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生命論の原点 『本尊抄』 =夏期講習会の講義から=- 1 :美髯公:2010/06/15(火) 18:01:10
- 夏期講習会が始まり、全国から総本山につどった参加者は今、生命哲学の極理の書である「観心本尊抄」の研さんに懸命に励んでいる。
また、参加しない各地の友も、その学習に余念がない。なかには参加者をしのぐ気迫の人も多く見受けられる。
この学習運動の高まりを更に豊かで大きなものにするために、総本山で行われた、原島教学部長をはじめとする最高幹部の講義の要旨を、
連載することにした。研さんの一助にしていただきたい。
(原文のままです m(__)m )
- 2 :美髯公:2010/06/15(火) 19:57:21
-
= 本抄を学ぶ意義 =
「観心本尊抄」を学ぶにあたり、私達は、なぜ今日、本抄を学習していくべきなのか。そこに秘められた重大な意義について、
まず十分に把握しておく必要があると思います。
いうまでもなく「観心本尊抄」は、四百数十遍におよぶ日蓮大聖人の全御述作のうち「開目抄」とならんで最も重要な御書であるといわれてます。
なぜでしょうか。その理由として、大要次の三点があげられると思います。
まず第一に、末法における本尊の実態を展開されたということです。宗教の根本は、いうまでもなく本尊です。
大聖人が末法の時代に出現された意義は、一切の民衆を幸福にすることであり、そのための本尊の建立にあることはいうまでもありません。
「本尊問答抄」にも「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定べきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」(御書全集 365ペ-ジ)
とあります。末法に建立されるべき本尊の相貌(そうみょう)はいかなるものであるべきか。これが肝要中の肝要の問題であります。
本抄を著わされる前年・文永9年(1272年)2月に「開目抄」を著わされ末法下種の人本尊を鮮明にされた大聖人にとって、
次になすべきことは、末法の一切衆生が信仰の依(よ)り処(どころ)とすべき本尊を解き明かし、実体化することでありました。
- 3 :美髯公:2010/06/15(火) 21:54:07
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文永十年四月二十五日に佐渡・一ノ谷(さわ)において著わさた「観心本尊抄」こそ、まさしく末法に顕(あら)わされるべき本尊の実態を
明かされた書です。本抄が ”法本尊開顕の書 ”といわれるのもこのためです。
第二に、その理論的背景である一念三千の生命哲理が明かされているということです。
かつて、この ”一念三千の生命哲理 ”は、釈尊に始まる仏法の流れを集大成して、宇宙・生命の真実の相(すがた) ― 諸法実相として
論理づけた天台大師によって説かれましたが、天台の説く”一念三千 ”とは、あくまでも理であり、その修行も観念観法であり、
決して万人が生命の奥底から自己を変革しゆく ”力 ”を与えるものとはなりませんでした。
それに対して大聖人は、この ”一念三千の生命哲理 ”に実体の光を与え、万人が納得し、実践しえる原理を示されたのです。
したがって第三に、この一念三千の哲理のうえに、万人が完ぺきに自己の生命を観照しえる実践論を、示されていることがあげられます。
私達の信仰する御本尊の理論的裏づけを明かし「受持即観心」を述べ、御本尊と自己の生命との感応、すなわち信仰論を展開しているのです。
つまり「教行証の三重」のうち「行の重」といって、私達の信仰、実践のあり方明確にされた御書であるということです。
- 4 :美髯公:2010/06/16(水) 19:30:37
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この「観心本尊抄」が大聖人の御書全編のうち、最も重要な御書とされるゆえんは、右にみてきたような理由からです。
以上の三点から考えて、今回、夏季講習会の教材に選ばれた「観心本尊抄」を、全学会員があげて研さんすべき理由は明らかだと思います。
昨今、病める現代文明の転換が叫ばれ ”生きがい論 ”とか ”死にがい論 ”が人人の間で関心を深めてきています。
既成の権威、価値観の崩壊とともに、価値観の多様化も指摘されいます。
その一方では、講座ブ−ムとか宗教ブ−ムといわれるものが起こり、仏教の経典などに興味を寄せる人々が増えてきています。
確かに人々は何かを求め始めました。
その人々の新たな意識の動向は、つきつめるところ生命の問題 ―― 生命本源の深いものを希求している姿だといえましょう。
まさに、これからの時代は、生命論が重要課題として論ぜられ、追究される時代であるといえるでしょう。
仏法は一貫して、個人の確立、生命の主体性の樹立は、どのようにしてはかられるべきかを追究してきた哲学であり、宗教です。
その意味からも日蓮大聖人の明示された生命哲学を、自己自身の豊かな成長の源泉として学び、実証し、そして人にも教えていく ―
― という大いなる責任を自覚した実践の原点として、この「観心本尊抄」を自ら求め、学習していくことの重要性を銘記したいものです。
- 5 :美髯公:2010/06/16(水) 21:52:32
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かつて池田会長は「二十一世紀は生命の世紀」である、と提言しました。
まさに、その ”生命の世紀 ”を目指しての本格的な生命哲学の運動が、いよいよ展開される時代が到来しつつあるといえましょう。
この新時代を開きゆく人材として、全学会員が、生命哲学の奥底を明かしたこの書を研さんしていきたいものです。
さて、大聖人はこの「観心本尊抄」で難信難解の法門であることを述べられています。
確かに難解なものであるかもしれません。しかし、大聖人の生命論は決して抽象論ではなくあくまで、生活実践に基づいているものです。
したがって、御書の一節一節に真剣に取り組む真摯(しんし)な姿勢であるならば、必ずや真に身近なものとして把握できるはずです。
更に、私達は「観心本尊抄」を学ぶにあたって、本抄を著された当時の大聖人の立場を理解しておくことも大事です。
当時、佐渡御流罪中の大聖人は、文永九年(一二七二年)の夏の頃、塚原の三昧堂から石田郷の一ノ谷に移されました。
「観心本尊抄」は、この一ノ谷で五二歳の時に書かれたものです。
建長五年(一二五二年)四月二十八日に三二歳で立宗宣言されてより、二十年を経た当時にして、なおかつ生命哲学の骨髄ともいえる
「観心本尊抄」を御述作されているのです。
しかも、この重要な御書が、流人の身という大変なさなかで作成された点を私達は深く肝に銘すべきでしょう。
- 6 :美髯公:2010/06/17(木) 20:32:09
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本抄の御真筆は全編十七紙からなっていますが、前半は和紙、後半は雁皮紙(がんぴし)が使われ、しかも表と裏にびっしりと書かれています。
「佐渡御書」の追伸にも「佐渡の国は紙候はぬ上・・・・・・」(全 P.961)と述べられているように、大聖人は筆紙の窮乏に
困惑される大変な状況下で、本抄を書かれたことがうかがわれます。
本抄を学ぶ私達も、五十代を過ぎてもなお一層、自己を鋭く観照し、人生の根本問題を追究しきっていける自己自身を築き上げ、
更に、いかなる苦難にも負けることなく、生涯求道を貫くおう盛な生命力を、つちかっていきたいものです。
- 7 :美髯公:2010/06/17(木) 21:32:57
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= 本抄を学ぶ精神 ㊤ =
最重要御書である「本尊抄」を学ぶにあたっては、これを拝読する精神が、大事になってきます。
そこで「本尊抄」の本文に入る前に、まず「観心本尊抄送状」を拝読しておきたいと思います。
なぜなら、この御書には「観心本尊抄」に対する姿勢が、どうあらなければならないかということについて、的確にしたためられているからです。
「送状」でよく「本尊抄」の重大性を認識してから本文に入り、本文の拝読が終わったならば、再びこの「送状」を拝読し、
繰り返しその意義の重要性と、本抄を学ぶ精神を、再確認していきたいものです。
『・・・此の事、日蓮身に当たるの大事なり之を秘す、無二の志を見ば之を開拓せらる可きか、此の書は難多く答少し未聞の事なれば人耳目を
驚動す可きか、設い他見に及ぶとも三人四人坐を並べて之を読むこと勿れ、・・・』(全 P. 255)
まずこの御文を通解しますと ―― この事は日蓮が身に引き当てての大事である。深くこれを秘す。
純一の信心で無二の志があらば、これを開いて拝読せよ。この書は論難が多くて答えが少ない。
未聞のことであるからおそらく人々は耳目を驚動するであろう。
たとえ他人が集まって見るときでも、三人、四人と座を並べてこれを読んではならない ―― となります。
- 8 :美髯公:2010/06/18(金) 20:05:50
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ここで『此の事、日蓮身に当たるの大事なり之を秘す』とありますが、日蓮大聖人の生命の当体である大御本尊についての
御抄だから、かくいわれたのです。すなわち「観心本尊抄」は、大聖人の内証の中の内証の大哲理を明かされた御書であり、
一切衆生を救済しきるために、末法万年のはか、未来永劫(みらいえいごう)に流布していくべき大御本尊の相貌が明かされた御書なのです。
そして、この大御本尊こそ、末法の御本仏日蓮大聖人の御生命そのものであるために『日蓮身に当たるの大事なり』と述べられたと拝されます。
また『之を秘す』の ”秘す ”の語には二つの大きな意味が含まれているといえるでしょう。
すなわち、一つには広宣流布の ”時 ”の到来を待つこころだといえます。
大聖人が御在世当時においては、いまだ「本尊抄」の意義が理解される時代ではなかった。しかし、必ず理解される時代がくる。
その ”時 ”を待つ ― という意味で『之を秘す』と述べられたと拝せましょう。
では、その ”時 ”とはいつか。現在の私達の時代こそ、真に「本尊抄」の意義が理解されるべき時代であると、自覚すべきでしょう。
二つには ”秘す ”とは、ただ単に ”秘し隠す ”という意味ではなく、その奥底にはこの「本尊抄」を、最も重大、重要な御書として、
受持しきっていきなさい。決しておろそかにしてはいけない ― という意味が込められていると拝すべきでしょう。
したがって私達は、この「観心本尊抄」こそ、本当に信心のある人でなければ、拝読のすることのできない御書であることを
知っていきたいものです。安直に、軽率に考えていたのではなりません。
まず私達の信心、実践の書として、真摯(しんし)な姿勢をもって拝読していくべきでしょう。
- 11 :美髯公:2010/06/19(土) 20:58:57
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次に「無二の志を見ば之を開祏せらる可きか」の「無二の志」とは、二つとない純真な信心ということです。
また「開祏」の ”祏 ”の字は、通常に用いられる ”拓 ”とは異なっています。
すなわち胸襟(きょうきん)を開いて、謙虚な姿勢で本抄を拝読していきなさい、という意味が込められているのです。
「観心本尊抄」は、最も難信難解の法門が述べられた御書であるために、さまざまな疑問、難解な箇所にぶつかるのも当然かもしれません。
しかし、民衆の苦悩をおのが苦悩として、万難を克服されながら本抄を御述作された大聖人のご精神にかなっていくこと、
すなわち「無二の志」で会得していこうとの姿勢が大事なのです。
そうであって初めて「本尊抄」の全編に脈打つ、大聖人の精神、仏法の全体像を把握していくことができる、といえましょう。
また「此の書は難多く答少し未聞の事なれば人耳目驚動す可きか」とありますが、実際「本尊抄」の全体を拝読すると、
議論を多く立て、それを打ち破られながら真実の解答を出されていることがわかります。
すなわち、さまざまな非難や疑問点をあげながら、観心の本尊の大哲理を明かされているのです。
大聖人は「開目抄」でも『智者に我義やぶられずば用いじとなり』(全 P.232) と述べられて、御自身の打ち立てられた哲理の絶対性を、
あらゆる反論を摂しながら、明かされています。それは未来永遠に、いかなる批判にも耐えて、人々を真にリ−ドしゆく大哲理を、
明確に後世の人々に示されんがためであったといえましょう。
- 12 :美髯公:2010/06/20(日) 16:40:55
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ではなぜ、さまざまな非難、中傷が起こるのでしょうか。それは「未聞の事」であるために「人耳目を驚動」するゆえであります。
いつの時代であっても、新しい理論、概念を打ち立てるときには、必ず、けんけんごうごうの非難があったことは、
過去における歴史の先駆者達が示す事実です。
現在、広宣流布という未聞の運動を展開する創価学会に対しても、さまざまな非難のあることは、私達の活動が既成の知識では理解できない、
未曾有ののことであるためであり、むしろさまざまな障害が出てきても、当然のことであるともいえましょう。
次に「三人四人坐を並べて之を読むこと勿れ」とありますが、これは本抄を読むときは " 一人の心 " でなければいけないということです。
この場合の " 一人の心 " とは、異体同心の信心ということです。
日寛上人はかつて、四十余人にこの「本尊抄」を講義しました。その講義にあたって「四十余輩はむしろ一人ではないか」と仰せられています。
この四十余人は、異体同心、懇志一途に、講義を請うたのです。私達が「本尊抄」を学習する場合にも、全員が " 一人の心 " に立って、
すなわち、広宣流布の決意、そして「観心本尊抄」の大聖人の精神を会得しようとの心を一にして、拝読していくべきである、ということです。
- 13 :美髯公:2010/06/20(日) 16:43:07
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= 本抄を学ぶ精神 ㊦ =
『仏滅後二千二百二十余年未だこの書の心有らず、国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す乞い願わくば一見を歴来るの輩は師弟共に
霊山浄土に詣でて三仏の顔貌を拝見したてまつらん、』(全 P.255)
「観心本尊抄」を拝読するにあたっての重大な精神について述べられた「観心本尊抄送状」のうち、後半の部分にあたる御文です。
まず、この個所を通解してみましょう。
― 仏滅後二千二百二十余年の今日に至るまで、いまだこの書の肝心が世に説き出されたことはなかった。
いま日蓮は王難を受け、佐渡の孤島へ配流されている身であることをもかえりみず五五百歳に当たる末法の初めを期して、
この未曾有(みそう)の法門を演(の)べ、説き明かすのである。乞い願わくば一見を歴(へ)て来る者達は、必ず堅く信じ抜いて、
師弟ともに霊山浄土に詣でて、釈迦仏・多宝物・十方分身の諸仏の三仏の御顔を拝見し奉ろうではないか ― 。
初めに「仏滅後二千二百二十余年未だこの書の心有らず」とは、いまだに誰人も説き明かしたことのない、
仏法史上未曾有の大仏法興隆の黎明を告げられた宣言にほかなりません。ここで「この書の心」とは「観心本尊抄」の肝心、肝要ということです。
すなわち本抄に具体的に展開されている大聖人の生命論であり、南無妙法蓮華経の大御本尊のことをさしています。
- 14 :美髯公:2010/06/21(月) 21:23:37
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次に「国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す」とあります。
この「本尊抄」の正式な題号である「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」の正しい読み方については、後で述べますが
この題号にある「五五百歳に始む」に相当する御文です。
初めに「国難」とあるのは、具体的には大聖人の佐渡流罪のことです。
七百年前に、罪人の身として佐渡に流されることは、そのまま死を意味していました。
当時は今日と比べれば寒い時代で、地球自体が、大きな変動期にあったのだはないかとも思われます。
特に、当時の佐渡は寒さの厳しい土地であったようです。
大聖人はこの地で、しかも流罪人という、ご不自由な境遇にあられました。
その死を覚悟するほどの苦難を克服され、命を削る思いで、大聖人の寛陣中の肝心である、 ”観心の本尊 ”を、初めて説き明かされるのです。
ではなぜ、大聖人の御生涯を通しても、最も苦難の時期に、大難をしのばれて最も重要な御書を著されたのでしょうか。
それは、ひとえに末法の全民衆救済のための大御本尊の建立を期されんがためであり、生命の大哲学を未来永遠に伝え、
ひろめるためにほかなりません。私達は、この大聖人のお振る舞いを通して、末法の御本仏の偉大なる慈悲の精神を感じとっていきたいものです。
したがって「五五百歳を期して」の ”五五百歳の時 ”とは、一往は末法の初めにあたる、大聖人の御在世当時を指しますが、
再往は末法万年尽未来際を意味することは、いうまでもありません。
- 15 :美髯公:2010/06/22(火) 20:38:19
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最後に「乞い願わくば一見を歴来るの輩は師弟共に霊山浄土に詣でて三仏の顔貌を拝見したてまつらん」との一節は、受持、実践の重要性を
強調されたところです。
すなわち「一見を歴来るの輩は」― 一度でも、この「観心本尊抄」を拝読し学習した以上は、必ず自分自身の信仰生活の上に実践化していきなさい。
必ず自己の人間革命・宿命転換しきるまで、受持・実践しきっていきなさい、とうながされたのです。
そして、この「本尊抄」の一書を深く体得して、生涯、広宣流布を目指して信仰の実践に励んでいく人は、必ずや一生成仏・人間革命の実証を
自身の生活のうえにあらわしていけることは間違いないと、ご約束されています。
このように、理論と実践を直結させたのが、日蓮大聖人の仏法の特徴です。すなわち、その仏法哲理においては宇宙の森羅万象を説き究め、
その底に流れる法理の具体的な当体として南無妙法蓮華経の御本尊を確立されたのです。
したがって、この大聖人の生命哲学を学ぶ姿勢も当然、おう盛実践性がともなわなくてはなりません。
以上でおわかりのように「一見」とは受持であり実践につながります。
私達は大聖人の仏法哲学の極理の書である「観心本尊抄」を、自分自身にたまわったと確信し、それを最大の喜びとして実践していきたいものです。
自発・能動の信心の姿勢はそこからうまれてくるのです。
- 16 :美髯公:2010/06/22(火) 20:40:01
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ところで、この「観心本尊抄送状」の末尾には「文永十年太歳(たいさい)癸酉(みずのととり)卯月(うづき)二十六日」(全 P.255)と日付けが
記されていますが、「太歳癸酉」について、簡単に説明しておきます。
「太歳」とは木星の運行を基準にした年の数え方です。ですから、「太歳癸酉」とあれば「太歳でいえば癸酉の年である」という意味になります。
このように「文永十年」を太歳で書く方法は、今日でいえば昭和四十七年を西暦一九七二年と書くのと同じ趣旨から、使われていたようです。
このような年の数え方は、中国の戦国時代の中頃、木星が天を一周するのに約十二年(実際は十一・八六年)かかるところから、
木星の位置によって共通紀年法(きねんほう)とするところから始まりました。すなわち黄道(こうどう)赤道にそって一周天を
卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)・子(ね)・丑(うし)・寅(とら)の順に十二次に等分し、
木星の位置によってその年に命名しました。木星はまた歳星(さいせい)といったので、これを歳星紀年法と呼びました。
