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むかしの田無・保谷

1名無しさん:2005/01/27(木) 16:32:25
むかしの田無・保谷の思い出話などを語りましょう。
多摩BBSに昔の田無のスレがあるようですが、
保谷を含めた現在の西東京市地域全体に関するむかしを語るスレが
ないので、立ててみました。

2名無しさん:2005/01/27(木) 16:34:31
早速ですが、きのう(1/26)の讀賣新聞 武蔵野版

[地名探訪]田無市本町、保谷市本町 お隣だけど対照的

◇現・西東京市田無町、保谷町
 二〇〇一年一月に田無市と保谷市が合併して西東京市が誕生した。合併前の町名は原則としてそのまま残されたが、市境で接していた「田無市本町」と「保谷市本町」は、それぞれ「田無町」「保谷町」に変わった。
 江戸時代の西東京市は、青梅街道と所沢街道が交差する交通の要衝にあり、田無宿、柳沢宿などと呼ばれる宿場町として栄えた。宿場は現在の田無町沿いに走る青梅街道を中心に広がり、保谷町の一帯は農村地帯だったという。
 二つの街道がぶつかる「田無町一丁目」交差点に面する田丸屋酒店は、江戸に幕府が開かれる前から続くと伝えられる老舗だ。当初は旅籠(はたご)だったが、一九二八年(昭和三年)に酒屋に変わった。今でも周辺には歴史を感じさせる商店が並ぶが、徐々にマンションなども目立つようになった。
 「本町」という地名はいずれも、戦後、周辺に住宅が増えて住居表示が導入された際に行政が付けたものだ。保谷では一九六五年五月に西浦、立野、桶久保などと呼ばれた地域が、田無でも一九六六年九月に柳沢、下宿、上宿などの字名が本町に変わった。市広報広聴課は「はっきりしたことはわからないが、それぞれ田無、保谷の中心部にあったので『本町』と名付けられたようだ」と説明する。
 わずか一年余りで二つの本町が誕生した当時は、ちょっとした混乱もあった。田丸屋の二十代目という下田信助さん(64)は「うちは角にあるから、よく『本町のどこそこへはどうやって行きますか』って道を尋ねられた。ここは保谷との境に近かったから、どっちの本町ですかって聞き返さなければならなかった」と話す。
 隣り合っていた二つの本町だが、町の趣は異なっていたそうだ。かつての市境に近い保谷町で家具店を経営する野口道明さん(62)は、「子どものころ、田無は映画館がある繁華街、保谷は畑が広がる農村だった。保谷も昭和三十年前後から生鮮食料品や日用品を扱う店ができてにぎわったが、大きな買い物や娯楽の場はやっぱり田無だった」と振り返る。
 野口さんの家は代々農家で、家具店を始めたのは父親の代の一九三〇年から。それでも、あまり商店がなかった保谷では“老舗”の部類に入るという。野口さんの店があるのは西武柳沢駅北口から富士街道沿いに続いている商店街だが、駅前は、再開発された隣の田無駅前に比べると、今もこぢんまりとした印象だ。
 対照的だった二つの本町は、二〇〇一年の合併によって、わずか三十五年ほどで地図の上から消えた。歴史が浅かったせいなのか、それとも行政からあてがわれたせいなのか、下田さんも、野口さんも、本町という地名がなくなったことに「あまり感慨はない」という。むしろ歴史のある田無、保谷という地名が残ったことがうれしいと打ち明ける。
 下田さんら古くからの住民は、今も田無町一丁目交差点付近を、「柳沢」という本町になる前の地名で呼んでいる。野口さんの自宅のそばには、「西浦」というやはり本町になる前の地名にちなんだバス停がある。
 「地元の人か、よそからの人か、相手によってこの辺りの呼び方を変える」と下田さん。「『西浦』という地名は我々より上の世代にしかわからないだろうなあ」と野口さん。古くからの住民たちは、三つの地名を上手に使い分けているようだ。
 二人が「まだしっくりこない」と口をそろえるのは、「西東京」という市の名前。合併から四年。この新しい地名に親近感を抱く人が多くなるには、まだまだ時を刻む必要がありそうだ。(増田真郷)

3名無しさん:2005/02/04(金) 12:57:16
長っ

4名無しさん:2005/02/07(月) 20:22:10
旧保谷市民だけど、西友ひばりが丘店が出来るまでは
田無駅前の「ポポロ」が一番楽しいショッピングエリアでありました。
大きな書店があって、レコード屋があって、ファストフード店があって、
普通のおもちゃ屋とは少し違うホビーショップがあって、
ファッションやアクセサリー関係のテナントがいくつも入ってる。
当時の保谷では味わえないワクワク感がたまりませんでした。

5名無しさん:2005/02/08(火) 22:23:16
ポポロですか。

太陽神戸銀行との間に自転車を止めて、
裏から直接二階に駆け上がって、
玩具屋を見て、
レコード屋に行ってカエルの絵のプリントされたビニールに入った
YMOとかゴダイゴのレコードを見て
カセットテープのインデックスとか見て、本屋に行って、
田無駅の方の階段を下ると、ガラスの無い窓に
つる草を形どった金属の柵があって、階段を降りきると
肉屋と本屋と薬屋とカメラ屋があって団子屋があって、、

