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吸血鬼の娘G
1名無しさん:2013/04/14(日) 13:51:35
これまでのあらすじ:
吸血鬼と人間の間に誕生した異種族ハーフの娘、夜宵 夕佳。
人間との寿命の差を考えて吸血鬼である母の苗字を受けついだ彼女は、
母譲りの綺麗な黒髪と控えめの身長をもつ、可愛らしい少女へと成長した。
一見、仲睦まじい両親の下に何一つ不自由のない暮らしをしているが……

「あうぅ…胸が苦しいよぉ、もうこんなのやだよぉ…ママ……」
体が熟れるにつれ、体内に流れてる吸血鬼の血に苦しまれる切ない夜が増えてくる。
今夜も特注の柔らかい枕に八重歯を立て、遺伝子に刻まれた本能と夕佳は戦っていた。
もう二度と、待ちに待った弟が産まれてきたはずのあの夜の惨劇を繰り返さないために……

それは、今から約10年も前の話だった。
また子供だった夕佳に、ずっと欲しがっていた弟が母のお腹の中にできたのだ。
夕佳も両親も嬉しかったし、新しい命を歓迎するために二階建ての家に引越しもした。
しかし、まるで運命がすでにそうなるように仕組んでいたかのように、悲劇が起こった。
産道を抜けた弟に纏っている匂いに、眠っている『吸血鬼の娘』を呼び覚まされたのだ。
正気に戻った夕佳の目に映ったのは、腕に穿たれた二つの穴から血を噴出してる父親と――
――おびただしい歯痕が付いた、もう二度と泣き出すことのない赤ちゃんのむくろだった……

「ごめん、ごめんよぉ……こんな、お姉ちゃんって…最低だねぇ…」
今夜のような発作が起きるたびに、あの日の弟の産声が聞こえてくる。
枕を噛む衝動を理性で強引に押さえながら、夕佳はただただ謝りつづけた。
そしてそのたびに、夕佳は心の中で強く誓い、『弟』と約束を交わした。
(絶対、奪ったもの返すから……もう一度、この家に産みなおしてあげるから……)

つづく。

2登場人物:2013/04/14(日) 14:30:53
※設定寄りの文になるので、本文と分けます。
登場人物は随時追加予定。
夜宵夕佳:
主人公。三人称一元描写のメインカメラ。母と違って肌色は一般人間の健康色。
血が暴れだす夜以外、光や流水や銀製品に弱いなどの吸血鬼の特徴は無い。
ダメになった母親(↓参照)に代わって弟を産みなおす過程が、この物語である。
夜宵真弓:
夕佳の母親。直系の吸血鬼で年齢不詳、外見はまるで小学生。かなり色白。
二人目を出産した直後、夕佳に胎盤を強引に剥がされた結果、子宮に穴があけた。
そのせいで病弱になって、長時間立つことも出来ない。夕佳が背負った罪その一。
お父さん:
前作の主人公(一人称俺だった為、名前は不明)。大学で教授職をやっている。
何回も真弓に吸血されていたが、契約を結んでないので人間の身を保持している。
夕佳に噛まれて穴が開いた右腕は機能を失っている。夕佳が背負った罪その二。

以下、使いそうな前作の伏線。使いたい方は自由に使ってください。
1.前作主人公『俺』の元助手である『原見紗月』が孕んでいた、双子の息子。
2.前作ヒロイン『真弓』の調査を依頼され、生まれる前の夕佳を知っている探偵。

3名無しさん:2013/04/14(日) 15:34:23
気だるい身体を引きずりながら、夕佳は高校へと向かう。
その往路で、一人の男の子が声をかけてきた。
「夕佳、顔色が悪いぜ…?血、吸うか…?」

メガネをかけた彼の名前は原見文彦。
原見紗月の息子の一人であり、ある事件で夕佳が吸血鬼の娘である事を知った、数少ない人物である。
彼と夕佳は互いに好き合って居るのだが、それを二人は気づいていない。
「ありがと。でも大丈夫だから…」
「そうか?でも無理すんなよ?」

そんな会話をしながら、二人は学校へと向かっていた。

4名無しさん:2013/04/14(日) 19:25:54
「武弘くん、朝練きてないな……」
窓辺の席に着いて鞄を下ろし、校庭を見渡して夕佳はポツリと口をあいた。
口にした名前『武弘』とは、さっき一緒に登校した原見文彦の双子の弟だ。
メガネの似合う兄文彦と違い、武弘は運動大好き人間で、いつも部活で忙しい。
と言っても別にスポーツ万能とかそういうわけではなく、何をやっても中の中レベル。
「昨日ひどいこと言っちゃったし…そのせい、よね…」
そんな武弘に思いっきり告白されたのは、つい昨日の夕方のことだった。
文彦と違って自分が吸血鬼の娘であることを知らない彼を、夕佳は拒絶したのだ。
もちろん決して幼馴染である武弘が嫌いなわけではなく、ただ単に怖がっていた。
今や完全に受け入れている文彦でも、最初はびっくりするぐらい怖がってたから……

「――よぉ夕佳、待ってたぜ」
「武弘くん…? うわっ、酒くさっ…」
放課後、いつも通りの帰り道を歩く夕佳の前になんと酔っ払っている武弘が現れた。
かなり大量の酒を飲んだらしく、全身からアルコール特有の臭気が漂っている。
「夕佳、俺、俺はなァ!」
「きゃぁ!?」
突然急接近してくる武弘に、夕佳の髪を掴まれた。
「お前のことが大好きなんだよ!夕佳のキレイな髪も、声も匂いも、全部だ!」
「い、いやぁ…お願い、やめて…っ」
そのまま武弘に力任せて押し倒された夕佳は、懇願するかのような涙声をもらす。
しかし、乱暴に彼女の制服のボタンを外す武弘は、もはや聞く耳を持たなかった……

5名無しさん:2013/04/14(日) 21:45:48
「武弘くん、やめてよ!君らしくない!」
無理矢理制服を剥かれながらも、その細腕で必死に抵抗する夕佳。
しかし彼は、
「俺らしいって…武弘らしいってなんだよ!」
そう激情しながら聞こうとはしない。
仕方なく彼女は、奥の手を使う事にした。
吸血鬼の娘が故に発揮できる殺気。それを武弘にぶつける事にした。
「ひっ…!」
一瞬怯む武弘。その機を逃さずに、夕佳は相手を突き放した。
「畜生…覚えていろ!俺は諦めねえ!」
そう話すと、武弘は足早にそこを後にする。

崩れた服を整えながら、夕佳は考えていた。

武弘はあの様子だとまだ諦めないだろう。
彼に抱かれるのは仕方ない事かもしれない。
でも、せめて。
初めては、好きな人に…文彦に、捧げたい。

今日の事を話し、告白しよう。
彼女はそう決心した。

6無明:2013/04/15(月) 03:03:10
次の日だった。
文彦くんが、怪我をしたと聞かされたのは。
なんでも、武弘くんと喧嘩をしてしまったのだという。
本人は大したことないといっているけど、どうしても血の匂いに敏感な夕佳からしたら、分かってしまう。
理由もきっとただの喧嘩じゃなくて、自分が絡んでいることくらいは。

