■掲示板に戻る■ ■過去ログ 倉庫一覧■
('A`)終末世界にさようならのようです
-
初恋は実らないものだとよく言われている。実際に初恋が叶わなかったぼくはその通りだと思う。ぼくの初恋は叶わないまま終わってしまった。
ぼくは幼馴染みに恋をしていた。まだ中学生だった頃の、淡い恋心だった。まだぼくは幼かったし、臆病であった。
時間というのは本当に残酷で、戻れる事はない。思い出に残る一年前も、記憶に新しい一日前も、たった一瞬手前の一秒前にだって戻れやしない。
あの叶う事のなかった初恋は、今でも記憶の墓標を彷徨っている。
-
ぼくは今でも時折、世界の終末について考える。
この世界において自分の存在がさほど重要ではないと初めて認識したのは、ぼくが九歳になった頃だった。それまでのぼくは世界における自分の存在の大きさについて考えた事もなかった。そんなぼくがそのような事を気にしたのは、あまり好きではなかった社会科の授業の最中だった。その日はたしか流通の仕組みについて学んでいたのだ。生産者から消費者に商品が到達するまで、例えば何も介さず直接届く場合もあるし、小売業者が介在する、卸売業者や卸売市場を経由するケースもある。初老の教師がそんな授業を展開していただけだが、ぼくはこうして自分の使うノートやペンケースが手元に届くまでの道のりは簡単ではなく、色んな仕事があって流通は成り立っている、なんとなく流通は社会と一緒なんだなぁとシャープペンシルをくるくる手の上で回しながら考えた。国内に限っても一億人もの人間がいるのにそれぞれが何かしらの役目を持って社会全体が動いている。実際のところ不向きな仕事をしていたりそもそも仕事もしていなかったりで、一人ひとりに最も向いている職業が与えられ最高のパフォーマンスを発揮している効率の良い社会が実現されている訳ではないが、一億人それぞれの働きによってこの国はここまで発展しているのだ。そして自分もいつかその社会の歯車の一翼を担う日がやってくる。高校を出て大学に進むかすぐに就職するか当時は何も決めていなかったが、いずれは社会の一部として組み込まれる。それは朝になれば親に起こされ登校し、休み時間にドッジボールに興じ、帰宅してからテレビを見ながら課せられた宿題を消化して呑気に毎日を送っているだけの小学三年生の自分でも理解出来た。問題はそこからで、別に一億人もの人間がいれば自分一人が欠けても社会は揺るがないだろう、と思いついてしまったからだ。そんな考えに至ったのは恐らくその年の春に当時の総理大臣が急な病で亡くなったからだろう。一番偉い人という認識だった総理大臣が急逝するというのは政治に興味などない自分ですらさすがに驚き、これからの日本はどうなってしまうのだろうと心配したものだが、それほど大きな混乱はなく次の内閣へと移行しただけだった。昭和から平成に変わった時にあの人が新しい元号は平成ですってテレビの前で発表したのよ、きっと皆忘れないわ、と言った母親も翌週には神の国発言について文句を言っていて、もう忘れてしまったようだった。総理大臣が亡くなっても社会は減速せずに進んでいったのだ。ならば誰が死ねば社会は止まるのだろう。シーズン全試合四番で出場しホームラン王にも輝いたプロ野球選手か、オリンピックで悲願の金メダルを獲得した柔道選手か、ミリオンヒット曲を連発する人気アイドルグループか、出演すれば高視聴率を叩き出す有名俳優か、色々挙げてみたが、どれも社会は動きを止めてくれそうになかった。そうしてぼくは自分一人がいなくなっても社会にダメージなんてないのだと確信したのだ。列挙したのは皆が知っている有名人ばかり。それなのに一億人もいるこの国の、人口数万人しかいない田舎町に住んでいる何の変哲もない自分の存在など恐ろしくちっぽけなものだと気づいてしまったのだ。
-
別に、だからといって自殺願望がある訳ではない。ぼくが死んでしまえば両親は泣き崩れるだろうし、仲の良い同級生達やいつも一緒にいる幼馴染みはひどく悲しむだろう。しかしぼくは自分という存在が社会にとって豆粒みたいなものだと知ってからは、その世界をひっくり返してみたいという願望に近いものを抱くようになっていた。自分が政治家になってこの国を動かしたいだとか、あの頃世間を騒がせたバスのハイジャック事件をやってみたいとかそういうのではなく、退屈な授業中に機動隊がガラスを蹴り破って突入してきたり、大災害が発生して学校が崩壊してしまうなどの思春期になればする妄想の類だ。ぼくの場合はその思春期が始まる小学校高学年の頃に911アメリカ同時多発テロ事件を見てしまったので、当時はしょっちゅうそんな妄想をしていた。夜に風呂から上がると母親がテレビに釘付けになっており、貴方も見てみなさいとぼくを呼んだ。まだブラウン管だったテレビにはもくもくと黒煙を吐き出す高層ビルが映っており、飛行機が双頭のビルに突っ込み炎上する映像を繰り返し何度も流していた。どのチャンネルも緊急番組としてそのニュースを伝えていた。それを見て、最終的に死者三千人という未曾有のテロ事件に対して不謹慎ではあるが、興奮したのだ。飛行機が激突して膨れ上がる爆炎、驟雨の如く降り注ぐ大量のガラス片、おもちゃみたいに壊れて飛び散る瓦礫、助けを求め窓に張り付き手を振る女性、火の熱さに耐えかねビルから飛び降りて空中を頭から真っ直ぐ落ちていく男性、畳まれる様に潰れていくビル、崩壊したビルが巻き起こした煙から逃げ惑う地上の人々、街をすっぽり飲み込んだ粉塵の雲、全てがまるでハリウッド映画の様で、すごい、CGじゃない、と本物のリアルな映像に興奮したのは今でも明瞭に覚えている。
あの同時多発テロ事件を見てから、ぼくは終末の世界を想像する事があった。現実的に考えれば核戦争だ。今日において核戦争が起こるとは考えにくい。前世紀にキューバ危機で核戦争手前まで突き進んだが、今は見る影もない。インドとパキスタンの緊張状態は続いているが核戦争にまで達するかといえば、可能性は低い様に思われる。そうなれば日本は永遠に最後の被爆国となるかもしれない。それほどに、終末の世界など空想の域を越える事はない。
それでもぼくは成人を迎えても思春期の頃に持った願望を捨てられずにいる。誰が死んでも止まらない社会がひっくり返ってしまうほどの終末がいつか訪れるのではないかと、大学の講義を聞きながら考える事があるのだ。
-
('A`)終末世界にさようならのようです
ワールド・エンドⅠ
-
空が燃えていた。地平線に沈む前に赤々と輝いていた。町の影に奪われていない部分を橙色に染め上げていた。冬は空気が澄んでいて夕陽がとても綺麗だ。燃える夕陽に照らされながら、彼女はぼくの一歩先を歩いていた。彼女はこうしてよく縁石の上を歩く。小学生みたいだ、と言っても彼女はその癖を直さなかった。そうやって彼女はいつもぼくの一歩先を歩くのだ。
ノパ⊿゚)「ドクオはさ、将来なんになりたいの?」
ぼくには幼馴染みがいた。保育園の頃から一緒だったから、その付き合いは長い。とても活発で元気な彼女は見た目も中身もちょっと幼い。身長は百五十センチにも満たないし、行動や発言も幼さが残る。だからそんな彼女が少し大人びた問いを投げてきたのは意外だった。
('A`)「急だね」
中学三年生の冬だった。だから進路の話ぐらいする。しかしこの町に高校は一つしかない。だから必然的に大半はその高校へ進学する。だから彼女が言う将来とは、恐らくその先だ。
('A`)「とりあえず、大学には行きたいかな。 こんな田舎で就職するのは嫌だ」
ノパ⊿゚)「この町を出るの?」
彼女は一つに結んだ髪をぴょんと跳ねさせながら縁石の合間をジャンプした。そうやって彼女が飛び跳ねるたびに結ばれた髪が揺れる。保育園の頃から、ずうっと彼女は髪を後ろで結んでいた。
('A`)「家から通える大学なら別だけど、この近くはちゃんとした大学がないし」
ノパ⊿゚)「そっか、ドクオは大人だね」
この前まであれほど色づいていた紅葉は全て散ってしまっていた。丸裸の木々が風に吹かれて立っている。学校から帰るだけでもやはり肌寒く感じる。寂しい季節だ。
彼女とはよくこうして一緒に帰る。幼馴染みだからだ。登校だって一緒にする。親の送迎がなくなった小学生の時からずっとそうしている。だから彼女の事はよく知っていたし、彼女もぼくの事をよく知っていた。いつまで一緒なのかは分からないが、町に高校は一つしかないから一緒の登下校はまだまだ続くだろう。
('A`)「ヒートは?」
彼女の歩みが遅くなった。どんどん遅くなって、ぼくは追いついてしまった。縁石はそこでぷっつりと途切れていて、彼女はその先端で立ち止まっていた。
夕暮れが迫る。地平線の先に沈んでいく。影の支配が強まる。ぼく達がいた場所からさぁっと日なたが奪われ影に落ちた。たくさんの木々も影に侵略されて風だけがびゅうびゅうと吹き始めた。冷たい風が顔を撫でる。彼女の一つに結んだ髪が揺れる。
ノパ⊿゚)「お父さん、転勤なんだって」
ぽつり、と彼女は話し始めた。
ノパ⊿゚)「東京の本社勤務になるんだって。 栄転だってお父さん喜んでた」
-
('A`)「東京・・・?」
それは寂れたこの田舎町にはあまりにも異質なワードだった。とても無縁な二文字だった。恐ろしく遠い、異郷の地だ。
頭の中で東京が反復する。東京がぐるぐると回る。東京がかき乱す。ぼくは混乱していた。突然の告白を受け止めきれなかった。彼女の事は何でも知っていると思っていた。それなのに。
ノパ⊿゚)「だから、卒業したら引っ越し。 東京の高校を受験出来るんだって。 だから春からは、東京の高校」
冷たい風がぼく達の間をすり抜けた。彼女のセーラー服のプリーツスカートがぱたぱたと風になびく。ぼくは何か言おうとして、何か言わなきゃいけないと思って、口を開いた。だけど言葉を作成出来ず、整理出来ず、酸素の足りない魚の様に口をぱくぱくさせるだけだった。
彼女の顔すら見られなかった。どんな顔をしていただろう。喋りからは弱々しさを感じなかったけど、きっと気丈に振舞っていたのだろう。いつ知って、どれだけ悩んで、ぼくに打ち明けたのだろう。彼女はどんな言葉を待っていたのだろう。
ノパ⊿゚)「でもまたこの町に戻ってくるかもしれないから、お家は空き家にしとくんだって。 お父さんのことだからすぐ追い返されるかも」
彼女はえへへ、と笑う。だけどどこか硬い。やっぱり無理をしているんだ。ぼくは顔をあげた。そこで縁石の終端に立つ彼女と目があった。
ノハ ⊿ )「離ればなれ、だね」
その一言が、彼女を決壊させた。我慢していただろう涙がぼろぼろ流れ始めて、もう止まらなかった。すっかり陽は沈んでしまって、辺り一帯が暗かった。冷たい風だけが二人を分ける様に吹き付けた。
ノハ ⊿ )「ごめんね」
やめてくれ。謝らないでくれ。彼女は悪くない。勿論彼女の父親も悪くない。誰も責められない。彼女が謝ってももうひっくり返りはしない。ぼくはただ謝りながら涙を流す彼女の前に突っ立っている事しか出来なかった。十五歳のぼくはあまりにも無力だった。
あの時、どうすれば良かったのだろう。あの時、なんと声をかければ良かったのだろう。今でもぼくは正解を見つけられずにいる。
彼女は予定通り、卒業後に東京へと発った。ぼくは引っ越しの日に彼女の家まで見送りに行った。到着するとすれ違いざまに引越会社のトラックが走っていって、両親と彼女の乗る車だけが空っぽになった彼女の家の前に止まっていた。ドラマの様な光景だった。そこでぼく達の幼馴染みとしての十二年間が終わった。結局彼女の家族がこの町に帰ってくる事はなく、数年後には空き家だったあの家も売りに出されていた。あの家に知らない苗字の表札がかかって洗濯物が干されているのを見て、もう彼女が帰ってくる事はないといよいよ確信したのであった。
あの頃はまた携帯電話が現代の様に一人一台ではなく今ほど普及していなかったため、ぼく達の様な中学生は当然持っていなかった。だから暫くは手紙のやりとりをしていたものの、鉛筆を握る事が好きではなかった活発な彼女とは時間が経つうちに手紙の回数が減っていき、ついに途切れた。
ぼくは高校から随分と勉強をして目標通りの大学へ進んだ。それも東京の大学だ。あの寂れた退屈な町を出たかったのもあるし、無縁だと思っていた都会に憧れる様になったのもある。でも本当は、きっと東京のどこかにいる彼女に会えるんじゃないかと期待していたのだ。しかし一千万人もの人が犇めく東京でそんな都合よく巡り合えるはずもなく、手紙をもう一度出してみるも住所が変わっていて届く事はなかった。フェイス・ブックでも登録しているのではと検索してみたがヒットする事もなかった。
-
本当に、あの時どうすれば良かったのだろうか。時間というのは本当に残酷で、戻れる事はない。思い出に残る一年前も、記憶に新しい一日前も、たった一瞬手前の一秒前にだって戻れやしない。それなのにぼくはたまに未練がましくあの日を思い出す。そしてあの寂れた田舎町を思い出す。
ぼくが生まれ育ったあの故郷は、人口二万人ほどの小さな町だ。町内に高校は一つしかないので、中学校卒業時にはよほど成績優秀で進学校へ羽ばたく者や特別な夢を追う者以外は全員なんとなくその高校に進むのだ。ちょうど自分達が進学する頃には人口減少のため隣町の高校と合併して新しい学校になったが、それまでは普通科でありながら半分ほどが卒業後に就職する道を選んでいた。ぼくは大学への進学を決めたため、付近に良い大学のないあの町を出る事になった。両親は一人息子であるぼくの大学進学、それに伴う一人暮らしを受け入れ快く送り出してくれた。
あの生まれ故郷には、年末年始に帰るぐらいだ。正直なところぼくはあの思い出が詰まった町が、それほど好きではなかった。全国的な銀杏の生産地であるあの町は秋になるとイチョウの紅葉がとても綺麗に色づく。しかしそれと同時に銀杏のなんとも形容しがたい悪臭が町そのものを覆うのだ。銀杏の実を間違えて踏んでしまえば靴からあの独特の臭いは取れなくなる。町にしても小さな田舎町なのでスーパーマーケットも一つだけ。小学校は幾つかあるのに中学校や高校は町に一つしかない。だから自然とそれぞれの保育園と小学校で時間を過ごした町中の子供は中学校と高校で決まって合流するのだ。娯楽施設も少なく休みの日には皆が同じ場所へ行く。とにかく選択肢が少ないのだ。ぼくはそれも嫌だった。中学生の時点で大学進学を決めたのも、採用する際の応募資格が大卒以上の企業があまりにも多かったからだ。そうしてぼくは都会に住まいを変え、大学へ進んで選択肢を増やしたのだった。それでも彼女は見つけられなかったし、あの日の正解も未だに見つけられないままだ。
( ^ν^)「ドクオってさ、彼女いないの?」
先輩の言葉に、ぼくは顔を上げる。バイト先であるゲームセンターの休憩室。この時間に休んでいるのはぼくと先輩だけだ。先輩は古びたソファーに座って煙草を吸っていた。この先輩は自分より七つも年上で、バイトリーダーで、つまるところフリーターをやっている。
('A`)「いないですね」
素直にぼくは答える。もう大学二年生だ。すなわち今年になって遂に成人を迎えてしまった。
( ^ν^)「どんぐらい?」
('A`)「いや、その、ずっと・・・ですね」
( ^ν^)「え、まさかお前年齢イコール彼女いない歴のパターン!?」
口ごもるぼくをよそに先輩は吹き出す。しかし事実なのだ。ぼくは女性を付き合った事がない。もう二十歳にもなるというのに、一度もない。だけど決してチャンスがなかった訳ではない。高校の三年間でも、上京してからの二年も、女性との出会いがなかった訳ではない。ただどの女性も思い出の中にいるあの幼馴染みの彼女を越えられなかったのだ。
ぼくは幼馴染みの彼女に恋心を抱いていた。しかし彼女が町を去ってしまうと分かった後でもそれを口にする事は出来なかった。今になってもあの叶わなかった初恋を思い出してしまうのだ。ただの片思いをいつまでも忘れられずにいるのだ。笑われてしまうだろう。それでもぼくの中に彼女はいつまでも居座り続けて、ぼくは彼女以外の誰かを好きになれなかった。
('A`)「やばいですよね、この歳で」
( ^ν^)「お前今年でハタチだっけ? たしかにやべーな」
-
うおお……地の文多いな……
支援
-
すっげえ地の文だな
支援
-
幼馴染みの彼女と離れてから、今年の冬で五年が経つ。もう五年だ。恐ろしく長い時間が経ってしまった。いい加減忘れてしまうべきなのに、振り払えなかった。彼女がいるはずのこの東京で不意に探してしまうのだ。東京をぐるぐる回る山手線に乗るたびに、日中でも三分間隔でやってくる地下鉄に乗り換えるたびに、四方から合戦の如く人が飛び出してくるスクランブル交差点を歩くたびに、彼女の事を思い出すのだ。どこかで偶然に会えるのではと、叶いもしない想像をしてしまうのだ。
( ^ν^)「よし、オレが今度合コン組んでやるよ」
('A`)「ありがとうございます」
先輩は女性付き合いが豊富だという。いわゆるフリーターだが整った顔をしているし、話も上手い。昔はバンドも組んでいたそうで随分と女性人気があったそうだ。立ち姿もなんだかホストみたいだった。
( ^ν^)「お前には何が足らないんだろうなぁ、別に顔は悪くないし、口下手でもないし」
('A`)「自分もそれが分からないんですよね」
別に付き合った訳でもない打ち切りエンドの初恋を未だに引きずっているんです、などと言えなかった。こればかりは自分の胸のうちに封印し続けている。両親にだって喋った事はない。
( ^ν^)「まぁいいや、今度一回合コンやって見てみるか。 初めてじゃないだろ?」
('A`)「あ、はい」
( ^ν^)「よし、決まったら言うからな」
その時、休憩室のドアが勢い良く開かれた。息を切らした同僚のアサピーさんが引きつった顔をして立っていた。顔面蒼白である。
(;-@∀@)「た、大変です先輩!」
( ^ν^)「なんだ、またお前喧嘩の仲裁も出来なかったのか」
(;-@∀@)「ち、違うんです! クレーンゲーム道場破りです!」
なんだそれは。初めて聞く言葉だ。
( ^ν^)「なに、いくつ取られた」
(;-@∀@)「大型景品の台、全部持って行かれました・・・! 早く補充しろと要求しています・・・!」
( ^ν^)「バッカ、なんで早く言わねぇんだ! なんとか帰ってもらうしかねーだろ!」
-
先輩が休憩室から飛び出していった。ぼくもアサピーさんに続いて部屋を出る。珍しいタイプの緊急事態だ。ゲームセンターにあるトラブルというのは機械の故障やメダル詰まりなどのエラー、迷惑客の対処や客同士の喧嘩の仲裁が多い。特にゲームセンターではパチンコ店などに比べると平均的な年齢層が低いため喧嘩は絶えないのだ。だからそういう対処に関しては慣れたものだが、クレーンゲーム道場破りというのは初めて当たるケースだった。そもそもクレーンゲーム道場破りという呼び方が正しいのか一般的なのかは定かではないがアサピーさんも先輩も使っていたので倣っておく。
(;-@∀@)「こっちです先輩」
アサピーさんに先導されて現場に着く。クレーンゲームの前には既に人だかりが出来ていた。その中心にぼくと同年代ぐらいの女性が立っていて、その足元には一番大きなサイズの景品袋が幾つも置かれていた。中には大型景品であるぬいぐるみがこれでもかと詰め込まれている。クレーンゲームの方を見ると空っぽだった。本当に一人で全部取ってしまったのだ。これでは確かにクレーンゲーム道場破りである。
「あ、店員さん遅いよ」
(;-@∀@)「あ、あの、上の者を連れてきましたので、ハイ」
上の者といっても先輩は所詮バイトである。分厚い眼鏡をしたアサピーさんの見た目通りの気の弱さは悩みの種だった。ゲームセンターの店員は迷惑客への注意や喧嘩の仲裁もしょっちゅう行うので、気が弱い人間はあまり向いていない。アサピーさんは逆に店内の死角で喝上げされそうになったと聞く。
「補充してくれないの?」
( ^ν^)「お客様、申し訳ないのですが景品には限りがございまして、一人のお客様に占有されてしまいますと他のお客様のご迷惑となってしまいます」
「みんな私が一人でどれだけ取れるかって集まってきたんだよ、それにクレジットまだ残ってるし」
( ^ν^)「そう言われましても、景品には限りがございまして」
「えー、じゃあお店が降参ですこれ以上持っていかないで下さいって感じで負けを認めるってこと?」
(#^ν^)「はいィ?」
先輩の小さい「ィ」が出てしまった。これは苛ついている証拠だ。先輩は沸点が低い事で有名だった。自称元ヤンだっただけはあり、喧嘩の仲裁をするはずが参戦したり、クレームをつけてきた客を殴り返したりとこの店での武勇伝は数知れない。よくも解雇されないものだと不思議ではある。
(#^ν^)「お客様ァ、あまり出しゃばらない方がいいですよォ?」
-
もう接客の限度を越えている。それに気づいたアサピーさんが震えていた。これだけ多くのギャラリーがいるのに客に、まして女性に手を出すのはまずい。かなりまずい。
「というか上の者っていうから社員だと思ったのにその名札バイトじゃん。 見たところ三十近いのにバイトってフリーター? なにか夢追いかけてる系? バンド? お笑い?」
ぶちっと音がした。本当にした。アサピーさんが頭を抱える。
(#^ν^)「んの下手に出てりゃこのアマァァァ! 社会をナメるんじゃねぇぇぇ!」
よく分からない文句を吐きながら先輩が女性に飛びかかる。完全にキレている。バイトが女性客を暴行して炎上。おぞましい未来が安易に想像出来た。止めに入るが間に合わない。ぼくは巻き添えでバイトを解雇される結末を覚悟した。
( ^ν^)「えっ」
間抜けな声がした。一瞬後には先輩は浮いていた。ぼくもアサピーさんもギャラリーも目を奪われた。とても自然に先輩は袖と襟を掴まれ、宙に浮いていた。
「どっせーい」
そのまま先輩は床に叩きつけられる。見事な背負投だった。芸術的な放物線を描きながら先輩は床に落ちていた。当の本人は何が起こったか理解出来ず、目をぱちくりさせていた。一部始終を見守っていたギャラリーからわあっと歓声が起こる。祝福の声に女性は右腕を突き上げて応えた。背負投、一本勝ちである。
(;-@∀@)「せ、せんぱぁい」
アサピーさんが狼狽える。先輩はまだ呆気に取られていた。ぼくはそんな先輩の様子などもう視界に入らなかった。ゆっくりとその女性に近づく。加勢と思い込んだ女性はなんだよ、やるか、と身構えた。
そのままだった。全部そのままだった。活発すぎる彼女はそうやってよく同級生の男子生徒を投げ飛ばしていた。変わっていなかった。
見つからなかったのに。どれだけ探しても見つからなかったのに。東京をぐるぐる回る山手線に乗っても、日中でも三分間隔でやってくる地下鉄に乗り換えても、四方から合戦の如く人が飛び出してくるスクランブル交差点を歩いても、見つからなかったのに。
('A`)「ヒート」
その名を呼ぶと、彼女は怪訝そうにぼくを見た。まじまじとぼくの顔を見て、何かに気づいて、名札に視線を落とした。
ノパ⊿゚)「ドクオ・・・?」
そうしてぼく達は再会したのだった。
§ § §
もう遅い時間だった。ぼくとヒートはとにかく話が出来る場所を探し、ゲームセンターから少し歩いたところにあるファーストフード店に入った。ぼくはまだシフト上では勤務時間だが、ヒートがやんわりと先輩を脅した結果帰って良いとの事だった。むしろ連れて帰ってくれと言わんばかりの顔である。自分より年下の女性に投げ飛ばされた事により先輩のプライドはもうズタズタであった。次に出勤する時には何と声をかければ良いだろう。
('A`)「さっき先輩に何て言ったの」
ノパ⊿゚)「本社に乱暴されたって言いつけるぞって言った」
('A`)「そう・・・」
先輩の自業自得ではあるのだが、少し気の毒でもある。
-
ノパ⊿゚)「ところでドクオはなんで東京にいるの? もしかして大学?」
('A`)「そうだよ、東京の大学に受かって今はこっちで一人暮らし」
ノパ⊿゚)「あーじゃあ中学の時に言ってたのちゃんと叶えてたんだね」
ヒートは笑う。彼女がきちんと覚えていた事がぼくは嬉しかった。もしかするとぼくだけがいつまでも覚えていて、彼女はとっくにあの町で過ごした時間など忘れてしまったのではと、不安になる事もあったのだ。
('A`)「ヒートは?」
ノパ⊿゚)「私もこっちの大学。 今は一人暮らしなんだ」
('A`)「あれ、おじさんとおばさんは?」
ノパ⊿゚)「それがお父さんさ、去年に入って今度は大阪に異動になっちゃって。 お母さんは単身赴任してもらおうって言ってたんだけど、私ももう大学生だし一人で大丈夫だよって。 洗濯も一人で出来ないお父さんの方が心配だし」
('A`)「そっか大阪か、大変だね」
ノパ⊿゚)「本社勤務で安泰っぽいしもうあの町の家に戻る事もないだろうって売っちゃったんだけど、結局今度は大阪だもんね。 お父さんもツイてないよ」
えへへ、とヒートは仕方なさそうに笑う。その仕草はあの十五歳の頃と変わっていなかった。
しかしヒートは全体的に大人になっていた。顔つきにあどけなさは残るものの、女性らしく成長していた。五年も経っているし彼女も成人を迎えているので当然ではある。まだ少女だった中学生のヒートから随分と飛んでしまったものだ。しかし相変わらず髪は一つに結んでいる。あの頃より長い気がする。
ノパ⊿゚)「ドクオ、大人になったよね。 さいしょ分かんなかった」
('A`)「ヒートこそ」
ノパ⊿゚)「ほんと分かんなかったよ。 髪染めてるし、すっごい顔してたから、あの人の仇討ちかと思っちゃった」
('A`)「大学生だし、髪ぐらい染めるさ」
ノパ⊿゚)「中学卒業してから引っ越したから、五年ぐらい? もう大人だもんね」
見た目こそ成長したヒートだったが、話し方はあの頃のままだ。ぼくにはそれが嬉しかった。なんだか安心した。およそ五年もの間、忘れられなかっただけはあって、話したい事はたくさんあった。
幼馴染みとの久しぶりの再会を、ヒートも喜んでいた。でも彼女は気づいていただろうか。ぼくが彼女に幼馴染み以上の感情を抱いていた事を、特別な目で見ていた事を、飛び跳ねるたびに揺れるスカートを視線が追っていた事を。決してぼくの口から語られる事はなかった気持ちを。さんざん言えなかった事を後悔した初恋を。
