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終焉についての美学- 1 :ソフトバンク系のISPは規制中です:2012/05/17(木) 22:46:51 ID:wbaOWnvw0
- 終焉についての美学
つい二、三週間前の出来事。私が昼食を買った帰り、親に偶然出会った。
親は他人の家の戸を叩くなり、「村岡さん、起きてはる?」といつもの近所迷惑なまでの大声で怒鳴り始めた。
突然の事に何がなんだか分からなかった。
どうやら、その家に住む人は一人住まいの老人で、うちの家の牛乳をとっている人で、
その方はいつも定刻に玄関に配達された牛乳を7時に取り入れるはずなのだが、この1時になってもそのまま牛乳が置いたままなのだそうだ。
でも私は母親のいつものお節介だろうと軽い気持ちでしか見ていなかった。
僕は家に帰ってコンビニ弁当をむさぼって、横になってテレビを見ていた。
その一時間後に親が帰ってきて、始めに発した言葉に僕は喫驚では言い表せない驚きによる寒気が全身を襲った。
「家の中でもう死んではったわ。」
母はそれからのことを語った。
どうやらあの後、警察を呼んで、その警察は到着後、警棒で窓を叩き割り家に侵入し、老人の安否を確認したが、残念ながらもう亡くなっておられたらしい。
でも遺体は硬直が始まっておらず、もしかしたら・・・・・・」
その「もしかしたら」は今まで聞いたもしかしたらの中で一番重い「もしかしたら」だったかもしれない。
世間では此れを「孤独死」と呼ぶそうだ。
でもこの孤独死、今まで生きてきた人生を終えるという幕引きとしては少し寂しくはなかろうか。
誰にも見取られず死を迎える悲しさ・・・。それといったらない。
例えば舞台の公園が千秋楽となるときの幕引きは事前にリハーサルできるものである。
しかし人生の幕引きはリハーサルできない。死は身近な存在にして実は遠い存在である。
私は若干十七にしてこう思う。
「徐々に衰えるのではなく、皆に見られながら激しく散りたい」
出来れば80まで生きて、みなに見取られながら散る。この際暗殺でもいい。
その年齢まで生きる事が出来れば。出来れば悲しく、一人寂しく散りたくない。
誰にも気付かれずに散るよりは、皆に見られながら散る打ち上げ花火。そう、あれになりたい。
- 2 :ソフトバンク系のISPは規制中です:2012/05/17(木) 22:50:41 ID:JdT/MU9M0
- 長い三行で
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