そして、夜。
「夕佳」
父が、動かせるほうの腕で肩に手をおく。
「パパ、ゴメンね。二人とも、止めてこないと」

7名無しさん:2013/04/15(月) 09:25:56
数分後、公園で待ち合わせた文彦と会う夕佳。
「どうしたんだ夕佳?お前から話がしたいなんて珍しいじゃないか?」
「実は…」
夕佳は、昨日有った事を包み隠さず話をした。
「やっぱり、な」
「やっぱりって?」
「アイツ、様子がおかしかったからな。急に殴りかかって来たりして…
それで?それだけの為に来たんじゃないだろ?」
「…抱いて、欲しいの。」
「……良いのか?俺で?」
「うん。武弘に抱かれるのは仕方ないと思うの。……でも、せめて、初めては好きな人に…文彦に、あげたいの。」
「そうか…」

そう呟くと、文彦は夕佳を優しく抱きしめていた。

8名無しさん:2013/04/16(火) 04:30:23
7月中旬、夏休みを目前に健康優良児だった夕佳は変な体調不良を感じた。
妙に体がだるくて、休んでも疲れが取れないし何をしている時にも集中できない。
「もしかして、これって……ううん、そんなまさか」
自分のお腹に赤ちゃんが――と夕佳は一瞬考えたが、すぐにそれを否定した。
あの夜に文彦と何度も激しく抱き合ったけど、行為に及んだのはその一回だけ。
もし本当にそれで出来ちゃったとしたら、今やとっくに大騒動になってたはず。
(……やっぱ、帰ったらママに聞いてみよう)
その気になればなるほど、文彦との赤ちゃんが本当にお腹にいる気がしてきた。
心の引っ掛かりを解消するため、夕佳はこの悩みを母親に打ち明けることを決めた。

9名無しさん:2013/04/16(火) 11:36:10
「ただいま、母さん。」
家に着き、挨拶をする夕佳。
「おかえり、学校お疲れ様」
車椅子でゆっくりと、出迎える真弓。
「母さん、相談したいことがあるんだけど…」
「どうしたの急に?…あ、晩御飯の用意、出来てるわよ?」
「う、うん…」

そういうと二人は食卓へと向かう。
扉を開けるなり、油ものを揚げた匂いやご飯が炊けた匂いがする。
「うわぁ、美味しそうな匂―」
しかし、夕佳がそう言おうとすると。
「う、うぷっ!」
猛烈な吐き気が襲い、思わず唇を抑え流しへと駆け込む。
「うげぇぇぇぇっ!はぁ、はぁ…う、うぷっ…げぇぇぇぇっ!」
盛大に嘔吐する夕佳。心配そうに真弓は背中を擦っていた。
「どうしたの…貴方、ひょっとして!?」
「う、うん…出来ちゃったかもしれない…だから、確認して…相談に乗って欲しいの。」
「分かったわ。」
そういうと真弓は夕佳のお腹に手をかざし、目を瞑り集中しはじめた。
「…うん、微かに気配を感じるわね。医者じゃないから詳しくは分からないけれど―妊娠、してるわよ。」
「やっぱり、そうか…」
「で、どうしたいの、貴方は?」
「産みたい。好きな人の子供だし、それに…」
「それに?」

それに、弟を産みなおしてあげると決心してるし、とも話そうとしたが。
お母さんの気負いに繋がるかと思い、
「ううん、何でもない」
そう、はぐらかした。
「そう?…で、この事は相手の―このこのお父さんは知ってるの?知らないなら、知らせるつもり…?」
「そ、それは…」
彼女は迷っていた。
赤ちゃんを産むと言えば、文彦の負担になるのではないのか、と。
無意識にお腹を擦りながら、夕佳は物思いにふけっていた。

10無明:2013/04/16(火) 19:18:32
「お母さん、私、私………言ってくる」
ちゃんと伝えて、文彦の前から消える。
夕佳はそのつもりだった。
だが。
「そう。でもこれだけは約束して。その人の前から消えるとか、どこか遠くへ逃げようなんて思わないで。わたしたちもまじえて、その上で決めましょう」

文彦を近所の公園に呼び出して、そこに向かう夕佳。
近づくにつれ、何やら声が聞こえてきた。
「俺の許可もなしに、夕佳のことを抱きやがって!!」
「お前のほうこそ、好きなら好きで素直に言えばよかったんだよ!彼女から聞いたぞ………それがまっとうな人間のやることか!?」
「うるせぇ!俺の気持ちの何がわかるってんだよ!いいぜ、お前なんか、お前なんかこれで………」
「武弘、お前!!」
文彦が危ない。
夕佳は、恐るべき脚力で駆け出した。

11名無しさん:2013/04/16(火) 20:09:54
文彦に襲いかかろうとする武弘の首筋に噛みつき、血を吸う夕佳。
吸血による記憶の改竄(かいざん)。母親に教わったそれを、夕佳は初めて行なった。
武弘の、夕佳への思いを全て吸い出すようなそれを、夕佳は涙を流しながら行なった。

「あれ…オレはなにを…?」
そう呟きながら虚ろな目で武弘は、
「文彦…オレ、帰るから…」
そういうとフラフラとおぼつかない足取りで公園を後にした。
「あ、ありがとうな…お前が来なかったら今頃俺は…」
血だらけの口を見て一瞬怯みながらも、直ぐに立ち直り感謝の言葉を口にする文彦。
「ううん、良いの…これくらい…」
「で、急に俺を呼び出した理由はなんだい?」
そう話す文彦に、夕佳は。
「…出来ちゃったみたい。貴方の、赤ちゃん…」
そう、切り出した。

12名無しさん:2013/04/19(金) 03:04:10
一晩の対話を経て、文彦は責任を取る形で卒業したら結婚すると夕佳と約束した。
母体が安心したおかげか、それともやっと母体に認知されてしまったおかげか、
夏休み中に、夕佳のお腹の赤ちゃんは日に日にぐんぐん成長してくれた。

時は9月下旬、二学期が始まって一ヶ月が過ぎようとした頃。
受精の夜から計算してざっと25週目に入った夕佳は、弟の墓の前に来ていた。
「たっくん……」
まだまだ必要なほどではないのに、気早に着替えていたマタニティワンピース。
そっと、服越しに、少し大きくなってきたお腹を優しく一回撫でて、合掌する。
「……もうすぐ、だからね」
夕佳は、生まれてすぐに自分に噛み殺された弟に『約束』について話しかけた。
一方的な自己満足かもしれないけれど、このお腹の子で産み直してあげたいと。
「あれっ、なんか…痛っ……」
そしたらなんと、その言葉が届いたのか、夕佳の中の赤ちゃんが反応を示した。
生理とはまた違った、ちくりと先のとがったものにお腹を中から刺されたような痛み。
「……たっくん、なの?」
思わずお腹を抱えてその場にしゃがみこんだ夕佳は、顔を上げて墓石に視線を向けた。
すると、どこからともなく、おもむろに声が聞こえて――

13名無しさん:2013/04/19(金) 03:49:54
「ありがとうお姉ちゃん…いや、お母さん、だね」
「たっくん、たっくんなの!?」
耳元でする、聞くことの出来なかった弟の声。
それを聞いて、夕佳は涙を流した。
「ごめん、ごめんね…痛かったでしょ?苦しかったでしょ…?」
そう呟きながら涙する夕佳に、その声は、
「気にしないで母さん…またこうして、会えるんだから…」
そう、慰めた。

