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大阪の歴史、伝統文化に関するスレ
1
:
堺・秋桜
:2008/02/02(土) 19:23:52
大阪の歴史、伝統文化に関するスレッドを建てました。
皆様大いに参加してください。
2
:
堺・秋桜
:2008/02/02(土) 19:28:35
大阪の歴史自体は京都、奈良と比べても劣らない物があると思いますが
どうも全国的にはそのイメージが2都市に比べ弱いようです。
大阪の歴史、伝統文化についてもアピールというか、イメージを強めていきたいと思います。
日本史、大阪史に強い人の書き込みお待ちしております
3
:
堺・秋桜
:2008/02/02(土) 19:33:08
元々大阪は古代より
京都、奈良、東国、西国への交通の要所として『船着場』から発展した町です。
秀吉が大阪を大都市に発展させた重要なファクターであるのは間違いありませんが、
勿論それ以前より『港町』としての機能を果たしていたのも間違いではありません。
4
:
堺・秋桜
:2008/02/02(土) 19:50:05
大阪発、もしくは大阪で発展した日本文化。
「文楽(人形浄瑠璃)」、「上方歌舞伎」、「上方落語」などの上方文化。
食文化でも「割烹料亭」、「きつねうどん」などたくさんあると思います。
堂島での米取引は世界初の「先物取引」でした。
5
:
名無しさん
:2008/02/03(日) 00:42:03
>>3
その書き方じゃ、京都や奈良のおかげみたいだ。
難波宮・難波京については?
6
:
名無しさん
:2008/02/03(日) 05:33:47
211年大阪住吉大社
248邪馬台国の卑弥呼
645年難波宮
710年奈良
794年京都
7
:
名無しさん
:2008/02/04(月) 18:27:05
593年聖徳太子の四天王寺、日本仏教最初の寺
8
:
名無しさん
:2008/02/04(月) 18:30:01
<BOOKクリップ>大大阪イメージ(橋爪節也編著)
2008/01/29配信
大阪は大正末から昭和初期に、大(だい)大阪と呼ばれ、モダンな文化が花開いた。美術や文学、近代史などの研究者13人が、当時の文化状況を豊富な史料からあぶり出している。
美術では、画家の小出楢重らが近代都市の美を追求する一方、生田花朝らは伝統に回帰するなど2つの流れがあったと指摘。文学では作家の織田作之助らに光を当て、音楽では軍楽隊に端を発する洋楽史を詳しくたどる。往時の旺盛な創造精神を、再び取り戻そうという筆者らの熱い思いが伝わってくる。(創元社、 2400円=税抜き)
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news002295.html
9
:
名無しさん
:2008/02/04(月) 20:20:31
百舌鳥古墳群と古市古墳群にある巨大前方後円墳は
古代の河内地域に巨大な王権があった証です。
この二つの古墳群は世界遺産にふさわしいと思います。
是非登録されてほしいですね。
ただ、今の状態だと周りに住宅やら雑居ビルが乱立しており
環境があまりいい状態とは言えません。
世界遺産はバッファゾーン(緩衝地帯)と言う遺産周辺地域の設定が必要です。
大阪府、堺市、羽曳野市、藤井寺市にはこの辺の整備を急いでほしいと思います。
10
:
名無しさん
:2008/02/04(月) 20:29:16
>>5
難波京は古代日本の首都として価値は大きいです。
ただ存在した期間が短いので、今の大阪に直接繋がりがあるのは
港湾都市としての大阪の方が強い気がします。
難波京についてはもっと研究して詳しい解明がなされて欲しいですね。
11
:
無職ひきこもりさん
:2008/02/25(月) 17:26:03
正直、古墳は訴求力ないと思う。
12
:
名無しさん
:2008/02/28(木) 13:06:32
高句麗古墳群といった世界遺産が既に北朝鮮で登録されています。
特に仁徳陵の墓としての大きさは世界的にも珍しいものですし、
両古墳群の規模も相当なものなので、価値はありますよ。
今、日本中で世界遺産に立候補する自治体が多数乱立してますが、かなり小粒な物件が多いですし・・・。
13
:
名無しさん
:2008/03/19(水) 16:20:34
ミヤネ屋で国宝が都道府県でどこに多いかとやっていて
ゲストが東京、奈良、京都と予想して答えていたが
実際1〜5位までの答えを出すと1京都2東京3奈良4大阪5滋賀
となるのだが、大阪について司会者である宮根が意外だ、何があるのかと言っていた
自分にはその認識の方が意外だった
大阪が歴史豊かな文化都市としていかに認識されていないか、ということかと思う
14
:
名無しさん
:2008/03/19(水) 23:06:16
宮根は島根人なんで、大阪の事を知らないのもわからないではないが
関大に入学してから25年大阪に住んでしかもアナウンサーとして
地元の事を全く勉強してないのは何をしていたの?と非常に腹立たしい。
それでいてパッチモンの大阪弁を芸人でもないフリーとはいえ
アナウンサーが乱用し、吉本芸人のような大阪自虐タレント化してるのは
嫌がらせの何者でもない。梅淳とともに消えて欲しい。
15
:
名無しさん
:2008/03/19(水) 23:14:19
宮根は司会やる割にどの分野についても悲しいぐらいに知識がない。
その癖に上から目線なので余計話にならないと思います。
たかじんの方が全然、芸能も国際情勢についても良く勉強してますよ。
私も同じ母校ですが恥ずかしい限りです。
こいつはたぶん人形浄瑠璃すら知らないと思われます・・・。
16
:
名無しさん
:2008/03/19(水) 23:16:12
ちなみに国宝、重要文化財について
●国宝指定件数
順 位 美術工芸品 建造物 計
1 京都府 206 48 254
2 東京都 231 1 232
3 奈良県 143 62 205
4 大阪府 55 5 60
5 滋賀県 33 22 55
6 和歌山県 28 7 35
7 兵庫県 9 11 20
8 神奈川県 18 1 19
9 広島県 12 7 19
10 栃木県 10 6 16
17
:
名無しさん
:2008/03/19(水) 23:17:41
●重要文化財指定件数
順 位 美術工芸品 建造物 計
1 東京都 2,164 56 2,220
2 京都府 1,894 280 2,174
3 奈良県 1,114 261 1,375
4 滋賀県 622 178 800
5 大阪府 611 93 704
6 兵庫県 374 100 474
7 和歌山県 306 76 382
8 神奈川県 285 49 334
9 愛知県 239 75 314
10 静岡県 183 28 211
国宝・重文ともに、東京の数は博物館や美術館に他より委託、貸し出し
の物も含むので、また宮内庁保管。実際に東京の国宝や重文はもっと少ない。
18
:
名無しさん
:2008/03/20(木) 00:01:28
ソース
ttp://www.kippo.or.jp/place/data0506/data11.htm
19
:
名無しさん
:2008/03/20(木) 01:26:54
大阪は空襲で歴史的な建造物や資料は焼けたからな。
20
:
名無しさん
:2008/03/20(木) 08:26:58
いや、それは東京も同じですよ
京都も幾多の戦火にあってますよ
空襲だけとは言えないのでは?
21
:
名無しさん
:2008/03/20(木) 10:37:26
>>20
そうですね。
京都、奈良は空襲がなかったので古いものが残っていて
当然。それにもまして大空襲で焼け野原になった東京が多いということは...
ある時は国家権力で、ある時は金にものをいわして
いかに東京にかき集めたというのがよくわかりますね。
22
:
名無しさん
:2008/03/20(木) 14:54:46
ちょっとスレ違いかも知れませんが、先程まで「エドロジー」とかいう番組を日本テレビでやってました。
江戸時代の庶民の暮らしを紹介する番組ですが、」「江戸は」「江戸は」としきりに言ってました。
果ては、ハリスなどの外人の言葉を引用し、「江戸は最高」だと。
で、日本テレビがローカル番組として放送しているのかと思ったら、YTV製作でした。
思わずずっこけました。
室町は、とか、大坂は、という話ができなかったんでしょうか?
23
:
名無しさん
:2008/03/20(木) 17:40:28
ミヤネ屋でも、都道府県別の国宝の数10位まで出して7位までに
近畿の2府4県が占めてることをアピールするくらいの事はして欲しいと思った
せっかくの大阪製作なんだから。
でも実際にやってることは、東京ネットしてないうちから
東京の観光スポットやら東大合格者ドキュメントやら・・・なんのこっちゃ
24
:
名無しさん
:2008/03/20(木) 19:31:31
よく京都は日本文化の集積地だから大規模空襲を受けなかったと言われていますが、これは間違いです。
アメリカは原爆投下の候補地として京都も上位に挙げていました
原爆の効果をみるには通常の空爆で町が破壊されていては効果を確かめられない。
だから原爆投下の候補地に挙げられた町は通常の大規模空襲は受けていない。
京都は日本文化の集積地だから空襲を受けなかったのではなく、原爆の投下前に戦争が終わったという偶然の産物に過ぎないのです
25
:
名無しさん
:2008/03/20(木) 23:21:31
>>23
宮根は東京崇拝者だから。近畿の歴史も勉強したこともなさそうだし。
大阪や近畿にプラスな事は死んでも言うかって奴ですよ。
>>24
とにかく空襲は受けてないのは間違いないところです。
26
:
名無しさん
:2008/03/21(金) 00:14:41
『日本文化が集積する京都を破壊してしまうと、戦後日本人の反感を抑えられなくなる』
と判断したから、アメリカは京都に原爆を落とせなかったんじゃないでしょうか。
27
:
名無しさん
:2008/03/21(金) 00:18:38
大阪の歴史、伝統文化に関するスレ ですので
京都の話はこの辺にしときましょう。
28
:
名無しさん
:2008/03/21(金) 07:59:29
>25
27氏には悪いけど
>とにかく空襲は受けてないのは間違いないところです。
大規模じゃないけど受けてる。西陣や馬町(七条?)あたり。
西陣での空襲では250kg爆弾がB29から7発投下され50名が亡くなってる。
>26
アメリカがそんなことを考えるはずもないよ。富士山を赤ペンキで染めて
日本人の戦意を喪失しようという作戦すら考えてたんだから。
(ペンキ総量を考えて止めたらしいけど)
29
:
名無しさん
:2008/03/21(金) 09:33:19
東京なんか歴史なんか無い
あんな癌細胞はもう一回大空襲食らえばいい
30
:
よっさん
:2008/03/21(金) 09:56:41
29の名無しさん、それは言い過ぎですよ。
しかし戦争に於ける空襲被害についての報道について言いたい事は私にもあります。
大東亜戦争に於ける日本への空襲については広島と長崎への原爆投下が惨劇として日本全国へ世界へも向けて報道されています。
これは理解出来る。人類史上最悪の大虐殺。白人による黄色人種への差別意識剥き出しの大虐殺。アメリカのアメリカによるアメリカの為の原爆投下。
しかし通常爆弾による空襲となると3月10日の東京大空襲がテレビでは全面的に取り上げられ、テレビを見ていると日本に於ける空襲による大被害は東京しか受けていないかのように見えてしまう。
大阪も大空襲を受けている。福岡も名古屋も千葉も新潟も宇都宮も静岡も仙台も空襲を受けている。
室蘭や日立などは艦砲射撃まで受けている。
確かに東京大空襲では約10万人が亡くなっている。しかし大阪では約1万人が亡くなっている。
大阪は東京の十分の一しか亡くなっている人がいないからテレビでは取り上げる価値が無い?
他の空襲では死者の数が千人単位、百人単位しかないから取り上げる価値は無い?
空襲で死ぬ事の苦しみ、肉親を亡くす悲しみには土地による差などないのに。
私は、ここにも東京メディアによる報道の弊害・東京キー局制度の弊害を見るのです。
東京が全て、戦争の悲しみも東京が全て、悲しみを伝えるのも東京の価値でしかない。
これが偏りでないというのならば、何が偏りなのだろう。
31
:
名無しさん
:2008/03/21(金) 15:42:53
>>26
私もそれ聞いたことありましたが実際は、碁盤目状で原爆の実験として適していたから
空襲を受けず常に原爆投下の最有力候補地だったそうです。「京都 原爆」でググったら本の紹介がでてきます。
32
:
名無しさん
:2008/03/21(金) 20:13:26
かんさい特集 「なにわの筋と通り」
御堂筋・道頓堀▽歴史と文化と味の旅
3月21日(金) 20:00〜20:45
NHK総合
この番組見てるけどいいわ
33
:
名無しさん
:2008/03/21(金) 20:49:55
>>32
私も見てましたよ。
面白かったです。大阪はやはり歴史の街です。
番組で出てきた重要文化財の綿業会館は父が良く仕事で使ってたそうで、興味深そうでした。
34
:
名無しさん
:2008/04/05(土) 18:00:01
安土桃山時代が、安土大坂時代に変えられる日はくるのでしょうか。
35
:
名無しさん
:2008/04/05(土) 18:06:53
大坂本願寺が石山本願寺から改められている事を見れば、
希望はあるかと思います。
地道に使っても行きましょう。
36
:
名無しさん
:2008/04/05(土) 18:12:19
・「石山」本願寺は後の創作
蓮如が作った御坊を、僕らの世代は確か「石山本願寺」と習った。
が、当時の史料には「大坂御坊」「大坂本願寺」以外の記述はない。
一説には「はしため」の出であるため6歳の時に蓮如のもとから去った母親が、実は石山寺の如意輪観音の化身だったとする伝承などがもとになり、後世に「石山」という呼び名が創作されたということらしい。
http://www.rekishikaido.gr.jp/time-trip/news/html4/20051020205345.html
37
:
名無しさん
:2008/04/05(土) 18:26:50
>>35
改められているのは一部だと思います。
教科書では大坂本願寺になっているのでしょうか?
38
:
名無しさん
:2008/04/05(土) 18:33:46
大阪が一度も政治の中心になったことがないと思っている人は多いですよ。
安土大坂時代に改称することは大阪にとって非常に意義のあることだと思います。
天下統一を完成させた中心の街なのに。
39
:
たとえば
:2008/04/05(土) 19:12:35
飛鳥時代以前は巨大古墳や池上の弥生遺跡はすごい価値を持つ。にも関わらずそれを展示する博物館が河内飛鳥ひとつでいいなど、自分たちの歴史はたいしたことないと自虐しているようなもの。
世界遺産に古市:百舌鳥古墳群を登録する動きにも水を差す。撤回を
40
:
名無しさん
:2008/04/05(土) 19:15:59
少なくとも歴史博物館や大坂城内の記載は改められていました。
(両方記載、石山を()で閉じています)
41
:
名無しさん
:2008/04/05(土) 19:21:07
NHKのそのとき歴史は動いた、でも大坂本願寺でした。
42
:
名無しさん
:2008/04/05(土) 20:02:57
「そのとき歴史は動いた」は歴史博物館の人が監修をしていたと思います。
まだまだ「大坂本願寺」は劣勢だと思いますよ。
教科書に記述されるぐらいまでならないと。
43
:
名無しさん
:2008/04/05(土) 20:07:34
逆に石山本願寺を教科書が採用した
歴史的根拠はなんでしょう。
44
:
名無しさん
:2008/04/05(土) 21:40:01
住大夫さん、知事と懇談…文楽盛り上げおたの申します
大阪・日本橋の国立文楽劇場4月公演が5日から始まるのを前に、人間国宝の文楽太夫、
竹本住大夫さんが4日、橋下徹知事に「文楽は大阪生まれの芸術。地元として盛り上げてほしい」と支援を求めた。
橋下知事は、上方演芸資料館(ワッハ上方、大阪市中央区)など文化施設の見直しを進めているが、
この日は「大阪が世界に誇れる伝統芸能をしっかり発信していく」と意気投合した。
府庁で橋下知事と懇談した竹本さんは、最近の大阪公演で空席が目立つことを紹介、
「私の時代に文楽公演がなくなると過去の先輩方に申し訳ない。援助をお願いしたい」と要望。
橋下知事は「本場なのに盛り上げ切れていないのは行政の責任でもある」とした。
橋下知事が「敷居が高すぎて」と鑑賞経験がないことを打ち明けると、竹本さんは
「敷居を削っておくので、見に来て」と返す場面もあった。
府は財団法人「文楽協会」に対し、2007年度は3600万円を助成しているが、
7月までの暫定予算を組んだ08年度は850万円にとどまっている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/tokusyu/h_osaka/ho80405c.htm?from=iphoto
ワッハ上方の支援や吉本のお笑いより、このような本当の上方芸能をもっと
大阪は盛り上げていくべきと思いますね。
45
:
名無しさん
:2008/04/05(土) 22:11:07
大阪(上方)の文化
・文楽
・上方歌舞伎
・千利休「わび茶」
・大坂の文化
・上方落語
・上方漫才
・オーケストラ
-大阪シンフォニカー交響楽団(堺市)
-大阪センチュリー交響楽団(豊中市)
-大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪市)
-関西フィルハーモニー管弦楽団(大阪市)
演劇、芝居、音楽など多岐にわたった文化の大阪。
その中のカテゴリーの一つが漫才であるだけで
「お笑いの町」ではない。ましてや今のコントやお笑いタレントは
大阪の文化ではなく東京の文化で生まれでてきたものであろう。
46
:
名無しさん
:2008/04/05(土) 22:12:23
45です。一部、訂正(削除)します。すいません。
大阪(上方)の文化
・文楽
・上方歌舞伎
・千利休「わび茶」
・上方落語
・上方漫才
・オーケストラ
-大阪シンフォニカー交響楽団(堺市)
-大阪センチュリー交響楽団(豊中市)
-大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪市)
-関西フィルハーモニー管弦楽団(大阪市)
演劇、芝居、音楽など多岐にわたった文化の大阪。
その中のカテゴリーの一つが漫才であるだけで
「お笑いの町」ではない。ましてや今のコントやお笑いタレントは
大阪の文化ではなく東京の文化で生まれでてきたものであろう
47
:
名無しさん
:2008/04/05(土) 22:35:32
大阪のあゆみ
西暦 できごと
前25000年ごろ 国府型ナイフ形石器の使用がみられる
前4500年ごろ 現在の河内平野、内湾となる
前3世紀ごろ 西方から稲作文化がもたらされ、農耕文化が水辺低地に出現
前2世紀ごろ 銅鐸など青銅が使用される
前1世紀ごろ 池上曽根に巨大な掘立柱建物が築造される
4世紀中ごろ 淀川・大和川水系の丘陵上に古墳が築かれる
5世紀前半 古市・百舌鳥の二大古墳群の造営がはじまる
仁徳天皇陵が築造される
593年 聖徳太子が、四天王寺建立
645年 孝徳天皇、都を難波長柄豊碕宮に移す
683年 天武天皇、複都の詔により難波宮は陪都となる
726年 聖武天皇、難波宮再建に着手
754年 唐僧鑑真、難波に至る
1332年 楠木正成が千早城で鎌倉幕府軍に対し奮闘
1496年 蓮如が石山御坊創建、1532年大坂本願寺となる
1585年 豊臣秀吉が大坂城築城。秀吉、関白に
1615年 大坂夏の陣。豊臣氏ほろぶ
1629年 徳川幕府が大坂城修築完成
1700年ごろ 「天下の台所」として栄える
1704年 大和川付替工事完了
1724年 町人の学問所・懐徳堂が開かれる
48
:
名無しさん
:2008/04/05(土) 22:36:09
1805年 植村文楽軒が人形浄瑠璃興行を開始
1830年 山片蟠桃、『夢ノ代』完成
1837年 大塩平八郎の乱
1838年 緒方洪庵が適塾を開く
1868年 明治維新、太政官布告により大阪府が設置される
1871年 泉布観が建立
1874年 大阪府の新庁舎が江之子島に竣工
1903年 第5回内国勧業博覧会開催
1926年 大阪府庁舎が現在地に竣工
1931年 大阪城天守閣が再建 。綿業会館竣工
1934年 室戸台風。府内に大被害
1937年 御堂筋開通
1945年 大阪市大空襲。戦後初の府議会開会
1961年 千里ニュータウン、建設はじまる
1964年 東海道新幹線(東京−新大阪)開通
1970年 日本万国博覧会開催
1990年 花と緑の博覧会開催
1994年 関西国際空港開港
1995年 APEC大阪会議開催
2001年 第14回世界観光機関(WTO)総会開催
2002年 第8回国際エネルギーフォーラム開催
2003年 第3回世界水フォーラム開催
2004年 国際文化公園都市「彩都(さいと)」の一部まちびらき
49
:
名無しさん
:2008/04/05(土) 23:20:39
大阪に置かれた首都
(古墳時代)
270年- 310年 第15代 応神天皇 難波大隅宮 大阪府大阪市東淀川区
313年- 399年 第16代 仁徳天皇 難波高津宮 大阪府大阪市中央区
405年- 410年 第18代 反正天皇 丹比柴籬宮 大阪府松原市上田町
507年- 511年 第26代 継体天皇 樟葉宮 大阪府枚方市楠葉
572年- 575年 第30代 敏達天皇 百済大井宮 大阪府富田林市
(飛鳥時代)
645年- 655年 第36代 孝徳天皇 難波長柄豊碕宮 大阪府大阪市東区法円坂町
(奈良時代)
744年- 745年 第45代 聖武天皇 難波宮 大阪府大阪市東区
769年- 770年 第48代 称徳天皇 由義宮 大阪府八尾市
(室町時代)
1352年-1368年 第97代 後村上天皇 住吉行宮 大阪府大阪市住吉区
政治の中心
(安土桃山時代)
1590年-1600年 豊臣氏 大坂城 大阪府大阪市中央区
50
:
名無しさん
:2008/04/12(土) 03:04:10
これについてどう思いますか?
「天下の台所」は教科書から削除されるのでしょうか。
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000000802210003
51
:
名無しさん
:2008/04/12(土) 03:19:26
大阪には武士がいないなどの俗説が広まったきっかけかもしれませんね
52
:
名無しさん
:2008/04/12(土) 12:35:41
諸国の台所、日本の賄い所と言われてたのは間違いないですから
意味は全く間違ってないですよ。
53
:
名無しさん
:2008/04/12(土) 22:48:07
安井道頓
安土桃山時代の築城・土木家。名は成安という。
河内国(大阪府)の人。
秀吉に仕えて大坂城築城の功により与えられた
大坂城南の地の水利のため東横堀川から木津川
に通ずる水路の開通工事に着手したが、大坂の
陣で豊臣方に属して戦死。水路は一族の手によ
り開通。今、道頓堀と呼ばれているのがそう。
(1533-1615)
54
:
名無しさん
:2008/04/12(土) 23:14:10
大阪の武士で最も有名なのは楠木正成でしょうね。
55
:
名無しさん
:2008/04/12(土) 23:21:52
>>53
勉強になりますね。
56
:
名無しさん
:2008/04/13(日) 00:34:48
>>54
戦前の歴史では、重要人物として教えられていたそうです。
そして足利高氏は最悪の人物として教科書に載っていました。
57
:
名無しさん
:2008/04/13(日) 00:41:14
では「新大和川」をつくった「河村瑞軒」も挙げねば
58
:
名無しさん
:2008/04/13(日) 00:42:30
>56
大楠公ですか
59
:
名無しさん
:2008/04/13(日) 00:53:45
河内長野?に「観心寺」という寺があります。
楠木正成ゆかりの寺で、「建掛堂」という三重塔を「建てかけた」塔が有名
堂宇も国宝で、秘仏の「如意輪観音」も国宝に指定されています。
アクセスも比較的良いので、在阪の方なら行ってみる価値があるかと。
60
:
名無しさん
:2008/04/13(日) 00:57:02
源義家も大阪の武士です。この事実は重要です。なぜなら、彼は武家の棟梁
としての河内源氏を確立した人物ですし、あの頼朝の直系先祖ですからね。
彼を含めた源氏三代の墓が大阪にありますが、もっともっと全国にアピール
してほしいですね。大阪=商人の町といった一面的なイメージをくつがえす
ためにも。ま、源氏は関東と思っている人たちからみれば、この事実は受け入れがたい
とは思いますが...
大阪はおおいに源氏の里をアピールすべきです!
61
:
名無しさん
:2008/04/13(日) 01:11:57
確か「近つ飛鳥」に「源氏三代の墓」があったように思います。
62
:
名無しさん
:2008/04/13(日) 08:53:26
大阪は数多くの武将を輩出しています。
武家の元祖とも言うべき、源氏三代の墓は南河内にありますし、南北朝時代の
英雄である、楠木正成一族も南河内出身。「近つ飛鳥」一帯は日本史の歴史の宝庫なので
もっと大阪府もこの地域の観光アピールすべきだと思います。
戦国時代の世界的に有名なキリシタン大名である、高山右近は高槻が本拠地。
茶人千利休は堺の人。大阪こそ歴史の宝庫なんですね。
更に現在の天皇家(大和朝廷)の少なくとも直接の先祖であることは疑いない、
応神朝、仁徳朝、履仲朝。。。中国の歴史書にも明記されている「倭の五王」時代の
日本の中心は大阪でした。世界遺産に登録されようとしている巨大古墳群も大阪地域にありますよね。
倭の五王時代を「大阪王朝時代」と読んでも良いと思います。
安土桃山時代を「安土大坂時代」と呼びかえることが正しい歴史概念のように。
もっと日本史における大阪の歴史的位置の重要性をアピールし史実に反映していくことが重要ではないでしょうか。
大阪の学会や学者文化人そして大阪府も頑張って欲しいと思います。
以前ここに書かれていたレス参照
--------------------
(古墳時代)
270年- 310年 第15代 応神天皇 難波大隅宮 大阪府大阪市東淀川区
313年- 399年 第16代 仁徳天皇 難波高津宮 大阪府大阪市中央区
405年- 410年 第18代 反正天皇 丹比柴籬宮 大阪府松原市上田町
507年- 511年 第26代 継体天皇 樟葉宮 大阪府枚方市楠葉
572年- 575年 第30代 敏達天皇 百済大井宮 大阪府富田林市
(飛鳥時代)
645年- 655年 第36代 孝徳天皇 難波長柄豊碕宮 大阪府大阪市東区法円坂町
63
:
名無しさん
:2008/04/13(日) 09:09:13
王権の起源大阪
武家(武士)の起源大阪
茶の湯の起源大阪(堺)
64
:
名無しさん
:2008/04/13(日) 20:33:11
大塩平八郎も忘れてはいけませぬ。
65
:
名無しさん
:2008/04/13(日) 23:23:04
適塾のように近代、もしくは中世の建築物があれば、教えていただきたく存じます。
66
:
名無しさん
:2008/04/13(日) 23:31:20
大阪は反権威的とステレオタイプに言われるのも大塩平八郎氏を拡大解釈させてのように思います
偉大な方だと思いますけど。ひとつで全てを語られると辛いですね
67
:
名無しさん
:2008/04/13(日) 23:38:28
大塩=反権力というのは若干勘繰りすぎじゃないだろうか。
寧ろ「大衆の見方」と位置づけられているように思いますが。
68
:
名無しさん
:2008/04/13(日) 23:48:06
>>65
適塾は現在は阪大が管理公開しています
http://www.osaka-u.ac.jp/jp/annai/about/tekijuku/index.html
大阪府大阪市中央区北浜3-3-8
大阪といえば壊徳堂も忘れてはいけません。
69
:
名無しさん
:2008/04/13(日) 23:59:37
市内となれば、どうしても町屋になりがちかな・・
以前「加美正覚寺」の畠山政長の墓を詣で?ましたが、やはりこれといったインパクトが無かった。
70
:
名無しさん
:2008/04/14(月) 00:01:05
>69
すいません、自分でも訳の分からない分になりました。申し訳ない。
71
:
名無しさん
:2008/04/14(月) 01:09:07
>>67
そうですかね。どうも反お上意識のシボリックにされたようにも思います、個人的には。
72
:
名無しさん
:2008/04/14(月) 01:34:02
>71
気を悪くされたのなら謝ります。ただ個人的にはそう思っただけの事ですよ。
73
:
名無しさん
:2008/04/14(月) 11:08:03
シンボリックにされたかどうかは別にして
腐敗の塊だった幕府官僚に身を投げ出して立ち向かったのは間違いないですよ。
彼は学者でもありましたし、曲がった事が大嫌いだったのでしょう。
74
:
名無しさん
:2008/04/14(月) 22:10:28
こちらの画像掲示板に大阪城の写真を数点アップしました。
6点ほど2ページにまたがってます。
よかったら見てください。
75
:
名無しさん
:2008/04/14(月) 22:56:13
見ました。石垣の大きさが感じられていい写真ですね。
76
:
名無しさん
:2008/04/14(月) 23:31:14
伏見櫓でも再建させられないものですかね。個人的には本丸の枡形を整備して欲しい。
77
:
名無しさん
:2008/04/15(火) 01:21:48
大阪城は豊臣城と徳川城と両方あるぐらいにして欲しい
現在の折衷案はどうも微妙
78
:
名無しさん
:2008/04/15(火) 01:42:10
>>73
彼は元与力で、幕府の人間として幕府の不正を(武力で)正そうとした
初めての人でした。反権力というよりは、まさしく正義の人ですね。
反権力や反幕府ではなく、不正に苦しむ庶民のために
立ち上がった人だと思います。それまでの反乱や事件は
殆どが体制に対する不満でした反体制側の人間による蜂起でした。
大塩の乱は、これまでの反乱と違い、身内からの反乱のため
規模は小さくとも幕府に対し強い衝撃を与えました。
ゆえに歴史教科書に載っています。
大塩の乱で忘れてはいけないえエピソードは、
大丸は義の商人なので大塩は門弟に焼き討ちを禁じました。
今の大丸に儀はあるのでしょうか。
79
:
名無しさん
:2008/04/15(火) 10:38:15
大阪城の堀川をゴンドラで遊覧できたら優雅だろうなあ
80
:
名無しさん
:2008/04/15(火) 13:22:11
堀川は無理だが、大川や横堀川をベロタクシーのように人力で
遊覧したらはやるかも。水上船は燃料費が高騰しているから
採算が合わないけど、人力で漕いでいく白鳥の乗り物って
あるじゃないですか、あれで川の観光できますよ。
81
:
名無しさん
:2008/04/17(木) 02:17:59
大阪の歴史を正しく知ることが、大阪に住む人々の誇りとプライドを
取り戻す有効な手段と考えます。そして、これこそが、東京がもっと
も恐れる事態でしょう。なぜなら、東京が現在抱いている根拠のない
誇りは、歴史に裏打ちされていない、非常に浅はかなものだからです。
今後、大阪は、日本最古の本格的な首都である難波宮以来の長きにわ
たる歴史を、自らの言葉で語るべきです。そのとき、東京が現在抱い
ている歴史的な裏づけのない、浅はかな誇りとプライドはたちどころ
に消えていくことでしょう。否、むしろ、東京がその深層心理の部分
で、これまで隠し続けてきた大阪、あるいは近畿・上方に対する拭い
きれないコンプレックスが表面化することでしょう。東京一極集中の
解決方法は案外、こういう所にあるのかもしれません。
「知事の提言」宛にも、古都とよばれる奈良や京都よりも古い大阪の
歴史を今後、もっと積極的に全国に発信するようにお願いしました。
82
:
名無しさん
:2008/04/17(木) 02:21:13
教育に取り入れるべきですね。教育日本一を目指すなら
83
:
名無しさん
:2008/04/17(木) 11:27:51
>>81
同感です
大阪は歴史的にはエクスチェンジ・トランジットゾーンとして、つねに痛快な役割をはたしてきた。
異質なエネルギーをすぐに吸収し、新しいモデルを創り出す。そしてそれを全国開花させるトランジットの機能を持っていた。
それは、「文楽」がなぜ大阪で生まれ、「浮世絵」はなぜ江戸だったのかを考えれば解る。浮世絵はメディアアート。情報だけ
抜き出して編集するのは東京っぽい。だけど大阪は曽根崎心中など大阪で起きた事件を文楽にする。人形浄瑠璃や長唄、浪花節、
漫才も含めて、現実を全部そこで食べ尽くす。メディアにせず、ライブのまま芸として永遠のものにする。この違い。
大阪には印刷会社はあっても出版文化はない。となれば都市文化を考えるとき、メディアセンター大阪を創ってもダメ。
東京はスキャンダルをメディア化し、大阪はニューシネマの名作にするという、風土の違いがある。
ところが今の関西らしさの議論は、吉本とか「強い」ものから入っていて、それがコケると、もう手がないという状況。
しかもその場のウケ狙いのコントでは文化として何も残らない。もう一回聴きたいという名作を残さないやり方で、文楽に勝てるのか?
それは大阪の近世近代のやり方ではない。
大阪は今、生きてある多様なものを全部褒められる力がなくなっている。かつては飛田や十三、鶴橋、天下茶屋も、
それぞれに面白かったのに、今は面白いと言えば吉本だけだと思いこんでいる。僕は吉本に頼っていたのでは大阪はつぶれると思っている。
もっとたくさん、百花繚乱を言える力をつくりたい。
一方で悲しむ力もなくなっている。池田小学校の事件のあと、校舎を封鎖して記憶を消すと聞いて、僕はダメだと思った。震災もそうだが、
辛い現実が残っているのに、それに封をして、楽しく頑張っているというだけにしてしまう。伏せてはダメだ。語り続け、ライブにして、
曽根崎心中にして残していくのが大阪ではなかったか。
http://www.kepco.co.jp/insight/content/column/column020.html
84
:
名無しさん
:2008/04/17(木) 12:11:14
出版は昔はあったんですよね
85
:
名無しさん
:2008/04/17(木) 13:41:41
>>78
>大塩の乱で忘れてはいけないえエピソードは、
>大丸は義の商人なので大塩は門弟に焼き討ちを禁じました。
初めて知りました。今の大丸に聞かせたいですね(笑)
86
:
名梨
:2008/04/17(木) 17:47:49
>>85
この「義」は今でも大丸の経営方針の基本らしいよ。社員・内部向けの会報誌
に載ってたわ。ちなみに上記のエピソードも掲載されていました。
バッカじゃないの、この裏切り者が!
↑大丸のことです↑
87
:
名無しさん
:2008/04/17(木) 21:19:43
大昔の「義の商人」の話しはともかく、あんなことをされれば大丸に行く気かくなるわなぁ・・。
梅田店も「阪急阪神」「伊勢丹」に挟まれて、今後苦しくなるんじゃないの。
88
:
名無しさん
:2008/04/17(木) 21:43:09
「義の商人」じゃなくて、「欺の商人」でしょう。大丸は。
>>84
出版だけでなく、芸能人事務所や映画会社も大阪にはありました。戦前ですが。
戦時中に強引に実行された合併などで、流通やメディアを東京に集中させられ、
戦後も瓦解しない結果、昔の話となってしまいました。
89
:
名無しさん
:2008/04/17(木) 21:53:45
藤原京、平城京、長岡京、平安京。すべて条坊で区画され、整然としたイメージがあるが、
難波宮といえばそのようなイメージが湧いてこない。
また日本史の資料を見ていても、古墳時代の宮(首都?)というものが、かなり雑に扱われているような印象を受ける。
とにかく「(例)難波豊碕宮」の都市機能を含めた全体像の研究が進めなくては「古都大阪」のアピールも難しいと思う。
90
:
名無しさん
:2008/04/17(木) 21:56:06
>>89
大阪市内が碁盤の目ですよ
地図を見てください、縦に筋、横に通りが計画的に配置されています。
91
:
名無しさん
:2008/04/17(木) 21:59:55
>90
大阪船場の碁盤目は豊臣時代のものだと思うのですが。
92
:
名無しさん
:2008/04/17(木) 22:09:25
日本史上で初めて巨大王権が誕生した「河内王朝」も重要ですね。
というか本当は「大阪王朝」と呼ぶべきなんですけど。
仁徳天皇は大阪の高津の宮を建設し、淀川の茨田堤(まんだづつみ)の改修の事業で
有名だし。応神天皇も大阪の宮ですよね。
仁徳天皇陵の世界遺産登録にあわせて。「大阪王朝」時代を大いにアピールして
歴史用語として定着させるべきです。
それからできれば、難波の宮も一部復元して、大阪城と難波の宮の辺りを
大阪歴史地区として整備すべきです。1500年の歴史を誇る場所ですから。
それから、日本の国号「日本(ひのもと)」の起源も大阪府東大阪市の日下(くさか)=ひのもと
が語源だと言われています。この辺りに物部氏(ニギハヤヒ)が本拠地を作って、神武天皇東征軍に抵抗したと日本書紀に
かかれています。プレ大和朝廷時代の中心だったんですね。「日本」の起源も大阪にあった!
(河内王朝)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E4%BA%A4%E6%9B%BF%E8%AA%AC
(倭の五王)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B
93
:
名無しさん
:2008/04/17(木) 22:25:25
そのように大々的に主張したいのですが、如何せん考古学的資料に乏しい。
そこに問題があると思います。
あと「古墳時代」というものが「先史時代」と「歴史時代」の境という風潮も否めません。
この辺りをどのようにしていくかが問題だと思います。
94
:
名無しさん
:2008/04/17(木) 22:35:42
なんとか、仁徳天皇の高津の宮だけは発掘して欲しいものだ。
大阪府立高津高校の辺りにあったと言われているが。。。
95
:
名無しさん
:2008/04/17(木) 23:15:58
発掘ができたらいいんですけどね。市内の、それも中心部の道路をゴリゴリ
掘り進めるなんて、今更できやしません。勿論そんなことは判っておられるでしょうが。
96
:
m
:2008/04/17(木) 23:40:32
北大阪に住んでおられる方々へ。
どこか名勝になるようなところは無いものですかね。
東海道本線があるだけに、アピールすればいい観光地になると思います。
97
:
名無しさん
:2008/04/18(金) 00:48:21
箕面の滝、勝尾寺、摂津峡
98
:
名無しさん
:2008/04/18(金) 23:00:14
これら景勝地をPRする方法を考えなくてはならないと思う。
紅葉=京都 桜=京都、吉野に流れる客を少しでも引っ張り込むことが必要かと。
99
:
名無しさん
:2008/04/23(水) 22:58:08
チベット騒動が世界中でおきてますが
明治時代にチベットへ2度入国した『河口慧海』と言う人が居ます。
この人は実は堺の人です。交通の無かった時代に徒歩でチベットへ入国し
日記も貴重な資料として有名です。
100
:
名無しさん
:2008/04/24(木) 02:06:37
チョッと小耳にはさんだ話ですが、嘗て「河内湖」のあった時代、河内と和泉は
同じ国だったと聞いたのですが、真偽はどうなんでしょう。
101
:
名無しさん
:2008/05/02(金) 09:51:21
資産200兆円の淀屋の歴史って、なんか一商人にして
国家を支配し驚きの歴史だね。
調べれば調べるほど淀屋の歴史はおもしろい。
「兆」の上の「京」って単位は淀屋の資産を査定するために
作られた単位らしいよ。
贅沢での取り潰しだけクローズアップされるが、そんな小さな
問題でなく、幕府の年間米予算の四倍にまで達した大阪商人の
金融資産200兆、そのうち大名貸しが100兆を潰さざる
負えないほどの危機感が幕府にあったんだろうな。
102
:
名無しさん
:2008/05/02(金) 17:26:57
大証のデリバティブは一時世界最大の市場規模を誇っていたのにそれを、
叩き潰したのは東京の財務省の仕業。
とんでもないですね。いつの時代にも東京の役人は日本経済を食い物にして、
しかも経済をつぶす方向に政治経済運営をする。江戸時代の経済発展をつぶしてきたのも
すべて幕府役人。質素倹約、武士はくわねど高楊枝。こうした木っ端役人の
貧乏人根性と嫉妬とたかりが日本経済をつぶしてきた。
今も同じ。財務省は福田政権を使ってまたも消費税を10%に引き上げ、
さらに消費者庁という見せ掛けの虚構で経済・市場介入を図ろうとしている。
役人・官僚は歴史的に日本の癌ですね。
103
:
名無しさん
:2008/05/02(金) 20:38:00
東国(あずま)には、もともと「田舎・辺ぴ」という意味があります。
したがって、東国人気質とは、言葉は悪いが、「田舎者気質」
といってもよいでしょう。この気質がよい方向に向かうときには
「素朴さ」や中央に対する「憧れ」が現れるのですが、
悪い方向に向かうときには、中央に対する「妬み・対抗心」が
現出します。本来、日本の中央・先進地域はいうまでもなく、
大阪を含む畿内であり、それ以東は一括して東国でした。
実際、江戸期においても、後発地である江戸は常に大坂の後塵を拝して
きました。
以上のことから察するに、今日の東京のある意味偏屈狂的な
大阪叩きの根底には、畿内・上方に対する憧憬とは裏腹の妬みや対抗
意識が表出されているとも見て取れます。
したがって、東京がもっとも恐れるのは、古事記や日本書紀に表された
日本最古の本格的な首都である難波宮以来の長きに大阪の歴史が世間一
般に広まることです。たとえば、安土大坂時代を安土桃山時代と意図
的に呼称したり、古代の大阪王権時代を河内王権と呼称する根底には
大阪の歴史を明るみにしたくない、東京のやましい意図が見え隠れし
ます。
大阪に住む人々は、今こそ、大阪の正しい歴史を自らの言葉で語り、
大阪に対する自信と誇りを取り戻すべきです。
そのとき、東京メディアが抱いている歴史の裏づけのない、
浅はかな自信とプライドはたちどころに消えていくことでしょう。
いや、むしろ、東京がその深層心理の部分で、これまで隠しに隠し
続けてきた大阪・上方に対する拭いきれないコンプレックスが表面化
することでしょう。
長文失礼いたしました。
104
:
名無しさん
:2008/05/02(金) 21:41:03
律令でも(令外官だったかもしれないが)「京職」「摂津職」というものもありましたからね。
105
:
名無しさん
:2008/05/02(金) 21:55:34
>104書き損ね失礼
律令でも(令外官だったかもしれないが)「京職」「摂津職」というものもありましたからね。
やはり日本の歴史は畿内で回っている。それをどうしても消し去りたいのでしょう。
106
:
名無しさん
:2008/05/08(木) 14:08:52
うちの江戸歴史本から大坂、天下の台所の項目について書き出してみました。
>江戸は世界最大の都市に膨張していくが、関東周辺での生産物の収穫が少ないため
>消費人口に必要な物資の供給を大坂に求めざるを得なくなる。
>そのため豊かな西国から送られた物資で江戸の消費はまかなわれる事になった。
>享保年間(1716-36)に大坂から送り込まれた商品は、酒・醤油・白油・木綿
>繰綿・塩・米などで、生活の基礎物資のほとんどは大坂に頼られていた。
>幕府の海運政策もあり西廻り航路が整備されると、大坂には西国や東北・北陸
>の日本海側からも生活物資が集積してくる。日本経済の流通システムが大坂に集中
>すると、全国の藩は蔵屋敷を大坂に設け、年貢米を市場に供出したり、郷土の産物を
>大坂から全国に出荷するようになっていく。
107
:
名無しさん
:2008/05/08(木) 14:29:35
くいだおれ、杭倒れの、食い倒れの記述はありますか
108
:
名無しさん
:2008/05/08(木) 20:20:34
如何に上方文化の恩恵を受けたか、そんなことはもう関東人の頭の中にはないでしょう。
強いてそのような事例があるとすれば、昨今の京都に対する「良い意味で偏向した」興味のみ。
ですから大坂>江戸という対立軸をつくるのではなく、上方>地方と考えるべきでしょう。
109
:
名無しさん
:2008/05/14(水) 22:39:25
なにわ人物伝 −光彩を放つ−(大阪日日新聞)
福沢 諭吉(1) ―ふくざわ ゆきち―
習俗無視、偏屈な少年期
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa070113.html
福沢 諭吉(2) ―ふくざわ ゆきち―
適塾に入門し蘭学猛勉強
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa070120.html
福沢 諭吉(3) ―ふくざわ ゆきち―
猛勉強と強心臓で通訳に
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa070127.html
福沢 諭吉(4) ―ふくざわ ゆきち―
理想教育実践へ、信念貫く
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa070203.html
110
:
m
:2008/05/15(木) 21:53:47
適塾=大坂、福沢諭吉=大坂ですが、どうせ適塾=お江戸、福沢諭吉=江戸っ子ぐらいでしか認識されていないのではないでしょうか
頭では分かっていても、どうせそのぐらいの意識しかないでしょう。
要するに地方生まれでも「花のお江戸」で活躍すれば立派な勝ち組、東京人。
この風潮は今も良く残していると思います。
111
:
名無しさん
:2008/05/16(金) 07:40:49
>>110
それは土佐藩出身で大阪で創業し、一番有名な社名も
大阪が本店だった時代に名乗りはじめた(翌年東京に移転)
レッドダイヤモンドな会社のことですね。
レッドダイヤモンド自体はそれなりにまだ大阪のことを大事に思ってるらしいが。
つーか「適塾=お江戸」って、それはいくらなんでも論理飛躍し過ぎ。
ちなみに適塾は現大阪大学医学部、と言ってもいいくらいの存在。
なので適塾の公式サイトは阪大公式サイトの中にあります。
112
:
名無しさん
:2008/05/16(金) 13:07:17
適塾については大阪の人間にも浸透はしてないと思いますね。結局歴史として
認識を得るには「物語」にならないといけないんだと思います。単純な構造ですが
NHKの大河ドラマの舞台になるだけでかなりの影響がありますし、朝ドラにしても上方落語
に良い影響を与えてるみたいです。坂本龍馬にしても司馬遼太郎が小説にしなければこんな
に現代で支持されて無いようにも思えます。残念ながら大阪についてはその数的量が圧倒的
に少ないと思います、頭に浮かぶのは船場商人のガメツサを強調したようなものや、ガラの
悪さを強調したものです。全国ネットのテレビや映画など全国の人(主に関東)にはそういう
のが受けるんだと思いますが、でもそれでは大阪人にも適塾のようなものの存在が理解されま
せん。これからは東京から意識を外し大阪人に向けた物語が数多く出てくれるのを期待します。
113
:
名無しさん
:2008/05/16(金) 16:03:36
適塾界隈が残っていれば…再興は難しいのかな。
>>112
ガメツいという言葉はありますけど、価値観としてそれを奨励するようなものではないので
いちびるという言葉もいちびるなと、やはり価値観としてマイナスで示されています
どうも上方大阪の言葉を使って貶めるようなメディアや創作のあり方には不快すら感じます
114
:
名無しさん
:2008/05/16(金) 16:38:17
それか大阪が生んだ巨人安岡正篤の金鶏学院は戦後GHQに解体させられたものの、
占領が解ければ新たな啓蒙的教育施設を設けてくれれば日本がとりわけ大阪が戦後民主主義という藍から出ずる
藍より青き青に毒されるのを予防できたかも。
115
:
m
:2008/05/16(金) 20:13:23
大塩平八郎も時代劇ともなれば「ご立派な江戸弁」を使っている。
適塾の塾生や、緒方洪庵先生も皆江戸弁。大阪弁を使うのは下品な町人か商人のみ。
こんな事を平気で流していれば、どうしてもそのような方向に行かざるを得ないでしょう。
116
:
名無しさん
:2008/05/16(金) 20:32:37
上方言葉、上方の大阪弁をちゃんと使って欲しい
117
:
名無しさん
:2008/05/17(土) 03:32:27
>「ご立派な江戸弁」
いや、江戸弁はないでしょう。所謂「標準語」と江戸弁は別のものです。
また近代国家において「共通語」の類も必要なものでしょう。
それと大塩等のみ共通語(東京アクセント)は不自然というのはまた別の話で、
それはそれで異常なことであると思いますけどね。
どうもmさんの言われる話は視点として面白いけれど感情的に過ぎる気がします。
もう一ついうと江戸時代の上級武士の「共通語」は近世上方語であったわけで、
「〜じゃ」とか言ってたわけでしょう。
118
:
m
:2008/05/17(土) 11:00:38
>117
ご指摘有難うございます。あまり何も考えずに「江戸弁」という言葉を使ってしまいました。
私が言いたかったのは「時代劇言葉」というものかもしれません。
119
:
名無しさん
:2008/05/17(土) 11:37:24
大阪を舞台にしたコンテンツだからといって大阪弁にこだわる必要なんてないと思います
全国の人に見てもらうんなら、標準語を使えば良いですよ
監督が作品をより良くするために方言にこだわるっていうなら、止めはしないですが。
120
:
名無しさん
:2008/05/17(土) 13:12:51
大阪市立大:「文楽」の集中講座、8月27日から3日間
http://mainichi.jp/kansai/news/20080516ddf014040025000c.html
大阪を舞台に歴史的にはぐくまれた伝統芸能「文楽」を集中的に学ぼうという「上方文化講座2008」が8月27〜29日、大阪市立大学学術情報総合センター(住吉区杉本3)で開かれる。
同大学文学部と大学院文学研究科が開催。学生と学外の市民がともに学ぶ特別授業科目として04年から始め、これまで『曽根崎心中』や『国性爺合戦』などを取り上げてきた。
今年は浄瑠璃三大名作の一つとされる「義経千本桜」をテーマに、日本近世文学、日本中世文学、日本古代文学、日本語文法、中国演劇、日本近世史を専攻する教授陣が多角的に分析する。さらに、現役で活躍している太夫の竹本津駒大夫さん、三味線の鶴澤清介さん、人形遣いの桐竹勘十郎さんが実演を交えながら魅力を紹介し、世界の芸能文化の中での文楽の位置と意義を考える。
無料。70人を募集し、多数の場合は抽選。問い合わせは文学部事務室(06・6605・2351)。
(毎日新聞 2008年5月16日)
121
:
名無しさん
:2008/05/17(土) 13:35:25
>>119
>全国の人に見てもらうんなら、標準語を使えば良いですよ
>>117
の
>江戸時代の上級武士の「共通語」は近世上方語であったわけで
を読みなさい。
標準語は江戸の中流層で話されていた言葉がベースなので
将軍様やら町奉行が話してるのはおかしい。
(家康が三河弁話してるのはおかしくないが)
町人なんかの下流層は江戸弁なのでやはりおかしい。
まぁ時代劇にそこまでの時代考証を求めるのもおかしいけどね。
122
:
名無しさん
:2008/05/17(土) 13:36:28
>全国の人に見てもらうんなら、標準語を使えば良いですよ。
いやそれはそれでムリがある。
大阪弁が全国で通じないというのであれば別ですが。
それ以前に標準語ではなくせめて共通語と表記してください。
123
:
名無しさん
:2008/05/17(土) 14:42:01
>>119
確かに大阪弁にこだわる必要は必ずしもないと思います。イントネーションの難しさなど
役者の技量に拠るところもありますから
ただ大阪弁などが悪意的にキャラクタライズするために使われている現状を見ると
時代劇で商人だけ使われたり、現代ではなぜかヤクザ言葉として使われていたり
カウンターや意識改革として大阪を舞台にして出演者全員が大阪弁を使う時代劇や
現代劇があってもいいと思いますし、あるべきだと思います
124
:
m
:2008/05/21(水) 20:33:27
読売関西に「大和川沿いに難波宮の朱雀大路発見」とありました。
難波宮にもかなり巨大な都城があったのですね。
125
:
名無しさん
:2008/05/21(水) 21:11:46
大阪府民は、東京から報道され続けるマイナス・イメージの大阪像によって
現在、郷土大阪に対する自信とプライドを失っています。
大阪の歴史を正しく知ることが、大阪に住む人々の誇りとプライドを取り戻す
有効な手段と考えます。
そこで、たとえば、難波宮の大極殿だけでも復元し、かつて大阪にこれだけ
本格的な「首都」があったということを全国にアピールすることは、
大阪の都市イメージにとっても重要ですし、大阪府民が大阪に対する自信と
プライドを取り戻すひとつの契機になると思います。
大極殿再建のための資金については、市民や民間企業の寄付金を中心にして、
そこに自治体予算の一部を加えていけば良いと思います。
ところで、安藤忠雄さんが提唱した「桜の会・平成の通り抜け」事業には、
多くの寄付金が集まりました。特別顧問である安藤忠雄さんや橋爪紳也さんが
プロジェクトリーダーとなって、難波宮再建計画を進めていただければ、
大阪府民の機運は盛り上がるのではないでしょうか。
皆さん、橋下知事や関西の各経済団体に呼びかけて、難波宮太極殿の復元事業
を実現してもらいませんか?
126
:
m
:2008/05/21(水) 21:19:59
難波宮の朱雀大路か
出土した難波大道の遺構。道には9人が並ぶことができる(堺市と松原市にまたがる大和川今池遺跡で)=府文化財センター提供
「日本書紀」に記された古代の官道「難波大道(なにわだいどう)」とみられる道路の遺構が、堺市北区から大阪府松原市にまたがる大和川今池遺跡で出土し、府文化財センターが20日、発表した。
幅約17メートルで、古代の主要官道・下(しも)つ道(みち)や、藤原京の朱雀大路(いずれも奈良県)とほぼ同規模。飛鳥時代の7世紀中ごろに造られたとみられ、難波宮から南に延びる朱雀大路に相当する可能性が高まった。
道路遺構は両側に側溝(幅1・5〜2・9メートル、深さ0・1〜0・7メートル)があり、長さ約46メートル分が見つかった。1979年と94年の同遺跡の調査でも同様の遺構が確認されているが、最も保存状態が良く、延長は計約280メートルになった。
今回はこれまで確認された中で最北にあたり、難波宮跡(大阪市中央区)に向けて南北一直線に延びていることを改めて裏付けた。側溝から出土した土器などから同センターは、難波宮遷都(645年)ごろに造られたと推定。
日本書紀に、孝徳朝の653年、「処々の大道を修治(つく)る」と書かれており、この記述に関連するとみられる。現地説明会は24日午後1〜3時。駐車場はない。
栄原永遠(とわ)男・大阪市立大教授(古代史)の話「大化改新後、新政権が宮殿や道路網を整備し、新しい国家づくりを構想したことがうかがえる」
(2008年05月21日 読売新聞)
127
:
m
:2008/05/21(水) 21:39:06
>125
基本的には賛成です。やらねばならないことでしょう。
しかしシブチンの橋下知事(仕方のないことですが)が金を出すとも思えない。
また各関西経済団体にこの話をもっていっても「何をいまさら・・」となるような気がする。
「ここはやっぱり民力で再興」といきたいところですが、125さんの書かれているように
プライドを忘れた大衆もアテにできない。情けない話しですね。
ちなみに個人的には、大極殿再建の資金を出せといわれれば、2万ぐらいは出してもよいと思っております
128
:
m
:2008/05/21(水) 21:49:23
>126
スイマセン、ソース付け忘れました。
129
:
名無しさん
:2008/05/21(水) 22:20:49
橋下さんは削るところは削るけど必要なものにはどっと投資するタイプ。
御堂筋や大川のライトアップなど都市発展に必要なことはやる人だと思います。
提案されてみてはどうでしょうか?今すぐは無理でも3-5年程度の中期で考えれば可能性はあるかも。
今大阪府は全国自治体に先駆けていち早く財政健全化を猛スピードで進めている自治体。
他自治体に先駆けて財政健全化を果たす自治体です。
後数年すればムーディーズなんかの格付けで大阪と東京は逆転すると思いますよ。
寧ろやばいのは東京都でしょうね。実額で大阪の2倍程度の巨額借金がある。
第三セクター赤字も巨額で、新銀行東京や臨海開発や多摩ニュータウンにも巨額な
税金を投入して赤字補填している有様。そして都民はその実態をマスコミから知らされていないし危機感もない。
東京は今、臨海部にオリンピック誘致をすることで、臨海開発梃入れを国民の血税投入で行おうと画策しているが、
2016年オリンピック誘致は不可能でしょう。まずシカゴに決まる。
更にベンゼン汚染で中央市場移転が遅れ、更に湾岸開発は厳しくなる。
そうなれば臨海開発の巨額プロジェクトが二次破綻する可能性は高いです。
大阪は今のうちに財政を再建する一方、将来の大阪発展に必要な投資、例えば
国際金融センター建設や中之島リバーサイド開発、御堂筋開発、難波の宮復元などのプロジェクトは
推進していくべきでしょう。
更に、東京オリンピック誘致が失敗した場合、今度は2020年のオリンピックに
大阪が立候補すれば良い。さすがに欧米で2回オリンピックやればアジアの大阪にも可能性は出て来る。
オリンピック誘致の利権を握る欧米のユダヤ系マスコミやユダヤ系親本に今の間に経済パイプを
構築しておいて、彼らの後押しを得て、オリンピック誘致活動をすれば良い。
そのための大阪国際金融センターであり、外資誘致です。
2020年は1970年大阪万博から50年の節目に当たる重要な年。
そのときまでに難波宮を再建し、国際金融センターを完成させ、国際物流センターを大阪湾に完成させ、
大阪を魅力的な国際都市に成長させましょう。
130
:
m
:2008/05/21(水) 23:01:54
嬉しいですね。
129さんのような書き込みを見ていると、将来への希望が湧いてくる。
ちなみに都の借金は17兆、大阪の3倍超です。
プライドばかりで借金を増やすばかりの東京より、大阪のほうがはるかに健全です。
131
:
名無しさん
:2008/05/22(木) 00:35:59
今の東京と大阪はたとえるなら、うさぎとかめ。橋下知事主導による大阪の
着実な財政健全化と「水と光まち」としてのイメージアップの成果が、数年後に
形となって現れてくるような気がします。そのとき、一極集中の下であぐらを
かいたうさぎは手のつけられない巨額の借金を目の前にして、いったいどのよ
うな行動に出るのでしょうか?驕れるものは何とかっていいますしね...
132
:
m
:2008/05/22(木) 01:56:52
話を難波宮に戻しますが、図で描かれている朱雀大路は、難波宮跡→四天王寺を貫通し、大和川まで延びている。
勿論、今の「新大和川」は無い時代なので、さらに大きい都城だったとも考えられます。
一体難波宮はどのような形だったのでしょうか? 条坊が引かれていたのでしょうか。
これに詳しい方がいたら、是非お教えいただきたい。
難波宮といえば「内裏」の復元模型ばかりで、実体が見えてきませんから。
133
:
名無しさん
:2008/05/23(金) 17:47:27
吹田にある国の重要文化財が火災で焼失しました。
放火かどうか調査中ですが、本当に悲しく腹立たしい思いです。
以前韓国でも放火による国宝消失事件がありましたが、こうした事件からの
教訓が大阪で生かされてない事が本当腹立たしいですね。
文化財保護でよく使われるスプリンクラーや防犯ライトはちゃんと設置してたのでしょうか。
それでも防ぎきれなかったのか。
取り合えず府にメールしときました・・・。二度と起こらないように。
134
:
m
:2008/05/23(金) 20:31:57
拝殿を越えて本殿に行ったのだから放火は間違いないでしょう。
ただスプリンクラーを付けても、杮葺だけに燃えやすいでしょうし・・。
とにかくこういう場当たり的なアホの犯行だけはどうにも防ぎようが無い。
焼失した本殿の事は残念ですが、今後、これに類する放火が起こらないかと危惧しています。
135
:
名無しさん
:2008/05/23(金) 23:31:42
橋下知事の大阪ミュージアム構想(歴史的名所をライトアップする)や、
寺内町や岸和田を石畳にする構想は賛成です。
更に大阪の都市魅力化のために、もう一つ、やって欲しいのは「桜並木」整備です。
「咲くや此花計画」とでもしておきましょうか。
「水の都」大阪の実現のためには、河川景観を改善して、人々の憩いの場所にすべきです。
そのために、大阪府の重要河川である淀川や大和川、そして富田林の寺内町の傍を流れる石川などの
河川敷をずっと桜並木を植えて、そこを観光名所・人々の憩いの場にすべきと考えます。
また河川敷きを殺風景なコンクリート張りにするのではなく、公園として整備し、
また、水辺もコンクリートで固めるのではなく、自然な水辺を残し、干潟やワンドなどを
保護して、野鳥や水生生物の宝庫にしていくべきだと思います。
そうしてこそ本当の水の都と言えるのではないかかと思います。
また桜並木は、大阪の重要な歴史史跡、例えば、堺の旧市街地や環濠や、
近つ飛鳥地区を桜並木で覆い、奈良の飛鳥と並ぶような歴史史跡の聖地とすべきではないかと思います。
また仁徳天皇陵のある大仙公園や仁徳陵の周囲にも桜並木を植えれば、景観は更に改善すると思います。
136
:
名無しさん
:2008/05/24(土) 00:22:35
http://www.city.osaka.jp/yutoritomidori/culture/sakura/index.html
寄付金で進行中
以前塩爺が言ってたが「一口一万円でこれだけ集まった。ケチと言われるが出す時はパッと出す」
ちなみに塩爺も一人で数百人から集めたそうだ。
137
:
名無しさん
:2008/05/24(土) 02:14:21
>ケチと言われるが出す時はパッと出す
ちゃんと寄付する人はケチではないです。塩爺も大阪自虐癖はやめて欲しい。もっと誇りを持って
138
:
名無しさん
:2008/05/24(土) 02:42:02
>>137
書き方が悪かった・・・
「ケチと言われるがそうではなく、昔から民が寄付してきた町」
確かこんな感じだったかな
139
:
名無しさん
:2008/05/24(土) 03:15:31
了解しました。私の方こそ誤認しておりました。流石、塩爺を思いました。
140
:
名無しさん
:2008/05/24(土) 09:46:04
>>136
桜並木が寄付で進んでいると言うことは知っています。
ただ、大阪府広域で進めるとなると大阪府や各市の予算での迅速な実施が必要となると思います。
大阪が、「咲くや此の花、難波津の。。。」「水の都」と世界に名乗れるためには
やはり自治体にも景観改善と水辺環境の改善には取り組んで欲しいと思います。
141
:
名無しさん
:2008/05/24(土) 15:43:39
>>136
「咲くや此花計画」はすばらしいですね。ぜひ知事に提言してください。
142
:
名無しさん
:2008/05/24(土) 21:19:08
大阪・北新地に舞妓が復活、70年ぶり新人2人
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080524-OYT1T00401.htm
大阪の舞妓さんとして期待されるさく与さん(左)とさく良さん
大阪・北新地の置き屋「平田席」に、約70年ぶりに舞妓(まいこ)
が復活した。
北新地では昭和初期に芸舞妓が約700人、置き屋は11軒あった
とされるが、戦後はお座敷遊びを好む客が減り、置き屋が平田席を
含め2軒、芸妓が計12人だけ。舞妓は次々と姿を消した。
デビューしたさく与さん(23)と、さく良(ら)さん(20)は
「和の心を大切にする芸者になりたい」と張り切っている。
(2008年5月24日13時33分 読売新聞)
143
:
名無しさん
:2008/05/24(土) 21:40:10
伝統的、歴史的な花街としてあるべきでしょうね
144
:
名無しさん
:2008/05/24(土) 23:01:58
>>141
>「咲くや此花計画」はすばらしいですね。ぜひ知事に提言してください。
知事に提言を出しておきました。是非実現していただきたいものです。
145
:
m
:2008/05/24(土) 23:23:46
大阪でも舞妓はいてたんですね。
御年八十数歳になる祖父の妹にその事を聞いた事があるのですが
「舞妓というのは京都だけだろう、姉さん方にあたる芸者はたくさんいたが・・」
と言ってました。
それは嬉しいことなのですが、近頃の「和ブーム」「京ブーム」乗っかるというような
安易な発想ならば、あまりよろしくない事と思います。
「京都の二番煎じ」と言われかねませんからね。
146
:
名無しさん
:2008/05/25(日) 02:15:05
昔は大阪でも東京でも芸者はいたんですよ
復活や再興をアピールすべきでしょう
昔からいたのですから、二番煎じではないので
147
:
名無しさん
:2008/05/25(日) 17:33:49
てか京都の舞子自体いまや地方から集めてきた人なんで
大阪もそれをするのかどうか。
せめてそういう和と商業の一画を作らねば。
148
:
m
:2008/05/25(日) 18:57:13
伝統を守ってきた京都と、伝統を捨ててしまった大阪、東京その他の都市(戦災もあるから一概には言えませんが)
一度断絶したものを復活させるというのは、かなり難しいことではないでしょうか
例えば最近、東京の老舗料亭を舞台にしたドラマが放送されてますが(あきらかに京都を意識したつくり)
「ありんす〜」などという浮世離れした言葉を聞いていると、寒いというか、痛い。
同じように東京、大阪でにわか仕立ての芸者、舞妓を作っても、同じようになると思う。
奈良のように、細々とでも「舞妓→芸者」の伝統が残っていれば話は別ですけどね。
149
:
名無しさん
:2008/05/25(日) 21:38:17
街の景観に合うかどうかでしょう
150
:
m
:2008/05/25(日) 23:05:59
>149
合わないでしょうね
151
:
名無しさん
:2008/05/25(日) 23:07:46
mさん、大阪の芸舞妓さんの伝統は廃れてはいませんよ。
数はぐんと減ってはいますが、途切れる事無く続いてはいます。
うちのおばの家も置屋さんですし、おばは芸者でした。
いまも現役の方は幾らもおられます。
事実を知らずの発言は、慎重にお願いします。
152
:
名無しさん
:2008/05/25(日) 23:09:30
あと大阪の芸舞妓さんはミナミ、キタ、はじめ大きく分けても四箇所に
花街があり千人をはるかに超える芸者さんが居られました。
153
:
名無しさん
:2008/05/25(日) 23:14:29
守ってきたというのもありますが、大分減ってきたのを復興、再興させてると思いますけど
奈良の芸者の方は一人しかいなかったんじゃ。昔も地方から集めて来ているのは昔もだったような
でも単に連れて来て再興より、全体としての再興させた方がいいように思いますけど。大阪は
経済都市という性格だけでなく、伝統性、歴史性というのもあるのですから、それを出して
欲しいとは思いますねー、希望的観測ですが
154
:
m
:2008/05/25(日) 23:25:37
>151
すいません此方の知識不足でした。申し訳なく思います。
でも大阪の芸者さんの話は、ほとんどといっていいほど聞きませんね
155
:
m
:2008/05/25(日) 23:31:27
あともう一つ151さんに聞きたいのですが、現在、大阪の芸者さんは機能しているのですか?
悪い意味で言っているのではないです、ただあまりにもそういう話を聞かないので、
どうなっているのかな?という意味で。
156
:
151
:2008/05/25(日) 23:50:25
すみません、こちらは携帯から書き込めないので
お返事は遅くなる事が多いです。私はモバイルカードなので課金されるものですから。
主に携帯で読み込んでいますので。ご了承ください。
大阪の芸者さんの話は一昨年辺りから盛んに聞きますよ。
というのも島之内の御茶屋たに川さんが、大阪の芸者遊び御茶屋遊びを大々的に
一般に開放しているからです。
本来ああいうものは一見さんお断りの世界ですが、それでは間口が狭いばかりということで
朝日カルチャーや大阪ナイトカルチャーと提携して、お茶屋遊びのコースを提供されていますから。
新年に阪神百貨店で行われたものは、申し込みが殺到して高倍率の抽選になりました。
私自身、二度御茶屋遊びに参加しています。また大阪の芸妓になりたいと、
わざわざ地方からやってきて、見習い中の方たちも、たに川さんには数年前からおられますよ。
本当に無いものなのか、それとも情報が偏向されていて、正しく取りあげら得ていないのか
あるいは自分の情報の探しそこねなのか、そこの判断が必要かと思います。
自分が知らない、だから無い、では東京のマスコミと同じです。
そうそうたに川さんは、京の都踊りと並ぶ大阪の芸者さんたちの晴れ舞台、大阪踊りの復興を目指しておられます。
どうぞ、一度お茶屋遊びに参加されることによって、復興に協力されてみてください。
157
:
151
:2008/05/25(日) 23:53:06
大阪の伝統芸能を知りたければ、山本能楽堂で行われている
上方伝統芸能ナイトもご参照ください。
大坂舞、文楽浄瑠璃、能狂言はじめ、大阪を代表する様々な伝芸が毎回四種類ずつ
取り上げられるイベントを、コンスタントに開いておられますよ。
大阪の芸者さんも時折、芸を披露してくださっております。
ググっていただければすぐに見つかりますよ。
158
:
m
:2008/05/26(月) 00:01:55
浅学な私に対し、重ね重ねのご教授有難うございます。
先程の書き込みに気を悪くしないでくださいね。
159
:
名無しさん
:2008/05/26(月) 01:47:29
奈良県の方が芸者などかなり寂しい状況となってたかと
160
:
名無しさん
:2008/05/26(月) 10:55:10
芸者だけでなく、一般人も祭りや成人式の時以外で
もっと和服や浴衣を頻繁で気軽に着られるようなイベントや習慣があれば尚良い。
国内外にも大阪が伝統のある町って印象が上がるし、
大阪のメディアもくだらん特集してるぐらいならそうした印象付けをして欲しい。
161
:
名無しさん
:2008/05/26(月) 21:32:18
私たちの勘違いは、和服で歩く街並みが無いからこそ
居ないと勘違いしてしまった事でしょうね。
もしかして大阪にも古い町並みにはそういう格好して
歩いてる人達が居るのかも知れないですね。
私としては梅田、難波、中之島、御堂筋が
和服姿で埋め尽くされる場所でもおかしくは無いと。
どう思うか皆さんに聞いてみたいですね。
何時から和服は廃れてしまったんでしょうか。
メディアが渋谷を発信源に流行を作るのをみると。
関西では和服で歩く事をトレンドにすることは不可能では無いと思います。
162
:
m
:2008/05/26(月) 22:43:28
>和服で歩く事をトレンドにする
基本的には賛成ですが、もし流行すると、アメ村辺りのケバイ連中が「超ミニ和服」
などといった邪道に走りそうな気がする。
あと和服の衰退ですが、昭和30年代前半の難波の映像に映っているマダムたちは、ほとんど和服でした
だから昭和35〜40年ぐらいじゃないでしょうか。
この時代の30〜40代は、丁度大戦期に成人、結婚を迎えているので、和服の伝統を重んじているのではないかと思います
ちなみにWIKIでは、昭和45年ぐらいまで「ウール和服」というものが市場に出回っていたそうです
163
:
名無しさん
:2008/05/26(月) 22:56:16
すみません、お言葉ですが、ここ数年着物ブームで、
大阪市内もかなり着物で歩いている若い女性、何より男性が増えましたよ。
特に数年前から大正昭和初期の着物を安く扱うユーズドの着物屋さんが増えて
若い女性がおしゃれにそれらを今風に着こなす雑誌も多くでています。
船場センタービル界隈の問屋小売街では、そういう着物屋が増え
センタービルのあるお店などはネットで有名になり、そのお店に来るためだけに
大阪へ関東や九州などからも人が来ています。
また今橋の鶴屋八幡などお茶関連の催しを行っている場所付近では、毎日毎週のように
着物の方を多数見かけますし、先日は難波高島屋の和菓子売り場で
着物を粋(スイ)に着こなした、たぶんお茶かお花関係の方でしょうか
若い男性がお使い物らしい和菓子を購入されていました。
確実に着物は生活に根付いてきていますよ。
あまりに着物を特別視されすぎていませんか?
164
:
名無しさん
:2008/05/26(月) 23:02:41
ここで語っておられる方々、ぜひ一度、
ご自分で着物を着て街を歩いて見られてください。
男女関係ありません。
そして文楽、能、狂言、講談etc月に一度でもそれらの公演を見に行ってみてください。
昭和初め頃までは、船場の街を歩けば三味や浄瑠璃を唸る音が、其処此処から響いてきたそうです。
それは三味線、舞、浄瑠璃、それらが大店の旦那さんの常識だったからであり
お茶も書画も嗜んでこそ、一人前と認められたからです。
形骸だけ風情を取り戻そうそうとしても無理ではないでしょうか。
まず自分たちが日本が大阪が育んできた文化に身を染めて、初めてそれらの事を語ることが出来るのでは?
貴方たちは大阪の文化を守る為に月に一回でも浄瑠璃鑑賞へ行っていますか?
お茶屋遊びを体験したり、自分で着物を着てみてこそ、わかることがあるのではありませんか?
165
:
名無しさん
:2008/05/26(月) 23:04:06
ここで語っておられる方々、ぜひ一度、ご自分で着物を着て街を歩いて見られてください。
男女関係ありません。
そして文楽、能、狂言、講談etc月に一度でもそれらの公演を見に行ってみてください。
昭和初め頃までは、船場の街を歩けば三味や浄瑠璃を唸る音が、其処此処から響いてきたそうです。
それは三味線、舞、浄瑠璃、それらが大店の旦那さんの常識だったからであり
お茶も書画も嗜んでこそ、一人前と認められたからです。
上辺だけ繕って風情を取り戻そうとしても無理ではないでしょうか。
まず自分たちが日本が大阪が育んできた文化に身を染めて、初めてそれらの事を語ることが出来るのでは?
貴方たちは大阪の文化を守る為に月に一回でも浄瑠璃鑑賞へ行っていますか?
お茶屋遊びを体験したり、自分で着物を着てみてこそ、わかることがあるのではありませんか?
166
:
名無しさん
:2008/05/26(月) 23:06:16
ごめんなさい、送信できていないと思い二重送信してしまいました。
167
:
名無しさん
:2008/05/26(月) 23:17:04
そうそう、繁昌亭でも、着物で来た人にはプレゼントをするなどしています。
皆さんは先年の秋から今年の春にかけて、中之島から船場天満界隈を中心に行われていた
美術館と市井のギャラリーが協力して行っていた美術の催しをご存知ですか?
数十に及ぶ画廊、ギャラリーが様々な展示会を行い、一つ一つは小さいですが
その画廊を訪ねながら街を散策するのです。
ここで話し合う事は大切です、しかしそれと同じくらい美術館、画廊、ギャラリー、などに足を運んでください。
私は街を歩いて、面白そうなお店があれば飛び込んで話を聞きます。
そこで見つけた情報を、オンオフ両方で知人に流します。
浄瑠璃も能も、できるだけ和洋問わず大阪で行われているイベント中心に足を運びます。
必ず良い悪い、詳細にアンケートは出します、
全国版ネット情報で、大阪の直に足を運んだイベント報告をします。
そうしている内に、周囲でも、大阪にこんなものがあるんだ、と認知してくれる人が増えてきました。
新しいイベントを開こうとする動きもでてきました。
大阪の多くの人が、もっともっと身近な通りがかりのギャラリーや能楽堂に足を運んでみてください。
知人にそれらの話を振り、友達にチラシを送ってみてください。
毎月は無理でも、半年に一回は文楽や歌舞伎、落語を見に行ってみてください。
川で船に乗ってください。
それらも、ここで話し合うのと同じかそれ以上に、大切な事ではないでしょうか。
168
:
名無しさん
:2008/05/26(月) 23:22:03
大阪画壇、大阪モダニズムといわれる美術があること、
現代美術に関して、芸術写真に関して、大阪が日本の中心を担っていた事を知っていますか?
まず暮らしている人たちが文化に接して楽しもうとする、その心が
何より大切なのではないでしょうか。
169
:
名無しさん
:2008/05/26(月) 23:23:30
>>162
ウール着物は今もありますよ。
170
:
m
:2008/05/26(月) 23:40:21
いや、別に特別視はしていないのですが・・
そういう場所が出来たのは、まこと嬉しいことだと思います
しかし全体からすると、やはり圧倒的に少ないんじゃないでしょうか。
実際、街中を歩いてみても、お稽古事に出掛けているおばさん以外ほとんど和服を見かけない
和装の男子なぞなお更です(作務衣みたいな格好のニイチャンはたまに見かけますが)
一番和服を着る機会のある落語家さえ、移動は洋服ですからね。
あと男子の和装というのは、紋付の事を言っておられるのですか、それとも普通の着流しの事をいっておられるのですか
171
:
m
:2008/05/27(火) 01:12:22
あと163さんに言いたいのですが、これほど能弁なのだから、人の言葉尻を捉えて話をするのではなく、ご自身から情報を発信してみては
それともう一つ「〜だったことを知っていますか?」という上から目線は、どうもいただけない
あなたのように「ある分野に於ける専門的知識」は無いですが、ここにいる人間は結構大阪の事に通暁している
それだけは気をつけてください。
172
:
名無しさん
:2008/05/27(火) 08:58:58
>>170
、171
まず最初に、私の書き込みが上から目線のように感じられたなら、こちらにその意図は無い事を記しておきます。
ただ確かにこちらの書き込みを拝見して、書きこまれた方々にお聞きしたいという気持ちはありましたので
その焦り?のようなものがそういう形で出たのかもしれません。
それに関してはお詫びいたします。
私がそう思うに至ったのは、現状を知る事で話にもっと具体性が出るのではと感じたからです。
着物に関しても、その前の芸者に関してもそうですが、実際のその状況を調べられた形跡が見当たらないのに
(少し調べれば最近の着物ブーム、芸者の存在などは判ります)
自分の今ある知識だけを前提に、現状を知らず話が進められているよう感じました。
それでは話の具体性は高まらないのではないでしょうか。
着物が増えていると感じないとかかれていますが、多い日などは男性だけでも五、六人見かける事もあります。
まあ大抵は一人見かけるかどうかではありますが。
見かける際は、着流しあり、羽織姿あり、さすがに紋付はありませんが。インパネスを着込んだ方は
冬にちょくちょく見かけました。
それだけでも以前年間通して一度も見かけなかった頃を思えば、かなり増えていると思われます。
女性は毎日のように色々な場所で見かけます。地下鉄やバスに乗っていて、繁華街を歩いていて
当たり前のように、老若問わず歩いている人が多くなりました。
(これは大阪だけの状況ではありません。)
落語家など着物を着る仕事をしている方は、反対に着物を脱いでおられます。
着物を着ているのはほとんど普通の人。楽しむ為着ているのです。
そういう状況を全くご存じないようなのに、着物を着る、街に合わないから着ないのではという話をされているのは変ではないかと思ったのです。
あることに対して本気で話し合い新たな道を探そうとするなら、まず現状を良く知ることこそが大切ではないでしょうか。
私はこちらのサイトの存在や、大阪のために色々交わされる交流は、何時もすばらしいと思って拝見しております。
だからこそ気になったので書きこませていただきました。
それから相手の方が、大阪の事に通暁されている方であれ、或いはそうでない方であれ、
相手によって表現の態度を変えたいとは思いませんし、している心算もありません。
書き方のまずさゆえご気分を害されたなら、申し訳ないと思います。
173
:
m
:2008/05/27(火) 20:46:30
成る程よく分かりました。あなたのような識者が全体を引っ張っていくのが宜しいのではないでしょうか。(嫌味無しです)
あなたが問題を提起する。或いは大阪にこのような文化がある、と解説してくれれば、此方としても勉強になるし
それにより意見交換もできる。
先程も書いたように(蒸し返すようで申し訳ないのですが)言葉尻を摑まえて反論するのは、無責任なTVコメンテータと同じ
あなたは教えるべき人間なのだから、先生のような立場で話すことが必要かと思います
あとこれだけの文を書ける人間ならHNでも付けてみては?
174
:
名無しさん
:2008/05/27(火) 21:21:17
そんな上から目線だなんだと熱くなる話ではないと...
ここは日本なんで和服姿の人は見かけますよ。
和服姿で埋め尽くされる大阪を見たい。
昔の姿に戻したい。それだけの発言だと思いますが。
175
:
m
:2008/05/27(火) 22:06:36
すいません、連発でダメだしを食らって頭に血が昇っていたようです。
周りの方々には迷惑をかけたと思います。すいませんでした。
176
:
名無しさん
:2008/05/27(火) 22:06:41
話が余り噛み合ってないですよね。
172さんが語る普及度合と、他の人が思い描く和服像にズレを感じます。
余り長文だらけになるのも見難いのでこの辺で終わりにしては。
ちなみに私は174さんに近い考えです。女性の浴衣姿が大好きなので
祭り以外でももっと見る機会が欲しいなって思ってます。
177
:
名無しさん
:2008/05/27(火) 23:01:15
>>174
和服が昔のように、あるいは全体の50%を上回って着られるというのはかなり難しいかと思います。
まずお伺いしたいのですが、ここで和服の事を論じておられる方々は、実際着ておられるのでしょうか?
着ておられるなら何故広まらないか身をもってお分かりになるかと思います。
和服は現代日本の生活には、本当に不便で大変なのです。
階段しかり、ご不浄しかり、和服であるということで洋服に比べて追う負担不便は数限りなくあります。
それらが何らかの解消を見ない限り、それほどまでの比率での和服の浸透は難しいでしょう。
それでも現在和服を着ている人たちは、ひたすらに和服が好きだから着ている場合が多く、その人たちは街並みに関係なく和服を着ています。
確かに街並みが和服にあい、和服で暮らしやすいならもっと着る率は増えるでしょうが。
不便を嫌う人が多い昨今、街並みが純和風になった所で、着物には手を出さない人も多いだろうとは考えられます。
ちなみに私は週に一回は和服を着ています。
>>176
私も和服の人が、さらに増えてくれるならとても嬉しいと思います。そしてかみ合っていない事は切実に感じています。
>>mさん
かなり噛みあってないので、たぶんこれ以上レスしてもこじれるだけかと思います。
ただ私が書きたかった事の核は、現状を確認してから論議をしないと意味が無いのではということ
それだけです。
>>皆様
場を荒らす心算はありませんが、結果的に荒らしたような形になってしまったことを
お詫びいたします。
178
:
名無しさん
:2008/05/27(火) 23:04:01
>>177
=172です。名前欄に入れ忘れました。
長文失礼致しました。
179
:
名無しさん
:2008/05/28(水) 15:15:00
和装は重要だと思いますし、そうしたいと感じました。
ただ和装と和風街並みとは切り離した方がいいように思いますし、
またそうであるべきでしょうね。和装を頻繁に着る人であっても
純日本家屋ではないこともありますし。
伝統として、ひとつの服装の選択肢のひとつとしてあって欲しいものです。
180
:
名無しさん
:2008/05/29(木) 00:14:19
興味深い本を発見しました。『逆説の日本史』で有名な井沢元彦さんの
『歴史「再発見」物語』です。一文を紹介します。
「実は昔も「やましろ」の国といったが字は山城の「城」ではなく、「背」であった。
つまり、山背(山の後ろ)の国だったのである。
「古代において山城の国(現京都府)は、日本の中央というよりはむしろ
少し離れたリゾート地という感覚だった。」
「…なぜこんなことを長々と書いたかというと、京の都、つまり平安京
に日本の首都が移転される前は、むしろ難波の方が都であり中央であった
ということをわかっていただきたいからだ。」
「京都が千年ならば、「なにわ」は千五百年の歴史を誇る、日本の中央
なのである。」
「江戸は天下統一が可能にした大工事がなければ、首都たりえなかった。
もともと田舎大名であった家康がそういう発想ができたのは、「先輩」秀吉
に学んだからだろう。つまり、江戸は大坂の「弟」なのである。」
井沢氏は以前から東京(無論文科省)中心の視点からなる日本史に異議を唱え
安土桃山時代は安土大坂時代に変えるべきだと主張しています。
このような方が、府の教育アドバイザーに就任すれば、大阪の子供たち
、ひいては大阪府民の、大阪に対する自信と誇りが取り戻せると思うのですが。
あるいは、大阪の歴史の特別講義でもしてもらえないですかね。
181
:
m
:2008/05/29(木) 20:45:03
言うまでもなく「難波の歴史」というのは、京都よりも長いです。
ただ793年に「摂津職」が廃止された以降、中心という意味では、織豊期まで力を失っていたような気がします。
(府下には南朝の御在所などがありますが、やはり落ち延びた先でしかない、ちなみに「畿内近国」という意味では絶大でしたが)
この中世の長い期間をどう捉え、どう形作っていくかが問題でしょうね。
今のままでは「古墳(古代)と大阪城(近世)だけ」と言われかねないような・・
あと狭義の意味での「大坂」は江戸同様、新興都市ではないでしょうか。
これは大坂に限らず、破壊された京も同じだと思うのです。
破壊を逃れた堺や平野のほうが古い。
その辺りから教育をしていけばいいのではないかと思います。
そういう事を教えていけば、妙な偏見も生まれにくいと思われますが。
182
:
名無しさん
:2008/05/29(木) 22:00:46
新興という意味の大阪は、大阪城船場界隈、と言うことになるのでしょうか。
その後の大阪の中心部ですね。
ただ大阪には、四天王寺寺内町、平野、住吉、堺はじめ、多くの古くからの都も点在しており
それらがどのように関りあっていたのかが、実際にはまだ研究され尽くしていない段階です。
その確定がはっきりしない限り、江戸と同義の新興とは言い切れないかもしれません。
183
:
m
:2008/05/29(木) 22:42:46
その微妙なとことが「中世大坂」の難しいところですね・・
ちなみに狭義の大坂と言ったのは「船場」の事です。
ただ大坂城築城時「堺から強制的に町衆を移動させた(間違ってたらすいません)」
とも云われておりますので、船場界隈、つまり大坂中心部は比較的新しい街だと思われます
ただこの地域に、その前から何も無かったとは言い切れませんし・・
このあたりの歴史は本当にややこしい。
(資料はあるのですが、国人衆とかそんなのばっかりです)
184
:
名無しさん
:2008/05/29(木) 23:10:51
政治的な中心性は確かに中世の大坂には無かったが
中世の大坂は貿易で堺が大坂本願寺によって宗教都市都市として
経済的に繁栄し近世への基盤になったと思いますが。
中世の大坂・堺を代表する経済都市といっても
差し支えないのではないでしょうか。
中世前半、遣唐使が廃止されて以降と室町時代に
堺が栄華を極める間が大阪の停滞期かな。
それでも鎌倉時代に始まる太子信仰の
中心地ではあったわけだが。
185
:
名無しさん
:2008/05/29(木) 23:36:11
すみません、
中世の大坂は貿易で堺が、大坂本願寺によって大坂が、宗教都市都市として繁栄し、と言う文の流れでしょうか?
ちょっとつながりがわかりにくかったのですが・・
しかし五木寛之が言っているように大阪という都市は、宗教都市としての色を濃くもっていることは確かでしょう。
太子信仰の本拠地であり、奈良時代に当時としては驚くほどの人を集めた四天王寺寺内町
蓮如の大坂本願寺、平野の融通念仏の大念仏寺、古来より天皇が継承を行なう際禊ぎを行なった住吉大社、
熊野詣には八軒家浜より熊の街道は始まっている。
現代においてでさえ、御堂筋はその名の通り南御堂北御堂を在している。
そしてほぼそれらは、古来より現代に到るまで活動を停止した時期はない。
「大坂・大阪・逢阪」という範囲を、或いは「難波、難波津・浪速」という範疇を
どこまでと規定するかによって、その姿は全く違って見えることでしょうね。
186
:
名無しさん
:2008/05/29(木) 23:39:49
>>183
秀吉は船場を作り上げる際、堺からだけでなく、京都からも難波市中からも、その他多くの場所から
様々な人を連れてきました。
(後に家康が江戸を作り上げた時、大阪京都から多くを連れて行った。要するに秀吉を真似たとも言われていますね)
それゆえ大阪には様々な地域の地名が町名として残っています。
187
:
名無しさん
:2008/05/30(金) 00:03:06
難波津に関してですが
最後の遣唐使船は838年難波津を出航、その後も即位儀式八十嶋祭、伊勢斎宮帰任時禊地、と位置付けられ
王朝貴族が難波に赴くことも多かった。
平安京と難波津を結ぶ航路は行きつづけ、難波津には都市が形成されていたと読んだ事があります。
また中世盛んだった熊野詣は、必ず八軒家浜から四天王寺、住吉大社、王子神社などを経ています。
熊野詣をしなくとも、中世期、王朝貴族の摂津四天王寺詣で、住吉大社参りは盛況を極めていました。
また今の大阪市区域のそこここに、荘が置かれ活発な商業活動が行なわれていたそうです。
かなり以前に読んだ本なので、うろ覚え間違いなどあったらすみません。
188
:
m
:2008/05/30(金) 01:52:24
「安土町」などといったところはその典型ですね。勉強になります。
あと>187さんのご意見ですが、概ね(此方も自信がないので)合っていると思います
というのも「熊野詣は京からでは距離が遠すぎる、だから近場で済ます」という事例が
多々あったようです(ちなみにこれも、昔読んだ本なのでうろ覚えなのですが・・)
189
:
名無しさん
:2008/05/30(金) 08:19:37
高野参り、熊野詣でと同じく、四天王寺参り住吉詣では盛んでした。
近いからという意味からだけではなく。
190
:
名無しさん
:2008/05/30(金) 10:36:21
少し話しはずれますが、四天王寺の特集本を読んでいて本気で驚いたのが、
物部守屋一族関係者が守屋一族の供養者として、最近まで(今も?)
四天王寺千四百年にわたり、連綿と四天王寺関係者として存在しつづけていたということです。
もともと仏教信奉者と日本古来神道信奉者との戦いの、勝利祈願を四天王が聞きとどけたもうた事への感謝で
建立された四天王寺ですが、そのもう一方の顔として、
滅ぼされた神道信奉者であった物部守屋の供養場としての姿も持っており、
そのために守屋追討後、生き残りを許された守屋一党が、子々孫々、四天王寺に関ってきていたそうです。
(今も関っているのかどうかは、個人に関するプライバシーへの配慮か書かれていませんでした。)
しかしこれを聞いた時、身震いするほど日本の生きた歴史の重みを感じました。
四天王寺へのイメージが本当に変わりましたね。
191
:
名無しさん
:2008/05/30(金) 11:38:47
天王寺阿倍野界隈は、上記を観ても判るように
歴史的にとても大きく深いポテンシャルを持っていると考えられます。
天王寺公園にある茶臼山古墳に隣接する河底池は、確か河内湖の名残といわれていたかと思いますし
天王寺七坂の背景にあるこんもりとした森は、千年以上前から続いている、市内唯一の原生林です。
安土大坂時代の遺構、太閤の史跡、etcetcが存在する、あの界隈のもつポテンシャルを
もっともっと打ち出していくべきでしょうね。
192
:
名無しさん
:2008/05/30(金) 21:41:03
>>181-184
堺と新興都市大坂の部分について私の持ってる本から書き出してみました。
参考になるかどうか分かりませんが。
●なぜ、堺が「国際情報都市」となったのか。
>きっかけは応仁・文明の乱(1476年)
>応仁・文明の乱が勃発するまでの日明貿易の港は兵庫湊であった。
>乱以後、兵庫湊が使えなくなると堺がそれにとって代わり、国際港としての賑わいを見せ始める。
>(1549年)にはフランシスコ・ザビエルがマラッカの司令官あてに
>「堺は日本の最も富める湊にして国内の金銀の大部分が集まるところなり」
>との報告を出すほどの繁栄を既にしている。
193
:
名無しさん
:2008/05/30(金) 21:41:41
>次に、堺が何故情報の交差点となったのか。
①堺が一つの権力に掌握されていなかった。
>一つの権力に支配されているとそこからの情報しか入らないが、堺は自治都市であり情報がフリーであった。
②堺が好立地の場所であった。
>京都、奈良に近く、新興都市の大坂、そして瀬戸内海航路、南海航路の終着点であった。
>このためおびただしい数の商人が集まり、また商人といっても物資輸送専門の商人が多数
>集まったため、もたらされる情報が他都市の比にならなかった。
③堺の文化的環境
>会合衆を中心とした富裕な商人が多数いたため、彼らが多様な文化を育てた。
>茶の湯が代表的であり、千利休、今井宗久などの茶人を生む。
>もう一つが連歌である。当事の資料を見ると多数の連歌師が堺を訪れている事が分かる。
>当事の連歌師は「漂泊歌人」とも言われるように旅を中心とした文化人であり
>彼らからもたらされる情報も多彩であった。
194
:
名無しさん
:2008/05/30(金) 21:43:14
>しかしその後、その情報網から織田信長の勢力拡大の情報が当然のごとく
>入って来た為、堺は信長に対する対応を迫られる事になります。
>堺はその情報網、そしていち早く鉄砲などの生産地として発展したため
>信長から目を付けられる事となり矢銭(軍費)徴収を求められます。
>一時は抵抗を見せた堺でしたが、信長に抗する事は破滅に繋がるとの判断から
>信長に協調路線をとる堺の商人グループにより信長の支配下になることを選択します。
>この後、信長・秀吉の保護の下、堺商人は繁栄、大坂の発展に寄与します。
195
:
m
:2008/05/30(金) 22:16:48
好適な資料有難うございます。
四天王寺建立の意味、物部氏討伐は有名なところですが(何でも陣形を四天王型にして、必勝を祈願した云々・・)
そういう話は初めて聞きました。現在、プライバシーの問題もあり、姓は出せないでしょうけど
興味深い話です。ちょっと調べてみる価値はありますね。
あと、戦災前の四天王寺の伽藍の図、もしくは古写真があったら、教えてもらいたく思います。
196
:
名無しさん
:2008/05/30(金) 22:42:53
いわゆる「商業色」で大阪を見るのなら秀吉以前の特に「室町期」は堺がその役割を持ってました。
そして「宗教色」としての大阪、いわゆる大坂本願寺も堺とは深い繋がりがあったのは確実と思います。
石山戦争で信長を10年苦しめた彼らの鉄砲調達は全て堺からだったはずです。
197
:
名無しさん
:2008/05/30(金) 22:46:24
堺の話題のスレでやってください。
198
:
名無しさん
:2008/05/30(金) 22:47:14
別にここは「大阪市」に限定してるわけじゃありませんよ。
199
:
名無しさん
:2008/05/30(金) 23:05:33
「大阪」の歴史だからね
堺の話とか四天王寺の話は面白いです。
200
:
192
:2008/05/30(金) 23:16:19
次回は●「なぜ大坂が天下の台所になったのか」の項目についても書き出す予定なので
よろしうお願いします。
201
:
名無しさん
:2008/05/31(土) 15:52:32
>>192
面白いお話をありがとうございます、
ただ新興と述べてしまう場合の、大阪の範囲をきちんと提示していただけますか。
神代の昔から時に応じて都となり宗教都市となり経済地となり、また政治が離れている間でさえ
荘が置かれ全く政治と無関係だった時期もなく、大阪難波摂津と呼ばれる範疇が、
実質歴史的に名前の出ない時期はありません。無論その度ごとに微妙な中心部の変化はあったかと思われますが
(例えばつい近世まで大阪の端であり中心ではなかった梅田が、今は中心の一つになっていますが
だからといって梅田を新興と呼びはしないと思います。まあ極端な例ですが)
大坂を新興都市と呼ばれるのは、かなり違和感を感じざるをえません。
また、堺の事をメインにお書きになりたいのなら、堺スレがあるのですからそちらに書かれた方が
堺に興味ある人たちの目にも留りやすいかと思います。
ここが大阪スレだからいいのだと思われるなら、堺スレのある意義が無いのではないでしょうか?
少し不思議に思いましたので、書き込みさせて頂きました。
202
:
名無しさん
:2008/05/31(土) 15:56:40
確かに堺は大阪との関連は深いですね。
大阪市中にて高津宮を治めていた仁徳天皇が、堺に御陵を作った頃からも
縁があるのですから。
御陵というのはどういう基準で置かれたのでしょうね。
奈良に置かれていた都の天皇陵が大阪にありますし、
聖徳太子の御陵も、大阪太子町にあります。
なにか風水的な意味があったのでしょうか。
203
:
名無しさん
:2008/05/31(土) 15:59:51
>>200
お手数ですが、参考資料文献先も教えて下さい。
興味深いので読んでみたいです。
204
:
名無しさん
:2008/05/31(土) 16:01:44
>>195
四天王寺の古写真は、たしか雑誌・大阪人のバックナンバーか
大阪春秋などに載っていた気がしますよ。
205
:
名無しさん
:2008/05/31(土) 17:15:03
>>201
>堺の事をメインにお書きになりたいのなら、堺スレがあるのですからそちらに書かれた方が
>堺に興味ある人たちの目にも留りやすいかと思います。
>ここが大阪スレだからいいのだと思われるなら、堺スレのある意義が無いのではないでしょうか?
このスレを建てたものですが、あくまで私は『大阪府』『大阪』内の歴史を対象に
考えて建てたので堺の歴史も当然含んでます。河内の楠木正成でも岸和田でも多いに結構です。
どちらのスレに書き込むかは個人の自由ですし、両方に書き込んでも問題は無いって立場です。
192は良ければ堺スレにも転載しますが。
206
:
名無しさん
:2008/05/31(土) 17:38:47
ここの1、2、5の項目
http://www.geocities.jp/weathercock8926/20080511paper.pdf
207
:
名無しさん
:2008/05/31(土) 18:48:26
それなら堺の方にも転載した方が、堺の話題をメインに求めてくる人には親切だと思いますよ。
208
:
名無しさん
:2008/05/31(土) 21:51:21
相互関係の話の中で流れてる話なんで態々堺の場面だけ
向こうでしろってのもおかしなもんだと思いますよ。
それじゃ情報提供してくれた人に失礼だと思いますが。
兵庫や奈良の繋がり話しちゃいけなくなりますよ。
209
:
名無しさん
:2008/05/31(土) 23:02:39
>>201
賛成です。
確かに明治政府が決めた広域行政自治体としては、堺も大阪なんですが
堺が古くて大坂が新興都市などとはどうも違和感があります。
せっかく堺のスレがあるんですから、そっちで話されては?
210
:
名無しさん
:2008/05/31(土) 23:21:15
そういえば仁徳天皇の都が大阪市中にあったということを知らず
堺市内にあったと思っている人が結構いるそうですね。
横浜在の知人が以前に言っていたのですが、横浜は歴史が浅い。
そのせいか今は徹底して子供たちに、横浜の浅い歴史をすばらしいものとして教えているそうです。
横浜の歴史を綴った歌は、横浜住人なら全てが歌えるとさえ言っていましたが
大阪は、あまりにも地元の歴史教育に無頓着すぎますね。
211
:
名無しさん
:2008/05/31(土) 23:26:25
違和感があるのであれば、反論材料の文献なり、ソースなり提示して説明すればいいと思いますが。
別に荒らしてるわけでも何でもなく、スレの流れの中で堺にスポットを当てているわけで
それを「向こうのスレでやれ」って返し方の方がよほど違和感を感じます。
何か気に入らない論調でもありましたでしょうか。
堺だって今の「大阪府」の一員である事は間違いはありません。
212
:
名無しさん
:2008/05/31(土) 23:29:27
大阪の歴史、特に日本国家成立に関わる古代史は深すぎますね。
京都は1200年、奈良(平城京)は1300年、大阪は1500年の都の歴史。
大和飛鳥より大阪が古い。大阪の応神朝以前に三輪王権が存在したと言う説もあるが仮説の域は出ません。
現在の天皇家や日本国家の体制が確立したのが4世紀末から、5世紀の応神朝の「大阪王朝時代」。
中国の歴史書にも出てくる有名な「倭の五王時代」。この時代倭国(日本)は朝鮮半島南部を支配し、
百済や新羅を引き連れて、高句麗と戦ったと好大王碑文にもあり、中国からも「安東将軍」の称号を得て東アジアの支配権を確立していました。
大阪に首都があった5世紀頃が倭国が対外的にも最も強大な支配権を確保していた時代です。
現在、確認できている古代の都で最古はこの応神−仁徳時代の大阪。それ以前の4世紀は空白の4世紀と呼ばれる時代で都の所在や王権について確たる確証はありません。
いわゆる騎馬民族渡来説や王朝交代説もあり、4世紀の倭国は変動期にあったようです。
その騎馬民族も主に大阪平野に渡来して住み着いたことが発掘で判っています。
大阪平野には馬の牧場とか馬型埴輪が多数発掘されています。
それを遡る3世紀の倭国は邪馬台国の卑弥呼の後期弥生時代。北九州の博多湾に根拠のあった、
奴国(那の津)が強大化して、やがて宗教的権威者の卑弥呼が倭国全体の王に祀り上げられ、大和を中心とした
統一国家を形成したのが邪馬台国(大和国)と言うのがおそらく真実でしょう。
中国の史書にも「倭国は古の倭奴国である」と書かれていますから。
但し三世紀の邪馬台国の卑弥呼の大和王権と5世紀の応神朝の王権が継続性があるかどうかは判りません。
3世紀に卑弥呼が支配した後、4世紀頃には一時期丹波(丹後)地方の王権が強大化して畿内を支配したのではないかと言われています。
山城に椿井大塚古墳という大規模な古墳がありますが被葬者は丹後地方の有力者といわれ、山城には丹波橋とか宮津とかいう丹後地方の地名があります。
更には奈良天理あたりお昔は丹波市と呼ばれていたようです。この時代丹波の有力者の海部氏が畿内から伊勢、東海辺りまで支配し、伊勢神宮や熱田神宮の基礎を作ったといわれています。
その一族の有力者が大阪河内地方の石切あたりを支配し、その地域が、ひのもと:日下(くさか)と呼ばれていて、
日本国(ひのもと)の語源となったというのが谷川健一説です。5世紀の応神朝時代前後に丹波の支配層は応神朝に服属したのでしょう。
中国の史書にも「日本国元は小国で倭国の別種なり。...倭国が日本国を併合した」とあります。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/7-4tubaiootuka.htm
213
:
名無しさん
:2008/05/31(土) 23:48:58
>>211
そうではなく、堺スレがせっかくあるのに、といっているのでしょう?
どちらにしてもけんか腰になる必要は無いのでは?
214
:
名無しさん
:2008/05/31(土) 23:54:31
>>212
卑弥呼時代たぶんその頃も、大小さまざまな部族集落があったのでしょうね、
ただ歴史を後世に残すのは、権力を握る事のできたものだけで
歴史は時の施政者に都合よくつくられますから。
215
:
名無しさん
:2008/05/31(土) 23:56:57
話の流れで思ったんですが、堺の大仙陵、気球によって上空から観光という事は出来ないのでしょうかね。
綱は地上に固定したままなら、そう危険性もないと思いますし。
216
:
名無しさん
:2008/06/01(日) 00:02:14
>>213
208さんも言うように、あくまでスレの流れの中で書いた事ですので。
ここに書いても全く問題ないと判断しました。
「大阪府」の歴史スレですしね。
喧嘩を売ってるつもりは全くないですよ。そちらの意図は知りませんが。
217
:
名無しさん
:2008/06/01(日) 00:14:27
すでにけんか腰ですよ<216
まあもうやめたほうが良いでしょう。スレの雰囲気が悪くなりますから。
218
:
名無しさん
:2008/06/01(日) 00:16:02
補完
止めるというのは、歴史に関係ない言い合いのような書き込みは、という意味です。
粛々と歴史の話をしていきましょう。
219
:
名無しさん
:2008/06/01(日) 00:35:35
私もこういう流れは本意ではないのでこの辺で終わらせます。
ただ議論をしていれば『意見がぶつかる』事は必ずあります。
その時にスレ違い的な方向へ誘導するのでなく、
あくまで発展的な議論へ持っていけたら一番いいと思います。
それがお互いの知識がより深まる事につながりますし、有意義なスレとなるでしょうし。
220
:
名無しさん
:2008/06/01(日) 01:22:50
>>212
神功皇后の東征とか史実と思ってもいんじゃないの、
日本書紀の記述は軽視されすぎだと思う。
実際日本書紀の記述の正しさは、史実のある程度の反映だけでなく
記述通り古墳とかちゃんと発掘されてるしね。
221
:
名無しさん
:2008/06/01(日) 02:20:57
>>219
蒸し返す心算は毛頭ありませんが、堺スレがあるのでそちらへの誘導は
すれ違いではありませんよ。
だいたい意見はぶつかるというほども行っていないと思います。
まあもう辞めましょう。ほんとに。
222
:
名無しさん
:2008/06/01(日) 02:26:31
>>220
その時の施政者が出した歴史書を、鵜呑みにするのはなによりも危険だとは思います。
日本書紀はじめ他様々な古文献に、多くの史実が散りばめられているとは思いますが
ちりばめられたピースで組み立てられたその形が、史実と=ではないという事は
歴史書によくある話しですし、現在行われている一極集中政策を見ていても
嫌というほど、一方的な視点を疑う必要性は痛感します。
そこが歴史の一番難しい所ですね。
223
:
名無しさん
:2008/06/01(日) 07:44:10
>>220
神功皇后の三韓征伐などかつては虚構であるとされていたことが、
最近の高句麗の好太王碑が史実であったことが確認されて、史実の反映で
あるという見方になっていますね。神功皇后は応神天皇の母親であり、
日本史において重要な意味を持つ。この辺りも含めて、応神天皇、仁徳朝時代
前後の歴史的史実の解明が重要だと思います。
224
:
名無しさん
:2008/06/01(日) 15:01:08
貴鶴かわいいよ貴鶴
225
:
名無しさん
:2008/06/01(日) 16:21:28
周りが見えてませんね。
どうみても大阪の歴史を語っていってるわけで、
それは「日本の歴史」を語ってるわけで。
堺スレについて
何か書きたい事があればあなた自身が書けばいいことですよ。
スレの選択権はふたつあると言いながら、向こうで書けじゃ、
今後堺の歴史はここでは書くなと言ってますよそれじゃ。
何度も言いますが情報提供者にとやかく言うのは失礼かと。
ここには大阪府以外を語る近畿百科スレがありますが、
それを根拠に大阪府圏外の歴史は
ここでは語るなと言ってるようなもんですが。
選択権は情報提供者さまのものです。
226
:
208
:2008/06/01(日) 16:27:18
208が言わせてもらいました。
227
:
名無しさん
:2008/06/01(日) 18:27:24
>>221
どうでもいいですが、あなたも十分喧嘩腰ですよ。
やめようと言いながらいつまでも粘着する姿は醜いです。
228
:
m
:2008/06/01(日) 19:54:17
「摂州」という括りからすると、神戸、京阪神間もある意味大阪の歴史。
同様に「堺のスレ」でやれとか、相互間の繋がりを無視して、限定的な話に止めろと言うのは
かなり無理がある。ここは「大阪の歴史」を語る場なのだから、相互間的な歴史観もありでしょう。
229
:
m
:2008/06/01(日) 20:03:52
ところで話は変わりますが、色々な本を見ても、「大阪四師団」の悪いイメージしか書かれていない。
「また負けたか八連隊(大阪)、それでは勲章九連隊(京都)」など、その最たるものです。
八連隊の生き残りは、その汚名を返上しようと努力されていたらしいのですが、最早それも風化しつつある。
別に戦闘で強い部隊がいいとは言いませんが、大阪を馬鹿にしたようなレッテルはいただけない。
まぁそれすらも風化使用としている現在ですから、敢えて持ち出す必要のない話題だと思いますが、
皆様方、このような書き方に対し、どうお考えでしょうか。
230
:
名無しさん
:2008/06/01(日) 20:28:50
>>222
確かにマスコミ報道も自国内の報道は当局に対する遠慮があって自由なことはいえないが
外国に関する報道は比較的自由にできるという話はありますね。
そういう意味でも日本史に関しては古事記や日本書紀だけではなく、中国の史書も比較しながら
複眼分析するのがベストなのですが残念ながら4世紀頃の一番日本史で重要な部分で中国の史書に
空白部分があって東アジア世界の情勢変化が見えない部分があるのが問題です。
我々が学んだ内容では、大和朝廷成立期の大阪の重要性の記述が欠落していると思います。
大和朝廷に関しては、4−5世紀の古墳時代に大和地方の有力豪族が次第に国家統一の方向に向かい
やがて大和地方の統一首長を「大君」として立て始めそれが大和政権の基礎となったという風な
記述でした。
しかしながら、事実は、大和地方の漸進的な王権拡大が徐々に進んだというよりも、5世紀頃大阪に
忽然と強大な首長政権が誕生し中国や朝鮮半島とも国際的に活発な外交・軍事行動を展開し、
巨大な土木工事(仁徳陵建設)や首都建設(高津宮)を実行したというイメージが強いですね。
大和地方が古代の全ての中心という概念は一度払拭する必要があるかと思います。
231
:
名無しさん
:2008/06/01(日) 20:43:37
>>229
イメージほど悪くなかったとも聞きますね。
今では余り話題に出ない話ですし、話題に出す人間が居た場合に
やはりネット上で少しずつ名誉回復していくのが一番かと思います。
232
:
m
:2008/06/01(日) 21:00:56
歴史編纂にあたり「畿内」という言葉の意味を完全に忘れていますね
近江しかり、近畿を歩けばどこでも「〜宮」というものに出くわす
それを無視して230さんの言うとおり、ザックリと藤原(大和)→平城(大和)→平安(京都)とするのは、やはり違和感を感じざるをえません
(あえて難波宮、長岡京その他は外させてもらっています)
ただ現段階では「かなり大きな都城が組まれていた」という事しか判明していないのも事実です
(この前、大和川沿いで、難波宮の朱雀大路跡?が発見されたという記事がありましたが、内裏はともかく、実際はその程度しか分かっていない)
この辺りの発掘調査を今後どのようにしていくかが、目下の問題ではないでしょうか。
特に古代史は歴史的文献が無い(或いは信憑性に欠ける)ので、歴史家としてはこれ以上踏み込めないのだと思います。
あと大分前に「中世大阪には「壮」があったから、大阪の歴史は廃れていない」という書き込みを見たのですが
荘園はあくまで領主と、その下で隷従する人間といった二元的な「自己完結的」世界であり、これを都市と見なすことは出来ません。
233
:
名無しさん
:2008/06/01(日) 21:29:18
古代史の舞台は全て、奈良(大和)か京都という歴史教育の偏向や一般人の思い込みが
は大きいですね。マスコミ人や一般の知識人や学者ですらそう思い込んでる。
少なくとも飛鳥よりも大阪の方が歴史的に古いということくらいは理解して欲しいですね。
234
:
m
:2008/06/01(日) 21:42:35
多分(あくまでですが)近畿圏以外の人間からすると、都城は飛鳥、奈良
僻地の河内和泉に墳墓を造る。といった構図が生まれているのではないでしょうか
墳墓というものは、通常都城の近くに造成されるにもかかわらずね。
235
:
名無しさん
:2008/06/01(日) 22:16:35
やはり「飛鳥」が奈良と大阪の両方に存在したこと。(近つ飛鳥と遠つ飛鳥)
そして古代の竹内街道(大和と難波京を結ぶ古代最重要な街道)を
もっと大阪府はアピールしないといけませんね。
それから何とか難波宮の復元再建や高津の宮の考古学的発見は出来ないものでしょうかね。
236
:
m
:2008/06/01(日) 22:40:26
>235
「近つ飛鳥文化博物館」というものが竹内街道沿いにあります。
僻地です。駐車場はあってないようなものです。あと坂がキツイので車高の低い車は出入りできません
ちなみに内容は酷く乏しい(見る人によって個人差はあると思いますが)
こんな施設は早く合併すべきだと思います
最後の一文はスレ違いなのでスルーして読んでください。
237
:
名無しさん
:2008/06/02(月) 00:50:02
日本は古代の歴史研究が遅れてるね。それはやはり「万世一系」が
古代の研究を妨げているのだろうか。歴史好きには古墳時代は
ほんとロマンがあるんだけどな。大陸との関係とかダイナミックな
歴史は、現代人の思う歴史のスケールを越える。
その中心が難波津(大阪)と言うのも大阪人として嬉しい。
238
:
m
:2008/06/02(月) 00:52:06
>231
鉄道唱歌に「三府の一に位して、商業繁華な大阪市。豊太閤の築きたる、城に師団は置かれたり」
これを聞くたびに矜持といいますか、グッとくるものがあります。
239
:
名無しさん
:2008/06/02(月) 02:27:09
2000000以上あった借金全部、この2ヶ月で返済できたし
今日までのオイラは、ここで終わりです。
んで明日からはクリーンな人生が始まるとです!
仕事はクリーンじゃないがね(((*≧艸≦)ププ…ッ ⇒ http://0X2B.244.41.0XDB/ppp/qr4gbzM/
240
:
名無しさん
:2008/06/02(月) 16:44:25
どういう話題であれ、けんか腰は止めませんか、皆さん。
ここは2chではないのですから。
241
:
名無しさん
:2008/06/02(月) 17:17:17
難波大道の一部出土 大和川今池遺跡
2008年05月21日
「難波大道」の全景(写真奥が北)=堺市北区と松原市の市境、府文化財センター提供
府文化財センターは20日、堺市北区と松原市天美(あまみ)西の市境にある大和川今池遺跡から、
難波宮(なにわのみや)(大阪市中央区)から真南にまっすぐ延びた官製道路「難波大道(だいどう)」
の一部(70メートル)を発見した、と発表した。側溝から見つかった土器のかけらの年代や、
大道が前期難波宮(645〜686年)の中央線を通る位置関係にあることから、飛鳥時代中期(7世紀半ば)に造られた可能性が高まった。
同センターによると、難波大道の遺構は1979年と94年の調査でも、
今回のすぐ南側から断片的に見つかっており、これで計280メートルの存在が確認された。
道の両側の側溝跡から、道路幅は藤原京(奈良県橿原市、694〜710年)の朱雀大路と
ほぼ同規模の約18メートルだったこともより確かになったという。
現場は、難波宮から南に9・4キロの地点。さらに2キロほど南で「竹内街道」と
交わり、藤原京や、外国の使節団などが来訪した大阪湾岸をつなぐ幹線道路だったとされる。
平安時代には使われなくなったと推測される。同センターは「直線的な道路は、律令国家
体制の力の表れでもある」としている。
これですね<
242
:
名無しさん
:2008/06/02(月) 17:27:12
>>232
荘があったということは都市であったかなかったか、どちらの判断材料にもなりません。
また中世、少なくとも阿倍野、平野、天王寺(四天王寺)、難波津、住吉など
現在の市内に当たる範疇でもかなり大きな経済活動が行なわれていた記載が残ってはいますが
その当時の経済活動の大きさの規模がよく判ってはおりません。
その辺りが中世の難しい所ですね。
243
:
名無しさん
:2008/06/02(月) 17:53:58
昨日NHKで京都の特集をしていましたが、見事なほどの京都ヨイショでした。
京都は日本の歴史そのもの、京都あっての日本・・・臆面もなくそういうセリフが次から次へと
コメンテータからも一般募集ファクスからも垂れ流されるのには、京都が嫌いではない自分も閉口してしまいました。
このマスコミの体質はどうにかならないのでしょうかね。
244
:
名無しさん
:2008/06/02(月) 21:09:00
上岡龍太郎とか浜村淳はそんな事は言わないのにね・・
最近ある番組の映画紹介で、主演女優かなんだかが
「私の誇れることは「京都生まれ」だということです。だって京都ってみんな好きでしょ。
だから私の誇れるものは京都です」と言い切ってました。
このあざといというか、押し付けがましい根性のどこに「雅」や「奥ゆかしい」という言葉が
出てくるだろうか。
あと申し訳ないですが、この手の話題は「偏向スレ」でやってもらえませんか。
245
:
m
:2008/06/02(月) 22:35:55
守護領国制の体制が確立した時期に、近代型の都市が生まれたのではないかと思われます。
町衆と国人衆の相互依存的な自治が「都市」という機能を持たせたのは云うまでもないことです。
年代でいうと、大体13世紀前半ぐらいからと思います。
246
:
m
:2008/06/02(月) 23:14:33
>245
すいません15世紀前半の間違いです
247
:
第2部・文化分厚く/1 どっこい花街の意地
:2008/06/03(火) 13:14:41
かつて大阪には、京都をしのぐ花街があった。今は北と南にお茶屋組合に加入するお茶屋が3軒、芸妓(げいこ)が20人いるだけ。最も格が高かった北新地は、1970年の大阪万博まで、夕方ともなると髪結いや着替えに走る芸者さんが行き交った。今や飲食店ビルが建ち並び、往時をしのぶよすがもないが、どっこい、花街の意地が生きている。
昨秋から北新地は「何十年ぶりかの快挙」に沸く。20歳代前半の芸妓が2人も入ったのだ。さく良さん(20)とさく与さん(23)が、古美術商が軒を連ねる老松通りの北新地組合に、踊りのおけいこにやって来た。
「浪花夜ざくら ひとめ見よとて車走らせ息せき切って 着いたところは北新地」。かんざしを挿したかつらにおしろいを塗った2人が、お姉さんのさく一さんの三味線で、調子の良い「北新地音頭」を舞う。振り袖のさく良さんの帯は、ちょう結びを斜めにした独特の結び方。京都の舞妓は「だらり」だが、これが北新地の形だ。
さく良さんは芸妓にあこがれ、高校生のころ京都・祇園に問い合わせたが、「15〜16歳でないと」と断られ、さく一さんのブログを見て連絡を取って弟子入りした。
「何もかもが初めてなので。おけいこもお座敷でも、いろんな方にお会いできるので楽しいです」とさく良さんが屈託なく笑えば、さく与さんは「さく一姉さんみたいに踊りも三味線もできる芸妓さんに」という。
2人は、明治から続く芸妓を派遣する検番「平田席」に籍を置く。北新地に検番は2席残り、14人の芸妓がいる。お茶屋200軒、検番11軒、芸妓700人を数えた昭和初めに比するべくもないが……。
さく一さんは「2人が入って、おけいこ場とかはんなりしましたよね」と喜びながら、「まだ素人さん。玄人に近付いてほしい」と厳しく見守る。好きで入ってきたのに、お座敷が少ない。活躍の場をどう作ってあげたら、と周りの姉さんたちは気をもむのだ。
老舗のお茶屋の看板を継ぐおかみはあいさつに来た2人にこう言い聞かせた。「けいこごとはしっかりおやり。昔は芸ない芸者は『あの子は“者”やからアカン』言うたからね」【松井宏員】
◇
「おおさか風味」第2部は、伝統を明日に伝えんと模索する大阪の知られざる文化をみる。
毎日新聞 2008年6月2日 大阪夕刊
http://mainichi.jp/kansai/taste/news/20080602ddf001040003000c.html
248
:
名無しさん
:2008/06/03(火) 22:17:19
いまさらだが
まんが日本昔話の打ち切りは駄目だな。
日本の道徳、日本の歴史、日本の伝統を子供に伝える
格好の作品だったのに...
249
:
名無しさん
:2008/06/03(火) 22:26:18
「まんが日本昔話」は全て東日本の方言なのが気に入らない。
関西の昔話まで東日本方言
250
:
名無しさん
:2008/06/03(火) 22:36:02
製作はMBS、在阪局の作品は視聴率悪いとすぐ打ち切るイメージがある。
ローカル枠で結構。まんが日本昔話は続けるべきだった。
251
:
名無しさん
:2008/06/04(水) 00:12:51
こまめに方言復活願いも、テレビ局などにメール送る際書きこんだほうがいいかもですね。
252
:
名無しさん
:2008/06/04(水) 02:18:46
うーん、それより個人的には、間違った方言を間違っているとちゃんと直して欲しいかな
間違った方言や誇張した方言は絶対に使わないようにして欲しい、放送は特に
253
:
第2部・文化分厚く/3 垣根越え芸能ナイト
:2008/06/04(水) 19:34:20
大阪市営地下鉄・谷町四丁目駅近くのオフィス街に、能楽堂があるのをごぞんじだろうか。山本能楽堂(大阪市中央区徳井町1の3の6)は戦災で焼けて戦後再建されたが、1927年の創立から80年を迎える。
4月から「初心者のための上方芸能伝統ナイト」が毎月第1、3土曜の午後7時半から開かれている。落語や能、講談、文楽など四つの上方芸能のさわりを15分ずつ見せる欲張りな企画。「緊張と緩和」よろしく、古典と大衆芸能があんばい良く入っている。昨年、大阪市などが季節ごとに催した「芸能ナイト」を自主的に発展させた。そこには「芸能のジャンルを超えて横のつながりを作り、大阪を盛り上げよう」との思いがある。
5月17日の舞台。檜皮(ひわだ)ぶきの屋根に黒光りする能舞台は国の登録有形文化財。さじき席に座るとほどよい緊張感に包まれる。盛り上がるのが、演目の合間の体験コーナーだ。希望者3人が足袋を履いて舞台に上がり、浪曲師の春野恵子さんから「なにがなにしてなんとやら〜」と、三味線に合わせて音程を取る手ほどきを受けた。たまに音程が外れ、客席が沸く。
喝采(かっさい)を浴びた大阪狭山市の劇団員、古沢紀子さん(27)は「日本人としての一体感みたいなのを感じました。いいところばっかり見られて、おいしいです」。アメリカからの留学生、セルダ・マリソルさん(19)は日本舞踊に魅入られ「上方の文化を感じた」と満悦だった。
最後に能を舞った能楽師の山本章弘さん(47)は主催の意図を「0を1にしたい」と話す。見たことのない人に上方芸能に触れてもらい、気に入った芸能のファンになってもらえればと。山本さんは能の敷居を下げることに腐心してきた。定期公演「山本定期能」を「山本さんしか来られないみたいな名前」と、「たにまち能」に変え、05年からは、仕事帰りに気軽に鑑賞できる「とくい能」を催す。固定層からすそ野を広げるためだ。
江戸・元禄文化を担ったのは、大坂の町人文化だった。1本の矢ではできないことが、4本集まれば、という発想の「伝統ナイト」に、大上段に振りかぶらない大阪の文化の奥深さと柔軟さを感じる。【松井宏員】
毎日新聞 2008年6月4日 大阪夕刊
http://mainichi.jp/kansai/taste/news/20080604ddf001040002000c.html
254
:
m
:2008/06/10(火) 21:49:17
中国(台湾)の観光客相手に「国姓爺合戦」をやったら受けるかもしれません
255
:
名無しさん
:2008/06/13(金) 19:06:01
以前話題になった大阪のお茶屋さん、芸妓さんのブログです。
芸妓ブログ
ttp://takazuru.jugem.jp/
上方の宵 若旦那のお座敷入門
ttp://blog.kansai.com/megumu
芸妓あさ鶴のブログ
ttp://ameblo.jp/ushinyon/
256
:
名無しさん
:2008/06/13(金) 19:07:50
南地の方のですね
257
:
名無しさん
:2008/06/13(金) 22:30:02
南地、島之内ですね。
258
:
名無しさん
:2008/07/07(月) 14:50:57
読売新聞の朝刊に『時代の証言者』という連載枠があるのですが、そこに
文楽の竹本住太夫さんが書いておられます。もう連載20回を数えるのですが
文楽を通して大阪の歴史を品の良い大阪ことばで語られています。
住太夫さんはもう80歳を超えられているので、体を大切にしてもらいたい
ものですが、この連載のようにもっとテレビなどでも語ってもらいたい1人
だと思います。
259
:
名無しさん
:2008/07/07(月) 17:56:08
何故大阪関係のテレビに東京マスコミも在阪局も、有識者を出さないのでしょう?
東京のマスコミなんて、お偉いさん好きなのにね。
大阪のことで、米朝さんや住太夫さんら、きちんとした有識者が出ているのを見たことが無い。
260
:
名無しさん
:2008/07/09(水) 01:25:47
現状では、テレビに過度な期待はできないので、YouTube等の
動画サイトを利用した情報発信を併用するというのはどうでしょうか?
下記のサイトに動画がありますが、折角の力作が死蔵されてるのと
同じではないかと思います。
外国語の字幕さえ付ければ、そのままワールドワイドに活用できると
思うのですが。
大阪観光コンベンション協会
http://www.octb.jp/
映像で見る大阪
http://www.octb.jp/movies/
261
:
名無しさん
:2008/07/09(水) 01:33:44
転載されているのもありますね
262
:
伝統の技×発想=新商品 関西の中小「すき間」狙い海外も開拓
:2008/07/10(木) 14:16:12
2008/07/10配信
関西の伝統や地場の技術を生かしてニッチ(すき間)市場を開拓する中小企業が相次ぎ登場している。和傘から和風電灯、婦人服縫製からペット服製造へと技術を転用し、海外にも販路を広げる動きだ。伝統技術などの地域資源を使った製品開発を支援する中小企業向けの新法も追い風に、発想の転換で活路を見いだそうとしている。
江戸末期に創業した和傘製造の日吉屋(京都市)は竹加工と和紙の張り合わせ技術を応用した和風電灯を考案した。今春から東急ハンズで販売している。
洋傘の普及で和傘の製造業者は撤退が相次ぎ、京都市で残るのは同社だけ。「伝統の技を生かしつつ、日常生活に役立つ製品を作りたい」(西堀耕太郎社長)と、竹の風合いや和紙の透過光の美しさを味わえる和風電灯に仕上げた。
和紙の覆いは取り外しが簡単で、その日の気分に応じても替えられる。傘のように折りたためるので、収納場所もとらないのが特徴だ。価格は1万9950円から。
フランスやドイツの展示会に出品したところ、現地の家具店から海外代理店の申し出があり、10社との取引が決まった。2、3年後に国内外で年間5000万円の売り上げを目指す。
三和服創(大阪市)は婦人服の縫製技術を活用し、ペット服の製造小売りに力を入れる。従来のペット服は雑貨扱いで、動物の体の動きにぴったり合った製品が少ないことに着目。型紙を使って丹念に縫製し、中心価格帯は2000―4000円に抑えた。
三和服創は6月に台湾に直営店を開設(ペット用の服を着た犬)
三和服創は6月に台湾に直営店を開設(ペット用の服を着た犬)
3月には岩手県久慈市に新工場を立ち上げた。6月には台湾の台北市に自社製のペット服を販売する直営店「ドッグピース」を開業した。大阪・南堀江に次ぐ2軒目の店舗となる。インターネットの通販サイトには中国語版も加えた。
アパレルは関西を代表する産業だったが、海外の安価品に押され「10―20年先が見えない」(中島宏社長)状況にある。小型犬などのブームが続くペット関連事業の拡大で、2008年度は売上高を前年度より6割多い2億円に引き上げる。
西陣織から発展した織物技術を転用し、コーヒーや茶などの飲料用フィルター生産で国内大手になった山中産業(京都市、鈴木基伸社長)。同社が力を入れているのが環境に配慮した飲料フィルター「ティーロード・ソイロン」の販売だ。
トウモロコシのでんぷんが原材料で、土に埋めると微生物によって完全分解されるのが特徴。環境意識の高い欧米の高級茶メーカーなどから引き合いが増えており「国内を上回るペースで海外販売が伸びている」(鈴木社長)という。
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news000933.html
263
:
名無しさん
:2008/07/10(木) 16:01:06
引用ですが
明治の大阪考える場合、築港のことを忘れるわけにはいかない。築港は明治初年から
計画され三六年に利用開始された。大阪市の歳計僅か百万円に足らない時に千八百万円
にものぼる築港工事を起こし、しかもそれが横浜や神戸のように、政府の事業でなく市の
事業として起工されたことは特に注意すべきだと思う。これは大阪の独立自主性を物語る
ものである。
わが国の工業の発達は一般に政府の保護育成によっている。しかしこれに反して大阪においては
官業としては僅か造幣局又は砲兵工場があったのみである。大阪府の模範工場としても
莫大小(メリヤス)工場があった位である。他の多くの工業は自立独歩して、
今日の発展をなしているのである.
