開で空回りさせたおかげで、知恵熱でも
出たんでしょ。アルカードが心配することないわ」
「そうだろうか……」
それでもまだアルカードは気がかりそうな目をリヒターのいる寝室に向けている。
マリアは廊下の窓を開けて、ちょうど下を歩いていたロベルタに、「ちょっとロベルタ、ごめん、
これお願い!」と叫んで、濡れた服と替えのシーツを放り投げた。お嬢さまのこんな振る舞いには慣
れているらしいロベルタは、飛んできた服とシーツを両方ともひょいと受けとめ、太い腕にかかえ込
んで、にっこりと笑みを浮かべて一礼し、堂々と洗濯場へ向かって歩いていった。
「まあ、これで少なくとも問題はひとつ片づいたわね。……あら、あなたたち」
事件の大詰めにおける功労者である白いハトたちが、マリアの姿を見つけて集まってきた。甘える
ようにクークーと喉を鳴らして肩や指先に止まるハトにやさしく頬ずりして、
「ごめんなさいね、あんな口から出まかせ言って。でも、あんまり腹が立ったし、急いでリヒターを
止めないと、どうなることかわからなかったものだから。みんなは気にしていない? そう? だと
うれしいわ、本当にありがとう、みんな。あとで、厨房からパンの焼きたての、美味しいところをた
っぷり分けてもらってあげるからね」
ハトたちはクークーぽーぽーと鳴き立て、順々にマリアに頭をこすりつけたり愛情をこめて耳を
ついばんだりしてから、次々と飛びたっていった。マリアは窓を閉め、壁によりかかってふとアル
カードを見あげた。
「ねえ、アルカード」
「なんだ」
「……あなたは──神を、信じてるの?」
「私が?」
間髪入れずに返った言葉はあまりにも鋭く、苦かった。
マリアは思わず息をのみ、息をつめて身を固くした。
「……すまない」
だが、一瞬苦しげにゆがんだアルカードの顔は、春の氷が溶けるようにすぐにやわらかくなごん
だ。かすかな微笑に唇をゆるめて、アルカードは身をかがめ、マリアの額に兄のような接吻を与えた。
- 194 :サーヴァント・ワルツその3 22/22:2007/09/30(日) 21:51:02
- 「私が信じているのはおまえたちだよ、マリア、リヒター、それに、アンセルム主教……われわれに
とっては危険な勢力であるはずの正教会の中にさえ、あのような人物は存在している。私が信じるの
は人間だよ、マリア。私と出会い、ともに戦い、今再び、生きるための場所と理由を与えてくれる、
おまえたち、人間を、私はずっと信じている」
「でも、その同じ人間が、あなたを迫害し、はじき出そうとするわ」
小さな震え声で、マリアは言った。
「だが、もし神がいるとして、私や父や母のことについてどうするかは誰にもわからないだろう。し
かし、今私の前にいるおまえたち、そして、私の出会ってきた人々は、私を受け入れ、愛し、こうし
てここにいることを許してくれる、……十分だ、それだけで」
微笑は消さずに、アルカードはマリアの頬を軽く撫でて、踵を返した。
「さすがに私も少し疲れた。……しばらく休むよ。明日の朝、また様子を見に来よう」
廊下を遠ざかるアルカードの後ろ姿を、マリアはぼんやりと見送った。すらりとしたその背中が、
急に小さく、そして、ひどく遠いものに思えた。
塔の長い階段を登り、自室に足を踏みいれる。
いつもどおり灯りは灯され、火は暖炉で楽しげに踊っていた。窓のそばの小卓には、温かいスープ
とパン、チーズ、果物や葡萄酒といった軽い夕食がすでに用意されている。まったくいつも通り、い
つもと同じ、夕暮れの風景だった。
昨日と同じ、おとといと同じ、四百年前とも同じ。
──違っているのは、そこに、長身の、左目の上に傷痕を持つ、一人の男がいないことだけだ。
アルカードはベッドに腰をおろし、胸元から鎖を引き出した。大きな、古びた紋章入りの指環が、
ずしりと手の上に転がる。
「……ラルフ」
呟いて、そっと唇をあてる。
神など、私は知らない。興味もない。
私が信じるのは人間、そして、この指環の主。
戦おう、おまえの血を継ぐ子供たちを、その愛する人々を守るために。そして私のために四百年の
時を留めていてくれた、この場所のために。
そして、もし時が来て、おまえの前に立ったとき、その目を恥じることなく見返すことのできる、
私であるように。
それが、私の祈り、私の信仰。
私の信じる指針、私の持つ、唯一の光。
「──私の、ラルフ」
愛しい、ラルフ。
おまえに恥じることのない生を生きるためにのみ、私は、ここにいる。
すり減ったベルモンドの紋章を愛撫し、頬に当て、固く胸に抱きしめる。
低く頭を垂れたアルカードの銀髪に、あたたかく炎が映える。静けさの中で、四百年前と同じ夜が
また一つ、今夜も過ぎてゆこうとしていた。
- 195 :サーヴァント・ワルツおまけ 1/3:2007/09/30(日) 21:51:51
- 「あ、アルカード、ちょうどよかった」
翌朝、朝食をすませてリヒターの様子を見に母屋へ足を向けたアルカードは、盆を持っていきなり
出てきたマリアと正面衝突しそうになった。
「ちょっとすまないけど、リヒターの様子見ててくれない? 朝食と薬用の水は持ってきたんだけ
ど、額を冷やすのに使う布持ってくるの忘れちゃって。ほんとならだれかに取りに行ってもらうんだ
けど、ちょっと今近くに誰もいないみたいだし、家のみんなはあの教会のお坊さんたちがやってきた
ののあと始末で大わらわだし。もうこれ以上、仕事を増やすのは気の毒だしね」
「ああ、わかった。どちらにしろリヒターの様子を見に来たから」
「よかったわ! じゃあお願い。すぐに戻るからね」
マリアは忙しそうに、フランネルがどうとか小麦粉がどうとか呟きながら、急ぎ足で廊下を遠ざか
っていった。見送って、入れかわりにアルカードはリヒターの寝室に入り、音を立てないようにそっ
とドアを閉めた。
むろん、このやり取りはベッドの中のリヒターの耳にも入っていた。
しょっちゅう義妹に対して、口に出せない憤懣を抱くことの多い(そしてすぐに忘れてしまう)リ
ヒターだったが、この時ほどマリアに対して言いようのない(そして口に出しようのない)恨みを抱
いたことはかつてなかった。
「リヒター?」
心配そうなアルカードの声が聞こえてくる。
「リヒター、大丈夫か? 熱がまだ下がらないのか?」
「……あ、ああ」
返事がひどくくぐもっているのは別に喉が痛いというような理由ではなく、単に、声の主がベッド
に深々ともぐりこんで、羽毛布団を頭からかぶっているせいである。
「お、俺は大丈夫だ。アルカードは心配しないでくれ、本当に。なんでもないんだ。なんでもないから」
だいたい、あの場所で倒れた本当の理由が、びしょ濡れになったアルカード(しかも、自分のぶっ