それから後は声は聞こえなかったが、夕佳は満ち足りた感情を持っていた。

次の日、夕佳は学校へと向かっていた。
まだお腹はそこまで出てはいないが、母親譲りの認識阻害の技も使い、妊婦である事は家族と文彦以外の人には気付かずにいられていた。
体育は流石に辛かったが、持ち前の吸血鬼の体力をフルに利用していた。
彼女は学校で産むことも視野に入れ、学校に通い続けるのを決意していた。

14無明:2013/04/19(金) 04:48:03
「最近夜宵さん、体力落ちてんじゃないの?」
「ちょっと派手に夏バテしちゃって、まだ戻りきってないみたい」
クラスメイトからの声に適当に返答し、なんとか切り抜ける夕佳。
この程度で流産したりしないとはいえど、体に掛かる負担は変わらない。
要するに、出来れば激しい運動は避けたいのである。

「だから、もう我慢するのはよしなさい。赤ちゃんにも影響出るかもしれないんだから」
また、夕佳にはもうひとつ悩みがあった。
ある日帰宅すると、母からいきなり輸血パックを手渡された。
なんでこんなものが家にあるのか、とは思わないが、いきなり手渡してきて何なのか、とは思う。
自分の中の忌々しい記憶のせいで、無意識に忌避していた吸血行為。
もう衝動に耐える必要はないと、母が気を利かせてくれたのだった。

15名無しさん:2013/04/19(金) 11:43:02
赤ちゃんが血の味を覚えないか、と不安にもなったが、赤ちゃんに影響が出るかもと言われれば仕方ない。
妊娠してから以前よりも吸血衝動が激しくなったため、渋々ながらも口にする。
まろやかな塩味とほのかな甘味。
それを感じて夕佳は美味しいと思った。
その感情も、夕佳にとっては複雑なものだったが。

それからしばらくが経ち、10月も終わりを迎えようとしていた。
夕佳のお腹はわずかながら膨らみをみせていた。

16名無しさん:2013/04/19(金) 15:20:05
「よいしょ、っと、おわっ!?」
さわやかな秋の日曜日の昼下がり、妊婦らしくソファーでくつろごうとする夕佳は突然、
早めに夕食の支度をしている真弓も聞こえるほどの大声を上げながらビクッと身を跳ねた。
「どうしたの、いきなり声だして」
「いたたた…えへへ、またたっくんに蹴られちゃった……」
発した奇声に赤面しながら、夕佳はお腹をなだめつつ心配してくれた母に微笑みを見せた。
「たっくん、ずいぶん力強くなってきたね……さすがは男の子、かな?」
「あら、夕佳だって、まだお母さんのお腹にいた頃もこんな感じだったよ?」
「えっ…うそ、こんなに?」
「ふふ、よく動くのは順調に育っている証だから、今度もきっと元気に生まれてくるね」

妊娠30週目。人間とのクォーターでもやはり吸血鬼の遺伝子を受け継いでいるのか、
母体である夕佳の血液摂食を皮切りに、弱めだった胎動が一気に活発になってきた。
目立たなかったお腹もようやく膨らみを見せてきて、やっと妊婦らしいシルエットに。
しかし赤ちゃんの成長に喜ぶ反面、夕佳にまた一つ大きな問題に直面していた。

普段着はマタニティで過ごせているけど、さすがにそれを学校に着ていけるわけがない。
認識阻害やさらしなどを使って無理に制服姿を保っていたが、体に精神に負担がかかる。
かと言って学校を休みたくないので、これからどうしようかと夕佳は悩んでいたのだ。

17名無しさん:2013/04/19(金) 16:12:45
色々な事を誤魔化して、妊娠している事を学校に知らせることも考えた。
しかし、妊婦が学校に通った前例はない。
休学、或いは最悪退学させられるのではないか。
そう考えると、話し出せる訳は無かった。


そうこうしている内に刻一刻と日々は過ぎていく。
流石に体育はキツくなってきたので、激しい運動の時は認識阻害などで誤魔化し休むようになっていた。

18名無しさん:2013/04/20(土) 03:43:00
12月3日。
「いい(1)にん(2)ぷさん(3)」の日とされているこの日に、今年の初雪が舞い降りて来た。
それは白くて清らかな、まるで大地という名のケーキにシュガーパウダーをふるっているかのよう。
フワフワと雪に白く飾られた景色の中、厚着をして夕佳は町の洋菓子屋さんの前に立っていた。
「う〜ん……あれとあれ、たっくんならどれが好き?」
これでもかと言うほど前にせり出したお腹を右手で撫でつつ、中にいるたっくんの意見を求める。
あごに左手を当てて長考している夕佳は、最愛の文彦の誕生日ケーキ選びに悩んでいた。
もちろん手作りのが一番だけど、臨月間近のお腹じゃまともに料理できるはずが無い。
「そう…たっくんも迷ってるよね……どれも美味そう」
「――俺は右の方が良いかな、食べごたえ有りそうだし」
「ひゃぁ!」
突然、二択のラビリンスの壁をぶち破って、いつの間にか武弘が後ろに立っていた。
びっくりと本能的にお腹をかばい、夕佳はケーキのショーケースの方へと一歩下がる。
「わ、わわわ!?」
すると雪が積もった地面に足を滑らせ、夕佳は尻餅をつきそうに後ろに倒れ――
「あぶない!」
――る寸前に、すばやく踏みこんできた武弘に力いっぱい抱き抱えられた。

19名無しさん:2013/04/20(土) 09:39:39
「全く…危なかっかしいな夕佳は。」
「た、武弘くん…久しぶり、だね」
笑顔の武弘に、夕佳は戸惑いながら話す。
吸血で記憶を改竄して以来、気まずくて会わなかった武弘にしばらくぶりに出会ったのだが。
あれだけの執着を持っていた武弘に気構えていたが、どうやら記憶改竄はてきめんだったらしい。
ただの一人の友人として、武弘はそこにいた。
「…あれ?夕佳、太った?なんか、丸くなったというかふにふにすると言うか……」
「も、もう!レディーに失礼だよ?」
「あはは、そっか」
妊娠したことを気付かれたかと思い身構えたが、どうやら誤魔化せたようだ。

「そうそう、文彦と結婚するつもりなんだって?おめでとう。」
「あ、ありがとう」
「俺にも好きな人が出来てね……卒業したら、結婚するんだ。」
「そ、そうなんだ……あれ?」
そこで吸血により以前より嗅覚が発達した夕佳は武弘の匂いに気づく。
妊婦さんの匂いと、血の匂い。
妊婦さんの匂いは相手が妊娠してる事を示してると仮定して、血の匂いは……
そこで夕佳はある仮定を考える。
世の中には母さんや私以外にも吸血鬼の家系がある。
その一人が武弘に近づき、彼の血を吸っているのではないか、と。
だとしても、記憶改竄や認識阻害の様子は感じられない。
愛し合っているなら、それで良いのではないか、と。
「ん?どうかした?」
「う、ううん。何でもない…」
「そう?…じゃ、俺はここで。…あ、そうだ。なんか、俺の彼女、夕佳に会いたいって言ってたから、今度会ってやってよ!」
「う、うん……」
そう言うと武弘は足早に去っていった。
武弘の彼女と会うのはやぶさかではない。
ただ、吸血鬼には友好な相手と敵対する相手が居る場合がある。
どちらの場合なのだろうか。
夕佳は物思いにふけっていた。