ノパ⊿゚)「私たち、ずっと一緒だったよね」
('A`)「そうだな」
いっそ言ってしまおうか。言ってしまった方が楽になるだろう。ヒートが町を出ていったあの冬から、もう五年近くが経つのだ。その間、思い出しては後悔ばかりしてきたのだ。言ってしまおう。もう後悔しないために。
('A`)「あー、だってさ」
ノパ⊿゚)「うん?」
('A`)「あの頃、ずっとヒートの事好きだったし」
言ってしまってから、急に恥ずかしくなった。平常心を装い、自然な流れで言ってみたものの、一気に顔が赤くなる。鼓動が速くなる。急に緊張してしまう。周囲が気になってしまう。言ってしまった。ようやく言ってしまった。長年胸のうちに封印していたものを遂に放出してしまった。
-
ノパ⊿゚)「え、そうなの」
なんと答えるだろう。どう答えるだろう。あの幼馴染みの十二年をどう答えるだろう。
ぼくはひどく緊張した。座っているだけなのに目が回りそうだった。瞬きも出来ず固まっていた。ひたすら審判を待っていた。
ノハ^⊿^)「私もすっごくドクオのこと好きだったよ。 思えばあれが初恋だったな」
思わず口角が上がる。拳を握りしめる。なんと嬉しい事だろう。報われた気がする。ひどい思い違いではなかった。ようやく証明された。遂にたどり着いた。
('A`)「あ、あの頃ってまだ中学生だしな」
ノパ⊿゚)「うん、なんか中学生で付き合うって早いと思ってたし、私はドクオといれば楽しかったし。 普通にあの高校に進むものだと思ってたから、まだまだ二人でいられるって油断してた」
('A`)「なんというか、両想いだったと考えると、勿体無かったかもね」
ノパ⊿゚)「ほんとだね」
あのままヒートが引っ越す事はなく同じ高校に進学していたら、どんな未来があっただろう。精神的にも成長したぼく達は幼馴染みの関係を越える事を選択しただろうか。ぼくの両親もヒートの両親もぼく達の幼馴染みという関係を知っていたし、きっと歓迎してくれただろう。ヒートと過ごす高校生活はきっと楽しかっただろう。ヒートと行く修学旅行は楽しかっただろう。ヒートを回る文化祭は楽しかっただろう。
そうしてぼくは、胸が高鳴るのを感じながら、平静を装いながら、ヒートに聞く。
('A`)「ヒートはさ、今彼氏いるの?」
ノパ⊿゚)「うん、いるよー」
そこで時間が止まった気がした。さぁっと潮が引いていく様な感じだった。これほど絶望に近い気持ちになったのは久しぶりだった。目の前が真っ暗になるとはこういう事だ。
冷静に考えてみれば、当たり前だ。ぼく達はもう二十歳なのだ。大学生なのだ。成人なのだ。大人なのだ。恋愛の一つや二つだってするし、彼氏や彼女がいてもおかしくない。ヒートだってそうだ。たとえ恋愛とは無縁に見えた彼女でも、大人になれば恋愛だってするのだ。そもそもぼくが知っているヒートは、まだ異性と交際するには少し早い中学生まででしかない。ヒートが町を出た後の高校の三年間と大学でのおよそ二年をぼくは知らない。高校でどんな青春を過ごしたのかもぼくは知らない。十二年も一緒にいたのに、直近の五年を知らないだけで、急に彼女が別人の誰かに見えてきた。ヒートだって恋愛をする、彼氏が出来る、当たり前の事だが、ぼくの記憶は十五歳のまだ幼い彼女のままで止まっていて、そんな内面的にも成長してしまったヒートが信じられなかった。
成長してしまったのだ。彼女はもうぼくの知る幼馴染みではない。たった五年で階段を駆け上がってしまった。
ノパ⊿゚)「ドクオは?」
('A`)「いないよ」
ノパ⊿゚)「そっかー、ドクオならいそうなのにね」
ぼくは君が良かった。それを夢見ていた。だから余計に惨めだった。彼女は別れてからしっかりと青春を謳歌していたのに、ぼくは引きずったまま一人で過ごしていた。同じ時間が流れていたはずなのに、なんと惨めだろう。一人で変に期待をしていて、勝手に落胆していた。とても格好悪かった。再会出来て心から嬉しかったのに、現実は非情だった。
ぼくは純粋に嫉妬していた。ヒートの心を掴んだその彼氏に、ヒートが過ごした青春に嫉妬していた。ずっと隣にいたのに、自分が十二年も隣にいたのに、掠め取られた気分だった。情けない発想だと自覚しつつもそう思わざるを得なかった。まだ泣き虫だった園児の彼女も、男子に混じりサッカーをしていた小学生の彼女も、隣のクラスの男子と取っ組み合いの喧嘩をしていた中学生の彼女も、ずっと見てきたのだ。五年という残酷な月日が憎たらしくて仕方なかった。本当に時間というものは戻りやしない。彼女はぼくを置いて駆け足で大人になってしまった。
-
('A`)「ヒートが楽しそうなら何よりだよ」
ノパ⊿゚)「ほんと? 今度飲みに行こうよ、ゆっくり話したいしさ」
('A`)「そうだね」
成人を迎えているのだから、彼女だって酒を飲む。これも当たり前だが意外だった。結局ぼくの中で彼女の印象は十五歳のままなのだ。だから現実の二十歳の彼女とのギャップが恐ろしかった。
その日はもう遅かったので、連絡先だけ交換してまた後日という事になった。何より驚いたのは彼女もぼくが住むこの街で一人暮らしをしている事だ。上京してから見つける事など出来なかったのに、随分と世界は狭かったようだ。ただし同じ街といえども住んでいるエリアは違う。この街にはJRと私鉄のターミナル駅が離れたところにあり、それぞれの駅を中心に繁華街が形成されている。八百メートルほどの距離があり二つの駅を徒歩で移動すると大人でも十分以上はかかる。それ故に同じ街でもそれぞれの駅前が繁華街として独立しているようなものだ。勿論片側の駅前繁華街で基本的に事足りてしまうので行き来する者はあまりいない。ぼくとヒートが同じ街に住んでいながらこれまで出会う事がなかったのはこのためだろう。ヒート曰く向こう側のゲームセンターに飽きたからこちら側の開拓に来たという。だから今日こうして再会出来たのも、偶然といえよう。
ノパ⊿゚)「いやー、でもドクオに会えるなんて思わなかった。 超うれしい」
両手いっぱいにぬいぐるみをこれでもかと詰め込んだ景品袋を持ちながらヒートはしみじみと言う。彼女からしてみればぼくが上京していた事も知らなかったのだ。ぼくも心身共にすっかり成長してしまったヒートに戸惑いこそ隠せなかったが、再会が叶った事はとても嬉しかった。
('A`)「メールするよ」
ノパ⊿゚)「うん、私もする」
縁石を歩くのからは卒業したようで、ヒートは普通にアスファルトの歩道を歩いていた。クレーンゲーム道場破りをするあたり昔ながらの破天荒な性格は残っているものの、今のヒートは普通の大人になっていた。化粧もしているし有名ブランドのバッグを使っているし恋人だっている。あの頃ぼくが恋した活発な少女とは少し違う。
ノパ⊿゚)「じゃあ、またね」
そう言ってヒートは手を振る。ぼくも同じ様にまたね、と手を振った。ヒートはくるりと向きを変えて夜遅い静かな住宅街を歩いて行く。またね、と言って別れたのはいつ以来だろう。これは毎日会っていたのに毎日彼女が別れ際に言っていた言葉だ。だけど最後のあの日に、ぼくも彼女もまたね、と言えなかった。言うべきだと、いつかの再会を目指してそう言うべきだと恐らくお互いに分かっていたのに結局言えなかった。それほどぼく達は憔悴しきっていた。まるでこの世の終わりの絶望のようだった。だからこうして奇跡的に再会出来たのだから、本当に喜ばしい事だ。名残惜しさを感じつつも、同じ街に住んでいるのだからまたすぐに会えると自分に言い聞かせてぼくは家路についた。
その夜、ぼくは夢を見た。ぼくが見る夢というのは過去の映像がただ流れているものであったり、自分が何か行動をしている動きのある夢であったり、様々だ。何か大きな出来事があると影響されてそれにまつわる夢を見る事は多いが、まさに今日はそれだった。ぼくはヒートの夢を見た。ぼくの脳内メモリにある過去の思い出の映像が、まるでビデオテープを再生するみたいに流れていたのだった。
-
ヒートは、あまり普通の少女ではなかった。ぼくとヒートは、一般的な幼馴染みの関係とは少し違った。家が近かったし両親同士も知り合いだったので必然的に幼馴染みとして育ったが、どうしてヒートと仲が良かったのか少しだけ不思議だった。彼女は幼い頃から本当に活発な少女だった。勉強はあまり得意ではなく一番好きな科目は常に体育であった。休み時間や放課後はいつも男子に混じってドッジボールや野球に興じていた。中学生になって男女の身体の作りの差が顕著になってもヒートは男子に負けなかった。中学校に女子のソフトボール部がなかったため特別枠で男子野球部に入ったヒートは途中から四番の座を勝ち取ってしまった。それぐらいにヒートは驚異的な身体能力を持っていたのだ。更にヒートは性格も女子らしくないというより、もはや凶暴そのものだった。とても喧嘩っ早かった。鋭利な刃物みたいに尖っていた。彼女のトレードマークでもあるポニーテールになぞらえて暴れ馬などと呼ばれていたのである。実際にヒートは中学生になっても他の男子生徒と本気で取っ組み合いの喧嘩までしていた。幼馴染みであるぼくも例外ではなく彼女とよく喧嘩をしていた。あの頃にはまだツンデレなどという言葉は存在しなかったが、今となればそういうカテゴリに当て嵌める事が出来るのかもしれない。ある日には泥だらけになりながら喧嘩をしたのに、ある日は手を繋いで帰っていた。あんまり見ないで、と怒られる事もあったし、ちゃんと私を見ていて、と注文をつけられる事もあった。とにかくヒートに統一性はなかった。破天荒で、無茶苦茶で、度を越していた。あの頃のヒートを何かしらの言葉で説明するのもカテゴライズするのも難しい。とにかく普通ではなかった。けれどあの十二年間で共通しているのは、ヒートはよく日焼けしていたし、いつも飛び回って一つに結んだ髪を揺らしていた事だ。それがぼくの脳内メモリに住んでいるヒートの姿だ。そうしてビデオテープの再生が終わる。
次にブルーレイディスクに再生が始まる。今日見たヒートの姿が見える。身長は相変わらず百五十センチにも満たずに小柄だが、化粧も覚えてすっかり大人になったヒートだ。暴れ馬と呼ばれていた少女の頃から見違えるほどに成長したヒートの姿だ。ぼく自身、大人になったヒートの姿を想像する事もあった。しかし現実の二十歳のヒートは想像上のそれとは大きくかけ離れたものだった。別にぼくの理想であった姿に近づいていない事が不服ではない。むしろ成長したヒートを迎え入れるべきだ。ブルーレイディスクの再生が終了する。
それにヒートには素質があった。小学六年生の時の学芸会では公平を期すために芝居の役をくじで決めたところヒートがお姫様の座を射止めたのだ。ヒートでは似合わないと男女双方からブーイングが上がったが普段は結んでいる髪をおろしてドレスを着たヒートはとても可愛らしく皆をあっと驚かせた。日頃は一緒にサッカーに明け暮れる男子共も思わず見惚れていた。それ以来ヒートは黙っていれば美人という認識を持たれていたのである。ぼくだって、その姿を見て彼女を意識する様になってしまったのだ。だから今の彼女は、あまりにも普通だった。とても普通の大人に成長していた。クレーンゲームで景品を全て取ってしまうあたりあの破天荒さは残っていたが、子供の頃に周囲を惹きつけたカリスマ性も、度を越していた攻撃性も、あまり感じられなかった。彼女は支離滅裂だった自分から脱皮して普通に成長したのだ。強すぎる個性を捨てて成長したのだ。ぼくはあの無茶苦茶なヒートに惹かれていた。だからどうしようもなく、寂しく感じてしまった。でもこれは、ぼくの勝手な押し付けでしかない。彼女は何にも悪くはない。それぐらい、ぼくだって分かっている。
-
いつの間にか夢が終わっていた。いつも夢の中でヒートに会っては、現実に戻って落胆していた。このまま夢がずっと続けばいいのにと何度も思った。しかし今日は違う。目を覚ましてもヒートは同じ街にいる。また会えるのだ。それだけでやはりぼくは嬉しかった。もう夢から覚めて絶望する事はないのだ。
§ § §
ぼくが住む街には若い人が多い。駅の近くに大学が幾つもある。いわゆる学生街と言えるだろう。駅からぼくが暮らすアパートの方面へ続く通りも大学の名前を冠している。その通りを中心にチェーン系やローカルな店舗の飲食店が建ち並んでいて、なかなか飽きない。新たな商業エリアや昔ながらの商店街もあり、若い人が住みやすい環境になっているのだ。難点といえばあまり治安が良くない事ぐらいだろう。駅前にはパチンコ店が多く見られるし夜中にパトカーのサイレンを聞く事も珍しくはない。しかし女性一人なら少し不安だが男一人が暮らすにはそれほどの懸念材料にはならない。ヒートもこの街に住んでいると判明したが彼女を一般的な女性としてカウントするのは難しいと思う。大人になった今でも、ヒートは昔の様に男に回し蹴りをしていても不思議ではない。幼い頃のヒートは気に入らない事があるとすぐに男子を蹴り飛ばしていたし、本当に凶暴そのものであった。ヒートが暴れるたびにセーラー服のスカートがめくれ上がったが当の本人はまるで気にしていなかったのを覚えている。再会したあの日も先輩を華麗な背負投で投げ飛ばしていたしヒートならやりかねないのだ。
ヒートと再会した数日後、さっそく二人で飲む約束をした。この街は同じ街でもJRと私鉄の二つの駅が離れた場所に位置しているがぼくの住むJR側の方が栄えていて店も多い。ヒートが任せるよ、と言ったのでぼくは駅から歩いて数分の居酒屋を予約した。待ち合わせ場所は駅の改札を出たところである。金曜日の夜なので人が多い。待ち合わせの時間より少し早くヒートはやってきた。白のニットにストライプのスカートを合わせている。あまりヒートがスカートを履いていた記憶はないが、子供の頃の話であるし女子大生になればスカートぐらい履くだろう。
駅ビルを出て、何軒かの居酒屋のキャッチを巧妙にかわしながら駅前の通りを二人で歩く。ヒートはもう昔みたいに縁石を歩かない。考えてみれば、きっと彼女は低い身長を補うためにそうしていたのだと思う。縁石の上を歩くと、ようやくぼくに近づくのだ。小学生高学年あたりから一気に成長したぼくの身長をいつも恨めしそうに睨んでいた。自分の頭から手を伸ばして、ぼくの胸辺りにどすっと手刀をよく食らわされたものだ。縁石の上に登る事もなく、すたすたと一歩先を歩く事もなく、他愛もない話をしながらぼく達は駅前の通りから居酒屋のある雑居ビルへと入る。予約したのは気兼ねなく話せるように考えて、個室の居酒屋だ。受付で名前を告げると和モダンテイストの個室に案内された。
ノパ⊿゚)「いいとこだね」
('A`)「うん、思った以上に」
-
ヒートが席についてから部屋を見渡して感想を述べた。正直なところ、個室の部屋というのははじめ少し気が引けた。ヒートには彼氏がいるのだ。そんな彼氏持ちの女性が他の男と個室の居酒屋で飲むというのは気に食わない人だっているだろう。ぼく自身、もし彼女がいて同じ状況ならばあまり良い気持ちはしない。だからこれはヒートの彼氏に対するささやかな抵抗でもあった。顔も名前もしらないがじゃじゃ馬ヒートの心を見事に射止めた男なのだ。嫉妬せずにはいられなかった。
ノパ⊿゚)「私は生だけど、ドクオも?」
('A`)「うん」
ノパ⊿゚)「じゃ注文するね」
同じ年なので変な感想だが、ヒートも酒を飲む年になったのだ。しかも最初にきちんとビールを頼んでいる。恐らく普通に大学生生活を送っている証拠だろう。見た目の成長はともかく幼馴染みが酒を飲んでいると本当に大人になったんだなと実感させられる。ヒートはシーザーサラダを取り分けてくれたし、グラスが空くと自然に回収してくれた。一端の女子大生だ。
ノパ⊿゚)「そういえばドクオはなんでこの街にしたの?」
('A`)「大学に通いやすいし、店も色々あるし、全体的に家賃安かったし」
ノパ⊿゚)「家賃安いのはあんまり治安良くないからだよね。 私もなんでだろーって最初思ってた」
('A`)「パチ屋多いしね。 ヒートは大丈夫なの?」
ノハ^⊿゚)b「何回か絡まれたけどボマイェお見舞いしたら逃げてったよ」
('A`)「はぁ、そりゃ頼もしい」
どうやら彼女の強さは健在らしい。そういうところは変わっていないようだ。妙にぼくは安心する。それでこそヒートなのだ。
('A`)「でも、ヒートと酒飲む日がくるとは思ってなかった」
ノパ⊿゚)「そうだよね、中学生の時じゃ想像も出来ないよね。 今年で二十歳だもんね」
('A`)「早いよな、あれから五年だもんな」
ノパ⊿゚)「それに年が明けたら成人式だよ」
成人式。ヒートに言われてぼくは思い出す。一月には成人式があるのだ。すっかり忘れていた。成人式という事は地元に帰って参加するという事だ。もしかしたらそこでヒートの情報を得られたかもしれない。
ノパ⊿゚)「成人式さ、どうしようか迷ってるんだよね」
('A`)「どうして」
ノパ⊿゚)「ほら、もうあの町には家がないじゃんか。 せっかくだし、振り袖着たいんだけど」
そう、ヒートにとってあの町は自分が帰る場所ではないのだ。あの町に彼女の家族はいないし、実家もない。彼女が生まれ育った故郷に変わりはないがもはや帰るべき場所ではなくなってしまった。もとより彼女の両親はどちらもあの町の出身ではなく、出産を機に子育てしやすい環境を求めてあの町に一軒家を購入したのだという。だから親戚が付近に住んでいる訳でもない。ヒートはあの町との接点を絶たれてしまった。
-
ノパ⊿゚)「でもね、アイシスがうちに来たらいいって言ってくれてるんだ」
アイシスとは彼女の付き合いの長い友達だ。個性の強すぎるヒートと比べアイシスは至って普通な少女だった。よく破天荒なヒートについていけたものだと思うが彼女達は確かに仲が良かった。ヒートの保護者という接点ではぼくもよく知っていた。ヒートが何かやらかせばまずぼくが呼ばれ、ぼくが不在ならば次にアイシスが呼ばれていた。ぼく達はヒートの保護者兼監督者みたいなものだった。
('A`)「そうした方がいいよ。 ヒートがいなくなってアイシスは寂しがっていたし」
当然ぼくもそうだ。町に一つしかない中学校から町に一つしかない高校に基本的にエスカレーター式に進学するので面子は殆ど変わらない。しかしそこにヒートはいなかった。周囲からはヒートがいなくなって抜け殻みたいになったとよく言われたものだ。幼馴染みを失い、ぼくは青春まで失った。
ノパ⊿゚)「ドクオはさ、こっち来てもうすぐ二年になるんだよね。 もう東京には慣れた?」
('A`)「まぁさすがに慣れてきたかな。 山手線すらマスター出来たらどこでも行けるね」
ノパ⊿゚)「そっか、それは良かった」
('A`)「ヒートはもう東京で五年だろ? もう長いよな、高校はどうだった?」
ノパ⊿゚)「んー、最初は急に東京みたいな都会だし、ドクオもいないし、だいぶ寂しかったなぁ」
それからヒートは高校三年間の話をしてくれた。順応力のあるヒートならきっとどこに行ってもやっていけるだろうと思っていたがその通りだった。東京の高校に入学して、初めての電車通学をして、次第に友達が出来て、夏ぐらいには彼氏が出来た話。東京という都会で過ごした彼女がこれほどの大人に変貌したのは、単に年齢を重ねただけでなくその環境も大いに影響を及ぼしているだろう。あの町で成人を迎えていたら彼女は今とは違う大人になっていただろうか。すっかり東京暮らしにも適応したヒートが送った青春時代の話をぼくはずっと聞いていた。ぼくから聞いたので当然だ。しかしぼくは、ぼくのいない、ぼくがいたかったヒートの青春時代の話を聞くととにかく嫉妬するしかなかった。一緒に過ごしたかった時間に嫉妬したし、ヒートが付き合った過去の男にも嫉妬した。ぼくがそこにいたかったし、ヒートに引っ越しを告げられるまでそこにいられるものだと思ってすらいた。そんなぼくの気持ちすら知る由もなくヒートと時間を共にした全員が羨ましかったし、恨めしかった。取り返せやしないのに嫉妬するしかなかった。
ノパ⊿゚)「ドクオはさ、高校どうだったの」
('A`)「何も、メンバーは中学と同じだし、変わりはないよ」
ヒートと比べるとぼくの高校生活はひどく退屈で話す価値すらないものだった。ぼくの大部分を占めていたヒートがいなくなったので当然だ。その喪失感と共に空虚な三年間を過ごしたのだ。ヒートを失ったぼくには何もなかった。ぼくはヒートあってこその生活を送っていたのだと思い知らされた。ヒートとは親の手を離れて登校する小学生の頃からずっと一緒にいたのだから彼女のいない生活というのは色も味もなかった。急に無色の世界に叩きこまれた様なものだった。ヒート自身は新しい環境に順応して充実した高校生活を送っていたのに、ぼくは彼女の面影に苛まれながら空っぽな三年間を食いつぶしたのだ。だから余計に、ぼくは自分が惨めに思えて仕方なかった。
ノパ⊿゚)「お」
-
机の上に置いていたヒートの携帯電話が震える。ヒートの携帯電話は少し重量のあるスライドタイプの機種でオリーブとゴールドの配色が特徴的だ。これまでガラパゴス市場と揶揄されてきた日本でも昨年からスマートフォンが目立ち始めた。今や店頭に並ぶのは従来の携帯電話とスマートフォンが半々ほどである。これまではアイフォーンを使うマニアックなユーザーがたまにいる程度だったが使いにくそうだったので敬遠していた。しかし最近の国内メーカーが発売しているスマートフォンは赤外線通信やワンセグなど日本らしい機能が搭載され使いやすいと評判で、ぼくも数年前のモデルのスライドケータイから変えてみようかと検討していたところだ。
('A`)「出ないの?」
ノパ⊿゚)「え、でも悪いし」
('A`)「いいよ、全然」
じゃあごめんね、と言ってヒートは個室を出た。ヒートは個室を出たすぐのところで着信に出ているらしく彼女の話し声だけが静かな個室に聞こえてくる。ぼくはやり場を失ってビールを飲む。もうビールは十分なので次は違うものを頼もうとメニューをめくった。相変わらず個室にはヒートの話し声だけが聞こえる。いつしか列車の中でただの話し声ならあまり嫌がられないのに携帯電話の通話はマナー違反だと口酸っぱく非難されるのは何故かという疑問をテレビで取り上げていたが、あれは携帯電話の通話は会話の内容が分からないから気に障るのだという。車内にいる者同士の会話なら内容が理解出来るが、携帯電話の通話では相手の言葉まで聞き取れないので会話が理解出来ず、逆に気になってしまうのだという。まさに今その状況だった。ヒートの声しか聞こえてこないが親しげに喋っている。それに何度もモラという名前が出ている。恐らく男の名前だろう。となれば例の彼氏ではないだろうか。何も、他の男と飲んでいる時に彼氏と連絡している事を咎めるつもりはないのだ。しかしぼくが嫉妬している相手なのだから良い気持ちはしない。ビールを飲み干して次の注文をするため店員呼び出しボタンをパチンと押す。
ノパ⊿゚)「ごめんねー」
注文を取り終えた店員と入れ替わりでヒートが戻ってきた。嫌味など全く感じさせない様に、自然を装ってぼくは訊ねる。
('A`)「もしかして彼氏?」
ノパ⊿゚)「あ、うん、そうだよ」
('A`)「仲よさげだね」
ノハ-⊿-)「んー、まぁね」
モラと呼んでいたがそれはヒートが考案した短くした呼び名で正しくはモララーという名前だそうだ。同い年で同じ大学だという。付き合い始めたのは半年ほど前。照れくさそうにヒートは話した。こんな顔をするのだ。
本当は祝福すべきなのだ。あの暴れ馬と呼ばれた少女がここまで成長した事を、手を叩いて大人になったな、と喜ぶべきなのだ。ずっと見てきた幼馴染みだからこそ彼女の成長を実感出来るのだ。それなのにぼくは苦しかった。どうしようもないくらい苦しかった。こんな嫉妬の感情を覚えた事が人生で一度でもあっただろうか。ヒートに彼氏がいると告げられた時よりもよっぽど苦しい。相手の男との生々しいやり取りと楽しそうに話していたヒートがぼくをうんと苦しめた。それはぼくが頭では理解しておきながら見たくなかったものだ。見ないで済むのなら蓋をしておきたかったものだ。
-
ノパ⊿゚)「ドクオはさ、いい人いないの?」
('A`)「いないよ、全然」
ノパ⊿゚)「そっか・・・」
ヒートにそんな事を言われたくなかった。彼女に悪気はないのだけれど、虚しくて仕方なかった。ヒートは充実した青春を過ごしていて彼女の面影に囚われすぎたぼくは退屈な日々を送っているのは、割り切れなかったぼく自身の自業自得だ。それでも余計に自分が惨めに思えてしまう。
ノパ⊿゚)「昔の私って、ずっとドクオと一緒だったじゃん」急に思い出した様にヒートは話し始めた。「だからドクオと離ればなれになってからも、ドクオだったらこうなのになって比べちゃったりするんだよね」
ぼくとしては、ヒートと離れてからも彼女の中でぼくの存在が生き続けていた事は素直に嬉しい事だ。しかしヒートがどうしてそんな話をし始めたのかすぐに分からなかった。暫く考えてから、ぼくは口を開く。
('A`)「彼氏と何かあった?」
ノハ-⊿-)「んー、かなぁ」
ヒートはゆっくりと首を傾げながら肯定とも否定とも取れる中途半端な答えを返す。ようやくぼくは彼女がやや酔い始めていると気がつく。ヒートはこんな風に酔うのだ。
ノハ-⊿-)「何かあったとかじゃないんだけど、不満というか、なんでこうなんだろーみたいな」
ぼくは適度に相槌を打ちながらヒートの話を聞いた。彼女は酔いに任せながら饒舌に彼氏であるモララーという男の不満点を話し始めた。要約してしまえば彼氏の束縛が強いという事だった。よく耳にする例だがその彼氏モララーはヒートに対しての束縛がとても強く、いつも彼女の携帯電話をチェックするのだという。着信履歴やメールの送受信履歴を隈なく確認されるのでぼくとの連絡履歴も彼に会う前に必ず消去しているのだそうだ。彼は早くもスマートフォンに鞍替えしており、ヒートも早くスマートフォンに買い替え今年の上半期の終わりから爆発的に普及し始めた無料通話メールアプリを利用するよう強く勧めてくるのだと、ヒートはうんざりした顔で言った。その無料通話メールアプリとやらはメールの様にメッセージのやり取りが出来る上に相手がメッセージを開けばその証拠に既読という表示が出るらしい。彼はメールの返事が遅いとよく怒るから、そんな既読機能の管制下に置かれたら息が詰まる、というのがヒートの主張だった。ぼく達が子供だった頃には携帯電話など今ほど普及していなかったから彼女とメールのやり取りというのはつい先日初めてしたばかりだが、彼女の性格を考えれば間違いなくそういう類を面倒くさいと思うタイプの人間だ。引っ越してしまってからの手紙のやり取りすら続かなかった経歴もある。いくら彼氏が相手とはいえヒートはそんなものに縛られたくはないだろう。