ところが、当時は既に周天には歳星の運行とは逆向きに子・丑・寅 ・・・・・・ と十二支が配されていたので、歳星と逆行する影を仮定し、
これを「太歳」または「歳陰」と名づけました。すなわち、歳星が丑の方向にあれば太歳は寅、翌年は歳星が子で太歳は卯 ・・・・・・ となります。
したがって文永十年は歳星が午の方向で、太歳は酉となる年だったことになります。これを太歳紀年法、または歳陰紀年法といいます。
ただ、十二支だけでは十二年で終わってしまうので、これに甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・
庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)の十干(じゅっかん)を組み合わせて、六十年周期にしたのです。
したがって文永十年は癸酉(みずのととり)ならば同十一年は甲戌(きのえいぬ)となります。
- 17 :美髯公:2010/06/23(水) 20:27:34
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= 対告衆と題号の読み方 =
「観心本尊抄」の対告衆(たいごうしゅう)は、富木胤継(たねつぐ)です。詳しくは富木五郎左衛門尉胤継といいます。
富木胤継は鎌倉幕府に仕えた武士で、下総(しもうさ = 現在の千葉県)の若宮という所に住んでいました。入道して常忍(じょうにん)と称し、
太田乗明(じょうみょう)、曾谷教信(きょうしん)等とともに、大聖人門下にあって房総・関東方面の信徒の中心的な立ち場で活躍した人です。
特に文応元年(一二六〇年)七月十六日、立正安国論をもって第一回の国家諌暁(かんぎょう)をされた大聖人が、松葉が谷(やつ)の草案を焼かれ、
所を追われた際に、大聖人をお助けしたのをはじめ、伊豆の流罪、小松原の法難、竜の口の法難等においても、絶えず大聖人門下の外護(げご)の
任にあたってきた人として有名な強信者です。
「観心本尊抄送状」にも「観心の法門少少之を注して太田殿・教信御房等に奉る、」(全 P.255)とありますように、
この「本尊抄」は富木常忍を中心に曾谷氏や太田氏等にあてられた御書であることがわかります。
では、日蓮大聖人の仏法哲理の究極を明かされた、この「観心本尊抄」が、なぜ門下のお弟子方のなかでも、僧侶に与えられず、
在家の檀那(だんな)に与えられたのでしょうか。法本尊開顕の書である「本尊抄」が、在家の富木常忍に与えられたのと同じく、
人本尊開顕の書である「開目抄」を授与されたのも、不惜身命の信心の人であった、四条金吾でした。
また、大聖人の出世の本懐たる一閻浮提(いちえんぶだい)総与の大御本尊を御図顕されるにあたっても、
その対告衆は弥四郎国重(くにしげ)という在家の人でした。
- 18 :美髯公:2010/06/25(金) 20:36:38
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このように、大聖人の仏法の肝心中の肝心である、本尊に関する重要な御書ならびに大御本尊が、軌を一にして在家の檀那を対告衆として、
あらわされていることに甚深の意義があると拝されます。すなわち、末法今時のの正法たる大聖人の仏法は、あくまで末法の一切衆生を対象として、
説き示された教法であることが、この事実をもってしてしても明らかでしょう。
まさに、大聖人の仏法は、一握りの貴族階級や僧侶達によって独占されるものではなく、あくまで在家の人々 ― 庶民・大衆によって実践され、
流布されていく教えである、といえます。そのことを期されて、あえて大聖人が在家の人々に法門の最重要の御書を与えられた ― その意義を
よくわきまえ「本尊抄」を学ぶ私達も、自らの使命の重要性を、改めて深く自覚していきたいものです。
では、なぜ大聖人は、在家の人々の中でも、なかんずく富木常忍に「本尊抄」を与えられたかについて、もう少しふれてみたいと思います。
富木常忍は本抄のほかにも「法華取要抄」、「四信五品抄」の十大部の御書をはじめ「寺泊(てらどまり)御書」、「佐渡御書」、「常忍抄」、
「観心本尊得意抄」等々、四十数編にものぼる数々の御書を、大聖人より与えられています。「富士一跡門徒存知の事」(全 P.1605) にも 「本尊抄」、
「取要抄」、「四信五品抄」の三巻は「因幡国(いなばのくに)富城荘(ときのしょう)の本主・今は下総国(しもふさのくに)五郎入道日常に賜(たま)わる、
正本は彼の在所に在り」としるされています。「日常」とは富木常忍が大聖人よりたまわった名です。
彼の在所は中山の法華寺になっており、大聖人の数々の御真筆も現在に至るまで、この法華寺に保存されています。
これはひとえに富木常忍の功績といえましょう。
- 19 :美髯公:2010/06/26(土) 20:01:59
-
日蓮大聖人が、あらゆる苦難を克服されて御書を著されたのは、一往は大聖人御在世当時の人々のためといえますが、
再往は、あくまで滅後の人々のためであり、令法久住のためであることは、以前にもふれました。
当時は、日本の国全体が天変地夭(てんぺんちよう)や戦乱の絶え間ない時代でした。
そのような時代にあっては、その日暮らしの一般庶民や、定住を寺もない僧侶では、長い間には散失するおそれもあったことでしょう。
したがって、大聖人は富木常忍が本抄を理解できる人だから、というよりは、彼が地方の有力な武士であり、
社会的にも安定した立場にあったところから、大聖人の御書を大事に後世に残す人であることを信頼されて、与えられたものと推察されます。
このことは、太田金吾に与えられた「三大秘法稟承事」にも『予(よ)年来(としごろ)己心に秘すと雖(いえど)も此の法門を書き付けて留め置かずんば
門家の遺弟(ゆいてい)等定めて無慈悲の讒言(ざんげん)を加う可し、其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き送り候、
一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し』(全 P.1023) と述べられていることからも、うかがえます。
「観心本尊抄送状」にも『設(たと)い他見に及ぶとも、三人、四人坐を並べて之を読むことなかれ』(全 P.255) とあります。
結局、大聖人はあくまでも本抄を、後世に残し伝えることに主眼をおかれて、富木常忍に与えられたことが察せられます。
したがって、当時はこの 「観心本尊抄」を開き見ることのできた人は、富木常忍と数人の人々に限られていたのでしょう。
そのため、写本も日興上人と中山・法華寺の日高のものしかありません。また、現存する御書の中でも「立正安国論」は二十数か所に、
また「開目抄」は四か所に、その名がみられるのに対し、本抄は 「観心本尊得意抄」の一か所に出てくるのみです。
このことからも 「観心本尊抄」が、いかに秘伝の書であったかが明らかです。
- 20 :美髯公:2010/06/27(日) 20:36:25
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次に、本抄の題号の正しい読み方について、簡単にふれておきたいと思います。
「観心本尊抄」の正式の題号は「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」です。
ところで、この題号の読み方には、さまざまな設がありました。「五五百歳に始めて心を観る本尊抄」と読む説もあれば、
また「五五百歳に始め」と読んだり「五五百歳に始めたる心の本尊を観る抄」とか「五五百歳に始まる観心本尊抄」といったぐあいで、
題号の読み方一つをとってみても全くまちまちでした。
この題号の読み方のいかんによって、その人の 「観心本尊抄」に対する解釈や姿勢までが問われることになります。
なぜなら、この 「本尊抄」に述べられた大聖人の甚深の生命哲理を要約し、その意義を端的にあらわしたのが題号であるからです。
日蓮正宗 第二十六世 日寛上人は、日蓮大聖人の御真意を正しくあらわす読み方について 「観心本尊抄文段」に詳しく述べられています。
その内容については、のちに学ぶことにして、ここでは正しい読み方を知るのみに、とどめておきたいと思います。
「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」は「如来の滅後(めつご)五五百歳(ごごひゃくさい)に始む観心(かんじん)の本尊抄」と読むのが正しいのです。
- 21 :美髯公:2010/06/28(月) 22:06:37
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= “ 観心“ について ㊤ =
さて、それでは「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」の題号の中の「観心」について、その重要な意義を述べてみたいと思います。
この 「観心本尊抄」の読みかについては、古来より諸説があり、一様ではありませんでした。「心の本尊を観(み)る抄」とか
「心を観る本尊抄」と文点(もんてん)をつけて読んだり、無点で「観心本尊抄」等と読んでいました。
しかし、これらはみな誤りで、正しくは「観心之(の)本尊抄」と読むべきであると、日蓮正宗第二十六世日寛上人は
「観心本尊抄文段(もんだん)」の中で述べられています。
なぜ「観心之本尊抄」と読むべきかについて、日寛上人は「文段」の中で詳しく述べられていますが、
これはいかに「観心」ということが大切であるかを示すものだといえます。「 ”の ”の一字日寛の形見と思え」と述べられたとも伝えられています。
では、「観心」とは、どういう意義があるのでしょうか。「観心」とは、まさしく「心を観ずること」であり、自己自身の生命のありのままの姿を見、
そして知ることだといえます。
この自己自身の生命の実相を知る、ということは、言い替えれば、古代ギリシャ哲学の祖といわれるタ−レスやソクラテス以来、
ヨ−ロッパにおいて、あらゆる哲学の出発点でもあり、また、最後に帰着すべき重要課題でもあった「汝(なんじ)自身を知れ」との根本命題と
同じです。この「汝自身を知る」ためには、生命の本質を貫く法則性と、生命の全体像についての円融・円満にして明確な把握がなければなりません。
- 22 :美髯公:2010/06/29(火) 20:33:35
-
だが実際、生命ほど複雑にして、不可思議なものはありません。一見、平静を保っているようにみえる、いかなる人間もの生命も、
よく観察してみれば、時々刻々に変化しており、常に対境の変化によって喜怒哀楽の感情があらわれ、決して一定したものではありません。
また人間生命は一体 ”善 ”なのかそれとも ”悪 ”なのかという課題は、古来から問題にされてきたところですが、
善とも悪とも規定しつけせないものです。
こうだと規定しつくせるほど、生命は表面的なものではなく、その多層性というか、重層性は底知れないものがあります。
いかに理性の上で、意識の上で ”こうしよう ””ああしよう ”と思っていたとしても、実際にある対象に直面した瞬間において反射的に
出てくる生命の働きは、自分自身の意志ではいかんともしがたいものがある場合を、皆さんも経験されたことがあると思います。
生命は、このように、かぎりない重層性をもっているのです。
この「汝自身を知れ」という哲学の課題に対して、ヨ−ロッパ近代哲学の祖といわれる十七世紀フランスの哲学者デカルトは、
心理と思いこんでいることに対しても徹底的に疑ってみることを試み「われ思う故にわれあり」という有名な言葉を発し
”理性の哲学 ”をうちたてました。
”理性 ”に光をあてたことは偉大な功績ですが、彼の ”理性の哲学 ”には、限界があり、浅く偏頗なものであったといわざるをえません。
それは今日、彼の主張した ”理性の哲学 ”によって生み出された科学技術文明が、公害とか ”生きがい ”の喪失といった数々の矛盾を
噴出せしむるに及んで、人々の目にも明らかになりつつあります。
- 23 :美髯公:2010/06/30(水) 22:09:48
-
その功罪は別にして、ともかくも、後世にきわめて大きな影響を与えた哲人デカルトにさかのぼること千年余りも以前に、既に、天台大師は、
理性の働きをより深く論じ、そのさらに深奥に生命の光を見い出したのです。
すなわち、天台大師は生命の真実の姿を究めるために「九識論」をたてたのです。
まず、九識のうち初めの五識とは、眼識(がんしき)、耳(じ)識、鼻(び)識、舌(ぜつ)識、身(しん)識をいいます。これは感覚器官による意識です。
この五識による身体エネルギ−を、心的エネルギ−に転換して気分、感情、欲求などとして働くのが、第六の意(い)識です。
それが更に、行動の判断力、事物の認識力として理性的な力を第七の末那(まな)識といい、思量識ともいいます。
デカルトの生命観は、この末那識の一分に達する哲学であったといえましょう。
しかし、天台の生命観は、更に第八の阿頼耶(あらや)識に至って、無意識層の深層部まで入っていきます。そして、三世にわたる生命の連続性を
見出しています。しかし、ここにおいてもなお、生命の外界との不調和と調和という「染浄(せんじょう)の二法」の差別を解決することは
できないとして、更に第九識の阿摩羅(あまら)識の実在を説きます。
これは、根本浄識ともいい、生や死の衝動をも生み出す、生命の本源的エネルギ−の当体であると明かすのです。
そして、宇宙の森羅万象を動かし、包含し、生み出していく本源的な宇宙生命そのものの働き ― この第九識を「妙法」としました。
- 24 :美髯公:2010/07/01(木) 20:38:32
-
天台大師は、この根本の九識の一念を開発することを仏道修行の目標としましたが、その実践法として「観念観法」を立てます。
すなわち「禅定(ぜんじょう)」といって慮(おもい)を静めて瞑想(めいそう)にふけり、自己の生命の姿を観照する方法です。
しかし、この修行法は、万人が実践しえる原理とはいえません。
今日の人々が、この「観念観法」を実践したとしても、せいぜい自己のエゴイズムにつきあたるのがやっとでしょう。
しかも「観念観法」ではとかく内省的になり、社会に躍動するたくましい生命力の発揚というより、むしろ社会と隔絶した自己本位の修行に
終始しがちなものです。天台の仏教が貴族仏教、僧侶仏教となってしまったのも、天台流の「観心」すなわち、仏道修行のあり方に、
根本的な原因があったといえるでしょう。
では、日蓮大聖人の仏法における「観心」とは、いかなるものでしょうか。大聖人は「観心本尊抄」に次のように述べられています。
『観心とは我が己心を観(かん)じて十法界を見る是を観心と云うなり、(中略) 明鏡(めいきょう)に向うの時始めて自身の六根を見るが如し』(全 P.240)
大聖人は誰人であっても、生命の真実の姿を究め、妙法を見ることができ、事実としてこれを自己の生命に涌現できる対鏡、
明鏡として「観心の本尊」を明かし、図顕されたのです。
自己の生命を正しくリ−ドし、変革するためには、自己の真の姿を正しく映し出す“ 明鏡 ”が必要なのです。たとえば、鏡に我が身を
映すことによって服装を整え、身を正すことができるようなものです。もし鏡がなければ、化粧をしたり服装を整えることもできません。
これと同じ原理で、私達も自分の知恵だけでは「汝自身を知る」ことはできません。生命の“ 明鏡 ”すなわち、自身の生命を明らかに映し出す
御本尊があって、初めて私達は生命の本質 ― “ 妙法 ”を把握し、妙法の当体となることができるのです。
- 25 :美髯公:2010/07/02(金) 21:06:41
-
= “ 観心“ について ㊦ =
日蓮大聖人は「汝(なんじ)自身を知る」ための“ 明鏡(みょうきょう) ”として、目に見えない一念三千の法理を、御本尊として具現されました。
この一念三千の理が顕(あら)わされたからには、私達にとって、この御本尊を受持することが、即「観心」となるのです。
したがって、大聖人が明らかにされた「観心」とは「受持即観心」です。ここで「受持」とは、御本尊を強盛に信じるという“ 信力 ”であり
「南無妙法蓮華経」の題目を生涯、唱えぬく“ 行力 ”です。
この“ 信力・行力 ”によって、私達は御本尊という宇宙・生命の縮図と境智冥合し、自己自身の生命が御本尊と感応(かんのう)し、
胸中の肉団(にくだん)に御本尊と同じ生命の境涯を、開き顕していくことができるのです。
「日女御前御返事=御本尊相貌抄」にも『此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる
胸中の肉弾におはしますなり』(全 P.1244 ⑨)と述べられている通りです。
ここにおいて、最も完ぺきな形での仏法の確立があったといえるでしょう。人間一人一人に尊極、清浄な生命を開拓せしめ、その生命の本質、
自己の本来の姿を観照させる本尊が、樹立されたのでしす。
生命の尊厳性を説く仏法の精神からいっても、最も大切になってくるのは、民衆一人一人の生命自体です。
それを最も豊かにし、幸福にせしめるからこそ、その本尊は尊いといえるのです。
- 26 :美髯公:2010/07/04(日) 00:28:06
-
ところで、天台大師の弟子・章安は、涅槃経(ねはんきょう)を解釈した疏(しょ)の中で「身軽法重(しんきょうほうじゅう)」といっています。
正法を弘める者の真実の姿は“ 身は軽く法は重し ”でなければならない、ということです。
しかし、大聖人の仏法の立場からこの文の真意をさぐるならば、決して法は絶対であるが、人間の生命を軽視してもよい、ということではありません。
あくまでも、一個の人間の根本的な生命の確立、真実の幸福の確立を実現せしめるところの“ 法 ”― 御本尊が絶対である、ということです。
この御本尊を受持し、帰命することは、自己自身の生命に内在する“ 仏 ”の生命を湧現することであり、自己の内なる“ 仏 ”の生命への帰命に
ほかならないといえます。私達は御本尊への帰命によって、真に尊厳なる自己の生命を、開き顕わすことができるのです。
したがって、末法今時における「観心」とは「信心」にほかなりません。我が身を明らかに映し出す鏡があったとしても、目をふさいでいたは、
鏡に映った自分の姿を見ることはできないでしょう。同じ道理で、自身の生命の内奥にひそむ“ 仏 ”の生命を、
明らかに映し出す“ 明鏡 ”― 御本尊に対する「信心」という“ 目 ”が開いたとき、初めて真実なる「汝自身を知る」ことができるのです。
したがって、御本尊受持の姿勢が厳しく問われなければなりません。御本尊は絶対である、というところから、とかく“ 信心さえやっておれば、
なんとか守られる ”と考える人がいますが、その発想をつきつめてみれば、結局、自己自身のエゴイズムから出たものです。
常に、より豊かで真実の自己を開発しゆくためには、一人一人の「観心」―「信心」の姿勢こそ、大事になってくるのです。
逆にいえば、偉大な本尊をたもったからには、その「受持」すなわち「観心」のあり方、自己の確立、成長、生命の歓喜と躍動がなければ、
真の信仰人とはいえない、ということです。
- 27 :美髯公:2010/07/05(月) 22:20:03
-
“ 自分はだめだが、御本尊は絶対だ ”というのではなく“ 自分がこのように立派になったのは、御本尊が絶対だからである ”― という
自己自身の人間的な成長の“ 実証 ”を示していける一人一人にならなければなりません。
“ 自分は必ず、妙法の功徳の実証を示してみせるのだ ”との決意・努力・実践こそ大事なのです。これが「観心」の「本尊」を受持した人の
心構えであるべきでしょう。
したがって、自分の「信心」の姿勢をさしおいて功徳を願うのは、本来の意義からいけば間違っているといえましょう。
御本尊の「受持」― “ 信力 ”と“ 行力 ”があってこそ、初めて“ 仏力 ”は顕われるのです。私達の信仰の目標は、決して短時日のうちに
達成できるものだ、と考えるべきではありません。十年、二十年といった信仰の持続があってこそ、初めてそこに真実にして不動の福運が、
自己の生命に蓄積されていくものなのです。
大聖人の仏法の功徳の本義は「冥益(みょうやく)」です。「冥益」とは、目には見えなくとも、知らずしらずのうちに大地をうるおす、
地下水のようなものに、たとえられるでしょう。そして、その地下水が地表に湧き出してくる。
これが「顕益(けんやく)」であり、具体的な功徳の現象です。
したがって、地下水にたとえられる「冥益」を豊かにする努力とともに、その地下水を汲み出す努力もあわせて必要なのです。