20名無しさん:2013/04/22(月) 19:02:17
「うぐぅ……た、たっくん…?」
物思いにふけっていたら、なぜかお腹の中のたっくんが急に躍りだした。
母親に容赦なく、お腹が疼くほど力強く、たっくんは夕佳の中で暴れだした。
まるで何かに怖がっていて、今にでもお腹から逃げ出そうとしているような……?
「……ま、まだ出ちゃダメだよぉ…?」
実際転んでいないけれど、転びそうだったからたっくんを驚かせしちゃった?
自分が感じたように武弘が発していた血のにおいを感じて興奮しちゃった?
もしかしてもしかすると早産しちゃう?臨月寸前なのに、ありえなくない?
いくつかの不安と予想と憶測が、夕佳の脳内で高速回転する。

しかし、そのどれかも違っていた。

「どうやら、貴女よりその子の方が夜の一族の血を濃く受けついでいるね」
ふと、苦しがっている夕佳の耳に、女の人の声が響いた。
「……だれ?だれなの?」
少し痛みが収まったお腹を両手で支えて、夕佳は周りを見回った。
そして――

21名無しさん:2013/04/22(月) 20:39:46
少し離れた曲がり角から、一人の少女が現れる。
お母さんの真弓…いや、下手をすればそれ以上小さい、小学生低学年程度の身長しかない少女がそこにいた。
よく伸びたロングの金髪と、切れ長の瞳に、真っ赤な唇と少し色白な肌。
その身体には不釣り合いな、大きくせりだしたお腹が目を引く。
「貴方が、武弘くんの……?」
「そうね。彼女になるかな。ダーリンからよく噂は聞いているわよ……夕佳さん」
握手を求め、手を差し出した彼女に、夕佳は、恐る恐る。
「…はじめまして、えっと……」
「雁 優雅(かり ゆうが)。優雅でいいわ。」
「はじめまして優雅さん……で、私になにの用で…」
怯えるたっくんを守るように、お腹に手をやり身構える夕佳に、優雅は、
「そんなに身構えなくて良いわよ?今回は顔見せ程度だし…それに、敵対するつもりも無いわ。少なくとも今は、ね」
「今は?」
「ええ。十年、数十年、或いは数百年先は分からないけれど……今は少なくとも、貴方達と敵になるつもりは無いわ。」
「じ、じゃあなんのつもりで私に会いたかったの?」

「会いたかったのよ。私の母さんの、ライバルだった人の娘に。それに……」

「それに?」
「不安なのよ、出産が。…こんな小さな身体でしょ?難産になる可能性は高いじゃない。
だから、貴方に手伝いをしてもらえたらな、なんて」
「成る程…。わかりました。私で良ければ……」
「ありがとう!じゃあこれ、私の連絡先だから!早めに、連絡してね?」

そう言うと優雅は消えるように去っていった。


優雅さん……変わった同族者、だよね?
そう考えながら、文彦の誕生日ケーキを買い、その場所を後にした。

22名無しさん:2013/04/23(火) 04:07:25
「雁 優雅、ね……」
「えっと、お母さんのライバルだった人の娘、だって」
「雁…カリ……まさか、優雅って…いやでも、確か、ユガちゃんも…」
帰宅した夕佳は、すぐに今日出会った恐らく吸血鬼の少女について母に聞いてみた。
出産に対し不安しているや、既にうっかり手伝うと答えだことなどの余計な情報を
言ってないが、説明を聞いた真弓はすでに心当たりがあったような様子だった。
「…そう、だったのか……ユガちゃん、貴女って人は…」
しばらくしたら、真弓はなんか納得したかのように苦笑いで頷いた。
そして、今まで見たことの無い真顔で、優雅の事について語りだした・・・・・・

「ユガ…貴方の出会った優雅ちゃんは、昔のお母さんのライバル本人だったわ」
「でも優雅ちゃんはその人の娘だって……自称…」
「……そうせざるを得なかったのね…あの、恐ろしい呪いのせいで」
「の、のろい?」
お母さんの口からいきなり出てきた非現実の単語に、きょとんとする夕佳。
もっとも、自分が吸血鬼の血を引いている時点で十分ファンタジーだけど。
「若返りの呪い……お母さんも以前、それにかかっていたわ」
狐につままれたような顔をしている夕佳に、真弓はその質問に答える。
その呪いは純血種の吸血鬼の女性にしかかからない病気のようなもので、
一度呪われたら、生理機能を含めて『体だけ』がだんだん若返ってゆく。
「子供になって…さらに赤ちゃんになって…も、もしかして最後は……」
「ええ、年齢がマイナスになったら、無に同化されて体が消えるでしょう」
「そ、そんな!助かる方法無いの?」
「落ち着いて、今お母さんがここにいるでしょ? 呪い、もう解けてたわ」
もうじき母親になるのに子供みたいに泣き顔になっている娘・夕佳をなだめ、
今やぐっすり寝ているやっくんの揺り篭――夕佳の子宮に、真弓は手を当てた。
「貴方たちが、解いてくれたから」

――受胎できなるほど幼くなりすぎる前に『両親の真の愛を受けた赤子』を産むこと。

それは、ほぼ不死である吸血鬼の存在を脅かすこの呪いを打ち克つ唯一の方法だ。

23名無しさん:2013/04/23(火) 04:37:44
「……そうか、だからあの身体で妊婦さんなんだ。…あれ?でも、私と父さんって血の繋がりが無いじゃない?」
レイプされて産まれた子供だと、大きくなって聞かされた事を思い出し、夕佳は疑問を呈する。
「…血の繋がりはあまり関係ないみたいね。私とあの人が心から愛して、産まれた子供。それだけで十分だったみたい。」
「ふぅん……そんなもの、なのかな?」
「ひょっとしたらユガちゃんの子供も、武弘くんの子供じゃないかもね。本人同士の子供なら失礼な話だけど…
こればかりは、二人に直接聞かないと分からないわね。……でもまあ、二人から本当に愛されて産まれた赤ちゃんなら、そんなのは関係ないだろうけれど。」
「うーん……」
武弘くんの赤ちゃんじゃなかったら。そう思うとなんだか複雑な感情を覚えたが、自分が口出しする問題じゃないと思い、夕佳は口には出さなかった。
「それにしてもあのカリ・ユガちゃんがお母さんか……」
「カリ……ユガ?」
「そう、カリ・ユガ。彼女の本名よ。……たしか、ドイツだかフランスだか…その辺りの吸血鬼の名家出身だったはずよ」
「ふうん…」

数日後、文彦の誕生日を祝う前に、夕佳は優雅に連絡をし、町外れの寂れたカフェで待ち合わせすることにした。
母さんから聞いた事を踏まえ疑問に思った事などをぶつけてみよう、そう考えながら。

24名無しさん:2013/04/23(火) 05:41:13
「その顔……フッ、マユちゃんもたまにはこちらの思うとおりに動くわね」
「ま、まゆちゃんって……(あ、でもお母さんも……)」
切れ長の瞳と真っ赤な唇を優雅に動かし、ただでさえ濃いエスプレッソのブラックをすする。
騙す必要は無いと知った以上、優雅は夕佳の母である真弓のことをマユちゃんと呼んだ。
多分これはライバル関係だった二人のお互いの呼称だったのだろうと、夕佳は苦笑った。
「そ、そんなことより優雅…さん、赤ちゃんには、カフェインが――」
「――あら、口だけは一人前みたいね……それ、もしかして、指図するおつもりで?」
コーヒーカップを優雅にテーブルの上に戻し、笑顔のまま優雅は夕佳を『にらみつけた』。

