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日蓮正宗とイスラム原理主義の共通性に関して
162
:
カン太
:2017/10/25(水) 13:32:11 ID:???0
怖いお話 その2
これも、小学生の頃聞いた話である。
ある人が御本尊様に、こともあろうに毒の入ったお供物をお供えしたというのである。
次の朝、仏壇を開けると、なんと御本尊様のお文字が水で
流した様に、崩れかけていたというのである。
その日、その家に訪ねて来た人が家人に言ったそうです。
「今、玄関から白い袈裟を着たお坊さんが出て行かれましたが、
ご不幸でもありましたのですか?」と。
家人は大変なことをしてしまったと、御本尊様にお詫びのお題目をあげたそうです。
そして何日かして、御本尊様のお文字は徐々にもどったそうです。
なんとも、オカルト的な話である。
当時は、御本尊にまつわる不敬の話が、
まことしなやかに語られていたのだ。
163
:
沖浦克治
:2017/10/25(水) 15:01:17 ID:WvcApu8.0
カン太さん、今日は
同じ話を私も聞いたことがありました。
164
:
カン太
:2017/10/25(水) 19:15:30 ID:???0
常在寺の思い出
昭和32年2月25日、我が家がまだ5人家族だった頃、池袋の常在寺でご受戒を受け、日蓮正宗創価学会に入信した。
まだ戸田先生が存命中の頃であり、60年も前の話である。
母が言うには、なんでも私の姉が「お坊さんに棒でなぐられた〜」と
言って泣いたそうである。
私たちを棒でなぐったお坊さんは、後の日達猊下である。
母はよく、幼い私を常在寺に連れていった。
記憶をたどれば、当時の常在寺の本堂は、学校の教室を三つ位つなげた長い広間になっていた。
正面には黒塗りで金文字の御本尊様がご安置されており、
その両側には、日蓮大聖人?、と日興上人?、の御影が安置されていた。
私は常在寺に行くのが楽しみだった。
というか、常在寺が楽しかった訳ではなく、その後、母が池袋駅のデパートに
連れていってもらえるのが楽しみだったのである。
今、西武パルコとなっているが、当時は丸物デパートといっていた。
母は、そのデパートの屋上にある遊園地で遊ばさせてくれたのである。
母はいつも帰り際、「遊園地で遊んだことは、兄ちゃんと姉ちゃんには
言っちゃァダメだよ」と言っていた。
懐かしい思い出である。
165
:
グラスルーツ
:2017/10/25(水) 20:26:17 ID:r5yNDZEE0
>>161-162
カン太さんこんばんは。
わたくしもその話聞いたことがあります。
まことしやかなそのような話が昔はけっこうありましたね。
塔中の木が逆に生えているのがありました。
根っこが空に向かって木が立っていました。
記憶が定かではありませんが、大聖人か日興上人の持っていた杖が生命力のあふれる大聖人の生命力によって、そこで育ってしまった、とか何とかいう説明を誰かがしていたのを記憶しています。
な訳ねーだろ、って今は笑えますが、当時はみな真剣に信じていました。
ナンタルチアぁ〜!