放した中途半端なハイドロストームのおかげで)を見てしまったせいだなどと、どの面下げて言える
だろう。
- 196 :サーヴァント・ワルツおまけ 2/3:2007/09/30(日) 21:53:03
- 恥ずかしすぎて、他人どころかマリアにさえも口にできない。マリアには特に。そんなことを白状
したが最後、それこそあのハトどもの餌食にされるか、四聖獣を一匹ずつ喚んで、それぞれに二、三
回ずつ、徹底的にこてんぱんにされるのが目に見えている。
ましてやその理由の当人に、面と向かってなど言えるわけがない。
「まだ熱は高いのか? 薬は飲んだのか」
頼むから早く出ていってくれ、とのリヒターの必死の祈りもむなしく、ベッドの端に軽い重みが乗
る気配がした。細い指が布団をつかみ、有無を言わさず引きはがす。
「あっ、うわっあっそのっ、アっ、アルカードっっ」
「ああ。なるほど。かなりの熱だな」
反射的にがばっと起きあがったとたん、白いなめらかな頬と青い瞳がぎょっとするほど近くにあった。
固まるリヒターの額に額をあわせて、アルカードは少し困ったように眉をひそめた。
「薬は……ああ、これか。どうやら、まだ飲んでいないらしいな。なぜ飲まない? 朝食はもう済ま
したのだろう。さっき、マリアが空になった食器を持っていた」
「そ、それはだな、あの、その」
「水はここにあるし、……もしかして、苦い薬は嫌いなのか? 薬は苦いから効くのだと、私の母も
よく言っていた。苦いからと言って薬を飲まないでいたら、いつまでたっても熱はさがらないぞ。よ
くないことだ」
そばに置かれていた数粒の丸薬を手にとって、コップにそそいだ水をとる。
「い、いや、そういうことじゃないんだ、ただな、あの、アルカード、ア」
──ふいにやわらかいものが唇をふさいで、リヒターは今度こそ、完全に硬直した。
ごくん、と喉が動いて、流しこまれたものを嚥下する。
「よし。飲んだな」
満足そうにアルカードは言って、身を引いた。
「この調合はたぶん私が母から習ったものと同じだと思うが、飲むとしばらくして汗がたくさん出
て、身体にたまった熱をすっかり流し出してしまう。今日の夕方には、ずっと気分がよくなっている
はずだ。あとは二、三日、静かに寝ていさえすれば……リヒター? リヒター、聞いているか? リ
ヒター? ──リヒター?」
- 197 :サーヴァント・ワルツおまけ 3/3:2007/09/30(日) 21:53:44
-
「待たせちゃってごめんなさい、アルカード──あら?」
布とその他、着替えやタオルを持って急がしそうに戻ってきたマリアは、枕の上で今にも湯気を噴
きそうな顔をして目を回している義兄と、そのそばで申し訳なさそうな顔で座りこんでいるアルカー
ドを見て、目をぱちくりした。
「ど、どうしたの? なんだかリヒター、さっきよりずいぶん顔が赤くなってるような気がするんだけど」
「すまない。たぶん、私のせい……だと思う。そこにあった薬を飲ませたのだが」
薬の置いてあった脇の引き棚をさす。
「どうやら、違う薬を飲ませてしまったらしい。薬を飲んだとたん、気絶してしまった。熱もよけい
上がったようだし、……含んだ感じでは、間違っていないと思ったのだが」
「含んだ感じ、って」
真っ赤ながらも、なにやら幸せそうな顔で失神している義兄の顔と、意気消沈したアルカードの顔
を見くらべ、マリアはおそるおそる、
「薬はそれで確かに合ってるけど、あの、もしかして、どういう飲ませ方したのか訊いても……っ
て、いい。いい、やっぱりいい。説明しなくていい」
「いや、どういうやり方、というか」
ひたすら不思議そうに、アルカードは、
「私が小さいころに、苦い薬を嫌がったときに母が飲ませてくれたやり方で、その」
「うん、わかった。わかったから大丈夫」
マリアは多少引きつり気味の笑みを作りながら、さりげなくアルカードを立たせて、ドアへ向かっ
て少しずつひっぱっていった。
「薬はそれでいいの、間違ってないのよ。ひっくり返ってるのは、うちの困った義兄さんの問題。ア
ルカードは心配しないで、またあとで来てあげて、ね。あの薬なら、夕方ごろにはもう熱が引いて元
気になるのは知ってるでしょ、だから、またそのころに来てあげて、ああもうまったくリヒターった
ら──あ、いえいいのよ、ほんとに。あの騒ぎで図書室の本の翻訳が止まっちゃってるとか言ってた
でしょ、だから、その続きをしてて。ね、それがいいわ、ほら、夕食の時にはリヒターももう起きら
れるから、ね」
扉の外に出されても、まだ心配そうに背伸びして中をのぞこうとするアルカードを何とかなだめて
押し出し、扉を閉めて、もたれかかって、ほっと一息。
「ああもう、まったくもう」
抱えてきた布とその他のものを床に投げだし、嘆く。
「ほんとにうちの義兄さんときたら──もう少ししっかりできないものかしら。怪物相手にはあれだ
け強くても、こういうことになるとまるで駄目ってわけ? 勘弁してよ。どうしてこんなに私が気を
使わなくちゃいけないのかしら、もう」
義妹のこんな嘆きも耳に入らないまま、火を噴くほどのまっ赤な顔で、リヒターは、ふわりと押し
当てられたアルカードの柔らかな唇と、ちらりとかすめた甘い舌の感触を夢に見ながら、幸せ半分悪
夢半分の、複雑な眠りに沈んでいた。
- 198 :<削除>:<削除>
- <削除>
- 199 :審判の鎮魂歌1/18:2010/04/20(火) 21:56:21
- 1
どこまでも続く灰色の森の中を、彼は歩きつづけていた。
いつからここに踏みこんでしまったのか、そもそもここがどこなのか、明確なことは何もわからない。かなり進んだように感じるが、あたりの景色はなにひとつ変わらない。霧の中に亡霊のように並ぶ陰気な木々の群れ、冷たく湿っぽい空気、どこか奇妙な、時間と場所の感覚が逆転していくような、胃のねじれる感覚。
霧の水滴が睫毛の先に滴を結ぶ。襟元から忍びこんむ湿気を締め出すため、コートの前を締め、襟を高く立てる。腰の武器と、ベルトに刺した小武器を確かめる──聖なる水を詰めた小瓶、十字架、投擲用のナイフ、そして、何よりも重要で、かつ、最大の武器である、先祖伝来の、使い込まれた革の長鞭。
足もとは乾いた落ち葉と岩から、水を含んだ苔と腐葉に変わっている。足を下ろすたびにじくじくとしみ出してくる水がブーツを濡らし、彼は、短く呪いの言葉を吐いた。
確かなことは、自分はラルフ・C・ベルモンド、吸血鬼殺しの聖鞭〈ヴァンパイアキラー〉を継承する魔物狩人の血筋を継ぐ最後の一人であり、魔王ドラキュラを討伐するために、たった今も魔王の城へ向かう旅の途上にあること、そして、こんな場所で道に迷ったりしている暇などないということだ。