「…ぅ…ぁ」
身動きが取れない。呼吸も、心臓の鼓動も、凍りついたかのよう。
ついさっきまで元気に動いているたっくんまでも、怖がって動かなくなった。
蛇に睨まれた蛙とはまさにこの事、呪いのせいで体が非常に幼くなったとは言え、
純血の吸血鬼たる優雅は、眼力だけで夕佳を金縛りに出来るほどの力を持っている。

「……こいつの話ではなく、私の『お手伝い』について話そう、夕佳さん?」
面倒くさそうに胎児が居座っているお腹を形式的にさすりつつ、優雅はにっこりと笑った。

25名無しさん:2013/04/23(火) 10:12:42
「は、はぁ……じゃあせめて、一つだけ質問していいですか?」
「…ふぅ。で、何を?」
優雅は面倒くさそうに夕佳に問いかける。
「お腹の赤ちゃん、武弘くんの赤ちゃんなんですか?」
「……なによ。ダーリンの赤ちゃんかどうかなんて聞きたいの?…まさか貴方、ダーリンの事が好きなの?」
怪訝そうに聞く優雅に、
「そ、そんなわけ無いじゃないですか。私は文彦一筋です!単純な興味と言いますか……」
そう強い口調で否定する夕佳。
「そう?…なら良いけど。―間違いないわ。ダーリンの、赤ちゃんよ。」
「そ、そうなんですか。」
武弘の幸せそうな顔が本当だったと知って胸を撫で下ろす夕佳。
他の質問、例えば馴れ初めなどを聞きたかったが、今回は見送る事にした。
機会があれば聞こう、夕佳はそう思った。

「それで、お手伝いなんですが。…具体的には…」
「そうね、単純に出産の介助をお願いしたいの。出来る?」
「はぁ…それで、いつ頃産まれる予定なんです?」
「そうね。病院にいってないから分からないけれど……だいたい、今月の終わりか来月はじめ辺りね」
「えっ……」
夕佳は驚いた。
私と大して変わらないのではないか、と
下手をすれば優雅の出産中に陣痛が始まることも有るのではないか。そんな不安にかられてしまった。

26名無しさん:2013/04/24(水) 03:34:56
大晦日。
こたつを囲んで年越しそばを食べ、テレビを見て除夜の鐘の音を待つ夜。
あと数時間で、夕佳にとっての大変な一年も、いよいよ終わろうとしていた。
「……ふぅ」
「だいぶトイレが近くなってきたね」
トイレから出てきた夕佳は、いつにないやつれた顔をしていた。
膀胱が圧迫されるのは、たっくんが頭の先っちょを骨盤の間に下ろしたためだと、
手元の参考書がそう書いてあったけど、トイレとの往復になると実際キツイ。
「どう?仙骨のあたり、ムズムズする?」
「ううん、全然……たっくんだってほら、この通りだし」
胎動真っ最中のお腹を母親に見せ、夕佳はハッキリとお腹に浮き上がってくる
たっくんの足型に手のひらを重ね、そのまま軽く力を入れてこれを押し返した。
『赤ちゃんがママの子宮から出てくる準備が始まったら胎動は少なくなってくる』
参考書によればこうなるはずなのに、たっくんは一向に大人しくなる様子が無い。
むしろ、出産の真っ最中にも思いっきり夕佳の中で暴れまわれそうな勢いだ。

(うん、解ってる……たっくんも優雅…さんのこと、心配してるよね?)
恐らく女子高生の平均的な体格をしてる自分でもこんなにも辛くなるんだから、
呪われて小学生みたいになっている優雅はきっともっと大変だと、夕佳は思った。
(いやな胸騒ぎがする……年明けたら、一度そっちに電話しよう。うんそうしよう)

27名無しさん:2013/04/24(水) 04:15:28
ゆく年くる年が始まり、時間がすぎていく。
12時を越えたのを確認し、夕佳は優雅に電話をかける。
数回のコールの後、優雅が電話に出る。
「夕佳、ちゃん…」
「なんだか心配になって……大丈夫?」
「ちょうど良かった……電話、かけたかったの……うぅっ」
「優雅さん、まさか!」
「うん、そのまさか、みたい……ごめんね、先に産んじゃいそう……」
「分かった、すぐにいくから待ってて!」
「…ゆっくりでも、大丈夫よ……ダーリンも、いっしょだから…うぅっ……はぁ、はぁ…」
優雅の返答を確認し、携帯の通話を切る。
「…どうしたの夕佳?」
「ユガさん、陣痛が始まったみたい!私、助けに行かないと……」
「そう、なの……ねえ、夕佳。」
「なに?お母さん」
「私もいくわ。あの子、私が居たほうが不安じゃないと思うし。」
「……分かった!一緒にいこう!」
そう言うと、夕佳は暖かい格好で出かける準備をした。
夕佳は自分のお腹が張ったり、前兆のようなものが無いのを確認し、真弓が準備を終えるのを待って優雅のもとへと向かっていった。

28無明:2013/04/24(水) 05:45:51
優雅の家は、あからさますぎるほどの洋館。
日本には似合わない、と言わざるを得ないような場所だった。
「うわ……すいませーん!」
呆気にとられつつも、門に向かって声をかける夕佳。
すると……
「お待ちしておりました。奥方様は離れにいらっしゃいます」
いかにも、といった雰囲気の老執事が現れた。

優雅の執事である、アルフレッドに連れられて離れに到着する夕佳。
「奥方様。夜宵様をお連れいたしました」
アルフレッドがそういうと扉が独りでに開く。
簡素な作りのようで、優雅のものであろう、苦しげな声が漏れ聞こえてくる。

29名無しさん:2013/04/24(水) 09:48:23
少し歩いた寝室に、優雅と武弘が揃っていた。
優雅はベッドに横たわっており、その手を握り武弘が励ましていた。
「……あれ?夕佳…こんなところになんで?」
「…私が頼んだの。お手伝いしてほしい、って…はぁ、はぁ…」
武弘の疑問に、荒い息をしながら優雅が答える。
「……そうなのか?こいつのこと、よろしくな?」
「う、うん」
武弘の言葉にうなずく夕佳。
「こんばんは、優雅ちゃん。私は真弓。夕佳のお母さんよ、よろしくね。」
「よ、よろしく…真弓、さん……」
初めて会った風に挨拶をする真弓。
武弘に二人の関係が知られたら面倒だ、という配慮だろう。
優雅の様子はと言えば、ラマーズ法を駆使しながら、陣痛に耐えている状態だった。

30名無しさん:2013/04/24(水) 19:40:15
この場で唯一の出産経験者である真弓に優雅の子宮口の具合を診せるため、
一睡もしないで優雅と共にいた武弘は一旦、夕佳に連れ去られて出て行くことに。

「……だいぶ開いてきてたわ。もうすぐ生まれそうよ、『優雅ちゃん』」
武弘の気配が遠く離れたことを確認し、優雅の両脚を拡げながら真弓はクスッと笑った。

昔のライバルゆえの皮肉を受け、負けじと優雅も言い返しそうに口をあけるが、
「ハッ、マユちゃんも、よく、こんなのを…に、二度も、産む気に、なっ、っ痛ぁああ!」
「もう、そんな力任せに息んじゃ、赤ちゃんかえって出れなくなるわよ?」
その意地はいともたやすく、子宮の中で爆ぜる痛みに打ち砕かれる。
「こ、こいつ…ゆ、ユガの名に、恥をかかせやがって…この、は、早く出てき、なさいよ!」
一晩中陣痛に打たれて、汗びしょりになって、人に絶対見せない涙まで出てきちゃって、
ズタズタになっていた優雅は、今も自分を痛めつけている胎児に八つ当たりし始めた。