「信心」の力を強めることによって、生命を清らかにし、人格をみがき、福運をつけ、同時に社会人として、また職業人として、生活に、
仕事に努力し、創意工夫を繰り返すところに「顕冥二益」が現われてくるのです。豊かな福運の地下水を具体的に汲み出す、社会人としての努力を
無視することは、愚かなことです。
- 29 :美髯公:2010/07/06(火) 21:57:30
-
こう考えるならば“ 信心していれば悩みがなくなる ”というのは、本来の「信心」の姿ではないともいえるでしょう。
“ 信心をしているからこそ、悩みがみえてくる。悩みが大きくなる ”― というのが、むしろ本来あるべき「信心」の姿だといえます。
そして、悩み多き自己自身の生命のありのままの姿を、明らかにみつめられるようになってこそ、本当に御本尊を「受持」することによって
“ 人間革命をしていこう、自身の生命を燃焼させ、自己の特性を見いだし、発揮して、より高い自己の境涯を開いていこう ”― という、
あたかも波乗りを楽しむような心境にも、なっていけるのです。
こうした観点から、自己の全人間としての存在をかけて、自己自身のありのままの姿を映し出し、一個の人間として本来、具備する個性、特性を、
最大限生かしきっていきたい ― という、人間ならだれしもが、無意識のうちにも志向している、生命の奥底からの願望に応え、実践の対象として
明示したのが、日蓮大聖人の図顕された御本尊だといえます。
そのような姿勢で、この御本尊を「受持」し「信心」の実践に励むところに、大聖人の「観心」の本義があるのです。
生命力豊かに、誠実で、親切、そして勇気と英知にあふれ、礼儀正しく、責任感と包容力に富む、自己の生命の建立こそ「観心の本尊」を
たもった者の目指すものでなければなりません。
- 30 :美髯公:2010/07/07(水) 22:12:08
-
=“ 本尊 ”の意義 =
次に「観心の本尊」の「本尊」について述べてみましょう。
「根本尊敬(そんぎょう)」ということが「本尊」の意味です。「根本として尊敬する」対象です。
根本として尊敬するということは、どういうことかといえば、自らの生命が立脚する根本のよりどころということです。
その人が、何を根本的なよりどころとしているかということです。その、根本的なよりどころ、それが「本尊」なのです。
具体的には、信仰の実践の対象です。
したがって「本尊」は、その宗教の教義の結晶ともいうべきものであるといえましょう。
このように「本尊」とは、根本として尊敬していく存在、対鏡です。
その人が生命をかけ、よるどころしていく存在です。宗教においては、この根本尊敬の対鏡、存在が「本尊」といわれているわけですが、
こう考えていくならば、たとえ特定の宗教を信仰していない人でも、この「本尊」に通じるものを、各人が各様にもっているともいえます。
さて、この宗教における「本尊」というものは、それを信仰する人の生命に対して、絶対の関係力をもつということを見落としてはなりません。
宗教における「本尊」は、信仰者に対し、絶対の影響力をもつ。それだけに、こわい、また強い存在であると思います。
- 31 :美髯公:2010/07/09(金) 00:04:49
-
ところで、日蓮大聖人の仏法以外の他の宗教においては、真の意味での「本尊」は確立されていないといってよいと思います。
本当の意味での「本尊」つまり、自分自身の生命の立脚点とし、よりどころとすべき、根本として尊敬すべき「本尊」が
他の宗教において確立されているかどうか。奪っていえば、それは確立されていないといえるのです。
自分自身の生命を変革し確立する、そのための「本尊」は、他の宗教において確立されていない ― それは、他宗においては、
前に述べた“ 観心 ”の義がないからです。他宗において、たとえ「本尊」と称するものがあったとしても、それは「観心の本尊」ではないのです。
信仰によって目指すべきものが、自己自身の確立にあるのでなければ、人間のために信仰そのものの意味は、極めて薄弱なものとならざるをえません。
それだけでなく、自己自身の生活の観照、自己自身の主体的生命の発現、つまり「観心」を目指すのでなければ「本尊」そのものは、二次的なもの、
副次的なものにならざるをえないことは明らかです。
大半の宗教において、「本尊」は「観心」のための「本尊」ではないといえるのです。大体が、それに従属していくというか、
盲目的にその足下にひざまずいていくというか、そういう傾向が強いのです。
自分を確立していくための「本尊」ではないのです。すなわち、そこには「観心」の義がないのです。
ここに、日蓮大聖人が「如来滅後五五百歳に始む観心の本尊」と、述べられ、その御本尊を建立された意味があると思うのです。
- 32 :美髯公:2010/07/09(金) 22:01:34
-
信仰によって目指すものが、たとえば、キリスト教でいう天国、あるいは、念仏宗でいう西方極楽(ごくらく)世界などである場合、
そこには“ 死 ”によらなければ到達できないといわれることからも明らかなように、今の“ 生 ”においては、むなしい渇仰(かつごう)のための
対鏡、手がかり以上のものではありえない、といえると思います。
死んでから後の世界に理想郷を描くなどということは、幻想というほかない。現実に生き、瞬時も休みなく活動を続ける、この生命をどう変革し、
どう確立していくか。この人間としての最も深刻な、最も切実な問に、原理的に、実践的に、明確にこたえることができなければ、
本当の「本尊」とはいえません。「観心」= 自己観照、自己確立 = というものがない以上「本尊」というものもまたありえないのです。
「観心」のない「本尊」は「本尊」としての重みそのものが薄らいでしまうのです。
また、幾度も生・死を繰り返し、長遠な期間修行しなければ、しあわせにはなれないという、いわゆる歴劫(りゃっこう)修行的な考え方を
取っている場合も「本尊」は無意味であるといえます。
長い長い期間、特別な修行を重ね、次第しだいに立派になっていくというのでは、一般の人には実践できません。特定の人が、特別の修行をして、
願いを成就していくための「本尊」というのでは普遍性を欠きます。
「本尊」というものは、あらゆる人々が、全民衆が、等しく自分自身の生命を確立し、幸福と平和を満喫していくための原点でなければならないのです。
そこで「観心」ということが「本尊」に対する考え方を、決定的に重大にしていることを深く認識しておく必要があると思います。
繰り返すようですが「観心」というものがなければ「本尊」というものもありえない。「本尊」というものがなければ「観心」といものも
ありえないというように「観心」のない「本尊」は無意味であるということです。
- 33 :美髯公:2010/07/12(月) 21:37:23
-
長い長い期間、特別な修行を重ね、次第しだいに立派になっていくというのでは、一般の人には実践できません。特定の人が、特別の修行をして、
願いを成就していくための「本尊」というのでは普遍性を欠きます。
「本尊」というものは、あらゆる人々が、全民衆が、等しく自分自身の生命を確立し、幸福と平和を満喫していくための原点でなければならないのです。
そこで「観心」ということが「本尊」に対する考え方を、決定的に重大にしていることを深く認識しておく必要があると思います。
繰り返すようですが「観心」というものがなければ「本尊」というものもありえない。「本尊」というものがなければ「観心」といものも
ありえないというように「観心」のない「本尊」は無意味であるということです。
難解かもしれませんが、つまるところは、日蓮大聖人が建立された御本尊は、私達自身が、自己を確立するための御本尊なのだ、
ということであります。
したがって、自己自身を確立することを目的とした「本尊」でなければ、その「本尊」は、根本として尊敬するにには値しない。
根本として尊敬するに値しない以上は「本尊」とはいえない。このようにいってもいいと思います。
すなわち「本尊」とは、自分自身の本然的な力を、最高度に発揮していくために、根本的に尊敬し、境智冥合していくべき対象なのです。
- 34 :美髯公:2010/07/13(火) 22:00:05
-
それが、西方十万億土とかいうように、幻想の世界の象徴のようなものでは、生きた現実の自分自身をしあわせにしていくことはできないのです。
ここでふれておきたいことは、他宗教において「本尊」は、ほとんどが、教祖自身があらわしたり規定したものではなく、後世、つくられたり、
定められたものであるということです。たとえば、仏教の仏像、キリスト教の十字架などは、全て後世の人達がつくったものです。
大聖人の仏法においては、大聖人が主師親の三徳の本仏として、競い起こる障魔と戦いながら、その御本仏の境涯を御本尊として
確立したいかれたのです。
そういう立場をとった教祖は、大聖人以外にはおりません。
このことは極めて重要な点として、よく認識していきたいと思います。
大聖人は、ご自身の大責任感のうえから、民衆の根源的な救済に臨まれたのです。
しかも、この御本尊を受持することによって、衆生がそのままの境涯で「観心」を成就し、仏法の一切を体得したと同じ結果を得るのだと
教えられたのです。
まさしく「観心の本尊」をあらわされたのは、大聖人以外にいないのです。
- 35 :美髯公:2010/07/15(木) 00:11:30
-
= 時応機法の四義 =
これまで「如来滅後五五百歳に始む観心の本尊抄」という題号の字義を、掘り下げて学んできたわけでありますが、
ここで更に、この題号について時応機法の四義のうえから考察してみることにしましょう。
日蓮正宗第二十六世・日寛上人は「観心本尊抄文段」に次のように述べられています。
「如来滅後後五百歳とは、これ上行出世の時を明かす。始の字はこれ上行始めて弘むる義を明かす。観心はこれ文底所被の機縁の観心を明かす。
本尊はこれ人即法の本尊を明かす。故に如来滅後後五百歳は時に約し、始の字は応に約し、観心は機に約し、本尊は法に約するなり」(聖教文庫 P.14)
すなわち「如来滅後五五百歳に始む観心の本尊抄」という題号を時、応、機、法に配立(はいりゅう)されているわけです。
「如来滅後五五百歳」― これは、末法時代の開幕の“時”であり、外用(げゆう)は上行菩薩の姿を示され、内証は、御本仏の境涯に立たれる
日蓮大聖人ご出現の“時”です。
「始む」― この「始」の字の意義については、すでに学んだように、大聖人が随自意の立場から、末法万年にわたる民衆のしあわせと繁栄のために
歴史上はじめて、この大仏法を確立し、弘通していくぞという、力強い主体的な姿勢を示された宣言です。
それは、幸福と平和を願望してやまない末法の全民衆の、内なる強い要請に応じられる仏法の指導者の姿といやましょう。
したがって、「始」の字は“応”を意味するのです。
- 36 :美髯公:2010/07/15(木) 21:28:52
-
「観心」― これは、大聖人が樹立された仏法、すなわち、文底下種の南無妙法蓮華経の教えに宿縁深厚の民衆、この妙法の哲理によって救われる
機根(素質)を備えた民衆、つまり「観心」とは、この末法の民衆の受持即観心の信仰、実践を意味するわけです。
したがって「観心」は“機”に約されるのです。「本尊」― 大聖人があらわされたところの本尊は、大聖人のご生命そのものであり、
南無妙法蓮華経という法を実体化されたものです。それゆえに「本尊」が“法”を意味することは明らかです。
このように「本尊抄」の題号に時応機法の原理をあてはめて考えることができるわけです。
すなわち、時応機法の原理は、仏の説法の方軌であるといえます。
そして、民衆の機根とそれに応ずる仏の姿勢とが相応しなかったり、時を誤ったり、法の実体、内容があいまいであったりすた場合には、
その説法自体が意味のないものになってしまうといえるでしょう。
末法時代開幕の時に、未来永遠の全民衆のために、三大秘法の御本尊を建立された大聖人が、この時、応、機、法の四義を完ぺきに
満足された立ち場に立たれていることはいうまでもありません。
このように、大聖人の説法が、四義を具足し、四義にのっとった完全円満の説法であることを、
この「観心本尊抄」の題号は端的に物語っているといえるのです。
- 37 :美髯公:2010/07/16(金) 21:41:27
-
また、この時応機法の原理は、仏法史観の一つの側面を示すものともいえましょう。
“時”というのは、文字通り時のリズムといえます。時代を形成するものとしては、さまざまな要因が考えられますが、その底流として、
時のリズムというものは確かにあります。
“応”とは指導者を意味します。
指導者を抜きにして歴史を論ずることはできないともいえるでしょう。
また“機”すなわち民衆を抜きにして、歴史を語ることもできないでしょう。
それから“法”というのは、哲学であり思想といえます。また、その時代の物の考え方、規範となっているものを“法”と考えてもよいと思います。
更に、その時代の組織・機構等も“法”の一つの側面であるといえるのではないかと思います。
この四義が調和、融合しながら、また、ある場合には、そのうちの一つがクロ−ズアップされながら、
あるいは、全体が時のリズムのなかに埋没しながら、歴史というものは刻まれていく ― このようにいえるのではないでしょうか。
ともあれ、この時応機法の四義が、歴史を立体的にとらえていくうえで、重要な視点を提供するということができましょう。
一つの時代精神となってきた思想が行き詰まり、それにかわる新しい思想を“法”とするならば、それを待望する民衆の心が“機”です。
この“機”に応じ“法”を体現して、民衆を正しくリ−ドしていく指導者が“応”となります。
- 38 :美髯公:2010/07/17(土) 21:24:31
-
この“機”と“応”が合致したところに、新たな“時”が到来するのです。すなわち、新しい時代というものは、決して座して待つものでなく、
あくまでも、民衆と指導者との呼吸の合った共同作業によって築かれていくものです。
このことは、広宣流布の理想社会の建設を目指す私達にとって、忘れてはならない要件といえましょう。
また、私達の日々の実践論としても、これは、極めて示唆に富んだ原理であるといえます。
なかでも“応”の意義が極めて重要です。私達は、大聖人の門下として、広宣流布、民衆救済の運動を推進する立場にあります。
したがって、大聖人と心同じくし、仏法流布の実践者の自覚に立って、“応”の姿勢を確立することが望まれるわけです。
私達は“応”の立場から、具体的に直面する実践の場で、明確に時を知り、機を知り、法を知って、空転のない、
価値創造の行動をとっていくことが大事です。
たとえば、個人を相手とした対話、指導の場合でも、あるいは多くの人対象に話をする場合でも、時間性に心ををくばり、
また、そこにいる人がどういう機根の人なのか、何を求めている人なのかを察知し、そこで話すべき内容、つまり“法”を明確にすることが必要です。
それらを知ってはじめて、十全な“応”の振る舞いを展開できるわけです。
そして、その全き“応”の立場に立った指導、実践であってはじめて、そこにいる人の意識を変革させ、前進させていくことができるのです。
最後に“応”の立場に一言しておきたいことは、指導者が民衆に応じていくといっても、それは決して、なびいていくというような、
受け身的な姿勢をいったものではないということです。
- 39 :美髯公:2010/07/18(日) 23:51:40
-
民衆が何を求め何を考えているのかを自らの英知で明察し、主体的に、随自意の姿勢で、その民衆の要請に応(こた)えていくのが、
指導者としての“応”のあり方なのです。
すなわち、民衆に応じていくという随他意の側面をふまえながら、民衆の向上と繁栄のために随自意でリ−ドしていく ―
ここに、仏法の中道の姿勢にのっとった、指導者の真のあり方があるのです。
また、半面、そこに指導者の孤高の、人知れぬ億劫(おくごう)の辛労が秘められているともいえましょう。
- 40 :美髯公:2010/07/18(日) 23:53:19
-
= 十界互具論 =
次に、十界互具論について、あらかじめ述べておきたいと思います。
まず、爾前教における十界論の特徴を指摘してみますと、爾前教においては、十界のおのおのを独立したものとして説いているといえます。
たとえば、地獄界というのは、大地のはるか下の方にあるという。あるいは、天界というのはこれと対照的に、世界の中央にそびえるとする
須弥山(しゅみせん)のはるか上方に位置するという。また菩薩界とか仏界というと、何か超絶的なものとされています。
あるいは修羅界というのは、身長が八万四千由旬(ゆじゅん)などといわれ、巨大な怪物のようなものが想定されたりしています。
このように、爾前教においては、十界のそれぞれが孤立したものとして、バラバラなものとして描かれているということができます。
それに対し、法華経では、凡夫がこの身のままで、己心の仏界を開き、即身成仏できることが説き明かされるわけです。
ここに、九界の生命にも仏界を具備していることが示され、十界互具の原理があかされたのです。
これは、衆生の立ち場でいえば、どのような境涯の衆生もそのままで成仏できるということであり、仏の立ち場でいえば、仏といっても、
特別の存在ではなく、具体的にには九界の姿を現ずるということであります。
すなわち、この十界互具は、十界が決してバラバラなものではなく人間生命にことごとく具備しているということを明かしたものであり、
それは、初めて十界論を生命論的にとらえてものということができましょう。
- 41 :美髯公:2010/07/19(月) 22:09:27
-
特に、日蓮大聖人が「観心本尊抄」で説かれている十界互具論は、人間界を中心とした生命論です。人間界所具の地獄界、人間界所具の餓鬼界・・・
人間界所具の菩薩界、人間界所具の仏界というように、人間界を中心に考察された十界互具論であり、生命論です。
大聖人の仏法は、決して抽象論ではなく、生命の実感に立って、具体的に展開されていることがわかると思います。
ここでは、この十界互具論について、もう少し論究していきたいと思います。
今、瞬間の生命というものをとらえてみた場合、生命をひたし、その中核としての“我”を支配し揺り動かす境涯は、
あくまでも十界のなかのいずれか一つの境涯であることがわかると思います。
たとえば地獄の苦悩を実感する“我”は、あくまでも“苦”のうめきをあげるばかりで、決して、そこには、他の人界や天界等の境涯は
あらわれていません。“我”が地獄界に支配されている瞬間は、生命全体が苦悩の極致にあえぐのです。しかし、だからといって、
次の瞬間というものは、必ずしも地獄界であるとは限らない。そこには、天界があらわれるかもしれないし、菩薩界があらわれるかもしれない。
いうなれば、そこに可能性が秘められているわけです。“今”の瞬間が地獄界でも“次”の瞬間には、十界のうちのどの境涯でも顕現する可能性を
はらんでいるわけです。
つまり、現在の瞬間における境涯を、たとえば地獄界とするならば、その地獄界そのもののなかに、他の九界は冥伏していると考えられるのです。
このように、一瞬の生命には、十界のうちの、どの境涯を現じていようとも、そのなかに、他の界々を冥伏させている。
そして次の瞬間にはまた、どの境涯をもあらわす可能性を秘めているという事実、これを説き明かしたのが十界互具論なのです。
- 42 :美髯公:2010/07/20(火) 21:51:23
-
ここで、たとえば、地獄界の苦悩というものを、いったい何が感ずるのか、何が実感するのかという問題がありますが、
それは、生命自体が実感するのです。地獄界の場合には、生命自体に耐えられぬような重さを感ずるのです。下へ下へと引きずられるような重さ、
苦悩の重さです。逆に天界の場合には、何か浮きうきとして、身体がだんだん上の方へ行くように感ずる。生命自体に軽やかさを覚えます。
しかし、ここで重い、軽いといっても、それは物理的な質量的な変化ではもちろんありません。あくまでも生命自体の実感なのです。
これは、同様に時間についてもいえます。
地獄の苦悩の境涯にいる場合は、時間は長く感じられます。この長さというものも生命自体の感じる長さです。これらは、いわば“生命的重量”
“生命的時間”というようにもいえるかもしれません。
この実感というものは、決して意識的なものだけに限定されるものではなく、無意識の世界のなかにもかんじているものです。
それをも見抜いて論じているのが仏法の十界です。
しかし、認識論として十界論、十界互具論を理解しただけでは、なにほどの意味があるといえましょうか。大事なことは人間革命の原理としての
十界互具論が論じられなければならないということです。理の哲学でなく、実践の哲学、事の哲学が大事なのです。
