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【生誕100年】太宰治【1909.06.19〜1948.06.13】

1太宰治@走れメロス:2009/01/04(日) 10:31:09 ID:TZTgw.iI0
太宰が生きたまち・三鷹 <太宰治顕彰事業>
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/dazai/index.html

太宰治文学サロンのご案内 |三鷹市
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/a002/p017/g06/d01700025.html

三鷹市‐太宰治の墓|タチオン−東京・多摩のエリアガイド
http://www.tachikawaonline.jp/city/view.php?area=23&amp;id=554&amp;mode=details

太宰治 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E6%B2%BB

244三鷹中央防災公園@元気創造プラザ:2017/06/26(月) 12:14:51 ID:7Sqoea0U0
太宰の晩年作から生涯思う 三鷹でパネル、原稿の複製展示
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201706/CK2017062602000157.html

 三鷹市の玉川上水で入水自殺した太宰治(一九〇九〜四八年)の遺体が発見された日にちなむ六月十九日の「桜桃忌」に合わせ、太宰が晩年に暮らした三鷹での足跡をたどる企画展「最晩年作『犯人』と『如是我聞(にょぜがもん)』」が同市下連雀の太宰治文学サロンで開かれている。

 企画展は、井の頭公園や三鷹を舞台にした四八年一月発表の短編小説「犯人」と、その直後に書かれた随想「如是我聞」を特集。太宰は当時、吐血するなど体調が悪く、精神的にも不安定だった。随想では、太宰のことを「とぼけているね、あのポーズが好きになれない」などと文芸誌の対談で語った志賀直哉をはじめ、文壇の大家への批判を激しい言葉でつづっている。

 入水自殺後、太宰と志賀について賛否の論争が起きた。展示では、そうした一連のエピソードをパネルにまとめ、原稿や草稿の複製を並べた。太宰を擁護した坂口安吾らの文章や、「斜陽」「人間失格」などの初版本も展示している。

 学芸員の吉永麻美さんは「『如是我聞』で太宰は、文学界の若い芽を摘むなと訴えた。執筆の真意は、ヒステリックな文壇攻撃ではなく、徒弟や封建的秩序を重んじる日本社会への警告だったのではないか。そんなことを考えながら、太宰の生涯に思いをはせてもらえれば」と話している。

 入場無料で十月九日まで。月曜休館。

問い合わせは同サロン
電0422(26)9150

245三鷹中央防災公園@元気創造プラザ:2017/07/09(日) 17:03:10 ID:uMcpu2kA0
【井の頭公園】太宰治文学館と吉村昭書斎を整備 身近な「文学施設」に
https://www.kensetsunews.com/web-kan/81433

 東京都三鷹市は、同市にゆかりのある2人の作家、太宰治と吉村昭を記念する新たな文学施設を、都立井の頭恩賜公園内に整備する。公園管理者である東京都と協議の上、「市立太宰治文学館」(仮称)と「市立吉村昭書斎」(同)の基本プランを今夏にも策定する。この中で、施設の規模などを固めた上で、2017年度内に基本・実施設計を委託する考えだ。工事は18年第2回(6月)市議会定例会付議案件として発注し、議決後7月の着工を予定。19年4月のオープンを目指す。
 太宰治文学館は太宰の遺族から寄託されている遺品・資料など約80点を展示。規模は約500㎡を想定している。吉村昭書斎は、「高熱隧道」「闇を裂く道」などの作品で知られる吉村の自宅敷地内にある約30㎡の書斎を移築する。両施設は隣り合う形でつくることを想定。多くのファンを持つ太宰と吉村の貴重な遺品・資料などを散逸せず適切に保存するとともに、市民や都民らがこれらに接する場を創出する。公園の魅力向上にもつなげる。
 「太宰治文学館(仮称)及び吉村昭書斎(仮称)基本プラン作成業務」は、綜企画設計(千代田区)が担当し、10日までの納期で進めている。市はこれをもとに、公園全体のゾーニングなどとの整合性を図りながら、施設の規模や配置、動線などについて、都と協議の上、基本プランを策定する。
 太宰は三鷹に長く住み、市内の禅林寺に墓がある。毎年6月19日の「桜桃忌」には、全国から多くの太宰文学愛好者が集まることでも知られている。吉村は、1969年から06年7月に亡くなるまで井の頭公園に隣接する住宅地に妻で作家の津村節子氏と暮らし、多くの作品を生み出した。津村氏は名誉市民でもある。
 井の頭恩賜公園は、5月に開園100年を迎えた。また、18年には太宰没後70年を迎える。こうした中、三鷹市では両家から遺品などを寄贈する意向を受け、展示施設を整備することにした。
 清原慶子市長は「文学ファンはもとより、国内外の子どもから高齢者までが気軽に立ち寄れる文学施設となるように検討し、文化の薫り高い三鷹市の価値を高めるものとなるように取り組んでいく」との姿勢を示している。

246三鷹中央防災公園@元気創造プラザ:2017/10/29(日) 22:29:56 ID:Gmexza520
太宰と芙美子の交流 三鷹の太宰治文学サロンで企画展
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201710/CK2017102902000104.html

 三鷹で暮らした作家・太宰治と、新宿・落合に自宅のあった作家・林芙美子をテーマにした企画展「太宰と芙美子」が、三鷹市下連雀の同市太宰治文学サロンで開かれている。新宿区立林芙美子記念館とともに企画した。双方の貴重な資料から、二人の交流をたどる内容となっている。

 芙美子(一九〇三〜五一年)はベストセラー「放浪記」や「浮雲」で知られる人気作家。作家として後輩にあたる太宰(一九〇九〜四八年)は、足しげく芙美子の邸宅を訪れ、文学や美術談議に花を咲かせ、芙美子の家族とも親しくしていたという。