一方、寝室から一旦離れた武弘と夕佳は――

31名無しさん:2013/04/24(水) 20:00:37
「…大丈夫かな優雅…あいつああ見えて打たれ弱いからなぁ…」
少し離れた書斎で、不安げにうろうろとする武弘。
「くすっ……愛されてるのね優雅さん。」
「笑い事じゃないよ…俺、マジで心配なんだからな……」
「ふふっ…そうだ、前から聞きたかったんだけど、いつから付き合ってるの?」
「…いつからって言われてもなぁ。確か、記憶が曖昧だったときに偶然出会って…最初は小学生だと思ったんだけど、俺より年上って聞いて…
いつの間にか、男女の仲になってた感じかな」
「ふぅん……」

記憶が曖昧って事は、私が記憶改竄して間もなくって所かしら?と夕佳は考える。
だとすれば多少早産なのかもしれない。…あの小さな身体ではちょうど良かったのかも、とも。

しばらくして、執事のアルフレッドが、
「真弓様がお呼びです…手伝いや、励まして欲しい、と」
と二人を呼びにきた。
それに答え、寝室へと向かう武弘と夕佳。
武弘の顔には覚悟が浮かんでいた。

32無明:2013/04/24(水) 23:38:50
「武弘ぉ〜〜〜〜………」
部屋に武弘が入るやいなや、弱々しく声を上げ涙さえ浮かべる優雅。
「分かってる。俺はどこにも行かない。ここにいるから。一緒に迎えてやろうぜ?」
こわばった笑顔で、優雅の手を握る武弘。
「夕佳。これから私の言うとおりにして、ね?」
真弓が、夕佳に声をかける。
「言うとおりって………まさか!」
すこし戸惑う夕佳だったが、すぐにどういうことなのか思い至る。
そう、夕佳のやるべきこととは。
「貴方が、彼女の赤ちゃんをとり上げなさい」

33九条:2013/04/25(木) 00:43:20
「そ、そんな……無理だよ、私には…経験したこと、ないし…」
「アドバイスするから大丈夫よ。それに、いずれ貴女も通る道なのよ?…早いうちに経験した方が楽かもね?」
「俺からもお願いするよ……こいつ、お前の事なら素直に聞くかもしれねぇし…頼むよ」
「二人がそう言うなら……仕方ないね。精一杯の事はさせてもらうよ」
そう言うと夕佳は覚悟を決めた。

清潔な手袋をしながら、夕佳は優雅のお産を手伝い始めた。
優雅は、陣痛に苦しみながら、悶えていた。
「はぁ、はぁ…ダーリン…血、吸わせて…」
おもむろに、優雅はそう呟く。
それを聞いて夕佳は驚いた。
「優雅、さん…?」
驚いた顔の夕佳に、武弘は、
「そうか、言ってなかったな。こいつ、吸血鬼らしくてな…」
「えっ……」
と言うことは、武弘も優雅が吸血鬼で有ることを知っているらしい。
「…怖く、ないの?」
「…まあな。最初は驚いたし怖かったけれど……それよりも好きって気持ちが上回ってな。」
そう言うと、陣痛で苦しむ優雅の口元に首筋を近づける武弘。
八重歯を突き立て、吸い始める優雅を見ながら夕佳は考えた。
正直に、吸血鬼の血を引くと言う事を知らせたらどうだったのか、と。
ひょっとしたら、記憶改竄する必要も無かったのかもしれない。
そうだったら今の関係とは少し違った関係になっていたのかも……
しかし、文彦という思い人がいる以上、いずれは気持ちを裏切ることになっていただろう。
そう考え、複雑な感情は秘める事にした。

そうこうしている内に吸血行為は終わっていた。
その顔は血の気が戻り、辛い陣痛も少し楽になっていたようだった。
自分の出産のときも、ピンチの時には文彦に頼んで吸血させてもらおうか、そんな風に夕佳は考えていた。

34名無しさん:2013/04/25(木) 03:32:09
「あ、くっる、きちゃ、うっ、あぁぅうゥンンン〜〜〜〜ッ!」
陣痛が来るたびに、優雅のお腹は外から見てもわかるほど、ピクピクと痙攣する。
彼女の小さすぎる体に比べれば、赤ちゃんが入っているそれはあまりにもでかすぎた。
やや早産になっているはずなのに、いくら息んでも、優雅の赤ちゃんは出てこない。
「もっ、うむの、いゃ…こ、んなの…らない、からぁぁ〜〜〜〜!」
激痛のあまりに、武弘の手を力任せに振り解いて優雅は激しく暴れだした。

「やだやだ嫌だやだ、いたい痛いイタイイタイのもうやらぁあああ!!」
まさに彼女の見た目通りの、小学生低学年ぐらいの幼女が泣き叫んでいるような凄まじい声。
恐らく今の優雅さんには、一刻も早く陣痛から開放されたい気持ちにしかないと、夕佳は思った。
(このままじゃ、例え無事赤ちゃんが生まれてきても、呪いは……)
頼まれたからではない。優雅さんの、力になりたい。死に至る呪いから、彼女を助けたい。
心に色んな想いが交差し、夕佳は思い切って、母から受け継いだ吸血鬼の力を使った。

(記憶改竄……優雅さんの『赤ちゃんへの愛』の気持ちを遮った『出産の苦痛』の記憶を、一時的に――)

35名無しさん:2013/04/25(木) 03:53:19
吸血によって記憶改竄をする訳ではなく、一時的な簡易的なそれを、念じるだけで行う。
妊娠してから吸血鬼の血が増したような夕佳には簡単なことだった。

「はぁ、はぁ…私の、赤ちゃん…ちゃんと、産んであげるからね…」
効果があったのか、泣き言を言わなくなった優雅。
その顔は母親のそれになっていた。

そうこうしている内に、ぱしゃ、という音がした。
股を見ると少し濡れていた。破水したのだろう。
いよいよ、武弘と優雅の子供が姿を現そうとしていた。

36無明:2013/04/25(木) 05:13:10
ここからが、本当の仕事。
そう、そのはずなのに。
(あ、あれ…………?)
格上の、純血の吸血鬼に力を使った反動か。
フラッときた夕佳は、そのまま気絶してしまった。

「死ぬかと思った」
眠る赤子を抱いたまま、優雅は真弓に話しかける。
「あの程度で『死ぬかと』なんてらしくないわね?」
心から喜んで、しかし悪戯っぽく返す真弓。
「だまらっしゃい。決めた。貴女に負けたくない。子供は3人欲しい」
「あらそう。それは賑やかね………」
嫌みの応酬になる前に、優雅は話題を切り替えた。
「それにしても、この子が、ねぇ……本当にハーフ?」
「どういうこと?」
「ハーフの吸血鬼なんかが、この一族に、この私に、認識操作なんてかけられるかしら?」

37名無しさん:2013/04/25(木) 09:10:12
「今はセーブしてるけど、この子の吸血鬼としての能力は下手をしたら私以上かもしれないから……
それは、この子の弟―産声をあげることの出来なかった子の件でも分かるし。
理由はよく分からないわ。レイプされた相手に純血種みたいなのが居たのか、呪いのせいなのか、ね……」
「ふぅん……それでも、こんな子に遅れをとるとは思えないけれど…」
「凄い自信ね。…でも、赤ちゃんが手助けしたのだとしたら?」
「…この子の?あり得ない話じゃないわね。…そうだとしたら納得できるかも。」
娘を抱きながらそう話す優雅。
その顔は母親の顔になりつつあった。