('A`)「うーん、自分から言わせれば、その彼はちっちゃいね」
ノハ-⊿゚)「ちっちゃい」
('A`)「男としての器が小さいよ。 彼女の携帯を見なければ気が済まないなんて、浮気してるんじゃないかってどこか不安に思っているんだろうし、何より過保護じゃないか。 もっと堂々と構えているべきだよ」
彼氏を批判されて、果たしてヒートはどんな反応をするだろうか。
ノハ-⊿-)「そっか。ちっちゃいか・・・」
うんうんとヒートは何度も頷く。自分の不満を誰かに認めてもらえて、肯定してもらえて満足したのだろうか。
ノパ⊿゚)「そうだよね、ちっちゃいよね。 いくら彼氏だからって携帯見せるのはどうかと思うんだよ。 付き合ってれば何してもいいって訳じゃないよね」
-
('A`)「当たり前だよ。 一回強く言ってやった方がいい」
きっとヒートの中でぼくは世の男性代表なのだろう。長らくヒートに一番近いところにいたし、先程の彼女の言葉を借りれば男を見るに当たってまずぼくが基準になっていたのだろう。そうして今もぼくは彼氏の束縛問題に関して世の男性代表として意見を述べているのだ。
しかしヒートは気づいているだろうか。ぼくが恨むべきヒートの彼氏を持ち上げる訳がない。マイナスイメージが強くなるよう批判しかしないだろう。色眼鏡で見ている以上は当然だ。別れてしまうよう願っているに決っているではないか。ヒートに束縛は似合わない。彼女は何かに縛られるのを好まない。自由気ままな性格は、大人に成長したって完全消滅してはいないだろう。十二年も幼馴染みをしていたから当然知っている。
ノパ⊿゚)「うん、今度言ってみる。 言ってダメならボマイェする」
('A`)「うん、ボマイェはどうかと思うけどいいんじゃない」
彼女は彼女らしくあるべきだ。何かで押さえつけるべきではない。
ノパ⊿゚)「やっぱさ、ドクオは優しいよね。 これからも相談していい?」
('A`)「いつでも受け付けるよ」
ノハ^⊿^)「えへへ、嬉しい」
ぼく達は色んな思い出話をしてたっぷりお酒を飲んで楽しい時間を過ごした。昔の彼女からするとヒートは酒豪でもおかしくないと思っていたが、とても普通だった。彼女は酒に対して特に強くも弱くもなく、ごく平均的であった。ぼくも至って普通のレベルなので、最終的には同じぐらいに酔ってしまった。飲み放題だったのでぼく達は二人とも飲み過ぎたのだ。あのどちらも負けず嫌いだった昔を彷彿とさせた。よく勝ち負けがはっきりするまで色んな勝負をしたものだ。
店を出てからぼく達は手を繋いで帰った。付き合っている訳でもないし、ヒートには彼氏がいるのに変だとは思う。しかし幼い頃からぼく達はよくこうして手を繋いで帰ったものだ。泥だらけになるまで喧嘩をしたり、手を繋いで帰ったり、統一性も法則性もなかった幼馴染みの関係だ。意味もなく手を繋ぐ事は不思議ではない。よくある事だ。
ノハ*゚⊿゚)「なんかむかしを思い出すね」
('A`)「ほんとだな」
ノハ*-⊿-)「すっごいひさしぶりなかんじ」
ようやくあの頃の様に、元の幼馴染みに戻れた気がした。ヒートはすっかり大人に成長してしまったけど、普通の女性になってしまったけど、彼女が想いを寄せる彼氏がいるけれど、こうして何気なく手を繋いで歩いて帰って、やっとあの頃に戻った気がした。ぼく達は何かのカテゴリに分類する事もありきたりな言葉で説明する事も出来ない、普通ではない幼馴染みだったのだ。
ヒートは悪いからと断ったがぼくは彼女を家まで送っていく事にした。いくら治安の悪いこの街でもヒートなら困りはしないだろうが、それでもぼくは送って行きたかった。大きな国道を渡り、狭い路地をジグザグに曲がった先にヒートの住む鉄筋コンクリートのアパートが見えてくる。まだ新築に近いようで外観はとても綺麗だった。なかなか良さ気な物件だと思う。
-
ノハ*^⊿^)「今日はありがとね」
またね、とヒートは笑って手を振った。ぼくも振り返す。帰り道の足取りはとても軽かった。また狭い路地をジグザグに曲がり、大きな国道を渡り、駅前商店街を通って帰る。すぐ近くにある大学の名前を冠した通り沿いにぼくの住むアパートがある。流行りのオートロックなどついていないのでシリンダー錠で鍵を開ける。はじめの頃はただいまと言って帰宅したものだが同居人がいる訳でもなく徐々に虚しくなってやめてしまった。ぼくの部屋は大学生の一人暮らしにしてはやや殺風景で物が少ないのではと思う。同じ大学の知人の部屋に遊びに行く度に尚更そう感じる。ぼくとしてはこの部屋はあくまでも大学に通う四年間だけの仮住まいのつもりなのだ。卒業後には当然ながら就職するつもりだが東京で就職するのか地元に帰るのかはまだ決めていない。実家のぼくの部屋はそのまま残しておくからと両親は言っていたし、一人息子である自分が東京で就職してしまえば年老いた両親の面倒を見る者はいない。ぼく自身、少しながら罪悪感はあるのだ。たった四年だけ東京で過ごすのか、東京で就職して永住するのかはとても大きな差がある。この国において転職はハードルが高いので一生ものの選択を少し先の未来でしなければならない。
着ていた服を洗濯機に放っておく。一人暮らしでは洗濯機を稼働させるのは三日か四日に一度で良い。シャワーを浴びながら今日のヒートとの会話を振り返る。
考えてみればヒートと酒を飲む日が来るとは思わなかった。さすがに再会から時間が経っているので彼女が大人になってしまった事実も、ヒートに彼氏が出来た事実も冷静に受け止められる。そしてぼくは自分の中に再び宿った感情に気がついていた。幼馴染みだったあの頃にぼくが隠し持っていた感情。諦めて、諦めきれずに、ずるずると抱え続けた感情。やはりぼくはヒートの事が好きなのだ。離れてからおよそ五年もくすぶっていたその感情は再燃して大きく燃え上がろうとしていた。あのヒートがこんなにも近くにいるのだ。
その日の夜にぼくはまた夢を見た。小学生の頃の映像だった。
彼女の家族があの町に引っ越してきたのはぼく達が保育園に入園する春の事だった。それまでは都心のアパートに住んでいたものの、より良い子育ての場所を求めて保育園入園前に間に合うよう一軒家購入を決めたのだという。確かにこの町は都心からそれほど離れていないし十分な通勤圏内にある。ぼくの父親もあの町から都心にある会社へと通勤している。人口二万あまりのあの町は自然も多く子育ての環境としてはうってつけだろう。町内には国道の一つもなく自動車の往来もあまり多くない。今ではワンマン運転の普通列車しか来ない長閑な町だ。
-
保育園入園と共に家が近かった母親同士が仲良くなった事もあり、僕たちの幼馴染み関係が始まった。まだ土曜日にも午前中のみ授業があったので昼食を取ってからヒートの家に何度も遊びに行ったが、彼女の家は新しかったのでぼくは自分の家より好きだったのを覚えている。雨の日には外で遊べないのでリビングでテレビゲームに興じたがヒートの負けず嫌いな性格は当時から際立っていて、大人気だった格闘ゲームで負けるとよく喧嘩に発展したものだ。そんな無茶苦茶なヒートについていけるのはドクオ君だけだと、付き合うのならドクオ君を大切にしなさいと彼女の母親は言っていた。ヒートはどこか照れくさそうにしていたし、幼いぼくはまだその意味をきちんと理解出来なかったのだ。思い返せば彼女の母親の言葉はまだ子供のぼく達には早かったと言える。二階にある彼女の部屋に入ってから、ヒートは少し恥ずかしそうに口を開いた。
ノパ⊿゚)「お母さんったら変なの」彼女は照れ隠しの笑顔を浮かべながら「そーいうのじゃないのにね」
とだけ言った。ぼくはそれが何を指し示すのか分からず、そうだねと適当に相槌を打った。幼いぼくには恋愛なんてまだ知らなかったし、成長してそれを知っても口にする事は出来なかった。それを何年も後悔する事になるとは思わなかった。
時間は取り戻せない。いくら後悔しても逆流出来ない。ぼくとヒートが離れていたおよそ五年を取り返す事も出来ない。その間に彼女が目覚ましい成長を遂げてもぼくはそれを受け入れるほかない。それでも明確なのはぼくがヒートの事をやはり好きだという事だ。彼女がぼくの知らない時間を過ごし、ぼくの知らない大人に成長し、ぼくの知らない男と人生を共にしていても、その事実だけは揺るぎないのだ。十五歳の秋と冬の様に自分の中に仕舞いこんでその先ずっと後悔する過去などもうまっぴらだ。
('A`)「ヒート」
ノパ⊿゚)「なに?」
一つに結んだ髪を揺らしてヒートが振り向く。
('A`)「好きだ」
暴れ馬の異名で呼ばれた彼女。すっかり大学生生活を満喫している彼女。同性の間でも少し浮いていた彼女。異性との付き合い方を覚えた彼女。
あの頃ぼくが告白したならば、ぼく達の関係はどうなっていただろう。プリントが散乱してあまり片付けられていない彼女の部屋で、しんと静まった小学校の小ぶりな体育館で、部活の掛け声だけが聞こえる中学校の夕暮れの教室で、彼女が離別を告げたあの日陰に落ちた帰り道で、引越会社のトラックが走り去った後の彼女の家の前で告白していれば、どんな未来だっただろう。
('A`)「ヒート」
視界にあったのは天井だった。いつの間にか夢から覚めていた。そのまま起き上がりもせずぼんやりと天井と睨めっこをする。また夢で見るとは、再会してまだ日も浅いのにいつの間にこれほど彼女の事を好きになったのだろうと考える。しかしそれは愚問なのだ。ぼくはあの頃からずっと好きだったのだ。忘れようとしていたところにヒートはまた姿を見せた。ずっと好きだったし、彼女以外の女性を好きになる事は出来なかった。だから今のぼくは当然と言える。やはりヒートが好きなのだ。
とっくに出ていた結論を置いてベッドを出る。顔を洗って服を着替え大学へ向かう。気だるいはずの朝も今日は足取りが軽い。退屈な講義も面倒なバイトもそれほど億劫ではない。ヒートが同じ東京の同じ街にいる。予定を合わせればいつでも会える。また昔みたいに話せる。長いトンネルをようやく抜け出した気分だった。
立ちはだかるのは顔も知らないヒートの彼氏だ。彼に対するネガティブキャンペーンをどうするかぼくは考えるようになっていた。しかしその邪な考えは杞憂に終わる。その彼氏と別れたと涙声のヒートから電話がかかってきたのは一週間ほど経ってからだった。
-
ワールド・エンドⅠ おわり
つづく
-
病気かよ
-
支援ありがとうございました!
-
乙
……流石にここまで改行されてないとすこし読み辛い
-
この圧倒的厨二臭さと痛々しさ・・・嫌いじゃないわ!
でももし作者が舞城のファンで「舞城みたいに書いてみたい!」って思ってるだけなら正直辞めとけとは言っとく
-
乙!
このままで十分だと思う。面白いし好きだわ!
-
乙。空気読まなくて悪いが言わせてほしい……
幼稚園からの幼馴染に久しぶりに会って、飲みに誘ったら彼氏に悪いって理由で断られたぞおおお!連絡交換すら渋られました!自分語り失礼!やっぱり二次元がナンバーワン!
-
乙
面白いんだけど改行が少なくて読むのに少し疲れるかなぁ
-
乙
自分はこういう地の文多めの好きだからこのまま続けてほしいし、楽しめたよ
羨ましいぜドクオの野郎……
-
面白い
けど他の人が言うように地の文に適度な改行がほしい
ここからどう冒頭のレスに繋がるか楽しみおつ
-
ありがとうございます。自分としても2レス目から見づら!っと思っていたので次から調整改行します
>>29
舞城王太郎で合ってますか? 知らなかったので調べてみたら面白そうだったので買っちゃいました。
わぁいビッチ あかりちゃんビッチ大好き
>>31
自分はチキンなんで声もかけられませんでした!
-
ここ最近、毎日のようにニュース番組やワイドショーを騒がしている話題がある。
それは地球に接近している小惑星が間もなく地上から約二万キロメートル離れた場所を通過するというものだ。今の軌道では地球にわずかながら影響を及ぼす恐れがあり、アメリカ合衆国が核ミサイルを使用して軌道を逸らすのだという。
小惑星は直径十キロメートルほどあり、万が一地球に衝突すれば人類は死滅し地球には再び氷河期が訪れる。メキシコのユカタン半島にあるチクシュルーブ・クレーターは今からおよそ六千五百五十年前に地球に落ちた小惑星の衝突痕であり、これも直径が十キロメートルほどだったと言われているがこの惑星衝突こそが恐竜を滅ぼし白亜紀を終わらせたと考えられている。
もしたった今この地球に接近している小惑星が地上に落ちる事があれば、ぼくが幼い頃から想像していた終末世界が訪れるだろう。しかし時代は二十一世紀であり今の技術であれば心配はいらないと皆が口を揃える。
数年前にアポフィスという惑星が地球に衝突するのではないかとメディアが随分と騒ぎ立てたが今ではすっかり忘れ去られている。メディアも世間も無責任なもので熱が冷めれば飽きてしまってすぐに放り投げて次へと走り去っていく。
昼過ぎのワイドショーで視聴者の不安をかき立てているコメンテーターが映る液晶テレビをぼくは鼻で笑って暗転させた。
-
終末世界にさようならのようです
ワールド・エンドⅡ
-
ヒートから、彼氏と別れたという着信があったのは夕方過ぎの事だった。
あまりの予想外の展開にぼくは驚いてしまう。携帯電話の向こうのヒートは涙声でぼくは胸が締め付けられる思いで彼女の話を聞いた。
ヒートがこんなに弱々しく喋るのはあまりにも珍しかった。
やはり直接話したいと彼女が切り出したのでぼくは仮病を使ってバイトを休む事にした。
駅で待ち合わせるとヒートはこれから通夜に参列するのではと思ってしまうぐらい暗い顔をして自動改札機の前に立っていた。
適当に喫茶店に入ろうと持ち掛けたが彼女は酒が飲みたいと繰り返すので仕方なく駅前の居酒屋に入った。
もしかするとヒートは酒に逃げるタイプの人間なのかもしれない。弱冠二十歳でそれでは少しこの先の将来が心配になってしまう。
ノパ⊿゚)「ごめんね、無理言って」
席についてヒートはまず謝った。ぼくとしてはこういう事態で他でもなくぼくに頼ってくれたのが嬉しかったし、ヒートのためならどこにでも出向くだろうと思う。いくらでも仮病を使ってバイトを休むだろう。
ヒートは今日も始めに生ビールを頼んだのでぼくもそれに倣った。ジョッキが運ばれてくるとヒートは一気に半分ほどを飲み干す。そして荒々しくジョッキを置いた。
電話口での彼女の話を要約すれば、自身に対する束縛について話をしたところ口論になり彼氏モララーに一方的に別れを告げられたのだという。
感情的になったヒートが手を出さず口論で済んだのは少し驚きではあるが付き合っている男相手ではさすがにそういう暴力行為はしないのだろうか。
ともかく束縛されている事に反発しただけで逆上され口論になったのだとヒートは怒っていた。
('A`)「フラれたって、相手になんて言われたの」
ノパ⊿゚)「お前は面倒くさい女だの、そもそも男っぽいだの、女として見れないだの、罵詈雑言の嵐」
('A`)「うわー、なかなかひどい」
ノパ⊿゚)「何が女として見れないだよ、ちゃんと勃ってたくせに、ほんと腹立つ」
('A`)「付き合い長いんだっけ」
ノパ⊿゚)「半年。 半年だよ半年、今更何言ってんだって話だよ」
-
残りの生ビールを勢いに任せて飲み干す。ジョッキをがんと机に置いてすぐさま店員呼び出しボタンを押した。ヒートの口調は刺々しくとても攻撃的だった。
状況を考えてみれば無理もないと思う。先週彼女と飲んだ時に束縛する彼氏に一度強く言うよう進言したのはぼくだがこの短期間でこれほど事態が急変するとは予想してしなかった。
ぼくとしてはヒートが彼氏と別れたのは純粋に嬉しかった。
ぼくからすれば邪魔者でしかないモララーという男が自らヒートの隣から退いてくれたのはこの上ない好都合だった。
しかしヒートが傷つくのは見たくなかった。矛盾しているが、ぼくまで苦しくなってくる。
ノハ-⊿-)「ほんとさ、バカみたいだよね」
攻撃的だったヒートの口調は勢いを失って次第に弱くなっていく。電話口の時の様な涙声に変わっていく。目元にはうっすら涙が浮かんでいた。
先日切った話では、ヒートは過去にも失恋をしている。何度もその辛さを経験している
。しかしそれはぼくの知らない空白のおよそ五年の間にあった出来事であり、その時間を共にしなかったぼくはその失恋を知らないのだ。
だからヒートが失恋するたびに何を感じ、どう乗り越えてきたのかも分からないのだ。やはりあの強い彼女でも別れるたびに泣いていたのだろうか。
ノパ⊿゚)「半年も付き合ってこれだもんね。 全然モラのこと分かってなかったんだと思う」
('A`)「半年なんて長いようで短いものだよ」
半年など短い。まだ二十年ほどの人生だがその中でもあまりにも短い。相手の事を隅から隅まで理解するにはとても足らないだろう。
ノハ-⊿-)「そうだよね、たった半年・・・」
('A`)「この前も言ったけどさ、彼は器が小さいんだよ。 このまま付き合ってもいつか限界がきたし、別れて正解だと思うよ」
ぼくはヒートが別れても顔も知らない彼のネガティブキャンペーンを怠らない。彼に未練を残す事のないよう徹底的に叩いておく。
ノパ⊿゚)「はやく忘れたほうがいいよね」
('A`)「うん、早く忘れた方がいい」
ノパ⊿゚)「そうする。 今日はとことん飲む!」
そう宣言してからヒートは本当によく飲んだ。この前飲んだ時にはそれほどの量は飲まなかったが今日のヒートは別人の様に飲み続けた。
あまりにも頼むので何度かやんわり制止してみたもののヒートは聞かなかった。そうして入店してから三時間が経つ頃にはヒートはすっかり酩酊状態に陥っていた。
うまく喋れていないし、妙にテンションが高い。
-
ミスりました
-
残りの生ビールを勢いに任せて飲み干す。ジョッキをがんと机に置いてすぐさま店員呼び出しボタンを押した。ヒートの口調は刺々しくとても攻撃的だった。
状況を考えてみれば無理もないと思う。先週彼女と飲んだ時に束縛する彼氏に一度強く言うよう進言したのはぼくだがこの短期間でこれほど事態が急変するとは予想してしなかった。
ぼくとしてはヒートが彼氏と別れたのは純粋に嬉しかった。
ぼくからすれば邪魔者でしかないモララーという男が自らヒートの隣から退いてくれたのはこの上ない好都合だった。
しかしヒートが傷つくのは見たくなかった。矛盾しているが、ぼくまで苦しくなってくる。
ノハ-⊿-)「ほんとさ、バカみたいだよね」
攻撃的だったヒートの口調は勢いを失って次第に弱くなっていく。電話口の時の様な涙声に変わっていく。目元にはうっすら涙が浮かんでいた。
先日聞いた話では、ヒートは過去にも失恋をしている。何度もその辛さを経験している。
しかしそれはぼくの知らない空白のおよそ五年の間にあった出来事であり、その時間を共にしなかったぼくはその失恋を知らないのだ。
だからヒートが失恋するたびに何を感じ、どう乗り越えてきたのかも分からないのだ。やはりあの強い彼女でも別れるたびに泣いていたのだろうか。
ノパ⊿゚)「半年も付き合ってこれだもんね。 全然モラのこと分かってなかったんだと思う」
('A`)「半年なんて長いようで短いものだよ」
半年など短い。まだ二十年ほどの人生だがその中でもあまりにも短い。相手の事を隅から隅まで理解するにはとても足らないだろう。
ノハ-⊿-)「そうだよね、たった半年・・・」
('A`)「この前も言ったけどさ、彼は器が小さいんだよ。 このまま付き合ってもいつか限界がきたし、別れて正解だと思うよ」
ぼくはヒートが別れても顔も知らない彼のネガティブキャンペーンを怠らない。彼に未練を残す事のないよう徹底的に叩いておく。
ノパ⊿゚)「はやく忘れたほうがいいよね」
('A`)「うん、早く忘れた方がいい」
ノパ⊿゚)「そうする。 今日はとことん飲む!」
そう宣言してからヒートは本当によく飲んだ。この前飲んだ時にはそれほどの量は飲まなかったが今日のヒートは別人の様に飲み続けた。
あまりにも頼むので何度かやんわり制止してみたもののヒートは聞かなかった。そうして入店してから三時間が経つ頃にはヒートはすっかり酩酊状態に陥っていた。
うまく喋れていないし、妙にテンションが高い。
-
ノハ*゚⊿゚)「だいいちモラってべつにかっこよくないのにかっこつけだし」
('A`)「はぁ」
ノハ*゚⊿゚)「しかもひとのケータイ見るくせにぜったいにじぶんのは見せないからね! エロ動画でもどっさりはいってんだろ」
('A`)「うん、ヒートだいぶ酔ってきたね」
ノハ*-⊿-)「よってませんーシラフですー」
('A`)「シラフの人はジョッキで男の頭をゴツゴツしないよね。 結構痛いぜ」
ノハ*゚⊿゚)「んー? どうせわたしは男っぽいですよーだ」
ヒートは空っぽになったジョッキを置いてまた店員呼び出しボタンを押す。いったい何度呼び出しただろうか。
やってくる店員もまたか、と引きつった顔をしてくる。さすがに申し訳ない気持ちになる。
('A`)「ヒート、それで締めにしよう」
ノハ*゚⊿゚)「えー」
('A`)「そろそろ閉店だって」
ノハ*゚⊿゚)「んー、そっか」
閉店時間にはまだ余裕があるがこうでも言わないとヒートは席を立とうとしないだろう。ヒートはぼくがついた嘘に気づく様子はなかった。
二つの注文品が届いてから最後のモスコミュールで乾杯をする。ジョッキは片手で持って豪快に飲んでいたのにグラスは両手で上品に持っている。
最後となると名残惜しいのかちびちびと飲んでいた。
('A`)「日本酒飲んでるオッサンみたい」
ノハ*゚⊿゚)「なんか言った?」
('A`)「いーや」
時間をかけて飲み終わり、ぼく達は席を立つ。ぼくもヒートに負けじと飲んでいたから少し足元がふらついてしまう。
ヒートに至っては立っているのがやっとといった具合だった。まず真っ直ぐ歩けないだろう。
('A`)「かなり酔ってるよね」
ノハ*゚⊿゚)「よってないし」
('A`)「机から手離してみて」
ノハ;-⊿-)「・・・ごめん」
-
ヒートがなんとかトイレに向かっている間に会計を済ませておく。なかなか恐ろしい金額が表示されてぼくは天を仰ぐ。男数人で飲んでもこれほどの額に到達しないように思える。
トイレに行くとヒートが言い出した時にはてっきり吐くのではと心配したがそれほどひどい状態ではなかった。ヒート曰くまだ酒に酔って嘔吐した経験はないという。
自慢する事でもないような気もするし、安心して良いのか判断しかねるところだ。
ヒートは店を出ても左右にふらつき足元は覚束ない。単独で歩くのは危なさそうなので手を差し伸べるといつもの具合に自然と手を繋ぐ事となった。
あの頃の、幼馴染みだったあの頃みたいに手を繋いで帰る。あの町ではないけれど、似つかない都会の街だけど、二人で帰る。
どう見ても一人では帰れないだろうし、ぼくはヒートを彼女の家まで送っていく。
ノハ*゚⊿゚)「さむいね」
('A`)「もうそろそろ冬だしな」
ノハ*゚⊿゚)「あのまちはいまごろくっさいんだろうなぁ」
('A`)「悪臭最盛期だろうな」
あの町は全国的に有名な銀杏の生産地だ。だから秋になるとイチョウが色づいて、それと共に町を銀杏の悪臭が包み込む。
ぼくがあの町を離れても身体があの臭いを覚えていて、自然と思い出してしまう。それはあの町からおよそ五年も離れているヒートも一緒らしい。
それほどにあの悪臭は強烈なのだ。視界いっぱいを埋め尽くす鮮烈な黄色の紅葉は本当に綺麗だがあの臭いが必ず記憶に付属してくる。
ノハ*-⊿-)「でもわたしはあのまちが好きだったよ。 ほんとうにもどりたかった」
('A`)「そっか」
ノハ*-⊿-)「ドクオのとこにさ、もどりたかった」
('A`)「うん」
ノハ*-⊿-)「さみしかった」
('A`)「自分もさ、ヒートに戻ってきてほしかった」
ノハ*゚⊿゚)「さみしかった?」
('A`)「寂しかった」
ヒートがいなくなってから、世界は失われた。空っぽになった。空虚になった。色がなくなった。味がなくなった。何も感じなくなった。
ぼくは寂しかったのだ。恐ろしく長い時間をその空虚の中で過ごした。
ノハ*゚⊿゚)「ごめんね」
離別を告げたあの日の様にヒートは謝罪を口にする。
('A`)「ヒートが悪いんじゃない。 仕方なかったんだよ」
ヒートの父親が本社へ栄転になり彼女と離ればなれになる、それも運命だったと言えばそれまでだ。
当時十五歳のヒートに何の責任はなく、彼女の父親を責める事だって出来ない。そういう運命だった、ぼくも自分にそう言い聞かせる時もあった。
ヒートに謝ってほしくなはなかった。少ししんみりとした空気になりながらも歩く。再会が叶った喜びも大きいがあの別れの苦しみもまた胸のうちに強く残り続けていたのだ。
-
ノハ;゚3゚)「んぅ」
要塞の様な駅を過ぎて国道を渡り終わったところで、ヒートが立ち止まる。これまでゆっくりと千鳥足でやってきたが遂に歩みを止めた。
壁に手をついて今にも倒れそうになったのでぼくは彼女の腰に手をやって支えてやる。大丈夫かと尋ねると弱々しく頷いた。
ノハ;-⊿-)「ごめんね」まずヒートは謝った。「ほんとだいじょうぶだから」
しかしどう見ても自力で歩く事もままならない様子だった。ずるずるとコンクリートの壁にもたれてその場に座り込んでしまう。
国道を渡ってしまったのでもう彼女の住むアパートまで一キロメートルもないぐらいだろう。ぼくは決心してヒートに話しかける。
('A`)「おんぶしようか」
ノハ*-⊿-)「…はずい」
('A`)「もう歩けないでしょ」
ノハ*-⊿-)「んんー…かるくないよ」
('A`)「百五十センチもないから大丈夫だよ。 身長だけは小六から変わってないみたいだし」
ノハ*゚⊿゚)「うるさいばか」
ぼくは屈んでヒートに背を向け、ヒートはゆっくりとした動作でぼくの背中に乗った。