大阪大学経済学博士 宮本又次著 大阪より
天牛書店で購入した本なんですが昭和32年発行で当時の価格が230円の本を
400円で購入。本の最後に鉛筆書きでS33.5.29井上と記入されてて、上の文章は
そのかたが赤線を引いてた部分なんです。
大阪港が国の事業でなくて大阪単独とは私も知りませんでしたので驚きました
264
:
名無しさん
:2008/07/10(木) 16:20:43
>>263
大阪ってほんまに住民の税金や寄付で街づくりしてきたんやなあ、と沁み沁み。
265
:
名無しさん
:2008/07/11(金) 14:05:51
>>258
で紹介した時代の証言者からです。この回は竹本住太夫さんが無形文化遺産に選ばれ、その責任
を感じる一方で文楽の将来を危ぶむ気持ちが年々強まっている。理由として大阪の街から活気が失
われてきたことと大阪弁の変化をあげています。下が大阪弁について語っているところです。
私が修行したころは、楽屋で会話をするとき、大阪弁以外は聞きまへんでした。関東出
身者が増えたことも一因でしょうが、大阪出身の若手でさえ、テレビの影響なのか間違
ったアクセントで話しています。
弟子に稽古をつけていても「お前なまっているやないか」と怒る機会が増えました。
「なまり」とは東京弁のこと。時々、東京の人から「お師匠さんがなまってるんです」
と言い返されることもおますけど。
私は「芸術文化のルーツは上方や」という信念を持っています。東京が中心になった
のは明治以降。伝統芸能では、発祥した時代のその土地の言葉こそが「標準語」やと思
います。何十年、何百年たっても、浄瑠璃だけは正しい大阪弁で語ってもらわなあきません。
東京弁にたいして訛ってるとは面白いですね。確かに織田作や谷崎など多くの作家が
文楽は大阪弁が標準語だというのを目にしたことがあります。
266
:
名無しさん
:2008/07/11(金) 14:47:34
しょうがないなぁ。。ほらよっ、
http://blogs.lovekatu.net/ygj/
267
:
名無しさん
:2008/07/11(金) 16:04:45
<<東京の人から「お師匠さんがなまってるんです」
と言い返されることもおますけど。>>
こいつは修行をなんだと思っているのでしょう。
まさに此処に東京ものの傲慢さが見えていますね。
268
:
名無しさん
:2008/07/12(土) 15:07:45
華やかに氏地巡行 いくたま夏祭
2008/07/12
大阪市天王寺区生玉町の生國魂神社(中山幸彦宮司)で十一日、恒例の「いくたま夏祭」が始まった。宵宮の境内には、早朝から法被姿の氏子衆が続々と参集。かねや太鼓の音とともに氏地を巡行し、“大阪の三大夏祭り”として知られる伝統行事を盛り上げた。十二日まで。
祭りは氏子が本殿でお払いを受ける「宵宮祭」で始まった。午前十時の枕太鼓の宮出に続き、午後からは金・銀二基のみこしや獅子舞などが華やかに境内を出発。氏地にあたる同区のほか、中央区内の旧東・南区エリアを夕刻まで練り歩いた。このうち獅子舞には子ども約二百人が参加。事前の合同練習で会得した獅子の所作や鳴り物を堂々と披露した。
この日は中央区本町橋の行宮を出発した子どもみこしと子ども太鼓の氏地巡行や、夜の境内での枕太鼓などのお練りも行われ、大勢の参拝者を魅了した。
本宮の十二日は正午過ぎに太鼓やみこしなどの行列が宮出し、元宮(大阪城大手門前)や行宮を巡行する陸渡行が古式ゆかしく執り行なわれる。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/080712/20080712006.html
269
:
名無しさん
:2008/07/12(土) 15:08:17
大阪・天神祭の「神鉾台」、78年ぶり全面改修
2008年7月12日
大阪・天神祭で参加者に担がれる「神鉾台(かみほこだい)」が78年ぶりに全面改修され、大阪天満宮(大阪市北区)でお披露目された。今年の天神祭は24、25両日に開かれる。
神鉾台は、鉾の先を台に乗せた形で高さ約3.5メートル。長年使い続けて傷が目立ってきたため昨年11月、京都市の業者に金箔(きんぱく)の張り替えや漆の塗り替えなどを依頼。費用650万円は地元町内会の積立金から工面した。
この日は修理完了を告げる祝詞があげられ、改修の様子を撮影した映像も公開された。西天満連合神鉾講長の野村祐三さん(75)は「安心して祭りを迎えられます」。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200807120034.html
270
:
今年も開催「夏休み文楽特別公演」…日本橋・国立文楽劇場
:2008/07/12(土) 15:26:32
大阪・日本橋の国立文楽劇場の夏恒例「夏休み文楽特別公演」が今年も7月19日〜8月6日まで開催される。
親子で文楽を楽しめる第1部「親子劇場」(午前11時開演)は要望の高かった「西遊記〜悟空の冒険」を上演。孫悟空の胸のすく神通力を、劇場の舞台機構をフルに駆使してドラマチックに展開。毎年好評の「体験コーナー」や「文楽へのご案内」コーナーも。
第2部「名作劇場」(午後2時30分開演)は近松門左衛門特集。「五十年忌歌念仏」はおなじみお夏・清十郎。行方不明の清十郎を追い求めさまよう狂乱のお夏を劇的に上演。また「鑓の権三重帷子」は大坂で実際に起きた妻敵討ち事件を素材にした密通話。映画化もされた人気演目で、登場人物たちの微妙な心理描写が見どころだ。
第3部「サマーレイトショー」(午後6時30分開演、金曜のみ午後7時)の「国言詢音頭」は背筋も凍る復讐(ふくしゅう)劇。夏の夜にふさわしい文楽ならではのサスペンスが堪能できる。問い合わせは同劇場(TEL06・6212局2531)へ。
http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/gossip/entertainment/news/20080711-OHO1T00183.htm
271
:
尼崎
:2008/07/12(土) 18:34:47
少し話がずれますが昨日、探偵ナイトスクープを見ました。その時感じたのは大阪は日本中から
人が集まっているんだなと。松村邦夫が御堂筋で一日に何人の都道府県出身者に
出会えるのかという企画でした。近畿地方はもちろん香川県、北海道、愛知そして茨城県など
。最終的には39の都道府県出身の人に出会えたのです。この東京一極集中の中一日にこれだけの
人数に出会えるなんて大阪は現在でも様々な意味で重要な役割を果たしているのでしょう。
数年前まで名古屋(現在は兵庫、尼崎)に住んでいましたが同じような企画をしても
大阪ほど他府県の人に会えないのではないかと思います。
272
:
名無しさん
:2008/07/12(土) 18:51:13
アンテナショップ的なものもありますしね
273
:
名無しさん
:2008/07/12(土) 20:20:05
一日ではなくて半日ですよ。
昼12時から夜12時までと時間を区切って、でもって場所も御堂筋難波中之島区域だけです。
おまけに行きかう人の多くは声をかけていない。
あれって歩き回らず、駅の出入り口で定点観測的に声をかけて調査したら
もっと多くの都道府県があつまったでしょうね。
274
:
名無しさん
:2008/07/14(月) 12:42:28
新調当時の姿に 「神鉾台」修復を報告
2008/07/13
天神祭(二十四、二十五日)の陸渡御などで巡行する「神鉾(かみほこ)台」の修復完了を記念した「神鉾御修理竣工(しゅんこう)奉告祭」が十二日、大阪市北区の大阪天満宮(寺井種伯宮司)で執り行われ、関係者らが修復を神前に報告した。
神鉾台は一九三〇年に鉾流(ほこながし)神事の復興とともに制作された。昨年の天神祭で、鉾台の一部が破損したことから、二〇一〇年の八十周年を前に一年をかけて化粧直しなどが施され、新調当時の姿を取り戻した。
奉告祭では鉾台を運営する西天満連合神鉾講(野村祐三講長)や他の講社関係者ら約九十人が参列。斎主が祝詞を読み上げた後、野村講長が玉ぐしを献上した。
また、鉾流神事で演奏される曲として三年前に復元された「鉾流歌」の保存用CDの完成を報告。本殿では初となる笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、竜笛(りゅうてき)による生演奏と歌の披露も行われた。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/080713/20080713002.html
275
:
石垣眞人
:2008/07/14(月) 16:00:42
「平成の黙示録」という表題の私説を公開していすま。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com
にアクセスしてください。
276
:
よっさん
:2008/07/14(月) 20:56:18
大阪日日新聞より
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/080713/20080713003.html
気合込めエイ! 「ギャルみこし」担ぎ手選考会
2008/07/13
天神祭の前日(二十三日)に巡行する「ギャルみこし」の担ぎ手七十人を決める選考会が十二日、大阪市北区天神橋の大阪市立住まいの情報センターで開かれた。十六−四十五歳までの“ギャル”たちが、重さ約七十キロの俵をつった「天秤(てんびん)棒担ぎ」などに挑み、「わっしょい」の掛け声とともに担ぎ手の座を競い合った。
二十八回目となることしは応募総数二百四十八人のうち、書類選考通過の百二十一人が
選考会に参加した。
浴衣や法被など、個性的な衣装を身に着けた参加者は見た目でも勝負。自己PRでは空手の板割や芸能人のものまね、ダンスなど趣向を凝らした特技を披露し、会場内を終始盛り上げた。たこ焼きの早食いに挑戦した大学生、菅原真央さん(20)は「体力と食欲には自信があるので伝わったかな。選ばれたら自慢の体力でみこしを担ぎたい」と話していた。
選ばれた七十人は二十三日の正午からみこしを担いで天神橋筋商店街などを練り歩く。
277
:
m
:2008/07/14(月) 23:37:28
天神祭りもいいけど、杭全祭りもなかなかのものです。丁度開催日(もう終わったかもしれないが)なので
気の向いた方は是非。ただヤンキーの多さはハンパじゃないです。まぁどこの祭りもそうでしょうが。
278
:
文楽:「国言詢音頭」浄祐寺で成功祈願−−19日から公演 /大阪
:2008/07/17(木) 14:34:02
大阪・国立文楽劇場の夏休み文楽公演(19〜8月6日)第3部(午後6時半)で上演される「国言詢音頭(くにことばくどきおんど)」にゆかりの浄祐寺(大阪市北区堂島3)で、公演成功祈願が行われた。
「国言詢音頭」は江戸時代、北の新地で女性ら5人が薩摩の武士に惨殺された事件の劇化。浄祐寺には供養碑がある。5人を切る薩摩の武士、初右衛門役の人形遣い、吉田玉女さんと、切られる菊野役の吉田和生さんら関係者が供養をした。
78年の復活初演以来、初右衛門は玉女さんの師匠、故吉田玉男さんが、菊野は吉田簑助さんが、それぞれ遣ってきた。初役で挑む玉女さんは「玉男師匠がこの役を作り上げました。毎回変わっていった師匠の工夫を覚えています」と話す。和生さんは「菊野はそんなに悪い手管で初右衛門をだましているのではない。技術プラスαをどう出すか」と語る。期間中、金曜日は午後7時開演。【宮辻政夫】
毎日新聞 2008年7月17日 地方版
http://www.mainichi.jp/area/osaka/news/20080717ddlk27200331000c.html
279
:
名無しさん
:2008/07/17(木) 14:34:40
天神祭今昔提灯物語展:イラストと写真で旧27町分紹介−−大阪・北区 /大阪
◇文字は難読・難解ですが
天神祭(24、25日)で各町が掲げるちょうちんを解説した「天神祭今昔提灯(ちょうちん)物語」展が、大阪市北区天満橋1のOAP(大阪アメニティパーク)プラザ1階エントランスホールで開かれている。25日まで。
祭りちょうちんは氏地や御旅所周辺の町ごとに異なる文字や紋章が入っており、昔は家々が軒先につるしたが、今もその風習が残るのは地下町(じげまち)、樽屋町など旧の9町にとどまる。
同展は旧27町のちょうちんをイラストと写真で紹介。ちょうちんに書かれている文字について解説を加えている。監修した高島幸次・大阪大招聘(しょうへい)教授は「ほとんど読めないのが特徴」という。
例えば、天神橋筋1は表に「敬義」、裏に「奉燈」と篆書(てんしょ)で書かれている。敬義は「易経」が出典の言葉で、「恭敬と義理」を指す。此花町は表に「清燭」、裏に「奉献」と隷書(れいしょ)で墨書。「清浄なともしびを奉納する」との意味になる。
高島さんは「ちょうちんはコミュニケーションの道具。よそから来た人が『なんと書いてあるんですか』と地元の人に尋ねる。話は出典まで広がっていく。よくできた仕掛けです。すべての町で復活できれば」と話す。【松井宏員】
毎日新聞 2008年7月17日 地方版
http://www.mainichi.jp/area/osaka/news/20080717ddlk27040323000c.html
280
:
名無しさん
:2008/07/21(月) 14:39:37
旧堺燈台:あす、あさって内部一般公開 現存の木造洋式で国内最古 /大阪
◇9月末までライトアップも
現存する木造洋式灯台としては国内最古とされる国指定史跡の「旧堺燈台」(堺市堺区)の内部が20、21の両日、一般公開される。
堺旧港の突端に1877年完成。その後、1世紀近くの間、大阪湾を照らし続けたが、周辺の埋め立てなどで1968年に明かりを消した。老朽化に伴い市が昨年まで保存修理工事を実施し、往時の姿がよみがえった。
一般公開は21日の「海の日」にちなんだもの。午前10時〜午後4時で、見学無料。市文化財課職員の説明もある。また、20日から9月末まで夜間にライトアップされる。【高田房二郎】
毎日新聞 2008年7月19日 地方版
http://www.mainichi.jp/area/osaka/archive/news/2008/07/19/20080719ddlk27040409000c.html
281
:
勇壮一番太鼓で幕開け 夏の風物詩「天神祭」
:2008/07/25(金) 22:13:18
2008/07/25
日本三大祭の一つとして知られる大阪の夏の風物詩「天神祭」が二十四日、大阪天満宮(大阪市北区、寺井種伯宮司)などで始まった。同宮境内では早朝、催太鼓(もよおしだいこ)が一番太鼓を打ち鳴らし、本殿で宵宮祭、堂島川に架かる鉾流(ほこながし)橋付近で鉾流神事が執り行われ、大阪のまちを華やかに彩る二日間の幕開けを告げた。
宵宮祭が執り行われた後、神童、神職伶(れい)人ら奉仕人の行列が天満宮の表門を出発。鉾流橋のたもとの斎場で多くの見物客らが見守る中、神事を遂行した。このほか氏地内の各所で催太鼓や獅子舞の巡行が行われたほか、どんどこ船の宮入りなども行われた。
本宮の二十五日は午後四時から同宮を陸渡御列が出発。同六時から船渡御が大川一帯で催される。
第六十二回水都祭「天神祭奉納花火」(同実行委員会主催・大阪日日新聞共催)は午後七時半から大川沿いの造幣局前など二カ所で実施。約五千発の打ち上げ花火や仕掛け花火が夜空を染め、船渡御列を華麗に演出する。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/080725/20080725001.html
282
:
名無しさん
:2008/07/25(金) 22:14:14
ツイン21で「天神祭前夜祭」−抽選会には長蛇の列も
ツイン21(大阪市中央区城見2)1階ギャラリー・パークアベニューで7月23日、天神祭前夜祭が行われた。同イベントは、天神祭をより多くの人に知ってもらい、参加してもらうことを目的に、1986年から同所で開催。毎年500人〜1,000人の参加者を集めている。
天神祭は、全国の天満宮・天神社で催される祭りで、祭神の菅原道真公の命日にちなんだ縁日。1,000年以上の伝統を誇る日本屈指の祭典で、特に大阪天満宮の天神祭は、日本三大祭(京都の祇園祭・東京の神田祭)の一つとして有名。
同イベントは16時30分から、浴衣姿の司会の進行で天満宮によるおごそかな雰囲気の式典が行われた。一方、17時から縁起うちわや、25日に行われる天神祭の花火観覧席・コシノヒロコデザインの天神祭オリジナル法被・大阪天満宮オリジナル金樽などが当たる抽選会参加券が配布されることから、式典開始時には配布場所に長蛇の列ができた。
式典が終わると、打って変わって催太鼓・地車囃子・伝統獅子舞・天神祭囃子踊など総勢200人が出演する天神祭のハイライトに、観客はカメラや携帯を向けながら熱心に見入っていた。イベント開始1時間後には、会場の1階観客席のみならず、2階・3階の通路や階段にまで多くの観客が詰めかけた。
観客の1人は「今日は祖母が出演するので一家総出で応援に来た。祖母の踊りは漏らさず収めたい」とカメラを見せながらうれしそうに話していた。
http://kyobashi.keizai.biz/headline/288/
284
:
浪曲乙女組!:若手3人が公演−−あす・千日前 /大阪
:2008/08/01(金) 13:42:16
東西の若手浪曲師3人のユニット「浪曲乙女組!」が2日、大阪・千日前のトリイホールで公演する。
昨年10月、玉川奈々福さん、菊地まどかさん、春野恵子さんの3人で結成。先月13日、東京・新宿のシアターアプル公演は大入り。“食わず嫌い”になりがちな浪曲だが「聴いてみたら面白い」「古くさくない」と上々の評判だった。
公演は2部構成。前半は「これであなたも浪曲通!」と題してコント風に浪曲を解説。東西の節の違いの聴き比べもある。後半はそれぞれが1席ずつ披露する。関西で「新星浪曲☆新宣組」としても浪曲界をもり立てる春野さんは「若手でまだまだ修業中だけど、若い人たちが浪曲に触れるきっかけ作りができれば」と意気込む。
全席自由3000円で、夜の部(午後6時開演)と昼の部(同1時開演)。問い合わせは同ホール(06・6211・2506)。【田辺一城】
毎日新聞 2008年8月1日 地方版
http://www.mainichi.jp/area/osaka/archive/news/2008/08/01/20080801ddlk27200407000c.html
285
:
m
:2008/08/01(金) 21:26:08
伝統文化ではないが、今しがた鳴り響いている雷鳴のようなPL花火の音。
これをもっとアピールできないかと思う。
PL教団のドグマは抜きにして。
286
:
名無しさん
:2008/08/12(火) 22:58:45
伝統芸能「大阪薪能」始まる 大阪市の生國魂神社
2008/08/12
半世紀以上の歴史を誇る夏の風物詩「大阪薪能」が十一日夜、大阪市天王寺区の生國魂神社で始まった。大勢の来場者が、静寂な境内で繰り広げられる幽玄の世界をじっくりと堪能した。十二日まで。
大阪薪能委員会と能楽協会大阪支部の共催。一五四六(天文十五)年に同神社で数万人を前に能が演じられたという故事にならって、一九五七年から毎年上演されている。
拝殿前の舞台では、能「俊寛(しゅんかん)」、狂言「清水」のほか、今年の源氏物語千年紀にちなんだ演目「玉葛(たまかづら)」などを上演。かがり火がともる中、来場者は所作や楽器の音がおりなす伝統芸能の美に見入っていた。
十二日は午後五時開演で、能「夕顔」などの上演を予定。当日券三千五百円。問い合わせは電話06(6771)0002、同神社へ。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/080812/20080812003.html
287
:
建築に「和」の風を 伝統や技の継承へ勉強会
:2008/08/28(木) 19:14:24
2008/08/28
陶板が壁面緑化に役立てられている例を示す中原さん
建築文化の研究や発信を行う大阪市北区同心一丁目の特定非営利活動法人(NPO法人)「社の極」は、プロの建築関係者らに日本の伝統や技を伝える勉強会をスタートさせた。今後の建築、インテリア分野に「温故知新」の風を巻き起こそうと意欲をみせている。
同法人は、建築家の中原賢二さん(46)が、一九九三年に「人は自然の一部」をコンセプトに任意団体として発足。自然や健康を重視した住宅づくりを啓発してきた。昨年末には、さらに活動を発展させようとNPO法人化。日本古来より伝わる精神性を学び、現代に適応した形に融合、新たな建築文化を創造し、発信していこうと取り組みを進めている。
その一環として、「瓦ぶき」や「建具」などのテーマを決め、専門家を招いて日本の文化を学ぶシリーズ「伝統と技に学ぶ」を開始。一般参加者を募集する一方で、建築関係者らの参加を促し、つくり手に理解を深めてもらおうと取り組む。
第一回の七月三十日には、大阪府陶磁器商業協同組合副理事長やインテリアコーディネーター関西会長らを呼んで、陶磁器の歴史や、陶板を活用した建築例を紹介。
陶磁器といえば器のイメージが強いが、タイルとして建物の彩りに生かされている例や、陶板上で植物が育つようにして壁に張り付けた壁面緑化の例などが参加者の目を引いていた。
今後、年四回程度で勉強会を開いていくという。
中原さんは、伝統文化をなりわいとした産業が衰退傾向の中、「先人の伝統や技を後世につむいでいく義務がある」と強調。「建築家は自由な発想をもち、さまざまな分野と協力する“重なりの文化”がいる」と話している。
問い合わせは電話06(4800)2720、同法人へ。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/080828/20080828003.html
288
:
名無しさん
:2008/08/29(金) 14:07:43
●大阪市の公設市場ーー90年前の気概
以下はサンケイ。
今から90年も前だが大阪市役所が全国に先駆けて公設市場設置を作って大成功した。そのDNAは今も残っている。大阪から国に先駆け先端的な政策を出していこう。
公設市場の建議が大阪市議会に提案されたのは、18年2月のことだ。第1次世界大戦(14〜18年)に伴う物資不足や価格上昇の解決策として、東京や大阪市は欧米の公設市場を研究していた。その動向を知ったか、市議4人が東京に先んじて動いたのだ。市も即応して、2か月後の4月15日、谷町、境川、天王寺、福島にバラックを建て、「日用品供給場」を開く。市が整備した市場を商人に提供し、安定供給を図る仕組み。内務省(当時)の記録によると、初の公設市場だった。 「天下の台所」とあって、大阪は江戸時代から天満の青物市や堂島の米市が栄えたが、主役は問屋や仲買人。大正に入っても多くの家庭は、家々を回る「御用聞き」から掛け売りで物品を買っていて、価格は言い値、量もごまかされるケースがよくあったらしい。「あしき商慣行も物価高騰の要因」。そう考えた市は「正札(定価)表示」と「現金販売」を公設市場で義務づけ、職員に監視させた。売値の上限を設定し、計量にも神経をとがらせた。結果として野菜やみそ、昆布が一気に値下がりし、市民が殺到した。
「行政が商慣行を変え、主婦を買い物に引っ張り出した」と、関西学院大の石原武政教授(65)(商業論)は説く。「流通革命」を市が先導したのだった。
18年の夏、富山県の漁村を発端にした「米騒動」が全国に波及したが、大阪市の公設市場は白米を他よりも3割安く販売し、評価を決定づけた。政府が普及を指導し、30年には、40道府県の計328か所に広がった、という。大阪が全国のモデルとなり得たのはなぜか。桃山学院大の芝村篤樹教授(66)(地域経済論)は、東洋最大の商工都市として発展していく当時の「大大阪」を率いた役所の気風を読み取る。
「国に頼らずとも、市民を守る政策を進める自負とサービス精神があった」。確かに、市の『公設市場サーヴィス讀本』(37年)をみても、昭和初期にして「お客様第一主義」を掲げ、商人の服装や言葉遣いまで指導していたのだ。
http://www.actiblog.com/ueyama/61740
289
:
大阪城背景に船上から「薪能」鑑賞−ホテルニューオータニが企画
:2008/08/30(土) 22:46:43
ホテルニューオータニ大阪(大阪市中央区城見1)は9月14日・15日、ユネスコ文化遺産に指定された伝統芸能である「能楽」にスポットを当てた能楽イベントを開催する。
内容は、同ホテル内のレストランで食事を楽しんだ後、中秋の名月(旧暦の8月15日、秋の澄んだ空に登る満月の日)に合わせてチャーターした大阪水上バス(アクアミニ)の船上から、「薪能」を鑑賞するもの。ライトアップされた景観が神秘的な大阪城天守閣が舞台演出となり、大阪水上バス桟橋(特設ステージ)で演じられる。
麗しい幽玄の世界を演じるのは、重要無形文化財総合指定保持者である観世流能楽師・山本章弘さん。わずか3歳にして初舞台に立っていたという山本さんが演じる薪能は、「難しく考えずに一度ご覧になると、『古くて新しい』魅力を発見していただける」(営業推進課の勝浦さん)という。
食事は、インターナショナル料理「レストラン アゼリア」、チャイニーズキュイジーヌ「Taikan En」、日本料理「城見」、フランス料理「サクラ」の直営4レストランから選べる。
料金は、「レストラン アゼリア」=10,000円、「Taikan En」=12,000円、「城見」「サクラ」=22,000円。料金には、食事、乗船料、観能料、サービス料、税金が含まれる。時間は17時〜20時(食事)、20時〜21時(鑑賞)。水上バス乗船から参加するプラン(8,000円)も用意している。予約はレストラン総合案内(TEL 06-6949-3229)まで。
http://kyobashi.keizai.biz/headline/316/
290
:
名無しさん
:2008/09/22(月) 22:43:42
歴史学者岡田英弘氏の『日本史の誕生』には大阪にとって非常に興味深い内容が
含まれてます。
それによれば、日本(倭国)の実在の起源は河内王朝とも言うべき仁徳天皇
からであり、仁徳天皇以前の天皇である応神天皇は純然たる創作であるとの
ことです。。古墳の量に関して、河内のほうが大和よりも多いという証拠立
ても非常に納得させられます。
日本国の起源が大阪という事実がもっともっと明るみにでてほしいものです。
291
:
名無しさん
:2008/10/18(土) 01:46:23
大江、淀屋橋を重文に=8件の指定答申−文化審
文化審議会(石沢良昭会長)は17日、大阪市北区中之島の南北に架かる大江橋、淀屋橋など計8件の建造物を重要文化財に指定するよう、塩谷立文部科学相に答申した。これで建造物の重要文化財は2344件(国宝はうち214件)となる。
大江橋と淀屋橋は1935年4月にできた鉄筋コンクリート造のアーチ橋。御堂筋が中之島と交差する交通の要所にある。当時の橋梁(きょうりょう)としては珍しく意匠設計競技(デザインコンペ)で選ばれた案に基づいて建設された。
11年10月に完成した石岡第一発電所(茨城県)は、本館が国内に現存する最古級の鉄筋コンクリート造の建築物で、産業技術史上高い価値があるとされた。
文化審議会が答申した8件は次の通り。
金家住宅(秋田県北秋田市)▽小玉家住宅(秋田県潟上市)▽石岡第一発電所施設(茨城県北茨城市、高萩市)▽旧揖斐川橋梁(岐阜県大垣市)▽石山寺(大津市)▽大江橋、淀屋橋(大阪市)▽旧吉松家住宅(宮崎県串間市)▽岩清水八幡宮=8棟を追加(京都府八幡市)。(2008/10/17-15:29)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008101700601
292
:
名無しさん
:2008/10/20(月) 16:11:45
大坂城下町に郊外型開発、“市街地”外側に大名屋敷跡
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20081020-OYO1T00509.htm?from=main1
大阪市中央区道修町の大坂城下町跡で、大坂冬の陣(1614年)で焼失した大名屋敷とみられる大型建物跡が出土した。調査した市文化財協会によると、豊臣期に町人が住んだ船場地域の西限より、さらに約200メートル西で、“市街地”の外側に大名が住んでいた可能性が出てきた。現代の大阪の街並みにつながる「郊外型開発」が進んでいたことをうかがわせ、ほとんど解明されていない豊臣期の大坂城下町を考えるうえで貴重な資料になりそうだ。
建物跡は焼土層の下から出土。東西16メートル、南北8メートル以上で、北側から瓦がまとまって出土したことから、軒が北側にある瓦ぶきの建物とわかった。礎石が整然と並び、板か畳敷きだったとみられる。
規模や構造から、町人の住宅ではなく、大名クラスの屋敷か寺社の建物らしい。調査地南隣の神社には、豊臣秀吉に仕えて因幡国(鳥取県)鹿野城主となり、石見銀山の経営などにあたった亀井茲(これ)矩(のり)が1594年、宅地の一部を寄進して同神社を建てた、との言い伝えがある。今回の建物跡も、亀井屋敷の一部だった可能性がある。
今回の調査地は江戸時代に整った現在の船場(東西1・1キロ、南北2キロ)の範囲内。しかし、秀吉が1598年に整備した船場は、江戸時代の絵図などを根拠に一回り小さい東西0・7キロ、南北1・4キロと想定されている。豊臣期の武家屋敷は「上町(うえまち)」と呼ばれた城内に立ち並んでいたが、その西側にあった船場の外にも存在したことになる。
松尾信裕・大阪城天守閣館長の話「町人地の外れで都市開発が十分進んでおらず、大きな建物を建てる余地があったのだろう。現代の道路と同じ方向で規則的に建てられており、大阪の街づくりの基盤が見える」
(2008年10月20日 読売新聞)
大坂城下町跡で出土した大型建物跡(大阪市中央区道修町で)=大阪市文化財協会提供
http://osaka.yomiuri.co.jp/photo/20081020-4882709-1-N.jpg
地図
http://osaka.yomiuri.co.jp/photo/20081020-4882721-1-N.jpg
293
:
よっさん
:2008/10/24(金) 19:18:36
毎日jpより
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20081024ddlk27070423000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/98 赤レンガ倉庫 大阪市西区 /大阪
◇舟運の拠点は今は昔
河村瑞賢紀功碑から、安治川に沿ってさらに東へ歩くと、川口4丁目に年代をしのばせる三角屋根に赤レンガの倉庫が現れた。「三井倉庫」「富島倉庫」と黒のペンキで書かれている部分は、背景を白のペンキで塗ってある。「この辺がかつての国際港の痕跡です」と大阪案内人の西俣稔さん。
現在も地名に残る川口は、江戸時代は諸国の回船が入港する港で、幕末には開港場となり、海外からの玄関口となる。外国人居留地も設けられた。詳しくは追々紹介するが、対岸の大阪市中央卸売市場本場と併せて、大阪の物流の拠点だったことがうかがえる。
かつての富島倉庫は、郵政関連の倉庫で、別の会社の所有を経て、昭和40年代に三井倉庫が買い取った。隣接する大正時代と昭和初期の鉄筋造りの二つの倉庫と合わせて、富島事務所と呼ばれている。三井倉庫大阪支店に尋ねると、建築時期は「大正初期だと思う」とのこと。はっきりしたことはわからないのだ。
中は木造で、1002・5平方メートル。買い取ったころは、沖縄の黒糖や北海道のビート糖、米などを保管していた。大阪港に入港した貨物船から、はしけで運び、クレーンで荷揚げしていたという。クレーンは今もあるが、「使てません」。古い倉庫ゆえ保冷設備がなく、今は企業の書類が保管されている。
少し上流の中之島の西端に架かる端建蔵橋(はたてくらばし)のたもとには住友倉庫がある。ここから西には倉庫や企業の物流センターなどが並び、平日の昼間はトラックが走り回っている。そうかと思えば、倉庫の隣に民家があって、貨物と生活が隣り合わせになっている。
そんなごちゃごちゃした街を、こう言ってはなんだが、似つかわしくないきれいなお姉さんが歩いている。どこに行くのかと思えば、赤レンガ倉庫の隣の倉庫に入っていくではないか。撮影用のレンタルスタジオが間借りしていると聞いて納得。モデルさんが出入りしているわけだ。03年に開設、「白壁のスタジオはよくあるが、古い洋館風のイメージができるのと、天井が高い」のが利点なんだとか。街は変わりつつあるようだ。
◇
富島町は今はない町名だが、この倉庫と大阪税関富島出張所にその名をとどめている。ただ、富島出張所は6月で閉鎖されてしまった。
「なんで富島か。これが大事」と西俣さん。1845年の地図を見ると、この辺りは安治川の中州で「大仏シマ」と記されている。富島の前に大仏島の呼び名がなんでできたかというと、瑞賢が安治川を開削した1684年、公慶上人が庵を結び、幕府の許可を得て、そのころは焼けてしまっていた奈良・東大寺の大仏再建の勧進を行ったことによる。安治川から入ってくる諸国の回船などから寄付を募り、大仏再建に一役買ったのだが、寄付がずいぶん集まったので、富島と呼ばれるようになったという。どっちにしても縁起のいい地名だ。
◇
元サンデー毎日編集長の北尾鐐之助が昭和7年に著した「近代大阪」という本に、昭和初期のこの辺りの風景が活写されている。道頓堀や心斎橋の響きや色彩は、どの都市でも感じることができるが、ここのように都市の内面的な生活力をみることはできないとして、こう書く。
「(端建蔵橋の)上に立って、西を望むと、遠くには高い建物がないので、両岸に停泊した帆船の檣(ほばしら)と、遠く、春日出から桜島方面に亘る工場の煙突とが、空を区切って、平坦な、それでいて、どこかに棄(す)て難い大きな川口の感じ、潮の香の高い海港気分を一ぱいに繰り展(ひろ)げている。大阪は港町であるが、なぜか築港の桟橋付近は、桟橋に入ることを禁ぜられている加減か、景色が小さく纏(まと)まり過ぎて、陸からみたのではここのような大きさがない」
南岸に住友倉庫、北岸に中央卸売市場。市場は近代的な建物になったが、この配置は北尾が見た時と変わらない。ただ、安治川を行き来する船の姿はほとんどない。舟運の拠点は今は昔となった。【松井宏員】
294
:
名無しさん
:2008/10/26(日) 08:10:21
>>290
それは河内王朝説でしょう。
大規模古墳でいえば、河内以前の3世紀にすでに大和では箸墓古墳などが存在します。
ただし、仁徳天皇などのいわゆる倭の五王に関しては、書紀では大和に都があった
ように記されていますが、大和では都と陵との距離があまりに遠くなり、また間に
金剛生駒山系を隔てていることなどからも不自然なので、実際の都は堺市から
上町台地あたりにあったと思っています。
また、当時の皇族たちは、河内を「近つ飛鳥」と呼び、大和の方を「遠つ飛鳥」
と呼んでいたことからも、本当の都がどちらにあったかが分かります。
295
:
よっさん
:2008/10/31(金) 21:40:42
>「水都 大阪」は海に関しても歴史あり。
毎日jpより
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20081031ddlk27070379000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/99 富島出張所 大阪市西区 /大阪
◇税関発祥の地−−ぽつねんと建つ「繁栄の礎」
富島倉庫から東へ500メートルほど歩くと、大阪税関富島出張所(川口2)の建物がある。6月末で閉鎖されたので、今は無人になっている。
大阪税関によると、南港などで降ろした貨物をトラックで富島の保税地域に運び、通関していたのだが、コンテナ化が進み、港で通関するようになって、内陸部にある富島出張所の扱う貨物量は年々減少していた。
大阪案内人の西俣稔さんが「ここが大阪の税関発祥の地です」。歴史をさかのぼってみよう。1858(安政5)年、日米修好通商条約が結ばれ、大坂は江戸とともに開市場と定められた。開市場とは、商業活動に限って外国人の滞在を認めるものだ。当初は1863年に外国人に開放されることになっていたが、反対派の攘夷論などで延期され、実際に開市されたのは1867(慶応3)年だった。
しかし、諸外国は貿易のための船が入港でき、外国人の定住権が認められている開港場への変更を要求。幕府に取って代わった明治新政府がこれを認め、翌1868年7月15日に開港された。大阪市が7月15日を開港記念日に定めているのは、このためだ。
江戸時代に船番所などがあり、海運の拠点だった安治川沿いのこの辺りに外国人が住む川口居留地が開かれたのは、その2週間後のこと。居留地については後述するが、開港前年の1867年8月、大阪税関の前身である川口運上所が開設された。これが税関発祥の地のゆえんだ。
運上所は輸出入の貨物の取り締まりや関税の徴収にあたり、開港場に設けられた。条約締結後、まずは神奈川、長崎、函館に、その後、神戸と大坂、新潟に置かれた。
川口運上所は外交事務も取り扱い、薩摩藩出身で明治新政府のもとで外国官判事として大阪に赴任していた五代友厚と、陸奥陽之助(宗光、のちの外務大臣)が運営した。五代は初代税関長を務め、のち実業家に転じて、「東の渋沢栄一、西の五代友厚」と並び称されることになる。
外交事務を扱う府外国事務局は富島外務局と呼ばれた。1872(明治5)年、運上所は税関に呼称を統一された。1920(大正9)年、大阪港の整備とともに大阪税関が移転し、富島出張所と名を変えた。
川口運上所開設から数えて141年の歴史があったわけだ。そんな長い歴史をしのぶよすがはないのか? 富島出張所の裏手に並ぶ大阪市の保税倉庫の陰に、碑が建っている。出張所があるころは、頼めば案内してくれていたようだ。大阪市の許可をもらって、碑を見に行った。
植え込みに、お地蔵さんか何かを祭っていたような祭壇があり、碑が三つある。最も古いのが、「川口運上所址」「富島外務局址」と並んで刻まれた碑だ。明治天皇が1872(明治5)年、大阪に来た折に外務局で休息したのを記念して、1915(大正4)年に大阪市青年連合会が建立した。
その右手には、78年に大阪市が建てた「大阪開港の地」の石碑。「長い鎖国の後、諸外国の玄関口として明治元年七月十五日、この地を開港場とした。世界につながる今日の大阪港繁栄の端緒となる」と記されている。
誰かが掃除しているのか、あるいはしていたのか、傍らには竹ぼうきが立てかけられていた。貿易港として繁栄したころから富島を見続けてきた碑。今は富島出張所から貨物も人も消え、人知れずぽつねんと建ち続ける。碑の上で、柿が色づき始めていた。【松井宏員】
毎日新聞 2008年10月31日 地方版
296
:
名無しさん
:2008/10/31(金) 21:59:49
>>290
>>294
連合的国家なものじゃ…時代時代のパワーバランスというか。発祥は難しいでしょうけど
297
:
よっさん
:2008/11/02(日) 17:54:51
産経関西より
http://www.sankei-kansai.com/2008/11/02/20081102-003472.html
心斎橋・石橋設置100年記念式典 新たな歴史を
大阪・心斎橋の石橋完成から100年を祝う式典が1日、長堀通の橋跡で開かれた。地元の商店主らが、かつて地域のシンボルとして親しまれていた橋をしのび、新たな歴史をつくろうとアピールした。
式は地元商店街などでつくる実行委員会が、100年を機に、地域のブランド力を高め、活性化を図りたいと実施した。
心斎橋は元和8年(1622年)、長堀川に木橋が架けられたのが始まり。明治42年に建設された橋は石造りの重厚なデザインで、昭和37年に川が埋められとともに取り壊された。
春木洋次実行委員長が「キタやミナミの再開発が進む今こそ、その間にある心斎橋の存在感を示したい」とあいさつ。大阪市立南小学校の石井佳人君(10)が「いろんな店があってプレゼント選びが楽しい街」と作文を読んだ。
心斎橋架橋400年になる13年後まで毎年文化イベントを実施する計画。今年は8日に商店街のウオーキングイベント、9日に桂米團治さんらが出演する落語会を開催する。問い合わせは委員会事務局(電話06・6211・1114)へ。
298
:
よっさん
:2008/11/04(火) 21:10:09
日経ネット関西版より
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news003172.html
<セレクト>「西国支配の拠点」に注目──「徳川大坂城」展
2008/11/04配信
江戸時代の大坂は「町人の都」として知られるが、一方で幕府の西国支配の拠点でもあった。大阪城天守閣(大阪市)で24日まで開催中の「徳川大坂城」展は、そうした徳川時代の大坂城に光を当てた企画だ。武具や絵画、史料など約120点を展示している。
1619年(元和5年)、徳川秀忠は大坂を幕府直轄とし、大坂城代を置いた。絵巻「入城行列図」は大坂城代・松平忠優の入城の様子を描いたもので、仰々しい行列に江戸幕府の威信が透けて見える。役人の勤務手引書「浪華秘要録」には、弓が13万本以上、鉄砲が2万弱と、大坂城に備蓄されていた大量の武器の明細が書かれ、重要な軍事拠点でもあったことが分かる。
>軍事拠点として大事であったという事は「地の利」が大坂にはあったという事です。
「天下の台所」「軍事拠点」と経済・軍事の重要拠点に大坂がなったとのは必然と言えるかと思います。
299
:
待兼山
◆mwwO4lKtQE
:2008/11/04(火) 22:41:35
>>297
100年前の石橋ですか…。今はなき橋というのがなんとも残念ですね。
そう言えば、今のクリスタ長堀の上に水を流して人工の川にする、という計画はどうなったんでしょう。
荒らしじゃないですが、やはりかつての運河は部分的にでも復活させてほしいですね。
300
:
名無しさん
:2008/11/05(水) 06:09:40
今、大阪ミュージアム構想を公募していますから、有志の方は、応募してみてはいかがでしょうか?
私は、河内地方のある建物を調べています。
301
:
よっさん
:2008/11/05(水) 19:57:30
YOMIURI ONLINEより
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20081105-OYT8T00063.htm
「ヤマトタケル」 合唱練習励む
>この記事の中に以下のような言葉が出てきます。
「日本武尊(やまとたけるのみこと)ゆかりの羽曳野市の」「市内の日本武尊白鳥陵や」
「白鳥に姿を変えて地元に訪れたとされる白鳥伝説にちなみ」
古都・大阪らしいニュースだと思います。
302
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2008/11/05(水) 19:59:13
>>298
>軍事拠点として大事であったという事は「地の利」が大坂にはあったという事です。
>「天下の台所」「軍事拠点」と経済・軍事の重要拠点に大坂がなったとのは必然と言えるかと思います。
これは健全な解釈ですね。歴史は欺けない、地理はごまかしようがない。
大阪の「地の利」は古代からすべての権力者が認識してきました。
しかし、大阪は「地の利」が良すぎて、複雑な「地理的関係」も背負っています。
一方で、大阪の地理的優位を無視して歴史を解釈する都市の方々がいらっしゃる、
他方では、地理と関係なく歴史的優位を説く「格上」都市の方々もいらっしゃる。
両方とも、歴史は動くが地理は動かない(恒常的)こと、地理が歴史の前提となってることを黙殺してる。
よっさんの健全な歴史観でさえ、「無知」あつかいされ罵倒されるような『大阪百科』にならないこと祈ります。
よっさんは、一連の「事件」から、大阪を巡る「関係」がいかにむつかしいか理解されたと思います。
303
:
よっさん
:2008/11/05(水) 20:25:18
>>302
4丁目の案山子さん、お心遣い誠にありがとうございます。嬉しい限りです。
4丁目の案山子さんも、大変なご苦労をされたと思います。
各スレでの4丁目の案山子さんの書き込みを御覧になられた多くの方々が思われているように、
「非常に博識であり、深い洞察力」を持っておられる方である事は紛れもない事実であります。
それに比べて、ただ単に一つの都市について気がついた事を書いただけで‘全否定’するかの如き書き込みをする人の醜いことよ。
人それぞれ意見はある。それは当然。意見の相違から議論になる。それも当然。
しかし、自分と意見が違うからと相手を‘全否定’し‘罵倒’し‘自分の非は認めず揚げ足取りに終始’するのは、まったくもって健全ではありませんね。
ここは健全でありたいものです。
>よっさんは、一連の「事件」から、大阪を巡る「関係」がいかにむつかしいか理解されたと思います。
そうですね、某スレにて「大阪は京都の隣にあったから発展した」という書き込みを見た時は我が目を疑い、某駅にて某ポスターを見た時と同じように寒気がしました。
「何なんだ、これは!?。 どんな意見を持とうが勝手だが、現に自らの都市よりも遥かに発展した都市に対して‘おれのせいで発展したんだ。感謝しろよ’的な考えは浅ましいにもほどがある。
ならば、それだけ隣接地に発展という影響を及ぼす事が出来るのならば、その力を自らの都市の発展に使わないのはどうした事か。」
と半ば呆れたものです。
まあ、ここは大阪の歴史スレですからこれ以上は書きませんが、確かに大阪と近畿各地の関係は難しい、というより少し一部の近畿の都市は「己の実力以上に物を言いたがる」という傾向が顕著なようです。
自信を持つのは結構です。むしろ大阪はもっと自信を持っていい。
しかし、自信が過ぎると‘過信’となり‘身の程知らず’になります。
一部の近畿の都市は、‘過信’でないか‘身の程知らず’でないか自ら冷静に見つめ直した方がよろしいかと思います。
304
:
m
◆1k6V8TWPgw
:2008/11/05(水) 22:39:40
>>302
「司馬遼太郎と城を巡る?」という名の番組で、大坂城を
「大坂城は権威の象徴だった、だから徳川家は、権威の象徴たる大坂城を、棄却することなく、本城である江戸城をはるかに上回る規模の城郭を再興させたのだ」
と言っていました。(概ねこんな内容だったと思います)
鉄道とか、お城めぐりなどは偏見がなくていいですね。
大阪城=ナニワというイメージが嫌だと言われる人をちらほら見かけますが、大阪城は「三国一の巨城」です。
徳川家というだけで「豊臣家を滅ぼした狸ジジイ」と思われがちですが、大阪城の再建、そして破壊しつくした大坂の再建という意味に於いては、恩義を感じて止みません。
305
:
よっさん
:2008/11/05(水) 23:04:43
>>304
大阪城は「三国無双」と謳われた天下の名城です。
そして今の大阪城天守閣は大阪の人々の寄付で再建されたもの。
胸を張って自慢して良い名所だと私は思います。
306
:
m
◆1k6V8TWPgw
:2008/11/05(水) 23:09:58
>>303
よっさんの言いたい事は痛いぐらいに分かります。全面的に賛成です。
それにしても各都市の「我」の強さは何に依拠にしているのでしょう。
それは全てマスメディアの印象操作に帰結すると思われるのです。
京都人は雅やかであれ、神戸人は金持ちであれ(全国ネットでは阪神間は全て神戸と見做されます。多分東京の隣の横浜といった感覚なのでしょう。「芦屋セレブの神戸マダム御用達の店」などと平気で言ってのけますから)
そして大阪は「チエチャン」であれ・・。
あまりにキツイ刷りこみに、最近は大阪人ですら「オレは北摂だから・・」と言い出す始末・・
酷い話ですね。
自信、そして過信を生み出し、京阪神各都市の個我を生んだのは全てメディアのせいです。
少なくとも私の学生時代の京都には、このような感覚はなかったように思う。色々な意味で普通の都市だった。
持ち上げられれば調子に乗る。金持ちになれば図に乗る。
愚かなことですが現実に起きていますね。
307
:
名無しさん
:2008/11/06(木) 00:17:46
>>306
京都のイメージは、マスメディアの操作によるものではありません。マスメディアという
ものが出来る以前から、京都に対するイメージは確立されていたのです。大阪のイメージも
そうです。少なくとも、京・江戸・大坂と呼び習わされた時代から、三都はそれぞれ
我が強いのです。そして、それはごく当然のことなのです。
308
:
正義の投稿者、
:2008/11/06(木) 07:35:45
徳川の大坂城は立派になった側面と、面積が少なくなった面とどっこいどっこいでしょうか。
大阪は利便性が高い。そのため大坂城が作られる以前は敵の侵入を受けやすく、高潮なども受けやすい。
ベイエリアゆえの便利さが栄える要因でもあり、都が一時的に止まった原因でしょうね。
ですから306さんの言うことも京都は盆地で侵入されにくい、高潮など来ないことも
栄えた要因で、ステレオタイプな京都の擁護は最近のことでしょう
309
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2008/11/06(木) 08:05:59
>>306
>自信、そして過信を生み出し、京阪神各都市の個我を生んだのは全てメディアのせいです。
>少なくとも私の学生時代の京都には、このような感覚はなかったように思う。色々な意味で普通の都市だった。
こわいですね、メディアのせいで普通でなくなってしまった都市があるのですか。
昔は「普通だった」ということは、ひょっとして、今は「異常である」かも知れませんね。
それを裏つけるように、「メディアが流す都市イメージは江戸三都よりあった。各都市のキャラクターは不変不動」と、今のイメージを固定しようとする人がいます(ここにも出没中)。
でも、ご安心のことを。覚めた見方する京都人もいます。
井上章一(国際日本文化研究センター)は松岡正剛との対談で、江戸三都における上方両都のステータスを語っています:
井上■三都論のたぐいって、たいてい著者は江戸の人で、京都の悪口を言う。ついでに大阪にも少し悪口を触れるというのが多いので、あんまりホスピタリティを語るという感じになってない。
何でか知らないですけど、江戸時代の三都論で、上方の悪口というのはもっぱら京都の悪口なんですが、いま語られる関西論て、ほとんど大阪の悪口でしょう。その意味でもほんまに京都は没落したんやなあと。(笑)
松岡■京都没落説は井上説だからね。(笑)
http://www.makuhari.or.jp/urbanist/1996/96_021.html
つまり、江戸(東京)から悪口言われてるうちは権威ある都市、昔は京都、今は大阪。京都は悪口も言ってもらえなくなった没落都市、というのが彼の京都観。
続けて没落の証拠として、「京のもてなし」が全国に受け入れられなくなったことをあげています:
もてなしというと、京都について語るときの「ぶぶ漬け伝説」というのがあるじゃないですか。あれ、もともとの本意は、今言われている常識的解とは違う。〔・・・・〕
いまのぶぶ漬け伝説ですと、客が来て、「ぶぶ漬けでもどうどす?」と言われて、ほんとに食べたら、帰った後で馬鹿にされるんだと。それで「京都人は何と心の裏表の違うやつらだ」という話になるわけでしょ京都にまだ威光があって、大勢の人が来た時代だったら、何て腹黒いやつだとは思わずに、「都の人はこういう会話をするんだな」と、素直に学習してはったと思うんですよ。
長居する客を「もてなすために用意」した(でも、ほんとうは存在しない)「ぶぶ漬け」―
この存在しない「ぶぶ漬け」のなかに「都の威光」の存在がかかっていたのです。
存在しない物から「存在」を導き出す魔術があったのですよ、昔は。
確かに、悪口言われないから、「憧れられてる」「格上」と錯覚する「偏愛主義者」もいます(ここにも)。
でも、彼のように「悪口言われないことは相手にもされてないんだ」と悟った京都人もいるのです。
存在しない「ぶぶ漬け」の権威凋落を語る都人(みやこびと)―
手品のタネがばれて失職した手品師、「神の死」のために失職した法王、いかにも、形而上学的ですね、この都市は。
310
:
よっさん
:2008/11/07(金) 19:15:49
大阪日日新聞より
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/081107/20081107005.html
戦争犠牲者を慰霊 難波八阪神社で招魂祭
2008/11/07
地元の戦争犠牲者を悼む招魂祭が三日、大阪市浪速区元町二丁目の難波八阪神社(藤枝春紀宮司)で執り行なわれ、遺族をはじめ地元の関係者ら約七十人が慰霊に並んだ。
地元町会などでつくる「難波元町招魂会」(豊田恭平会長)が五十五年前から手掛けており、瑞雲寺(同区元町一丁目、中村秀晴住職)とで毎年交互に営まれている。
境内「殉国之碑」前では藤枝宮司による祝詞奏上の後、同会会長の豊田さん(89)が「肉親と別れ戦地に赴き、一方で郷土の守りに奮闘しながら大空襲で犠牲になった人々への思いを新たに難波の発展に余生をささげる覚悟」と祭文を読み上げた。続いて高齢者や子ども会の児童ら参列者全員が碑の前に玉ぐしをささげ、み霊にじっと手を合わせた。
追悼の辞拝受に立った難波元町連合振興町会会長の竹立威三雄さん(77)は「遺族会の縮小など戦争が風化していく中、若い世代に地元の戦災や復興について伝えるとともに、犠牲者の慰霊をしっかりと継承することが大事」と話していた。
311
:
Matsumura
:2008/11/07(金) 20:51:38
>>309
案山子さん、こんばんは。
井上章一(国際日本文化研究センター)の悪口の言われない京都没落論ね。
これは傾聴に値する言説だと思いますよ。
徹底的に東京から叩かれる大阪というのはそれほど権威がある。恐れられている証しでしょうね。
最近になって、ようやくそういう認識ができつつあるように感じています。
東京メディアの偏向報道についても、「根源には東京の大阪コンプレックス」という認識になるようです。
ですから、東京には京都コンプレックスはない。
大阪こそ東京から見て最大最強の権威と言えるのではないでしょうか。
312
:
m
◆1k6V8TWPgw
:2008/11/07(金) 21:08:01
>>309
>こわいですね、メディアのせいで普通でなくなってしまった都市があるのですか。
チョッと引っかかる文言なので少し付け加えさせていただきます。
別に人情が変わったという訳ではないのです。「京都はこうであれ」という建物が多くなったという事をいいたいのです。
学生時代、よく通っていた定食屋がありました。所謂「ウナギの寝床」です。
コンクリート敷きの土間には安っぽいパイプ椅子、パイプ机が置かれ、トイレは中庭の奥のほうにありました。
中庭は手入れも無く「草ボーボー」 トイレもタイル張りの汚いものでした。
そして数年前、同じ店に寄ったのですが、外装から全て改装されていたのです。
綺麗な暖簾が架かっていました。コンクリートの床もフローリングに変わっていました。そして中庭も綺麗に手入れが施されていました。
オッサンもオバハンも、嘗てのような、所謂「オッサン、オバハン服」を脱ぎ去っていました。
オッサンたちに会った時「久しぶりやんか〜、ちょっと太ったんちゃう」と言われましたが、私には「あんたらのほうが変わったよ」
と言いたくなったものです。
とりとめもない話になりましたね。ここで一つまとめます。
「京都は雅やかであれ」というメディアのくびきはあまりにきつすぎる。
その自縄自縛に活路を求めるというのは、人間性を放棄するような行動ではないでしょうか。
昨今の京都を見ていて、常々そう思うのです。そしてそれは観光地に近ければ近いほどひどいものになっているように思うのです。
清水寺の前ような立地の良いところはいいでしょう。しかしほとんどは立地の悪いところなのです。
苦しい場所で経営している人間に「京情緒たれ」というのはあまりに酷ではないでしょうか。
313
:
名無しさん
:2008/11/07(金) 22:22:19
現実として、東京や京都にコンプレックスを持ち続けているのは大阪だということがよくわかった。
314
:
名無しさん
:2008/11/07(金) 23:00:10
どうも特定地方の話題ばかりで…正直、皆さん自重して欲しいところ。スレの趣旨にも合わないし
ブログでもなんでもいいので。余所で
>>309
井上章一氏はぶぶ漬けをフォークロア的なものとしてました
315
:
名無しさん
:2008/11/07(金) 23:12:51
大阪百科掲示板の常連コテが荒らしをやるとはどういうことですか?
316
:
名無しさん
:2008/11/07(金) 23:15:51
賛成、反対とかないので。レスで応酬、煽ってる方も自重して欲しいですね
はっきり言って迷惑なので。特定地方は語る意味すらないです、個人的に
317
:
名無しさん
:2008/11/07(金) 23:19:08
>>315
あいつらは、京都のことになると恥じも外聞もなく荒らしに転じるからうっとうしい。
318
:
名無しさん
:2008/11/07(金) 23:19:51
そういう応酬すら自重願えないでしょうか?
319
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2008/11/08(土) 00:38:00
Matsumura さん、m さん、
京都人である井上氏の発言は含むところ多い。彼こそ本当の京都人ですよ、『ぶぶ漬け』に関しても、
それを自嘲的に描くユーモア精神がある。
ここには都会であった京都の余裕がありますね。『自嘲』は都会っ子だからこそできる余裕。大阪人も受け継いる。
都会の証しとしての『自嘲文化』、これは京都・大阪、それに東京の一部(下町)が共有していたものです。田舎では理解されない。
ところが現在、大阪は『自虐』へ、京都の方は『自己偏愛』へと、大きく二極分化してしまった。
大阪人と京都人は理解し合える共通の文化基盤を失いました。
井上氏のような京都人は減って、代わりに京都偏愛主義者が台頭している。
事実、Matsumura さんのブログはアンチ大阪の京都偏愛主義者に攻撃受けた。
ネット上だけでなく、実社会でも同じ動きがある。
京都府大は大阪市大・府大より『格上』と、大阪中傷文を全国の高校に送付した准教授は、その典型です。
大阪を蹴落としてステータス向上狙うのが、京都偏愛主義の常套手段です。
参照(雑談スレ)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/6501/1166788380/826-839
そうこうする間にも、ご両人を含めたコテハン非難レスが来た。常連コテハンが京都叩きをしているという。
彼らに聞きましょう:
レスの流れ
>>306
>>308
>>309
>>311
>>312
で、
どのレスが、京都に対する『荒らし』にあたるのか?
また、
>>313
のような京都擁護・アンチ大阪は『荒らし』にならないのか?
320
:
名無しさん
:2008/11/08(土) 01:29:30
荒らしかどうかより、メインとして語るべきか、反論や煽り、再反論なども含めて応酬が不要だと思いますけど
他のスレでも思うことですが。スレとしてのあり方を考えるべきじゃ…批判するべきかどうかすら含めて
321
:
名無しさん
:2008/11/08(土) 10:37:00
京都に対する荒らしじゃなくて、
>>306
以降が「大阪の歴史、伝統文化に関するスレ 」に対しての荒らしになっている。
その発端は
>>302
の最後の一行。
他スレで「撃ち方双方やめ」と宣言した者がそれに乗じて、
大阪城の話が霞んでしまった。
大阪の歴史や伝統の話をせずに、京都の話をしたいなら、
mixiとか、よそでやってくれないかな?
ここは「大阪百科」なのだから。
322
:
名無しさん
:2008/11/08(土) 11:39:15
排他的ですね。
323
:
名無しさん
:2008/11/08(土) 11:47:06
>>321
言っても彼らには分からないと思いますよ。
大阪百科の掲示板の存在意義を踏まえた上で会話をするのと、
おのれの「ごたく」を披露する手段として、この掲示板を使うのとの、違いが認識できないんですから。
そして、自分たちの行為が、他人にどれだけ迷惑かけてるのか、もね。
324
:
名無しさん
:2008/11/08(土) 11:50:38
己の御託を疲労する手段としてこの掲示板を利用してるのは4丁目の案山子じゃないか。
こいつにいいように利用されてることに早く気づけよ。
325
:
名無しさん
:2008/11/08(土) 16:41:04
えらそうに風紀委員みたいな面すんなよ
コテハンの揚げ足とって荒らしてるのはアンタらだろう
じゃあ大阪城の話の続きを早くやれよ、だいぶ時間経ってるぞ
話題もないくせにえらそうにすんな
326
:
名無しさん
:2008/11/08(土) 17:15:15
>>325
そういうお前も同じ穴のムジナ。
327
:
注意
:2008/11/08(土) 19:11:48
ということで、スレッドの本論に以降、戻します
328
:
m
◆1k6V8TWPgw
:2008/11/08(土) 21:35:32
暫く見ていない間に、えらく荒れたもんですね・・
チョッと脱線しただけでそこまでクソカスに言われても困ります。
さて
>>308
さんのいう、大阪城の敷地面積。
通常、城代だけの城なので、これだけの敷地があれば十分だったのでしょう。
豊臣時代のように本丸の奥、表の御殿も必要無いし、西の丸の政庁、大名の屋敷も無いのですから。
むしろ「でかすぎる」と言っても過言ではないですね。
329
:
名無しさん
:2008/11/08(土) 21:39:36
大阪城はもっと城郭再建なども欲しいところ。豊臣大坂城と徳川大坂城の二つぐらい欲しい。
330
:
名無しさん
:2008/11/08(土) 21:47:53
それはいえる。
それと今の大阪城鉄筋コンクリートは仕方ないけど、内部くらいは
木製にして、屏風や襖を設けて、それなりに日本風の内装に改造して欲しいね。
331
:
よっさん
:2008/11/08(土) 21:54:25
内部を木製にするには防災対策などが大変なんですよ。
昭和6年製の特殊な建築物の内装をリニューアルするのはなかなかに大変な事です。
大阪城は御殿や櫓を、城壁を復活させて欲しいと思います。
また旧陸軍第四師団司令部の建物や、大阪砲兵工廠の残った建物の保存活用も検討して欲しいものです。
332
:
m
◆1k6V8TWPgw
:2008/11/08(土) 22:26:50
>>331
4師団司令部は素晴らしい建物ですね。陸軍の師団司令部でも、これ程豪華な建築は他に見たことがない。
チョッと前までは「市立博物館」となっていたのですが、今は閉館となっています。
外から見ているだけというのは勿体ないですね。何とか利用する方法を考えねば・・
333
:
天保山のペンギン
◆6gt1ZVtk9k
:2008/11/08(土) 22:43:43
「大大阪モダン建築」には今の大阪城に関してこうあります。
>現在の天守閣は、近代科学としての建築学と歴史学を結集し、しかも市民の寄付で実現
>されたという意味で、近代都市・大阪の象徴なのだ。
秀吉の初代天守閣、二代目は徳川、そして三代目は大阪市民の手でということですよね。
私も、鉄筋コンクリートの城はなんだかなあ、と思っていたんですが、これを見て考えが
一変しました。立派な三代目ですよね。市民の寄付によってというところが大阪らしい。
>>331
>>332
大阪市がレストランやホテルなどに活用すると発表していましたね。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/081031/20081031001.html
具体的な話はまだですが、楽しみです。
334
:
名無しさん
:2008/11/08(土) 22:49:02
木製は流石に難しい部分があるとは思います。建築法的な部分や技術的な部分など
今のは両方を合わせる感じですね。寄付によるのは素晴らしいですけど
335
:
m
◆1k6V8TWPgw
:2008/11/08(土) 22:55:33
>>333
いや、そのことも書こうかなと思ったのですが・・
あの新装リニューアルした、ラブホチックな大阪城を見ていると、どうにも擁護をする気になれないのですよ。
ただ内装の重厚さを考えるとむげに棄却できないし・・
私の持論である「大古物件足枷論」の典型例だと思われるのです。
336
:
m
◆1k6V8TWPgw
:2008/11/08(土) 23:08:04
>>333
そういう案もあるのですか、初めて聞きました。
ただホテルやレストランというのはどうでしょう。
内装は「師団司令部」「大阪府警」というようにお堅いものばかりで、特にこれといったものもありません。
(昔の小学校のような内装と思ってもらえればよいでしょう)
文化財を破壊して内装を充実させるか。それとも文化財として保存すべきか。なかなか難しいところですね。
337
:
名無しさん
:2008/11/08(土) 23:09:15
西の丸庭園にある迎賓館は建って10数年のものですが、鉄骨造ながら純和風で大変手のこんだ
建物ですね。
338
:
名無しさん
:2008/11/09(日) 08:52:24
大阪城の師団跡はむしろ、改修して迎賓館なんかの機能に使いたいたいですね。
あるいはウルトラCで、首都の代替機能の誘致の一貫として、首相官邸の代替機能とかね。
あと、大阪は大阪城に隣接する「大阪歴史博物館」を観光名所として大々的にアピールすべきですね。
かならず観光コースの第一にここを入れて大阪の歴史を国民にアピールすること。
こうした「実より名」をとる。そして歴史性をアピールするという戦略が都市の格付けで
大いに重要なんですね。
そいうえば、また東京のサルマネ・パクリーの現場を見ましたよ。
東京の中央区が、中央区ミュージアムツアーと称して、日本橋とかの観光ツアーを
やってました。橋下さんの大阪ミュージアム構想の完全なパクリですね。
東京人というのはこういうパクリに対する罪悪感とかないんでしょうかねえ。
339
:
名無しさん
:2008/11/09(日) 09:36:06
神戸やナゴヤはユネスコの国際デザイン都市の認定を受けてるんですね。
大阪市こそ本来、こうした認定を受けるべき都市なんですが。
すぐに利益にならなくともこうした国際的認定や国際機関の誘致はその都市の
アピール面で重要なんですね。
アジア開発銀行の大阪への誘致とか、国連関連のNGO誘致とか、そういったものへの
誘致アピールや認定取得は是非やって欲しいですね。
勿論例の、仁徳陵古墳の世界遺産認定やミシュランとかもね。
340
:
名無しさん
:2008/11/09(日) 14:59:45
>>337
それもそのはずで、あれは二条城白書院のコピーだから。
341
:
よっさん
:2008/11/10(月) 20:17:56
毎日jpより
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20081109ddlk27040240000c.html
国宝三井寺展:「乱世の寺」テーマに講演−−帝塚山大・下坂教授 /大阪
大阪市立美術館(大阪市天王寺区)で開催中の「国宝 三井寺展」(毎日新聞社など主催)で8日、帝塚山大学の下坂守教授が「乱世の寺 三井寺の寺僧たちの活動」をテーマに講演し、来場者約150人が耳を傾けた。
下坂教授は三井寺(大津市)の中世の歴史や仕組みについて、古文書や絵巻を取り上げながら講演。「中世は(寺を)誰も助けてくれない自己責任の時代だった」と述べ、僧が自ら武装した背景について説明した。
また、重要事項を僧の合議で決めていたことなども紹介し、「中世は江戸時代などに比べて寺や僧が社会的に大きな影響力を持っていた。それを頭に入れて展示を鑑賞すると、違った観点で見えてくる」と話した。
大阪市港区から来場した古戎(こえびす)イソコさん(81)は「今まで三井寺といえば晩鐘くらいしか思い浮かばなかったが、ためになった」と話していた。【平野光芳】
>上町筋、谷町筋を歩くと沢山のお寺さんがある。
『古都 大阪』を実感出来るものです。
342
:
名無しさん
:2008/11/10(月) 21:41:51
第四師団の建物が使い道決まっていないのなら、市立近代美術館に転用できないですかね?
中之島の国立国際美術館の隣に用地を確保してありますが、新築はなかなか厳しいようなので。
343
:
天保山のペンギン
◆6gt1ZVtk9k
:2008/11/10(月) 22:29:41
>>339
クリエイティブ・シティーズ・ネットワークには大阪も立候補すると聞いていたんですが。
http://umeda.exblog.jp/5252248/
「デザイン」ではなく、「メディア・アート」か「ガストロノミー(食)」だということ
ですけど、その後どうなったかご存知の方いらっしゃいますか?
>>342
近代美術館、本来なら中之島に国内外の著名建築家のデザインでお願いしたいところです
が、資金不足で中途半端な建物になるなら第四師団の建物はいいかも知れませんね。広さ
とか合えばいいんですけど。いつまでも準備室というのもなんですし、一時的にでも利用
できればいいですね。
344
:
よっさん
:2008/11/10(月) 23:44:41
>>343
>一時的にでも利用できればいいですね。
そうですよね。
確か大阪市は相当に貴重な美術品を既に収集済みだったと思います。
何時までも‘幻’にしておくのは勿体ない。
中之島に素晴らしい美術館が出来る事は大歓迎ですが、目途が立たないのであれば、今あるものを使って公開するのも美術品に対するある種の礼儀のようにも思います。
それと今‘中之島’と書いて思ったのが、もし収集済みの美術品が多数あって旧第四師団司令部跡のビルでは公開し切れないのであれば、中之島のダイビルでも公開したらと思います。
大阪市立近代美術館(仮称)・東館(旧第四師団司令部跡)と西館(ダイビル)と分ければ良いと思います。
345
:
よっさん
:2008/11/14(金) 09:43:00
建設業界ニュース大阪版より
http://www.kentsu.co.jp/osaka/news/p01027.html
■ 【大阪】旧田中邸を交流拠点に整備へ(11/12)
■ 大阪府内の9市町(地域団体含む)が歴史的地域資源などを生かした独自のまちづくり・景観づくりを構想。大阪府の新規事業「歴史・文化的まち並み再生交付金」モデル地区に応募した。富田林市は「富田林駅南地区」で、歴史的建造物・旧田中邸を改修し、交流拠点を整備。寺内町の城之門筋街路整備なども計画。枚方市は、枚方宿街道の電線類地中化などのプランを策定した(概要は各地域版に順次掲載)。
同事業は、「大阪ミュージアム構想」の一環として進めている「石畳と淡い街灯まちづくり支援事業」に基づく補助。府内市町村(政令指定市を除く)などが、地域住民と連携して行う歴史的・文化的な地域資源を生かしたまちづくりに対し、資金面を含めてハード・ソフトの両面でさまざまな事業を包活的に支援する。本年度は2地区程度を予定。審査会で審査し、11月末までに本年度の補助対象を決める。全体で5地区を補助対象として、合計約10億円を交付する。
9市町のプランで多いのは、地域に既存する寺社、古民家や歴史的な街道を再整備し、これに回遊性を持たせることで集客の向上や地域の活性化を目指すもの。
橋下徹知事が訪れ、事業指定を強く望んだ富田林市の寺内町は、「富田林駅南地区」として申請。市所有の旧田中邸を再整備し、文化・地域交流の拠点として活用。富田林駅前から寺内町までの商店街では、サインバナー・夜間照明などで賑わいを演出するほか、景観ガイドライン策定や、街並みにふさわしい店舗の誘致活動などを行う。
応募の9地区は次の通り。
▽岸和田市「岸和田城下町地区」▽高槻市「JR高槻駅前地区」▽枚方市・枚方宿まちづくり協議会「枚方宿地区と枚方浜周辺地区」▽富田林市「富田林駅南地区」▽寝屋川市「寝屋市駅周辺地区」▽箕面市「箕面駅周辺〜箕面公園滝道」▽柏原市「太平寺地区」▽岬町「全域」▽太子町「叡福寺〜竹内街道」
(2008/11/12)
>大阪の歴史を歩きながらにして感じられるような整備を望みます。
346
:
よっさん
:2008/11/16(日) 12:07:29
毎日jpより
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20081115ddlk27040403000c.html
毎日新聞大阪発行120年:関西、再認識 記念のパネル展 /大阪
毎日新聞大阪本社の前身・大阪毎日新聞の発行120年を記念したパネル展「関西が生んだもの&こと20」が14日、大阪市北区の堂島アバンザ・エントランスホールで始まった。20日まで午前10時〜午後8時。無料。
カラオケや回転ずし、インスタントラーメンなど、関西が生み出し、日本や世界に広がった商品やアイデアを、新聞記事、写真などのパネルで展示。独創性や進取の精神に富んだ歴史を再認識し、沈滞する関西経済に元気を取り戻してもらいたいという願いから企画し、会場は昼休みのサラリーマンなどでにぎわっている。
大阪毎日新聞は1888年11月20日に第1号が発刊され、「だいまい」の愛称で親しまれた。【氷置恒夫】
毎日新聞 2008年11月15日 地方版
347
:
よっさん
:2008/11/16(日) 12:13:27
産経関西より
http://www.sankei-kansai.com/2008/11/16/20081116-003785.html
晩秋の和泉路 歴史ファンら堪能 古代史遊ing
古墳や文化財が多く点在する和泉市の歴史を訪ね歩く「2008和泉国古代史遊ing〜光明池から松尾寺へ 歴史と伝説を歩く」(歴史ウオーク推進実行委員会主催)が15日、開かれ、参加した約500人の歴史ファンらは晩秋の和泉路を堪能した。
この日午前9時、泉北高速鉄道「光明池駅」(堺市)近くの広場を出発し、大阪市立大大学院の栄原永遠男教授らの解説を聞きながら、飛鳥時代から続く古刹(こさつ)、松尾寺や和泉市久保惣記念美術館など同市内の名所を見学。参加者は、豊かな自然を満喫しながら同市いずみの国歴史館まで約10キロの道程を歩いた。
またスタンプラリーも実施され、すべてのポイントでスタンプをそろえた参加者には完歩証が贈られた。
348
:
よっさん
:2008/11/16(日) 18:47:01
MSN産経より
http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/081116/art0811161640001-n1.htm
【アートな大阪・魅力の明治建築物語】ヴォーリズが生んだネオ・ゴシック風の華麗な名建築 大丸心斎橋店
大丸百貨店は、18世紀初頭創業の呉服店をルーツに持ち、近畿に地盤を置く名門百貨店である。心斎橋店は戦前の百貨店建築では、その豪華において横綱クラスと言われる近代建築である。2003年には近代建築の記録と保存を目的とする国際学術組織「DOCOMOMO」(88年設立)に世界水準の建築として認定されている(当研究会からも文化財選定についての検討を要望している)。
この建築を見るとき、戦後すぐの焼け野原の中に残った街の様子を写した写真を思い出す。昭和50年代ごろまで戦火で焼け残った煉瓦造り、鉄筋コンクリートの建物は修理して使われていたが、現在では建て替えられている。
そんな中で大丸心斎橋店は、木造が焼失した後、大正14年に心斎橋筋側が、昭和8年に御堂筋側が地下鉄の開通に合わせて完成した。設計はヴォーリズ建築事務所である(宣教師で建築家の米国人ヴォーリズは終戦工作にも尽力したと言われている)。
外観は東側がネオ・ルネサンス風、西側がネオ・ゴシック風で重厚な中にもモダーンな華やかさが見られる。内部の装飾も美しく、さながら建築のスタイルブックのようである。戦火を浴びたが、戦後、大正・昭和戦前の美しい意匠を尊重して修復されている。
隣のそごう百貨店(昭和10年)とともに、大阪ミナミが誇る優れた近代的都市景観は何物にも代え難かったが、そごうは建て替えられてしまった。土地の高度利用のために仕方がないと片づけず、文化財クラスの貴重な建築は都市の資産としての価値を生かし、再生させる努力をしてほしいものである。(明治建築研究会・戦争遺構研究会代表 柴田正己)
349
:
よっさん
:2008/11/17(月) 23:18:21
毎日jpより
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20081117ddlk27040189000c.html
大阪市中央公会堂:90周年で記念行事 /大阪
赤レンガの名建築として親しまれてきた大阪市中央公会堂(北区中之島)が17日、開館90周年を迎える。16日には、建物の内外でさまざまな記念行事が催された。
株の仲買商だった岩本栄之助氏の寄付をもとに、1918(大正7)年に完成したネオルネサンス様式の近代洋風建築。老朽化が進んだが、市民の寄付も得て110億円をかけ99年から改修、完成した02年には国の重要文化財指定も受けた。【麻生幸次郎】
350
:
よっさん
:2008/11/20(木) 18:37:16
日経ネット関西版より
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news003515.html
<発想!動く>大阪の街、デジタル記録──「大水都史を編み後世に伝える会」会長・井上道三さん
2008/11/20配信
八軒家はどこにあったのか? と聞かれて「天満橋!」と即答できる人は大阪通だ。豊臣秀吉の治世から明治の中ごろまで、京都・伏見から淀川を船で大坂に向かう水路の要衝として、8軒の宿が軒を連ねた。
「水都大阪」事業の一環で3月に八軒家浜の船着き場が復元された。少々貧弱で、かつての殷賑(いんしん)をしのぶのは難しい。それならインターネットに絢爛(けんらん)たるにぎわいを再現しようと動き出した特定非営利活動法人(NPO法人)がある。「大水都史を編み後世に伝える会」だ。
「名前は大きく出ましたが、会員はまだ10人です」と会長の井上道三さん(76)。このほど「八軒家かいわいマガジン」をアップした。多彩な情報を盛り込んだデジタルアーカイブだ。
八軒家のすぐ近所、大阪市中央区島町に本社を置く広告制作会社、日本SPセンターの会長で大阪生まれ。島町に拠点を構えて40年になる。「大阪には分厚い歴史の集積があるが、京都や奈良と違って、戦乱や戦禍などで歴史の跡が地上から消え、地下に潜ってしまった」。それをかねて残念に思い、ボランティアで会を立ち上げた。
サイトを開いてみた。古地図、錦絵、動画を動員してビジュアル。平明達意な文章がいい。縦書きなのが新鮮だ。「膨大な蘊蓄(うんちく)を一口サイズに編集しないと読まれない。ネット情報は99.9%が横書きだが、日本の歴史を漢字かな交じり文で書くなら縦書きです」
八軒家周辺は平安時代には窪津と呼ばれ、熊野詣での陸路の起点。後鳥羽院も藤原定家もそこから熊野へ向かった。江戸時代は商都大坂の一翼を担い、太平洋戦争中は軍需で栄えた。人のネットワークを広げて、こうした歴史を重層的に再現すれば、町おこしにつながる。それが発想の原点だ。
目を凝らすと、小さな痕跡が残っている。古文書、古地図、文献、新聞などの資料があり、昔を知る地元の人たちもいる。博物館の学芸員、研究者、郷土史家、歴史に関心がある老若男女、人に話を聞いて文章を書きたい人たち……。ネットワークはだんだんと広がりつつある。
次は大阪造幣局を中心とする文明開化ゾーンで、大阪城、難波宮・上町台地、中之島、高麗橋・難波津の各所が続く。あっと驚く蘊蓄の収集が始まっている。
(編集委員 中沢義則)
351
:
よっさん
:2008/11/23(日) 12:21:51
日経ネット関西版より
http://www.nikkei.co.jp/kan
古い家並みに歴史訪ね──マキノ・富田林・木津…、湖岸の石積みや雲海の城跡
2008/11/22配信
古くからの造り酒屋、かつての隆盛ぶりを裏付けるような大きな商家。歴史の古い関西には昔ながらの家並みを残した街が目立つ。古い街道に寄り添う落ち着いたたたずまいが旅人を迎えてくれる。
琵琶湖の北に位置する滋賀県高島市のマキノ町海津(かいづ)。江戸時代には北陸と京阪神を結ぶ重要な港として、約百隻の帆船が大津までひっきりなしに行き交った。
周辺にはかつての商家が立ち並ぶほか、桟橋があった場所には朽ちた杭(くい)が湖面から顔をのぞかせている。湖岸には台風の大波から家屋を守る「石積み」も残る。
こうした景観を残そうと地域住民で組織する、海津・西浜・知内地域文化的景観協議会の小多明氏は「石積みはカヌーなどで湖から眺めると美しいですよ」と話す。
湖に面した小多氏の家にも石積みがあり、さらに湖には長さ4メートル程度の桟橋のような板、「橋板(はしいた)」がある。野菜などを湖水で洗う施設だ。琵琶湖でも残ったのは海津くらいだという。こうした昔ながらの景観が評価され、2008年3月には国が重要文化的景観に指定した。
大阪府富田林市の富田林町は江戸時代に木綿問屋、酒屋などで隆盛を極め、17世紀後半の記録によると149もの商店が並んだという。高野山と京都を結ぶ東高野街道が通っており、巡礼の人々でもにぎわった。
交差点は交わる道をわざとずらして見通しを悪くする「あてまげの辻」が多い。本来は外敵に備えた防御策だが、住民は「会いたくない人から隠れるのに便利」と笑う。
山城、竹田城の城下町としての性格を持つのが兵庫県朝来市の竹田。防火壁の役目を果たすと同時に、その家の豊かさも示す卯建(うだつ)のある屋敷が残る。
竹田城跡は石垣だけが残るが、雰囲気と眺望は圧巻だ。竹田の街を見下ろすとかつての城主のような気分に。晩秋は明け方に雲海が発生しやすく、運が良ければ周辺の峠から雲に浮かぶ城跡という幻想的なシーンを目にする。
物流の拠点として栄えたのが京都府木津川市の木津町(きづまち)。奈良街道があり、木津川の水運も盛んで古い商家などが残る。川の対岸には西作り道、東作り道という変わった地名がある。これは奈良時代に街道を造った際の名残だという。周辺には古くからのお茶問屋が残る。
足を延ばすと国宝「釈迦如来座像」とともにカニの恩返し伝説の蟹満寺(かにまんじ)や、渡来人の足跡を物語る高麗寺跡もある。
全国的に有名なのが奈良県橿原市の今井町。江戸時代には木綿、両替商が栄えた。大半が古い家並みで、現代にいることを忘れる。
関西にはまだまだ古い家並みを残す街が数多くある。文化的背景、地域の特性でおのずと雰囲気、趣も違う。お気に入りの古い家並み、街を探してみてはいかがだろうか。
(大阪経済部 友山宏済) sai/news/news003559.html
352
:
よっさん
:2008/11/24(月) 15:41:23
YOMIURI ONLINEより
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20081124-OYT8T00041.htm
「太夫と心ぶら」うっとり100周年 心斎橋筋北商店街
大阪市中央区の心斎橋筋北商店街で23日、江戸時代の遊女の行列を再現する「太夫と心ぶら・心斎橋祭」が行われ、あでやかな着物姿に高げたの太夫役らがアーケード内を練り歩き、道行く人の目を楽しませた。
心斎橋・石橋100周年記念の催しとして、同商店街が、江戸時代、新町の廓(くるわ)から道頓堀の芝居小屋へ通う道として心斎橋筋付近がにぎわったことにちなんで企画した。
同区のタレント養成学校の生徒らが太夫や男衆にふんし、公募で選ばれた5〜70歳の女性約30人も着物姿で後に続いた。鈴を鳴らし、一行がアーケード内約300メートルを往復すると、買い物客らがカメラ付き携帯電話で撮影したり、「きれいね」とため息をついたりして見入っていた。
(2008年11月24日 読売新聞)
353
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2008/11/29(土) 08:25:48
堺スレではなく、こちらに投稿します:
堺の御廟山古墳きょうから一般公開
「間近で見て身近に」 日本考古学協会など16学会評価
世界文化遺産の国内暫定リスト入りが決まっている百舌鳥(もず)・古市古墳群にある堺市北区の陵墓参考地・御(ご)廟(びょう)山(やま)古墳が初めて一般公開されるのを前に、陵墓の公開を求めてきた日本考古学協会など16学会の代表らが28日、現地で宮内庁職員から調査成果の説明を受けた。研究者らは「間近で見ることでより身近な存在になる」などと一般公開を評価、世界遺産登録に向けた機運の高まりに期待した。一般公開は29、30の両日午前9時から。
宮内庁と市が合同で行った発掘調査によって、同古墳は全長約200メートルで、5世紀中頃の築造と判明。今後の調査で築造当初の形や大きさが確定する見通し。また、墳丘南側に張り出した「造り出し」では、家形などの形象埴輪(はにわ)の破片が多数見つかっており、祭祀(さいし)が営まれていたとみられる。
この日は午後1時から、研究者42人が約1時間かけて見て回った後、市博物館で検討会を開いた。福永伸哉・大阪大教授(考古学)は「合同調査によって従来より多くの情報が得られ、百舌鳥古墳群の成り立ちを知るうえで大きな成果が得られた」と評価。茂木雅博・茨城大名誉教授(同)も「予想以上に発掘面積が広くて驚いた。暫定リスト入りが決まったことで、宮内庁の姿勢が変わったように感じる」と語った。
また、30年以上、陵墓公開を働きかけてきた奈良県立橿原考古学研究所の宮川?・共同研究員は「一般公開は画期的なことで、感慨深い。見学する人には、古墳がきちんとした設計図で造り上げられた構造物だということを実感してもらえるはず」と笑顔を見せた。
(2008年11月29日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20081129-OYT8T00020.htm
354
:
正義の投稿者、
:2008/11/29(土) 08:29:07
今日は日本遺跡学会で発表します。古墳群の歴史的価値のアピール必要ですわ。
355
:
名無しさん
:2008/11/29(土) 16:49:52
「文楽の夕べ」800人堪能──大阪市内で公演・トーク
2008/11/29配信
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news003691.html
阪が生んだ人形浄瑠璃文楽の魅力を紹介する「文楽の夕べ」(日本経済新聞社主催)が28日、大阪市西区の大阪厚生年金会館で開かれ、約800人の来場者がミニ公演やトークを楽
しんだ。
第1部では、浄瑠璃の語り手(太夫)で人間国宝の竹本住大夫さんと、女優の麻実れいさんが対談。男役を演じることも多い麻実さんは、太夫が男女を演じ分ける文楽との共通点に触れ、「女優になっても私自身は無性別」と話し、住大夫さんは「情を伝えるのが浄瑠璃の使命」と語った。
第2部は「花競四季寿(はなくらべしきのことぶき)」の「万歳」「鷺娘」を上演。上演後、出演した太夫の竹本文字久大夫さん、三味線の野澤錦糸さん、人形遣いの桐竹勘十郎さんが、入門から修業時代の思い出などを語り合った。
356
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2008/11/30(日) 10:22:47
大阪・茨木歴史散歩 里に残る隠れキリシタンの篤き信仰
大阪北部のベッドタウンで、名神高速のインターがある大阪府茨木市。これまで「茨木」と聞いて、まず思い浮かぶのはそれくらいで、「歴史」というキーワードを連想したことはなかった。でも、改めて出かけてみれば、熱心な語り部との出会いや新鮮な発見も多いはず。隠れキリシタンの里、旧西国街道に残る本陣跡、酒どころの伝統を引き継ぐ蔵元を訪ね、“茨木歴史散歩”を楽しんだ。(山澤義徳)
国道171号から北に向かい、曲がりくねった道を約8キロ。静かな山間部の小さな集落で、篤い信仰は守られてきた。ここの住民で、市立キリシタン遺物史料館(同市千提寺)のボランティア職員、東満理亜(59)さんも、隠れキリシタンの流れをくむ一人。「家を継ぐ長男だけに遺物の存在が伝えられたそうです。子供が弾圧されるのを恐れた親心でしょうね」。温和な表情でそう説明してくれた。
同館の展示室には、寄託された遺物など20点余りが並ぶ。木彫りのキリスト磔刑(たっけい)像や聖人画、それらを納めていた「あけずの櫃」などだ。毎年、教会関係者や歴史研究家ら約7000人が見学に訪れており、遺物の前で熱心に手を組む信者も少なくないという。
遺物の存在が明らかにされたのは、大正8年。近くの集落に住む青年教師だった藤波大超さん(初代館長)による地道な調査の成果だった。藤波さんは生前「母から話を聞き、中学の恩師にすすめられて調査を始めた」と話していたという。
「うすうす知られていたのに、密告されなかったのです。長年信仰を隠し通せたのは、周りの人の優しさがあったからではないでしょうか」と東さん。
■ ■ ■
次に茨木インターの西、車で5分ほどの距離にあり、「密告者に褒美を与える」とした江戸時代の高札など、旧西国街道の宿場町にまつわる史料が並んでいる「椿の本陣」(同市宿川原町)へ。ここは、参勤交代へ向かう大名らを泊めた、庄屋の屋敷だ。京都と西宮の中間にあるため、宿場の中でも特に重要な役割を担ったという。
正面左手の御成門をくぐり、大玄関に入る手前の中庭には、呼び名の由来となったツバキの木。明治天皇も皇太子時代に宿泊された「上段の間」や、ジオラマ展示などを設けた米蔵、日本に3台しか現存しないとされる元禄時代の機械時計など貴重なものが多い。
17代当主の梶洸(たけし)さん(86)が語るエピソードの数々が面白い。
梶さんが「これ見てごらん」と示してくれた宿帳のページには、「伊能忠敬一行が泊まり賃を15%値切った」との記録。享保3(1718)年に火事で焼け、再建費用の寄付を募った際の覚書には「津山の殿様から30両。ただし、10年分割払い」とある。「庄屋といっても名誉職。うちは酒蔵などの商売をしていなかったから、楽ではなかったやろな」
続けて自作パネルを取り出し、大名の献立と物価の関係など、当時の世相を生き生きと説明する梶さん。定年退職後に取り組んだ古文書解読の成果というが、「見学者から教わったことも多い」と感謝の言葉も忘れない。
「耳は遠くなったけど、元気でいるうちは大勢に来てほしい。ゆっくりと、昔をしのんでください」
357
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2008/11/30(日) 10:26:12
■ ■ ■
最後に向かった先は、茨木唯一の造り酒屋「中尾酒造」(同市上泉町)。市役所から北へ1キロ足らずの市街地にある。5代目社長の中尾宏さん(45)は「かつて茨木は、灘と並ぶ酒どころでした。その灯を受け継ぎたい」と、熱っぽく語る。
そんな思いは、製品のネーミングにも込められている。「黒井の清水」は、秀吉が茶の湯に愛用したといわれる茨木神社の井戸にちなんで名付けた。同神社で毎秋開かれる茶会にあわせて醸造し、名水の誉れを今に伝えている。
中尾さんは杜氏(とうじ)を雇わず、独りで酒を造る蔵元としても有名だ。栽培が難しく廃れてしまった地元の酒米「三島雄町」の復活に取り組み、農家を訪ね歩いて4年がかりで種もみを見つけ出したこともあるという。
今シーズンも、伝統品種「亀の尾」を使った醸造を新たに始める一方、研究所に栽培を依頼して「弁慶」の種もみを増やしている。「どんな酒が仕上がるかは分からない。だからこそ、やりがいを感じますね」
今年も新酒の季節。もうすぐ、中尾酒造の軒先に真緑の杉玉が下がる。
【隠れキリシタンの里】 茨木市千提寺、下音羽地区の民家や寺院には、十字の刻まれた墓碑が今も残る。歴史教科書で有名な「聖フランシスコ・ザビエル画像」(神戸市立博物館蔵)もここで見つかった。ルーツについては、弾圧を逃れた京や堺の信者が隠れ住んだとみる説と、キリシタン大名の高山右近が住民を改宗させた名残だとする説がある。
【キリシタン遺物史料館】 藤波さんへのインタビューなどをまとめたドキュメンタリー映像も見ることができる。午前9時半〜午後5時(月曜は正午まで)。無料。年末年始と火曜・祝日休館。北大阪急行線千里中央駅、JR茨木駅、阪急茨木市駅から阪急バスで「千提寺口」下車徒歩15分。(電)072・649・3443。
【椿の本陣】見学無料だが、基本的に5人以上、10日前の予約が必要。午前9〜午後5時に梶さん((電)072・643・4622)へ。毎年11・3月には予約不要の特別公開を行う。
【中尾酒造】 清酒「艶正宗」、吟醸酒「凡愚」、地元米の酒「見山」「龍泉」などがある。(電)072・622・2205
11月29日18時12分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081129-00000531-san-l27
358
:
よっさん
:2008/11/30(日) 19:48:07
MBSニュースより
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE081130150400184511.shtml
■伝統の菅、復活なるか〜大阪・深江地区
江戸時代、伊勢参りの菅笠の産地として知られた大阪市東成区の深江地区が、1度は途絶えた菅の復活に取り組んでいます。果たして、伝統の菅は現代によみがえるのでしょうか。
泥だらけになって菅の苗を植える子どもたち。
菅笠の産地として栄えた東成区の深江地区では、20年前に消滅した菅田の復活に取り組んでいます。
「(田んぼの中では)動けなかった」
「家に帰って、お風呂入ります」(子ども)
深江の菅笠は、歴代天皇の即位や20年に1度の伊勢神宮の遷宮などの際に献上されてきました。
深江では、菅の生産自体がストップした後も菅笠や菅細工をつくる技術が脈々と受け継がれています。
「これからますます菅細工を盛んにしていきたい。町おこしの一環になればいい」(深江菅田保存会・吉村公一会長)
先週は、地元の小学生とお母さんたちが菅細工にチャレンジしました。
保存会のメンバーの指導で、コースターをつくります。
「初めて。(Q.作ってみてどうだった?)難しい」
「大変だったけど、できてうれしい」(子ども)
「将来、この子たちの中から後継者が生まれてくるかな」(深江菅細工保存会・島谷真由美さん)
全国に知られた菅の産地をもう1度復活させたいと、地元は意気込んでいます。
359
:
よっさん
:2008/11/30(日) 20:02:55
MSN産経より
http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/081130/art0811301402001-n1.htm
【アートな大阪】行政はモダニズムの名建築残して 諏訪森会館
諏訪ノ森駅舎(南海本線)が高級住宅地の表玄関にふさわしい現在の建物に建て替えられたのが大正8年である。文化財でステンドグラスの美しい駅舎であるが、初代の駅舎(明治40年)は現在の下り駅舎の北側に建てられたと言われている。
その初代駅舎があった近くに、2代目のハイカラ駅舎に負けないようなモダンなスタイルで建設されたのが諏訪森会館(公民館、昭和16年)である。
寄棟造りでスパニッシュ瓦葺、アーチ窓、丸窓、東側に設けられているベランダなどは味わい深いものである。換気口、玄関ポーチのひさし部分のデザインは手が込んでいる。
戦争体制の資材制限の厳しい中にあっても自分たちの町の集会施設を美しい建築で建てたいと願う人たちの心意気が伝わってくる。古きよき時代の諏訪森地区の豊かさを今に伝える近代の歴史の生き証人である。
http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/081130/art0811301402001-n2.htm
しかしこの建築は、老朽化のため、管理する堺市教育委員会によって解体されようとしている。それに対して地元の人たちは、地域のシンボル的な名建築を何としても保存したいと立ち上がっている。
文化財級の近代建築であるだけでなく、地域の人々の尊い寄付によって建てられた名建築を安易に取り壊すべきではないと考える人は多い。
工事を前に地元の人は再利用を強く訴えている。その声を文化・教育を守り育てる立場の市教委がどこまで聞き入れるかである。
百舌鳥古墳群の世界遺産登録を進める前に、市民の声を入れて諏訪森会館の解体を中止させ、保全・再生の工事に転換すべきである。後世に悔いを残さぬためにも、再検討を要望したい。
(明治建築研究会・戦争遺構研究会代表 柴田正己)
360
:
名無しさん
:2008/12/10(水) 20:46:29
河内大塚山古墳の周濠浅かった 考古学研究者ら確認
http://www.47news.jp/CN/200812/CN2008121001000852.html
天皇らが埋葬された可能性があるとして陵墓参考地に指定されている大阪府の河内大塚山古墳(6世紀後半)の発掘現場を10日、考古学研究者らが見学。築造時の周濠が現在より浅かったとみられることが分かった。
宮内庁は墳丘への「渡り堤」が周濠の水で浸食されていたため、修復工事に先立ち発掘。研究者側の要望に応じ調査区への立ち入りを許可した。
宮内庁職員から説明を受けた研究者によると、出土品はなかったという。現場は研究者15人が約45分間見学した。
参加した松原市文化財保護審議委員会の西田孝司委員は「堤の土層の状況から、古墳築造時の周濠は現在よりも浅かったようだ。江戸時代に田畑のかんがい用の池として周濠を利用するためしゅんせつされ、深くなったのでは」とみている。
古墳は大阪府の百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間にあり、平城天皇の皇子らの墓とする言い伝えなどから、大正時代に陵墓参考地になった。全長約330メートルの前方後円墳で全国でも5番目の規模。古墳の規模が縮小する古墳時代後期では破格の大きさで、研究者間では、欽明天皇など6世紀後半の大王墓だったとする見方が強い。
2008/12/10 18:52 【共同通信】
361
:
名無しさん
:2008/12/12(金) 20:08:59
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/103 川口居留地 大阪市西区 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20081212ddlk27070349000c.html
◇大阪の文明開化の走り 洋館や広い道、街路樹
引き続き、なにわの海の時空館を企画課長の神垣八千代さんに案内してもらう。3階に川口居留地のジオラマ(立体模型)が展示されている。
川口居留地は、江戸幕府が明治新政府へと変わる1868(慶応4)年の大阪開港に伴い、船番所や船蔵などを撤去して造成された。中之島西端の西、木津川と安治川が分かれる辺りの約2万6000平方メートルを26区画に分けて競売にかけ、英、米、独、仏、蘭、ベルギーの6カ国の貿易商が落札した。
神垣さんの解説。「川口は神戸と同時期に売り出されたんですが、川口の方が価格が高かった。神戸より期待値が高かったわけです」。さらに続けて、「横浜と川口の両方に会社を持っているケースも多かったんです。横浜で荷揚げされても、そのうち3割くらいは大阪に送られていたようです」。
ジオラマに目を転じると、きれいに区画が整理され、ゆったりと洋館が並ぶ。幅の広い道路には街路樹に街灯まで付いている。道路には歩道が区分され、街路樹は約600本のユーカリ、街灯は石油ランプ。いきなり外国が現出したようなものだ。「当時は路地ばかりの時代。夜も明るい居留地は、文明開化だったんでしょうね」と神垣さん。
この200分の1の精細なジオラマの制作には、ずいぶん苦労があったようだ。なにしろ資料がほとんどない。わずかに残る絵はがきの写真が頼りだったが、写真には写っていない部分もあるし、建物の大きさがわからない。
設計した長岡建築研究所の長岡續(つづく)所長(72)は「柱は外国から持ってきても、瓦は日本で作ったはず」と、ルーペで写真を見て瓦の数を数え、幅25センチと計算して建物の大きさを割り出した。また、当時の設計者の立場になり、「お客さんはどこからが入りやすいか、社長室はどこにあれば快適か」と、建築家としての想像を働かせたという。
絵はがきに外車が写っていたので、ジオラマには外車も配置されている。
当時、居留地の近くの戎島(えびすじま)町(今の川口1〜本田1)には大阪天満宮の御旅所があったのだが、開港に先立つ大坂開市の1867年、戎島町は梅本町に変わった。戎が外国人の蔑称(べっしょう)に当たるというので、幕府が外交上の配慮から戎の付く地名や橋名の使用を禁じたためだ。だから戎橋も永成橋に名を変えた。
居留地の周囲は雑居地として、外国人が家屋を借りて住んだ。元大阪税関富島出張所南の川口聖マリア幼稚園(川口3)の近くに、雑居地だったことを示す説明板がある。大阪案内人の西俣稔さんが「ここらは中国人の雑居地で、中華料理屋や散髪屋が多かった。大阪の中華料理発祥の地です。ところが第二次大戦の空襲で焼けてしもた。残ってたら、横浜、神戸、長崎に並ぶ日本4大中華街になってたかも」。それは残念。中国人は耳掃除もうまく、遠方から来る客もいたとか。
この川口聖マリア幼稚園のある場所に1879(明治12)年、フランス副領事の要請で富島天主堂が創建された。赤レンガ造りのゴシック様式の壮麗な礼拝堂は、木津川をはさんで西にあった府庁江之子島庁舎とともに、当時を代表する洋風建築だったと伝えられる。
異国情緒漂う居留地と周辺の雑居地は、大阪にさまざまな文化をもたらす。【松井宏員】
毎日新聞 2008年12月12日 地方版
362
:
名無しさん
:2008/12/13(土) 01:25:56
>>360
この松原市にある河内大塚山古墳は国内5位の大きさを誇る巨大古墳なのですが
世界遺産登録を目指してる百舌鳥・古市両古墳群のリストには含まれてないんですね。
以前、何故かと思い松原市にメールしたところ、学術的に古市古墳群に含めたり、含めない場合があるそうです。
確かに存在する場所が両古墳群のちょうど中間地点辺りですし、江戸時代には人も住んでたそうで
中が結構荒らされてるみたいです。
363
:
名無しさん
:2008/12/13(土) 01:32:48
あと古墳の「大きさ」に関してですが、百舌鳥・古市両古墳群の凄い所は
この両古墳群には国内古墳の大きさトップ10のうち5つ(河内大塚山古墳を含めると6つ)も含まれてる所ですね。
文字通り国内最大の両古墳群です。
まぁ50位ぐらいまではほとんど大阪と奈良にあるんですが・・
364
:
名無しさん
:2008/12/13(土) 04:27:01
古過ぎると仕方ない部分もあるかと
365
:
名無しさん
:2008/12/15(月) 19:26:26
佐渡と百舌鳥・古市古墳群、世界遺産の暫定リスト見送り2008年12月15日18時57分
文化庁や外務省など世界遺産関係の6省庁連絡会議は15日、国内の暫定リストへの、「金と銀の島、佐渡」(新潟県)と「百舌鳥(もず)・古市古墳群」(大阪府)の追加を見送ると決めた。文化庁は9月、この2件を含む5件をユネスコ(国連教育科学文化機関)に提出する暫定リストに追加する方針を示していた。
文化庁は、佐渡について、07年に世界遺産になった石見銀山(島根県)を拡張するかたちで推薦すべきだとしていた。しかし島根側に「唐突な話だ」などと困惑する声があり、さらに調整が必要と判断された。
仁徳天皇陵を含む百舌鳥・古市古墳群は、天皇や皇族の墓である陵墓の保存管理の考え方を、宮内庁と文化庁で整理・共有する必要があるとされた。文化庁は「2件とも調整ができ次第、追加を諮りたい」としている。
今回、追加が決まったのは「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」(北海道、青森、岩手、秋田各県)、「九州・山口の近代化産業遺産群」(福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、山口各県)、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)。
http://www.asahi.com/culture/update/1215/TKY200812150261.html
366
:
名無しさん
:2008/12/16(火) 00:31:38
>>363
古事記に出てくる天皇の場所が大阪奈良でほぼ占められ
1人2人が三重だったような。そりゃあねェ当たり前です。
367
:
よっさん
:2008/12/16(火) 09:36:22
YOMIURI ONLINEより
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20081216-OYT8T00033.htm
難波宮跡 朝堂院西側に柱穴出土
塀ではなく建物跡と判明
大阪市中央区の難波宮(なにわのみや)跡で、宮殿中心部「朝堂院」の西側から8世紀の柱穴が出土し、市教委などが15日、発表した。近くで見つかっていた塀跡か建物跡か判断がつかなかった柱穴とつながり、建物跡だったことがわかった。市教委は「難波宮西側の構造を知る重要な手がかりとなる」としている。
柱穴は1辺が1・1〜1・2メートルの方形で、南北に3か所が並ぶ。1967年と2007年の調査では東西に並ぶ柱穴10か所が見つかっており、長方形(縦5・3メートル、横約18メートル)の建物が立っていたことになる。
儀式や宴会などを行っていたとみられる「五間門区画」の南側に位置しているが、市教委は「五間門区画とは違い、役人が執務した実用的な建物だった可能性がある」としている。
現地説明会は23日午後1時半〜3時半。問い合わせは、市文化財協会難波宮調査事務所(06・6943・6836)。
368
:
よっさん
:2008/12/18(木) 09:07:40
産経関西より
http://www.sankei-kansai.com/2008/12/18/20081218-004575.html
「台場」に関所あった 枚方の遺構 入り口部分を発見
幕末に勝海舟が設計し、淀川沿いに築かれた砲台跡「楠葉台場」(大阪府枚方市)の発掘調査で、虎口(こぐち)と呼ばれる台場の入り口の一部が見つかり、17日、同市教委が発表した。虎口は、大阪から京都へ向かう京街道の関所への入り口とみられ、京街道の経路を変更し、台場内部に関所を設ける全国で例のない構造であることが裏付けられた。
同市教委は「幕府側が、長州藩など敵対勢力が京都に入ることを防ぐことが狙い。大阪から京都へ向かう交通の要衝で、幕末に奔走した坂本龍馬や大河ドラマ『篤姫』の小松帯刀らも通ったのでは」としている。
今回の調査では、虎口の石垣部分や柱の一部を発見。また、京街道が通っていたことを裏付ける盛り土の跡も確認された。
楠葉台場は、京都府立総合資料館で平成9年に発見された楠葉台場の設計図から京街道を台場のなかに引き込み、関所があるとみられていたが、虎口の発見で、砲台としての機能のほかに関所としての役割を果たしていたことがあらためて証明された。
台場は幕末、外国船からの国防のため、全国各地で築かれたが、河川沿いに築かれたものは珍しく、遺構が残っているのは楠葉台場だけ。楠葉台場は、京都防衛の責任者として幕府から派遣された会津藩主・松平容保が提案し、幕臣の勝海舟が設計した。
同市教委の竹原伸二さんは「街道を引き込み、関所を設けた特異な構造は緊迫した当時の情勢を物語っている」と話した。
369
:
名無しさん
:2008/12/18(木) 10:32:52
天文図、漆喰113片で合成…キトラ古墳
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20081218-OYO1T00173.htm?from=main3
文化庁は17日、奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)の天文図(直径約60センチ)の画像に、実際にはぎ取った漆喰(しっくい)113片の形を合成した図を公開した。
パソコンなどを使って、漆喰片一つひとつを、天文図の元あった個所に当てはめていった。ジグソーパズルのような図で、どう細分化されたのかが、わかる。
2009年度から修復作業が始まる。担当者は「天井のカーブに張り付いていた部分をどう復元するかなどが課題だ」としている。
(2008年12月18日 読売新聞)
370
:
名無しさん
:2008/12/21(日) 10:52:48
今、谷崎の「細雪」を読んでいます。
学生の時は退屈に感じたのが嘘の様に、とてもおもしろくて止められません。
ジェーンオースティンよりも余程おもしろいです。
大阪人ではない谷崎ですから、少しおかしな言い回しもありますが、気になりません。
それよりも美しい船場言葉にうっとりします。とても音楽的なのですね大阪弁は。
大阪人のくせに正しい大阪弁を喋られない事に今更ながら気づかされています。
体感していないはずの、古きよき時代の大阪の文化に懐かしさを感じるのは、
やはり古の記憶が身体に刻み込まれているからなのでしょうか。
371
:
名無しさん
:2008/12/22(月) 00:54:08
>>370
少しおかしな言い回しになっているのは、谷崎が大阪人ではないからではなく、大阪の言葉が戦中・戦前と現代とで様変わりしているからでしょう。
小説内での若い主人公級の女性達がしゃべっている言い回しは、現代では年配の男性、それもコアな地域のおっさんでないと聞くことはできないようになっています。
言葉なんて、きれいとイメージされればきれいに聞こえ、汚いとイメージされれば汚く聞こえるもので、1950年代頃に大阪出身の山本富士子の映画の中の大阪弁のセリフは、ほんとうにおしゃれできれいに聞こえます。
確か「細雪」にも出演していたと思います。
372
:
名無しさん
:2008/12/22(月) 01:03:07
喋り言葉を書き言葉として直した場合の違いかな
373
:
よっさん
:2008/12/22(月) 19:14:12
古都・京都を信奉する人が「古都 大阪」を信奉しないのは如何に馬鹿げているかという事ですね。
日経ネット関西版より
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news004149.html
大阪の建物、歴史香る――登録有形文化財が最多
2008/12/22配信
歴史を感じさせる地域といえば多くの人が京都を思い浮かべるだろうが、実は大阪こそ歴史の街だとの指摘がある。裏付けるのは国が指定する登録有形文化財(建造物)の数だ。大阪府は500あまりで、2位の兵庫県、3位の長野県などを引き離す。数多くの天災や大火、戦役をくぐり抜けた建物が、再び脚光を浴びようとしている。
大阪市中央区の北浜から淀屋橋にかけて点在する大正から昭和初期の建物。代表的なのは大阪ガスビル(1933年)や北浜レトロビルヂング(12年)だろう。数百年にわたり経済の中心都市として栄えた大阪で、実業家らは北浜近辺に趣向を凝らした建物を建てた。第2次世界大戦などの被害を逃れ、今も当時の面影を伝えている。
そんな建物を音声ガイド付きで巡るツアーがある。大阪市が企画して始まった「大阪まちあるき」がそれだ。市のサイトから無料の音声ファイルを取り込んで携帯音楽プレーヤーに転送し、同じくサイトからコース地図を印刷すれば準備オーケー。北浜の建物を巡るなら「レトロ浪漫中之島タイムトラベルコース」。語りは浜村淳さんで、淀屋橋から淀屋橋センタービルまでを独特の口調で案内してくれる。
大阪市ゆとりとみどり振興局の森川久典担当係長は「大阪は歴史的な資源が豊富。音声ガイドを聞きながら思い思いに市内を散策し、大阪への理解を深めてほしい」と話す。市は携帯プレーヤーの貸し出しにも対応している。
歴史的な建物はここ数年、レストランやアパレル関係の店舗に活用されるなど見直しの動きが広がっている。登録有形文化財の場合、建物そのものに影響を与えない内部の改装は認められている。
大阪市中央区平野町にある生駒ビルヂング(生駒時計店)は30年の建設。時計塔のある独特の外観が特徴だ。1階にはイタリアンカフェが入る。店内を建物の内装に合わせた調度品で統一するなど風格のある落ち着いた造り。カフェの店長、船越直輝さん(29)は「お客さんからは『外国にいるような気分』と言われます」と笑顔で話す。
大阪府の南部に目を移せば「自治都市」としての名残を感じさせる建物が多くある。
大阪府貝塚市は寺院を中心に形成された「寺内町」の風情が残り、薬やしょうゆの醸造などの商家が並ぶ。市では秋から冬にかけて年に1度、回船問屋の「広海家住宅」を、応募した30人に公開。かつて寺内町で栄えた時代について市の職員が建物を紹介しながら説明してくれる。ほかにも大阪府内には八尾市や堺市に寺内町が多くあったとされ、各市に有形文化財として建物が残る。
文化財保護を推進する大阪府教育委員会の林義久主査は「大阪は奈良時代の難波宮(なにわのみや)以来、経済の要衝だったため観光資源が多い。文化財の登録を進めるとともに、観光地を面としてアピールする必要がある」と話す。
今年は新たに大阪市中央区平野町の「小川香料大阪支店」と大阪府豊中市の「府立桜塚高校」の塀が文化財に登録された。昭和初期の建物で、アールデコ様式の装飾に特徴がある。「登録有形文化財」と聞くといかめしい印象だが、実は身近な場所に点在している。
通天閣や大阪城だけでない新しい大阪の魅力をアピールすれば、歴史好きの観光客らを呼び込む機会も広がるかもしれない。
(大阪経済部 佐々木元樹)
▼登録有形文化財 原則として築50年が過ぎた建築物や土木構造物などが対象。「国土の歴史的景観に寄与している」「造形の規範となっている」「再現するのが容易でない」などの条件があり、文化庁が登録する。ダムや煙突、トンネルなども登録されている。
374
:
名無しさん
:2008/12/22(月) 23:06:51
>>373
大阪城も再建だけど一応歴史なんだけど、城壁とか見るべきところは大きいのに
あと寺内町だけじゃなく大阪市の下寺町も。でも日経関西の今までの記事とは
違う感じで好感は持てます
ただレトロと昔ながらだと切り離される部分があるのでそこら辺もあるかな
375
:
名無しさん
:2008/12/22(月) 23:13:16
鉄道の歴史
ミナミが変わる(6)難波の礎、地下工事にあり
2008/12/22配信
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news004148.html
来年3月に開業する「阪神なんば線」で、運転士が新区間に慣れるための「習熟運転」が始まった。同線は阪神西九条駅と近鉄難波駅間約3.4キロを結び、安治川以東の約2.5キロは地下を走る。大阪市西部の地下工事は常に、軟弱な地盤や地下水との闘いを強いられるが、「なんば線」はこの課題を乗り越え、5年半の工事を無事終えようとしている。
大阪での大規模な地下工事の最初は、キタとミナミを結ぶ地下鉄御堂筋線だった。昭和5年(1930年)に着工し、同8年に梅田―心斎橋間3キロが開通。同10年に心斎橋―なんば間0.9キロ、同13年になんば―天王寺間3.4キロと区間を延ばした。
地下鉄は当時、東京の銀座線の一部しか開通しておらず、経験のなさに地盤の悪さが重なって、御堂筋線の工事は困難の連続だった。苦闘の模様は、「大阪市交通局75年史」などに記されている。
工事は開削工法によった。これは、掘り込んだ場所の両側の土が崩れないように、土留めの鋼矢板を打ち込み、予定の深さまで掘削した後、トンネルや駅舎を造って埋め戻す工法。「鋼矢板はドイツから輸入し、鋼矢板を打ち込む杭打機の設計などはドイツ人技師の指導を仰いだ、と記録に残っている」と、大阪市交通局鉄道技術本部工務部担当係長の吉田博さん。
●10両連結を想定
特に難関だったのは、地下鉄ルート上の堂島川と土佐堀川、長堀川(埋め立てられて現在の長堀通)。船の往来が頻繁な堂島川と土佐堀川は、川の半分をせき止めて工事を行い、続いて残り半分と段階を踏んだ。長堀川は川をすべてせき止めて工事をしたという。
当時は世界的な不況のさなか。建設費を賄うための債券の発行は、地下鉄工事を失業者対策事業に位置づけることで、国に認められた。結果、工事当初は、「土砂の搬出にガソリン機関車とトロッコを使わず、大八車を人が引いて」(大阪市交通局75年史)など、人手に頼る方法を取らざるを得ず、工程は遅々として進まなかったとされる。
工事の苦闘とは裏腹に、完成した地下鉄御堂筋線は、将来を見通した立派なものだった。まず、ホームの長さ。梅田駅や心斎橋駅などは、1両の長さが約17メートル車両で10両連結を想定して造った。同線の運転当初は1両編成、戦争直前でもせいぜい3両編成という実情にもかかわらずだ。
しかも、「世界に恥じないものを」(関一・大阪市長)と駅舎のデザインにも力を入れ、ホームに柱を設けずに済むアーチ天井を採用した。柱を設ける方式に比べ、「建設費は2倍」かかったという。その梅田駅や心斎橋駅がいま、朝のラッシュ時に10両編成の2―4分間隔運行に生きている。
●近代化への歩み
技量不足による事故も起きた。土佐堀川の川底の工事で、川の閉め切り部分の鋼矢板が倒壊し、工事現場は深さ12メートルのプールのような状態になった。梅田駅の工事区間では土留めの鋼矢板が土を支えきれず、崩落事故を招いた。
事故の教訓は、「潜函(せんかん)工法」の導入という形で生かされた。地下鉄のルート上でトンネルなどをあらかじめ造り、その下を掘ってトンネルの自重で沈める工法。我が国での最初は、なんば―天王寺間の工事で、以後は盛んに用いられた。
開業が近付いた阪神なんば線は基本的に、地下区間の駅舎を開削工法、トンネルをシールド工法で造った。シールド工法は、地中を横方向に掘り進める掘削機を用いる工法。道路を遮断せず、騒音も少ないなどの利点があり、都市部での地下工事の大半は現在、同工法が用いられている。
無論、シールド工法も万能ではない。「掘削機を地下に据え付けた後の発進時、特に注意した」と阪神電鉄。掘削機で掘り始めた途端、土砂が崩れる危険が高いためで、「土留めの仮り壁を設け、これを突き破って掘削機で掘り進むようにした。さらに、壁の向こう側の地盤にセメント分を注入するなど硬くしておいて、掘削に臨んだ」(同)。
難波が梅田と並んで大阪の2大繁華街を形作れているのは、人々の足となる南海電鉄や近畿日本鉄道、JRなどの基幹駅があってのことだ。各路線の開設には、地下鉄御堂筋線と同様の苦労があった。さほど昔ではない建設工事の苦闘に思いをはせると、ミナミという町の近代化への歩みが見える気がする。
(編集委員 小橋弘之)
376
:
名無しさん
:2008/12/22(月) 23:14:05
◎先見性光る地下鉄
大阪の都市計画を振り返るとき、まず道路の御堂筋が語られるが、地下鉄御堂筋線の先見性は道路にまったく劣らない。地下鉄御堂筋線は、建設工事に伴う交通遮断を最小限に抑えるため、道路の拡張とほぼ同時進行で行われた。
御堂筋線は初めから、地下鉄で建設すると決まっていたわけではない。それどころか、難工事が予想され、建設コストもかかるため、高架式を推す声が強かった。だが、関市長らが地下鉄を強く主張したと「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」は記す。
「道路と地下鉄の一体建設、地下鉄にした点が最大の功績。高架式になっていたら、御堂筋はまったく違った風景になっていたはず」と同市交通局鉄道技術本部工務部担当係長の吉田博さん。
377
:
よっさん
:2008/12/23(火) 19:51:41
YOMIURI ONLINEより
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20081223-OYT8T00054.htm
でっかい御利益を
道明寺天満宮に絵馬
学問の神様・菅原道真をまつる藤井寺市道明寺の道明寺天満宮に、来年の干支(えと)にちなんで牛を描いたジャンボ絵馬(高さ2メートル、幅2・4メートル)がお目見えした=写真=。
1970年から毎年、境内に飾っている。今年は、刺客に襲われそうになった道真が牛に助けられたという言い伝えを基に、道真が白い牛に乗った絵を浮世絵画家の長谷川貞信さん(62)が描いた。
同天満宮は正月三が日で20万人の参拝客を見込む。南坊城光興・禰宜(ねぎ)は「暗いニュースが多い1年だった。天神さまの御利益で、来年が前向きな明るい1年になれば」と話していた。
378
:
よっさん
:2008/12/24(水) 22:06:41
YOMIURI ONLINEより
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20081224-OYO1T00479.htm?from=main1
大阪天満宮へ新年の「宝永かご」、約70年ぶり復活へ
大阪・北新地の芸妓が、新年の恒例行事としていた大阪天満宮(大阪市北区)への「宝永(ほえ)かご行列」が、来年1月8日、宝永かごから人力車に形を変えて約70年ぶりに復活する。同天満宮では、近くに上方落語の定席、天満天神繁昌亭がオープンしたのをきっかけに、昨年1月に十日戎(えびす)が復活したばかり。企画した若手氏子らで作る同天満宮青年親睦(しんぼく)会は「不景気のなか、華やかな行列で街を盛り上げ、商売繁盛につなげたい」と意気込んでいる。
同天満宮によると、江戸時代に始まった宝永かご行列は、初天神(1月25日)の慣例行事だったが、戦争のため1930年代に途絶えたとされる。
同天満宮の十日戎が昨年、約60年ぶりに「天満天神えびす祭」(1月9〜11日)として復活したのを機に、同親睦会が北新地社交料飲協会などに協力を呼びかけ、行列復活が決まった。
新名称は「北新地 えびす詣 招福行列」。今年11月に同協会主催の選考会で地元ホステスの中から選ばれた初代「北新地クイーン」をはじめ、三代目桂春団治さんや芸妓らが人力車6台に分乗。提灯(ちょうちん)や幟(のぼり)を持った総勢約50人の行列が、にぎやかな囃子(はやし)を響かせながら街を練り歩く。
行列は、当日午後1時半に北区曽根崎新地をスタートし、同天満宮まで約2キロを1時間半かけて移動。本殿で「商売繁盛祈願祭」を実施した後、同5時半に同天満宮を出発して、福笹(ふくざさ)を北新地に持ち帰る。親睦会の土居由憲会長(46)は「明るい話題作りを担い、十日戎の盛り上げにも貢献できれば」と期待している。
379
:
名無しさん
:2008/12/27(土) 21:38:03
ここで降りるぜ喜多さんよ 阪堺電気軌道 住吉鳥居前
http://www.asahi.com/kansai/travel/ensen/OSK200812270014.html
2008年12月27日
江戸を出発した弥次(やじ)さん、喜多(きた)さんは、愉快な騒ぎを起こしながら住吉大社で旅を終えた。門前の繁盛ぶりに心躍り、参拝もそこそこに酒を飲もうと近くの料理屋へ転がり込んだ――。約200年前に十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が創作し、庶民に笑いを提供した「東海道中膝栗毛(ひざくりげ)」のラストシーンだ。
2人が歩いたのは大社前を南北に走る紀州街道。当時、第一の鳥居は5キロも北の今宮辺りにあり、通りに住吉詣での人たちが絶えることはなかったという。すぐ西側には白砂青松と遠浅の海。「浜で取れたハマグリと、ふかし芋が売られててね。情緒のある参道だったと伝え聞いています」。明治元年創業の和菓子屋を街道沿いで営む斎藤安弘さん(81)は言う。
ここに阪堺(はんかい)電気軌道阪堺線の電車が走り出したのは1911(明治44)年。大社への参拝は便利になった一方で、茶屋や土産物屋が並ぶ沿道は廃れていった。昭和の初めには、第一の鳥居が台風で倒壊し、どこにあったのかさえ今では正確にはわからないという。
それでも、人々が「すみよっさん」に寄せる親しみは変わらない。初詣で客は例年200万人以上で、大阪一を誇る。
停留場でチンチン電車を降りると、大社の玄関にあたる大鳥居は目の前。弥次さんと喜多さんが見た門前らしさは薄れたが、街道が歩行者天国になる正月三が日には往時のにぎわいがよみがえる。
■すみよっさんと渡る年の瀬
紀州街道に鉄路を通した阪堺電気軌道の思惑は、住吉大社の参拝客を運ぶことだった。「住吉にては鳥居前で停(と)まります」。当時のちらし宣伝の狙い通り、阪堺線(恵美須町―浜寺駅前)の住吉鳥居前と、近くにある上町線(天王寺駅前―住吉公園)の住吉を合わせた乗降客数は、両線の停留場計40カ所の中でずっと上位だ。
レールが敷かれている辺りは、かつて砂浜だった。「宮島の厳島神社のような雰囲気だったと思ってみて。鳥居近くまで波が打ち寄せていたんです」。住吉大社の権宮司、高井道弘さん(69)が教えてくれた。
イザナギノミコトがけがれを清めるため海に入ると、3人の住吉(すみよしの)大神(おおかみ)が生まれた。そのお告げで211年に創建されたと伝わる。一般的に神社の正面は日が昇る東か南を向くが、住吉大社は縁の深い海を望む西向き。浜にあった高灯籠(たかどうろう)は、船の安全を支える灯台の役割も果たしたという。
その海は、埋め立てが進んで7キロほど遠ざかった。大社からは高速道路の高架やマンションが見える。古い町家や土蔵は戦時中の空襲で焼かれ、かろうじて残った建物もバブル経済期に次々と取り壊された。
◇
大社の近くで生まれ育った八木義藤さん(79)は、懐かしい風景が失われていくのを嘆かわしく思っていた。そんな時、大阪市が統一感のある街づくり事業を進めていることを知って、協力することにした。
八木さんら住民有志と市は00年に協議会を設け、大社を含む周辺36ヘクタールを保存区域に決めた。自然素材の活用、街並みと調和する色合い、瓦ぶきの屋根など新築・改修物件のガイドラインを策定。強制力はないが、地域を守る機運は高まった。「すみよっさんらしく、柔らかみのある街を残せたら」。現在は協議会長を務めている八木さんの願いだ。
街の成り立ちを語り継ぐ活動も始まった。住吉区が開く歴史勉強会に3年間参加した住民二十数人が「学んだことを生かそう」と今春、ボランティアガイド団体を結成。遠方からの参拝客や旅行客らに大社や街道の逸話を紹介する。いまや歴史の一つになりつつあるチンチン電車も題材だ。
メンバーの西谷哲子さん(59)はここで半世紀近く暮らしてきた。「それでも知らないことが多すぎて。地元の案内ひとつできないことに気づいた」とガイド活動のきっかけを明かす。開発にもかかわらず、歴史の深みを抱く街の風情に改めて気づき、「すごいところに住んでる」と実感できるようになったという。
◇
3年後、住吉大社は鎮座1800年を迎える。これに合わせて修復中の国宝本殿は一部の屋根が真新しくふき替えられ、今月半ばに工事用の囲いが取り払われた。大勢の初詣で客を迎える新年はもうすぐだ。
(文・高木智子 写真・矢木隆晴)
380
:
名無しさん
:2008/12/27(土) 21:39:52
>>379
続き
鉄っちゃんの聞きかじり〈「大阪の足」かくしゃく〉
阪堺電気軌道を走る161形の電車は80歳の現役。1928(昭和3)年に製造され、路面電車の営業車両としては全国で最も古いという。同社が保有している38両のうち10両がこのタイプだ。
木材と鋼鉄で造られていて、秋から翌春までの期間限定で運行されている。冷房設備がないから、夏場は走らせられないという。
乗降口に段差があり、揺れが大きく、すきま風が吹き込むこともある。快適さは最新機種に及ばないが、レトロで温かみのある雰囲気が多くの鉄道ファンに愛され、映画やテレビドラマにもたびたび登場。昨秋公開された映画「自虐の詩(うた)」の重要なシーンでも使われた。
車両を新調するには約1億円かかる。阪堺電気軌道の担当者は「修繕が多く、部品も特別注文。決して優等生ではないけど、そこが好かれている理由かもしれない」と語る。
探索コース
住吉大社の大鳥居から西に向かうと、大阪府営の住吉公園。かつては大社の土地で、神事で使う馬の調教などをしたところという。いまは池や花壇などが整備され市民の憩いの場に。大社の東南側には、芸事の神様の浅沢(あさざわ)神社、商売繁盛の大歳(おおとし)神社、一休禅師が暮らした牀菜庵(しょうさいあん)の跡地がある。周辺には住民たちが保存に取り組む町家や土蔵が点在する。
381
:
よっさん
:2009/01/01(木) 12:17:28
日経ネット関西版より
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news004284.html
暗い話はモウ嫌──住吉大社、初詣でにぎわう
2009/01/01配信
2009年は明るい年に――。大阪市住吉区にある住吉大社の境内は1日未明、初詣での参拝客で立すいの余地もないほど込み合った。厳しい冷え込みの中、お参りする人や立ち並んだ屋台で買い物をする人たちが長い列をつくった。
大阪大大学院でロボット工学を研究するため、昨年10月に来日した中国人留学生、梁棟さん(23)=大阪府吹田市=と石超さん(23)=同=は初めての初詣で。「日本での生活にも慣れたし、今年は研究にまい進したい」と決意を新たにしていた。
同神社への正月三が日の参拝客は08年は234万人と、全国で7番目、近畿圏で最も多かった。今年も230万人超の人出を見込んでいる。
382
:
よっさん
:2009/01/02(金) 23:56:08
asahi.comより
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200901020004.html
「今年こそ仕事に」 住吉大社に初詣で190万人
各地の神社は、「今年こそ」との願いを込めて手を合わせる初詣で客でにぎわった。大阪市住吉区の住吉大社には、2日までに例年並みの約190万人が参拝した。
境内の絵馬には、合格祈願などに交じって、「4月までに就職が決まるように」(22歳男性)「一生安定した仕事に就けますように」(36歳男性)「不景気から早く脱出したい」(20歳女性)といった内容も。
同市平野区の下地えりかさん(23)は娘の心花(ここは)ちゃん(3)と一緒に、おみくじの大吉を引き当てた。「運気を授かって、今年こそやりたい美容の仕事を見つけたい」
383
:
よっさん
:2009/01/03(土) 00:16:48
ABC WEBNEWSより
http://webnews.asahi.co.jp/
<大阪>千本づき 貝塚・水間寺 (1/2 18:53)
大阪府貝塚市の水間寺では、1200年以上も続く正月恒例の「千本づき餅つき」が行われました。
「千本づき」は若者たちが身の丈ほどもあるカシの木の棒を使って歌を歌いながら餅をつく厄除けの開運行事で、奈良時代の高僧・行基が寺を開いたことを祝って始めたとされています。若者たちの威勢のいい姿に、参拝客からは大きな歓声が上がっていました。つき終わった餅はおよそ3000個の丸餅にされ、50円硬貨などを入れて縁起物として参拝客に撒かれました。この「千本づき」は、あしたも行われます。
384
:
よっさん
:2009/01/05(月) 20:48:11
毎日jpより
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20090105ddlk27040144000c.html
宝永駕行列:芸妓ら、景気付け 十日戎を機に70年ぶり復活−−大阪天満宮 /大阪
◇若手の氏子たちが企画
大阪天満宮(大阪市北区)の「宝永駕(ほえかご)」行列が8日、約70年ぶりに復活する。もとは初天神(1月25日)に北新地の芸妓が大阪天満宮に参拝する行事で、十日戎(えびす)が復活したのを機に、若手の氏子たちが計画。新春の景気付けに芸妓らが人力車に乗り、えびす囃子(はやし)を鳴り響かせて街を練り歩く。
江戸時代中期の宝永年間に始まったので「宝永駕」と表記されると伝えられる宝永駕行列は、1938(昭和13)年に中止されたままだった。天満天神繁昌亭のオープンを受け、07年に約60年ぶりに十日戎(9〜11日)が「天満天神えびす祭」として復活。さらなる盛り上げを図ろうと大阪天満宮青年親睦会の若手氏子たちが、宝永駕行列の復活を考えた。
「北新地えびす詣 招福行列」と名付けた行列は、かごを人力車に替えて行われる。初代桂春団治が乗って寄席を駆け回った「赤い人力車」が繁昌亭に飾られているのにちなんだ。6台の人力車を仕立て、北新地のさく良さん、さく与さんの芸妓2人と3代目桂春団治さん、北新地のホステスから昨年11月に選ばれた初代北新地クイーンらが乗り込む。
◇8日午後1時半、堂島薬師堂出発
8日は午後1時半、堂島薬師堂(堂島アバンザ東)を出発。北新地本通から老松通を経て大阪天満宮に参拝。福笹を受領し、午後6時半、北新地に戻る。
さく与さんは「昔のにぎわいを少しでも感じてもらって、芸者で北新地が発展していけるようになれば」と話している。【松井宏員】
385
:
名無しさん
:2009/01/06(火) 15:53:36
数年ぶりに故郷大阪にて新年を迎えました。
大阪城に行き、展望台から景色を眺めていると、
おそらく関東方面から来たであろう観光客が
「大阪城がなかったら大阪なんてなにもないとこじゃない」と
言い放った。ただの世間知らずなのか、偏向報道のせいなのか・・・。
展望台から通天閣が見えたと喜んでいる人もいた。
難波宮跡はまったく目に入っていないようでした。
あと、若い人は共通語または東京弁混じりの大阪弁を話す人が
増えたように思えた。
「○○食べちゃってんねん」「○○買ってん」
ことばの促音化とウ音便が廃れつつあるんでしょうか。
386
:
よっさん
:2009/01/07(水) 19:26:55
日経ネット関西版より
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news004330.html
<セレクト>「流通の拠点」の側面に焦点──「大阪町めぐり 四天王寺」展
2009/01/06配信
聖徳太子ゆかりの四天王寺(大阪市天王寺区)の歴史的な役割に焦点を当てた「大阪町めぐり 四天王寺」展が、同市中央区の大阪歴史博物館で2月23日まで開かれている。7世紀から現代に至る古文書や古地図、絵画など約50点を展示している。
絵師・橘守国が描いた江戸時代の肉筆画「摂津国四天王寺図」には今宮戎神社なども表されている。「周辺の寺社まで含めて四天王寺一帯と考えられていた」と同館の大沢研一学芸員。「明治以降、寺院は純粋な信仰の場所となったが、かつては地域社会の核として様々な要素を備えていた」と話す。四天王寺の場合、境内で商いが行われるなど近世までは流通の拠点でもあったといい、中国製の陶磁器などの出土品や織田信長の命令書などが、そうした史実を伝えている。
387
:
よっさん
:2009/01/07(水) 19:48:40
NHK関西のニュースより
http://www.nhk.or.jp/osaka/lnews/07.html
福娘が十日戎をPR
商売繁盛の神様をまつる今宮戎神社の福娘たちがきょうNHK大阪放送局を訪れ、あさってから始まる「十日戎」をPRしました。
大阪・浪速区にある今宮戎神社の「十日戎」は、「えべっさん」と呼ばれる商売繁盛の神様を参拝する新年の行事で毎年、縁起物の笹を求める大勢の人たちでにぎわいます。
この「十日戎」が、あさってから始まるのを前に、13人の福娘たちがきょうNHK大阪放送局を訪れました。
黄緑色の着物に金のえぼし姿の福娘達はことしのえとの「牛」が描かれた色紙が入った額を堂本光局長に手渡し、上方締めを披露しました。
福娘の寺脇佳子さんは「最近は不景気なので、十日えびすに来て、みんなが元気になってほしいです」と話していました。
また鳥本茉里さんは、「4度応募してやっと福娘になれました。みんながハッピーになれるように頑張ります」と話していました。
この後、福娘たちは、NHKの連続テレビ小説、「だんだん」のスタジオを見学しヒロインの三倉茉奈さんと話を交わしたりしました。今宮戎神社の十日戎はあさって9日から3日間行われ、100万人が訪れるみこみだということです。
388
:
名無しさん
:2009/01/08(木) 02:01:14
>>385
確かにテレビで若い子がインタビュー受けてるの見た時
共通語アクセントが増えた気がする、時代なのかな。
しょうもない吉本に毒されるよりは、ましだと思って聞いた。
389
:
名無しさん
:2009/01/08(木) 02:37:45
テレビの影響はどこにもあるから仕方ない面かな
幼児期からテレビから言葉を覚えると
390
:
よっさん
:2009/01/08(木) 19:45:12
大阪日日新聞より
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090108/20090108004.html
えべっさんの福ササげよう レッサーパンダに200本
2009/01/08
九日から始まる「十日戎(えびす)」を前に、大阪市天王寺区の天王寺動物園(宮下実園長)で七日、今宮戎神社(同市浪速区)の福娘による福ザサの贈呈式が行われた。幸運を受け取った動物たちはご満悦の様子だった。
同神社のおひざ元である同園が園内の動物たちにも福を授けてもらおうとおととしから実施。贈呈式には着物と金色の烏帽子(えぼし)を身に着けた十三人の福娘が出席し、代表の安本彩加さん(20)が「えべっさんの福をお届けに参りました」とあいさつ。宮下園長と職員にモウソウ竹二百本を手渡した。
福娘らが見守る中、飼育担当者がレッサーパンダのパンパン(雌)、シュウナ(同)、タイチ(雄)、健健(同)にササを給餌。大好物のごちそうをプレゼントされたレッサーパンダたちはおいしそうにササをほお張っていた。
今年ペアリングが予定されているシュウナとタイチ。安本さんは「幸運のササを食べて二頭に幸せになってもらいたい」と笑顔。この後、アジアゾウの春子、ラニー博子にもササが与えられた。
391
:
よっさん
:2009/01/08(木) 22:26:06
MSN産経より
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090108/acd0901082215004-n1.htm
【大阪特派員】「天下の台所」の仕掛け人
「天下の台所」。経済・物流の中心として繁栄した江戸時代の大阪を表す言葉であり、今も大阪の代名詞になっている。だが、大阪を「天下の台所」とした江戸期の文献はない。あるのは「諸国の台所」「日本の台所」だ。
大阪市史編纂(へんさん)所の野高宏之氏(50)は、一昨年末に発表した「『天下の台所』と『大大阪』」(大阪の歴史70号)で、大正3(1914)年の「大阪市史2巻」でこの語を使った幸田成友(しげとも)の造語、と断定した。
成友は東京・神田生まれの歴史学者だ。小説「五重塔」で知られる幸田露伴の実弟で、東京商科大(現・一橋大)や慶大で教鞭(きようべん)をとった。明治43年の自著にも「天下の台所」はあるが、執筆は市史の方が早い。
過去にも「天下の台所という言葉は江戸時代の文献にない」とする研究者はいた。野高氏が調べると、明治初期の史料にもない。戦前・戦後を通じた大阪学の大家、宮本又次などは長くこの語を避けた形跡さえある。これらから、野高氏は成友の造語と判断した。
成友は明治34年、28歳で大阪史編纂長に就く。年俸1200円は市長、助役などに次ぐ高給で、市の意気込みがわかる。
維新後、低迷した大阪経済の再建に人々は江戸期の大阪を手本とした。スローガンは「商権の掌握」だ。大阪商法会議所は文書で「(江戸時代の)我国ノ商権ハ、大坂ニ掌握セリ」と書き、政府要人は、豊臣氏滅亡後、大阪商人は自ら町を再建し、商工業の全権を握ったと地元の奮起を促す。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090108/acd0901082215004-n2.htm
30年代、製造業中心に復活した大阪にとって市史は再生の記録だ。だが、成友は肝心の「商権を握る」を一切使わず、それどころか、商議所文書を下敷きにした部分で「商権ハ、大坂ニ掌握セリ」を「天下の台所」と言い換えたのである。
江戸期の復興には大阪城再建など幕府の公共投資が貢献した。経済の拠点への成長も地の利、大阪人の努力に加え、幕府の方針があった。江戸っ子の成友には、大阪が自分の手で商権を得たと書くのに抵抗があったはずだ。野高氏は「雇い主(市)の意向との板ばさみの中で『天下の台所』をひねり出した」とみる。
数年後、この言葉に着目した男がいた。大正12年から昭和10年まで大阪市長を務め、御堂筋の拡幅、地下鉄建設など大阪の発展に尽力した関一(はじめ)だ。大正14年に大阪の人口が東京を抜いて「大大阪」が成立した直後の昭和2年に、「明治大正大阪市史」編集が始まる。大阪の輝きを見せたいという関の意図がちらつく。
序文で関は「天下の台所」を使う。「全体でも明治大正史なのに、江戸期の大阪を指すこの言葉が頻出している。意識的なのか、大阪は天下の台所という空気が編纂室に満ちていたのか」(野高氏)。関が「天下の台所」「大大阪」「権力に頼らぬ大阪」の一体化を図った可能性はある。
「反証は大歓迎だ」と野高氏はいうが、論文発表から1年、強力な反論は、まだない。
392
:
よっさん
:2009/01/08(木) 22:26:46
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090108/acd0901082215004-n3.htm
成友の造語から1世紀、言葉のパワーは健在だ。橋下徹大阪府知事は、今春の食博覧会に向け、「天下の台所を全国に発信しよう」と訴え、昨秋、御堂筋を舞台にして開かれた大規模な全国物産展では「天下の台所をイメージした」と述べた。
実をいえば、成友と関は小学校の同級生、幼なじみだ。とはいえ、両者が大阪にかかわったのは、単なる偶然に過ぎない。二人の歩んだ別々の人生が、大阪という土地で交錯し、「天下の台所」という100年のいのちを持つ言葉が生まれた。(こばやし たけし)
393
:
名無しさん
:2009/01/08(木) 23:02:04
色々言葉はえていかないとアカンね、
言葉は分かりやすいメッセージだから。
大坂本願寺、杭倒れこの二つの歴史用語は口をすっぱく言って行きたい
なぜなら説明する時に色々と有益な話が出来るから。
前者は、「大坂」という文字を歴史に使いたくない層がいることを
後者は、大阪人の本質は公共精神であって、つまらない反権力志向では
ないといいことを伝えられるから。
394
:
よっさん
:2009/01/09(金) 09:03:18
産経関西より
http://www.sankei-kansai.com/2009/01/09/20090109-005127.html
北新地の芸妓らが「宝永かご行列」 70年ぶりに
大阪・北新地の芸妓らが商売繁盛を祈願するため、大阪天満宮(大阪市北区)まで練り歩く「宝永かご行列」が8日、約70年ぶりに復活した=写真。
大阪天満宮の宝永かご行列は江戸時代に始まったが、戦争のため昭和13年に途絶えたとされるが、若手氏子たちが「北新地えびす詣招福行列」として復活させた。
人力車に乗り込んだ北新地の芸妓や落語家の3代目桂春団治さんらは大阪天満宮までの約2キロをにぎやかに練り歩き、沿道からの大歓声を浴びていた。
395
:
名無しさん
:2009/01/09(金) 13:22:58
>>394
昨日、珍しくNHKニュース7のエンディングで取り上げられていました。
396
:
名無しさん
:2009/01/09(金) 14:55:41
NHK-FMの番組宣伝的な意味合いだとは思いたくないですが…いいことですね
>>391
「天下の台所」というのは日本のみならず世界をも含むという意味合いなのでしょうか
個人的には古語的響きを「日本の台所」という表現よりも感じますが
「権力に頼らぬ」という表現は記事中にないですが、この時、打ち出したのでしょうか
ちょっとよくわからないですが
>>393
杭倒れと食い倒れと説がよく同じと混同されていますが、別の物としてもっと言われても
いいのではと思います
397
:
よっさん
:2009/01/09(金) 20:20:20
asahi.comより
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK200901090055.html
不況脱出願って十日戎幕開け、大阪・今宮戎神社
商売繁盛の神様として知られる今宮戎神社(大阪市浪速区)の「十日戎(えびす)」が9日、宵戎で幕を開けた。「商売繁盛でササ持ってこい」のおはやしが流れるなか、急速に悪化した景気回復を願う参拝客らでにぎわった。
境内では、チェコや中国からの留学生も含む45人の福娘が、参拝客が差し出す福ザサに、米俵や宝船を模した縁起物を結びつけていった。大阪府羽曳野市の建設会社社長、小池一之さん(42)は、昨年と同額の1万3千円分の縁起物を福ザサに結いつけてもらった。会社の売り上げは前年比3割減になり、新たにギョーザの屋台を開いた。「こんな厳しい不況は過去20年間で初めて。ここで節約したらあかんと思って」
十日戎は、福娘代表らを乗せた宝恵駕(ほえかご)がミナミの繁華街を練り歩く10日の本戎、11日の残り福があり、同神社は3日間で昨年並みの100万人の人出を見込んでいる。
398
:
よっさん
:2009/01/09(金) 20:34:48
YOMIURI ONLINEより
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090109-OYT8T00053.htm
住吉踊の縁起物後継難
江戸からの伝統1組の夫婦守る
大阪市住吉区の松谷吉彦さん(79)、八重子さん(77)夫妻が、同区の住吉大社の御田植(おたうえ)神事などで踊られる「住吉踊」の様子を人形で表現した縁起物を作り続けている。江戸時代からの歴史があり、家庭円満や商売繁盛のお守りとして同大社の初詣で客に親しまれているが、材料の麦わらが年々入手しにくくなり、手がけるのは今では松谷さん夫妻だけ。今年も同大社境内で11日まで販売している松谷さん夫妻は「伝統の灯を消したくない」と後継者が現れるのを期待している。
縁起物は、麦わらを編んで作った円形の傘の周囲に赤い布を垂らし、その中に色紙をかぶせた麦わら人形をつり下げて完成させる。力が必要な傘は吉彦さん、細かい作業が必要な人形は八重子さんが担当。正月に向け、傘の直径5センチ〜1メートルの約10種類を計約4000個作った。
松谷さん夫妻はともに同大社近くで生まれ、家族が縁起物を作るのを子どものころから手伝い、技術を身に着けた。近隣にはほかにも職人が多かったが、麦わらの生産が減るのに伴い、職人も年々減少。松谷さん夫妻も長い間、親族と一緒に作っていたが、約15年前に吉彦さんの兄、利雄さんが亡くなってからは、夫妻だけで製作している。
麦わらの入手に苦心、短いものは岡山県の問屋を通じて中国から、長いものは兵庫県豊岡市から仕入れる。吉彦さんは「調達先を一度失えば復活は困難。技術も一朝一夕では身につかない。後を継いでくれる人が出てほしい」と話している。
399
:
よっさん
:2009/01/10(土) 12:23:35
MSN産経より
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/090110/tnr0901101202005-n1.htm
宝恵かご行列、大阪・ミナミを練り歩く
2009.1.10 12:02
今宮戎神社(大阪市浪速区)の十日戎が本戎を迎えた10日、華やかな「宝恵(ほえ)かご行列」が大阪・ミナミの繁華街を練り歩いた。
江戸時代に芸者衆がかごで同神社に参拝したのが始まりとされる行事。今年は女優の三倉茉奈さん、佳奈さんらが参加し、不況に沈む街を盛り上げた。
道頓堀で行われた式典の後、一行は「ホエカゴ、ホエカゴ」の掛け声とともに出発。にぎやかなお囃子に包まれて同神社へ向かい、沿道に福をふりまいた。
400
:
よっさん
:2009/01/10(土) 12:49:27
YOMIURI ONLINEより
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090110-OYT8T00086.htm
脇浜戎大社で石の戎像除幕 貝塚
泉州地域最古の戎(えびす)神社とされ、「脇浜のえべっさん」として知られる脇浜戎大社(貝塚市脇浜3)に石造りの戎像が建立され、9日、除幕式が行われた。十日戎の宵宮の参拝客らが早速、「福を授かりたい」と触れたり、周りを回ったりした。
像は高さ2メートル10で、台座(約1メートル)を含めると3メートルを超え、〈おめでたい〉にちなんでタイを肩からかついでいる。
401
:
よっさん
:2009/01/10(土) 20:16:36
毎日jpより
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20090110ddlk27040354000c.html
十日戎:恒例「福あめ売り」 養護促進協会、里親探しの一助に−−今宮戎神社 /大阪
「十日戎(えびす)」の宵戎でにぎわう今宮戎神社(大阪市浪速区)の参道で9日、家庭養護促進協会大阪事務所(同市天王寺区)の恒例「福あめ売り」が始まった。
同協会は、毎日新聞大阪面「あなたの愛の手を」などを通じ、親の事情で児童養護施設などに暮らす子どもの里親探しを40年以上続けている。
売り上げは協会の活動資金に充てられる。棒あめや切りあめ(200〜300円)、福豆(200円)を並べ、約30人のボランティアが「おみやげに福あめ、いかがですか〜」と参拝客に呼びかけていた。
店は「ぼくにもほしいパパとママ」と書かれた緑色の旗が目印。地下鉄堺筋線恵美須町駅5番出口から神社に向かう参道の北側と、神社北西出口横の2カ所。11日まで、午前8時半〜午後11時(11日は売り切れ次第終了)。【青木絵美】
402
:
よっさん
:2009/01/11(日) 18:47:50
MSN産経より
http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/090111/art0901111301001-n1.htm
【アートな大阪】関一、林市蔵…大阪の街を見守る偉人像
大阪の街角に立つ、明治、大正、昭和にかけて大大阪の礎を築いたとも言える人々の肖像彫刻をたどると、近代大阪の形成過程の一端を再発見することができます。
天王寺公園(大阪市天王寺区)内の第6代大阪市長「池上四郎」之像(昭和10年建立、昭和34年再建)と中之島公園(北区)の東洋陶磁美術館西側に立つ第7代市長「関一」之像(31年建立)は、共にその市長としての貢献を顕彰し、設置されています。特に関は御堂筋を造った名市長と今も称えられています。
また、天保山公園(港区)には「西村捨三翁」之像(昭和32年)が、明治30年10月17日の築港起工式を記念する「大阪築港基石」とともに整備され設置されています。西村は「商都大阪の命脈は築港にあり」として大阪港の基を築いた人物です。
http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/090111/art0901111301001-n2.htm
さらに淀屋橋西側(中央区)に鎮座する「林市蔵先生記念像」(昭和28年)は、大正中期に大阪府知事として方面委員・民生委員制度の創設に尽力した人で、制度発祥の地に顕彰碑とともに建立されています。
ところで残念ながらこれらの人物像の碑文、銘板には、共通して制作者が明記されていません。調べてみると、西村捨三像の制作者は木彫家として優れた作品を残した大阪を代表する女流彫刻家の羽紫小枝子氏、関一像は清水多嘉示氏(御堂筋彫刻ストリート「みどりのリズム」の作者)、林市蔵像は渡辺義知氏が各所管部署の記録に記載されていました。(池上四郎像の制作者は調査中)。
人物を顕彰する像を設置する際には、制作者にも敬意を払う意味で名前を刻んではどうかと感じています。(彫刻家 岡村哲伸)
403
:
よっさん
:2009/01/11(日) 19:19:07
KTVニュース関西版より
http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html
#0303056
堀川戎「残り福」 大阪市
11日は十日戎の最終日、「残り福」です。大阪の堀川戎神社は最後の福を求める人で賑わっています。「えべっさん」として親しまれる大阪市北区の堀川戎神社では、朝から多くの人が参拝に訪れています。十日戎の最終日は「残り福」と呼ばれ、境内では福笹を求めたり、お賽銭を投げて、願い事をしたりする人の姿が見られました。また、だんじり囃子の奉納も行われ、境内には太鼓や鉦の音が響いていました。堀川戎神社では不景気の影響もあってか今年は例年より5万人ほど人出が多く、約30万人が見込まれています。
404
:
名無しさん
:2009/01/12(月) 02:25:36
府内には旧暦の十日戎はないのかな
405
:
よっさん
:2009/01/12(月) 13:57:29
MSN産経より
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090112/trd0901121353009-n1.htm
今宮戎神社で賽銭勘定始まる 大阪
「十日戎」でにぎわった大阪市浪速区の今宮戎神社で12日、賽銭(さいせん)勘定が始まった。青い法被(はっぴ)に身を包んだ銀行員が拝殿で賽銭を広げ、手際よく仕分けを行った。1週間ほどかけて集計する。
午前9時すぎ、おはらいを受けた銀行員9人が作業を開始。紙幣や硬貨にまじり、縁起をかついだ「29451(福よ来い)」や「2990(福くれ)」などの語呂合わせの小切手も。
同神社によると、初日に雨が降った影響で3日間の人出は約94万3000人と、昨年より約5万6000人減ったものの、賽銭の総額は昨年並みの4600万円程度と予想しており、同神社は「景気回復を願う人が多いのではないでしょうか」と話していた。
406
:
よっさん
:2009/01/12(月) 14:05:34
古都・大阪らしいニュースです。徐々に大阪の歴史の長さを証明される遺跡が発見されつつありますね。
YOMIURI ONLINEより
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090112-OYO1T00096.htm?from=top
大和王権の鉄器生産拠点か、大阪市・長原に鍛冶工房跡
大阪市平野区の長原遺跡で、古墳時代中期の5世紀前半に鉄器を生産した鍛冶(かじ)工房跡が、市文化財協会の調査で出土した。百舌鳥(もず)・古市古墳群の大山古墳(仁徳天皇陵、堺市)など巨大古墳を築いた「倭(わ)の五王」の時代に当たり、近畿で最古の鉄器生産遺構という。造営されて間もない古墳を壊して工房を設けていることから、当時の政権が関与しているのは確実で、同協会は「大和王権直営の鉄器生産拠点」とみている。
工房は、4世紀末から5世紀初めに造営された方墳跡に、2棟建てられていたとみられる。1棟ごとに一辺約8メートルの「コ」の字形の溝を設け、排水などに利用。溝からは、製造過程で出た3センチ大の鉄滓(てっさい)も発見された。含まれる炭素が少ないことなどから、高温で加熱して繰り返し折り曲げる方法で製造したらしい。
百済があったソウル近郊の旗安里(キアンニ)遺跡(3〜4世紀)などでも同様の溝が確認されており、同協会は「朝鮮半島の渡来人がもたらした先端技術を駆使して生産したのだろう」としている。
407
:
よっさん
:2009/01/12(月) 14:11:39
YOMIURI ONLINEより
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090111-OYT8T00800.htm
楠公の奇策 土鈴復刻
大軍欺いた甲冑姿わら人形 千早赤阪・建水分神社
南北朝期の武将・楠木正成が、甲冑(かっちゅう)を着せたわら人形を並べて籠城(ろうじょう)したとの「奇策」にちなみ、ゆかりの千早赤阪村水分の建水分(たけみくまり)神社が、1935年の没後600年祭で作った人形の土鈴が73年ぶりに〈復活〉した。わら人形がモチーフの土鈴は全国的にも珍しく、興味を持った土鈴職人・中野和彦さん(67)(大津市)が昨年に復刻し、神社で販売を始めた。
神社は楠木家の氏神をまつっており、本殿(重文)は、南北朝時代に正成が後醍醐天皇の勅命で、それまであった村内を流れる水越川のほとりから、現在の場所に移したとされている。
35年製作の土鈴の実物は、地元の千早城に籠城した正成が、数十体のわら人形を目がけて突撃した敵勢に、大石を投げ落としたという伝承にちなんだ。身代わりの人形に刺さった矢を再利用したともされ、除災招福の祈願が込められている。
実物は戦前の「土鈴ブーム」で購入者が相次ぎ、現在は神社に残っておらず、ネットオークションで数万円が付く希少品に。昔の土鈴を復刻している中野さんが、岐阜県郡上市の「日本土鈴館」にあることを知り、同館から寄贈を受け、実物を基に作った型の内側に粘土を塗り、中に粘土を丸めた鈴玉を入れるなどして復刻させた。
実物は高さ約6センチだが、復刻版は、やや大きめの約7・5センチ。背面には、実物にはない神社名を記して計200個を作り、一つ1000円で販売している。禰宜(ねぎ)の岡山博美さん(38)は「神社創建2100年の記念の年だけに意義深い。この復刻版を通じて、何十倍もの敵の軍勢に真っ向から挑んだ『楠公さんの智恵(ちえ)』を、多くの人に知ってもらいたい」と話している。
問い合わせは同神社(0721・72・0534)へ。
408
:
よっさん
:2009/01/12(月) 14:13:54
YOMIURI ONLINEより
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090111-OYT8T00833.htm
エイッ健康祈願 参拝者ら火渡り 高槻・神峯山寺
高槻市原の神峯山寺(かぶさんじ)境内で、焼けた丸太の上をはだしで歩く火渡りの神事が行われ、大勢の参拝者が今年一年の無病息災を祈願した。
「身の罪を焼く」とされ、松の丸太で組んだ高さ約2メートルの護摩壇に火がつけられると、参拝者は願い事を書いた護摩木を次々に投げ入れた。白煙が立ち上る中、燃え残りの上に並べられ、黒く焼けた丸太の上を、一歩一歩確かめるように進んだり、熱さから一気に駆け抜けたりして渡り切った。
409
:
よっさん
:2009/01/12(月) 14:17:43
大阪日日新聞より
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090112/20090112004.html
「綱引神事」後世に継承 難波八阪神社で研修会
2009/01/12
大阪市浪速区元町二丁目の難波八阪神社(藤枝春紀宮司)で十八日に執り行なわれる市指定無形民俗文化財「綱引(つなひき)神事」を控え、奉仕者らが十一日、境内で綱打ちなどの研修会を開いた。氏子らでつくる同神事保存会(竹立威三雄会長)のうち、小学生から高齢者まで約三十人が参加。本番と同じ作業に取り組み、子や孫など次世代への伝統継承に努めた。
同神事は同神社の祭神で、八岐大蛇(やまたのおろち)退治で知られるスサノオノミコトの威徳を仰ぎ、氏子衆がオロチに見立てた大綱をつくり、恵方に向かって二手から引き合う。
研修会では、過去に大綱のミニチュアを作るなどしていたが、奉仕者に綱打ちの感覚を体得してもらおうと、昨年から実物の綱を使用している。
研修には会員のほか藤枝宮司ら神職も参加し、図解に沿って綱の基本となる細縄の長さの計測や本数の確認を実施。三本の綱をなって太い綱を作る工程では、会長の竹立さん(78)が「相手方の担い手が倒れるほどの力で綱を引く」と、参加者に手本を見せながら、伝統にふさわしい美しい綱打ちを伝授した。
竹立さんは「子どもや若い世代に大勢参加してもらい安心した。伝統継承の使命を胸に本番に臨みたい」と意気込みを語った。
十八日は午前八時から神事開始。綱打ち、オロチの大綱の綱引きに続いて、神社周辺の氏地巡行がなされる。終了予定は正午ごろ。参拝者の見学可。問い合わせは電話06(6641)1149、同神社へ。
410
:
名無しさん
:2009/01/12(月) 16:09:08
>>406
難波高津宮が歴史で軽んじられているのがおかしいです。
大阪は古都であり、世界史でも古代から現在まで栄え続ける
希有な歴史的都市。
411
:
名無しさん
:2009/01/12(月) 20:00:02
しかし高津宮の地味さは何だ。先代桂文枝だったかの碑があるけど。
木津川計風にいえば他所からの山気持ちはガツガツ稼ぐため歴史遺産など邪魔なだけ。
412
:
名無しさん
:2009/01/14(水) 20:21:05
富くじ
大阪・箕面から始まった
http://osaka.yomiuri.co.jp/hajimari/hj90113a.htm
財天にあやかり初春運試し
霰(あられ)が石段を打つ。寒気にさらされて、元日の参道を行く。
大阪府箕面市北部、箕面山麓(さんろく)の瀧安寺(りゅうあんじ)を訪れた。飛鳥時代に開創されたと伝わる古刹(こさつ)。木立に囲まれた本堂、弁天堂に安置されているのは、国内最古級の弁財天像だ。財福、弁才、知恵の神に福を求め、初詣での人波が続く。
今も、富くじが残る。縁起物を買うと引ける。樽(たる)形の木箱から取り出した木片の色によって、ホテル宿泊券、酒、福豆と、様々な景品が当たるから、後身の宝くじより、むしろ福引に近い。
毎正月、参拝に訪れて引くという豊中市の男性(68)は、食品加工機器会社の社長。「不況で売り上げが3割減った」と、景気回復の願いを込めた。箕面市のフリーター(38)も、くじなくして1年が始まらない。「不安定な現状から脱却したい」と、近く挑む気象予報士資格試験の合格を祈る。
景品よりも、運試し。庶民の夢を紡ぐ富くじの、発祥の地だからこそ、新春の願いを託す。
正月7日、瀧安寺観音堂で長い柄の錐(きり)を手にした僧、詰めかけて抽選を見守る群衆――。江戸後期の地誌『摂津名所図会』が、「富突」や「富」とも呼ばれたかつての富くじを伝えている。
元日から7日までの間、参拝者が木札を買い求め、自らの名前を書いて、木箱に入れていく。僧が箱の中を錐で突いて3枚を選び出し、その名を読み上げ、厄除(やくよ)け、招福の「牛王宝印(ごおうほういん)」というお守りを授ける仕組みだ。
始まりはいつの時代だったか。
〈富各有様ニ可被仰付候〉と記された書状が寺に残る。箕面の領主だった青木重明が、「富」の公正さを守るよう、寺に求める内容だ。天正3年(1575年)の日付があり、安土桃山時代には既に営まれていたらしい。堂で参拝者が差し出した竹ざおに紙を挟んで当選を決めた時代もあり、起源はさらに遡(さかのぼ)る可能性が高い。
いつからか、「お守りは大福を招く」と評判を呼んだと、箕面市立郷土資料館の福田薫館長(51)が語る。「家内安全や商売繁盛を願って、正月に大坂や京の商人らが箕面へと繰り出した。お守りを買い取る人も現れたようです」
景品も賞金もないのになぜ、流行したか。札の「販売戦略」が功を奏したのだろうと、山本照覚住職(69)は推し量る。
修験道開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)が開いたとされる寺は最盛期の室町時代、80の仏堂や僧坊を擁した。落差33メートルの箕面大滝も近く、諸国から訪れた修験者らが修行に励んだが、修験道の習わしで檀家(だんか)はない。
「大勢の食事やら、お堂の維持費やらを賄うため、富突が生まれた。授ける牛王宝印の数を絞って希少価値を高め、人を呼び込んだのでしょう」というわけだ。
413
:
名無しさん
:2009/01/14(水) 20:21:35
箕面から全国へ、流行が広がったのは江戸時代。お守りを賞金に替えた富突が現れ、賭博の色彩を帯びてからだ。家財を失う人が続出し、幕府は元禄5年(1692年)に禁令を発したが、後に寺の修復費に充てる場合は許可されたから、歯止めは利かない。
目黒不動、湯島天神、谷中の感応寺(現天王寺)という「江戸の三富」を始め、最盛期の興行は江戸市中だけで20〜30か所に及び、3日に1度は催された。くじの値段は通常、今の2万円弱にあたる5〜6匁(もんめ)と高いが、賞金は100〜300両。今なら2000万〜6000万円前後に上り、射幸心をあおる。1枚を数人に分割販売する「割札」も横行した。
「一獲千金」で身分社会の壁を突破しようとしたのか。ブームは過熱し、夢破れての悲劇も再三起きた。天保の改革(1841〜43年)で幕府はついに全面禁止を決める。こんな川柳が残った。
〈首くヽりとみの札などもってゐる〉
「福は安寧」原点回帰の動き 山伏が吹いているのだろう、法螺(ほら)貝の音が響く。境内に、護摩を焚(た)く白煙が立ち上った。
瀧安寺はやはり、修験道の根本道場だ。山岳信仰にそぐわないからか、一貫して富くじに賞金を設けず、天保の禁令後も、その適用を免ぜられた。修験道廃止令が出された明治の一時期を除き、形を変えながらも営々と続く。
寺の外は違った。「勝札」という名で復活したのは、大戦末期の1945年7月。政府が戦費調達のため2億円分を発売したが、抽選前に終戦を迎えた。翌46年、戦災復興に向けて都道府県に「宝くじ」が認められ、高度成長に乗って定着し、やがて賞金が1億円を超えて遊興色がまた強まった。
伝統が失われかけた今、木札を突き、お守りを授ける富突の再現計画が、寺で進む。地元の山伏らでつくる支援組織「麓巳講(ふもとみこう)」講長の花畑舜一さん(66)が言う。「金や物という富ではなく、心の安寧を授けてきた寺ですから」
くじの収益は弁天堂の修復に充てる。招福の神を古(いにしえ)と変わることなく守り継ぐのだという。
414
:
よっさん
:2009/01/15(木) 22:02:18
大阪日日新聞より
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090115/20090115002.html
福つかめ 四天王寺で伝統行事「どやどや」
2009/01/15
大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(出口順得管長)で14日、裸の男子生徒らが魔よけの札「牛王宝印(ごおうほういん)の護符」を奪い合う新年の伝統行事「どやどや」が執り行われた。800人を超える中・高生らが参加し、境内・六時堂の天井からまかれる、わずかな“福”をつかもうと、高く手を伸ばし体をぶつけ合った。
行事は、新年の天下泰平や五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願い、元日からこの日まで堂内で修せられる「修正会(しゅしょうえ)法要」の結願(けちがん)日に執り行われている。
六時堂前では、大勢の参詣者が見学する中、四天王寺羽曳丘高・同中学、清風南海高、清風高・同中学校の生徒らが紅白軍に分かれ、それぞれの色のふんどしとはちまき姿で登場。
生徒らは、お堂の左右から力水を浴びせられながら堂内へなだれこみ、同法要中に祈とうされたわずかな札を取ろうと激しいもみあいに。運良く札をつかんだ生徒らは、体から湯気を立ちのぼらせ、誇らしげに「やった」と歓喜の声を響かせていた。
415
:
名無しさん
:2009/01/16(金) 00:01:56
>>410
>>411
立地的な問題もあるとは思いますが。文楽劇場がもっと近くにあっても良かったのに
416
:
名無しさん
:2009/01/19(月) 10:43:14
老若男女が伝統引き継ぐ 難波八阪神社「綱引神事」
2009/01/19
大阪市浪速区元町二丁目の難波八阪神社(藤枝春紀宮司)で十八日、市指定無形民俗文化財の「綱引(つなひき)神事」が執り行われた。幼児から高齢者まで氏子ら約百人が参加し、八頭八尾の「八岐大蛇(やまたのおろち)」に見立てた大綱を引き合うなど、江戸期から続くとされる伝統行事の継承に務めた。
同神社の祭神で、オロチ退治で知られるスサノオノミコトの威徳をたたえる神事。
早朝から同神事保存会(竹立威三雄会長)の氏子衆が細縄を何重にも綯(な)い、全長二十二メートル、太さ約二十五センチのオロチの大綱を制作した。完成後、氏子らは大綱を抱えて双方から引き合った後、境内を出発。「難波の綱引きヨーイヨイ」の掛け声に乗せ、大綱や太鼓、のぼり旗の列が華やかに氏地を練り歩いた。
会長の竹立さん(78)は「皆が不景気風を吹き飛ばすような勢いで奉仕し、力強い立派な綱が出来た」と笑顔。藤枝宮司は「大勢の方の協力で伝統を継承でき、ありがたい。力強く綱を打ち、引き合ってもらうことで皆さんに幸せが来ることを願いたい」と話していた。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090119/20090119002.html
417
:
よっさん
:2009/01/19(月) 19:51:26
asahi.comより
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000000901190004
伝統の技 とんぼ玉 山月工房の松田さん
2009年01月19日
赤や青、白など鮮やかな色彩のガラス細工「とんぼ玉」。繊細な美とは裏腹に、職人は高熱のバーナーの炎と格闘する勘と技が求められる。かつてとんぼ玉がさかんに作られた和泉市で、その伝統工芸品「和泉蜻蛉(とんぼ)玉」をたった1人で受け継ぐ女性がいる。
同市観音寺町、山月工房の松田有利子さん(41)。幼少期から父親の故・小溝時春さんの工房を遊び場に育った。いつも父の背中の左後ろから、鮮やかな手さばきをのぞき込んだ。数本のガラス棒を束にしてバーナーの炎で溶かし、金属製の芯棒に巻き付けて形を整えていく。1センチ前後の玉に微妙な色合いや濃淡が凝縮される。少女は自然とその美しさにひかれていった。
とんぼ玉は、トンボの目玉のような模様から名付けられたとされ、ひもを通す穴が開いているのが特徴。古代から装飾品として使われ、日本では奈良時代、大陸から和泉国(現在の堺市周辺)に技術が伝わったという。江戸時代には「泉州玉」「さかとんぼ」と呼ばれ、明治初期ごろに和泉市で製造技術が確立されたと伝えられる。
しかし、80年代に入り、安い中国製品に押され、和泉市内でとんぼ玉を専門に作るのは時春さんだけになった。夏場には工房は40度近くなり、体力的にもきつい仕事。時春さんは有利子さんによく「食べていけないし、危ない」と話した。この頃時春さんは、後継者もなく廃業も覚悟していたようだった。
有利子さんは80年代末から看護師として働きだしたが、工房通いはやめなかった。この頃から、「貴重な技術をなくしたくない」との思いが強まっていく。販路を拡大しようと95年ごろから百貨店をまわり、店頭に置いてもらうように交渉した。本格的に制作も手伝い始める一方、とんぼ玉の歴史的な価値や社会的な意義を認めてもらうため、5、6年かけて和泉独自の製法や模様を文献で調べ、02年に府の伝統工芸品の指定にこぎつけた。
ところが04年5月、時春さんが、がんのために69歳で急逝する。死の直前まで抗がん剤を使いながらひたむきに作り続けた父の姿を見守った有利子さんは、工房を受け継ぐ決心をした。
「安いものでも一つずつ手を抜かずに作れ」。思うような結果が出ない時も、父の言葉、父のやり方を思い出しながら制作を続けてきた。05年には府伝統工芸士に認定され、新しい作品には自分なりの感性も盛り込むようになった。携帯電話のストラップや財布などに飾れる「七色の蜻蛉玉」(2625円)は、粉砕した7色のガラスを使用している。「厄(8、9)を避ける」というお守りの意味を込め、縁起物として2千個つくった。
松田さんは「幸せな気持ちで使ってもらえるように心を込めて作り、よそにはない技術を残していきたい」と話す。
百貨店の催事などで展示販売するほか、電話やホームページ(
http://izumi-tombodama.com/
)で注文を受ける。問い合わせは、山月工房(0725・46・2670)へ。
418
:
名無しさん
:2009/01/22(木) 13:36:50
片岡愛之助、上方舞の家元継承で抱負
http://www.sanspo.com/geino/news/090122/gnj0901221151012-n1.htm
2009.1.22 11:51
歌舞伎俳優、片岡愛之助(36)が上方舞「楳茂都(うめもと)流」の四代目家元を継承し、三代目楳茂都扇性(せんしょう)を襲名。披露公演「楳茂都流家元披露舞踊公演」(3月1日、大阪松竹座)の会見を21日、大阪市内で行った。
「家元というのは、流派の顔、象徴でありますので、皆様にも早くそのように思ってもらえる家元になりたい」と抱負を語った。
片岡愛之助「舞にも命かけて頑張る」
http://www.daily.co.jp/gossip/2009/01/22/0001666564.shtml
歌舞伎俳優の片岡愛之助(36)が21日、大阪市内で「楳茂都流家元披露舞踊公演」(3月1日、大阪松竹座)の製作発表を行った。上方舞踊四大流派の一つ、楳茂都流四代目家元・楳茂都扇性として、華麗な舞を披露する。愛之助は「舞のテンポは激しく、面白い」と述べ、「完成したポスターを見るとプレッシャーがかかるが、舞にも命をかけて頑張りたい」と意気込みを語った。
419
:
名無しさん
:2009/01/23(金) 22:11:05
<発想!動く>四天王寺の伝承、音楽劇に──歌舞伎俳優・中村富十郎さん
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news004619.html
2009/01/22配信
聖徳太子ゆかりの大阪・四天王寺。何か異変があるとき、寺に白鷹(たか)が現れるという伝承がある。文化功労者・谷川健一の著書を下敷きに、そのいわれを音楽劇に仕立てようと構想中だ。日本の伝統芸能の要素を借りつつ、管弦はオーケストラが奏でる。「『和をもって貴しとなす』にあやかり、東西の芸術が共存するような舞台にしたい」。2010年春、奉納公演として開く。
すでに台本は演出も兼ねる寺崎裕則に、美術は朝倉摂に打診した。「音楽は池辺晋一郎さん。マーラーの交響曲第4番の第4楽章を使ってもらうつもり」。人選ほかが先行して決まっている一方、「能の形式にしたい」「狂言の力も借りては」と細部については議論が白熱している。
発端は「天王寺屋」のルーツ探しという。「中村富十郎家の屋号が『天王寺屋』。そのいわれについて、演劇史や民俗学などいろいろな文献を当たったが、わからない。三十数年間、探しあぐねてあきらめかけていた矢先に、谷川健一さんの『四天王寺の鷹』と出合った」
6世紀末に敗死した豪族・物部守屋の霊がキツツキとなり、四天王寺の堂塔をさいなむと、白い鷹が現れるという。鷹は太子の化身といわれ、寺の金堂東側には、鷹を迎えるための止まり木が実際にある。仏教に反対し、権力の座を追われ、うらみを抱えて死んだ物部守屋。その執念深い霊を、寺は邪険に扱ってこなかった。それどころか、境内には守屋をまつる祠(ほこら)さえ残っている。
「谷川さんはこの伝承にまつわる古代史ロマンを、博学卓識の茂みから読み解いていく。奇遇にも、中村富十郎家の家紋は鷹の羽八ツ矢車。このプライドの高い鳥には親近感と敬意を抱いてきた」
四天王寺と白鷹の伝承。片や、天王寺屋の屋号と鷹の羽の家紋。「何と劇的な巡り合わせか。伝承を舞台化することが、自分の宿命なのではと打たれた」。70歳で授かった長男の大にも鷹之資(たかのすけ)と舞台名をつけた。鷹之資にも少年時代の聖徳太子を演じさせる。
中之島の大阪国際会議場で、来年4月3日に上演する。四天王寺は舞楽と声明などで応援。慶応出身で同窓の椎名武雄日本IBM相談役も、ひと肌脱いでくれる見通しという。
(大阪・文化担当 岡松卓也)
420
:
名無しさん
:2009/01/23(金) 22:12:04
<ぶんか探訪>波乱の歴史、自身重ねて──桜花昇ぼるさんと行く大阪城公園
2009/01/22配信
天守閣を中心とする大阪城公園(大阪市中央区)は大阪を代表する観光名所。オフィス街に囲まれた約100万平方メートルの広い敷地は市民の憩いの場であり、春の桜、秋の紅葉に名月と、四季折々の顔を見せる。「冬の大阪城もまたいいものですよ」というOSK日本歌劇団の男役トップ、桜花昇ぼるさんと冬空の下、公園内を巡った。
上町筋を大阪府庁前で折れてすぐの大手門前に、桜花さんが現れた。170センチの長身で白いコートを端正に着こなす様は「男装の麗人」という言葉がぴったり。遠目にも目立つ姿に、冷たい風を受け通り過ぎる家族連れが「あの人だれ」と振り返る。「寒いですね。さあ行きましょう」。桜花さんが促す。
豊臣秀吉、秀頼らをまつる豊国神社を横目に見ながら本丸へ。桜門をくぐると、正面に威圧的な巨石が目に入ってきた。「蛸石(たこいし)」だ。一部にタコのような模様が浮かび上がるため、この名がついたとされる。幅は約11メートル。石垣などに巨石が多い公園内でも最大の大きさで、重さは推定130トンという。
そんな蛸石を前に桜花さんは両腕を広げ、ひんやり冷たい石の表面に体全体でぺたりと張り付いた。そのまま目を閉じ、じっとしている。
「この石は長い歴史を生き抜いてきただけの大きな力を持っているはず。こうしていると、その力を分けてもらえそうな気がするんです」。歴史好きの桜花さんは、歴史的建造物や遺跡を前にすると、よくこんな風に張り付いたり、ずっと触っていたりするのだという。
それはもちろん役作りのため、イメージを膨らませるためでもある。OSKの舞台で10年ほど前に秀吉を守る忍者を演じた時や、舞台「真田幸村」に幸村役で主演した一昨年の時も公園内を回り、秀吉や幸村が生きた時代に思いをはせた。「この場所でも幸村を演じました」。天守閣を見上げる広場で、桜花さんが言う。昨秋、この広場に設けた特設劇場でも幸村を再演したのだ。
入場券を購入し天守閣へ。入り口への階段を上る。秀吉が黄金を沈めたとの伝説が残る井戸「金明水」、幕末に鋳造され、明治期に時を告げるために使用された号砲などを横目に見つつ、天守閣の中へ入った。
現在、内部は博物館「大阪城天守閣」として利用されている。「真田幸村」で企画・監修を担当した研究副主幹の北川央(ひろし)さんが迎えてくれた。「国内に有名な城は多くありますが、大阪城こそが最も物語に満ちた城ではないでしょうか」と語る。
大坂夏の陣(1615年)で焼失した天守閣は1629年に江戸幕府によって再建され、塀や堀など城全体も完全に造り替えられた。だが1665年、落雷によって天守閣は焼失。幕末の動乱を経て、戦前、戦中は兵器を製造する大阪砲兵工廠(こうしょう)も存在した。
現在の天守閣は1931年に完成した鉄筋コンクリート製。秀吉の建造、江戸初期の建造に続く3代目だ。「現在の天守閣は空襲も乗り越え、歴代で最も長命というわけです」(北川さん)
帰り際、桜花さんが西の丸庭園にある桜の「標準木」について話してくれた。毎年、大阪地区の桜の開花の目安とされる木だ。この木の花が咲けば開花宣言となる。冬の空の下、死んだようにたたずむ標準木を見ていると、こんな木から花が咲くのが不思議に思えてくるが、「この寒さを超えてこそ、美しい花が咲くのです」と桜花さん。
2003年の解散、07年の民事再生法申請を経たOSKも、いわばまだ冬の時代。「もっとOSKを有名に、誰からも愛される劇団にしたい」と、桜花さんは今年の決意を新たにする。劇団にとって困難は多いし、乗り越えるべき壁は高い。だが冬は必ず春となる。桜花さんが冬の大阪城にこだわった理由がわかった気がした。
(大阪・文化担当 田村広済)
おうか・のぼる 奈良県斑鳩町出身。OSK日本歌劇団男役トップスター。1991年、日本歌劇学校入学。93年、旧OSK日本歌劇団入団。2008年、大阪松竹座「春のおどり」で男役トップに。3月14―22日、大阪松竹座でのミュージカル「桜彦 翔る!」に主演する。
421
:
名無しさん
:2009/01/23(金) 22:14:15
>>420
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news004618.html
422
:
名無しさん
:2009/01/23(金) 22:16:05
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/107 川口居留地 大阪市西区 /大阪
http://mainichi.jp/enta/travel/news/20090123ddlk27070370000c.html
◇多くの女学校のルーツ 大阪信愛、プール、大阪女学院などなど
貿易商が神戸に去ったあと、川口居留地に居を定めたのは、宣教師たちだった。これまで見てきたように、彼らは教会や病院をつくった。さらには、大阪の多くの女学校も川口で生まれている。大阪案内人の西俣稔さんが言うように、「数々の文化は川口から入ってきた」のだ。
「大阪川口居留地の研究」(思文閣出版)所収の「川口居留地のキリスト教と学校」などから、大阪を代表するミッションスクール設立の経緯を引いてみる。
大阪信愛女学院(大阪市城東区)の源流は、1877(明治10)年、フランスから神戸にやってきた4人の修道女が開いた孤児院だ。2年後に川口に移り、小学校課程の教育も始めた。手芸や西洋料理など欧米文化にひかれた女性が訪れるようになったという。女性はいつの時代も新しいもの好きなのだ。84(明治17)年、信愛女学校が開校する。
前回触れた聖テモテ教会の宣教師・ウイリアムスが開いた英語塾は一時中断するが、74(明治7)年に川口にやってきた女性宣教師エディが寄宿女学校を始める。照暗女学校と名付けられたこの女学校が京都に移転し、平安女学院となる。
プール女学院(大阪市生野区)も川口生まれだ。76(明治9)年に英国聖公会から派遣されたミス・オスクラドが始めた私塾「永生女学校」が発展。88(明治21)年、川口に赤レンガ2階建ての校舎を建て、普溜(プール)女学校が開校した。
小学校課程と女学校課程を併設し、開校時は6〜18歳までの49人が学んだ。プールとは、83(明治16)年、英国聖公会が日本に派遣した最初の主教で、校舎建設に尽力したアーサー・W・プールの名を取って名付けられた。校舎の新築資金は、英米での寄付金と借金でまかなった。1917(大正6)年、校舎が手狭になり、現在地に移転した。
男女共学が御法度の時代、永生女学校は男子も教えていたが、生徒数が増え、男子生徒を引き取ったのが、84(明治17)年にワレン司祭が開設した三一小学校だった。これが桃山学院(大阪市阿倍野区)になる。
78(明治11)年、土佐堀に開かれた梅花女学校は、アメリカから派遣された宣教師を中心に開設された。開設に協力した梅本町教会と浪花教会から一文字ずつ取って「梅花」と命名され、梅花学園(豊中、茨木市)として今に至っている。
大阪女学院は、84(明治17)年、アメリカの宣教師へールが開いたウヰルミナ女学校に始まる。へールは、当時の日本の教育方針「和魂洋才」へのアンチテーゼとして、「人間は平等」「生命の畏敬(いけい)」など、キリスト教の教えを建学の精神とした。校名は、女学校開設の計画を知って、へールに多額の献金をしたテキサスの農場主ウイリアム・サンダースとアーミナ夫妻の名を組み合わせた。
のち、同じミッションスクールの浪華女学校と合併。戦時色が強くなった1940(昭和15)年、外来語の校名を変更するよう政府の指示が出て、大阪女学院に改称した。
ヘールは「日本には人格の概念がなく、一人一人がなにものにもかえがたい価値を持つ、といった思想を学ぼうとしない」と、ミッションスクールの必要性を訴えたという。いわば川口居留地は、富国強兵の明治時代にあって、個人の思想という風を吹き込んだのだ。ラムネ水などさまざまなモノと、新しい思想の発信地だった川口居留地が、大阪の近代化に果たした役割は、いかに大きかったかがわかる。【松井宏員】
毎日新聞 2009年1月23日 地方版
423
:
名無しさん
:2009/01/26(月) 15:08:29
行商人姿で天満の街案内
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090126-OYT8T00114.htm
元情報誌出版・井上さん
大阪天満宮(大阪市北区)の初天神の25日、天満周辺の情報誌「天満人(びと)」を昨年まで出版していた井上彰さん(59)が、江戸時代の行商人姿で街の歴史などを語る活動を始めた。資金難で出版できなくなった情報誌に代わり、自身が街の案内役を担うことを決意。井上さんは「取材で培った知識を生かし、歴史があり、個性豊かな人が多い天満の魅力を伝えていきたい」と意気込んでいる。
井上さんは1998年、天満周辺を紹介するフリーペーパー「あるっく」を発行。4年後から年に1、2回のペースで「天満人」を出版し、街の歴史や人物語などを発信してきた。
休刊した後、街頭で案内人を務めることを決意。「歴史に興味を持ってもらうきっかけになり、周囲の雰囲気も明るくなる」と、てんびん棒を担いで品物を売り歩く行商人「棒手振(ぼてふ)り」姿で、市民や観光客らに語りかけることにした。
これまで培ってきた人脈なども生かし、地元の和菓子店と協力して玄米を使って歯ごたえを楽しめる「ぼてふりまんじゅう」(380円)を考案した。このまんじゅうなどを売りながら、語り部役をこなす。
この日、初天神でにぎわう大阪天満宮前に、菅笠(すげがさ)をかぶり、着物を尻からげした井上さんが登場。木箱に入れたまんじゅうなどを並べ、「いらっしゃい」と声を張り上げると、観光客らが珍しそうに次々と足を止めた。
今後は、ほぼ毎日、天満宮周辺に立つという井上さんは「お祭り気分になってもらうことで、街を明るくしたい」と話している。
(2009年1月26日 読売新聞)
424
:
よっさん
:2009/01/27(火) 23:47:01
大阪日日新聞より
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090127/20090127004.html
四天王寺を守れ! 大阪市消防局が総合訓練
2009/01/27
「文化財防火デー」の二十六日、大阪市消防局(森口清太郎局長)は、大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(出口順得管長)で消防総合訓練を実施した。消防職員や同寺関係者ら約九十人が参加し、かけがえのない文化財を守ろうと、防火体制の確認や充実強化を図った。
同防火デーは、一九四九年のこの日、奈良県の法隆寺・金堂(国宝)の出火で壁画が焼失したことを受け、五五年に当時の文部省が制定した。
訓練は、境内・中心伽藍(がらん)の五重塔から出火し、負傷者が出たという想定で開始。自衛消防隊訓練では、消防への通報に続き同寺職員や僧侶らが参詣者の避難誘導、収蔵品の搬出、自動体外式除細動器(AED)を使い模擬負傷者の応急処置などに取り組んだ。この後境内に到着した市消防局の消防隊員らは、呼吸器着装で塔内へ進入し、残された模擬負傷者を救出、搬送。はしご車などを駆使して伽藍へ一斉放水を実施した。
訓練後、出口管長は、同寺の歴史や戦時中の大阪大空襲による境内の被害の様子などを振り返り「今後も地域の皆さんや消防署と一体となって文化財を守っていきたい」と話していた。
425
:
名無しさん
:2009/01/28(水) 00:07:06
>>410
>大阪は古都であり、世界史でも古代から現在まで栄え続ける
>希有な歴史的都市。
それはちょっと歴史を曲げ過ぎでしょう。
奈良時代に平城京の離宮となった難波京が終わってから、室町時代に蓮如が登場するまでは、
日本史の表舞台からは大阪は一旦姿を消す、と理解しているのですが。
426
:
名無しさん
:2009/01/28(水) 00:13:54
425の書き込みに過剰に反応されぬように。いつぞやの大阪府知事スレのように収集が付かなくなりますので。
427
:
名無しさん
:2009/01/28(水) 00:23:49
>>425
日本史の表舞台に常に登場してないとダメなの?