理論的には、私達の生命は、常に十界のいずれの境涯をあらわしていくことも可能であるわけですが、現実には、各自は自らの生命の傾向性として、
十界のなかのいずれかの境涯に強く支配され、いずれかの境涯を基調としていくものです。
たとえば、餓鬼界を基調とする人は、一応、縁によっては、あるいは天界をあらわしたりはしますが、全体的傾向としては餓鬼界に走りやすい。
それは、ちょうど餓鬼界を住所とし、わが家としているようなものです。
- 43 :美髯公:2010/07/21(水) 23:53:57
-
このような、その人の生命的傾向性、基本的パ−ソナリティ−というものは、その人の生い立ちや人生観、生活環境など、より本質的には
宿業によって規定されると考えられますが、大事なことは、この、その人の基底部、基調となっている境涯、生命の住所というものを、
どう転換し、向上させていくかということです。この境涯を転換することこそ「人間革命」です。
ところで、瞬間瞬間に変転する生命の境涯というものは、外界の縁によるもので、極めて受け身的なものです。
その受け身的な生命作用のなかにありながら、なお主体的、能動的に、生命の基底部を確たるものにし、人生・生活を変革し向上させていこうと
するのが、私達の信仰の実践です。
御本尊を信仰するのは、最高の境涯である“仏界”を、わが生命の基底部として確立することを目指すものにほかなりません。
もちろん、日々の生活の実際は、縁によって刻々と変わります。九界、六道の変化を現ずるのは当然です。しかし、御本尊を根本にし、御本尊に
向かうということ自体は、仏界を基調とした人生・生活を行なっていくということであります。
したがって、その人の、刻々変化する地獄界から菩薩界までの九界の生活のうえには、御本尊の力、その人の仏界の生命の力というものが
あらわれてくるのです。御本尊を根本にした九界の生活に変えていけるということです。そこに、その人の人間としての本然的な力を限りなくあらわし、
慈悲その他の諸徳性をもって社会に貢献していくことができるようになるのです。
日蓮大聖人の宗教が単なる理の哲学ではない、不幸の民衆を人間革命せしめる事の哲学、実践の宗教であると主張するゆえんであります。
- 44 :美髯公:2010/07/22(木) 23:18:46
-
= 一念三千の出処をあぐ =
それでは「観心本尊抄」の本文に入りたいと思いますが、その前に「観心本尊抄」の構成について若干ふれておきましょう。
前にも述べましたように「観心本尊抄」では、末法下種の本尊を明かされているわけですが、それを説き明かすにあたって、
大きく四段に分かれています。
第一段は「摩訶止観第五に云く」から「金錍論(こんぺいろん)に云く『乃ち是れ一草・一木・一礫(りゃく)・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を
具足する』等云云」(全 P.238 ① から P.239 ⑱ まで)です。ここでは、一念三千の出処を示され、観心の本尊を明かす序分となっています。
第二段は「問うて曰く出処既に之を聞く観心の心如何(いかん)」から「妙楽大師云く『当に知るべし身土一念の三千なり。故に成道の時此の本理に
称(かの)うて一身一念法界に遍(あまね)し』等云云」(全 P.240 ① から P.247 ⑧ まで)です。
ここでは、観心の本尊の「観心」について論じられています。
第三段は「夫れ始め寂滅道場・華蔵世界より・・・・」から「天晴れぬれば地明らかなり法華を識る者は世法を得可きか」(全 P.247 ⑨ から
P.254 ⑰ まで)です。ここでは、末法に建立される三大秘法の大御本尊をあかされています。
第四段は「一念三千を識らざる者には・・・・」から最後(全 P.254 ⑱ から P.255 ① まで)です。ここでは、末法の御本仏である日蓮大聖人が
大慈悲を起こされ、大御本尊を顕(あら)わして末代幼稚の衆生に信受せしめることを結としておられます。
- 48 :美髯公:2010/07/24(土) 22:32:53
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今回の講義では、各段の重要な部分を取り上げて学んでいきたいと思います。
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摩訶止観第五に云く(世間と如是と一なり開合の異なり)
「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、
此の三千・一念の心に在り若心無くんば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所似に称して不可思議境と為す意此に在り」等云云(或本に云く
一界に三種の世間を具す) (全 P.238)
====================================================================
まずこの御文を通解しますと ― 摩訶止観の第五には次のように述べている(三千世間と三千如是とは一である。開合のしかたが違うのみである。)
「それ一心には十法界を具している。一法界にまた十法界を具しているので百法界となる。この百法界の一界に三十種の世間を具しているので、
百法界即ち一心に三千種の世間を具することになる。この三千世間は一念の心にあり、もし心がなければ三千を具すことがない。
少しばかりの心でもあれば即ち三千を具すのである。乃至、ゆえに不可思議境と称するのである。元意はここにあるのである」― となります。
この御文は「観心本尊抄」の四段の構成のうち、第一段の最初の文で、一念三千の出処が示されているところです。
まず冒頭において「摩訶止観」第五の巻きの文がかかげられているかを考えてみましょう。
- 49 :美髯公:2010/07/24(土) 22:34:49
-
経文などを読む場合、仏法では二通りの読み方があります。それを附文(ふもん)の辺、元意(がんい)の辺といいます。附文の辺とは、文字通り、
一往の浅い表面上の読み方をいいます。元意の辺とは、附文に対する言葉で、再往深秘の、本質をとらえた究極の読み方をいいます。
そこで、冒頭の「摩訶止観」の文についても、附文の辺と元意の辺との読み方があるわけです。
大聖人が「観心本尊抄」の冒頭に「摩訶止観」第五の巻の文をかかげられた理由は、附文の辺では、この文が一念三千の出処を示しているからです。
一念三千の理論は、釈迦仏法の理論的解明、哲学大系の最高峰です。したがって、この、文は、そのエッセンスを述べたものといえます。
「観心本尊抄」が、この文から始まっているということは「観心本尊抄」が釈迦仏法の究極に立ったうえでの、更に一歩深い展開であるといえるのです
。
「観心本尊抄」は、仏法哲理の究極の生命哲学の書といえるものであることを、まず、しっかりと心におさめていただきたいと思います。
次に「摩訶止観」第五の巻を引用された大聖人のお心を、元意の辺からいいますと、この文は観心の本尊の依文となります。
この点については、日寛上人が「文段」で、元意の辺から詳しく論じておられます。ここで、それをまとめてみましょう。
まず「夫れ一心」とは、久遠元初の自受用身の一念の心法である。これは即ち、御本尊に約して考えれば、
中央にしたためられている南無妙法蓮華経になるというのです。
次に「十法界を具す」等とは、御本尊の左右にしたためられている十界互具・百界千如・三千世間をさすのであると。
「此の三千、一念の心に在り」等とは、この一念三千の本尊は、全く余所にあるのではない、ただ私達衆生の信心の中にある。
だから「此の三千、一念の心に在り」というのだと。
- 50 :美髯公:2010/07/25(日) 22:47:42
-
また「若心無くんば而已」とは、もし信心がなければ一念三千の本尊を具足しないというのです。
「介爾も心有れば即ち三千を具す」とは、もし、刹那(せつな)も信心があれば、即ち一念三千の本尊を具すのであると。
つまり、一念三千の本尊を具すことができるかどうかは、信心の有無によるのです。
大聖人は「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(全 P.1244) といっておられますが、私達が肝に銘じなければならないところです。
「不可思議境」とは、妙境、即ち南無妙法蓮華経の本尊ということであると。
「意此に在り」とは、もし一念の信心があれば、即ち一念三千の本尊を具すのであり、天台大師の深意は、まさしくここにあるのであると。
以上、日寛上人の「文段」をまとめてみましたが、元意の辺から、冒頭の「摩訶止観」の文を読んでみますと「夫れ一心に、即ち久遠元初自受用身の
一念の心法に十界を具す。その一法界に十法界を具すれば百法界である。一界に三十種の世間を具すれば、百法界に即ち三千種の世間を具す。
即ち日蓮大聖人ご自身の一念の心法は即一念三千の当体である。この一念三千の御本尊は、実は我等衆生の信心の一念の心にあるのである。
もし信心がなければ、一念三千の御本尊を具することはない。少しでも信心があるならば、一念三千の御本尊を具するのである。乃至、故に称して、
御本尊こそ、我等衆生の観心を成ずることができる不可思議境とするのである。天台大師の元意は、まさにここにあったのである」という意味に
なるのです。
- 51 :美髯公:2010/07/27(火) 00:37:09
-
=“一心”と“一念”について =
「観心本尊抄」の冒頭にかかげられた「摩訶止観」第五の巻の文について、元意の辺から通解しましたが、
次に「世間と如是と一なり開合の異なり」ということについて、少し説明を加えておきましょう。
天台大師は「摩訶止観」で、初めて一念三千を明かしましたが、三千の数量を明かすのに、開釈・結成(けつじょう)と二通りの明かし方があります。
開釈の立ち場というのは、一心 ― 十界 ― 百界 ― 三百世間 ― 三千如是と如是に約して展開する場合です。また、結成の立ち場というのは、
一心 ― 十界 ― 百界 ― 千如是 ― 三千世間と世間に約して展開する場合です。如是に約す場合でも、世間に約す場合でも、一念三千という法数は
同じです。だから「世間と如是と一なり」というのです。
しかし、三千という法数は同じでも、その「開合」の仕方が違います。「開」とは、わかりやすくいえば、広げる、展開するという意味で、
「合」とは、まとめる、縮めるという意味ですが、如是に約した開釈の立ち場では、三百世間 ― 三千如是と、世間を「合」して三百とし、
如是を「開」して三千としています。これに対して、世間に約した結成の立ち場は、千如是 ― 三千世間と、如是を「合」して千とし、
世間を「開」して、三千としています。このように、法数は同じでも「開合」の仕方が異なるので「開合の異なり」というのです。
この一念三千を明かす二通りの立ち場を、迹門と本門に分けることができます。つまり、如是に約して一念三千の数量を明かすのを迹門の立ち場、
世間に約して一念三千の数量を明かすのを本門の立ち場というのです。
- 52 :美髯公:2010/07/27(火) 21:52:52
-
なぜ、世間に約して一念三千を明かす立ち場を本門というかといいますと ― 法華経の迹門では、まだ国土世間が明かされていません。
国土世間が明かされず、三世間が整足しない以上、完全には、一念三千が明かされたことにはなりません。
しかし、本門に至って、初めて国土世間が明かされ、ここに、事実のうえで一念三千が完結するわけです。
この国土世間など三世間が明かされることによって、一念三千が完結するということを、私達の仏道修行の面から考えますと、
非常に大事な意味をもっています。
つまり、私達が御本尊を信じ、勤行・唱題に励むことは、まあ、いってみれば、私達自身のみの修行であり、それだけであれば、三世間のうちの
五陰(ごおん)世間だけがあらわれた、いわば“一念一千”の範囲を出ません。やはり、衆生世間、国土世間に、なんらかの力を発揮し、証拠を
示していかなければなりません。
信心し、人間革命した私達が、人間社会、地域社会へ、信心の実証を示して、初めて一念三千が完結したといえるわけです。
次に「摩訶止観」第五の巻の文の中に「夫れ一心に十法界を具す」とか「此の三千・一念の心に在り」とありますが「一心」 「一念」ということに
ついて述べてみましょう。
「一心」 「一念」といっても同義であって、ともに自身の内より発動する根源の実体 ― つまり、生命それ自体をさすのです。
「一心」 「一念」の「一」とは、単に数量的な「一」という意味ではなく、一実相、中道法性をさして「一」というのです。色心、因果、有情・非情、
生命活動を支えているよりどころのすべてを包含した生命全体を「一」といい、その生命を「一心」 「一念」というのです。
したがって、仏法でいう「一心」 「一念」というのは「一つの心」 とか「心に深く思いこむ」などといった普通に使われている意味とは違うのです。
- 53 :美髯公:2010/07/28(水) 23:31:33
-
天台は、この「一心」 「一念」に三千の差別相を具しているとして、一念三千論を説いているのですが、十界、千如是、三千世間というのは
「一心」 「一念」という生命に備わった、生命の働き、特質等と考えることができます。天台が述べている“心王(しんのう = 生命活動の根本、
生命の本源)”と“心数(しんじゅ = 生命の作用、働き)”というのも、この“一念”と“三千”の関係と同じことです。
ところで、この「一心」 「一念」を元意の辺からいいますと、前にも述べましたように南無妙法蓮華経の御本尊になるのです。
日寛上人が「文段」で 「『 夫れ一心 』というは即ちこれ久遠元初の自受用身の一念の心法なり。故に一心という。即ちこれ中央の南無妙法蓮華経なり」
(聖教文庫 P.61)と述べられておられる通りです。
では「一心」 「一念」がなぜ南無妙法蓮華経になるかについて考えてみたいと思います。
天台は、一念三千を、自分の生命を、じと内観し、思索によって悟りました。「一心三観」とか「観念観法」といわれるもので、
瞑想的な修行によって、自分自身の生命の中をみつめていったのです。
しかし、それによって、天台は一念三千の理論的解明はできたけれども、天台が心の中にいだきながらも、明らかにすることをさけた生命の奥底の
実体があるのです。
天台は「後の五百歳遠く妙道に沾(うるお)わん」(全 P.259) などと、末法における大仏法の流布を予言しているわけですが、末法において広まるべき
仏法の本体(本尊) については、具体的に述べてはおりません。つまり、生命の実相について、一念三千という理論的解明は行ったけれども、
生命の奥底の実体を具体的に顕すことができなかった。そこに、天台仏法における限界があったわけです。ここに、天台の一念三千が理の一念三千と
いわれる理由があるのです。
- 54 :美髯公:2010/07/29(木) 22:54:58
-
ところが、日蓮大聖人は、天台が一念三千として理論的に解明した、生命の奥底の実体を、南無妙法蓮華経の御本尊として具体化されたのです。
大聖人による御本尊のご図顕によって、事実のうえで一念三千が完結することになったわけです。
大聖人は、南無妙法蓮華経の御本尊を具体化された立ち場で、この「摩訶止観」第五の巻の文を引用されているのですから、「一心」 「一念」とは、
自受用身の一念の心法、すなわち南無妙法蓮華経の大生命となるのです。
その生命を立体的、生命観的、動的なもの等として把握し、更に生命の事実存在を解明し体系づけたのが大聖人の一念三千論といえるのです。
一念と三千世間、つまり、根源の生命それ自体と、その働きを考えるにあたって、次の一文は示唆される点があるようにに思われますので、
参考としてあげておきたいと思います。
「いわば個々の生命は生命の大海原の上に動く一つ一つの波にも等しい。しかも人間はその大海をを忘れ、自ら萎縮して自己の無力をかこっている。
人間に生命力を与えるとはまさにその根底の大生命を自覚せしめることでなければならぬ。真の慈愛とは物質を与えることではなく、
各人をしてその生命本来の姿を悟らしめることである。この意味においてもっとも深い慈愛は道徳的であるよりも哲学的である」(澤瀉久敬著
「医学概論」 第二部)
- 55 :美髯公:2010/07/30(金) 22:38:26
-
= 説己心中所行法門 =
「摩訶止観」第五の巻の文のうち「此の三千・一念の心に在り若心無くんば而已介爾も心有れば即ち三千を具す」について、述べてみましょう。
この文の意味は、前に述べたように、元意の辺でいえば「この一念三千の本尊は全く余所にあるのではない。
ただ、我等衆生の信心の中にあるのである。だからもし、信心が無かったならば、一念三千の本尊を具すことはない。少しでも信心があれば、
一念三千の本尊を具すのである」ということになります。
この文は、理と事の立ち場から考えることができます。
「文段」に「若し理に依って論ずれば法界に非ざるなし。今、事に就いて論ずれば信不信に依り、具不具則ち異なるなり」(聖教文庫 P.63) と
あります。つまり、理論的、一般的に論じたならば、全ての衆生は、一念三千の当体であるわけです。しかし、今、事実のうえで具体的に
論じたならば、信心があるかないかによって、具不具 ― 一念三千の本尊を具するか具さないかが決まるのです。
この「信不信に依り、具不具則ち異なるなり」ということは、さまざまな観点から論ずることができますが、私達の生命を機械に譬えて、
次のように考えることができます。
信心がある場合には、己心にある三千の全ての機械が動くわけです。すなわち、生命全体が精密に完ぺきに動き、思う方向へ進むことができるのです。
これが“具”です。ところが、信心がないというのは、全体の機械はあるが、その機械が発動しないようなものです。欠陥機械であって、実際には、
利用できなかったり、さまざまな問題を引き起こすことになります。これが“不具”です。
- 56 :美髯公:2010/07/31(土) 23:58:34
-
また、次のように考えることもできます。
大聖人は、宇宙を動かしている究極の本体を、御本尊として顕わされました。一方、私達の生命も小宇宙であって、三千の働きがあります。
だから、宇宙を動かしている根本と、自身の生命の根本とが合致したとき、その三千の働きの全てが根本軌道に乗っていく。つまり“具”です。
ところが、その根本軌道をはずれてしまいますと、私達自身の生命に偏向を生じます。つまり“不具”となるのです。
以上にように、あらゆる人々は、一念三千の当体といってみても、それは理のうえでのことであって、一念三千の生命が、バランスを保ちながら
発動していくためには、信心の力がなければならないのです。一般的にみて、たとえば、学者は学者として、専門分野においては、すぐれた力を
持っています。しかし、その人自身、人間として、生命体として、すぐれたものであるかどうかは別です。
もし、専門分野ではすぐれていても、人間として、生命自体として、完ぺきに発動しておらず、どこかに偏向した、片寄ったものであったとしたならば
“不具”といわざるをえません。
事実のうえで円満円融の人格、躍動する生命を生み出すものこそ、御本尊に対する信心であるのです。
さて、次に「問うて云く玄義に一念三千の名目を明かすや」から「章安大師兼ねて此の事を知って嘆いて言く『斯の言若し墜ちなば将来悲しむべし』
云云」まで(全 P.238 ⑤ から P.239 ⑦ まで ) ですが、この部分は“正(まさ)しく一念三千の出処を示す”部分のうち「法華玄義」や「法華文句」、
更に「摩訶止観」の第四の巻までは一念三千を明かさないことを示すところと、その結びに当たるところです。この部分で特に大事と思われる点を
二点ほどあげて考えてみたいと思います。
- 57 :美髯公:2010/08/02(月) 00:06:52
-
====================================================================
「故に止観の正しく観法を明かすに至って並びに三千を以て指南と為す乃ち是れ終窮究竟の極説なり故に序の中に『説己心中所行法門』と云う
良に似所有るなり請う尋ね読まん者心に異縁無れ」等云云 (全 P.238 ⑭ から P.239 ② まで)
====================================================================
まずこの御文を通解しますと ― 故に「摩訶止観」に至ってまさしく観法を明かすに際に三千をもって指南となした。すなわち、これが終窮究竟