数日後、学校が始まり、通常授業が始まった。
「おはよう夕佳。調子はどう?」
「うーん、なんだかお腹が張って……」
文彦の挨拶に、不安そうに答える夕佳。
「大丈夫なのかよ?無理は、すんなよ?」
「わかってるわよ。心配症なんだから……」

しかし、この時彼女はこの一日が長いものになるとは思っていなかった。

事件は3限目の体育の時間に起きた。
この日の体育はドッジボール。
夕佳は当然認識阻害で休んでいた。しかし。
「あ、危ない!」
「えっ?」

勢いをつけたボールが、あろうことか夕佳の方向へと暴投してしまった。
慌てて避けようとした夕佳だったが、お腹に当たってしまう。
そのままお腹を抱え、うずくまる夕佳。
「だ、大丈夫?夕佳……」
「大丈夫、だから……試合、続けて?」
心配そうなクラスメートに答える夕佳。
しかしこの事がきっかけになり、彼女の陣痛が始まろうとしていた。

38無明:2013/04/26(金) 02:04:03
結局、ボールが当たっただけでなんともなく、夕佳は無事に授業を終えることが出来た。

問題は、帰宅してから起こった。
「っ………はぁ……っ」
壁に手をつき、深呼吸。
ドッジボールでのアクシデント以降、お腹の張りが徐々に強まっている気がする。
「夕佳?」
「うん、文彦、呼んで」
心配そうに尋ねてくる母に、夕佳はとうとう音を上げた。

39名無しさん:2013/04/26(金) 03:30:44
「夕佳!大丈夫かよ!」
真弓から連絡を受けた文彦が、息を切らせながら駆けつけた。
「まだ、何とかね……でも、ちょっとキツくなってきたから、手、握って欲しいの…うぅっ…」
「お、おう!」
夕佳のお願いに、素直に答える文彦。
その顔は緊張でひきつっていた。
優しく握られた手を、陣痛の度に強く握りしめる夕佳。
その髪は脂汗で額にべったりと張り付いている。

「うぅっ…はぁ、はぁ……」
「夕佳、頑張れ、俺がついてるからな…」
陣痛で荒い息をする夕佳を、手をしっかり握ることで励ます文彦。
夕佳の出産は少しづつ進んでいた。

40名無しさん:2013/04/27(土) 01:42:18
「あぐぅ…どう?お母さん……」
「……ダメね、柔らかくなってるけど全く開いていないわ」
陣痛の合間の隙をぬって指で子宮口の開き具合をはかった後、
真弓は触診のため夕佳の産道に入れた腕をゆっくり抜き出す。
「そう…まだまだこれから、かぁ…」
「あら、意外と冷静ね?」
「……たっくんも、一緒に頑張ってるから」
そう言って、強張りが引いてくれたお腹に夕佳は空いている手を重ねる。
ドクン、ドクン――手のひらを通して伝わってくる、たっくんの鼓動。
いとおしくて愛しくてたまらない、文彦の子供の鼓動。
「だから、頑張らないと、思っ、うぅぅ…っ」
「夕佳……」
胎動が子宮の緊張を呼び起こし、夕佳の安らぎの一時を終わらせる。
苦しみだした夕佳の隣に、震える彼女の手を握って文彦が心配していた。

3限目のあの事故から計算しても、既にかなりの陣痛回数を重ねていたはず。
なのに、夕佳の子宮口が未だに『全く開いていない』――
いくら初めての出産だからといって、あまりにもペースが遅すぎた。

41名無しさん:2013/04/27(土) 02:22:19
「はぁ、はぁ……う、うぐぅぅ」
「夕佳!…真弓さん、夕佳、大丈夫なんですか!?」
「陣痛はちゃんと来てるし心配ないわよ。…ただ、やっぱり子宮口の開きが鈍いのが心配よね。
なにかきっかけがあれば進むかもしれないけれど…」
文彦の心配そうな声の質問に、そう答える真弓。
「きっかけ……そうだ夕佳!血、吸うか?」
「…すー、はぁ……文彦の、血?」
「おうよ!俺だってなにか手助けしたいしよ!」
「じ、じゃあお願い…はぁ、はぁ…」
文彦の提案を聞き、痛むお腹を抱えながら夕佳は起き上がる。
その口元に腕を差し出す文彦。
かぷ、と歯を突き立て吸い始める。
血液検査で採取する程度の血を吸った時であろうか。
お腹の中のたっくんが、一瞬激しく動く。
「う、うぅぅぅぅっ!」
思わず腕から口を離し、布団に横たわる夕佳。
しかし、この吸血行為が効を奏したのか、子宮口は開き始めていた。

42名無しさん:2013/04/28(日) 03:28:02
「うぅあぁあ゛あ゛あ゛ああああぁっ!!!」
吸血によって活性化されたのは、もちろんお腹の中のたっくんだけではなかった。
全細胞の吸血鬼因子が一斉に目覚めた夕佳は、絹を裂くような甲高い絶叫を上げる。
まるで激しく炎症を起こしているかのように高熱を発し、子宮も急激に収縮した。

「夕佳!?」
「――飲み込まれちゃダメよ、文彦…もうくんでいいわね」
それは、文彦が夕佳の異状に驚かされたのと、ほぼ同時に起きたこと。
閉めていたはずの窓から、幼い女の子の声と共に一陣の風が部屋に侵入した。
否、風と声だけでない。言うなればそれは『存在感』。誰かが、『入ってきた』。

「ユ…優雅さん、今度はちゃんと家の玄関から入ってくださいね?」
「夕佳ちゃんには借りがあるからね、ダーリンから聞いてすぐ来てあげたわ」
真弓との会話を経て、その存在感が人間の外見として部屋の中に定着する。
闇の中から現したのは、小学生低学年ぐらいの幼女――吸血鬼・雁 優雅だった。

「あんたは確か、武弘の…って、うわ!?」
「あら、うろたえちゃう? さすがは双子、ダーリンとそっくりだわ」
産まれた数日の赤ちゃんを抱っこし、控えめに腫れてるおっぱいをあげている優雅。
一糸まとわぬ彼女を認識した文彦は、恥ずかしさのあまりに慌てて視線をそらす。

「……文彦くん、貴方の彼女しっかりとつなぎとめてやれ」
やれやれと頭を横に一回振った後、声を低くして優雅は文彦に命令した。
「は、はい!」
思わず返事をする文彦。母親になっても優雅の目力はちっとも劣ってない。
「よろしい。貴女の娘の暴走を抑えるわよ、マユちゃん」
「今度からは『真弓さん』って呼んでね、『優雅ちゃん』?」
「フッ」
「クスッ」
優雅と真弓、気が遠くなるほど長年のライバルである純血種の吸血鬼たち。
二人はお互い歯をちらっと見せつけながら、痙攣してる夕佳のお腹に手を重ねた。

43名無しさん:2013/04/28(日) 04:02:24
「あ゛あ゛あ゛ぁぁッ!」
叫ぶ夕佳のお腹に手をかざした二人は、目を瞑り集中しはじめる。
二人の手が、ほのかな光に包まれる。
「…おさまりなさい!」
優雅の声と共に、二人の手の光が一気に強くなる。
思わず目を背けた文彦が、その視力を回復させる頃には。

