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釧路の郷土史研究

1名無しさん:2023/03/27(月) 14:11:47 HOST:softbank060111176158.bbtec.net
釧路市及び近郊の歴史に関する情報交換をしよう。
釧路を愛する者たちの釧路の歴史を知る学びの場です。

2名無しさん:2023/03/27(月) 14:30:35 HOST:softbank060111176158.bbtec.net
まちBBS掲示板で見つけた情報ですが、釧路空襲被災者の遺体を春洋公園に集めて火葬したというのです。
私には初めて聞いた話ですが、公園の近所の住民には有名な話らしいです。
釧路空襲の昭和20年当時はこの公園は公園ではなく、ただの畑か牧場のような広い広い土地の一部、そして付近には民家もなかった。
図書館で地図を見てから現場も見てきました。 昭和40年頃にはK山さんとS原さんの2軒の家が建っていた様です、昭和47年にはO野さんの家が建っていたよです。
いつから公園に変わったのかはまだ調べが付いていません。 奥の町内会館は昭和40年時にはY田さんが住んでいた様です。
民家が公園に変わるのは納税で更地にしたうえで物納し、それを市が公園化するケースなど有りますよね。
さて、この公園について何か情報をお持ちの方いますか?

3名無しさん:2023/03/27(月) 20:36:08 HOST:KD106128062252.au-net.ne.jp
春洋公園って、何処?

4名無しさん:2023/03/27(月) 22:25:43 HOST:softbank060111176158.bbtec.net
春洋公園はここです、この辺りは春洋町内会で春洋公園の横に春洋町内会館が建っています。
https://www.google.com/maps/place/%E6%98%A5%E6%B4%8B%E5%85%AC%E5%9C%92/@42.969733,144.4152409,17z/data=!4m6!3m5!1s0x5f7218007de526e5:0xffbd5a36b1ea1e6d!8m2!3d42.9693719!4d144.4153911!16zL20vMDkwbDZt

5名無しさん:2023/03/28(火) 18:49:28 HOST:KD106128062246.au-net.ne.jp
>>4
どもども!
1年ほど前まで春採4丁目に住んでたけど、その辺りには行った事は無かったなぁ。

6名無しさん:2023/03/29(水) 16:57:36 HOST:softbank060111191036.bbtec.net
土地の形状は四角で歩道のある道路が低く、奥の方に高く緩やかな斜面に成っています。
周りに土地の連続を考えて、昭和20年頃は小高い丘の形状で現在と大きな変化は無いと思います。
大正時代の地目は「畑」になっており、昭和20年当時も畑か牧場として利用していたかと思います。

7名無しさん:2023/03/30(木) 13:07:15 HOST:softbank060111176205.bbtec.net
昭和20年7月14日、この日は厳島神社の宵宮祭りで幣舞橋たもとの日銀の所に大きなテントを張りサーカスの準備をしていた。
14時40分千代ノ浦方面から鉄機が来襲し幣舞橋を破壊しようと何度も爆弾を投下したがやがて諦め民家や学校、工場へ目標変更した。
川上町、栄町、末広町、北大通りではザーザーという音とともにガソリンが降ってきて、その後爆弾投下により焼き払われた。

8名無しさん:2023/03/30(木) 13:09:18 HOST:softbank060111176205.bbtec.net
空襲での死者193人のうち百数十人、大部分がこの地区での焼死によるものだった。大川町や住吉町、南大通りには崖や山を利用した横穴の防空壕に対して
平野部の防空壕は平地に穴を掘り天井に板を乗せ土をかけた簡単なものだった。
空襲の半鐘により人々は壕に避難したが木造の家は焼き払われ、防空壕の中にいた人たちは蒸し焼き、焼死、窒息死の状態だったという。

9名無しさん:2023/03/31(金) 12:44:49 HOST:softbank060111185101.bbtec.net
7月14日15日の釧路空襲の死者数は何人だったのか? 私は釧路戦災記録会発行の釧路空襲全1巻(昭和63年)を読みました。
この死者数というのは各資料によってまちまちで、プラスマイナス10人程度の差があります。
釧路市消防沿革誌 177人
戦災箇所一覧図 195人
毎日年間 196人
釧路警察署沿革誌 177人
釧路市戦災死者 194人
    :
川上地区では14時間にわたり火災が続いたため遺体の判別がつかなかったり、戦災での混乱がうかがえます。

10名無しさん:2023/04/01(土) 21:01:18 HOST:softbank060111176066.bbtec.net
川上町、栄町、末広町を何気なく通行したり飲食を楽しんだりしていますが、78年前にこのアスファルトの下で百数人もの人が1日で亡くなった。

亡くなった人の遺体はリヤカーに載せて当時の市役所(現在のまなぼっと駐車場)に運び寝かせた。
身元が不明で処理する人がいない139体がこのに収容され、その後にリヤカーで紫雲台に運ばれたとされています。

11名無しさん:2023/04/08(土) 17:47:17 HOST:softbank060111183034.bbtec.net
栄町、川上町、末広町の3〜12丁目は昭和7年の地番改正前は「西幣舞町」でした。
明治、上記一帯は中戸川さんが開拓した農場でしたが、金森商船にそれを売却した。
今でも金森商船の土地は広く残って、金森商船から土地を借り受けている人も多い事でしょう。

12名無しさん:2023/04/14(金) 13:04:06 HOST:softbank060106247228.bbtec.net
栄町、川上町、末広町の1〜2丁目はというと、釧路川を埋め立ててできた新しい土地。
1丁目は完全に海だったが、2丁目は一部がもともと土地としてあった所と埋立地と混在した状態です。
埋立て地だけあって地盤は低く、2011年の東北沖大震災時に浸水したのはかつての埋立て地でした。

栄町、川上町、末広町の1〜2丁目、北大通り1〜2丁目、大川町、入船町など。
浸水した状況を見た時は大正時代の光景を見た気がしました、先祖返りかと。
人間にはは大地に見えるが土地は記憶しているのでしょう。

13名無しさん:2023/04/14(金) 13:19:04 HOST:softbank060106247228.bbtec.net
釧路市双葉町に谷藤病院が有りますが、昭和50年代まで栄町2丁目に有りました。
釧路市末広町3丁目の「3丁目ビル」五明酒店の斜向かいに建っていました。

谷藤八太郎さんは北大1期生で昭和11年に開院し昭和16年に増築しましたが、その後は建て替えてはいなかったので
昭和50年代には昭和11年築の古い建物が残っていました。
歓楽街のど真ん中なので夜の喧騒が悩みで、老朽化もあって双葉町に移転したのでしょう。

14名無しさん:2023/06/29(木) 12:49:55 HOST:softbank060109092084.bbtec.net
釧路空襲による被災者の大部分が栄町、末広町、川上町に集中していた。
そして至近距離にあった病院で深刻な被害を免れた病院が栄町2丁目に有ったことから、
ここ谷藤病院に被災者が運び込まれたようです。 しかし、この病院で死亡していることを告げられ
遺族はそのまま引き取ったと、戦災記録に書いてありました。
遺体を引き取った後はどのようにしたのかは記載が無かったので不明です。
でも、多くはリヤカーに載せて紫雲台へ運んだか、幣舞町の当時の市役所前へ運んだのではないかと思います。


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