(しゅうぐくきしょう) の極説である。故に止観の序の中に「己心の中に行ずる所の法門を説く」といっているが、天台大師の己心に行ずる自行の法門が
則ち一念三千であるとは、まことに理由の深いことである。こい願わくは、たずね読まん者、この点において心に異縁を生じてはならない ―
となります。
ここでは「説己心中所行法門」がポイントです。これは、通解で述べましたように「摩訶止観」の序文にある言葉で「己心の中に行ずる所の法門を
説く」と読みます。天台が、己心の中に行ずるところの法門を説いた。今まで誰もいわなかった極説中の極説を説いたというのです。
釈迦の説法は、具体的な事例、さまざまな譬喩を駆使して展開されていますが、それを教相の面だけで追究しても生命の実体というものを
とらえることができません。天台は、生命を内なる己心の中に観じ、そこでとらえて生命の実相を、一念三千と体系化したのです。
だから「摩訶止観」で明かした一念三千の生命哲理が、天台の「説己心中所行法門」となるのです。
- 58 :美髯公:2010/08/02(月) 22:12:12
-
大聖人の場合では、三大秘法の御本尊の建立が、大聖人の「説己心中所行法門」です。御本尊は、大聖人ご自身が悟られ、ご自身の境涯の中に
あったものを説き、顕わされたものであるからです。
更に、この文を私達の立ち場で考えれば、仏法を己心の外に置くのではなく、自分自身の生命の問題として把握すべきことを意味しています。
「己心の中に行ずる」とは、私達の生命活動です。暑いとか、楽しい、恋しいといった瞬間瞬間の生命活動といえます。
そして、その瞬間瞬間の生命活動を発動する場が生活であり、社会です。目に見えない「己心の中に行ぜられた所の法門」は、目に見える現実生活の
中に厳しく現れてくるのです。だから、私達の生活そのもが「己心の所行の法門」を説いている姿であるといえます。
そこには信心しているからなんとかなるだろうといった甘い考え、安易さは許されません。私達が観心の本尊を受持したからには、具体的な生活の場、
社会の場に、人間革命した実証を示していくことが、私達信仰者の姿勢であるべきです。これが私達の「説己心中所行法門」であるのです。
====================================================================
「斯の言若し墜ちなば将来悲しむべし」(全 P.239 ⑦)
====================================================================
この御文の通解は ― この一念三千の法義がもし将来失墜するようなことがあれば実に悲しむべきことである ― となります。
- 59 :美髯公:2010/08/06(金) 00:44:13
-
これは、令法久住の精神が示されているところです。伝持の人がいなければ、どんなに優れた法であっても永続することはできません。
一人一人が伝持の人として育つとともに、伝持の人を陸続と養成していく必要性を痛感させられる御文です。
また、仏法の根本義、本質が失われたり、いいかげんに考えるようになったならば、仏法の久住はありえない、ということです。
そうさせないのが私達の使命であると銘記して、生涯求道の信心で、各自の活動、広布の活動に励んでいきたいものです。
- 60 :美髯公:2010/08/06(金) 00:45:23
-
= 人界所具の十界 ① =
では次に「問うて曰く経文並びに天台章安等の解釈は疑網無し」から「末代の凡夫出生して法華経を信じるは人界に仏界を具足する故なり」
(全 P.241 ⑤ から 同 ⑮ まで) の部分に移りたいと思います。
この部分は「観心本尊抄」の四段のうち、第二段(観心を明かす) の部分に当たるところで、今回学ぶところは、そのうちの私達、人間の生命に
十界を具していること、つまり、人界所具の十界があかされているところです。
十界とは、皆さんもよくご存知のように、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界のことです。
この十界のそれぞれについては、後ほど本文に入ったときに説明してみたいと思いますが、前に十界互具論のところで述べましたように、
法華経以前の教えでは、十界はそれぞれバラバラに、固定したものとして説かれています。それに対し、法華経では、地獄界の悪人である堤婆達多や、
畜生界の竜女の成仏など、九界の凡夫が仏界を現ずることを説いて、十界互具の原理を明かします。ここに、十界が、人間生命にも、
ことごとく具備していることが明確となり、十界論が生命論的にとらえられることとなったのです。
大聖人は「観心本尊抄」のこの個所において、一個の生命に十界の全てが本来備わっていることを、生命の変化する姿を通して、
示されているのです。それはまた、十界互具を、具体的な事例のうえから説かれたものでもあります。
- 61 :美髯公:2010/08/06(金) 22:09:35
-
====================================================================
数ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は謟曲なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・
謟曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり他面の色法に於いては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現れざれども委細にに之を尋ねば
之れ有る可し (全 P.241 ⑦ )
====================================================================
この御文は、法華経の文や、天台、章安等の解釈にも、十界互具が説き明かされていることはわかった。しかし、他人の姿を見てみると、
ただ人界ばかりであって、他の九界はみられない。自分のことを考えてみても人界ばかりである。どうして十界互具が信じられようかという質問に
対する答えです。
まず、この御文の通解をしてみますと ― しばしば他人の姿を見てみるに、ある時は喜び、ある時は瞋(いか)り、ある時は平らかに、
ある時は貪(むさぼ)りの相を現じ、ある時は癡(おろか)を現じ、ある時は謟曲(てんごく)である。これらは皆六道の輪廻(りんね)であって、
瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡は畜生、謟曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人間である。このように他人の姿には、六道が全て具備している
のであり、四聖(声聞、縁覚、菩薩、仏)は冥伏していて日常に現れないけれども、詳しく捜し求めれば必ず具備しているのである ― となります。
私達人間は、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、笑ったりと、実にさまざまな姿を示します。大聖人は、そういった人間の生命のさまざまな働き、
特質を取り上げて、人間に十界が備わっていることを、わかりやすく教えておられます。
- 62 :美髯公:2010/08/08(日) 22:09:54
-
まず、「瞋るは地獄」ということについて述べてみましょう。
「地獄」の「地」とは最低ということであり「獄」とは拘束された不自由な境涯を意味します。すなわち、最も低い、不自由な苦しみの境涯が地獄と
いえるのであり、それは喜びも、楽しみも、希望もない、のがれることのできない悲惨な生命状態ということができます。よく災害などのありさまを
「地獄絵図のようだった」といいますが、地獄のような状態は、現実社会の中に、実際あるのであり、そういう現実におかれた私達の生命は地獄の
苦しみを味わうことになります。
ところで、大聖人が、地獄を「苦悩・懊悩」というより「瞋り」と規定されているのは、苦悩・懊悩の本源が、感情に引きずり回され、
支配されるところにあることを示されているのだと思われます。
「瞋り」というのは、修羅闘諍(しゅらとうじょう)といった怒りと違い、生命にこもった、どうしようもない、煮え返り、焼きつくような生命の状態と
考えられるのではないでしょうか。
私達の生命が、そのような生命に支配された時に、のがれることのできない苦しみ、不幸というものを感じるのではないでしょうか。
「貪るは餓鬼」とは、欲望に支配され、不満足を感じ、絶えず何かを求めて已まない状態といえます。
欲望はだれにでもあるものです。食べ物、衣類、住居、レジャ−などに、私達の欲望は果てしなく広がるものですが、物質文明に魅入られた現代人は、
まさに欲望のとりこになってしまったかのような感をおぼえます。欲望の炎が燃えあがればあがるほど、その欲望が満足されないときの苦しみは
大きなものとなります。そういった意味で、欲望のとりこになった現代人は、不幸な、危険な状態に置かれているといえるのではないでしょうか。
- 63 :美髯公:2010/08/09(月) 21:03:27
-
しかし、私達の欲望心そのものが、悪いとはいえません。「餓鬼」は善悪に通じるのです。
科学技術の発達や、豊かな物質、高度な精神文明などは、人間の「餓鬼」なる生命が、その推進力となっているからです。
しかし、欲望に支配されてしまうと「餓鬼」なる生命は、人間を不幸へと導いていってしまうのです。現在、大きく問題とされている公害などは、
その典型的な例といえます。
では、次に「癡は畜生」ということについて考えてみましょう。
「畜生界」とは、名の通り、魚や鳥、獣のような境涯をいいます。理性や倫理などをもたず、本能のままに行動する生命状態であって、
弱いものと見れば襲いかかり、強いものはさけようとする生命、弱肉強食の世界は、畜生界です。
どころで、大聖人が「癡」をもって畜生界とされたことは、動物が人間のような理性や知性、英知をもたないことの本質をとらえて、
いわれたことと思われますが、「癡」を「畜生」とされたことは、非常に深い意味をもっています。
すなわち「癡」という面から、私達の生命状態を考えれば、理性によるコントロ−ルがきかないことや“生命とは何か”“人間とは何か”といった
根本的、本質的な問題にに無知であることも「癡」といえるのであり、その「癡」によって引き起こされた生命状態が畜生界といえることになります。
したがって、人間としていかに生きるべきかを知らない、また、見失っている人の人生というものは、畜生界に支配された、極言すれば、
動物とかわることがない人生といえるわけです。
- 64 :美髯公:2010/08/10(火) 21:59:23
-
= 人界所具の十界 ② =
前回に引き続き、人界所具の十界のうちまず「謟曲なるは修羅」について考えてみましょう。
「謟曲」とは、へつらい、曲がれる生命状態ということです。正しい道理をも歪(ゆが)めてとらえる邪智の生命は修羅界にあたります。
また、修羅闘諍といわれるように、常に他に勝れようとする勝他の念にかられて争う生命であると定義できます。
表面上は、礼儀をわきまえ、調子よく人の気持ちに合わせて付き合いをしていても、心の中では、相手に勝れようとする気持ちや、
おとしいれようとする気持ちが渦巻いている者同士の話し合いの場面などは、まさに、修羅の場ではないでしょうか。
この修羅も、餓鬼と同じように善悪両面に通ずるものです。
たとえば、勝他の念が強いということは、見方を変えれば、自我意識が非常に強いことのあらわれともいえますが、この自我意識が正しく
発揮されたならば、個人主義として生きてきます。しかし、自我意識が強く発揮されたときは、自分の利益のみを考える利己主義に陥ってしまいます。
この善悪両面を持つということが、生命の問題を複雑にしているものでもありますし、私達の人生においては、そのコントロ−ルということが
大きな問題となってくるわけです。
- 66 :美髯公:2010/08/11(水) 21:54:31
-
次に「平らかなるは人」ということですが、人界とは一言でいえば「平らか」 ― つまり、平穏な生命状態です。
常識的な世界であるともいえましょう。
よく“人間らしく生きよう”といわれますが“人間らしく”というのは、さまざまな意味を含む言葉ですし、実際、そのように生きようとすることは、
非常に難しいことです。そこで「平らか」という人界の特質を、生き方という観点から少し考えてみましょう。
「平らか」な境涯とは、平静、安定、良識、調和などの言葉で言いあらわせますが、生き方という面からみるとき、そこには、建設的な姿勢、
進歩性、正義性という面、更に、鋭さなど、生き生きとした瑞々(みずみず)しい躍動感がなければならないといえます。
また、私達の行動は、諦観的、静的なものと、情熱的、動的なものがあります。いわば、これは、行動の両極端なものですが、「平らか」という場合、
この二つをふまえながら、中道の、人間性にあふれたものであることが望ましいのです。このことは、私達の布教活動においても、
よく考えていかなければならない点でもあります。
更に、人格形成ということがよくいわれますが、人格ということも「平らか」ということから単に「善良」なものという感じでとらえられがちです。
しかし、そのなかにも、鋭敏さ、洞察力、力ある人格という面が必要だといえます。
ともあれ、私達にとっては、四聖、仏界といっても、人界がその出発点となるのですから、人界については、更に深い思索、検討をしていきたい
ものです。
- 67 :美髯公:2010/08/12(木) 22:27:49
-
次に「喜ぶは天」について考えてみましょう。
天界は「喜ぶは天」とあるように、欲望が充足したときに現れる、楽しさ、喜びに満ちた生命状態といえます。
しかし、天界の喜びは「五衰(ごすい)をうく」といわれるように、やがては、花がしぼむように消えてしまうのです。“魔は天界に住む”などと
いいますが、喜びが一転して悲しみに変わる要素をはらんでいるのが、天界の特徴といえます。結局、永遠的な喜びではないのです。
以上、十界のうち地獄界から天界までを六道といいます。これに対して、声聞、縁覚、菩薩、仏を四聖といいます。
ここで、四聖のそれぞれについおて、簡単に述べておきたいと思います。
声聞界とは、仏の教えを聞いて悟りを開く、つまり、先哲の教えを学び、そこに永遠の真理を探ろうとするものです。
生命論的にいえば、先哲の教えを通して、物事の道理や、あり方といったものを知ることに、生きがいを感じている生命状態といえます。
具体的には、学者、研究者などが、これに当たるといってよいでしょう。
縁覚界とは、独覚(どっかく)ともいって、飛花落葉などの自然現象等を見て、そこからひとりで、なんらかの法理を悟り究めようとすることです。
具体的には、芸術家や、いわゆる名人といわれる人達の生命のなかに見ることができます。
この声聞と縁覚を二乗といいます。
次に、菩薩界ですが、御書に「菩薩界とは六道の凡夫の中に於て自身を軽んじ他人を重んじ悪を以(もっ)て己(おのれ)に向け善を以て他に与えんと
念(おも)う者有り」 (全 P.433 ⑩) とあります。つまり、六道という現実世界のなかにおいて、自分をなげうってまでも他人を幸福にしていこうとする
生命状態ということができます。
- 68 :美髯公:2010/08/15(日) 22:02:45
-
最後に仏界ですが、十界のうちで最高の境涯です。その姿は、簡単に述べることはできませんが、なにものにも左右されず、なにものにも
侵(おか)されない、生命力のあふれた、歓喜のなかの大歓喜ともいうべき最高の生命状態といえます。
以上、四聖については簡単にふれましたが、それぞれの違いや実践面からのとらえ方等については後の講義の部分で述べたいと思います。
さて、前に引用した本文に「他面の色法に於いては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現れざれども」 (全 P.241 ⑧) と、六道と四聖とが分けられて
述べられていますが、これには深い意味があると思われます。
六道の生命というのは、外界の縁に応じて、反射的に起こってくる、いわば、本能的な生命状態といえます。それは、多分に受動的であり、
変動してやまない無常のものです。そこには主体性はありません。そして、この六道の生命は、六道輪廻(りんね)といわれるように、まわりめぐると
されています。これに対して、この六道輪廻の日常生活を超克して、自らの意思で、積極的に内面の変革を目指そうとするのが、
声聞以上の四聖であるといえます。
つまり、人生の生き方という観点から十界論を考えたとき、六道と四聖の立て分けは、六道を果てしなくめぐるような人生、天界の喜びのみで
満足するような人生ではいけないという、人生に対する反省がなされているのであり、更に、六道から脱皮し、永遠に崩れることのない幸福を
築いていこうとする仏法の積極的な姿勢を示しているといえます。
- 69 :美髯公:2010/08/17(火) 21:59:57
-
心の中のものは、物質界を超えたものであるため、目で見、手でさわることはできません。しかし、一面、それゆえに物質界の無常性にしばられない
常住性をもつことができるといえます。四聖とは、こういった、より高度の世界を追求しようとする生命であり、そこに六道とは大きく違いが
あります。
したがって、私達の人生において、幸福を物質的、環境的条件にのみ求めていこうとするのは、六道的域を出ないものといえますし、そうではなく、
生命それ自体の変革、充実という本質的、根源的な面に幸福を求めようとするのは、四聖的生き方といえましょう。
- 70 :美髯公:2010/08/17(火) 22:01:54
-
= 人界所具の十界 ③ =
これまで、人界所具の十界、つまり、人間に十界が備わっていることと、更にはその十界の一つ一つについてそれぞれの生命状態を、
簡単に概説してきました。しかも日蓮大聖人は、十界を単に認識論として終わらせるのではなく、人生の生き方という倫理的、価値論的な観点から
とらえられたということも述べました。
それが、六道と四聖との立て分けです。六道の生き方については、これまでにも、さまざまな角度から説明してきましたので、
これからは、四聖の生き方とはどういうものか、それぞれの違いはどうか、などについて、特に実践面に焦点をあてて、説明したいと思います。
まず、初めに、声聞・縁覚の二乗から入りましょう。
===================================================================
所以に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗無からんや (全 P.241 ⑫)
===================================================================
少し前に説かれた「他面の色法に於いては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現れざれども」 (全 P.241 ⑧) との文に対して、六道については
不分明ながら人界に備わっていることがある程度わかったが、四聖は全く見えないけれどどうか、との問が出され、その答えの一節がこの文です。
- 71 :美髯公:2010/08/18(水) 21:57:17
-
この文の説明に入る前に、答えの冒頭の「前には人界の六道之を疑う、然りと雖も強いて之を言って相似の言を出せしなり四聖も又爾る可きか
試みに道理を添加して万か一之を宣べん」 (全 P.241 ⑪) について、少し考えておきましょう。
六道と四聖、すなわち十界の生命は、ずばりと言葉では説明できません。人間の言葉でとらえうる範囲を超えたところに、
生命の不思議さがあるのです。
そのことを、この冒頭の文は述べています。したがって、あえて十界を説明しようとすると、ここにもあるように「強いて之を言って相似の言を
出せしなり」となるのです。すなわち、六道なら六道を説明するのに、少しでも、それらに近く似ている言葉や事例でもって、
説明する以外にはないのです。
四聖を説明する場合も、同じであると述べられています。「試みに道理を添加して万か一之を宣べん」とあるように、世間の常識的な道理をも
加えながら述べ、わずかでもこれについて理解させることにしようといわれています。
これを見ても、動的な生命の様態を人々に理解させるのがいかに大変なことであるかがわかります。
