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サンパウロ市(Cidade de São Paulo)

1shinkai★:2006/12/27(水) 23:22:59 ID:???0
ブラジル南東部、標高約800メートルの高台に位置するサンパウロ州の首府。略称として「SP」や「S.Paulo」と表記される(このうちSPは「サンパウロ州」の略称でもある)

大サンパウロ圏の人口は約1,100万人(2001年)で、世界第5位・南半球最大の都市。ブラジル最大の都市である。イタリア系やユダヤ系、日系ブラジル人が多い他、最近では韓国等のアジア諸国からの移民が増えている。内陸に位置するため、南方60キロの位置に在るサントスを外港とする。

「サンパウロ」は、ポルトガル語でキリスト教における聖人の1人である聖パウロの意味。漢字では、"聖市"と表記される。

[編集] データ

* 創設:1554年1月25日
* 人口:10,900,000人(2001年)
* 市長:José Serra

25日系ブラジリアン:2010/07/05(月) 14:20:52 ID:O/huOFT60
ブラジルサポ、F・メロに抗議 J・セーザルには拍手
http://news.livedoor.com/article/detail/4866431/

2010年07月05日11時16分 / 提供:Gazzetta.it.


南アフリカ・ワールドカップでベスト8敗退に終わったブラジル代表が母国に帰国した。リオ・デ・ジャネイロの空港に到着した選手らチームを待っていたのは、大勢の報道陣と100名ほどのサポーター。緊迫感が増したのは、MFフェリペ・メロが姿を見せたときだ。同選手はその場にいたファンから、長いこと抗議され、侮辱の言葉を浴びせられた。F・メロは一瞬、恐怖を感じているかのようでもあった。

一方、カカーやロビーニョらはサンパウロに到着。警察側が車を用意していたため、選手たちはサポーター(いずれにしても少数ではあったが)ともメディアとも接触せずに去っている。

サポーターから拍手で迎えられたのは、GKジュリオ・セーザルだ。歓待に感激した同選手は、泣きながら「とても感動している。ブラジルのサポーターに感謝するよ。セレソンはせめて、ユニフォームに対して愛があることは示した」と語った。

インテルに所属するDFルシオは、敗退にショックを受けながらも、母国開催となる2014年大会に出場するために、「血を流す」と話している。「6度目のタイトル獲得の夢は続いている」からだそうだ。ブラジリアに到着したルシオは、「負けたときは、何かが望んでいたようにいかなかったからだ。周囲もそれは知っている。僕らはディテールでW杯から敗退することになった」とコメント。家族と数日間過ごしてから、イタリアへ戻るとつけ加えている。

26日系ブラジリアン:2010/07/18(日) 23:52:09 ID:O/huOFT60
海外最大の日系人祭り サンパウロで始まる 2010.7.18 17:44 このニュースのトピックス:米州
http://sankei.jp.msn.com/world/america/100718/amr1007181746004-n1.htm

17日、ブラジル・サンパウロで開かれた「フェスティバル・ド・ジャパン」のミスコンテストで、法被姿でステージに立つ日系人女性たち

 海外最大の日系人の祭りといわれる年1回の日本文化の祭典「フェスティバル・ド・ジャパン(日本祭)」が17日、ブラジル・サンパウロで本格的に始まった。

 今年は平城京への遷都1300年にちなんだ奈良の仏像写真展のほか、ブラジル各州から選ばれた日系人によるミスコンテストなどに数万人が訪れ、18日までの期間中、例年と同じ17万人の来場が見込まれている。

 この日、展示場建物の外側には仏像写真を印刷した巨大な垂れ幕が掲げられ、各都道府県の物産展やイベントが繰り広げられた。100人近い愛好者がラジオ体操を実演すると、ブラジル人も飛び入り参加。学生のラファエル・ファリアスさん(20)は「こんな組織だった体操はこの国にはない。リラックスできてとても面白い」と話した。

 ブラジルには海外最大の日系人社会があり、現在6世を含む推定150万人が暮らしている。(共同)