>歴史を曲げ過ぎでしょう。
これ言い過ぎでは?
歴史は詳しくないので推測ですが難波京以後も都市としてそれなりに
大阪は発展してたのではないでしょうか。しかし、そんな事言い出したら
奈良は平安京に遷都以降、これと言って日本史上で話題になる事がないですが
奈良が古都ではないと言われているのですか?
京都も明治以降、日本史の表舞台という観点からは姿を消していると
思うのですが、これも違うのかな?
428
:
名無しさん
:2009/01/28(水) 21:40:23
>>427
425です。
「表舞台」とか「古都」とかの言葉にこだわると収拾がつかなくなるので、
410さんの「世界史でも古代から現在まで栄え続ける」を検証してみたいと思います。
古代難波京が終わって以来、先に示した蓮如が大坂に本願寺を興すまで、生国魂神社と
四天王寺以外は、「狼の住む土地」と言われていたそうです。
この表現が正しいとすると、その期間の大坂が「栄え続ける」とはとても思えないのです。
「そうでない」とする事実があるなら逆に私も知りたいです。
429
:
よっさん
:2009/01/28(水) 21:47:01
ハイハイ、そこまでにしましょう。
栄えていたか栄えていなかったかは今私達が知る資料では断言のしようもない。
断言出来ない事を議論しても意味がなく、いつぞやのように荒れまくるだけになりかねないのだから。
ただ断言出来るのは『今の大阪は大都会であり近畿の中心であり栄えた都市』であるという事。
430
:
名無しさん
:2009/01/28(水) 21:51:43
>>427
425です。
一部答えてなかったので、回答します。
奈良と京都ですが、両者とも古都ではありますが、表舞台から姿を消しているでしょう。
(古都と表現する事自体、現在は栄えていないことを表していると思います)
京都は室町時代まで(幕末に突発的に表舞台に現れますが)、奈良は奈良時代まででしょうね。
現在、奈良に住んでいるのでよ〜くわかります。
「表舞台」も「栄えている」も"1"か"0"の話にはならないので、その判断は恣意的になって
しまいますが。。。。
431
:
名無しさん
:2009/01/28(水) 21:58:01
>>429
425です。
>断言出来ない事を議論しても意味がなく、いつぞやのように荒れまくるだけになりかねないのだから。
ここは「大阪の歴史、伝統文化に関するスレ」なので、それに関する議論は大いに結構だと思います。
「荒れる」というのはどういうことを指すのですか?
432
:
よっさん
:2009/01/28(水) 22:12:28
過去にですね、大阪府知事のスレで「難波宮が日本国初の首都」だと書かれた事に対して、愚にもつかない事を書き連ねて、せっかく大阪府庁の南港WTCへの移転に関して良い議論が出来そうであったのに台無にしてしまった人たちがいたのです。
こういう歴史的な事は、とかくそれぞれの地域の自尊心を刺激する事が多いらしく冷静な議論にならないのですな。
議論は大事だが、有益な議論にならず、ただ単に「どっちが先か」だけを競うような書き込みしか出なくなる議題は、ここでしてもあまり意味が無いと思われるし、そういう事は学者さんに任せたらどうでしょうかね。
433
:
名無しさん
:2009/01/28(水) 22:26:58
>>432
「荒れる」というのは荒らしが介入してくるということでしょうか?
議論が白熱することを言うのではないのですよね。だとしたら、
掲示板の注意書きにもありますように、荒しと判断したときは無視すればいいのではないのですか?
「大坂の空白期間」については、私の知る限りここで議論されたことはないと思いますので、
やる前から「荒らされる」とか「有益でない」決めつけずに、なんでも議論したらいいと思います。
議論が荒れることを恐れていて、議論を行なわないことの方が、掲示板としてのデメリットは
はるかに大きいと思います。
434
:
名無しさん
:2009/01/28(水) 22:28:12
すみません、433の発言は425です。
435
:
よっさん
:2009/01/28(水) 22:33:18
無視を呼び掛けても、それを無視する連中がいるから困るんですよ。
触らぬ神にたたりなし、という言葉もあるぐらいですから、結論が出そうにもない、あるいは不毛な書き込み合戦になる可能性が極めて高いテーマは避けた方がよいのです。
あなたみたいに冷静な人間ばかりではないのでね。
436
:
名無しさん
:2009/01/28(水) 22:36:24
貴方の話なら日本には栄え続けている古都は無いという結論になります。
それで満足ですか?
はい、この話、終わり。
437
:
よっさん
:2009/01/30(金) 19:13:53
産経関西より
http://www.sankei-kansai.com/2009/01/29/20090129-005831.html
「堂島薬師堂節分お水汲み祭り」PRで来社
2月3日に大阪市北区の堂島・曽根崎新地で開く「堂島薬師堂節分お水汲み祭り」のPRで29日、北新地の芸者らが産経新聞大阪本社(浪速区)を訪れた=写真。
祭りは平成16年から始まり今年で5回目。水都・大阪の早春の風物詩になっている。芸者の奉納舞や新地を練り歩く「龍の巡行」が見物だ。
この日はあでやかな着物姿の若手芸者2人が香水を注ぐ竹筒護符を持参。「鬼(厄)なんて寄せ付けません。これで景気も良くなってほしい」とにっこり。
438
:
よっさん
:2009/01/30(金) 19:31:43
毎日jpより
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20090130ddlk27070337000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/108 泥の河 大阪市北区 /大阪
◇アーチ橋は知る大阪の陰影 昭和橋〜湊橋、小説の舞台に
川口から北へ歩くと、中之島の西端に架かる端建蔵橋(はたてくらばし)に出る。車がひっきりなしに行き交う橋の上で、大阪案内人の西俣稔さんが「面白い逸話があって」と切り出した。
いわく「倹約に倹約を重ねて蔵を建てた人がおった。裸足で一生懸命働いたんで、『裸足で蔵』がなまって、はたてくらに……」。ちょっと眉つばくさい。
それはともかく、この橋から東を眺めると、右手には木津川に架かる昭和橋、目前には土佐堀川を横断する湊橋が迫る。「ここが『泥の河』の舞台です」と西俣さん。宮本輝氏の小説は、中之島の端と三つの橋に囲まれた四角の空間で展開していく。小説は橋の描写から始まる。
「堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。その川と川がまじわるところに三つの橋が架かっていた」
昭和橋は1932年、土佐堀通から川口へ斜めに架けられたアーチ橋で、地盤が軟弱なために木杭が1000本以上も打ち込まれている。元サンデー毎日編集長、北尾鐐之助は「近代大阪」で、昭和初期の昭和橋をこう描写する。
「夕方になって、日光の照射が、まともにこの橋の側面を打つときなど、新しいアーチは美しい銀灰色に照りかがやき、ときどき木津川方面から航走する小蒸気船の白い腹に、黒い橋影が移動して、白波の立つところ、たちまちあたり一ぱいにまばゆいほどの反射光をほとばしらす」
「泥の河」では、「夏にはほとんどの釣り人が昭和橋に集まった」とある。アーチが日陰を作るからだ。湊橋のたもとに、水上生活の一家が越してくる。小説の舞台となる1955年、このあたりは市電や三輪自動車の音が響き、川をポンポン船が行き交っていた。
主人公の信雄が住む「やなぎ食堂」は、中之島の端の端建蔵橋のたもと、今は一本松海運のある辺りにあった。きんつばを焼いている父は小栗康平監督の映画で田村高広が、「夏にきんつば焼いたかて売れるかいな」とぼやいている母は藤田弓子が演じた。
台風の中、信雄は舟で暮らす貧しい喜一と知り合う。岸辺の泥の上に汚物がたまっている川の上で、加賀まりこ演じるはかなげな母が、体を売って細々と生計を立てている。
◇
戦争の記憶色濃い時代の、底辺の生活を描いたこの作品で、宮本輝氏は77年、太宰治賞を受賞し、文壇にデビューする。映画(81年公開)を自主製作した小栗監督も、これがデビュー作だった。モノクロの陰影が、当時の大阪の庶民の陰影を描き出し、世界中で評価を受けた。
西区に住んでいた知人が言うには、小学1年だった65年ごろ、安治川のはしけに住んでいた上級生がいたという。岸辺に柱を立て、郵便受けと新聞入れが付いていた。大阪万博が近付いて、立ち退きを余儀なくされたという。
鉄くずの馬車ではないが、5メートルの鋼材をリヤカーに積み、おっちゃんがベルトを肩にかけて曳いていた姿も記憶にあるという。「肩で曳くから肩曳き、いうてました」。「泥の河」の時代に近いころの話だ。
◇
湊橋、昭和橋をのぶちゃん、きっちゃんが駆け回る。夏の日、天神祭の船渡御も下ってくる。昔は松島の御旅所まで、船が列を連ねたのだ。
別れは唐突にやって来る。川べりを転々としてきたきっちゃんの一家は立ち退きを命ぜられ、上流へと曳かれて行く。のぶちゃんはその舟を追いかけ、「きっちゃん、きっちゃん」と何度も呼びかけるが、応えはない。その舟の後ろに、きっちゃんに教えられたお化け鯉を見る。それは夢かうつつか……。
対岸から、きっちゃん一家の舟がもやっていた辺りを眺める。一家が作った湊橋から落ちる細い道は、コンクリートに塗り固められ、阪神高速の中之島西入口から本線に合流する高架が上空で半円を描く。橋の上を走り回る子どももいない。のぶちゃんやきっちゃんは、そして彼らが見たお化け鯉は、どこへ行ったのだろう。【松井宏員】
439
:
よっさん
:2009/01/31(土) 17:15:17
MSN産経より
http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/090131/art0901311301002-n1.htm
【アートな大阪・魅力の明治建築物語】和と洋の競演 ロマネスクの名建築・旧大阪市博物館(上)
2009.1.31 13:00
知事による府庁のWTC移転構想が賑やかに報道される中、大阪城内に静かに建っている建築がある。大阪歴史博物館(平成13年開館)の前身の大阪市立博物館(昭和35年一部開館)である。先日スライド上映会を開催した際、この建築が当初何であったか知らない人がいて驚いた。
この建築は、昭和6年に建てられた旧陸軍の第4師団司令部庁舎である。御大典記念事業の一環として、大阪市長・関一らが、大阪城公園の整備計画と天守閣の復興とともに、城内に分散していた陸軍施設を集約するために建設した。不況の中で建設費150万円(司令部庁舎80万、天守閣43万、公園施設27万)は市民寄付で集められた。
外観は軍施設にふさわしい堂々としたもので、西洋の城郭風である。正面上部のタレット(隅塔)、軒回りのロマネスク風のロンバルディア帯(連続した小アーチ)などがこの建築を美しく飾っている。当初この建築は、天守閣に合わせて和風でとの声もあったが、あえて洋風スタイルで大阪城跡に近代味を出したと言われている。
以前、大阪城の公園整備計画の中で、洋風のこの建築が景観上調和しないという理由で撤去されそうになった事があった。専門家らの保存を求める声で事無きを得たが、冷や汗ものであった。
【追記】大阪城、中之島公園内に昭和戦前の貴重なラジオ塔(公衆用聴衆施設)が現存しているとの情報をいただいた。大阪市へ説明板の設置を要望しています。また戦前ラジオ塔でラジオ体操や戦時ニュースなどを聞かれた人を探しています。ご教示いただければ幸いです。(明治建築研究会・戦争遺構研究会代表 柴田正己)
440
:
名無しさん
:2009/02/13(金) 20:09:46
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/110 江之子島政府 大阪市西区 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20090213ddlk27070422000c.html
◇壮麗なる本格的な洋館−−半世紀にわたり府政の中心
橋下徹知事が打ち出した府庁舎の南港移転をめぐって、賛否入り乱れてかまびすしい。現在使用されている都道府県庁舎では最も古いが、最初から大手前にあったわけではない。
川口から木津川橋を渡りながら、大阪案内人の西俣稔さんが「あそこに府庁があったんです」と対岸の江之子島を指す。
1874(明治7)年に官民が共同出費して建設された府庁舎は、造幣寮(今の造幣局)のイギリス人技師が設計。2階建ての白亜の洋館で、中央にドームがあった。「西区史」は「人は金色まばゆき玄関の菊花御紋賞を拝し、かつその設備の結構壮麗を極めたる大建築に政府と称した」と記す。
「玄関は西を向いてました。船場商人は『わしらにケツ向けんのか』と怒った。大阪はこれから世界に羽ばたく、というので、大阪湾のある西向きに建てたんです」と西俣さん。
橋を越えれば川口居留地。知事官舎は雑居地にあった。さらに1899(明治32)年には市役所の仮庁舎が府庁の北にできた。まさに西区は大阪の政治・貿易の中心地だったのだ。
実は江之子島政府は2代目。初代の府庁舎は中央区本町橋の西町奉行所の建物を使っていた。いまマイドームおおさかが建っている場所だ。中心部から西区への移転は、大英断だったといえるだろう。
大阪府は1868(慶応4)年に設置されたが、堺県や河内県ができたり、奈良まで含んだりして、現在の範囲に確定したのは1887(明治20)年だった。
◇
さて、江之子島という地名から察するに、ここも昔は島だったに違いない。西俣さんが「その通り」と手渡す古地図には、木津川に浮かぶ細長い島がある。「語源はへのこ島。へのこに江之子の字を当てたんです」と西俣さん、ニヤリと笑う。へのことは、オチンチンのこと。そう言われて地図を見直せば、形が似ているかも……。「沖縄の辺野古もそうです」と付け加える。ほかにも犬子島、狗子島、「難波江の小島」の難波が消えて江の小島等々、いろんな説がある。
府庁は1926(大正15)年、手狭になったため、陸軍省用地の払い下げを受けて大手前に移転する。市役所は一足先に移転しており、1899(明治32)年に川口居留地の名が消えたのを追うように、役所は江之子島から市内中心部に移ってしまった。ちなみに、府庁舎は移転後、工業奨励館として使われていたが、戦災で焼けてしまった。
現在、府庁のあった所には府立産業技術総合研究所の建物があるが、96年に移転したあとは使われていない。跡地の再開発はコンペにかけ、07年12月に長谷工コーポレーションなどの事業案を採用。跡地約1・5ヘクタールは約121億円で売却した。
高層マンションを中心とした複合施設は、「アートを核にしたまちづくり」がコンセプト。府立現代美術センターが移転し、ギャラリーやホール、アーティスト育成施設などが入る計画だ。今月上旬から解体工事が始まった。
変遷をたどった府庁舎。南港に移れば4代目庁舎となるが、その結果ははてさて……。【松井宏員】
毎日新聞 2009年2月13日 地方版
441
:
名無しさん
:2009/02/23(月) 14:50:11
太子の葬送 追体験-[法隆寺]→[大阪・叡福寺] (2009.2.23 奈良新聞)
http://www.nara-np.co.jp/n_soc/090223/soc090223e.shtml
聖徳太子の命日とされる22日、法隆寺(大野玄妙管長)の第25回「太子道をたずねる集い」があり、約230人の参加者が、斑鳩町の同寺から太子の霊をまつる場所のある大阪府太子町の叡福寺までの約18.5キロを歩いた。
太子ゆかりの道をたどって遺徳をしのぶ行事として年2回開催。この日のコースは太子の葬送の道にあたる。
参加者は、八部衆にふんした人々が担ぐ輿(こし)に乗せた太子像を先頭に法隆寺を出発。斑鳩町の龍田新宮や王寺町の達磨寺、香芝市の尼寺廃寺などでは、奈良芸術短大の前園実知雄教授が、その地にまつわる歴史や文化財などについて解説した…
442
:
名無しさん
:2009/02/23(月) 14:54:19
ひと:片岡愛之助さん 上方舞楳茂都流四代目家元
http://mainichi.jp/select/opinion/hito/news/20090223k0000m070081000c.html
「お話をいただいた時は本当に驚きました」。歌舞伎の人気花形。子どものころから日本舞踊の流派、花柳流の踊りはけいこしていたが、上方の舞は経験ゼロ。そこへ突然、上方舞四大流派の一つ、楳茂都(うめもと)流家元に、と要望された。花のある舞台、芸熱心な人柄が見込まれた。
「でも自分が舞えるのかな、と。松嶋屋(片岡仁左衛門家)一門で話し合った結果、決めました」
十三代目仁左衛門の下で修業。その次男、片岡秀太郎の養子になり92年、六代目愛之助を襲名。「僕は死ぬまで大阪の役者です」と関西在住を貫く。
「歌舞伎に精進するのはもちろん、これからは舞にも命をかけていきたい」
楳茂都流は幕末、大阪で生まれ、三代目家元の陸平が85年に死去以降、家元を置かず理事制で運営。しかし「芯になる人がほしい」と家元を立てることに。三代目楳茂都扇性(せんしょう)を昨年12月に襲名。四代目家元になった。
「楳茂都流にはゆったりした地唄舞も、激しい曲もあり、舞って楽しい振りがついています。踊りと違う方向へ体が動く振りもありますが、心で芝居をする動きなので面白い」
歌舞伎にも楳茂都流の演目がある。「機会があれば歌舞伎でも楳茂都流の曲を務めたい」
家元披露舞踊会は3月1日午後2時、大阪松竹座で。【宮辻政夫】
【略歴】片岡愛之助(かたおか・あいのすけ)さん 上方舞楳茂都流四代目家元の歌舞伎俳優。大阪府生まれ。81年、片岡千代丸の名で初舞台。端正な顔立ちで、人気上昇中。ドライブが趣味。36歳。
443
:
名無しさん
:2009/04/04(土) 23:08:00
聖徳太子(1) 2009年4月4日
皇位継承争い14歳で歴史に登場 幼少より賢さ伝える逸話
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/090404/20090404060.html
三善 貞司
神格化され、さまざまな伝承を持つ聖徳太子については、学者諸賢の研究・考証の書物が山積みし、浅学の筆者の雑文には百の叱責(しっせき)があろう。しかし、太子を抜きにしては大阪の人物伝はあり得ない。また、複雑な関連系図を付けねばならぬが、学術論文を書くつもりはないので省略し、念頭に浮かぶもののみ、筆を染めておきたい。
太子は五七五年、橘豊日(たちばなのとよひ)皇子(後の三十一代用明天皇)と、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女を両親として生誕した。豊日皇子の母賢塩媛(きたしひめ)と間人皇女の母小姉君(おあねのきみ)は実の姉妹で、ともに三十代敏達(びたつ)天皇の皇妃、つまり太子の両親は兄と妹が結婚したことになる。
母の間人皇女は救世(くせ)観音(現世の苦患を救う仏)に願掛けして懐妊、臨月のころ宮中を視察中厩(うまや)(馬を飼育する小屋)の辺りで産気づき、太子が産まれたので厩戸(うまやど)皇子と名付けたとの話は有名だが、実は作り話で、厩戸は生誕地の地名。今の橘寺(奈良県明日香村)辺りだとみられる。
生後三カ月で自由に会話ができ、一年後には東に向かって合掌し南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と唱え、三歳のとき父から「松と桃はどちらが好きか」と尋ねられ、「松葉は互いに支え合って生きている人という字に似ています。松の方が好きです」と答えたなどの話も、信じがたい。大きくなって一度に十人の訴えを聞き分けたので、豊聡耳(とよさとのみみ)皇子と呼ばれたそうだが、聡は賢いとの意味で聴力とは関係なく、豊は美称の接頭語である。
当時の大和王朝は皇位継承をめぐって豪族たちが、すさまじい権力闘争を演じていた。中でも軍事担当の大伴氏と物部氏は、財政担当の蘇我氏に事あるごとに反発し、犬猿の仲である。五五一年、百済(くだら)(古代朝鮮の国名)の聖明王は、金銅釈迦仏(しゃかぶつ)一体と仏具・経典を贈り、親善外交を望む。二十九代欽明(きんめい)天皇が仏像を祀(まつ)るか否かを問うと、外国文化を嫌っていた物部尾輿(おこし)は、日本には神道がある、異国の仏像を祀ると神罰が下ると猛反対した。外国の先進文化を吸収したい崇仏派の蘇我稲目(いなめ)は、神罰が下るかどうか試してみると、飛鳥の向原にあった自分の屋敷に奉安する。ところが疫病が流行したため怒った尾輿は、屋敷を襲って焼き払い、奪い取った仏像を「難波(なにわ)の堀江」に投げ込み廃棄した(後に信濃の本田善光が堀江で仏像を拾い、持ち帰って祀ったのが善光寺の起こりとの有名な伝説がある)。
こうして物部・蘇我両氏の対立は決定的となるが五八七年、天然痘が大流行し、太子の父用明天皇は在位わずか二年で病没する。稲目の子蘇我馬子(うまこ)は仏像を堀江に捨てた仏罰だと、尾輿を継いだ物部守屋派の中臣(なかとみの)勝海を脅かして味方につけ、守屋打倒の策を練る。守屋はこの裏切り者めと弓の名手迹見赤檮(とみのいちい)に命じて勝海を射殺、三十二代天皇に穴穂部皇子(太子の母の兄)を強引に即位させようとしたから、守屋と馬子は合戦となる。太子十四歳のときで、彼が歴史に登場するのはこれからだ。
両軍は渋川(大阪府東大阪市)で激突、戦い上手の物部軍は稲域(いなぎ)(稲を乾かす設備)を築いて巧みに矢を乱射、蘇我軍はたちまち敗色濃厚となる。蘇我軍に加わった太子は、仏の加護に頼るほかはないと白膠木(ぬるで)(ウルシ科の落葉樹)を切って四天王(増長・多聞・持国・広目の仏を守護する大王)を刻み、勝利すれば必ず四天王を祀る寺院を建立すると誓願した。
不思議なことに戦場に八尺をこす巨人が現れ、物部軍を蹴散(けち)らし形勢は逆転。樹上で指揮を執っていた守屋は赤檮に射殺され、蘇我軍の大勝利で終わるのだが、先に述べたように赤檮は守屋の家来、恐らく謀略上手の馬子が莫大(ばくだい)な恩賞で寝返らせたのであろう。ならば四天王の化身は巨人ではなく赤檮となる。
こうして河内王朝の権力は、蘇我馬子が独占、仏教政策を推進した。
444
:
みずき
:2009/05/04(月) 21:42:00
皆考えてなかなか踏み出せ
ないけど、どちらか選べるし、
ここは納得出来ます。
ttp://shio-splash.com/aab/
私はけっこう気に入ってます。
445
:
名無しさん
:2009/05/05(火) 03:56:28
四天王寺の由来かぁ。勉強になるね。
446
:
かずみ
:2009/05/05(火) 17:57:32
最近気になり出して、けっこう
通ってます^^。
左の方がオススメです!
ttp://cutiebitch.com/aab/
私はかなりたのしんでます♪。。
447
:
名無しさん
:2009/05/08(金) 19:27:16
繁昌亭に続け、ざこばさんが「ミニ定席」 大阪・西成
asahi/com2009年5月8日
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK200905080029.html
落語家の桂ざこばさんが自ら席亭を務める「動楽亭」(大阪市西成区)で、毎月10日間限定の昼寄席を6月から試験的に始める。関西の戦後初の落語定席として誕生した「天満天神繁昌(はんじょう)亭」(同市北区)に続く試みで、ざこばさん、南光さん、雀三郎さん、雀々さんら桂米朝一門が出演する。
ともに主催する米朝事務所によると、6〜8月の毎月1〜10日の午後2時に開演する。マンション内にある100人収容の小さな会場に、連日一門から6人が出る。集客を見て、9月以降の継続や内容を検討する。ざこばさんは「いずれは、ほかの一門の落語家にも繁昌亭とかけ持ちして出てもらうのが夢です」と話した。
06年9月にオープンした繁昌亭は4月末までに43万人余りが来場し、人気を集めている。動楽亭の試験興行について、繁昌亭を運営する上方落語協会は「相乗効果が出るのを期待したい」としている。(篠塚健一)
448
:
名無しさん
:2009/05/09(土) 23:11:45
安部清明は大阪人
449
:
名無しさん
:2009/05/09(土) 23:23:10
安倍晴明
450
:
かずは
:2009/05/10(日) 18:27:35
最近見つけました^^!
丸見えは恥ずかしいけど、興奮します。
ttp://yourtubehost.com/aab/
私は夜に良く居ます♪
451
:
名無しさん
:2009/05/13(水) 12:09:24
同じ題材を比較鑑賞――能・文楽・落語でどう違う?
2009/05/12配信
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news006482.html
能や文楽、歌舞伎など古典芸能で同じ題材を取り上げながら、描き方が多少異なることがある。そうした違いを比較しながら1度に鑑賞できる企画が相次いでいる。筋の脚色や登場人物のパロディーなど演出方法が一目瞭然(りょうぜん)で、それぞれの見どころがより鮮明に浮かび上がる。
「壇ノ浦の合戦におきまして、平家一門を滅亡に追いやった大功を立てながら……」。5月1日、大阪市中央区の山本能楽堂で開かれた「忠信三変化」は講談師・旭堂南青による解説で始まった。
源義経に仕えた武将・佐藤忠信。忠信は、義経が兄・頼朝と対立した後も、義経に付き従った忠臣。文楽や歌舞伎の題材にもなっている人気者だ。公演名の「三変化」が暗示するように、能と文楽、落語の3つの芸能のなかで、忠信がどのように表現されたかを見せる企画だった。
まずは山本章弘による能「忠信」。吉野山中に身を潜めていた義経を、僧兵たちが夜討ちにやってくる。忠信は弓を引き、僧兵らを倒していく。動きが激しく勇壮な演目だ。
能「忠信」が歴史を基にしているのに対して、文楽では奇想天外な脚色がなされる。歌舞伎でも上演される「義経千本桜」では、にせの佐藤忠信が現れる。正体は狐(きつね)で、足で耳をかくなど獣の動きになるのが笑いを誘う。狐忠信の目当ては静御前の持っていた初音の鼓。自分は、その鼓の皮に使われた狐の子だと「狐言葉」で打ち明ける。
アクロバティックな動き、人間から狐への早変わりが見どころで、この日は豊竹咲甫大夫(太夫)、竹澤宗助(三味線)、吉田玉女(人形遣い)が出演した。
最後は桂宗助の落語「猫の忠信」。「義経千本桜」を下敷きに、狐の忠信を猫に置き換えたもので、忠信のせりふを基にした「猫言葉」も登場する。猫の忠信の目当ては鼓ならぬ三味線で、自分はその皮に使われた猫の子というわけだ。
企画者の1人である能楽師の山本は「武家のための芸能である能では、忠信は師弟愛が表され、文楽と落語では親子愛が中心になり、違いが分かりやすい」と説明する。同時に上演することで「デパートの試食コーナーみたいに、それぞれの芸能のうまみを感じていただければ」と話す。
山本能楽堂でこうした「競演」が実施されたのは昨年に次いで2回目。前回は平知盛に焦点を当てた「船弁慶三体」の公演を開いた。別の催しで様々な分野の演者が楽屋で芸について雑談するうちに、企画が持ち上がったという。
6月27日には京都芸術劇場・春秋座(京都市左京区)で「3つの芸能で楽しむ〈お軽・勘平〉」が開かれる。文楽の「仮名手本忠臣蔵」に登場する恋人、お軽と勘平を取り上げる。2人の密会中、勘平の主人が傷害事件を起こし護送されてしまう。責任を取って切腹しようとする勘平、それをとどめようとするお軽の逃避行だ。義太夫節と、文楽を基に歌舞伎舞踊化された「道行旅路の花婿」、万歳(まんざい)を上演する。
義太夫節は豊竹呂勢大夫、鶴澤清二郎、歌舞伎舞踊は坂東寿子ら坂東流の師匠、万歳は尾張万歳保存会が出演する。企画した京都造形芸術大学の田口章子教授は「1人の太夫が語る義太夫と、お軽にクローズアップした歌舞伎舞踊、芝居仕立ての『三曲万歳』を見比べることで、それぞれの特色、面白さがよく分かるはず」と話す。
山本能楽堂では今年11月に「船弁慶三体」が再演されるほか、来年2月にその公演を東京でも実施する予定。1つの主題の「変奏」を1度に楽しめる企画は、各芸能への理解を深める機会となりそうだ。
(大阪・文化担当 関優子)
452
:
名無しさん
:2009/06/01(月) 02:43:40
KYOTO塾って番組で井上章一が確か弥生時代?を河内時代や難波時代にした方が良いって言ってたな
453
:
名無しさん
:2009/06/20(土) 10:07:42
267 :文責・名無しさん:2009/06/17(水) 10:57:53 ID:RyVtzk880
奈良時代以前に大阪が日本の中心になっていたのは紛れもない事実。
戦後の歴史教科書は、古代の大阪がすべて隠蔽された偏向教科書。
マスコミだけじゃなく、政府が偏向教科書で大阪を歴史から抹殺している。
教科書の偏向、捏造の実態は次第に解明されつつある。
348 :文責・名無しさん:2009/06/20(土) 00:37:32 ID:7WhI48ss0
>>267
先日放送された教養系の番組で、ある学者が東京中心の日本史について発してた。
「弥生時代」の「弥生」とは、土器が発見された関東の地名であり、
東大の研究者達が内輪で呼んでたに過ぎないもの。
それが通用するのなら、大仙古墳など、
近畿地区で大きい古墳がが築造された時代にも地名を付けなければおかしい。
子供の頃に習った歴史の教科書では、
「関東平野に居れば武士らしくなり、京都だと堕落する」と教科書で習った。
これら「近畿を敵視し関東地方を美化する教育に違和感」と言ってた。
454
:
名無しさん
:2009/06/28(日) 16:32:01
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090628/20090628023.html
大役に気引き締め 「装束賜式」で4役6人任命
2009年6月28日
大阪天満宮(大阪市北区、寺井種伯宮司)の天神祭(7月24、25日)で奉仕する神童ら4役6人を任命する「装束賜式(たばりしき)」と諸準備の完了を神前で伝える奉告祭が27日、同宮で執り行われた。
4役6人は祭りの開始を告げる「鉾流(ほこながし)神事」や、陸渡御でみこしを警護するなどの重要な役割を果たすため、毎年同宮から任命を受けている。出席した神童、猿田彦ら5人は、祭り当日にまとう装束に着替え、本殿での奉告祭に参列。緊張した面持ちで神前に臨み、約1カ月後の大役の務めに気持ちを引き締めていた。
奉仕者は今後、「においの強い物を口にしない」などの規律を守り、祭り当日に備える。神童に選ばれた市立西天満小5年の野村拓真君(10)は「初めてのことなので緊張した。これからは少し大変だけど約束事を守り、しっかりと祭りの務めを果たしたい」と話し、祖父で西天満連合神鉾(かみほこ)講の野村祐三講長は「活発な子なので元気よく本番に臨んでほしい」と笑顔で見守っていた。
神童以外の各役の奉仕者は次の通り。(敬称略)
猿田彦=波多野肇(68)▽随身=高橋伶太(18)、岸井祐樹(17)▽牛曳(うしびき)童児=破戸勇人(12)▽牛曳童女=大谷菜緒(10)
455
:
名無しさん
:2009/06/29(月) 11:33:57
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090629-OYT8T00010.htm
幻の陵墓参考地
「真の継体天皇陵」高槻・今城塚古墳
〈真の継体天皇陵〉と呼ばれる高槻市の「今城塚古墳」(6世紀前半)。宮内庁は、茨木市の「太田茶臼山古墳」(5世紀中頃)を継体陵とするが、大正から昭和初期、今城塚を継体陵とみて陵墓参考地の指定も検討していたことが、研究者の調査で明らかになった。同庁の陵墓指定古墳は現在、原則立ち入りも許されていない。しかし、今城塚は市が2011年春の完成を目指して史跡公園整備を進めており、事実上、公園として一般開放される唯一の大王墓(天皇陵)となる。真の継体陵とされるに至る、経緯をひもといてみた。(関口和哉)
日本の古墳は、名前が記された墓誌などが納められていないため、被葬者をほとんど特定できない。それは、陵墓も例外ではない。では、今城塚はいつ頃、誰が「継体陵」と説いたのだろうか……。高木博志・京都大准教授(近代史)が、宮内庁所蔵の文書を調査したところ、戦災で焼失した「府庁文書」の写しが残されていた。府知事が、1922年(大正11年)に内務大臣あてに起案した文書だ。
〈元ヨリ陵墓タリシモノニシテ、然(しか)モ陵制宏大ナルヨリ考フレハ高貴ノ陵墓タルコトヲ知ルヲ得ヘシ〉。このように、今城塚周辺にある「陪塚」(現在は陪塚と認められていない)の保護を訴えていたことがわかった。
高木准教授は、府史蹟(しせき)調査委員の天坊幸彦氏が原案を作成したとみて、「今城塚を文化財として保存しようとした嚆矢(こうし)」と指摘。それだけではない。継体陵の所在地は、律令の施行細則「延喜式」(927年)に「摂津国島上郡」と記されている。今城塚は「島上郡」にあるが、太田茶臼山は「島下郡」。天坊氏は郡境を突き止め、今城塚こそ継体陵にふさわしいと説いた。
これを受けた形で29年(昭和4年)、当時の宮内省の陵墓考証担当者が、内部文書で今城塚が真の継体陵と主張。36年(同11年)には宮内大臣の諮問に、同省の臨時陵墓調査委員会が「今城塚を陵墓参考地に編入すべき」と答申した。
だが、58年。国史跡に指定されたが陵墓参考地にはならなかった。その理由を高木准教授は「歴代の天皇陵すべてが19世紀の学知に基づき治定され、その体系が変更なく、凍結されてきたため」と説明。1881年の天武・持統合葬陵以来、陵墓の指定変更はない。一つ認めれば次々に変更を余儀なくされる恐れがあったため、と推測できる。
◇ 今城塚は1997〜2006年度、高槻市教委の発掘調査で、築造時期が継体天皇の没年(531年)と一致することが確実となった。さらに、〈1〉国内最大級の埴輪(はにわ)祭祀(さいし)場〈2〉「阿蘇ピンク石」という特殊な石材を石棺に使用〈3〉横穴式石室の基礎になる大規模な石組み――など、大王墓にふさわしい内容が次々と明らかになり、考古学的にも継体陵の可能性が高まった。
公園整備は04年度に始まり、護岸列石の復元など墳丘部分をほぼ終え、近く、北側隣接地にガイダンス施設「今城塚古代歴史館(仮称)」の整備を始める。
市立埋蔵文化財調査センターの宮崎康雄所長に、何台もの重機が入る工事現場を案内してもらった。クヌギやコナラなどが生い茂った墳丘は、ちょっとした里山の趣。足元に転がるドングリを踏みしめながら、1周した。「ここでドングリを拾って遊んだ子どもたちが将来、歴史や考古学にも関心を持ってもらえれば」。宮崎所長は目を細める。
今城塚古墳は10年にわたる発掘調査で、古墳時代研究に欠かせない資料が得られ、公園化によって誰でも足を踏み入れることができるようになる。いずれも、「陵墓参考地」に指定されていれば不可能なことだった。
堺市などが仁徳天皇陵(大山古墳)をはじめとする陵墓を含む、百舌鳥(もず)・古市古墳群の世界遺産登録を目指す今、陵墓の多様な在り方を改めて実感した。
(2009年6月29日 読売新聞)
456
:
名無しさん
:2009/06/29(月) 13:15:14
なにわ人物伝 −光彩を放つ−
強頸・衫子 2009年6月27日
荒れる淀川鎮める生贄に 工事成功へ天皇にお告げ
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/090627/20090627058.html
三善 貞司
大阪が商都として発展したのは、「母なる大河」とか「大阪の動脈」とか呼ばれる淀川のおかげである。しかし、この母なる大河は大変な暴れ川で、太古から淀川の治水事業は住民たちの悲願であった。
淀川は「澱(よど)む」から生じた名称だが、流域面積に比べて流水量は驚異的に多い。これは夏の熱帯性低気圧と、冬のシベリア寒気団による降雪を水源にしている河川だからで、数え切れぬほど氾濫(はんらん)して田畑を潰(つぶ)し、人家を流失させて荒れ狂った。推古天皇時代から大正のころまでの1325年間に、250回の大洪水があったと記されているから、平均5年に1回となる。もちろん記録にないものもあるから、実際はこの数字よりはるかに多い。
強頸・衫子は、この淀川の荒れ神を鎮めるため生贄(いけにえ)として捧(ささ)げられたと伝わる大阪では有名な人物である。『日本書紀』仁徳天皇11(322)年10月条に、「(天皇は家臣たちに)川尻が澱んで通水が悪く、雨が降るとすぐ田畑にあふれて災害をもたらす。よって川底を深く掘り、悪水を海に流す工事をせよ」と厳命したとの内容が出る。
早速、当時は広大な低湿地だった茨田(まんだ)(大阪府寝屋川市周辺)に茨田堤を築いて淀川の奔流を押さえ、次に難波堀江を開削して流水を現在の大阪湾に落とす工事にかかったが、茨田地域にどうにもならぬ絶間(たえま)(決壊しやすい場所)2カ所あって、万策尽きてしまう。天皇はじめ工事担当の技師たちが参っていたところ、ある夜神が天皇の夢枕に立ち、「武蔵(東京都・埼玉県)の住人強頸と河内の茨田連(むらじ)衫子の2人を河神に捧げて祭ったら、必ず工事は成功する」とのお告げがあった。
2人はひっとらえられ、強頸は泣きわめきながら絶間に投げ込まれ、水中に消えてゆく。衫子はもう一つの絶間に連れていかれるが、突き落とされる直前、ふくべ(ひょうたん=飲食物を入れる器)を取り出し、「河神、たたりて我(われ)を幣(ぬさ)(人身御供)にすといへり。我を得むと欲さば、このふくべ沈めて、な浮かばしめそ(浮かんでこさせるな)。すなはち我まことの神と知りて自ら河中に入らむ。もし沈めること得ずば偽(いつわり)の神と知らむ。ただに我身滅ぼさむや(むだ死にするものか)」と叫んでほうり込む。
たちまちつむじ風が起こって沈めようとするが、ふくべは川面を舞い踊りながら沈まず、かなたへ流れていったから、衫子は助かった。
伝説は以上だが、強頸については武蔵の人とあるだけで、なぜ生贄にされたのかは分からない。「強」は力持ちのことだから、おそらく東国から集められた労働者の代表であろう。役人の手に負えない剛直な男で嫌われ、犠牲になったのかもしれぬ。衫子の方は茨田の連と記されているので、河内国北部の豪族(連は朝政を担う豪族の姓(かばね))の一人である。ただし茨田連の官名が初めて史書に出るのは、継体天皇元(507)年だから時代が合わない。また衫は薄い半袖で労働着ではなく、工事失敗の責めをとらされた技師長であろう。古代中国の婦人服でもあり、女性だともいわれる。『行基年譜』の天平13(741)年項に、行基が茨田堤の樋を修築、『続日本紀』に天平勝宝2(750)年、茨田堤決壊とある。
絶間の跡は『河内名所図会』に「池田村より太間(たいま)、伊加賀(いかが)に僅残(わずかのこる)」と記され、現在の堤根(つつみね)神社(大阪府門真市宮野町)の北東に100メートル余の土堤が保存されている。太間は絶間の訛(なま)った地名。太間公園の南東に絶間橋がある。
『摂津名所図会』には強頸絶間の跡は、絶間池(現存せず。大阪市旭区千林)として残り、江戸時代大きな金仏が発掘され、強頸の霊を弔った仏像だと評判になったとの内容が出る。同区千林2丁目の民家に、この伝承にちなんで「強頸絶間之址(あと)」碑が立つ。
(地域史研究者)
457
:
名無しさん
:2009/07/01(水) 11:54:59
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news000613.html
なにわに夏、笑顔の行列──愛染まつり始まる
2009/07/01配信
日本最古の夏祭りとされ、浪速に夏の訪れを告げる「愛染まつり」が30日、大阪市天王寺区の勝鬘院(しょうまんいん)愛染堂で始まり、愛染娘らを乗せた「宝恵かご」の行列が市内を練り歩いた。
行列は午後1時半ごろ、約400人から選ばれた浴衣姿の愛染娘12人が6台のかごに乗り、近鉄大阪上本町駅前を出発。雲に覆われたあいにくの空模様の中、愛染娘らは「愛染さんじゃ、べっぴんさんじゃ」の掛け声とともに、沿道の観客に笑顔を振りまいた。(共同)
458
:
名無しさん
:2009/07/02(木) 11:14:32
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/090702/osk0907020233000-n1.htm
古墳期の田畑にも洪水跡 被害と闘い農業営む 池島・福万寺遺跡 大阪
2009.7.2 02:32
弥生時代の大規模な洪水跡が発見された東大阪市池島町の池島・福万寺遺跡で、古墳時代中期(5世紀後半〜6世紀前半)の水田や畑跡が府文化財センターの発掘調査で見つかっていたことが1日、分かった。水田跡などは洪水で水没したことも判明し、洪水に見舞われながらも懸命に農業を営んでいたことを物語る興味深い資料になりそうだ。
畑跡は、直線状の溝(幅20センチ前後、長さ10メートル前後)が南東から北西方向に2メートル間隔で規則的に延びているのが確認され、鋤(すき)で耕した痕跡か、畝(うね)の間の溝という。すぐ南側では、一辺4〜5メートルの長方形に区切られた水田跡の畦(あぜ)も明確に残っていた。
水田跡は、畑跡より数十センチ低い場所に築かれていたことから、水が確保しやすい低地に水田を設け、稲作と畑作を効率的に営んでいたことも分かった。
水田跡や畑跡の一部は砂で覆われていたことから、洪水によって水没したと推定。同遺跡では、弥生時代前期〜中期初め(紀元前4〜1世紀)の大規模な洪水跡が見つかっており、この地域はたびたび洪水被害を受けていたという。
水田跡と畑跡については、4日午前10時半〜午後1時に現地見学会が行われる。問い合わせは府文化財センター((電)072・999・9890)。
459
:
名無しさん
:2009/07/02(木) 11:27:22
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000000907020001
原始ハスが開花 古事記にも登場
2009年07月02日
府の天然記念物「枚岡の原始ハス」が東大阪市善根寺町4丁目の稲田清治さん(66)宅の人工池で淡いピンクの花を咲かせ始めた=写真。
花の直径は10センチ余りで一般のハスよりやや小ぶり。日の出とともに咲き、正午前には花びらを閉じる。花の命は3日と短く、3日目に花を大きく開いた後、午後には花びらが一枚ずつ散っていくという。
「古事記」に詠まれたハスで、1500年以上前からあるとされる。大正時代まで周辺の湿地などに自生していたが、戦後にアメリカザリガニに食い荒らされ絶滅寸前に。稲田さんの父が1962年に自宅の庭に移植して世話を続け、70年に府の天然記念物に指定された。
460
:
名無しさん
:2009/07/02(木) 11:42:55
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090702/20090702022.html
きらびやか純金扇 天神祭を記念し制作
2009年7月2日
催行が間近に迫る大阪天満宮の天神祭(24、25日)にちなんだ純金製扇面が1日、貴金属ジュエリーの老舗「ギンザタナカ」(本社・東京都)の心斎橋店(大阪市中央区心斎橋筋1丁目、伊藤隆弘店長)で関係者に公開された。参考価格は5千万円で購入希望者には販売に応じる。
同祭を題材に、同社が純金加工技術を駆使し、毎年内容を変えて手掛けている制作品。
扇面(幅約75センチ、高さ約50センチ)には約7キロの純金を使用。設計から完成まで3カ月をかけ、公開前日には同宮でおはらいを受けた。正面には彫金によって、だんじりや梅鉢紋などが力強く表現され、きらびやかな輝きの中に勇壮華麗な祭りの雰囲気を伝えている。伊藤店長は「大阪を元気にしたいとの思いで制作。縁起がいい末広がりの純金扇面で、不景気な世の中を吹き飛ばしてもらいたい」と来店を呼び掛けている。店頭展示は今月末まで。
461
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/07/03(金) 07:56:00
歌舞伎の尾上菊五郎・菊之助さん親子が「船乗り込み」
日経ネット関西 2009/07/03配信
歌舞伎役者の尾上菊五郎さん、菊之助さん親子らが水の都・大阪の川を巡って劇場に乗り込む恒例の「船乗り込み」が2日、行われた。
道頓堀の松竹座で5日から始まる「七月大歌舞伎」を前にした行事。出演者13人が船に分乗し、戎橋付近に集まった観衆の紙吹雪を浴びながら笑顔で手を振っていた。
「七月大歌舞伎」の演目は蜷川幸雄さん演出の「NINAGAWA十二夜」。菊之助さんは「蜷川さんのつくり出す美しい世界、歌舞伎の伝統美を見にお越しください」とあいさつした。
(共同)
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news000658.html
462
:
名無しさん
:2009/07/03(金) 11:31:18
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090703-OYT8T00137.htm
藤原家隆 顕彰塚を再整備
天王寺区夕陽丘町
鎌倉時代の歌人・藤原家隆(1158〜1237)が「夕陽庵(せきようあん)」を結んで晩年を過ごしたといわれる、大阪市天王寺区夕陽丘町にある府史跡「家隆(かりゅう)塚」が再整備された。家隆を顕彰するため江戸時代に建てられたが、近年は周辺に樹木が生い茂り、散策路の傷みも目立っていた。再整備した市などは「夕日の美しいスポットとして注目してほしい」と期待する。
家隆は新古今和歌集の選者の一人で、上町台地に1236年、地名の由来にもなった「夕陽庵」を設けた。当時は大阪湾が四天王寺の西側まで迫り、水平線に沈む夕日が見えたという。
この地で家隆は、「契りあれば 難波の里に 宿り来て 波の入日を 拝みつるかな」などの和歌7首を残した。夕日を拝んで極楽浄土を思い描く修行「日想観」を修め、その翌年、正座合掌したまま亡くなったという。
「家隆塚」は家隆の墓とも伝えられる。敷地約165平方メートルに、花こう岩の石塚(高さ約2・5メートル)、家隆の功績を記した和泉砂岩の石碑(高さ約1・8メートル)が立ち、周辺を幅約1メートルの散策路が巡る。
再整備は、国と市が約700万円かけて実施。敷地内のエノキなどの枝切りをしたり、ひびが入るなどして傷んだ散策路を修復したりし、歩きやすいように正面の石段の幅も広くした。家隆がこの地で詠んだ歌を記した碑も新設した。
「家隆塚」の清掃などに長年取り組む、大阪夕陽丘ライオンズクラブの角野桂治郎理事(70)は「家隆塚は夕陽丘の原点。美しくなったことを契機に、まちの魅力をもっと知ってもらいたい」と話す。
(2009年7月3日 読売新聞)
463
:
名無しさん
:2009/07/03(金) 11:37:34
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20090702ddlk27070433000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/126 八十島祭 大阪市天王寺区 /大阪
◇統治者として神霊授かる
◇上町台地、生国魂神社舞台に−−朝廷の聖地
上町台地とそこに建つ生国魂(いくくにたま)神社が、かつて朝廷にとっていかに大事な聖なる場所であったかを示すのが、「八十島祭(やそしままつり)」だ。
古代から、上町台地の西にはたくさんの島が浮かんでいて、「難波の八十島」と呼ばれていた。福島や江之子島、四貫島、御幣島(みてじま)などなど、大阪市西部に島の付く地名が多いのは、その昔、島だったからだ。
天皇が即位した翌年、その八十島に向かって行われた儀式が「八十島祭」だった。記録に表れるのは平安時代の850年、文徳(もんとく)天皇からで、鎌倉時代まで続いた。
京の都から女官らが御所車を連ねて、淀川を舟で下ってやって来て、内侍典侍(ないしのすけ)という高級女官が天皇の衣が入ったはこを振る、というものだった。衣に国土の神霊を付けることで、統治者となる意味があったという。この儀式は難波に都があったころに始まり、天皇自らが衣を振ったのでないか、とも推測される。
この儀式で祭られるのが、生国魂神社の祭神である生島神(いくしまのかみ)と足島神(たるしまのかみ)だったのだ。上町台地と難波の八十島が、大八洲(おおやしま)、つまり日本の国土の象徴だったということになる。当時の生国魂神社は今の大阪城の辺りにあり、上町台地の北端に近かった。八十島祭が執り行われた場所ははっきりしないが、神社とそう離れてはいなかったかもしれない。
「別冊天満人 上町台地ファンタジー」所収の「神々の台地」で、北川央・大阪城天守閣副主幹は、こう述べている。「平安時代になっても、天皇家が先祖を振りかえったとき、上町台地が王権成立の記憶を留(とど)める重要な場所と認識されていたことの証(あかし)でしょう」
◇
この八十島祭を題材にした能が06、07年、生国魂神社で開催されている大阪薪能で上演された。その名も「生国魂」。
作者は、城西国際大客員教授で石川県立歴史博物館館長の脇田晴子さん。島根の石見銀山を主題にした「石見銀(いわみがね)」という新作能を作った脇田さんに、「大阪薪能50年を記念して、生国魂神社を主題にした新作能を」と中山幸彦宮司が依頼。脇田さんがすぐに着想したのが「八十島祭」だった。
「八十島祭は女の祭なんです。古代は女性の祭祀(さいし)者が多い。興味を持っていましたので」。1929年に豊国神社に寄贈された絵巻物「八十島祭絵詞」を参考に描き出した物語は−−。
生国魂神社に参詣した歌人が、菅笠(すげがさ)を売る女性から八十島祭のいわれを聞く。その女性は内侍典侍の亡霊で、「夢の内に祭を見せよう」と言って消える。夜になると、さきほどの亡霊が童女を連れて現れ、祭を見せる。
クライマックスでは、内侍典侍や童女が舞う。女性が主人公の能楽に仕立てた。脇田さんは「生玉さんは大阪の産土神(うぶすながみ)ですから、もっと知られていい。難波が都だったことも、あんまり知られてないでしょ」と残念そう。
同神社は「今後、大阪薪能の周年事業や、神社の大修理などの際の奉祝能として『生国魂』をやれたら」という。【松井宏員】
・・・461のニュースもあわせて上町台地は見どころが本当にいっぱいですよ。
地図を片手に歩くもよし、何ももたずに風の吹くまま気の向くままに歩くもよし。
是非、古い歴史を誇る大阪を感じたければ歩いてみてください。
464
:
名無しさん
:2009/07/03(金) 11:40:44
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090703/20090703033.html
巨大広告で天神祭盛り上げ TV番組とコラボ広告
2009年7月3日
日本三大祭りの一つとして知られる「天神祭」(24、25日)とタレントの坂東英二さんの散歩を生放送で伝える毎日放送のバラエティー番組「バンバンバン」との合同広告(縦2・9メートル、横2・1メートル)が2日、大阪市北区の天神橋筋商店街にお目見えした。巨大なコラボレーション広告に、足を止めて見入る買い物客も見られた。
坂東さんは現在69歳。広告が飾られている同商店街は“120歳”ということから、“年長コラボ”企画として実現した。
この日、お披露目された広告には坂東さんの顔写真とともに、「まだまだ若いもんには負けまへん!!」のメッセージ。下部には天神祭と23日に同商店街を巡行する天神祭ギャルみこしのPR文が書かれ、間近に迫った祭りの気分を盛り上げている。
坂東さんは「こんなにでかいとは」と広告の大きさに驚いた様子。天神祭については「日本でもこれだけの祭りはなかなかない」と感想を話していた。
465
:
名無しさん
:2009/07/04(土) 10:39:26
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090704-OYT8T00067.htm
来月から上方舞教室
山村若佐紀さん
上方舞の山村若佐紀さん=写真=が8月27日から月1回、大阪・天満橋のドーンセンターで「上方舞教室」を開催する。
若佐紀さんと妹の山村若乃さんが、地唄「黒髪」の前半を手ほどきする。8月27日の初回は、若佐紀さんが伝統の上方舞について解説し、これまでの受講生による舞「ひなぶり」が披露される。
2回目以降は9月10日、10月15日、11月19日、12月17日に開講。いずれも昼の部は午後2時〜4時、夜の部は午後6時半〜8時半。会費は5日間で8000円。定員25人。
若佐紀さんは「伝統の舞をぜひ体験ください。初心者の方もどうぞ」と話している。申し込みは往復はがきで、〒577・0802東大阪市小阪本町1の14の20 山村若佐紀上方舞研究所(06・6722・3708)。
(2009年7月4日 読売新聞)
466
:
名無しさん
:2009/07/04(土) 10:40:43
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090704-OYT8T00060.htm
落語家・桂春菜さん 春蝶襲名へ意気込み
父の名跡を継いで来月、三代目・桂春蝶を襲名する落語家の桂春菜さん(34)が3日、読売新聞大阪本社を訪れ、岸本弘一編集局長らに意気込みを語った。
軽妙なしゃべりでテレビやラジオで活躍した二代目は1993年、肝硬変により51歳で早世。春菜さんは、それを機に落語家を志し、翌年、三代目春団治さんに入門、修業を重ねてきた。
「いま、『質の高いプレッシャー』を感じている。落語家として、こんなにありがたいことはない。襲名披露では、おやじが得意としたネタをやろうと思っている」などと抱負を述べた。
披露公演は、8月30日に大阪松竹座、9月27日に京都・南座で行う予定。
(2009年7月4日 読売新聞)
467
:
名無しさん
:2009/07/04(土) 11:21:24
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news000636.html
<ぶんか探訪>200年の歴史、生活に密着――浄瑠璃の里、大阪・能勢町
2009/07/02配信
大阪府の最北端、能勢町では約200年にわたり、素浄瑠璃「能勢の浄瑠璃」が親しまれてきた。語りと三味線だけで浄瑠璃を聴かせる渋い芸能だが、約10年前から一層の振興を図ろうと、人形を加えた形での上演を始めた。浄瑠璃がこれほど親しまれている地は珍しい。その風土を知ろうと能勢を訪ねた。
能勢町は人口約11万2000人の山あいの町だ。標高が高いため、夜の気温は大阪市内より4、5度低いという。町で浄瑠璃の保存と継承の拠点施設になっているのが、「能勢浄るりシアター」だ。
同シアターは町役場の隣にあり、客席約500の大ホールを備える。ロビーの説明コーナーに、太夫(浄瑠璃の語り手)の衣装や床本(台本)などを展示し、能勢浄瑠璃の歴史や4流派ある太夫の流れを紹介している。
出迎えてくれた松田正弘館長は「シアターの運営・文化振興費に、町は一般会計の2%を充てています」と話す。ある関東の自治体は、1文化施設に一般会計の1%を投入して話題になった。「2%」の話で、同町がいかに浄瑠璃を重視しているかが分かる。
同シアターを訪れたのは6月25日。28日に、地元の人形浄瑠璃劇団「鹿角(ろっかく)座」の公演が予定されていた。この劇団は太夫と三味線に、人形遣い、囃子(はやし)方の4業で成る。鹿角座の紋は、町でよく目にする鹿の角と植物の「ササユリ」の葉を組み合わせたデザインだ。
上演演目の1つ「能勢三番叟(さんばそう)」は、同町のオリジナル作品。歌詞に町内の6地区や特産物、名所を織り込んでおり、何から何まで手作り感が漂う。
劇団の人形遣いは地元の主婦らだ。指導に当たる文楽人形遣いの桐竹勘十郎さんらは6月だけで、指導のために6回シアターを訪れたという。「仕事を持っている人も都合をつけて、けいこに来る。熱心なので、こちらも頑張ろうという気になる」
浄瑠璃がなぜ、ここまで町民を駆り立てるのだろうか。能勢人形浄瑠璃実行委員会の森本明会長が地元の事情を説明してくれた。「合併で能勢町が誕生する前、昭和初期の話だけど、弟が村長になったら、そのお兄さんは『それなら、おれは太夫や』と言ってなった。昔は村長より太夫の方が敬意を払われたんです」。今はそこまでではないとはいえ、4流派のトップの太夫が襲名披露する時は町長と町の教育長が出席するそうだ。
同町の浄瑠璃の隆盛は、文化年間(1804〜18年)に始まるという。能勢の医師が大阪で竹本弥太夫に師事。帰ってくると、竹本文太夫を名乗り、弟子をとった。その後、2人が大阪で修業し、帰郷後に竹本井筒太夫、竹本中美太夫を名乗った。そして2001年、新たに東寿(とうじゅ)太夫が生まれた。現在、4流派に計約200人の太夫がいる。
能勢で浄瑠璃が愛好され続けた背景に、「おやじ制」と「建碑」の風習があるという。「おやじ制」はおやじ(各流派のトップの太夫)に弟子の養成を課すもの。「建碑」はおやじの顕彰碑を弟子たちが建てる風習で、おやじの権威を高めた。顕彰碑は三味線の師匠の碑も含めると、町内に100基ほどあるとされる。
自身が41代目井筒太夫だった森本会長に、シアターから車で5分ほどの所に立つ碑まで案内してもらった。着くと、民家の脇に碑が2つ。外観はお墓にそっくり。28代目竹本井筒太夫、40代目竹本井筒太夫の文字が彫られ、台座に建立当時の井筒太夫派の幹部らの名前が刻まれている。流派の人々の結びつきの強さを示す話として、「井筒太夫派で、おやじの葬儀の焼香順は、その家の子どもに続いて直弟子。親類よりも先です」と森本会長が言った。
町内を巡ると民家は山際に立っていることが多い。平たい場所を田畑にした結果らしく、昔は浄瑠璃が農閑期の数少ない娯楽だったのだろう。各流派が競って愛好者の獲得を図ろうとして、興味のない人を取り込む後継者育成の独特の風習を生んだ。そして太夫はあこがれの対象になり、浄瑠璃は地域に深く根差した。能勢町で浄瑠璃が今も盛んなのは、ここでは住民の生活と共にある芸能だからだ。
(編集委員 小橋弘之)
468
:
名無しさん
:2009/07/05(日) 10:46:48
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20090704ddlk27040414000c.html
星愛七夕まつり:茅の輪くぐりで願い成就−−大阪天満宮 /大阪
「七夕の夜に願いの成就を」と、大阪市北区の大阪天満宮で7日、「星愛(ほしあい)七夕まつり」が開かれる。境内では午後5〜9時、「七つの茅(ち)の輪くぐり」ができる。
祭りは、大阪天満宮と、天神橋筋商店連合会(土居年樹会長)が開催し、今年で14回目。「茅の輪くぐり」は、直径約3メートルの「大茅の輪」と六つある直径約2メートルの「茅の輪」の中を、願い事を書いた短冊を持ってくぐると、願いがかなうといわれている。
同日午後4〜5時には、市立扇町総合高校吹奏楽部員の演奏で、天神祭のPRなどをしている「天神天満花娘」らが天神橋筋商店街をパレードする。
また、天神橋1〜3丁目商店街では7日まで、「星愛七夕セール」を開催中で、天神祭の船渡御と天満天神繁昌亭の入場券などが買い物をすると抽選で当たる。【堀田恵昭】
469
:
名無しさん
:2009/07/05(日) 12:14:21
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090705/20090705024.html
戦前の面影を今に 地図などで西区・新町を再現
2009年7月5日
江戸幕府公認だった一大花街や、機械金属・材木のまちとして知られる大阪市西区・新町一帯の戦前の姿を地図などで再現する計画が、地元の特定非営利活動法人によってこのほど始動した。戦災や法施行で姿を変えた新町の面影を今に伝えようと関係者が期待を寄せている。
計画したのは地域の歴史研究などに取り組む「なにわ堀江1500」(同区、水知(みっとも)悠之介代表理事)。昨年、市立中央図書館(同区)で、新町の南の堀江地区をテーマにした「なつかしの昭和・堀江展」を主催し、今回は継続事業として年末の展示会開催を目指す。
同展では11日間に地元の市立堀江小児童や新旧の堀江住民ら約4千人が来場。会期延長の要望など大きな反響を呼んだ。このうち「同じ堀江小学校区の新町も取り上げてほしい」との声が寄せられたことから計画が立ち上げられた。
展示のメーンとなる戦前地図は、地元の西六(さいろく)連合振興町会が1986年に同連合30周年記念として制作した昭和10〜15年の復元地図をベースに活用。東側の花街をはじめ、明治以降、継ぎ手やバルブなどの業者が集中し“機械金属のメッカ”と呼ばれた西側と、まちのなりわいが一目で分かるように業種別の色分けを施す。
もう一つのメーンは、前回、戦前の堀江のまち並みを立体的に再現し、話題となった縮尺千分の1のジオラマ(情景模型)。制作には前作と同じ宝塚造形芸術大学の学生がボランティアで参加する。前作の検証や必要資料の手配などを経て、9月から本格的な作業に着手。会場には新町と堀江のジオラマが並ぶ予定だ。
代表理事の水知さんは「白紙から始まった『堀江展』に比べて、今回は基本ラインが整っており、その分、いかに中身を充実させるかが課題」と、無数の関連資料を精査中。
「大阪のアイデンティティーは、住み、働き、楽しむというなりわいで形成され、新町や堀江は象徴的な土地といえる。一過性のイベントではなく、戦争などで断絶した地域の歴史を掘り起こし、人々に水都・大阪ならではの心のふるさとを共感してもらえたら」と成功に向けて意気込みを語った。
同法人では、古写真など展示可能な資料提供の協力を呼び掛けている。問い合わせは電話06(6533)1550、同法人へ。
470
:
名無しさん
:2009/07/05(日) 12:15:16
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090705/20090705027.html
「七月大歌舞伎」公演 松竹座できょうから
2009年7月5日
大阪市中央区道頓堀の松竹座「七月大歌舞伎」公演が5日から開幕する。演目はシェークスピアの原作を歌舞伎にした蜷川幸雄演出の「NINAGAWA 十二夜」の通しで、尾上菊之助さん(31)が三役早変わりで演じる。4日午後、体調を崩して1週間入院していた蜷川さん(73)が全快して大阪入り、通しげいこを行った。「大いに笑って楽しんでもらえる芝居」と菊之助さんと並んで大阪初上演の抱負を語った。
「2005年に蜷川さんに演出をお願いして誕生した芝居。今年3月のロンドン公演で好評をいただき、また進化できた。蜷川演劇の美しさと歌舞伎の様式美を合わせた内容で、歌舞伎ファンだけでなく幅広い方に楽しんでもらえると思う」と菊之助さん。
「体はもう大丈夫。大阪は道頓堀の朝日座で芝居をして、それをヨーロッパに持っていった経験があり、芝居の街の印象。松竹座は“人間サイズ”の劇場なので、堅苦しくなくリラックスして見ていただきたい」と蜷川さん。
ほかに尾上菊五郎、市川段四郎、市川左團次さんら多数が共演。27日まで。
471
:
名無しさん
:2009/07/06(月) 08:45:23
昨日天満の天神さんへ行ってきました。
天神さんでは天神祭の花火奉納がありました。
一発5000円だそうです。
自分の花火を揚げていただけるとは思わなかったので思わず奉納してしまいました。
でも天神さんへ行った人しかこういうのがあるとは判らないってもったいないですね。
472
:
名無しさん
:2009/07/06(月) 11:38:53
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090706-OYT8T00060.htm
☆あす交野で七夕まつり☆
七夕の7日、七夕にまつわる伝承や史跡が残る交野市の私市(きさいち)地区で、「天の川七夕まつり2009」などが行われる。
同市には織姫をまつる機物神社や、彦(ひこ)星と織姫が出会うとされる逢合橋などがあり、「七夕伝説のまち」として知られる。
まつりでは、天野川に竹灯籠(どうろう)いかだ約20基を浮かべるほか、川辺に約5000個の和紙灯籠、川沿いの遊歩道約1・5キロに笹(ささ)飾りとともに約1000基の竹灯籠をそれぞれ並べ、午後7時20分からの点火式で一斉に点灯する。
まつりに先立ち、レクリエーション施設「星の里いわふね」前の天野川に、織姫と彦星の人形などを渡した。まつり当日は天野川水辺プラザで野外ミュージカルが上演され、市民らによる屋台の出店もある。京阪私市駅では、「おりひめ」と「ひこぼし」のヘッドマークをつけた電車が午後5時41分、6時21分、7時1分の3回、駅構内で約5分間並んで停車し、七夕ムードを演出する。
問い合わせは、市星のまち観光協会事務局(072・891・9955)。
(2009年7月6日 読売新聞)
473
:
名無しさん
:2009/07/06(月) 11:45:32
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090706/20090706032.html
なにわの伝統野菜 玉造稲荷神社に奉納
2009年7月6日
大阪市中央区玉造産のなにわの伝統野菜「玉造黒門越瓜(しろうり)」の収穫が2日、玉造稲荷(いなり)神社(鈴木一男宮司、玉造2丁目)の境内で行われた。新鮮な瓜(うり)が、鈴木一男宮司らの手によって本殿に奉納された。収穫された約100個の瓜は、15日に同神社で行われる「玉造黒門越瓜食味祭」で来場者に振る舞われる。
玉造黒門越瓜は、江戸時代の玉造地区で栽培。同地区にあった大坂城の玉造門(現在の玉造1丁目)が黒い門だったのにちなみ、名付けられた。水分が多く、果肉の厚さが特徴。夏ばてや食あたりなどに効果があるとされる。
しかし、明治期の近代化で生産者らが激減し、生産が止まった。鈴木宮司らの尽力で2003年に復活。同神社の境内を中心に栽培されている。
現在は、瓜の種を区内の小学校や幼稚園などに配布。同神社の鈴木伸廣禰宜(ねぎ)は「育てる難しさを理解させながら、旬や四季などの自然を感じてもらえれば」と思いを語る。また、瓜の品質を維持するために、勝手な品種改良は断っている。
同区役所では、5月中旬に、2階のテラスに畑を作って栽培を開始。区民の食生活を考える中央区食生活改善推進員協議会(伊坂芳枝会長、久太郎町1丁目)が、新たな瓜料理を考案するなど、区内に広まっている。
鈴木伸廣禰宜は「100年以上前に一度は姿を消した越瓜。次世代の100年は確実に残るようにしていく」と力を込めた。
15日の同祭では、同神社や同会のメンバーらが瓜を「しろうり荒おろしソーメン」「オリーブオイル焼き」などに調理し、約900人分を用意する。午後6時開始。
474
:
名無しさん
:2009/07/06(月) 14:26:24
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/090706/osk0907061243006-n1.htm
デザイン公募で乱立する「たいしくん」統一へ 大阪・太子町
2009.7.6 12:12
聖徳太子ゆかりのまちとして知られる大阪府太子町が町のマスコットキャラクター「たいしくん」の公式デザイン案の募集を始めた。たいしくんは、町の観光パンフレットやホームページ(HP)、交通安全看板などに登場しているが、公式デザインがないため、使用されるたび、表情や姿が微妙に違ったデザインが乱立。6種類程度はあるとみられ、「どれが本物?」と戸惑う住民もいる。町は統一したデザインを決め、ひこにゃんやせんとくん並みの人気キャラに育てたいという。
たいしくんは平成4年、町発行の観光イラストマップで、聖徳太子御廟など名所の案内人としてデビューした。旧1万円札でなじみが深い聖徳太子像がモデルとされている。
11年には町内の通学路の交通安全看板のデザインに採用され、現在は35カ所に設置されている。また、14年に町のHPと職員の名札に、18年には観光パンフレット、19年にリニューアルした町のHPにも登場している。
しかし、「当初は自治体の公式マスコットという発想がなかった」(町政策室の担当者)ため、担当部署や委託業者がその都度、独自にたいしくんをデザイン。全体的な雰囲気は似ているものの、顔つきや体つきが異なるたいしくんが乱立する事態となった。
また、初代たいしくんのデザインの著作権を委託業者側が持っているため、地元の民間企業などが自由に使えないという問題も浮上している。
このため、町は新たに公式デザインを募り、奈良県のせんとくんや滋賀県彦根市のひこにゃんなどのように、まちおこしの起爆剤にしたいと腰を上げることになった。すでに、地元商工会や企業などが町と協力し、携帯電話ストラップなどのグッズ開発を検討中で、着ぐるみも作る予定。町政策室は「奈良とは歴史的にかかわりが深い。せんとくんとの競演も果たしたい」と話している。
475
:
名無しさん
:2009/07/07(火) 11:18:39
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/090707/osk0907071050003-n1.htm
【福澤諭吉展特集】大坂生まれ、適塾育ちの啓蒙家」《大阪展》8月4日〜9月6日 大阪市立美術館
2009.7.7 10:39
【川村清雄 福沢諭吉肖像】晩年の姿をよく伝えている。制作は長期にわたり、最後は諭吉が没したため、未完成に終わったという(慶応義塾蔵) 日本の近代化に多大な貢献をした福澤諭吉(1835−1901)の活動を振り返り、現代的意義を探る「未来をひらく福澤諭吉展」大阪展が8月4日から9月6日まで、大阪・天王寺公園内の大阪市立美術館で開かれる。諭吉は大坂(現・大阪)の堂島玉江橋北詰で生まれ、緒方洪庵が北浜に開いた適塾で蘭学を学んだ。「異端」と「先導」の創造性に満ちた思想と生涯を、今日の社会情勢に合わせて考え、ゆかりの品々や、福沢門下の経済人所有の美術品を体系的に鑑賞できる。大阪展では特に、阪急を創立した小林一三(号は逸翁)のコレクションが注目される。(対馬好一)
476
:
名無しさん
:2009/07/07(火) 11:32:32
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090707/20090707030.html
“笑い”で地域貢献 素人寄席、天満天神の会
2009年7月7日
上方落語の定席小屋・天満天神繁昌亭(大阪市北区)の落語家入門講座を受講し、桂三枝・上方落語協会長から芸名を名付けられた修了者でつくる市民団体「素人寄席 天満天神の会」(天神亭ひれ克=本名、斎木克人理事長)が、60代を中心にした団塊世代の底力で、“笑い”を通した地域貢献に尽力している。自身の生きがいにもつなげながら、目指すは落語のすそ野拡大だ。
繁昌亭の客席の最前列に陣取る浴衣姿の一団。「おっしゃれや、おっしゃらなあきまへんで」。一斉に落語の一場面を展開する。
落語家、桂米輔さんの手本に続いて全員で取り組む一斉練習。一人一人が舞台に上がって指導を仰ぐ時間も。月2回、定例的に開かれる落語家入門講座の一幕だ。
講座は、2007年から半年で1期のペースで始まり、言葉の抑揚やアクセントなど、プロならではの指導を市民らが受けられる。
その中で「いったんついてしまった落語への思いはそう簡単に消えるものではない」と1、2期生の有志が会を設立。08年9月に立ち上げ、メンバーは今も上級コースで芸を磨き続けている。
講座修了者は、三枝会長から「天満家」「天神亭」を冠した芸名を名付けられており、メンバーも「がんを克服して」との思いが込められた「こく福」や、消防士の職業をもじった「笑華(しょうか)」など、個性豊かな名前を称している。
会員数は30人を超え、これまで30回以上の出前高座を展開。非営利で行い、高齢者施設や各地のイベントなどで“笑い”を提供するとともに、メンバーにとっても発表の場がやりがいにつながっているという。
「ぼけ防止ですわ」と斎木理事長(71)は笑顔をみせるが、「上方落語のサポーターとして地域に広めていければ」との思いは強い。
一方で6月には、大阪市中央区のワッハ上方で初めて自主公演を実施。約270人が詰め掛け、14人のはなし家がはつらつとした話芸を披露した。
長期的には「ブームに左右されない落語文化の定着」の支援にも意欲的で、天満家哲ちり(本名・村木哲男)副理事長(58)は、将来を担う「子供たちにも魅力を伝えていきたい」と力を込める。
出前高座などの問い合わせはメールアドレスtenmatenjin@gmail.comへ。
477
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/07/07(火) 23:03:40
文芸春秋6月号のコーナー 「枕頭の歴史書」 で、歌舞伎役者の中村富十郎氏が、
谷川健一著 『四天王子の鷹』 を紹介されている。
同氏名跡の屋号 「天王寺屋」 のルーツ探しから、この書に出会われたと。
太子伝説の一つ、排仏派の物部氏の霊を四天王寺から追い払う白鷹 (太子の化身) から当時の状況 (物部氏・泰氏) を追求。
同氏は、この伝説に範をとった新作オペラの構想で締めくくる :
私はいま、この四天王寺の白鷹伝説を音楽劇に仕立てたいと考え、谷川先生ともご相談し、毎晩、
『四天王寺の鷹』を読んで案を練っています。白鷹は鷹之資で、私は僧侶を演じようか、とか、
バックはフル・オーケストラで、ラスト・シーンにはマーラーの交響曲四番、また四天王寺の声明
や雅楽を使おうなどと構想は広がるばかりです。
構想はどこまで実現したのでしょうか? 詳しい方、教えてください。
私としては、オペラのこけら落しは、四天王寺境内で上演してほしい・・・・
478
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/07/07(火) 23:44:50
今、ネットで調べたら日経ですでに報道されていました :
<発想!動く>四天王寺の伝承、音楽劇に──歌舞伎俳優・中村富十郎さん
日経ネット関西2009/01/22配信
聖徳太子ゆかりの大阪・四天王寺。何か異変があるとき、寺に白鷹(たか)が現れるという伝承がある。文化功労者・谷川健一の著書を下敷きに、そのいわれを音楽劇に仕立てようと構想中だ。日本の伝統芸能の要素を借りつつ、管弦はオーケストラが奏でる。「『和をもって貴しとなす』にあやかり、東西の芸術が共存するような舞台にしたい」。2010年春、奉納公演として開く。
すでに台本は演出も兼ねる寺崎裕則に、美術は朝倉摂に打診した。「音楽は池辺晋一郎さん。マーラーの交響曲第4番の第4楽章を使ってもらうつもり」。人選ほかが先行して決まっている一方、「能の形式にしたい」「狂言の力も借りては」と細部については議論が白熱している。
発端は「天王寺屋」のルーツ探しという。「中村富十郎家の屋号が『天王寺屋』。そのいわれについて、演劇史や民俗学などいろいろな文献を当たったが、わからない。三十数年間、探しあぐねてあきらめかけていた矢先に、谷川健一さんの『四天王寺の鷹』と出合った」
6世紀末に敗死した豪族・物部守屋の霊がキツツキとなり、四天王寺の堂塔をさいなむと、白い鷹が現れるという。鷹は太子の化身といわれ、寺の金堂東側には、鷹を迎えるための止まり木が実際にある。仏教に反対し、権力の座を追われ、うらみを抱えて死んだ物部守屋。その執念深い霊を、寺は邪険に扱ってこなかった。それどころか、境内には守屋をまつる祠(ほこら)さえ残っている。
「谷川さんはこの伝承にまつわる古代史ロマンを、博学卓識の茂みから読み解いていく。奇遇にも、中村富十郎家の家紋は鷹の羽八ツ矢車。このプライドの高い鳥には親近感と敬意を抱いてきた」
四天王寺と白鷹の伝承。片や、天王寺屋の屋号と鷹の羽の家紋。「何と劇的な巡り合わせか。伝承を舞台化することが、自分の宿命なのではと打たれた」。70歳で授かった長男の大にも鷹之資(たかのすけ)と舞台名をつけた。鷹之資にも少年時代の聖徳太子を演じさせる。
中之島の大阪国際会議場で、来年4月3日に上演する。四天王寺は舞楽と声明などで応援。慶応出身で同窓の椎名武雄日本IBM相談役も、ひと肌脱いでくれる見通しという。
(大阪・文化担当 岡松卓也)
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news004619.html
479
:
名無しさん
:2009/07/08(水) 15:22:17
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090708/20090708030.html
「茅の輪」くぐり短冊に願い込め 星愛七夕まつり
2009年7月8日
大阪市北区の大阪天満宮(寺井種伯宮司)で7日、七夕恒例の「星愛七夕まつり」が開かれた。「恋愛成就」や「家内安全」などを願うカップルや家族連れらが訪れ、「茅の輪」をくぐるなどして祈りを込めた。
同宮で開かれる神事「天満天神七夕祭」に花を添える祭りとして親しまれている。
まつりでは七夕パレードとして、午後4時10分すぎに天神橋筋商店街から大阪天満宮に向けて、天神天満花娘らを先頭ににぎやかにスタート。引き続き大阪天満宮境内の特設ステージでは、今年の同商店街の顔として活躍する同花娘のお披露目や、市立扇町総合高吹奏楽部の演奏などが行われた。
このほか境内では、参拝者が「学徳向上」「家内安全」などの文字が掲げられた七つの茅の輪をくぐり抜け、身を清めた。また、願い事を書いた短冊を境内に設置されたササ飾りに結ぶ姿が見られた。
480
:
名無しさん
:2009/07/08(水) 15:23:01
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090708/20090708032.html
山伏ら100人が読経 箕面の寺で和楽器供養
2009年7月8日
三味線や琴など和楽器の供養法会が7日、大阪府箕面市の瀧安寺で開かれた。ほら貝を手にした山伏ら約100人が読経し、楽器に込められた使い手の思いを供養した。
大阪邦楽器商組合(田中靖夫組合長)が昨年から取り組む行事。
同組合は「楽器は、職人の生活の糧になるとともに、使う人にとっては体の一部。ただの廃品として扱うのは心苦しい」と供養の方法を模索していたところ、関西の和楽器メーカーが昭和期に弁天像を建立していた瀧安寺で、住職が理解を示し法会が実現した。
法会は、瀧安寺に山伏が集まる大護摩法要の日に合わせて実施。山伏は、ほら貝で始まりの合図を告げると、楽器としての役目を果たした三味線11丁、琴19面などを前に、般若心経を中心に読経。導師が印を結んで加持し、使い手の思いを楽器から抜く儀式を執り行った。
田中組合長(69)は「楽器に感謝の思いを込めて供養させてもらった」と話し、「業界全体が沈滞する中、行事を通して活気につながれば」と思いを込めていた。
481
:
名無しさん
:2009/07/08(水) 16:08:32
四天王寺の鷹ですが、その物部守屋の子孫の方が
四天王寺に代々勤め、守屋の慰霊を弔ってきていた事は
あまり知られてはいませんね。千数百年続く慰霊。
まさに生きた歴史だと想います。
482
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/07/08(水) 19:47:05
>>481
かなりお詳しいですね。「千数百年続く慰霊」の祭祀はないのですか。
でも、排仏派まで境内に祀る四天王寺の寛容さ。
まさに「和をもって尊としとする」太子の精神が流れてますね。
新作の歌舞伎オペラで、もっと知れられるようになればと思います。
483
:
名無しさん
:2009/07/08(水) 20:10:59
といいつつ、大阪を叩いてる案山子↓
447 :4丁目の案山子 ◆K9Pr1/RLpU:2009/07/01(水) 00:15:09
「大阪」 由来の町名が京都各所に散らばっている事実は、
京 都 が 体 内 に 「 大 阪 」 を 包 み 込 ん で い る、ように見えないだろうか?
あたかも、母 親 が 子 供 を 子 宮 に 引 き 戻 そ う と す る 願 望 を持つように。
「花街の母」 は、その放蕩息子の帰還を祈って、「あほぼん」 の名を各所に刻み、
血縁の記憶を温めていたのだ。
(寸評)
案山子は、大阪=放蕩息子=あほぼん、と言っている。つまり、案山子は大阪を貶している。
これで、案山子の反京都・反大阪が一層明らかになった。
案山子は、またまた自爆した。
484
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/07/08(水) 21:11:07
太子の寛容の精神は今も日本の精神構造を象っています。
四天王寺は病人に無料で薬を与えた慈悲深い寺。
応仁の乱のとき、「みやこ」からの難民を受け入れました。
しかし、その 「お恵み」 目当てに低級な連中も列なしてやってきた。
大阪の悲劇ですね。
大阪百科も慈悲と恩恵の精神のため、寄生虫にたかられてます。
太子が見たら、どう思うでしょうか?
485
:
名無しさん
:2009/07/08(水) 22:36:35
大阪人なら誰でも知っているような内容を、驚くような間違いをしでかし(自爆w)
大阪人じゃない事がバレた、4丁目の案山子。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
「関空に一番近い政令市は和歌山市ですよ」
「JR西は京都行きを優先し、和歌山への快速いまだにありません。」
そして、あせってしまったのか、思わず本音がポロリと・・・。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
447 :4丁目の案山子 ◆K9Pr1/RLpU:2009/07/01(水) 00:15:09
「大阪」 由来の町名が京都各所に散らばっている事実は、
京 都 が 体 内 に 「 大 阪 」 を 包 み 込 ん で い る、ように見えないだろうか?
あたかも、母 親 が 子 供 を 子 宮 に 引 き 戻 そ う と す る 願 望 を持つように。
「花街の母」 は、その放蕩息子の帰還を祈って、「あほぼん」 の名を各所に刻み、
血縁の記憶を温めていたのだ。
大阪=放蕩息子=あほぼん だってさ。
486
:
よっさん
:2009/07/09(木) 21:21:47
いい加減、4丁目の案山子さんの間違いを執拗に取り上げるのは止めにしませんか。
誰にでも間違いはあるでしょうよ。
それに4丁目の案山子さんはコテハンで意見を書いているのに、批判する側が名無しではアンフェアというものです。
自分が書く事に自信を持ち、4丁目の案山子さんへの批判を書きたいのならば、しっかりとコテハンで書くべきです。
そうしないのであれば、どんなに良い意見を書いたとしても意味を持たなくなりますよ。
487
:
よっさん
:2009/07/09(木) 21:38:40
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090709/20090709041.html
「天神祭」を生中継 テレビ大阪が特番制作発表
2009年7月9日
天神祭を生中継するテレビ大阪の特別番組「2009生中継!天神祭〜日本を変えてきたのは大阪人の熱やねん!!〜」(25日午後6時59分〜同8時54分)の制作発表が8日、大阪市北区の天満宮会館で行われ、司会を務めるお笑いタレントの西川きよしさんや漫才コンビ、ハイヒールが意気込みを語った。
今年は1000年以上の歴史を誇る祭りを支えてきた「大阪人の熱き魂」をテーマに、取材船「デジタル7ちゃん丸」や花火打ち上げポイント、天満宮参道など6カ所から中継し、テレビ大阪の屋上特設スタジオから生放送。
同祭の歴史や文化を分かりやすく知ってもらうため、生放送中にクイズを織り込むほか、ハイテクになった花火の打ち上げ作業などにも迫るという。
西川さんは「天神祭があってよかった、大阪は元気だと他府県のいいモデルになれるよう祭りを盛り上げたい」と誓っていた。ほか、ロザン、たむらけんじさん、三田村邦彦さん、鈴木杏樹さんらが出演する。
>ほか、ロザン
ロザンは、私から言わせて貰うのならば、どの面下げて大阪の放送局が放送する大阪の誇る由緒正しいお祭りの特番に出るつもりなのだろうか。
http://www.tbs.co.jp/radio/gaku-s/
ロザンが出演している番組です。
およそ1年前、ロザンの宇治原は番組内でこのような事を話した事を私は忘れない。その発言の馬鹿馬鹿しさゆえに。
「東京の放送局は凄いよな。番組の打ち上げで有名ホテルのケータリングの御馳走が出るんだもん。
大阪の放送局はねぇ・・・、そういう事はないよな(ここの部分、バカにした口調で話す)。」
電波に乗せて馬鹿にした大阪の放送局によく出演出来るものです。恥ずかしくないのでしょうか。普通の感覚なら、とても出演してギャラを貰う事など出来ませんよ。
ロザンの二人は、この特番が終わったあとの打ち上げには参加しないのでしょうね。
何しろ大阪の放送局の打ち上げは大した事がないと言っているのですから。
大した事が無い打ち上げに参加するほどにロザンも暇ではないでしょうし。何しろ売れっ子ですからねぇ。
それに己の発言に自信を持ち責任を持つならば、例え大先輩の西川きよし師匠から「参加しないのか」と言われても自信をもって「大阪の放送局の打ち上げは大した事がないので参加しません」と言えるはずでしょうし。
488
:
よっさん
:2009/07/09(木) 21:58:11
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK200907090089.html
桂文珍「伝説」に挑戦 8月8日に恒例の独演会
毎年8月8日に開かれ、笑いの夏の風物詩となっている、大阪・なんばグランド花月での桂文珍独演会が今年も開かれる。今回で27回目。東京落語でおなじみの「そこつ長屋」など、あまり手がけてこなかった三つの演目をそろえており、今後の方向性を占う場ともなりそうだ。
ほかの2席は「風呂敷」「天王寺詣(まい)り」。そこつ長屋は柳家小さん、風呂敷は古今亭志ん生と、伝説的な東京の名人が十八番としていた噺(はなし)だ。「あまりにも素晴らしかったので、(東京の)若い人たちはなかなかできなくなっている。上方人にはチャンス。今、上手にやれば次の世代にこのネタが残っていくはずです」と語る。公演中の2度目の47都道府県ツアーの締めくくりとして来年4月に東京・国立劇場で10日連続独演会が決まり、その演目としても有力なネタだ。
一方、天王寺詣りは師匠の桂文枝が得意としていた一席。愛犬を亡くした男の「ペットロスの噺」と解釈しての演出を見せるという。特別ゲストとして出演する東京落語の柳亭市馬は「片棒」、前座は楽珍が務める。文珍は「景気の悪い中ですが、財布と心を同時に開いて、大いに楽しんでもらいたい」と話す。
午後7時半、4500円。チケットよしもと(0570・036・912)。(篠塚健一)
489
:
よっさん
:2009/07/09(木) 22:52:10
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20090709ddlk27070460000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/127 愛染まつり 大阪市天王寺区 /大阪
◇夏を告げる「宝恵駕籠」 日本最古とも伝えられ−−愛染堂勝鬘院
生国魂(いくくにたま)神社は芸能と縁が深い。毎年9月には上方落語家が総出で「彦八まつり」が行われている。
米沢彦八は上方落語の祖とされ、江戸時代中ごろ、生玉さんの境内で軽口噺(はなし)や、役者のものまねをする「しかた物真似」を演じていた。米沢彦八の功績を顕彰するため、90年に上方落語協会が「彦八の碑」を建立し、翌年から「彦八まつり」を開催している。
上方落語には、生玉さんを舞台にした「蛸(たこ)坊主」という噺がある。生玉さんの東門前の蓮池近くにあった茶店が舞台。4人の旅僧が「精進料理を食わしてもらいたい」とやって来る。食べ終わってから、旅僧は「だしは何から取った」と主人に聞く。カツオだしと聞いて「精進の身にけしからん」と気色ばみ、居座ってしまう。修行僧とはいえ、やからだ。
そこへ、粗末な身なりの坊さんが収めに入るが、4人は言うことを聞かない。坊さん、「蛸坊主めが!」とののしり、4人を蓮池に放り込む。「犬神家の一族」よろしく、池の中に逆さまに突き立った8本の足が並び、「それ、蛸坊主じゃ」−−。
前回、紹介した大阪薪能は8月11、12日開催。今月11、12日には「いくたま夏祭」がある。
◇
夏祭りの季節が始まった。生玉さんの南にある愛染堂勝鬘院(あいぜんどうしょうまんいん)の「愛染まつり」が、6月30日から7月2日にかけて行われた。30日に宝恵駕籠(ほえかご)行列があると聞いて愛染堂へ行ってみたら、運良く遭遇した。
近鉄大阪上本町駅から、3台のかごが練り歩いて来た。浴衣姿の12人の愛染娘と若い衆の掛け声が面白い。「愛染さんじゃ」「ほ〜え〜か〜ご」「べっぴんさんじゃ」「ほ〜え〜か〜ご」「商売繁盛」「ほ〜え〜か〜ご」。愛染娘と若い衆が交互に声を掛ける。男は「ほ〜え〜か〜ご」と決まっている。「べっぴんさんじゃ」が可愛い。「女の祭」を感じさせる。
愛染堂に着くと、国の重要文化財に指定されている多宝塔前で「駕籠上げ」だ。おっさんカメラマンたちが放列を作って待ち構える中、愛染娘が1人ずつ、かごに乗り、若い衆に担ぎ上げられ1回転する。激しく揺すられるので、愛染娘は振り落とされまいとかごにしがみつきながらも、見物客に手を振って愛敬を振りまく。
大阪の夏祭りは、この愛染まつりから始まって、住吉大社の祭で締めくくられるから、「あい(愛)すみ(住)ません」のシャレ言葉があるそうだ。聖徳太子が始めた日本最古の夏祭りとも伝えられる。
「べっぴんさんじゃ」の掛け声について、山岡武明住職(35)と奥田聖応前住職(70)に尋ねると、「少なくとも昭和一ケタから、この掛け声です。芸者さんたちが『きれいになりたい』とお参りにこられることも多いし」とのこと。愛染さんは縁結びの御利益があるとされ、川口松太郎の「愛染かつら」のモチーフにもなった。
江戸時代に始まった宝恵駕籠にはかつて、芸者さんが乗っていた。徳島の藍染め業者が主な信者で、そのだんな衆は大坂の色町で最も格が高かった新町で遊んでいたから、戦前までは新町の芸者。戦後は南地、昭和40年ごろからは今里新地と移り、ここ10年は愛染娘だけになったという。
そんな歴史を聞くと、駕籠上げはどうも、だんな衆がひいきの芸者を自慢する美人合戦ではなかったかと想像してしまう。【松井宏員】
490
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/07/10(金) 00:07:41
>>489
恥ずかしながらも、大阪市生まれにして、愛染まつりが日本最古の祭りということ初めて知りました。
芸者衆が主体の祭りなので、安土桃山期からのものと思っていました。
四天王寺との関連が潰えていたので・・・・・・
しかし、四天王寺で籠を揺る行事が復活したので、聖徳太子との関連が記憶
に新たにされますね。
愛染まつり:宝恵かごにかけ声 大阪・四天王寺別院
大阪に夏の到来を告げる「愛染(あいぜん)まつり」が30日、大阪市天王寺区の四天王寺別院・愛染堂勝鬘院(しょうまんいん)で始まった。浴衣姿の愛染娘が宝恵(ほえ)かごに乗って周辺を練り歩き、担ぎ手たちも「べっぴんさんじゃー」などと威勢のいいかけ声を響かせた。2日まで。
例年、近鉄百貨店阿倍野本店前を出発する行列は、同店が建て替え工事中のため、今年は近鉄大阪上本町駅前からスタートした。コースも変更し、約2キロの道中、約15年ぶりに立ち寄った四天王寺では、愛染娘が乗ったかごが高々と担ぎ上げられ、参拝客らが盛んな拍手を送っていた。【土本匡孝】
毎日新聞 2009年6月30日 20時04分(最終更新 6月30日 20時23分)
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090701k0000m040068000c.html
(四天王寺、ほえ籠で揺られる愛染娘の写真付)
愛染まつり(愛染祭り)HP
http://www.aizendo.com/musume.htm
491
:
よっさん
:2009/07/10(金) 10:38:18
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090710/20090710025.html
北新地に獅子舞、みこし 天神祭陸渡御復活へ巡行
2009年7月10日
天神祭が約40年ぶりに北新地に−。日本三大祭りの一つに数えられる天神祭。北新地がその陸渡御のコースから途絶えて久しい。そんな中、地元からの「北新地で陸渡御を」の声に応え、祭りを支える「講」のメンバーらが復活を目指して今年の天神祭を前に、みこしや獅子舞で北新地を巡行する。
陸渡御は天神祭の本宮にあたる25日に行われる。催太鼓を先頭に大阪天満宮を出発。総勢約3千人が、船渡御の乗船場のある天神橋までの約3キロを練り歩く。
かつては北新地もそのコースとなっていたが、御堂筋などの交通量の増加などもあり、安全面の問題からコースから外されるようになった。
しかし、地元には陸渡御に参加する講のメンバーもいる。以前から「行列は来ないのか」との声が寄せられていた。そこで、陸渡御に参加する天神講獅子と鳳講の二つの講が、北新地での陸渡御の復活への足掛かりにと巡行を企画した。
計画では23日午後8時過ぎから、大阪市北区のANAクラウンプラザホテル大阪付近をスタート。御堂筋を北上し、新地本通などを約1時間半かけて約150人が練り歩く。
北新地社交料飲協会の東司丘興一理事長代行は「北新地は300年の伝統を持つ花街。華やかな北新地を取り戻し、観光都市大阪を盛り上げたい」と意欲を見せる。天神講獅子の森本幸一・講元は「大阪の活性化につなげるとともに、天神祭の歴史を認識してもらい、次の世代に伝えていきたい」と話す。
492
:
名無しさん
:2009/07/10(金) 17:16:30
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090710-OYO1T00691.htm?from=main1
熟年<婚活>熱、寺や神社での「お見合い会」盛況
寺や神社が主催するお見合い会が、中高年でにぎわっている。経済的な不安などを背景に高年齢層の〈婚活〉熱が高まり、「安心して参加できそう」「真剣な人と出会えるのでは」という寺社のイメージから広がったらしい。ツアー回数を増やしたり、抽選で参加者を決めたりの盛況という。
大阪市西淀川区の西栄寺大阪本坊は昨年10月、出会いの場、「ほのぼの倶楽部」を考案した。山田博泰住職(68)が毎月開いていた講演会で、参加者から「出会いの場が少なく、寂しい」という声が上がったのが発端で、希望者は会員登録(無料)し、パーティー(同)やバスツアー(6000円程度)に参加する。半年で会員は274人になり、大半が50〜70歳代。
4月に有馬温泉へのバスツアー参加者を募ると、172人の希望者があり、急きょ4回に分けて実施。今月8日のツアーにも96人の参加があった。
4年前に離婚したという大阪市北区の会社員男性(65)は、一般の結婚相談所には抵抗感があり、「寺なら」と、参加。出会った女性(43)と近く婚約するといい、「生きがいを感じるようになりましたわ」と縁に感謝する。
山田住職は、「孤独な中高年が多いということなのでしょう。人と人をつなぐ手助けをしたい」と話す。
また、縁結びで知られる今戸神社(東京都台東区)でも、昨年10月から始めたお見合い企画「縁結び会」が人気。対象は20歳以上60歳未満だが、40歳以上の中年層が4割を占める。同神社は登録前の参拝を義務づけており、「真剣な相手を期待する人が多いのでは」とする。
参加費は良縁を祈願する祈祷(きとう)料を含めて6000円だが、会員数は半年間で約800人に上り、1日2部制にしたり、抽選したりで参加希望に応えている。
結婚情報サービス業界最大手「オーネット」(東京都品川区)によると、業界各社の競争で、7年前と比べて全体の会員数は約15%減少しているのに、40歳以上に限れば約50%増。広報担当者は「不況で経済的な不安が増し、1人より2人でより安定した生活を、と考える人が多いようです」。
日本青年館結婚相談所(東京都新宿区)でも、10年前にはほとんどいなかったイベントやパーティーの中高年参加者が、年間200人いる。板本洋子専門相談員は「団塊の世代が余生を過ごす時代になり、中高年の婚活は盛んです。お寺や神社の親しみやすさや精神性が、中高年に合っているのでは」と、活況の理由を分析した。
(2009年7月10日 読売新聞)
493
:
よっさん
:2009/07/11(土) 11:59:34
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090711-OYT8T00073.htm
鉾に最古の象眼
戦後消滅の百舌鳥大塚山古墳
世界遺産登録を目指す百舌鳥(もず)・古市古墳群にかつてあった百舌鳥大塚山古墳(堺市西区、5世紀前半)の副葬品のうち、鉄鉾(ほこ)1点から円形をした金の象眼(ぞうがん)【クリップ】が見つかり、最古の象眼文様と判明した。11、12の両日、名古屋大で開かれる日本文化財科学会の大会で発表される。百舌鳥大塚山古墳は戦後、開発によって消滅した古墳では国内最大。堺市博物館が所蔵する大量の副葬品の調査と保存処理は半世紀を経て今も続いており、今後も新たな発見が期待される。
全長168メートルの前方後円墳。百舌鳥古墳群で2番目に古く5番目の大きさだったが、1949〜52年に宅地化された。森浩一・同志社大名誉教授らは宅地化が進んでいた50年に緊急調査。出土した大量の鉄製品などの副葬品はコンテナ約100箱分に上り、市博物館が所蔵、2003年度から奈良大とともに調査と保存処理を進めている。
鉄鉾は被葬者の傍らに副葬されており、長さ約50センチ。さびて分離した破片4点(長さ6〜8センチ、幅1〜2・5センチ)に直径7〜8ミリの円形の文様が象眼され、内側に直径3・3ミリの銀製の鋲(びょう)が残っていた。鉾の両側の膨らんだ部分に鋲があり、破片2点はここから欠け落ちたらしい。
象眼文様としては、これまで国内最古とされてきた兵庫県・宮山古墳(5世紀後半)で出土した大刀の銀象眼を半世紀さかのぼる。また、古墳時代の象眼はほとんどが大刀で鉾は異例。象眼の合金比も金60%、銀40%と、通常の象眼より銀の比率が高いという。
調査した西山要一・奈良大教授(保存科学)は「特徴から中国製と推定でき、中国との交流を深めた倭の五王の時代にふさわしい重要な資料だ」と指摘。市博物館の樋口吉文主幹は「中期古墳の典型と言える重要な古墳だが不明な部分は多い。残された膨大な資料から、全容を明らかにしていきたい」と話している。
【クリップ】象眼 金属などに文様や文字を刻み、そこに別の材料をはめ込んだ工芸技法。古墳に副葬された鉄製品に見られる象眼は、たがねで線を刻み、糸状の金や銀をはめ込んでいる。
(2009年7月11日 読売新聞)
494
:
よっさん
:2009/07/11(土) 12:02:22
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090711/20090711046.html
猛練習終えいざ本番 いくたま夏祭りきょう開幕
2009年7月11日
大阪三大夏祭の一つに数えられる、大阪市天王寺区生玉町の生國魂神社(中山幸彦宮司)の「いくたま夏祭り」(11、12日)を前に、同祭に参加する「子ども獅子巡行」の最終合同練習が7〜9日の3日間、中央区瓦屋町2丁目の中央小(千坂佳克校長)で行われた。7日には約100人が参加し、笛や太鼓、踊りのけいこに汗を流した。
同祭は、祭りを通して大阪文化の継承と青少年の健全育成を目指す「夏祭り実行委員会」(原田壽幸委員長)が主催。隣接する中央区と天王寺区の氏子らによる、みこし、太鼓、獅子舞の勇壮な巡行が特徴で、「子ども獅子巡行」には、地域の子どもら約220人が参加する。
昨年までは笛や太鼓のけいこに、専門家による指導を取り入れていたが、今年からは自分たちの手で文化を伝承していこうと同会のメンバーが指導に当たっている。初日のけいこでは、事前に笛や太鼓のおはやしや踊りを学んだ児童らが、他の子どもらの前で手本を披露。初心者の参加者らは、児童らの太鼓や笛の音に合わせて踊り、練習場の中を練り歩いた。
8月末で大阪を離れる同小1年の三露蓮太郎ちゃん(6)は思い出づくりのために参加。「友達と参加するのが楽しい。みんなで踊りを楽しみたい」と笑みがこぼれた。同委員会の原田委員長(64)は「獅子巡行には総勢300人が参加し、他には無い規模になる。この文化を受け継ぐ子どもらが育っている」とけいこに励む児童らを見ながら話していた。
495
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/07/11(土) 15:54:50
>>491
>北新地がその陸渡御のコースから途絶えて久しい。そんな中、地元からの「北新地で陸渡御を」の声に応え、
>祭りを支える「講」のメンバーらが復活を目指して今年の天神祭を前に、みこしや獅子舞で北新地を巡行する。
またもや恥ずかしながら、天神祭りと北新地(曽根崎周辺)が関係あるとは知りませんでした。
天神祭りと言えば、天満橋から見下ろす船乗り巡航。「水」のイメージが濃い。
大川べり(通り抜けコース)で覗きカラクリが懐かしい。
愛染祭りもそうだけど、本来は宗教儀式だったものに、旦那衆−花街(曽根崎)の要素が加わったのでしょうね。
古代・平安時代は寺社、安土桃山期は実権を握る武将が中心で、
元禄あたりから、祭りを財政的にささえる主体が旦那衆になったからかな。
どなたか詳しい方いませんか?
496
:
よっさん
:2009/07/11(土) 18:02:14
http://www.sankei-kansai.com/2009/07/11/20090711-012225.php
輝きたい! ギャルみこし選考会に110人
大阪の天神祭を盛り上げる「ギャルみこし」(23日)の担ぎ手70人の選考会が11日、大阪市内で開かれ、16〜49歳の女性約110人がアピールした。
「わっしょい」の掛け声とともに重さ約70キロの米俵をつったてんびん棒を持ち上げる競技に挑戦。漫才やダンスで自己PRする参加者もいた。
高校2年の長女とセーラー服姿で挑んだ同市城東区の主婦(38)は、「本番では一番輝きたい!」と〝ギャル〟になりきっていた。
(2009年7月11日 15:58)
・・・「ギャルみこし」という名称を止めて「女みこし」とした方が良いと思うのは私だけでしょうか。
497
:
よっさん
:2009/07/11(土) 18:05:16
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20090711-OYT1T00620.htm?from=main6
天神祭「お迎え人形」、ロボットで復活
かつて天神祭の船渡御を大阪・堂島川下流でにぎやかに出迎える役を担ったものの、戦後多くが出番を失った「お迎え人形」が、25日の船渡御でロボットに姿を変えてよみがえる。
三菱重工業が開発したヒト型コミュニケーションロボット「ワカマル」を活用、船上で大阪大の学生らがプログラミングした「大阪締め」を披露する。約1000年の歴史を持つ天神祭に、今夏は最先端技術を集めた「科学の子」が花を添える。
お迎え人形の始まりは、人形浄瑠璃などの町人文化が華開いた江戸・元禄期のころ。当時の船渡御のコースは、現在とは反対に堂島川を下るコースだった。周辺の氏子らは御祭神の船を「お迎え船」で出迎え、人形はそのへさきに飾られた、という。
江戸後期には素戔嗚尊(すさのおのみこと)や八幡太郎義家など約50体あったが、戦後間もなく地盤沈下で橋が低くなり、下を船が通れなくなったことなどからコースも変わり、出番がなくなった。
ワカマルを研究などに活用している阪大の教授らが、こうした歴史を知り、「ワカマルを使って今様のお迎え人形を作ろう」と企画。
学生らは平安装束体験所(京都市)の指導で牛若丸風の衣装を作ったほか、船がすれ違う時に行われる大阪締めのプログラムを製作中。ワカマルは船渡御当日、阪大が運航する船に乗る。
今回の企画に携わった金水敏・阪大コミュニケーションデザイン・センター長は「ワカマルは眉(まゆ)が牛若丸に似ていることから名付けられた。何かの縁かもしれない。立派に演じさせ、祭りを盛り上げたい」と話している。
(2009年7月11日15時32分 読売新聞)
498
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/07/11(土) 18:06:40
>>496
上で書きましたが、祭りがそれぞれの時代に変遷したきたのはわかります。
でも、この「ギャルみこし」は抵抗ある。マスコミを意識してつくったみたいで。
賑やかなのはいいけど、祭りの本来の意味も見失わないようにしてほしい。
499
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/07/11(土) 18:36:38
考えたら、日本三大祭のうちでも天神祭りが一番古いのですよ。
新しいものを取り入れるのもいいけど、
学問との神として祀られた菅原道真の命日という起源も忘れないでほしい。
まあ、ロボットは学問と関係ありますが、阪大や市大なども祭りとジョイント
するような趣向もほしいものです。
500
:
名無しさん
:2009/07/11(土) 23:29:51
「ギャルみこし」というネーミングがどうも引っかかります。
個人的には、何故か風俗っぽさを連想してしまう・・・
もっと品のあるネーミングに出来ないものでしょうか。
501
:
よっさん
:2009/07/12(日) 13:43:33
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090712/20090712018.html
「いくたま夏祭」始まる きょう本宮
2009年7月12日
「いくたまさん」として親しまれている大阪市天王寺区生玉町の生國魂神社(中山幸彦宮司)で11日、「いくたま夏祭」が始まった。早朝から集まった氏子らは威勢よい掛け声とともに太鼓や鐘を打ち鳴らし、にぎやかに町を練り歩いた。12日まで。
大阪の三大夏祭りの一つで、本格的な夏を告げる祭りとして例年20万人が参拝。宵宮のこの日は午前10時半すぎに同神社から枕太鼓が宮出し、午後には本殿でおはらいを受けた氏子らが金銀2基のみこしや獅子舞でにぎやかに境内を出発した。
このうち「子ども獅子巡行」には約200人の子供が参加。事前の練習で身につけた踊りや鳴り物を披露し、氏地にあたる同区のほか、中央区内の旧東・南区エリアを巡行。夕方に宮入し、夜には境内で「お練り」と呼ばれる枕太鼓やみこしなどの引き回しが行われた。
12日の本宮には御羽車やみこしなどが、疫病退散、厄よけ開運を願って同神社から大阪城大手門前の元宮、本町橋の行宮を巡る陸渡御を実施。クライマックスには「お練り」が盛大に行われる。
502
:
よっさん
:2009/07/12(日) 13:44:20
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090712/20090712017.html
茅ノ輪の「青葦」 天満宮に奉納 近江八幡市から
2009年7月12日
天神祭(24、25日)で神職らがくぐる茅(ち)ノ輪の材料「青葦(あおよし)」を滋賀県近江八幡市から大阪天満宮へ奉納する「青葦奉納式」が11日、大阪市北区の同宮で執り行われた。
この日は、近江八幡和船観光協同組合の船頭らが午前中に近江八幡市内の水郷地帯で刈り取った高さ約3〜4メートルの青葦23束が奉納された。
同組合の福永文昭理事長代行は「今年は葦焼きがうまくできたこともあり、例年より太く長い、良いものを奉納できた」と話していた。
葦は水を浄化する作用があり、罪や汚れをはらうとされていることから、葦を使った茅ノ輪くぐりの神事が執り行われている。
奉納された青葦は天神祭にあたり同宮の表大門に設置する大茅ノ輪や、鉾流神事の茅ノ輪などに利用される。
503
:
よっさん
:2009/07/13(月) 18:56:48
・・・宝くじの発祥の地は大阪だったんですね。
http://www.sankei-kansai.com/2009/07/13/20090713-012266.php
2009年7月13日
祈りもジャンボ 宝くじ発祥の地、住職が祈祷
1等前後賞合わせて3億円が当たる「サマージャンボ宝くじ」が13日、全国で一斉に発売され、大阪・キタの大阪駅前第4ビル特設売り場では夢を見る多くの人で行列ができた。
この日は初めて、宝くじ発祥の地として知られる「箕面山瀧安寺」(大阪府箕面市)の住職らが特設売り場前で祈祷(きとう)を実施。5月のドリームジャンボが新型インフルエンザの影響で売り上げが落ち込んだことから、商売繁盛と疫病退散を祈った。
今回の当せん金額は1等2億円が39本、2等1億円が39本で億万長者が78人誕生する。このほか3等1千万円が390本、100万円の「夏祭り賞」が1万1700本。
家族で旅行に行きたいという兵庫県三田市の古見勝義さん(69)は、「政治も経済も混乱しているなか、売り場は活気にあふれていますね」と話していた。31日まで発売、抽選は8月11日。
504
:
名無しさん
:2009/07/13(月) 19:18:12
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090713/20090713041.html
渡御の列 華やかに 難波八阪神社夏祭り
2009年7月13日
「綱引(つなひき)神事」などで知られる大阪市浪速区元町の難波八阪神社(藤枝春紀宮司)で12日、恒例の夏祭りが始まった。同区などを流れる道頓堀川では同神社船渡御神事保存会による船渡御巡幸が盛大に執り行われ、奉安船などが連なる優美な渡御列が夜の川面を華やかに彩った。
同神社の船渡御は江戸期以降中断されていたが、2001年に氏子や地元企業の尽力で再興された。
神職や氏子衆ら約500人が、同神社の御神霊を乗せた奉安船など約20隻に分乗。湊町リバープレイスを出航した一行は日吉橋−日本橋間を往来し、どんどこ船が勇壮かねや太鼓を打ち鳴らす中、川岸などから渡御列を見送る市民らと大阪締めを交わしながら水上の祭りを大いに盛り上げた。
また、今夏に中之島公園をメーン会場に開かれる大型イベント「水都大阪2009」のPRを兼ねた小型のどんどこ船のお披露目も行われ、船体に施されたイベントロゴを観客にアピールした。祭りは14日まで行われ、13日には氏地を練り歩く陸渡御などが予定されている。
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よっさん
:2009/07/14(火) 19:26:22
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090714-OYT8T00055.htm
津堂城山古墳で墳丘調査
藤井寺市教委、形状の解明期待
世界遺産登録を目指す百舌鳥(もず)・古市古墳群で最初に築かれた大王墓である藤井寺市の国史跡・津堂城山古墳(4世紀後半)の調査を、同市教委が13日、始めた。8月末までに、後円部北側で墳丘の状態などを確かめる。墳丘の発掘調査は約1世紀ぶりで、大王墓が大和から河内で築かれるようになった鍵となる古墳の実態解明が期待される。
津堂城山古墳は、全長208メートルの前方後円墳。1912年、後円部の頂上部に長持(ながもち)形石棺を納めた竪穴式石室が確認され、宮内庁が頂上部のみを「陵墓参考地」指定。他の部分は58年、国史跡になった。
市教委によると、石棺の発見以降、83年に市教委が周濠(しゅうごう)部分を発掘したが、墳丘は未調査だった。後円部北側は墳丘が崩れており、陵墓参考地を囲むフェンスが倒壊しかねないため、盛り土工事をするのに伴って調査を行うことにした。
この日は作業員が調査地に生えた雑木を伐採し、今後、発掘調査や測量を進める。調査担当の上田睦・市教委文化財保護課主査は「中世、城に転用されたため、本来の墳丘の形はよくわかっていなかった。今回の調査で、同時期の巣山古墳(奈良県広陵町、全長約220メートル)などと比較できる資料が得られることを期待している」と話している。
(2009年7月14日 読売新聞)
506
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よっさん
:2009/07/14(火) 19:35:18
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090714/20090714029.html
だんじり、勇壮えい航 平野郷夏まつり
2009年7月14日
11日から始まった大阪市平野区平野宮町2丁目の杭全神社の「平野郷夏まつり」は13日、最大のクライマックス「宮入り」を前に9台のだんじりが平野郷内を練り歩いた。町中には「コンチキチン」と鳴る鐘や太鼓の音がこだましていた。
同祭りは大阪市内最大級のだんじり祭りとして知られ、約300年の歴史を持つ。毎年11−14の4日間、開催され、本格的な夏の到来を告げる催しとして、多くの地域住民に親しまれている。
同神社周辺の地域を各町それぞれの引き手らが意匠を凝らしただんじりをえい航。時折、大阪締めの声を響かせていた。その後、夕方から宮入りが行われ、だんじりが順番に同神社の「一の鳥居」をくぐって境内に駆け込んでいった。
507
:
よっさん
:2009/07/15(水) 19:09:20
http://www.asahi.com/kansai/sumai/news/OSK200907150060.html
落語:桂春蝶襲名披露 大阪・高津宮でお練り
三代目桂春蝶を襲名する桂春菜さん(34)の襲名披露のお練りが15日、高津宮(大阪市中央区)であり、8月30日の大阪松竹座から始まる襲名披露公演の成功を祈願した。
二代目春蝶は93年に亡くなった春菜さんの父の名跡。春菜さんは二代目が亡くなった翌年、父と同じ桂春団治さんに入門した。
この日は、大勢のファンらが見守る中、兄弟子の桂福団治さんらとともに鳥居から本殿までをお練り。本殿での成功祈願祭のあと、落語を奉納する。【濱田元子】
508
:
よっさん
:2009/07/15(水) 19:11:50
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090715/20090715029.html
御迎人形など150点展示 歴史博物館できょうから
2009年7月15日
15日から開催される大阪歴史博物館の特別展「大阪の祭り−描かれた祭り・写された祭り−」を前に14日、大阪市中央区の同館で報道関係者などを招いた内覧会が開かれた。府内各地の神社の祭礼の様子を描いた絵画をはじめ、かつて天神祭の船渡御を迎えるために出した船に乗せられていた御迎(おむかえ)人形など、約150点が展示されている。
同展では同館が所蔵する鳳神輿(おおとりみこし)、玉神輿の2基の神輿を中心に華麗な天神祭の船渡御の様子を描いた川口呉川作の「天神祭図」(1932年)をはじめ、岸和田市指定文化財で雨ごい祭りを描いた絵馬「雨乞祭礼図絵馬」(1868年、夜疑神社蔵)などが並ぶ。
このほか14体の御迎人形を市内6カ所で展示するスタンプラリー企画の一環として、「関羽」「鬼若丸」「与勘平」の3体の御迎人形が飾られている(29日からは「羽柴秀吉」も展示)。
同館展示担当の澤井浩一学芸員は「天神祭をはじめ、地元の身近な祭りも紹介しています。ぜひお越しください」と来館を呼び掛けている。8月31日まで。毎週火曜日休館。
509
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/07/16(木) 08:27:26
鉾に最古の象眼
戦後消滅の百舌鳥大塚山古墳
世界遺産登録を目指す百舌鳥(もず)・古市古墳群にかつてあった百舌鳥大塚山古墳(堺市西区、5世紀前半)の副葬品のうち、鉄鉾(ほこ)1点から円形をした金の象眼(ぞうがん)【クリップ】が見つかり、最古の象眼文様と判明した。11、12の両日、名古屋大で開かれる日本文化財科学会の大会で発表される。百舌鳥大塚山古墳は戦後、開発によって消滅した古墳では国内最大。堺市博物館が所蔵する大量の副葬品の調査と保存処理は半世紀を経て今も続いており、今後も新たな発見が期待される。
全長168メートルの前方後円墳。百舌鳥古墳群で2番目に古く5番目の大きさだったが、1949〜52年に宅地化された。森浩一・同志社大名誉教授らは宅地化が進んでいた50年に緊急調査。出土した大量の鉄製品などの副葬品はコンテナ約100箱分に上り、市博物館が所蔵、2003年度から奈良大とともに調査と保存処理を進めている。
鉄鉾は被葬者の傍らに副葬されており、長さ約50センチ。さびて分離した破片4点(長さ6〜8センチ、幅1〜2・5センチ)に直径7〜8ミリの円形の文様が象眼され、内側に直径3・3ミリの銀製の鋲(びょう)が残っていた。鉾の両側の膨らんだ部分に鋲があり、破片2点はここから欠け落ちたらしい。
象眼文様としては、これまで国内最古とされてきた兵庫県・宮山古墳(5世紀後半)で出土した大刀の銀象眼を半世紀さかのぼる。また、古墳時代の象眼はほとんどが大刀で鉾は異例。象眼の合金比も金60%、銀40%と、通常の象眼より銀の比率が高いという。
調査した西山要一・奈良大教授(保存科学)は「特徴から中国製と推定でき、中国との交流を深めた倭の五王の時代にふさわしい重要な資料だ」と指摘。市博物館の樋口吉文主幹は「中期古墳の典型と言える重要な古墳だが不明な部分は多い。残された膨大な資料から、全容を明らかにしていきたい」と話している。
【クリップ】象眼 金属などに文様や文字を刻み、そこに別の材料をはめ込んだ工芸技法。古墳に副葬された鉄製品に見られる象眼は、たがねで線を刻み、糸状の金や銀をはめ込んでいる。
(2009年7月11日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090711-OYT8T00073.htm?from=nwlb
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4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/07/16(木) 08:27:59
津堂城山古墳で墳丘調査
藤井寺市教委、形状の解明期待
世界遺産登録を目指す百舌鳥(もず)・古市古墳群で最初に築かれた大王墓である藤井寺市の国史跡・津堂城山古墳(4世紀後半)の調査を、同市教委が13日、始めた。8月末までに、後円部北側で墳丘の状態などを確かめる。墳丘の発掘調査は約1世紀ぶりで、大王墓が大和から河内で築かれるようになった鍵となる古墳の実態解明が期待される。
津堂城山古墳は、全長208メートルの前方後円墳。1912年、後円部の頂上部に長持(ながもち)形石棺を納めた竪穴式石室が確認され、宮内庁が頂上部のみを「陵墓参考地」指定。他の部分は58年、国史跡になった。
市教委によると、石棺の発見以降、83年に市教委が周濠(しゅうごう)部分を発掘したが、墳丘は未調査だった。後円部北側は墳丘が崩れており、陵墓参考地を囲むフェンスが倒壊しかねないため、盛り土工事をするのに伴って調査を行うことにした。
この日は作業員が調査地に生えた雑木を伐採し、今後、発掘調査や測量を進める。調査担当の上田睦・市教委文化財保護課主査は「中世、城に転用されたため、本来の墳丘の形はよくわかっていなかった。今回の調査で、同時期の巣山古墳(奈良県広陵町、全長約220メートル)などと比較できる資料が得られることを期待している」と話している。
(2009年7月14日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090714-OYT8T00055.htm?from=nwlb
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4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/07/16(木) 08:28:47
シェークスピア 歌舞伎 文楽 劇的コラボ
この夏、大阪で、シェークスピアの名作を歌舞伎と文楽で上演する“シェークスピアの古典芸能競演”が話題を呼んでいる。歌舞伎は「十二夜」を異才、蜷川幸雄さんが演出する「NINAGAWA 十二夜」(大阪松竹座)、文楽は「テンペスト」を翻案した「天変斯止嵐后晴(てんぺすとあらしのちはれ)」(国立文楽劇場)。日本の伝統芸能はシェークスピア劇と相性がいい―といわれる、それはなぜだろうか。
●演技術で刺激的舞台
鏡一面の舞台。爛漫(らんまん)と咲き誇る桜が浮かび上がり、美しい大篠(おおしの)左大臣(中村錦之助)が花道から登場、客席はどよめいた―。
大阪松竹座で上演中の「NINAGAWA 十二夜」の、幻想的な幕開けだ。
4人の男女の恋物語を描く原作。「NINA―」は設定を日本に移し、歌舞伎の様式美と演技術をいかした斬新な舞台に生まれ変わっている。琵琶姫(ヴァイオラ)、丸尾坊太夫(マルヴォーリオ)など名前も“和風”。主演の尾上菊之助さんは、歌舞伎の立役(たちやく)と女形を演じ分けるように、琵琶姫など男女3役を早替わりをまじえて演じる。
「そもそも『十二夜』を歌舞伎で、と思ったのは、立役と女形の早替わりなど歌舞伎の手法が生かせると思ったから」と話す菊之助さんは「シェークスピア作品の力強さと歌舞伎のオリジナリティーあふれる表現力と演技術を融合すれば、刺激的な舞台ができると思った」と強調する。
●喜怒哀楽は普遍
実はシェークスピアと歌舞伎は昔から深いかかわりがある。明治時代、戯作者の仮名垣魯文(かながきろぶん)は「ハムレット」を日本に移し替えた「葉武列土倭錦絵(はむれっとやまとにしきえ)」を書き、平成3年、市川染五郎さん主演の歌舞伎で上演され、話題を集めた。文楽でも、役名は原作のままながら、昭和30年代に「ハムレット」が上演されている。
「ハムレット」は王位をめぐる陰謀と復讐(ふくしゅう)劇。歌舞伎や文楽にも、「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」などお家乗っ取りをめぐる愛憎を描いた“お家騒動物”という似たジャンルがある。また、「リチャード三世」のような権力闘争と人間悲劇は歌舞伎の時代物とも重なる。歴史のうねりの中で展開する人間の喜怒哀楽は普遍であり、両者には共通点も多い。
シェークスピアの全戯曲を翻訳したことでも知られる東京大学名誉教授の小田島雄志さんは「主人公がひとり屹立(きつりつ)しているギリシャ悲劇や能と違い、シェークスピアの作品や歌舞伎は、主役以外の登場人物もそれぞれがドラマを持ち、それらが重なり合って大きなうねりができる。同じ型の芝居なのです」と話す。
●「情」を前面に
文楽の「天変斯止嵐后晴」は18日から上演。弟の陰謀のため島流しにあった阿蘇左衛門藤則(あそのさえもんふじのり)の復讐劇を軸に、若者たちの恋がつづられていくが、文楽なので全編義太夫節。美登里が敵方の息子、春太郎と恋に落ちる場面のせりふはこうだ。
「お前のように美しい殿御が他にもあろうとは…」
脚本・演出を担当した山田庄一さんは「文楽は情を描く芸能。原作は哲学的だが、それでは文楽にならないので、情の部分を大切に舞台化した」という。
演劇評論家の長谷部浩さんの話 「たとえば『テンペスト』なら人間の原罪がテーマ。シェークスピアの作品には人間の運命や宿命など大きなテーマが描かれています。そこが、歌舞伎や文楽の持つスケール感とマッチするのではないでしょうか」
【写真説明】文楽「天変斯止嵐后晴」の登場人物、春太郎(吉田和生)、阿蘇左衛門(吉田玉女)、美登里(桐竹勘十郎)の人形(右から)
産経関西2009年7月15日
http://www.sankei-kansai.com/2009/07/15/20090715-012362.php
512
:
よっさん
:2009/07/16(木) 19:03:05
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20090716ddlk27070526000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/128 源聖寺坂 大阪市天王寺区 /大阪
◇「聖俗同居」は昔から 相撲部屋のにぎわいも、今はなく
前回は愛染まつりに寄り道したが、いま一度、生国魂(いくくにたま)神社に戻って、天王寺七坂をたどることにしよう。
生玉さんの東門前に二つの石碑が並んでいる。「川崎孫四郎自刃の所」と「勤皇烈士贈正五位島男也(しまおのや)之旧居」。いずれも水戸藩士だ。はて、なぜ水戸藩士の碑がこんな所にあるのか?