したがって、本尊抄を拝読する私達も、大聖人が誠実こめて説かれる説明を、安直に受け止めるのではなく、大聖人の説明を土台にして、深く思索して
いきたいものです。
- 72 :美髯公:2010/08/24(火) 22:07:12
-
少し前置きが長きなりましたが、いよいよ、四聖の中の二乗とは何か、人界に二乗が備わっているとはどういうことかにゆいて学んでいきたいと
思います。
まず、先にあげた文を通解してみますと ― すなわち、世間の姿を見るに有為(うい)転変のありさまが眼前にある。この無常を日夜見ていることは
人界に二乗界のある証拠ではないか ― となります。
声聞・縁覚の二乗というのは、六道の現実世界が無常で、はかないものであると見抜いたところから常住のものを求めようとする生命です。
したがって、人が世間の全ての現象が無常を免れることができないと感ずること自体、二乗の境涯を備えていることの証明です。
たとえば、どんな人でも、自分の年齢が増すにつれて、行く末、来し方を思って、人生の移り変わりをしんみりと感ずるときがあるのでは
ないでしょうか、また昨日までは栄華を誇り、何不自由のない生活を謳歌していた人が、一瞬にしてざ折して転落せざるをえないという状態や
その逆の場合など、私達の周囲には、あまりに多く見受けられます。それを見て、世の中の転変の無情さと、はかなさを感ずる人も多いでしょう。
これらは全て、人界に二乗の生命が備わり、その生命が働いている証拠といえます。
しかし、六道の日常性に埋没していたのでは、世間の無情を観ずることはできません。あくまで、人生や自己自身を客観視し、省察していく姿勢の
中に、初めて世間の無常を観ずることができるのです。したがって、前述した例のように、人生や世間の有為転変を感ずるとき、
知らずしらずのうちに、人生や世間そして自己自身を省察し、客観視しているのです。
- 73 :美髯公:2010/08/25(水) 22:01:15
-
さきに、二乗は、六道の無常を見抜き常住の世界を求めようとする生命であると述べましたが、これが人間の生き方としてはどのようになるかを
考えてみたいと思います。声聞と縁覚の相違については前回述べましたが、その生きる道はいずれも灰身滅智する以外にないことで共通しています。
声聞も縁覚も、無常の現実界を離れたところに永遠・常住なものがあるとして、自分一人の内面に閉じこもり、観念の世界をさまよい、その結果、
現実のものである自分をも否定することになるのです。
観念の世界は、いつ果てるともなく続き、最終的には、観念を発動させる源泉である自己の肉体や智慧をすら否定せずには止まらないという宿命を
蔵しています。つまり、身を灰にし智を滅する以外にないのです。私達にも、この二乗の生命を具している以上、こうした灰身滅智の方向にも
いく可能性があるので、よく自らを戒めたいものです。
これに対し、一歩進んだ立場が菩薩の生き方です。二乗が六道の現実を遊離するのに対し、菩薩は無常の現実のなかにこそ常住永遠なるものが
あるとします。そして、現実世界の中で現実世界に働きかけながら、永遠なるものを得ようとするのです。
いま、私達の行っている実践はまさにこの菩薩の生き方です。
本尊抄には、菩薩について次のように説かれています。
====================================================================
無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり (全 P.241 ⑬)
====================================================================
- 74 :美髯公:2010/08/26(木) 22:14:22
-
この文を通解しますと ― 全く他を顧みることのない悪人もなお自分の妻子に対しては慈愛の念をもっているということは、人界に具備している
菩薩界の一分である ― となります。
どんな極悪人でも、自分の妻子に対しては愛情をもっており、妻子のためには自らを顧みないという生命をもっているという事例を通して、大聖人は、
人界に菩薩の生命があることを説かれています。前回にも少しふれましたが、菩薩は、六道の現実世界の中にあって、自分をなげうってでも他人を
幸福にしていこうとする生命をいうのです。
この文に「菩薩界の一分なり」とあるように、この事例はあくまで、菩薩の生命のほんの一分にすぎません。人間の生命には、自分の妻子のみならず、
他のどんな人々をも幸せにしたいという広い菩薩界の“生命の大海”がうねっているのです。
- 75 :美髯公:2010/08/27(金) 21:40:15
-
= 人界所具の十界 ④ =
六道輪廻の日常生活を超克して、主体的に、積極的に、内面の変革を目指そうとする、生き方としての四聖について、更に考えていきたいと
思います。声聞・縁覚の二乗と菩薩についてはふれましたので、いよいよ仏界について考えたいと思います。
本尊抄には、仏界について次のように説かれています。
====================================================================
但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしめること勿れ、法華経の文に人界を説いて云く「衆生して仏知見を開かしめんと
欲す」涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名つけて仏眼と為す」等云云 (全 P.241 ⑬)
====================================================================
この御文を通解すると ― ただ仏界ばかりは日常生活にあらわれがたいのである。しかしすでに九界を具していることがわkった以上は、
しいて仏界のあることを信じ、疑ってはならない。法華経方便品に人間界を説いていうには「衆生をして仏の知見を開かしめんと欲する(故に諸仏世尊は
この世に出現し給うのである)」と。この経文は人界に仏界を具している証拠である。涅槃経にいわく「大乗を学ぶ者(現在では大御本尊を信じ実践する 者)は物を見るに肉眼で見ているがそれは仏眼であるといえる」等と。このように人界に仏の知見があることをはっきり説かれている ― となります。
仏界はいうまでもなく、十界のなかの最高の境涯です。したがって、その真実の姿は、簡単には述べることのできないものですが、あえていえば、
なにものにも左右されず、なにものにも侵(おか)されない、生命力のあふれた、歓喜の中の大歓喜ともいうべき最高の生命状態といえます。
しかも、この最高の仏界が、あらゆる衆生の生命の中に秘(ひ)められているというのが、仏法の根本法理なのです。これこそ人間生命の、最高の
主体性に心を砕いていった仏法の必然の結論であったというべきでしょう。
- 76 :美髯公:2010/08/28(土) 23:17:39
-
それと同時に、仏界が全衆生にあるとは、まさに、生命の尊厳と自由と平等とを根本的に説いた、偉大な哲理であり、現代と未来に最も要請される
哲学といえます。
では、次に、人界所具の仏界を実践的にいえばどうなるのでしょうか。
いかに仏界がすばらしい生命状態であると認識しても、現実に、自分のものとしなければ画餅(がべい)に等しいといわねばなりません。
実に、仏教の歴史は仏界の境涯を衆生に得させることに眼目があったといっても過言ではありません。
たとえば、御文に引用されている法華経方便品の文にしても、人界に仏界を具足していることを明かすとともに、仏が衆生して仏界に
いら入らしめようとしていることが説かれています。また、涅槃経のの文も同じです。
「仏界計り現じ難し」ともあるように、この最高の仏界は日常生活にあらわれがたいのです。
では、どうすれば、仏界を現ずることができるのでしょうか。
日寛上人は、いみじくも「法華経を信じる心強きを名づけて仏界と為す」(三重秘伝抄)と述べています。
仏界の生命は、学問や単なる修行によって得られるものでなく“法華経を信じる心”― つまり、御本尊を信じる心 ― の強さによって得られると
いうのです。御本尊を信じる心、といっても、信心の厚薄があり、本当のものとそうでないものとがあります。したがって、大事なのは、結局、
持続であり、日々の積み重ねです。つまり、御本尊への絶えざる勤行と唱題が大切なのです。
- 77 :美髯公:2010/08/30(月) 22:16:46
-
たとえば、定業を形成するものの一つとして日々の習慣的な積み重ねがあります。仏界という定業を形づくる場合も、やはり、この習慣的な積み重ねが
なくてはなりません。すなわち、勤行・唱題の積み重ね、持続があって初めて、仏界の湧現が瞬間的な、一時的なものではなく、自己の生命の基底部を
形づくるものとなるのです。そして、真の意味で、崩れない強固な仏界の生命となっていくのです。
しかし、持続の信仰、勤行の積み重ねが大切だからといって、朝から晩までただ唱題しさえすれば、仏界が現ずるという考え方は誤りです。
生活を離れたところに真実の信仰はありえません。そして、信行学を具足した信仰が大切なのです。朝から晩まで唱題しさえすればよいというのは、
信はあっても、正しい行学がありません。
仏界といっても、九界の生活を深く掘り下げていったところに仏界の顕現があるのであって、九界を離れては仏界も成り立ちません。
つまり、信心即生活の持続のなかにこそ仏界の本質があるのです。
以上の説明からわかるように、仏界はあくまで内証であり、現実には九界にあらわれるということです。九界の中でも特に菩薩界に代表して表れると
考えてよいでしょう。これを私達にあてはめていえば、私達の内証は本覚の如来ですが、外用の姿は地湧の菩薩えあるといえます。
では、仏界というのは、生活のうえでは具体的にどのような姿となってあらわれるべきでしょうか。まず、個人の内面にあっては、生きていること
それ自体が楽しいという状態を実感することです。それはまた、どんな難事や苦境があっても転換し、打開する英知がこんこんと湧いてくる境涯でも
あります。それであって、外見上は一見すると、平凡な常識人なのです。これまでの他宗教の教祖は、超人的な、神秘的な姿を示しました。
そういう姿をとること自体十界互具ではありません。
- 78 :美髯公:2010/09/02(木) 22:20:04
-
たとえば本文に「堯舜等の聖人の如きは万民に於て偏頗無し人界の仏界の一分なり」(全 P.242 ⑪) とあるように、あらゆる人を平等に
包容していくという、人間としての尊い本質的な生き方にっめざめること自体、仏界に通ずるのです。これを含め、仏界の生命というものは、誠実、
友好、柔軟、責任感、信念、慈愛、英知、創造性などにあらわれるといってよいでしょう。また、仏のことを、世雄ともいうように(別しては大聖人)、
総じては信心をたもった、社会に力ある人であり、その意味からも、広宣流布に戦う人は、社会に実証を示していかねばなりません。
====================================================================
法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり (全 P.241 ⑮)
====================================================================
私達が御本尊を信じているそのこと自体が、人界に仏界を具足する証明となることを、この御文は示しています。なぜなら、信じる己心の中に
対応する仏界の生命が存在しているからこそ御本尊を信じることができ、御本尊と境智冥合することができるのです。
特に「信じる」とは『兄弟抄』に「設ひ・いかなる・わずらわしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし」(全 P.1088 ⑯)と
あるように、何があっても疑わないで、持続するということです。
- 79 :美髯公:2010/09/03(金) 23:25:44
- = 受持即観心について ① =
では次に「問うて曰く上の大難未だ其の会通を聞かず如何」から「妙楽大師云く『当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて
一身一念法界に遍し』等云云」(全 P.246 ⑩ から P.247 ⑧ まで)の個所に移りたいと思います。
この個所は「観心本尊抄」の四段のうち、第二段(観心の本尊の“観心”について論じている段)にあたるところの結論部分です。
第二段の主たる内容は、今までの講義でほぼ述べた通り、人界の生命に十界を具していること、つまり、人界所具の十界を明かしたところです。
今回から入る結論部分は、十界のなかで特に現じ難い仏界の生命も、下種の御本尊を受持することによって容易に顕現されることを明かしています。
====================================================================
問うて曰く上の大難未だ其の会通を聞かず如何 (全 P.246 ⑩)
====================================================================
まず、この文の「上の大難」とは何を指すのでしょうか。今回の教材範囲には入っていませんが、人界を具すこと、特に仏界を具すことなどは
あり得ないとして、批判、論難を加えられたことを指します。この文は、その論難者がそれに対する明確な説明をまだ聞いていないが、どうなのか、
と迫っているところです。
- 80 :美髯公:2010/09/05(日) 23:31:57
-
====================================================================
答えて曰く無量義経に云く「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」 (全 P.246 ⑪ )
====================================================================
先の問いに対する答えとして、最初に無量義経の文が引用されています。
この経文を通解すると ― いまだ、六波羅蜜の修行をしていなくても、この経を信じ受持する功徳によって六波羅蜜は自然に備わってくる ― と
なります。
問いに対する答えとして、無量義経の文を引用されたのは、結論として、受持即観心を導き出されるための準備といえます。後になって、大聖人は、
観心釈のうえから、この文を読まれますが、それについては後述します。要するに、この経文の意味するところは、法華経を信じ、受持すれば、
その功徳によって、六波羅蜜という厳しい修行を経なくても、これを修行したのと同じことになるというものです。
法華経の功徳を賛嘆されているのです。
なぜ、そうなるかについては、次に、さまざまな経と釈を引用されています。つまり、法華経すなわち妙法蓮華経の“ 妙 ”の一字が、完全円融という
意味の「 具足 」と同義であることを通して、法華経の受持のなかに、六波羅蜜の修行が具足されていることを述べられています。
- 81 :美髯公:2010/09/06(月) 23:54:30
-
===================================================================
法華経に云く「具足の道を聞かんと欲す」等云云、涅槃経に云く「薩とは具足に名づく」等云云、竜樹菩薩云く「薩とは六なり」等云云、
無依無得大乗四論玄義記に云く「沙とは訳して六と云う胡法には六を以て具足の義と為すなり」吉蔵疏に云く「沙とは翻じて具足と為す」
天台大師云く「薩とは梵語なり此には妙と翻ず」等云云 (全 P.246 ⑩ から⑬ )
===================================================================
ひとまず、これらの経文と釈を通解してみましょう。
― 法華経方便品にいわく「十界互具の具足の道を聞かんと欲す」と。涅槃経にいわく「薩とは具足のことである」と。
竜樹菩薩いわく「薩とは六である」と。無依無得大乗四論玄義記にいわく「沙とは六と訳す。インドでは六をもって具足の義となすのである」と。
吉蔵の法華経疏にいわく「沙とは翻訳して具足となす」と。天台大師いわく「沙とは梵語であり漢語に訳せば妙という義である」と ― となります。
以上の通解から、明らかなように、薩・六・沙・具足・妙といずれも異なることなく、妙法蓮華経の一法に、六波羅蜜の修行はもとより、十界三千の
諸法を具足していることを明かしています。
妙法蓮華経とは現在の私達にとっては御本尊ということです。つまり、御本尊を信じ受持すれば、六波羅蜜の修行はもとより、現じ難い仏界をはじめ
十界三千の諸法具足し、顕現することができるのです。今、御本尊を受持すれば六波羅蜜の修行の全てが備わっている、と述べましたが、
そして末法今時、修行としての六波羅蜜は不要ですが、だからといって、六波羅蜜の内容を軽視したり、極端な場合には、御本尊さえ受持すれば、
あらゆる人間としての錬磨は必要ないと考える愚に陥ってはなりません。
- 82 :美髯公:2010/09/08(水) 22:50:02
-
この考え方は誤りであり、むしろ逆に御本尊を受持する故に、生命の中に自然に六波羅蜜の姿を湧現させていくという積極的な努力がなければならない
といえます。その意味からも、六波羅蜜の修行について少し検討を加えておきましょう。
六波羅蜜 ―「 ろくはらみつ 」は「 ろっぱらみつ 」とも読みます。これは菩薩が悟りを得るために修する六種の修行をいいます。
“ 波羅蜜 ”とは梵語の音訳で、波羅は「 彼岸 」を意味し、蜜は「 到る 」の意味をあらわします。すなわち、波羅蜜で「 彼岸に到る 」と
いうことであり、したがって六波羅蜜は、生死の此岸より涅槃の彼岸に到るための六つの修行ということになります。
六つの修行を列挙しますと、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六種となります。今、簡単に、それぞれ説明すると、まず、布施には財施と法施の
二つがあり、財施は自分のいっさいの財物を他に与える修行であり、法施は清浄な心をもって、仏法を他に説き教化する修行です。次に、持戒とは
定められた戒律を菩薩が質直清浄な心をもって、たもつ修行です。
また、忍辱とは、耐え忍ぶことであり、これには、生忍と法忍の二種あります。生忍は恭敬 (くぎょう) 供養を受けても撟逸 (きょういつ) に
ならないことや迫害にあっても瞋 (いか) りや怨 (うら) みを起こさないことなどの修行であり、法忍は、いろいろな心に起こる邪見や撟慢などに
あっても動じない修行をいいます。更に、精進とは他の五波羅蜜に心身ともに精進することをいい、禅定とは、心を統一し、乱されない修行であり、
智慧とは、声聞、縁覚、仏の三種の智慧を菩薩が清浄心をもって修行することです。
- 83 :美髯公:2010/09/13(月) 00:15:09
-
前述したように、これら六波羅蜜は、修行の形態としては、今日不要ですが、その内容は、私達の実践のなかに含まれねばなりません。
たとえば、布施については、学会活動は法の布施であり、社会に貢献しようとするあらゆる活動も含まれます。
持戒については、御本尊をたもち、そして和合僧を守ることがこれにあたり、更には常識をわきまえ、社会の規範を守ることも含まれます。
また、忍辱は非難等をうけても粘り強く大聖人の仏法を説いていくことであり、精進は人間としての向上を目指すことであり、人間革命を目指し、
広宣流布の活動に励むことです。禅定は基本としての勤行・唱題であり、教学の研鑽も含まれ、人生をわたるうえでの信念も入ります。
智慧は臨機応変のあらゆる活動から生まれます。以上のように、学会活動にあっては、勤行・教学・座談会・折伏・登山会等の活動があって
「六波羅蜜自然に在前す」となるのです。
- 84 :美髯公:2010/09/13(月) 21:09:12
-
= 受持即観心について ② =
前回では、御本尊を受持するなかに、六波羅蜜という菩薩の修行が備わっていることを、無量義経の文をはじめ種々の経釈を引用しながら
述べてきましたが、今回は、大聖人がそれらの文を観心釈され、いよいよ「受持即観心」という奥底の法門を説かれるくだりに入りたいと思います。
