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ガーヤトリーマントラ(ガヤトリーマントラ)を語るスレ21

152幸せな名無しさん:2025/09/22(月) 18:58:13 ID:mzftncAY0
ありゃ単なるキチ●イだよ

153幸せな名無しさん:2025/09/22(月) 22:00:58 ID:J6N.P9nw0
結局このサイババの言葉↓に尽きるのです。

身体と生命は食物を基盤とし、食物によって支えられています。ですから、私たちがどこまで目的地に達成できるかは、食物によって決まります。人間のすべての行動は、摂取された食物により引き出されたエネルギーによって決まります。食物の性質が人の想念、感情、行動の性質を決定します。霊性修行の成功はその人の摂る食事の量と質に左右されます。浄性の食物は、自己コントロールや知性を育てますから、霊性の向上を熱望する者は、浄性の食物が極めて必要となります。エゴも執着心も不適切な食物を消費する結果です。悪い種類の食物や、不正な手段で手に入れた食物は、いくつかの面で人間を無知という奈落の底に落とし、純粋な想いが浮かぶのを押さえつけます。食物は人間の生命力、肉体、心、人格の主原因です。心は我々が摂取した食物を反映しています。心を扱う正しい方法は、心の活動を善い行いや善い想いに向け、また神の御名を繰り返し唱えることに心を向けて、有害な対象や有害な想いや行いに心を向けないことです。物を食べている時に悪い想念に苛まれると、摂取している食物にその想念が作用して、結果としてあなたの心に影響を与えます。すべての不浄なものから人生を清めるためには、食物における規律を厳密に守るべきです。食物は、敏捷か怠惰か、心配性か落ち着いているか、聡明か愚鈍かを決める重要な要因です。想念は食物と環境から生まれます。サトウィックな(浄性な)食物のみを食べ、善なるもののみを望むなら、善い想念しか湧きません。想い、欲望、願望は、その人の摂取する食物の種類に関係します。私たちが口にする食物は、将来私たちが自らのために獲得するであろうものを、様々な方面から決定しているのです。どのようなものが心に芽生えるかは、摂取する食物によって決まってくるのです。どれほど偉大で学問がある人であろうとも、どれだけヴェーダーンタの教えに留意し、それを広めようと心を配っていようとも、身体とその働きの基盤である食物に関して定められた厳格な規定を守らないとしたら、その人は成就することはできないのです。

サイババの道に従うなら言い訳など考えずに素直にサイババの指示に従うことですね。
もしガヤトリーマントラの波動は肉や魚の波動を凌駕していて影響を受けないというのなら
ガヤトリーマントラだけを唱え食べ物に神経質になる必要はありませんとむしろ言及するはずでしょう。

インドではヒンドゥー教もジャイナ教もラクトベジタリアンです。
シーク教(イスラム教の影響を受けてインドで独自に発展した宗教)は肉も食べますが、
ガヤトリーマントラはヒンドゥー教の体系の中に確立されたものなので
宗教宗派は超えている等という詭弁は通じません。
宗教宗派は超えているはずなのにサンスクリット語であること自体がおかしいのです。
キリスト教徒だから肉を食べながらガヤトリーマントラを唱えても構わない、
等という詭弁を弄することもまったく無意味です。
面倒だからやりたくない、だから必死に言い訳を探してくる時間とエネルギーを、
どうしたらラクトベジタリアンを実践していくことができるのか、
そちらへの創意工夫の方面に向けましょう。

154幸せな名無しさん:2025/09/22(月) 22:31:47 ID:69KGiEO60
この人物は、一貫して自身の信じる特定の「システム」と「権威」を絶対視し、そこからの逸脱を一切許さないという極端な姿勢を崩しません。前回指摘した問題点がより顕著になっています。
​【この人物の心理分析】
​自己の拠り所としての絶対的信仰と自己正当化:
​この人物は、自身のアイデンティティや価値観を、サティア・サイババの教えと特定の厳格な解釈に完全に依存していると見られます。この信仰体系こそが、彼にとっての世界観の全てであり、心の安定の拠り所なのです。
​そのため、その体系に少しでも疑問が呈されたり、異なる解釈が示されたりすると、それは彼自身の存在基盤が揺らぐことを意味します。この「揺らぎ」に対する極度の恐怖が、しつこい反論と攻撃的な姿勢の根底にあります。
​自身の解釈や行動を絶対的に正しいものとして正当化し、少しでも異なる意見を持つ者を「甘え」「詭弁」「面倒だからやりたくないだけ」と断罪することで、自己の脆弱な信仰体系を守ろうとしているのです。
​恐怖と支配への欲求:
​「言い訳など考えずに素直に実行しろ」「甘え腐った性根を変えろ」「時期が来ていない」といった言葉は、相手に恐怖と罪悪感を植え付け、思考停止させ、自身の権威に従わせようとする支配欲の現れです。
​自分の信じる道が「正しく」、それ以外は「誤り」であると断じることで、優位に立ち、他者をコントロールしたいという深層心理が働いています。これは、自信のなさや不安の裏返しであることも少なくありません。
​議論の目的のすり替え(論破と屈服):
​この人物は、建設的な対話や相互理解を目指していません。彼の目的は、相手を論破し、屈服させることです。そのため、相手が何を言っても、自分の論理の矛盾を指摘されても、真正面から受け止めることなく、同じ主張を形を変えて繰り返します。
​彼にとって、掲示板でのやり取りは「議論」ではなく、**「教えの押し付け」や「異端審問」**のようなものです。
​認知的不協和の回避:
​自身の信念と矛盾する情報(例:ヴェーダ時代の食文化、マントラの普遍性)が提示されても、それを都合よく解釈するか、完全に無視することで、心の中に生じる不快な矛盾(認知的不協和)を回避しようとしています。
​「もともとはどうだったとかそんなことは何の関係もない」という発言は、この認知的不協和回避の典型です。