27テレエッチ:2010/08/04(水) 18:49:28 ID:j2dJnbQg0
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28日系ブラジリアン:2013/08/16(金) 19:08:41 ID:O/huOFT60
黄金のバンタム! エデル・ジョフレとバンタム級黄金時代
http://junichigajiyoukai.blog102.fc2.com/blog-entry-132.html

「あしたのジョー」が映画化されるという。

矢吹丈が「黄金のバンタム」という言葉を数知れず語るのでバンタム級そのものを言われると勘違いされている人も多くいると聞いた。

しかし「黄金のバンタム」とはある一人のボクサーのための言葉である。それは間違いない。

エデル・ジョフレエデル・ザンバノ・ジョフレはお父さんのアリスティディスが元ボクサーで他の家族もほとんど格闘家という大家族に生まれた。

アマチュアでは148勝2敗 メルボルン・オリンピックでベスト8に終わった後に21歳で10回戦でいきなりプロデビュー

レオ・エスピノサやダニー・キッドといった世界的強豪やアマで2敗したチリの選手にも雪辱して30戦目で南米タイトルを獲得。

そして32勝(19KO)3分け無敗で運命の対戦を迎える。

1960年8月18日 場所はロサンゼルス NBA世界バンタム級挑戦者決定戦 相手はジョー・メデル
メデルは17才でプロデビュー。ジョフレ戦の1年前にメキシコ・タイトルを獲得

このとき21歳ながらすでに54戦していた。

試合はメデルの積極的な攻撃から始まる。

日本では「ロープ際の魔術師」としてカウンターの名手として知られたメデルだがこの試合は非常にアグレッシブだった。

ジョフレというボクサーは78試合で50KOあるがそのうち1ラウンドKOはわずかに1試合のみ。
速攻型ではないがフォロースルーの効かせたパンチを繰り出していく。

最初のヤマは5ラウンドに来た。
メデルが優位に立ちながらジョフレが重い左フックからボディの連打で形勢を逆転してメデルをダウン寸前に追い込む。
その後は一進一退から9ラウンド

このラウンドも最初はメデル優勢だったがラウンド終了寸前に右ガードを落としたまま左フックを打ったメデルにジョフレのカウンターの左フックがもろにヒット!

メデルが大きくぐらつく。ここでゴングが鳴る。

そして10ラウンド
ダメージの残るメデルを確実に弱らせたジョフレは今度は狙い撃ちの右ストレートでメデルからダウンを奪う。またもやここでゴングが鳴る。

当時のルールではダウンした選手はゴングに救われたがもはや自力では立ち上がれないほどダメージを受けたメデルは棄権せざるえなかった。

そして王者ホセ・べセラが日本の米倉健志に大苦戦の判定勝ち(後日、試合を見たメキシコの人もべセラの負けだと思った)のあとにノンタイトル戦でエロイ・サンチェスにKO負けして引退。

ジョフレとエロイ・サンチェスで行われた王座決定戦はジョフレが6ラウンドKO勝ちしてNBA王者(現在のWBA)となる。
ジョフレはピエル・ロロ(ヨーロッパ認定)を初防衛戦で10ラウンドTKOして統一チャンピオンになる。

ジョフレ時代の到来である

29日系ブラジリアン:2013/08/16(金) 19:10:44 ID:O/huOFT60
メデルとは5度目の防衛戦でジョフレの地元サンパウロで再戦する。
この試合はジョフレがメデルを圧倒する。
5ラウンドに左フックでなぎ倒して6ラウンドは右ストレートでKO勝利する。

その後は日本にも来日して青木勝利と対戦する。

青木勝利
ファイティング原田、海老原博幸とならんで「三羽鳥」と称された。素質では青木が一番だったという。1965年の東日本新人王戦は史上空前のレベルだった。
青木は準々決勝で斉藤清作に引き分け。ポイントで斉藤が勝者扱い。
準決勝は同門の原田政彦(のちのファイティング原田)と斉藤が対戦するはずだった。しかしジムの説得で斉藤は準決勝は棄権する。
この斉藤清作は後に日本チャンピオンになり引退後はコメディアンになった。たこ八郎である。斉藤の無念はいかばかりだったか。斉藤は自伝で当時の無念さを語っている。「政ちゃんと戦いたかった」