大阪案内人の西俣稔さんが「桜田門外の変と関係があるんです」と解説する。安政の大獄に反発して大老、井伊直弼を亡き者にせんと、水戸藩の浪士らが図ったのが万延元(1860)年3月3日の桜田門外の変。これに合わせて大坂で倒幕の挙兵を計画、その準備のため、前年に大坂に変名で潜入したのが川崎孫四郎だった。
大老暗殺はなしおおせたが、大坂での挙兵計画は幕府の知るところとなり、身を隠したのが生国魂門前に居を構えていた島男也宅だった。島男也は水戸藩士だったが、浪人となって大坂で剣術指南をしているうち、倒幕運動にかかわっていく。
3月23日早朝、幕府方に踏み込まれ、川崎孫四郎は奮戦の末、自刃。島男也は捕らえられ、獄死した。島男也の碑は戦時中の1944年に、川崎孫四郎の碑は69年、水戸に住むひ孫たちが建立した。
幕末の動乱の一幕が、生玉さんのすぐ前で繰り広げられていたのだ。
◇
その碑を見ながら、生玉さんの正門を右に折れる。民家の並びに、ギリシャの神殿風のラブホテルが、でんとそびえている。はす向かいにはお寺が静けさをたたえ、「聖と俗」が隣り合う。
源聖寺(げんしょうじ)坂を下る。石畳の坂の両側は、お寺の築地塀が続き、実に趣がある……のだが、振り返ると、てっぺんに銀色の球体の看板を頂いたラブホテルがイヤでも目に入る。気を取り直して。坂は途中で石段になり、眼下に坂の名の由来である源聖寺の緑色の屋根が見えてくる。のんびり歩くのが似合う坂だ。
源聖寺坂の上にあるうどん店「ささき」をのぞいてみた。現在は休業中で、名物のきざみうどんを食することはできなかったが、店を営んで約50年になる佐々木瑠久子さんの話を聞けた。上がりがまちにテーブルが一つ、奥の座敷にも一つで、「日本一狭い店や」と笑う。
この辺、ラブホテル多いですよね。「昭和30年代にはもうあったんよ。お寺が建物の修理費用のために土地売ったり、移転したりして」。住民にとってはかないませんわね。「昔からこの辺はね、家改装してホテルみたいにしてはってん。だから別に……」
源聖寺坂の途中にも、昭和40年代まで町家風の旅館があったという。旅館とはいえ、「昔のラブホテル」とのこと。その昔は近くに遊所もあったというから、「聖と俗」の同居は、どうやら長い伝統があるらしい。
◇
「俗」の話はこれくらいにして。かつて、大相撲春場所の時は、かいわいのお寺は軒並み相撲部屋の宿舎になっていた。タニマチの語源は、谷町の医者が相撲好きで、力士を無償で診察したから、という説があるくらい、相撲とは縁が深い土地柄だ。
約3年前、大寶寺を宿舎にしていた立浪部屋が移転して、お相撲さんの姿は消えてしまった。向かいの銀山寺は旧花籠部屋の宿舎だった。「お相撲さんは源聖寺坂をだらだら下って、府立体育会館まで歩いてた。初代若乃花なんかも」と佐々木さん。お店にも、よく力士が来たという。【松井宏員】
513
:
よっさん
:2009/07/16(木) 19:12:40
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090716/20090716035.html
花娘が天神祭PR キタの地下街
2009年7月16日
天神橋筋商店連合会のキャンペーンガール「天神天満花娘」が15日、大阪・キタの地下街、ディアモール大阪で目前に迫った天神祭(24、25日)のPRイベントに参加し、通行人にパンフレットを配るなどして祭りへの参加を呼び掛けた。
花娘は、大阪天満宮に祭られている菅原道真公が愛した梅の化身とされる。紅白の梅をあしらったコスチュームで天神祭や商店街の広報の役割を担う。
この日は5人の花娘が拍子木を打ち鳴らして、「そうらえ聞きそうらえ われら天神花娘」と口上を披露。その後、地下街を訪れていた買い物客らに天神祭のパンフレットを配り、祭りをPRした。
同連合会の土居年樹会長は「あと10日で幕開け。本番になったら天神さんにお越しを」と話していた。
514
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名無しさん
:2009/07/18(土) 11:17:56
http://www.sankei-kansai.com/2009/07/18/20090718-012467.php
2009年7月18日
「岸和田だんじり祭」 9月19、20日で合意
勇壮さで知られる大阪府岸和田市の「岸和田だんじり祭」の日程をめぐり地元組織が対立していた問題で、同市の旧町会で構成される「祭礼町会連合会」は17日、9月19、20日の日程で最終合意したと発表した。
だんじり祭はもともと9月14、15日に開かれていたが、平成18年から「9月の第3月曜日(敬老の日)直前の土日開催」と変更。これに従って今年は9月19、20日に決定したが、20日が彼岸の入りと重なることから同連合会などが1週間の前倒しを求めていた。
515
:
よっさん
:2009/07/18(土) 11:32:08
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090718/20090718045.html
「玉造黒門越瓜」PR 参拝客に料理振る舞う
2009年7月18日
大阪市中央区玉造2丁目の玉造稲荷神社(鈴木一男宮司)の夏祭りが15、16の両日、同神社の境内で開かれ、約2000人が訪れた。宵宮の15日には「食味祭」が行われ、同神社の関係者らがなにわの伝統野菜「玉造黒門越瓜(しろうり)」を料理して参拝客に振る舞った。
玉造黒門越瓜は、江戸時代に玉造地区で栽培され、近くにあった大坂城の玉造門(現在の玉造1丁目)が黒色であったことから、玉造黒門越瓜と名付けられた。現在は、同神社の境内を中心に育てられている。
食味祭は「地産地消」がテーマ。地元の伝統野菜を多くの人に広めるために、2003年に始まった。会場では、同神社の関係者らが考案した「しろうり荒おろしソーメン」のほか、区民の食生活を考える中央区食生活改善推進員協議会(伊坂芳枝会長、158人)が作った「キンピラ」など約900食を用意。越瓜のイメージキャラクター「玉造稲荷くろもんちゃん」も参加し、子供らに料理を勧めた。
同協議会の伊坂会長(71)は瓜料理を食べる子供らを見ながら「越瓜のシャキシャキ感を残しながら焼くのは難しかったが、食べてもらえてよかった」と話していた。同神社の鈴木伸廣禰宜(ねぎ)(34)は「地の人に、地のウリをもっと知ってもらいたい。毎年、老若男女を問わずに食べてもらえている」と列を作る参拝者に満足げだった。
516
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よっさん
:2009/07/18(土) 11:33:49
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090717/20090717024.html
ホステスさんら北新地パレード 練り歩き前に安全訴え
2009年7月17日
天満署などは、天神祭の「陸渡御」の復活に向けて23日に約40年ぶりに氏子らの練り歩きが予定されている大阪・キタの北新地で15日夕、安全・安心のまちづくりを目的としたパレードを行った。北新地のホステスや関係者らが北新地のメーンストリート・新地本通などを練り歩き、安全なまちづくりを訴えた。
北新地は同署管内の犯罪の発生件数のうち約2割を占めているほか、ひったくりの発生なども増加傾向にあることから、パレードは練り歩きを前に防犯意識を高めてもらおうと企画された。北新地社交料飲協会のメンバーなど約130人が参加した。
パレードに先立ち、堂島アバンザ前(大阪市北区)で行われたセレモニーでは、同署の田中康夫署長が「防犯意識を高めてもらい、さらに安全・安心でにぎわいのある北新地をつくっていきたい」とあいさつ。続いて参加者らが新地本通など約500メートルを練り歩き、理解を求めた。
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名無しさん
:2009/07/18(土) 12:36:49
「天神祭は京橋駅利用を」−JR京橋駅がポスターで呼びかけ
(2009年07月17日)
JR京橋駅は7月25日に迫った大阪天神祭に向け、駅のサイズの大きい京橋駅の利用を呼びかけている。
大阪天神祭は日本三大祭のひとつで、例年約105万人が集まる大規模な祭り。最寄り駅は、京橋駅、桜ノ宮駅をメーンに、大阪城北詰駅、大阪天満宮駅、天満駅、南森町駅。当日は最寄りの各駅で混雑が予想される。
中でも、花火の打ち上げ場所から最も近いとされる桜ノ宮駅には多数の花火見学者が殺到する。桜ノ宮駅の改札数は、西口・東口合わせて9台(通常時)。昨年の天神祭本祭日は約6万5千人が利用、入場制限がかかるなどして目当ての銀橋に到着するのに駅から約30分かかったという。
「より安全に、よりスムーズに」天神祭への行き来を誘導するため、JR京橋駅は2007年から、出口・改札数の多い京橋駅の利用を促している。桜ノ宮駅が出口2カ所、改札数計9台であるのに対し、京橋駅は出口3カ所(北口、西口、南口)、改札数計36台。「駅サイズが大きいため、天神祭への行き帰りをより快適にしてもらえる。京橋駅から銀橋までは徒歩15分と早く到着できるのもメリット」(京橋駅営業総括助役の板井基さん)。
京橋駅利用の呼びかけは、7月6日から環状線各駅をメーンにポスターで掲出している。ポスターは、「絵を描くのが大好き」だという入社4年目、広報業務などを担当している野世佳織さん(21)の手作りによるもの。「当日は、わたしたちが『駅』からお客さまのテンションをより上げられるようなサポートをするので、家族、友人、恋人とどんどんお祭りに足を運んでいただければ」(野世さん)と気合いをみせる。
昨年の天神祭本祭日、京橋駅利用人数は乗車、降車合わせて約30万人。駅混雑時間のピークは18時(行き)、22時(帰り)。
http://kyobashi.keizai.biz/headline/552/
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よっさん
:2009/07/19(日) 13:03:16
http://mainichi.jp/kansai/news/20090718ddf041040018000c.html
天神祭:帰ってきた 約40年ぶり、北新地みこし巡行−−大阪
天神祭が約40年ぶりに北新地に戻ってくる。本宮(25日)前の23日夜、陸渡御がかつて巡行した繁華街をみこしが練り歩き、不況に沈むネオン街を元気づける。氏子らは「北新地のお客にかつてのにぎわいを見てもらおう」と張り切っている。
「何百人という立派な行列だった。みこしが来ると2階の窓を外して、お客さんと芸者も一緒に上から眺めてね」。北新地で働いて半世紀の現役バーテンダーの大河内孝郎さん(74)が、当時を振り返って目を細めた。
陸渡御は、時代衣装の氏子ら約3000人が大阪天満宮(大阪市北区)から御堂筋を南下し、堂島川沿いに天神橋まで約2・5キロを巡行、船渡御につなげる。
今は御堂筋で折り返すが、以前は北新地を巡行。陸渡御に参加する氏子集団「講」の多くは今も北新地で祝儀を集めており、「天神講獅子」講元の森本幸一さん(60)が今回の巡行を提案。「支えてもらっている北新地に恩返しを」と、「鳳講」講元の小林俊行さん(63)が応じた。
23日は本番とは別に約150人が約80メートルの行列を作る予定。道路幅などから、担ぐ棒を重くして本数も6本から8本に増やし大人用にした子供用みこしを使う。午後8時ごろ、北新地南側を出発。約1時間半、新地本通りなどを歩く。
天満宮の氏子で、ラウンジを営む小林悦子さん(47)は「おみこしが来たら外まで見に行きます」と心待ちにしている。【広沢まゆみ】
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:
よっさん
:2009/07/20(月) 12:40:43
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090720-OYT8T00094.htm
佐野夏祭りに女神輿初登場
泉佐野市の春日神社などを中心に布団太鼓台が巡行する「佐野夏祭り」が、19日開幕。今年から「女神輿(みこし)」が披露され、勇壮な祭りに彩りを添えた=写真=。20日もある。公募した10〜20歳代が中心の約50人が、重さ約300キロの神輿を担いで南海泉佐野駅前を出発、商店街などを練り歩いた。同市羽倉崎の大谷真希さん(17)は「みんなの息も合ってきた」と笑顔を見せた。
(2009年7月20日 読売新聞)
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:
よっさん
:2009/07/20(月) 13:00:57
http://www.nhk.or.jp/osaka/lnews/04.html
大阪の祭りを紹介する展覧会
大阪の祭りを描いた絵巻や絵馬などを集めた展覧会が、大阪歴史博物館で開かれています。
この展覧会は、夏祭りの時期を迎え、地域で親しまれてきた祭りについて知ってもらおうと企画され豊臣秀吉が秋祭りのために諏訪神社に奉納したとされる獅子舞の獅子や、今宮戎神社の十日戎で行われる「宝恵駕籠行列」の写真など160点が展示されています。
このうち「御迎人形」は、戦後まもなくの時期まで天神祭の船渡御を迎える舟に乗せられていた人形です。
高さは約2メートルで赤を基調とした衣裳は、疫病よけの願いが込められているということです。
また、「平野郷牛頭天王祭礼図」は、杭全神社の夏祭りを描いた上下2巻の絵巻です。
江戸時代後期の作品とされ、町名が書かれたちょうちんを持って、大勢でみこしを担ぐ様子が祭りのにぎやかさを伝えています。
大阪歴史博物館の学芸員、澤井浩一さんは「大阪は、各地に個性のある祭りがあります。この機会に地元の祭りを見直してほしい」と話していました。
この展覧会は大阪・中央区の大阪歴史博物館で来月31日まで開かれています。
521
:
よっさん
:2009/07/21(火) 17:52:56
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090720/20090720085.html
天神祭船渡御にロボットも参加へ お迎え人形公開
2009年7月20日 17:17
大阪の夏の風物詩、天神祭の船渡御に、人型ロボットの「Wakamaru(ワカマル)」がお迎え人形として参加することになり、企画した大阪大が20日、平安装束のワカマルを公開した。
船渡御は、川に船を浮かべて菅原道真の御神霊を迎える大阪天満宮の神事。ワカマルは25日、平安時代の子どもが着た水干姿で、鷲田清一学長らと一緒に阪大の奉拝船に乗り込む。
三菱重工業と阪大の共同研究の一環。船上で披露する「大阪締め」などのパフォーマンスは基礎工学部の学生がプログラム。装束のデザインは外国語学部の学生が手掛けた。
522
:
よっさん
:2009/07/22(水) 20:44:47
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090722-OYT8T00119.htm
発生100年惨状知って
お初天神も被災「北の大火」
大阪・キタで1909年(明治42年)7月に発生した「北の大火」の直後に撮影された写真など9点が22日から、大阪市中央区の大阪歴史博物館で展示される。お初天神や北新地などの被害状況を鮮明にとらえた写真は絵はがきに使われ、同市北区西天満でそば店を営む高木浩也さん(48)が骨董(こっとう)品店で入手、保管していた。発生から丸100年。語られることが少なくなった大火の貴重な資料で、高木さんは「一人でも多くの人に知ってもらいたい」と話す。
市史によると、北の大火は1909年7月31日午前4時20分頃、同市北区のメリヤス製造販売業者から出火、1・2平方キロの1万1365戸を焼いた。
展示される写真は6点。お初天神付近は一面が焼け野原となり、石の柵だけが残っている。北新地では、がれきの中を歩く人々の様子をとらえている。
高木さんは約10年前、出前先の骨董品店で絵はがきを見せられ、「地域の歴史の一面がわかる」と関心を持ち、大火に関するほかの資料も収集するようになった。京都・清水寺周辺に住む15歳の少年が書いた当時の日記は、京都からも見えた紅蓮(ぐれん)の炎が描かれている。救援にあたった高槻工兵第4大隊が、明治天皇から慰労金を贈られたことを記した皿もあり、いずれも写真とともに展示される。
同博物館の船越幹央学芸員は「絵はがきは一種の報道写真だったのだろう。公式記録は残っていてもこうした資料は少なく、様子がよくわかる」と話している。展示は8月24日まで。
(2009年7月22日 読売新聞)
523
:
よっさん
:2009/07/22(水) 20:45:36
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090722-OYT8T00107.htm
船渡御「お迎え人形」
江戸時代の風習再現 大阪天満宮などで展示
天神祭の船渡御を迎える船に飾られていた「お迎え人形」のうち、府指定有形民俗文化財の全14体が祭り期間中、大阪天満宮とその周辺に展示される。船渡御(25日)の数日前、街角に飾って祭りムードを盛り上げた江戸時代の様子を再現したといい、同天満宮関係者は「当時の様子に思いをはせながら人形を見て回ってほしい」と話している。
人形飾りは、船渡御が今とは逆に、堂島川下流に向かっていた江戸・元禄期に始まった。下流に住む氏子らが、競い合うように羽柴秀吉などの豪華な人形を飾りたて、出迎えるように。江戸後期には約50体あったが、戦災などで減り、次第に飾られなくなったという。
同文化財に未指定の2体を含む16体を所有する同天満宮は、これまで祭りのたびに数体を選んで展示。今年は同じ時期、大阪歴史博物館(大阪市中央区)などで人形展示の特別展が開かれることもあり、6会場で一堂に飾ることにした。
また、展示に合わせて同天満宮は、人形のレプリカなどが当たるスタンプラリーも企画。江戸時代に作られた人形の一覧図を活用、展示する14体の絵を描いた部分を空欄にし、スタンプを押していってもらう。
展示期間は、▽大阪くらしの今昔館 26日まで▽帝国ホテル大阪 29日まで▽OAP 同▽花外楼本店 25日まで▽大阪天満宮 23〜25日▽大阪歴史博物館 8月31日まで。
(2009年7月22日 読売新聞)
524
:
よっさん
:2009/07/22(水) 20:50:00
http://www.nhk.or.jp/osaka/lnews/07.html
天神祭を前に伏見から酒だる
大阪の夏を彩る「天神祭」を前に、高槻市や京都市の住民らが大阪天満宮に酒だるを奉納して、祭りの成功を祈りました。
酒だるを奉納したのは、地元の歴史の伝承などに取り組んでいる高槻市と京都市の2つの団体のメンバーなどおよそ20人です。
2つの団体などでは、江戸時代に淀川と宇治川を行き来して物資を運んでいた「三十石船」を地域おこしの一環として復元したのをきっかけに、たくさんの船が行き交う船渡御が行われるなど川にゆかりのある天神祭の時期に酒だるの奉納を行うようになりました。
メンバーらは酒だるをみこしに担ぎあげ、昔、三十石船で歌われていた舟唄を大きな声で歌いながら天神橋筋商店街を練り歩きました。そして、大阪天満宮に酒だるを奉納し、祭りの成功を祈りました。参加者のひとりで京都の「洛南保勝会」の三木善則さんは、「京都と大阪には深いつながりがあることを知ってもらいたい」と話していました。
天神祭は今月25日、およそ100隻の祭り船が大阪市内の川を行きかう「船渡御」が行われます。
525
:
よっさん
:2009/07/24(金) 11:13:15
http://www.nhk.or.jp/osaka/lnews/03.html
天神祭 陸渡御が復活
大阪の夏を彩る天神祭はきょうが宵宮です。昨夜は、大阪キタの繁華街北新地に祭の見どころのひとつ陸渡御が約半世紀ぶりに復活し、100人を超える人たちが、街に活気を呼び戻そうという願いを込めて練り歩きました。
きのうは午後8時ごろから、飲食店のオーナーや働く女性がみこしを担いだりしながら北新地の中を1時間にわたって練り歩きました。天神祭の陸渡御は、祭のクライマックスとなる本宮で、大阪天満宮の周辺を地元の人たちがみこしを担いだり踊りながら、巡るものです。かつては北新地の一帯でも行われていましたが、交通量の増加などで47年前から途絶えていました。
景気後退の影響で、客足が遠のく北新地にかつてのにぎやかさを取り戻そうと、本宮を前にした昨夜約半世紀ぶりに陸渡御が復活しました。
街を練り歩く人たちは、祭のにぎやかさをそのまま呼び込んで活気ある北新地を復活させようと願いを込めて歩いていました。
北新地社交料飲組合の大河内孝郎さんは「笛の音や太鼓の音など、普段の新地にない雰囲気で、お客さんにも楽しんでもらえたと思います。今後も継続していきたい」と話していました。
526
:
よっさん
:2009/07/24(金) 12:17:59
http://www.sankei-kansai.com/2009/07/24/20090724-012622.php
2009年7月24日
北新地に40年ぶりに天神祭
大阪の夏を彩る天神祭(24、25日)を前に、みこしや獅子舞などの氏子行列が23日、大阪市北区の繁華街、北新地を練り歩いた=写真(頼光和弘撮影)。これまで行列のコースから外れていた北新地に、約40年ぶりに祭りの活気が戻った。
交通量が増え始めた約40年前から、行列が御堂筋を横断するのが難しくなり、北新地は祭りから疎外されていた。この日は、約200人の行列が笛や太鼓を鳴らして約1キロのコースを練り歩き、沿道では通行人やホステスらが祭りの風情を楽しんだ。
北新地料飲協会の山名和枝副理事長(73)は「不景気で世の中が落ち込んでいる中、元気をもらいました」と話していた。
527
:
名無しさん
:2009/07/25(土) 20:44:26
テレビ大阪で天神祭りを放送中です。
うろ覚えですが、先ほどこんなやり取りがありました。
日清食品の船が通ったときに、司会者たちが「大阪の地元企業が参加してくれるのは良いですね」
「不況だけど、大阪は活気があって元気ですね・・・」などのコメントしている中
しばらくしてロザンの宇治原氏が「大阪は企業がいっぱい出て行ってますね・・・」と
嘆いてましたが、誰も返答せず全員沈黙してました。
祭り番組だけに、景気の悪い話題に関しては答え辛かったのかもしれません。
528
:
名無しさん
:2009/07/25(土) 23:11:58
宇治原は相変わらず空気読めないな。
529
:
福島区民
:2009/07/26(日) 00:45:28
出て行く企業があれば、やってくる企業もいたり
新たに誕生する企業もあるのに、そういうプラス面は
話題にしませんよね。
そうした代謝を繰り返して今の大阪があるというのに
テレビに出てる人間は物知り顔でやれ不況だの流出だの
叫びます。
中途半端な知識が幅を利かせ、マイナス思考が蔓延する
のが一番の問題です。
530
:
名無しさん
:2009/07/26(日) 09:40:51
宇治原氏の言い方は、
大阪から出た(大阪発祥の)大きな企業が多い、みたいなニュアンスではありませんでした?
私も見ていて、そう捉えたのですが。
周りが沈黙していたというのも、あの中継地点の後ろでは終始花火が上がっていましたから
お互いの声が聞き取れない時もあったのでは。
全体的に昨日のTV大阪の番組内容は悪くなかったと思いました。
クイズも大阪文化の歴史から出題されていましたし。
まあゲストが西川きよしより浜村純の方が良かったかな。
531
:
527
:2009/07/26(日) 19:35:42
>>530
>大阪から出た(大阪発祥の)大きな企業が多い、みたいなニュアンスでは
>ありませんでした?
うーん、そうともとれますね。宇治原宇治の意図は分かりませんでしたが。
クイズの出題内容は、良かったですね。
大阪検定に出てきそうな内容でしたし、勉強になりました。
532
:
よっさん
:2009/07/29(水) 22:48:34
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20090729ddlk27040408000c.html
天神祭:新人記者の体験記 人と人との熱気満喫 /大阪
「なにわは天下の祭り好き」。新人記者として大阪に配属されて3カ月余り。本番前日に日本一長いアーケード街「天神橋筋商店街」を女性が威勢良く担ぐ「ギャルみこし」や当日の伝統行事を通じ、日本三大祭・天神祭を体験した。人と人との熱気を存分に味わえた3日間だった。【広沢まゆみ】
◇前日を飾るギャルみこし
5月中旬、ギャルみこし実行委員会広報の福西賀子(よしこ)さん(29)に会った。商店街でお好み焼き店を営む福西さんは、ギャルみこしには担ぎ手、役員合わせて参加7回目の筋金入り。「楽しいみこしを成功させたい」という強い思いに圧倒され、私も参加してみたくなった。
当日の今月23日、大阪市内は晴れ渡り、気温33度の真夏日。79人の「ギャル」の「わっしょい、わっしょい」の掛け声で、にぎやかな巡行が始まった。
「みこしの中心に向かって肩と腰を入れる」「声を出すと力が出る」「担ぎ棒から肩は離さない」。教わった担ぎ方を実行しようとするが、前後の間隔の狭さ、暑さ、重さでしんどい。しかしOGや実行委員、地域の人たちは休憩時、冷たい飲み物やおしぼりの提供、巡行時間の調整など配慮に余念がない。多くの人の熱い思いが詰まったみこし。つらい顔をして担ぐなんて、もったいない。
ゴール地点では2基200キロのみこしがぶつかりそうになりながら回り、「ガシャン、ガシャン」と壊れんばかり。高々と掲げると「わぁー」と歓声が上がる。何度も繰り返し、大阪締めの最後に無数のクラッカーが鳴らされた。体中を汗が流れ、肩も足も感覚がなくなるほどだったが、気持ちは高揚し、担ぎ手も観客も一体感に包まれた。
◇40年ぶりの北新地巡行
その日の夜、約40年ぶりにキタの繁華街・北新地をみこし行列が巡行した。ネオンの光る夜の街は、不況を忘れてにぎわった。
大阪天満宮の氏子集団「天神講獅子」と「鳳講」、北新地の氏子たちは準備のため話し合いを繰り返した。「やっと実現の日まで来ました」。鳳講総務の宮本善樹さん(50)は感無量の表情。目指すのは、かつて北新地を練り歩いた「陸渡御(りくとぎょ)」の復活だ。
氏子ら約200人が連なった行列に、飲食店を束ねる北新地社交料飲協会の東司丘(としおか)興一・理事長代行(58)の姿も。「遊びに来たお客さんに見てほしい」と期待していたように、新地本通りは仕事帰りのサラリーマンや飲食店の店員らで熱気に沸いた。北新地クイーンら3人も行列に彩りを添えた。準クイーンの愛さんは「地元のおみこしが北新地にも来てくれてうれしい。お客さんも喜んでます」。真夏の夜の夢に目を輝かせた。
◇ロボット御迎人形が大阪締め
本宮の25日夜には、大川を約100隻の船が巡航する「船渡御」で大阪大学の船に同乗した。船渡御でかつて船の上に乗せて神様を迎えたという「御迎(おむかえ)人形」。大阪大は研究に使っている三菱重工業開発のロボット「wakamaru(わかまる)」を牛若丸に見立て、御迎人形として船上で大阪締めをする学生プロジェクトを発足した。
大阪締めのプログラミングだけでも約100時間。絹製の「水干(すいかん)」を着用し、約300年の時を経てよみがえった現代の御迎人形。装束の製作に協力した平安装束体験所(京都市)の福呂一栄さんは「学生にもずいぶん細かく指導し、伝統的な装束仕立てにこだわりました」と一針一針に心を込めたという。船がすれ違う度に、一緒に大阪締めをすると、大学船に乗り込んだ約170人の学生や教職員、留学生らも愛嬌(あいきょう)に魅せられていた。
水干の製作を手伝った4年の香川有佳理さん(23)と熊谷未央さん(21)は「装束を着た立派な姿に感動しました」。大阪締めをプログラミングした4年の築坂宗樹さん(21)は「人間の手首に当たる関節がないので拍子を打つ表現が難しかった。喜んでもらえて良かったです」と苦労も吹き飛んだ様子だった。
天神祭を盛り上げる陸渡御・船渡御には30もの氏子集団「講」が参加している。かける情熱は想像以上のものだろう。祭りは一体感、にぎわい、喜びを人に与える。大阪に暮らしてまだ短いが「ほんまになにわは天下の祭り好き」と思う。大阪の夏に欠かせない風物詩、来年はどうやって参加しようか。今から考えている。
533
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/08/02(日) 21:04:35
『大阪府、大阪府知事 part9』にて、以下のスレを見た :
14 :名無しさん:2009/07/31(金) 08:10:32
吉本を敵にまわすことが大阪をさらに衰退させる。
自分は小さいころから漫才や新喜劇を見て育ちそれらにたくさん励まされてきた。
吉本はわが人生です。今回のことに関しては吉本を応援します。
ともかく大阪人が一丸となって大阪文化を守りましょう。
「大阪文化=ヨシモト」 というステレオタイプこそ、大阪百科が闘ってきた当のものだった。
私は漫才・新喜劇が悪いとは思わない (ともに日本の芸能文化を代表するジャンル)。
彼がヨシモトを大阪文化として「守る」のは自由だ。
しかし、「大阪文化=ヨシモト」 の背景にあるのは、あまりにも貧弱な大阪観と不当な先入見。
文化・芸能・美学に関して、大阪は、いかに多産で豊穣な文化都市か。
思いつくまま、発生順に並べてみた。 雅楽から、「ゴス・ロリ」 まで。
詳しい方は、この年表をより充実させていただきたい。
534
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/08/02(日) 21:07:23
● 雅楽の祖形は、住吉大社建立とともに古い。
三韓征伐 (三世紀初頭?) の戦果祝賀会で、新羅の楽人が仲哀天皇と神功皇后に披露した楽曲
が祖形と云われる(?)。
楽人育成と雅楽運営が、最初に組織的に行なわれたのは四天王寺。
「天王子舞楽」 「天王寺楽人」 として、雅楽の洗練化・組織化の主導的役割を演じた。
江戸時代よりの「三方楽所」 の一つとして制定された。
http://www.shitennoji.or.jp/bugaku/bugaku1.htm
雅楽の 「日本三舞台」 のうち二舞台は大阪市内、四天王寺と住吉大社 (ともに石舞台)。
しかし、なぜかもう一つの厳島神社のみ脚光を浴びる・・・・・
● 能楽文化が盛栄・成熟した土地は堺〜大坂。
● 三味線の原型は、戦国期に堺に輸入された唐弦楽器を、琵琶法師が改良したもの (琵琶から三味線への変遷)。
そのため、大阪は地唄の発祥・中心地の一つ。
● 「侘び・さび」 の美学と茶の湯文化は、堺の豪商を中心に武将・民衆に広まった。
堺の武野紹鴎 (たけのじょうおう) が、静寂の精神を茶の間に持ち込み様式化した。
門弟の千利休が発展させた。 天神ノ森天満宮 (西成区) の境内に、紹鴎の隠遁地があった。
● ここであえて言うまでもないが、歌舞伎・文楽を現存する形へ大成させたのは、元禄時代の大坂。
● 御詠歌の発祥地は大阪。
「御詠歌」 というネーミングは、江戸中期の 「大坂二十一ヶ寺弘法巡り」 に因んで、1759年出版された 『弘法大師御詠歌集』 から。
● 浪曲(浪花節)の創始者は、大阪の大道芸人・浪花伊助。
祭文語りをオリジナルな節回しと伴奏 (三味線) で披露したのが始まり (明治初期)。
535
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/08/02(日) 21:08:32
● 「演歌」 の由来は、大阪における自由民権運動の演説歌謡から。
博多出身の川上音二郎が、大阪の落語家の門弟として、『オッぺケペ節』 を当地の寄席で公演したのが起源。
● 新派劇 (当時は「書生芝居」) の発祥は、同じく音二郎による卯の日座 (堺) での一座旗揚げ公演 (1891年)。
● 新劇は、日本最初の洋風劇場 ・ 『帝国座』 (1908年開場、北浜)に起源が求められる。
興行主は、パリ帰りの川上音二郎。
● 講談を青年向け文学としてヒットさせたのは立川文庫 (大阪)。 明治から大正。
● 日本で最初にスクリーン映写の映画が興業されたのは、1897年2月、南地演舞場 (戎橋筋)。
フランスで、リュミエール兄弟からシネマトグラフ (映写機) を購入した稲畑勝太郎 (京都府出身の実業家、
後に大阪商工会議者会頭) が主催。
ただし、エジソン式除き見動画が披露されたのは神戸 (前年)。
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/NO1/SUBJECT1/INAJAP.HTM
● 戦前、大阪は歌劇のメッカの一つだった。
大阪劇場 (千日前) 専属のOSKが、宝塚とならぶ一角を担った。
536
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/08/02(日) 21:09:51
● 日本で最初のバレェ団は、大阪の法村友井バレエ団 (設立1937年)。
http://www.homuratomoi.com/company/menu/company_menu.html
● 日本で最初の本格的ティハウス 『ムジカ』 (堂島・創業1952年) は、名曲喫茶の草分けでもある。
● パフォーマンス・街頭ハプニングの先駆は、大阪市出身の吉原治良による 『具体美術協会』 (1954年、芦屋)。
このグループは、中之島の 「グタイピナコテカ」 (1962年) を拠点とした。
世界的にも、美術を室内から屋外へ持ち出した最初の実験の一つ。
● 音楽喫茶 『ナンバ一番』 (戎橋筋) は、戦後ポピュラー音楽のメッカ (シャンソン・ジャズ・ロカビリー・
グループサウンズ・・・・・)。
● 山下洋輔トリオ(第一期結成: 1966年)が完全にフリー・スタイルで演奏したのは、
『いんたーぷれい8』 (大阪市北区西天満)と云われる。
詳細は不明だが、そうであれば、大阪はフリージャズの発祥地と言っても良い。
● インディレーベルの元祖は、URC (1969年、大阪市北区兎我野町)。その前進は、
高石事務所・アート音楽出版 (1967年、同地)。 URCは、『アングラ・レコード・クラブ』 の略号。
このレーベルから巣立った歌手が、フォークソングを日本に定着させた。
537
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/08/02(日) 21:10:44
● バイロイト音楽祭の世界初の国外公演は、中之島フェスティバル・ホール (1967年)。
演目は、『トリスタンとイゾルデ』 (指揮:ピエール・ブーレーズ )と、『ヴァルキューレ』 (指揮:トーマス・シッパーズ、
ヴォルフガング・レンネルト)。 舞台美術の総指揮は、ヴィーラント・ヴァーグナー。
● 「テクノ・ポップ」 の命名者は、大阪在住の評論家・阿木譲。
http://allabout.co.jp/entertainment/technopop/closeup/CU20051017A/index2.htm
● 欧米で広がるゴシック・ロリータ・ファッション (「ゴスロリ」) は、大阪モード学園出身の
レイチェル
が手がけたデザインから。 そのブランドは、VISIBLE (西心斎橋、創業1998年)。
以降、大阪市内のデザイナーが競合してオリジナルブランドを手がけた。
現在、西心斎橋〜南船場は、オリジナルブランド(一号店)集中度からしても、
「ゴスロリ」 ファッションの世界的メッカ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/BABY,_THE_STARS_SHINE_BRIGHT
#BABY.2C_THE_STARS_SHINE_BRIGHT
538
:
名無しさん
:2009/08/03(月) 22:05:41
よく調べられましたね。
ちなみに「クラブ」と呼ばれる場所が最初にできたのは大阪の四ツ橋です。
アメリカ村や堀江の母として知られる日限さんが、アメリカのクラブをしって
創られたのが最初です。
その少しあとに、マスコミなどで日本初のクラブと呼ばれる東京のクラブができています。
これは日限さんの弟さんが書かれた著書に詳しく載っています。
またクラシックコンサート専用ホールも、残響に拘ったホールも
ザ・シンフォニーホールとフェスティバルホールが日本初で、東京のホールはこれらを参考に作られました。
今でこそ世界中で行なわれている一万人の第九も、大阪フィルハーモニーと朝比奈隆氏が、
初めて大阪で行なったのが有名になりました。
539
:
よっさん
:2009/08/11(火) 19:18:40
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090811-OYT8T00081.htm
絵や写真150点で府内の祭り紹介 大阪歴史博物館
府内の祭りを紹介する特別展「大阪の祭り―描かれた祭り・写された祭り―」が、大阪歴史博物館(大阪市中央区)で開かれている。四季折々の盛大な祭りをとらえた絵画や写真など計約150点が並ぶ。31日まで。
会場で目を引くのは、天神祭の「御迎(おむかえ)人形」=写真=。江戸時代から近代まで、大川下流の町々が、船渡御(ふなとぎょ)を迎えるために出した船に乗せた人形だ。赤を基調とした衣装に、疫病よけの願いが込められているという。
そのほか、岸和田だんじり祭、今宮十日戎(えびす)などの写真などを展示。同博物館では「祭りが最も盛り上がる夏に、大阪の祭礼文化を知ってほしい」としている。
火曜休館。開館は午前9時半〜午後5時(金曜は午後8時まで)。観覧料は大人600円、高校・大学生400円。
(2009年8月11日 読売新聞)
540
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/08/14(金) 11:01:26
>>538
補完どうも!
日限さんの活動は部分的にしか知りませんでした。その本は読んでいません。時間が許せば、是非、該当箇所を引用してください。
ザ・シンフォニーホールとフェスティバルホールが、日本初の本格的クラシックホールとは初めて知りました。
よろしければ、竣工年・設計者のデータ、それと音響効果が東京でのホール建設にを参考にされたことを示す資料教えてください。
大阪フィルハーモニーと朝比奈隆氏については、書き忘れました。次スレで書き加えます。
541
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/08/14(金) 11:02:24
>>534-537
への補足。
● 大阪が日本舞踊の中心地であることは、不当に無視されている。
海外で最もポピュラーな日舞は、座敷舞から発展した「上方舞」。
三味線・地唄の発祥地である大阪が、日本舞踊の中心地であるのは不思議ではない。
「上方舞四流」のうち三流の家元は、大阪市内に集中。
- 山村流 (江戸後期、創流)
http://yamamuraryu.jp/waka/hananokokoro_01.html
- 楳茂都流 (幕末、天満で創流)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/tradition/CK2009070402000220.html
- 吉村流 (明治初期、宗右衛門町に創流)。 池畑慎之介 (ピーター)は家元の子息。
● 朝比奈隆氏(東京出身)は、戦中から大阪で管弦楽団の指揮をつとめ、満州でもオーケストラ創設につくす(慰問団に所属)。
戦後は、大阪フィル創設のために尽力し、総監督としてブルックナーの演目で世界的名声を得る。
朝比奈氏のもとで大阪フィルは、「日本で一番多くレコード、CDを発表している」オーケストラとなった。
現オーケストラマスターの大植英次氏は、日本人ではじめてバイロイト音楽祭で指揮を執った日本人(2005年、『トリスタンとイゾルデ』)。
http://www.osaka-phil.com/profile/
542
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/08/14(金) 11:04:30
【訂正】
日本人ではじめてバイロイト音楽祭で指揮を執った日本人 → はじめてバイロイト音楽祭で指揮を執った日本人
● 日本万博博覧会(大阪万博、1970年)は、未だに世界史上最高の入場者数を誇る。
アート面でも日本の芸術家を世界的に有名にさせたイベント: 岡本太郎、丹下健三、菊竹清訓、黒川紀章、磯崎新、横尾忠則、コシノジュンコ、石井幹子など
初来日したアーティストは、アンディー・ウォーホール、マレーネ・デートリッヒ、サミー・デービス・ジュニア、セルジオ・メンデス、クセナキス、ノーノ(?)、シュトックハウゼン・・・・・・
様々な実験的イベントがプレゼンテーションされた。建築・絵画・音楽・立体芸術・ファッション・映像・・・・・・
〔どなたか、大阪万博のイベントプログラムと初来日アーティストの資料お持ちの方、詳しくか書き加えてください〕
● 万博開幕に先立って、「反博」(反戦のための万博)が大阪城公園で開催(1969年)。
作家・小田実の提唱で大阪べ平連が主催。全国から、反戦主義者・労組・左翼学生・ヒッピーが2000人(?)集結し、大阪城は反体制のシンボルとなった。
講演・ディスカッション・ワークショップ・演劇とともに、フォーク・ロックコンサートも開かれた。
日本では1000人以上動員した最初の野外ロック・コンサート。〔どなたか、詳しいデータお願いします。〕
このように、表の文化が勃興すると、それへの対抗文化が生まれるのが都会の特徴。
ブロードウェイの大劇場に対抗した小劇場の「オフ・ブロードウェイ」のムーブメントが起こり、それがメジャー化すると、より大胆で過激な「オフ・オフ・ブロードウェイ」が起こったように。
また、パリでポンピドゥーセンターが創設されると、正面広場が大道芸のフリースペースに、レ・アールが新たな「溜まり場」になったように。
この意味で、万博に先立つ反博も大都会・大阪の多産性を示すイベント。
543
:
名無しさん
:2009/09/14(月) 14:26:47
能狂言の世界堪能 小学生ら伝統に触れる
2009年9月14日
日本を代表する伝統芸能・能狂言の世界を紹介する「青少年に贈る舞台鑑賞会『こどもとたのしむ能狂言』」が13日、大阪市北区の大阪能楽会館で開かれた。親子連れなど小学生を中心に約200人が参加し、笛や太鼓の演奏や、謡(うた)、表現方法などを実体験した。
青少年を対象に、伝統芸能への興味を持ってもらおうと、大阪市が毎年開催している。同鑑賞会は2回に分けて行われる予定で、この日は「狂言の部」。「能の部」は10月17日に開催される。
参加した子供たちは、狂言師から能楽の説明を聞き、「笑い」「泣き」などの独特の発声を練習。笛や小鼓、太鼓など能楽の4種類の楽器の音や持ち方のほか、掛け声を発して演奏を合わせていることなども学んだ。
また、楽器の体験では、子供たちは慣れない手つきで笛を吹いたり、太鼓をたたいたりして、難しさに戸惑いながらも伝統芸能の世界を満喫していた。最後は、狂言「清水」を鑑賞した。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090914/20090914026.html
544
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/09/17(木) 00:04:44
にぎわう船場 復活を
朝日コム2009年09月16日
繊維問屋の街として栄えた大阪・船場に再びにぎわいを取り戻そうと、地元の4商店街が初めて共同で「第1回船場まつり」を開いている。21日まで。
会場は、中央大通をはさんだ船場地区一帯。16日までは卸店、17〜21日は、婦人衣料やアクセサリー・バッグといった服飾雑貨などの小売店が大売り出しをする。19〜21日は中央大通と心斎橋筋の交わる所に特設会場を設け、兵庫・湯村温泉の湯を運んで足湯を設け、江戸時代のでっちがまかないに食べた塩サバと大根入りの「船場汁」をふるまう。
船場の12カ所を回って賞品を当てるスタンプラリー(20日)や、4神社(坐摩、難波、御霊、少彦名)保有のみこしや太鼓などの展示(19、20日)、船場を知るセミナー(16日)もある。
輸入雑貨卸売会社会長で実行委員長の梅沢喜八郎さん(71)によると、船場には繊維関係の卸や小売店、雑貨店や飲食店など4商店街で約1400店舗あるが、バブルのころに比べ4割近く減ったという。梅沢さんは「船場は元気がないと言われるが、ぼやいているより、中にいる我々が元気を出して何かやることで意識も変わる」と意気込む。問い合わせは同実行委員会事務局(06・6261・8000)へ。
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000000909160003
545
:
よっさん
:2009/09/17(木) 12:27:14
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000000909170001
岸和田だんじり、車いすでの見物でも安心を
2009年09月17日
19、20日の岸和田だんじり祭を前に、車いすの方でも安心して楽しんでもらえるようにと、市内の高校生や大学生が、障害者が利用しやすいトイレの場所を記した地図「かわや絵図」=写真=を作成した。
岸和田市と市社会福祉協議会が07年から、障害者が使えるトイレが外から一目で分かるようなシールを入り口にはってもらう運動を展開してきた。先月、この運動の一環として、公募した高校生や大学生計10人にこれらのトイレの状況を調べてもらった。その調査結果をだんじり祭にあわせ、地図にまとめた。だんじりの曳(えい)行コース沿いにある7カ所のトイレが写真付きで紹介され、非常ベルの有無や便座の高さなどが記載されている。地図は市内の公民館や南海本線岸和田駅で配布している。
546
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/09/19(土) 13:49:21
中崎町の旧・済美小学校跡地で遺跡発掘作業−中世〜近世の集落跡か
梅田経済新聞(2009年09月18日)
大阪市は現在、中崎町の旧・大阪市立済美(せいび)小学校跡地(大阪市北区中崎西1)の校庭で遺跡の発掘作業を行っている。
1916(大正5)年に第三北野尋常小学校として開校した同校は、児童数の減少により2004年に閉校。閉校以後同地は、地元住民の夏祭りのメーン会場など地域コミュニティーの場としても利用されていた。敷地面積約5,000平方メートルの土地と建物を所有する大阪市では「平成28年度までに売却を検討する対象地だが、売却や売却先などについては地元住民などの意見も聞きながら慎重に進める」としている。
遺跡は売却検討に当たり事前調査を行ったところ見つかったもので、埋蔵物を管理する大阪市教育委員会文化財保護担当者は「大阪市には埋蔵文化財として遺跡の対象エリアが約25%あるが、同地は対象ではなかった」という。7月中旬から始まったサンプリング調査から「中世〜近世の村や集落の住居跡と見られる」としている。
現地での調査は9月下旬ごろまでを予定し、その後詳細な調査・分析を行う。調査結果が判明するのは来年度以降。
http://umeda.keizai.biz/mapnews/591/
547
:
よっさん
:2009/09/19(土) 14:06:40
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090919/20090919042.html
伊勢神宮「宝」100点 きょうから遷宮記念展
2009年9月19日
大阪市中央区大手前4丁目の大阪歴史博物館で18日、特別展「第62回式年遷宮記念伊勢神宮と神々の美術」(19日〜11月9日まで)の報道内覧会が行われ、貴重な古文書や美術品が公開された。
伊勢神宮では飛鳥時代から20年に1度、正殿や御装束、神宝を造り替えてご神体を新宮に移す遷宮が行われている。同展は、2013年に行われる62回目の式年遷宮を記念して企画した。
会場には、期間中の展示替えを含め約100点の古文書、神宝、神像などを展示。中でも特に注目されるのが、中世から近世にかけて民衆が伊勢神宮を詣でる様子を描いた、現存する4点すべてが出展される「伊勢参詣曼荼羅(まんだら)」。そのほか、メノウや水晶、琥珀(こはく)などさまざまな宝石で彩られた「玉纏御太刀(たままきのおんたち)」など、美しく貴重な史料が並ぶ。
また、常設展示場でも大阪と伊勢神宮のかかわりをテーマにした特集展示「大坂の伊勢信仰とおかげまいり」(11月9日まで)を開催。
548
:
黒澤主義
:2009/09/19(土) 20:08:13
宝くじの起源「箕面富」秋まつりで復活へ
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090919/trd0909191139007-n1.htm
(msn産経ニュース 2009年9月19日)
明治時代初期に廃止され、宝くじの起源として伝えられる「箕面富(みのおのとみ)」が今秋、発祥の地の箕面山瀧安寺(りゅうあんじ)(大阪府箕面市)で約140年ぶりに復活する。当籤(とうせん)者が授かるのは「お金」ではなく「福」。寺には当時、くじを入れていた「木箱」とくじを引く様子が描かれた江戸時代の地誌「摂津名所図会」が残されており、住職らは「多くの人に幸運と健康を贈りたい」と準備を進めている。
平安時代の歌や古文書などによると、箕面富は番号が書かれた札を販売し、箱に入った木札を小穴からキリで突いて同じ番号が出ると当籤となる。当籤者には、商売繁盛や家内安全に御利益がある「大福御守」が授けられた。江戸時代には「当たり」を求め人々が殺到した様子が摂津名所図会に描かれている。当籤者の中には100年以上続く商店もあるという。
江戸時代、金銭が当たる「富くじ」は「人の心を乱す」として禁止令が出されたが、箕面富は歴史も古く、授けられるのが「福」だったことから、特別に継続を許可された。しかし明治時代には法律で箕面富も禁止され、それ以降は代々の住職らがその存在を受け継いできた。寺には「宝くじ発祥の地」の御利益を得ようと、ジャンボ宝くじが販売されるシーズンになると、宝くじ販売業者らが参拝に来るという。
来年は箕面のまちの発展につながった阪急電鉄が開業100年を迎えることから、寺や地域住民、行政が地域性を生かした事業を検討するなかで箕面富復活の話が浮上。「秋まつり」がある11月15日に箕面富の行事を執り行うことになった。
当日は「宝珠御守」(千円)を購入した人に番号札を渡し、住職が箱から引いた木札に同じ番号が書かれていれば当たりで、「大福御守」3人、「招福御札」10人の計13人が護符を授かるという。
護符には代々の住職が口頭で受け継いできた「秘法中の秘法」とされる祈とうを、朝昼夜3時間ずつ7日間繰り返す計63時間の“祈り”が封じ込められる。
山本照覺(しようがく)住職は「お金ではなく、健康や幸福こそ人生の宝。多くの人を守るためにエネルギーを注ぎたい」と話している。
549
:
名無しさん
:2009/09/25(金) 05:34:46
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090925-OYT8T00070.htm
富田林出身の歌人 石上露子 歌碑2基目
ゆかりの高貴寺に 没後50年記念
富田林市出身で、明治期に与謝野晶子らとともに活躍した歌人・石上露子(いそのかみつゆこ)(本名・杉山タカ、1882〜1959年)の没後50年を記念し、地元の文化サークル「石上露子を語る集い」が、露子ゆかりの高貴寺(河南町)に歌碑を建立、命日の10月8日に除幕式を行う。また、同月12日には、露子の短歌に曲をつけたピアノ独唱などがあるイベント「没後50年記念の集い」を同市内で開く。
露子は同市内の造り酒屋の長女として生まれた。1901年に初の小説を発表して以降、短歌などを次々と創作。かなわぬ初恋を題材にした詩「小板橋」が高く評価されたが、25歳で親が決めた相手と結婚後、創作活動を禁じられ、77歳で他界した。
同サークルは2003年、露子の生家「杉山家住宅」(重要文化財)近くの公園に1基目の歌碑を建立。2基目となる今回は、露子と息子2人の墓がある高貴寺を選び、露子が晩年に詠んだ短歌「人の世の 旅路のはての 夕づく日 あやしきまでも 胸にしむかな」を刻んだ。
また、同市立公会堂で開かれる「没後50年記念の集い」では、ピアノ独唱のほか、露子研究家の松本和男さん(78)が「石上露子と司馬遼太郎」と題して講演。露子を研究していた文化功労者で比較文学者の島田謹二・元東大教授が出版記念パーティーで、司馬さんに露子のことを「明治期の日本女性の典型」と紹介したエピソードなどを披露する。
一方、同サークルは今月、露子が創作した短歌の解釈本「石上露子百歌 解釈と鑑賞」(竹林館、税抜き1800円)を出版。これまでの研究成果をまとめたもので、四六判、175ページ。同サークル代表の宮本正章さん(72)は「死ぬまで初恋の相手を思い続けた露子文学を多くの人に知ってもらいたい」と話している。
イベントの問い合わせは、同サークル事務局(0721・29・1576)、解釈本は竹林館(06・4801・6111)へ。
(2009年9月25日 読売新聞)
550
:
名無しさん
:2009/09/25(金) 05:41:05
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20090925-OYT8T00093.htm
太鼓台新調掛け声弾む 枚岡神社、100年ぶり
東大阪市の枚岡神社の秋祭りで、参道を勇壮に運行する23台の太鼓台の一つ「客坊太鼓台」が、約100年ぶりに新調された。10月14、15両日に行われる祭りで初めて奉納される。
先代の客坊太鼓台は1909年頃、同市客坊地区が、同市水走(みずはい)地区から中古で譲り受けた。修復を繰り返してきたが、傷みが激しくなり、町内の有志や団体などから寄付を募り、約4500万円をかけて新調した。
22日に、同神社で入魂式が行われ、自治会の青年団員約30人が、先代よりも約200キロ重い鮮やかな朱色の太鼓台(約900キロ)を担ぎ、参道を練り歩いて初披露。住人らは担ぎ手の威勢の良いかけ声に、一足早く祭り気分を味わっていた。
(2009年9月25日 読売新聞)
551
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/09/25(金) 07:54:15
<セレクト>落語と素浄瑠璃の競演――大阪で太閤園寄席
日経ネット関西2009/09/15配信
落語家の桂米団治がプロデュースする「太閤園寄席」が30日、大阪市都島区の太閤園で開かれる。落語と素浄瑠璃の競演で、座談会も実施。父である桂米朝と、文楽太夫の竹本住大夫の両人間国宝が顔を合わせる貴重な会になる。
昼席と夜席があり、いずれも素浄瑠璃と座談会、それに米団治の落語などが催される。昼席の素浄瑠璃は竹本文字久大夫・鶴澤燕三による「一谷嫩(ふたば)軍記」の組討の段、夜席は住大夫と野澤錦糸による「双蝶々曲輪日記」の八幡里引窓の段が演じられる。
夜席の座談会には米朝と住大夫、米団治が参加する。「上方落語の中には『胴乱の幸助』『軒付け』など文楽を扱ったネタがある。文楽になじみのない人にも分かりやすいので、文楽と落語のそれぞれの魅力を感じていただけたら」と米団治。長年にわたって米朝と交流がある住大夫は「米朝くんとは思い出話、芸談が尽きないので楽しみ」と語っている。
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news001952.html
552
:
よっさん
:2009/09/25(金) 10:31:06
http://mainichi.jp/kansai/news/20090924ddf012040011000c.html
知りたい:大阪市制120年記念、天神橋筋の歴史を冊子に 地名の変遷や史跡紹介
◇あすの繁昌亭3周年祝うイベントで配布
1889年の大阪市の市制施行で、「天神橋筋」が北区の地名になって、今年で120年。これを記念して、天神橋三丁目商店街振興組合が冊子「天満天神物語」を作製した。
天満の歴史概説やエピソード、民話、わらべ歌、大塩平八郎や井原西鶴らゆかりの人物、史跡などを紹介している。
執筆した土居年樹理事長(72)が力を入れたのが、旧町名の解説。77〜78年の町名変更で、老松町や鳴尾町、地下(じげ)町など江戸時代以来の由緒ある町名が消された。樽屋町は、樽の原料となる材木を扱う商人が店を構えていたことに由来し、西鶴の小説「樽屋おせん」の舞台にもなった。また、奉行所の役人の与力が住んでいた与力町は同心に変わり、役人の階級では“格下げ”に。
土居さんは「町名はそれなりの理由があって付けられていた。変更されて、町の歴史や特性がわからなくなった。何らかの形で、古い町名を大事にしていきたい」と話す。
25日に開かれる「天神橋筋120周年と天満天神繁昌亭3周年を祝う集い」で、冊子を出席者に配布する。冊子希望者は天三おかげ館(06・6352・6164)へ。【松井宏員】
553
:
黒澤主義
:2009/09/28(月) 19:52:10
生根神社の「だいがく」 来月「日本のまつり」出場
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/090928/20090928031.html
大阪市西成区玉出西2丁目の生根神社(吉見友伸宮司)に唯一伝わる伝統文化で、夏祭りに境内などで披露される山車の一種「だいがく」の担ぎ手らが10月10、11の両日、鳥取市内で開かれる「第17回地域伝統芸能全国フェスティバルとっとり 日本のまつり・2009鳥取」の大阪代表として初出場する。
だいがくは高さ約20メートルで、矛の先端に榊(さかき)や御幣(ごへい)などを取り付け、数十個のちょうちんで飾られる。明治時代には大阪市南部の各神社で合わせて20基をつくったが、同神社にのみ現存。1972年には、大阪府指定文化財(有形文化財民俗資料第1号)を受けた。
同まつりでは、75年につくられた高さ約5メートル50センチの「子供だいがく」を披露。当日は、後継者を育てるために2002年に氏子らが結成した「生青会」(林真一郎代表世話人)の中学生ら30人がひのき舞台に立つ。
同会の林代表世話人(58)は「幼いころから夏祭りに加わってきた子らの結束は強い。近畿では何度も大会に出ているが、全国は初めてなので、しっかりやってもらいたい」と話した。
地域に定着している玉出のだいがく。地元住民らの盛り上がりを感じる吉見宮司(40)は「全国大会に出ることで、より、地域の結束が強くなる。皆さんの後押しを得ながら、子供のうちから地域の伝統に触れることができる祭りを続けていく」と話した。
同まつりのメーン会場は鳥取市尚徳町のとりぎん文化会館。同会のメンバーは、11日に同会館で開かれる公演などに出場する。このほか全国17の伝統芸能団体に加えて、韓国や中国などの六つの国と地域の伝統舞踊団体が参加する。
(大阪日日新聞 2009年9月28日)
554
:
黒澤主義
:2009/10/02(金) 20:27:08
津堂城山古墳から大量の葺き石出土 大阪・藤井寺
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091001/acd0910012051002-n1.htm
応神天皇陵(全長425メートル)など大王クラスの巨大古墳が集中する古市古墳群内にある大阪府藤井寺市の前方後円墳、津堂城山古墳(全長208メートル、4世紀後半)で、墳丘を覆っていた大量の葺(ふ)き石が見つかり、市教育委員会が1日、発表した。現在は木が生い茂る墳丘も、築造当初は「石のモニュメント」を思わせる壮観な姿だったことが分かった。
墳丘北東側を発掘したところ、墳丘斜面から、にぎりこぶし大の葺き石が当時の状態で大量に出土。墳丘中段の平坦(へいたん)面にも、数センチ大の石が敷かれているのが確認された。平坦面に石が敷かれた古墳は全国的に珍しく、津堂城山古墳では墳丘全面に石が敷かれていた可能性が高まった。
墳丘頂上部近くでは、数センチ大の白い瑪瑙(めのう)の石も多数出土。頂上部に築かれた被葬者を納める石室を神聖にみせるため、敷き詰められたという。市教委は「大王クラスの被葬者にふさわしいよう、大量の石を使ってより丁寧に墳丘を築いたのだろう」としている。
津堂城山古墳は、宮内庁によって後円部頂上部分が陵墓参考地に指定されているが、指定範囲を囲むフェンスが倒壊の危険があるため、発掘調査が行われた。現地説明会は3日午前10時から。
◇
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)の話
「津堂城山古墳は、(古市古墳群のある)南河内の勢力が大きな力をもつようになって最初に築かれた古墳。これまであまり知られていなかった墳丘構造が明らかになってきた」
(msn産経ニュース 2009年10月2日)
555
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/10/04(日) 18:06:39
ラジオから上方芸発信
寄席や講談の会を催し、上方芸能の振興に尽くす大阪・千日前の小劇場オーナー・鳥居学さん(49)=写真=が4日、上方芸やミナミの街の魅力を発信するラジオ番組を始める。中座や浪花座など「道頓堀五座」と呼ばれた劇場が次々と姿を消し、にぎわいを失いつつあるミナミ。鳥居さんは「粋な話題を電波に乗せ、街に活気を」と話す。
番組は、ラジオ大阪で毎週日曜日午前6時半から放送の「トリイ夢舞台」。鳥居さんが司会を務め、落語家や講談師、地元商店主らをゲストに招く。
「タイガースやたこ焼きだけやない大阪の魅力を知ってもらいたい」。そんな、鳥居さんの熱意に押され、8月上旬、親交のある作家・大徳寺昭輝さん(45)が、出演経験のあったラジオ大阪に声をかけ、番組が実現することに。大徳寺さんは「古き良き大阪の心を肌で感じてもらえるような番組になれば」と期待する。
9月15日には、落語家の五代目桂米団治さん(50)をゲストに初回の収録。鳥居さんは「『またミナミに行ってみよか』と思ってもらえるような魅力を、どんどん発信したい」と話す。
(2009年10月3日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20091003-OYT8T00084.htm
556
:
名無しさん
:2009/10/04(日) 21:02:16
大阪の文化は冗談やから
なんでんええんとちゃう。
557
:
名無しさん
:2009/10/04(日) 22:19:58
なんでもいいと言いながら、いつもながらのもの、ステレオタイプになるのが問題。
自由な発想こそが大事で、固定観念にとらわれることが問題。
558
:
よっさん
:2009/10/05(月) 09:21:46
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20091005-OYT8T00013.htm
わずか60年で再建
貝塚・願泉寺 慶長年間建立の本堂
貝塚市の願泉寺(貝塚御坊)で、現在の本堂(重要文化財)の前身となる本堂が、総ヒノキ造りで現在より一回り小さかったことが、文化財建造物保存技術協会の調査でわかった。1598年(慶長3年)に建立された前身本堂は、わずか約60年で再建されたことも裏付けられた。同協会は「多くの部材が転用されており、短期間での再建は、近江地震(1662年)で建物が傷んだからではないか」と推測している。
願泉寺では2004年から、本堂などの修理が始まり、来年12月に終わる予定。修理に伴う調査の結果、本堂の柱138本のうち、60本が前身本堂の転用材とわかった。人目につかない内陣の裏側に使われ、太さは20センチ四方。現在の柱の27センチ四方より一回り細く、2本の柱を1本に接いでいた。転用材は床下部分や屋根の下地にも使用。現本堂の柱はケヤキなのに対し、すべてヒノキだった。
これらのことから、前身本堂は、現本堂(27メートル四方)より一回り小さく、総ヒノキ造りと断定。同協会は10分の1の模型を作り、前身本堂の復元を試みている。
転用材に焼け焦げた跡や大きな破損はなく、瓦も1割が転用されていた。また、天井板などの墨書から、現本堂の建立時期は、文献に記された1663年(寛文3年)だったことが裏付けられた。
同協会願泉寺設計監理事務所は「本堂を約60年で再建するのは異例。戦乱などで火災に遭ったのではなく、地震で建物がゆがんだためではないか」とみている。
願泉寺は、織田信長と石山本願寺が争った「石山合戦」の際、1583〜85年、浄土真宗の本山「本願寺」が置かれた。
桜井敏雄・大谷大客員教授(建築史)の話「現在の本堂は御坊(本山)格の寺院としては古式な点を残し、内陣と外陣にいくつか異例な点がある。それが前身本堂の影響だとわかれば興味深い」
(2009年10月5日 読売新聞)
559
:
よっさん
:2009/10/05(月) 09:28:04
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/091004/20091004023.html
秋の夜彩る和歌や舞楽 住吉大社「観月祭」
2009年10月4日
中秋の名月にあたる3日、大阪市住吉区の住吉大社(真弓常忠宮司)で、名月をめでる伝統行事「観月祭」が執り行われ、大勢の参拝者が月夜に奉納される舞楽や献歌句などを堪能した。
今年は、毎年会場となる反橋(そりばし)などが工事中のため、境内・神館で斎行。神職らは、ススキや団子などが供えられた特設舞台上で、一般から募り選ばれた和歌と俳句の朗詠、朗読を行い、高く澄んだ声を秋の夜に響かせた。この後、地元の「住吉踊(おどり)保存後援会」が五穀豊穣(ほうじょう)などを願う「住吉踊」を奉納。うちわを手に、そろいの装束姿の少女らが足をはね上げ、躍動感あふれる所作を披露した。また天王寺楽所雅亮会(がくそがりょうかい)の奉仕で舞楽の奉納もなされ、舞楽開始の儀式的舞曲「振鉾(えんぶ)」をはじめ、慶賀の時に舞われる「延喜楽(えんぎらく)」など、優美な雅楽の音色と舞が相まって参拝者を終始魅了していた。
560
:
黒澤主義
:2009/10/05(月) 20:36:00
後世の「楠公」人気に迫る 千早赤阪村で企画展
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/091005/osk0910050148000-n1.htm
南北朝時代に活躍した武将、楠木正成の資料を集めた企画展が20日から、ゆかりの地の千早赤阪村水分の村立郷土資料館で開かれる。12月6日まで。村の担当者は「正成がそれぞれの時代にどのような存在だったのかがみえてくる」と話している。
正成は永仁2(1294)年、千早赤阪村で生まれたとされる。後醍醐天皇とともに鎌倉幕府に対抗し、千早城で幕府軍を迎撃するなどして倒幕に貢献。その戦いぶりなどは古典「太平記」に記されているが、企画展では主に江戸時代以降の約20点を展示している。
正成・正行親子の壮絶な人生を描いた享和元(1801)年の「絵本楠公記」は、江戸時代後期に庶民の人気を集めた。また、大正3(1914)年に発行された雑誌「少年倶楽部」の付録の肖像画も展示。後醍醐天皇に尽くした正成は、明治から昭和初期の教科書や少年雑誌に頻繁に登場しており、子供にも人気があったことをうかがわせる。
午前9時〜午後5時。月曜(祝日の場合は翌日)休館。問い合わせは村立郷土資料館((電)0721・72・1588)まで。
(msn産経ニュース 2009年10月5日)
561
:
よっさん
:2009/10/07(水) 15:09:47
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/091007/20091007018.html
国重文「千貫櫓・多聞櫓・金蔵」 10日から特別公開
2009年10月7日
大阪城天守閣は10日から12日までの3日間、1620年に建てられた城内最古の建造物「千貫櫓(せんがんやぐら)」と、現存する同種の櫓の中で最大規模を誇る「多聞櫓(たもんやぐら)」、江戸幕府の金蔵の中で唯一現存する「金蔵(きんぞう)」の内部を特別公開する。いずれも国の重要文化財で、年1回しか公開されていない建物。入場料は大人200円。
同天守閣によると、千貫櫓は大手口を守る隅櫓。かつて大阪の本願寺を攻めた織田信長が、隅櫓からの横矢に悩み「銭千貫出しても取りたい」と言ったことにちなみ、後の人が千貫櫓と呼ぶようになったという。
多聞櫓は、二の丸への出入り口である大門を組み込んだ構造となっており、渡櫓と続櫓からなる。敵兵の侵入に備えて「槍(やり)落とし」の装置があり、渡櫓の中央の部屋は約70畳の広さがある。
金蔵は、江戸時代に金貨や銀貨を保管した建物。床下は石敷き、入り口は二重の土戸と鉄格子戸の三重構造といった防犯と防災に工夫を凝らした構造となっている。
公開時間は午前10時〜午後5時。内部の公開のほか、幕末の解体修理の際に出たとみられる古瓦などの展示や、多聞櫓内で大阪城の発掘調査の映像を放映する。問い合わせは電話06(6941)3044、同天守閣へ。
562
:
よっさん
:2009/10/08(木) 17:08:00
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20091008ddlk27070469000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/137 愛染堂 大阪市天王寺区 /大阪
◇愛の神様 小説、映画にも 多宝塔は市内最古の木造建造物
家隆塚(かりゅうづか)からすぐ南にそびえ立つのは、「愛染(あいぜん)さん」として親しまれている愛染堂勝鬘院(しょうまんいん)の多宝塔だ。江戸時代に出版された「摂津名所図会」の勝鬘院の絵には、多宝塔のすぐ近くに、こんもりした土盛りの上に松の木が植わっている家隆塚が描かれている。
愛染さんの山門前から坂が下っている。これが真言坂、源聖寺坂、口縄坂に続く天王寺七坂の一つ、愛染坂だが、坂を下りるのは後にして、大阪案内人の西俣稔さんと、愛染さんの朱塗りの門をくぐる。ここの夏祭り「愛染まつり」は、大阪の夏祭りの幕開けとなる。まつりの様子は7月に紹介した。
本堂の裏手に回り、高さ22メートルの多宝塔を見上げる。聖徳太子によって593年に創建されたが、織田信長と石山本願寺の戦の際、本願寺勢が「勝鬘の城」と称して塔に立てこもって戦ったため、信長によって焼かれてしまった。豊臣秀吉が戦勝祈願のために1597年、再建したものが今に残る。国の重要文化財で、大阪市内で最古の木造建造物だ。塔の内部には、再建の際に奉納された極彩色の壁画がある。1902(明治35)年のサンフランシスコ万博に、日本建築の代表として模型が出展された。
再建の折、秀吉が植えたという、紅白の花が同時に咲く日月梅(にちげつばい)があったのだが、戦災で枯れてしまった。愛染さんに50年務める90歳のおばあさんは「そら、きれいやった」と懐かしむ。その跡には碑が建っている。
愛染さんで連想するのは「愛染かつら」。作家、川口松太郎の小説で、1938(昭和13)年に映画化されたから、年配の方にはおなじみだろう。子持ちの未亡人の看護婦(今は看護師というが)と大病院の息子との恋愛を描いて、「花も嵐も踏み越えて」の主題歌とともに大当たりした。主演は田中絹代と上原謙。
本尊の愛染明王は愛の神様で、良縁を願う男女の参詣が昔から絶えず、縁結びの霊験あらたかとされた霊木が「愛染かつら」。川口松太郎は東京生まれだが、関東大震災後、逃れてきた大阪で、この霊木をモチーフに小説にした。
「桂の大樹にかずらが絡まるさまが、夫婦や男女の愛を表わしているといわれてるんです」。西俣さんが愛の解説をするのがおかしい。その霊木は上部が切られている。空襲で焼けたのだ。山岡武明住職(35)によると、多宝塔と、徳川秀忠が1602年に再建した本堂以外は焼かれてしまったという。
霊木の傍らには、戦後の62年、リメークされた映画で主演した岡田茉莉子らが、ヒットを祈願して植えた桂の木が、ハート形の葉を茂らせている。「霊木は枯死しているんですが、かずらはだんなさんが死んでも浮気せずに寄り添っているわけです。今も映画を知らない若い方々が来られます」と山岡住職。
ロマンチックなお寺ですね。じゃ次に行きましょうか。「いえいえ、それだけじゃないんです」と西俣さんが引き止める。「ここは社会福祉発祥の地。貧しい人を救うのが愛染さんなんです」【松井宏員】
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◇「楽しく学ぶ大阪学」受講生募集
大阪案内人の西俣稔さんが講師を務める「楽しく学ぶ大阪学−大阪の歴史と異文化・伝統芸能」が13日から、大阪市北区梅田3の毎日文化センターで開講します。講義のみならず、町歩きをしたりモンゴル、沖縄料理店などを訪ねたり、町に出て異文化に触れます。
テーマは大阪の町名、川と橋、大阪の中の沖縄と奄美、韓国伝統音楽など、計12回。毎月第2、4火曜の午後7時〜8時半。受講料は3カ月1万2600円。申し込みは毎日文化センター(06・6346・8700)。
563
:
よっさん
:2009/10/09(金) 15:55:09
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20091009ddlk27100308000c.html
なにわアカデミー:/55 大阪産業大工学部玉野研究室 /大阪
◇大阪城の石垣は世界水準 高さも最大32メートルと日本一
◇「美しい曲線には意味がある」
大阪を代表する観光名所であり、府民の憩いの場としても親しまれる大阪城(大阪市中央区)。豪華な天守閣に目が行きがちだが、大阪産業大工学部の玉野富雄教授(60)=地盤工学=は「大阪城の石垣は日本一。世界にも誇れる水準」と考え、石垣の実地研究を続けている。
豊臣秀吉が築いた大阪城は大坂夏の陣で落城し、現在残る石垣は江戸時代初期の1629年、徳川幕府が再建した。玉野教授らの調査研究で、豊臣の石垣の前方に徳川の石垣を築く二重構造にすることで、より強固な造りとした可能性が高まった。
ボーリング調査により、大阪城の石垣は最大で高さ32メートルと、日本一高いことが確認されている。石垣に使用されたのは、すべて花こう岩。瀬戸内海の島々や、遠くは約420キロ離れた九州から海路で運ばれた。他の城では、奥が先細りした形の石が使われているが、大阪城では石を直方体のまま切り出しており、技術の高さがうかがえる。「大阪城再建にかかったのはわずか10年。この間に100万個の石を運び、手作業で積み上げられたのは、まさに天下統一を成し遂げた徳川幕府だからこそ」と評価する。
石垣は、機械的に積み上げられたのではない。よく見ると、縦方向にも横方向にも緩やかなカーブがかかっている。安土城などは直線的に積まれているが、大阪城は上部に行くほど反っている。面の部分も中央部に向かってへこむ形で美しい曲線を描く。カーブをつけることで、石垣の強度がどう変わるのか、研究室の学生が現在、卒業論文のテーマとして研究している。「美しいものには、力学的に意味がある」。玉野教授はそう確信している。
元々、大阪市職員だった玉野教授。大阪南港トンネル事業など地下開発にかかわる事業に携わった。94年、同大学に着任する際「地域に貢献する仕事をしたい」と思い、大阪城の石垣を研究テーマの一つに選んだ。城は工学的な視点だけでは解明しきれないため、大阪城天守閣の研究員らと共同で、歴史的観点を踏まえた研究を実施している。
近年、景観への意識の高まりに配慮し、橋などをあえて石造りにする動きがある。石垣を研究して力学の原理を解明することは、昔の技術を現代に生かすことにつながる。また、大阪城公園は災害時の避難場所にも指定されており、江戸期以降、繰り返し起きた大地震に耐えた石垣の強さを調べておく必要性は高い。
玉野教授が石垣とともに地域貢献の一環として研究しているのが、1704年に付け替えられた大和川の流域環境の変遷について。「昔の事業をきちんと評価して重要性を明らかにすることは、現在の治水対策にもつながる」。300〜400年前、先人が大阪で成し遂げた偉業を現代に広く伝えるため、玉野教授の研究は今後も続く。【田中博子】
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◇大阪産業大工学部都市創造工学科玉野研究室
学科は、道路や橋などの建設にかかわる総合的な技術を学ぶ分野と、環境問題や都市計画などを学ぶ分野に分かれる。同研究室には大学院生1人と学部生5人が在籍。石垣の形状を実測するなどの実地研究のほか、地震の衝撃力で物体はどう変化するかなどを調べている。
564
:
よっさん
:2009/10/09(金) 16:13:01
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20091009-OYT8T00027.htm
石上露子の歌碑除幕
今年で没後50年を迎えた富田林市出身の歌人・石上露子(いそのかみつゆこ)(本名・杉山タカ、1882〜1959)の歌碑の除幕式が、命日の8日、河南町の高貴寺であり、露子の親族や碑を建立した同市の文化サークル「石上露子を語る集い」のメンバーら約40人が、露子が残した作品の世界に思いをはせた。
同寺は露子と息子2人の墓があるゆかりの場所で、歌碑には、晩年の作品「人の世の 旅路のはての 夕づく日 あやしきまでも 胸にしむかな」が刻まれた。式では、同サークル代表の宮本正章さん(72)が「あなたとあなたの文学に思慕を寄せる私たちの行為を、安らかな心で受け取って下さい」と露子に呼びかけ、参列者が献花した。
一方、露子研究家の松本和男さん(78)(東京都)が同日、「石上露子文学アルバム」(A5判、167ページ)を自費出版した。所蔵写真約200枚で露子の作品や生涯を振り返る試みで、松本さんは「60年以上、情熱をかけてきた研究の集大成」と話しており、同市立公会堂で12日に開かれる「没後50年記念の集い」で、1部2000円で販売する。問い合わせは同サークル(0721・29・1576)。
(2009年10月9日 読売新聞)
565
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/10/13(火) 21:09:11
上方落語:「繁昌亭」入場者50万人を達成
上方落語の定席、天満天神繁昌亭(大阪市北区)が13日、総入場者50万人を達成。50万人目となった大阪府池田市の無職、松井清さん(66)に上方落語協会の桂三枝会長らから繁昌亭年間無料通行手形など記念品が贈られた。
繁昌亭は06年9月15日に開場し、先月3周年を迎えたばかり。昼席の定席を中心に、上方落語の本拠地として約200人の協会員が連日芸を披露。大阪の観光名所としても定着し、人気を呼んでいる。
またこの日、来場100回を先月達成した堺市役所職員、前川和房さん(57)に感謝状が贈られた。
三枝会長は「こんなに早く50万人が達成できるのはうれしい限り」と話した。【濱田元子】毎日新聞 2009年10月13日 13時32分
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091013k0000e040067000c.html
566
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/10/14(水) 10:22:27
実は国内最古のカフェ? 大阪・豊中の自治会館(1/2ページ)
2009年10月14日7時34分
http://www.asahi.com/culture/update/1005/OSK200910050057.html
大阪府豊中市のとある自治会館。その古い木造建物が、日本にコーヒー文化を広めたとされる喫茶店「カフエーパウリスタ」の1号店ではないかと注目されている。もしそうなら、国内最古の現存するカフェ建築になる可能性が高い。市は「埋もれていた文化財の発見か」と本格調査に乗り出す。
今も東京・銀座に1店舗を構えるパウリスタは、大正期に全国で26店舗を展開した。関東大震災と戦災で資料を失い、1号店は長らく1911(明治44)年12月に開店した銀座店と考えられてきた。
ところが03年、店を経営する日東珈琲(コーヒー)(東京)の長谷川泰三社長(当時)の元に、予想外の一本の電話がかかる。「箕面にパウリスタがありました」。電話の主は大阪府箕面市の市史担当職員だった。
箕面有馬鉄道(現・阪急電鉄)の箕面駅前が写った明治当時の絵はがきを拡大鏡で調べ、駅前の建物の壁にカタカナで「カフエーパウリスタ」の文字を発見。さらに、明治44年6月24日付の大阪朝日新聞の広告に「箕面公園入口 カフエーパウリスタ」が6月25日開業、とあるのを見つけ、連絡してきたのだった。
なぜ箕面に出店したかは不明なままだが、長谷川さんは08年に出版した著書で「箕面店が1号店」と明記。「箕面市役所職員たちによる発見は『日本珈琲史』を新しく書き換えた快挙」とたたえた。
箕面店の発掘から6年後。今度は箕面の隣にある豊中市で、発見があった。
阪急豊中駅前にある木造2階建ての「豊中クラブ自治会館」。地元住民の交流の場として豊中連合自治会が運営している。今年6月、「箕面市から移築したらしい」と自治会長から話を聞いた豊中市教委の職員が箕面市立郷土資料館に赴くと、屋根や窓の形が自治会館と似た建物が。パウリスタ1号店だった。豊中と箕面がつながった。
8月、長谷川さんが会館を見学した。今の建物はトタンで壁全面が覆われ、昔の姿は分からない。しかし、2階部分には天井に細かい細工が施され、丸みを帯びたアーチ形の柱などが、面影を感じさせるという。裏側の2階にある凸形の窓枠の形は、当時の写真にある1号店と同じ形のようにも見える。
「8割方間違いないが確実な証拠がほしい」と長谷川さん。豊中市は建築の専門家に詳細な調査を依頼し、写真と自治会館が同じ建物か確認し、保存方法なども検討する方針だ。
日本の喫茶店の歴史にも詳しい長谷川さんは「本当に箕面店が移築されたのならば、現存する国内最古のカフェになる。文化財としての価値は高い」と期待。全日本コーヒー協会(東京)も「東京にあった古い喫茶店は関東大震災や戦争で焼けた。現存するならば最も古い建物の一つになるだろう」としている。(柳谷政人)
567
:
よっさん
:2009/10/15(木) 22:28:59
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20091015ddlk27070443000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/138 愛染堂 大阪市天王寺区 /大阪
◇石井十次の「隣人愛」 社会福祉の理念、後世に受け継がれ
そもそも愛染堂は、聖徳太子が建立した四天王寺の一部、施薬院が源と伝わる。施薬院は、貧しい人々に薬を施すため、あらゆる薬草を植えていた。
大阪案内人の西俣稔さんは「愛染坂を下りて松屋町筋を越えた所に、高津入堀があったんです。今は阪神高速の高架が上を通っていますが、そこに架かっていたのが愛染橋。その近くに1937(昭和12)年、愛染橋病院ができます。付近は当時、スラム街でした」と語り始めた。
1903(明治36)年、内国勧業博覧会が天王寺で開かれる。明治天皇が通るというので、スラム街の住人は釜ケ崎に移転させられるのだが、こうした人々を救済するため、岡山で孤児院を営んでいた石井十次は明治末、夜学校や保育所を愛染橋で始めた。
「地域の人の自立を促す隣保事業の開祖といえるでしょう」と、愛染橋病院事務局長の松本幸雄さん。石井の死後、後援者だったクラボウ社長の大原孫三郎が1917(大正6)年、石井記念愛染園を設立し、医療や教育、住民の生活や健康相談に力を注いだ。
「貧困の一番の原因は、親の病気だと石井は分析した。仕事ができなくなるからです」。病院が必要だという石井の遺志を継ぐ形で、病院は28床でスタートした。貧しい人には無償で診療し、完全看護を実施した。
さらに大原は1919(大正8)年、貧困をなくすためにはどうしたらいいかを研究する「大原社会問題研究所」を愛染橋に設立した。今は法政大の研究機関となっている。
愛染橋病院は「お産の病院」として、ピーク時には年間3000件以上の分娩(ぶんべん)を手掛け、現在も周産期医療の拠点となっている。それだけでなく、貧困者の無料・低額診療や、高齢者の診療に力を注ぎ、西成区の保育園では労務者の面倒も見る。石井の「隣人愛」の理念が脈々と息づいている。
病院は浪速区日本橋東3から、4年前に日本橋5の電器街近くに移転した。市立日東小学校のグラウンドに敷地を提供する代わりに、現在地の提供を受けた。松本さんは「地価の安い郊外に移るという案もありましたが、この地域を出ると愛染橋じゃなくなる。この名前は大事にしていきたい」と話す。
旧病院跡に「愛染園跡地」の記念碑を建ててほしいと、市に要望しているそうだ。愛染に込められた社会福祉の理念を伝えるためにも、ぜひ実現してほしい。西俣さんは「困窮者に目を向ける愛染さんの名前が受け継がれている。これも大阪の誇り」。愛染の名には、まさに愛が込められているのだ。
◇
愛染さんの隣の大江神社をうろついていて、けったいなものを見つけた。阪神タイガースのバット形の応援グッズが柵に差し込まれ、壁には古いスポーツ紙などが張り付けてある。なんでここがタイガースコーナーになっているのか。
狛犬(こまいぬ)が虎なのだ。通称「狛虎(こまとら)」。由来については、神社が空襲で焼けて資料の類(たぐい)が残っていないので不明だそうだが、かつて境内にあった毘沙門天の守護として設けられたようだ。明治初めに「あうん」の「うん」の方がどこかへ持ち出されて、「あ」だけが残っていた。
手書きの「狛虎由来記」によると、02年、星野仙一監督が就任した時、一人のファンが狛虎を見つけて必勝祈願したところ、翌年、快進撃。霊験あらたかというので、氏子さんたちの尽力で「うん」が建立され、晴れて一対となった。これが口コミで広まって、ファンが必勝祈願にやって来る名所となった。「キャンプ前やお正月などに多いですね。沖縄や北海道からも」と阪上信子禰宜(ねぎ)。
江戸時代の1817年に建てられた松尾芭蕉の「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」の句碑もある。愛染坂と並行して石段が下る。101段の石段は「百歳(ももとせ)の階段」と名付けられている。
石段の脇には「夕陽岡」と刻まれた緑色の石碑が鎮座している。ここも夕日のスポットとして親しまれている。【松井宏員】
568
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よっさん
:2009/10/17(土) 09:57:04
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20091017-OYT8T00119.htm
「旧西尾家住宅」重文に
近代日本の歩み伝える 文化審答申
国の文化審議会が16日、文部科学相に答申した重要文化財建造物に、府内から、「旧西尾家住宅」(吹田市内本町2)が選ばれた。府内の同建造物は98か所目で、近代和風建築としては3か所目となる。
選ばれたのは、主屋と東西2棟の離れ、茶室など計7棟。江戸後期の米蔵を除き、明治から大正にかけて建設された。主屋や茶室は伝統的な和風建築を基本とする一方、離れ東棟では、ガラス格子をはめたサンルームやステンドグラスなど、近代的デザインを採用しているのが特徴。
淀川水系の川港として栄えたこの地域で庄屋を務めた西尾家が、新しい文化や生活洋式を取り入れている様子がうかがえ、近代日本の歩みを現在に伝える建物として評価された。
現在は吹田市が管理し、一般公開されている。問い合わせは、旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)(06・6381・0001)へ。
(2009年10月17日 読売新聞)
569
:
名無しさん
:2009/10/18(日) 11:54:49
スレ保守age
570
:
黒澤主義
:2009/10/20(火) 00:49:48
近松の舞台を訪ねて 梅田墓などファンが見学 大阪
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/091018/osk0910180150002-n1.htm
近松門左衛門の作品などに登場する梅田墓跡(大阪市北区)を中心に、近松文学の舞台を訪ねる見学会が16日開かれた。「NPO法人まちかど探検クラブ」(奥谷博理事長)が、梅田北ヤードの再開発で存亡の危機にある梅田墓の名を後世に残そうと企画。近松作品の愛読者や歴史ファンら約20人が梅田橋跡や露天神社、北向き地蔵などゆかりの地をめぐった。
一行は、アクティ大阪展望台から大阪駅北ヤード2期開発地を眺めた後、JR梅田貨物駅構内の一角に残る梅田墓跡地を見学。同クラブの島田浩三さん(66)から「梅田墓は地図には載っていませんが、浄瑠璃や歌舞伎に多用されるなど、大阪の文化や歴史を知るうえで重要」と説明。参加者は墓石に記された年号を調べたり、供養塔に手を合わせたりして江戸時代に思いをはせていた。
梅田墓跡地には鉄道・運輸機構が「無縁墳墓等改葬公告」を行っているが、改葬先などは具体化していないという。
見学会は11月21、28日、12月12日にも行う予定。参加費500円。問い合わせは同クラブの島田さん((電)06・6309・3590)。
(msn産経ニュース 2009年10月18日)
571
:
よっさん
:2009/10/22(木) 09:58:46
http://www.nhk.or.jp/osaka/lnews/06.html
小林一三愛用の茶道具展
阪急電鉄の創業者で茶人としても知られた実業家、小林一三が集めた重要文化財の掛け軸や千利休の茶しゃくなどを集めた展覧会が大阪で開かれています。
小林一三は明治から昭和にかけて活躍した実業家で、阪急電鉄や宝塚歌劇団などを創設する一方若いときから茶の湯に親しみ茶人としても知られています。展覧会は生前集めた品を展示する美術館が新たに完成したことを記念して開かれたもので、愛用していた茶道具など150点余りが展示されています。国の重要文化財に指定されている鎌倉時代のかけ軸「佐竹本三十六歌仙切藤原高光」は、もともとは平安時代を代表する歌人や和歌を描いた一続きの巻物でしたが、大正時代に海外への流出を防ぐため日本人の実業家らに切り売られたものの1つです。また、安土桃山時代から江戸時代に活躍した千利休をはじめとする5人の茶人が別々に作った茶しゃくを利休の子孫が集めて竹筒に納めたとされる珍しいものや、与謝蕪村が俳句とともに描いた絵などもあり、訪れた人たちが熱心に見入っていました。この展覧会は来月29日まで大阪・池田市の逸翁美術館で開かれています。
572
:
よっさん
:2009/10/22(木) 10:03:17
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/091021/20091021022.html
「しつらいの文化」復活へ 官民共同で祭事盛り上げ
2009年10月21日
天神祭で有名な大阪天満宮(大阪市北区)周辺では、官民共同でもてなしの町並みづくりを進めようと、祭りなどに合わせた飾り付け「しつらいの文化」の復活に力が注がれている。今夏の天神祭をはじめ、今月25日の流鏑馬(やぶさめ)神事でも、表参道で幔幕(まんまく)を取り付けるなどし、雰囲気の創出に取り組んでいる。
取り組みは、地域住民と大阪市が町並みの整備や地域の魅力発信に取り組む「HOPEゾーン事業」の一環。その中の天満地区HOPEゾーン協議会が、昨年1年間町づくりについての検討を重ね、「まちなみガイドライン」を完成させた。
「しつらいづくり」はガイドラインに基づいて実施。同協議会によると、天満地区では、7月の天神祭をはじめ四季折々の多彩な祭りに合わせ、しつらいで町並みに花を添える生活文化があったという。
今年の天神祭では、江戸時代に建物を装い、演出した幔幕の飾り付けを同事業として初めて実施。今月の流鏑馬神事でも、当日に幔幕11枚を設置するほか、前日までにちょうちん約60丁や、絵馬短冊を付けたササの飾り付け約150個を徐々に取り付けていく。同協議会では「祭事に向けたよそおいの変化にも注目してもらえれば」と話している。
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よっさん
:2009/10/22(木) 11:03:44
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20091021-OYT8T00071.htm
「日露」戦況伝える電報
司馬遼太郎記念館 きょうから46通公開
東大阪市の「司馬遼太郎記念館」で21日から、日露戦争(1904〜05)の戦況を東京から静岡県の新聞社に伝えた電報46通が公開される。当時のニュースが都市から地方に広がる様子を示すもので、来年2月末まで開催中の企画展「『坂の上の雲』が書かれた書斎風景」の関連史料として展示。同記念館の上村洋行館長は「国民の関心に応えようとする、当時の地方ジャーナリズムの動きを感じられる貴重な資料」と話す。
司馬さんの知人だった柳澤幸信さん(99年死去)が、同県掛川市の新聞社に勤めていた父親が残した電報を、台紙に張り付けて保存。柳澤さんの親族が今年7月、同記念館に寄贈した。
「ケサレウヨウセンレウュ」=今朝 遼陽(中国・東北部の都市)占領=、「ステセルコーフクモーシデタ」=ステッセル(ロシア軍司令官)降伏申し出た=など、戦況を刻々と伝える電文が記されている。発信元は不明だが、東京から打電されており、同記念館は「軍当局の発表か、都内発行の新聞の号外を伝えたものでは」と推測する。
柳澤さんは約30年前、日露戦争期の日本を舞台にした「坂の上の雲」の連載を書き終えた司馬さんに、電報を見せたとみられる。その際、司馬さんがサインとともに「坂の上の雲 断片」と書いた台紙も展示する。
(2009年10月21日 読売新聞)
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よっさん
:2009/10/23(金) 12:57:28
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20091022ddlk27070343000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/139 浮瀬 大阪市天王寺区 /大阪
◇有名料亭でまずは一献 唯一名残とどめる芭蕉の句碑
天王寺七坂の愛染坂と清水坂の間に、江戸時代、その名も高き料亭「浮瀬(うかむせ)」があった。当時のガイドブック「摂津名所図会」や錦絵「浪花百景」には、雪の日の浮瀬が描かれているから、雪景色がさぞ風流だったのだろう。
2階の座敷からは、瀬戸内海を行き交う舟の白帆や淡路島が見渡せ、大坂を訪れた人はまず、ここで一献やったとやら……。2代目市川団十郎も来たし、浄瑠璃の舞台にもなった。与謝蕪村は句に詠み、十返舎一九は「東海道中膝栗毛」で、「秋はうかむ瀬の月」を大坂の名物に挙げている。
ただ、「南総里見八犬伝」の作者、滝沢馬琴は「うかむ瀬も塩梅(あんばい)名ほど高からず」と、辛口のコメントを残している。
浮瀬の名は、杯の名に由来する。あわびの貝殻で作った杯で、酒7合半が入ったとか。貝殻の杯で酒を干すなんぞ、なんて風流な。一度、飲んでみたかった……。さすがに、それほどの酒量を干す人は珍しかったらしく、飲み干した人の名を記す名簿があったという。昨今、テレビでは大食いがもてはやされ、アイドルまでいるが、大酒飲みははやらないようで……。
この浮瀬、明治中ごろには姿を消したらしい。その場所は、大阪星光学院中学・高校の敷地内で、校舎から西へ坂道を下り、テニスコートの傍らにあたる。
木立の中に、いくつもの碑が建ち、「浮瀬俳跡蕉蕪園」と名付けられている。中でも最も古色蒼然(そうぜん)たる石碑は、松尾芭蕉の「松風(しょうふう)碑」。高さ2・2メートルの花崗岩には「松風の 軒をめぐりて 秋くれぬ」の句が刻まれている。
同学院発行の冊子によれば、芭蕉は1694(元禄7)年9月、死の半月ほど前に浮瀬を訪れ、亭主に頼まれてこの句を吟じたという。
句碑は1800(寛政12)年に建立され、唯一、浮瀬の存在を今に伝える。一時、校舎前に移されたが、1982年、現在地に戻し、整備された。この時、新たに蕪村の「うかぶ瀬に 沓並べけり 春のくれ」の句碑も建てられた。
「蕉蕪園」は事前に学院に頼めば見学できる。俳句をたしなむ人が折々に訪問するという。
◇
このあたりの地名は伶人(れいにん)町という。大阪案内人の西俣稔さんが「昔、ロシアからレーニンが訪れたから……ではなくて、四天王寺の舞楽演奏者が住んでいたからです」と解説。
聖徳太子が仏教を広めるために舞楽を演奏する楽師を集めて、四天王寺に楽所を置いた。この楽師を伶人といい、東儀、林、園、岡の4流8家の屋敷があったのだ。幕末の動乱で伶人は職を失い、東京へ移って宮内庁に仕えた。「君が代」を作曲した林広守、「海ゆかば」の東儀季芳は、伶人8家の流れをくむ。
◇
前回、愛染橋病院のくだりで、大原社会問題研究所について触れた。十分に説明する余裕がなかったが、なんとタイムリーなことに、1919(大正8)年に創立されて今年で90年になるのを記念したシンポジウムが大阪歴史博物館で11月3日に開催される。「大原孫三郎がミュージアム、図書館、そして大阪にのこしたもの」と題し、研究者らが大阪時代の研究所の活動などについて話す。参加費500円。問い合わせは同博物館(06・6946・5728)へ。【松井宏員】
575
:
黒澤主義
:2009/10/25(日) 01:32:26
【記者も参加 曳け!だんじり】(上) 町の力を1つに 「絆」実感し疾走
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/091020/trd0910201415002-n1.htm
「ソーリャ! ソーリャ!」
大阪府貝塚市南西部の府道。掛け声とともに、綱を持つ曳(ひ)き手がいっせいに走り出した。高さ2・5メートル、重さ約4トンの地車(だんじり)を曳くのは小学1年生から20代の青年団まで、総勢約200人の男女。だんじりの前面には、「年番長」など町会幹部らが乗る。
交差点に差しかかると、見せ場のやり回しだ。「前梃子(てこ)」と呼ばれるブレーキ係2人が左右の車輪の前に太い木の棒を思い切り差し込んで、だんじりのスピードを緩める。次の瞬間、だんじりの後ろに突きだした「後ろ梃子」という方向舵を、十数人の「参拾(さんじゅう)人組」が曲がる方向へ引っ張る。遠心力で何人もが振り飛ばされるほどの勢いだ。
やり回しを終えると、だんじりはそのまま直進。屋根の上では、花形の「大工方」がうちわを手に軽快に拍子を取り続ける。いずれも20代後半から30代半ばの経験豊富な男達が演じる、息の合った技だ。
綱の周囲には、30代から40代の「若頭」と「世話人」が曳き手に併走する。また後ろ梃子のさらに後ろには、町内の女性による「救護班」や、幼児を連れた親子連れが走る。そこには、近くに住んでいるのであろう外国人の姿もあった。
だんじり祭りは、町内の子供からベテランまでが一つになって演出する、力のこもった年に一度の晴れ舞台だった。
■ ■
貝塚市王子町会のだんじりに、記者は世話人として参加した。祭りは王子にある南近義(こぎ)神社を氏神とする王子、地蔵堂、堤、窪田、橋本の5町会が集まって、毎年10月の第2土、日に開催される。
台風一過の今月10日午前5時半。夜も明けないうちから、そろいの地下足袋とはっぴに身を包んだ男女が、次々とだんじりのある会館に集まってきた。
世話人が直接綱を持ってだんじりを曳くことはない。役割の一つは綱先を曳く小学生たちを守ることだ。だんじりでは、走っている最中に一人がこけると後続が折り重なって倒れ、大きな事故にもつながる。
そこで世話人が併走し、足のもつれそうな子供の体勢を立てなおしたり、こけた子供を素早く列から引き離すのだ。特に人口の多い王子では子供の数も多く、世話人の責任も重く、安全第一を実感する。しかも元気な子供と一緒にひたすら走る、重労働でもある。
世話人会長の薬師正幸さん(49)は「この歳で2日間走るのはなかなかきつい。でも子供たちが将来のだんじり祭りを、この地域を担うんやから、大切にせなあきません」という。
午前6時。祭りがスタートした。「ソーリャ!って声出して走れよ〜!」
ともすると声を出すのを恥ずかしがるちびっ子たちに、世話人の声が飛ぶ。次第にだんじりのスピードが上がった。
■ ■
夜、祭りの雰囲気は一変する。屋根にたくさんの提灯(ちょうちん)を掲げただんじりが、ゆっくりと町内を練り歩き、幻想的な雰囲気があたりを包む。
昼間の綱の主役は青年団だが、夜の主役は子供たち。青年団の若者が勢いよく打ち鳴らすだんじりの中の鐘も、夜は子供たちが順番につく。こうして町内の子供たちは、だんじりに馴染んでいくのだと知った。
11日午後10時、本宮が終わり、倉庫にだんじりがゆっくりと収められて祭りが終わった。若い世代は、名残惜しそうに涙を流しながらその様子を眺めている。2日間、けがもなく走り終えた記者も、安堵感と「もう終わったのか」という寂寥(せきりょう)感が交互にこみ上げる不思議な感覚を味わった。
◇
一台のだんじりを中心に、実社会での属性を忘れ、地域の老若男女が力を合わせて繰り広げるだんじり祭りを追った。(池田進一)
(msn産経ニュース 2009年10月20日)
576
:
黒澤主義
:2009/10/25(日) 01:33:05
>>575
【記者も参加 曳け!だんじり】(中) 縦と横の関係、バランス良く
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/091022/trd0910221536007-n1.htm
今年6月。貝塚市内の中学校でソフトボール大会が開かれた。王子地区の祭りの参加者を世代別に分けた「青年団」「参拾人組」「若頭」「世話人」対抗戦。
祭りの上下関係は厳しい。10〜20歳代の若者からなる青年団は、上の世代に対する礼儀を忘れない。とはいえそれは、絶対服従といった悪い意味での“体育会系”ではない。祭りの準備のための総会では、世代間で厳しい言葉が飛び交う場面もある。祭りは一歩間違えば命に関わる状況もあり、生半可な関係の間柄では命を預けられないのだ。
ソフトボールの試合中も、「卑怯(ひきょう)やゾ!」などとヤジが飛び交った。上の世代もすきを見つけてヤジを返し、笑いあう。大人同士の健全な遊びが、言いたいことの言える雰囲気づくりに一役買っていた。
■ ■
だんじり祭はもともと五穀豊穣(ほうじょう)を願う稲荷祭がその始まりとされ、起源は18世紀初頭にさかのぼる。
大阪府岸和田市のだんじり祭が有名だが、府内では泉州地域をはじめ河内地域で、また和歌山、奈良、兵庫各県でも各地で行われている。300年近い歴史の中で、祭の運営からだんじりの改修、新造も含め、祭のすべてを地域の住民で行ってきた。
今年の王子の祭りを取り仕切った年番長の岡野恒雄さん(53)は言う。「今は村(地域)がひとつにまとまる手段がやな。毎年これに向けて練習したり、交流を図ったりして1年が祭を中心に動いていくからね」。
親世代から見た「子供の友人」、子供世代から見た「友人の父親」という関係を軸に、地域内での世代を超えた顔見知りが増えるケースは全国どの地域でもあることだが、子供から老年者までが祭りに参加することで、その関係をより強固にするのだという。
■ ■
一方、王子地区にも新興住宅地や新しいマンションが存在する。新住民は、祭りをどう考えているのか。
王子地区では平成8年にだんじりを新調し、大型化したが、その結果曳(ひ)き手の数が足りなくなり、新住民に参加を呼びかけた。祭りにはさまざまなしきたりがあり、密度の濃い人間関係もある。そのしきたりや人間関係を嫌がる人もいるが、積極的に参加する人も少なくなかった。今では祭りの役員として名を連ねる住民もいるほどだ。
10年前に大阪市から移り住んだ大森亮平さん(46)は、「新しく来た人間でも受け入れようとしてくれる姿勢はうれしいし、地域との結びつきは心強いです。子供もたちも喜んでいますしね」と話す。年番長の岡野さんも「旧住民と新住民とを区分けするつもりはない。祭が好きやから参加する、というのが一番いい形やから」と話す。
世代間の良好な上下関係という「縦の軸」と、古い地域と新しい地域との混在という「横の軸」がバランスよく組み合わさり、だんじり祭りが存続しているのだ。(池田進一)
(msn産経ニュース 2009年10月22日)
577
:
黒澤主義
:2009/10/25(日) 01:33:44
>>575
>>576
【記者も参加 曳け!だんじり】(下)神に感謝する祭り「たすきは何より重い」
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/091023/trd0910231443010-n1.htm
大阪府貝塚市王子のだんじりが参加する南近義(こぎ)神社を中心としただんじり祭りには、観光客の姿はほとんどない。見物人も地元の住民がほとんどだ。
2日間の祭りの期間中、だんじりに並走しながらビデオカメラを片手に走り回る女性の姿を見かけたが、聞けば彼女らは、曳(ひ)き手の雄姿を収めようとする地元の家族や友人たちだ。貝塚署によると、今年、南近義地区を訪れた観光客は約4千人だった。
隣の岸和田市では、今や全国的に知られるだんじり祭りに国内外から約60万人の観光客が訪れるのを思えば、その数はあまりに少ない。岸和田の場合ももちろん地域の祭礼だが、もはや泉州地区を代表する存在として観光客なくしては語れない、にぎやかな祭りとなった。
しかし貝塚の祭りの参加者たちは、そんな格差はあまり気にかけてはいない。その理由を、世話人のメンバーでもある南近義神社の一ノ瀬義平宮司(50)は、「だんじり祭りは地元の氏神、産土神(生まれた土地の守り神)に感謝するための祭りですから、観光客の存在は重要ではありません」と説明する。
祭りが賑やかなのに越したことはないのはもちろんだが、地域の中で地域のために行うという気持ちがある限り、祭りがなくなるということはない。
■ ■
見物人よりも深刻な課題が、王子地区のだんじり祭にもある。少子化による曳き手の減少がそれだ。祭りの中核を担う青年団は、一定の人員確保がどうしても必要になるが、最近はその人員確保に苦労しているという。祭りの関係者らは「無理やり酒を飲ますのではないか、などと悪いイメージを持つ人もいるし、団の内部の縦社会を嫌う人もいる」と説明する。
青年団の人数確保のため、どうしても1人の在籍期間が長くなり、結果として、上の世代である「世話人」「若頭」「参拾(さんじゅう)人組」も高齢化が進むということになっているのが現状だ。下の世代が上がってこない現状に、世話人会が地元で参加者を募ったこともあったが、反応はなかったという。
年番長の岡野恒雄さんは「有効な解決策があるわけではない。新興住宅地の住民らや子供たちに参加してもらうなど、地道にやっていくしかないのです」と話す。
■ ■
祭りが終わった11日、貝塚市王子の王子会館には、深夜にもかかわらず参加者たちが次々と集まり、互いの労をねぎらった。
前庭では、青年団や参拾人組など各組の役付きの人たちによる代替わりのあいさつが相次ぎ、花束贈呈や、胴上げ、記念撮影などで盛り上がった。
その最後にあった、青年団の団長の引き継ぎの様子が印象的だった。新団長に指名された若者は「青年団長」のたすきを手に「どうしてもこれがほしかったが、何よりも重い」と涙を流しながら来年の祭りの成功を誓った。
与えられた重責と未来への希望。地域再生の鍵はこういうところにあるのかもしれないと思わされた瞬間だった。(池田進一)
(msn産経ニュース 2009年10月23日)
578
:
黒澤主義
:2009/10/26(月) 19:10:42
さっそうと駆け抜ける 大阪天満宮で流鏑馬神事
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/091026/osk0910260256000-n1.htm
馬を走らせながら的を打ち破る「流鏑馬(やぶさめ)神事」が大阪市北区の大阪天満宮で25日、営まれた。室町時代の狩装束に身を包んだ騎手が参道をさっそうと走り抜け、沿道を埋めた観客をわかせた。
大阪天満宮の流鏑馬神事は、戦国時代に実施された記録が残っている。かつては矢を射っていたが、流れ矢が民家に飛び込み危険なことから、江戸中期ごろから的を半弓で打ち破る形になったという。
表門から約200メートルの間の3カ所に、薄い杉板の的を設置。関西大学馬術部の部員が馬を走らせながら、半弓で勢いよく的を打つと、大きな音とともに割れて飛び散り、見物客が歓声をあげていた。
また、この日に合わせて、境内では市内のイタリア料理店が集まり「秋の収穫祭」として屋台を出店。さらに、地元町会などが参加する「天満地区HOPEゾーン協議会」が、ちょうちんやササなどで参道を飾り、神事を盛り上げた。
(msn産経ニュース 2009年10月26日)
579
:
黒澤主義
:2009/10/30(金) 23:26:39
250年ぶり輝く本堂 摂津の西方寺
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20091028-OYT8T00083.htm
摂津市鳥飼八町の浄土真宗・西方寺で、約250年ぶりに建て替えられた本堂の落慶法要が営まれ、地元住民らが完成を祝った。
同寺は1475年(文明7年)の建立で、本堂は風雨にさらされるなどして傾いたり、雨漏りしたりと老朽化。1年3か月かけ、総ヒノキ造りで再建した。費用は、8年前から約60軒の檀家(だんか)らが積み立てていた浄財などで賄った。
法要では読経に続き、再建に貢献した人たちに感謝状を贈呈。稚児約35人も色鮮やかな衣装姿で登場し、式典に花を添えた。川那部慧遇住職(64)は「立派な本堂で、300年以上は持つはず」と話していた。
(読売新聞 2009年10月28日)
580
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/10/31(土) 00:38:31
石山本願寺跡か 大阪城天守閣近くから土器や焼け土
2009.10.30 23:58
大阪城天守閣(大阪市中央区)北側で、16世紀後半の素焼きの土器や焼け焦げた土などが市文化財協会の発掘調査で見つかっていたことが30日、分かった。同協会の佐藤隆事業担当係長によると、織田信長と本願寺勢力が争った石山合戦の舞台で天正8(1580)年に炎上した当時の浄土真宗本山「石山本願寺」に関連する可能性が高いという。石山本願寺の炎上後、豊臣秀吉が大坂城を築いたとされるものの、これまで明確な痕跡は見つかっておらず、幻の寺院の存在を裏付ける資料になりそうだ。
調査は、国特別史跡・大坂城跡整備に伴い、平成19年に約50平方メートルの範囲で行われた。地下約4メートルの地層から、「土師器(はじき)」と呼ばれる素焼きの土器の破片が少なくとも十数点、土壁の破片や焼けた土も確認された。ただし、調査当時は土器の年代特定が困難だったことなどから、石山本願寺との関連は不明だった。
佐藤氏が、土器の形や出土した地層を詳細に調べた結果、土器は天文年間(1532〜55年)後半から、天正8年までに使われた可能性が高いことを突きとめた。
さらに、土器が見つかった層や、直上の層は土が厚さ約1メートルにわたって積み重なっており、石山本願寺焼失後、大坂城築城に伴ってこの一帯が大規模に造成されたことが分かった。
発掘調査では、建物跡などは見つからなかったが、土器は石山本願寺にいた僧らが儀式や日常生活などに使ったと推定。焼けた土壁は、天正8年に炎上した石山本願寺の施設の一部とみられるという。
石山本願寺については、当時、日本に布教にきていたポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが母国に報告した中で、「豊臣秀吉の大坂城は旧城(石山本願寺)の堀の中に築かれた」と記されていることなどから、現在の大阪城公園内にあったというのがほぼ定説になっている。ただし、明確な遺構が見つかっていないため、今も場所は特定されていない。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091030/acd0910302358003-n1.htm
581
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/10/31(土) 00:39:04
戦国絵巻をほうふつ ナゾみに包まれた石山本願寺
2009.10.30 23:59
天下統一を狙う織田信長に対抗した本願寺勢力が、11年間にわたって拠点にした石山本願寺。大阪城天守閣(大阪市中央区)近くで見つかった少量の土器片は、覇権争いが繰り広げられた戦国絵巻をほうふつとさせる成果となった。
歴史教科書にも登場する石山本願寺は、戦国史研究にとって重要な寺院にもかかわらず、実態はほとんど分かっていない。寺があったとされる現在の大阪城公園内は大半が国特別史跡で、観光客でにぎわう場所でもあり、発掘調査が困難なことが大きな理由だ。
こうした中、平成19年の調査はわずか50平方メートルだったが、年代が特定できる土器や石山本願寺炎上に結びつく土壁などが見つかった。佐藤隆・大阪市文化財協会事業担当係長は、天正10(1582)年の本能寺の変で炎上した本能寺跡(京都市中京区)出土の土器などと丹念に比較しながら、16世紀後半と特定したという。佐藤係長は「見つかった土器は石山本願寺が勢力を誇った時期とほぼ合致した」と話す。
中近世に詳しい松尾信裕・大阪城天守閣館長(考古学)は「土器の年代は石山本願寺の時期でほぼ間違いない。現在の大阪城にあったとする説を裏付ける成果だ」と評価。土器が大坂城築城時の造成土の中にあったことから、「発掘現場から近い場所に石山本願寺の中心施設があった可能性が高い」と指摘した。
石山本願寺は信長の攻撃に備えて、要塞(ようさい)を思わせる堀や土塁を築いたとされ、石山合戦でも信長側の占領を許さなかったという。松尾館長は「石山本願寺は信長勢に屈しないほど難攻不落で、まさに城郭というべき寺院だった」とし、ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが「旧城」と記した点については「フロイスが城郭と感じるほど堅牢(けんろう)だったからだろう」と話した。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091031/acd0910310002000-n1.htm
582
:
名無しさん
:2009/10/31(土) 10:22:43
現在、石山本願寺は大坂本願寺が学会などでの第一呼称になっています。
NHKの番組でもそうなっていました。
新聞は情報が遅すぎますね。
583
:
酔々さん
:2009/10/31(土) 14:40:41
ご存じですか「笑いの世紀」09/8/20発行で、笑いとユーモアの集大成「笑いの世紀」が「日本笑い学会」から発行されました。執筆陣は大学教授・医者・芸能関係者を始め笑いに関心を持つ一般の人々まで多士済々です。これは笑う大阪人には一読の価値ありですよ
定価は本体2,800円+税。書店に無い場合は、TEL06−6231−9010創元社へ
「日本笑い学会」大阪市北区西天満4−7−12昭和ビル201号
TEL06−6360−0503(FAX共用)
584
:
名無しさん
:2009/10/31(土) 15:51:17
ごぶごぶ 上町の散歩
http://www.youtube.com/watch?v=6_eoKm7jWTk&feature=related
585
:
よっさん
:2009/11/01(日) 13:16:52
http://mainichi.jp/area/osaka/archive/news/2009/10/29/20091029ddlk27070421000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/140 清水坂 大阪市天王寺区 /大阪
◇四天王寺へ、石垣迫る参詣道 清水寺、3条の「玉出の滝」は市内唯一
大阪星光学院の南側の道に回ると、「きよ水」という名の喫茶店がある。まっすぐ行けば清水(きよみず)坂。石段を下りる。端は自転車用のスロープになっている。右側は星光学院のグラウンドの、左側は清水寺の墓地の石垣が迫り、なかなかに趣がある。
もとはコンクリートで固められた変哲のない坂だったが、大阪市が景観を主眼に改修した。坂の途中、清水寺の石垣に、ひときわ大きな石が組み込まれているのを見付けた。文字が刻まれている。「以他力造立」「発起 肥前屋久兵衛」「取次 美濃屋喜八」「万延」などと読み取れる。なんだろうか。
てんのうじ観光ボランティアガイドの松村基さん(72)に尋ねた。「清水坂は四天王寺参詣のメーンロード。船場などから松屋町筋を渡って大江神社の前を右に曲がって坂を上る。料亭浮瀬(うかむせ)も清水坂と共に大きくなったんです」。往来が多い坂だったと。
で、あの石は? 「私の仮説ですが」と前置きして、「万延は幕末の1860年で、寺の造立はそれより200年ほど前だから、石垣を造った顕彰でしょう。石垣は、坂道を歩きやすくするための修繕と、寺領拡大のためだったと思います」。
松村さんによれば、発起の肥前屋久兵衛はたぶん船場あたりの商人で、金を出したスポンサー。取次の美濃屋は寺とスポンサー、石工を取り次ぎ、計画を進めたのだろう、という。「以他力造立」は、「他力を以(もっ)て造立す」、つまり「自分の力だけで造ったのではない」という、浄土宗の他力本願を表す言葉だそうだ。なるほど、腑(ふ)に落ちる。
◇
坂を下り、細い道を左に進めば、街路灯の脇に、「たき道」と彫られた小さな道標がある。左手に折れると、坂の名前のもとになった清水寺だ。大阪の清水さんは「新清水」と呼ばれるが、四天王寺の支院で、直接、京都の清水寺と関係はない。江戸時代の1640年、京都・清水寺から、聖徳太子作と伝わる十一面千手観音像を移し本尊としたため、という。
大阪案内人の西俣稔さんが言うには「ここに清水の滝があるんです。大阪市内でたった一つの滝」。京都の音羽の滝を模した「玉出の滝」がそれ。境内を奥へ進むと、石垣から樋(とい)が3本突き出ていて、細い水が流れ落ちている。静寂に包まれた境内に、水の音だけが響く。
岩壁を落ちていく白水、といった滝のイメージからはちょっと遠いが、お寺の縁起に、四天王寺の池から流れ出る霊水が源、とあるのを見れば、清冽(せいれつ)に感じられてくる。
昔は滝の流量はもっと多かったようで、江戸時代の錦絵「浪花百景」には、音を立てそうなほどの3条の滝が描かれ、水ごりする人々も見える。また、境内にはカエデが茂り、秋ともなれば紅葉が見事だったという。
さらに、清水の舞台もある。その昔は淡路島まで見通せたという。戦災でコンクリート製に変わり、いま目に入るのはビルや高速道路といったコンクリートの塊ばかり。その陰から通天閣がのぞいていた。【松井宏員】
==============
◇毎日文化センター「古地図で散歩する大阪」受講生募集
大阪案内人の西俣稔さんの解説で、古地図を片手に大阪市内を歩きます。毎月第4日曜午後2時から。コースは、近松ゆかりの蜆川(しじみがわ)跡▽文人ゆかりの天王寺七坂▽偉人ゆかりの天満かいわい▽昭和が残る新世界▽京橋から大川沿い▽江戸・明治・大正の建築物が残る船場。
11月22日〜来年4月の計6回。受講料は9650円。申し込みは毎日文化センター(06・6346・8700)。
586
:
黒澤主義
:2009/11/04(水) 18:09:48
「昭和の大阪」写真展−人物や風景など懐かしい写真約260点を展示
http://umeda.keizai.biz/headline/620/
大阪市の公的住宅に関する情報を提供する「大阪市立住まい情報センター」(大阪市北区天神橋6、TEL 06-6242-1160)は11月6日〜8日、「『昭和の大阪』写真展」を開催する。
写真は1926(昭和元)年〜1970(昭和45)年ごろの人物や大阪の街並みなどを収めたもので、西山西山夘三記念すまい・まちづくり文庫、天神橋筋商店街や大阪市情報公開室が所蔵していたもののほか、一般から寄せられた125点など計約260点をパネル展示する。そのほか昭和のファッションや子どもの遊び方、遊び道具なども併せて紹介する。
「大阪市営交通局 昭和レトロ映像(約5分〜約30分程度)の上映や、同センターが発行する季刊誌「あんじゅ」の1〜40号の展示も併せて行う。
11月6日に開設10周年を迎える同センターが「10周年を機に大阪の暮らしを振り返るきっかけとするために」と企画した同展。住まい・まちづくり・ネットワーク担当の玉井明子さんは「懐かしい昭和に浸りに来てもらいたい」と話す。そのほか、記念シンポジウム(22日・23日、事前申し込み必要)や館内でのクイズラリー(23日まで)なども予定している。
写真展の会場は同館8階「大阪くらしの今昔館企画展示室。10時〜17時。入場無料。
(梅田経済新聞 2009年11月04日)
587
:
よっさん
:2009/11/07(土) 22:23:15
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/091107/osk0911071726004-n1.htm
200年の伝統「おやじ制度」なお健在、大阪・能勢の浄瑠璃
200年余りの歴史がある大阪府能勢町の「能勢の浄瑠璃(じょうるり)」の特色ある継承システムが、改めて注目されている。家元制度と違い、世襲にとらわれずに各流派が自由に弟子を育てる「おやじ制度」により、国の無形民俗文化財に選ばれて10年たった今も、安定的に伝統を守ってきた。“おやじ衆”は、日本を代表する人形座との人形浄瑠璃ジョイント公演を8日に控え、けいこに余念がない。
伝統芸能は多くが世襲を原則とし、実子や養子が跡を継ぐ家元制が主流。しかし能勢の浄瑠璃は、家元の役割を担う各派の「おやじ」が、世襲にとらわれず、数人の弟子を育てる仕組みだ。
現在のおやじ4人を指導してきた郷土芸能保存会相談役の山森高是さん(73)は「おやじ制度があったからこそ、200年にわたり安定的に継承できている」と話す。おやじには後継者を養成する義務があるため、町内の若者らを積極的に勧誘、浄瑠璃人口の拡大にも役立っているという。おやじは2〜3年で交代するが、年功序列でなく貢献度に応じて後継が決まる。
町の男性人口は約6千人だが、保存会の会員は220人に上る。最も多かった時期の6割に減っているが、おやじの1人、岡田博司さん(71)は「昔のおやじは、実の息子よりも弟子をかわいがるほどだった。代々、浄瑠璃を語れるのが能勢の男のステータス」と、継承に自信を見せる。
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/091107/osk0911071726004-n2.htm
浄瑠璃の魅力について、山森さんは「人間の義理人情がよくあらわれる。最初は難しい語りでも、みな次第にのめりこんでいく」という。
8日には、能勢町内の淨るりシアターで、国の重要無形民俗文化財に指定されている徳島県の「勝浦座」と共演する人形浄瑠璃のジョイント公演を行う。実行委員長の岡田さんは「浄瑠璃は情がないと語れない。これからも保存していきたい」と話している。
◇
「能勢の浄瑠璃」 江戸時代後期の文化年間に、大坂で義太夫節を聞き覚えて帰ってきた村人が酒席で披露したのが始まりとされる。太夫(語り手)と三味線だけの素浄瑠璃。文太夫派と井筒太夫派、中美太夫派、東寿太夫派の4派が受け継がれている。平成5年に大阪府の指定無形民俗文化財となり、11年には国の無形民俗文化財に選ばれた。
588
:
名無しさん
:2009/11/10(火) 20:03:38
俳優の森繁久弥さんが死去
映画「社長」「駅前」シリーズや舞台「屋根の上のヴァイオリン弾き」などで親しまれ、大衆芸能の分野で初の文化勲章を受章した俳優の森繁久弥(もりしげ・ひさや)さんが、10日午前8時16分、老衰のため亡くなった。
96歳だった。告別式、喪主は未定。
大阪府枚方市生まれ。早大商学部に在学中から演劇活動を始め、中退後、下積み俳優として東宝劇団、古川緑波一座などを渡り歩く。1939年、NHKにアナウンサーとして入局し、旧満州(現中国東北部)の新京放送局に勤務した。
戦後、新宿の「ムーラン・ルージュ」などの舞台に立った後、映画界に進出。「三等重役」「夫婦善哉」や「社長」「駅前」「次郎長三国志」シリーズなどに出演し、人間味あふれる独特の森繁節で幅広い人気を得た。
後年は舞台活動に力を入れ、20年に及ぶロングランとなったミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」のテヴィエや、「佐渡島他吉の生涯」の他吉などを当たり役とした。
テレビやラジオでも活躍する一方、自ら作詞・作曲して歌った「知床旅情」をヒットさせ、「アッパさん船長」など数多くの著書で多才ぶりも示した。
日本映画俳優協会や日本喜劇人協会の会長、日本俳優連合名誉会長などを務めた。
(2009年11月10日19時50分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20091110-OYT1T00983.htm?from=top
お悔やみ申し上げます。
589
:
黒澤主義
:2009/11/11(水) 14:27:04
ものの始まり・なんでもなにわ:/12 プラネタリウム/大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20091111ddlk27040475000c.html
◇1989年まで52年間活躍
◇電気科学館にアジアで初−−リンクの予定が突然変更
大阪市立科学館(大阪市北区、旧大阪市立電気科学館)地下1階。手塚治虫も通い、描いた黒い鉄アレイ型の先代「カール・ツァイス2型」プラネタリウムが鎮座する。日本で、また東洋でも最初のプラネタリウムだが、なぜ導入されたかは謎のままだ。
市電気局が四ツ橋に電気科学館を完成させたのは1937年。35年2月まではアイススケートリンクを造るはずだった。ところが2カ月後、4階まで鉄骨を組んでいたのに、リンクをプラネタリウム「天象館」に突然変更した。
導入は世界で25番目。国内では、翌38年に東京にもできる。しかし、46万円という独カール・ツァイス社製投影機の価格は、当時、小学校2、3校分。よほどの理由があったのかと加藤賢一・副館長(58)に尋ねると、「変更の経緯は分かりません。詳しく記した文献もない」と、意外な答えが返ってきた。
開館時の電気局長、木津谷栄三郎は、電気事業調査で8カ月欧米に出張し、プラネタリウムの母国ドイツの影響を強く受けた。帰国後転換を決めたとも言われるが、「視察は31年。その影響で導入したなら、そもそもリンク案はなかったはず」と加藤副館長は指摘する。さらに「阪急電鉄や大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)にプラネタリウム設置を持ちかけた天文学者の山本一清も、大阪市に提案した記録はない」。兵隊に天文教育を施すため軍部が裏で糸を引いた可能性もあるが、証拠はないという。
電気科学館はそもそも、電気供給で民間と競合していた電気局が、電気のある生活を宣伝しようと企画した“ショールーム”で、当初、美容室や大衆浴場をつくる案もあった。リンクも水を凍らせる能力をPRするためだったので、9000個の星が瞬く天象館は、結果的にうってつけの“広告”だった。
大阪大空襲で焼け残った電気科学館は、市民のよりどころともなった。同館70年記念誌(08年発行)には、「被災して歩く途中に見た科学館は、元気を出せと呼び掛けてくれているようだった」「空襲に遭った伯父が中に駆け込み助かった」などと振り返る手紙が寄せられた。主任学芸員、嘉数次人さん(44)は「商都『大大阪』ならではの先進的な施設だったから、無事残った喜びも大きかったのでは」と推測する。
一方、プラネタリウムは軍用天文学の拠点にも。日中戦争が始まると、軍事作戦に要る天文知識を学ぶため陸海軍の部隊が次々と来館した。月ごとの解説も「月と作戦」「星と方角」など、軍事訓練をにおわせる題が並ぶ。「皇紀元年建国の空」「大東亜の『日の出』」など、国威発揚を狙う解説もあった。
先代プラネタリウムは89年、電気科学館の移転を機に引退。日本製の2代目も先代と同じ9000個の星を映し出す。2000万以上の星を映す投影機もあるが、「肉眼で見える星は9000個。その臨場感を大事にしたい」と嘉数さん。先駆者だからこそ、現実感にこだわる。【林田七恵】
(毎日新聞 2009年11月11日)
590
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/11/11(水) 15:43:44
「九州説は無理…」新井白石以来の邪馬台国論争ゴール近し 纒向遺跡
2009.11.11 10:55
邪馬台国機内説の“本命”である奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡での大型建物跡の発見は、江戸時代中期の儒学者、新井白石が大和説を提唱して以来続く邪馬台国論争にほのかなゴールをかいま見せる成果となった。魏志倭人伝の解釈や発掘調査、科学力を駆使した研究の積み重ねによって、古代史最大の謎が解き明かされつつある。
「だんだん決着に近づいてきた」。畿内説を提唱する白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は強調する。
邪馬台国論争の歴史は古く、新井白石が大和説ののちに九州説を提唱し、国学者の本居宣長(もとおり・のりなが)も九州説を打ち出すなど本格化。現在は、考古学的なアプローチが中心だ。
纒向遺跡ではこの20年間、桜井市教委を中心に箸墓古墳(全長280メートル)など最古級の前方後円墳の調査を精力的に進めてきた。かつては4世紀の築造といわれたが、木の年輪幅の違いを利用して伐採年代を割り出す年輪年代測定法の成果などによって、3世紀の邪馬台国時代にさかのぼる可能性が高まった。
所在地論争の最大の決め手は卑弥呼が中国・魏から授かった金印の出土とされるが、丹念な調査が邪馬台国の実像をあぶり出しつつある。白石館長は「長年の研究の蓄積によって『九州説は無理だろう』という考古学研究者が大半を占めるようになった」と指摘し、「全容解明へ文化庁や県が調査に乗り出すなど態勢づくりが必要だ」と話した。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091111/acd0911111059006-n1.htm
591
:
よっさん
:2009/11/12(木) 20:19:49
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20091112ddlk27070417000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/142 天王寺七名水 /大阪
◆大阪市天王寺区
◇今もこんこんと「亀井の水」
◇足指4本、亀の水盤 建立から1400年を経て−−四天王寺
前回、紹介した「増井の清水」以外の「天王寺七名水」を探してみよう。
跡形もなかったり、井戸が残っていても水がかれているものがほとんどだが、今もこんこんと水がわき出ているのが、四天王寺亀井堂の「亀井の水」だ。楕円(だえん)形の石の水盤に、亀の口から水が注いでいる。追善供養のため、故人の戒名を書いた経木を水盤に投じる「経木流し」を頼む人が絶えない。
経木がたゆたう水盤を写真に撮っていたら、長いひしゃくで経木に水をかけていた寺の職員の南邦夫さんが教えてくれた。「水が出ている亀は明治時代に置かれたもの。水盤が亀の形なんです」
よく見ると、水盤には足が付いている。上の亀の顔が乗っかっていて見づらいが、右側からのぞくと、なるほど口も目もある。上の亀を見て、「だから亀井の水か」と納得するところだった。
「金堂の下から水を引いており、構造から見て、お寺を造るときに水盤も設けられた。私はそう考えています」。聖徳太子が四天王寺を建立したのは593年。この水は1400年以上、わき出ていることになる。
伝承によれば、そもそも寺を建てる際、小さな池に竜神がすんでいた。これを聖徳太子が封じて寺を建て、「白石玉出の水」と呼ぶようになった、という。南さんは「よく見てください。水盤の亀の足は4本指。亀で4本指は珍しいんですが、竜神様が4本指だからです」。白石玉出の水は、清水寺の「玉出の滝」の水源といわれる。
亀井の水を詠んだ歌は、西行法師や藤原定家など数多くある。南さんは「お堂ができたのが平安時代末期。亀の水盤に映る月や朝日を見ていたのでしょう」と推理する。話しているうちにも、経木流しを頼む人がやって来る。信仰と密接でいて、風流でもあるわき水だ。
四天王寺には、もう一つ、七名水の跡がある。中之門を入ったところの地蔵堂にある「逢坂の水」だ。柵で囲われた中に、石組みだけがある。説明文も何もない。元は国道26号脇の一心寺の前あたりにあったが、井戸跡は道路工事で取り払われ、それではあんまりだと、ここに移設されたという。
その一心寺の西にある児童養護施設、四恩学園の門の前に「玉出水舊(きゅう)跡」の石碑がある。どこがいつ建てたか不明だが、同学園が昭和20年代に、社会福祉法人の分園としてこの場所に設立された時には、もうあったらしい。
そのころはまだ園内に2カ所の井戸があり、石碑までわき水を伝わせて流していたという。古い職員の方は「昭和40年代の地下鉄谷町線の工事で水が出なくなり、井戸は埋めてしまった」と話す。
石碑があるのはいい方で、料亭「浮瀬(うかむせ)」の近くにあったという「有栖の清水」は跡形もなく、場所も定かではない。【松井宏員】
592
:
黒澤主義
:2009/11/15(日) 18:12:10
宝くじの原型「箕面富」140年ぶり復活…15日に瀧安寺 大阪・箕面市
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20091114-OYO1T00405.htm?from=top
宝くじの原型とされる大阪府箕面市の瀧安寺(りゅうあんじ)の富くじ「箕面富(みのおのとみ)」が15日、約140年ぶりに同寺で復活する。商売繁盛や家内安全にご利益があり、江戸時代には「当たり」を求めて多くの人でにぎわったが、明治政府の富くじ禁止政策で、途絶えていた。前売りが完売する人気ぶりで、関係者は「約950年前の記録が残る伝統の行事。復活を箕面のにぎわいにつなげたい」と期待する。
箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の梅田―箕面間が開通して来年100年を迎えるのに合わせ、同寺や地元企業などが計画した。
箕面富の当たりは、同寺の住職に代々伝わる秘法の祈祷(きとう)を受けた「大福御守」。江戸時代には賞金が当たる富くじが広がり、幕府が「人心を乱す」と禁止令を出したが、箕面富は賞金でなく福を授ける形だったため適用されず、明治まで続いた。
今回は1790年代の「摂津名所図会」に描かれた箕面富を再現。江戸時代に作られたとされる同寺所蔵の木箱を使い、小穴から錐(きり)で木札を突いて書かれた番号で当たりを決める。「大福御守」が3人、「招福御札」が10人に授けられる。
1000円の別のお守りを買うと参加できる。前売り300体は売り切れ、当日は午後0時半から先着200人に販売する。問い合わせは「箕面わいわい株式会社」(072・724・5151)。
(読売新聞 2009年11月14日)
593
:
黒澤主義
:2009/11/16(月) 17:47:39
なるほドリ:造幣局はなぜ大阪にあるの?/大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20091116ddlk27070252000c.html
◇4説あるが歴史の謎 支援の見返り、大阪遷都、商業の中心…
なるほドリ 桜の通り抜けでも有名な造幣局だけど、なぜ大阪にあるの?
記者 正確な理由は造幣局でも分からないそうです。太政官(今の内閣)に、造幣局が設置されたのは1869年2月5日。建設工事はその前年から始まっています。ちょうど明治維新のころですね。この明治維新に絡む事情があったとして、設置の理由について四つの説があります。
Q どんな説?
A 維新政府を財政的に支援した関西財界への見返り措置、というのが一つ目です。二つ目に、当時、大阪遷都論が浮上していたことによる要因。三つ目に江戸の治安が悪かったこと。四つ目に「天下の台所」と呼ばれるように大阪が商業の中心地だった、ということが挙げられます。しかし、この四つの説にはいずれも根拠となる文書などはなく、あくまでも造幣局内での言い伝えに過ぎません。
Q 大阪でも他に候補地があったのかな?
A 難波や中之島も候補地の一つだったそうです。しかし、香港造幣局へ造幣機械の買い付けに派遣された政府の役人が「第一に水利を考え、広大な面積を取るべし」と意見し、江戸幕府の材木置き場跡地などだった現在の場所(大阪市北区天満1)に白羽の矢が立ちました。
Q ちょうど目の前に大きな川があるよね。
A 大川(旧淀川)ですね。水利を最優先で考えたのは建物の建設資材を運ぶために必要だったからだそうです。当時は道路も発達してませんでしたからね。
Q 硬貨は全部、大阪で製造しているの?
A いえ、東京と広島にも支局があり、製造の一部を担っています。造幣局全体では08年度で11億枚弱の硬貨を製造しましたが、大阪製はうち約6割です。
Q いつか本当の理由が分かる日が来るのかな?
A 造幣局の敷地内にある造幣博物館の職員たちが、古い文書を日夜調べ続けています。将来、文書に何らかの記述が見つかれば、歴史の謎の一つが解ける可能性はあります。<回答・小林慎(社会部)>
(毎日新聞 2009年11月16日)
594
:
よっさん
:2009/11/16(月) 19:46:39
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/091116/20091116021.html
新発見!なにわの考古学 歴史博物館で出土品展示
2009年11月16日
大阪市内で2008年度に行われた遺跡発掘調査の成果を展示する「新発見!なにわの考古学2009」が、同市中央区の大阪歴史博物館で開催されている。瓦屋町遺跡(中央区)で出土した江戸時代の瓦に模様を付けるために使われた型「瓦笵(がはん)」など貴重な資料を目の当たりにできる。12月27日まで。
難波宮跡から見つかった新羅土器の破片=大阪歴史博物館提供
瓦に文字や模様を付けるための「瓦笵」。文字が逆に刻印されている=大阪歴史博物館提供
同博物館によると、今回は土器や小銭、加工品など約400点を展示し、パネルなどで解説を加えている。
「瓦笵」など江戸時代の瓦製造に関連する出土物は、幕府の御用瓦師だった寺島家の跡から発見された。「神咒寺(かんのうじ) 潅頂堂(かんじょうどう)」と文字が反転して印字された型で、瓦と同じ材料で作られている。
同博物館企画広報課の積山洋課長代理は「通常は木製のため残らない。木製の型はすり減るので、瓦と同じ焼き方で型を作ったとみられ、大変珍しい」と解説している。
08年10月から発掘調査を始めた難波宮跡(中央区)の朝堂院の東側の地層からは、砥石(といし)やガラス玉の鋳型、シカの角、鉄を溶かしたかすなどが出土した。この地層は7世紀前半のもので、難波宮建設以前にこの地に工房のような施設があり、手工業生産が行われていたことが分かった。
難波宮跡では6世紀末に朝鮮半島の新羅(しらぎ)から渡ってきた円形と三角形を交互に配置する独特の文様の新羅土器も見つかった。今回は韓国国立大邱(テグ)博物館から同時期の新羅土器を借りて、並べて陳列している。
また、22日午後1時から、大邱博物館学芸研究室長の咸舜燮(ハムスンソプ)氏を招いたシンポジウム「古代の難波と新羅」を開催する。問い合わせは電話06(6946)5728、大阪歴史博物館へ。
595
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/11/17(火) 21:23:57
なるほドリ:造幣局はなぜ大阪にあるの? /大阪
<NEWS NAVIGATOR>
◇4説あるが歴史の謎 支援の見返り、大阪遷都、商業の中心…
なるほドリ 桜の通り抜けでも有名な造幣局だけど、なぜ大阪にあるの?
記者 正確な理由は造幣局でも分からないそうです。太政官(今の内閣)に、造幣局が設置されたのは1869年2月5日。建設工事はその前年から始まっています。ちょうど明治維新のころですね。この明治維新に絡む事情があったとして、設置の理由について四つの説があります。
Q どんな説?
A 維新政府を財政的に支援した関西財界への見返り措置、というのが一つ目です。二つ目に、当時、大阪遷都論が浮上していたことによる要因。三つ目に江戸の治安が悪かったこと。四つ目に「天下の台所」と呼ばれるように大阪が商業の中心地だった、ということが挙げられます。しかし、この四つの説にはいずれも根拠となる文書などはなく、あくまでも造幣局内での言い伝えに過ぎません。
Q 大阪でも他に候補地があったのかな?
A 難波や中之島も候補地の一つだったそうです。しかし、香港造幣局へ造幣機械の買い付けに派遣された政府の役人が「第一に水利を考え、広大な面積を取るべし」と意見し、江戸幕府の材木置き場跡地などだった現在の場所(大阪市北区天満1)に白羽の矢が立ちました。
Q ちょうど目の前に大きな川があるよね。
A 大川(旧淀川)ですね。水利を最優先で考えたのは建物の建設資材を運ぶために必要だったからだそうです。当時は道路も発達してませんでしたからね。
Q 硬貨は全部、大阪で製造しているの?
A いえ、東京と広島にも支局があり、製造の一部を担っています。造幣局全体では08年度で11億枚弱の硬貨を製造しましたが、大阪製はうち約6割です。
Q いつか本当の理由が分かる日が来るのかな?