 太宰の晩年の代表作「ヴィヨンの妻」は、芙美子が装丁とさし絵を手掛けた。二人の交遊の産物であることが、芙美子の回想などから明らかになっている。また、太宰は小説「眉山(びざん)」で、作中人物の男性洋画家に「林芙美子」の名を冠している。同サロン学芸員の吉永麻美さんは「文壇の大先輩の名前を作中で用いる大胆さに、太宰のユーモアと芙美子への親しみが感じられる」と解説する。

 太宰の死後、芙美子はすぐに三鷹の自宅を弔問に訪れている。文芸誌の座談会で芙美子は、「私小説」を開花させた太宰の功績をたたえ、「いい作家を死なせた」とあくまで太宰を擁護したという。

 企画展では「放浪記」や「ヴィヨンの妻」などの直筆原稿(複製)や初版本、芙美子が油彩で描いた「自画像」など十六点を展示。吉永さんは「心を許した先輩後輩、姉と甘えん坊の弟のような間柄だったのでは。そんな心の交流を感じていただければ」と話している。

 企画展は来年二月二十五日まで。三月六日からは記念館で同様の展示が始まる。文学サロンは月曜休館。入場無料。問い合わせは同サロン=電0422(26)9150=へ。

247三鷹中央防災公園@元気創造プラザ:2017/12/17(日) 00:19:03 ID:AGazdkYc0
太宰治・吉村昭記念館の建設地変更…野鳥に配慮
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20171216-OYT1T50013.html

 井の頭公園(東京都三鷹市など)に作家の太宰治と吉村昭を紹介する施設の建設計画を進める三鷹市が、建設候補地を変更したことがわかった。

 野鳥の観察を行う市民グループなどから、環境への悪影響を指摘されたことを受けた措置。市は新たな候補地を示した修正案を公表し、15日からパブリックコメントの受け付けを始めた。

 太宰治(1909〜48年)と吉村昭(1927〜2006年)は、三鷹市に居を構えた市ゆかりの作家。市は、公園内に太宰の遺品などを展示する「太宰治記念文学館」(仮称)と、市内に残る吉村の自宅から書斎を移築する「吉村昭書斎」(同)の建設計画を進めており、2019年度の同時オープンを目指している。

 市が8月に公表した計画案では、建設候補地として、万助橋(三鷹市下連雀)近くにある樹木に囲まれた資材置き場を想定していた。だが市によると、公園で野鳥の観察などを行っている三つの市民グループが「玉川上水に近く、渡り鳥など野鳥の休む場所になっている」「貴重な菌類がいる」などと反対。市に、候補地の変更などを求める連名の要望書を提出していた。

 こうした要望を受け、市は「人の手の入った、開かれた場所に施設を建設すべきだ」と判断。候補地を、資材置き場から南へ約350メートル離れた芝生の広場に変更した。近くには三鷹の森ジブリ美術館がある。

 市はホームページで修正案を公表。15日から来年1月4日までパブリックコメントを受け付ける。

248三鷹中央防災公園@元気創造プラザ:2018/02/02(金) 23:17:10 ID:tG0f2YlQ0
井の頭公園の文学施設建設を断念、東京都三鷹市
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO2648451002022018L83000/

 東京都三鷹市は2日、井の頭公園に太宰治記念文学館(仮称)と吉村昭書斎(同)を建設する計画を断念すると発表した。園内の生態系保全を求める市民の意見を無視できないと判断した。今後は同公園以外の場所での建設を検討する。

 同市は作家の太宰治と吉村昭の業績を顕彰する文学施設の整備を計画。2017年7月には公園西園の北側の万助橋付近に建設する基本プランを策定した。18年7月に着工し、19年4月の開館を目指していた。

 だが、パブリックコメント(意見公募)で市民の一部から樹木など自然環境の破壊を懸念する意見が出たため、市は「三鷹の森ジブリ美術館」の東側を建設候補地とする修正案を提案。改めてパブリックコメントを実施したところ、依然として生態系保全を求める声があったため、同公園内での建設は困難と判断した。

 市は17年度中に同公園以外での建設計画案をまとめる考えだが、適地を確保するのは容易ではない。

249三鷹中央防災公園@元気創造プラザ:2018/02/04(日) 06:00:57 ID:3TxPCYQc0
三鷹市 太宰治、吉村昭ゆかりの施設建設場所を再検討
https://mainichi.jp/articles/20180203/k00/00e/040/186000c

 東京都三鷹市は2日、都立井の頭公園内に2019年度にオープンする予定だった「太宰治記念文学館」「吉村昭書斎」(ともに仮称)の建設計画を延期し、建設場所を再検討すると発表した。清原慶子市長は「市民の意見を聞くと、生態系の保全等の観点から、別の場所を検討すべきだとの意見が多く寄せられた」とコメントを出した。【福沢光一】

 両施設は、三鷹市で暮らすなどゆかりの深い太宰治(1909〜48年)、吉村昭(1927〜2006年)の2人の作家の遺品などを展示する。清原市長は16年11月の記者会見で、市民が2人の作品などに親しめるよう「井の頭公園内に文化施設を造りたい」と表明。翌年8月、19年春の開館を目指すとして、井の頭公園西園の北側に建設する基本プランを発表した。建設総予算は2億5000万〜3億円を予定していた。

 ところが、市が17年8〜9月に市民から意見を募ったところ、集まった302件のうち、建設場所の見直しを求める意見が69件と約2割を占めた。理由には「玉川上水に面し、野鳥が移動して滞留する場所。野鳥のすみかを奪わないで」「貴重な都市の自然を失いたくない」などが挙がったという。