あるいはすでに自分は魔王の支配する領域に入りこんでおり、この森もまた、魔王の用意した罠の一部ということか? そうかもしれない。ついさっき──それとも、もうずいぶん前のことなのだろうか──巨大な狼の姿をした魔物に襲われ、応戦するときに、敵の牙にふくらはぎをかすめられ、傷を負ったのだ。
さほど深い傷ではないし、敵を倒したその場で応急処置はしたが、一歩ごとに引きつれるように痛む。魔物の牙は、たいてい瘴気の毒を含んでいる。手持ちの聖水で洗ってはあるが、これから行く場所では大事な武器にもなる聖水を無駄遣いはできない。自らの鉄の体力と回復力を信じて、このまま進み続けるしかない。
ラルフの生家ベルモンド家は、その魔物狩りの血による異能力と、常人離れした体力とのために異端視され、断絶寸前の危機にある。
- 200 :審判の鎮魂歌2/18:2010/04/20(火) 21:57:04
- もし、ラルフが魔王を倒して帰らなかったならば、あの教会のクソ坊主どもは、遠慮なしにすべての責任をベルモンド家におしつけて、一族を火あぶりの刑にかけるだろう。そんなことを、当主として許しておくわけにはいかない。
先年、父が死んでから当主を継いだばかりのラルフはまだ二十歳の若者でしかないが、その戦闘力と、魔狩人としての能力の高さは、幼いころから父を凌駕し、一族の系譜でも一、二を争うと言われていた。
それまでベルモンド家を悪魔呼ばわりしていた坊主どもも、この点は認めざるを得なかったに違いない。でなければ、狼に変身して赤子を喰うとまで噂されるベルモンド家の若造に、魔王討伐などという大任を与えるわけがない。
単に、もはや他に打つ手がなくなった、というだけかもしれないが。おそらくそうなのだろう。三年ほど前から始まった、魔王ドラキュラによる突然の人間への猛攻は、すでに大きな被害をヨーロッパ全土にもたらしている。
東欧一帯を支配する東方正教会としても、威信にかけて打てるだけの手は打ったのだろうが、それでも、この異端視された魔狩人の一族に頼らなくてはならなくなったということは、それだけ教会が追いつめられていること、もはや体面すら気にしている状況ではなくなっているということだ。
やわらかい地面に足をとられて木に手をつき、自嘲めいてラルフは唇をゆがめた。
まったく、虫のいいことだ。これまで魔狩人としてのベルモンドの力に守られながら、平和なときにはその力を怖れて封じ込めようとしてきた坊主や偏狭な村人たちなど、勝手に魔物に喰われてしまえ、と、正直なところ思わないでもない。
自分たちの身に危険が迫ったからといって、それまで悪魔呼ばわりしてきた相手に、頭をこすりつけんばかりにする人間にはほとほとうんざりだ。どうせ内心では、悪魔の相手は悪魔にやらせればいい、自分たちは御免だとでも思っているのだろう。
とはいえ、ラルフはやはりベルモンドの魔狩人の血を引く者であり、何よりも、戦いの中に喜びを見いだす、戦士の魂を身に宿していた。悪魔呼ばわりされながら、自分の力を存分にふるう機会も与えられず、うつうつと暮らす日々に飽き果ててもいた。
魔王はどれだけ強いのか、そして、そこにたどりつくまでに待ち受ける大量の敵との死力をつくした戦いを考えると、愉悦にも似た慄えが身体を走りぬける。
- 201 :審判の鎮魂歌3/18:2010/04/20(火) 21:57:39
- 誰に依頼されたか、何のためか、そんな理由などどうでもいい。ましてや人間を守るためなどというご大層なお題目など、ちゃんちゃらおかしい。
俺は、戦いたいから戦うのだ。この身体に蓄えてきた力と戦闘術を極限まで使い、生命を絞りつくすほどの戦いをくぐり抜けてみたいのだ。
それは若さゆえの野心であり、傲慢であったかもしれない。しかし、長いあいだ、幽閉にも似た状態におかれていたベルモンドの若き魔狩人の血は、ようやくいましめを解かれた猟犬のように、奮い立って獲物を求めていた。さっきのあの地獄の猟犬一頭を倒したくらいでは、とても足りない。もっとだ。もっと戦いを。
この全身の熱い血すら沸騰するような、死力をつくした戦いを。
苔の生えた石が足をすくった。
がくんと身体が傾き、傷ついた足にするどい痛みが走る。あやうく身を支えたラルフは、誰にともなく声高に悪態をついた。
足を確かめると、傷口が開いたらしく、巻いた布にわずかに血がにじんでいた。思わず舌打ちする。いま足を妙なふうにひねったためだろう。
立ちあがろうとしてまた腰を落とし、今度はもっと大声で罵った。傷のみならず、どこかの筋までひねってしまったらしい。これから行く場所は、万全の状態でさえ生きて帰れるかどうかわからぬ場所なのだ。なのに、そこへ行きつく前に、この程度で足止めをくっているようでは先が思いやられる。
霧はしだいに濃くなってくる。冷たさが身体の芯に染みこんでくる。
くそっ、とラルフは思った。せめて、ここから抜けることさえできれば──。
分厚い霧のむこうに、ぼんやりと黄色い光が現れた。
にじんだような光の靄をあたりに散らしながら、ゆっくりと近づいてくる。
反射的に、ラルフは腰に手をやった。もしここがすでに魔王の領域で、この森も罠のひとつであれば、あの光の主もまた、友好的であるはずがない。鬼火か、それとも、もっと悪い別の何かか──
光が揺れた。
- 202 :審判の鎮魂歌4/18:2010/04/20(火) 21:58:27
- 霧を押し分けるようにして、人影がぼんやりとした輪郭をあらわした。片手に灯のともったランタンを持ち、頭から灰色の長いローブをかぶっている。顔はよく見えず、体つきもよくわからないが、すらりとした長身のようだった。フードの裾からこぼれ落ちた長い髪は銀色で、ランタンの光を、かすかな虹色に反射している。
「何者だ」
立木に背を押しつけながら、ラルフは鋭く誰何した。
少なくとも、殺気は感じない。
だからといって、気を抜いていいわけではないのは骨身にしみている。生命のない自動人形に殺人を行わせることなど、魔王にとっては朝飯前なのだ。
ランタンの主は数歩離れた位置で足を止め、傷ついた獣のように歯をむくラルフを値踏みするように見つめた。ラルフは唸り、血のにじんだ脚を隠そうとして、かえって不自然に関節をひねった。激痛が走る。呻きを押し殺したのは、ここが敵地だという意識と、目の前の相手に弱みを見せてはならないという意地の一念だった。
ランタンの持ち主はなおもしげしげとラルフを見つめていたが、いきなり、すべるような動きで近づいてきた。
迷いも警戒もいっさいないすばやく優雅な足取りで、ラルフに鞭を手にとる余裕すら与えなかった。気がついたときにはランタンはそばの木の根の上に置かれ、持ち主は地面に片膝をついて、傷ついた脚の上にかがみ込んでいた。
「お、おい……?」