膝の裏あたりを持ってぼくは立ち上がる。小柄な彼女はそれほど重くなく、なんとかこのまま歩けそうだった。
('A`)「歩くよ」
ノハ*゚⊿゚)「うん」
ヒートの手にぶら下がる鞄も持ってやる。体重は大して気にならないが彼女の女性らしい身体つきには悩まされた。
胸の膨らみが背中に当たってぼくは冷静を装うのに随分と苦労をした。当然ではるが身体も女性らしく成長している。
熱を持った彼女の身体を背中に感じながら夜遅い閑静な住宅地を歩いていく。夜間でも車の往来の多い国道から離れてしまえば静かなものだ。
ノハ*゚⊿゚)「ドクオはさ」静かだったヒートが口を開く。「やさしいよね」
('A`)「そうか?」
ノハ*-⊿-)「やさしいよ。 むかしからずっと」
('A`)「幼馴染みだったからな」
ヒートの手はぼくの胸のところで力なく置かれている。よく手を繋いでいたがこんなに密着した事があっただろうか。
ぼくの肩にヒートの顔が乗っていて吐息が降りかかる。ちょっと酒臭いが彼女の呼吸が感じられた。ヒートはぼくに身を委ねながら、
ノハ*-⊿-)「ドクオだったらよかったのにね」
暫くぼくは返答に困った。それはぼくが長らく望んでいた事だ。同時に叶うまいと諦めていた事だ。
いくら酔っているからといえ、彼女からそんな言葉が聞けるとは思わなかった。
ぼくも君だったら良かった。君が良かった。
-
('A`)「着いたよ」
ノハ*゚⊿゚)「ん、ありがと」
鉄筋コンクリート構造の五階建てアパートに着く。しかし到着を告げてもヒートは背中から降りようとはしなかった。
ノハ;-⊿-)「よんかいなんだけどかいだんむり…」
('A`)「だろうなぁ。 鍵は?」
ノハ*-⊿-)「てーきけん…ぱすもであけれる」
やっとの思いでヒートを背負いながら四階まで辿り着く。ただ平坦な道路を歩くだけならまだ平気だが階段は足腰にかなり負担をかけた。
言われた通り彼女の財布からICカード定期券を取り出して解錠する。シリンダー錠のみのぼくの住むアパートと違ってこれは便利だ。
ノハ*-⊿-)「へや、あんまりみないで、たぶん、というかけっこうきたないとおもう」
('A`)「見ないでは無理だな」
靴を脱いで、ヒートの靴も脱がして部屋に上がる。
一般的な1Kの部屋だ。九帖ほどの洋室へ進むと確かに部屋はあまり片付いていなかった。ヒートをベッドに寝かせてから部屋を見渡してみる。
ファッション誌や漫画誌などジャンルの入り混じった雑誌達が積まれているし、買ってきてからそのまま放置してあるらしいドラッグストアのビニール袋が幾つもある。
消臭スプレーのボトルやスプレー缶が転がっているしテレビやブルーレイディスクのリモコンは定位置がないのか中途半端な位置で眠っている。
ゴミ箱は用意されていないらしくぽっかりと口を開けた半透明の七十リットルごみ収集袋が置かれていた。
幼い頃のヒートの部屋も綺麗とは言えないもので、大人になってもあまり変わっていない様に思える。ここは成長しなかったらしい。
ノハ*-⊿-)「あんまみるなってー」
('A`)「はいはい」
ノハ*-⊿-)「あと、みずほしい」
('A`)「冷蔵庫にある?」
ノハ*-⊿-)「うん、いろはすはいってる」
('A`)「じゃあ持ってくる。 ついでにトイレ借りるよ」
トイレは独立しているのかと思いきやパウダールームに設置されていた。洗面台と洗濯機とトイレが同居している形だ。風呂はその先にあるのでユニットバスとは異なる。
ドラム式洗濯乾燥機の上には乾燥を終えたまま置かれているらしい衣服が積まれていた。その洗濯物の頂上にヒートの下着があるのを見つけてしまう。
なんだか生々しいヒートの内面を見てしまった様で急に自分の方が恥ずかしくなってしまった。
用を足し要求のあったミネラルウォーターを求めて冷蔵庫を開ける。きちんと自炊しているらしく調味料が幾つも入っている。
ヒートが指定した水以外にも缶ビールやエナジードリンクなども冷やされていた。
女性らしさもありながらやはり男っぽい冷蔵庫の中身と言える気がする。目的のペットボトルを取り出して部屋に戻った。
-
('A`)「はい」
ノハ*゚⊿゚)「ん…」
ヒートは上半身だけ起こしてよく冷えた水を口に含む。何度かそれを繰り返したあと、再びベッドに横になった。
ぼくはそれを見届けてからベッドの脇にあるソファーに座った。部屋のあちこちに大小様々なぬいぐるみが飾られている。
クレーンゲーム道場破りで取ったものだろう。あの日ぼくのバイト先で獲得したものもあった。
ガラステーブルにも雑誌や保湿クリーム、ヘッドホンなどが無造作に置かれている。視線を落とすとテーブルの下に生理ナプキンを見つける。
その脇にはコンドームの箱もある。もう彼氏ではないモララーという男もこの部屋に上がっていたのだろう。
一人暮らしのアパートでは都合がいいかもしれない。女性らしさを指し示すものを見ると改めてヒートも大人になったのだなと思う。
('A`)「ケータイ、充電しておこうか」
ノハ*-⊿-)「うん、ありがと、たすかる」
もしかしたらこのソファーも彼が座っていた場所かもしれない。お気に入りのポジションだったかもしれない。
ベッドを背にしてちょうどテレビが真正面に来る。とても良い位置に置かれている。
大丈夫と尋ねると、「だいぶよくなった」とだけ返ってきた。まだあまり呂律も回っていないし腕を目の上に乗せて何か唸っている。
水の入ったペットボトルを持て余していたので受け取ってガラステーブルの上に置いておく。もう寝かせてやった方が良いだろうしそろそろ帰ろうと思いぼくは立ち上がった。
ベッドの上で仰向けになったヒートを見る。デニムのショートパンツから健康的な脚が伸びる。ぼくはその艶めかしい脚と女性らしい身体つきから目を離せなくなる。
中学校に上がった頃でも遊び疲れて彼女の部屋で一緒に昼寝をする事もあったと、不意にぼくは思い出す。
あの頃は子供だったし当然だったが何も意識しなかったし、それが普通だと思っていた。
とにかく破天荒で普通ではない幼馴染みだったぼく達は子供だったからという理由以上に常識を持っていなかった気がする。
ノハ ⊿ )「ドクオはさー」
('A`)「うん?」
ノハ ⊿ )「なんでそんなにやさしいの」
('A`)「なんでって」
そこまで言いかけてぼくはヒートが泣いている事に気がついていた。彼女の目尻からすうっと一筋の涙が溢れる。
蛍光灯が眩しいから目の上に腕に乗せていると思っていたのに、ヒートは涙を隠していた。とても静かに泣いていた。それは余計にぼくの心を締め付けた。
('A`)「ヒート」
ノハ ⊿ )「なに?」
少し震えた弱々しい声だった。幼い頃の彼女の強さも、破天荒さも、カリスマ性も、攻撃性も、全て失われた弱い声だった。
('A`)「今もヒートの事が好きだからだよ」
それは自然と出た。後悔ばかりの十五歳の時に、離別を告げた彼女にも、別れの日にも言えなかった言葉を、ぼくはようやく吐いた。
とても単純で簡潔な言葉だった。およそ五年もかかってその一言を言った。再会した日の告白は当時の思いを告げたまでで、まるで意味は違う。
ノハ ⊿ )「そか…」
ありがとうね、とヒートは言った。別れたばかりのヒートに返答を求めてなどいなかった。ただぼくはそう告げたかったのだ。今それを伝えなければいけない気がしたのだ。
ヒートはタートルセーターの袖で涙を拭った。
-
ノハ*゚⊿゚)「ほんとうに、やさしいんだね」
ヒートはあの日の様にえへへ、と笑ってみせた。
ぼくはそんな彼女を見て、胸が苦しくなって、張り裂けそうになって、たまらなくなる。床に膝をついて、枕元に手を置いて、ヒートの唇を奪う。
彼女は驚くわけでもなく、目を閉じて自然とそれを受け入れた。どれほどの時間をそうしていたか分からないけれど、壁に掛けられたアナログ時計の秒針が動く音だけが部屋を占めていた。
柔らかい彼女の唇から離れ顔を上げると、上気した顔でぼくを見上げる。こんなに色っぽい顔をするのだとぼくは純粋に驚く。
('A`)「ご、ごめん」
ぼくはぱっと立ち上がる。自分からキスをしておいて顔は真っ赤だったと思う。じゃあまた連絡するから、と言ってぼくは逃げ出す様に部屋を出た。
実際のところぼくは文字通り逃げ出した。もうそのまま彼女の部屋に居られなかった。別にヒートに対して性欲が勝ったとかそういう類ではなく、そうしたい、そうするべきだと思ったのだ。
傷心したヒートを見て支えてやりたいと心底思ったし、それこそモララーという男の代わりではなく一人の男として隣に立ちたいと思った。
あの思春期の時代にも、ヒートと再会してからも抱いていたその思いは、傷ついた彼女を目の当たりにして一気に強くなった。
それなのに、ぼくはヒートの反応が怖かった。否定されるのが怖かった。ぼくは臆病だし、経験がなさすぎる。
もしヒートに拒まれればぼくはどうなってしまうだろう。だからぼくは逃げ出す様に彼女の部屋を出てしまった。
§ § §
あれからヒートとメールのやり取りの一つもなかった。
ぼくはバイト先の休憩室で携帯電話を見ていた。メールボックスには新しいものはない。なんとなくぼくはメールを送りづらかったし、向こうからもやって来ない。
とはいえヒートはこまめにメールのやり取りをする性格ではないし、モララーと交際していた頃にはそれが強制されるのが苦痛だし何より面倒だと愚痴をこぼしていた。
幼少からの彼女を見ていれば当然だと思う。だから変に心配するつもりはない。
(-@∀@)「ドクオ君さ、彼女でも出来た?」
('A`)「え」
顔を上げると同僚のアサピーさんがぼくを見ていた。同じく休憩中だ。
思い返してみればアサピーさんがクレーンゲーム道場破りのヒートの対応を一人で受けきれず先輩に頼ったからこそぼく達は再会出来たのだった。
('A`)「どうしてですか」
(-@∀@)「最近なんだか楽しそうだし、よく携帯見る様になったもの」
そうアサピーさんは言った。ぼくとしては自覚がなかったもので、その指摘には驚いた。やはり浮かれていたのだろう、表情や行動に出ていたのだと、最近の自分を思い出してみる。
確かに世界が晴れやかになったのは事実だ。いつまでもぼくの心の隅に住み続けていたヒートに再び会える事が出来たらとはずっと思っていたし、上京してもそれが容易く叶うはずもなく失意と共にこの数年を過ごしていたのも間違いない。
ヒートと再会出来てからは分厚い雲が過ぎ去り澄み渡る晴天だけが広がっている、そんな気がした。そう考えていると、「ついでに明るくなった気もするよ」とアサピーさんは付け足した。
('A`)「そんなにですか」
(-@∀@)「うん。 見るからに」
-
('A`)「別に彼女が出来た訳じゃないんですよ。 ただ昔好きだった人と再会出来て」
(-@∀@)「へぇ、それは良かったね。 マンガチックだ」
('A`)「アサピーさんは彼女とかいないんですか?」
(-@∀@)「いやぁ、ぼくはバイクが彼女みたいなものだから」
('A`)「バイクですか」
それは意外だった。アサピーさんの身体つきは貧相な部類に入るし、とても似つかわない。
バイクに乗るには筋肉質であったり大きな身体でなければいけない訳ではないけれど、失礼ながらアサピーさんでは倒れた自分のバイクを果たして独力で引き起こす事が出来るのだろうかと心配になってしまったぐらいだ。
(-@∀@)「昔っからバイクに乗りたくてね、高校の頃は学校に黙って二輪免許を取ったりしたよ。 今もツーリングが一番の趣味なんだ」
('A`)「結構本格的なんですね」
(-@∀@)「収入の大体をバイクに使っているからなぁ。 東京でもね、走るのが楽しいところはいっぱいあるんだよ。 横横道路から三浦半島の方に行ってみるのもいいし、西湘バイパスなんかも気持ちいいね」
それ以外にも九十九里道路、伊豆スカイライン、東京湾アクアラインなどを挙げた。色んな場所によく行くのだという。
普段のアサピーさんとは思えないほど饒舌に喋ったし、楽しそうだった。本当に好きなのだ。
(-@∀@)「まぁいつか後ろに彼女でも乗せられればいいかもしれないんだけどね」
などといつもは言わない冗談を飛ばしつつ、休憩時間の終了と共に会話は締めくくられる。
ぼくは休憩が終わってからは吸殻の溜まった灰皿の掃除を黙々と行なった。店内に恐ろしいほどの数がある灰皿を一つ一つ手作業で洗う。
今や全面禁煙のパチンコ店も出始めているのにこの店は未だに喫煙が出来る。それ故にどうしても仕事を終えた後だと衣服に煙草の臭いが染み付いてしまうのだ。
その臭いに鼻が敏感になっているのか煙草を吸う習慣のないぼくからすれば喫煙者と同じエレベーターに乗っているだけでも分かってしまう。
それに明らかに未成年者が喫煙をしていれば注意しなければならないと義務付けられているし、それでよくアサピーさんは逆上されている。
「すいません、メダル詰まっちゃったんですけど」
('A`)「少々お待ちください」
慣れた手つきでエラーを取り除く。措置が終わってから、十八時を過ぎていたので年齢制限となる十六歳未満の客がいないか見て回る。
クレーンゲームのコーナーに達すると、あの日ヒートと再会した筐体が目に入る。あれからクレーンゲーム道場破りなどという暴挙は一度もなく筐体にはきちんと景品のぬいぐるみがこちらを向いている。
そういえばヒートの部屋にはクレーンゲーム道場破りで獲得したとみられる大小様々なぬいぐるみが置かれていた。
それでも彼女はもっと取っているはずで、仕舞ってあるか誰か別の友達にでもあげているのだろう。
例の筐体を過ぎると別のクレーンゲームの前で品定めをしているのかプラスチックのケース越しに中を覗き込む女性がいた。
ぼくはその後ろで一つに結んだ髪にとても見覚えがあった。
('A`)「ヒート」
ノパ⊿゚)「あ、ドクオ」
四日ぶりだ。
('A`)「何してるの」
-
ノパ⊿゚)「んー、なんとなく立ち寄ってみた。 ここらへんだとここが一番いいゲーセンだね」
('A`)「それはどうも」
今日のヒートは何も取っていない。本当に何となしに立ち寄っただけなのだろう。
ノパ⊿゚)「この前ありがとうね、送ってもらって。 一人だったら途中でぶっ倒れてたかも」
('A`)「はは、どういたしまして」
四日前の最後に関してヒートは触れない。ぼくも自分から触れようとは思わなかった。「それでさ」とヒートは続ける。
ノパ⊿゚)「お礼として今日鍋やろうと思うんだけど、来る?」
('A`)「鍋か、いいな」
もう季節は秋から冬へ移行していた。カレンダーもめくられて十二月になり、最後の一枚となった。すっかり寒くなってしまった。もうあの町も臭わないぐらいだろう。
('A`)「でも今日あがり遅いぞ」
ノパ⊿゚)「あー、じゃあまたバイトリーダー揺するか…」
何かヒートが不審な事を言った気がした時、後ろから先輩の声がした。立ち話をしたぼくを咎めている。
( ^ν^)「お前なに立ち話してるんだ」
('A`)「先輩」
ノハ^⊿^)「あ、お久しぶりですー」
ぼくの影に隠れていたヒートがにょきっと顔を出す。先輩は悲鳴に近い声を上げて飛び退いた。
いくらなんでもオーバーリアクションなのではと思ったがどうやら本気らしい。自分より年下かつ遥かに身体的に劣る女性に投げ飛ばされたのがよほどトラウマになったと見える。
(; ^ν^)「お、おおおお前は!」
ノハ^⊿^)「どうも先日はお世話になりましたー」
(; ^ν^)「つ、連れてくんなよお前…ッ!」
先輩がぼくを責めるがぼくに言われても困る。ヒートは自由気ままな性格なのだ。
ノパ⊿゚)「ところで責任者さん」
ヒートはわざとその言葉を使う。これは少したちが悪いだろう。先輩は咄嗟にクレーンゲームを見るが今日は無傷だ。
-
ノパ⊿゚)「この後ドクオ君をお借りしたいんですけど、早引きさせてもらっていいですか」
( ^ν^)「はァ、いい訳ないだろ」
ノパ⊿゚)「どっせーい」
ヒートは投げ飛ばすモーションをする。背負投だ。芸術的な軌跡を描いて床に落ちる先輩の姿が蘇る。先輩もトラウマが蘇ったらしく悲鳴をあげた。
(; ^ν^)「い、いい! 今日はもう帰っていい! オレがなんとかする! 早く帰れ!」
そう叫んで先輩は逃げる様に去っていく。ヒートはニコニコしながらその背中を見送っていた。相変わらず無茶苦茶で、破天荒だ。大人になってもこういうところは残っているし、全盛期の彼女を彷彿とさせる。
次に出勤する時は先輩と職場一同に菓子折りでも買っていこうと考えながらぼくはとても早い退勤を迎える事となった。
後ろめたさを感じながらもそそくさと職場を出たぼくは外で待っていたヒートと合流する。ヒートの住むアパートに向かう途中で買い出しのためにスーパーマーケットに立ち寄る。
ぼくがカートを押してヒートが食材を放る形だ。まるでカップルか、新婚夫婦みたいだとぼくは思う。ヒートとあの野菜はこうだ、その肉はこうだと色々吟味しながら会話を続ける。
最近は白菜が高い、四分の一カットでもこれほど値が張る、などと言いながらヒートはすたすたと歩いて行く。
('A`)「そういやなに鍋なんだ?」
ノパ⊿゚)「言ってなかったっけ、豆乳鍋だよ」
('A`)「優しいな」
ヒートの事だからキムチ鍋だとか刺激が強いものを好みそうな気もした。
ノパ⊿゚)「何かお酒買ってく?」
('A`)「あー、じゃあ買っていこうか」
先日の泥酔したヒートをつい思い出してしまうが部屋で飲むならば大丈夫だろう。それを察したのかヒートはこの前の件は反省している、と言った。あんなに酔ったのは初めてだと。
ノパ⊿゚)「普段はどんちゃん騒ぎでもあそこまで行かないよ」
('A`)「まぁ、そうだよな」
ノパ⊿゚)「あの日はフラれたばっかってのもあったし、まぁドクオがいたから安心だったというかね」
ヒートに頼られているというのはやはり素直に嬉しいものだ。ちゃんと彼女の中の異性の筆頭でいられているのだろうか。
会計を済まして、二人で一つずつビニール袋を持って、ぼくが三百五十ミリリットルの缶ビール達が入った重い方を選び、ヒートの家を目指す。
帰宅ラッシュを迎え流れの滞る環八通りの歩道を歩く。
こうして二人で、スーパーマーケットで買い物をして家に帰るというのは、まるで二人暮らしでもしている気分になる。
いつも一緒に帰ったあの町の時とはまた違う。あくまでも存在したかもしれない、イフの世界の領域を抜けだせなかった光景がここにある。
三階建ての要塞みたいな私鉄の駅を越えて、大きな国道を渡って、道幅の狭い路地裏へ入る。
自動車がなんとか一台通れるぐらいの道幅だが小ぶりな一軒家の小さな車庫にはミニバンが停められていたりする。
ここ一帯の一軒家はどれも狭い土地になんとか建てられているものが多く一階部分に車庫を設けているタイプが多く見受けられる。
当然それぞれの家に庭などなく、ぼく達の故郷であるあの町とは大違いだ。
ノパ⊿゚)「ただいまー」
-
ヒートの部屋に着いて、ビニール袋を置く。ぼくは缶ビール達を冷蔵庫に移送させるがそのうちの一つをヒートがひょいとつまみ上げた。
('A`)「作る前から飲むのか」
ノパ⊿゚)「いいじゃーん」
悪びれずヒートは缶ビールを開ける。何口か飲んだ後にそれを脇に置いてビニール袋から買った食材を取り出し始める。
ノパ⊿゚)「やっぱ、楽だなぁ」
('A`)「何が?」
ノパ⊿゚)「ドクオといると。 変に気を使わなくていいし」
言うまでもなくぼく達は幼馴染みなのだ。お互いを幼少時の頃から知っているし、共に過ごしてきた。それ故に相手の悪い癖や欠点を嫌というほど知っているのだ。
だから今更気を使う必要もない、とヒートは言う。ぼくとしても新規に男方面を開拓するよりも気楽で良いだろうと思う。
('A`)「しかし、鍋なんて持ってるんだな」
ノパ⊿゚)「駅前のドンキでなんとなーく買った。 まだ数回しか使ってないけど」
野菜と豆腐を適度な大きさに切る。ぼくも出来る事は手伝った。二人で料理など、これまで経験がない。よく言う共同作業というものだ。
ノパ⊿゚)「スライスチーズあるけど、入れる?」
('A`)「お、いいな」
ふとシンクの隣に置かれた水切り台に視線が移る。一つだけ洗って放置された灰皿があった。ぼくの視線に気づいたヒートが
ノパ⊿゚)「あ、それモラの」
('A`)「煙草吸うんだ」
ノパ⊿゚)「うん」
もう使う事もないけどね、とだけヒートが言った。そこで会話が途切れたので、ぼくも黙って作業に専念する。先日とは違い今日のヒートはあまりモララーを話題にしなかった。
もう忘れようとしているのだと思うし、ぼくから話題に出す理由もない。失恋にはきっと時間と忘却が必要なのだろうと未経験ながらぼくは考える。
ノパ⊿゚)「よーし、出来た」
ガラステーブルを痛めないようにステンレススチールの鍋敷きを置く。蓋を開けると湯気と共にごま油の香りがふわっと広がった。
ヒートが小皿に二人分を取り、ついでに写真を取ってから食べ始める。安価だった水菜と榎茸が全体的に多いが豆乳とよく合っていた。
-
ノパ⊿゚)「おいしい?」
('A`)「うん、おいしい」
こんな日が来るとは、思わなかった。再会すら望み薄だったのに、それ以上の事が叶ってしまった。
ヒートと離れて喪失感に覆われていた過去の自分に教えてやりたいぐらいだ。希望は持ち続けるものだと言ってやりたい。
ノパ⊿゚)「なんか、ドクオとこうして一緒に鍋する日がくるとはね」
('A`)「本当にそうだな」
ヒートも同じ様な事を考えていたようで、感慨深げに笑う。別々の時間を過ごして、別々の道を歩んで、別々の大人になったぼく達がここにきてようやく合流する事が出来た。
怠惰な毎日が急に輝きを取り戻し、潤っていく。ぼくの中のヒートの存在がいかに大きかったかを改めて認識されられる。
だからこの先もぼくはヒートの隣にいたいと強く思う。しかしヒートはまだ失恋したばかりで、やはり時間が必要なのだ。
ヒートはとても楽しそうだった。先日の傷心した彼女を思い返せば、ぼくは心から安心したのだった。
最後の雑炊まで平らげてぼく達は後片付けをする。それが終わってからヒートは冷凍庫からアイスクリームを取り出してきた。
二つ入りの雪見大福を二人で分ける。付属のフォークは一つしかないので順番に食べる。それからテレビを見ながら冷やしておいた缶ビールや缶チューハイを開けた。
ノパ⊿゚)「あ、高校の卒アルあるけど見る?」
('A`)「あ、うん」
ヒートがクローゼットの中をごそごそと探して淡いピンク色が表紙のアルバムを取り出した。それは高校のもので、ぼくの知らないヒートの青春が詰まったものだ。
恐る恐るぼくはそれを受け取る。この分厚いアルバムの中にぼくと関わりのないヒートの世界があるのだろう。見るのが少し怖かった。
ノパ⊿゚)「私ね、三組」
五十音順でクラスメートの個人写真が並ぶページでヒートを見つける。やはり最後に見た中学三年生の終わりと比べると少し大人になっている。
子供と大人の狭間である、成熟途中の未完成なヒートだ。更にめくると様々な記録写真がぼくを出迎える。
普段の校内の様子、部活動、体育祭、学園祭、職場体験、修学旅行など三年間の青春が溢れんばかりに現れる。どれも楽しそうな写真ばかりだ。
多くの写真の中からヒートは自分が映っているものを教えてくれる。
「修学旅行ね、沖縄だったんだよ」とヒートが言う通り写真の彼女は腕まくりをして男女八名グループの中心で楽しそうに笑ってピースサインを向けている。
ヒート曰く高校で仲の良かった面子だという。卒業後の進路はばらばらになってしまったものの今でも時折集まって食事などをするそうだ。
それ以外にも部活動のユニフォームを着て皆と撮った集合写真や昼食の時間に撮影したであろうスナップ写真もある。
どれも楽しそうに同級生と笑い合っているものばかりだ。充実した青春をそのまま切り取った写真は生々しくて輝かしくてぼくは最後まで見続けるのが苦しかった。
ヒートを失ったぼくのつまらない高校生活とは真逆のものだったからだ。いつまでも彼女の面影を引きずっていたぼくとは大違いだ。
ぼくの卒業アルバムは実家に置いてきたから手元にはないけれど、まずヒートに見せたくない。それほどにぼくの高校三年間は退屈で空虚だった。
('A`)「ありがとう」
ヒートの解説と思い出話と共に、卒業アルバムを見終えて彼女に返す。眩い思い出を長く見過ぎたせいで窒息しそうだった。
-
('A`)「そういえば部屋片付けた?」
泥酔したヒートを送り届けた時には随分と散らかっていた部屋はだいぶ綺麗になっていた。
無造作に放られていた雑誌類は隅に積まれているしそこらへんに転がっていたスプレー缶はきちんと立ててある。
生理ナプキンやコンドームもどこかに仕舞われている。ゲームセンターで荒稼ぎしたぬいぐるみの軍団も今日は行儀よく座っていた。
気を使わなくていいんじゃないの、とからかうと別に、とヒートはそっぽを向く。
ノパ⊿゚)「女の子の部屋にケチつけるなんて」
('A`)「そりゃあベロ酔いのヒートを寝かせるまでに大変だったから仕方ないよ」
ノハ-⊿-)「それを持ち出すのはずるい」
('A`)「普段あんまり片付けないのなかぁと」
ノパ⊿゚)「うるさい」
ヒートは口を尖らせる。「昔のヒートの部屋も散らかってたしな」と続けると「記憶を消してやろうか」と更なる警告を受けたのでぼくは口を噤む。
ノパ⊿゚)「油断してたんだもん」
片付けられた部屋にも目にとまるものは幾つもあった。
ヒートのものではない歯ブラシがあるし、対になったデザインのマグカップは二つあるし、男物のトレーナーも畳まれている。
部屋を探せば探すほどモララーの面影があった。会った事も話した事もない男の痕跡がそこらに残っていた。
ぼくはそれが無性に悔しかったし、上書きしてしまいたいと感じた。
('A`)「なんかさ、ヒートと一緒に暮らしたら楽しそうだよな」
ノパ⊿゚)「え?」
ヒートがテレビからぼくに視線を戻す。
('A`)「いや、もしもだけど」
ノパ⊿゚)「そうだね、うん、絶対に楽しいと思う」
ヒートは傍らのぬいぐるみを手にとって胸に抱く。
ノパ⊿゚)「いつかしよっか」
('A`)「うん、しよう」
あてのない約束をする。本当にあてのない約束だ。いつか叶えば良い、そんな程度だ。
-
ワールド・エンドⅡ おわり
つづく
-
乙!!