 これを受け、市は建設場所について、当初の西園北側から南へ約350メートル離れ、周辺に三鷹の森ジブリ美術館もある「芝生の広場」に変更。改めて17年12月〜18年1月に市民の意見を聞いた。すると、計193件のうち「公園の自然や環境を壊してまで建設する意味がわからない」など、公園内建設への反対意見が74件、建設そのものを反対する意見が54件あったという。

 清原市長は2日、「井の頭公園以外の場所に設置することとし、19年度の開館を想定したスケジュールを見直す」と文書で発表。理由について「公園以外で整備すべきだとの意見も多い」のほか「18年度予算編成で、ふるさと納税で約5億円の減収が見込まれる」ことも挙げた。

250三鷹中央防災公園@元気創造プラザ:2018/04/14(土) 22:20:06 ID:SYSxWq8c0
松重豊が太宰治「皮膚と心」「燈籠」「待つ」を朗読
https://natalie.mu/stage/news/277968

松重豊が出演する朗読会「太宰を聴く」が、6月15日に東京・三鷹市芸術文化センター 星のホールで行われる。

本企画は太宰治の誕生日にして遺体が発見された日でもある6月19日、“桜桃忌”の時期に合わせて行われる朗読会。これまでにリリー・フランキー、西岡徳馬、國村隼、杉本哲太、平田満、豊川悦司、風間杜夫、大杉漣、田口トモロヲらが出演している。18回目となる今回は松重が太宰作品の「皮膚と心」「燈籠」「待つ」を朗読。チケットの一般販売は4月17日に開始される。



「第18回 太宰を聴く 〜太宰治朗読会〜」
2018年6月15日(金)
東京都 三鷹市芸術文化センター 星のホール

出演:松重豊

251電話でお金の話@それは詐欺です:2018/06/03(日) 08:06:21 ID:Tdd5qEcU0

<東京人>没後70年 太宰治 生前の姿を知る証言者
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201806/CK2018060302000116.html

 今年は、三鷹に住んでいた作家の太宰治が、愛人の山崎富栄と玉川上水に入水してから七十年です。そのショッキングな亡くなり方もあって、没後すぐに太宰ブームが起こり、その後、二回のブームを繰り返しました。最近のブームは、生誕百年を迎えた二〇〇九年。芥川賞作家で芸人の又吉直樹さんが太宰好きを公言し、それまでの「太宰=暗い」というイメージが、「太宰=明るい」に変わりました。

 東京人七月号では、明るくて、ユーモアがあって、少しおっちょこちょいでもあった太宰の一面に、太宰が遺(のこ)した学生時代の落書き帳や短篇(たんぺん)作品などから迫ります。なかでも、生前の太宰を知る数少ない証言者で、短編「メリイクリスマス」のモデルでもある、新宿五丁目のバー「風紋」の女主人林聖子さんと作家堀江敏幸さんとの対談では、身体性を伴う太宰の姿が浮かび上がってきます。

 堀江さんが、「文学者が残したさまざまな太宰治像があるが、こんなふうにひと掴(つか)みで何かを捉える言葉にはなかなか出会えない」と言うように、林さんの太宰へのまなざしと言葉には特別なものがあります。

「煙草(たばこ)を持つ長くてきれいな指」「つんのめるような歩き方」「すり減った下駄(げた)の歯」「透明感のない漆喰(しっくい)のような白い足」--。

 対談を読んでから太宰作品を再読すると、かつてとは読後感が変わるかと思います。今こそ太宰作品を読んでみてください。 (「東京人」副編集長・田中紀子)

 「都市を味わい、都市を批評し、都市を創る」をキャッチコピーに掲げる月刊誌「東京人」の編集部が、7月号の記事をもとに都内各地の情報をお届けします。問い合わせは、「東京人」編集部=電03(3237)1790(平日)=へ。

252電話でお金の話@それは詐欺です:2018/06/20(水) 23:51:49 ID:3Eg/OpN60
太宰へ感謝思い思い…没後70年
http://www.yomiuri.co.jp/local/tokyo23/news/20180620-OYTNT50095.html

桜桃忌ファン集う

 晩年を三鷹市で過ごした作家・太宰治(1909〜48年)をしのぶ「桜桃忌」の19日、多くのファンが同市の禅林寺にある太宰の墓を訪れた。

 今年は太宰の没後70年の節目。ファンらは花束やサクランボ、酒を墓前に供えるなど、思い思いに供養した。足立区の会社員、板垣沙織さん(25)は「暗いイメージが定着しているけど、残された太宰の書簡を読むとすさんだ感じはしない。どんな人だったのか気になって訪れました」と話した。

 桜桃忌は、晩年の作品「桜桃」にちなみ、太宰と同じ津軽出身の作家で三鷹に住んでいた今官一こんかんいち(1909〜83年)が命名した。

253電話でお金の話@それは詐欺です:2018/06/20(水) 23:52:49 ID:3Eg/OpN60
東京 太宰3作品の朗読会 7月に三鷹・原さんら公演
https://digital.asahi.com/articles/ASL675JR6L67UTIL02S.html?rm=477

 東京都三鷹市ゆかりの作家・太宰治(1909〜48)の作品を朗読する公演「もういいよったら もういいよ〜10人の女性が贈る太宰治へのメッセージ〜」が7月6日、三鷹市芸術文化センター(上連雀6丁目)である。市内のフリーアナウンサーで朗読家の原きよさん(51)らが出演する。