白くて細い、美しい手が傷をなぞるように調べている。垂れさがった銀髪は、ラルフがこれまで見たこともないような、透きとおる月光の色をしていた。
かすかな香りが鼻孔をかすめる。相手の服か、それとも身体に染みついているのか、甘やかで、荒れた気持ちが自然になだめられていくような香りだった。
「おい……誰だ? お前──何者だ?」
相手は黙ったままランタンを取りあげると立ち上がり、ラルフに手を差しだした。反射的に握ると、ぐいと引きおこされた。
- 203 :審判の鎮魂歌5/18:2010/04/20(火) 21:59:00
- 華奢な手の造りから、相手を女だとなんとなく思っていたラルフは、思いがけない相手の力の強さに度肝をぬかれた。ラルフの体格の良さは、男としても群を抜いている。体重に加えて、装備の重さもかなりのものだ。それを、片手一本で、わら人形でも引っぱり起こすように軽々と引き上げてみせるとは──
「いい。自分で立てる」
肩を貸そうとするランタンの持ち主を、すげなく振り払う。脚を引きずりながらではあるが、自力で歩けないわけではない。まだ敵か味方かもわからない相手に、安易に肩を貸されるほど、ベルモンド家の男は落ちぶれていない。
ランタンの主は気を悪くした様子もなく、つと背を向けて、肩越しに視線を送った。
「なんだ? ついてこい、っていうのか?」
返事はなく、ランタンはそのまま揺れながら、先に立って霧のむこうへ進みはじめた。
一瞬ためらったのち、ラルフは思いきってあとに続いた。このままここにいても、事態がよくなるわけではない。それなら、たとえこれが助けを装う罠であっても、なにか変化のありそうなほうに掛けるのが上策というものだ。
先に立つランタンの光に導かれ、ラルフは脚を引きずりながら、じくじくと水のしみ出す霧の森の中を抜けていった。
2
小屋は暖かく、炉には勢いよく火が焚かれていた。
火の上には鍋がかけられ、いい匂いのする何かが煮立っている。壁には束ねられた薬草らしき、乾燥した植物の束がいくつもかけられ、さわやかな香気を放っている。飾り気はないが何もかもがきちんと整頓されており、あたたかな橙色の光が部屋のすみずみまで満ちている。湿って冷たく、うす暗い扉の外とは、まるで別世界だった。
ランタンを消して机の上に置くと、主はラルフを背もたれのある木の椅子に座らせた。問いかけようとするラルフを手で制し、頭を覆っていたフードをさらりと落とす。
ラルフは声を失った。
- 204 :審判の鎮魂歌6/18:2010/04/20(火) 21:59:31
- これほどまでに美しい人間──いや、本当に人間なのか?──を、ラルフは今まで目にしたことはなかった。
細くすっきりと通った鼻梁に、磨きぬいた雪花石膏の肌。伏せた長い睫毛の下は、氷の底の淡青。小さな唇は完璧な曲線を描き、ほのかな朱色に息づいている。ゆるく波打つ銀髪は背のなかばを越すほどに長く、それが火明かりに照らされて、かすかな金色に照り映えながら流れ落ちるさまは、ことのほかすばらしかった。
垂れかかる前髪をかき上げ、脱いだローブを壁にかけると、簡素な黒の胴着と細身の下衣、革の長靴という服装があらわになった。
女……いや、男か、とラルフは見当をつけた。
そこらへんの女など足もとにも寄れないほど美しいし、挙措のいちいちが見惚れるほどに優雅だが、服装を含め、体つきはかなり細身ではあるがれっきとした男のものだし、なにより、全体に漂う凛とした雰囲気が、女々しさを完璧に否定している。
男であることを明らかにした銀髪の青年は、持ち手つきのカップに鍋の中身を注ぐと、ラルフに手渡した。
眉をひそめて湯気を嗅いでみたが、別に怪しい匂いはしない。香草と肉のスープらしい、食欲をそそる香りがするだけだ。
最初は用心しながら、やがて、夢中になってスープをすするラルフを、青年はどこか懐かしげな、愛情と苦痛のないまぜになった瞳で見ていたが、やがてつと背を向け、棚からいくつかの品物を取り下ろした。
「あ、こら」
夢中でスープを飲んでいたラルフは、いきなり脚もとにかがみ込まれてぎくりとした。いつの間にか、ここは敵地で、相手が本当に味方かどうかわからないなどという疑念を、すっかり忘れていたのだ。
青年はまたじっとしていろ、というような身ぶりをすると、ラルフの傷ついた脚の包帯を解きにかかった。反射的に身を引こうとしたが、断固とした身ぶりで止められた。
手つきはごくやさしく、慎重だったが、乾いた血のこびりついた布が傷から剥がされるときは、さすがにラルフも唇をかんで声を殺した。
- 205 :審判の鎮魂歌7/18:2010/04/20(火) 22:00:03
- 赤く腫れ上がった傷口がさらけだされた。やはり、聖水一本で洗ったくらいでは足りなかったらしい。浄化のきかなかった毒が治りを遅らせている。致命的ではないが、この先の戦いに、治りきらない傷をかかえて入っていくのは無謀以外の何物でもない。
傷の状態を見て青年は眉をひそめると、立ち上がり、棚からさらにいくつかの瓶や道具を取り下ろした。
小盥に熱い湯を入れてきて、湯に浸した布で丹念に傷を拭う。湯には何らかの効果があるらしい、砕いた薬草や、色のついた石のかけらが沈んでいた。
湯は傷にしみたが、それよりも、布にぬぐわれるとともに、痛みに加えて足の痺れや引きつりまでもがきれいに消えていくのに、ラルフは驚愕した。見ている間にも腫れが引き、青黒く変わり始めていた傷口のふちがきれいになっていく。
傷の処置が終わって、新しい包帯をきちんと巻き直してしまうと、今度は痛めた足首を調べにかかった。今度はラルフも警戒しなかった。
足首の方はそれほどひどくなかったらしく、瓶からとりだした粉を何かの練り粉に混ぜ、布にのばした湿布を貼られるだけで済んだ。
湿布の上からこちらも丁寧に布で巻いてしまうと、ようやくほっとした、というように、青年は床に座ったまま、ラルフを見あげた。
その、あまりにまっすぐな蒼氷色のまなざしに、心臓にまともに一撃を食らったような気がした。
なんという瞳だ! 見つめているとまるで魂もその中に吸いこまれてしまいそうな、身体ごとその底知れぬ深みに落ちこんでしまいそうな、神秘と憂いに満ちた瞳。
ひどくもの言いたげなのに、言葉にしきれない想いがあふれてこぼれそうになっている。かみしめた朱唇がかすかに震えていた。ラルフは思わず手をのばし、青年の両頬をつかんで上向かせた。細いあごが上がって、襟に隠されていた喉もとがあらわになった。
ラルフの口からはげしい呪いの言葉がほとばしった。
青年はびくっとし、あわてて身を引いて襟をかき合わせたが、ラルフはすでに見るべきものを見てしまっていた。
「お前、その封印はだれにやられたんだ? 魔王にか? お前──お前ももしかして、魔王にここに閉じこめられてるのか?」