-
おつ
-
乙。これほどまでに別の意味でイライラするヒートを見たことがない……天使だった幼馴染はもう帰って来ないのだと再認識できました。ありがとよチクショー!
幼い頃結婚を誓い合い、中学で疎遠になり高校で別れて大学で汚れる。テンプレだが幼馴染とはいったい……うごごごご
-
乙ありがとうございます
>>57
大学は悪いところなんじゃ…
二次の幼馴染みだけでいいんす…
幼馴染みキャラは大体滑り台だけど…
-
ぼくが大きくなっても終末世界を想像したのは、きっとぼくの世界があまりにも空っぽだったからだ。
楽しかった十五歳までの先に待っていたのはヒートのいない退屈な世界だった。満たされない薄っぺらの日常だった。
別にぼくに自殺願望なんてものは存在しなかったが、今にでも終末世界が訪れて他の大勢と一緒に死んでしまうのなら、
ぼくは抗わないだろうと思ったのだ。
だからこの色のない毎日が無条理にシャットダウンされてしまうのならどれだけ良いだろう、
何にも苦しむ事もなく全てが消え去ってしまえばなんと楽だろうと考えてしまった。
ヒートのいない毎日に未練はなかったし、ぼくはそれほどに日々に執着心はなかった。
しかし今年の春先に終末世界でこそないものの終焉に近い日がやってきた。
後に長ったらしい名前を付けられるあの震災は、かつてぼくが夢想した終末世界に少し似ていた。
大学からの帰り際に地震に遭ったぼくはJRの改札口の前で他の大勢の利用客と共に立ち尽くしていた。
自動改札機は既に締め切られ、普段は運行情報などを流している情報ディスプレイでは震源地近くを襲った津波の中継放送を映していた。
そこにあったのは高々と造られた防波堤を簡単に越えて街を押し流す無情なる津波だった。
白い閃光が瞬く間に自動車を飲み込み一軒家を押し流しビルを貫いていた。
中継のヘリコプターが次に切り取ったのは田園地帯に押し寄せた津波が走っている自動車をその腹へと収める瞬間だった。
必死にハンドルを切って逃げようとする自動車を何台も飲み込んで津波は進んでいった。まさしく誰かが死んだ瞬間だった。
誰かが死ぬ瞬間をテレビ中継で流していた。ぼく達は呆気にとられながら、あるいは誰かに電話をかけながら、
泣き崩れながら、天井から吊るされた情報ディスプレイを見ていた。
家も車も森も全て見境なく区別なく平等に飲み込んでしまったあの津波は、果たしてぼくが想像してきた終末そのものだったのだろうか。
ぼくはJRが終日動く見込みはないと知り、一人で山手通りを歩いて家まで帰りながらそんな事を考えていた。
これがぼくの心の何処かで求めていた終末世界だろうか。
これまでぼくが見てきたカタストロフィは海外というリアル感のない遠い異郷の地で起きたものばかりで、
ぼくからすればテレビ画面から出てくる事のない現実味のないものだった。
それがようやく現実に、リアルに感じられるものがやってきたのだ。
揺れるビル、飛び出す人々、錯綜する情報、繋がらない携帯電話、動かない山手線、改札口で途方に暮れて座り込む人々、
渋滞を横目に夜の国道一号線をひたすら歩く行列、全てが画面の中ではないリアルな世界だった。
ぼくはJRが動かなくて困ったし、まだ肌寒いなか家まで歩いて帰るのは辛かったし、ひどく疲弊した。
しかしそれ以上に、とても純粋に恐怖を覚えたのだった。ぼくが夢想した終末世界はこういうものだったのだろうか。
こんな世界をぼくは望んでいたのだろうか。
ぼくは家に帰って緊急特番ニュースを見ながらそんな事ばかり、ぐるぐる考えていたのだ。
-
終末世界にさようならのようです
ワールド・エンドⅢ
-
ぼくにとって土休日とはバイトをするために存在しているようなものだった。
一日シフトに入ってがっつりと稼ぐというのがお決まりのパターンだった。
あの町に暮らす両親から仕送りがあるものの、ぼくはそれだけに頼りたくなかったし、自分で少しでも学費を稼ごうと決めていたのだ。
同じく一人暮らしをして大学へ通う者達からは偉いものだと賞賛されたがぼくの中には両親をあの町に置き去りにして上京してしまった罪悪感もあった。
幸いにも東京のバイト時給の水準はとても高い。ぼくが生まれ育ったあの町のバイト時給とは比べ物にならないほどだ。
しかしそんなぼくもここ最近はその土休日をヒートとの時間に充てる事が多くなってきた。
先輩も自分を投げ飛ばした畏怖の対象であるヒート絡みだとなんとなく察していた様であまり口出しはしてこなかった。
こうして今週の日曜日もヒートと過ごしている。最寄り駅から徒歩二分の位置にあるバッティングセンターにぼく達はいた。
ボウリングや飲食店が入った複合型のビルでその最上階にヒート行きつけのバッティングセンターがある。
天井は低く開放感はあまりないもののこの付近でバッティングセンターはここにしかなくヒートはよく打ちに来るのだと語った。
ヒートといえば中学生時代に男子に混じり野球部でレギュラーどころか四番の座を勝ち取ったぐらいの実力者だ。
驚異的な身体能力の高さと、大人になっても男勝りな趣味は残っているらしい。慣れた手付きで百円玉を機械に投入してバットを持つ。
ホームベースに対して平行に立ち、真っ直ぐに正面を見つめ、バットを斜めに構える様はまさしく
('A`)「あれは…北のサムライ!?」
ノパ⊿゚)「思い出しました」
放たれた球をヒートはフルスイング。芯を捉えた打球は心地良い音と共に広角に飛んで行く。
ヒートは軌道を確認しながら次の投球に向けてバットを構え直す。
高速に調整されたボールをジャストミートしてまた広角にふっ飛ばした。
一つに結んだ髪がさぁっとなびく。ヒートが放つ打球は全て長打コースに飛ぶ。
速球をフルスイングで打ち返すヒートに近くで打っていた者達がざわめき出す。ヒートが二十球を打ち終える頃には何人かのギャラリーが出来ていた。
「あそこ百三十キロだぞ・・・女なのにすげーな」
「フォーム完璧だよな」
好奇の視線を知ってか知らずかヒートは打席に立ち続ける。打ち損じは幾つかあったが三振を喫する事もなく長打コースを量産した。
ヒートが打席から出てくる時には少し拍手が起きたぐらいだ。
('A`)「相変わらずなんだな」
ノパ⊿゚)「高校の時は皆でラウワンよく行ってたんだよね」
当然ながら地方にあるあの町にはヒートの言う複合アミューズメント施設は存在しない。
高校から先を都会で育ったヒートには恐らくあの町とは比べ物にはならない選択肢が待っていたはずだ。
田舎と称するに相応しいあの町で生まれ育ったぼくは都会に対するコンプレックスを少なからず持っていたし、純粋に羨ましいと思った。
そんな環境で育ったヒートにも何処か嫉妬心を抱く事がもしかするとあったかもしれない。
('A`)「高校でも野球をやっていたの」
-
ノパ⊿゚)「私が入れた高校にはソフトボール部があったから、そっちに。さすがに男子野球部に特別枠で入るなんてあの中学だから出来たようなものだし」
('A`)「他校の奴らすっごい見てたよな。 それでヒートが見てんじゃねーっつってバット振り回して追いかけたんだよな」
ノパ⊿゚)「えー、そうだっけ」
恥ずかしそうにヒートは笑う。
('A`)「あの頃のヒートはまぁ尖ってた」
ノパ⊿゚)「んー、まぁ、尖ってたねぇ」
ヒートにも自覚はあり、それを語る。大人になってしまったヒートには過去を振り返る事も、幼い頃の自分を評価する事も可能であった。
尖っていた、すなわち極めて攻撃的で暴力的だった幼い自分をきっと情緒不安定だったのだとヒートは評した。
そしてよくそんな私の隣にドクオはずっといたものだと、感慨深げに言う。
ぼくとしてもヒートの隣にずっといるのは口論も絶えず怪我も多く大変だったという印象が強いが、何より楽しかったのだ。
そうヒートに伝えると彼女も本当に楽しかったと言った。
あの無茶苦茶な幼馴染み時代を説明するのはやはり難しい。
殴りあって喧嘩したり手を繋いで帰ったりジェットコースターの様に上下に浮き沈みの激しいぼく達の関係はあまり理解もされないし、自身で他人に説明するのも困難を極めるだろう。
それでもあの頃は楽しかったという結論だけは明確に存在しているし、何よりヒートとその事実を確信し合えるのだ。
バッティングセンターのあるビルを出て、ぼく達は列車に乗る。下り列車に乗ればすぐに多摩川を越えて都外に出る。
隣の県に出てしまうが一つ先の駅は人口百五十万ほどの大都市を抱えるターミナル駅だ。
そのターミナル駅の改札口を出て自由通路に直結した複合商業施設に向かう。
土休日という事もありショッピングセンターは家族連れやカップルでごった返していた。
元は大きな工場だった土地を活かし大規模再開発で生まれたこのショッピングセンターは駅から徒歩直結でアクセスは良好だ。
このショッピングセンターこそが国内で売上一位だとニュースで聞いた事がある。
こうしてぼく達みたいに市外から、更にわざわざ都内から訪れる者も少なくない。
ぼく達の住む街はコンビニエンスストアやスーパーマーケット、ドラッグストアなどは揃っているが衣服や生活雑貨などを求めるのならば大型商業施設に頼るのが手っ取り早いのだ。
ノパ⊿゚)「お」
ヒートが店先に飾られた服に近づく。セレクトショップの店先にあったカーディガンをぼくにあてがった。
ノパ⊿゚)「ドクオはシュッとしてるし、キレイめなのが似合うよね」
('A`)「確かにあんまりカジュアル路線にはいかないなぁ」
ヒートとああだこうだと言いながら服を見て回る。あれは派手すぎる、これは着回しが出来るなどと評しながら歩いて回る。
少し値段の張る有名ブランドからリーズナブルなファッションブランドまで様々な店舗が続きなかなか飽きさせない。
ヒートに付いてレディースの店にも入る。普段は無縁な上に男性向けブランドとは雰囲気も空気感も全く異なるので少しくすぐったい。
ヒートは何か購入するつもりなのかわりと真剣に服を吟味していた。恐らく母親が買ってきた服を適当に着ていたのであろう子供時代とは全然違う。
今日のヒートは白のショートパンツにネイビーのニットを合わせ、腰にチェックのシャツを巻いている。
バッティングセンターに行く事を考慮して動きやすい服装を選んだのだろう。
ノパ⊿゚)「ドクオはさ、どんなのが好き?」
('A`)「そんな急に言われても」
-
ノパ⊿゚)「ほら、女の子の服でさ、こういうのいいなーみたいなの、ない?」
正直なところヒートが着ていれば何でも可愛いと思ったが、言うのはやめておいた。
('A`)b「しいて言えばショートパンツ」
ノパ⊿゚)「あ、じゃあ今日みたいな?」
そう言ってヒートはお尻を向ける。まさしく、とぼくは頷いた。
今日は違うがヒートは幼い頃にはあまり履かなかったスカートを着用するようになっていた。
幼馴染みだったあの頃にヒートのスカート姿というのは記憶に殆ど残っていないし、それこそ中学校のセーラー服ぐらいだろう。
そんなヒートがごく普通にスカートを履いているのは意外だったがそれも彼女が成長した証であるし、何よりヒートも大人になったのだ。
ノパ⊿゚)「あそこ寄ってっていい?」
('A`)「え、あぁ」
次にヒートが入ったのは女性用の下着を取り扱う店だった。
さすがに入店する事は躊躇われたが店内を見ると二人で見ているカップルも多く、
自分だけ外で待っているのも変な気がしたので思い切ってヒートの後ろに付いて店に入る。
当然下着を扱う専門店なので視界いっぱいに色とりどりの女性の下着が広がってぼくはどこに視線をやって良いのか分からなくなる。
堂々としていれば良いとは思うが平然を装うのは難しく、とりあえずぼくはヒートの一つに結んだ髪が跳ねるのを眺めていた。
ノパ⊿゚)「どんなのが好き?」
先程と同じ質問だ。しかしアパレルショップでするのと下着店でするのは違う。
ぼくは返答に困り言葉に詰まる。多分ヒートはからかっているのだろう、少し笑っていた。
('A`)「別に、ない」
ノパ⊿゚)「ふーん」
カラフルな下着の海を抜け出してそろそろ昼食を摂る事にする。ヒートが気に入っているというカフェスタイルで食べられる店舗へ入った。
豊富なメニューから色々な組み合わせを選ぶ事が出来る。昼過ぎではあるものの店内の席は大体が埋まっていた。ぼく達と同じ様な若い世代が多い。
とてもバランス良くメニューが考案されていて女性層から絶大な人気を得ているそうだ。
-
('A`)「こういうお店に来るのか、少し意外」
ノパ⊿゚)「どういう意味」
('A`)「こう、なんかヒートはもっとがっつり系のお店行ってそうで」
ノパ⊿゚)「さりげなく失礼だな…。 まぁそういうお店よく行くけどそりゃあ他の人と行く時はこういう普通のお店だよ」
('A`)「ゴーゴーカレー」
ノパ⊿゚)「よく行く」
('A`)「すた丼」
ノパ⊿゚)「よく行く」
('A`)「ラーメン二郎」
ノパ⊿゚)「さすがにあんまり行かない…」
さすがに怒るよ?とやんわり睨まれたのでぼくは暫くの間は食事に専念した。何か他の話題を探して
('A`)「成人式どうするか決めた?」
ノパ⊿゚)「やっぱりアイシスのお家にお世話になる事にした。 東京よりあの町で過ごした方が長いし、思い入れもあるし」
('A`)「そっか、皆も喜ぶよ。 皆ヒートが元気でやっているか心配していたし」
無論、一番心配していたのは自分だ。
ノパ⊿゚)「成人式か、もう気がついたらあと一ヶ月ぐらいだよね。 早かったなぁ」
ヒートと再会してから、一ヶ月半以上が経っていた。季節を一つ通り過ぎてすっかり冬になっていた。もうここから年末に向かって突っ走る時期に入る。
('A`)「なんというか、ヒートと再会してからあっという間だった」
ノパ⊿゚)「んー、私も。 色々あったけどこれだけでいい一年だったなーって思う」
-
遅めの昼食を済まし、ショッピングセンターの一階にあるスーパーマーケットで夕食の買い出しをする。
この複合商業施設には、スーパーマーケットやドラッグストア、ホームセンターに家電量販店、更にアパレルショップや本屋に至るまでが揃っている。
このショッピングセンターで生活に必要な買い物が全て事足りてしまうのだ。駅直結という絶好のアクセスも相まって極めて便利ではあるが一極集中だと思う。
夕食の買い出しというのは、二人分だ。ヒートの部屋で鍋をご馳走になってから、ぼくは彼女に度々料理を振る舞われる機会が多くなっていた。
それがモララーという男の代わりなのかも分からないし、モララーと交際している時も同じ様にしていたのかは定かではないが、ぼくとしてはどうでも良かった。
ヒートは料理を作る時はいつも楽しそうだったし、ぼくが食べる時の反応にいちいち一喜一憂するのだ。
ぼくもヒートの料理を食べられる事は当然ながら嬉しかったし、毎回楽しみであった。
最近はこうして二人で買い物に行って、一緒にヒートの住むアパートに帰るパターンが常態化してきている。
ノパ⊿゚)「まるで新婚夫婦みたい」
そんな事を、ヒートは冗談交じりで言う。確かに二人でビニール袋を下げて帰る様はそう見えるだろう。
行きとは違いヒートのアパートが近い私鉄で帰る。赤い列車に揺られて大きな多摩川を渡る。
真新しい高架の線路を暫く走れば最寄り駅に着く。要塞みたいな駅はまだ工事中でまだまだ造りかけだ。
駅から出てもまだ再開発の真っ最中といった様子であちこち工事をしている。
ぼくが上京して気がついたのは、常に街のどこかで工事をしているという事だ。
新造であったり改築であったり修繕であったり、常に都市の息遣いを感じるほどだ。
首都は決して眠らないし歩みを止めない。貪欲に成長し続ける。あの町で生まれ育ったぼくには眩しかったし目が回りそうだった。
いつもの道のりというものが出来つつあった。
サグラダ・ファミリアみたいに成長し続ける要塞みたいな駅を出て、信号が変わるのをたっぷり待ってから大きな国道を渡り、車がなんとか一台通れるほどの狭い道路をジグジグに歩く。
そうして他の建物に挟まれた鉄筋コンクリート構造のアパートがようやく見えた。部屋に着いて、少し休憩してからさっそく調理に取り掛かる。
ぼくは玉ねぎをみじん切りにしてヒートはわしわしとキャベツを一枚ずつ剥いていく。
ノパ⊿゚)「そのうちドクオの部屋にも遊びに行きたいな」
('A`)「いいけど、狭いし綺麗じゃないぞ」
-
ノパ⊿゚)「えー、人の部屋を散々言っておいて」
('A`)「ごめんって」
女性の部屋に上がるのもなんだか気恥ずかしいが、女性が自分の部屋を訪れるというのも恥ずかしい。ヒートが訪問する前に丹念に掃除しようと思う。
ノパ⊿゚)「女の子連れ込んだりしないの」
('A`)「いないからな」
ノパ⊿゚)「どれぐらいいないの?」
フライパンに油を滑らせながらヒートは聞く。ぼくが言葉に詰まった事に気がついて、ぼくの方を見てどうしたの、と首を傾げる。
('A`)「その、いない」
ノパ⊿゚)「え?」
('A`)「ずっといない」
ノハ;゚⊿゚)「えっ」
ヒートはフライパンから手を離してあたふたする。
ノハ;゚⊿゚)「そ、それは俗に言う年齢イコール彼女いない歴のパターン…?」
どこかで聞いた事があると思ったら先輩も同じ事を言っていた。
ヒートは申し訳なさそうな顔をして、ぼくは無性に虚しくなって彼女の代わりに熱したフライパンを取る。刻んだ玉ねぎを灼熱の大地に落とす。
ノパ⊿゚)「ごめんね、なんか、意外だった」
ぼくとしては、ヒートに彼氏が出来た方が意外だった。
ヒートは自身があの町を発ってからぼくが空虚な時間を過ごした事など知らないのだ。ぼくだって彼女がどういう時間を過ごしたか詳しくは知らない。
ぼくが十二年も幼馴染みをやっていたヒートを失って、すぐに元気を取り戻して、次に切り替えたとでも思っているのだろうか。
('A`)「なんだか、ダメでさ」
ノパ⊿゚)「好きな人が出来なかったの?」
('A`)「まぁ、そんなところ」
ヒートはボウルにひき肉やしいたけ、ぼくが刻んで炒めた玉ねぎを放る。
よく練り合わせてから程よい大きさに取り分けて蒸しておいたキャベツを巻き付ける。
鍋に置いてトマトソースやコンソメを入れて味を整える。鍋に蓋をして三十分のタイマーをセットする。
-
ノパ⊿゚)「よし、あとは待つだけ」
ヒートは冷蔵庫から缶ビールを取る。もう一つ取ってぼくに渡す。二人でベッドの脇にあるソファーに座る。
泥酔したヒートを送り届けた日に初めて座ったこのソファーはテレビがよく見える位置にあるし、エアコンの風がちょうど全身に届くし、居心地が良い。
すぐにぼくのお気に入りの場所になった。ヒートもたいそう気に入っているようで、二人では少し狭いがよく一緒に座る。
ノパ⊿゚)「あ、いきものがたり」
('A`)「いきものがかり、な」
テレビの電源を投入すると音楽番組が放送されていた。缶ビールを飲みながらライブ形式の生放送音楽番組を見る。
あの番組は口パクだと誰かが言っていたが歌詞を間違えた場面を見た事があるので全員がそうだとは限らないのだろう。
ノパ⊿゚)「ドクオはさ」ヒートが話し始める。「私があの町からいなくなって、いつ忘れられた?」
缶ビールをぐるぐる回しながら、ぼくは素直に答えるべきか逡巡する。言ってしまいたいが、とても格好悪い。
('A`)「ずっと」ぼくは諦める。「忘れられなかった。 情けないけど」
ノパ⊿゚)「好きな人、出来なかったの」
('A`)「ずっとヒートが好きだった」
ヒートが少し黙る。何を喋るか、慎重に考えているようだった。
ノパ⊿゚)「もしかして、ずっと待ってたの」
('A`)「待ってたのかも、しれない」
だからぼくも慎重に言葉を選ぶ。
('A`)「東京に出てくれば、ヒートに会えるのかもってどこかで考えてた」
-
ノパ⊿゚)「そっか、待っててくれたんだ」
そこからまた暫く沈黙が始まる。音楽番組はBGM代わりにはならず、ちょうどテレビ・コマーシャルを流しているところだった。テレビ画面の向こうからしか音はない。
電源を落としてしまえばたちまち本物の沈黙がやってくるだろう。宣伝を見ながら生まれた沈黙の間にぼくは次に出す言葉を考える。探るようにこの後に紡ぐ言葉を考える。
ノパ⊿゚)「ドクオさ」
静寂を打ち破ってヒートが口を開いた。
('A`)「うん」
ノパ⊿゚)「どうしてあの時、キスしたの」
あの時。あの日。ヒートがモララーに別れを告げられた日。怒って、弱気になって、酔っ払って、泣いたヒートにキスをしたあの日。
あれからぼくも触れなかったし、ヒートも触れなかった。
('A`)「ぼろっぼろだったヒートを見て、支えてやりたいって思った」
ノパ⊿゚)「そっか」
ヒートはガラステーブルに缶ビールを置く。
ノパ⊿゚)「ドクオはどこまでも優しいよね」
('A`)「そんな事ないよ」
ノパ⊿゚)「ねぇ、もういっかいして?」
ヒートの方を見る。少し赤くなった顔でぼくを見上げていた。彼女の身長は低い。いつもこうやってぼくを見上げる。
('A`)「…うん」
暫く躊躇って、目を閉じたヒートを見てぼくは意を決する。そっと肩に手をやって、ゆっくり近づいて、唇を当てる。
真正面からキスしたので鼻が少しぶつかる。
ノパー゚)「…へたくそ」
今度はヒートから唇を重ねる。何度かくっついたり離れたりして、ようやくぼく達は再び見つめ合った。
('A`)「仕方ないだろ、した事なかったんだから」
ノハ^⊿^)「えへへ、だね」
もう一度キスをする。ヒートの唇はとても柔らかかった。
ノパ⊿゚)「ものすごく遠回り、したね」
('A`)「ものすごく遠回りした、本当に」
-
空白の五年を埋める。喪失した距離を埋める。共有するはずだった時間を埋める。
桜が舞うには早かった高校の門を埋める。中学校とあまり変わらない教室の席を埋める。冷たいリノリウムの廊下を埋める。
弱小チームばかりの放課後の部活動を埋める。学校帰りに立ち寄るコンビニを埋める。
黄色に世界を染めるイチョウを埋める。町を独特の臭いで包み込む銀杏を埋める。
空白を埋める。余白を埋める。空欄を埋める。無色を埋める。無味を埋める。無臭を埋める。埋める。
失われた時間はやはり取り戻せない。離れていたおよそ五年を今更取り返す事は出来ない。
だからこれから失った分以上を積み重ねていくだけだ。とても単純な話だ。ぼくはようやくその結論を得た。
煮込みすぎたロールキャベツはあまり美味しくなかった。失敗したね、と言いながらぼく達は焦げてしまったロールキャベツを食べた。
苦笑いしながら完食した。もはやキャベツの味はひどいものだったが、ぼく達は幸せだった。
§ § §
ぼくが異変に気がついたのは夕方になったあたりだった。ぼくはバイト先の休憩室で、パイプ椅子に座って携帯電話を操作していた。
休憩室はぼく一人でテレビの電源も落とされているのでとても静かだった。
ぼくの使う携帯電話は数年前のモデルで、スマートフォンが一気に流行となった昨今ではガラケーと呼ばれるものだ。
百五十グラムと重量がありスライド機種としてはかなり厚みのある方である。
その携帯電話で暇つぶしにレンタル掲示板を見ていたものの、途中で繋がりづらくなった。また通信障害だろうか。
たまにこうしてインターネットに接続しづらくなる、データ通信が行えなくなるという通信障害が発生するのだ。
やはり自分もスマートフォンに変えてしまおうか、などとぼくは考える。繋がらなければ携帯電話はただの電子の置物だ。
やるせなくなって、机の上に仕事をしない携帯電話を置く。まるで世界から切り離されたみたいでうんざりしてしまう。
( ^ν^)「お、ドクオか」
先輩が休憩室に入ってくる。ぼくはお疲れ様ですと挨拶をする。先輩は空いていた古びたソファーに座った。
( ^ν^)「お前さ、変わったな」
('A`)「本当ですか?」
( ^ν^)「明るくなったよお前。 生き生きしてやがる」
('A`)「それに近い事をアサピーさんにも言われましたよ」
-
( ^ν^)「だって誰が見たってそうだからな。 女でもできたか?」
('A`)「まぁ、そんなような感じです」
( ^ν^)「あー、あいつか、うん」
少し先輩は言葉に詰まる。ヒートを思い出しているのだろう。ここまで長い期間引っ張るあたりやはり心の傷は癒えていないらしい。
すっかりヒートは畏怖の対象となってしまっている。
('A`)「いい奴なんですよ。 ちょっと凶暴なだけで」
( ^ν^)「ちょ、ちょっと?」
('A`)「ちょっと」
あれがちょっとか、と先輩はぶつぶつ言いながらポケットから携帯電話を取り出した。ぼくは例の通信障害を思い出す。
('A`)「先輩もauでしたっけ? いま繋がらないんですよ」
( ^ν^)「マジ? また通信障害?」
('A`)「じゃないかなーと」
またかよ、と先輩が舌打ちする。それと同時に休憩室のドアが勢い良く開かれた。そこには息を切らしたアサピーさんがいる。
(;-@∀@)「た、大変です!」
( ^ν^)「なんだ、またクレーンゲーム道場破りか?」
(;-@∀@)「ち、違います、なんか中学生ぐらいのグループが暴れまわってて、店内めちゃくちゃなんですよ! ガラス割られたり、筐体壊されたり!」
( ^ν^)「はぁ、ふざけやがって! 警察は呼んだのか!?」