 朗読されるのは「女生徒」「リイズ」「美少女」。太宰は39年に三鷹に転居しているが、いずれもこのころに書かれた作品だ。「あさ、眼(め)をさますときの気持ちは、面白い」で始まる「女生徒」は少女の独白でつづられ、明るく軽やかだ。太宰が描く「健康的で爽やかで、愛(いと)おしくて、律義」な女性の姿を伝えたいと3作品を選んだという。

 大分市出身の原さんは、元大分放送のアナウンサー。家族の事情で20年ほど前に三鷹市に移り住んだ。「太宰は暗い」と良いイメージはなかったが、地域で短編を朗読する機会があった。「それで興味を持った。いろいろ作品を読んでみると、面白い。すごく人間臭く、優しく、馬鹿正直な人なんだと感じた」。以来、市内や太宰の故郷・青森といったゆかりの地などで、朗読を続けている。

 ログイン前の続き太宰が愛人と玉川上水に身を投げてから今年で70年。「無頼派」のイメージが強いが、「太宰の明るい面も知ってほしい。嫌いな人にも来てもらえれば」と原さんは期待する。公演では太宰と同郷で東京芸術大学卒の渡辺秋香さん(52)がピアノを演奏する。

 午後2時半、同7時からの2回。全席自由で前売り2800円、当日3千円。高校生以下は前売り、当日とも1500円。問い合わせは高橋俊也さん(090・3474・7999)へ。

254電話でお金の話@それは詐欺です:2018/06/20(水) 23:56:20 ID:3Eg/OpN60
太宰治の特別展始まる 三鷹での執筆、暮らしに迫る
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201806/CK2018061702000111.html

 作家の太宰治が亡くなって今年で70年。三鷹市美術ギャラリー(JR三鷹駅南口前)で16日から、特別展「太宰治 三鷹とともに〜太宰治没後70年〜」が始まった。三鷹での暮らしや執筆活動を中心に、太宰の文学と人物像に迫る。7月16日まで。

 太宰治(一九〇九〜一九四八年)は、一九三九(昭和十四)年に甲府市から三鷹へ転居した。この時から玉川上水で入水自殺を遂げるまで、故郷・津軽に疎開した一時期を除く約七年半を三鷹で過ごした。特別展では、市の所蔵品や青森県の太宰治記念館などから借りた文学資料や太宰の愛用品など三百点以上を展示。

 このうち、太宰愛用の木製椅子(座面は布張り)は今回が初公開。一九三六年十一月〜翌年六月まで過ごした杉並区天沼にあった下宿「碧雲(へきうん)荘」で使っていたもので、当時、精神的にどん底の状態だった太宰はこの椅子に座り、「人間失格」の原型になったともいわれる作品「HUMAN LOST」を執筆した。

 このほか、太宰が旧制弘前高校時代の下宿先・藤田家で愛用していた卓上ランプや太宰が友人を描いた油絵も初公開された。三鷹時代に執筆した「斜陽」の直筆原稿や愛用の万年筆や黒いマント、三鷹の自宅で家族と過ごす写真など貴重な資料が並ぶ。

 学芸員の吉永麻美さんは「太宰は全百五十作品のうち約九十を三鷹で書いた。その意味で三鷹は創作の地。家族と住み、先輩後輩と交わり、自身と格闘しながら作家として生き抜いた場所。資料をたどりながら、あらためて人間太宰の魅力や苦悩を感じ取っていただければ」と話す。

 月曜休館(七月十六日は開館)。観覧時間は午前十時〜午後八時。観覧料は五百円。問い合わせは同ギャラリー=電0422(79)0033=へ。

255電話でお金の話@それは詐欺です:2018/06/21(木) 00:01:46 ID:3Eg/OpN60
東京 ゆかりの作家の催し盛り上げへ寄付募る 三鷹市
https://www.asahi.com/articles/ASL66621TL66UTIL05H.html

 東京都三鷹市が、市ゆかりの作家の太宰治(1909〜48)と山本有三(1887〜1974)関連のイベントへの寄付を募っている。ネットを用いたクラウドファンディングにより、8月末までに100万円集めるのが目標だ。市は「運営費の一部に充て、催しを盛り上げるきっかけにもしたい」と願っている。

 太宰は1939年に三鷹に転居し、疎開した一時期を除いて亡くなるまでこの地で暮らした。「走れメロス」や「斜陽」などは三鷹時代に書かれている。今年は没後70年の節目で、市などは今月16日〜7月16日、JR三鷹駅前の市美術ギャラリーで特別展「太宰治 三鷹とともに」を開く。太宰治文学サロン(下連雀3丁目)でも企画展示「太宰治の愛のことば」を開催中で、太宰が読者に語りかける「愛のことば」を9月17日までパネルで紹介している。

 一方、「路傍の石」などで知られる有三は、36〜46年に同市下連雀2丁目の屋敷で暮らした。市は96年から屋敷を記念館として公開しており、企画展「山本有三、作家の遍歴」が9月2日まで開催されている。

 ログイン前の続き寄付者には金額に応じ、1万〜3万円未満は特別展のペアチケットと太宰か有三のオリジナルグッズ、3万円以上は特別展のペアチケットと図録か有三記念館の年間パスポートが贈られる。ペアチケットは6月25日までの寄付者に限る。

 市は9月以降、市ゆかりの作家・吉村昭(1927〜2006)や吉村の妻で作家・津村節子さん(1928〜)、児童文学作家・神沢利子さん(24〜)関連の催しについてもクラウドファンディングを行う予定だ。問い合わせは市代表(0422・45・1151)から企画経営課へ。

256電話でお金の話@それは詐欺です:2018/07/14(土) 11:59:47 ID:YM3CvJYY0
素顔の太宰、感じて 没後70年、ゆかりの三鷹で 直筆原稿など300点、弟子への書簡に心情 /東京
https://mainichi.jp/articles/20180714/ddl/k13/040/010000c