155幸せな名無しさん:2025/09/22(月) 22:33:03 ID:69KGiEO60
【内容の矛盾点と問題点の鋭い指摘】
​「サイババの指示に忠実に従うことが絶対条件」の強制と普遍性の否定:
​矛盾点: ガーヤトリー・マントラはヒンドゥー教のヴェーダ聖典に由来し、サイババ以前から数千年にわたり唱えられてきたものです。特定の現代の聖者(サイババ)の指示が、その**マントラ自体の普遍性や効果を限定する「絶対条件」となるわけがありません。**これは、マントラの本来の力を、特定の人物の教えの中に閉じ込めようとする試みです。
​問題点: 特定の個人への無条件の服従を他者に強制することは、カルト的な思想の核心であり、個人の精神的自由を奪います。サイババの教えが特定の信者にとって重要であることは尊重されるべきですが、それを他者に押し付け、その絶対性を主張することは、精神的支配への道を開きます。
​マントラの効果と食生活の関係性に対する自己都合な解釈:
​矛盾点: 「もしガヤトリーマントラが肉や魚の波動を凌駕し影響を受けないのなら、聖者たちも言及するはず」という主張は、「聖者が言及しないことは存在しない」という非常に狭い前提に基づいています。聖者の言葉は、時代や聞き手、教えの文脈によって異なり、すべてを網羅しているわけではありません。
​問題点: マントラの力は、唱える人の純粋な意図と、意識の変革を促すことにあります。 食生活は、そのプロセスを助けるための「手段」であり、マントラの効果を「帳消しにする/しない」というような、単純な計算式で語られるものではありません。精神修行を、外部の条件だけで判断しようとするのは、その本質を見誤る行為です。
​宗教・宗派に関する知識の歪曲と排他性:
​矛盾点: 「宗教宗派は超えている等という詭弁は通じません。宗教宗派は超えているはずなのにサンスクリット語であること自体がおかしいのです。」という主張は、言語と宗教の歴史的背景を全く理解していません。 サンスクリット語は、古代インドの共通語であり、ヴェーダ聖典の言語です。それがヒンドゥー教の主要な言語であることは自然であり、「宗教宗派を超えている」という概念と矛盾しません。むしろ、サンスクリット語は多くの宗教・哲学が共有する言語基盤です。
​問題点: 「宗教宗派を超えている」という言葉は、特定の枠組みを超えて普遍的な真理を求める姿勢を指すものであり、特定の言語を使用することとは関係ありません。この反論は、他者のスピリチュアルな探求を、狭い宗教的枠組みに閉じ込めようとする排他的な試みです。
​「詭弁」「面倒だからやりたくない」といった感情的な攻撃:
​矛盾点: 相手の意見を論理的に反論せず、「詭弁」や「面倒だから」とレッテル貼りする行為自体が、議論を放棄した感情的な攻撃です。これは、自身の論理が破綻していることを自覚しながら、それを認められない心理の表れです。
​問題点: 「どうしたらラクトベジタリアンを実践していくことができるのか、そちらへの創意工夫の方面に向けましょう」という締めくくりは、対話ではなく、自身の価値観への無条件の服従を強要する支配的な姿勢です。相手の選択の自由を認めず、自身の価値観を押し付けることは、健全な人間関係や精神的な交流を不可能にします。
​【結論と提言】
​この人物の心理は、自己の信仰体系が揺らぐことへの極度の恐怖と、それから来る支配欲に基づいています。そのため、彼らの論理は矛盾をはらみ、感情的な攻撃と排他性で満ちています。彼らは、あなたを屈服させ、自身の信念に従わせること以外に目的を持っていません。
​このような人物との「議論」は、時間とエネルギーの無駄であり、あなた自身の精神衛生を害するだけです。彼らのしつこい反論は、彼ら自身の不安と執着の表れであり、あなたがそれに応じる必要は一切ありません。
​対話が不可能な相手と認識し、これ以上関わらないことが、あなたの精神的平和を守る上で最も重要なことです。 建設的な議論は成立しないため、無視するか、掲示板の運営に通報することをお勧めします。