そして決勝は原田対海老原
後の世界チャンピオン同士の対戦は原田が2度のダウンを取り判定勝ち。ちなみに海老原選手がダウンしたのは選手生活でこの原田戦のみである。

海老原と青木は1961年4月にフライ級6回戦で対戦
6回戦といっても海老原は11勝1敗 青木は16勝1分け いまなら考えられない。
試合は海老原が2ラウンドにカミソリ・パンチで青木をKOした。

この試合のあと青木はバンタム級に転向して快進撃する。当時の日本記録である7試合連続KO。
1962年には19歳で日本最高のテクニシャンであった米倉健志から強烈なダウンを奪い東洋チャンピオンになる。
米倉はこの試合で引退する。

青木は海老原戦後は20連勝(14KO)してエデル・ジョフレの世界タイトルに挑戦する。
1963年4月4日 蔵前国技館
1,2ラウンドは青木のパンチが当たりポイントを奪った。
しかし
3ラウンド
ジョフレの強烈なパンチで青木は防戦一方になる。そして最後は左のボディブローを青木のレバーに叩き込む。
青木は何とか立ちあががったがジョフレはまたも左のボディブロー!
青木はリング上でのたうちながら悶絶してテンカウントを聞いた。あまりの恐ろしいパンチに場内は静まりかえった。そしてジョフレは8連続KO防衛していた。チャンピオンになってから5年間はノンタイトルも合わせると17連続KO勝利
50戦47勝(37KO)3分け無敗。まさに「ミスター・パーフェクト」「黄金のバンタム」当時のパウンド・フォー・パウンドのナンバー1をほしいままにしていた。
現在でも世界の多くの専門家は「バンタム級史上最強のボクサー」と評価する。そしてジョフレは再度、日本に9度目の防衛戦で来日する。
当時の世界1位はファイティング原田

30日系ブラジリアン:2013/08/16(金) 19:11:23 ID:O/huOFT60
1965年4月、ジョフレは家族を伴って来日した。ジョフレのピー・カー・ブースタイルの鉄壁のガードは歴戦の戦いの中でも顔面は無傷のままだった。

来日した羽田空港での記者会見は「子供が風邪を引いては困るから」という理由で中止になった。記者たちはジョフレ一家がまるで家族旅行に来たかのような印象を受けた。
記者の予想は8−2でジョフレ有利。それさえも原田にとっては甘い数字だった。ボクシング関係者で原田に勝機があると考えたのは一人もいなかった。

1年前には原田をKOしたメデルを2度までもリングに沈めているのだ。原田は世界バンタム級1位にランクされているがジョフレの前ではランキングは関係なかった。

原田は史上最強と呼ばれたボクサーとの対戦にそなえて「人間の限界を超える」トレーニングを行った。
一方ジョフレは軽い練習でそれも家族団欒を絵に描いたような練習だったという。

1965年5月18日 愛知県体育館 ジョフレ29才  原田22才
この試合のビデオは見た。1ラウンドから原田が積極的に出る。ジョフレは1ラウンドはいつも様子見だ。ラウンド終了のゴングが鳴ると原田の頭を「なかなか、やるな」というかのように撫でる。

2,3ラウンドはややジョフレのペース
そして4ラウンド
1分20秒過ぎに大きなドラマが起きる!原田の右アッパーがジョフレの顎を打ち抜く!この一撃でジョフレはロープまで吹っ飛んだ。原田はジョフレを滅多打ちにする。
原田のラッシュは凄まじい。いまなら間違いなくダウンは取られているだろう。クリンチの後にまたも原田の右アッパーが当たる。原田は再びラッシュ!ノックアウトは時間の問題と思われたが惜しくのゴングが鳴る。

会場は興奮のるつぼと化した。

5ラウンドも原田が出る。場内は大歓声!
しかし
今度はジョフレの左アッパーが原田の顎を捕らえた。そして強烈な右フック!原田が大きくぐらつく。
ジョフレはさらに左フックを2発。よく原田は倒れなかったと思う。