 没後70年を迎えた作家・太宰治(1909〜48年)の特別展「太宰治 三鷹とともに」が、三鷹市美術ギャラリー(同市下連雀3)で開かれている。太宰を慕った弟子たちへの書簡類からは、作家とは別の「普通の人」の顔がのぞく。

 太宰は39年9月以降、疎開した一時期を除く約7年半の大半を三鷹村(後に三鷹町)で家族とともに暮らし、48年6月、市内を流れる玉川上水で入水自殺した。この間「走れメロス」「斜陽」「人間失格」などを発表している。

 特別展は三鷹市などの主催。直筆原稿や万年筆など作家生活に関わる品や、菓子箱で作った自宅表札、愛用の二重回しをはじめ約300点を展示した。杉並区にあった下宿・碧雲(へきうん)荘で使用した椅子や、旧制高校時代に下宿先で使ったランプも公開。太宰を撮影した写真家の林忠彦、田村茂両氏の作品を添えた。

 太宰は死の約半年前、一番弟子といわれる堤重久氏に宛てた書簡で、率直な心情を打ち明けている。

 <(前略)実はね、いろいろ、あぶねえんだよ、いちど逢ひたいと思ってゐる、いろいろと人の悪口も言ひたい、安心してそれを言へる相手は、誰も無いんだよ(後略)>(1947年12月2日)

 太宰治文学サロンの吉永麻美学芸員(40)は「書簡類からは、文学の師として弟子を指導したり出版社に売り込んだりと、太宰のイメージからは意外だが、ごく普通の姿がうかがえる。あまり知られていない太宰の素顔を身近に感じてもらえれば」と話す。

 16日まで。午前10時〜午後8時。高校生以上500円。問い合わせは三鷹市山本有三記念館(0422・42・6233)。

257電話でお金の話@それは詐欺です:2018/09/02(日) 21:28:33 ID:6qkE3V360
太宰治没後70年 三鷹の記憶 (1)無頼の文豪に思いはせ
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201808/CK2018082902000140.html

 太宰治ゆかりの地を訪ねる無料の「定例ガイド」が三〜十一月の毎月第四日曜日の朝、JR三鷹駅南口(三鷹市)から出発する。「みたか観光ガイド協会」のボランティアの案内で、数人ずつのグループに分かれ、太宰の立ち寄り先や旧居跡などを巡り、所要時間は約二時間四十分だ。

 「太宰が生きた昭和十〜二十年代の建物は建て替わり、没後六十年の二〇〇八年に設置されたプレートが残る場所がほとんどです」と代表の小谷野芳文さん(78)。当時の姿をとどめるのが一九二九年に造られた陸橋だ。見晴らしが良く、太宰は編集者や弟子を連れて来ていたという。この橋で、愛用のマントを着てたたずむ太宰の写真がよく知られている。

 太宰は三鷹駅から歩いて約十五分の三鷹市下連雀の借家で暮らした。小谷野さんは太宰の妻・津島美知子さんの著書「回想の太宰治」を引用して「六畳、四畳半、三畳の間取りに玄関、縁側、風呂場が付いていました。新築で、日当たりがよかったそうです」と説明してくれた。

 太宰は菓子折りのふたを利用して「津島修治(太宰治)」と毛筆で並べて書いて、表札にして玄関の左の柱に打ち付けたという。

 門柱際にサルスベリの木があり「枝さきにクレープペーパーで造ったような花をつけていた」(「回想の太宰治」)。この木は、女性記者と心中する夫を妻の視点から描いた太宰の小説「おさん」に、夫婦が最後に会話を交わす場面で登場する。旧居跡の近くにある三鷹市の和風文化施設「みたか井心亭」の庭に、移植され、道路から見ることができる。

 芥川賞作家でお笑いタレントの又吉直樹さんが、上京して最初に住んだのが、旧居跡に建てられたアパート。著書「東京百景」に「そんなことも知らずに、僕は太宰が作品を書いた場所で、太宰の作品を貪(むさぼ)るように読んでいた」と記している。

 作家太宰治(一九〇九〜四八年)が三鷹市を流れる玉川上水で心中自殺をして七十年。太宰は戦中、戦後の約七年半、都心から離れた三鷹で暮らし、約百五十作品のうち、「走れメロス」や「斜陽」、「人間失格」など約九十作品を書いた。太宰が人生の後半を送った三鷹を訪ねた。

<メモ> 太平洋戦争開戦の日を女性の視点から描いた小説「十二月八日」に登場する伊勢元酒店跡にあるのが「太宰治文学サロン」。年表や地図、解説パネルが設置され、ガイドボランティアが常駐している。

258電話でお金の話@それは詐欺です:2018/09/02(日) 21:29:23 ID:6qkE3V360
太宰治没後70年 三鷹の記憶 (2)下宿から深夜、玉川上水へ
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201808/CK2018083102000124.html

 「太宰治は戦後、流行作家になり、たくさんの人が訪ねてくるようになりました。仕事に集中できなくなったため、三鷹駅前に複数の仕事場を借りました」と「みたか観光ガイド協会」代表の小谷野芳文さん(78)。

 駅前にあった小料理屋「千草」を太宰は、作家仲間や編集者との打ち合わせに使い、二階を仕事部屋として借りた。一九四八年、太宰が行方不明になった際は、捜索本部となり、玉川上水で遺体が発見された後は検視が行われた。「店の主人は、(太宰をしのぶ)桜桃忌の世話をしていました」と小谷野さん。