156幸せな名無しさん:2025/09/22(月) 22:39:55 ID:Jxd7c3wY0
自己のためと他者のためのサンスクリット学
【川村悠人】
昔から西洋の言語や文化に興味をもっていたため、当初は西洋哲学の分野を選択するつもりでした。そんなある日、専門分野を決める材料として開講されていた分野別の入門授業において、サンスクリット語という、自分の知識体系の中にはなかった未知の言語の響きに魅了されました。この得体が知れない言語とそれを軸として発展した文化を学びたいと思い、インド思想・仏教思想を掘り起こすサンスクリット文献学の世界に飛び込みました。サンスクリット語といっても、ヴェーダ語(サンスクリット語の古形態)、古典サンスクリット、叙事詩サンスクリット、仏教サンスクリットなど様々な種類があります。バラモン教の聖典であるヴェーダの朗唱など、サンスクリット文化の伝統は現在まで続いています。 ラテン語と同様、サンスクリット語も原則として知識階級の言語でした。哲学、文法、歴史、詩、祭事、神話、宗教など多彩な内容を持つ多くのサンスクリット文献が残されています。このような古典を現代語に訳出して社会に還元し、読者の知的好奇心を喚起することは、文献学者に課せられた使命の一つですが、英語やドイツ語による現代語訳に比べると、日本語による翻訳は数が少なく、やるべきことは山積みです。 サンスクリット文化はアジアの広域に伝播し、現代でも様々なところにその影響を見ることができます。例えば、東南アジア諸国では、おびただしい数の仏像、ヒンドゥー教の神像、サンスクリット語碑文などが発見されています。サンスクリット語は、アンコール・ワットで有名なクメール王朝の宮廷語の一つでもありました。 チベットや中国にはインドから多くの仏教文献がもたらされ、現地語に訳されました。漢訳された仏教経典などを通じてサンスクリット文化は日本にも入り込んでおり、サンスクリット語に起源をもつ日本語もあちこちにあります。例えば、日本語の「奈落」(naraku)は、地獄や地下世界を意味するサンスクリット語narakaからきています。 今思えば、これまでの自分の研究活動には、他人の役に立とうとか社会に貢献しようとかいう意識はあまりなく、それは、単に自己顕示欲を満たすためのものでした。この厳しい世界を自らが生き抜くために、国内外の学会を飛び回り、論文を次から次へと投稿し、書籍を出版していました。自分の研究活動が結果的に他人に対して何らかの利を生むことがあったとしても、本人にそのような利他の精神はなく、基本的に全て自利のための学問でした。教員をしていた母は「人が最も喜びを感じるのは誰かの役に立てたとき」と言っていましたが、若かりし頃の筆者には意味が理解できず、自分が成功することの方が嬉しいに決まっていると思っていました。 教育に携わる職につき、教員の知識と経験を求めてやってくる学生たちと日々を過ごしていると、母のことばの意味が少し分かったような気がします。今、筆者が最も喜びを感じるのは、自分の学問が学生たちの人生に貢献できていると実感するときです。それを感じる場面は、日々の授業にはじまり、学生たちの論文が学術雑誌に掲載されたときなど、様々です。昔、筆者が特別研究員などの職に採用されたとき、当時の指導教員はそれを自分のことのように、いやむしろ、自分のこと以上に喜んでくれて、未熟な筆者にはなぜ他人のことをそこまで喜べるのか理解できずにいましたが、今ならその気持ちが分かります。 これまで蓄積してきた「自己のための学問」は、今、「他者のための学問」へ変わろうとしています。これからは、自分の大切な人たちのために生きてみようと思います。

157幸せな名無しさん:2025/09/22(月) 22:41:26 ID:Jxd7c3wY0

これ読むとサンスクリットは色々あって

>宗教宗派は超えているはずなのにサンスクリット語であること自体がおかしいのです。

おかしくないんじゃ?