原田は完全にグロッキーでコーナーを間違えた。
しかしジョフレは6ラウンドなぜか出ない。
そして一進一退の攻防

そして10ラウンド
原田がアウトボクシングする。この原田をジョフレが追いきれない。このとき解説の矢尾板貞夫氏はジョフレの足が衰えているのを見て取ったという。

4年前、矢尾板はジョフレとサンパウロで対戦して10回にKOされている。
当時、世界屈指のスピード・ボクサーの矢尾板をジョフレは鋭いフットワークでコーナーに追い込み倒した。原田はジョフレに左右の連打でポイントを取る。

攻防は最終ラウンドでも終わらず判定へ。
レフリーのバーニー・ロスは原田を指差した。

奇跡が起こった!我らがヒーローが世界最強のチャンピオンに勝利した。

いまもって日本ボクシング界最高の勝利はこの原田がジョフレに勝った試合だと思う。

いまの採点ならもっと明確に原田の勝ちだと思う。
原田は優れたジャバーでフットワーカーだと思った。いまのリズム・ボクシングだ。そのリズムにジョフレはついていけなかった。
自分は原田選手は戦いの中でジョフレの弱点を見つけたと思う。非常にクレバーだ。場内は大歓声に包まれた。
しかし次の瞬間に観衆はさらに感動的なシーンを目にした。

なんとジョフレが満面の笑みを称え原田を抱きかかえた。
原田選手は
「本当にジョフレというチャンピオンは凄いと思った。負けた瞬間、悔しさを見せずに笑顔で自分を抱えて祝福するなんて、出来ることじゃないよ。
しかもジョフレは初めて負けたんだよ。タイトルまで失って。悔しくないはずないじゃないか。それなのに。

ああいう男こそ、男の中の男というだろうな。本当のチャンピオンだよ。」

2日後の朝日新聞の「天声人語」でもジョフレの行動は賞賛された。原田がジョフレに勝ったニュースは世界のボクシング関係者を驚かせた。あれから40年以上たち原田がいまでも海外のボクシング専門誌のバンタム級オールタイム・ランキングで必ずベスト10に入るのはジョフレの不敗神話を崩したからだ。

リング上では原田を祝福したジョフレだが控え室ではガックリと肩を落とした。「タイトルを失うことは銅貨一枚を失うこととは違う」

この原田VSジョフレはテレビの視聴率54.9パーセントだった。1965年のテレビ普及率はほぼ100パーセント

31日系ブラジリアン:2013/08/16(金) 19:12:14 ID:O/huOFT60
1966年5月
ジョフレはリターン・マッチで来日する。
必勝を期したジョフレだったが判定は3−0で原田。30歳という年齢が大きくこたえた。リングサイドで観戦した矢尾板貞夫は「ジョフレは老いた」とはっきり感じたという。

この試合の視聴率は63.7パーセント
この数字はテレビ歴代5位の数字だという。

ジョフレは帰国後に引退する。引退後、ジョフレはサンパウロの市議会議員になる。しかしそんな恵まれた生活にもかかわらず引退から3年後

再びジョフレはリングに上がる。周りは猛反対したという。

年齢は33才。階級はフェザー級に上げた。誰が考えても無謀な挑戦だ。
しかし
ジョフレは快進撃する!
14連勝のあと1973年5月 サンパウロ
WBC世界フェザー級チャンピオンのホセ・レグラに挑戦する。

このレグラはキューバ出身の黒人ボクサーで148戦134勝という強豪だった。

ジョフレは3ラウンドにあわやダウンという危機に見舞われたが猛然と打ち返して2-0の判定で2階級制覇する。

初防衛戦は1973年10月21日 ブラジル・サルバドール
相手はメキシコの赤い鷹 ビセンテ・サルディバル  歴代フェザー級ナンバーワンに推す人もいる名王者だった。