A 造幣局の敷地内にある造幣博物館の職員たちが、古い文書を日夜調べ続けています。将来、文書に何らかの記述が見つかれば、歴史の謎の一つが解ける可能性はあります。<回答・小林慎(社会部)>
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20091116ddlk27070252000c.html
596
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/11/18(水) 10:47:37
両陛下、文楽をご鑑賞
2009.11.17 19:01
大阪府を訪問している天皇、皇后両陛下は17日、国立文楽劇場(大阪市中央区)で、文楽「芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」の一幕「葛の葉子別れの段」を鑑賞された。
両陛下が入場されると、観客から大きな拍手が送られた。作品は、数奇な出会いを経た夫婦と、そこに生まれた子供との情愛を描いた作品。人形が派手な立ち回りを行うシーンも多く、両陛下はさかんに説明者に質問しながら本場大阪での文楽鑑賞を楽しまれた。
また、大阪府の小河保之副知事は同日の日程終了後の記者会見で、子供が新型インフルエンザに感染したため公務を自粛している橋下徹知事について、子供の熱が下がったことを両陛下に伝えたところ、両陛下から「よかったですね」とのお言葉があったことを明らかにした。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/091117/imp0911171742003-n1.htm
597
:
よっさん
:2009/11/20(金) 19:53:34
http://mainichi.jp/area/osaka/archive/news/2009/11/19/20091119ddlk27070562000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/143 天王寺七名水 /大阪
◆大阪市天王寺区
◇わき水再び願い
◇かんしずめ「安居の清水」
天王寺七名水の残りを探して、さらに歩く。天神坂下の安居神社にあったのが「安居の清水」。飲めば子どものかんの虫が収まるといわれ、「かんしずめの井」とも呼ばれた。社務所脇に回り込むと、猫が2匹、こちらをにらんで走り出てきた。構わず下方をのぞきこめば、草木に囲まれて木の柵と石組みが残る。
まったくかれているように見えるが、中島一煕宮司(67)に尋ねると、「4、5年前にボランティアのかたに4〜5メートル掘ってもらったら、一時、水が出てたんですが」とのこと。荒れた井戸も、手を加えれば水がわくのだ。
石組みは、江戸時代に修復されたもののようだという。「戦前は皆さんに水をお分けしてまして。いわれのある井戸なんで、くみ上げて奉納したいと思ってるんですが……」と宮司。
◇阪田三吉が眼病治療 泰聖寺・金龍水、一足先に復活
一足先に復活したのが「金龍水」だ。清水寺の少し北の泰聖寺(たいしょうじ)にあり、その昔は茶の湯にも使われたほどの清水だったというが、どの資料にも「かれた」とある。
しかし、見れば井戸にはつるべが据えられ、のぞくと底に水面が光っているではないか。浅野壮宏副住職(32)によると、昭和30〜40年代までは水がわいていたが、その後はかれて井戸にはふたをしたままになっていた。浅野副住職が寺にやって来た2年前に、ふたを開けてみたら水がわいていた。ドロドロだったが、それから毎日、水をくみあげていたら、段々澄んできたという。
泰聖寺は眼病祈願で知られる京都・長岡京市の柳谷観音の別院。伶人町に住んでいた将棋の阪田三吉が1922(大正11)年、白内障を患い、三吉の治癒を祈って、妻コユウがお百度参りをし、金龍水で目を洗わせた、という話も伝わる。さらに金龍水は、明治天皇に献上されたとの記録もあるらしい。
そんな由緒ある金龍水を見学に来る人も多い。この3月に「金龍清水縁起」と記した石碑を建てた浅野副住職は、子どもたちに井戸水をくむ体験をさせている。「僕も、蛇口をひねったら水が出るのは当たり前の世代。でも、井戸水をくむのはしんどいし、環境によっては水がわいたり、わかなくなったり。そういうことを伝えたい」。この冬、井戸を洗って泥をすくい出し、底に石を積んで本格的に金龍水を復活させようと考えている。
浅野副住職も、安居神社の中島宮司も、「昭和40年代の地下鉄谷町線の工事で、水位が下がって水が出なくなった」と口にした。地下鉄工事が、上町台地の地下水脈になんらかの影響を及ぼしたようだ。
◇
上町台地の水にまつわる話を二つばかり。JR天王寺駅では、昔から今に至るまで、地下水が使われている。駅東口の男子トイレの小便器に、ずーっと流れているのがそれ。隣の天王寺ミオのスプリンクラーもそうだ。1日の湧出量は130立方メートル。なんでも1889(明治22)年、当時の大阪鉄道が駅舎を建てた際、たまたま地下水脈の真上に当たったそうだ。これからは小便も心してせねば。
もう一つは酒の話。上町台地のわき水を使った日本酒があるのだ。天王寺の酒屋さんたちが15年前から2種類を造っている。四天王寺の水を原酒にまぜる割り水に使う「天水」と、谷町9丁目の老舗の花屋さんにわく水を使う「上町乃水」。かつての名水を思いながら一献やるのも粋なものだ。【松井宏員】
598
:
よっさん
:2009/11/20(金) 20:23:54
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20091120-OYO1T01072.htm?from=top
町人も豊か、大坂城下町跡から高級陶器「乾山」など出土
江戸時代を代表する京都の陶工・尾形乾山(けんざん)(1663〜1743)の工房で作られた京焼や、将軍に宇治茶を献上するのに使われた特別な茶壺(つぼ)など陶磁器の破片約1000点が、大阪市中央区北久宝寺町の大坂城下町跡から出土した。調査にあたった市文化財協会は「当時、町家で使われていた陶磁器のセットが、ほぼ丸ごと見つかった可能性が高い。天下の台所と呼ばれた近世大坂の町人の豊かな暮らしぶりがうかがえる」としている。
陶磁器の破片は、一般の町人が住んでいたと見られる地域から出土。江戸中期の18世紀前半の特徴があり、焼けた壁土や瓦などとともに、人為的に掘られた穴から見つかった。大坂の町の大半を焼き尽くし、「妙知焼(みょうちやけ)」と呼ばれた1724年の大火事で焼けた町家を片付けた跡らしい。
破片を復元したところ、陶磁器約180個分になり、約8割は伊万里焼だったが、大坂で流通し始めたばかりの京焼の鉢や向付(むこうづけ)などが17個あった。このうち、菊や松が描かれた向付2個に「乾山」の銘が入っていた。
このほか、抹茶の粉を入れる茶入れ3個や、形や大きさ、文様がそろった接客用の碗(わん)や皿が6セットあった。松尾信裕・大阪城天守閣館長は「上等な陶磁器が多く、所有者は風雅な趣味の人物。豪商ではないのに流行に敏感で、いい物をそろえており、大阪の元気な時代を象徴している」と話している。
陶磁器片は、大阪歴史博物館(大阪市中央区)で12月27日まで展示されている。
(2009年11月20日 読売新聞)
599
:
黒澤主義
:2009/11/21(土) 18:48:05
高級将棋駒「水無瀬駒」を公開 大阪・島本町
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/091121/trd0911211344005-n1.htm
大阪府島本町の町立歴史文化資料館で、高級将棋駒の源流にあたる「水無瀬駒」の“オリジナル”の公開が21日、始まった。23日まで。
水無瀬駒は、戦国時代に今の島本町に暮らした公家の水無瀬兼成が始めたとされる。字体の美しさなどから皇族や大名に好まれ、現在でも愛好家が多い。
公開された駒は兼成の制作。全国で7組あるが、水無瀬神宮に約400年間伝わる2組を展示しており、同町は「将棋駒の町としてPRになれば」。
(msn産経ニュース 2009年11月21日)
600
:
名無しさん
:2009/11/21(土) 19:35:49
大阪ゆうたら冗談やろ。
601
:
黒澤主義
:2009/11/24(火) 19:30:28
大和から河内へ 「謎の4世紀」実態に迫る
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20091122-OYT8T00051.htm
■近つ飛鳥博秋季展 27遺跡から出土300点
府立近つ飛鳥博物館(河南町)で秋季企画展「河内平野の集落と古墳―謎の4世紀を探る」が、12月13日まで開かれている。邪馬台国が存在した3世紀、倭の五王が活躍した5世紀に比べ、4世紀の日本列島は文字資料がほとんど残っていない“空白の世紀”。これまでの発掘調査成果から、百舌鳥(もず)・古市古墳群に巨大古墳が築造される前夜の実態に迫る。
巨大前方後円墳は3世紀、大和盆地南東部(奈良県桜井市など)の大和(おおやまと)古墳群で築造が始まった。4世紀は、巨大古墳が佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群(奈良市)へ移る時期で、この頃、河内平野に巨大古墳は見られない。
だが、加美遺跡(八尾市)では朝鮮半島で作られたとみられる陶質土器、中田遺跡(同)では吉備(岡山県)などの土器が見つかったように、河内は3世紀から、朝鮮半島や西日本との交流・交易の窓口だったとみられる。4世紀に入り、集落跡などで出土する朝鮮半島系の遺物は次第に増え、前方後円墳も築かれ始める。
企画展では、こうした様子を27遺跡の出土遺物約300点でたどる。庭鳥塚古墳(羽曳野市)の鉄製のこぎり、小阪合遺跡(八尾市)の鹿角(ろっかく)装短刀などは、初出展。
白石太一郎館長は「河内は3世紀から、渡来文化受容の中心。4世紀後半、高句麗の南下など東アジアの国際情勢の変化を受け、大和から河内に“政権交代”があったと考えられる。文献に記されなかった状況が考古学的な研究からはっきりしてきた」と話す。
午前10時〜午後5時(入館は4時半まで)。月曜休館(11月23日は開館、翌日休館)。一般400円、65歳以上と高校・大学生300円。
(読売新聞 2009年11月22日)
602
:
黒澤主義
:2009/11/24(火) 19:33:21
太融寺の曼荼羅5年がかり新調
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20091122-OYT8T00070.htm
大阪市北区の真言宗・太融寺の「両界大曼荼羅(りょうかいだいまんだら)」が新調され、同寺で21日、開眼法会が営まれた。
「金剛界八十一尊大曼荼羅」「大悲胎蔵生(たいひたいぞうしょう)大曼荼羅」の2幅からなり、縦1・7メートル、横1・5メートルの絹地に岩絵の具で彩色。真言宗の祖・空海の入唐1200年を機に、田村隆照・京都市立芸術大名誉教授の監修で、京都市山科区の仏師・長谷法寿さん(53)が、5年がかりで完成させた。
法会には、麻生弘道住職や信者ら約300人が参加。読経の後、麻生住職が長谷さんに感謝状を贈った。今後は毎年、7月6〜8日に開帳する予定。
(読売新聞 2009年11月22日)
603
:
よっさん
:2009/11/25(水) 22:15:36
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20091122-OYT8T00051.htm
大和から河内へ 「謎の4世紀」実態に迫る
近つ飛鳥博秋季展 27遺跡から出土300点
府立近つ飛鳥博物館(河南町)で秋季企画展「河内平野の集落と古墳――謎の4世紀を探る」が、12月13日まで開かれている。邪馬台国が存在した3世紀、倭の五王が活躍した5世紀に比べ、4世紀の日本列島は文字資料がほとんど残っていない“空白の世紀”。これまでの発掘調査成果から、百舌鳥(もず)・古市古墳群に巨大古墳が築造される前夜の実態に迫る。
巨大前方後円墳は3世紀、大和盆地南東部(奈良県桜井市など)の大和(おおやまと)古墳群で築造が始まった。4世紀は、巨大古墳が佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群(奈良市)へ移る時期で、この頃、河内平野に巨大古墳は見られない。
だが、加美遺跡(八尾市)では朝鮮半島で作られたとみられる陶質土器、中田遺跡(同)では吉備(岡山県)などの土器が見つかったように、河内は3世紀から、朝鮮半島や西日本との交流・交易の窓口だったとみられる。4世紀に入り、集落跡などで出土する朝鮮半島系の遺物は次第に増え、前方後円墳も築かれ始める。
企画展では、こうした様子を27遺跡の出土遺物約300点でたどる。庭鳥塚古墳(羽曳野市)の鉄製のこぎり、小阪合遺跡(八尾市)の鹿角(ろっかく)装短刀などは、初出展。
白石太一郎館長は「河内は3世紀から、渡来文化受容の中心。4世紀後半、高句麗の南下など東アジアの国際情勢の変化を受け、大和から河内に“政権交代”があったと考えられる。文献に記されなかった状況が考古学的な研究からはっきりしてきた」と話す。
午前10時〜午後5時(入館は4時半まで)。月曜休館(11月23日は開館、翌日休館)。一般400円、65歳以上と高校・大学生300円。
(2009年11月22日 読売新聞)
604
:
よっさん
:2009/11/28(土) 20:01:20
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/091128/20091128037.html
「開運」願い力強く 上新田天神社にトラの大絵馬登場
2009年11月28日
大阪芸術大出身の女性2人が作った、来年のえとにちなんだ「寅(トラ)えと大絵馬」がこのほど、大阪府豊中市上新田1丁目の上新田天神社(中村暢晃宮司)の境内に設置された。力強く正面を見据えるトラと、天神宮にちなんだ紅梅が、和紙を使って白地の絵馬から浮き上がるように描かれている。
絵馬を制作したのは、上新田在住で同大芸術学部出身の横山真子さん(25)と藤本歩さん(26)。2人は毎年、同神社の大絵馬の制作にあたっており、ことしは9月から作業に取り掛かり、約1カ月で完成させた。
絵馬は縦2・5メートル、横3・7メートル。6分割したベニヤ板に輪郭が下書きされ、和紙を張り付けた立体感のあるデザイン。今年のデザインは、正面を見据える大きなトラと紅梅に、「開運」の赤色の文字が配置されている。
中村宮司は、「勢いあるトラの絵馬が、見る人の運を開いてくれるよう」と話している。来年の11月ごろまで境内に飾られる。
605
:
黒澤主義
:2009/12/01(火) 23:12:50
大阪市立高津小で子供たちが文楽上演 語り、三味線、人形遣い…本格的に
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/091201/osk0912010241003-n1.htm
大阪市中央区の市立高津小学校(玉置美智子校長)で30日、6年生による「子ども文楽」が上演され、文楽技芸員らに直接、指導を受けた本格的な舞台が繰り広げられた。
国立文楽劇場に近い同小では、地元の伝統芸能を受け継いでいくため、総合的な学習の時間を利用して、6年生24人が、文楽のけいこに取り組んできた。
この日、子供たちは華やかな衣装を身につけて舞台に登場。浄瑠璃語りの大夫や三味線、人形遣いなどをそれぞれ演じ、めでたい演目とされる「二人三番叟(ににんさんばそう)」を披露した。
三味線を担当した宅間爽香さんは「けいこはつらいときもあったけど、練習の時より本番の方がうまくいったので、頑張ってよかった」と笑顔をみせた。
(msn産経ニュース 2009年12月1日)
606
:
よっさん
:2009/12/02(水) 19:22:24
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20091202-OYT8T00071.htm
難波ものづくりの歴史
古代、近世9遺跡 ガラス玉、瓦など400点
古代や近世、大阪市内で営まれた総合的な手工業生産の痕跡などが、大阪歴史博物館(大阪市中央区)で開催中の特集展示「新発見! なにわの考古学2009」で紹介されている。大阪の〈ものづくり〉の変遷をたどることができ、来場者は興味深そうに見入っている。
市文化財協会の発掘成果を中心に、9遺跡の計約400点が展示されている。
このうち、難波宮跡(同)の下層では、6世紀後半〜7世紀中頃のガラス玉やその鋳型、加工痕がある鹿の角、ふいごの羽口などが見つかり、付近に総合工房が存在したことがわかる。
同博物館の積山洋・企画広報課長代理は、「難波宮の造営以前から、この地が大和王権直轄の外交、物流、生産の拠点だったことがうかがえる」と話す。
また、瓦屋町遺跡(同)では、江戸時代に幕府の御用瓦師だった、「寺島家」で生産された瓦の遺物に加え、ベンガラを作った直径約30センチの焙烙(ほうろく)(素焼きの平たい土鍋)や、青銅器の鋳型などが見つかった。18世紀〜19世紀前半の“工業団地”だったとみられる。
27日まで。火曜休館。開館は午前9時半〜午後5時(金曜は午後8時まで)。観覧料は大人600円、高校・大学生400円。
(2009年12月2日 読売新聞)
607
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2009/12/03(木) 22:28:54
「融通念仏」のルーツは大阪・摂津の道場 金沢文庫が古文書解読
2009.12.3 22:09
神奈川県立金沢文庫(横浜市金沢区)は3日、平安時代後期に始まった「融通念仏宗」の総本山「大念仏寺」(大阪市平野区)のルーツを示した古文書の解読に成功したと発表した。
金沢文庫によると、古文書には、大念仏寺の始まりは長寛年間(1163〜65年)に摂津の味原牧(現在の大阪府摂津市と大阪市東淀川区にまたがる地域)で開かれた融通念仏の道場だった、との内容が記されていた。
金沢文庫は「融通念仏宗の詳しい歴史は、鎌倉時代後期以降しか知られていなかった。謎に包まれていた成立過程を明らかにする貴重な発見」と説明している。昭和女子大の阿部美香・非常勤講師が解読した。
古文書は、横浜市金沢区にある国の重要文化財「称名寺聖教」の一部である「上素帖」という写本の裏側に書かれていた。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091203/acd0912032209004-n1.htm
608
:
よっさん
:2009/12/05(土) 16:23:15
http://mainichi.jp/area/osaka/archive/news/2009/12/03/20091203ddlk27070524000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/145 逢坂 大阪市天王寺区 /大阪
◇七坂の一つも、面影なく 合邦辻、聖徳太子と物部守屋が仏法論議 閻魔堂信仰、今も
安居神社を南へ抜けると、車がひっきりなしに行き交う国道25号に出る。向かいは、納骨された遺骨で造る骨仏で知られる一心寺だ。
四天王寺西門へと緩やかな上り坂になっており、刃物屋や仏具店が看板を出している。ここが天王寺七坂の7番目、逢坂(おうさか)だ。一応、七坂に数えられているが、地名にその名をとどめるのみで、昔の面影はまったくない。
「大阪史蹟(しせき)辞典」によると、もともとは崖(がけ)の谷道で、急な坂だったという。四天王寺への参詣者らで往来が多く、江戸時代末から明治にかけて荷車の暴走が多発して死傷者が出た。そこで、近くの寺の静明という尼僧が道を広げようと考え、大阪府も協力して1887(明治20)年に拡幅工事が行われ、大正時代に市電が開通した。
一説には、明治天皇が住吉大社に参った際、「帰りに四天王寺にお寄りになるから、道を広げろ」とお達しがあったとも。
国道25号と松屋町筋が交差する辺りを合邦辻(がっぽうがつじ)といった。大阪案内人の西俣稔さんが「その昔、聖徳太子と物部守屋が仏法を信じる方法を論じ、比べ合った合法から、合邦辻といいます。逢坂も、合坂と名付けられ、それが逢坂になったみたい」と、名前の由来を話す。
ここに江戸時代、閻魔(えんま)大王をまつった辻堂があった。毎年11月16日、この辻堂で道録神祭(どうろくしんさい)が行われ、2、3日前から近くの子どもたちが集まって、縄で道をふさぎ、通りかかる人から銭をもらって供物を供えた。銭を与えないと通行できないという、なんとも乱暴な風習の模様が、「摂津名所図会」に描かれている。
錦絵「浪花百景」には、合邦辻の雪景色が描かれている。そういえば、同じ「浪花百景」の料亭浮瀬(うかむせ)も雪景色だった。昔の大阪は、ヒートアイランドの今とは比較にならないくらい寒かったのだ。
この合邦辻閻魔堂を舞台にした浄瑠璃が「摂州合邦辻」。謡曲「弱法師」の俊徳丸が主人公だ。河内国・高安城の跡継ぎだったが、継母の玉手御前に言い寄られ、毒を盛られて盲目になり、四天王寺へやって来て閻魔堂にこもる。この時に通った道が、東大阪の近鉄の駅名に残る俊徳道だ。この玉手御前、実は俊徳丸を守ろうとして不義の恋を仕掛けたという……。玉手御前の名は、天王寺七名水の玉出水から取ったという。
この閻魔堂、今も交差点の北西の西方寺(浪速区下寺3)に残っている。元の辻堂は、先に述べた明治の道路拡張で西方寺に移された。空襲で閻魔様の石像はお堂もろともこっぱみじんになったが、1954年に再興された。
吉井良久住職(61)は「昔から、頭痛やせきなど、首から上の病気に効くといわれ、参拝者はみな、石像の閻魔さんの頭をなではって、ピカピカになってたそうです」と話す。今の閻魔像は昭和30年代に造られたそうだが、閻魔堂信仰は今も続いている。また、「摂州合邦辻」が上演される時は、若い演者がお参りに来るという。【松井宏員】
609
:
よっさん
:2009/12/07(月) 03:57:28
http://www.sankei-kansai.com/2009/12/06/20091206-017892.php
住吉大社 厳かに遷座之儀
20年に一度、社殿を修造し直す「式年遷宮」が行われている住吉大社(大阪市住吉区)で5日、4つある本殿のうち修造が終わった第一、第二本宮に、仮殿からご神体を「御羽車(おはぐる)」と呼ばれる神輿(みこし)でうつす「遷座之儀(せんざのぎ)」が執り行われた。
住吉大社は、西向きの4つある本殿のうち3つが一直線に並ぶ独特な構造で、国宝に指定されている。式年遷宮は、昨年4月、第三、第四本宮のご神体を仮殿の第一本宮にうつす「仮遷宮」で始まった。今年4月に第三、第四本宮の修造が終了したため、両本宮のご神体を新しい本宮に戻し、今度は第一、第二本宮のご神体を仮殿となる第三本宮へうつしていた。
この日夜、執り行われた「遷座之儀」は、正装した宮司らが、第三本宮に御羽車を準備。神職が持つ松明(たいまつ)だけで照らされる道を、御羽車は少しずつ進み、新たに修造され鮮やかな朱色に塗り直された第一、第二本宮へ移動した。
610
:
よっさん
:2009/12/07(月) 04:04:15
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/091206/20091206013.html
利休も愛した茶道の至宝 「池田炭」継承へ情熱
2009年12月6日
茶道界で最高級の炭として重宝される大阪府北摂地域の木炭「池田炭」の継承を目指す特定非営利活動法人「シニア自然大学校」(大阪市福島区)のボランティアチーム「菊炭クラブ」が結成5年目の節目を迎え、さらなる飛躍に意欲を見せている。今年は生産者の協力で100年続くという炭焼き窯の近くに活動拠点が完成。担い手育成に向け、来年の体験講座の参加者募集にも力が入っている。
池田炭は、火持ちがよく、燃えた後も真っ白な灰が残る見栄えのよさから茶の湯の世界で珍重され、茶人・千利休も愛したという。
大阪府北部や兵庫県南東部の特産で、大阪府池田市が集積地であったため「池田炭」と呼ばれ、切り口が菊の花に例えられ「菊炭」とも言われる。
需要の減少に伴い、炭焼き職人の後継者不足が表面化。原木のクヌギ林は手入れが行き届かず荒廃する悪循環に陥っていた。
そんな事態を打開していこうと同法人有志らは2004年、クヌギ林の整備や職人の窯を借りた炭焼きの実習などを行う第1回体験講座をスタート。翌年、修了生を中心にした菊炭クラブを発足した。
技術継承や啓発活動のほか、地域住民らと協力し、千本弱のクヌギの植林にも取り組んできたという。年に1度継続して開く体験講座では、対象を北摂地域外にも広げた結果、参加者は増加。環境や伝統に関心のある若い女性も参加するように。クラブメンバーも、当初の15人程度から35人に増えた。今年9月には、活動に理解を示す職人の協力で、炭焼き窯の近くに活動拠点となるログハウス「菊炭ハウス」が完成した。
一方、職人の数は、この5年の間にも減少。クラブメンバーの堤正克同法人理事は「原点回帰」と担い手育成に思いを寄せ、来年1〜3月に開く第6回養成講座(2コース各6回)の参加を呼び掛けている。「グループのメンバーの力を結束して池田炭の文化をバックアップし、持続可能な運動にしていきたい」と力を込める。
受講料8千円。約5キロ(5千円相当)の炭を持ち帰れる。申し込み、問い合わせは電話072(762)7777、池田市立カルチャープラザへ。
611
:
名無しさん
:2009/12/09(水) 18:25:37
今夜10時(NHK)
歴史秘話ヒストリア「古城に眠る秀吉の“Beobo”」
オーストリアの古城で発見された「大坂図屏風(びょうぶ)」。豊臣秀吉の「大坂」を描いた屏風はなぜ海を渡ったのか?日本とヨーロッパの歴史を結ぶ不思議な新発見の物語。
http://www.nhk.or.jp/historia/index.html
612
:
名無しさん
:2009/12/09(水) 23:05:40
>>611
見ました。比較的大阪に好意的?な内容でほっとしてます
613
:
黒澤主義
:2009/12/10(木) 01:16:57
地中から「幻の鉄道トンネル」見つかる 大阪・柏原市
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091209/acd0912092029008-n1.htm
大阪府柏原市峠の大和川北岸の地中から、れんが造りの鉄道トンネル「亀ノ瀬隧道(ずいどう)」の一部が約80年ぶりに見つかり、国土交通省大和川河川事務所が9日、報道陣に公開した。
明治25年に開通し、崩落の危険があり昭和7年に使用中止に。その後埋め戻しや崩落で埋没したと考えられていた幻のトンネルで、地滑り対策工事で偶然見つかった。内部は高さ4・6メートル、最大幅4・3メートルのU字形。黒いすすが付着し、蒸気機関車が走っていた往事の姿を伝える。市教委は今後、一般公開も行う方針。
(msn産経ニュース 2009年12月9日)
614
:
よっさん
:2009/12/11(金) 09:05:37
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20091211-OYT8T00089.htm
泉布観改修へ町衆一丸
天満の商店主ら募金活動
大阪市北区の商店主グループが、地元にある国の重要文化財で、近畿最古の洋風建築「泉布観(せんぷかん)」(天満橋1)の改修費を集める募金活動に乗り出している。明治天皇の宿泊や、欧州貴族の接待などに用いられた歴史的にも貴重な遺構だが、老朽化が激しく、現在はほぼ立ち入り禁止の状態。商店主らは「町衆の力で地域の宝をきれいにして、町に活気を」と意気込んでいる。
泉布観はれんが造りの2階建て(延べ1078平方メートル)で、1871(明治4)年に国が造幣局の応接施設として建築。現存する洋風建築では、大阪市中央公会堂(1918年)より古く、長崎県の旧グラバー住宅(1863年)に並ぶが、老朽化が目立ってきた1995年、阪神大震災で壁に亀裂が入るなどした。
その後の調査で、震度5以上で損壊や倒壊の恐れがあると判明。床下に免震装置をつける大規模改修に約15億円が必要と試算されたが、国から移管を受けている大阪市は財政難を理由に、工事を先送りしている。
内部はシャンデリアや暖炉が設けられ、明治天皇が泊まった部屋などもあるが、現状は周囲に壁が作られ、立ち入りは禁止。毎年春、3日間だけ特別公開されるが、建物への負担を減らすため、一度の入館は約30人に限られている。
こうした中、泉布観の窮状を知った制服販売店経営の野村剛さん(58)ら、地域の音楽イベント・天満音楽祭を主催する商店主ら7人が「泉布観を天満から大阪を元気にするシンボルに」と結束。10月に開いた音楽祭で募金箱を置くなどし、これまでに約12万円を集め、市に寄付した。音楽祭実行委員長の住職・木村啓良さん(61)は「母が女学生時代、裁縫の授業が泉布観であったと聞いた。誰でも見られる施設にして、人を呼び込みたい」と話す。
一方、市は当面、外観や庭園の整備(約1億円)を行いたい考えで、市ゆとりとみどり振興局の山本歩・博物館群運営担当課長は「地域の支援はありがたい。歴史ある建造物なので、有意義な活用法を考えたい」としている。
募金の問い合わせは、野村さん(090・3966・9910)へ。
(2009年12月11日 読売新聞)
615
:
よっさん
:2009/12/11(金) 09:22:23
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20091210ddlk27070592000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/146 逢坂 大阪市天王寺区 /大阪
◇和気清麻呂の治水工事跡 23万人投じるも失敗、今も大きなへこみ−−堀越神社前付近
◇江戸期の道筋や寺、西鶴や近松ゆかりの地 風情残る、上町台地
天王寺七坂の巻の最後に、奈良時代の治水工事跡まで足を延ばしてみよう。
四天王寺の前を南北に走る谷町筋を、天王寺へ向けて南下すると、堀越神社の前辺りで、道路が大きくへこんでいる。「和気清麻呂が行った治水工事の跡です」と大阪案内人の西俣稔さんが言う。
当時、上町台地の東を流れていた河内川や淀川のはんらんが激しく、人々は度重なる水害に悩まされていた。桓武天皇に重用されて土木や治水工事に功績を残していた清麻呂は、上町台地を切り開いて大阪湾まで堀川を通し、水はけを良くしようと計画した。
工事は788年、約23万人を投じて始まったが、失敗に終わった。地盤が強固だったためで、さらに技術力の不足とも巨額の資金が続かなかったともいわれる。掘りかけた堀川の跡が、このへこみなのだ。堀越神社西の茶臼山の前に広がる河底(かわぞこ)池も堀川の跡とされる。
「阿倍野区に近鉄の河堀口(こぼれぐち)という駅があります。これは堀川を意味する河堀(こぼり)がなまって、こぼれになったんです。堀川の掘り始めやから河堀口」
清麻呂は順調に出世したわけではなかった。「弓削道鏡と対立し、称徳天皇から『別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)』と汚名を付けられて追放されましたが、復権して現神崎川の付け替えや上町台地の堀川の工事などを手掛けました」。河底池には朱塗りの橋が架かる。和気橋という名に、往時の苦労がわずかにしのばれる。
◇
逢坂まで戻る。国道25号が二またに分かれるその付け根に、西門酒販という酒屋がある。西俣さんと店の外の椅子に腰掛けて一献。「谷町筋を一本西へ入ったら、江戸時代からの道筋や七坂、お寺が残ってんねん。西鶴や近松ら文人ゆかりの地でもあるし。京都や奈良もええけど、近場の上町台地で静かな風情を楽しめるんやから」
下り坂の向こうに、夕日が沈んでいくところだ。いにしえ、もっと近くに見えた海に沈む夕日を、藤原家隆や俊徳丸や、幾多の善男善女が、極楽浄土を願って拝んだ。私たちも極楽へ行けるだろうか。西俣さんと顔を見合わせた。【松井宏員】
616
:
よっさん
:2009/12/15(火) 08:08:41
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/091213/20091213066.html
元気で明るく福娘お披露目 今宮戎神社
2009年12月13日
商売繁盛の神様「えべっさん」の愛称で親しまれ、大阪市浪速区の今宮戎(えびす)神社で来春行われる「十日戎」。その新年の恒例行事に花を添える福娘45人のお披露目と、代表を決める「福娘発表会」が12日、大阪市中央区の大阪商工会議所国際会議ホールで開かれた。
今回は昨年よりも136人多い総勢2967人の応募があり、2010年度(第58代目)の代表は、同志社女子大1年の長田麻里さん(19)=大阪市港区=、関西外国語大3年の中西彩さん(21)=大阪市都島区=、関西学院大2年の松枝由莉さん(20)=兵庫県芦屋市=と、留学生枠として中国・上海市出身で関西大大学院2年の徐暁純(ジョギョウジュン)さん(24)=吹田市=の4人に決まった。
会場では、着物姿の福娘たちがステージで元気よく自己PR。ステージで特技の手話も披露した長田さんは、「元気と明るさと笑顔、そして感謝の気持ちを忘れずに頑張りたい」と抱負を述べていた。
福娘は「商売繁盛でササ持ってこい」の掛け声で知られる「十日戎」(1月9〜11日)で参拝者に福ザサを授けるほか、官公庁や各関連団体への表敬訪問などの行事に参加する。
617
:
黒澤主義
:2009/12/15(火) 12:32:30
真田幸村 終えんの地に座像 ゆかりの新名所に 大阪・天王寺区
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/091215/20091215021.html
「大坂の陣」で豊臣方として奮戦した信州上田の武将・真田信繁(幸村)戦死の地、大阪市天王寺区逢阪1丁目の安居神社(中島一熈宮司)境内に幸村像が安置され、17日に除幕式が執り行われる。「悲運の武将」の生きざまに、もともと“幸村ファン”は多いが、歴史好きの女性「歴女」の言葉も生まれた昨今の戦国武将ブームのさなか、幸村ゆかりの新名所となりそうだ。
真田幸村は1615(慶長20)年5月、「大坂夏の陣」で、徳川家康の陣に突撃して傷つき、同神社境内の一本松の下にいたところを狙われて戦死したとされる。境内には、太平洋戦争の戦災で焼失した社殿を復興した1951年春、幸村の一本松にちなんで植樹した「さなだ松」や石碑「真田幸村戦死跡之碑」があり、毎年5月に慰霊祭「幸村祭」を斎行、交流がある長野県上田市の関係者やファンなど大勢の参拝者で例年にぎわう。
2003年の幸村祭で「幸村公のお姿があれば−」と、漠然としながらも長年の思いを語った中島宮司。具体的には2年後に看板を掲げて基金活動に取り組んだ。当初はレリーフ銅板という案もあったが、「せっかくなら立体像を」と、計画を進め、知人の紹介で大阪の彫刻家・播間公次さんに制作を依頼した。
デザインは武具研究家の考証を得るなど綿密な打ち合わせを交えた末、刀を置き、かぶとを脱いだ姿の座像(高さ約90センチ)に決定。今年の幸村祭で同形のミニチュア像が公開された。
像の位置は、大阪城や上田市のほか、真田昌幸・幸村親子隠せいの地、和歌山県九度山に向いた方角などいろいろな案があったが、石碑の左横に、みかげ石の台座を設置した。中島宮司は「勇ましい姿ではないが、『これで戦いが終わった』という、最後の地となった神社の静かな境内にふさわしい安らかなイメージ。長年の願いが具体化され、より多くの方にご参拝いただければうれしい」と話している。
(大阪日日新聞 2009年12月15日)
618
:
黒澤主義
:2009/12/16(水) 19:59:55
【高津宮(こうづぐう)】食と芸 落語名所に「富」来る
http://www.asahi.com/kansai/travel/kansaiisan/OSK200912160026.html
年明け早々の「成人の日」、高津宮(大阪市中央区)のさして広くない境内は2万人超で埋まる。正月飾りを燃やす「とんど」そっちのけで、みんなのお目当ては有名割烹(かっぽう)やホテルのダイニングなど大阪の人気店が出す屋台群。落語会やコンサートもあり、伝統の行事と食と芸能が一度に味わえる。
◇
高津宮は866年創建。古典落語「高津の富」や文楽、歌舞伎の「夏祭(なつまつり)浪花(なにわ)鑑(かがみ)」の舞台となった。江戸時代には、境内に湯豆腐屋や惚(ほ)れ薬だというイモリの黒焼き屋が並ぶ人気スポットだった。「それが12年前に宮司になった時は薄暗く寂れ、人影もなかった。とにかく人が集まるお宮にしようと助っ人を求めた」と小谷真功(まさよし)宮司(50)。
その一人が市内で居酒屋「ながほり」を営む中村重男さん(52)。小谷宮司に桂文枝師匠を紹介し、別の場所でやっていた文枝一門の落語会が高津宮の参集所に移った。「当時の建物はぼろぼろで雨漏りしたが、師匠は『そこがええ』と喜んでくださった」と小谷宮司は振り返る。豪華な屋台も、2001年の落語会に登場する文枝師匠をもり立てようと中村さんが仲間と始めた。「食のパワーで歴史と文化を応援するという思いで続けている」
今では、「神社始まって以来かと思う人出で、みんなの安全が心配」と恩知らず?な悩みも口走る小谷宮司。だが「神社は地域の共有財産で、神主は人と人、神と人の取り持ち役」との信念から、四季の伝統行事の合間も楽しげな催しをちりばめ、人を集める仕掛けに余念がない。
ボロ参集所は05年に改修され、「高津の富亭」となってフル活用。落語「崇徳院」にも描かれた境内の縁結びの坂にちなんで、「縁結びパーティー」を開く。コンサートも、絵の会もある。11月の週末に開催されたのは手づくり市。世話役の氏家陽子さん(35)=大阪府寝屋川市=によると会場使用料も格安。「あまり安いので、心ばかりのおさい銭を出し、ほかの行事の手伝いにも来ています」
◇
氏家さんのような人が集まる「高津宮たかきや倶楽部」は、一種のファンクラブ。有志がつくる「芸能部」は、ことあるごとに楽器演奏や舞踊を披露するが、その演目はフラメンコ100人奉納やジャズコンサート。「異国の芸能ですが、まあ、神楽です」と小谷宮司は澄まし顔。どのイベントも「単なる騒ぎではない」ので、冒頭にお祓(はら)いをするのが恒例だ。
もともと庶民の暮らしの真ん中にあった神社。型破りなようでいて、本来の姿に戻ったということか。(織井優佳)
(朝日新聞 2009年12月16日)
619
:
よっさん
:2009/12/18(金) 12:33:20
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20091217ddlk27070458000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/147 読者ツアー /大阪
◇今はなき西区の堀川と偉人の足跡をたどる 反権力のパワーに触れ 医学、遊郭、天文観測 案内人・西俣さんの爆笑トーク 新たな発見が次々に
好天に恵まれた11月23日、大阪案内人の西俣稔さんの名調子とともに、いにしえの大阪をたどる読者ツアーを開催しました。題して「今はなき西区の堀川と偉人の足跡をたどる」。本日はその模様を報告します。
◇帝国座跡
地下鉄淀屋橋駅からオフィス街を行く。旧住友信託銀行南館の前に「帝国座跡」の小さな碑が建っている。「昭和43年までありました。川上音二郎が明治43年に造った劇場で、こけら落としがなんと『ロミオとジュリエット』。今日は特別に川上一座の肉声を聞かせましょう」。西俣さんはバッグからラジカセを取り出す。「オッペケペー節」だ。
「細民困窮かえりみず 目深にかぶった高帽子 金の指輪に金時計(中略)芸者幇間(たいこ)に金をまき 内には倉に米を積み」
自由党の壮士から芝居へ転じた音二郎は、1900年にパリ万博でこれを歌って満員御礼。その時の音源がCD化されている。「政治の世界は今もたいして変わりませんな」と西俣さん。フムフムと皆さんうなずく。
◇大村益次郎碑
西区に入る。肥後橋からしばらく歩くと、肥後橋商店街。「全長79メートルで19店。日本一短い商店街です」。土佐堀通を西へ、江戸堀フコク生命ビルの前に「大村益次郎先生寓地址」の碑がある。「適塾の塾頭で、ここから通っていました。緒方洪庵をこよなく尊敬していて、師匠と同じ北区の龍海禅寺に片足が葬られています」
◇宮武外骨
そこから数分歩くと、土佐堀2交差点の角に「宮武外骨ゆかりの地」の碑。反骨のジャーナリスト、外骨は、ここで1902(明治35)年から、権力批判とパロディー精神にあふれる滑稽(こっけい)新聞を発行していた。明治新政府の要職にあった益次郎(1824〜1869)の死から約30年後のことだ。
2人に接点はなかったが、明治の軍制改革を担った益次郎が建設を進めた東洋一の兵器工場、大阪砲兵工廠(こうしょう)は、「外骨にかかったら、焼きイモ屋のイラストに『ほー屁(へ)ー』ですわ」。一同、爆笑。
◇中天游邸跡
次のスポットは外骨の碑から南へ歩いた花乃井公園だ。ここの角に「中天游(なかてんゆう)邸跡」の碑がある。中天游は江戸時代の医者・蘭学者で、この場所で医院を開業していた。「奥さんがえらく美人で、手を握ってもうただけで病が治った、なんて話も」。西俣さんが披露するエピソードに、また爆笑。
「中天游の弟子が緒方洪庵。洪庵は師匠をえらく尊敬して、『私が死んだら師と同じ寺に葬ってくれ』と言い残しました。師弟愛を感じます」
◇新町九軒桜堤
大阪厚生年金会館に出た。前の公園に「新町九軒桜堤の跡」と、俳人の千代女の「だまされて来て誠なり はつ桜」の句碑が並ぶ。日本三大遊郭に数えられた新町の跡。九軒は高級店が並ぶ一画で、桜並木が風情を醸した。
大学生の高山始子さん(18)は、新町の跡を見たくて、母明子さん(57)を誘って参加してくれた。珍しいパターンだ。小説に出てきた新町に興味を覚えたからといい、「また来ます」。
◇間長涯
最後は西大橋。長堀通のグリーンベルトに大きな碑が一つ。「間長涯(はざまちょうがい)天文観測の地」とある。「天文学者の長涯は、ここで天文観測をしました。そうして、大幅に狂ってた貞享暦に代わる寛政暦を作ったんです」。さらに続けて「長涯の弟子にエレキテルの橋本宗吉、その弟子が中天游。脈々とした師弟愛が日本の近代化を担ってきた。その舞台が西区で、まさに大阪の誇りです」と締めくくった。
懇親会で杯を傾けながら。山岡文雄さん(62)が「知らなかった大阪を知ることができた喜びがあります」と言えば、高嶋佐記子さんは「新たな発見がいっぱいありました」。小倉好夫さん(64)も「帝国座で川上一座の声を聞けたし、宮武外骨もいた。大阪には反権力の力強いパワーがあったんやなあ」と感慨深げ。また歩きましょう。【松井宏員】
毎日新聞 2009年12月17日 地方版
620
:
黒澤主義
:2009/12/28(月) 16:09:54
大空襲 一夜の奇跡 地下鉄・御堂筋線
http://www.asahi.com/kansai/travel/ensen/OSK200912260039.html
年の瀬の夜、イルミネーションに彩られた大阪市の御堂筋。会社員や正月準備の買い物客らが慌ただしく行き交う。64年前、この一帯は火の海となった。
1945(昭和20)年3月13日深夜から14日未明。大阪市上空に、米軍のB29戦略爆撃機274機が来襲した。低空から投下された焼夷(しょうい)弾が、次々に木造の家屋を焼き尽くした。
12歳だった近藤豊子さん(76)=大阪府豊中市=は西区にあった自宅を飛び出した。家族は祖父母と両親、きょうだい5人の計9人。母は、水でぬらした防空ずきんをかぶせてくれた。安全な場所を求めてさまようなか、母、足の不自由な祖父とはぐれた。
御堂筋にたどり着くと、地下鉄心斎橋駅の出入り口が開いていた。やがて到着した電車で梅田へ避難した。しかし、構内で祖父と母を待ち、梅田の地下街で我に返るまでの記憶がない。どうやって電車に乗ったか。車内は込んでいたのか。はぐれた時は兵庫県の親類宅で落ち合う約束だったが、地下鉄に乗れなかった母と祖父には二度と会えなかった。
大阪市交通局によると、空襲時の地下鉄の運行は禁じられていた。強力な爆弾でトンネルが破壊され、乗客が死傷する恐れがあったからだ。45年当時の運行資料などは敗戦直後に処分され、記録は残っていないという。
でも、自分は確かに乗った。そして、命を救われた。
621
:
黒澤主義
:2009/12/28(月) 16:10:26
>>620
■命乗せ チカテツは走った
「大大阪(だいおおさか)の地下に脈うつ新生の血管/誕生だ! 我らのチカテツ」
1933(昭和8)年5月21日付の大阪朝日新聞は、大阪市営地下鉄の開業をこう報じた。梅田―心斎橋間(3.1キロ)を5分30秒で結んだ。当時、東京には民間の地下鉄があったが、公営地下鉄は国内で初めてだった。
拡幅された御堂筋沿いにはモダンなビルが立ち並んでいた。建築史家で大阪府立大教授の橋爪紳也さん(49)によると、「大大阪」の都市構想には、電化▽地下も使う都市の立体化▽高速移動の三つがあった。「御堂筋かいわいは当時、人々が思い描いた未来都市そのもの。地下鉄は欠かせなかった」と指摘する。
アーチ形の高い天井、シャンデリア風の電灯など内装にも大阪市の意気込みがうかがえた。建築家らがつくる団体「DOCOMOMO(ドコモモ) JAPAN」は2003年、近代名建築「100選」に地下鉄御堂筋線を選んだ。
◇
45年、B29機100機以上が爆撃した大阪大空襲は8回に及んだ。3月13、14日の第1次大阪大空襲では市中心部の約13万千戸が焼け、約4千人が死亡した。
京大名誉教授の村松繁さん(77)=京都市左京区=は12歳だった。猛火に追われ、父と姉、兄と心斎橋にたどり着いた。
「早く入りなさい」。駅員がホームに誘導してくれた。地下の構内には大勢の人がいた。30分ほどたったころ、難波駅方面から電車が到着した。空襲でみな混乱していたが、先を争って乗ったという記憶はない。ぎゅうぎゅう詰めではなかった。梅田に着くと、夜が白々と明けかけていた。梅田は焼けていなかった。
心斎橋にほど近い西区にある最勝寺。住職の佐野彰義さん(62)の母で、89年に亡くなった義(よし)さんも地下鉄で避難した一人だ。空襲時の恐ろしい体験を繰り返し話してくれた。護憲運動に取り組む佐野さんは来年、仲間たちと劇「地下鉄は動いていた―大阪大空襲」を作り演じる予定だ。
「若い人たちに大空襲のことを伝え、受け継がせなければならへんのです。憲法9条を守り、平和を守るために」
◇
市交通局の労働組合でつくる公営交通研究所は、市民や職員OBに第1次大空襲時の地下鉄運行について情報提供を呼びかけ、結果を98年3月に組合紙に掲載した。市民43人が地下鉄構内に避難し、うち36人が地下鉄に乗ったとの証言を得ることができた。
同研究所は、村松さんらが乗ったのは始発電車の前に駅員を各駅に送る「お送り電車」ではないかとみている。同研究所の担当者は「見るに見かねて被災者を駅に入れ、お送り電車などに乗せたのかもしれない。当時は職務違反の恐れがあり、語り継ぐこともなかったのではないか」と話す。 (文・鈴木 剛志 写真・寺脇 毅)
〈鉄ちゃんの聞きかじり〈香り立つモダニズム〉
地下鉄御堂筋線で最初に開業した梅田―心斎橋間の各駅のホームは、豪壮なアーチ形の高い天井が特徴だ。開業当時は、そんな天井に見合うシャンデリア風の立派な電灯も据え付けられていた。改修されても、その精神は受け継がれ、御堂筋線の照明は味のある独特な形をしている。
天王寺駅のホームから階段を上がったところにある電灯は、駅が開業した1938(昭和13)年当時の形を唯一、残している。
新しい照明では、本町駅のホームデッキにある蛍光灯もユニークだ。よく見ると「HOMMACHI」の英文字の形で配列されている。当初は直線で配置する予定だったが、冷房の吹き出し口と重なるため、できなくなった。その際、「設計担当者の発想の転換」(大阪市交通局)でこのような配列にしたという。
(朝日新聞 2009年12月26日)
622
:
名無しさん
:2009/12/29(火) 00:29:42
能と現代アート融合 新作能「水の輪」 子供たちも熱演
2009年12月28日
能と現代芸術が融合した「大阪アート能」の新作能「水の輪」の公演が26日夜、大阪市北区の中央公会堂で行われた。大阪に美しい水をよみがえらせる話を、プロの演者とともに、子供たちが大阪弁で熱演。伝統芸能ならではの洗練された動きに、子供たちの柔和な演技が加わり、表現力豊かな舞台が繰り広げられた。
文化庁や大阪商工会議所と山本能楽会らの共催。作品は、能楽師の山本章弘氏と美術家の井上信太氏が制作した。
美しいわき水から生まれた水の精が淀川を下り、汚れてしまった浪速の水を、子供たちが扮(ふん)する水鳥に請われ、美しい水によみがえらせる話。初演は今年開かれたイベント「水都大阪2009」で披露された。
公演では、公募で選ばれた小学1年から中学1年の約25人の子供たちが、演技の練習や衣装の制作などの取り組みを計4回経て出演。「なんでやねん」「えらいこっちゃ」といった大阪弁で会場のほほ笑みを誘っていた。
また、舞台演出では、洋風建築内の重厚な装飾を生かして水の映像を映し出すなど、能の世界を超えた表現手法を提示していた。
山本能楽会の山本佳誌枝さんは「今後も能が現代に生きる魅力的な芸能であることを伝えていければ」と話していた。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/091228/20091228015.html
623
:
名無しさん
:2009/12/29(火) 00:34:09
大阪の繁昌亭でもちつき 上方落語家がにぎやかに
2009年12月28日 11:01
不況で暗い世相をにぎやかに笑い飛ばそうと、上方落語協会が28日、天満天神繁昌亭(大阪市北区)で「歳末もちつき大会」を開き、落語家がついたもちを集まったファンらに振る舞った。
同協会会長の桂三枝さんが「おかげさまで繁昌亭は大入り満員が続いた。来年もこのツキを逃がさないよう、人気を“保ち”続ける意味でも、もちつきをやりたい」とあいさつ。三味線や太鼓がにぎやかに鳴り響く中、桂米団治さんや桂三風さんら上方落語家が代わる代わるきねを振り上げ、約40キロ分のもちをついた。
蒸したもち米の湯気が寒空に立ち上る中、集まった近所の主婦らが「軟らかいね」「もう1個いいですか」などとつきたてのもちをほお張っていた。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/091228/20091228053.html
624
:
福島区民
:2009/12/29(火) 00:55:07
>>621
>誕生だ! 我らのチカテツ
この当時は、下手な関西弁の煽りじゃなく普通に書かれてたんですね。
今だったら、”誕生や!”となってたでしょう。
昨今みられる、文体に口語を用いるプロ根性の無さが好きになれません。
仮にもモノ書きで商売してるんですから。
625
:
名無しさん
:2009/12/29(火) 01:09:29
>>624
確かにテレビでも新聞でも見出しで多いですね。メディア語と化してますけど。"や"は何でも付けないので
626
:
黒澤主義
:2010/01/01(金) 20:54:38
大阪万博40年:祝祭振り返り、目指す雲探せ(その1)/大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100101ddlk27040206000c.html
◇変わったもの、変わらぬもの
今から40年前の1970年、大阪・千里丘陵で開催されたビッグイベントを覚えていますか。「人類の進歩と調和」をテーマに掲げた大阪万博(日本万国博覧会)です。豊かな未来を「坂の上の雲」のように目指し、世界平和への願いを「こんにちは」の言葉に託した時代。私たちに幸せな記憶を刻みました。今年はお隣の国、中国で上海万博が開かれます。先行きがちょっと不安な今だから、あの熱い時代に触れ、「これまで」と「これから」を考えていただけたらと思います。【武井澄人、酒井雅浩、佐藤慶、堀田恵昭】
◇「世界の国からこんにちは」−笑顔、今こそ
◇「時代が人を乗せた」−本社公募で歌詞採用、詩人・島田陽子さん
こんにちは、こんにちは−。ヒットメーカー、中村八大さんが作曲し、レコード会社8社がそれぞれ、三波春夫さん、吉永小百合さんらスター歌手を起用して発売した「世界の国からこんにちは」は、誰もが口ずさめる万博ソングとして今も歌い継がれる。
歌詞は毎日新聞が公募し、1万3195編の中から採用されたのが、豊中市在住の詩人、島田陽子さん(80)の作品だ。「日本中から集まったエネルギーが高度経済成長と相まって生まれたのが大阪万博。時代が人を乗せ、人があのような時代をつくった」。島田さんは振り返る。
世界中の人たちが交流するときに老若男女、時間を問わず誰にでも通じる言葉はないか−。考え抜いた末、行き当たったのが「こんにちは」というフレーズ。さらに、それ以前でも、それ以降でもない、大阪万博だけが象徴する時代性を「1970年のこんにちは」と表現した。
島田さんは戦中、大阪大空襲で同窓生を失った経験を持つ。「平和のありがたさを底辺に秘めた」。しかし、40年たった今、歌詞に込めた、皆が笑顔で握手を交わす世界は、現代に横たわる貧困や民族対立など諸問題の前に淡くかすみがちだ。
ただ、前向きであり続けようと思う。
「一人一人が活動する小さな場所からでも、平和に生きることの大切さを広げていくしかない」
◇コレクション1万点超 いつまでも「万博少年」−エキスポカフェ経営・白井さん
万博会場に通い、グッズを集めては未来へのあこがれを募らせた少年たちがいる。そんな「万博少年」の一人、白井達郎さん(55)=池田市=は筋金入りだ。自宅にパビリオンの一部を移し、1万点以上の万博コレクションを公開中。脱サラし、08年春には大阪市の京阪天満橋駅近くで喫茶店「エキスポカフェ」(06・7504・7365)を始めた。
切手など「紙」集めが趣味だった。開催が決まって少年漫画雑誌に万博のグラビアがあふれると、切り抜きが宝の山になった。自転車をこいで会場の建設現場にも通った。高校生になり、夏休みは場内の水中レストランで皿洗いの仕事。毎日が万博漬けだった。
会期が終わると、手が届かなかった万博グッズも値崩れし、コレクター魂に火がついた。02年に自宅へ移した元「ウルグアイ館」は兵庫県内でラーメン店として残っているのを知り、通い詰めた。なじみ客になったころ、店主から閉店話を打ち明けられ、飛びついた。
カフェには、思い出話に興じようと「少年」らが集う。万博を知らない世代にも当時の気分を楽しんでほしくて、店内にはグッズも並べている。「私の中では、今も大阪万博は『開催中』。40年たって携帯電話は普及したけど、達成されていない未来もいろいろあるから」
(毎日新聞 2010年1月1日)
627
:
黒澤主義
:2010/01/01(金) 20:55:46
大阪万博40年:祝祭振り返り、目指す雲探せ(その2止)/大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100101ddlk27040215000c.html
◇変わったもの、変わらぬもの
◇1Q70−躍進のとき 見つめ続ける太陽の塔
最先端の技術と世界の多彩な文化が交わる見本市でもあった大阪万博。今では当たり前になったあれやこれも、万博が「始まり」になった場合が少なくない。
◆缶コーヒー
◇UCC 食文化洋風化の橋渡し役に
いつでもどこでも、手軽に飲める缶コーヒーは69年、UCC上島珈琲(本社・神戸市)が開発したのが「世界初」とされる。1年後の大阪万博には日本の総人口の6割以上が押し寄せ、爆発的に広まった。
「ここまでになるとは思わなかった。でもオヤジにしてみれば思い通りだったかな」。副社長として開発からかかわった上島達司さん(71)=現会長・写真=は笑う。オヤジとは、実父で創業者の故忠雄さん。駅の売店で飲んだ瓶入りのコーヒー牛乳をヒントに、約1年半かけて完成させたのが、おなじみの「3色缶」だ。だが、コーヒーは喫茶店で飲むのが当たり前だった時代。社内にも「これはコーヒーと違う」と異論はあった。達司さんも「私も半信半疑だった」。
「世界から人が集まる万博は商機」とみると、若手社員約30人が高槻市の工場に併設された通称「万博支店」に集められた。「みんなハングリー。勢いに任せてがんがん営業した」と達司さん。PRのため新幹線の窓際に缶を並べたり、パビリオンの行事で観客に配った。大型連休以降は工場もフル操業になり、「つくっても間に合わない感じだった」と振り返る。
それから40年。達司さんは「缶コーヒーは、万博を契機に洋風化していく日本人の食文化の橋渡し役になったと思う。これからもおいしいコーヒーを届ける義務と責任を果たす」。パイオニアの自負がにじんだ。
◆電波時計
服部時計店(現セイコーホールディングス)が、世界初の電波時計システムを実用化した。三角すい形をしたタイムセンター(高さ15メートル)に内蔵のルビジウム原子時計が正確な秒を刻み、信号をUHF電波で会場内の子時計50カ所に送った。
◆携帯電話
今や生活に欠かせない携帯電話も日本電信電話公社(現NTT)などの「電気通信館」で実演展示された「ワイヤレステレホン」が原型。重さは約700グラム。会場での相互通話や国内の自宅へのダイヤル通話ができたほか、計算機能も搭載。ボタンを押して加減乗除を指示すると音声で答えを伝えた。入場者の1割が利用したという。
◆ケンタッキー
日本上陸を視野にしていたケンタッキー・フライド・チキンは、「アメリカ館」に実験店を開業。カーネル・サンダース人形はまだなく、国内本格進出後の71年ごろから店先に置くようになったという。
◆プレーンヨーグルト/エア・ドーム/電気自動車
プレーンヨーグルトは、明治乳業が「ブルガリア館」からサンプルを分けてもらったのが開発のきっかけ。ゼラチンなどで固めた甘い味がヨーグルトの主流だったが、「健康面での効果も期待できる」との読みもあり、71年の発売にこぎつけた。
空から見た「アメリカ館」は、メロンパンのような網目模様が特徴のエア・ドームだった。88年開業の東京ドームなどでも採用された独特のテント屋根は、大阪市淀川区に本社がある太陽工業が施工した。
330ヘクタールの広大な会場では、池田市に本社があるダイハツ工業製の電気自動車計275台がタクシーなどとして活躍。排ガスを出さず音も静かな未来カーは「“未来都市の車”というイメージを与え、乗車に順番待ちの行列ができるほど」(同社社史)だった。
628
:
黒澤主義
:2010/01/01(金) 20:56:24
>>627
◇「進歩と調和」から「環境」へ 上海万博5月開幕
◇「大阪館」日本の都市唯一の出展、自負と自戒の「水物語」
今年5月1日〜10月31日、中国・上海で開かれる上海万博に日本の都市として唯一、府と大阪市が出展するのが「大阪館」だ。府、市などでつくる実行委の事務局を務める府国際交流課の北川裕一さん(41)は「大阪への観光客増、新たなビジネスチャンス、国際交流と一挙三得のチャンス」と期待を込める。
これまで国や企業しか出展できなかったが、都市の参加が解禁。「ベストシティ実践区」に出展できるのは30〜40都市で、厳しい審査を経て大阪はパリ、プラハなどと並び選ばれた。
大阪館のテーマは「環境先進都市・水都大阪の挑戦」。パビリオンは新しく造成したのではなく、工場跡地に立地する。そこで、江戸時代から近未来へ、大阪がともに歩み、これからも共生していく「水にまつわるストーリー」を紹介する。
北川さんが「大きなポイント」というのが、公害や水質汚染など経済成長の「負」の遺産にも触れる点だ。「川や水を、江戸時代では運河として活用し、助けられてきた。でも、高度経済成長期にはいじめてしまった」。大阪万博前の都市整備で、川の上には高速道路を通し、覆い隠した。当時は称賛された開発への自戒の意味も込める。「公害をどう克服してきたかを見てもらいたい」という。
体験型の展示など演出にも工夫を凝らす。「先を見据え、中国の新しい世代に印象付けたい」との狙いだ。
(毎日新聞 2010年1月1日)
629
:
名無しさん
:2010/01/05(火) 21:06:25
大阪・難波宮跡に新たな建物基壇跡 格式高い役所か
asahi.com 2010年1月5日
http://www.asahi.com/culture/update/0105/OSK201001050089.html
国指定史跡の難波宮跡(大阪市中央区法円坂)を発掘調査している大阪市教育委員会と市文化財協会などは5日、後期難波宮(726〜784年ごろ)の政治の中心だった「朝堂院」跡の東側で、建物土台の基壇跡が見つかった、と発表した。市教委は、孝謙天皇らが行幸したときに建てられたとされる「東南新宮」など特別な施設の一部か、役所群の中でも重要な役所だった可能性があるとしている。
基壇跡は東西約12メートル、南北は5メートル以上で、高さは最大25センチ。周辺では後期難波宮独特の文様の瓦「重圏文軒丸瓦(じゅうけんもんのきまるがわら)」や、基壇を覆っていたとみられる凝灰岩の破片も見つかっている。市教委では、穴に柱を立てた板ぶきの造りではなく、規模は小さいながら朝堂院同様、基壇上に瓦ぶきで建てられた格式の高い建物だったのではないかとみている。
現地説明会は10日午後1時半〜3時半。問い合わせは市文化財協会(06・6943・6836)へ。
630
:
名無しさん
:2010/01/06(水) 13:52:08
安土桃山時代という呼称
織田信長と豊臣秀吉の時代を、安土桃山時代と呼ぶと歴史で習った。
織田信長は岐阜の命名者として認められている。しかもこれは、ブレーンの禅僧 沢彦から、
中国の周王朝の起源の岐山からとった。安土は平安楽土からとったのだろう。
織田信長の時代を安土時代というのはいい。秀吉の時代を桃山時代と呼ぶのは明治になって
かららしい。政権の本拠は大阪城と伏見城にあったのだが、伏見を桃山と呼び出したのは江戸時代。
大阪が最近意気が上らない。とくに、汚染米の本拠地の某社が大阪に本社のあるといわれ、
また、大阪府の子供の学力が全国のほとんど最下位。やめた某大臣が文相だったとき、大阪
では授業参観も出来なかった等、阪神タイガースは近年立派なチームになったが、大阪は振る
わない。歴史で、安土大阪時代と習えば少しは元気が出るか。 橋下頑張れ。
http://www.nescom-asuka.co.jp/teacher/soliloquy/story/H20.10.01.html
631
:
よっさん
:2010/01/07(木) 13:58:28
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100106ddlk27040266000c.html
十日戎:笑顔で幸を 今宮戎の福娘が毎日新聞大阪本社来訪 /大阪
商売繁盛などを願う「十日戎」を前に、今宮戎神社(大阪市浪速区)の福娘14人が5日、毎日新聞大阪本社を訪れた。
福娘は、そろいの着物に白い千早や金色の烏帽子(えぼし)をまとい、「上方締め」で商売繁盛を祈願した。長田麻里さん(19)は「不景気ですが、福娘全員の笑顔でえべっさんを盛り上げ、景気のよい日本にしたい」と話していた。
632
:
よっさん
:2010/01/07(木) 14:04:47
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001001070001
福を呼ぶFKM14がやってきた!
2010年01月07日
「えべっさん」で親しまれる今宮戎神社(大阪市浪速区)の福娘14人が、9〜11日の「十日戎」のPRのため朝日新聞大阪本社を訪れた=写真。
金の烏帽子(えぼし)をかぶり、朱色の振り袖に白い千早を羽織ったおそろいの衣装の福娘たちは、「打ちましょ」「祝うて三度で」と威勢の良い手拍子で上方締めを披露した。
「十日戎」では、商売繁盛を願い、参拝客の福笹(ふくざさ)に縁起物を結びつける。福娘代表の長田麻里さん(19)は、「不景気を吹き飛ばすよう、笑顔でえべっさんのお手伝いをします」とにっこり。
633
:
よっさん
:2010/01/07(木) 14:24:16
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100107-OYT8T00048.htm
“繁盛”呼ぶスマイル
今宮戎(えびす)神社(大阪市浪速区)の福娘14人が読売新聞大阪本社を訪れ、9〜11日の「十日戎」をPRした=写真=。
金色の烏帽子(えぼし)をかぶり、華やかな衣装に身を包んだ福娘たちは、「打ちましょ」「祝うて三度で」などと声をそろえて手を打ち、上方締めを披露した。
福娘代表の同志社女子大1年、長田麻里さん(19)は「えびすさんのお手伝いができるよう、全員でがんばります」と笑顔で話した。
(2010年1月7日 読売新聞)
634
:
よっさん
:2010/01/07(木) 16:16:16
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100107ddlk27070425000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/148 田蓑神社 大阪市西淀川区 /大阪
◇和歌と縁深い景勝の地
◇神功皇后への魚献上が由来 旅の途中、紀貫之が詠んだ歌碑も
新しい年、舞台も新しく、大阪市西淀川区を歩きます。昨年は西区と天王寺七坂の2カ所でしたが、今年は何カ所歩けるんでしょうか。
スタートは阪神千船駅。大阪案内人の西俣稔さんとぶらぶら歩き始める。駅名は千船だが、地名は千舟。「千舟の由来からいきましょか。万葉集の歌から命名されてるんです」と西俣さん。「浜清み 浦うるはしみ神代より 千舟の泊(は)つる大和田の浜」がそれ。「浜が清く浦が見事なので、昔からたくさんの舟が泊まる」という意味だ。「この辺の景色が目に浮かびます」と西俣さんはしばし目をつむる。
千船駅があるのは神崎川と左門殿川にはさまれた大きな中洲で、神崎川の対岸に大和田がある。今は港の面影はないが、千舟と表現されるほど多くの舟が停泊した。江戸時代の「摂津名所図会」には、川に網を張り、網の中に人が入って魚を抱えて取るさまが描かれている。取っているのは大きな鯉(こい)だ。「大和田の鯉つかみ」として知られていた。
このあたりは和歌と縁が深く、歌島という地名も、一帯を詠んだ古歌が多いことから名付けられた。いまだ公害のイメージがつきまとう西淀川区だが、古くは景勝の地だったのだ。これは発見。
付け加えて西俣さんが「和歌山も和歌から地名が付いたし、此花もそうです」。1925(大正14)年、此花区が創設された時、「難波津に咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花」という歌から名前をとった。
ややこしいのだが、千舟の地名は神崎川の対岸にあり、この中洲は千船駅はあれど地名は佃だ。「856年まで田蓑(たみの)島でしたが、佃氏などが島を開発したので佃島になったわけ。佃の語源は『つくりだ』、つまり田んぼを作る人です」
神崎川に沿って北東へ向かう。マンション群が現れた。道は緩やかにカーブを描いている。「この曲線こそが佃島の曲線やね。昔の川の上を歩いているわけや」
新しそうな住宅街の中にお寺がある。表の黒板に白墨で書かれた文句に目が留まった。「煩悩(ぼんのう)は 払えど積る 落葉かな」。ふむふむ、なるほどなあ。西俣さんと、お互いを指さし合う。 田蓑神社に着いた。佃島の前の名前が神社名になっているのだが、もとは住吉明神と呼ばれ、田蓑神社になったのは明治のこと。住吉さんは水難から守ってくれる神様だ。神功皇后が九州からの帰りに佃島に泊まり、住民が魚を献上したところ、たいそう喜ばれ、船の飾りを与えて、「これと住吉大神を祭るように」と告げた−−と創建の由来が伝わっている。
境内を進めば、石碑がいくつか建っている。その一つが「紀貫之歌碑」。平安時代の歌人の歌「雨により 田蓑の島をけふゆけば なにはかくれぬ ものにぞありける」が刻まれている。古今和歌集に収められており、旅の途中で田蓑島に立ち寄った時に詠んだという。この地は、やはり和歌と縁が深い。
もう一つ縁が深いのが佃煮だ。そのわけは、もうひとつの碑が物語っていた。【松井宏員】
==============
◇間もなく連載150回 記念読者のつどい、31日開催
この連載は間もなく150回を迎えます。これまで支えてくださった読者の皆様方に謝意を表わすため、「150回記念読者のつどい」を催します。
31日(日)午後4時半から。西俣稔さんがミニ講演。沖縄民謡酒場で沖縄料理と民謡を楽しみます。会費は3000円(料理代、ワンドリンク付き、資料代)。定員30人。
参加希望は、はがきに郵便番号、住所、名前、年齢、電話番号を明記し、〒530−8251(住所不要) 毎日新聞社会部大阪版「わが町つどい」係。15日(金)締め切り。応募多数の場合は抽選。案内状の発送をもって発表に代えます。
635
:
黒澤主義
:2010/01/09(土) 00:18:45
八尾で「八日戎」始まる 大阪
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/100108/osk1001080212001-n1.htm
八尾天満宮(八尾市本町)の境内にある八尾戎神社で7日、新春恒例の「八日戎」が始まり、福を求める参拝者や福娘たちの明るい声でにぎわっている。8日まで。
えびすをまつる神社では10日の本戎を中心とした「十日戎」が一般的だが、同神社では八尾の「八」にちなみ、昭和34年から毎年1月7日に宵戎、8日に本戎が行われている。
参道のスピーカーからは、軽快なリズムに乗った「商売繁盛で笹もってこい、福ざさ、吉兆は八尾戎」というかけ声が流れ、華やかなムードに。
福ざさや福くま手の販売所では神社主催のコンテストで選ばれた、そろいの着物姿の福娘たちが勢ぞろい。「福いかがですか」と呼びかけながら、参拝者たちに明るい笑顔を振りまいていた。
(msn産経ニュース 2010年1月8日)
636
:
黒澤主義
:2010/01/09(土) 00:19:15
「商売繁盛で笹もってこい」 大阪・北新地で宝永籠行列
http://www.asahi.com/national/update/0108/OSK201001080107.html
大阪市北区の大阪天満宮のえびす祭を前に8日、商売繁盛をえびす様に願う「宝永駕(ほえかご)行列」があった。「商売繁盛で笹(ささ)もってこい」というにぎやかなお囃子(はやし)と太鼓の音が響くなか、人力車に乗った芸妓(げいぎ)や噺家(はなしか)など約100人が、北新地から同天満宮まで約2キロを練り歩いた。
芸妓らが大阪天満宮に参拝し、商売繁盛を願って福笹を持ち帰る行事。江戸時代に始まり、1938年を最後に途絶えていたが、昨年復活した。芸歴20年という芸妓の清一(きよかず)さんは「景気はもうひとつだが、再び活気ある大阪になって」と話した。
(朝日新聞 2010年1月8日)
637
:
よっさん
:2010/01/09(土) 08:15:09
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100108ddlk27040326000c.html
福娘:堀川戎神社など、毎日新聞大阪本社訪問 /大阪
◇「商売繁盛で日本明るく」
十日戎(えびす)(9〜11日)を前に、堀川戎神社(大阪市北区西天満5)の福娘5人が7日、毎日新聞大阪本社を訪れた。朱色の着物に白の千早を羽織り、「商売繁盛、家内安全」と声をそろえ、金色の神楽鈴を振って祈願。岡野恵里(めぐり)さん(21)は「不景気なので少しでも日本を明るくしたい」と笑顔で話した。
野田恵美須神社(同市福島区玉川4)の福娘3人も来社。藤の花をあしらったかんざしをつけた橘佳菜美さん(21)は「元気で明るく福を届けたい。歴史ある祭りを若い人にも知ってもらえたら」と話していた。【田辺一城】
638
:
よっさん
:2010/01/09(土) 08:18:26
http://www.sankei-kansai.com/2010/01/09/20100109-019097.php
2010年1月 9日
福のつまった笹どうぞ 福娘がプレゼント
商売繁盛を願う今宮戎神社(大阪市浪速区)の十日戎を前に、同神社の福娘が8日、天王寺動物園(大阪市天王寺区)を訪れ、レッサーパンダとゾウに福笹(ふくざさ)をプレゼントした=写真(鳥越瑞絵撮影)。
この日はおそろいの金の烏帽子(えぼし)をかぶった福娘13人が、レッサーパンダ舎の前で、園の職員らに福ざさ200本を贈呈した。
この後、福娘らは、集まった入園者らとともに「うーちましょ」と元気の良い大阪締めで幸福祈願。福笹をほおばるレッサーパンダの姿に「かわいい」と歓声を上げていた。
福娘の中西彩さん(21)は「福がたくさん詰まった笹なので、動物園や入園者の皆さんに福が届くようにと祈りました。レッサーパンダもおいしそうに食べていたのでよかった」と話していた。
639
:
よっさん
:2010/01/09(土) 09:05:49
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100109-OYT8T00054.htm
活気よ、戻れ 招福行列
大阪・北新地の芸妓(げいこ)が新年の恒例行事にしていた宝永(ほえ)かご行列を、人力車に替えて再現した招福行列が8日、大阪市北区で催された。一行は囃子(はやし)を響かせながら不景気にあえぐ街を練り歩き、大阪天満宮で商売繁盛を祈願した。
行列は、同天満宮の天満天神えびす祭(9〜11日)を盛り上げようと昨年、約70年ぶりに復活した。今回、オリジナルキャラクター・天満えびすのみこしが新たに加わり、芸妓や落語家のほか、ホステスから選ばれた北新地クイーンが人力車5台に分乗。ちょうちんやのぼりを持った約100人と、北新地から同天満宮までの約2キロを往復した。
芸妓の清一(きよかず)さんは「行列を機に、大阪が活気ある姿を取り戻してほしい」と話した。
(2010年1月9日 読売新聞)
640
:
大阪を首都にする会名誉会長
:2010/01/09(土) 14:22:51
大阪は活気があります。
641
:
黒澤主義
:2010/01/12(火) 22:44:27
大阪城天守閣で展示会「戦国時代から天下統一へ」
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/100112/osk1001120215000-n1.htm
歴史ブームが続くなか、大阪市中央区の大阪城天守閣で、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らが活躍した戦国から江戸時代にかけての歴史を紹介した展示会が開かれている。24日まで。
会場には、大坂の陣で奮戦した後藤又兵衛所用とされる「日月龍文蒔絵仏胴具足(じつげつりゅうもんまきえほとけどうぐそく)」のほか、「安土城図」や「長篠合戦図屏風(びょうぶ)」など約40点を公開している。
注目されるのは、安土城や豊臣時代の大坂城などから発見された金箔(きんぱく)瓦。瓦は寺院の堂宇にふかれるものだったが、信長が瓦に金箔を張り、天守や櫓などの屋根を飾らせてから、それ以降の城郭の建物にもふかれるようになったという。
昭和29年に発掘された「金箔押菊文大飾瓦(きんぱくおしきくもんおおかざりがわら)」(直径45センチ)は、火災のため溶けているが、菊文の全面に金箔が押されていたことがわかっている。
松尾信裕館長は「天下統一期のきらびやかな城の姿を感じてほしい」と話している。
(msn産経ニュース 2010年1月12日)
642
:
名無しさん
:2010/01/14(木) 18:27:24
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/149 佃 大阪市西淀川区 /大阪
◇家康との縁で、漁民33人が江戸移住
◇佃煮のルーツ、ここに 佃小と佃島小、姉妹校交流今も
田蓑(たみの)神社(佃1)にある「佃漁民ゆかりの地」の碑は、全国漁港漁場協会が選ぶ「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に、府内でただ一つ選ばれている。大阪の佃と東京の佃島、さらには佃煮を結ぶ歴史の不思議な縁を物語っている。
時は安土桃山時代の天正14(1586)年にさかのぼる。この4年前、天下統一の夢半ばで織田信長が本能寺で倒れ、豊臣秀吉が実質的な後継者に名乗りを上げる。秀吉と対峙(たいじ)して小牧・長久手の戦いなどで戦火を交えた家康が、大坂城で秀吉と会い、臣下となったのが天正14年10月のことだ。
おそらくこのころのことだと思われるが、家康は住吉大社に詣でたあと、清和源氏ゆかりの多田神社(兵庫県川西市)に参ろうと、佃村にやって来た。しかし渡し船がない。困っているところを、村の庄屋らが漁船を出して神崎川をさかのぼった。喜んだ家康は、のちに佃の漁民に漁業権の特権を与え、さらに江戸城に入城した天正18(1590)年、漁民を江戸へ移住させ、江戸城へ魚を献上する役目をおおせつけた。
この時、移住したのは田蓑神社の宮司の弟と漁民33人。大坂の陣でも、佃の漁民は徳川方についたという。のちに、江戸に下った漁民たちは隅田川下流の鉄砲津という所の干潟を与えられて開拓。佃村の名を取って、佃島と名付けた。故郷の住吉明神から分祀(ぶんし)した住吉神社を建立した。
家康と佃の漁民とのなれそめだが、大阪市市史編纂(へんさん)所に尋ねたところ、「田蓑神社に伝わる記録にしか出ておらず、本当に家康を船に乗せたかどうかは判然としない」という。ただし「家康が伏見にいた時に魚を献上して喜ばれたり、関ケ原の戦いで徳川方のために軍船を用立てたのは事実」で、佃の漁民が家康に可愛がられていたのは間違いないところのようだ。
江戸期に漁業者の組合ができる時、佃は「家康に特権を与えられている」として組合に入らず、もめたこともあったという。「わしらは、おまえらとは違うんじゃ」といったところか。
ともあれ、家康は佃漁民に海上の隠密を命じるなどしており、恩を受けたから目をかけた、「家康はいい人」的な単純な話ではない。大坂に足場のない家康の軍略的な思惑が働いていたと見るべきだろう。
で、佃煮だ。江戸の佃島が発祥だから佃煮。もとは保存食のようなもので、大坂の佃から移住した漁民たちが作ったのだ。佃で漁をしていたころからの保存食という説もある。異説もあって、「大阪史蹟辞典」で三善貞司さんは、江戸・佃島の住吉神社の祭礼に供えた白魚の塩漬けが佃煮の起こりだとしている。
いずれにしても、大坂から移住した人たちが作ったのだから、「佃煮のルーツは大阪にあり」と言えよう。大阪案内人の西俣稔さんは「四貫島の人たちが移住してたら、佃煮じゃなくて四貫島煮になってたかも」と笑う。
さて、大阪の佃と東京の佃島の縁は、実は今も続いている。どちらもとうに漁師町ではなくなったが、佃小学校と佃島小学校が1965年に姉妹校となり、以来、毎年交流しているのだ。隔年に相手校を訪問して交歓会を開いており、一昨年は佃小の児童代表と歴代校長、西淀川区長らが佃島小を訪問。昨年は佃島小の児童らが佃小を訪れた。手紙の交換もしている。
佃小の堀川高行教頭(45)は「その後も文通を続けている子もいます。佃島小の校歌も練習していて、交歓会で歌うんですよ」と話す。一方の佃島小も「交流は伝統になってます。去年、訪ねた時は地域あげて熱く迎えていただきました。田蓑神社の参拝は恒例です」という。
西俣さんは「漁民の移住という土地のルーツを通じての交流はすばらしい。子どもたちがわが町の歴史を知り、伝えていくきっかけになります」と目を細める。【松井宏員】
http://mainichi.jp/life/travel/news/20100114ddlk27070451000c.html
643
:
名無しさん
:2010/01/15(金) 13:44:38
裸、躍る 四天王寺「どやどや」
2010年1月15日
大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)で14日、年頭の伝統行事「どやどや」が執り行われた。ふんどし、鉢巻き姿の男子中高生約830人が参加し、お堂の天井からまかれるわずかな魔よけの札をつかみ取ろうと勇ましく体をぶつけ合った。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100115/images/IP100114TAN000163000.jpg
水を浴びせられながらも勇猛果敢に札を取り合う中高生ら=14日午後、大阪市天王寺区
行事は、元日からこの日まで、境内・六時堂で新年の天下泰平、五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する「修正会(しゅしょうえ)法要」の結願日に執り行われている。
お堂周辺では大勢の参詣者が見守る中、紅白に分かれた四天王寺羽曳丘中・高、清風南海高、清風中・高の生徒らが東西から堂々と入場。寒空の下、全身に力水を浴びながら湯気を立てて堂内へなだれ込み、同法要中に祈とうされた「牛王宝印(ごおうほういん)の護符」に手を伸ばして激しくもみ合った。幸運にも札をつかんだ生徒らは、異口同音に「取ったぞ」と、歓喜の声を響かせていた。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100115/20100115030.html
644
:
黒澤主義
:2010/01/17(日) 00:00:35
豊作願いお粥占い 八尾市の恩智神社 大阪
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/100116/osk1001160247001-n1.htm
八尾市恩智中町の恩智神社(新海英宣宮司)で15日、「お粥(かゆ)占神事」が行われた。竹筒に入ったかゆの量で農作物の豊凶を占う神事で、千年以上前に始まったとされる。
15センチほどに切られた竹筒80本を縄でたばね、上から小豆5合、米2升のかゆを流し込み、神前で一つ一つ包丁で割る。筒の中の小豆と米の入り具合で、恩智地域で多く栽培されている米やダイコン、イチゴなどの70種類の農作物について、今年の出来を占う。
かゆが多く入っているだけではなく、小豆と米がバランス良く含まれていることも必要。「上々」「上」「中」「下」の結果が次々と発表されるたび、氏子から歓声やため息がもれた。
また、境内のカシの木から削り取った木片の焼け具合で今年の天候を占う「おき上げ神事」も行われた。1〜5月は雨が多く、7月は大風、9月以降は晴れが多いという結果になった。
(msn産経ニュース 2010年1月16日)
645
:
黒澤主義
:2010/01/20(水) 19:15:28
20世紀の大阪、紹介する300点―瓶など近現代の出土品や絵はがきで
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news007213.html
軍隊の認識票や飲料の瓶といった近現代の出土品などから20世紀の大阪の様子を紹介する「大阪の二十世紀」展が23日〜3月22日、大阪府和泉市の府立弥生文化博物館で開かれる。産業や文化が発展した大正から昭和初期の時期や、戦時中の大阪の空気を再現する。
当時の絵はがきや写真、地図、新聞なども含めて約300点で構成。近現代の出土品のまとまった展示は珍しい。墜落した米軍機のプロペラや防毒マスクが戦時中の雰囲気を物語り、電飾に包まれた通天閣の写真からは当時の大阪の繁栄が伝わってきそうだ。
(日経新聞 2010年1月20日)
646
:
黒澤主義
:2010/01/20(水) 19:26:04
よみがえる石山本願寺−大阪城の原点を見つめる映画、CG制作開始
http://kyobashi.keizai.biz/headline/673/
大阪城が豊臣秀吉によって作られる前、そこには石山本願寺とその寺内町が広がりにぎわいをみせていた。その様子をCG(コンピューターグラフィックス)で再現するという試みが現在、大阪のクリエーターらによって進められている。
制作中のCGは、来春公開予定の映画「雑賀の孫市」(山口雅和監督)で使われる映像。「雑賀の孫市」は戦国時代、織田信長と浄土真宗の門主顕如(けんにょ)が10年間にわたって繰り広げた石山戦争で、顕如の下で活躍した伝説の男・雑賀孫市(鈴木孫市)の生き様を描く映画。舞台となる石山本願寺とその周辺の様子をCGで再現することで当時の活気と臨場感を出すのが狙い。
制作の中心となっているのはデジタルハリウッド大学大学院教授の栩木(とちき)雅典さん。栩木さんは以前、京都の街並みを再現するCGを作成した実績を持つ。今回は同大卒業生に呼びかけて「雑賀VFXチーム」を結成し制作に取り組んでいる。メンバーたちは日々古い図表や文献を探り、さらに今に残る本願寺やその周辺の寺院を回って石山本願寺のデータを収集。
「石山本願寺についていろいろ調べていくうちに、この地が水運の要で物流が盛んに行われていて、日本史上重要なポイントであったことを改めて感じている」と栩木さん。寺内町では楽市楽座のように自由にものの売り買いが行われていたという。同チームメンバーの一人、山壁りかさんは「石山本願寺と寺内町は今でいうとテーマパークのよう。その生活感と活気が伝わるようにしたい」と話す。
CGは6月の完成を目指す。その後、役者たちとの合成作業が始まる。山口雅和監督は「この映画を通して古いものを生かして新しいものを生み出す日本人の力強さを表現したい」と意欲をみせる。
(京橋経済新聞 2010年1月18日)
647
:
黒澤主義
:2010/01/20(水) 19:31:34
ものの始まり・なんでもなにわ:/20 電卓/大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100120ddlk27040373000c.html
◇原動力は社員のモチベーション
◇60年代、シャープが商品化−−当初は25キロで価格53万円
誰もがどこででも簡単に使える電卓。初めて商用化したのは、大手電機メーカーのシャープ(大阪市阿倍野区)だった。
同社は1912年、金属加工業として東京で創業した。70年に変更した社名は、創業者が発明して世界的な大ヒット商品となったシャープペンシルに由来する。1923年、関東大震災で工場が焼失したのを機に、大阪に移転した。
同社は戦後、日本で初めてテレビを生産し、日本中が好景気に沸いていた1960年も当然、量産に追われていた。そんな中、入社4〜5年目の若手技術者たちが「今後、メーカーとして発展していくために一から部品を作りたい」と提案したことが、大きな転機となった。同社広報室の落合平八郎主事は「この時、若い社員たちが『将来どうすべきか』を考えていなかったら、今の会社はなかったかもしれない」と語る。
当時、冷蔵庫や洗濯機など家電を中心に手がけていたが、いずれも購入してきた部品を工場で組み立てるだけだった。国産第1号となったテレビですら、ブラウン管は自前ではなかった。
若手社員たちは、コンピューターや半導体の基礎を大学で一から学んだ。コンピューターの素人だった社員たちは4年後、世界初の電卓を発売した。重さ25キロ、価格は自動車とほぼ同じ53万5000円だったが、大反響を呼び、爆発的に売れた。
初期の電卓は高価で大きいうえ、消費電力も多く、計算を間違えることもあった。そんな中で出てきたのが、「いつでも、どこでも、誰でもそろばんのように使える計算機を作ろう」という考えだった。安さと小ささを求めて、各社の競争が始まった。消費電力を抑えるという点で、米国で研究が進んでいた液晶に注目が集まっていたが、実用化に向けた実験では失敗が続いていた。
突破口を開いたのは、またも若い社員だった。当時、液晶は不純物が入ると使えないと考えられていたが、以前から「不純物が入った方が、うまくいくのでは?」と考えていた液晶の開発チームにいた新入社員が、捨てる前に実験を試みた。そして電流が流れやすく、長持ちさせることに成功。73年、電卓の表示装置として、世界で初めて液晶の実用化を実現した。
液晶の技術は今、テレビ、携帯電話、電子手帳などさまざまな機器に活用されている。電卓の発展は液晶だけでなく、半導体や太陽電池などの技術革新がもとになっている。落合さんは「現在のエレクトロニクスを支える物はすべて、電卓にまつわる」と考える。
開発を続けられた原動力は何だったのか。落合さんは「会社が発展途上で、技術面でも未知の領域が多く残っていた。頑張れば何でもできる時代だった」と言ったうえで、強調した。「何より『世の中にない物を作ろう』というモチベーションが高かった」。その思いは、今も技術者たちを突き動かしている。【田中博子】
(毎日新聞 2010年1月20日)
648
:
名無しさん
:2010/01/26(火) 12:34:14
垣根越え落語まつり 米朝事務所・吉本・松竹
産経関西2010年1月26日
http://www.sankei-kansai.com/2010/01/26/20100126-019697.php
上方落語の笑いで大阪の街を明るく元気にしようと上方の落語家約100人が4月末、ゴールデンウイークの3日間、大阪・ミナミにある7会場で計16の落語会を一挙開催することが25日、決まった。「第一回上方落語まつりinミナミ」と題し、米朝事務所、吉本興業、松竹芸能の3社が事務所の垣根を越え初めて結集。桂米朝さん、桂春団治さん、笑福亭仁鶴さんらベテランから桂吉弥さんらの若手まで、人気・実力ともに備えた顔ぶれが参加、ミナミが落語一色に包まれる。
会場は、松竹系の大阪松竹座、吉本興業のNGK、米朝事務所と縁の深い動楽亭と雀のおやど。加えてワッハ上方ホール、大丸心斎橋劇場、トリイホールでも。
出演者は、松竹系から春団治さんに笑福亭松喬さんら。米朝一門では米朝さん、ざこばさん、米團治さんら。吉本からは仁鶴さん、桂三枝さんといった、ベテランから新進気鋭まで各社に所属する人気者、実力派がずらり並ぶ。
人も金も東京に集中し関西は元気がないといわれるが、落語は勢いがある。約60年ぶりに復活した定席、天満天神繁昌亭は大入りが続き、各地の落語会の数は増加。昨秋には寄席演芸で初めてとなる文化勲章を米朝さんが受章し関係者の意気はあがった。
これまで落語にあまり重点を置いてこなかった吉本興業が落語の勢いに注目。いま大阪から文化発信し、街を元気づけるには落語会が最適と、3社による企画が急ピッチですすんだ。
同様の会は平成16年夏、東京・銀座の6会場で3日間開かれた「大銀座落語祭」がある。東京の春風亭小朝さんや大阪の笑福亭鶴瓶さんらが結成した「六人の会」が主催し、延べ1万5千人のファンを動員。5年続き、毎回数万人が全国から訪れて落語ブームを勢いづかせた。
今回は近隣商店街の協力を得て4月28日にNGKから開幕。落語のほか米朝さん、春団治さんら重鎮そろい踏みの口上がある。翌29日は大丸心斎橋劇場など3カ所で9公演。30日は同様の口上がある大阪松竹座など3カ所で6公演がある。
米朝事務所では「何年間か続け、ミナミの名物企画として定着させたい」と話している。
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よっさん
:2010/01/28(木) 15:34:45
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100128ddlk27070430000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/151 被爆者鎮魂之碑 /大阪
◆大阪市西淀川区
◇65年前の惨劇、防空壕の53人巻き添え
◇B29が近くの戦艦部品工場空爆
田蓑神社から北へ上がると、左門殿(さもんど)川に出る。コンクリートの堤防が視界をふさいでいるが、対岸は尼崎だ。尼崎藩主、戸田左門氏鉄が開削したのでこの名が付いている。
大阪案内人の西俣稔さんと、堤防沿いに左門橋南詰めに歩く。小さなほこらがあった。傍らに「被爆者鎮魂之碑」と刻まれた碑が建っている。第二次大戦末期の1945年6月26日、米軍の爆撃機B29の空爆によって、ここにあった防空壕(ごう)が被弾。住民53人の命が絶たれた。
空爆を体験したかたの手記は、その模様をこうつづる。「いつも私たちが入っていた防空壕は、跡形もなくすり鉢状に掘り返したような大穴になっていた。その周辺に無数に散らばっている誰のものともわからぬ衣服の切れ端、飛び散った腕、指、足……」。すさまじい様子を伝えてあまりある。
戦後、木製の碑と地蔵がまつられ、82年に住民から寄付を募って再建された。碑文には「私達は永遠のお祈りを捧げ、この様な悲劇が繰り返されることの無いよう改めて心に深く誓い合わなければならないものと確信致します」と書かれている。
左門橋は国道2号が通るので、ひっきりなしに車が行き交う。橋の近辺にはファストフードやファミリーレストラン。65年前の惨劇を想像することすらできない。
「なんで爆撃されたかが大事」と西俣さん。国道の向かいにある佃中学のあたりに、当時、小さな機械部品の工場があった。「米軍は、戦艦の歯車を造っていることを調べてターゲットにしたんです。当時の日本は竹やり。相手になるはずがない」。53人の住民は、その巻き添えをくったわけだ。
「柴島浄水場も、水を断つために爆撃された。一方で、吹田の操車場は爆撃されてません。米軍があとから使うためです」と続けた。
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◆豆じゃこ
◇読者からの作り方紹介
前回の「佃煮余話」で紹介した「豆じゃこ」について、読者の皆さんから作り方をお寄せいただきました。いくつかを紹介します。
武丸露子さんは「子どものころはごちそうの部に入っておりました」と回想。大豆を一晩水につけ、軟らかくなったらニンジンを入れ、砂糖としょうゆで味付け。モロコかフナを炭火で焼いて、鍋であまり混ぜずに煮るそうです。
96歳の小林花子さんによると、おいしく煮る秘訣(ひけつ)は番茶だそうで、「なまぐささもなく、頭も骨も軟らかく、丸ごと食べられます」とのこと。モロコは生きたまま金串(くし)に刺して焼き、大豆は水につけてふやかし、鍋に入れた大豆の上にモロコを入れ、濃く煮出した番茶を加えて3〜4時間、とろ火で煮る(番茶を足しながら)。モロコが骨まで軟らかくなったら、砂糖としょうゆで味付け。
新坂義秋さんは「田んぼに水を引き込む小溝でじゃこ(コブナ、モロコ)等を取り、一晩水につけた大豆と40〜50分ほど小火で煮て、夕食に食べてそのまま食卓に残しておくと、翌朝はゼラチン状に、また違った食感となります。これぞ冬の風物詩」と懐かしそう。
最近はモロコなどが手に入らないので、代用を教えてくれました。今が旬のワカサギを使い、ショウガのみじん切りを入れてくさみを消し、しょうゆとみりん、砂糖少々で20〜30分、弱火で煮ると良いそうです。
一度お試しを。【松井宏員】
650
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よっさん
:2010/01/28(木) 15:35:47
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100128ddlk27040421000c.html
能楽:「能を観る」シリーズ13回目 シテ方観世流・大槻文蔵さん「恋重荷」 /大阪
◇30日、大槻能楽堂−−中央区
能楽シテ方観世流の名手、大槻文蔵さんが30日午後2時、大阪市中央区の大槻能楽堂(06・6761・8055)で「恋重荷(こいのおもに)」を演じる。哲学者、梅原猛さんの解説の後、能を鑑賞する「能を観(み)る」シリーズ13回目。【宮辻政夫】
白河院につかえる菊守の老人(前シテ)が女御(にょうご)に恋をし、重荷をかついで庭を百度も千度も回ったら、もう一度姿を見せようという女御の言葉を信じる。しかしその重荷は決して持ち上げられない重さで、からかわれた老人は恨んで死に、怨霊(おんりょう)(後シテ)となって出現する。
現行の演出では重荷は持ち上げられないままで、しかも怨霊は最後は女御の守り神になろう、と約束するなど不自然な点が指摘されている。重荷を怨霊が女御に押し付ける古式も演じられたことがあるが、文蔵さんは「現行の型を整備し、室町末期の文献を参考に演じたい」と話し、新たな試みに挑戦する。
651
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黒澤主義
:2010/01/28(木) 20:12:31
【堂島薬師堂】曇りなき心 ひと・街照らす
http://www.asahi.com/kansai/travel/kansaiisan/OSK201001270038.html
大阪・キタは、ビジネス街の堂島と繁華街の北新地の境あたり。林立するビルのはざまに不思議な球体が鎮座している。全身キラキラ。昼は日の光をはじいて輝き、夜は盛り場のネオンを反射する。直径は7メートルほど。三角形の金色のミラーガラス約120枚を組み合わせてある。
巨大なミラーボールかサッカーボールのオブジェだとずっと思っていた。恥ずかしながらこれが由緒ある「堂島薬師堂」だと知ったのはつい最近のこと。なるほど、球体の周りを円い池が囲み、ハスの葉のオブジェも浮かぶ。池の上にかかる木の橋が参道。数歩渡ると薬師如来をまつった内部がガラス越しに見える。それにしても、なんでこんなデザイン?
◇
薬師堂の起源は約1400年前。四天王寺建立の際に建築用資材を運ぶ船が難破し、流れ着いたこの辺りにお堂を建てたのが始まりとされる。昔は、大阪湾を行く船からも見え、海の道標でもあったという。
「お堂のある島だから堂島。堂島はこの薬師堂から発展しました」と、地元奉賛会の山本弘澄会長(79)。江戸時代に堂島は全国の米が集まる経済の中心地として栄え、北側に曽根崎新地花街ができた。薬師堂は米の相場師や芸者をはじめ、幅広い庶民の信仰を集めてきた。
以前は瓦屋根の日本的建築だったが、敷地内のビル新築にあわせて1999年に再建された。聞けば、当初はこれまで通り瓦屋根の設計案だったが、大本山の奈良・薬師寺のえらいお坊さんが、こうおっしゃったのがきっかけだった。「商売のまちである堂島周辺の人たちにとって大事なのはお金。お金はまるく、光っているでしょう」。かくして誕生した斬新な球体は無限に広がる宇宙を表し、世の中がまるく平和であるようにとの祈りも込められたという。
◇
山本会長によると、「こんな宇宙船のような中でお薬師さんは落ち着いていられるのだろうか」と心配する声もあったが、最終的に「周囲のビル街にマッチする」と受け入れることになったとか。でも、「格好いい」「おしゃれ」と若い人の評判が良く、参拝者が増えた。新地の飲食店に勤めている30代の女性は毎夕、出勤前に手を合わせるのが日課だ。「この派手派手しさがいかにも大阪らしい」
不況の時代を生きる街をやさしく照らす薬師堂。日が沈み、新地のネオンがともり始めるころ。照明されたお堂に近づくと、ミラーガラスに自分の姿が映っているのに気付いた。「おのれを見つめよ」。お薬師さんにそう言われたような気がして、ぴんと背すじが伸びた。(深松真司)
(朝日新聞 2010年1月27日)
652
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黒澤主義
:2010/02/03(水) 20:07:54
大阪・箕面の帝釈寺で節分会 火渡り修行に200人
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100202/trd1002022339013-n1.htm
◇…大阪府箕面市の帝釈寺で2日、節分会が営まれ、護摩木をたいた残り火の上を裸足で歩く「火渡り修行」が行われた。
◇…無病息災を祈る恒例行事。境内で「厄除」などと書かれた護摩木約2千本を火にくべた後、煙のくすぶる灰の上を参拝客約200人が10歩ほどで渡った。
◇…生後5カ月のひ孫、萌結ちゃんを抱いて挑戦した同市の無職、久保憲一さん(75)は「足が熱くて(ひ孫を)落とさないかはらはらしました」。
(msn産経ニュース 2010年2月2日)
653
:
黒澤主義
:2010/02/03(水) 20:08:57
節分:福豆に1万5000人 大阪・成田山不動尊
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100203k0000e040048000c.html
節分の3日、大阪府寝屋川市の成田山不動尊(成田山大阪別院明王院)で恒例の豆まき式があり、福豆をつかもうとする1万5000人(主催者発表)の参拝客で熱気に包まれた。
境内には全長約200メートルの特設舞台が設けられ、午後までの計3回の豆まきに落花生など約2トンを用意した。午前10時半からの1回目には、NHKの連続テレビ小説「ウェルかめ」に出演する女優の倉科カナさんや俳優の石黒賢さんらが登壇。「不動明王がいる境内には鬼はいない」とする不動尊独特の言い伝えから、「福は内、福は内」だけの掛け声とともに豆をまいた。【北川仁士】
(毎日新聞 2010年2月3日)
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:
名無しさん
:2010/02/04(木) 11:54:17
伝統芸能に園児くぎ付け 扇寿栄之丞さんを講師に
2010年2月4日
日本の伝統文化を体験する取り組みがこのほど、大阪市阿倍野区昭和町4丁目のグレース幼稚園(加藤鉄三郎園長)で行われ、子供たちやその家族らは日本舞踊の魅力や三味線の音色を満喫していた。
生で味わう機会の少なくなった文化を若い世代に知ってもらおうと、同園が行事として初めて企画。日本舞踊の扇寿流二代目家元、扇寿栄之丞さんを講師に招いて開いた。
栄之丞さんは、義太夫「二人三番叟(ににんさんばそう)」で表現豊かな舞を披露し、端唄「春雨」などでは三味線を実演。大人向けの講習会では、三味線の仕組みや弾き方を紹介し、参加者と一緒にうたの練習も行った。
大人から3歳児まで舞台にくぎ付けになり、伝統芸能に触発された園児からは「あっぱれ」などの声も。思わず出演者から笑みがこぼれるなど、和やかな雰囲気に包まれつつ交流を深めていた。
自ら日本舞踊に取り組み、今回の企画を担当した同園主事の加藤知子さんは「子供たちは思っていた以上に伝統芸能を身近に感じてくれた。この経験を将来に生かしてもらえれば」と成功を喜んでいた。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100204/20100204034.html
655
:
黒澤主義
:2010/02/04(木) 19:43:26
見物客2万人…商売繁盛願い大阪・北新地で「お水汲み」
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20100204-OYO1T00504.htm?from=main4
大阪・北新地の堂島薬師堂周辺で3日、商売繁盛と招福を願う「節分お水汲(く)み祭り」が行われた。街を清める竜の巡行もあり、約2万人の見物客でにぎわった。
午後5時半、薬師堂で参拝者ら約1000人は、薬師寺の井戸水を清めた「お香水(こうずい)」入りの竹筒を受け取り、多幸を祈願。商業ビル「堂島アバンザ」では芸妓(げいぎ)が舞を奉納した。
この後、芸妓やホステスら約100人が、ホラ貝やかね、太鼓の音に合わせ、「くみましょ、くみましょ、お水汲み」と手拍子を打ちながら、赤と金に彩られた布製の竜(長さ約15メートル)とともに、通りを練り歩いた。
北新地クイーンのあや子さん(21)は「北新地が元気に発展しますように」と願っていた。
(読売新聞 2010年2月4日)
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:
黒澤主義
:2010/02/04(木) 19:48:55
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/152 地名の由来/大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100204ddlk27070429000c.html
◆大阪市西淀川区
◇淀川河口は「難波の八十島」 古代、大小の島々浮かぶ1
左門橋から国道2号を南下し、大阪案内人の西俣稔さんと神崎大橋を渡っててくてく行く。地名の表示板は御幣島(みてじま)、歌島と続く。
改めて西淀川区の地図を見てみると、島の付く地名がやたらと多いのに気付く。ほかに竹島、姫島、出来島、百島、西島、中島と、区の地名の半分は島だ。古代、淀川河口は大小の島々が浮かび、「難波の八十島(やそしま)」と呼ばれた。国生み神話の原型ともいわれ、国土の象徴でもあった八十島の記憶が、西淀川区の地名に刻まれている。
御幣島の名は、この八十島と大いに関係している。御幣は「ごへい」とも読むが、昔は「みてぐら」といった。神主さんがお祓(はら)いの時に捧(ささ)げ持つ、麻や木綿、紙などで作った幣(ぬさ)のことだ。
御幣島は平安期は「みてぐらじま」と呼ばれていた。天王寺七坂の巻でも触れたが、この時代、朝廷は天皇が即位すると、国生みの地、上町台地で「八十島祭」を執り行った。高級女官が天皇の衣に御幣を手向けて祓い、国土の神霊を付けたという。
◇国生み神話と関係?御幣島
◇出来島、福町…… こめられた先人の思い−−喜びや願い
この儀式が御幣島で行われたというのが、地名の由来になっている。八十島祭の場所については定かでなく、御幣島説が正しいかどうかはわからないが、地名に残っているからには、何か関係があったのかもしれない。ともかく由緒ある地名だ。
ついでに西俣さんの地名の由来話を聞くことにしよう。「出来島は室町時代の新田開発で、『田んぼがよう出来た』から」。ホンマですか? 「いやいや、今からしたら、『なんやそれ』と思うかもしれんけど、当時は遠浅の大阪湾に浮かぶ島の開発は大変やったんです。苦難を乗り切った喜びが込められてるんですよ」
そう言えば、中央区のビジネス街にある今橋という名も、「やっと橋が出来た、いま出来た」という喜びが込められた地名だ。今と違って、田んぼの開発や架橋などの土木工事は、一大事業だったのだ。
次は淀川べりの福町。「ここは昔、福といいました。江戸時代初期に樋口忠兵衛ら8人が開発した新田です。地名の由来ははっきりしませんが、低湿地の土地が発展してほしいという願いを込めたのだと思います」
餓鬼島と呼ばれていた悪地が、菅原道真によって「福島」と命名されたと伝わるごとし。地名には先人の思いがこもっているのだ。あだや、おろそかにすまじ。【松井宏員】
(毎日新聞 2010年2月4日)
657
:
名無しさん
:2010/02/05(金) 12:43:19
上方歌舞伎28年ぶり部屋子誕生 8歳 上村吉太朗
産経関西 2010年2月3日
http://www.sankei-kansai.com/2010/02/03/20100203-020091.php
上方歌舞伎に28年ぶりに“子役”が誕生した。上村(かみむら)吉太朗(きちたろう)、8歳。一般の家庭に生まれ育ち、上方歌舞伎のベテラン、片岡我當(がとう)の「部屋子」になった小学3年生。「舞台に出るとワクワクする。将来は絶対、歌舞伎俳優になりたい」という。吉太朗の活躍は、上方歌舞伎再興の明るい材料になりそうだ。(亀岡典子)
吉太朗は平成13年、大阪生まれ。岸和田市内の小学校に通う3年生で、地元のだんじり祭の太鼓をたたくのが好きという男の子だ。
歌舞伎に興味を持ったきっかけは、祖父が上方歌舞伎の女形、上村吉弥と知り合いだったことから。吉弥の舞台を見に行くうち、「歌舞伎っておもしろい。自分もやってみたい」と思い、日本舞踊のけいこをするように。19年5月、大阪のワッハホールで行われた吉弥の自主公演「みよし会」で、「国訛嫩笈摺(くになまりふたばのおいずる)・どんどろ大師の場」に上村吉太朗を名乗って巡礼お鶴の役で初舞台を踏んだ。
同作は、幼いころ別れた母お弓と娘お鶴が再会するという物語で、吉太朗のお鶴のけなげさが観客の涙を誘い、以降も「霊験亀山鉾(れいげんかめやまほこ)」(大阪松竹座)の石井源次郎など子役の大役を次々と演じた。
勉強熱心さと「歌舞伎俳優になりたい」という強い希望が認められ、昨年12月、京都・南座の顔見世で、吉弥の師匠である我當の部屋子に。「時平の七笑(しへいのななわらい)」の稚児・松乃丸で披露された。今年1月には松竹座の「仮名手本忠臣蔵」に子守娘と丁稚(でっち)松吉で出演した。
吉弥は「熱心で、お芝居の雰囲気が大好きな様子。舞台度胸もある。ただ、いったんこの世界に入ったらすべてが修業」と話す。
もともと関西は御曹司や名門の出身でなくても、素質があれば抜擢(ばってき)する土壌がある。我當は「吉太朗は踊りの筋もいいし品もある。小さいころから歌舞伎のにおいを身につけるメリットは大きい。精進して、将来は上方歌舞伎を背負う存在になることを信じている」と期待する。
「もっといろいろ勉強して、女形も立役(たちやく)もやれるようになりたい」と目を輝かせる吉太朗。次の舞台は2月10日から14日まで京都・南座で上演される吉弥主演の歌舞伎鑑賞教室で、初舞台と同じ「国訛嫩笈摺」の巡礼お鶴を演じる。
部屋子 一般家庭の子が幹部俳優の楽屋に預けられ、舞台の芸や行儀などを仕込まれる立場をいう。一般の子役と違って幹部俳優になるための英才教育を受ける。関西で部屋子が誕生したのは、花形役者として活躍中の片岡愛之助以来、28年ぶり。愛之助は昭和56年、人間国宝だった十三世片岡仁左衛門の部屋子となり、その後、十三世の次男、片岡秀太郎の養子になり、上方歌舞伎のホープとして期待されている。
658
:
アフリカ三郎
:2010/02/05(金) 13:10:02
僕も大阪の文化についてもっと知りたいのでいろいろ研究してみようと思います。もちろんお笑いなんかはいらないです。
659
:
アフリカ三郎
:2010/02/11(木) 09:29:43
東京の人にとって日本史とは江戸時代から始まるのだ!!!
660
:
名無しさん
:2010/02/13(土) 16:55:38
陵墓参考地、府内初調査へ 河内大塚古墳
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100213-OYT8T00119.htm
宮内庁は12日、「大塚陵墓参考地」に指定している松原、羽曳野両市の河内大塚古墳について、日本考古学協会など16の学会に立ち入りを認めたと発表した。学会は18日に立ち入り調査する。古代の天皇らの墓である陵墓・陵墓参考地の立ち入り調査は2008年に初めて認められ、府内では1例目となる。
同古墳は全長335メートルで、全国5位の大きさの前方後円墳。大王墓級で被葬者は不明。後円部に巨石が露出しており、横穴式石室の存在が想定されているが、築造時期もわかっていない。
(2010年2月13日 読売新聞)
661
:
黒澤主義
:2010/02/15(月) 23:00:16
大阪・ミナミの7会場で初の「上方落語まつり」−バックステージツアーも
http://namba.keizai.biz/headline/1187/
「上方落語の笑いで大阪の街を明るく元気にしよう」と、上方落語家100人余りが所属事務所の垣根を越えて出演するイベント「第1回 上方落語まつり in ミナミ」が4月28日〜30日、なんばグランド花月(大阪市中央区難波千日前)など大阪・ミナミの7会場で行われる。
江戸時代から300年余り続く上方落語は、落語ブームにも乗り2006年9月に天満橋に定席「天満天神繁昌亭」ができるなど近年、人気が高まっている。「上方落語まつり in ミナミ」は、これまでにない大規模なイベントになる見込みで、「落語初心者の方でも楽しめるスペシャル版」(実行委員会)。
広域なんば圏での開催日程は、4月28日=なんばグランド花月、同29日=大丸心斎橋劇場、同30日=大阪松竹座、トリイホール、ワッハホールの5会場で、計10公演を予定している。参加するのは、桂米朝さん、笑福亭仁鶴さん、桂ざこばさん、桂三枝さん、笑福亭鶴光さん、月亭八方さん、桂きん枝さん、桂文珍さん、桂南光さんなど。
オープニングイベントとなるなんばグランド花月での開幕公演では、特別席の購入客を対象に、舞台裏を見学する「スペシャルバックステージツアー」を行う。大丸心斎橋劇場での「おやこ寄席」は親子での参加が可能で、子どもが前方座席に、大人が後方座席に座る。
チケットは2月20日より一般発売開始。最新情報は随時スタッフブログで発信している。
(なんば経済新聞 2010年2月15日)
662
:
名無しさん
:2010/02/16(火) 18:29:27
男前が一人もいないwwwwww
http://tr.im/KPSz
663
:
名無しさん
:2010/02/18(木) 17:56:59
謎の陵墓参考地に初の立ち入り 大阪・河内大塚山古墳
2010年2月18日 13:08
日本考古学協会など考古学、歴史学の16研究団体は18日、築造時期など謎の多いことで知られる陵墓参考地・河内大塚山古墳(大阪府松原市と羽曳野市)への立ち入り調査を実施した。
陵墓参考地は皇族の墓と考えられるが被葬者が特定されていないもので、全国46カ所のうち、立ち入り調査は初めて。
同古墳は全長335メートルの前方後円墳で全国5番目の規模。築造時期は6世紀後半との見方がある一方で、大山古墳(仁徳天皇陵)などのように古墳時代中期(5世紀)にさかのぼり、被葬者は雄略天皇だとする研究者もいる。
詳しい構造は不明だが、専門家の間には(1)横穴式石室があった(2)前方部は未完成だった―などの意見もある。
河内大塚山古墳は大阪府の百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間にあり、大正時代に宮内省(当時)が管理する陵墓参考地になった。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100218/20100218076.html
664
:
黒澤主義
:2010/03/03(水) 13:57:54
豊中市立図書館:まちなみ/たてもの/交通/自然…北摂の今昔、HPで/大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100303ddlk27040352000c.html
◇まちなみ/たてもの/交通/自然/社寺・祭り
豊中市立図書館は2日、市民や行政が保有している地域の写真を収集し、整理分類したホームページ「北摂アーカイブス 豊中と箕面の昔と今」の一般公開を始めた。アドレスはhttp:wiki.service-lab.jp/lib_toyonaka/。
「地域の知の拠点支援事業」として文部科学省から委託を受け、事業費は約370万円。昨年11月に写真資料を公募し、市民や中学校、高校、事業者などから約1700点の写真や写真データが寄せられた。市民ボランティアの編集委員16人が約100点に選別。パソコンとスキャナーを使って、整理やデジタル化、目録作りを進めてきた。
「まちなみ」「たてもの」「交通」「自然」「社寺・祭り」の5分類で、それぞれ解説を加えて掲載。道路が舗装されていない昭和30年代の阪急豊中駅前や、昭和初期に走っていた木炭バスなど、当時の日常の風景を収めた写真の数々を見ることができる。
今後は市民ボランティアの協力を得ながら、写真で当時と現在の様子を比較するコーナーなど内容を充実させていきたい考え。問い合わせは岡町図書館(06・6843・4553)。【佐藤慶】
(毎日新聞 2010年3月3日)
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名無しさん
:2010/03/06(土) 01:15:46
木造校舎を歴史館に
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100305-OYT8T00080.htm
岬・孝子小 お年寄りが先生役
岬町は来年度から、休校している町立孝子(きょうし)小の木造校舎を、子どもたちが地域の歴史や文化を学ぶ「歴史館」(仮称)として再利用する。ボランティアで地域のお年寄りらに先生役を務めてもらい、古里への愛情をはぐくむ狙いだ。
1873年に開校した孝子小は、児童数の減少で1993年3月末で休校になった。築50年を超える木造校舎に愛着を感じる住民が多く、活用を求める声が出ていた。
同町には、縄文から弥生時代の淡輪遺跡や、豊臣秀頼が造営した本殿(重要文化財)を持つ船守神社があるほか、紀貫之が「土佐日記」で同町を景勝地として紹介。「日本書紀」に登場する紀氏にまつわる伝承も残る。
しかし、こうした地元の歴史や文化を子どもたちが学べる施設はなく、財政難で施設を新設する余裕もなかったことから、孝子小の校舎に着目した。
町教委によると、空き教室を使って、遺跡から出土した土器や石器などの遺物を展示したり、地域のお年寄りから伝承や民話などを学ぶ講座を定期的に開いたりする。昔の農機具や日用品を持ち寄り、当時の暮らしについて語ってもらうことも検討している。
来年度予算案に、遺物を整理・展示する費用270万円を計上。作業が終わり次第、使用を始める。
町教委は「古い校舎の再活用と、歴史学習の一石二鳥。岬町に誇りと愛着を感じられる学舎(まなびや)にしたい」としている。
(2010年3月5日 読売新聞)
666
:
名無しさん
:2010/03/07(日) 00:11:46
大阪大空襲:標的は市民、「無差別爆撃」否定 在野研究者、米軍資料を分析
http://mainichi.jp/kansai/news/20100306ddf001040002000c.html
1945年3月の大阪大空襲は米軍の無差別爆撃ではなく、住宅地を狙い撃ちにした住民標的爆撃だったことが、日本の空襲史を研究する中山伊佐男さん(80)=東京都豊島区=の調査でわかった。従来は工場や住宅などを区別せず無差別に爆撃したため多数の非戦闘員が犠牲になったとされていたが、米軍資料を分析する中で、焼夷(しょうい)弾攻撃が有効な木造住宅の多い住宅地にのみ狙いを定めていたことが新たに判明した。大空襲から間もなく65年を迎えるのを前に、大阪地裁で審理が進む大阪空襲訴訟にも一石を投じることになりそうだ。【松本泉】
大阪大空襲は45年3月13〜14日未明に、米軍のB29爆撃機274機が来襲。大阪市浪速区、西区、南区、港区などに超低空から焼夷弾を投下した。約4000人が犠牲になり、50万人が被災、焼失した家屋は13万6000戸に及んだ。
大阪大空襲については従来、住居や軍事施設、工場などを区別しない無差別の空爆だったとされ、住宅地に見えてもそこには小工場や家内工場が混じっており、非戦闘員の犠牲は工業的目標破壊の巻き添えとしていた。
中山さんは、日本本土空襲の基礎資料として米軍が1943年秋ごろにまとめた「焼夷攻撃データ」に着目。戦闘報告書や空襲目標情報、作戦任務報告書、空襲損害評価報告書などと比較しながら分析した。
焼夷攻撃データでは、大阪や東京など20都市について、ゾーンR(居住地域)▽ゾーンM(工場地域)▽ゾーンX(住宅と工場の混在地域)▽ゾーンT(駅、港湾など輸送機関)▽ゾーンS(倉庫地域)と細かくエリア分けした。ゾーンRは住宅地が85%以上を占める地域で、住宅密度の高い順に特にR1、R2、R3と分類。米軍はこのデータを基に焼夷弾攻撃の効果を試算し、空爆計画を立てた。
3月の大空襲で被災した地域は、住宅密集度が最も高いゾーンR1とほぼ一致。米軍は多数の工場や公共施設を空爆目標としてリストアップしていたが、このエリアの空爆目標は2工場と郵便局だけだった。
米軍は空爆後に被災地の被害を詳細に調査して空襲損害評価報告書にまとめており、その中でこのエリアの被害は計画に沿ったものであると認めている。中山さんは「密集住宅地が狙い撃ちされたのは明らか。無差別爆撃ではなく、標的は一般市民だった」と言う。
中山さんは、国会図書館などが所蔵する米軍資料を基に各地の空襲について調査を続けており、「45年3月の東京、名古屋、神戸の夜間大空襲や、その後の中小都市の空襲でも、従来言われている無差別爆撃ではなく、住民を標的にした空爆が多数あることがわかった」としている。「米軍資料の研究はまだまだ不十分。空襲の実相を解明するためにもさらに調査が必要」と話している。
(毎日新聞 2010年3月6日)
667
:
名無しさん
:2010/03/08(月) 19:24:45
イメージキャラは、イケメン楠木正成 大阪・千早赤阪村
大阪府千早赤阪村のキャラクターが、南北朝時代の武将で、
村ゆかりの楠木正成の少年時代の容姿をイメージした「まさしげくん」に決まった。
楠木正成は永仁2(1294)年に千早赤阪村で生まれたとされる武将で、後醍醐天皇とともに
鎌倉幕府に対抗し、歴史に名を残した。しかし、「千早赤阪村の武将という印象が薄い」として、
村のPRのため「千早赤阪楠公史跡保存会」がキャラクターを募集していた。
村内外から302点の応募があり、松本昌親村長や村の若者ら10人が選考。
ひげを生やしたこわもてのイメージとは反対に、「明るく、親しみやすく、かわいい」として、
大阪芸術大の女子学生(20)=兵庫県三木市=の作品「まさしげくん」を選んだ。
当面は、村立郷土資料館の印刷物や、史跡案内看板などに使用する予定という。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/game/100308/gam1003081158000-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/photos/entertainments/game/100308/gam1003081158000-p1.jpg
668
:
黒澤主義
:2010/03/10(水) 20:33:15
大阪万博を体感 「EXPO70パビリオン」内覧会 13日オープン
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100310/trd1003101949007-n1.htm
昭和45年に開催された大阪万博の40周年記念の「EXPO70パビリオン」がオープンするのを前に10日、内覧会が行われた。当時の映像や写真を通して“体感”できる施設。13日午後2時半から一般公開される。
万博記念公園(大阪府吹田市)に唯一現存するパビリオン「鉄鋼館」を、約4億6千万円かけてリニューアル。日本万国博覧会記念機構などが所有する資料約3000点を展示する。
万博当時レーザーショーが上演されたホールをぐるりと囲む回廊(約160メートル)を歩きながら展示を楽しめる。エキスポタワーの展望室など、初公開されるものもある。
入場料は高校生以上200円。中学生以下無料。
(msn産経ニュース 2010年3月10日)
669
:
黒澤主義
:2010/03/10(水) 20:34:00
ものの始まり・なんでもなにわ:/25 宝くじ/大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100310ddlk27040333000c.html
◇今も昔も、みんなに夢
◇発祥は瀧安寺の箕面富、国民的娯楽に成長
「億万長者」「一獲千金」。庶民にとっては夢のような言葉を現実にする方法の一つが、宝くじだ。「当たったら何を買おうか」と、当選発表まで期待を膨らませた経験がある人も、少なくないのではないだろうか。そんな宝くじの発祥とされているのが、箕面市の箕面山瀧安寺だ。江戸時代初期には既に「箕面富(みのおのとみ)」と呼ばれるくじが、瀧安寺で盛んに行われていた記録が残る。鎌倉時代に編集された和歌集にも、箕面富の存在を示す短歌がみられるという。
箕面富は、正月の参拝客が番号札を買い、同じ番号が書かれた木札を「富箱」と呼ばれる木箱に入れる形式。僧侶が、大きな錐(きり)で箱の中を突いて3枚の札を選び、当たった人に特別なお札を授けた。家内安全や商売繁盛に御利益があるとされ、大阪商人らの人気を集めたという。その後、金銭が当たる「富くじ」が全国の寺社などに広まった。江戸幕府は「人々の欲望をあおる」として富くじを禁止したが、箕面富は営利目的ではなかったため継続した。しかし明治時代からは、例外なく禁止されてきた。
長らく途絶えていた富くじが「宝くじ」として復活したのは、戦後間もない1945年10月。政府が景気刺激のため、1枚10円で発売した。1等賞金は10万円で、米1升が70円の時代にはかなりの高額だった。
人気の高まりと共に1等賞金は高額化し、68年に1000万円、96年にはついに1億円の大台に。現在の「年末ジャンボ」などは、前後賞を合わせて3億円が当たる。08年度に全国で販売された宝くじは約44億7400万枚に達した。赤ちゃんからお年寄りまで、国民全員が1人あたり35枚以上を買った計算になり、今や国民的娯楽に成長したと言えるだろう。
宝くじの元祖と言える箕面富も、09年11月に約150年ぶりに復活し、話題を集めた。阪急電鉄(旧箕面有馬電気軌道)が今月に開業100周年を迎えるのを前に、瀧安寺の関係団体や箕面市、地元企業などが実行委員会を結成し、2年近くかけて準備を進めてきた。実行委員長の花畑舜一さん(67)は「宝くじの発祥が箕面であることは、地元でも知らない人が多い。これ以上の時間が過ぎると、伝統行事が忘れ去られてしまうと、危機感が強かった」と振り返る。
当時の姿を再現するため、メンバーは歴史書の調査や郷土史家への聞き取りを進めた。富箱など、できるだけ実際に使われていたものを活用。現在の法律に合わせ、くじを直接買うのではなく、お守りを購入した人が参加できる形式にし、復活にこぎつけた。当日は500個のお守りを用意したが、800人以上が詰めかけ、すぐに売り切れる盛況ぶり。今後も、毎年10月に行うことを決めている。
花畑さんは「くじをきっかけに、もっと多くの人に箕面の魅力に気付いてほしい」と話す。「宝くじは今も昔も、みんなに夢を見せてくれるものなんです」【茶谷亮】
(毎日新聞 2010年3月10日)
670
:
名無しさん
:2010/03/11(木) 18:48:22
大阪検定、設問まちごうとった 幸之助氏の実用新案記述
2010年3月11日
大阪商工会議所は10日、昨年6月に実施した「なにわなんでも大阪検定」の第1回試験で、2級の問題に正答となる選択肢がない設問があったと発表した。受験者全員(1858人)を正解とし、14人を新たに合格者にした。
問題となったのは「パナソニックの創業者松下幸之助が最初の実用新案をとった商品は何か」という設問。四つの選択肢を掲載し、正答として「二股ソケット(2灯用差込=さしこみ=プラグ)」を想定していた。
しかし実際には松下氏が取得した最初の実用新案は「松下式ソケット」。さらに選択肢でひとくくりにした「二股ソケット」と「2灯用差込プラグ」は異なる商品だった。この日発行した公式出題・解説集の編集作業でパナソニックに改めて確認し、指摘を受けて誤りに気付いたという。
大商の担当者によると、検定用の教科書にも想定正答通りの説明を記載していた。「複数の文献に似た記述があり、二股ソケットが松下氏の原点という思い込みから歴史的事実と受け止めてしまった」と反省しきりだった。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201003110026.html
671
:
名無しさん
:2010/03/11(木) 18:51:54
写真が語る 空襲の恐怖 大阪で特別展
2010年3月11日
一夜で約4千人の命が奪われた米軍による第1次大阪大空襲(昭和20年3月13〜14日)から65年を迎えるのを前に、空襲直後の街の惨状を伝える特別展「焦土大阪−写真で見る大空襲」が11日、大阪市中央区のピースおおさかで始まった。
当時旧制中学2年生だった中山純雄さん(80)=大阪府河内長野市=が空襲から数日後の大阪・ミナミの繁華街を撮影した写真2枚を含む約100点を展示。必死で持ち出したというカメラで撮った中山さんの写真には、積み重なるがれきの中にかろうじて倒壊を免れた大阪松竹座などが写し出されている。
兵庫県尼崎市の山谷一雄さん(82)は「当時、大阪のあまりの変わりように愕然(がくぜん)とした。無差別に人や街を奪い尽くす空襲の恐ろしさを写真で思い出した」と話していた。
大阪では昭和19年12月から20年8月にかけて、50回にわたって米軍の空襲があり、約1万5千人が死亡、122万人が被災したと推計されている。第1次大阪大空襲では、約270機のB29爆撃機が来襲した。
http://www.sankei-kansai.com/2010/03/11/20100311-021464.php
672
:
名無しさん
:2010/03/12(金) 00:04:11
フランスで乙女文楽を公演へ
2010年03月11日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001003110001
大阪市東住吉区在住で、1人で人形を操る「乙女文楽」を継承する吉田光華さん=写真=が17日、フランス公演に出発する。23日までフランス南部のトゥーロン市などに滞在し、劇場公演するほか、来秋に現地で予定される能「松風」を基にしたオペラ出演の打ち合わせもするという。
「松風」は室町時代の観阿弥が作り、世阿弥が改作したとされる名作。須磨に流された貴公子、在原行平(ありわらのゆきひら)と海人(あま)の姉妹の愛の物語。同志社女子大学の成田和子教授がオペラの作曲に当たっている。
吉田さんは「フランスの人たちに日本の伝統芸能の世界を紹介する機会にしたい」。
673
:
黒澤主義
:2010/03/13(土) 00:55:40
【大阪万博40年】(上)あの輝き知らぬ若者、見えぬ希望を重ね
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100311/trd1003110905002-n1.htm
「万博ファンなんておじさんばかりと思うでしょう。実は20代、30代が多いんです」。大阪市中央区にある「EXPO CAFE」のオーナー、白井達郎さん(55)はいう。万博の写真やグッズがあふれる店の常連客の6割以上は万博を知らない世代だ。
◇
このカフェで働く藤原未奈子さん(24)=大阪市都島区=もその一人。昨秋、万博記念公園(大阪府吹田市)の結婚式場で“万博式”を挙げた。「一生に一度の結婚式。大好きな場所で、大好きな物に囲まれた式にしたかったんです」
招待状は、大阪万博の入場券をまねてデザイン。披露宴会場の入り口には太陽の塔のオブジェを置いた。
藤原さんが万博と出合ったのは高校生のとき。図書館で万博の写真集を開き衝撃を受けた。
「かっこいい。40年も前にこんな日本があったんやと思いました。斬新で、今にはないって」
◇
カフェには同じ思いを持つ若者が集まる。河村裕子さん(32)=同市港区=は写真や人の話でしか知らない万博を「万博で初めてインドカレーを食べた。初めて外国人をみた。そんな話を聞くとうらやましい。今はテレビもインターネットもあって、驚きや感動の体験がないから…」と熱く語る。彼らの言葉に共通するのは、夢や勢いがある時代へのあこがれだ。
◇
若者の価値観や消費行動を分析した『下流社会』の著者、三浦展(あつし)氏(51)は、こうした若者を「今は給料は上がらずボーナスもカットでは未来どころじゃない。一方で、iPhone(アイフォーン)一つで世界とつながる『夢の時代』は現実になった。夢の暮らしをしている今の若者に夢は描きにくい。高度経済成長期を知らない若者が夢や希望、達成感、国民が一丸となる何かを味わいたいと思うのは自然なことではないでしょうか」と分析する。
「一度でいいから大阪万博に行ってみたかった」と藤原さんはいう。「だって、写真をみていると、みんなニコニコしていて楽しそうなんです」
◇
昭和45年3月、「人類の進歩と調和」をテーマに開催された大阪万博が開幕した。期間中に約6400万人が訪れた大イベント開幕から14日で40年が経過する。万博の熱狂は、当時、未来だった21世紀の今に、何を残したのかを探る。
(msn産経ニュース 2010年3月11日)
674
:
黒澤主義
:2010/03/13(土) 00:56:30
>>673
【大阪万博40年】(中)実力で夢つかめ 「太陽の塔」の願い
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100311/trd1003111425006-n1.htm
大阪万博のテーマプロデューサー・岡本太郎氏が制作した「太陽の塔」。高さ約65メートルの塔は、当時、強烈なインパクトで来場者を迎えた。40年経った今は周辺に何もない万博記念公園にぽつりとたたずむ。
「万博公園は日本が一番強く未来を夢見た場所。太陽の塔は象徴だったけど、万博を知らない世代にとっては思い入れがない。今は何のためにあるんだろう」。大阪府在住のクリエイター、水谷フミカさん(27)は太陽の塔を眺めて考えた。塔が一人で泣いているようにもみえた。
◇
昨年、水谷さんらの発想を基に大阪芸術大がアートプロジェクト「未来記憶圏からの目覚め」を企画。太陽の塔を“覚醒(かくせい)”させようと、来場者に携帯電話で「夢」を語るメールを送信してもらい、塔に次々と投影した。
このイベントでは、太陽の塔の“子供”も生まれた。高さは約2メートル。人が中に入ると、不思議な音楽が聞こる仕組みだ。発案者の一人、同大大学院の鈴木翔さん(25)は「太陽の塔をみると『かなわない』と感じる。でも同じ物は作れなくても、僕たちならではの太陽の塔があっていい」と話す。
「それこそ、岡本太郎が望んだことなんです」。岡本太郎記念館館長の平野暁臣(あきおみ)氏は喜ぶ。「閉幕後に壊されるはずだった塔が残ったのは、現在に生きる私たちが必要としているから。若いやつらを挑発し刺激することが使命なんです」
太陽の塔に新しい時代の夢を託す水谷さんは「万博を知る世代はよく『昔はよかった』というけど、これから日本を引っ張らなきゃいけないのは万博を知らない私や子供の世代。今必要なのは振り返ることではなく、未来を生きる子供や若者の夢のために、みんなで力をあわせることだと思うんです」と話した。
(msn産経ニュース 2010年3月11日)
675
:
黒澤主義
:2010/03/13(土) 00:57:20
>>673-674
【大阪万博40年】(下)熱狂、元気さ…DNA伝えたい
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100312/trd1003121408006-n1.htm
大阪万博から40年を経て今月13日、かつて熱狂に包まれた万博会場の万博記念公園に記念館「EXPO’70パビリオン」がオープンする。展示されるのは太陽の塔の胴体にある顔のレプリカなどの当時の日本人を驚かせたものがそろう。
記念館の展示ディレクターをつとめた馬場健二さん(40)は大阪万博を知らない。開幕時は0歳で、「大阪万博はすごいと聞いて育ったんですけど、何がそんなにすごいのかとずっと思っていた。名前しか知らない偉い人っていうぐらいの印象」。しかし今回、展示を担当して「意味がやっと分かった」という。
馬場さんは展示品を選ぶために数万点の映像や写真と格闘。その姿がおぼろげにつかめ、圧倒された。
「食、ファッション、建築、科学技術。それぞれが好きな視点で語れるのが万博のすごさ。僕は建築士ですが、三角形のトラス構造など今ある手法が40年前にもほとんどあった。驚きました」という。
記念館は、現在も唯一現存するパビリオン「鉄鋼館」を4億6千万円かけてリニューアルした。このパビリオンは老朽化に伴い撤去が議論されたこともあるが、「万博が時とともに忘れ去られるのではないか」という危機感もあり、記念館として生まれ変わることになったという。
日本万国博覧会記念機構の平田清営業推進課長(51)は「(記念館は)思い切った決断でした」と話す。平田さんは大阪万博当時、小学5年生。入りたかったアメリカ館は長蛇の列で入れなかったことを覚えている。
当時の熱気を肌で知る平田さんは「閉塞(へいそく)感がただよう今、もう一度あの時の元気を感じてほしい。日本人の精神的なよりどころとして万博を継承したい」という。
後世に伝えたいことはほかにもある。「『人類の進歩と調和』だけが万博のテーマではなくて、自然の活用や心の豊かさといった、今の時代のあるべき姿も万博の理念として掲げられていた。そんな万博の『DNA』を、21世紀に残していきたい」と話した。(この連載は杉村奈々子(27)が担当しました)
(msn産経ニュース 2010年3月12日)
676
:
黒澤主義
:2010/03/15(月) 18:05:18
高齢者に大阪の歴史宅配 講座300回超える
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100314/20100314024.html
大阪市西区のNPOが、地元の高齢者向け施設などをボランティアで訪問し、大阪の歴史を解説する宅配講座がこのほど300回を超えた。「大阪が持つ底力や歴史の重さを振り返る機会に」との思いが込められ、高齢者ら地域の人々が趣向を凝らした講座を楽しんでいる。
取り組むのは、同区堀江地区を拠点に歴史や文化の研究を通したまちづくりを目指すNPO法人「なにわ堀江1500」(水知(みっとも)悠之介代表理事)。
歴史講座の活動は、2003年2月、水知さん(67)が著書「大阪堀江今昔」を出版した際、電気業界の親交団体から依頼を受けたのがきっかけだった。
以降、不定期ながらも地域の学校や女性会、ロータリークラブなどからも要請があり、また史跡探訪といったまち歩き形式の講座にも取り組むなど、参加者に郷土・大阪の再認識を促してきた。
06年からは高齢者の記憶を呼び戻して少しでも元気になってもらおうと、定期的な「地域高齢者歴史講座宅配事業」を実施。活動の場を広げるため“語り部”となるスタッフ養成にも尽力した。
主な訪問先は区内五つの高齢者向け施設で、デイサービスとショートステイの利用者が対象。各施設とも月1回1時間で、水知さんのほか2人のスタッフがローテーションでスケジュールをこなす。
講座の内容は地元が舞台となった「堀江六人斬り」や名所案内など多彩だが、参加者の思い出という点から近代大阪の歴史が中心。最近は資料映像も活用し、水知さんの解説や問い掛けに参加者は「知っている」「子供のころに行った、聞いた」と声が弾む。
「次はこんな話を」「3カ月先まで訪問日を教えて」といった“ファン”の要望も寄せられ、水知さんは「多くの方に支えられて大台を超えることができた。NPOの活動というよりも自分自身のライフワークととらえ、協力者の輪を広げながら継続していきたい」と話している。
現在語り部を募集中。問い合わせは電話06(6533)1550、同NPOへ。
(大阪日日新聞 2010年3月14日)
677
:
黒澤主義
:2010/03/15(月) 18:58:48
豊中市立図書館 北摂アーカイブス公開 大阪
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/100315/osk1003150236002-n1.htm
戦前から昭和の終わりまでの豊中、箕面地域の写真を収集、公開する事業を進めていた豊中市立岡町図書館は、インターネットのホームページ上で「北摂アーカイブス 豊中と箕面の昔と今」の公開を始めた。市民らから寄せられた写真約1700枚のなかから、16人の市民ボランティアの編集委員が約100点をえりすぐった。
北摂アーカイブスは「まちなみ」「たてもの」「交通」「自然」「社寺・祭り」の5ジャンルに分け、1点ごとに解説を添えて掲載している。
ホームページでは、昭和30年代、道路も舗装されていないころの阪急豊中駅前を撮影した写真や、昭和初期に走っていた木炭バスを撮影したものなど、昔の風景や暮らしぶりが分かる写真が並ぶ。
昨年11月に市が写真資料を公募したところ、市民や学校、事業者などから約1700枚が寄せられた。市民ボランティアが市立岡町図書館でパソコンやスキャナーを使い、アーカイブ化を進めていた。
ホームページはhttp:wiki.service-lab.jp/lib_toyonaka/。問い合わせは岡町図書館((電)06・6843・4553)。
(msn産経ニュース 2010年3月15日)
678
:
名無しさん
:2010/03/18(木) 01:55:45
「大大阪」に「鉄道模型」 橋下改革でやり玉の2考古博物館、生き残りを模索
2010.3.17 23:42
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100317/acd1003172344006-n1.htm
国内唯一の弥生時代専門の博物館ながら、大阪府の橋下徹知事による改革で一時は廃止方針が打ち出された府立弥生文化博物館(和泉市)で、「大阪の20世紀」をテーマにした企画展が開かれている。同様に存続が危ぶまれた府立狭山池博物館(大阪狭山市)では24日から、鉄道模型展が開幕。それぞれ、古代史の殿堂のイメージを打ち破る“門外漢”のユニーク企画で集客を図り、生き残りへ懸命に知恵を絞っている。
弥生文化博物館では22日まで、「大大阪」といわれた大正以降の大阪の移り変わりを当時の写真などで紹介。昭和45年3月に開幕した大阪万博の記念メダルなども展示している。
同館は、国内最大級の弥生遺跡、池上曽根遺跡近くに平成3年2月にオープン。邪馬台国の女王・卑弥呼にまつわる特別展などを通じて弥生文化の情報発信拠点となってきた。
しかし、橋下知事が20年2月に打ち出した府営施設の見直しで「廃止も含めたゼロベースの検討」を指示し、府立近つ飛鳥博物館(河南町)への統合が持ち上がった。その後「当面存続」となったものの、入館者数アップが至上命題に。入館者数は3年度の約11万6千人をピークに激減したが、21年度は4万9千人程度になる見込みで持ち直し傾向にある。
同館は今回、入館者のすそ野を広げようと近現代の大阪に着目。太平洋戦争のコーナーでは、豊中市内で発掘された米戦闘機のプロペラなどを展示しており、「この戦闘機に追い回された」と懐かしげに語る高齢の来館者も。大阪万博の記念メダルの前で思い出話に花を咲かせる人も多く、古代史の展示会とは違った雰囲気に包まれている。
金関恕(ひろし)館長は「弥生時代は国としての骨格が形成された時代。日本のアイデンティティーを考える上で博物館の役割は大きい」と強調。一方で「博物館は存続が完全に決まったわけではなく、身近に感じてもらうため工夫を凝らしたい」と話す。
また、狭山池博物館は建築家、安藤忠雄さんの設計で、平成13年3月にオープン。ダム式ため池として国内最古の狭山池の歴史や土木技術を紹介している。入館者は17年度に6万8千人に落ち込んだが、昨年4月から府と大阪狭山市、市民団体との共同運営に転換し、世界の昆虫展など多彩な企画を展開。21年度は過去最高の9万3千人(3月16日現在)に上っている。
24日〜4月4日には「鉄道模型ワールドin博物館」を催し、約2千の鉄道模型を展示。楠喜博副館長は「子供の来館が少なかっただけに、鉄道を通じて春休みに足を運んでもらい、博物館の魅力を知ってほしい」と期待を込めている。
679
:
名無しさん
:2010/03/18(木) 03:16:06
淀川と大阪の関係
http://www.youtube.com/watch?v=KklQKydt9-A&feature=related
勉強になります。
680
:
よっさん
:2010/03/25(木) 03:49:11
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100324ddlk27040469000c.html
文化審答申:国重文に3件答申 古写本と快慶作の仏像 /大阪
国の文化審議会で、府内からは古写本「宝要抄(ほうようしょう)」と「是則集(これのりしゅう)」、快慶作の仏像「木造地蔵菩薩(ぼさつ)立像」を重要文化財とするよう、文部科学相に答申された。指定されれば、府内の国重要文化財美術工芸品は553件となる。
宝要抄は、1146年に書写された。密教の修法に用いる五宝、七宝を選ぶための虎の巻で、金や銀、瑠璃(るり)などの宝について、産地や採取法などが記されている。是則集は、古今集の選者の一人、坂上是則の家集で、四季などの部類ごとに歌を配列する部類名家集の一つ。藤原定家の監督による書写と確認されている。
また木造地蔵菩薩立像は、1906年に興福寺(奈良県)から流出した約70体のうちの1体。1200年代前半の作品で、雲に乗り、右足を前に踏み出した来迎(らいごう)の様子が表現されている。【田中博子】
681
:
よっさん
:2010/03/25(木) 14:38:45
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100325ddlk27070428000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/159 野里住吉神社 /大阪
◆大阪市西淀川区
◇水害を鎮める「一夜女官祭」
◇人身御供の儀礼神事−−神饌入れた膳を少女7人でお供え
南北朝時代(14世紀)に開発された野里村の氏神が、1382年創建と伝わる野里住吉神社だ。正式には住吉神社だが、西淀川区には複数の住吉神社があり、土地の名前を付けて呼ばれている。日中からカラオケをうなる声が聞こえてくる路地を進むと、こぢんまりしたお社が現れた。
社殿に向かって右手が小高くなっている。大阪案内人の西俣稔さんが「旧中津川の土手の跡です」。神社のすぐ横を川が流れていたわけだ。1933年に建てられた社務所の裏には、中津川の堤防の石積みが残っている。
境内には小さな太鼓橋があり、子どもたちが遊んでいるし、中学生だろうか、自転車を止めておしゃべりに興じていた。神社が子どもたちの遊び場になっている光景はいいものだ。
この神社のお祭りが毎年2月19、20日に行われる「一夜官女祭」だ。今年は見物に行こうと思っていたが、残念ながら出張と重なって見ることができなかったので、国の登録有形文化財「池永家住宅」の当主、池永悦治さん(73)にご教授願った。
どんな祭りかというと、神様の食事である神饌(しんせん)を入れたお膳(ぜん)を、官女にふんした7人の少女が神社にお供えするという、いたって地味なものらしい。起源ははっきりしないが、神社には元禄15(1702)年に作られた木製のお膳が残っており、少なくとも元禄時代には行われていた。
◇豪傑・岩見重太郎の大蛇退治伝説も
では、どんな意味があるのだろう。池永さんは「人身御供の儀礼を神事として伝えたもの」と説明する。
野里村は中津川べりにあり、水害に悩まされていた。伝承によると、占いで毎年、娘を人身御供として捧(ささ)げたのが起源とされる。娘は唐びつに入れられ、境内の池の前に放置された。ここには大蛇がすみ、いけにえの娘を食らったのだ。
そこに豪傑、岩見重太郎が登場し、大蛇を退治するのだが、岩見重太郎は各地でヒヒや山賊を退治したという伝説が残る、豊臣方に仕えた武将だ。
池永さんは「豊臣秀吉の時代に中津川が改修されて洪水がなくなったので、豊臣を岩見重太郎に、洪水を起こしていた中津川を大蛇に見立てた」と推論する。いずれにしても、野里村の立地に深く根ざしている祭りだといえる。
大蛇が出たという池は、1975年まで境内の奥にあった。今は埋められてクスノキが植わり、玉垣をめぐらせて「乙女塚」と名付けられている。【松井宏員】
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よっさん
:2010/03/26(金) 10:41:05
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20100326-OYO1T00223.htm?from=main4
幻の「和泉寺」建立者か、瓦に古代豪族の名
大阪府和泉市の古代寺院遺跡・和泉寺跡から「■縣主廣足(ちぬのあがたぬしひろたり)」という奈良時代の地元豪族の名前を刻んだ瓦が出土し、府教委が25日、発表した。同寺は当時の文献に記載がないため、研究者から「幻の寺」とされてきたが、地元豪族が建立した可能性が高まった。
同寺跡は約220メートル四方と推定され、伽藍(がらん)配置や建立時期はわかっていない。今回の調査では8世紀前半の瓦が多数出土。うち縦35センチ、横18センチの破片の一つに名前が記されていた。
「■」は和泉地域の古称で、「■縣主」は一族を示し、「廣足」が個人を指す名だとされる。瓦を焼く前に、財力や労働力を提供した証しとして、ヘラ状の工具で刻まれたとみられる。瓦は4月10日〜5月9日、同府河南町の府立近つ飛鳥博物館で展示される。
栄原永遠男(とわお)・大阪市立大教授(古代史)の話「■氏が主体となり建立したと考えるのが自然。来歴の解明につながる重要な発見だ」
■=「王」の右に「尓」
(2010年3月26日 読売新聞)
684
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よっさん
:2010/03/30(火) 18:22:35
http://www.nhk.or.jp/wakayama/lnews/06.html
熊野古道館リニューアル
世界遺産に登録されている熊野古道のうち、田辺市の中辺路ルート沿いにある熊野古道館が29日、リニューアルオープンし、古道歩きを楽しむ観光客のための設備や展示が新たに加えられました。
田辺市中辺路町の熊野古道館は、熊野三山の聖域の入り口といわれる滝尻王子の近くに、平成7年に作られた観光案内所です。
これまでの展示の中心はお経を入れたつぼなどの出土品でしたが、このほど、田辺市が約1000万円をかけて改装しました。
リニューアルオープンした熊野古道館は、パネルや映像などを使って熊野古道の全体像や歴史が日本語と英語で紹介されています。
また、古道歩きを楽しむ観光客のためにコインロッカーや更衣室を設けたり、無料で携帯電話が充電できるようになっています。
語り部の宇井正さんは「熊野古道の歴史を知ったうえで歩いてもらった方が、より理解できるので、この熊野古道館を活用しながら語り部として活動していきたい」と話しています。
685
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よっさん
:2010/03/30(火) 18:30:47
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100330/20100330030.html
「宝要抄」など国重文に 大阪府内から3件選定
2010年3月30日
国の文化審議会が答申した重要文化財に、大阪府内からは武田科学振興財団(大阪市淀川区)所蔵の書「宝要抄(ほうようしょう)」と、大阪青山歴史文学博物館(箕面市)所蔵の歌集「是則集(これのりしゅう)」の写本2件など3件が選ばれた。
宝要抄は、平安時代後期に高野山の僧・兼意がまとめた医学、薬学に関する書。密教の祈りで用いられる金、銀、真珠などについて図説したものを掲載している。この写本は鎌倉時代のもの。
是則集は、平安時代の「古今集」の選者の1人である歌人、坂上是則の歌集。写本は藤原定家の監督によるものと確認されており、中は側近子女が書いたが、表紙の文字は筆跡などから定家が65歳から70歳ごろに書いたものではないかと考えられている。
ほかに藤田美術館(大阪市都島区)所蔵の快慶作「木造地蔵菩薩立像」が選ばれた。
686
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よっさん
:2010/04/03(土) 14:03:06
『大阪に住んでこそ』、久しぶりに力強い言葉を聞きました。
東京トウキョウと騒ぐ人達、今一度自分たちが住んでいる地域を見直してみませんか。
http://www.sankei-kansai.com/2010/04/03/20100403-022413.php
2010年4月 3日
上方の芸は、大阪に住んでこそ
上方舞の山村流六世宗家の若さんと桂吉坊さんの対談2回目。前回は「大阪の土になる」と語っていたという(若さんの祖母の)先代若さんの上方への思いを紹介した。
◇
吉坊 上方へのこだわりは先代若さんの薫陶が大きかったと。
若 先代若の言葉は本当に強い。(日本舞踊の)武原はんさんとか吉村雄輝さんが、(祖母を)東京に誘ってくれてたんですが、ふだんから「わては大阪の土になりますねん」という信念で、東京には行かなかったんです。当時(昭和20〜30年代)、戦争が終わって、東京で上方舞を広めようという動きが盛んな時期でした。
吉坊 東京の舞踊の会には出るけれども、東京には住まないということですか。
若 山村流の稽古場(けいこば)を東京につくらなかったということです。雄輝お師匠さんにしても、京都に住んで、稽古場は東京に設けていたのですが、先代若は稽古にも行かなかったようです。
吉坊 東京にうかがうと一つのイベントに対してお客さんの動く数が違うような気がします。その分、人の目に触れる機会は増えますが。
若 そうですね。東京に行くと、国立劇場で何かの会をしますとかいろいろチャンスは多いですよね。にもかかわらず、先代若はことごとく、東京への誘いを断っていたようです。その血は私にも流れている気がします。
吉坊 やはり、芸にたずさわる者はその土地に住んでいることが表現するうえで重要でしょうか。
若 そうですね。山村流は上方舞の一宗家として、そういうことを大切にしてきたと思います。今は大阪、東京といっても人も情報の流通も距離感は昔と違い、近いですから。だからこそ、自分たちの芸がおこった土地の生活文化に常日頃触れていることが必要で、それがあるのとないのとでは、伝わるものが違うと思います。特に上方舞は内面的なものを表現するものですから。
吉坊 大阪を舞台にした上方落語にも地唄が使われます。「たち切れ線香」という噺(はなし)に「ゆき」、「肝つぶし」に「四つの袖」、「船弁慶」に「八島」など、こうした地唄が落語を盛り上げる効果的なお囃子として使われているのも上方の空気を伝える大事な効果だと思います。
若 大阪に住んでいることで、より伝わる上方の空気をもっと伝えていきたいと思いますね。
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よっさん
:2010/04/04(日) 11:03:16
http://www.sankei-kansai.com/2010/04/04/20100404-022430.php
2010年4月 4日
大阪・東大阪市の辻子谷水車郷広場 日本の原風景よみがえる
実物大の水車が復元されている大阪府東大阪市上石切町の「辻子(づし)谷水車郷広場」に、新たに水車小屋のミニチュアが整備された。粉末加工業が栄え、かつては「日本一の水車郷」と呼ばれた同地区。4日午前11時から「お披露目会」が開かれ、のどかな景観が現代によみがえる。
整備したのは地元の親睦(しんぼく)団体「昭楠(しょうなん)会」。谷の歴史とかつての景観を後世に伝えようと、平成16年に高さが約6メートルある実物大の水車を復元。さらに水車がどのように使われていたかを知ってもらうため、今回、川の流れや水車小屋のミニチュアも配置した。
生駒山の谷間は江戸時代から、急な傾斜を利用して水車が各地につくられた。中でも辻子谷は川筋で44基もの水車が稼働し、漢方薬などの粉末加工が盛んに行われた。電力が普及しても、熱が発生しない水車は薬の加工に適していて、昭和54年まで水車が使われた。
復元水車は山のわき水をためた人工池から、再現した川に水を流して稼働。その動力で水車小屋内の杵(きね)と臼が擦れ合い、材料が粉になっていく様子を見ることができる。さらに同会は、ホタルの幼虫の放流に取り組んでおり、ホタルが飛び交った幽玄な景観の復元にも挑戦している。
同広場は近鉄石切駅から生駒山上に向かう辻子谷ハイキングコースの途中にあり、水車は毎日午前9時から午後5時まで稼働しており、見学自由。4日は現地で関係者がお披露目会を開き、安全を祈願する。
688
:
よっさん
:2010/04/04(日) 11:04:13
http://www.sankei-kansai.com/2010/04/04/20100404-022431.php
2010年4月 4日
住吉大社 春の舞い 松苗神事
大阪市住吉区の住吉大社(真弓常忠宮司)で3日、境内に松を植樹する「松苗神事」が営まれ、同大社に伝わる「白拍子(しらびょうし)舞」などが奉納された=写真。
同大社はもともと松の緑の鮮やかさで知られたが、江戸時代の天明期(1781〜88年)ごろに相次いで枯死。このため、同時代末に、俳人の加部仲ぬりと妻の吉女が松の苗を献木し、合わせて俳句を献納したのが、神事の始まりとされている。
好天に恵まれた境内第一本宮前で行われた神事では、同大社の巫女(みこ)6人が平安時代から伝わる「白拍子舞」「熊野舞」を奉納。松が描かれた扇を広げながら、雅楽に合わせてゆったりと舞う姿をカメラに収めようと、参詣者らは盛んにシャッターを切っていた。
この後、全国から募集した俳句のうち入選作13句が神前で詠み上げられ、真弓宮司らが献木された松の苗木を植樹した。
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名無しさん
:2010/04/08(木) 01:58:15
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100408/trd1004080036000-n1.htm
関ケ原後も豊臣家を守る城築く 城市歴史博物館の学芸員が新説
2010.4.8 00:32
関ケ原の合戦で豊臣家の家臣ながら徳川側(東軍)についた大名、桑山氏が合戦後に大坂に通じる街道沿いに築いた新庄城(新庄陣屋、奈良県●=かつら=城市)について、●(かつら)城市歴史博物館学芸員の田中慶治さん(47)が、東側や南側からの攻撃に備えた城や城下町の構造から、「大坂城防衛のために築かれた」と分析した。関ケ原以降も恩顧の大名にとっては、豊臣家の威光が大きかった裏付けともいえそうだ。
桑山重晴や孫の一晴らは、豊臣秀長の家臣として和歌山城を拠点にしていたが、慶長5(1600)年の関ケ原の合戦では、石田三成側(西軍)についていた新宮城主の堀内氏善を攻めた。その武勲を認められ、一晴は翌年、新庄城を築城、城下町(陣屋町)も開いた。陣屋町は、東西約250メートル、南北200メートルで、碁盤の目状に整備。城は町の西側にある小高い丘の上に築かれた。
田中さんの調査によると、城の東〜南側は、陣屋町や武家屋敷街が設けられ、高田川と柿本川が天然の堀となって敵が攻め入りにくい構造となっていた。
一方、西側からの攻撃に対する備えは幅約5メートルの外堀で囲んだ程度で手薄。田中さんは「城の西側には豊臣家の領地の河内国がある。新庄城は豊臣家を防衛する目的で築かれたといえる」と話す。
田中さんによると、これまでの近世史研究では、豊臣家は関ケ原の合戦以降、没落の一途だったという見解が主流で、合戦後に築城された城は大坂ににらみをきかせるためのものと考えられていたが、新庄城の構造は、これまでの常識を覆すという。
天理大の吉井敏幸教授(中世史)の話 「新庄城は吉野と大阪方面をつなぐ竹内街道に近い。地理的に重要な位置にあったのに西から北側にかけての守りが薄いのは、大坂城を守る城だったためと解釈できる。徳川家と豊臣家の関係を分析する視点の一つとして十分に面白い」
690
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よっさん
:2010/04/08(木) 19:51:03
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/
8〜9世紀の茶道具か
緑釉陶器の破片出土
大阪市中央区瓦町の大坂城下町跡の下層で、奈良時代終わりから平安時代初め(8世紀末〜9世紀初め)の高級品、緑釉(りょくゆう)陶器の破片が、市博物館協会の発掘調査で出土した。「火舎(かしゃ)」と呼ばれる特殊な火入れで、全国で十数例しか知られていない。同協会は「遣唐使が中国から喫茶の風習を伝えたとされる時期にあたり、茶道具の可能性がある」としている。
破片は縦9センチ、横7センチ。火舎の上部に当たり、口径約20センチ、高さ約25センチに復元できる。内側には火を受けた痕跡があり、胴につばを巡らせた羽釜とセットにして、湯をわかしたらしい。
緑釉陶器は9世紀以降、平安京を中心に上層階級に広まったが、それまでは儀式など非日常的な場で使われたとされる。火舎は奈良時代後半から平安時代初期の都や役所、寺院など、限られた時期、場所でしか見つかっていない。
破片は東西5・4メートル、南北4メートル以上の建物跡で出土。海辺に近く、瓦の破片もあったことから、建物跡は難波津にかかわる公的施設の可能性があり、火舎もそこで使われたとみられる。
同協会大阪文化財研究所の岡村勝行・主任学芸員は「茶道具だったとすれば、迎賓館的な施設で茶がたしなまれていたのではないか。大陸から伝わった茶文化に、考古学的な証拠から迫る成果になる」と話している。
【YOL内関連】旅ゅーん!…日本の旅、海外の旅、鉄道など
(2010年4月8日 読売新聞)
関連記事・情報
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名無しさん
:2010/04/08(木) 19:53:29
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100408ddlk27070446000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/160 一夜官女祭 /大阪
◆大阪市西淀川区
◇神様への料理は川魚−−漁業権握られ海で取れず
野里住吉神社の一夜官女祭(2月19、20日)の話を続ける。
お膳(ぜん)の料理を作り、官女が親と別れの杯を交わし、迎えの行列が来たりする場所を提供する家は、「当矢(とうや)」と呼ばれる。前回、説明したように、白い矢が立った家からいけにえの娘を差し出すという伝承に基づいた呼び名だ。野里、歌島、姫島の3地区が交代で当矢を出すことになっている。
かなりの人数が上がるので、座敷のふすまを取っ払って、それなりの広さを確保しなければならないが、最近はそんな広い家も減り、今年は老人憩いの家が当矢となった。
池永家住宅の当主、池永悦治さん(73)は十数年前に当矢となり、江戸時代に建てられた古民家を提供した。「19日夜にかがり火たいて、神饌(しんせん)(神様へ供える料理)を作って。一番の特徴は、川魚しか使わない」。江戸時代、漁業権は佃と大和田が握り、野里は海の魚を取れなかった。
「昔は魚の行商に出てる人が多かった。船場の大店に持って行くんですわ。1、2軒、得意先持っとったら、それで十分ですな」。川伝いに船場まで行けた立地もおおいに関係していた。「うちらは船場まで肥を取りに行ってました」。その舟のろとかいが残っている。
さらに、一夜官女祭を「長い間、ぶり祭り言うてね」というのも船場の影響だった。「船場では旧暦1月20日に骨正月言うて、ぶりの骨たいて食べる習慣があったんですわ。祭りと同じ日やから、よう食べてましたんや。うちでは、ぶりの小さい身をみそ汁にしてお客さんに飲んでもうてました」
野里は船場と密な関係があったが、旧中津川下流の福はミナミの島之内と、出来島は尼崎が得意先。姫島は河内木綿を栽培していたから、河内との付き合いが深かったという。「西淀川の中でも文化圏が違うんです」というのが面白い。
◇昭和初めまで、地元も知る人少なく
◇船場の影響で、ぶり祭りとも呼ばれ
神饌の話に戻る。もち米のもっそうや野菜、鏡餅、くし柿などとともに、ナマズやコイ、フナが並ぶ。その調理にも独特の作法がある。「魚は生殺し。片身を取って心臓を残しておく。身に付いた血は洗わない。夜中に魚がコトコト動きよりまんねん。ホンマに神さんが食べに来たんかと思いますわ」と池永さんは笑う。
血をふかないわけを、同神社の鎌田義昭宮司(61)は「ささげる相手が、もののけですんで」。いけにえの娘を食らうのは、大蛇と伝わるからだ。
官女役は幼稚園から小学低学年の少女7人。1番目が「いけにえ」で、戦前までは当矢から出していた。祭り当日。官女は当矢の家で親と別れの杯を交わす。神社から迎えの行列が来て、官女はお膳とともに神社へ赴き、本殿の前に1時間ほど座る。この時、一番官女は右端に少し離れて座る。逃げ出さないように履き物は下げてしまうそうだ。
鎌田宮司によると、江戸期は夜中に行われ、しかも昭和初めまでは氏子組織が取り仕切り、地元でも祭りの中身を知る人は少なかったようだ。
そのせいか、俳句の季語でもあり府指定の無形民俗文化財だが、「数年前までは見物客もパラパラで、地元の人も『何の行列?』って」と池永さんは語る。今年は300〜400人の見物客があったそうだ。
それに一役買っているのが、06年にできた「野里まちづくりを推進する会」だ。通称「ヒクイナ会」で、会長を務める池永さんは「程度がひくいんちゃいまっせ」と冗談を飛ばす。夏の鳥で、水郷・野里の歌にも詠まれている。
祭りをはじめとしてボランティアガイドを行い、歴史ガイドブック「のざと」を発刊。今年は、一夜官女祭のお膳に昔使われていた真菜(まな)という葉野菜の栽培に乗り出す計画だ。池永さんは「水郷のイメージを残し、住んでる人に郷土愛を持ってもらいたい」と意欲を燃やす。
西淀川はさまざまな物語を持つ。そして池永さんたちのように、伝承文化を残していこうと活動する人たちがいる。こういう町にこそ、魅力がある。【松井宏員】
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よっさん
:2010/04/14(水) 21:22:04
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100414ddlk27040365000c.html
ものの始まり・なんでもなにわ:/28 竹内街道 /大阪
◇中国・朝鮮文化を飛鳥へ
◇遣隋使や遣唐使も利用 95年「歴史国道」に指定
「日本最古の国道」と呼ばれる道が、大阪にあるという。私は大阪生まれなのだが、聞いたことがない。「竹内(たけのうち)街道」と呼ばれ、大阪府南部と奈良県を結んでいるという。道路地図を見ると、確かに国道166号の横に、そう書いてある。いったいどんな道なのか。太子町にある「町立竹内街道歴史資料館」を訪ねた。
近鉄南大阪線の上ノ太子駅からタクシーで10分ほどの山あいに、小さな資料館はある。竹内街道の歴史や、推古天皇陵や聖徳太子廟(びょう)など、このかいわいに多く残る史跡を紹介している。
「日本最古の国道」の呼び名は、日本書紀の記載に由来する。推古天皇21年(613年)の欄に「難波(なにわ)より京(みやこ)に至る大道(だいどう)を置く」と書かれている。難波と奈良の飛鳥を結んだこの大道が「日本最古の国道」で、竹内街道はルートの大部分が大道と重なっているのだ。中国や朝鮮半島からの文化を飛鳥へともたらし、遣隋使や遣唐使もこの道を利用した。
「堺が商業都市として発展した安土桃山時代以降は、堺と大和を結ぶ経済の道として、江戸時代にはお伊勢参りでもにぎわったそうです」と太子町教委生涯学習課の鍋島隆宏さん(40)は説明する。街道沿いには、旅籠(はたご)や茶店も軒を連ねていたそうだ。
資料館に展示されている2体の馬の置物は、当時のにぎわいを物語る。1体は江戸時代の彫刻家、左甚五郎の作品で、旅籠の門前に置かれていたという。ところが街道を行き来する本物の馬が、名品と知ってか知らずか、この置物の馬に見入って次々と立ち往生してしまった。このため別の馬(展示品のもう1体)と置き換えられたのだという。
こうした経緯から95年、堺市中心部の大小路から奈良県葛城市長尾の長尾神社までを結ぶ約26キロの竹内街道のうち、特に歴史の面影を残している太子町から奈良県までの区間が、建設省(現国土交通省)の「歴史国道」に指定された。
街道周辺はハイキングコースとしても人気だ。資料館から国道166号を奈良方面へ向かい、途中から山道へ入って、大阪・奈良府県境の雌岳(474メートル)に登り、奈良県側へと下山。国宝・三重塔などのある当麻寺(たいまでら)を経て、街道終点の長尾神社まで、歴史と自然を一日満喫できる。帰りは、長尾神社近くの近鉄南大阪線磐城(いわき)駅の利用が便利だ。コースの入った散策地図を資料館で手に入れることができる(無料)。
竹内街道歴史資料館は、開館時間は午前9時半から午後5時(入館は4時半まで)。月、火曜休み(祝日は開館)。太子町大字山田1855。(0721・98・3266)。【野田武】
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「こんななにわの初モノ知ってるでぇ〜」という情報をお待ちしています。ファクス(06・6346・8444)かメール(at−osaka@mainichi.co.jp)で、おおさか支局までお寄せください。
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よっさん
:2010/04/15(木) 22:53:40
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100415ddlk27070387000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/161 西三荘 /大阪
◆門真市・守口市
◇地名にない駅名、なぜ?−−2市の境界線上に、開業時互いに綱引き
春らんまん。気分も新たに、久しぶりに大阪市内を出よう。大阪案内人の西俣稔さんと、京阪西三荘(にしさんそう)駅のホームで待ち合わせ。この駅がなにか?