====================================================================
私に会通を加えば本文を黷すが如し爾りと雖も文の心は釈尊の因行・果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す ( 全 P.246 ⑭ )
====================================================================
例によって、まず、この文を通解すると ― 私に説明を加えるならばかえって引用した文の意をけがすことを恐れるのであるが、
その文の意を述べるなら、釈尊 ( 釈迦一仏に限らず、一切の諸仏を意味する ) の因行と果徳の二法は、ことごとく妙法蓮華経の五字に
具足している ― となります。
前に引用した無量義経の「未だ六波羅蜜を終業する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」( 全 P.246 ⑪ ) という文は、
大聖人の生命論のうえから展開するならば、単に六波羅蜜の修行にとどまらず、仏が九界の因位にあって修行した万行によって得た一切の法の
ことごくが妙法蓮華経の五字に具足して欠けるところがないということです。更には、仏が仏果を得て示したあらゆる福徳、力もことごとく
妙法蓮華経に具足して欠けるところがないということでもあります。このことは、宇宙の一切の法は妙法蓮華経に包摂 ( ほうせつ ) され、
また一切の源泉は妙法蓮華経にあるとということを意味しています。
- 85 :美髯公:2010/09/14(火) 22:51:21
-
ここにいう、妙法蓮華経は私達にとって御本尊を意味しますから、結局、御本尊を受持すれば、その功徳によって、仏の因位の万行と果位の万徳を
ことごとく備えることができるのです。つまり、因位の万行を修行しなくても、ただ受持することによって修したと同じことになるということです。
果位の万徳の場合も同じです。これこそ、受持即観心の意味です。御本尊を受持することが即ちそのまま末法の観心であるということです。
今、この受持即観心について、更に深く考えてみましょう。
====================================================================
我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う ( 全 P.246 ⑮ )
====================================================================
この御文は、まさに受持即観心の義を明かしています。
通解すると ― 私達がこの五字 ( 御本尊 ) を受持するならば、自然に彼の因果の功徳を譲り与え給うのである ― となります。
この文の「彼の因果の功徳」とは、釈尊が歴劫修行によって積み重ねてきた功徳と仏果を得てからの実践による功徳をさします。
その功徳を、御本尊を受持するという一行によって、直ちに我が身に体得できるというのがこの文の意味するところです。
なぜ、それが可能かといえば、これまでにも何回となく述べてきたように、妙法蓮華経が一切法の根源であるからです。
また、この文の「自然に」というのは、生命の法理として、複雑でわずわらしい修行をしなくとも「彼の因果の功徳」を開き顕 ( あらわ ) すことが
できるということです。たとえ、私達の人生途上にあって、どんな苦境や難事が前に立ちはだかろうとも、この御文に対する絶対の確信があれば、
人生は必ず開けるということをここで確認しておきたい。
- 86 :美髯公:2010/09/19(日) 22:54:45
-
ところで、間違ってはならないのは、御本尊さえ受持していれば、それでよいということでは、ないということです。前回にも、六波羅蜜のところで
ふれたように、御本尊を受持すればこそなお一層、功徳があらわれるように努力しなければならない、ということです。ここに、「受持即観心」の
「観心」の意味するところが大切になってくるのです。それとともに、「功徳とは何か」についての一層の掘り下げが必要になってきます。
まず、観心について考えてみましょう。観心とは末法においては信心であることは以前に述べました。「己心を観ずる」修行である「観心」は、
現在にあっては、結局、御本尊を鏡として、自己自身を知り、自己のゆがんだ生命を正し、チ−ドしていくことをいうのです。
したがって、いかに御本尊が絶対であっても、御本尊に向かう生命の姿勢がどうなのかが大切な問題になってぅるのです。御本尊を受持していればよい
という安直な姿勢では、自己自身の生命を観照できないし、自己変革のたくましい息吹きも生まれてきません。
日寛上人の文段には、観心について次のようにあります。
「凡 (およ) そ当家の観心はこれ自力の観心に非ず。本尊の徳用に由るに方 (あた) って即ち観心の義を成 (じょう) ず」(聖教文庫 P.98) と。
この文の意味は、日蓮大聖人の説かれる観心というのは、自力のみでもなければ、他力のみでもなく、自他冥合の観心であるということです。
私達の御本尊に対する信力と行力があって、御本尊の仏力・法力をあらわすことができるのです。いかに、本尊に仏力・法力があろうとも、私達に
信力・行力がなければ無意味といえます。このように、大聖人の仏法の観心は、自他冥合でです。しかしながら、主観視すれば自分が主体、
客観視すれば御本尊が主体という関係になります。
今日までの既成仏教は、自力か他力かのいずれか一面しか説いていないことは言葉を費やす必要もありません。したがって、御本尊を受持する一行に
いっさいがふくまれるといっても、強い主体側の生命の姿勢がなければ「即観心」とならないことを銘記したいものです。
- 87 :美髯公:2010/09/20(月) 21:58:28
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最後に、大聖人の仏法における功徳論を理解しておきたいと思います。功徳について、御義口伝には次のように述べられています。
「功は幸と云う事なり又は悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、徳とは即身成仏なり又六根清浄なり」(全 P.762 ⑪) と。
ここには、功徳が悪を滅し善を生じることとして説かれています。この場合、悪を九界、善を仏界とすれば、九界の生活の中にあって清浄の仏界を
湧現すること自体が功徳の姿といえます。
すなわち、私達が信心を奮い起こし、御本尊に唱題して、真の歓喜の生命 (仏界) が躍動するときこそ功徳そのもなのです。
したがって、次に「功徳とは即身成仏なり」とあるのです。それはまた、角度を変えると「六根清浄」ということです。この六根は、眼・耳・鼻・舌・
身・意の感覚器官のことで、これらの期間を通して、生命の活動が展開するのです。したがって、六根を清浄にするということは、濁りの生命を清浄な
姿に変革することを指します。すなわち、人間完成にこそ功徳の真の意義があるのです。
眼にも述べたように、冥益は地下水のようなものであり、それが地表の現象界に出てくるのが具体的な功徳といえましょう。
地下水を豊かにする努力が信心であり、観心なのです。つまり、人格ににじみでる功徳こそ大切なのであり、その意味からも、人間完成を目指しての
間断のない持続の信仰にこそ末法の観心の本義があるのであり、大聖人の仏法の功徳論の実体があるのです。
- 88 :美髯公:2010/09/22(水) 23:11:18
-
= 無上宝聚・不求自得について =
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四大声聞の領解に云く「無上宝聚・不求自得」云云、我等が己心の声聞界なり (全 P.246 ⑯)
====================================================================
この御文はこれまで論じてきた「受持即観心」の文、つまり「釈尊の因行・果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に
彼の因果の功徳を譲り与え給う」( 全 P.246 ⑮) の文を承(う)けて引用されたものです。
まず、この御文を通解すると ― 法華経信解(しんげ)品に四大声聞が領解(りょうげ)して「無上の宝聚を求めずしておのずから得たり」と
述べているが、われらの己心の声聞界が妙法蓮華経を受持し、無上の大功徳に歓喜している姿がこれである ― となります。
この四大声聞というのは、前の法華経譬喩 (ひゆ) 品第三を聞いて領解した中根の声聞で、慧妙須菩提 (えみょうしゅぼだい) 、摩訶迦旃延 (まかかせ
んねん) 、摩訶迦葉 (まかかしょう) 、摩訶目犍蓮 (まかもっけんれん) の四人をいいます。この四大声聞が「無上宝聚・不求自得」と領解のむねを
述べた文を指して「我等が己心の声聞界なり」といわれているのは、この四大声聞も、自身の生命の声聞界とし、己心のこととしてみていくべきで
あるからなのです。ここでいう声聞界というのは、仏道を求めていく生命という意味であり、決してかなたの世界に理想郷を求めたり、現実世界から
逃避するといった声聞ではなく、自分自身の変革と向上を目指す大乗の声聞といってよい。どこまでも向上せんがための意欲であり、仏道を
求めようとする生命の姿勢が、須菩提等をして「無上宝聚・不求自得」つまり、求めずして最高の境涯をおのずから得ることができたという感動の
叫びをあげさせたわけです。
- 89 :美髯公:2010/09/26(日) 21:59:56
-
そこで次にこの「無上宝聚・不求自得」ということについて述べてみましょう。「宝聚」とは文字通り“ 宝の聚 (あつま) り ”です。
無上というのは有上 (うじょう) に対する語で、もうそれ以上のものがないということであり、無上宝聚とは、仏法の極理、宇宙の本源である
南無妙法蓮華経であり、それを大聖人は御本尊として残されたのです。故に根本的には御本尊を得たということが、無上宝聚・不求自得になるわけです。
日寛上人は「観心本尊抄文段」に「暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶 (かな) わざるなく、
罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」(聖教文庫 P.11) と述べられていますが、祈り、願いが叶うというのは、
具体的な願い、祈りが叶うといった次元のことよりも、本質的にその人の生命が願っていること、意識的にせよ無意識的にせよ生命自体が
欲していることは必ず叶っていくということであり、また、それらを越えてより大きな自分の想像もしなかった福運が備わっていくことであり、
それを「無上宝聚・不求自得」というのです。これは最も深い、より本源的な功徳論といえます。しかもいざというときは顕益として厳然と
あらわれてくることは間違いないわけです。しかし、あくまでも土台は冥益であり、知らずしらずのうちにその人自身の生命を福運で潤し、
功徳を充満させていくことが「無上宝聚・不求自得」といえます。このことは現在の私達一人一人の境涯を振り返ってみればよくわかると思います。
所願満足という言葉がありますが、自身のそのとき、そのときの問題を一つ一つ真剣に取り組み解決していくことによって、
やがて考えられなかった境涯に入っていけるわけです。「求めざるに自ら得たり」ということのほうが、願っていったら願いが叶ったという
功徳よりも、より大きくより深いのではないかと思います。そこに大聖人の仏法の特質があるといえます。しいて願わずとも、日々真剣に仏道修行に
励んでいくならば、人間として最高の人生コ−スに自然のうちに、入っていく。これが「無上宝聚・不求自得」なのです。
- 90 :美髯公:2010/09/27(月) 23:50:44
-
====================================================================
「我が如く等しくして異なる事無し我が昔の所願の如き今は巳に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」、妙覚の釈尊は我等が血肉なり
因果の功徳は骨髄に非ずや ( 全 P.246 ⑰ )
====================================================================
この経文に通解を加えると ― 方便品には仏が「法華経を説いて一切衆生に即身成仏の大直道を与え、仏と衆生と等しくして異なることが
なくなった。仏がその昔に誓願した一切衆生を度脱せんとの誓いが、今はすでに満足し、一切衆生をして仏道に入らしめることができた」と
説かれている。妙覚の釈尊はわれらの血肉で因果の功徳は骨髄である。すなわち、師も久遠元初の自受用身、弟子もまた久遠元初の自受用身と
あらわれ、自受用身に約して師弟が不二になること明らかである ― となります。
この一節は仏が衆生を仏の境涯と等しくさせていくという仏の大慈悲ををあらわしたものです。
「我が如く等しくして異なる事無し」の一節は特に重要です。この御文は、仏の本意は九界の衆生を仏と等しくさせるところにあることを説いたもの
であり、西欧におけるキリスト教やギリシャ神話の思想と著しく相違する点です。たとえば、アダムとイブの物語の中で、知恵の実を食べることを
禁じたのは、それを食べることによって人間が神と等しく賢くなることを恐れたからなのです。また、その実を食べたアダムとイブをエデンの園から
追放したのは、生命の樹の実を食べて永遠の生命を会得し、神と等しくなることを拒もうとしたからであったといわれており、神と人間の間には
越えがたい断絶があったのです。このように仏法以外の宗教では悟った人と悟らない人との間に厳然たる断絶があるのです。
- 91 :美髯公:2010/09/28(火) 21:55:22
-
ところが仏法では、九界の衆生を仏の境涯に等しくすることが最大の目的であり、その仏と衆生が全く差別がなくなり一体不二となった状態を
「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」と表現されているのです。
この方便品の文を大聖人の仏法からみると、この「我」というのは日蓮大聖人と読んでいくのです。
つまり、大聖人と等しい境涯に引き上げていくことに大聖人の真意があるわけです。普通は、自分と等しくするのではなく、自分より低い境涯に
追いやらないと気がすまないというのが人間の心ですが、そうした偏ぱな心を打ち破って自分と同じ境涯に引き上げていく、そこに仏法の本質的な
精神があるのです。
ここで「妙覚の釈尊」とは、南無妙法蓮華経を悟った人、つまり久遠元初の自受用身即日蓮大聖人の生命のことであり、私達が南無妙法蓮華経を
信じること自体、妙覚の生命、つまり力強い大聖人の生命を我々凡夫の生命のなかにいだくことになるわけです。ここに御本仏日蓮大聖人の無限の
大慈悲を感じるわけです。また、大聖人の立場からいえば、久遠以来の所願は全て満足したというのは、一切衆生を仏道に入らしめる根源の実体である
御本尊を自らの胸中にすでに確立されていたからであり、したがって大御本尊を建立することが「一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」ことに
なるわけです。
- 92 :美髯公:2010/09/30(木) 21:26:46
- = 己心の釈尊について =
次に「宝塔品に云く『其れ能く此の経法を護る事有らん者は・・・・・即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟するを得ん』とは是なり」( 全 P.246 ⑱ から
P.247 ③ まで ) の部分を簡単に述べてみましょう。
日寛上人は文段で無作三身に約してこの一節を展開されています。
それを簡単に図示すると ― 其れ能く此の経法を護る事有らん者 ― 観心
我及び多宝来り給える化仏 ― 本尊 ( 我=無作報身、多宝=無作報身、化仏=無作応身 )
つまり、大聖人の仏法の立場から読めば「此の経法」とは御本尊であり、この御本尊を護る私達衆生は、受持即観心の原理によって、
すなわち無作の三身と顕れるのです。ゆえに釈迦・多宝・十方の諸仏は私達の己心の仏界となるわけです。それゆえ、私達は無作三身の跡を紹継して
無作三身の功徳を受得し、即無作三身と顕れるのです。ゆえに「須臾も之を聞かば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟するを得ん」と、
つまり刹那 (せつな) でも御本尊を受持すれば最高の悟りの境地に凡身のままで入っていけると仰せになっているわけです。
この文は無作三身に約して親子一体を示しています。
次に「寿量品に云く『然るに我実に成仏してより已来・・・・・安立行等は我等が己心の菩薩なり』」(全 P.247 ③ から ⑦ まで) の部分に
移りたいと思います。日寛上人はこの一節は久遠元初に約して君臣合体を示されていると述べていますが、この部分で重要な点を二点ほど取り上げて
説明してみましょう。
- 93 :美髯公:2010/10/01(金) 22:24:43
-
====================================================================
我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり ( 全 P.247 ④ )
====================================================================
まず、この御文を通解しますと ― 我等が己心の仏界たる釈尊は久遠元初の所顕の三身にして無始無終の古仏である ― となります。
ここで「五百塵点乃至」の「乃至」とは諸御抄にある「五百塵点劫の当初 (そのかみ) 」の「当初」と同じであり“ 久遠元初 ”と“ 時 ”に約して
読むべきであると日寛上人は文段で述べています。
つまり、衆生の生命の仏界とは、久遠元初の無始以来、生命の存在とともにあったものであるということ、つまり、仏界とは、生命に本来備わった
働きであることを説いたものです。
====================================================================
地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり、例せば太公・周公旦等は周武の臣下・成王幼稚の眷属・武内の大臣は神功皇后の棟梁・仁徳王子の
臣下なるが如し、上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩なり ( 全 P.247 ⑥ )
====================================================================
まず、この御文を通解しますと ― 地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属であり、たとえば太公は周の武王の臣下、周公旦は幼稚の成王の眷属、
武内の大臣は神功皇后の第一の臣であり、また、仁徳王子にも忠義の臣下であったようなものである。上行・無辺行・浄行・安立行等、地涌の大菩薩の
上首唱導の師たちは、皆ことごとく我等が己心の菩薩である。このように君主たる仏界も久遠元初、臣下たる九界も久遠元初に約すれば君臣が
合体することが明らかである。 ― となります。
- 94 :美髯公:2010/10/03(日) 22:40:24
-
ここでは、法華経に説かれる地涌の菩薩も、生命に本来備わった仏界の九界への具体的な顕われであり、わが生命を離れた存在ではないことを
説いた個所です。仏界といっても、具体的には九界の生命活動としてのみ顕れるのです。地涌の菩薩の棟梁である四菩薩は、仏界の九界への発現の
根本的姿を説いたものと考えられます。このことは、最も人間として、社会人として尊敬される振る舞いであることが信仰人としてのあるべき姿で
あることを教えています。
御義口伝に「今日日蓮等の類 (たぐい) 南無妙法蓮華経と唱え奉る者は皆地涌の流類なり、又云く火は物を焼くを以て行とし水は物を