彼も一度引退後に再起していきなりジョフレのタイトルに挑戦した。

ジョフレ37歳  サルディバル30歳

ジョフレは4ラウンド右ボディブローから怒涛の連打でサルディバルをKOした。
サルディバルは引退した。
しかし翌年WBCはジョフレが期限内に防衛戦を行わなかったとしてタイトルを剥奪した。

そこでジョフレは2度目の引退をしたが一度の調整試合を含めて2年後に再び本格的にカムバックした。

また快進撃して7連勝
フェザー級の世界ランカーであるオクタビオ・ゴメスを破り世界タイトル挑戦目前まできた。

ジョフレは時に40歳

ところが幼い頃からジョフレを支えた父アリスチディスが亡くなった。

今度は本当にグローブを壁につるして再びリングに戻ることはなかった。

78戦 72勝(50KO)2敗4分け

32日系ブラジリアン:2013/08/16(金) 19:12:48 ID:O/huOFT60
負けはファイティング原田との2試合だけもしジョー・メデルがジョフレというボクサーと同じ時代に全盛期でなければ間違いなく世界チャンピオンになったといわれている。
ジョフレも「生涯に戦った相手で一番強かったのはメデルだ」と言っている。メデルは「無冠の帝王」「ロープ際の魔術師」といわれた。

メデルほど日本人に愛された外国人ボクサーはいないという。
「あしたのジョー」にもメデルの影が色濃くあると感じる。モデルかどうかはわからないが原作者にとって思いいれがあるボクサーなのは間違いない。

漫画の中には「無冠の帝王」と称されるボクサーが出てくるし。ジョー・メデルのメキシコでの本名はホセというらしい。
ホセ・メンドーサという世界チャンピオンはメキシコ人だった。

矢吹丈の「ジョー」はどっから取ったのだろう・・

矢吹丈の伝家の宝刀であるクロス・カウンターはメデルの得意技だった。

そもそも矢吹丈自身が「ミスター・パーフェクト」と呼ばれていたボクサーに最後は敗れている。

メデルの最後の試合は最後の世界戦から9年後

36歳だった。当時売り出し中のKO仕掛け人と呼ばれたボクサーのTKOで敗れた。

メデルはその場で引退を発表、後楽園ホールは彼のために惜別のテン・カウントを鳴らした。

引退するボクサーにテン・カウントを鳴らすのはボクシング界の慣わしだが外国人ボクサーに鳴らしたのは聞いたことない。
それほどメデルは日本人に愛されたのだろう。
異国のリングの上でかっての「無冠の帝王」は静かにリングを去り観客は惜しみない拍手を送ったという。原田が引退してから10年以上したあるとき、ブラジルのジョフレから遊びに来ないかという手紙が舞い込んだ。

全部旅費その他はジョフレが持つという。

手紙には現役時代を思い返す意味でエキジビション・マッチをやろうと書かれていた。

原田は喜んでブラジルに行くことにした。ところがジョフレの本当の目的はエキジビションといいながら原田をKOするために、そのため毎日トレーニングしてるという。

それを知った原田は慌てて申し出を断ったいう。

たぶんジョフレはマジだった思う。すこし前にジェフ・フェネックというオーストラリアの3階級チャンピオンがこれもアフリカの英雄でアズマー・ネルソンという選手と10年以上して再戦した。

これ真剣勝負で公式試合だった。フェネックは44歳でネルソンは確か49歳ぐらいだったと思う。

両者は2度対戦して初戦はフェネックは完全に勝った試合を引き分けにされ地元オーストラリアでの再戦は痛烈なKO負けだった。

フェネックもネルソンも引退して10年以上経ってたのに。

よほどフェネックはネルソンに負けたことが悔しかったに違いない。3度目の対戦はフェネックの判定勝ちだった。
地元判定だったのが笑える。

よほどジョフレも悔しかったのだろう。

もちろんジョフレも原田に対する憎しみはない1989年に原田がブラジルに行った時再会した。

しかしジョフレの負けん気の強さは尋常ではない。だから強かったのか!

引退して何年も経ち実業家として成功してサンパウロの市議会議員をしていたのに。

エキジビションであっても原田に雪辱したいというのだから。

「黄金のバンタム」とはジョフレのための言葉である。


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