「普通、駅名は町名から付けるんやけど、西三荘は地名にないんです」。地図を見ると、駅を守口市と門真市の境界線が突っ切っている。門真市側は本町、守口市側は橋波東之町で、確かに西三荘という地名はどこにもない。
この駅は1975年3月に開業した。目の前に松下電器産業(現パナソニック)の工場などがあったから、京阪電鉄は開業まで、仮称を「松下前」と名付けていた。当時の記事(他社のだが)によると、門真市は「新駅名も松下前駅に」と要望したが、京阪は「一企業の名を冠するのはよくない」と拒否。それではと、門真市が「西門真駅」を提案すると、守口市は「東守口駅か橋波駅」と対抗し、綱引き状態とあいなった。
京阪が「橋波本町駅」という折衷案を出すも、両市とも折れず、そこで京阪がひねり出したのが「西三荘」だった。「『松下幸之助さんの別荘でもあったんちゃう?』って言う人もおったけど、違います。西三荘とは、新駅の下を流れている用水路の名前なんです。知恵者がいたんですな」と西俣さん。
両市とも「それなら仕方なかろう」と、駅名が決まったのだが、用水路の名前はそんなに知られてはいなかったので、開業当初は「西三荘ってなんや」と問い合わせが相次いだという。
◇下を流れる用水路の名で決着
改札を通って駅前に出る。電車の高架以外に目立ったものはなく、お店がポツポツとある程度だ。西俣さんが高架の下を通る道路上で、「この下を西三荘水路が流れてるんです」。その道をぶらぶら南へ歩くと、植栽された遊歩道が現れた。「西三荘ゆとり道」は、97年、水路上に整備された。花博記念公園まで1・85キロ続いている。
下を流れる水路は1959年に用水路として整備され、79年に都市下水路となった。正式名称は「西三荘都市下水路」といい、守口市の大日町のあたりにある府庭窪浄水場から南下し、鶴見緑地を経て、大阪市鶴見区で寝屋川につながっている。全長約6・6キロ。
もしも駅の開業時に下水路だったら、西三荘は駅名になっただろうか。浄化した水を流しているとはいえ、下水路はイメージが良くないし−−などと考えてしまう。勝負ごとに「もしも」は禁物だが、歴史の「もしも」を想像するのは楽しみである。
西俣さんの解説。「このあたりは田園地帯で、水路は江戸時代から流れていて、明治〜昭和の時代に改修されたんです。では、なぜ西三荘というか?」
荘という字から察するに、荘園だったとか? 「正解!」。戦国時代末期、門真庄(今の門真市)、九箇庄(寝屋川市)、五箇庄(守口市)が存在した。「この三つの荘園をカバーする水路で、荘園の西を流れていたから西三荘というわけ。だから、読み方は『にしさんしょう』が正しいんです」
先の新聞記事によると、駅の開業後に読み方の正解がわかったが、京阪側は「もう変更できない」として、「にしさんそう」で通しているという。見過ごしてしまいがちな駅名一つにも、長い長い歴史の背景があるのだ。【松井宏員】
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よっさん
:2010/04/16(金) 20:58:48
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100416ddlk27040396000c.html
九頭神廃寺:昭和初期に出土の銅板、あすオープンの史跡公園で公開−−枚方 /大阪
九頭神廃寺(推定約2万平方メートル)の北西の一部に17日、史跡公園(枚方市牧野本町1)がオープンし、同日午前10時半〜正午に限り、水煙の他、現在までに発見された市指定有形文化財「銅造誕生釈迦仏立像」や瓦など遺物計43点が展示される。入場無料。問い合わせは、市教委文化財課(050・7105・8058)。【土本匡孝】
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よっさん
:2010/04/18(日) 15:20:53
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100418/20100418021.html
のどかな田園風景再現 杭全神社でお田植神事
2010年4月18日
杭全神社(大阪市平野区平野宮町2丁目、藤江正謹宮司)で13日、お田植神事が行われた。訪れた約80人が見守る中、地元の旧家「七名家」の当主らが拝殿を田に見立て、稲作の無事を願いながら田植えなどを模した儀式を行った。
同神社のお田植神事は鎌倉時代から続く伝統行事。拝殿の中でおきなの面をかぶり、くわなどの農具を使ってあぜきりや田植えといった農耕の所作を模擬的に演じている。
儀式の中には神が肥料を施す意味で、子供の人形が放尿したり、牛の格好をしてすきを引く所作などもある。訪れた人は厳かな儀式の中に、のどかな田園風景を思わせる場面に顔をほころばせていた。
吹田市から来た主婦、松本さかえさん(60)は「友人の紹介で初めて平野に来たが、由緒のある儀式が見られて良かった。神事に使われたもみは福の種として大事にします」と話していた。
697
:
よっさん
:2010/04/18(日) 16:01:49
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100418-OYT8T00083.htm
伝える日本一の水車郷
子どものため 住民ら小屋再現 生駒山麓「辻子谷」
江戸時代〜昭和初期、多くの水車が稼働し、「日本一の水車郷」と称された生駒山麓(さんろく)の辻子谷(ずしだに)(東大阪市上石切町)の景観を伝えようと、地元住民らのグループが登山道沿いの広場にミニチュアの水車小屋を再現した。製薬会社に卸す薬の粉をひいていた当時の水車の仕組みを見ることができ、静かな山林に響く「ギー、ガタン」という音が、登山客を癒やしている。住民らは、近くをホタルが舞う谷にすることも計画している。
水車小屋は、親睦(しんぼく)団体「昭楠(しょうなん)会」=山西勝久会長(56)=が制作。
同会によると、辻子谷では、谷を流れる音川の急流を利用して江戸時代から水車が造られ、水車の動力で漢方薬や香辛料をすりつぶす製粉業が盛んだった。明治〜昭和初期の最盛期には川筋に44基の水車が連なっていたが、電力の普及で、1979年に姿を消した。
同会は、当時の写真や史料を参考に2004年、「辻子谷水車郷広場」を整備し、原寸大(直径約6メートル)の水車を復元。しかし、電動の水車だけのものだったため、見学に来た小学生らから「どうやって動いてるの」「何に使うの」という質問が相次いだ。
このため、水車の仕組みや用途を理解してもらおうと、そばに長さ約50メートル、高低差約9メートルの人工川をつくり、製粉の機械などを備えたミニチュアを完成させた。ミニ水車は直径1・5メートルで、小屋の扉から、中で杵(きね)と臼をすりあわせて粉をひく様子を見ることができる。近くに休憩所も建て、かつての辻子谷の写真や資料なども展示した。
地元の小学生らが興味深そうにのぞきこんでおり、同会の山西会長は「水車の音を聞き、幼い頃の記憶がよみがえってきた。次は水車小屋のそばでホタルが舞う辻子谷の原風景を子どもたちに見せてやりたい」と目を細めている。
ミニ水車は毎日午前9時〜午後5時に稼働している。
(2010年4月18日 読売新聞)
698
:
よっさん
:2010/04/18(日) 16:05:32
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100418-OYT8T00087.htm
小林一三記念館が完成
阪急グループの創業者・小林一三(雅号・逸翁、1873〜1957)の業績を顕彰する「小林一三記念館」(池田市建石町)が完成し、17日、内覧会が開かれた。記念館は、国の登録有形文化財「雅俗山荘」を中心とした小林の旧邸で、文化人との交流などをパネルや映像で紹介している。公開は22日から。
雅俗山荘は、スペイン瓦を使うなど和洋折衷の鉄筋コンクリート2階建て。美術品収集家でもあった小林の死後、コレクションを展示する逸翁美術館として開館したが、同館は昨年10月に近くに新築移転し、記念館として生まれ変わった。
生前の書斎や応接間を再現し、食堂だった場所にフレンチレストランもオープン。また、パナソニック創業者・松下幸之助からの手紙など、関西実業界の巨星2人の交友を紹介する特別展が8月1日まで開かれる。
併設する白梅館には、阪急電鉄のジオラマや、宝塚歌劇団の歴史などを展示し、小林の実業家としての一面にスポットを当てている。入館料300円。月曜休館。問い合わせは、逸翁美術館(072・751・3865)へ。
(2010年4月18日 読売新聞)
699
:
よっさん
:2010/04/19(月) 12:33:33
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100419/20100419031.html
愛染堂勝鬘院 柱絵と壁画 きょうから補修
2010年4月19日
“愛染さん”の呼び名で親しまれる大阪市天王寺区夕陽丘町の愛染堂勝鬘(しょうまん)院(山岡武明住職)で、きょう19日から境内・多宝塔内(国の重要文化財)の柱絵と壁画を補修する3年計画の工事が始まる。経年変化による色のはがれ落ち防止が目的で、待望の作業着手に関係者は「後世に引き継ぎたい」と期待を寄せている。
同院の多宝塔(高さ約22メートル)は、もともと聖徳太子によって593(推古天皇元)年に建てられたが、織田信長の石山合戦で焼失。現在の塔は1597(慶長2)年に豊臣秀吉が再建したもので同市内最古の木造建造物として知られる。塔内には、再建の際、戦勝祈願として秀吉が作らせた「大日大勝(だいにちだいしょう)金剛尊像」とともに柱絵と壁画を奉納。絵は帝釈(たいしゃく)天や伊舎那(いざな)天など仏教の守護神である「十二天」で、塔内の壁8カ所と像を囲む柱4本に精密に描かれている。塔自体は重文(旧国宝)だが内部の絵はこれに該当せず、同院によると補修は戦後間もないころに1度だけ行われたとされる。
塔の扉は大阪の夏祭りのトップを切る伝統行事「愛染まつり」(6月30日〜7月2日)の期間中に開かれるのみ。通常は原則非公開だが、近年では風で色の層がはがれる落ちるほど劣化し、部分によっては絵そのものが不鮮明となり、早急な補修が望まれていた。
同院では約3年前から参詣者へ寄進の呼び掛けや、文化財団へ文化財保護助成に申請するなど本格的な補修計画に取り組み、このほど着工の運びとなった。
工事は京都の専門業者が手掛け、すでに事前調査は終了。今後はほこりの除去をはじめ、劣化した絵の具層ににかわなどの水溶液を使い、はがれ落ちの進行防止を図る。山岡住職は「補修のめどが立ちひと安心。幾多の戦乱や戦時中の大空襲でも焼失を免れた貴重な奉納品を未来に伝えていかなければ」と話していた。
700
:
よっさん
:2010/04/20(火) 12:51:42
http://www.sankei-kansai.com/2010/04/20/20100420-022997.php
2010年4月20日
24日から水無瀬離宮関連遺構の発掘速報展 島本町立歴史文化資料館
大阪府島本町広瀬で今年1月に見つかった水無瀬離宮の関連施設とみられる遺構の発掘調査に関する速報展が24日から、同町桜井の町立歴史文化資料館で開催される。後鳥羽上皇が12世紀末から13世紀にかけて造営し、歌人の藤原定家らを招いて歌会などを楽しんだという離宮。出土品とともに発掘の様子などをパネル写真で紹介する。5月30日まで。
発掘調査では、文献などによる離宮の推定地から約200メートル東で、鎌倉時代前期の飾り瓦や大規模な敷石意向(幅約3メートル、長さ約6メートル)が出土。付近には当時、大規模施設はほかにないことから、離宮に関連した建物跡とみられている。
周辺は宇治川、木津川、桂川が合流する風光明媚(めいび)な地として、古来、歌にもたびたび登場したほか、大阪と京都を結ぶ物流や交通の要衝でもあった。
武家に対抗した後鳥羽上皇が、承久の乱(1221年)を前に、政治的・軍事的な拠点として離宮を構えたともいわれている。
速報展では、出土した飾り瓦の「軒丸瓦」や碗(わん)類とみられる白磁片、花弁形の飾り金具や金づちの頭のような形をした金属片など計約30点を公開する。
また、発掘の様子を示した写真や出土品のレントゲン写真など、約30枚のパネル展示なども行う。
町教委では「歴史の転換点の中心舞台となった離宮跡とみられるだけに、今後も注意深く調査を進めたい。今回の展示では、時代の息づかいを感じてほしい」としている。
入場無料、問い合わせは同町立歴史文化資料館(電話075・961・3411)。
701
:
名無しさん
:2010/04/20(火) 19:34:25
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100420ddlk27040413000c.html
島本町文化財:若山神社の木造座像を指定 聖徳太子七歳像と伝わる /大阪
島本町は、同町広瀬の若山神社が所有する木造の座像(高さ35・8センチ、最大幅24センチ)を町文化財に指定した。「聖徳太子七歳像」と伝えられ、詳しい調査で10〜12世紀の平安時代後期の制作と判明。町内最古級の像として貴重であるなどと評価したという。
町教委によると、ヒノキを丸彫りし、髪や衣などに彩色を施した簡素な造り。背面の彫りは省略している。文書などが残っておらず、作者や由来、なぜ「聖徳太子七歳像」と言われてきたのかなどは不明という。
専門家の勧めで、1948年、大阪市立美術館に寄託された。町内で一般に公開されたことはないといい、町教委は文化財指定を機に、地元での公開を検討する。【八重樫裕一】
702
:
よっさん
:2010/04/21(水) 18:21:27
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100421ddlk27040421000c.html
ものの始まり・なんでもなにわ:/29 たばこ包丁 /大阪
◇「堺極」が品質の証し
◇喫煙文化が生んだ国産 今や「路上禁止区域」も
たばこの日本伝来には諸説ある。16世紀にポルトガル人によって、鉄砲とともに伝わったという説や、17世紀初めにスペイン人が江戸幕府に献上したという説などだ。
中世に自由貿易都市として栄えた堺にも早くから、たばこが伝わった。たばこ包丁は、キセルに詰める葉タバコを刻む包丁。当初、葉タバコとともに輸入されたが、国内で葉タバコを栽培、喫煙文化が各地に広まり、国産のたばこ包丁も作られるようになった。
大阪市と堺市を結ぶ路面電車・阪堺線の妙国寺前駅から徒歩約3分。堺HAMONOミュージアム(堺刃物伝統産業会館、堺市堺区材木町西1丁、072・227・1001)は、江戸時代のたばこ包丁の複製を展示している。
同ミュージアムによると、堺でたばこ包丁が作られるようになったのは、天正(1573〜92)年間。江戸時代に幕府が、堺のたばこ包丁を専売品として、「堺極(さかいきわめ)」という極印を入れて品質を保証し、販売したため、堺刃物の切れ味と名声が各地に知られるようになった。
ミュージアムには、切る用途によって形態の異なる畳包丁、中華包丁、もち切、すし切、鯨切、すいか切、ハモ切、薬草切などさまざまな包丁が常設展示されている。出刃包丁の製造工程パネルや、和包丁のできるまでが分かるパネルも見ることができる。実演・体験コーナー、料理教室、刃物の相談を受ける刃物クリニックもある。研ぎ直しは有料。無料の研ぎ方指導もしている。開館は午前10時から午後5時。火曜休館。入場無料。
たばこ包丁作りが栄えた堺でも、禁煙は時代の流れ。堺市は4月1日から、路上喫煙によるやけどの被害やごみのポイ捨てを防ぐため、市中心部を「路上喫煙禁止区域」に指定した。対象は、南海堺東駅前広場▽南海堺駅前広場(西側と東側)▽堺東駅と堺駅を結ぶ道路・大小路筋▽市役所周辺。
約1年間は周知期間を設け、来春にも違反した場合の過料1000円を徴収する。禁止区域には、路上喫煙とごみのポイ捨てを禁止するマークが路面に描かれている。
堺市堺区の宿院交差点には、江戸時代にたばこ包丁の製作に携わった鍛治(かじ)職人たちが住吉大社に寄進した石灯籠(いしとうろう)がある。石灯籠の周辺地域は、江戸時代に包丁作りが盛んだった。高さ約3メートルある石灯籠は、喫煙者の肩身が年々狭くなっていく現代の堺を、どう見ているだろうか。【山田英之】
==============
「こんななにわの初モノ知ってるでぇ〜」という情報をお待ちしています。ファクス(06・6346・8444)かメール(at−osaka@mainichi.co.jp)で、おおさか支局までお寄せください。
703
:
名無しさん
:2010/04/21(水) 23:37:42
装い新たにアーチ型 貝塚・水間寺の「厄除橋」 大阪
2010.4.21 02:05
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/100421/osk1004210207000-n1.htm
厄除けの観音様で知られる大阪府貝塚市水間の水間寺で、架けかえをしていた「厄除橋」が完成した。
約半年の工事で架けられた新橋(長さ19メートル、幅5・2メートル)は、旧橋と同様の石造り。旧橋では流されてきた大木が当たるなどして橋脚にひびが入ったため、新橋は橋脚のないアーチ型となった。
工事中には文字が書かれた明治期の石が見つかり、旧橋が明治に架けられたものだということも分かったという。
水間寺は奈良時代、聖武天皇の命を受けた行基が開いたといわれ、厄除けの観音様として信仰を集めてきた。寺に行くための橋も、いつしか厄除橋と呼ばれ、渡るだけで厄除けになると伝えられている。
704
:
黒澤主義
:2010/04/22(木) 01:12:45
八尾・常光寺で29日に「大般若会」 大阪
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/100421/osk1004210211001-n1.htm
河内音頭発祥の地とされ、「八尾地蔵」の通称がある大阪府八尾市本町の常光寺で29日午後3時から、来世と現世を結ぶ道に見立てた回廊を、如来や鬼にふんした人々が歩く行事「大般若会」が行われる。
明治時代後期から続く行事で、戦時中に一時中断したが、戦後すぐに復活した。境内の広場を一周するように設置する回廊(高さ2メートル、長さ50メートル)を使って、地獄と浄土の世界を再現。本堂では僧侶が大般若経を唱えて、家内安全や町内繁栄を願う。
当日は、七如来や地蔵菩薩、閻魔大王、赤鬼、青鬼にふんした地蔵講の役員が回廊を練り歩くほか、華やかな衣装を身にまとった子供や僧侶たちも歩き、参拝者に魔よけの散華や厄除けのもちがまかれる。
雨天決行。問い合わせは常光寺((電)072・922・7749)。
(msn産経ニュース 2010年4月21日)
705
:
黒澤主義
:2010/04/22(木) 19:51:34
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/162 心斎橋余話/大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100422ddlk27070361000c.html
◆大阪市鶴見区
◇鉄製アーチ、各地を転々
◇西区・境川橋→西淀川区・新千船橋、さらに鶴見区・西三荘水路へ
西三荘水路を暗渠(あんきょ)化して整備した守口市の「西三荘ゆとり道」で、大阪案内人の西俣稔さんが、心斎橋の話を始めた。
「明治6(1873)年に、木の橋からドイツ製の鉄橋に架け替わった心斎橋は、明治42(1909)年に石橋に替わるんですが、鉄橋はあちこち転々として一時、この水路に架かってたんです」
心斎橋は現在、繁華街の地名となっているが、もともとは長堀川(今の長堀通)に架かっていた橋の名前で、江戸時代初めに、長堀川を開削した岡田心斎の名に由来する。
ドイツから輸入した立派な鉄橋を廃棄するのはもったいないというので、再利用されたわけだ。まずは1908(明治41)年、西区の境川で「境川橋」と名を変えたが、境川の埋め立てで移転。お次は1928(昭和3)年、西淀川区の大和田川で「新千船橋」となった。
その大和田川も埋め立てられ、用済みとなったのだが、貴重な明治の文化遺産の保存を求める声が高まり、鶴見区の鶴見緑地内を流れていた西三荘水路へ引っ越すことになった。1973(昭和48)年のことで、「すずかけ橋」と名付けられた。ところが、鶴見緑地が国際花と緑の博覧会場に決まって会場整備の一環で水路が暗渠化され、またまたお役ごめんに。
◇そして今、鶴見緑地の「緑地西橋」 140年、5度目のお務め
「それが、今も現役の橋なんです」と西俣さん。89(平成元)年、鶴見緑地の西端に移り、「緑地西橋」として5度目のお務め中なのだ。「明治時代から140年近くも人の役に立ってるわけです」と、西俣さんは惜しみない賛辞を贈る。
その緑地西橋の銘板には「心斎橋は日本で五番目に架けられた鉄橋で、その規模の大きさは歩く人を驚かせたという」とある。しかし、全長約37メートル、アーチの高さも2メートルを超える程度で、現代では小さな橋にすぎないが、明治初めには人々の目を見張らせたのだ。
現存する最古の鉄橋というわけだが、もちろん橋そのものは新造で、鉄製のアーチの部分がモニュメント的にくっつけられている。塗装が施されているが、ボルト部分はさびが目立ち、誕生からの歳月の長さを物語っている。
車道の上に架かり、人と自転車しか通らない橋なので、今も現役というより、余生を静かに暮らすご隠居然と見える。
緑地西橋の西には、細長いメタセコイアの並木道が一直線に延びる。新緑が目にまぶしい。【松井宏員】
(毎日新聞 2010年4月22日)
706
:
よっさん
:2010/04/23(金) 20:58:20
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100423/20100423057.html
太子の遺徳しのぶ 四天王寺で「聖霊会舞楽大法要」
2010年4月23日
聖徳太子の命日にあたる22日、太子創建の和宗総本山四天王寺(大阪市天王寺区、奥田聖應管長)で伝統行事の「聖霊会(しょうりょうえ)舞楽大法要」が執り行われた。あいにくの雨の中、太子のみ霊をなぐさめる舞楽などが奉納され、同寺で最も重要な年中行事を飾った。
聖霊会で舞われる舞楽は国の重要無形民俗文化財に指定されている。境内・六時堂では同寺僧侶による法要と、四天王寺舞楽の伝承団体「天王寺楽所雅亮(がくそがりょう)会」(同市浪速区、小野功龍理事長)の楽人・舞人による舞楽が次々と執り行われた。
雅楽の音が響く中、古式ゆかしい装束姿の舞人らは、舞楽の開始を告げる「振鉾(えんぶ)」に続き、朝鮮半島伝来で「太子の目覚めをなぐさめる供養舞」とも伝わる「蘇利古(そりこ)」などを厳かに奉納。堂前では外国人観光客など大勢の参詣者がみやびやかな伝統行事に見入っていた。
707
:
よっさん
:2010/04/24(土) 22:35:33
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100424ddlk27040409000c.html
広瀬遺跡:発掘調査速報展 きょうから島本町で /大阪
後鳥羽上皇(1180〜1239)の「水無瀬離宮」の一部だった可能性が高い大規模遺構が見つかった広瀬遺跡(島本町広瀬)の発掘調査速報展が24日〜5月30日、同町立歴史文化資料館で開かれる。出土した鉄製品や白磁片、瓦など三十数点のほか、調査の様子の写真パネルなどを展示する予定。
町教委によると、鉄製品3点の分析を奈良大学に依頼。エックス線透過試験で、うち2点が花びらのような形状をしていることから、建物を飾った金具とみられるとした。大きさは直径約9センチと約6センチ。もう1点は金づちの頭部分とみられるという。
午前9時半〜午後5時。入場無料。5月3日を除く月曜日と同6日休館。問い合わせは同資料館(075・961・3411)。【八重樫裕一】
708
:
よっさん
:2010/04/26(月) 19:00:12
http://mainichi.jp/kansai/news/20100426ddf041200005000c.html
四天王寺伝説:人間国宝・中村富十郎さん、舞台化計画 歌舞伎、バレエなどコラボ
歌舞伎俳優で人間国宝の中村富十郎さんが、四天王寺(大阪市天王寺区)に伝わる聖徳太子の鷹(たか)の伝説の舞台化を計画している。実現は来秋以降になりそうだが「富十郎家に縁が深い四天王寺様のためにも」と意欲を燃やす。
タイトルは「四天王寺の鷹」。仏教に反対し、蘇我馬子と聖徳太子の連合軍に敗れた物部守屋の怨霊(おんりょう)が、四天王寺を滅ぼそうとキツツキとなって襲来。しかし聖徳太子の霊が白い鷹の姿で現れ、追い払うという内容だ。四天王寺に伝わる伝説で、民俗学者の谷川健一さんが書いた同題の本(06年出版)を読み感激した富十郎さんが、谷川さんの快諾を得て初の舞台化を決めた。
実は、歌舞伎俳優が持つ屋号が、富十郎さんは「天王寺屋」で、四天王寺から贈られたもの。さらに長男が鷹之資(たかのすけ)さん(11)で、紋が鷹の羽八ツ矢車など、縁の深さに驚いたという。
計画では、鷹之資さんが聖徳太子役、富十郎さんはわきの僧の役で、キツツキ役はバレエ団員約50人が演じる。マーラーの第4番をフルオーケストラで演奏し、雅楽や尺八、仏教音楽の声明(しょうみょう)も使いたいという。交響楽や雅楽で歌舞伎俳優とバレエが共演すれば前代未聞。1回きりの公演にする。
富十郎さんは1943年、大阪・中座で坂東鶴之助を名乗って初舞台を踏み、トップクラスの人気を誇った。「鷹之資が、聖徳太子様の『和を以(もっ)て貴しとなす』という教えを、精神の一つとして育ってほしい」と話す。四天王寺の森田俊朗執事長は「鷹の止まり木が昔から金堂の軒に残っています。(舞台化は)大変素晴らしい」と話している。【宮辻政夫】
709
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よっさん
:2010/04/28(水) 12:26:31
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100428-OYT8T00074.htm
弥生〜戦国期の土器、瓦173点
大阪城天守閣で収蔵品展
大阪市中央区の大阪城天守閣で、テーマ展「地中からの遺産―大阪城天守閣収蔵考古資料展―」が開かれている。弥生時代から戦国時代までの土器や瓦など173点が並ぶ。
難波宮跡が発掘調査で発見されるきっかけとなった1913年採集の軒丸瓦や、八尾市の高安千塚古墳群で出土した6世紀後半の「人馬小坩装飾付器台(じんばしょうかんそうしょくつききだい)」などが展示されている。同天守閣は31年の開館から昭和30年代頃まで、考古資料を収集してきたが、近年は、大阪城の歴史や戦国時代の資料を主に扱っているため、公開の機会が少なかった。松尾信裕館長は「初めて展示されるものもあり、考古資料の魅力を知ってほしい」と話している。
5月5日まで。開館は午前9時〜午後6時(入館は閉館30分前まで)。入館料は大人600円、中学生以下無料。
【YOL内関連】旅ゅーん!…日本の旅、海外の旅、鉄道など
(2010年4月28日 読売新聞)
関連記事・情報
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:
よっさん
:2010/04/29(木) 08:40:16
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2004090201.html
与謝蕪村しのぶ俳句講座
江戸時代の俳人で大阪出身の与謝蕪村の功績を学びながら、俳句に親しもうという講座が始まりました。
「蕪村顕彰俳句大学」と名付けられたこの講座は、江戸時代の俳人で現在の大阪・都島区に生まれたとされる与謝蕪村の功績を多くの人に知ってもらおうと、大阪市のNPO法人が始めました。
きのう始まった講座にはおよそ30人が集まり、はじめにNPO法人の理事で講座の代表をつとめる川原俊明さんが「蕪村は松尾芭蕉などと並ぶ江戸時代の俳人ですが、大阪生まれだということはあまり知られていません。これから俳句の奥深さを一緒に学びましょう」とあいさつしました。
そして、参加者たちは季語などの俳句の基本を習ったあと、さっそく蕪村の句などを手本に俳句作りに取り組んでいました。
この講座は8月まで毎月1回行われ、9月には都島区毛馬町にある「蕪村公園」で茶会などを開いて受講生の作品を発表するほか、秋からも新たな講座を始めることにしています。
NPO法人の川原理事は「親しみながら俳句を楽しむことで大阪の文化をもっと広く発信できると思うので、今後もいろいろな形で俳句のよさを広めていく活動をしていきたい」と話していました。
04月29日 07時31分
711
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よっさん
:2010/04/29(木) 09:06:24
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/100429/osk1004290221000-n1.htm
聖徳太子の憲法刻んだ扁額を奉納 大阪・四天王寺
2010.4.29 02:20
聖徳太子ゆかりの四天王寺(大阪市天王寺区)で28日、聖徳太子が唱えた十七条憲法の文字を刻んだ刻字扁(へん)額が奉納され、奥田聖應管長ら約200人が参加して除幕式が行われた。
刻字家の吉崎努さん(76)が、聖徳太子の教えを末永くとどめたいとして、十七条憲法第二条にある、篤(あつ)く仏教を敬うようにという意味の「篤敬三寶」の文字を、縦70センチ、横200センチの扁額に刻み奉納した。
吉崎さんは「あの世へ旅立った友人たちへ祈りをこめて作った作品が、歴史ある同寺に奉納できて光栄」と話し、四天王寺は「太子の精神を広く伝えていこうと、思いを新たにした」としている。
扁額は本坊の新玄関に飾られ、一般公開はしていない。問い合わせは四天王寺((電)06・6771・0066)。
712
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よっさん
:2010/04/29(木) 20:02:12
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100429ddlk27070353000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/163 幣原兄弟顕彰碑 /大阪
◆門真市
◇段蔵の生家跡に
守口市の西三荘ゆとり道に戻って。そこから中央環状線を東へ歩き続ける。門真市に入っている。たっぷり2駅分は歩いて、「試験場入口」の交差点を南へ折れる。古川橋の運転免許試験場が近い。
地名は一番町。西俣さんの解説。「江戸時代、門真庄の一番村だったところで、言うたら門真の中心地ですな。門真庄は一番村から八番村までありました。守口の大庭庄も十一番村まであったんです」。その名残で、門真には一番町のほかに三番という地名が残る。
家電量販店のコジマの角を左折すると、白壁の旧家が建ち並ぶ。菜の花の黄色が目に鮮やかだ。よく見ると、どの家も蔵の土台が石垣だ。「低湿地やから、水害から家を守るためです」と西俣さん。段蔵といい、江戸時代からある。淀川だけでなく、一番町のすぐそばを流れる古川もよくあふれたから、この辺に多いようだ。
昭和30年代には市内に100以上あったが、都市化などで段々減ってきている。同じような蔵は、枚方では「かるもんぐら」、木曽川流域では「水屋」と呼ぶそうだ。
このあたりは区画整理がされていないので、昔のままの入り組んだ細道が残る。中には行き止まりの路地もある。「見通しが悪いでしょ。よそ者を入れないための工夫ですわ」。その一帯を、よそ者の2人がうろつく。
民家の脇に、小さな公園のような所がある。その奥に、大きな石碑が立ち、両脇にはいかめしい顔をした銅像が並ぶ。幣原坦(しではらたいら)、喜重郎兄弟の顕彰碑だ。
◇元首相と歴史学者、銅像も 題字の筆は吉田茂
幣原喜重郎は外交官で、戦後の混乱期に首相を務めた。「大阪から首相が出てるの、知らん人多い」と西俣さん。外相時代は協調外交を推し進め、軍部や国粋主義者から「軟弱外交」のそしりを受けた。大阪で編成された陸軍の第8連隊は「またも負けたか8連隊」と歌われた。大阪は戦を好まぬ平和主義の地だ、と断じたい。
顕彰碑のある場所は幣原兄弟の生家跡だ。兄の坦は歴史学者で、戦前、台湾に創設された台北帝国大学の総長などを務め、戦後は生家に戻って亡くなった。庄屋も務めた豪農で、碑のあるあたりが玄関、公園のような広場は玄関先だったというから、ずいぶん大きな家だったようだ。市立歴史資料館には生家の写真が残っている。それを見ると、やはり段蔵だ。
跡地はほとんどが売却されたが、碑のある広場だけが現在も坦の子孫が所有しているという。
碑は1966年に当時の門真町長や外交官時代の知己らが発起人となって建てられた。「幣原坦 幣原喜重郎両先生顕彰碑」の題字は、吉田茂元首相の筆になる。隠居していた73歳の喜重郎を首相に担ぎ出したのが吉田で、幣原内閣の外相を務め、喜重郎の後を受けて首相に就いている。のちに、ともに自由民主党を結成する。非常に近い関係だったわけだ。
碑文は当時の左藤義詮府知事の書で、「幣原坦博士の学徳は万世の師表 同喜重郎首相の経綸は永遠の平和 この偉大なる兄弟の生地を敬存して 切に次代の奮起を待つ」と記されている。
市長室には喜重郎の書「公直無私」の額が飾られている。1931年に門真村庁舎ができるが、喜重郎が貴賓室を寄贈。そこに掲げられていた。「公職に就く者は実直、無私であれ」という意味で、喜重郎の人柄を表わしている。歴史資料館には、複製の額が掲げられている。【松井宏員】
713
:
よっさん
:2010/04/29(木) 20:08:58
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100429ddlk27040323000c.html
のざきまいり:来月1日から−−大東・野崎観音 /大阪
「野崎小唄」などで知られる大東市野崎2の禅宗・野崎観音(慈願寺)の「のざきまいり」が5月1〜8日、行われる。JR野崎駅から境内までの約700メートルの参道には約300軒の露店が並び、参詣者でにぎわいそう。
のざきまいりは約300年前からあり、有縁、無縁の万物に感謝する祭事。期間中の主な催しは、オープニング和太鼓など(1日)▽ジャズ(2日)▽花まつり甘茶接待(7、8日)▽無縁経法要(8日)▽大道芸(各日)−−など。
また、市などは1〜4日の各日午前10時〜午後4時、境内の野崎観音会館で、食品の「もったいない」をテーマにした人権パネル展を開く。【土本匡孝】
714
:
よっさん
:2010/05/01(土) 16:58:32
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100501ddlk27040349000c.html
日月山水図:天野山金剛寺が重文屏風を公開−−5日 /大阪
河内長野市天野町の天野山金剛寺で5日、寺所蔵の重要文化財「日月山水図(じつげつさんすいず)」が公開される。
毎年5、11月に1日ずつ公開されている。日月山水図は、室町時代後期に描かれた六曲一双の屏風(びょうぶ)。山海、桜、紅葉、雪など四季の情景を描いている。同時に、市指定文化財の板絵「三十六歌仙図」も公開される。歌人36が1枚に1人ずつそれぞれの歌とともに描かれ、31面が現存している。
約600坪の寺の庭園では、ボタンやシャクナゲなどが見ごろを迎える。公開時間は午前9時〜午後4時。拝観料600円。同寺(0721・52・2046)。【花牟礼紀仁】
715
:
よっさん
:2010/05/02(日) 09:57:24
http://www.sankei-kansai.com/2010/05/02/20100502-023458.php
2010年5月 2日
大坂の陣を「大河」舞台に 「ドラマにする会」8日発足
真田幸村の子孫も「参戦」 自分たちでキャスティング
豊臣家が滅んだ戦国最後の大いくさといわれる大坂の陣をNHKの大河ドラマに誘致しようと8日、市民団体「大坂の陣を大河ドラマにする会」が発足する。合戦に駆けつけた武将の地元との交流活動のほか、演じる俳優も自分たちでキャスティングしてしまうという勝手連的活動で機運を盛り上げ、大坂の陣から400年となる平成26、27年のドラマ化を目指すという。NHK側にはまだアプローチはしていないが、関係者は「人間模様が渦巻き、奥深いドラマがある」と意気込んでいる。
発起人には地元ゆかりの作家の有栖川有栖さんや漫画家の尼子騒兵衛さんらのほか、大坂の陣で活躍する真田幸村の子孫も名を連ねた。
発起人のひとりで建築家の六波羅雅一さんは「滅びると分かって豊臣側ついた武将もいた。裏切り、義理、打算、さまざまな人間ドラマが渦巻いている」とその魅力を語る。
幸村ゆかりの長野県上田市や和歌山県九度山町でも大河ドラマ誘致の動きもあり、同会はこうした運動も巻き込み3カ所が力をあわせた“三本の矢”方式で、誘致運動を展開する方針。発会式当日は上田市から母袋創一市長も駆けつける。
発会式会場には、徳川家康が陣を張った大阪市天王寺区の一心寺を選ぶなど、会場選びにもこだわった。当日は、大阪城天守閣研究副主幹の北川央さんの講演のほか、講談師の旭堂南陵さんが、豊臣家の悲劇を描いた講談「難波戦記」も披露する。
同会は27年のドラマ化を目指すとすれば、25年6月ごろには、ドラマのタイトルや原作などが決まると想定。原作には司馬遼太郎氏の「城塞」などが候補にあがっている。今後は、インターネットなどを通じ、登場人物の武将や誰に演じてほしいかといった意見を募るほか、ゆかりの地を巡るツアーなども計画する。
六波羅さんは「NHKにはまだアプローチしていないが、活動を取材されるようになるぐらいまで、運動を盛り上げたい。ドラマ化を目指す過程を楽しみたい」と話していた。
「龍馬伝」効果 にぎわう高知
大河ドラマゆかりの土地は、観光地としての注目度も抜群。放送中の「龍馬伝」の舞台、高知は例年以上のにぎわいを見せている。
高知県観光振興課によると、平成22年3月の1カ月間の県内の観光施設利用者は約30万人と前年比4割増。特に、坂本龍馬記念館などがある高知市の増加率が高く、同記念館など龍馬関連5施設の観光客は3倍増となった。
「土佐・龍馬であい博」の開催など、大河ドラマにあわせたイベントも充実。ゴールデンウイーク期間中はさらに観光客が増える見通しで、龍馬の銅像が立つ桂浜公園では500台の駐車場に収容できないとして、1〜5日は一般車両進入禁止の措置を取るほど。期間中は臨時駐車場からシャトルバスを運行して対応している。担当者は「この勢いを来年以降にもつなげたい」と話した。
一方、昨年の大河ドラマ「天地人」の舞台となった新潟県も21年は年間約7500万人の観光客が訪れ、前年より1年間で約500万人増。担当者は「各地のゆかりの地は軒並み観光客が増えた」と話していた。
716
:
よっさん
:2010/05/02(日) 11:03:32
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100502/20100502015.html
高安ルーツの能魅力発信 復興へ活動展開も
2010年5月2日
古来の伝統芸能で、世界無形文化遺産でもある能楽。八尾市・高安は能楽と深くかかわりを持ち、同市を拠点に活動するNPO「高安ルーツの能実行委員会」は、能楽の公演や講座の開催などを通し、「八尾から世界へ地元の伝統芸能の魅力を発信したい」と意気込んでいる。
同委員会では地域密着型で有形、無形の文化財や自然環境の保護、継承を目指す「第1回ユネスコ未来遺産プロジェクト」に、「高安ルーツの能」を応募。最終審査であと一歩及ばなかったものの、全国から候補として絞られた20件まで進出した。
能の源流は奈良時代にあるとされ、京都や奈良を起源とするものが多いのと同時に、八尾市・高安をゆかりとするものも少なくない。今は廃曲となった謡曲に「高安」があり、また能の創始者である観阿弥の母は楠木正成の妹に当たり、地元・玉串の荘出身とする文献も存在するという。
一方で能楽にゆかりの深い高安だが、地元住民の認知度は決して高くはない。そんな中一昨年、市民活動の中から復興の動きが盛り上がり、始まったのが「しおんじやま芝能」だ。奈良との県境に近い心合寺山(しおんじやま)古墳を前にした特設舞台。昨年11月に開かれた第2回の公演には事前の講座も合わせて延べ約600人が訪れ、「弱法師(よろぼし)」が上演された。
「弱法師」は、河内国高安に住む高安通俊が人のそしりによって子・俊徳丸を追放するが、それを悔いて四天王寺で功徳のために施しを行い、そこで悲しみのあまり盲目のこじきとなったわが子の姿を目にする。やがて通俊は父であることを告白。手を引いて故郷へ帰っていく、という内容。訪れた人らが、地元の昔話が題材となった能楽の世界を堪能した。
また地元の土地の名を冠するのが「高安流」。ワキ方と大鼓方にこの流派がある。高安流の特徴について、観世流能楽師でなにわ文化芸術芸能推進協議会理事の山中雅志さん(32)は「抽象的な表現が多い能にあって、動きが写実的。世阿弥の時代にはなかった」と話す。しかし冠する名に対し、その主な活動拠点は関東に移っているのが実際のところだ。
催しを通じて「市民の郷土再発見への意識を促すことができたのでは」と同委。市民活動から盛り上げ、「子どもたちにも知ってもらい、復興の夢を果たしたい」と将来を見据えている。
717
:
よっさん
:2010/05/02(日) 11:06:31
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100502/20100502018.html
極楽浄土への道 大念佛寺“万部おねり”
2010年5月2日
大阪市平野区平野上町1丁目の融通念佛宗(倍巌良舜管長)総本山大念佛寺で1日、“万部(まんぶ)おねり”の呼び名で知られる伝統行事「二十五菩薩聖聚来迎阿弥陀経(ぼさつしょうじゅらいごうあみだきょう)万部法要」が始まり、さわやかな青空の下、僧侶が扮(ふん)する菩薩が現世から極楽浄土へ向かう来迎の様子を再現した。5日まで。
同法要は「聖聚来迎会(え)」「阿弥陀経万部会」が融合した同寺最大の行事。2002年に大阪市の無形民俗文化財の指定を受けた。
極楽浄土に見立てた本堂へ続く回廊が設けられた境内では、稚児行列などに続き、観世音菩薩を先頭に、きらびやかな面と装束を身に着けた25の菩薩が登場。大勢の参詣者らは練り歩く菩薩の列に手を合わせるなど、荘厳な光景を見届けていた。
お練りは連日午後1時から行われる。
718
:
よっさん
:2010/05/02(日) 15:10:21
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20100502-OYO1T00160.htm?from=main2
朱あざやか、平成の遣唐使船が大阪に…8日に上海へ出港
1日開幕した上海万博に、7〜9世紀に日本と中国大陸を結んだ遣唐使船を派遣する「遣唐使船再現プロジェクト」で、よみがえった〈平成の遣唐使船〉が同日、大阪市港区の大阪港岸壁に姿を見せた。再現船は8日午後、古代の港・難波津があった大阪を出港、瀬戸内海を経て長崎・五島列島まで航行、貨物船に載せて上海を目指す。万博会場近くには6月12日から展示される。
同プロジェクト実行委員会(角川文化振興財団主催、読売新聞社など後援)が絵巻物や研究者の考証を基に再現した。竹を編んだ帆と20本の櫂(かい)を備えた船(全長30メートル、幅9.6メートル)は上海近くの造船所で造られ、貨物船で大阪まで運ばれた。再現船は海遊館近くの天保山西岸壁に接岸。青空に朱色が映え、はるか唐へ大海を渡った往時をしのばせた。係留中、一般の乗船はできない。
家族4人で遊びに来ていた高松市の会社員梅本武彦さん(38)は「風と潮を頼りに中国まで行った船と同じものが、こうして浮かんでいるなんて、ロマンを感じます」と話した。
(2010年5月2日 読売新聞)
719
:
よっさん
:2010/05/03(月) 12:11:23
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100503-OYT8T00047.htm
再建本堂は丈夫でエコ
耐震基準クリア 土、木や瓦再利用
戦国時代に創建された松原市高見の里の「敬念寺(きょうねんじ)」で、2003年の台風10号によって屋根が崩落していた本堂の解体修理工事が終わり、2日に落慶法要が行われた。宮大工の伝統的な技術を用い、元の柱や壁土などをできるだけ再利用しながら、現在の耐震基準も満たして生まれ変わった。
同寺は1532年、浄土真宗の道場として建てられた。商業の中心地だった堺の東の玄関口として栄え、豊臣秀吉が太閤検地を実施した際に租税を免除された記録や、徳川家康の参謀を務めた天海和尚の筆とされる書が残っている。
本堂は1713年に一度、再建されたとの記録があるが、その後、柱が腐食するなど老朽化が進み、2003年の台風で梁(はり)が折れ、屋根が落ちる被害を受けた。斉藤賢(まさる)住職(77)は、寺をできるだけ元の姿に復元しようと、檀家(だんか)とともに再建案を練ってきた。
檀家の親族の紹介で、伝統的な宮大工の技術で耐震基準をクリアする工法を研究している、兵庫県猪名川町の「川人工務店」に工事を依頼。川人良明代表(58)が3年をかけて、寺の柱に使われていた木材を精密に組み合わせることで、鉄筋やくぎを使用せずに寺を復元した。土壁はすべて、元の土を練り直して活用、鬼瓦も再利用した。
斉藤住職は復活した本堂を見ながら、「天災に負けない本堂に生まれ変わった。また何百年と慕われ続けるよう、守っていきたい」と感慨深げに話した。川人代表は「ありがたい経験ができた。今後も宮大工の技術や日本の伝統建築を残し、伝えていきたい」と語った。
(2010年5月3日 読売新聞)
720
:
よっさん
:2010/05/04(火) 11:04:42
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100504-OYT8T00077.htm
堺市博物館で板倉槐堂書画展
幕末の倒幕運動を経済的に支え、坂本龍馬らと交流があった勤皇家、板倉槐堂(かいどう)(1822〜79)の書画が、堺市堺区の市博物館で展示されている=写真=。
京都で薬店を営んだ板倉は、龍馬をはじめ、土佐の中岡慎太郎や武市瑞山、長州の桂小五郎らと親交があった。暗殺された龍馬らの血がついたとされる京都・近江屋の掛け軸は板倉の作で、重要文化財に指定されている。
同博物館の展示では、市内在住の書家から寄贈を受けた掛け軸など9点を出品。古来、君子に例えられるランを題材にした墨絵などが並び、天皇の徳をしのぶ気概がうかがえるという。
9日まで。無休。問い合わせは同博物館(072・245・6201)。
(2010年5月4日 読売新聞)
721
:
よっさん
:2010/05/04(火) 20:09:03
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE100504171100345930.shtml
■真田幸村をしのぶ武者行列〜大阪・平野区
戦国武将・真田幸村をしのぶ武者行列がありました。最近増えている歴史好きの女性、歴女たちの姿もありました。
赤い甲冑に、真田家ゆかりの六文銭のマークが入った旗。
大阪市平野区の志紀長吉神社は、大阪夏の陣で劣勢に立たされた幸村が刀と旗を奉納して勝利を願った神社として知られています。
地域の活性化を願う大阪のNPO法人のメンバーら40人が神社の参道を練り歩きました。
「近所にずっと住んでいるが、初めてなのでビックリした」(見学者)
「真田幸村の大ファン。今はやりの“歴女”というか…古いカメラで一生懸命頑張って(撮った)」(見学者)
一方、京都の上賀茂神社では、葵祭のヒロイン「斎王代」が祭りの前に身を清めて無事を祈るみそぎの儀が行われました。
十二単姿の斎王代はおはらいを受けた後、御手洗川に手を浸して儀式がクライマックスを迎えました。
京都三大祭りのトップを飾る葵祭は、今月15日に本番を迎えます。
(05/04 19:48)
722
:
よっさん
:2010/05/05(水) 11:39:54
>>713
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100504-OYT8T00847.htm
商店街に新名物
「のざきまいり」の記念いかが ブックカバーや小銭入れ 10種類
「のざきまいり」で知られる大東市の野崎観音(慈眼寺)への参道にある野崎参道商店街が、同観音にちなんだ絵をあしらった革製品を、近くのカバン製造業者と協力して製作。8日まで行われている「のざきまいり」の参拝客らにPRしたい考えで、関係者らは「新たな名物になれば」と期待している。
同商店街振興組合(吉村悦子理事長)は、「商店街を観音様のまちとして盛り上げたい」と、商店街近くでカバンや財布など革製品を中心に製造する「三晶」(松村文雄社長)が、革製品に金箔(きんぱく)を張り付けるなどの高いプリント技術を誇っていることから、協力を依頼した。
革製品は合皮で、携帯ストラップ(450円)や小銭入れ(880円〜)、ブックカバー(1980円)など計約10種類を製作。
723
:
よっさん
:2010/05/05(水) 11:40:59
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100504-OYT8T00850.htm
だんじり 90年ぶり新調
熊取・小垣内区でお披露目
熊取町小垣内区は、約90年間使ってきただんじりを初めて新調し、4日、入魂式とお披露目の曳行(えいこう)を行った。多くのファンが詰めかけ、勇壮なやり回しとだんじり囃子(ばやし)を楽しんだ。
新しいだんじりは、高さ3メートル80、長さ4メートル20、幅2メートル45、重さ約4・2トンのケヤキ製で、彫刻の意匠は、源平合戦と大坂夏の陣。大屋根の下の左右各8本の扇垂木と、木鼻の獅子がくわえた透かし彫りの玉も見物。これまでのだんじりと比べ、駒の幅が約10センチ広がり、安定性が増したという。
1880年につくられた岸和田市筋海町のだんじりを購入後、改修を繰り返していたが、老朽化が目立つため、2006年5月、岸和田市の工務店に総額1億3500万円で発注した。
根来光昭・小垣内区地車新調委員会会長は「区民の長年の夢がかなった。これで安全に曳行できる」と喜んでいた。
(2010年5月5日 読売新聞)
724
:
よっさん
:2010/05/08(土) 11:01:20
http://www.sankei-kansai.com/2010/05/08/20100508-023614.php
2010年5月 8日
今年は宝恵かご担ぎ手に女性 愛染まつりで「女組」公募
大阪の夏祭りのトップを飾る「愛染(あいぜん)まつり」が6月30日から7月2日、大阪市天王寺区夕陽丘町の四天王寺支院、愛染堂勝鬘(しょうまん)院で開催される。例年あでやかな浴衣姿で活躍する「愛染娘」のほか、今年新たに宝恵(ほえ)かごの担ぎ手「愛染女組」を一般公募し、いっそう祭りムードを盛り上げる。
愛染まつりは、聖徳太子が開いた夏祭りとして知られ、「天神祭」「住吉祭」と並ぶ大阪三大夏祭りの一つ。この口火を切る行事として親しまれ、この時期に浴衣をおろす人が多いことから「浴衣まつり」とも呼ばれている。
「女組」が登場するのは初日のイベント「宝恵かごパレード」。かごに愛染娘を乗せ、「愛染さんじゃ、ほっえっかっご!」の威勢よい掛け声とともに市内を練り歩く。同寺では「お祭りが好きでみこしを担いでみたい人は、ぜひ応募してください」と呼びかけている。
対象は20歳以上の体力に自信のある女性で定員は10人、祭り前の説明会(6月5日)とマスコミ各社広報活動(同17日)に参加できる人。書類選考の後、5月22日に面接を行う。応募締め切りは5月15日。応募方法など問い合わせは愛染堂(電話06・6779・5800)。
725
:
よっさん
:2010/05/08(土) 12:27:51
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100508/20100508029.html
だんじり15台集合 「こんちきちん」一足早い夏
2010年5月8日
府内の各地で使われているだんじり15台が5日、鶴見区緑地公園2丁目の花博記念公園に集まった。花博20周年記念イベントの一環。各地域の保存会や町会のメンバーらも集まり「こんちきちん」と一足早い夏の音色を響かせた。
同区と守口市のだんじりは花博の際に会場をパレードした。その経緯から節目の年にあたることし、鶴見地車保存会(井田勝也会長)が同公園事務所に提案。同会が他の区や市の保存会などに呼び掛け、地域横断の形で実現した。
会場には鶴見区と守口市から13台、生野、平野の各区からそれぞれ1台が一同に会した。夏を思わせる日差しの中、それぞれのだんじりばやしや踊りが演じられ、多くの観客の目を楽しませた。
鶴見区浜3丁目の会社員、田原賢司さん(38)は「15台も一度に並ぶと圧巻。地元以外のだんじりはめったに見ることがなく、新鮮だった」。一緒に来ていた長男の佑基くん(6)も「楽しかった」と興奮していた。
726
:
黒澤主義
:2010/05/08(土) 14:48:44
>>718
今、ニコ動で生放送されてますね。
727
:
よっさん
:2010/05/08(土) 20:57:59
当時の最先端技術の導入が日本の発展の要因の一つであった事は間違いなく、
そしてその最先端技術の導入に於いて『大阪』が果たした役割が極めて大きかった事も間違いない。
そんなニュースです。
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE100508170900347020.shtml
■1300年の時を経て 遣唐使船上海万博に出航
奈良時代に日本と中国を結んだ「遣唐使船」が復元され、上海万博に向けて大阪港を出航しました。
奈良時代、遣唐使が実際に中国と日本を行き来したルートをたどって上海万博の会場を目指す「遣唐使船再現プロジェクト」。
その航海のために復元された遣唐使船は全長30メートル、幅9.6メートルで、鮮やかな朱色で彩られ、絵巻物を参考に竹で編まれた帆や櫂も備えられています。
「すばらしいもんやね。今は機械やけど(当時は)手こぎやったから大変やったやろう」(見物客)
出港式では奈良時代の遣唐使にも安全祈願をしていたという住吉大社の宮司らが当時の様子を再現した清祓式を行いました。
そして遣唐使船に公募で選ばれた20人が当時の衣装姿で乗り込み、ついに櫂を漕いで大阪港を出航です。
しかし、この後遣唐使船はエンジンで瀬戸内海から長崎五島列島まで航海し、その後は貨物船に乗せられ上海を目指します。 (05/08 18:15)
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よっさん
:2010/05/09(日) 11:12:44
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100509-OYT8T00127.htm
「大坂の陣」で大河ドラマを
有志らで要望団体発足
豊臣家が滅びた「大坂の陣」のNHK大河ドラマ放映を実現し、大阪の歴史や文化を再発見しようと、市民有志らでつくる団体「大坂の陣を大河ドラマにする会」が8日、発足した。大坂の陣から400年の節目となる2014、15年のドラマ化を目指す。
大坂城南側の外堀があった現在の空堀商店街(大阪市中央区)で、地域活性化に取り組む「からほり倶楽部」のメンバーが、この合戦を題材にした司馬遼太郎の小説「城塞」をドラマ化できないかと提案したのをきっかけに、06年10月、会の前身団体を設置。合戦ゆかりの地のまち歩きや、合戦で活躍した真田幸村ゆかりの和歌山県九度山町との相互訪問などで、実現に向け機運を高めてきた。
発起人には、作家の藤本義一さんや有栖川有栖さん、タレントのぼんちおさむさん、真田幸村の子孫が名を連ねている。
発会式はこの日、徳川家が陣を張った大阪市天王寺区の一心寺であり、約90人が参加。同倶楽部代表理事で、地元の建築家・六波羅雅一さんが「大坂の陣にはさまざまなドラマがある。市民の手で活動を盛り上げ、大阪の街の活性化につなげたい」とあいさつした。
同会では今後、豊臣秀吉や真田幸村らドラマでの配役のアイデアを、インターネットで募集するという。
(2010年5月9日 読売新聞)
731
:
よっさん
:2010/05/11(火) 00:20:41
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100506-OYO8T00171.htm
大阪・大坂城下町跡
オリーブ油壺が出土…教会儀式か、料理に使用か
大阪市中央区の大坂城下町跡で、オリーブオイルを入れていたとみられる、16世紀末〜17世紀初めの素焼きの壺(つぼ)が、市博物館協会大阪文化財研究所の調査で出土した。スペインか関係の深い地域で作られた後、日本に運ばれ、教会の儀式か南蛮料理に使われていたらしい。同研究所は、江戸幕府による鎖国以前、大坂の町が豊かな国際性を誇っていた様子がうかがえるとしている。
壺は、大坂冬の陣(1614年)の焼土層の下から出土した。口の部分が欠けている以外、ほぼ完全な形で、高さ43センチ、最大径35センチ。底が丸いため立てることができず、側面の一部に傷があることから、ふたをして横に置いていたとみられる。
同様の壺は、1600年にフィリピン沖で沈んだスペイン船「サン・ディエゴ号」内で見つかっており、16〜18世紀、オリーブ油を貯蔵、運搬するために使われていた。日本では、長崎市で見つかった16世紀末〜17世紀初めのキリスト教会跡で2点出土しており、3点目となる。
鎖国以前の豊臣時代、大坂にはスペイン人が訪れ、教会があったとの記録が残されている。同研究所は「スペイン人か、南蛮貿易にかかわった商人がもたらしたのだろう」としている。
壺は大阪歴史博物館(大阪市中央区)で展示中。
松尾信裕・大阪城天守閣館長の話「西欧の宣教師が、ミサや洗礼に不可欠なオリーブ油を入れていたのではないか。儀式だけではなく、天ぷらなどの南蛮料理に使われていた可能性もある」
(2010年5月5日 読売新聞)
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よっさん
:2010/05/11(火) 08:32:41
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/100511/osk1005110300003-n1.htm
小学校講師と双子の大学生が第3弾 絵本で伝える昔の大阪文化
2010.5.11 02:56
子供たちに昔の大阪文化を広く知ってほしいと、大阪市阿倍野区の小学校講師と教え子の双子の大学生が、地元に伝わるなにわ野菜や昔話を題材にした地域絵本づくりを続けている。最近では第3弾として「阿倍野」の由来などを紹介した絵本を出版しており、「地域に少しでも愛着をもってくれたら」と話している。
地域にこだわった絵本づくりを続けているのは小学校講師、志村敏子さん(67)と、京大生の大西美伸さん(19)、立命館大生の祐作さん(19)。
兄弟が通っていた同区の市立苗代小学校で、祐作さんの担任をしていた志村さんが、学芸会で上演した劇の感想画を出演した子供たちに描かせたのが、絵本づくりを始めるきっかけとなった。
子供たちが提出した感想画のなかで、祐作さんだけがすべての場面をていねいに描いていたことから、志村さんが手がけたほかの劇のシナリオについても、絵を描くように兄弟に頼んだ。
兄弟は、中学、高校と進学したあとも、受験勉強の合間を縫って志村さんがつくった物語をもとに絵を描き、「わては天王寺蕪(かぶら)でっせ」(平成17年)と、「大阪なにわ伝統野菜のお・は・な・し」(20年)の2冊の絵本を出版した。
今年3月には、第3弾として「あべの村 むかし話」を発行。阿倍野区の由来や、平安時代の陰陽師(おんみょうじ)、安倍晴明の誕生にまつわる葛(くず)の葉伝説など8話を収録している。
お年寄りが孫をひざにのせて昔話を語る姿を意識して、読み聞かせ調の文体が特徴で、大学生になった大西兄弟が、コンピューターグラフィックスを駆使して絵を描いている。
志村さんは「この絵本を通して、子供たちが阿倍野という地にもっと愛着をもってくれたら」と話している。3人は今後も、淀川のウナギとシジミをテーマにした絵本など、地域に伝わる逸話や歴史に関する絵本を作っていくことにしている。
「あべの村 むかし話」は1260円。問い合わせはユーゴー書店((電)06・6623・2341)。
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よっさん
:2010/05/11(火) 18:52:21
http://kyobashi.keizai.biz/headline/745/
NHKの旅番組「街道てくてく旅 熊野古道をゆく」、八軒家浜をスタート
一流のアスリートが街道をひたすら歩きながら道沿いの人々や歴史に触れ合うNHKの番組「街道てくてく旅」が5月10日、大阪市の八軒家浜(大阪市中央区天満橋京町1)の生中継で始まった。
これまで山陽道や日光街道など日本の歴史ある街道が舞台となったが、今年のテーマは世界遺産「熊野古道」。八軒家浜から熊野本宮大社を経て伊勢神宮までに至る650キロを元プロテニスプレーヤーの森上亜希子さんが春・秋13週間かけて歩く。毎朝8時から15分間の番組では街道沿いの要所から前日の旅の様子を交えて生中継し、番組が終わると次の地点へ向けて歩き始める。
森下さんは大阪市生野区出身。15歳までを大阪で過ごし八軒家浜がある天満橋にも何度も訪れたが「天満橋が熊野古道の出発点だったとは知らなかった。歴史的な場所だということを改めて感じている」。
10日、早朝の八軒家浜は異様な活気に包まれた。森下さんのファンやスポンサー、ジョギング愛好家や地元の人たち、番組に出演する熊野古道や八軒家浜の関係者、NHKの中継スタッフなど総勢400人を超える人が集まった。守口市から歩いて訪れたという60代の男性は「ウオーキング仲間ではみんなが知っているこの番組のスタートに立ち会えるのは貴重な体験」とうれし嬉しそうに語った。
8時ちょうどに生放送が始まり、森上さんが大川から船に乗って八軒家浜船着場に到着すると詰めかけた人たちが拍手と声援で迎えた。番組では、地元で八軒家浜を盛り上げる活動を続ける「北浜東振興町会」によって3月に完成した熊野古道起点の碑も紹介。大歓声の中、森上さんは長い旅の一歩を踏み出した。「こんなに多くの方々に見送られてとてもうれしい。これからどんなことが待っているのかとても楽しみ」と笑顔で次の目的地「住吉」へ向かった。
735
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よっさん
:2010/05/11(火) 18:54:00
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100511ddlk27040369000c.html
情報プラザ:大阪成蹊短期大学/生涯学習講演会「龍馬と弥太郎、そして大坂」 /大阪
6月10日(木)15時、同短大北館300教室(プラムホール、阪急京都線・相川駅下車徒歩5分)。講師は岡田保造・同短大名誉教授。無料。申し込み不要。同短大教育支援センター(06・6829・2630)。
毎日新聞 2010年5月11日 地方版
736
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よっさん
:2010/05/11(火) 20:00:02
http://www.sankei-kansai.com/2010/05/11/20100511-023708.php
2010年5月11日
直木孝次郎さん 著作集全14巻完成 91歳 古代への情熱
古代史研究の第一人者、大阪市立大名誉教授の直木孝次郎さん(91)が、半世紀以上にわたる論文やエッセーをまとめた「直木孝次郎 古代を語る」(吉川弘文館)全14巻を完成させた。邪馬台国から奈良時代までを網羅した研究の“足跡”のすべてだ。平城遷都1300年祭のメーン会場の平城宮跡(奈良市)、難波宮跡(大阪市)の保存運動に取り組んだ実践派の一面もうかがえる。「よく飽きずに古代ばかりやってきた」と語りながら、研究への熱いまなざしは変わらない。
「耳がダメになって、自分が話す言葉も十分聞こえないんです」。3月下旬、大阪市内で開かれた出版記念講演会ではこう切り出し、1時間以上にわたって歴史の奥深さを語った。
31歳で大阪市立大助手になって以来、手がけた論文は800編以上。「まあウソ八百とでもいいますか」と笑うが、日本書紀など文献史料の冷静な分析、発掘成果と合わせた成果は、古代史研究をリードする。
「古代を語る」の編集は、平成19年に3年越しで「額田王(ぬかたのおおきみ)」の研究書を書き上げた直後から始まった。「ああやれやれ。これで最後の仕事(額田王)も終わった」とペンを置いた途端、出版社から企画をもちかけられた。
「目も耳も記憶力も衰えた。ちょっとしんどいなあ」。そう思ったが、歴史ファンに親しみやすい300編近い論文や講演記録を選び、各巻に古代史への思いをつづった「あとがき」を添えて、ほぼ毎月1巻のペースで出し続けた。
直木さんが歴史に興味を持ち始めたのは中学生のころ。当時の日本は、満州事変(昭和6年)を機に戦争へ突き進んでいった。授業中に教師が「中国4千年の歴史を顧みると、よその勢力が攻め込むことは珍しくない。しかし蒙古の元(げん)王朝など最後はみんな追い返された。日本は大丈夫だろうか」と語ったという。「中国進出は国力の発展」と信じていた当時の直木さんは「歴史は広い視野で見ないといけない」と感じ、これが研究の原点になった。
研究者が触れたがらない古墳の被葬者にも踏み込む。極彩色壁画の描かれた高松塚古墳(奈良県明日香村)では天武天皇の子、忍壁(おさかべ)皇子説をいち早く提唱。「墓誌もみつからないのに軽率」と批判されたが、「被葬者論を避けるのは研究の放棄」と反論、「そもそも墓誌があったら被葬者は誰でも分かる」と明快だ。
「歴史研究は推理小説のようなもの。名探偵はコツコツ歩いて資料を集め、真実に迫る努力型の方がいい」と力を込める。
遺跡保存にも全力を傾けた。壮大な第一次大極殿が復原された平城宮跡も、約50年前は鉄道の操車場建設計画があった。保存にむけ、遺跡の重要性を訴え署名活動などを繰り広げた。
「天皇のおられた宮殿跡を壊すのか」。市民の保存への機運の高まりは政府や国会を動かし、遺跡は守られた。1300年祭で連日にぎわう平城宮跡。「家族連れが弁当を広げて楽しむ姿を見ると、あのとき頑張ってよかったと思うんです」と感慨深げに語る。
耳が聞こえにくくなり、日常生活では妻の恵美子さん(84)が“通訳”を務める。「不思議なもので、私の声だと聞こえるんですって」。おしどり夫婦の一面ものぞかせた。
大正8年生まれ、兵庫県出身。京都大卒業後、海軍で予科練教官などを務め終戦。昭和25年に大阪市立大助手、その後教授。退官後は岡山大教授などを歴任。「古代を語る」は1冊2730円(税込み)。
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よっさん
:2010/05/12(水) 13:13:11
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100512-OYT8T00123.htm
崩落 9年かけ回避
柏原・高井田横穴 線刻壁画カビ除去 15日公開
岩盤に掘った横穴の壁面に線状に描かれた「線刻壁画」で知られる、柏原市高井田の国史跡「高井田横穴」(6〜7世紀)が、周辺を覆う樹木の根の侵食などで崩落する恐れがあることから、同市教委が9年がかりで修復作業を行った。15日、樹脂で岩盤を保存したり、カビを除去したりして“化粧直し”した姿が、初めて公開される。
市教委によると、高井田横穴は1917年に発見。これまでに4畳半ほどの大きさの横穴162基が確認され、武器や農具などの副葬品から、6〜7世紀に造られたと見られる。線刻壁画が描かれた横穴は約30基あるが、中でも船に乗った人物が描かれた「ゴンドラに乗る人物」の壁画がよく知られている。近畿で線刻壁画がある横穴は同市内で2か所のみ。
92年、市教委が史跡公園として高井田横穴を管理し始めた際、「ゴンドラに乗る人物」がある横穴の天井がはがれ落ち、壁面にカビも生えていることがわかった。このため、2001年度に専門家らで同横穴の保存検討委員会を設置。原因を検証し、今年3月末までに、樹木を伐採して根の伸長を防いだり、小型送風機でカビを飛ばしたりして対策を講じた。
また、横穴の入り口には壁画のレプリカ二つを新設。照明や階段も新設し、見学しやすくした。
横穴は毎年2回、内部が公開されているが、修復後は15日が初めて。市教委文化財課は「きれいに生まれ変わった壁画を見に来て」としている。午前10時〜午後3時。無料、予約不要。問い合わせは同課(072・976・3430)。
(2010年5月12日 読売新聞)
738
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よっさん
:2010/05/12(水) 19:26:31
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100512ddlk27040356000c.html
ものの始まり・なんでもなにわ:/31 上方落語 /大阪
◇世界に誇れる大阪の財産 生玉さんが発祥の地、彦八の「芸道」を継承
神武東征による創祀(そうし)と伝わる大阪最古の生國魂(いくくにたま)神社(生玉(いくたま)さん、大阪市天王寺区)。江戸時代の中ごろ、境内や門前は芝居小屋や見世物小屋が軒を連ね、芸人たちが芸事を競い合っていた。庶民のにぎわいは、近松門左衛門の「曽根崎心中」にも描かれる。その中にひと際目を引く小屋があり、芸人が演じる「軽口噺(かるくちばなし)」や「しかた物真似(ものまね)」(役者の身振りや声色のまね)が評判を呼んだという。
芸人の名は米沢彦八。「上方落語の祖」とされ、境内には功績を顕彰する「彦八の碑」がある。建立に合わせ発行された冊子「米澤彦八の碑」によると、彦八の噺には現在の落語の原話もあり、明治まで「彦八」が落語家の代名詞だった。神社の権禰宜(ごんねぎ)、中村文隆さん(34)は「上方落語は世界に誇れる大阪の財産。碑が歴史を伝えてくれる」と話す。
碑の建立を強く願ったのが、戦後の上方落語の復興に尽力し、「四天王」と呼ばれた六代目笑福亭松鶴(1918〜1986)だった。思い遂げずに亡くなったが、一門が中心となり五回忌の90年9月5日に除幕。翌年からは上方落語家総出で「彦八まつり」(毎年9月)を開き、その名はさらに広まった。碑文は彦八を称える。
「没して後も、幸にしてその滑稽諧謔の精神は絶ゆることなく多くの名人上手輩出してよくその衣鉢を傳へ、遂に今日の上方落語の隆盛を將來した」
「300年の歴史があります」。4月16日の夜、大阪・千日前のトリイホール。お年寄りに若者も交じる約30人の観客を前に、高座の笑福亭遊喬さん(46)がマクラで語った。師匠が六代目松鶴の弟子。この日は桂こごろうさん(42)、林家染左さん(38)と初の「三人会」を開いた。
舞台には、扇子に加え、上方落語特有の小道具が登場した。演者の前に見台(小さな机)が置かれ、拍子木が鳴る。情景描写のためにおはやしが三味線を弾く「はめもの」も江戸にない。これらは上方落語が境内という戸外で始まり、聴衆をひきつけるため必要だったからこそ生まれた。
トリイホールは道頓堀五座がなくなったミナミで、寄席が楽しめる数少ない場所だ。そのまま上方文化全体の再興を目指す拠点でもある。鳥居学代表(50)は「上方文化は日本の根幹。庶民に近い落語はあったかみがあり、人が人として生きるエッセンスを凝縮した『日本人のアイデンティティー』」と語る。
この日もホールは笑いが絶えなかった。彦八の「芸道」は確実に受け継がれている。【田辺一城】
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「こんななにわの初モノ知ってるでぇ〜」という情報をお待ちしています。ファクス(06・6346・8444)かメール(at−osaka@mainichi.co.jp)で、おおさか支局までお寄せください。
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よっさん
:2010/05/13(木) 09:04:03
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100513-OYT8T00129.htm
http://www.yomiuri.co.jp/zoom/20100513-OYT9I00127.htm
http://www.yomiuri.co.jp/zoom/20100513-OYT9I00128.htm
百舌鳥古墳群まずは国史跡に
堺市教委
世界遺産登録を目指す百舌鳥(もず)・古市古墳群のうち、百舌鳥古墳群について、堺市教委が2009年度までの3年間で、現在残っている47基の半数近い21基を集中的に調査した。10年度も2基を調査する予定。調査成果はこれまでに4冊の報告書にまとめた。豪華な副葬品の発見といった華々しさはないものの、まずは古墳群の国史跡指定に向けて地道な調査が続く。
百舌鳥古墳群は東西、南北各4キロの範囲に112基の古墳があったが、65基が開発などで消滅。残る古墳のうち、いたすけ古墳など7基が国史跡に指定され、仁徳陵古墳など23基を宮内庁が管理。羽曳野、藤井寺両市にある「古市古墳群」が国史跡になっているのに対し、調査が進んでいないことなどから「百舌鳥古墳群」としては未指定だった。
このため、古墳群の範囲を確認するため、07年度から地中レーダー探査や発掘などの調査を開始。調査対象のうち、最大は全長365メートルの前方後円墳・履中陵古墳、最小は直径15メートルの円墳・正楽寺山古墳だった。
調査の結果、全長55メートルの前方後円墳・旗塚古墳では、後円部に葺(ふき)石と埴輪(はにわ)列が残っていることや、南側に張り出した部分「造り出し」があることが判明。仁徳陵古墳や履中陵古墳に付随する陪塚ではなく、5世紀前半〜中頃、地域の首長が築いた可能性が高まった。
また、地形が大きく変わっていて古墳かどうか定かでなかったグワショウ坊古墳は、盛り土の特徴などから、5世紀後半に築かれた長径61メートル、短径58メートルの楕(だ)円(えん)形をした円墳とわかった。
市文化財課は「調査した古墳については、保存すべき範囲の精度が高まり、墳形を見直すべきものがあることもわかってきた。今後も府や文化庁の意見を聞きながら調査を進め、全体の保存、整備を検討したい」としている。
白石太一郎・府立近つ飛鳥博物館長(考古学)の話「仁徳陵古墳などの巨大な天皇陵だけではなく、中小の古墳も含めた百舌鳥古墳群全体が重要だ。古墳群の全貌(ぜんぼう)を明らかにし、現在残っている古墳を守ろうとする堺市の姿勢は高く評価できる。世界遺産登録に向けても非常に大切なことだ」
(2010年5月13日 読売新聞)
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よっさん
:2010/05/13(木) 19:54:50
http://kyobashi.keizai.biz/headline/747/
都島の妖怪譚ツアー―大阪のまち歩きイベント「大阪あそ歩」実施
大阪市内の各所を地元ガイド付きで巡るイベント「大阪あそ歩」で5月11日、都島のツアー「妖怪『ぬえ』が眠るまち・都島〜鬼退治の勇将・渡辺綱伝説から鵺(ぬえ)塚まで〜」が開催された。主催は「大阪あそ歩事務局」(大阪市中央区、TEL 06-6282-5930)。
大阪のまちの物語、ドラマ、面白さを知ってもらいたいという目的で昨年秋よりスタートした同イベント。「大阪はまちがほんまにおもしろい!」をキャッチフレーズに、今年の春は105コースのまち歩きを催行する。「105コースということもあって『平成の浪速百景』と銘打って開催。想像以上の人気で、予約率では100%を超えるほど」(大阪あそ歩アシスタントプロデューサー・陸奥賢さん)。
当日は、地下鉄都島駅をスタートし、都島神社、母恩寺、渡辺綱・駒つなぎの楠、都島和菓子・富久屋、なにわ刷毛・河合、鵺塚などを巡った。「羅生門の鬼退治で有名な勇将・渡辺綱の『駒つなぎの楠』や近衛天皇を苦しめていた鵺(ぬえ)の遺骸が流れ着いたという伝説が残る『鵺塚』など、都島にはミステリアスな物語が眠っている。その摩訶(まか)不思議な都島妖怪譚を巡るまち歩きを構成した」(陸奥さん)。当日の参加者は9人。それぞれがカメラ片手に地元ガイドの説明に耳を傾ける様子がうかがえた。
「歴史や妖怪ものが好きで、この都島ツアーに参加した。歴史的なことから現在の街のことまでいろいろ話を聞きながら散策でき、わたし一人ではなかなか行けないところも回れたのでとても良かった」と、西淀川区から参加した灰谷さん。他エリアのツアーも度々参加している阿倍野区在住の大滝さんは「スポットが駅からも近場で歩きやすかった。今回都島をこうして巡ってみて、全然知らなかったところもいろいろあるんだなと感じた」と感想を述べた。
「知っているようで知らないのが自分のまち。大阪のまちの面白さを多くの方に知ってもらいたい」と陸奥さん。「今後もコースは増えていく予定。今は春と秋を中心に催行しているが、通年化を模索したいと思っている」とも。今月18日には毛馬コース「水の底に消えた蕪村のふるさと・毛馬村〜春風や 堤長うして 家遠し〜」、同24日には網島コース「悪所くるひの身の果ては、南無網島の大長寺〜『心中天の網島』の舞台を歩く〜」を予定。
参加費は1,000円(コースによっては1,500円、2,000円などもあり)、所要時間=2〜3時間(コース内容により異なる)。定員15人。
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よっさん
:2010/05/13(木) 20:02:32
http://www.kentsu.co.jp/osaka/news/p01309.html
■ 【大阪】文化財の愛珠幼稚園を耐震診断(5/13)
■ 大阪市は、幼稚園の園舎として日本初の国重要文化財に指定されている、愛珠幼稚園の耐震改修を計画。本年度に耐震診断などを行い、この結果を基に文化庁と改修方法などについて協議する予定だ。
同幼稚園は1880年6月1日の開園。現在の園舎は1901年3月の完成で、木造平屋800㎡。現存する幼稚園園舎としては日本最古。御殿風の和風建築物で、敷地周囲の高塀、高い天井高、園庭と遊戯室との間に段差を設けていないなどの特徴がある。
1999年11月に大阪市指定有形文化財第1号に指定された。2007年には、岡山市の市立旭東幼稚園旧園舎とともに、幼稚園の園舎として日本で初めて国の重要文化財に指定された。
所在地は大阪市中央区今橋3−1−11。淀屋橋の南方、船場のオフィス街の中に位置し、適塾跡に隣接している。
100年以上が経過している木造建築物は使われている部材のどの部分で、接ぎ木されているかなどにより建物の強度が変わるため、耐震診断自体が困難。また、重要文化財であるため、施工でも細心の注意が必要となる。本年度委託する耐震診断には構造調整と基本計画を含み、これを基に文化庁と地震時の安全確保などの方法をすり合わせる。調整がつけば、2011年度に実施設計を行う見通し。
大阪市立の幼稚園で木造校舎は愛珠幼稚園のほかに大江幼稚園(大阪市天王寺区四天王寺1−11−108、木造平屋588㎡)がある。09年度に耐震診断を実施済み。10年度は実施設計を作成し、順調なら11年度に着工する見通し。
(2010/5/13)
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よっさん
:2010/05/13(木) 20:11:58
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100513ddlk27070387000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/164 幣原喜重郎 /大阪
◆門真市
◇強圧外交に立ち向かい−−昭和史彩るキーパーソン
幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)といっても、ピンとこない方が多いと思うが、昭和史のある時期のキーパーソンだった。その足跡を振り返っておこう。少々、歴史の教科書っぽくなるが、ご勘弁を。
1872(明治5)年に門真村に生まれた喜重郎は、1880(明治13)年、当時、日本唯一の官立中学だった大阪中学校に入学。のちに首相となる浜口雄幸と首席を争った。東京帝大を卒業後、外務省に勤務。ロンドン総領事館時代に、自信のあった英語が通じないのにショックを受けて猛
勉強し、外務省一とうたわれた英語力をわがものとした。
31歳の時、三菱財閥の岩崎雅子と結婚。政財界の閨閥(けいばつ)に連なることになる。
喜重郎が外交官を務めたのは、戦争の時代だった。第一次大戦時はヨーロッパ在勤で、敵であるドイツの情報収集に功績を上げた。日本はドイツ領の中国・山東半島に出兵。加藤高明外相は、日本の権益拡大を求める「対華21カ条要求」を中国に突きつけた。
中国では反日機運が高まるのだが、この時、オランダ公使だった喜重郎は、同じ三菱の閨閥に連なる義兄で上司の加藤外相に、反対意見書を打電した。身過ぎ世過ぎにきゅうきゅうとするような人物ではなかったことが、よくわかる逸話だ。
1915(大正4)年、外務次官となるが、ロシア革命に干渉するシベリア出兵にも反対した。軍部が発言権を増し、イケイケドンドンの風潮に、公然と異を唱えたところに、この人の真骨頂があるように思える。
五百旗頭真(いおきべまこと)・防衛大校長は、その著書「占領期 首相たちの新日本」で、「彼は『正当な国益』追求を、武力行使や強圧外交ではなく経済的手段に見いだす。そこには大阪人としての実際感覚が生き続けていると見てよいであろう」と論じている。
軍縮などを目的とした1921(大正10)年のワシントン会議に、駐米大使だった喜重郎は全権として出席。腎臓結石で倒れながらも、病床から起草した案が行き詰まった交渉を進展させたという。この会議では、対華21カ条要求の一部放棄やシベリア撤兵など、喜重郎が反対した日本の強圧外交や武力行使にタガがはめられた。
◇国益追求、経済的手段に 「大阪人の実際感覚」
1924(大正13)年、外務大臣に就任。外交演説で「中国の内政に干渉せず」と言明し、米英との協調外交を推し進めた。また、日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立した
張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件など、満州(中国東北部)で関東軍が暴走を始め、そのあとに首相に任命された浜口雄幸は、かつての級友、喜重郎を外相に起用。1930(昭和5)年、対中関係改善のため、中国の関税自主権を認め、一方、ロンドン海軍軍縮条約を成立させ、軍部や右翼から「軟弱外交」と批判にさらされた。
その後の日本が、軍部独走で戦争に突っ走り、世論も新聞も同調したのは歴史が示す通り。そんな、あらがいがたい風潮に立ち向かったのだ。なにかにつけて「国益」が幅をきかす今の世を思うに付け、本当の国益とは何かを考えさせられる。
1931(昭和6)年に満州事変が勃発(ぼっぱつ)。若槻内閣が崩壊し、喜重郎は隠せいする。前掲の「占領期」によると、1941(昭和16)年7月、戦争に突入しようとする時期に、喜重郎は請われて近衛文麿首相に会い、戦争回避を直言した。
戦中、軍部の恨みを買った喜重郎には、憲兵の監視がついたという。喜重郎が再び、表舞台に出るのは、戦争が終わってからだった。【松井宏員】
◇
「わが町にも歴史あり」でおなじみの大阪案内人、西俣稔さんが講師を務める毎日文化センターの講座「古地図で散歩する大阪」が5月23日に開講、受講生を募集している。
毎月第4日曜に大阪の街を歩く。テーマは「船場の近代建築と江戸の風景」(大阪市中央区)▽「コリアタウンと明治の集落」(生野区)▽「京街道を歩く」(守口市、旭区)▽「沖縄文化と新田開発」(大正区)−−など。
10月までの計6回。受講料は9650円。申し込みは毎日文化センター(06・6346・8700)。
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よっさん
:2010/05/15(土) 12:18:30
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100514ddlk27070484000c.html
まなびやの宝:/5 与謝野晶子詩碑 府立泉陽高校(堺市) /大阪
◇卒業してから感激実感
府立泉陽高校(堺市堺区車之町東3丁)の中庭には、堺市出身の歌人、与謝野晶子(1878〜1942年)の詩碑がある。晶子は泉陽高校の前身・堺女学校を卒業した。
<あゝ をとうとよ 君を 泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし 君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや>
71年10月、詩碑の除幕式があった。泉陽高校の90周年記念誌によると、詩碑の建立は必ずしも賛同の声ばかりではなかったという。特に晶子の象徴といわれ、詩碑に刻まれた「君死にたまふことなかれ」に対し、当時は「あんな反戦の詩を校庭の碑に刻むとは何事だ」という批判もあり、「碑は建たないかもしれない」といううわさも流れた。
反発もあった中で、学校と同窓会員による実行委員会が、卒業生から募金を集めて完成させた。詩碑を建てる運動に参加した当時のメンバーは記念誌で「碑文に反対した人々も、今は晶子顕彰のために活躍しておられるのを見ると、感慨無量である。時代の流れをつくづく思う」と振り返っている。
泉陽高校の歴史は、堺市の開口神社内で1874(明治7)年に始まった。堺女学校を経て、堺高等女学校になった1900(同33)年を創立の年にしている。詩碑建立は創立70周年の記念事業でもあった。1945年、空襲で校舎が全焼。戦後、48年に男女共学の泉陽高校となった。卒業生には脚本家の橋田寿賀子さん、女優の沢口靖子さんもいる。
現在も校長室に、晶子の写真や油絵が飾られている。千木良(ちぎら)孝志校長は「在学中以上に卒業してからが、晶子を輩出した学校で青春を送ったという感激を実感できるのではないか」と話している。【山田英之】
744
:
よっさん
:2010/05/16(日) 10:50:23
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100516-OYT8T00119.htm
考古学者と建築家 大阪テーマに講演
府立近つ飛鳥博物館(河南町)の講演会「大阪の古代と未来を語る」(読売新聞大阪本社など後援)が15日、大阪市中央区の大阪会館で開かれた。建築家の安藤忠雄さんと考古学者の白石太一郎・同博物館長という“異色”の組み合わせによる講演と対談に、約600人が熱心に聞き入った。
白石館長は「日本古代の文明開化は大阪から」と題して講演。「4世紀末から6世紀、大阪には朝鮮半島や中国から先進的な文物が入ってきた。それが、大阪平野の勢力が王権を掌握することにつながった」と話した。
安藤さんは「場所の力と考える力」との題で、「好奇心があれば、自分たちの手で自分たちの町をつくれる。経済の発展より、文化を守ることを考えるべきだ」と強調した。
対談では、港や川とともに発展してきた大阪の歴史を踏まえ、将来像について活発に意見が交わされた。
(2010年5月16日 読売新聞)
745
:
よっさん
:2010/05/16(日) 21:50:50
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100516ddlk27040206000c.html
出版:絵本「東住吉物語」 地域に興味持って 伝承や昔話など発掘 /大阪
◇筒井さんら自費で
大阪市東住吉区にあった古い街道や寺社、川、集落とそれにまつわる伝承や昔話などを掘り起こし、12の逸話にまとめた絵本「東住吉物語」が、自費出版された。同区の歴史に関心を持っていた人たちが集まり、執筆したり挿絵を描いた。子どものころから区内に住む元小学校長の筒井由美子さん(62)=同区鷹合2=は「子どもたちが地域に興味を持つきっかけになれば」と話している。
万葉集に歌われた息長川(おきなががわ)とも推測されている今川▽昭和初期には子どもたちの肝試しがよく行われた墓地に残る怪談▽江戸時代に建立され、今は合格祈願に訪れる受験生もいる「杭全(くまた)法界地蔵尊」−−など、街とそこに住んだ人たちの暮らしが浮かぶ話題が取り上げられている。
筒井さんらは長年、区内のあちこちを訪ねたり、史料を読んで、区内の「伝えたいこと、残したいもの」を発掘し、東住吉区のホームページに「100物語」を掲載。絵本は、その際登場したテーマの一部に、新たなものも加えて執筆された。
13ページ。初版として300部を印刷。社会科の教材や、各地域での子どもたちへの読み聞かせ活動に活用してほしいと、区内の小中学校などに配布している。一部500円で販売もしている。問い合わせは筒井由美子さん(06・6698・8728)。【望月佑香】
746
:
よっさん
:2010/05/18(火) 21:23:01
http://www.sankei-kansai.com/2010/05/18/20100518-023981.php
2010年5月18日
与謝野晶子と夫・鉄幹を顕彰 歌人の生き方 今に伝えて
堺出身の歌人、与謝野晶子の命日(5月29日)に合わせ、晶子とその夫、鉄幹を顕彰する「晶子フォーラム2010」が今月から6月にかけて、堺市内の各所で開かれている。コンサートや講演会、歌碑巡り、文学講座など多彩に行われ、晶子の生き方を今に伝える。
晶子は明治11年、現在の堺区甲斐町の和菓子商「駿河屋」の三女として生まれ、近代日本を代表する歌人として活躍した。フォーラムは、晶子の女性として自立した生き方や作品を今に伝えようと毎年開催。市などで作る「与謝野晶子倶楽部」が中心になって行っている。
30日には堺市立東文化会館文化ホール(東区)で、「うたと記念講演」として代表作「君死にたまふことなかれ」を歌詞にした合唱曲などを、大阪府立泉陽高校音楽部や市内のコーラスグループが披露。また、記念講演として、歌人で京都大名誉教授の永田和宏さんと、長女で歌人の永田紅さんが「近代・現代の恋の歌」をテーマに語る。
命日の29日には、住職が晶子と鉄幹を引き合わせたという覚応寺(堺区)で、2人をしのぶ「白桜忌」が開かれ、バイオリンなどの合奏や市立与謝野晶子文芸館学芸員による講演が開かれる。
6月2日には、晶子の歌碑を巡る文学ツアーを実施。堺市立文化館ギャラリー(堺区)では28〜30日まで、晶子をテーマにした書道や絵画、生け花などを展示する。
問い合わせは、与謝野晶子倶楽部事務局(電話072・228・7143)。
747
:
よっさん
:2010/05/19(水) 20:45:09
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100519ddlk27040505000c.html
ものの始まり・なんでもなにわ:/32 屋上ビアガーデン /大阪
◇大阪で生まれた夏の風物詩
◇景観よく食事付で飲み放題 時代に合わせた楽しみ方を
5月に入って汗ばむ陽気の日も増えてきた。冷えたビールがおいしい季節だ。夏の風物詩と言えば、屋上ビアガーデン。大阪市内でも既に数店舗が営業を開始、仕事帰りのサラリーマンらでにぎわう。湿気の多い地上を離れ、ビルの屋上でジョッキを傾ける。そんな粋なアイデアは大阪で生まれた。
大阪駅前にあった旧大阪第一生命ビル。1953年、地下のビアレストラン「ニュートーキョー」の故・黒須定七店長の元にホンダの社員から「店を3日間貸し切りたい」と依頼があった。新車のオートバイを宣伝するため、近畿一円の販売店主を展示会に招待して飲食をふるまうという。
招待客は1日約500人。しかし、黒須店長は「毎日来てくれるお客さんをのけ者にしてまで、もうけるわけにはいかない」と断った。ホンダの社員も引き下がらない。「交通の便がよくて、見栄えがし、食事と飲み物を出せるのはここしかない。ぜひ頼む」。そこで、黒須店長の頭に浮かんだのが、300坪あった屋上の利用だった。
屋上のエレベーター塔から四方に線を張って、ちょうちんを付け、約300席の椅子を借りた。同年5月25日、12階建ての屋上での展示会が始まった。黒須店長が後年出版した著作「憶い出の記」(私家版)でつづる。「自転車屋の主人達が、一度十二階の屋上に上って見ようと来たわ来たわ、わんさと来た。食事付で生ビールの飲み放題と云う結構な招待に、行かねば末代迄(まで)の損といったあんばいで、皆満足して帰って行った」。日本初の屋上ビアガーデンだった。
3日間の展示会は終えたが、翌日、うわさを聞きつけた市民が「屋上でビールを飲ませろ」と殺到。その後もしばらくは営業が続いたという。黒須店長は「扇風機にかじり付き生温かい風に当たって仕事をして居た当時の人々には、屋上で天然の風にふかれ、冷たいビールで喉(のど)を潤す事が、どんなに楽しかったか想像に余り有る」と記す。
翌54年、同ビルで屋上ビアガーデンが正式開店すると、流行は瞬く間に広がった。60〜70年代には、大阪市内に10店舗近くが乱立。58年に開店した阪神百貨店の屋上ビアガーデンの支配人、市川茂樹さん(57)は「当時は生ビールが飲める店も少なく、週末には1000席が満員。大ジョッキを一気に飲み干すのが男の誇りという時代でした」と話す。当時は両手で持つ1800CCのジョッキがあり、1日で約6000リットルのビールが出たという。特設ステージでは河内音頭や阿波踊りが披露され、酔客も一緒に踊った。
80年代に入ると人気にもかげりが出た。第1号の「ニュートーキョー」も85年に営業を終了。市川さんは「周りに高いビルが出来て、開放感がなくなった」と話す。最近は女性客向けにカクテルやケーキを出す店も増えた。阪神百貨店では89年から野球中継の放映を始めた。阪神タイガースの法被姿でメガホン片手にジョッキを傾ける客。屋上ビアガーデンの風景も変わったが、市川さんは「時代に合わせた楽しみ方をしてくれれば」と今日も屋上で客を待つ。【遠藤孝康】
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「こんななにわの初モノ知ってるでぇ〜」という情報をお待ちしています。ファクス(06・6346・8444)かメール(at−osaka@mainichi.co.jp)で、おおさか支局までお寄せください。
748
:
よっさん
:2010/05/20(木) 21:24:34
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100520ddlk27070391000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/165 幣原兄弟 /大阪
◆門真市
■弟・喜重郎
◇73歳“過去の人”に首班指名
◇民主化改革や憲法草案、「野に叫ぶ国民の意思」胸に
幣原喜重郎内閣は、皇族内閣の東久邇(ひがしくに)内閣の後を受けて、1945(昭和20)年10月に発足した。五百旗頭真・防衛大校長は著書「占領期 首相たちの新日本」で、組閣の大命が下った喜重郎を囲んだ新聞記者の中に、「まだ生きていたのか」と口をすべらせる者もいた、というエピソードを紹介し、「忘れ去られた過去の人になり果てていたのである」と記している。
その「過去の人」を引っ張り出したのは、外務省の後輩にあたる吉田茂外相だった。東久邇内閣の後継首班を打診された吉田は、これを断り、喜重郎を推薦。自身が説得に乗り出すが、73歳の喜重郎は応じない。最後は天皇との会談で、心を決めるに至る。
こうして誕生した幣原内閣を待ち構えていたのは、GHQ(連合国軍総司令部)が矢継ぎ早に打ち出す民主化改革の実行だった。公職追放や婦人参政権を認める選挙法改正、労働組合法などなど。
46年の元日に出た天皇が現人神(あらひとがみ)であることを否定した「人間宣言」は、喜重郎が英文で起草した。これで心身ともに疲労したのか、急性肺炎にかかって伏せることになる。前掲の「占領期」は、平和主義を打ち出していることに注目している。
この内閣の最も大きな仕事は、憲法改正案を作ることだった。同書によれば、46年1月24日のマッカーサーとの会談で、喜重郎が侵略戦争放棄の立場を表明し、天皇制維持で合意したという。憲法9条の精神は、この会談が大いに関係しているといえる。
幣原内閣を語るとき、必ず引用されるのが「野に叫ぶ声」だ。45年8月15日、玉音放送後に喜重郎は電車内でこんな光景に出くわした。若い男が突然の無条件降伏に「自分たちは目隠しされてと殺場に追い込まれる牛のような目に遭わされた」と泣き叫び、乗客たちもうなずいていた。喜重郎は感激し、「野に叫ぶ国民の意思」の実現を決意した、という。私心のない人柄をよく表わしていると言えるだろう。
幣原内閣は約半年の短命で終わったが、喜重郎はその後、吉田内閣で国務相を務め、新憲法の公布を見届ける。新憲法の下で行われた総選挙に大阪から出馬し、衆議院議長も務めた。もっとも東京に居住しており、大阪には戻らなかった。51年、在職中に80歳で死去した。
門真市立歴史資料館には、幣原兄弟の展示コーナーがあり、喜重郎が愛用したステッキなどが並ぶ。パネルには、憲法草案は兄坦(たいら)の協力も得たとある。「9条の会」の関係者が見学に来るという。
■兄・坦
◇枢密院・最後の顧問官
一方の坦は歴史学者で教育者だった。明治時代に韓国の要請で、新設中学に「お雇い教師」として務めた。琉球文化に関心を抱き、「南島沿革史論」などを著している。
韓国から帰国後、学事を視察する部省視学官や東京帝大教授を兼任。講座開設の準備に欧米各国に派遣された。1920(大正20)年文部省図書局長時代には米英独などに半年、留学した。弟が外交官なら、兄も早くから世界に目を向けた国際派だったわけだ。
1928(昭和3)年、設立された台北帝国大の総長に就任。戦中には南洋や中国で活動する青年を育成する大東亜錬成院の院長を務めたが、運営について軍部とそりが合わずに辞任している。このあたり、兄弟共に「長いものに巻かれろ」とは対極にあった。
大戦後は枢密顧問官に任ぜられる。枢密院は天皇の諮問機関で、大日本帝国憲法下の「憲法の番人」だった。新憲法発布で廃止される1947年5月2日まで、「天皇機関説」の美濃部達吉らと「最後の顧問官」を務めた。兄弟ともに憲法に深いかかわりがあったのだ。53年、門真で84歳で死去。
歴史資料館には、かつて小学校に掲げられていた「得力處」の額がある。「力を得るところ」と読む。知の人だった坦らしい書だ。【松井宏員】
749
:
よっさん
:2010/05/21(金) 09:28:05
http://www.sankei-kansai.com/2010/05/21/20100521-024098.php
2010年5月21日
【ウェーブ産経】古い歴史を堪能 会員ら堺のまちめぐり
堺市堺区に残る老舗や古刹(こさつ)を訪ね、街に息づく文化に触れるウェーブ産経の催しが20日、開かれた。会員44人は“八方にらみ”といわれる龍の天井画(南宗寺)を鑑賞した=写真。イベントは21、22、24各日も行われる。
市の春季文化財特別公開(20〜24日)に合わせた催しで、会員らは観光ボランティアガイドの新野充枝さんと金銅京子さんの案内で、ともに明治期創業の線香店「薫主堂」と刃物工房「水野鍛錬所」を巡った。
阪堺電車で移動した会員は、大安寺にある重要文化財で17世紀の狩野派の作とされる障壁画や、枯れ山水が美しい庭園を見学。南宗寺では、天井画のほか、再建された千利休の茶室などを見て回った。
750
:
黒澤主義
:2010/05/21(金) 20:01:11
大阪・堺で伝統染めの見学会 関西ファッション連合が初めて実施
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/100521/osk1005210214000-n1.htm
江戸時代から伝わる大阪の伝統的型染技術「注染(ちゅうせん)・和晒(わざらし)」の認知度アップを目指し、「注染・和晒デザイン画コンテスト」を主催する関西ファッション連合(大阪市中央区)は20日、産地の堺市津久野・毛穴(けな)地区で和晒、注染、整理工程の工場見学会を初めて行った。
注染・和晒は、特殊なノリで防染した布地に染料を注ぎ込み、模様の部分だけを必要な色に染める型染めの一種。主として手加工で、手ぬぐいや浴衣、ふきんなどが生産されている。
参加したのは、和裁を学ぶ藤影きもの専門学校(奈良市西大寺)の学生ら15人。各工場で和晒や注染、しわのばしなどの工程や技法を見学した。
同校の三柴麻祐さん(19)は「生地に防染ノリを土手のようにひいて、色が混ざらないよう染料を注いでいるのを見て、注染の醍醐(だいご)味を実感した」と話した。
同連合では、新たな着物文化の発信をと6年前にコンテストをスタート。5年ぶりに開かれた昨年のコンテストでは84点の応募があるなど大きな反響を呼び、「今年は注染の技法と和晒について理解したうえで応募してほしい」と見学会を企画した。
7月21日、8月4日にも無料見学会を予定(定員10人、先着順)。参加申し込みと、今年のコンテスト募集要項についての問い合わせは同連合((電)06・6228・6525)。
(msn産経ニュース 2010年5月21日)
751
:
よっさん
:2010/05/22(土) 10:14:56
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100522-OYT8T00110.htm
住吉大社の蔵書 9年ぶり虫干し
住吉大社(大阪市住吉区)で21日、江戸時代から保管している本を虫干しする作業が9年ぶりに行われ=写真=、境内に敷いたござに「大日本史」や「日本書紀」などの版本約1000冊が並べられた。
「文学の神様」としても信仰される住吉大社は享保8年(1723年)、大坂や京都などの書店が初版本を奉納する「住吉御文庫(おぶんこ)」を造り、300年近く約5万冊の貴重な本を守り続けている。約30年前に空調設備の整った近くの建物に移したが、「大阪最古の図書館」といわれる。
この日は、在阪の出版社関係者25人が、ほこりをはたきで払いながら、興味深そうに和とじ本をめくっていた。
(2010年5月22日 読売新聞)
752
:
よっさん
:2010/05/22(土) 11:05:58
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100521ddlk27070334000c.html
まなびやの宝:/6 「庄内式土器」出土 豊中市立庄内小学校 /大阪
◇いにしえのロマンと謎
阪急宝塚線庄内駅から南西約500メートルに、考古学ファンのひそかな巡礼スポットがある。女王卑弥呼(ひみこ)と同じ時代に作られた「庄内式土器」が初めて出土した豊中市立庄内小学校(豊中市庄内幸町4)。グラウンド南端の案内板が、いにしえのロマンを伝える。
同校は1878年、現在地の数百メートル北東に創立。ところが1934年、3000人超の死者・行方不明者が出た室戸台風で校舎が倒壊し、今の敷地に移ることに。新校舎建造のため掘った池から古い焼き物や破片が数十点も見つかったのだ。その後周辺も発掘され、南北500メートル、東西700メートルの範囲に弥生−平安時代の集落があったと判明した。名付けて庄内遺跡。
見つかった中でも特徴的なのが、底のとがった暗褐色のかめ。65年には弥生末期−古墳時代初期に作られたと分かり、河内地方で大量に見つかった同時代のつぼや杯と共に「庄内式土器」と命名された。主に西日本で分布。豊中市教育委員会文化財保護係の陣内(じんのうち)高志主査(36)は「古墳で出土した時、築造年代の特定に役立つ可能性がある」と重要性を説く。
米などを炊く時に使われたようで、幾筋もの細い溝が入った木のへらで表面をたたき整えた跡も。厚みが弥生土器の半分未満の1〜2ミリなのは火の通りを良くするためと考えられているが、現代技術では復元できない薄さ。「どう作ったか謎です」と陣内さん。
出土品は東京国立博物館で展示されているため、同校では地元市民らから贈られたレプリカを披露。陣内さんら学芸員による出前授業で各年代の土器を触り比べたり、弥生時代の遺跡を毎年見学。昨年度は庄内式土器づくりにも挑戦し、古代の魅力に親しんでいる。同校出身でもある若菜昌一校長(56)は、「愛着のある名前が付いた、学校と地域の財産。土器祭りのようなイベントも企画したい」と意気込んでいる。【林田七恵】
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:
よっさん
:2010/05/23(日) 10:28:45
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/100521/20100521038.html
緒方洪庵生誕200年に寄せて
その4 維新を生き抜いた洪庵の志
江戸時代、大坂は“天下の台所”と称された。天保年間(1830〜43年)には125の藩のほかに小藩や大名以外も含めると600近くはあったといわれる蔵屋敷が、大量の年貢米や特産品を換金するために大坂に運び込み、売り買いし、全国の消費地に輸送される一大物流・金融拠点として大いに賑(にぎ)わい、米の取引所・堂島米会所では世界初の先物取引市場が開設されていた。蔵屋敷内には米や特産品を納める蔵や、事務所、詰役の宿舎に、藩によっては国元の土佐稲荷(いなり)や水天宮などを分社し祀(まつ)っていた。
蔵屋敷の運営は、各藩から派遣された武士である蔵役人と、立入人と呼ばれる商人たちにより構成。蔵役人は蔵屋敷の管理を担当し、留守居は商人との交渉の総責任者であった。
緒方洪庵の父、備中国足守藩下級藩士・佐伯瀬左衛門惟因も蔵屋敷の留守居役の任を命じられ、元服した16歳の息子洪庵を連れて大坂に足を踏み入れている。
後に適塾の塾頭となる一万円札の肖像画として有名な福澤諭吉は堂島浜(現大阪市福島区福島1丁目)にあった豊前国中津藩蔵屋敷の勘定方勤番で、下級藩士・福澤百助の次男として大坂で産声を上げたが1歳6カ月の時父の死去により帰郷。母が大坂風の暮らしを好み兄弟共に大坂弁をしゃべるのだから、中津での幼い日々は随分と窮屈で退屈なものだったらしい。
諭吉は、19歳で長崎に遊学し翌年西洋砲術を学ぶためと江戸行きを企て、道中亡父と同様に大坂の中津藩蔵屋敷に勤めていた兄に挨拶(あいさつ)に行く。兄から蘭学を学ぶなら大坂に緒方洪庵先生の適塾があるからと説得され江戸行きを断念、蔵屋敷に居候しながら学ぶことになる。
緒方洪庵も福澤諭吉も、天下の台所を支えた蔵屋敷が「縁」で大坂を舞台に活躍することになる。そして、医師・蘭学者としての緒方洪庵の名声も驚異の蔵屋敷情報ネットワークによって全国に広まり、多くの塾生が適塾を目指して大坂にやってきた。
幕末、廃藩置県によって蔵屋敷は新政府によって接収されたため、蔵屋敷に出入りしていた大坂の豪商の多くが各藩からの債権を回収することができなくなり破産。「天下の台所」と称された大坂の賑わいは終わりを告げ、堂島・中之島を中心に白壁の蔵屋敷が立ち並び、入船出船の往来が絶えることがなかった水辺の風景は、大坂の人々の記憶から消えていった。
大阪市立美術館の南門として天王寺公園内に移築されている福岡黒田藩の「蔵屋敷長屋門」のみが天下の台所の面影を今に伝える数少ない遺構として往時を語るばかりである。
緒方洪庵は、幕府の奥医師兼西洋医学所頭取として江戸にて54歳で急死。適塾に集った塾生も、帰郷して藩医として仕えていた者は幕末にその地位を失い軍医に転身するなど新しい職を求め、大半は家業を継いで各地の町や村の医者として師の「世の為(ため)、人の為、道の為」の薫陶を胸に地域医療に専念。塾生たちとともに洪庵の志は、明治維新を生き抜くことになる。
(はらだ・あきこ 大阪府八尾市)
754
:
黒澤主義
:2010/05/24(月) 18:37:46
【龍馬を慕(おも)う】(8)大坂・天保山 河口の先に「夢」見えた
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100523/acd1005230828004-n1.htm
安治(あじ)川河口に立った。風がきつい。かつては大阪湾を一望にできたが、いまはあちこちに人工島ができて、視界をせまくふさいでいる。南のほうの人工島は咲洲(さきしま)である。
その咲洲に高層のビルが、うすあおく浮かんでいる。大阪府の知事が府庁を移転するんだと叫び、全国的にも有名になったWTC(ワールドトレードセンター)である。巨大な墓標のように見えてしまうのは、知事の「夢」が咲きそうにもないからかもしれない。
あたりを天保山(てんぽうざん)という。ちかくの天保山公園の中にある山の名前である。標高4・53メートルで、国土地理院にも登録されたリッパな「山」である。
■浪速っ子の観光名所
江戸初期、河口は大阪市中に入る廻船(かいせん)の出入り口になっていた。だが土砂が堆積(たいせき)し、浅瀬になってしまったため、天保期に大規模な浚渫(しゅんせつ)工事が行われた。浚(さら)った土砂を積んでできたのが天保山である。
当時は高さ18メートル、周囲200メートルというから、リッパな山であった。大阪湾を一望できたため、茶屋などもならび、浪速っ子の観光名所にもなった。
19歳の坂本龍馬を乗せた船が天保山沖についたのは、嘉永6(1853)年春である。当時は港もできていなかったから、艀舟(はしけ)で安治川河口まで行き、川舟に乗り換えた。三角の形をした天保山も、遠望できたはずである。
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』では、龍馬は土佐藩の家老の娘が乗る「三つ葉柏(ばがしわ)」の藩旗をつけた川舟に便乗した。そのコースは、次のように描かれている。
「舟は、いったん尻無川の川口へまわって北上し、九条村中洲の松の岬をまわって木津川(きづがわ)に入る」
まちがっている−−と、現在の大阪の人なら思うかもしれないが、これで正しい。
現在は尻無(しりなし)川は道頓堀川から大阪湾に注ぐ川になっているが、当時はこのコースで流れていたのである。やがて舟は東に折れて「せまい運河」に入ると続くが、この運河が長堀川である。
『竜馬がゆく』を執筆していたころ、司馬は長堀川沿いにある公団西長堀団地に住んでいた。昭和33年建設の11階建て、263戸の高層建築であった。当時、市内にはこんな大きな集合住宅はなく、「マンモスアパート」と呼ばれた。
司馬は団地の屋上から、大阪港から天保山〜安治川〜木津川一帯を遠望したのではないだろうか。長堀川は執筆中の昭和39年まで、埋め立てられていなかった。
維新の激動期に入ると、龍馬は土佐や長崎、下関、兵庫などから、なんども船で天保山に来ている。対岸の神戸村には、勝海舟が設立し、龍馬もそのメンバーであった神戸海軍操練所もできた。
当時、英国や米国、仏国の艦隊も回航し、関西ではもっとも重要な港となった。と同時に、維新の終焉(しゅうえん)の場ともなった。
755
:
黒澤主義
:2010/05/24(月) 18:38:21
>>754
■将軍、みじめな逃避行
慶応4(1868)年1月3日、薩長を中心とする新政府軍と幕府軍とのあいだで、鳥羽・伏見戦争が勃発(ぼっぱつ)した。第15代将軍、徳川慶喜はすでに朝廷に対して大政奉還を行っていたから、薩長としては武力倒幕の理由がオモテ向きには、見あたらなかった。
だが幕府軍の方が仕掛けた。偶発的な要素が多く、戦略も戦術にも欠けていた。それだけに、戦(いくさ)の一報を聞いた西郷隆盛は、
「鳥羽一発の砲声は、百万の身方を得たるよりも嬉しかりし」
と喜んだという。薩長は平和革命などを目指していなかった。
4日間の戦で敗退した幕軍は大坂城を中心に、再戦にのぞむ方針だった。だが総大将の慶喜は、城からの脱走を試みる。
6日午後9時ころ、と推定される。わずかの部下らをひきつれ、城の裏門から出た慶喜は八軒家浜(大阪市中央区)から、川舟にのり、土佐堀川から木津川、尻無川を経て、安治川から天保山沖に出た。龍馬が大坂入りしたのとは逆のコースである。
天保山沖周辺には、幕府艦5隻のほか、米、英、仏の軍艦も停泊していた。目指す幕府艦「開陽」が見つからず、ちかくの米国艦に頼みこみ、乗船を許された。翌朝、「開陽」に乗り移り、一路、江戸に向かった。
この慶喜の逃避行で、維新の回天は、その「回転」を実質的には止めたといっていいであろう。
19歳の龍馬がはじめて天保山に着いてから、ちょうど15年後のことであった。若い龍馬は狭隘(きょうあい)な尊王攘夷思想から、やがて開国維新に目覚め、幕府の打倒を目指した。だが、この「最後の将軍」のみじめな逃避行を、龍馬が知ることはできなかった。(文 福嶋敏雄)
◇
≪メモ≫
大坂という地名は15世紀後半、本願寺8世・蓮如の手紙に初めて出てくる。蓮如が築いた「大坂(石山)本願寺」は、豊臣秀吉の大坂城として引き継がれ発展した。土佐堀は秀吉の時代、土佐の商人が住み着いた地として命名された。水運の便がよく、江戸時代には各藩の蔵屋敷が並んでいた。現代の安治川河口は、水族館の「海遊館」や「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」などが集まる観光地となっている。
(msn産経ニュース 2010年5月23日)
756
:
よっさん
:2010/05/24(月) 23:15:17
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20100524000033&genre=K1&area=K20
江戸期の豪商、淀屋の足跡訪ねる
八幡などで散策会
江戸時代の大阪の豪商「淀屋(よどや)」のゆかりの地を訪ねる散策会が23日、京都府八幡市内などで開かれた。市民約40人が参加し、歴史に名を残す商家の栄枯盛衰に思いをはせた。
淀屋は大阪で米市場を開き、「淀屋橋」を架けるなど繁栄を極めたが、5代目淀屋辰五郎の代に幕府から財産を没収された。
散策会は淀屋研究会八幡支部が開いた。参加者は、淀屋と親交が深かった松花堂昭乗ゆかりの庭園で松花堂弁当を食べた後、淀屋が隠居した旧邸跡や淀屋寄進の灯ろうが残る神社などを巡り歩いた。
5代目の墓がある神応寺では、墓標に刻まれた戒名から幕府に対する恨み節が垣間見えるとのガイドの説明に、参加者は興味深そうに聞き入っていた。
757
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2010/05/25(火) 05:43:22
住吉大社の蔵書 9年ぶり虫干し
住吉大社(大阪市住吉区)で21日、江戸時代から保管している本を虫干しする作業が9年ぶりに行われ=写真=、境内に敷いたござに「大日本史」や「日本書紀」などの版本約1000冊が並べられた。
「文学の神様」としても信仰される住吉大社は享保8年(1723年)、大坂や京都などの書店が初版本を奉納する「住吉御文庫(おぶんこ)」を造り、300年近く約5万冊の貴重な本を守り続けている。約30年前に空調設備の整った近くの建物に移したが、「大阪最古の図書館」といわれる。
この日は、在阪の出版社関係者25人が、ほこりをはたきで払いながら、興味深そうに和とじ本をめくっていた。
(2010年5月22日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100522-OYT8T00110.htm
758
:
名無しさん
:2010/05/30(日) 23:09:08
エピソード集「東住吉物語」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100530-OYT8T00123.htm
大阪市東住吉区の歴史や文化を知ってもらおうと、同区内の元小学校長・筒井由美子さん(62)ら地元住民が、区内のあまり知られていないエピソードをまとめた冊子「東住吉物語」(A4判、14ページ)を自費出版した。
町づくり組織「東住吉区未来わがまち会議」メンバーの筒井さんら郷土史に関心のある8人が、昨年3月から文章や挿絵を担当して毎月、地元タウン紙に連載していたコラムを集めた。
区内を流れる今川と、万葉集の歌や源氏物語との関係、映画館9館が営業していた昭和30年代の映画黄金期の様子、区北部の桑津天神社に祭られている髪長媛(かみながひめ)と養蚕の関係、鷹合の地名の由来などのエピソード12話が収められている。
筒井さんは「いつも生活していて慣れ親しんだはずの区内にも知らないことは多い。特に子どもらに読んでもらい、地元への愛着や誇りを育んでくれれば」と話している。
1冊500円で販売。問い合わせは大阪市阿倍野区のユーゴー書店(06・6623・2341)。
(2010年5月30日 読売新聞)
759
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2010/05/31(月) 09:27:22
豪商・鴻池家の和食器展 東大阪
江戸時代に豪商鴻池家が開拓した新田を管理していた鴻池新田会所(東大阪市鴻池元町、重要文化財)で、江戸時代から昭和初期まで鴻池家が使っていた和食器約30点が展示されている=写真=。
杯に酒をつぐ「八角朱塗酒次(さけつぎ)」は江戸末期のもので、珍しい八角柱。末広がりの「八」や色から、婚礼に用いられたとみられる。鉄製や焼き物の銚子(ちょうし)のほか、円筒の漆塗り重箱、蒔絵(まきえ)が施された菓子箱、女性用の小さめのわんなどが飾られ、儀礼や賓客、男女などで食器を使い分けていたことが読み取れる。
井上伸一学芸員は「洋食器よりもはるかに種類が豊富。当時の暮らしぶりを想像して楽しんで」と話している。6月27日まで。入場料300円(小中学生200円)。問い合わせは同会所(06・6745・6409)。
(2010年5月31日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100531-OYT8T00007.htm
761
:
名無しさん
:2010/06/02(水) 16:59:51
ものの始まり・なんでもなにわ:/34 能勢町の浄瑠璃 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100602ddlk27040428000c.html
◇200年以上続く「庶民の芸能」
◇「おやじ」制度で後継者育成 時代に合わせ柔軟に変化
太棹三味線と太夫の語りによって物語が進行する素浄瑠璃。江戸時代の文化年間(1804〜1817)から今日まで200年にわたって能勢町で受け継がれる伝統芸能だ。1993年に府の指定無形民俗文化財に、99年には国の無形民俗文化財の選択を受けている。竹本文太夫・竹本井筒太夫・竹本中美太夫の3派と、01年に誕生した竹本東寿太夫派の計4派が競い合いながら伝統を継承している。
浄るりシアターの松田正弘館長(44)によると、町内では今も200人以上の語り手が活躍している。これは、全国でも珍しい「おやじ」制度を取っているため。4派の「おやじ」は、弟子を5、6人養成して後継者を育成。その弟子らがまた、後継者を育成して2代目、3代目の「おやじ」となる。世襲制ではないため、血縁関係を問わず町民全体が浄瑠璃の世界に仲間入りすることになる。制度の原点は農業の傍ら、農閑期に師匠からけいこを受けてきたことに由来する。古くから「庶民の芸能」として親しまれ、町内では「語り手になれなければ一人前でない」と言われるほどだ。
200年以上続く伝統芸能だが、能勢町の浄瑠璃は、時代に合わせ柔軟に変化を遂げている。「地味な」素浄瑠璃にビジュアル性を持たせようと、1998年には、人形・囃子(はやし)を加えた「ザ・能勢人形浄瑠璃」を結成した。2006年に「能勢人形浄瑠璃鹿角座」に名を変えて旗揚げ、メンバーは、オーディションで選ばれた主婦や学生らが多数を占める。人形浄瑠璃は全国で100団体近くが活動しているが、鹿角座は一番の新顔だという。人形衣装の着物に、英国製の人気ブランドのチェック模様を採用するなど、伝統とトレンドが融合した新境地を見いだし、年間約30件の依頼を受け町外でも公演している。
町では毎年6月を「浄瑠璃月間」に定めている。今年も同月19、20日に鹿角座が浄るりシアターで公演する。幕開けは、語りの歌詞に町内の地名や特産物を盛り込んだオリジナル演目「能勢三番叟(のせさんばそう)」を披露。初めて、小学生から高校生のメンバー約25人が語り、三味線、人形遣い、囃子の4業に挑戦する。狭間みのり座長(65)は「子どもたちも浄瑠璃を誇りに感じて、練習に熱が入っている。能勢の伝統を後生に引き継いでいきたい」と意気込んでいる。公演の問い合わせは、浄るりシアター(072・734・3241)。【山口朋辰】
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762
:
名無しさん
:2010/06/03(木) 19:20:18
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/167 三軒家 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100603ddlk27070395000c.html
◆大阪市大正区
◇大正区の原風景 芦原開発、まず家3軒
今回から舞台を大阪市大正区に移します。大阪市西部に位置する大正区は、地図を見ると、木津川と尻無(しりなし)川の合流点から、大正通を背骨に南へ延びている、巨大な中州であることがわかる。JR大正駅は北端にあるから、ここを起点に大正区を歩くと、文字通り奥が深い。
駅を出て、大阪案内人の西俣稔さんと北へ歩く。土曜の昼下がり、さして大きくない大正橋公園では、藤棚の下で若い女性3人がトランプに興じていた。一角に「皇紀二千六百年」「三軒家濱一町」と刻まれた石碑が建つ。
「三軒家の地名のいわれからいきましょか」と、西俣さんが前置きして話し始めた。「江戸時代の初めに、土木工事にたけた中村勘助が、芦が茂っていたこの土地を開発したんです」。手渡された江戸時代の地図には「勘助島」と記されている。中村勘助については、次回で説明する。
「勘助が3軒の家を建てたので三軒家。いま7万7〜8000人が住む大正区の原風景です。人口が増えたら新田がいる、というわけで、どんどん新田が開発されていくわけ」
ついでながら、西俣さんが軒数の付いた地名を一から挙げる。
一ツ家(JR大阪環状線の天王寺−新今宮間の踏切)
二軒茶屋(JR玉造駅近くの旧伊勢街道沿いに、2軒の茶屋があったから)
四軒町(大阪市中央区の高麗橋の西に、明治時代の初めまであった)
五軒家(富田林市に現存。庄屋が5軒あったから)
六軒家川(此花区を流れている)
七軒家(東大阪市に現存。田んぼに7軒、家があったから)
八軒家(天満橋の船着き場。かつて三十石船が発着し、船宿が8軒あったから)
九軒町(西区新町の新町遊郭にあった)
十二軒町(中央区に現存)
五十軒筋(空堀にあった通称)
数え歌ができそうだ。「昔の人は、こういう風景から土地を築いてきたわけです」と西俣さん。
◇こちらは1軒?一ツ家踏切 環状線で唯一も「開かず」の看板
いきなり寄り道でなんだが、一ツ家踏切(天王寺区茶臼山町)を探しに行ってみた。大阪環状線はほとんどが高架だが、新今宮−天王寺間と森ノ宮−京橋間だけは地べたを走っている。天王寺駅は上町台地の南端に位置して、堀割を設けて線路を敷いている特殊な構造だから。森ノ宮−京橋間は、線路の脇の大阪城公園の辺りに、明治の初めから陸軍の兵器工場「大阪砲兵工廠」があったので、高架にして工場をのぞかれると軍機にかかわる、というわけで高架化されなかった。この区間には踏切もないので、戦後も高架にする必要がなかった。
新今宮駅から国道43号を天王寺駅まで歩いたが、線路がビルの陰になるためか見つからず、折り返して線路の北側を歩いた。こちらはすぐ脇が線路だ。と、「カンカンカンカン」と踏切の警報機の音が聞こえてきた。
車は通れない小さな踏切で、足元や案内板に「開かずの踏切」と書いてある。確かに、開いたと思ったらすぐ警報機が鳴り出した。環状線の運行量が多いから、そりゃ「開かず」だろうが、自称しているのがなんとなくおかしい。
これは事故も多いのではなかろうか。試しに毎日新聞のデータベースで「一ツ家踏切」を検索すると、過去12年で13件の事故が出てきた。だから、「開かず」を自称して迂回を勧めているのだ。
さて、一ツ家の名は地名にもない。新今宮−天王寺間が開通したのは1889(明治22)年。西俣さんは「そのころ、この辺りは野っぱらで、家が1軒しか建ってなかったから『一ツ家』と呼ばれてたんでしょう」と推測する。
ちなみに全長21・7キロの環状線を約40分かけて1周して確かめたが、一ツ家が環状線唯一の踏切だった。【松井宏員】
763
:
名無しさん
:2010/06/06(日) 00:16:18
日本史の復習
211年 住吉大社(大阪市)建立
4世紀 仁徳陵(堺市)建立
593年 四天王寺(大阪市、日本初の官寺)建立
645年 大化の改新が起こり、都が難波宮(大阪市、天・皇制に移行してはじめての都)に移される
710年 平城京遷都
794年 平安京遷都
894年 住吉津(大阪市)から出航していた遣唐使が廃止される
951年 天神祭(大阪市)が行われるようになる
970年 祇園祭(京都市)が行われるようになる
1192年 幕府が鎌倉に移る
1336年 幕府が京都に移る
1467年 応仁の乱が起こり、京都が上京と下京の自治都市に分裂する
15、6世紀 日明貿易で栄えた堺が、東洋のヴェニスと称される、茶道や会席料理が堺で生まれる
1583年 豊臣秀吉が大阪城の築城を始める
16世紀後半 豊臣秀吉が京都の改修を始める
1603年 幕府が江戸に移る
17〜19世紀 大阪が経済の中心となり、天下の台所と呼ばれる
1853年 ペリー来航、寒村だった横浜や神戸などが開港して栄え始める
20世紀初頭 大阪が軽工業の中心となり、東洋のマンチェスターと呼ばれる
1910年 韓国併合、敗戦までに200万人の労働者が日本に移住する
1923年 関東大震災
1924年〜31年 大阪が日本一の都市となり大大阪とよばれる
1945年 敗戦
1949年 湯川秀樹(京都市出身)が、大阪大学勤務中に発表した中間子論に対して、ノーベル賞を授与される
1958年 前田久吉(大阪市出身)の主導のもと、東京タワーが作られる
1960年 日米安保条約
1960年 松下幸之助の寄付で、浅草寺の雷門が再建される
1964年 東京オリンピック開催
1960年代 テレビの全国放映権が在京局にのみ認可され、在阪企業の東京への本社移転を促す
1970年 大阪万博開催、万博史上最大となる6500万人を動員する
1970年前後 工場制限法、工場移転法が制定され、製造業の中心が阪神から中京に移る
1985年 プラザ合意、円高を懸念して低金利政策がとられたため、バブルの引き金となる
1995年 阪神大震災、東洋一のハブ港が神戸から香港、上海、釜山などに移る
2000年代 工場制限法、工場移転法が解除され、阪神に先端産業の工場の集積が始まる
764
:
名無しさん
:2010/06/06(日) 13:31:19
大空襲の体験語る 大阪・東淀川
http://www.sankei-kansai.com/2010/06/06/20100606-024722.php
太平洋戦争中の昭和20年6月の空襲で多くの犠牲者を出した大阪市東淀川区で5日、「大空襲65周年東淀川のつどい」が開かれ、空襲体験者らが当時の様子を証言するなどした=写真。
区民らでつくる実行委が戦争の悲惨さを語り継ぐために開いた。同区の大阪淡路教会で開かれたつどいには、中学生から空襲体験者の70代までの約80人が参加した。
空襲体験者の木村茂さん(79)は「逃げる際に泣いている赤ちゃんを助けられんかった。この悔いは死んでも続くかもしれん。人間が人間じゃなくなる。それが戦争」などと話した。また同区内の崇禅寺では6日午前10時から慰霊祭が営まれる。
765
:
名無しさん
:2010/06/06(日) 13:35:46
【新上方風流】古典芸能は長い時間かけて成長していく
http://www.sankei-kansai.com/2010/06/06/20100606-024728.php
落語作家の小佐田定雄さんと桂吉坊さん=写真(前川純一郎撮影)=の対談。前回に続き古典芸能のみせ方の工夫について。
◇
吉坊 噺(はなし)のみせ方は、確かに大阪と東京では違うような気がしますね。
小佐田 落語という芸能の第一歩はいかにして噺家さんがお客さんと友達になるかということ。桂枝雀師匠がよう言うてはったんは、「お客さんは楽しみに来てくれはんねん。決して噺家のあら探しにきてるわけやない。しんどい目して手に入れはったお金を持って、時間を割いてきてくれはんねんから、絶対に楽しい思いをさせてお帰しせなあかん」とね。
吉坊 師匠の吉朝をみていてすごいなと思ったのは、1500人入る(旧)サンケイホールでも、大勢のお客さんが信用しきっているというのがみえたときですね。あんなことできるんやなあと。
小佐田 吉朝さんは自由自在やったもんな。客席の空気をひとつにするすごい説得力もあった半面、客席といっしょに遊ぶというおちゃめな一面もあった。例えば、落語のサゲ(結末)は絶対に最後まで悟られないようにせなあかんのに、噺の冒頭でいきなりサゲを言ってからはじめてみるとかね。噺がうまいというだけではなくて、お客さんも参加できるように、わざとスキを見せたりしていた。お客さんがそのスキを見つけて高座の吉朝さんに「そんなあほな」とつっこんだりする遊びの楽しみもあった。緊張と緩和のバランスの取り方が抜群やった。その点、能なんかはみているほうからすると緊張の部分が大きいね。
吉坊 能をみていると、お客さんにも緊張を求めるところもあるような気がしますね。
小佐田 でも、(古典芸能研究・評論家の)権藤芳一先生から教えていただいたことやけど、初期のころの能はもっと派手でおもしろいものやったらしい。大立ち回りがあったり、舞台中を走り回ったりしていたはずやと。そんな作品に人気があった時代もあったんやけど、武家の式楽になったとたん、幽霊が登場して恨みを述べたりする「複式夢幻能」(メモ参照)のような幽玄を求める作品が主体になったのではないかと。こうみると、古典芸能は非常に長い時間かけて変遷しているところがあるね。
吉坊 落語でも噺家が入門し成長していくのに時間がかかる。ほかの芸能も子役から成長していく。そういう時間の流れのなかで古典芸能をみてほしいなと思いますね。
小佐田 完成された芸をみるのもいいけど、演者とお客さんがともに長い時間をかけて成長していく古典芸能の楽しさは、テレビで見るだけでなく、生の舞台でこそ、みえてくるものであると思う。よさが分かるのに時間がかかるというのが古典芸能の魅力でもあると思うね。
《メモ》複式夢幻能(ふくしきむげんのう) 室町時代に世阿弥が能の形式として確立。舞台を前半と後半に分け(複式)、前半で亡霊の主人公が人の姿をかり脇役の旅の僧の前に現れ、後半は生きていたころの姿で僧の夢枕に現れる。
766
:
名無しさん
:2010/06/08(火) 13:12:32
泉大津高生は遺物のDB化
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100608-OYT8T00116.htm
泉大津、和泉両市に広がる弥生時代の代表的な環濠(かんごう)集落・池上曽根遺跡(国史跡)などの調査に参加したことがある府立泉大津高で、「情報科学」を選択する生徒らが、同校で所蔵する貴重な遺物のデータベース化に取り組んでいる。7日は府教委の学芸員から指導を受け、計測や写真撮影などを行った。
1948年に創部した同校の地歴部は、同高教諭だった森浩一・同志社大名誉教授らが顧問を務め、池上曽根遺跡をはじめ多くの遺跡の調査や保存運動に携わり、収集した遺物のうち約200点は校内の展示室に並べている。遺物のデータベース化は、2008年度から選択科目「情報科学」の授業で取り組み、既に13点を同校のホームページに掲載。この日は3年生82人が、縄文〜鎌倉時代の埴輪(はにわ)や瓦、鉄刀など21点の大きさや口径などを計測し、形のスケッチや特徴を記して、電子カメラで撮影した。
(2010年6月8日 読売新聞)
767
:
名無しさん
:2010/06/08(火) 19:03:03
住吉さん〜住吉大社1800年の歴史と美術〜
http://www.eventscramble.jp/cat12/1800.html
住吉大社は「住吉さん」ともいわれ、大阪では正月の初詣、宮参りや七五三など、人生の節目にお参りする神社として知られています。住吉大社は風光明美の地として、古来天皇や貴族が参詣に訪れ、歌や歌合わせの会が盛んに催されていました。そのため住吉は和歌にも詠まれ、王朝物語や日記に記され、絵画に描かれ、和鏡、蒔絵調度、小袖の意匠などとしても親しまれてきました。
摂津国の一の宮であり、全国の住吉神社の総本宮である住吉大社は平成二十三年に御鎮座 1800年を迎えます。この年は49回目の式年遷宮にもあたり、同社では御鎮座1800年大祭と式年遷宮がとりおこなわれます。大阪市立美術館を会場に、この御鎮座1800年大祭のプレイベントとして、住吉大社と関係の深い短冊や歌切れなど和歌関連作品、住吉明神や住吉大社が描かれた絵画や工芸作品、住吉大社に伝わる名品などを一堂にし、日本美術における「住吉大社」の位置づけを明らかにしたいと考えています。
768
:
名無しさん
:2010/06/09(水) 19:33:11
ものの始まり・なんでもなにわ:/35 ソフトクリーム /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100609ddlk27040378000c.html
◇安全・安心な品質追求
◇51年夏、「日世」がパイオニア フリーザーも自前、万博で大ブーム
ソフトクリーム。ほおばると、思わず笑顔になるのでは。日本で初めて売り出したのは、大阪で主に貿易業を営んでいた「二世商会」。1951年8月、大阪・梅田での試験販売だった。創業者の故・田中穰治さんは日系2世。米国から日本に来て、英語力を生かした仕事をと、「2世」を社名に取って47年に会社を興した。貝の工芸品などを扱っていたが、米国でソフトクリームが人気を集めていることを知る。
米国からフリーザー「チャレンジャー」を輸入し、梅田の百貨店などで売ってみると、長蛇の列。さっそく本格販売を決めた。51年9〜12月に、6カ所での販売実績は計約13万個。1日当たり1000個を超える。本業となり、52年には「日本と世界を結ぶ企業でありたい」と、社名を「日世」に変更した。
一方、大阪での試験販売直前の51年7月3日、進駐軍が東京で開いた米国独立記念日の前夜祭でソフトクリームが登場する。くしくも51年夏、日本の東西で初めてソフトクリームが紹介された。
しかし、人気が高まり「第1次ブーム」さなかの56年、業界は大打撃を受ける。東京都が一部店舗へ検査に入り、半数以上で衛生上の問題が指摘された。コーンも一部で、認められていないホウ酸を使って製造していた。市場の拡大に伴い、新規参入や競争が激しくなっていたという。
ソフトクリームは、生乳などでつくるミックスをフリーザーに入れ、かき混ぜて冷やしてクリームにし、コーンに盛る。当初はミックス、フリーザー、コーンのいずれも輸入。日世は53年からコーンを製造し、ホウ酸は使っていなかったが、一連の問題で「足元を見直すきっかけになった」と、営業業務部大阪の福西基久次長は言う。品質の確かさを徹底し、輸入品のため維持管理に不安のあったフリーザーも、「自分たちで対応できるように」と63年から製造に乗り出す。ミックスは66年から作り始めた。
努力に時代も味方する。70年の大阪万博。飛ぶように売れた。食べ歩きも受け入れられ、「第2次ブーム」が到来した。
日世はミックス、フリーザー、コーンを製造する国内唯一のソフトクリーム総合メーカーとなり、市場のシェアは5割。ミックスも白系だけで8種類、他に果物味などがそろう。コーンは18種類。店でオリジナルが作れるフリーザーも07年に開発した。茨木市宇野辺の本社では、配合のバランスなどを研究し、新商品を模索する。
「ご当地ソフトも多くなり、消費者の好みが多様化していますが、安全、安心な品質を守り、こだわった原材料のおいしいソフトを提供し続けたい」と福西次長。そこに笑顔があることを願って。【八重樫裕一】
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769
:
名無しさん
:2010/06/10(木) 13:40:15
京都の慰霊碑 地元に
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100610-OYT8T00067.htm
1945年3月から終戦前日まで8回にわたって、大阪の街が焦土と化した大空襲を語り継いできた「大阪大空襲の体験を語る会」が、京都市の寺に30年前に建てた犠牲者慰霊碑を、大阪に移設しようと計画している。大空襲から65年。かつて50人を数えた会員も、今は5人ほどになり、同会は「私たちが語れなくなった後の“物言わぬ語り部”として、慰霊碑を地元に残したい」と願っている。
死者・行方不明者が約1万5000人とされる大空襲を忘れまいと、語る会は71年、金野紀世子・前代表を中心に約20人で設立。市民から集めた戦争体験記の発行や、学校などでの語り部活動をしてきた。
現代表の久保三也子さん(81)(大阪市福島区)は発足時からのメンバー。45年3月13日深夜から未明にかけての最初の大空襲を、防空壕(ごう)で耐えた。「遺体の山に、生き残った申し訳なさから『ごめんね』と謝り続けました」。主婦の傍ら、これまで300回以上、体験を話してきた。
慰霊碑は80年、会設立10年を前に、活動を続ける決意の証しとして建立。当時、府内に適当な場所がなく、金野さんの知人の尼僧から、自ら開いた笠原寺(りゅうげんじ)(京都市山科区)の境内を提供された。以来、会ではほぼ毎年、終戦記念日の前後に碑前で法要を営んできた。
しかし、年ごとに鬼籍に入る会員も増え、金野さんも2年前に亡くなった。メンバーは「語り続けるのが生き残った者の務め」と励んできたが、今は最も若い人で75歳。そろって寺を訪ねる機会も途絶え、慰霊碑の存在を知る人も少なくなった。
「生き証人として語れる時間は残りわずか。その間に石碑を移したい」と久保さん。寺側も「体験者や遺族のよりどころとして、大空襲の舞台である大阪に残すのが本来の姿」という。
移設先のめどは立っていないが、久保さんは、積み立ててきた活動の謝礼金を移設費に充てるつもりだ。
(2010年6月10日 読売新聞)
770
:
名無しさん
:2010/06/10(木) 14:14:11
難波周辺の歴史的建築物などを公開−「オープンアーキテクチャー」の一環で
http://namba.keizai.biz/headline/1350/
歴史的な建造物や日ごろ中に入ることができない建築物などを公開するイベント「open! architecture(オープン アーキテクチャー)2010」が5月21日から始まり、6月9日、「難波めぐり・難波周辺コース」が行われた。
2011年9月に世界各国の建築関係者1万人が東京に集まる「UIA(国際建築家連合) 2011東京大会」の関連事業として2008年から毎年行われている同イベントは今年で3回目。あまり知られていなかった建築物や地域の魅力を再認識し、文化的遺産や都市スペースの有効的な活用を行うことなどを目的に、東京のほか横浜、軽井沢、大阪で延べ80回の見学イベントが行われている。
大阪エリアでは「建築を見ると 大阪がもっと好きになる」をテーマに、南海なんば駅の「南海ターミナルビル」と複合商業施設「なんばパークス」を見学する「難波めぐり・難波周辺コース」、東洋一と言われアール・デコ装飾など創建当時の華やかなデパート文化を今に伝える「高島屋東別館コース」、船場・本町周辺に点在するレトロモダン建築を見学する「大阪レトロモダン建築を訪ねてコース」の3コースを設定。
9日に行われた「難波めぐり・難波周辺コース」では、高島屋大阪店前に集合した参加者を前に、オープンアーキテクチャー実行委員会の山田奈津美さんが「芸能、文化、演劇などの文化をはぐくみ、大阪の近代化の中心であるミナミを紹介したかった」とあいさつ。南海ターミナルビルの装飾や秘話などを南海電鉄の社員とともに解説した後、昨年10月オープンした「なんばガレリア」(ロケット広場跡)、ショッピングモール「なんばCITY」、複合商業施設「なんばパークス」などを案内した。
なんばパークスができる前に存在した「大阪球場」にはスケートリンク、卓球場、ボーリング場のほかカルチャー教室などが入居する複合商業施設だったこと、なんばパークスはグランドキャニオンをモチーフに設計したこと、なんば駅周辺を南海電鉄が1社単独で開発していることで、経済合理性だけを追求しない街づくりができることなどを説明、参加者はメモを取るなどして熱心に耳を傾けた。
771
:
名無しさん
:2010/06/10(木) 19:53:41
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/168 中村勘助 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100610ddlk27070376000c.html
◆大阪市大正区
◇米蔵破りの義挙で名上げ
さて、中村勘助だ。神奈川・足柄山の生まれで、新田義貞の血を引くと伝わる。大坂に来て木津村に住んだので、木津勘助とも呼ばれた。木津村は、現在の浪速区にあたり、木津市場にその名をとどめている。
八坂神社(三軒家東2)に顕彰碑が残る。この神社は、勘助が京都・八坂神社の分霊社として建立した。鳥居をくぐってすぐ脇に建つ「中村勘助之碑」は、1979年に建立されたもので、比較的新しい。
資料によると、もっと古い碑があるはずだが、見付からない。神社を出て西側の道路に回ると、見付かった。本殿や社務所の裏手、神社の一番奥まった所に、高さ5メートルはあろうかという巨大な石碑が建っている。「中村勘助源義久彰徳碑」。源義久は勘助の本名らしい。1919(大正8)年に建てられたもので、戦災に遭ったので傷んでおり、裏面の碑文ははく落して判読しづらい。元は、鳥居の脇にあったが、新しい碑に場所を譲ったのだそうだ。
この碑文や、例によって「大阪人物辞典」を基に、勘助の生涯を振り返ってみよう。土木工事にたけていた勘助は、豊臣家の依頼を受けて、1610(慶長15)年、姫島と呼ばれていた木津川河口の中州に軍船係船所を設けた。この際、まず堤防を築いたので、洪水の恐れがなくなり、堤防内に新田を開いた。この功績で、豊臣家は姫島を勘助島と改称した。
この時、既に秀吉は世を去っており、間もなく徳川と豊臣の覇権をかけた大坂冬の陣(1614年)、夏の陣(1615年)がぼっ発。勘助は多数の死体の処理や、戦乱で荒れた市中の清掃に努めたという。
◇幕府のやらせ、真偽は???−−自らが新田開発した地へ島流し
勘助の才は、政権が豊臣から徳川に変わっても重用され、徳川家康をまつった川崎東照宮建立の指揮を執ったり、木津川をしゅんせつして船が出入りしやすくした。やはり、いつの世も才能がある人は強い。
しかし、なんといっても「義人」として勘助の名を高からしめたのは、1641年、冷害による飢饉(ききん)に苦しむ民を救うため、農民を引き連れて幕府の米蔵を破った、という義挙による。
大阪案内人の西俣稔さんは語る。「勘助は幕府に、米を出してくれと頼むんやけど、手続きやとか前例やとか、幕府はなかなか動かんわけや。そこで、役人は勘助に幕府の米を盗ませた。やらせやけど、重大な罪やから、勘助は捕えられて島流しにするんやけど、それが勘助島。自分が開いた土地や。粋な計らいで、悠々と死ぬまで過ごした−−と、こういう説もあります」
これについては諸説あり、真偽のほどは定かでない。だいたい、勘助自体が架空の人物という説まであるほどだ。島の名になっていたり、神社の勧請に名前が出て来るのだから、架空ということはあるまいが……。
米蔵破りだが、これはあり得ない。難波に難波御蔵という幕府の米蔵が造られたのは1733年で、飢饉の年にはまだできていない。
その最期についても、文献や碑文などで異なる。島流しになってから、新田を開いたり、八坂神社を開いたりと、三軒家の開発に尽力し、島流しから19年後の1660年に亡くなったのだが、「死罪」であったり、「死亡」つまり天寿をまっとうしたとなっていたりする。【松井宏員】
772
:
名無しさん
:2010/06/10(木) 19:58:00
情報プラザ:「天下分け目の天王山・山崎合戦の地を歩く」 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100610ddlk27040372000c.html
13日(日)10時、京都府大山崎町のJR山崎駅集合。宝積寺から旗立松展望台、古戦場跡などを経て勝龍寺城公園解散。約4時間。100人。資料代300円と拝観料。雨天決行。弁当、飲み物、雨具など各自持参。問い合わせは大山崎町教委生涯学習課(075・956・2101=代表)。
773
:
名無しさん
:2010/06/11(金) 13:27:25
「大坂町中時報鐘」響く 時の記念日、子供ら突き鳴らす
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100611/20100611032.html
時の記念日の10日、江戸時代から大阪のまちに時間を知らせてきた大阪市中央区の鐘「大坂町中時報鐘」を鳴らす恒例行事が行われた。
鐘は高さ1.9メートル、直径1.1メートル。徳川3代将軍家光が1634年に当時の税金を免除したことを記念に製造され、町に時を告げる鐘として同地域に設置された。
その後、場所を転々としたが、1985年に里帰り。それ以来、住民らでつくる「大坂町中時報鐘顕彰保存会」が時の記念日などに行事を行っている。
この日は、幼稚園児や小学生らを中心に約200人が参加。子供たちは大喜びで鐘を突いたほか、もちまきも行われ、一帯は参加者らの歓声でにぎわった。
同会の山田利彦運営委員長は「鐘を通して人と人とのつながりを広めていければ」と話していた。
774
:
名無しさん
:2010/06/12(土) 13:19:10
池上曽根遺跡調査 15年の集大成展示
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100612-OYT8T00112.htm
泉大津、和泉両市の国史跡・池上曽根遺跡で弥生時代中期(約2000年前)の大型建物跡が発見され、弥生時代研究が大きく進展したのを記念した企画展が、府立弥生文化博物館(和泉市)で開かれている。出土遺物など約150点を初めて一堂に集めた。7月4日まで。
同遺跡で1995年6月に出土した大型建物は、「神殿」や「高殿」と呼ばれ、残っていた柱の1本が、年輪年代測定法で紀元前52年に伐採されたことが判明。弥生時代の実年代に初めて定点を与え、東アジアの古代史研究に一石を投じた。
企画展は、同博物館と両市が協力して開催。展示された大型建物の柱根や、国内最大級のひすい製勾玉(まがだま)(長さ6・2センチ)、建物が描かれた土器などから、「弥生時代の都市」とされる同遺跡の先進性や繁栄ぶりがうかがえる。金関恕館長は「池上曽根遺跡は、大阪が発展した出発点。日本の弥生文化を象徴する遺跡と、それを記念した博物館が存在する意義を、改めて知ってほしい」と話している。
月曜休館。開館は午前9時半〜午後5時(入館は4時半まで)。入館料は一般400円、65歳以上と高校・大学生300円。
(2010年6月12日 読売新聞)
775
:
名無しさん
:2010/06/12(土) 13:27:50
オリジナルフレーム切手発売 「愛染まつり」
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100612/20100612028.html
大阪の夏祭りのトップを切る、愛染堂勝鬘(しょうまん)院(大阪市天王寺区夕陽丘町、山岡武明住職)の伝統行事「愛染まつり」(30〜7月2日)をデザインしたオリジナルフレーム切手が11日、郵便局株式会社近畿支社から発売された。1シート(80円切手10枚)1200円で千シートの販売を予定している。
10種類の切手の絵柄は、毎年同まつりのポスターなどのデザインを手掛けている画家の谷守さん=同市平野区=によるもの。あでやかな着物姿の女性と愛染かつらの花守りなどが描かれ、大阪の夏の風物詩を華やかにPRしている。
早速切手を手にした山岡住職は「歴史ある祭りをさらに多くの方々に広めてもらいうれしい。御利益にちなみ縁結びや商売繁盛の便りに使ってもらえたら」と話していた。
同切手は同市中央、天王寺、浪速、大正、西成、住吉、住之江区内の全郵便局(112局)で、シート単位で販売。まつりの3日間は境内の臨時出張所でも発売される。問い合わせは電話06(6944)8157、同支社営業本部(郵便・物販担当)へ。
776
:
名無しさん
:2010/06/13(日) 09:39:50
【ウェーブ産経】重文「綿業会館」など近代建築巡り楽しむ
http://www.sankei-kansai.com/2010/06/13/20100613-024970.php
ウェーブ産経による大阪市中心部の北船場や中之島にある近代建築を探訪する催しが12日、開かれた。参加会員34人が、昭和6年に日本綿業倶楽部として建設された重要文化財の「綿業会館」を見学=写真=、周辺の近代建築物を巡った。
会員は、同倶楽部の総務部長、品川和三さんの案内で豪華な貴賓室のほか、談話室、囲碁などができる娯楽室などを見学。品川さんから「建物には耐火ガラスが使われていたため、戦火を免れることができた」などと説明を受けた。
午後は、大阪歴史博物館の学芸員、酒井一光さんの解説で、船場ビルディングや市中央公会堂など、明治から昭和初期の建築物を訪ねた。
◇
ウェーブ産経(電話06・6633・9087)は年会費、入会金無料。ホームページは「ウェーブ産経」で検索してください。
777
:
名無しさん
:2010/06/13(日) 09:46:35
万博 青春そのもの 生活産業館コンパニオン同窓会
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100613-OYT8T00099.htm
「あふれていた未来」感慨深く
1970年の大阪万博で中堅30社以上が共同出展したパビリオン「生活産業館」のコンパニオン(ホステス)を務めた女性らが、思い出の地、吹田市の万博公園で同窓会を開いた。同万博40周年の今年、久々の再会を果たし、旧交を温めた女性ら。当時奇抜に見えたユニホームのかつら、動く歩道、ファストフード……。青春そのものだった万博を振り返り、〈還暦世代〉になった女性たちの思い出話は尽きなかった。(山本慶史)
紺の大きなネクタイと白のベストやズボン。頭にはボブカットのかつら。同館のユニホームは、まだ駆け出しのデザイナーだったコシノ・ジュンコさんが手掛けた“奇抜”な衣装だった。
「オシャレでかつらをつける人なんていなかったから、みんなびっくりした」。大学生だった箕面市の主婦伊賀眞理子さん(61)は懐かしむ。当初は紫だったかつらの色は、みんなの抵抗感が強く、黒に変更されたという。「デザイナーとして統一感や洗練さを大切にしたかったと思うけど、まだ私たちの感覚が追いついてなかった」と笑う。
当時は大学を出ても就職する女性は少ない時代。「結婚するまでに何か面白い仕事をしたい」。好奇心旺盛な若い女性が全国から応募、約80人が同館のコンパニオンに選ばれた。あいさつ、言葉遣い、食事の作法、化粧の仕方……。約半年間、毎月のように研修を重ね、開幕後は、3交代制で週5、6日、あふれかえる入場客の案内を務めた。
同館は小さなブースが蜂の巣状に集積した外観が特徴。歌や踊りを楽しむアトラクションや客席が回転して四季折々の映像を楽しむ回転劇場などが人気だった。
万博会場全体が〈新しいもの〉であふれていた。動く歩道の前では、添乗員がツアー客に乗り方の手順を教えていた。ファストフードや缶コーヒー、朱肉がいらないスタンパーなど、今では当たり前になった風景がそこにあった。
銀行から出向し、同館の館長代理を務めた高槻市の井上尚文さん(82)は、開幕後の様子を日記につづっているが、コンパニオンについて書き留めた部分も多い。
「皇太子殿下を前に顔は緊張でひきつっていた」「館内が雨漏りのため、来場者に懸命に注意を呼び掛けていた」「館内の空調トラブルで暖房が利かず、(コンパニオンに)毛布を配った」――。
◇
5月に開かれた今回の集まりは、有志らが閉幕後に作った同窓会「エキスポ永和(とこわ)の会」が中心となって連絡を取り合い、実現した。当日は、伊賀さんや東京や東北などからも女性20人が集まり、井上さんら事務職員2人も参加。3月に旧鉄鋼館を改築してオープンした「エキスポ’70パビリオン」で当時の写真や映像を見て回った。
伊賀さんは「鉄鋼館の前がちょうど生活産業館。皇太子さまの訪問などはかけがえのない経験。あの時の仲間と再会でき、きずなの強さを実感できた」と喜んだ。
井上さんは「準備期間を入れて1年以上、苦楽を共にした仲間との再会は感慨深く、ありがたい。万博公園はみんなが輝いていた頃の象徴です」と振り返った。
(2010年6月13日 読売新聞)
778
:
名無しさん
:2010/06/14(月) 21:44:21
仁徳天皇陵など世界遺産候補に
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2005027711.html
「仁徳天皇陵」として宮内庁が管理している古墳など大阪の古墳群が、ユネスコの世界遺産の候補となることが正式に決まりました。面積が世界最大規模で、「仁徳天皇陵」として管理されている古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」は、4世紀後半から6世紀前半にかけて作られたとされるさまざまな形と大きさの87の古墳が堺、羽曳野、藤井寺の3つの市にまたがって連なっています。
きょうは、文化庁の文化審議会の特別委員会が開かれ、この古墳群を世界遺産の候補とすることが正式に決まりました。
この古墳群は、おととしの文化審議会で世界遺産の候補に選ばれていましたが、古墳群のうち、天皇や皇族の墓として宮内庁が管理している「陵墓」と呼ばれる46の古墳については、「静ひつと尊厳を保つ必要がある」として、宮内庁が発掘調査を認めていないため、世界遺産への登録を目指す際に行われるユネスコ側の調査をどこまで認めるかなど調整が進められてきました。
その結果、ユネスコ側の調査でも発掘調査を行わないなど、陵墓としての特性を尊重することを条件に、正式に世界遺産の候補となりました。
世界遺産登録に向けては、保護のための管理態勢が十分かどうかや、文化的な価値が高いかなどが問われます。
このため、国の文化財に指定されていることや、発掘調査を行うことが一般的ですが、陵墓は文化財に指定されていない上、発掘調査も今後行われない見通しです。
こうした候補地は世界的にも異例だということで、ユネスコ側が、古墳群の文化的価値をどう判断するかが焦点となります。
06月14日 19時39分
779
:
黒澤主義
:2010/06/15(火) 01:30:44
>>778
百舌鳥・古市古墳群 倭の五王が眠る「世界三大墳墓」
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100614/trd1006142116016-n1.htm
百舌鳥・古市古墳群は、5世紀に中国と積極外交を繰り広げた「倭の五王」が葬られたとされ、仁徳陵古墳は、その規模からクフ王のピラミッド(エジプト)や秦(しんの)始皇(しこう)帝陵(中国)とともに「世界三大墳墓」といわれる。
両古墳群が築かれた5世紀は、倭の五王が国内を統治し、中国の歴史書に「讃(さん)」「珍(ちん)」などの名で5人の王が記載されている。約100年間にわたって中国に頻繁に朝貢し、皇帝から「倭国王」に任じられた。仁徳、応神両天皇も、この五王に相当するとされる。
仁徳陵古墳の築造時期は5世紀中ごろで、5世紀前半に亡くなったとされる仁徳天皇と年代的に大きな矛盾はない。
両古墳群には国内の巨大古墳ベスト10のうち5基が入っている。特に、仁徳陵古墳などが築かれた場所は、当時の海岸線に近いことが特徴。瀬戸内海を渡ってきた中国使節に対し、巨大古墳を見せることで自らの国力を誇示する狙いがあったともいわれ、古代国家発展の謎を解くうえで重要な鍵を握っている。
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は「世界にはさまざまな初期国家の形態があり、巨大古墳が次々に築かれた両古墳群は、日本の国家形成のあり方を示す象徴的な存在。世界遺産に近づいたことは喜ばしい」と話した。
(msn産経ニュース 2010年6月14日)
780
:
黒澤主義
:2010/06/15(火) 01:36:04
>>778-779
「やっとスタート地点」 百舌鳥・古市古墳群、世界遺産暫定リスト入りで地元大阪
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/100614/osk1006142334013-n1.htm
「やっとスタートラインに立てた」。墳墓として世界最大といわれる仁徳陵古墳(堺市、全長486メートル)や国内2番目の大きさを誇る応神陵古墳(大阪府羽曳野市、全長425メートル)などがある百舌鳥・古市古墳群が14日、世界文化遺産暫定リストに掲載されることになった。課題も多いとされてきただけに、準備を進めてきた府教委や堺市などの担当者からは安堵の声があがった。
リスト掲載に向けて準備を進めてきた大阪府教委の担当者は「姫路城や法隆寺、熊野古道など関西には世界遺産が多いのに、大阪だけなかった。海外からのツアーで大阪を外されることもあっただけに、リスト入りはうれしい」と話す。
また「世界三大墳墓のなかでも知名度が低かった。これをきっかけに世界に認知される特色ある古墳として、前面に押し出していきたい」と意気込んだ。
府教委では、平成25年度に国に対して大阪府などが世界遺産登録に向けた推薦書を提出。最短で27年度の世界遺産登録を目指すとしている。
世界遺産登録に向けた活動は16年からスタート。大阪府のほか、堺市、羽曳野市、藤井寺市などが連動し、共同で提案を行ってきた。
しかし、世界遺産暫定リストに盛り込まれる両古墳群の古墳87基のうち、46基は天皇陵などとして宮内庁が管理。いずれも研究者でさえ原則立ち入ることができないというハードルもあった。
今のところ世界遺産に指定されても内部に入ることはできない公算だが、学術的な発掘調査や一般公開を含めた活用のあり方をめぐって、今後も議論が続きそうだ。
一方、地元の堺市でもこの日、リスト入りに歓声があがった。堺市の担当職員は「待ちに待ったリスト入り。やっとスタート地点にたてた」。記者会見した竹山修身市長は「待ち望んでいた喜ばしいニュース。登録に向けた大きな第一歩だ」と語った。
(msn産経ニュース 2010年6月14日)
781
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782
:
名無しさん
:2010/06/15(火) 13:55:56
豊作を祈願し田植え 住吉大社で「御田植神事」
2010年6月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100615/20100615033.html
秋の豊作を祈願する伝統行事「御田植(おたうえ)神事」が14日、大阪市住吉区の住吉大社(真弓常忠宮司)で執り行われた。境内南側に広がる御田(おんだ)で大勢の参拝者が見守る中、古式ゆかしい装束姿の奉仕者が田植えや踊りなどを奉納した。
八乙女が舞を奉納する中で早苗を植える替植女ら=14日午後、大阪市住吉区
約1800年の歴史を誇る同神事は、1979年、重要無形民俗文化財に指定されている。
早苗は、境内・第一本宮での本殿祭で神職から植女(うえめ)に授けられた後、御田(2300平方メートル)で実際に田植えを行う替植女(かえうえめ)へと引き継がれた。
すげがさに赤いたすき姿の替植女らは、御田中央の舞台上で八乙女の「田舞(たまい)」、御稔女(みとしめ)の「神田代舞(みとしろまい)」が奉納される中、手際よく早苗を植えていった。また周辺では住吉踊(おどり)や風流武者行事、棒打ち合戦などが次々と繰り広げられ、神事を盛り上げていた。
783
:
名無しさん
:2010/06/16(水) 18:42:29
養父遺跡:役所建物跡を確認 奈良時代の出先機関か−−枚方 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100616ddlk27040360000c.html
枚方市教育委員会などは、同市養父東町の市立第三中学校で4〜6月に実施した「養父(やぶ)遺跡」発掘調査で、奈良時代の役所の出先機関の一部とみられる建物跡を発見したと発表した。現在の同市の大部分と交野市全域、寝屋川市の一部にあたる「交野郡」にあった六つの郷の一つの可能性があり、市教委は「断定できれば、当時を知る貴重な資料」としている。
発掘されたのは、真北を意識して建てられた奈良時代(8世紀前半〜中ごろ)のものとみられる総柱掘立柱建物や大型掘立柱建物など。建物柱穴の規模などから役所の出先機関の一部とみられ、市教委は「今回の調査場所の南方に役所の中心があったのではないか」としている。
◇19日に現地説明会
現地説明会は19日午後1時、2時、3時の計3回。問い合わせは、財団法人枚方市文化財研究調査会(072・858・2852)。【土本匡孝】
784
:
名無しさん
:2010/06/17(木) 19:27:50
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/169 続・中村勘助 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100617ddlk27070385000c.html
◆大阪市大正区、浪速区
◇芝居、講談、映画や演歌 後世も人気衰えず
◇今なお生き続ける 町の名に小学校に神社の踊りに
諸説ある義人、中村勘助の「米蔵破り」と「斬罪」。「大阪人物辞典」で、三善貞司さんは「中之島の福岡藩蔵屋敷に納める御用米を搬送途中に襲ったのだろう」と推測する。自首した勘助を処刑すると、「義〓(ぎきょう)の人」と圧倒的に勘助を支持した民衆が動揺するのを恐れ、幕府は市中から追放し、三軒家の開発に従事させたのだろう、という。
1983年に編さんされた「大正区史」も、「海路運ばれてきた福岡藩蔵屋敷の御用米を奪い、難民に分け与えた」とし、最期についても「老衰死」とほぼ断定している。
恐らく、後年になって、よりセンセーショナルに「幕府の蔵を破った」と脚色されたのだろう。一泡吹かせる相手が大きければ大きいほど、庶民は快哉(かいさい)を叫ぶ。この時代、幕府より大きな相手はない。
勘助人気は高く、死後61年たった1721年、勘助を主人公にした芝居「三軒家昔夜木津勘助話」が道頓堀の角座で上演されて大当たり。上方落語や講談の「木津の勘助」は、豪商・淀屋の娘と結婚し、世のため人のために尽くすという筋立てだが、これは完全なフィクション。天神祭の船渡御の船に飾るお迎え人形にも、あまたのヒーローにまじって、ざんばら髪で片手に刀を持ち、米俵を抱えた勘助人形がある。
時代は変わっても勘助人気は衰えず、1913年に人気役者・尾上松之助が主演して無声映画が上映されたし、最近では2004年に演歌歌手、三門忠司さんが「浪花〓客伝〜木津の勘助」を出している。もず昌平さん作詞で、「お蔵破りは磔(はりつけ)獄門に決まってる。けど黙って見過ごすわけには行かんがな」というセリフ入りだ。
◇
大国主神社(浪速区敷津西1)に、勘助の銅像がある。このあたりはかつての木津村で、勘助が住んだ所だ。銅像の勘助は、木津川しゅんせつの際のいでたちで、脚半姿で右手に設計図を持って、力強く空をにらんでいる。
元は大正時代に建てられたが、戦時中の金属回収で解体され、台座だけが転がっていたのを惜しみ、1954年に有志が集まって再建した。「再建之辞」は、「木津を中心とする全大阪市民の翁への思慕と愛情の顕現でなくて何であろう」とうたいあげている。
神社の方に尋ねると、この辺には勘助町という地名があったという。近くの唯専寺(敷津西2)に墓がある。高さ30センチほどの黒ずんだ円筒形で、鍋ぶたが載ったような変わった形をしている。隣には「中村勘助実碑」の碑が建つ。
勘助の功績は今に生きていて、勘助が木津村に寄進した土地は村有財産として引き継がれ、これを売った資金で、明治期に大国、敷津小学校が建設されたという。
再び大正区の八坂神社に戻る。勘助が開いた神社の境内には、勘助の手植えと伝わる神木のイチョウがある。安達利夫宮司(62)によると、空襲で焼けて立ち枯れているが、「孫くらいのイチョウが生えている」という。
また、神社の資料の中から「勘助音頭」の譜面が出てきた。大阪生まれの作曲家、服部良一の作曲。振りもあって、「勘助踊り」と呼ばれていたという。安達宮司は「お参りに来るおばあさんに聞いたら、『ついこの間まで踊ってた気がする』と言うてました」。
「ついこの間」がいつごろか定かでないが、安達宮司は「大正歴史を語る会」を主宰する近所の松田邦雄さん(74)とともに、勘助踊りを復活させようと考えている。地区の子どもたちに、神社の夏祭りで踊ってもらおうというのだ。中村勘助は大阪に脈々と生き続けている。【松井宏員】
785
:
名無しさん
:2010/06/17(木) 19:37:08
>>780
話が一歩前に進みましたね。堺市民として大阪府民として嬉しいですね。
今後の課題は周辺環境の整備だと思います。周辺環境としては現状いろいろ問題がある部分も多いです。
世界遺産は歴史的意義と同時に全体的な景観や保存環境を重視するようなので
786
:
名無しさん
:2010/06/17(木) 19:47:09
>>780
暫定リスト12件目となりますね。暫定リストにある最も古いのは平成4年のもので、
もう18年間も暫定のままです。
「古都鎌倉の寺院・神社ほか」(神奈川県、平成4年)、「彦根城」(滋賀県、平成4年)、「平泉−仏国土を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群−」(岩手県、平成13年)、「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県、平成19年)、「富士山」(静岡県・山梨県、平成19年)、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」(奈良県、平成19年)、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(長崎県、平成19年)、「国立西洋美術館(本館)」(東京都、平成 19年)、「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」(北海道・青森県・岩手県・秋田県、平成21年)、「九州・山口の近代化産業遺産群」(福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県・鹿児島県・山口県、平成21年)、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県、平成21年)
http://bunka.nii.ac.jp/jp/world/h_10.html
787
:
名無しさん
:2010/06/21(月) 16:26:50
「落語会館つくりたい」 上方落語協会の三枝会長5選
産経関西2010年6月21日
http://www.sankei-kansai.com/2010/06/21/20100621-025253.php
上方落語協会(会員220人)は21日、任期満了にともなう会長選挙を大阪市内のホテルで行い、投票の結果により、桂三枝さんを会長に選出した。三枝さんは平成15年から会長を務め、今度で5期目。任期は2年。
続投が決まった三枝さんは記者会見し、協会の事務所、けいこ場、資料室、倉庫などが分散している現状に触れ、これらを1カ所にまとめる構想に言及。「任期中にわれわれの城みたいな存在である上方落語協会会館をつくりたい」と話した。
副会長など新執行部は後日、三枝会長が指名する。
788
:
名無しさん
:2010/06/22(火) 12:53:17
河合遺跡 大半を保存
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100622-OYT8T00122.htm
奈良時代の地方役所跡が見つかった松原市の河合遺跡が、市立学校給食センター建設によって破壊の危機にさらされていた問題で、市教委は遺跡の大半を保存できるよう同センターの設計変更を決めた。市教委に遺跡とセンターの共存を要望していた府教委は「破壊は最小限にとどまり、一定の評価はできる」と了承、文化庁に報告した。市教委は将来的に、市指定史跡にすることを検討する。
市教委によると、敷地内に埋設する汚水などの処理槽を西側にずらし、建物の基礎や床を高くするなどして、出土した柱穴の7〜8割を保存できるようにする。四つの変更案の中から、破壊される部分が最も少なく、コスト面でも効率的な案を選んだという。
また、センター敷地に遺構がわかるような表示を設け、説明板も設置。今後、遺跡の西半分にある市営住宅を建て替える際、発掘調査を実施し、遺跡の残り具合や範囲を確定させて、公園化を目指す。
市教委は当初、発掘調査の記録を残すだけにしてセンター建設計画を進め、関連する下水工事で建物跡(東西26メートル以上、南北3・2メートル)の一部を壊していた。
府教委文化財保護課は「遺跡は100%保存されないが、センター建設も必要であり、両立できるぎりぎりの判断。今後の調査で遺跡の評価が定まることを期待したい」とする。
澤井宏文市長は「給食センター建設の必要性と、遺跡の重要性を併せて検討した結果だ。遺跡の保存に最大限努力し、給食センターの建設を進めたい」と話している。
(2010年6月22日 読売新聞)
789
:
名無しさん
:2010/06/22(火) 13:09:31
>>786
古墳って初めてじゃないかな?そこがアドバンテージ
790
:
名無しさん
:2010/06/22(火) 13:21:07
>>789
発掘調査は出来ないのですね。宮内庁が絶対に許可しませんし、勝手にやったら
刑法第189条の墳墓発掘罪になってしまいます。
791
:
789へ
:2010/06/22(火) 16:59:06
高句麗古墳群(北朝鮮)、始皇帝稜(中国)、韓国にも何かあったような…。
古墳が世界遺産に登録された例はいくつかあります。古墳は初めてというアドバンテージはないですね。
792
:
名無しさん
:2010/06/22(火) 19:39:23
今秋開催「住吉さん」 奉納和歌など公開
http://www.sankei-kansai.com/2010/06/22/20100622-025284.php
大阪市立美術館(大阪市天王寺区)で今秋開催される特別展「住吉さん〜住吉大社1800年の歴史と美術」(主催・同美術館、産経新聞社など)の記者発表会が21日、同市住吉区の住吉大社で開かれ、「住吉社奉納百首和歌」や「舞楽面綾切(ぶがくめんあやぎり)」などの展示作品が公開された。
同展は来年の御鎮座1800年と第49回式年遷宮のプレイベントとして、10月9日から11月28日まで開催。住吉大社に伝わる舞楽装束などの名宝のほか、全国にある住吉明神像や住吉大社を描いた絵画、工芸作品など約200点を展示する。
記者発表では、展示構成や代表作品の概要説明が行われた。同美術館学芸員の土井久美子さんは「“すみよっさん”の愛称で親しまれる住吉大社が、日本美術史でどう位置づけされていたかを見てほしい」と話していた。
793
:
名無しさん
:2010/06/23(水) 01:10:53
>790
宮内庁が大阪に文化遺産があることを知らしめたくないので
発掘を許可していないのでは?
