したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

新たな苦悩と痛みが、始まる

1名無しのひつじさん:2013/06/22(土) 03:34:03
題: 新たな苦悩と痛みが、始まる。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教徒は、キリスト教の教義通りに、天国に入って赦
されたで『ホッ』とするのだろうが、しかし、
 一人の無垢(むく)の少女に加えられた凌辱(りょうじょく)
の痛みは、たとえ来世において本人自身による赦しが確証され
たとしても、決して抹消され得ない。
 その痛みを抹消できるかのように、
 キリスト教は「赦し」の教義を語る。
 この重い問題を、キリスト教徒は、真に、どう思うのか?
 たとえそれが、キリスト教の神によって語られても、
 少女には深刻な苦悩が残る。
 それを残らないと、少女以外のものが、「その一方的な決定を
押し付けるのか?」。
 少女の苦悩がどれほどか、
 当事者本人の「赦し」の意志の有無を確かめずに、
 キリスト教およびキリスト教徒は、
 「(キリスト教の)神の赦しがあったと、
 赦すという行為を続ける」。
 消えることのない「少女の痛恨の念・苦悩の心」は、
 キリスト教の未熟な思い遣りによって、
 キリスト教の教義によって
 「無視される」。
 キリスト教徒は、
 本当に思いやったと思って
 自己満足に入る。
 新たな苦悩と痛みが、「少女に始まる」。
 (参考)りょう‐じょく【凌辱/陵辱】 [名](スル) 1 相手
を傷つけるような言動をして、恥をかかせること。「武力によ
る―を受ける」 2 暴力で女性を犯すこと。.
(追伸)
 キリスト教の「罪の赦(ゆる)し」の「信仰」が、
非常にしばしば、
問題の『観念的な解消』へと誘うという
「無責任」や「逃避」を許し、
 アヘン的な『 麻薬陶酔的な解決の仕方 』の機能を
 果たして来た。

  .
(追伸)
 キリスト教の「罪の赦(ゆる)し」の「信仰」が、
非常にしばしば、
問題の『観念的な解消』へと誘うという
「無責任」や「逃避」を許し、
 アヘン的な『 麻薬陶酔的な解決の仕方 』の機能を
 果たして来た。
         (詳しくは、以下のブログに)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
URL: http://moppo28.blog.so-net.ne.jp


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板