(;-@∀@)「何回も呼んだんですけど、電話繋がらなくて…!」
('A`)「通信障害…?」
( ^ν^)「いや外線だから違うだろ、いいから案内しろ! オレも行く!」
先輩が飛び出していく。動揺しているアサピーさんが続く。ぼくも慌てて後を追う。
ゲームセンターという職場において、確かに中学生グループというのは多感な時期なのでよく問題を起こす。
個人同士もグループ同士も中学生が一番多い。だから中学生客の案件というのは珍しくはない。
しかしガラスを割る、筐体を破壊するというのは異常だ。紛れも無く警察沙汰のものだ。
ぼくがこのゲームセンターで働き始めてからこれほど大きな事件はなかった。妙な胸騒ぎを覚えながらぼく達は店内に飛び込む。
-
(; ^ν^)「なんだこれは!?」
そこにあったのは破壊され尽くした店内だった。
窓ガラスはどれも割られて破片が飛散していたし、蛍光灯は叩き落とされフロアは暗く、筐体はバットで殴られたのかボコボコになっている。
視界の奥に中学生ほどの若いグループを見つける。こちらに気づいて視線を寄越した。
(# ^ν^)「なにやってんだテメェら! どうしてくれんだこれをよォ!」
先輩が怒鳴る。しかし中学生達は怯む様子はなく、むしろ笑っている。どこか狂気を含んだ笑顔だった。
普通ではなかった。あいつらイカれてる、とアサピーさんが呟く。
( ,,^Д^)「だって、もう必要ねーじゃんかよ」
パ ーン「そうだよ、もう関係ない」
(# ^ν^)「はぁ、なに言ってんだ」
今にも殴りかかりそうな剣幕で先輩が中学生達に近づく。しかし中学生達は金属バットを持っている。それで店を破壊して回ったのだろう。
( ,,^Д^)「だってどうせ世界は終わるんだから、もういらねーだろ」
中学生の一人が放った言葉で、ぼく達三人は固まった。その言葉を理解出来ず、先輩も立ち止まる。
何かの比喩表現か、戯言か、ぼくはぐるぐる考える。世界が終わる。そのワードにぼくは凍りついてしまう。
(# ^ν^)「世界が終わる? なに言ってんだお前」
(・∀ ・)「あれ、もしかして知らない? かわいそーっ、ここで知れてラッキーじゃん!」
パ ーン「だから早くどっか行きなよ。 マジで今なら俺ら殺しちゃうから」
(# ^ν^)「いい加減にしろよ、訳分かんねぇことばっか言いやがって」
(;'A`)「先輩!」
ぼくは思わず叫んで先輩を呼び止める。腕を引っ張って先輩を連れ戻す。先輩が怒鳴るが気にしない。中学生達は追ってこなかった。
世界は終わる。その言葉がぼくの中でぐるぐる回る。
(# ^ν^)「おい、離せよ! 放っておけるかあんな奴ら!」
-
('A`)「先輩、いいから確認しましょう」
(;-@∀@)「ど、ドクオ君さっきの言葉信じるの?」
('A`)「だってあいつら、普通の目じゃなかったですよ…!」
いくら先輩でもバットで武装した中学生の集団に単身で切り込んで勝利出来るとは思わない。ぼくもアサピーさんも戦力にはならない。戦うのは危険だ。
三人で休憩室に戻る。なんだか外も騒がしい気がした。ぼくはリモコンを手にとってテレビの電源を投入する。
『繰り返し、緊急ニュースをお送りします。 繰り返し、緊急ニュースをお送りします』
見慣れたアナウンサーが緊迫した表情で話す。
結論から言えば東京が壊滅するというものだった。
地上から約二万キロメートル離れた場所を通過する小惑星をアメリカ合衆国が核ミサイルを用いて軌道を逸らすというあの計画が実行された結果、失敗した。
割れた小惑星から生まれた隕石がおよそ二十四時間後に太平洋に落ちるのだという。
東京には三百メートルの津波が襲い全てを押し流し破壊し尽くされる。アナウンサーはその事実を告げた。
夢かと思った。映画かと思った。二十一世紀の技術とは何だったのか。アメリカ合衆国の威信とは何だったのか。
恐竜を滅ぼし白亜紀を終焉に導いたメキシコのチクシュルーブ・クレーターをふと思い出す。
国は何も出来ないのか。パトリオット・ミサイルでは対抗出来ないのか。映画のアルマゲドンの様な解決はないのか。
('A`)「あ…」
世界の終わり。終末世界。ぼくが幼い頃から時折考え、望みもしたもしもの世界。実現するはずのなかった世界。
でもここは現実だ。紛れも無く現実だ。否定のしようもなく現実だ。残酷なまでに現実だ。
ぼく達は立ち尽くしていた。動けなかった。口も聞けなかった。衝撃の大きさを感じていた。
暫くしてぼくは震える手でリモコンを取りチャンネルを変える。ドッキリ番組ではないかと思って、チャンネルを一つずつ変えていく。
NHK。日本テレビ。テレビ朝日。TBS。テレビ東京。フジテレビ。TOKYOMX。全て一緒だった。
全て同じ内容だった。全て容赦なく現実だった。元のNHKに戻り、ぼくは遂にリモコンを落とす。
(-@∀@)「…世界、終わるの」
( ^ν^)「嘘だろ、なんなんだよ」
ぼくは言葉が見つからなかった。いつか欲していた終末世界が訪れてしまった。こんなはずではなかった。こんなはずではなかった。
(; ^ν^)「お、オレ、会いたい人がいる…! 会いたい人がいるんだ!」
先輩が叫んで休憩室を飛び出す。ぼくとアサピーさんもその場にいられなくなって続いた。
裏口から屋外へと飛び出す。もう先輩の姿はなかった。アサピーさんがぼくに問う。
-
(;-@∀@)「ドクオ君は!?」
(;'A`)「自分も、会いたい人がいる…!」
ヒート。終末を目前にして彼女が浮かぶ。ヒートに会いたい。一緒にいたい。傍にいたい。泣きそうになりながらぼくは叫ぶ。
(;-@∀@)「分かった、気をつけて…!」
(;'A`)「あぁ!」
アサピーさんとも別れてぼくは走りだした。街は一変していた。まるで紛争地帯の様に混乱していた。
至る所から煙があがっているし、衝突した車は乗り捨てられているし、悲鳴や怒号がそこらから響いた。
さながらパニック映画だ。東京は滅ぶ。高さ三百メートルの津波に襲われる。都内にいればまず助からない。
関東地方ですら助からない。日本ですら滅亡するかもしれない。もうこの街に秩序はなくなった。社会の仕組みは終焉を迎えた。
理性が剥がれた人間達は欲望の赴くまま動いていた。もはや動物であった。どうせ死ぬのなら、それが行動原理だった。単純明快だった。
なんとか逃げようとする者と理性を失い本能のままに暴れる者が街に溢れていた。
街のそこらじゅうで人が殺されていたし女性が道端でレイプされていた。もはや人間社会は形を成さなかった。
この街だけではない。きっと東京のあらゆる場所、関東のあらゆる場所、日本のあらゆる場所で同じ様な光景が繰り広げられているのだろう。
ぼくは走りながら携帯電話でヒートに連絡を取ろうと試みる。しかしやはり繋がらない。
回線がパンクしているのだろう、当然だ。JRの駅に差し掛かると人だかりが出来ていた。
列車に乗って関東を脱出する算段なのか大きな荷物を持った家族連れも多く見える。
しかし列車は全く動いていないようで、改札口には駅員の姿もない。
あと二十四時間で世界が終わってしまうのだから、それでも職務を全うする者など殆どいないだろう。
改札口に立っているはずの駅員も、列車を運転する乗務員も、ニューデイズの店員も、タクシーの運転手も、
携帯電話会社の社員も、航空会社のパイロットも、愛する家族や共に過ごしたい人がいるのだ。
もう列車は動かないしインフラは死ぬ。タクシーも来ない。バスも走らない。飛行機も飛ばない。各々が過ごしたい最後の時間を求める。
インフラは無人で成されるものではない。こんなところで待っていても無駄だ。
駅に集まる人達を横目に通り過ぎると後ろから奇声が聞こえる。ダガーナイフを手にした男が立っていた。目は大きく見開かれ涎を垂らして笑っている。
高々と何かを叫んだ後に駅の前の人だかりに斬りかかった。悲鳴が響く。
まず手前にいた老人の首を切り裂いた。噴水みたいに鮮血が飛び散って近くの子供の顔を濡らす。子供を庇おうとした父親の手が切り落とされる。
手を失いながら勇敢にも立ちはだかった父親は心臓を一突きされその場に倒れる。
妻が叫びながら駆け寄るが虚しく袈裟懸けに切り殺された。残った子供はその場に座り込む。
それを蹴り飛ばしてナイフの男は更に進む。悲鳴が重なってそれぞれが逃げ出す。
駅前の人だかりが散り散りになる。逃げ遅れた女性に男は狙いを定め背後から切り裂いた。
一緒にいた人達は女性を置いて一目散に逃げていく。男は更にそれを追った。一瞬の出来事のようだった。
死体と大量の血だけが残った。ぼくは逃げるように走る。
-
そんな光景はいくつもあった。刺されたり、殴り殺されたり、死体がいくつも転がっていた。
何人もの女性が暴行されていた。恋人や家族が待っているかもしれないのに二車線の道路の真ん中で見知らぬ男に犯されていた。
誰も助ける者はおらず見向きもしないで脇を走り抜けていった。ぼくはヒートの安否が心配だった。
それ以外は何でも良かった。会いたくて仕方なかった。この手で抱きしめたかった。冬だというのに汗がひどかった。
誰が火をつけたのか、燃え上がる建物が続く。このあたりは商店街で建物が隣接していて燃え広がってしまうだろう。
きっと大火事になる。しかし消防車は来ない。きっともう当直の消防士は家族の待つ自分の家に帰ってしまっている。
ドラッグストアやスーパーマーケットで略奪行為は見られなかった。間もなく世界が終わるのに生活品を奪っても仕方ないからだ。
最後に美味しいものを食べたくても三ツ星レストランのシェフも家族や恋人の元へ駆けつけているだろう。
要塞みたいな駅を越えて、大きな国道が見える。ぼくより遥かに先を行く女性が国道を小走りで渡る。
しかし次の瞬間女性の身体が吹き飛ぶ。猛スピードで突っ込んできた車に撥ね飛ばされた。ぼくは慌てて立ち止まる。
大きく宙を待った女性の身体はアスファルトに投げ出されて動かなくなる。女性を撥ねたスポーツカーは交差点を唸りながら旋回する。
見れば広い国道には何人もが横たわっていた。どれもそのスポーツカーに撥ねられたらしく死んでいる。
踏まれたのか身体にタイヤ痕が残っているし、轢きずったのか頭皮や髪の毛やばらばらとアスファルトに散らばっていた。
歩行者を轢いて回った血まみれのスポーツカーは次の得物を見つけるべく交差点をドリフトしながら監視する。
ぼくは気づかれないように物陰に隠れながら機会を伺う。この国道を渡らなければヒートの住むアパートに到達出来ない。
覚悟を決めてぼくは飛び出した。国道は片側二車線、合計四車線。全速力で駆け抜ける。しかしスポーツカーが唸る。
見つかった。アクセル全開でぼくに突っ込む。歩道に上がれば。歩道にさえ上がれば撥ねられない。スポーツカーが迫る。
突然右から轟音が襲う。見れば大型トラックが勢い良く突っ込む。
ぼくはすんでのところでかわす。歩道に転がり込む。全身擦り傷だらけになる。大型トラックはスポーツカーの横っ腹に激しくぶつかった。
衝撃音と共にそのまま大型トラックに押しやられスポーツカーはひっくり返る。
その上を強引に大型トラックが乗り上げてスポーツカーをぐしゃぐしゃに潰してしまった。大型トラックはそのまま走り去る。
ひっくり返り運転手の折れた腕が見えるスポーツカーには目もくれずぼくは再び走り出す。
-
支援
-
狭い道路を走る。植木鉢やバイクが散乱する路地裏を駆ける。ヒートのアパートまでもう少し。ヒートまでもう少し。
携帯電話は相変わらず繋がらないがもう少し。そこで煙が見える。
ヒートのアパートがある方向。ぼくは恐ろしくなって、嫌な予感がして、更に急ぐ。煙は大きくなり、次第に高々とあがる炎まで見える。
あれがヒートのアパートではありませんように。ヒートとは関係ありませんように。ヒートが無事でありますように。
ぼくは祈る。祈りながら走る。走って、転びそうになりながら角を曲がって、たどり着く。
( A )「あ…あぁぁ…」
そこは地獄絵図だった。視界は燃え盛る炎でいっぱいだった。
狭い三階建ての一軒家も、薄汚れた雑居ビルも、ヒートの住むアパートも、全て紅蓮の炎に包まれていた。
辺り一帯が燃えていた。禍々しい煙を吐き出して轟々と燃えていた。
( A )「あぁぁぁ…」
声にならない。息が苦しい。あまりの熱気に近づけなかった。これ以上進めなかった。
人の姿など見えなかった。ぼくはアスファルトに膝をつき、嗚咽した。彼女の名前を叫びながら咽び泣いた。
いくら泣き叫んでもヒートはいなかった。どこにもいなかった。火の手が増して一気に息苦しくなった。
泣きながらぼくは元来た道を歩いた。業火はこの一帯全てを飲み込もうとしていた。
勢いを増してどんどん燃え広がっていった。ぼくは近くを歩き続けた。名前を呼び続けた。
それでもヒートはいなかった。ただ紅蓮の炎と膨れ上がる黒煙しかそこにはなかった。
国道まで出て、疲れ果てて、ぼくは座り込んだ。スポーツカーは奥で燃えていたし、大型トラックはどこかに行ってしまって、静かだった。
涙も枯れ、呆然とぼくは座っていた。成長し続けた炎は街そのものを飲み込もうとしていた。
付近に動く人はもうおらず死体がぽつぽつ転がっているだけだ。人は死んだ。街も死んだ。火の粉だけが時折頭上を舞う。
酸素が炎に奪われる。人も街も炎に奪われる。
こんなはずではなかった。こんな世界を望んではいなかった。こんな終末を欲してなどいなかった。こんな未来などいらなかった。もう涙は出なかった。
錆びたガードレールに寄りかかって、口を開けたままアスファルトに座っていた。いつの間にか日は暮れ夜が訪れていた。暗闇でも世界が燃えていた。
-
遠くから音が聞こえてくる。自動車のものではない駆動音は次第に近づく。そして往来がめっきり減った国道を一台のバイクが通って行く。
通過してから暫くしてブレーキ音が聞こえ、また近づいてきた。ぼくの目の前でバイクは止まって、運転手が慌てた様子でヘルメットを脱ぐ。
(;-@∀@)「ドクオ君!?」
突然の来訪者はアサピーさんだった。いつしかバイクが趣味だと言っていたのをぼんやりと思い出す。
(;-@∀@)「どうしたのこんなところで!? 会いたい人は!?」
( A )「い…なかった…」
(;-@∀@)「え?」
( A )「いなかった…どこにも…!」
震える声でようやくぼくは言う。それを口にする事で、遂に現実を認めてしまった。ヒートはいなかった。街に転がる幾つもの死体と燃える街しかなかった。
(-@∀@)「そうか…」アサピーさんはそう呟いてから、ぼくの肩を握る。「せめて、ドクオ君だけでも逃げよう!」
( A )「もう…」
(-@∀@)「ダメだ、助かる可能性があるなら生き残る努力をするんだ! 無駄になんかするな!」
そう言ってアサピーさんはぼくの身体を起こしてバイクの後部座席に乗せる。ヘルメットを被り直して、グリップを握る。
(-@∀@)「しっかり掴まっていて! ヘルメットは、いやいいや、どうせ道交法も今日で終わりだ」
アサピーさんがバイクを出す。燃える街が遠ざかっていく。見慣れた街並みが、大きな国道が、要塞みたいな駅が、景色の奥へと消えていく。
バイクはぼくの住む街を出て、環七通りに入って飛ばしていく。ところどころ渋滞しているがバイクはその間を縫う様に走る。
(-@∀@)「ひどい有り様だよね」
アサピーさんの言う通り、環七通りから見えるのは荒れた東京の街だった。
自動車は転がっていたり乗り捨てられているし、街のあちこちから煙が上がっている。
交差点に差し掛かる度に轢死体が転がっているし、親とはぐれた子供が一人で泣いていた。
進むごとに渋滞はひどくなり、テールランプが道路の遥か先まで続く。
(-@∀@)「皆なんとか高いところに逃げようとしている」アサピーさんは言った。「富士山に集中しているみたいでね、御殿場インターは八十キロの渋滞だって」
列車もバスも飛行機も動かない今、逃げられるのは自家用車だけであった。
しかし交通容量の乏しい東京で民族大移動など起これば当然パンクを起こす。
帰省ラッシュの度に数十キロメートルの渋滞を起こしているのでこういう状況に陥るのは必然だった。
-
渋滞の車列や転がるトラックをかわしてバイクは甲州街道へ入る。機能していない料金所を通過して首都高へ上がる。
多摩川を渡って都心と別れる。もうそこから渋滞は始まっていた。
動かない車列に運転手達は苛立ちを隠せず何ヶ所でも口論が発生していた。
口論で済めば良い方で、殴り合いやひどい場合には殺し合いにまで発展していた。全員が焦っていた。
次に太陽が登れば三百メートルの津波がやってくる。全てが沈む。少しでも標高の高い場所を求めていた。残酷な事に日本は島国だ。
飛行機や船が動かなければ大陸に脱出する事も叶わない。狭い国土でより助かるかもしれない場所を奪い合う戦いだった。
(-@∀@)「この様子だとずっと渋滞だろうね」
アサピーさんは器用に動かない車列をかわしながら西へと進む。路肩車線にも車列ははみ出していて、それらを回避しながら走って行く。
動かないミニバンから羨ましそうに子供が覗いていた。目が合ってしまってぼくは顔を伏せる。
バイクは東京を出て、いよいよ山間部へと達した。雪が降っていなくて良かったとアサピーさんが呟く。
上り勾配と共にやんわりとカーブする高速道路は赤いテールランプで溢れている。消失点まで赤い光で埋め尽くされている。
テールランプの海を泳ぐ様にバイクはジグザグに進む。反対車線は恐ろしいほど空いていた。走る車はなかった。沈む街に向かう者はいなかった。
サービスエリアには立ち寄れない、とアサピーさんは先に断る。このバイクが狙われる事を危惧していた。
実際、車列の動かない大渋滞のなかで先に進めるのはそれを縫って走るバイクだけだ。
それ故に恨めしそうな目線に晒されるし、立ち往生でもすれば一気に襲いかかってしまいそうなほどドライバー達は殺気立っている。
乗っていた軽自動車がガス欠になり他の家族連れの乗ったミニバンを襲って引きずり降ろし強奪した現場にも遭遇したし、
奪ってから抵抗する運転手を轢いたのだろう血まみれのタクシーもいた。
路肩車線まで車で埋まるなかアサピーさんは決して停止する事なく慎重にルートを選ぶ。
止まった途端にいつバイクを奪おうと襲ってきてもおかしくない状況がずっと続く。
(-@∀@)「思ったより遅い、まだ甲府にすら着いていない」
どうやら日付を越えていたらしい。ぼく達の最後の一日が始まる。しかしアサピーさんは疲労困憊といった様子で眠たそうだった。大きな欠伸をする。
(-@∀@)「もうすぐ世界が終わるっていうのに、眠くなるものだね」
バイクはインターチェンジを降りて、人気のない山中の道へ進む。道路からは見えづらい場所にバイクを隠して、ぼく達は空き家の小屋で眠った。
暖房などない山奥の小屋はとても寒かったがぼく達は疲れきっていて、特に話す事もなくすぐに眠ってしまった。
気がつけば朝になっていてぼく達は更に標高の高い場所を目指して出発する。既に無人のコンビニからパンを拝借して腹を満たした。
終末が迫っているのに眠くもなるし腹も減るのだ。トイレにだって行く。間もなく死んでしまうのに生きていると実感させられる。
-
これまた無人のガソリンスタンドで給油をしてからバイクは再び高速道路へ入る。
未だに高速道路は始端の見えない渋滞が続いていた。昨夜から大して動いていないだろう。
インターチェンジを降りた先にこれだけの途方も無い量の自動車を受け入れられるスペースはない。
東京はおろか日本の平野部全域から山間部に向けて車が集中しているのだ。
普段の観光繁忙期や帰省ラッシュの渋滞と同じスケールで考えられるものではない。
ぼくはアサピーさんに掴まりながら、ただバイクに揺られた。これから訪れるのは平等に死がやってくる終末世界だ。
しかしもうそこにヒートはいない。平等などではない。
そんな行き場のない世界でぼくが生きる必要があるのか、分からなかった。
しかしそんな事をアサピーさんに告げると生き残る可能性が少しでもあるなら無駄にしてはだめだと再び叱責された。
普段の温和なアサピーさんからは想像も出来ない強い口調であった。
(-@∀@)「映画のディープ・インパクトってあったよね」
アサピーさんはどこか自嘲気味に言う。
(-@∀@)「バイクに二人乗りで逃げながら彗星が地球に落ちてくるのを見るんだ。 まさに今そんな感じだね」
そういう終末映画は幾つも作製されたし、人気を博した。ぼくもそれらを好んで見ていた事がある。
しかしあれらはあくまでフィクションでしかなかったはずだ。フィクションの域を出るはずのなかったものだ。
それなのに現実は映画より過酷で無慈悲かもしれない。映画アルマゲドンの様にブルース・ウィルスは世界を救ってはくれない。
アメリカ合衆国は完全無欠ではない。どうして現実はこれほどに残酷なのだろう。
どれほど走っただろうか、随分と山奥まで進んでいた。バイクは高速道路を降りて、一般道路へ進路を取る。
そこから更に高標高へ向けて走る。もう夕暮れ時だった。発表されたタイムリミットの二十四時間が近づく。間もなく世界の終末が始まる。
-
(;-@∀@)「あ、あれ!」
アサピーさんが叫ぶ。空を見上げる。ぼくも夕暮れに染まる空を見た。
あぁ、紅い空に現れたのは燃える隕石だった。終末を司る破壊神だった。あの閃光こそが全てを終わらせる。燃える流星を皆が見上げていた。
この瞬間だけは平等だった。高速道路の動かない車列の中からでも、自力では逃げられない入院患者からも、思う存分暴れ尽くした中学生からも、
レイプされて道端に投げ捨てられた女性からも、共に最期の時間を過ごすべく我が家に残った老夫婦からも、それは平等に見えた。
遥か頭上から見下ろす様にその破壊神はぼく達に終末の到来を告げた。
呆然と見上げ、泣きながら見上げ、頭を抱えながら見上げ、手を掲げながら見上げ、祈りを捧げながら見上げた。
今だけは平等だった。そしてじきに平等に終末が降ってくる。終末が国土を飲み込む。
(-@∀@)「ここまでか」
道路が終わる。終端でぐるりと回ってUターンする構造になっていて、膨らむ様に駐車スペースが備わっている。
車で既に埋め尽くされ、入りきらない車がそのまま後ろに続いていた。そこから少し階段を上がった場所に展望台がある。
普段は眺めの良い展望台として人気のドライブコースにでもなっているのだろう、そこからは山あいの盆地が見渡せた。
バイクを置いて、ぼく達も展望台へ上がる。ここに行き着いた人達が心配そうに様子を伺っていた。
空が燃えてから既に一時間ほどが経過していた。
もう大津波が東京に到達しているのだろう。
房総半島や三浦半島を飲み込み、東京を飲み込むのだ。
お台場を飲み込み、東京駅を飲み込み、国会議事堂を飲み込み、皇居を飲み込み、
東京タワーを飲み込み、ヒカリエを飲み込み、サンシャインシティを飲み込み、首都を壊滅させる。
関東地方全てが飲み込まれるだろう。
関東地方はおろか、沿岸部の都市は生き残れないだろう。
名古屋だって仙台だって助かるまい。
逃げずに暴れまわった中学生達が飲み込まれる。
タガが外れた殺人鬼が飲み込まれる。
住み慣れた家で手を握り合う老夫婦が飲み込まれる。
最後まで職務を全うしたアナウンサーが飲み込まれる。
混乱のなか両親を失い一人泣き続ける子供が飲み込まれる。
乱暴され放り捨てられた女性が飲み込まれる。
高速道路の長い渋滞で立ち往生する車が飲み込まれる。
全てが飲み込まれる。全てが無に帰る。築き上げてきたものが全て飲み込まれる。
竣工したばかりのビルも新築の家も歴史的建造物も飲み込まれる。早期の修繕が叫ばれていた首都高も開通したばかりの橋も飲み込まれる。
再開発問題も基地問題も発電所問題も全て飲み込まれる。完成された人間社会が飲み込まれる。人類の叡智が飲み込まれる。
-
「あぁっ!」
悲鳴があがる。津波が眼下の盆地にまで達した。
家屋から植物や車まであらゆるものを道連れに津波は進む。
間に合わず逃げる車が飲まれる。屋上に逃げた人が飲まれる。
遂に足元まで迫ってきた津波にその場にいた皆が純粋たる恐怖を覚える。更に山奥へ逃げ出そうとする者もいた。
もうこの先に整備された道はない。鬱蒼と生い茂る自然が待っているだけだ。展望台にいる者達は、固唾を呑んで下界を見守っていた。
何もかも奪われた故郷を泣きながら見ていた。濁流に染め上げられる世界をただ眺めていた。
(-@∀@)「あぁ…」
そして、津波は歩みを止めた。眼下に押し寄せた津波は勢いを無くし、そこで襲撃を終える。
助かった、助かったぞと、口々に言う。助かった。助かってしまった。何百万何千万の人間を踏み台に助かった。助かってしまった。
(-@∀@)「た、助かったよ! 良かった!」
アサピーさんもようやく深々と息を吐き、喜ぶ。ぼくはただただ世界のリセットを敢行した津波を見ていた。ぼくは、助かったのだ。助かった。
('A`)「助かった…」
助かった。助かってしまった。
ヒートのいない世界で助かった。ヒートのいない世界で助かってしまった。
世界は最後まで平等ではなかった。
-
ワールド・エンドⅢ おわり
つづく
-
支援ありがとうございました!