青年は弱々しくかぶりを振ったが、ラルフは信じなかった。彼の目は、青年の白い喉首にまるで首輪のようにぐるりと刻みつけられた、茨の輪を思わせるまがまがしい呪印を、はっきりととらえていたのだった。
- 206 :審判の鎮魂歌8/18:2010/04/20(火) 22:00:36
- 目にしただけでも、そこにこめられた魔力の質と強さはわかった。あれは闇──それも強力な闇、魔王自身か、それに準ずる魔族でもないかぎり、あんな封印をかけられるものはいない。
「お前、そういえば、出会ったときから一度も喋らないな。その封印で、声も封じられてるのか──そうなんだな?」
青年は視線をそらし、うつむいた。それが答えだった。ラルフの胸に新たな瞋恚のほむらが燃え立った。
「俺は魔王を討伐しに来たんだ。魔王ドラキュラを」
口早にラルフは言った。
「魔王を倒して、お前のその封印を解いてやる。魔物も魔族もぜんぶ始末して、お前をここに縛りつけている鎖を切ってやる」
青年はふたたびかぶりを振った。
絶望と哀しみのこもったそのしぐさに、ラルフはよけい怒りをつのらせた。身を引こうとする青年の腕をつかみ、その細さに背筋にあやしいおののきが走るのを感じた。
「ここで待っていてくれれば、俺は必ずもどってきて、人間の世界にお前を連れて帰ってやる。そうだ、行くところがないなら、俺のところに来ればいい。これでもいちおう土地持ちなんだ、そうは見えないかもしれないが──」
いきなりふわりと銀髪が顎をかすめて、ラルフは言葉を切った。
青年がラルフにすがりつき、胸に頭を押しつけていた。痛いほどに両腕に指を食いこませ、垂れかかる髪に表情を隠している。細い背中が震えていた。
ラルフはそれを、解放への希望と、それが裏切られるかもしれないことへの恐れだと解した。なだめるように背筋をさすってやる。
「心配するな。俺は強い。魔王だろうがなんだろうが、必ずこの手で討ち破ってみせる」
子供に言いきかせるように言葉をつぐ。
「なあ、魔狩人のベルモンドの名を聞いたことがあるか。俺はその一族の末裔なんだ。ほとんど絶えかけてはいるが、血はまだ衰えていない。魔王は魔物の群れを放って、手当たり次第に人間を殺しまくっている。俺が魔王を討伐すれば、怪物呼ばわりされているベルモンド家の再興にもつながる。俺は、負けるわけにはいかない──」
負けるわけにはいかない。その言葉が、はじめてラルフの中に実感を持ってひびいた。
- 207 :審判の鎮魂歌9/18:2010/04/20(火) 22:01:13
- そうだ、俺は負けるわけにはいかない。人間を守るためでも、ましてやあの教会の坊主どもの命に従うためでもなく、ここで、今この胸にすがっている、銀色の美しい生き物を呪いの軛から解き放つために、俺は、勝たなければならない。
「だから、大丈夫だ。怖がらなくていい」
すがりついてくる青年の肩をそっと押して、顔を上げさせる。氷の蒼の瞳に、涙があふれていた。なめらかな白い頬に、ひとつ、またひとつ、涙が筋をひいて落ちる。
「泣くな」
涙を拭ってやろうとして、ふと手がとまる。この、壊れやすい細工物のような繊細な生き物に触れるには、あまりに自分の手は無骨にすぎるように思われた。
一本の指をそっと伸ばして、注意深く涙をすくい取る。
それでもまだ乱暴に感じられた。戦いに荒れた指は、この傷一つない薄い肌にはざらつきすぎている。
ほとんど何も考えずに、身を乗り出し、唇で目尻をたどった。塩辛い、苦い滴が舌に触れた。こんなものを彼に流させた者に対する怒りが、あらためて燃え立った。
「──……お前が泣くと、俺は──」
自分は何をしているのだろう。ここはどこなのだろう。
そんなことはほとんど意識の外に追い出されていた。ラルフの胸にあるのは、今、腕の中で震えているきゃしゃな生き物を捕らえている者への怒りと、苦しいほどの──自分でも、なんと呼ぶか知らない──心臓が引き絞られるような、痛みだった。
「──俺は、……どうしていいか、わからなくなる……」
囁きながら、ラルフの唇は涙のあとをたどって、ゆっくり頬をすべっていった。
震える睫毛が頬をかすめ、青年のしなやかな身体のおののきがそのまま腕に伝わってきた。何かを告げようとしてかなわぬまま、なかば開いた唇に、ラルフは誘われるように、自らの唇を重ねていた。
- 208 :審判の鎮魂歌10/18:2010/04/20(火) 22:01:47
- 夢を見ているのだろうか、と思った。
だが、手の下で大きく上下しているなだらかな胸と、絹のようにしっとりとした汗ばむ肌の感触は確かにそこにあった。
長い銀髪が床に広がり、銀糸で織られた敷布のように周囲をおおっている。火の燃える炉端は汗ばむほどに暖かく、体内に高まる熱をますますあおり立てた。のけぞった白い喉に、黒々と刻まれた呪いの首輪が見える。ラルフは身をかがめ、魔のしるしの枷に歯を立てて、ぴくりとひきつる身体と舌を刺す魔力の波動を同時にあじわった。
本来なら、あるべきことではなかった。あるはずもないことだった。
聖書のもとで育てられた人間として、ラルフも人なみに禁忌の感覚は持っている。教会に盲従する人々ほど厳格なものではないにせよ、いま自分がしていること、男として、同じ性を持つ相手を性愛の対象にすることが、教会の教えのもとで、どれほどの重罪かを知る心くらいはある。
加えて、普通の健康な男として、ラルフはもっぱら女性に興味があるのであって、男や少年を相手にする男色家など、頽廃の末に禁忌を破ることにしか興奮を見いだせなくなった貴族か、偽善者の坊主どもがなるものだと思っている。ましてや実際に自分が男を抱くことがあるなど、考えてみたこともなかった。
なのに今、自分はそれをしている。
服や武器は床に投げ出され、大事な鞭は椅子の背にかけられたままだ。もしこの相手が敵であり、この小屋自体が罠だったとしたら、今、ラルフの喉をかき切ることは子供の手をひねるようなものだろう。
だが、やめることはできなかった。甘く、若木のようにしなやかな肉体に、我を忘れてラルフは溺れた。愛撫をほどこすごとに切なく喘ぎ、吐息をもらす唇から、かすれた呼吸音しか漏れてこないことを残念に感じ、声を聞きたい、その唇から、甘いすすり泣きとともに自分の名前が呼ばれるのを耳にしたいと、心の底から思った。
「泣くな」
涙はまだ流れつづけていた。ラルフに抱かれながら、青年はずっと、声もなく涙を流しつづけているのだった。裸の胸をあわせ、唇をかさねて、やわらかな濡れた舌を味わって、ラルフはまたくり返した。
- 209 :審判の鎮魂歌11/18:2010/04/20(火) 22:02:37