浄 (きよ) むるを以て行とし風は塵垢 (じんく) を払うを以て行とし大地は草木を長ずるを以て行とするなり四菩薩の利益是なり、四菩薩の行は
不同なりと雖も、倶に妙法蓮華経の修行なり」( 全 P.751 ⑦ ) とあります。
その意味は、日蓮大聖人の弟子は、皆地涌の菩薩である。それでは、この地涌の菩薩とは何か。火は物を焼くことが目的であり、水は物を浄めることが
使命である。風は塵や垢を払い落とすのが本質であり、大地は草木を成長させるのがその目的であり作用である。
と同様に地涌の菩薩は、南無妙法蓮華経と唱えて生活、社会を日々漸進的に改革し、創造していくことがその根本使命である、ということになります。
物を焼いたり、浄めたりするのが、火や水の本然の作用であるのと同じく、地涌の菩薩も南無妙法蓮華経という本源の法を持って、能動的に、
己自身のため、人のため、社会のために貢献していくことが、本然の使命であり、本質であるということです。地涌の「地」とは生命の大地であり、
最も本源的な大地に立って行動を起こしていくことであり「涌」とは他からの作用ではなく、内より裕然たる生命の力を湧現することに
ほかならないのです。つまり、人間が人間本来の力を発揮していくとき、これを地涌の菩薩というわけです。ゆえに、南無妙法蓮華経という本源の法を
持って進む地涌の菩薩の人生の軌跡は、最も人間として本然的なコ−スを、それぞれの個性、特質を輝かせて進んでいくことはいうまでもありません。
- 95 :美髯公:2010/10/04(月) 23:19:55
-
====================================================================
妙楽大師云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」等云云 ( 全 P.247 ⑧ )
====================================================================
受持即観心の結文に当たる一節です。
この御文を通解しますと ― 妙楽大師がいうのには「まさに知りなさい。自受用身の身土は信ずる我等ら衆生の一念に即三千と顕れる。
ゆえに成仏の時にはこの本地難思境智の妙法にかなって、我等の一身も我等の信ずる一念もともに法界に遍満するのである」等と ― となります。
この御文を日寛上人は文段で「文意に謂く、当に知るべし、本地自受用の身土、我等が信心一念の中の三千なり。故に成仏の時、此の本地難思の
境智の妙法に称い、一身の五大法界に徧して所証の境と為る。一念の信心法界に徧して能証の智と為り、久遠元初の境智冥合の自受用身と顕れるなり」
( 文段 P.119 ) と釈せられています。
「身土」とは本尊を示し、本文冒頭の「夫れ一心に十法界を具す乃至即ち三千種の世間を具す」の文と同じであり「一念三千」は観心を明かし、
同じく冒頭の「此の三千一念の心に在り乃至即ち三千を具す」の文と同じです。ここで「成道の時」とは、一瞬間という固定した“ 時 ”と
考えるべきではなく、あくまでも仏界の持続、積み重ねが大切であることを知るべきでしょう。また「一身一念法界に遍し」とは、生命論にいえば、
自受用身と顕わことですが、私達の生活に約して考えていくならば、どこまでいっても行き詰まりがなく、どんな苦難も打開できるということであり、
またそうした力強く揺るぎない自己を確立できるということなのです。
- 96 :美髯公:2010/10/05(火) 22:44:43
-
= 一閻浮提第一の本尊 =
次に「問うて曰く記文は云何」から「法華を識る者は世法を得べきか」( 全 P.254 ③ から ⑯ まで ) の部分に移りたいと思います。
この部分は「観心本尊抄」の四段のうち、第三段 ( 末法に建立される三大秘法の大御本尊を明かす ) の結論に当たる部分で、如来の兼讖 ( けんそん=
未来の予言 ) が明かされます。
====================================================================
問うて曰く仏の記文は云何答えて曰く「後の五百歳閻浮提に於て広宣流布せん」と、天台大師記して云く「後の五百歳遠く妙道に沾おわん」
妙楽記して云く「末法の初冥利無きにあらず」伝教大師云く「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り」等云云 ( 全 P.254 ③ から ⑤ )
====================================================================
まず、この御文を通解しますと ― 問うていわく、仏の未来記の文はどのようにあるか。答えていわく、薬王品には「後の五百歳・末法の初めに
閻浮提に広宣流布するであろう」と。天台大師は「後の五百歳遠く妙法の大利益に沾 (うるお) うであろう」と予言し、妙楽大師は「末法の初めに
下種の大利益たる冥益が必ずある」と記し、伝教大師は「正像二千年がほとんど過ぎ終わって末法がはなはだ近づいている」等といっている ― となります。
ここでは、末法の初めに仏が出現し、本尊を建立することを預言した仏の未来記があるのかという問いに対し、法華経薬王品の文、また、天台、
妙楽、伝教の像法時代の三導師の預言をあげて、末法の初めに御本仏が出現し、妙法を流布することを述べられています。
そこで、天台大師の法華文句巻一上の文である「後の五百歳遠く妙道に沾おわん」の一節について述べてみましょう。
- 97 :美髯公:2010/10/06(水) 21:13:13
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ここでいう「妙道」とは御本尊のことであり「沾う」とは流布の義です。ゆえにこの御文は、末法万年尽未来際にわたって、御本尊の力によって人々が
真の幸福と平和を実現していけるとの意であり、そこに広宣流布の本義があるのです。広宣流布とは大聖人の三大秘法の仏法が広く流布され、
御本尊の功徳にますます沾っていく状態。また、個人に約せば一人一人が人間革命をし、力強い生命力を湧現して荒波のごとき人生を生き抜いて
いくことをいうのです。
次に、この天台のの文を釈した妙楽の法華文句記巻一上の文「末法の初め冥利無きにあらず」について述べてみましょう。ここで「無きにあらず」と
あるのは、無いわけではない、という消極的な意味ではなく、無いということは絶対にない、つまり絶対にあるという強い肯定を意味しているのです。
更に、この妙楽の文は、末法の功徳は冥益が表であり、知らずしらずのうちに生命全体が、福運と功徳にみち輝き、沾っていく、ということを
意味しているのです。
このように、釈尊、天台は末法後五百歳の広宣流布を予言し、妙楽もまた末法の初めを指して冥益のあることを示して法華経の流布を予言し、伝教は
末法がはなはだ近いことをあげ「我が時は正時にあらず」― 自分の法華経は正時でない、としたのです。更に伝教は大師は「代を語れば即ち像の
終わり末の初め・地を尋ぬれば唐の東・羯の西・人を原れば則ち五濁の生・闘諍の時なり」と述べ、法華経流布の時、場所、民衆の機根を
明かしているのです。
文中の「唐の東・羯の西」について若干の説明を加えておきますと、これは平安朝ごろの方位観、地理観によって、日本の位置を示した言葉です。
唐とは、当時の中国の統一国家名 ( 六一八年 ― 九〇七年 ) から中国を指すのであり、羯とは、隋唐時代、中国東北部から北朝鮮にかけてあった
靺鞨 ( まっかつ ) のことをいいます。当時の考えでは、日本はほぼ東西に長く横たわり、日本の西側から北部にかけておおうような形で中国大陸が
位置し、東側が中国の東北部にあたるといったものでした。ほぼ今日にみるような地図がかかれたのは江戸時代に入ってからのことです。
- 98 :美髯公:2010/10/07(木) 22:35:28
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また末法の民衆の機根を「五濁の生」と仰せになっています。五濁というのは、法華経方便品に説かれている五つの濁りのことで①劫濁・・・・時代の
濁り、②衆濁・・・・社会全体の濁り、③煩悩濁・・・・個々の生命に備わる貪 (とん)・瞋 (じん)・癡 (ち)・慢 (まん)・疑 (ぎ) の濁り
④見濁・・・・思想の濁り、⑤命濁・・・・生命それ自体の濁り、をいいます。この五濁はそれぞれ独立してあるのではなく、末法の民衆の生命の
濁りともいうべきものを、いろいろな角度から考えあげたものであって、相互に関連して濁乱の末法という時代を特徴づけています。
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此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし ( 全 P.254 ⑧ )
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この前に述べた仏の未来記を受けて、南無妙法蓮華経の本法を付嘱された地涌の菩薩が、末法の初めに出現し、観心の本尊を建立されることを
明かされた一節です。
まず、この御文を通解しますと ― 経釈の予言が的中した時に、地涌千界の大菩薩がが世に出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提の第一の本尊が
この国に建立されるであろう ― となります。
ここでいう地涌千界の大菩薩である上行菩薩こそ日蓮大聖人の外用 (げゆう) の姿であり、竜の口法難で発迹顕本された大聖人は、本門の釈尊を
脇士とする本尊を建立されることを宣言されたのです。この本門の釈尊とは、法華経の虚空会で説き明かされた仏の生命の究極のことです。
そして、大聖人が建立される本尊は、この仏さえも脇士になる本尊であり、いまだかってだれびとも顕さなかった大曼荼羅であり、仏教の頂点に
位置するおのであるがゆえに「月支 ( がっし ) 震旦 ( しんたん ) に未だ此の本尊有 ( ましまさ ) さず」(全 P.254 ⑨ ) と述べられているのです。
- 99 :美髯公:2010/10/09(土) 21:56:54
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この本尊が前代未聞の大漫荼羅であるというのは、本門の釈尊を脇士にしているからです。それは、脇士の位によって本尊の軽重が決まるからであり、
本門の釈尊を脇士にしたことは、究極の本尊であるという証拠となるのです。この脇士ということを敷延して言えばある組織において中心者を
補佐する人が脇士にあたり、その人が立派で優れていることが、中心者の偉大さを証明することになるわけです。
学会全体をとって考えていけば、学会員一人一人が力をもち、立派な社会人として社会の繁栄に貢献できる人となっていくことが、
とりもなおさず創価学会自体を輝かせ、学会の正義を証明していくことになるわけです。逆に中心者の側から言えば、どれだけ優秀な人材、脇士を
そろえていくか、また、みんなが生命力に満ちあふれ、思う存分に力を発揮できるようにしていくことが大切であるともいえます。
次に「一閻浮提第一の本尊」とあるのは、大聖人の仏法が一閻浮提、すなわち全世界の民衆を救う世界宗教であることの証左であり、
大聖人の仏法は、決して日本一国のみにしばられた狭い宗教ではないのです。このように大聖人は竜の口法難で発迹顕本され、本地自受用身、
即ち末法の本仏としての立ち場から、一閻浮提総与の大御本尊をすでに胸中に描かれていたのであり、これから七年後の弘安二年10月12日に、
大御本尊を建立され、その本懐を遂げられたのです。
- 100 :美髯公:2010/10/10(日) 22:41:40
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= 法華を識る者は世法を得べきか =
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此を以て之を惟うに正像に無き大地震・大彗星等出来す、此等は金翅鳥・修羅・竜神等の動変に非ず偏に四大菩薩を出現せしむべき先兆なるか
( 全 P.254 ⑭ )
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まず、この御文を通解しますと ― これをもって以上の経緯を考えてみるのに、正像にはいまだかつてなかった大地震・大彗星等が最近になって
次々と出来している。これらは金翅鳥 ( こんじちょう ) ・修羅・竜神等の起こす動変ではない。ひとえに四大菩薩を出現せしむべき先兆であろう ―
となります。
この一節は前節において、末法に本仏が出現し、法華経を流布するという釈尊・天台・妙楽・伝教の予言に対し、大聖人が「此の時地涌千界出現して
本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし」( 全 P.254 ⑧ ) と仰せになって大聖人御自身の内証を明かされたことをうけて、
大地震、大彗星の出現が同じく地涌出現の前兆であることを明かした個所です。
本文中の金翅鳥、修羅、竜神はいずれも八部衆の仲間で、これらは地を揺るがし、水を動かすといわれているものですが、ここではそうした八部衆の
働きによって大地震や大彗星が出来 ( しゅったい ) したのではなく、偉大なる仏の出現の前兆としてあらわれたものであると仰せになっているところです。
そして大地震や大彗星が正像にもないくらい大きなものであることは、偉大なる仏の出現の先兆を意味するとして「雨の猛きを見て竜の大なるを知り
花の盛んなるを見て池の深きことを知る」( 全 P.254 ⑮ ) の文を引用されているのです。
- 101 :美髯公:2010/10/12(火) 22:58:26
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今日では、時代、社会の大変動、それにともなう人々の不安が「大地震・大彗星」にあたるといえましょう。物質文明がその極みに達した現代文明の
引き起こした人間疎外現象による今日の人々の苦悩は、天変地夭等が人に与える恐怖、苦悩等とは質を異にして、程度の深い精神的苦悩であり、
それは一時的、局部的なものではなく、人類全体、また人間自体が直面した問題であり、もはや人間精神を内面より開拓しゆく偉大な宗教の
出現なくしては根本的解決はなされないのです。時代は、すでにそういった力ある宗教の興隆を要求していると確信したいと思います。
「四大菩薩の出現」は、大聖人の時代においてはあくまでも根源の実体である御本尊の建立でしたが、今日、私達の立場からいうならば、
妙法によって人間革命し、自己の本源的使命にめざめた民衆による大宗教運動、大哲学運動の展開といえましょう。
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天晴れぬれば地明らかなり法華を識る者は世法を得べきか ( 全 P.254 ⑯ )
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まず、この御文を通解しますと ― 天が晴れるならば地はおのずから明らかになる。それと同じように、法華を識 (し) る者は、世法のことも
明らかに知るべきであろう ― となります。
この一節は、信心即生活、仏法即社会の原理を示された重要な御文です。ここで「天晴れぬれば」とは、法華 ( 南無妙法蓮華経 ) を知ることであり、
「地明らかなり」とは、世法を知ることを意味しています。
文脈のうえでは、世法を知るとは、大地震、大彗星の天変地夭を、地涌出現の兆しと知ることをさしているのです。このことは大聖人ご自身が
地涌の菩薩即自受用身であるがゆえにこのことを明らかに知ることができるわけです。
- 102 :美髯公:2010/10/13(水) 21:52:50
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また、この一節は、妙法を受持し、仏法哲理に通達した人は、目まぐるしく変転する現代社会、生活の諸現象の本質を見極めていくことが
できるという原理を示したものと考えられます。いわば、自身の中に貫かれている生命の法を説き究めた仏法に通達し、生命を照らしだす明鏡を
たもったということは、その生命の具体的な発動の場である世間法にも通達していくことができるという原理なのです。しかし、それは信仰していれば
、なんの努力もなく自然に社会、世間の道理を得ていけるということでは絶対にないのです。むしろ信仰者である私達の姿勢としては、信仰者こそ、
そのみがかれた生命の波動が、生活と社会に積極的に価値を創造する ― そういった人となるよう努力すべきでしょう。
御本尊をたもった人は当然、世法をも会得していかなければならないということであり、逆にいうならば、世法をも会得できないような人は
真の信仰者とはいえないというぐらいの強い決意で自己練磨を図り、社会に貢献しうる人間に成長していかなければならないのです。
ここに社会人としての礼儀・見識・信頼性等が不可欠の人格の要素とされるゆえんがあるといえるのです。
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一念三千を識らざる者に仏・大慈悲を起こし五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けさしめ給う、四大菩薩の此の人を守護し給わんこと
大公周公の文王を摂扶し四皓が恵帝に持奉せしに異らざる者なり ( 全 P.254 ⑱ )
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この一節は本尊抄の四段のうちの第四段で本尊抄の全体の結文に当たり、末法の御本仏たる日蓮大聖人が大慈悲を起こし、大御本尊を顕わし、
末代幼稚の衆生に信受せしめることを明かされた御文です。
- 103 :美髯公:2010/10/15(金) 21:08:12
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この御文を通解しますと ― 一念三千を識らない末法のわれわれ衆生に対して久遠元初の御本仏は大慈悲を起こされ、妙法五字に一念三千の珠を
裹 (つつ) み、独一本門の大御本尊として末代幼稚の頸にかけさしめたもうのである。四大菩薩がこの幼稚の衆生を守護したまわんことは、大公・
周公が文王に仕えてよく守護し、商山の四皓が恵帝に仕えたのと異ならないのである ― となります。
本文中の「五字の内に此の珠を裹み」とは、妙法五字の袋の内に久遠元初の自受用身即一念三千の珠を裹むということであり、久遠元初の
自受用身とは御本仏日蓮大聖人の御事にほかならないのです。つまり、妙法の五字の体とは一念三千の本尊であり、一念三千の本尊の体とは
宗祖日蓮大聖人の御事なのです。
日寛上人は本尊抄文段に「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」( P.250 ) と
仰せになっています。すなわち、私達がこの本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即一念三千の本尊、蓮祖大聖人とあらわれると
仰せになっており、ここに本尊抄全体の元意があるのです。つまり、御本尊を信受し、唱題に励めば、大聖人と同じ仏力、同じ福徳、同じ境涯を
得ることができるということであり、このことを本当に確信して自身の信心に徹していった時には、想像を絶する力が発揮されるのです。
そうした大きな生命のリズムを持続させ、更に高めていって、生活、生命そのものを揺り動かして人生を生き抜いていく ― その根源のエネルギ−を
引き出すのが、信力・行力なのです。
文段の最後に「故に唯仏力・法力を仰ぎ、応に信力・行力を励むべし。一生空しく過して万劫悔ゆることなかれ」( P.250 ) とあるように、
ただ御本尊に対する強盛の信力・行力によって仏力・法力を我が生命の内に湧現させ「我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」とあらわれるべく、
生涯にわたって大情熱の信心を持続させていきたいものです。
( 完 )
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