-
おつ
-
ありがとうございます
最後いきます
-
ぼくは終末世界など望んでいなかった。
-
終末世界にさようならのようです
サイレント・ナイト
-
放課後の職員室は煙草とコーヒーのにおいがした。
まだ分煙なんてものがそれほど一般化しておらず、職員室で教師達は普通に喫煙していた。返されたテストに焦げた穴が開いている事も珍しくなかった。
ぼくとしては、職員室はあまり好きではなかった。好きという生徒もいないだろう。あそこは何か悪い事をしたりして教師に呼び出される時に入る印象が強い。
ぼくは素行の悪い生徒ではなかったし、単独で呼び出される事はまずなかった。しかしそれは凶暴な幼馴染みヒートといれば別の話だ。
この日もヒートと一緒に職員室の椅子に座らされていた。
呼び出された原因は、他の男子生徒と取っ組み合いの喧嘩をしている最中に、仲裁に入った教師を蹴り飛ばしたというものだった。
男子生徒と殴りあって喧嘩をするのも、勢いに任せて教師を蹴り飛ばしてしまうところも破天荒な彼女らしかった。
ぼくは現場に居合わせなかったにも関わらず一緒に呼ばれた。それはやはりぼくがヒートの幼馴染みであるからだ。
ぼくとヒートの関係性については教師も知っていたし、彼らもぼくをヒートの保護者として扱う事が多かった。
それ故にぼくは呼ばれたし、こうして巻き添えを食う形で呼び出される事は決して少なくなかった。
不条理でこそあるが、ヒートの隣にいるというのはそういう事なのだろうとぼくは勝手に一人で納得していた。
ぼくが丁寧にノックをして職員室に入ると、既にヒートが座っていた。
ぼくは隣に用意されたオフィスチェアに座るとむすっとした表情のヒートに本当に先生を蹴飛ばしたのか、と問う。
ヒートはぶっきらぼうに足が当たっただけ、と答えた。ヒートと取っ組み合いの喧嘩をしていた男子生徒の方は帰されたらしく、それがヒートの怒りを助長させていた。
ぼくは小さくため息をつく。不機嫌な幼馴染みに語りかける。
('A`)「ヒートさ、もうそろそろ丸くなろうよ。 もう十四なんだよ」
ノパ⊿゚)「お母さんと同じ事を言うんだね」
ヒートはそっぽを向く。ぼくとしては破天荒で無茶苦茶なヒートこそ彼女らしいと思っていたが、もう彼女も十四歳になる。
いくら思春期とはいえヒートはあまりにも尖っていた。
彼女自身が研ぎ澄まされたナイフであった。ぼくは彼女の将来が心配になっていたのだ。
ぼく達はいつまで一緒にいられるか分からない。
町内に高校は一つしかないからそこまでは安心だが、それより先は一緒にいられるかは分からないのだ。
大学に進むなら道が同じ可能性はそう高くないし、高校を出て就職をしてしまうなら尚更だ。
ある意味ぼくはヒートのブレーキ担当でもあったから、彼女とぼくが離れる事が想像出来なかった。
ヒートにはきちんと友達がいたが、ぼくほどヒートの事を知り尽くした者はいない。
ぼくはヒートの取扱説明書みたいなものだったし、ぼくもヒートの保護者という役割ではそれを自負していた。
-
('A`)「いつまでも尖ってられないよ」
ノパ⊿゚)「だって、みんな尖って見えるんだもん」
ヒートはそれまでにも何度かそう言っていた。思春期の彼女にはとにかく世界が尖って見えたという。
シリコンラバーの巻かれたシャープペンシルも、野球部が振って練習するバットも、彼女を指す指も、尖って見えたという。だからヒートも尖っていた。
(´・_ゝ・`)「全く、またお前か」
椅子に座って待つぼく達の前に、担任教師がやってきた。彼も椅子を引っ張ってきてぼく達に向かい合って座る。
そしてドクオもいつもすまんな、と中年の男性教師はぼくに断った。ぼくはもう慣れっこだった。
(´・_ゝ・`)「まず、なんでギコと喧嘩したんだ」
ギコというのはヒートと取っ組み合いの喧嘩をしていた男子生徒だ。学年はぼく達の一つ上である。
サッカー部の主将をやっていて、接点こそないがぼくでも知っていた。色黒で大きな身体つきをしていて、一年生の頃からレギュラーを張っているという。
ノパ⊿゚)「気に食わないって」
(´・_ゝ・`)「気に食わない?」
ノパ⊿゚)「お前は女のくせに生意気だって」
中学生のヒートはとにかく強かった。驚異的な身体能力で体育の授業では常に活躍していたし、運動会ではクラスのエースだった。
喧嘩っ早かったし、男子生徒と喧嘩をしても勝ってしまう事が多かった。
極めつけは野球部でレギュラーどころか四番の座を掴んでいた事だ。
女子のソフトボール部がなかったこの中学校で、ヒート本人の強い希望で男子野球部に特別入部する事になったのだが、
打者としての成績や打撃センスが他の部員を圧倒的に上回っていた。
これを好ましく思わない部員は大勢いたそうだが、試合のたびに活躍するヒートを見て次第に反発の声はトーンダウンしていったという。
しかしギコは部外の者だ。女子生徒のくせに男子より好成績を収めるヒートが気に入らなかったのだろう。
(´・_ゝ・`)「野球部のキャプテンってロマネスクだろう、ギコとは仲が良いな」
ノパ⊿゚)「それで四番はロマに譲れって。 余計なお世話だって言い返したら喧嘩になった」
話を聞く限りではヒート一人が悪い訳ではなさそうだ。
(´・_ゝ・`)「じゃあ、仲裁に入ったモナー先生を蹴り飛ばしたってのは?」
ノパ⊿゚)「急に割って入ってくるんだもん、当たっても仕方ないよ」
-
(´・_ゝ・`)「うーん、でもモナー先生たいそうお怒りでなぁ」
('A`)「先生、ヒートに悪気はなかったと思います」
ぼくは助け舟を出す。
('A`)「それにモナー先生も急に割って入れば危ないじゃないですか」
(´・_ゝ・`)「んまー正直オレもそう思うんだよねー。 あの人不器用なくせに変に正義感あるし」
担任教師は頭を掻きながら言う。彼は堅苦しくなく馴染みやすい性格をしていて、生徒にも人気がある。
ヒートの事をきちんと理解していて、問題児ではるが根は良い奴だと言っていた。
(´・_ゝ・`)「まぁギコにはオレから明日言っておくから、とりあえずモナー先生のとこ言って謝ってきな」
('A`)「ありがとうございます」
ヒートは私は悪くないのにと口を尖らせていたがぼくは頭を下げる。担任教師は続ける。
(´・_ゝ・`)「お前な、そろそろ大人にならなきゃいけないぞ。 いつまでもドクオが隣にいる訳じゃあないんだから」
ノパ⊿゚)「それさっきもドクオに言われた」
さすがだな、と担任教師はぼくに笑う。
(´・_ゝ・`)「でも本当にそうだぞ。 いくら幼馴染みと言ってもいつまでも一緒じゃないんだから」
結婚でもすれば別だがな、と担任教師はからかう。ヒートはそういうのじゃない、と顔を更に背けてしまった。
それからぼく達はヒートが蹴り飛ばしたモナー先生のところへ謝りに行った。
モナー先生はまだ不機嫌だったがあらかじめ担任教師から話をされていたみたいで、今回は不慮の事故という事にしておくからと言った。
相変わらずヒートはむすっとしていたがぼくは彼女の頭を抑えて謝らせる。こういうのも、一度や二度ではないのだ。
職員室を出るとヒートは部活には顔を出さず、今日はもう帰ると言った。夕陽が差し込む廊下を歩いた。
一緒に歩いているようで、ヒートは一歩先を歩く。ぼくはいつも彼女について歩くのだ。
ノパ⊿゚)「私達さ、いつまで一緒だと思う」
ヒートがぼくに訊く。校舎に生徒はもう殆ど残っていない。静かなリノリウムの廊下を歩く。歩くたびヒートの一つに結んだ髪が揺れる。
-
('A`)「まぁ、少なくとも高校までは一緒だろうけどさ。 その先の事なんて考えていないし」
ノパ⊿゚)「そっか」
('A`)「ヒートは?」
ノパ⊿゚)「私もなーんにも考えていない」
でも、とヒートは続ける。
ノパ⊿゚)「ずっと一緒だといいね」
ぼくは何と答えただろう。目を開くとそこには体育館の屋上が見えた。ゆっくりと身体を起こす。昔の夢を見ていた。
世界は滅びなかった。ぼく達は生き残った。今はこうして津波から逃れた小学校の体育館に避難している。
避難者は体育館だけには収まらず、校舎の方にまで溢れかえっている。地元の人間をはじめ、東京など関東地方から逃げ延びた人間が多かった。
情報が圧倒的に不足していて、隕石落下とそれに伴う大津波で世界がどうなったのかは分からなかった。
恐らく東京はおろか関東地方そのものが壊滅しているし、他の沿岸部の都市も飲み込まれただろう。
首都や多くの大都市を失った日本は既に国として機能していなかったし、他の国も同じはずだ。
今は備蓄食糧や持ち寄られた食糧を分けあっているが長くは持つまい。
国からの救援は期待出来るはずもなく同じく被害を受けた海外からも支援は考えられない。都市もインフラも金融も農業も通信も死んでしまった。
途方も無い復興など誰も口には出来なかった。生き延びた者達はこれから時間をかけてゆっくり朽ち果ててゆくのだと分かっていた。
(-@∀@)「生き延びただけ、儲けものだよ」
アサピーさんは備蓄の缶詰を開けながら言う。こんなに芯に強い人だったのかと感心してしまう。
('A`)「この先、どうなるんですかね」
(-@∀@)「助けがくるかもしれないし、こないかもしれない。 何も分からないし、誰にも分からないよ。 未来があるのかも」
間違いなく、人類史に残る日であった。既に隕石落下から三日が経過していた。一体この国だけでどれだけの人が死んだのか、想像もつかなかった。
あの町に住む両親や同級生達がどうなったかも、分からない。何も分からないし、知る由もない。ぼく達生き延びた人間は真っ暗な道を歩んでいく事になる。
ぼくはといえば、この体育館で寝てばかりいた。それを咎める者はいなかった。
家族や大切な人をなくした者はたくさんいたし、ショックで寝こむ者は少なくなかったのだ。
塞ぎこんでしまうのならまだ良い方で気が狂ってしまった者や口を利けなくなってしまった者もいる。
突然起き上がったかと思うとそのまま外のほうへ走って行って崖から飛び降りてしまった者もいた。
それだけ生き残った者達は精神的に参っていた。
-
動ける大人達はなんとか住めるよう水の引いた盆地の瓦礫の撤去に従事していた。
途方も無い量の瓦礫がそこらじゅうにあって、かつてあった街並みは面影もなかった。日本中がこうなのだと考えると気が遠くなる。
更に大人達はこれからどうするのか討論を行なっていた。残された備蓄食料に余裕はなく、物資も乏しい。
救援など見込めない現状でどうやって生き延びてゆくか、活発な議論が交わされていた。
さながらノアの箱舟と言えるだろう。ぼく達は難を逃れ同じ舟に乗った運命共同体の様なものだ。
そのうち自分だけ助かろうとする者や犠牲になる者が出るだろう。
派閥の誕生や争いも起こるだろう。人間が集まればそこに社会が出来るだろう。世界はそうやって構成されている。
('A`)「アサピーさんは強いんですね」
(-@∀@)「そんな事ないさ」
動ける大人は皆何かしら作業をしていた。ぼく達は成人している。社会的には大人だ。
だけどまだ学生であるし、一人暮らしこそしているが両親から仕送りをしてもらって経済的に独立しているとは言いがたい。
きっとそんな中途半端な自分に甘えている。
(-@∀@)「ぼくもね、色々心配なんだよ」
アサピーさんは備蓄の缶詰に詰められた鯖を箸でつまむ。
(-@∀@)「実家は九州なんだけど、海沿いなんだ。 多分助かってない。 携帯も結局一回も繋がらなかった」
悲しそうにアサピーさんは語る。
(-@∀@)「あの職場の皆だってどうなったか。 ニュッ先輩は走っていってそれっきりだし、他の皆も分からない」
なんにも分からないね、とアサピーさんは呟く。
(-@∀@)「助かっていると、いいなぁ」
§ § §
ぼくは屋上にいた。フェンスの向こうには閑静な住宅地がどこまでも広がっていて、奥には川沿いを走る首都高が見える。
川沿いの首都高は朝や夜はともかく昼間でもよく混んでいる。そんな首都高を眺めていると誰かがぼくを呼んだ。
髪を一つに結んだ女子生徒がいる。ヒートだ。膝には可愛らしいプラスチックの弁当箱が置かれていた。二人で屋上にて昼食を取っていたのだ。
ぼくの出身中学校は屋上に出る事は危ないからと禁止され常に施錠されていたので、きっと高校の屋上だろう。ヒートが着る制服も知らないものだ。
ノパ⊿゚)「ね、行こ」
-
ヒートが手を引く。屋上から階段を降りる。見覚えのない校舎を歩く。
教室はダンボールや発泡スチロールで装飾が施されて、ワックスで磨き上げられた廊下は学生で溢れている。
どうやら学園祭の最中らしかった。ぼく達は手を繋いで出し物を見て回る。
お化け屋敷や輪投げという陳腐なものからメイド喫茶など時代に特化したものもあった。
普段一緒に生活している女子生徒がめかし込んで接客などしていれば、男子生徒は急に彼女達を女性として見てしまうだろう。
お化け屋敷に入りたいとヒートが言ったが逆に驚かす役の者を殴り倒してしまう気がしたのでとりあえず断る。
しかしヒートはそんな事はしないから、と頬を膨らませた。
そう、高校生のヒートなのだ。中学生の頃とは違う、大人になりつつあるヒート。どうしてヒートは高校生になって急に大人になってしまったのだろう。
ノパ⊿゚)「なに食べる?」
('A`)「たこせん?」
ノパ⊿゚)「そんなのないよ」
ヒートは笑ってチュロスをぼくに渡す。ヒートも同じものを頬張っていた。ぼくはそうか、と納得してチュロスを受け取る。
最近は食中毒などのリスクを考慮して飲食店禁止の学校もあるそうだがそれではつまらないだろう。
チュロスはどうやら人気商品のようだった。有名アミューズメントパークで慣れ親しんでいるからだろう。
ぼくも程よく砂糖のまぶされたチュロスをひと口食べる。
ノパ⊿゚)「そっちどう?」
ヒートがぼくの持つハニーチュロスを横からひょいっとひと口つまむ。
「こっちもおいしいね」などと笑って、「シナモンもおいしいよ」と自分の持つチュロスをぼくに差し出した。
食べ比べという訳だ。ぼくはシナモンチュロスをひと口もらう。
体育館では学生ライブをやっていた。パイプ椅子が置かれた客席は学生や父兄らで埋まっている。
流行りのコピーバンドや仲の良い女子グループでダンスを披露している。
ガールズバンドの演奏もあって、なかなか本格的だった。最後にボーカルを募集してますと大々的に宣伝して、笑いを誘う。
ノパ⊿゚)「楽しかったね」
いつの間にか学園祭も終わりのようだった。外に出れば既に夕方だ。随分と校内を回ったように思える。帰ろっか、とヒートが言ったのでぼくも頷く。
校門を出れば、いつの間にか川沿いの堤防にいた。屋上から見えた首都高が堤防の隣を走っている。
乗用車、トラック、バス、様々な車がひっきりなしに来ては通り過ぎて行く。
ジョイント部分を通過するたびに鈍い音がする。首都高は川のずっと向こうまで続いていて、奥には滑らかな曲線斜張橋も見える。
すぐ近くに架かるトラス橋には線路が敷かれアルミ合金製の赤い列車が渡っていった。
あれはヒートの住むアパートに行く時によく見た列車で、こんなところまで出張してくるのだ。
ノパ⊿゚)「ねぇ、後ろ乗せてよ」
-
ぼくは自転車を引いていた。ヒートはぼくが答える前にぴょんと後部座席に飛び乗る。仕方ないな、とぼくは強くペダルを漕ぎだした。
ノパ⊿゚)「ちょ、バランスバランス!」
('A`)「ちゃんと掴まっててよ」
ヒートがぼくの腹部に手を回す。彼女の少し膨らんだ胸が、自転車が揺れるたび背中に当たる。
ノパ⊿゚)「胸、当たってるでしょ」
('A`)「ささやかな胸だけど」
ノパ⊿゚)「うるさい」
ヒートがぼくの頭を小突く。そしておもむろに立ち上がりながら
ノパ⊿゚)「ねぇ、立っていい?」
('A`)「もう立ち上がってんじゃねーか…うわっ!」
養い続けたバランスが崩れ自転車は盛大にクラッシュ。ぼく達は堤防の土手に放り出された。
ノハ-⊿-)「いったー」
('A`)「急に立つなよ」
ノパ⊿゚)「立って二人乗りってさぞかし気持ちいいかなと」
('A`)「お前な。 あとパンツ見えてる」
えへへ、とヒートは笑う。スカートについた土をぱたぱたと手で叩きながら立ち上がる。ぼくも自転車を起こす。
秋晴れだった。川の水面がきらきらと輝いていた。ステンレス製の列車が夕陽に染められる。
堤防の向こうには建設中のスカイツリーが顔を出していた。あのスカイツリーに夕陽が沈む日もそう遠くない。
ぼくは気づいていた。これはぼくの記憶ではない。ヒートの高校の頃に付き合っていた時の相手のものだろうか。
何せぼくは高校生のヒートを知らない。どんな青春を過ごしたのか知らない。どんな相手と時間を共にしたのか知らない。
しかし何と幸せだろう。ヒートと過ごす青春はとても幸せだった。ぼくも、一緒に青春を過ごしたかった。
一緒に屋上で昼食を取りたかった。一緒に学園祭を回りたかった。一緒に葛飾区あたりの堤防で自転車の二人乗りをしたかった。
夢でならそれが叶う。このまま夢が続けばいいのに。そう考えていると、瞬く間に夕陽が沈んで夜がくる。
堤防は暗くなってまばらに設置された街灯が寂しく自らの足元を照らす。
未完成のスカイツリーは己の身体を光で彩らないし一秒を刻まない。
首都高は渋滞を始めテールランプがずらりと並ぶ。小菅から赤が続く。果てしなく赤が続く。どこまでも赤が続く。うんざりするほど赤が続く。
-
夜の堤防に人気はなかった。学校帰りの学生も散歩をする老夫婦もいない。
堤防にはぼく達が二人だけ、世界からトリミングされたみたいに浮いていた。風が吹いて、ヒートの髪が揺れる。
ノパ⊿゚)「私達、別れよっか」
首都高が横倒しになる。たっぷりと乗っていた車達が一斉に堤防へなだれ込む。無数のテールランプが降ってくる。
視界は黒と赤だけがめまぐるしく回る。赤いテールランプの海に溺れながらぼくはヒートの名を叫ぶ。
手を伸ばす。届かない。振り向かない。ヒートは崩壊した首都高に飲み込まれていく。
フロントガラスが砕けて積み荷が放り出されて眠気覚ましの缶コーヒーがシャッフルされて川へ落ちていく。
降ってきたクラウンに押し込まれる様にぼくは川に沈んだ。何台もの車と運転手達と一緒に川へ沈む。
暗い川はテールランプでいっぱいだった。息が出来なくなって、ぼくはもがく。乱暴に手を振り回す。
それでもぼくの身体は鉛の様に重く川底へと沈んでいき、酸素が欠乏した意識は遠のいた。
('A`)「…」
目を開ける。川底ではなかった。テールランプはなかった。首都高はなかった。秋晴れはなかった。自転車はなかった。
チュロスはなかった。学園祭はなかった。プラスチックの弁当箱はなかった。屋上はなかった。現実だった。
('A`)「う…うぅ…」
ぼくは口に手を押し当てむせび泣く。なかった。ヒートはいなかった。現実だった。現実は過酷だった。ぼくはただひたすら泣いた。現実だった。
あれから何日が経ったのだろう。曜日感覚はすっかり失われてしまった。もはや曜日など必要ないので仕方ないとは思う。憂鬱な月曜日はもう来ない。
備蓄の食糧は日に日に減っていった。支出が持続するなか収入がなければ破産する、当然の事だ。
救援などやはり来ないし、水が引いた盆地を探検しても食糧は特に発見出来なかったという。
大人達は焦り始めていたし、ノアの箱舟では小さな争いが頻発するようになっていた。
(-@∀@)「荒れてきたね」
アサピーさんは嘆く。
(-@∀@)「食糧問題の根本的な解決なんてないよ。 救援は絶望、食糧の発見も望み薄だ」
アサピーさんも疲弊しているようだった。どうして現実はこれほどに辛辣なのだろう。
(-@∀@)「これからもっとひどくなるよ」
アサピーさんも体育館に敷かれたマットに横になる。ぼくもまた、眠る事にした。またヒートの夢が見たかった。
§ § §
黄色の紅葉が町を覆っていた。イチョウが見事に彩って風に揺られていた。黄色い景色の奥で二両の赤いワンマン列車が走って行く。
町を貫くローカル線には普通列車しか走っていなくて、沿線には長閑な風景が広がる。
ぼくが幼い頃には列車に乗り車内を巡回する車掌から切符を購入したものだが、
いつからか自動改札機導入に伴い各駅に同じデザインの無個性な駅舎が建てられてしまった。
-
ここはあの町だ。ぼくとヒートが育った故郷。あの町とはいっても、今では隣の市に吸収合併されてしまって、地図からあの町は消えてしまった。
実家に葉書を送る際には従来の住所に隣の市の名前を加えて書かねばならない。侵略されたみたいで妙に癪だった。
秋になるとこうしてイチョウが色づいて町を染める。ぼくとヒートは帰り道なのだろう、二人で歩いていた。
コンクリートの道は幅があるが車は入ってこない。少し前までサイクリングロードだった場所だ。
灰色のコンクリートには大量の落ち葉が敷き詰められていた。ぼく達は落葉の絨毯を歩く。
黄色の葉を踏みしめる。ヒートが不意に落ち葉をたっぷりすくってぼくに降りかけた。やったな、とぼくもイチョウをすくう。
ノパ⊿゚)「つかれた!」
さんざん落ち葉をぶつけあって、疲れ果てたぼく達はそのままイチョウのベッドに寝転んだ。
背中に背負うランドセルがクッション代わりになる。ぼくのランドセルは黒で、ヒートは赤だ。
まだ今のようにカラフルなランドセルは一般的でなくて、学年の殆どの学生は黒と赤のどちらかであった。
男子だから黒、女子だから赤。至ってシンプルな選択だ。選択肢はないに等しいが。
ノパ⊿゚)「やっぱ黒のランドセルがよかったな」
ヒートはよくそんな事を言っていた。黒いランドセルの方が格好良いと言うのだ。ヒートが背負うのは他の女子生徒と同様の赤だ。
確かにヒートは男勝りだし、当時から既に男子より強かったけれど、ヒートは女子なのだから赤のランドセルで良いと、ぼくは思った。
しかしヒートは他人から価値観を押し付けられるのを本当に嫌ったし、ぼくもヒートがそう思うのなら否定すべきではないと決めていたのだ。
ノパ⊿゚)「ランドセルこーかんしよ」
('A`)「やだよ、男で赤のランドセルなんてオカマじゃん」
ノパ⊿゚)「うーん、ドクオがオカマか、それはいやだな」
そう言ってヒートはえへへ、と笑う。彼女の笑い方は出会った頃から変わっていなかった。また風が吹く。落ち葉が舞う。黄色で埋め尽くされる。手で払うとそこはぼく達が住む街だった。
ぼくのバイト先であるゲームセンターがあって、ヒート行きつけのバッティングセンターがあって、和モダンテイストの個室居酒屋があって、