 その向かいにあるのが、野川家跡。太宰と心中自殺した美容師の山崎富栄が、近くの美容院で働くため下宿した場所で、太宰は仕事部屋としても使った。四八年六月十三日深夜、二人はここから玉川上水に向かった。

 玉川上水は現在、水量が少ないが、小谷野さんは当時の様子が想像できるように太宰の小説「乞食(こじき)学生」の一節を読んでくれた。「川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を、人喰(ひとく)い川と呼んで、恐怖している」

 二人が入水したとされる場所に、太宰の故郷である青森・金木産の玉鹿石(ぎょっかせき)が置かれていた。なぜ入水場所が分かったのか。「太宰のことを学んだ近所の人が当時、男物と女物のげたが並べられていたと証言した場所の近くです」と小谷野さんは教えてくれた。

 太宰治の墓があるのが三鷹市内の禅林寺。太宰は小説「花吹雪」の中で、禅林寺には「森鴎外の墓がある。(中略)ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗(こぎれい)な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知(し)れない」と書いている。

 小谷野さんは、太宰の妻津島美知子さんの著書「回想の太宰治」を引用し「夫婦で禅林寺にある鴎外の墓を詣でたことがあったので、住職に頼み、森家墓地の斜め前の一画を譲ってもらったそうです」と説明してくれた。

<メモ> 定例ガイド終了後、希望すれば昼食会に参加できる。「太宰作品の朗読を聞きながら、食事をすると、みなさん、すっかり仲良くなります」と小谷野さん。

259電話でお金の話@それは詐欺です:2018/09/02(日) 21:29:58 ID:6qkE3V360
太宰治没後70年 三鷹の記憶 (3)小説はネットワークの産物
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201809/CK2018090102000126.html

 「太宰治の小説は、さまざまな人たちとのネットワークの中から出来上がってきました」と太宰を研究する安藤宏東京大教授(日本文学)は話す。

 太宰は、調べ物が必要なときは、歩いて十五分ほどの評論家亀井勝一郎の家に本を借りに行っていた。多くの作家とも交流があり、太宰を慕う文学青年らが三鷹に集まってきた。

 その中の一人に、岩手県花巻市出身の東京帝大生三田循司もいた。三田は詩人を志していたが、繰り上げ卒業で出征。一九四三年、北方のアッツ島で戦死した。太宰の小説「散華」には三田循司という若者が登場する。

 作中「御元気ですか。遠い空から御伺いします。無事、任地に着きました。大いなる文学のために、死んで下さい。自分も死にます、この戦争のために」という戦地から届いた三田のはがきの一節を三回引用している。

 「死んで下さい、というその三田君の一言が、私には、なんとも尊く、ありがたく、うれしくて、たまらなかったのだ」と作家として文学に懸ける思いを表明している。

 太宰と三田との深い交流を物語るはがき数枚が近年、見つかり「日本現代詩歌文学館」(岩手県北上市)が所蔵している。安藤教授は「三田は、太宰にとって非常に重要な役割を果たしたことが分かってきた」と指摘している。

 太宰は多くの画家とも交流。戦後は、三鷹駅前に住んでいた画家の桜井浜江さんのアトリエをよく訪れた。桜井さんが生前、太宰との交流について語った数少ない機会が九八年に三鷹市のグラフ誌「グラフみたか」の取材に応じたときだった。

 同誌によると、太宰は仲間と近くで飲んでから、いつも大勢で訪れ、貸してくださいも何もなく、人のキャンバスを使って、人の絵筆を使って、描き上げるとそのまま帰ってしまった。「普通だったら怒っちゃうようなことだけど、太宰さんの場合は気にはならない」「自分を痛めつけても、人を傷つけるということはない」と印象を述べていた。

<メモ>桜井さんは、来客を献身的にもてなす女性を描いた太宰の小説「饗応夫人」のモデルとされる。

260電話でお金の話@それは詐欺です:2018/10/14(日) 14:03:46 ID:zltvRCQ60
太宰治没後70年 三鷹の記憶 (4)戦時体制の三鷹で花開く
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201809/CK2018090402000122.html

 「中心から隔たりをつくって、異端を選び取ることに、太宰の文学が花開いた秘密があります」と安藤宏東京大教授(日本文学)は話す。隔たりとは、一つは都心から離れた片田舎の三鷹で暮らしたこと。もう一つは、胸部疾患のため徴用を免除され、戦争に行かずに過ごしたことだという。

 かつて東京都内のある地域に集まり、居を構えた作家たちがいた。例えば、尾崎士郎らの馬込文士村(大田区)や芥川龍之介らの田端文士村(北区)だ。これに対し、太宰治は師匠の井伏鱒二のグループに属した。杉並区の荻窪にある井伏宅には、若い作家が集まり、将棋を指し、酒を酌み交わした。馬込などに集まる流行作家に比べたら、中央線沿いに住む自分たちは「三流作家」と井伏は著書「荻窪風土記」に書いている。

 太宰が結婚して一九三九年から暮らしたのが三鷹だった。四〇年に発表した「鴎」には「私の家は三鷹の奥の、ずっと奥の、畑の中に在る」と書いている。安藤教授は「文壇の“アウトサイダー”を自負していた井伏のグループの中でも、さらに距離を置いていた太宰だが、そこで頑張るという自負があった」と見る。明るい作風の「走れメロス」も四〇年に発表している。

 「鴎」にはこんな一節もある。「(体が弱く兵隊になれず)社会的には、もう最初から私は敗残しているのである。けれども、芸術。(中略)私は痴(こけ)の一念で、そいつを究明しようと思う」

 作中、自分を歯が欠け、背中は曲がり、ぜんそくに苦しみながらも、路地で、一生懸命バイオリンを弾く老いた「辻(つじ)音楽師」に近い存在とし「辻音楽師には、辻音楽師の王国が在るのだ」と、戦争中心の世の中になっても、芸術を追究する決意を述べている。