166
:
カン太
:2017/10/26(木) 13:33:56 ID:???0
片腕の班長と堺班
私のおぼろげな記憶と、両親に時々聞かされた入信当時の話では、
両親を折伏してくれたのは、服部さんという方である。
服部さんは、戦争でか片腕を失っており、イガグリ坊主頭で廃品回収を生業としていた。
我が家は貧乏のどん底であったらしい。
農家の納屋の一角に造られた、6畳一間を借りて5人が生活していたのだ。
仏壇も、みかん箱に紙を貼り手作りの仏壇に御本尊様を安置していたのだ。
母は時々咳をしながら血をはいていた。
貧乏と病人を、絵に描いたような我が家であった。
服部さんは、矢作地区部長さんという方と、よく我が家に来ていた。
今、思えば信心指導に来ていたのである。
帰り際、服部さんは、「坊、南無妙〜していい子になるんだよ」と、
私の手に小銭を握りさせてくれた事もあった。
両親は信心に励んだらしい。
後々、聞いた話では折伏も二人して、100世帯は越えていると言っていた。
役職も組長、組坦、そして班長、班坦になった。
三河島支部 宮城地区 堺班
堺班というのは、東京と埼玉との県境に位置するからである。
167
:
カン太
:2017/10/27(金) 13:04:21 ID:???0
登山会の思い出
仕事でよく品川駅前の、第一京浜国道を通る。
品川駅を見ると思いだす事がある。
それは、父、母と行った大石寺の登山会である。
品川駅には、学会員専用の団体待合所があり、そこには何本もの、
各所属支部名の書かれた、のぼり旗があった。
私は、(お山)に、行くのが好きであった。
遠足気分である。
富士宮駅に着くまで、時には学会歌を歌ったり、体験や決意を語る人がいたように記憶している。
車窓に流れる様々な風景。
キラキラと輝く大海原、大小の山々と村の風景、そして富士山。
その富士山が、だんだん近ずくにつれて気分も高揚したものである。
本山での記憶は断片的に前後しているのだが、一人一人がお米を持参していた事を
覚えている。又、御開扉を受けるに奉安殿か大客殿だったと思うのだが、
ぎゅうぎゅう詰めにされたのには閉口したものである。
母はいつも登山会の行き帰り、大聖人様や日興様、熱原の三烈士の話、
丑寅勤行の話、はたまた、五重塔や山門は誰それが寄進したという話をしてくれた。
母は今でも、日興上人を日興様と呼称している。
168
:
カン太
:2017/10/27(金) 18:38:48 ID:???0
ご供養の貯金箱
おふくろ〜、あの水色の四角い貯金箱はどこにいったのでしょうか...
たぶん私は生涯、その罪を許せないだろう
ある日、母は水色の四角い貯金箱をみせてくれた。
それは一面に、大石寺の山門のシールが貼ってあった。
正本堂という建物を寄進するので、お前もこずかいを貯めて
ご供養しなさいとの事でした。
当時、こずかいはほんの僅か。
駄菓子屋で何か一つ買うと終わりである。
欲しい物があると、こずかいを貯めて買ったりしていた。
遊び盛り育ち盛りの私は、夕方には腹ぺこで夕食まで我慢できない。
それで、貯金したお金を引き出し、そのお金で菓子パンを買ったりして空腹を満たした。
そしてその度に、ご供養のお金に手をつけてしまったと
罪の意識というか、後悔したものである。
そんな訳で、ご供養のお金はなかなか貯まらなかったが、日が経つにつれ貯金箱は重くなり
ジャラジャラする音が嬉しかったのを覚えている。
私が高校生の頃、正本堂は完成した。
記念登山の時、正本堂を見て思った。
あのご供養で、敷き詰められた石の一つや二つになったのかなと。
壇信徒の真心の結晶で建立された正本堂!
耐用年数千年ともいわれた正本堂!
その正本堂を、日顕は破壊したのだ!!
169
:
沖浦克治
:2017/10/27(金) 19:25:57 ID:WvcApu8.0
カン太さん、今晩は。
正本堂の貯金箱覚えています。
真四角でしたね。
当時私の家は貧しかったのですが、全員で15万円ほどご供養致しました。
その時言われた指導を今も鮮明に覚えております。
正本堂のご供養に参加した人は、将来必ず仏間が持てる境涯になります。
団地の2Kで4人家族がギュウギュウ詰めで生活していたころでした。
夢みたいな話ですよ。
でもね、私は三人兄弟ですが全員持ち家で仏間あります。
顕師は正本堂を破壊致しましたが、ご供養に参加した私共の福運は破壊出来ませんでした。
仏法史上に提婆達多と共に残る大謗法人ですが、あれはあれで使命があったのでしょう。
兄の家は破門後も法事に宗門の僧を呼んでいましたが、正本堂破壊以来呼ばなくなりました。
思えば顕師はバカな事やったものです。
世間知らずの法主の限界です。
創価辞めないで本当に良かったです。
170
:
カン太
:2017/10/28(土) 13:04:06 ID:???0
沖浦さん、今日は。
〜 ご供養に参加した私共の福運は破壊出来ませんでした。〜
これを読んで、熱いものが込み上げてまいりました。
私も生涯、創価と共にと決意しています。
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