794
:
名無しさん
:2010/06/23(水) 01:57:31
>>793
仁徳陵は誰でも知っていますよ。日本史で習いますから。
795
:
793へ
:2010/06/23(水) 07:39:56
天皇制の尊厳をまもるために、
御所、離宮、古墳などはそんな簡単に立ち入れないようにしているのだと思います。
796
:
名無しさん
:2010/06/23(水) 15:29:59
明治の開国時、外国に開かれた貿易港には最初堺が上がっていたが、
外国船の「港から○○(数字は失念)km以内に立ち入り禁止の場所があってはならない」という条件に
古墳群が立ち入り禁止ゆえ堺では許可が下りなかった。
それで急遽、神戸が外国との貿易港になったという経過があるそうだ。
天皇陵は昔から立ち入り検査はできないんだよ。
797
:
名無しさん
:2010/06/23(水) 15:32:48
ただし、これ796は建前。
高槻だったか?に二つ古墳があるんだが、元来天皇陵と地元で言われている方を宮内庁は天皇陵指定しておらず
少し離れたほうを宮内庁は天皇陵指定。
その結果前者を発掘調査することができたのだが、その結果はその古墳が天皇陵であることを裏付ける多くの遺物発見だった。
前者は学会などでも完全に天皇陵扱いされている。
しかしそれでも宮内庁は前者を天皇陵と認めていない。
宮内庁って馬鹿じゃないの??
798
:
名無しさん
:2010/06/24(木) 19:01:29
最近の教科書からは「仁徳天皇陵」という呼び名が消えているらしい。
その理由が、立ち入り調査が認められていないため確認が取れないからだとか。
http://gakusan.gakken.jp/home/column/Q-A/article/090520.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BB%99%E9%99%B5%E5%8F%A4%E5%A2%B3
#.E7.8F.BE.E7.8A.B6
799
:
黒澤主義
:2010/06/24(木) 23:31:57
中百舌鳥・古市古墳群 世界遺産登録へ堺市が推進本部
http://www.sankei-kansai.com/2010/06/24/20100624-025365.php
堺、藤井寺、羽曳野の各市に点在する中百舌鳥・古市古墳群が世界遺産暫定リストに記載されることが決定したことを受け、堺市は23日、登録推進を図るため「世界文化遺産推進本部」を7月1日付で設置すると発表した。
本部長には竹山修身市長が就任。局長級以上の幹部職員で構成され、登録推進施策の調整を図る。
竹山市長は「登録には最低でも5年はかかる。早期実現をめざして、緩衝地域の設定や大仙公園、堀、最寄り駅などの整備などに取り組みたい」。
また、市長公室の「歴史文化都市推進室」を7月1日付で「世界文化遺産推進室」に改称する。改称によって、「市民へのアピールはもとより、市外の人にも世界遺産登録をめざしていることを示したい」(竹山市長)としている。
(産経新聞 2010年6月24日)
800
:
名無しさん
:2010/06/25(金) 00:06:55
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/
天皇陵がここで検索できます。
天皇陵があるのは、京都・大阪・兵庫・滋賀・奈良・香川・山口・東京です。
801
:
名無しさん
:2010/06/25(金) 01:45:58
>>791
世界という意味ではなく、日本の中のリストの中ではアドバンテージが
あると言いたかったのです。また前方後円墳は起源については
色々いう人はいますが畿内発祥が有力なので、世界的にも独特の
古墳として価値がると思います。
802
:
名無しさん
:2010/06/25(金) 11:27:41
問題は古墳からの出土品がどれだけ評価されるかだな。
中国の兵馬俑やエジプトのミイラみたいなグッズがあれば‥
803
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2010/06/26(土) 19:48:33
秀頼と淀殿が自刃、「山里丸」の遺構見つかる
6月26日15時48分配信 読売新聞
大坂夏の陣(1615年)で、豊臣秀吉の子・秀頼とその母・淀殿が自刃した場所とされる大坂城(大阪市中央区)の区画「山里丸(やまざとまる)」とみられる遺構の一部が、大阪市博物館協会大阪文化財研究所の調査で初めて出土した。
地表から約4メートルの深さに埋もれ、落城時の火災を示す焼土層が積もっていることが確認された。
山里丸は、秀吉が千利休らと茶会を催した茶室などがあったとされる。遺構は、南北に延びる石組み溝(幅35センチ)で、長さ6メートル分を確認。溝の側面には高さ35センチ、長さ50センチ、幅20センチの石が並び、底には平らな石などが敷いてあった。中から見つかった陶磁器から、年代を特定した。
焼土層は厚さ50センチ。焼けて変形した瓦も大量に出土した。溝は、徳川幕府が1624年に始めた城の再築で埋められたとみられる。
調査成果は7月28日〜9月20日、大阪市中央区の大阪歴史博物館で展示する。
最終更新:6月26日15時48分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100626-00000581-yom-soci
804
:
名無しさん
:2010/06/26(土) 23:35:35
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100626-056237-1-N.jpg
これいいね形がくっきり
宮内庁制限の古墳、航空レーザー計測で3D画像
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100626-OYT1T00749.htm
奈良県立橿原考古学研究所と測量会社「アジア航測」(本社・東京)は、宮内庁管理の陵墓参考地で奈良市の「コナベ古墳」(5世紀前半)と、堺市の「御廟山(ごびょうやま)古墳」(5世紀中頃)で航空レーザー計測による3次元画像を作製し、26日に大阪府吹田市の関西大で開かれた日本文化財科学会で報告した。
立ち入り制限が厳しい陵墓などの精密な墳形がわかり、「大型古墳を研究する上で画期的な手法」としている。
上空からレーザー光を照射し、地表の様子を測るシステムで、活断層調査などにも使われている。レーザー光は樹木の葉のすき間から地盤に当たり、木が生い茂っていても利用できる。昨年12月と今年2月、全長約200メートルの両古墳を計測。上空500〜650メートルからコナベ古墳は約100万点、御廟山古墳は約300万点のデータを画像化した。
例えばコナベ古墳の処理後の画像では、鍵穴のような前方後円墳の形状や3段に築造された墳丘の様子がわかるほか、前方部の両脇にせり出した、埴輪(はにわ)などを並べる「造り出し」もくっきりと浮かび上がった。
陵墓関係の資料は、戦前の測量図など数少なく、同研究所の西藤(さいとう)清秀・埋蔵文化財部長は「築造当時に近い姿が再現でき、その美しさもわかる」としている。
(2010年6月26日20時08分 読売新聞)
805
:
名無しさん
:2010/06/27(日) 11:24:16
>>804
古墳本来の姿を再現
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2005247442.html
古代の天皇や皇族の墓の可能性があるとして宮内庁が詳しい調査を認めていない巨大な古墳を、奈良県立橿原考古学研究所などの研究チームが、上空からレーザー光線を使った装置で測量し、樹木が生い茂る前の古墳本来の姿を初めて立体的な画像で再現することに成功しました。
この研究は、橿原考古学研究所と航空測量会社「アジア航測」などの研究チームが行ったものです。研究チームでは、古代の天皇や皇族の墓の可能性があるとして宮内庁が詳しい調査を認めていない大阪・堺市の「御廟山古墳」と奈良市の「コナベ古墳」を地図を作成する際に用いる最新の方法で上空から測量調査しました。
このうち御廟山古墳では、上空500メートルのヘリコプターから1秒間に18万回レーザー光線を照射し、地面に到達した光線が跳ね返ってくる時間を測ることで古墳の形や大きさを測量しました。その結果、前方後円墳の御廟山古墳は、全長が200メートル、円形の部分の高さが38メートル余りで宮内庁が地上で測量した結果とほとんど同じだったということです。
そして得られたデータを赤い色の濃淡で地形の傾きや凹凸などを示す地形図に加工したところ、鍵の穴のような形を3段に積み重ねた、樹木が生い茂る前の古墳の姿が立体的な画像で再現できました。
またコナベ古墳の測量では、「陪塚」と呼ばれる10の小さな古墳がコナベ古墳を取り囲むように配置されているのをはっきりととらえることができました。
研究にあたった橿原考古学研究所の西藤清秀部長は、「この方法を使えば、立ち入りが認められていない古墳がどのような形や大きさで造られたかを精密に調べる研究ができる。古墳本来の姿を見て造形の美しさを感じてもらうこともできるのではないか」と話しています。
06月27日 02時29分
806
:
名無しさん
:2010/06/27(日) 13:18:20
宮内庁はそろそろ古墳発掘Goサインを!
日本文化の原点を知るチャンスなのだ!
807
:
名無しさん
:2010/06/27(日) 13:20:56
多くの古墳は皇室とつながりのあるものなので古墳発掘はNG。
現王朝である皇室の墓を暴くなど品性に欠ける愚行と言うべきだ。
808
:
名無しさん
:2010/06/27(日) 13:25:07
>806
確実に右翼が怒ってくるなww
809
:
名無しさん
:2010/06/28(月) 18:16:21
なるほドリ:なぜ交野、枚方市に七夕伝説があるの? /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100628ddlk27070203000c.html
◇渡来人が広め、名所に 今年も各所でイベント
なるほドリ もうすぐ七夕。ところで交野市、枚方市には七夕に関連した場所がたくさんあるんだって?
記者 交野市倉治に織り姫ゆかりの機物(はたもの)神社、枚方市香里ケ丘には巨石「牽牛石」がある中山観音寺跡があります。両市には淀川に合流するその名も「天野川」が流れ、川には「羽衣橋」「逢合橋」「鵲(かささぎ)橋」など、七夕と縁深い名の橋が架かっています。
Q なんだかロマンチックですね。どうして両市には七夕関連の場所が多いのだろう?
A 市民団体「天の川七夕星まつりの会」発行の本「交野ケ原と七夕伝説」によると、古くから一帯には渡来人が住み、大陸の七夕伝説を広めたとされています。一帯は地上での七夕の地として位置づけられ、それにふさわしい名所がつくられたり、名付けられたようです。ちなみに、07年には仙台市、神奈川県平塚市など七夕まつりを開く自治体が集まった「全国七夕サミット」が交野、枚方両市で開かれました。
Q 行ってみたくなったなあ。両市では七夕関連のイベントは予定されているのかな?
A 交野市の京阪私市(きさいち)駅付近で7月7日「天の川七夕まつり」、枚方市の京阪枚方市駅前のサンプラザで2〜7日に作品展「七夕技芸展」、同市の宮之阪中央商店街で10日「宮之阪七夕まつり」などがあります。7、10日には天野川沿いに灯籠(とうろう)が並び、幻想的な雰囲気を楽しめます。他にも各所でイベントがあります。詳細は交野市役所内の星のまち観光協会(072・892・0121)などに問い合わせてみてね。
Q ところで、今年は初めて北河内7市(両市の他、寝屋川市、守口市、門真市、大東市、四條畷市)で「七夕ライトダウン」をするとか?
A はい。地球温暖化防止活動の一環で、午後8〜10時、各市が企業、施設、家庭などに一斉消灯を呼び掛けます。北河内では、夜空の天の川が例年より鮮明に見えるかもしれませんね。<回答・土本匡孝(社会部)>
==============
◇あなたの質問をお寄せください。
〒530−8251(住所不要)毎日新聞社会部「質問なるほドリ」係
(o.shakaibu@mainichi.co.jp)
810
:
黒澤主義
:2010/06/28(月) 21:37:51
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/170 大正橋/大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100624ddlk27070433000c.html
◆大阪市大正区
◇「歓喜の歌」奏でる橋 歩道に鍵盤、高欄には音符
大正区と浪速区を行ったり来たりしたが、いま一度、JR大正駅付近まで戻る。大阪案内人の西俣稔さんと、木津川に架かる大正橋の海側を渡る。西俣さんが足元を指して「ピアノの鍵盤になってる」と言う。なるほど、歩道に黒い線が2本、3本と交互に入っていて、鍵盤をデザインしている。車道側にはメトロノームまで並んでいる。
橋の中ほどに来ると、西俣さんが今度は高欄を指す。「楽譜になってんねん」。欄干のパイプを五線譜に見立て、音符を表わす出っ張りを付けている。これは凝ってる。
「何の曲かわかる?」。楽譜が読めない私に、わかろうはずがない。「ベートーベンの『第九』の『歓喜の歌』やねん。昭和49(1974)年に架け替えられたんやけど、設計者が完成の喜びを表わしたんです」と西俣さんが解説。「まちあるきでここを案内する時、参加者で『第九』を歌うねん。通行してる人があっけにとられてるわ」。そらそうでしょう。
「大正区まち案内人協会」が編んだ「大正区今昔話」によると、設計したのは大阪市土木局の日種俊哉氏。従来のデザインを打ち破り、「音楽」をテーマにしようと考えた。音符は、なぜか下流側の高欄にしかない。実は、日種氏は上流側にも別の曲の音符を付けようと考えていたが、取りかかろうとした時に異動になってしまったのだ。
◇初代の架橋、大企業が横やり 住民の力で悲願実る
同書には、1915(大正4)年に架けられた初代大正橋の話も載っている。橋脚がないモダンな鉄骨のアーチ橋は、住民の悲願だった。川にはさまれたこの地は、橋がないため「陸の孤島」で、長らく不便をかこっていた。工場が林立し、工員が住み、商店ができて人口が急増すると、架橋はますます切実な願いとなった。
これをいれて、大阪市は橋を架けて市電を通す計画を立てた。ところが、川沿いで創業していた大阪瓦斯が府知事に働きかけて、この計画に横やりを入れた。ガスの原料を機帆船で運搬していたので、橋ができると航行に支障が出るからだった。曲折を経て、住民側はむしろ旗を掲げてデモ行進。参加者は警察にしょっぴかれたが、結局、住民パワーに大企業と役所も屈し、橋が架けられた。
橋ひとつにも、先人の労苦がしみこんでいるわけだ。さらに、こぼれ話がある。設計者が橋が完成した翌年、愛人の娼妓(しょうぎ)と道後温泉で心中。「大正橋心中」という歌がはやったという。設計者には妻がいたが、病気を患い別居していた。この地は砂州なので地盤が硬くなく、大正橋はよく揺れて、「設計ミス」との批判も起きた。それやこれやが、大学を卒業したばかりの若い設計者を追い詰めたのかもしれない。
大正時代にできたから大正橋。西俣さんが大正区の由来を語る。「もともとは西成郡三軒家村で、明治30年に大阪市に編入されて西区になる。大正14年には港区になって、昭和7年に独立する時、いろんな案が出ます。一つは泉尾(いずお)区。これは読みにくい。もう一つは新港区。これでは港区の属国みたいや。大正橋のおかげで町が栄えたという感謝の気持ちを込めて、大正区になったんです」
橋の名が区の名前になったのだ。いかに大正橋がこの地の住民にとって大事だったかがわかる。【松井宏員】
(毎日新聞 2010年6月24日)
811
:
名無しさん
:2010/06/28(月) 23:13:16
西成も本当は歴史ある情緒深い土地なんだよ。
なのに能無しクズゴミ怠け者労働者モドキや生活保護ニートのせいで……
812
:
僕からも一言言わせて下さい
:2010/06/28(月) 23:52:22
浪速という地名は由緒と伝統がある地名なんだよ。大和と同じぐらい古いんだよ。
なのにカスゴミの仕業で、その地名の威厳も何もかも破壊しつくされたよ!
813
:
名無しさん
:2010/06/29(火) 01:34:30
大阪市内の車のナンバーを「なにわ」とひらがなにしたのが元凶。
あれを廃止し「浪花」または「浪速」に変更するべき。
814
:
名無しさん
:2010/06/29(火) 14:20:58
住之江の
岸による波
よるさえや‥‥
難波江の
葦の刈り根の一夜ゆゑ
身をつくしてや
恋わたるべき
今や大阪市の治安上の懸念材料になってしまった
住之江区、浪速区、そして西成区も
本当は歴史ある場所なのさ。
815
:
名無しさん
:2010/06/29(火) 14:40:54
>>809
灯籠に関してですが7日は京阪交野線私市駅周辺、10日は京阪本線枚方市駅下車が
便利です。なお10日の「宮之阪七夕まつり」は雨天だとイベント自体中止に
なりますのでご留意を。中止は今まで1度だけあったそうですが。
ちなみに宮之阪七夕まつりは22回目を数え以前は自衛隊の楽団の方も来られました。
今年は地元中学校の吹奏楽部や南京玉すだれ、サックスの演奏やら
地元の和太鼓グループ演奏などがありますのでお時間とお暇のある方は
是非ドゥゾ(o´・ェ・)っ
と地元関係者が言ってみるてすつ。
816
:
黒澤主義
:2010/06/30(水) 23:35:28
ものの始まり・なんでもなにわ:/37 大阪市公設市場/大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100630ddlk27040361000c.html
◇「流通革命」、役所が先導 大正期、掛け売りから定価販売 スーパー登場で閉鎖、民営化
大正から昭和にかけて、都市部に住む庶民の食生活の安定を支えた「公設市場」。今やその役割はスーパーに取って代わられ、全国で姿を消しつつある。しかし、料金を明確に提示し、誰にでも安価な価格で販売する手法は当時としては画期的で、御用聞きが中心だった日本の小売りの在り方を変える「流通革命」になった。その発祥は、大阪市が1918年に開設した「日用品供給場」だった。
お初天神の近くに、公設市場の姿がそのまま残されている市内では唯一の市場がある。曽根崎市場(大阪市北区)だ。今は民営化され、約1000平方メートルに鮮魚や米、酒、果物などを売る店が11店舗並ぶ。閉店した店も多く、最近は客足も数えるほどで配達が主というが、近くのすし店の職人やスナック経営者が仕入れに訪れる。半世紀にわたって店先に立ち続ける果物店経営、北野恒男さん(76)は「公設時代は値段、服装やらで市の指導が厳しかった。でも誇りがあったし、使命感を持って仕事をしていたよ」と往事を振り返る。
「近時物価ノ騰貴著シク庶民生活費ノ向上実ニ甚ダシキモノアリ殊ニ魚菜其(そ)ノ他日用品ノ騰貴ガ…」
1918年2月、大阪市議4人が公設市場の設置に関する建議案を市議会に提出した。市の人口は市制を施行した1889年で約47万人だったが、建議が出された当時は約150万人にまで膨張。人口の急増で食料品の需給バランスが崩れ、物価が高騰するという大都市特有の問題に直面していた。公設市場の研究は東京都も同時期にしていたが、市は先んじて動いた。1918年4月15日、バラック建ての国内初の公設市場が市内4カ所(谷町、天王寺、境川、福島)に誕生した。
市は市場を商人に貸す代わり、「正札販売の実施」「不当価格の禁止」など価格の透明性を強く要求した。当時のモノの流通は、御用聞きと配達が中心。市場の情報が十分でない消費者の立場は弱く、価格操作も横行していたという。公設市場は、こうした閉鎖的な取引形態の改善を迫る役割もあった。価格自体もみそなど市価の3割引きは当たり前。特に1918年夏の米騒動時、市価の7割の価格で白米を供給し、市場価格を抑制させる公設市場の機能の評価を高めた。政府が全国への普及を指導するようになった。
市内では84年に43の公設市場があったが、大型スーパーの登場に押され、閉鎖される市場が増加。03年4月までに残っていた32市場はすべて民営化され、公設市場は市内から姿を消した。今は、ほとんどがセルフサービス式のスーパーに生まれ変わり、営業を続けている。【小林慎】
(毎日新聞 2010年6月30日)
817
:
4丁目の案山子
◆K9Pr1/RLpU
:2010/07/01(木) 07:52:59
「べっぴんさんじゃ」かごに分乗、愛染まつり
日本最古の夏祭りとされる「愛染(あいぜん)まつり」が30日、大阪市天王寺区の四天王寺の支院・愛染堂・勝鬘院(しょうまんいん)で始まり、浴衣姿の愛染娘を乗せた宝恵(ほえ)かごがJR天王寺駅前から同寺院までの約1キロを練り歩いた。
江戸時代に芸者がかごに乗ってお参りしていた様子を再現した。公募の約300人から選ばれた愛染娘12人は、薄紫色の花柄の浴衣姿。かご6台に分乗し、「べっぴんさんじゃ、ほーえーかーごー」などのかけ声を受けて、沿道に愛嬌(あいきょう)を振りまいた。
7月2日まで。1日夕には愛染娘が特技を披露するコンテストもあり、その1人、山本紗耶佳さん(23)は「今年は担ぎ手に初めて女性グループが加わっており、これまで以上に元気と笑顔を与えられたと思う」と話した。
(2010年7月1日06時13分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100701-OYT1T00139.htm?from=main6
818
:
名無しさん
:2010/07/01(木) 23:39:58
>>810
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/171 続・大正橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100701ddlk27070423000c.html
◆大阪市大正区
◇オアシス大橋と“兄弟” ここにも「第九」の音符
◇関西の親類から話を聞くと……町長「乗った!」県に掛け合い−−愛知県阿久比町
1974年にできた大正橋を設計した故日種俊哉氏は、なぜベートーベンの「第九」の音符のデザインを施したのか。妻貞子(ていこ)さんが兵庫県三木市にご健在で、話を聞くことができた。
「その前の大正橋がよく揺れて、設計者が心中したという話を聞いて、『渡って元気になる橋にしたら』と夫に言ったんです。そしたら『音符でもやろうか』って」
当時、中学の音楽の先生だった貞子さんが曲を探して、「これでいこか」となったらしい。五線に見立てた高欄に収まるように、音符はおたまじゃくしでなく、出っ張りのような形にしたから、よく見ないと音符とはわからない。
今や年末になると、あちこちで「第九」が歌われるが、そのころは今ほどメジャーではなかった。完成して初めて橋を渡った時、貞子さんは「これをわかってくれる人が一人でも二人でもおったらなあ」と願ったという。大阪案内人の西俣稔さんが、まち歩きのガイドをする時、この橋を「第九」を歌いながら渡ってる、と伝えると、貞子さんは「ささやかな望みが、ちょっとずつかなってるんですね」と実にうれしそうだった。
ある時、市民から区役所に「あの音符はメロディーが違う」と指摘があった。どうも、橋の下を航行した船が橋にぶつかって高欄を壊してしまい、それを元に戻したつもりが、逆さまにはめ直すかどうかしたものだから、メロディーが狂ったのだという。「昭和のころやと思いますわ」と、貞子さんがおかしそうに教えてくれた。
ただ、歩道の鍵盤模様やメトロノームは、日種氏のアイデアではなかった。あとから加えられたものだ。
◇
さて、大正橋と兄弟橋の契りを結んでいる橋がある。愛知県阿久比(あぐい)町に89年に開通したオアシス大橋だ。上流側の高欄には「第九」の音符がデザインされている。これには大正橋とのくしき縁があった。
貞子さんによると−−。関西に住んでいる母子が、タクシーで大正橋を渡っていた。渋滞で止まっている時、バイオリニストの息子さんが高欄の音符に気付いた。「第九のメロディーだよ」。お母さんのいとこが当時の阿久比町長で、この話をしたところ、町長が乗って、県に掛け合って実現させたという。
オアシス大橋の開通式には、日種さん夫妻や、町長のいとこも招待された。
実は大正区には、まだ「第九」の因縁があるのだが、それはまたのちほど。
◇大浪・大豊・豊吹橋、名前の由来ご存じ?
西俣さんと大正橋の上から下流を眺める。JR大阪環状線の先に大浪(おおなみ)橋が架かる。「英語で言うとビッグウエーブ。大阪湾が近いから、こんな名前が付いたのかと思うけど、さにあらず。大正区と浪速区をつなぐからです」
こういう名前の橋はほかにもある。神崎川の大豊橋は、大阪市と豊中市を結ぶから。豊中と吹田の境を流れる高川には、豊吹(ほうすい)橋がある。両岸から1文字ずつ取れば、角が立たないのだろう。
大正橋を渡ると浪速区だ。日吉橋交差点に出る。「江戸時代の地図には、日吉橋が載ってます。脈々と橋の名前が受け継がれてるわけです」と西俣さん。近くの道頓堀川に日吉橋が架かる。
「日吉は豊臣秀吉の幼名やけど、橋の名前の由来ではない。だいたい、徳川幕府が架けてんのに、あり得ない。低湿地だったので、ええ名前を付けたんでしょう。その証拠に、この先には幸橋って名前が残ってる」。西俣さんがひとくさり。【松井宏員】
819
:
名無しさん
:2010/07/02(金) 22:11:02
弥生時代の“すまし顔” 大阪の池島・福万寺遺跡で土偶出土
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/osaka/100702/osk1007022107005-n1.htm
大阪府東大阪市の池島・福万寺遺跡で、弥生時代前期(約2300年前)の土偶が見つかり、府文化財センターが2日、発表した。この時期の土偶は全国で数例しか確認されていないという。
土偶は幅5センチ、高さ2センチで、溝から頭部だけが割れた状態で出土。まゆや目、鼻が立体的に表現され、口やあごの部分は失われていた。切れ長の目で、すました表情にみえる。
土偶は縄文時代中期(約5千年前)以降に東日本を中心に広まるが、弥生時代になると急激に減少。大阪府のほか島根県や香川県などでしか確認されていないという。
この遺跡からは、男性器をかたどったとみられる石棒4本も出土。土偶と石棒はセットで祭祀(さいし)に使われた可能性もあるが、土偶の胴体部分が見つかっておらず、性別は不明という。
土偶と石棒は8日から8月1日の間、大阪府和泉市の府立弥生文化博物館で展示される。
820
:
名無しさん
:2010/07/05(月) 19:37:30
百舌鳥・古市古墳群 暫定リスト入り記念 25日府立大で講演会
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100705-OYT8T00033.htm
百舌鳥(もず)・古市古墳群が世界遺産の国内暫定リスト入りしたのを記念した講演会(堺市主催、府、羽曳野、藤井寺両市共催)が25日午後1時半から、堺市中区の府立大Uホール白鷺で開かれる。
日本イコモス国内委員会委員長の西村幸夫・東京大教授(都市計画)が「世界文化遺産の考え方」、九州歴史資料館長の西谷正・九州大名誉教授(考古学)が「東アジアから見た百舌鳥・古市古墳群」と題してそれぞれ講演する。
無料。先着500人。申し込みは住所、氏名、電話番号、同行者の氏名(1通につき3人まで)を書き、20日までに、〒590・0078堺市堺区南瓦町3の1堺市世界文化遺産推進室(072・228・7014)へ、はがきかメール(sei@city.sakai.lg.jp)で。
(2010年7月5日 読売新聞)
821
:
名無しさん
:2010/07/07(水) 19:28:02
ものの始まり・なんでもなにわ:/38 修正テープ /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100707ddlk27040290000c.html
◇年間15億個、世界で大ヒット−−発明のきっかけは「消しゴム」
◇商品開発にかける情熱、今も
白いラインで文字を消す修正テープ。引いたテープの上からすぐに文字が書け、その便利さから世界中で年間約15億個が販売されているといわれる大ヒット商品だ。1983年に世界で初めて修正テープを開発したのが、日本有数の文房具メーカー「シード」(大阪市都島区)だった。
同社は1915年創業。ゴム製品を扱い、消しゴムの製造を始めた。56年、世界に先駆けて生産を始めた「プラスチック消しゴム」を大ヒットさせるなど、着実に成長を続けてきた。
しかし80年代、ワープロの普及などで「ペーパーレス時代の到来」「鉛筆離れ」が懸念されるようになる。危機感を持った同社は82年、すでに他社が販売していた修正液の市場に参入したが、先発メーカーの壁は厚かった。全く売れず、同社企画室で修正液販売にかかわった玉井繁・常務取締役(61)は「想像を超えた売れなさで、本当にショックだった。製品はほとんど社内で消費した」と打ち明ける。
だが社内は「消しゴムだけでは将来厳しい」という意見で一致していた。玉井さんは新商品の開発を本格的にスタート。修正液の欠点を考えたところ、乾きが遅い、塗った面がボコボコするなど多くの要素が浮かび、「まだ道は残っている」と確信した。しかし肝心のアイデアがなかなか浮かばなかった。
発明のきっかけはこれまで作り続けた「消しゴム」だった。消しゴムの表面に商品名を印刷するためには、商品名が書かれたフィルムを消しゴムに押し当てて熱を加えて転写する。「同じように白い塗料を紙に転写すればいいんだ」。修正液の失敗から1年後の83年、テープに塗った白い塗料を紙に転写する現在の方法にたどり着いたという。
同社は翌84年にこの方法で特許を出願。その後は薄く、しっかり紙に密着するテープの開発を進め、89年9月に第一号商品「ケシワード」(500円)を発売した。玉井さんは「テープがなかなか完成せず、道路に引かれた白線がテープに見えたぐらい苦しんだ。でもアイデアには自信があったから、必ず完成できると思っていた」と振り返る。
当初は売れ行きは思わしくなかったが、オフィス街で通行人に商品を紹介したり、横方向に線を引きやすい新商品を開発すると人気が爆発し、大ヒット商品に。最近はエコ志向の高まりで使い切ったテープを新品に交換できるタイプが人気といい、引いたテープをこすってはがせる消しゴムもあるという。
発明から27年がたつが、西岡靖博社長(66)は「中小企業が生き残るためには、新しいものを生み出さなければならない」と言い切る。開発にかける情熱は今も揺るがない。【古関俊樹】
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822
:
黒澤主義
:2010/07/08(木) 21:20:31
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/172 南海汐見橋線/大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100708ddlk27070374000c.html
◆大阪市浪速区・西成区
◇電車と渡しで回り道 2両編成、のんびりと
◇紡績工場労働者のにぎわい、今はなく
大正橋から千日前通を東へ歩く。ずいぶんと古い船具問屋があって、海とのかかわりが深い町なのがわかる。
大阪案内人の西俣稔さんが「このあたりの町名は桜川。江戸時代の古地図に『サクラ川』という細い川が載ってるんです」。古地図を見れば、今の千日前通と並行して、サクラ川が流れている。「ほとりには桜が並んで、きれいな風景やったんやろね」と、その昔に思いをはせる。失われた風景が、地名に残る。
しばらく行くと、南海汐見橋駅がある。汐見橋はすぐ北の道頓堀川に架かる橋の名前で、「大阪湾の潮の満ち引きを見るのに良かったんですね」と西俣さん。
駅は1900(明治33)年開業と、かなり古い。2両編成の電車に乗り込む。1時間に2本しかないから、西俣さんは時間を見計らって、駅へ来たのだが、はて大正区を歩くはずなのに、いずこへ? どうも、今回は寄り道が多い。
乗客はまばら。大阪の真ん中を走ってるのに、なんでかのんびりした感じだ。芦原町、木津川と過ぎて、「次は津守」のアナウンスに、西俣さんが「次、降りるツモリしといて」。……はいはい。
無人の駅を降りると、目の前には西成高校と西成公園が広がる。西成区だ。「ここに大日本紡績津守工場があって、汐見橋線は工場労働者でにぎわってたんです。工場は空襲で焼けてしもた」と西俣さん。のどかに犬の散歩をする人たちが憩っている。
ここで西俣さんが「津守」についてひとくさり。「昔の行政単位は摂津や河内、和泉などの国の下に郡があり、さらにその下に郷がありました。ここは摂津国の西成郡津守郷。奈良時代から呼ばれていて、津守は古代、難波津の港を管理する役職でした。この津守氏が住吉大社の宮司になるわけです」。つまり、役職名が地名になったわけだ。
さらに西成について。「上町台地の西に成った土地だから西成。東に成ったのが東成。今の東淀川区や福島区の一部まで西成郡でした」。その名残は近世まで残っていた。福島区と西淀川区を結ぶ淀川大橋は、大正時代まで西成大橋だった。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行くJR桜島線は、西成線と呼ばれていた。
◇心浮き立つ水の風景−−落合上渡船場やアーチ状の水門
住宅街を抜けて北へ歩く。木津川の堤防に、落合上渡船場があった。大阪市営で、無料で川を渡る渡船は、大正区を中心に8カ所ある。
堤防上から眺めると、木津川と三軒家川が落ち合っている。三軒家川は、川といっても途中が埋め立てられて、行き止まりになっている。木津川にはアーチ型の水門が備わり、三軒家川側にはゴルフの打ちっ放しのネットがそびえる。下流に目を転じれば、巨大なクレーン。水の風景は、どこか心を浮き立たせる。
「川の合流点だから落合。川相も相川もそう。愛甲は相川の当て字です」。落合も川相も相川も愛甲も、プロ野球でおなじみの名前。「ついでに高槻の成合も同じ。自然の風景から、いろんな字を当てたんですね」
渡し船にはおっちゃんや自転車のおばちゃんたちが乗り込む。「はい、こんにちはー」と女性職員があいさつしてくれる。わずか40秒の“船旅”で、対岸の大正区に到着。なるほど、わざわざ汐見橋線に乗ったわけがわかった。回り道して大正区に戻る。【松井宏員】
(毎日新聞 2010年7月8日)
823
:
名無しさん
:2010/07/08(木) 22:03:20
>>814
ニュータウンに歴史は無い。でも住民の高齢化であのザマか。
824
:
4丁目の案山子
◆s3RBAzXrEA
:2010/07/12(月) 22:31:44
道頓堀で船渡御神事 水都に風情の夏
2010.7.12 20:45
「道頓堀川船渡御」 大阪・ミナミの道頓堀川を進む船の列=12日午後7時48分、大阪市中央区(門井聡撮影)
大阪・ミナミの道頓堀川で12日夜、難波八阪神社(大阪市浪速区)の船渡御(ふなとぎょ)神事が行われた。提灯(ちょうちん)や紅白幕で飾られた船団がゆっくりと行き交い、観光客らが風情あふれる水都の夏を楽しんだ。
江戸時代以降途絶えていた無病息災を祈願する神事で、氏子たちによって2001年に復活。当初3隻だけだった船団も地元企業の協賛で年々増え、今年は17隻の船に法被姿の氏子ら約600人が乗り込んだ。
日中の激しい雨も夕方には上がり、夕暮れとともに川面にはさわやかな風が吹いた。船団は太鼓やかねの音を街に響かせながら川を往復し、川沿いの遊歩道では見物人がうちわ片手にゆったりと流れる時間を過ごしていた。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100712/trd1007122057004-n1.htm
825
:
名無しさん
:2010/07/14(水) 20:55:52
ものの始まり・なんでもなにわ:/39 義太夫節 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100714ddlk27040319000c.html
◇老若男女、何役でも表現
◇終戦前後までは娯楽の中心、落語や歌舞伎に大きな影響
腹の底から響く太夫の声、太棹(ふとざお)三味線の奏でる重厚な音−−。力強い語りで繊細な情をも表現する義太夫節は、江戸時代に大阪で生まれた。終戦前後までは自らたしなむ素人衆も多く、娯楽の中心にあった。近年は縁遠い感があるが、300年変わらず、親子のきずなや男女の情愛を語り続けてきた義太夫に熱中する人々はいまも健在だ。
「速い、やり直し」「だいぶんよくなってきた」。大阪・ミナミのビルの一室。生徒の語りを聴く文楽太夫、豊竹英大夫さんの声に力がこもる。師匠と向き合って語っているのは、勤め帰りのサラリーマンら。竹沢団吾さんの三味線に合わせ、力いっぱい声を振り絞る。
義太夫が盛んだった時代は、女流のお師匠さんらが開く稽古(けいこ)屋がまち中にあり、素人衆の稽古の場となっていた。落語「寝床」は、下手な義太夫を聴かそうとする商家の旦那と、それに閉口する人々を描く。落語の題材になるほど、愛好家が身近だったわけだ。
英大夫さんは十数年前から、大阪で義太夫教室を主宰。最初は「腹から声を出すことが健康にいいから」と、発声を教えるのが中心だった。「初めは短いフレーズで声を出すだけですが、次第に戯曲のまとまった部分を語るようなになる。すると『聴かせたい』と思うようになる。まさに『寝床』ですわ」と、英大夫さん。
現在、30〜70代の男女約40人が在籍。普段は月1回の教室だが、今年で5回目となる8月の発表会に出る生徒を対象に、7月以降は個人指導もしている。生徒の川上弘恭さん(52)は「老若男女、何役でも表現できるのが魅力」と言う。
ここで義太夫の歴史を。1684(貞享元)年、大坂・道頓堀の人形芝居で1人の浄瑠璃語りが看板を上げた。男の名は竹本義太夫(1651〜1714)。以前は、別の流派で語っていたが、従来の浄瑠璃にない語り口を確立して、評判となった。
以降、近松門左衛門らが現代も受け継がれる戯曲を数多く残し、幕末から昭和にかけてあまたの名人が語りや三味線に磨きをかけてきた。落語の題材となったり、戯曲は歌舞伎に移入されたりと、他の芸に与えた影響も大きい。英大夫さんは「文章も名文が多いうえ、太夫は体全体を使ってそれを語る。必ず魂が揺さぶられるものがあると思う」と義太夫の魅力を語る。【花牟礼紀仁】
==============
大阪では、7月17日〜8月3日、国立文楽劇場(大阪市中央区日本橋1)である「夏休み文楽特別公演」で義太夫が鑑賞できる。英大夫さんは第2部の「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」に出演する。同劇場(06・6212・2531)。
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826
:
黒澤主義
:2010/07/15(木) 17:53:09
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/173 昭和山/大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100715ddlk27070304000c.html
◆大阪市大正区
◇大阪7低山の一つ
◇千本松の渡し、昔は魚料理と松の景勝地
前回、汐見橋かいわいに古い船具問屋があることを紹介したが、江戸時代中期の大坂の大店を舞台にした松井今朝子の小説「辰巳屋疑獄」に、こんな記述があるのを見付けた。
「道頓堀の河口に架かる汐見橋の北詰に、唐金屋という大きな廻船問屋があるのは大坂の者ならだれでも知っている。唐金屋は大昔に大通丸という四千石の巨船を海に走らせていた。その船のなかには米を脱穀する唐臼部屋や野菜畑まであったという。ちなみに井原西鶴の『日本永代蔵』に登場する神通丸とはこの船のことである」
木津川を下ればすぐに大阪湾。大きな回船問屋が店を構える、海への玄関口だったわけだ。
◇
さて、前回の続き。汐見橋線津守駅で降り、落合上渡船場で渡し船に乗った。ちなみに、木津川を下れば、落合下、千本松、木津川の3カ所の渡船場がある。
千本松大橋の下を通る千本松の渡しの辺は、両岸とも工場が並ぶ。その昔、対岸の西成区南津守の岸には、名の通り、松並木が連なっていた。天橋立、三保の松原と並ぶ景勝の地として名をはせた所で、漁師にとらせた魚を料理して、酒宴を催す人々もいたという。なんとも風流であるが、鉄塊ばかりの今の光景からは、およそ想像だにできない。
◇標高33メートル「港が見える丘」
◇捨てられた残土、ダンプ57万台分
行きつ戻りつするが、大正区に戻り、落合上渡船場から西へ歩くと、小高い丘が現れた。昭和山だ。「低い山やけど、登るとけっこうきつい」と大阪案内人の西俣稔さん。えっちらおっちらと頂上にたどり着くと、ツツジが満開(登山したのは5月)で、小鳥のさえずりが耳に心地よい。
標高33メートル。大阪7低山の一つに数えられる。ほかは日本一低い港区の天保山(4・5メートル)▽天王寺区の茶臼山(26メートル)▽阿倍野区の聖天山(14メートル)▽堺の蘇鉄山(6・8メートル)▽鶴見緑地の鶴見新山(39メートル)▽此花区・舞洲の新夕陽ケ丘(25メートル)。
元は貯木場があったが、南港へ移転し空き地となっていたところへ、昭和40年代に地下鉄工事の残土が捨てられてできたのが昭和山だ。「なんとダンプカー57万台分です」と西俣さん。
大正区に昭和山とは、これいかに? 江戸時代の天保年間、安治川をしゅんせつした土砂でできた天保山にならい、昭和時代に人工でできた山だから昭和山と命名されたわけ。
戦後間もなくはやった歌謡曲にちなんで、「港が見える丘」とも呼ばれるという。なみはや大橋など大阪湾の景色が見え、季節によっては夕日も鮮やかだ。
下山には2分しかかからなかった。【松井宏員】
(毎日新聞 2010年7月15日)
827
:
名無しさん
:2010/07/19(月) 09:10:56
「旧堺燈台」を特別一般公開
http://www.sankei-kansai.com/2010/07/19/20100719-041506.php
国の史跡に指定されている国内最古級の灯台「旧堺燈台」(堺市堺区)が18日、一般公開された=写真。19日まで。
高さ約12メートルの旧堺燈台は明治10(1877)年に建設。現存する木造洋式としては国内最古級の灯台として知られる。大阪湾の埋め立てにより役割を果たせなくなり、昭和43(1968)年に廃灯となった。
今回は「海の日」(19日)に合わせ特別公開。この日、市職員が資料を配り、灯台の歴史や見どころを紹介した。訪れた市民らは1階の内部を見学したほか、灯台周辺の眺望も楽しんだ。19日は午前10時から午後4時まで。入場無料。
828
:
名無しさん
:2010/07/19(月) 13:38:17
福沢諭吉の生誕記念式典 大阪で50年ぶりに開催
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK201007170052.html
慶応義塾の創始者で、大阪生まれの福沢諭吉の生誕175周年を祝う記念式典が16日、大阪市内であった。式典は同塾が25年ごとに大阪と東京で交互に開いており、大阪での開催は50年ぶり。
福沢諭吉は1835年、中津藩(現大分県中津市)の藩士の子として、現在の大阪市福島区福島1丁目付近にあった蔵屋敷で生まれた。20代に緒方洪庵が開いた私塾「適塾」(大阪市中央区北浜3丁目)で蘭学(らんがく)を学んだ。
慶応義塾関係者らはこの日、生誕の地に建てられた記念碑に献花した後、市内のホテルで記念式典を開いた。清家篤塾長が「大阪で生まれ、学んだことが慶応義塾のあり方に大きな影響を与えた」とあいさつ。福沢諭吉のひ孫で、慶応義塾評議員会議長の福沢武さん(77)が「大阪には鎖国の時代にも世界に目を向けた蘭学塾があった。世界の大阪として発展することを諭吉も天国から見守っているのではないか」と話した。
829
:
名無しさん
:2010/07/19(月) 17:24:56
大判の歴史漫画の福沢諭吉巻で、諭吉が大阪弁をしゃべってるのは悪意ではないと信じたい。
残念ながら、現在では実学よりも、人権というアホンダラ教にあらゆる学問を隷属させる傾向が突出してるのが情けない。
830
:
名無しさん
:2010/07/19(月) 23:16:49
本当はいいやつ諭吉
831
:
黒澤主義
:2010/07/22(木) 22:27:45
ものの始まり・なんでもなにわ:/40 カプセルホテル/大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100721ddlk27040307000c.html
◇終電逃した時の救世主
◇梅田にシングル1泊1600円 今はネットカフェなどと競合
残業や飲み会などで終電を逃した時、朝までどこで過ごすか。マンガ喫茶やネットカフェが普及する以前、大阪・梅田に登場したカプセルホテルはサラリーマンの救世主だった。
「2月1日ホテルが進化する」「シングル一泊¥1600で誕生!」
79年、大阪市北区の阪急東通りに開業した、世界初のカプセルホテル「カプセル・イン大阪」は、運営するニュージャパン観光(現ライフタイムズ)の大プロジェクトだった。同社がサウナ店を開いていたビルを買収、3〜5階部分に450人宿泊可能の施設を設けた。投資額は7億円。2000万円かけて、新幹線車内や週刊誌にも広告を出した。「初日は満床。その後も10年間は稼働率90%以上だった」。開業準備に携わった中野佳則・ライフタイムズ社長(61)は振り返る。
時代は高度成長期。団塊の世代が社会人となり、「よく働き、よく遊べ」の時代。24時間営業のサウナ店の仮眠室が人であふれているのを見て、当時社長だった中野さんの父幸雄さん(故人)がビジネスチャンスをかぎ取った。
ヒントは、日本万国博覧会(大阪万博)に登場したタカラ・ビューティリオン館。建築家・黒川紀章さん(故人)の建築理論メタボリズム(新陳代謝)を具体化したこの建物は、交換可能な四角いカプセルを組み合わせてつくられていた。
「カプセルと言えば黒川紀章」。担当常務の見達(みたて)和男さん(故人)は一面識もない黒川さんの事務所に直接電話し、設計を依頼。そこで黒川さんの事務所の大阪事務所長、後藤隆義さん(68)を紹介された。後藤さんは「本来の仕事とは違うが、限られたスペースにテレビやラジオをどう組み込むかを考えるのは、究極の設計を考える訓練になると思った」と笑う。見達さんのアイデアを後藤さんが繊維強化プラスチック製のユニットに組み込んでいった。
ビジネスホテルの半額以下という安さが売り。だが、環境が悪いと客の質も下がる。ラウンジの調度品を豪華にし、従業員の制服は人気SFドラマ「スタートレック」をモデルにした。「未来」「宇宙」がコンセプトだった。
同社の成功を受け、後追いの施設も全国に登場した。中野さんは「大きな個室にしたり、女性専用フロアを設けたホテルも登場しています。時代にあったカプセルホテルづくりはこれからも続くでしょう」と話す。【高野聡】
(毎日新聞 2010年7月21日)
832
:
名無しさん
:2010/07/26(月) 20:50:18
百舌鳥・古市古墳群 世界遺産暫定リスト入りで講演
http://www.sankei-kansai.com/2010/07/26/20100726-041736.php
「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産暫定リスト入りを記念した講演会が25日、堺市中区の大阪府立大中百舌鳥キャンパスで開かれ、市民ら約400人が参加。世界各地の世界遺産の特徴や、世界遺産条約の内容などについて学んだ。
世界文化遺産の登録の審査をするICOMOS(国際記念物遺跡会議)の前副会長で、日本イコモス国内委員会委員長の西村幸夫氏が「世界文化遺産の考え方」と題して講演した。
西村氏は、内戦で破壊されたクロアチアの古都ドブロヴニクの町並みや、アフガニスタンのバーミヤンの石仏を紹介。民族が違えば、破壊の標的になることもあるとしたうえで、「国や人種を越え、人類共通の宝物として保護していくことが世界遺産の基本的な考え方」と説明した。
また、世界各地の世界文化遺産をスライドで紹介しながら、特徴や登録までのプロセス、最近の傾向などを説明した。
また、九州歴史資料館館長で九州大名誉教授の西谷正氏が、ピラミッドなど世界の巨大古墳を紹介しながら「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産としての価値について話した。
833
:
名無しさん
:2010/07/26(月) 20:59:42
■大阪・東住吉区 「模擬原爆」被災地で追悼式
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE100726170200371805.shtml
広島・長崎の原爆の前に大阪にも「模擬原爆」が落とされたのをご存知でしょうか。
65年前の7月26日、米軍機が大阪市東住吉区に投下したもので、被災地では26日朝、遺族らが参列して追悼式が営まれました。
午前9時26分、爆弾投下と同じ時刻に犠牲者への黙祷で始まった追悼式には遺族や地元の住民ら80人が参加しました。
東住吉区田辺は、65年前の7月26日、米軍機が原爆投下の訓練を行なった場所で80人の死傷者がでました。
「玄関の前でしゃがみこんで伏せてたんです。落ちたところは何もかも無くなっていて―」(被害者)
「模擬原爆」は広島・長崎への原爆投下を成功させるため同じ形状の爆弾を使い、ほかに東京や愛知などで50発が投下されました。
「戦争は勝った負けたやなくて殺し合い、どちらにせよ命に関わることをするので(戦争は)絶対避けてほしい」(被害者)
参列者は犠牲者の冥福を祈るとともに、若い人たちにも戦争の悲惨さ知って欲しいと訴えていました。
(07/26 19:07)
834
:
名無しさん
:2010/07/26(月) 21:08:09
>>833
形が南瓜に似ているのでパンプキン爆弾と呼ばれたようです。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/mogigennbaku.htm
日本に対する高高度(高度3万フィート「約9千メートル」)からの人類初の原爆投下を成功させるための投下訓練と、
爆発後の放射線から逃げるための急旋回(急転、退避)の訓練を目的として、米軍第509混成群団は、1945(昭和20)年
7月20日から8月14日にかけて、東京、富山、長岡(新潟県)、敦賀(福井県)、福島、島田(静岡県)、焼津(静岡県)、
浜松(静岡県)、名古屋、春日井(愛知県)、豊田(愛知県)、大垣(岐阜県)、四日市(三重県)、大阪、和歌山、宇部(山口県)、
新居浜(愛媛県)など1都2府15県29市町(現在の自治体数)の44目標に模擬原爆49発を投下(計18任務、延べ50機)、
約420人が死亡、約1200百人が負傷した(「春日井の戦争を記録する会」の調べ。なお、模擬原爆と判明したのは1991年)。
大阪に模擬原爆が投下された65年前の今日は、奇しくもポツダム宣言が発表された日です。
835
:
名無しさん
:2010/07/27(火) 19:50:55
ネット右翼さんたちは普段大阪を中朝韓と同列扱いしてるくせに、
中朝韓を叩く時は福沢諭吉の脱亜論を引き合いに出すんだよな。
単に無知なだけかも知れんが。
836
:
名無しさん
:2010/07/27(火) 19:53:43
>>835
ネット右翼の方々はご都合主義なので仕方無いですよ。
837
:
名無しさん
:2010/07/28(水) 19:33:10
ものの始まり・なんでもなにわ:/41 自転車博物館 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100728ddlk27040281000c.html
◇健康や環境保全に一役 安全性、快適性を追求し進化 歴史を5段階に分けて展示
自転車博物館サイクルセンター(堺市堺区大仙中町)は「日本で唯一の自転車博物館」とアピールしている。自転車部品メーカー・シマノが作った財団法人、シマノ・サイクル開発センターによって、92年4月に開館した。
自転車は堺の地場産業の一つ。自転車が人の健康や環境保全に役立つ道具であることを広め、自転車産業の発展と国民生活の向上を目指して、博物館を造った。
3階建てで、1階は自転車のDVDを鑑賞できる多目的ホール、自転車の本をそろえた図書館がある。子どもたちが自転車を描いた絵画コンクールの特選作品も展示されていた。夏休みで、展示中の自転車を描く子どもの姿も見られた。収蔵庫には、日本で最初に作られたマウンテンバイク、世界選手権で10連覇を達成した中野浩一さんが使った自転車があった。
2階は、自転車が発達していった歴史が5段階で分かる展示になっている。「世界最古の自転車」「自転車の元祖」といわれる1818年のドイツ製の木製自転車の複製は、存在感がある。二つの車輪を前後に並べて、その間にまたがり、地面をけって走った。バランスをとるハンドルは付いていた。ペダルはまだなかった。1830年ごろまで、独、英、仏の各国で流行したという。
同館によると、1860年代になると、ペダルが付き、車体が鉄製に代わり、大量生産されるようになった。1880年代になると自転車レースが盛んに。より速く走る自転車が英国で作られた。さらに、自転車は安全性、快適性を追求して進化してきた。
3階には、世界の自転車レースであるツール・ド・フランス、ジロ・デ・イタリア、世界選手権の優勝者が使った自転車を展示。自転車のルールとマナー、安全点検、ブレーキの役割、変速機の仕組みを説明した展示もある。初心者用の自転車乗り方教室、クラシック自転車(複製品)の体験試乗もある。
博物館の最寄り駅はJR百舌鳥駅。時間に余裕のある人は、南海・JR三国ケ丘駅から仁徳陵の周辺を散策しながら行くのもいいかもしれない。
開館は午前10時から午後4時半(入館は午後4時まで)。月曜、祝日の翌日、年末年始は休館。入館料は大人300円、中高生200円、3歳から小学生・65歳以上100円。
問い合わせは、同博物館(072・243・3196)。【山田英之】
==============
「こんななにわの初モノ知ってるでぇ〜」という情報をお待ちしています。ファクス(06・6346・8444)かメール(at−osaka@mainichi.co.jp)で、おおさか支局までお寄せください。
838
:
名無しさん
:2010/07/28(水) 19:47:16
>>835
右派御用達の極東・ニュー速+より左派・右派混在のニュー速のほうが
大阪はめちゃくちゃに叩かれてるけど…
あとネットなんだから誰が書いてるかなんてわからないじゃない
839
:
名無しさん
:2010/07/28(水) 19:51:46
半世紀ぶりに蘇るクジラの記憶 幟旗など発見 堺・出島の漁師奉納
http://www.sankei-kansai.com/2010/07/28/20100728-041841.php
堺・出島の漁師たちが住吉大社(大阪市住吉区)に奉納していた巨大なクジラの山車(だし)の目玉部分と幟(のぼり)旗などが、地元の漁協事務所で約半世紀ぶりに見つかった。山車の奉納は昭和29年を最後に行われておらず、関係者は「堺で漁業が盛んだったころの祭りの様子を知る貴重な資料」と話している。
堺区出島西町の漁協事務所で、かたづけをしていた役員の大目良男さん(69)が今月中旬、箱の中に保管されているのを見つけた。
幟旗(縦185センチ、横70センチ)は白地の綿布に墨などで「住吉丸 大鯨」などと記載。一緒に見つかったクジラの目玉(縦20センチ、横60センチ)は、ガラスと木で作られていた。
住吉大社によると、クジラの山車は、現在も行われている住吉大社から宿院頓宮(とんぐう)(堺市堺区)まで神輿(みこし)をかつぐ「神輿渡御(とぎょ)祭」を前に、出島の漁師たちが奉納していたという。
大社の記録では、明治20年、42年、昭和6年、29年と約20年ごとに奉納されており、社殿の大改修などの大社の慶事の前後に行われていた考えられている。
昭和29年の山車は、竹を編んでクジラをかたどった全長約27メートルに及ぶ巨大なもので、今回、見つかった目玉は頭の部分に取り付けられていたとみられている。
地元では「鯨まつり」と親しまれていたといい、発見した大目さんも昭和29年の祭りに参加。住吉大社に山車を奉納する途中、お囃子(はやし)や踊りに合わせて、クジラを突く役などをしていたという。
しかし、祭りの由来など詳しいことは分かっておらず、大社権禰宜(ごんねぎ)の小出英詞さん(35)は「クジラは『海の神様のお使い』といわれていた。堺へ下る神輿渡御を前に、堺の漁師たちが先にクジラをお迎えとして大社に遣わしたのかも」と話している。
また、地元郷土史家、鎌苅一身さん(62)は「堺の沖合の大阪湾には当時、よくクジラが現れていたが、なぜこうした祭りが行われていたか、今後調べていきたい」としている。
クジラの山車の目玉などは、堺市堺区の大浜公園で31日に開かれる堺大魚夜市で展示される。
840
:
名無しさん
:2010/07/28(水) 20:50:21
>>838
まあニュー速の叩き方は冗談交じりがあって真剣みが薄いけど
ある種VIP板などと同じで全体的にネタでやってる板だと思う。
まあ一部例外もいるけどな
だが、ニュー速プラスの方は真性の叩きが混じってる感じがするな
俺はプラスのほうに狂気を感じる。
すれ違いスマソ
841
:
名無しさん
:2010/07/29(木) 19:17:52
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/175 紡績工業発祥の地 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100729ddlk27070341000c.html
◆大阪市大正区
◇新田開発の功労者、泉尾や平尾にも
◇明治16年三軒家で操業
前回は新田開発の功労者、岡島嘉平次について触れたが、現在の大正区の土地を開いたのは1人だけではない。
岡島嘉平次が開いた千島の北の泉尾(いずお)は、1702年に工事が完了した。開墾したのは豪農の北村六右衛門。「この人は和泉国踞尾(つくお)村の人で、和泉の泉と踞尾の尾を取って、泉尾です」と大阪案内人の西俣稔さん。踞尾は今の堺の津久野だ。
「大正区今昔話」によると、六右衛門は慈悲深く、豪放な人柄で、困窮している人は救い、お寺や神社には寄進し、旅人が迷うのを見て道標を建てたりしたと伝わる。
私財を投じて開いた泉尾新田だったが、1707年の大地震で、津波にのまれてしまった。84歳の六右衛門は先頭に立って復興に乗り出し、その姿に小作人たちが感激してあとに続き、日夜努力のかいあって、翌年の春には新田を復興させた。
泉尾新田は明治時代になっても北村家が所有していたが、北村家が創設した北村銀行が破産し、やむなく土地を手放さざるを得なくなった。踞尾村の家屋敷も失った北村家を、泉尾の住民が迎え、以来、北村家は大正区に住み続けている。泉尾の南隣の北村という地名は、北村家の功を今に伝えている。
大正区の南に位置する平尾は、岡島嘉平次から土地を譲り受けて開拓した平尾与左衛門の名を取って付けられた。新田は開発した功労者の名を付けるのが一般的だったようだ。
西俣さんは「昔の人たちの大変な苦労を、地名に残しているのはすばらしいこと」と言う。礎を築いた人々の名は、これからもずっと語り継いでいきたい。
◇地域振興に大きな役割 その後、造船やれんが工場も
こうして芦原や砂州が開かれ、田畑や人家ができた大正区は、明治になると工場が建ち並んでいく。「近代紡績工業発祥の地」の碑がある三軒家公園は、大阪紡績(現東洋紡)の三軒家工場跡だ。
大阪紡績が1883(明治16)年7月、本社を置いて操業を始めた。実業家の渋沢栄一や藤田伝三郎が出資して大阪紡績が設立されたのはその前年のこと。日本初の民間会社による紡績業であった。
三軒家の地を選んだのは、原材料や製品を輸送する水運の便が良かったから、とされている。だが、東洋紡社史編集室の村上義幸さん(80)は「どこでも良かったんだと思いますよ。最初は中津に土地を借りる話があったが、大阪府のあっせんで三軒家に決まったんです」と解説してくれる。
1万500錘の機械が並ぶ、当時としては巨大な工場で、明治19年には夜間操業のために発電機を導入。不夜城のように浮かぶ工場の見学者が絶えなかったという。これについても村上さんは「夜間操業は最初からやってたんですが、石油ランプをたくさんともしてたんです。数が多いから手間がかかるのと、危ないので電気を使おうと」。関西では初の発電機だった。
また、工場の周辺には飲食店や寄席などができてにぎわい、地域振興に果たした役割も大きかった。あとを追うように、造船やれんが工場などが次々に今の大正区にできていく。【松井宏員】
842
:
名無しさん
:2010/07/30(金) 20:49:50
「東洋一」の歴史、映像でたどる…名建築・大阪 高島屋東別館
http://osaka.yomiuri.co.jp/eco/news/20100730-OYO8T00242.htm
2日、大阪・北区で上映
昭和初期の建築を伝える高島屋東別館(大阪市浪速区)の歴史をたどるドキュメンタリー映像作品が8月2日、大阪市北区天神橋6の市立住まい情報センターで上映される。
高島屋東別館は1928年から37年にかけて、松坂屋大阪店として建設。テラコッタ彫刻で飾られた外観や、堺筋に面した延長67メートルの大アーケードなど豪華な装飾が施され、「東洋一の百貨店建築」と称された。
映像作品は、関西の近代名建築を撮影している映像作家の若林あかねさんが昨年、自主制作。屋上プールや大阪大空襲の焼け野原の中に残る姿など、当時の貴重な写真と現在の映像を重ねながら建物の魅力を紹介している。上映時間は約30分。
府建築士会が2日午後6時半から開くシンポジウム「近代建築に見る大阪の百貨店とくらし」の中で上映。参加費1000円。定員250人。申し込み、問い合わせは府建築士会(06・6947・1961)へ。
(2010年7月30日 読売新聞)
843
:
名無しさん
:2010/08/01(日) 21:08:02
災厄はらう茅の輪くぐり 住吉大社で夏越祓神事
http://www.sankei-kansai.com/2010/08/01/20100801-042016.php
住吉大社(大阪市住吉区)で31日、神事のひとつ「夏越祓(なごしはらい)神事」が執り行われ、中世の旅姿の女性にふんした夏越女(なごしめ)や、稚児が境内3カ所に設けられた「茅の輪」をくぐり、半年間の災厄をはらった=写真。
同大社五月殿で大はらい式を行い、上方文化芸能協会夏越女保存会のメンバーらがふんした夏越女と稚児を先頭に、茅の輪をくぐり、一般参詣者らも続いた。第一本宮では例大祭が行われ、神楽女による熊野舞や地元小中学生らの住吉踊が奉納された。
844
:
名無しさん
:2010/08/04(水) 07:06:30
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100804-OYT8T00081.htm
防空壕跡公開 「戦争」 問う
65回目の終戦記念日を前に、堺市に残る貴重な防空壕(ごう)跡などを見てもらおうと、市民団体「昭和の庶民史を語る会」(柴田正己代表)は10日、「戦争と平和を考える幻燈(げんとう)の夕べ」を開く。壕跡が残る会場の「ギャラリーいろはに」(堺区甲斐町東)では、昭和戦争中に撮影されたスライドを上映、召集令状などの資料も展示する。
防空壕は、市中心部の商店街にある同ギャラリー地下に残り、ふたを開けると、コンクリート壁の横穴が深さ1・8メートル、幅1・5メートル、奥行き4メートルにわたって続く。
オーナー北野庸子さん(60)によると、北野さん方は約100年前から洋服店を営み、戦時中に商店街の各店舗は、軍の指示で壕を掘ったという。一帯は1945年7月の堺大空襲で焼け野原になり、再建時と11年前にギャラリーに建て替えた際、壕を埋めずに残してきた。当日は一般公開され、北野さんが壕の概要を説明する。
同ギャラリーではほかに、午前10時から資料約20点を展示し、大空襲の被災地図や、出征兵士を見送るための旗などが並ぶ予定。午後6時からはスライドを上映し、大空襲で焼け野原になった光景や、「大阪砲兵工廠(こうしょう)跡」などの戦争遺構を紹介する。
北野さんは「実物の遺構は説得力がある。歴史を風化させず伝えるため、できる限り公開したい」と話した。問い合わせは柴田代表(072・236・3357)。
(2010年8月4日 読売新聞)
845
:
名無しさん
:2010/08/04(水) 19:55:41
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100804ddlk27040431000c.html
ものの始まり・なんでもなにわ:/42 都こんぶ /大阪
◇甘酸っぱい愛“80年” 空白満たした昆布に味つけ CMに三平さん、一躍人気
ほおばれば、甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。遠足のおやつに必ずと言っていいほど入っていた酢昆布「都こんぶ」(1箱税込み105円、15グラム入り)は、大阪で生まれて約80年。「酸っぱくないとだめ。地味な商品だけど、ずっと変わらないものがあってもいいでしょ」。堺市に本社を置く「中野物産」の常務、木村史郎さん(63)が笑った。
ロングセラーを生み出したのは、京都出身で堺市の昆布問屋に奉公に出ていた故・中野正一氏。空腹を満たすため、昆布の切れ端を食べながらふと思った。「味をつけたらお菓子になるんちゃうか」。中野さんは19歳で独立し、1931年に創業。酢漬けした昆布を作り出し、望郷の思いを込めて「都こんぶ」と命名した。
同社総務部長の岸田隆夫さん(62)が振り返る。「人の集まるところに売りに行け、が創業者の口癖でした」。中野氏が目をつけたのが、鉄道弘済会の売店(現在のキオスク)だった。小さな箱なら狭い店頭に収まり、客も手に取りやすい。53年には東京に営業所を設け、人気者だった先代の林家三平さん(故人)を起用したテレビCMを展開。社員たちはオレンジ色と黄色の目立つ車で営業に飛び回り、都こんぶは一気に全国区となった。
原料は、柔らかくて酢昆布に適した北海道南部の真昆布にこだわる。乾燥された長さ5〜10メートルの昆布を酢に漬けて、熟成させていく。箱詰めまでに約1週間。昆布の厚さや天候などで酢漬けの時間を変えるなど、微妙な調整が必要となる。従業員約130人が手作業で担っているといい、「機械化の時代でも、うちでは当たり前。他にはできないまじめさが誇りです」と木村さんが胸を張る。
会社存続の危機もあった。昭和40年代には人工甘味料「チクロ」が発がん性物質と指摘され、使用禁止となった。甘みが昆布に浸透するのは砂糖ではなく、チクロだった。業績が悪化し、生産量が減ったが、活路を見いだしたのはアミノ酸の粉だった。昆布にふりかけることで、うまみもアップ。新たな都こんぶの誕生だった。
もちろん、伝統を守るだけではない。指でつまむと湿った感触の都こんぶに対し、カラカラに乾いた「おしゃぶり昆布浜風」などは、コンビニエンスストアで定番の商品になった。9月1日には都こんぶのショウガ味を発売する予定だ。酸っぱさを抑えて、まろやかな味に仕上がったという。「昆布は限りある資源。素材を守りつつ、味に変化を持たせて恥ずかしくない商品を作り続けたい」。木村さんが熱っぽく語った。【服部陽】
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「こんななにわの初モノ知ってるでぇ〜」という情報をお待ちしています。ファクス(06・6346・8444)かメール(at−osaka@mainichi.co.jp)で、おおさか支局までお寄せください。
846
:
名無しさん
:2010/08/05(木) 06:57:56
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100805-OYT8T00092.htm
河内六寺 鳥坂寺跡 古墳壊して造成か
金堂跡付近から埴輪確認
飛鳥時代末から奈良時代に建てられた河内六寺の一つ「鳥坂(とさか)寺」跡(柏原市高井田)の発掘調査で、同寺の金堂跡南側に造成地が確認され、前期古墳時代のものと見られる埴輪(はにわ)や石材が出土したと、柏原市教委が4日発表した。「古墳を壊して盛り土をし、金堂や講堂を建設したとみられる」としている。
河内六寺は、8世紀に書かれた「続日本紀」で、孝謙天皇が参拝したと記載される由緒ある寺。鳥坂寺については、府教委と奈良文化財研究所が1961年と翌年に初めて発掘調査し、金堂(基壇縦15メートル、横18メートル)と講堂(同縦20メートル、横32メートル)、塔の跡(同8メートル四方)を確認し、7世紀後半に創建されたと分析。その後埋め戻されたが、市教委は国史跡の指定を目指し、昨年度から改めて発掘、遺構範囲の確認調査を行ってきた。
市教委は、造成地には中門が建てられていたと推定。61年からの調査では、金堂の南西約80メートルの塔跡からも、前期古墳時代の石が出土していたが、今回の調査で改めて、金堂や講堂、中門についても、古墳を壊して造成されたことが判明した。
市教委は理由を「大和川が見下ろせる絶好のロケーションにあり、周辺は斜面で、ほかに適当な建設地もなかったからでは」と推察。
森郁夫・帝塚山大名誉教授(歴史考古学)は「当時は仏教による鎮護国家思想が広まっていった時代。柏原には熱心な仏教信者が多く、古墳を壊してでも寺を建てようとした可能性はある」と話している。
7日午前10時から現地説明会を開く。
(2010年8月5日 読売新聞)
847
:
名無しさん
:2010/08/05(木) 19:22:19
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100805ddlk27070420000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/176 シボレー /大阪
◆大阪市大正区176
◇自動車王国になってた?!
◇三軒家工場しのぶ赤レンガ−−大阪紡績
1914(大正3)、大阪紡績が三重紡績と合併して東洋紡となり、本社を現在地の北区堂島浜に移すまで、大阪紡績の本社は工場のあった三軒家に置かれていた。従って、東洋紡の発祥の地は三軒家ということになる。
東洋紡社史編集室の村上義幸さん(80)によると、1952年、社史を編さんすることになった時、当時の社長が「大阪紡績が設立認可された明治15年5月3日を創立記念日とする」という社内通達を出した。
三軒家工場は戦雲によって41年、操業休止となり、住友金属など他社に貸して軍需に転換。45年3月の空襲で焼失してしまった。
三軒家工場の遺構はなにも残っていないのか。東洋紡社史編集室を訪ねた折、村上さんが古びた赤レンガを見せてくれた。そのうちの一つは、三角形のような大阪紡績のマーク入り。「間違いなく、開業時の工場のレンガです」と村上さん。工場は総レンガ造りで、レンガはイギリスから輸入したという。恐らく、空襲の焼け跡から、誰かが拾って保存していたのだろう。
三軒家工場をしのぶものは、このレンガしかないのだ。
◇昭和2年、鶴町にGM工場
◇戦争で操業中止、14年間で15万台販売
工場つながりで、自動車工場の話をしよう。ひょっとしたら大正区が自動車王国になっていたかもしれないのだ。もう知る人も少ないが、アメリカのゼネラル・モーターズ(GM)の工場が戦前、大正区にあった。そればかりか、クボタが出資した「実用自動車製造」も国産自動車を開発していた。この会社は日産自動車の前身となる。
まずはGMから。「横浜製フォード、大阪製アメリカ車」(230クラブ発行、サトウマコト著)などから引いてみる。
横浜に工場を構えたフォードに対抗し、GMは遅れること2年、1927(昭和2)年に日本ゼネラルモーターズを設立して、大正区鶴町1(当時は港区)に工場を建てた。
日本で組み立てを始めたフォードに価格で対抗できず、急ぎ日本で工場建設を計画。当初は横浜市が誘致に熱心だったが、GMはフォードが先に進出しているのが気に入らず、このすきを突いて、大阪市が免税などの優遇措置で猛烈に勧誘したのだった。工場は、船町の渡し近くの紡績工場倉庫のある土地の提供を受けた。工場の建物は、名建築家ボーリズが手掛けた。
開業は4月8日。この日の大阪毎日新聞に、日本GMの広告が載っている。「本日を期して 日本ゼネラル・モータース株式会社大阪工場は新型シボレー号の製作に着手致します」と高らかにうたい、その安さを強調している。幌型が1950円、セダンが2700円。教員の初任給が45〜50円の時代、輸入より安くなったとはいえ、庶民には高根の花もいいところだ。
府知事や神戸駐在米国領事らが出席した開業式の模様を、大阪毎日は「一時間に四台づつ自動車が出来る」の見出しで報じている。
資本金は800万円で、シボレーやビュイック、オペルなどを月に2000〜2500台製造。第2工場も増設し、合計で約5万平方メートルにもなった。第二次大戦開戦で操業中止に追い込まれる41年までの14年間で約15万台を販売した。再び日本GMが設立されるのは、93年のことだった。【松井宏員】
848
:
名無しさん
:2010/08/07(土) 06:31:09
焼失本殿悲願の再建 吹田・吉志部神社
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100807-OYT8T00071.htm
前宮司の長男 遺志受け継ぐ
2年前に火災で国重要文化財の本殿が全焼した、吹田市岸部北の吉志部(きしべ)神社で、再建工事が進んでいる。完成を心待ちにし、「たくさんの人が訪れる神社に」と口癖のように言っていた、宮司の奥田富夫さんは今年初め、84歳で亡くなった。本来なら本殿建立400年の年。跡を継いだ長男の正夫さん(48)は「みなさんの協力でここまでこられた。父の思いを受け継いでいく」と話す。7日には上棟式が行われる。
火災は2008年5月23日に発生、本殿が全焼したほか、拝殿の一部と社務所の玄関部分が焼けた。火の気はなく、吹田署は放火の疑いがあるとみて捜査を続けている。
本殿は江戸時代初期の1610年に建立。全国でも珍しい、七つある柱の間に神をまつる「七間社」という造りで、1993年に重文指定された。
火災時、警察から連絡を受けて、正夫さんが約500メートル南の自宅から駆けつけた時には「あるべきものがなく、煙とホースを持った消防士しか見えなかった」とがくぜんとした。入院中だった富夫さんもすぐに来て、2日後には氏子総代会を開き、再建を決議した。
だが、設計図は残っておらず、約20年前に桜井敏雄・元近畿大教授(建築史)が学生と調査に訪れ、写真を撮ったり、寸法を測っていたりしたことを富夫さんが思い出し、桜井さんに「元通りにしたい」と依頼した。
焼失したことで重文指定は解除されたが、桜井さんは半年かけ、焼け跡から残った木材を引っ張り出すなどして、柱の接合部分や屋根の角度を調べ、「97%は元通りになる」と話した。
神社にお宮参りに来たことがある人や氏子らから多くの見舞金や寄付が寄せられ、神社の基金を活用することで資金のめどがつき、今年1月9日に地鎮祭を行った。その3日後、長く闘病していた富夫さんは息を引き取った。本殿焼失のショックは口に出さず、火災当日に神社からの帰り道で一度涙を流しただけで、復興に向けてまい進していたという。上棟式後は、檜皮葺(ひわだぶ)きの屋根をはじめ、壁や床を仕上げ、来年3月の完成を目指している。
富夫さんが宮司になったのと同じ48歳で跡を継いだ正夫さん。「父に見せたかった。神様が喜び、人がエネルギーを持って帰れる神社にしていきたい」と意を新たにしている。
(2010年8月7日 読売新聞)
849
:
黒澤主義
:2010/08/09(月) 00:44:42
堺・御廟山古墳 家形・囲形の埴輪出土…王族級の祭祀施設か
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100807-OYO8T00492.htm?from=ichioshi
堺市の百舌鳥(もず)古墳群にある陵墓参考地・御廟山(ごびょうやま)古墳(5世紀中頃)から、家形埴輪(はにわ)と、塀状の囲形(かこいがた)埴輪が宮内庁などの調査で出土した。神社建築と同様の屋根飾りが家形埴輪に施されていることなどから、王族級の被葬者が祭祀(さいし)を営んだ施設を模したとみられる。
御廟山古墳は、仁徳陵古墳と同時期に築造された全長約200メートルの前方後円墳で、同古墳群では4番目の規模。2008年、宮内庁が堺市教委とともに調査し、出土した破片の接合作業を進めていた。
家形埴輪(幅16センチ、奥行き22センチ、高さ50センチ)は切り妻の屋根の両端でV字形に交差させた「千木(ちぎ)」、棟木の上に横に並べた「堅魚(かつお)木(ぎ)」などの飾りを備えていた。囲形埴輪(幅55センチ、奥行き約90センチ、高さ41センチ)は、円柱の間に塀を設けて形作られていた。
囲形と家形がセットで出土したのは、大阪府八尾市の心合寺山(しおんじやま)古墳など数例。一部の埴輪には、屋内の床上に水を引く樋(とい)のような構造が共通してみられることから、今尾文昭・奈良県立橿原考古学研究所総括研究員は「5世紀の大王や地域の首長が司祭として、水にかかわる祭祀を営んでいたと考えられる」としている。
(読売新聞 2010年8月7日)
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名無しさん
:2010/08/09(月) 22:44:11
先祖思い万灯供養 聖徳太子ゆかりの大阪・四天王寺で
2010.8.9 22:16
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100809/trd1008092217009-n1.htm
聖徳太子ゆかりの四天王寺(大阪市天王寺区)で9日、先祖供養の法要「盂蘭盆(うらぼん)会万灯供養」が始まった。計約1万本のろうそくにあかりがともされ、厳粛な境内をほのかに照らした。16日まで。
四天王寺の盂蘭盆会の法要は飛鳥時代から続くとされ、戦後に万灯供養が加えられた。万灯供養は参拝者らの先祖の名を記したろうそくを金堂と五重塔の周辺で灯し、霊をなぐさめる。
日が沈むと、僧侶たちが読経しながら無数に揺らめく炎の間を練り歩いた。参拝者も手を合わせながら後に続き、静かに今は亡き肉親に思いをはせていた。
852
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名無しさん
:2010/08/10(火) 08:19:00
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100808/20100808097.html
会報紙終刊 旧満洲「玉砕未遂」経験の従業員ら
2010年8月8日
終戦直後の旧満洲で、「玉砕未遂事件」を経験した関東軍火工廠(こうしょう)の従業員らが内地に引き揚げ後結成した会がこのほど解散し、会報紙「西部白塔」の最終号の発行をもって活動の幕を閉じた。爆薬の上で死を待つという特異な経験をし、全国に散らばった仲間をつなぎとめてきた西部白塔。発行に携わってきた面々=関西在住=は「みな高齢になった。寂しいことだが仲間を思って老後を過ごしたい」と活動を締めくくった。
命懸けの交渉
同火工廠は遼陽郊外にあった爆破火薬の製造所で、軍人軍属、その家族ら数千人規模の大集団だった。玉砕未遂事件が起きたのは1945年8月25日。ソ連軍の「男子全員海城へ集まれ」の命令を受け、部隊の幹部らが緊急対策を練った。敗戦国民ゆえ、「男子がいなくなれば残された家族が危ない」という状況だった。
話し合いの結果、「幹部数人が遼陽に行ってソ連軍司令官に事情を説明し、命令撤回を懇願する」ことが決定した。もしも交渉が決裂したならば、「全員で玉砕する」ことを覚悟の上だ。
玉砕するか、青酸カリを飲んで後追い自殺するか、自由行動をとるか。どの道を選ぶかは各自の判断に任せられ、小学校の講堂には約5トンの爆薬を積んで玉砕の準備が進められた。玉砕を選んだ多くの人たちと一緒に爆薬の上に立った当時21歳の橋川美佐江さん(86)=門真市=は「内地の方を向いて手を合わせて、その時を待った」。
24時を過ぎたころだった。軍靴の足音とともに、「交渉成立!」という叫び声が近づいてきた。「皆で肩を抱き合って喜んだ。助かったんだと涙がこぼれて止まらなかった」。しかし、最悪のことを考えた末に早まって子供に薬を飲ませて先に逝かせた家族がいたことも知った。「どんなにふびんだったか。尊い犠牲だった」。苦しみも背負い、それぞれの家路についた。
特異な経験した仲間
引き揚げが完了した1948年に「遼陽桜ケ丘会」を発足。関東・中部・関西・九州の4支部を設置し、偲(しの)ぶ会や慰霊祭などを行ってきた。高齢化による会員の減少により、99年に解散。その後は支部ごとに活動してきたが順に解散し、最後に残った関西と九州で結成した西部桜ケ丘会もこのほど幕を下ろした。
会報「白塔」の創刊は50年1月。当初からずっと発行を手掛けてきたのは同会会長の加藤治久さん(95)=高槻市=だ。ガリ版刷りから始め、年に3、4冊制作し、会員の近況などを報告してきた。近年は体調を崩し、同副会長の林幸一郎さん(87)=神戸市=を中心に橋川さんや前田宮菜さん(84)=大津市=藤本正さん(満洲生まれ、65)=東大阪市=らが編集を手掛けてきた。
最終号(B5判、30ページ)には会員から募った満洲時代の思い出の寄稿文や、これまでの活動の歩みなども掲載。林さんは「加藤さんは1人でもやるという意気込みで、長年にわたり発行を続けてくださった。活字にするのは大変だったが、無くなるのは残念。これからも何らかの形で交流を続けていきたい」と寂しさを打ち消すようにほほ笑んだ。
853
:
名無しさん
:2010/08/10(火) 11:22:56
http://www.sankei-kansai.com/2010/08/10/20100810-042307.php
2010年8月10日
豊中空襲 30年ぶり続編発行へ
大阪府豊中市の市立第一中学校の郷土研究クラブの生徒らが昭和55年に自費出版した小冊子「豊中空襲」(B5判36ページ)の続編を30年ぶりに出版するため、当時の同クラブ顧問の男性が、体験の手記や写真、地図、生活用品といった資料を募集している。
続編を企画しているのは豊中市文化財保護審議会委員で梅花女子大講師の能登宏之さん。一中郷土研究クラブの顧問として昭和55年の出版を指導した。
「豊中空襲」は当時の部員が古い民家を訪ねるなどして資料を収集。昭和20年6月から7月に死者575人、被災家屋約3千戸と、府内で大阪市、堺市に次いで3番目に大きい被害を受けた豊中市内の被害状況や被爆体験者の話が、写真とともに掲載されている。
3千部を出版し、現在も小中学校や図書館で記録集として活用されている。
能登さんは、戦争の記憶を風化させず、次世代へ伝えるため続編の冊子の発行を決めた。
今回、募集しているのは豊中空襲の体験者か、豊中に学徒動員や学童疎開で生活していた人の手記。特に、国民学校に通学していた72歳以上の人の体験談を求めている。
体験談は400字詰め原稿用紙3〜4枚ほどの分量を想定。当時の写真や生活用品、状況図といった資料も募集している。
30年前に「豊中空襲」を出版した部員や保護者らの協力も得て、来年度中の発行を目指すという。
能登さんは「昭和19〜20年ごろの慌ただしい様子を次世代に伝えられれば」と話している。募集期限は10月30日まで。問い合わせは能登さん(電話072・723・9548)へ。
854
:
名無しさん
:2010/08/10(火) 15:40:33
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100810ddlk27040369000c.html
住吉大社1800年展:地域の暮らしや行事紹介−−20日から・大阪 /大阪
来年に鎮座1800年を迎える住吉大社(大阪市住吉区)にまつわる歴史資料などを紹介する「住吉は『1800年。』展」が20日から、大阪市西区の市立中央図書館1階エントランスギャラリーで始まる。9月1日まで、入場無料。
大阪市史編纂所とNPO法人「なにわ堀江1500」の主催。江戸時代初期の住吉大社や周辺地域の暮らしを描いた巻物を中心に、当時の生活や文化を紹介。商売繁盛を願う「初辰まいり」や田植えを行い豊作を祈願する「御田植(おたうえ)神事」など大社の年中行事も紹介する。29日午後2〜4時は同図書館5階大会議室で記念フォーラム「今に生きるなにわの心」が開かれ、鶴崎裕雄・帝塚山学院大名誉教授による基調講演や住吉大社をテーマにした創作舞踊が披露される。フォーラムも無料。問い合わせは市史編纂所(06・6539・3333)。【牧野宏美】
855
:
名無しさん
:2010/08/10(火) 19:58:10
http://www.liberty.or.jp/exhibition/extra_exhabit/index.html
第65回特別展
大坂のキタとミナミ
‐社会・文化・身分‐
2010年9月7日(火曜日)〜11月7日(日曜日)
大阪人権博物館 特別展示室
大阪の梅田周辺・道頓堀周辺はキタ・ミナミと呼ばれて親しまれています。こうした景観はどのようにしてつくられたのでしょうか。江戸時代の大坂は、大阪城を中心に武家屋敷が広がっていました。大阪城の西は商人の町です。堂島周辺では全国から集まった年貢米や諸国の物産が取引されていました。こうして商品経済の中心地となった大坂の町は「天下の台所」といわれるようになりました。道頓堀の周辺では芝居小屋や見世物小屋などが立ち並び、そこでは歌舞伎や浄瑠璃などの文化が育ちました。またその周辺には、かわた身分や「非人」身分などの被差別民もいました。大坂の歴史と文化は、商人や武士、宗教者、芸能者、被差別民などさまざまな身分の人びとの間でつくられました。本展では、キタ・ミナミを中心に、大阪の景観に刻まれた歴史を通して、大阪の社会・文化・身分について考えます。
展示構成
1.プロローグ:大坂三郷成立以前
2.第一部:キタ‐商人と武士‐
3.第二部:ミナミ‐庶民文化と被差別民‐
4.エピローグ:その後のキタとミナミ
展示概要
大坂三郷成立以前
近世の大坂三郷が成立する以前の国際的な港湾都市であった古代、熊野街道の起点として栄えていた中世の「大坂」の姿を古地図などで紹介します。
キタ‐商人と武士‐
大坂三郷の北縁はキタといわれています。「天下の台所」と呼ばれた近世大坂。全国の年貢米など取引がされ、武士・商人が行き交う堂島の周辺の歴史と景観と絵画や名所図などから見ていきます。
ミナミ‐庶民文化と被差別民←ここに注目
近世の道頓堀・千日前・難波新地の周辺は、芝居小屋や遊興空間が広がる大坂の庶民にとっての娯楽の場であり、上方芝居・浄瑠璃・上方落語などの上方文化が育っていきました。また、千日前周辺には、非人小屋・火葬場などもあり、被差別民とも深いかかわりがあった。古文書や地図などから道頓堀周辺の人びとについて考えます。近年関心が高まりつつある非人身分に関する資料も一同に集まります。
その後のキタとイナミ
近代になってめまぐるしく変わるキタ・ミナミの景観を中心に大阪の近代を考えます。
あんなとこに500円も払って行く気はないが、北高南低は単に東京の惑星になり下がったためだと思いきや、江戸時代から尾を引いていたとは。
芸人とりわけ吉本やら人権屋やら士農工商の埒外にいた連中が闊歩するのがわかる気がする。
861
:
名無しさん
:2010/08/11(水) 12:03:13
>>855
ちょっと違うような。梅田は埋田ですから、何か強引ですね。また上町も抜けていますし。
歌舞伎とある割には南での記載ではなぜか抜けてるし。
なんか強引過ぎるような気がしますね。寺社の関わりも抜けてるし。無理やりまとめた感が
否めません。
862
:
名無しさん
:2010/08/11(水) 13:56:46
キタ(梅田周辺)とミナミ(なんば周辺)があるなら、ヒガシとニシもつくろう。
864
:
名無しさん
:2010/08/11(水) 23:11:38
ヒガシ→京橋
ニシ→堀江
でいいんちゃう?
865
:
名無しさん
:2010/08/11(水) 23:14:30
ヒガシは実質、京橋やね。
現時点ではニシは堀江だけど心斎橋の横だし、
理想は南港あたりが育って欲しい。
866
:
名無しさん
:2010/08/11(水) 23:14:30
というか旧南区、旧東区があったので。歴史的なものを考慮すればあるかと
どうせなら南地に戻して欲しいけど
867
:
名無しさん
:2010/08/11(水) 23:17:00
堀江は完全にミナミの範囲になると思います。
以前弁天町がニシと呼ばれるように模索しているとどこかで見た気がしますね。
ヒガシはOBP含めた京橋でしょう、これも昔そう呼ぼうとしていたと言うのを見たことがありますね。
868
:
名無しさん
:2010/08/11(水) 23:21:50
ヒガシは京橋でニシは九条ですよ。
869
:
名無しさん
:2010/08/11(水) 23:23:37
九条かあ。
あそこはそこまで発展するかな〜?
870
:
名無しさん
:2010/08/11(水) 23:26:07
東西南北に無理やり入れ込む必要なし。
第2のターミナル天王寺は南南とでも呼ぶの。
871
:
名無しさん
:2010/08/11(水) 23:27:01
新大阪はキタキタだな
872
:
名無しさん
:2010/08/11(水) 23:47:55
>>869
発展するとかじゃなく、ニシと呼ばれていたってことね。
873
:
名無しさん
:2010/08/12(木) 10:13:47
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/0003305021.shtml
大阪大空襲65年 被災者の証言、DVDに収録
終戦から丸65年となるのを前に、大阪大空襲の被災者34人の肉声を収録したDVD(全5巻)が完成した。焼夷弾の直撃を受けた戦災障害者や、家族9人を一晩で失った孤児…。半世紀以上過ぎても、心と体に刻まれた傷跡は消えない。一人一人の証言が、戦争を知らない世代に平和の尊さを訴えかける。
制作したのは、ジャーナリストでつくるミニコミ誌「新聞うずみ火」(大阪市)の代表矢野宏さん(50)=尼崎市武庫之荘6。大阪府から平和教育の教材として委託され、昨秋から聞き取りを始めた。1945年3月13日から8月14日まで計8回、1万人を超す死者を出した大空襲の全体像をたどれるよう編集した。
ある女性はインタビューに応じた理由をこう語る。「孫の世代が、イラク戦争を『かっこいい』って言ったの。爆風の下で、どれだけ悲惨な光景が広がっているか想像してほしかった」。矢野さんは思わずハッとした。非常勤講師をする大学でも、同じ内容を口にする学生がいたからだ。
証言者の「2度と戦争を起こしたらあかん」という切実な思いがカメラを通して伝わってきた。これまでも空襲体験者の取材をしてきた矢野さんだが、「戦争を忘れたいけど忘れられない気持ちを、どこまでくみ取れていたか」と自省した。
DVDでは、当時の映像や写真を盛り込むだけでなく、戦後の半生も取り上げた。戦災孤児となって親せきから受けた虐待、自殺する家族、顔にケロイドが残り、鏡を見ることができなかった女性など、被害が一過性でないことを浮き彫りにするためだ。足に障害を負った小林英子さん(77)=西宮市=も登場する。
高齢化した被災者に共通するのは、平和を願う次世代へのメッセージ。矢野さんは「日常生活を奪う戦争の『記憶』を、『記録』として残したかった。生き証人の思いを届けたい」と話す。
各巻約30分。貸し出し無料。問い合わせはピースおおさかTEL06・6947・7208
(飯田 憲)
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:
名無しさん
:2010/08/12(木) 13:04:54
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100812/20100812036.html
幽玄の世界堪能 大阪薪能
2010年8月12日
夏の境内で繰り広げられる恒例行事「第54回大阪薪能」(能楽協会大阪支部、大阪薪能委員会主催)が11日、大阪市天王寺区生玉町の生國魂神社(中山幸彦宮司)で始まった。訪れた大勢の市民が、神火がともる中で厳かに演じられる幽玄の世界をしばし堪能した。12日まで。
1546(天文15)年に同神社の神前で能が演じられたとされる故事にちなんで、1957年から毎年開かれている。
境内では能「忠信」など続いて、神職や主催者らが火入れ式を斎行。ゆらめく炎に照らされる中、半能「井筒」、能「葵上(あおいのうえ)」が演じられ、幻想的な舞台で客席を魅了した。
12日は午後5時半開演(開場同4時半)で、能「清経」「龍虎(りょうこ)」などを予定している。
875
:
名無しさん
:2010/08/12(木) 14:53:33
終戦直後の行政混乱示す 陸軍幼年学校長「進退伺」発見
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100812/acd1008121122006-n1.htm
65年前の終戦直後に、大阪陸軍幼年学校長だった大野宣明陸軍少将(故人)が、学校運営に関して教育総監にあてた進退伺が、東京都内の大野校長の遺族宅で発見された。米軍進駐を巡るデマがトラブルの発端で、終戦直後の行政運営の混乱を示す貴重な文書といえそうだ。
■専門家「教育総監印、極めて貴重な公文書」
見つかった文書は縦20センチ、横40センチの和紙に、筆で「幹部ノ指導監督不行届ノ廉(かど)ニ依(よ)リ進退伺ス」としたためられている。日付は終戦6日後の昭和20年8月21日で、あて名は「教育総監殿」となっている。
余白に「其儀ニ及バザルモノト認ム昭和二十年八月二十三日教育総監」と朱筆で書かれ朱の押印があることから、進退伺は却下、返却されたことが分かる。終戦時の教育総監は、後にA級戦犯として極東軍事裁判で絞首刑となる土肥原賢二大将。ただ、主筆文の筆跡が土肥原大将本人のものかどうかは不明という。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100812/acd1008121122006-n2.htm
陸軍幼年学校は全国に6校あった陸軍将校を養成する学校。中学1年か2年生修了後に入学し、3年間の教育の後陸軍士官学校に進学する。大阪校は明治29年に大阪城南側に設置され、曲折を経て昭和15年に現在の府立長野北高校(河内長野市)の場所に移転、終戦時は約840人が学んでいた。
8月15日の玉音放送後、校長の大野少将は戦後の学校や生徒の処遇を協議するために急遽(きゅうきょ)上京。しかし直後に、米軍が紀伊半島に上陸して幼年学校生は殺されるとのデマが流れたことから、動揺した大阪校幹部は全生徒に私服での帰省を命じた。ところがこれがすぐにデマと判明、ラジオや電報で再度、生徒の帰校を呼びかけた。
しかし生徒の帰校は遅くなり、大阪校だけが全員そろっての閉校式を行うことができなかった。進退伺はこの混乱の責任を感じて提出されたとみられる。
戦中戦後の文書などに詳しい戦争遺構研究会の柴田正己代表は「この時代の公文書はその後焼かれるなどして残っているものは多くない。今回は私的な文書とはいえ、教育総監印もある公文書に類するもので、終戦直後の混乱期の様子が分かる点でも極めて貴重」と話している。
876
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名無しさん
:2010/08/13(金) 12:25:34
戦友よ、国へ帰ろう 86歳元兵士、シベリアへ遺骨収集
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201008120094.html
敗戦直後に旧ソ連・シベリアで収容所生活を送り、喜寿を過ぎて日本政府が派遣する遺骨収集団に参加し始めた86歳の元抑留者がいる。ほぼ毎年参加し、7回目となる今年は、自らの収容所があった地が収集先に選ばれた。12日、現地へと向かった元抑留者は「戦後はまだ終わっていない」と話す。
大阪府河内長野市の荒木正則さん。関東軍の予備士官学校生だった1945年8月、旧満州(中国東北部)で敗戦を迎え、ソ連軍によってシベリア・ハバロフスク地方の収容所に連行された。
ある夜、収容所にソ連兵の銃声が響いた。射殺されたのは、のどの渇きをいやすために雪を溶かして飲もうと、飯盒(はんごう)を手に鉄条網に近づいた戦友だった。前夜まで元気に話をしていた若い兵士が朝、冷たくなっていたこともあった。その遺体がどう処理されたのか今もわからない。
そして、自らも鉄道建設現場で重機にひかれ、九死に一生を得た。「飢えと極寒、重労働の『三重苦』。生き残った者と亡くなった者の差はなかった」。引き揚げ船で京都・舞鶴港に着いたのは1948年10月だった。
シベリアの小さな町で遺骨収集団の作業を偶然見たのは2002年夏。慰霊訪問団に参加したときだった。解けた凍土に泥をかぶった頭蓋骨(ずがいこつ)がいくつも転がる光景に胸をつかれた。くぼんだ目は涙を流しているようにも、怒りを表明しているようにも見えた。
「戦友をむごたらしい姿のまま放置していいのか」。翌年から遺骨収集団に参加。以後、ロシア側の都合で中止になった05年を除いて毎年参加し、これまで掘り起こした遺骨は644柱になる。
「お父さん、もうやめて」。昨夏、妻のスミ子さん(82)に言われた。体力的にも限界と感じ、昨年を最後にするつもりだった。だが、今年の収集団の行き先が「第5収容所・第3支部エボロン村」と聞いて、居ても立ってもいられなくなった。自らが収容所生活を送った場所だ。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201008120094_01.html
遺骨収集先は旧ソ連時代の資料を手がかりに、現地政府との調整によって決められる。自らの抑留場所が遺骨収集先に選ばれるのは「偶然が重ならないと難しい」(厚生労働省社会・援護局)。
これまでの遺骨収集では心の距離を置くことができたが、今回は閉じこめていた「ぞっとする記憶」が次々とよみがえった。同時に「無念の死を遂げた戦友のどくろをしっかり胸に抱いて連れて帰らねば」と使命感も強く感じた。
厚労省によると、エボロン村周辺では199人の遺骨が眠るとされる。現地政府の意向で、重機は使えず手作業で「これまでよりもハードな作業になる」という。
「一人でも多くの遺骨を胸に抱いて帰りたい。それが生かされた者の責務」。ポケットに、大学生の孫から送られたお守りをしのばせた。(武田肇)
◇
〈シベリア抑留者の遺骨収集〉1991年、訪日した当時のゴルバチョフ・ソ連大統領が、抑留中の死者約3万8千人分の名簿を日本側に引き渡し、厚生省(当時)が同年から遺骨収集団の派遣を始めた。国はシベリア抑留者を約56万1千人、うち死者を約5万3千人と推計。昨年までに約1万7千柱の遺骨の収集を終えたとしている。旧ソ連の資料では、遺骨があるとされるのは約650カ所。しかし場所の特定ができないなど、収集可能な場所は残り少ない。
877
:
名無しさん
:2010/08/13(金) 12:34:22
>>876
ロシア君、ひとこと謝ったらどうだね?