- 「なあ──泣くな。泣かないでくれ。何が哀しい? どうして泣いているんだ……?」
青年はかたく目を閉じ、滴が散るほどに強くかぶりを振ると、はげしい力をこめてラルフの胸に顔を埋めた。新たな涙が熱く肌を濡らす。
「おい……?」
言いたくないのか、それとも言えないのか。細い喉を締めつけている環から解きはなってやることさえできれば、答えを得ることもできように。
そう思うと、いっそう愛おしさがつのった。つい半刻まえまでは顔も見たことのなかった相手を、なぜこれほどまで愛しいと思えるのか不思議だった。この気持ちにくらべれば、今までしてきた恋愛など、遊戯に等しい。
止まらない涙をもう一度接吻で拭ってやる。この涙を止めてやれるならどんなことでもしたいと思い、彼を縛っているあらゆるものから自由にしてやりたいと思う。そして相反するように、自分の手の内に閉じこめて、だれにも見せたくない、触れさせたくないという欲望が胸に蠢く。
その昏い思いが独占欲と呼ばれるものであり、ともすれば、いま彼の喉を締めつけている黒い呪いの首輪と同質の影を帯びるものだという自覚もある。誰にも触れさせたくない、見せたくない。守ってやりたい、どんな傷からも、痛みからも、苦しみからも──。
「……ん? 指環?」
両手で頬を包まれながら、青年が、ラルフの指にはめられた大ぶりの金の指環に愛おしげに頬を寄せているのに気がついたのだった。まるで旧知の者の形見にでも出会ったかのように、懐かしさと苦悩の入りまじった表情で、幾度も頬をすりよせる。
「指環か? こんなもの欲しいのか? だったら」
抜きとって渡そうとするラルフを、あわてたように青年は首を振って押しとどめた。もとどおり指にはめさせ、安心したように、またそこに頭を寄せる。
わけもわからず、ラルフは拍子抜けした。別に特別な指環ではない。単に、ベルモンド家当主の印として父から受け継いだ古い印章指環で、金製ではあるがさほど上物ではないし、すり減って傷だらけで、ほとんどなんの価値もない。今はめているのも習慣のようなもので、欲しいのなら別にやってしまってもよかったのだが……。
- 210 :審判の鎮魂歌12/18:2010/04/20(火) 22:03:12
- ラルフが眉根を寄せているのに気がついたのか、青年は指環から離れ、伸び上がるようにしてラルフに口づけてきた。小さな舌に唇をたどられると、ささいな疑問などすぐに消しとんだ。ふたたび青年を床に横たえ、伸びやかな脚をつかんで広げる。
その間に、自分と同性であるあかしが息づいているのを見ても、嫌悪感はまったくなかった。むしろ、淡い銀色の茂みから何かの花のつぼみのように勃ちあがり、薄紅色に染まってふるえている性器を目にして、なんと美しいのだろうと思い、再度、荒々しい欲望が身のうちを突きあげるのを感じた。
引き締まった臀をたどり、その奥処に指をすべらせる。青年は身じろぎして半身を起こすと、逃れるように身体をずり上げ、自らラルフの首に両腕を巻きつけて、腰を脚で巻いた。ラルフはあわてた。
「おい、待て、それは──」
本来受けいれる場所でない部分に異物を押しこまれるのがどれだけ辛いかは、経験がなくとも想像はつく。男相手にではないが、以前寝たことのある娼婦がそこを使いたがる客についてひどく愚痴っていたこともある。何か潤滑剤を使うか、でなければ、指でよく解してからでないと、ひどい苦痛を強いるはず──
しかし青年は強く首をふると、自分から、ラルフの猛り立ったものの上に、自分から腰を落とした。
あまりの快美に、喉の奥から声がもれるのを押さえることができなかった。青年の中は狭くてきつく、絞り上げるようにラルフを包んでいた。挿入した一瞬、なめらかな背筋がびくりと引きつるのを感じて、思いきり強く抱き寄せる。
びくびくと震える身体は、さすがに慣らしもせずにいきなり奥深くまで男を迎え入れたせいだろう。苦鳴をこらえているのか、耳元をくすぐる呼吸が荒い。愛しさと快楽に息もつまりそうになりながら、ラルフは何度も髪を梳き、背をさすって、自分でもほとんど意味のわからない言葉をささやいた。少しずつ、腕の中の身体から力が抜けていく。
動きはじめたのがどちらからだったのかはわからなかった。きつく締めつけていた内壁はやわらかく絡みついて、気の遠くなるような快楽の淵にラルフを誘った。
あぐらをかいた膝の上に軽い身体をのせて揺すぶりながら、ラルフは乱れる銀髪に頬ずりし、耳朶に口づけて、泣くな、もう泣くな、と囁きつづけた。
俺がここにいる。だから、もう泣くな。
- 211 :審判の鎮魂歌13/18:2010/04/20(火) 22:03:47
- 追い上げられた快楽が、やがて極限にまで達する。白い身体を抱きしめ、その奥深くに精を吐きだした瞬間、ふっと意識が遠くなった。かすんだ視界に、こちらを見つめる青年の氷蒼の瞳と濡れた頬が映った。
泣くなよ、なあ、とかすれた声で呟き、その頬を拭ってやろうと手をのばしかけたところで、ラルフの意識は途切れた──最後に、相手の唇が、『ラルフ』と、教えたはずのない自分の名を形づくったという、奇妙な印象を残して。
3
「──お済みですか。涙の再会は」
背後から、からかうような声がした。
灰色の霧にとざされた森に、〈彼〉はいた。
小屋はなく、燃える火も、明かりも家具もない。荒涼たる単色の光景に、一点、にじむように黒衣の姿がある。
長い銀髪には霧がしがみつき、露がおりたようにしっとりと湿っていた。頭をあげ、反論するように唇を開きかけたが、声が出ないのに気づいて、つと首筋に手をあてた。そこには黒々ときざまれた封印の印が、茨の首輪のようにからんでいる。
細い指はこともなげにそれをつまみ、引きはがした。はがされた呪印はいっとき指先で生き物のように鳴いてのたうったが、〈彼〉はそれを小虫でも扱うように握りつぶした。小さな悲鳴と硫黄の臭いが漂い、黒い粉が散った。それだけだった。
「……再会ではない」
ようやく出た声はかすれていた。小さく咳きこんでから、〈彼〉はまた、「再会ではない」とくり返した。
「彼はまだ、私に会っていない。彼は、『これから』私に会うのだ。だからこれは再会ではない。ただ、彼が旅の途中で夢を見ただけのこと」
「しかし、あなたにとってはそうではないでしょう、公子殿?」
──アルカードは振り返って、相手を睨んだ。
奇妙ないでたちの男だった。淡い金髪で、抜けるように白い肌をしている。年齢はおそらく若いのだろうが、眼鏡の奥の容易に感情をのぞかせない瞳は、妙に老成した色をもっていて、正確な歳は判断しがたい。
上下ともに白ずくめの衣装をまとい、巨大な時計に剣をつけたような、異様な武器とも杖ともつかないものを手にしている。懐から出した懐中時計を片手でもてあそび、唇にはいつも、人を小馬鹿にしたような冷笑があった。