カメラ屋ってバス通りにもありましたね。。

6名無しさん:2005/02/08(火) 23:18:41
小4のとき、初めて「コピー機」を使ったのが、ポポロ内の田無書店。
東側のレジ前に置いてあって、枚数は自己申告制だったような気がする。

7名無しさん:2005/02/08(火) 23:22:34
花小金井方面から上りの西武線に乗ると、田無駅につく寸前の北側に
西武バス田無営業所があって、昭和30年代くらいの廃車バスが、
倉庫代わりに(?)置いてあったのが、妙に印象に残っている。

8名無しさん:2005/02/08(火) 23:25:43
ポポロのクレープ屋、ポポロはす向かいの朋文堂書店、大きな樽の漬物屋・・・。

9名無しさん:2005/02/08(火) 23:27:07
田無ファミリーランドのレンタルレコード店にはよく通った。

10名無しさん:2005/02/09(水) 17:17:46
多摩Bでは何度も話題になったけど、
青梅街道沿い、旧田無市役所の向かいあたりにあった切手店「オーミスタンプ」は、
謎な店でしたね。表札が出てるのに「もう営業してません」と言われた(81年ごろ)。

11名無しさん:2005/02/14(月) 17:52:14
「白子川の水源は田無にあった!」というタイトルで
田無北部の谷戸にある白子川最上流部についての
簡単な記事をまとめました。
よろしければご覧下さい。
http://green.ap.teacup.com/americanhouse/

12名無しさん:2005/02/14(月) 22:44:46
イエローカメラの裏の道が、青梅街道から商店街を通って田無駅に通じる道の入り口でしたね。途中に西友があったり、ファーストキッチン、レンタルレコード屋があったり、ひどく雑然としていた頃が脳裏に焼きついています。

13名無しさん:2005/02/15(火) 01:11:33
良い思い出ではありませんが、
田無駅の列車追突事故のとき、ちょうど乗り合わせていました。
20km/hくらいの低速での衝突だったと思いますが、
あれだけの衝撃が走るとは思いませんでした。
シートもめくり上がり、車両の端から端まで吹っ飛ばされた人もいました。
幸い、私にケガはありませんでしたが、停電でアナウンスもなく、
暖房も切れて、重傷のお客さんは、救急車が着くまで寒い中うめいていました。
今も、雪の日に電車に乗るときは、恐いですね。

14名無しさん:2005/02/15(火) 01:27:39
>>13
この日の新聞持ってます。

朝日新聞 昭和61年3月24日(事故の翌日)

朝刊1面
西武新宿線田無駅で電車追突、204人負傷 行きで制御利かず

社会面
西武線の追突、車内に悲鳴 吹き飛ぶ体、動かぬ人

1514:2005/02/15(火) 01:29:20
行きで制御利かず → 雪で制御利かず

16名無しさん:2005/02/15(火) 09:17:01
どこかのHPに
その事故の写真があったけど

17名無しさん:2005/02/15(火) 09:52:00
そんな事故あったなんて知らなかった。
その年くらいから西武新宿線をよく利用するようになったのに。

18名無しさん:2005/02/15(火) 14:55:02
>>16

これかな?

特別掲載:1986年3月23日田無追突事故
http://www1.odn.ne.jp/beni/rail/accident/r.html

死者が出なかったのが不幸中の幸い。
事故原因を巡って、刑事裁判が結構長く続いたような覚えがある。

19名無しさん:2005/02/15(火) 21:18:02
荻窪駅経由阿佐ヶ谷駅行のバスって、いつ頃まで走ってましたっけ?
東京駅行(東伏見発)とか、所沢駅行とか、以前は、長距離バスがありましたよね。

2019:2005/02/15(火) 21:30:11
それくらい自分で調べろと言われる前に、
調べたら、簡単に分かりました。昭和59年3月でした。

梅70の短縮
http://pluto.pobox.ne.jp/bus/playback/u70.html

いやあ、美濃部カラーの都バスは、懐かしいですな。
それにしても、阿佐ヶ谷−青梅の路線図は、すごすぎる。

21名無しさん:2005/10/17(月) 12:01:48
泉町のフラワー通り商店街に、20年前くらいに世にも珍しい
貸しカセットテープの店が有ったの覚えている人います?
ゲーセンの隣に・・・

22名無しさん:2006/01/14(土) 22:08:49
都営バスの旧300系統「東伏見操車所」は、どのへんにあったのでしょうか?

「東伏見坂上」の車寄せのような不思議なスペース(現在、東伏見郵便局があるあたり)
があやしいとにらんでいたのですが、あたらめて当時の路線を確認したら、

 「東伏見操車所」−「東伏見」−「東伏見坂上」−−−−「東京駅丸の内南口」

となっており、操車所は「東伏見坂上」よりもっと田無寄りにあったようです。

かといって、梅70のかつての折返場と同じ場所とも思えません。

当時のことお分かりになる方のご教示を賜りたく存じます。

23名無しさん:2006/01/14(土) 23:45:50
>>22


当時の人間じゃないんで憶測でスマン。

かつての梅70の折り返し場=東伏見操車場 だと思ってたけど。
梅70は途中まで東伏見操車場を使っていたけど、その後で柳沢駅を
使って折り返すようになったんじゃなかったっけ?その関係で最終的に
柳沢駅が起点になったとか。

で、東伏見操車場って前にトラックラーメン屋があった場所あたりじゃ?

そこらへんの情報ってネットにあんまし無いんだよね。


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