878
:
名無しさん
:2010/08/13(金) 13:08:46
戦争って結局勝ったほうが正義になる。
879
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名無しさん
:2010/08/13(金) 13:14:50
>>878
だよな
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名無しさん
:2010/08/14(土) 17:42:50
JR京橋駅で空襲被災者慰霊祭−終戦から65年「次世代に伝え続ける」
http://kyobashi.keizai.biz/headline/808/
JR京橋駅南口で14日、第56回京橋駅空襲被災者慰霊祭が行われ250人が参列した。終戦の1日前に起きた大阪空襲は京橋駅に直撃し、その犠牲者は500人とも600人とも言われている。
慰霊祭は午前11時、JR京橋駅・柳生頼成駅長の「戦争の悲惨さを戦争を知らない世代へ伝え、平和な世の中を築くことが私たちのつとめ」というあいさつから始まった。
続いて65年前の空襲時に京橋駅にいた同慰霊祭世話人会会長の京極俊明さん(79)が当時の体験を語った。
正午をまわった12時30分、空襲警報が鳴り響く京橋駅のホーム。人々は環状線の高架下にあたる片町線(現東西線)のホームに逃げ込もうと階段付近に殺到していた。その時14歳だった京極さんもその後に続こうとしたが、「ここにいないで離れろ」と数人の大人に促された。周りは地味な服装の人ばかり。カラフルな服を着ていた京極さんが動き回っていることで空襲の標的にされてしまう。それを避けるため、群衆から遠ざけられようとしたのだという。京極さんは薄情に感じながらも恐る恐る北口から駅の外に出た。その瞬間に数個の1トン爆弾が駅のホームを直撃したのだ。京橋駅は一瞬で焦土と化した。瓦礫(がれき)の山に埋まる死体、幼子を抱きかかえるようにして無言の死を遂げた母子、飛び散る手足や肉片、断末魔の叫びが飛び交う生き地獄となったという。
「もしもあの時、あの人たちが私を遠ざけなければ今の私は存在しない。以来、自分に降りかかる理不尽なことも前向きに受け止めるようになった」と、京極さんは言葉をかみしめるように語った。
祭壇には地元・聖賢小学校の児童たちが作った千羽鶴が備えられた。児童代表の6年生・井出本樹さん、辻弥侑さん、越智瑞希さんは、「千羽鶴を折っていて戦争の悲しさ恐ろしさを感じ戦争や平和について真剣に考えた。亡くなった尊い命のもとに今の幸せがあると感じている」と語った。
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名無しさん
:2010/08/14(土) 17:43:47
>>886
http://www.sankei-kansai.com/2010/08/14/20100814-042496.php
2010年8月14日
「もう1日終戦が早かったら...」 京橋空襲慰霊祭、遺族ら追悼
終戦前日の昭和20年8月14日の空襲で、数百人の乗客らが命を奪われたJR京橋駅(大阪市)で14日、犠牲者を弔う慰霊祭が営まれた。「もう1日終戦が早かったら…」。無念さを胸に、駅前の慰霊塔で遺族ら約200人が、さまざまな思いを抱えて静かに手を合わせた。
65年前のこの日、大阪城内の陸軍施設を狙ったとされる米軍のB29爆撃機の1トン爆弾が、近くの国鉄城東線(現JR大阪環状線)京橋駅を直撃。乗客らが犠牲になった。死者は身元が確認できた人だけでも200人余りにのぼり、実際は500人を超えるとされる。
大阪府東大阪市の吉富玲子さん(78)は、母(当時48歳)と長兄(同18歳)を亡くした。陸軍に召集された長兄を大阪駅まで見送るため、家族で満員の列車に乗っていた。京橋駅に近づいた正午過ぎ、空襲警報が鳴り、駅員が「逃げてください」と叫んだ。列車を降り、他の乗客とともに右往左往しながら母と構内に座り込んだが、轟音(ごうおん)とともに駅舎は崩れた。がれきの下敷きになり、吉富さんは気を失った。
気が付くと、住民らが自分を掘り出していた。救出されたのは夕方。「これ、お母さんのでしょう」と渡された財布を見て、母の死を悟った。
がれきの下からのうめき声、幼児を背負ったまま息絶えた母親、飛び散った体−。吉富さんは地獄絵図の中を担架で近くの小学校に運ばれた。翌日、周囲の人が「戦争が終わったよ」と言った。惨劇で気が動転し、何も考えられなかった。別の方向に逃げた長兄の死も後日わかった。
父はすでになく、戦後は次兄と家の衣服を売りながら懸命に生きた。「一緒に死ねばよかったと思ったよ。あのころの苦労は説明できるもんじゃない」。互いにあの惨劇を口にしないまま、兄は約10年前に他界した。
慰霊祭は20年ほど前に新聞で存在を知り、出席するようになった。「本当はあの時のことを思いだすのはつらいんよ…」と今もふさがらない心の傷を吐露する。「たった1日の差でいろんなものを失った。誰に腹を立てればええんやろ」
吉富さんはこの日、電車の轟音が響く線路沿いで焼香し、他の遺族とともに慰霊塔に手を合わせた。
888
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名無しさん
:2010/08/15(日) 08:50:43
http://www.sankei-kansai.com/2010/08/15/20100815-042508.php
2010年8月15日
国守った記憶 後世へ 89歳男性 「終戦の日」に自費出版
第二次世界大戦中、海軍に入隊して太平洋の島々に派遣された大阪府羽曳野市野々上の無職、青木良秀さん(89)が自らの戦争体験をつづった本を「終戦の日」の15日、自費出版する。洋上で空爆を受けた「生き地獄」やジャングルでの行軍など戦地での体験を、戦友たちとの会話や自身の心情なども交えて克明に記録した。青木さんは「若い人たちに戦争中のことを知ってもらいたい」と話している。
本の出版は、平成6年に糖尿病で入院した際、主治医に「糖尿病を患うと記憶が衰えることもある」と告げられたのがきっかけ。記憶が鮮明な間に軍人として得た体験を後世に残そうと、退院後に執筆を始めたという。
青木さんは、会社勤めをしていた昭和16年春、徴兵検査を受けて合格し、横須賀海軍工機学校(神奈川県)などを経て19年春、呉海兵団(広島県)に所属。基地などの電気機器の管理を行うためインドネシアの島々に派遣され、アンボン島で終戦を迎えた。
本では、徴兵検査を受けたときから時系列で書かれている。規律の厳しい軍隊生活で緊張したことや、アンボン島沖合の貨物船内で空爆を受けて逃げまどい、仲間が死傷する「生き地獄」を味わったこと、竹を割って水を飲みながらニューギニア島のジャングルを縦断した経験、アンボン島の基地で屋外スピーカーから雑音に紛れて玉音放送を聞いたことなどを記述。
戦後の現地処理などを終えて21年6月に大阪市内の実家に戻り、母親とともに泣きじゃくるシーンで終わっている。
青木さんは平成7年、大学ノートに手書きの原稿をコピーするなどして10冊ほど製本。今年は戦後65年にあたり、章立てなど構成に手を加え、正式に自費出版することにしたという。
タイトルは「兵役の義務を全うして」(A5判、430ページ)。羽曳野市立図書館などに置かれる予定で、青木さんは「今の若い人たちは戦争に対して自虐的な考えをもつ傾向があるが、当時、国を守るという兵役は義務のひとつだった。そのことを知ってもらいたいという願いを込め、タイトルをつけた」と話している。問い合わせは青木さん(電話072・954・0268)。
889
:
名無しさん
:2010/08/15(日) 16:32:11
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100815/20100815035.html
「豊中空襲」伝える 被害状況図など展示
2010年8月15日
戦時中の「豊中空襲」の様子を展示した「伝えよう!豊中空襲」展が、阪急蛍池駅前の同市立蛍池公民館(蛍池中町3丁目)で開かれている。1948年にアメリカ軍が撮影した航空写真に写る爆弾投下後の焼け跡を、市民の証言と突き合わせて一つ一つ確定し、現在の航空写真に記して作成した「被害状況図」が展示されている。入場無料。24日まで。
同市が定めている8月の平和月間の取り組みの一環。若い世代や移り住んできた市民に「豊中空襲」について知ってもらおうと企画された。
「被害状況図」は、同市の地理情報システムの管理委託会社、GIS関西の協力により作成された。現在は、国土地理院が所有するアメリカ軍が撮影した航空写真のネガを取り寄せ、市民の被爆証言から、写真に写り込んでいる黒い爆弾の投下跡を確定。現在の航空写真に印をつけて出力している。
80年に同市立第一中や大阪教育大付属池田中の教職員や生徒が証言を集めてまとめた小冊子「豊中空襲」に記されている証言をもとに、約150カ所の爆弾投下跡を特定し、展示している。
来場していた塩本一海さん(80)は「戦後に豊中に移ってきた。話では知っていたが豊中の被害を実感できた」と話していた。
24日は、小冊子「豊中空襲」を作成した同市文化財保護審議会委員で梅花女子大講師の能登宏之さんの講演のほか、「豊中空襲」について来場者も交えて語り合う懇談会も予定されている。
問い合わせは電話06(6843)5561、同館へ。
890
:
名無しさん
:2010/08/15(日) 16:35:27
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100815/20100815027.html
本職顔負け熱演 夏恒例の「松尾塾子供歌舞伎」
2010年8月15日
第22回「松尾塾子供歌舞伎」公演が14日、大阪市中央区日本橋の国立文楽劇場で行われた。夏恒例のイベントで、4歳から15歳までのちびっ子スターがきらびやかな衣装をまとって熱演。名作「実録先代萩・伊達家奥殿の場」「双蝶々曲輪日記・引窓の段」と、舞踊「藤娘」「越後獅子」が今年の演目で、大人の本職顔負けの演技を見せれば「かわいい!」と場内から掛け声が飛んだ。
「先代萩」で、若君を守ろうとする乳母・政岡と実子の千代松の別れの場で涙を誘い、同塾初挑戦の「引窓」では親兄弟の人情を巧みに演じ大きな拍手を受けていた。同塾は「歌舞伎の修練を通して子どもの人格育成を」(松尾昌出子塾長)という趣旨で今日まで続いている。
きょう15日も正午から同じ演目で上演される。
891
:
名無しさん
:2010/08/16(月) 01:29:47
>>889
豊中空襲は初めて知ったわ
そうなのかーあんな所にも…
892
:
名無しさん
:2010/08/16(月) 06:56:50
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100816-OYT8T00007.htm
戦後65年を思う
玉音放送聞く 250人おごそか
昭和天皇が終戦を告げた玉音放送を聞く催しが終戦記念日の15日、大阪市中央区の大阪国際平和センター(ピースおおさか)で行われた。
同センターの主催で、「国民学校と学童疎開を考える会」が協力、「玉音放送は戦後の原点。65年前に思いをはせてほしい」と企画した。
子どもからお年寄りまで会場いっぱいの約250人が詰めかけた。冒頭に全員で黙とうをささげた後、約5分間の放送を聞き、戦争体験者の手記「孫たちへの証言」を出版している新風書房代表の福山琢磨さんが内容を解説するなどした。
<大阪大空襲の写真 常設展示>
大阪国際平和センターは今夏から、市民らが撮影した大阪大空襲に関する写真の常設展示を始めた。空襲直後の大阪・ミナミを写した未公開の写真も展示。随時、展示替えを行い、戦争の被害を訴える。
大阪大空襲では、1945年3月から終戦前日まで大阪の街が焦土と化した。
常設展示のきっかけは、同センターで開かれた特別展「焦土大阪〜写真で見る大空襲〜」(3〜7月)。期間中、空襲を体験したお年寄りらから内容などについて問い合わせが相次ぎ、65歳以上の入館者数も大幅に増えるなど反響が大きかったため、収蔵品の常設コーナーに、特別展の資料も並べることにした。会場では空襲の焼け跡の写真や地図など約100点を展示。当時、ミナミに住んでいた河内長野市の中山純雄さん(81)が、同年3月13〜14日の空襲後、千日前通りから道頓堀方面に向けてがれきの街を撮影した写真も初公開されている。
同センターは「戦後65年を迎え、風化させないためにも、大阪大空襲の被害を発信し続ける必要がある」とし、「関連資料の寄贈に協力してほしい」と呼びかけている。
(2010年8月16日 読売新聞)
893
:
名無しさん
:2010/08/16(月) 08:17:45
http://www.sankei-kansai.com/2010/08/16/20100816-042521.php
2010年8月16日
戦没者追悼式世代超え平和への思い 終戦忌父知らぬ子と靖国へ 最高齢96歳・高倉千代さん
65回目を迎えた「終戦の日」。東京・日本武道館で15日開かれた全国戦没者追悼式には、参列者で最高齢となる96歳の女性、最年少の4歳児の姿もあった。「胸がいっぱい」「悲しい」。世代を超えて共有する戦争への思いを胸に、それぞれの遺族が平和を誓った。
「家族は元気でいます。皆を見守ってください」
初めて参列した最高齢の高倉千代香さん(96)=堺市=は、ひざの上に置いた夫、修さん=当時(34)=の軍服姿の遺影にそっと目を落とした。
陸軍の飛行隊に所属していた修さんが戦死したのは昭和19年11月13日。フィリピン・ルソン島近くを飛行中、「敵グラマン機と遭遇せり」との交信を最後に帰らぬ人となったと聞いた。
昭和11年にお見合いで結婚。その後、満州で暮らしたが、修さんの南方派遣が決まり、千代香さんだけ故郷の福岡県に戻った。
「これを自分と思え」。見送りのとき、修さんは自らの髪をそり、千代香さんに手渡した。
戦後、千代香さんに届いた戦死の公報。役所で白い桐の箱を手渡された。中には遺骨代わりに名前が書かれた木札が一つ。遺髪は勲章と一緒に墓に納めた。「軍人だからあきらめてはいたけど…。しばらくは信じられなかった」。その後も、近所の帰還兵の足音を聞いては「夫ではないか」と家を飛び出した。
女手ひとつで2人の子供を育て上げた。この日、一緒に参列した長男、正達さん(65)は修さんが戦死した年に生まれ、23歳のとき「世界平和を祈りたい」と僧侶に。平成19年には千代香さんの願いでもあった戦没者供養の釈迦像を境内に造った。
千代香さんは「私のような思いをする人を出してはいけない」と、像を見上げては平和を願うのが日課だ。
追悼式の前日、正達さんと靖国神社を参拝し、俳句を詠んだ。
〈終戦忌 父知らぬ子と 靖国へ〉
「胸がいっぱいです」。そう話した千代香さんは、車いすを押す正達さんを背に、静かに手を合わせた。
894
:
名無しさん
:2010/08/18(水) 19:27:53
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100818ddlk27040279000c.html
ものの始まり・なんでもなにわ:/43 コーヒーフレッシュ・メロディアン /大阪
◇ポーションタイプが大ヒット 「無菌パック」製造技術を開発 健康飲料や化粧品にも参入
白いミニカップの先端をパチっと折り曲げてアルミのふたを開け、「フレッシュ」をコーヒーに注ぐ。喫茶店などでおなじみの1人用に小分けされたポーションタイプのフレッシュ。八尾市に本社を置く「メロディアン」によると、同社が国内で初めて開発したという。
戦前から牧場を営んでいた中西喜三郎さん(1986年死去、享年83歳)が1958年、「日興乳業」として創業。長男、啓詞さん(70)=2代目社長、現会長=が高校3年の時、「日々業績を残すことと、仲良く円満のニコニコ」という意味を込めて命名。家族総出で牛乳を作り、配達した。89年、メロディアンに社名変更し、現社長は啓詞さんの長男、優紀雄さん(39)が務める。
70年の大阪万博のころ、喫茶店でコーヒーが流行し、1リットルサイズの紙パック入り業務用フレッシュ「メロディー」が主力商品に。75年、容器や中身のフレッシュまですべてを無菌製造できるラインシステムを開発した。さらに家庭用に小分けした三角形パック(10ミリリットル)入り「メロディアン・ミニ」が誕生した。「この『無菌パック技術』が当社の屋台骨」と企画開発部次長の門田孝行さん(42)は説明する。
当時、喜三郎さんがヨーロッパを視察し、小さなミニカップの容器に液体が詰まった商品(何かは不明)を発見した。早速、製造元の機械メーカー「ボッシュ」(ドイツ)から、3億円で機械を購入。無菌パック技術も導入し、77年、白いミニカップの「メロディアン・ミニ」が発売開始された。10個入りパックで130円。関西を中心に、製造が追いつかないほど売れた。
その後、アルミふたを開ける時、中身のフレッシュが飛び散るという苦情を受け、ミニカップの底とふたを内側にたわませ、容器内の気圧を低くして、フレッシュが飛び散らないよう改良。フレッシュの成分分離を防ぐため、紫外線を通さない特殊プラスチックを使用する工夫も施した。
91年からは「美と健康」を機軸に健康ジュースにも力を入れ、08年9月からは化粧品事業にも参入。防腐剤を使用しない原液美容液を売り出した。門田さんは「無菌パック技術のおかげで、不必要な添加物にコストをかけず、原料を充実させることができた」と話す。
今年4月から発売開始した原液美容液「エステンシア ハッピーパレット」は想定の3倍以上の売り上げという。門田さんは「今後も、食品メーカーの視点と無菌パック技術で、いろんな世代の消費者に喜ばれる『美と健康』を追求していく」と話している。【堀川剛護】
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「こんななにわの初モノ知ってるでぇ〜」という情報をお待ちしています。ファクス(06・6346・8444)かメール(at−osaka@mainichi.co.jp)で、おおさか支局までお寄せください。
895
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黒澤主義
:2010/08/19(木) 00:03:45
大阪芸術大の学生ら、伝統のすだれ世界にPR
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20100818-OYT8T00484.htm
製造業者が激減する国の伝統的工芸品「大阪金剛簾(すだれ)」を守ろうと、大阪芸術大(大阪府河南町)の学生らが、同簾のPR活動に乗り出す。
本場・富田林市の創業170年の「杉多製簾(せいれん)」と協力、産官学で連携して簾の新しい活用策も模索し、今後、毎春イタリア・ミラノで開かれる世界最大級のインテリア見本市「ミラノサローネ」への出展を目指す。
同簾は17世紀半ば、金剛山麓(さんろく)で良質の竹に恵まれたことから同市などで生産が始まったとされ、皇室や伊勢神宮などの御簾(みす)としても使われているほか、14年前に簾として唯一、同工芸品に指定された。
市によると、最盛期の1950年頃には市内に350の製簾業者があったが、住宅の洋風化によるカーテンの普及で激減し、現在は数か所のみ。実情を知った有志の学生らが今年5月、杉多製簾を訪問し、協力が実現した。
同大学院生の神尾康孝さん(27)は「初めて間近に見たが、節目がそろって作りが細かく、洗練されて美しい。この良さを多くの人に知ってほしい」と話す。
プロジェクト第1弾として22日夜、同市・寺内町の江戸末期に建てられた町家の和室に簾を飾り付け、同時に学生らの造形作品を展示するイベントを企画。28、29日にも開催する。問い合わせは、市観光協会(0721・24・5500)。
(読売新聞 2010年8月18日)
896
:
名無しさん
:2010/08/19(木) 19:48:38
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100819ddlk27070328000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/177 日産とトヨタ /大阪
◆大阪市大正区
◇国産車の開発も
◇クボタが「実用自動車製造」設立 ダットサンの誕生へ
「幻の自動車王国」大正区。前回はゼネラル・モーターズ(GM)がシボレーを造っていたことを紹介した。お次は国産車の話だ。
大正で国産車を開発していたのはクボタだ。安く小型の自動車をと、久保田篤次郎(のち日産自動車常務)が養父でクボタの創始者、久保田権四郎に事業化を進言。関西財界も賛同し、1919(大正8)年、「実用自動車製造」を設立した。社長は久保田権四郎が就いた。
当初は本社に仮工場を設けたが、南恩加島に約7000平方メートルの工場を建て、コンベヤーシステムなど先進の米国の技術を取り入れた。米国人技師ゴルハムが開発した三輪自動車を約150台製造。1921年に四輪自動車に切り替えた。
しかし、前回触れたように、「西のGM、東のフォード」と称された米国2社が、大正区と横浜で製造を始めて日本市場を席巻していたから、太刀打ちできずに経営は低迷。そこで東京の自動車会社と1926年に合併し「ダット自動車製造」となった。水冷式500CCの小型自動車を試作、1931(昭和6)年には大阪−東京間のノンストップ運行試験に成功した。
この車の名前がダットソン。合併相手の東京の快進社に資金面で協力した田、青山、竹内の3人の頭文字を取って「DAT」。その息子という意味で「DATSON」と名付けられたのだが、ソンは損に通じるというので、のちにダットサンと改称された。言わずと知れた日産自動車のブランドだ。
ダット自動車製造は、ノンストップ運行に成功した直後、日産コンツェルンの創始者、鮎川義介(あいかわよしすけ)が経営する「戸畑鋳物」に譲渡された。これが日産自動車に発展していく。南恩加島の大阪工場も戸畑鋳物が買収し、日産となった後の1956年まで稼働していた。
◇後の業界担う中心人物集う 販売の神様から輸入車業者まで
さらに「トヨタ」まで大正区にあった。といっても自動車ではない。豊田佐吉が発明した動力織機の製造を目的に設立された「豊田式織機」(現・豊和工業)の大阪支店工場が、当時の泉尾町(今の三軒家西の金光教教会)にあったのだ。同社はもともと大阪で設立され、佐吉も役員に名を連ねていた。
工場は1916(大正5)年に開業し、45(昭和20)年に操業をやめた。佐吉が創業し、のちにトヨタ自動車に発展する豊田自動織機製作所の工場だとする記述が、大正の歴史を書いたものに散見されるが、「豊田」違いである。
ただし、トヨタ自動車の草創期に大きな役割を果たす人物が、大正区にいた。日本GM広告部長だった神谷正太郎だ。1929(昭和4)から6年在籍。トヨタ自動車生みの親の豊田喜一郎に「販売は任せる」と口説かれて、豊田自動織機に移る。トヨタ自動車販売の初代社長。全国に販売網を築き、大学卒のセールスマンの採用や月賦販売制など、先進的な販売政策を築き、「販売の神様」と称された。
輸入車のヤナセの前身「梁瀬自動車」を創業した梁瀬長太郎も、GMの販売権を持っていたから日本GMに出入りしていた
こうして見ると、大正区は国産自動車の草創期を担い、外車まで製造され、のちの自動車業界の中心人物たちが集っていたのだ。日本の自動車産業生みの地と言っていいだろう。【松井宏員】
897
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名無しさん
:2010/08/19(木) 19:49:45
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100819/20100819027.html
淀屋の盛衰、臨場感の名調子 「倉吉談語の会」講談
2010年8月19日
大阪市住之江区南港北の市立海洋博物館「なにわの海の時空館」で18日、「倉吉談語の会」(鳥取県倉吉市)の講釈師・脇坂幸司さん(59)による講談があった。同館で31日まで開催中の堂島米会所公許280周年記念企画展「大阪の繁栄〈天下の台所〉と堂島米市場」にちなんだイベント。大勢の来館者が、豪商・淀屋の繁栄から取り潰(つぶ)しの経緯など、張り扇の調子と語り口調に聞き入った。
脇坂さんは、冒頭で「淀屋が開いた米、魚、野菜の市場が大坂三大市場となり、輸入生糸を大坂商人にもたらすなど、日本人の衣食の根幹をしっかりと握った」と解説。また幕府の取り潰しを予期した四代淀屋重当が、倉吉出身の番頭・牧田仁右衛門にひそかにのれんをつなぐよう指示し、後年の淀屋再興につながる重要な場面も情感たっぷりに披露した。
講談は19日(午後2時、同4時)にも実施。このほか22、28、29の3日間は淀屋にちなんだ紙芝居(各日午前11時から1時間ごとに6回)も予定されている。
898
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名無しさん
:2010/08/19(木) 20:19:51
柏原・智識寺 模型でPR
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100819-OYT8T00094.htm
東大寺の大仏(盧遮那仏坐像(るしゃなぶつざぞう))建立のきっかけになったとされ、7世紀後半に柏原市太平寺に建てられた寺院「智識寺」を広く知ってもらおうと、同市の歴史愛好家サークル「市民歴史クラブ」(長澤星二会長)が、寺の構造や大きさを推定し、模型(幅1メートル80、奥行き2メートル70)=写真=を初めて制作。市立歴史資料館(高井田)で「大仏のふるさと智識寺」として披露している。9月5日まで。
智識寺は、「知識」と呼ばれる仏教の信者らによって建立。「続日本紀」には、聖武天皇や娘の孝謙天皇が智識寺を参拝し、まつられていた盧遮那仏を見たことが、東大寺建立につながったと記されている。
現在、智識寺跡として残るのは東塔の礎石跡3か所のみ。その中心の柱を支えた基礎(直径1メートル22)は近くの石(いわ)神社に移された。江戸時代の太平寺村の地図には、西塔の礎石跡が記されている。府教委や市教委は2007年までに、東塔の礎石跡3か所を発掘調査し、基礎の直径から、東塔の高さを約50メートルと推定。さらに、智識寺建立と同時期の寺院の特徴から、敷地内に金堂と講堂、中門があったとみている。
長澤会長は「聖武天皇らが参拝された、格式ある寺が柏原にあったことを知ってほしい」と話している。入場無料。月曜以外の午前9時30分〜午後4時30分開館。問い合わせは同資料館(072・976・3430)。
(2010年8月19日 読売新聞)
899
:
名無しさん
:2010/08/20(金) 18:49:12
「豊中空襲」続編へ証言集め 当時の顧問が手記募集
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100820/20100820028.html
30年前に豊中市立第一中(曽根西町1丁目)の郷土研究クラブの生徒らが戦時中の豊中市内の空襲の様子をまとめた小冊子「豊中空襲」について、あらためて当時の証言を集めて小冊子の続編を出版しようと、かつて同クラブの顧問として出版を指導した同市文化財保護審議会の委員で梅花女子大講師を務める能登宏之さん(69)が、取り組んでいる。能登さんは当時の様子を伝える手記を広く募集している。
小冊子は、1945年6月から終戦までの6回を数え、死者575人などを出し府内では大阪市、堺市に次ぐ3番目に大きな被害を受けた豊中空襲についてまとめ、80年に出版された。
豊中市の歴史などの記録活動を行っていた同クラブの部員らが能登さんの指導を受け、地域を訪ね歩いて資料を収集。市内の被害状況や豊中空襲体験者の話をはじめ、当時の写真などを掲載。現在も市内の小中学校や図書館で、豊中空襲の記録集として活用されている。
しかし小冊子の出版から30年、豊中空襲からは65年の歳月が経過。そんな中、能登さんは「空襲を体験した世代の生の声を聞ける最後の機会」と、続編の発行を決意した。
すでに、45年6月7日の豊中空襲で投下された爆弾や焼夷(しょうい)弾の破片をはじめ、出征する軍人に掛けられた、たすきといった関連資料の収集も開始している。
今後は豊中空襲の体験者か、豊中市に学徒動員や学童疎開で生活していた人などの手記を広く集める予定にしている。当時のクラブの部員などの協力も得て、来年度中の発行を目指す。募集する手記は1500文程度。内容や周辺の状況をあらためて能登さんが取材し、小冊子に掲載する。
手記は10月30日まで〒567−8578、茨木市宿久庄2の19の5、梅花女子大能登研究室へ郵送で受け付けている。提供された手記は返却しない。手記と合わせて当時の写真などの資料も募集している。
能登さんは「遠い場所ではなく、かつて豊中でも戦争による空襲があったということを次の世代に伝えていく活動。今だから話せるという当時の手記が集まれば」と話している。
問い合わせは電話072(723)9548、能登さんへ。
900
:
名無しさん
:2010/08/20(金) 18:59:51
http://www.sankei-kansai.com/2010/08/20/20100820-042676.php
2010年8月20日
8月20日は「ハニワの日」 高槻で作品展
大阪府高槻市が今年制定した8月20日の「ハニワの日」に合わせ、同市立しろあと歴史館で、市民の手作り埴輪(はにわ)の作品展が開かれている=写真。
同市内には約1500年前、国内最大級の古代埴輪工場があった。ハニワの日は歴史をアピールしようと、市民提案により語呂合わせで設けられた。
作品展には、市民が制作体験イベントで作った約300点がずらり。ぽっかりとあいた穴が作り出すユニークな埴輪の表情に子供も大人も癒やされていた。
901
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/08/22(日) 13:45:32
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100822/20100822029.html
庶民目線で歴史紹介 絵図や遣隋使船模型展示
2010年8月22日
来年御鎮座1800年を迎える住吉大社(大阪市住吉区)をテーマにした企画展「住吉は『1800年。』展」(大阪市史編纂(さん)所、NPO法人なにわ堀江1500主催、同大社共催)が西区北堀江4丁目の市立中央図書館・1階エントランスギャラリーで開かれている。同編纂所や同大社所蔵の絵図など100点を超える関連資料を展示。同大社と周辺ではぐくまれた風習や文化などを庶民目線で紹介している。9月1日まで。入場無料。
遣隋使派遣1400年記念行事の一環として、2007年に中国・人民対外友好協会が復元遣隋使船を建造した際、完成式で同大社神職が清祓(きよはらえ)式を執り行った縁で中国側から同大社に奉納された精巧な遣隋使船模型をはじめ、遣唐使として海を渡り、734年に長安で病没した井真成の墓誌拓本などを展示。
また江戸期の絵師・住吉如慶が、住吉を中心に道頓堀戎(えびす)橋から堺戎島までの情景を描いた絵巻物「住吉潮干図」の考察や、「御田植(おたうえ)神事」「初辰(はったつ)まいり」といった伝統行事も紹介している。
一角には歌謡曲の作詞などでも知られる文学者・故石濱恒夫さんら、同大社周辺の文化人を紹介するコーナーもあり、来場者は手紙やレコード盤など貴重な資料を興味深そうに見入っている。
同展担当者の野高宏之さん(大阪市史料調査会)は、「同大社とゆかりのある文化を知ってもらう機会となれば」、同NPO代表理事の水知悠之介さんは「なにわの原点として大阪人の心の中にある『すみよっさん』を身近に感じてもらいたい」と来館を呼び掛けている。
29日午後2時〜、同館5階で展示解説やパネルディスカッションを盛り込んだフォーラムも開かれる。定員は当日先着300人(参加無料)。問い合わせは06(6539)3333、同編纂所へ。
902
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/08/23(月) 18:55:16
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100823-OYT8T00075.htm
軍事拠点としての大阪城の歴史語る
「堺平和のための戦争展」が22日、大阪健康福祉短大(堺市堺区)で開かれた。大阪城天守閣の元館長、渡辺武さん(72)が講演し=写真=、築城から戦前にかけて軍事拠点の役割を果たした大阪城の歴史を振り返った。
渡辺さんは、大阪城が幕末の長州征伐などでも幕府軍の拠点となって焼け、明治以後は、陸軍の第4師団司令部や大阪砲兵工廠(こうしょう)などが置かれた経緯を語り、「軍事国家と並行してどんどん軍事的に強化され、あらゆる戦争で重要な役割を果たした」と強調した。
大阪大空襲で焼けた後のやぐらの惨状や、石垣に残る機銃掃射跡など戦争遺構の写真も示し、「大阪城は単なる観光地というだけでなく、戦争の歴史をきちんと考えないといけない」と訴えた。
同展は市民団体などでつくる実行委員会が21、22両日開催。堺出身の歌人・与謝野晶子の反戦詩「君死にたまふことなかれ」の合唱、堺大空襲の展示などもあり、2日間で約1250人が訪れた。
(2010年8月23日 読売新聞)
903
:
名無しさん
:2010/08/23(月) 18:58:31
上方演芸殿堂入り 米朝さん表彰式
2010年8月23日
上方演芸の発展に貢献した芸能人らをたたえる「上方演芸の殿堂入り」に選ばれた人間国宝の落語家、桂米朝さん(84)が23日、主催の大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方、大阪市中央区)で、殿堂入りの表彰式に臨んだ。米朝さんに表彰状が手渡された後、歴代の殿堂入り芸能人として同館に展示される似顔絵(イラストレーター・成瀬國晴さん作)が発表された。
殿堂入りの表彰は今年で14回目。昨秋、落語界初の文化勲章を受章した功績の大きさを考慮し、「(殿堂入りは)故人であること」という従来の選考基準を改め、米朝さんに名を連ねてもらうことにした。
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20100823-OYO1T00652.htm?from=main4
904
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/08/25(水) 06:02:41
火縄銃教材に特別授業
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100825-OYT8T00068.htm
堺鉄砲館(堺市堺区)の二宮要(かなめ)館長が、堺市南区の市立三原台小を訪れ、6年生に火縄銃を紹介する特別授業を行った。堺市はかつて火縄銃の一大生産地として知られ、二宮館長は「火縄銃は様々な地場産業の原点。堺には古くから高い技術力があったことの証明で、みなさんもふるさとに誇りを持ってほしい」と話した。
二宮館長は、江戸時代に作られ、現在は府教委に美術品登録されている火縄銃2丁を持参。1543年に種子島(鹿児島県)に伝来後、遠く離れた堺市で火縄銃の製造が始まった理由について、「堺は南蛮貿易の港として栄え、ネットワークを張り巡らせていた商人が、伝来の情報を素早くつかんだ」などと説明した。
銃の重さは1丁約5キロ。授業の最後に実際に手にした児童らは「こんなに重い銃を持って戦をするのは大変だなあ」と驚いていた。
(2010年8月25日 読売新聞)
905
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/08/26(木) 20:57:21
長い長い悠々たる歴史を誇る大阪を代表する住吉大社のニュースを。
3種の石に願いを 住吉神社の「パワースポット」に列
http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK201008260007.html
全国約2千の住吉神社の総本宮・住吉大社(大阪市住吉区)の一角が「パワースポット」として人気を呼び、休日は来訪者で列ができている。
住吉大神を最初にまつった「五所御前(ごしょごぜん)」という場所。石垣で囲まれ、玉砂利と一緒に「五」「大」「力」と書かれた3種の小石がいくつも置かれている。お守りにして願いがかなった人は石を2倍にして返す習わしだ。
芸能人が取り上げた影響などで、来訪者は10倍以上に。喜ぶ一方、関係者は「神社はそもそもが『パワースポット』なんですが」と苦笑。
906
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/08/26(木) 21:02:04
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100826ddlk27070493000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/178 木津川飛行場 /大阪
◆大阪市大正区
◇稼働わずか10年
◇今は中山製鋼所の工場 元の格納庫はなお“現役”
自動車の次は、乗り物つながりで飛行場の話といこう。大正区に民間の飛行場があったのだ。大正区の最南端、船町の木津川べりにある中山製鋼所の工場が、飛行場跡にあたる。
1929(昭和4)年4月に開港した木津川飛行場(またの名を大阪飛行場)は、伊丹空港ができた1939年に閉鎖されたから、わずか10年の稼働だった。
「大正歴史を語る会」の松田邦雄さん(74)に案内してもらった。車で木津川運河を渡り、船町に入ると、工場が林立する。中でも大正区に本社を置く中山製鋼所の工場が、いくつも巨大な姿を見せる。道路脇にダクトがむき出しになっている光景は、ある種の異空間だ。
松田さんが「ここは映画『ブラック・レイン』のロケが行われたんですよ」と教えてくれる。89年に公開された高倉健と故松田優作、マイケル・ダグラスが共演したハリウッド映画だ。映画館に見に行った。見慣れた大阪の街が、えらくカッコ良く見えたものだ。
さて、新木津川大橋の北端がぐるりと円を描くその下に、大阪市が建立した「木津川飛行場跡」のまだ新しい石碑が建っている。
元飛行場の名残などは何も残っていないだろうと思いきや、松田さんが道路をはさんだ向かいの中山製鋼所の工場を指さす。「あのカマボコ屋根の建物が元格納庫です」
屋根が青と赤に塗られた元格納庫は、なんとまだ現役だ。飛行場跡を買い取った中山製鋼所は、元格納庫をそのまま使い続けており、現在はバルブなどの製造工場になっている。古いものをどんどんつぶして発展してきた戦後の大阪にあって、なんと貴重なことだろうか。
木津川河口の埋め立て地には1923(大正12)年、水上機による定期便を飛ばすために、飛行場が開設された。水上飛行場というと聞こえはいいが、要するに木津川に水上機が着水するのだ。その当時、職員として働いていた人の話を松田さんが聞いている。「乗客を肩車して川に入り、飛行機に乗せた。会社のえらいさんが愛人連れて乗ったり。有名な芸者さんを肩車したのが忘れられない」−−。
木津川飛行場は、逓信省航空局が軍用地と市有地の約39万平方メートルを整備。1929年4月1日から航空郵便が始まる。大阪毎日新聞の記事は「大阪のステーション木津川飛行場は国際飛行場となったので場の北隅に新設の事務所には新しい吹き流しが立ち、二棟の格納庫も全く完成し、開業にふさわしい新装ぶりを見せた」と報じている。
中山製鋼所に残る格納庫は、恐らくこれだろう。時を同じくして、東京−大阪−福岡を結ぶ国内初の定期航路も開設された。といっても、飛行機の定員は6人と8人。東京−大阪間は片道2時間半かかり、料金は30円。「世界史の中の1億人の昭和史」(毎日新聞社)は、その高額さを「汽車(普通3等)なら日本一周できる金額だった」と記している。【松井宏員】
907
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/08/28(土) 18:47:02
「手ぶり取引」体験…関西商取で復活
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20100828-OYO1T00520.htm
小豆やトウモロコシなどの商品先物取引を扱う関西商品取引所(大阪市)で28日、手や指で注文などを伝える「手ぶり」による立ち会い(取引)が3年ぶりに“復活”した。
江戸幕府が公認し、世界初の先物取引所としてコメの先物を扱った「大坂堂島米会所」の誕生280年を記念した1日限りの催しで、大学生ら約40人が参加した。
午後からの模擬立ち会いでは参加者が2人1組になり、取引所が設定した天候状況や他の参加者の売買状況を参考に、指の数で単位を伝えたり、手の表裏で売買を示したりして利益を競った。計4回の立ち会いで1位になると、旅行券やコメ1年分が贈られるとあって、大阪市立大院生の石田佳弘さん(23)は「思ったよりも複雑な仕組みだが、頭と体、両方を存分に使ってもうけたい」と張り切っていた。
手ぶりは、商品や証券の市場を象徴する光景として長年親しまれたが、コンピューターによるシステム取引への移行などで、2007年に姿を消した。
(2010年8月28日 読売新聞)
908
:
名無しさん
:2010/08/28(土) 21:02:16
「新しい塩鯛つくる」 来月から東京で襲名公演
2010年8月28日
67年ぶりに復活した上方落語の由緒ある名跡・四代目桂塩鯛(しおだい)(55)=旧名・桂都丸(とまる)=の襲名披露公演が、9月から東京でも始まる。大師匠(師匠の師匠)で人間国宝の桂米朝(84)の勧めで決まった襲名だが、かつては塩鯛の師匠である桂ざこばが“襲名一歩手前”までいったいわくつきの名跡。「まったく新しい塩鯛をつくるつもりでがんばりたい」と意気込んでいる。(喜多由浩)
◇
塩鯛は、明治の四天王に数えられた初代桂文団治(ぶんだんじ)のあだ名として使われたのがはじまり。先代(三代目)は昭和の初期に活躍。小柄で童顔だったことから“ベビーハナシカ”と呼ばれたという。三代目が昭和18年に亡くなってから空席となっていたが、その昔、まだ桂朝丸(ちょうまる)を名乗っていたざこばに、上方落語界の実力者、六代目笑福亭松鶴(しょかく)(故人)が塩鯛襲名の話を持っていったところから、ややこしくなった。
というのも、ざこばは松鶴のライバルである米朝の弟子。「なんで松鶴に決めてもらわなあかんのや」と米朝がカチンときたことなどから話は壊れてしまう。ただ、由緒ある名跡である塩鯛を、米朝が、いずれ誰かに継がせたいと思っていたのは事実で、数年前、「塩鯛は都丸がええやろ」のツルの一声で襲名が決まった。師匠のざこばも、「雑魚場(ざこば)から塩鯛への“魚つながり”になる」と大賛成だったという。
東西の落語界は、ここのところ「襲名ブーム」。マスメディアに話題を提供する一方で、「先代に比べて軽すぎる」という批判も少なくない。塩鯛は「大きすぎる名前は継いだら損ですよ。例えば上方なら米朝、枝雀(しじゃく)なんて誰が継ぎたいと思いますか。それにくらべて私の襲名はメリットばかり。先代を覚えている人はまずいませんからね」。
塩鯛にも最初は、より大きな名前である「文団治」襲名の話があったという。「もちろん断りました。こんな(大きな)名前を私が継いだら他の一門ともめるのは間違いありませんからね」と苦笑い。
全国約30カ所の襲名披露公演は、6日の大阪・サンケイホールブリーゼからスタート。東京では9月21日の稲城市立iプラザホール▽同22日の前進座劇場▽10月17日の日経ホールの3公演。「上方のにおいがする手慣れた噺(はなし)を中心にやりたい。『都丸の時代の方がよかった』とだけは言われないように」と話している。
東京の3公演の問い合わせは米朝事務所(電)03・5475・1488。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/100828/tnr1008280735002-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/100828/tnr1008280735002-n2.htm
記事そのものは上方落語の襲名話にも関わらず東京視点なのが意味不明というか、東京のマスコミらしい傲慢な態度ですね。
909
:
名無しさん
:2010/08/28(土) 21:04:36
笑福亭小つるさん 枝鶴襲名あいさつ
2010年8月28日
上方落語の由緒ある名跡、六代目「笑福亭枝鶴(しかく)」を10月に襲名する笑福亭小つるさん(53)が27日、大阪市浪速区の産経新聞大阪本社へ襲名披露のあいさつに訪れた=写真(安元雄太撮影)。
小つるさんは「これまで以上に落語の道に精進いたします」とし、当日披露するネタは先代に教えてもらった「千両みかん」などを候補に考えているなどと話した。
公演は10月22日、大阪の国立文楽劇場を皮切りに全国8カ所で開かれる。文楽劇場での口上は兄弟子の鶴瓶さんが司会をつとめ重鎮の桂春団治さん、兄弟子の仁鶴さん、福笑さんらが顔をそろえる。
http://www.sankei-kansai.com/2010/08/28/20100828-042984.php
もう一つ上方落語の襲名話です。
910
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/08/30(月) 11:19:48
http://www.sankei-kansai.com/2010/08/30/20100830-043013.php
2010年8月30日
《大阪ウオーク》幕末から明治 大阪の歴史を体感 10月9・10日開催
まちを知り、水を感じ、歴史とともに歩む大阪の魅力を体感する「大阪ウオーク2010」。昨年は約2万人が参加した。2回目の開催となる今年は「大阪の幕末から明治を歩く」がテーマだ。
幕末から明治へ。「身分の差を乗り越え、若者たちが日本の在り方を真剣に考えた稀有(けう)な時代だった」と、今回のコースを監修した大阪城天守閣・研究副主幹、北川央(ひろし)さんはいう。その若者たちが、いそがしく往来したのが大阪である。戦禍などで多くの遺跡が失われたが、当時に思いをはせる足跡は現在も多く残っており、その一部を紹介する。(冨永一)
華やかな文明開化の足跡をたどる
かつては渡辺津(わたなべのつ)といわれた上町台地北端の八軒家船着場は、古来大阪の玄関口として栄えた。幕末・維新期には京都や江戸、西国の雄藩とのハブ港となり、坂本竜馬や、下寺町・万福寺の新撰組屯所へ通う近藤勇らも乗り降りした。
近くの大阪城には江戸幕府苦悩の足跡が。ここでは第二次長州征伐に失敗した第14代将軍・徳川家茂が没している。最後の将軍第15代・徳川慶喜も大阪城を基地にして京都を行き来したが、鳥羽伏見の戦いに敗れ、天保山から船で江戸へ逃げ帰った。
ロシア船、ディアナ号も、そんな幕府を悩ませた。嘉永7(1854)年、天保山沖に現れ、開港を求めた。以降幕府は大阪湾一帯の防衛を厳重にし、台場を築き、大砲を据えた。そのひとつが今も残っており、現在は大阪城天守閣の入り口にある。
このような激動の中で生まれた明治政府。北川さんは「攘夷から一気に西欧化へ、矛盾をはらんで、つまずいたりしていた」という。その再起を期したのが明治8(1875)年に開かれた「大阪会議」。当時「加賀伊」といわれた「花外楼」に伊藤博文、大久保利通、木戸孝允、板垣退助、井上馨らが集まった。
下野していた木戸を再び新政府に取り込み、再出発の会議。木戸が主張する「漸進的立憲体制への移行」案が取り入れられ、近代日本の基礎になる。
適塾も近くの北区・北浜にある。蘭学者の緒方洪庵が天保9(1838)年に開いた私塾で、5年後に現在の所へ移った。自由に蘭学書などを読み、議論する雰囲気にひかれ、全国から若者が集まった。「後に尊王と佐幕に分かれる者も一つ屋根の下で学んだ」と北川さん。日本陸軍の基礎を作った長州の大村益次郎や、近くの中津藩の蔵屋敷に生まれた福沢諭吉、また戊辰戦争、函館五稜郭の戦いを幕臣として戦った大鳥圭介らがいる。
華やかな文明開化の足跡も残っていた。慶応4(1868)年、新政府は外国に門戸を開き、現在の西区・川口に、外国人居留地を造った。洋館が並び、当時では珍しく舗装された並木道があり、街灯がともされた。明治6年に川口キリスト教会が建てられた。日本初の電信線を神戸まで施いた川口電信所や大阪税関の前身、川口運上所、大阪開港の地といった石碑がひしめくように建っている。
一方、浪速区・大正橋東詰の「大地震両川口津波の碑」は悲しい記憶だ。後世の注意喚起のため安政2(1855)年に建立。嘉永7(1854)年11月4日の安政東海地震(11月27日に安政に改元)と翌5日の安政南海地震では、道頓堀の奥まで1メートルを超える泥水が押し寄せ多くの人が亡くなった。
「ドラゴンボール改」ウオーク 家族で楽しく“歩育”
当日は、ファミリーで楽しめるイベントも盛りだくさん。ウオーキングのわんぱく特別コース「歴史に学ぶ ドラゴンボール改・大阪城ウオークラリー」(3キロ)は、大阪城に関係した7つのポイントで謎を解きながらゴールイン。完歩者には、「ドラゴンボール改」にちなんだ景品がプレゼントされる。
また、メーン会場となる大阪城公園太陽の広場では、アニメ「ドラゴンボール改」ショーや、大阪芸大ステージ(各日2回)、“文明開化”の時代と雰囲気を表現したOSK日本歌劇団のレビュー「大阪プレリュード」(9日)、伍芳・中国古箏コンサート(10日)なども開催される。
そのほか、会場内には「足裏測定」「骨密度測定」「体脂肪測定」「血圧測定」などの健康チェックができるブースがあり、自分の体の状態を調べることもできる。
911
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/08/30(月) 11:20:22
>>910
【開催日】10月9日(土)、10日(日)
【メーン会場】大阪城公園 太陽の広場
【コース】
《9日》▽大阪城開港と文明開化の地を訪ねて(40キロ)▽志士が通った京街道を訪ねて(23キロ)▽幕末から明治の原動力を訪ねて(12キロ)、旧男爵の庭園を訪ねて(5キロ)
《10日》▽大阪の旧街道をゆく(30キロ)▽旧街道と上町台地をゆく(19キロ)▽上町台地の幕末から明治を訪ねて(11キロ)?幕末政治の舞台・大阪城界隈を訪ねて(5キロ)
《両日》▽わんぱく特別コース「歴史に学ぶ ドラゴンボール改・大阪城ウオークラリー」(3キロ)
【ゲスト】▽9日(土)午前8時30分〜正午まで・朝原宣治さん(大阪ガス所属、北京五輪銅メダリスト)▽10日(日)午前10時30分〜正午まで・増田明美さん(スポーツジャーナリスト、大阪芸術大学教授)
【参加費】11キロコース以上=1500円(当日2000円、1日参加も2日参加も同額、中学生以下無料)、5キロコース・わんぱく特別コース500円(中学生以下無料)。事前申し込みは9月24日(金)まで。
※ゴールされた方は「完歩証」がもらえ、ウオーキンググッズなどの賞品が当たる抽選会に参加できます。また「完歩証」で翌年の「大阪検定」受講料が割引になります。
【申し込み・問い合わせ】大阪ウオーク事務局(電話06・6940・0789、平日10時〜16時)。
詳しくは
http://www.osakawalk.jp/
【主催】大阪市、(財)大阪市スポーツ・みどり振興協会、(社)日本ウオーキング協会
【後援】厚生労働省、環境省近畿地方環境事務所、大阪府、大阪市教育委員会、産経新聞社ほか
【協賛協力】大阪市信用金庫、大阪芸術大学グループ
【特別協力】大阪城天守閣
912
:
4丁目の案山子
◆s3RBAzXrEA
:2010/09/02(木) 08:33:52 ID:Mwp8xH9E0
難波京、奈良時代に本格的な都市計画 南北方向の橋跡出土 条坊制裏付ける初の発見
2010.9.1 23:47
大阪市天王寺区の上本町遺跡で見つかった難波京の条坊制に伴う橋跡(白線部分)(大阪文化財研究所提供)
大阪市天王寺区の上本町遺跡で、奈良時代に聖武天皇が築いた副都・難波京(大阪市)の道路に架けられたとみられる橋跡が、市博物館協会・大阪文化財研究所の調査で見つかっていたことが1日、分かった。難波京は、文献史料などから、当時の首都・平城京(奈良市)のように道路を碁盤目状に整備した「条坊制」の都市と推定されていたが、橋跡の発見によって初めて裏付けられた。難波京が都市計画に基づく大規模な副都だったことを示す貴重な資料になりそうだ。
難波京は、726年に聖武天皇によって整備が始まり、744年には一時的に首都となった。同研究所が難波京の宮殿「難波宮」跡(大阪市中央区)の南約2・5キロの地点を発掘したところ、橋脚とみられる柱10数本が見つかった。柱は直径20〜30センチで、立った状態で残っていた。橋は幅3メートルで、南北方向に長さ9メートル分が確認された。
奈良時代に記された歴史書「続日本紀」には、734年に「宅地を班給(支給)する」と記述。あらかじめ区画された土地が役人に与えられたことを示し、難波京には役人や一般庶民らが暮らす都市が整備されていたとみられていた。明治時代の地図にも、奈良時代の名残とみられる碁盤目状の地形が残り、265メートル間隔で道路が縦横に走っていたと考えられてきた。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100901/acd1009012349007-n1.htm
今回見つかった橋跡は、難波京の中央を南北に走る朱雀大路から西にほぼ265メートルの位置に相当し、これまでの仮説を裏付けることになった。
一方、首都だった平城京の道路間隔は530メートルで、難波京の2倍。調査担当の高橋工・難波宮調査事務所長は「台地上に築かれた難波京は、平城京より利用できる土地が狭く、副都だったこともあり、道路の間隔を半分にしたのではないか」と話した。現場はすでに埋め戻されている。
条坊制宮殿を中心に碁盤目状に街路を設けた都市プラン。東西方向の道路を一条大路や二条大路、南北方向の道路を一坊大路などと呼ぶ。古代中国の都で用いられ、その後、日本では694年に持統天皇が開いた藤原京(奈良県橿原市)で初めて導入。平城京、平安京(平安時代、京都市)などでも採用された。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100901/acd1009012349007-n2.htm
913
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/02(木) 21:36:27 ID:jzkug5HQ0
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100902ddlk27070366000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/179 続・木津川飛行場 /大阪
◆大阪市大正区
◇本格的エアガール登場 定員3人、237人応募
現在の大正区船町にあった木津川飛行場は、1929(昭和4)年の開港以降、名古屋や福岡、高松、白浜間など、次々に増便されていった。また、国際空港だったから旧満州の大連や上海、京城(ソウル)便も就航し、機内食に大阪名物の小鯛(こだい)すずめずしが出て、好評だったという。
36(昭和11)年には「エアガール」がお目見えした。ちょっと前までスチュワーデス、今は客室乗務員という。「別冊1億人の昭和史 日本航空史」(毎日新聞社)によると、日本で初めてエアガールが登場したのは31(昭和6)年、東京−下田−清水を結ぶ定期水上旅客機だった。「小さな飛行機のことゆえ室内通路もなく お客さんの横に座って“密着サービス”」などと書いてある。
それから遅れること5年、木津川飛行場にもエアガールが登場するのだが、日本航空輸送研究所という名の航空会社が大阪で面接を行った。その様子を報じた昭和11年9月16日付の大阪毎日新聞の見出しは−−。
「飛行機に乗り度(た)い尖端(せんたん)嬢」
尖端は先端、時代の先を行くという意味だが、この当時はそれがとがったことだったのかも……。ともあれ、この記事には「日本最初の本格的エヤー・ガール」ともある。水上機は試しで、こちらが本格的ということか。
定員3人に237人が応募。1次選考で32人に絞って行われたこの日の2次テストの模様は−−。参加者は「いづれも容姿端麗かつ明朗な近代娘ばかり」。試験はというと「『左手に見えます島は通ふ千鳥の淡路島、その彼方なる播磨灘』と説明文を朗読させて」。これでは、まるでバスガイドだ。
デパートなんかと違って、飛行機に乗るのだから身長、体重の基準が抑えめ。これを記事は「さすがの尖端ガールたちもちょっと逆手をとられたかたち……」と皮肉っぽく書いている。
2次を通過した6人は木津川飛行場で実際に飛行機に搭乗して3人に決定。別府や白浜航路に乗り組むことになる。
◇アクセス悪く、工場の煙で事故も
木津川飛行場の38(昭和13)年の年間発着は、定期便5107回、不定期便3676回、旅客1万124人、取扱貨物3万8700キロ、郵便9万7700キロと、国内トップクラスだった。
また、31年には、かのリンドバーグが木津川に着水。37(昭和12)年には、上海をたったフランスの飛行士ドレ・ミケレッチが高知で遭難し、臨時便で木津川飛行場に降り立つなど、話題には事欠かなかった。
37年に木津川運河に大船橋ができるまで、空港には渡し船に乗らないと行けなかった。しかも大阪の中心部から車で約1時間もかかった。大阪生まれの作家、直木三十五は、居を定めた東京との行き来に飛行機をよく使った。夕刊大阪新聞に30(昭和5)年に連載した随筆「大阪を歩く」に、こんな一文がある。
「そして飛行機は木津川尻へ着くが、ここから大正橋までは退屈でもあるし、腹も立つし大阪軽蔑(けいべつ)心も湧(わ)き出してくる。実になったあらへん所である。(中略)尖端的な飛行機発着場への道として−−それは道でなく、自然の土の上へ軌道を敷いただけのものである」
まあボロクソだ。直木の「大阪軽蔑心」をさっぴいても、便が悪かったのがわかる。
しかも、発着便が増えるに従って手狭になり、周辺の工場の煙突からはき出される煙が邪魔して墜落事故が起きるなどしたから、移転話が進む。34(昭和9)年に開港した八尾空港や伊丹空港に機能を引き継ぎ、閉鎖された。
ともあれ、木津川運河の対岸には自動車工場があったし、飛行場もエアガールもいた大正区の最南端は、まさに当時の最“尖端”を行っていたわけだ。【松井宏員】
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/05(日) 06:05:26 ID:w4H.YHtk0
「仁徳陵 549万人で築造」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100905-OYT8T00057.htm
仁徳陵古墳(5世紀中頃、堺市堺区)に延べ約549万人――。元準大手ゼネコンの土木技術者、高津和夫さん(81)(東京都練馬区)が、国内最大の前方後円墳築造に動員された労働力などを推計してまとめた論文が、専門誌「古代学研究」に掲載され、注目を集めている。ダム現場などで長年、人力による施工に携わった経験を基にした研究で、考古学研究者らは「巨大古墳がどのように造られたかを知るうえで、興味深い」と評価している。
論文では、宮内庁の地図を基に、仁徳陵古墳の規模を墳丘長475メートル、後円部の高さ33メートルと測定。三重の環濠(かんごう)があり、濠の掘削などで得た墳丘の盛り土量を約140万3000立方メートル、墳丘を覆う葺(ふき)石を約9万平方メートル、埴輪(はにわ)設置本数を約1万9200本と計算した。
そのうえで、工程ごとに必要な労力を試算。濠の掘削は2〜3人で1日当たり1立方メートル、盛り土の運搬は2人1組で50キロの土を1時間当たり6回などとし、工具修理や炊事係などの役割分担も考慮に入れ、労働者数を1日約1300人とはじき出した。
当時の人口を類推し周辺地域から動員できる人数を1日約1500人とみて、「近畿で十分な人数が確保でき、関東や九州から動員する必要はなかった」と結論づけている。
仁徳陵古墳を巡っては、大手ゼネコンの大林組が1985年、「工期15年8か月、労働力延べ680万7000人」との試算を公表。これまでこの数字が一般的になっていた。高津さんの論文では、労働力はこれより延べ約130万人少なく、工期も約15年と試算している。
高津さんは準大手ゼネコンで約40年、ダム建設などに従事。1960年頃まで重機は普及しておらず、人力による施工が主だったという。退職後、古墳に関する研究を続けており、「近年の土木技術者は機械施工の経験者が大半。古代工法に近い人力施工法の経験者が少なくなっていることもあり、体力の続く限り、研究を続けたい」と意欲を見せる。
白石太一郎・府立近つ飛鳥博物館長(考古学)の話「これまで想定されていたより少ない労力だが、実体験に基づくだけに納得できる。土木工学的にこうした計算ができる技術者はほとんどいなくなっており、貴重な研究だ」
(2010年9月5日 読売新聞)
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/08(水) 22:29:26 ID:K4MHYe7A0
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100908ddlk27040356000c.html
ものの始まり・なんでもなにわ:/44 豊中・民家の野外博物館 /大阪
◇暮らしの知恵が随所に
◇服部緑地に各地の12棟移築 保存には府民の協力不可欠
豊中市の服部緑地公園内には合掌造りや、かや壁など特徴的な民家が集まった一角がある。全国各地の代表的な民家を移築、展示した日本で初めての民家の野外博物館「日本民家集落博物館」だ。地方の風土や習慣を色濃く反映した古民家群に足を踏み入れると、異世界にタイムスリップした錯覚すら覚える。
同館が設置されたのは1956年。ダム建設で水没することとなった岐阜県白川村の合掌造りを、開発者の関西電力が費用を負担して現在の場所に移築したのが始まりだ。当初は豊中市立民俗館として合掌造りを無料公開していたが、大阪ガスや松下電器(現・パナソニック)など関西財界が資金拠出して設立した財団法人が60年から運営をスタート。この間も民家の移築は進み、64年までに計11棟が現在の敷地内(現在は12棟)に移った。
民家の野外展示は現在では、「明治村」(愛知県犬山市)「川崎市立日本民家園」(神奈川県)など全国各地に点在するが、同館はその先駆けとなった。約3万6000平方メートルの敷地内に、江戸時代を中心に建築された民家が並び、それぞれの気候や風土に合わせて造られた独特のたたずまいが、梅や桜などの周囲の樹木に映える。12棟のうち、合掌造りの「飛騨白川の民家」が国指定重要有形民俗文化財に指定されているほか、入り母屋型の「摂津能勢の民家」など3件が国指定重要文化財。府指定文化財も5件ある。
民家もそれぞれ個性的だ。「南部の曲家」(岩手県)は母屋と馬小屋がL字型につながっており、冬季には温かい空気が馬小屋に流れる。間近で馬を飼育できる構造からは人間と馬が共生していた当時の様子がうかがえる。また、豪雪地帯の民家をよく表しているのが「信濃秋山の民家」(長野県)。板壁や土壁ではない、茅(かや)でできた茅壁が特徴的だ。
各民家ではボランティアが定期的にいろりに火を入れ、ガイドも実施している。また、当時、養蚕が行われていた「飛騨白川の合掌造り」では、7月に職員が飼育した蚕も展示。8月末には、繭から糸を紡ぐ糸紡ぎ体験も開催された。小島久美総括学芸員(42)は「昔の住まいや暮らしの原点を体感してもらい、親しまれる博物館でありたい」と話している。
民家は野外展示のため、風雨にもさらされるため、定期的な改修が必要。06〜08年度に実施した「日向椎葉の民家」の改修には約2億円がかかった。同館は「博物館の長期存続には府民の協力が不可欠」として、募金も呼びかけている。郵便振替で口座番号は、00910−1−134359。名称は移築民家を守る会(1口1000円)。同館事務所の窓口でも募金可能。【佐藤慶】
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「こんななにわの初モノ知ってるでぇ〜」という情報をお待ちしています。ファクス(06・6346・8444)かメール(at−osaka@mainichi.co.jp)で、おおさか支局までお寄せください。
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/09(木) 21:02:05 ID:UGylo6e60
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100909ddlk27070464000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/180 今木刑場 /大阪
◆大阪市大正区
◇医学の発展に貢献
自動車開発や飛行場といった夢のある話から一転、夢も希望もない話を一つ。大浪橋近くの三軒家東2に、江戸時代、今木刑場があった。芦が茂っていたので葭島(よしじま)と呼ばれていた中洲にあった刑場で、幾多の罪人がさらし者にされ、首をはねられた。
同時に、今木刑場は医学の発展にも貢献していた、と言えば、多少は夢も希望も出て来るか。刑死した死体を解剖した学者たちがいたのだ。
堀江の開業医、伏屋素狄(ふせやそてき)(1747〜1812)は、1800(寛政12)年、37歳の女性の刑死体を譲り受けて解剖。動物実験なども繰り返して、腎臓が尿をこす器官だということを初めて明らかにした。
◇実験生理学の祖、伏屋素狄 刑死体を解剖し、腎臓の機能を解明 各務文献は、死体盗み自宅に隠し研究
西区北堀江の和光寺に、素狄の顕彰碑がある。境内の阿弥陀池のほとりに建つ碑には、「実験生理学の祖」と刻まれている。実験の成果は「和蘭医話」に著した。三善貞司さんの「大阪史蹟辞典」は、「蘭医学は江戸と大坂を中心に広がるが、江戸の場合は蘭書の翻訳や紹介が主であった。しかるに大坂には早速そのとおりやってみて、実験・実証主義を尊重した学者が多い。素狄は典型的なそのひとりである」と評している。
碑文によれば、墓が失われたので、医院を開いていた堀江に近い和光寺に、日本医史学会と日本生理学会の有志が1967年に建立したという。
また、素狄と交わりのあった産婦人科医の各務(かがみ)文献(ぶんけん)(1765〜1829)は、夫婦で今木刑場に忍び込んで死体を盗み、自宅の床下に隠して研究したと伝わる。文献の墓は、天王寺区の浄春寺にある。適塾の門下生が「解剖社」を結成して人体研究にいそしんだのも、今木刑場だった。
大坂独特の実験・実証主義を支えたのが、今木刑場だったと言えようか。
◇江戸中期が舞台、森鴎外の小説にも登場
「大正歴史を語る会」の松田邦雄さん(74)が教えてくれた。「今木刑場が出て来る森鴎外の小説があるんですよ」と。短編小説「最後の一句」は、江戸時代中期を舞台に、斬罪(ざんざい)に処せられようとしている船乗り業の父親を救おうと、西町奉行所に嘆願に乗り込む娘たちの話だ。冒頭に「木津川口で三日間さらした上、斬罪に処すると、高札に書いて立てられた」とあるのが、今木刑場のことだ。
小説つながりで、もう一つ。大阪生まれの作家、武田麟太郎の作品に、大正橋のうどん屋「つるや」を舞台にした「うどん」がある。「大阪史蹟辞典」によると、麟太郎は東京帝大で左翼運動にひかれ、プロレタリア小説を書くが、行き詰まって大阪に戻り、井原西鶴に傾倒。「一切の観念を捨ててありのままの人間を描くことが小説だと悟り、この『うどん』を書き上げた」という。
1933(昭和8)年に書かれた「うどん」は、うどん屋の看板娘に恋するが、どうにもできずもんもんとしながら、うどん屋に通う中学生の初恋を書いた短編だ。
そこに描かれる町は−−悪臭をまき散らすガスタンクがそびえ、電車車庫のやかましさやら、製材所、鉄工場、車馬の往来が立てる土ぼこり、尻無川には伝馬船がびっしり浮かぶ。当のつるやは、職工相手の小汚い店で、油虫がはい回っている。
まったく観念の入り込む余地のない町ではないか。麟太郎は実際に大正橋を渡って中学に通っていたというから、「うどん」の中学生は、若き日の自分の投影だったのかもしれない。【松井宏員】
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/10(金) 20:08:14 ID:djloBk560
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100910ddlk27040369000c.html
燈路まつり:八尾・久宝寺で12日 /大阪
450年の歴史あるまちなみを灯籠(とうろう)の光で飾る「久宝寺寺内町燈路(とうろ)まつり」が12日午後6〜9時、八尾市久宝寺地区で開かれる。住民でつくる「久宝寺寺内町まちづくり推進協議会」主催で、昨年に続き2回目。
久宝寺寺内町は戦国時代に蓮如上人が建立した顕証寺(当時、西証寺)を中心とした寺内町。古い町家が多く、碁盤目状の町割りはほぼ当時のまま残っている。まつりは、寺内町中心部の街路に木製の灯籠(高さ40センチ)200個と、プラスチック製の灯火カップ(高さ15センチ)1300個を置く。【花牟礼紀仁】
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/15(水) 17:39:06 ID:Sz2sFJvQ0
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100915ddlk27040346000c.html
ものの始まり・なんでもなにわ:/45 魔法瓶 /大阪
◇お湯が冷めない暮らし
◇真空の力を利用して100年 戦後は、ご飯保温で需要増
大阪のガラス工業の始まりは、江戸時代・宝暦年間にさかのぼるという。継承、発展してきた技術を生かし、明治末に大阪で魔法瓶の国産第1号が作られた。その歴史を知ろうと、象印マホービンが創業90周年を記念して開設した「まほうびん記念館」(大阪市北区天満1)を訪ねた。
中にフラスコを入れた、ガラス製の二重のフラスコが展示されている。イギリス人化学者、ジェームス・デュワーが1892(明治25)年、液体酸素の保存用に作った。写真と、実物を所蔵する英国王立博物館に問い合わせた寸法などを基に再現した。記念館館長の粟津重光さん(62)が「これが魔法瓶の原形です」と説明した。
底がとんがっているのは、真空にするため空気を吸引して閉じた跡だという。真空の原理は17世紀中ごろに確立され、熱を伝えないその特性を利用したのが魔法瓶だ。中瓶と外瓶の間に真空の層を作り出し、中瓶に入れたお湯が冷めない。1904(明治37)年に、デュワーの瓶を金属ケースで保護した家庭用品がドイツで商品化された。08(明治41)年には日本にも輸入され、その時の広告コピーは「驚くべき発明なる 寒暖壜(びん)」。
そして12(明治45)年、真空管技術に詳しい電球の専門家、八木亭二郎が大阪で日本初の魔法瓶を作った。経緯や理由は不明だが、当時の大阪は日本のガラス工業の中心地で、魔法瓶作りが盛んになったという。18(大正7)年、象印マホービンは「市川兄弟(けいてい)商会」として、タイガー魔法瓶も23(大正12)年に「菊池製作所」として、それぞれ大阪で創業する。戦前、日本製の魔法瓶は主に、アジアに滞在する欧州人らの携行用として輸出された。
戦後の復興期になると、ご飯を保温するジャーなどとして魔法瓶が普及し、国内需要が増える。卓上ポットの製造も本格化。傾けるだけでお湯が注げる「ハイポットZ型」を象印が63(昭和38)年に発売すると、大ヒットした。1日500本しか作れなかった中瓶も、自動化で量産体制と品質の安定が確立。花柄の人気、置いたままでくるくる回せる回転底、「押すだけ」で湯が出る「エアーポット」で、魔法瓶は家庭に浸透した。
技術は日進月歩。70年代後半には、ステンレス製の「割れない」魔法瓶が登場する。軽量・コンパクト化が追求され、真空層はわずか1ミリ、ステンレス板の厚みは0・2ミリにまでなった。粟津さんは「魔法瓶は、かつてはいつでもお湯がある生活を実現し、今は好きな飲み物を持ち歩けるようにした。時代の変化に応じて、暮らしとともにあり続ける技術ではないでしょうか」と話している。
◇
まほうびん記念館は、象印マホービン本社1階。展示物は、一定の年代以上の人にとても懐かしいだろう。開館は午前10時〜正午、午後1〜4時。土日・祝日休み。見学は要予約で06・6356・2340へ。粟津さんらが楽しく分かりやすく説明してくれる。【八重樫裕一】
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/16(木) 20:44:05 ID:4113x8FE0
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100916ddlk27070382000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/181 大阪俘虜収容所 /大阪
◆大阪市大正区
◇第一次大戦、中国・青島で敗北のドイツ兵400余人抑留−−1914年から2年余
大正区をずいっと南へ行く。市のごみ焼却場・大正工場の赤と白の煙突の手前、平尾1丁目の木津川にほど近い平尾亥開(いびらき)公園では、子どもたちが草野球に興じていた。狭い公園の奥に、「大阪俘虜(ふりょ)収容所」のパネルがある。
大阪案内人の西俣稔さんの解説。「1914(大正3)年11月から1917(大正6)年2月まで、第一次大戦で捕虜になったドイツ人の収容所があったんです」。俘虜とは捕虜のこと。大正区は思いもかけない歴史を持っている。
想像するに、大阪の西の端に新田開発で土地が広がっていった所だから、人があまり住んでおらず、「東洋のマンチェスター」を担った紡績工場や、時代に先駆けた自動車工場や飛行場や、いろんなものが集まったのだろう。言うなれば、夢や希望をかけた開拓精神に富んだ地。得てして、そういう土地には、一般からは隔離しておきたい施設もできるわけで……。開拓者が乗り込んだ北海道に網走刑務所があるように。
収容所に充てられたのは、1908(明治41)年、流行したペストに備えて患者を隔離するために造られた施設だったから、この想像もあながち的はずれではないだろう。ペスト患者は収容されなかったが、その翌年に起きた「北の大火」の被災者約2万2000人が一時、仮住まいした。
◇「その態度や頗る呑気」 見物人殺到、警察が排除
第一次大戦中の1914年11月、中国・青島のドイツ軍を日本は英国との連合軍で破り、捕虜は日本国内の12カ所に設けられた収容所に送られることになった。大阪の収容所となったこの場所に11月21日、467人のドイツ兵がやって来た。
大阪毎日新聞はその模様を「大阪へ来た俘虜一行 その態度や頗(すこぶ)る呑気(のんき)」の見出しで報じている。一行の中で、バイオリンを抱えている若い水兵が目を引いた。青島ろう城軍の中で唯一のバイオリニストだったという。この水兵が、のちのち大正区とドイツを結びつける役割を果たすテオドール・エアハルトだった。といっても本人のあずかり知らぬところで、ではあるが……。
記事はさらに、黒山の見物人が出たので、九条警察署の署長が馬に乗って署員を指揮し、混雑をさばいた様子を描く。「俘虜先生は見物人中の娘を見ると何だかコソコソ笑っている。見物人は『独逸(ドイツ)の俘虜は呑気やなあ』と感心する」とあるが、のんきなのはお互いさまだ。
翌朝、記者は「最初の一夜にどんな夢を結んだか」と、収容所を訪問する。「大阪はズンと西のはての」という表現に、当時は西区だったこの地が、やけに遠い所だったことがわかる。
さらに翌24日には「俘虜見物大賑(おおにぎわい) 木津川尻の人出」の記事が載っている。狭い庭内をお百度踏んだり、長い足を投げ出してひなたぼっこしてる捕虜たちを、堤防から見物してはヤンヤと言ってる見物人を、警官が追い払う。外国人が物珍しい時代のこととはいえ、実に珍なる光景だ。【松井宏員】
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/17(金) 22:48:52 ID:HmqEa5Gw0
http://www.sankei-kansai.com/2010/09/17/20100917-043747.php
2010年9月17日
高槻藩士の陣羽織確認 熊本在住の子孫寄贈 高槻市教委
大阪府の高槻市教育委員会は、幕末期の高槻藩士が用いた陣羽織を確認したと発表した。同市教委は「高槻藩にかかわる資料は珍しく、陣羽織の確認は初めて。貴重な資料だ」としている。
陣羽織は、旧高槻藩士・石田家の子孫で熊本県菊陽町在住の石田雅陽さんが寄贈した。
正式名称は「緋羅紗地八角(ひらしゃじはっかく)に桔梗紋(ききょうもん)陣羽織」。全体を緋色(濃い紅)の羅紗で仕立て、背中には白羅紗で石田家の家紋である「八角に桔梗紋」が施されている。
肩飾りは、西洋式軍服の肩章の影響を受け、幕末に流行したものだという。
市立しろあと歴史館(同市城内町)によると、高槻藩や高槻藩士に関する資料は、明治維新以降に多くが散逸し、現存するものは非常に少ないという。
同館の千田康治学芸員は「現在確認できる唯一の高槻藩士の陣羽織で、大変貴重な資料。保存状態も良い」と話している。
同館では10月2日から11月28日まで開催する秋季特別展「幕末 京都をめぐる雄藩と高槻」にあわせ、この陣羽織を同館入り口で無料公開する。
休館日は月曜(祝日は開館)、祝日の翌日。問い合わせは同館(電話072・673・3987)。
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/19(日) 22:57:35 ID:FmGgpLAI0
http://www.sankei-kansai.com/2010/09/19/20100919-043820.php
2010年9月19日
堂島米相場を堺屋さん語る 280年記念シンポ
江戸時代に天下の台所・大坂を支えた「大坂堂島米会所」の公許280年を記念したシンポジウム「大阪商人の知恵『堂島の知恵』を再び」が18日、大阪市北区の市中央公会堂で開かれ、市民ら約700人が参加した。
大坂堂島米会所は、世界初の組織化された先物取引所として、享保15(1730)年に幕府に認められた。シンポジウムは、堂島を起源とする「デリバティブ取引」の歴史と文化を受け継ぐ大阪証券取引所と関西商品取引所が主催し、2部構成で開かれた。
基調講演では、作家で経済評論家の堺屋太一さんがこれまでの日本経済を振り返った上で、「これからはモノを作るのではなく知恵を生む、知恵づくりの時代」と強調。「日本をよくするには強い取引所が必要。先物の重要性をもう一度考えてもらいたい」と述べた。
作家の島実蔵さんをコーディネーターにパネルディスカッションも行われ、大阪大名誉教授の仁科一彦さんら3人のパネリストが、世界初の金融システムの原形を生み出した浪速商人の知恵から何を学ぶかのテーマで意見を交わした。
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/21(火) 23:11:40 ID:yWj/5HqI0
壁を壊したら「奉安庫」 GHQから隠す? 阪大・豊中
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK201009210030.html
耐震改修中の大阪大学豊中キャンパスのイ号館の壁を壊したところ、戦前に天皇、皇后の「御真影(ごしんえい)」や教育勅語を納めていた金庫型の「奉安庫」が見つかった。同大は21日午前、鍵を開ける作業を始めた。全国の学校に設置されていた奉安庫、奉安殿の多くは、連合国軍総司令部(GHQ)が1945年12月に出した神道指令で解体された。発見した同大学の廣川和花助教は「奉安庫の手前に壁を作り、65年間も見つからなかったのは珍しい」とみる。
イ号館は28年の建築。49年の学制改革で大阪大に包括された旧制浪速高校の本校舎で、国の登録有形文化財に指定されている。1階の元校長室(約66平方メートル)の北西角を斜めに仕切っていた壁(厚さ約3センチ)をはいだところ、しっくいに埋め込まれた観音開きの奉安庫(高さ94センチ、幅73センチ)が見つかった。
東京、神奈川で奉安殿の遺構調査をした玉川大学教育博物館の白柳弘幸学芸員は「建物に埋め込まれた奉安庫を動かすのは大変なので、手前に壁を作り、GHQから隠したのではないか」と指摘する。調査した他の学校では、建物外の奉安殿は46年までに教職員がハンマーやダイナマイトで壊していたが、動かせない奉安庫は戦後、金庫や書類入れとして使ったという。
神戸高校や奈良女子大には講堂に奉安庫の名残の観音開きの扉が残されている。神戸市外国語大学の長志珠絵(おさしずえ)准教授(日本現代史)は「旧制高校や帝国大学は行政や軍とかかわって、戦争を積極的に支える役割を担っていたため、GHQの捜索を受けまいと過剰反応して隠したのではないか」と推測している。
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/23(木) 23:26:59 ID:jCssqAC60
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100923ddlk27070364000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/182 大阪俘虜収容所 /大阪
◆大阪市大正区
◇幻のバルトの楽園 「第九」日本初演の地
「続・大正橋」(7月1日付)の回で、ベートーベンの「第九」の音符がデザインされた大正橋にまつわるエピソードを紹介した。その中で「実は大正区には、まだ『第九』の因縁があるのだが」と書いたのを覚えておいでだろうか。ようやく、それに触れる時が来た。
日本で「第九」が初演されたのは1918(大正7)年6月1日。場所は徳島県鳴門市にあった「板東俘虜(ふりょ)収容所」。演奏・合唱したのはドイツ人捕虜たちだった。この話は06年に公開された松平健主演の映画「バルトの楽園(がくえん)」で描かれたから、ごぞんじの方も多いと思う。
大正区にあった大阪俘虜収容所と、その「第九」初演に因縁があるのだ。板東収容所で演奏を指揮したヘルマン・ハンゼン兵曹が、日本で最初に過ごしたのが大阪収容所だったのだ。ハンゼンが属する部隊206人は、大阪に収容されたわずか約1カ月後に徳島収容所に移り、その後、板東収容所に移動した。この部隊が大阪にとどまっていれば、ひょっとして大正区が「第九」初演の地になっていたかもしれない。
前回、大阪に収容された捕虜一行の中に、バイオリンを抱えた若い水兵テオドール・エアハルトがいたことを紹介した。全くの偶然で、大阪生まれのフォトジャーナリスト、藤井寛さん(62)=横浜市在住=は、ドイツ・ハンブルクに住んでいた81年、故人となっていたエアハルト氏の妻と知り合って、彼が撮影した収容所の写真アルバムを譲られた。この連載に掲載している収容所の写真はすべて、藤井さんが所蔵するエアハルト・アルバムのものだ。
藤井さんはこう語る。「『第九』が演奏できるハンゼンらメンバーが大阪にいたということです。私が会った、収容所にいたドイツ人は『大阪収容所は合唱団が充実していた』と話してました。だから、ハンゼンが大阪にいれば、間違いなく『第九』をやったでしょう」
◇徳島で演奏・指揮の捕虜らがここに 合唱団充実、移送がなければ!?
つまり、大正区は「幻の第九初演の地」ということになる。藤井さんはデンマーク国境に近いドイツ・フレンズブルクのハンゼン氏の生家を撮影している。ハンゼン氏は音楽を勉強していて、収容所で作曲もしたほど。解放されて帰国すると、町の音楽グループで指揮をしていたというが、40代の若さで亡くなったという。
「当時の日本陸軍は、捕虜の私物を許可していて、収容所に楽器を持ち込めたし、中立国などから寄付された楽器もあった。ドイツ人の音楽好きは半端じゃなく、エアハルトさんの家族もみんな音楽ができたらしい」。収容所の研究も続ける藤井さんの解説だ。
大阪収容所の捕虜たちは1917(大正6)年2月18日、広島の似島収容所に移動し、大正区の収容所は閉鎖された。もともと陸軍が府から借用していたペスト患者の隔離施設で、コレラやペストの流行で府に返すことになったための移動だった。
同年2月19日の大阪毎日新聞夕刊は、カナリヤの鳥かごを大事そうに抱える中尉やら、鞄や行李、毛布などを持って行列を作る捕虜を「百鬼昼行の図」と表現。収容所から梅田まで、2時間以上歩かされてヘトヘトになった様を報じている。
この2月18日を記念して、大正区では「第九定期演奏会」が開かれている。第4回となる今年は2月28日に開催された。歴史がとりもつ縁で、日独の交流が進む。【松井宏員】
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/24(金) 20:24:55 ID:Y0zs8RQE0
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100924/20100924039.html
彼岸の夕日神々しく 四天王寺で「日想観」
2010年9月24日
「秋分の日」の23日、大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)で、浄土信仰の伝統行事「日想観(じっそうかん)」が執り行われた。境内の西大門(極楽門)では、僧侶の読経の中、集まった参詣者らが夕日に手を合わせ、門と鳥居の中央に沈む光景を見届けた。
日想観は四天王寺の西門が極楽浄土の東門に通じる入り口として民衆の信仰を集めたことから平安時代末期から行われるようになったと伝えられる。落陽の光景に西方極楽浄土を観想する修行で春と秋の「彼岸の中日」に行われる。
この日は前日からの雨が昼ごろまで続いたこともあり、人出は1万人ほど。しかし、法要が始まる夕方には雨が上がり、雲間の切れ間から大きな太陽が現れた。参拝者らは読経が響く中、鳥居の中に落ちていく夕日に手を合わせていた。
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/25(土) 23:54:06 ID:HQQJ9hPQ0
鳥居が語る 地元の歴史に耳を傾けて
2010年09月25日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001009250001
神社の鳥居を文化遺産として後世に残していきたいと、大阪市西淀川区に住む洞窟(どうくつ)研究家の沢勲(さわ・いさお)・大阪経済法科大名誉教授(72)らが、同区内にある鳥居の測定調査をした。鳥居の建造は住民や宮大工が手がけることが多いことから、地域の歴史を深く知る手がかりになるという。25日には研究内容を区民まつりで紹介する。
沢さんは洞窟科学が専門で、資源探索のため、日本や世界各地の洞窟内の岩石の成分などを調査してきた。その研究の中で、富士山のふもとの洞窟にあった鳥居や、トルコで見た古い大理石の支柱などから着想を得て、今年1月、母校の関西大学のOBでつくる校友会メンバー西山正明さん(50)らと鳥居の調査を始めた。
区内には野里住吉、田蓑、姫嶋、大和田住吉、福住吉、鼻川、五社、大野百島住吉の8神社があり、54基の鳥居が立っている。沢さんらはこのうち39基を巻き尺やレーザー距離計で約7カ月かけて測定。形状から「神明系」「明神系」といった種類に分類し、由来や歴史を宮司らから聞き取った。調査で分かった中で最も古かったのは創建869年と伝わる田蓑神社の正面にある鳥居で、1511(永正8)年の建造。高さは約4・5メートルだった。
最も大きかったのは、1923年に建てられた野里住吉神社の正面の鳥居で、高さ約6・6メートル。周囲は新淀川開削までは旧中津川に沿って開けた地域で、神社の石垣は川の堤防の名残をとどめ、水に縁のある神社という。海の神をまつっており、当時周辺に住んでいた漁民らが鳥居の大きさに商売繁盛の願いを込めたと考えられるという。
これらの研究結果を添えたパネルを沢さんらから贈られた野里住吉神社の鎌田義昭宮司(62)は「より地域の人に詳しく説明できるようになった」。沢さんは「社格や時代によって様式の違う鳥居を見て知ることで、地元の歴史や文化に興味を持ってもらえれば」と話している。
25日は西淀川区大和田1丁目の西淀公園グラウンドの区民まつりでパネル展示。11月6日には西淀川図書館で講演会がある。
927
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/26(日) 10:22:09 ID:z2brvJtY0
http://www.sankei-kansai.com/2010/09/26/20100926-044022.php
2010年9月26日
ふとん太鼓が宮入り 堺・百舌鳥八幡宮で「月見祭」
堺市北区の百舌鳥八幡宮で25日、恒例の「月見祭」が開かれ、9台のふとん太鼓が次々と宮入りし、見物客らは勇壮な姿に酔いしれた。
約300年の歴史があるという同祭のふとん太鼓。太鼓を収めた台座に朱色の座布団に見立てた飾りが付けられ、総重量は約3トンに達する。
氏子らはライトアップされたふとん太鼓を担ぐと、「ベーラ、ベーラ、ベラショショイ」と、威勢のよいかけ声をかけながら練り歩いた。
928
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/26(日) 10:36:43 ID:z2brvJtY0
疎開語ろう「同窓会」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100926-OYT8T00070.htm
太平洋戦争末期に大阪市や堺市から郊外へ学童疎開した約100人が25日、河内長野市立文化会館で初めて「同窓会」を開いた。ひもじさ、さみしさ、苦しさといった体験者にしかわからない思いを、65年ぶりに語り合った。
呼びかけたのは、大阪市東住吉区の辻井重さん(78)。同区の田辺国民学校6年だった1944年9月から翌年2月、千早赤阪村の寺に集団疎開した。食事はおかゆや芋の一汁一菜。月に1度の面会の日、母親がまんじゅうを差し入れてくれると、隠して夜中に食べた。
終戦後薄れていた記憶が、よみがえったのは20年前。偶然手に取った郷土史研究誌に、当時の同校養護教諭の日誌が載っていた。内容は子どもらの詳細な看護記録。疎開に付き添わず学校に残ったのに、自ら薬を買って、毎日大阪市から疎開先の寮を回っていたのだ。
疎開の記録を残そうと思い立った辻井さんは、同区内の小学校を訪ね歩いて同窓生らを捜し出し、当時の生活を聞き取ったり、写真を集めたりした。冊子や写真集にまとめたが「語り合う場がほしいのでは」と、同窓会を企画した。
この日、府内外から当時の寮母や学童らが駆けつけた。田辺国民学校の学童のうち、終戦まで1年間疎開した河内長野市、辻村義雄さん(76)は「食べ物がなく、薬局で梅肉エキスを買って食べた。苦しいことばかりだった」。大阪市中央区、丸野鮎子さん(77)は「買い出し班になると、買ってきた砂糖を先生がスプーン半分だけなめさせてくれた」と思い起こす。
香川県の祖父宅に縁故疎開した和泉市光明台、大平千里さん(77)は「小学6年の夏休み、同級生たちと校庭で『また卒業式で』と別れ、大阪に戻ったのは38年後。せめて母校の卒業証書がほしい」と話した。
辻井さんは10年前にがんを患い、毎年手術を繰り返してきた。「体力も落ち、今日がライフワークの締めくくり。苦楽を分かち合った仲間と集まることができ、本当に良かった」と安心した表情を浮かべた。
(2010年9月26日 読売新聞)
929
:
黒澤主義
◆ELmBRhV6xo
:2010/09/28(火) 20:21:30 ID:5NeTBgVg0
難波宮跡で最古級の須恵器窯跡 古墳期、近くに王権施設か
http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010092801000647.html
大阪市中央区の上町台地にある難波宮跡で、5世紀前半(古墳時代中期)とみられる最古級の須恵器の窯跡2基や初期須恵器の破片が見つかり、大阪市教育委員会と大阪市博物館協会大阪文化財研究所が28日発表した。
市教委などは須恵器を使うような重要な施設が付近にあったと推定。上町台地では大和王権直轄とみられる「法円坂倉庫群」が見つかっているが、その際出土した須恵器は今回の須恵器より新しく、倉庫群以前に王権の別の施設があったのではないかとみている。
市教委などによると、出土した須恵器の破片は105点で、5世紀前半のものの特徴を備えていた。窯跡は東西に並んでおり、西側の窯は幅約1・3メートル、東側は幅約1・5メートルで、長さはそれぞれ3・7〜3・8メートル分が残っていた。
須恵器は古墳時代に朝鮮半島からもたらされた硬質土器で、畿内では大阪府南部の陶邑古窯址群が初期段階から一大生産地だったとされている。
市教委は「今回見つかった窯が使われたころには陶邑で既に生産が始まっているが、陶邑からわざわざ運ぶより近くに窯を作ったのではないか」と話している。
出土した須恵器は29日から大阪歴史博物館で展示される。
(47NEWS 2010年9月28日)
930
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/28(火) 21:57:07 ID:T16RUM1Y0
史跡が懸け橋
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100928-OYT8T00073.htm
専門家招きシンポ/共同で世界遺産に
詳しい記録がない“謎の寺院”とされる国史跡「新堂廃寺跡」がある富田林市と、日本最古のため池とされる「狭山池」がある大阪狭山市は今秋、それぞれ関係が深い遺跡がある韓国の益山(イクサン)、隣の金堤(キムジェ)市の研究者を招いたシンポジウムを開く。すでに研究を機に市民交流が始まっているが、偶然にも、どちらの国の市もお隣同士。関係者は「世界に誇れる歴史遺産としての認識を深め、将来は日韓4市の国際交流に発展させたい」と期待している。
■百済王家とかかわり
新堂廃寺は7世紀に造られたとされ、出土した瓦が百済直系の技術で製作されていたという。益山市は百済王朝が最後に都を置いた場所で、同市長が4年前、富田林市を訪問、交流が始まった。益山市民らが富田林市の中学校などで伝統舞踊を披露。同市の多田利喜市長も今春、韓国を訪れた。
新堂廃寺は、金堂を挟んで東西対称の大型建物が回廊でつながる国内唯一の伽藍(がらん)配置。百済王家が建てたとされる韓国の王興寺なども同様の配置だったことが、ここ数年の研究で新たに判明。また、「百済王家の後継者争いに敗れた王子が南河内周辺の集落に亡命した」との学説が以前から有力だ。
新堂廃寺と百済王家との関連が注目を集める中、シンポジウム「古代国際交流都市 富田林の源流を探る!」が11月3日、富田林市のすばるホールで開催、益山市立遺跡展示館の李信孝(イシニョ)学芸員が「弥勒寺跡等の発掘と日本の関係」と題して講演する。
■共通の施工技術
金堤市の灌漑(かんがい)施設「碧骨堤(ピョッコルチェ)遺跡」と、施工技術が共通することから「兄弟堤」とされる狭山池。研究者間では約15年前から交流があったが、両市長が昨秋、世界遺産登録に向けた協力をすることで合意し、市民レベルでも交流が盛んに。
10月5日には、大阪狭山市の都市間市民交流協会のメンバーが金堤市を訪れ、地元の祭りに初めて参加する。10月16日には、大阪狭山市のSAYAKAホールで「狭山池の誕生をさぐる」を開催。碧骨堤農耕文化博物館の鄭允淑(ジョンヨンスク)学芸研究士が講演する。
◇
遺跡を巡って進む交流。富田林市の多田市長は「4市の交流を機に南河内の観光でも広域的に連携できれば」と期待。大阪狭山市の吉田友好市長も「海を越えた視点で文化財の歴史的価値を再認識してもらい、市民交流を通した日韓友好を深めたい」と話している。
(2010年9月28日 読売新聞)
931
:
名無しさん
:2010/09/29(水) 13:26:09 ID:Vk6ngMjM0
>>929
仁徳天皇の難波宮は無かった事になってるのか?なにを今更って記事だな。
難波宮跡に須恵器窯跡 周辺に大和王権の重要施設?
http://www.sankei-kansai.com/2010/09/29/20100929-044146.php
大阪市中央区の難波宮跡で、古墳時代中期(5世紀前半)の土器「須恵器(すえき)」を生産した窯跡(かまあと)2基が見つかり、市博物館協会・大阪文化財研究所が28日、発表した。当時の倭国(日本)を統治した大和王権がこの地域で須恵器を本格的に生産していたことが判明。同研究所は「窯跡周辺に、大量に須恵器を使用する重要施設があった可能性が高い」としている。
見つかった窯跡はいずれも、長さ3・8メートル、幅1・4メートル前後で、地下にトンネルを掘る構造。窯の入り口で薪などを燃やし、窯の中に並べた土器を高温で焼く仕組みになっていた。
須恵器は、5世紀初めに朝鮮半島から伝えられた硬質の土器で、今回の発掘現場から約20キロ南の堺市南部には国内最大の窯跡群「陶邑(すえむら)」が知られている。
難波宮には、飛鳥時代(7世紀)と奈良時代(8世紀)に宮殿が築かれたが、古墳時代にも国内最大級の倉庫群が建てられるなど、大和王権の重要拠点になっていた。
大阪文化財研究所は「大阪湾に近いこの地域は朝鮮半島や中国への交通の要衝で、水運などにかかわる王権直轄の重要施設があったのではないか」としている。
発掘現場はすでに埋め戻され、窯跡の写真や出土遺物は29日から大阪市中央区の大阪歴史博物館で展示される。
【写真説明】難波宮跡で見つかった5世紀前半の須恵器窯跡(大阪市博物館協会・大阪文化財研究所提供)
932
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/09/29(水) 23:23:30 ID:IG7yq/Lg0
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20100929ddlk27040337000c.html
ものの始まり・なんでもなにわ:/46 ポストペイ式ICカード /大阪
◇1枚でラクラク後払い
◇電車・バスなど連携、割引も 57社局参加、会員数180万人
JR東の「Suica」、JR西の「ICOCA」……。事前に入金(チャージ)しておかなければ使えない前払い(プリペイド)式ICカードに対し、複数の交通機関で利用できる後払い(ポストペイ)式を初めて実現したのが、鉄道・バス57社局が参加する「株式会社スルッとKANSAI」発行の「PiTaPa(ピタパ)」だ。今年8月末現在で会員数は約180万人に達している。
誕生は04年8月。Suicaのような前払い式だと、事前入金の機械や精算機など巨額の初期投資がかかる。そこで考えたのが、利用後に1カ月単位で利用金額を集計し、口座やクレジットカード会社を通じて引き落とす後払い方式だった。
導入時のプロジェクトチームリーダー、樋口邦雄さんは「後払い式なら、各駅から送られたデータを集約するセンターサーバーがあれば導入できる。費用もパートナーのクレジット会社に負担してもらう契約にした」と話す。
元々鉄道営業法(1900年制定)は「事前に乗車券を購入しなければ乗車できない」と定めていた。これではプリペイドカードの残金が初乗り運賃に満たないと電車に乗れないため、磁気カードを導入した当初、利用者から「なんで改札通れへんのや」と不満が相次いだ。そこで96年に各社共通磁気カード導入の際、国と協議し、後払いを認める規定を設けたという。
だが普及には壁もあった。利用者が「運賃が後払いなんて、裏がある」「クレジットカードを契約させたいのか」と抵抗感を示したのだ。樋口さんは「『電気代やガス代は使った後で払うでしょう』と説明して回りました」と振り返る。
利用後に料金を処理するため、各社思い思いの割引サービスも可能になった。大阪市交通局の「マイスタイル」もその一例だ。よく利用する2駅を事前に登録すれば、この2駅を起点とした一定区間が割引対象になり、1カ月当たりの支払い金額に上限が設定される。同社執行役員の寺岡信太郎さんは「安心でお得なサービス」とPRする。
ところで、自宅最寄り駅となんば駅を登録している私が、毎日新聞社のある西梅田駅から西長堀駅まで利用する場合、乗り換えのなんば駅でいったん改札を抜けると、割引き対象になり、事実上「無料」になる。大阪市交通局は損するのでは? 寺岡さんは「それで結構。街を歩き回ってもらうことで街がより一層にぎわうわけですから」とニッコリ。【高野聡】
933
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/10/01(金) 20:35:54 ID:qlRYgKi20
http://www.sankei-kansai.com/2010/10/01/20101001-044255.php
2010年10月 1日
住吉の魅力今昔 古代の街道にぎわい復活 9日から多彩なイベント
住吉大社など歴史遺産の多い大阪市住吉区の魅力を知ってもらう同区と住民らの協働イベント「すみ博2010」(第4回すみよし博覧会)が10月9〜11日、同区内を舞台に開かれる。今回は古代の河内や大和、飛鳥などと結んだ「磯歯津路(しはつみち)」(住吉街道)沿いでイベントを企画、昔と今の住吉を実感してもらうという。
住吉大社の東側、磯歯津路沿いに設けている「すみよし村ぎゃらりー」と「すみよし村広場」がメーン会場。中国、モンゴルなどの伝統楽器で演奏する「シルクロード・コンサート」や神話を題材にした懐かしの名画を上映する「野外映画会」などのテーマイベントが用意されているほか、磯歯津路に沿ってアートブースやギャラリーが並ぶなど、街道のにぎわいを復活させる。
また、イベントなどに訪れた人が携帯電話で撮影し、メールで送ってきた写真を阪堺電軌上町線の住吉公園駅構内の掲示板にリアルタイムで展示する「住吉ええとこ写メール展」を開催。事前募集した子供たちが風船に絵などを描き、大空に放つイベントや、まち歩きツアーなど、住民らが参加できる企画も盛り込まれている。
イベントに関する問い合わせなどは、住吉区役所区民企画担当(電話06・6694・9989)。
934
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/10/02(土) 23:02:10 ID:axyIdRGc0
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/101002/20101002050.html
燃える炎、思い浮かべ 獅子神事祭へたいまつ作り
2010年10月2日
大阪市豊中市中桜塚1丁目の原田神社(高畠光典宮司)の秋祭り(1〜10日)で、同市指定無形民俗文化財「獅子神事祭」を彩る大小計12基のたいまつが、氏子らの手によって完成した。9日の宵宮祭で点火される。
たいまつは胴回り約3・5メートル、高さ約1・3メートルの特大サイズ2基と、胴回り約1・2メートル、高さ約1メートルの小型サイズ10基。氏子の知人を通じて兵庫県三木市から取り寄せた小麦わら約170束と竹30本を使って「たいまつ保存会」のメンバーが作った。
宵宮祭の9日、上にササを挿して飾り付け、大型の2基を本殿の両脇に、小型の10基は境内各所に据え付ける。同日午後8時すぎに点火し、たいまつが音をたてて燃え盛る中、本殿前で勇壮な獅子神事が奉納される。
同保存会の土肥安弘会長は「竹やわらなど材料が年々手に入りにくくなってきているが、たいまつ作りの技術を絶やすことなく、次の世代に伝えていきたい」と話している。
935
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/10/06(水) 00:00:09 ID:mZd4M7h.0
http://www.sankei-kansai.com/2010/10/05/20101005-044395.php
2010年10月 5日
【日本の城景】殿さま見守る だんじり祭<岸和田城>
浜風が潮の香りと、だんじり囃子(ばやし)を城下に運ぶ。今や全国から観光客がやってくるだんじり祭にあわせて、9月中旬、大阪府岸和田市の岸和田城を訪ねた。
岸和田城は慶長2(1597)年、豊臣秀吉の叔父、小出秀政が5層の天守閣で築城。岸和田の町の歴史もここに始まる。江戸時代に入って、城主は松平氏を経て寛永17(1640)年、摂津高槻から岡部宣勝が入城した。
岸和田城の役割は「大阪湾の守りと大阪の南の防衛だった」とは、岸和田市教育委員会の郷土文化室郷土史担当長、山中吾朗さん(48)。
元禄16(1703)年、岡部氏は京都伏見稲荷を城内三の丸に勧請し、稲荷祭を行う。領民に優しい殿さまは、町の祭りで曳行(えいこう)されていた地車(だんじり)が城内に入ることを許可。祭りは時代とともに規模とかたちを変え、現在の「岸和田だんじり祭」となった。
天守閣は文政10(1827)年に落雷で焼失。現在の天守閣は昭和29(1954)年に建てられた。
「緩やかに進むだんじりから見る岸和田城は、いつも見ているよりずっとすばらしい」と話すのは、岸城神社へ宮1番で宮入りした宮本町会長の辻力男さん(60)。辻さんは「だんじりは、宮入りのような静かな一面もよく見ていただきたい。この祭りと歴史ある岸和田に生まれてよかった」という。
宮入りが行われた9月19日、岸城神社前でカメラを構えた。天守閣を背景に、だんじりがゆっくりと曳行され、目の前を通り過ぎていく。だんじりに施された繊細な彫り物が陽に照らされて浮かびあがった。
午後には再び、城下町から勇壮な「ソーリャ、ソーリャ」という掛け声と大歓声が、天守閣をめがけてわき上がってきた。
936
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/10/06(水) 20:43:14 ID:XfgsAxXA0
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20101006ddlk27040397000c.html
ものの始まり・なんでもなにわ:/47止 ねぎ焼「やまもと」 /大阪
◇元は子どものまかない用 十三の小さなお好み焼き店、しょうゆベースのあっさり味
たっぷりのねぎを入れて焼き上げはふんわり、しょうゆベースの自家製ダレとレモンが食欲をそそる−−。大阪を代表する味と言ってもいいだろう「ねぎ焼」。発祥の店とされ、商標登録もする「やまもと」(山本美徳社長、大阪市淀川区十三本町1)は伝統の味を家族で守っている。
現在、大阪市内に4店舗を展開するやまもとは65年6月、阪急十三駅前の同市淀川区十三本町1(現在の本店)で「お好み焼き・やまもと」として、山本社長の母高恵さん(今年4月に90歳で死去)が開業した。
山本社長によると、高恵さんが一人で夕方から切り盛りした店は、駅前のアルバイトサロン(現在のキャバレー)目当ての客や水商売の女性らでにぎわい、当時高校生だった長女雅子さん(61)や次女智子さん(57)らが学校帰りに手伝った。
午後8時ぐらいまで手伝ってもらう育ち盛りの娘らに、高恵さんは夕方、まかないを食べさせていた。「あれ食べるか」、「これ食べるか」と働いてもらう娘らへの“ごますり”の中で生まれたのがねぎ焼の原点だ。「一銭洋食」をベースにねぎを多く入れ、焼き方の研究を重ねた結果、大人の味に仕上がったという。
当時店内は5、6坪で、カウンター席のみ6席ほどと小さかった。子供らのまかないを見つけた客から「それ、おいしそう」、「一回食べさせてえな」とすぐにリクエストが寄せられ、開業3年後の68年には正式メニューに加わった。
ねぎ焼は94年、やまもとの登録商標になった。大手ビール会社がCMで取り上げる際や、大手菓子製造会社がねぎ焼味の菓子を作る際にはやまもとと使用許諾契約を結び、パッケージに印刷されるなどした結果、やまもとの「ねぎ焼」は全国区になった。
高恵さんは常々、「おもてなしの心」を説いていたという。お冷や一杯出すにも「お客さんに先に『ちょうだい』と言われては負けだ」と話していた。食品の安全性にもこだわり、晩年は中国の農薬漬けの食品問題を憂いていた。
現在、長男の山本社長を筆頭に高恵さんの4男3女が役員や店長などとしてやまもとを支え、母の味を受け継いでいる。
4店舗で使うねぎは1日40〜50キロ。年間計約22万枚のねぎ焼が売れ、常連客や観光客が舌鼓を打っている。山本社長は「大阪で好評をいただいている『本物』のねぎ焼を納得のいく味で全国に広げていきたい」と抱負を語る。【土本匡孝】
==============
「ものの始まり なんでもなにわ」は今回で終わります
937
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/10/06(水) 20:58:07 ID:XfgsAxXA0
■ユネスコ世界遺産 仁徳天皇陵が国内候補地に
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE101006113300394768.shtml
大阪府堺市にある仁徳天皇陵などの古墳群が、ユネスコの世界文化遺産の国内候補地リストに追加されました。
国内候補に追加されたのは、堺市や羽曳野市、藤井寺市の3市にまたがる「百舌鳥・古市古墳群」で、世界最大級の仁徳天皇陵などが含まれています。
地元3市は3年前、世界遺産の候補として共同提案しましたが、周辺の宅地開発など景観保全の課題もあり見送られてきました。
その後、堺市などが景観条例を改正する意向を示したことなどから6日、関係省庁の了承を正式に得ました。
「(世界遺産のメリットは)観光客集客ですね。難しいのはね、古墳でしょ。近くで見ると『森』なんですね」(大阪府 橋下徹知事)
国は、6日追加された新潟県の「佐渡の金銀山」など14件の候補の中から順次、ユネスコへの推薦を決定していきます。
(10/06 12:27)
938
:
名無しさん
:2010/10/07(木) 07:48:15 ID:BMpOQ51c0
世界遺産オワタ\(^o^)/
こうなりゃ金さえあればどんなものでも世界遺産にできそうだ。
939
:
名無しさん
:2010/10/07(木) 09:33:35 ID:pJHnrJkk0
周辺のラブホテルが問題
940
:
名無しさん
:2010/10/07(木) 14:29:51 ID:ZBRzF0JM0
>>938
何が言いたいか分からん、世界最大の古代の墳墓に歴史的価値がないのか?
941
:
名無しさん
:2010/10/07(木) 17:49:04 ID:BMpOQ51c0
横から見ればただの山。
というより発掘調査すらできていないだろw
942
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/10/07(木) 20:48:25 ID:smCYpiiU0
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20101007ddlk27070346000c.html
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/183 大阪俘虜収容所 /大阪
◆大阪市大正区
◇自由時間たっぷり チェスやテニス楽しみ、サッカーチームも
◇神戸洋菓子の礎築く 解放後、その腕生かし−−ユーハイム氏、フロインドリーブ氏
第一次大戦で、中国・青島で日本の捕虜となったドイツ兵を収容した大阪俘虜(ふりょ)収容所。ここでの生活ぶりはどんなものだったのか。フォト・ジャーナリストの藤井寛さん(62)=横浜市在住=が所蔵している、テオドール・エアハルト氏が撮影した写真から、見てみよう。
いわゆる捕虜収容所というと、第二次大戦の日本軍のイメージから想起するのは、規律が厳しく、虐待や非道な扱いが横行する、暗部のような場所だ。だが、エアハルト・アルバムの写真には、笑顔を浮かべる捕虜の姿もあり、比較的自由が与えられていたようだ。
だいたい、捕虜はやることがない。朝夕の点呼と食事以外は自由時間だ。前回、所内の劇団の写真を紹介したが、芝居や音楽会が上演され、中には芝居のために女装する捕虜の写真もある。ほかにもチェスやテニス、体操などに興じた。
サッカーチームもあった。藤井さんの調査によると、広島の似島収容所に移った1919(大正8)年1月、広島高等師範学校の学生チームと対戦。2試合とも完勝を収めた。大阪では市民との試合はなかったようだが、チームのキーパーがカール・ユーハイム氏だった。
どこかで聞いた名前では? バウムクーヘンでおなじみ、神戸の製菓会社「ユーハイム」の創始者だ。もともと菓子職人で、青島で菓子店を営んでいた。1919年に広島県物産陳列館で開かれたドイツ作品展示会で、日本で初めてバウムクーヘンを作って販売した。今でいう物産展のようなものだろう。この年は似島収容所にいたころにあたる。ちなみに県物産陳列館は、今では原爆ドームとして知られている。
捕虜解放後、ユーハイム氏はドイツに戻らず、横浜で店を開くが、関東大震災に遭って神戸へ移ったのだ。
もう一人、同じく青島で菓子店を経営していて捕虜となったのがハインリッヒ・フロインドリーブ氏だ。解放後は、1920年に名古屋で創業した敷島製パン(現Pasco)に製パン技師として迎えられた。その後、神戸で菓子店「フロインドリーブ」を開いた。神戸の洋菓子は、ドイツ人捕虜がいたからこそ発展したといえる。
パンといえば面白い話がある。捕虜たちにとって、食事が不満の種で、中でもパンはドイツのと全く違うから不評で、捨てていたそうだ。ドイツで暮らしたことがある藤井さんは「日本の白くてふわふわしたパンがうまいと言うドイツ人に会ったことがない」と言う。
そのせいか、収容所内にパン焼きがまを造る計画もあったという。大正歴史を語る会の松田邦雄さん(74)は「大阪のマルキパンに捕虜が作り方を教えに行ってるんです。それで大阪のパンはうまくなった」と話す。
収容所には酒保があり、ビールやタバコも売られていた。松田さんが伝え聞いた話では、収容所のゴミくずの中から香水の空き瓶を見付けたおばちゃんが、水を入れて着物に振りかけて喜んだとか、ワインの空き瓶を見て「ドイツ人は生き血を飲んでる」というデマが飛んだりしたという。【松井宏員】
943
:
681
:2010/10/08(金) 23:45:41 ID:btK9vXpQ0
「作品高いといわれるのは不愉快」 魯山人が小林一三にあてた手紙見つかる
2010年10月8日
陶芸や書に優れ、美食家でも知られた北大路魯山人(明治16〜昭和34年)が、阪急電鉄創業者の小林一三(いちぞう)氏に宛てた手紙が見つかったと8日、逸翁美術館(大阪府池田市)が発表した。自らの陶芸の販売価格をめぐり抗議する文面で、芸術家肌の魯山人の性格を伝える貴重な史料という。
手紙は昭和6〜18年に書かれた6通。小林氏の自宅だった「雅俗山荘」(同)の屋根裏から発見された。
小林氏は魯山人の陶芸を評価し、大阪の阪急百貨店で個展を開いていたが、その際、「少しでも安く売るやうにし給え」と述べていたことが同店発行の美術誌に掲載された。手紙はその反論で、18年10月9日付の文面には「金高之問題なりや(高いというのか)…(略)不愉快」。さらに同17日には、その美術誌編集者について「貴下のお気に入ってゐるとあつては摩訶不思議」と小林氏までも批判し、展覧会中止を申し出ている。
同館の伊井春樹館長は「夢中で手紙を書き、普通ではない言葉遣いもある。芸術家としての感情の起伏の大きさが表れている」と話している。
http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/101008/art1010082133001-n1.htm
944
:
名無しさん
:2010/10/09(土) 00:02:37 ID:xIIizpNs0
>941
発掘調査したいけど皇室と宮内庁がうるさいんだろ。
東京勢力が大阪の文化遺産を知らしめたくないので妨害している可能性はあるな。
945
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/10/09(土) 05:31:50 ID:rNd7gV/I0
■戦後65年 引き揚げ者に紙幣などを返還
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE101008230100395900.shtml
終戦直後、外地からの引き揚げ者から税関が預かっていた紙幣や証券などの中から新たに2人の持ち主が大阪府内で特定され、返還されました。
大阪税関から、戦前の保険証書や預金通帳にあたる郵政儲金簿など、あわせて9点を返還されたのは富田林市の会社員・高橋治さん(66)と枚方市の主婦・山岡紀子さん(66)です。
ふたりは幼い頃、旧満州の奉天から引き揚げてきましたが、当時GHQは一定額を超える所持金の持ち込みを制限したため、税関が証券や現金を預かっていました。
「私の名前で通帳があるとは存じませんでした。一生の宝物です。母の仏前に供えて大事にしていきたい」(高橋治さん)
引き揚げ者から預かった証券類の返還は1953年から始まりましたが、いまだ6割以上が所有者の行方がわからず返還できていないということです。 (10/09 00:40)
946
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/10/09(土) 22:10:02 ID:i1R/6BnE0
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20101009ddlk27070399000c.html
なるほドリ:だんじり祭りの歴史は? /大阪
◇江戸時代に各地で盛ん 形態はいろいろ
なるほドリ 秋には各地で「だんじり祭り」が行われるけど、どんな歴史があるのかな?
記者 五穀豊穣(ほうじょう)や無病息災を祈願するために始まり、江戸時代に各地で盛んになったといわれています。発祥地や時期については不明な点が多いのですが、その後は関西地方を中心に広まりました。今では大阪や兵庫、奈良などに約700台のだんじりがあるといわれます。猛スピードで交差点を直角に曲がる「やりまわし」が特徴の大阪府岸和田市が有名ですが、舟の形をしただんじりが練り歩く岡山県瀬戸内市牛窓町など各地でいろいろな形態があります。だんじり祭りはそれぞれに異なる歴史があり、それを知るのも祭りの楽しみといえます。【社会部・古関俊樹】
947
:
名無しさん
:2010/10/09(土) 23:16:38 ID:EzVjciQo0
>>939
この前、周辺のラブホテルの一つが旅館届けだったとかで摘発されてました。
今まで放置されてたものが突然摘発されたので、世界遺産と何らかの関係があるものと思いますね。
堺市は景観条例を今後強化することで、文化庁から国内候補のお墨付きを
貰ったそうですので、今後ラブホテルなどは全部無くなっていく可能性が高いですね。
948
:
名無しさん
:2010/10/09(土) 23:21:40 ID:EzVjciQo0
>>941
知事も観光を期待したいと正直に言ってましたが、
世界遺産はそういう趣旨で登録するものではないですしね。自治体の本音は観光でしょうけど。
調査云々は正直宮内庁の意向ですから、なんともなりませんが
歴史的資産としての価値は他の国内候補を寄せ付けないとは思いますね。
古市古墳群も含めて本当に巨大墳墓の集まりですから。
大阪の宝ですね。
949
:
<削除>
:<削除>
<削除>
950
:
名無しさん
:2010/10/10(日) 00:04:01 ID:xIIizpNs0
しかし河内にはなんであんなに古墳があるんだろうな。
不思議だ。
951
:
名無しさん
:2010/10/10(日) 16:46:42 ID:ZbqwigRY0
それは言うまでもなく、昔、日本の首都だったからです。
952
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/10/17(日) 17:41:45 ID:ypvzDNFk0
■現地説明会 難波宮跡から白壁出土
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE101016113600398094.shtml
大阪市中央区の難波宮跡から天皇の宮殿に使われたとみられる白壁の破片が出土し、現地説明会が開かれました。
出土した白壁は645年、「大化の改新」のあとに孝徳天皇が飛鳥から移した都「難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)」の宮殿に使われたものとみられています。
宮殿の白壁は藤原宮や平城宮でも見つかっていないため、貴重な発見を一目見ようと朝から多くの考古学ファンが訪れました。
「思ったよりも白くなかった。もうちょっと白いのかと思っていたが、ちょっと焼けた跡が残っているのかなと」(現地説明会の参加者)
宮殿の壮麗さは日本書紀にも記述があるほどで、白壁は当時の様子を知る貴重な資料となりそうです。
(10/16 12:17)
953
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/10/17(日) 17:56:26 ID:ypvzDNFk0
住吉大社の9棟 重文追加指定へ
http://www.sankei-kansai.com/2010/10/16/20101016-044817.php
文化審議会が15日、高木義明文部科学相に行った答申で、大阪府内では、住吉大社(大阪市住吉区)の礼拝施設「幣殿」と、本殿につながる廊下「渡殿」など9棟の重要文化財への追加指定が盛り込まれた。これで府内の重要文化財は99件178棟となる見通し。
9棟は、境内中央に4つある本殿に接して建てられた「幣殿及び渡殿」4棟▽摂社大海神社の「幣殿及び渡殿」▽摂社大海神社西門▽南高蔵▽北高蔵▽末社招魂社本殿(旧護摩堂)。
幣殿は、渡殿(4・5〜5・4メートル)を介して本殿の前面に建ち、幣殿も渡殿も一体の建物。1棟は鎌倉〜室町時代から存在したが、ほかの3棟は江戸時代初めの慶長12(1607)年に設けられた。
現在の幣殿と渡殿は本殿とともに文化7(1810)年に建て替えられている。
境内北端にある摂社大海神社の幣殿と渡殿は宝永5(1708)年に建てられたとみられ、府教委は「古事記や日本書紀にも登場する住吉大社の礼拝施設の整備過程を伝える社殿として貴重だ」と話している。
住吉大社の本殿4棟は昭和28年に国宝に、摂社大海神社本殿など5棟が同39〜49年に重要文化財に指定されている。
954
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/10/18(月) 05:42:50 ID:r7fBWqlA0
「1902年以来」の雄姿 交野・星田のだんじり
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20101018-OYT8T00059.htm
交野市の星田地区で17日、星田神社秋祭りに合わせ、100年以上ぶりという、だんじりのまちなかでの曳(えい)行が復活した。近年は境内の中だけで披露されており、星田だんじり保存会によると、「1902年以来」。静かな集落に勇壮な姿が現れ、威勢のいいかけ声が響いた。
同地区のだんじりは、東地域と西地域の2基があり、それぞれ1834年、35年に建造。精巧な彫刻が施されたきらびやかな装飾や、路地を通れるよう細身の造りが特徴。だが、東西で装飾などの競争が激しさを増し、飢饉(ききん)などもあって、曳行は姿を消したという。
2基は毎年10月16、17日の秋祭りで披露され、夜に境内で曳(ひ)かれるのみとなっていた。保存会には、「いつか街で曳く姿を見たい」と言いながら亡くなる人もいて、同会の発足15周年記念に、今年限りの復活を決めた。
こまが新しい西のだんじり(高さ4・6メートル、幅2・2メートル、長さ4・7メートル)を使用。メンバーらが街の道路幅を計測し、安全面からコース案を何度も変更しながら準備。創建時のままとされる土台部分は、業者からも「しっかりしている」とお墨付きを得た。
この日は約50人でだんじりを囲み、星田神社を出発。「ソーレ」のかけ声で曳き、星田小との往復約1・5キロを練り歩いた。沿道には大勢の見物客が集まった。
保存会の市岡伊佐男会長は「沿道の人も参加した人も生き生きとした顔をしており、地域が一体になれた。やってよかった」と喜んだ。
(2010年10月18日 読売新聞)
955
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/10/18(月) 21:29:23 ID:kIFWNF4E0
なるほドリ:大阪には昔のビルがなぜ多いの? /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20101018ddlk27070223000c.html
<NEWS NAVIGATOR>
◇当時は「東洋一の商工都市」 活用法探り保存を
なるほドリ この間、中之島近辺を散歩していたら、古い建物をいくつも見かけたよ。今のビルと違って外観が面白かったなあ。大阪には昔のビルが多いの?
記者 そうですね。代表的なのが大阪市中央公会堂(1918年完成)です。コンサートなどに使われる「大阪の顔」で、国の重要文化財です。また市役所西側の日本銀行大阪支店(1903年完成)も有名です。堅牢(ろう)な構えが特徴で、東京駅の設計でも知られる辰野金吾氏の設計です。他にも明治・大正時代の数々の建物が残っています。
Q どうしてその時代に立派な建物が多いのかな。
A 当時の大阪は東京を上回る人口で、「東洋一の商工都市」とも呼ばれました。その格にふさわしい建物をと、競うように造られたのです。
Q 中に入ることができる建物もあるの。
A はい。予約すれば見学できたり、京阪電車北浜駅のほぼ真上にある北浜レトロビルヂングのように、中が喫茶店などになった建物も増えています。「大大阪モダン建築」(青幻舎)にはそうした建物が80棟近く紹介されています。
Q 取り壊された建物もあるのかな。
A 収益性の高い高層ビルへの建て替えが少なくありません。大阪の建築に詳しい橋爪紳也・府立大教授によると、高度成長期やバブル経済期にも顕著だったそうです。最近では大阪を代表する名建築だった「ダイビル本館」(北区中之島3)の解体が注目されました。
Q そうか。じゃあこれからはできるだけ残せるといいね。
A 橋爪教授は「建築学的に価値が高い文化財のような建物とは別に、地域の人たちに愛されるランドマークのような『公共財』となっている建物もある。価値のある古い物を残すというだけでなく、そうした『公共財』をどう利活用していくかが大事。地域や建物所有者を交えて話し合ってほしい」と話しています。多くの人が関心を持つようになれば、きっと残していけると思いますよ。<回答・野田武(科学環境部)>
==============
あなたの質問をお寄せください。
〒530−8251(住所不要)毎日新聞社会部「質問なるほドリ」係(o.shakaibu@mainichi.co.jp)
956
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/10/18(月) 21:42:44 ID:kIFWNF4E0
升酒、升作り満喫 住吉公園で「市」にぎわう
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/101018/20101018022.html
日本の「市」の起源とされる住吉大社の「升の市」を現代に再現した「住吉っさん升の市」が17日、大阪市住之江区浜口東1丁目の住吉公園で行われた。升酒が振る舞われるなどし、大勢の人たちでにぎわった。
升の市は、江戸時代に住吉大社で執り行われた「宝之市神事」に合わせて開かれた市で升が売られたことが始まり。多くの人であふれ返ったと伝えられ、訪れた松尾芭蕉は「升買うて 分別かはる 月見かな」の句を残している。明治時代の度量衡法施行に伴い途絶えたが、1996年に復活し、今年で15回目となる。
会場では、振る舞い酒のほか、升ですくった信州みそがもらえる“量り取り”が行われた。升の生産日本一の岐阜県大垣市も参加し、升の手作り体験コーナー、同市の安田政敏さんによる竹やわらで編むかご(畚(ふご))の制作実演も行われ、訪れた人たちが興味深そうに見入っていた。
957
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/10/18(月) 21:50:48 ID:kIFWNF4E0
遅くなりましたが
>>952
に関連して大阪市の発表です。
前期難波宮の宮殿建物の大量の壁土が、難波宮東方の谷から出土しました 〜現地で説明会を行います〜
http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/kyoiku/0000096464.html
大阪市教育委員会と(財)大阪市博物館協会大阪文化財研究所は、平成22年6月から実施している中央区森ノ宮中央2丁目(旧府立青少年会館跡地)の発掘調査の成果を広く市民に公開するために、次のとおり、平成22年10月16日(土)午前10時より12時まで、発掘現場の現地説明会を開催します。
今回の調査地は上町台地の東斜面にあたり、すぐ西側では、前期難波宮の東方官衙(とうほうかんが)と呼ばれる建物跡が発見されています。また豊臣時代には、大名屋敷や武家屋敷があったとされる三の丸内にあたり、歴史上重要な場所に位置します。
調査は現在も進行中ですが、前期難波宮の宮殿建物のものと考えられる大量の壁土が発見され、学問的に大きな成果が得られました。現地説明会では、調査で新たに発見された遺構や遺物を公開するとともに、出土遺物や写真パネルを展示します。
調査の概要
1 各時代の調査成果
1)飛鳥時代
調査地の北西部で、西から東に下る自然の谷の南斜面を検出しました。谷の深さは現代の地面から6m以上あり、前期難波宮が造営された時に谷を埋め立てた形跡がないことから、この谷が前期難波宮の宮域の東限となっていた可能性があります。
この谷から大量の壁土が出土しました。壁土は谷の斜面に50〜70㎝の層をなして集積しており、まとめて投棄されたことがわかります。上下の地層から出土した土器の年代観や、壁土の多くが火を受けていることなどから判断して、686(朱鳥元)年に焼失した前期難波宮の建物に用いられた壁材であると考えられます。
調査地西隣の東方官衙の建物群には火災で焼けた痕跡がみられないことから、投棄された壁土は、さらに西側の難波宮跡公園内に位置する、内裏など宮殿の中心建物の部材の可能性があります。また、下塗と中塗を行ったのち、表面に白土もしくは漆喰(しっくい)を塗った丁寧なつくりの壁土も含まれており、これらは宮殿のなかでも特に格式の高い建物に用いられたものと推測されます。
ほかにも、谷からは前期難波宮や直前の時期の土器とともに、舟形の木製品や、素弁蓮華文軒丸瓦(そべんれんげもんのきまるがわら)や鴟尾(しび)を含む飛鳥時代の瓦がまとまって出土しました。
また、調査地中央北部では、難波宮下層のものと考えられる建物柱穴が見つかっています。
2)豊臣時代
谷は古代から中世にかけて徐々に埋まっていきますが、秀吉の大坂城築城に際し、谷の傾斜地を加工してひな壇状の平坦地を造成し、屋敷としていたことが判りました。調査地北西部の平坦地では大小6基の竈(かまど)をもつ礎石建物が見つかっています。その後、大規模な盛土造成により、谷やひな壇状の平坦地は完全に埋められます。この盛土造成は1598(慶長3)年に開始された大坂城三の丸築造に伴うものと考えられます。三の丸築造後の遺構は南北方向の濠を1条確認しましたが、大半が近代以降に削平されていました。
2 調査成果の意義
今回の調査では、前期難波宮の東方官衙の東側で新たに谷を発見し、これが宮域の東限の可能性があること、豊臣時代前期には谷をひな壇状に造成し屋敷地としていたが、1598(慶長3)年と考えられる三の丸築造の際に完全に埋められたこと、などの土地利用の変遷が判りました。
特に谷から出土した大量の壁土は、686(朱鳥元)年に焼失した前期難波宮の宮殿建物に用いられた壁材と考えられ、注目されます。前期難波宮の壁土は、これまでの難波宮周辺で行われた発掘調査でも出土したことがありますが、今回のように大量に出土した例はなく、これまで不明な点が多かった当時の宮殿の建築技術やその外観を復元する上で重要な資料となります。
(一部略)
958
:
681
:2010/10/19(火) 19:09:33 ID:btK9vXpQ0
遺跡:阿倍野・北畠公園の敷地内から 弥生時代後期、集落囲む溝の一部か /大阪
2010年10月19日
◇土器片20点も出土
大阪市阿倍野区にある市立北畠公園の敷地内で、弥生時代後期の遺跡が見つかった。約1800年前に形成された集落を囲む溝の一部とみられ、つぼやかめの土器片も発見された。発掘調査した大阪市博物館協会大阪文化財研究所によると、児童公園内で遺跡が見つかるのは珍しく、近くの住民は「まさか遺跡が出るとは」と驚いている。【平川哲也】
同研究所によると、溝は長さ約8メートル、幅約2・5メートル、深さ最大約1メートル。公園の改修工事に伴う1月の調査で見つかった。溝は緩やかに曲がっており、土の堆積状況から空堀と推測される。底からは、弥生時代後期の土器の特徴である、側面を板でたたくなどした土器片が約20点出土した。
こうした特徴のある溝は、集落を外敵から守る「環濠(かんごう)」とされ、吉野ケ里遺跡(佐賀県)などで知られる。北畠公園の溝は緩やかな弧を描いて東と北に延びており、公園の北側に集落があった可能性が高いという。
また半径3キロ以内には、弥生時代中期以前に集落が形成された桑津遺跡(東住吉区)や山之内遺跡(住吉区)がある。後期に入ると、大きな集落から離れて別の集落をつくる傾向があるため、同研究所総務企画課の京嶋覚課長は「北畠公園北側に集落跡があれば、ほかからどう人が移動してきたかが分かる資料となるかも知れない」と話す。
市によると、北畠公園は1940年設置。遊具などを整備するため、遺跡は調査終了後の3月までに埋め戻されたが、同研究所は今後北側で工事がある場合は調査したい、としている。近くで業務用化粧品店「BSインテリア」を営む保井君夫社長(74)は「遺跡とは驚いた。昔から住み良い地域だったんだろうね」と話していた。
◇
調査の内容は、同研究所が発行する文化財情報誌「葦火」148号(120円)で紹介している。問い合わせは同研究所(06・6943・6833)。
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20101019ddlk27040378000c.html
959
:
681
:2010/10/19(火) 22:29:12 ID:btK9vXpQ0
【大阪特派員】鹿間孝一 もし桂米朝なかりせば
2010年10月19日
「もし、この世に桂米朝なかりせば、上方落語の今日の隆盛はあるまい」
断言したのは立川談志さんである。
「死にかかった上方落語、それは吉本興業に代表される漫才の台頭、全盛。その逆に衰退、滅亡の落語界。(略)わずかに残った松鶴(五代目)、春団治(先代)、文団治、花橘、米団治、円都等、彼らの生存期間と若き米朝のほんの短いクロスタイムに、この古老達の芸の形式を吸収し、そこに『現代』という感覚を入れ、脚色、演出といいたいが、そのほとんどは米朝作、といっても過言ではない『上方落語リバイバル』であった」(「談志百選」より)
大阪府立上方演芸資料館「ワッハ上方」で、第14回上方演芸の殿堂入りを記念した桂米朝特別展が開かれている(11月9日まで)。
人間国宝、文化勲章に続いての殿堂入り。これまではすべて故人で、表彰式で84歳の米朝さん、「もうこれで死んだらええ」と冗談交じりに喜びを語った。
米朝さんは昭和22年、四代目桂米団治に入門した。東京での学生時代に作家で寄席文化研究家の正岡容(いるる)に師事した。郷里の姫路に戻って会社勤めをしていたころ、正岡から手紙が届く。「いまや伝統ある上方落語は消滅の危機にある。復興に貴公の生命をかけろ」
「師の声は天の声」。当初は正岡のように演芸の研究家を目指そうと考えないでもなかったが、何か満たされず、自分も高座に上がりたいという思いが頭をもたげたという。
「爆笑王」の異名をとった初代桂春団治はすでに亡く、戦災で寄席はあらかた焼け、大阪の笑いはスピーディーな漫才が主役だった。落語家になろうという者などめったにいない。米団治も弟子入り志願に「やめときなはれ」とは言わなかったが、「この商売は食えまへんで」。
米朝さんとともに四天王と称された六代目笑福亭松鶴、三代目桂春団治、五代目桂文枝も相次いで落語界の門をたたいているから、昭和22年は上方落語にとって記念すべき年である。
米朝さんの功績を列記するなら、一に埋もれた演目を掘り起こして現代に甦(よみがえ)らせたこと。多くの弟子を育てたこと。そしてホールでの独演会、一門会を成功させ落語の舞台を広げたことである。大手のプロダクションに所属せずに個人事務所を持ったのも初めてだ。演者にして研究家、教育者、プロデューサーと何役もこなしてきた。
サンケイホールでの米朝独演会に触れておこう。
昭和46年夏、ホールの支配人、吉鹿徳之司さんから開館20周年を記念して独演会を持ちかけられた。「だいたい落語は1500人も入るところでやるものやない」と断ったが、「まもなくホールの歴史を閉じるかも。手向けに一度だけ」と泣き落とされた。それが超満員で、翌年正月には「夏に積み残したお客さんのためにもう一度」。そうこうして平成14年、本当にホールが幕を閉じるまで夏と正月の計60回続いた。
今、上方落語は念願の定席「天満天神繁昌亭」ができ、落語家も米朝一門だけで60人を超える。息子の五代目桂米團治をはじめ桂塩鯛、桂米紫など襲名ラッシュで活況を呈す。
その昔、船場の商家の奉公人は大阪の風俗、しきたり、季節のあいさつなどを寄席で学んだ。落語は学校だったのだ。「もし桂米朝なかりせば…」。最初の問いかけに戻ると、上方落語だけでなく、大阪の文化の伝承も途絶えていたかもしれない。
師の米団治はこう語ったそうだ。
「今に想像もできん、ええ時代が来るで。これほど洗練された芸はないんやさかいな。廃れてしまうことは絶対にない」 (しかま こういち)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101019/acd1010190807001-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101019/acd1010190807001-n2.htm
960
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/10/21(木) 22:43:21 ID:MKZyw6vw0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/185 大阪俘虜収容所 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20101021ddlk27070420000c.html
◆大阪市大正区
◇旧真田山陸軍墓地 ドイツ兵2人が眠る
◇手厚い葬儀には上官ら多数参列−−収容中病死
玉造(天王寺区)に旧真田山陸軍墓地がある。第一次大戦などで亡くなった兵士らが葬られている。整然と並ぶ約5300の墓碑群の中に、カタカナの名前が刻まれた墓碑が2基ある。第一次大戦で捕虜となって大阪俘虜(ふりょ)収容所に送られ、病死したドイツ兵だ。
一つは「軍曹ヘルマン・ゴル」、もう一つは「兵卒リードリッヒ・クラフト」と刻まれている。
大阪収容所を研究しているフォト・ジャーナリスト、藤井寛さん(62)の調べによると、ゴルは1915(大正4)年9月7日、大阪衛戌(えいじゅ)病院で亡くなった。尻の銃創のために入院していたが、突然亡くなったという。
入院中の捕虜27人が死因解明のために解剖を要求。結果は「盲腸炎」だった。日本に住んでいた元捕虜に藤井さんが取材したところ、「葬儀のため上官や下士官らが大勢、病院に向かったはず。収容所から出て大阪市内を歩けるなんて、幸せな連中だとうらやましがった」と述懐した。
クラフトは1917(大正6)年3月1日、同じく大阪衛戌病院で腸かいようで死亡した。大阪毎日新聞には「陸軍墓地に於いて手厚き葬儀を行い、俘虜十名等参加せり」とある。
この年2月18日に、大阪収容所の捕虜は広島・似島収容所に移動し、大阪収容所は閉鎖された。クラフトが亡くなった時、大阪にドイツ兵捕虜はいなかったはずなのだ。疑問に思った藤井さんが調べたところ、「釈放詮議(せんぎ)中」の捕虜11人が大阪衛戌病院に留め置かれていたことがわかった。藤井さんは、この捕虜たちが葬儀に引っ張り出されたのではないか、と推測する。
そうした死にざまを知って、墓碑を眺めて思う。まったく縁もゆかりもない遠い異国の地で、肉親にみとられることもなく果てたドイツ兵。病床で、その心中に去来したものはなんだったのか。
5年前、この墓地を訪ねた時、誰が供えたのか、墓前にドイツビールが置かれていたのを思い出した。2人のドイツ兵のことを忘れずにいる人が、参っている。寂寥(せきりょう)とした墓地で、少し胸の奥があったかくなったものだ。
◇削られた「俘虜」の文字 領事と師団長「墓前に咲いた人情の花」
2人のドイツ兵の墓碑銘には、奇妙なところがある。「独逸(ドイツ)」と、「軍曹」「兵卒」の間の文字が削り取られているようなのだ。この謎は1931(昭和6)年5月7日の大阪毎日新聞の記事で解けた。
「獨兵の墓前に咲いた人情の花」という見出しの記事は、5月5日、大阪にあった陸軍第4師団長が真田山墓地を参拝した模様を報じている。この時、大きな花輪を持ったドイツ人に出会い、師団長がドイツ語で来意を尋ねた。このドイツ人は大阪駐在のドイツ領事で「私の国の2人がこちらにやっかいになっております。そのお礼かたがた礼拝に参りました」と答えた。
これに深く感じ入った師団長ら一同は、ドイツ領事とともに捕虜の墓に参った。「師団長が外国人俘虜の墓前に礼拝したのはこれが最初のこと」だった。
この記事の最後に「師団では最近、墓標の『俘虜』の文字をその名誉のために削ることに決定している」とある。日独伊三国同盟が結ばれるのは、まだ先の1940(昭和15)年のこと。ドイツはまだ同盟国ではない。墓前でのドイツ領事との偶然の出会いが、「俘虜」の2文字を削らせたのだとしたら、このころの軍人は「情」を懐にしのばせていたのだろう。【松井宏員】
961
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/11/21(日) 10:29:47 ID:Amp7aFVU0
「真田の抜け穴」跡、三光神社が一般公開…大阪
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20101121-OYO1T00208.htm?from=top
大坂冬の陣(1614年)で活躍した豊臣方の武将・真田幸村が、大坂城と出城「真田丸」間に掘ったとの伝説が残る「真田の抜け穴」跡(大阪市天王寺区)の内部が20日、初めて一般公開された。
抜け穴跡は、天守閣の南約1.5キロで、真田丸が築かれたとの伝承がある三光神社の境内にある。入り口は高さ約1メートル40、幅約80センチ。普段は鉄格子の扉で閉ざされ、現在は入り口から約3メートル先で土砂にうずもれてしまう。「真田十勇士が奇襲に使った」などの説が伝わる一方、防空壕(ごう)跡との見方もある。
公開は、NPO法人「大阪城甲冑(かっちゅう)隊」(大阪府藤井寺市)が神社側に働きかけ、1日限りで実現。真田軍と同じ赤い甲冑姿のメンバーが旗印「六文銭」の意匠をあしらった扉を開け、歴史ファンらが次々と内部に入った。最長で約100メートルの列ができるほどの人気ぶりで、参加者はロマンあふれる伝説の一端を楽しんだ。
(2010年11月21日 読売新聞)
962
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/11/21(日) 16:48:38 ID:6zGgvhEE0
国史跡に楠葉台場 京都護衛へ幕府築造
2010年11月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/101120/20101120045.html
国の文化審議会は19日、幕末当時の軍事施設の姿を残す楠葉(くずは)台場跡(枚方市)を、新たに国の史跡にするよう文部科学大臣に答申した。
府教委によると、楠葉台場は、江戸幕府が京都の護衛のために淀川左岸に築造した砲台場と関門施設。慶応元(1865)年に竣工(しゅんこう)した。
築造の背景には、尊王攘夷(じょうい)派や長州藩への対策として、京都への侵入を取り締まろうとする幕府側の意図があったとみられている。戊辰(ぼしん)戦争の舞台にもなった。
西洋式の要塞(ようさい)として砲座を設け、関門施設として京街道を台場の中に取り込んでいる構造が発掘調査で確認されており、京都を中心に展開した幕末の緊迫した状況を理解する上で重要とされる。府内にあったとみられる台場として唯一、土塁や堀などが当時の姿をとどめているという。
答申ではほかに、金剛寺境内(河内長野市)や安満遺跡(高槻市)など3件の府内の国指定史跡をめぐり、新たに指定の要件が整った部分などを追加指定するよう求めた。
府内の国指定史跡は、特別史跡2件、史跡67件になる。
963
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964
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/11/22(月) 21:03:00 ID:RXbOq/No0
2010年11月22日
「神農祭」はじまる 絵馬展も開催
http://www.sankei-kansai.com/2010/11/22/20101122-046388.php
「薬の神様」として知られる少彦名神社(すくなひこな)(大阪市中央区)で22日、恒例の「神農祭」が始まり、無病息災を願う参拝者らでにぎわった。23日まで。
境内では、巫女(みこ)さんのおはらいを受けながら、病よけの「張り子の虎」がついた笹を求める人が相次いだ=写真。2日間で約5万人の人出を見込む。
今年はご祭神の「少彦名命」の鎮座から230年目といい、近くのギャラリーで絵馬展も開催。別所俊顕宮司(68)は「やっぱり健康が一番」。
965
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/11/22(月) 21:19:09 ID:RXbOq/No0
「貨幣大試験」 大阪造幣局
http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html
#0356827
今年度に製造された貨幣の重さが、規定どおりかどうか検査する「貨幣大試験」が22日、大阪の造幣局で行なわれました。
貨幣大試験は硬貨の信用性を保つため、製造された硬貨が規定どおりの重さかどうかを調べるものです。
桜井充財務副大臣を執行官に、ことし4月以降に製造された1円から500円までの硬貨と地方自治法施行60周年の記念硬貨など、計21種類が検査されました。
500円硬貨は1000枚あたりの重さの基準が7000グラム。誤差は13グラム以内と決められています。
明治5年から毎年行われている貨幣大試験は今年で139回目で、これまで1度も不合格が出たことはなく、今年も全ての硬貨が規定内であるとして合格しました。
966
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/11/23(火) 20:05:18 ID:OKJTgTWo0
神農祭:張り子の虎で無病息災−−大阪・中央区の少彦名神社 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20101123ddlk27040340000c.html
薬の神様を祭る大阪市中央区道修町の少彦名(すくなひこな)神社(別所俊顕宮司)で22日、恒例の「神農祭(しんのうさい)」が始まった。23日まで。
祭りは市の無形文化財に指定。今年は少彦名命が鎮座して230年の節目の年にあたる。江戸時代にコレラが流行した際、薬とともに疫病除(よ)けとして張り子の虎を授与したことから、現在も無病息災のお守りとして張り子の虎が授与されている。
神社には朝から多くの参拝者が訪れ、枯れても葉が落ちない縁起物の「五葉笹」に付けられた張り子の虎(2000円)を次々と受け取り、巫女(みこ)から「家内安全、無病息災のご利益がございますように」と言葉をかけられていた。【矢島弓枝】
967
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/11/23(火) 20:20:05 ID:OKJTgTWo0
道修町で神農祭始まる 「薬の神様」鎮座230年
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK201011230023.html
薬の神様を祭って無病息災を祈る「神農祭(しんのうさい)」が22日、薬の町として知られる大阪市中央区の道修町(どしょうまち)で始まった。今年はご神体を置いてから230年の節目の年。周辺は歩行者天国となって出店が並び、23日までの2日間で約5万人の参拝客を見込む。
神農祭はそれぞれ日本と中国の薬の神である「少彦名命(すくなひこなのみこと)」と「神農氏(しんのうし)」を祭る少彦名神社の行事。参拝客は和紙製の虎にササの葉をあしらった縁起物の「張り子の虎」を買い求めていた。
多くの製薬会社が本社を置いた道修町からは、東京や市内の他地区への本社機能流出が進むが、22日午前の神事には移転した各社の社長らも出席。別所俊顕宮司は「薬の町としてもう一度、大きなにぎわいになることを期待したい」と話した。
968
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/11/23(火) 20:32:14 ID:OKJTgTWo0
張り子の虎に御利益願う 少彦名神社で神農祭
2010年11月23日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/101123/20101123020.html
“神農(しんのう)さん”の愛称で親しまれている大阪市中央区道修町の少彦名(すくなひこな)神社(別所俊顕宮司)で22日、恒例の大祭「神農祭」が始まり、縁起物の張り子の虎を買い求める大勢の参拝客でにぎわった。
薬種業が軒を連ねる“薬の町”にある同神社は病よけに御利益があるとされ、ことしで鎮座230年。毎年11月22、23の両日が大祭に定められ、年始の「えびす祭り」で始まる大阪の1年を締めくくる「止めまつり」とも呼ばれる。
張り子の虎は、江戸時代末期にコレラが大阪で流行した際、道修町の薬問屋仲間が虎の頭骨を混ぜて作った丸薬と一緒に、厄よけとして患者に与えたのが始まりとされる。
境内には、大勢の善男善女が参拝。「家内安全、無病息災。御利益がありますように」と、みこが鳴らすおはらいの鈴の音が響く中、五葉のササに付けられた全長10センチほどの張り子の虎に願いを託していた。
西成区の沢田喜盛さん(77)と正子さん(75)夫妻は「来年の暦に黒星が付いていたので」と初めて参拝に訪れた。息子家族の分を含めて5本のササを買い、「御利益があれば」と柔和な表情を見せていた。
969
:
名無しさん
:2010/11/23(火) 20:37:24 ID:BMpOQ51c0
>>967
>多くの製薬会社が本社を置いた道修町からは、東京や市内の他地区への本社機能流出が進むが、22日午前の神事には移転した各社の社長らも出席。別所俊顕宮司は「薬の町としてもう一度、大きなにぎわいになることを期待したい」と話した。
こういうニュースでも必ずネガキャン
970
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/11/23(火) 20:41:17 ID:OKJTgTWo0
■「神農祭」〜薬の町・道修町
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE101123113200408731.shtml
製薬メーカーが立ち並ぶ大阪の道修町では、薬の神様として知られる「神農さん」に感謝し、無病息災を願う「神農祭」が開かれています。
大阪市中央区・道修町にある少彦名神社には、日本の薬の祖神である少彦名命と、中国の医薬の神様「神農さん」が祭られています。
「神農祭」は、江戸時代にコレラが流行した際、この神社で虎の頭をつぶした薬を作ったところ疫病が治まったことから始まり、今年は神社ができて230年にあたることから絵馬展やだんじり囃子が披露されています。
「岡山から来てます、新幹線に乗って」(参拝者)
「家族で健康にすごせますようにということで」(参拝者)
神農祭は、23日夕方6時まで開かれています。 (11/23 12:09)
971
:
道後温泉倶楽部
:2010/11/23(火) 22:00:47 ID:ZuDB54kQ0
昨日、行ってきました。残念ながら、雨でしたが・・。張子の虎も自宅にありますよ。
製薬メーカーが立ち並ぶ大阪の道修町>>という事で、私もそのメンバーであります。
でも、御堂筋と堺筋の間に屋台とか、お薬の空箱の七夕(?)っぽい飾りつけは、
この時期だけのお楽しみですね。
972
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/11/24(水) 18:50:17 ID:TU22i5lo0
貿易商の郷土愛 「感心」
2010年11月23日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001011240001
豊中市上新田(かみしんでん)3丁目にある府内最古の木造校舎、旧新田小学校の敷地に建つ記念碑に刻まれた漢文の筆者が、朝日新聞のコラム「天声人語」の名付け親のジャーナリスト・西村天囚(てんしゅう)(1865〜1924)だったことが、梅花女子大(茨木市)の能登宏之教授の調査で分かった。天囚が執筆した経緯は不明という。
能登教授によると、記念碑は旧新田村出身の貿易商・吉田吉兵衛(1842〜1919)を顕彰する目的で1929年に建立された。吉兵衛は極貧の家に生まれたが貿易商として成功。たびたび帰村し、村人らに勤勉や風紀を説いたという。死後、当時としては大金だった1万円を「教育振興に役立ててほしい」と村に寄付した。
碑文は285文字。吉兵衛の功績をたたえ「いち小村に1万円を寄贈したと聞き感心した。貧しい家の子らも感動してほめるだろう。私は文章を書くことに辞せずして提供する」と記されている。末尾には「大隅 西村時彦撰」と書かれていた。
能登教授は以前から碑の存在は知っていたが、数年前に「時彦(ときつね)」が天囚の本名と知り、文献を調べて碑文が天囚の作品だと確認した。村の長老らが大阪朝日新聞を退職したばかりの天囚が住む鹿児島を訪れ、碑文の作成を依頼したとみられる。
朝日新聞の主筆格だった天囚は名文家として知られ、これまでに60本ほどの碑文を執筆したことが分かっているが、天囚自身が吉兵衛や新田村と関係があった可能性は極めて低いという。能登教授は「天囚は吉兵衛の話にいたく感動したのだろう。特に教育にかかわることだけに、非常に熱のこもった一文を作成したと思う」と話していた。
記念碑がある旧新田小の校舎は1900年に建てられ、府の文化財に指定されている。
973
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/11/24(水) 18:59:39 ID:TU22i5lo0
みやびに巧みに 茨木・阿為神社で蹴鞠の会
2010年11月24日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/101124/20101124023.html
蹴鞠(けまり)で中大兄王子と親しくなったといわれる藤原鎌足ゆかりの茨木市、阿為(あい)神社(森川正啓宮司)で23日、「蹴鞠の会」が開かれた。京都の「蹴鞠保存会」の会員らがみやびな装束を身に着け、巧みに鞠を蹴ると、参拝者らから歓声が上がっていた。
蹴鞠保存会によると、蹴鞠は約1400年前に中国から伝わり、中大兄王子と鎌足が蹴ったのが最初とされるという。
北摂の三島地区は、早くから中臣氏の所領で、鎌足が大化改新などの秘策を練った地とも伝えられており、同社が2005年に新社殿の落成を記念して「蹴鞠の会」を始めた。
この日は新嘗(にいなめ)祭の奉納として、保存会メンバー8人が出席。円になり「あり」「や」と声を掛け合いながら、右足の甲だけを使い、鞠を渡していた。
また一般参拝者らの体験も行われ、昨年に続き大阪教育大附属池田中サッカー部の部員らが挑戦。キャプテンの杉村竜太郎君(14)は「鞠はサッカーボールと違って柔らかく、本当に難しい」と苦笑い。副キャプテンの久原清秀君(14)は「昔の人の方が難しいことをしていることが分かった」と話していた。
974
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/11/24(水) 19:10:37 ID:TU22i5lo0
水無瀬から 響け駒音
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20101124-OYT8T00031.htm
伝統400年 中将棋で町おこし
島本町広瀬の水無瀬神宮に約400年間伝わり、作者が判明している現存の将棋の駒では国内最古とされる「水無瀬駒」(町文化財)を使った町おこしに、同町が乗り出している。この駒などで行われた古将棋の一つ「中(ちゅう)将棋」の公開対局を行ったり、小学校にプロ棋士を派遣して教室を開いたり。駒の産地としては山形県天童市が知られるが、同町教委は「現在の駒の文字のルーツとも言える水無瀬駒の発祥の地として、全国に将棋文化を発信していきたい」と意気込む。(斎藤剛)
「能筆家が書いた駒からは品格が伝わってくる」。水無瀬駒の複製を作った京都府木津川市の駒師、熊澤良尊さん(67)は魅力を語る。
水無瀬駒は、安土桃山時代、同神宮の宮司を務め、達筆で知られた水無瀬家13代目で公家の水無瀬兼成(1514〜1602)が文字を入れて作った。現在の駒は厚さ約9ミリが一般的だが、水無瀬駒は14ミリと重厚で、天皇や徳川家康らに納めたという記録が残る。
同神宮客殿で10月31日に開かれた記念対局。神崎健二・七段と中田功・七段が、熊澤さん作の水無瀬駒を使って対戦した。プロ棋士による中将棋の公開対局は全国でも95年ぶり。境内のテレビ画面にも模様が映され、約50人が真剣勝負に見入った。
中将棋は盤が12ますで駒も21種類と、一般的な小将棋より多い。室町時代に公家の間で流行し、明治以降は関西ではやったという。対局は約2時間半かかり、275手で投了。勝った神崎七段は「厚みがある立派な水無瀬駒の複製品で指すことができたのはいい記念になった」と満足そうに話した。
◇
兼成は、水無瀬駒を約730組作ったが、現存するのは約10組。水無瀬家には小将棋の漆書の駒39枚と、中将棋の墨書91枚、漆書4枚が代々伝わっており、兼成が駒の配置や進め方を図面で記した資料とともに昨年4月、町の文化財第1号に指定された。
水無瀬駒にちなんだ町おこしは、今年度から3年間、文化庁の地域伝統文化総合活性化事業に採択。町は、中将棋の普及を目指してルールブックを作成し、10月には町立歴史文化資料館でセミナーを開催。町内外の将棋ファンら約70人が参加し、中将棋の駒の動かし方を体験、参加者からは「難しいけど面白い」との感想が聞かれた。
ほかに町内の4小学校にプロ棋士を派遣する将棋教室を、来年2月までの日程で各校4回ずつ開催する。
町の取り組みに、同神宮の31代目、水無瀬忠成宮司(65)は「長年受け継いできたものを多くの人に知ってもらういい機会」と話す。同神宮でも水無瀬駒にちなんだお守りを作ることを検討中だという。
駒師の熊澤さんは「公開対局や将棋大会を毎年続け、全国的な知名度が上がるようにするべきだ」と力を込める。日本中将棋連盟会長の武田穣・名古屋大教授(59)も「チェスに似ていることから海外でも中将棋を指す人はいる。うまくいけば国際交流にもつながる」と期待している。
<中将棋> 現在一般に親しまれている将棋は「小将棋」に分類され、盤が9ますで駒は8種類。中将棋は盤が12ますで駒も21種類あり、取った駒は次に使うことができない「取り捨て」となるのが特徴。「酔象」という駒が成ると「太子」となり、「玉将」と同じ役割で、二つとも取らないと勝ちにならないルールだ。駒の数が多く、対局時間も長くなることから、指せる人は現在、全国で200〜300人とされる。
(2010年11月24日 読売新聞)
975
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/11/25(木) 21:53:12 ID:g4ugBeek0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/189 続・十六地蔵 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20101125ddlk27070376000c.html
◆大阪市大正区
◇南恩加島小と徳島・貞光小、修学旅行で相互訪問
◇語り継がれる悲劇、平和願い交流7年に
再び南恩加島小学校を訪ねた。大橋直人校長(59)が迎えてくれた。
第二次大戦中、集団疎開先の徳島県貞光町(現つるぎ町)で火事に遭って亡くなった南恩加島国民学校の16人の子どもたちを悼む「十六地蔵モニュメント」ができたのは03年1月。以来、毎年、南恩加島小学校と徳島の貞光小学校の子どもたちが交流しているという。
5月には、貞光小の6年生が関西への修学旅行の折に南恩加島小を訪問。今年の集会で大橋校長は「16人の死を心から悼みましょう」「戦争は二度とやってはいけないこと」と話した。貞光小の35人がモニュメントの鐘をついてお祈りし、その後、両校の6年生同士がゲームなどに興じた。
こちらからは6月に、3年生86人が四国への修学旅行の際に徳島に寄り、真光寺の十六地蔵にお参りした。「向こうの歓迎がすごいんです。バスが着く駐車場に横断幕を持って出迎えてくれて、お寺までの道を歩いていくと、地元の方々が家を出てきて、小旗を振ってくれるんです」。大橋校長は感激の面持ちだ。
一方の貞光小の杉本一男教頭(54)は「地域の人には、あの火事の記憶が残ってるんです。当時を知る人が学校にこられたり。交流は、大阪の人と出会えるし、命の尊さを学ぶいい機会です」と話す。
修学旅行の前には、南恩加島小の6年生が平和のメッセージを貞光小に送る。「平和だね このままずっといてほしい」「戦争で死んだ人たちかわいそう」といったメッセージが、貞光小の掲示板に掲示されている。
16人が亡くなった命日の1月29日には、両校で同時刻に記念集会を開いている。この集会に向けて、南恩加島小ではこれから人権学習が本格化していく。低学年は十六地蔵のアニメを見たり、高学年は大阪大空襲を学んだりと、戦争について考える。
また、全校児童が千羽鶴を折り、モニュメントに飾るほか、貞光小にも送っている。大橋校長は「子どもたち一人一人が、思いを込めて折るんです」という。
集会では、全校児童がモニュメントに手を合わせて、鐘をつく。貞光小でも十六地蔵の本の読み聞かせなどをして、当日は真光寺に参拝する。
ただ、来年の1月29日は土曜なので、学校はお休み。貞光小は土曜でも集会を開くが、大橋校長は「こちらは金曜に。同じ日にできないのが心苦しいんですが……」と申し訳なさそうだ。
前回でお話を聞いた、火事の経験者である長尾章治(ゆきはる)さん(75)は「学校が一生懸命取り組んでくれているのは、うれしいですね」と言う。
大阪と徳島で、十六地蔵の悲劇が語り継がれている。両校の取り組みは心強い限りだ。子どもたちの交流が、今後も途切れることなく続くことを願いたい。【松井宏員】
976
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/11/26(金) 22:01:06 ID:FaUUGSoM0
「天野酒」 新酒を「杉玉」でお祝い
2010年11月26日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001011260001
室町時代から河内長野市の天野山金剛寺で造られ、豊臣秀吉などの戦国武将が好んで飲んだとされる「天野酒」のブランドで酒造りが続く同市長野町で、新酒ができたことを知らせる「杉玉」40個が地元住民らによって作られ、25日、新酒で清めて民家の玄関に次々とつるされた。
市は昨年から、府の「大阪ミュージアム構想」の一環として、江戸時代に流通経路として栄え酒蔵もあった同市の「高野街道」一帯の街づくり支援事業を始めた。これを受けて地元住民が昨年から、杉玉作りに取り組んでいる。府森林組合や同市の森林ボランティア「トモロス」などの協力で、地元の杉を使って直径約50センチの杉玉を完成させた。
天野酒のブランドを引き継ぐ蔵元「西條合資会社」の西條陽三代表(46)は「街づくりに一生懸命な住民の皆様に喜んでいただけるおいしいお酒をつくっていきたい」と言い、参加した約50人に新酒をふるまった。
977
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/12/01(水) 21:11:58 ID:RBZ/tTvo0
柔和なうさぎで開運 上新田天神社に特大絵馬
2010年12月1日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/101201/20101201031.html
大阪府豊中市上新田1丁目の上新田天神社(中村暢晃宮司)の境内に、大阪芸術大出身の女性2人が来年のえとのうさぎにちなんで作った特大の絵馬が設置された。柔和な表情を浮かべる2羽のうさぎと天神宮にちなんだ紅梅が、和紙を使った白地の絵馬から浮かび上がるように描かれている。
絵馬を制作したのは、上新田在住で同大芸術学部出身の横山真子さん(26)と藤本歩さん(27)。2人は幼なじみで毎年、同神社の特大絵馬づくりに取り組んでいる。今年は10月から作業を始め、約1カ月かけて完成させた。
絵馬は横3・7メートル、縦は最大で3・9メートル。6分割した白ベニア板に輪郭を下書きし、色を付けた和紙を張り付けた立体感のあるデザイン。白と明るい茶色の2羽のうさぎを中央に配置し、周りには紅梅をあしらった。赤色で力強く「開運」の文字も書いてある。
中村宮司は「今年は少し設置が遅くなりましたが、立派な絵馬が完成しました。優しい表情のうさぎたちが、見る人の運を開いてくれるようですね」と話していた。
978
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/12/02(木) 21:00:49 ID:MwGbcoYs0
2010年12月 2日
「戦争まだ終わっていない」 東部ニューギニア 英霊を迎えに 展示遺骨
ようやく帰国
http://www.sankei-kansai.com/2010/12/02/20101202-046782.php
「戦後65年」が過ぎゆく中、壮絶な激戦地となった東部ニューギニア(パプアニューギニア)は先月、現地で長年“展示品”となっていた旧日本兵3人の遺骨を祖国に送り出し、祖父の慰霊に初めて訪れた日本人女性を新たに迎え入れた。遺骨の返還を求め続けてきた関係者は「ほっとした」と話し、現地に立った女性は、いまだ取り残されたままの英霊の叫びを心の中で聞いた。「戦後はまだ終わっていない」。女性はしみじみかみしめている。
東部ニューギニアへの政府遺骨収集団は今回、11月10〜24日の日程で派遣され、遺族や元兵士ら11人が参加。計214人分の遺骨を収容し、同25日に東京・千鳥ケ淵戦没者墓苑で厚生労働省に引き渡された。
当地での遺骨収集は近年、地元住民が保有したままになっている遺骨の引き渡しを受けるケースがほとんどだ。引き渡しをめぐっては地元住民が金銭を求める事例も後を絶たない。政府は見返りには応じておらず、平成18年度以降、日本遺族会に委託し、調査や交渉を続けている。
“展示品”となっていた3人分の遺骨は、ニューギニア島南東部ギルワ地区のサナナンダ集落にある戦争博物館で、旧日本軍の鉄兜(てつかぶと)や水筒などと一緒に飾られていた。十数年前に訪れた日本人が確認し、元兵士らが再三にわたって厚労省に収容を要請。だが、入場料を徴収する博物館側は「重要な観光資源がなくなる」と引き渡しを渋っていた。
今年8月にも、遺族会メンバーが現地に赴いて粘り強く交渉し、博物館側はようやく引き渡しに合意。厚労省の担当者は「長年にわたって根気よく交渉を続けた結果、地元住民の理解を得られた」と話す。
ようやくかなった遺骨の帰国に、事情を知る関係者は胸をなで下ろす。墓苑で遺骨を迎えた東部ニューギニア戦友遺族会会長の堀江正夫さん(95)は「責任を感じ、申し訳なく思っていたが、さまざまな方々の努力のおかげで迎えることができ、ほっとしている」。厚労省への働きかけを続けてきた辻本喜彦さん(62)は「交渉がかなり難航していただけに、感無量です」と話した。
祖父慰霊「孫世代の役目」
「孫の世代の役目として迎えに行った。私にとっては、この地に眠る全員がおじいちゃん。今も遺骨が残る事実を伝えていきたい」。今回の遺骨収集団に初めて参加した大阪市平野区の豊嶋美由紀さん(46)は、30歳の若さで戦死した祖父の末永冨雄さんを思い、決意を新たにした。
冨雄さんは昭和17年2月に召集され、8月29日に東部ニューギニアのラビに上陸。激戦の末、わずか4日後に無念の死を遂げた。
孫の美由紀さんはもちろん、美由紀さんの母、純子さん(72)にも、冨雄さんの記憶はほとんどない。出征を翌日に控えた冬の日、まだ3歳だった自分を抱いて散歩してくれた父のぬくもりが、かすかに残っているだけだ。
美由紀さんも、折に触れて母の悲しみを受け止めてきたが、6年前に四国で暴風雨のさなかに歩き遍路をしたとき、ふと祖父への思いが大きくなった。「おじいちゃんたち兵隊さんは、どんなに雨が降っても歩き続けたんだろうな」。当時は遺骨収集事業があることも知らなかったが、「いつかニューギニアに行ってみたい」と感じた。
初めて訪れた現地でも大雨に遭った。ある集落で、山中から4時間かけて持ち帰ったという旧日本軍の水筒や鉄兜、遺骨と対面した。だが、遺骨の量が少なかったため日本人と特定するための鑑定ができず、日本に持ち帰れなかった。「それまで晴れていたのに、突然雨になって。英霊が山から叫んで泣いているんだと思い、山に向かって頭を下げました」
美由紀さんは、現地行きを切望している純子さんとともに、来年再訪しようと考えている。「戦争って、形式的には終わっているけれど、まだ終わっていない」。祖父たちへの感謝とともに、強く思っている。
979
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/12/03(金) 22:06:13 ID:k6Aqmprc0
安満遺跡:隣接農場の一部を史跡追加指定へ 新たに弥生期の集落遺構−−高槻 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20101203ddlk27040374000c.html
◇80年を経て保存範囲が確定
弥生時代の集落遺構が新たに見つかった部分が、史跡に追加指定される高槻市八丁畷町の安満(あま)遺跡。指定済みの6・4ヘクタールの南に隣接する京都大大学院農学研究科付属農場のうち6・3ヘクタールが加わる。1928(昭和3)年の同農場開設時に弥生土器が出土し、北部九州から速やかに稲作の弥生文化が近畿に伝わったことを明らかにした記念碑的遺跡だ。80年を経て保存範囲が確定したことになり、市教委は「史跡公園として整備したい」としている。【八重樫裕一】
市教委は08〜10年度、京大農場(15ヘクタール)を調査。2000年以上前の弥生時代前中期の居住域を巡る環濠(かんごう)や水田跡、方形周溝墓など集落遺構を確認した。弥生土器、稲を摘み取る穂摘み具や石斧(おの)などの石器、鍬(くわ)などの木製品も見つかった。
安満遺跡は縄文から室町まで、さまざまな時代の遺構・遺物が発見された複合遺跡。特に弥生時代に関しては、居住域、生産域(水田)、墓域が明確にそろい、当時の集落の姿を具体的に知る上で貴重とされる。93年に、JR東海道線沿いの民有地6・4ヘクタールが史跡指定された。
市教委文化財課の鐘ケ江一朗課長は、京大農場の調査の成果について「あるだろうと思われていた居住地、水田、墓の3要素が確認され、遺跡の全体像がさらに精密になった」と話す。
京大農場開設時に見つかった土器は、北部九州の弥生土器と似ており、稲作文化が近畿にすぐ伝わったことを裏付けたという。安満遺跡の集落を形成した人たちは、「根を下ろして暮らし始めた、いわば最初の高槻市民」と鐘ケ江課長。「京大農場エリアの遺跡の保存が課題だった。今回は、昭和40年代から積み重ねてきた調査の仕上げ」と語る。
先に史跡指定された6・4ヘクタールのうち、2・2ヘクタールを買収済み。京大農場の土地もいずれ買収し、一体的に史跡公園にしていくという。京大農場は、京都府木津川市に移転することが決まっている。
980
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/12/03(金) 22:08:07 ID:k6Aqmprc0
河内レンコン、リレーで奉納 4日、春日大社へ28キロ
2010年12月3日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201012020171.html
門真市特産の河内レンコンを奈良・春日大社に奉納しようと、市民グループ「門真れんこん発掘隊」が4日、重さ12キロのレンコンを「リレー方式」で約28キロ離れた春日大社まで運ぶ。江戸時代の民話にちなんだ行事で、5回目となる今年は初めて、当時と同じく人の力だけでレンコンを運ぶ予定だ。
4日午前7時半ごろ、当時の衣装を着込んだ奉納行列が門真市宮野町の堤根(つつみね)神社を出発。約100〜200メートルを厳かに進んだ後、隊のメンバーらがバトン代わりにレンコンを背中に担ぎ、1人約3〜5キロずつ走る。四條畷市や奈良県生駒市などを通って、午後には奈良市の春日大社に到着する予定だ。
河内レンコンは、もっちりした食感が特徴の伝統野菜。発掘隊によると、門真市南部の低湿地は稲作に向かなかったため、江戸時代にレンコン栽培が始まった。年貢も米ではなく、レンコンで納めていたという。奈良方面にレンコンを出荷していた村人が、道中でたびたび山賊におそわれたため1865年、安全を祈願して春日大社に石灯籠(とうろう)2基を寄進。授かった御用提灯(ちょうちん)を掲げると、被害はなくなった――との民話が、地元に伝わっている。
この石灯籠を確認しようと、発掘隊のメンバーでレンコン農家の中西正憲さん(53)が春日大社を訪ねたことをきっかけに、2006年からレンコン奉納が始まった。「春日若宮おん祭」(15〜18日)に合わせて毎年、この時期に奉納し、これまでは途中でバス移動していた。今回は平城遷都1300年を記念し、リレー奉納する。中西さんは「門真はレンコンに支えられてきた。先人の苦労を知り、感謝の心を持ちたい」と話している。(小池暢)
981
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/12/05(日) 11:59:37 ID:NLrW3nwg0
代表招福娘に4人 大阪天満宮・「天満えびす」
2010年12月5日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/101205/20101205020.html
来年1月9〜11日に行われる「天満えびす」で福笹(ふくざさ)・熊手を授ける「招福娘」の代表選考会が4日、大阪市北区の大阪天満宮で開かれた。すでに選考されている25人から代表招福娘4人が決まった。
天満えびす復興5周年を記念して企画し、今回が初開催。学問の神様・菅原道真を祭る大阪天満宮にちなみ、「才色兼備の福娘」を応募資格に定め、大学生を中心に約300人から選んだ。
審査では自己PRをはじめ、歌や楽器演奏など特技を披露。祭りの世話人らの審査により、同志社大3年の田中絢子さん(21)=京都市中京区=、大阪大院1年の韓智暎(ハンジヨン)さん(27)=大阪市北区=、同志社女子大3年の福井あつみさん(20)=同=、奈良女子大4年の福田佳緒理さん(22)=奈良市=が代表招福娘に決まった。
韓国人留学生の韓さんは「私を受け入れてくれた大阪に感謝したい」と感激の表情。「グローバルなえべっさん、天満宮を目指したい」と意欲を見せた。
代表招福娘らはまず10日に橋下徹府知事、平松邦夫大阪市長を表敬訪問する。
982
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/12/06(月) 20:54:18 ID:Ff5ReFBo0
えべっさんの福娘45人お披露目 大阪・今宮戎神社
http://www.asahi.com/kansai/sumai/news/OSK201012060011.html
商売繁盛の神様として知られる今宮戎神社(大阪市浪速区)の来年の福娘45人が5日、同市内でお披露目された。来年1月9〜11日の十日戎で参拝客に縁起物を授ける。
応募した2919人から選ばれた40人と関西大学の留学生5人が、そろいの和服姿で登場。歌などの特技を披露したり、福娘に選ばれた喜びを語ったりした。審査の結果、いずれも大学生の川上実津紀さん(19)=大阪市東住吉区▽斎藤真美さん(22)=同市淀川区▽米国籍のロジャーズ・ヘザーさん(20)=京都市北区▽ベトナムからの留学生ゴ・ビン・ハンさん(21)=大阪府吹田市=が代表に選ばれた。
983
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/12/06(月) 21:32:40 ID:Ff5ReFBo0
歴女も参上 笹持ってこい
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20101206-OYT8T00009.htm
今宮戎(えびす)神社(大阪市浪速区)の十日戎(1月9〜11日)で福笹(ざさ)などを渡す福娘45人の中から、5日、代表4人が決まった。
同志社大1年の川上実津紀さん(19)、神戸大3年の斎藤真美さん(22)、アメリカからの留学生で立命館大3年のロジャーズ・ヘザーさん(20)、ベトナムからの留学生で関西大3年のゴ・ビン・ハンさん(21)。
この日、大阪市中央区のホールで、応募者2919人から選ばれた福娘45人が歌や手品の特技を披露するなどして自己PR。9人の審査員が代表を決めた。ヘザーさんは「日本の歴史を勉強している『歴女』です。日本語はまだまだだけど、笑顔で参詣者を幸せにしたい」と張り切っていた。
(2010年12月6日 読売新聞)
984
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/12/11(土) 14:02:43 ID:hdUFIcI20
開運キラキラ招福娘 天満天神えびす祭PR
2010年12月11日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/101211/20101211034.html
来年1月9〜11日に行われる「天満天神えびす祭」の招福娘10人が10日、大阪市中央区博労町2丁目の大阪日日新聞を訪れ、えびす祭をPRし、福を呼び込んだ。
招福娘らは、赤い着物に金色の烏帽子(えぼし)をかぶった華やかな姿で訪問。代表して韓智暎(ハンヂヨン)さん(27)が「私たちの笑顔、元気、福を持って大阪が元気と活気あふれる町になるようご奉仕します」とあいさつした。
この後、田中絢子さん(21)が畑山博史代表に熊手を手渡し、全員で商売繁盛を祈る「えびす締め」を行った。
戦後、途絶えていた同祭が今回で復興5年目を迎えるのを記念し、初めて福娘を公募。大学生を中心に約300人の応募があり、25人が選ばれた。期間中は参拝者に福笹(ザサ)や熊手を授ける。
招福娘一行はこの日、大阪府庁の橋下徹知事、大阪市役所の平松邦夫市長も表敬訪問した。
985
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/12/11(土) 18:34:11 ID:hdUFIcI20
十日戎:招福娘が繁盛祈願 毎日新聞大阪本社訪問 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20101211ddlk27040380000c.html
来年1月9〜11日に大阪天満宮(大阪市北区)の十日戎(とおかえびす)で招福娘を務める10人が10日、同区の毎日新聞大阪本社を訪れた。
そろいの桃色の千早を羽織り、金烏帽子(きんえぼし)をかぶった招福娘たちは「笑顔と元気と福で、大阪が活気ある町となりますよう、ご奉仕致します」と口上を述べ、商売繁盛などを祈願した。鈴を振った福田佳緒理さん(22)は「当日はたくさんの方々に来てもらいたい」と笑顔で話した。【矢島弓枝】
986
:
名無しさん
:2010/12/12(日) 08:06:28 ID:y/KogCWw0
>>835
,838
これについては非常に関心がある。
縄文人=純粋日本人・弥生人=朝鮮人、あるいは東日本人=純粋日本人・西日本人=朝鮮人
などというアホな書き込みが氾濫してる。
こいつらは義務教育水準の日本史すら学んでへんのかと呆れてものが言えぬ。
ゆとり教育のせいかと言えば、必ずしもそうでもないようで、
どうやら、嫌韓感情と胡散臭い関東中心史観から出てきてるらしい。
987
:
名無しさん
:2010/12/12(日) 08:25:01 ID:y/KogCWw0
言うまでもなく、日本と言えば大和のことです。
西日本の弥生人=倭(人)=ヤマト=日本(人)です。
古事記や日本書紀の記述からも、「日本」=「倭」=奈良or西日本であり、
蝦夷や東日本を指すものでないことは明らかです。
初代神武天皇「神日本磐余彦尊」(かんヤマトいわれひこのみこと)
第22代清寧天皇「白髪武広国押稚日本根子尊」(しらかのたけひろくにおしわかヤマトねこ)
「日本武尊」(ヤマトたけるのみこと)
「大和は国のまほろば(日本武尊の歌)」(奈良は我が国の中でもすばらしいところ)
「倭迹迹日百襲姫命」(ヤマトととひももそひめのみこと)
東日本の人々は縄文人の子孫なのでしょうが、彼らは大和政権からは蝦夷と呼ばれた異民族でした。
衣服や生活様式もヤマトと異なり、日本語を喋ることもできなかったのです。
日本国やその国の民族から異民族とされた人々が純粋な日本人で、
日本国を造り経営していた人々が外国人という倒錯した歴史観は、愚かというよりもはや狂気です。
988
:
名無しさん
:2010/12/12(日) 09:35:21 ID:4mCqnC/M0
弥生人とかの弥生自体の由来が東京都の地名のなのに。
東京が縄文人の中心であるかの様にいう歴史観を持つ輩はおかしい。
大阪と東京でそこに住む人たちの構成に大きな違いがあると本気で思っているのは狂人だけでしょう。
989
:
よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/12/12(日) 09:56:06 ID:hdUFIcI20
招福娘、天満天神えびす祭PR 朝日新聞大阪本社訪ねる
2010年12月12日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201012110141.html
大阪天満宮(大阪市北区天神橋2丁目)で来年1月9日から3日間開かれる「天満天神えびす祭」をPRしようと、参拝客に福笹(ふくざさ)・熊手を授ける「招福娘」10人が朝日新聞大阪本社を訪れた。
そろいの金の烏帽子(えぼし)にピンク色の千早を羽織った招福娘たちは「打ちましょ」「もひとつせ」「商売繁盛」と威勢の良い掛け声を披露した。
えびす祭が復活して2011年で5年になるのを記念して、大阪天満宮は今年初めて招福娘を公募。約300人の中から大学生25人が選ばれた。その一人、同志社女子大3年の福井あつみさん(20)=大阪市=は「選ばれるなんて夢みたい。大阪の景気が良くなるよう盛り上げたい」と笑顔で参拝を呼びかけた
990
:
名無しさん
:2010/12/12(日) 10:28:58 ID:Pse3h1vc0
西と比べて東の文化って劣ってますねえ。
991
:
名無しさん
:2010/12/12(日) 11:05:54 ID:P7X4kUCo0
>>990
爆弾発言は控えた方が・・・・・
西と同じく、東ににも素晴らしい文化はありますよ。
992
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/12/12(日) 16:02:50 ID:.2M.avhU0
大阪View:「EXPO CAFE」 今も息づく、あの興奮−−天満橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20101212ddlk27040213000c.html
◇1970年のこんにちは−−グッズもいろいろ
大阪市中央区のオフィス街の一角に、万博グッズが所狭しと並んだユニークなカフェがある。ここは1万点以上のコレクションを誇る白井達郎さん(56)が経営する「エキスポカフェ」(06・7504・7365)だ。
今から40年前の1970年、大阪・千里丘陵で開催された日本万国博覧会。高校生だった白井さんは万博に魅了され、夏休みには会場内のレストランでアルバイトをしながらパビリオンを巡るなど万博漬けの日々を送ったという。会期が終わると手が届かなかったグッズは値崩れし、あらゆるものの収集を始めた。
サラリーマン生活の傍ら、02年には兵庫県に現存していた元ウルグアイ館をもらい受けて、池田市の自宅に私設の万博ミュージアムを開館した。愛知万博で盛り上がった05年に脱サラし、全国の博物館や百貨店で万博のイベントを開催。成功を収めた。
08年4月には、念願だったカフェをオープン。壁にはカプセルが埋め込まれるなどレトロフューチャーなデザインで、白井さん自らが宇宙船をイメージし設計したという。
店には当時の万博会場で働いていた人から70年代風のファッションに身を包んだ若者まで、さまざまな世代の人たちが訪れ、交流の場となっている。
白井さんは「この店から、元気だった70年代の日本のようなエネルギーを発信していきたい」と意気込む。【幾島健太郎】
994
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/12/20(月) 20:57:39 ID:uRLav9GY0
懐かしの家電ずらり500点展示 大阪くらしの今昔館
2010年12月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/101220/20101220027.html
昭和30〜40年代の高度経済成長期の家電など500点以上を展示した「昭和レトロ家電−増田健一コレクション展−」が、大阪市北区の大阪くらしの今昔館で開かれている。年末年始の休館日を挟み、来年2月11日まで。
増田さんは枚方市の47歳。家電をはじめ、各種ポスターや食品などを20年かけて全国の小道具屋などから集めた。
“三種の神器”のテレビ・洗濯機・冷蔵庫はもちろん、一つの受話器にダイヤルが2台付いた「ボースホーン」(1963年、岩崎通信機)や、当時、軽自動車より高い39万円で販売されていた初期の電子計算機「トスカル」(66年、東芝)などプレミアものも展示。内釜が四つに分割され、ご飯とみそ汁が同時に調理できる電子釜、双方向に風を送る扇風機など“珍品”もあり、来場者を楽しませている。
大阪市北区の女性(54)は「懐かしい。今と比べると昔の家電は幼稚ですね」と、顔をほころばせながらさまざまなアイデア品に見入っていた。
増田さんは「明日の暮らしに役立つものは一切ないが、日本が元気だった時代のパワーを感じ、ほっこりする時間を持ってほしい」と話している。
期間中の隔週日曜日に当時の家電を使ってコーヒーとトースト、ゆで玉子を作るサービス「モーニングを召し上がれ」(各回5人、300円)がある。
995
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名無しさん
:2010/12/21(火) 03:55:47 ID:PRDcgfyc0
知ってたかな「銀座」由来は堺
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20101220-OYT8T00020.htm
「銀座という名前の由来は堺から。こんな言い伝え知ってた?」――。堺市に伝わる伝承や昔話を漫画付きで紹介する観光案内板(高さ1・6メートル、幅0・6メートル)が、堺区内5か所に設置された。
堺観光コンベンション協会が、市内に埋もれた伝説などを掘り起こし、歴史の奥深さを知ってもらおうと製作。いずれも堺の歴史や伝説を記した書物や観光ボランティアの話を根拠にした。
堺市役所北側にある案内板「銀座の柳」では、東京・銀座の地名が堺と関係が深いことを解説。江戸時代、堺から移り住んだ銀細工職人が銀貨を鋳造した地であったことから、「銀座」と呼ばれるようになったという。
また、銀座のシンボルとされる柳は「職人たちが堺を懐かしんで堺から移植したから」とのエピソードにも触れた。
ほかにも、一休さんで知られる室町時代の僧・一休禅師が堺に来た際の伝説や、堺出身の茶人・千利休が師匠に弟子入りした際の逸話などを紹介している。設置場所は、それぞれのゆかりの地を選んだ。
問い合わせは同協会(072・233・5258)。
(2010年12月20日 読売新聞)
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/12/26(日) 22:20:12 ID:FBkgc7Yw0
「アッハッハー」1年笑い飛ばす 枚岡神社でお笑い神事
2010年12月26日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201012250177.html
笑い声を響かせて新年の幸運と豊作を願う「注連縄掛(しめかけ)神事」が25日、東大阪市出雲井町の枚岡神社であった。市の無形民俗文化財に指定され、「お笑い神事」とも呼ばれる伝統行事。集まった参拝客らも一緒に今年1年を笑い飛ばした。
掛け替えたばかりの新しいしめ縄の下で、中東弘(なかひがし・ひろし)宮司が「アッハッハー」と高笑いすると、参拝客らが声を合わせて笑い声を上げた。毎年参加するという同市の無職岡村武さん(81)は「今年の嫌なことは全部、笑って忘れた。健康にも良いし、命ある限り笑いに来ます」と話していた。(北上田剛)
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/12/26(日) 22:34:51 ID:FBkgc7Yw0
1年間の加護に感謝 終天神奉納絵馬たき上げ
2010年12月26日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/101226/20101226013.html
大阪天満宮の1年を締めくくる行事「終(しまい)天神」が25日、大阪市北区の境内で行われた。奉納された絵馬のたき上げなどが行われ、多くの参拝者らが「天神さん」の1年間の加護に感謝の念をささげた。
毎月25日は天神さんの縁日で、1月の「初天神」に対して12月は「終天神」と呼ばれる。行事では、神事によって清めた火で絵馬を燃やす「絵馬のたき上げ」が行われ、1年間に奉納された約3万2千枚の祈願絵馬が火柱を上げて燃え上がった。
また、元日の朝に行われる歳旦祭に供えるためのもちつきも行われ、神職によって米20キロ分のもちが完成。できたてのもちの一部は参拝者に振る舞われた。
もちを受け取った青景清美さん(51)=同市旭区=は「家族と一緒に食べて福を分け合いたい」と笑顔を見せていた。
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よっさん
◆yQclIeGV9A
:2010/12/30(木) 08:58:24 ID:WMEEoSYQ0
2010年12月30日
「太閤の石垣」再び脚光 大阪城・地下博物館計画
http://www.sankei-kansai.com/2010/12/30/20101230-047875.php
大阪城本丸の地下に眠る豊臣時代の石垣を発掘し、地下博物館として常設展示する計画を大阪市が検討していることが29日、分かった。実現すれば昭和6年に天守閣が再建されて以来のビッグプロジェクト。豊臣家が滅んだ「大坂の陣」から400年を迎える平成26、27年の完成を目指しているという。市は新年度予算で調査費約300万円を計上する方針。
長年にわたり大阪城研究を続けている大阪城天守閣の北川央・研究副主幹は「地上の徳川氏の石垣と、地下の豊臣氏の石垣を対比することで、政権交代という歴史が動いた瞬間を重層的に体感できる。大阪城のブランド価値も向上する」と期待を寄せている。
豊臣時代の天守閣は慶長20(1615)年の大坂夏の陣で焼け落ち、石垣は盛り土で埋められた状態。現在の石垣は、江戸幕府2代将軍の徳川秀忠が元和6(1620)年から再築したものとなっている。
地下に石垣があることはその後、忘れ去られていたが、昭和34年の総合学術調査で、本丸広場のボーリングや発掘調査が行われ、地下7・3メートル地点の石垣を確認。翌35年には、幕府大工頭だった中井家から豊臣時代の本丸図が発見され、その状況から、地下で見つかった石垣が豊臣時代の石垣だと判明した。
大阪城天守閣によると、今回、地下博物館として公開を検討しているのは、60年に天守閣の南東約80メートルで見つかった「詰ノ丸石垣」。高さ約6メートルで、石垣の最上部は地表から約1メートルの深さにある。石垣の角の部分にあたり、現在は地中に埋め戻されており、保存状態も良好だという。
実は、豊臣時代の石垣を地下博物館として公開する構想は石垣の発見当時にも浮上。市が?年に方針を打ち出し、文化庁の「ゴーサイン」も出ていたが、その後、予算の問題などから立ち消えになっていたという。
ところが、大阪商工会議所が今年6月、大阪城エリアに歴史テーマパークを整備するよう提言するなど、観光資源としての価値を見直す動きも活発化。
12月には市が観光振興戦略を発表し、大阪城の魅力向上を掲げており、改めて豊臣時代の石垣が脚光を浴びることになった。
北川研究副主幹は地下博物館の「私案」として、昭和6年に建設された旧陸軍第4師団司令部庁舎の入り口から地下道を掘り、詰ノ丸の石垣遺跡を通過して地上に出るルートを提案。「近代から豊臣、徳川の時代へとタイムスリップできるような施設がつくれたら」と夢を広げている。
大阪城の豊臣時代の石垣
下ノ段、中ノ段、詰ノ丸の3段構造からなる。昭和34年に見つかったのは中ノ段で、60年に発見されたのは詰ノ丸の石垣。いずれも加工されていない自然石を多用した野面(のづら)積みで、現在の石垣と比べると隙間が多い。石の表面には火災の跡があった。
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