要塞みたいな駅があって、チェーン系やローカルな店舗の飲食店があって、鉄筋コンクリートのアパートがあった。
かつてあの街だった場所。かつて東京だった場所。かつて首都だった場所。山手線が円を描く。地下鉄が三分ごとにやってくる。
スクランブル交差点で前後左右から合戦の如く人が飛び出して器用に人の波をすり抜けていく。
高層ビルが競いあうように生える。首都高が浮き沈みを繰り返す。貪欲に地下を掘り海を埋める。
ここはかつて首都東京があった場所だ。全て海に飲み込まれてしまった。何もかもが破壊されて押し流されてしまった。
大量の瓦礫や半壊したビルが残る。色は失われモノクロだった。死滅してしまって人影はない。
ぼくとヒートは二人で歩いていた。また二人。いつも二人。ずっと二人。
-
('A`)「ヒート」
ノパ⊿゚)「なに?」
ヒートは振り返って答えてくれた。成人した女子大生のヒート。幼少時から変わらないのは笑い方と一つに結んだ髪だ。
可愛らしいシュシュで束ねた髪がふんわり揺れる。
('A`)「ヒートは、どうして大人になってしまったの」
ノパ⊿゚)「誕生日がきたから?」
('A`)「そうじゃなくて」
ごめんわざと、とヒートは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
ノパ⊿゚)「きっと私はね、ずっとドクオに甘えてたんだ。 ドクオはずっと隣にいたし、私を肯定してくれた。
何度も喧嘩したけど、私が何かすると、ドクオはすぐ来て私の代わりに謝ってくれた」
ドクオは私にとってかけがえのない、いなくちゃいけない存在だったんだよね。そうヒートは繋ぐ。
ノハ-⊿-)「けれど私達は離ればなれになった」
ヒートは顔を落とす。ぼくも悲しくなる。
ノパ⊿゚)「もう頼れる存在がいなくなって、私はしっかりしなきゃって思った。 もっと女の子らしくしないとって思った。
だから男子と喧嘩しないようにしたし、料理も上手になるよう勉強した」
ヒートの強烈すぎる個性を奪ったのは他でもない彼女本人の意識の変化だった。ぼくという存在を失って、ヒートは成長した。
とても普通の女の子になった。そして普通の女の子らしく普通に恋をして、普通に輝かしい青春を過ごした。喜ばしい事だ。拍手喝采で迎えるべきだ。
ノパ⊿゚)「さみしかった?」
('A`)「寂しかった」
ヒートがいなくなってから長い時間を過ごした。あっという間だった。永久にも似た時間だった。刹那の如く流れた時間だった。
('A`)「今だって寂しい」
ヒートがいなければ寂しい。ヒートがいなければ色はない。ヒートがいなければ何の価値もない。
首都にはもう色がない。極彩色の都市はない。首都高に連なる光の帯はない。カラフルなネオンは光らない。街はモノクロ。
('A`)「ぼくは会いたかった。 ずっと会いたかった」
ノパ⊿゚)「私も、会いたかった」
世界に色が溢れる。着色されていく。瑞々しい色彩が取り戻される。都市が動き出す。高層ビルが再生される。
スクランブル交差点に人が集まる。色とりどりのタクシーが道路脇を固める。
それぞれ与えられた色を身に纏った列車がプラットホームに滑りこむ。信号が青に変わる。
前から後ろから左から右から人が飛び出してくる。スクランブル交差点の中心に立つぼく達目掛けて歩いてくる。
彼らは互いに干渉しないよう器用に身をかわす。誰も関わることなく去っていく。
-
('A`)「これからは、一緒にいよう」
足元が冷たかった。見ればくるぶしまで水に浸かっている。東京はさながらヴェネツィアだった。信号待ちの車も並ぶタクシーも水に浸かっている。
そう、ここはかつて首都だった場所だ。水に飲まれた記憶の大地だ。気がつけばそこは海だった。
崩壊したビルが海面から顔を出していた。アスファルトの地面を失ったぼくは当然その海に叩き込まれる。
また沈んでいく。手を伸ばしても、やはり届かない。ヒートは遠い。遠い何処かに行ってしまう。
また離れてしまう。これからは一緒だと、もう離れまいと決めたのに。離れていく。離れていく。離れていく。
目を開けるとやはりそこは体育館だった。またここだ。目覚めるたびにうんざりする。ここには戻りたくない。
夢でならヒートに会える。向こうの世界にヒートはいる。あちらは幸せだ。こちらは残酷だ。また眠ろうと思う。
またヒートに会いたい。ここを抜け出してあちらに行きたい。夢でならヒートに会えるのだ。
それならばぼくは何度も眠ろう。何度も夢を見よう。何度も会いに行こう。
ヒートに会えるのなら。
ヒートに会えるのなら。
「ママ、おうちに帰りたい」
体育館のどこからか幼子の愚図る声が聞こえる。最近は夜泣きをする子供も増えた。
はじめのうちは元気に遊んでいた子供達も次第に元気を失ってこうして駄々をこねるようになった。
家に帰りたい、ゲームがしたい、アニメが見たい。しかし家は流され電気はもう来ない。
「うるせぇな! 黙らせるかほっぽり出すかどっちかにしろ!」
中年男性の怒鳴り声が響く。幼子は驚いて泣き出した。母親がごめんなさいと小声で繰り返す。
必死に我が子をあやそうとするが一向に泣き止まない。
静かにしないなら殺してしまうぞ、仕事もせず限りある食糧の無駄だ、と別の方向からも罵声が聞こえた。
それからは子供のすすり泣く声と母親が小声で謝り続ける声だけが延々と続いた。
-
個人のストレスはもはや極限状態であった。幼子から老人まではち切れそうだった。
食糧問題は深刻で、ノアの箱舟の船員を減らして凌ごうと極論を唱える者まで現れた。破滅に一歩ずつ近づきつつあった。
ぼくはまた眠る。ヒートに会うために眠る。夢の中でならヒートに会える。
§ § §
店内には様々な音で溢れている。ぼくはゲームセンターにいた。ぼくがバイトとして働いていたところだ。
深夜なのか店内には誰もいなかった。いつもたむろしている中学生も夜遅くには帰される。
それにぼくは私服だったので、どうやら業務中ではないようだった。メダル詰まりを直さなくても良いし、灰皿を掃除しなくても良い。気楽に店内を歩く。
しかしそこにヒートはいなかった。ヒートに会いたかったのに、ヒートに会いに来たのに、ヒートがいない。ぼくは店内を探しまわる。
ヒートもいないし誰もいない。途方に暮れて、立ち尽くす。ヒートはどこにいるのだろう。
そこでクレーンゲームを思い出した。ヒートと再会したきっかけとなったクレーンゲームだ。
彼女はあの筐体から商品をごっそり取ってしまったのだ。随分と昔の事の様に思える。
例のクレーンゲームにたどり着く。中を覗きこんだ。そこにヒートはいた。
プラスチックのケースの向こうに無数のヒートがいた。ぎっしりと詰められていた。ここにいた。
ぼくは嬉しくなる。しかしヒートを取らなければならない。ぼくは財布を取り出して百円玉を投入する。
軽快な音楽と共にクレーンがぼくの使命を受けて動き出す。ヒートを傷つけないよう慎重にアームで掴んで開口部へ持っていく。
('A`)「よしっ!」
成功だ。さっそくヒートを取り出す。しかし手に取ってよく見るとそれはヒートでなかった。
意味が無い。ヒートでなければ意味が無い。
それを捨ててぼくはもう一枚、百円玉を押し込む。
優しくアームを引っ掛けてヒートをぽっかりと口の開かれた開口部へ持っていく。
ガコン、と音がしてヒートが落ちる。今度こそ。ぼくは手に取る。
しかし再びそれはヒートではなかった。醜く崩れてしまっている。ぼくは投げ捨てまた百円玉を入れる。
慎重にヒートを取る。しかしそれはヒートではない。
慎重にヒートを取る。しかしそれはヒートではない。
慎重にヒートを取る。しかしそれはヒートではない。
慎重にヒートを取る。しかしそれはヒートではない。
('A`)「くそっ!」
-
百円玉が切れる。両替機に野口英世をねじ込む。百円玉の団体が滑り台を降りてくる。それを鷲掴みにしてクレーンゲームに走って戻る。
慎重にヒートを取る。しかしそれはヒートではない。
慎重にヒートを取る。しかしそれはヒートではない。
慎重にヒートを取る。しかしそれはヒートではない。
慎重にヒートを取る。しかしそれはヒートではない。
慎重にヒートを取る。しかしそれはヒートではない。
慎重にヒートを取る。しかしそれはヒートではない。
ボタンを叩きつける。プラスチックのケースに殴りつける。ヒートではない。ヒートではない。ヒートではない。
('A`)「なんで! なんで! なんでなんでなんで!」
近くにあったバットを拾う。あの終末の中学生達のものだろうか。それでクレーンゲームを力任せに殴る。
けたたましいブザーが鳴る。筐体が震える。ボンッと中のヒートが爆ぜる。
一つが爆ぜて、誘爆されるように他のヒートも爆発する。プラスチックのケースは血だらけになった。
中にはバラバラになってしまったヒートがいた。
('A`)「なんで…」
ブザーはやまない。それどころか罵声が聞こえる。騒がしい。うるさいんだと叫ぼうとすると身体を揺すられた。
('A`)「えっ」
また体育館だった。夢から戻ってきた。しかしいつもと様子が違った。ぼくを揺り動かしていたのはアサピーさんだった。ひどく焦っている。
(;-@∀@)「あ、起きた!?」
('A`)「何が…」
(;-@∀@)「たった今殺人があったんだよ、大丈夫かい?」
見れば介抱される人が近くに何人かいた。身体のいずれかから出血していた。床に敷かれたマットも鮮血で染まっていた。
体育館はひどく混乱していた。ぼくはアサピーさんに訊ねる。
('A`)「何があったんです」
(;-@∀@)「食糧を節約するには住人を少なくするべきだって言ってたおじいさんがいたでしょ、あの人が本当に何人かを殺し始めたんだ。
調理室にあった包丁を持ちだして、寝ている人を無差別に刺した」
('A`)「そのおじいさんは」
(;-@∀@)「さっき取り押さえられて、外に連れて行かれた」
-
寒い夜なので体育館は締め切られていたが、血生臭い。幼子が泣きながら母親を揺すっている。
母親の方は胸から夥しい量の血を流していて、もう助からないだろう。
母親に泣き縋る幼子はこの前夜泣きをしていた子供だ。刺されたのは必死に子供をあやしていた母親だった。
他にも襲撃にあった人はたくさんいた。十数人はいるだろう。
軽傷のものから既に死んでいる者もいる。一命を取り留めたとしても学校には保健室しかない。
母親を殺された子供が、娘を殺された父親が、妻を殺された夫が泣いていた。泣き叫び床を何度も叩いていた。
地獄絵図だった。無差別に選ばれず助かった者も密室の地獄を見て泣いた。絶望に打ちひしがれた。
体育館の重い扉が開かれる。わずかに月明かりが差し込む。男が何人か入ってくる。
さっき犯人を取り押さえた人達だよ、とアサピーさんが耳打ちした。
( '∀')「ちょ、ちょっと!」
主婦らしき女性が声をかける。
( '∀')「さっきの、あの殺人鬼はどうしたの!?」
(`∠´)「我々で殺しました」
隠すことなく大人達は告げる。冷淡に処刑を告げる。完遂した私刑を告げる。体育館がどよめく。
殺したのか。でもあいつだって殺しただろう。危険だ。仕方ない。でもそれも同じ殺人でしょう。様々な声が飛び交う。
(`∠´)「集団を乱す者は、ああなる」
遂に殺し合いが始まる。ノアの箱舟は戦乱だ。極論を実行した初老の男がイレギュラーで終わるのか、それすら分からない。地獄だ。ここは生ける地獄。
こんな現実は嫌だ。ヒートに会いたい。また寝よう。夢を見よう。ヒートに会おう。夢でヒートに会おう。眠らなければ。夢に行かなければ。向こう側に到達しなければ。
それから数日で深手を負った者が何人か息を引き取った。また崖から飛び降りて死んだ者もいた。あの最後に行き着いた展望台だ。
あそこから飛び降りて死ぬ者が何人もいた。ぼく達は地獄を生きている。
§ § §
ブラウン管のテレビがあった。久しぶりに見た気がする。なんだか実家を思い出してしまう。
今夏にアナログ放送はその歴史に幕を閉じた。テレビでさんざんしょっぱく言われていたのでぼくは早めに液晶テレビを購入していた。
現役時代はなんとも思わなかったが随分と小さいものだ。こんな小さいゲートでぼくは満足していたのだ。
ゲート。テレビとは世界とぼくを繋ぐゲートだ。
今でこそインターネットが普及してぼく達はいつでも情報を得る事が出来るが、少し前まではテレビこそが最大の情報源だった。
新聞など読まない普通の子供だったから尚更だろう。
この慣れ親しんだブラウン管のテレビこそ世界からぼくへ一方通行のゲートだった。
音楽も、アニメも、ドラマも、このブラウン管からだ。いわば世界の入り口がこのブラウン管なのだ。
-
ぼくは十歳だった。十歳。成人の半分。今ぼくは二十歳だからちょうど半分だ。大人への折り返し地点だ。
でも十歳というのはとても中途半端な年齢であったと思う。
子供ではあるが、思春期を迎えつつある。あんなに仲の良かった男女が急によそよそしくなる年頃だ。
二次性徴の始まる者が出て、声変わりしたり生理がきたりする。そんな中途半端な年頃だ。
ブラウン管のテレビは黒煙を吐き出す双頭の高層ビルを映していた。鮮明な映像だったし、鮮烈に記憶に焼き付いている。
そこは遠い海外の国だった。自分とは縁のない遠い世界の話だった。テレビの中の話だった。次元の違う世界だと思っていた。
ぼくはブラウン管のテレビの世界の中にいた。ゲートは一方通行ではなくなった。ぼくはテレビの向こうの世界に対していつも高みの見物だった。
紛争で多くの人が死んでも、大地震で多くの人が巻き込まれても、ぼくにとってはテレビの向こうの話で完結してしまうのだ。
しかしぼくはその場にいた。海外の国だから、知らない言葉が飛び交っている。
英語か、スペイン語か、中国語か、色々あるだろうが日本語しか知らないぼくからすれば外国語の一括りにしかならない。
ぼくの知らない言葉があちこちから聞こえる。それは悲鳴に近いもので、意味は分からずともなんとなくニュアンスは理解出来る。
高層ビルが建ち並ぶ大都市の一角は悲しみに暮れていた。緊急車両のサイレンの音が街を支配していた。
ぼくの周囲から高層ビルがこぞって突き立っているので空は狭い。その中でも一際高い双頭の高層ビルの片割れが燃えていた。
ぽっかりと開いた穴からたっぷりの煙を吐き出していた。あそこに飛行機が突っ込んだのだ。
いくら背の高い高層ビルとはいえ飛行機が突っ込んでしまう様な高さはない。だから飛行機事故だと言われていた。
あんなところにぶつかれば飛行機の乗客はまず助かっていないだろうしビルにいた人も助からないだろう。
空に向かって伸びるビルは本当に背が高い。下から見上げると頂上は恐ろしく遠くに見える。
燃えるビルからは避難の真っ最中だろうがあんなところから降りてくるのにはたいそうな時間がかかりそうだ。
誰かが叫ぶ。空を指さしている。皆がそれにつられて上空を見上げた。轟音がする。似つかわしくないジェット音が響く。飛行機だ。まさか。
不吉な予感は当たる。双頭のビルのもう片方に突っ込む。旋回しながら飛び込んだ飛行機はビルを確実に破壊して大きく炎上した。爆炎が上がる。破片が散らばる。
惨事は繰り返された。見守っていた下界の者達は悲鳴を上げた。泣き叫んだ。姿なき敵を罵った。事故などではないと知った。
これが攻撃だと確信した。敵意なのだと思い知らされた。平和は終わった。
爆炎が膨れ上がって空を灰色に染めてしまう。普段はあんなに頑丈なビルがおもちゃみたいにばらばらと壊れていく。
ぼくはそれを立ち尽くして見ていた。これは、ぼくが終焉世界を強く意識したあの大事件だ。
しかし何かを忘れている。そうだ、ヒートだ。ヒートがいない。夢でなら会えるはずなのに彼女がいない。
どうしてだろう。急におろおろしてぼくは周囲を見渡す。
-
でも大都市の一角には逃げ惑う人々、肩を抱き合って炎上するビルを見るカップル、なんとか報道用カメラに惨状を収めようとするカメラマン、
けたたましいサイレンを鳴らしてすっ飛んでくる緊急車両、それらばかりで見慣れた彼女の姿はなかった。
まさか。ぼくは焦る。まさか。まさか。燃え盛る双頭のビルを見る。
見えるはずもないのにぼくの瞳は高倍率ズームレンズの如く、広角から望遠に切り替わる。オートフォーカスでピントがくっきり合う。
なおも炎上する双子のビルの、遥か上階にヒートはいた。背後には火の手が迫っている。熱いのだろう、ガラスを叩いて助けを求めている。
どうして。なんでそんなところに。
手を伸ばす。届くはずもない。助けは来ない。
何十もの階層で同じ様に助けを求めている。ビルは燃えている。すぐ背後にまで火が近づいている。
絶望し、あるいは火の熱さに耐えかね飛び降りる者が続出する。
まるで人間ミサイルだ。泣きながら、祈りながら、恐怖に怯えながらビルから飛び降りる。重たい頭が下になって地面に落ちる。
人間ミサイルが地上に降り注ぐ。落とした西瓜みたいに爆ぜる。ぱぁんと爆発する。
コンクリートの建物に、アスファルトの道路に、ビルから命からがら逃げ出した生存者に人間ミサイルは降る。
ぱぁん、ぱぁんと爆ぜる。赤が爆ぜる。白人も黒人も赤に爆ぜる。地上に赤を撒き散らす。
やめてくれ。ぼくは叫ぶ。やめてくれ。ぼくは叫ぶ。高倍率ズームレンズがヒートの姿を捉える。
ヒートと外を遮っていた分厚い強化ガラスがいつの間にか割れている。室内に風が吹き込む。一つに結んだ髪がばさばさ揺れる。
もう火の手は今にもヒートを飲み込みそうだった。よほど熱いのかヒートの顎から大量の汗が垂れる。虚ろな目でヒートは進む。
割れたガラスから身を乗り出す。さながら処刑台の様に、端に立った。
ぼくはもう失いたくない。ヒートを失いたくない。これ以上失いたくない。失いたくない。
もう、いいでしょう。そんな顔で、ヒートは世界の終端に立つ。
やめてくれ。声は届かない。手も届かない。何も届かない。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。
('A`)「やめてくれ―――!」
ヒートが飛び立つ。すぐ背後から爆炎が上がり瓦礫と一緒に落ちる。頭が下になって空中を落ちていく。
人間ミサイルとなって地上に降る。重力という世界の法則に従って落下する。
そうしてヒートは爆ぜる。ぱぁんと爆ぜる。赤い花が咲く。
ぱぁん。音だけが耳に残る。ぱぁん。ぱぁん。ぱぁん。
-
( A )「あああああああ!」
世界が反転する。アメリカ合衆国ではなかった。かつて日本だった山奥の小学校の体育館のマットの上だった。現実だった。現実。どちらが現実なのか。
ヒートがいない。現実なのか。ヒートのいない。現実ではない。ヒートはいない。現実などではない。
体育館は血だらけだった。遂にノアの箱舟は殺し合いに到達した。半分以上が死んだ。
一人を殺せば殺された者の関係者が復讐で殺した。
そういった連鎖が続いた結果、壮絶な殺し合いに発展して動ける大人達は死んだ。
アサピーさんも止めに入って殺された。喧嘩の仲裁も出来なかったのに、止めに入って殺されてしまった。
何日か前に目覚めたら隣にアサピーさんの死体が転がっていた。
もう備蓄食料などなかった。とっくに尽きていた。救援は来なかった。国の機能はやはり破綻していた。ノアの箱舟は干からびた。枯れ果てた。
ぼくはよろよろと立ち上がる。開け放たれたままの扉から体育館を出る。外にも死体は転がっていた。終末だった。これが終末。まさしく終末。
ヒートにいる世界に行きたい。あちら側の世界に行きたい。ずっと夢を見ていたい。
ぼくはこんな終末世界を望んでいない。こんな結末を欲してはいない。
現実ではない。こんなのは現実ではない。
たどり着いたのは世界を終末に導いた大津波を見送った展望台だった。夕暮れが見えた。排気ガスの出なくなった冬の夕焼けはとても綺麗だった。
下界は津波こそ引いたが荒れたまま放置されている。眼下には飛び降りた死体が幾つも散らばっている。皆どれも人間ミサイルの残骸だ。
ヒートに会いたい。ぼくの行動欲求は単純だった。これまでもそうだったし、これからもそうだ。ヒートに会いたい。ヒートに会おう。
柵に登る。手を掲げる。こんな世界はいらない。ヒートのいない世界はいらない。朽ちていくだけの世界はいらない。
ヒートのいない世界に別れを告げよう。終末世界にさようなら。ぼくは旅立つ。ヒートの元へ飛び立つ。
ぼくは柵を蹴る。世界を蹴る。人間ミサイルになる。本当だ、頭から落ちていく。これでヒートのいない世界ともお別れだ。終末世界ともお別れだ。終 末 世 界 と
ぼくは目を開く。
体育館ではなかった。
ニューヨーク市ではなかった。
水に浸かるヴェネツィア東京ではなかった。
川沿いの首都高が見える都立高校ではなかった。
煙草とコーヒーのにおいがする小学校の職員室ではなかった。
要塞みたいな駅や大きな国道があるぼく達の住み慣れた街ではなかった。
イチョウがすっかり色づいて黄色に染まる懐かしい幼馴染み時代のあの街ではなかった。
世界は黒一色だった。カラーコード#000000だった。
いや、指定されてすらいないかもしれない。宇宙でもあり無でもあった。黒一色だった。
ヒートの名を呼ぶ。返答はない。ヒートはいない。ヒートがいない。どこにもいない。
ぼくは漂っていた。宇宙プールを流れていた。無を漂流していた。永遠だった。無限だった。
どこまでも黒一色だった。始端も終端も見えなかった。
そうしてぼくは気づくのだった。ここが本当の終末世界なのだと。
-
終末世界にさようならのようです
おわり
-
投下終了です。
読んでいただいた方ありがとうございました。
-
乙!
救いがないな、、。
けどすごく面白かった!
-
終わっちゃったか
-
全く救いがなかったが面白かった
ヒートが居た頃の世界が尚一層鮮やかに見えるな
段々改行も入り読みやすくなっていたし
次にもし何か書くなら楽しみにしてる
-
おつでした
-
アサピー・・・
-
寝起きに読む話ではなかった……胸が重い
乙乙、面白かった
-
1です。ありがとうございます。
>>107
前回投下したのもバッドエンドオチだったので次は普通のにしたいです
>>109
次もこんな感じで投下します
-
前作になに書いたか教えてくり
-
>>114
从 ゚∀从フェルメール・ブルーは優雅に空を舞うようです
創作板にあります
-
あれか……!
最後の1レスに心を握りつぶされたよ
-
>>116
読まれてましたかw
ありがとうございます
■掲示板に戻る■ ■過去ログ倉庫一覧■