 安藤教授は「太宰は世の中が平和な時には、自殺未遂ばかりしていて、戦争になると、元気になり充実した作品を残した不思議な人。戦時体制が、三鷹という場所と重なって、太宰の文学は花開いた」と話している。

<メモ>安藤教授が三鷹らしい小説として挙げるのが「善蔵を思う」。表舞台から離れた三鷹で、芸術の花を開かせるという太宰の決意が込められているという。

261電話でお金の話@それは詐欺です:2020/07/09(木) 00:52:34 ID:Gr69yoYg0
太宰治の命日「桜桃忌」にちなんで…他の近代作家と違って若いファンが多いのは?
https://news.yahoo.co.jp/articles/601c26657de82efbe87a1a153cd74b290c2ca71b

1909年に生まれ、1948年に亡くなった。「戦後」をわずか3年しか生きていない(田村茂 /Wikimedia Commons)

 太宰は他の作家と違って、時代を超えて読み継がれているとされている。その理由はどこにあるのか? 太宰の命日「桜桃忌」に絡み、実際に太宰の眠る三鷹のお寺を訪ねたライターの神田桂一氏が見たものは……。20代と思しきファンの群れだったのだ。

ハマったのは『女生徒』を読んでから

 先日、芥川賞候補が発表され、太宰治の孫である石原燃さん(48)が選ばれ話題となった。太宰と言えば、この時期もうひとつの話題が、6月19日の命日である桜桃忌である。太宰が眠る東京・三鷹にある禅林寺には、全国から多くの太宰ファンが故人を偲んで訪れると聞くが、では実際どんな人々が訪れるのだろうと、疑問に思っていた僕は、実際に行ってみることにしたのである。

 僕は、大学生の頃、新潮文庫版の太宰治作品はすべて読んだ。青森の金木町にある太宰治の生家に社会人になってから足を運んだこともある。だが、近年熱が冷めて、めっきり読んでいなかった。そんな自分が、もう一度、太宰と向き合った時間の意味を考えるという思惑も今回の墓参にはあった。

 朝5時30分に起きた僕は、雨に打たれながら、駅まで歩き、中央線に揺られ三鷹に着いた。禅林寺は、三鷹駅からタクシーで約5分。周りには誰もいない。間違いなく1番乗りだと思っていたが、それもそのはず、開門は8時からだった……。出鼻をくじかれたかたちだが、気持ちを切り替えて、近くのコメダ珈琲で8時まで時間を潰す。そして、8時。気を取り直して、禅林寺に向かうと、人だかりがすでにできていた。しかも、20代と思われる人ばかりだ。カップルからひとりで来た人までバラエティ豊かな顔ぶれ。

 てくてく歩き、太宰の墓前に近づくと、皆さくらんぼを持っている。恒例の差し入れのようだ。墓の太宰治と彫られたくぼみに、挟むらしい。残念ながら、僕は何も知らないので、持ってきていなかった。すると、10代後半と思しき若い男性が、「よかったら」とひとつさくらんぼをくれた。僕は、ありがたく頂戴し、墓にそっと置いた。太宰ファンの静かなつながりを感じた出来事だった。他にもタバコや酒などがお供えされていた。

 ひとり佇んでいた女性に声をかけてみた。聞くと22歳だという。

262電話でお金の話@それは詐欺です:2020/07/09(木) 00:53:39 ID:Gr69yoYg0
太宰治の命日「桜桃忌」にちなんで…他の近代作家と違って若いファンが多いのは?2
https://news.yahoo.co.jp/articles/601c26657de82efbe87a1a153cd74b290c2ca71b

「京都に住んでいたけど、太宰の近くにいたいと、今年三鷹に引っ越してきたんです。桜桃忌にはもう何度も来ています。太宰に最初にハマったのは、『女生徒』を読んでからです。太宰は男性なのに、女性の気持ちを描くのが、凄くうまいんですね。それですっと入り込めました。1番好きな作品は『グッド・バイ』です。よく、大人になったら読まなくなると言われますが、私はこれからも読み続けると思います」

 一人できている男性たちは、10代と思われる人たちが多かったが、どこか思いつめているようで熱狂的なファンだろうなと思わずにはいられなかった。

 小学生の子供を連れてきていたお母さんにも話を聞いてみた。

「最近三鷹に引っ越してきたんですけど、太宰のお墓があると聞いて、これは行ってみなきゃって。子供を連れて来てみたんです。作品自体は読みかじった程度ですけど、身近に感じられて、これからはもっと熱心に読んでみようと思います。子供にも読ませようと。実は、玉川入水の現場にもいってみたんですよ」

 謙遜しながら答えていたが、相当な太宰ファンと見た。

文スト、かっこいいですよね

 大学生のカップルにも声をかけてみた。

「文スト(『文豪ストレイドッグス』=文豪たちが活躍する漫画)から入って好きになりました。かっこいいですよね」

 近年、『文スト』のような漫画、『文豪とアルケミスト』のようなゲームなどのヒットによって、文豪ブームが起き、改めて文豪の作品が注目されている。

 そのようなこともあってか、文学の危機が叫ばれるなかでも、古典文学である太宰治は、新陳代謝を繰り返し、新しい若い読者を獲得している。それこそが、時代の試練に耐えうる、普遍的な文学であることの証左であろう。