「あなたは彼に出会った。あなたにとっては四百年も前の昔に。彼はあなたと出会い、ともに戦い、愛し合った。だが人間と魔族とでは、棲むべき世界が違いすぎる。彼のためにあなたは身を引き、永遠に醒めぬと──ま、その点はあなたの計算違いだったわけですが──きめた眠りについた。違いますか?」
アルカードは無言だった。答える必要のない質問に応じる気はない。ただ片手を出して、「返せ」と短く告げた。
相手は肩をすくめ、どこに隠し持っていたものか、見事なこしらえの一振りの長剣と、鎖につけた大ぶりの金の指環を取りだした。
「はい、どうぞ。確かにお返しいたしますよ」
ひったくるようにアルカードは二つの品物をとり、剣を腰に提げ、頭から鎖をかけた。
先についた重い印章指環を両手で受けとめて包み、そっと唇を触れてから、服の内側に大切に落とし込む。胸の上に指環が落ちついたのを触って確かめ、ほっとしたように深い吐息をついた。相手は面白そうに眺めている。
- 212 :審判の鎮魂歌14/18:2010/04/20(火) 22:04:25
- 「それにしてもわかりませんね」と彼はまた言った。
「何もあなたが出てくることはありませんでしたよ。まあ、我々としては、強い精神の持ち主であれば別に文句はないですし、その点、貴方なら申し分ないのはもちろんですが、むしろ貴方の時代からは、リヒター・ベルモンドを呼び込もうと思っていたんですがね。
ベルモンド家の一統は、人間の血のうちでは最強と言っていい力を持っている。ことに、あのリヒターという若者の力は端倪すべからざるものだ」
「リヒターはまだ死神に受けた洗脳の痛手から立ち直りきっていない」
強い口調でアルカードは相手の言葉をさえぎった。
「あれは、まっすぐな男だ。かえって自分のためにならないほどにまっすぐで、純粋で、繊細な心を持っている。たとえここの記憶が夢のようなものになるとしても、一度魔の力に精神をいじくられたリヒターを、ふたたび危険にさらすことはできない。マリアがいるというならなおさらのことだ。彼はいくら夢や幻であっても、自分の義妹に向かって武器をふるうような真似のできる男ではない」
「あれは貴方の知らないマリア嬢ですよ。まだ十歳です」
「ならばなおさらだ。できることならマリアも、他の人間も連れてこさせたくなかった」
「それは申し訳ないことをしました。しかし、貴方のお申し出を受けたのはずいぶん遅かったのですよ。まあ、早い遅いというのは相対的な話で、我々にとってはあまり意味を持たないのですがね。ここに来ていただいたという意味では、あなたはほぼ最後のお一人なんです。貴方のお父上もすでにいらっしゃっていますよ、そのことは最初に申しあげたはずですが。二度までならず三度までも、貴方がお父上と剣を交えることを承諾なさるとは、正直言ってこちらも思っていなかったのですがね」
アルカードは唇をかみ、空中にむかってさっと手を振った。
虚空から、巨鳥の翼のように黒いマントが取り出されて身をおおう。飾り気のない黒い胴着に、花のように飾り襞や装飾品、金糸の縁取りが萌え出でた。
瞼を閉じ、ふたたび開くと、現れたのはすでに人間の目ではなく、解き放たれた魔力によって黄金に煮えたぎる、魔性の瞳だった。
瞳孔は縦に長く切れ込み、灰色の薄闇の中に爛々と燃えている。豪奢な衣装に身を包んだ闇の貴公子が、長い銀髪をなびかせてそこにいた。
- 213 :審判の鎮魂歌15/18:2010/04/20(火) 22:04:59
- 「しかしまあ、人間というのは奇妙なものですね」
相手は奇妙な武器に顎をあずけて、感慨にふけるようにしみじみと言った。
「もっとも、あなたは半分だけ人間でいらっしゃるから、よけいに奇妙なお振舞をなさるのかもしれませんが。……なぜまたリヒター・ベルモンドの代わりになる交換条件に、こんなおかしなことを出されたんです?」
アルカードは答えなかった。視線はどこか遠くをさまよい、灰色の霧のむこうに何を捜しているのか、茫漠としたまなざしを木々の間にむけている。
「我々が連れてきた『ラルフ・C・ベルモンド』は、最初にドラキュラ城にたどり着く前の旅の途上、つまり、貴方と出会う前の人間であるということは最初に申しあげましたね。たとえ会っても相手は貴方のことなど知らないし、こちらとしても、貴方が未来を彼に告げることは、たとえそれらしいことを匂わせるような一言でさえもらしてはならない、と言っているのに、あなたはそれをお望みになった。
自らの手で、自らの声を封じる封印までかけて、自分を知らないかつての──まあ、ここではそう言っておきましょう──かつての恋人に、会うことを望まれた。これから彼がどうなるのか、彼と貴方自身がどう出会い、どのような道を進み、どのような別れを迎えるのか、すべて知っていながら、それでも。まったく理解できませんよ」
肩をすくめて、白衣の青年はかぶりを振った。
「自分を知らない恋人と会って、何が楽しいというんです? それも、相手と言葉を交わすこともできず、この先何が起こるかも告げることも許されないというのに。傷口に塩を塗りこむどころか、生傷にナイフを突きたてて抉るようなものじゃありませんか。
それにどうせ、ここでの記憶は夢になって消えてしまうんです。貴方のように魔力を血に受けついだ方は違うかもしれませんが、ラルフ・C・ベルモンドは完璧に忘れますよ。ベルモンド家の者とはいえ、しょせんは彼も人間にすぎませんからね。どうせ消え失せるほんの一時の逢瀬のために、わざわざ自分の苦痛を増すような真似をなさるとは、いやはや、自虐的というか、自罰的というか──」
ヒュン、と空気が鳴った。
白衣の青年は言葉をとぎらせ、目の前に光る白刃を見た。アルカードは振り返りもせず、片手で抜きはらった長剣を、相手の喉につきつけていた。
- 214 :審判の鎮魂歌16/18:2010/04/20(火) 22:05:35
- 「その、よく動く口を閉じろ」
抑揚のない声でアルカードは言った。
「私の行動の理由など、貴様には関係のないことだ。貴様と、貴様の仲間が何を企んでいるのかは知らないが、これだけは言っておく。貴様は私が倒す、アイオーン。たとえ誰と、父やラルフと剣を交えることになっても、貴様だけは。必ず」
「──たいそうなご立腹で」
喉元に手をやりながら、アイオーンと呼ばれた青年はよろめくように数歩さがった。あざけるような冷笑はまだ唇のはしに貼りついていたが、きちんと締めたタイをつかんだ指先は、かすかに震えていた。
「まあなんにせよ、やる気になってくださったのはいいことだとしましょうか。──では、闘技場でお待ちしていますよ、闇の公子殿」
ふっと声が遠くなった。