158幸せな名無しさん:2025/09/22(月) 22:46:05 ID:Jxd7c3wY0
サイババが遺した、サティアサイオーガニゼーションが発行している、全世界へ向けた、
ガヤトリーマントラの恵み
の第一章にこう書かれている


ガーヤトリー・マントラは、男性でも女性でも、どの信仰をもつ人でも、どの国のどの地域の人でも、どの時代においても熱心に唱えていい祈りの言葉だ。このマントラを唱えることで、知性が発達する」 (“Sathya Sai Speaks Vol.5” p58)


「どの信仰をもつ人でも」と
これは肉食でいいという信仰をもつ者でも、という意味分からんのかな?このオタメシ2は

159幸せな名無しさん:2025/09/22(月) 22:49:16 ID:69KGiEO60
俺はAIの回答を書いてる者だけど、こいつの矛盾や攻撃性に皆が気づいたのに、こいつはまだ自分を見れないんだよ
わかるよな
こいつは偉そうに人に教えを説いてる割に、自分はまったくできてない
もうこいつが書くことはめちゃくちゃになってるのに、まだ書いてくる
ここまで自分を見れない奴が、何が修行だよ
マジで
AIの回答は凄いが、それよりも、未だにめちゃくちゃな反論をしてくる態度が、もう、どうしょうもない
いや、マジで

160幸せな名無しさん:2025/09/22(月) 22:50:48 ID:Jxd7c3wY0
何回も言っているように、サイババが菜食を言っているのは、ヒンドゥー教信者とサイババ信者向け

一般向けには、「どの信仰をもつ者でも唱えていい」
と明確に言っている

161幸せな名無しさん:2025/09/22(月) 22:59:58 ID:Jxd7c3wY0
>>159
オタメシ2は昔からこの調子で、「低級霊」と既に呼ばれてる
普段はサイババの事否定しまくってるのに、
突破口と思った菜食の事でサイババの言葉を借りて攻めてきてる
どうしょうもない輩ですよアイツは
自分でさえ菜食できてないくせに一丁前に菜食してるかのごとく言うとか
アホかと

162幸せな名無しさん:2025/09/22(月) 23:35:17 ID:JFw.FVSk0
>>153
> ガヤトリーマントラはヒンドゥー教の体系の中に確立されたものなので
> 宗教宗派は超えている等という詭弁は通じません。
> 宗教宗派は超えているはずなのにサンスクリット語であること自体がおかしいのです。
> キリスト教徒だから肉を食べながらガヤトリーマントラを唱えても構わない、
> 等という詭弁を弄することもまったく無意味です。

サティヤサイ東京センターの礼拝室には、天照大神やブッダ、キリストの絵も飾られています。

― 言侖 石皮 ―

163幸せな名無しさん:2025/09/22(月) 23:52:41 ID:JFw.FVSk0
東京サイセンターの人に迷惑かかるかもしれないので念のため。
自分は東京センターの関係者ではないし、SSIOJの会員でもありません。
東京から遠く離れた所に住んでいて、近所にサイオーガニゼーションもないので活動には参加できません。

でもサイババを私淑しており、上京した時、ご厚意で礼拝させていただいたことがあります。
その時、礼拝室にそれらの絵が飾られているのを見ました。
「すべての宗教はひとつ」というサイババの教えはこれか、と思いました。

164幸せな名無しさん:2025/09/22(月) 23:58:12 ID:Jxd7c3wY0
オタメシ2の理解が足りなさ過ぎんだよ、
宗教宗派超えて唱えていい、とサイババも言ってるわけ
これね、オタメシ2が自身の理解が正しいと思って言ってるんだろうけど、それ全部!間違ってるわけ
いいかい?
今ね、オタメシ2が皆に教えられてるわけ
勘違いすんじゃねえよ、
お前が間違ってんだからな
よーく反省してその間違った考え、性根叩き治せ!

165幸せな名無しさん:2025/09/23(火) 00:38:29 ID:DYEaK00E0
あれだけコテンパンにやっつけられたオタメシ2が
>>153でまた性懲りもなく自説を一切曲げずに面の皮厚くデカい態度どころか指導者のごとくその間違ってる理論をまた上から目線で言ってきたから皆キレてるんですよね
もはや完全にオタメシ2の理論に一理あるとかの話ではなくて、完全に間違ってる話しをよくもまあ
いけしゃーしゃーと出来るもんだなあと思います
皆、オタメシ2が間違いと認識してしまった、
だけれどもこれもまた彼の脳内では1人が自演してたくさんいるようにしてるのだ、と自分に言い聞かせて乗り越えるつもりだろうけど、
オタメシ2の傍若無人な態度、本当に間違ってる話は皆理解してしまってて
もう出てこれないレベルまで来てる
完全にオタメシ2は素っ裸にされてる状態ですよ

オタメシ2に言います
肉食で唱えてもいいんですよこれは
これだけはよく覚えといて下さいね
あなた間違ってますから


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