「あれ…優雅さん、なんで?う、うぅっ…」
「夕佳!心配したんだぜ…」
我に帰った夕佳を、思わず抱きしめた文彦。
「そうか、血を吸って、それから…うっ、うぅっ…」
「…うん、陣痛も子宮口もなかなかいい感じよ。気にしないでそのままもう少し我慢しなさい。」
「はい、母さん…」
真弓の声を聞きながら、陣痛に耐える夕佳。
「そうだ、さっき武弘に聞いたって言っていたけど…?」
「ああ、それなら文彦くん、君が家を血相抱えて飛び出したって聞いたからなんとなく、ね
大丈夫、武弘には知らせてないわよ?二人とも秘密にしてるみたいだし……」
「そうなんですか、ありがとうございます。」
文彦の質問に優雅がしっかり答えていた。
そうこうしている内に、夕佳の陣痛はかなり強まっていた。
文彦は、夕佳の手を握り、励まし続けていた。

44無明:2013/04/28(日) 04:40:14
落ち着いてきたのか、声を上げずにただ文彦の手を握り耐える夕佳。
順調なことは事実だったが、優雅はやはり一つの疑念を払えないでいた。
(この子、やっぱり妊娠してから力が上がっている……?)
夕佳の体に流れる力は、いまや優雅と遜色ない程に。
ハーフの吸血鬼なんかが持ちうる力ではなかった。
(でも、いまはそれどころではないわね……)
その疑念を振り切ろうとした時だった。
「あっ……!」
夕佳が、とうとう破水したのだ。

45名無しさん:2013/04/28(日) 04:50:08
「もう大丈夫みたいね。借りは返したし、あとは主役に任せるわ」
そう言って、優雅は空いている手をドアノブにを伸ばし、
「……ダーリンには、ちょっと散歩に出かけてくると言ったしね」
来る時とうってかわって、ちゃんとドアを通って夕佳の部屋から退室した。
数秒後、玄関から出たかどうかは知らないが、彼女の気配が消えた。

「あっ、ぐぅぅぅ!」
一方、夕佳は再び、お腹の中のたっくんが激しく動いたのを感じた。
なんとなく、足の付け根のあたりが、陣痛に反応しきしむように痛い。
たっくんは産道に入ろうとしてる。子宮に押し出されそうになっている――
『ごぼっ』
――と夕佳が考えていたら、突如お腹の中から不自然な鈍い音が聞こえた。

46無明:2013/04/28(日) 05:21:54
「まさか………夕佳、いきむのをやめなさい」
母の突然の言葉に、困惑する夕佳。
陣痛のせいで受け答えする余裕などないから、母が続けて何かを言うのを待つ。
「逆子よ。今の音は、足が出てきたの」
「へ……ぇ……?」
「あんまりいきむと、赤ちゃんにダメージが行くわ。私も手伝うから、言うとおりにして」

47名無しさん:2013/04/29(月) 02:51:19
声だけで逆子だと断言できたのは、経験したことがあるからだと真弓は言う。
10年前に真弓が産んだ夕佳の弟の『たっくん』も、同じような逆子だった。
今度の『たっくん』も逆子になるかもしれないと、対処法を心得ていたのだ。
「文彦」
「お、俺が出来ることなら、何でも……」
「いい顔ね。夕佳、貴女も良いよね?」
「う……っん…」
いきまないように我慢してるから夕佳の返事は言葉になってはいないが、
これからそれを実行する二人の同意を得て、真弓は対処法を二人に教えた。
足が産道に入ってしまったたっくんを、無理に押し戻さずに産ませる方法を――

48名無しさん:2013/05/02(木) 00:25:19
「無理に押し戻すことよりも…」
「ひょっとして、押して駄目なら引いてみろ、ですか?」
「鋭いわね文彦くん。そう言うところ、好きかもね」
真弓の言葉を遮るように、かたりだす文彦。
「はぁ…はぁ…ま、まさか…」
「そう、そのまさかよ。夕佳の息みに合わせて、文彦くんに、赤ちゃんの足を引っ張ってもらうの。」
「む、無理よ…そんなの、耐えられないよ…」
「無理でも耐えるの、夕佳。お母さんになるんでしょ?弱音は吐かないの。」
真弓の言葉に自信を無くする夕佳。
それを勇気づけようと真弓は声をかけていた。

「でもなんで俺が?腕の細さで考えたら真弓さんの方が…」
「私はほら、繊細な力加減は出来ないし。」
「は、はぁ…」


そうこうしている内に文彦の準備は整っていた。
夕佳もこの時には覚悟を決めていた。

49名無しさん:2013/05/10(金) 02:54:33
少しずつ、さらに少しずつ、手動で旋回させながらたっくんの両足を引っ張る。
動くたびに夕佳が悲鳴を上げるが、息みに合わせてるのでそれなりにスムーズに進めた。
そして、やっとたっくんの尻が全部、夕佳の産道からにゅるっと出てきた。
さぁ、あと一息だ。

50名無しさん:2013/05/10(金) 21:29:01
「文彦くん、もう引っ張らなくて良いわよ?」
真弓が、たっくんの足首を握っていた文彦に話しかける。
「ぜー…はー……お、終わった、の?」
叫び過ぎてグロッキーな夕佳が、虚ろな目で呟く。
「なにいってるの?まだお尻がでたくらいよ?半分、いえ三分の一くらいね」
「そ、そんな…もぉ、無理だよぉ…」
真弓の言葉に、思わず涙が一筋流れ出す夕佳。
「諦めないの。お母さんになるんでしょ?辛いのはみんなそうなんだから、ね」
「う、うん。分かったよ……」
優しく語りかける真弓の言葉に素直にうなずく夕佳は、息む事を再開しはじめた。

51名無しさん:2013/05/13(月) 23:35:23
「…あぐっ……」
下腹部に力を入れたら、ズブッ、と浴槽のゴム栓を抜いたときのような音がした。
しかし、『産まれた?』という念が夕佳の頭に浮かぶのは、一瞬だけだった。
たっくんの産声が聞こえない。脳の全神経が、別の感覚に支配されている。
それは何かというと――
「うっ、うあぁっ……」
――幼いごろの自分が、産まれたばかりのたっくんを噛み殺したときの、歯ざわりと味。
フラッシュバック。『たっくんが産まれた』という事象がトラウマを呼び起こしたのだ。

52名無しさん:2013/05/14(火) 09:15:37
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「夕佳、しっかりしろ、夕佳!」
たっくんが産声をあげるなか、夕佳は叫び声をあげる。
文彦が呼びかけるが、夕佳は焦点が定まらない目で虚空を仰ぐ。
夕佳の精神をよびもどすために、文彦がしたことは。
「夕佳…」
優しく、口づけをすることだった。

「文…彦?」
長い長いキスの後、定まらなかった目はしっかりと一点を見据えていた。
「た、たっくん、は?」
「大丈夫。元気にないてたぜ?」
そう言うと、文彦は夕佳の腕に、たっくんを抱かせてあげた。
「はじめまして、そして、おかえり、たっくん…」
夕佳の目からは一筋、優しい涙が流れていた。


十数年後、たっくん―巧人(たくと)が雁優雅の娘、三姉妹と騒動を起こす事になるのは、まだ少し先のお話である―


終わり?

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