『他の方々もそろそろお揃いのはずです。最後の舞台で、貴方にお会いできるのを楽しみにしていますよ、魔王ドラキュラの嫡子にして父殺しの、──公子、アルカード様』
マントが大きくひるがえった。
長剣の一閃はあたりの草をなぎ払い、渦巻く霧に一瞬はっきりとした裂け目を作った。一瞬遅れて、幹を両断された大木がゆっくりとずれ、重々しい音をたてて倒れた。
だが、人間の姿はどこにもなかった。遠く、はるか遠くから、楽しくてたまらないといった笑い声がかすかに木霊してきた。
アルカードはしばし剣を振りぬいた体勢を崩さなかった。
しばしののち、ようやくゆっくりと身を起こし、剣をおさめた。天を振り仰いで瞳を閉じた横顔は、うって変わった寂寥と苦悩にいろどられていた。
あのアイオーンと名乗る男が現れたとき、精神的な傷の癒えないリヒターの代わりに自分を使えと言った言葉は嘘ではない。本来ならば、自分自身もここに赴くつもりはなかった。最初に出会った時に、追い払っておくべきだったという悔恨はいまもある。
だが、ただひと言が、絶対拒否を固めていたアルカードの心をつらぬいたのだ。
『いいでしょう。もし貴方が私と来てくださるというのであれば、公子、貴方のお望みをひとつだけ叶えてさし上げましょう。亡くなられたお母上にお会いになるのでも、まだ正気でおられたお父上のもとをお訪ねになるのでも、どうぞ、ご随意に』
- 215 :審判の鎮魂歌17/18:2010/04/20(火) 22:06:10
- 剣をおさめた手を額にかざし、きつく押さえる。
「ラルフ」と、声にできなかったその名を、か細くひとり呟いた。
傷に塩を塗り込む。生傷にナイフを突き立てる。その通りだ。
あの『ラルフ』は、アルカードを知らない『ラルフ』だ。これからドラキュラ城へ赴き、その場内で、過去のアルカード自身と出会うはずの、過去の『ラルフ』。
あの『ラルフ』には、顔の傷がなかった。当然だ、これから彼はその傷を、魔王ドラキュラとの戦いによって負うのだから。
そして指には、指環があった。いま、アルカード自身の胸に下がっているのと同じ指環だ。あの短い箱庭の天国の日々で、たがいに交換した指環のかたわれだ。
これから彼と出会い、ともに戦い、愛し合うようになる過去の自分にすら、嫉妬せずにいられない自分が呪わしい。その先に何が待っているか、あの、胸に食い入る苦悩と生身を引き裂かれるより辛い別離を知っていてすら、もう一度彼に会えるのならば、どんな代償を払っても惜しくはない。
たとえそれがかえって自分の苦痛を増すだけの行為だとわかっていても、アイオーンの誘惑するような囁きを聞いたとき、もう一度、かの声を耳にし、かの腕に抱かれ、かの肌に触れたいという望みを、どうしても口にせずにはいられなかった。
なんという、未練な、あさましい、醜い執着心──。
……あのアイオーンという男は、ある理由から、さまざまな時代から強い精神と肉体の持ち主を集めていると言っていた。
その強者どうしが戦うことによって生み出される一種の熱量が、彼らの求めるものらしいが、その使い道をうんぬんすることは、まだ今のアルカードにはできない。それができるのは、おそらくすべての対戦相手を倒し、最後の戦場で待っているはずの、あのアイオーンを倒した時だろう。
戦いの場として設定された闘技場は一種の時間のはざまのような場所で、闘争に負けたものは死ぬのではなく、ただもとの時間に戻されるだけという話だった。
どこまで信じられるかはわからないが、確かなのは、すでにこの空間に連れてこられた者たちを解放して在るべき場所に戻してやるには、彼らをすべて打ち倒さなければならないということだ。ラルフや他の人々、ここにもいるという父、ドラキュラも含めて。
- 217 :審判の鎮魂歌18/18:2010/04/20(火) 22:17:10
- 服の上からもう一度、そっと指環に触れる。今ではラルフそのもののように思える愛の証は、たのもしく、しっかりと、胸の中心に収まっている。
「私を導いてくれ、ラルフ」
そっと、彼は呟いた。
「愚かな感傷に、もはや、私がまどわされぬように──私を知らぬおまえが、正しく『私』と出会えるために──すべてを正しい場所に戻し、人を弄ぶあのアイオーンとやらの意図を叩き潰すために、見守っていてくれ。私の、ラルフ」
もはや、迷いはなかった。もう一度胸の上から指環をさすり、決然として、闇の公子は頭を上げた。金色に燃える瞳は闘志に満ち、迷いをその裡に灼きつくして。
ラルフ・C・ベルモンドは、ふと眠りから覚めた。
はね上がるように身を起こす。敵地で眠ってしまうとは、油断するにもほどがある! ベルモンド家の男として、あってはならないことだ。ことに、ここがどのような場所かも、どんな罠が張りめぐらされているかもわからない場所で……。
ふと、動きを止めた。脚が痛まない。
脚をさぐってみると、巻かれた布が手に触れた。
自分で巻いたのだろうか? どうもよく思い出せない。何か、夢を見ていたような気もするが、はっきりしない。どれくらい眠っていたのか、俺は?
布はずいぶんきっちりと巻かれていて、自分で処置したにしてはずいぶん丁寧に手当てされているように思えた。確か、足首も痛めていたような気がするが、そちらもきちんと布が巻かれている。どちらもまだ巻き立てのように白く綺麗で、巻いたまま長い距離を歩いたようにも思えない。
どうなっているのだ?
首をかしげたとき、ふと、左の頬を温かいものが伝うのを感じた。
「あ……?」
指でぬぐって、かざしてみる。透明な雫が、ゆっくりと手を伝い落ちた。
「──涙……?」
拳でぐいと拭う。しかし、止まらなかった。涙、しかも、左目からだけ。とめどなくこぼれて頬を伝い、顎からしたたり落ちて服を濡らす。
「なんで──涙、が……」
何か、ひどく大事なことを忘れてしまったような気がしていた。左目からだけ流れる涙が、ますますその思いを強くした。流れる銀色の髪がちらりと頭をよぎった。それから哀しげな氷の青の瞳、橙色の火に照らされた、白くしなやかな裸身が。
しかしそれもすぐに、あたりをぼんやりと覆う霧同様、灰色の記憶のむこうに、ばらばらになって消えてしまった。
「行かなくては……」
かすれた声で呟く。灰色の霧はいつのまにかラルフの思考にまで侵入し、先へ進むという意志、そして、闘争心以外のすべてに覆いを掛けてしまっていた。
左目の涙はまだとまらない。
胸に空洞が開いたような、ひどくうつろな気持ちを抱いたまま、ラルフはよろよろと歩きはじめた。霧の漂う時空のはざまを、まるで手招きするかのように彼方に見え始めた、黒々とした、闘技場の鋼鉄の門に向かって。
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