 前段、「大人になったら太宰を読まなくなりがちだ」という発言を紹介した。したがって若いファンばかりなのではないか、という疑問が生じる。だが、これは違うのではないか。大人になっても太宰を読むファンはいるし、何より、若い新規読者を獲得することが1番難しいのである。その入口突破を太宰文学はやすやすとやってのけるのだから、これはもう凄いとしかいいようがない。それはやはり、太宰治の文学の青春性にあるのだろうと思うが、それは大人になったらわからないものなのだろうか。そんなことはないはずである。

 太宰文学の青春性は、言わずもがな、自意識との葛藤にあり、それが思春期との相性がよいのはわかるが、太宰文学の魅力はそれだけではない。むしろ、女性視点での語り口の軽やかさや、ユーモア、文体の現代性など、自意識が抜けたころに読むと色々見えてくるものがある。それもまた、太宰文学の魅力のひとつなのである。

263利用停止予告 ドコモ未払い料金お支払いのお願い などの内容に注意:2022/06/13(月) 23:56:44 ID:n1YrbYkI0
太宰治が描いた肖像画 三鷹市に寄贈 来月4日から公開
https://www.tokyo-np.co.jp/article/178959
太宰が最晩年に描いた肖像画(三鷹市提供)
https://www.tokyo-np.co.jp/article_photo/list?article_id=178959&amp;pid=673166

 作家太宰治(1909〜48年)が晩年に描いた油絵の肖像画が三鷹市に寄贈された。6月4日から、JR三鷹駅南口近くの市美術ギャラリー内「太宰治展示室 三鷹の此(こ)の小さい家」で初公開される。7月24日まで。

 肖像画は縦33センチ、横24センチの4号サイズ。画材などから、親交のあった洋画家の桜井浜江(1908〜2007年)の三鷹駅近くのアトリエで太宰がよくしていたように、即興で描いた作品とみられるが、誰を描いたのかは不明。太宰を担当していた筑摩書房の編集者、故石井立さんの遺族から市に寄贈された。市所蔵の太宰の絵画としては8点目。

 市担当者は「今回の肖像画は太宰の独特の色づかいや筆致で描かれています。文学だけではない芸術家の側面を味わってほしい」と話している。

 太宰治展示室は入場無料。月曜休館。問い合わせは太宰治文学サロン=電0422(26)9150=へ。

264利用停止予告 ドコモ未払い料金お支払いのお願い などの内容に注意:2022/10/27(木) 00:10:59 ID:DWUuHfb20
太宰治が親友に贈った友情の証し 親友を描いた肖像画や書簡見つかる 三鷹市ギャラリーで初公開
https://www.yomiuri.co.jp/local/tokyo23/news/20221025-OYTNT50257/

 三鷹市ゆかりの作家・太宰治が、親友の画家・ 鰭崎ひれさき 潤(1911〜89年)に贈った署名入りの著書や、直筆の書簡が、29日から市美術ギャラリーの企画展で初公開される。太宰関連の資料を展示する「太宰治文学サロン」(三鷹市)の学芸員は「鰭崎は太宰との交流についてあまり語らなかったが、太宰との友情を大切にしていたことがわかる貴重な資料だ」と話す。


◎執筆支えた鰭崎 

 鰭崎は長野県出身で、太宰の義弟を通じて1935年から交流を始め、太宰が三鷹市に移り住むきっかけをつくった人物という。甲府市で執筆活動をしていた太宰は、出版社が遠いため、東京への引っ越しを考えていた。そこで、鰭崎は太宰のために、東京の空き物件を探しては紹介していたという。

 太宰は39年、30歳の時に三鷹に引っ越した。45年には戦禍を避けるために、甲府などへ疎開したものの、46年11月に再び三鷹に戻り、「斜陽」「人間失格」などの代表作を執筆。亡くなるまで三鷹で過ごした。

 鰭崎は経済的にも精神的にも苦しんでいた太宰を援助し、執筆活動を陰で支え続けた。太宰の自宅を訪れることも多く、太宰の妻の美知子は、鰭崎のことを「最も頻繁な来客」と、回想録で名前を挙げるほど、盛んに交流していた。

◎親族が寄贈 

 初公開される資料は、国分寺市にある鰭崎のアトリエで見つかり、三鷹市に寄贈・貸与されたものだ。

 今年1月、鰭崎の次男夫妻が、父の作品が展示されている市美術ギャラリーを訪れ、絵の撮影許可を取ろうと職員に名乗ったところ、消息がつかめなかった鰭崎の子息だと分かった。

 翌日には長男夫妻も訪れ、手元にある初版本5冊を展示してほしいという要望があった。対応にあたった学芸員の吉永麻美さん(44)は、書簡などの資料を捜してほしいと伝えたところ、アトリエなどから様々な資料が見つかり、今回の展示が企画された。

 企画展のために、鰭崎の親族から市が寄贈や貸し出しを受けた資料は80点以上。このうち、寄贈されたのは、「新ハムレット」や「人間失格」、「斜陽」などの計5冊。新ハムレットには、太宰と鰭崎夫妻の名前とともに、「昭和十六年八月」と献本した年月が書かれている。太宰が年月まで記載した署名本はきわめて珍しいという。

 書簡は貸し出されたもので、内容は太宰の全集に収録されているが、吉永さんは「実際の書簡には、原稿用紙のけい線の外までびっしりと文字が書かれており、太宰が抱く鰭崎への心情が分かる」と説明する。また、太宰が油絵で描いた鰭崎の肖像画も初公開される。

 ◇

 企画展「太宰治より〜親愛なる、鰭崎潤へ」は、三鷹市美術ギャラリーで29日から来年1月15日まで開かれる。吉永さんは「2人の交流がどのようなものだったのかを、書簡などから感じ取ってほしい」と話している。

 入場無料。原則月曜休館。問い合わせは、同サロン(0422・26・9150)へ。


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